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論語 №159 [心の小径]

四九六 子のたまわく、命(めい)を知らざれば以て君子為(な))ることなし。礼を知らざれば以て立つことなし。言を知らざれば以て人を知ることなし。

           法学者  穂積重遠

 孔子様がおっしゃるよう、「君子の身を修め世に処する道は、『知命』『知礼』『知言』の三重点に存する。天命を知って人事を尽くし、いかなる逆境に在っても天を怨みず、人を咎(とが)めず、信じかつ安んじて道を楽しみ得なくては、君子としての真価が保てぬぞ。礼を知らないと、進退度を失い品格備わらず、君子としての立場が守れぬぞ。言を知らないと、善悪正邪を弁ぜず、義理人情に通ぜず、よく人を知るの君子たり得ぬぞ。」

 開巻学而(がくじ)第二の第一章に述べたごとく、『論語』は「君子」に始まって「君子」に終わる、徹頭徹尾君子の教えだ。私が敢えてみずからはからず、一家一門の少年少女に紆り返し「子のたまわく」を押売りし、今また更におおけなくも書物にまでもしようというのは、ただただ新日本を真君子国たらしめ、新日本人を真君子人たらしめんの熱望の放のみ。

【新訳論語」 講談社学術文庫



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論語 №158 [心の小径]

四九五 子張、孔子に聞いていわく、いかにせばここに以て政に従うべきか。子のたまわく、五美を尊び、四悪を屏(しりぞ)けば、ここに以て政に従うべし。子張いわく、何をか五美と謂う。子のたまわく、君子は恵にして費やさず、労して怨まれず、欲して貪(むさぼ)らず、泰(やす)くして驕(おご)らず、威ありて猛からず。子張いわく、何をか恵にして費やさずと謂う。子のたまわく、民の利する所に因りてこれを利す、これ亦恵にして費やさざるにあらずや。労すべきを択(えら)びてこれを労す、又誰をか怨みん。
仁を欲して仁を得たり、又なんぞ貪らん。君子は衆寡(しゅうか)となく、大小となく、敢(あ)えて慢(あなど)ることなし、これ亦泰くして驕らざるにあらずや。君子はその衣冠を正しくし、その贍視(せんし)を尊くし、厳然として人望みてこれを畏(おそ)る、これ亦威ありて猛からざるにあらずや。子張いわく、何をか四悪と謂う。子のたまわく、教えずして殺す、これを虐(ぎゃく)と謂う。戒めずして成るを見る、これを暴と謂う。
慢(ゆる)やかにして期を致す、これを賊と計う。猶(ひと)しく人に与うるなり、出納吝(やぶさ)かなる、これを有司(ゆうし)と謂う。

          法学者  穂積重遠

 本章は例の「斉論(せいろん)」から加わったものらしい。

 子張が孔子様に向かって、「どうしたら政治を担当することができましょうか。」とおたずねした。孔子様がおっしゃるよう、「五美を尊んで四悪を除けば、政治に従事し得るぞ。」「五美とは何を申しますか。」「人の上に立つ者は、『恵にして費やさず』『労して怨まれず』『欲して貪らず』『泰くして驕らず』『威ありて猛からず』でなくてはならぬ。これが五美じゃ。」「それでは『恵にして費さず』とはどういう意味でござりますか。以下順次ご説明を願います。」「必ずしも金をかけずとも、人民の利益になるような施設を工夫してきて生活の便をはかってやれば『恵にして費さず』ではあるまいか。人民を使役するだけの十分の理由のある仕事を択んで働かせれば、人民は喜んで勤労する、何で誰を怨もうや。当局者の欲するところが私利でなくて仁であれば、その結果おのずから民心と風俗とが振興される次第であって、すなわち『仁を欲して仁を得たり』ということになるのだから、その上何をよくぼる必要があろうか。君子は相手が大勢でも小人数でも、事が大きくても小さくても、あるいは恐れてしりごみしたりあるいは侮り軽んじたりすることがないから、すなわち『泰くして驕らず』ではないか。君子はまた衣冠をキチンとつけ、目のつけどころに心を用いてキョロキョロしたりしないから、『威あって猛からず』ではあるまいか。」「それでは四悪とは何でござりますか。」「四悪とは、虐・暴・賊・吝じゃ。人民に為すべき事、為すべからざる事を教えてもおかずに、悪事をしたからとてこれを殺すのが『虐』である。十分に指導し警告もしないで、足元から鳥が立つごとく成績を督促するのが『暴』である。命令をゆるがせにしておきながら期限に間に合わぬとて罰したりするのは、人民をそこない害するものであるから、これを『賊』という。どうせ与えねばならぬ金だのに何のかのと出し惜しみをするのが『吝』であって、それが『官僚』というものじゃ。」

 この「官吏論」とでもいうべきものは、恐ろしいほど戦争中から今日にかけてのわが国の行政状態に適切で、いろいろと思い当ることがある。「五美」の方では、「労して怨まれず」がおもしろい。戦争中から今日にかけて、政府のすることなすこと国民に怨まれどおしなのは、どうしたものだ。怨む国民必ずしもすべて正しいとはいえぬが、怨まれる政府のやり口はいかにもへただと思う。第一次世界大戦の初期、私は参戦直前の米国にいたが、当時大統領ウイルソンは、既にピシピシと統制を行っていた。それで私はある米人に「米国は自由の国と聞いたが、相当不自由ではないですか。ウイルソンもなかなかデスポティツク(専制的)ですね。」と言ったところ、その米人が開きなおって、「ノー、ウイルソンがデスポティツクなのではない、われわれがデスポティツクなのです。」と言った。なるほどこれが本当のデモクラシーなのだ。デモクラシーとは、指導者なしに国民各自がかって気ままをすることではない。国民全体が指導者を通して秩序ある共同生活を営み、必要に応じては自ら専制をもすることだ。それでこそ「労して怨まれず」である。最後の「これを有司と謂う」に至っては、孔子様も相当に皮肉辛辣だ。役人根性ばかりではない。私交上でも、「ひとしくこれ人に与うる」ならば、気持よく与えたいものだ。古川柳にいわく「ひとに物ただやるにさえ上手下手。」

『新訳論語』 講談社学術文庫



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論語 №157 [心の小径]


四九四 堯(ぎょう)いわく、ああなんじ舜(しゅん)、天の暦数(れきすう)なんじの躬(み)に在り。まことにその中(ちゅう)を執(と)れ。四海困窮せば、天禄(てんろく)永く終えんと。、舜も亦禹(う)に命ず。いわく、われ小子履(しょうしり)、敢えて玄牡(げんぼ)を以て敢えて昭らかに皇皇たる后帝に告ぐ、罪あるは敢えて赦さず。帝臣(ていしん)蔽(おお)わず、簡(えら)ぶこと帝の心に在り。朕が躬(み)罪あらば、万方(ばんぽう)を以てすることなけん。万方罪あらば、朕が躬に在らんと。周に大賚(たいらい)あり。善人これ富む。周親ありと雖も、仁人に如かず。百姓(ひゃくせい)過(あやま)ちあらば、われ一人に在り。権量を謹み、法度(ほうど)を審(あき)らかにし、廃官を脩(おさ)めば、四方の政(まつりごと)行われん。滅国を起こし、絶世を継ぎ、逸民を挙ぐれば、天下の民・心を帰す。重んずる所は、民の食・喪・祭なり。寛なればすなわち衆を得、信なればすなわち民任じ、敏なればすなわち功あり、公あればすなわち見ん説(よろこ)ぶ、

               法学者  穂積重遠


 堯が天下を舜に譲ったとき、舜に告げて、「ああお前舜よ、天の命数がお前の身に帰したので位を譲るのだが、天命を受けて天子となった以上は、万事過不及なき中庸の道をしかと守って民を治めよ。もし 政を失って四海万民を困窮に陥れたならば、いったん受け得た天の恩命も永く断絶するであろう。」と戒めた。舜もまた禹に天下を譲るに当って、同様の言葉を与えた。かくして禹は子孫に伝えて夏の国が続いたが、桀(けつ)王に至って無道だったので、股の湯王(とうおう)がこれを滅ぼして天子の位に即いた。そのとき諸侯に宣言して「朕が桀を伐ったとき天を祭って、『ふつつかなる拙者履(湯王の名)黒牛のいけにえを捧げて天を祭り、至上至高なる上帝に明らかに申し上げます。かの桀は大罪赦し稚くこれを討伐するのでありますが、上帝のご家来とも申すべき賢人はきれを見失うことなく採用いたしましょう。しかしてかれらを選抜いたしますにもけっして私意をさしはさまず、上帝の御心まかせにいたしましょう。』と誓ったことであるが、今天子となった以上は、政治上の責任はすべて朕に存する。もし朕の身に過失があった場合には、万民に責任を負わせるようなことはいたすまい。もし万民に過失があったならば、その責任は朕が一身に帰せしめよ。」と言った。さて殷の末に至り紂王(ちゅうおう)が暴虐だったので、周の武王がこれを討伐したが、そのときも天に誓って、「周には天から授かった大きなたまものがある。それは善人の多いことであります。殻にはかの微子(びし)・箕子(きし)・比千(ひかん)のような近親はあるが、紂王がそれを用いずしてその心が離反しており、周の仁人(しんじん)が心を合せて私を助けるには及びませんから、必ずこれを滅ぼして天下を安んずることを待ましょう。」と言った。そして天子となった後は度

量衛を厳格にし、礼楽法制を適正にし、すたれた官職を復活したので、四方の政が成績を挙げた。また滅亡した国を復興し、断絶した家を再建し、棄てられていた賢人を採用したので、天下の民が心を寄せた。しかして最も重んじたところは、人民の食生活と、父母の葬式と、先祖の祭とであった。要するに堯舜より文武に至るまで先王の天下を治むる道は、孔子の説かれる「寛なればすなわち衆を得、信なればすなわち民任じ、敏なればすなわち功あり、公なればすなわち民説ぶ。」という寛・信・敏・公の四徳に尽きるのであって、この先王の治を万世に継ぐことが、すなわち孔子様の大願であったのだ。

『新訳論語』 講談社学術文庫



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論語 №156 [心の小径]

四九三 陳子禽(ちんしきん)、子貢に謂いていわく、子は恭を為すなり。仲尼(ちゅうに)あに子より賢(まさ)らんや。子貫いわく、君子はい一言以て知ト為し、一言以て不知と為す。言は慎まざるべからざるなり。夫子の及ぶペからざるや、猶(なお)天の階して升(のぼ)るべからざるがごときなり。夫子にして邦家(ほうか)を得ば、いわゆるこれを立つればここに立ち、これを導けばここに行き、これを綏(やすん)ればここに来(きた)り、これを動かせばここに和(やわら)ぎ、その生くるや栄し、その死するや哀しむ。これを如何ぞそれ及ぶぺけんや。

           法学者  穂積重遠

 子禽(しきん)は孔子の門人か子貢の弟子かと前にいったが(一〇・四三〇)本章でみると後者らしい。

 子貢がしきりに孔子様を要して、とうてい及ぶところにあらずと言うのを聞いて弟子の陳子禽が子貢に向かい、「先生はあまりご謙遜が過ぎます。仲尼大先生だって何も先生よりそう立ちまさっていられたわけではありますまい。」と言ったので、子貴がこれをたしなめて言うよう「君子たるもの、一言で智恵が知れまた一言で無智が知れるのだから、言葉はつつしまねばならぬ。お前もそんな総革なことを言うな。大先生がわれわれの及びもつかぬえらい方であったことは、正に天がはしごをかけても登れぬようなものだ。もし大先生が天下の政治に当り得たならば、昔の言某にいわゆる『民を養えばその生活が確立し、民を指導すればその教えのままに附き従い、民を撫で安んずれば遠方の人も来たり集り、民を激励すれば喜び勇みやわらぎ楽しむ。その生ける時は民はこの人と共に栄え、その死する時は民が父母を失えるごとく悲しむ。』ということになったであろう。どうしてどうしてわれわれ風情の及ぶところであろうぞ。」

 古註に「生くるや栄え、死するや哀しむとは、聖人の一世に関係あるの形象を言う。聖人の生くる、邦家皆立ち、皆行き、皆来り、皆和ぐ。太陽のひとたび出でて万物皆忻然(きんぜん)として色を生ずるが如し。これ栄ならずや。聖人死すれば、邦家立たず、行かず、来らず、和がず、太陽のひとたび没し万物色を失いて闇黒なるが如し。これ哀しからずや。その広大なることかくの如し。いかんぞそれ及ぶぺけんや。」とある。この「死するや」とあるところをみると、この問答は孔子様没後のことだろうと思う。死後時経ると、その人を見ず、またはよく知らなかった者は、そんなにえらい人だったのだろうか、などと言い出すことにもなるものだ。孔子様についてもそういうことがあったらしい。すこし釣り合いのとれぬ話かも知れぬが、私は子供の時に九代目市川団十郎を見せておいてくれたことを、両親に感謝している。そして絶世の名優を見たことのない近ごろの劇評家がややもすれば、団十郎団十郎というが大したことはあるまい、などと言うのを聞いてかたはらいたく思う。まして師匠思いの子頁が、お前の方がまさっているだろうと言われて、喜ぶどころか憤慨するのは、もっともなことだ。そして編者が子貴の孔子絶賛辞四章をもって『論語』の実質上の結びとしたのは、大いに意を用いたところと思われる。

『新訳論語』 講談社学術文庫



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論語 №155 [心の小径]

四九一 叔孫武叔(しゅくそんぶしゅく)、太夫に朝(ちょう)に語りていわく、子貢は仲尼(ちゅうに)より賢(まさ)れりと。子服(しふく)景伯(けいはく)以て子貢に告ぐ。子貢いわく、これを宮牆(きゅうしょう)に譬うるに、賜の牆や肩に及べり。室家(しつか)の好きを窺い見る。夫子の牆は数仞(すうじん)なり。その門を得て人らざれば、宗廟(そうびょう)の美百官の富(ふ)を見ず。その門を得る者或いは寡(すく)なし。夫子の云うこと、亦宜(うべ)ならずや。

         法学者  穂積重遠

 「夫子」~初めのは孔子、後のは叔孫武叔。

 魯の太夫の叔孫武叔が、朝廷での大夫仲間の雑談の際、「子貢は師匠の仲尼よりすぐれている。」と言った。同僚の子服景伯ががヂ聴鮒個が後にそのことを子貢に告げたところ、子貢の言うよう、「飛んでもない話です。先生と私とはまるで人物の桁が違います。御殿の塀に譬えてみますと、私の塀はヤット人の肩に届くくらいですから、塀越しに中の家作の小ざれいなのが見えます。ところが先生の塀は高さ数丈〔一丈は約三メートル〕ですから、入口の門をさがしあててそこから入らなくては、その中の御霊屋(おたまや)の美しさ、そこに百官が袖をつらねた盛んな光景を見ることができません。そしてその門に入り得る人が事によると少ないのですから、叔孫武叔がさように言われるのも、無理からぬことではありませんか。」

 暗に叔孫武叔が人を知らざるの甚だしきを遺憾としたのである。古註にいわく、「賢人を知ればすなわち聖人を知る。武叔をして果して子貢の子貢たる所以を知らしめば、すなわち孔子の孔子たる所以も亦略(ほぼ)知ることを得ペし、あにこの言を為すに至らんや。すなわち武叔は特に孔子を知らざるのみならず、亦子貢を知らずと為す。」

四九二 叔孫武叔、仲尼を毀(そし)る。子貢いわく、以て為すことなかれ。仲尼は毀るべからざるなり。他人の賢者は丘陵なり。猶(なお)踰(こ)ゆペし。仲尼は日月なり。得て踰ゆることなし。人自ら絶たんと欲すと錐も、それ何ぞ日月を傷(やぶ)らんや。まさにその量を知らざるを見るなり。

 これは子貢がその場で武叔に言ったのか、前章のように後に伝聞して他人に言ったのかハッキリしないが、前章のように「夫子」といわずして「仲尼」といっているところをみると、その場の応答らしい。武叔が何の意趣かしきりに孔子様を悪口するので、子貢も腹に据え兼ね、面と向かって痛烈にやっつけたものらしい。

 叔孫武叔が孔子様を悪口したので、子貢がこれに向かって言うよう、「おやめなさいませ。仲尼をそしられてもむだであります。賢人にもピンからキリまであります。普通の賢人というのは、いわば地面よりわずかに高い築山か岡みたようなものですから、踏み越ええようと思えば越えられます。仲尼は日月のごとく地上からかけはなれた上空にあります。越えようとしたって及びもつかぬことです。人間が日月をそしってこれと絶交してみたところで、少しも日月の光を損ずることにはならず、ただ自分が身のほどを知らぬことを暴露するのみであります。」

 伊藤仁斎いわく、「その智いよいよ深ければ、すなわち聖人を知ることいよいよ探し。その学いよいよ至れば、すなわち聖人を尊ぶこといよいよ至る。孔子の喪に、子貢冢々(ちょうじょう)に廬(いおり)すること六年なりしが如きは、聖人を知るのいよいよ深くして、聖人を尊ぶのいよいよ至れる者と謂うべきなり。」

『新訳論語』 講談社学術文庫



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論語 №154 [心の小径]

四八丸 子貢いわく、君子の過ちや日月の食の如し。過つや人皆これを見る、更(あらた)むるや人皆これを仰ぐ。

        法学者  穂積重遠

  子貢の言うよう、「君子でも過失はあるが、君子の過失は小人の過失と違う。君子の過失は日食月食のようなもので、少しも隠し立てをしないから、衆人がこれを見て、あの君子にしてこの過ちあるかと驚くこと、日食月食を見て太陽が黒くなった、月が暗くなったと驚き怪しむようなものである。しかしその過ちはさっそく改められるので、人々がさすがは君子だと感服すること、食が終って後の日月がたちまち再び円(まど)かにして光輝前に倍するのを仰ぎ見るごとくである。」

 さすがは「言語」の子貢で、言うことがいつも気がきいている。以下数章とりどりにおもしろい。

四九〇 衛(えい)の公孫朝(こうそんちょう)、子貢に聞いていわく、仲尼(ちゅうに)いずくにか学べる。子貫いわく、文武の道未だ地に墜ちずして人に在り。賢者はその大なる重のを識(しる)し、不賢者はその小なるものを識す。文武の道あらざることなし。夫子いずくにか学ばざらん。而して亦何の常師かこれあらん。

 衛の太夫の公孫朝が子貢に、「仲尼先生はどこで誰に就(つ)いて学ばれたのか。」とたずねた。子貢の言うよう、「周の文王武王の道はまだ亡(ほろ)び尽くさずして人に残っています。すなわちその大道は賢人が知っており、その小道は不賢者も心得ている次第で、文武の道は天下至る所に存するのであり、そして先生は下問を恥じず誰にでも道を問われるのですから、先生はどこで学ばれなかったということもないと同時に、誰というき
まった師匠はもたなかったのです。」(参照 -一六六) 

『新訳論語』 講談社学術文庫



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論語 №154 [心の小径]

四八七 孟氏(もうし)、陽膚(ようふ)をして士師(しし)為(た)らしむ。曾氏(そうし)に問う。曾氏いわく、上(かみ)その道を失いて民(たみ)散(さん)ずること久し。もしその情を得ば、すなわち哀矜(あいきょう)して喜ぶことなかれ。

          法学者  穂積重遠

 魯の大夫孟氏が曾子の門人の陽膚を裁判官に任用した。そこで陽膚が曾子に裁判官としての心得方をたずねた。曾子の言うよう、「今や忍たる政府が政道の宜(よろ)しきを失い、下々の人民が生活難に陥り 民心離散し道義頽廃せること年久しい。犯罪の起るのもひっきょうその人のみの罪ではなく、悪政が民を駆って罪を犯さしめるのである。それ放嫌疑者が『恐れ入りました』と白状したとき、ああかわいそうな気の毒な、とあわれみかなしめ。ゆめゆめ喜んではいけないぞ。」

 「法律家が論語を読む」という講演をしたことがあるが、『論語』には、今までその場所場所で指摘したように、今日の政治法律に適切な言葉がなかなかある。この「喜ぶことなかれ」なども、判事・検事・警察官が永久に「神に書すべき」(三八一)金言である。荻生徂徠も「情とは獄情を謂う。獄情は得難し、故にこれを得ればすなわち喜ぶは、獄を聴く者の常なり。」といっているが、大正以来ややもすれば人権蹂躙問題が起ったのも、結局犯罪を「物」にして「しめた」と喜ぶ気持があったからだ。私はかの「帝人事件」 の際、無実の罪に陥らんとする友人のための特別弁護に立ったとき、本章を引用し、「検事諸公は本件の審理中喜ばれたことはなかったでしょうか。」と論じた。

四八八 子貢いわく、紂(ちゅう)の不善はかくの如くこれ甚だしからざりしなり。これを以て君子は下流に居ることを悪(にく)む。天下の悪皆帰すればなり。

 子貢の言うよう、「殷の紂王は暴君悪王の標本のようにいわれるが、実際は評判されるほどひどくもなかったのだろう。ただその度重なった不善の行状のために、あれも紂の悪政、これも紂の淫乱ということになり、残忍無道の問屋にされてしまったのであって、ちょうど地形の低い所に汚水が集りたまるようなものだ。それ故君子は下流の地ともいうべき不善の境遇に身を置くことをきらう。天下の悪名が皆一身に集るからである。」

 大岡政談などが反対の例だ。大岡越前守が名判官だということになると、ほかの人のした裁判までも「大岡さばき」として伝えられることになる。

『新訳論語』 講談社学術文庫



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論語 №153 [心の小径]

四八三 子游(しゆう)いわく、わが友張や、能(よ)くし難きを為す。然れども未だ仁ならず。
          法学者  穂積重遠

 子游の言うよう、「友人子張君は、常人のよくし難いことを為し遂げる大才があるが、誠意が欠け人情が薄い故、まだまだ仁とはいえぬ。」

四八四 曾子(そうし)いわく、堂堂たるかな張や。与(とも)に竝(なら)びて仁を為し難し。

 曾子の言うよう、「堂々たる大人物なるかな、子張君は、しかしどうも調和的でないので、いっしょに助け合って仁を為すことがむずかしい。」

四八五 曾子いわく、われこれを夫子に聞けり。人未だ自ら致す者あらず。必ずや親の喪(も)か。

 骨子の言うよう、「私が先生からうかがったことだが、人間が特につとめずして自発的にその真情の限りをあらわすということは、なかなか有り得ない。有るとすれば、まず親の葬式の時ぐらいのものか。」 

四八六 曾子いわく、われこれを夫子に聞けり。孟荘子の孝や、その他は能くすべし。その父の臣と父の政を改めざるは、これ能くし難きなり。

 「孟荘子」は魯の太夫、仲孫速(ちゅうそんそく)。父は献子(けんし)。

 曾子の言うよう、「私が先生からうかがったことだが、孟孫子の親孝行も、外のことはまだまねもできるが、父の死後その旧臣をそのまま召使い、その政治振りを改めずにそのまま受け継いだことは、余人にはできないことだ。」

 伊藤仁斎いわく、「献子は魯の太夫。その才を用い政を立つる、もとより紺るべきもの多し。而して荘子皆能(よ)く遵守して改めず。夫子言う。その他の孝行人の能くせざる所のものあり、然れども皆この事の最も能くし難しと為すに若)し)かざるなりと。それ孝は、善く人の志を継ぎ、善く人の事を述ぶるものなり。父に善政良法ありて、而してこれが子たる者奉行すること能(あた)わず、或はたやすくこれを変更して以てその好む所に徇(したが)う者、世毎(つね)にこれあり。今荘子、父の臣と父の政とを改めざるは、すなわちただに先徳を辱めざるのみならず、且つ以て祖業を光(おおい)にすべし。あにその他の孝行の能く比すべき所ならんや。しかるに後世の史氏の孝子を伝する者、専(もっぱ)ら孝行の能くし難きものを取りてこれを称するはそもそも末なり。』(参照・一一)

『新訳論語』 講談社学術文庫



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論語 №152 [心の小径]

四八〇 子游(しゆう)いわく、子夏の門人小子、洒掃(さいそう)応対進退にすなわち可なり。そもそも末なり。これを本(もと)づけばすなわち無し。これを如何。子夏これを聞きていわく、噫(ああ)、言游(げんゆう)過(あやま)てり。君子の道は、いずれをか先にしいずれかを後にし倦(う)まん。これを草木の区にして以てべつあるに譬(たと)う。君子の道はいずくんぞ誣(し)うべけんや。初めあり卒(おわ)りある者は、それただ聖人か。

         法学者  穂積重遠

 子游(言游)が「子夏君門下の青年たちは水を子まいたり掃除をしたり来客の接待や進退作法などは良くできる。しかしそれらは元来末(すえ)のことで、根本の倫理については一向(いっこう)おしえられて。どうしたものじゃ。」と言った。子夏がこれを聞いて言うよう、「イヤハヤ言游君も飛んだまちがったことを言うものかな。君子たるの道は、どれを「先に教え、どれはめんどうだからあとまわしにすえう、という風にきまっているものではない。たとえば草木のその種類に応じて育て方が違うようなものだ。君子同を教えるに無理をすべきだろうか。初めと「終わり、すなわち道の本末を同時に兼ね備えるのは聖人だけで、あおの以下の者に至っては、匡より初めて第に言游らざるを得ないのだ。」

四八一 子夏いわく、使えて優なればすなわち学び、学びて優なればすなわち仕(つか)う。

 安井息軒(そっけん)が、「或いは疑う、学びての句は当(まさ)に仕えての句の前に在るべしと。……今案ずるに、学びて働なればすなわち仕うるは士子(しし)の常なり、、人皆これを知る。既に仕うれば、行って余力ありと雖も多くは復(ま)た学ばず。子夏の意、主とする所はここに在り。故に仕うるの句を以て前に寒くのみ。」と言うのは至極最も故、その意味で両句を転倒して現代語訳してみた。

 子夏の言うよう、「学問が十分に進んで余力ができたらはじめて仕官すべきである。そして仕官した以上全力を役向きにそそぐべきは当然だが、しかし余力があったら学を廃することなく絶えず勉強して、智徳を増進し人物を大成すべきである。ところが仕官をすると学問を放棄してしまうのが管理の通例で、それは甚だ宜しくない。」

四八二 子游いわく、喪は哀を致して止む。

 「かなしみをきわめんのみ」とよんでもよかろう。

 子游の言うよう、「父母の喪は結局悲哀の真情を尽すだけのことで、それ以上の虚礼はいらぬ、」

『新訳論語』 講談社学術文庫



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論語 №151 [心の小径]

四七七 子夏いわく、君子に三変あり。これを望めば厳然たり、これに即(つ)けば温(おん))なり、その言を聴けば厲(はげ)し。

       法学者  穂積重遠                                        

 子夏の育つよう「君子の容態には三変化がある。遠くから望み見ると威儀堂々として畏(おそ)るべく、近く接すれば癌色温和にして親しむペく、しかもその言葉を聴くと厳正にして犯し難い。」

 「君子」とあるが、おそらく「濫にして厲しく、威(い)ありて猛(たけ)からぬ」孔子様その人について言ったのであろう(一八四)。伊藤仁斎いわく、「これを望みて厳然たるは礼の存するなり、これに即きて温なるは仁の著(あらわ)るるなり、その言の厲しきは義の発するな。けだし盛徳(せいとく)の至りにして光輝の著しさ、自らこれかくの如し。謝氏いわく、『これ変ずるに意あるにあらず、けだし竝(なら)び行われて相悖(もと)らざるなり。良玉の潤温にして栗然(りつえん)たるが如し』と。」

四七八 子夏いわく、君子は信せられてしかる後にその民を労す。未だ信ぜられざれば、すなわち以て己を厲(や)ましむと為す。信せられてしかる後に諌(いさ)む。未だ信ぜられざれば、すなわち以て己を謗(そし)ると為す。
                                        
 子夏の言うよう、「君子が人民を使うには、十分に信用を得た上で労役させる。そうすれば人民は喜んで勤労奉仕をするが、信服させないで働かせると、人民は自分たちを苦しめるものとして怨むことになる。また君に対しても、十分に信用を得た上で諌める。信任なくして諌めると、君は自分をそしるものとしてうとむことになる。上に対しても下に対しても、まごころを傾けて信頼を得ることが第一だ。」

四七九 子夏いわく、大徳閑(のり)を踰(こ)えずんば、小徳は出入すとも可なり。

 「閑」は「闌」で、出入を止める「てすり」。

 子夏の言うよう、「君に忠、父母に孝というような根本の大道徳が軌道に乗っていれば、応対進退のごとき末節に多少の出入があってもさしつかえない。」

 「大徳は閑を踰えず。」と切るよみ方もあるが、いわゆる「大行は細謹を顧みず」の意味に取られてはこまる故、「踰えずんば」とよんだ。小徳にこだわって大徳を失うな、という方の意味のである。

『新訳論語』 講談社学術文庫



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論語 №150 [心の小径]

四七三 子夏いわく、日にその亡き所を知り、月にその能ぺする所を忘るることなきを、学を好むと謂うべきのみ。

        法学者  穂積重遠

 子夏の言うよう、「毎日毎日自分のまだ知らないところを知り得て知識を広め、毎月毎月既に知り得たところを忘れぬように心がけてこそ、真に学を好む者というべきじゃ。」(参照-一四・二七)

四七四 子夏いわく、博く学びて篤く志し、切に開いて近く思う。仁その中に在り。

 子夏の言うよう、「仁に志す者は、まず博く学ばねばならぬ。しかし博く学んでもそれを実行に移す志が篤くなくては、何の役にも立たぬ。また学ぶに当って疑いが起ったならば、熱心に師友に質問して完全に理解することを期すべく、またいたずらに心を高遠理想にのみ馳することなく、身近の実際問題に引き当てて思案工夫することを要する。この博学・篤志・切問・近思は、それが直ちに仁とはいえないが、それによってのみ仁に達し得るのである。」

四七五 子夏いわく、百工(ひゃっこう)は肆(し)に居て以てその事をなし、君子は学びて以てその道を致す。

 子夏の言うよう、「職人が職場に在って仕事に打ち込むごとく、君子は一心不乱に学んでその道を成就せねばならぬ。」 

四七六 子夏いわく、小人の過ちや必ず文(かざ)る。

 子夏の言うよう、「君子は過って改むるに憚(はばか)らぬが、小人が過ちをすると、色々とつくりかざって言訳を言い、人を欺き自らを欺き、過ちを重ねる。」

 殿の紂(ちゅう)王は、暴君悪王として有名だが、けっして愚者ではなく、「智は以て諌(かん)を拒(ふせ)ぐに足り、言は以て非を飾るに足る」智者弁者であった。その「智」と「弁」とが危険なのである。(参照―八・二三九・四〇五・四八九).

『新訳論語』 講談社が卯術文庫



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論語 №149 [心の小径]

四七一 子夏(しか)の門人交わりを子張(しちょう)に問う。子張いわく、子夏は何とか云える。対えていわく、子夏は、可なる者はこれに与(く)みしその不可なる者はこれを拒(ふせ)げ、といえり。子張いわく、わが聞く所に異なれり。君子は賢を尊びて衆を容れ、善を嘉(は)みして不能を矜(あわれ)めと。われの大賢ならんか、人に於て何ぞ容れざる所あらん。われの不賢ならんか、人将(まさ)にわれを拒がんとす。これをいかんぞそれ人を拒がん。

           法学者  穂積重遠

 子夏の門人たちが子張に友と交わる道をたずねた。子張の言うよう、「子夏は何と言ったか。」「子夏先生は、交って益のある者とはつきあい、益のない者を受け付けるな、と言われました。」「わしが大先生にうかがったところとは違っている。大先生は、「君子たる者は、賢人を尊ぶと同時に、ひろく衆人を受受け入れ、一善の取るべき者あらばこれを重んじ、また無能の者にも同情をもつものぞと仰せられた。自分が賢ければ誰を受け入れても影響される心配はないことだし、自分が賢くなければ、他人がこちらを受け付けぬということはあるにしても、こちらが人を受け入れぬという筋はあるまい。」

 気の大きな子張と、用心深い子夏と、いわゆる「師や過ぎたり、商や及ばず」(二六八)のそれぞれの人物があらわれている。どちらの意見がよいか議論もあろうが、結局論点が違うようだ。子夏は「心友」を択ぷ道を説いて「己に如かざる者を友とするなかれ」(八)と教え、子張は一般交際すなわち「面友」を論じて「汎(ひろ)く衆を愛して仁に触しむ」(六)べきを言ったのであって、いずれも孔子様の教えの一面を伝えたものだ。

四七二 子夏いわく、小道と雖も必ず観るべきもの有り。遠きを致すには恐らくは泥(なず)まん。これを以て君子は為さざるなり。

 子夏の言うよう、「一枝一芸の小さい道にもそれぞれ取り得はあるが、遠大なる聖人の道を成就せんことを志す者としては、さようの末技にたずさわると、それに引っかかって大成を妨げる心配があるから、君子はそれをせぬのである。」

 法師になろうと志した者が、檀家から迎えの馬をよこしたときときに乗れなくては不都合て馬術を習い、法事の後に酒が出た場合に何か隠し芸がなくては殺風景だと思って小歌を稽古したところ、その二つがだんだんおもしろくなって、つい経を読むことを学ぶ時がなくなった、という『徒然草』のひとくさりを思い出す。

『新訳論語』 講談社学術文庫



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論語 №149 [心の小径]

四六七 周公、魯公に謂いていわく、君子はその親(しん)を施(す)てず。大臣をして以(もち)いられざるを怨ましめず。故旧大故(こきゅうたいこ)なければすなわち棄(す)てず。備わるを一人(いちにん)に求むることなかれ。

            法学者  穂積重遠

 「周公がその子伯禽の魯公に封ぜられて入国した時、訓戒して、『人の上に立つ者は、
親族を見捨てるな。大臣が不適任ならば免職するもやむを得ぬが、在職中は十分に信任して、その言の聴かれざるを怨ましめるようなことをするな。古なじみの者は重大な理由がなければ棄てるな。また人には能不能、長所短所があるもの故、人を使用するには、その能くする長所を活かし、能くせざる短所を責めず、すべてのことが一人に揃うことを求めるな。』と言われた。これが魯の国の始まりじゃ。」

四六九 子張いわく、士は危うさを見ては命を致し、得るを見ては義を思い、祭には敬
(けい)を思い、喪には哀(あい)を思う、それ可ならんのみ。

 「可ならんのみ」につき、古証にいわく、「可とは僅かに足るの辞、能くことごとくこの数事を行わば士と為すに庶(ちか)しと言うのみ、以て止むべしというには非ず。」

 子張の言うよう、「士たる者は、君父の危難を救わんためには命をも差出し、利得問題があったら道理上取って然るべきか否かを思い、祭に臨んでは誠を尽くさんことを思い、喪に在ってはかなしみを極めんことを思うべきだ。これだけが揃えば、まず士と謂ってよかろう。」

 これは全く孔子様の受売りであること明らかだ(五二・六六・三四四・四二七等)。

四七〇 子張いわく、徳を執(と)ること弘からず、道を信ずること篤からずんば、いずくんぞ能く有りと為し、いずくんぞ能く亡しと為さん。

 子張が言うよう、「徳を行うならば、ひろく併せ行わねばならぬ。道を信ずるならば
その信念が強く実践の志が堅くなくてはならぬ。もし一善を行って自ら得たりとするごとき狭くかたまった気持であったり、たちまち信じたちまち疑うような薄い信であっては、道徳がありともいえず、なしともつかず、あぶはち取らずになってしまうぞ。」

 伊藤仁斎いわく、「徳は執るに群り。然れども弘からざればすなわち徒(いたずら)らに狷介(けんかい)の士と為(な)る。道は信ずるに在り。然れども篤からざればすなわち必ず塗説(とせつ)(四四五)の流と為る。故に徳を執ること必ず弘く、道を信ずること必ず篤ければ、すなわち以て君子と為るべし。然らざればすなわち、その始めは得ることあるがごとしと雖も、しかれども道徳はついに己の有と為らずして、亦必ず亡からんのみ。」

『新訳論語』 講談社学術文庫



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論語 №148 [心の小径]

四六五.逸民(いつみん)は伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)・虞仲(ぐちゅう)・夷逸(いいつ)・朱張(しゅちょう)・柳下恵(りゅうかけい)・少連(しょうれん)なり。子のたまわく、その志を降(くだ)さず、その身を辱(はずか)しめざるは、伯夷・叔斉かと。柳下恵・少連を謂う、志を降し身を辱む。言(ことば)は倫に中(あた)り行いは虜(りょ)に中る、それこれのみと。虞仲・夷逸を謂う、隠居して言を放(ほしいま)まにし、身清(せい)に中り、廃権に中る。われはすなわちこれに異なり。可も無く不可も無し。

           法学者  穂積重遠

 古来の「超越人」とでもいうべき非凡の賢人は、伯夷・叔斉・虞仲・夷逸・朱張・柳下恵・少連である。孔子様が評して言わるるよう、「志を立つること高尚にして降し曲ぐることなく、身を守ること廉潔(れんけつ)にして辱しめ汚さるることなき者は、伯夷・叔斉であるかな。」次に柳下恵・少連を評して、「伯夷・叔斉とちがって志を降し身を辱しめるけれども、言葉は義理にかない、行いは常識にあたる。」更に虞仲・夷逸を評して、「隠居して仕えず、一身の清浄を守り、言いたい放題を言うようだが、しかし言って善いこと悪いことを隊みはずさない。」さてご自身のことを言わるるよう、「わしは、これらの『超越人』とはちがって、可もなく不可もない平凡人じゃ。」

 伯夷・叔斉・柳下恵以外の伝はわからない。朱張に対する批評がないが、おそらく落ちたのだろう。「可も無く不可も無し」をかの「通もなく輿もなし」(七六)、すなわち必ずこうときめてしまわずに時に随(したがっ)て善処するという意味に解するのが通説だが、試みに今日用いると同じ意味に解してみた。すなわち一方では平凡人なりと霊されると同時に、他方では超越人ならずして偉大な平凡人たることを誹りとされたのではないかと思う。

四六六 大師摯(だいしし)は斉に適(ゆ)き、亜飯干(あはんかん)は楚に適き、三飯繚(さんぱんりょう)は蔡(さい)に適き、四飯缺(しはんけつ)は秦に適き、鼓方叔(こほうしゅく)は河に入り、播トウ武(はとうぶ)は漢に入り、少師陽(しょうしよう)・撃磬攘(げきけいじょう)は海(かい)に入る。

 いずれも「子曰」がないが、おそらくはみな孔子様の言葉であろう。本章は、孔子様がせっかく魯(ろ)の国の楽を整備振興したのに、政治が衰えたので楽士たちが魯を去って四散してしまったことをなげかれたのである。天子諸侯は毎食間に楽を鄭させるので、その受持の楽師を「何飯」という。本文にある上に「初飯」があるだろう。「亜」は「次」。

 「楽長の摯(し)は斉に行き、亜飯の干は楚に行き、三飯の繚は索に行き、四飯の缺は秦に行き、鼓打ちの方叔は河内(かない)に入り、振り鼓の武は漢中に入り、副楽長の陽と磬打ちの嚢は離れ島に渡ってしまった。実に惜しいことじゃ。」

『新訳論語』 講談社学術文庫



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論語 №147 [心の小径]

四六四 子路従いて後(おく)る。丈人(しょうにん)の杖を以て篠(あじか)を荷うに遇う。子路聞いていわく、子、夫子を見たるか。丈人いわく、四体勤めず、五穀分(わか)たず、孰(たれ)をか夫子と為すと。その杖を植えて芸(くさぎ)る。子路拱(きょう)して立つ。子路を止(とど)めて宿せしめ、鶏を殺し黍(きび)を為(つく)りてこれを食わしめ、その二子を見えしむ。明日子路行きて以て告ぐ。子のたまわく、隠者なりと。子路をして反(かえ)りてこれを見しむ。至ればすなわち行(さ)れり。子路いわく、仕えざれば義なし。長幼の節は廃すべからず。君臣の義これをいかんぞ、それこれをこれを廃せん。その身を潔くせんと欲して大借を乱(みだ)る。君子の仕(つか)うるや、その義を行わんとなり。道の行われざるは、すでにこれを知れり。

         法学者  穂積重遠

 子路が孔子様のお供をしての旅行中、道におくれて孔子様を見失った。たまたま杖の先にアジカ(モッコの頬)を引っかけてかついだ老人に出会ったので、「あなたは私の先生を見かけませんでしたか。」とたずねた。老人は、「口ばかり動かして体を働かせず、いね・むぎ・きび・ひえ・まめの五穀の区別も知らぬくせに、先生もないものじゃ。」と言い放ち、杖を地に突き立てて草刈を始めた。子路のことだから定めしムッとしたろうが、相手が老人なので、手を組み合せて敬意を表しながら、なおも答を待って立っていた。老人もそれに好感をもったか、もう日も暮れるから今から追いかけてもだめだろうと、家に連れ帰って一泊させ、鶏を料理し、きび飯を好いてもてなし、二人の息子を呼び出して、長者を拝する礼を行わせた。翌日子路が孔子様に追いついてそのことを申し上げたら、孔子様が、「世を避けた賢人だろう。わしの本意を知らせたいものじゃ。」とおっしゃって、子路に今一度引返して様子を見させた。行ってみると老人は留守だったので、子路はふたりの息子に向かい、こう言いおいて帰った。一人たる者出でて仕えなければ君臣の義がないことになる。昨夜ご尊父が両君に拙者を拝させたのは、長幼の序を重んじられたのでござろうが、長幼の序さえ捨ててならぬのに、それよりも更に大事な君臣の義をどうして廃することができましょうや。ただ乱世にけがされざらんことのみを欲し、一身だけをいさざよくしようと思って君臣の大義を正すべきではありますまい。君子が出でて仕えるのは、
名門利禄(みょうもんりろく)のためではなく、全く君臣の大義を行わんためでござる。今日の天下に正しい道の行われぬことは、とくに承知覚悟致しております。」

 前章に孔子様が「天下道あらば丘(きゅう)は与(とも)に易(か)えず。」と言われ、本章に子路が「道の行われざるはすでにこれを知れり。」と言ったのが、やむにやまれぬ孔子様の本音と思う。孔子様は「道あればあらわれ道なければ隠る」という中国流の理論を説き(一九七)、かく行った人を賞賛されるが、しかしそれは孔子様のがらにないことで、「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ」救国済民(きゅうこくせいみん)の悲願こそ、孔夫子(こうふうし)本来の姿なのである。それ故孔子様としてはむしろ、伝統的中国思想にこだわらず、当初から「君子の仕うるやその義を行わんとなり」と打ち出された方が徹底したと思う。惜しいことだ。

『新訳論語』 講談社学術文庫



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論語 №146 [心の小径]

四六二 楚(そ)の狂、接輿(せつよ)歌いて孔子の門を過ぐ。いわく、鳳(ほう)や鳳や、何ぞ徳の衰えたる。往く者は諌(いさ)むべからず、来る者は猶(なお)追うべし。やみなん、やみなん。今の政に従う者は殆(あやう)しと。孔子下りてこれと言わんと欲す。趨(わし)りてこれを辟(き)く。これと貫っを得ざりき。

          法学者  穂積重遠

「之門」の二字がなくて、「孔子を過ぐ」とよめる本もある。それだと孔子様が道を車で通られた時の話になり、後の「下りて」は車からおりることになる。そして「接輿」は固有名詞ではなく、「輿に接する者」の意だという人もある。

 楚の国で狂人といわれる接輿なる者が、歌をうたいながら孔子の家の門前を通り過ぎた。その歌は孔子様を鳳凰にたとえたものでその意味は、「鳳風よ、鳳凰よ、汝は霊烏であるというのに、この乱れた世に出るとは、何とその霊徳の衰えたることよ。今までのことは致し方がないが、今後としては改めるにまだおそくない。やめなさい、やめなさい。今日の政治の当局者たるはあぶないことじゃ。」というのであった。孔子様はこれを聞きつけ、道をもって天下を救う志のやみ解きを告げようと思われ、堂を下って門外へ出て見られたが、接輿は小走りに避けて通り過ぎてしまったので、これと梱ることができなかった。

 当時の隠者仲間に、前にも「簣(き)を荷(にな)う者」(三七一)があったが、孔子の政治運動を非難し、冷笑し、または心配する者があり、孔子様としても「道なければすなわち隠る」(一九七)という理論と自身の行動との矛盾を多少感じておられるだけに、外間の批判を気にして弁解したがっておられた様子が見える。次の二章においても同様。

四六三 長沮(ちょうそ)・桀溺(けつでき)ナラびて耕す。孔子これを過ぎ、子路をして津(わたし)を間わしむ。長沮いわく、かの輿(よ)を執る者は誰とか為す。子路いわく、孔丘と為す。いわく、これ魯(ろ)の孔丘が。いわく、これなり。いわく、これならば律を知らんと。桀溺に問う。桀溺いわく、予は誰とか為す。いわく、仲由(ちゅうゆ)と為すと。これ魯の孔丘の徒か。対(こた)えていわく、然り。いわく、滔々たる者天下皆これなり。而して誰とともにかこれを易えん。且(か)つなんじその人を辟(き)くるの士に従わんよりは、あに世を辟くるの士に従うに若かんやと。穫(ゆう)して輟(や)まず。子路行きて以て告ぐ。夫子憮然としてのたまわく、鳥獣は与(とも)に雲を同じくすべからず。われこの人の徒(ともがら)と与にするにあらずして誰と与にかせん。天下道有らば丘(きゅう)は与に易(か)えざるなり。

 川ぞいの畑で長狙・桀溺という二人の隠者がならんで、土をすいていた。たまたま楚から蔡(さい)への旅行中の孔子様が馬車でそこを通りかかられたが、子路に命じて渡し場を問わせた。馬を御していた子路は手綱を車上の孔子様に預けて車からおり、両人に近づいて問いかけた。すると長狙が言うよう、「あの手綱を執っているのは誰か。」子路が答えて、「孔丘です。」「それは魯の孔丘か。」「そうです。」「魯の孔丘ならば、あちこちあるきまわる男だから、渡し場ぐらい知っているはずじゃ。」こう言って教えてくれない。しかたがないから今度は桀溺にたずねた。桀溺が言うよう、「お前さんは誰か。」「仲由であります。」「それでは魯の孔丘の門徒か。」「そうです。」「今日の有様を見るに、あの川水のドンドン下に流れてかえらざるごとく、道義碩廃して救うべからざること、天下の人例外なしだ。お前さんの師匠はいったい誰といっしょにての乱世を変えて太平の世にしようとするのか、孔丘はしきりに己を用いる明君賢大夫をさがして東奔西走するが、今時そんな人のあろうはずがない。お前さんも、孔丘のようなあの人もいけないこの人もだめだと一人一人の人を避ける者に附いてあるくよりも、超然と世を避けて隠れ耕すわれわれの仲間入りする方がよいではないか。」桀溺はかく言い捨てて、長狙とふたりセッセと蒔いた種にかぶせる土ならし、見かえりもしない。子路は取りつく島もなく、車に帰って仔細を申し上げたところ、孔子様は本意なげ嘆息しておっしゃるよう、「いかに冊を避ければとて、まさか鳥獣の仲間入りもできまい。人と生れた以上は、天下衆人の仲間入りせずして誰と事を共にしようぞ。もし天下に道があれば、わしは何も世直しをしようと骨を折りはしない。天下に道がなければこそ、どうかして世を安んじ人を救わんものと東奔西走もするのじゃ。」

『新訳論語』 講談社学術文庫



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論語 №145 [心の小径]

四六〇 斉(せい)の景公(けいこう)、孔子を待つにいわく、季子(きし)のごとくするは、すなわちわれ能わず、季孟(きもう)の間を以てこれを待たんと。いわく、われ老いたり、用うる能わざるなりと。孔子行(さ)る。

        法学者  穂積重遠

 孔子様が斉の国に行かれたとき、斉の景公が、採用しようかどうか、採用するならどのくらいの待遇で、ということを近臣と相談して、「魯(ろ)の太夫のうちで上席の季子ほどの待遇をすることは力及ばず、さりとて末席の孟氏程度では気の毒故、まず季孟の中間ぐらいのところで待遇しようか。」と話し合ったが、やがて気が変わって、「わしももう年が年だから、孔子のような遠大の謀(はかりごと)を為す者を用いてもしかたがない。」と言った。孔子様が洩れ開かれて、待遇間者はともかく、このあんばいではとうてい志は行われぬと断念して、斉を去られた。

四六一 斉人(せいひと)、女楽(じょらく)を帰(おく)る。季桓子(きかんし)これを受けて三日(さんじつ)朝(ちょう)せず。孔子行る。
     
 魯の国が孔子様を用いて、国が大いに治まったので、隣国の斉が恐れて、これを妨(さまた)げようと思い美人八十人の歌舞団を送ってよこした。太夫の季桓子が喜び受けこれにうつつを抜かして三日も政務を見なかった。孔子様はせっかく魯の国を振興しようとした望みを失い、辞職して国を去った。

 この時の事情は『史記』の「孔子世家(せいか)」に訳しく出ているが、定公(ていこう)の十四年孔子五十六歳の時のことという。大司寇(たいしこう)となって国政に参与し、悪太夫の小正卯(しょうせいぼう)を誅して綱紀を粛正じ、魯の国が大いに治まった。そこで斉が孔子様の礼楽(れいがく)政治を妨げんがために、艶麗卑俗な女楽を送ったところ、季桓子が定公をも勧めて連日これを見物し、政務を怠ったのである。

『新訳論語』 講談社学術文庫



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論語 №144 [心の小径]

四五八 微子(びし)はこれを去り、箕子(きし)はこれが奴(ど)と為(な)り、比干(ひかん)は諫(いさ)めて死す。子のたまわく、殷(いん)に三仁(さんじん)あり。

       法学者  穂積重遠

 「微子」の微は国名、子は爵(しゃく)、名は啓(けい)、殷王乙の長子で紂(ちゅう)の庶兄。「箕子」の箕も国名、名は胥余(しょよ)、朝鮮の開祖といわれ、平壌に箕子廟がある。比干とともに肘王のおじ。
                            
 殷の紂王が無道だったので、微子と箕子と比干とが諫めたが聞かれず、徴子は国を去り身を全くして先祖の祭を存し、箕子は配えられて奴となったが、狂人をまねて命を助かり、比干は極諫(きょっかん)したため紂の怒にふれて殺された。三人の行跡はそれぞれに違うが、いずれも出処進退の宜しきを得たものなので、孔子様は「股に三人の仁者があった。」とほめられた。

 古註にいわく、「孔子いわく、身を殺して以て仁を為すありと。死して仁を為すときは、死するを仁と為す。死すれども以て仁を成すに足らざるときは、必ずしも死を以て仁と為さず。仁は死にも在(あ)らず、亦死せざるにも在らず。三人の仁は、去ると奴たると死せるとを以て仁と為すにあらざるなり。商紂の時、天下安からざること甚だし。而して微子・箕子・比干は皆能(よ)く乱を愁え民を安んぜんとす。故に孔子これを嘆ぜしなり。」

四五九 柳下恵(りゅうかけい)、士師(しし)と為りて三たび黜(しりぞ)けらる。人いわく、子未だ以て去るべからざるか。いわく、道を直(なお)くして人に事(つか)うれば、いずくに往(い)くとして三(み)黜けられざらん。道を枉(ま)げて人に事うれば、何ぞ必ずしも父母の邦(くに)を去らん。

 柳下恵が裁判官になって、三度免職された。そこである人が二こんなにしばしば退けられるのだから、もうたいていにしてこの図を去り、他国へ行って身を立てたがよさそうなものではないですか。」と言った。すると柳下恵が言うよう、「私がやめられるのは、正道を守って殿様や太夫に迎合したご奉公をしないからです。この調子では今の世の中にどこの国へ行ったって三度や四度免職されないでしょうか。もし正道をまげてご奉公するくらいならば、何を好んで父母の国たるこの国を立ちのきましょうや。ここでそういうご奉公をします。ともかくも私としては正しさを行いさえすればよいので、免職されるか否かは私の知ったことでありません。」

 この本文にはこれに対する孔子様の評語が付いていたのが、落ちたのだろうという。なるほどそうらしい。柳下恵のことは前にも出ていたが(三八九)『孟子』(公孫丑上篇)の左の一欄がその人物をあらわしている。「柳下恵は、汚君を羞(は)じず、小管を卑(いや)しとせず、進みて賢を隠さず、必ずその道を以てし、遺佚(いいつ)せられて怨(うら)みず、阨窮(やくきゅう)すれども憫(うれ)えず。故にいわく、なんじはなんじなり、われはわれなり、わが側(そば)に袒裼(たんせき)裸程(らてい)(肌をぬぎはだかになるすと雖も、なんじいずくんぞ能くわれをけがさんやと。故に由由(ゆうゆう)然としてこれと与(とも)にし、自ら失わず。」

『新訳論語』 講談社学術文庫

                                        


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論語 №143 [心の小径]

四五五 子貢いわく、君子も亦悪(にく)むことあるか。子のたまわく、悪むことあり。人の悪(あく)ろ称するものを悪む。下流に居て上をそしる者を悪む。勇にして礼なき者を悪む。果敢にして窒(ぐさ)がるものを悪む。のたまわく、賜(し)や亦悪むことあるかと。檄(うかが)いて以て知と為す者を悪む。不孫(ふそん)にして以て勇と為す者を悪む。訐(あば)きて以て直(ちょく)と為す者を悪む。

         法学者  穂積重遠

 ここで「君子」というのは、孔子を指す。それ故孔子様も自分のこととして答えられた。

 子頁が、「先生のような君子にもきらいな人がおありになりますか。」と問うたので孔子様が、「それはあるとも。他人の悪事を言い立てる者がきらいじゃ。下位に在って上位の者を悪し様にそしる者がきらいじゃ。勇のみあって礼のない者がきらいじゃ。思い切りはよいが道理のわからぬ者がきらいじゃ。」と答えられた。そして子貢に向かって、「賜もまたきらいな人があるか。」と問われた。答えて申すよう、「知と勇と直とはけっこうなことでありますが、人の言うことすることの先くぐりをして知なりとする者がきらいであります。倣慢無礼を勇なりとする者がきらいであります。他人の内証事(ないしょごと)をあばき立てて直なりとする者がきらいであります。」

 孔子様と子頁とが今の日本にいたら、さぞかしきらいな者が多くて困るだろう。孔子様と子貢とのきらうところ、すべて現状に適切だ。他人の言行を悪意にのみ解釈して思いやりがなく、反抗闘争をもって民主的と思い、無礼無作法、傍若無人、暴露摘発をもって痛快なりとする。これが君子国の君子人にあろうことか。(参照 ― 六九)

四五六 子のたまわく、ただ女子と小人(しょうじん)養い難しとなす。これを近づくればすなわち不孫、これを遠ざくればすなわち怨(うら)む。

 ここの「小人」は奴僕下人。

 孔子様がおっしゃるよう、「女と小者はどうも扱いにくい。近づけば図に乗るし、遠ざければ怨む。」

 『論語』五百章中、民主にして男女対等の今日として不都合千万なのはこの一章で、さすがの孔子ファンも弁護の言葉がない。しかし孔子様の言われたのは、一般論ではなかろう、ということも考えねばならぬ。何かの折に孔子様もよくよく持て余してこう言われたのだろう。
 孔子様だけではない落語家も言う、「女というものは始末がわるい。可愛がれば甘えるし、叱ればふくれるし、ぶてば泣くし、殺せば化けて出る。」と。ご婦人方、まあまあの劉備をさかだてすに、われとわが身に立ち返って下さい。

四五七 子のたまわく、年四十にして悪(にく)まるればそれ終らんのみ。

 孔子様がおっしゃるよう、「不勲の年の四十歳にもなって、何ひとつ善行もなく、君子ににくまれるようなことでは、もうおしまいじゃ。」

『新訳論語』 講談社学術文庫



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論語 №142 [心の小径]

四五三 子のたまわく、飽食終日、心を用うる所なきは難いかな。博奔(ばくせき)というものあらずや。これを為すは猶(なお)己(や)むに賢(まさ)れり。

          法学者  穂積重遠

 「博」は昔の墜ハの類。「奔」は囲碁、すなわちここで「博奔」というのは賭博(ばくち)ではない。

 「終日腹いっぱいたべてただぶらぶらしており、何にも心を働かせないのも困ったものだ。双六とか碁とかいうものがあるではないか。あんな暇つぶしの勝負事でも、何もしないよりはましじゃ。」

 もちろん勝負事を奨励するのではないが、孔子様は碁・将棋もいけないというほどの「やぼ」ではない。(参照⁻ 三九二)

四五四 子路いわく、君子は勇を尚(たっと)ぶか。子のたまわく、君子は義以て上と為す。君子勇ありて義なければ乱を為す。小人勇ありて義なければ盗を為す。

 「君子」には「有徳者」「有位者」の二義があると前に言ったが、本草中第一第二の「君子」は前者、第三は後者。

 子路が、「君子は勇をたっとぶものでござりますか。」とおたずねした。孔子様がおっしゃるよう、「君子は勇をたっとぷが、勇よりもさらに義をたっとぶ。すなわち為すべきところと為すべからざるところの判別に重きをおくのじゃ。上級者に勇があって義がないと反乱を起し、下級者に勇があって義がないと盗みをするぞ。」

 子路らしい問いであり、そして孔子様が子路に答えられそうな答えだ。(参照- 一八六・四三九)

『新訳論語』 講談社学術文庫


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