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妖精の系譜 №51 [文芸美術の森]

ノートンの「ボロワーズ」

       妖精美術館館長  井村君江

 メアリー・ノートン(Mary Norton一九〇三-)の借り暮しの小人たち五部作(『床下の小人たち』(一九五二)、『野に出た小人たち』(一九五五)、『川を下る小人たち』一九五九)、『空をとぶ小人たち』(一九六一)、『小人たちの新しい家』(一九八二)は、人間に依存して暮らす小人たちが活躍するファンタジィの傑作である。
 ノートンは最初の作品『魔法のベッド南の島へ』(一九四五)と続編の『魔法のベッド過去の国へ』(一九四七)で、新しい次元のファンタジィを開いた。この物語は、ある村のおとなしい音楽の先生ミス・プライスが、魔法の練習をしているところをロンドンから休暇で村にやってきた三人の姉弟に見つかってしまい、やむをえず子供たちと魔法のノブのついた空飛ぶベッドに乗って、さまざまな事件に出会う経緯が書かれている。昔はすばらしい超自然の力を発揮した魔法が、今は練習して修得せねばならず、またタネや仕掛けのあるものとされ、そうした魔法が合理的な現代の現実にぶつかって引き起こされる奇想天外な出来事が、ユーモラスに語られているのである。
 借り暮らしの小人の物語でも、昔は人々に好んで語られ信じられていた妖精たちが、現代では生き残りも少なくなり、もはや能力も人間並みになってしまい、やっと一族だけが古い家に住んでいるということが前提になっている。従って、彼らは昔からの妖精ではなく、小型人間、「一人前の人間」であり、その行動もみな人間のミニアチュア版になっている。本質的にすべての点で人間であり、ただピグミーのように小さいというハンディキャップを背負っている人種ということになる。
 さらには自分たちの手で物質は作り出せず、人間の文明に依存して生活している寄生的存在である。
 だが、勇気や工夫の才や虚栄や愛情や愚かさや思いやりなどの情感は少しも人間と変わらず、むしろ普通の人間よりも理想像に近くなっている。この人間寄生的存在の小型人間である「借り暮らしの小人族」は、現代に作り出されたいわば新しい妖精の一つの典型とも言えるであろう。
 メアリー・ノートンはこの小人の人種を創り出した動機を、近視だったので子供のころ、他の人たちが遥かな丘や空を翔けるキジなどを眺めているとき、自分は脇を向いて近くの土手やもつれあった草むらの中に見入っていたが、そこはジャングル劇の恰好な舞台であり、やがて小さくて用心深い小人という登場人物たちが浮かんできて、いつのまにかそのジャングルや家の中で活躍を始めたと語っている。また家の中でなぜヘアピンや安全ピン、針や指ぬき、吸い取り紙などがすぐになくなってしまうのか不思議であり、きっとこれは家のどこかに姿を見られないように住んでいる小人たちが持って行ってしまうためだ、とも考えたということである。
 この物語は、ケイトという少女に聞かせるメアリーおばさんの昔語りが外枠となっている。登場人物として活躍するのは、ボロワーズ一家の父親のポッド、母親のホミリー、娘のアリエティで、大時計の下の羽目板の穴を通路にして住まいの床下と床上の人間界を行き来しているところから、クロック家と呼ばれている。ボロワーズの家族名も、人間の物や場所からの借りものであることはまた興味深い。例えば、暖炉の上に住んでいるのはオーバーマントル一族、アイロン台にいる一家はリネンプレス家、この他ブルームカバード家(ほうき棚に住む一族)、レインパイプ家(雨どいに住む一族)などが出てくる。これらは実際人間の家族の名前に、祖先がテムズ川に画したところに住んでいたことからタイド家と名乗ったり、ロビン家、オーク家というように鳥や木の名がついた一家があることを思い合わせると興味深い。
 クロック家は父親のポッドが靴作りをして生計を立てているが、本来「小さな人々」の中のレプラホーンが、妖精の踊りへらした靴を直す小人の片足靴屋であることを思うと、この職業は妖精職業の伝統にもとづいていることがわかる。主な筋はこの一家の娘アリエティが、人間の子供と仲良くなり「見られ」た(人間に見られることは危険と死を意味している)ことから、床下を引越さなければならなくなり、安住の地を求めて野に出てさすらい、川を下り、人間につかまって見せ物にされかけるところを、軽気球で空を飛んで脱出するなど、さまざまな苦難の旅の物語である。こうした流浪の旅の原因のもう一つは、借り暮らしの小人たちが物質の恩恵で人間化することで生活が豊かになるが、その豊かな状態を保つためにはより頻繁に人間から「借り」(「借りる」と「盗む」とは異なければならず、そのためにより「見られる」危険が増すというわけで、ここには人間世界における文明化や近代化への諷刺も感じられてくる。最後には平和な暮らしを求めるために、それまで依存していた人間界と絶縁すべきことを宣言し、野原や川で苦労の末、人間界を去ってリトルフォーダムという町にあるミニアチュアの家に独立して住むことになるわけである。
  物語はボロワーズ一家の娘アリエティの活動に中心が置かれているが、この好奇心旺盛な女の子の成長や活躍につれて、人間の男の子との出会いを始め、次々と事件が生じてくる。アリエティは狭い床下から垣間見る「上の世界」(人間の世界)に興味と憧れを抱く。その結果、一人で上に出かけて「借り」の練習をしていたが、人間の男の子に見つかって仲良くなり、彼に借り暮らしの生活を語って聞かせる。その会話の中には「借り暮らしの小人」側から言われた面白い論理が語られている。.すなわち人間から「借りる」ということはしごく当り前のことであり、「盗む」こととは違う、なぜならボロワーズは人間の家の一部なのだから、その上の家の物を床下で使っても当然であると言う。また、バターのためにパンが存在しているのと同じように、人間というものは「借り暮らしの小人」たちのために存在している、と考えていることなどである。ここで 「ヒューマン・ピーン(Human Bean)」とアリエティがなまって言っているのは「人間(Human Being)」のことであり、ピーン=「豆」を重ね合わせた同音異義の面白さがあるが、それも豆のように小さい小人が、大きな人間に向かって「豆」と言っている二重のおかしみもここには重なっている。
 科学万能の世の中で、自分たちが地球上のすべてを支配できるかのごとき錯覚を抱いている人間を、「借り暮らしの小人」たちはかえって自分たちの必需品を生産し供給してくれる奴隷と思っているのは面白い。そして上の世界に「借り」に行くということは生やさしいことではなく、登山のためのピッケルとロープのように、待ち針と糸と借り袋を持って椅子やテーブルにたどり着き、必要な物を手に入れるわけで、高度の技術を要する仕事であると言っている。そしてさらに、何物にも狩りたてられることのない人間は、お互いに狩りたて合っているのだとポッドは人間を皮肉っている。こうした「借り暮らし小人」の論理は、われわれ人間中心のものの考え方、一般の理屈からは、ほんの少し視点をずらしてみただけであり、思考の回路を変えただけのことかもしれないが、鋭い人間批判と文明批判になっている。
 この小さな人々が、大きな人間たちの住んでいる世界で生きていくのはなかなか困難であり、その生存のための戦いが全篇を貫いているのであるが、この戦いは架空の龍や巨人相手の戦いではなく、ずっと現実的な飢えや寒さや「見られること」との戦いであり、作者はそれをリアルで緻密な手法で見事に描いている。
 小さいというハンディキャップを背負った人間が、知恵と工夫の才を最大限に利用し、それを乗り越えていくわけであり、一つ一つの困難の具体的内容と、それを克服する技術の描写も実に実際的で克明である。例えば、第四巻に出てくる脱出用の軽気球の作り方などは、そのまま実際に再現できるほどである。これについて作者自身はこう言っている。
「これらは実用的な本として書かれたのです。ポッドの風船は立派にその役を果しました。どなたか同じようにやってみた方もあるのではないでしょうか」
 こうした模型飛行機の製図を見るのに似た実際的知識の魅力もこの作品には溢れている。実際的知識や技術を使って困難を克服し、精二朴生きていくポッド一家の姿勢には、孤島で生きるロビンソン・クルーソーに似たものがあ。その健全で積極的なイギリス的人生観が、この五部作を児童文学の古典にしている要因の一つであると思う。

『妖精の系譜』 新書館



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石井鶴三の世界 №234 [文芸美術の森]

座像 1951年/裸女立像 1051年

      画家・彫刻家  石井鶴三

1951座像.jpg
座像 1951年 (201×144)
1951裸女立像.jpg
裸女立像 1951年 (202×143)
*************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』 形文社

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武州砂川天主堂 №26 [文芸美術の森]

明治十年 2

           作家  鈴木茂夫


三月五日、神戸、京都。
 午前五時、広島丸は神戸港に入港、全員上陸して大阪に向かう。部隊は、大阪に駐在している川路大警視の命令により、近藤警部の率いる小部隊は、梅田より汽車で京都へ行き、御所の警備についた。小野田警部が率いる隊は、大阪に留まっている。

三月十七日、神戸から博多へ。
 田辺少警視、長尾直景(なおかげ)警部は、部下を率い、午後一時三十分、大阪を出発、午後二時五十分、神戸港に到着。午後八時、黄龍丸に搭乗、九州・博多港をめざした。
 船中で、田辺少警視は訓示した。
 「電報による現地の情報では、賊軍は、銃器・弾薬が不足しているとみられる。現地の各警視隊は、勇敢に戦って敵に打撃を与えているが、兵力が不足しているので、これを補充しなくてはならない。つまり、京都に駐屯していたわれわれ二百五十人および石川県にあった六十余人を第一線に派遣することとなった。これは、われわれにとって名誉なことである。われわれは力をふるって任務を遂行しなければならない。われわれの達成する任務は、現在、熊本城を包囲している賊軍を撃破して、熊本城防衛軍を救接しなければいけない。作戦の総指揮は田辺が執るが、戦闘場面では、長尾一等大警部が指揮を執る。博多港に到着したら、小銃、剣で軍装する。各隊は、順次輪番して先頭に位置し、最後尾にあたる隊は、弾薬、食料などの警護にあたる。攻撃する場合、伍長以上の者が先に進むのは言うまでもない。各隊員は隊長に先立って戦うことが望まれる。戦闘中は、隊伍を整え、混乱することのないようにせよ。また味方識別の合い言葉、指揮連絡旗の確認は、大切である。これにより、敵の夜襲を判別するためにもその確認は大切である。戦死者、負傷者の救護は、状況に応じてなすべきである。ただし、集合ラッパが鳴らされた時は、速やかに集合すべきである。隊員は、分隊ごとに、作業の協力分担をしなければならない。隊員の中に一人でも卑怯な振る舞いがあれば、分隊全員の恥とし、小隊全員に謝罪すべきである。隊員の中に怯えて進撃しない者がいれば、これを斬り捨てて進撃するべきである。また、戦闘場面にあっても、警察官の本分である人民保護のつとめは、決して忘れてはいけない」
 寿貢は、九州に上陸すると、戦闘がはじまると覚悟した。

三月十九日、博多港。
 正午、黄龍丸、博多港入港。田辺少警視以下、全員上陸。ここで全員にスナイドル銃と刀が支給された。明二十日、南関に到着予定。

三月二十日、久留米。
 午前七時、博多を出発、しとしとと降りつづく春雨に、道路はぬかるみ、足をとられた。午後六時、ようやく久留米に到着。

三月二十一日、久留米から南関へ。
 午前六時、田辺少警視以下、久留米を出発。午後三時、南関に到着。昨日、道路はぬかるみ、行進は、容易ではなかった。

三月二十二日、轟木村(とどろきむら)。
 午前六時、田辺少警視以下、全員高瀬を出発、午前十一時、轟木村に入る。

『武州砂川天主堂』 同時代社


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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №106 [文芸美術の森]

                       奇想と反骨の絵師・歌川国芳

                美術ジャーナリスト 斎藤陽一             

        第1回 はじめに~国芳登場~

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 この号からしばらくは、江戸時代後期の浮世絵師・歌川国芳の絵画世界を鑑賞していきます。

 歌川国芳(1797~1861)は、歌川広重と同年齢です。広重が「名所絵」と呼ばれた風景画のジャンルで名声を高めたのに対して、国芳は、豊かな想像力と奇想天外な着想、斬新なデザインなどによって、あらゆるジャンルの絵に挑戦した浮世絵師です。その作品群は、現代のグラフィック・デザインにも通じるものとして、近年とみに人気が高まっています。

 幼い頃から絵を描くのが好きだったという国芳は、15歳の時、当時、多くの門弟を抱える浮世絵界最大のグループ「歌川派」総帥・歌川豊国のもとに入門、絵師のスタートを切りました。
 しかし、多くの兄弟子たちの蔭で、なかなか才能を発揮する機会が得られず、しばらくは困窮の時期が続きました。

≪国芳得意のパノラマ画面≫
 早速、若い頃の国芳が描いた「平知盛亡霊の図」(24歳頃)を見ましょう。

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 この絵は、大判サイズの和紙を3枚つないだ「三枚続」と言われる国芳得意のパノラマサイズの大画面です。
 描かれる物語は次の通り:
 兄の源頼朝に追われる身となった源義経は、西国に逃れようとわずかな家来を連れて大物の浦を船出したところ、にわかに空がかき曇り、嵐が起こる・・・・
 そこに、壇ノ浦で義経に滅ぼされた平知盛と平家一門の怨霊が現われて行く手をはばんだ。
 義経は太刀を抜いて戦おうとしたが、武蔵坊弁慶はこれを押しとどめて数珠を揉んで祈祷し、法力によって亡霊を退散させた・・・という謡曲「船弁慶」に由来する物語です。

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 青ざめた般若のような形相で、荒れ狂う波間に浮かび上がる平知盛の鬼気迫る描写が見事。逆巻き、うねり、からみあって渦を巻く波の描写も迫力があり、平家の強い怨念を象徴しているかのようです。
 さらに、知盛の衣装の色合いがまことに斬新ですね。

 一方、船べりで平家の亡霊と対決する弁慶と亀井重清。
 重清は、亡霊に太刀をつかまれ、海に引きずり込まれようとしている。
 弁慶は、平知盛の亡霊をにらみ据えている・・・
 亡霊の顔つきは、怨念のこもったすさまじい描写です。

 このあと、弁慶は数珠を揉んで亡霊たちを退散させることになります。

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 義経一行が乗った船を上から見た視点をとり、クローズアップで切り取った構図は大胆で、斬新です。
 国芳初期のこの絵には、既にその独特の画才とともに、幻想世界への好みが濃厚に表れています。とは言え、まだ国芳の芽は出ず、苦境がつづきます。

 次回も、歌川国芳の絵画世界を紹介します。

(次号に続く)




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浅草風土記 №3 [文芸美術の森]

仲見世 1

      作家・俳人  久保田万太郎
 

  

 ……わたしは、小学校は、馬道の浅草小学校へかよった。近所にいろいろ小川学校だの青雲学校だのといった代用学校があり、田原町、東仲町界隈のものは、みんなそれらの「私立」へかようのをあたりまえとしたが、わたしは長崎屋のちゃァちゃん(いまも広小路に「長崎屋」という呉服屋は残っている。が、いまのは、わたしの子供の時代のとは代を異にしている。もとのそのうちは二十年ほどまえ瓦解した。その前後のゆくたてに花ぐもりの空のようなさびしさを感じて、いつかはそれを小説に書きたいとわたしはおもっている)という子と一しょに、公立でなければという双方の親たちの意見で、遠いのをかまわずそこまでかよわせられた。— 浅草学校は、浅草に、その時分まだ数えるほどしかなかった「市立」のうちの最も古いものだった。
 毎日、わたしは、祖母と一しょに「馬車みち」-— その時分まだ、東京市中、どこへ行っても電車の影はなかったのである。どこをみても「鉄道馬車」だったのである。だからわたしたちは「電車通り」という代りに「馬車みち」といった。東仲町の今電気局のある所に馬車会社があったのである。— を越して「浅倉屋の露地」を入った。今よりずっと道幅の狭かったそこは、しばらく両側に、浅倉屋の台所ロと、片っぽの角の蕎麦屋の台所口との続いたあと、右には同じく浅倉屋の土蔵、左には、表に灰汁桶の置かれてあるような女髪結(おんなかみゆい)のうちがあった。土蔵のつづきに、間口の広い、がさつな格子のはまった平屋があった。出羽作(でわさく)という有名なばくちうちの住居だった。三下が、始終、おもてで格子を拭いたり水口で洗いものをしたりしていた。—ときには笠をもった旅にんのさびしいすかたもそのあたりにみられた。
 道をへだてて井戸があり、そばに屋根を茅で葺いた庵室といったかたちの小さなうちがあった。さし木のような柳がその門に枝を垂れ、おどろに雑草がそのあたりを埋めていた。
—と、いま、ここにそう書きながら、夏の、ぎらぎらと濃い、触ったらベットリと手につきそうな青い空の下、人あしの絶え、もの音のしずんだ日ざかりの、むなしく自じらと輝いた、でこぼこに石を並べたその細いみちをわたしは眼にうかべた。駄菓子屋のぐッたりした日よげ、袋物屋の職人のうちの窓に出したぽつんとした稗蒔(ひえまき)……遠く伝法院の木々の蝉が、あらしのように、水の響きのようにしずかに地にしみた。—その庵室のようなうちには、日本橋のほうの、小間物問屋とかの隠居が一人寂しく余生を送っていた。
 出羽作の隣は西川勝之輔という踊りの師匠で、外からのぞくと、眼尻の下った、禿上った額の先代円右に似たその師匠が、色の黒い、角張った顔の細君に地を弾かせ、「女太夫」だの「山かえり」だの「おそめ」だのを、「そら一ィ二ゥ三イ……ぐるりとまわって……あんよを上げて……」と小さい子供たちにいつも熱心に稽古していた。— それに並んで地面もちの、吉田さんといううちの、門をもった静かな塀がそのあとずっと出外れまでつづいていた。— 子供ごころに、いまに自分もそうした構えのうちにいつかは住みたいとそこを通る毎しばしばそうわたしは空想した。商人のうちに生れたわたしたちにとって門のある住居ほど心をそそるものはなかった。
 ……「浅倉屋の露地」を出抜けたわたしはそのまま泥溝にそって公園の外廓を真っすぐにあるいた。いまのパウリスタの角を右に切れて ー その左っ角に大鹿という玉ころがしかあった1いうところのいまの「でんぼいん横町」を「仲見世」へ出たのである。

    二

 ……と、簡単にそういってしまえばそれだけである。が、片側「伝法院」の塀つづき、それに向いてならんだ店々だから、下駄屋、小間物屋、糸屋、あるへい糖を主とした菓子屋、みんな木影を帯び、時雨の情(こころ)をふくんで、しずかにそれぞれ額をふせていた。額をふせて無言だった。……それには道の中ほどに、大きな榎の木あって遅しい枝を張り、暗くしツとりと日のいろを……空のいろを遮(せ)いていた。— その下に古く易者が住んでいた。— いまの天抵羅屋「大黒屋」は出来たはじめは蕎麦屋だった。
 したがってそこへ出る露店も、しずかにつつましい感じのものばかりだった。いろは字引だの三世相(さんぜそう)だのを並べた古本屋だの、煙草人の金具だの緒肺だのをうる道具屋だの、いろいろの定紋のうちぬきをぶら下げた型紙屋だの。— ときに手品の種明しや親孝行は針のめど通し……そうしたものがそれらの店のあいだに立交るだけだった。だから、それは、「仲見世」に属して、そこと「公園」とを結びつける往来とよりも、離れて「伝法院」の裏通りと別個にそういったほうが、より多くそこのもつ色彩にふさわしいものがあった。— と同時に「伝法院」の裏門がもとはああしたいかめしいものではなかった。いまの、もっと、向って右よりに、屋根もない「通用門」といった感じの、ごくさびしい雑な感じのものだった。
 が、それはひとりその往来ばかりでなかった。「仲見世」のもつ横町すべてがそうだった。雷門を入ってすぐの、角にいま「音羽」という安料理屋のある横町、次の、以前「天勇」の横町といった、角にいま「金龍軒」という西洋料理のある横町、そのつぎの、以前「共栄館」の横町と呼ばれた、いまその角に「梅園」のある横町、右へとんで蕎麦屋の「万屋(よろずや)の横町—それらの往来すべてがつい十四五年前まで、おかしいほど「仲見世」の恩恵をうけていなかったのである。お前はお前、わたしはわたし、そういったかたちにわかれわかれ、お互が何のかかわりも持たず、長い年月、それでずっとすごして来たのである。— そのうち「金龍軒」の横町にだけは、「若竹」だの、「花家」だの「みやこ」だのといった風の小料理屋がいろいろ出来、それには「ちんや横町」を横切って「区役所横町」まで、その往来の伸びている強味がそこをどこよ。も早く「仲見世」と手を握らせた。でも、そこに、いまはどこへ行ってもあんまりみかけない稼業の刷毛屋(はけや)があり、その隣にねぼけたような床足があり、その一二けん隣に長唄の師匠があって、癇(かん)高い三味線の音をその灰いろの道のうえに響かせていたのを、昨日のことのようにしかわたしはおもわない。後にそのならびに出来た洋食屋の「比良恵軒」、九尺間口の、寄席の下の洋食屋同然に汚かったその店は、中学の制服を着立てのわたしに、「カツ」だの「テキ」だの「カレエ」だのと称するものの「やっこ」のいかだ「中清」のかき揚以上に珍味なことをはじめて教えてくれた盾である。— その時分、その近所、「浅草銀行」の隣の「芳梅亭」以外、西洋料理屋らしい西洋料理屋をどこにももっていなかったのである。「音羽」の横町には格子づくりのおんなじ恰好のしもたやばかり並んでいた。正月の夜の心細い寒行(かんぎょう)の鉦の音かいまでもわたしをその往来へさそうのである。— 「梅園」の横町については嘗てそこに「凧や」のあったことを覚えている。よく晴れた師走の空かいまでもわたしにその往来の霜柱をおもわせるのである。— どこもともにけしきは「冬」である。
 で、「万星」の横町は…‥
……邁草をくってはいけない、わたしはいま学校へ行く途中である。

『浅草風土記』  中公文庫


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妖精の系譜 №50 [文芸美術の森]

トールキンの『ホビット』、ルイスの『ナルニア物語』
 
        妖精美術館館長  井村君江

 現代妖精王国物語の傑作は、やはりトールキン(John R.R.Tolkien1892-1973)の『ホビット』と『指輪物語』であろう。オックスフォードの古代、中世英語英文学の専門家であったトールキンは、その該博な知識と語学力を駆使して、ルーン文字を用いたり、古代から中世にかけて文学の中に棲息していた超自然的な生き物たち、ドワーフ、エルフ、ゴブリン、トロールやドラゴン、そして魔法使いたちをもとに、「中つ国」に住むホビット族を作り上げ、その一大冒険物語を描いた。「ホビット」の系譜をみると、妖精のホブ(ホブスラスト、ホビア1)と人間の間の存在であり、身体はドワーフより小さくリリパットより大きい、とある。一説では、ホビットにはラビット(ウサギ)の音と映像が重ねられていると言われ、草原で見え隠れしたり、穴に住むというところ、またホビット族の一人ビルボ・バキンズの足の裏は茶色い柔らかい毛が密集しているとされている
ところからもそれはうかがえる。また、ホール・ドゥエラー(hole dweller)という意味のトールキンの造語ホールビットラー(holbytla)からホビットという名前が造られたとも言われている。黄色と緑の服を着てはだしであると書かれているが、ホビットたちは自然の保護色に身を装い、その性質は陽気で、食べたりお茶を飲んだり、軽い冗談とパーティーが好きであり、「習わない手仕事は靴作りくらい」とあるが、これは妖精の片足靴屋レプラホーンの映像を逆にしたものともとれよう。「ホビット族には魔法の力はない」と書いてある。しかしながら保身術とか高飛びの術、雲隠れの術を身につけているが、これらは、いわゆる遺伝的素質と修練を重ねた結果、習得したものとなっている。
 「ホピット」は、地底の家に住むホビット一族のビルボ・バキンズが主人公で、ある日突然彼の前に現われたガンダルフという魔法使いとドワーラという小人たちに加わって、スマウグという翼のある龍が守っている宝探しの旅に出かけ、さまざまな冒険をし、怪物ゴクリから、ゴブリンの持っていた姿が隠せる不思議な指輪をせしめ、わが家に戻ってくる物語である。ビルボ・バキンズは「自分の中の冒険好きの血が騒いだ」とあるが、妖精の中に冒険好きの血が流れているわけである。ドラゴンとの戦いを経験したビルボ・バキンズは、その他のいくつかの冒険の困難ものりこえ、自分の未知の部分を発見し、真の勇者と詩人になる。ビルポからその場フロドが、この姿を消す不思議な指輪を受け継ぎ、悪の手に渡るのを恐れて、オロドルイン火山にその指輪を投げこむまでのさまざまな冒険の旅が『指輪物語』である。
 トールキンは、伝承文学や叙事文学を現代に生かし、古代からある空想的な言い伝えや伝説—魔法の指輪、闇に光る名剣、熊人や悪龍や幽霊伝説など—をふんだんに盛り込んで、一つの小宇宙を創りあげた。フェアリーやエルフ、ゴブリン、ドワーフ、ホビットなどの妖精が、古代の生きものとしてではなく、例えば、トーリン、バーリン、オイン、グローイン、フィーリ、キーリ、という呼び名のもとに、新たな個性をもって再生し、身近な、現実に近い存在として迫ってくる。「創造の日」から第三紀までのホビット一族と統治者たちの年代記や家系図、ホビット暦ができているほどのスケールの大きいホビット・サガである。
 トールキンと同じくルイス(C・S・Lewis1898-1963)もケンブリッジの中世英語とルネッサンス文学の教授であった。トールキンはアフリカで生まれているが、ルイスにはアイルランド・ケルトの血が流れている。トールキンの古代の世界への指向に対し、ルイスは古典的な世界へ向かっていたようで、ギリシャや北欧の神話の動物たち、半大半馬、牧神、一角獣や木や水の精たちが住み、アスランというライオンが支配するナルニアという架空の国を創造している。この他、ノーム、巨人、人魚、妖婆の他、マーシュ、ティガーズとかアースリングズ族などルイスの創造した生きものも多く登場する。
 『ナルニア物語』は、ピーター、スーザン、エドモンド、ルーシーの四人のペベンシー家の兄妹が、ナルニア国に迷いこんで行き、さまざまな冒険に巻き込まれる話である。兄妹が洋服箪笥の中に入って行くと、その先に森が広がっていて、そこでは雪が降り、ロンドンと同じ街灯がともり、傘をさしたフォーンが歩いている。フォーンは、腰から上は人間、両足はヤギの足、黒く光る毛のはえた足先は、ひづめになっていて、身体中赤い毛で覆われている。顔立ちは風変わりで小づくり、先のとがった短いヒゲをはやし、髪の毛はうずを巻き、二本の角が額から突き出ているが、「とても気持ちのいい顔立ち」と描かれている。ギリシャ神話に出てくる野山の小さな神フォーンであることはすぐにわかる。四人の現実の子供と、創造主であるライオン(アスラン)との交渉を通し、カスピアン王、ティリアン王在世からの悪との闘いに始まり、その国の滅亡に至るまでの一大サガになっている。
 赤い岩の小さくこざっぱりとした岩穴にある、フォーンのタムナスの部屋は、暖炉に火が燃え、ソファーが気持ち良さそうに置いてあり、そのそばにある本棚に置いてある本は、フォーンの側からの人間の研究になっていて興味深い。「人間、森にこもる坊さんと森番について — 神話伝説の一研究」「人間は実在するか?」「おとめ」「ニンフたちのならわし」「森の神シレノスの生涯とその思想」などがその表題である。
 このナルこアの園は、白い魔女に支配され、永遠の冬に閉じこめられて、荒涼とした世界になっている。しかし四人の人間が海辺の城ケア・パラベルの王座につけば、魔女の支配は終わるという予言があり、四人は魔女と戦い、王座について魔女の支配は終わり、長い冬も終わりを告げる。しかしエドモンドは、この魔女にだまされて魂を売ったため苦難におちいるが、彼らを救うのがこの国の創造主、ライオンのアスランであった。実は、この国に四人の子供を呼びいれたのはアスランだったのである。四人の現実の子供が魔法と戦い、危険にさらされた架空の国を救うために呼びこまれるという設定は非常に面白い。現実の子供の力が、非現実の世界を支えるために必要とされているからである。
 ナルこア国を冬の支配に陥れた「白い魔女」は、アスランがナルニアを創るとき、人間界からきたポリーとディゴリーが、廃都チヤーンの最後の女王であるこの魔女を縛っていた呪文を破ったため、ナルニアに悪をもちこんだのである。
 一般に、魔女の種類として、普通「黒い魔女」が悪い魔法を使う邪悪な存在であり、「白い魔女」は良い魔術を使って、薬草の効果により病気をなおしたりする良い魔法使いとされているが、ここでの白い魔女は、誰をも石に変えることができるというメドゥーサのような恐ろしい力を持っており、その映像には、永遠の冬と雪の映像と冷たさが、重層的に表わされているようである。この白い毛皮のマントを着た魔女の乗りものが、子馬ほどのトナカイに引かせたそりであり、真赤な帯に鈴がつき、枝角には金が塗ってあるというのも、北国からやって来るサンタクロースの映像を揺曳させた冬の女王のイメージを作るためであろう。しかし、この国にはクリスマスはこないのである。女王の顔は「雪か紙か砂糖のように」白く、唇は真赤で、金の冠をいただき、金の杖を持ち、表情は「高ぶっていて冷たくて厳しく」寒く恐ろしい冬の=画を具象化していると言えよう。
 トナカイのそりを操る御者は、太った小人で、北極熊の毛皮を着、長い金色の房飾りをてっぺんからさげた赤いずきんをかぶっている。「とほうもなく長いあごひげが、ひざを隠し、ひざかけ毛布のかわりをつとめている」と書かれているが、これは典型的なドワーフの容貌である。白い魔女の手下として、悪意を持ち、魔法のかかったプリンをエドモンドに食べさせ、捕虜にして身体を縛り、意地悪く網を引いて行ったりする。
 この白い魔女とライオンのアスランの軍隊が戦うわけであるが、その構成員をみると、アスランの側は、楽器を奏でる木の精の女(ドリアード)、水の精の女(ナイアード)、半人半馬(セントール)、一角獣(ユニコーン)、ペガサス、人の頭をつけた牛、愛の鳥ガランチョウ(ペリカン)の他、ヒョウ、ワシ、犬となっており、ギリシャ・ローマ神話に登場する精霊や幻獣、異教の神々であることがわかる。一方、白い魔女の軍勢は、「大きな歯をむきだした大食い鬼の群れ、オオカミたち、雄牛の首をつけた男たち、悪い木の精や毒草のおぼけ、鬼婆、夢うなし、ももんがあ、のっべらぼう、つきもの魔、ぼけきのこ、そのほか、もののけ、おばけ」(瀬田貞二訳より)など、百鬼夜行図からぬけ出したような魅魅魅魅ばかりである。平たい石の上に縛りあげられたアスランを、怪物たちは蹴り殴り、唾を吐きかけ嘲り、さんざん軽蔑した挙句、四人の鬼婆が四つの松明をかかげて四隅に立ち、魔女がナイフをアスランの身体にふりおろす。
 スーザンとルーシーは、泣きながら死んだアスランを、石舞台に探すが姿はなく、翌日朝日に輝いて、たてがみをゆすりながらアスランが再び生きて立っているのを見て驚く。アスランは二人にこう説明する。魔女は古いもとの魔法を知ってはいたが、もっと古い魔法の掟は知ってはいなかった。世の始まりより前からのもっと古い魔法、つまり「裏切りを犯さないものがすすんで生けにえになり、裏切りものの代わりに殺された時、淀の石板は砕け、死はふりだしに戻ってしまうという古いさだめを知らなかった」。これが、白い魔女の魔法が創造主アスランに及ばなかった原因と説明されているが、キリストの十字架上の死と復活の映像が重ねられており、キリスト教が邪悪と異教に対して勝利を示すことが、ここにはうかがえる。

『妖精の系譜』 新書館


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石井鶴三の世界 №233 [文芸美術の森]

像2点 1951年

       画家。彫刻家  石井鶴三

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胸像 1851年 (250×152)
1951胸像2.jpg
胸像 1951年 (250×142)

*************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』 形文社


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武州砂川天主堂 №25 [文芸美術の森]

明治十年 1
          作家  鈴木茂夫

二月二十八日、武州・砂川村。
 昼下がりのひととき、源五右衛門は、居室で書物を開いていた。
 「お話があってまいりました」
 寿貞がかしこまった顔つきで姿を見せた。     
 「実はこのところ、苗を騒がしている西南戦争に関してであります。今月十五日、西郷隆盛は一万数千人の兵を率いて出発、熊本城を包囲しました。これにたいし、天皇は十九日に、西郷を賊軍として討つと詔勅を発しました。西南戦争のはじまりです」
 「寿貞さん、そのことは私も承知しています」
 「それにともない、警視庁は、警察官を動員し十鵬蟹鬱編成し、戦闘に参加しています。そして、不足する警察官の補充のために、警察官の大募集を行っているとのことです。ついては、私もこの際、これに応募したいと決↓したのであります」
 「寿貞さん、この際の警察官になるとは、普通の警察官ではないだろう。西南戦争の兵士として戦うことじゃないのですか」
 「言われるとおりです。ご存じのように、旧仙台藩の武士は、官軍である政府軍に敵対したため、賊軍とされ、新しい政府の役職につくことは、認められてきませんでした。しかし、西南戦争では、西郷隆盛が賊軍とされています。ですから警視庁の警察官募集は、官軍兵士の募集です。これに応募すれば、元賊軍であっても、天下晴れて政府の一員になれます」
 「あなたはこの村の生活に不満があるのですか」
 「とんでもないことです。源五右衛門さんのご厚意は、ありがたく思っております。子どもたちとも楽しく毎日を過ごしてきました。ただ、私は定職につきたいと思ったのです。大きな組織の一員として、与えられた役目を果たしていきたいのです。武士とはそういうものでありました。私の中から、武士の気風が抜けないのです」
 「私の眼からすると、主人持ちの生活は、息が詰まりそう思えるが、寿貞さんは、その方が望ましいと言うんだ。あなたの気持ちはよく分かったよ。お望み通りに、出かけるといいよ」
 「源五右衛門さん、ありがとうございます。手前勝手で申し訳ない。このご恩は、終生忘れません」

三月一目、東京・警視本署。
 午前五時、寿頁は身の回りの衣類を風呂敷包みに背負って、砂川家を後にした。
 五日市街道をひたすらに歩く。
 午後二時、東京へ入る。すぐに鍛冶橋の東京警視本署を訪れた。元は大名屋敷だったという庁舎の中は、人の出入りが慌ただしい。
 警察官募集に来たと告げると、人事官の前に案内された。
 寿貢が氏名年齢を告げると、中年の人事官は、
 「出身地は」
 「仙台です」
 「あんたたちは、西南戦争に備えての採用だ。命をかけて戦うことになるが、大丈夫か」
 「覚悟はできています」
 「あんたは士族か」
 「そうです」
 「戊辰の戦いの時は何をしていたの」
 「仙台藩正義隊の隊長でした」
 「部下の数は」
 「約三十人」
 「どこで戦ったのかね」
 「駒ヶ嶺にいました」
 「ほう、わしも官軍としてあそこにはいた」
 人事官は、懐かしそうな表情を浮かべたが、それは本筋の話ではないと頭をかきながら、
 「いや、それはいい。あんたは部下を指揮していたんだな。それでは一等巡査として採用し、什長(じゅうちょう)としよう」
 「什長とは何ですか」
 「部隊では、伍長が五人をとりまとめ、什長が一一人の伍長の上に立ち、十人をとりまとめる。分隊長は二人の什長と一一十人をとりまとめ。小隊長は、四人の什長と、四十人をとりまとめる」
 ついで人事官は、身長、体重を尋ねた。寿貢が答えると、机の横に山積みになっている制服を一式取り出した。
 「大きさは、『中』で間に合うだろう。これを着れば、あんたも立派な警察官だ」
 生地は紺色のラシャだ。ズボンの横には、真っ赤な線が入り、上衣の胸には六個の金ボタン、両肩にも赤線がある。帽子には銀色の横線が入っていた。
 寿貞が制服に着替えると、
 「剣道場へ行って、手合わせをしてみて」
 道場では、防具をつけた男が待ち構えていた。
 寿貢が防具をつけて、竹刀を構えると、男はすぐに構えを解いた。
 「お主とは打ち合うまでもない。人を斬ったことがある構えだ。使えるな。いずれの流派だ」
 「神道無念流です」
 「戦地での活躍を期待する」
 寿員は、数十人の新規採用者と共に、近くの合宿所に案内された。そこでは、東北耽りの声がする。憫かしく思い、出身地を尋ねると会津藩、盛岡藩、米沢藩、仙台藩と、東北各藩の元武士たちだった。今回の警察官募集は二百五十人をめどにしたという。
三月三日、桟濱から神戸へ。
 午前六時、総指揮長田辺良顕少警視の前に、二百五十人が整列した。田辺が壇上に立ち、
 「お前たちは、警視庁巡査として採用された。西郷隆盛が鹿児島で決起し、武力をもって東京へ攻め上って来るとという非常の事態に備えたのである。我が警視庁は、陸軍に協力し、川路大警視のもとに、警視隊を組織編成した。別動第三旅団だ。お前たちはその一貝だ。本日から行動を開始する」
 訓示が終わると、部隊の編成に入る。二百五十人は、二隊に分かれた。第二隊は二等大警部近藤篤、第二隊は二等大警部小野田元煕(もとひろ)が指揮を執る。寿貞は、第一隊に編入され、什長として二人の伍長と十人の部下と顔合わせした。
 このあと徒歩で新橋停車場に集結、汽車で横濱に向かった。そこで、桟橋に停泊中の汽船広島丸に搭乗、午後四時出港、神戸をめざした。

『武州砂川天主堂』 同時代社


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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」 №105 [文芸美術の森]

             東洲斎写楽の役者絵
           美術ジャーナリスト 斎藤陽一

       第12回 写楽・最後の第4期作品

 寛政7年1月、写楽は最後の制作活動を行い、第4期の作品を描きます。
 この時には、都座と桐座の舞台を描いていますが、わずか10点しか残していません。 
その10点は下図の通り:すべて「細判」で「役者一人立ち」の全身像です。

105-1.jpg

≪これがあの写楽の絵!?≫

 下図は、都座の芝居「江戸砂子慶曽我」(えどすなごきちれいそが)に題材をとった2枚の役者絵。曽我十郎が、仇と狙う工藤祐経と対決する場面なので、「対」の構想で制作されたものです。
 この場面は、芝居の「見せ場」のひとつなので、これを選んで描くのは第3期からの傾向を引き継いでいますが、対決場面の迫力に欠けており、どこか説明的です。

105-2.jpg

 この頃になると、ライバルの歌川豊国の人気が急上昇していました。
 写楽第1期の時期には、写楽の迫力ある「役者大首絵」に後れをとっていた豊国ですが、徐々にその正統的な役者絵の人気が高まってきたのです。
105-3 のコピー.jpg 
 右図の3枚は、歌川豊国が、写楽と同じ都座の芝居「江戸砂子慶曽我」を描いた絵。

 明るく、のびやかに役者の特徴をとらえており、人気役者の色気を表現しています。 とにかく、おおらかで美しい。

 世間は、どこか素人っぽい写楽絵に見切りをつけて、豊国の役者絵に乗り換えたのです。

 写楽最後の第4期作品から、女形を描いた2枚を見ておきましょう。(下図)

105-4.jpg

 これは、都座の芝居「五大力恋緘」(ごだいりきこいのふうじめ)から題材をとったもので、やはり「細判」「一人立ち」の全身像です。
 第1期の迫力ある「大首絵」の印象が離れない目には、思わず「え!これがあの写楽が描いた絵?」とつぶやきたくなります。
 線描の弱さ、着物の文様や彩りへの集中力の欠如・・・力が抜けてしまったようで、人物たちの存在感も無くなっています。

 第4期作品がわずか10点という少なさは、版元・蔦屋重三郎と写楽が、これ以上の制作と刊行は無理と判断して、放棄してしまったからかも知れない。
 「やっぱし、うまくいかねぇなぁ・・・止めるしかねぇな」
 「私も筆を断って、姿を消すことにしよう・・・」
 かくして写楽は、第4期の最後の役者絵10点を残して、姿を消しました。寛政6年5月から寛政10年1月までの10カ月間という、まことに短い活動期間でした。

 短いとは言え、写楽が残した浮世絵の数は、役者絵134点、武者絵2点、相撲絵4点、追善絵2点、他に恵比寿絵、扇絵、版下絵などあり、10カ月で総計140枚余りという驚異的な枚数でした。

 写楽が姿を消して1年半くらい経った寛政8年5月には、版元・蔦屋重三郎も48年の生涯を閉じています。

≪写楽はどこへ?≫

 かつては、写楽の正体についてさまざまな「写楽別人説」が提唱されましたが、現在は、「写楽は阿波藩お抱えの士分格の能役者・斎藤十郎兵衛」という見解がほぼ定説になっています。
 では、なぜ阿波藩お抱えの能役者が10カ月にわたって、あれほど沢山の絵を描き続けることができたのか?
 この疑問については、先学諸氏の研究成果にもとづいて、下記に、簡単に記しておきます。

105-5.jpg

 このような次第で、写楽は、ひそやかに元の「斎藤十郎兵衛」に戻ったのでしょう。

 これで「写楽の役者絵」シリーズを終わりとします。
 次号からは、奇想と反骨の絵師「歌川国芳」の浮世絵を紹介していきます。

(次号に続く)


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浅草風土記 №2 [文芸美術の森]

広小路 2

        作家・俳人 久保田万太郎

     三

 ところで「でんぼん横町」である。いまではその「大風呂横町」に向合った横町を— 三好野と三川屋呉服屋とを(かつてはそれが、下駄屋とすしやだった)その両角に持ったにぎやかな横町を「でんぼん横町」といわないのである。そういわないで「区役所横町」というのである。そうして伝法院の横の往来1その「区役所横町」(「でんぼん横町」とよりはやや正しく)と、いまではそう呼んでいるのである。
の出はずれによこたわって仲兄世と公園とを結びつけているむかしながらの狭い通りを「でんぼいん横町」 その「区役所横町」(最近までわたしはそれを承服しなかった。強情にわたしは「でんぱん横町」といいっづけた。が、たまたまわたしと同年配の、それこそ「珍世界」の太鼓をたたく猿の人形も知っていれば、電気館のあごなしの口上いいもよくおぼえているさる人の、躊躇なくそこを「区役所横町」と呼びなしているのを聞いてわたしは我を折った。
「区役所横町」では身につかない感じだがやむを得ない)を入ってすぐのところに、以前共同鳳のあったことをいっても、おそらくだれもその古い記憶をよび起すのに苦しむだろう。それほど、整った、美しい、あかるい店舗の羅列をその両側がもつにいたったのである。ことにその下総屋(しもふさや)と舟和との大がかりな喫茶店(というのは、もとよ。あたらない。といっても、そもそものミツマメホールというのもいまはもうあたらない。ともにその両方のガラスの球すだれを店さきに下げたけしき~この頃の暑さにむかってのその清涼なけしきがいまはまれにしかみられない「氷店」といった感じをわたしに与えるのである)のすさまじい対立は「新しい浅草」の繁栄とそれに伴う無知なよろこびとをいさましく物語っている。 ― 下総屋は「おかめ」の甘酒から、舟和は芋羊糞製造から、わずかな月日の間に、いまのようなさまにまでそれぞれめざましく仕出したのである。
 ……が、仕出したということになると、わたしの十二三の時分である、前章に書いた川崎銀行の角、際物師の店の横にめぞヅこ鰻をさいて焼く小さな床見世があった。四十がらみの、相撲のようにふとった主人が、年頃の娘たちと、わたしより一つ二つ下のいたずらな男の子とを相手に稼業していたC外に、みるから気の強そうな、坊主頭の、その子供たちにおじいさんと呼ばれていた老人がいたが、そのうちどうした理由かそこを止し、広小路に、夜、矢っ張その主人が天ぷらの屋台を出すようになった。いい材料を惜しげもなく使うのと阿漕(あこぎ)に高い勘定をとるのとでわずかなうちに売出し、間もなく今度は、いまの「区役所横町」の徳の家という待合のあとを買って入った。— それがいまの「中清」のそもそもである。
 ついまだそれを昨日のようにしかわたしは思わないが、広小路のあの「天芳」だの仲見世の「天勇」だののなくなったいま、古いことにおいてもどこにももう負けないであろう店にそのうちはなった。が、そこには、その横町には、さらにまたそれよりも古い「蠣(かき)めし」がある 。
 — 下総屋と舟和をもし、「これからの浅草」の萌芽とすれば、「中清」だのそこだのは「いままでの浅草」 の土中ふかくひそんだ根幹である…・

     四

「ちんやの横町」のいま「衆楽」というカフェエのあるところは「新恵比寿亭」という寄席のもとあったところである。古い煉瓦づくりの建物と古風なあげ行燈との不思議な取合せをおもい起すのと、十一二の時分、たった一度そこで「白井権八」 の写し絵をみた記憶をもっているのとの外には、その寄席について語るべき何ものもわたしはもっていない。
なぜなら、そこは、わたしが覚えて古い浪花ぶしの定席だったからである。— その時分わたしは、落語も講釈も義太夫も、すべてそうしたものの分らない低俗な手合のみの止むをえず聞くのが浪花ぶしだとおもっていた。そう思ってあたまからわたしは馬鹿にしていた。—  ということはいまでも決してそうでないとはいわない。
(ついでながら、わたしの始終好きでかよった寄席は「並木亭」と「大金亭」だった。ともに並木通りにあって色もの専門だった。- 色もの以外、講釈だの浄瑠璃だのとはごくまれにしか足ぶみしなかったわたしは、だから、吾妻橋のそばの「東橋亭」、雷門の近くにあった「山広亭」、「恵比寿亭」、そうした寄席にこれという特別の親しさをもっていなかった — が「山広亭」、「恵比寿亭」とおなじく、いまはもう「大金亭」も「並木亭」も、うちよせた「時代」の波のかなたにいつとはなしすかたを消した。残っているのは「東橋亭」だけである。)
 いまでこそ「衆楽」をはじめ「三角」あり、「金ずし」あり、「吉野ずし」あり、ざったないろいろの飲食の場所をそこがもっているが、嘗ては、はえないしもたやばかりの立並んだ間に、ところどころうろぬきに、小さな、さびしい商人店 — 例えば化粧品屋だの印判屋だのの挟まった……といった感じの空な往来だった。食物店といってはその浪花節の寄席の横に、名前はわすれた、おもてに薄汚れた白かなきんのカーテンを下げた床見世同然の洋食屋があるばかりだった。1なればこそ、日が暮れて、露ふかい植木の夜店の、両側に、透きなくカンテラをともしつらねたのにうそはなかった。— 植木屋の隙には金魚屋が満々と水をみたした幾つもの荷をならべた。虫屋の市松しょうじがほのかな宵闇をしのばせた。燈籠屋の廻り燈寵がふけやすい夏の夜を知らせがおに、その間で、静かに休みなくいつまでもまわっていた。
 「さがみやの露地」「浅倉屋の露地」ともにそれは「広小路」と「公園」とをつなぐただ二つの……という意味は二つだけしかないかなめのみちである。そうして「さがみやの露地」には、両側、すしや、すしや、すしや……ただしくいえば天ぷら屋を兼ねたすしやばかり目白押しに並んでいる。まぐろのいろの狂潤のかげにたぎり立つ油の音の怒涛である。
 - が、嘗てのそこは、入るとすぐおもてに粗い格子を入れて左官の親方が住んでいた。
その隣に 「きくもと」 という待合があった。片っぽの側には和倉温泉という湯屋があり煙草屋を兼ねた貸本屋があった。
 ……そこで、一段、みちが低くなった。
 あとは、両側とも、屋根の低い長屋つづき、縫箔屋だの、仕立屋だの、床屋だの、道具屋だの、駄菓子屋だの、炭屋だの、米屋だの……あんまり口かずをきかない、世帯じみた人たちばかりが何のたのしみもなさそうに住んでいた。—と、わたしは、その露地のことを七八年まえ書いたことがある。 — が、そのときはまだ和倉温泉はあった。かたちだけでもいま残っているのはその途中にあるお稲荷さまの岡だけである。
 で、「洩倉綿の路地」は — 「公珊劇物近遺」の下に「食通横町」としたいまのその露地は……

『浅草風土記』 中公文庫



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妖精の系譜 №49 [文芸美術の森]

ネズビッドの「サムアッド」、トラヴァースの「メアリー・ポピンズ」

      妖精美術館館長  井村君江

 イーデイス・ネズビット(Edith Nesbit一八五八~一九二四)の『砂の妖精』(一九〇二)では、バスタブル家の五人の子供、シリル、アンシア、ロバート、ジェーン、そして赤ん坊の、ヒツジちゃんの兄妹が、昔は海岸であった丘のてっぺんの家に引っ越して、ある日砂を掘って遊んでいると、突然砂の中から不思議な生きものが現われる。一日に一つの願い事をかなえてくれると言うので、子供たちは絵のように美しくなったり、古い金貨をもらったり、羽根がはえて空を飛んだり、願うことが実現して大喜びであるが、日暮れになるとその魔法の力は消えるので、てんやわんやとなる。この不思議な生きものはサミアッドという砂の妖精であった。
 「その目はカタツムリのようで、長い触角の先についており、望遠鏡のように出したり引っ込めたり動かせます。耳はコウモリの耳のようです。ずんぐりした身体はクモに似て、厚く柔らかい毛皮で覆われています。すねにも腕にも毛がはえ、手足はサルのようです」と、いわば小動物と昆虫との混合のような姿をしている。こうした容姿は不気味で不恰好なダーク・エルフで、ゴブリンやボギーにも似通っている。前世紀の生き残りと自称しており、食べ物については、こう言っている。
 「わしの時代には、ほとんど誰だってプチログクチル(ワニのようでもあり、鳥のようでもある)を朝ご飯に食べた」、「プテロダクチルを焼き肉にすると非常にうまかった」。
 また、「イクチオサウルスも食べた」と言っているが、これは古代の恐竜のようなものらしい。こうした言葉で砂の妖精は恐竜時代にたくさん存在していたことが示されている。
 「当時は砂の妖精が山ほどおった。砂の妖精をみつけると願い事をかなえてくれる。だから人間どもは、朝早く男の子を海辺にやり、その願い事をかなえてもらっていた」。
 昔は願い事をかなえてくれたようであるが、その魔法の力はサミアッドになるともう衰えており、日暮れと共に力は消えるという一定期間だけ効力をふるうものになってしまっている。サミアッドはネズビットの他の作品『お守り物語』に再び登場するが、ここではもはや魔法を使うことはなく、子供たちに古道具屋で石のお守りを買わせるが、これは一つの石の半分で、残りの半分と一緒にすれば、どんな災害からも守ってくれるという魔力を発揮する石である。子供たちがお守りを東に向けその名を唱えると、八千年前のエジプトやバビロンに連れて行ってくれ、また未来の美しい国へも連れて行くという設定になっていて、この石の前ではサミアッドの存在は薄くなっている。しかしネズビットの作り出した容姿性質と共に特色ある砂の妖精サミアッドは、現代の創作された妖精のうちでも際立ったものの一つであろう。
 平凡な日常生活を営む子供たちの中に突然「魔法を使うもの」という非現実的なものが入りこんできて、両者の関わり合いや食い違いから、さまざまな事件が展開していくという設定は、ネズビットもパメラ・トラヴァース(Pamer Travers(一八九九~一九九六)の物語も同じであり、前者はサミアッドという非現実的な不気味な存在であるのに対し、後者はメアリー・ポピンズという現実の世界のどこにでもいそうな女性である。「メアリー・ポピンズはわたしの生活なのです」とパメラ・トラヴァースは自伝の中で語っているが、オーストラリアに生まれイギリスに暮らした作者のなかには、ケルトの想像力と幻想を好む血が流れている。
 メアリ1・ポピンズは、バンクス家の二人の子供ジエインとマイケルの世話をする乳母として雇われるが、銀ボタンのついた青い上着を着て、きちんととりすました姿で、固い麦わら帽子をかぶり、オウムの柄がついた傘を広げてどこからともなく東風にのって、空から桜通り十七番地のバンクス家にやってくる。鞄の中からさまざまなものを出したり、手すりを上にのぼっていったりということで、普通の乳母とは違う力を持っているということがわかってくる。
 メ/リー・ポピンズは、子供に対して献身的である。身の回りの世話をし、散歩に連れて行き、病気にならねようラムパンチを飲ませたりする。子供を守護し育成するということは、妖精の分類から言えば、アーサー王伝説で赤ん坊のランスロットを騎士に育てた妖精レディ・オブ・ザ・レイクのような「フエ」の性質で、ここでは人間に対して献身的に奉仕する。
 メアリー・ポピンズは舗道に色チョークで描いた絵の中や、飾り皿に描いてある風景の中にボーィフレンドやバンクス家の子供たちと一緒に入って行って遊び、また現実に帰ってくる。大人たちは信じず、子供たちも夢の中の出来事ではなかったかと思う。しかし、絵の中にそれまでなかった「M・P」とイニシャルを刺繍した赤と白のチェックのスカーフが落ちていたりする。メリーゴーランドの木馬で空を飛んでいったり、笑い出す中毒のおじさんとお茶を飲みながら笑いころげると、みな風船のようにふくれて天井にあがって行ってしまうが、悲しいことを思えば縮んで落ちるなどする。こんなふうに現実と断絶した次元で不可思議なことが起こるのではなく、現実に非常に近いところで不思議なことに何気なく出会う形で、メアリー・ポピンズの魔術は使われている。
 メアリー・ポピンズは、乳母や家庭教師が休暇を取るように、ときどき姿を消してまた戻ってくるが、最後には空へ帰って星になってしまう。大人たちは「新しい星を発見、奇蹟だ」と思い、望遠鏡をのぞくように子供たちに言うが、子供たちはメアリー・ポピンズがメリーゴーランドに乗り、木々の棺を離れ星空に向かってのぼって行き、光の輪の中の小さい黒いしみ、すなわち星になったことを知っていた。その星をよく見ると、麦わら帽子に銀ボタンつきの青い上着、オウムの柄の傘を持ったメアリー・ポピンズが、宵 の明星になって光っていたということで物語は終わる。
 歯がはえるまでの赤ん坊は、月の光と話をしたり、小鳥の声が理解できるという設定は、ピーター・パンと小鳥の島ネヴァネヴァランドの関係を想起させる。バンクス家の双子の赤ん坊ジョンとバーバラはいつも小鳥のために、パンをこぼしておくのに、その親切な行為が大人たちにはわからず、二人は行儀が悪いとしかられるのである。メアリー・ポピンズにはそれがわかっている。あるとき、双子には小鳥の言葉がわからなくなってしまう。それは歯がはえてきたからであった。「もう小鳥とはお別れだ」と双子の赤ん坊たちは話し合う。このことはピーター・パンの「人間の赤ん坊は生まれる前は小鳥だった」ということと、非常に類似しており、羽根で自由に空を飛んでいく小鳥のように、無垢な幼児の心は自然物と同じであり、妖精を感知することもできるということを語っているようである。しかし大人にはメアリー・ポピンズのやることがわからないということは、大人は自然に対する感知能力が鈍くなっていることを示していよう。
 現代の子供たちが自然に妖精の国へ行く時の橋渡し役の妖精として歓迎するのは、メアリー・ポピンズであろう。羽根がはえていたり、人間界に現われてはすぐ消えてしまう遥かな妖精の国の住人ではない。おしゃれでつんとすまし、うぬぼれも強く恋もするという愛すべき美しい若い乳母である。しかし子供たちにフェアリー・テイルを語って聞かせるだけではなく、大人たちにはわからないフェアリーランド、木や風、月の光や小鳥たちと自在に交流し、暖炉の上のお皿の風景で遊べるという身近な次元にあるもう一つの国へ、子供たちを実際に連れて行ってくれるのである。伝承物語の中で妖精の国へ行った者は、時間の流れの違いから、この世に戻ったとき、老化現象に襲われるか、灰と化すかしているが、バンクス家の子供たちは異次元の世界を、何の変化もこうむらず自在に行き来している。メアリー・ポピンズは現実の絆を断ち切り、すぐさま容易に次元の異なる世界へ飛翔する子供の夢の美しい案内人とも言えようか。

『妖精の系譜』 新書館



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石井鶴三の世界 №232 [文芸美術の森]

塑像骨組み2点 1951年

       画家・彫刻家  石井鶴三

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塑像骨組み 1951年 (202×143)
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稲葉の塑像骨組み 1951年 (202×143)

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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』 形文社


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武州砂川天主堂 №24 [文芸美術の森]

第六章 明治七年・八年・九年 6

            作家  鈴木茂夫

八月十日、武州・砂川村。
 「竹内さん、おはようございます」
 午前十時過ぎに、ジェルマンが道場に現れた。屈託のない笑顔だ。
 稽古着をつけた二三十人の子どもたちが竹刀をふるっている。
 寿貞は、子どもが竹刀で打ち込んでくるのを受け止めると、
 「横澤からまっすぐ来たのかい」
 「夕べは下壱分方に泊まりました」
 「きょうは何の用事」
 「私の用事は、いつも一つだけです」
 寿貞が少し意地悪く
 「その;だけの用事は何なの」
 ジェルマンには冗談が通じない。
 「神様の話をしたいのです。神様の話を聞いて欲しいのです」
 「ジェルマン、あなたの用事は分かっているよ。ところで誰に話すの」
 「ここにいる竹内さんの、生徒の子どもたちに、話をさせてください。とてもうれしいです」
 「なるほどね、君のことは、源五右衛門さんも知っているし、君の用事も分かっている。稽古が一段落したら、話をしてもらおう」
 ひとしきり、子どもたちが打ち合いに励む。
 寿貞が、        
 「よおし、稽古はそれまでだ。竹刀を片付けて正座しょう。これからこの神父さんが話をしてくれる」
 「みなさん、こんにちは。私はジェルマン・テストヴィド」です。」
 子どもたちは笑った。聞き爛れない口調だからだ。ジェルマンの日本語は、普通に話す限り、不自由ないのだが、口調だけは、外人特有のものだからだ。
 「私は、みなさんに一人の人のことをお話ししたい。イエス・キリストと言います。イエスは人ですが、神様でもあります」
 「その人、神様が人間に化けたの」
 一人の男の子が、不思議そうに声を出した。眼の大きい丸顔だ。
 「それはおもしろい質問です。あなたのお名前はなんと言いますか」
 「俺は島田角太郎、年は十二歳」
 「角太郎さん、化けたのではありません。神様には姿がありません。姿のないものを知るのは難しいです。ですから、神様は、たった一人の人を子どもとして、この世に送り出したのです。イエスは、人間の婆をした神様ですから、誰もが神様の言葉を聞くことができました」
 「なんだ、生き神様なんだね」
 角太郎が口をはさむ。
 「生き神様は、人間が神様になったのでしょう。でもイエスは、神様が人間の姿として送り出したのです。でも今は、生き神様と考えていてもいいですよ」
 「イエスって変わった人だね」
 「イエスの家族のことから話しましょう」
 子どもたちは、息をのんで話のはじまりを待つ。
 「今から二千年ちかい昔、ユダヤの国のナザレの町にマリアと言う一人の娘がいました。マリアは、親戚の若者ヨゼフのお嫁さんになることになっていました」
 「ユダヤの国ってどこにあるの。ナザレの町はどんな町」
 角太郎が質問する。
 「ここから西の方へどんどん行くのです。船に乗ると四十日ぐらいで着くでしょう。いいですか、ある日、神様のお使いである天使のガブリエルが、姿を現して『あなたは神様からお恵みを頂いたのです。あなたは男の子を産みます。そのこにイエスと名前をつけなさい。その子は偉大な人です』マリアは驚きました。マリアは天使に尋ねました。『私はお嫁にも行っていないのに、なぜ母親になるのですか』すると天使は答えました。『神様があなたにはたらいてあなたの体に神の子がおなかに宿ったのです』 マリアは答えました。『神様のなさるようにしましょう』その言葉を聞くと、天使は静かに姿を消しました」
 「俺は父ちゃんと母ちゃんの間から生まれたんだ。娘が勝手に母ちゃんになるってのは、分かんねえ」
 「角太郎さん、父ちゃんと母ちゃんの間から、子どもが生まれる。あなたもそうだ。私もそうです。でもまだ嫁に行っていないマリアに、神様がはたらいたのです。父ちゃんは神様。だからイエスは神様の子なのです。それからまもなくマリアはヨゼフのお嫁さんになりました。そのころ、ユダヤの人は、それぞれの生まれ故郷へ行って住民登録をしなければなりませんでした。ヨゼフとマリアは、遠くにある故郷ベツレヘムへ向かいました。ペツレヘムの町は、故郷へ戻ってきた大勢の人で賑わっていました。宿屋は混んでいて、部屋はありません。どうにか町外れの馬小屋を借りることができました。その夜、マリアは、男の子を産みました。ちょうどその時、近くの草原で、ヒツジを飼っている男たちがいました。突然、空が明るくなりました。みんな驚きました。すると神様のお使いである天使が姿を見せ、『人びとを救うお方が産まれたのだよ。みんなで、馬小屋の中で寝ている赤ちゃんを見てくるといい』と言って姿を消しました。ヒツジを飼っている男たちは、馬小屋を訪ね赤ちゃんを見たのです。ヨゼフとマリアは、天使が言ったようにこの赤ちゃんをイエスと名付けました。そのころ、ユダヤの国の東にあるベルシアの国から、三人の学者が、ユダヤの国の都エルサレムにやってきました。『私たちは、ユダヤの王が産まれたことを示す星の輝きを見たから、その子を拝みに来たのです』 三人の学者は、ベツレヘムで馬小屋を訪ね、イエスを拝み、帰って行きました。三人の学者の話を聞いた、ユダヤの王は、自分以外に、ユダヤの王が産まれたのは許せないと、ベツレヘムと近くの村にいる二歳以下の男の子をみな殺しにします。しかし、イエスは無事でした。ヨゼフの夢に天使が現れ、ヘロデ王が男の子を殺そうとしている。すぐにエジプトに逃げなさいと伝えたため、イエスと両親は、すぐさまエジプトに逃れたからです」
 「ウソと本当が入り交じったような不思議な話だねえ」
 角太郎が、つぶやいた。
 「そうです。不思議な話ですよ。これはウソのように思える本当の話なんです。私は、このイエス様を信じているのです。このあと、イエス様は、私たちに何が本当の生活なのか、私たちは、何を守らなければならないかを教えてくれました。そして不思議なことも見せてくれたのです。きょうはここまでにしておきましょう」
 声を出したのは、角太郎だけだった。他の子どもたちは、あっけにとられていた。

『武州砂川天主堂』 同時代社



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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №104 [文芸美術の森]

           東洲斎写楽の役者絵
         美術ジャーナリスト 斎藤陽一

第11回 写楽・第3期の画風

 寛政6年11月、写楽は第3期の作品を描きます。
 この時、都座、桐座、河原崎座の三座がおこなった興行は下図の演目。

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 なんとこの時には、版元・蔦屋重三郎と写楽は、全部で58点という沢山の役者絵を刊行している。短期間に驚くほどの多作です。写楽の疲労もかなりのものだったでしょう。画風も変貌します。

 これを、どのように見るべきか?
 蔦屋の挽回策と見るべきか?それとも焦りと見るべきか?
 第3期の「役者絵」の画風の変化や特徴を点検してみましょう。

≪第3期の全身像≫

 第3期では、「細判・全身像」が主体で、全58点中、47点あります。小さな「細判」を増やすことで制作コストを抑えようとしたのでしょうか。

 第3期の「細判・全身像」を三枚、並べてみます。(下図)

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 注目すべきは、役者の全身像の背景に、大道具などの具体的な物が描かれていることです。たとえば:
 左図では竹藪に卒塔婆、道標。
 中央図では梅の木。
 右図では辻堂の建物。いずれも、より説明的な要素を加えていますね。

 背景の色も、第1期の「黒雲母摺り」、第2期の「黄褐色の地色」に比べて、第3期では場面に応じて多様化しています。

 落款も、第1期、第2期では「東洲斎写楽」と書いていたのを、第3期では、背景に描きこみが多くなったせいか、ただ「写楽画」とだけ記されている。

 第3期の作品をもっと挙げてみると・・・(下図)

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 左側の2枚は「立ち回り」の場面。
 右側の2枚は、暗闇の中で無言の探り合いをする動作、いわゆる「だんまり」の場面。いずれも、芝居の「さわり」の場面であり、役者の演技の見せどころです。

 また、第3期では、踊りの場面も多く描かれています。(下図)

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 これらは、いずれも役者たちが華やかに踊る場面です。このような「動き」や「変化」をつけることで、世間にアピールしようという狙いなのか?

 このように、第3期の「全身像」では、芝居の「さわり」の場面や「見せ場」を選んで描いていることが見てとれます。売れ行きを考慮したのかも知れません。

≪第3期の大首絵≫

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 第3期には、「大首絵」も11点描かれましたが、いずれも大判よりもひと回り小さい「間版」(あいばん。33×23cm)であり、人気役者中心となっているので、これらは客たちに贔屓の多い役者のブロマイド用という狙いがあったのでしょう。

 しかし、上図を見るとお分かりのように、どこか間延びした感じで、役者の存在感も希薄、第1期「大首絵」と比べると、迫力不足ですね。
 さらに、写楽は、第1期、第2期、第3期を通じて、同じ役者を描いているのですが、それらを並べてみると、各舞台で役柄は違うのに、すべて同じ顔つきで描いていることが分かります。

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 例えば上図の3枚はいずれも「二世瀬川富三郎」ですが、役柄は違うにもかかわらず、顔つきもその向きもほとんど同じですね。
 つまり、第1期で作り出した顔の造形を、そのあとの絵にも「パターン」として使っている。これは、いわば「顔の記号化」であり、どうやら写楽は、役柄に合わせて顔の表情を自在に変化させるということが出来なかった、と見ることが出来そうです。写楽はだんだんと行き詰まりを見せているのを感じます。
一時、写楽「北斎説」や「歌麿」説が提起されたこともありましたが、北斎や歌麿が描いたのなら、こんな具合にはならないでしょう。
 第3期作品も残存数が少ないのは、おそらく売れ行きが芳しくなかったからではないかと考えられます。

 次回は、写楽最後の第4期作品を紹介します。

(次号に続く)

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子規・漱石 断想 №3 [文芸美術の森]

百七文字墓碑銘 結びは「月給四十圓」  松山子規会 栗田博行(八荒)
       (大江健三郎さん追悼の気持ちから、予定を変更しました)

おことわり
   もう半世紀近く昔のことになります。大江健三郎さんから「子規をアクチュアルに」というアドバイスを戴いたことがありました。それは子規論だけでなく、筆者の仕事人生に影響するような指針となった気が、今しています
  今回からは、日清戦争従軍という行為の子規の心底にあったものを追及する旨予告しましたが、三月三日の大江さんのご逝去にともない、上記の内容に変更いたします。
 昨年四月、筆者が松山子規会に入会に寄稿した文章で、後半に大江さんの子規観に触れています。大江さんは、坪内捻典さんや司馬遼太郎さんとともに、子規を日本人の精神史に重要なひとりとする方でしたが、筆者が企画したNHK松山時代の子規関連番組に度々出演してくださり、懇篤なご指導をたまわったのでした。
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百七文字墓碑銘 結びは「月給四十圓」 (松山子規会誌174号・寄稿)

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 もう四十年を超えて昔のことですが、NHK松山局放送部に勤務していた私は、「松山局開局四十周年」「子規記念博物館開館」記念と銘打って、えひめ教養講座「人間・正岡子規」というシリーズを企画・提案しました。企画は採択され、教育班という五人のチームが二年間制作を担当しました。
 昭和五十六年一月の第一回放送を、「月給四十円―墓碑銘に込めたもの」と題したのでしたが、その番組は神奈川県が主催した地方の時代映像祭というイベントで特別賞を受賞したのでした。「文芸・教養」ジャンルで講座と銘打ち、演出形式としても講師・坪内稔典さんと福本儀典アナウンサーの対談という地味この上もない三〇分のローカル番組が、一九八〇年代という時代の中にあってプライズを授かつた点が、ユニークだったと思います。そのような地味な作品の受賞は、子規という存在が、時代を超えて日本人に訴える力を持っていることのあらわれの一つだったと、今もつくづくと思っています。

ご承知のとうり、わずか百七文字からなる子規の有名な自筆墓碑銘は、なぜか「月給四十円」と結ばれています。本名と筆名を小気味のいいリズムでならべて自分の生涯を最簡潔に まとめ、その上で、胸張って宣言するように「日本新聞社員タリ」と結んだ子規は、「明治三十□年□月□日没ス 享年三十□」とまで書き加えた上で、なぜもう一言「月給四十円」と書き足したのか ? 3-2 のコピー.jpg

 子規は知らないことだったでしょうが、親友の夏目漱石は熊本の五高で百円の月給をとっていたころの、その額なのです。それをなぜわざわざ、自分の生涯をわずか百七文字にまとめた文章の結びの言葉にしたのだったか。対談は、その疑問を中心の主題として展開したのでした。

 月一回二年にわたったこのシリーズには、坪内さんと平行して司馬遼太郎さんも、「『愛媛の人に子規の人間性をアピールする』というような企画ならいくらでも協力する」と言ってくれ、シリーズの講師として坪内さんと交代で連続出演してくれることになりました。
 こちらは司馬さんのひとり語りでもあり、各回の主題の決定もお話の流れも司馬さん任せだったのですが、その第一回で司馬さんも「月給四十円」の結びに触れていました。その中で、ニッコリと笑顔を浮かべなながら「半紙に余白ができて…つい、武家の俸禄意識が出たのかな」と語った司馬さんの笑顔が今も思い出されます。
 それはそれで司馬さんならではの大人の解釈として今も私は好きなのですが、坪内さんと制作チームで組み立てたお話は、また別の角度に掘り下げたものになりました。 

 若い日の子規は、必ずしも「金銭」に関してきちんとした態度を持った人間ではなく、「人の金はおれの金といふやうな財産平均主義」(仰臥漫録)を標榜し、友人・夏目漱石に「恩借の金子、まさに当地にて使い果たし候」3-3 のコピー.jpgといった手紙を書いていたりもする、明治のおおらかな一書生であつたことを、一旦紹介します。 

 その上で、切実で深刻な体験をいくつも重ねた後、「ある雪の降る夜、(日本新聞)社より帰りがけ蝦暮口に一銭の残りさへなきことを思ふて泣きたい事もありき(略)、以後金に対して非常に恐ろしきような感じを起こし 今までにはさほどにあらざりしがこの後は一、二円の金といへども人に貸せといふに躊躇するに至りたり」と記すにいたる子規の変化を押さえていったのです。
 金銭観の成長を通して、青年から大人への子規の生活人としての成熟が進行したことを指摘したわけです。そして、東京根岸の「3DK」で、母・妹とのささやかなくらしの自立を「日本新聞社員」として成し遂げた安堵と小さな誇りが、「月給四十円」には込められている、と結論したのでした。
3-4.jpg 「俳聖にして文学史上の巨人」とだけ思い込んでいた「あの人」に、市井に生きる万人に共通のこんな面があつたのか…寄せられた反響にはそんな感想が、共通して溢れていました。授賞式で、審査員の一人・大島渚さんが「栗田さん、『父の墓』のところで泣いちやったヨ」と声をかけてくれました。子規には珍しいこの新体詩で、命の残りを想いはじめた子規は、家名を上げることもなく、父の墓を草生すままに置くことになりそうな自分を予感して、「父上許し給ひてよ。われは不幸の子なりき」と繰り返しています。福本アナウンサーの朗読の力と、夜の正宗寺の小さな父隼太のお墓の映像が相侯って、そのリフレインは、墓前で慟哭する子規の姿を感じさせるような強いシーンになっていました。
 坪内稔典さんは、早世した父の記憶を持たず、人聞きだけで「大酒家にして意地悪」「花火遊びの末に火事を出したひと」などと若書きしていた子規が、松山藩の下級武士として明治維新に前後する時代の中を死生した父隼太の、「つらさと鬱屈」に気づき、共感できるまでに成長していた証として、この新体詩を引用したのでした。

 そして司馬さんです。司馬さんの第一回は「子規と金銭」と題されていました。その中で司馬さんは、「月給二十五円をくれる」ことに迷いを見せて朝日新聞への転社を相談した弟子・寒川鼠骨に、子規が、「アンタ、百円の月給をもろうて百円の仕事をする人より、十円の月給をもろうて百円の仕事をする人の方がエライのぞな」と諭したというエピソードを、愉快極まりない表情で話されました。
 司馬さんも、坪内さんとアプローチは違っても、「日本新聞」の社員として病床から大きな仕事を成し遂げながら、「月給四十円」であることを「以て満足すべき」と記した子規の心意を、日本人の生きる姿勢の上で大切と見るという点で、そっくりだったのです。

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 投資家たちの投じる巨大なマネーが世上を揺るがせ続け、一方では仕事に就かない(就けない)大量の若者達があふれたりもする…番組を放送したころからしばらくしてオイルショックに見舞われもした日本でした。時代のそんな潮流の中で、司馬・坪内おふたりとも「仕事と金銭への日本人のあるべき態度」という根本的な次元で子規の3-7 のコピー.jpg生き方に焦点をあてて、お話の内容を組み立てられたのでした。

 司馬さんの最晩年(平成八年)のころ、ニッポンは戦後何回目かの土地バブルを迎えていました。「これはイカン」と悲鳴をあげるように発言する司馬さんを、週刊誌などでよく見かけました。司馬さんがなくなった日に新聞に発表された「日本の明日を作るために」という文章は、こう結ばれていました。 

      ・・・日本国の国土は、国民が拠って立ってきた地
      面なのである。その地面を投機の対象にして物狂
      いするなどは、経済であるよりも、倫理の課題で
      あるに相違ない。ただ、歯がみするほど口惜しい
      のは、 
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 たとえば、マックス・ウェーバーが一九〇五年
 に書いた『プロテスタンティズムの倫理と資本
 主義の精神』のような本が、土地論として日本
 の土地投機時代に書かれていたとすれば、いか
 に兇悍のひとたちも、すこしは自省したにちが
 いなくすくなくともそれが終息したいま、過去
 を検断するよすがになったにちがいない。…略
  土地を無用にさわることがいかに悪であった
 かを思想書を持たぬままながら ―  国民の一人
 一人が感じねばならない。でなければ、日本国
 に明日はない。一九九六(平成八年二月十二日)

 明治三十年代、後輩の若者に「アンタ、百円の月給をもろうて百円の仕事をする人より、十円の月給をもろうて百円の仕事をする人の方がエライのぞな」と諭した人間子規を、「この上もなく愉快」といった表情を浮かべて語りかけた司馬さんは、その同じハートから、生涯の最後にこんな悲痛な叫び声を上げていたのでした。「でなければ、日本国に明日はない。」…とまで。
 司馬さんが、日本人への遺書のようにこんな言葉を残していたことを知った後、司馬さんが愛して止まなかった子規が、フランクリンの伝記を読んでいたことを知り、驚いたことがありました。
 年代から言って、司馬さんのいう「思想書」=「『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のような本」に子規が接したことはあり得ないのですが、マックス・ウェーバーがその説を打ち立てるひとつの源としたフ3-9.jpgランクリンの伝記は、すでに原文か翻訳されていたのか、子規の枕元に届いていたらしいのです。
 節制、沈黙、規律、決断、節約、勤勉、誠実などの徳目への努力を語ったフランクリンについて、最晩年の病床にあった子規はこんなことを公言していたのでした。

「…日本に之を読んだ人は多いであろうが、余の如く深く感じた人は恐らく外にあるまいと思ふ。」 
      (「病床六尺」・明治三十五年九月一日)

   実は、このえひめ教養講座「人間・正岡子規」準備の段階で、「子規を、アクチュアルに読み解きたいですね」と、大江健三郎さんにアドバイスを受けたことがありました。坪内さんと平行して出演するもう一人のシリーズ講師として、司馬さんの前に出演交渉をした時のことでした。前々年・昭和五十四年に、松山局発全国向けのETV番組で「私の子規」と題して子規の生涯を語っていただいたことがあり、「人間・正岡子規」シリーズはその経験から思いついた面がありました。そこで、臆せず厚かましく再度の出演の打診をしたのでした。大江さんは「愛媛ローカルでシリーズとして継続的に、子規のことを…」という企画意図に賛意を表明してくれた上で、「私は前回の出演で語り尽くしました」として再度の連続出演は断られ、その上で二つのことを咳かれました。

3-10 のコピー.jpg 一つは「子規を、アクチュアルに取り上げたいですね…」。もう一つは「もし、子規が今生きていたら、司馬さんのような人じゃないかな…そうだもう一人の出演者、司馬さんにお願いしてみたら…。」と。
 それは、われわれ(松山局制作課教育班の五人)が、司馬さんへの出演交渉を思い立てたきっかけとなりました。坪内さんについては、大江さんははじめて知る人のようでしたが、こちらが持参した坪内さんの子規論の本を物凄いスピードでめくりながら、「いいですね! いいですね!」と熱く共感される風でした。

 後日、大江さんは 前のETV番組「私の子規」出演の時用意された原稿を加筆訂正され、雑誌「世界」に発表されていたことを知りました。そのタイトルは、「子規はわれらの同時代人」となっていました。「子規を、アクチュアルに」とは、そういう事だったんだと納得したことでした。今もなお、坪内・司馬・大江、お三方の子規をめぐる発言の深いところでの一致に、感慨を禁じえません。

 もう一つご紹介しておきたいことがあります。松山市立子規記念博物館の開館は、昭和五十六年四月でした。それに合わせて、松山市の方々が開館記念講演として文芸家協会会長の山本健吉さんを招待されていました。ご紹介してきた「えひめ教養講座『人間・正岡子規』」は、それに先立つ一月からスタートしていましたが、それを知って、NHK松山の協賛事業としての講演を新たに思い付き、司馬遼太郎さんと大江健三郎さんにも「いかがでしょう…」とお願いの打診をして見ました。お二人ともこの依頼を快諾してくださいました。松山に子規記念博物館が3-11 のコピー.jpg開設される意義の大きさをそれだけ感じ取って下さったのだと思います。

 大江さんの講演は「若い人への子規」と題され、会場の若者に、子規が愛着した「せんつば」(八注・箱庭)を作ってみることを呼びかけられたのが印象的でした。日清戦争従軍で広島にいた時自殺してしまった従弟の藤野古白を追想する「古白遺稿」の中で、子規は「せんつば」について古白がしたことをひと言、次のように回想しています。

     ・・・ある時古白余の家に来りて、余が最愛のせんつば(函庭の顆)に
      植ゑありし梅の子苗を盡く引き抜きし時は怒りに堪へかねて彼を打
      ちぬ。母は余を叱りたまひぬ。

3-12.jpg 幼い日、「妹にかばってもらったくらいの弱虫でございました」と八重さんが回想する男の子だった「ノボさん」が、従弟へのこの時の乱暴は、八重さんに叱られるほどだったことが、記録されています。
 このわずか数行に着目され、開館記念の子規博の講演会場に松山の若い人も混じるであろうことを予想して、演目を「若い人への子規」とし、「せんつば」作りの試みを提案された大江健三郎さんでした。
 「せんつば」→ 子供の箱庭→ミクロコスモス→地球と宇宙。そんな風に連想が働いて、いま国連が人類全体の課題としてびかける「SDGs(持続可能な開発目標)」と、大江さんの「せんつば」をめぐる子規のお話が通じる点があると感じています。

  司馬さんの方は、「子規雑感」と題して、子規が成し遂げた俳句・短歌・文章の革新は、文芸の世界を超えて日本の近代にとって大事な「写生の精神」=リアリズム=の創始だったと論旨を広げられました。そして講演を、   「自分の寿命があと二三分あるなら、三分の仕事をしたほうがいい。子規はそういう人でした。」と述べ、「そういうことこそわれわれは継承したいですね。」と締めくくられたのでした。

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絶筆三句(子規記念博物館像)

   ところが司馬さんの「坂の上の雲」の子規の死の場面では、碧梧桐が「君が絶筆」で書きとめたあの糸瓜三句を書き継ぐ壮絶な姿が、実は完全に省略されています。その夜当番だった虚子の眼で子規絶命の姿は描かれ、その描写の中に「子規は辞世をつくらなかったが」という言葉があります。
 どういう事なのか疑問が湧くのですが、司馬さんは、この開館記念講演でその理由を明かしてくれたと思っています。締めくくりの言葉の直前にこんなことを言っておられたのです。
 「自分の寿命があと二三分あるなら、三分の仕事をしたほうがいい。子規はそういう人でした。
 司馬さんは子規の絶筆三句を書き継ぐ姿を、死への覚悟の表れというより、「あと二三分」の命を生ききる人間の営みと感じ取っておられたのだと思います。だから「子規に、絶筆はあっても、辞世はない」と……。講演は、「そういうことこそわれわれは継承したいですね。」と締めくくられたのでした。
 平成8年、司馬さんの訃報が飛び駆った中で、病院に向かう途中での「頑張ります」が、最後の言葉だったことを知りました。
 開館記念講演で来松された山本健吉・司馬遼太郎・大江健三郎お三方の鼎談も企画・放送しました。司会役を大江さんに引き受けてもらいましたが、そのタイトルを「いま子規をわれらに」としたのでした。
(当時NHK松山局制作課勤務 「人間・正岡子規」制作デスク)
………………………‥‥‥………………‥‥‥‥
おわりに
 鼎談のタイトル「いま子規をわれらに」もまた、大江さんのアドバイス「子規を、アクチュアルに…」の反映であったことを、四十四年後の今、あらためて思いなおしています。
戦争と平和・国家と社会の在り方・仕事をすることと金銭への態度・人間と人間の付き合い方…。「子規のあの生き方と遺してくれた文学は、現代を生きていく上で、さらにアクチュアルの度合いを強めていますね…」と冥界の大江さんに呼びかけたい気分です。
「アクチュアル」=「今の時代と世界にあって具体的に参考になる」と愚生は理解しています。そして、大江さんご自身の生き方と遺してくれた文学もまた、アクチュアルであり続けるのだろうと、思いが重なります。子規が東京湾に建つ巨大な平和の像を想像した400年後、と同じような時間のスケールで…。
 子規記念博物館開館の2年前、昭和54年のNHKETV番組「私の子規」に出演してくださり、その仕事が全部終わった時、45分2回分を語り下ろすために用意された下原稿のコピーを制作チームにくださったのでした。後の活字化を予定した「子規はわれらの同時代人」とのタイトルになっていました。その稿に、「私の子規」の出演者として、チーム宛てのメッセージを書き添えてくれていました。

…われわれの共有したデモクラティクなトポスが、あなたたちの新しく大きい仕事に発展してゆくことを希望して…大江健三郎 一九七九年五月二十日

 以後、デモクラティクであることを肝に銘じて現役時代を過ごしたことを、冥界の大江さんに向け報告する次第です。先に冥界に行かれた同じく子規愛の人・司馬遼太郎さんと、お互い初対面とおっしゃる松山で、楽しそうに語り合われたおふたりの姿がよみがえります。
 合わせて、子規関連番組制作チームの担当者で既に冥界の人となられた山崎洋右氏・長澤昭道氏・戸崎賢二氏にも、小文の発表を報告申し上げます。      合掌。
 次回当欄は、7月1日の予定です。予告してきたた「日清戦争従軍という行為の、子規の心底にあったもの」 に戻って考えていきたいと思います。よろしくお付き合いください。

※最後に、大江健三郎さんの子規論考で、筆者が拝読した主なものの収載誌をご紹介しておきます。

   ①「子規はわれらの同時代人」
      大江健三郎同時代論集(岩波書店)10巻 青年へ 56P
   ②「ほんとうの教育者としての子規」
      大江健三郎同時代論集(岩波書店)3巻 想像力と情況 205P
   ⓷「若い子規が精神を活性化する」 子規全集(講談社版) 9巻 851P
   ④「子規の根源的主題系」 子規全集(講談社版) 11巻 599P



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浅草風土記 №1 [文芸美術の森]

雷門以北
  広小路
      
                作家・俳人  久保田万太郎

・・・浅草で、お前の、最も親密な、最も馴染のふかいところはどこだときかれれば、広小路の近所とこたえる外はない。なぜならそこはわたしの生れ在所だからである。明治二十二年、田原町で生れ、大正三年、二十六の十月までわたしはそこに住みつづけた。子供の時分みた景色ほど、山であれ、河であれ、街であれ、やさしくつねに誰のまえにでも蘇生(よみがえ)って来るものはない。— ことにそれが物ごころつくとからの、わたしのような場合にあってはなおのことである。
 田原町、北田原町、東仲町、北東仲町、馬道一丁目。― 両側のその、水々しい、それぞれの店舗のまえに植わった柳は銀杏の若木に変った。人道と車道境界の細い溝は埋められた。(秋になるとその溝に黄ばんだ柳の葉のわびしく散りしいたものである)どこをみても、もう、紺の香の醒めた暖簾(のれん)のかげはささない。書林浅倉屋の窓の下の大きな釜の天水桶もなくなれば、鼈甲(べっこう)小間物店松屋の軒さきの、櫛の画を描いた箱看板の目じるしもなくなった。源水横町(げんすいよこちょう)の提燈やのまえに焼鳥の露店も見出せなければ、大風呂横町の、宿屋の角の空にそそる火の見梯子も見出せなくなった。— 勿論、そこに、三十年はさておき、十年まえ、五年まえの面影をさえさし示す何ものもわたしは持たなくなった。「渋屋」は「ペイント塗工」に、「一ぜんめし」は「和洋食堂」に、「御膳しるこ」は「アイスクリーム、曹達(ソーダ)水」に、おのおのその看板を塗りかえたいま。—そういっても、カフェエ、バア、喫茶店の油断なく立並んだことよ。— 偶々むかし、ひょうきんな洋傘屋あって、赤い大きな目じるしのこうもり傘を屋上高くかかげたことが、うち晴れた空の下に、遠く雷門からこれを望見することが出来たといっても、誰も、もう、それを信じないであろう。しかくいまの広小路は「色彩」に埋もれている。強い濃い「光」と「影」との交錯に溺れている。—ということは、古く存在した料理店「松田」のあとにカフェー,アメリカ(いま改めてオリエント)の出来たばかりの謂いではない。そうしてそこの給仕女たちの、赤、青、紫の幾組かに分れている謂いでも勿論ない。前記書林浅倉屋の屋根のうえに「日本児童文庫」と「小学生全集」の彪大な広告を見出したとき、これも古い酒店さがみやの飾り窓に映画女優の写真の引伸しの貼られてあるのを見出したとき、そうして本願寺の、震災後まだかたちだけしかない裏門の「聖典講座」「日曜講演」の掲示に立交る「子供洋服講習会」の立札を見出したとき、わたしの感懐に背いていよいよ「時代」の潮さきに乗ちうとする古いその町々をはりき。わたしは感じた。—浅草屋は、このごろその店舗の一部をさいて新刊書の小売をはじめたのである。さがみやもまたいままでの店舗を二つに仕切って「めりんすと銘仙」の見世を一方にはじめたのである。が、忘れ難い。—でも、矢っ張、わたしにはその町々がなつかしい…‥
 何故だろう?
 そこには、仕出屋の吉見屋あって、いまだに、「本願寺御用」の看板をかけている。薬種屋の赫然堂(かくぜんどう)あって、いまなおあたまの禿げた主人が、家伝の薬をねっている。餅屋の太田屋あって、むかしながらのふとった内儀(かみ)さんがいつもたすきかけのがせいな恰好をみせている。— 宿屋のふじや、やなぎや、鳥屋の鳥長、すしやの宝来、うなぎやの川松、瓦煎餅の亀井堂、軽焼のむさしや。— それらの店々はわたしが小学校へ通っていた時分と同じとりなしでいまなおわたしをつつましく迎えてくれるのである。—それらの店々のまえを過ぎるとき、いまもってわたしは、かすりの筒っぽに紫めりんすの兵児帯、おこそ頭巾をかぶった祖母に手を引かれてあるいていたそのころのわたしの姿をさびしく思い起すのである。— それは北風の身を切るような夕方で、暗くなりそめた中に、どこにももぅ燈火がちらちらしているのである。— 眼を上げると、そこに、本願寺の破風が暮残ったあかるい空を遠く涙ぐましくくぎっているのである。・・・

     二

 ……広小路は、両側に、合せて六つの横町と二つの大きな露地とを持っている。本願寺のほうからかぞえて、右のほうに、源水横町、これという名をもたない横町、大風呂横町、松田の横町、左のほうに、でんぼん横町、ちんやの横町、—二つの大きな露地とは「でんぼん横町」の手前のさがみやの露地と、浅倉屋の露地とをさすのである。— 即ち「さがみやの露地」は、「源水横町」に、「浅倉屋の露地」は、「名をもたない横町」に、広い往還をへだててそれぞれ向い合っているのである。
 が、「源水横町」だの「名のない横町」だの「大風呂横町」だの「松田の横町」だの「でんぼん横町」だの、それらはすべてわたしの子供の時分には……すくなくもまだわたしの田原町にいた時分まではだれもそう呼んでいたのである。—嘗てそこに松井源水が住んでいたというのをもって源水横町、その横町が「大風呂」という浴場をもっていたのをもって大風呂横町、その右かどに料理店の 「松田」をもっていたのをもって松田の横町(それはまた、その左かどに牛肉屋の「いろは」をもっていた理由でいろはの横町とも呼ばれた)—で、「でんぼん横町」とは「伝法院横町」の謂、「ちんやの横町」とは文字通りちんやの横町の謂である。そういえば誰でも知っている大衆向の牛肉屋「ちんや」の横町である。 — 由来はいたって簡単である。
 このうちいま残っているのは「ちんやの横町」だけである。「ちんやの横町」という称呼だけである。浅倉屋の露地だのたぬきや横町だのに、行きつけのカフェエをもつほどのいまのそのあたりの人たちに 「源水横町」といういい方は空しい響きをしかすでに与えなくなった。それと同時に「これという名をもたない横町」は「川崎銀行の横町」という堂々としたいいかたをいつかもつようになった。わたしのその町を去ったあと、それまでの際物(きわもの)問屋、漬物屋、砂糖屋その外一二けんを買潰して出来たのがその銀行である。いまでこそ昼夜銀行が出来、麹町銀行がまた近く出来ようとしているものの、いまをさる十二三年まえにあっては、そうした建物を広小路のうちのどこにももとめることが出来なかったのである。銀行といえば、手近に、並木通りの浅草銀行(後に豊国銀行)の古く存在するばかりだったのである。— 「大風呂」のすでに失われた今日 「大風呂横町」の名のいつかは昔がたりになるであろうとともに、「松田の横町」の「松喜の横町」と呼びかえられるであろう日のそう遠くないことを、カラリとした感じの、いち早く区画整理のすんだ、いままでより道幅の遥に広くなった往来のうえに決定的にそうわたしは感じた。— いままでの「松田の横町」は外の三つの横町のどこよりも暗く陰鬱だった。— 「松喜」とは「いろは」のあとに出来たこれも大きな牛肉屋である。— そこに、ちんやと、すべてに於て両々相対している。……
 その四つのそれぞれの横町について、これ以上巨密なふでを費すことをわたしはしないだろう。なぜならそれはいたずらにただわたしの感懐を満足させるにすぎまいから。ただ、わたしに、それらのはうぽうの横町で聞いた「はさみ、庖丁、かみそりとぎ」だの、「朝顔の苗、夕顔の苗」だの、定斎屋の銀の音だの、飴屋のチャルメラだの、かんかちだんごの杵の音だの、そうしたいろいろの物音が、幾年月を経たいまのわたしの耳の底にはっきりなお響いている—それらの横町を思うとき、わたしの心はしぐれのような暗い雨にいつもぬれるのである……

『浅草風土記』 中公文庫



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妖精の系譜 №48 [文芸美術の森]

ラスキンの『黄金の河の王さま』、ロセッティの『ゴブリン・マーケット』ほか 2

        妖精美術館館長  井村君江

 クリスティナはまた、アイルランドの妖精詩人と称されるウィリアム・アリンガムと親しい交わりがあり、アイルランドの妖精学者で『妖精神話集』を著したトマス・キートリーを知り、その著書を愛読していた。こうした背景が、妖精の代表的な存在ともいえるゴブリンたちを詩材にとりあげる必然を生んだろうと推定されるのである。
 普通ゴブリンは、ホブゴブリンとかボギーと似た種類で、家つき妖精の一種であり、壁のうしろなどの暗いところに住んでいる。しかし、ここに登場するゴブリンたちは、暗いあやしい雰囲気を持った誘惑者の存在であり、「猫のような、ねずみのような」、「ふくろ熊」、「蜜食いあな熊」と書かれており、「かささぎのようにぴちゃぴちゃしゃべり、ハトのようにホウホウいい、魚のようにスーとすべっていく」というように、描写には韻律が巧みに用いられ詩の効果をあげている。ゴブリンたちはさまざまな動物をかけあわせたような、不気味な姿と行動をする影のような存在になっている。そして人間の心の奥底にある愛と衝動を甘美な誘惑によって突き動かし、破滅に向かわせるリビドー(性衝動)的存在となっている。一般に妖精市場は、丘の彼方に出現し、旅人がそこへ行ってみると、人々のひしめきあいは感じられても、何も見えないという現象であるが、このゴブリン・マーケットは谷間に位置しローラたちはそこへ行くことができるし、また果物だけが売られている点に特徴がある。
 アイルランドの詩人で、『妖精』、『レプラホーン - 妖精の靴屋』など民間伝承の典型的な妖精の容姿と性質を詩に歌ったウィリアム・アリンガムの物語詩『妖精の国で』 (一八六九)の本に、リチャード・ドイルは挿絵をつけた。その可愛らしくコミカルな妖精たちの王国の挿絵は、妖精画の傑作の一つであるが、民族学者のアンドリュー・ラングはこの挿絵を見ているうちに、一つの物語を作ってしまった。それが『誰でもない王女さま』である。舞台はフェアリーランドとマッシュルーム・ランドで、それはバレー・マジカル(魔法の谷)にある。小さなドワーフの王さまがよそへ行っている間に赤ん坊が生まれ、おつきの者たちが、王さまが帰っていらっしゃってから名前をつければいいから、それまで「ニエンテ」(ノーボディ、すなわち「誰でもない」の意)と呼ぶことにしようと決めて、「プリンセス・ニエンテ」と名前がつけられる。それを知らない王さまが、旅先で子供がほしい子供がほしいと言っていると、一人の「小さくて醜いドワーフ」がやってきて、「王さま、そんなに子供が欲しいなら授かるようにしてあげましょう。その代わり、ニエンテをくださいね」と言う。王さまは、ニエンテと言われてもわからず、その魅力的な申し出に嬉しくなり、考えなしに約束してしまう。国に帰り生まれていた自分のかわいい王女が、ニエンテという名前であることを知り、王さまは非常に悩む。しかしマッシュルーム・ランドのプリンス・コミカルがニエンテを救い、結局は結婚してめでたしとなる物語で、「その後二人は幸福に暮らしましたとさ」と結ばれている。
 『黄金の河の王さま』の場合はゲルマン系のダーク・ドワーフで、長いひげのやや醜い小人であったが、『誰でもない王女さま』のドワーフたちは明るくかわいらしく、無邪気にキノコにまたがったり、水蓮の花に隠れたり、ヒユツシャの花にさがって遊ぶライト・エルフである。草原でかたつむりとたわむれ、バッタと戦い、蝶に乗って飛び、小鳥に歌を教えたり、昆虫や小動物たちと共に暮らす小さな妖精たちである。どんぐりの殻に隠れ、こうもりの羽根から洋服を作り、豆の花やクモ の巣、からし種や蛾の君と呼ばれる『夏の夜の夢』の妖精たちと近いが、このオベロン妖精王国がプリンセス・二エンテの物語の背景にあるということは、パックの登場でわかってくる。
 かわいい自分の赤ん坊の王女ニエンデを、それと知らずにあげることを約束した王さまの悩みを解決するのがパックであるが、このパックが自分は「オベロンとティタニアと同じ国からきた」と言っている。妖精王と女王の王国を描くとなると、作家や画家の頭の中には『夏の夜の夢』の世界が必ず浮かんでくることが、このことからもうかがえるようである。しかしながら、絵画の世界から想像力を刺激され、物語を作っていったアンドリュー・ラングの筆致は非常に詩的である。
 ルドヤード・キプリング(Rudyard Kipling一八六五-一九三六)の『プークが丘のパック』(一九〇六)も『夏の夜の夢』が物語の発端になっている。サセックスのロング・スリップという草原に妖精の輪がある。これを舞台にみたてて、ダンとユーナの兄妹が『夏の夜の夢』の芝居の稽古をしている。そこへパックが突然現われる。小さな男の子の姿をし、茶褐色の皮膚で、とんがり耳、しし鼻で、やぶにらみの目、そばかすの顔、いかつい肩をし、うす気味悪い笑いを浮かべており、『夏の夜の夢』のパックがもつホブゴブリンの不気味な面が強調されているようである。このパックの語るところによれば、ヘンリー八世の時代に、宗教革命で、イギリスは混乱に陥った。妖精たちは群れをなし、ロムニーの沼地に押し寄せ、ウイットギフト夫人に、この国にはもうフェアリーは住めないから、船を仕立ててフランスへ逃がしてくれと、カエルのような声で口々に頼んだ。妖精たちはみな旅立っゼしまうが、一人だけ残ったパックはお礼にウイットギフト夫人の子孫には、一代のうち必ず一人は、厚い壁の向こうを見透せる力を与えると約束した。だからウイットギフト夫人の子係である兄妹にはパックが見えたわけである。
 パックは古い昔へ、次々と二人を案内していく。神の刀鍛冶ウイーランドが人間の刀鍛冶となり、不思議な名刀をサクソン人ヒユーのためにきたえる。次にウイリアム征服王の部下であるノルマンの騎士が甲冑で現われ、戦いが展開された。、ローマの百人隊長が姿を現わし身の上話をした。、北国の長城を守るために戦ったり、最後にはジョン王時代のユダヤ人カドミエルが「マグナ・カルタ」の秘話を語った。、イギリス史の有名な出来事の中に二人の兄妹は巻き込まれ、タイムトンネルをくぐつたかのように過去の世界を訪れ種々の冒険をする話である。兄妹が現実の世界から急に時間をこえた昔の世界へ入っていくのは、妖精の輪の中へ入ったからであるが、C・S・ルイスの『ナルこア国』が、子供たちが入っていく洋服箪笥の中に広がっているというように、現実と紙壷のところに非現実が存在し、容易にその次元の壁を越えられるという点が類似している。

『妖精の系譜』 新書館



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石井鶴三の世界 №231 [文芸美術の森]

大谷氏・菊池氏 1951年/三月十三日 1951年

     画家・彫刻家  石井鶴三

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大谷氏・菊池氏 1951年 (200×144)
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三月十三日 1951年 (200×144)

*************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』 形文社


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武州砂川天主堂 №23 [文芸美術の森]

第六章 明治七年・八年・九年 5

           作家  鈴木茂夫

七月二十七日、武州・下壱分方村、砂川村。
 前夜、ジェルマンは下壱分方の作太郎を尋ねた。ジェルマンが訪れると作太郎の自宅は、集会所になる。老若あわせて約三十人の男女が座敷を埋め尽くす。ジェルマンの話を聞きたいと集まってきたのだ。
 ジェルマンは、人びとに親愛感を覚える。故郷の村の農夫と同じ風雪が顔に刻まれているからだ。
 ジェルマンは語りかけた。
 「私たちは、主イエス・キリストを信じます。主イエス・キリストを通して、神を信じます。
 なぜなら、主イエス・キリストは、神の独り子なのです。神はその父です。神は、私たちを深く愛されているからこそ、主イエス・キリストを、この世に遣わされたのです。ですから主イエス・キリストの言葉は、神の言葉です。主イエス・キリストは、神であり、人であるのです。人である主イエス・キリストが、人の言葉で神の言葉を話されたので、私たちは、神を知ります。そして神を信じるのです。神を信じるとはどんなことでありましょうか。神の言葉を、あれこれ言うことではなく、神の言葉が唯一つのものであることを自覚することです。神の言葉が唯一つの正しいことであることを知ることです。神の言葉を書いてあるのが聖書です。分かりますか」
 最前列の老女は、
 「よく分からない」
 そうなんだと合点がいかないで領く顔がいくつもある。ジェルマンも領いた。
 「主イエス・キリストは神の化身です。だから神でもあり、人でもあるのです。こう言えば、分かりますか」
 「神父さん、キリストは神様、人の姿をした神様かね」
 「そうですよ」
 「はじめにそう言ってくれたら、すぐに分かっていたんですよ」
 納得したと領く顔が増えた。
 ジェルマンは、聖書を引用しない。聖書の言葉をかみ砕いて話す。以前に、何度か引用したところ、文言が難しいと、すぐには理解してもらえなかったからだ。
 ジェルマンは続ける。
 「また神の国は、見えるものではありません。あそこにある、ここにあると言えるものでもありません。そうではなくて、神の国は、あなたたち人間の間にあるのです。みなさんの努力や熱意と関係なく、神の恵みなのです。つまり、神が人への愛から、はたらきかけるのです。それにたいして、人が心からそれを感謝し、無条件で受け入れるとき、神の恵みが届きます」
 ジェルマンの熱意を汲み取って領く多くの笑顔があった。
 説教の集いを終えて、ジェルマンは満ち足りた眠りについた。
 朝の食膳を囲みながら、ジェルマンは、
 「作太郎さん、きょうは、神の声を聞きながら、足の向くままに、一人でどことなく歩いてみようと思います」
 竹筒の水筒を腰に巻きつけ歩きはじめた。日差しが強い。麦の収穫が終わった畑に切り株が広がる。気がつくと広い河岸に立っていた。渡し船が行き来している。船待ちをしている農夫に尋ねると、川は多摩川で、ここは日野の渡し場だという。船で対岸へ渡ると丘陵になっている。そこは柴崎村だった。
 さらに北に向かう。小一時間も歩いたろうか、大勢の子どもたちのかけ声というか、叫び声が聞こえてきた。足音も聞こえる。それに誘われて広い家に近づいた。
 三十畳はある板の間を開け放ち、子どもたちが防具をつけ、竹刀を振り回し、相手に向かって打ち込みの稽古をしているのだ。
 ジェルマンは、縁側のそばに立って、その光景に見入った。
 竹刀を片手に、その稽古を監督している袴姿の男が近づいた。
 「今日は、あなたは誰ですか」
 「私は、キリスト教の神父です。テストヴィドと申します」
 「あなたの着ている服から考えると、あなたはパリ外国宣教会の…⊥
 ジェルマンは驚いた。自分の所属団体を知っている人物がいるのだ。
 「そうです。そうです。その通りです。でも、どうしてパリ外国宣教会とわかりますか。あなたは誰ですか。そしてここは何ですか」
 男は笑顔を見せた。
「私は竹内寿貞です。ここは村の学塾で、私が塾長です。私は、マラン神父とミドン神父のいた積荷橋教会にいました。だからあなたたちのことは、よく知っています」
 「不思議な人と会うことができました。とてもうれしいです」
 寿貞が子どもたちに呼びかけた。
 「きょうの稽古はこれでおしまい」
 寿貞がジェルマンに、
 「テストヴィド神父、ちょうど昼飯時だ。あなたは弁当を持っているの」
 「何も持っていません」
 「お腹が空いているのじゃないかな」
 「とてもお腹が空いています」
 「それでは、私と一緒に昼飯を食べよう」
 ジェルマンは、うれしそうに寿貢の後ろ従った。道場の隣室が寿貢の居室だ。
 「おばさん、お客さんです。もう一人前下さい」
 台所で働いている農婦に声をかける。少し間があって、うどんの大盛りが二つ差し出された。
 「テストヴィド神父、あなたは何しに来たの」
 「竹内さん、私たちはもう友だちですから、ジェルマンと呼んでください。私は宣教師ですから、神様の話をするために、ここに来てしまいました」
 「ジェルマン神父、このあたりに、誰か知った人はいるの」
 「誰もいません。きょうはじめて、ここへ来たのですから」
 「けさ、横濱から歩いて来たの」
 「ゆうべは、下壱分方村に泊まりました。そして、今朝歩き出したのです」
 ジェルマンは、うどんを巧みにすすった。その表情は無邪気そのものだ。
 寿貢は、何のためらいもなく、あてもなく、歩き回る若者に驚嘆した。
 積荷橋教会のマラン神父も、毎日、出かけていた。東京の町のあちこちを歩き回り、聞いてくれる人に、神の話をしていたのだ。夕刻、帰ってくると、疲労の色がうかがえたが、夜が明けると、さっさと出かけていた。今、目の前にいる若者も、マラン神父と同じ「巡回牧師(ミッショネール・アンブラン)」の一人なのだ。
 「今夜は、どうするの」
 「まだ、何も決まっていません」
 「それじゃ、ここに泊まるといい」
 「ありがとうございます」
 ジェルマンは、十字を切って頭を下げた。
 「ここは村の名主の砂川源五右衛門さんのものだし、あなたを泊めるとなれば、その了解も得ておかなければいけない。源五右衛門さんを紹介しておこう」
 食事を終えた二人は、源五右衛門の居室を訪ねた。
 寿員が風変わりな出会いの経緯を話すと、源五右衛門は、
 「ことわざに、袖ふれあうも多生の縁というが、おもしろい縁だね。寿貞さんの部屋に寝泊まりさせて飯を食わせるのも、自由にやっていいですよ。ところで、神父さん、あなたは、この村に何をしに来るの」
 「村の人に、神様の話をしたいんです」
 「つまり、それはうちの村で、布教伝道をしたいってことかい」
 「そうです。お願いします」
 「キリスト教というかキリシタンを信心すると、どうなるの」
 「人は、神の恩恵を知り、正しい生き方をして、幸せになります。」
 「信心とは、人それぞれの心持ち次第のことだ。キリシタンを信じるのがいいとか、悪いとかは、私の決めることじゃないよ。これまで、村にキリシタンの者はいなかったが、これからは、信徒も出てくることになるんだ。それも結構なことじゃないか」
 寿貞とジェルマンは、そろって頭を下げた。
 「ありがとうございます」
 ジェルマンが源五右衛門に尋ねた。
 「砂川さん、あなたは村の名主として何を目標にされているのですか」
 「私の目標は、経世済民、これは少しばかり、むずかしいな。やさしく言い直すと、村の衆が安心して暮らせるようにすることです。暮らしに必要な金が手に入るような仕事を作り出すことだね。それができれば、人は自ずと幸せになる、幸せになれると、私は思っている」
 「それはとても大事なことですね。キリスト教は、必要な金が手に入らないでいる貧しい人も、心の持ち方一つで、幸せになれると呼びかけています」
 「信心とは、そういうものだろうね」
 ジェルマンが視線を寿員に向けた。
 「竹内さんの目標は何ですか」
 「私は武士だった。武士は武芸を専門とする。武芸とは人を殺傷する能力です。そのために、刀や槍、弓、鉄砲などを使う。武士は戦闘集団の指薯である大名に戦士として仕えていた。ところが、大名が廃止され、戦闘集団が解体されたので、武士は職を失ったのです。私は、武士であった時のように、武芸でなくてもよいから、誰か、何かに仕えたいと願っています」
 「武士は戦闘以外に何ができるんですか」
 「ジェルマン神父、あなたとは初対面だが、鋭い質問をする。多くの武士は、武芸の他、それなりの学問がある。だから文字を読むことも、書くこともできる」
 源五右衛門が笑った。
 「武士から刀を取り去ると、武士が武士でいられるかだ。これはなかなか難しい」

『武州砂川天主堂』 同時代社



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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №103 [文芸美術の森]

              東洲斎写楽の役者絵
             美術ジャーナリスト 斎藤陽一

            第10回 写楽・第2期の画風

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 版元・蔦屋重三郎によって起用された「東洲斎写楽」は、寛政6年(1794年)5月のデビューから寛政7年(1795年)1月までの約10カ月間、4回にわたる歌舞伎興行に合わせてたくさんの絵を描き、忽然と姿を消しました。  

 4回の興行が進むにつれて、写楽の画風も変わっていきました。研究者たちは、これを「第1期」「第2期」「第3期」「第4期」と分類しています。
 既に「第1期」28点の「役者大首絵」すべてを鑑賞しましたので、今回は、「第2期」の画風に焦点をあててみます。

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 写楽第2期の作品は、寛政6年7月、8月の三座の舞台に題材をとった48点の役者絵です。
 第1期が、「黒雲母摺り」を背景に、役者の顔をクローズアップでとらえた「大首絵」で揃えたのに対して、第2期では、黄色や褐色の明るい地色を背景に、すべて一人あるいは二人の役者を立たせて描いた「全身像」となっています。
 サイズについては、二人の役者の立ち姿を組み合わせた「二人立ち」が一般的な大判サイズ、一人の立ち姿を描いた「一人立ち」が小さめな細判サイズです。

 なぜ、第2期では「大首絵」ではなく、「立ち姿の全身像」としたのだろうか?

 おそらく、ひとつには、第1期の「大首絵」が世間に衝撃を与えたとは言え、一時的なショッキング商法というようなところがあり、役者や芝居関係者、芝居好きの江戸っ子たちの不平や非難もかなり多かったからではないか。
 もうひとつ考えられるのは、そのまま「大首絵」を続けると、マンネリ化の恐れもあり、人々に飽きられてしまうかも知れない。そこで第1期とは違った「変化」をつけよう、という意図があったのかも知れません。

≪一人立ち・全身像≫

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 第2期の作品の中から、「一人立ち・全身像」を3枚並べて見ましょう。(上図)

 この3枚は、都座が上演した「傾城三本傘」(けいせいさんぼんからかさ)の主役3人を一枚ずつに描いた作品。それぞれが「細判」(ほそばん)というやや小さめなサイズに役者一人の全身像で描かれています。

 これらは、「花魁のかつらぎ」(中央)をめぐって、恋の鞘当てをする「名護屋山三」(左)と「不破伴左衛門」(右)という「三枚続き」の趣向で描かれたものでしょう。
 「名護屋山三」と「花魁かつらぎ」は相愛の仲なのですが、悪役の不破伴左衛門が横恋慕するのです。
 演じるのは、左の「名護屋山三」役が女性に人気のあった三世沢村宗十郎。中央の「花魁かつらぎ」が格の高い女形・三世瀬川菊之丞。そして右の悪役「不破伴左衛門」が当時女性に圧倒的人気を誇った三世市川八百蔵です。

 市川八百蔵と沢村宗十郎は実の兄弟なので、兄弟の花形役者同士が舞台で火花を散らす場面は、江戸っ子を喜ばせたことでしょう。

   第2期作品の背景は、いずれも明るい黄褐色。そのため、華やかさが強調され、すべて黒雲母摺りの背景とした第1期作品の、暗闇からリアルな顔が浮かび上がるような衝撃力は無くなっている。
 どうやら第2期では、人気役者中心の品ぞろえを意図しているようなところが見受けられます。

≪二人立ち・組み合わせ≫

 第2期作品では、大判サイズに二人の役者を組み合わせた絵も制作しています。 

103-4.jpg 例えば右図は、不破伴左衛門の家来・浮世又平と名護屋山三の家来・土佐の又平を組み合わせた一枚。
「悪方」(あくがた)の浮世又平が、「善方」の土佐の又平が懐に隠した財布を脅し取ろうとしている場面です。

 ここでも、第1期作品で写楽がしばしば見せた「対照性」、すなわち「コントラスト」の構図が見てとれる
「善と悪」「痩せ型と肥満型」「長身と短躯」などです。

 と同時に、第1期に見られた、クローズアップによる仮借ないまでのリアルな顔のインパクトは薄まり、むしろ「場」の雰囲気を説明的に表現しているようなところがあります。

≪変化のある構図≫

 写楽研究家の内田千鶴子氏の指摘によれば、第2期作品では、役者の顔のクローズアップを諦めて「全身像」だけにしたために、その代わり、「一人立ち」でも、「二人立ち」でも、「変化のある構図」になるよう工夫している、といいます。(※1)

 下図は、そのような例です。

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 このように、第2期作品では、第1期の「大首絵」とは趣向を変えていますが、それなりに工夫していることがうかがえます。
 しかし、第2期作品の現存数はきわめて少ないとされる。研究者たちは、「あまり売れなかった」か、「販売数を少なくした」か、そのどちらかではないか、と見ています。

 次号では、「第3期作品」の画風を見てみます。

  ※1:内田千鶴子著『写楽を追え』(2007年。イースト・プレス)

(次号に続く)


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