浅草風土記 №33 [文芸美術の森]
あやめ団子 2
作家。俳人 久保田万太郎
作家。俳人 久保田万太郎
電気館の隣には大きな小屋があった。名前は忘れた。ずっと古くは、竹沢藤次の独楽の見世ものがそこにかかっていた。中ごろには、しばらく、梅坊主がそこを根城にしていたが、その後、岩でこが、代って、そこで興行をつづけた。
わたしは、梅坊主は好きだったが、岩でこは嫌いだった。岩でこには梅坊主の洗練がなかった。
話は違うが、そのころ、カナリ長くつづいていた「新声」という雑誌が潰れ、暫くして隆文館から同じ名の雑誌が出た。体裁も、内容も、前の「新声」とは気もちの大分ちがうものだったが、忘れもしない、その、三月だか、四月だかに出た、今でいえば特別倍大号のようなものに、「梅坊主と岩でこ」(たしかそういう題だったと覚えている)という堂々たる論文が出ていた。匿名で、その説くところは、梅坊主、岩でこ、両者の関係から、貪婪(どんらん)飽くなき岩でこの、ひそかにその爪牙を磨き、梅坊主を陥れ、ついにこれを追って自分がそのあとに直るに到ったのを憎み、そうして、わが梅坊主のため、万斛(ばんこく)の泪をそそぐのにあった。
わたしは、再読、三読した。どこの、誰が、こんな情理を尽した、歯切のいい、気のきいたものを書いたのだろうと、子供ごころに、わたしは、感嘆これを久しうした。――「吐舌一番、その舌の赤かりしを知るのみ」とあったそのなかの一句が、なぜか、わたしに、その後いつまでも忘れることが出来ずに残った。
爾来、十幾年、縁あって岡村柿紅と識り、いろいろ無駄をいい合うようになってから、話がたまたまかっぽれのことに及ぶと、かれ、金丸を説き、国松を論じ、まくし立てて、わたしをして口を噤(つぐ)むのやむなきに至らしめた。すなわち、わたしは酬ゆるにその「梅坊主と岩でこ」を以てした。――今更のように、わたしは、それを書いた主の、どこの、誰とも分らないことを残念に思った。
と、かれ、柿紅、
「ああ、あれは俺が書いたんだよ」
莞爾(かんじ)としていった。
その小屋の真向いに「珍世界」があった。ほうぼうの国の、珍しいもの、不思議なものたとえば、みいらだの、蟻の塔だの、素性も分らないさかなの剥製だの、そういったようなものがガランとした室のなかに万遍なく並べられてあった。土俗的、伝説的なものが多かった。根っから面白くないものだった。ただ、入口に置かれてあった猿の人形。――赤い洋服を着、右に向き、左に向きながら、断えず太鼓を叩いていたあの猿の人形が、今でも、わたしの思い出のなかで寂しく太鼓を叩いている。
珍世界のとなり、今の富士館のところに、加藤鬼月一座の改良剣舞がかかっていた。
改良剣舞といっても、必ずしも、うしろ鉢巻の、袴の股立を高くとり、鼻のあたまにばかり濃く白粉をつけた男たちの、月琴によって、日清談判をばかり破裂させた訳ではないそれはほんの附合せにすぎず、じつは、短銃強盗清水定吉だの、服部中尉(だったか大尉だったか)の太沽(タークー)砲台占領だのの芝居をやるのだった。あるときは、あの川上の演った「武士的教育」をもじったようなものをさえ演ったこともあった。それは立廻りと七五の台詞(せりふ)とで出来上っている初期の書生芝居だった。短銃と、合口(あいくち)と、捕縄と、肉稲梓と、白い腹巻とが、そこで演るすべての芝居の要素だった。
学校で(わたしの学校は浅草学校だった)わたしの机のそばに公園の写真屋の息子がいた。これが加藤鬼月を大の贔屓(ひいき)だった。機会さえあればそこに入浸っていた。わたしは、かれによって、「花のさかりの向島、人も散っちゃあヒッソリと、鳥もねぐらの枕橋、ズドンと二発短銃の、音はたしかに辻強盗」という官員五郎蔵の台詞を教えられた。
この写真屋の息子、姓は鴨下、名は中雄、晃湖と号して、今では画を描いている。
剣舞の隣、いまの三友館のところは、開進館という勧工場だった。その前っ角、今の千代田館のところには、屋根の低い、小さな写真屋があった。その写真屋のまえに、七十がらみの、あたまに小さな馨をのせた爺さんが、始終、あやめ団子を焼いて売っていた。――わたしはその爺さんの有数の顧客だった。
あやめ団子というもの、いまではどこの縁日へ行ってもみ当らなくなった。
(大正九年)
『浅草風土記』 中公文庫
『浅草風土記』 中公文庫
西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №135 [文芸美術の森]
シリーズ:江戸・洋風画の先駆者たち
~司馬江漢と亜欧堂田善~
第4回
「司馬(しば)江漢(こうかん)」 その4
美術ジャーナリスト 斎藤陽一
≪司馬江漢の油彩≫画から≫
~司馬江漢と亜欧堂田善~
第4回
「司馬(しば)江漢(こうかん)」 その4
美術ジャーナリスト 斎藤陽一
≪司馬江漢の油彩≫画から≫
前回まで、司馬江漢がわが国で初めて制作した「銅版画」の数々を紹介しましたが、西洋画に憧れる江漢はまた、自ら工夫を重ねて、油彩画の制作を試みました。
今回は、江漢の「油彩画」をいくつか紹介します。
上の左図は、司馬江漢が寛政初年に描いた油彩画「オランダ馬図」。
この絵の下敷きとした図は、オランダ渡りの銅版画集『諸国馬画集』の中の一図(上図の右)。江漢は、これを西洋画のようなカンバスではなく、日本画で用いる絹地(絵絹)に描いています。
江漢は、左側に大きな樹木を配し、中央に量感あふれる馬を、中景には池、遠景には洋館を配するという、視線を奥へと導く「遠近法」によって、この油彩画を構成しています。
お手本とした原図は横長ですが、江漢は東洋の掛幅のように縦長に描いた。床の間に掛けることを意識したものでしょう。
日本画と洋画を融合させた、どこ不思議な味わいの牧歌的な絵となっています。
西洋の油絵具の作り方を知らなかった司馬江漢は、自分自身で考案したやり方で絵具を創りだしました。その方法は下図のような手順:
先ず、荏胡麻から絞った油を煮る。そこに乾燥剤として「密陀僧」(みつだそう:一酸化鉛)を加えて煮沸させる。
かくして作った油を媒材にして、日本の顔料を油で溶く。このように苦労して編み出したのが、江漢が用いた洋風画の絵具です。
江漢は、この自家製の絵具を用いて、麻布のカンバスではなく、絵絹に描くのを通例としました。そして「掛軸」に仕立てられたものが多い。
かくして作った油を媒材にして、日本の顔料を油で溶く。このように苦労して編み出したのが、江漢が用いた洋風画の絵具です。
江漢は、この自家製の絵具を用いて、麻布のカンバスではなく、絵絹に描くのを通例としました。そして「掛軸」に仕立てられたものが多い。
ところが、江漢手製の絵具は、劣化しやすいという欠点があった。この「オランダ馬図」でもそれが顕著に表れており、絵絹に塗った絵具が剥がれ落ち、その跡は茶色に変色している。
とは言え、馬の胴体の立体感や地面にのびた長い影、奥行き感のある遠近法的構図、雲が流れる空の微妙な色のニュアンスなどは、従来の日本絵画を見慣れていた当時の人達を驚嘆させたに違いありません。
とは言え、馬の胴体の立体感や地面にのびた長い影、奥行き感のある遠近法的構図、雲が流れる空の微妙な色のニュアンスなどは、従来の日本絵画を見慣れていた当時の人達を驚嘆させたに違いありません。
もうひとつ、司馬江漢が描いた「油彩画」を紹介します。
双幅として描かれたこの絵もまた、オランダ書の銅版画を下敷きにしていますが、堂々たる油彩画となっています。
左幅では、男性が波止場に立ち、海に向かって右手を突き出している。
右幅では、女性が木の下に座っている。その後ろには黒人の少年が。
二幅並べると、男と女の視線は交流し、それぞれの仕草も呼応している。このような双幅の仕立て方は、江漢の工夫です。
こんな油彩画を見た江戸の人たちの眼には、それまで見たことのない、西洋風のエキゾチックな絵として映ったことでしょう。
右幅では、女性が木の下に座っている。その後ろには黒人の少年が。
二幅並べると、男と女の視線は交流し、それぞれの仕草も呼応している。このような双幅の仕立て方は、江漢の工夫です。
こんな油彩画を見た江戸の人たちの眼には、それまで見たことのない、西洋風のエキゾチックな絵として映ったことでしょう。
江漢がこの絵の下敷きとしたのは、自ら所蔵していたオランダの銅版画集『人間の職業』に載っている図。(下図参照)
左幅の男は『人間の職業』の中の「船員図」。
右幅の女は、その表紙に描かれた『知恵の寓意像』を下敷きとしている。それらを江漢は大きく仕立て直して、本格的な「油彩画」にしたのです。
右幅の女は、その表紙に描かれた『知恵の寓意像』を下敷きとしている。それらを江漢は大きく仕立て直して、本格的な「油彩画」にしたのです。
司馬江漢が描いた淡彩画をひとつ紹介します。
下図は、江漢が寛政年間に絹本に描いた「異国工場図」。
下図は、江漢が寛政年間に絹本に描いた「異国工場図」。
これまで見た重い感じの油彩画ではなく、墨絵のような描線と淡い彩色によって、絹の地色を活かした軽やかで明るい淡彩画となっています。
描かれているのは、錫(すず)製品、いわゆる「ピューター」製品を作る工場。この部屋に描かれている様々な器は、錫製の食器類です。
この絵も、オランダの銅版画集『人間の職業』の中の「錫食器工場図」を下敷きにしています。(右図参照)
しかし、原図が8cm足らずの小さなサイズなのに対して、江漢は、横幅129cmと大きくし、全体構成も大幅に変更しています。
しかし、原図が8cm足らずの小さなサイズなのに対して、江漢は、横幅129cmと大きくし、全体構成も大幅に変更しています。
横長にした画面の遠近法の「消失点」は、窓の外に広がる地平線上に設定して奥行き感を出している。
明るい光が室内に差し込んでいるが、よく見ると、光源の位置は不明確なので、影の方向はまちまちで不統一。
しかし、室内に差し込む光の描写は柔らかで、美しい。
それまでの日本の絵画にはなかった新しい絵画世界が生まれています。
しかし、室内に差し込む光の描写は柔らかで、美しい。
それまでの日本の絵画にはなかった新しい絵画世界が生まれています。
次回は、司馬江漢が40歳前半に行なった「長崎旅行」をきっかけに描くようになった油彩による「風景画」を紹介します。
(次号に続く)
石井鶴三の世界 №262 [文芸美術の森]
頬手 1958年/少女臥す 1958年
画家・彫刻家 石井鶴三
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画家・彫刻家 石井鶴三
頬手 1958年 (126×175)
証拠臥す 1958年 (126×175)
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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三』形文社
西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」 №134 [文芸美術の森]
シリーズ:江戸・洋風画の先駆者たち
~司馬江漢と亜欧堂田善~
第3回
美術ジャーナリスト 斎藤陽一
「司馬(しば)江漢(こうかん)」 その3
≪オランダ書をお手本とした江漢の銅版画≫
司馬江漢は、しばしばオランダ書に載せられた「銅版画」をお手本に、自らの「銅版画」を制作しています。たとえば、下図をご覧ください。
左が江漢制作の小さな彩色銅版画「皮工図」ですが、これはオランダの銅版画をお手本としています。
右が、オランダのヤン・ラウケンの銅版画集『人間の職業』の中の原図。このオランダ書には、100の職業が銅版画で表わされ、それぞれにキリスト教的な格言が添えられています。
司馬江漢は、このオランダ書を愛蔵しており、生涯にわたって、自分の「洋風画」の源泉としました。
この絵では、皮なめしの仕事をする西洋の職人図をお手本としていますが、原図の左右をそのまま写して描いたため、摺り上がった絵は、左右が逆になっています。
だからと言って、原図を丸写しにしているわけではない。いかにも江漢らしく、広がりと奥行きのある風景として再構成し、川向うには、異国風の街並みも描き加えています。
次は、司馬江漢が寛政6年(48歳)に制作した銅版画「画質」。
手前の机の上には、地球儀やコンパス、書物などが雑然と置かれている。その向こうに、カンバスに向かって絵を描く画家(中央)と、銅版画用のプレス機で作業する職人(右端)が描かれる。
窓の外には西洋風の風景が見えるので、ここは「西洋の画家のアトリエ」という次第なのですが、おそらく江漢は、自分自身の姿をこの画家の姿に投影しています。
この銅版画が制作された頃、江漢の活動は、絵画以外に、「究理学」の探究へと広がっていきました。
「究理学」とは、天文・地理・博物学などの科学的探究をする分野を指す言葉です。もともと江漢は、若い頃から、平賀源内や蘭学者らとの交友によって、この分野への強い関心を示していました。
ことに、40歳代前半に行なった長崎旅行以後は、世界への関心が一層高まり、江漢の制作する「銅版画」も様相が変わってきます。
江漢のこの銅版画は、自ら所蔵するオランダの銅版画集『人間の職業』に記載されているいくつかの銅版画(下の三図)を合成し、それをもとに、江漢自身の想像力を発揮して構成したものです。
面白いのは、この銅版画の下部に「日本創製司馬江漢」と大きく記されていること。これは「私こそが日本で最初に銅版画を創った元祖である」と誇らかに宣伝している文句でしょう。
次回は、司馬江漢が描いた「油彩画」を紹介します。
(次号に続く)
浅草風土記 №32 [文芸美術の森]
あやめ団子 1
作家 久保田万太郎
作家 久保田万太郎
この間、常盤座で 「夜明前」を演ったとき、小山内〔薫〕さんの代りに稽古を見に行き、久しぶりに、わたしは、あすこの楽屋のなかをみる機会を得た。
わたしの「たびがらす」という小説を読んで下すった方はごぞんじだろう。――わたしは、十三四の時分、うちへ出入の下廻りの役者に連れられて、よくここの楽屋へ遊びに来たのである。
その時分は、水野好美を大将に、小島文衛、本多小一郎、境若狭、岡本貞次郎、亀井鉄骨、西川秀之助、高松琴哉、そういった「新演劇」時代の……という意味は「新派」以前の傍流的古強者が大勢いた。外には、服部谷川だの、越後源次郎だのいう人気ものがいた。
朝、九時に芝居をはじめた。――序まくのあく前に、越後源次郎が、粗い飛白の着物に袴を穿き、幕のそとに出て、愛橋のあるあいさつをした。――どっちかといえば、体の小いさ、顔の輪廓のまァるい、眉の下り気味な、始終にこにこしている役者だった。
小島(後に児島)文衛は 「夏小袖」のおそめを演って紅葉を驚嘆させた役者。―― 肥り肉(ふとりじし)の、ポッテリした、そのくせ、蓬莱な色気のある女形だった。後に、常盤座を出て、本郷座に入り、「風流線」のおつまだの「村雨松風」の髪結だのであてた。――河合武雄と二人、おのおの、その、違った味によって、長い間、対立していた。
本多小一郎もまた、「夏小袖」の佐助を持役にしていた役者。――常盤座へ来るまえにはしばらく伊井一座にいた。敵役(かたきやく)にも好ければ、実体(じったい)なものにもよく、時としては三枚目にもよかった。その達者さ、重宝さにおいて、品は落ちるが、また、臭くもあったが、今の村田正雄のような役者であったように思われる。
境若狭も達者な役者だった。立役にも向けば敵役にも向いた。そうかと思えば「夏小袖」で五郎右衛門をするような役者だった。だが、その達者さのうえに、本多とは離れて、また、落ちつきがなく、板帯(こんてい)がなかった。泥臭く、鍛帳(どんちょう)臭かった。――それがまた公園に人気のある所以でもあった。
岡本貞次郎は、うすあばたのある、三尺ものの巧い役者だった。――この役者、後に、奨励会というものが解散してから、暫くして、そのころはやりかけた活動写真のなかに入り、実物応用というものをはじめた。わたしの記憶にもしあやまりがないならば、役者にして、活動小屋に関係を持った、それがそもそもの人間だった。
亀井鉄骨は老役(ふけやく)を大専にした。相手を、始終、ねめつけるように据えた両方の眠が、かれを、敵役にもした。――皺枯れた、浪花ぶし語りのような調子の持主だった。
西川秀之助は河合型の女形だった。色っぽい、sensualな感じを、顔のうちに、体のうちに持っていた。だが、河合君のことにすると、河合君の持っているような聡明さがなく、その代りに、河合君よりも、もっと、頬廃した、ぐうたらな味を持っていた。み方によると、それが、寂しい味にもなった。
高松琴哉は、やさがたの、鈴のような眼を持った女形だった。内輪な、控え目な、つねに敵役によって苦しめられる不仕合なお嬢さんや若い細君がその役所だった。――強いていえば、木下と村田式部とを抱きまぜ、それに花柳の味を加えたような役者だった。
だが、小島も、本多も、境も、岡本も、西川も、高松も、そうして、越後も、皆、今は、故人になった。――生きているのは、わずかに、ただ、水野と亀井鉄骨との二人にすぎない。
そのころ、常盤座の近所は、公園のなかでも、さびしい、色彩に乏しいところになっていた。小屋のみてくれからいっても、看板をあげ、鼠木戸を閉てた外には、(もう一つ、小屋の左っ手に、水野好美以下、十五六枚の庵看板の並べられた外には)人の眼を惹くこれという飾りといってなかった。――小屋の右っ手(今の東京倶楽部のところ)には、喜の字屋という、たった一軒の、座つきの茶屋があった。色の裡めた花暖簾を軒に、申訳だけに見世をあけているという感じだった。
小星のまえにはパノラマがあった。門のなかに、庭が広く、植込があり、池があり、芝生があった。――建物は白く塗られてあったと覚えている。
常盤座と、横町を一つ隔てたとなりに、電気館の小さな建物があった。まだ、活動写真にならない時分で、無線電信だの、Ⅹ光線だの、避雷針の見本だの、その他、電気に関するいろいろの実験をみせる見世ものだった。――おもてに、顎なしの、平ったい顔をした木戸番がいて、それが尤もらしい口上をいい、しきりに客を呼びこんでいた。わたしたちは、よく、その真似をした。
『浅草風土記』 中公文庫
『浅草風土記』 中公文庫
石井鶴三の世界 №261 [文芸美術の森]
定慶仁王 1958年/室生寺十一面観音 1958年
画家・彫刻家 石井鶴三
定慶仁王 1958年 (175×126)
室生寺十一面観音 1958年 (175×126)
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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三』形文社
西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №133 [文芸美術の森]
シリーズ:江戸・洋風画の先駆者たち
~司馬江漢と亜欧堂田善~
第2回
美術ジャーナリスト 斎藤陽一
「司馬(しば)江漢(こうかん)」 その2
~司馬江漢と亜欧堂田善~
第2回
美術ジャーナリスト 斎藤陽一
「司馬(しば)江漢(こうかん)」 その2
今回は、江戸時代中期、日本初の「銅版画」を制作した司馬江漢の銅版画をいくつか紹介します。
≪司馬江漢の銅版画から≫
上図は、司馬江漢が天明4年(1784年)に制作した銅版画「御茶水景」。筆により色彩が施されている。
これは、現在の御茶ノ水駅あたりから西南の方向を望む風景でしょう。右に流れるのは神田川ですが、実際よりも高い位置に描かれています。その上に架かるのは神田上水の懸樋(かけひ)。
画面の奥には富士山が見えるという、奥行き感のある「遠近法」で描かれています。
画面の奥には富士山が見えるという、奥行き感のある「遠近法」で描かれています。
上図も司馬江漢制作の銅版画「広尾親父茶屋」。これも筆で彩色されています。
ここに描かれているのは、現在の渋谷区広尾。高層ビルや住宅が立ち並んでいる今の風景からは想像できないほど、当時は、広々とした野原が広がる田園地帯でした。はるか彼方には、富士山も見えます。
ここには、一軒の「親父茶屋」と呼ばれる名物茶屋(画面の左手)があり、行楽に来た人たちが立ち寄りました。司馬江漢も、友人たちとこの茶屋を訪れて酒宴を楽しんだといいます。
ここには、一軒の「親父茶屋」と呼ばれる名物茶屋(画面の左手)があり、行楽に来た人たちが立ち寄りました。司馬江漢も、友人たちとこの茶屋を訪れて酒宴を楽しんだといいます。
この絵では、「空」を画面の半分以上も大きくとって描き、明るい光がみなぎり、繊細なニュアンスを見せる空の表情を表現しています。
これは、司馬江漢が天明7年(1787年)に制作した彩色銅版画「両国橋図」。
大勢の人々で賑わう両国橋界隈の活気と、奥行きのある隅田川の眺めを描いています。いかにも西洋風だということを印象づけるために、上部にオランダ語で「TWEELAND-BRUK」と書き込んでいますが、これは「二つの地域を結ぶ橋」、すなわち「武蔵国」と「下総国」の両国を結ぶ橋、という意味です。
画面の手前には、たくさんのよしず張りの茶店が並び、様々な人たちが往来している。両国橋の上にも、無数の人々が見える。隅田川ははるか奥まで続くように描かれる・・・
この絵も、「のぞき眼鏡」で見るための「眼鏡絵」として制作されたので、遠近感が強調された構図となっています。
この絵も、「のぞき眼鏡」で見るための「眼鏡絵」として制作されたので、遠近感が強調された構図となっています。
この絵が描かれた翌年の天明8年、司馬江漢は長崎旅行に出かけましたが、その道中で出会った人たちに、これらの自家製「銅版画」を見せ回ったという。(江漢の日記より)
ある時、人足たちに、この「両国橋図」を見せたところ、あまりの賑わい振りに「誰もあきれて本気にしなかった」と、道中日記に書いています。
ある時、人足たちに、この「両国橋図」を見せたところ、あまりの賑わい振りに「誰もあきれて本気にしなかった」と、道中日記に書いています。
次回もまた、司馬江漢の制作した「銅版画」をいくつか紹介します。
(次号に続く)
浅草風土記 №31 [文芸美術の森]
浅草田原町 4
作家・俳人 久保田万太郎
四
作家・俳人 久保田万太郎
四
「横町がたくさんにあります」とあたしはそう書いた。――そのたくさんある横町の一つ
にわたしは住んでいた。――「……三丁目の大通りの角につるやという大きな際物屋があります」と書いた、その、大きな際物屋の横町にわたしの生れたうちはあった。
改めていえば浅草広小路。――そのあたりで、だれも、そう呼んでいる、雷門と、本願
寺の裏門との間の大通りの、北側に二つ、南側に四つある横町の一――南側の、その雷門のほうからいって三つ目の、とくに名けられていない横町にわたしの生れもすれば育ちもしたうちはあった。
とくに名けられていないという謂は、そこを除いた外の横町は、すべて、南側の一つ目
のものに松田の横町、二つ目のものに大風呂横町、四つ日のものに源水横町。――同じく
北側のものにちんやの横町、二つ目のものに伝法院横町。――そうした呼び名をいちいち
に持っていたのだった。
五
その、とくに名けられていない横町を入ってすぐの右側。――三丁目はわたしのうちで
尽きて、小さな溝一つを境界にわたしのうちの隣から二丁目になった。――わたしのうち
の反対の側は、田原町でなく、東仲町という名で呼ばれた。
「……横町に入ると、研産だの、駄菓子屋だの、髷入屋だの、道具屋だの、そうでなけれ
ば、床屋だの、米屋だの、俸屋だの、西洋洗濯屋だのといったような店」の並んでいるこ
とを書いたのは、いわず語らずに、わたしは、「つるやという大きな際物屋」の横町のこ
とばかりを書いたかたちがある。――けだし、研屋も、床屋も、米屋も、道具屋も、それ
らは、皆わたしのうちの手近にあつまった、小さな、寂しい店々(みせみせ)だった。
もらった娘のわるかったばかりに零落した常磐津の師匠は、わたしが覚えて、あとで床
屋になったところに、わたしの十二三の時分まで、格子のそとに御神燈をさげていた。――その二三げん置いたとなりの道具屋、じゃんこの、愛想っ気のない主人を持った古道具屋は、後に、わたしの十五六の時分に、幾多の変転のあったあとで、そのころ流行りかけた洋食屋になった。……その前後に、以前髷入屋のあったところに小さな印刷所が出来た。――そうしたことによって、横町の色合(いろあい)はだんだん変って行った。
その間にあって、二丁目の、わたしのうちの並びながら、わたしのうちとは半丁ほど離れた大工のうち。――太いがっしりした感じのする格子をおもてに入れたうちの、毎年、七月になると、往来からみえるまどのなかにふ必ず、いつも、大きな切子燈寵が下げられた。――その、しずかな夢のような灯影こそ、そのあたりのおもいでを人知れず象徴するものだった。
六
「ただ、わたしは、親に給金を仕送るために女中奉公に出たおたみという女を、その女の
不幸な生涯の世の中に向けて、だんだん、展けて行く筋みちを描こうと企てたばかりだっ
た。――が、毎日一回ずつ書いて行くうちに、わたしは仮りにその舞台にとったわたしの
生れたうちの来しかたがだんだん可懐(なつか)しく思い返されて来た。わたしは思い出に浸りながら筆を遣った。――わたしのおたみを守る眼はともすれば、よしない雲霧のためにさまたげられた」と、嘗て「東京日々」に書いた「露芝」という小説を一冊にまとめたとき、そのあとに、わたしは、こうしたことをとくに書いた。
が、独りこれは「露芝」にのみとどまらない。――その以前にあって、わたしは、「ふゆぞら」を書いたとき、「盆まえ」を書いたとき、「きざめ雪」を書いたとき、「暮れがた」を書いたとき、「宵の空」を書いたとき、「ひとりむし」を書いたとき、「雨空」を書いたとき、「四月尽」を書いたとき、おなじく思い出に――生れたうちの寂しい思い出に浸りながら筆を遣った。
生れたうち。――田原町の、とくに名けられていない横町の生れたうちに対するわたし
の愛着がこれらの作をわたしにえさせた。――「ふゆぞら」も、「盆まえ」も、「さざめ雪」も、「暮れがた」も、「宵の空」も、「ひとりむし」も、「雨空」も、「四月尽」も、そうして「露芝」も、偏えにそれは、大工のうちの切子燈寵の、しずかな、夢のような灯かげにうつし出されたわたしの、悲しい「詩」に外ならないとわたしはいいたい。
(明治四十五年/大正十三年)
『浅草風土記』 中公文庫
『浅草風土記』 中公文庫
石井鶴三の世界 №260 [文芸美術の森]
定慶仁王2点 1958年
画家・彫刻家 石井鶴三
定慶仁王 1958年 (175×126)
定慶仁王 1958年 (175×126)
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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三』形文社
西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №132 [文芸美術の森]
シリーズ:江戸・洋風画の先駆者たち
~司馬江漢と亜欧堂田善~
美術ジャーナリスト 斎藤陽一
第1回
「司馬(しば)江漢(こうかん)」 その1
これからしばらくの間、鎖国体制下の江戸時代において、「洋風画」の先駆をなした二人の画家:司馬江漢(しばこうかん)と亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)について、その画業を紹介していきます。
≪司馬江漢と亜欧堂田善≫
先ずは、下図の年表をご覧ください。
江戸時代中期に生れた司馬江漢と亜欧堂田善はほとんど同世代ですが、江戸生れ江戸育ちの司馬江漢は、天明3年(1747年)37歳の時に、日本最初の「腐蝕銅版画」(エッチング)の制作に成功していました。
一方、東北の須賀川で生育した亜欧堂田善は、51歳頃に江戸に出て「銅版画」技術の習得を始めるという遅いスタートでしたが、「銅版画」の技術をより高度なものにしたのは田善でした。
二人の顔つきも見ておきましょう。(下図)
左図が「司馬江漢の肖像」。描いたのは、明治開化期に洋画を修得しようと苦闘した高橋由一。由一は、洋画の先駆者への敬愛をこめて、江漢の時代に描かれたデッサンをもとに油彩で描いています。
司馬江漢は、さまざまなことに関心をもち、新しいことに好奇心を燃やす多彩な才能の持ち主でしたが、生来の自己主張の強い性格ゆえに、やがて、それまで協力関係にあった蘭学者たちから指弾され、晩年は孤独な生活を送りました。
右図は「亜欧堂田善の肖像」。描いたのは田善の弟子・遠藤田一。
亜欧堂田善は、奥州・白河藩領内・須賀川の商人の息子でしたが、絵の才能を藩主・松平定信に見出され、その命によって江戸に出て「洋風画の研究」を始めました。50歳近い頃という遅い出発でした。
先ず、「司馬江漢の画業」を見ていきましょう。
≪司馬江漢:洋風画への道のり≫
江戸の芝・新銭座(現・浜松町あたり)に生れた司馬江漢は、生来、自負心と名誉欲の強い少年でしたが、絵を描くことが好きだったので、画家で身を立てることを志しました。
最初は狩野派に学んだようですが、十代の末に浮世絵師・鈴木春信の弟子になり、春信調の美人画を描きました。
やがて、中国・清朝の画家・沈南蘋(しんなんぴん)が日本にもたらした写実的な花鳥画(唐絵)に惹かれて、唐画風の絵を描くようになる。時には、浮世絵と唐画を融合したような「美人画」を描いたりしました。
その後、江漢30歳頃、蘭学者・博物学者の平賀源内に出会ったことにより、江戸において源内の指導で洋風画(「秋田蘭画」)の制作に精進していた秋田藩士・小田野直武と知り合います。これがきっかけで、司馬江漢の関心は「洋風画」に向かいました。
≪司馬江漢:日本初の腐蝕銅版画≫
江戸時代、「木版画」の技法はきわめて高度な水準にあり、それを駆使した「浮世絵」が人気を博していましたが、西洋絵画に強い関心を持つ司馬江漢は、オランダ書などに描かれている「銅版画」を自ら制作することに強い意欲を燃やしました。
そして天明3年(1783年)に、苦心の末に「日本初の銅版画」の制作に成功しました。
下図が、司馬江漢が制作した「日本初の腐蝕銅版画」(エッチング)の「三囲景」(みめぐりのけい)。三囲神社あたりの隅田川の風景を描いたものです。
江漢は、オランダ語に堪能な医師・大槻玄沢の助けを借りて、オランダ渡りの洋書の記載をたよりに、苦労しながら独自に「銅版画」の技法を編み出し、我が国初の「銅版画」制作に成功したのです。
さらに江漢は、銅版画の上に、筆で色彩を施し、画面を生き生きしたものとしました。
≪腐蝕銅版画(エッチング)の制作方法≫
ここで、「腐蝕銅版画」(エッチング)の制作方法を簡単におさえておきます。
まず銅板の面に、酸による腐食を防ぐ「防蝕剤」(グランド液)を塗る。次に、そのグランド液を乾かす。
そのあと、乾いたグランドに覆われた銅板の表面に、先の尖ったニードルで線刻するように絵を描いていく。
次は、絵の描かれた銅板を腐蝕液に浸し、引っ掻いた部分を腐蝕させる。この時、防蝕剤である「グランド」で覆われた部分は腐蝕しない。
そのあと、「グランド」を溶剤で洗い落とすと、銅板の凹凸が露わになる。つまり、ニードルで引っ掻いた部分は「窪み」(くぼみ)となって表われる。
今度は、その銅板の上に「インク」を塗る。(凹面に「インク」を詰める)
次に、版面を布などできれいに拭き、余分なインクを拭き取る。すると、凹面(線描部分)だけに「インク」が残る
その銅板の上に紙をのせたあと、プレス機に通すと、紙に線刻したところが印刷され、プリントは完了する。(上の2図)
機材の整った現代、エッチング技術は相当高度なものに進んでいますが、司馬江漢や亜欧堂田善らの時代には、オランド渡りの書物以外、何も無いところから手探りで技術を掴んでいったのです。
ところで、司馬江漢が制作した「銅版画」は、「反射式のぞき眼鏡」というレンズと鏡のついた器具で楽しむ、いわゆる「眼鏡絵」と呼ばれるものでした。
江漢は、この時期に制作した銅版による「風景画」5点を、下図の写真のような自作の「のぞき眼鏡」とセットで発売しました。
この「のぞき眼鏡」は、台の上に絵を水平に置き、45度に傾けた鏡とレンズでのぞき見するものなので、鑑賞する原画は左右逆にプリントする必要があった。それを鏡に写せば、本来の正しい風景となって見えるという仕掛けです。
当時、これをのぞき込んだ人は、強調された遠近法構図により、奥行き感のあるイリュージョンの世界を楽しんだことでしょう。
次回は、司馬江漢が制作した「銅版画」をいくつか紹介します。
(次号に続く)
浅草風土記 №30 [文芸美術の森]
浅草田原町 2
作家・俳人 久保田万太郎
しかし、その、商売のほうといっても、栄ちゃんは、若旦那としての取扱いをうけたのではなく、兵隊検査までは、奉公人のなかに入って、奉公人と同じ修行をさせられるのでした。寝るから起きるまで奉公人と一しょ。~ということは、夜、おくの人たちがひけ てから木綿蒲団にくるまって見世に寝て、朝は、おくの人たちより早く起きるのです。
作家・俳人 久保田万太郎
しかし、その、商売のほうといっても、栄ちゃんは、若旦那としての取扱いをうけたのではなく、兵隊検査までは、奉公人のなかに入って、奉公人と同じ修行をさせられるのでした。寝るから起きるまで奉公人と一しょ。~ということは、夜、おくの人たちがひけ てから木綿蒲団にくるまって見世に寝て、朝は、おくの人たちより早く起きるのです。
三度の食事も外の奉公人と一しょに台所で食べるのでした。
拭掃除は勿論のこと、糊入二枚、水引一本の候でも、栄ちゃんに云いつけるという風でした。
で、たまには、無理な小言もいわれるのでしょうが、でも、・栄ちゃんは、素直にいまでも働いています。
お父さんは仕方がないとしても、しかし、おっ母さんの方がよく、それで、黙っていると思います。-——おっ母さんの身になったら、素直にそう働かれれば働かれるほど、人情にからみはしないだろうかと思いますが…・
でも、二十一の暁になると、栄ちゃんは、すぐに、また、以前のとおりの秘蔵っ子に返るのです。そうして兵隊がすむと、許嫁の娘さんと一しょになるのです。――その許嫁の娘さんというのは、やっぱり同じうちにいるのですが、しかしこのほうは、お嬢さまさまでおくに納まっています。月に一度や二度は芝居にでも行くらしく、よく、おっ母さんや女中たちと一しょに草で出かけるのをみかけます。
たしか今年、栄ちゃんは二十になった筈です。――もう一年です。あともう一年で罪障が消滅します。
見世の月日と奥の月日とが、別々に経って、やがてまた、一しょになるのです。――それにしても、その、許嫁の娘さんはどう思っているのだろうと思います。
しかし角のつるやでは、そのうちに、もう、お雛さまをはじめて、じきにまた、五月人形をはじめましょう。
盆提燈がすむと、すぐに今度はお会式の造花。――そういううちにも、断えず、月日はながれて行くので……。
二
いまをさる十一年まえ。――明治四十五年の一月に、わたしは、こうしたものを「三田文学」に書いた。
明治四十五年の一月というと、わたしのまだ慶應義塾にいた時分。「朝顔」という小説を、その半年前に、はじめて世の中へ出したあと、一つ二つの小説と戯曲を同じく「三田文学」と「スバル」に書いた ――とはいわない、書かせてもらった時分で、在りようは、この文章、そのころの作家のだれでもが試みた「幼き日」の回想の人真似をしたと云えば足りる。
三
が、「幼き日」の回想といっても、これによって、わたしは、ありがたちの、正直な、おもいでの物語を書こうとはしなかった。――むしろ、生れた土地を語るための、それに都合のいい空想をいろいろ組合せたといったほうがいい。――いまにしてその十一年まえの心もちに潮ることは出来ないが、おそらくは、この、二倍、三倍ぐらいの長さのものを、わたしは「浅草田原町」という名目の下に書きつごうとしたに違いない。――同時に、わたしの疎懶(そらん)が、そのわたしの意図を裏切ったのに違いない。
ありがちの、正直な、おもいでの物語でないしるしには、この文章、わたしというものがはっきり出ていない。わたしというものを、あたまで、よそにしている。いうならば、これを読んでも、肝心の、わたしというものが田原町のどこに住んでいたのかさえ分らない。
『浅草風土記』 中公文庫
『浅草風土記』 中公文庫
西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №131 [文芸美術の森]
明治開化の浮世絵師 小林清親
美術ジャーナリスト 斎藤陽一
美術ジャーナリスト 斎藤陽一
第14回
≪「東京名所図」シリーズから:雪の情景≫
≪「東京名所図」シリーズから:雪の情景≫
前回に続いて、小林清親が描いた「雪の情景」をひとつ紹介します。
これは、小林清親が明治9年(29歳)に制作した「開運橋 第一銀行雪中」。
ここは、現在で言うと日本橋兜町界隈。橋の下を流れる川は紅葉川と言い、もともとここには「海賊橋」という木の橋が架けられていたのですが、明治8年に石造りの橋に架け替えられて「開運橋」という名前の橋に生まれ変わりました。(現在、川は埋め立てられて道路となり、この橋も存在しません。)
絵の中で、ひときわ目立つ和洋折衷の建物は、明治5年に竣工した第一国立銀行。「擬洋風建築」と呼ばれるこの様式の建物は、開化期に盛んに建てられました。(現在、ここには、第一銀行の後裔である「みずほ銀行」が立っています。)
このモダンな建物は、人々の注目を集めて東京の新名所となり、当時の「開化絵」にもしばしば描かれましたが、そのほとんどは、青空にそびえたつ晴れやかな洋風建築として表されています。
しかし、小林清親は、これを、雪の降る日のどんよりとした空を背景に描くことによって、カラフルな洋風建築の姿を際立たせています。
当時の写真と比べると、清親が、いかにしたら「絵画的な風景」に仕立られるかを考えて、このような構想にしたことが推察できます。
当時の写真と比べると、清親が、いかにしたら「絵画的な風景」に仕立られるかを考えて、このような構想にしたことが推察できます。
画面中央、和傘をさし、後ろ姿を見せている赤い帯の着物の女が、この雪景色の中の鮮やかなアクセントとなっている。これは、洋風建築の「明治」に対する「江戸」、という新旧の対比を意識したものでもあるでしょう。
この女性がさしている傘には、「銀座」「岸田」という文字が書かれている。これは、銀座で、「精錡
水」なる「目薬」で有名な「楽善堂」という店を構えている岸田吟香を指しています。
岸田吟香は旧幕臣。「東京日日新聞」の記者をしたあと、家業の「楽善堂」の経営に精出していました。吟香の息子が、のちに画家となった岸田劉生です。
小林清親は、岸田吟香と知り合いでしたので、この絵は、楽善堂の宣伝広告の意味合いもあるのかも知れません。
岸田吟香は旧幕臣。「東京日日新聞」の記者をしたあと、家業の「楽善堂」の経営に精出していました。吟香の息子が、のちに画家となった岸田劉生です。
小林清親は、岸田吟香と知り合いでしたので、この絵は、楽善堂の宣伝広告の意味合いもあるのかも知れません。
それにしても、雪道にたたずんで、洋風建築を眺めている女性の後ろ姿が、この絵に、格別の情感をもたらしていますね。現代の私たちもまた、しんしんと雪が降るこの絵を見るとき、何とも言えない郷愁を感じます。
昭和6年、俳人・中村草田男は、のちによく知られる句を詠みました。
降る雪や 明治は遠くなりにけり 中村草田男
清親の絵を見ると、この句がしみじみと思い起こされます。
≪両国大火と「東京名所図」終了≫
明治14年1月26日未明、神田松が枝町から出火した火は、東神田一帯を焼き尽くした後、火の手は隅田川を飛び越えて、本所、深川という両国界隈へと延焼、16時間も燃え続き、1万数千戸が焼失しました。「両国大火」と呼ばれる火事です。
火災が発生するや、小林清親は、写生帖を手に家を飛び出し、終日、火のあとを追って写生をし続けた。その間に、清親の家も焼けてしまいました。
自宅焼失という災難にもめげず、清親は、写生をもとに「両国大火」の様相を3枚の木版画に仕上げ、発表。速報写真もなかった当時、これらは爆発的な売れ行きを示したと言います。(下図がそれらの木版画)
自宅焼失という災難にもめげず、清親は、写生をもとに「両国大火」の様相を3枚の木版画に仕上げ、発表。速報写真もなかった当時、これらは爆発的な売れ行きを示したと言います。(下図がそれらの木版画)
ところが、これを境に、小林清親は、せっかく開拓した新しい「東京名所図」シリーズの制作をやめてしまうのです。明治14年、清親34歳のときでした。
≪清親画の転換≫
代わりに清親は、「ポンチ絵」と称する戯画、時局もの、風刺画、戦争画などをつぎつぎと描くようになります。(下図参照)
これは、異様な転換ですが、その理由や原因は定かではありません。
さらに、明治17年から18年にかけて、新しい版元・小林鉄次郎の注文により、歌川広重の「名所江戸百景」シリーズを意識した連作「武蔵百景」を制作しますが、あまりにも広重の作風に倣い過ぎて、全体として「江戸懐古調」のおもむきとなり、清親の独自性はあまり見られず、世間の評判とはなりませんでした。そのせいか、34点で制作は中止されてしまいました。(下図参照)
≪明治の終焉、浮世絵の終焉≫
明治45年7月30日には明治天皇が崩御、明治時代は終わりました。
江戸時代から明治開化期に生き延びてきた浮世絵は、新時代に適合すべく、「開化絵」「報道絵」などで延命を図りましたが、やがて、時代が進むとともに発達してきた印刷技術や写真技術によって、決定的な打撃を受けました。
小林清親が得意とした「名所絵」も、写真技術の向上によって急速に盛んとなった「絵葉書」の流行に取って代わられてしまいます。
「浮世絵」(錦絵)の需要は無くなり、版元も壊滅状態となって、明治の終焉と共に、浮世絵もその終焉を迎えたのでした。
小林清親が得意とした「名所絵」も、写真技術の向上によって急速に盛んとなった「絵葉書」の流行に取って代わられてしまいます。
「浮世絵」(錦絵)の需要は無くなり、版元も壊滅状態となって、明治の終焉と共に、浮世絵もその終焉を迎えたのでした。
大正4年11月28日、小林清親は、東京・滝野川・中里の自宅で、68年の生涯を閉じました。
その前半生は、幕末の動乱に翻弄され、代々続いた幕臣の家禄を失い、困窮します。
絵師になってからの後半生は、江戸の面影を残しながらも新しい街に変わっていく東京の様相を、光と影の対比の中にとらえた風景版画で人気を得たものの、浮世絵自体の衰退に向き合わなければなりませんでした。
まことに小林清親は「開化の絵師」であり、「明治最後の浮世絵師」の名にふさわしい画家だったと言えましょう。
その前半生は、幕末の動乱に翻弄され、代々続いた幕臣の家禄を失い、困窮します。
絵師になってからの後半生は、江戸の面影を残しながらも新しい街に変わっていく東京の様相を、光と影の対比の中にとらえた風景版画で人気を得たものの、浮世絵自体の衰退に向き合わなければなりませんでした。
まことに小林清親は「開化の絵師」であり、「明治最後の浮世絵師」の名にふさわしい画家だったと言えましょう。
これまで、≪西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」≫と題した連載の中で、第35回の「葛飾北斎」をトップバッターに、歌川広重、喜多川歌麿、鈴木春信、東洲斎写楽、歌川国芳、小林清親という絵師たちを取り上げて、「浮世絵の魅力」を紹介してきましたが、これで「浮世絵」シリーズは終了とします。
≪西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」≫、次は、鎖国体制下の江戸時代に、さまざまな苦心を重ねながら、銅版画や油彩画などの「洋風画」に取り組んだ二人の先駆者、司馬江漢と亜欧堂田善の画業を紹介します。
(シリーズ「浮世絵の魅力」 終)
石井鶴三の世界 №259 [文芸美術の森]
妙見菩薩像 2点 1958年
画家・彫刻家 石井鶴三
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画家・彫刻家 石井鶴三
妙見菩薩立像 1958年 (175×126)
妙見菩薩像 1958年 (175×126)
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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三』形文社
浅草風土記 №29 [文芸美術の森]
浅草田原町 3
作家 久保田万太郎
正午近くに、いつも、向うの肴屋の河岸がかえって来て、立てた葭簾(よしず)のかげに大ぜいお客のあつまるとき、目かくしをした学校の二階からゆたかなオルガンの音が聞えて釆ました。
作家 久保田万太郎
正午近くに、いつも、向うの肴屋の河岸がかえって来て、立てた葭簾(よしず)のかげに大ぜいお客のあつまるとき、目かくしをした学校の二階からゆたかなオルガンの音が聞えて釆ました。
三時に学校が退けると、今度は、御新造(ごしんぞ)がおくで、別に弟子をとって裁縫を教えました。校長さんはとくべつに稽古にくる生徒たちに、漢文だの算盤だのを教えました。――これを予科と呼んでいました。
夜は、また、夜で、近所の古着屋の小僧だの大工の弟子だのが夜学に来ました。
校長さんという人は、その時分、もう、六十近い、小柄な、垢ぬけのした、血色のいい
おじいさんでした。腰が低く、世辞のいいので評判でした。校長さんにくらべると、御新
造という人は若すぎるくらい若く、人によるとあれは校長さんの姪だなどという人があり
ました。しかし、いつも、大きな円留に結っていました。校長さんと同じに、やっぱり、
世辞のいいので評判でしたが、同時に、また、少しなれなれしいという批難もありました。
――わたしの母でも、たまたま湯なんぞであうと、それほど懇意でもないのに、さきから
叮嚀(ていねい)にあいさつして来るのでこまると、よくいっていました。
高等科を教えていた、四十がらみの、頭の綺麗に禿げた先生がいました。御新造の身寄
になる人とか聞きましたが、この人が、また、御新造に上越す愛想のいい人でした。その
時分、始終、わたしのうちの店に電話をかけに来たので知っていましたが、朝など、わた
しの学校の出かけにぶつかって靴でも穿いているところに来ると『いまお出かけですか、
御勉強ですね』といったようなことをにこにこ笑いながらいいました。――そうしたこと
をいわれるのが、わたしに、どんなに間(ま)が悪かったでしょう。
当時、近所のくせに、やっぱり、小川学校へ行かず、馬道まで通ったのに、砂糖屋の芳
ちゃんという子がありました。級は二年はど達いましたが、毎朝、一しょに、誘い合って
行きました。と、わたしが高等三年になったとき、もう一人、茶屋町の菓子屋の息子が急
に小川から転校して来て、わたしの級に入りました。まんざら知らない顔でもなかったの
で、はじめに来たときふと口をきいたのが縁になり、ずるずるに友だちになり、一時は、
朝、わざわざ廻りみちをして誘いに寄ったりしました。
柄の小さい、口の軽い子で、始終戯談ばかりいっていました。調子がいいので、すぐ、
だれにも馴れてしまいました。学科のほうは、三年を二度やるにしては出来なさすぎまし
たが、話をさせるとそれはうまいものでした。
雪がふったり、雨がふったりして体操が出来ないと、うけもちの先生が教場へ来て、代
る代るに、一人ずつ、黒板のまえに出ていろいろ話をすることになっていました。録ちゃ
ん ――そういう名まえでした ――は、転校して来てまだ間もないとき、何か話してみろといわれて、躊躇するところなく落語を一つやりました。先生も級のものも驚いて、それからは、そういうときにはいつも一番に引っ張り出されるようになりました。――これは自分のうちが色物の寄席のまえで、毎晩定連の格で遊びに行っていたものですから、いろいろ八さんや熊さんの出て来る離誹にくわしいのでした。
よく『天災』というやつをやりました。例の隠居さんが出て来て、熊さんに心学の講義
をする話で、『いいえ、天災じゃない、せんさい(先妻)なんだよ』というのが下げなの
ですが、その時分、その『せんさいなんだ』という下げの呼吸がはっきりわたしたちにの
みこめませんでした。しかし録ちゃんが口をとんがらかして、巻舌をつかう具合がすっか
り皆んなの気に入って、わずかの間に、録ちゃんは、級でも有数の人気役者になりました。
録ちゃんが四年になったとき、録ちゃんの弟が尋常一年に入って釆ました。よく似た兄
弟でしたが、この兄さん、弟を少しも構いませんでした。構わないばかりでなく、時によ
ると、外のものと一しょになってげんざいの弟をいじめては泣かせました。
もっとも、録ちゃんは、小さいものを調戯(からか)うのが好きで、小川学校にいた時分でも、やっぱり、二丁目の質屋の、栄ちゃんという音無しい子を調戯っては、始終、泣かせました。
この栄ちゃんという子、一人っ子の上に、体があんまり丈夫でないので、それにうちで
大切にしていました。――紫いろのメリンスの帯を叮嚀にしめて、前だれをかけて、みる
から秘蔵っ子らしい恰好をしていました。
が、そのうち、田原町切ってのものもちで、奉公人も大ぜいつかっていましたが、おそ
ろしく、堅い、古風なうちで、栄ちゃんは、小川学校の課程をすませると、すぐ、見世に
出てじみちな商売のほうをやらせられました。
『浅草風土記』 中公文庫
『浅草風土記』 中公文庫
武蔵野 №9 [文芸美術の森]
武蔵野 9
作家 国木田独歩
九
作家 国木田独歩
九
かならずしも道玄坂(どうげんざか)といわず、また白金(しろがね)といわず、つまり東京市街の一端、あるいは甲州街道となり、あるいは青梅道(おうめみち)となり、あるいは中原道(なかはらみち)となり、あるいは世田ヶ谷街道となりて、郊外の林地りんち田圃(でんぽ)に突入する処の、市街ともつかず宿駅(しゅくえき)ともつかず、一種の生活と一種の自然とを配合して一種の光景を呈(てい)しおる場処を描写することが、すこぶる自分の詩興を喚よび起こすも妙ではないか。なぜかような場処が我らの感を惹(ひ)くだらうか[#「だらうか」はママ]。自分は一言にして答えることができる。すなわちこのような町外(まちはずれ)の光景は何となく人をして社会というものの縮図でも見るような思いをなさしむるからであろう。言葉を換えていえば、田舎(いなか)の人にも都会の人にも感興を起こさしむるような物語、小さな物語、しかも哀れの深い物語、あるいは抱腹ほうふくするような物語が二つ三つそこらの軒先に隠れていそうに思われるからであろう。さらにその特点とくてんをいえば、大都会の生活の名残(なごり)と田舎の生活の余波(よは)とがここで落ちあって、緩ゆるやかにうずを巻いているようにも思われる。
見たまえ、そこに片眼の犬が蹲うずくまっている。この犬の名の通っているかぎりがすなわちこの町外(まちはずれ)の領分である。
見たまえ、そこに小さな料理屋がある。泣くのとも笑うのとも分からぬ声を振立ててわめく女の影法師が障子(しょうじ)に映っている。外は夕闇がこめて、煙の臭(にお)いとも土の臭いともわかちがたき香りが淀(よど)んでいる。大八車が二台三台と続いて通る、その空車(からぐるま)の轍(わだち)の響が喧(やかま)しく起こりては絶え、絶えては起こりしている。
見たまえ、鍛冶工(かじや)の前に二頭の駄馬が立っているその黒い影の横のほうで二三人の男が何事をかひそひそと話しあっているのを。鉄蹄(てってい)の真赤になったのが鉄砧(かなしき)の上に置かれ、火花が夕闇を破って往来の中ほどまで飛んだ。話していた人々がどっと何事をか笑った。月が家並(やなみ)の後ろの高い樫かしの梢まで昇ると、向う片側の家根が白(しろ)んできた。
かんてらから黒い油煙ゆえんが立っている、その間を村の者町の者十数人駈け廻わってわめいている。いろいろの野菜が彼方此方に積んで並べてある。これが小さな野菜市、小さな糶売場(せりば)である。
日が暮れるとすぐ寝てしまう家(うち)があるかと思うと夜(よ)の二時ごろまで店の障子に火影(ほかげ)を映している家がある。理髪所(とこや)の裏が百姓家(や)で、牛のうなる声が往来まで聞こえる、酒屋の隣家となりが納豆売(なっとううり)の老爺の住家で、毎朝早く納豆(なっとう)納豆と嗄声(しわがれごえ)で呼んで都のほうへ向かって出かける。夏の短夜が間もなく明けると、もう荷車が通りはじめる。ごろごろがたがた絶え間がない。九時十時となると、蝉せみが往来から見える高い梢で鳴きだす、だんだん暑くなる。砂埃(すなぼこり)が馬の蹄ひづめ、車の轍わだちに煽あおられて虚空こくうに舞い上がる。蝿はえの群が往来を横ぎって家から家、馬から馬へ飛んであるく。
それでも十二時のどんがかすかに聞こえて、どことなく都の空のかなたで汽笛の響がする。(完)
西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №130 [文芸美術の森]
明治開化の浮世絵師 小林清親
美術ジャーナリスト 斎藤陽一
第13回
≪「東京名所図」シリーズから:雪の情景≫
美術ジャーナリスト 斎藤陽一
第13回
≪「東京名所図」シリーズから:雪の情景≫
小林清親は、「東京名所図」シリーズの中で、雨の日の風景とともに、「雪の日の光景」を好んで描いています。
今回は、そのような「雪の情景」を描いた作品を紹介します。
≪降る雪や≫
これは小林清親が明治12年(32歳)に制作した「駿河町雪」。
駿河町は、現在の中央区、室町1丁目、2丁目にあたるところ。道の両側にある黒っぽい壁の堂々たる商家は、豪商「三井越後屋」。
その奥にそびえる擬洋風建築は、明治7年に建てられた「三井組為替バンク」、すなわち「三井銀行」です。
その奥にそびえる擬洋風建築は、明治7年に建てられた「三井組為替バンク」、すなわち「三井銀行」です。
駿河町の三井越後屋のあるこの場所は、富士山と江戸城とを同時に見渡せる場所として、江戸時代の浮世絵にはたびたび描かれてきました。
例をあげれば:
例をあげれば:
下図右は、葛飾北斎が描いた連作「富嶽三十六景」中の「駿河町」。
駿河町の通りの賑わいを切り落とし、三井越後屋の屋根を下から見上げるような大胆な視角とデフォルメにより、堂々たる大屋根を強調、そこに、江戸城越しの富士山を配している。これに、大屋根の上で生き生きと働く瓦職人たちの動きと大空に舞う凧の動きを加えて、江戸の繁栄を晴れやかに表現しています。
駿河町の通りの賑わいを切り落とし、三井越後屋の屋根を下から見上げるような大胆な視角とデフォルメにより、堂々たる大屋根を強調、そこに、江戸城越しの富士山を配している。これに、大屋根の上で生き生きと働く瓦職人たちの動きと大空に舞う凧の動きを加えて、江戸の繁栄を晴れやかに表現しています。
下図左は、歌川広重の連作「名所江戸百景」中の「駿河町」。
通りの両側に屋根を連ねる豪商・三井越後屋の建物を鳥の目視点と遠近法で構成し、奥へと視線が導かれる先に雪をいただいて屹立する霊峰富士を描いて、こちらも、町の賑わいを活写しています。
通りの両側に屋根を連ねる豪商・三井越後屋の建物を鳥の目視点と遠近法で構成し、奥へと視線が導かれる先に雪をいただいて屹立する霊峰富士を描いて、こちらも、町の賑わいを活写しています。
これに対して小林清親は、江戸の浮世絵師がこの場所を描くときの定番だった「富士山」は描かず、地に足のついた散策者が駿河町の街角をながめるという「生活者の眼差し」でとらえています。
雪道を歩く人影も描かれますが、何よりもこの絵から感じられるのは、冷たい寒気と静けさともいうべき情感です。
清親が、定番を打ち破り、駿河町を「雪の情景」として描いたことが、このような味わいをもたらしています。
清親はまた、越後屋の豪壮な商家の建物と、三井銀行のモダンな洋風建築という「和」と「洋」を対比させることによって、いかにも明治らしい雰囲気を生み出している。さりげなく配された「ガス燈」や「人力車」も、明治開化期を象徴するものです。
雪道を歩く人影も描かれますが、何よりもこの絵から感じられるのは、冷たい寒気と静けさともいうべき情感です。
清親が、定番を打ち破り、駿河町を「雪の情景」として描いたことが、このような味わいをもたらしています。
清親はまた、越後屋の豪壮な商家の建物と、三井銀行のモダンな洋風建築という「和」と「洋」を対比させることによって、いかにも明治らしい雰囲気を生み出している。さりげなく配された「ガス燈」や「人力車」も、明治開化期を象徴するものです。
これらのものが、雪の「白」を基調とした落ち着いた色調の中で、どれも違和感なく、絵の中で調和し合っている。
明治18年生れの詩人・劇作家 木下杢太郎も、永井荷風と同様、小林清親の風景版画の愛好者でした。
木下杢太郎が、清親のこの「駿河町雪」について書いている1節を紹介します:
「(東京名所図の中で)最も優れたものは『駿河町雪』といふ題のものである。これは『ゑちごや』の紺暖簾をかけた店から雪の小路を眺めたところで、おそらく、旧の東京下町の、殊に濃艶なる雪旦の光景が、これほど好く再現せられたるは他にあるまいと思ふ。・・・
概して昔の東京の市街は、雪旦(雪の朝)、雪宵が最も美しく、清親の板画も雪の日を描くものが最も好い。」(木下杢太郎『小林清親の板画』大正14年)
概して昔の東京の市街は、雪旦(雪の朝)、雪宵が最も美しく、清親の板画も雪の日を描くものが最も好い。」(木下杢太郎『小林清親の板画』大正14年)
もうひとつ、小林清親描く「雪の情景」を紹介します。
下図は、清親が明治10年(30歳)に制作した「両国雪中」。
ここは両国橋西詰めの「両国広小路」。
明暦3年(1657年)、江戸の町を焼き尽くした「明暦の大火」をきっかけに、江戸市中には防火用の空き地である「火除け地」が設けられましたが、この「両国広小路」もそのひとつ。江戸時代、ここには、見世物小屋などが立ち並び、賑わいを見せていた。
下図は、清親が明治10年(30歳)に制作した「両国雪中」。
明暦3年(1657年)、江戸の町を焼き尽くした「明暦の大火」をきっかけに、江戸市中には防火用の空き地である「火除け地」が設けられましたが、この「両国広小路」もそのひとつ。江戸時代、ここには、見世物小屋などが立ち並び、賑わいを見せていた。
この絵の中にも、雪の中、たくさんの人々が往来している。しかし、その動きはスローモーションのような感じで、皆、押し黙って歩いている。音は、雪に吸い取られてしまったかのよう。
番傘に着物姿の人たちは、江戸の情緒を感じさせるが、人力車や電柱などは文明開化がもたらしたもの。しかしどれもが、雪景色の中にしっくりと溶け込んでいる。
番傘に着物姿の人たちは、江戸の情緒を感じさせるが、人力車や電柱などは文明開化がもたらしたもの。しかしどれもが、雪景色の中にしっくりと溶け込んでいる。
ちなみに、右手の商家が掲げた看板に「五臓園」という文字が見えますが、これは、この店が売り出した漢方滋養剤とのことで、現在も販売が続いているそうです。
この絵もまた、「散策者の視点」で描かれています。
漢方薬の店のあるあたりが「米沢町」、絵の左手は「吉川町」になりますが、実は、小林清親を起用して「光線画」シリーズを制作させた版元・松木平吉の店(絵草紙屋)は、左手の「吉川町」にありました。とすれば、この視点はまた「版元の店先」から見えた光景かもしれません。
漢方薬の店のあるあたりが「米沢町」、絵の左手は「吉川町」になりますが、実は、小林清親を起用して「光線画」シリーズを制作させた版元・松木平吉の店(絵草紙屋)は、左手の「吉川町」にありました。とすれば、この視点はまた「版元の店先」から見えた光景かもしれません。
次回はまた、小林清親が描いた連作「東京名所図」から、「雪の日の情景」を紹介します。
(次号に続く)
(次号に続く)
石井鶴三の世界 №258 [文芸美術の森]
手向山神社・面/手向山神社・二舞面 1957年
画家・彫刻家 石井連三
画家・彫刻家 石井連三
手向山神社・面 1957年 (175×126)
手向山神社・二舞面 1957年 (175×126)
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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三』形文社
浅草風土記 №28(「27」差し替え) [文芸美術の森]
浅草田原町 2
作家 久保田万太郎
公園の浪花踊という見世もの、坂東なにがしという女役者の座頭のうちがありましたか、しき越して行ってしまいました。始終表の戸を閉めて簾をかけていました。あれでは随分暗いだろうという近所の評判でしたが、なかで、ときどき、立廻りの稽古なんかをしていたそうです。いまでは、そのあとに.女髪結が越して来ましたが、夏になると、二階に蚊帳を釣って、燈火をつけて、毎晩のように花を引いています.冬ばもやっているのかも知れませんか、戸を閉めてしまうから分かりません。一度手の入ったことかありましたか、相変らずやってるようです。――活動写真の弁士といったような男や、髪だけ芸者のように結った公園あたりの女か、始終出入をします。
風の加減で、どうかすると、公園の楽隊の音がときどき、通りを一つ越して、その辺りで途切れ途切れに聞えて来ます。
銀行もなければ、会社もなければ、役所もなければ、病院もありません。お寺もその居廻りにはありません。去年、市立の大きな学校が二丁目の中ほどに出来たので、建具屋と石屋の間に学按用品を売る見世が二三軒出来ました。学校の表の煉瓦塀と植込んだ桐の木が見えるようになっててから、横町の気合は幾分連違ってきましたか、でも、まだ、質屋の土蔵の壁がやっぱり占目につきます。
前に書くのを忘 れましたか、三丁目の大通りの角につるやという大きな際物屋(きわものや)があります。春、凧と羽子板がすむと、すぐお雛さまにかかり、それかすむと五月人形にかかります。夏の盆提灯や廻り燈龍がすむと、すぐ御会式(おえしき)の造花にかかります。また、霜月になって、凧と羽子板の仕度にかかります。そつのない商売です。――こうしてみるち、一年という月日が目に見えて早く立ちます。
わたしは、遡って、古い話をしようというつもりはありません。いまいった小川だの真間だのという代用学校、五六年まえまでは、かなりに繁昌していました。外にも、近所に青雲というのと、野間というのとがありましたが、やっぱりそれぞれに繫昌していました。――しかし小川し」いうと、なかでも一番古く、一番面倒かいいというので、どこよりも流行りました。
とにかくその時分、公立の、正目(しょうめ)の正しい学匠といえば馬遠まで行かなければならなかったのです。――しかし馬遠というと、雷門のさきで、道程にしてざっと十丁ほどあります。そのあたりからでは一寸億劫です。――それに、その界隈の親たちにすると、両方のけじめか全く分らす、近所にあるものを、何も、遠くまで通わせるものはないという具合で、大抵どこのうちでも、子供をこの小川に通わせました。――だからその居廻りうちの、いまの若い主人は、そろって皆小川学校の出身です。なかには、途中でそこをよして、高等科くらいから馬道の学校に移るような向きも後になっては出来ましたか、しかしそうすると、下の級に入れられて、一年損をしなければなりませんでした。それに、代用の気の置けないところが、通う当人より親たちの気に入っていたもので、そのわりに転校は流行りませんでした.
その間(かん)で、わたしは、はじめから小川の厄介にならず馬道の学校に入りましたか.何かあるたびにありようは、代用のみるから自由らしいところを羨ましいと思いました。そのくせ市立と私立と、国音相通ずるところが気に入らなかったのですが、うちへ帰ると、友だちは、みんな、小川へ行っているものばかりです。ときによると肩身のせまいことがありました。
その小川学校、まえにもいったように、古着屋ばかり並んだ通りの真中にあって、筋向うには大きな魚屋かありました。半分立腐れになった二階家をそのまま学校にしたものです。通りに向って窓には目かくしがしてありました。二階が高等科で階下が尋常科になっているのだと聞いて、どんな具合になっているのかと思いましたが、あるとき、幻燈会のあると誘われて行ったとき、はじめて中に入ってみて驚きましたし 黒板が背中合せにかかっていて、一面に汚い机が並んでいるきりでした。二階にあがると、階下と同じ机が、ただ四側に並んでいるだけでした。――これが順に、一年、二年、三年、四年にっているのだと一しょにつれて行ってくれた友たちが教えてくれました。
が、わたしには、どうしてこれで、それぞれの稽古か出来るだろうと、納得が出来ませんでした。
『浅草風土記』 中公文庫
『浅草風土記』 中公文庫
武蔵野 №8 [文芸美術の森]
武蔵野 8
作家 国木田独歩
八
自分は以上の所説にすこしの異存もない。ことに東京市の町外(まちはず)れを題目とせよとの注意はすこぶる同意であって、自分もかねて思いついていたことである。町外(はず)れを「武蔵野」の一部に入いれるといえば、すこしおかしく聞こえるが、じつは不思議はないので、海を描くに波打ちぎわを描くも同じことである。しかし自分はこれを後廻わしにして、小金井堤上の散歩に引きつづき、まず今の武蔵野の水流を説くことにした。
第一は多摩川、第二は隅田川、むろんこの二流のことは十分に書いてみたいが、さてこれも後廻わしにして、さらに武蔵野を流るる水流を求めてみたい。
小金井の流れのごとき、その一である。この流れは東京近郊に及んでは千駄ヶ谷、代々木、角筈などの諸村の間を流れて新宿に入り四谷上水となる。また井頭池、善福池などより流れ出でて神田上水となるもの。目黒辺を流れて品海に入るもの。渋谷辺を流れて金杉に出ずるもの。その他名も知れぬ細流小溝に至るまで、もしこれをよそで見るならば格別の妙もなけれど、これが今の武蔵野の平地高台の嫌いなく、林をくぐり、野を横切り、隠くれつ現われつして、しかも曲まがりくねって(小金井は取除け)流るる趣おもむきは春夏秋冬に通じて吾らの心を惹くに足るものがある。自分はもと山多き地方に生長したので、河といえばずいぶん大きな河でもその水は透明であるのを見慣れたせいか、初めは武蔵野の流れ、多摩川を除(のぞ)いては、ことごとく濁っているのではなはだ不快な感を惹ひいたものであるが、だんだん慣れてみると、やはりこのすこし濁った流れが平原の景色に適かなってみえるように思われてきた。
自分が一度、今より四五年前の夏の夜の事であった、かの友と相携たずさえて近郊を散歩したことを憶えている。神田上水の上流の橋の一つを、夜の八時ごろ通りかかった。この夜は月冴(さ)えて風清く、野も林も白紗につつまれしようにて、何ともいいがたき良夜であった。かの橋の上には村のもの四五人集まっていて、欄らんに倚よって何事をか語り何事をか笑い、何事をか歌っていた。その中に一人の老翁がまざっていて、しきりに若い者の話や歌をまぜッかえしていた。月はさやかに照り、これらの光景を朦朧たる楕円形のうちに描きだして、田園詩の一節のように浮かべている。自分たちもこの画中の人に加わって欄に倚って月を眺めていると、月は緩やかに流るる水面に澄んで映っている。羽虫が水を摶(「う)つごとに細紋起きてしばらく月の面に小皺がよるばかり。流れは林の間をくねって出てきたり、また林の間に半円を描いて隠れてしまう。林の梢に砕くだけた月の光が薄暗い水に落ちてきらめいて見える。水蒸気は流れの上、四五尺の処をかすめている。
大根の時節に、近郊を散歩すると、これらの細流のほとり、いたるところで、農夫が大根の土を洗っているのを見る。
西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №129 [文芸美術の森]
明治開化の浮世絵師 小林清親
美術ジャーナリスト 斎藤陽一
第12回
≪「東京名所図」シリーズから:雨と雪の情景≫
小林清親は「東京名所図」シリーズにおいて、季節ごとの気象の変化をとらえることにも意を用いていますが、とりわけ情趣深いのが「雨の日」と「雪の日」の光景を描いた作品です。
今回は、これまでの回で紹介していない、清親の「雨の光景」を描いた作品をいくつか紹介します。
今回は、これまでの回で紹介していない、清親の「雨の光景」を描いた作品をいくつか紹介します。
≪雨の日の情趣≫
先ずこの絵:清親が明治13年(33歳)に制作した「不忍池畔雨中図」。
まだ雨が残っているのでしょう。今しも、不忍池のほとりを母親と子どもがどこかへ向かっている。母は洋傘をさし、着物の裾をからげて急ぎ足。男の子は筵(むしろ)をかぶって、母を追う。
雲間からは薄日がさしているようで、間もなく雨も止む気配が・・・
柳の葉は垂れ下がっており、風は無い。
池には、蓮の花が開いている。季節は夏、それも朝か。
柳の葉は垂れ下がっており、風は無い。
池には、蓮の花が開いている。季節は夏、それも朝か。
雨に濡れた地面はぬかるんでいる。男の子は裸足で母親のあとを追うが、その足は泥にまみれている。昔の道は、雨が降れば、このような泥道になったのだ。
水たまりには、母子の姿がかすかに映り、雨上がりの泥道の感じがよく描写されています。
池には薄紅色の睡蓮が咲き、弁天堂の赤い影が水面にゆらめいている。
泥道や水面は、いくつもの色版を重ねるという摺り方をしており、水彩画のような味わいが生まれている。このような描き方によって、清親は、水蒸気をたっぷりと含んだ雨の日の「空気感」とぬかるんだ泥道の様子を巧みに表現しています。
水たまりには、母子の姿がかすかに映り、雨上がりの泥道の感じがよく描写されています。
池には薄紅色の睡蓮が咲き、弁天堂の赤い影が水面にゆらめいている。
泥道や水面は、いくつもの色版を重ねるという摺り方をしており、水彩画のような味わいが生まれている。このような描き方によって、清親は、水蒸気をたっぷりと含んだ雨の日の「空気感」とぬかるんだ泥道の様子を巧みに表現しています。
さらに注目すべきは「雲」の表現です。
よく見ると、細かい格子状の線が見られる。これは、西洋の銅版画に用いられる「ハッチング」という線彫りの技法で、それを「木版画」に取り入れているのです。
これによって、雲の複雑な陰影感が生まれている。
この作品は、清親がいわゆる「光線画」を初めて発表してから4年ほど経った頃のものですが、絵師・彫師・摺師三者の呼吸が合ってきて、技術も向上したことを示しています。
よく見ると、細かい格子状の線が見られる。これは、西洋の銅版画に用いられる「ハッチング」という線彫りの技法で、それを「木版画」に取り入れているのです。
これによって、雲の複雑な陰影感が生まれている。
この作品は、清親がいわゆる「光線画」を初めて発表してから4年ほど経った頃のものですが、絵師・彫師・摺師三者の呼吸が合ってきて、技術も向上したことを示しています。
次は、「夜の雨」の光景。小林清親が明治13年(33歳)に制作した「九段坂五月夜」。
描かれているのは、現在・千代田区の「九段坂」に降る夜の五月雨(さみだれ)。
明治2年、ここに靖国神社ができてから、九段坂界隈は賑わいを増している。明治4年には「常夜燈」(じょうやとう)も建てられ、その常夜燈が照らす薄明かりの中で、結構たくさんの人影が黙々と動いている。
明治2年、ここに靖国神社ができてから、九段坂界隈は賑わいを増している。明治4年には「常夜燈」(じょうやとう)も建てられ、その常夜燈が照らす薄明かりの中で、結構たくさんの人影が黙々と動いている。
ふつう、浮世絵で雨の景色を描くときには、無数の細い線を重ねて降り注ぐ雨を表わすが、この絵では、そのような黒い線は見られない。
それでも、いくつかの描写によって、これが「雨の日」だということが分かる。
それでも、いくつかの描写によって、これが「雨の日」だということが分かる。
たとえば、傘をさして道行く人や雨除けの幌がつけられた人力車、提灯の光がきらめく足元の水たまりなど・・・。
人力車の車夫の足元では泥水が跳ね返っている。
人力車の車夫の足元では泥水が跳ね返っている。
道行く人は皆、うつむいて押し黙ったようなシルエットで描かれ、雨の日特有のうっとうしい感じが伝わってくる。
全体に暗い調子の絵だが、清親は、濃淡の墨の色をいくつも塗り重ね、微妙なぼかしを用いながら、しとしとと降り続く五月雨の夜の情感を見事に表現しています。
全体に暗い調子の絵だが、清親は、濃淡の墨の色をいくつも塗り重ね、微妙なぼかしを用いながら、しとしとと降り続く五月雨の夜の情感を見事に表現しています。
次回は、小林清親が「東京名所図」シリーズで描いた「雪の日」の風景を紹介します。
(次号に続く)
(次号に続く)