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妖精の系譜 №5 [文芸美術の森]

十七世紀の妖精研究者たち 1

      妖精美術館館長  井村君江

 (7)のロバート・バートンはオックスフォードのプレイズノーズ・カレッジで学び、クライストチャーチの学者となった人であり、その著書『憂鬱病の解剖』の中の「妖精逸話」(第一部二節)で、当時の妖精信仰についてかなり包括的に記述している。バートンは妖精を肯定的に扱っているわけではなく、すでに清教徒たちの否定的見方がゆきわたらていた時代であったためか、妖精を下位にある悪魔の一族とみなしているようであるが、ギリシャ、ローマ、バビロニア、イタリア、フランスと各地に伝わる妖精逸話を博引芳証(はくいんぼうしょう)しながら、各国学者の説も紹介し、その間にイギリス伝承の妖精を記しているところは重要である。十九世紀になってこの本をひもといた詩人のジョン・キーツがその中の一節に触発されて、蛇女『レイミア』の物語詩を書いたことは有名である。
 バートンは妖精を、①「水魔(ウオーター・デヴィル)」と②「陸魔(テレストリア・デヴィル)」とに分けている。①は水辺や川辺に棲むナイアス、水のニンフを指すとあり、ディアーナ(月の女神)やケレース(デーメーテールと同じく地下と豊穣の女神)の話を挙げており、明らかに古典神話との混同がみられる。②にはラール(ローマの家の守護神)、ゲこウス・ロキ(土地の守護神)、ファウヌス、サチユロス、森のニンフ、フォリオットすなわちホブゴブリン、フェアリー、ロビン・グッドフェロー、トロールなどで、「人間と接触することがないだけに危害を加えることも多い」としている。ここでもイギリスの妖精であるホブゴブリンやロビン・グッドフェローと、ギリシャ神話のサチユロスや北欧のトロールを同列においているし、さらに筆は古代に及び、ペリシテ人のダゴン、バビロニア人のベル、シドン人のバール、エジプト人のイシスとオシリスがこの範噂に入るとして、古代の神々と同じに扱っている。もちろん妖精の淵源を異教の神々とすれば、これらすべては同種類とみなされるわけである。

 妖精は昔は迷信とともに敬遠されていた。家の中を掃除し、きれいな水の入った手桶や食物などを出しておけば妖精につねらわれないし、靴の中にお金が入っていたり、やることもうまく行くといわれていた。妖精はヒースの上や草原で踊り、そのあとによく見かける緑の輪を残す、とラヴァータやトリテミウスは考えているし、オラウス・マグメスも書き加えている。しかしある者はこの緑の輪は隕石の落下でできたもの、あるいは土地が肥沃になりすぎてできるとも考えている。年寄りや子供は妖精によく会う。

 バートンは妖精の輪を隕石の落下でできると一見科学的な説明をしているが、現在ではキノコの胞子のため土が酸性になり一夜のうちに草が枯れてできるという本当の原因が判明している。
 われわれがホプゴブリンとかロビン・グッドフェローとか呼んでいるやや大きい種類の妖精は、迷信深い時代には、ひとしぼり分のミルクをやればそのお礼に麦をひいてくれたり木を切ったり、いろいろ骨の折れる仕事をしてくれたものである。
 ここにはホプゴブリンとロビン・グッドフェローがイギリスの妖精の代表として挙げられており、一杯のミルクの報酬で農家の手伝いをするという、今では定まった妖精の性質もすでに記されている。バートンの記述の中でとくに興味深いのは、あまり他では書かれていないイタリアの妖精フォリオット(イタリア語ではフォレスト)について記していることである。これは、十六世紀の物理学・数学・占星学にくわしかったイタリアの学者カルダーノ(一五〇一~一五七六)の言葉として記されているのであるが、ドイツのポルターガイストとよく似た性質を見せている妖精である。

  フォリオットは夜中に奇妙な声を出し、ときには哀呻き呻き声をたてたかと思うと、笑い声をたて、大きな炎で燃えたかと思うと、息に明るい光を発したり、石を投げたり、鎖をガチヤガチャいわせたり、人のヒゲを剃ってしまったり、扉を開けたり閉めたり、お皿や椅子や引出しを放り出したり、ときには兎や烏、黒犬などの姿をして現われたりする。

 (8)のロバート・カークの『エルフ、フォーン、妖精の知られざる国』は、「十七世紀の妖精伝承に関するもっとも詳細でかつ権威ある論文」とプリッグズが言うように、当時としては珍しく妖精の性質や衣、食、住、行為、人間との関係に関し広範囲にわたって書かれた本である。一八一五年に初めて印刷され、一八九三年に民俗学者アンドリュー・ラングの編集で再版されたが、さらに今世紀になって完全な形の写本がエジンバラ大学のラング・コレクションの中に発見され、一九六四年スチュアート・サンダーソンが編集し詳細な序文を付けて刊行された。

『妖精の系譜』 新書館


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石井鶴三の世界 №189 [文芸美術の森]

観音菩薩像・法隆寺 1964年/観音菩薩・四十八体仏の中 1964年 

        画家・彫刻家  石井鶴三

1964観音菩薩像・法隆寺.jpg
観音菩薩像・法隆寺 1964年 (175×121)
1964観音菩薩・四十八体仏の中.jpg
観音菩薩・四十八体仏の中 1964年 (173×120)

**************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。


『石井鶴三素描集』形文社

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じゃがいもころんだⅡ №53 [文芸美術の森]

ミーコ

           エッセイスト  中村一枝

 幸せなことに、私には親友といっていい友人が何人かいる。いずれも小学生のときからの友達である。その中でも一人特別な友達といえばミーコである。
 ミーコは猫ではない。本名嘉納ミサワ、幼い頃からの呼び名がミーコである。ミーコは私と同じ年の六月生まれ、私は四月生まれ、当時仲良しだった二人の母親は、同い年の二人の女の子を授かって、手を取り合ってキャーと言ったかどうかはわからない(それくらいのことはやりそうだ)が、随分喜んだに違いない。それからはミーコも私も着るものも一緒、どこへ行くのも一緒、といった風に育った。ミーコも私もあまり体が丈夫でなく、ミーコはよくおなかを怖し、私はよく風邪を引いた。同じ小学校に通い、同じクラスの隣同士の机でつかみ合いのけんかもした。ミーコのお父さんは評論家だったが、家庭を大事にするタイプではなく、ミーコとお母さんはいつも二人で暮らしていた。ミーコと一緒に食べた夕飯の数など数え切れない。ミーコのママは北海道生まれ、色白で細面のきれいな人だった。戦時中を含めて短い髪にパーマという斬新なスタイルで目を引いた。対する私の母は、長い髪をくるくるとまとめて後ろにひっくるめる従来の日本型、スタイルからして全く違っていた。 ミーコのパパが家庭を顧みない人だったので、私の家に泊りに見たミーコと私の枕元で、夜中に私の母が「ミーコ、かわいそうね」と言ったのをおぼえている。
 私たちは同じ高校に通い、同じ大学に入った。私は国文、ミーコは仏文である。ミーコが一年間フランスに留学が決まり、羽田にミーコを見送った。羽田空港の大きな柱の陰で、おばちゃんが涙を拭いていた。
 一年で帰ると言う約束は果たされず、ミーコはそれ以来ほとんど日本に帰らなくなった。モンマルトルの丘で一目ぼれされて日本人の彫刻家と結婚し、既に70年位のパリ暮らしである。それでも私たちは何年かに一度は顔を合わせて、「ミーコ」「まさちゃん(私の通称)」と手を取り合い、その度にたちどころに何十年も前に戻ることができたのだった。この不思議さ、である。
 長い友情と繋がり、性格も趣向もまるで違っているのに、通じ合っている、友だちという存在の面白さと不思議さに改めてむきあってしまう。離れていてもお互いの存在が息づいている、これが本当の友達ではないかとつくづく思う。
  二年前にパリの自宅が強盗にあって、慣れ親しんだ家を移った知らせがあった。今はコロナである。パリと東京は遠すぎる。二人の年齢を考えればもう二度と逢うことはないかもしれない。でも、二度と逢うことは無くても、この世に生を受けたときから友だちだったと、つくづく思うのである。

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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №53 [文芸美術の森]

第八章 晩年南柏のアトリエ
 
    早稲田大学名誉教授  川崎 浹

「イギリス紳士のような」高島さん

 ある日とつぜん「イギリス紳士のような」高島さんが武藤歯科医院を訪れ、日頃のお礼
に牛肉を手渡した。画家が風呂好きなのを知っていた女医さんがぜひ家の風呂をお使いく
ださいと勧めたが、というのはアトリエには風呂がなかったからだが、画家は静かに辞去
したという。
 増尾でも柏でも、外出するときの高島さんがいつも「ぱりっとした」服装をしていたと
周囲の人たちが驚き、伝説にさえなっている。畑仕事をする野良着姿の画家や、質素な小
屋を見慣れた、またルンペン絵かきと呼ぶような周囲の人たちの目にはそう映ったのだろ
う。
 しかしそれは話が逆だと思う。私から見た高島さんはつねにきちんとした「紳士」であ
り、かれの服装はかれの精神の格を表していた。画家の経歴や長い欧米生活はいわずもが
な、歴とした人間にふさわしい服装をしていたまでのことである。私も、欧州の都市で帽
子をかぶった中老の婦人たちが身ぎれいな正装で八百屋や肉屋を訪れているのを見て感じ
たことがある。
 高島さんは自分自身にふさわしい風姿で生涯をとおした。その人がたまたま質素な小屋
に暮らし、土まみれの畑仕事をしたにすぎないのであり、路上に出るときは正常の自分の
服装にもどった。こちらのほうが高島さんの精神のあり方には自然でふさわしい。
 遺稿『ノート』の次の成句は当然のように、そのことを乞食という逆の視点から語って
いる。

   武士は食はねど高揚子
   乞食
      精神文化の極致

 野畑と林と一本の樹と藁屋根の一軒屋に雪が降りつもる《積る》が画架に置かれていた。雪国はどこですか、武藤さんが開くと、山形県の小国のあたりとの答え。「女先生」は父親が山形出身のせいかひどく惹かれる絵だったが、「絵は売らない」と画家が言う。「それでは購入したいので早く個展を開いてください」と彼女がお願いした。
 季節になるとアトリエの土間に三十センチほどの筍が生えてきた。一週間おいて「女先
生」が訪れると筍が三メートルほどに伸びていて、目を瞠らさせた。
 画架には《菜の花》が置かれ、《雨 法隆寺塔》もあった。野十郎は個展でもある種の絵
を非売品のつもりで展覧していたので、信じられないようなことが生じている。
 私が最初に青山のアトリエを訪れて感銘をうけた《流》が、なんと十七年後の柏のアト
リエにも置かれていたのである。ところが彼女が次の週に訪れた際《流》が見えず、怪訝
におもい尋ねると、購入者が持ち去ったとの答え。体力がとみに衰えてきた画家が考える
所あって手放し、購入者も待ちに待って機をうかがい初志を通したのではなかろうか。こ
の絵は公共施設に買い上げられている。
 高島さんの大作が個展に出品されながら購入されないまま取り残されていたのは、最初
から非売品としたのか、画家があえて鑑賞者の購買意欲をそぐためにひどく高価な値段を
っけたからと考えられる、西本匡伸氏の推測に私も同感である。画家がこれを自分の手も
とに置いて「見る」、つまり「研究」するためである。画家は自分の「研究」の長い時間
が蓄積されている絵と向き合い、いつまでつづくか分からぬ対話をさらにつづける。
 ァトリエの土間に筍が生える前後の三月、五月に、八十二歳の画家は京都、奈良、木曽
に旅行しているが、その後、足が弱り遠出ができなくなる。それでも新しいアトリエを待
て画家は世俗の騒音に悩まされず画業を続けることができるようなった。

『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社


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エラワン哀歌 №4 [文芸美術の森]

はなの午後

          詩人  志田道子

 幼児が語り掛ける声に
 長いひるねの夢から覚めると
 路地裏の小さな庭には
 さくらのはなが散る
 やわらかなはなびらの群れ
 なかに数枚
 風に吹かれて清緑に上がり
 畳の上を駆けてゆく
 やがて群青色の空が黒い枝を包み
 閲を逃れたはなびらが時折いくつか風に舞う
 はなは流れる はなは落ちる はなは飛ぶ
 はなは撥ねる はなは回る はなは留まる
 はなは舞う
 
 記憶は人の心に留まる術を失い
 今日という日は心もとない
 はにかむ笑顔が老人の頬に甦る
 
 幼児は消えた
 ひととき闇を逃れたはなびらは漂う

『エラワン哀歌 志田道子詩集』 土曜美術社出版販売


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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №60 [文芸美術の森]

                          歌川広重≪東海道五十三次≫シリーズ

             美術ジャーナリスト  斎藤陽一

                       第11回 「御油旅人留女」
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≪旅人を引きずり込む留女≫

 前回は、広重の連作「東海道五十三次」の第21図「丸子名物茶店」を紹介しましたが、そのあとに続く14の宿場を飛ばして、今回は第36図「御油旅人留女:ごゆたびびととめおんな」(上図)を取り上げます。

 御油(ごゆ)は現在の愛知県豊川市御油町にあたります。「御油宿」は、古くから「遊女の宿場町」として知られ、江戸後期には、旅籠百軒余りに遊女を300人も置いていたと伝えられています。もっとも表向きには「飯盛り女」と呼んで、泊り客の“飯を盛る(給仕をする)”女として取り締まりを逃れていました。
 宿の表に出て、街道をゆく旅人を勧誘するのも彼女らの務めで、「留女:とめおんな」とも呼ばれたのです。現在の言葉で言うならば、「客引き」ですね。旅籠に引っ張り込んだ客の一夜を慰めるのも彼女らの仕事でした。

 ところが、この「御油」から次の「赤坂宿」まではわずか1.7kmほどの距離なので、放っておくと旅人は御油を素通りして赤坂に宿を取ってしまうかも知れない。そこで、御油の「留女」は力づくでも旅人を連れ込もうとしたのです。旅人が泊り客になってくれれば、自分の夜の稼ぎにもつながります。

 そのような事情を頭に置くと、この絵は分かりやすい。
 黄昏時の御油の宿場。沢山の旅籠が軒を並べている。そのうちの一軒の宿の前で、体格のよい客引き女(留女)が、街道をゆく二人の男を力づくで自分の旅籠の中に引っ張り込もうとしている。
60-2.jpg 男たちは、あまり器量の良くない女たちから逃れようとしている。もし引きずり込まれたら、彼女らが今夜の相手になるかも知れないからです。
 女たちにとっては、彼らは「今夜のかせぎの相手」ですから、手加減しない。こちらに顔を見せている男は、首にかけた荷物を引っ張られて苦しそう。もう一人の男は、左腕と袖とをしっかりとつかまれて逃げるに逃げられない。

 前回に紹介した「丸子名物茶店」(第21図)の中の、床几に座ってとろろ汁を食べる二人の旅人には「弥次さん喜多さん」が投影されている、と指摘しましたが、御油宿のこの二人も同様です。
 十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』でも、弥次さんが留女に引っ張られ、這(ほ)う這(ほ)うの体で逃げ切る場面が書かれています。
 広重の「東海道五十三次」シリーズには、随所に「笑いと遊びの精神」が発揮された場面が見られますが、それらは、『東海道中膝栗毛』のユーモア精神と、俳諧のもつ一面である「滑稽と軽み」などが背景にあるのではないか、と思います。

≪細かい描写にも味わいが≫

 広重の描写は細かいので、他の登場人物たちにも目を向けてみましょう。

60-3.jpg 右側では、玄関の上がり框に腰かけた武士が、婆さんの差し出す盥(たらい)の水で草鞋を脱いだ足を洗っている。その左には、頬杖をついて通りの騒ぎを眺めている女。この女性は若くて器量好しなので、このお侍を宿泊客にすることに成功したのでしょう。
 その窓下には、町娘が面白そうに留女と旅人の“格闘”を見ている。広重は、脇役とも言える周囲の人物をもきめ細かに描写します。

60-4.jpg さらにこの絵で興味深いのは、宿の壁にずらりと掛けられた名札です。
 左から「一立斎圖」(広重画)、「摺師平兵衛」「彫工治郎兵エ」「東海道続画」と読めます。右端の札の文字は半分しか見えませんが、「三拾五番」と読め、出発点の江戸日本橋を除く35番目の宿場・御油を指しています。大きな円の中に書かれているのは「竹之内板」、これは版元・竹内孫八(保永堂)の名です。
 この頃の広重は「一立斎:いちりゅうさい」と号していました。

 それにしても、絵の中に、絵師の名前のほかに摺師や彫師の名前をはっきりと描き込むということは珍しいことでした。「浮世絵版画」は、版元のもとで絵師・彫師・摺師の三者がチームを組んで制作するものですが、ほとんどは「版元」と「絵師」の名前だけが記されるのみで、このようにチーム・メンバーをはっきりと表示するものはあまり見られません。この1枚は、竹之内版(保永堂版)「東海道五十三次」シリーズの宣伝を摺り込んだものと考えられます。

≪遠近法的構図≫

 「構図」にも注目したいと思います。
 宿場と街道は、きちんとした「遠近法」で描かれ、私たちの視線を奥へと誘います。家並みも奥へ行くにしたがって影の中に沈み、夜のとばりが下りつつある風情が醸し出されています。
 若き広重が歌川派に入門してからしばらくの間は、絵師としてほとんど芽が出ませんでした。その間、広重はさまざまに絵の勉強範囲を広げ、自分の中に蓄えました。その中には「西洋画」の学習もあったのです。そこで広重は「西洋的遠近法(透視画法)」を修得しました。そのような学習の成果が、この「東海道五十三次」の随所で発揮されています。

 現在、東海道は全体として昔の面影を残すところは少ないのですが、御油には連子(れんじ)格子(ごうし)の家並みや松並木が残っていて、旧東海道の中で最も昔の面影を偲べるところとして知られています。

 次回は、「東海道五十三次」中、「蒲原夜之雪」(第16図)と並んで名作との評判高い「庄野白雨」(第46図)を取り上げます。



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妖精の系譜 №4 [文芸美術の森]

 ルネッサンスの妖精論争

        妖精美術館館長 井村君江

 ルネッサンス時代になると、妖精たちはロバート・グリーンやジョン・リリー、ベン・ジョンソンといった劇作家たちによって舞台で活躍の場を与えられるか、シェイクスピアの妖精王オベロンの世界に集約されてくる。しかし、平土間の一般観客はそれを楽しみはしても、妖精とその活躍を信じる気持が希薄になっており、惹かれる心も弱くなっていることは否めない。ルネッサンス時代の魔女や妖精信仰についての書として見逃すことができないのは、(4)のレジナルド・スコットの『魔術の正体』である。あるいはシェイクスピアもこの書物をひもといていたであろうと推定され、この劇作家の種本としても重要である。もともとこの書は魔女に関するもので、妖精を取り扱ったものではないが、この中にブラウニーとロビン・グッドフェローについての記述がある。当時の人々にとって、妖精はすでに信仰の対象でも恐怖の存在でもなくなっていることが「百年前の人に対してと同様、今の人に対しても変わりない、あの大変いたずら好きのロビン・グッドフェローは(中略)今日ではそれほど恐れられていず、その習慣も充分知られるに至った」という一文からもうかがえる。スコットはオックスフォードのハート・ホール(今のバーフォード・カレッジ)出身の知識人であり、ニュー・ロムニーで議員としての仕事もしていた。その社会的な業務にたずさわっているとき、魔法使いの疑いをかけられた無実の老婆が、残酷に扱われているのを見て不当に思い、魔法の概念が作った迷信の誤りを暴こうと思い立ち、この本を著したのであった。その中で、当時一般に信じられていた妖精や超自然の生きものについて列挙しており、さまざまな種類の妖精・超自然の生きものが当時の人たちに考え出されていたことがうかがえて興味深い。
 例えば、第四巻十章にはブラウニーに関する次のような記述がある。

 確かに年とった女中たちは、プラウニーとその従弟であるロビン・グッドフェローのためにミルクを入れた鉢をおいてやったものである。その代わりにかれらに麦芽やカラシ菜をすりつぶしてもらったり、真夜中に家の掃除をしてもらった。ブラウニーが裸でいるので可哀想と思った女中やおかみさんが、パンとミルクのほかに服を与えようとすると、ブラウニーはひどく怒ったという話を聞いたことがあると思う。そんな時、ブラウニーが言うことは決まっている。
 「こりゃいったい何だ。ヘムトン、ハムテン、もう仕事はしてやらない」。

 ミルク一杯の報酬のために女中の台所仕事を手伝うブラウニー、服をやると自分の仕事が認められたということでもう出てこなくなる―民間に伝わる物語「ヒルトンの血無し童子」や「ジエツドハーグのブラウニー」に、このプラウニーの性質は、そのまま伝えられている。
 スコットの『魔術の正体』は当時広い反響を呼んだが、なかでもスコットランド王ジェイムズ六世(イングランド王ジェイムズ一世)は反論を唱え、自ら『悪魔学』を執筆し、それでもあきたらずに『魔術の正体』を発禁し焚書にしたほどであった。このように王に別の本を書かせるほど刺激的であったわけで、後年のわれわれにとって精霊(妖精や魔女)に対する当時の人々の考え方を知るよい手がかりを与えてくれる。しかし『魔術の正体』は完全に発禁になったわけでなく、一六六五年に再び発行される。その再発行に際して第十五巻の冒頭に九章が加えられ、その中の「悪魔及び精霊についての論考」という箇処には詳しい妖精論がある。プリッグズが「レジナルド・スコットの頑強な懐疑主義とは全く異なった文体」と指摘しているように、どうやら後年の改訂者の筆になるものらしい。それにしても妖精に対するいきいきとした記述が、十七世紀になされているのは驚くべきことである。
「妖精たちは主として、山の中や土の洞穴に住み、人間の男女、兵士、王や貴婦人、子供、緑の騎士の姿といった不思議な幻影となって山や牧場に現われる。妖精たちは麻の茎を馬にして乗り、夜、人々の家に現われていたずらをするという。その主なものは妖精が人間に食べさせるために置いていったパン、バター、チーズなどを食べるのを拒んだりすると、召使いや羊飼いを転ばせたり、青あざができるほどつねったり、召使いたちをさらっていって(二週間か一か月)、空中を運び最後には山中や牧場に投げ出したりする」とある。悪魔のように人に悪いことはせず、罪のないいたずらを人々に仕掛けて喜ぶという妖精の性質がここによく描かれている。
 スコットの本に対して反対論を展開したジェイムズ一世は、精霊には次の四種類があるとしている。
 (1)レムレス(Lemures)、スペクトラ(Spectra)と呼ばれる、特定の家や場所に出没する精霊。
 (2)特定の人に影のように付いて悩ます精霊。
 (3)人間の身体に入り、とり憑く精霊。
 (4)妖精といわれる精霊。
 ジェイムズ一世は、(4)のフェアリー(Phaerie)をダイアナ(Diana)と呼び、ローマ神話の月の女神と同じものにしているが、シェイクスピアがティタニアに夜の女王、月の女神の性質を持たせていることが思い合わされ、十六、七世紀には妖精がギリシャ・ローマ神話と混同されていたことがうかがえる。またジェイムズ一世は、妖精はローマ教会の時代に生まれた迷信の一つにすぎないと言い、魔女が死刑に処せられるのは、フェアリーに丘の中の国へ連れていかれ妖精の女王から超自然の力のある石をもらったと告白するからであるとも言って、妖精が悪の存在であることを強調しようとしている。
 しかし否定しながらもジェイムズ一世が、ブラウニーについて次のように記述している文章からは、当時の民衆にまだ親しまれていたブラウニーの姿がうかがえてくるのである。

 民家に出没する悪魔と同じように悪いことをするのではなく、必要に応じて民家に出入りする精霊がある。これをプラウニーと呼ぶが、その外見は粗野な男に似ている。しかし人々のなかには、ブラウニーの実体がつかめず、ただその精霊がたくさん出入りすれば縁起がよいと信じている者も多い。

 ジェイムズ一世も、プラウニーが害や悪をしない精霊と認めており、ブラウニーがたくさん家にやって来れば縁起がよいとして、幸いをもたらす存在と当時の人々が信じていたことがわかる。
 スコットが魔女の存在を否定しようとして『魔術の正体』を書き、ジェイムズ一世が魔女の存在を肯定しそれを弾劾しょうとして『悪魔学』を書いたのであるが、その時代には妖精は魔女の手先となり魔術師の使い魔として、悪を行うものとみなされていた。また死者や幽霊といった幻の存在とされて、とくに清教徒たちによって十把一からげにされ否定されていた。ここで興味深いのは、中世時代には幽霊は煉獄に囚われている死者の魂が時折人間界に帰ってきたものであると信じられていたが、宗教改革以後、煉獄の存在は否定されるので、死者がこの世に帰ってくるという考えも否定されてきたという事実である。イギリスで名高い幽霊の話や幽霊屋敷の話の大方は中世の産物で、十七世紀以後はほとんどなくなってしまっている。しかし、十八世紀のオピニオン・リーダーであったサミュエル・ジョンソンは次のように一言っている。
 「幽霊の存在というものは、五千年たった後でも、未解決であろう」
 妖精の存在もまたしかりで、同様のことが言えるように思う。

『妖精の系譜』新書館


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石井鶴三の世界 №188 [文芸美術の森]

弥勒半跏像 東大寺2点 1964

      画家・彫刻家  石井鶴三
 
1964東大寺弥勒半跏像.jpg
弥勒半跏像 東大寺 (171×124)
1964東大寺弥勒半跏像2.jpg
弥勒半跏像 東大寺 (171×124)

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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社

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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №52 [文芸美術の森]

第八章 晩年南柏のアトリエ
 
    早稲田大学名誉教授  川崎 浹

こんどこその終の棲家

 結局、野十郎は最初の増尾の土地探しで世話になった伊藤武氏の再びの口利きで、本家筋の広い屋敷の一隅にある以前武道場だった小屋を借りることができ、十二月下旬、同じ町の増尾に戻ってきた。しかし、これからは以前のアトリエと区別するために「柏のアトリエ」と呼ぶことにしよう。
 こんどこそ終の棲家になる、と画家は思っただろう。すこし身辺の整理がつくと、「女先生」の夫武藤重喜氏に引っ越しを知らせている。「師走の碁の頃急にこちらに引っ越して来ました。森の辺の薪小屋を借りて住み込み仕事も出来るようにしたのです。この四、五日やっと落ちついて仕事も始めました。
 森のふちの梅や椿が咲き外に隣家も見えず窓の外には色々の小鳥たちが遊んでいます。先日タバコ沢山有り難く存じました。いずれその内お伺い方々お話も聞かせていただきたく存じます。いつのまにか立春になりました」。
 武藤ゆうさんは、画家が一年ぶりに増尾に戻ってきたことを知って訪れた。高島さんが土間と板張りの住まいでは身体が痛いのではなかろうかと、「女先生」が翌日駅前の寝具店からマットと布団一式をとどけさせた。例によって画家が「どうしてこんなことをするのですか」と尋ねても、彼女は「お願いですからこれでお休みになってください」と自分の手でさっさと布団を敷いてしまう。
 のちに野十郎没後記念のカタログを読み、彼女は画家が他人とりわけ女性から物品を贈られるのを嫌い、置いて行ったものはすべて拾てるか焼却した事実を知り、にもかかわらず「先生」がマットと布団を黙認したのは、品物が大きすぎて処分できなかったからかしらと夫妻で笑った。
 高島さんがコーヒー好きだったので、彼女は休診日の木曜日を利用して訪れ、さり気なく角砂糖を用意したり、やかんに水をたしたり、なにかとこまかな心遣いをした。高島さんも相手が気心のしれた、また仕事をもつてきぱきした女性だったので、うるさいことは言わなかった。そのうちに画家が小さな鍋で野菜を煮ていっしょに食べませんかと勧めるようなこともあった。

『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社


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じゃがいもころんだⅡ №52 [文芸美術の森]

犬と人生

        エッセイスト  中村一枝

 コロナと老化がいちどきにやってくるなんて思いもしなかったが、確実に、二つはくっついてやってきた。コロナは外側からあっというまに、老化は内側からじわじわと、である。
 コロナのおかげで外向きの生活が制約され、のんきな外出もままならない。マスクを着け、短い時間にさっと用をすませるのが当たり前のことになる。ふらふらとあれこれ見回しながら、物見をして歩くという懐かしい生活は過去のことになりつつある。特に買い物に困っているということはないが、何となくきゅうくつで、好き勝手ができないと言うわずらわしさがついてまわる。年をとってきたというのがその上に加わって余計楽しくない。 人と噺をする機会がどんどん失われて、私のように生活の中に人とおしゃべりを楽しんできた身にはどうも面白くない。
 嘗て戦争を体験した私たちには、戦争ほどいやなものはなかった。それは今も変わらない。命に別条はないだけに、今の方がずっとましなのだが、それにしても突然やってきたコロナと、予想はしていたもののじわじわと押し寄せる老化は、今やはらいようがないし、逆らってもどうしようもないのだ。
 その中で、犬を飼っているのは私にとって最大の楽しみで、最高の幸せである。犬好きと言うのは生来のもので、人を見ていても犬好きの人は自然に犬に近づき、犬もまたそれを感知するものなのか自分から近寄って来る。
 犬というのは当たり前の噺だが、飼われている人間の飼い方ひとつでどうにでもなるところがある。私など、目茶目茶かわいいという勝手なありようで犬をあつかっているものだから、犬も心得ていて、甘えて、勝手で、自分の好きに動き回っている。更に最近は、体が前のようにパッと反応できないこともあってか、我慢して待つということもしない。買い物の中身の甘いものや、時には生肉をとられたりする。
 それでも犬のいる生活の豊かさは、失敗をなんど重ねても愛しく、大事なものなのだ。たぶん、犬もどこかで同じことを思っているに違いない。
 散歩もできなくなったので、仕方なく人に頼んでいる。それが私には一番つらい。 犬を連れてそこいらを歩きまわる楽しみほどかけがえのないものはないからだ。私の気持ちがわかるのか、犬の方も散歩といっても以前のように飛び上がって喜んで出かける風はない。とにかく、一日中私にくっついている。私が二階に上れば、自分も「階段がおっくうになったくせにエッチラオッチラ上ってくるし、私が下へ降りればのこのこついてきてチョロッとおしっこをする。
 犬に「楽しい?」と聞いてみても「うん」というわけはないが、主人といることが犬とっては最高なのだと私は思っている。どっちがさきに行くか今のところ判らないが、できれば犬の余生を見とどけてやりたいというのが今の私の最後の望みである。感嘆はようだけど、それがなかなか難しくなるのが余生なのである。

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エラワン哀歌 №3 [文芸美術の森]

きっとどこかに

         詩人  志田道子

音は無い
時の縦糸はゆっくりと繰られ
頼りなく 絶えることなく
漆黒の闇が 時折金箔の
記憶のかけらを巻き込みながら
織り続ける
無念

突如柏の葉が風に
激しい雨のような骨をたて震えれば
温かい毛に被われた黒い熊も
深い森で身震いするのだろう
十キロ先から餌の臭いを 嗅ぐ
濡れた鼻先を風に向け
探すのは 人の
愛 敵意 (おそれ)
ゆっくりとしたたかに動く時空のなかで
熊の細い金色の目も
人の足指も
きっとどこかに流れて行く のだろう
時というものがやって来て
過ぎ去って行ってしまった
その先で
じっとこちらを見ている
わたしの顔

『エラワン哀歌 志田道子詩集」 土曜美術社

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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №59 [文芸美術の森]

          歌川広重≪東海道五十三次≫シリーズ
           美術ジャーナリスト  斎藤陽一

          第10回 「丸子名物茶店」

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≪名物はとろろ汁≫

 前回は「蒲原夜之雪」(第16図)を紹介しましたが、今回は、途中の宿場「由井」「興津」「江尻」「府中」を省略して、「丸子名物茶店」(第21図)を取り上げます。
 「丸子:まりこ」は現在の静岡市駿河区丸子。江戸時代には「鞠子」と書かれることもありました。

 この絵に描かれている藁ぶきの家が「とろろ汁」を名物として客に出す茶店。丸子名物の「とろろ汁」とは、天然の山芋を擂り、汁であわせたものを麦飯にかけ、それに青海苔と唐辛子の粉を振りかけて食べるというもの。旨そうですね。

 今、この店では、二人の旅人が床几に腰を掛けて、とろろ汁を食べている。横に置かれている円筒形のものは酒を入れる道具「ちろり」でしょう。背中を向けた男は、とろろ汁を肴にして酒を飲んでいるらしい。二人の横に立っているのは茶店の女。赤ん坊を背負って給仕しており、生活感が出ています。
 茶店の奥には、焼き魚を串に刺した巻き藁も見える。茶店の看板には「酒さかな」「お茶漬」と書かれているので、名物とろろ汁以外のメニューもある。
 軒下には干し柿が吊るされている。ちょっと甘いものが欲しいときには、「姐さん、あれを呉れェ」と注文するのでしょう。
 と、こんな具合に当時の茶店の風情が細かに描写されていて、なかなか楽しい。他の図でもそうですが、広重の描写は、細部を描き込むことが多く、それが絵を読み解くときのヒントとなり、また見ていて楽しいのです。

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≪旅人は弥次さん喜多さん?≫

 この二人の男は、どうやら「弥次さん、喜多さん」らしい。言うまでもなく、十返舎一九が著わした滑稽旅小説『東海道中膝栗毛』に登場する弥次郎兵衛と喜多八というコンビです。この二人の旅を面白おかしく書いて、当時、大ヒットしました。
 この本は、享和2年(1,802年)から刊行が始まり、文化6年(1,809年)に完結したので、それは広重6歳~13歳の年頃にあたります。(その後、続編も刊行されている。)
読書家だったという広重は、世間で評判のこの本を読んだことでしょう。この本には、弥次さんと喜多さんが丸子の茶店でとろろ汁を注文する場面もあるので、それがこの絵の発想源であったと思われます。

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≪芭蕉から学んだ自然観照≫

 もうひとつ、広重の脳裏にあったのは、芭蕉の次の句でしょう。
 
   梅若菜丸子の宿のとろろ汁    芭 蕉

 芭蕉が大津に滞在していた元禄4年正月のこと、弟子の乙州(おとくに)が江戸に旅立つときに句会を催した際、餞(はなむけ)として詠んだ発句です。(俳諧撰集『猿蓑』)
 句意は:新春を迎えて、あなたの旅は、梅の花盛りや青々とした若菜に迎えられ、丸子宿のとろろ汁もうまい季節でしょう・・・
 芭蕉はこのような句で弟子の旅を言祝(ことほ)いだのです。これに対して、乙州は、

  笠あたらしき春のあけぼの     乙 州

と付けています。

 寛政9年(1,797年)生まれの広重は、寛永21年(1,644年)生まれの芭蕉よりもおよそ150年ほど後の人ですが、芭蕉の世界と精神にあこがれを持っていたと言われます。
 このことを念頭において広重の風景画を眺めると、そこに漂う旅の哀感や詩情、いわゆる「俳味」と言われるもののひとつの源泉が分かるような気がします。

 この絵には、広重が十返舎一九から学んだ人間の滑稽味と、芭蕉から学んだ自然観照とが反映しているように思います。

 絵の左側に、天秤棒に菅笠と蓑をくくりつけて、とぼとぼと坂道を上っていく男が描かれていますね。
59-4.jpg 男は、一服したあと、茶店に背を向けて左方向へ、すなわち絵の外側に続く街道へとまた歩んでゆくのです。
 この部分にこの男を描き入れることで、街道をたどる動きと方向性が生まれていますね。
 この男が描き込まれなければ、絵は茶店の光景だけで完結してしまい、旅の持つ連続感というような味わいは生れてこないでしょう。しかもこの男は、例によって、顔を見せずに背を向けた後ろ姿に描かれる・・・そこには、そこはかとない哀感もにじみ出ている。これまでの図に何度も見てきた、広重が好んで使う描写ですね。
 この男の背後あたり、茶店の横には、芭蕉の句を踏まえて、白い花を咲かせる梅の木と青く萌える若菜が描かれていることにもご注目を。

 次回は、途中を少々飛ばして、「御油・旅人留女」(第36図)を紹介します。


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往きは良い良い、帰りは……物語 №95 [文芸美術の森]

往きは良い良い、帰りは……物語
こふみ会通信 №95 (コロナ禍による在宅句会 その10)
「鯉幟(こいのぼり)」「玉葱(たまねぎ)」「五月闇(さつきやみ)」「冷蔵庫」
               俳句・こふみ会同人・コピーライター  多比羅 孝

当番幹事(尚哉氏&兎子さん)から連名で≪令和3年5月の句会≫の案内が届きました。

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いつのまにか、夏の季語を選ぶ時節になりましたね。
四季の移ろいが、すこし前倒しになっている、とも感じます。
さてさて、今年もまた、ゴ-ルデンウイークはステイホーム。
どうかゆったりと、俳句の世界にお遊びくださいますよう。

<兼題>   鯉幟(こいのぼり)
     玉葱(たまねぎ)
     五月闇(さつきやみ)
     冷蔵庫(れいぞうこ)
<日程> 投句の締切 5月14日
     5月17日ころに、全句をシャッフルした一覧を、お届けします。
      選句と天句に関する鑑賞短文(コメント)の締め切りは、5月21日ころを予
      定しています。
      トータルの最終発表は、5月25日を目標とします。
<投句先> 尚哉 nao@o-naoya.com
            兎子 otomo@sun-ad.co.jp
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【この通知によって作成・投句された今回の全作品】下記のとおり  17名  68句

【鯉幟(こいのぼり)】
天晴れの空呑み込んで 鯉幟(鬼禿)
単線の無人駅にも鯉幟(弥生)
満月と戯れてをり鯉のぼり(華松)
いち推しの絶滅危惧種や鯉幟(尚哉)
太陽の匂ひを仕舞ふ鯉のぼり(すかんぽ)
もの干しの鯉でも元気裏長屋(一遅)
校庭に空百ぴきの鯉のぼり(小文)
生き死にを風にまかせて鯉幟(虚視)
回り道してまで見たい鯉幟(舞蹴)
人生を 泳ぎきれよと 鯉幟(茘子)
元気なのは 鯉幟だけかも 知れんなあ(孝多)
風渡る谷100匹のこいのぼり(玲滴)
押入れの奥で泳ぐか 鯉幟(兎子)
竿の先  風満腹に  鯉幟(紅螺)
風力で夢ふくらむや鯉幟(下戸)  
鯉幟が浅間を一気に呑みこんだ(矢太)
矢車の音軽やかに茅の家(可不可)

【玉葱(たまねぎ)】
さくさくと刻む玉葱妻は留守(舞蹴)
玉葱がごろんと富良野スープカリー(すかんぽ)
玉葱をガリリと噛んで 鉄人レース(鬼禿)
ステーキと呼ばれ玉葱赤くなり  (下戸) 
玉葱を刻みて泣かぬ女房かな(可不可)
手のひらの新玉ねぎの透くはだえ(小文)
在宅勤(ざいたくきん) 連日オニオン スライスだ(孝多)
玉葱をさらして臨むオンライン(尚哉)
水紋を閉じ込めました玉ねぎに(華松)
玉葱の   皮で染めたる  灰黄色(紅螺) 
玉葱はいのちを放つ小天体(矢太)
さらされて刺激弱まる 玉葱も(兎子)
ほたほたと玉葱煮ればとろけゆき(虚視)
忘れられし 玉葱芽ぶく 天指して(茘子)
玉葱のせいにして泣く姉二十歳(はたち)(弥生)
たまねぎをストンと切って生きている(一遅)
新玉の辛さに思う人のあり(玲滴)

【五月闇(さつきやみ)】
五月闇家ぬち流るる秒針の(小文)
信号の赤の色濃し五月闇(すかんぽ)
五月闇  会いたき人が3〜4人(紅螺)
メール来ずひとり空見る五月闇(一遅)
片付かぬ部屋の隅には五月闇(舞蹴)
人型の香り残りて五月闇(虚視)
なにもかも忘れてしまへ皐月闇(矢太)
白犬の墓標は白く五月闇(弥生)
人の世の 五月の闇の 深さかな(孝多)
年降りて越ゆべき坂や五月闇(玲滴)
家に居れば心塞ぎて五月闇(尚哉)
五月闇君の香りが強くなり(華松)
匿名が有名を殺す五月闇(下戸) 
独居にて昔を悔やむ 五月闇(兎子)
五月闇かつて喫せしゴロワーズ(可不可)
白檀の 香(か)のすれちがう 五月闇(茘子)
ただ眠る菩提樹の下 五月闇(鬼禿)

【冷蔵庫(れいぞうこ)】
寂しさは男一人の冷蔵庫(舞蹴)
元カレの ビール捨てきれず 冷蔵庫(茘子)
冷蔵庫あまおうワンパック妻は留守(一遅)
冷蔵庫君と僕との腕比べ(小文)
冷蔵庫にひっそり正義は眠っている(矢太)
所帯ありキミとぶきっちょな冷蔵庫(下戸) 
ホームステイ 何んにもなくなる 冷蔵庫(孝多)
溜息をふっと出したる冷蔵庫(華松)
冷蔵庫に  旨き酒あり  巣籠もりもよし(紅螺)
酒がある 酒だけがある冷蔵庫(兎子)
独り言つぶやき夜の冷蔵庫(虚視)
冷蔵庫と口喧嘩しつ 独り活き(鬼禿)
真夜中の冷蔵庫だけ生きてをり(可不可)
子育てを了へし旧型冷蔵庫(すかんぽ)
冷蔵庫コロナで食材豊かなり(玲滴)
冷蔵庫にしまってあるの遠き恋(弥生)
家飲みのアテ豊かなり冷蔵庫(尚哉)
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【天句の鑑賞】
「天」に選んだ句とそれに関する鑑賞短文を簡潔に書くという約束事。

●天句=太陽の匂ひを仕舞ふ鯉のぼり (すかんぽ作)
★鑑賞短文=日向で泳ぎ切った鯉のぼりの、暖かな匂いがふわっと鼻先までやってきた。五感が震える句ですね。素晴らしいです。(下戸)
★鑑賞短文=鯉幟が泳ぐ様子より、匂いに焦点を絞ったところに感服です。(華松)

●天句=鯉幟が浅間を一気に呑みこんだ (矢太作)
★鑑賞短文=爽やかでおおらかな、気持ちの晴れやかになる句。(弥生)

●天句=ほたほたと玉葱煮ればとろけゆき (虚視作)
★鑑賞短文=台所に立つ人の姿を思い浮かべて「ほたほたと」が好きです。(玲滴)

●天句=たまねぎをストンと切って生きている (一遅作)
★鑑賞短文=ストンと切ったたまねぎに、人生の断片を見たような。軽さの中にも不変のフィロソフィーを感じる秀句ですね。(すかんぽ)
★鑑賞短文=いさぎよいなぁ。研ぎたての包丁なのだろう。ストンと真っ二つに割れた玉葱から滴る光景が鮮やかに捉えられている。(虚視)

●天句=信号の赤の色濃し五月闇 (すかんぽ作)
★鑑賞短文=静かな雨の季節、赤い信号だけが色鮮やかに灯る夕暮れ、美しい映像のような句だと思います。(紅螺)
★鑑賞短文=湿気に満ちた薄暗い空間に赤が滲むような、濃い悲しみを感じました。(兎子)

●天句=人の世の 五月の闇の 深さかな (孝多作)
★鑑賞短文=「人の世」って言葉がすごい! そういえば「自然の中に人間が存在する」のですね。「五月闇」って季語新鮮でした。(舞蹴)   
★鑑賞短文=闇とは恐れを、そして疑惑を引き起こす。万物が成長し、太陽が輝く五月の闇はより深い闇、「人の世の」の初五の言葉が闇の深さを、さらに意味深く感じさせる。(茘子)

●天句=五月闇君の香りが強くなり (華松作)
★鑑賞短文=「香り」は、嗅覚だけではありません。濃厚なる五感の競演ともいうべき、世界観です。(尚哉)
●天句=白檀の 香(か)のすれちがう 五月闇 (茘子作)
★鑑賞短文=どんよりと湿った薄暗い日に何処からともなく白檀の香りがしてきたら思わず立ち止まってしまうでしょう。そして美しい雨が降ってきそうです。(小文)

●天句=冷蔵庫にひっそり正義は眠っている (矢太作)
★鑑賞短文=「冷蔵庫」のこの句によって、すぐに思い出されたのは坪内稔典氏の句「六月の古いテレビがヒヒヒヒヒ」です。「古いテレビ」の句も「冷蔵庫」の句も私の言う思考的かつ擬人的な句で、きわめて高い独創性を発揮しています。月並みであることを拒否している姿勢です。秀句をお示し頂き、有難うございました。(孝多)

●天句=子育てを了へし旧型冷蔵庫 (すかんぽ作)
★鑑賞短文=どなたの句でしょうか。うまいですね。私達の子育ての頃はアメリカアメリカの家電。中でも角が丸味の冷蔵庫・我が家でもマスターイエローのW.H.でした。懐かしい・・。育てた子等ももうすぐです50。寂しい句の中で「ホッ」としました。有り難う(鬼禿)
★鑑賞短文=十何年、共にご苦労様でした!(可不可)
★鑑賞短文=家族の食生活を、幾星霜、一手に担ってきた主婦の自負と時の流れへの感慨が見事。(一遅)
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【幹事より、ひと言】
今回はなんと、お一人の方が突出して得点を集めました。
添付を見ていただければすぐにわかるので、最初から明かしてしまいましょう。
それは、「すかんぽさん」でした!
天句がなんと49点、4句合計が、93点!
どちらも、記録的な数字です。
その圧倒的な結果に、心から敬意を表したいと思います。  (尚哉&兎子)
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【今月の成績一覧】
◆トータルの天=すかんぽ・93点
 代表句=太陽の匂ひを仕舞ふ鯉のぼり
◆トータルの地=華松・38点
 代表句=溜息をふっと出したる冷蔵庫
◆トータルの人=虚視・29点
 代表句=ほたほたと玉葱煮ればとろけゆき
◆トータルの次点=茘子・26点
 代表句=白檀の 香(か)のすれちがう 五月闇

◆◆皆さん、おめでとうございました。◆◆
上記の「トータル・ランキング・リスト」で光っている方々をはじめ、佳句をものされた各位、おめでとうございました。本来ならば「帰りも、良い、良い」だったのではないでしょうか。憎っくきコロナめ、集まって、わいわい、がやがや、飲るのが楽しみなのに……ああ、在宅句会は、これで10回目。緊急事態宣言も延長々々のご時勢、情け無し。

いとせめて、「風、新しく」を願って、今回から常設コラムになった「幹事より、ひと言」の内容は、ごらんのとおり、得点結果の痛快なる「やったぜ噺(ばなし)」。
さて、次回は、どなたが幹事か、どんな話題になるか……。
「提案」「質問」」「ご意見」「確認」……などなど。率直にお願いしたいものです。
内容は勿論、こふみ会に関連するものごと案件に限るわけですが、自由に積極的に、ぜひ、お願いします。お声を聴かせてください。では、また。次ぎは六月の句会です。どうぞ、皆さん、お元気に。(令和3年5月末日 多比羅 孝多)





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妖精の系譜 №3 [文芸美術の森]

妖精に出会った人々の記録 2

     妖精美術館館長  井村君江

 (3)のティルベリーのジャーヴァスはイギリスの歴史家で、キヤノン法の講師としてボローニャに滞在したことがあり、神聖ローマ帝国皇帝オットー四世によってアルル王国の長官にまでなった人である。『皇帝に捧げる閑話集』は、皇帝オットーを楽しませようとして書いたもので、不思議な話がたくさん集められている。その中で、十三世紀のイギリスにいるとして「ポーチューン」という一種の農耕妖精のことを書いている。ポーチューンは農家の人々の生活に入ってきて、日中は農場で人々と一緒に働き、夜になって農家が戸を閉めると、台所で皿洗いなどを手伝う。そして火のそばにやってきてふところからカエルを取り出すと、それを火にかざして焼いて食べる。顔は老人のようにしわくちゃで、つぎはぎだらけのポロをまとい、背丈は大変低い。ジャーヴァスの記述では「半インチ」になっているが、プリッグズの説によれば、オタマジャクシからカエルになったばかりの小さいものでも、ふところに入れるには身の丈一フィートはほしいところで、これはラテン語の“pes”と“pllex”を書き違えたものをそのまま英訳したため「半フィート」が「半インチ」になったと考えられ、約十五センチぐらいの大きさと推定される。ポーチューンは人間に害はしないがいたずら好きで、夜道を行く旅人の馬を急におどして駆け出させ、乗った人を沼に落として喜ぶというのである。農業や家事の手伝いをするところ、夜道の旅人にいたずらをするところなど、アイルランドのプーカやコーンウォールのピクシーと似た性質を見せている。またジャーヴァスは、ポーチューンをフランスではネプチューン(Neptune)と呼ぶといっているが、ローマ神話の海の神の名と同じであるのは不思議な感じがする。そして一種の悪魔と言っていいか、素性のわからぬ生きものと言ったらいいか、とジャーヴァスは類別に迷っており、妖精という言葉は使っていない。
 (4)のウォルター・マップはイギリスのへレフォードシャー生まれであるが、パリで学び帰国してヘンリー二世に仕え、のちにリンカーンの大法官となった人である。かれが『宮廷人愚行録』の中に記しており、また後年になってC・S・バーンとG・F・ジャクソンが『シュロップシャーのフォークロア』(一八八三)に再話している「向こう見ずエドリック」の話は、妖精を妻にした話としてはもっとも古いものである。日本でも「天女を妻にした請」(羽衣伝説)があるが、異界の人との結婚話(妖精女王や湖の糟や人魚などを妻にする話)の囁矢であり、禁忌(タブー)が必ず人間に課されることがすでにここでも見られる。また「向こう見ずエドリック」は一つの物語としてもよくまとまったものである。マップが記している筋は次のようである。
 五百年前のある日のこと、シュロップシャtのクランの森で狩りをしていた騎士エドリックは帰途、道に迷い、小姓と共に道を探したが日がとっぷり暮れてしまった。やっと遠くに大きな家から明りがもれてくるのが見えて、その家に着いてみると、中でたくさんの婦人たちが踊っているのが見えた。優しい声で歌を歌いながらゆるやかに踊る輪の中の一人のあまりの美しさに、エドリックは恋心を覚え、恐ろしさも忘れて中にとび込むと、その乙女をさらおうとした。女たちは歯と爪で攻撃してきたが、小姓に助けられてエドリックはその乙女を連れ出すことに成功したのである。三日間乙女は口をきかなかったが、四日目にやっと「何も聞いてはいけない、そうすれば私はいなくなりあなたは早死するから」というタブーを課し、二人は結婚する。ノルマン人ウィリアム征服王はこの花嫁の美しさを耳にしてロンドンに呼びよせ、この世のものでない美しさに感嘆したという。
 しかしある日、エドリックが狩りから帰っても妻がいない。やっと帰って来た妻に、「どこへ行っていた。お前の姉妹のところか?」と言うその言葉も終らぬうちに妻の姿はかき消えてしまい、エドリックは悲しみのためやつれ果てて、間もなく死んでしまったというのである。エドリックが死んで一世紀もたたぬうちに、この話は伝説になり広く伝わったとマップは『宮廷人愚行録』に記している。
 異界の女の人ではないが、鶴の化身や蛇女と結婚した日本の昔話でも、「見てはいけない」といったタブーが課され、それを犯して悲劇に終わるというものが多い。イギリスのこの種の結婚譜では、この他に「鉄でさわるな」「叩いてはいけない」といった結婚するための条件としてのタブーが課されてくる。妖精たちは石器時代の原住民と関わっており、鉄器時代の人々に追い払われたため鉄を恐れるのだともいわれるが、鉄は妖精の忌み嫌うものになっている。中世のロマンスになると、妖精をさらって妻にする騎士よりも、妖精の女王にさらわれて妖精界で暮らす騎士や詩人の話が多くなってくる。

『妖精の系譜』 新書館

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石井鶴三の世界 №187 [文芸美術の森]

賓頭盧尊者座像 1964年/誕生仏・東大寺 1964年

     画家・彫刻家  石井鶴三

1963鳳凰堂コピー.jpg
賓頭盧尊者座像 1963年 (171×115)
1964誕生仏・東大寺.jpg
誕生仏・東大寺 1964年 (171×124) 

 **************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社


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じゃがいもころんだⅡ №51 [文芸美術の森]

ホットケーキ

            エッセイスト  中村一枝

 昼ごはんというのは、外にいる場合を除いて、家にいると何となくおっくうで、それでいて抜いてしまうと、これはまた決まって夕飯まで何となく間がもたないという、厄介な代物である。
 今、私は、半製品化しているホットケーキ(フライパンで両面を温めればそれで終わりという)代物を愛用しているが、私の子ども時代と言えばざっと七、八十年前、こんな便利なものはなかった。小麦粉を卵を牛乳で溶いてまぜてふくらし粉(今はベーキングパウダー)をちょっと入れて、という、それでもホットケーキはかなり上等な嗜好品であった。それは伊豆の伊東に疎開するまで続いた私の楽しみだった。小麦粉が姿を消し、バターもなくなり、いつのまにかホットケーキは手のと届かない高級品になった。
 今はふんだんにどこにでもあるホットェーキだが、七十年も食べ続けていることにちょっと驚いている。よっぽど好きなのねと聞かれれば、大好物でないにしても嫌いでない事は確かだろう。戦争中、ものがどんどんなくなっていく中で、いつしかホットケーキも頭から消えて行った。森永キャラメルの最後の一箱を箪笥の上にのせておいた。背伸びしてのぞくと、キャラメルの黄色い箱が燃えている間はほっとしていた。それもいつしか消えた。あの時代を経験している人には、まわりから物がなくなっていく不安と厳しさがいまだに心の隅に根付いているはずだ。
 コロナが蔓延しようと、緊急事態宣言が出されようと、あの時代の逼迫した空気と比べれば何ほどのこともない。子どもごころにも、戦争の中にある不安をいつも感じていたことを思うと、今、戦火の中にいるイスラエルやミャンマーの子どもたちのことをつい思ってしまう。少数の人間の勝手な判断で右往左往しなければならない権力を持たない多くの人たちは、自分もいつかそうならないためにも、国には常に耳を立てているべきなのだ。
 それにしてもあれから七十年以上はたつのに世界に戦争のない時はない。そして苦しむのはいつも一番弱いもの、女性や子どもたちだということを、為政者であるどの国の男も感じないのだろうか。世の中の考え方がこれだけ進んでいるのにと、不思議でしかたがない。
 戦争を知る世代が年々減っている。多分私たちの年代を境に、昔あった非常な戦争なんて思い出す人もいなくなる時がきっと来る。
 私はそれが一番こわい。そしてその時一番辛い思いをするのはか弱い者たちであるという事実・・・。
 原爆にあれほど悲惨な目にあいながら、なおも原発を後生大事に抱え込んでいる日本など一番いい例ではないかと、毎日、思っている。
 ホットケーキが昼ご飯として食べられる幸せなんて、とても得難い幸せであることを改めて思い知るのである。


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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №51 [文芸美術の森]

第八章 晩年南柏のアトリエ

  早稲田大学名誉教授  川崎 浹

孤軍奮闘の隠遁生活

 昭和四十六年(一九七一)は日誌をつける暇もないほどで、高島さんがアパートから拙
宅にみえたのはいつだろうか。ときおり母伝いに高島さんの情報がとどいた。とはいえア
パートには電話がないので、画家がいきなり拙宅に見えて、「食中りをしたらしく、ひど
い症状に見舞われたので、二週間ほど何も食べずに寝ていた。病気は自然に治るものなの
だよ」と言ったときには驚きもし、感嘆もした。当時は聞きなれない自然治癒力という言
葉を教えてくれた。大家の園長さんが医者を呼ぼうとしたが、本人が断ったらしい。思う
に、資本主義という名の妖怪たちと孤軍奮闘した画家には、断食療法はすいれんの池での
しばしの昼寝にすぎなかったのだろう。
 私がアトリエ探しの手伝いもできぬまま交換研究員として長期のフランス滞在に向けて
出発した九月、高島さんは移転先探しを兼ね、水潜寺など秩父の札所を巡っているが、奥
秩父は冬が寒いこともあり、希望にかなう場所がなかったらしい。しかし武藤重喜氏に宛
てた葉書ではこの九月、画家は奥秩父からすり抜けるようにして吉野山にも出かけている。その文面は高度経済成長の波からいよいよ追いつめられてゆく画家のユーモラスな諦念がにじみでている。
 「吉野山にはきれいな水が流れている多くの谷があるのでその浄水を丁度一生分だけ飲んで来ようと楽しみにしていたが、どこも水際まで近寄れない。とうとう飲まずに下りてきた。御岳さんの谷は深い断崖になっていて人間には下りて行けない。行けるような処は凡てダムの湖になっている。東北の山もその他どこへ行っても同じ事、最早日本中浄涼な谷水を飲むという事も出来なくなったらしい。
 慈母観音の乳房からしたたり落ちる慈乳岩
 清水せめて一滴でものみたいのだがまつごの水」
 十月、画家は顔なじみのいる元の相に戻って空き家を探し、以前増尾のアトリエに道を
つけるとき田圃の一部を提供してくれた伊藤辰五郎宛に次のように報告している。
 「まだ引っ越し先が見つからずしかたなく相変わらずまごまごしています。先日柏の方
に行ってきました。九二園茶店によって尋ねて見ましたが小生も知っている絵描きさんが
居たという中家は寺ではなく(以下中略…)。熊野神社前に空き家が二軒見えましたがそ
こは道路を新設するために引っ越したので最早それも無くなっている(…)。それから出
張所の方に行って高台上の小学校下から入った処にある寺を空室があるようだから尋ねて
見ましたら(…)その寺の前通りに花屋があってその横を入った処に博兵衛さんという畳屋がありその二階が空いていて(…)その畳屋さんをさがしてみましたが分からなくなりました(…)。明日は千葉の先の方茂原の辺りをさがしに行って(…)房州の方だめでし
たら、あの畳屋さんをもう一度行って見ましょう。林三太郎(立野の画家さん)氏に聞け
ば柏の空き家の事よく分かりそうですがあの人会社を作って重役になり南柏の方へ近日引
っ越す事になっているとの事、九二園で聞きましたので今行っても会えないかも知れませ
ん」。(昭和四十六年十月二十四日)。 
 寺はだめ、畳屋は見つからず、有力者を尋ねたが移転中だったり、房総にも足を伸ばし
てみょうともある。ここにきてまた城にたどり着けなかった測量士の徒労感が私に伝わっ
てくるが、高島さんもできれば避けて通りたい漂泊人生の通路だったにちがいない。
 長い伝統をもつ永平寺の高僧がテレビで「すべての基本は形じゃ」と作家のインタビュ
ーに答えていた。苗から遮断された自塀の中で、風邪をひけば控えの僧たちが調薬し、食事も厨房で吟味して出される。こうして早朝に起き、座禅を組み、行事やしきたりに従
って生活する。これはこれで大変なことだが、少なくとも、ここにはすでに用意された形
があり、形に則して行動すれば済む。
 しかし同じ高齢の野十郎はオリンピック開催や団地の建設で立ち退きを強いられ、手を
こまぬいていれば路上に放りだされる。画家は国の行政や企業や土地所有者や業者と闘い、生活の形の枠組みと基礎を自分の手で獲得しなければならなかった。
 形の基礎を得たあとでも、さらに寺院の修行よりはゆるやかな隠遁生活のほうが難しい。形は束縛や制度と結びついているので、寺院の修行者は厳しい形で逆に守られているが、遁世者は自由と不自由(ストイシズム)との間の通路を自分の判断で往来しなければならない。事体をささえる台車だけを工場に注文するようなわけにはいかぬ。画家がときとして頑な姿勢を示すことがあったのも、あれは自分の形の弛みを制御するための反作用としてブレーキを踏んでいたのだ。これも俗世の住人たちには理解しがたい。なかには人間が小さいとか狛介だとか批判する者が私もふくめていると思うが、それは大きな誤解だ。私は高島野十郎と同じやり方で形を造ることを想像してみるが、とてもできっこない。
 それでも野十郎は辰五郎氏宛の手紙をこう楽観的に締めくくっている。
「とにかく引っ越し先が見付かったらお伺いしようと思っていました。武藤さんにも今度
お伺いしてみましょう。あの方は日曜日でなくてはだめでしょうからこの次の日曜頃にな
りそうです。柿とすすきの絵もいずれ出来ましょう。海の二〇号をやっと描き上げた処で
す。山辺の柿の絵ここしきりに考えていた処です。秩父の山をずい分歩き廻って丁度柿が
色づいており、私の昔から好きな画題でしきりに心引かれ簡単なスケッチや写真など沢山
撮ってきています。何か出来るかもしれません。ここ高松の室の隣にも柿が色づいていて
室から見えます」。
 つまり野十郎はアパートでも画業をつづけていた。さらにアトリエ建築のときに写真現
像用の暗室についての言及があり、また大正八年(一九一九)に小西本店(現コニカ)が
発売した「スペシャル・リリー」という蛇腹式の高級カメラを所有していた。つまり右の
手紙にあるように画家はカメラを活用していた。

『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社


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エラワン哀歌 №2 [文芸美術の森]

生きる真似

       詩人  志田道子

  生きる真似をしていたら
  「もう時間切れだよ」 と
  風が通り過ぎた
  苦しむ真似をしていたら
  「大変だね」 と
  雲が夕陽を浴びて漂っている
  そう
  しあわせとはこんなもの
  与えられた時間は
  きっと永遠
  一時(いっとき)も永遠も
  あの輝く青空の向こうの
  果てしない漆黒にとっては
  きっと同じことなのだから

『エラワン哀歌 志田道子詩集』 土曜美術者社



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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №58 [文芸美術の森]

         歌川広重≪東海道五十三次≫シリーズ

          美術ジャーナリスト  斎藤陽一

         第9回 「蒲原夜之雪」

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≪駿河に大雪!?≫

 今回紹介するのは広重の「東海道五十三次」の第16図「蒲原夜之雪」です。このシリーズ全作品の中でも名作と言われる一枚です。
 この図の前に配された「吉原左富士」(第15図)では、富士山が褐色の夏の姿に表されていましたが、次の宿場であるこの「蒲原」では、一転して冬の光景、それも雪景色となっています。意表をついた場面転換です。

 蒲原は駿河国、現在の静岡県静岡市清水区にある地域です。この地方の気候は温暖で、こんな大雪となることはまずありません。それを、なぜ広重は、このような雪景色としてしまったのか?

 広重の全体構想では、「東海道五十三次」では、様々な人物を描き分けるだけでなく、日本の四季の移ろいをも織り込もうという意図がありました。
 第1図の「日本橋朝之景」から描き始めてここまで、各宿場を舞台に、朝・昼・夜などの一日の時刻の違いを描いてきました。季節ははっきりしていないものもありますが、明らかに「冬」にあたる場面は描いていません。
 そこで、このあたりで「冬」の場面を織り込みたい、と思ったのでしょう。そして「最も冬らしい場面は“雪景色”だ」と考えたのだと思います。

 ところが、駿河はまことに気候温暖な地域で、蒲原でこのような積雪が見られるわけではない。そのことは広重も承知していた。
 だからと言って、東海道全域を眺めまわしても、関ヶ原あたりには時に積雪が見られるものの、これほどの大雪が降り積もるところは見あたらない。しかし、この辺で季節の変化をつけたい。後半に「冬景色」を持っていくわけにはいかない・・・
 おそらく広重はそのように考えて、思い切ってこの「蒲原」を「雪景色」として描いたのでしょう。

 「東海道五十三次」全55図の中で、もう1点、「雪景色」の場面があります。それは終盤に近い第47図「亀山・雪晴」(現三重県)です。(下図参照)
 そこでも広重は同じように「そろそろ終わりに近づいているから、この辺でまた雪景色にしたい」と考えたのでしょう。

58-2.jpg

 ですから、この「雪景色」は現実をそのまま写したものではありません。言わば「芸術的虚構」とも言うべきものです。
 実はこのことは、広重が創り出した「風景画」全般にあてはまることです。現代の私たちは、「東海道五十三次」にしろ、北斎の「富嶽三十六景」にしろ、とかく、「画家が実際に見た現実を写しとったもの」と思いがちですが、必ずしもそうではありません。

 「雪月花:せつげっか」という言葉がありますね。これは、具体的には、冬の雪、秋の月、春の桜を指すことばですが、それだけではなく、日本の自然美を象徴するひとまとめの表現です。言い換えれば、自然の変化や季節のうつろいに繊細に感応する日本人の感性を象徴させた言葉と言うこともできます。当然ながらそれは、広重が持っていた感性でもあり、彼は具体的なモチーフを題材としながらも、そのような感性を働かせて、独自の絵画世界を創造したのです。
 だからこそ、時代を超えて、これを見る私たち日本人の心に沁み入り、その世界に共感できるのです。

≪会者定離(えしゃじょうり)~出会いと別れ・旅の本質~≫

 もう少し、絵の世界に踏み入ってみましょう。

58-3.jpg 夜に入っても、雪は降りしきっており、家々はぴたりと雨戸を閉じている。夜道を照らすのは雪明りのみ。その道を3人の人物が歩いていく。
 右の二人は坂道を上っている。前の男は、旅用の菅笠をかむり、油紙をまとい、小田原提灯を下げているので、長旅をする旅人でしょう。そのうしろは、蓑笠つけた農民のようにも見えますが、あるいは小さな旅に出た旅人かも知れません。二人の笠や背中には雪が積もっている。例によって表情を笠で隠して見えなくしていますが、身体を屈めた姿勢には、寒さに凍えながら雪道をたどってきたことが暗示されます。

 左には、坂を下っていく一人の男がいる。唐傘をかざし、杖をつき、ドテラのようなものを羽織って、高下駄でとぼとぼと歩いています。何か用足しがあって、雪の中を出てきた土地の人かも知れない。この人物も傘ですっぽりと顔を隠しています。
 これらの人物たちのポーズや、顔を隠す描き方によって、しんしんと雪が降りしきる夜の静けさが一層深まります。

 さらに、右の二人と左の一人は、この場面のほんの少し前に雪道で出会い、すれ違ったはずです。その時に「こんばんは」「冷え込みますね」「お気をつけて」などと言葉を交わしたかも知れない。そして出会いの次の瞬間には、お互いに背中を見せて違うところに歩み去ってゆく。“すれ違っては別れていく”ここに「旅の本質」があります。

 広重は「東海道五十三次」の多くの図の中で、道行く人のすれ違い、すなわち「出会いと別れ」を意識的に描いています。このような描写によって、旅というものの非日常性と寂寥感は極まります。
 ここには、仏教で言う「会者定離:えしゃじょうり」(会う者は必ず別れる)や、茶道の精神性を説く「一期一会:いちごいちえ」(今会う人は生涯に二度と会えないと思って接する)などという思いが反映しているかも知れません。
 が、広重にとって、もっと身近にあったのは、敬愛する漂泊の俳人・芭蕉だったと思います。たとえば、芭蕉が「奥の細道」の冒頭に書いている言葉が脳裏に去来していたかも知れません。
 「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり。船の上に生涯を浮かべ、馬の口をとらえて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。」

 広重の芭蕉への追慕については、次回に紹介する「丸子名物茶店」(第21図)のところでまた触れます。

 この「蒲原夜之雪」の色彩についてひとこと。
 広重は、空や山々、木々、家々、山道などは墨の濃淡と白色で描き、墨絵の趣きにして、すべての音を吸収してしまう雪の夜の静寂を表現しています。しかし、山道を歩く人物たちには僅かながら青・黄・茶色を施し、墨絵世界の中の効果的なアクセントとしています。

 近代までの西洋絵画では、フランドル絵画の中の「季節絵」のように雪景色を描いた絵は結構たくさんありましたが、このような繊細な日本的感性を反映した雪の日の情緒を描いたものはほとんどありませんでした。だいたい西洋においては、「雪」は好まれない自然現象であり、「雪は自然の病気」などという言葉もあるほど、繊細な美意識の対象ではありませんでした。
 ところが、伝統的な絵画にあきたらず、新しい絵画をめざしていた印象派の画家たちは、西洋的美学とは異質な美意識に満ちている日本絵画、特に浮世絵に衝撃を受けました。
浮世絵の持つ本質を理解しようとしたモネやピサロなどは、情緒あふれる雪景色を盛んに描いた浮世絵にならって、しばしば雪の風景を自分の感性によって描こうとしました。
モネは雪が降ると外に飛び出し、その時刻の光が雪に反映する世界を色彩でとらえる、という描き方をしました。その結果、私たち日本人が見ても、雪の日の風情がしみじみと感じられる絵画世界になっています。
印象派と浮世絵の関係を話し出すと長くなりそうなので、ここでは私が好きな一枚、モネの「かささぎ」と題する雪景色を示すにとどめて、今回は終わりとします。

58-4.jpg

次回は、「丸子名物茶店」(第21図)を紹介します。


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妖精の系譜 №2 [文芸美術の森]

妖精に出会った人々の記録 1

        妖精美術館館長  井村君江

 ジラルダス・ド・バリ、一般にジラルダス・キャンプレンシスの名で知られるペンブルックシャー生まれの助祭長が、『ウェールズ旅行記』(一巻八章)の中に書きとめた挿話が、妖精の国や妖精の性質を記したもっとも古い文献の一つである。ラテン語からR・C・ホアが英訳したものを、トマス・キートリーが『妖精神話集』(一八二八)の中に収録しているが、それは『エリドルス(エリダー)と黄金の球』という名で知られており、エリドルスという十二歳の少年が妖精の国に行って帰ってきた話である。エリドルスは僧侶であり、のちに聖デヴィッドの司教となった人で、実際に自分の身に起こった事件として語った経験談を、キャンプレンシスが書きとめたことになっている。
 その話の筋をまとめてみると、エリドルスはその頃学問をしていたが、教師の鞭が恐ろしいので家出をして、二日の間川辺の洞穴に隠れていた。すると二人の小人が「わしらと一緒に来れば、気晴しや楽しみがいっぱいある国へ連れていってやろう」と言うので、そのあとへついて行った。地下へは暗い小道を通るが、やがて川、牧場、森、平野のある美しい国に着く。太陽の光はなく、にぷい光に包まれ、夜は暗闇となる。
 「その国には王がいて、人々は小さく、みな金髪が長く肩まで垂れており、グレイハウンド犬位の馬に乗っていた」とあり、妖精が金髪を好む、あるいは金髪をしている(妖精の別名は金髪一族)という特色がすでにうかがえる。また性質は、嘘はつかず、真理を愛し、人間の野心や不誠実を非難すると書かれてある。動物や魚の肉は食べず、「サフランを混ぜた牛乳」が常食となっている。
 エリドルスはその妖精の国から人間界へ、しばしば戻ることができた。妖精の国や小人たちのこと、地下には黄金がたくさんあることを母に話したところ、少し持ってきてはしいと言われる。エリドルスは妖精王の息子と遊んでいた黄金の球をこっそり盗むと、母の家まで一目散に逃げ帰ろうとしたが、あとを追われ入口まで来て敷居につまずいて倒れ、球を落としてしまう。小人はそれを奪い返し、エリドルスにつばを吐きかけ笑いながら行ってしまった。それから一年近くも道を探したが、再び妖精界へ行くことはできなかったというのである。盗みをした身を恥じ、母のことを恨む複雑な気持が消えると、エリドルスは再び学問に精を出したという。そして妖精に対して悪をする人間には、妖精界の道は閉ざされるという教訓めいた道徳的結末がついている。
 ここでは妖精界と人間界が容易に地下の道を通って行けるようになっており、薄明りの照る美しい野原というのも、後年の妖精の国の特色をすでにみせているが、月日が経過する速度の差はここにはまだない。興味深いことは、エリドルスが妖精語をよく覚えていて、それがギリシャ語に似ていたというのである。例えば「塩を持ってこい」というのはHalgein udomum)で、ギリシャ語で塩は(××××)であり、古代ウェールズ語では〈Halen〉である。キャンプレンシスによれば、これはイギリスの先住民であったブリトン人が、トロイ滅亡後もギリシャに留まっていたため、二つの言語には類似がみられるのだということである。
 (2)のニューバラのウィリアムが記し、コギシァルのラルフも書いている「緑の子供」発見の話は、十二世紀の出来事として有名である。ラルフはこの他、ダッグワージー(現ダッグワース)城に出没する「モーキン」という小妖精と「男人魚」についての話も記している。これらはラテン語で書かれているが、当時の事件の一つとして、ロンドンの記録保管所のロール(巻き紙状になっているためこう呼ばれる)六八番に記されており、当時の人々が事実として信じていたことがわかる。
 この「緑の子供」は、サフォークのウルフピットで見つかった肌の色が緑色をした姉と弟の子供で、洞の入口に倒れていたところを連れてこられるが、豆しか食べず、弟の方はすぐに死んでしまう。姉の方は次第に元気になり、人間の食物に馴れてくると肌の緑色も槌せてきて、人間の言葉もわかるようになり、妖精界のことを話し始めた。それによると、向こうの国では、人も物もみな緑色で、太陽の光はなく、いつも薄明りに包まれているという。姉弟は家畜の群れを追っているうち、美しい鐘の音につられて洞穴の中に迷い込み、こちらの出口についてしまい、太陽の光の強さに気を失って倒れたところを捕まったということであった。やはりここでも、二つの世界は暗い地下道でつながっていることになっている。
 「ケルト圏では緑色は死の色であり、豆は古くから死者の食物である」と、キャサリン・プリッグズは『妖精事典』で解説を加えている。妖精と死者との結びつきを示す話のようであり、とすれば姉は甦った死者なのであろうか。のちになると妖精の服装は「緑の上着に赤帽子」ということになり、肌まで緑色に描かれた妖精像もある。緑は草や木の葉の色で、いわば保護色であり、またバッタやイモ虫など昆虫の色との連想からも緑になっているのかも知れない。ニューバラのウィリアムは、調査が進むにつれて、自分はこの「緑の子供事件」 の真実性を認めるようになった、と書いている。姉の方が、自分の国を「聖マーチンの国」 と呼んで、みなキリスト教徒であると言っていたというのであるが、ここにいたると異教の神の末裔である妖精たちを、キリスト教に改宗させたのは誰であろうか、といぶかしく思われてくる。
 「モーキン」というのはサフォークのダツグワージー城に出没する妖精で、普通は姿を見せず、一歳の子供ぐらいの声で話す。もともとは人間の子供で、母親が仕事をしてるときに麦畑に置いておかれたので妖精にさらわれたとあり、すでに妖精の人間誘拐が描かれている。城の騎士一家はモーキンの出没に初めは驚くが、次第に馴れる。仲良くなった女中にいたっては、彼が小さな子供で白いチュニックを着ているのを見たという。食べ物を出しておいてやると、いつのまにかそれが消えている。モーキンは七年間妖精界にいるが、あとの七年間は人間界に戻りたいので、人間の食物が必要だということである。このモーキンは、「取り換え児(チェンジリング)」にされた人間の子供であり、のちになると妖精の国の食物を食べると人間界に戻れなくなるということがいわれるが、ここでは逆に人間界に戻るには人間の食物が必要ということが書かれている。食物は人の生存に関わる重要なものなので、この世とあの世の生存を決める要因になっているようである。

『妖精の系譜』 新書館


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