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石井鶴三の世界 №272 [文芸美術の森]

大安寺・四天王 1952年/不動明王 1952年

         画家・彫刻家  石井鶴三

1952大安寺四天王のうち.jpg
大安寺・不動明王 1952年 (201×143)
1952不動明王木造彩色.jpg
不動明王・木造彩色・平安時代藤原期 1952年 (200×143)

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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社 

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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」 №144 [文芸美術の森]

          シリーズ:江戸・洋風画の先駆者たち
           ~司馬江漢と亜欧堂田善~
                 第13回
            美術ジャーナリスト 斎藤陽一
      「亜欧堂(あおうどう)田(でん)善(ぜん)」 その7

≪江戸時代最大の油彩画≫

 今回は、亜欧堂田善が描いた江戸時代最大の油彩画であり、しかも、他には見当たらない「油彩屏風」である「浅間山図屏風図」を紹介します。

144-1.jpg

 この絵のサイズは150×338.2cm、六曲一隻の屏風絵で、国の重要文化財に指定されています。

 全面に大きくとらえられているのは「浅間山」
 これまで見てきたような田善の銅版画や油彩画のような、「透視画法」とか「陰影法」があまり見られない。
 しかも、田善がしばしば絵の中に描き込んできた人物の姿も見られない。
 だから、一見すると、田善の作品としてはどこか平板な印象を受けてしまう。
 それゆえ、かつては「このような大きな絵に取り組んだ田善の技量の限界」という見方もありました。

 ところが、平成3年(1991年)、福島県須賀川市の旧家から、この屏風絵の稿本(下絵)が発見され、田善の当初の意図が明らかになりました。(下図参照)

名称未設定 2 のコピー.jpg

 上図の下絵では、左側に煙が上がる炭焼き窯、その横に二人の人物が。一人は炭焼き、もう一人は薪を割る仕事をしている。この部分は、下絵の大きな部分を占めており、写実的に描かれている。右下には裾野の風景も描かれる。

 ということは、田善は当初、得意な風俗描写を大きく取り込んだ風景画を描こうとしていたことが分かる。

 ところが、もう一つの下絵(下図)では、炭焼きの男と炭焼窯は消え、薪を割る一人だけになっている。
画面をよりすっきりとした構成にしたかったのでしょうか。

144-3.jpg

 今度は、完成図(屏風絵)と第二の下絵とを比べてみよう:

144-4.jpg

 完成図では、左側にあった人物たちや炭焼き窯などがすっかり消えている。
 さらに、下絵の右下にあった「裾野」の代わりに、なだらかな丘陵と雲が描かれている。その結果、画面はより落ち着いたものとなった。

 おそらく田善は、それまでの銅版画や油彩画とは異なり、室内に飾って鑑賞する「屏風」という形式を考慮して、意図的に、写実的な風俗描写や立体感の表現を抑え、平面的で装飾的な美を表現しようとしたのかも知れません。

 この屏風絵が描かれたのは文化年間の後半、田善の最晩年にあたる60代後半。
 田善が新たな方向を模索していた可能性も考えられる。

 最後に、もうひとつ、晩年の亜欧堂田善が描いた異色の油彩による山水画を紹介します。
144-5.jpg 右図がそれで、絹地に油彩で描いた「山水人物図」

 これは写実的な風景ではない。
 伝統的な「山水画」の概念を「油彩」で表現してみせたのです。
 だから、何とも不思議な、いわば「シュールな風景画」となっています。
 
 岩の形は「キュビスム」の絵のよう・・
 岩の彩色は、灰色に薄いベージュを重ねて、東洋水墨画の岩とは異質なぬめぬめとした岩肌となっている。

 それを、中国風の衣装を着けた高士が見つめている。
 急峻な山岳風景の中に、高士と従者を描き込むという画題は、東洋山水画の伝統的なスタイルです。
 しかし、田善のこの絵から受ける印象は、まるで異質な感じ。田善独自の絵画世界です。
まさにこの絵は、田善が、東洋伝統の山水画を、新たに油彩で西洋画風に描いてやろうと試みた意欲作なのです。

144-6.jpg
 
 次回は、亜欧堂田善が、自分を引き立ててくれた白河藩主・松平定信の期待に応えて、銅版画で制作した「世界地図」や「解剖図」を紹介します。
(次号に続く)


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浅草風土記 №42 [文芸美術の森]

香取先生 1

      作家・俳人  久保田万太郎

   香取先生

                一

「……偖我が浅草小学校訓導香取真楯先生には明治三十年本校に教鞭を執られてより在職当に三十二年の其間温厳宜しきを得て児童を教育せられたる功績は本校関係者の熟知せる所に有之候。宜なるかな昨秋御大礼に際し文部大臣より功労顕著なる故を以て表彰せられたる事や、是先生の御栄誉は勿論本校としても全国を通じて僅かなる特別功労老中に加はるべき先生を出したるは非常の名誉と存じ候。仍(よ)つて有志相図り先生の為に左記の通り祝賀会を開き並びに記念品を贈呈致し度候間先生に縁故を有せらる方は勿論本校関係者諸氏は右趣旨御賛成の上奮って御参会被下度此段待貴意候。敬具。」
「浅草小学校香取先生表彰記念祝賀会」からこうした印刷のてがみをわたしはうけとった。香取先生というのはわたしのむかしの先生である。むかし小学校で教わった先生である。――小学校ではじめてわたしの英語を教わった先生である。
 勿論、その時分でも、英語は正課ではなかった。高等三年以上……だったと思う……の希望のものだけがそれをやり、やりたくないものはやらなくってもいい、そういう自由な規則だった。で、そのためには、正規の稽古の終ったあと一時間でも二時間でもなお残らなければいけなかった。だから、自然、それを希望するものは、級の中でもある程度の成績をかちえているもの……端的にいって「勉強家」……その時分の言い方でいって「学校の好きな」ものばかりに結句限られた。――なかでも、わたしの、優秀な成績をもった生徒、感心な勉強家、不思議に「学校の好きな」子供だったことはいうをまたない。
 ところがその優秀な成績をもった生徒の、感心な勉強家の、不思議に「学校の好きな」子供の仮面が、あるとき、痛快に、もののみごとに引ッ剥がれた。その英語の時間にである、その時問に香取先生によってである。
「勉強せい!」
 一ト言……たったそう一ト言いわれてすくみ上った。
 というのも重々こっちがわるかったので、忘れもしない、神田リーダーの、あなたはわたくしよりせいが高い、かれはあなたよりせいが高い、かれは三人のうちで一番せいが高い。……そこんところを香取先生、噛んでくくめるように二ことを幾度も、しかくあなたはわたくしよりせいが高い、かれはあなたよりせいが高い、かれは三人のうちで一番せいが高いとそればかりくり返すのをじれったく、もういい分った、いつまでおんなじことをいっているんだ、と甚だ不届きに、わきを向いて、となりのものとわたしは話をはじめた。――勿論なんの話、どんな話をそのときはじめたかはおぼえていないが、どのみち公園の、加藤剣舞の最近替った演(だ)しものについての話、でなければ押川春浪の『海底軍艦』の話か、でなければすぐもうそこに眼のまえに迫った四万六千日の話か……なぜならそれが一学期の末の、すぐもうあかるい夏休みになるであろう時分だったから。……おそらくそんなこと位に違いない。……
 と、そのとき、
「久保田!」
 不意にそう呼ばれた奴である。~はっとしたって間に合わない……

           二

が、優秀な成績をもった生徒は、感心な勉強家は、おくめんなくすぐ立上った。
「つぎを読みなさい。」
 香取先生は敢然といった。
「……」
 勿論、わたしは、無言に立ちすくんだ。――読めといわれたってどこを読んでいいのか
分らないのである。――わたしの持って立った本の、すくなくもいままでわたしのあげて
いた部分には、ことさらそんな読まなくッちゃァならない文章なんぞ存在しないのである。
 わたしはわたしのうえに教室中の眼を感じた。――わたしはカッカした……
「出来ません。」
 潔くわたしはいった。
「出来ない?」
 それは、だが、香取先生にとって意外な返事らしかった。
「……出来ません。」
もう一度わたしは……だが、今度は、まえほど決していさざよくなくいった。
「…………一
急にあたりのしんとしたのをわたしは感じた。――と、そのとき――そのときである……
「勉強せい!」
 ……わたしはすくみ上った.。
 というのが、これ、そこにいるのは始終一しょにいる仲間ばかりでないのである。その時間に限って女が一しょなのである。男女共学なのである。――入らざるよそ外の奴たちのまえにかかなくってもいい恥をかき、うしなわなくってもいい面目を失ったわたしに、そのままぼんやり腰をかけたわたしに、その教室(とはほんとうはいわなかった、その時分まだ教場といっていた)の、どこもすっかりせいせいとあけッぴろげた三方の窓、その
窓々の白い金巾のカーテンをふき抜いて来る午後の風があくまで無心にやさしかった。
 わたしは眼をそらした。
 そのカーテンのかげに、七月のあかるい濃い空が、カッとした、殿きつくような感じにひろかっていた。
 不思議とそのけしきを、夢のように、いまだにわたしはおぼえている。
 が、それ以来、わたしにとって香取先生は怖い先生になった。それまででも怖くないことはなかったけれど、すくなくもそれ以来、はッきりと怖くなった。ごまかしのきかない先生、油断の出来ない先生、だらしのないことの大嫌いな先生として、わたしばかりでなく、外のものでもみんな気ぶッせいがった。――ということの一つは、そのときの、われわれ高等三年担任の先生が音無しすぎるほど音無しい先生だったからである。やさしすぎるほどやさしい先生だったからである。だから何をしても大丈夫という肚がみんなにあった。――そこへゆくりなくあらわれたのが香取先生……剛毅そのもの、果断そのもののような香取先生だった…・
 実際この紺の背広につつんだ先生の短躯……先生はふとって小柄だった……にはみるから精悍の気がみなぎっていた。太い眉、けいけいと輝いた限、ふさぷさと濃い毛を無雑作に分けた頭。――運動場で号令をかけるのを聞いても、誰よりも、先生、一番キビキビと大きな声だった。
 わたしの記憶にもしあやまりがなければ、ふだんは先生、尋常三年だか四年だかうけもちの先生だった。

『浅草風土記』 中公文庫



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山羊の歌 №8 [文芸美術の森]

都会の夏の夜

       詩人  中原中也

 月は空にメダルのやうに、
 街角(まちかど)に建物はオルガンのやうに、
 遊び疲れた男どち唱ひながらに帰ってゆく。
 ――イカムネ・カラアがまがつてゐる――

 その唇(くちびる)はひら(月+去)ききつて
 その心は何か悲しい。
 頭が暗い土塊になって、
 ただもうラアラア唱ってゆくのだ。

 商用のことや祖先のことや
 忘れてゐるといふではないが、
 都会の夏の夜の更(ふけ)――
 死んだ火薬と深くして
 眼に外燈の滲みいれば
 ただもうラアラア唱ってゆくのだ。


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霧笛 №4 [文芸美術の森]

霧笛 4

         作家  大佛次郎

「あんた、まだ飲まないんじゃない?」
 と、娘は千代吉の顔色を伺うように見た。
「飲むさ、いくらだい? 取ってくれたらいい」
 千代吉は、女の目の色のおどおどしているのを見ていっそう迫るようにいった。
 娘はしばらく黙っていたが、
「あんたの召上がった分だけでいいわ」
 といって、台の上の銀貨を取ろうとした、そのとたんに千代吉は台越しに腕を伸ばして、
女の顔を両手ではさんでいた。微かに驚きの声を漏らした唇は、別の唇で、まったく蓋を
されていた。女はもがいて、夢中で千代吉の顔をかきむしった。はじめて千代吉は手を放した。
 それからお互に、離れたまま、敵同士のように目と目とを見合せていた。
「悪かったかね?」
 男はかみつくような声で、押しだすようにこういい放った。大胆不敵な目の色はいっこうに変りがなかった。強い非難を含んで見つめている女の方で、かえって、先に弱々しく視線を外して不平らしく口の中でなにかつぶやいた。
「異人の真似(まね)なんか、よしたらいいー」
「悪かったね。それでいくらなんだ。足りなければもっと出すぜ」
「なんに払うっていうの?」
「なにからなにまで、すっかり、こめてだ」
「持ってもしないくせに」
「冗談でしょう。俺ア買物をするときは、いつだって財布に相談してからにする。高すぎるものは手をだしたことがないんだ。煙草が欲しいが持ってねえか」
 女は、千代吉の手がとどかないように台から離れて、背後(うしろ)の棚にすれすれに立っていて、煙草を袂(たもと)から出しながら、千代吉には渡さないで冷然と自分の口に啣(くわ)え、火をつけてから故意に静かに一服して、もやもや漂う煙の陰から男の顔を見つめた。
「持っていても、お前さんにはあげられないね」
 千代吉はあきれたように、女の姿を見まもっていた。つめたい顔立が、いけぞんざいな口のきき方が、不思議になまめかしく見えることだ。千代吉は、唇に残ってるキスの味を思い返した。
「くれないっていうんならもらわなくたっていい。そう欲しくもないんだ」
「負惜(まけお)しみでしょう?」
 女は千代吉の怒りをこめた顔つきを見つめていた。右の頬に糸のように血のにじんでいるのを見た。さっき、自分が夢中で爪で引っかいたものなのだ。そんなにしたのも、男のやり方がびっくりさせられるほど、がむしゃらで烈(はげ)しかったせいなのである。女はそれを考えるといまは急におかしくなっていた。
「富さんをぽかぽかやったって、本当?」
 千代吉は急に両手を宙にひろげて大きな欠伸(あくび)をして、なにか力をこめて抱えこむような恰好で腕組みしてからいった。
「奥へ行ってみよう」
「…………」
「誰かもっと親切な奴が、煙草ぐらいくれるだろう。なんにしてもお前さんの顔を、少し長く見すぎていたようだ。ほかにも誰かきれいなひとが多勢いるんだろう」
「ええ、多勢」
 女は煙草を啣えたまま台にもたれて、千代吉を見送った。肩幅の広い、太い木の幹でも見るようにがっしりしたたくましい胴を、あらためて物を見なおすような、烈しい興味の窺(うかが)える目つきでじっと見まもっていた。
 奥は小部屋に分れていた。廊下は薄暗い。各部屋の壁の上部にある風抜きの窓から漏れる瓦斯灯(ガスとう)の青い光が、天井を明るくしているだけだった。
 千代吉は、平らな廊下でつまずいて、まだ酔っているなと自覚した。知らずに、壁にもたれて立って、大きな息をしているのである。ただ、自分の身体の中に平常抑えつけて暮している獣物(けだもの)のようなものが、忽然と幅を増し、背たけを加えて、棒を立てたように身体の中にわさのさばっているのを感じる。どこへ行こうがなにをしようが勝手なのだ。噂では日本人の客は頑として拒むとか聞いている外人相手の商売家へ入ってきているわけだが、こんな安普請の、ペンキ塗りの家なんか、自分が毀(こわ)そうと思えば、たちまちに毀してしまえると思うのだ。
 廊下の奥から誰か出てきた。長襦袢一枚の女で、ふいと出てきたときは、薄暗いところで見るのだし、細長くて幽霊のような感じを与えた。女は裸も同じような姿だった。千代吉がいるのに気がつき、そんな日本人がいるのを不審に思ったように見返りながらひどく事務的な冷淡な様子で、はだけた胸を合せもしないで便所らしいガラス戸の中へ姿を消した。
(つんつんしてやがる。女郎め)                
 千代吉はむやみと腹が立った。出てくるのを廊下に待っていて、なにか、悪戯してやることも考えないではなかった。少し前から人の気配がしていた側のドアの中からお代官坂の富の声がしたのに気がついて、乱暴に、その把手(ハンドル)をつかんで開けようとした。
「誰?」
 と、女の声でとがめた。          
 千代吉は返事もしないで、むりに開けようとして、鍵がかかっているのに気がついてから、
 「俺だ」
 といった。
 鍵の音をさせてドアをあけてくれたのは、富だった。
 煙草の煙がもうもうとこもった部屋の中に、女が三人と、富のほかに、もっとでっぷりした男が一人、テーブルを囲んでいて、入ってきた千代吉に一度に視線をあびせかけた。洋酒の壜やコップのほかに、めいめいの前に、辞夢と群や銀貨がちらぼっていた。
「待っててくんな」
 と、富はいった。
「もう、すぐだ」
「酔っぱらいさんかい?」
 と、巻煙草を嘲えた、相撲のように肥った女が側からいった。
「富の奴、もう、さんざんなんだよ」
「まったく、すっからかんだ。今夜ぐらい、けちのついたことはない」
「今夜とは限んないね」
 この四十がらみの大柄の女がこの家のおかみさんらしかった。ほかに二人いる女も、どちらも一見して異人屋敷の女とわかる。その一人の年若い方は、胸のところに首から金鎖を垂らしていた。千代吉が支那人かと最初思ったのは、正面にいた大男だった。顎なんか二重になっている、色の白い、でっぷりした男で、顔の色つやもいいし、われるくらい福相の、絶えずにこにこしている男だった。
「さあ、やろう」
 と、その男がいった。
 千代吉が入ってきたのでいったん中断された注意を各人が急に回復して、手の中の加留多に向けなおしたものに違いない。勝負に特有の緊張した沈黙が、卓を中心にしてみなぎった。
 千代吉は自分だけ除外されているようでおもしろくなかったので、部屋の隅にある寝台に腰をおろしかけたが、不満を抑えきれなかったので、
「おい」
 と、故意に無作法に、連れに話しかけた。
「豚常って奴は、どこにいるんだい?」
 富は答えなかった。代りに、千代吉のいるところからは正面になっていた大男がひょいと顔をあげて千代吉を見て、
「なにか用があるのかい?」
 と、おだやかに尋ね返した。
「常五郎はおれだが……」
                                        
 気がついて見るとお代官坂の富が顔色を変えて、今さら、制(と)めようもないので途方にくれたような顔色になっていたので、はじめて、千代吉にも、その福相の男が、その豚常だと、わかって、不意を衝かれた形で即座の返事も出なかった。   
 豚常という男には、どこか大きいところがあった。こちらが返事に詰っているのを見ると、強いて問い返そうとする様子もなく、ちょうど自分の番に廻ってきていた加留多を無造作にめくって、見入った。
 「気をつけなよ。手前、酔ってやがる」
 と狼狽えて持薬をはさんだのは、富だった。千代吉は、無言で挑むように肩をそびえさせた。その間も目を放さずに豚常の顔を見つめていたのだが、豚常の方ではいっこう気にかけないでいるらしいのが、甘く見られるようで、むやみに、腹が立ってきた。
「酔っちゃいねえ、あれっばっちの酒で」
「おい、兄(あに)さん」
 と豚常は、愛橋のある目もとを笑わせて、おだやかに声をかけてきた。
「どんな話か知らねえが、他人(ひと)がせっかく愉快に遊んでいるところだ。用があるなら後で聞くから、少し待ってもらおうよ。はははははは、……どこの若い衆だ? おい、富さん、お前の番だ」
「へえ、おれの番か?」
「めくるんだ」
豚常は、卓の上へひじをつきながら、離れてでくの坊のように立っていて、自分でもそれを知っていっそうけわしい顔つきになってにらんでいる千代吉の方を、ゆったりと見て笑うのだった。
「どこかの屋敷にいる人かい?」
 番はまた廻ってきた。豚常は、めくった加留多を返してみながら、
「こいつはいいね」
「また、いいの? ついてるんだね。親方」
「そうかも知れねえ。負けたくっても、これじゃア負けようがない」
「いよいよ、おれもお陀仏か?」
「気の弱いことをいう! いつもの富さんのようでもない。なんなら…⊥
 豚常は悠然(ゆうぜん)と目をあげて、千代吉の方を見た。
「その若い衆もやるんだろう。代ってもらってもいいぜ。少しは風の向きが違ってくるかもしれない。どうだい、兄さん。お前さん、富さんの代りをしないか?」
 千代吉は、この相手の申し出ることならなんでも拒まずにはいられなかったので、無言のまま、首を振ってみせた。
 豚常は、また機嫌よく笑っていた。
「そいつも、いやか? 困ったもんだね。まあ、いいや。富さん、そのまま、やんねえ」
「いや、待っておくんなさい」   
 お代官坂の富は、自分の困った立場の申訳(もうしわけ)にも、千代吉をここで勝負に加えて、なんとかこの場の恰好をつけたいと、あせっているようだった。
「おい、兄さん、お前、代ってくんないか? 大丈夫だ! お前、今夜は、べらぼうに運が.いいんだから、ひとつ、おいらの代りにやって、大きく当てて、皆をあっといわしてくれ。なあ、兄さん」
 富は、わざわざ立ってきていた。
「ええ。まったくだ。お前、今夜はおれより運のいいのは確かなんだ。そうだろう。いいじゃないか? やってくんなよ、
 その間も、豚常は、千代吉のことをまるで念頭においていないように、隣に坐っている女になにか話しかけながら、手を伸ばして女のえりの金鎖を引きだして鎖の端につけてある金色の十字架を薄ら笑いを含んで眺めていた。てんで、こちらを無視しているらしい態度が、最初に富から聞いた話と思い合せて、相手の底の知れない不安を千代吉に抱かせてきていたのも事実であった。
「さあ……」
 わざわざ腕をつかんで、強いる連れに、千代吉は、まだ逆らいながら、最初ほどの気勢もなく、豚常と卓を隔てて坐らせられていた。
「さあ、やろう。やろう」
豚常は、相変らずの機嫌で向きなおって若者の顔を見つめた。
「親は、こんどはお前さんだな」


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詩人の本棚 №2 [文芸美術の森]

東西の文化を踏まえた森鴎外           

             高松力平

林太郎・森鴎外(1862-1922)は、島根県津和野町に津和野藩医森静男の長男として生まれた。19歳で東大医学部を卒業、軍医となる。23歳でドイツに留学。ライプチヒ、ミュンヘン、ベルリンに滞在、研究に励んだ。ヨーロッパの風土に馴染み、日本人であることも同時に意識していたと思われる。 以下は、それ以後の鴎外を底流した立場だ。

「新しい日本は東洋の文化と西洋の文化とが落ち合って渦を巻いている国である、そこで東洋の文化に立脚している学者もある、西洋の文化に立脚している学者もある、どちらも一本足で立っている、(中略)現にある許多(あまた)の学問上の葛藤や衝突はこの二要素が争っているのである、そこで時代は別に二本足の学者を要求する、東西両洋の文化を、一般ずつの足で踏まえて立っている学者を要求する、真に穏健な議論はそういう人を待って始て立てられる、そういう人は現代に必要なる調和的要素である」「鼎軒先生」

26歳で4年間のをドイツ留学を終えて帰国。 
30歳で本郷駒込千駄木町(現・文京区千駄木1丁目)に居を構えた。⒉階から遠く品川の海を望めたので『観潮楼』と命名。残る30年の人生を家族とともに過ごした。
軍医として才能を発揮し陸軍医務局長や陸軍軍医総監の地位に進む。その一方、明治文壇の重鎮として大きな業績を残した。

代表作としては
『舞姫』(1890)
『雁』(1915)
『うたかたの記』(1890)
『即興詩人』(1901)
『ヰタ・セクスアリス』(1909)
『阿部一族』(1913
『山椒大夫』(1915)
『高瀬舟』(1916)
『渋江抽斎』(1916)など。

鴎外の文体は鮮やかだ。確固とした漢文の素養に裏打ちされた言文一致で展開する。音読してみるとそれが実感できる。鴎外の作品は小説について語られることの方が多いが、詩作でも卓抜な作品を遺している。
鴎外は詩集『於母影』(おもかげ)を編むのに際し。「独り西詩の意思世界と情感世界との美ならず又西詩の外形の美をも邦人に示」そうとしたのだと言っている。
「オフェリアの歌」は,シェクスピアの『ハムレット』が原詩だ。第4幕5場で,可憐な狂ったオフェリアが歌う歌だ。

『於母影』
オフェリアの歌
いづれを君が恋人と
わきて知るべきすべやある
貝の冠とつく杖と
はける靴とぞしるしなる

かれは死にけり我ひめよ
渠(かれ)はよみぢへ立ちにけり
かしらの方の苔を見よ
あしの方には石たてり

柩(ひつぎ)をおほふきぬの色は
高ねの雪と見まがひぬ
涙やどせる花の環(わ)は
ぬれたるままに葬(ほうむ)りぬ

問答形式のこの歌は、当時の観客に喝采を浴びた。
こうして鴎外は,これまでの日本には見られなかった新しさを切り拓いた。

笛の音
少年の巻
その1
君をはじめて見てしとき
そのうれしさやいかなりし
むすぶおもひもとけそめて
笛の声とはなりにけり
おもふおもひのあればこそ
夜すがらかくはふきすさべ
あはれと君もききねかし
こころこめたる笛のこえ

その2
君をはじめて見しときは
やよひ二日のことなりき
君があたりゆ風ふきて
こころのかすみをはらひけり
おぼろ月夜のかげはれて
さやけき光のそのうちに
みゆるかつらのその花は
うれしや君が名なりけり(以下略 )

沙羅の木
褐色(ちかいろ)の根府川石(ねぶかわいし)に
白き花はたと落ちたり、
ありとしも靑葉がくれに
見えざりしさらの木の花。

いねよかし
その1
けさたちいでし古里(ふるさと)は
青海原(あおうなばら)にかくれけり
夜嵐(よあらし)ふきて艪(ろ)きしれば
おどろきてたつ村千(むらち)どり
波にかくるる夕日影(ゆうひかげ)
追ひつつはしる舟のあし
のこる日影もわかれゆけ
わが故郷もいねよかし

その2
しばし波路(なみじ)のかりのやど
あすも変らぬ日は出でん
されど見ゆるは空とうみと
わがふるさとは遠からん
はや傾きぬ宿の軒(のき)
かまどにすだく秋のむし
垣根にしげる八重葎(やえむぐら)
かど辺(べ)に犬のこえかなし

 東京三鷹市の禅林寺に鴎外の墓がある。その墓碑銘には

余ハ石見人 森 林太郎トシテ
死セント欲ス 宮内省陸軍皆
縁故アレドモ 生死別ルヽ瞬間
アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス
森 林太郎トシテ死セントス

鴎外は人生の最期を、壮麗な官職・鴎外という名声を取り除いた森林太郎として迎えると言い切っている。私たちはその鮮やかな覚悟に合掌するのみだ。  


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石井鶴三の世界 №271 [文芸美術の森]

弥勒 1944年/法隆寺・吉祥天 1944年

       画家・彫刻家  石井鶴三

1944弥勒.jpg
弥勒 1944年(182×134)
1944法隆寺吉祥天.jpg
法隆寺・吉祥天 1944年 (182×143)


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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社 

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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」 №143 [文芸美術の森]

          シリーズ:江戸・洋風画の先駆者たち
            ~司馬江漢と亜欧堂田善~
                   第12回 
               美術ジャーナリスト 斎藤陽一
        「亜欧堂(あおうどう)田(でん)善(ぜん)」 その6

≪油彩で描く江戸の情景≫

 前回に続き、亜欧堂田善が描いた油彩画を紹介します。

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 この絵は、田善が文化年間に描いた「墨堤観桜図」
 桜咲く春うららの隅田川の風情を油彩で描いています。
 ここは、隅田川の東岸、三囲稲荷(みめぐりいなり)あたりとされ、左側の対岸に小さく見える桜の森は真崎稲荷とされる。
 隅田川の先のはるか遠方には、筑波山も描かれているというが、肉眼ではほとんど分からない。

 人物や木々の影が細長く伸びているので、午後の遅い時刻か。

 真ん中に二本の松の木を大きく力強く描き、その後ろに、湾曲しながらはるか彼方へと続く隅田川と墨堤を描くことで、私達の視線も奥へ奥へと誘われる。
 この奥行き感が、田善風景画の魅力のひとつです。

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 大きな松の下には、二人の男がたたずんでいる。例によって、田善独特のデフォルメされた、ひょろ長いプロポーション。
 この二人には「文人」のような雰囲気が感じられるところから、田善自身とその弟子と言う伝承もある。
 その先には、天秤棒で荷をかつぐ男や、三人連れの女たちの後ろ姿が・・・

 穏やかな時間が流れる、のどかな春の午後・・・気持ちのいい絵です。

 亜欧堂田善は、同じところ(三囲稲荷あたり)を、油彩で「雪景色」として描いているので、見ておきましょう。

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 上図「三囲雪景図」がそれ。

 右手には、三囲神社の鳥居と参道が描かれている。
 隅田川のはるか遠くには、筑波山が霞んで見える。

144-4.jpg 雪が降り続く中、雪に覆われた堤の上で、蓑笠をつけた二人の男が後ろ姿を見せている。一人は横を向いて、連れの男に何かを話しかけているように見える。
 二人は何を眺めているのだろうか?
 雪が降りしきる中、どこに行こうとしているのだろうか?見る者の想像をかきたてる、静かな情感をたたえた油彩画です。

 もう1点、亜欧堂田善の油彩画を紹介します。

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 これは、江戸城の堀沿いを油彩で描いた「江戸城辺風景図」

 右側の広い空き地は、元は護持院があったところですが、この当時は、防火のための空き地となっていました。

 お堀に沿った道と並木は、カーブしながら左奥のほうへと続いている。田善は、この風景を見事な「透視画法」で構成しています。西洋銅版画の研究によって修得したのでしょうね。

 手前には、歩みを進める後ろ姿の二人連れ。これが、私達の視線をさらに奥へと導くポイントとなっている。

 このような後ろ姿の人物が醸し出す雰囲気は、どこか、フランス素朴派の画家アンリ・ルソー(1844~1910)の絵に通じるものがある・・・

 例えば、ひろしま美術館が所蔵するアンリ・ルソーのこの絵:

144-6.jpg

 いかにもアンリ・ルソーらしいプリミティブな画法で描かれた風景の中に、後ろ姿の人物を配することで、どこか謎めいた雰囲気が醸し出される。
 とは言え、亜欧堂田善(1748~1822)のほうがアンリ・ルソーより100年前に生れており、にもかかわらず、田善のこの「透視画法」のほうがはるかに西洋的であるところが面白い。

 次回は、亜欧堂田善が描いた江戸時代最大の油彩画「浅間山屏風図」を紹介します。
(次号に続く)


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霧笛 №3 [文芸美術の森]

霧笛 3

          作家  大佛次郎

 場所も記像も時の観念もさらになかった。なにもかももうろうとしているなかに、自分の身体の、手足の端まで充実した快さを、うっとりと味わっていた。ものういまでに、気重く感じられる。眠っているんだなと思った。身体が、どこか水の底のような、妨げられることのない深みに沈んで、のびのびと、自由自在に横たわっていたのを感じる。
 そう感じたとき、千代吉は徐々に醒(さ)め始めてきていた。弾力をひそめて自分の体重を柔かく受け止めているクッションの抵抗の具合が、主人の屋敷の客間の長椅子のように思い、知らない間にそんなところへ来て睡(ねむ)ってしまったのかと、ぼんやり思ったのだが、主人は商用で神戸へ行った留守なので、なにをしたところで安心なのだと、しびれたような頭の隅でぼんやり思っていると、つい間近に誰か人がいて、ゆるくものうげに団扇を動かしている気配が、まだ綴(と)じつけられたように重い瞼の上に感じられるのだった。女のにおいのようなものがした。
 急に身内に走るものがあったように感じて、千代吉は目をあけてみた。視線は正確に、それまでに人のいる気配を感じていたところに向った。   
 部屋の内は薄暗かったが、若い女が一人椅子にかけているのが、浴衣の模様の藍の色の鮮やかなのを浮かせて、いかにもはっきりと見えた。部屋の内は静かだった。細めたランプの芯(しん)が黄ばんで燃えているだけである。
 見たことのない女だった。十七、八の、小柄な女で、なぜ、そんなところに坐っているのか知らないが、部屋の入口のドアの側に椅子を置いて、ガラス越しに外を見ているので横に向けた顔に外の光を受けている。ゆたかな髪を銀杏返しに結って、顔立も静かな、若い女だった。             
 気がついてみると、ガラス戸の外はすぐ往来で、瓦斯灯(ガスとう)の光が青くふるえながら、ガラスに映っているわけだ。ガラスにはペンキで横文字でなにか書いてある。千代吉のいるところからは、文字を裏側から見るのだ。
 (そうなのだ!)
 記憶は戻ってきた。
 千代吉は、お代官坂の富に引っ張られて、このドアをあけてここへ入ってきたように覚えている。そのときはもう苦しかったほど酔っていたが、ここへ入ってきたことまではたしかだ。
  それから倒れてしまったのだろう。これは長井須田。酒場から話して壁側に押し付けてある、布もよごれた椅子だ。酒場は台の上に暗いランプが、棚に並べたいろいろの壜の壜腹をぼんやり浮かしているだけで、天井からさげてある瓦斯灯ももう消えている。
 千代吉が起き上ろうとして動いたので、椅子の女は気がついて、顔を向けた。
 薄暗い中に白く動いた顔に、男は自分の立場をてれた。
「どこだい、ここは?」
女はしばらく答えないで、黙って笑いながら、椅子にかけて少しはだけていた浴衣の前を
なおした。
「どこか知らないの?」
「知るもんか!」
千代吉は、女の静かな調子を怒ったような声で答えて、立ち上った。
「おれの連れは帰ったのか?」
「富さん?」
女はこういっておいて、そのことは答えオかった。千代吉が突っ立って返事を待っている
静かな間を、団扇の動きがゆるやかに刻んだ。
「兄ちゃん……」
「…………」
「富さんをぽかぽかに殴ったんですって?」
 千代吉は、急に短気らしい色を眉間にひらめかした。女をにらみつけた目は、まるで威嚇するように見えた。
「どこへ行ったって、訊(き)いているんだ!」
 団扇の動きがやんだ。女はさも驚いたように目をみはってじっと千代吉を見上げていた。
千代吉は側へ寄ってはじめて気がついたのだが、女の顔は、こんな酒場にいるものらしくもなく、子供っぽくて、素人(しろうと)臭かった。千代吉の荒っぽい剣幕に、実際に怯えたよケに見えたくらいである。
 「先へ帰ったのか?」
 幾分か語気を柔げて、こう訊くと、娘は千代吉の顔を見つめたまま銀杏返しの髪を軽く横に振ってみせた。
 「奥にいるわ」
 「ふむ、奥に?」
 そう聞けば酒場のわきに入口があって狭い廊下が奥へ入っているのを見た。奥の方で先刻から男女の笑い声がしていた。この家だってこのごろ居留地に殖えたあいまい屋の一軒に違いないのである。齢噺の荒野の壁に横領頂の淫山の警並べて、誰のだか西洋人の軍人
の肖像が掲げてある。酒場の具合だって椅子や卓子の置いてあるのだって、いずれ主人は外国人で、治外法権の特別の扱いがあるから日本の警察が手をいれられないのを好都合にして、荒っぽいもうけをしている家に違いないのだ。疑問は、西洋人の経営の店では日本人を客にしない習慣があることである。
 「奥でなにをしているんだ?」
 「行ってみるといいわ」
 「お前もここの家のひとかね?」
 「違うの、ただ遊びに来てんだわ」
 娘は千代吉の目をまぶしそうに視線を外らした。
 千代吉は、あくまでも、女の姿を見すえていた。女の首筋は細かった。青い、おどおどした陰影(かげ)を持っていた若い体のしなやかさを浴衣の上から想像できるくらいであった。小さい手だの、組み合せた足首だの、すべてがいかにも日本の娘らしい、こまかくて優しいものだったのを、珍しいものでも見つけたように、しげしげと眺めるのだった。
 「なんて名だい?」
 「はな」
 「お花さんか」
 千代吉は、なんとなぐ満足して首を傾げた。
 「いい女だね、お前さん」
 女は人を小馬鹿にしたように笑って立ち上ると、廻って酒場の中へ入って、台を隔てていわば要塞へこもったようにして、千代吉と向い合った。
 「なにか、お酒飲む?」
 「飲んだってしょうがねえが……」
 小便臭い女のくせに生意気なことをしやがる、となんとなく腹を立てていた。
 「お前が飲むんなら一杯ぐらいつきあおうか?」
 「ブランデー?」
 「うむ」
 たしかに女は美しかった。まだ荒されていない、そんな感じのほかに、静かな顔立の中
に、冷淡らしいものがあるのが、男の心をひきつけた。
 「商売をしているのかね?」          つ
 女は、黙って、グラスを二つ並べて、一つにブランデーを注いでからこんどは別のレッテルの壕を棚から取って、もう一つのグラスを満たした。
 「なにを飲むんだ?」
 「そうね。ジン?」
 「そいつは強いんだろう」
 女は、あいまいな笑い方をしながら千代吉の問いには答えないでグラスの脚を指ではさんだ。
 「召上がらない?」
 「そっちを俺に飲ませないか?」
 何気なく、こういいだしたのだが、隠しもおおせない狼狽(ろうばい)の色が女の顔にあらわれたのを見て、千代吉は変だと思った。
 千代吉は腕を伸ばしていた。グラスは女が渡すまいとして動かした手から落ちそうになって傾き、酒がこぼれて、台をぬらした。
 「乱暴しっこなし」
千代吉はそんなことには無関係に酒にぬれて気持の悪い指を口へ持っていって、しゃぶり
かけていた。舌の端に感じたのは、アルコールの気の微塵もない、無味の水であった。女が見せた狼狽の理由が、これであった。
「ははあ……」
と千代吉はひと。でうなずいた。台に両腕でもたれると、無遠慮な視線をあびせて女の顔
をのぞきこんでいた。黙って金をだして台の上においた。
「いくらだい、両方で⊥/
「あんた、まだ飲まないんじゃない?」


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詩人の本棚 №1 [文芸美術の森]

南蛮情緒の詩人・医師木下杢太郎     

            高松力平

木下杢太郎(1885-1945)本名・大田正男は、静岡県賀茂郡湯川村(現・伊東市)の雑貨問屋「米惣」の7人兄弟の末子に生まれた。(生家は伊東市最古の民家として杢太郎記念館となっている)
小学校を終えると、医者をめざして上京。独逸学協会学校(現・獨協大学の源流)に進みドイツ語を学ぶ。その後第一高等学校を経て東京帝国大学医科大学を卒業して医師となる。
大正10年(1921年)から4年間フランスに留学して、太田-ランゲロン分類と呼ばれる真菌の分類法を確立。その功績により、後にフランス政府からレジオン・ドヌール勲章を授与された。

与謝野晶子は雑誌『明星』で杢太郎を評している。

  木下さんは一方に科学者である、医学博士である、大学教授である。病院では皮膚科  の専門医である、一方に画家である、戯曲家、詩人、小説家である。また一方で考証  家、批評家、支那学者である。また一方に独、英、支那の各国語に通じてゐる人であ  る。該博な人には浅薄の非難の伴ふものであるけれども、木下さんには其れが無い。  何事にも真面目であり、入念であり、研究心が深く、情熱が行き亘るのである。氏の  知識も趣味も殆ど際涯がない程に広い。

杢太郎は「自我独創の詩を楽む」と与謝野鉄幹の主菜する新詩社に加盟詩、新しい詩作にも励んだ。その仲間には与謝野晶子、高村光太郎、石川啄木、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、佐藤春夫などがいた。
この頃、森鴎外が自宅の観潮楼で開いていた歌会にもよく出席し、鴎外を終生「先生」と慕った。

木下杢太郎は詩人・北原白秋、長田秀雄、吉井勇らと、画家・石井柏亭(主宰)、山本鼎、森田恒友、倉田白羊と語りあおうと「パンの会」を結成、その世話役となった。
「パンの会」は隅田川をパリのセーヌ川に見立てて宴をはっていた。杢太郎は書き記している。

 「築地の渡し」序
築地の渡しより明石町に出づれば、あなたの岸には月島また佃島、燈(ともしび)ところどころ。実(げ)に夜の川口の眺めはパンの会勃興(ぼっこう)当時の芸術的感興の源(みなもと)にてありき。永代橋を渡っての袂(たもと)に、その頃永代亭となん呼べる西洋料理屋ありき。その2階の窓より眺むるに,春宵(しゅんしょう)の宵(よい)などには川の面鍍金(おもてめっき)したるが如(ごと)く銀白(ぎんぱく)に月影往々(つきかげおうおう)そが上に澰灔(れんえん)の光を流しぬ。斯(か)かる時しもあれや,一艘(いっそう)の小さき舟ぞ来(きた)る……
 
 房州通(ぼうしゅうかよ)ひか、伊豆ゆきか。
 笛が聞える,あの笛が、
 渡しわたれば佃島(つくだじま)。
 メトロポオルの燈(ひ)が見える。

当時、築地にあったアメリカ公使館の跡にちいさいながら洒落たホテル・メトロポオルがあった。それは「パンの会」の象徴の一つだったのだ。
 「両国」
両国の橋の下へかかりゃ
大船(おおぶね)は橋を倒すよ、
やれやれそれ船頭が懸声(かけごえ)をするよ。
五月五日の肌に冷き河の風、
四ッ目から来る早船(はやぶね)の緩(ゆるや)かな艪拍子(ろびょうし)や、
牡丹(ぼたん)を染(そ)めた半纏(はんてん)の蝶蝶(ちょうちょう)が波にもまるる。
灘(なだ)の美酒(びしゅ),菊正宗、
薄玻璃(うすはり)の杯(さかずき)へなつかしい香(か)を盛って
西洋料理舗の二階から
ぼんやりとした入日空(いりひぞら)、
夢の国技館の園屋根(まるやね)こえて
遠く飛ぶ鳥の,夕鳥(ゆうどり)の影を見れば
なぜか心のみだるる。

「お花さん」
            その家の女中物に躓(つまづ)きて手なる盤(さら)を落としければ

深川の西洋料理の二階から
お花さんがまた大川(おおかわ)を眺めてるよ。
入り日(いりひ)の影は悲しかろ、
細い汽笛も鳴いて来る。
お前がひとり悲しんだとて,嘆(なげ)けばとて、
つふれた家は立ちません。
あんまり何(なに)して粗相(そそう)はしまいこと。
杢太郎の時代の横浜には,居留地の異国情緒が残っていた。外人舘にはそれぞれ何番舘という呼び名がついていた。ハイカラという言葉が生きていた。 今もそうだけれど、港には外国船が停泊していた。 

  『異人館遠望の曲』の序
  桜の花の間から紅(あか)い煉瓦(れんが)の異人館が見える。

    いま落日は金色にくわっとばかりに居留地の
    屋根といふ屋根、窗(まと゜)のびいどろ、
    また『コンシュル舘』 三階の望楼(ものみ)の上の米利堅(メリケン)の
    赤の号旗(ふらふ)に降りそそぐ
    沖の蒸気に降りそそぐ。
    また彼方(かなた)なる亜墨利加(アメリカ)の三十三番『ウエンリイド館』
    黄金(こがね)の獅子(しし)の招牌(かんばん)のペンキ軒に降りそそぐ。
    花を置きたる窗(まと゜)の欄干(てすり)に、異人なれども懐しや、
    まだ年若き英吉利斯人(エゲレスひと)は、口笛の
    悲しき節(ふし)に歌うたふ。
    商館(しょうかん)の奥より漏(も)るるおるごるの曲に合(あ)わせて歌うたふ。(以下略)
    
「珈琲」

今しがた
啜(すす)って置いた
MOKAのにほひがまだ何処(どこ)やらに
残りいるゆえうら悲(がな)し。
曇った空に
時時(ときどき)は雨さへけぶる五月の夜の冷(ひやこ)さに
黄(き)いろくにじむ華電気(はなでんき)、
酒宴(しゅえん)のあとの雑談の
やや狂(くる)ほしき情操(じょうそう)の、
さりとて別に是(これ)といふ故(ゆえ)もなけれど
うら懐しく
何となく古き恋など語(かた)らまほしく、
凝(じっ)としているけだるさに、
当(あ)てもなく見入れば白き食卓の
磁(じ)の花瓶(はながめ)にほのぼのと薄紅(うすくれない)の牡丹(ぼたん)の花。
珈琲(かふぇ) 珈琲 苦い珈琲。


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浅草風土記 №41 [文芸美術の森]

夏と町々 不動様 5

       作家・俳人  久保田万太郎
   
             八

 そのむかしはなしを、一伍一什、熹朔さんに話しました…・
「とにかく芝居茶屋だの、凌いだの、祭礼だの、そういう字のならんでいるのをみただけでもうカッとなってしまったんですからね。」
 そのあとそういってわらいました。
 が、いまだからそうわらえるようなもの、実際それまでの文学は、そういってもそういう文字に縁がなさすぎました。そういう存在の美しさに眼をふさぎすぎました。そういう人生を下積にしすぎました。――決してそれは自然主義の文学ばかりでなく、そのまえの硯友社の文学にしてもなおその繊細さを欠いていました。東京の、東京人の生活、あく迄ただしい伝統をもったその生活の、その底にかよういみじくも哀しいかれらの呼吸を、われわれ決してそれまでのどの文学にも聴くことが出来なかったのでした……
 が、やがてその広っ場を出てお堂のまえに立ったとき、
「これァいけない。」
 ひそかにそうあたりをみ廻しました。
 お堂は出来ました。立派に再建出来ました。でもそのお堂のまわり、お堂を取巻くいろいろの建造物の、もとのすがたにすべてまだ立ちもどっていないことがいたましく……というよりも、もっと弱い感じに寂しくつつましく震災の名残を物語っています。……といぅことは、たとえば三十六童子を随処に立たせたあのこごしい岩根のかげもそこにみ出されなければ、積まれた石の一片毎に奉納者の名まえを彫りつけたあの玉垣もむなしくいま残骸をとどめているばかり。……ただその石だたみのうえの大香炉あって、折からまた音もなくふり出した雨の中、しずかになつかしく昔ながらにうち煩っているのがみられるばかりでした。――人に押されて、そのままわれわれ、出るともなく表門のほうへ出ました。
 両側にならんだ講茶屋、暖簾と納め手拭との影のめざましくつづいたその光景。……「深川の唄」にもはッきりその特徴の描かれた光景。……墨一トいろの、いえば一ト言、「信心」のかげの濃く珍んだ光景。……で、おそらくあなたもそうお思いになったろうとおもいます、その講茶屋の一けん、むかし通った運座の家、忘れ難いあの「おもあかり」の宿をさすがに人情で覗きました。――その隣の店で粟餅を千切り、そのまえの店で団子を焼くように、その店では、四五人樺をかけた印半纏の男たちが、以前にかわらずいそがしそうに金鍔の解をつつんでいました。――が、「内陣新吉原講」の鉄門のそと、夜長、夜寒、しぐれのふぜいに懸られてあった石橋は、その下をながれていた細い溝の水とともにいつかそのすがたを消していました。
 そのあと、潮見橋をわたり、船木橋をわたったわれわれは、まるで戦争のような騒ぎの区画整理のなかを抜けて「きん稲」のまえに立ちました。木場のけしきは変ってもこのしもたやのような小さな料理屋のけしきはかありません。震災まえとおなじ間取の、二夕間しかない一ト間の、庭に向いたほうの座敷にすわって改めてその庭の上をみ直したとき、柳だの、銀杏だの、椎だの、さくらだの、桃だの、そうした若木ばかりの青々とした梢に、いつかまた止んだ雨のしッとりあかるい深川の……辰巳の空があくまでしずかに拡がっていました。――そこにはコンクリートのベンチも、コンクリートの藤棚も、コンクリートの土橋も、そうしたものの存在はすべて感じられませんでした。
「あしたは霄れますよ。」
あたくしは憲朔さんにいいました。

『浅草風土記』 中公文庫


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山羊の歌 №7 [文芸美術の森]

臨 終

        詩人  中原中也

 秋空は鈍色(にびいろ)にして
 黒馬の漣のひかり
   水涸(か)れて落つる百合花
   あー こころうつろなるかな

 神もなくしるべもなくて
 窓近く婦(をみな)の逝きぬ
   白き空盲(めし)ひてありて
   白き風冷たくありぬ

 窓際に髪を洗へば
 その腕の優しくありぬ
   朝の日は澪(こぼ)れてありぬ
   水の音したたりてゐぬ

 町々はさやぎてありぬ
 子等の声もつれてありぬ
   しかはあれ この魂はいかにとなるか?
   うすらぎて 空となるか?


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石井鶴三の世界 №270 [文芸美術の森]

隆寺中門仁王2点 1944年

        画家・彫刻家  石井鶴三

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1944方法隆寺中門仁王.jpg
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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれ
る。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社
 

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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №142 [文芸美術の森]

          シリーズ:江戸・洋風画の先駆者たち
             ~司馬江漢と亜欧堂田善~
                  第11回
              美術ジャーナリスト 斎藤陽一
      「亜欧堂(あおうどう)田(でん)善(ぜん)」 その5

≪油彩で描く江戸の情景≫

 亜欧堂田善は、銅版画だけではなく、西洋風の「油彩画」も研究して、今日、十数点の油彩画が知られています。
 いずれも、西洋画にも、従来の日本画にも見られない不思議な雰囲気を持ち、独特の味わいがあります。
 その中からいくつかの「油彩画」を見てみます。

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 上図は、田善の油彩画の代表作とされる作品「両国図」
 銅版画とは一味異なる、油彩独特の濃密な彩色が絹地に施されています。全体は、青と茶色を基調としながらも、その中で、女の着物と小女が持つ緋毛氈(ひもうせん)の「赤」が効果的なアクセントとなっている。

 季節は夏の夕刻。舞台は隅田川沿いの船宿の前。

 この絵でまず私たちの眼を引きつけるのは、田善特有のひょろ長く、くねっとした姿態
の人物たち。このようなデフォルメされた人物たちが、田善の油彩画に独特の雰囲気をもたらしています。
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 今しも、二人の力士が、船宿の主人に見送られて、これから夕涼みがてら「舟遊び」に出かけようとしている。先導するのは、緋毛氈と小箱を持った小女。力士たちはいかにも楽しそうな表情を浮かべている。

 軒下の縁台には、二人の男がくつろいだ様子でおしゃべりをしている。その前には、下女を連れた二人の女がなよやかな後ろ姿を見せている。会話が聞こえてきそうな雰囲気が・・・
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 二階には、隅田川を眺める男の客や、三味線を弾く女の後ろ姿もちらっと見える。粋な音色が流れている・・・
 「船宿」のあたりは、生き生きした人物描写で活気づいている。

 隅田川に目をやれば、沢山の船が浮かんでおり、その先には両国橋が見える。
 
 右側の船は、漁を終えて、帆を下ろしているところだろうか。男たちには、一日の仕事を終えた安堵感が見られる。
142-4.jpg それを、ひょろ長く描かれた屋形船の船頭が見つめている。

 両国橋の上には、沢山の人々が往来している・・・

 飴のように引き伸ばされた人物たちの面白さを堪能したあと、背景に目を向ければ、田善は西洋風の「透視画法」を用いており、深い奥行き感のある空間表現となっている。
 これらの結果、田善の油彩画には、従来の日本画にも、西洋画にも見られない、独特の味わいが生まれています。

 もうひとつ、亜欧堂田善の持ち味が出ている油彩画を紹介します。

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 これは、文化年間の田善が描いた油彩画「花下遊楽図」。花見の名所、御殿山を舞台としています。

142-6.jpg 御殿山の下の方、右手の海岸沿いに立ち並ぶ家並みは「品川宿」。
142-7.jpg その向こうの広がるのは「江戸湾」。はるか彼方には房総半島が霞んでいる。まことに雄大な景色です。

 左側、大きな木の下では、田楽売りの夫婦が豆腐を調理している。
 その奥の方には、花見客たちが点在。

 不思議な表情をした木々を、奥へ奥へとリズミカルに配した構図は、当時の浮世絵などで描かれた「花見風景」とは異質な表現です。
 陰影感ある丘の起伏の表現とあいまって、まことに不思議な、夢幻的な風景画となっています。

 次回もまた、亜欧堂田善の油彩画を紹介します。
(次号に続く)


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浅草風土記 №40 [文芸美術の森]

夏と町と 不動様 4

       作家・俳人  久保田万太郎

         七
 明治四十二年の二月といえば、文壇にまだ、自然主義の、陰気な灰いろの空気の根強くみなぎっていた時分でした。たとえばその年の一月には、小栗〔風菓〕さんの「耽溺」の、田山〔花袋〕さんの 「おし灸」だの、徳田〔秋声〕さんの「四十女」だの、正宗〔白鳥〕さんの「地獄」だのといったものが出ています。島崎〔藤村〕先生の「一夜」だの「伯爵夫人」だの「苦しき人々」だのというものもその一月の発表にかかります。そしてその二月、永井先生のその「深川の唄」の「趣味」へ出たときには、外に「中央公論」に徳田さんの「リボン」と小栗さんの奥さんの「留守居」(この作は一月の、小栗さんの「耽溺」に対してかかれたもので、当時まだ、そうした二義的なモデル問題のおもしろがられているさかりでした。)と、真山青果さんの「十数頁」、「文章世界」に徳田さんの「病室」と上司さんの「人形」と水野仙子女史の「徒労」、「早稲田文学」に正宗さんの「二家族」、そうした作品が時を同じくして世間へ出たときでした。いちいちその内容についていわなくっても、作者とその作のもつ表題とをみただけにしてそれらの作のもっているもの、それらの作に描かれているもの、そのそれぞれを大ていに感じていただけるとおもいます。すくなくとも都会的な、あるいは都会人的な明るさ、自由さ、聡明さ、くすりにしたくもそうしたものは、それらのどの作品からも求めることが出来ませんでした。そうしたどろ沼のような中に忽然咲きいでた目もあやな一輪の花。……実際「深川の唄」をはじめて読んだときには眼のまえの急にあかるくなったのを感じました。いいえ、身辺に、自分たちの生活に、急に夜のあけたようなときめきが感じられました。電車の窓から見た築地河岸の午後、永代ばしのうえからみたむかしの早船のおもいで、洲崎の廓にみ出したかつての夏の夜の詩情。~その作のなかにえたそれら幾くだりの美しい文章。……それは、いいえ、ただにそれ自身美しい文章であったばかりでなく、いかにしてみるべきか、いかにして感ずべきか、いかにして描くべきか。-最も新しい文学というものがいまどこまで来ているかということをはッきりわたくしに教えてくれたので……「けれども江戸伝来の趣味性は九州の足軽風情が経営した俗悪蕪雑な『明治』と一致することが出来ず。家産を失ふと共に盲目になった。そして、栄華の昔には洒落半分の理想であった芸に身を助けられる哀れな境遇に落ちたのであらう。その昔、芝居茶屋の混雑、お渡ひの座敷の緋毛氈、祭礼の万燈花笠に酔った其の眼は永久に光を失ったばかりに、浅間しい電車の電線、薄ッペらな西洋づくりを打仰ぐ不幸を知らない。よし又、知ったと云つても、こう云ふ江戸人は、吾等近代の人の如く熱烈な嫌悪憤怒を感じまい。我れながら解されぬ煩悶に苦しむやうな執着を持ってゐない。江戸人は早く諦めをつけてしまふ。すぐと自分で自分を冷笑する特徴をそなへて居るから。」
 前記盲目の男を描いたこうしたくだりにいたったとき、中学の五年でしかなかったわた
くしの昂奮は全くその極に達しました。

『浅草風土記』 中公文庫

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山羊の歌 №6 [文芸美術の森]

都会の夏の夜

       詩人  中原中也

月は空にメダルのやうに、
街角(まちかど)に建物はオルガンのやうに、
遊び疲れた男どち唱ひながらに帰ってゆく。
――イカムネ・カラアがまがつてゐる――

その唇(くちびる)はひら(月+去)ききつて
その心は何か悲しい。
頭が暗い土塊になって、
ただもうラアラア唱つてゆくのだ。

商用のことや祖先のことや
忘れてゐるといふではないが、
都会の夏の夜の更(ふけ)――
死んだ火薬と深くして
眼には外燈の滲(し)みいれば
ただもうラアラア唱つてゆくのだ。


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霧笛 №2 [文芸美術の森]

霧笛 2

         作家  大佛次郎

 物もいわず千代吉は飛びついて、右手の拳(こぶし)で男の頬(ほお)をしたたかに打った。
「待てやい! せっかちな奴だ!」
 と、男は身を防ぎながら立ち上って、渋面(じゅうめん)を作った。身の丈も、千代吉より二、三寸高かった。目方にして二十貫はあろう。
「いてえぞ。あきれた奴だ。相当なもんだな。だが、不意打ちは卑怯だ」
「支度(したく)が要(い)るのか?」
 千代吉は鋭くこういった。
「来いー」
「気の強い奴だな。おれをお代官坂の富と知っているのか? どこから流れてきた?」
「手前(てめー)の知ったことか?ぽかぽかやって勝敗をきめれば、いいだろう?」
「いうことの筋はとおっている」
 男は、肥った体をのっそりと搬(はこ)んで、進み出た。
「そういうからには刃物は隠していないだろうな」
「そんなものが、おれに要るかっていうんだ」
「鼻っぱしの強い野郎だ。もっとも、感心するのは手並を見てからのことだ」
 富は、こういいながら、ズボンの衣嚢(かくし)から短刀をだして、鞠のまま無造作に遠い地面へ投げ捨て、それからシャツまで、脱いで相撲のようにでっぷりと厚い上半身をあらわした。月あかりに、背中の刺青(ほりもの)が見えた。
「異人館のボーイなんかにくすぶっているところを見ると、もっそう飯も一度や二度はかっこんできた奴だろうが、なアに、湯屋の小桶か、赤ん坊のおしめでもかっさらったぐらいの、こそこそ泥棒の駆けだし野郎だ」
 最後までいわせず千代吉の二度目の拳が富の横面を襲っていた。かわされたかと思うと、
手首を握ってねじ倒しにかかってきた。体格相応の強い力だったが、猛然としてはねのけると、豹のように飛びついて、二段になっている肉の厚い顎(あご)を、立て続けに突き上げた。
 相手はそれから急に物をいわなくなって、飛びはなれると前屈みに背中をまるめて、千代吉の隙を狙った。
「兄貴!」
 と、それまで傍観していた白がすりが駒下駄を脱いで、すけに出ようとした。
「待て、待て!」
 富は肥った肩で息をしながら、うめいた。その間も千代吉の方を鋭く見据えたままであ
る。二人は狭い間隔を離したまま、自分たちの影の動いている地面の上を三度ばかり小さい円を描いて廻った。
「相当なもんだぞ!」
 突然として富は攻勢に転じた。
 千代吉は立て続けに頭を二つ三つ打たれて、よろめきながら、負けずに相手の胸といわず腹といわず突いていって、富が逃げて廻ろうとするのを見ると、なおも猛然と襲いかかって両手を振って拳の雨を降らした。            
 なにか富が叫んだ。その顎を、したたかに突いたらしい。巨(おお)きな体が地響させて、地面に倒れた。                 くぐ    ぬ
 千代吉はすぐに飛びかかって組みついて、打撃の下を潜って、すり脱けようとする相手を、どこまでも追い詰めていった。
 勝負は完全に、千代吉のものだった。相手は、裸の体が土と汗にまみれるまで闘って、しだいに抵抗の力が弱ってきたかと思うと、
「待った、待った!」
 と、息をはずませて叫んだ。
「待ってくれ、大将。待ってくれ! もう、まいった!」
 ぽかんとしたように、地面に坐ったきりだ。
「まいったかー」
「待ってくれ。どうしたってことか! いったいぜんたい……こんなはずじゃなかったぞ」
「なにが、こんなはずじゃない?」
「なにがって……お前、南京町の豚常とやったことないか?」
「豚か牛か知らねえが、そんな奴は知らねえさ」
「土地にゃ、新しいんだな」        
 富は、立とうとしてめまいがしたようにまた急に猪首をうなだれた。
「いけねえ。なんて囲い拳骨(げんこつ)だ。ふらふらしていやがる」
「立たねえか、意気地がねえ。お代官坂の富だって?」
「あっさり、やられたもんだ。こんなはずじゃなかった。おしまいの、三つ四つ、余分だったようだ」
「いい加減にしな。帰るぜ」
気がついたのは、いつのまにか白がすりの男が逃げてしまっていたことだ。
「お前の連れも、とっくに帰ったようだぜ」
「待ってくんな。このまま引揚げるなんてあこぎすぎるぜ」
「一息いれて、もう一度やるって?」
「とんでもねえ。お前さんの素ばしこいのには、もう、こりごりだ。仲直りに一杯献じょうじゃないか? お前が勝ったんだから、これからお前が兄貴だ。短刀はどこへ行った?
拾ってくんな。兄貴が持っててくれればいい。居留地で俺に勝てば、よい顔になれるぜ。もう一人おれより強いのが残ってんのは、南京町の豚常だ」
「そいつも、お前みたいなやくざか?」
「あいつだけには昔からおれもかなわねえ。兄貴が行ってぜひやってもらいてえもんだ」
「冗談じゃない。喧嘩が商売じゃない。己ア堅気さ」
「それがほんとなら、惜しいもんだ」
「馬鹿いうな」
「百三番の屋敷にいるって! 馬丁さんかね? あいつは、意気なもんだ」
「なアに皿洗いだ」
「ええ、ほんとうかい? いよいよあきれた。強いのにゃかなわねえ。なんだって、また皿なんか洗っているんだ? やはり異人館にいねえと具合の悪い凶状でもあるのか?」
「なアに、そんなものじゃねえ」
「そいつだけは、どんなものだかなあ」
 と富は疑うようにいった。
「なアに、話したって、おれなら心配はありませんぜ。おれの友達で異人館にいる奴とき拝啓 時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
たら、たいていなにかあって警察(ポリス)を避けている男だ。あすこは、どん刑事(デカ)だって、一歩も踏みこめねえんだからなあ。まあ、いいや、いっしょに行きましょう。だが豚常だけは、兄貴がぜひやっておくんなさい。きっかけはうまく俺がこしらえるから」
「まあ、それアよしてくれ」
「なぜねえ7兄貴」
「なぜって俺は、喧嘩が好きで出てきたんじゃない。お前の方で無法な売りようをしたから、いやいや来たまでだ。それに、なんだ、うちの痙敦はやかましいんだから」
「おかしいなあ。やっぱり隠していなさるんだ。東京ですか?」
「東京だろうがどこだろうが……隠しているわけじゃないが、まあいいだろうじゃないか?
今夜ここへ来たことだって内証にしておいてもらわないと屋敷の方へ具合が悪いんだ」
「屋敷の方へねえ?」         
 皮肉に絡んだように聞えたので、千代吉は、ちょっと気色ばんで、語勢を強めて言った。
「そうだ。屋敷へ知れない分なら、どこの誰に知れてもいっこう構わない。腹をさぐるようなことはいいっこなしよ」
 富は、千代吉の顔色を読んでいた。
「それア、兄貴の勝手だが……今夜は、つきあってくれようねえ、このまま、さようならっていうんじゃ、俺の気色が悪い。俺もお代官坂の富さ。顔だけ立てておくんなさい。ええ、兄貴」
 酔うと、千代吉は顔のてりを増した。物事に興味のないきまじめな表情をしているときに較べて、ずっと若々しく、見るからに気力が旺盛なのを人に感じさせ、瞳の色など若い虎の目を思わせた。
(まだほんとうの青二才なんだが……)
 お代官坂の富は猪口をふくみながらつくづくとこう見てから後は、千代吉がただ向う見ずの度胸と喧嘩犬のような闘争力を持っているだけなのだと、踏んだ。つまり若い犬っころなのだ。そのほかの知恵や世渡りのことにかけては、自分の方がはるかにできているのだと信じた。
「二十一だって、兄ちゃん。すると俺の方が年上だな。……まあ、、もっと飲みなよ。いい体をしていなさるなあ。ほんとうに、男だってほれぼれする」
 一軒だけで放すのかと思うと、そうでなかった。富自身が、かなりいい機嫌になって、逃げようとする千代吉を帰らせまいとした。
「いいだろう、お前、そんなあこぎな! これだけじゃいけねえよ。決して迷惑はかけねえから。もう一軒行ってくれ。皆にお前の顔を見せておかなけれア…=」
「だけど……」
「まあ、そういわねえで」
 酒のせいか、多少、しつこいのが、千代吉を怒らせた。
 千代吉は、すぐ、むっとして黙りこむ。それがまた、大きな赤ん坊のように、無器用なのが富を悦ばした。
「そう、すぐ怒んなよ。はははははは……どうも、お前みてえな奴もいないよ。いいじゃねえか? お前がずっと堅気にしているにしてもおれの友達に顔を売っておけば、これから先なにかにつけて都合がいいんだ」
「顔なんて、売りたくねえや」
「そういうなよ。じゃアこうだ。おいらのためだと思って、もう一軒つきあってくれ」
「お前のためだって!」
 千代吉は立ち止まって、相手の顔を見据えた。
「そうなんだよ。俺のためさ。頼むからな。はははははは…⊥
 暗い町で、犬が驚いてはえるほど、素頓狂(すっとんきょう)な大きい笑い声だった。月は、ずっと高いところにあった。
「わかんねえかい、兄(あん)ちゃん。お前が来てくれれば、俺の顔が立つんだ。お前と俺とは、もう敵同士(かたきどうし9じゃねえんだから……まあ今夜だけ、つきあってくれ。明日からはもう無理はいわねえから」
「どこへ行くっていうんだい?」
「うむ、すぐ、そこだ。行ってくれるな。なあ、行こう。ええ兄ちゃん」
「だけど、お前、すぐ喧嘩の話をするから」
「俺が勝ったとはいわねえぜ。俺ア正直にいうんだ」
「だけどよ」
「まあ、いいって! 俺から話しとかなけれア、見ていた金魚の奴が吹聴して歩くに決まっている。そのくれえなら、俺から広告した方が、よっぽど気拝がいいさ。ははははは」
 それにしても、この男の気性はさっぱりしていた。どこへ行っても、店の内へ入って、
知ってる顔を見つけしだい、あけすけに千代吉のことを広告して憚(はば)からないのだ。
「おい、お前たち、見てくれ。この兄貴は若えんだが、おいらを、ぽかぽかって気持よく
やったんだ。こんな奴はめったにいねえから、忘れないでくれ。いいか」
 そういってから、どかっと腰をおろすと、
「おい、酒だ。酒だ。今夜は、飛び切り上等のとこを頼むぜ。ラムはないか?」


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石井鶴三の世界 №269 [文芸美術の森]

左官 1943年/おうらいてう 1942年

         画家・彫刻家  石井鶴三

1943左官.jpg
左官 1943年 (132×176)
1943おうらいちょう.jpg
おうらいてう 1943年 (134×179)

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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社
 

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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №141 [文芸美術の森]

           シリーズ:江戸・洋風画の先駆者たち
              ~司馬江漢と亜欧堂田善~
                  第10回 
              美術ジャーナリスト 斎藤陽一
       「亜欧堂(あおうどう)田(でん)善(ぜん)」 その4

≪遊郭の光と影≫

 前回に続いて、先ず、亜欧堂田善が文化年間に制作した小型の銅版画シリーズ「東都名所図」(全25図)の中から、吉原を舞台に描いた作品を紹介します。
 まず、下図は「新吉原俄之図」(しんよしわら・にわかのず)。

141-1.jpg

 吉原遊郭では、毎年夏、芸者たちが仮装をして、趣向を凝らした出し物で郭内の通りを練り歩く「俄」(にわか)と呼ばれる行事がありました。

 この場面は、吉原のメインストリート「仲之町」に面した「引手茶屋」の座敷を舞台に、通りを練り歩く「俄」の行列を見物する人たちを前面に大きく描く。
 中景には屋台に乗って演技する男女の芸者たち、その向こう、通りを隔てた向かい側の茶屋にも、二階まで大勢の見物客がびっしりと描き込まれている。
 座敷の人たちが手にする団扇や大きな蝋燭の炎が、暑い夏の夜の行事であることを示す。

141-2 のコピー.jpg 右側にいる黒い着物の男がこの宴席の主客。裕福な家のあるじでしょう。
 というのは、格式の高い「大見世」と呼ばれる妓楼で遊ぶ場合、先ず、「引手茶屋」に上がり、そこに花魁を呼び出して飲食、芸者たちの遊芸で散財したあと、「花魁道中」をして妓楼に行くのが決まりでした。
 このような、上等な「引手茶屋」の特等席の座敷を借り切って、「俄」(にわか)を楽しむには、相当な金持ちでなければ出来なかったのです。

 そのお大尽の傍らで、身をくねらせているのは、お大尽の相方の「花魁」(おいらん)。

141-3 のコピー.jpg 左側にいる男たちは、主客のお伴で登楼した男たちや吉原の男衆か。
 身を屈めて主客に何か話しかけているのは、この引手茶屋の主人、左端の扇子を手に持つ男は「幇間」(ほうかん:たいこもち)かも知れない。
 田善は、それぞれに描き分けています。
 座敷には「大蝋燭」が二つ灯され、その周囲を明るく照らしていますが、少し離れると影が濃くなっている・・・
 大蝋燭の明かりは、天井にも反映し、二つの丸い光となっている。光と影の表現が卓抜です。
 
 次は、同じ「銅版画東都名所図」シリーズの中の1点「品川月夜図」

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141-5 のコピー.jpg この絵は、品川の海に面した遊郭の座敷に立って月を眺める遊女を描いています。
 月の光が海面にきらめき、行燈の光とともに、遊女の姿を浮かび上がらせる。

 細部をご覧ください。
 田善は、夜の情緒を表現するために、実に様々な「線刻」を試みていることが分かります。
田善は、「銅版画の魅力は、あらゆる種類の「描線」の組み合わせと、その濃淡のグラデーションの表現にある」ことを発見しており、今や、その技を自分のものにしています。
 それにしても、この遊女の立ち姿は、どこか西洋画の女性のように見えるところが面白い。

 もうひとつ、「両国橋」を望む料亭の座敷を描いた田善の銅版画を紹介します。
 こちらは、22.2×28.5cmと少し大き目なサイズ。

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 ここは、隅田川沿いの料亭の座敷。遠くには両国橋が見える。
田善は、この風景を「遠近法」で効果的に描いていますが、二階から見下ろす視点をとっているため、川沿いの通りを歩くたくさんの人々が俯瞰的に捉えられています。
川面には、無数の遊覧船が浮かんでいる。両国界隈の活気が伝わってきます。

座敷では、3人の人物がなにやら談笑している。
その中の右端の人物は、亜欧堂田善自身だという伝承もある。

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   手前の大皿の上には、ひときわ大きな鯛が載せられ、あたかも、この場面の「主役」のようにも見えるところも可笑しい。
 この絵でも、田善の細部の質感描写へのこだわりが随所に見られます。たとえば、畳や天井などをよくご覧ください。

141-8 のコピー.jpg
 
 次回は、亜欧堂田善が試みた独特の「油彩画」を紹介します。
(次号に続く)


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浅草風土記 №39 [文芸美術の森]

と町と 不動様  3

       作家。俳人  久保田万太郎

         五

 日くコンクリートのベンチ。
 曰くくコンクリートの藤棚。
 日くコンクリートの土橋。
 日くコンクリートの…・
 一ト足、不動さまの境内へ入ったとき、われわれのまえにあったのはそれらの施設でした。秩序ただしい植込、整然と小砂利の敷ならされた歩道、そうしたものを外輪にもった当世ようの小公園。一昔日の、梅ばやしのあった時分の閑寂なふぜいは、ただその植込の一部の、浅い茂りを透してみえる川の水、その水のうえを行くおりおりの船のかげだけにしか残っていない……ということをもう一つはッきりさせたものに、間もなくそこに展けた広っ場の光景がありました。……すなわち例月二十八日の賑い……むかしながらの、うちみはむかしにちっともかわらない昼縁日のあらわなけしきがありました。
 まえに、うしろに、右に、左に、いくつにもわかれて出来た人の輪の、そのほうぼうの間を縫ってそこにもここにも荷を下ろしたおでんや、パンや、氷や……浪の花をうず高くもり上げたうで玉子や、旗を立てたアイスクリームや、赤い薄荷を硝子の壷に入れたお好み焼や。……ですが、天気のわるいせいか、どの荷のまえにも、屋台のさきにも、うらみッこなしに一人の客も立っていないので。――いえば.だから、いたってのしらじらとし
た感じ……
 第一の人の輪のなかをわれわれは覗きました。盲目が浪花ぶしをやっていました。ひしゃげた鳥打帽子にお約束の色の剥げた紋つきの羽織、四十恰好の小柄な男が三味線を抱えてしきりに牡蠣のような眼をむいていました。何をやっているのか分らなかったものの、津の国屋津の国屋とうるさくいっていたのに徴して「安政三組盃」かも知れないとおもいました。――抱えた三味線の、どの糸だかの切れてだらりと下っているのも惨めな感じでした。
 第二の人の輪のなかを覗きました。白足袋、表附の下駄、綿の袴を穿き、縫紋の単羽織を着た四十七歳のきわめて薄い髭をもった紳士(なぜ四十七と分ったかといえば自分からはッきりそういいましたから)がすなわち夏外套を脱いで助手の大学生にわたしながらしきりに何か薬の効能を説いていました。いやしくも人間なら誰でもがもっている病気、そうして古来、どんな医者でも薬でも決して直らないとされている病気、それを即座に、みているまえですぐにでも直してみせることの出来る薬を発見した、そのためにはしかし学校を出たあと二十年の年月を無駄にした、二十万円の金をつかい果した、もしうたがわしくぼ牛込喜久井町所在のなにがし合資会社をたずねて来い、自分がその会社の代表社員ということはこれこの免許状がこの通り説明している。――そうしたことばかりいつまでも饒舌りつづけてついにその薬が何に効く薬かはッきりさせません。――しびれを切ちしてそこを退きました。
 第三の人の輪のなかを覗きました。紺の腹掛、うでぬき、脚絆といった恰好の草鞋はき。
……そうした古風ないでたちの若い男が大きな声でしきりに何か饒舌っています。これは面白そうだと無理から前へ出ました。
 が、すぐ、いそいでまた外へ出ました。――蛇です、蛇つかいです……

          

 そのあと、第四の、第五の、第六のそれぞれの輪の中を覗いてあるきました。が、どれもすべて一ト眼では要領のえられないものばかり、五分と十分その饒舌るのを聴くのでなければ何を売るのか、何をしてみせるのか、かいくれ見当のつかないものばかりでした。と同時にかつての猫八のような、松井源水のような、ああした身についた芸……とにかく芸とよぶことの出来るもの、一流の、外にどこにも類をもとめることの出来ないことさらなもの……そうした技術……そうした、すぐれた、錬磨された技術をみせたり聴かせたりする寂しい漂泊者を、その広っ場の、どこにもわれわれ見出すことが出来ませんでした。
――失望してわれわれ、最後の大きな輪……多分には、いずれは字でも書いて見せたんでしょう、うしろ鉢巻の、汚れくきったワイシャツ一つの男が細長い紙を地べたに拡げて、何か矢っ張、しきりにそう講釈をいっている群のなかを出抜けたとき、たまたまそこに、あたりのそうしたいたずらな人だかりに頓着せず、おでんや、パンや、アイスクリームやそうした身近に散在するものの折々の異動にも心を止めず、薄い茣座(ござ)のうえに一人つつましく足を組んで熱心に鋸の目を立てている老人のいるのをみつけました。勿論そのまえにはすでに出来上ったものとおぼしい鋸が、ほんのわずか、しるしばかりに並んでいます。――いかにもそれが「深川」らしい、不動さまの境内らしい、そうしてそこに梅雨の来るまえらしい、季節的な鬱屈をわれわれに感じさせました。
 永井荷風先生に「深川の唄」というお作があります。明治四十二年の二月の「趣味」……そのころあった「趣味」という雑誌に出たもので、四十二年といえば、先生まだ「牡丹の客」も「歓楽」も「すみだ川」も書いておいでになりません。西洋から帰ったばかりの主人公がある偶然の機会に昔馴染の深川をたずね、不動さまの境内に、おぼつかなく三味線を抱えて「秋の夜」をうたう盲目のものもらいをみ出して、傾く冬の日かげの中にうつし身のいい知れぬ哀しみを知るという筋の、「夕日が左手の梅林から流れて盲人の横顔を照す。しゃがんだ哀れな影が如何にも薄く、後の石垣にうつる。石垣に築いた石の一班毎には、奉納者の名前が赤い字で彫りつけてある。芸者、芸人、鳶者、芝居の出方、ばくち打、皆近世に関係のない名ばかりである。」だの「自分はいつまでもいつまでも、暮行くこの深川の夕日を浴び、迷信の霊境、内陣の石垣の下に仔んで、ここにかうして歌沢の端唄を聴いていたいと思った。永代橋を渡って帰って行くのが、堪へられぬほど辛く思けれた。いっそ明治が生んだ江戸詩人斎藤緑雨の如く滅びてしまひたいやうな気がした。」
だのといわれたあと「ああ然し、自分は遂に帰らねばなるまい。それが自分の運命だ。ああ、河を隔て、堀割を越え、坂を上って遠く行く大久保の森のかげ、自分の書斎の机には、ワグナーの画像の下に、ニイチエの詩ザラツストラの一巻が開かれたままに自分を待つでゐる……」と、先生、その作の最後を結んでおいでになります。

『浅草風土記』 中公文庫


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