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書(ふみ)読む月日№1 [アーカイブ]

願はくは ①

               日本私学研究所特認研究員 池田紀子

 願はくは花の下にて春死なむその如月(きさらぎ)の望月(もちづき)のころ 西行                               

 

 大好きなグノーの「アヴェマリア」が、湯河原の町に流れるのは、決まって毎日夕方の五時。スピーカーからの音楽は少しずれる感じではありますが、耳に心に染みいっていきます。

 折しも窓外に広がる相模湾に夕日が沈みかけ、遠く望む伊豆半島の山々が茜色に染まります。言葉などではなんとも表現できない、そのグラデーションの妙は、一瞬ではありますが、一瞬であるが故の美しさでもあります。

 晴れた日には、まるでふっと浮いているように初島が目の前です。初島のずっと後ろに水平線が見えて、その雄大さに心が落ちつくのです。

 大島も間近に見られます。御蔵島(みくらじま)や利島(としま)が、ぐっと手前に来たりすると、その美しさに見ほれてしまいます。

 一度だけ、初島に熱海から二十分ほど、船に揺られて行ったことがあります。

観光と人びとのふつうの暮らしに、なにかバランスの悪い中にも、なかなか趣深い感じを持ったものです。

 熱海の梅園は有名ですが、数年前から、勝るとも劣らない湯河原梅林が町役場の計画で幕山(まくやま)にできました。ここは温泉場とは、反対の山です。切り立った岩山もあって、ロッククライミングの名所でもあります。幕山には、毎年、少しずつその木の数も増えています。山全体を覆うように、白や紅そしてピンクの梅の花が、いっせいに咲きそろう三月はじめには、各所からの観光客で賑わいます。

 夕方から夜に向かって、ライトアップされ、山全体が薄墨色に浮かび上がり、それはそれは、えもいわれぬ幽玄の世界を、繰り広げてくれます。私たちの大好きな場所の一つです。

 十年前、温泉と海とミカン畑に、すっかり惹かれた私どもは、現実から少しだけ離れ、安らぎを求める時を持ちたいと考え、明日への力を蓄え、体や心を癒したりする場所をこの地に決めたのです。以来、少し疲れを覚える時や、気持ちがざわつく時の、格好の逃げ場にもなっているのです。

 このような住まいを寓居というのでしょうか。わび住まいといえばいいのでしょうか。

 鎌倉時代初期の歌人であり随筆家である鴨長明(かものちょうめい)1152頃~1210)は、『方丈記』(ほうじょうき)のなかで、住まいについて記述しています。

             

 こゝに六十の露消えがたに及びて、更に末葉のやどりを結べる事あり。いはば狩人(かりゅうど)の一夜の宿りをつくり、老いたる蚕(かいこ)のまゆを営むがごとし。これを中ごろのすみかになずらふれば、また百分が一にだも及ばず

 

 熟年を迎えると、壮年期に必要とされた住居の規模を縮小し、猟師が野営したり、カイコが繭を紡ぐように、こぢんまりとしたものでさしつかえない、と言っているのです。

 

いま日野山の奥に跡をかくして後、南に葭(よし)の日がくしをさし出して、竹の簀子(すのこ)を敷き、その西に閼伽棚(あかだな)を作り、中うちには西の垣に添へて阿禰陀(あみだ)の童像を安置し奉り、落目を受けて眉間(みけん)のひかりと す。かの帳(とばり)のとびらに、普賢(ふげん)ならびに不動の像をかけたり。北の障子の上に、ちひさきたなをかまへて、黒き皮籠三四合を置く。すなはち和歌、管絃、往生要集(おうじょうようしゅう)ごときの抄物(しょうもつ)を入れたり。   (かたわら)に琴、琵琶、おのおの一張を立つ。いはゆるをり箏(しょう)、つぎ 琵琶(びわ)これなり。東にそへて、わらびのほどろを敷き、つかなみ(藁の敷物)を敷きて床とす。東の垣に宙をあけて、ここに文机(ふづくえ)を出せり。枕の方にすびつあり。これを柴折(しお)りくぶる便(よすが)とす。庵の北に少地(しょうじ)を占  め、あばらなる姫垣(ひめかき)を囲ひて園とす。すなはちもろもろの薬草を植ゑたり。仮の庵(いおり)のありさまかくのごとし。

 

 鴨長明は五十八歳の時、京都山科の日野山のほとりに、庵を構えました。室の中央に炉を設け、壁には阿弥陀仏と、普賢菩薩と不動明王の二幅の仏像をかけてあります。ここには生活に必要なものが、全て簡素に準備されています。つまり、ここで書かれているのは、シンプル・ライフの展開です。

 こうした住まいにあって、世間の無常を静かに眺めながら、暮らしたのです。これは現代の熟年層にとっても、なかなか示唆に富んだ暮らしぶりです。                        『書(ふみ)読む月日』ヤマス文房

 

                        

 

 

   

  


玲子の雑記帳2009-05-29 [アーカイブ]

 「学んで広げる立川の輪」を掲げて『知の木々舎』が発足してから3ヶ月。講座の開催にむけて準備を進める一方で、もう一つの活動の柱、ブログによるネットマガジンの発行も、6月の講座開講に合わせてようやく形がととのいました。

 各方面に原稿のお願いをしてきた結果、5月末現在で著作からの転載も含めて10人余のかたがたから原稿がよせられました。ジャンルはさまざま、それぞれの自由な思いで書いていただいたのですが、こうして一同に並べてみると、思っていた以上のボリュームとなり、豊かな内容になったのにおどろかされます。

 このブログの掲載を始めたのは4月上旬でした。少しずつ中身が増えていって、硬軟とりまぜて読み応えのあるものになったのではないかと自負しています。なれないパソコン操作に悪戦苦闘しながらここまでたどりついたなあという気がします。アクセスしてくださる人の数をみると、それがどんな形であれ、ネット上でつながるというのはこんなことかと合点がいくのでした。それは講座で顔を合わせる仲間とは確かに違うつながり方で、以前から観念的にわかっていたつもりでしたが、自分が発信して初めて実感できることなのでした。

 ここ立川の地から文化の発信をしようと船出した「知の木々舎」ですが、必要にせまられてパソコンと格闘するうちにいつしか知的な遊びの場に迷い込んでいたような気がします。勿論それは寄せていただいた原稿の面白さに由来するものです。なかんずく書き手の人柄が見える面白さです。それぞれの人が背負ってきた人生の重みが少しはわかるようにになった世代の一人として、この面白さを共有できるメンバーが一人でも増えていくことを願わずにはいられません。

 『知の木々舎』のネットマガジンはまだまだ発展途上です。これからも進化し続けたいと祈っています。


玉川上水の詞花№1 [アーカイブ]

                                     うつぎ       エッセイスト 中込敦子

utugi.jpg♪卯の花の匂う垣根に♪…と唱歌(佐々木信綱:作詞)で歌われ、夏の訪れを告げるウツギのたわわな花房が5月下旬に上水堤で見られる。むせるほどの香りではないが、花のたわわさにむせ返るよう。 陰暦の卯月(4月)に咲く花ということで、卯の花の別名が付けられたそうだが、“うのはな”といえば豆腐の絞り粕のおからも頭に浮かぶ。白くモコモコしたおからが卯の花に喩えられたようでる。 

  ウツギの和名は空木と書いて、枝茎の中心部が空洞なことから、うつろな木を意味している。 新田開発時代には畑の反ごとにウツギを植えて、境界の目印にしたと言われ、その名残りで上水堤にもウツギが多いのではないだろうか。 5月下旬に咲く花は多数に枝分かれした側枝の先端部に、円錐花序を多くつける。純白のモスリンのような花冠は径1センチぐらい、黄色の花芯を覗かせ密をふんだんに出しているので、蜂や小さな昆虫が群がって生物の営みを観察できる。 土地の人の話しでは堤にはマルバウツギやコゴメウツギもあるとのこと。                (もぐら通信)      

司馬遼太郎と吉村昭の世界№1 [アーカイブ]

司馬遼太郎と吉村昭の歴史小説についての雑感1 

                                        エッセイスト    和田 宏

はじめに

昭和40(1965)年に出版社に入社して、定年まで編集者を生業(なりわい)とした。その職業を通して、司馬遼太郎さんとは30年あまりを、吉村昭さんともほぼ同じ年月をお付き合い戴いた。以下は体験を踏まえて、両者の歴史小説について思ったところを述べてみようとする試みである。もとより「雑感」であって、作家論、作品論に踏み込む素養も度胸もない。両者をそばで見てきた実感からの私見を、取りとめもなく述べるほか能がないが、そのあたりをご理解賜りつつ以後数回にわたってお付き合い願えれば幸いである。

この「雑感」の結論を先にいうと、司馬さんの目指したのはあくまでも「小説」であり、吉村さんの志は「文学」にあった。ここで小説といい、文学という言葉にはいかなる意味においても価値を含ませるものではなく、評価とは無縁であることをまずお断りしておく。生前のご厚誼に甘えて、ここではあえて司馬さんといい、吉村さんと書く。そのほうが「雑感」という雰囲気に合っていると思うからで、ほかに意味はない。

 

歴史小説と時代小説

最初に、これから述べていくことと関係があるので、歴史小説と時代小説の区別をこの場だけの取り決めとして簡単に記しておく。

一言でいうと、歴史小説とは、歴史的事件、あるいは歴史上の人物をテーマにした、事実にもとづく「小説」である。なにを当たり前のことをといわれそうだが、じつはこれが曲者で、こう簡単に言い切るには大きな問題を内包しているものであることはのちに述べる。

対して時代小説というのは、歴史上の時代、人物を借用して構成された小説である。そこに含まれる小説のタイプはずい分と幅が広い。まず江戸期の市井の人情を描いた山本周五郎や藤沢周平(両氏の作品世界はここに留まらないが)の名作を思い浮かべられる方が多いであろう。また実在の人物を主人公にしても史実から離れて、創られた逸話で構成する「水戸黄門」や「大岡越前」などは昔から時代小説の人気者である。池波正太郎の「鬼平」こと長谷川平蔵もおなじ仲間である。

剣豪ものなどはどれだけ書かれてきたことだろう。宮本武蔵や柳生宗矩から架空の剣士たちまで小説の中で暴れまくってきた。

半七捕物帳に始まる銭形平次、むっつり右門などの捕物帳も人気はすたれない。鞍馬天狗といった主人公は架空だが、時代背景は事実をなぞったものなどもたくさんあり、数えていけば切りがない。

余談になるが、背景に使われる時代は圧倒的に江戸期で、これはまた映画やテレビドラマになるから、多くの江戸ファンが生まれた。その時代の風俗については、とくにテレビなどは誤りだらけであるとよく指摘されるが、しかし、たとえば手甲脚絆にわらじ、韮山笠にぶっさき羽織の旅姿などはテレビで見慣れているので、小説に出てきてもおおよそ想像できるのに対し、明治から大正の風俗のほうが読者には頭に描きにくくなった。パナマ帽やインバネスといわれてもわからない。

若い読者になると、『伊豆の踊り子』の頃の学生の風俗、マントや朴歯の下駄に注釈がいる。いや、もっと近く昭和の30年頃の日常生活でさえわかりにくくなった。夏の縁台や盥での行水、冬も火鉢が姿を消して、五徳や十能は死語である。歴史は近い時代ほど実感しやすいとはいえないことがわかる。

さて、司馬さんが世に出た直木賞受賞作『梟の城』は16世紀、安土桃山期が舞台の、歴史小説ではなく、忍者を主人公にした時代小説であった。

  

戦後立川・中野喜助の軌跡№2 [アーカイブ]

闇市をつくった人々

                立川市教育振興会理事長  中野隆右

 

 敗戦直後、昭和20年の日本は、戦時中に引き続き統制経済の統制で配給制が敷かれていた。敷かれてはいたが、質、量ともに決定的に足りず、それだけで命をつなぐことなど思いもよらぬことだった。しかもそれは敗戦からのち、日を経るにつれてひどくなっていた。

 この状態は数年続いた。いや、歴史として振り返れば数年続いたに過ぎないが、その時代を生きる人々にとっては、それはいつ終わるとも知れぬことであった。

 白根氏は敗戦後バーテンとして勤務した米軍基地で、こんな〝笑えない滑稽な

話〟を聞いている。

 「やはり基地に勤めていた私の知り合いから聞いた話です。基地に働きに来た一般の労務者が、たまたま時間外に米軍の食堂へ行ったんだそうです。そうしたら食堂の人が休憩で誰もいなかった。見ると棚の上に何か知らないけれども饅頭みたいなものが置いてあったんだそうです。それは実は日本人の従業員の人が、ネズミが出るっていうんでネコイラズを仕込んであったものだったんです。それを知らずにその労務者は、パンか饅頭だと思ってそいつを食べて死んじゃってね。そんな馬鹿なことがありました」

 そんな時代だけに、闇市では、晴好品もそうだが、なんと言っても食料品が多く扱われた。敗戦の翌年から立川基地内で美容院の経営にたずさわり、現在も立川駅近くで美容院の営業を続けている住田義弘氏は、当時の闇市の姿を次のように振り返る。

「当時は経済統制で嘉には物がない時代でしたが、闇ではいろいろな物が手に入ったんです。たとえば闇市には、ぜんざいなどもありました。ただ、ぜんざいといっても砂糖が自由に手に入らない時代だったから、甘味は無かったんですよ。砂糖など、もちろん正規には手に入りませんでしたから。酒なども配給でしたが、実際に配給されるのは1ヶ月あたり五合くらいのもの。それでも配給があれば喜んだものです。米も統制だったので、寿司屋などでも米は客が持ち込むという体裁で営業していました。米でも野菜でもみんな闇。千葉や埼玉などから、みんな必死の思いでかついで運んできたものです」

 主食の米などまでもが、闇でなければ足りない。そこで近郊・近県の農家などから手に入れてくるわけだが、それが大変だったというのは、もちろん運ぶことについてだけの話ではない。なにしろ統制経済に違反する聞物資の取り扱いは、もちろん違法。これは厳しい取り締まりの対象であって、ばれればその場で没収されたし、当然処罰の対象となった。

 ただしひとくちに違法と言っても、取り締まりは物によって軽重があったようで、「米はうるさかったが、魚はあまりうるさくなかった」(住田氏)という。いずれにせよ開物資の取引は、その入手、搬送、そして取り締まりの目をかいくぐっての街への搬入と、どれもが苦労の連続であった。しかも当時の都市生活者にとっては、それ無くして生活は成り立たなかったのだ。

このように苦労して街に運び込まれた閣物資は、あるものは運び込んだ人々の家庭で自家消費され、またあるものは闇市の店頭に並んだ。このように入口から出口まで違法行為によって支えられた市場を取り仕切っていたのは、平時には表舞台で活躍することはないアウトローたちであった。

闇市をその営業形態から露天商と見れば、伝統的にはテキヤの扱いとなる。事実そうしたケースもたくさんあった。だが、闇市を現実に取り仕切る面々が、昔ながらのテキヤの出身ばかりだったかというと、必ずしもそうではなかったようだ。では、彼らはどこから現れたのだろうか。

 当時の事情に詳しいさる事情通氏の話から、まずはその一例を探ってみょう。話は、日本の敗色が濃くなった大戦末期にさかのぼる。

 「日本の戦争不利で何か情勢が不安だと、世の中にそんな空気が伝わったころのことです。いつの世も同じですけれども、そのころにも愚連隊みたいな人たちがいました。若い血気さかんな人たちです。その当時は愚連隊とは言わず、義勇隊と呼んでいたんですが」

 ここで語っていただいた事情通氏-仮にA氏としよう―は昭和3年、戦後立川市と合併する砂川町の生まれ。戦時中は市内にあった日立の工場で 「産業戦士」として働いていた。まだ10代のころのことだ。当時、軍都として栄えた立川には、立川飛行機-通称 「立飛」―をはじめ、多くの軍需工場が稼動していた。ここで言う義勇隊は、こうした戦時下の工場で使われていた言葉のようだ。

 「戦時中、その義勇隊、つまりは愚連隊で、なおかつどうにも手がつけられないのは、満州のほうへ炭鉱送りにされた。でも、まあまあどうにか内地にいてもいいようなやつは、残っていた。ただ、それだけでは締まりがつかないのでボスを決めて、そのグループを抑えさせたわけですよ。戦争の終わりごろの立川飛行機の義勇隊の隊長、つまり立飛の愚連隊のボスは岡部さんでした。岡部さんは、あの当時にもう20いくつかでしたが、戦争には行かず、立飛にいました」

 岡部さんとは、のちに市会議員となる岡部寛人氏である。混乱期の戦後の立川にあって、ある意味、市議会の要として活躍することになる。A氏の話は続く。

 「その岡部さんの兄弟分に、高松町で土建屋さんをしていた方がいました。この方は朝鮮出身の方です。その以前、立川にはいわゆるヤクザの組がありましたが、戦争が終わるころには組長はもう年をとっておりました。それで終戦になると、ちょうど朝鮮人とか台湾人の方は三国人″として有利な立場に立ったでしょう。結局、この土建屋さんが、組の二代目の跡を継いで、それで作ったのが、立川の駅前から中武の角までの露天商街(闇市)。テキ屋の親分みたいなことをやったわけですね。今でこそテキ屋とか愚連隊というのははっきり分かれているけれども、あの当時はもう、ごっちゃでしたからね」

 立川における闇市成立のひとこまである。どんなことでも、その背景には必ず人の動きがある。教科書的には、「戦後、各地の焼跡には闇市が発生し」で片付けられてしまう闇市の成立にも、各所、各所に必ず個別の事情、そしてそれを支える人の存在があった。  『立川―昭和20年から30年代―』ガイア出版


雨の日は仕事を休みなさい№3 [アーカイブ]

酒に逃げてみなさい(本来の自分からは逃れられない)

                  鎌倉・浄智寺閑栖  朝比奈宗泉

 私がTBSで『兼高かおる世界の旅』を制作していたころ、いろいろな国を旅して歩きました。兼高さんは時間に厳しい方で、朝の待ち合わせ時間に五分でも遅れると、「あなたたちはパンクチュアル(時間通り)でない」と怒ります。それは無理もありません。現地の取材先スケジュールの調整は、番組の協力会社だった航空会社のパンナムがやってくれていましたから、スケジュールを絶対に狂わすわけにはいかないからです。 

 制作スタッフで、いつも一緒のカメラマンはお酒が大好きで、その日の撮影が終わると毎晩お酒を飲みに出かけていました。現地のダンスホールに行き、                                                                                          そこにいる女性と一緒にお酒を飲んで、疲れを癒すわけです。私もまだ若かったから、そういう女性と一緒に遊んでみたかったのですが、あいにく私は不調でしたし、立場上、それはできません。ホテルの部屋で、事故がなければいいが、飲みすぎなければいいが、と案じているのが常でした。 

 でも、このカメラマンが立派だったのは、朝の集合時間には絶対に遅れることがなかったことです。どんなに遅く帰ってきても、翌朝はきっちり時間通りに集合し、もちろん仕事もきちんこなしていました。 ラジオ時代にも、こんな経験がありました。夜12時頃、テープの編集をやっていると、同僚であり親友であった男から電話があり、「新橋のガード下にいるけど、お金がないのでタクシーに乗れない、迎えにきてくれ」と言うのです。仕方がないのでタクシーで迎えに行くと、新橋の駅前で両に濡れながら彼が立っていました。どうしたのか聞くと、「オレは寂しい、まだ飲み足りない」と言う。これも仕方がないので、次の飲み屋まで送っていって、お金を渡し、私は再び編集に戻りました。翌日、彼はどうしたのかと心配していると、その男はすっきりした顔で出勤して、いつものように仕事をこなしていました。 禅語に「本来面目」という言葉があります。わかりやすくいえば、どんなにお酒を飲もうが、それに流されない本来の自分をしっかり持っていることが大事であるという意味です。

 仏門ではお酒もタバコも飲みたい人は飲み、吸いたい人は吸います。修行中はともかく、修行が終われば禁止されることはありません。だからお酒のことを「般若湯」とも「薬水」ともいいます。本来の自分をしっかり持っていれば、お酒もときには「般若」(仏様の声)となり、「薬」ともなるのです。

 

本来面目(本来の面旦)『六祖壇経』

  五祖弘忍禅師は教育も何もない米つき男、慧能に衣鉢を与え、法を継がせ、六祖とします。しかし慧能は、それを不満とする分子に危害を加えられるのを恐れ、南方に逃がれました。不満分子の一人である慧明が慧能に追いつき、衣鉢を奪い取ろうとしましたが、石の上に置かれた衣鉢は微動だにしませんでした。衣鉢は禅法の継承を象徴したもので、単なるモノではありません。腕力や知性で自分の身につくものではないことを表わしています。 

 追っ手の慧明はこれをみて驚き、自分の過ちに気がつき、慧能に詫びるとともに教えを乞います。そのときの想能の問い、「あなたの本来の面目はいかなるものか」に、慧明は開悟することになります。

「面目」とは人間が本来持っている真実の姿、純粋な人間性をいいます。人は妄想や分別心があるために本来の自己が見えないのです。その曇りを払い除ければ本来の面目は見えてくるのです。「古松般若を談じ 幽鳥真如を弄す」(『人天眼目』四)という言葉がありますが、松風の音は般若(仏様の声)であり、鳥の声などは宇宙の実体(法性)のなせるわざであるのです。

 この実相こそが真実の姿というべきもので、この純粋で清らかな人間性を本来の面目というのです。慧能禅師がこれを理解されていたので、弘忍禅師の法を継がれたわけです。   

『雨の日は仕事を休みなさい』実業之日本社


こころの漢方薬№2 [アーカイブ]

沢庵のことば

               元武蔵野女子大学学長   大河内昭爾

 薬一つに心をとられ侯はば残りの葉見えず、一つに心を止めねば、百千の薬みな見え申し候。 

 右のことばは沢庵禅師の『不動智神妙録』の一節である。

『不動智神妙録』は柳生宗矩の請いをいれて沢庵禅師が書き与えたもので、柳生流『兵法家伝書』にある「一心多事に捗り、多事、一心に収る」のことばは、この禅師のことばをうけているのにちがいない。『金剛経』の「応に住する所無くして其心を生ずべし」(六祖慧能禅師)の「住する」とはとどまること、すなわち執着することである。一つに執着しなければ、自在な心の働きが生じると説いている。

 柳宗悦の「応無所住」という話に、「応無所住而生其心」つまり〝オウムショジュウニショウゴシン〟と最もありがたいお経を聞いた田合の老女が「大麦小豆二升五銭」とおぼえて、それでも法悦にひたれたという。それこそ碑恵の有無に左右されない無所住のあらわれと柳宗悦は語っている。  

 仏典で執着執心を嫌うのは、心が自由を失うからである。こだわりを持つことは心がかたよることであって、冒頭の禅師のことばも一つの事に心をとられて他を見失ってはならないとさとしたものだ。  

 禅師のことばを柳生流がどういかしたかは、現代の剣道にあてはめていえば、竹刀の先にのみ心をとらわれると相手の動きがつかめないという単純な筋道におきかえられそうだ。   

 それは、官本武蔵『五輪書』の「敵の太刀の動きを知ることが必要であり、敵の太刀を見てはならない」という意味の「敵の太刀を知り、いささかも敵の太刀を見ず」ということばに通じる。  

 観見二つの事と武蔵はいう。おもてだけの現象を見ることにとらわれすぎて、ものごとの本質を観るのをおろそかにしてはならないと説く。敵の竹刀の動きに心をとらわれる人は決して上達しない。相手の眼をしっかりとみつめながら、敵の竹刀の先はおのずとその視野の中にあるべきものだ。  

 生活全般まさにそうで、目先のことにこだわって、大筋のところを見失ってはならないと沢庵禅師や武蔵は示唆したものであろう。

 猫じゃらしに遊ぶ猫はその先端しか見ようとしないのに、犬は棒で遊ばれても棒を持つ人間しか見ない。  『こころの漢方薬』弥生書房


浦安の風№2 [アーカイブ]

マンション群を見ながら考えたこと

                 ソーシャル・オブザーバー  横山貞利

 

 新興都市・浦安は東京のベットタウンです。JR京葉・新浦安駅から東京駅までの所要時間は、各駅停車で20分弱、快速では15分くらいにすぎませんから大変便利なところです。

 便利さがよければ、当然そのリアクションがあるもので、南風が吹き荒れますと運転休止になることが多いのです。特に荒川の長い鉄橋では、南風が横風になって車体を持ち上げてしまう危険があります。

 ところで、地元で新町と言われている京葉線より海側一帯は、この10年くらいの間に高層マンションが立ち並び、絵葉書で見るハワイ風な雰囲気を漂わせています。マンションは一戸当たり80㎡~100㎡超で、販売価格は平均5500万円6500万円くらいで結構完売したようです。

 それにしても30年ローンで毎月の返済額はいくらくらいになるのでしょうか。全く見当もつきません。そのうえ、マンション管理はデベロッパーの子会社が経営する管理会社です。すべてオートロックのうえ24時間ガードマンが常駐しているのですから、管理費は少なくも月々2万円くらい支払っているのではないでしょうか。他人事ながら考えてしまいます。

 問題はこの不況です。リーマン・ショック以来、日銀短観、鉱工業生産指数、1~3月期GDP速報値などの経済指標を見ていると、いまや、この国の経済の実体は底割れ寸前の状況と言ってもいいでしょう。それ故、やっと手に入れたマンションを手離さざるをえない人も出てきているのではないでしょうか。08年度の補正予算で定額給付金の支給や09年度補正予算でエコポイントつき商品の購入の奨励などというバラマキ政策で済むような事態ではないでしょう。もっと根本的な経済構造の変革をもたらすような政策を打ち出して、それを3年~5年を目途に敢行する様な大胆な発想がないと解決できないのではないでしょうか。

 それにしても、またぞろ「外需だのみの経済から内需主体の経済体質にしなければ、いつも同じ轍を踏むことになる」という声が聞こえてきます。しかし、そんなことは1986(昭61)年、中曽根内閣当時に提出された「前川レポート」で指摘されて以来何度となく言われてきたことです。今更何だ、という気がします。「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」の譬えの通りです。

 産業分野でみても、例えば自動車離れが進んでいます。2ヵ月ほど前の新聞に「若ものの50%は車は要らない」という調査結果が掲載されていましたし、わたしが住んでいる団地ではこれまで外部の駐車場を10台前後常に確保していましたが、2月には不要になりました。現在、中国やインドなどが大きな市場になっていて、今後も需要が見込めますが、少なくも国内市場ではいまがピークで、今後の車市場は縮小していくのではないでしょうか。また、薄型デジタル・テレビにしても、20117月には全面デジタル放送になりますから、それまでに買い替えないとテレビが見られなくなります。その後はどうなるのでしょうか。

 これらはほんの一例ですが、すでに経済の質的変革が求められているのです。それに対応した経済政策が見えてきません。麻生首相は「政局より政策」とことある毎に言われます。しかし、昨年度補正予算、本年度(09)本予算、そして補正予算とたてつづけに国会に提出しました。しかし、一番肝腎な近い将来の経済展望が見えてきません。さてどう導いてくれるのでしょうか。多弁な麻生首相です。不図、「巧言令色鮮仁」という言葉を思い出しました。

 

生と死に向きあって№1 [アーカイブ]

死と向き合い「生きる」を知る     

            ジャーナリスト・清泉女子大学講師 錦織 文良

 少年時代、死は常に身近にあった。8割方が家で息を引き取り、赤ちゃんは9割が産婆さんの手で産声を上げた。   

 もっとも厳粛で心にしみる死に立ち会ったのは、高校3年の夏、昭和32716日の祖父・野川隆登(76歳)の場面である。母は何日も最寄りの実家に詰めきりだったが、その朝、「だめだった」と悄然として帰ってきた。すぐ枕頭に駆けつけた。別れを惜しむのももどかしく、お棺に収容しやすいよう、膝をさすりながら懸命に立て膝姿勢に整えた。 

 鳥取県の片田舎の町長を務めた祖父は、厳格な明治人だったが、社会でも家庭でも信望の厚い人だった。狭い4畳半で寝たきりだったが、ひたすら本や新聞を読んで思索を深めていた。そのうえに早稲田の講義録まで取り寄せていたのには感心した。8人きょうだいの中子で、とかく疎まれがちだった母は、祖父にだけは可愛がられ、病床の世話を任された。だから私も、ごく自然に祖父を敬愛するようになった。学校から帰るとまず見舞う。祖父は話し相手を待ちかねていた。そのテーマは半端じゃない。当時の社会問題だった勤務評定闘争について「高知県方式をどう思うか」など、硬派物ばかりだった。歯ごたえのある訪問者がいなくて、高校生の私をましな話し相手と見立てたのであろうか。

 当時は親戚と地域が協力して墓地まで送り、埋葬するのが慣わしだった。後年、墓所の整理をした際、祖父の遺骨と対面し、母と洗って納め直し供養した。 

 青年期には、しばしば死の恐怖に苛まれた。夜半に突然、目覚めて考え込んだこともあった。でもそのつど先送りしてクールダウンした。死はこのように、いつも傍らにあるものだった。死を忌み嫌う風潮は今以上に強かったが、大多数の人々はそれから逃れられずに、生々しい現実と付き合ってきたのである。

 現在はどうか。いま、私の周囲にモニターしても、死の恐怖に悩む若い人、年長になってもその呪縛から解放されない人はかなり多い。肝心の、死と表裏一体である「生き方」を考えないから、心構えが定まらない。死のありさまを目の当たりにする機会が市井になくなって、ますます死をタブー視し、やり過ごすことになる。60年前、生死の場所は大半が自宅だった。それが大逆転し、いまや85%が病院で息を引き取る。出産は99%に達した。    

 この世の最大の常識は、生きて死ぬことである。全員の平等機会なのに、それがストンと胸に落ちない。目覚しい医療技術の進歩で、日本は世界一の長寿国になった。平均で男性79歳、女性86歳である。死に直面することを徐々に先延ばしにはできたが、真の生き方についても考えなかったから、あれこれ思い悩んで人生を生きるという、苦しくて非生産的なことを続けることにもなった。    

 1980年代から、死を見つめ語る動きがあたかもブームのように沸き起こった。いまさら気づいたかのように「子供のころから死の準備教育をすべきなのだ」「善い死を迎えるということは善い精神性を持って生きることだ」などという問題提起が盛んになった。アメリカやドイツでは、宗教の時間に死の準備教育を多角的に展開し、人生最大の試練に対する心の準備を促し、末期患者には心構えを薦める。無宗教のせいか、日本では教育機会そのものが抜け落ちている。    

 エリザベス・キュープラー・ロスの「死ぬ瞬間」は、200人の末期患者から聴き取った恐怖の心理告白から、死に直面した心境を①否認②怒り③取引④抑うつ⑤受容、の5段階に分類した。医学生なら誰でも手にする貴重なリポートだが、日本ではまだ人口に膾炙し、活用されているとは言えない本だ。

 ドイツの宗教哲学者アルフォンス・デーケン上智大学教授は、30年以上も日本に住んでその文化を知悉しているから、キュープラ∸・ロスの5段階にさらに⑥期待と希望を付け加え、死後の世界があることもにじませながら、非常に分かりやすく解説する。教授の講演やシンポジウムには、中高年の女性を中心に“追っかけ”が群がるほどだ。   

 再び、そもそも論である。死を考えることは、実は相当に強靭な思考力と体力を必要とする。だから、子供のころからできるだけ接触面を広げてやるのがいい。子供は感受性が鋭いから直感で乗り越えることができる。老年になり、病を得て弱ってからでは、とかく諦観につながりがちで、遅いのである。

 私はこの三年半に三度の大病を経験した。幸いというべきか、楽観主義に徹して何とかクリアしてきたが、死のザラッとした感触には初めて触れた思いがした。徒然草で吉田兼好は「死期は序を待たず。死は前よりしも来たらず、かねて後に迫れり」と含蓄のある言葉を残した。死は時を選ばずだ、普段からよく考えておけよ、という示唆である。    

 私たちは自分の死に方を選べると思いがちだが、そうはいかない。選べるのは生き方である。そこをよく考えたい。「その時」には必ず周囲の手を煩わすことになるが、家で往生するという理想が実現するしないにかかわらず、自分の考えは周囲に伝えておきたい。つまり、自分の生きてきた道を無言の語りで示し伝えられたら、と思う。それが家族や社会への大切なメッセージ義務ではないか。        

サンパウロの街角から№1 [アーカイブ]

サンパウロの恋の風景

                      ブラジル サンパウロ・エッセイスト ケネス・リー

  文化習慣の違いは要の東西の東と西とでこんなに違うものかと驚き、目を疑ったのはブラジルについてまもないことであった。

 その頃といっても1960年代のことである。サンパウロ市に高層ビルが林立しているのは市中心街くらいで、離れた住宅街はほとんどが一戸建ての住宅である。潅木を低く切った生垣は機の枝が横に伸びて1米くらいの幅はあるが、一寸コソ泥が乗り越えられるものじゃない。中には美しい模様をかたどった鉄柵がある、概して低く、前庭の花壇や家がよく見える。夕方には玄関の灯がともる。それらを眺めて散歩するだけでも楽しい。

  夕食後その界隈を散歩してときどきみかけるのは年頃の娘が垣根の内側に、男の子が外側に立って、睦ましげにおしゃべりしている。互いに手をみつめる。家族が見ているので抱擁はできない。だが美しいロマンチックな風景である。

 冬の夜だと寒いだろうと、余計な心配をする。

 家の中に招き入れたらよさそうなと思う。

 だが恋愛中は親が許さないのだそうだ。

 家の中に入れるのはフィアンサ(婚約者)になってからかなう。

 時々窓から親が鋭い目で監視する。

 門限は10時ごろまでと厳しい。

 一晩中そうしてボソボソ途切れることなくおしゃべりをしている。

 そんなに話をするタネがあるのかと思う。

 「今朝7時に起きた。歯を磨いて、顔を洗って、カフェー(朝食のこと)をとったら猫が寄ってきてニャーとなく。ミルクを少しこぼしてやったらペロペロなめるじゃないか」

 「ホホ」

 「それからかばんを取って学校に行った。」・・・

 「ホラ、今夜は月が出ている、ホレ、あの星は美しく輝いているだろう!・・・」と朝起きたことからのべつに話さなかったら、とても一晩のおしゃべりはできまい。時間が来たら、窓越しに「もう家の中に入る時間だよ」と声がかかる。「はいー」「あす又来るよ」「ウン」頬にキスをして「チャウー・ボア・ノイテ(さよなら、おやすみ)」と別れを告げて若者は去っていく。

  婚約には若者が娘の両親に求婚を申しいれる。それには口頭試験があって、家族のこと、職業、収入などが問われる。皇太子殿下じゃないが「お嬢様は身と賭して守ります。必ず幸福にします」と誓うくらい、ハッタリかけねばパスはするまい。もっとも、毎晩垣根越しに「今朝7時におきて」としか会話のない男に娘をやっちゃいけないと思うが。

  試験にパスしたら婚約式を挙げて、それからは家の中に入れてもらえる。だが二人きりになることはない。家のだれかが必ず傍にいる。ソファーに座って軽く肩を抱いたり、軽いキスは許される。

  勿論これは40数年前のブラジルの一般中流家庭のことである。いまどきは「今夜は少し遅くなるよ」と告げてサッサと家を出るだろう。一戸建ての住宅は大方取り壊されて高層マンションに変わった。残った住宅は3メートル以上のレンガ塀、家によっては防犯カメラに高圧電流を流した電線を張りめぐらせている。

  居住文化の進歩は住宅と監獄の差を取り除いたかと思われる。曰く、「良民はうち、強盗は外」。かってはサンパウロ市内で足早に歩く人はいなかった。街のなかを走っているのはスリくらいだった。込んだバスはやりすごして次を待つ。三年ブラジルに住んだら、ほかの国では使えないといわれるほどノンビリしていた。だが今は先進国並みになって忙しくなった。昔のよき時代はもうもどってこないだろう。あのロマンチックな(?)垣根越しの恋のつぶやきの風景は古典文学の中にしか残っていない。


浜田山通信№2 [アーカイブ]

おもちゃ屋

                               ジャーナリスト   野村勝美

 私は昭和52年10月末日まで毎日新聞社にいた。社(自社のことを社といった)が左前になり、希望退職を募集したのでやめた。連れ合いがおもちゃ屋をやっており、ひそかに髪結いの亭主たらんとしたが、敵もさるもの、彼女の方が店に出なくなった。人生なかなか思惑通りにいかんものだ。彼女の実家は今も続く老舗の人形店だが、私の方はペンキ屋、いわば職人系で私の中には商売人の血はながれていない。ただこの時期は、高度成長期のピークだった。武士の商法だろうが、毎年二百万人以上生まれる子供のおかげでなんとかなった。いまは百十万人台。

 このころのしあがってきたのが、京都で花札、トランプを作っていた任天堂だ。ゲ-ムウオッチが大当たり、ついでファミコンで完全に子供、若者の心をつかんだ。初めは街のおもちゃ屋ももうけさせてもらったが、もうかるところには商売人が群がっていき、まもなくゲーム専門店が雨後の筍のように現れ、おもちゃ屋はお客をとられた。

 任天堂は、すごい商売をするところで売れないソフトの抱き合わせ販売をしたり、新製品のマージンをひどい時には2パーセントまで下げた。こんなマージンで小売店や問屋がやっていけるわけがない。

 浜田山にという問屋があり、最初はリヤカーを引いて得意回りをしていたが、やがて五階建てのビルまで建てた。それもほんのしばらくのこと、井の頭線に各駅停車であったおもちゃ屋が一軒残らずつぶれ、蔵前の問屋街が姿を消すのと同時に廃業し、ビルも人手にわたった。我が店も平成13年には店を閉めた。もちろん少子化が最大要因なのだが。

 任天堂の3月決算は、過去最高を3年連続して更新したという。トヨタ、GMをはじめ世界中の大企業が全部赤字や倒産しているのに「ゲームは景気に関係なし」と社長はうそぶいている。イチローのマリナーズのオーナーでもある。

 任天堂の歩いた跡はまさに死屍累々だ。つぶれたおもちゃ屋、ゲーム専門店の経営者、従業員はどうしているのだろう。そしてわが家の孫の一人は、ひまさえあればサッカーゲームに夢中だし、京都の大学を出た一人はゲームソフトの会社に就職した。わが店のお得意さんだった子はもう40歳、バンダイナムコに勤めている。TVゲーム、ケータイゲームがいつまで続くのか、すたれるのか、旧人類の私には全くわからない。。

 


今日に生きるチェーホフ№1 [アーカイブ]

チェーホフの眼差し
                             神奈川大学名誉教授・演出家 中本信幸


  ロシアの小説家にして劇作家チェーホフが生まれた1860年には、日本で幕末の「桜田門外の変」が起こった。
  翌1861年,ロシア皇帝アレクサンドル2世は,農奴解放令を発したりして,「上からの改革」を断行せざるを得なくなった。おくれた農奴制ロシアにかわって,新しい資本主義ロシアが現れたのだ。
  チェーホフが亡くなった1904年には,日露戦争が始まる。
  その翌年,ロシアで第一革命が起こる。
  歴史の大きな転換期,先行き不透明な時代に生き,森鴎外、夏目漱石,二葉亭四迷らと同時代の空気を吸っている。
  チェーホフは,モスクワ大学医学部の学資稼ぎと,家計を支えるために,「火事場で新聞記者が書くように」そそくさとユーモア小説を書きなぐり,ユーモア掌編・短篇の名手として海外にも知られるようになる。やがて内容的にも深い,より長い作品を書き,作家として成熟していく。
 一幕物ボードビルを手がけ,中編小説や『イワーノフ』『森の精』『ワーニヤ伯父さん』『かもめ』『三人姉妹』『桜の園』などの多幕物戯曲書く。
  もっぱらロシアの人間,生活,自然を描いたが,今日、国境を越えて広く世界の作家・劇作家として親しまれている。
  アゾフ海にのぞむ南ロシアの港町タガンローグに生まれたチエ一ホフは,幼少年時代から芝居好きで,家庭劇のために笑劇の筋立てを作ったり,ゴーゴリの喜劇『検察官』の市長役を演じたりしている。
  タガンローグは,対外貿易で賑わう文化的な町であった。毎晩,歌と音楽のある芝居とともに,たいてい一幕物ボードビルが演じられた。
  中学時代に書いた戯曲で,残っているのは一作だけ。大胆不敵にも,最も権威のあった帝室マールイ劇場の主演女優宛てに送り,ボツになった『父なし子』である。死後18年を経て表紙なしで発見され,1927年に『題名のない戯曲』という題で発表された。
  『プラトノフ』という題でも知られるこの作品は,主題と筋立てが盛りだくさんで,そのまま上演すれば8時間余を要する超大作でありながら,今日,「ドラマ,喜劇,ボードビル」の傑作とみなされている。
  チェーホフによれば,「現代はまったく何もかもこんがらがって曖昧で不可解」で,「その曖昧さをよく表して」いるプラトノフは,「まだ書かれていない現代小説のヒ一口ーである。」「昔の小説の主人公は,20歳だった。だが、今日では30歳から35歳よりも若い主人公は使えない。やがて女主人公もそうなるだろう。」というチェーホフは、21世紀の状況をみごとに予見している。
  笑いを武器として                                           
祖父が農奴だったチェーホフは,芸術家にとって必要不可欠な「個人的自由の感情」=精神の自由を,つまり,「貴族作家が自然からただでもらったものを,雑階級の作家は青春という代価を払って買っている」と書く。
  ご本人も,農民,庶民の心情の持ち主で,微笑を絶やさない道化者で,おつに構えない,親しみやすい人柄だ。医師の仕事のほかに,貧民救済の活動に打ち込んだり,農民の子弟のために私財を投じていくつも小学校を建てたりしたチェーホフは一切の権威から自由な行動的な知識人でもあった。
 シベリア経由で「囚人の島,耐えがたい島」サハリンにやってきたが,念原の日本訪問は果たせずに帰国した。亡くなる数日前に対戦国日本を「奇蹟的な国・すてきな国」と呼び,病床で日本人について口走っている。
  真の国際主義者チェーホフは,笑いを武器として,冷静に物事を見ることを教えてくれる。
                                    *
  没後100年という現在でも、その人気が衰えることはない。
  秀作の日本台頭のプロセスや日本人外交官との交流など、文豪チェーホフの横顔を追う
  チェーホフが1904年7月2日(新暦15日)に、南ドイツのバーデンワイラーで、「イッヒ・シュテルべ(私は死ぬ)」とドイツ語でつぶやき、シャンパンを飲み干して亡くなって、一世紀経つ。
  「医学は本妻、文学は愛人」と語るチェーホフは「知恵豊富」の冷めた目で自分を見つめ、静かに息を引き取った。なぜ、ロシアの作家の有名な臨終の言葉がドイツ語だったのか。孤立無援のわびしい異郷で、周囲の人々を慮ったのである。
  「ぼくが読まれるのは、やはり、せいぜい7年だ、生きられるのはもっと短い。6年だ」
 と、作家ブーニンに語ったチェーホフは、それから一年ほどで亡くなった。
  だが、久しく読み継がれ、没後100年のいま、忘却の淵に沈むどころか、新しい文学、芸術、とくに演劇の先駆者として、また、私たちの身近な同時代人として、時空を超えて蘇っている。

   燭の灯を煙草火としつチェホフ忌

  俳人中村草田男の名句の一つで、一九三七年の作である。昭和初期に「チェーホフ忌」が俳句の季題になる文化的基盤ができあがっていた。
  明治以来、激変する時代動向に関わりなく今日まで、日本で最も愛されているロシアの作家がチェーホフである。多くの作家、演劇人がチェーホフの恩恵に浴してきた。
  チェーホフが亡くなった年の六月に刊行された日本案内記(『日本とその住人たち』一九〇四年、ぺテルベルク、ブロックハウス=エフロン社)は、「ヨーロッパ文学の影響を受けて日本の多くの事柄が変わるであろう」と予測し、「現在、日本の諸都市の舞台では、シェィクスピア、ヴィクトル・ユゴー、ハウプトマン、チェーホフ、ゴーリキー、メーテルリンクが上演され、ますます大きな成功を勝ち得つつある」と指摘する。
 1904年には、日本ではまだチェーホフは上演されていなかった。自由劇場の創立者小山内薫が劇団創立の翌年、1910年にチェーホフの「犬」(原題『結婚申し込み』)を有楽座で上演したのが、 チェーホフ上演の始まりである。
  1903年にチェーホフ初期の短編『別荘の人びと』と『アルバム』が瀬沼夏葉女史により『新小説』誌にロシア語原文から訳載されたのが、チェーホフ翻訳紹介の始まりである。とりわけ日露戦争を契機に、ロシア文学への関心が急激に高まる。
 「戦争に勝ったが、文化では負けた」と言われ、ロシア文学ブームが起こり、チェーホフも相次いで翻訳され、上演されて日本の近代文学と演劇に多大を影響を与える。
 日本はチェーホフ紹介の先進国で、その翻訳と上演の量において、60年代までは世界に冠たるものがあった。ともあれ、没年の1904年に、劇作家チェーホフが日本でよく知られているという情報が、ロシアの一般大衆向けの便覧に記載されていることは注目される。買い被りの予想が的中したのだ。
 「チェーホフ。桜の園。日本。こう並べるだけで、多くの連想が湧く。チェーホフは桜の園のように、日本の現実の一部である。(中略)チェーホフの人となりそのもの、その創作法が日本文学と本質的に近しい」
 ロシアの日本現代文学研究者キム・レーホが、『ロシア古典文学と日本文学』(モスクワ・1987年)の第九章「チェーホフ」の冒頭に書いている。チェーホフは日本文学に近しい、つまり、日本人の心情や感性に近しい、と。


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図書館の可能性№1 [アーカイブ]

図書館の可能性 

                               

                    昭和女子大学教授 大串夏身

はじめに 

 「生涯学習」は、ほとんどの地方自治体が政策の一つとして採り上げていますが、成功例ばかりではないようです。元来、生涯学習は、市民の自発的な学習欲求に発するものであり、自律的であるべきだからです。立川市の市民組織『知の木々舎』は、市民が自ら、手作りで学習組織を創り、ネットマガジンと講座を展開するとのこと、その発展を期待します。昨年、立川市中央図書館で、市民講座「大串夏身の情報検索術」の講師をお引き受けしたことがあります。6回の授業に約20人の市民のみなさんが、熱心に情報検索の世界に入ってこられました。これがご縁で、多くの方と顔なじみになりました。  

 さて、熟年のみなさん、生涯学習に意欲をもやすみなさん、余暇を活かしたいと思うみなさん、こうしたみなさんに、図書館は、豊かな情報をもたらしてくれます。図書館を専門とする私の立場から言えば、「情報基盤は図書館で創ろう」と呼びかけたいのです。

図書館の可能性は人間の可能性でもある。

 図書館の可能性は人間の可能性でもある。図書館の利用を通して、人が育ち、人間として成長し、成長した人間がより良い社会を作り出していく。これが図書館の究極の目的である。同時に図書館の可能性を示すものでもある。図書館は人間が作り出してきた図書や雑誌などを集めて整理し、保存して、人間がそれらを活用する場・施設である。人間が作り出してきた図書や雑誌などは人間の知的な創造物である。                           知的な創造物には、写真、音楽CDDVDビデオ、インターネット情報源なども含まれる。それらの利用を通して人が知識・知恵を作り出し、知的な創造物を作り出し、また、先に述べたように人が育ち、人間として成長し、成長した人間がよりいい社会を作り出していくものである。また後世に知的な創造物を伝えるという目的ももっている。                                 

 図書館で入手した資料・知識・情報を人間が活用することによって、子育てに役立つ、健康になる、学習の成果が上がる、読書習慣が身につく、美しい図書に出会う、生活に役立つ、ビジネスに役立つ、企業経営に役立つ、研究成果がまとまる、楽しみが増える、新しいアイディアが湧くなどの効用をもたらす。これらは、利用者の人間としての、幼児として、生徒としての、学生としての、社会人としての、それぞれの可能性を広げるものである。また、その結果として、社会の中によりいい効果をもたらすことにもなる。このように考えると、図書館の可能性は人間の可能性である。これは社会の中に図書館を置いたときの可能性と言える。           

 可能性と言った場合、いま一つ考えられる。それは図書館それ自体の可能性である。それは、図書館の活動・サービスを充実させることである。図書館は活動・サービスを充実させることによって、住民の利用機会を増やし、利用を促進する。利用の機会が増えることは、利用者の図書館の活用の内容を豊かにして、それだけ利用者にさまざまなものをもたらす。利用者の人間としての可能性を高めることにつながる。図書館自体の可能性つまり活動サービスを充実させることは、このように、利用者の可能性を高めることにつながる。                     

 図書館の活動サービスを充実させることによって図書館の利用者が増え、図書館の活動が支持され、図書館が一層充実していくことが可能になる。もちろん、そのためには充実プラン具体化のために、計画的で効率的な経営、設置母体へのはらたらきかけ、公共図書館の場合には、議会や行政当局、教育委員会へはたらきかけが必要であり、住民への日常的な図書館のサービスのアピールが必要であることは言うまでもない。これは、図書館の内部の可能性であって、前述の社会の中に図書館を置いたときの可能性がより強く、より広くあらわれるようにはたらきかけるものである。その意味で狭義の可能性と言っておこう。

 さらに、図書館の可能性を高めるためには、次のような考え方がある。それは、(図書館の価値)を高めることを通して、図書館の可能性を高めるという考え方である                           (図書館の価値)を高めることによって、図書館に対する認知度が高まり、理解が深まり、図書館を充実させるようにはたらきかけが行われ、その結果、資料費が増え、職員の数が増え、図書館がより多く作られ、図書館の可能性を高めることができるというものである。しかし、実際にはすぐにそのようにうまくいくとはかぎらない。価値という直接的に表現できないものを中心にすえているために長い時間がかかることになる。まず図書館を利用者が利用して、プラスの効果を得た、あるいは、得るだろうという事例について、公共図書館を舞台にして考えてみよう。公共図書館に寄せられる質問を手がかかりに考えてみる。              『図書館の可能性』青弓社 


わが生涯の音楽ノート№1 [アーカイブ]

オラトリオ「森の歌」の歌詞                                                                               音楽会プロデューサー  阿久澤實  

   50年代初めの頃、流行っていた音楽喫茶店で、リクエストの多かった曲に、ショスタコービッチのオラトリオ「森の歌」があった。この曲は、混声合唱を主体に、独唱、管弦楽、それに児童合唱も加わる規模の大きな作品で、親しみやすい旋律と迫力に満ちた管弦楽曲で、初めての聴衆も魅了された。日本では関西の楽団で初演され、その後N響で公演されたが、1955年の秋、東京は労音の主催により、一万人を収容する両国の国際スタジアム(旧国技館)で、4回もの公演が行われた。それは千人の混成合唱団(百人の児童合唱を含む)に大編成の東京交響楽団と、2名のソリスト、そして指揮は当時、新進気鋭の芥川也寸志の出演といった大規模な内容で注目を集め、公演後は、新聞、週刊誌などで広く話題を集めた。特に千人もの合唱団が出演したこと、しかもその合唱団はプロではなく、アマチュアの勤労者だったこと。 

    ところで、この大合唱曲オラトリオ「森の歌」は、1949年、ソ連の著名な作曲家ショスタコービッチの作品で、当時のソ連の大規模な自然改造計画を賛美したドルマトウスキー(ソ連の著名な詩人)の詞文をもとに作曲されたものである。 

 1948年、ショスタコービッチはソ連当局から作品に対する2度目の批判を受け、要職を辞していたが、49年、批判の克服の意を込めて、この「森の歌」を作曲したのである。

   この「森の歌」の詞文は、戦後の荒廃した国土を緑化する大規模な自然改造計画を賛美したものだが、具体的には、「その大規模な自然改造を計画し、指導したのはスターリンであり、聡明なスターリンに栄光あれ。」といった、まさにスターリン賛歌となっている。それでは、この詞文を原文のまま、つまり、日本語に忠実に訳して歌うわけにはいかない、ことは当然であった。

 そこで、歌詞の翻訳をされた演奏家の井上頼豊氏と桜井武雄氏がうんちくを傾け、苦労を重ねて、現在の意訳文となったのである。訳文の趣旨は“大戦後の荒廃した祖国を緑化し、住みよい環境を作り出す市民のたくましい姿”となって歌われた。

   ともあれ、この音楽会を成功に導いたのは、なによりも、半年に及ぶ練習に参加し、無報酬で舞台に立った、千人の合唱団だと思う。初めて合唱に参加した人々から、“大戦後の祖国再建に立ち上がる労働大衆を歌い上げた内容に感銘を覚え、練習に意欲を沸かせた”といった声が多く聞かれた。   なお、作曲家のショスタコービッチ本人から公演の数日前にメッセージが届けられた。また、「森の歌」の歌詞(原文)は、スターリンの死後、改定されたことを付記しておく.

玲子の雑記帳2009-05-16 [アーカイブ]

  5月14日と15日の2日間、東京地裁立川支部で行われた模擬裁判を体験してきました。来週21日にいよいよ裁判員制度がスタートするとあって、この間各地で模擬裁判が開かれています。今春八王子から引っ越してきたばかりの立川支部ではもっとも遅いこの時期の開催になったのでした。昨年、裁判所の職員がこの制度の説明に女性センターに来たおり模擬裁判への参加協力を求められて協力の意思表示をしたのですが、4月に呼び出し状なるものをみてうろたえ、とりあえずは当日出席の50人の枠には入っただけで、まさか6人のうちの一人に専任されるとは思っていませんでした。なにしろ最後はコンピューターのくじで決めるのですからね、誰だって自分が当たるとは思っていない。

 情に流されやすい人間としてはどれだけ正しい判断ができるのか自信がない、いったいプロの裁判官と一緒に素人がどこまで自分の意見を言えるのか、死刑のような量刑はとても怖くて下せない、等々、いろいろ疑問のあるところでしたが、今回は模擬ということもあって、まずは新しい裁判所を見てみようというところから入りました。

 6人の構成は主婦、現役の会社員、施設相談員、法律事務所職員、リタイアして料理学校に通っている男性等さまざま、2日間の裁判員の経験はなかなか興味深いものでした。法廷で壇の上から検察、弁護側の論告をきいたり、被告とのやり取りを聞くのは思っていた以上に消耗するもので、数十分ごとに休憩に入るのは贅沢でも怠けているわけでもなく必要なことだとわかりました。判決のため3時間もの評議に耐えられるのかと最初は思ったのですが、実はそれよりも短時間法廷に座っていることのほうがしんどいのです。高齢者は辞退できるというのもむべなるかなです。

 評議の間に自分の考えをまとめていく作業はそれなりに貴重な体験だったが、本番は辞退したいというのが6人みんなの感想です。基地跡地の国有地に国の機関が次々建設されて付近ははすっかり様変わりしていますが、その雄姿とはうらはらに食事をする場所が十分にない、アクセスがかなり不便、といった物理的な不備も指摘されました。難解な法律用語はもっとわかりやすくしてもらいたいし、2日間の模擬体験は裁判所側にとっても有意義だったとのことです。

 模擬とあって、今回の案件は被告が罪を認めていてその点の争いがないなど、比較的わかりやすい裁判になっていました。それでも量刑の判断は裁判員によって差が出ました。決定は多数決なのでその点荷が軽いという気はします。感情を排し、提出された証拠だけにもとづいて判断するという、めったにない経験をしました。それでも、被告が事件を起こす要因となった被害者の言動が、被告の罰を考慮するうえで酌量の余地はあっても、被害者の言動そのものが罰を受ける仕組みにはなっていないことになんとなくすっきりしません。。極論すれば、法律はいじめをうけても我慢しなさいとしかいわない。目ざすべきはいじめは悪いと誰もがみとめる社会ではないのかと思えてなりません。(裁判員制度とは全く別のはなしです。)

 


浜田山通信№1 [アーカイブ]

カギ屋の死         

                                     ジャーナリスト・野村勝美                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

 「知の木々舎」代表の横幕玲子さんからウエブマガジンをだすので 「浜田山通信」を書けとの話があった。私が以前「とうきょう浜田山発」という個人通信を出していたのを誰かからお聞きになったらしい。「浜田山発」は手書き原稿をコピーして、友人、知己150人ほどに郵送していたものだ。最初が98年3月で最後が01年11月、通巻26号。03年に復刻するつもりで「浜田山発2」を一号だけだして心筋梗塞をやり中断した。年齢にして69歳から74歳まで。毎号年をとったこととボケたことのグチがぐだぐだと並んでいる。それが今やこの6月で80歳だ。先輩でがんばっていたのは、加藤周一さんと、今も健在な鶴見俊輔さんだけ。この二人は超天才である。冗談やめてくれといったが、こんどは学校で同期だった鈴木茂夫天才が出てきて、今こそ熟年者がものをいわねばならぬ、「浜田山発」は休刊中なんだろ、書けと命令する。

 たしかに同年のなだいなださんは老人党を作ってがんばっている。しかしあれは特別だ。だいいち、プラトン、ソクラテス、孔子に孟子、ブッダにキリストどれほどの先賢先哲がすばらしい思想、哲学を説き、教え諭してきたか。人間はいぜんとして、強きは弱きをくじき、弱きは強きにおもねり、世の中一向によくならぬではないか。

 しかも私めは、パソコン、ケータイを持たず、近頃は地上波のテレビさえ見ない世捨て人、何か書いてもキーボード(というのか)をどなたかにたたいてもらわねばならぬ。とか抵抗しているうちに、大江健三郎さんが“意見としての希望”なんてことをいっているのを思い出してしまったのが運のつき。

 では何を書くか。「浜田山発」のコンセプトの一つは、浜田山という大都会の片隅から見た現代世相だった。散歩くらいしかできない老人にはマイナーな地域から世の移り変わりを記録するのも良いかと思ったのだ。

 少し旧聞だが、駅前の西友パート2が閉店した。この店は昭和50 年代の後半から続いたスーパーで、閉店時には日曜大工、園芸関係の商品を販売していた。その一角に一坪ほどのカギ屋が入っていたが、この人は60歳で仕事を失い、大晦日に首をつって死んだと、同じく、この店のテナントだった人が、一週間ほど前に聞いたと話してくれた。昨年の自殺者数32.349人の一人だ。


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こころの漢方薬№1 [アーカイブ]

 読書は美容術 

                                       文芸評論家・元武蔵野女子大学学長 大河内昭爾                                                  

 美容にも漢方薬が用いられるようだが、美容術の手法にはいろいろあるにしても、読書もまた間接的ながら立派な美容術である。

  評論家の河上徹太郎氏の読書論に、「読書とはもっとも簡単で、もっとも効果的な美容術であり、若返り法だといいたい。これは比喩ではなしに、具体的な事実だ。」とある。

 体を動かす美容体操同様に、読書を頭脳の体操と考えればよい。美容体操がからだの線を引き締め、本人の気分を充実させるように、頭脳の体操も感覚を柔軟に質的な刺激を与えてくれる。それは人間の感情を深め、外からの化粧と違った内からの魅力を生むに違いない。それが証拠に読書の習慣を失った人ほど早くふけこむ傾向がある。

  本を読んでも忘れると嘆く人がいるが、読んだことを忘れても、読んでいる間の物思いが、少しずつでも自分に奥行きのある表情を与えてくれているのを信じたほうがいい。読書とは、自分の習慣的なそして惰性的な考え方から解放されることである。教わるものでも憶えるものでもなく、まずそれによって頭と心を動かすことが何よりも表情を豊かにし精彩あるものにしてくれる。

 老化現象にもいろいろあるが、頭が硬くなるのが何よりの老化であろう。頭が硬いといのは、考え方、感じ方が硬直して柔軟さを失うということであり、狭い堅苦しい枠のなかに閉じこめられれいることである。

 いつまでも若々しい感性を保つには、読書によってさまざまな思考や経験とつきあうことによって、自分の思考の枠や経験の範囲から自由に出ていくことであろう。

  ところで、読書にとっても、もっとも肝心なことは、それを習慣にするということである。読書の習慣のない人は、忙しくなったり、境遇に変化が生じると読書をやめてしまう。漢方薬が持続の効果を訴えるように、読書も何よりも習慣の大切さを求める。対症療法ではなく、体質改善的な心身の長期治療法をめざすものだから、習慣化された息の長いつきあいが大事なのである。

 読書の中の喜びや悲しみ、感激や興奮が絶えず私たちの心をふるいたたせ、刺激し、想像力をかきたて、いきいきとした時間を持続させてくれる。それこそ何よりの若返り法というものであろう。   (『こころの漢方薬』弥生書房)

 

 

 

 


砂川闘争50年・それぞれの思い№1 [アーカイブ]

砂川闘争を風化させないために                                                                         

                                  砂川を記録する会代表・星紀市

砂川基地闘争とは
 砂川闘争とはアメリカ軍立川飛行場の拡張をめぐり、15年間にわたり続いた、大きな住民運動のことを指しています。
 アメリカ軍立川飛行場の前身は、大日本帝国陸軍の飛行場でした。1922年、当時の立川村と砂川村にまたがって作られた小さな飛行場はやがて拡大強化されました。太平洋戦争時には、軍都立川と言われました。
 1945年敗戦によりアメリカ軍に占領されてからは、朝鮮戦争・ベトナム戦争の出撃拠点となりました。
 1955年大型機の離着陸のためにさらに滑走路を延長することを、アメリカ軍から要求されたのに対し、砂川の農民たちはこれに反対しました。強制収用のための土地測量にあらゆる方法で抵抗し、裁判所や東京都収用委員会でも論陣を張り、一歩もゆずりませんでした。ついに1968年アメリカ軍は拡張をあきらめ。翌年国も収用認定を取り消し、15年の戦いに終止符が打たれました。やがてアメリカ軍は横田基地に移り、1977年、580万平方メートルの基地は、日本へ全面的全面返還されたのです。

砂川基地闘争の持つ意味
 今振り返ってみるとこの闘争は、憲法との関わりで、大変重要な意味をもっていたと言えます。
 その第一は地方自治を守る運動であったということです。1955年5月4日、東京調達局(現東京防衛施設局)が砂川町の宮崎伝左衛門町長に基地拡張の通告を行ったのです。それは126戸の農家と17万平方メートルの農地を奪い、町の中心を通る都道五日市街道を分断するものでした。
 町長はすぐにこの通告を地元住民に説明したところ、絶対反対の意思を表明され、5月8日、地元住民は砂川町基地拡張反対同盟を結成しました。
 12日には臨時の町議会が開催され、満場一致で反対を決議、町議会議長を委員長とする反対闘争委員会が作られました。宮崎町長は、「たとえブルドーザーの下敷きになっても1坪の土地も渡さない」と悲壮な決意を語り、砂川町は町ぐるみで、国が決めたアメリカ軍基地の拡張に反対したのです。また宮崎町長は調達局が土地収用のために行う立ち入り調査に反対して公告を拒否、東京都知事の職務執行命令にも従わず、基地拡張のための一切の法的手続きに抵抗して、砂川町を守りました。
 その第二は自由と権利を自らの努力で保持するという、憲法第12条の実践であったことです。
 国が農民の抵抗を警察官の暴力で排除して測量強行していたとき、
「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」
 と言う青木市五郎行動隊長(後の立川市議会議員)の言葉を合言葉にして、農民たちは団結を崩さず、戦いつづけました。
 警察官の警棒に打擲され、1000人を超える負傷者が出ました。自らも重傷を負った日本山妙法寺の西本敦上人は、
 「流すべき血は流さなければならない。失うべき命は失わなければない。その後に平和な独立日本が訪れる。」
 と説きました。万余の労働者、学生、知識階級の人々が砂川に駆けつけ、誰もが身を挺して自由と権利を守ろうとしたのです。
 そしてその第三は、戦争のための軍事基地か、豊かな生活のための農地かの選択であり、安保条約か、憲法かの選択であったということです。
 砂川の農民たちは戦前・戦中は旧日本軍に、戦後はアメリカ占領軍に多くの土地を取り上げられてきました。しかし、もうこれ以上戦争のために土地を提供することを拒否したのです。
 この闘いの中で、東京地方裁判所の伊達秋雄裁判長は、
 「駐留アメリカ軍は、憲法第9条に違反しており、憲法上、その存在は許されべからざるものである」
 と言って、反対運動の人々の基地立ち入りに、無罪の判決を言い渡しました。
そればかりではありません。砂川闘争は大衆的な実力闘争と法廷闘争の結合、あらゆる階層の人々の共同行動という面でも特筆すべきものでした。
 地元の農民・労働者・学生が無法な測量と、それを擁護する警察権力の暴行に、徹底して非暴力で抵抗したのです。法廷でも総評弁護団を中心とした数々の抵抗が繰り広げられました。測量のために農地に入ってはならないという仮処分申請、東京都がなした土地収用のための公告の取り消し請求、内閣総理大臣がなした収用認定取り消し請求、飛行場内土地の明け渡し請求、東京都収用委員会の審理裁決権限不存在確認請求の裁判などなどです。また、64年4月から始まった収用委員会の審理には、毎回多数の農民と労働者が三多摩労協が借り上げたバスで東京都庁まで、傍聴に駆けつけ、66年暮れまでに13回を闘いぬきました。
 この間も、防衛施設庁による反対防衛同盟への執拗な切り崩しが続きました。66年の墜落炎上事故をきっかけとした多くの立ち退きと、買収国有地への立ち入り・耕作禁止、柵設置の通告を契機に、現地は10年ぶりの緊張に包まれました。このときベトナム戦争反対闘争に取り組んできた、三多摩反戦青年委員会は、反対同盟役員とともに、全国に砂川の危機を訴え歩いて、現地での集会を盛り上げました。
一方、美濃部東京都知事の出現により、収用委員会の審理が中止になったこと、ベトナム戦争によるアメリカ財政の破たんなどとあいまって、ついに68年の拡張中止になったのです。
 私たち砂川を記録する会は、地元の立川市でおきた砂川闘争を昔の出来事として忘れることなく、また後の世の方々に史実を伝えていきたいと考え、その記録を残す活動を続けています。
  1996年に写真集『砂川闘争の記録』。(けやき出版)を発刊。
  2002年にはビデオ『砂川の暑い日』(126分)を制作しました。
  2005年に、『砂川闘争50年・それぞれの思い』(けやき出版)
 『砂川闘争50年
・それぞれの思い』には、さまざまな立場から、砂川闘争に関わった人たちの証言が収録されています。
 砂川闘争を風化させないために、改めて、それぞれの人たちの証言を連載していきます。               
                                                                                                         『砂川闘争50年・それぞれの思い』けやき出版


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浦安の風№1 [アーカイブ]

 青べかの街は今 

                                ソーシャル・オブザーバー 横山貞利

 浦安・・・・あなたは、どんなことを連想しますか。70歳前後の方たちは“青べか”を思い浮かべるでしょう。もっと若い団塊の世代以降の人たちは、“トーキョー デイズニーランド” でしょうか。そうなんです、浦安というところは、全く異なる二つの貌をもった若い市街地なのです。歴史的にみますと、堀江、猫実(古くは真)、当代島の3集落が合併して浦安村ができたのが1889(明22)年のことです。

 「青べか物語」の著者・山本周五郎が浦安村に住み着いたのは、1926(大14)年から1929(昭4)年迄で、その頃は“沖の百万坪”といわれた辺りは魚介類や海苔などの豊かな漁場だったようです。

 ところが、1958(昭33)年に「黒い水事件」が起こりました。これは、本州製紙江戸川工場(当時)がダンボールの漂白に使った汚水を放流したため、怒った漁民たちが抗議行動を起こして警官隊と衝突する事態になったのです。

 この事件をきっかけにして水質保全法と工場排水規制法が成立し、本州製紙側は漁民に補償金を支払いました。しかし、漁業は不振がつづいたため、漁民は漁業権を放棄せざるを得なくなったのです。そして、1964(昭39)年から埋め立て工事が開始され、1970(昭和45)工事が完了して現在の形の浦安になったのです。

 ところで、“浦安”という地名は、初代村長の新井甚左衛門が「浦(海)やすかれ」という言葉に「心やすかれ」の願いを込めて名づけたということです。“浦安”の出典は「日本書紀・第三巻・神武記」の一説「昔、イザナミノミコト、この国を名づけて曰く、日本は浦安の国」とあり、「浦安は日本(大和)の古称・美称」ともいわれ、これに由来しているそうです。なんとロマン溢れることではありませんか。 

  浦安が町に変わったのは1947(昭22)年、町から市になったのは1981(昭56)年のことです。現在の浦安市は、面積17.29平方km、人口16万人強の小都市です。市内には、地下鉄東西線・浦安駅、JR京葉線・新浦安駅、舞浜駅の3駅があり、住民は都内への通勤者が多く、バブル期以降、不動産取引に当たっては“東京24区”と喧伝されています。四半世紀前にすみついた目からみますと、その変貌振りには隔世の感を覚えます。                                                    


玲子の雑記帳2009-05-11 [アーカイブ]

 5月10日、原稿を寄せてくださった中野隆右さんのお宅におじゃましました。中野喜介の軌跡を辿る形で戦後の立川を書いてくださるというお話でした。20年ほど前に福岡から越してきて住んだところが中野さんのお宅の目と鼻の先だったにもかかわらず、伺うのは今日が初めて、分家とはいえ250年続く由緒ある家系と知って少々緊張しながらの訪問となりました。

   昭和5年に建て替えたという住宅は、敷地も1000坪をこえるとか、サラリーマンがようやく購入できた土地とは比べ物になりません。この日、外は真夏日でしたが、玄関をはいるとひんやりと気持ちよく、驚いたことに、広い土間のたたきはコンクリトに紛うほどに踏み固められた白土なのでした。 

  用件は簡単にすんで、今いろいろ調べていることがあると奥から古い地図や新聞を取り出してこられ、思いがけず、立川の昔の話を聞かせてもらえることになりました。新田開発して立川駅にいたる南砂川のこのあたりは、むかし7軒の農家の所有だった話は聞いていましたが、それが砂川村からのけ者にされていたために旧来の砂川の耕作地を売ってもらえなかったなどという話は始めて聞くものでした。所番地を示す戦前の古い地図を見れば、南砂川が砂川のなかではよそ者だったことがよくわかります。今でも(砂川の)阿豆佐見天神社の氏子と(南砂川の)愛宕神社の氏子は一緒にはならない、こんな小さい場所でもそうだから、まして宗教対立のあるパレスチナのようなところは簡単にはいかないと、話はいつのまにか世界に広がって、昔を知る人の話はなかなかに興味が尽きません。戦後の立川の連載が終わったら昔の砂川の話を書いて欲しいなあと思いながら中野家を後にしました。 

「知の木々舎」のこのブログは6月の講座の開講にあわせて準備を進めてきました。カテゴリーの中身も徐々に埋まっていく予定です。