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妖精の系譜 №70 [文芸美術の森]

イエイツと妖精物語の蒐集 2

       妖精美術館館長  井村君江

 イエイツはダブリン郊外のサンディマウントに生まれたが、イギリスでの生活が長く、一時バリリイに建つノルマン様式の石の円塔を改造し定住しようとしたが、再びアイルランドを離れパリで生涯を終えている。しかし彼の遺体は再びアイルランドに帰り、ベン・バルベンの山が見遣かせるスライゴーのドラマクリフの墓に永眠している。スリユツス森やロセッス岬、ギル湖のイニスフリーの島やクールの湖を詩に歌っているように、どこにいてもイエイツの心は幼時から晩年にいたるまで、母方ポリクスフエン家の故郷スライゴーの地と、つねに密接に結びついていたのである。

 月の光の波に照る
 ほのかに暗い砂の上、
 遠いはるかなロセッスで、
 夜どおし踏むは足拍子
 揺れる昔の踊り振り、
 手に手をつなぎ見交して、
 月が隠れてしまうまで、
 あちらこちらへととび跳ねながら、
   空っぽの泡を追いかけまわす。
 この世は辛いことばかり、
 心配事で眠れもしない、
 そんな嘆きはよそにして。
 こちらにおいで!おお、人の子よ!
 いっしょに行こう森へ、湖(うみ)へ
 妖精と手に手をとって、
 この世にはお前の知らぬ、
 悲しい事があふれている。
                  (イエイツ 『盗まれた子供」より)

「ロセッスの北の端には砂浜と岩場と草地の小さな岬がある。そこは妖精が出没する淋しい場所だ」とイエイツは『ケルトの薄明』の中で言っているが、この詩の背景は、ロセッス岬であり、スリユッス森や、カー谷になっている。妖精たちがたわむれ踊るのはこのスライゴーの土地になっており、イエイツにとってまさに「妖精の国」そのもの、「心の憧れる国」になっている。「悲しい事のあふれるこの世」パリやロンドンの都会にあっても、つねにこの他は憧憬の地となっており、人々をいざない導いていきたい思いにかられる妖精の国にさえなっているようである。この詩で、イエイツは人間をさらっていく妖精のような役割も廠わぬように思われる。
 「スライス・ゴーにある森、ドゥー二ィ・ロック村の上に茂る森や、ペン・パルベンの川にかかる滝をおおう森、そのあたりを歩くことは再びないと思うが、夜ごと夢を見るほどわたしには親しみ深いものである。クールの森は夢に現われないが、わたしの心と深く結びついているので、わたしは死んだ後も、長いことそこを訪れることになると固く信じている」。
 クールは作家グレゴリ夫人の館があったところで、イエイツはしばしば滞在し、森の木の下道を散策したり湖の白鳥を眺めながら、グレゴリー夫人やエドワード・マーティンらとアイルランドの神話や、英雄物語の蒐集について語ったり、アベ・シエターの文芸劇場の構想を練ったりしていた。彼らが自分たちの名前をナイフで刻んだ木が、今でも庭の片隅に残っている。スライゴーの土地に対するイエイツの執着の強さ、死後の魂の輪廻に対する信念が、右の言葉からよくうかがえてくるようである。
 幼時期、イエイツは父が画家の修業のためロンドンに出たので、祖父母に預けられ母方の故郷スライゴーで過ごした。
「召使いがわたしたちの生活の多くの郡分を占めていました。かれらは天使、聖者、バンシー、妖精たちと親しくつき合っていてよく知っており、とてもうまくいっているようでした」と、姉のメリーは思い竪語っているが、イエイツも「本当にたくさんの話をわたしは聞いています……、世の中はまるで奇怪なものたちと不思議なことでいっぱいでした」と、言っている。
 叔父の家の召使いで、字は読めないが透視力(セコンド・サイト)を持っていたらしいメアリー・バトルが語る魔女たちの話や、雨もりする小屋に住む老人パデイ・フリンが出会った、水をはね返すバンシーの話などは、幼いイエイツの心を異教の神々や超自然のものたちと自在に交流する神秘な古代人の魂の世界に触れさせ、苦熱の世界へと誘ったようで、ある時期彼は真剣に呪術や魔法を使える人になろう と思っていたようである。こうした傾向が、後年一方では口碑伝承の採請記録と編纂の仕事へ、一方ではマダム・プラバツキーの心霊学会や「黄金黎明会(ゴールド・ドーン)」の会員となったり、神智学(テオゾフィ)に興味を向けていき、この方画でも晩年の妻の自動記録(オートグラフ)をまとめた『ヴィジョント など有意義な本を著したことは容易にうなずける。従ってイエイツの民間伝承物語の蒐集編纂は、単なる民俗学者(フォークロリスト)の仕事ではなく アイルランドの⊥地や自然への愛、上着の人々や自分の民族的ルーツを見つめようとする必然からの営為だったといえよう。
 少年期の大半をスライゴーやバリソディア、ロセッスで過ごしたイエイツは、それらの十地の′人々も家族や彼をよく知っていたので、よそ者には警戒して話さない妖精の物語(シーン・スギール)を語ってくれたという。ある時は円型土砦近くの義の茂る藁ぶき岸根に住む老婆に、泥炭(ビーツ)の香りと煙の中で、流れのほとりで経惟子の洗い手(ウヲッシャー・オブ・シェラウド)に会った話を聞き、海辺で網を干す老人の口から岩に坐るメロウと会った話を聞いた。そうした物語話者(ストーリー・テラー)の典型的な一人としてスライゴーの′パディ・プリンという農民の年寄りの名前をイエイツはあげている。その時代には各地方に、こうした近在の村々の伝説や物語を語り継いでいる者が農村や漁村に多くいて、冬の夜など火を囲み一堂に会したときには、もし誰かが他の人たちと異なった話の型を知っているときには、皆それぞれ自分の話を暗唱して聞かせ、意見を出し合って話を一つに統一し、今度はそれと違った話を知っている者もその決めに従わねばならず、そうして物語はローソクの火が燃えつきるまで一晩中、語り続けられた ― というような物語伝承の実際の模様が『アイルランド地方誌』に見出せる。そうした物語の口碑伝承を生涯の仕事とした人たちをシャナヒー(Seanehaithe)と呼ぶが、プラスケット島に住んでいたペイグ・セイヤーズという老女がすぐれたシャナヒーであって、四〇〇近くの話を暗唱しており、ファー・ジャルグやプーカ、メロウなど妖精たちと人間との交渉や、妖精の棲み家の呪文などの物語を泥炭の炉辺を国む人々の前で、ゲール語特有のリズムで歌うように語って聞かせてくれたという。
 セイヤーズ夫人は一九五八年に八五歳で亡くなり、その一人の老女の死と共に「アイルランド民族の歌の宝庫が沈黙の底に沈んでしまった」わけであるが、最近までこうした語り部が立派な職業としてアイルランドには存続していたことがわかろう。古代アイルランドには神話や英雄伝説、同の歴史的出来事を語り詠う吟唱詩人たちがいて、バード〈Bard〉とかフィラ(File)とか言われ、民族の遺産と国家的出来事を後世に語り伝えていた。ドゥルイド僧の中に、立法、医術、占星、行政を行う者と共に吟唱詩人がいたわけであるが、彼らは地位が高く支配階級に属し、王や貴族の功績を歌う詩人たちであったため、シャナヒーこそが】股の人々の間にあってその生活と心情とを代表的に語り継いでいく詩人だったのである。詩人はもう‥つの世界を垣間見ることができ、その他界消息を言葉で表現し語る能力のある人として、アイルランドでは昔から人々の尊敬を受けていたが、今日でもなおそうであり、私がダブリンで会った詩人も、自分はバードの後継者の一人であると言い、詩人としての誇りを持ち、人々に尊敬されていた。そして彼はアイルランド民族の過去を集約して歌い、現代英語を使ってもゲール語の響きとリズムは、自然に崩れないのだと自信を持って語っていた。こうして古代より語り伝えられてきた民間伝承物語の数多くの記録は一つに蒐集され、手記原稿の形のまま、王立ダブリン協会に保存されていたが、現在ではユニパーティ・カレッジ・ダブリンの民俗学科に保管されている。
 アイルランドの人々にとってこうした記憶の中に生き、幾世紀にもわたって語り継がれていった妖精物語は、実生活の一部であり、妖精の国はつねに自分の存在の背後に在り、日々の生活の中で現実より生々しく、恐ろしいがしかし美しい不可視のヴェールの背後に、いつでも垣間見られる世界の一部であるらしい。この目に見えぬ民族の文化は、時代を経ていくにつれて絶えず更新されてきたのであろうし、文明の普及とともに妖精信仰(フェアリー・スギール)は希薄になっていったであろうが、今日でもなお、アイルランドに住む人々は妖精の存在を信じており、これもまた最近のことであるが、あるダブリン人が、パンシーの泣き声を、子供の時分に父親と一緒にはっきり.と聞いた、という不思議な体験を私に話してくれた。

『妖精の系譜』 新書館


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石井鶴三の世界 №252 [文芸美術の森]

隆寺・阿弥陀2点 1957年

         画家・彫刻家  石井鶴三

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広隆寺・阿弥陀 1957年 (175×136) 
1957広隆寺(講堂)阿弥陀.jpg
広隆寺(講堂)阿弥陀 1957年 (175✕136)

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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三』 形文社


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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №124 [文芸美術の森]

          明治開化の浮世絵師 小林清親
              美術ジャーナリスト 斎藤陽一

                   第7回 
      ≪「東京名所図」シリーズから:一日の中の光の変化≫

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 小林清親は、江戸から東京へと移り行く風景を、「光の変化」の中にとらえようとした画家でした。
 前回は、小林清親が「朝の光」のもとに描いた作品を紹介しましたが、引き続いて、「一日の光の変化」をとらえた作品を鑑賞していきます。

≪午後の光≫

 まず「午後の光」をとらえた作品をひとつ。

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 これは、午後の光の中の「赤坂紀伊国坂」を描いています。坂道の、日の当たるところと影に沈む部分とを描き分けていますね。

 江戸時代、この坂の西側、この絵では右側に、広大な紀州徳川家の屋敷があったところから「紀伊国坂」と呼ばれました。現在、右手にはホテル・ニューオオタニがあります。左側に見える水面は「弁慶堀」です。
 坂の上から、下のほうを見下ろす構図で描かれており、下に広がる家並みは、現在の赤坂界隈。

 さりげない一枚ですが、一日がゆったりと穏やかに過ぎていくことを感じさせて、しみじみとした味わいを生んでいます。

≪黄昏どき≫

 とりわけ、光がドラマチックに変化する「黄昏どき」は、小林清親の「光線画」の重要なテーマでした。
 下図は、そのような黄昏時を描いた1枚です。

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 小林清親が明治13年に制作した「橋場の夕暮れ」

 描かれているのは「橋場の渡し」。浅草・浅草寺の北にある橋場と、対岸の向島とを結ぶ渡しです。
 夕立の後でしょうか、空にはまだ雨をもたらした雲が複雑な陰影で表わされている。雨上がりの空には虹が現われ、今しも、一艘の渡し船が、虹のかかる対岸に向かって漕ぎ出して行く。

 清親は、水平線を思い切って下の方に低く設定し、画面の4分の3を「空」が占めるという大胆な構図をとっています。この空と雲との陰影に富んだドラマチックな描写こそ、この絵のみどころ。雨上がりの湿った空気感さえ感じられる、味わい深い作品です。

 小林清親の絵に繰り返し登場するのが隅田川とその界隈の風景。
ゆったりと流れる川と、その上に広がる空は、刻々と変化する光を反映して、さまざまな表情を見せる。そのような幼少年時の視覚体験が、清親の光に対する繊細な感受性を育んだのでしょう。

≪暮れなずむ空≫

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 この絵の舞台は、隅田川の両国界隈。向うには両国橋が見える。
 手前には、河岸の浸食を防ぐための「棒杭」(ぼうぐい)が沢山描かれる。ここは「千本杭」と呼ばれたところ。川面には、釣り糸を垂れる船が。

 このあたりは、墨田川東岸から西に両国橋を望んだ風景なので、日没直後の残光が照らす、暮れなずむ空の美しさを描くことが清親のねらいでしょう。
 水面のきらめきの描写もまた繊細で美しい。木版画なのに、水彩画のような味わいが感じられる。
 構図上、注目すべきは、手前の棒杭をきわめて大きく描いているところで、真ん中の一本などは、橋よりも高く、空に屹立する姿に描かれる。
 このように、近くのものを大胆なクローズアップでとらえ、遠景を小さく描くことによって、深い奥行き感が生まれる。この描法は「近接拡大の技法」と呼ばれ、晩年の歌川広重が連作「名所江戸百景」の随所で使った手法です。

 広重は、これに加えて、近くのものの全景を描かず、大胆に切断して「部分」だけを提示するという「切断画法」を同時に用いることによって、絵画的な強さを生み出しました。

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 上図の右の絵は、歌川広重晩年の連作「名所江戸百景」の中の「亀戸梅屋舗」です。
 梅の古木を前面に大きく「クローズアップ」でとらえ、しかも古木の上下・左右を大胆に「切断」(トリミング)することによって、奥行きが深まるだけでなく、力強い絵画となっています。ゴッホがこの絵の斬新な構図と力強さに魅了されて模写していますね。

 普通、浮世絵の「風景画」のジャンルでは、風景の広がりを表現するために「横長」サイズの画面に描くことが多かった中で、広重は、「名所江戸百景」シリーズをすべて「縦長」サイズとしました。そして、風景画には不向きと思われた「縦長」画面を逆手にとって、インパクトのある斬新な「風景画」を生み出したのです。その時に使ったわざが「近接拡大」と「切断」の技法でした。

 広重の作品は、清親の幼いころからその脳裏に摺りこまれていたと考えられるので、この「千本杭両国橋」を描く時に、ほとんど無意識のうちにそのイメージが作用したように思えます。

 次回もまた、小林清親の「東京名所図」シリーズの作品を鑑賞します。
(次号に続く)


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浅草風土記 №22 [文芸美術の森]

隅田川両岸 1

        作家・俳人  久保田万太郎

       吾妻橋

 浅草に住むわれわれ位の年配のものは、吾妻橋の、いまのような灰白色の、あかるい、真ったいらな感じのものになったことをみんな嘆いている。なぜなら、かれらの子供の時分からみつけて来た吾妻橋は、デコデコの虹梁をもった、真っ黒な、岩畳(がんじょう)をきわめたものだったから。……見るからに鬱然たる存在だったから。
 ということは、雷門に立って遠く東をみるとき、つねにその真っ黒な、岩畳をきわめたもの、か、その鬱然たる存在か、郵便屋のまえの大波のかなたに、せせッこましくその行く手を遮っていたのである。……そんなにそれが、そのせせっこましさが、かれらに、浅草めぬきの部分の「名所的風景」を感じさせたことだろう。……
 勿論、この場合、「かれら」という言葉の代り仁「わたくし」という言葉をつかってもすこしもさし支えないのである。

       一銭蒸汽

 勿論、いまは、「一銭蒸汽」ではない。そして、経営者が変わったことによって、船の恰好も、いまでは昔と全く違ったものになっている。……が、「一銭蒸汽」とそう呼んだほうが、船の恰好の違ったいまなお消えないその、存在についてのゲテな感じをはっきりさせていいのである。           
 吾妻橋の袂から出て、かの女は、言問により、白髯橋により、水神により、鐘ヶ淵により、汐入によったあと、千住大橋に到着し、再びそこから同じ航路を吾妻橋へと引返すのである。が、それにしても、東京のあらゆる交通機関のなかで、かの女ほど、わびしい、さんすいな感じをもつものはないだろう。……その乗客層からいっても、その発着所の所在感からうっても……
 以前はしかし、白髯橋という発着所はなかって。その代りに小松嶋という発着所があった。そしてその小松嶋のつぎが鐘ケ淵で、鐘ヶ淵のつぎがすぐ千住大橋だった。……その時分、冬になると、その小松嶋の発着所のまえにも、鐘ヶ淵の発着所のまえにも、枯葦(かれあし)のむれが日に光りつつ、しずかに、おりおりの懶(ものう)い波をかぶっていたのである。……その感傷に触れたいばかり、二十代のわたくしは、用もないのにしばしばかの女を利用したのである。‥‥‥

       隅田公園

 隅田公園の土曜日の夕方ほど男と女の、……くわしくいえば、若い会社員と、それに準じた年齢の事務員との一対ずつのもつれ合いつつ歩いているところはないだろう。……と、しみじみそう感じられるほど、かれらは、おたがい同士、無知であり、ほしいままである。……雨の降らない七月の未の.風のない、曇った空の下でのぱさぱさに乾いた芝生、真っ白に埃をかぶった値込み、それらのまた、何んとかれらに無関心なことよ。……しかも、そこには、河に沿った柵のそとのスロープに、浴衣がけの一人の若い男あって、しきりにそのとき尺八をふいているのである。……上げて来ている湖の、かれのなげ出したその足の下に、しきりに塵芥を運びつつけていることでも、かれは、かれの耳にはさんだ、バットの吸いかけとともにことことくすべてを忘れ切っているのである……それほどかれは夢中でふいているのである。……

        隅田公園

 隅田公園の売店で何を売っているか御存じですか?

 西瓜。
 ラムネ。
 うで玉子
 塩せんべい。
 キャラメル。

 以上かそのおもなろものであります。……蜜パンと焼大福のないことを残念におもいます。……
 所詮は浅草といところの、西瓜であり、ラムネであり、うで玉子であり、塩せんへいであり、キャラメルであります。……

        今戸橋

 聖天山(しょうてんやま)の工事の出来上らない限り、今土橋について何かいうりは無駄である。……が、それにしても、山谷堀のお歯黒といってもない水のいろについてだけは哀しみたい。
 今戸橋塵芥取扱所。
 そうした掲示をもった建物が……トボンとした感じの建物が、真っ黒な、腐ったその水にのぞんで立っているのである。そして、そのまえに、一号から十二号までの塵埃車が。
出勤命令を待つ犬の如く忠実に、しかも油断なくならんているのである。
 とはいうものの、問もなく、そこから十足とはなれない日本堤署今戸橋巡査派出所の裏に……すずかけの葉をその前面に茂らせたコンクリートの交番の裏に、手ずさみの朝顔の蔓のつつましく伸びているのをわたくしはみいだした。……そして、その蔓のさきに、みえない夕月のほのかにやさしいかげをわたくしぼ感じた。

『浅草風土記』 中公文庫


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武蔵野 №2 [文芸美術の森]

武蔵野 2

            国木田独歩
     二

 そこで自分は材料不足のところから自分の日記を種にしてみたい。自分は二十九年の秋の初めから春の初めまで、渋谷しぶや村の小さな茅屋ぼうおくに住んでいた。自分がかの望みを起こしたのもその時のこと、また秋から冬の事のみを今書くというのもそのわけである。
 九月七日――「昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつ雲を払いつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき林影一時に煌きらめく、――」
 これが今の武蔵野の秋の初めである。林はまだ夏の緑のそのままでありながら空模様が夏とまったく変わってきて雨雲あまぐもの南風につれて武蔵野の空低くしきりに雨を送るその晴間には日の光水気すいきを帯びてかなたの林に落ちこなたの杜もりにかがやく。自分はしばしば思った、こんな日に武蔵野を大観することができたらいかに美しいことだろうかと。二日置いて九日の日記にも「風強く秋声野やにみつ、浮雲変幻ふうんへんげんたり」とある。ちょうどこのころはこんな天気が続いて大空と野との景色が間断なく変化して日の光は夏らしく雲の色風の音は秋らしくきわめて趣味深く自分は感じた。
 まずこれを今の武蔵野の秋の発端ほったんとして、自分は冬の終わるころまでの日記を左に並べて、変化の大略と光景の要素とを示しておかんと思う。
 九月十九日――「朝、空曇り風死す、冷霧寒露、虫声しげし、天地の心なお目さめぬがごとし」
 同二十一日――「秋天拭ぬぐうがごとし、木葉火のごとくかがやく」
 十月十九日――「月明らかに林影黒し」
 同二十五日――「朝は霧深く、午後は晴る、夜に入りて雲の絶間の月さゆ。朝まだき霧の晴れぬ間に家を出いで野を歩み林を訪う」
 同二十六日――「午後林を訪おとなう。林の奥に座して四顧し、傾聴し、睇視し、黙想す」
 十一月四日――「天高く気澄む、夕暮に独り風吹く野に立てば、天外の富士近く、国境をめぐる連山地平線上に黒し。星光一点、暮色ようやく到り、林影ようやく遠し」
 同十八日――「月を蹈ふんで散歩す、青煙地を這はい月光林に砕く」
 同十九日――「天晴れ、風清く、露冷やかなり。満目黄葉の中緑樹を雑まじゆ。小鳥梢こずえに囀てんず。一路人影なし。独り歩み黙思口吟こうぎんし、足にまかせて近郊をめぐる」
 同二十二日――「夜更ふけぬ、戸外は林をわたる風声ものすごし。滴声しきりなれども雨はすでに止みたりとおぼし」
 同二十三日――「昨夜の風雨にて木葉ほとんど揺落せり。稲田もほとんど刈り取らる。冬枯の淋しき様となりぬ」
 同二十四日――「木葉いまだまったく落ちず。遠山を望めば、心も消え入らんばかり懐なつかし」
 同二十六日――夜十時記す「屋外は風雨の声ものすごし。滴声相応ず。今日は終日霧たちこめて野や林や永久とこしえの夢に入りたらんごとく。午後犬を伴うて散歩す。林に入り黙坐す。犬眠る。水流林より出でて林に入る、落葉を浮かべて流る。おりおり時雨しめやかに林を過ぎて落葉の上をわたりゆく音静かなり」
 同二十七日――「昨夜の風雨は今朝なごりなく晴れ、日うららかに昇りぬ。屋後の丘に立ちて望めば富士山真白ろに連山の上に聳そびゆ。風清く気澄めり。
 げに初冬の朝なるかな。
 田面たおもに水あふれ、林影倒さかしまに映れり」
 十二月二日――「今朝霜、雪のごとく朝日にきらめきてみごとなり。しばらくして薄雲かかり日光寒し」
 同二十二日――「雪初めて降る」
 三十年一月十三日――「夜更けぬ。風死し林黙す。雪しきりに降る。燈をかかげて戸外をうかがう、降雪火影にきらめきて舞う。ああ武蔵野沈黙す。しかも耳を澄ませば遠きかなたの林をわたる風の音す、はたして風声か」
同十四日――「今朝大雪、葡萄棚ぶどうだな堕おちぬ。
 夜更けぬ。梢をわたる風の音遠く聞こゆ、ああこれ武蔵野の林より林をわたる冬の夜寒よさむの凩こがらしなるかな。雪どけの滴声軒をめぐる」
 同二十日――「美しき朝。空は片雲なく、地は霜柱白銀のごとくきらめく。小鳥梢に囀ず。梢頭しょうとう針のごとし」
 二月八日――「梅咲きぬ。月ようやく美なり」
 三月十三日――「夜十二時、月傾き風きゅうに、雲わき、林鳴る」
 同二十一日――「夜十一時。屋外の風声をきく、たちまち遠くたちまち近し。春や襲いし、冬や遁のがれし」

『武蔵野』青空文庫


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妖精の系譜 №69 [文芸美術の森]

イエイツと妖精物語の蒐集 1

       妖精美術館館長  井村君江

アイルランドの妖精物語

 一八八七年に、二十二歳のW・B・イエイツは、キヤメロット・クラシックス叢書の一つとしてアイルランド民話の編集を依頼された。このとき彼はクロフトン・クローカーの『アイルランド妖精物語』の復刻を考えたが版権の問題で方針を変え、これまでに出ている本や雑誌及び自分の蒐集した話のうち、神話・英雄伝説は除き、アイルランド各地方の農民や漁夫の間に口伝えで語られていた話(バーディック・テイルズ)や民間伝承物語(フォーク・テイルズ)、そして妖精物語(フエァリー・テイルズ)を自らの鑑識眼で選び、ときには訂正削除の筆を入れ、物語を内容から識別して編纂し、その中でアイルランドの妖精を初めて分類し体系化に努めた。これは、一八八八年に『アイルランド農民の妖精物語と民話』と四年後の一八九二年に出された『アイルランド妖精物語』として刊行されたが、イエイツ自身「この二冊はアイルランド民話の代表的な素晴らしい集録書だと信じている」と言うように、アイルランドの人々の遺産の宝庫であると同時に、古代ケルト民族の魂の記録である。一方ではこれらの書物は、十九世紀のアイルランドに起こっていた文芸復興運動を促進させ、またイエイツ自身の文学活動の出発とその後の源泉ともなっている。
 物語六十七篇、詩十三篇が収録されてお。、妖精や人魚(メロウ)、プーカ、バンシー、レプラホーン、ラナン・シーなど、アイルランド特有の超自然の生きものや、透視力(セコンド・サイト)を持った妖精学者(フェアリー・ドクター)や、魔女、巨人、地・水の精霊や幽霊などの他、聖者、英雄、戦士、王や王女が農民たちと関わり合う民間伝承のさまざまな物語が収められている。どれも超自然の現象と何らかの連関を持っており、目に見えぬものたちが目に見えるものたちと互いに交渉し合う幻想(ヴィジョン)の世界を形作っている。「アイルランドにおけるあらゆる種類の民間信仰(フォーク・フェイス)を、一望のもとに見渡せるように努力し編纂した」とイエイツは言っているが、ここにはアイルランド・ケルト民族の深遠で神秘な魂のあり方を、垣間見せてくれる物語の世界が広がっている。
 各項目に関して章ごとの冒頭に、詳しいあるいは短いイエイツの解説がついている。それらは詩人の眼を通した詩情あふれる興味深いものである。それと同時にこれはまたアイルランドに古くから伝わる超自然界の生きものを、解説した墓な文献でもある。各巻の最後に置かれた付記や「アイルランド妖精の分類」一覧もまた、妖精を「群れをなして暮らす妖精」と「ひとり暮らしの妖精」に二分し、さらにそれぞれの妖精にわたって容姿、性質から特色についてすべての物語から演繹(えんえき)してまとめたもので、十九世紀に初めて作成されたアイルランド妖精分類辞典の観がある。事実、ごく最近に発刊されたプリッグズの『妖精事典』も、キヤロリン・ホワイトの『アイルランドの妖精の歴史』も、アイルランドの妖精に関しては、このイエイツの解説をもとにしているほどである。
 イエイツが採録した作家の作品数の多い六人のうちでも、クロフトン・クローカーは十五篇でもっとも多い。少年の頃、クローカーは実際に自分の足で、コークやリマリック、ウォーターフォードなど南部諸地方を歩いて、その土地に伝承されている伝説・民話・民謡の蒐集につとめ、彼の書物はトマス・モアやウォルター・スコットの称賛を得ており、グリム兄弟によりその一部はいちはやくドイツ語に翻訳されている。彼の筆によって初めて、靴作りのレプラホーンや、死を予言して泣くバンシー、赤い帽子(コホリン・ドユリュー)をかぶった飲んべえのメロウや、酒倉荒らしのクルラホーンなど、数々のユーモラスで愛すべきアイルランド特有の超自然の生きものたちが、地上の人々の眼の前に紹介されたのである。
 「クローカーの作品のいたるところには美がひらめいている。それは優しい牧歌風の美だ」とイエイツは称賛している。月夜の緑の草原や青い海原の底で、妖精と人間が織りなす物語が、巧みな会話や叙情的筆を通して生き生きと描かれている。
 「クローカーとラヴァーは、そそっかしいアイルランド的な気取りを、思いつきの中にほとばしらせ、もの事すべてをユーモアを持って眺めた」とイエイツが描写したサミュエル・ラヴァーはダブリン生まれで、自ら詩を書き作曲して歌う才に恵まれた文学者であり、『白い鱒』のようにリズミカルな口調で幻想的な伝説を平明に素朴に物語っている。
 伝説についての本を著したフランセスカ・ワイルド夫人は、オスカー・ワイルドの母であり、夫ウイリアムもアイルランドに残る迷信に関する本の著者である。イエイツは彼女の書物にはケルト人特有の哀感が流れており、その語り口にはケルト民族のもっとも内奥の心を見るものがあるとして、高い評価を与えている。彼女の「民族の持つ神話・伝説は、その民族の魂と目に見えない世界との連関をよく見せてくれる」という意見にも共感を示している。
 ダブリンの年老いた本屋であったパトリック・ケネディは、消えていく伝説や民話などを惜しみ、その伝承文学保存に努めて、多角的に蒐集を行った人であるが、その中には他の国の民話と、物語の主題が共通するものが多くあるのは、興味深い。すなわち『怠け者の美しい娘とその叔母たち』はグリム童話の『糸くり三人女』と類似しており、『十二羽のがちょう』にはグリム童話の『十二人の兄弟』やアンデルセンの『白鳥』の物語と共通するものが見られよう。
 この他ついでに共通性の見られる話について触れるなら、ウィリアム・カールトンの『三つの願い』は、各国の昔話の中に見られる欲張ったために三つの願い事をふいにするという基本型を持つ話であろうし、ラヴァーの『ドゥリーク門の小男の機織。』にはイギリス民話の『一打ち七つ』との共通性が見られる。さらにダグラス・ハイドの『ムナハとマナハ』の構成にも、グリムやイギリスの昔話『ジャックの建てた家』の型との類似がある。またクローカーの『ノックグラフトンの伝説』のこぶを背負ったラズモアには、おのずとわが国の『こぶ取。爺さん』の姿が重なって浮かんでくるようである。もちろん、類似性を持たない物語にこそ、アイルランド民話の土着的面白味があることは言うまでもない。
 「文学的才能という点では劣るが、語られた言葉通りに物語を記述する驚くべき正確さの持主」というのが、ケネディに与えられたイエイツの評である。
 レティシア・マクリントツク嬢は、半ばスコットランド方言がかったアルスター地方の吉葉を正確に美しく書きとめ、それらは『ダブリン大学雑誌』に掲載された。
ダグラス∴イドはアイルランド初代の大統領となった人であ。、ゲール語の民話の正確な英訳に努め、『ムナハとマナハ』に見られるように、ロスコモンやゴルウェイのゲール語話者の語る言葉を逐語的に書きとめた。イエイツはハイドをどの作家よりも信頼に値すると言い、その話のいくつかを歌謡(バラード)にしてくれることを望んでいた。「泥炭の煙が香る作品を創った人たちの流れをくむ歌謡作者たちの、最後の一人といえるからである」と、彼には賛辞を惜しまない。
 イエイツ自身は物語一つと詩篇を二つ載せている。収録されている十三篇の詩は、J・カラナンの『クシーン・ルー』やエドワード・ウオルシュの『妖精の乳母』にみられるように、実際に子守り歌として歌われていたものや、クラレンス・マンガンの『バンシー』の歌やサミュエル・ファーガソンの『ラグナネイの妖精の泉(フェアリー・ウエル)』のような弔いの歌、『妖精の茨(フェアリー・ソーン)』のようにアルスター地方の民謡を採録し韻や形を整えたものなどで、当時歌われていたであろう元の調子とアイリッシュ・メロディが、木々をわたる風の音とともに聞こえてくるようである。ウィリアム・アリンガムの『妖精』や『レプラホーン ― 妖精の靴屋』の二篇は、アイルランドの妖精の典型的な容姿、動作、性質をその絵画的映像と巧みなリズムの中にユーモラスに歌って、妖精詩の傑作といえるものであり、「妖精」というと反射的と言えるほどすぐに、イギリスの多くの人の口からでてくるのはこの詩である。
 クローカーやハイドや他の人たちが、いち早く口碑伝承の記録を始めていたとき、イエイツは青年であり、そしてこの書物の編纂にたずさわっていた一八八八年には二十三歳であった。当時アイルランドの青年たちの間では、イギリス本国より独立しようという政治運動(脱英国化)が盛んであり、民族独自の想像力豊かな精神を、イギリスの物質主義文明の圧迫から救い、アイルランドの国民文学を創造したいという盛んな意欲に燃えていた。文学史上でアイルランド文芸復興運動と呼ばれるその兆しの中にいたイエイツは、アイルランド各地方の民衆の間に連綿と語りつがれてきた国民的退座である神話・伝説・民話こそ、新しい文学の母体となるものであり、詩的想像力の源となるものだと確信していた。実際にこれと平行してイエイツは『オシーンのさすらい』三部作を執筆しており、これはアイルランドの古い英雄伝説を掘り起こし、自らの想像力によって豊かに彩り生かした長編叙事詩であった。民話編纂の完結した翌年の一八八九年にこの詩集も刊行され、イエイツは詩人としての地位を得ることになるわけである。

『妖精の系譜』 新書館



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石井鶴三の世界 №251 [文芸美術の森]

三月堂執金剛神 1957年/不動明王 1957年

       画家・彫刻家  石井鶴三

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三月堂・執金剛神 1957年 (175×130)
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三月堂・執金剛神 1957年 (175×130)


*************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三』 形文社


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武蔵野 №1 [文芸美術の森]

武蔵野 1

             国木田独歩

                 一

「武蔵野の俤おもかげは今わずかに入間いるま郡に残れり」と自分は文政年間にできた地図で見たことがある。そしてその地図に入間郡「小手指原こてさしはら久米川は古戦場なり太平記元弘三年五月十一日源平小手指原にて戦うこと一日がうちに三十余たび日暮れは平家三里退きて久米川に陣を取る明れば源氏久米川の陣へ押寄せると載せたるはこのあたりなるべし」と書きこんであるのを読んだことがある。自分は武蔵野の跡のわずかに残っている処とは定めてこの古戦場あたりではあるまいかと思って、一度行ってみるつもりでいてまだ行かないが実際は今もやはりそのとおりであろうかと危ぶんでいる。ともかく、画や歌でばかり想像している武蔵野をその俤ばかりでも見たいものとは自分ばかりの願いではあるまい。それほどの武蔵野が今ははたしていかがであるか、自分は詳わしくこの問に答えて自分を満足させたいとの望みを起こしたことはじつに一年前の事であって、今はますますこの望みが大きくなってきた。
 さてこの望みがはたして自分の力で達せらるるであろうか。自分はできないとはいわぬ。容易でないと信じている、それだけ自分は今の武蔵野に趣味を感じている。たぶん同感の人もすくなからぬことと思う。
 それで今、すこしく端緒たんちょをここに開いて、秋から冬へかけての自分の見て感じたところを書いて自分の望みの一少部分を果したい。まず自分がかの問に下すべき答は武蔵野の美び今も昔に劣らずとの一語である。昔の武蔵野は実地見てどんなに美であったことやら、それは想像にも及ばんほどであったに相違あるまいが、自分が今見る武蔵野の美しさはかかる誇張的の断案を下さしむるほどに自分を動かしているのである。自分は武蔵野の美といった、美といわんよりむしろ詩趣ししゅといいたい、そのほうが適切と思われる。

『武蔵野』 青空文庫



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浅草風土記 №21 [文芸美術の森]

続吉原附近 6

        作家・俳人  久保田万太郎

                         六
…………
…………
  まあおとうさんお久しぶり、そっちは駄目よ、ここへお坐んなさい・
  おきんきん、時計下のお会計よ…・
  そこでね、をぢさん、僕の小隊がその鉄橋を……
  おいこら酒はまだか、酒、酒……
  米久へ来てそんなに威張っても駄目よ……
  まだ、づぶ、わかいの……
  ほらあすこへ来てゐるのが何とかいふ社会主義の女、随分おとなしいのよ……
  ところで棟梁、あっしの方の野郎のことも……
  それやおれも知ってる、おれも知ってるがまあ待て……
  かんばんは何時……
  十一時半よ、まあごゆっくりなさい、米久はいそぐところぢやありません……
  きび/\と暑いね、汗びっしょり……
  あなた何、お愛想、お一人前の玉にビールの、一円三十五銭……
  おっと大違い、一本こんな処にかくれてゐましたね、一円と八十銭……
  まあすみません……はあい、およびはどちら……

  八月の夜は今米久にもう/\と煮え立つ。
  ぎっしり並べた鍋台の前を
  この世でいちばん居心地のいい自分の巣にして
  正直まつたうの食慾とおしゃべりとに今歓楽をつくす群衆
  まるで魂の銭湯のやうに
  自分の心を平気でまる裸にする群衆、
  かくしてゐたへんな隅々の暗さまですつかりさらけ出して
  のみ、むさぼり、わめき、笑ひ、そしてたまには怒る群衆
  人の世の内壁の無限の陰影に花咲かせて
  せめて今夜は機嫌よく一ばいきこしめす群衆、
  まつ黒になってはたらかねばならぬ明日を忘れて
  年寄やわかい女房に気前を見せてどんぶりの財布をはたく群衆、
  アマゾンに叱られて小さくなるしかもくりからもん!~の群衆、
  出来たての洋服を気にして四角にロオスをつ、く群衆、
  自分のかせいだ金のうまさをぢつと噛みしめる群衆、
  群衆、群衆、群衆。
  八月の夜は今米久にもう!~と煮え立つ。

 読者は、薮から棒に、わたしが何をいい出したかと不思議におもうかも知れない。が、ここへもって来たのは、いまの時代でわたしの最も敬愛する詩人高村光太郎氏の「米久の晩餐」という詩の一部である。――どんなに、わたしは、この詩の載った古い「明星」を今日までさかしたことだろう。――今日この文章を書き終ろうとしたとき、ゆくりなくわたしはそれを手に入れることが出来たのである。
 わたしは、この詩を、「吉原附近」の「千束町」のくだり、資本主義的色彩のそれほど濃厚な「草津」に対しての、いうところの大衆的の牛肉屋「米久」を説く上で是非そこに引用したいと思ったのである。~が、それには間に合わなかった。――それには間に合わなかったが、けど、わたしはいま、むしろこの詩をもって、この文章を終ることの機縁をえたことを歓びたい。――それほど、わたしは、この詩の中に、わたしのいう「新しい浅草」の、強い、放慈な、健康な、新鮮な、生き生きした息吹をはっきり聴くことが出来るからである。――そうしてその、強い、放慈な、健康な、新鮮な、生き生きした息吹こそ、これからの「新しい浅草」を支配するであろうすべてだからである。

  むしろ此の世の機動力に斯る盲目の一要素を与へたものゝ深い心を感じ、
  又随処に目にふれる純美な人情の一小景に涙ぐみ、

 と、この詩の作者はそのあとにまたこう歌っている。
「新しい浅草」と「古い浅草」との交錯。――そういったあとで再びわたしはいうであろう……つぶやくように、寂しく、わたしはこういうであろう。
 ……忘れられた吉原よ!
(昭和四年)

『浅草風土記』中公文庫



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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №124 [文芸美術の森]

            明治開化の浮世絵師 小林清親
             美術ジャーナリスト 斎藤陽一
                 第7回 
     ≪「東京名所図」シリーズから:一日の中の光の変化≫

124-1.jpg

 小林清親は、江戸から東京へと移り行く風景を、「光の変化」の中にとらえようとした画家でした。
 前回は、小林清親が「朝の光」のもとに描いた作品を紹介しましたが、引き続いて、「一日の光の変化」をとらえた作品を鑑賞していきます。

≪午後の光≫

 まず「午後の光」をとらえた作品をひとつ。

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 これは、午後の光の中の「赤坂紀伊国坂」を描いています。坂道の、日の当たるところと影に沈む部分とを描き分けていますね。

 江戸時代、この坂の西側、この絵では右側に、広大な紀州徳川家の屋敷があったところから「紀伊国坂」と呼ばれました。現在、右手にはホテル・ニューオオタニがあります。左側に見える水面は「弁慶堀」です。
 坂の上から、下のほうを見下ろす構図で描かれており、下に広がる家並みは、現在の赤坂界隈。

 さりげない一枚ですが、一日がゆったりと穏やかに過ぎていくことを感じさせて、しみじみとした味わいを生んでいます。

≪黄昏どき≫

 とりわけ、光がドラマチックに変化する「黄昏どき」は、小林清親の「光線画」の重要なテーマでした。
 下図は、そのような黄昏時を描いた1枚です。

124-3.jpg

 小林清親が明治13年に制作した「橋場の夕暮れ」。

 描かれているのは「橋場の渡し」。浅草・浅草寺の北にある橋場と、対岸の向島とを結ぶ渡しです。
 夕立の後でしょうか、空にはまだ雨をもたらした雲が複雑な陰影で表わされている。雨上がりの空には虹が現われ、今しも、一艘の渡し船が、虹のかかる対岸に向かって漕ぎ出して行く。

 清親は、水平線を思い切って下の方に低く設定し、画面の4分の3を「空」が占めるという大胆な構図をとっています。この空と雲との陰影に富んだドラマチックな描写こそ、この絵のみどころ。雨上がりの湿った空気感さえ感じられる、味わい深い作品です。

 小林清親の絵に繰り返し登場するのが隅田川とその界隈の風景。
 ゆったりと流れる川と、その上に広がる空は、刻々と変化する光を反映して、さまざまな表情を見せる。そのような幼少年時の視覚体験が、清親の光に対する繊細な感受性を育んだのでしょう。

≪暮れなずむ空≫

124-4.jpg

 この絵の舞台は、隅田川の両国界隈。向うには両国橋が見える。
 手前には、河岸の浸食を防ぐための「棒杭」(ぼうぐい)が沢山描かれる。ここは「千本杭」と呼ばれたところ。川面には、釣り糸を垂れる船が。

 このあたりは、墨田川東岸から西に両国橋を望んだ風景なので、日没直後の残光が照らす、暮れなずむ空の美しさを描くことが清親のねらいでしょう。
 水面のきらめきの描写もまた繊細で美しい。木版画なのに、水彩画のような味わいが感じられる。
 構図上、注目すべきは、手前の棒杭をきわめて大きく描いているところで、真ん中の一本などは、橋よりも高く、空に屹立する姿に描かれる。
 このように、近くのものを大胆なクローズアップでとらえ、遠景を小さく描くことによって、深い奥行き感が生まれる。この描法は「近接拡大の技法」と呼ばれ、晩年の歌川広重が連作「名所江戸百景」の随所で使った手法です。

 広重は、これに加えて、近くのものの全景を描かず、大胆に切断して「部分」だけを提示するという「切断画法」を同時に用いることによって、絵画的な強さを生み出しました。

124-5.jpg

 上図の右の絵は、歌川広重晩年の連作「名所江戸百景」の中の「亀戸梅屋舗」です。
 梅の古木を前面に大きく「クローズアップ」でとらえ、しかも古木の上下・左右を大胆に「切断」(トリミング)することによって、奥行きが深まるだけでなく、力強い絵画となっています。ゴッホがこの絵の斬新な構図と力強さに魅了されて模写していますね。

 普通、浮世絵の「風景画」のジャンルでは、風景の広がりを表現するために「横長」サイズの画面に描くことが多かった中で、広重は、「名所江戸百景」シリーズをすべて「縦長」サイズとしました。そして、風景画には不向きと思われた「縦長」画面を逆手にとって、インパクトのある斬新な「風景画」を生み出したのです。その時に使ったわざが「近接拡大」と「切断」の技法でした。

 広重の作品は、清親の幼いころからその脳裏に摺りこまれていたと考えられるので、この「千本杭両国橋」を描く時に、ほとんど無意識のうちにそのイメージが作用したように思えます。

 次回もまた、小林清親の「東京名所図」シリーズの作品を鑑賞します。
(次号に続く)


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子規・漱石 断想 №5(再校・補筆) [文芸美術の森]

子規・漱石 断想 №5   子規・漱石愛好家 栗田博行

   よのなかにわろきいくさをあらせじと
     たたせるみかみみればたふとし  子規

 明治32年1月1日、「升」の名で発表した日本新聞新年記事「400年後の東京」の結びに置かれた一首です。子規の自筆和歌草稿本「竹の里歌」には、明治31年の最後の一首として記載されています。こちらには「平和肖像図」と詞書がついており、以下の漢字交じりの一首となっています。
  世の中にわろきいくさをあらせじとたゝせる御神見れば尊し
「わろきいくさ」=「悪き戦」。「あらせじとたゝせる」=「在らせじと立たせる」と補ってみると、子規が明治のこの時点で、俳句という極小の文芸を追及するのと同時に、「戦争と平和」という人類最大の主題に到達していたことが解ってきます。
 新聞の新年記事の方では全部かな書きにしたのは、書き言葉として脳裏に浮かんだこの詩想を、世間に発表するに当たっては、朗々と歌い上げるようにして訴える気分になったのではないでしょうか。歌会始のように…。
 ウクライナの戦争が終われない世界にガザの戦争が重なってしまった今、子規が125年前に願った想いが絡んできて止みません。立ちすくみ堂々巡りする老人の思考にお付き合い下さい。(2023.12.27記)

 志士的気分と日清戦争従軍動機の謎
 子規が生涯の恩人と感じた日本新聞社長・陸羯南は、彼が若くして大喀血を経た男であることも、その体で日本新聞で全力で働き八重と律との正岡家の家計を支える家長であることも、誰よりもよく解っていた隣人でした。そ5-1.jpgの上での従軍願いへの連署だったのです。日清清戦争従軍という一見不条理な正岡常規の行為への、羯南は最高の理解者だったのではないでしょうか。   
 羯南のこの行為を「たとえ結果的にその人の命を縮めることになっても、あえてする親切だった」と指摘した大江健三郎さんに、司馬遼太郎さんが「そうですね、そうでしたねっ!」と身を乗り出して共感されたことがありました。
 願書の3行目に着目して下さい。「士族 正岡常規」と書かれています。履歴書を書く上での、明治の習慣が関係はしているのでしょうが、願書の肩書に「士族」と記しているところに、子規の自意識の中心に明治男子ならではの「国士・志士」といった気分が流れていたことを感じざるを得ません。
 度々紹介してきた従軍記念写真の裏には、「明治廿八年三月三十日撮影 正岡常規廿八歳ノ像ナリ 常規将二近衛軍二従ヒ渡清セントス故二撮影ス」と自書されています。記者として戦地に渡る十日前、広島での待ち時間中に羽織袴の正装をし、太刀迄手にして撮影したのです。今時の感覚からすれば、一体なぜそこまでと疑問が湧きますが、彼が松山藩の士族の家系の出身だったことが深く関係しています。

 旧松山藩主で近衛軍副官として遼東半島に出征する久松定謨伯の送別会に赴き、その帰途撮影したものです。左手の太刀は久松伯から拝領したものと伝わっています。滞在地の広島で羽織・袴をどう用意したのか、謎多い一葉です。子規の内面にあった士族意識が噴出していますが、廃刀令が発布されて久しい明治中期にあって、そこまでの振る舞いをなぜしたのかという疑問に誘われます。
 しかし、3月初め東京からの出発に当たって詠み、「陣中日記」冒頭に記した「首途やきぬぎぬ惜しむ雛もな5-3.jpgし」や、「かへらしとちかふ心や梓弓 矢立たはさみ首途すわれは」の二句と合わせ考えて見ると、けっこう思いつめた末の記念の写真撮影だったらしい、とも思へてきます。
 明治の中期は過ぎていたにしても、子規の中には維新の志士のような気持ちが底に流れていて、それが大いに昂っていたことの顕われだったのではないでしょうか。あの高杉晋作の写真と並べてみて、あまりにも似ているのに、筆者は驚いたことでした。
5-4.jpg ところがです。実は、生まれは「平民」で、子規と対照的に北海道に送籍して兵役を回避したらしい漱石もまた、「志士の気分で文学を…」という意味の言葉を吐いているのです。門弟の鈴木三重吉宛ての書簡に記したもので、子規が日清戦争従軍を決行した時から10年以上後の、明治39年という段階のことでした。子規没後4年・日露戦争終戦後1年以上の時間が経っていました。虚子に促されてホトトギスに発表した「吾輩は猫である」、また「坊っちゃん」の大成功を経て、帝大教師を辞めて職業作家として生きることに心が傾き始めた頃のことです。
  「僕は一面に於て俳諧的文学に出入すると同時に
一面に於て 死ぬか生きるか、命のやりとり をする様な    
 維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい」  
                     (明治39年10月26日晋鈴木三重吉宛書簡)
 論者は、漱石が明治27年末、自分探しの葛藤の末に鎌倉円覚寺・帰源院で禅修行をした時、あえて「平民」と名乗っていたことを知って驚いたことがありました。この時の帰源院の受付名簿には、ひとり夏目金之助のところだけが「平民」と記載されているのです。少年時代は、士族組で喧嘩していた夏目金之助君だったのですが、青年期には「町名主」の出であることは「平民」であることの自覚に到達し、外に向けてそれを強く宣明する気持ちを持っていた・・・そう感じたものでした。
 その漱石が、この時期には「維新の志士の如き烈しい精神で文学を」と書き記しているのです。文学者として先にスタートしていた正岡常規との親交の中で、その生き方をつぶさに知っていた漱石でした。子規との精神的交流の深さを想うとともに、明治男子の文学への真剣さは、「士族・平民」という身分を超えても存在したことを気づかされました。「矢立たはさみ首途す」「志士の気分で文学を…」といった気概は、明治の真率な男子文学者の心底に、身分意識を超えた共通のものとして流れていたのではないでしょうか。
 ただ子規の場合は、松山藩士族の嫡男だったこともあって、とりわけそれが早くに突出して現れたたケースだったと思うのです。
 日本新聞の上司・古島一念編集長の、従軍をやめさせようとする説得に対して返したあの言葉の、
  『どうせ長持ちのしない身體だ、見たいものを見て、したい事をして死ぬは善いでは
  ないか』と喰つてかゝる。『しかしわざへ死に行くにも及ばんではないか』と言ふと、
  『それでは君いつまで僕の寿命が保てると思ふか』 など駄々をこねる。
               子規・漱石 断想 №2:知の木々舎:SSブログ (ss-blog.jp)
といった奇矯な激しさも、以上の要素をあわせ考えると真剣なものに見えてきます。子規の従軍という行為は、男伊達のパフォーマンスといった軽々しいものではなく、士族気分と文学への使命感に根差した命がけの真剣な行為ではなかったか?…と思へてくるのです。

子規はなぜ、漢詩「古刀行」を書いてしまった?
 出発前子規は、日本刀で異民族を試し切りするという異様な幻想詩「古刀行」を書いていました。(当欄第一回)。                        子規・漱石 断想 №1
 
 …此の刃五百年 人未だ鈍利(切れ味)を識らず 我の楡関(山海関)に到るを待ちて      
     将に胡虜(北方の蛮人)に向かって試みんとす」(古刀行書き下し文)
 しかし、「陣中日記」冒頭に記し発表した通り、従軍に臨んだ子規の士族意識は、日本新聞社を出発するに当たって詠んだ、「かへらじとちかふ心梓弓 矢立たばさみ首途すわれは」だった筈です。あくまで「矢立=携帯の硯を携えて命尽きるまで」ということであって、「太刀携えて」ではありませんでした。つまり日清戦争従軍は、文学者としての情熱・志(こころざし)の次元のものだった筈です。
 それが、あの漢詩「古刀行」を書いてしまうところまで昂ってしまったのでした。当欄第一回で紹介した書き下し文を再掲します。
     「…此の刃五百年 人未だ鈍利(切れ味)を識らず 
           我の楡関(山海関)に到るを待ちて 
       将に胡虜(北方の蛮人)に向かって試みんとす」
     子規・漱石 断想 №1:知の木々舎:SSブログ (ss-blog.jp)
〈山海関に着けば、自分は現地の蛮人でこの太刀の切れ味を試してみるゾ〉。もちろん一瞬の閃きとして浮かんだ幻想であり、煎じ詰めた末の志士的・テロリスト的な決行声明などではありません。社会に向けて発表もしておらず、内心の一瞬の動きを書きとめた文学者の手元メモのようなものだったとは、推察されます。
 しかし旧殿様筋へ願い出ていた太刀を、戦場へ向け待機中に拝領したことから、〈文学者もまた、従軍すべし!〉と、従軍記者としての心の一端に、こんな幻想が生まれてしまったのです。こんな風に猛り立つ益荒男的気分が、一瞬であったにせよ正岡常規の中に生じてしまったのです……。それもあってのあの太刀携えた記念写真だったのでしょう。
5-5.jpg お母さんの八重さんの回想では、ちょんまげを結っていた幼年期、泣き虫の弱味噌クンで、いじめられると妹の律が兄の敵討ちをするほどでした。小さな脇差で手を切ってシクシク泣いたりもした…そんな男の子でした。幼い子規を厳格かつ愛情一杯で訓育した儒学者の祖父大原観山が、「武士の家に生まれて、お能の太鼓や鼓の音におびえる」と叱ったくらいの弱々しい男の児だったのです。
 そんな正岡處之介クンでさえ、長じて働き盛りの物書きとしての日々にあって、一瞬とはいえ〈山海関に着けば、現地の蛮人で、この太刀の切れ味を試してみよう〉という幻想が脳裏に浮かぶ日本男子になってしまったのです。
 帝国主義という世界の歴史の段階にあって、初めて近代の対外戦争を戦う明治国家・日本の一員として、正岡常規はどうあるべきだったのか…。戦争という空気の中で日本男子の精神性がどう揺らいでゆくのか。問題の難しさをつくづくと想う次第です。昭和20年に至る日本の戦争の歴史へと思念が飛躍したり、迷走したりして止みません。
 しかし子規は、結局はそこを抜け出します。明治32年元旦には、
  よのなかにわろきいくさをあらせじとたたせるみかみみればたふとし  
と、「古刀行」とは対極の心情を発表する心境に到達していたのでした。そこへ至る子規の心情の推移を追う小論、また日清戦争の明治28年の時点に戻って考察を続けます。

 陣中日記―結語は「遼東の豕に問へ」
「陣中日記」は、日本新聞に連載の同時的ルポルタージュ記事の筈でした。ところがその最終回(四)は、明治28年7月23日の掲載となっています。日清講和条約批准(完全終戦)は5月10日、子規の従軍行は5月23日に終わっていますから、「陣中日記」と名付けたルポとしては随分遅れて掲載された新聞記事になってしまってます。
 これは、帰国の船中で2度目の大喀血をし、上陸後担架で神戸病院に運び込まれ、瀕死に近くまで行って命を取り留めるという、2ケ月があったからでした。ですから、筆を執れるまでに回復したら、病院内でまず真っ先に最終回の執筆にかかっての結果で、実は逆に記者としての責任感の強さが伺える速さなのです。(口述を、看病に駆け付けた碧梧桐や虚子が代筆したこともあったかもしれません。)
 出発前廣島で一月以上も待機し、戦地に到着すれば既に戦闘は終結。終戦後の戦場跡のぶらぶら歩きに終始した末に、帰りの船中では、生涯2度目の大喀血…。誰の眼にも大失敗の愚行に終わった日清戦争従軍行でした。その結びの文章は、こうなっています。(筆者意訳がまじります)、  
  我(わが)門出は従軍の装ひ流石に勇ましかりしも帰路は二豎(にじゅ=病魔)に
  襲はれてほう へ の體に船を上り(下り?)たる見苦しさよ。
 従軍記念写真を撮ったり辞世風の短歌を詠んだりして出発した行為の、最終的には大失態となってしまった経過を正確に認識、それを隠さず正直に公表しています。そしてこう続けます。
  大砲の音も聞かず弾丸の雨にも逢はず 腕に生疵一つの痛みなくて 
                   おめおめ帰るを 命冥加と言はば言へ 
  故郷に還り着きて握りたる剣もまだ手より離さぬに畳上に倒れて
             病魔と死生を争ふ事 誰一人其愚を笑はぬものやある。
 出発前、同時代の明治の世に向かって、「かへらしとちかふ心や梓弓 矢立たはさみ首途すわれは」とまで発表していた自分の行為の愚かさを誰もが笑うだろうと振り返って、自ら率直に認め公表しているのです。
 ところが、そんなみじめな結果を正直に綴る文章の不思議な躍動感は、まさに子規の精神の真髄がこんな時にも健在であることを、最後に感じさせてくれるのです。こう続きます。

  一年間の連勝と四千萬人の尻押とありてだに談判は終に金州半島を失ひしと。(三国
  干渉と遼東還付) さるためしに此ぶれば旅順見物を冥途の土産にして蜉蝣かげろうに
  似たる 命一匹こゝに棄てたりとも惜しむに足ることかは。その惜しからぬ命幸に助か
  りて何がうれしきと凝ふものあらば去て遼東の豕(ゐのこ)に問へ。
                    〔「陣中日記」(四)日本 明治28・7・23〕 
 これが「陣中日記」=遼東半島33日のルポルタージュの結論なのです。日本の文学史の中でこれといった価値も残せなかった文章に見えます。しかし、子規自身の精神の動きの記録としては、実に重要な一文となっていることが最後の一言でわかるのです。
 論者はこの一文に対し、初めは「子規にしてはなげやりな、愚かさを正直に認めただけの文章」といった印象を持ってきました。ところが広辞苑で、「遼東の豕=ひとりよがりの白い豚」といった意味の漢文熟語という説明を知って、何回か読み直すうちにこの結びの一文への印象が大きく変わって来たのでした。
「旅順見物もできて、儚い命を捨てても大したことではないのに、命が助かったからといって何が嬉しいのだと問いかけてくる人がおれば、行って遼東半島のひとりよがりの白い豚(豚=ここでは自分)聞いてみよ」と述べているのですが、一見自嘲自虐の限りをつくした論理と思えるこの文脈に、どんな苦境からも最後は前向きの生き方を見出す子規独特の姿勢が、ここにも顔を出していると気づいたのです。
〈ひとりよがりの愚行に見えかねない行為の末に取り留めた命だが、助かっただけの生きる価値はある筈だ。以後、それを問うていくことにしよう〉…そんな生き方の始まりを宣言している文章のように思へてきたのです。
 迫ってくる死を見つめて自問自答を重ね、その度に生きる意味を見出し続けた子規の晩年の生き方の出発点。日清戦争従軍という、一見愚行の極みと見える行為だったものが、実は彼の精神史の上では、22歳の喀血に次ぐ重要な試練と新たな出発をもたらしたのだった…そう想えるようになってきたのでした。まさに彼が、文学が目的の行動者だったからこその結果と言えましょう。
  (虚子・碧梧桐・母八重他駆け付けた大勢の看病を受けて、記事が掲載された7月23日には退院。明石の
  須磨保養院に移り、一月あまり療養。次は東京根岸と日本新聞に帰り急ぐかと思うとそうではなく、漱石
  に招かれて郷里松山で52日間同居。それを切り上げての奈良旅行で「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」を詠
  むという、有名な、しかしさらに謎の多い経過が続きます。しかもその間も日本新聞には原稿を送り続けて
  いるのです。)

従軍の心意の、一番底にあったもの
 羽織・袴で太刀まで持って記念写真を撮ったりはしましたが、従軍の衝動は「矢立たはさみ首途すわれは」―、あくまで文学を軸に動いていたのでした。もっと早くに、そのことを語った書簡が実はあるのです。

№5-1.jpg

 明治28年2月25日広島へ出発前に、日本新聞社の近くで後輩の碧梧桐・虚子と食事をした後、二人に直接手渡したものです。タイミングからして従軍決意の初心を述べて、後輩に後事を託す内容となっています。(内容後述)
№5-2.jpg 実は同年代の夏目金之助君には、従軍する気持ちを全く知らせた形跡がありません。自分とは対照的な、夏目金之助君の北海道へ送籍しての兵役回避を知っていたのかどうかも不明です。時期としては日清戦争の最中で、夏目君がノイローゼと見られるくらいに悩んでいた時期であったことを、知っていたか知らなかったか…。下宿を飛び出し転がり込んだ尼寺までの地図を描いて、「来てくれ、話したい」と気持ちを伝えてきたことさえあった夏目君でしたが、その必死の呼びかけにも、正岡君が反応した形跡は全く残っていないのです。
 日本新聞の同僚・先輩達にも、当ブログ№2で紹介した古島一念とのやりとりが示すように、このふたりの後輩への手紙に記したような決意の内容は打ち明けていなかったようです。この時代のおとな社会の常識では、文学のための従軍など理解される筈がないと思っていたのかもしれません。子規自身は写生の境地を掴みかけてはいましたが、時代の空気としては、俳句とはまだまだ「風流韻事の文芸」であり、子規は、その世界の人と見られていたかも知れません。

 書簡は、従軍の途中で命尽きることも予想し、碧梧桐と虚子という郷里の後輩に後事を託すという心情が昂った、一種の檄文となっています。以下原文の要点を掲出します。(論者による省略や意訳が多々混じります。)
   ー 僕ノ志ス所文学ニ在リ
   ー 戦捷(勝)ノ及ブ所・・・ 愛国心愈(いよいよ)固キノミナラズ殖産富ミ エ業起リ
    学問進ミ美術新ナラントス・・・文学ニ志ス者 亦之ニ適応シ之ヲ発達スルノ準備ナカ
   ルべケンヤ・・・ 
〈僕が目指しているのは文学だ。戦勝が続く中で高まる愛国心や殖産興業の発達、学問の進展、美術等の新風興隆といった社会の機運と共にあり、発達するものでなければならない〉  
 こんな意味合いに受け取れます。「時代と社会の動き・在るべき姿と共にある文学こそ!!」と叫んで、肩に力がいっぱい入っていることが伝わってきます。俳句の変革に手を付けかけていた子規なのです。「社会の在り方と無縁に風流韻事を求める文人墨客であってはならない」と、子規独特の用語「野心」(=ガッツ・ファイト)が躍動している文章となっています。4年前、虚子への初めての書簡で「国家の為に有用の人となり給へかまへて無用の人となり給うふな」と呼びかけた志はまっすぐ発展して続いていたのです。こう続けています。

  ― 僕適たまたま觚(さかづき)ヲ新聞二操ル 或ハ以テ新聞記者トシテ軍ニ従フヲ得ベ
  シ 而シテ若シ此機ヲ徒過スルアランカ 懶ニ非レバ則チ愚ノミ 倣ニ非レバ則チ怯
  ノミ  是ニ於テ意ヲ決シ軍ニ従フ

〈自分が新聞社に職を得ている身である以上、あるいは記者として従軍する機会に恵まれるかも知れない。それなのにいたずらにそのチャンスをやり過ごしてしまうようであれば、怠け者(懶)でなければ、愚かもの。摸倣家(倣)でなければ臆病者(怯)。だから意ヲ決シ従軍するのだ。〉 そしてこう結んでいます。

   僕若シ志ヲ果サズシテ斃レンカ 僕ノ志ヲ遂ゲ僕ノ業ヲ成ス者ハ足下ヲ舎イテ他ニ
   之ヲ求ムベカラズ 足下之ヲ肯諾セバ幸甚
〈もし僕が倒れたら、僕の志を後を継ぐのは君たち以外にはない。君たちがこのこころざしを受けてくれれば幸せだ〉
と語りかけているのです。子規愛の人司馬遼太郎さんでさえ、「坂の上の雲」の中でこの、書簡を詠んだ虚子に、「そんなもんじゃろか」としか反応させていません。
 日本新聞社の壮行会や父の墓参りや旧殿様からの太刀拝領のまえに、子規はこんな認識と心情に到達していたのです。 広島へ出発する前の段階で、子規は既にこれほど真剣に思いつめ、常識からは浮き加減だったのです。子規の生涯を俯瞰で知っている私たちは、子規のこの興奮をユーモラスに肯定的に受けとめたり出来ますが、当時を共に生きた人たちのほとんどは、あきれ心配したのが正味だったでしょう。

 しかし文学へのこのような真摯な想い詰めを、受け止めてくれた人がいなっかったわけはありません。既にふれたとおり、日本新聞社長・陸羯南がその人でした。
№5-3.jpg 根岸で隣に棲みついた正岡一家のことを、子規の働きのみで成り立っている家計の事も含めて誰よりも良く分かって、保護してきた人でした。
 その上で、結果的には命を縮めることになりかねないこの行為を「日本男子のこころざし=志の問題」と受け止めての従軍容認だったのです。大江さんと司馬さんの感動もそこに向けられていたはずです。「たとえ結果的にその人の命を縮めることになっても、あえてする親切だった」のです。
№5-4.jpg それからもうひとり、子規の母・正岡八重も跡取り息子「ノボ」のこの行為を、深い理解で受け止めた人だったと、論者は思っています。八重は松山藩の儒学者・大原観山の長女、早逝した松山藩士正岡隼太の妻という人でした。士族の家系の長女で、羯南の「ノボ」の志への理解も受け止めた明治女性だったと思うのです。
 後年書きかけて未完に終わった私小説「我が病」では、遼東半島に向けて根岸を発つ朝のことを子規はこう書いています。
  「三月三日の朝、革包一つを携ヘ宅を出た。母に向かって余りくどヘと挨拶して居ると変な心持になるから『それじゃ往て来ます』といふ簡単な一言を残して勢いよく別れた。」
 たったこれだけの表現しかありません。こころの底に潜む万感を押し殺しきった親子の情景が浮かびます。明治28年、八重は50歳、子規は28歳になろうという年でした。子規の生い立ちに母性溢れる証言を残している八重ですが、従軍というこの行為に関しては何の言葉も残していません。大原観山の長女・武士の家系の母という母性が、この言葉少ない出立の場面を生んだと想像されます。妻も子もない長男・独身明治男子の門出でした。子規は、妹・律への言及もしていません。律もまた言及していません。
 この後日本新聞に出て、簡略な壮行会を経て出発するのですが、ルポ記事「陣中日記」には、「門途やきぬぎぬをしむ雛もなし」と一句を詠んだことが描かれています。壮行会という場に合わせて出た一句でしょうが、論者は「ナニを言っているのか。八重さんも律さんもいるではないかっ!」と叱ってやりたい気分を、禁じ得ません。根岸を出る時の八重さんの静かな態度には敬意を感じるのですが、この一句に現れた子規の明治男ジェンダーには、子規好きの我ながら、好感を持てません。

 しかしこれより前に虚・碧宛てに手渡した書簡に顕われた、従軍の心意の一番底にあったもの(つまりは初心であったもの)については、肯定的に受け止める気持ちが強く働きます。
  ― 戦捷(勝)ノ及ブ所・・・ 愛国心愈いよいよ固キノミナラズ 殖産富ミ エ業起リ 
                                学問進ミ 美術新ナラントス
 一見、戦勝が続くことに興奮した単純明治男子ジェンダーを思わせますが、
  ―文学ニ志ス者 亦之ニ適応シ之ヲ発達スルノ準備ナカルべケンヤ・・・
  此機ヲ徒過スルアランカ 懶ニ非レバ則チ愚ノミ 倣ニ非レバ則チ怯ノミ
 結核の病身にある文学記者が身の危険を顧みずこう言いきって従軍を志願・強行したのです。「行かなければ卑怯だ」とまで…。論者は、この論旨に、第二次世界大戦後の世界でフランスのサルトルが世界中の知識階層に大きな影響を与えた「アンガージュ=社会参加」の考え方と共通なものを感じます。

 俳句という、風流韻事と思われていた文芸の変革に取り組み始めていた子規の「野心」は、日清戦争という激動の中で、明治という時代社会にふさわしい文学全般の在り方を求めて、さらに高揚し始めたのではないでしょうか。士族意識から始まりはしたものの、それを超えて知識階層の社会参加のあるべき姿(=ドロップアウトの否定等)を模索していると思えてくるのです。さらには近代・現代社会のあるべき市民意識の根底に子規は接近し始めている…とも。
 青年期の入り口の頃の明治15年から16年にかけて、彼は自由民権運動に熱中する士族の若者でした。そんな青年であった明治男子が、戦時にあって一瞬ではあるが、「古刀行」の心情を持ってしまったのでした。しかし、3年半の時間を経て「平和肖像図」と詞書し、
  世の中にわろきいくさをあらせじとたゝせる御神見れば尊し
と詠むまでに変心したのでした。、その心情を新聞に公表するに当たっては、平和を願う心情を歌い上げる気持ちを込めて
  よのなかにわろきいくさをあらせじとたたせるみかみみればたふとし 
と、かなだけの表記にしたのでした。

 ウクライナ・ガザ…世界に戦争が止みません。漢詩「古刀行」から短歌「平和肖像図」にまで到達した、子規の125年前の思念の推移を、膨大な戦争報道の中を迷走しながらではありますが追い続けようと思っています。お付き合い下されば幸いです。
 パソコンのウイルス被害と体調不良のなか、次回の掲載予告ができないことをお詫びします。2024.1.10記 )


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妖精の系譜 №68 [文芸美術の森]

アイルランド妖精伝承の蒐集と保存 3

       妖精美術館館長  井村君江

生き続ける妖精

 しかし、時代を重ね所が変わり、人々に語り伝えられていくうちに、話が千変万化していくため、妖精について簡単な定義を下すことは非常に難しいことがわかる。このことは例をこの「バンシー」一つにとってみても、容易に肯けよう。例えば一番古い直接報告は十七世紀の『ファンショー夫人の回想録』で、それはファンショー夫人が親類のオナー・オブライエンの古い屋敷に滞在した夜の出来事である。――夜の一時ごろ、夫人は人の声でハッと驚いて目を覚ましカーテンを開けてみると、「窓辺に白い服を着て髪の赤い幽霊のような蒼ざめた顔の女が、窓に身をのりだしているのが月の光で見え、耳にしたこともないような声で三度『馬』と言ってから、風のような溜息をついて消えたが、身体は濃い雲のようだった」という。明け方の五時に夫人が来て、この家の主人オブライエンが死んだと告げたので女を見たことを話すと、その女は家の者が誰か死にかけると、毎夜窓辺に現われることになっているが、「ずっと以前にこの家の主人の子を宿し、裏庭で殺され窓の下の川に投げ込まれた女である」と答えたという話である。
 これから約二百年のちにワイルド夫人が記しているバンシーは、「若くして死んだその家の娘で、美しい声で歌い親族の死を告げ知らせるか、経惟子(きょうかたびら)に身を包んだ女となって木の下にうずくまり、顔をヴェールで被って嘆くか、月の光をよぎって飛びながら泣く」若い乙女の姿になっており、動作も詩的に美化されている。プリッグズはスコットランド高地地方のバンシーは、鼻の穴が一つ、前歯が出ており、乳房はだらりと垂れ下がっていると、まったく正反対の醜い姿を記している。バンシーは一般に死ぬ人の経惟子を洗うといわれるのに、キャンベルによれば「産褥で死んだ女が、洗濯し残した自分の衣類を洗う」のだという。このように姿や動作もさまざまで、十九世紀のトドハンターは「一ヤードの白髪をなびかせ、灰色の外套と緑の上衣を着て家のまわりを泣きながら小川に消えた」と記すし、クローカーは十八世紀のマッカーシー家のバンシーは、「背の高い髪の長い女で、手を打ちならしながら死者のいる家に案内する」と言っている。「一人でなく何人ものバンシーが声を揃えて泣き歌うときは、聖者か偉人が死ぬとき」と、イエイツは群れて嘆くバンシーの泣き声を記している。こうした言い伝えがさまざまに各時代、各地方に伝わってお。、それらを集めてゆけばゆくほど、かえってこの妖精の輪郭が不明になってくるはどである。
 こうした性質をみせているバンシーに共通している属性をみると、
(1)女の姿をした妖精で、
(2)由緒ある旧家に付き、
(3)現われて家人の死を予告し、
(4)死ぬ運命にある人のために泣く、
ということである。
各時代、各地方の人々の考え方によって、これにいろいろな変化が加えられていくわけである。「流れで経惟子を洗う」とか「手を叩く」とか「馬と言う」といった動作である。先に掲げたオナー・オブライエン家のバンシーは、その家の主人に殺された女性が、死後に幽界から現われてその家人の死を予告し嘆き悲しむわけであるが、これは城主に殺害された馬屋番の少年が、死後ブラウニーとなって家事の手伝いをするという「ヒルトンの血無し童子」や、ロバの姿のプーカになってその家の台所で働くキルディアのH・R家の死んだ召使いなどと類似した存在であろう。この世とあの世の中間の中つ国に住み、幽界にさ迷う霊魂と関わりをもつ妖精に、死んだ人間は関係を持ちやすい。だがバンシーはすべてこうした現実に生きていた人間が、死後に幽霊となって現われてくる存在であるとは言い難いようである。
 死を予告するとなれば不吉な存在であり、その出現に戦慄を感じ、これを排除し否定したいと思うのは当然で、そこからバンシーの容姿を奇型とまでいえるような醜い姿にしていった必然は肯ける(スコットランドに多い)。これに反して家に付いているというところから、遠い祖先のなかの若くして死んだ乙女の姿を想像し、できるだけ美しいものに転化させていくという推移もまた肯けるのである(アイルランドに多い)。また一般に恐ろしい不吉な存在を、その力を怖れるが故に、自分に都合のよいものに逆転させてしまおうとする人間の意志の働きによって、この不吉なバンシーも掴まえれば三つの願い事を叶えてくれるとか、垂れている乳を吸えば保護者になって願い事を叶えてくれるとか信じられてくる。
 レジナルド・スコットが『悪魔学と魔術』の中で、高地地方のバンシーは家長の幼年期には揺り龍の番をしたり、チェスの駒の動かし方を教えたり、人間によいことをすると書いていることからプリッグズはバンシーを不吉な悪の妖精ではなく、守護妖精の分類のなかに入れるべきだと言っている。このように「バンシー」一つ辿ってみても、妖精の概念というものは、長い時代にさまざまな地方の人々によって形成されていく重層的なものであることがわかる。
 U・C・Dの帰りマラバイド城まで乗ったタクシーの運転手に、このバンシーとレプラホーンについて尋ねてみると、詩人の耳にしかキーニングは聞こえないようで、バンシーには興味を示さなかったが、「レプラホーンの方は掴まえて地下の財宝を白状させ、金持ちになりたいので探しているがなかなか難しい、頭にのせると妖精が見える四つ葉のクローバーもみつからないし」という答えが返ってきた。
 レプラホーンはアイルランドでは富と財産をもたらす福の神か大黒さまのような存在らしく、こうした理由からか、人々はいちばん新しい存在として妖精全体を代表させる呼び名としても使っているようである。緑の服に赤い三角帽子、手に金の袋をかかえた(いつの間にか金槌はどこかに置き忘れてしまったようである)さまざまな大きさの人形が売られており、日本の大黒さまのお守りのようになって小さい携帯用の人形も店頭に並んでいるし、車のフロントにも下っている。バンシーは人間のまぬがれぬ死という運命と関係し、レプラホーンはこの世の幸運に関係を持つ――この二つの妖精が人間の死と生の根元的なところに関わりながら、確かに今日までアイルランドの人々の心のなかで、連綿と生き続けているようである。

『妖精の系譜』 新書館


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石井鶴三の世界 №250 [文芸美術の森]

あ、さつまいもたべている/笠置・貞丈

        画家・彫刻家  石井鶴三

1956あ・さつまいもたべている.jpg
あ、さつまいもたべている 1956年 (189×133)
1956笠置・貞丈.jpg
笠置・貞丈 1956年 (189×133)

*************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三』 形文社


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武州砂川天主堂 №42 [文芸美術の森]

第十一章 明治二十四年 3

         作家  鈴木茂夫

七月十三日、香港・パリ外国宣教医療施設べタニアの園。
 ガンは全身に広がった。さらにガンは心臓を冒しはじめた。名状しがたい苦悶が昼となく夜となく続く。ジェルマンは、苦しみを口にはしない。ただ、突き刺すような痛みに、思わずうめき声が漏れてくることもある。七月十八日、食物はほとんど受けつけなくなった。吐瀉(としゃ)は一段と激しくなった。牛乳までも、吐きだしてしまう。それでも気力だけで生きている。

七月二十二日、香港・パリ外国宣教医療施設べタニアの園。
 ガンが全身に転移していることが確認された。
 医師は、苦痛緩和のためにと、モルヒネ注射を行うこととした。血液の中を何かが巡る。
生気が走る。ジェルマンは、痛みカ緩和されるのを感じた。ほっと深いため息が漏れる。苦痛が消えた。ジエルマンは、痛みに妨げられず、考える事ができることを知った。うれしい静寂のひとときだ。だが、なぜそうなったのかも理解した。神父たちと医師と思いやりからだ。感謝しないではいられない。と同時に、それは自らの病状が差し迫っているのだとも覚った。
 ジェルマンは、少量の肉とワインを口にすることができた。そして安らかな眠りに入っていった。
 頬の肉が削げ落ち、毛布の下の体が、一回りは小さくなっている。修道女たちは、ベッドのかたわらの椅子に腰掛けてひたすらに看取っている。

七月二十五日、香港・パリ外国宣教会医療施設ベタニアの園。
 この日、聖体拝領。ジェルマンは、この日、ベルリオーズ司教が日本で叙階されるのに、式典に参加できないのはとても寂しいことだと、看護人につぶやいた。

七月二十六日、日曜日、香港・パリ外国宣教医療施設べタニアの園。
 聖体拝領。モルヒネ注射が打たれたが、苦痛は消えず、食物は喉を通らなくなった。

七月二十七日、香港・パリ外国宣教医療施設べタニアの園。
 ほんの少し元気が回復。僅かばかりの水でロを湿した。午後になると、自らベッドで起き上がり、遺書を書きはじめた。フランスの両親、パリ外国宣教会本部、東京のオズーフ司教と三通を認めた。一字、一字を確かめるようにゆっくりとペンを運んだ。

七月二十八日、香港・パリ外国宣教医療施設べ夕二アの園。
 容体は悪化した。ベッドからは起き上がれない。眠ることも困難になった。呼吸も困難になってきている。

八月一日、香港・パリ外国宣教医療施設べタこアの園。
 医師はジェルマンの臨終を吉した。極東本部の主管司教が病床に立って、聖油の秘蹟(ひせき)の儀式を執行。ジェルマンは混濁する意識の中で、僅かに警開き天井の言霊つめていた。

八月二日、香港六リ外国宣教医療施設べタこアの園。
 ジェルマンは、病床で顔を洗い、ヒデと髪を警、着衣を改めてくれるように懇願した。
 「この身を浄め、主のみ許に行きたいのです」
修道女が体を浄める。ジェルマンは息をつめて、体内に渦巻く激痛に耐え白い聖衣を着た。そんな体力は残ってはいない。気力でやりとげたのだ。
 ジェルマンは、最期の告解(こくかい)をした。
「神の僕として、神の教えを伝えるために、もつともつと歩くべきでした。意思弱く非力であった私をお許し下さい」
  その声は、今や力なく、低かった。しかし、その語り口は、明晰(めいせき)そのものだった。その場にある数人の修道女と神父たちの胸に、一条の活列なせせらぎのようにしみ通っていった。
 「みなさん、ありがとう。私はこれからお召しの時を待ちます」
 ジェルマンは、両掌(りょうてのひら)を組み、静かに瞑目した。
 脈拍は、不規則となりはじめた。脚と手が冷たくなってくる。
 午後七時半、意識が混濁しはじめた。熱のために渇ききった唇が、何かを言っている。そっと耳を寄せると、ミサの祈りが切れ切れに聞こえてきた。
 病床を取り巻く、神父たちが目配せし、領いた。
 臨終(りんじゅう)の祈りが捧げられる

八月三日、香港・パリ外国宣教医療施設べ夕二アの園。
 ジェルマンから苦痛が消えたようだ。生の終わりに訪れるつかのまの平安なのか。
 ジェルマンは、主の身許へ旅立つ悦びに充たされていた。
 故郷:フングル県での少年の日々。故郷の風景が折り重なって展がる。
 聖歌隊の一員として歌った賛美歌……。
 パリへの旅立ち……。
 大神学院の授業……。
 マルセーユの港から日本へ…。
 グレゴリオ聖歌の重唱が聞こえてくる。
 それはパリの本部で聞いたのではない。
 砂川の聖トーマス教会のオルガンの響きだ……。
 日本の信徒が、フランス語で歌う音律だ。
 その響きに母を思った……。
 ジェルマンは、胸の中の大きな教会にいる。
 思い出すことが、天井画や壁画、そしてステンドグラスに描かれてある。
 今、終わろうとしている竿二年間の生涯…・・・。
 午前五時十三分。日の出に先立つ一時間前、ジェルマン・レジェ・テストヴイドは、わが身から抜け出た。天を舞い、空を見上げて卿を踏み出す帰天(きてん)の旅。その足取りは軽やかだ。 (完) 

『武州砂川天主堂』 同時代社
                   

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浅草風土記 №20 [文芸美術の森]

続吉原附近 5

       作家・俳人  久保田万太郎


           五

 吉野橋をわたって、わたしはそのまま右へ切れた。すなわち、さばさばと空地になった「道哲」のあとを横にみて、そのまま土手……といっても今はもう決して土手じァない、区画整理後、そういわれるだけの特別の高さをその道は失った。両側の町々と同じ低さに平均された。つまりほ、三の輪へ続く一筋の平坦な広い往来になったのである。が「先刻よりずっと濃くなった月の影を仰ぎつつ、土手のほうへわたしはあるいた」と「吉原附近」の最後にもわたしは書いた。便宜のためしばらくわたしはそういいつづけるであろう。……へ入った。以前は、そこか、だらだらと田町へ下りられたからそれだけの風情もあった、ただそのままの、凡常な、ついとおりの往来の、とある曲り角になったのでは、合力稲荷の職のかげも、霜げた、間のぬけた感じである。――十年まえ「続末枯」を書いたとき、わたしは、狂言廻しの真葛庵五秋という俳諧師に、わざわざこのあたりをあるかした。――と、ふとそれをわたしはおもい出した。

 「……どうせここまで来たものだ、出たついでに、公園の近所まで伸して、宮戸座のそばに三味線屋をしている甥のところでもたずねようと、五秋は考えた。
 合力稲荷のところから、田町へ、土手を下りた。店を閉めた上総屋のまえを通り、如燕の看板の出ている岩勢亭(いわせてい)の前をとおって、鬘屋のところから右へ切れたところで、五秋は、小梅の宗匠のところへ来る吉原の引手茶屋の主人の紅蓼に逢った。
 『五秋さん、どちらへ』
 『一寸、いま、今戸まで』
 帽子をとりなから五秋はいった。
 『今戸は鈴むらさんですか』
 『そうでございます。――ところが、生憎留守で』
 五秋はいった。
 『どちらのおかえりです』
 『今日は古笠庵の芭蕉でしてね』
『ああ古笠庵の――』
 五秋はすっかり忘れていたことを思い出した。
 「そうでございましたね。――今日……すっかり忘れておりました、わたくし』」
 五秋、紅蓼、ともにわたしの空想の人物である。手近にみ出すことの出来た二三人の人間をあつめ、それをわたしの空想に浸して、それぞれ都合よくでッち上げた存在である。
が、この二人、十年まえの、よし、店は閉めたとしてもまだそこに、うそにも「上総屋」という名まえの残っていた底(てい)の、そうした古い、すぎ去った情景のなかにだったからこそ、自由にわたしに動かすことが出来たのだろうか? こうした会話を、忌憚なく勝手にとり交させることが出来たのだろうか7 ――そうしたうたがいがふとわたしの胸を掠めた。
 「そうじゃアない。――そんなことはない」
 すぐにわたしは自分にいった。五秋も紅蓼もまだ生きている。震災が来ても、区画整理が出来ても「八百善」がなくなっても「道哲」が空地になっても、そうしてその「日本堤」が平坦になっても、この二人はなお生きている。――生きている以上、どこへでも出て来ていいわけである。――どこへだって、出て来ていけないというわけはないはずである。
 かれらをして、いま、合力稲荷のまえにひさびさに出会せしめよ。――おそらくかれらは十年まえと同じ調子でいうであろう、こうしたことを……
「しばらくお目にかかりませんでしたね。どうなさいました、その後?」
 「有難う存じます。―一相変わらず、貧乏暇なしで……」
 「いつ、けど、お目にかかったきりでしょう? いつでしたろう、あれは、このまえお目にかかったのは?」
 「たしか、あれは、一昨年の……」
 「一昨年?……と、まだ、ここに土手のありました時分?……」
 「そうでございます」
 「大した、それは、古い……」
 「いかがでいらっしゃいます、お景気は?」
 「といっていただくのも面目ないくらいのもので。――いえ、実際、全く不思議な世の中になりました」
 「ほんとでございますか、このごろ横町の妓たちがみんな廓外へ稼ぎに出ると申すのは?」
 「みんな、ええ、土手の飲食店へ入ります。――そうしない分には立ち行きません」
 「左様でしょうかねえ」
 「台屋だって、あなた、このごろじゃァ廓外の出前でも何でもします。その方が利方(りかた)です」
 「…………」
 「それをそうした算用にしないと、いつまでむかしのような科簡でいると、平八のようなことが出来上ります」
 「どうかいたしましたか、あの男?」
 「御存じありませんか?」
 「存じません」
 「吉原におりませんよ、もう、あの男」
 「で?」
 「満洲へ行きました」
 「満洲?」
 「いろいろ日くもあったんでしょうけれど。――とにかく土地にいられなくなったことだけはたしかです」
 「可哀想に」
 「満洲へ行くまえ、しばらく大阪あたりにいた塩梅です。――その時分、どこからともなくよこした句があります。――後厄(あとやく)のとうとう草鞋はいちまい……」
 「後厄のとうとう草鞋はいちまい:…・」
 「幇間(ほうかん)もらくは出来なくなりました」
 ……震災が来ても、区画整理が出来上っても、「八百善」がなくなっても、「道哲」が空地になっても、「日本堤」が平坦になっても、かれらの精神生活は、焼けず、潰えない。
かれらの感傷はつねにかれらをつつみ、かれらの人生はつねにかれらをめぐって身動(みじろ)がない。――ということは、たとえば、水の庇にしずんだ落葉……「トたび水の底にしずんだ落葉はつねにしずかに冷やかだから……
 おもわザ諸が横へ外れた。――が、謡は横へそれでもわたしの足はそれなかった。土管、瓶類、煉瓦、石炭、タイル、砂利、砂、セメント、そうした文字のいたるところ、壁だの看板だのに書きちらされた右手の家つづきをながめながら、わたしは真っ直にあるいた。
そうしてそのあと、左手に、千束町への曲り角に瓦斯会社の煉瓦の建物をみ出したとき、いつかわたしは、小料理屋、安料理屋の、けばけばしくいらかを並べた「吉原」のまえに立つでいた。……

 「江戸演劇の作者が好んで吉原を舞台にとった理由は明白である。当時の吉原は色彩と音楽の中心だった。花魁(おいらん)の袿(うちかけ)にも客の小袖にも。新流行の奔放な色と模様とがあった。店清掻(みせすががき)の賑かさ、河東、薗八のしめやかさ。これを今日の吉原に見る事は出来ぬ。今日の吉原は拙悪なチヨオク画の花魁の肖像と、印絆纏に深ゴムを穿いた角刈と、ヴイオリンで弾く『カチウシヤの唄』の流しとに堕している。当時の吉原は実際社会の中心であった。百万石の大名も江戸で名うての侠客も、武家拵(こしらえ)の大賊も、みんなここへ集まるのであった。それ故、劇中の人物に偶然な邂逅をさせるのに、こゝ程便利な場所はなかったのである。併し今日の吉原をさういふ舞台に選むのは無理である。大門側のビイアホオルのイルミネエシヨンの下で、計らず出会ふのは奥州誹りの私立角帽と農商務省へ願ひの筋があって上京中のその伯父さんとである。裸の白壁に囲まれた、ステエシヨンの待合じみた西洋作りの応接間で、加排入角砂糖の溶かした奴を飲まされて、新モスの胴抜に後朝の背中をぶたれるのは、鳥打帽のがふひやくか、場末廻りの浪花節語りである。今日の吉原は到底Romantikの舞台ではない」

 いまは亡き小山内〔薫〕先生、嘗て『世話狂言の研究』の「三人吉三」のくだりでこうしたことをいわれた。いまはその「花魁の肖像」も覗き棚のなかに収められて一層商品化し、「カチューシャの唄」は「ソング・オブ・アラビー」にまで幾変遷して、いよいよ低俗になった。――そうした内容をもつ「吉原」の、なにがし酒場と、なにがし牛島料理店とによってまずその入口を支持されるということは、あまりにこれ、ことわりせめてあわれではないか。――しかもそのなにがし酒場のまえ、うつし植えられた「見返り柳」のそばに立てられた磨硝子のたそや行燈、老鼠堂機一筆の立札。――その立札のうらにしるされた一句をみよ。
 
 きぬ/\のうしろ髪ひく柳かな

 この気の毒な老宗匠は器用にただ十七文字をつらねる職業的訓練以外になんにも持っていない。
 ……風の落ちた、冬の日の暮ほどわびしきのつのるものはない。――わたしは、そのままなお、大門を横にみつつあてもなく三の輪のほうへあるきつづけた。

『浅草風土記』 中公文庫



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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №123 [文芸美術の森]

              明治開化の浮世絵師 小林清親
           美術ジャーナリスト 斎藤陽一
                 第6回 
      ≪「東京名所図」シリーズから:一日の中の光の変化≫

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 小林清親は、「東京名所図」シリーズにおいて、「朝から夜に至る一日」の中の光の変化と、「春から冬に至る季節ごと」の光の変化を表現しようとしています。小林清親は、時間・天候・季節によって変化する光と影を描き分けた画家だと言えます。
 これは、フランスの印象派の代表的な画家クロード・モネ(1840~1926)と共通する絵画観です。面白いことに、モネは1840年生れ、清親は1847年生れということで、清親は7歳ほど若いが、ほぼ同世代と言ってよい。もちろん清親が「印象派」のことを知っていたはずはないが、参考までに申し上げておきます。

 ここからは、まず「一日の中の光の変化」に焦点をあてて、清親の絵を鑑賞していきたいと思います。

≪暁の光≫

 「暁の光」を描いた作品からひとつ:

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 上図は、小林清親が明治12年(32歳)に制作した「東京両国百本杭暁之図」
 両国橋近くの隅田川の「夜明けの光景」を描いている。

 当時、このあたりの水量は今より多く、水流による岸辺の浸食を防ぐため、岸辺には多数の「棒杭」(ぼうぐい)が打ち込まれており、これを「百本杭」とか「千本杭」とか呼んだ。この絵で、岸辺にたくさんの棒のようにシルエットで見えているのが「百本杭」。

 この絵のみどころは、朝日が昇って間もない時刻の空と、暁の光の描写でしょう。
 雲間から顔を出したばかりの太陽は、まだ東の低いところにある。そのため、左側の家も、道を行く人力車も、淡い逆光の中で、黒いシルエットとなっている。

 先述したように、「人力車」は明治・東京の新しい乗り物でした。小林清親は、絵の中に「人力車」のモチーフを描くことを好みました。コロンビア大学教授で小林清親の研究者であるヘンリー・スミス氏によれば、「東京名所図」シリーズ93点のうち20点に「人力車」が登場しているそうです。
 それだけでなく、清親は、「人力車」を構図上の工夫のひとつとして役立てています。この絵でも、朝日に向かって走り行く「人力車」が構図の要となっており、これがいい味を出しています。 

≪朝の曙光≫

 「朝の曙光」を描いた清親の作品をもうひとつ。

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 これは、小林清親が明治13年(33歳)に制作した「萬代橋朝日出」
 ここに描かれた「萬代橋」(よろずばし)は、明治6年に神田川に架けられた東京最初の石造りの橋。アーチ状の橋が水面に映ると眼鏡のように見えたところから「眼鏡橋」とも呼ばれました。
 この「萬代橋」は、現在の「万世橋」(まんせいばし)の前身。現在の「万世橋」周辺には秋葉原電気街があり、とても賑わっていますが、明治初期はこのように閑散とした静かなところでした。時代の流れを感じさせますね。

 道の奥にそびえている洋館は、明治7年に開設された「税務局」。和洋折衷のこの建物は、「萬代橋」とともに、東京新名所となりました。

 小さな黒い影で表わされた人々は、この税務局に向かっているのでしょう。
 清親は、朝の光が空をバラ色に染め、地面を明るく照らす「朝の光景」として描いています。奥の方に向かう道路のグラデーションの微妙な違いに注目。西洋画風の色彩の濃淡による遠近表現です。

≪朝 霧≫

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 これは、明治13年制作の「大森朝の海」

 冬の早朝、朝霧の立ち込める海で、江戸時代からの名産品である「浅草海苔」を採る二人の女が描かれる。海苔の採集は冬に行なわれました。
 場所は、良質な江戸前の海苔が採れる大森の海岸。二人の女性は「べか舟」と呼ばれる海苔採り舟に乗っている。ひとりは艪をこぎ、姐さんかぶりの女は養殖した海苔がついた粗朶(そだ)を手繰り寄せている。舟がゆるやかに動く様子が、「ぼかし」による水面の白い筋となって表されている。
 舟の周り、水中から出ている枝のようなものは、海苔を養殖するために海に立てた「ヒビ」と呼ばれる木々。その影も水面にゆれている。

 遠くに霧の中に霞む水平線には、近代的な大型船や砲台(台場)が青いシルエットとなって浮かんでいる。さりげなく新旧の対比が示されています。
 冬の朝の冷たい空気感さえ伝わってくるような風景画ですね。


 次回もまた、小林清親の「東京名所図」を鑑賞します。

(次号に続く)




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妖精の系譜 №67 [文芸美術の森]

アイルランド妖精伝承の蒐集と保存 2

       妖精美術館館長  井村君江

 「バンシー」調査書


 先に述べた民俗学研究所で発行しているパンフレットの中に、「バンシー」に関する調査書がある。それには「バンシー」について二十四の質問があるが、これらは体系だった学術的調査というよりは、-椴の人々向けの平易な質問である。こうした質問は妖精はもちろんのこと神話から人々の衣・食・住にまで及び、七百貢にわたり質問の箇条が並んでいる珍しい本『アイルランド民俗調査書』(オサリヴァン編・一九七〇年)一巻にまとめられている。アイルランドにおける民話採集のやり方の索「バンシー」についての質問からうかがえると思うし、さらには「バンシー」に対するアイルランドの人々の考え方や、各質問のあいだから「バンシー」そのものの姿がおのずと浮かびあがって来るように思うので、少し長いようであるがここに掲げてみよう。

(1)あなたの住んでいる地方で「バンシー」という言葉は、死者と関係のある超自然の女性を指すときに使われていますか?この女性は他の名前(例えばbadhahかbean chaointeなど)で知られていますか?その名前はどのくらい広く知られており、その言葉の元の意味は何ですか?あなたの地方には「バンシー」を指すのに何か特定の名前があ。ますか?(例えばAine Clionaなど)
(2)「バンシー」(あるいは人が死ぬときに現われる女性)の起源に関する話を何か知っていますか?ご存じでしたらその話を全部述べて下さい。実際にいたある特定の女性が、死後「バンシー」になったという話があ。ましたか?そうした女性は永久に「バンシー」のままでいるのでしょうか、それともある限られたときだけそうした存在になっているのでしょうか?
(3)「バンシー」は鳥や動物の姿になれると信じられていますか?あなたの住んでいる地方には、「バンシー」かそれと似た存在として信じられている特定の鳥がいますか?
(4)「バンシー」の容姿とその行動についてできるだけ詳しく述べて下さい。その姿と大きさについて何か特別な言い伝えがありますか?「バンシー」は「若い」か「年をとっている」か、「美しい」か「醜い」かどちらでしょうか? 背の高さ、髪や服の色(例えばマントとフードの色など)について特別な言い伝えがありますか? いつも一人で現われますか、それとも一度に数人一緒に現われるのでしょうか? その身振り動作などには何か特別なものがありますか? 現われるのはほんの短い瞬間でしょうか、それともある〓疋の時間の間でしょうか?
(5)「バンシー」がどんな姿かあまり伝わっていない地方があります。あなたの地方も「バンシー」について他から聞くだけでしょうか? その場合、あなたに話してくれた人は「バンシー」はこんな風に現われたということをはっきり述べるために、どんな細かい描写をしたでしょうか?
(6)「バンシー」がひき起こす、あるいは「バンシー」が現われるときに起こると信じられている「光」、「音」(軽くたたく音、ノックする音、衣ずれの音、騒がしい音など)について述べて下さい。
(7)「バンシー」は叫んだり、嘆いたり、歌ったりすると信じられていますか?「バンシー」が悲しんだり、嘆いたりするさまをぜんぶ書いて下さい(嘆きの調べ、その嘆きの声は美しかったか、すさまじかったか、恐ろしいものだったか、など)。「バンシー」はある特定の死者に対して泣き叫んだのでしょうか、あるいは死にかけている人に対してでしょうか? 嘆くときに言葉を言ったでしょうか? そうした言葉や嘆きの調子には、地方性がありますか?
(8)どんな場合に「バンシー」が現われましたか? 健康な人に対して、死を警告する場合は、ある出来事を通してでしょうか? 病気の者に対しては死ぬ間際でしょうか?それとも死ぬ瞬間でしょうか? 死後しばらくたってからでしょうか?
(9)いつ、誰の前に「バンシー」は現われましたか?死にかけた人、あるいは死者のいる家の外(あるいは庭か窓の下)ですか?死にかけた人、あるいは死んだ人がまだ横たわっている部屋の中でしたか?死にかけた人、あるいは死んだ人から遠く離れた身内の者などに現われましたか?死者が海外にいるとき「バンシー」が海を渡って(例えば、アメリカなどに)現われたという言い伝えがありますか?
(10)「バンシー」はある特定の家族にだけ「付く」ものと信じられていますか?「バンシー」はOとかMacとかがその名前につく、由緒ある家族に付くものと信じられているのでしょぅか?「バンシー」が付いていると思われている特別な家族をあげて下さい。「バンシー」はそうした家族の全員に付くのでしょうか、それとも家長にだけ付くのでしょうか?男性が死ぬ場合に現われるのか、それとも女性の場合か、子供の場合もあるのでしょうか?この場合それぞれに違いがあるでしょうか?
(11)ある理由から特定の家族に付くのをや砦「バンシー」についての話がありますか?「バンシー」の付いている家族が他の場所に移ると、どんなことが起こると思われていますか?
(12)人の死と関係なく「バンシー」を見たことがあ。ますか?その場合「バンシー」が現われたのはどういう原因だったのでしょうか?「バンシー」は子供を連れ去るとか、他のやり方で害を与えると信じられていますか?どんな場合に「バンシー」に会うことが幸運だとされていますか?
(13)「バンシー」をやっつけようとした人たち(例えば、石を投げるとか火をかけるとか)の話がありますか? そうした行為の結果はどうだったでしょうか? そうした話があれば全部書いて下さい。
(14)「バンシー」が髪をとかしているのを見たと言われていますか? 髪をとかすのは特別な時と特別な理由によるのでしょうか? その櫛は何でできていて、どんな櫛だと言われていますか? あなたの地方には「バンシー」が櫛を失くしたり、また見つけたりする話が伝わっていますか? そうした話があれば全部書いて下さい。
(15)「バンシー」は特定の小川や湖、池、木といったものと関係があるでしょうか? 「バンシー」が洗うものについて言い伝えがありますかて 洗うのは何の理由からでしょうか?
(16)「バンシー」に関する言い伝えや諺、格言など、(「バンシーのように嘆き悲しむ」といったような)言い回しを知っていますか?
(17)「バンシー」の曲や詩や歌、または「バンシー」が出てくる詩歌を知っていますか?
(18)あなたの地方には、「バンシー」という言葉の出てくる歌が伝わっていますか? また「バンシー」に関係のある音楽がありますか?
(19)泣き悲しんだりわめいたりする子供は「バンシー」に関係があるのでしょうか?(その場合、女の子だけか男女両方の子供か)。「バンシー」という言葉が人間について言われる場合、「恨み」、「軽蔑」などのほか、どんな意味を含ませられているでしょうか?
(20)「バンシーが連れに来ますよ」といったように、子供を恐がらせるために、「ボギー」bogyと同じように用いられていますか?
(21)あなたの地方の人たちは、「バンシー」についてどんな態度をとっていますか(いましたか)? どんなことが「バンシー」について言われていますか?信じている人たちは多く広い範囲にわたっているでしょうか、それとも少ないでしょうか、いなくなっているのでしょうか?書いて下さい。「バンシー」信仰の強さは社会の各階層のあいだや、職業、年齢、性別のあいだで違いがあるでしょうか?あなた自身「バンシー」に会った。、あれは「バンシー」に違いなかったと思えることがありますか?「バンシー」に会ったりその声を聞いたという人に会ったことがありますか?「バンシー」がいると信じているので笑われたという人を知っていますか?「バンシー」に扮して人をおどしたり、ふざけたりした人の話を知っていますか? そうした話を全部書いて下さい。
(22)地方雑誌や地方新聞に「バンシー」に関する記事や話を見かけたことがありますか?そうしたものの切り抜きをお持ちでしたらお貸し下さい。すぐお返しいたします。
(23)あなたの地方で「バンシー」や人が死ぬときに現われる超自然の女性について、このほか何か知っていたら知らせて下さい。
(24)あなたの地方には、人の死に際して現われる超自然のものがありますか?「首なし馭者」とか「霊柩車」、「空の葬列」といったものがありましたら書いて下さい。

 こうした質問に対する回答が毎年数多く各地から届き、「バンシー」を始めクルラホーンやラナン・シー、プーカ、メローなどアイルランド妖精の概念や映像がしだいにでき上がっていくわけである。

『妖精の系譜』 新書館


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石井鶴三の世界 №249 [文芸美術の森]

青年胸像 2点 1956年

       画家・彫刻家  石井鶴三

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青年胸像 1956年 (202×144)
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青年胸像 1956年 (202×144)

*************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三』 形文社


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武州砂川天主堂 №41 [文芸美術の森]

第十一章 明治二十四年 2

         作家  鈴木茂夫


六月三日、横濱・聖心教会
 ジェルマンは、一週間の巡回を終え、やつれきって横浜に戻ってきた。
 診察した医師たちは、伏し目がちに首を横に振った。胃ガンがかなり進行している。居留地の病院では、もはやなすすべはないのだ。
 ジェルマンは、終日、ベッドに横たわるようになった。
 梅雨時の蒸し暑い風が、弱った肉体をさいをむ。
 オズーフ大司教は、ジェルマンを香港にあるパリ外国宣教会極東本部の付属病院へ移送することを決めた。
 聖心教会では、ジェルマンのための聖餐式(せいさんしき)が執行され、在住の神父全員が参列した。
 ジェルマンは、祭衣(さいい)をまとい、ときによろけながらも、聖餐を拝領してひざまずき、深い感謝と祈りを捧げた。そして寝食をともにしてきた同僚神父に、別れの言葉をはっきりと述べた。
 「現在、私には身体の苦痛があります。この苦痛によって、私は私と神との関わりを考えます。私たちキリスト者は、私たちの本性に根ざす倫理を大切にすると共に、神の子として生きる信仰と希望と愛を重んじています。この三つの徳は、私たちと神との一致、永遠の至福につながるものです。
 そのことから、私は次の聖旬を思います。

 斯く我ら信仰によりで義とせられたれば、我らの主イエス・キリストに頼(よ)り、神に対して平和を得たり。また彼により信仰によりで、今立つところの恩恵(めぐみ)に入ることを得、神の栄光を望みで喜ぶなり。然(しか)のみならず患難をも喜ぶ、そは患難(くあんなん)は忍耐を生じ、忍耐は練達(れんたつ)を生じ、練達は希望を生ずと知ればなり。希望は恥を来(きた)らせず、我らに賜(たま)ひたる聖霊によりで神の愛われらの心に注げばなり。            ロマ人への書・第五章第一節~第五節

 私の身体の苦痛は、神の恩恵により希望を生み出します。その希望は、私たちを欺(あざむ)くことはないのです」
 ジェルマンは激痛を押し殺し、微笑して語るのだった。

六月四日、横濱埠頭。
 ジェルマンは、フランス郵船のメンデレ主に乗り込み香港へ向かった。埠頭では数人の司祭たちだけが見送った。蒜の信徒たちに別れの辛さを味わせないようにとの配慮からだ。
 出港を告げる銅鑼(どら)が鳴り響く。二度三度と汽笛が吹鳴された。もやい綱を解かれた三本マストの白船が岸壁を離れる。
 仲間のラングレー師が黒い帽子を手にして振っている。
 十八年前の明治六年、七人の同期生神父とともにこの国へ上陸した。今はこの国に決別するのだ。桟橋には、もう二度と戻ることはない町の全景が広がって見える。
 ジェルマンは、日本へ向かったマルセーユの港の光景と、重ね合わせた。あの時、母国マルセーユの港に別れを告げた。日本は異国だった。しかし、今は違う。この国は、伝道の母国だ。
 こみ上げるものに何もかもうるんでしまった。それでいいと思った。ジェルマンは船室に入る。
 横浜から香港までの航海は七日間だ。東シナ海は荒波だ。帆を下げ、蒸気機関(スチールエンジン)だけで進む。千五百トンの船体を右に左にと、思うさまにひねり、もてあそぶ。船首が波頭を鋭く裂き割って深く下がると、船尾は空中にさらされ、負荷を失った推進器(スクリュー)が空転する。牽瞬、激しい振動が船体を揺るがす。
 ジェルマンは、ひたすらに耐えていた。吐き出すものはすべて吐き出し、腹の中には胃液だけだ。のど元に上がってきた胃液を、辛うじて飲み下す。意識がもうろうとしてくる。やがて、ジェルマンは失神するように深い眠りに入る。
 台湾海峡から、南シナ海に入ると天候も回復し、すべての帆を上げて走る。

六月十一日、香港・パリ外国宣教会医療施設べタニアの園。
 横濱を出て七日目にようやく香港に入港した。
 港で待ち受けていた担架に乗せられ、パリ外国宣教会極東本部の医療施設べタニアの園へと運ばれた。
 香港島の南東側の山の中腹、ちょうど香港港の裏側にあたるヴィクトリアとアバディン街近くのポタフロムの閑静な住宅街に病棟がある。病室からは海を一望することができた。椿樹とハイビスカスが生い茂って、爽やかな風を運んでくる。晴れた空の下、水平線のかなたまで見通せた。午後の驟雨(しゅうう)が、木々の緑を洗って鮮やかとなる。

『武州砂川天主堂』 同時代社


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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №122 [文芸美術の森]

        明治開化の浮世絵師 小林清親
            美術ジャーナリスト 斎藤陽一
                  第5回 
      ≪「東京名所図」シリーズから:名残の江戸情緒≫

 小林清親の「東京名所図」シリーズには、新しい文明開化の様相だけでなく、江戸時代から変わらない自然や風俗も描かれています。
 それらは、明治開化期に生きる人々にも、「江戸情緒」を感じさせる懐かしいものとして受け入れられたことでしょう。

 下図は、そのような江戸情緒ただよう作品のひとつ「元柳橋両国遠景」。

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 この絵の中の老いた柳の木があるところに、かつて、隅田川に流れ込む掘割があり、そこに「元柳橋」が架かっていましたが、明治には無くなっていました。この柳の木が、今は無い「元柳橋」を暗示しています。
 隅田川に架かる大きな橋は「両国橋」ですが、霧に包まれて霞んだシルエットとなっている。
 この絵に描かれるのは二人の男女。
 男は、元柳橋があった川岸に立ち、水の流れを眺めながらなにやら物思いにふける風情。
 女は、そんな男の姿に目をやりつつ、左方向に歩み去ろうとしている。ドラマの一場面を見るかのような情景です。

 作家の永井荷風(1879~1959)は小林清親の絵を愛好し、いくつも所蔵していました。この作品も荷風が所有していたもの。
 ちょうどいい機会なので、ここで、永井荷風の東京散策記ともいうべき『日和下駄』(ひよりげた)を紹介しておきたい。

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 『日和下駄』は、大正4年、荷風が36歳のときに出版された作品。大正時代になっていたこの頃には、東京の街からだいぶ江戸の面影は失われていた時期でした。(小林清親は、この年、大正4年11月に68歳の生涯を終えている。)

 永井荷風は、東京の街をひたすら歩き回り、観察することによって、失われゆく「江戸の面影」への深い哀惜の気持ちを綴っています。
 荷風の『日和下駄』には、小林清親の「東京風景版画」について、次のようなことが記されている:
 「小林翁の東京風景画は・・・明治初年の東京をうかがい知るべき無上の資料である。」
 「一時代の感情を表現し得たる点において、小林翁の風景版画ははなはだ価値のある美術と言わねばならぬ。」

 荷風の『日和下駄』には、小林清親のこの絵(「元柳橋両国遠景」)に触発された次のような文章があります:

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 まさに清親の絵の情景そのものの描写ですね。

 研究者の酒井忠康氏は、この絵について、次のような興味深い見方を示しています。
 「清親がこの老いた柳をいかにも象徴的に描いて見せた理由は、いくつか思いあたる。太いしだれ柳の木が、奇妙に引き裂かれて地肌を出し、そのしだれ柳を境に新旧の対照的な世界を暗示させることができたからである。右の着流しの男は過去に思いを馳せ、左の女はちらりとその方に目を配っているが、同調はしない。いうところの近代に進み出てゆくものの視線を背中にうけているのである。」
(酒井忠康著『開化期の浮世絵師・小林清親』:平凡社ライブラリー)

 酒井氏の指摘に導かれてこの絵を見ると、確かに、男は、霧の中にぼんやりと姿を見せ、両国橋のシルエットと同化してしまいそうに見える。これに対して、左方向に歩み去ろうとする女の青い着物と赤い帯はくっきりと鮮やかで、対照的な存在に思えてくる・・・
 しっとりとした新内の唄でも聞こえてきそうな、江戸情緒を感じさせる作品です。
 
 次の絵にもまた、江戸情緒がただよいます。これは、小林清親が明治12年に制作した「小梅曳舟通雪景」

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 題名を見て、第2回で紹介した小林清親最初の「光線画」5点の中のひとつに「小梅曳舟夜図」(枠内図)があったことを思い起こしませんか?あの小梅村の曳舟川に沿った道を、ここでは「雪景色」として描いているのです。

 御高祖頭巾の女ともう一人の女が、何やら語り合いながら、雪道を歩いてくる。二人は傘をすぼめて手にぶら下げているので、雪は止んだのだろう。しかし、鉛色の空はまだ雪がちらつきそうな気配を示している。何人もの人が歩いた道は踏みしめられており、雪と土が混じり合った模様を見せている。
 いくつもの色が重ねられた水面は揺れ動いており、ゆったりと川が流れていることを感じさせる・・・・
 「雪月花」という言葉は、日本的な美意識をこの三つの文字に象徴させたものですが、この絵も「雪の日の情緒」を余すところなく伝えています。

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 ちなみに、清親が敬愛する歌川広重もまた、同じ場所を描いています。
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 広重晩年の連作「名所江戸百景」の中の「小梅堤」(右図)です。
 ご覧の通り、広重は、上から下を見下ろす「俯瞰ショット」により、風光明媚な小梅堤の風景を明るく描いている。
 よく見れば、広重の絵にも、橋の上には御高祖頭巾をかぶった女ともう一人の女が描かれている。
 もしかしたら、小林清親は、広重のこのイメージに触発されて、雪景色の小梅堤の情景を描いたのかも知れません。

 清親の絵の御高祖頭巾の女が手にしている傘をよく見ると、これは「洋傘」であり、この絵の中に一点だけ「文明開化」がしのびこんでいますね。
 次回はまた、小林清親の「東京名所図」を鑑賞していきます。

(次号に続く)


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