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妖精の系譜 №71 [文芸美術の森]

イエイツと妖精物語の蒐集 3
 
       妖精美術館館長  井村君江 

自由な「中間王国(ミドル・キングダム)」

「妖精は救われるほど良くもないが救われぬほど悪くもない堕落した天使だ、とアイルランドでは信じられている」とイエイツは『アイルランド農民の妖精物語と民話』の解説で言っているが、紀元四三二年に聖ペトリックによってキリスト教が伝えられても、イギリス本国で妖精たちを異教の神々としてデヴィルやデーモンの類として斥けたほどの激しい攻撃や否定には出会わなかった。この異教的存在とキリスト教との穏やかな共存や交渉は、最後の審判の時に自分たちの魂も救われるかどうか坊さまに聞いてくれと頼む赤い帽子の小人たちの話や、海底のメロウの籠に入った人間の魂を、救われるようにとひっくり返す漁夫の話などに、あるいは『僧侶の魂』や『小鳥の話」などの聖者や僧侶の伝説にうかがうことができよう。アイルランドの農民たちは素朴で混和であり、キリスト教への篤い信仰を抱きながら妖精の言葉にも耳を傾け、木の葉をひるがえし藁(わら)屋根を吹き上げてつむじ風が通ると、妖精の群れが通りすぎたと思い、帽子を脱いで「妖精たちにも神のお恵みを」と祈るのを忘れないのである。
 著書『ケルトの薄明』の中でイ工イツは、「人々の想像力は、むしろ幻想的で気まぐれなものの中に住んでいる。そして幻想も気まぐれも、もしそれらが善なり悪なりと結びつけられるようなことがあれば、それらの命の息吹きであるところの自由さを失ってしまうのだ」と言っているが、アイルランドの妖精たちは善悪の規範にとらわれることなく 宗教の枠に縛られることなくいきいきと「ケルト人の心の広大で止まるところを知らない法外さ」の中に住み、自由な「中間王国」で活躍を続けてきた。その気まぐれで幻想的な想像力が、時に飛躍して誇張となり、現実の制約の中にいる人間をかえって法外に解き放ってユーモラスに行動させ、逆に諧謔めいたものにさえしていく。泥酔して水に落ち、雷に助けられてその背に乗り、月まで飛んで行ったり鴬烏にふり落とされ海底まで落ちたりするダニエル・オルールクの話や、鉄の壷の冑をかぶってドラゴンの背にまたがり、ダブリン市内まで飛んでいく、ドゥリーークの貧乏機織りの話などを読んでいると、ダブリンのセント・ぺトリック教会の司祭であったスウィフト描くところのガリヴァーが訪れた巨大国や小人国、それに飛行浮島などの奇想天外な冒険の数々が連想されるし、ダブリン生まれのバーナード・ショウの鋭い機智や意表を突く構想も、オスカー・ワイルドの巧みな着想や鮮やかな機智や、ジェイムズ・ジョイスのある種の言葉遊びの自在さやシニシズムも、こうした線上に理解されているように思えるのである。
「アイルランドの異教の神々トウアパ・デ・ダナーンがもはや敬われもせず供物も捧げられなくなって、人々の想像の中で次第に小さくなったのが妖精」だとアイルランド古代の文献『アーマーの害』にあったが、ダグラス・ハイドによれば、こうしたアイルランドの超自然界の生きものたちは、ある部族神話の残存の跡をとどめながら、各地方ごとに異なった系列を示しており、そうしたもののへの信仰も、アーリア系のものもあればケルト以前のものもあるという。ダン・アンガスの『空の丘』に住む丈高く美しい貴族階級の妖精たちや古代の墓地遺跡に住むものたちは、マィリージアンの勃興以前のものであり、クルラホーンはマンスター地方の精雲であったという。一般庶民ふうな「小さな人たち」や「良い人たち」、妖精の靴屋とか鍛冶屋、牛追い、笛吹き、機織り、ホッケーの競技者たちの着ている革製の袖なし上着や太い格子柄の毛織物、三角帽子やバックル付きの靴、また行動範囲を調べることで、アイルランド先住民たちの職業や技能、工芸の跡を辿ることができるとすれば、あるものは先史時代にさかのぼれようし、あるものはもっとわれわれの歴史に近いものかもしれない。またしはしぼ物語で妖精の神聖な住み家とされる砦や円型土砦や茨の木を農民や羊飼いが決して犯さないという伝統的な尊敬の気特は、レプラポーンが守っている墓や地下の宝物の場合と同様に、自分たちより以前に住んでいた所有者の物を荒さないという祖先崇拝の念から当然生まれてくるものであろうと、ハイドは言っている。従って農民たちにとって、妖精の王国とはそれ白身の場所にずっと存続していて、現実の世界とはただ一枚の薄いヴェールで隔てられただけの過去の世界なのかもしれない。
 この中間王国(ミドル・キングダム)は妖精の国であると共に「常若の国(テイル・ア・ノグ)」であり、また、本貿的な精霊や、かつて一度も人間であったことのない霊魂の世界をも、アイルランドてはこう呼ぶのである。しかし、アンドリュー・ラングは、「妖精(シー)は一方では黄泉の国(ハーデス)へと姿を消していく傾向がある――死者の幻影となっていくのである」と言い、死という状態に入るわけではないにせよ、妖精自身がその存在を次第に変化させていくのだと言っている。妖精たちが死者たちと密接に関係を持ち、人の死を予言したり人の魂を集めたりする講が数多く出てくるが、それはかえって死者側、すなわち死んだ祖先や友人たち、家族の者たちが、この世に生をおくる者と混じり合って、今ここに居るのだという考え方からきているようである。ダグラス・ハイトなどは妖精のうちのレプラホーンやクルラホーン、メロウの類と、「幽霊タブシー)」や「帰還者(レヴラント)」とはまったく異なる位相にいるものとして分けて考えようとした。またキャサリン・レインはこの世を旅立った魂は、いくばくかの間この「中間の国」に止まるのだと考えている。一方イエイツの考えをみると、妖精の国や常若の国は、われわれの魂がそこからやって来てまたそこへ帰っていくところとして、そこにプラトンやプロティメスの「彼方」と同じものを見ているのである。
 こうして考えを進めていくと、妖精信仰は、単に一つの民族のー過去の遺産というばかりではなく、現在あるその民族の魂の教義に属するものであることがわかってくる。「すなわち妖精の国は、いわば文明人も非文明人も、等しくそこを、例えば神や悪魔やあらゆる善と悪の霊などという見えない存在とともに、死者の魂が住んでいる場所、そうした状態とか条件を持った場所、あるいはその領域と同じではないにしても、きわめて似通った場所なのである。……妖精の国は、日に見える世界が末だ探検されていない海に沈む島のように、その中に呑まれてしまう目に見えない世界として、現実に存在している。そこにはこの世界よりも、よn多くの種類の生きものが住んでいる。なぜなら比べものにならないほど、より大きくより変化に富む可能怪が、その世界には存在しているからである.
 エヴァンス・ウェンツのこの言葉は(『ケルト諸国における妖精信仰』)そのへんの消息をよく説明してくれるものであろう。この中間王国の住人たちが、実にさまざまな形姿をとり愛すべき性質を備えていきいきヒ存在し、それとの交渉が今もっこしあるということは、とりもなおきずアイルランド民族の魂とその遺産の豊かさ、予見の力、想像力の非凡さを物語るものであろう。
 ひと鉢のミルクを捧げ、士や水の神、豊穣の神として妖精を崇め、妖精学者の忠告を信じたアイルランド農民たちの土着信仰のもとには、自然は霊的な力を持つという汎神論、霊魂不滅や輪廻転生を信ずる心がうかがえる。太陽や星など天体の運行、四季のうつろい、悠久の円環の動きを崇拝し、すへての霊はこの軌道と同じサイクルを辿るとみるのは、民族の別を越え、原始の人たちが持持っていた大らかな心である。
「未聞人の方がわたしたちよりも、神秘的な力をはっきりいきいきと、すべての点で、もっと容易にかつ充分に感得していたことは確かである。物事を受け取って考える生活を遮断し駄目にする都会生活や、他から離れ孤立して動く心を助長させる教育は、わたしたちの魂の感覚を鈍らせている」と、十九世紀文明社会の現象に警告したイエイツの言葉に、もう一度耳を傾ける必要があろう。昔、空から吹く風にむきだしになっていたわたしたちの魂は、いまでは厚い衣で幾重にも被われてしまっている。その衣を脱ぎ、しばし原始の世界に生きていた幻想界の住人たちと、われわれも親しく交わる必要があるように思う。
 今でもアールラーノドの農民たちは、十一月になると木いちごがすっぱくならて食べられなくなるのは、ブーカが腐らせるためだと言い、家に良いことがあるとエルフがそうしてくれたと信じ、感謝のため、窓辺にミルクを一鉢置くのを忘れない。現在に続く風習や歌謡(バラード)の中にも、妖精たちはまだ息づいているのである。キルヂィア他方を旅したとき、泥炭(ビート)がうず高くつまれた一軒の農家の庭先にロバが遊んでいたが、急に跳ねまわったがと思うと、ヒースを踏みしだいて沼地へと駆けて行ってしまった。農家の主人は、あれはプーカの仕業なんだと教えてくれた。そうした素朴な心が、さまざまな愛すべき妖精たちを、育み生かしていることを忘れてはならないと思う。

『妖精の系譜』 新書館


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