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妖精の系譜 №1 [文芸美術の森]

中世の古文献にひそむ妖精

      妖精美術館館長  井村君江

中世に記録された妖精像
 妖精物語や妖精信仰に関して、正面から取り扱おうという意図は持たずとも、年代記や旅行記、病理学などを書いているうちに自ずと妖精に触れている貴重な記録が、古い文献のなかに見出せる。それらはもちろん当時の民間の伝承と関わりを持っているのであるが、書き記している人々が僧侶や軍人、医師などの知識人であることは、十二、三世紀頃には妖精についての話がかなり広い階級層に行きわたっていたことを示すものであろう。もちろん記述者が妖精の存在をすべて信じているわけではなく、ある者は不思議な話を聞いたという間接的な記述の仕方で自分の責任は逃れながらも興味を示しており、また学者は、妖精の話は迷信であるとして斥けたり、批判的ではあるが、例として掲げていくのである。
 しかしこれらの妖精の記述が、今となっては貴重な中世時代の妖精像の記録になっているわけである。
   こうした古い文献のうちでもっとも重要であり、興味深いと思われるものを、古いものでは十二世紀のジラルダス・キャンプレンシスが記録している挿話から、新しいものでは十七世紀のロバート・カークの華作まで八つ選び、そこに記述されている妖精像を見てみよう。なお、中世年代記のうち、アーサー王を中心に魔法使いマーリンや湖の貴婦人、モルガン・ル・フエなどを記しているウォルター・マップの友人であったモンマスのジェフリーの『ブリテン列王伝』は、「アーサー王伝説のフエ」の項で触れることになろう。
 またバラッドやロマンスに現われてくる妖精たちも、独立させて扱いたいので、ここでは主な古文献を辿りながら、中世からエリザベス朝時代、十七世紀、ピューリタンの時代までの妖精像の変遷の特色を見ていくことにする。

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主な古文献
(1)ジラルダス・キャンプレンシスGiraldus Cambrensis(de Barri)(一一四六~一二二〇?)『ウェールズ旅行記』(Ltirerarium Cambriae 一一八〇)
(2)ニューバラのウィリアムWilliamof Newburgh(Newbridge)(一一三六~九八?)、コギシァルのラルフRalph of Coggeshall(十二、三世紀頃)『中世年代記』(The Medieval Chronicles)
(3)ティルベリーのジャーヴァスGervase of Tilbury (一一五五~一二三五?)『皇帝に捧げる閖話集』(Otia Imperialia 一二一一)
(4)ウォルター・マップWalter Map(-一二七~一二〇九)『宮廷人愚行録』(De Nugis Curialium  一一八二~九二?)
(5)レジナルド・スコットReginald Scot(一五三五?~九九)『魔術の正体』(The Discoverie of Witchcraft  一五八四)
(6)ジェイムズ一世King James I(一五六六~一六二五)「悪魔学」(Daemonjogie 一五九七)
(7)ロバート・バートンRobert Barton(一五七七~一六四〇)『憂鬱病の解剖』(The Anatomy  of Melancholy  一六二一)
(8)ロバート・カークRobert Kirk(一六四四-九二?)『エルフ、フォーン、妖精の知られざる国』(The Story of Commonwelth of Elves, Fauns and Fairies  一六九一)

『妖精の系譜』新書館


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石井鶴三の世界 №185 [文芸美術の森]

石山寺2点 1963年

   画家・彫刻家  石井鶴三

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石山寺 1963年 (200×144)
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石山寺 1963年 (200×144)

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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社

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じゃがいもころんだⅡ №40 [文芸美術の森]

米寿の思い

           エッセイスト  中村一枝

 この四月十日で八十八才になった。言ってみれば米寿のおばあさんである。名実共に心身の衰えは予想以上で、犬と暮らしていても段々不安になってくる。愛犬モモは15才。これも人間でいえばとっくに八十才をこえているはずである。なのに、外見は多少毛並みが白っぽくなった外は、ぱっちりした目元とか、愛らしい面差しとか、とても八十才の老人には見えない愛くるしさである。
 コロナとオリンピックにはさまれて八十八才の米寿を迎えるというのも一興趣ではあるまいか。
 私たちの世代は、子どものときは戦争に出逢い、今まさに没しようという時にコロナとオリンピックに出逢っている。ある種華々しき世代でもある。
 戦争中は疎開で地方に行った。 たまたま知人の紹介で静岡県の伊東だった。温泉の町である。東京の山の手とはまるで違う生活と環境、稲とか田んぼとか、川とか、温泉とか、みんな初めてみるものばかりだった。体の丈夫なほうではなかった私を案じて、父と母が探してくれたようなものだ。
 戦争とはいえ、私はそこでまた新しい環境に出逢った。幸運といえば幸運な巡り合わせである。
 疎開先の大家さん(私たち一家はその小さな隠居所を借りたのだ)は、深川でたたきあげの職工さんから一代で大きなガラス工場をつくりあげた実直なご主人と、対照的に、言いたいことをすぱすぱ言うやりての奥さん。どちらもドラマの中の人物のように個性的だった。それに、私にとって幸いだったのは、私より一年上と一年下の男の子がいたことである。
 「これ、オルガンずら。」
 引っ越した次の日、、二人は廊下に置いた小さなオルガンに早速興味を示した。その二人と毎夜、温泉に誘われて、まるで旅館のような大きな湯舟で、毎夜あそぶことになった。千坪以上ありそうな庭には様々な果樹が植えられ、私はそれだけでも東京よりも豪華な生活だと思った。とにかく庭といえば、飛び石が二つ三つ転がっている小さな庭しか知らなかったのだから。
 アメリカのB29は毎日、伊豆半島を北上して東京を目指す。夜は灯火管制、黒い布で覆われた電灯の下でぼそぼそのご飯を食べた。それがある日、終戦。今思うと、私たちは幸運にも生き延びて、敗けたのは悔しかったにせよ、命をまっとうできたのである。
 それがあっという間に人生の終焉にさしかかってきた。足はよれよれ、頭もぽろぽろ、いかれているけれど、ここまで生きてきたら、そう遠くないうちに、人生の終わりを見届けることになるのだろう。ほんとうは跳ね回りたくて走り出したくてうずうずしているのに、足も頭も思うようには動かない。そんな動かない足や頭をもてあましながらも、生きているってやっぱりいい、と、心のどこかで思っている毎日なのだ。



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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №49 [文芸美術の森]

第七章 「小説なれゆくはて」 13
 
      早稲田大学名誉教授  川崎 浹


「命のキケンさえ感じる」 2


 九月六日
 今日は廻りには労務者達来ない。

 九月七日
 老人年金受けに市役所に出かける。

 九月八日
 廻りは静かになった。一体埋めたり掘ったりくり返し何をやっているのか分からない。以前コブタの番頭が言っていたが、こんな水の湧く地で全くもてあましていると言っていたからだろう。ここは排水がむずかしい土地だ。

 九月十日
 『小説なりゆくなれのはて』の原稿が裁判所で必要かも知れないので川崎君の処に取りに行く事。池袋に出て電話したら大学の方に居るとの事。原稿も持って行っているとのことで早稲田大学に行って見る。広くて又何か騒ぎてやっていて居処が分からなくあっちこっちに行ってやっとさがし出して会って話している内に毎日工事場の中でツルシアゲをくっているようなもの、いささか頭に来ていたのか、どうやら学園らしいフンイキで落ち着いてゆっくりしすぎた。彼の授業の時間を少し後らせて悪かった。バスで新宿に出て田場川に確証、明日増尾に来る処らしいが明日私の方から行くと約束、明るい内に帰らねばと帰って来る。

 九月十一日
 朝、伊藤氏来る。昨日大崎夫人心配して来てみたが不在だから仕方なく帰ると言ってマリ夫人からの見舞物と一緒に預かった物を届けてくれた。裏の土山を越えて来ている。暫く話していて少しおそくなったが、昼頃出て田場川に行く、弁護士の話、裁判所に行って調べた処、コブタが高島の委任状を作って東急に家と敷地の住居権とを高価な金額で売り渡し、高島の代金受取書も東急に渡している由、道理で東急わがもの顔に工作侵略を始めたのだ。ひどい事をやったものだ。書類も高島の字らしく書き三文判を捺しているらしい。だからあれ程強引にやらねばならなくなったのだろう。馬鹿な奴だ。小夫田(こぶた)と田村の仕事だ。それで弁護士その偽りと工事の不当をなじる。抗議書の内容証明を社長後藤登宛てに出してそれに対する向こうの言い分が来るはずなのだから待っていたが、来ないでいる処だとの事。驚いた事だ。『なれのはて』を渡す。日記風だからいいそうだが、とにかく初めからの全部でこれを読めば凡て明白になる。弁護士さん読んで見る事。或いは裁判所にも見せることになるかも知れぬ事。・・どうやら生命のキケンが感じられ出す。コブタ連が自分達のやった事が正当となすためには偽筆偽印を見分ける高島を消すより外にないだろう。高島を消さなければならない。特に高島の住所の辺は消すに最適の処だ、これは洲の岬の新築に住まっても同様だ。どうやらあの土地はだれの名になっているか分からない。そして高島が死ねば万事好都合に土地も家も画も全部自分のものになす事が出来るだろう。だから高島を消せという事になる。あの新築に行かないでよかった。消されに行くようなものだった。
 とにかく明るい内に帰らなくてはと帰ってくる。六時に増尾について市道から帰る。森の横を通って坂を上がった処右側の森が切られた処に道に斜めに黒い自動車が止まっている。運転席に男がしゃがんで何かしている。故障でも直しているかと思ったがそうでもないらしい。あやしげの車と人、横を黙って通って行くのに向こうから大型の運搬車がつづいて二台やって来た。左の森に足を入れてよける。この辺で自動車におしつぶされたらそのままだれがやったか分からないですむだろう。とにかくやっと家に帰りついた。今月の運勢には夜間外出は止めよとある。全く家、屋敷の段ではない。生命の危険が感じ始めらる。

顛末
「西本年譜」によればこの事件は次のような形で一件落着した。
「十月二十九日、松戸簡易裁判所において、家屋を四〇〇万円で売り、西岬村に移転することで業者と和解。しかし西岬村のアトリエには結局入居することはなかった。十二月、練馬区高松二丁目四二に仮住まいする」。
 私は『小説なりゆくなれのはて』の九月十日までたどりついたとき、しばし呆然とした。殆ど忘れていたからである。自分の日誌をとりだし一覧すると「大学に高島氏来訪」とだけメモされている。私はこの一行から高島さんが来訪した一日を想いだそうと試みる。前にも高島さんは大学にきたことがある。その頃は非常勤教員の休憩室だったにちがいない。こんど高島さんが研究室に来たというのなら、そうなのだろう。どんな身ぶりで何を言ったかさえほうふつと甦るような気がする。
 『小説なりゆくなれのはて』の最後の頁は画家が大学の私の研究室を訪れた日の翌日の記述で終わっている。「小説」なので多少の誇張もあるだろうが、出だしの不安と同じ気配で幕を閉じる。
 他方で『小説』は資料を後世のために残しておきたいという画家の義憤のようなものから生じたのだろう。同時に自分の体験に我ながら興味をおぼえる自分がいて、それが画家に私のような読者を想定させながら『小説』を書かせた。しかし、これはかれが遁世の徒でありながら、いやそうであったからこそ、立ちふさがる六〇年代の風車ならぬ恐竜と闘わざるをえなかった、そのことにより逆に環境破壊というやがて襲いくる歴史の未来を予見する重要な一駒となっている。
 その生き方は、古い写実様式に属するとされる野十郎の絵が、「近代」はすでに効力を失ったと声高くいわれる現代において、妙に現代的な役割を帯びて前方にあるようにすら見えてくるパターンと似通?ていないだろうか。

『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社



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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №56 [文芸美術の森]

                    歌川広重≪東海道五十三次≫シリーズ

        美術ジャーナリスト  斎藤陽一

                         第7回 「沼津黄昏図」

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≪一転して夜の情景に≫

 前回の「三島朝霧」図では、“早朝の朝霧”の中、旅立つ人たちの姿が描かれていましたが、今回の「沼津黄昏図」では一転して“夜の情景”になります。
 広重は、このシリーズの全体構想の中で、「連続性」とともに「逆転性」ということも試みている、ということを先に申し上げましたが、その中には、前の絵と次の絵とに朝・昼・夜の変化をつける、ということもやっています。

 広重の夜景図も、しみじみとした情趣があり、なかなかいい。

 この絵は「黄昏図:たそがれず」と題されてはいますが、既に日は沈み、空には満月が浮かんでいます。そんな夜のとばりが降り始めた頃、三人の旅人がとぼとぼと歩んでいきます。朝早くに前夜の宿を出発して、こんな時間まで歩き続けてきたのです。

≪夜の旅情と安息のイメージ≫

56-2.jpg 天狗の面を背負っている白装束の旅人は讃岐の金毘羅参りに向かう男。天狗の面は、金毘羅大権現に奉納するものです。
 この男は、町内の他の信者たちからお賽銭や米などの奉納物を預かり、皆を代表して金毘羅さんに参詣する役目です。
 その前を行く女と少女の二人連れは、「勧進比丘尼:かんじんびくに」でしょう。
 女が手にしている柄杓(ひしゃく)は、勧進の銭を受け取るための「勧進柄杓」(かんじんびしゃく)です。
 少女は、女の弟子かも知れないし、あるいは娘かも知れません。「勧進比丘尼」は、尼の姿で諸国を巡り歩き、その道中で歌を歌ったり、経文を唱えたりして勧進をおこなう者のことで、この二人連れも、何か事情があって、このような姿でさすらいながら生きているのでしょう。
 男も、女二人連れも、みな“うしろ姿”で描かれ、顔は見えません。それによって、黙々と疲れた足を運び、暗い夜道をたどるときの哀切感を表現しています。

 旅人たちが顔を見せない中、赤い天狗の面だけがこちらをにらんでいます。これは、暗い夜道で突然天狗に出くわしたかのような、ぎょっとする感覚を見るものに与えますね。広重が意図的にやった演出でしょう。
 「黄昏:たそがれ」の語源をたどると、夕方うす暗くなり「誰(た)そ、彼は」と人の顔の見分け難くなった時分を言います。その暗がりの中で、天狗がこちらをにらんでいるのです。そう言えば、「黄昏どき」はまた、なぜか禍(わざわい)が起こりそうな気分にさせるところから、古人は「大禍時:おおまがとき」などとも言いました。これが転じて「逢魔が時:おうまがとき」とも言ったりしました。「魔物が出てきそうな時刻」ということで、おそらく広重はそのことを意識して、薄暗がりの中、「天狗」の面をこちら向きに大きく描いたのでしょう。

 旅人たちがたどる夜道の彼方には、月の光に照らされて、宿場の家並みが浮かび上がっています。三人には、もう町が見えている。「あそこに辿りつけば、安息が待っている。あと一息だ。頑張ろう」と心の中でつぶやいていることでしょう。月光に浮かぶ宿場の家並みには、ホッとするような安息のイメージが託されています。

 この絵は、そのような夜の旅情を描いて見事であり、「広重の風景画には抒情性がある」と言われるのも、こんなところなのです。
 前回の「三島朝霧」図に引き続いて、今回も一句を引用して締めくくりたいと思います。広重が敬愛していたと言われる芭蕉の句です。

    くたびれて宿借るころや藤の花    松尾芭蕉

 次回は、「沼津黄昏図」(第13図)に続く「原・朝之富士」(第14図)を紹介します。

                                                                 





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ケルトの妖精 №48 [文芸美術の森]

あとがき

        妖精美術館館長  井村君江

 本書はイギリス各地方に伝わる伝承を、柳田国男の『遠野物語』のように「昔ばなし風な語り口」で書き下ろしたものである。アイルランド、コーンウォール、イングランド、スコットランド、ウェールズ各地方に特有の風土(ある土地の気候、気象、地味、地形、景観の総称 - 和辻哲郎¶風土』 による) からは、特色ある容姿、服装、性質を備えたグロテスクで恐ろしい、または優美なそしてコミカルな妖精たちが生まれ、昔から現代に至るまでの人々の間に息づいている。その中から代表的な妖精の、面白い話を選んでみた。妖精はケルトの神々と密接に関連し、またアーサー王伝説との結びつきも深いので、それらの中からも幾つか選んだ。古代では恐ろしい存在とされ、触れないほうが賢明と避けられてきた妖精を今日見るような人間に親しい小さく美しい存在という映像に定めたのはシェイクスピアである。彼の劇作晶『夏の夜の夢』 の中から代表敵な妖精も取り上げておいた。
 こうして見ると、「民間伝承」「神話」「伝説」「文学」の領域にわたった、各種の妖精が登場することになった。以前『ケルト・ファンタジィー 英雄の恋』の挿絵を描いた画家の天野青草氏が、レプラホーンやピクシーなど独特の妖精を視覚化してくれた。創造の筆を自在に飛翔させる天野氏の筆敵は、繊細で天衣無縫で、この世に執着しない妖精に相応しく、物語の世界の雰囲気をよく醸し出してくれている。
 コーンウォールでは、ピクシーやノッカーたちと人間が織り成す不思議な話を集めたパンフレットが毎年新たに出されている。この夏もコーンウォールから帰った私の鞄のなかには『コーンウォール昔話』(D・ロー)『コーンウォール古典逸話集』(P・ホワイト)『ピクシー物語』(F・コッカートン)などが入っている。コーンウォールでは自分の住んでいる土地に対する愛着、いわば郷土愛は驚くほど強く、このような本を書いたり、郷土の文化に貢献のあった人々は、毎年九月の第一土曜日に行われるコーンウォールのケルト祭「ゴーゼス・ケルノー」でバード(吟遊詩人)に選ばれ表彰される。今年はリスカードの町で祭典は行われ、麦の穂を持った豊作の女王と十二人の妖精たちの踊りや、アーサー王のエクスキャリバーを捧げ持った人、それに続く青い衣の三百人のバードたちがハープに合わせて歌う賛歌、そして祈りの儀式などが盛大であった。まさにアーサー王物語、妖精伝承、ケルト神話の世界を目の当たりにする思いがあった。こうした人々によって妖精たちは命を吹き込まれ、現代に生かされているのである。
 九月一日の『デイリー・テレグラフ』誌を開けると、シシリー・パーカーの可愛い花の妖精画と、「コティングリー・フェアリー事件」 の少女エルジー・ライトを囲む妖精たちの写真(当時真贋を巡って話題になった)が掲載され、それに挟まれるようにスコットランドの英雄ウィリアム・ウォレスを描いた『プレイプ・ハート』を監督、主演したメル・ギブソンの写真が目に入った。
「妖精は幻想の飛行のために羽を広げた」という題の下に、彼が今、「コティングリー・フェアリー事件」の映画をハリウッドで制作中(メル・ギブソンはアーサー・コナン・ドイル役)という記事を中心に、「国立妖精愛好会」(NFAS)がイギリスで昨年夏に結成され、すでに六百人のメンバーを数えること、オーストラリアのメルボルンに三百に近い妖精グッズ店ができていること、これらにはロンドンのおもちゃのデパート「ハムレイズ」に一九九四年、五年と展示された妖精人形のクリスマス・ディスプレイの刺激が大きかったことなどが書かれていた。この記事の中では残念ながら日本の事情には触れられていない。しかしわが国では「フェアリー協会」なら四年前の一九九二年にすでにできているし、フェアリー・グッズの店などではなく、芸術性の高いヴィクトリア妖精絵画を主体にした「妖精美術館」が一九九二年には開館している(福島県金山町、井村君江館長)。「ハムレイズ」のウィンドウの十三体の妖精人形たちや花々は、いま全部東京・日野のわが家に来ている。
 一九九七年にはロンドンのロイヤル・アカデミー、スコットランドのナショナル・ギャラリー、アメリカのアイオワ大学美術館で、妖精絵画展が予定されているが、その翌年の一九九八年には、わが国の東京、大阪、名古屋で1妖精の世界展」(朝日新聞主催、大丸美術館)が行われることになっている。まさに二〇世紀世紀末の現在、洋の東西を問わず、妖精は羽を広げて人々の間に幻想と夢をもたらしているといえよう。
 妖精は森や木や草や花、湖や丘に住む自然の精霊である。都会のメカニカルな文明に渇きを覚え、自然の潤いを求める人々の心に、そうした自然の息吹を妖精が運んでいるのであろう。ビルが立ち並び車が走る物質文明は、妖精たちを二度追いやってしまったが、物質文明の限界を知ってしまった人々は今、目に見えないもの、心を尊重する方向へ向かっているように見える。木々が美しく茂り、花が咲き、川が澄めば、妖精たちは再び帰ってくるであろうが、目に見えないもう三の世界を心の中に広げれば、それは心の豊かさ、心の余裕に通じていく。
 妖精の翼にのれば、限りあるこの現実の時間も空間も自在に越えられる。創造力は超自然を自在に飛翔できるからである。妖精は都会と地方、東と西、古代と現代、現実と超自然、物質と心、こうした二つの世界の境界を自在に飛び回り、未知の消息をもたらしてくれる。古代の人たちがもっていたような素朴なこころ、澄んだ感性、おおらかな気持ちが妖精とつきあうには大切であろうし、妖精の発信する消息を受け止めるアンテナを出していることも大切であろう。妖精は信じる人の心を糧に生きるものなのである。

『ケルトの妖精』 あんず堂


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石井鶴三の世界 №184 [文芸美術の森]

法隆寺中門仁王 1963年/法隆寺中門仁王・阿形像 1963年

       画家・彫刻家  石井鶴三

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法隆寺中門仁王 1963年 (197×148)
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法隆寺中門仁王・阿形像 1963年 (202×184)


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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。


『石井鶴三素描集』形文社

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渾斎随筆 №78 [文芸美術の森]

街上の文化

            歌人  会津八一

 年末年始の新潟の市街の賑はひは、ほんとにたいしたものだ。ことに私のやうに、五六十年も前の、もとの新潟の寂びれはてた姿をまざまざと記憶してゐるものの目には、ほんとに夢のやうな欒り方だが、その賑はひの中を、ぶらぶら歩きながら、いくらか私の気にかかることが無いでもない。
 昔の新潟の街では、何所へ行つても、看板や掲示などを、英語で書いたのはなかった。ただ所々の町角に、木で作った四角の柱のやうな郵便箱があって、その差入口に、POSTの四字が横に書いてあつたのを覚えてゐる。これは、その頃は、もう残り少くなって、殆どそれぞれの本國へ引き上げて行った外國人のための心使ひであったらしい。ところが、今の新潟の市中は、どこへ行つても、商店のひさしにも、店の中にも、英語が氾濫してゐる。これは、アメリカの人たちもこちらに住んで居るからでもあらうが、それにしても、私などには全く無茶としか思はれないやうなまちがひが多いのには、驚くよりはかない。
 まづ商店の看板には、その店の商賣を正しい英語に話しもせずに、日本語の読み方のままに、それをローマ綴りにして、クスリヤをKUSURIYA、クツ屋をKUTSUYAとかいつた風に、れいれいと書かせておくのが、かなりたくさんある。一體これは誰に見せるための看板か、私にはわからない。アメリカさんが見ても、何を賣るのかわからないし、日本人でも、ローマ字の讀めない人には、何の店ともわからない。つまりこの店は、外国の文字で看板を書いておくほどに、進歩的な店だといふことを同胞の日本人に見せつけるためといふよりほかに、何も意味の無いやり方だ。私などが學校を出たばかりに、東京で中學校の教師をして居る頃に、その學校の近くに、SEIJOTENといふ看板を出してゐる店があることを聞いたが、何うした商賣か想像がつかぬので、よく査べて見たら、それは畳屋であった。それを、そのままTATAMIYAとすれば、日本人なら誰でもわかるところを、少し気取って「製畳店」といふ新語を作り上げて、それを、そのままローマ字に書かせたために、誰一人として読めない看板が出来上ったわけだ。しかしこれは四十年も前の昔噺であるから、新興の北海の大都會を目ざす新潟の、しかも目ぬきの大通りで、そんな不見識な眞似くち繰り返したくないものだ。外國の文字さへ使へば高尚だとか立派だといふのは、二流三流の國民を以て自ら任じてゐることを天下に廣告してゐると同じことだ。立派な英
語なり、併蘭西語なり、獨逸語なりで書いても、それはそれでよろしい。が日本語を日本の文字で正しく書く方が、もつと大切なことだといふことを、皆で、よく承知してもらひたいものだ。
 けれども、伺うしても外國話で書かなければならないところは、それぞれの國の人たちがそれてを見て、よくわかるやうに、はっきりと立派に書いて貰ひたい。そこで、この市で、道路工事の時などに、「諸車止め」といふことが、英文で、エナメル製の制札となって用ゐられるが、その文句は、形容詞も、名詞も、前置詞も、動詞も、ぎっしりと一とつづきになってゐて、急いで読みにかかつても何のことか解りかねる。そのために諸車が止まらなければ、これこそ危険な制札といふべきだ。こんなところは、やはり漢字か假名で、明瞭に願ひたい。さもなければ、もつと正しく英語でやつてもらひたい。随分つまらぬことをやかましく云ひたてるやうに思ってはならない。かうするのも文化生活向上の一つの手だてだ。
 それから、少し汚ない話になるけれども、市中にある共同便所には、漢字は一つもなく、ただ英語でW.Cとある。これはいふまでもなくWATER CLOSETを省略したものだから、略したしるしに小さい點がWの下にもCの下にもあるべきところを、新潟のにはCの方にそれがない。無ければ何のことか解らなくなるといって、ひどく心配するほどのことでもないが、いやしくも市營のものにこんな誤りがあるのは、こんな點からも、市そのものの文化的水準の低さが見くびられる證據にならないとも保證が出来ない。
 道路工事でも便所でも、いづれも市役所のご管轄かと思ふが、あの立派な市役所の建物の、向って左の端の入口に、何とか協會とでもいふものの看板を、英語で書いたものが出て居た。それは私が罹災して故郷へ帰って来た頃のことだ。その看板では ASSOCIATIONとあるべきところがASSACIATI0NとなってゐたのでASSASSI2ATI0N(暗殺)といふ物騒な言葉を聯想して、あの前を通るごとに、私はいつもひそかに、陰気な不愉快な恩ひをしてゐたものだ。
 それから、これは市の方のご関係でないかもしれぬが、何年か前に、今のC・L・Eの圖書館が立派に新設されて開館式のあった時に、私なども招待を受けて行って見ると、出来たばかりの表門の扉に刻まれてゐる英語に一字まちがひがあるので、私は、ほんとに御気の毒でならなかった。しかしそれを気にする人があまり見當らないので、何うかと思って帰ってくると、その後暫らくして前を通って見ると、立派に造り直されてゐた。たぶん、アメリカさんから目玉の飛び出るほど叱られて大急ぎに直したのであらう。市にせよ、縣にせよ、そのやり方は随分いい加減のものだといはなければならない。
 私は、ついいろいろと恨まれ口を叩いてしまったが、私には、自分の郷里をもつと文化的に向上させたいといふ一心のほかに何の心もないものだといふことを、ここに特に念を押しておく。そして市の營局者たちも、負けをしみのやうな言譯などはやめにして、もつと文化的な向上を、われわれ新潟市民に、遂げさせるやぅに、態度を改めてかかってほしいものだ。
                         『新潟日報』昭和二十九年一月一日

『会津八一全集』 中央公論社

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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №48 [文芸美術の森]

第七章 「小説なれゆくはて」 12
 
      早稲田大学名誉教授  川崎 浹

「命のキケンさえ感じる」

 九月一日
 柏に出て局に行き特別配達郵便受け取る。差し押さえの件について尋ねるから、二十八
日出頭せよとの通知だ。何のことか分からないがとにかく期日はすでに過ぎている。仕様
もない。

 九月二日
 昨日買ってきた園芸用コテで玄関前のクソをはぎ起こして片づける。

 九月三日
 とにかく弁護士に相談してみなくては分からなくなったので出かけ、光ケ丘に廻って米
屋で米、石油等を注文して松戸廻りで姪の斐都子(ひずこ)の夫で弁護士の田場川を訪ねる。幸い在宅、すぐ裁判所に電話していたが今度は別に屋敷を差し押さえている。これについて高島の言い分を訊問するのだそうだが局からの通知で高島通知書受けとったと裁判所に知らされていた。道理で何の事だか分からなかった。今度は十九日十一時との事、一緒に行ってくれる事、相談に行ってみてよかった。

 九月四日
 朝から工事はげしく始める。玄関前の侵略はげしい。池を埋め玄関前の通路西側の木も
草花も一挙に埋め立てた。裏にも土盛り始めた。全く一せい攻撃音と震動で家の中に居ら
れない程。十時頃田場川夫妻来た。どこから入ってきたのか勇敢に越えてきたらしい。妙
な二人が来たと工事一寸静かになった。松戸裁判所に行って調べて見る処だから委任状を
サインしてくれとのこと、三枚書く、急いで去った。その後叉工事はげしく始めた。画室
の建物まで土を推して来た。北の方は松の木など四方からどんどん押してくる。
 昼頃京都からケガ見舞い送って来た小包配達員も玄関に来て驚いている。こんな事見た
のは初めてだ、ひどい事だ、うんと賠償取っていいじゃないですかなどと言っていた。全
く家はもちろん命のキケンさえ感じる。その上出入り不能にするためか山のように土を盛
り、裏の方だって向こうの森が見えない程三メートル位高い土盛り。
 二時頃米屋持って来た、よく土盛りの上を来たものだ、土方達米や石油を運び込むのを
見ていて変な顔をしている。まだロージョウするのかと不思議な顔。
 昼過ぎ事務員が親方を事務所まで来てくれと呼びに来た。事務所二階から仕事の様子を
双眼鏡で見て指令しているのだろう。今日の攻撃は全く工事とはいえない。この家をつぶ
す一斉攻撃だ。エンコン、フクシユウのシウチだ。夜になってゴミ捨てに一寸裏に出たら
山の森でバサッという音がした。たしかに人間の音。

 九月五日
 朝、土佐組の連中らしい声がしていたが、いつの間にか消えてしまった。土方も車も土
佐組は一つも見えない。引き上げて行ったらしい。もしかしたら弁護士裁判所からストッ
プかけさせたのか。今日は静かだ。向ふ山の方では前からいたブルドーザー連東山に集ま
って休止していたのか、下りて来て道の方や向ふ山などをそろそろとやっている。三時半
頃になって裏口に首長い溝堀機が来て台所からまっすぐに溝を掘り始めた。その土を庭の
柿の横につみ上げて高く盛り始めた。前の高い盛土の頂上に事務員が一人立って見守って
いる。裏は盛土山と溝で全く出入り不能、この首長車には東急建設と書いてある。

『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社


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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №55 [文芸美術の森]

                       歌川広重≪東海道五十三次≫シリーズ

           美術ジャーナリスト  斎藤陽一

                            第6回 「三島朝霧」

55-1.jpg


≪朝霧の中へ旅立つ≫

 箱根の峠を下ると三島宿に着きます。上の絵は、「東海道五十三次」第12図の「三島・朝霧」です。このシリーズの中でも、とりわけ斬新な技法が使われています。

 描かれているのは、早朝の朝霧の中、三島宿を旅立つ人々の姿ですが、中央の駕籠と馬の旅人一行が輪郭線と彩色によってはっきりと描かれているのに対して、それ以外の背景はすべて、霧に煙るシルエットとして表現されています。
 右側の鳥居と社は三島大社ですが、青と墨色のシルエットで表わされています。背後の森や家々もそうですね。
 左側には、徒歩で旅立つ人たちの姿も、青と墨色のシルエットです。
 さらによく見れば、中央の一群以外のすべては、輪郭線を用いず、濃淡の色の組み合わせとぼかしによって描かれています。

 このような描法によって、霧に包まれたおぼろげな光景と、まだ眠りから完全には覚めていない宿場の静寂さが見事に表現されています。

≪後ろ姿の旅人≫

 もうひとつ、広重描く「旅もの」の人物表現の特徴を指摘しておきます。

 それは、「笠で顔を隠しうつむき加減に歩く姿」、とりわけ「後ろ姿の旅人」という描写が多い、ということです。

55-2.jpg この絵では、中央グループの中で駕籠かきや馬子は顔を見せていますが、旅人たちは皆、笠で顔が見えない。
 また、左にシルエットで描かれた旅立つ人たちは、後ろ姿に描かれている。
 旅人たちのこのような描写によって、哀愁を帯びた旅の情感が醸し出されるのです。

 この絵では、そのような人物描写により、早朝の旅立ちの押し黙ったような、物憂い気分が見事に表現されています。
 これが、広重絵画の「俳味」であり、広重の絵を見ると、「俳句のひとつでもひねってみようかな」という気分にさせられるのです。

 話の流れついでに、「朝霧」を詠んだ句をいくつかご紹介します。

    朝霧や絵にかく夢の人通り     与謝蕪村
    朝霧の影かたまりて人となる    山元土十
    白樺を幽かに霧のゆく音か     水原秋櫻子
    朝霧の一隅赤き焚火かな      斎藤陽一  (失礼しました)

 ちなみに、「うしろ姿」には哀愁が感じられるということに関連して、放浪の俳人・種田山頭火の自由律俳句をひとつ:

    うしろすがたのしぐれてゆくか   種田山頭火


55-3.jpg

 皆さんも一句どうぞ。
 次回は、三島宿の次の宿場町沼津を描いた「沼津黄昏図」を紹介します。


                   

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ケルトの妖精 №47 [文芸美術の森]

 いたずら妖精パック

       妖精美術館館長  井村君江

◆ 『夏の夜の夢』の物語のなかで、狂言回しの役で活躍するのが妖精パックである。パックは妖精王オーベロンの従者で、弓矢にたけているとされるダッタン人が射た矢よりも速く飛ぶことができることになっている。四十分で地球に帯を架ける超能力の持ち主でもある。そのパックが摘んできた惚れ草パンジー(ラブ・イン・アイドルネス)のつけまちがいから、夏の夜のテンヤワンヤの騒動が起きる。
 オーベロンはパックのことを「ロビン・グッドフェロー」と呼びかけ、妖精たちからは、「ホプゴブリンさまとか、かわいいパックとかと呼んでくれる人には、仕事をきちんとしてやり、素敵な運も授けてあげる。あなたは、そのパックなんでしょう」と呼びかけられるパックは、ロビン・グッドフェローやホプゴブリンの集約された姿だといえる。ホプゴブリンは、だいたいが気立てがよく人間の手助けをよろこんでしてくれる。しかし悪ふざけも大好きである。

「夜には陽気にさまよい歩き
 オーベロン王にも、ふざけたり
 雌の子馬に化けてみせ
 豆を食べすぎ、太った雄馬をだましてみせる
 ときには蒸し焼きリンゴに姿を変えて
 おしゃべりばあさんの盃に潜む
 ばあさんが飲もうとすれば飛びあがり
 しわくちゃ喉が酒びたし
 まじめ気取りの婆さんが
 悲しい話をはじめる前に
 椅子に化けたぼくに座ろうとすれば
 ひょいといなくなって尻もちどすん
 みんなは腹をかかえて、大笑い」

 と、パックは自慢話をしている。
 パックは民間伝承からきており、悪ふざけや変身ぶりを発揮する。「ビールの酵母を泡だたなくしたり」「旅人の夜道を迷わせたり」の悪ふざけをし、すこしこわい面もある。
 イギリスのケルト系の地方に見られる妖精、プツカやプーカ、ピタシーの特性と通じている。
 シェイクスピアは、これらの妖精の性質や人間に親しいプーカの性質を混ぜたりして、『夏の夜の夢』のなかで独自のパックをつくりあげたといえる。
 坪内追適は、茶目っけたっぷりのパック(「化け茶目」と呼んでいる)のことをさして、日本でいちばん似ているのは、河童だといっている。

『ケルトの妖精』 あんず堂


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石井鶴三の世界 №183 [文芸美術の森]

塔頭・中之坊お庭1963年/法隆寺 1963年

         画家・彫刻家  石井鶴三

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塔頭・中之坊お庭 1963年 (2020×144)
1963法隆寺.jpg
法隆寺 1963年 (171×115)
**************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社

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渾斎随筆 №77 [文芸美術の森]

リーチさん

            歌人  会津八一

 リーチさん。この度は、あなたの高い御談や作品の力で、この地方の工芸家や趣味家たちを絶賛して下さるために、遠いところを、お出かけ下さったことを感謝します。ただ私は、のつぴきならぬ先約のためにあなたの御到着と行きちがひに、長野縣へまゐりますので、お目にかかれぬのを残念に思ひます。私は、あなたが初めて日本へおいでになった頃から、あなたのことをよく知り、御作品なども、ずつと拝見して居るのですし、一度などはあなたから私へ意味の深い御手紙をいただいたこともあるのに、不思議な因縁で、名乗り合って御目にかかったことがまだ一度もなかったのでした。こん度も、わずか一日の違ひで、御目にかかれないのは、何といふ恨めしいことでせう。
 リーチさん。あなたが私への手紙を下すったのは、今から三十何年も前のことです。あなたの今でも尊敬されてゐる小泉八雲先生の三男の清君を、上野の美術學校へ入學させるといふので、この淸君を私の家に預って居る頃でした。あなたは、そのことを向島の淡島寒月さんからお聞きになって、何も日本だけのことでもないが、およそ美術學校といふものは、ほんとの美術家を造るには、決していいものではないから、それは中止してほしいといふのが、御手紙の趣意でした。實は私自身も、あなたと全く同意見なのでしたが、當人の清君も、小泉夫人も、上野の美術學校を、それほど悪い學校だと思って居られなかったために、遺憾ながらその人たちの望みに任せて、上野へ入れたのでした。その頃、ある日私は小泉夫人と寮生の舞臺へ能を見物に行きましたところが、夫人は見物席の人ごみの中で遠方から指さして、あれがリーチさんです。あとで御紹介します、といふことでしたのに、やがて混雑の中にお姿を見失ってしまひました。これはほんとに残念でした。私があなたを見たのは何ともかんともこれだけですが、私が向島の淡島さんの所へ行くごとに、淡島さんは、よくあなたの噂をしてくれました。そしてあなたのお宅で、乾山老人にお頼みになって、初めて窯(かま)を御築きになった時、いはばその初窯であなたと夫人とのほかに、淡島さんと、長原孝太郎さんと、四人で御焼きになった時のものを、私は淡島さんから湯呑を一つ貰つて、大切にして居りましたが、戦災で東京の宅で焼いてしまひました。淡島さんばかりでなく、私は乾山さんや長原さん、そしてあなたと二人、同じ乾山さんの御弟子の富木憲吉さん、これらの人たちは、いづれも私はお懇意正して居りましたのに、あなたにだけは御目にもかかれなかったといふのは、何故でせう。これを日本では因縁ごとと申します。
 リーチさん。随分古いことばかり申しましたが、あなたはもう御忘れになって居ると思って居たのですが、近頃中江百合子さんに聞きますと、あなたは私の名を今でも記憶に留めていらっしゃるといふことですから、御あいさつかたがたこれだけつけ加へたのです。
 リーチさん。この機會に申し上げますが、あなたが美術學校へ入れてほしくないと御注意のあった小泉清君は、人學はしたものの、間もなく學校に倦きて、自分から退学し、一と頃は夢中になってヴァイオリンなどを稽古したりして居ましたが、今では繪に戻って、美術學校風でない繪を眞面目にやって居るやうです。この機會にご報告申します。
              『新潟日報』夕刊昭和二十八年十月十三ロ

『会津八一全集』 中央公論社


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じゃがいもころんだⅡ №39 [文芸美術の森]

毎日が春の雨

            エッセイスト  中村一枝

 朝からたたきつけるような雨だ。木々の葉をたゆらせるような雨ではないが、ああ春の雨だ。
 この四月十日で八十八歳になる。この私は至って勝ってに生きている。ああ。春の雨だ、と本人はのんきに呟いているが、現実はいきなりの驟雨、春の雨らしくない。春の嵐という言葉もある通り、狂乱ぶりが春の嵐なのだ。
 八十八歳になっても年の重さに全く気付いていない。何年前と変わらぬ軽やかさで生きていると思い込んでいる。足だけは悪くなったが、今でもラケットを握ってテニスコートを走れるような感覚がする。天気が良ければなおさらだ。いつからか、少しずつ足が不自由になった。そのうち直るだろうと思っていたのに、ちっとも良くならない。いつかコートにも行かなくなり、テニスの会員もやめた。四十年以上続けてきた大好きなスポーツだったのに、思い切りよくやめたことで少しスカっとしたのだった。が、後悔しきりだ。
 テニスコートは家のすぐ真下。、歩いても10分もかからない。そんなすぐそばでテニスができるなんて、実に幸福な四十年だった。
 年の効という言葉があるが、年を重ねて尚も充実してくることも多い。でも、スポーツは年齢の衰えはどうしようもない。それをカバーして未だに元気にラケットを振っている先輩を見る度に自分の至らなさが口惜しくなる。
 「最近、お母さん、ちょっと物忘れが多いから、一度見てもらえば」
 息子に言われてがく然とした。物忘れが多いのは確かだが、私の物忘れは昔から、だと古い友だちが言った。大体がいい加減な性分、勉強にも、何事にもどうもそのいい加減さが目立つ。いい加減にしなかったのは犬とテニスくらいだ。それにしては犬はともかくテニスは少しも上達しなかった。というわけで、近くの脳神経外科へ。そこは10年前にも一度行っている。
 何となく軽い感じの院長先生で、私はその軽さが気に入っているのだが、とりあえず全部見てもらうことになった。結果は大分先になるが、いいのか悪いのか、今の所は何もわからない。
 齢をとるのはしかたがないにしても、人に迷惑はかけたくない。それだけは心の隅に根付いている。健康で元気な年寄りは理想だが、なかなかいない。いくら理想でも難しい。どうも、誰よりも本人が何とかやれると思い込むケースが多いようだ。それがなかなか理想どおりにはいかないのだ。だから余り気張らないようにしようと思ったりする。人生の終わりは、本人が終わりと思わないうちに終わってしまうのが一番幸せかもしれない。この年になってもまだ、人生のたたみ方について考えてもいない。どこか執着がある。執着はずっとついて回る。
 それにしても人生ってほんとうに人それぞれで、面白くって楽しくってというのもあれば、うんざり、とうのもあるだろう。そうだとしても、春の雨のようい急にしたたかに降り続いたり、しとしととやさしい手心を加えたり、人生ってそういうものじゃありませんか。

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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №47 [文芸美術の森]

第七章 「小説なれゆくはて」 11
 
      早稲田大学名誉教授  川崎 浹

家の前に土を盛られる

六月八日
 家の前に土盛り始めた。ブルドーザーで家がブルブル震える。盛り土で出入りも出来なくなった。

六月十日
 土腐りつづけている。南の方庭を大分侵略した。

六月十一日
 柏に行くのに玄関の方遂に出られなくなったので裏から工事場に出て行く。

六月十七日
 田村と田端が裏から来た。田村はとにかく川名の方に急いで越せという。団地作りが出来ないから。以前、地所をきめた時この地でいいという承認書を田村とコブタで書いてサインさせられた紙片を出して、こんな書類があるのだからという。彼が持っているのをひと目見たら書いてある最後にサインしてあるのに、その後に又長い文章が書かれている。何か勝手な事が書き加えられているらしい。勝手に偽造している。田村一人でしきりにしゃべっている。要するに書類が偽造されたのである。

 六月には団地を売りに出すのだからお客さんが沢山やって来る。そしてあの家はどうしたのかと聞かれると困るのです。こんなみすぼらしい家があるとりつばな団地を造るには目障りになる。みっともない。結局買い手がつかなくなる。団地も急ぐのだから引っ越さないと差し押さえなくてはならなくなる。又個展も差し押さえすることになります。同じ事を何度くりかえしても同じだ。大義名分が無い処には高島は殺されても行かない。尚遺言しておくが前にも話したようにここは墓場だ、ここを取ってその墓場をどうしようというのか、会社に帰ってそれを聞いて来い、これは重役会議ではだめだ、最高責任者つまり社長の考えを一筆確かめて来い、それによって団地に渡すか否かをきめる、高島さんは私一人を悪人のようにいわはるけど、と言いかけて立ち上がり、田端氏に事務所でお待ちしていますお先に失礼しますと立って行った。高島の方見向きもしないで何か決心したらしい。後で田端と二人。田端今日は殆ど口を開かなかった。川名では村中で高島さんを歓迎しますが、高島さんはあの家に来られてもすぐにいやになるかもしれません。あの家今はとても静かな処ですが、廻りの土地を買い占めした者があるので、目下ブルドーザーを入れて地ならしをやっています。別荘地にでも売るらしいです。私達地元の者も考えなくては
なりません。と言っていた。

六月十八日
 朝、伊藤氏来る。昨日田村とコブタと来て高島を何かとなだめてくれと頼みこんだ由、コブタは事務所に待っていたらしい。裁判に持ち出して強制収容し今日までの費用損害を賠償させ、個展を差し押さえするような事言っている由。玄関前の作業昨日から中止している。田端が来たからか。

六月二十二日
 玄関前盛り土で郵便員が来られないので草を刈って土の上に並べて何とか通れるようにする。前にダンプ一台置きっぱなしにしてある。一台ダンプを休ませると一日二十万円の損になると言っていた。その損害賠償請求のためか。

七月四日
 裏から三人、玄関に廻ってきた。一人は事務所の家内らしい。二人を上げる。裁判所の執達吏と東急の弁護士、東急の名義でこの建物を差し押さえるのだそうだ。玄関の内側に張り紙して行った。つまりこの家を他人に売り渡したり貸したりしてはいけない、だが本人が使用住居するのは今まで通りに差し支えないとの事、全く何の事もない。

七月九日
 裏が屋敷と埋め立て地の間に水溝が出来て通れない。それで橋のように木を二本並べて渡す。向こう岸は仕方なく団地側にかかる事になる。

七月二十二日
 柏に買い物に行くため裏から出て車道を通っていたら労務者が自転車で来た子供に此処は道ではないから通ってはいけないよと言った、私に言ったのだろう。

八月二十六日
 敬老金受けとりのため市役所に行き、ついでに家の便所今まで野菜作りに使っていたので困らなかったが百姓が出来なくなって、汲み取りもできず、汲み取り方を衛生課に寄って申し込む。汲み取り車は今裏口からだと一メートルの処まで近づけるから来る道は団地事務所に尋ねるとよいと言っとく。受けつけてくれた。夕方帰ったら郵便局の通知書入っていた。特別配達が来ているから受け取り方を知らせよとの事。何の郵便か。

八月二十七日
 朝から裏口の方に土運びダンプが列をなして運んできて、大型ブルドーザーが二、三台で引っかき回し、監督や事務の連中が大勢見守っている。何か言ったら総がかりでたたきっぶされそうで怖ろしい情景、親方たちも裏の柿の木に弁当や水筒をかけ、その下に敷物を持って来て自分たちの休息酒場にしている。まるでここは空き家無人としてあるらしい。一日その太さわざをつづける。家もぶるぶるふるえるので画の仕事はもちろん出来ない。

八月二十八日
 今日も朝から昨日同様土盛りブルドーザーの大さわざ。朝、玄関の戸開けて見たら玄関のすぐ入り口に大きなクソをしている。外からはだれも来る者は居ない。労務者達の仕業だろう。郵便配達員がふんではいけないと、松の青枝を祈ってきてその上に立てておく。スコップをだれか泥棒して行ったので、除くことも出来ない。画室のかべに張っていた月光菩薩合掌の写真がなくなっている。くまなく探したが無い。だれか裏戸の鍵を開けて入り持って行ったのか。気持ちが悪かったのか、たたられそうで、台所のカーテンも締めて出たのに、開いたあとがある。
 今度の土運びやブルドーザーの連中は新顔だ、埼玉から来たらしい。土佐組と車に書いてある。これまでのブルドーザーは四、五台東の丘の上に一所になって置いたまま久しく動かない。家の廻りの仕事をいやがったのか、そのため新規を連れてきたらしい。監督もこの家は何だか分からない顔。この男一体何かわからない表情をしている。郵便局にも行かねばならないが、どうにも出られない。出かけて家をあきやにしたら何されるか分からない。また彼らの間をぬけて通ったらブルドーザーに轢き殺されるだろう。

八月三十日
 昨夜から雨ふりだす、一般の土方は休んでいる。しかし家の廻りの土運びとブルドーザーは仕事をつづけている。とにかく雨で土ホコリが立たないので有難い。

八月三十一日
 今日は局に行こうと思っていたら裏から世田谷清氏の夫人と若夫人が来た。この土山の上をよく越してきたものだ。足のけがの見舞を二度送ったが二度とも返ってきたので持ってきたと。とにかく上がって話す。この情況驚いている。四時頃帰って行った。この土山の上に待たせてある高級車に土方達驚いたのか、ブルの連中少し静かになった。
 今日も少し後となって局に行くのはだめになった。

『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社


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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №54 [文芸美術の森]

          歌川広重≪東海道五十三次≫シリーズ

           美術ジャーナリスト  斎藤陽一

第5回 「箱根湖水図」

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≪箱根の山は天下の嶮≫
 前回に「品川宿」を紹介しましたが、「東海道五十三次」そのあとの宿場は、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚、藤沢、平塚、大磯、小田原と続きます。今回は、小田原のあとにくる「箱根・湖水図」(上図)を取り上げます。
 東海道最大の難所と言われるのが「箱根越え」。その険しさを表わすのに、広重は思い切ったデフォルメを行なっています。手前に壁のような山々を連ね、中央には屹立する巨大な岩山を描いて、人の行き来を阻む難所として表している。
 そして、それらの山肌には、緑、青、薄緑、黄色、茶色、墨色などいくつもの色彩を施して、まるでパッチワークのように仕上げています。「東海道五十三次」シリーズの中で、最も多彩で鮮やかな図です。これは「箱根の険しさ」をシンボル化した表現なのでしょう。
 また、広重お得意の「近接拡大(クローズアップ)」の画法を用い、前景に思い切り大きく岩山を配したことによって、はるか奥に白くそびえる富士山との遠近感が深まっています。
  
≪印象派への影響≫
54-2.jpg このそそり立つ岩山の迫力と、ものの固有色を無視した大胆な配色は、新しい絵画を模索していた「印象派」の画家たちに鮮烈な印象を与えました。
たとえば、「ポスト印象派」の画家ポール・セザンヌ(1839~1906)は、故郷の南仏にあるサント・ヴィクトワール山を描くときに、この山の姿と色調からヒントを得たとも言われます。(右図参照)
54-3.jpg また、印象派の旗手とも言うべきクロード・モネ(1840~1926)は、ノルマンディ地方の海岸の断崖を画面に大きくとらえた絵をいくつも描きました。(右図参照)
それらは、巨大な岩の迫力と存在感を表現したものですが、そこには、広重の「箱根図」の影響があると言われます。よく知られているように、モネは浮世絵の熱烈な愛好家であり、よく研究していました。
54-4.jpg もう一人、印象派展に最も遅れて参加した画家ジョルジュ・スーラ(1859~1891)の絵を見てみましょう。(右図参照)
 
 右の絵は、スーラがノルマンディ海岸に突出したオック岬を描いたものです。鋭角的に屹立する岩を画面の中央に大きく描き、その存在感をシンボリックに強調しています。
ここには、広重の「箱根図」とともに、北斎の「神奈川沖浪裏」のイメージも反映しています。
 モネの絵も、スーラの絵も、それまでの伝統的な西洋風景画には見られない大胆で斬新な海岸風景となりました。このように、印象派の絵画を見ると、その背後から日本の浮世絵が見えてくることがしばしばあります。

≪あの大名行列が・・・≫
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 よく見ると、急峻な山道を下る「笠の列」が見えます。これは「大名行列」ですね。
小田原から山道を登ってきてようやく峠に達し、これから西に下っていくところです。ここでも広重は、滑り落ちるような急傾斜を強調し、箱根越えの困難さを暗示しています。
 箱根越えで稼ぐ駕籠かきにとっては、上りより下りの急勾配の方が危険だったらしく、駕籠代は下りのほうが高かったと言われます。
 この大名行列が、日本橋を旅立った一行だと考えれば、ここにも広重の「続きもの」の趣向が現れていることになります。彼らは黙々と国元の西国に歩みを進めているのです。
 この山道を下りきると、三島宿が待っています。次回は「三島・朝霧」を紹介します。


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ケルトの妖精 №46 [文芸美術の森]

妖精の女王ティターニア

        妖精美術館館長  井村君江

◆シェイクスピアが『夏の夜の夢』のなかで、高慢で強情でコケティッシュな妖精の女王として描いたティターニアは、古典世界ではきらびやかな神話体系に属している。
 ティターニアの名は「タイタン(巨人神族)の娘」からきている。ところが「ウラノス(天)」と「ガイア(地)」のあいだに生まれた「太陽神ソル」の姉妹、「月の女神ダイアナ」もティターニアと呼ばれたので、それぞれの名前のもっている意味がひとつに重ねられて、妖精の女王と月の女神はしだいに同じキャラクターをもつようになった。
 シェイクスピアはティターニアの姿を魅力的に創りあげたが、ここでもティターニアには月の女神ダイアナの性質がつけ加えられている。妖精たちの月夜の輪踊りの場面などに、それをうかがうことができる。
「月夜の森で歌に合わせて輪踊りをしておくれ」とティターニアが言うと、妖精たちは、「災い、呪い、怪しいものは、女王さまに近寄るな」という守護の歌を歌って、安らかな眠りを誘う。
「月が、ほら、泣いているみたい。月が泣くと小さな花も一輪残らず涙を流す。きっとどこかで乙女が汚されたのよ」と、シェイクスピアはティターニアに言わせているが、処女を守護する月の女神の性格として、これは当然のことだといえる。
 シェイクスピアの妖精たちは花々や昆虫に囲まれて暮らしている。その名も「辛子種」や「蜘蛛の巣」「豆の花」「蛾の君」というように植物や花、蝶や昆虫の化身のようであり、微小で繊細で美しいイメージである。そしてティターニアのベッドは甘い香りを放つすみれや忍冬(すいかずら)、癖香いばらでできており、蛇のエナメルの皮や煽蟻のつばさの皮は妖精の服になる。妖精たちは蜂の巣からは蜜を、リスの蔵からはクルミを集めている。
 また、シェイクスピアは『ロミオとジュリエット』のなかでも、妖精マブとして妖精の女王を登場させている。ここでは妖精マブは、メノウほどの小ささで「ハシバミの実の殻の車」を「ケシ粒ほどの小人」に引かせている。妖精マブが恋人の頭を通れば恋の夢、妖精マプが弁護士の指のあいだを通れば謝礼の夢など、人間に夢をみさせる妖精(フェアリー・ミッドワイフ)とされている。
 妖精マブの侍女は蝶の羽で扇をこしらえたり、蜂の足をローソク代わりにしてそこに蛍の灯を灯したりするなど、『夏の夜の夢』のティターニアの寝所の場面に登場する妖精たちの繊細な姿につながっている。
 マブという名前は、ケルト神話の戦いの女神メイブや、コノートの女王メイブにも重なっている。ケルト神話の世界では、戦いに敗れた女神ダーナ神族が海の彼方に常若の国、地下に妖精の国をつくり、ミディール、オィングス、フィンバラ、マナナーン・マックリールなど、たくさんの神々が妖精の王になっているのだ。
 ウェールズ語の「小さい子」を意味するマブとかマベルからとられたという説もある。

『ケルトの妖精』 あんず堂


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石井鶴三の世界 №182 [文芸美術の森]

東大寺南大門仁王 1961年/二月堂仁王 1961年

        画家・彫刻家  石井鶴三

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東大寺南大門仁王・西方 1961年 (173×124)
1961三月堂仁王.jpg
二月堂仁王 1961年 (171×124)

**************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】

明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社

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渾斎随筆 №76 [文芸美術の森]

 文化の反省

            歌人  会津八一

 私は東京に四十年あまり暮して、それから戦災で無一物になり、學校教師をやめて故郷へ歸って来たものだが、東京に住んで居た長い間に、一度も文化の意義とか、その必要とか、向上とか、そんなことでつくづくと考へてみたこともなかった。だから自分から人の前へ出て、さういったことでお説法めいたことを、喋舌ったことはなかった。
 けれども新潟へ歸.って来て驚いたのは、そんな問題で、話をさせられることが多いことだ。何かの會とか團體とかいふものが、いい指導者を見つけて気を揃へて、たとへば農事の講習を受けるとか、洋裁のお稽古をするといふやうなことは、それは、ほんとにいいことで、三回のところを、都合が附かないために一度しか聞かれなかったとしても、その一度でも、聞いただけで、そのままほんとにためになる。だから大におやりなさるがいい。けれども文化問題といふものはそんなわけには行かない。同じ文化問題でも、枝葉末節の方なら、まだいくらかためになることがあるかもしれないが、根幹とか精神とかいふことになると、どんなに偉い指導老を擔ぎ出して来て、それに取り縋って聞いて見ても、ただそれだけで、いい効能が顕はれるといふわけには行くものでない。また憺ぎ出されて講樺をする方の身になっても、その人が正直で、誠實な人ならそんな覚束ない役目を、買って出ることをめつたに望むものでない。それを職業にして居て、話上手に、説き去り、説き来つて、進に満場喝采のぅちに説き了るといふことまでは、熟練な語り手には困難でないかも知れないが、それが面白かったといふだけでは、聞いた方の人達の文化がそれで進んだとは云へない。聞いて来た通りを、村へ歸って、友だちにも話す。それを聞いて、皆が面白がる。そんなことは、いつもあることだが、それだけで、その人なり、それをまた聞きした人たちなりが、大に文化的に偉くなったといふわけではない。いい事、新しい事、それを聞くのはいいことで、自分のためにもなるし、そのお裾分けをしてやつても、人のためにもなる。しかし、それでは、只だ「耳學問」をしたといふだけのことで、ほんとにその人の心にまで響くほどの感激を受けて居ない。そんなことでは、文化的に見て偉くなったとはいへない。心にまで深く響渡るほどの感激を受けたばかりでなく、その後は、物に對し、人に對し、自分に對して、その人の判断も、行動もが、まるで別な人を見るほどに變て来る。しかもそれが、只だ一度だけでなく、だんだんと、そんな風に進んで行く。しかも、それは何度まで行ったから卒業だといふのでなく、どこまでも繰り返し、繰り返して進んで行く。かうなって初めて文化的の本筋の生活に、はひつたと云ふのだ。馬鹿の一つ覚えのやうなことを、生兵法を振りかざして、文化人気取りもないものだ。だから文化生活の正しさ、ありがたき、願はしさ、従ってまた厳めしさ、気むづかしさ、それをこひねがふものは、請け賣りの文化講演などをやめて、もつと眞面目に、謙虚に、獣々として實行、實現の生活に、はひらなければならない。だから私などは、何十年も東京に住んで居ても、そんなことを滅多に人に向つて説いたことがなかったのだ。
 そこでこの文化生活といふことは、大金をかけて上等の設備をして、電燈會社でも起して、自分の住む地方を明るくし、それと共に大いに儲けて、たくさんの配當が出来たといふこと、それは勿論いい事であり、また大切なことであるが、それだけで、それを文化生活などいっても、何か少し物足りない。たしか昨年の年頭にも、私がこの新聞で書いたやうに、新潟では美術がよく理解されて居ない。たまに大金を投じて美術品を買ひ集めても、ほんとのところは利殖のためにやつて居る人が多いのらしい。もとより大金を掛けて、大に儲ける腹構へであれば、そのために損をせぬやうに一心になって、参考書や實物を、よく研究して、鑑識眼も人よりも鋭くなり、また正確になるのは珍らしくもない。従って滅多な骨董屋や、批評家が遠く及ばないことがある。けれども、これは営利に抜け目がないために、無暗に手堅くしてゐるといふだけのことで、よしんば、その人が正しいものを澤山に持って居たとしても、それを決して文化生活などとは申されない。
 また、今では、越後の名物となって居る良寛和尚でも、この人が存命の時に、この人の歌なり詩なりについて、果してどれだけの人が、どれだけの程度まで、ほんとに理解し、そして、この人に對して、どれだけほんたうの敬意を抱いて居たものかを考へて見たい。變った坊さんで、變った文字を書くといふほかに、大多数の人々が、あまり深い敬意を拂って居たとは思はれない。なぜかといへば、その人たちの人生観や藝術観とは、あまりに遠い良寛和尚であったから。しかるに、彼は、何處へ行つても、筆と紙とを持って、行くさきざきへ迫ひかけて来て、字を書いて欲しがる人は、遂に絶えなかった。それは、よく解らないけれども、變って居るから欲しい。謝禮がいらないからほしい。人が持ってゐるから欲しい。あとで高くなるかも知れないから欲しい。さういふ熱望者は、いつの世にも絶えないものだが、この中のどれにしたところで、決して文化的な理由だとは思はれない。
 また現代になって、良寛なら良寛、誰なら誰といふ風に、その人に専門といふか、専属とでもいふか、特別の鑑定家といふものがあって、なるほど、よく調査がしてあり、微細にわたって、時としてはつまらぬ末の末の果までも知って居り、判断は概して正しい。それはまことに感心するが、その人が、歌の一首も自分で詠めるでもなく、文字らしく文字が書けるでもなく、大昔の歌でも、良寛の同時代の歌でも、現代の歌でも、凡そ良寛の歌のほかには、歌らしい歌を知らず、良寛の書道のほかには、何一つ古今の書道を知らず、ただ良寛をたくさん手掛けた関係から、良寛だけはわかるといふのは、永い年月を白米商をやって居たので、その経験から、一撮みの白米を手のひらの上に載せてやると、すぐ正にその産地をいひあてるといつたやうなもので、その判断には敬意を表さなければならないが、その人をば、決して文化的だといって褒めるわけには行かない。ただ細かいことを、隅から隅まで知り抜いて居るといふだけでなく、それをいぢる人の心と、良寛なら良寛の心と、或はその藝術心とこちらの藝術心とが、どこの所かで、のつぴきならぬ感交がなくてはならない。
 美術品はたいてい高債なもので、貧乏人では買ふのなんのといふことは出来ない。そこで貧乏人はコロタイプの印刷かなどで、ひそかに鑑賞をして、それで満足するよりしかたがない。とにかく、そんな間にでもいくらかの鑑賞の満足が出来るのは、ありがたいことだ。しかしこの印刷物を賣り拂つても、いくらの金になるものでもないが、金儲けを目的にする骨董の賣買よりは、こちらの方が、美術に封しては、ずつと本格的の態度と云はなければならない。高い金を拂ふだけの力が無いからと云つて、それで軽蔑さるべきではない。                 (新潟日朝昭和二十八年一月一日)

『会津八一全集』 中央公論社


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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №46 [文芸美術の森]

第七章 「小説なれゆくはて」 11
 
      早稲田大学名誉教授  川崎 浹

「私はすでに死んでしまっているのです」

二月三日
 東急本社勤めの、開発課係長というのが来、川名に行って新築を見て来た、内には入れなかったが田端氏にも会って話を聞いて来た。どうやらコブタが失礼な事を言ったようでまことにすみません。あの男は実は東急とは何の関係もないのです。彼のやっている事は本社の委託でも契約でもなく、彼独自の仕事です。とにかく以来彼の本社への出入り禁止にしています。色々失礼したようですが、とにかく田端氏がお気の毒です。田端さんも先生の事を心配しています。先生も田端氏の立場を考えたらどうかと思っています。これから度々私もお伺いしてご相談する事になると思いますが社員の田村もお伺いさせます。コブタはもちろん、東急の人にも最早だれにも会いたくないと思っている処です。田村君は何度か私にウソをついている、彼には最早会いません。だれにも会いたくないし又会う必要もなくなったのです。私がここに居る居ないはただここの地主との問題だけで外に何も関係ある人はありません。(省略)
…係庭は何のために来たのが言わないで行ったが謝りの文句をいいに来たのが田端氏のことで来たのか、玄関に送って私を無理にでも川名へ追い出そうと手を替え品を替えてやってみるが、もしここから私を追い出すなら一番てっとり早い方法がある。教えてあげましょう。あそこに井戸がある。私は毎日あの水を飲んでいる。あの井戸に少しでいいからセイサンカリを入れる事だ、それで難なく片づいてしまい、だれも分からないし、文句も言われないですむ、そんなことはおっしゃらないがいいですよ、先生の人格に関しますから。でも私はすでに死んでしまっているのです。
 ▲木の節ひとつたがわずアトリエを建てろと注文したのは、自然を破壊する開発業者への批判、その現場をになう者たちの態度への嫌気から出た行為だろう。自分から望む移転と新築ではないので、新アトリエの所有者は開発業者の名義にして、市に寄付する。自分は管理人として居住する。税金など市民としての義務は高島が果たす。高島の死後はアトリエを市に返還する。これが画家の考えついた大義名分であり、抵抗だった。

二月五日
 能登から琵琶湖、京都への旅に立つ、三泊、留守中たいした変わりもなかったらしい、家の廻り。

二月十日
 裏で木炭を切っていたら睡蓮池の向こう側に急にブルドーザーがやって来て地ならし土盛りを始めた。見向きもしないで炭を切りつづける。

二月十一日
 作業の親方裏口に来て、りつばな家が出来ているそうだが早く引っ越したほうがいいのではないかと言った。こちらが提案したとおりではなく逆ばかりやっているので引っ越すわけに行かない、ここに居つづける。君等が困るようなことはしない、君等もここだけのこしてさっさと工事を進めたらいいだろうと言ってやる。

二月十四日
 南方地所へ侵入、二間位こちらを食った、山ほどの土を盛った、この事、一応地主に手紙で通知。

二月十九日
 番頭と東急社員田村とが来た。来たら会わないと追い返してやろうと思ったが何を言うか一寸聞いてもいいと入れてやる。先日本社の係長というのが来たが田村君はウソつきだから会わないと言っておいた。あの係長の命で来たのか。あれは私達の上役ですが今日はその命令ではありません。川名に行って来ましたがあちらは暖かいですよ。行かれたらいいと思うんです。これほんとうに心からですよ。私は高島さんのためにやっているのです。ウソなんかつきません。実を言うと私達の立場が一番つらいのです。本社からは安く上げろとガミガミ言われるし、地主さんの方からは高く高くと言われるし、実の処地主さんの味方になった気でまとめないと成り立たないし、むしろ地主さんのために頑張っているようなものです。高島さんの問題だって事実本社を向こうに廻して頑張りけんかしているようなものです。つらいですよ。だから文句なしでもう止めたほうがいいだろう。

三月一日
 田端と請負師から手紙来る。田端氏は南方作戦に従軍して幸い復員して帰って来たら父は一ケ月前に死んだと初めて知り、孝行したいときには親は無しと感無量であった。高島先生は死んだ父にそっくりよく似て居られる。父のような気がしてならないと書いてある。請負師は房州はすっかり春になりました、とても暖かいです。菜の花が盛りと咲きみちておりますとある。だから是非早く引っ越していらっしゃいとは書いて無い。

三月十九日
 番頭と東急の田村来る。

三月二十一日
 伊藤氏来る。先日コブタが来た由、色々ここの高島の様子をさぐり聞きして行ったとのこと。
▲文中に伊藤氏とあるのは、最初に奥さんと遠に土地探しで相談にのった伊藤武氏のことと思われる。

四月八日
 南風吹いて団地の土を吹きこんで来て室中土だらけ。

四月二十五日
 歌舞伎座でケガ。救急車で木挽町病院に運ばれる。
▲高島さんが劇場の階段から転落して足を骨折したとの知らせを受けたので、私は五月十二日に画家を見舞った。当時私は腎炎に握っていたので二度目は行けなかった。六月十二日に、画家から前月末に退院したとの知らせを受けとる。

五月二十九日
 退院帰宅。

六月二日
 柏市役所に出かける。まだ足が丈夫でないからそろそろ行く。納税、老人年金帳、帰りに伊藤宅に一寸立ち寄ったら、先日東急の男来たそうだが、とにかく個展やるまではだめだと伊藤氏言っといたと。館山市から新築の納税通知書来る。ほうっておこう。新築には高島宛て納税命令が来たが、地所への納税は通知なし、地所はどうしたのか。

『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社


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