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論語 №154 [心の小径]

四八七 孟氏(もうし)、陽膚(ようふ)をして士師(しし)為(た)らしむ。曾氏(そうし)に問う。曾氏いわく、上(かみ)その道を失いて民(たみ)散(さん)ずること久し。もしその情を得ば、すなわち哀矜(あいきょう)して喜ぶことなかれ。

          法学者  穂積重遠

 魯の大夫孟氏が曾子の門人の陽膚を裁判官に任用した。そこで陽膚が曾子に裁判官としての心得方をたずねた。曾子の言うよう、「今や忍たる政府が政道の宜(よろ)しきを失い、下々の人民が生活難に陥り 民心離散し道義頽廃せること年久しい。犯罪の起るのもひっきょうその人のみの罪ではなく、悪政が民を駆って罪を犯さしめるのである。それ放嫌疑者が『恐れ入りました』と白状したとき、ああかわいそうな気の毒な、とあわれみかなしめ。ゆめゆめ喜んではいけないぞ。」

 「法律家が論語を読む」という講演をしたことがあるが、『論語』には、今までその場所場所で指摘したように、今日の政治法律に適切な言葉がなかなかある。この「喜ぶことなかれ」なども、判事・検事・警察官が永久に「神に書すべき」(三八一)金言である。荻生徂徠も「情とは獄情を謂う。獄情は得難し、故にこれを得ればすなわち喜ぶは、獄を聴く者の常なり。」といっているが、大正以来ややもすれば人権蹂躙問題が起ったのも、結局犯罪を「物」にして「しめた」と喜ぶ気持があったからだ。私はかの「帝人事件」 の際、無実の罪に陥らんとする友人のための特別弁護に立ったとき、本章を引用し、「検事諸公は本件の審理中喜ばれたことはなかったでしょうか。」と論じた。

四八八 子貢いわく、紂(ちゅう)の不善はかくの如くこれ甚だしからざりしなり。これを以て君子は下流に居ることを悪(にく)む。天下の悪皆帰すればなり。

 子貢の言うよう、「殷の紂王は暴君悪王の標本のようにいわれるが、実際は評判されるほどひどくもなかったのだろう。ただその度重なった不善の行状のために、あれも紂の悪政、これも紂の淫乱ということになり、残忍無道の問屋にされてしまったのであって、ちょうど地形の低い所に汚水が集りたまるようなものだ。それ故君子は下流の地ともいうべき不善の境遇に身を置くことをきらう。天下の悪名が皆一身に集るからである。」

 大岡政談などが反対の例だ。大岡越前守が名判官だということになると、ほかの人のした裁判までも「大岡さばき」として伝えられることになる。

『新訳論語』 講談社学術文庫



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