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ケルトの妖精 №46 [文芸美術の森]

妖精の女王ティターニア

        妖精美術館館長  井村君江

◆シェイクスピアが『夏の夜の夢』のなかで、高慢で強情でコケティッシュな妖精の女王として描いたティターニアは、古典世界ではきらびやかな神話体系に属している。
 ティターニアの名は「タイタン(巨人神族)の娘」からきている。ところが「ウラノス(天)」と「ガイア(地)」のあいだに生まれた「太陽神ソル」の姉妹、「月の女神ダイアナ」もティターニアと呼ばれたので、それぞれの名前のもっている意味がひとつに重ねられて、妖精の女王と月の女神はしだいに同じキャラクターをもつようになった。
 シェイクスピアはティターニアの姿を魅力的に創りあげたが、ここでもティターニアには月の女神ダイアナの性質がつけ加えられている。妖精たちの月夜の輪踊りの場面などに、それをうかがうことができる。
「月夜の森で歌に合わせて輪踊りをしておくれ」とティターニアが言うと、妖精たちは、「災い、呪い、怪しいものは、女王さまに近寄るな」という守護の歌を歌って、安らかな眠りを誘う。
「月が、ほら、泣いているみたい。月が泣くと小さな花も一輪残らず涙を流す。きっとどこかで乙女が汚されたのよ」と、シェイクスピアはティターニアに言わせているが、処女を守護する月の女神の性格として、これは当然のことだといえる。
 シェイクスピアの妖精たちは花々や昆虫に囲まれて暮らしている。その名も「辛子種」や「蜘蛛の巣」「豆の花」「蛾の君」というように植物や花、蝶や昆虫の化身のようであり、微小で繊細で美しいイメージである。そしてティターニアのベッドは甘い香りを放つすみれや忍冬(すいかずら)、癖香いばらでできており、蛇のエナメルの皮や煽蟻のつばさの皮は妖精の服になる。妖精たちは蜂の巣からは蜜を、リスの蔵からはクルミを集めている。
 また、シェイクスピアは『ロミオとジュリエット』のなかでも、妖精マブとして妖精の女王を登場させている。ここでは妖精マブは、メノウほどの小ささで「ハシバミの実の殻の車」を「ケシ粒ほどの小人」に引かせている。妖精マブが恋人の頭を通れば恋の夢、妖精マプが弁護士の指のあいだを通れば謝礼の夢など、人間に夢をみさせる妖精(フェアリー・ミッドワイフ)とされている。
 妖精マブの侍女は蝶の羽で扇をこしらえたり、蜂の足をローソク代わりにしてそこに蛍の灯を灯したりするなど、『夏の夜の夢』のティターニアの寝所の場面に登場する妖精たちの繊細な姿につながっている。
 マブという名前は、ケルト神話の戦いの女神メイブや、コノートの女王メイブにも重なっている。ケルト神話の世界では、戦いに敗れた女神ダーナ神族が海の彼方に常若の国、地下に妖精の国をつくり、ミディール、オィングス、フィンバラ、マナナーン・マックリールなど、たくさんの神々が妖精の王になっているのだ。
 ウェールズ語の「小さい子」を意味するマブとかマベルからとられたという説もある。

『ケルトの妖精』 あんず堂


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石井鶴三の世界 №182 [文芸美術の森]

東大寺南大門仁王 1961年/二月堂仁王 1961年

        画家・彫刻家  石井鶴三

1961東大寺南大門仁王.jpg
東大寺南大門仁王・西方 1961年 (173×124)
1961三月堂仁王.jpg
二月堂仁王 1961年 (171×124)

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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】

明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社

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渾斎随筆 №76 [文芸美術の森]

 文化の反省

            歌人  会津八一

 私は東京に四十年あまり暮して、それから戦災で無一物になり、學校教師をやめて故郷へ歸って来たものだが、東京に住んで居た長い間に、一度も文化の意義とか、その必要とか、向上とか、そんなことでつくづくと考へてみたこともなかった。だから自分から人の前へ出て、さういったことでお説法めいたことを、喋舌ったことはなかった。
 けれども新潟へ歸.って来て驚いたのは、そんな問題で、話をさせられることが多いことだ。何かの會とか團體とかいふものが、いい指導者を見つけて気を揃へて、たとへば農事の講習を受けるとか、洋裁のお稽古をするといふやうなことは、それは、ほんとにいいことで、三回のところを、都合が附かないために一度しか聞かれなかったとしても、その一度でも、聞いただけで、そのままほんとにためになる。だから大におやりなさるがいい。けれども文化問題といふものはそんなわけには行かない。同じ文化問題でも、枝葉末節の方なら、まだいくらかためになることがあるかもしれないが、根幹とか精神とかいふことになると、どんなに偉い指導老を擔ぎ出して来て、それに取り縋って聞いて見ても、ただそれだけで、いい効能が顕はれるといふわけには行くものでない。また憺ぎ出されて講樺をする方の身になっても、その人が正直で、誠實な人ならそんな覚束ない役目を、買って出ることをめつたに望むものでない。それを職業にして居て、話上手に、説き去り、説き来つて、進に満場喝采のぅちに説き了るといふことまでは、熟練な語り手には困難でないかも知れないが、それが面白かったといふだけでは、聞いた方の人達の文化がそれで進んだとは云へない。聞いて来た通りを、村へ歸って、友だちにも話す。それを聞いて、皆が面白がる。そんなことは、いつもあることだが、それだけで、その人なり、それをまた聞きした人たちなりが、大に文化的に偉くなったといふわけではない。いい事、新しい事、それを聞くのはいいことで、自分のためにもなるし、そのお裾分けをしてやつても、人のためにもなる。しかし、それでは、只だ「耳學問」をしたといふだけのことで、ほんとにその人の心にまで響くほどの感激を受けて居ない。そんなことでは、文化的に見て偉くなったとはいへない。心にまで深く響渡るほどの感激を受けたばかりでなく、その後は、物に對し、人に對し、自分に對して、その人の判断も、行動もが、まるで別な人を見るほどに變て来る。しかもそれが、只だ一度だけでなく、だんだんと、そんな風に進んで行く。しかも、それは何度まで行ったから卒業だといふのでなく、どこまでも繰り返し、繰り返して進んで行く。かうなって初めて文化的の本筋の生活に、はひつたと云ふのだ。馬鹿の一つ覚えのやうなことを、生兵法を振りかざして、文化人気取りもないものだ。だから文化生活の正しさ、ありがたき、願はしさ、従ってまた厳めしさ、気むづかしさ、それをこひねがふものは、請け賣りの文化講演などをやめて、もつと眞面目に、謙虚に、獣々として實行、實現の生活に、はひらなければならない。だから私などは、何十年も東京に住んで居ても、そんなことを滅多に人に向つて説いたことがなかったのだ。
 そこでこの文化生活といふことは、大金をかけて上等の設備をして、電燈會社でも起して、自分の住む地方を明るくし、それと共に大いに儲けて、たくさんの配當が出来たといふこと、それは勿論いい事であり、また大切なことであるが、それだけで、それを文化生活などいっても、何か少し物足りない。たしか昨年の年頭にも、私がこの新聞で書いたやうに、新潟では美術がよく理解されて居ない。たまに大金を投じて美術品を買ひ集めても、ほんとのところは利殖のためにやつて居る人が多いのらしい。もとより大金を掛けて、大に儲ける腹構へであれば、そのために損をせぬやうに一心になって、参考書や實物を、よく研究して、鑑識眼も人よりも鋭くなり、また正確になるのは珍らしくもない。従って滅多な骨董屋や、批評家が遠く及ばないことがある。けれども、これは営利に抜け目がないために、無暗に手堅くしてゐるといふだけのことで、よしんば、その人が正しいものを澤山に持って居たとしても、それを決して文化生活などとは申されない。
 また、今では、越後の名物となって居る良寛和尚でも、この人が存命の時に、この人の歌なり詩なりについて、果してどれだけの人が、どれだけの程度まで、ほんとに理解し、そして、この人に對して、どれだけほんたうの敬意を抱いて居たものかを考へて見たい。變った坊さんで、變った文字を書くといふほかに、大多数の人々が、あまり深い敬意を拂って居たとは思はれない。なぜかといへば、その人たちの人生観や藝術観とは、あまりに遠い良寛和尚であったから。しかるに、彼は、何處へ行つても、筆と紙とを持って、行くさきざきへ迫ひかけて来て、字を書いて欲しがる人は、遂に絶えなかった。それは、よく解らないけれども、變って居るから欲しい。謝禮がいらないからほしい。人が持ってゐるから欲しい。あとで高くなるかも知れないから欲しい。さういふ熱望者は、いつの世にも絶えないものだが、この中のどれにしたところで、決して文化的な理由だとは思はれない。
 また現代になって、良寛なら良寛、誰なら誰といふ風に、その人に専門といふか、専属とでもいふか、特別の鑑定家といふものがあって、なるほど、よく調査がしてあり、微細にわたって、時としてはつまらぬ末の末の果までも知って居り、判断は概して正しい。それはまことに感心するが、その人が、歌の一首も自分で詠めるでもなく、文字らしく文字が書けるでもなく、大昔の歌でも、良寛の同時代の歌でも、現代の歌でも、凡そ良寛の歌のほかには、歌らしい歌を知らず、良寛の書道のほかには、何一つ古今の書道を知らず、ただ良寛をたくさん手掛けた関係から、良寛だけはわかるといふのは、永い年月を白米商をやって居たので、その経験から、一撮みの白米を手のひらの上に載せてやると、すぐ正にその産地をいひあてるといつたやうなもので、その判断には敬意を表さなければならないが、その人をば、決して文化的だといって褒めるわけには行かない。ただ細かいことを、隅から隅まで知り抜いて居るといふだけでなく、それをいぢる人の心と、良寛なら良寛の心と、或はその藝術心とこちらの藝術心とが、どこの所かで、のつぴきならぬ感交がなくてはならない。
 美術品はたいてい高債なもので、貧乏人では買ふのなんのといふことは出来ない。そこで貧乏人はコロタイプの印刷かなどで、ひそかに鑑賞をして、それで満足するよりしかたがない。とにかく、そんな間にでもいくらかの鑑賞の満足が出来るのは、ありがたいことだ。しかしこの印刷物を賣り拂つても、いくらの金になるものでもないが、金儲けを目的にする骨董の賣買よりは、こちらの方が、美術に封しては、ずつと本格的の態度と云はなければならない。高い金を拂ふだけの力が無いからと云つて、それで軽蔑さるべきではない。                 (新潟日朝昭和二十八年一月一日)

『会津八一全集』 中央公論社


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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №46 [文芸美術の森]

第七章 「小説なれゆくはて」 11
 
      早稲田大学名誉教授  川崎 浹

「私はすでに死んでしまっているのです」

二月三日
 東急本社勤めの、開発課係長というのが来、川名に行って新築を見て来た、内には入れなかったが田端氏にも会って話を聞いて来た。どうやらコブタが失礼な事を言ったようでまことにすみません。あの男は実は東急とは何の関係もないのです。彼のやっている事は本社の委託でも契約でもなく、彼独自の仕事です。とにかく以来彼の本社への出入り禁止にしています。色々失礼したようですが、とにかく田端氏がお気の毒です。田端さんも先生の事を心配しています。先生も田端氏の立場を考えたらどうかと思っています。これから度々私もお伺いしてご相談する事になると思いますが社員の田村もお伺いさせます。コブタはもちろん、東急の人にも最早だれにも会いたくないと思っている処です。田村君は何度か私にウソをついている、彼には最早会いません。だれにも会いたくないし又会う必要もなくなったのです。私がここに居る居ないはただここの地主との問題だけで外に何も関係ある人はありません。(省略)
…係庭は何のために来たのが言わないで行ったが謝りの文句をいいに来たのが田端氏のことで来たのか、玄関に送って私を無理にでも川名へ追い出そうと手を替え品を替えてやってみるが、もしここから私を追い出すなら一番てっとり早い方法がある。教えてあげましょう。あそこに井戸がある。私は毎日あの水を飲んでいる。あの井戸に少しでいいからセイサンカリを入れる事だ、それで難なく片づいてしまい、だれも分からないし、文句も言われないですむ、そんなことはおっしゃらないがいいですよ、先生の人格に関しますから。でも私はすでに死んでしまっているのです。
 ▲木の節ひとつたがわずアトリエを建てろと注文したのは、自然を破壊する開発業者への批判、その現場をになう者たちの態度への嫌気から出た行為だろう。自分から望む移転と新築ではないので、新アトリエの所有者は開発業者の名義にして、市に寄付する。自分は管理人として居住する。税金など市民としての義務は高島が果たす。高島の死後はアトリエを市に返還する。これが画家の考えついた大義名分であり、抵抗だった。

二月五日
 能登から琵琶湖、京都への旅に立つ、三泊、留守中たいした変わりもなかったらしい、家の廻り。

二月十日
 裏で木炭を切っていたら睡蓮池の向こう側に急にブルドーザーがやって来て地ならし土盛りを始めた。見向きもしないで炭を切りつづける。

二月十一日
 作業の親方裏口に来て、りつばな家が出来ているそうだが早く引っ越したほうがいいのではないかと言った。こちらが提案したとおりではなく逆ばかりやっているので引っ越すわけに行かない、ここに居つづける。君等が困るようなことはしない、君等もここだけのこしてさっさと工事を進めたらいいだろうと言ってやる。

二月十四日
 南方地所へ侵入、二間位こちらを食った、山ほどの土を盛った、この事、一応地主に手紙で通知。

二月十九日
 番頭と東急社員田村とが来た。来たら会わないと追い返してやろうと思ったが何を言うか一寸聞いてもいいと入れてやる。先日本社の係長というのが来たが田村君はウソつきだから会わないと言っておいた。あの係長の命で来たのか。あれは私達の上役ですが今日はその命令ではありません。川名に行って来ましたがあちらは暖かいですよ。行かれたらいいと思うんです。これほんとうに心からですよ。私は高島さんのためにやっているのです。ウソなんかつきません。実を言うと私達の立場が一番つらいのです。本社からは安く上げろとガミガミ言われるし、地主さんの方からは高く高くと言われるし、実の処地主さんの味方になった気でまとめないと成り立たないし、むしろ地主さんのために頑張っているようなものです。高島さんの問題だって事実本社を向こうに廻して頑張りけんかしているようなものです。つらいですよ。だから文句なしでもう止めたほうがいいだろう。

三月一日
 田端と請負師から手紙来る。田端氏は南方作戦に従軍して幸い復員して帰って来たら父は一ケ月前に死んだと初めて知り、孝行したいときには親は無しと感無量であった。高島先生は死んだ父にそっくりよく似て居られる。父のような気がしてならないと書いてある。請負師は房州はすっかり春になりました、とても暖かいです。菜の花が盛りと咲きみちておりますとある。だから是非早く引っ越していらっしゃいとは書いて無い。

三月十九日
 番頭と東急の田村来る。

三月二十一日
 伊藤氏来る。先日コブタが来た由、色々ここの高島の様子をさぐり聞きして行ったとのこと。
▲文中に伊藤氏とあるのは、最初に奥さんと遠に土地探しで相談にのった伊藤武氏のことと思われる。

四月八日
 南風吹いて団地の土を吹きこんで来て室中土だらけ。

四月二十五日
 歌舞伎座でケガ。救急車で木挽町病院に運ばれる。
▲高島さんが劇場の階段から転落して足を骨折したとの知らせを受けたので、私は五月十二日に画家を見舞った。当時私は腎炎に握っていたので二度目は行けなかった。六月十二日に、画家から前月末に退院したとの知らせを受けとる。

五月二十九日
 退院帰宅。

六月二日
 柏市役所に出かける。まだ足が丈夫でないからそろそろ行く。納税、老人年金帳、帰りに伊藤宅に一寸立ち寄ったら、先日東急の男来たそうだが、とにかく個展やるまではだめだと伊藤氏言っといたと。館山市から新築の納税通知書来る。ほうっておこう。新築には高島宛て納税命令が来たが、地所への納税は通知なし、地所はどうしたのか。

『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社


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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №53 [文芸美術の森]

                      歌川広重≪東海道五十三次≫シリーズ

          美術ジャーナリスト  斎藤陽一

                           第4回 「品川日之出」

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≪「続きもの」という趣向≫

 「東海道五十三次」の2番目に描かれたのは「品川・日之出」。

 当時の品川は、ご覧のように、海が間近に迫った宿場。街道に沿って宿が立ち並んでいますが、海に面した旅籠(はたご)では、江戸湾から房総半島までを一望できるという眺望を楽しめたようです。

 今しも、品川宿を通過しているのは「大名行列」。画面に描かれているのは、その殿(しんがり)、つまり最後尾です。
 旅の振り出しである「日本橋」を大名行列が旅立った時刻は「七つ頃」(午前4時頃)です。その行列が、この絵の題名にもある通り、「日の出」の時刻、つまり「明け六つ」(午前6時頃)に品川宿に差しかかった、と見ればよいと思います。俗謡「お江戸日本橋七つ立ち」にもある「こちゃ高輪(品川)、夜明けの提灯消す・・・」というその時刻です。

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 日本橋から品川宿まではおよそ2里(約8km)といいますから、この「日の出」時刻を午前6時ごろとすると、「七つ立ち」(午前4時ごろの出発)をした大名行列は、この距離を約2時間かけて歩いてきたことになる。つまり時速4kmというところ。
 ということは、結構、速足で歩いていることになり、よく映画やテレビで見るような「下にぃ、下にぃ」という掛け声とともに、毛槍を振りながらゆっくりと歩んでいくイメージではありませんね。何しろ、なるべく早く国元にたどり着かなければならないという藩の財政事情があるのですから。

≪連続性と逆転性≫

 こんな具合に、広重は、旅の時間の推移を感じさせることを意図して、この旅シリーズの第1図にあたる「日本橋」と第2図の「品川」を、いわば「続きもの」として描いています。
 広重は、「東海道五十三次」シリーズの全体構想の中で、時に隣り合う図どうしに連続性を持たせたり、あるいは逆転して思い切った変化をつけたりする、ということをやっています。

 このあとの回でも、途中の宿場を描いた図を見ていきますが、その中には、季節の変化、朝・昼・夜という時刻の変化、晴・雨・風・雪といった気候の変化、さらには、老若男女の違い、士農工商といった階級の違いなどを自在に配分し、全体構想に組み込んでいます。
 そのことにより、このシリーズの愛好者が、あたかも自分が東海道を旅する旅人になったかのような気分を味わえる、ということをねらっているのです。
 広重の「東海道五十三次」の人気の秘密のひとつは、そんなところにもあったのでしょう。

≪日常光景の描写≫

53-3.jpg ところで、品川宿の入り口に、文字が書かれた道路標のようなものが立っていますね。これは「榜示杭:ぼうじぐい」と呼ばれる宿場名を知らせる標識です。旅を続けてきた旅人は、この「榜示杭」を見て、どの宿場にたどり着いたのかを知ったのです。

 それにしても、日本橋を出発してわずか2里(8km)のところに次の宿場「品川」があるのはなぜなのか、と思うかも知れません。

 当然ながら、江戸を発った旅人は53か所もの宿場ごとに泊まるわけではなく、その日の夕方にどの宿場に辿り着いたかで、宿を決めることになります。
 品川宿は、ひとつには、京や大阪など西の方面から江戸にやってきた人が、江戸入り前に休んだり、身を整えたり、訪ね先に連絡をしたりするのに泊まるところであり、もうひとつは、品川には遊郭があったので、江戸市中から遊びに来る男たちも多く、それで賑わうところでもあったからです。

 また、この絵を見ると、大名行列を見送る人たちが、道端に身を寄せてはいますが、決して土下座したり平伏したりしていないのに気がつきます。左側にある茶店の女などは、店の前に出て、立ったまま笑って見送っています。

53-4.jpg 庶民が大名行列に出会ったとき、土下座をしなければならないのは、徳川将軍家と水戸・尾張・紀州の御三家などに限られており、通常の行列は道の端に寄って、失礼がないよう見送るだけでよかったと言います。考えて見れば、行列が通るたびに土下座をしたりしていたのでは、商売にも支障がでてきますし、武士階級の生活を支えてくれる農民たち農作業を妨げてしまうことにもなります。
 広重は、そのような当時の日常の光景を織り込んで描いており、それも見どころのひとつです。

 次回は、「東海道五十三次」シリーズの第11図「箱根湖水図」を紹介します。

                                                                  



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往きは良い良い、帰りは……物語 №92 [文芸美術の森]

こふみ会通信 №92 (コロナ禍による在宅句会 その7)
「春が来た」「鷽(うそ)」「春炬燵」「水曜日」

                俳句・こふみ会同人・コピーライター  多比羅 孝

連名で、2人の幹事さんから下記のような≪令和3年2月の句会≫の案内が届きました。

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鬱陶しい緊急事態宣言下の中にも、季節は立春。もう春の句会です。
今回は、勝手に鬼禿と一遅が幹事を務めます。よろしくお願いいたします。
●在宅句会です。
●投句の締切は2月10日といたします。
●兼題:①【春が来た】来た、来る、来いなど、言い回しは自由。
     ②【鷽(うそ)】
     ③【春炬燵】
     ④【水曜日】この語は無季です。各自、季語を選んで作句をお願いします。

●投句先:大谷鬼禿<h-otani@amber.plala.or.jp>
        〒231-0023横浜市中区山下町58-1304
     森田一遅<mrthjm@globe.ocn.ne.jp>
        〒113-0031文京区本駒込2-28-1B-1505

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【通知によって作成。投句された今回の全作品】 16名  64句

【春が来た】 
手の平に乗るほどの幸春が来る(舞蹴)
整然と針目が並び春が来た(華松)
命あれば各人停車で春は来る(尚哉)
ゲルニカに一輪の花春が来る(弥生)
鬼が来る春が来ぬ鬼が来る(矢太)
春が来た パステルで描く 妻の背な(紅螺)
万物も少し狂わせ春来たる(虚視)
春来るや猫のおなかのもふもふと(すかんぽ)
大太鼓ふるえる夜に春がくる(下戸)
春が来て 子等の裸足が 土を蹴る(茘子)
なくしもの 数え数えて 春が来た(兎子)
グンググンと伸びし球根春が来た(小文)
春が来てもどこか歪んだ地平線(鬼禿)
春がきた君のスキップ軽やかに(玲滴)
春が来た日本一の 朝寝かな(孝多)
テレワーク気になる人いて春よ来い(一遅)

【鷽(うそ)】
ささやかな幸福の予感鷽の頬(小文)
嘘つきの 男に惚れて 鷽替えし(茘子)
嘘なら知ってるが鷽なんて知らん(矢太)
鷽鳴きて人間界は面白き(舞蹴)
天平の 乙女香し 鷽の声(紅螺)
恐竜の進化形かや鷽渡る(尚哉)
鷽が来て何やらついばむ母の家(一遅)
鷽鳴きてなほ静けさの深まりぬ(虚視)
鷽替えて深く息するホーム端(華松)
ひょうきんな友かと向けば鷽の声(すかんぽ)
たはむれに口笛吹いて鷽をよぶ(弥生)
壊れゆく函庭のいろ鷽の朱(鬼禿)
鷽だけど 私のままで 好かれたい(兎子)
言葉と言うおそろしきもの嘘の鷽(孝多)
ごめんねと鷽替え誘うにくい人(下戸)
鷽鳴いて胸の赤きに思いよせ(玲滴)
◆残念な句がありました。「鷽替え」は新年の季語。「鷽」は春です。

【春炬燵】
馴れ初めを聞かされてをり春炬燵(弥生)
春炬燵心配性のバロメータ(華松)
春こたつ猫背となりて蹲り(虚視)
ものぐさが逃げ込んでいる春炬燵(孝多)
ワクチンを射つの射たぬの春炬燵(すかんぽ)
屋形船 炬燵の下で 魚(ウオ)跳ねる(茘子)
夢甘し春の炬燵や脚の指(鬼禿)
北斎の終のアトリエ春炬燵(下戸)
生きるのも死ぬのも嫌な春炬燵(舞蹴)
友待つや 春の炬燵で ソーダ水(紅螺)
春炬燵の底に巨きな岩眠る(矢太)
パソコンとプリンタ載せて春炬燵(尚哉)
ねこの居たときの名残や春炬燵(玲滴)
旅の夢 搭乗ゲートは 春炬燵(兎子)
コショコショと内緒話の春炬燵(小文)
あれにそれ亭主に根が生え春炬燵(一遅)

【水曜日】
ミャンマーの放水二月の水曜日(矢太)
水曜日あとは在宅フリージア買う(華松)
春の風邪寝ていたいまだ水曜日(小文)
猫の恋ながめて暮らす水曜日(下戸)
春ショールわたし水曜ノーワーク(尚哉)
在宅を 抜け出し走る 水曜日(兎子)
流れくる野焼きの匂い水曜日(虚視)
水曜日セールに菜花見つけたり(玲滴)
水曜日今日は五時間光る風(弥生)
余寒とは誰とも会えない水曜日(鬼禿)
雪降れば幼児となりて水曜日(舞蹴)
水曜日 休診の女医の 春セーター(紅螺)
水曜日 退院延びて 春逃げる(茘子)
水曜日人生後半不甲斐なし(一遅)
もう水曜日まだ水曜日山笑ふ(すかんぽ)
水曜日 週の真ん中 眠き春(孝多)

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【天句鑑賞】 

●万物も少し狂わせ春来たる(虚視)
観賞短文=寒い冬からやっと春へ。しかしこの今の閉塞感は初めての体験かも。万物もそりゃ狂いたくなるでしょう。「少し狂わせ」ていうところが絶妙!(舞蹴)
観賞短文=こんな春の捉え方があるのですね。東洋医学では自然と人間は相似関係にあるといいますが、人間だけでなく万物そうであると思います。春にはめまいや情緒不安定が多いそうです。春は生物を元気 にする一方少し狂わせるのかもしれません。(弥生)

●北斎の終のアトリエ春炬燵(下戸)
観賞短文=描きかけの絵が散らばる北斎の部屋が、眼の前に展開するようでした。(虚視)

●大太鼓ふるえる夜に春が来る(下戸)
観賞短文=大太鼓・夜・春の取り合わせがセンス抜群、すっきりしているのに余韻があります。(華松)

●鷽鳴きて人間界は面白き(舞蹴)
観賞短文=すこし引いた、客観的な視点がいいな、と思いました。鷽=嘘を軽く感じさせる程度に抑えているのもいいかな、と。(尚哉)

●ごめんねと鷽替え誘うにくい人(下戸)
観賞短文=サラッとできるこういう人に弱いのです。(小文)

●水曜日 休診の女医の 春セーター(紅螺)
観賞短文=「水曜日」お題がとても難しい中、素敵に切り取られたと思います。休みの女医さんの解放された気持ち、春セーターの色やテクスチャーまでイメージがひろがる、素敵な句。(茘子)
観賞短文=何でもない普通の現象を、驚きの念をもって捕えて表現したお手柄。秀句を示して頂き、有難うございました。(孝多)

●鷽鳴きてなほ静けさの深まりぬ(虚視)
観賞短文=鷽の鳴き声を聞いたことはありませんが、甲高く鋭く鳴いて、鷽が飛び去ったあとの早春の爽やかな空気を表現して鮮やかです。(紅螺)

●馴れ初めを聞かされてをり春炬燵(弥生)
観賞短文=男の考える春炬燵とは違って、女性らしいよくある光景、いかにも春の句です。(鬼禿)
観賞短文=自分はストーリーを感じる句が好きですが、これはまさにそれ。「聞かされてをり」のやむなく感が面白い。(一遅)

●生きるのも死ぬのも嫌な春炬燵(舞蹴)
観賞短文=春炬燵から離れづらい気持ちを、俳諧味をもって見事に詠まれていると感服しました。(すかんぽ)

●手の平に乗るほどの幸春が来る(舞蹴)
観賞短文=ほのぼのと身に染みていいなあ。(玲滴)

●春炬燵の底に巨きな岩眠る(矢太)
観賞短文=うららかだけど、不穏と始まりの予感が秘められている。(兎子)

●あれにそれ亭主に根が生え春炬燵(一遅)
観賞短文=ほのぼのとした家庭の雰囲気が伝わってくる名句。今となっては「昭和」の風景ではあるが、そうだからこそ味わい深い。「あれにそれ」の5文字は、何気ないようでいて、こちら側の想像力を刺激する。こんな春炬燵、私もしてみたい。(下戸)

●命あれば各人停車で春は来る(尚哉)
観賞短文=そうありたいなあ。(矢太)

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【今月の成績一覧】
トータルの天=虚視・59点
    代表句=鷽鳴きてなほ静けさの深まりぬ
トータルの地=舞蹴・41点
    代表句=手の平に乗るほどの幸春が来る
トータルの人=弥生・38点
    代表句=馴れ初めを聞かされてをり春炬燵
トータルの次点=下戸・33点
    代表句=北斎の終のアトリエ春炬燵

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近ごろ、オンラインでは、とても熱心に、いろいろな意見が交わされているようです。たとえば、当番幹事役の決め方。たとえば、天をもらった人が天に選んでくれた人へのお礼の気持ちを伝える方法。また、たとえば、オンリーアナログの人への対処の仕方。などなど、嬉しいことです。有難いことです。これからも、新鮮な風を会に吹き込んで頂けるよう、よろしくお願い申しあげます。では、また3月。皆様お元気に。(孝多)

……と書いて、そのすぐあとに、心配のお知らせです。奥様からのご連絡によると、田村珍椿氏が体調を崩され、2月10日、入院されたとのこと。ご快癒の一日も早からんことを祈りあげるばかりです。どうぞ、どうぞ、お大事に。
                   令和3年2月28日  多比羅 孝

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ケルトの妖精 №45 [文芸美術の森]

シェイクスピアと「夏の夜の夢」の妖精 2

        妖精美術館館長  井村君江

妖精王オーベロン
◆ シェイクスピアは、幼いころを過ごしたウォーリックシャtの民間信仰や各地の伝承をもとに、オーベロン、ティターニア、パックなど妖精たちが入りまじる夢幻的喜劇『夏の夜の夢』を書いた。
 イギリスで六月二十四日はミッドサマー・デイ、日本で言う夏至にあたり、この日は聖ヨハネの生誕祭であり、地母神の祭日にあたる。その前夜になると妖精たちが森や丘、水のほとりに現れ饗宴をはるといわれ、女たちが未来の夫をベンケイ草で占う日でもある。
 インドが故郷であるシェイクスピアのオーベロンは、このアテネの森に大公の結婚を祝い、新床に喜びと栄えをもたらすために来たのだったが、妻の妖精の女王ティターこアといさかいをしたり、人間の娘を口説いたりする、きわめてわれわれに近い性格の妖精王として描かれている。
 いさかいのもとになったティターニアの連れている子どもには、妖精のさらってくる人間の子(取り換え子)のイメージが重ねられている。
 伝脱をたどれば、オーベロンはシェイクスピアの作品に登場するずっと以前から、その名を知られている。オーぺロンの名が見られるフランスのロマンス『ボルドーのヒュオン』は一五世紀の話である。
 ボルドーのヒュオンはりっぱな騎士だったが、偉大なシャルルマーニュ大帝の王子に背かれ、その攻撃をしばしば受けていた。しかし、ついにヒュオンは王子を討って、勝利を得ることができた。正義がどちらにあるかわからないでもない大帝だったが、息子がもう戻ってこないことを思うと、やるせない気持ちになっていた。そこで勇猛な騎士ヒュオンにも成し遂げるのが難しい過酷な遠征を命じて、彼を追放も同然に宮廷から追いだしてしまった。
 宮廷を追われたヒュオンは、ある日のこと、ひとりの家来を従えて森に入っていった。その森には妖精の王オーベロンが住むといわれていた。
 ヒュオンが馬の足を一歩森に踏みいれたとたん、ゾクッと悪寒が走り、身の危険につながるような魔力を予感した。しかし「宮廷に戻ってもしかたのない身だから」と、なかはあきらめの境地でどんどん森の奥深く馬を進めていった。
 しばらくすると、どこからともなく、「妖精の王オーベロンと口を聞いてはいけないよ。さもないと王の魔法にかけられて、命も危いよ」という声が聞こえた。
 ヒュオンは、オーベロンが森の小人王、小さな蛮王とも呼ばれ、なんでも好きにできる力をもっているのを知っていた。
「やはりオーベロンの森に入ってしまったのだったか」と心をひきしめて進んでいった。
 しばらく行くと、「わしは妖精の王、オーベロンだ」と背丈はわずか三フィート(九十センチほど)しかない、ずんぐりして不格好だが、美しい天使の顔をした小人が現れた。
 オーベロンはヒュオンを出迎えて、いろいろ質問を浴びせた。しかし、ヒュオンと従者は忠告を守っていっさい口を開かなかった。オーベロンは怒って、ヒュオンと従者を激しく打ちのめし、ついには口を開かせた。
 ところがオーベロンは、口を開いたヒュオンの気高い精神にうたれ、彼を気にいった。そしてヒュオンを殺すのをやめたばかりか、友人として厚遇し、不思議な力をもつ杯と徳の象徴である角笛まで贈ったのである。
 それからはヒユオンは、オーベロンの魔法に助けられて多くの試練に打ち勝つことができた。やがて死を前にしたオーぺロンは、ヒュオンに魔法の使い方をすべて教え、なおかつ妖精の王として戴冠させたという。
 オーベロンは誕生の祝いに招かれなかった妖精の怒りをかい、三年しか成長しないという呪いをかけられた。そのため背丈が三フィートしかない。しかし、ほかの妖精が美しきや他人の考えを見抜く力、さらに人や城などをよそに移す力、そして魔法の杯と角笛などを贈った。このため、オーベロンは超人的な能力をもつ妖精の王となって君臨していたのだ。
 ここに見られる天使のような顔とか、正直な人間の手が持てばワインがくめどもつきないという魔法の金杯とか、あるいはひと吹きでどんな願いも即座にかなえ、吹くもののもとに一瞬のうちに救援の手をもたらすという象牙の角笛などのエピソードもあるが、これらはきわめてケルト的である。ヒュオンが妖精に「もしひと言でもオーベロンに話しかければ永遠に失われてしまう」と忠告されて、この言葉を受け入れること自体もケルト伝説によっている。
 このオーベロンはジュリアス・シーザーと隠れた島の貴婦人ケファロニアとのあいだに生まれた息子とされている。中世の伝説のなかではシーザーとアレキサンダー大王は西ローマ帝国のキリスト教圏を象徴している存在であるから、シーザーの息子として描かれていることに、オーベロンの重要な位置がうかがえる。
 死後の国、冥府の王プルートーの特色も入っているようで、この世を去るときには楽園に席が用意されている」と自ら言うように、妖精の国に住んでいても死の宿命を免れない1人間」であった。
 オーベロンは、ゲルマン伝説の英雄ジークフリートが登場する『ニーベルンゲンの歌』に描かれ、ニーペルンゲン一族から奪い取った財宝を守る小人、アルベリッヒ(アルフ「妖精」十リッヒ「王」)の映像と重なっているともいえる。
 ルネサンス初期になると、オーベロンの名は使い魔(ファミリア・魔法使いに雇われ仕事をする妖精)の意味にも使われていた。
 シェイクスピアの『テンペスト』に登場する風と空気の精エアリエルは、この使い魔で、魔術師プロスベロに使われている。魔女シコラックスに松の木の幹に閉じこめられているところをプロスベロに助けられたエアリエルは、十六年ものあいだ仕えながら年季があけて、花の下で遊べる日を夢みている。

『ケルトの妖精』 あんず堂


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石井鶴三の世界 №181 [文芸美術の森]

法隆寺中門仁王 1956年/不動明王 1967年

         画家・彫刻家  石井鶴三

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法隆寺中門仁王 1956年 (171×124)
1957不動明王.jpg
不動明王 1957年 (175×126)

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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社

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渾斎随筆 №75 [文芸美術の森]

少年少女におくる言葉

            歌人  会津八一

 私は新潟の生れで小学校は西堀小学校(今はないが、廣小路の滑防の詰署のある附近)へ通ったものだ。そこを出て大畑の高等小學校へ進んだが、成績はけっして優等どころでなく、やうやく眞中へとどくかとどかないかといふ程度だった。
 卒業する時、學校へ自分の目的を紙に書いて出すこととなった.。その時私の同級生は総理大臣になりたいとか、陸軍大臣けん海軍大臣になるとか、さういふことをはなばなしく書いて出した人が多かった。私は今でもわすれないが、小學校を出たなら百姓になる、ただの百姓で一生くらしたいといふことを書いて出した記憶がある。
 當時そんなことを書いたのは私だけだつたと恩ふ。當時の私は年齢的にも希望に輝いてをらず成績もあまりよくなかったために、そんなことを書いたのだらうと恩ふ。
 けつして今いふところの平民思想とかを當時もつてゐたのではない。ただ私が、ふるはない、平凡な、そして學問もあまりはなはだしくないただの子供だったことを示すものだ。
 しかしそれから中學へやつてもらひ、進んで大學も出ることができ、今日まで學間をつづけることができた。最初體がよわかったので、希望も消極的だったと思ふが、今日七十二歳の高齢に達しても、わりあひ丈夫でゐる。人間の一生といふものはけっして二年や三年で勝負のつく、いはば短距離競走ではなく、六十年、七十年、時として百年にもわたる長距離兢走だから、なんといつても體が一番大切だ。
 しかしその體も、もちやうによってはもつものだ。私の知人で八十何歳になる人で、子供の時身體が弱かつたといふ人が二人も三人もゐる。
 自分の體のくせと、弱みを守つてゆく、その手かげんさへわかれば、あんぐわい長く、最初體の強いのをほこつてゐた人よりも、かへつて長生きをすることができるといふことがわかる。        『新潟少年少女新聞』昭和二十七年一月十三日

『会津八一全集』 中央公論社


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じゃがいもころんだⅡ №38 [文芸美術の森]

私の八十年 父との思い出

        エッセイスト  中村一枝

 自分の年齢が八十年を越えたという実感がとてもうすい。何を今更、と誰にでも言われそうだ。息子はとうに五十を越えておじさんになってしまった。十五歳下の弟は今や七十二歳、いずれも熟年というより老人に近い年齢になった。
 昨日、台所のガス台の横に変なカメラがついているのに気が付いた。むすこに聞いてみると、「ガスを消し忘れたことがあったでしょう。危ないからね。」息子は遠隔操作でガスを自在に止める装置をつけてくれたらしい。有難いに違いないが、いささか、がっかりという思いも強い。息子が気を使ってくれるのは有難いことなのに、何となくむずむずした感じが拭えないのは、私が未だに自分の年を自覚していないせいでもある。
 私の弟は、父が五十を過ぎてから生まれた男の子で、当時、人生五十年というのは一つの目安であった。もっとも当時五十歳の父は、気力も体力もまだまだ十分で、そこへ突然、男の子が生まれたのだから、全身に力がみなぎるような充実感に満たされたに違いない。 その生まれた男の子が、まさに玉のような美しい赤ん坊で、当時、家に遊びに来ていた友だち三人が、みんな、すっかりのぼせてしまった。 自分の赤ん坊のころの写真を私は見ているが、猿がしぼむような赤ん坊で、ちょっとがっかりしたことを覚えている。それに比べて目鼻立ちのくっきりと整った赤ん坊は本当にかわいかった。母が私を産んだ頃と、弟の時とでは、母の胎内の栄養状態がまったく違うということを知らなかった私は、とてもがっかりしたこと憶えがある。
 父は当時巷間でも知られた美男子で、今、写真を見てもいい男だったと思う。それだけにどこへ行ってもちやほやされたらしく、母は随分苦労したのだろう。母の目をぬすんで父はちょいちょいつまみ食いをくりかえしていたのだ。
  それだけに父は娘の恋愛にもいたって寛大で好意的だった。私が好きになった人は父の担当の雑誌の編集者で、背があまり高くなく、ころころ肥っていた。いつの間にか私の気持ちに気付いた父はそれとなく気を使ってくれた。こういう父親はあまりいないのではないかと思う。母はむしろ学生である私がきょろきょろ目を走らせることを、とてもはしたないことのように言った。いつのまにか、私は父に自分の気持ちを手紙に書いて渡すようになった。
 「まったく、あんたたち、こそこそ何をやってるのよ。お父ちゃんもお父ちゃんですよ、一枝に甘いんだから。」
 母はいつも父と私に起こっていた。この恋は不発に終わったが、父にはいつまでも、青春というものに鮮やかに身を処せる自由な心が残っていたように思う。恋は実らなかったが、その間の父とこそこそ家の中でひそかに語らった思い出だけは今でも懐かしく浮き上がってくるのである。

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祖道傳東Ⅱ №36 [文芸美術の森]

第三十六図「永平寺図」


   
画  傅 益瑤・文  曹洞宗大本山永平寺

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 《紙本墨画彩色》192×345  六曲一隻屏風


「深山幽谷にいて、仏祖の聖胎を長養せよ。一箇半箇の接待を事とせよ」と説いた如浄禅師の教えのとおり、建立された永平寺。聖なる建物はすべて清澄にして自然に融け込み、真理が満天に満ちた風景です。


『祖道傳東』大本山永平寺

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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №52 [文芸美術の森]

                       歌川広重≪東海道五十三次≫シリーズ                    

                           美術ジャーナリスト 斎藤陽一                                                         
                           第3回 「日本橋朝之景」

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≪「東海道五十三次」大ヒット≫

 天保3年(1832年)から天保4年(1833年)にかけて、歌川広重による連作「東海道五十三次」が順次刊行されました。広重は36歳から37歳という年齢です。
 このシリーズは、江戸の日本橋を出発し、東海道にある53の宿場を経由して、京の三条大橋に到着するという旅を描いたものです。途中の53の宿場を描くだけではなく、出発点の「日本橋」と終着点の「三条大橋」を加えたので、全部で55図からなる連作となりました。

 刊行されるや、大評判となりました。広重独特の旅情あふれる描写が共感を呼んだのは勿論ですが、当時の江戸っ子たちの「観光熱」も影響して、人々の旅への憧れをかきたてたのです。
 これを眺める人は、あたかも自分が「お江戸日本橋」を旅立ち、途中の宿場での泊りを重ねながら京に向かっていくかのような「疑似体験」を味わえたのでしょう。

 このシリーズの大ヒットにより、広重の名声は一気に高まりました。のみならず、それまでの浮世絵の主流は人物中心に描くものだったのですが、ここに、北斎が開拓した「名所絵」(風景画)の地位も、続く広重によってしっかりと浮世絵版画の中に確立したのです。

≪お江戸日本橋七つ立ち≫

 「東海道五十三次」シリーズの冒頭を飾るのは「日本橋朝之景」です。

 当時、日本橋は江戸の中心であり、「五街道」(東海道、中山道、日光道、奥州道、甲州道)の基点でもありました。(現在でも、「日本国道路元標」は日本橋の中心と定められています。)
 また、日本橋は江戸経済の中心地でもありました。大きな魚市場もここにありました。
 ですから、広重が、東海道の長い旅の振り出しに「日本橋」を描いたのはごく自然なことなのです。
 この絵はまた「旅の始まり」と同時に、「一日の始まり」である「早朝の光景」を描いています。それもまだ日の出前の早朝であり、東の空にはかすかに明るみが見られる。

 この絵の「構図」は、それまでの定番を破った大胆なものです。

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  普通、浮世絵で日本橋を描くときには、上の右図(渓斎英泉「日本橋」)のように、橋を横向きにとらえ、その後ろに江戸城を配し、遠景に富士山を添えるという図式が定番でした。
 ところが広重は、日本橋を正面から大きくとらえるというきわめて斬新な描き方をしたのです。

 この絵では、背景の空は明るんでいるから、日の出前の東の空だということが分かります。ということは、日本橋を西側(正確に言うと南南西)からクローズアップでとらえた構図です。これにより、たんなる添景としての橋ではなく、江戸の中心「日本橋」界隈の早朝の活気というものが表現できたのです。

 幕府は、江戸の治安・取り締まりのために、市中の要所に大木戸を設け、夜間には閉じましたが、この絵では既に、画面の手前の大木戸は左右に開かれています。
 まだ完全には明けきらない中、日本橋をこちらに渡ってくるのは「大名行列」。西に向かってくるので、おそらく西国の大名が国元に帰ろうとするところでしょう。まさに俗謡に歌われた通り「お江戸日本橋七つ立ち」なのです。「明け六つ」が日の出頃の時刻を指しますから、「七つ」はその2時間ほど前。季節によっても異なりますが、午前4時ごろの感覚と思ったらよいでしょう。

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 この絵の「大名行列」は、江戸の町の大半がまだ眠っている中で、国元へ旅立とうとしているのです。なぜ、こんなに早い時刻に出発するのか?
 どうやら、なるべく早く出発して一日に歩く距離を出来るだけ長くし、途中の宿泊経費の節減を図ろうとしたらしいのです。
その上、江戸時代には当然ながら街道沿いの外灯などは完備されてはいませんし、宿場の照明も夜間には相当に暗いものでしたので、夕方の早い時刻に次の宿に着く必要がありました。各藩の財政を考えると、悠長な旅などは考えられず、殿さまも「余はまだ眠いぞよ」などとは言っていられなかったようです。
 そう思って、この行列を見ると、長旅へ向かう緊張感とともに、早朝の旅立ちの物憂いような情感も伝わってきます。

≪「一日千両」を商う魚河岸≫
 橋の手前、左下には、天秤棒を担いだ魚の行商人たちが動き回っています。当時、彼らは「棒手振り:ぼてふ52-4.jpgり」と呼ばれました。「棒手」は天秤棒のこと。「振り」は「触れ売り」が転化した言葉と言われます。つまり、魚とか野菜などを棒で担ぎ、声を出して売り歩く行商人のことです。
 日本橋の北詰には、江戸の台所である大きな魚河岸があり、「一日千両を商う」と言われるほどの活況を呈していました。この魚屋さんたちは、早朝の魚河岸の活況を象徴しているのです。
 魚屋さんたちの後ろに立っているものは「高札:こうさつ」です。幕府の「お触れ」(通達)や「掟:おきて」が書かれていました。日本橋は人が大勢集まるところですから、周知するのに好適な場所だったのでしょう。

 こんな風に見ていくと、広重が定番通りの横向きの日本橋ではなく、開かれた大木戸側から正面向きにとらえたのは、何よりも早朝の日本橋界隈の活気と、東海道への旅立ちの緊張感を表わしたかったからではないでしょうか。シリーズ最初のこの絵には、既に、そのような広重の持ち味と独創性がいかんなく発揮されています。

 次回の「東海道五十三次」では、「品川・日之出」(第2図)を紹介します。


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ケルトの妖精 №44 [文芸美術の森]

シェイクスピアと「夏の夜の夢」の妖精 1

        妖精美術館館長  井浦君江

 ミッドサマーの前夜のことだった。
 ギリシアのアテネの森で、妖精王オーベロンと妖精女王ティターニアが言い争いをしていた。
「せっかくの月の夜なのに、そなたに出会うとは残念だな」
 オーベロンは皮肉っぼく言った。
「ええ、そのとおりですわ、嫉妬ぶかいオーベロン。あなたの寝所はもとより、あなたのそばにさえ近寄らないと、わたしは誓っているのですから」。ティターニアは言い返して、「さあ、みんなお逃げ」と侍女たちに言った。豆の花、蜘蜂の巣、辛子種、蛾の君といった名前の妖精たちがティターニアの侍女だった。
 そして、会えば浮気を責め合い、皮肉を言い合う妖精の王と女王のいさかいがもとで、春、夏、秋、冬、そのときどきの装いを見せるはずの季節も狂ってしまい、白髪の冬の霜が紅薔薇のみずみずしい夏の膝の上におりるかと思えば、冬将軍の氷の頭上に夏の花のつぼみが花輪のように飾られるといった始末だった。
「洪水が起こり大地を水浸しにし、豊餞を祈って踊り明かす夏のひと夜はどこへやら、月の女神も怒りに顔を曇らせています。それもこれも、わたしたちのいさかいからなのですよ」
 と、ティターこアは嘆いた。
 このいさかいのもとは、ティータこアが庇護しているチェンジリング(取り換え子)のインドの少年を、オーベロンが自分の小姓にしたいと言いだしたことにはじまった。ティターニアはオーベロンの身勝手を怒って、首を縦に振らなかったのだ。
「この森にいつまでいるのだ」とオーベロンはたずねた。
「アテネの大公シーシュースとアマゾンの女王ヒポリタの結婚式のすむまでです。もしあなたが、わたしたちの踊りにつきあってくださり、月夜の宴を見てやろうとおっしゃるのなら、どうぞご一緒に。おいやなら、あなたのお邪魔はいたしません」
「あの子をわたしのもとによこすがよい。そうすれば気のすむようにしよう」
「それだけはおあ㌢らめいただきます。妖精の国ぜんぶをもらっても、あの子は手放しません。さあ、妖精たち。もう行きましょう。いつまでも一緒にいるとけんかになる」
 ティターニアは言って、その場を去った。
「ティターこア、なぜ夫のわたしに盾つくのだ」
 オーベロンはいらだって、「もうよい、勝手にせい」と叫んだ。
 そして、パックを呼びつけて言った。
「パック、おまえは知らないだろうが、浮気な神キューピッドが、純潔の女王を狙って恋の矢を射たことがある。その矢は月の清らかな光に邪魔されて、飛ぶ力を失ってしまった。落ちたところには小さな花が咲いていて、恋の矢傷を受けたその花は、色を紅に変えて惚れ草となった。その花の汁を眠っているものの瞼(まぶた)に塗ると、恋の想いにとらわれて、目を覚ましたとき見たものに夢中になってしまうのだ。さあ、いまからその花を摘んできてくれ、いますぐにだ」
 「このパックは、地球を巡るのに四十分もかかりません。急いで行ってまいります」
 パックは答えて、すぐさま出かけた。そしてまたたく間に、恋の矢傷を受けた花を掲げて戻ってきた。
 オーベロンは花の汁の惚れ薬を手にして、ティターこアのところへ出かけていった。
 窮香草(じゃこうそう)の花が咲き乱れ、桜草がつぼみを開き、すみれが風に吹かれている小さな丘のそば、サンザシの茂みに窮香いばらを天蓋にしたティターニアの寝所があった。茂った蔦が垂れさがり、忍冬(すいかずら)が甘く香っていた。
「さあ、輪になって妖精の歌を歌い踊っておくれ。それがすんだら、窮香いばらのつぼみについた毛虫を殺しておいで。煽幅(こうもり)と戦って、つばさの皮を剥ぎ取って、小さな妖精の着物をっくっておやり。それから、夜ごとにホーホー鳴いて、かわいい妖精たちをこわがらせるふくろうも追いはらっておくれ。みんなで手分けしてね。さあ、その前に歌を歌って寝かしつけておくれ、仕事はそのあとでね」
 ティターこアは妖精たちに言った。
 そこへオーベロンが現れて、その上を飛びまわってから、ティターこアの寝所におりたった。そして、花のなかで夢を結んでいるティターニアの瞼に惚れ薬をぬりつけた。
「これでよい。ティターニアの心には忌まわしい想いがむらむらとわきあがる。獅子であろうと熊であろうと猿の尻であっても、目が覚めて何を見ようとも、それがおまえの誠の恋人なのだ。そやつに恋焦がれて苦しむがよい」
 オーベロンは言った。(つづく)

『ケルトの妖精』 あんず堂


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渾斎随筆 №74 [文芸美術の森]

文化の自覺 1

            歌人  会津八一

 「文化」といふ言葉は、明治以来のもので、決して今さら新しいものでなく、ことに戦争中などは、文化文化といふ人は、變な日で睨まれたりしたので、人の憤しむところであったが、終戦とともに流行り出し、今では一にも文化、二にも文化で、文化精神、文化活動、文化施設などと随分の景気であるが、ずつと前々からのことを、長い眼で見渡すと、何の場合にもさうであるやうに、それをいふ人が必ずしも解っていってゐるのでもないらしい。だから、その文化といふものが、よほど進んで居るやうに、うかうかと信用も出来ない。いくら口々に唱へて、大變な騒ぎ方をしても、その文化なるものが、深く人の心の中に根を下ろしてゐるのでないと、それは本物の文化ではない。昔から穿き慣れた股引を脱いでズボンにし、羽織をやめてモーニングにし、盆踊りをダンスにし、握飯をサンドウィッチに取換へたからといっても、それですつかり文化的になったといふわけには行かない。日本髷が不経済だからといってパーマネントにしたいなら、それでもいいが、そんなことが何も大した文化的進歩だなどいふほどのことでない。そのモーニングなりパーマネントなりで、散歩なりダンスなりしてゐるうちに、どんな身の持ち方をするかといふところから、文化的か、さうでないかがきまる。
 徳川時代の末に、時の政府の命令で、使節としてアメリカへ行った数名の武士たちは、もちろんチョンマゲに大小を差してゐたが、その態度が極めて紳士的なところに、あちらの人たちが大變見直したといふことだが、着物や何かは、まるでアメリカの最近のところを真似して居るけれども、節操がまるで、なって居ないのでは、アメリカさんも感心しないだらう。
 世界の國々が國境を越えて、風習の上に、たがひに影聾を授けあひ、受けあふといふことは、いつもよくあることで、そのために、たがひに刺戟を受けて進歩の機會を得る。これは決して悪いことでないが、しかし日本人は昔からさうであるが、大きな外國の勢力に接觸すると、まるで自分をゼロにして、外来文物の影響に随喜して、その模倣に全力をあげる。そのために利益を受けたことはいふ吾もないが、あまり旨分を没却して模倣ばかりやってゐるのでは、受け入れたものが、ほんたうの意味で消化して、自分のものになり切らない。そこへ、またほかの刺戟を受けて、すぐまたその模倣に全力をつくす。そこで、いつまでも人眞似で暮らすことになる。日本人には長所はあるが、ここのところは、何としても短所であらう。
 そこで、ほんとの意味で文化生活を進めて行きたいならば、こんな具合にすぐ、表面的にに惚れついて、すぐまた次ぎつぎへ移るやうな浮気な傾向に、よく気がついて、もつと重厚な態度で、進歩の径を求めなければならない。
 美術や文學のことは、いろいろ文化的の事象の中でも、一番微妙だから、これにたづさはる人たちは、気をつけなければならない。一冊の新刊が出る。何所かで繪の展覧會が開かれる。それを讀むとか、または見物して来るとかする。そして互にその印象や感想を語り合ふ。こんな光景が、幾日も何所かのカフェーか何かの卓上に展開したとする。こんなことをするのが、よほど文化的だとその連中は思ふかもしれないが、そんなことが文化的といふほどの價値があるか無いかは、それをやってゐる人達による。文學書や繪の批評さへして居れば、文化的だなどといふわけには行かない。ほかの御客に迷惑にならないやうに、静かにお茶を飲んで歸ってくれる方が、ずつと文化的な場合が、あまりにも多い。自分の実力は棚に上げて、人の批評などをしたところで、誰のためになるものでもない。もし人の作ったものを見て、何か感じたことがあつても、何も急いで人の前でそれを述べたてるには及ばない。人の前でいはなくとも、自分が作る時に、そんな風にならないやうに気をつければ、それでいいわけだ。批評は必ず無駄だといふでもないが、無駄でなくとも、無駄に近い批評が多い。そんな批評よりも黙々として、それを作った人の心の中を味つて見たいものだ。つまり眞劍に勉強すべきだ。  
                   『新潟日商』昭利二十七年一月一日)

『会津八一全集』中央公論社


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石井鶴三の世界 №180 [文芸美術の森]

東大寺南大門仁王 2点 1956年

        画家・彫刻家  石井鶴三

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東大寺南大門仁王 1956年 (171×124)
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東大寺南大門仁王 1956年 (171×124)

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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】

明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社

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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №44 [文芸美術の森]

第七章 「小説なれゆくはて」 8

     早稲田大学名誉教授  川崎 

「画室は神聖です」

昭和四十五年(一九七〇)一月六日
 労務者たち六日まで休む。静寂でいい。

一月十六日
 番頭来る。引っ越し支度できたかと。あの家には移らないと宣言すみではないか、それはあんまりカワイソウですよ、とぼやきながら帰って行った。

一月二十五日
 懇意の村人来る。種々話した。団地の奴等みんなサギだ、自分もあやふやなことばかりの無責任にだまされてばかりいると。

一月二十七日
 コブタが館山の工務所請負人と大工をつれてきた。それと田端夫妻(これは後での話で分かったが.高島さんがどうしていられるか病気にでもなっていないか、とにかくやって来たのだそうで増尾駅で方角が分からなくなり、コブタに電話したら今ちょうど行く処だと。請負師たちは東急に用があってきたという)。
 引っ越しと寄付はどうなっているのですか。実は先日館山市から税金割引の申請を出せとの通知があった。これで見るとあの家は明らかに高島の名になっていると見える。こんなエタイのしれぬ家には住まえない、高島というこの私自身には関係のない処だからこの通知書も放っている。何のことか分からない。コブタ急に怒り出してドナリ始めた。このギゼン者野郎、この野郎何もかもギゼンだとドナリ出した。皆あっけに取られてポカンとしている。
 今日は殆どギゼンという言葉でドナリつづけた。やっぱりなぐり倒しそうな姿勢で迫ってくる。先日もあの家には入らないと宣言したように今改めてはっきり宣言する。あの家には移らない、入らない、請負師がやっと口を開いて芸術家には芸術家の気持ちがあるでしょう、先生はあの家には行かぬと言われる。先生やっぱりそれを通されるでしょう、ええ、そうです、通します、それでは仕方ない、だがこんな団地屋連中が度々やって来てワイワイ騒ぎ立てるような処に居たくない。画室は神聖です。ここは団地屋なんかと話をする処ではない。叉こんな話をした事はかつてない。ここには当分来ないがいいと友人知人に知らせているからここの処だれも殆ど来ないが実はずい分多くの友人達がやって来て一日色々話し合ったりする、だがだれもこの団地屋みたいな話をする者は居ない。皆な芸術の話ぽっかりだ。私も生まれて初めてこんな奴等にやってこられた。ここは結局いやになった。一刻も早くこんな連中の来ない処に逃げて行きたい。日本の番外地をさがしたいと思っている。近日実は能登の地の北端の辺をさがLに行こうと思っている処だ。
 請負師が能登とか番外地とか寒くてだめですよ、お年も取っておられるようですし、体だけは気をつけてくださいよ。御安全を祈っておりますよと言った。コブタと請負大工は先に帰った。玄関でコブタは田端さんのお話をよくお聞きなさい、と言いすてて出て行った。

…コブタは言うのです。東急は大資本で決して不正をしない。又あんなちっぽけな土地を買ったら禁止の地に出願したりはしない東急の信用と面子にかかわる、だがどこの馬の骨だか分からないような無名のルンペン画かきの名で出願すれば通してくれる。だから高島の名で出願建築するよりほか仕方ない又そうしたのだとコブタは主張している。そして無理にでも高島をあの家に…(省略)
 川名の新築は明らかに資金を出した東急の建物だ。これに高島がむりに入り込むとすれば、これこそほんとうのギゼンでありサギだ。これをさせようと強要する彼等こそ何もかも一切がサギだ。とにかく禁止の地に出頭を骨折らせたり、色々な手続きを頼んだりしているのは田端氏を侮辱している。悪いことは何もかも他人にさせてコブタは東急の面子ばかりを化粧しようとしている。
 ここで一切を東急の名義にしてそれを市に寄付し公共事業に使う。その暫くの間を高島に使用させる。そうすることより外にあの建物に高島の入る名分は出来ない。いずれ高島は永くは使わない。アトリエの使用も今日すぐというわけではない。こういう事にすれば大義名分が成り立つ。(省略)
 しかし夫人はとにかく市長に話して寄付をすませてしまった。これで先生が行かないと言われると田端が市長をだました事になるから困ってしまうのです。
 そのうち私が市長に会って話をするとか、手紙をくわしく書いてもいいです。もっと時の経つのを待ちましょう。何も急ぐことはありません。急いでいるのは団地側です。殊にコブタです。かれはこの地をどうしても早く手に入れて会社に手柄を立てなくてはならない。だが私は最初から協力しないと言っているのです。私は自分の研究にだれの邪魔にならないようにこの世間離れした地に来たのです。ただこの環境が変わって居るに適しなくなったら、私は私の意志で移転して行きます。


『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社




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祖道傳東Ⅱ №35 [文芸美術の森]

第三十五図「天童寺図」

   
画  傅 益瑤・文  曹洞宗大本山永平寺

35.jpg
《紙本墨画彩色》192×345  六曲一隻屏風

中国明州にある天童寺は千七百年の歴史のある禅寺です。道元禅師は禅の奥儀を身につけるため、希望に満ちてこの天童寺を訪ねました。如浄禅師のもとで修行に励み、やがて悟りを開いて帰国いたします。

『祖道傳東』大本山永平寺


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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №51 [文芸美術の森]

                     歌川広重≪東海道五十三次≫・誕生前夜

                美術ジャーナリスト  斎藤陽一

                             第2回 風景画に開眼

51-1.jpg

≪鳥の目視点と近接拡大の技法≫

 天保2年(1831年)、歌川広重35歳の時、「東都名所」(10枚揃え)が刊行されます。東都(江戸)の名所10か所を絵画化したもので、一躍、広重の名を高めました。広重自身も、「自分の持ち味を発揮できるのは風景画なのだ」と悟ったようです。ここに、その後の広重の絵の特質となる「俳味」(俳句のような味わい)と、そこはかとない「哀調」をおびた独特の風景画が誕生したのです。

 その中の一枚が上の絵「高輪之明月」です。
 高輪は現在の品川駅あたりの地域で、今では埋め立てが進んだ結果、海岸線はかなり遠くなりましたが、当時はご覧のように東海道のすぐそばまで海が迫っていました。

 まず「構図」から見ましょう。

 海岸線に沿って奥の方へとゆるやかにカーブを描く家並みと、はるかに広がる品川の海とを、上空から見下ろすという描き方をしています。これは、伝統的に日本の絵師たちが得意としてきた「俯瞰的構図」(鳥の目視点)です。
 合理主義に立脚した西洋古典主義絵画では、人間(画家)が立って眺める視点を重視したのに対して、合理性にとらわれない日本の絵師たちは、想像力を自由に駆使して、空を飛びまわる鳥のような視点で下界の光景を描きました。この高い視点により、風景や家並みを広くとらえることが出来ます。屋根や障子が邪魔ならば、それを取り払って室内の人物たちを描くことだってやります。(例:「源氏物語絵巻」の「吹き抜き屋台」という画法)
 特に広重は、風景画に専心するようになってからは、この「鳥の目視点」を自在に使いこなしています。この絵では、広重は「雁の目」になっていますね。

51-2.jpg この絵にはもうひとつ、広重の特徴的な技法が見られます。

 満月の出た空を舞い降りる雁の群れを前景に大きく描いているところです。これは「近接拡大の技法」ともよぶべきもので、主要なモチーフを手前にクローズアップで描くやりかたです。これにより、遠近感が強調されます。

 この「俯瞰的視点」(鳥の眼視点)と「近接拡大の技法」は、広重の風景画にしばしば使われる効果的な画法となります。

≪「ベロ藍」:ヒロシゲ・ブルー≫

 「色彩」にも注目してみましょう。
 まず「青」。空にも海にも、青い色が使われています。この「青」はベルリンで開発された青色の化学顔料「プルシアン・ブルー」です。日本では長崎経由で輸入され、「ベルリン藍」と言われましたが、江戸っ子たちは「ベロ藍」と呼びました。
 最初は高価なものでした。我が国の絵画の中での最初の使用例は、伊藤若冲(1716~1800)の「動植綵絵」シリーズ中の「群魚図」に描かれた青い魚「ルリハタ」とされています。
 やがて江戸時代後期になると輸入量も増加、入手しやすくなった時、その発色の鮮やかさと定着性が絵師たちに好まれ、さかんに使われるようになりました。葛飾北斎の連作「富嶽三十六景」は、「ベロ藍」の魅力を存分に発揮したシリーズでした。
 広重は特にこの「ベロ藍」を好み、風絵画の中に効果的に用いるようになります。浮世絵が西欧に大量流出した明治開化期になってからのこと、西洋では広重の絵の青の鮮やかさに驚嘆し、「ヒロシゲ・ブルー」と賞讃しました。
 この絵で使われている青も「ベロ藍」です。海の青は、下から「ぼかし上げ」に摺られ、やや濃いめの空の青は「ぼかし下げ」で摺るという変化をつけています。

 一方、遠くの空に浮かぶ筋雲には「紅色」を刷き、全体の色数をおさえながらも、上下の「ベロ藍」と中空の「紅色」とのコントラストが鮮やかな効果を生んでいます。
 大きな満月は、空の青の中に「円」を型抜きして表しています。

≪俳味と哀調をおびた風景画≫

 このような描法と、「黄昏時に落ち行く雁と名月と海」という組み合わせにより、この絵には、秋の季節感とともに、しみじみとした味わいが生まれています。この哀愁を帯びた情感と俳句のような味わい(俳味)こそ、この後の広重の風景画に見られる持ち味となります。
51-3.jpg この絵が評判になったことにより、当時の高輪海岸がたとえ月の名所ではなかったとしても、広重が創り出したイメージが人々の脳裏に定着し、高輪は「月と雁のイメージ」と結びつくところになっていきました。広重の名所絵は、そのような影響力を発揮したのです。

 広重絵画の「俳味」について、少し触れておきたい。
 右の絵は、広重の描いた大判錦絵「月に雁」ですが、左上には「こむな夜か又も有うか月に雁」(「こんな夜が又もあろうか月に雁」)と「五・七・五」の俳句調で書かれています。どうも自作の句らしい。
 その意味するところは、「こんな素晴らしい夜が又とあるだろうか。何と、満月をかすめるように雁の群れが飛んで行く!」ということでしょう。

 武士出身で読書家だった広重は、自ら俳句を作ることはあまりしなかったようですが、芭蕉をはじめとする俳人たちの句をよく読んでいたらしい。この絵に添えられた言葉は、一説には「和漢朗詠集」から採ったとも言われますが、この絵の情感を盛り上げるために、このような句形にして書き込んだ、とも考えられます。
 この絵だけではなく、広重作品には、しばしば和歌や漢詩、俳諧のような「賛」が書かれているものがあります。それらの発想源のひとつとなったのが、「和漢朗詠集」だったようです。

 また、俳諧の分野では、江戸中・後期の俳人・松露庵烏明が編纂した『俳諧故人五百題』(古句を集めた句集)などから、「賛」を引用することもあり、このような俳諧書を通して、とりわけ芭蕉を敬愛し、蕉門の俳人たちの51-4.jpg句に親しんでいたものと思われます。
 この頃の広重は「一幽斎」という号を使っています。「幽」とは「幽玄」の幽であり、閑寂で繊細な精神的な美意識を意味し、芭蕉の「わび」「さび」に通じるものがあります。

 ただ、詩歌を愛好しながらも広重自身は実作者とはならず、自分の領分である絵画の世界で俳諧的情緒(俳味)を表現したのです。

 次回からは、いよいよ広重の代表作「東海道五十三次」について語っていきたいと思います。

                                                                  



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往きは良い良い、帰りは……物語 №91 [文芸美術の森]

こふみ会通信 №91
(コロナ禍による在宅句会 その6)
「初空」「雪女」「煮凝り「水仙」

        俳句・こふみ会同人 コピーライター  多比羅 孝

【令和3年1月の句会のまとめ】
当番幹事のお二人(秋元虚視氏と大取下戸氏)からお知らせが届きました。内容は次のとおりでした。
★在宅句会。兼題=「初空」「雪女」「煮凝り」「水仙」
★投句締切=1月11日。(幹事両名にお送りください。)

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通知によって作成・投句された作品=72句(18名)
≪1月こふみ会の全句≫

【初空】
・初空やただそれだけに手を合わせ<小文>  
・初空の常なる青の新しく<舞蹴>    
・帰るな。という母に送る「初空」<鬼禿>   
・初空を背にひっそりと六地蔵<玲滴>  
・初空や白大島で人を待つ<紅螺>    
・初空や地球は悪しき玉手箱<可不可>    
・初空に 深呼吸ひとつ また一年<一遅>    
・初空や恵方は帰れぬ故郷か<尚哉>  
・光ごと吸い込んでみる初御空<すかんぽ>     
・初空よ 今年こそはと 祈りこめ<兎子>  
・初空や額に入れたき雲ひとつ<虚視>   
・初空や鳶悠揚と山の端に<弥生>   
・初空や 仰ぎて踏み出す 一歩かな<孝多>  
・初空は畏れるほどに青々し<華松>     
・初空の光のどけき庭掃除<珍椿>     
・初空や野口さんが飛んでいる<下戸>   
・地球にはまだ初空の美しく<矢太>      
・初空の キャンバスに描く 我が煩悩<茘子>   

【雪女】
・湯けむりに耳たぶ染めし雪女<小文>   
・月光を浴びて影なし雪女<舞蹴>    
・雪女郎 空のリフトに一人づつ<鬼禿>   
・情念に溶けて消ゆるか雪女<玲滴>    
・昼酒で酔わせてみたい雪女<紅螺>   
・恋しきは恨めしきなり雪女郎<可不可>   
・ゆうべ来た 雪女黙って 朝飯を食う<一遅>   
・雪女単衣の下は燃えてをり<尚哉>   
・雪をんな真白き闇に現れし<すかんぽ>    
・車中泊 放してください 雪女<兎子>   
・つめたいねそうなのわたし雪女<虚視>   
・頬よせくる白き幻覚雪女郎<弥生>   
・出るのです ほらそのうしろ 雪女<孝多>    
・吹雪でもステイホームの雪女<華松>    
・雪女空みていそいそ薄化粧<珍椿>    
・雪女サイフォンの火に身を投げる<下戸>   
・雪女コビッドと改名したるかや<矢太>     
・雪女 怒りし後の 自衛隊<荔子>    

【煮凝り】
・煮凝りや琥珀に映ゆる父の影<小文>   
・煮凝りや妻にひとつの秘密あり<舞蹴> 
・煮凝りに似てくる人格わが女房<鬼禿>   
・煮凝りや住み暮らすなり鍋一つ<玲滴>   
・煮凝りや神々しいよな皺の数<紅螺>    
・煮凝りの如き昨夜(ゆふべ)の言葉かな<可不可>   
・煮凝りが ゆっくりゆるむ 朝の膳<一遅>  
・煮凝りをつつけば足りる朝餉かな<尚哉>   
・煮凝りや口中母を忘れざる<すかんぽ>    
・苦しみや 悲しみ封じて 煮凝りに<兎子>  
・煮凝りやゆるゆる国も崩れ行き<虚視>   
・玄海の海とじ込めて煮凝りぬ<弥生>   
・煮凝りや 小皿に分けて 友静か<孝多>     
・ふるふると揺れるが嬉し煮凝りは<華松>    
・夜も更けて煮こごり肴に手酌酒<珍椿>    
・煮凝りや弱火でとける夫婦仲<下戸>     
・煮凝りやあの日あの事あのままに<矢太>     
・煮凝りの ゆるりと溶けて 江戸の粋<荔子>    

【水仙】
・水仙の匂ひ零るるにじり口<小文>   
・倒れるも立つも真っ直ぐ水仙花<舞蹴> 
・覚めやらぬ夢の向こうか水仙香<鬼禿>      
・陽ざし入る丸障子一輪の黄水仙<玲滴>   
・瞑想の息に芳し黄水仙<紅螺>    
・水仙の床の間にあり安き宿<可不可>   
・水仙の 白黄に緑 曇り空<一遅>  
・水仙の唇妖しき宵まだき<尚哉>   
・水仙の早も一輪二輪かな<すかんぽ>    
・水仙よ 命を凍土に 隠し持ち<兎子>    
・水仙の香刀身となり闇を切る<虚視>     
・筆談の文字乱れゆく水仙花<弥生>     
・水仙群 なびかせ渡る 海の風<孝多>     
・水仙は今朝もきりりとそっぽ向き<華松>    
・ベランダに咲く水仙ひっそりと<珍椿> 
・水仙やわが蟄居にも侘びと寂び<下戸>     
・水仙や先に逝くひとみな美し<矢太>       
・水仙の 香に誘われて 回り道<荔子≫ 
◆残念な句が出ました。俳句の世界では黄水仙は春の季語なのです。水仙は冬。◆

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【天句鑑賞】
●水仙の匂ひ零るるにじり口  小文
鑑賞短文=席入りに合わせて開花させたご亭主の手並みの冴え、心配りを察する客人、茶席が恋しくなりました。(華松)
鑑賞短文=新年の茶会、おめでたい空気そのままに景が鮮やかです。(紅螺)

●煮凝りやゆるゆる国も崩れ行き  虚視
鑑賞短文=煮凝りと国。このありえへん組み合わせにまず驚く。「ゆるゆる」という擬音が妙におかしな臨場感を醸し出し、一層身につまされる。もうこんな国こりごりだ・・・(舞蹴)

●雪女郎 空のリフトに 一人づつ  鬼禿 
鑑賞短文=・・・なんという想像力だろう。幻視の世界に引き込むチカラ、絶大です。(尚哉)
鑑賞短文=雪女は集団発生するらしい。シュールな世界に引き込まれました。(虚視)

●水仙群 なびかせ渡る 海の風  孝多
鑑賞短文=水仙の原産は地中海とのこと。以前アグリジェンドから海岸にかけて水仙の群生を見ました。正にこの句の通りの風景。思い出させてくれて、ありがとう。(鬼禿)

●帰るな。という母に送る「初空」  鬼禿
鑑賞短文=読点や「」が俳句でタブーかどうか知りませんが、実に効果的で、母子互いの情愛が溢れて見事です。新しい短詩系文学のトレンドを感じます。(一遅)
鑑賞短文=母上様の悲壮な一言です。息子さんにはぜひ会いたい。しかし、コロナ運び人になってほしくない。そうした母上様の心境が痛いほどよく分かる息子は、いとせめて、こちらの元旦のよく晴れためでたい青空を古里へ送り届けたいと思うのだ。良い句をお示しいただいて有難うございました。(孝多)

●初空の常なる青の新しく  舞蹴
鑑賞短文=「コロナ禍の時代でも空なる自然は普遍的である事への敬意と希望を抱く作者の気持ちが伝わります。」(小文)

●月光を浴びて影なし雪女  舞蹴
鑑賞短文=月光に浮かぶ美しい雪女のビジュアル。ポスターにしたいような印象的な句が出来上がった。「影なし」のワードがナイフのように突き刺さる。(下戸)
鑑賞短文=そうか、雪女に影はなかったのか!という発見がありました。(可不可)

●倒れるも立つも真っ直ぐ水仙花  舞蹴
鑑賞短文=一切の作為のない、見たまま感じたままのストレートな句がすきです。また凛とした水仙の美しさの理由の一つにこれがあったのかと思い知らされました。(弥生)

●玄海の海とじ込めて煮凝りぬ  弥生
鑑賞短文=昔住んでいた博多の街は魚がおいしかったことを思い出しました。スケールの大きい句だと思います(玲滴)

●光ごと吸い込んでみる初御空  すかんぽ
鑑賞短文=元旦の朝、光ごと深呼吸をするという清々しい句です。(珍椿)

●初空や地球は悪しき玉手箱  可不可
鑑賞短文=今ここにある地獄を。大きな次元哲学で詠嘆した。玉手箱の比喩が悲しい。(矢太)

●水仙や先に逝くひとみな美し  矢太
鑑賞短文=水仙のイメージは寂しい。教会の墓地に咲く水仙のイメージ。乙女のような純粋な姿と、心に残る濃厚な香、先に逝ってしまう人の姿は、美しくそしていつまでも心に残る。あ、やられましたという気持ちです。(荔子)

●初空や額に入れたき雲ひとつ  虚視
鑑賞短文=元旦ならではの清々しく寿ぎの気分を、「額に入れたき雲」で見事に詠まれています。(すかんぽ)

●初空やただそれだけに手を合わせ 小文
鑑賞短文=虚しさを噛み締めてながらの、切なる祈りを感じました。(兎子)

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【令和3年1月句会の成績】
●選句順位
 天 舞蹴  月光を浴びて影なし雪女     28点  
 地 鬼禿  雪女郎 空のリフトに一人づつ   24点
 人 虚視  初空や額に入れたき雲ひとつ    21点
 次点 弥生  玄海の海とじ込めて煮凝りぬ    18点  

●トータルの得点順位
 天 舞蹴 68点
 地 虚視 55点
 人 鬼禿 39点
 次点 小文 30点    

今回も全員参加の≪コロナ対策句会≫となりました。     

【追伸】
先人の作と、よく似た句が、今月もいくつかありました。しかし、偶然の一致と見て、そのまま、普通に収録され、得点もされました。念のため、申し添えます。

                                                              以上

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ケルトの妖精 №43 [文芸美術の森]

 エサソン

          妖精美術館館長  井村君江

 ウェールズのカーディフに近いピーターストンに、ローリー・ビューという農夫がいた。
 この農夫は、かわいそうに運というものにまったく見放されていて、なにをやってもうまくいかなかった。丹精こめた作物は病害にあうし、飼っている家畜も病気になってしまう。おまけに女房は身体が弱くて、畑仕事の助けにならない。近所の農家には起こらない不運が、ローリーだけを苦しめていた。
 こんなふうだから暮らしにも困り果て、「いっそ家も畑も何もかも売りはらって、どこかへ引っ越すしかないか」と考えはじめていた。
 そんな苦労を胸に抱いてこの日も畑仕事を終えると、ローリーは重い足を引きずりながら家路を急いでいた。と、
「心配いらないよ、ローリー。ぽくらがめんどうみるからさ。おかみさんにもこう言うんだよ。毎晩、床をきれいに掃除して、暖炉の火もロウソクの灯も消さないで、早く寝ちまいなって」
 どこからともなく、そんな声が聞こえてきた。
「エスリィルだ」とローリーは思った。身体が小さくて透きとおっているから、目でとらえるのがむずかしい小妖精だ(エスリイルはエサソンの単数形)。
 女房のキャティにその話を伝えると、キャティは、
「こんなに運のつかないわたしたちに、そんないいことが起こるもんかね」
と力なく言った。ローリーも「それもそうだ」と納得して、ふたりしてあきらめ顔を見合わせた。それでも苦しいときの神だのみ、信じてみたって損はないと、エスリイルに言われたようにその晩は早くに床につくことにした。
 するとその晩、家のなかのどこかで笑い声や楽しげに騒ぐ音が聞こえてきた。朝になってみると、家畜の餌やりも畑仕事も家のなかの整頓もぜんぶきちんとすんでいた。
 そんなことが毎晩つづくようになり、家畜の病気もなくなり、作物もたくさん収穫できるようになった。落ちこんでいたローリーも、具合の悪かったキャティも見ちがえるように元気になってきた。
 三年めのこと。暮らし向きがよくなって、心にも時間にも余裕のできた女房のキャティは、エサソンがどうやって働いているのか、見てみたいものだと思いはじめた。
 それである晩、真夜中にそっとドアの隙間から台所をのぞいてみた。すると小さな人たちが、働いたり歌ったり笑ったりふざけてたりしていた。エサソンの騒ぐようすがあまりに滑槽だったので、キャティは思わず吹きだしてしまった。すると、叫び声があがったと思う間もなく、ロウソクの灯が消えて、エサソンの姿は消えてしまった。
そして、もう二度とローリーの家に彼らが現れることはなかったという。
 プライバシーの侵害を妖精はもっとも嫌うのだが、人間、とくに不幸な人に親切なエサソンは復讐などはしなかった。女房のキャティは元気になったし、ローリーも畑仕事がうまくいくようになった。この農家はそれからもずっと繁栄したということだ。


◆ エサソンが好んで住んでいるのは林のなかの、それも薬が茂って、少しじめじめした場所だという。それは木かげの腐葉土にエサソンの食べ物のキノコがたくさん生えるからだ。彼らの大好物は、古木の根元や石灰岩の割れ目に生える「フェアリー・バター」というキノコで、このキノコはだんだん黄色くなって、油っこくなってバターのような黄色い汁を出す。また「カエルの腰かけ」というキノコも好きなようだが、これは毒キノコで、人間が食べると、カエルの恨みかどうか極彩色の幻覚やしびれの症状をひき起こすということだ。「妖精にキノコはよく似合う」ようで、妖精が赤地に白の斑点のキノコに腰かけていたり、キノコのテーブルで食事していたりする場面の給はよく見られる。

 妖精が踊った跡といわれる「妖精の輪」は、キノコの胞子が散って土が酸性になり、一夜のうちに草が丸く枯れたもので、とつぜん起こるこの不可思議な現象を、むかしの人は妖精のせいにした。しかし、土中から不意に、木の根元や庭の草のなかに現われる神出鬼没なキノコ類は、それ自体があ屋h市区滑稽で、そしてかわいらしく、さまざまな形を色をしたジノコ自身、旺盛化と思われてくる。


『ケルトの妖精』 あんず堂




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