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ケルトの妖精 №13 [文芸美術の森]

ガンコナー

             妖精美術館館長  井村君江

 ある村はずれの谷間に羊飼いの一家が住んでいた。その家にはモイラという年頃の美しい娘がいた。モイラは、山の牧草地に羊を迫っていくのが仕事だったが、牧草地と谷間の家の往復ばかりで、生まれてこのかた一歩もほかの場所へ行ったことがなかった。
 いつのころからか、モイラは、明るい陽のあるうちは羊を追って、快活な気分でいたのに、夕暮れになって家路につくころには、なぜだか心にポッカリと穴があいたような気持ちになるのだった。
 ある日、いつものように羊の群れを、谷あいの道から山の牧草地に追っていった。谷を登るにつれ、芽吹いたばかりのやわらかい黄緑色の草が現れ、やがて山の斜面いっぱいに牧草が広がる場所に着いた。そこからは、麓の村が小さく見える。モイラは杖をおき、そこで羊たちに思い思いに草を食べさせていた。
 しばらくすると、山の頂きのほうから霧が這いおりてきた。嵐になるような天気ではなかったので、モイラは袋のなかから肩かけを取りだして、露を避けていた。
 しかし、変わりやすい山の天気は、ひとときもすると灰色の霧をはらい、陽も戻ってモイラを安心させた。
 ほっとしたモイラがふと見ると、羊の群れのなかに見知らぬ若者が立っていた。
 「どこから現れたのだろう」とモイラはいぶかった。
 男の靴が見えたが、靴はぬれてもいず、汚れてもいないところを見ると、いま霧でぬれた草を踏んで歩いてきたとは思えなかった。
 若者は、ドゥディーンというすてきなパイプをくわえ、かすかに煙をくゆらせていた。煙草の甘い香りがモイラのほうに流れてきて、モイラをなんともいいようのない心地に誘った。甘い香りのせいだけではなく、若者が山の人とは思えないような、息をのむほどの美貌のせいもあったにちがいない。
 その若者はモイラに話しかけてきて、モイラが見たことのない、遠くの街々のことを語ってくれた。そして若者は、立派な城に住む王女さまや、白馬に乗って駆ける王子さまのこと、恋をする男と女の胸のときめきを語った。
 モイラの心は夢のような若者の話と、村いちばんの笛吹きの吹く笛の音よりも美しい声の響きにとらえられた。モイラは罠にでもかかったかのように若者に恋をした。
 生まれてはじめて感じる心のときめきがうれしくて、モイラは夢中だった。
 ふたりは抱きあって、ひとつになった。モイラが見ているのは若者の澄んだ瞳とやさしいくちびるだけ、ほかの何もモイラの目には入らなかった。
 耳にも、若者のささやく声以外、羊たちの鳴き声も、夕暮れを知らせる風の音も入らなかった。
 喜びが大きすぎて、モイラの胸からあふれだしそうだったから、モイラは十字を切って神に祈りをささげた。
 と、そのとたんに、かき消すように若者はモイラの腕からいなくなってしかった。
 それから毎日、モイラは若者と出会った山へ羊を追っていったが、どんなに探しても、二度と若者の姿を見ることはなかった。モイラがどんなに恋心をつのらせても、若者は応えてくれることはなかったのだ。
 羊を追った強い脚も、日に焼けてバラ色に輝いていた頬も、もうモイラから消え失せてしまった。すべてをあきらめたモイラは、だれにも告げず、自分で死の衣装を用意して、やせて、うつろな目をして、そして死んでいった。

◆ 妖精に恋をした人間の命を、愛の代償として奪う妖精は、女の妖精がリヤナンシー、男の妖精がガンコナー(ギヤン・カナハ)と呼ばれる。リヤナンシーはいわば詩の女神で、愛する人間の男の血を吸う代わりに芸術の霊感を与える。詩人が早死にするのはそのためといわれる。ガンコナーは別名「愛をささやく者」(ラブ・トーカー)ともいわれる。

 わたしたち二人は抱き合った
 外の世界を意識からしめだして……
 あの人の目は炎、言葉は罠、
 十字を切ると、男は悲しげな声をたて、
 雲が通りすぎたかとおもうと、わたしはひとりきり……

 「愛をささやく妖精に会った娘は、死の衣装を織るだろう」
 むかしの言い伝えが、いつも頭にうかんでた
            (アンナ・マクマナス 『口説きの妖精』の一節より)


『ケルトの妖精』 あんづ堂

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石井鶴三の世界 №150 [文芸美術の森]

月光菩薩 1930年/中宮寺弥勒 1930年

              画家・彫刻家  石井鶴三

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月光菩薩 1930年 (181×140)
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中宮寺弥勒 1930年 (181×140

**************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社

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渾斎随筆 №43 [文芸美術の森]

綜合大学を迎へて

                     会津八一

 綜合大学が新潟に出来ることに本ざまりにきまったといふことはまことにうれしい。いち早く気勢を上げて、猛烈に奔走してくれた指導者たちに感謝しなければならない。
 けれども、綜合大学は、もう全国に二十も出来てゐる。ひろく見渡せば、珍しいものがこれから出現するのではない。これが出来たからといって、この県が他県に封して大に威張れるといふのではない。もし大に威張りたいなら、実質的に、ほんとに上等のものを作って見せなければならない。貧弱なものでは威張るどころの話でない。
 大学といふのは学校としては一番高等のもので、最高の学府などといってゐる。敷地の廣いのも、建物の立派なのも必要ではあるが、それより大切なのは、いい教師といい学生のたくさん集まることである。いい学生はいい教師のゐる大学でなければ集まって来ない。いい教師は器械や、標本や、参考書が必要なだけ設備してもらへないやうなところへは来てくれない。だからかうした設備のことは敷地や建物よりずつと大切だ。そんなことは分りきってゐるといってはいけない。ほんたうに分られてゐたとは思はれない。その証拠は、今日までに出来てゐた二十の綜合大学でも設備がよくて、教師も学生も理想的に整ってゐる所ばかりであったとはいへない。だからまた、これから我等の県で作る大学が、これらの不完全だらけな従来の大学より、もつと粗末なものであってはならない。勿論従来のものを凌駕するだけの意気込も熱意もなければいけない。その覚悟がついてゐて、その上で、私のいふことを、分り切ってゐるといふならば、まことに頼もしい。
 これまでは、教育のことは御上まかせで、文部省の役人が案をひねって、上から命令してやらせたが、これからは、国民が自分なり自分の子弟なりを教育する機関や方法を、自分でよく考へなければならなくなった。自分等のために自分等が実行することを、自分等で考へるのはあたりまへのことである。新潟県がいい大学を持つやうに大に考へてもらひたい。
 ことに、これまでの大学には、徴兵猶予の特典を悪用して、学間などは少しも好きでないものや、または、就職の時に履歴書を飾るといふ、ただそれだけのために、卒業証書をほしがるものなどが、入学の手続をしに集まったものも少くなかった。そんなことでは、ほんとの学間も教育もが、どこの大学でも行はれてゐなかつたと、いってもいいかもしれぬ。そんな大学ばかりではこれから平和のうちに文化を以て世界に国を建てるなどといふわけにはいかない。なまやさしいことで学間の蘊奥を窮めるなどといふことは出来るものでない。だから今の時勢にぴったりと適合した大学をこちらで建てるつもりなら、在来のものより、ずつと理想も高く、覚悟も深く、いかなる犠牲をも甘んずるといふのでないといけない。しっかりと腰を据ゑてかかつてもらひたい。
 正直にいへば、新潟県人は、他県の人たち--たとへば長野などに較べて、知識欲が強いとか、研究心が強いとか、文化が高かったとはいへない。そこへ、こんど大学が出来れば、自然そんな方面もずんずん進歩するのであらうが、知識も食物のやうにほんとに空腹でありもせぬのに漫然と箸を取れば、消化もしない。吸収もしない。おまけに中毒も起るといふものだ。大学が出来て、山海の珍味ともいふべき学問の御馳走が御膳立てされぬちに、県民一同が、まづめいめいに自分の腹をなでてみて、めいめいがほんとに空腹になってゐるか、何うか、念のためしらべてみてもらひたい。そしていよいよこの御馳走に箸をつけることになったら、出来るだけ立派な御馳走になるやうな大学にしてもらひたい。金のかかるのは当然のことだ。金をかけるほどの必要がないと思ふくらゐならば、つまらぬ大学なら、ない方がいい。もう今日は徴兵猶予の必要はないが、職業教育だけで最高学府でもあるまい。もつと上等な、ほんとのっ学問のために、そして世界の文化のために、新潟の大学が、天下を睥睨するやうに、一つ大に御奮発を願ひたい。(『夕刊ニイガタ』昭和二十三年十月九日)

『会津八一全集』 中央公論社

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じゃがいもころんだⅡ №17 [文芸美術の森]

台風の怒り

             エッセイスト  中村一枝

 子どもの頃、秋になると台風のくるのはまるで当たり前のように思っていた。台風のあまりない年は何となく物足りない気分さえあった。それだけ台風の被害を受けずに今まで年をとって来られたと言うことだろう。でも今回の台風報道を見ていると、低い土地や土砂災害補償にあいそうな場所に住んでいる人達の苦悩や抜け道のない苦しみがひしひしと伝わってくる。普段はこの上なく住み心地がよく景色も抜群で、その土地に住む幸せを感じつづけてきた人が多いに違いない。そこから引っ越したり、移住したりするなんて考えもつかない日々を過ごしてきたに違いない。それがある日雨が降りつづいて突然川が変化する。昨日までの春の小川のような静かでやさしい川が牙をむくのだ。
 戦争中伊豆に疎開するまで私はずーっと都会っ子であった。それが突然、まちの真ん中を流れる川の上流に疎開する事になった。伊東の駅からは2、30分は歩く。町外れを過ぎると左手に川が流れていた。歩くのは高石垣の上の道。左側は底までこ見通せる。川幅はさして広くないが上から水の底まで見通せる。右側は畑や田んぼが広がっている。今思っても何とも穏やかで牧歌的な風景だった。道を歩いていても川の底の石までよく見える。何とも穏やかな風情の一本道だった。その先をちょっと右に曲がったところに当時は別荘と呼ばれていた家が二、三軒あった。私たちが借りたのはそのうちの一軒で、大家さんのおじいさんが住んでいたらしい。八畳と六畳二間のちいさな家だった。玄関の隣の六畳が父の書斎になった。父は一応物書きを仕事にしていたからいつもそこで仕事をした。お客さんが来ると母や私より先に父が顔を出すので東京から父のところに来る人は当惑したらしい。
 この家がある夏、大雨で家周りが全部水になった。道より一段と高かったその家はおかげで水害には逢わなかったが、朝、起きると周りの石垣の下まで水がひたひたと寄せていたのには 驚いた。当時五年生で、国語の教科書に高松城の水攻めの話が出ていて、私はそれが大好きだったからひとりで喜んでいた。もっともあの時その場にいた大人たちの中で身の危険を感じた人は一人もいなかったと思う。当時は自然と共生すると言うのはごく当たり前だったのではないか。今のように消防団もなく、自然との共生がごく普通のことだった。身構えるわけでもない。今はお互い対峙し身構えている。自然を傷つけているのは人間に他ならない。やたらにハイウエイをつくり高速鉄道を走らせ、効率と利益しか考えない人間に自然が愛想をつかしたとしても当然のことである。人間が手を加え便利に使いやすくするたびに自然はかなしそうに身を縮めていくことを私たちはわきまえるべきなのだ。ここ何十年もの間に何度も起きている自然災害は、どうしても人間が自らの手で安全なくさりをひきちぎったむくいではないかと思えてしかたがない。




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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №14 [文芸美術の森]

激動の時代に反撃する野十郎 4

          早稲田大学名誉教授   川崎  浹

 帰国、そして戦中、戦後 1

 昭和八年(一九九三三)、四十三歳の野十郎はヨーロッパから帰国後、久留米の生家に戻り、しばらく家や酒蔵をアトリエとするが、その後庭に椿柑竹(ちんかんちく)と名づけたアトリエを建てる。持ち帰った絵にさらに手をくわえて、「高島野十郎滞欧作品油絵個人展覧会」を福岡市の生田菓子舗で開くのは、翌々昭和十年(一九三五)である。総計六十七点。
 野十郎はヨーロッパ各地とニューヨークでも、かの地の石の文化、堅牢な建築類は避けて、自然の風景、また舟が浮かぶ海辺や川を好んで題材にして、印象派風にまとめている。ひとつには国外で一点の制作に長時間をかけられないことや、本人が楽しく遊ぶ気分でいたことに由来するだろう。
 展覧会の翌昭和十一年(一九三六)、実家との間にトラブルがあったといわれるが、縁を切って上京し北青山に住まう。昭和十二年(一九三七)十月に日本橋の白木屋で「高島野十郎滞欧作品展」を開いた野十郎は四十七歳。三ケ月前に日中戦争が生じ、日本社会は軍事一色に塗りこめられていく。翌々年、野十郎は大阪で滞欧作品展を開いた。さらに二年後の昭和十六年(一九四一)、この年の六月に画家は銀座の菊屋という所で個展を開くが、十二月に日本は真珠湾を攻撃し、米国に宣戦布告している。
 当時の雰囲気を知る私としては、真珠湾攻撃の六ケ月前だったので個展の開催ができ、幸運だったと思いこみがちだが、野十郎は二年後の昭和十八年(一九四三)十月にも同じ銀座の菊屋で個展を開き、《高原夕色》や《早春》などを展示している。この頃まで神宮球場で野球の早慶戦も開かれていたというから、余裕というものが意外な場所に隠れていることに驚かされる。
 この昭和十八年は敗戦二年前で、米軍が占領したガダルカナルから日本陸軍が撤退し、ラバウル基地で空軍が防戦に転じた頃。連合艦隊司令長官山本五十六が四月十八日ラバウル基地を視察に訪れたが、米軍が暗号を解読して撃墜、山本は戦死する。これは国民に戦況の逼迫を告げる不吉な兆候となった。
 さて野十郎は座禅一途に専念する兄との間も以前のようではなくなったが、昭和十八年、宇朗が福岡県太宰府の碧雲寺に移住したので、またちょっと距離が遠くなった。
 日需品や食料が配給制度になり、成人男女ともに町内会の軍事、防火の訓練に狩りだされたとき、五十三歳の野十郎はどうしていたのだろうか。徴兵されるには年をとりすぎ、工場に徴用された形跡もない。自らは従軍画家にもなろうとせず、戦況が悪化し物資不足がひどくなる中ひとり悠々と絵を措き、書物や経典に目を通していたのだろう。

『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍堂

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祖道傳東Ⅱ №4 [文芸美術の森]

第四図 彿陀聖旅

        画  傅 益瑤・文  曹洞宗大本山永平寺

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              《紙本墨画彩色》 九〇×一二五 軸装
 人間の苦悩を解決する道は何か。釈尊は、真実の道を求めて二十九歳の時、世俗の王位を捨て、一介の沙門となりました。求道の旅の初めは、当時最も勝れた師と称せられた、アーラーラ・カーラーマ仙人を訪ねました。師は有處虞無處の境地を説いて釈尊もそれを悟(さと)られましたが、末だ真の解決を得られず、次にウッダカ・ラーマプツタ仙人を訪ねます。師は非想非非想處の法を説き、釈尊もそれをようやく体得しました。しかし未だ問題の解決に至らないことを知って苦行林に入り、難行苦行六年の歳月を費やし、苦行は結局悟りへの道でないことを知って山を下り、尼連禅河に沐浴して大樹の下に端坐いたします。ときに村人が乳糜(にゅうび)を献じてくれました。釈尊はこれによって枯渇した身心を癒しながら、さらに三昧に入って十二月八日暁の明星を一見して、正覚を成じ、仏陀となったのであります。
 やがてベナレスに赴いて、共に修行した五人の比丘(ぴく)に初めて法を説きました。これで仏法僧の三宝が完全に整ったのです。やがて、次第に弟子が集まり、竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)、王舎城、霊鷲山(りょうじゅせん)など広く行脚(あんぎゃ)して正法を広めることになります。そして八十歳でクシナガラの沙羅林の中で涅槃(ねはん)に入られました。
『祖道傳東』大本山永平寺

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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」 №20 [文芸美術の森]

           シリーズ≪琳派の魅力≫

                          美術ジャーナリスト 斎藤陽一
                                       
          第20回:  尾形光琳「紅白梅図屏風」 その1
(18世紀前半。二曲一双。各156×172.2cm。国宝。熱海・MOA美術館)

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≪画業の総決算≫

 尾形光琳は、47歳の時に江戸に行き、5年ほど滞在したあと、52歳で京にもどりました。江戸では、大名家や豪商の家に出入りして、画業に励んでいましたが、京での雅びな暮らしぶりと比べれば、江戸での生活は堅苦しく、面白味のないものだったようです。

 今回から7回にわたっては、晩年の光琳が、京で描いた「紅白梅図屏風」をじっくりと見てみましょう。

 光琳が40代半ばで「燕子花図屏風」を描いてから、15年近くの歳月が流れました。「紅白梅図屏風」は、人生の年輪を重ねた光琳の画業の総決算ともいうべき作品です。

 この屏風は「二曲一双」形式です。「二曲一双」と言えば、俵屋宗達が「風神雷神図屏風」で創始した形式です。左右に相異なる概念のモチーフを描き、その二つが対立するときのインパクトと緊張感を表現するのに適する、独創的な形式の屏風です。

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 尾形光琳も、ここで、宗達の「二曲一双」を継承しています。二つの屏風には、およそ百年の時の隔たりがあります。
宗達がモチーフとしたのは「風神・雷神」だったのに対して、光琳が左右に描き分けたのは「紅梅・白梅」でした。つまり、「風神」に対応するかたちで「紅梅」が、「雷神」に対応するかたちで「白梅」を描いています。どちらも背景は金地です。

しかし、「風神雷神図」とかなり異なるところは、「紅白梅図」では、中央に黒い川の流れを大きく描いていることです。しかも、この黒い川は、右隻と左隻の境で分断されている・・これは、それまでの屏風絵ではあまり見られない大胆な構図です。
光琳には、私淑する宗達のかたちを継承しながらも、「自分自身の二曲一双を作るぞ」という挑戦的な気持もあったかも知れませんね。

この黒い水流が、何とも言えない幻想的な雰囲気を生み出しており、そこがこの絵の魅力なのですが、これについては、あとの回で詳しく見ることにしましょう。

 ≪紅梅と白梅が象徴するもの≫

 先ずは、左右に描き分けられた「白梅」と「紅梅」をじっくりと眺めたい。

20-3.jpg 「白梅」は、太さや曲がり具合から、相当な古木であることが分かります。
 この老木は、幹の根もとから左に大きく曲がったまま、枠によって切断され、画面の外で枝をはりめぐらしていることが暗示されます。その枝の一部が、今度は、左上から画面内に降りて来て、地面すれすれのところでV字型に曲がり、上に向かっている・・
 この感じは、年老いた人間が、腰をかがめて、川に手をかざしているようにも見えます。そして白い梅の花、これは老人の白髪を暗示しているかのようです。

 今度は「紅梅」に注目しましょう。
 こちらは、「白梅」と対照的に描かれていますね。大地に足を踏ん張って立つ「若木」なのでしょう。全体に、溌剌とした勢いが感じられる。
 ぐんと胸をそらせた姿勢の幹からは、しなやかな枝が伸び、赤い花を咲かせている。血色のいい若者の生命力を暗示しているかのようです。

 「白梅」と「紅梅」の描線にも注目・・・
 「白梅」は、ごつごつとして直線的、「紅梅」は、弧を描くように曲線的であることが見てとれます。これは、それぞれ、直線的な文字である「漢字」と、曲線的な文字である「ひらがな」を想起させます。
 ここに、光琳の絵画の基礎となっている「漢画」と「やまと絵」を読み取る研究者もいます。
 前回に紹介した「燕子花図屏風」で明らかになったように、尾形光琳は、単純化した構成の中にも、隅々まで研ぎ澄ました造形感覚を働かせる理知的な絵師ですから、そのくらいのことは考えて描いているかも知れません。

 次回は、「紅白梅図」で使われている技法と、この絵の“具象性と抽象性”についてお話ししたいと思います。
                                                             



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ケルトの妖精 №12 [文芸美術の森]

メロー 3

            妖精美術館館長  井村君江

 家に帰りついて、ひと息ついたものの、ジャックはあの龍のことが気になってしかたがなかった。龍に閉じこめられた魂が哀れだ、どうしたら自由にしてやれるだろうと、ひとり思案にくれていた。
 しかし、クー・マラは自分が悪いことをしているなどとは、これっぽちも思っていないので、その気持ちを傷つけるのもいやだった。
「どうしたものか」と考えているうちにアイディアがひとつ浮かんだ。
「そうだ。クー・マラを家に招待して、酔いつぶしてしまおう。そのすきに海へ潜っていって、閉じこめられている魂を解放してやろう」
 そう計画をたてると、さっそくジャックはあの岩のある場所へ出かけていった。合図の石を投げいれると、約束どおりクー・マラはすぐに浮かびあがってきた。
「やあジャック。わしに用かね」
「先日はごちそうになりました。お礼にこんどはわが家にお招きしたいと思うのですが」
「それはうれしいね。で、いつがいいんだい」
「今日の午後はいかがですか。そうすれば明るいうちに帰れるでしょうから」
 クー・マラは例の三角帽子を小脇に抱えて、すぐにやってきた。
 ジャックは二十人で飲んでも、たっぷりあまるほどの酒と料理を用意して待っていた。
 ところが、たっぶり飲んで食べて歌って、クー・マラが食卓の下に酔いつぶれてしまうのを期待していたのに、この日、先に酔いつぶれてしまったのはジャックのほうだった。ブランデーの酔いですっかり正体をなくしてしまったジャックを尻目に、クー・マラは千鳥足で、きげんよく帰っていってしまった。
 ジャックは翌日の朝まで目が覚めず、われに返ったときはなにやら心が沈んでいた。「あんな酒飲みにはふつうに立ち向かってもだめだ」と、一日じゅう考えあぐねた。そして「密造のポティーン洒なら、クー・マラほどの酒飲みでも、飲んだことはないに決まっている」と、強烈なポティーン酒で酔わせることを思いついた。
 ジャックはまた岩の上に行き、クー・マラを呼びだして、もういちど酒の挑戦を受けてくれるように言った。クー・マラは笑って、
「とてもおじいさんにかなうもんじゃないなしと言いながらも、よろこんで受けてくれた。
 ジャックはこんどは用心して、自分のブランデーは水で割って薄めておき、クー・マラにはまずいちばん強くて上等のブランデーを用意した。ポティーン酒はころあいを見計らって持ちだす心づもりだ。
 食事とブランデーが進むうち、
「これはとっておきの酒なんですがね。あなたと、わが家とは古くからのつきあいだから、ひとつふるまおうと思いましてね」
 と、強烈なポティーン酒をすすめた。クー・マラは、
「そうかい、どんなものか飲んでみよう」とポティーン酒を口にしてみた。
 気に入ったとみえ、二杯めからはぐびぐびとあおった。そして、
「ラム・ファム・プードウル・プー、リップル・ディップル・ニッティ・ドオブ……」と、
またいい気持ちで人魚語で歌うと、さすがのクー・マラも床に倒れてぐっすり寝入ってしまった。
 それを見たジャックは、三角帽子をひったくり、いつもの封まで走ると帽子を被って海に飛びこんだ。
 海の底は何もかも静まり返っていた。あたりには若いメローも、年をとったメローもひとりもいなかった。
(つづく)


『ケルト旺盛』 あんず堂

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石井鶴三の世界 №149 [文芸美術の森]

法隆寺・中門仁王 1930年/百済観音 1930年

              画家・彫刻家  石井鶴三

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法隆寺・中門仁王 1930年 (193×139)
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百済観音 1930年 (181×140)

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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社

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渾斎随筆 №42 [文芸美術の森]

原宏平大人
                     歌人  会津八一

 私が初めて原さんの名を聞いたのは、いくつの時であったか。恐らく赤ん坊の時から聞いてゐるのであらう。日清戦争が始まって、新発田の十六聯隊も出征するといふので、その頃は、まだ小学校の生徒であった私は、先生に連れられて、兵式用の木銃をかついで、葛塚まで川蒸汽、それから先は歩いて行って、あちらの練兵場で挙行された盛大な歓送式に参列したものだが、その式の最後に、フロックコートにシルクハットで威儀を正した一人の背の高い立派な人が、ふさふさとした頬ひげを風に靡かせながら、進み出て、何か紙に書いたものを、読むのを、会場の遠い隅から眺めて、何となく堂堂とした偉らさうな人だと思った。あとで人に開くと、新発田の町長で越後第一の歌詠みとして名高い原宏平さんだといふことであった。その頃の私はシルクハットといふものを、これが初めてで、驚きの目を見張ったほどの若さであったから、その歌詠みの歌として、どんな歌があるのか、たづねても見なかつたであらう。
 その後四五年すると、私は、まだ中学校に在学のうちに俳句を作り初め、同時に歌も作るやうになった。するとまもなく「東北日報」の俳句の選者を頼まれることになり、それから明治三十一年の春中學を卒業して、翌翌年の春までの間に、「新潟新聞」と両方の選者を兼ねたりするやうになった。この「東北日報」といふのは、大竹寛一、萩野左門などいふ人たちの新聞で、その頃の主筆が、後に「北越名流遣芳」を著した今泉木舌君で、俳句欄は私、漢詩の方は武石貞松君、和歌は原さんであった。その頃「新潟新聞」には、「小金花作」といふペンネイムで、山田殻城といふ新派歌人が居たが、新年やなどには、山田一派のほかに、在来風の歌は、やはり原さんが選んでゐられたやぅに覚えてゐる。だから、私はそちらでも、募集廣告などに、原さんと名を並べて出たものであった。
 その後も私は、ちょっとの間、俳句のことで「新潟新聞」や「高田新聞」などに関係したこともあるが、それもすぐ手を引いて、それから俳句の方にはだんだん遠くなり、歌の方を少しつつ今もやってゐるのである。が、田舎には、根気よく古い頃のことを覚えてゐる人があって、このまへに ― たしか十二三年前に ― 私が早稲田の総長の田中君や、春城老人などと新発田へ講演に来て、その足で、新潟へも廻って、久しぶりにいろいろの人にも遇った時に、扇子などを出して、俳句を一つと所望する人はいくらもあったけれども、歌をといふ人は無かった。つまり郷土では、その頃はまだ、誰も私の歌を認めてくれなかった。そして歌といへば、やはり一も二もなく原さんとしてゐたらしい。
 しかし、こんど新潟へ帰ってみると、十二三年の間に、そこのところが少し様子が変わってゐる。もと私が、俳句をやったことを知ってゐる人は、まるで無くなって、その代りに、中學生や女學生で、私の歌集を持ってゐる人がだんだん出来て来たときいてゐる。けれども、若い方では原さんの歌、歌詠みとしての原さんを知ってゐる人は、殆どないし、老人の方でもそれがまるで無くなってゐるらしい。この調子で、いま十年もしたら、もつと減ってしまふかも知れぬ。それを思ふと原さんにも気の毒になるし、何となくさびしい気持ちになる。
 私は、さきにもいつたやうに、原さんとは久しい因縁はあったが、不思議にかけちがって、あのシルクハットの時から、一度も御目にかかったことがなかつたが、まだ東京落合の不動谷といふ所に住んでゐる頃、原さんから一過の手紙につけて短冊を二枚送ってよこして、それへ俳句を書けといふことで、あちらからは自分で歌を書いた短冊を、五六枚くれてよこされた。
 それから、その手紙は、こまごまと長い手紙で、越後では、誰が何といっても、俳句は君、和歌は自分、漢詩は坂口五峰、この三人は決して動かない。だからこの三人が、近いうちに顔を合せて、一會催したい。君のところは、庭も贋く景色もいいと聞いてゐるから、その合合は御宅でやってほしい。新聞記者や在京の数人で希望するものは、陪席を許してもいい。ことによると国もとから見物に来るものがあるかもしれぬから、それも苦しくないことにしたい。とこんなことがいろいろあった。
 私はその時、四十三四、坂口さんは六十五六、原さんは八十あまりで、まるで二十づつ達ふ違ふ級数になるが、その頃ちゃうどその前後、坂口さんは折々宅へ遊びに見えられたので、ある時私からその話をすると、何もそんなに人為に人騒がせしなくともいいでせうと坂口さんはちっとも気乗りのしない様子であり、私の考へも同じことであったから、そのまま御流れにしてしまった。けれども原さんはその後にも、一二度押しかへしての手紙で、その熱意を漏されたが、それから、とやかくするうちに坂口さんも原さんも亡くなられた。
 そこへ、あの「新万葉集」の編輯が持ち上った。いつかも書いた通り、私自身の歌を出して貰ふのは、何度もことあったが、私は、ふと原さんのことを思ひ出して、この編輯の事務的方面に當つてゐた人-たしか大橋松平君であったとおもふがー訪ねて見えた時に、もしこの歌集が明治、大正、昭和の三代を代表するものになるのならば、この人の歌を出してほしいとくれぐれも頼んでおいたので、出ることとばかり思ってゐたのに、いよいよ出来て見れば一首も出てゐない。これはほんとに残念であった。正直にいへば、私は若い時から、原さんの歌はあまり好きでなく、勿論感服してゐなかった。けれども、縣下では相常に長い間随分有名で尊敬された人であったし、縣外でも、ひところは、明治の三平の一人とかいつて、飯田年平、海上胤平などと並び稱せられたこともあるといふし、第一自分でもあの通り強い自信があったのであるから、私などと趣味が合ふとか合はぬとかいっても、それは別として、やはり、新潟といふ大縣の、ある時代の代表者の一人として、出るべきところへは出して上げるのが順當であったと、今も私は思ってゐる。私などの厳しい標準で臨むことになれば、「新万葉集」でも、もつと前々からの選集でも、 気にいらぬ歌は、いくらもあるから、何も原さんだけをかれこれ褒めるにも 当たらない。とにかく出すところへは出して上げて、さてその上で、好くとか好かぬとか、いいとかわるいとかの論に入るべきである。かへすがへすも残念なことであった。
                『夕刊ニイガタ』昭和二十二年三月十四日

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じゃがいもころんだⅡ №18 [文芸美術の森]

 大森と渋谷

             エッセイスト  中村一枝

 渋谷駅がいま大がわりしているらしい。いろいろのところが変わるのはそときの流れとして当然のことだが、それにしてもわたしは地元である大森の余りの変化のなさについ一言言いたくなる。京浜東北線大森と言う駅は昔からそれほど晴れ晴れしい駅ではない。何しろ昭和の始め駅舎の下に海が来ていたそうだから、かなりひなびた土地柄だったに違いない。わたしが赤ん坊で私を抱いた父がおっかなそうに歩いている写真を見たことがる。大森海岸夏の風景だった気がする。その頃の、駅のそばの、古いガードが今もそのまま残っている。「大森って東京都なの、神奈川県じゃないの。」と以前きかれた。大森のとなりが蒲田で次は川崎市だからまさに東京の西のハズレだ。それでいて大森はある種のオシャレさんの町でもあった。昔から電車一本で銀座にも有楽町にも行くことができた。
 当時大森と並び称されたのが、私見だが渋谷だった。渋谷と言えば東京の中でもかなりいける町だった。今や大森の地盤沈下ははなはだしい。一つは渋谷のように私鉄が入っていないのも大きい。もっとも私鉄が入っていても大井町のようになかなかスムーズには発展しなかった町もある。それに比べると渋谷の発展ぶりは目覚ましい。子供の時、母方の祖父母の家は渋谷あった。いわゆるお屋敷ではなく二階建ての小さなしもた屋だつた。周りの家も似たようなこまごました家だった。祖母の家にはまだ祖父も健在で、祖母が一目惚れしたと言う整った美貌だった。ただ存在感から言えば祖母のほうが圧倒的だった。子どもガ11人いたと言うからなかは良かったに違いない。
 何と言っても渋谷の家は祖母の存在感で成り立っていたのだ。祖母はチャキチャキの江戸っ子、ちょっといなせで粋な風情。気性はさっぱりしていて、学はないが、頭のいい人だった。渋谷の家は祖母が中心で回っていた。身体も丈夫ではなく特別なにが優れているわけでもないのに一生離れず11人もの子を作ったのは何だったのだろうと、その端くれである孫は思ったりする。私が渋谷の家に行くとまず祖母が「かずえちやん、なにがいいかい。らーめんもあるよ。なんでもほしいものごちそうするからね。」割烹着のポケットに手をいれてきいてくれる。わたしか出前というものがあることを知ったのも、そういう店があるのを知ったのも祖母の家でのことだった。そこで食べた出前の味の美味しさは未だに忘れられない。
 もう一つ祖母の家の楽しみは、いくつも年のちがわない叔母がいたことだった。いちばん末っ子の叔母は私より一つ年上なだけだった。うちでは決して耳には出来ない大人の会話、内容もまったく大人の話も対等に聞ける楽しさがあった。その点祖母はおおらかであけっぴろげな性格だったのだ。あの大人数の一家を支えていたのはおおらかな祖母の存在だった。
 私にとって渋谷と言えば渋谷の祖母のことである。大勢で時には喧嘩ばかりしているように見える兄弟達の愛情や葛藤、一人っ子の私には新鮮で目の覚めるようなことだった。これが渋谷という場所だからこそ生き生きと日常に溶け込んでいたとも思える。もちろん今は渋谷の家の片鱗も残っていない。そこに集い、笑い泣きしていたことのなつかしさ。渋谷と大森と言う全く違った街も、都市の変遷の中でいつか消えて行くだろう。でも人々の思い出のなかで生き続けていく。

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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №13 [文芸美術の森]

過去の絵を焼却して渡欧  2                                 

                   早稲田大学名誉教授  川崎  浹

 前述した第三回「黒牛会」展とその批評は野十郎が出航してのちのことだったが、画家自身が自分で自分の進境への手応えを、会のメンバーたちの反応をとおしてもつかんでいたと思う。このあとは出来上がった軌道のうえを走るなり歩くなりすればよかった。そういう惰性から脱したいという気持ちも強かったと思われる。兄の援助や友人の激励といい、大連でのプロジェクトといい、本人の一念発起という決意があってこそ生じるものだ。
 野十郎は過去の自分ときっぱり縁を切るつもりで、兄嫁のキク子にこれまで丹念に描いてきた百枚ほどの絵の焼却を依頼した。
 野十郎が足かけ四年もヨーロッパに滞在したのは、それ相応の決意と準備をしていたこともあるが、なによりその地が気に入ったことの証拠である。洋画家はさておき研究者のなかには二、三ケ月でホームシックにかかり、早々と帰国する人が少なくない。だが野十郎はフランスに着いた当日から旺盛な好奇心をもって夜のバーに立ち寄っている。
 とはいえ近年あちこちで出ている、パリに滞在した日本人画家の交友史や記録を覗いても、当然ながら高島野十郎の名は見当たらない。かれは殆ど無名同然なので、執筆者がとりあげるに至らず、実際パリでもかれは画家とは接触せず、ひとりで行動したらしい。
 米国経由で帰朝した野十郎は兄宇朗を訪れ、これからは「ひとりよがりでなく、世にうけいれられる絵」を描かなければならないと感想をのべた。すると病床にあった姪の満兎(まと)がそれは妥協だと激しく反撃して、しばらく二人の話がつづいたという。
 画家が各地の美術館で膨大な数の、何世紀もの背景をもつ泰西名画に接して庄倒されたことは容易に察せられる。野十郎が「世にうけいれられる絵」と言ったとすれば、かれのような内省的な創作者が向かいがちな自らの殻に閉ざされることのない、開かれた創作でなければならない、そういうことを念頭においていたのだろう。かれの作品はすでに渡欧前から愛好者の需要を充たしていた、その分すでに開かれていたわけだが、画家は画家な
りに「ひとりよがりでない」絵を描かねばと思っていた。このエピソードからそうした画家の意図が伝わってくる。
 それは例えば生の横溢や鋭さをみなぎらせた、また逆にそれを強調するあまりバランスをくずしがちなねじれやよじれ、そうした過剰な形象やデューラー的な暗色からの脱皮であり、思想心情の面でも個から普遍へのひろがりをもつたと推定される。
 野十郎はヨーロッパで、自分は日本人の画家としての道を生きる以外にないという結論に達したと思う。現在のことは知らぬが、その頃は越境行為はありえてもコスモポリタンなどは存在しえなかった。岡本太郎はそれを意識せずパリで友人たちと行動していたが、大戦が始まったとたんにフランス国籍のかれらが祖国を守るために絵筆を銃にもちかえて前線に赴いたので、一人残された自分が異邦人であることに気づき憤然としたという。


『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍堂

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祖道傳東Ⅱ №3 [文芸美術の森]

第三図 四門出遊

        画  傅 益瑤・文  曹洞宗大本山永平寺

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(紙本塁画〉 九〇×一二五 軸装

 生まれながらにして聡明な太子でしたが、物思いにふけると人生の苦悩に対する解決は如何と、さらに憂いは増すようでした。ある時、居城の門を出て驚きました。
 そこには生活に疲れ、年老いた人の姿を見て憂い、次に病に苦しむ人の姿を見て悩みました。また、ある時には、時鳥や虫の争い喰み合う弱肉強食の有様を眺め、最後に出家沙門(しゅっけさもん)のすがすがしい姿に出会ったのです。
 こうしてこの世の悲劇と頼りなさを痛感し、一層の真実の道を求める思いが強くなったといわれます。
 優雅な城内での太子の生活ぶりを色彩豊かに描いた前図の《太子時代》に対して、この《四門出遊》は塁一色によって太子の「憐憫(れんびん)心」が表現されています。
『禅を描く 祖道傳東』大本山永平寺

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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」 №19 [文芸美術の森]

                                   シリーズ≪琳派の魅力≫

                美術ジャーナリスト  斎藤陽一

  第19回: 尾形光琳「燕子花図(かきつばたず)屏風」 その4

 (18世紀前半。六曲一双。各151.2×358.8cm。国宝。
   東京・根津美術館)         

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≪発想源は?≫

 近年、尾形光琳の「燕子花図屏風」の発想源について、興味深い説が出ていますので、紹介しておきます。
 美術史家の河野元昭氏や、能楽研究家の堀口康生氏の見解によれば、この屏風絵は、光琳が若い頃から親しんできた能楽から、しかも謡曲「杜若(かきつばた)」から発想したのではないか、というのです。

19-2.jpg 能楽「杜若(かきつばた)杜若」のストーリーを「能楽事典」で調べて見ると:
 三河の国八橋にやってきた旅の僧が、燕子花に見惚れていると、里の女が現れて在原業平の「唐衣(からごろも)」の歌を教え、ここがゆかりの地だと語る・・・
 やがて女は、杜若の精に変身し、業平とその恋人の女性をイメージさせる男装の女性姿となって、『伊勢物語』に語られた恋物語を舞う・・・というストーリーです。

 確かに、光琳の「燕子花図」に感じられる、余分なものを削ぎ落とした、凛とした表現には、どこか能の世界とも通じるものを感じます。
 また、「燕子花図」の右隻から左隻にいたる燕子花の群れが生み出すリズムは、ゆったりと始まり、だんだんとテンポアップしていく感じですね。これは、能楽で言うところの「序破急」の構成を思わせます。

 能はまた、余分なものを極限まで削ぎ落として、あとに残るものを「型」としてとらえ、象徴性を深めるという「削ぎ落としの美学」を基本とする芸能です。
 第16回で指摘したように、光琳の「燕子花図」には、水面や八橋、岸辺や木立、空と雲といった目に見えるものを大胆に切り捨てて、燕子花という主要なモチーフだけを絞り切って提示するという「切り捨ての美学」とでも言うべき美意識が働いています。
 「削ぎ落とし」や「切り捨て」の美学は、とても日本的なものであり、俳句や茶道といった他の日本文化にも通じるものだと思います。

≪注文主は西本願寺≫

 さらに、能楽研究家の堀口康生氏は、興味深い見解を提示しています。それによると:
謡曲「杜若」では、在原業平は、実は極楽浄土の菩薩の化身であり、人々を救済するためにこの世に姿を現した存在だ、というのです。そして、「八橋」とは単なる地名ではなく、業平が契りを結んだ八人の女性を象徴するものであり、契りを結んだ八人の女のすべてが救済された、という意味が込められている、というのです。

19-3.jpg 堀口氏のこの指摘が、なぜ興味深いかというと、尾形光琳に、この「燕子花図屏風」を注文したのはもともと京都の西本願寺だ、ということと結びつくからです。
 西本願寺は、迷える衆生を阿弥陀様が救いとり、極楽往生をかなえさせてくれると説く浄土真宗の総本山です。
 本来、屏風は室内調度品であり、西本願寺では、出来上がった金屏風は、おそらく、何か特別の法事や慶事の際に、華やかさを演出するために、御堂などに置かれたのではないでしょうか。それを目にするのは、極楽往生を願う信者たちです。
 そう思って、あらためてこの屏風をじっと眺めると、これは浄土を象徴しているようにも思えてきます。もしかすると、能に造詣の深い尾形光琳は、注文主(西本願寺)のことや、屏風が置かれる状況(法事)まで意識して描いたのかもしれません。

 最初、一見すると、単純・明快で、目にも華麗な装飾絵画に見えた「燕子花図屏風」ですが、このように読んでいくと、そこから、尾形光琳という絵師の、隅々まで計算を働かせた、理知的で研ぎ澄まされた造形感覚がくっきりと見えてきます。

 ※この項(「燕子花図屏風」の発想源)を書くにあたって貴重な示唆を受けたのは、とりわけ、琳派についての渾身の大著『琳派・響き合う美』(思文閣出版)を著した河野元昭氏、能楽研究家の堀口康氏(『図説日本の古典5』の記載:集英社)、そして河合正友氏(MOA美術館編『光琳アート~光琳と現代美術』の記載:角川学芸出版)です。謝意を表します。
 「琳派」については、優れた研究者がたくさんいます。その方たちの著書を読めば、様々な示唆を受け、日本美術の奥深さと面白さに触れることができるでしょう。

 次回からは、尾形光琳晩年の名作「紅白梅図屏風」について、7回にわたってじっくりと紹介していきます。
                                                                 

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往きは良い良い、帰りは……物語 №75 [文芸美術の森]

往きは良い良い、帰りは……物語(こふみ通信)
その75  TCCクラブハウスにて
 『曼珠沙華(まんじゅしゃげ)』彼岸花(ひがんばな)でも可。
 『獺祭忌(だっさいき)』『芋虫(いもむし)』『鰯雲(いわしぐも)』

             コピーライター  多比羅 孝(俳句・こふみ会同人)

◆◆令和元年(2019年)8月22日◆◆
当番幹事(大谷鬼禿氏&永井舞蹴氏)から各位へ案内状が送られました。

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【九月こふみ会】     幹事=鬼禿・舞蹴
●九月八日(日)
●東京コピーライターズクラブ●会費=1500円
●兼題は以下二題

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これについては軒外さんから「獺祭忌」に因んだ、見事な「肖像イラスト」を添えての返信レターが寄せられました。ご覧のとおりです。   

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そして大事なのは、句会の当日、その席で、氏が、ちらりと語って居られた「子規の肖像画」と「郵便切手」のカンケイのこと。
これを小耳にはさんだ私・孝多が早速、おねだりをしたのです。ブログへの執筆依頼です。「それ、書いてください。」「はい、ヘンな文章になってもよかったら……。」と、御謙遜ながら、お引き受け頂き、ご多忙のところ、後日、早々に送稿賜ったのが下載の快文です。

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子規の顔                 (沼田軒外)

正岡子規というと思い浮かぶのが、この横顔の肖像ですよね。
横顔だから目鼻立ちの造作はよくわかりませんが、強烈に印象に残るのはこの頭の形です。私は子どものころ切手収集に凝ったことがありまして、文化人切手の中に子規の肖像がありました。 

昭和26年に発行された額面8円の切手ですが、その図柄が横顔なんです。 
同時期に発売された森鴎外もやはり斜めから見た頭部が描かれているんですが、子規の頭のほうが俄然インパクトがあるんですね。

ところで正岡子規って、実際どんな顔だったんだろうという疑問もあって、画像検索してみました。

出てくるのはほとんどこの横顔で、中にポツポツ正面からの顔もありました。でも印象としてはどれも弱いです。

ここにちょっと面白い話があります。子規の高弟である河東碧悟桐が『子規の回想』の中で先生の顔に言及していて、それによれば「個々の眼が孤立しているといったほうがいいくらい離れている」のだそうです。

人の顔は目の間隔が離れていると、おっとりとした、悪く言えば間が抜けたものになりがちですよね。

子規の肖像と言えば、この横顔が多いのは、本人が正面顔を嫌ったのではないかという勘ぐりもできますが、碧悟桐 は「全体には破壊的な醜さも、不均衡な滑稽さも見いだせない」と、ちゃんとフォローしています。
  
子規は結核をこじらせて脊髄カリエスになり、34歳で早世していますが、重要な著作はほとんど寝たきりになった晩年に執筆されています。
やっとのことで床の上に起きあがった写真も何枚かありますが、本人は病床での姿など見せたくなかったであろうことは充分想像できます。 

身体が言うことを効かない中であれだけの偉業を成し遂げたのは、やはりあの横顔の頭が只者でなかった証左ではないでしょうか。
因みに平成14年に80円の第二次文化人切手が出ましたが、ここでの子規はカラーでの正面顔で、私はなんだかピンと来ません。

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軒外さん、有難うございました。『切手』の写真まで、ちゃんと添えてくださって、感謝!です。
もし、あの8円切手が発行されていなかったら、今回の軒外さんのイラストも俳句も無かったのかもしれない、というわけですね。
『獺祭忌あの抱えてしまいそうな頭(軒外)」
子規の両眼の位置については碧梧桐も大変だったようですね。
面白かったぁ~。良いのを描いたり書いたりして頂いたこと、厚くお礼申しあげます。

◆◆そこで、もう一作、依頼原稿をご紹介いたしましょう。◆◆
今回の句会の席で、岡田尚哉氏が「家族旅行でキューバへ行って来た」というハナシを、ちょっとばかり、して居られました。
それは異色! 「家族で旅行する」と言ったら、「○○○へ」「△△△へ」「□□□へ」と相場がきまっているように思うのですが、、「キューバへ」とは、超えてますねえ。
流石!
しかし、しかし、これは絶好のチャンスです。尚哉氏の隣に座っていた軒外氏をとおして、このブログへの執筆依頼を致しました。
文章が書き上がったら、これこれこうして、立川の知の木々舎の玲滴さん及び、浦和の孝多に送稿する……と、その手順を軒外氏から尚哉氏に説明してもらったのです。
そして、後日、間違いなく届いたのが、下載の『キューバ紀行』です。読ませてもらえば、これは異色でこそあれ、決して異端なものではなく、氏と氏のご家族にとっては、きっと、当たり前の、偶然多発型の楽しい異国旅行だったでしょう。よく分かります。プロ中のプロの、尚哉氏ならではの筆の運びも、颯爽たるものです。
我らがこふみ会には凄い御仁が居られるぞ。
……と、前置きはこのくらいにして、さあさ、本文のご披露とまいりましょう。

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【はじめまして。こふみ会会員の、岡田直也(尚哉)です。】

とはいっても、句会に参加したのはまだ3~4回の新参者。
おまけに8月は、以前から計画していた家族旅行(それがキューバでした)と重なってしまい、出席することができませんでした。
そこで、ぼくだけ「キューバ旅行」なる兼題をいただいたということにして、紀行レポートをしたためようと思います。
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……あれは、ハバナ初日の昼下がり。
地図を片手に、いわばロケハンの目的で、家族4人は街へとくり出しました。
旧市街の中央公園から海岸沿いのモロ要塞に向かって
まっすぐ伸びる「オピスポ通り」を歩いていると、
とつぜん、ひとりの陽気なクパーナが、声をかけてきたのです。いわく、
「ブエナスタ・ソシアルクラブを知っているか?」
「明晩のコンサートチケット、買わないか?」

ブエナスタ・ソシアルクラブといえば、あの伝説のギタリスト、ライ・クーダーが、
キューバの老ミュージシャンたちを集めて、1996年に結成したプロジェクト。
映画にもなっているのでご存知の方も多いと思います。
そいつを、現役ミュージシャンでもあるぼくが、知らないはずがありません。
数年前、多くのメンバーが故人となってしまったため、
活動を中断したとは聞いていましたが、
今年、新メンバーを加えて再開、そのお披露目ライブが、
あろうことか、その翌日の夕方だった、ということのようです。

いやあ、キューバに来てそうそうに、彼らの演奏を生で聴けるとは、
なんという偶然! なんという、僥倖!
ただこのクパーナ、調子よすぎるな、マユツバだったらいやだな、と、
「これからいろいろ案内するから、そして最後に、明日の会場へ行こう」
と言うので、とりあえずついていくことにしました。
まあ、悪いヤツではなさそうだったので。

道々、「俺のワイフは日本人だ」とか、「六本木で店をやってる」とか、
「俺の仕事はミュージシャンだ」とか……。
まあ、ホラ吹いてるのはわかっていたけど、
お人よしの日本人よろしく、「へえ!」なんて驚いてみせたりして、
そのへんは、ウチの娘が上手、だったですね。

旧市街のそこここで、フルーツやエスプレッソをふるまってくれる。
また、「ここは観光客しか来ないファッキン・プレースだ。クパーナならここだ」とか、
いろいろ貴重(?)な情報をくれる。
ともかく彼にとっては、ぼくらは上顧客、だったようですね。

そうこうするうちに、ここが会場だ、と案内されたのは、
古い石造りの建物(カストロ将軍の旧宅だったようです)。
その入り口に、確かにありましたよ、ブエナビスタのコンサート告知が!
ここまでくれば、商談成立ということで、チケット購入。
日本円で1人5,000円程度でした。
まあ、日本のデイナーショーのことを思えば、リーズナブルですよね。

あのクパーナはどうも、チケットの手売りスタッフだったようです。
社会主義体制下の「興業」は、、どういう仕組みになっているのか、
皆目わからないけれど、
広告も打たないようだし、ましてや「チケットぴあ」のようなものもない。
きっと基本は手売り、なんでしょうね。
しかも、外国人観光客がターゲットだったようですね。
でも、ブエナビスタの一般的な知名度を考えると、
彼、だいぶ空振りしたんじゃないかなあ。
ぼくらをつかまえられて、彼もラッキー、だったんですよ。

さあて、別れ際にチップを、と思って、
20CPU(2000円くらいでしょうか)を彼に渡すと、
「これで女房においしいもの買って帰れる」と喜んでましたっけ。
ほら、「奥さん日本人」はホラだったね…。

ということで、翌晩のコンサート。
いやあ、最高でした。
幸い、いちばん前の席を取ってもらっていたので、
演奏のすみずみまでよく見えたし、
大団円の踊りの輪にも加われもしたし。

いちばん感心したのは、キーボード・プレイヤーの、
まったく乱れることのない指の動き。
ほとんど全編、弾きっぱなしなのですが、
それが全体のリズムの基調をなしているんですね。
機に応じて、パーカッショニストが合図を出す、カウントをする、
というシーンもあるにはある、のですが、
全員が、ほぼキーボードを中心にして動いていました。
このことは、ドラム中心、ベース中心で動くぼくらにとっては、新鮮でした。
なるほど、電気を使わず、路上演奏が多ければ、そうなるか・・・。
            *
            *
ということで、私・岡田尚哉のしたためる「キューバー紀行」は、
かなりピンポイントなもの、となりました。

もちろん、コロニアル風な建物(かなり老朽化していましたが)、
メインを一本はずれると見えてくる、庶民の暮らしぶり、
そしてピカピカに磨かれた米製オールドカー、
特産品の葉巻やラム酒などなど、
どれをとっても期待にたがわぬ、ワン&オンリーなものばかりでした。
そのあたりは、また機会があれば、ぜひご紹介してみたい、とも思っています。

それでは、「8月の兼題」をはなれ、
次の、また次の句会に向け、
研鑽を積んでゆきたいと思います。

がんばろう、尚哉!
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尚哉さん、有難うございました。そうです!「……また機会があれば、ぜひご紹介してみたい……」と書いて居られます。如何でしょうか。このブログ上の「連載もの」にするというのは。ぜひご検討くださいますよう。
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ところで、全くの偶然ですが、句会の当日(9月8日)の読売新聞朝刊の連載コラム「四季」には、ご覧のように「まんじゅしゃげ」という季語の句があり、その写真説明には、「彼岸花」と記されていました。おっとっとお。

そして、句会では、(「四季」の影響ではないでしょうけれど)幹事さんからの申し出によって、今回は『曼珠沙華(まんじゅしゃげ)』でも『彼岸花(ひがんばな)』でも良い、ということになりました。

それを知って、「ええっ?!」という声も一部には挙がりました。イメージの違いが大きいからです。『曼珠沙華』は洋風、『彼岸花』は和風。前者はロマン、後者は現実。前者に毒ナシ、後者に毒アリ。前者は赤に加えて、白だの黄だのとカラフル、後者は赤一色。等々の、どうしようも無い、感覚的な相違です。
そこで、急きょ、(考えて来たものを捨てて)彼岸花で作って投句、という人も出て来たようでした。私・孝多もその一人。彼岸花にしました。それが正解でした。何しろ、華松さんから「天」を頂いたのですから。有難や!
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◆◆では、当日、張り出された兼題、席題から……◆◆
四題ともにカラーのイラスト付きです。幹事さん、力をこめてます。ご覧のとおりです。席が盛り上がります。    

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「芋虫って、このイラストのようにプクプクしていてツルツルだよね。」
「毛虫は、やせていて、全身トゲだらけ。」
「どっちも葉っぱを食う。何かの幼虫だ。」
「何になるのかな。」
「蛾や蝶だよね。」
「よく分からないけど、毛虫は夏の季語、芋虫は秋の季語ということになっているようだね。」
「活動の時期が違うのかなあ。」
「と言うことは、生まれてくる蝶や蛾、つまり成虫の生き方が違う、と言うこと?」
「分からないから面白いね。」
「鰯雲(いわしぐも)も面白い。鰯雲は『鯖雲(さばぐも)』とも呼ばれるらしい。」
「ほほ~。秋には鰯だけじゃなく、鯖まで大漁になるのかな?」
「いやあ、どうも、違うみたいだ。今、このスマホの歳時記を見たら、サバは夏の季語で、≪秋鯖(アキサバ)≫と言わなければ秋の季語にならないらしい。なのに、サバグモとなると秋の季語、それはイワシグモと同じだから秋の季語。というわけらしい。でも、ヘンだね。目茶苦茶だ。」
「アキサバって美味いものの代表だってえ?」
「うん、う~ん。調べていると、句が作りにくくなっちゃうよ。知らぬが佛、かもしれないな。」
「あまりカタクルシイことは言わずに、ね。」とか何とか……。

◆◆みんなして、あれこれ喋って、飲んで、食べて‥…◆◆
崎陽軒の弁当に、茘子さんからの銘酒・高清水。弥生さんからは、お宅の庭で実ったという、ぶどうの差し入れ。頂きました、頂きました。厚く、厚く御礼! 幹事さんは予算内で、お茶や缶ビールまで付けてくれて、これまた感謝!     

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◆◆さあて、いよいよ、成績発表!◆◆
★本日のトータルの天は、58点の茘子さ~ん。
 代表句=「柿の実のまだ深緑(ふかみどり)獺祭忌」 パチパチパチッ。

★トータルの地は、44点の一遅さ~ん。
 代表句=「仕事辞めた鰯雲の下を行く」 パチパチパチッ。

 ★トータルの人は、34点の鬼禿さ~ん。   
 代表句=「窓洗う空いっぱいの鰯雲」 パチパチパチッ。

★トータルの次点は、25点の舞蹴さ~ん。
 代表句=「遮断機の上がりて残る鰯雲」 パチパチパチッ。

     
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上位入賞者。左から地の一遅。天の茘子。人の鬼禿。(撮影=軒外)敬称略

皆さん、おめでとうございました。 パチパチパチッ。   
今回も、五・七・五の間にアキを入れてほしいという指示つきの句は一句も無く、全部、普通に、ベタの一行です。ご意見のある方は、どうぞ、遠慮なくお申し出ください。

◆◆壮観! 選者から天位に謹呈する絵付き短冊も15枚。◆◆          

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おかげさまにて、今回も、充実した、しかも、楽しい句会になりました。
このところ、連日見舞われている台風にも、幸い、煩わされること無く、皆さん、揃って、帰りも良い良い、の集まりでした。来月も、どうぞよろしく。お元気に。草々。
               '19年9月吉日    孝多拝

                 第75話 完

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第597回 本日のこふみ会全句
令和元年(2019年)9月8日  於TCCクラブハウス

◆兼題=曼珠沙華(「彼岸花」でも可) 順不同
逝きし娘(こ)は十九のままや曼珠沙華  矢太
女三人ひそひそばなし曼珠沙華      一遅 
炎炎炎炎書殴る曼珠沙華                     鬼禿
彼岸花気性(きしょう)の激しい人でした  孝多
缶ジュースと交叉点脇に曼珠沙華               珍椿
異界に誘ふ赤き一叢(むら)曼珠沙華          弥生
曼珠沙華指の間(あはひ)をこぼれをり       華松
安ホテル窓から覗く彼岸花                        下戸
人嫌ひ孤高の形(なり)や曼珠沙華            美留
曼珠沙華真っ赤な嘘をつきにけり               舞蹴                         
黒猫があくびの庭や彼岸花                        茘子
曼珠沙華あまりに赤き夕の畦                     紅螺   
燃えあがる嫉妬の炎(ほむら)曼珠沙華       虚視 
彼岸花は不可いけばなの不自由                   軒外
立ち入るなここより異界と曼珠沙華             尚哉

◆兼題=獺祭忌      順不同
億万の句が念となり獺祭忌                        一遅 
我世界十七文字に獺祭忌                           舞蹴 
百年の名句レンジでチンする獺祭忌            下戸
病(やまい)篤(あつ)く三十四歳獺祭忌     孝多
柿の実のまだ深緑(ふかみどり)獺祭忌        茘子
獺祭忌今日の谷中は天気雨                         鬼禿
尺四方通勤快速獺祭忌                               虚視 
戸障子を放てし宇宙獺祭忌                         美瑠
眼裏(まなうら)にうつる横顔 獺祭忌          弥生
松山は小雨振るなり獺祭忌                         紅螺
狩猫の獲物を嬲る獺祭忌                            珍椿
あやかりて杯交わす獺祭忌                         尚哉
獺祭忌あの抱えてしまいそうな頭                 軒外
かさぶたのはがれぬままに獺祭忌                矢太
球音が響きてうれし獺祭忌                         華松

◆席題=芋虫      順不同
芋虫に巣立ちの前の子を重ね                     尚哉
嫁キレて庭の芋虫丸くなり                       下戸
芋虫は空に向って這ってゐる                   矢太
いつの日か芋虫のごと蝶になれ                  弥生
芋虫の太々(ふてぶて)しさの増しており    舞蹴 
芋虫が単線鉄路乗り越えて                        虚視 
芋虫ボトリ街路樹から目の前に                  珍椿
芋虫を細密描写で描く少女                        紅螺
芋虫やいつしかどこかへ消えにけり             孝多
さらわれて空をみている芋の虫                   茘子    
夢抱いたまま芋虫死んでおり                     鬼禿
芋虫や美までの長い時紡ぎ                        虚視 
芋虫の小さく動いて便り来ず                     一遅       
這えば這へ明日は飛ぶなり芋虫ぞ               華松
芋虫を踏まんとする子を羽交い締め             美留
         
◆席題=鰯雲     順不同   
一陣の風見上げれば鰯雲                          珍椿
もう一人の私がいます鰯雲                       孝多
おいてけぼりのあの日と同じ鰯雲               弥生
一服を求めて高し鰯雲                             尚哉
うそつきは恋のはじまり鰯雲                    矢太
群れてこそ空を泳ぐや鰯雲                       華松
坂の上僕とハモニカ鰯雲                         虚視 
鰯雲回遊の果て崩れ消ゆ                          美留
父の文(ふみ)行間に見る鰯雲                 茘子
仕事辞めた鰯雲の下を行く                      一遅 
黄金のパゴダの上に鰯雲                         下戸
窓洗う窓いっぱいの鰯雲                          鬼禿
遮断機の上がりて残る鰯雲                       舞蹴 
漕ぐ舟の遠き彼方の鰯雲                          紅螺
極北の鰯雲メルカトルの歪(ひず)み         軒外

                                 以上15名60句

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ケルトの要請 №11 [文芸美術の森]

メロー 2

             妖精美術館館長  井村君江

 クー・マラというのが、その年とったメローの名前だった。
 クー・マラが指定したその日、ジャックはふたりが最初に出会った場所に出かけていった。
 クー・マラは赤い三角帽子をふたつ小脇に抱えていた。コホリン・ドルユーと呼ばれるその帽子は海に潜るために必要なのだとクー・マラは説明し、帽子をジャックの頭に被せた。
「さあ、ジャック、飛びこめ」
 岩は切り立っていて波は渦を巻いている。ジャックはおずおずとそこに立ちつくしてしまった。
「臆病者め、おまえはおじいさんの足元にも及ばないぞ」
 クー・マラは軽蔑したように言った。
「でも、水のなかでは息ができやしない。おぼれっちまいますよ」
「むかし、おまえのおじいさんは、いちどだってそんなことは言わなかったぞ。ものおじせずに、なんどもわしのあとから潜ってきて、酒を飲んだり、ごちそうを食べたりして帰ったもんだ」
「おじいさんより気っぶが悪いとなった日にゃあ、これからずっと恥ずかしい思いをしなきゃならない」とジャックが思い悩んでいると、
「さて、いいかな、ジャック。この帽子を被っていれば、水に潜ることができるんだ。だからしっかり頭に被り、目をしっかり開けて、わしのあとについてくるんだぞ。そうすれば、まあ、いろいろなものが見られるってわけだ」
「まっ、そういうことなら話は別だ」
 クー・マラはジャックに合図をすると、水に飛びこんだ。ジャックもあとにつづいた。I
 ふたりは水のなかをずんずん潜っていった。でも、ジャックはどこまでもぐってもきりがないように思えた。家の暖炉の火の前に妻のビディと座っていたほうがよかったような気さえしてきた。しかし、いまとなっては、クー・マラのすべすべした尻尾を必死につかまえているよりしょうがなかった。
 水のなかを海の底へ気が遠くなるほど潜っていった。そしてついに、ジャックとクー・マラは海底の陸に着いた。そこはクー・マラに出会った洞穴ほども水気がない、さらさらと乾いた砂と空気の世界だった。
 あたりを見まわすと、砂の上のあちこちを歩いているカニやエビが見えた。頭上には水の空が弧を描いて広がっていた。魚たちが、地上の鳥のように、海の底の空を泳いでいた。ふたりは、貝殻で屋根をふいた、色とりどりの光を受けて輝く家の前に立っていた。煙突からは紫の煙りが立ちのぼっていた。
 家に入ると、まず立派な調理場が目についた。鍋やフライパンが並べられ、ふたりの若いメローが料理に精をだしていた。
 それから地下室に案内してくれたが、そこには大小の酒樽がたくさん並べられていた。「どうだい、水の下でも気持ちよく暮らせると思わないかね」
 暖炉の火が赤々と燃えている部屋に入ると、食事の支度が整っていた。
「さあ、今日の献立を見てみよう」
 クー・マラは言った。
 選りに選った魚料理であるのは当然だった。ヒラメ、チョウザメ、カレイ、エビ、カニ、
カキ、ほかに二十種類もの魚料理がいちどに供された。それから貝殻の盃に満たされたブランデーと、さまざまな風味の酒がふるまわれたが、なぜか、ワインだけはメローの口に合わないらしいことがわかった。
 飲んで、食べて、すっかりごきげんのよくなったクー・マラは、
「ラム・ファム・プードウル・プー、リップル・ディップル・ニッティ・ドオブ……」
 と人魚語で歌を歌ってくれたが、ジャックにはどんな意味やらさっぱりわからなかった。
 しばらくすると、こんどは「珍しい物を見せよう」と言って、小さな扉を開けてみせた。
 そこには航海中に海の底に沈んでしまった骨董品や、がらくたとしか見えないようなものがおかれていた。
 なかでも何に使うものかジャックにわからなかったのは、柳の枝で編んだ籠のようなものだった。エビをつかまえる寵に似ていなくもないが、どこかちがう。
「どうだね、ジャック。わしの珍品が気にいったかね」
「いやあ、すばらしいものですね。だけどあの龍はいったい何なんですか。何か大切なものが入っているのですか」
「あれか、あれにはわしが集めた魂が入っているのさ」
「何の魂ですか。魚は魂をもっていないじゃないですか」
「むろん、そうじゃ」
 クー・マラは冷静に言った。
「魚には魂はない。あの龍に入っているのは、溺れて死んだ船乗りたちの魂さ」
「なんですって」
 ジャックは驚いて叫んだ。
「嵐にもまれた船が沈みかけているとき、わしはこの龍を水のなかにまき散らすのき。すると、かわいそうに溺れて身体から離れ、水のなかでさまよっている船乗りたちの魂が、どこにも行く当てがなくて、この龍のなかに迷いこんでくる。寒さに凍えているものもいるよ。それからわしは、魂の入った龍を集めて家に持って帰り、ずっとここにおいておくのさ」と、なにごとでもないようにクー・マラは言ってから、
「魂はここにいるのがいちばん幸せなんじゃよ」
 と言った。
 そのときジャックは、龍のひとつから悲痛な叫び声が聞こえたように感じた。
 天上に昇るべき魂が深い深い海の底に閉じこめられているのだと思うと、なんだか哀れに思えてきた。
 言葉が見つからないまま、時がたった。
 ジャックは、そろそろ家に帰りたいと言った。
「よかろう」
 クー・マラは言った。
「その前に一杯やっていけ。冷たい水中の旅が待っているからな」
「家まで無事に帰りつけるんでしょうね」
 盃を上げながら、ジャックはたずねた。
「心配するこたあないよ。わしが教えるように行けばいい」
 ふたりは家の前に出た。クー・マラは赤い三角帽子をジャックの頭に被せ、自分の肩にジャックを乗せると、
「飛びこんだ岩のところにあがっていくからな、そしたら忘れずに帽子を海に投げこむんだぞ。それから、またわしに会いたくなったら、あの岩から大きな石を投げこめばいい」
 と言い終わるや、ひょいとジャックを頭上の水のなかに放り上げた。
 ジャックは泡粒のようにすいすいと、海面めざして浮きあがっていった。顔がどんどん水をよぎるのを感じ、ついに、さっき飛びこんだ岩のところにぽっかりと顔を出した。急いで岩にはいのぼり、帽子を海に投げこむと、それはまるで石のように沈んでいった。
 おだやかな海上は、黄金色の夕日に照らされていた。雲ひとつない空には星が美しく瞬きはじめていた。ジャックは、妻が待ちわびているだろうと家路を急いだ。(つづく)

『ケルトの妖精』 あんず堂

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石井鶴三の世界 №148 [文芸美術の森]

唐招提寺・千手観音 1930年/東大寺三月堂・執金剛神 1930年

             画家・彫刻家  石井鶴三

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唐招提寺・千手観音 1930年 (181×140)
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東大寺三月堂・執金剛神 (181×140)

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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社

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渾斎随筆 №41 [文芸美術の森]

友人吉野英雄 2    

                  歌人  会津八一

 藝術の修行はいばらの道だといふが、私のやうなものの、かうした扱ひを受けながら、長い間を一日のやうに、吉野さんの進んで来られた道は、いばらの道どころか寄りつくすべもない断崖も同様であった。獅子が子を産んで三目すると千仞の谷へ蹴落して、すぐかきついて登って来るのでないと養はないといふが、そんな酷らしい育児法が、獅子にも虎にもあるものでない。山に捨てられた人間の赤ン坊の頑是なさに、乳房で育て上げた狼の話もある。けれども、それはあくまで赤ン坊のことで、手足の揃った五尺の男子が、いやしくも藝術に志を立てて、一生涯を賭して成否を問ふといふことになれば、いつまでも、なま温るい乳房などをあてにすべきではない。藝術に専念して精進するならたより無さは子も親も變りはない。吉野さんを二十何年振り向かなかったといふ私自身もまた、誰からも振り向いて貰はずに、心もとない修行を今もつづけて、四十年にもあまるのであるから、云はば御互に親不知、子不知の境地である。
 世間には、もつと親切げな、暖かさうな師弟の間柄は、いくらもあるらしいが、手を取ったり尻を押したりして貰って、獨り歩きが出来るやうになるのは、ありがたいとしても、そのうちに、歩きつきや後ろ姿までが師匠そっくりになる。それをば同門の間などには、自慢にしたり羨まれたりすることもあるかもしれぬが、大きく開いた曇りのない藝術の眼から見れば、いづれもつまらぬことである。師匠の癖や好みをそのまま頂戴して身動きもならないやうな御弟子さんを、世間にはよく見かけるが、そんなものを藝街家とも文学者とも申上げることはできない。
 とにかく、吉野さんは、かうした荒い修行のはてに、一昨年あたりから、ことにめきめきと、めざましい進出をして、その作品は今や如何なるあかの他人をも瞠目させずにはおかなくなり、近頃いろいろ出て来る大きな文藝雑誌や綜合雑誌の上で、一つの異彩になって、ひたむきな、清潔な、強い感情に、引き締った、上品な、しかも自由で強靱な表現を與へて、堂々と闊歩される婆は、いかにも壮観である。そして私の一番に嬉しいことは、吉野さんの歌の何処をきても、単語でも、調子でも、私の歌に何一つ似たところが無いことである。吉野さんは、平素私のほかに子規、節、左千夫、茂吉等の先輩に対しても、いやしくもせぬほどの敬意をささげて居られるが、これらの人々の味も旬も吉野さんの作には現はれて来ない。いはば吉野さんの歌は、全然吉野さんのものとなってゐる。これでこそ半生の真剣な修行の甲斐があったといふものであらう。
 私は、つひ最近に出た「創元」の創刊号で、四号字で盛り上げられた壹百余首の吉野さんの歌を、聲をあげて朗讀してみたが、感激のために、何度も聲を呑んで、涙を押し拭った。そしてつくづくと思ひに耽った。
 そして恩ひ出すのは吉野さんのところに、たしか今もかかってゐることと恩ふ一画の額である。私は最初のうちは吉野さんとは、手紙だけで御つきあひをしてゐたが、よほど後になってはじめて、鎌倉の御宅をたづねた。八幡横の正面の松並木から右へ折れるとすぐ、大きな洋館で、廣々とした立派な建物であったが、玄関から、曲りくねった廊下傳ひに奥へ通るうちに、とある部屋の壁に、ふと私の目を惹いた額がある。足をとめてよく見ると、私の手紙で、すなはちあの、萬巻の書を読まず、千里の道を行かざるものはといふのを、そのまま表装させたものであった。その頃吉野さんは肺がわるくて、安静の明け碁を、何年もこの額を眺めて居られたのであるといふ。                   
                  『夕刊ニイガタ』昭和二十二年三月五・六日


『会津八一全集』 中央公論社


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じゃがいもころんだⅡ №17 [文芸美術の森]

音信不通

             エッセイスト  中村一枝

 定年退職後、千葉県に土地をかい、ご主人と二人で野菜を作り始めた従妹がいる。はじめは素人の生兵法で、いろいろの形の野菜が送られて来た。それはそれで楽しかったが、最近はすっかり手馴れてきて、スーパーで売っている野菜と見劣りがしない。彼女とは小さいときからよく知っているから、普段そんなに慌てることはない。その彼女の家が南房総市だと気が付いたのは、大規模停電が報道されて何日か経って、もしかしてと思ったのが始まりである。電話はつながらない。夫婦ともに70代だからまだ元気なはずである。犬を2匹飼っていて、私としては人間もだが、犬の知己である。とにかく連絡がつかないのだ。この時ばかりは大いに慌てた。
 どうにか人づての情報でなんとか無事を確認することができて、ほっと胸をなでおろしたが、連絡のつかない間は次から次に不安なことがおそってくる。家が浸水や倒壊などにあってないか、怪我をしていないか、ひょっとして事故にまきこまれたのではないか・・・・。便利な携帯に電話をかけて相手がすぐにでないと、こんなにも不安になるのかと思い知った。若い時は少しくらい連絡を取れなくてもへっちゃらだったのに。
 年をとってくると、この手のことがどんどん増えてくると初めて気が付いた。テレビをみていても、予想外のことが本当に多い。経験から割り出せないことがふえた。若い人の考え方や行動にはついていけない。でも、人間は自分が年寄りだというこのとを、誰しも認めたくない。そのほうが気が張って元気でいられるのだ。気を張って元気そうにして、少しでも若く見られたいと思う。その点、犬などは体や毛並みに老化の進んでいくのが目にみえてわかるから、隠しようもない。顎の白い毛を撫でてあんたも年取ったわねと言ってやったが別に気を悪くした様子もない。私だったら大向こうから、あんたも年とったわねと言われたら、あんまりいい気はしないだろうに。どんなおばあさんになっても生きることに張りを失ってはおしまいである。
 これからの身の振り方を時々考えるが生来楽天的なのでいつの間にか忘れている。今はただ同居する犬の一生を全うさせてやりたい。不自由でも自分でご飯を作りたい。背の届かなくなった食器棚や換気扇を斜めに見ながら食事時の楽しみだけは残したいと思うばかり。我が家の犬の少しも衰えない食欲を見ると、人生の楽しみは食欲にありと思うことだってある。ただこのところの災害の多さを見ると、人間の欲望の深さにあきれ果てた神のいかりのように思えてくる。驕りという言葉を人間はもっとかみしめるべきである。
 9月15日は母の命日である。老人の日なので忘れる事はないが、当日あいにく息子がかぜをひいてこられないので弟と父の墓のある生田の春秋苑へ行った。父の生前から文学碑がたつ場所である。夕方の5時を過ぎて薄い夕闇に包まれた春秋苑は人影もまばらで、ひっそりと静まり返っていた。父の墓石はとても小さく密やかに立つ姿がいかにも父の墓石という気がする。この小さな墓石を探して母があちこち懸命にさがしていたことをおもいだす。あんまりみかけない小さな石はわたしも気にいつている。墓地は静まり返って、ゴミ集めの車が通るだけ。私一人ではとても来られないが、なんともやさしい雰囲気がただようのが不思議だった。

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祖道傳東Ⅱ №2 [文芸美術の森]

第二図 太子時代

      画  傅 益瑤・文  曹洞宗大本山永平寺

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《紙本塁画彩色》 九〇×一二五 軸装 

釈迦族の王子として生まれた釈尊は、何一つ不自由のない優雅な環境の中で生活を送りながら、成長いたしました。
 城中には美しい畳茶羅華(まんだらげ)の花が咲き乱れて、稜郁(ふくいく)とした香りが漂い、天上からは美しい音楽が奏でられるなど、まさに黄金の光が隅々まで輝くような環境でありました。
 しかし、生母を失った悲嘆の思いからか、次第に物思いにふけることが多くなって、人生に対する憂悩を深くするようになって行きました。


『禅を描く 祖道傳東』 大本山永平寺

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