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論語 №115 [心の小径]

三五八 子のたまわく、その位に在らざれば、その政を謀(はから)らずと。曾子(そうし)いわく、君子は思うことその位を出でず。

           法学者  穂積重遠
 
 孔子様が「その位に在らざればその政を謀らず。」と言われたについて、曾子が説明して言うよう、「君子はその時々の地位に応じてその本分以外のことを考えず、ただ当面の責任を全くせんことを思え、とのご趣意である。」

三五九 子のたまわく、君子はその言(げん)のその行いに過ぐるを恥ず。

 「其言之」が「其言而」になっている本がある。それだと「君子はその言を恥じてその行いを過ごす。」とよむ。

 孔子様がおっしゃるよう、「君子たる者は、言葉が行いよりも大げさなのを恥じる。」
(参照……八八)

三六〇 子のたまわく、君子の道なるもの三つ、われ能くすることなし。仁者は憂(うれ)えず。知者は惑わず。勇者は懼(おそ)れず。子貢いわく、夫子自ら道(い)うなり。

 本文「仁知勇」の三句は前にも出ているが、そこでは「知仁勇」の順序になっている(二
三三)。ここのは徳そのものの順序であり、前のは進学の順序である、などと学者が亭つがそれ程の意味もあるまい。

 孔子様が、「君子の道とすべきところのものが三つある。『仁者は憂えず。知者は惑.わず。勇者は懼れず。』であるが、わしにはどれ一つ満足にはできない。」と謙遜されたので、子貢が申すよう、「その三つこそ正に先生ご自身のことをいったようなものであります。」

三六一 子貢、人を方(たくら)ぶ。子のたまわく、賜(し)や賢なるかな、われはすなわち暇(いとま)あらず。

 子貢は好んで他人を比較論評した。孔子様がおっしゃるよう、「賜はかしこいことかな。わしにはとてもそんなひまはない。」

 子貢が子張と子夏とを「たくらべ」たことが前に出ている(二六八)。孔子様もなかなか皮肉を言われることかな。

『新訳論語』 講談社学術文庫


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批判的に読み解く歎異抄 №23 [心の小径]

異義篇をどう読むか―『歎異抄』の著者(唯円)の立場
 
        立川市・光西寺住職  寿台順誠

②十二条 ― 学解念仏

 次に十二条は長いから最初の方だけ読みます。

 経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。この条、すこぶる不足言の義といいつべし。他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教は、本願を信じ、念仏をもうさば仏になる。そのほか、何の学問かは往生の要なるべきや。まことに、このことわりにまよえらんひとは、いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべきなり。経釈をよみ学すといえども、聖教の木意をこころえざる条、もっとも不便のことなり。一文不通にして、経釈のゆくじもしらざらんひとの、となえやすからんための名号におわしますゆえに、易行という。学問をむねとするは、聖道門なり、難行となづく。あやまって、学問して、名聞利養のおもいに住するひと、順次の往生、いかがあらんずらんという証文もそうろうぞかし。

 読むのはここまでにしときましょう。ここまでで十分です。後は聖道門の学問をしている人から議論をふっかけられても相手になるな、と言っているだけです。これは、学問して自分を高めようとしないと駄目だなどと言うのは異義だと批判する条文です。それで、ただ「本願を信じ、念仏もうさば仏になる」ということさえわかればよいので、もしそれが信じられないならそれを信じられるための学問は必要だとは言うけれど、とにかく「学問をむねとするは、聖道門なり、難行となづく」と言うわけですから、ここでの批判の対象は「造悪無碍」ではなくてむしろ「専修賢善」だと言えるでしょう。「聖道門」批判と言ってもよいですけど、要するに自ら善を積み、努力し学問をやって自分を高めましょう、そうじゃないとだめですよと言っている異義を批判しているのですから、十二条は「造悪無碍」に対する批判とは全く読めないのです。ここではそれだけ分かっていただけば十分です。

名古屋市中川区 真宗大谷派・西雲寺の公開講座より


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論語 №114 [心の小径]

三五五 子のたまわく、君子は上達(じょうたつ)し、小人は下達(かたつ)す。

            法学者  穂積重遠

 「上達」は今では学芸が上手になることに用いるが、後にも「下学して上達」(三六七)とあって、元来は「向上してその極に達す」ること。「下達」はその反対で、そういう言葉はないが「向下」である。

 孔子様がおっしゃるよう、「君子は道義に従って日夜勉学修養するから、だんだんと向上して聖賢のてっぺんにも達するが、小人は利欲にのみ志して一時の安楽をむさぼるから、おいおいに堕落して狂愚のどんぞこにも達する。」

 中井履軒いわく、「君子は一に義に志す。故に日月に益々上りてついに極に至る。小人は一に利に志す。故に日月に益々下りてついに亦(また)極に至る。『君子は義に喩(さとり』の章(八二)と立言同じからざれども、而かも語意は相通ず。」

三五六 子のたまわく、古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす。

 孔子様がおっしゃるよう、「昔の人の学問は自分の修養のためだったが、今の人の学問はただ人に知られんがためである。」

 「己の為」というのは、自分の立身出世のためという意味でないこともちろんであって、まず身を修めて天下国家の役に立とうというのである。

三互七 遽伯玉(きょはくぎょく)、人を孔子に便わす。孔子これに座を与えて聞いていわく、夫子何をか為すと。対(こた)えていわく、夫子過ちを来なくせんと欲して未だ能わずと。使者出ず。子のたまわく、使いなるかな、使いなるかな。

 「遽伯玉」は衛の大夫、名は環。有名な賢人で、孔子様が衛に行かれた時、その家に宿泊した縁故がある。

 遽伯玉が孔子様の所へ使者をよこした。用談終つて後、マアすわりなさいと座を与えて「ご主人は昨今何をしてござるか。」とたずねられたら、使者が「何とかして過ちを少なくしたいと心がけておりますが、なかなか左様に参らぬので困っております。」と答えた。使者が帰った後に孔子様が、「大した使者じゃ、大した使者じゃ。」とはめられた。

 孔子様がどうしてそんなに感心されたのか。伊藤仁斎いわく「およそ使いなる者は必ず詞を飾り言を侈(おお)いにしてその主の賢を挙ぐるを常とす。しかるに伯玉の使いは、その徳を称せずしてその心の足らざる所のものを以て答え、その主の賢なること愈々(いよいよ)信ずるに足る。故に夫子再び使いなるかなと言いて、以て重ねてこれを美(ほ)めしなり。(中略)道の窮(きわま)りなきを知りて、しかる後に人の過ちなきこと能(あた)わざるを知る。故に『過ちて改めざる、これを過ちと謂う。』といえり(四〇五)。けだし過ちの深く咎むべからずして、改めざるに至り触る後に実の過ちと為すを言うなり。伯玉の使い、その過ちなからんと欲すといわずして、過ちを寡(すく)なくせんと欲すといい、能(よ)く過ちを寡なくすといわずして、末だ能わずという。けだし深く聖人の心に合うあり。宜(う)べなるかな、夫子深くこれを歎ぜるや。」

『新訳論語』 講談社学術文庫


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批判的に読み解く歎異抄 №22 [心の小径]

異義篇をどう読むか―『歎異抄』の著者(唯円)の立場
 
        立川市・光西寺住職  寿台順誠
 
「異議篇」に対する私の見解 「異義篇」の批判的読解

(2)誓名別信計

 それでは、今日の中心問題に入ります。「誓名別信計」の各条文が果たして「造悪無碍」に対する批判として読めるかということです。

①十一条-誓名別信
 まず十一条を読みますね。

 一文不通のともがらの念仏もうすにおうて、「なんじは誓願不思議を信じて念仏もうすか、また名号不思議を信じるか」と、いいおどろかして、ふたつの不思議の子細をも分明にいいひらかずして、ひとのこころをまどわすこと、この条、かえすがえすもこころをとどめて、おもいわくべきことなり。誓願の不思議によりて、たもちやすく、となえやすき名号を案じいだしたまいて、この名字をとなえんものを、むかえとらんと、御約束あることなれば、まず弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまいらせて、生死をいずべしと信じて、念仏のもうさるるも、 如来の御はからいなりと思えば、すこしもみずからのはからいまじわらざるがゆえに、本願に相応して、実報土に往生するなり。これは誓願の不思議を、むねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議ひとつにして、さらにことなることなきなり。つぎにみずからのはからいをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ・さわり、二様におもうは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、もうすところの念仏をも自行になすなり。誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、もうすところの念仏をも自行になすなり。このひとは、名号の不思議をも、また信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地僻慢疑城胎宮にも往生して、果速の願のゆえに、ついに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。これすなわち、誓願不思議のゆえなれば、ただひとつなるべし。

 皆さんこれを読んで、心惹かれますか?もし冒頭にこの文章があったら『欺異抄』は流行ったと思いますか?「師訓篇」の言葉にはすごく心に残るものが多いですけど、「異義篇」に入ると突然どこか理理屈っぽくなって、文学的にもイケてない文章になりますね。論理もあまりスッキリしないところが多くなりますので、「異義篇」しかなかったら『歎異抄』はおそらくブレイクしていなかったと私は思いますね。
 が、それはそれとして、ここで批判の対象となっているのは、阿弥陀仏の「誓願」(本願)を心の底から信じて念仏したらみな浄土に迎えとりますよ、往生できますよという願いを信じること、すなわち「誓願不思議」が大事なのか、それとも、たとえ信心はなくてもとにかく南無阿弥陀仏という「名号」を称えること、すなわち「名号不思議」が大事なのか、どっちだと人に迫る異義です。が、このテキスト自体からはこの異義を主張する人が「誓願派」又は「名号派」のどっちの派に立っているのか判断がつきません。この異義はただ「あなたはどっちを信じるのか」と言っているだけなのです。結論的には「誓願」と「名号」は一体に決まっています。そもそも南無阿弥陀仏という「名号」に阿弥陀仏の「誓願」が込められているわけだから、この異義のように「名号」と「誓願」を分離して別々のものにするのは邪道だと、唯円が言うことには私は異存ありません。
 ところがおかしなことに、了祥以来伝統的には、この条文で批判されている異義は「誓願派」に立って「名号派」を攻撃する立場に立つものだとされてきました。そして、「誓願派=一念義・造悪無碍」と見て、この条文が「一念義・造悪無碍」を批判していると読んできたわけです。しかし、先に述べたように十一条で唯円が言っているのは、単に「誓願」と「名号」を別のものだと見てはいけないということにすぎませんので、釈徹宗さんが言うように「誓願派」にも「名号派」にも偏してはいけないと言っているとは読めますが、だからといってこれが主として「造悪無碍」批判の条文だと読むのは間違いです(この点に関し特に参考になったものとして、佐藤正英『歎異抄論釈』青土社、2005年、244-288頁参照)。このように十一条には明確な「造悪無碍」批判の意図が読み取れない反面、「つぎにみずからのはからいをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ・さわり、二様におもうは‥・」という部分からは、ここで批判されている異義が、「善」が「往生のたすけ」となり「悪」がその「さわり」になるとして「善」を薦めるものだということが分かりますが、唯円はそのようなことを言うのはおかしいよという批判をしているわけですから、これは「専修賢善」に対する批判として読むことができます。また、続いて「誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、もうすところの念仏をも自行になすなり」と言っていることからは、この異義が「誓願不思議」よりも「名号不思議」を重視するものであって、それに対して唯円が念仏を「自行」(自力の行)にしてしまうものだと批判していることが読み取れますから、この条文は「造悪無碍」じゃなくて明らかに「専修賢善」を批判するものだと言えます。要するに、この十一条には明確に「造悪無碍」を批判する箇所はないということです。

名古屋市中川区 真宗大谷派・西雲寺の公開講座より





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論語 №113 [心の小径]

三五三 陳成子(ちんせいし)、簡公(かんこう)を弑(ころ)す。孔子沐浴して朝(ちょう)し、哀公(あいこう)に告げていわく、陳恒(ちんこう)その君を弑せり、請(こ)うこれを討たんと。公いわく、かの三子に告げよ。孔子いわく、われ大夫の後に従うを以て、敢えて告げずんばあらざるなり。君いわく、かの三子者に告げよと。事にゆきて告ぐ。可(き)かず。孔子いわく、われ太夫の後に従うを以て、逢えず苦げずんばあらざるなり。

           法学者  穂積重遠

 「陳成子」は斉の大夫、名は恒、成ほおくり名。「沐浴」は髪あらい揚あみすること。祭祀その他大事に当る場合のいわゆる「斎戒(さおかい)沐浴」。

 斉の陳成子がその君簡公を殺した。孔子様は時に年七十一でとくに隠退しておられたが、隣国のことながらこれは大義名分に関する天下の一大事なりと考え、斎戒沐浴して身をきよめた後朝廷へ出て、「斉の陳恒がその君を拭しました。打ち捨ておかれぬ大逆でござります故、兵を起して討伐なされたいものと存じます。」と衷公に申し上げた。ところが当時魯の公室衰えて政権は大夫孟孫(もうそん)・叔孫(しゅくそん)・季孫(きそん)の三家にあったので、哀公は自ら決断し得ず、「あの三人に申せ。」と言われた。孔子様は失望して御前(ごぜん)をさがり、「自分も大夫の席末をけがした身汝、この一大事はどうしても申し上げなければならなかったのだが、わが君はご決断がつかず『かの三子者に告げよ。』と仰せられるとは。」と歎息しっつ、ともかくも君命なれば三家に告げたが、三家はきかなかった。斉の強大を恐れたのみならず、問題が大夫の不臣ということで、自分たちも「きずもつすね」で触れたくなかったのだろう。孔子様も現役ではないからその上の議論もできずやむを得ず引下がったが、「自分も大夫の席末をけがした身故、此の一大事はどうしても申し上げねばならなかったのだが。」と、かえすがえすも残念がられた。

三互四 子路(しろ)、君に事(つか)うることを問う。子のたまわく、欺くことなかれ、而(しこう)してこれを犯せ。

 ここの「欺」は「侮」の意味。わが国の軍記物などにもよく、敵に向かって広言をはき、「あざむいてこそ立ったりけれ」などとある。ここの「而」は「しかるのちに」の意味だから、「しこうして」と力を入れてよまなければいけない。

 子路が君に事える道をおたずねした。孔子様がおっしゃるよう、「君を侮ってはいけない。十分の敬意を尽した上で、場合によってはごきげんを損じようとも配が概して諌め争え。」

 子路は例の「行行如(こうこうじょ)」(二六五)で主人をバカにしてかかりそうだから、特にその点をいましめられたのである。古註にいわく、「犯すは子路の難しとする所にあらず、而して欺かざるを以て難しと為す。故に夫子先ず欺くなくして後に犯せと教えしなり。」


『新訳論語』 講談社学術文庫




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批判的に読み解く歎異抄 №21 [心の小径]

異義篇をどう読むか―『歎異抄』の著者(唯円)の立場

        立川市・光西寺住職  寿台順誠

「異議篇」に対する私の見解 「異義篇」の批判的読解(1)専修賢膳計

③十八条-施量分報

 次は十八粂ですが、これはちょっと面白いですよ。

 仏法のかたに、施入物の多少にしたがいて、大小仏になるべしということ。この条、不可説なり、不可説なり。比興のことなり。まず仏に大小の分量をさだめんことあるべからずそうろや。〔注‥比興のことなり=道理に合わないことである〕

 これは、言ってみれば、お布施が多けりやその分だけ大きな仏さんになるというような話ですが、こうした異義を批判することは僧侶としては片腹痛いことですよね。残念ながら、坊さんの生活には、このように布施は多い方がよいなどと言うようなことがありますからね。そして、これはあまりにも低俗な問題だから、「多念義・専修賢善か、一念義・造悪無碍か」というような形で真剣に教義や倫理道徳の問題として論ずるようなことではないと思う反面、しかし社会における宗教の実態から考えると馬鹿にできない問題で、自分も免れていないとも思わされるわけです。
 が、いずれにしましても、やはり「多念義・専修賢善」の方が、量が多い方がよいというこの異義には結びつきやすいのではないかと思います。私は大学を出てここ正雲寺で仕事を始めたばかりの頃、元漁師町でお参りが盛んという、この下之一色の特性もあって、とにかく「三部経を読んでほしい。長いお勤めをして欲しい。お勤めは長ければ長い方がよい」といった要求に翻弄されました。お布施は多い方がよいというような問題が、私はまともな教義問題だとは思いませんが、しかし「多念義」の方がその正当化には利用しやすいですよね。一回念仏すれば救われるという「一念義」では、多い方がよいとは言いづらくなりますからね。ですから、この条文もそういう形で「多念義・専修賢善」に対する批判だと読めるのではないでしょうか。
 以上、十四条・十六条・十八条はやはり「専修賢善」に対する批判として読むことができるということを申し上げました。



名古屋市中川区 真宗大谷派・西雲寺の公開講座より

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論語 №112 [心の小径]

三五〇 公叔(こうしゅく)文子(ぶんし)の臣太夫セン、文子と同じく諸侯に升(のぼ)る。子これを闇きてのたまわく、以て文と為すべし。

             法学者  穂積重遠

 衛(えい)の太夫の公叔文子の家臣でその家の大夫だったセンが主人の文子と銅烈の衛の朝臣に昇進した。文子の没後孔子様が賞讃しておっしゃるよう、「自分の家来でも賢人と知れば推薦して自分の同僚に引立てるとは、文子とおくり名されたのももっともじゃ。」

三五一 子、衛の霊公の無道を言う。康子(こうし)いわく、それかくの如くにしてなんぞ喪(ほろ)びざる。孔子いわく、仲叔圉(ちゅうしょくぎょ)は賓客(ひんかく)を治め、祝舵(しゅくだ)は宗廟(そうびょう)を治め、王孫賈(おうそんか)は軍旅(ぐんりょ)を治む。それかくの如くにしてなんぞそれ喪ぴん。

 「康子」は魯(ろ)の太夫、季(き)康子。おそらく「季」の字が落ちたのだろう。

 孔子様が衛の霊公の無道であることを語ったので、季康子が、「さように無道でどうして国が亡びないのですか。」とたずねた。孔子が申すよう、「衛の国では、仲叔圉が外交に当り、祝蛇が祭祀をつかさどり、王孫賈が国防に任じています。かく適材過処に国の大事を負担している以上、どうしてなかなか亡びましょうや。」

 「喪」は君がその位をうしなうことだが、日本流に「国が亡びる」としておいた。古誼にいわく、「衛の霊公の無道なる、宜しく喪ぷべし。しかるに能くこの三人を用うれば猶以てその国を保つに足る。しかもいわんや有道の郡にして能く天下の賢才を用うる者をや。」

三五一 子のたまわく、そのこれを言うことくハじざれば、すなわちこれを為すや離し。

 孔子様がおっしゃるよう、「はずかしげもなく大言壮語する者は、始めから必ずしようという気持もなく、自分にできるかできぬかも考えずに放言するのだから、その言ったことを実行することがむつかしいのは当然じゃ。」

『新訳論語』 講談社学術文庫


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批判的に読み解く歎異抄 №20 [心の小径]

異義篇をどう読むか―『歎異抄』の著者(唯円)の立場

        立川市・光西寺住職  寿台順誠

二、「異義篇」の批判的読解

3.「異義篇」に対する私(順誠)の見解

 しかし、果たしてそのように言えるのだろうかという疑問を私は持っています。特に、「誓名別信計」と言われる十一条・十二条・十五条・十七条が「造悪無碍」に対する批判として読めるかというのが私の提起する中心問題です。もしそこに「造悪無碍」に対する批判がなければ、『欺異抄』には「造悪無碍」に対する批判はないってことになります。一方、『歎異抄』には「専修賢善計」に対する批判の言葉はいっぱいあります。どこをとっても「専修賢善」に対する批判だらけです。そこで、このあとまず「専修賢善計」の条文の方は、一般に言われているように文字通り「専修賢善」に対する批判として読めるということを、簡単に確認します。そしてその後、「誓名別信計」という中心問題に移りたいと思います。

(1))専修賢善計
 「専修賢善計」については、十三条がこの系統の異義を代表するものであって、この命名自体が十三条に由来しているのだと思います。また、前回話したことからも、十三条が「専修賢善」を批判したものであることは明白だと思います。が、また、十三条については、もう一つ言わなければならない重要な問題が残されていますが、それは今日の話の総括的な意味を持つ問題なので、最後に申し上げたいと思います。従って、今ここでは十四条・十六条・十八条を取り上げておきたいと思います。

①十四条--一念滅罪
 まずこの条文の一部を読みますね。

 一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしということ。この条は、十悪玉逆の罪人、日ごろ念仏をもうさずして、命終のとき、はじめて善知識のおしえにて、一念もうせば八十億劫のつみを滅し、十念もうせば、十八十億劫の重罪を滅して往生すといへり。

 これは異義の内容を説明した部分ですが、とにかく念仏して罪を消さなきやいかん、一念で八十億劫消えるんだったら十念でその十倍消えるということを主張する異義なわけです。ですから、これが多念義的なものだというのは分かりやすいですよね。努力すればするほど罪が消えるという話ですからね。
 また、この条文で「念仏もうさんごとに、つみをはろばさんと信ぜば、すでに、われとつみをけして、往生せんとはげむにてこそそうろうなれ」などと言っていることからも、罪を消すために善行に励めということを主張する「専修賢善」の立場の異義であることは、すぐに分かりますね。だから、釈徹宗さんも、これは「自力であって、本来の他力の念仏からすでに外れてしまっています」から、この十四条には「専修賢善への批判があります」 と言っているわけです (釈徹宗前掲書、81頁)。
このように、十四条は文字通り「専修賢善」批判として読める条文だと思います。

②十六条--自然回心
 十六条についても最初の方だけ読みますね。

 信心の行者、自然に、はらをもたて、あしざまなることをもおかし、同朋同侶にもあいて口論をもしては、必ず回心すべしということ。この条、断悪修善のここちか。

 この条文は要するに、腹を立てたり喧嘩したりといったことがあるたびに心を入れ替えて反省しなきゃいけない、ということを主張する異義に対する批判です。そういう異義に対して 「断要修善のここちか」と批判しているのですから、これが「専修賢善」に対する批判であることは、文字通りに認められることですね。ですから、釈徹宗さんも、この条文は 「罪を犯したときには、そのつど儀悔、回心しなければ往生できないという、専修賢善・多念義系の人たち」への批判であると言っています。この点では釈さんの見方に私は何の異論もありません。
 ところで唯円はこの十六条で、「一向専修の人においては、回心ということ、ただひとたびあるべし」ということを言っています。つまり、「日ごろのこころにては、往生かなうべからずとおもいて」根本的に心を翻すというようなことは、生涯にただ一回だけのことであると言っているわけですが、ここで少し脱線的に触れておきたいことは、本願寺派(西本願寺)から離脱した高森顕徹が設立した親鸞会という新宗教団体がこの言葉を引き合いに出して、回心は人生にただ一回の出来事だから何年何月何日の何時何分に回心したと言えなきやいけないということを、最近ではあまり言っていないようですが、以前は頻りに強調していたことです。こういう問題はどう考えたらよいでしょうか。
 それから親鸞会と言えばもう一つ、「木像よりは絵像、絵像よりは名号」(『蓮如上人御一代記聞書』、本願寺派『浄土真宗聖典』1253頁‥大谷派『真宗聖典』868頁)という蓮如の言葉がありますが、これを用いて木像の阿弥陀仏を本尊にしている本願寺を批判していたことを想い起こしますね。これに関連して、私が同朋大学で勉強していた頃のことですが、池田勇諦先生(同朋大学名誉教授)が、親鸞会のように「絵像よりも名号」と言われていることを根拠にして、あまりに「名号、名号」と教条的に実体化して強調しすぎることは、まるで「絵像よりも字像」と言っているように聞こえるというようなことを仰っていたことを思い出します。この親鸞会に対する見方がとても面白かったので、今でも覚えているわけです。が、こういう問題についても、今改めてどう考えたらよいでしょうかという意味で、余談的に申し上げたしだいです。本題に戻りましょう。

名古屋市中川区 真宗大谷派・西雲寺の公開講座より


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論語 №111 [心の小径]

三四九 子貢いわく、管仲は仁者にあらざるか。桓公、公子糾(こうしきゅう)を殺すに死すること能わず、又これを相(たす)く。子のたまわく、管仲、桓公を相けて諸侯に覇(は)たらしめ、一(ひと)たび天下を匡(ただ)す。民今に到るまでその賜(たまもの)を受く。管仲なかりせば、われそれ髪(はつ)を被(こうむ)り袵(えり)を左にせん。あに匹夫匹婦の諒(まこと)を為(な)し、自ら溝濆(こうとく)に経(くび)れてこれを知らるるなきがごとくならんや。

                歩学者  穂積重遠

 子貢もまた疑って、「管仲は仁者でないのではありますまいか。桓公が公子糾を殺した時、主と共に死ぬことができず、かえって主の仇(あだ)たる桓公に事(つか)えたのは、どうもその意を得ませぬ。」と言った。孔子様がおっしゃるよう、「管仲は桓公を輔佐して諸侯連盟の旗頭たらしめ、たちまち天下を粛正安定し、人民が今日までもその恩沢に浴している。もし管仲がなかったなら、われわれは夷狄(いてき)に征服されて、髪ふりみだし着物を左前にきる監完の風俗にされていたであろう。管仲がその前主のために死ななかったのをかれこれ申すが、管仲のごとき大志を抱く者が、小さな義理人情にこだわってみぞどぶの中で自らくびれ誰にも知られず死んでしまう平凡男女のようであってよいものだろうか。」

 子貢もまた子路と同じ疑いを起したのに対して、孔子様が相手が「言語」の子貢(二五五)だけに、さらにいっそう言葉を尽して管仲を弁護していられる。しかしこの点は大いに問題であって私も子路・子頁と共に粛然足らざるものがある。孔子様は前には管仲が礼を知らぬことをきびしく責めて、「器小なるかな」と言っておられるのだから(六二)、この場合にもその大功は認めつつも最初の出処進退を誤ったのは惜しいことだと論じた方が、筋が通るのではあるまいか。この二章ではあまりにも成功主義・実績主義のようで、周の粟(ぞく)を食(は)まずわらびを食べて餓死した伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)を絶賛される孔子様に似合わしくない。殊に最後の匹夫匹婦のたとえに至っては正に明治初年に物議を醸したかの「権助首くくり論」であって甚だもって孔子様らしくないのみならず、差し当り殉死の忠臣召忽(しょうこつ)に対して苛酷失礼ではないだろうか。そこで学者間にも色々議論があり、ある古証は「桓公は兄なり、子糾は弟なり。仲、事うる所(子糾) に私(わたくし)し、これを輔(たす)けて以て国を争うは義に非ざるなり。桓公のこれ(子糾)を殺せるは過てりと錐も、而かも糾の死は実に当れり。仲始めこれと謀を同じくせば、遂にこれと同じく死して可なり。これを輔けて争うことの不義たるを知りて、将に自ら免れて以て後功を図らんとするも亦可なり。政に聖人その死を責めずしてその功を称す。もし桓弟にして糾兄たらしめば、管伸輔くる所の者正し。桓その国を奪いてこれを殺さば、管仲と桓とは世を同じくすべからざるの讐(あだ)なり。もしその後功を計りてその桓に事うるを与(ゆる)さば、聖人の言すなわち義を害するの甚だしくして、万世反覆不忠の乱を啓(ひら)くことなからんや。唐の王珪(けい)・魏徴(ぎちょう)、建成(唐高祖の太子)の難に死せずして、太宗怒岩(たいそう・達成の弟)に従いし如きは、義に害ありと謂うべし。後に功有りと錐も、何ぞ贖8つぐな)うに足らんや。」と弁明しているが、すこぶる苦しい議論であるのみならず、前記の通り桓公と糾といずれが兄か弟かということが問題なのだから、立論の根拠が薄弱だ。要するに「大行は細謹(さいきん)を顧みず」の観念が濫用されると、それこそ論者のいわゆる「万世反覆不忠の乱を啓きはせぬか、ということを私は心配する。聖人といわれる孔子様も稀には意地になってかような極論をされることもある人間味を私はむしろおもしろくも思って、私もあえて極論を試みたが、寛容な孔子様がお聞きになったならば、「丘や幸いなり、いやしくも過ちあれば人必ずこれを知る。」(一七七)とおっしゃるだろうか。


『新訳論語』 講談社学術文庫

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批判的に読み解く歎異抄 №19 [心の小径]

異義篇をどう読むか―『歎異抄』の著者(唯円)の立場―

          立川市・光西寺住職  渡辺淳誠 

 二、「異義篇」の批判的読解

1.なぜ「異義篇」を中心に読むのか?

 さて、今日の主たる問題は「異義篇」をどう読むかですが、それに入る前になぜ「異義篇」を中心に読むのかということをちょっと申し上げておきます。
 『歎異抄』という書物において「師訓篇」と「異義篇」とどっちが中心だと思うかと問われればそれは当然「異義篇」です。唯円って人の考え方は「異義篇」に込められているからです。では「師訓篇」は何のためにあるかと言うと、親鸞聖人が仰ったことの証文・基準として挙げてあるわけで、それに照らし合わせてみると、最近こういうことが言われているけどおかしくないか、という形で「異義篇」が展開されているわけです。だから論文に喩えたら本論はあくまで「異義篇」なんです。
 ところが私が面白いと思うのは、「異義篇」には十三条を除くと心に残る言葉が殆んど無いことです。例えば、誓願と名号は一体のものか別々のものか、なんていう十一条の論議などは坊さんや学者同士でやるような、とてもマニアックな議論ではないでしょうか。もし『歎異抄』に「師訓篇」がなくて「異義篇」だけだったら、絶対人気は出なかったと私は思います。有名な言葉は殆んど「師訓篇」の方にありますよね。まず「悪人正機」(三条)がそうでしょ。それから二条なんてよく引かれますよね。「たとい、法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」などはとても有名な言葉ですね。「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」(四条)とか、「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」(五条)とか、「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」(六条)とかといった言葉もみな「師訓篇」にあり
ます。また、「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろう」(九条)といったテーマも「師訓篇」にあります。このようによく引かれる言葉の多くは「師訓篇」にあるわけですが、しかしこの書物の本論はあくまで「異義篇」なのですから、それを見ないと書いた人の立場・考え方は分からないのです。そうでないと『欺異抄』という本を読んだことにならないのです。ただ『歎異抄』に関する書物は非常に多いですけど、「異義篇」についてちゃんとした解説をしているものは少ないですね。例えば、「師訓篇」だけ取り上げて「異義篇」の解説なんか全然していない本もあります。それはおかしなことなのですよ。ですから、とにかく「異義篇」をどう読むかということをちゃんと言っていない書物はあまり信用しちゃダメですっていうことを、私は言いたいわけです。

2.「異義篇」の一般的な見方

 そこで次に、先ほど触れておいた妙音院了祥の「誓名別信計」と「専修賢善計」に分ける分類がやはり「異義篇」を読むにあたっての出発点になりますので、まずはそれ(巻末の【師訓鷺と異義篇の関係図式】)を再度確認した上で、この分類が意図するところをさらに詳しく見て参りたいと思います。
 この分類の「誓名別信計」の「計」とは「自力の計らい」ってことです。そして、「誓」とは「誓願」、すなわち阿弥陀仏の本願のこと、「名」とは南無阿弥陀仏という六字の「名号」のことです。この「誓願」と「名号」の二つは一体のものなのか別々のものなのかという議論をし、本来他力の本願念仏の教えでは一体のものと捉えなきゃいけないのだけれども、それを別々に捉えてしまう、そういう根本的な誤りから生まれてくるような異義を「誓名別信計」というふうに呼んでいるわけです。これは、文字通りそういうことを言っている十一条(誓名別信章)で代表して、この十一条に十二条(学解念仏章)・十五条(即身成仏章)・十七条(辺地堕獄章)を加えた四か条をワンパッケージとして「誓名別信計」と呼んでいるということです。
 それから十三条(禁誇本願章)・十四条(一念滅罪章)・十六条(自然回心章)・十八条(施量分報章)の四つが「専修賢善計」に分類されていますが、これは念仏以外の善を修めなきゃダメじゃないかとか、自力の修行をしなきゃいけないじゃないかとか、念仏だけじゃ救われないから様々な努力をして善を積まなきゃいけないとかというような計らいから生まれてくる異義について批判したのがこれら四か条だということです。前回取り上げた十三条には「まったく、悪は往生のさわりたるべLとにはあらず」とありました。要するに、善悪は「宿業」で決まっているので、善をなせなどと言ってもそれはいわば上辺だけ「賢善精進の相」を示すことにしかならないといった批判を十三条はしているわけで、そうした「専修賢善」という計らいに由来する異義を非難する条文が以上の四か条だということです。
 そこでこの了祥の分類の意図するところを示そうとして私が作成したのが、巻末の【『欺異抄』「異義篇」の一般的な見方】という図式です。これに沿って説明しますと、まず仏教は自力で難行を行って悟りを開こうとする「聖道門」と、易行である他力の念仏を称えて往生することを願う「浄土門」に分けられます。ところが浄土宗(法然門下)でもまた、「一念か多念か」という論争が起こりますし、それと同時に「専修資善」と「道悪無碍」という倫理道徳の立場をめぐる対立も生じてきます。この争いにおいて「多念義・専修賢善」の方は結局「聖道門」に再接近することになるのですが、とにかく『欺異抄』を高く評価してきた人たちは、了祥のこの分類に依りかかって、「専修賢善・多念義」と「造悪無碍二念義」の中間に、どちらにも偏らない中道を行く正統な念仏者がいて、『欺異抄』の著者はこの正統念仏者の立場からバランスよく「専修賢善」と「造悪無碍」の両者を批判している、そういうふうに見てきたと言ってよいと思います。異義を「専修派・実行派・倫理派・功利派・常識派」と「誓願派・理論派・哲学派・観念派・高踏派」に分類する藤秀翠の見方も、また「律法化の異義」と「概念化の異義」に分類する梅原真隆・早島鏡正の見解も、そういうものとして見ることができると思いますし、最近では釈徹宗さんがNHKのEテレ「100分de名著」という番組で『歎異抄』(十一条)について以下のように述べていたものが、同様のものとして挙げられるでしょう。

 この二つの異義〔造悪無碍と専修賢善〕については‥・唯円は「どちらに偏っていても駄目ですよ」と言っています。社会的な視点から見れば、一念義系の方が具合が悪い。事実、一念義系の人々が問題視されました。しかし、多念義的な立場になってしまうと、そもそも他力の教えの本義から外れてしまいます。なぜなら今までの仏道とそれほど変わらないのですから。
 唯円はこの両方の立場を批判しています。しかも両方への批判をうまく配置しており、唯円の構成力を見て取ることができます。(釈徹宗『欺異抄-仏にわが身をゆだねよ土NHK100分de舞著」ブックス、2019年、72-73頁=〔 〕内は順誠の補足)

 以上のように、『欺異抄』の「異義篇」については、一方で「専修賢善」を批判しながら返す刀で「造悪無碍」もバランスよく批判している、というのが従来の一般的な見方であったと言うことができるわけです。

名古屋市中川区 真宗大谷派・西雲寺の公開講座より


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論語 №110 [心の小径]

三四六 子のたまわく、臧武仲(ぞうぶちゅう)、防を以て魯において後を為さんことを求む。君を要せずと曰(い)うと雖(いえど)も、われは信ぜざるなり。

              法学者  穂積重遠

 孔子様がおっしゃるよう、「臧武仲が罪を得て魯の国を出奔(しゅっぽん)するとき、その領地の防に踏み止まって、そこから臧家の後継(あとつぎ)を立てていただきたいと請願し、もしそれを許してくだされば防をあけわたして他国へ立ちのきますと申し出た。そしてその請願が通ったので斉(せい)の国におもむいた。言葉は歎願的(たんがんてき)だったけれども、結局もし許されなければ防に立てこもって謀反を起すという勢いを示したのであって、主君を威嚇強迫したのではないと弁解しても、わしは信じない。」

 古註にも左のごとく説明してある。「武仲の邑(ゆう)はこれを君に受く。罪を得て出で奔(はし)る、すなわち後を立つるは君に在り、己の専らにするを得る所にあらず。而して邑に拠りて以て請う。その知を好んで(三四四)学を好まざるに由るなり。」

三四七 子のたまわく、晋の文公は譎(いつわ)りて正しからず、斉(せい)の桓公(かんこう)正しくして譎らず。

 孔子様がおっしゃるよう、「晋の文公も斉の桓公も、共に覇者すなわち諸侯の盟主となり、夷狄(いてき)を攘(はら)い周室を尊んだ大功があるが、文公は謀略が好んで正道によらず、桓公は正道を踏んで謀略を用いなかった。そこに両公の間の大きな相違がある。」

三四八 子路いわく、桓公、公子糾(きゅう)を殺す。召忽がこれに死し、管仲は死せず。いわく 未だ仁ならざるか。子のたまわく、桓公諸侯を九合(きゅうごう)するに兵車を以てせざりしは管仲の力なり。その仁に如(し)かんや、その仁に如かんや。

 「九合」の九は数ではなくて「糾」と同字。すなわち「糾合」。
 本文の事件を『春秋左氏伝』(荘子、八・九年)の記事によって抄録すると、「斉の襄公(じょうこう・僖公(きこう)の嫡子)無道なり。鮑淑牙(ほうしゅくが)公子小白(僖公の庶子)を奉じてキョに奔る。公孫無知(ぶち・僖公の母弟夷仲年(いちゅうねん)の子)襄公を弑(しい)するに及び、管夷吾(管仲)、召忽、公子糾(小白の庶兄)を奉じて魯に弄る。魯兵を以て子糾を納(い)る。この時小自すでに立つ。遂に与(とも)に戦い、魯兵大いに敗る。小白入る。これを桓公と為す。魯をして子糾を殺さしめ、管、召を請う。召忽これに死す。管仲囚(とら)われんことを請う。飽叔牙、桓公に言いて以て相と為す。」というのである。ただし糾と小白といずれが兄か、については異説があって、次密に引く古註は、小白が兄ということで立論している。

 子路が斉の桓公が公子組を殺したとき召忽は義を守って死し管仲は死せざるのみならず君の仇(あだ)の桓公に事(つか)えたのをその意を得ずとして「管仲は仁とは申せますまい。」とおたずねしたところ、孔子様がおっしゃるよう、「当時周の王室が衰えて諸侯服せず、夷狄侵入して中国危からんとした際、桓公が武力を用いず血を流さずして諸侯を連合させ、尊王嬢夷を実行して天下の人民を答堵休息させたのは、全く管仲輔佐の功績である。たとい公子組のために死ななかった小過失はあろうとも、天下を平らかにし万民を安んじた偉大な仁に誰が及ぼうや、誰がその仁に及ぼうや。」

『新訳論語』 講談社学術文庫


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批判的に読み解く歎異抄 №18 [心の小径]

異義篇をどう読むか―『歎異抄』の著者(唯円)の立場―

          立川市・光西寺住職  渡辺淳誠 

一『欺異抄』の構成

1、全体の構成

 まず『歎異抄』全体の構成を通説(『欺異抄(文庫判)現代語訳付き』本願寺出版社、2002年、150頁)に従って確認しておくと、『歎異抄』という題号(名)の後、最初にこの部分だけ漢文で書かれた「前序」、次に親鸞聖人の語録である「師訓篇」が一条~十条まで続いています(本願寺派『浄土真宗聖典』831-837頁:大谷派『真宗聖典』626-630頁)。この十条は「「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき」となっており、前回確認した三条同様、「おおせそうらいき」で終わっていて「と云々」が省かれていると見ることができますので、これは法然上人が仰せになったという意味だと受け取ることができます。
 そしてその後、「そもそもかの御在生のむかし…」から十一条の前までのところに「中序」或いは「別序」と呼ばれるくだりがあって、そしてそこに「上人(親鸞)のおおせにあらざる異義どもを、近来はおおくおおせられおうてそうろうよし、つたえうけたまわる。いわれなき条々の子細のこと」とありますが、この「中序」に続き十一条以下にそうした「異義」「いわれなき条々」に対する批判が述べられておりますので、十一条~十八条までを「異義篇」と言うわけです(本願寺派『浄土真宗聖典-註釈版第二版-』837~851頁:大谷派『真宗聖典』630-639頁)。さらにその後、「後序」(いわば「あとがき」)があって、最後に「承元の法難の顛末」(流罪の記録)が付されています(本願寺派『浄土真宗聖典-註釈版第二版-』851-856頁‥大谷派『真宗聖典』 639-642頁)。この「流罪の記録」については載せていない写本もありますが、全体の構成については大体こういう見方が一般的だと言えます。
 『歎異抄』全体の構成に関する通説以外の他の見方については、後ほど時間があれば若干触れるかもしれませんが、今日は詳しく立ち入ることはできません。そこで、配布資料の4-5頁に、通説のほか佐藤正英説1、近角常観説2、西田真因3説3を紹介しておきました。関心のある方は目を通しておいて下さい。

2、「師訓篇」及び「異義篇」の構成と両者の関係

 次に「師訓篇」と言われる最初の一条から十条までは、どういう並びになっているのか、どういう仕組みでできているのかってことについて、関連する四人の学者、すなわち、香月院探励。、妙音院了禅、藤秀曙5、早島鏡正6の見方を配布資料の5-6頁に記しておきましたので参考にして下さい。
 また、「異義篇」についても、どういう順序で並んでいて、どう分類されるかということについて、四人の学者、すなわち妙音院了禅、藤秀理7、梅原真隆8、早島鏡正9の説を配布資料の6-7頁に並べ、関連する書物を注に載せておきましたので、随時参照でぃてください。
 さてここで、構成の問題についてまとまりを付ける意味で、以上のように十八か条と三つの序から出来ている『欺異抄』の一条一条がどういうふうに並んでいるのかということについて、江戸時代後期の大谷派の学者・妙音院了祥(1788-1842年、岡崎出身)の説を図式化して示しておきたいと思います(巻末の【師訓篇と異義篇の関係図式】及び妙音院了祥『欺異抄聞記』1842年『続真宗大系』21巻、1940年、22頁、101-102頁、134頁-135貢、246頁等参照)。実を言いますと、『歎異抄』は唯円が書いたという説を出したのはこの了祥です。この人の師匠で有名な香月院深励(1749-1817年)は『欺異抄』を書いたのは如信だと言っていましたので (香月院探励「歎異抄辞林記上」 1817年『真宗大系』23巻、1930年、383-384頁)、それまでは如信説が有力だったのではないかと思われます。でも、了祥が初めて著者は唯円だということを証明しようとしたのですね。しかも彼は『歎異抄』十八か条をどういうふうに見たらよいのかってことを非常に分かり易く示しました。そして近現代の多くの学者がこの人の説を下敷きにしていますから、大概の説は基本的にその焼き直しだと言ってもよいですね。ですから、この人の著述を読まないと『歎異抄』の基本的なことは分からないのです。そこで、私はこの了祥説に従って巻末の【師訓黛と異義篇の関係図式】という表を作ったわけです。
 それで「師訓篇」がどう並んでいるかと言うと、了祥はまず一条~三条を「安心訓」と呼んでおります。つまり信心について述べたものだということですね。それから四条~十条を「起行訓」と呼んでおります。言ってみれば信心に対してこれは実践ということでしょう。そしてさらに細分化すれば、四条~六条は「利他」について、七条~九条は「自利」について述べているとし、最後の十条を「自利利他円満」として、これが総括的な文章になっているという見方を了梓は提唱しているわけです。今日は「師訓篇」についてはこの程度にしておきますね。
 それから「異義篇」について了禅は図に示したように「誓名別信計」と「専修賢善計」の二つに大別し、十一条(誓名別信章)・十二条(学解念仏章)・十五条(即身成仏章)・十七条(辺地堕獄章)を前者に、十三条(禁誇本願章)・十四条(一念滅罪章)・十六条(自然回心章)・十八条(旛量分報章)を後者に配当しているわけです。今日はこれからこの「異義篇」について詳しく見て行くことにします。(資料略)


名古屋市中川区 真宗大谷派・西雲寺の公開講座より





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論語 №109 [心の小径]

三四四 子路、成人を問う。子のたまわく、藏武仲(ぞうぶちゅう)の知、公綽(こうしゃく)の不欲、卞荘子(べんそうし)の勇、冉求(せんきゅう)の嚢のごとくにして、これを文(かざ)るに礼楽(れいがく)を此てせば、亦以て成人と為すペし。のたまわく、今の成人とは、何ぞ必ずしも然らん。利を見ては義を思い、危きを見ては命を助け、久要平生の言を忘れずんば、亦以て成人と為すべし。

                法学者  穂積重遠

 「藏武仲]は魯の太夫、名は「キツ」、小男で知的だっという。卞荘子は魯の卞邑(へんゆう)の大夫、虎を刺したので有名。冉求については前に「求や芸(一二五)とある。後段は子路の言葉だとする説があるが、やはり孔子様の言葉で、いったん話を切って再び言われた意味で「のたまわく」がはさんであるのだ。

 子路が、成人すなわち完成された人格者とは何か、をおたずねしたら、孔子様が、「藏武仲の才智と、孟公綽の無欲と、冉求の多芸とを兼ね、これをきりもりするのに礼を以てし、これをやわらげるのに楽をもってしたならば.正に成人といえよう。」と語られたが、更に言葉をあらためておっしゃるよう、「今の乱世では、そこまでの成人は望めぬかも知れぬ。利得問題に当ってはそれを取るが義か取らざるが義かを思い、君国の危急に際しては一命を投げ出し、古い約束や平生の言葉を忘れずに実行する、そういう人物ならばまずまず成人といってよかろう。」

 前段について、古註には「言う心は、上四人の才智を備有し、又すべからく、礼楽を加えて以てこれを文飾すべきなり。」とあるが、伊藤仁斎はこれに反対して、「四子の長のごときは、皆以て世に立ち名を成すに足る。而してまた礼楽を以てこれを文り、すなわち偏(かたよ)れるを救い欠けたるを補う。以て成人の名に当るに足る。旧註に以て四子の長を兼ぬと謂うは非なり。これけだし聖の能くせざる所、あにこれを学者に望むぺけんや。」と言い、荻生徂徠もこれに賛成している。しかしそれではかえって「今の成人」より軽くなりそうだから、やはり旧説の方がよいと思う。「平生の言」を「古い約束をした当時の言葉」と解するのが通説だが、前記の方がわかりよいと思って、自己流を立てた。

三四五 子、公叔文子を公明賈(こうめいか)に問う。のたまわく、信なるか、夫子言わず笑わず取らざるか。公明賈対(こた)えていわく、以て告ぐる者の過(あやま)てるなり。夫子時ありて然る後に言う。人その言うことを厭わず。楽しみて然る後に笑う。人その笑うことを厭わず。義ありて然る後に取る。人その取ることを厭わず。子のたまわく、それ然り、あにそれ然らんや。

 「公叔文子」は衛(えい)の太夫、公孫抜(こうそんばつ)。「公明賈」も衛の人。

 孔子様が公叔文子の事を公孫賈にたずねて、「本当ですか、太夫殿は、言わない、笑わない、取らない、というのは。」と言われたら、公孫賈が、「それはうわさした者のまちがいであります。公叔文子も言ったり笑ったり取ったりしますが、言うべき時に言うから人がその言ったことに気がつかないのです。心から楽しく思って笑うから人がその笑ったことに気がつかないのです。取る義理のある時に取るから人がその取ったことに気がつかないのです。」と答えた。孔子様が感服しておっしゃるよう、「なるほどそのとおりだろう、どうしてうわさどおりであろうぞ。」

 「それ然り、あにそれ然らんや」は、今日では「ほんとにそうかね」というくらいのうたがいないしひやかしに用いられる。本章でも「そのとおりなら大したものだが、どうもそうではあるまい。」という意味に解するのが通説のようだ。しかし公孫賈がせっかく名答をしたのを、うたがいひやかすのは孔子様らしくない故、前記のごとく解する説を採った。

『新訳論語』 講談社学術文庫
                                                   


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批判的に読み解く歎異抄 №17 [心の小径]

異義篇をどう読むか―『歎異抄』の著者(唯円)の立場―

          立川市光西寺住職  寿台順誠

はじめに

 皆さん、やっとかめだなも。・・・今日はやっぱり名古屋に行くんだからご当地の言葉で挨拶しようと思い、ちょっと調べてみました。「やっとかめ」の語源って「八十日目」(八つの十日目)ということなのですね。「人の噂も七十五日」と言いますね。七十五日も経つともう忘れる頃になる。これをさらに五日過ぎるともう忘れた頃になるから、それで「久しぶりですね」という意味で「やっとかめ」という言葉が出来たということらしいですね。私は去年の十月にここでお話させて頂いてから三ケ月ですから本当は九十日ぐらい経っていますので、「やっとかめ」じゃなくて「く(九)っとかめ」というべきかもしれませんね。(笑い)
 もう少し名古屋話をしますと、最近テレビの旅番組や郷土料理番組で、よく「名古屋めし」というのが取り上げられていますね。すると名古屋で生まれ育った私の全然知らない食べ物が「名古屋めし」になっていたりする訳ですよ。ホプズボウムという人の『創られた伝統』(E.ホブズボウム・T.レンジャー編、前川啓治・梶原景昭他訳、紀伊国屋書店、
1992年=The Invention of Tradition、Cambridge University Press 、1983)という本があるんですけど、伝統って創られるのだと思いますね。マスメディアやなんかを通じて、「昔からこれが流行っていた」とか 「昔からこれは此処のもんだ」と伝えられると、みんな昔からあったとか、そうだったと思い込んでしまうことがありますね。私は「名古屋めし」と言われるものにそんなことを感じたりするのです。
 さて、『歎異抄』の「人気」も本当に自然発生的なものであったのかどうか、最近私は疑っています。もしかしたら外から創られたのかもしれないと思ったりします。『欺異抄』は人気があると皆がそう言うからよいと思っている人は多いでしょう。でも、じゃあ本当に読んでいるかと言うと、全然読んでいない人が多いというのが私の印象です。
 私は何年か前に立川市の「市民交流大学」ってとこで、5回連続の『歎異抄』の講義をしたことがあります。その時、三十人定員で募集したらその日のうちにもう定員全部満たしてしまいました。うちのお寺の総代さんも申し込んだけれども、もう三十人満たしているから駄目って一旦言われて、「いや私は光西寺の総代だから入れろ」ってねじ込んだら三十六人目だったので、ついにその講座には三十六人入れることになったということがありました。そのように『歎異抄』というと人気があるのですけれども、そこでも実際にはあまり読まれていないってことに気付きました。なんか聞きかじりの言葉が一つ二つ皆さんあるかもしれないけれども、本当にじっくり読んだことあるのかなってことを、何回かそういう講義をやってみて感じたことがありました。
 浄土真宗の学者や僧侶の側にも、少しどぎつく言えば、人気のある『欺異抄』におもねった話が多いと思います。しかし、私は昔からあまりよいと思ってなかったので、まずちゃんと読んで本当に何が書いてあるのか、それをきちっと理解してみようということで『歎異抄』研究を始めたわけです。ですから、私は『欺異抄』を批判することの方が多いのですけど、一方で『欺異抄』にも評価すべき部分もあるとは思っています。ただ読みもしないで、あまりにも「よい、よい」と言われ過ぎていますから、どうしても私の話は批判的にならざるをえないということを最初にお断りしとこうかなと思います。
 それでは始めたいと思いますが、前回は三条と十三条の批判を述べました。今日は前回の話を受けて、それを『欺異抄』というテキスト全体の中で確認することになります。ですから前回の話を裏付けるような話になると思います。なお、『歎異抄』関連の本には、一つ一つの文のタイトルを「一条、二条‥・」と表記しているものと「一章、二章‥・」と表記するものがありますが、私は「条」の方が一般的だと思っておりますし、また、一つ一つの文は「章」と言うには短すぎるものが多いとも思いますので、私の話ではすべて「条」に統一したいと思います。ただ、他人の著書を引用する場合に「一章、二章‥・」などと出てくることはありますが、それらはみな「一条、二条‥・」と同義だということをお断りしておきたいと思います。

名古屋市中川区 真宗大谷派・西雲寺の公開講座より


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論語 №108 [心の小径]

三四〇 子のたまわく、命を為(つく)るに神話これを草創し、世淑(せいしゅく)これを討論し、行人(工人)子羽(しう)これを修飾し、東里の子産(しさん)これを潤色(じゅんしょく)す。

              法学者  穂積重遠

 「命」は諸侯と応対する「辞命」の書、すなわち外交文書。「行人」は催事をつかさどる官、すなわち外交官。「東里」は子産の住所。この四人は鄭国(ていこく)の賢大夫であって中でも子産が総理大臣格であり、『左伝』(嚢公三十毒)にも「子産の政に従うや能を択(えら)びてこれを使う。」とあるように、外交文書一つ作るにも衆知を集めたので、小国をもって晋楚両大国の間にはさまりながら滅びないのだと、孔子様がほめられたのである。

 孔子様がおっしゃるよう、「鄭の国では外交文書を作るのにも、まず稗諶(ひじん)がだいたいの要項を立案し、世淑が故実をただし論理を合わせ、外交官子羽が文章を添削整理し、最後に東里の子産の手元で文飾を加えて仕上げをする。さても念の入ったことかな。」

三四一 或ひと子産を問う。子のたまわく、恵人(けいじん)なり。子西(しせい)を問う。のたまわく、かれをや、かれをや。管仲(かんちゅう)を問う。のたまわく、人なり。伯氏の駢邑(へんゆう)三百を奪う、疏食(そし)を飯(くら)い、齒(よわい)を没するまで怨言(えんげん)なかりき。

 本章は三人の賢大夫、鄭の子産、楚の子西、邦の管仲の批評である。子産と管仲は前に出た(六二・一〇七)。子西については、古証に『子西は楚の公子申(しん)、能(よ)く楚の図を遜(ゆず)り、昭王を立ててその政を改紀(かいき)す。亦賢大夫なり。然れどもその僣王(せんおう)の号を革(あらた)むる能わず。昭王孔子を用いんと欲して又これを阻止す。その後ついに自公を召きて禍乱(からん)を致す。すなわちその人と為り知るべし。」とある。それ故孔子様は問題にされなかったのだ。「三百」は「三百家」という説と「三百里」という説とある。「里」は前にあったように(一二二)二十五家だから、後説だと合計七千五百家になる。戸数の多い方が話がおもしろいから後説を採ろう。

 ある人が子産の人物をおたずねしたら、孔子様が「仁愛の人じゃ。」とおっしゃった。
子西をおたずねしたら、「あの人は、あの人は。」と言われて問題にされなかった。さらに管仲の人物をおたずねしたら、孔子様がおっしゃるよう、「あれは人物じゃ。国政を執ったとき、大夫伯偃(はくえん)の罪をただして、駢邑という七千五百戸もある大きな領地を没収し、そのために伯偃は困窮して、食うや食わずで一生を送ったが、死ぬまで恨み言を言わなかった。すなわちその処置が公明正大で、処分された者をも心服させたのである。」

三四二 子のたまわく、貧にして怨むことなきは難し。宮みて疇ることなきは易し。
                                        
 孔子様がおっしゃるよう、「生活に困ると、とかく人を怨む心を生ずるものだから、貧困でも天命に安んじて怨みがましいことのないのは、すこぶるむずかしいことじゃ。それにくらべると、富んでもおごらぬということは、少しく真理をわきまえた者にはやさしいことなのだが、しかしそのやさしいことすらできぬ者が多いのだから、お前達は、その難きをつとめ、その易きをゆるがせにせぬようにせよ。」

三四三 子のたまわく、孟公綽(もうこうしゃく)は、趙魏(ちょうぎ)の老と為らばすなわち優なり。以て滕薛(とうせつ)の大夫と為すべからず。

 「孟公綽」は魯の大夫。次章によれば無欲の人だったとのことだが、政治的手腕はなかったらしい。

 孔子様がおっしゃるよう、「孟公綽は、晋の趙家や魏家のような大家でも一家の家老としては十二分だが、滕や薛のような小国でも、一国の大夫として国政を執るには不適当だ。」

 いわんや膝や薛よりも大きな魯の大夫としては、の意味がふくまれている。「老」は家臣の長だが、古証に「大家は勢重くして諸侯の事績なく、家老は望尊くして官守の責なし。」とあって、手腕はなくとも人格者ならばつとまるのである。

『新訳論語』講談社学術文庫


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批判的に読み解く歎異抄 №16 [心の小径]

本願ぼこり(造恵無碍・第十三条)の問題 

          立川市光西寺住職  寿台順誠

(おわりに)‥宗教と倫理道徳

 最後に、『歎異抄』後序に「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり」(本願寺派『浄土真宗聖典』853ページ‥大谷派『真宗聖典』640ページ)とありますが、宗教はこんな具合にすぐに倫理道徳の世界を超越してしまってよいんですか、という問いを出しておきたいと思います。そこで暁烏敏の関連する言葉を挙げてみます。

 親鸞聖人の精神よりいえば…世の人が善いということも、そらごとたわごとである、悪いということもそらごとたわごと、善根もそらごとたわごと、悪業もそらごとたわごと、法律もそらごとたわごと、道徳もそらごとたわごと、国家もそらごとたわごと、家庭もそらごとたわごと、他人もそらごとたわごと、自分もそらごとたわごと、世のすべて、自己の全体、どこをさがして見てもそらごとならざるはなくたわごとならざるはなく、偽りならざるはなく、ひとつとして誠はない、ひとつとしてあてにすべきところはない。この間にあってただ一つあてになるものは如来のお慈悲である。…この真実の御力を信じ御光に照らされていったならば、ぬすむ者でも、殺す者でも、火つけする者でも、酒を呑む者でも、姦淫する者でも、徳者でも、仁者でも、悪人でも、愚人でも、ことごとく仏の真実にたよって大安心ができるということをていねいに教示したのがこの『歎異抄』である。((暁烏敏『欺異抄講話』講談社、1981年、35頁)「ぬすむ者でも、殺す者でも、火つけする者でも」、みな救われちゃうんです。よいんですか、これで。「悪人正機」(悪人正因)と言われてきたものがこういうところに帰結するのであるならば、完璧に否定すべきだと私は思います。「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり」という形で善悪の観念を無化してしまうところに帰結するんだとすれば、やっぱりすごく問題なんじゃないでしょうか。これが『欺異抄』というテキストの持つ根本的な問題だと私は思うのです。

 今日最初に住職が「『欺異抄』よりもやっぱり『御文』の方が伝播(でんば)してるんじゃないか」と言われましたが、私も実はそう思っています。今日、こちらに来る前に少し時間がありましたので、私は冒頭申しましたような気分で「前前前世」の世界に少し浸ってみたいと思い久しぶりに一色の街を歩いてみて、ちょっと物悲しい感じがしました。むかし自分が生まれ育った境の活気のあった街が、段々なくなってゆくのは本当に悲しいことです。そんな中でどうやって改めて仏教を広めていくのか、どうやって浄土真宗を復興するのかが我々の共通の課題だと思います。そう思う時、かって漁師町として栄えたこの下之一色で想い起こすのは、『歎異抄』ではなくて『御文』なんです。特に「猟、すなどりの御文」を想い起こします。

 まず、当流の安心のおもむきは、あながちに、わがこころのわろきをも、また、妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよというにもあらず。ただあきないをもし、奉公をもせよ、猟、すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどいぬるわれらごときのいたずらものを、たすけんとちかいまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもうこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあずかるものなり。(本願寺派『浄土真宗聖典』1086―1087ページ、大谷派『真宗聖典』762ページ)

 これは、かつて漁師町だったこの下之一色で、我々が小さい頃から寝物語のようにして聞かされた御文です。私が物心ついた時はもう漁もできなくなっていましたが、それでもまだ現役の漁師だった人たちの雰囲気が強く漂う中、この下之一色でどうして浄土真宗が栄えたか、真宗の教えが伝播したかということの説明に、よくこの「猟、すなどりの御文」が使われていたことを記憶しています。生き物、つまり魚を獲って殺すのが自分たちの仕事だってことと、それから船に乗って海に出て行くと、「船底一枚、下は地獄」という危険の伴う中で生きてきた人たちが頼るべきは念仏の教えだった、ということを如実に表しているのが、この「漁、すなどりの御文」だったというわけです。

 最後に同朋会運動の一つの問題を取り上げておくとすれば、この運動には『『歎異抄』を持ち上げて『御文』を低く見るというところがありました。『『歎異抄』は素晴らしいから聞けって形で、上から教えをインプットしようとしたきらいがあったんじゃないかと思います。しかし、浄土真宗は現実には『御文』に表現されたような、生活の中での教えとして伝承され栄えてきたという面があったのではないかと思います。そんなことを一つ問題提起して、大体の時間ですからこれで終わらせていただき、続きは次回にしたいと思います。ややこしい話を最後までお聞き頂きましたどうも有難うございました。   合掌

名古屋市中川区 真宗大谷派・西雲寺の公開講座より


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論語 №107 [心の小径]

三三五 子のたまわく、邦(くに)道有れば言(ことば)を危(たか)くし行いを危くす。邦道無ければ行いを危くし、言孫(したが)う。

             法学者  穂積重遠

「危」を「けわしく」とよむ人もある。
 孔子様がおっしゃるよう、「国が治まって道が行われている場合には、正しいと信ずるところを遠慮なく言い断固として行う。国が乱れて道が行われない場合には、正しさを行うべきは少しも変りがないが、言葉は当りさわりないよう注意せねばならぬ。」

 これは相当議論のあるべきところで、孔子様もけっして盲従的大勢順応をよしとされるのではあるまい。いかなる場合にも言うべきだけのことは言わねばならぬはずだが、実際上言いがいのある場合もあ。ない場合もあり、無益の波瀾(はらん)を起し思わぬ舌禍筆禍を招いてもつまらぬ次第故、物を言うには時と場合の見はからいがたいせつであることは間違いない。
 古註に、「君子の身を持するは変ずべからざるなり。言に至りては、すなわち時ありて敢えて尽さず、以て禍を避くるなり。然ればすなわち国を為(おさ)むる者、士の言をして孫ならしむるは、あに殆(あやう)からずや。」とあるのを読むと、戦争後期のわが国に正にあてはまるので、苦笑の外ない。

三三六 子のたまわく、徳ある者は必ず言あり、言ある者は必ずしも徳あらず。仁者は必ず勇あり、勇者は必ずしも仁あらず。

 孔子様がおっしゃるよう、「徳のある人には必ず善い言葉がある。なぜならば、心中に蓄積された盛徳がおのずから外にあふれ出て言葉となるからだ。しかし善い言葉のある人が必ずしも徳のある人ではない。なぜならば、言葉はその人の真情から出るものとばかりは限らず、口先のみのこともあるからだ、仁者は必ず勇者である。なぜならば、心に私なく正義を断行するからだ。しかし勇者は必ずしも仁者ではない。なぜならば、勇には正義によらぬ血気の勇もあるからだ。」

三三八 子のたまわく、君子にして仁ならざる者はあらんか、未だ小人にして仁なる者
はあらざるなり。

 孔子様がおっしゃるよう、「君子は常に仁を志すが、まだ聖人のごとく円満具足の域に達してはいないから、時には知らず識らず不仁に陥(おちい)る者があるかも知れない。しかし小人は元来が仁に志さぬのだから、仁者であり得るはずがない。」

三三九 子のたまわく、これを愛しては能(よ)く労せしむることなからんや。これに忠にして能く誨(おし)うることなからんや。

 孔子様がおっしゃるよう、「人を愛する以上、これに苦労をさせてその人物を鍛えないでよかろうか。人に忠実である以上、これを教訓し忠告善導しないでよかろうか。」

 前段はいわゆる「かわいい子には旅をさせろ」の意味。後段の「忠」を「君に忠」の意に解する人もあるが、前段との続きからも、また「誨」の字からも、やはり子弟友人の意に解するがよかろう。

『新訳論語』 講談社学術文庫


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批判的に読み解く歎異抄 №15 [心の小径]

本願ぼこり(造恵無碍・第十三条)の問題

       立川市光西寺住職  寿台順誠

(3)唯円が「本願ぼこり」(「造悪無碍」)を擁護することに理由があるとすれば、それは何か?

 この「制禁」にはとてもよいことも書かれていると思います。例えば、(7)一、師匠なればとて、是非をたださず弟子を勘当すべからざること」などと師匠の権力を抑制していますよね。それから、(9)一、同行のなかにおきて、妄語をいたし、うたへまうすといふとも、両方の是非をききて、理非をひらくべきこと」、つまり「両方の言い分をよく聞いて公平に扱え」と、これも悪いことは言ってないと思います。(11)一、念仏勤行のとき、男女同座すべからず」などというのは時代的に限界のあるもので、今日のこの席などは当時であればアウトでしょうね。現代ではもうこんなことを言う意味もないことですし、「みだりになるべきゆゑなり」が何を指すかわかりませんが、当時は「みだりに」なったという事実はあったのでしょうね。また、(12)一、かたじけなきむねを存じて、馬の口入(=売買の斡旋をすること)、人の口入すべからざること」ともありますが、念仏道場へ来て「馬の口入」やまして「人の口入」などされても困るよねってことだと思いますね。また、(13)一、あきなひをせんに、虚妄をいたし、一文の銭なりともすごしてとるべからず。すなはちかへすべし」というのもよいこと言ってるじゃないですか。詐欺みたいなことをやって人から鏡を取っちやいけないって言うのですから。(14)一、他の妻をおかして、その誹誘をいたすこと」などは意味が分かりませんが、そんなこともあったってことでしょうね。また、(15)一、念仏者のなかに、酒ありてのむとも、本怪をうしなひて酒くるひをすること。」 やはり酒狂いはよくないですから、こんなことを「制禁」で言ったっていいんじゃないですかね。(16)一、念仏者のなかに、ぬすみ、博奕をすること」もよくないことですから、こういうことはいけないよって言っちやいけないんですか
ね。最後に、(17)一、すぐれたるをそねみ、おとれるをかろしむること」などはしてはいけないと言っていることもよいことを言ってると思いますね。
 さて、唯円はこういうものを貼るのは、「賢善精進の相をほかにしめして、うちには虚仮をいだけるもの」だと批判しているわけです。確かに中には、「男女同座すべからず」のようにもう時代遅れのものもあるけれども、全体としては結構よいことを言っていますね。また、こんな「制禁」があったってことは、やっぱり倫理道徳に反するようなことが行われ、顰蹙をかっていたということがあったのだろうと思うんです。だから「制禁」を貼り出したのはそんなに変なことじゃないと私は思っています。少し穿った見方かもしれませんが、博奕、他人の妻を犯すこと、馬や人の口人など、そういうことをしたい人が、自分の自由にできるように「制禁」など貼るなよ、と『歎異抄』は言っているのではないかとさえ読めるのではないでしょうか。そんなことから、私は『歎異抄』はあまりにも持て囃されてきましたが、実際の効果はむしろ、単なる道徳の破壊や「造悪無碍」の助長にしかならなかったという問題があるのではないかと思います。これが『歎異抄』のもっている倫理道徳的な問題点で、それが三条と十三条に集中的に現れていると思います。しかも、三条・十三条は『欺異抄』の中でも一番の売れ筋、一番人気のある箇所ですよね。ここがあるから『歎異抄』は素晴らしいと、よく言われるわけですが、私はそのようには評価していないと申し上げておきたいのです。特に三条と十三条はよくない箇所だと私は思っています。勿論『歎異抄』にも他によいところ、採るべきところは結構有るんです。が、それはまた機会があれば申し上げます。

名古屋市中川区 真宗大谷派・西雲寺の公開講座より


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論語 №107 [心の小径]

三三三 憲、恥を問う。子のたまわく、邦(くに)道有(あ)ば穀(こく)す。邦道無くして穀するは恥なりと。克伐怨欲行われずんば以て仁と為すべきか。子のたまわく、以て難しと為すペし。仁はすなわちわれ知らざるなり。

               法学者  穂積重遠

 「憲」は門人原思(げんし)の名。例の粟(ぞく)九百を辞した人(三一)。本章を二車にわけてある本もある。おそらく最初はそうだったのが「憲問うていわく」が落ちて続いてしまったのだろう。

 原憲(げんけん)が、何が恥ずべきことかを、おたずねした。孔子様がおっしゃるよう、「国に道が行われている際仕えて俸禄を受けるのは恥ではないが、国に道がなくて乱れている場合に、いさざよく退くことができないでむなしく禄をはんでいるのは、恥ずべきこ

とじゃ。」さらにまた「人間はとかく人に勝つことを好み、自らその功にほこり人をうらみ、貪(むさぼ)ってあくなきものでありますが、この克伐怨欲の四情を抑えることができましたら、仁と申せましょうか。」とおたずねしたら、孔子様がおっしゃるよう、「それはなかなかむずかしいことでそれができたらえらいものだが、それだけで仁であるかどうか、わしは知らん。」

 すなわち「克伐怨欲行われず」だけではまだ消極的で、仁とはいえない、仁はモツト積極的な徳だといわれるのであって、例によってたやすく仁を許されない。

 前段を「邦道あるに穀し、邦遺なきに穀するは恥なり。」とよんで、「邦道あるに為すあること能わず、邦道なきに独り善くすること能わず、而してただ禄を食むことを知るは皆恥ずべきなり。憲の狷介(けんかい)なる、その邦道なくして穀するの恥ずべきはもとよりこれを知る、邦道ありて穀するの恥ずべきに至りては、すなわち未だ必ずしも知らざるなり。故に夫子その問に因(よ)りて、併せてこれを云い、以てその志を広め、自ら勉むる所以を知りて為すあるに進ましむるなり。」と説明する人もある。しかし前に「邦道有りて貧しく且(かつ)賤(いや)しきは恥なり」(二九七)とあるのをみても、前記の通りよみ、かつ解するのが正しい。

三三四 子のたまわく、士にして居を懐(おも)うは、以て士と為すに足らず。

 孔子様がおっしゃるよう、「いやしくも士たるものは、四方に出動して天下を経営する意気込みがなくてはならぬ。安住の地に恋々(れんれん)しているようなことでは、士とはいえぬぞ」

 前に「居安きを求むることなし」(一四)とあるのと対応する。


『新訳論語』 講談社学術文庫





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批判的に読み解く歎異抄 №14 [心の小径]

本願ぼこり(造恵無碍・第十三条)の問題

       立川市光西寺住職  寿台順誠

(3)唯円が「本願ぼこり」(「造悪無碍」)を擁護することに理由があるとすれば、それは何か?

 次に一旦唯円の立場に立って考えてみましょう。唯円が「本願ぼこり」(造悪無碍)を擁護することに理由があるとすれば、それはどういう理由なのかということです。
 『欺異抄』は親鸞が亡くなってから三十年ぐらいして書かれたと言われていますが、善鸞事件(1256年)の頃とは違って、既に「造悪無碍」はほとんど問題ではなくなっており、むしろ抑圧的なほどに「専修賢善」が押し付けられるような状況にあったとすれば、十三条のように「造悪無碍」に対して甘すぎると思えるような立場取りをすることもありうるかもしれません。
 何を言っているのかというと、例えば私たちがある村に住んだといたしましょう。とても品行方正な村です。誰にも悪は見当たりません。悪いことを思うことさえしません。会う人は皆よい人ばっかり。………これはちょっと窮屈だと思いませんか。そういう社会だと、敢えてちょっと悪さをしてみたくなりませんか。もうとことん管理されていて、もう皆機械のようです。悪いことなど一切しません、犯罪は全くありません。本当にもうみんないい人ばっかり。………騒ぎたくなりませんか。そこまで「造恵無碍」(本願ぼこり)が駆逐されちゃうと、現代の憲法的な表現を借りれば「表現の自由」さえなくなっちゃう。それだとやっぱり窮屈だからちょっと暴れてみたくもなる。もし十三条を擁護するならば、そんなところかなと思います。
 しかし、事実はやっぱりそうじゃなかっただろうと思います。そしてそう思わせるのが資料の4ページの注二十一に挙げた「制禁」です。『欺異抄』十三条には、「なんなんのことしたらんものをば、道場へ入るべからず」なんて、最近はそういう「はりぶみ」をしていたりするけれども、そんな張り紙はいらないんじゃないのと、そんなことするのは親鸞聖人の教えに反しているんじゃないかと言われています。そうした「はりぶみ」の代表的な例が次の「制禁」です。

制禁 一向専修の念仏者のなかに停止せしむべき条々のこと(1)一、専修別行のともがらにおきて、念仏菩薩ならびに別解別行の人を誹誘すべからざること。(2)一、別解別行の人に対して、評論をいたすべからざること。(3)一、主・親におきたてまつりて、うやまひおろかになせること。(4)一、念仏まうしながら、神明をかろしめたてまつること。(5)一、道場の室内にまゐりて、嫡慢のこころをいたし、わらひ、ささやきごとをすること。(6)一、あやまて一向専修といひて邪義をときて、師匠の悪名をたつること。(7)一、 師匠なればとて、是非をたださず弟子を勘当すべからざること。(8)一、同行・善知識をかろしむべからざること。(9)一、同行のなかにおきて、妄語をいたし、うたへまうすといふとも、両方の是非をききて、理非をひらくべきこと。(10)一、念仏の日、集会ありて魚烏を食すること、もろくあるべからざること。(11)一、念仏勤行のとき、男女同座すべからず。みだりになるべきゆゑなり。(12)一、かたじけなきむねを存じて、馬の口入、人の口入すべからざること。(13)一、あきなひをせんに、虚妄をいたし、一文の銭なりともすごしてとるべからず。すなはちかへすべし。(14)一、他の妻をおかして、その誹誘をいたすこと。(15)一、念仏者のなかに、酒ありてのむとも、本性をうしなひて酒くるひをすること。(16)一、念仏者のなかに、ぬすみ、博奕をすること。(17)一、すぐれたるをそねみ、おとれるをかろしむること、もろくあるべからざること。右、このむねを停止せしめて、十七ヶ条の是非、制禁にまかせて専修一行の念仏者等あひたがひにいましめをいたして、信ぜらるべし。もしこのむねをそむかんともがらにおきては、同朋同行なりといふとも、衆中をまかりいだし、同座同列をすべからざるものなり。仍制禁之状如件。弘安八年(1285年)八月十三日 善円在判」(佐藤正英『欺異抄論釈』青土社、2005年、577621ページ) (この項つづく)

名古屋市中川区 真宗大谷派・西雲寺の公開講座より


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