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論語 №143 [心の小径]

四五五 子貢いわく、君子も亦悪(にく)むことあるか。子のたまわく、悪むことあり。人の悪(あく)ろ称するものを悪む。下流に居て上をそしる者を悪む。勇にして礼なき者を悪む。果敢にして窒(ぐさ)がるものを悪む。のたまわく、賜(し)や亦悪むことあるかと。檄(うかが)いて以て知と為す者を悪む。不孫(ふそん)にして以て勇と為す者を悪む。訐(あば)きて以て直(ちょく)と為す者を悪む。

         法学者  穂積重遠

 ここで「君子」というのは、孔子を指す。それ故孔子様も自分のこととして答えられた。

 子頁が、「先生のような君子にもきらいな人がおありになりますか。」と問うたので孔子様が、「それはあるとも。他人の悪事を言い立てる者がきらいじゃ。下位に在って上位の者を悪し様にそしる者がきらいじゃ。勇のみあって礼のない者がきらいじゃ。思い切りはよいが道理のわからぬ者がきらいじゃ。」と答えられた。そして子貢に向かって、「賜もまたきらいな人があるか。」と問われた。答えて申すよう、「知と勇と直とはけっこうなことでありますが、人の言うことすることの先くぐりをして知なりとする者がきらいであります。倣慢無礼を勇なりとする者がきらいであります。他人の内証事(ないしょごと)をあばき立てて直なりとする者がきらいであります。」

 孔子様と子頁とが今の日本にいたら、さぞかしきらいな者が多くて困るだろう。孔子様と子貢とのきらうところ、すべて現状に適切だ。他人の言行を悪意にのみ解釈して思いやりがなく、反抗闘争をもって民主的と思い、無礼無作法、傍若無人、暴露摘発をもって痛快なりとする。これが君子国の君子人にあろうことか。(参照 ― 六九)

四五六 子のたまわく、ただ女子と小人(しょうじん)養い難しとなす。これを近づくればすなわち不孫、これを遠ざくればすなわち怨(うら)む。

 ここの「小人」は奴僕下人。

 孔子様がおっしゃるよう、「女と小者はどうも扱いにくい。近づけば図に乗るし、遠ざければ怨む。」

 『論語』五百章中、民主にして男女対等の今日として不都合千万なのはこの一章で、さすがの孔子ファンも弁護の言葉がない。しかし孔子様の言われたのは、一般論ではなかろう、ということも考えねばならぬ。何かの折に孔子様もよくよく持て余してこう言われたのだろう。
 孔子様だけではない落語家も言う、「女というものは始末がわるい。可愛がれば甘えるし、叱ればふくれるし、ぶてば泣くし、殺せば化けて出る。」と。ご婦人方、まあまあの劉備をさかだてすに、われとわが身に立ち返って下さい。

四五七 子のたまわく、年四十にして悪(にく)まるればそれ終らんのみ。

 孔子様がおっしゃるよう、「不勲の年の四十歳にもなって、何ひとつ善行もなく、君子ににくまれるようなことでは、もうおしまいじゃ。」

『新訳論語』 講談社学術文庫



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