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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №130 [文芸美術の森]

          明治開化の浮世絵師 小林清親
            美術ジャーナリスト 斎藤陽一   
                第13回 
       ≪「東京名所図」シリーズから:雪の情景≫

 小林清親は、「東京名所図」シリーズの中で、雨の日の風景とともに、「雪の日の光景」を好んで描いています。

 今回は、そのような「雪の情景」を描いた作品を紹介します。

≪降る雪や≫

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 これは小林清親が明治12年(32歳)に制作した「駿河町雪」

 駿河町は、現在の中央区、室町1丁目、2丁目にあたるところ。道の両側にある黒っぽい壁の堂々たる商家は、豪商「三井越後屋」
 その奥にそびえる擬洋風建築は、明治7年に建てられた「三井組為替バンク」、すなわち「三井銀行」です。

 駿河町の三井越後屋のあるこの場所は、富士山と江戸城とを同時に見渡せる場所として、江戸時代の浮世絵にはたびたび描かれてきました。
 例をあげれば:

 下図右は、葛飾北斎が描いた連作「富嶽三十六景」中の「駿河町」
 駿河町の通りの賑わいを切り落とし、三井越後屋の屋根を下から見上げるような大胆な視角とデフォルメにより、堂々たる大屋根を強調、そこに、江戸城越しの富士山を配している。これに、大屋根の上で生き生きと働く瓦職人たちの動きと大空に舞う凧の動きを加えて、江戸の繁栄を晴れやかに表現しています。

 下図左は、歌川広重の連作「名所江戸百景」中の「駿河町」
 通りの両側に屋根を連ねる豪商・三井越後屋の建物を鳥の目視点と遠近法で構成し、奥へと視線が導かれる先に雪をいただいて屹立する霊峰富士を描いて、こちらも、町の賑わいを活写しています。

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131-3.jpg これに対して小林清親は、江戸の浮世絵師がこの場所を描くときの定番だった「富士山」は描かず、地に足のついた散策者が駿河町の街角をながめるという「生活者の眼差し」でとらえています。
 雪道を歩く人影も描かれますが、何よりもこの絵から感じられるのは、冷たい寒気と静けさともいうべき情感です。
 清親が、定番を打ち破り、駿河町を「雪の情景」として描いたことが、このような味わいをもたらしています。
 清親はまた、越後屋の豪壮な商家の建物と、三井銀行のモダンな洋風建築という「和」と「洋」を対比させることによって、いかにも明治らしい雰囲気を生み出している。さりげなく配された「ガス燈」や「人力車」も、明治開化期を象徴するものです。

 これらのものが、雪の「白」を基調とした落ち着いた色調の中で、どれも違和感なく、絵の中で調和し合っている。

 明治18年生れの詩人・劇作家 木下杢太郎も、永井荷風と同様、小林清親の風景版画の愛好者でした。

 木下杢太郎が、清親のこの「駿河町雪」について書いている1節を紹介します:

 「(東京名所図の中で)最も優れたものは『駿河町雪』といふ題のものである。これは『ゑちごや』の紺暖簾をかけた店から雪の小路を眺めたところで、おそらく、旧の東京下町の、殊に濃艶なる雪旦の光景が、これほど好く再現せられたるは他にあるまいと思ふ。・・・
 概して昔の東京の市街は、雪旦(雪の朝)、雪宵が最も美しく、清親の板画も雪の日を描くものが最も好い。」(木下杢太郎『小林清親の板画』大正14年)

 もうひとつ、小林清親描く「雪の情景」を紹介します。
 下図は、清親が明治10年(30歳)に制作した「両国雪中」

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 ここは両国橋西詰めの「両国広小路」
 明暦3年(1657年)、江戸の町を焼き尽くした「明暦の大火」をきっかけに、江戸市中には防火用の空き地である「火除け地」が設けられましたが、この「両国広小路」もそのひとつ。江戸時代、ここには、見世物小屋などが立ち並び、賑わいを見せていた。

 この絵の中にも、雪の中、たくさんの人々が往来している。しかし、その動きはスローモーションのような感じで、皆、押し黙って歩いている。音は、雪に吸い取られてしまったかのよう。
131-5.jpg 番傘に着物姿の人たちは、江戸の情緒を感じさせるが、人力車や電柱などは文明開化がもたらしたもの。しかしどれもが、雪景色の中にしっくりと溶け込んでいる。

 ちなみに、右手の商家が掲げた看板に「五臓園」という文字が見えますが、これは、この店が売り出した漢方滋養剤とのことで、現在も販売が続いているそうです。

 この絵もまた、「散策者の視点」で描かれています。
 漢方薬の店のあるあたりが「米沢町」、絵の左手は「吉川町」になりますが、実は、小林清親を起用して「光線画」シリーズを制作させた版元・松木平吉の店(絵草紙屋)は、左手の「吉川町」にありました。とすれば、この視点はまた「版元の店先」から見えた光景かもしれません。

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 次回はまた、小林清親が描いた連作「東京名所図」から、「雪の日の情景」を紹介します。
(次号に続く)


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石井鶴三の世界 №258 [文芸美術の森]

手向山神社・面/手向山神社・二舞面 1957年 

      画家・彫刻家  石井連三

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手向山神社・面 1957年 (175×126)
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手向山神社・二舞面 1957年 (175×126)

************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三』形文社

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浅草風土記 №28(「27」差し替え) [文芸美術の森]

浅草田原町 2

         作家  久保田万太郎


 公園の浪花踊という見世もの、坂東なにがしという女役者の座頭のうちがありましたか、しき越して行ってしまいました。始終表の戸を閉めて簾をかけていました。あれでは随分暗いだろうという近所の評判でしたが、なかで、ときどき、立廻りの稽古なんかをしていたそうです。いまでは、そのあとに.女髪結が越して来ましたが、夏になると、二階に蚊帳を釣って、燈火をつけて、毎晩のように花を引いています.冬ばもやっているのかも知れませんか、戸を閉めてしまうから分かりません。一度手の入ったことかありましたか、相変らずやってるようです。――活動写真の弁士といったような男や、髪だけ芸者のように結った公園あたりの女か、始終出入をします。
 風の加減で、どうかすると、公園の楽隊の音がときどき、通りを一つ越して、その辺りで途切れ途切れに聞えて来ます。
 銀行もなければ、会社もなければ、役所もなければ、病院もありません。お寺もその居廻りにはありません。去年、市立の大きな学校が二丁目の中ほどに出来たので、建具屋と石屋の間に学按用品を売る見世が二三軒出来ました。学校の表の煉瓦塀と植込んだ桐の木が見えるようになっててから、横町の気合は幾分連違ってきましたか、でも、まだ、質屋の土蔵の壁がやっぱり占目につきます。
 前に書くのを忘 れましたか、三丁目の大通りの角につるやという大きな際物屋(きわものや)があります。春、凧と羽子板がすむと、すぐお雛さまにかかり、それかすむと五月人形にかかります。夏の盆提灯や廻り燈龍がすむと、すぐ御会式(おえしき)の造花にかかります。また、霜月になって、凧と羽子板の仕度にかかります。そつのない商売です。――こうしてみるち、一年という月日が目に見えて早く立ちます。
 わたしは、遡って、古い話をしようというつもりはありません。いまいった小川だの真間だのという代用学校、五六年まえまでは、かなりに繁昌していました。外にも、近所に青雲というのと、野間というのとがありましたが、やっぱりそれぞれに繫昌していました。――しかし小川し」いうと、なかでも一番古く、一番面倒かいいというので、どこよりも流行りました。
 とにかくその時分、公立の、正目(しょうめ)の正しい学匠といえば馬遠まで行かなければならなかったのです。――しかし馬遠というと、雷門のさきで、道程にしてざっと十丁ほどあります。そのあたりからでは一寸億劫です。――それに、その界隈の親たちにすると、両方のけじめか全く分らす、近所にあるものを、何も、遠くまで通わせるものはないという具合で、大抵どこのうちでも、子供をこの小川に通わせました。――だからその居廻りうちの、いまの若い主人は、そろって皆小川学校の出身です。なかには、途中でそこをよして、高等科くらいから馬道の学校に移るような向きも後になっては出来ましたか、しかしそうすると、下の級に入れられて、一年損をしなければなりませんでした。それに、代用の気の置けないところが、通う当人より親たちの気に入っていたもので、そのわりに転校は流行りませんでした.
 その間(かん)で、わたしは、はじめから小川の厄介にならず馬道の学校に入りましたか.何かあるたびにありようは、代用のみるから自由らしいところを羨ましいと思いました。そのくせ市立と私立と、国音相通ずるところが気に入らなかったのですが、うちへ帰ると、友だちは、みんな、小川へ行っているものばかりです。ときによると肩身のせまいことがありました。
 その小川学校、まえにもいったように、古着屋ばかり並んだ通りの真中にあって、筋向うには大きな魚屋かありました。半分立腐れになった二階家をそのまま学校にしたものです。通りに向って窓には目かくしがしてありました。二階が高等科で階下が尋常科になっているのだと聞いて、どんな具合になっているのかと思いましたが、あるとき、幻燈会のあると誘われて行ったとき、はじめて中に入ってみて驚きましたし 黒板が背中合せにかかっていて、一面に汚い机が並んでいるきりでした。二階にあがると、階下と同じ机が、ただ四側に並んでいるだけでした。――これが順に、一年、二年、三年、四年にっているのだと一しょにつれて行ってくれた友たちが教えてくれました。
 が、わたしには、どうしてこれで、それぞれの稽古か出来るだろうと、納得が出来ませんでした。

『浅草風土記』 中公文庫



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武蔵野 №8 [文芸美術の森]

武蔵野 8

        作家  国木田独歩

             八

 自分は以上の所説にすこしの異存もない。ことに東京市の町外(まちはず)れを題目とせよとの注意はすこぶる同意であって、自分もかねて思いついていたことである。町外(はず)れを「武蔵野」の一部に入いれるといえば、すこしおかしく聞こえるが、じつは不思議はないので、海を描くに波打ちぎわを描くも同じことである。しかし自分はこれを後廻わしにして、小金井堤上の散歩に引きつづき、まず今の武蔵野の水流を説くことにした。
 第一は多摩川、第二は隅田川、むろんこの二流のことは十分に書いてみたいが、さてこれも後廻わしにして、さらに武蔵野を流るる水流を求めてみたい。
 小金井の流れのごとき、その一である。この流れは東京近郊に及んでは千駄ヶ谷、代々木、角筈などの諸村の間を流れて新宿に入り四谷上水となる。また井頭池、善福池などより流れ出でて神田上水となるもの。目黒辺を流れて品海に入るもの。渋谷辺を流れて金杉に出ずるもの。その他名も知れぬ細流小溝に至るまで、もしこれをよそで見るならば格別の妙もなけれど、これが今の武蔵野の平地高台の嫌いなく、林をくぐり、野を横切り、隠くれつ現われつして、しかも曲まがりくねって(小金井は取除け)流るる趣おもむきは春夏秋冬に通じて吾らの心を惹くに足るものがある。自分はもと山多き地方に生長したので、河といえばずいぶん大きな河でもその水は透明であるのを見慣れたせいか、初めは武蔵野の流れ、多摩川を除(のぞ)いては、ことごとく濁っているのではなはだ不快な感を惹ひいたものであるが、だんだん慣れてみると、やはりこのすこし濁った流れが平原の景色に適かなってみえるように思われてきた。
 自分が一度、今より四五年前の夏の夜の事であった、かの友と相携たずさえて近郊を散歩したことを憶えている。神田上水の上流の橋の一つを、夜の八時ごろ通りかかった。この夜は月冴(さ)えて風清く、野も林も白紗につつまれしようにて、何ともいいがたき良夜であった。かの橋の上には村のもの四五人集まっていて、欄らんに倚よって何事をか語り何事をか笑い、何事をか歌っていた。その中に一人の老翁がまざっていて、しきりに若い者の話や歌をまぜッかえしていた。月はさやかに照り、これらの光景を朦朧たる楕円形のうちに描きだして、田園詩の一節のように浮かべている。自分たちもこの画中の人に加わって欄に倚って月を眺めていると、月は緩やかに流るる水面に澄んで映っている。羽虫が水を摶(「う)つごとに細紋起きてしばらく月の面に小皺がよるばかり。流れは林の間をくねって出てきたり、また林の間に半円を描いて隠れてしまう。林の梢に砕くだけた月の光が薄暗い水に落ちてきらめいて見える。水蒸気は流れの上、四五尺の処をかすめている。
 大根の時節に、近郊を散歩すると、これらの細流のほとり、いたるところで、農夫が大根の土を洗っているのを見る。

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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №129 [文芸美術の森]

            明治開化の浮世絵師 小林清親
              美術ジャーナリスト 斎藤陽一  
                  第12回 
           ≪「東京名所図」シリーズから:雨と雪の情景≫

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 小林清親は「東京名所図」シリーズにおいて、季節ごとの気象の変化をとらえることにも意を用いていますが、とりわけ情趣深いのが「雨の日」と「雪の日」の光景を描いた作品です。
 今回は、これまでの回で紹介していない、清親の「雨の光景」を描いた作品をいくつか紹介します。

≪雨の日の情趣≫

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 先ずこの絵:清親が明治13年(33歳)に制作した「不忍池畔雨中図」

 まだ雨が残っているのでしょう。今しも、不忍池のほとりを母親と子どもがどこかへ向かっている。母は洋傘をさし、着物の裾をからげて急ぎ足。男の子は筵(むしろ)をかぶって、母を追う。

 雲間からは薄日がさしているようで、間もなく雨も止む気配が・・・
 柳の葉は垂れ下がっており、風は無い。
 池には、蓮の花が開いている。季節は夏、それも朝か。

130-3.jpg 雨に濡れた地面はぬかるんでいる。男の子は裸足で母親のあとを追うが、その足は泥にまみれている。昔の道は、雨が降れば、このような泥道になったのだ。
 水たまりには、母子の姿がかすかに映り、雨上がりの泥道の感じがよく描写されています。
 池には薄紅色の睡蓮が咲き、弁天堂の赤い影が水面にゆらめいている。
 泥道や水面は、いくつもの色版を重ねるという摺り方をしており、水彩画のような味わいが生まれている。このような描き方によって、清親は、水蒸気をたっぷりと含んだ雨の日の「空気感」とぬかるんだ泥道の様子を巧みに表現しています。

130-4 のコピー.jpg さらに注目すべきは「雲」の表現です。
 よく見ると、細かい格子状の線が見られる。これは、西洋の銅版画に用いられる「ハッチング」という線彫りの技法で、それを「木版画」に取り入れているのです。
 これによって、雲の複雑な陰影感が生まれている。
 この作品は、清親がいわゆる「光線画」を初めて発表してから4年ほど経った頃のものですが、絵師・彫師・摺師三者の呼吸が合ってきて、技術も向上したことを示しています。

 次は、「夜の雨」の光景。小林清親が明治13年(33歳)に制作した「九段坂五月夜」

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 描かれているのは、現在・千代田区の「九段坂」に降る夜の五月雨(さみだれ)。
 明治2年、ここに靖国神社ができてから、九段坂界隈は賑わいを増している。明治4年には「常夜燈」(じょうやとう)も建てられ、その常夜燈が照らす薄明かりの中で、結構たくさんの人影が黙々と動いている。

 ふつう、浮世絵で雨の景色を描くときには、無数の細い線を重ねて降り注ぐ雨を表わすが、この絵では、そのような黒い線は見られない。
130-6 のコピー.jpg それでも、いくつかの描写によって、これが「雨の日」だということが分かる。

たとえば、傘をさして道行く人や雨除けの幌がつけられた人力車、提灯の光がきらめく足元の水たまりなど・・・。
 人力車の車夫の足元では泥水が跳ね返っている。

 道行く人は皆、うつむいて押し黙ったようなシルエットで描かれ、雨の日特有のうっとうしい感じが伝わってくる。
 全体に暗い調子の絵だが、清親は、濃淡の墨の色をいくつも塗り重ね、微妙なぼかしを用いながら、しとしとと降り続く五月雨の夜の情感を見事に表現しています。

 次回は、小林清親が「東京名所図」シリーズで描いた「雪の日」の風景を紹介します。
(次号に続く)


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石井鶴三の世界 №257 [文芸美術の森]

広隆寺・千手観音/大安寺・楊柳観音 1957年

       画家・彫刻家  石井鶴三

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広隆寺・千手観音 1957年 (175×126)
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大安寺・楊柳観音 1957年 (175×126)

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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三』形文

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浅草風土記 №27 [文芸美術の森]

浅草田原町 2

         作家  久保田万太郎

     百花園

 夏、日ひざかりだ。しばしばわたくしは百花園(ひゃっかえん)を訪問する。そして、蓮の葉の一ぱいに、岸寄りも高く犇(ひし)めきつつもり上ったあの池の前に立つ。
 このときほど、わたくしに、「もののあわれ」の感じられることはない。

     三囲神社

 禁制、として、
  蝉とんぼヲ捕ルコト
  魚島ヲ捕ルコト
  囲打(かこいうち)へ入り垣等ニ乗ルコト
  囲内デ悪戯ヲスルコト

と、一つ書にしたあと、

  右/条ヲ犯スト警察ヘツレテ行カレ処罰サレマス

 こうした禁札が三囲神社(みめぐりじんじゃ)境内の池の中に立っている。……警察へツレテ行カれ処罰サレマス。……だれによってしかし、警察へ連れて行かれるのだろう?……
 その池の中に、一トところ、おもい出したように蘆の茂っていることが、わたくしに、
田圃にとり巻かれていたむかしのけしきをおもい出させた。
 ふりみふらずみの雨の中。そういっても人けのないそのあたり、遠く、冷ややかに蝉がないていた……

     サッポロビール

 まえにすすかけの乾いた並木をもったサポロビールの巨大な灰色の建物。……その哀しこも退屈な近代的風景によって世界的存在の「隅田公園」はその展開をもつのである。……といってもほんとうにしない人があれば、吾妻橋をわたり、ただちに左折してそこに立てられた標石をまず見ることである。
  隅田公園入口
 はっきりとその標石に書いてある。……
                         (昭和十年)

『浅草風土記』 中公文庫



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武蔵野 №7 [文芸美術の森]

武蔵野 7

        作家  国木田独歩

        七

 自分といっしょに小金井の堤を散歩した朋友は、今は判官になって地方に行っているが、自分の前号の文を読んで次のごとくに書いて送ってきた。自分は便利のためにこれをここに引用する必要を感ずる――武蔵野は俗にいう関(かん)八州の平野でもない。また道灌(どうかん)が傘(かさ)の代りに山吹(やまぶき)の花を貰ったという歴史的の原でもない。僕は自分で限界を定めた一種の武蔵野を有している。その限界はあたかも国境または村境が山や河や、あるいは古跡や、いろいろのもので、定めらるるようにおのずから定められたもので、その定めは次のいろいろの考えから来る。
 僕の武蔵野の範囲の中には東京がある。しかしこれはむろん省(はぶ)かなくてはならぬ、なぜならば我々は農商務省の官衙(かんが)が巍峨(ぎがとして聳(そび)えていたり、鉄管事件(てっかんじけん)の裁判があったりする八百八街によって昔の面影を想像するこ)とができない。それに僕が近ごろ知合いになったドイツ婦人の評に、東京は「新しい都」ということがあって、今日の光景ではたとえ徳川の江戸であったにしろ、この評語を適当と考えられる筋もある。このようなわけで東京はかならず武蔵野から抹殺(まっさつ)せねばならぬ。
 しかしその市の尽(つ)くる処、すなわち町外はずれはかならず抹殺してはならぬ。僕が考えには武蔵野の詩趣を描くにはかならずこの町外はずれを一の題目(だいもく)とせねばならぬと思う。たとえば君が住まわれた渋谷の道玄坂(どうげんざか)の近傍、目黒の行人坂(ぎょうにんざか)、また君と僕と散歩したことの多い早稲田の鬼子母神(きしもじ)あたりの町、新宿、白金……
 また武蔵野の味(あじ)を知るにはその野から富士山、秩父山脈国府台(こうのだい)等を眺めた考えのみでなく、またその中央に包(つつ)まれている首府東京をふり顧(かえ)った考えで眺めねばならぬ。そこで三里五里の外に出で平原を描くことの必要がある。君の一篇にも生活と自然とが密接しているということがあり、また時々いろいろなものに出あうおもしろ味が描いてあるが、いかにもさようだ。僕はかつてこういうことがある、家弟をつれて多摩川のほうへ遠足したときに、一二里行き、また半里行きて家並(やなみ)があり、また家並に離れ、また家並に出て、人や動物に接し、また草木ばかりになる、この変化のあるのでところどころに生活を点綴(てんて)している趣味のおもしろいことを感じて話したことがあった。この趣味を描くために武蔵野に散在せる駅、駅といかぬまでも家並、すなわち製図家の熟語でいう聯檐家屋(れんたんかおく)を描写するの必要がある。
 また多摩川はどうしても武蔵野の範囲に入れなければならぬ。六つ玉川などと我々の先祖が名づけたことがあるが武蔵の多摩川のような川が、ほかにどこにあるか。その川が平らな田と低い林とに連接する処の趣味は、あだかも首府が郊外と連接する処の趣味とともに無限の意義がある。
 また東のほうの平面を考えられよ。これはあまりに開けて水田が多くて地平線がすこし低いゆえ、除外せられそうなれどやはり武蔵野に相違ない。亀井戸(かめいど)の金糸堀(きんしぼり)のあたりから木下川辺きねがわへんへかけて、水田と立木と茅屋(ぼうおく)とが趣をなしているぐあいは武蔵野の一領分(いちりょうぶん)である。ことに富士でわかる。富士を高く見せてあだかも我々が逗子(ずし)の「あぶずり」で眺むるように見せるのはこの辺にかぎる。また筑波(つくば)でわかる。筑波の影が低く遥はるかなるを見ると我々は関(かん)八州の一隅に武蔵野が呼吸している意味を感ずる。
 しかし東京の南北にかけては武蔵野の領分がはなはだせまい。ほとんどないといってもよい。これは地勢(ちせい)のしからしむるところで、かつ鉄道が通じているので、すなわち「東京」がこの線路によって武蔵野を貫いて直接に他の範囲と連接しているからである。僕はどうもそう感じる。
 そこで僕は武蔵野はまず雑司谷(ぞうしがや)から起こって線を引いてみると、それから板橋の中仙道の西側を通って川越近傍まで達し、君の一編に示された入間郡を包んで円(まる)く甲武線の立川駅に来る。この範囲の間に所沢、田無などいう駅がどんなに趣味が多いか……ことに夏の緑の深いころは。さて立川からは多摩川を限界として上丸辺まで下る。八王子はけっして武蔵野には入れられない。そして丸子(まるこ(から下目黒(しもめぐろ)に返る。この範囲の間に布田、登戸、二子などのどんなに趣味が多いか。以上は西半面。
 東の半面は亀井戸辺より小松川へかけ木下川から堀切を包んで千住近傍へ到って止まる。この範囲は異論があれば取除いてもよい。しかし一種の趣味があって武蔵野に相違ないことは前に申したとおりである――


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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」 №128 [文芸美術の森]

           明治開化の浮世絵師 小林清親
             美術ジャーナリスト 斎藤陽一  
                  第11回 
           ≪「東京名所図」シリーズから:夜の光景≫


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「光と闇」に鋭敏な感性を持つ小林清親は、闇にまたたく「蛍の光」にも感応します。
 この作品は、清親が明治13年(33歳)に描いた「御茶水蛍」。現在の「お茶の水」あたりの神田川の夜の光景です。

 川には屋形船が浮かんでいる。蛍狩りを楽しむ遊覧船です。この船から洩れる光以外に灯の無い暗闇なので、蛍の微かな輝きがより明るく感じられる。それにしても、当時の神田川は、夏になると蛍が飛び交うほどの清流だったのですね。今の神田川のこのあたりを見ると、とても信じられない夜の光景です。

 闇の中とは言え、清親は、手前の崖を濃い墨色にして、奥に向かうにつれてだんだんと薄い墨色にすることによって、奥行き感を表現しています。

 「江戸名所図」シリーズの中には、お茶の水のこの場所を、同じ構図により「冬の雪景色」として描いた作品がありますので、ご参考までに紹介しておきます。(下図)

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 これが、小林清親が明治13年(33歳)に制作した「御茶の水雪」。「御茶水蛍」と同じ年の作品です。

 清親は、このアングルが気に入ったのでしょうね。同じ構図で、夏の闇に蛍が飛び交う景色と、雪が降り積もった森閑とした冬景色とを描き分けている。どちらもそれぞれの季節感が表現されていて、情緒ある風景画になっています。

 川の上に架かっている橋のようなものは、神田上水を引くための「懸樋」(かけひ)ですが、現在はありません。

 「蛍の光」を描いた絵をもうひとつ紹介します。

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 これは、小林清親が明治13年(33歳)に制作した「天王寺下衣川」

 天王寺は、谷中にある天台宗のお寺。その下を流れていたのが衣川(ころもがわ)。今も天王寺は日暮里駅近くの高台にありますが、この絵が描かれた明治初期には、その下を衣川が流れていたようです。現在、川は埋め立てられて、山手線の線路となっている。

 この絵、川のほとりにある一軒家を描いている。窓からは明かりが洩れ、何やら語り合う親子らしき影が映っている。母親が子どもに物語でも話しているのだろうか。
 窓の明かりは水面に反射し、川の流れをきらめかせている。
 木々に包まれたこの家のまわりに、無数の微光が見えるが、これは、川岸を飛び交う蛍が放つ光です。

 よく見ると、右手には、提灯を下げて橋を渡る人影がうっすらと見える。我が家に帰るこの家のあるじかも知れない。
 どこか生活の温もりをかんじさせる、懐かしい夏の夜の風情です。         

≪花 火≫

 江戸っ子・小林清親にとって、夏の夜に花開く光「花火」もまた、制作意欲をかき立てる画題でした。

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 これは、小林清親が明治14年(34歳)に制作した「池の端花火」。場所は上野の不忍池。
 花火を見る人々がすべて黒いシルエットで描かれています。木に登っている人もいる。右手には弁天島の影も薄く見える。
 対岸には小さな灯りが点々と連なっているが、それが水面に細い筋の連なりとなって映っている。手前には赤い提灯がいくつも吊るされ、画面にリズムを生んでいる。
 
 打ち上げられて花開いた後、しぼんで落ちていく「花火」の表現が面白い。
 魅惑的な夏の宵の情感を感じさせる絵です。

 「花火」の絵をもう1点。
 下図は、小林清親が明治13年(33歳)に制作した「両国花火図」

 江戸時代以来、夜空を輝かせる花火は隅田川の夏の風物詩であり、とりわけ「両国の花火」は、江戸っ子たちの人気を大いに集めました。
 両国界隈に育った清親にとって、子どもの頃から親しんだ心躍る夏の思い出だったでしょう。

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 明治になってから、外国から輸入した化学薬品によって、この絵に見られるような「大型花火」も作れるようになりました。
 それにしても清親のこの花火の表現、水平線上にさく裂した大型花火が大きな光の環となって夜空一杯に広がる様子を描いて、ダイナミックですね。

 水上では、その光の環に向かって殺到するかのように、無数の納涼船が向かっている。大きな歓声が伝わってくるような光景です。

 次回は、小林清親の「東京名所図」シリーズから、「雨の日の情感」を描いた作品を紹介します。
(次号に続く)




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妖精の系譜 №74 [文芸美術の森]

あとがき 二十世紀末の妖精 2 

        妖精美術館館長  井村君江

 カーニヴァルの話から妖精へ話題か移った。コーンウォールはなんといっても鉱山に住むピタシーやノッカーに人気があるが、スプリンガンを知っている人がいないのには驚いたし、ブッカは悪魔だという。もと銅を掘る坑夫だったレイモンド・カ-ノーが、ビウシーの音楽を聴いた経験を話してくれた。マラザイアンの北の町バンディーンにあるギーヴォアの錫鉱山(ティン・モア)の坑道に入った五年前のこと、仲間からはぐれて一人曲りくねった地下の道を歩いていたとき、はるか遠くから世にもまれな美しい音楽が聴こえてきた。地下の水滴が落ちる音だったのじゃないか――友人の一人が言ったが、いや、もっとうっとりするようなフェアリー・ミュージックだったし、今でもそのメロディーは耳についているというのである。妖精は信じていなかったが、あれは確かに妖精の音楽だったと信じていると、レイモンドは真面目に強調していた。こういう経験を通して、イギリスの妖精は人々の心の中に生きているのか――とエールのジョッキを傾けながら感心して聴いていたのである。すると友人のジムが鉱山には確かに妖精が住んでいるし、その妖精の娘(フェアリー・メイドン)の名前はクレメンタインだといって、「あの娘は身軽でフェアリーのよう、だけど靴は眠ってた……」(Light she was, like a Fairy,but her shoes were slumber……」と『クレメンタインの歌』(イギリからアメリカへ渡ったという)を歌い出すと、皆の合唱になってしまった。
 妖精はいるか、妖精を信じるか、などという質問は彼らの前ては野暮なことであり、生活や日常経験の中に妖精はいつの問にか入り込んで息づいているのである。
 こうしたイギリスの人々や生活、小鳥や動物の遊ぶ自然の中で暮らしていると、妖精は身近な存在であることを実感させられる。そしてイギリスの人々のものの見方や考え方、彼らの古代の世界の中へ入って行く道を、妖精たちが与えてくれたように感じるのである。そしてその妖精の道を入っていったところ、伝承文学やフォ-クロアの世界から、ロマンスやバラッドの世界、それに統くイギリス文学者たちの世界へ、さらにはケル卜神話の世界、アーサー王伝説の世界、児童文学の世界へと、道は限りなく広がっていき、その軌道を追って書き記していくうちに、イギリス文学の底流を妖精に導かれていつの間にか辿ることになってしまったのである。そして異教の影の世界から入る新しい見方をとると、今まで見えなかったイギリス民族が古代から持ちつづけていた思念や想像力のあり方が、立体的になって見えてきたように思うのてある。

 妖精との出会いの端緒は修士論文のコールリッジのっ想像力の問題からであったが、本書の第三章で扱っている「旅」の概念もそうであり、海の彼方への旅として「海洋冒険小説」を、時空を越える旅として「妖精物語」を書き、イギリス児童文学の特性を考えようとしたものである。
(「イギリス児童扮学と旅」 ― 『鶴見大学紀要』9号 一九七一年)
 それが右の論文を本書に収録した所似であり、妖精が今日でむ豊かに息づいているのは児車文字の世界であると考えるので、未発表の「児童文学の妖精像」をその前に置いた。
 アイルランドは」はドは妖精の宝庫てあり、妖精の伝承物語とケルト神話、その底にあるドゥルイド思想から異界観を考えようしたのが第四章である。イエイツがその中心的存在であり、伝承の採話であると言うこととの連関もあり、拙訳『ケルト幻想物語』『ケルト妖精物語』(一九八七)に付した解説を増補しまとめ、ケルト民族の妖精観やアイルランドの伝承物語の採集と保存について書いた小論をこの章にまとめた。
(ケルト民族のフェアリーランド観」 ― 『鶴見大学紀要』18号 一九八一年)
(「フェアリーランドへの道」(1) ― 『児童文学世界』5号 一九八二年)
(「フェアリーランドへの直」(2) ― 同誌6号 一九八四年)
 キヤサリン・ブリッグズ女史との出会いは私の妖精研究にとって決走的なものであった。手探りの不確かな足どりに自信をつけてくれたものであり、その豊かな業績を辿ることは、私自身の妖精遍歴の旅の軌道を確かめることでもあった。
(「キャ十リン・ブリッグズ女史の妖精学」 ― 『英語教育』24号 一九八一年)
(英文学とフォークロア――ブリッゲズの業績」 ― 『鶴見大学紀要』19号 一九八一年)
 この二編を「キャサリン・ブリッグズの妖精学」として第五章にまとめた。同じ章の「英文学とフォークロア」は、日本英文学会でのシンポジウム「伝承文学の諸問題」(平野敬一・吉田新一.三宅忠明諸氏、一九七九年)と「フォークロアと文学」(木内信敬・船戸英夫・橋内武諸氏 一九八五年)で司会をつとめた際に考えたものに、これまでの講演や小さな原稿をまとめて一つにしたもので、そこに本書に必要と思われる参考文献解題を入れて書いたものである。
 本書をまとめるまでに本書のテーマに関連する小論や講演をいくつかか行う機会があったが、とくに『アーサー王物語』(一九八七年」を筑摩書房から出し、イエイツの『ケルト妖精物語』『ケノルト幻想物語』(ちくま文庫)一九八七年刊を改訂する什事は、第一章や第四章を書くためのよい準備となった。プリッグズ女史の『妖精事典』翻訳(冨山房刊予定)の作業も続行中であるが、完成の段階に入っている。
 本書直前に当り「イギリス文学の中の妖精像の変遷」と題してもよい第一、第二章の部分は、「シェイクスピアの妖精」(『明星大学紀要』2号 一九八六年掲載)を除き、一九八六年に朝日カルチャーで八回にわたり話したもめが骨子にはなっているが、それらを念頭に置いてイギリスより帰った九月中旬から一気に書き下したものである。妖精と共に、妖精の案内で、イギリス文学を古代から十九世紀末まで主な作家と作品とを通観してみたことは、大変有意義な楽しい作業であったし、作家たちのそれまで見えなかった特色が思いがけず判ってくることもしばしばであった。
 この作業にアテンダント・スビリット的立場から御協力下さった新書館の編集員である後藤真理子さんの親切をここに改めて感謝申し上げたい。『妖精の国』(一九八七年六月)に続いて、本書を企画して下さった新書館の安藤和男氏、講演会のテープ起こしをして下さった明星大学図書館員麓常夫さん、朝日カルチャーの講義をテープ起こしして下さった明星大学大学院生だった深沢清さん、その他の方々の親切を、ここに改めて感謝したいと思う。新しい年と共に宇野亜喜良氏による美しい装値の本書が、海を渡ってくるのをイギリスの地で待つことになるが、今年の、クリスマスにはどんなパントマイムが上演されるか、二十世紀末の妖精たちが舞台でいかなる活躍を見せてくれるか、また楽しみである。
                十二月二十日 狭霧流れるころ東京にて

『妖精の系譜』 新書館



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石井鶴三の世界 №256 [文芸美術の森]

宮毘羅対2点 1957年

        画家・彫刻家  石井鶴三

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宮毘羅大将 1957年 (275✕126)
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宮毘羅大将 1957年 (175×126)

************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三』形文社


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浅草風土記 №26 [文芸美術の森]

浅草田原町 1
         作家・俳人  久保田万太郎
     
                     一

「田原町一丁目、二丁目、三丁目。――三丁目の大通りに出ると電車が通っています。広小路の広い往来で、雷門当たりの、宿屋、牛屋、天婦羅屋、小料理屋がわずか一丁ばかりの間に、呉服屋、鰹節屋、鼈甲屋、小間物問屋といったような土蔵づくりの、暖簾をかけた、古い店舗(みせ)になってならびます。その反対の側は、砂糖屋、漬物屋、糸屋、薬種屋、といったような同じく古い店舗がいろいろ並んでいます。少し行くと俸屋があって、大きな八百屋があって、そのききへ行くといつも表の格子を閉めた菓子屋があります。
 落語によく出る『やっこ』という鰻屋と、築地本願寺御用という札をかけた、吉見屋という仕出屋があります。町は違いますが、その並びに有名な本屋の浅倉屋があります。
 本願寺の大きな屋根が、大通りのつきあたりに遠くそそり立っています。雷門のあたりから見ると、電車の柱のかげに、ちょうど中空に霞んでなつかしく見栄ますが、そばに行くと、その破風の白い色が、青く晴れた空にいい知れぬさびしさを添えています。
 十月、十一月。―― 冬になると みちの両側に植えられた柳が日一日と枯れていきます。で、だんだん空か、くらく、時雨れるような気合をもって来ます。
 横町かたくさんにあります。
 大通から、ヒト足、横町に入ると、研(とぎ)犀だの、駄菓子屋だの、髷入屋だの、道具屋だの、そうでなければ、床屋だの、米雇だの、俥屋だの、西洋洗擢屋だの、そういったような店ばかり並んでいます。
 二、三軒、近所にかたまって大工の棟梁のうちがあります.
 ――その間に小さな質屋かあります。紺の気の抜けた、ねぼけた色の半暖簾が、格子のまえにかかっています′
 どこの土蔵の壁も汚れています。しかしどの横町にもその汚れた壁か何よりもさきに目につきます。――雲った日はその壁の色か暗くみえます。晴れた日にはその壁のいろがあかるくみえます。
 雪が一度ふると、土蔵の裾によせて掻いておく雪が、いつまでも解けずに囲まって残ります。
 空のよく晴れた、日の色の濃い日は.かえって横町はさびしい光景(けしき)をみせます。
 わたしは冬のことばかり書きます。l
 一軒の質屋は立ち行かないので、片手間に小切屋(こぎれや)をはじめました。格子を半分外してそこに見世をこしらえ、軒さきに綺麗な刺繍をした半襟だの、お召や銘仙の前かけの材料だのを、いちいち下げるようになりました。
 角には仕立屋があります。――窓に簾(すだれ)をかけ、なかに五六人の弟子かいつもせっせと手をうごかしています。
 いまはなくなりましたが.以前その二、三軒さきに小川学校という代用小学校がありまし。――その通りには、両側に、ずっと古着屋ばかり並んでいます。汚い暖簾と、軒さきにつるした古着とで真っ暗な見世の中から、あま若い番頭や小僧が往来の人をたえず呼びこんています。
 古着屋の番頭や小僧といえば.人を喰ったもの、口の均わるいものと近所ではきめています。――古着屋というと堅いうちでは毛虫のように嫌います。
 横町には、また、細々した路地かたくさんあります。見世物の木戸番、活動写真の技師、仕事師、夜見世の道具屋、袋物の職人、安桂庵(けいあん)。――そういったものがいろいろとその路地の中に暮らしています.
 横町に古くいた常磐津(ときわず)のお師匠さんで、貰ったむすめの悪かったばかりに、住み馴れたうちを人手にわたし、いまでは見るかげもないさまになって、どこかの路地に引っ込みました。――が、ときどきなお、近所の洗湯に、よぼよぼ行くすかたがみえます。
 ある路地のなかには真間(まま)という代用学校が残っています。

『浅草風土記』 中公文庫


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武蔵野 №6 [文芸美術の森]

武蔵野 6

          作家  国木 田独歩

        六

 今より三年前の夏のことであった。自分はある友と市中の寓居(ぐうきょ)を出でて三崎町の停車場から境まで乗り、そこで下りて北へ真直まっすぐに四五丁ゆくと桜橋という小さな橋がある、それを渡ると一軒の掛茶屋(かけぢゃや)がある、この茶屋の婆さんが自分に向かって、「今時分、何にしに来ただア」と問うたことがあった。
 自分は友と顔見あわせて笑って、「散歩に来たのよ、ただ遊びに来たのだ」と答えると、婆さんも笑って、それもばかにしたような笑いかたで、「桜は春咲くこと知らねえだね」といった。そこで自分は夏の郊外の散歩のどんなにおもしろいかを婆さんの耳にも解るように話してみたがむだであった。東京の人はのんきだという一語で消されてしまった。自分らは汗をふきふき、婆さんが剥(む)いてくれる甜瓜(まくわう)を喰い、茶屋の横を流れる幅一尺ばかりの小さな溝で顔を洗いなどして、そこを立ち出でた。この溝の水はたぶん、小金井の水道から引いたものらしく、よく澄んでいて、青草の間を、さも心地よさそうに流れて、おりおりこぼこぼと鳴っては小鳥が来て翼をひたし、喉のどを湿うるおすのを待っているらしい。しかし婆さんは何とも思わないでこの水で朝夕、鍋釜(なべかま)を洗うようであった。
 茶屋を出て、自分らは、そろそろ小金井の堤を、水上のほうへとのぼり初めた。ああその日の散歩がどんなに楽しかったろう。なるほど小金井は桜の名所、それで夏の盛りにその堤をのこのこ歩くもよそ目には愚おろかにみえるだろう、しかしそれはいまだ今の武蔵野の夏の日の光を知らぬ人の話である。
 空は蒸暑(むしあつ)い雲が湧わきいでて、雲の奥に雲が隠れ、雲と雲との間の底に蒼空が現われ、雲の蒼空に接する処は白銀の色とも雪の色とも譬(たとえ)がたき純白な透明な、それで何となく穏やかな淡々(あわあわ)しい色を帯びている、そこで蒼空が一段と奥深く青々と見える。ただこれぎりなら夏らしくもないが、さて一種の濁にごった色の霞(かすみ)のようなものが、雲と雲との間をかき乱して、すべての空の模様を動揺、参差(しんし)、任放、錯雑のありさまとなし、雲を劈つんざく光線と雲より放つ陰翳とが彼方此方に交叉して、不羈奔逸の気がいずこともなく空中に微動している。林という林、梢という梢、草葉の末に至るまでが、光と熱とに溶けて、まどろんで、怠けて、うつらうつらとして酔っている。林の一角、直線に断たれてその間から広い野が見える、野良(のら)一面、糸遊(いとゆう)上騰(じょうと)して永くは見つめていられない。
 自分らは汗をふきながら、大空を仰いだり、林の奥をのぞいたり、天ぎわの空、林に接するあたりを眺めたりして堤の上を喘(あえ)ぎ喘ぎ辿(たど)ってゆく。苦しいか? どうして! 身うちには健康がみちあふれている。
 長堤三里の間、ほとんど人影を見ない。農家の庭先、あるいは藪やぶの間から突然、犬が現われて、自分らを怪しそうに見て、そしてあくびをして隠れてしまう。林のかなたでは高く羽ばたきをして雄鶏(おんどり)が時をつくる、それが米倉の壁や杉の森や林や藪に籠(こも)って、ほがらかに聞こえる。堤の上にも家鶏(にわとりの群が幾組となく桜の陰などに遊んでいる。水上を遠く眺めると、一直線に流れてくる水道の末は銀粉を撒(ま)いた)ような一種の陰影のうちに消え、間近くなるにつれてぎらぎら輝いて矢のごとく走ってくる。自分たちはある橋の上に立って、流れの上と流れのすそと見比べていた。光線の具合で流れの趣が絶えず変化している。水上が突然薄暗くなるかとみると、雲の影が流れとともに、瞬(またた)く間に走ってきて自分たちの上まで来て、ふと止まって、きゅうに横にそれてしまうことがある。しばらくすると水上がまばゆく煌かがやいてきて、両側の林、堤上の桜、あたかも雨後の春草のように鮮かに緑の光を放ってくる。橋の下では何ともいいようのない優しい水音がする。これは水が両岸に激して発するのでもなく、また浅瀬のような音でもない。たっぷりと水量(みずかさ)があって、それで粘土質のほとんど壁を塗ったような深い溝を流れるので、水と水とがもつれてからまって、揉もみあって、みずから音を発するのである。何たる人なつかしい音だろう!
“――Let us match
This water's pleasant tune
With some old Border song, or catch,
That suits a summer's noon.”
の句も思いだされて、七十二歳の翁と少年とが、そこら桜の木蔭にでも坐っていないだろうかと見廻わしたくなる。自分はこの流れの両側に散点する農家の者を幸福(しやわせ)の人々と思った。むろん、この堤の上を麦藁帽子むぎわらぼうしとステッキ一本で散歩する自分たちをも。

『武蔵野』 青空文庫


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妖精の系譜 №73 [文芸美術の森]

あとがき 二十世紀未に生きる妖精 1

        妖精美術館館長  井村君江

 毎年夏になると、コーンウォールでは恒例のカー二ヴァルが催される。今年は八月二十二日、マウント湾(ベイ)の海ぞいの町マーズルー ―ニューリン ―ペンザンス ―マラザイアンのコースで、二十近い山車がバンド演奏やバトンガールを先頭にねり歩き、町の広場に来ると歌い踊り、沿道や戸口に立つ見物人たちから筒や箱に献金を集め歩いた。夏休みの子供たちを中心に、町の人々がそれぞれのテーマで車の上に背景のセットを組み、「白雪姫と七人の小人」「ピーター・パンと海賊の戦い」「小人の靴屋」「ヘンゼルとグレーテルのお菓子の家」「ヘンリー八世と6人の妻」など趣向をこらし、登場大物の衣慧をつけ、賞を競うのである。わが家のあるマラサイアンの町の出し物は、ユル・プリンナーに似ている、パブ「ゴドルフィン・アームズ」主人の扮する王様と、美しいドレスで見違えたパン店「オーヴン・ドアー」の娘さんがコンビを組んだ「王さまと私」であった。賞は黄白いすユールのドしスてに金の冠を着けた美しい女王のまわりに、さまざ差可愛らしい花の精たちが踊るニューリンの「妖精の女王」が獲得した。
 このカー二ヴァルから一週間のち、ワイト島のべンブリッジにあるラスキン・ギャラリーを訪れるため、ライドの町に船で着いた。避暑の客たちで賑わう港町には、万国旗がひるがえりバグパイプの曲が流れ、やはりカーニヴァルの一行かシュロの樹の下を華やかに撮っていった。またまた「妖精の至」「花の妖精」「七人の小人たち」などのファンタステイックな山車の行列続き、フェアリーランドに来たような錯覚さえおぼえた。そしてこれが現代の妖精のなれの果てか――ーと思ったのである。考え方によっては、こうした形で妖精がイギリスにはまだ現代に生き続けている――と言えるのかも知れない。カーニヴァルという祝祭が、人々の現実感覚をずれさせると、古代や祖先の土地への吸収が湧き、幼い日々へ心は帰り、そこから妖精たちが懐しい心とともに復活してくるかも知れないのである。
 冬がきてクリスマスの季節になると、妖精はまた人々の間に現われてくる。もちろんキりスト教の祭に登場てきるわけはないが、冬休みの子供たちが楽しみにする「クリスマス・パントマィム」の主役として、舞台で活躍するのである。パントマイムといっても、日本で知られているマルセル・マルソーなどの無言劇ではなく、歌と踊りをふんだんに盛り込んだミュージカルに近い舞台である。もともとパントマイムは、一七一七年ごろローマを経てロンドンに入ってきた「ハレルキナード」という滑稽劇から来ている。ピエロ的な道化師ハレレルキンが口上を述べたり狂言廻しの役をしたりして、馬鹿な王さまに賢い召使いとか、男装の麗人や男性や男性の乳母など性を入れ替えて演じたたり、社会的地位や世の中の秩序をあべこべにしたりすることから起る壷劇である。パントマイムになると必ず妖精が登場し、薄い、ヴェールのようなファンシ・ドレスを着て背中に羽根をつけ、金の冠をかぶった美しい妖精の代母が、手に持った魔法の桂を一振りすると、すぐさまこの世とあの世が通じたり、不可能なことが実現したり、あべこべが元通りになってめでたしとなり、子供たちの柏手が湧くのである。ケンブリッジのヒル・マーケットにあるアート・シエターで、クリスマスになるといつも息子と一緒に『アラジンと「魔法ランプ』や『ピーター・パン』、『マザー・グース』などを楽しんだが、どの劇でも妖精たちは劇の中で重要な役割を演じており、子供たちの夢と想像力を舞台の上からかき立てていた。この妖精の名付け親もまた、現代における妖精の生き残りの姿なのてあろう。今でも人々に求められているカー二ヴァルの祭りの妖精とパントマイムの妖精――だが形骸だけとし一は言い切れない意味、イギリスの人々の底流にある共同幻想のようなものを、そこに垣間見る思いがするのである。
 カー二ヴァルが終わって、行きつけのパブ「カティー・サーク」て友人たちと杯をあげた。カティ・サークは三本マストの帆船てあるクリッパーの名前てあるが、スコットランドの民間伝承の話「シャンターのタム」(ロバート・バーンズが詩にしている)に登場する魔女が着ていたペティコートのはし切れである。マストにはためく帆の布に、魔女のマジックの風を吹き込みたいという願いを入れた名かもしれない。パブの室内は船のロープやネット、円い船の舵が飾ってあるので、キャビンにいるようである。

『妖精の系譜』 新書館


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石井鶴三の世界 №255 [文芸美術の森]

蟹満寺 1957年/迷企羅大将 1957年

         画家・彫刻家  石井鶴三

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蟹満寺 1957年
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迷企羅大将 1957年 

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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三』形文社


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浅草風土記 №25 [文芸美術の森]

隅田川両岸 4

        作家・俳人 久保田万太郎

     百花園

 夏、日ひざかりだ。しばしばわたくしは百花園(ひゃっかえん)を訪問する。そして、蓮の葉の一ぱいに、岸寄りも高く犇(ひし)めきつつもり上ったあの池の前に立つ。
 このときほど、わたくしに、「もののあわれ」の感じられることはない。

    三囲神社

 禁制、として、
  蝉とんぼヲ捕ルコト
  魚島ヲ捕ルコト
  囲打(かこいうち)へ入り垣等ニ乗ルコト
  囲内デ悪戯ヲスルコト

と、一つ書にしたあと、

  右/条ヲ犯スト警察ヘツレテ行カレ処罰サレマス

 こうした禁札が三囲神社(みめぐりじんじゃ)境内の池の中に立っている。……警察へツレテ行カれ処罰サレマス。……だれによってしかし、警察へ連れて行かれるのだろう?……
 その池の中に、一トところ、おもい出したように蘆の茂っていることが、わたくしに、田圃にとり巻かれていたむかしのけしきをおもい出させた。
 ふりみふらずみの雨の中。そういっても人けのないそのあたり、遠く、冷ややかに蝉がないていた……

『浅草風土記』 中公文庫


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武蔵野 №5 [文芸美術の森]

武蔵野 5

          作家  国木田独歩

          五

 自分の朋友がかつてその郷里から寄せた手紙の中に「この間も一人夕方に萱原を歩みて考え申候(そうろう)、この野の中に縦横に通ぜる十数の径(みち)の上を何百年の昔よりこのかた朝の露さやけしといいては出で夕の雲花やかなりといいてはあこがれ何百人のあわれ知る人や逍遥(しょうよう)しつらん相悪(にく)む人は相避けて異なる道をへだたりていき相愛する人は相合して同じ道を手に手とりつつかえりつらん」との一節があった。野原の径を歩みてはかかるいみじき想いも起こるならんが、武蔵野の路はこれとは異り、相逢わんとて往くとても逢いそこね、相避けんとて歩むも林の回り角で突然出逢うことがあろう。されば路という路、右にめぐり左に転じ、林を貫き、野を横ぎり、真直まっすぐなること鉄道線路のごときかと思えば、東よりすすみてまた東にかえるような迂回うかいの路もあり、林にかくれ、谷にかくれ、野に現われ、また林にかくれ、野原の路のようによく遠くの別路ゆく人影を見ることは容易でない。しかし野原の径の想いにもまして、武蔵野の路にはいみじき実(じつ)がある。
 武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへゆけばかならずそこに見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある。武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当(あ)てもなく歩くことによって始めて獲えられる。春、夏、秋、冬、朝、昼、夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただこの路をぶらぶら歩いて思いつきしだいに右し左すれば随処(ずいしょ)に吾らを満足さするものがある。これがじつにまた、武蔵野第一の特色だろうと自分はしみじみ感じている。武蔵野を除いて日本にこのような処がどこにあるか。北海道の原野にはむろんのこと、奈須野にもない、そのほかどこにあるか。林と野とがかくもよく入り乱れて、生活と自然とがこのように密接している処がどこにあるか。じつに武蔵野にかかる特殊の路のあるのはこのゆえである。
 されば君もし、一の小径を往き、たちまち三条に分かるる処に出たなら困るに及ばない、君の杖つえを立ててその倒れたほうに往きたまえ。あるいはその路が君を小さな林に導く。林の中ごろに到ってまた二つに分かれたら、その小なる路を撰(えら)んでみたまえ。あるいはその路が君を妙な処に導く。これは林の奥の古い墓地で苔(こけ)むす墓が四つ五つ並んでその前にすこしばかりの空地があって、その横のほうに女郎花(おみなえし)など咲いていることもあろう。頭の上の梢(こずえ)で小鳥が鳴いていたら君の幸福である。すぐ引きかえして左の路を進んでみたまえ。たちまち林が尽きて君の前に見わたしの広い野が開ける。足元からすこしだらだら下がりになり萱かやが一面に生え、尾花の末が日に光っている、萱原の先きが畑で、畑の先に背の低い林が一叢むら繁り、その林の上に遠い杉の小杜こもりが見え、地平線の上に淡々(あわあわ)しい雲が集まっていて雲の色にまがいそうな連山がその間にすこしずつ見える。十月小春の日の光のどかに照り、小気味よい風がそよそよと吹く。もし萱原のほうへ下おりてゆくと、今まで見えた広い景色がことごとく隠れてしまって、小さな谷の底に出るだろう。思いがけなく細長い池が萱原と林との間に隠れていたのを発見する。水は清く澄んで、大空を横ぎる白雲の断片を鮮かに映している。水のほとりには枯蘆かれあしがすこしばかり生えている。この池のほとりの径(みち)をしばらくゆくとまた二つに分かれる。右にゆけば林、左にゆけば坂。君はかならず坂をのぼるだろう。とかく武蔵野を散歩するのは高い処高い処と撰びたくなるのはなんとかして広い眺望を求むるからで、それでその望みは容易に達せられない。見下ろすような眺望はけっしてできない。それは初めからあきらめたがいい。
 もし君、何かの必要で道を尋ねたく思わば、畑の真中にいる農夫にききたまえ。農夫が四十以上の人であったら、大声をあげて尋ねてみたまえ、驚いてこちらを向き、大声で教えてくれるだろう。もし少女(おとめ)であったら近づいて小声でききたまえ。もし若者であったら、帽を取って慇懃(いんぎん)に問いたまえ。鷹揚(おうよ)に教えてくれるだろう。怒ってはならない、これが東京近在の若者の癖くせであるから。
 教えられた道をゆくと、道がまた二つに分かれる。教えてくれたほうの道はあまりに小さくてすこし変だと思ってもそのとおりにゆきたまえ、突然農家の庭先に出るだろう。はたして変だと驚いてはいけぬ。その時農家で尋ねてみたまえ、門を出るとすぐ往来ですよと、すげなく答えるだろう。農家の門を外に出てみるとはたして見覚えある往来、なるほどこれが近路(ちかみち)だなと君は思わず微笑をもらす、その時初めて教えてくれた道のありがたさが解わかるだろう。
 真直(まっすぐ)な路で両側とも十分に黄葉した林が四五丁も続く処に出ることがある。この路を独り静かに歩むことのどんなに楽しかろう。右側の林の頂いただきは夕照鮮(あざや)かにかがやいている。おりおり落葉の音が聞こえるばかり、あたりはしんとしていかにも淋しい。前にも後ろにも人影見えず、誰にも遇あわず。もしそれが木葉落ちつくしたころならば、路は落葉に埋れて、一足ごとにがさがさと音がする、林は奥まで見すかされ、梢の先は針のごとく細く蒼空あおぞらを指している。なおさら人に遇わない。いよいよ淋しい。落葉をふむ自分の足音ばかり高く、時に一羽の山鳩あわただしく飛び去る羽音に驚かされるばかり。
 同じ路を引きかえして帰るは愚(ぐ)である。迷ったところが今の武蔵野にすぎない、まさかに行暮れて困ることもあるまい。帰りもやはりおよその方角をきめて、べつな路を当てもなく歩くが妙。そうすると思わず落日の美観をうることがある。日は富士の背に落ちんとしていまだまったく落ちず、富士の中腹に群むらがる雲は黄金色に染まって、見るがうちにさまざまの形に変ずる。連山の頂は白銀の鎖くさりのような雪がしだいに遠く北に走って、終は暗憺あんたんたる雲のうちに没してしまう。
 日が落ちる、野は風が強く吹く、林は鳴る、武蔵野は暮れんとする、寒さが身に沁しむ、その時は路をいそぎたまえ、顧みて思わず新月が枯林の梢の横に寒い光を放っているのを見る。風が今にも梢から月を吹き落としそうである。突然また野に出る。君はその時、  
山は暮れ野は黄昏たそがれの薄すすきかな
の名句を思いだすだろう。

『武蔵野』 青空文庫


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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」 №127 [文芸美術の森]

         明治開化の浮世絵師 小林清親
           美術ジャーナリスト 斎藤陽一
               第10回 
       ≪「東京名所図」シリーズから:夜の光景≫

 前回に続き、小林清親の「東京名所図」シリーズの中から「夜の光景」を描いた作品を紹介します。

129-1.jpg

 これは、小林清親が明治12年(32歳)に制作した「今戸有明楼之景」
 ここに描かれている建物は、今戸橋のすぐそばにあった高級料亭「有明楼」。
今戸橋は、隅田川から山谷堀に入るところに架けられた橋。山谷堀は、吉原遊郭に通じる水路で、猪牙舟(ちょきぶね)と呼ばれた小舟を雇って吉原に行く客がよく利用した。堀沿いの道を歩いて吉原へ行くよりも、舟で行く方が「粋」(いき)とされました。その後、山谷堀は埋め立てられ、今は無い。
 江戸時代の江戸の町は、縦横に水路が張り巡らされた「水の都」。幕末の開国後に来日した外国人は「ヴェネツィアにも匹敵する美しい水の都」と感嘆の言葉を書き残しています。しかし、今の東京にはその面影は無い。下図の「江戸切絵図」を参照してください。
129-2.jpg
 清親の絵に戻ろう。

 高級料亭「有明楼」の窓の明かりといくつもの人影が宴席の賑わいを暗示している。
 玄関の横の暗がりには、客を待つ人力車と車夫の姿が。土手には、隅田川を眺める母子のシルエットも。
 厚い雲が垂れ込める空には、雲間から洩れる月明かりが見えている。幾重にも色を重ね合わせて、陰影に富んだ夜空の表現が味わい深い。当時の浮世絵版画には見られない西洋画風の表現であり、これもまた、彫師泣かせ、摺師泣かせの画面だったことでしょう。

 同じ「今戸橋」を描いた作品がもう一点あります。
 小林清親が明治10年(30歳)に描いた「今戸橋茶亭の月夜」(下図)です。

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 山谷堀に架かる「今戸橋」の上には、満月が輝いている。この絵の光源も、月光と料亭の灯りです。水面に反射した光のゆらめきは、繊細にして美しい。
 今戸橋の左に見える建物が、今見た料亭「有明楼」。右側に見えるのが料亭「竹屋」。

 よく見ると、橋の上には二人の男女とおぼしき人影が・・・

 この絵を見ると、永井荷風の小説『すみだ川』(明治42年)の主人公の若者・長吉が、芸者となった幼馴染のお糸と再会する場面が思い浮かぶ。
129-4.jpg 永井荷風(1879~1959)は、小林清親(1847~1915)の「東京名所図」をこよなく愛好する小説家で、自身も清親の絵を所蔵していました。
 既に紹介したように、荷風が過ぎ去った江戸への哀惜の念を込めて綴った東京散策記『日和下駄』には、清親の風景版画への賞讃の言葉を書いています。
 小説『すみだ川』の次の一節などは、清親のこの絵から発想したのかも知れません。

 「見る見るうち満月が木立を離れるに従い、川岸の夜露をあびた瓦屋根や、水に濡れた棒杭、満潮に流れ寄る石垣下の藻草のちぎれ、船の横腹、竹竿なぞが、いち早く月の光を受けて蒼く輝き出した。
 たちまち長吉は、自分の影が橋板の上に段々に濃く描き出されるのを知った。」
                     (永井荷風『すみだ川』明治42年)

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 明治初期の今戸橋界隈を写した写真があります。(上図)
 その後、山谷堀は埋め立てられ、今戸橋も有明楼も今は無い。私たちは、小林清親の絵によって、江戸から明治初期まで存在した今戸橋の風景をしのぶのみ。

 次回もまた、小林清親の「東京名所図」シリーズから、「夜の風景画」を鑑賞します。
(次号に続く)
 

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妖精の系譜 №72 [文芸美術の森]

自由な「中間王国(ミドルキングダム)」 2

         妖精美術館館長  井村君江

 民間に昔より伝わっていた土着信仰である妖精信仰は、アイルランド民族の精神の深いところに根ざしたものである。古代の人々に連なる思想の一つである、とイエィツは考えている。従って文学作品のプロットやテーマという表面的なものではなく、彼自身の血の中から必然的に求められたものであったといえよう。そして彼の詩はつねにこの土着のものと深く結びついているため、アイルうンドの土地、ケルトの世界観、民族の風習や考えから理解する必要があろう。従ってイエイヅが採集しているアイルランド伝承の妖精物語の知識から彼の書いた詩をみていくとき、いままでとは違う解釈ができるように思うのである。その一例を示してみょう。
 イエイツが死去する前年、一九三八年九月に書いた『ぺン・バルベンの下』という詩がある。その最終第六連の最後の三行は、今でも墓碑銘としてスライコーのドラマクリフに建つ墓に刻まれている。

  生も、死も、    Cast a Cold eye
  冷たく、見ながせ、  On life, on death
  騎馬の男よ、行け!  Horseman pass by!

 第六連には「裸のべン・バルベンの頂きの下、ドラマクリフの教会墓地にイエイツは横たわる。昔、祖先の一人がここの教区牧師をしていた」とあり、曽祖父ジョン・イエイツが牧師をしていた教会の墓地、彼の愛した母方の故郷スライゴーのペン・パルベンの山が見はるかせるところに、石灰岩の墓石の表に「神の求めにより」イエイツ自身の遺志で右の一詩句が刻まれたことがわかる。しかし教会境地といっても近くには古い石のケルト十字架が建っており、へン・バルベンの山は妖精伝承物語の宝庫であり、キリスト教と異教とが妙に入り混った場所なのである。
 この三行の詩句のうち「騎馬の男」というのは!自分の墓のそばを通る見知らぬ人、馬に乗った旅人として、この詩句の意味を「生を終えいま死にある自分の墓を冷たく見ながら通りすぎよ」と呼びかけるのだとする解釈が一般的である。しかし、この詩の第一連をみると、初めは「騎馬の男ら」と複数であり、女たちも馬に乗っているので集団の一人であることがわかる。

  あの騎馬の男ら、あの女どもにかけて誓え、
  肌の色合、姿かたちが超人のあかしだ。
  情念の完璧さによって、不死の性を
  おのがものとし、空をかけゆく、
  あの色青ざめた面ながの一群にかけて誓え。
  べン・バルべンが情景をさだめるところ、
  いま、冬の夜明けに、彼らは鳥を駆る。

 馬に乗る者たちは、色青ざめ面長な顔をし「超人」となっているし、また「不死の性」を持つものであり、冬の夜明けにベン・バルベンの山の彼方の空を駆ける者たちなのである。これは人間ではない、あの世に近い者たちであることがわかる。

  人は二つの永遠にはさまれて、
  種族の永遠と魂の永遠にはさまれて、
  何度でも生き、何度でも死ぬゥ
  古代アイルランドはそれを知りぬいていた。
  ベッドで死のうと
  ライフル銃で撃ち殺されようと同じこと、
  恐ろしいといっても、たかだか、
  一時のあいだ親しい者と別れるだけだ。
  墓掘り人足がどんなに手間をかけて働いても、
  どんなに筋肉がたくましくても鍬の刃が鋭くても、
  結局は埋葬した者を、また、
  人間の精神のなかに押しもどすだけだ。

 「人は二つの永遠にはさまれ、何度も生き、死ぬ」「死は一時親しいものと別れるだけ」この考え方を「古代アイルランドは知りぬいていた」というのは、アイルランドに古代からいきわたっていたドゥルイド思想にある「霊魂不滅」「輪廻転生」の考え方であり、「死はもう一つの生の「入り口」とする死生観である。またこの世で死んだ者は、「人間の精神のなかに押しもどされるだけ」というのも、森羅万象を通じてめぐっている大霊の中に戻り、そこで転生するという考え方にほかならない。人は死んでもまた生まれかわるとすれば、死はただ一時の別れにすぎない。こう生死を達観できれば生も死も冷たく見ながすことができる。すなわち生死の区別というものがそこでは消えているのである。
 こう考えてくると、騎馬の男ら女らというのはこの世の生を終えたものたち、大霊と一つになりまた輪廻するものたちともとれる。あるいはハローウィン前日(十月三十日)の夜から暁にかけ、一年に一度、自分の丘を一めぐりすると言われる妖精の騎馬行の一行と見られるのである。英雄妖精であるアーサー王は永遠のその時が来るまで眠っているカドベリーの丘のまわりを、またフィッツジェラルド伯はムラグマストの丘のまわりを、多勢の従者と一緒に馬に乗って、ハローウィン前夜にひとめふりするのである。彼らは不死の生を得ているのである。
 イエイツが最後に、「騎馬の男よ、行け」と呼びかけているのは自分自身に対してであるという解釈ができるように思う。いま地上の死というくびきを断って、次の生へと飛び立つのだ、地上より空へ回かって、行け、そして暁の空駆けるあの騎馬の一群に加われ、そして共に永遠の妖精の騎馬行を行うのだ、と、自らに言い聞かせているととれるのである。
 この解釈を可能にさせる一つの新しい資料が最近発見された。イエイツの未発表の書簡であり、一九三八年八月十五日付で、リルケに関する意見を余白に書きつけたものである。そこには前述の二行の墓碑銘の前にもう一行つけ加わっていた。しかし詩集に入れるときは削除してしまった言葉である。
 手綱を引け、息を吸え(Draw rein, Draw breath)で、ここにはこれから馬を駆けさせる騎馬の男の用意する姿勢がうかがえるのである。そしてこれは自分に向かって心の準備を言っおり、しっかり息をし、手綱をとり、勇気をもってこの世の生を終りもう一つの生へ、永遠の生を生きるために冬の夜明けの空を駆け、大霊のもとへ行く妖精の騎馬行の群れに加われと言っていると解釈できるのである
 このように「騎馬の男(ホースマン)」一語の解釈についても、イエイツが知っていたであろうフェアリー信仰の妖精の騎馬行からみていくと、新しい解釈が生まれてくるのである。

  大理石は要らない。決まり文句も要らない。
  ちかくから切り出した石灰岩に、
  彼の求めによってつぎの言葉が刻まれる。

    生も、死も、
    冷たく見ながせ、
    騎馬の男よ、行け!

『妖精の系譜』 新書館


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石井鶴三の世界 №254 [文芸美術の森]

蟹満寺 2点 1957年

        画家・彫刻家  石井鶴三

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蟹満寺 1957年 (175×126)
1957蟹満寺2.jpg
蟹満寺 1957年 (175×126)

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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三』形文社


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