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日本の原風景を読む №49 [文化としての「環境日本学」]

蘇る宮沢賢治-花巻 1

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

「賢治の家」を訪れた人々

 東日本大震災の直後から、岩手県花巻市にある宮沢賢治記念館、県立花巻農業高校の「賢治の家」を訪ねる人がともに増えた。備え付けのノートに記された訪問者の所感から、賢治の詩「雨ニモマケズ」が人々の心を奮い立たせ、救援活動に向かわせた様子がうかがえる。賢治の遺志で仏教の経本が埋められた丘の頂にある記念館から、賢治の作品の舞台となった眼下の光景に見入る人々が絶えない。
 「賢治の家」の訪問帳に、京都府宇治市から岩手県大槌町に救援に向かった、男性とみられる六十五歳の人物の所感が記されている。

 5/22
 午後12時半、小学生の時より頭の中に練り込まれた詩、雨ニモマケズ、風ニモマケズ……
 三月の東北大地震、大津波、自分が初めて東北・岩手に来る機会がこんな大変な時になって、まず脳裡に映ったのが、
 雨ニモマケズ……丈夫ナカラダヲモチ、東ニ……
 岩手大槌の山の中にテントを張り、三〇日間働かせてもらいました。
 そして多くのものをいただきました。人生観そのものも大きく変り、結局は自分とは、他者とはなんだ!という事を深く考えさせられました。そして岩手を離れるに当たって宮沢賢治さんの仕事部屋、勉強部屋を見せていただき有難く思っています。
・…‥ケッパレ東北、ケッパレ岩手!   (京都・宇治 六十五歳 T・K)

「東に……」 の部分は次のように加筆できる。
 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ     のはらのまづのはやしのかげの
 小サナ菅ラキノ小屋ニヰテ  ちいせかやぶぎのこやさいで
 東二病気ノコドモアレバ   ひがしさぐえわりやろいだら
 行ッテ看病シテヤリ     えってめんどうみでやって
 西ニッカレク母アレバ    にしさこえぐなたかかがいだら
 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ   えってそのいねのたばしょって
               (宮沢賢治記念館・牛崎敏哉学芸員)

デクノボーへのあこがれ

 「雨ニモマケズ」の〝サウイフモノ(者)″(デクノボー)は、災厄の傍らに「行く」ことを切望する。
 東に病気の子どもあれば、南に死にそうな人あれば…:・と続く。
 東日本大震災と東京電力福島原発メルトダウン事故で壊滅した三陸の海岸域には、およそ一二〇万人がボランティア活動に赴いた。T・K生の原像である。デクノボーとは、多くの日本人が心底に養い伝承してきた生き方の美学ではないだろうか。
 宮沢賢治は農芸化学の専門科学者、技術者であった。同時に、父親譲りの信仰心の篤い法華教徒でもあった。科学と宗教が同一人に体現された人格をはぐくみ、「みんなのほんとうのさいわい」を求めてイーハトーブ(理想像としての岩手県)に到る。その願望を込めた詩「雨ニモマケズ」が、この緊急時に人々の心の拠り所となっている社会現象を、私たちはどのように理解したらよいだろうか。
 「雨ニモマケズ」にこめられた、賢治の思いを読み解く手がかりとなるのは、キーフレーズ「みんなにデクノボーとよばれる」存在である。
 童話「虔十公園林」の主人公、虔十にうかがえる「デクノボー」の原型、モデルを賢治は誰に見出していたのだろうか。重病の床で手帳に記された「雨ニモマケズ」の終句、すなわち「サウイフモノニ ワタシバナリタイ」 に続けて
  南無無辺行菩薩
  南無上行菩薩
  南無多宝如来
  南無妙法蓮華経
  南無釈迦牟尼仏
  南無浄行菩薩
  南無安立行菩薩
と記されている。それは「法華経」の文言で、原文の文字の配列どおりに図示すれば、中央に一段高く置かれた法華の本尊の右傍を固める上行、無辺行、左側に侍る浄行、安立行の四菩薩に他ならない。四菩薩は大地から湧き出した無数の菩薩たちのリーダーとして法華経の流布教化を司る菩薩である。
 法華経に釈迦の高弟常不軽菩薩が登場する。すべての人々に仏性が宿ると、ことごとく他人に向かい合掌礼拝し、世間の攣塵をかう。お人よしのいささかノロマな人物とみられたのであろう。しかし釈迦はその資質を見抜き、高弟に招いた。
 デクノボーとは常不軽菩薩に他ならない。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店


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日本の原風景を読む №48 [文化としての「環境日本学」]

塩の神様への畏敬-塩竈神社 

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛                 

 海の労苦を背負う捜土老翁神

 『古事記』、『日本書紀』に由来する神話が宿る塩竃神社の野口次郎禰宜は、その瞬間、凶暴で鳴る須佐之男命(スサノヲノミコト)の乱暴狼籍を目撃した心境になったと顧みる。直近の塩釜湾から立ち上がった真っ黒い水の壁が人家を蹴飛ばし、田畑を一瞬に消し去った。「丁寧に作ってきた田や畑、ビニールハウスが押し寄せる津波に一瞬に飲み込まれていくさまに、須佐之男命の蛮行を嘆き悲しむ天照大神を思いました」。

 塩竈市中心の高台に鎮座する塩竈神社に、東日本大震災直後大勢の氏子が集い、恒例行事に代えて復興祈願が行われた。主神は「おらが塩竈さん」と親しみ呼ばれる塩の神様「鹽竈土老翁神(しおつちおじのかみ)」である。野口次郎禰宜が語る。
 「イメージは白い顎髪をたくわえていて、知恵の深い、物をよく知る、民を守ってくれる老翁です」。
 暑い盛りの七月四日から六日にかけ、塩竈神社で塩竈の町の名前の由来にもなった旗作りの祭り「藻塩焼神事」がとり行われる。鹽土老翁神が塩を作ったと伝えられる四つの神釜に一年間溜めておいた海水を、新しい海水と入れ替え、窯に火を焚いて塩をつくる。天変地異が起こるときには、水の色が変わると言い伝えられている。釜社守(かましゃもり)の目視によると、「今度の大震災の前に海水がおかしな色に変わりました」(野口禰宜)。伊達藩の時代は、神釜の水色を見守る記録係がいた。
 多くの灯篭が倒れたが「塩竈さん、以前の通りだね。ほっとした、とか気持ちが前に戻れた、とか、そういう言葉を漏らす参拝の方たちに多く接しています。神社の境内で見る風景が、以前と同じであるということが、被災者たちの心の救いになっているように思えます」(野口禰宜)。
 塩竃神社の社殿構成は特殊である。盤上老翁神、武餐槌神(たけみかつらのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)三柱を祀るが、主神である竈土老翁神の拝殿は正面ではなく右側に祭られている。
 神社の社殿は普通南向きに建てられるが、塩竈神社の拝殿は西向きに、海に背を向けている。野口禰宜はその理由を説明する。「神社の本殿は三つ、拝殿が二つあります。主神である竈土老翁神の拝殿は、海に背を向けて立っている。地元の人は海から上がった竈土老翁神が、そのまま海の苦労を背負っていてくれている、という言い方をします。この地方では津波のたびに、鹽の神様が千々に乱れた世の中を収赦し、鎮めることの繰り返しだったと思います」。
 人間が中心ではありえない、知を超えたところに我が身を置く。救いを求める。頼む。祈る。「見えない何か」と対話する。祈りの核心である。

暮らしの智恵 ― アニミズムとマナイズム

 風景論の第一人者で環境庁参事官をつとめた大井道夫氏は、文部省(当時)が主催した「文明問題懇談会」(昭和五十~五十一年)での文芸評論家山本健吉の見解を次のように紹介している。
   - 文学や芸術にあらわれた日本人の自然観の際立った特徴は、古代人が持っていたアニミズムとマナイズムである。アニミズムとは自然の中に霊魂を見ることであり、どちらかと言えば人間と自然の親密感を表すものである。マナイズムとは自然の中に超自然的な威力を感じることであり、それは自然に対する人間の畏怖の念をあらわすものである。古代日本人はこの両者をもっていたが、時代の経過とともにそれを失ってきた。とくに、明治以後、欧米文化が移入されるとそれらは迷信として排斥されるようになった、と山本氏は述べ、次のように指摘している。「しかし、単に迷信として捨ててしまっていいものかどうか、むしろそれは日本人が古来生きるための大変な知恵じゃなかったか、そういう考え方が、人間の生活を快適に暮らせてくれたんじゃないか。そういうプラスの面を考えていいんじゃないか。      (『大井道夫著作集』二〇〇ヒ年)

祭りは地域の尊厳

 神社は神を祭るのにふさわしい小高い所や森の奥に建っているので、多くの社は津波を免れた。しかし東日本大震災では一七九の寺院、三〇九の神社が全半壊し、住職三人、神官八人が死亡、行方不明となった。しかし壊滅した海辺の集落から残存した神社を足場に、尺取虫のように人々の動きが地域に広がっていった。最初にアニミズムとマナイズムをないまぜにした民俗芸能「祭り」が復活の動きをみせた。神輿や山車が修復され鹿踊り、虎舞、神楽が数少ない踊り手によって舞われた。
 浜辺の人々の多くが、神への奉献に由来する数々の神事に、地域立ち直りの手がかりを得ようとした。岩手、宮城、福島の三県で神楽、獅子舞など民族芸能が八百件、七夕、火祭りなどの祭祀行事約五百件が伝承されている。その理由はそれらが人々の絆を結び、心のよりどころとなっているからだ。
 脚本家内館牧子さんは仕事を休み、東北大学大学院で三年間宗教学を学び、祭りを追って東北の各地を巡った。
  ― 私はかって歩き回った地や、追いかけた祭りを思った。美しい山々や、豊かに広がる田畑を思い、そこで生きる人びとの笑顔や優しさを思った。そして、ハッキリとわかった。
 東北にとって、「水」と「緑」と「祭祀」は、尊厳に関わるものなのだと。この三つを無視する復興策を進めたなら、それがいかに利便性に富み、最新の町であろうと、東北ではなくなる。東北の尊厳に関わる部分に触れることは、断固として拒否しなければ、町は死ぬ。巨大な観覧車が夜空をかき回す景観や、万博会場のように整備されつくした町は、東北とは相いれない。私はそう思い復興構想会議でも言い続けた。
 驚いたのは、震災からほどなく、東北の人たちは、祭りの復活を目指したことだ。大切な人を亡くした悲しみも癒えず、ガレキも片付かず、放射線の状況に一喜一憂する中でも、祭りを準備する動きが出始めた。それは紛れもなく「尊厳に関わること」だと証明していた。たとえ一基の山車であっても、一人の雌子方であっても、町々で復活した。
 震災から三回目の夏、ぜひ東北の祭りを見ていただきたい。大きくよみがえったそれには東北の尊厳に全国の尊厳が重なる。全国の我が地、我が祭りの尊厳が宿っている。
                   (『朝日新聞』二〇一三年七月十八日「発言」)
 
 地域に潜在し受け継がれてきた日本文化の基層が、大震災によって鮮やかに掘り起こされ、人々の心をつなぎ、共有されているようだ。海の労苦を背負って立ってくれている軽土老翁神への畏敬は、歴史に鍛え抜かれた日本人の心の原風景像であるといえよう。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店



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日本の原風景を読む №47 [文化としての「環境日本学」]

心を映す風景 ― 東北の浄土、中尊寺 2

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

不慮の死を弔う

 --鐘声が、みちのくの地を動かす毎に、冤霊(えんれい)をして浄刺に導かしめん。
 中尊寺供養願文は天治三(一一二六)年三月、中尊寺大伽藍の落慶供養に奉納された。
 起草したのは藤原敦光、天皇の側近であった。
 「鐘楼の大きな鐘の音は千界を限らず、果てし無くどこまでも響き、その鐘の音の功徳はあまねく皆平等で、『官軍夷虜(かんぐんいりょ)』、官軍も辺境の捕虜も区別はない。人は誰でも死ぬ。鳥も獣も魚も、命あるものはみな死は免れない。その魂は他界(あの世)に去り、朽ちた骨だけがこの世の塵となる」。

 「争いを止めなさいという、戦争否定、非戦の思想が中尊寺の落慶供養の願文の中に述べられています。前九年後三年の長い長い戦い、それからさらに三年、この地方は蝦夷といわれ、道の奥であるがゆえに大義名分は常に都の側にあった。それにそぐわない、先行きが分からない存在だからという不安材料でもって都から攻められ、抵抗したからといってまた攻められました。この状態からようやく生き延びた清衡が、多くの人々の亡くなった霊を『冤霊』と表現しているのです」 (佐々木邦世住職)。

— どのような文字を。
住職 冤罪の「冤」は、兎(うさぎ)なんですね。いわれのない網にかけられたウサギが、ぶるぶる震えている象形文字だそうです。清衡の思いを込めた造語です。
— 故なくして命を落とし、落とされた思いを残しながら亡くなった人々の霊ですね。清衡は自身が覇権争いの渦中で家族は皆殺しに遭いました。
住職 多くの人々は自分の意思とは係わりのない場面で、突然網をかけられ命を奪われた。
ぱっとかけられたいわれのない網、そういう人の争いの中で命を失った人々を敵味方の区別なく弔う。そこが中尊寺が靖国神社とは違うところです。「官軍夷虜」、官軍も辺境の夷虜にも区別はない。

 世に知られていない事実であるが、中尊寺金色堂には藤原三代公の霊と共に、宮沢賢治の霊が合祀されている。昭和三十四年金色堂の傍らで、賢治の詩碑「中尊寺」の除幕式が行われた。その直後、薗実円買主始め一山の僧侶たちが金色堂に入り、式次第に従い賢治の宝を合祀し、供養した。この時代にあって宮沢賢治とはそのような存在なのだ。

海に祈る

 中尊寺からも多くの僧侶たちが東日本大地震の被災地へ向かい犠牲者たちと対面した。
 「何ができる、してあげるじゃなくて、一緒に手を合わせることしかないんですよね。手を合わせていると、最初の日の午前中にみなさん『ここに何しに来た』というような顔をしていたんです。でも、午後になって行ったら、そこにいるのは構わないくらいのことなんです。次の日は一緒に、三日目にはもう待っていてくれて、こっちまで拝まれるくらいになって。やっぱり一緒に気持ちを形で表すから、これはもう合掌する以外にないんですよ。それは『南無妙法蓮華経』と言おうと、『南無阿弥陀仏』と言おうと、どちらでもいいんです。とにかく海の方に向かって皆で一緒に拝む」(佐々木住職)。
 佐々木邦世住職は、被災地のガレキの合間に、何かを探している人々をしばし見かけた。
 「何か、物を探しているんじゃないと思うんですね。何を探すか、を探しているんじゃないか、と思うんですね」。
 形あるものがことごとく粉砕され、消失した巻で、人々は形のない価値、生きる拠りどころを探しあぐねているように思えた。

臨床宗教師の登場

 3・11直後の二〇二年五月七日、仙台市内のキリスト教会の神父と仙台仏教会の僧侶たちが宗派、宗教のワクを超え「心の相談室」発足の集いを東北大学で開いた。
 発起人は仙台市民教会の川上直哉牧師である。
 川上牧師は朝日新聞のインタビューに、心の相談室の開設に到るいきさつを語っている。

— 当初はいわば生者のための支援でしたが、やがて膨大な死者とその遺族のことを考えなくてはならなくなりました。身元不明のまま埋葬される人々、弔いさえできず自責の念に苦しむ家族。ある医師に「今ほど無力だと感じる時はない。これは宗教の領域ではないか」と言わ れたのです。
 「宗教にできることがある」と伝えたい。その一歩として「心の相談室」を支える会が発足し、活動を仙台以外にも広げることが決まりました。日本人と宗教の関係が変わるきっかけになればと思っています。    (『朝日新聞』二〇二年五月二日朝刊)

 「心の相談室」は東北大学宗教学研究室に事務局を設けた。教えを説くのではなく、現場で被災者と対話し、心のケアを試みる宗教者の専門職「臨床宗教師」の養成へと向かった。二〇一二年、東北大に実践宗教の寄付講座が設けられ、修了者たちが現場を目指した。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店



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日本の原風景を読む №46 [文化としての「環境日本学」]

東日本大震災の現場から

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

 『毎日新聞』に「新日本の風景」を連載中の二〇一一年三月十「日、東日本大震災が発生し、死者一万五八五四人、行方不明三〇八九人(二〇一二年三月二十八日時点)を数えた。東京電力福島原子力発電所の炉が連動して炉心熔解の大事故がおきた。放射能汚染のため三四万一四一一人(二〇一二年一月、政府発表)が居住所から脱出、退避を強いられた。文明史に刻まれた大事件、環境破壊事件である。事件の衝撃、負荷は二〇二〇年の現在もなお社会に重圧を加え続けている。
 『毎日新聞』朝刊に連載中だった「新日本の風景」は、取材現場を急遽東日本大震災の現場と周辺に切り替え、記事の核心を「文化としての環境日本学」の探求に定めた。取材グループのほぼ全員が、二〇〇八年以来「文化としての環境日本学」を探求していた早稲田環境塾の塾生であることがその背景にあった。破断された地域社会で、人々は何を心のよりどころにして、どのような行動に出たのか、を取材の主題とした。
 極限の危機に陥って「ゆずれないもの」、自分がなにものであるのか、「アイデンティティ」を被災者と支援者たちは自らに証明することを迫られたからである。
 明らかになった第一の事実は、「雨ニモマケズ」の宮沢賢治の人間像への渇望である。神仏への祈りと連動して、祭祀の復活への意思が第二の共通現象となった。
 「蘇る宮沢賢治」「宮沢賢治の海」は前者に、「心を映す風景」「塩の神様への畏敬」「3・11と魂の行方」は後者の現場と関連する。いずれも日本(東北)文化に潜在している基層が顕在化した現象ではないだろうか。
 地震の破壊エネルギーは地殻変動という科学的事実である。それは人間の側の事情にはかかわらず間断なく進む。人間の生死同様、不可避の自明の理である。自然は自らの論理を科学的に貫徹する。政府の地震調査委員会は、二〇一八年六月、今後三〇年間に震度6弱以上の揺れに見舞われる確率を地域ごとに公表した。東京、横浜、千葉などが確率最高レベルの「二六~一〇〇パーセント」とみなされた。トラフ型地震と直下型地震がその原因となる。いずれ遠からぬ日に、首都閣内にとどまらず全国域で3・11の混乱が再現されよう。その時社会は、人心はどのような状況におかれるのだろうか。心構え、覚悟が既に必要な時である。先行した3・∥現場の風景を記す理由である。

心を映す風景 ― 東北の浄土、中尊寺

鎮魂と非戦
 比叡山の基礎を築き、一〇年に及ぶ在唐日記『入唐求法巡礼行記』を著した第三代天台座主慈覚大師円仁(七九四~八六四)による開山(八五〇年)以来、時を刻む杉林の闇を抜けると急に視界が開け東物見台へ。桜、もみじの明るい木立を過ぎ、天台宗東北大本山中尊寺の表参道月見坂は、本坊を経て金色堂へ至る。西行が、芭蕉、賢治、斎藤茂吉らがこの道をたどった。
 ユネスコ世界遺産委員会から「普遍的な意義を持つ浄土思想」と評価された、西方極楽浄土の阿弥陀如来座像が、無限の光明をたたえて金色堂内陣(蓋)に在り、東日本大震災にも微動だにしなかった。
 奥州藤原三代の祖清衡(一〇五六~一一二八)が、前九年後三年の戦乱で殺害された親、妻子、戦乱の犠牲者の霊を敵、味方問わず慰め、「鎮護国家の大伽藍」としての思いを込め造営した(一一二四年)。
 中尊寺鐘楼の鐘の音は鎮魂と平和、非戦を祈願して柔らかく深い余韻とともに響く。鐘の撞座が窪むので、ほぼ一一百年経つと撞座を移していく。既に一巡したので、現在は鐘を突くのを正めている。世界文化遺産への登録に先立ち、ICOMOS(国際記念物・遺跡会議)のジャガス・ウィーラシンパ審査委員が調査に訪れた。
 「『鐘声がみちのくの地を動かす毎に、冤霊(故なくして命を奪われた人々の霊)をして浄土(寺)に導かしめん』(中尊寺供養願文)の思いをこめ、9・11ニューヨークテロ翌年の元旦に、犠牲者の鎮魂と非戦を祈念して鐘をつきました。その音色がNHKを通じてアメリカに伝えられたことを話すと、ジャガス氏は深くうなずきました」(中尊寺仏教文化研究所・佐々本邦世所長)。試みに鐘をついたジャガス氏は、もう一回、もう一回と三回鐘をついた。佐々木所長はその時「世界遺産中尊寺」を確信したという。鎮魂と非戦。中尊寺の祈願を日本と世界は、今痛切に共有している。

『日本の「原風景を読む~危機の時代に」 藤原書店


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日本の原風景を読む №45 [文化としての「環境日本学」]

コラム

 早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

温泉人の心意気
 一月二十四日は井上靖の「あすなろ忌」。地元の人々が加わる「しろばんば劇団」が二〇年間、『しろばんば』の名場面を上演し続けている。一日から四日は伊豆文学まつり。『しろばんば』の「洪作少年が歩いた道」の文学散歩を試みる。旅館白壁荘の主、宇田治良さんらの世話によるものだ。
 純白の漆喰に黒格子のなまこ壁が映える閑静な白壁荘に、井上靖はしばしば滞在し作品の構想を練った。
 宇田さんの祖母喜代さんは、近くの老舗旅館湯本館で川端康成の面倒を見た名物女将安藤かねさんの妹である。
 宇田さんと井上靖は親類で、東京在住の井上と地元とのつなぎ役を宇田さんがつとめた。白壁荘の一室「せんせいの間」に滞在した有名、無名の作家、学者、評論家たちが合わせて約三百冊もの本を書いた。お金がままならない人々に、いわば出世払いを認めた初代経営者宇田博司の配慮による。
 昭和二十八年、湯ケ島の街道筋で土産物屋を営んでいた博司が、逗留中の学者に「どうしたらお金が儲かるか」問うた。「私は金儲けのために経済学を学んでいるのではない」。経世済民を説く学者の気概に応え、博司は一室を志ある人が原を書く部屋に充て、「砂利部屋」 と名付けた。「せんせいの間」 の前身である。
 治良、倭玖子夫妻は「湯道」をたどった文人たちの足跡を、作品にちなんだ色彩で記す地図づくりを考案中だ。「たとえば『樟標』の作家梶井基次郎は黄色い線で。
 「湯道」― 美しい響きをもつ温泉への道は、井上靖の「白」の一筋を中心に、虹色に彩られるはずだ。

直感文化の粋
 三春の寺町不動山の山麓、臨済宗妙心寺派福聚寺(ふくしゅうじ)に作家、玄佑宗久さんを訪ねた。
 桜と日本人の心について聞いた。福聚寺は三春城主田村大膳大夫の菩提寺として知られている。玄佑さんは生家でもある福衆寺の第三十五世住職である。二〇一一年、政府の東日本大震災復興構想会会議の委員をつとめた。

  — 永正元年(一五〇四年)豪族の田村氏が三春城を築き、街づくりにとりかかって以来、藩主は滝桜を「御用木」と定め、枝の回り三畝(約三〇〇平方メートル、米の収穫量にして三斗二升五合に相当)の地租を免じたとのことです。桜を大切にするよう求め、最初の花が開いたら、早馬で知らせるように命じたと伝えられています。
 以後歴代の城主は神社、仏閣と藩政の拠点四八か所の館とを結び、同心円状に桜を植えたようです。ベニシダレザクラによる街づくりという壮大、華麗な計画です。
 福聚寺の境内にも滝桜の子孫とみられる五本のベニシダレザクラがあります。桜の数はいま三春が日本一です。およそ一万本。そのうち二千本がベニシダレザクラ。「種蒔き桜」というのもあります。そのサクラが咲くころ畑に作物のタネ、苗を植えます。講に加わっている人たちがこの木と決めて、何本かの桜の開花日をカレンダー上で賭けて競う、秘めたる楽しみもあります。
 動物=人間はより好ましい環境を求めて動き回ります。しかし植物=桜はこの地に生きる、この地の環境に自分を適応させて生きています。
 滝桜にしても鬱蒼とした夏の葉桜と葉を落とした冬とでは全く違う生き方をしているのです。人間は自分の体の外側に別の世代を生み出し、命を継承していきます。滝桜は体内に幾世代にもわたりファミリーを形づくる機能(不定根)を宿しています。数百年を経た老木に咲く花と、若木が初めて咲かせたみどり子のような花びらを顕微鏡でのぞいても、まったく区別がつかないそうです。
 若い衆に花を持たせて支えているお年寄りみたいな関係がみられます。
 西行も宣長も世阿弥も桜のたたずまいに託して、自らを桜と同化することによって、ものごとの本質を深く感知する直観「もののあわれ」を表現し、私たちもそこに感動を共有することができます。桜と私たちは日本の直観の文化を継承しているのです。

駒跳ねる、デコ屋敷
 三春、郡山では江戸時代が起源の「デコ屋敷」と呼ばれる民芸品の工房・売店が四軒営まれている。デコとは木彫りの人形木偶のことだ。
 名物の三春駒、張子人形と並んでダルマ、三春太鼓、ひょっとこの祝い踊り面など縁起物で賑わっている。
 橋本高宜さんはデコ屋敷「彦治民芸」の十代目築四百年の堂々たる茅葺屋根の工房で三春駒づくりの手を休めない。直線と面を組み合わせた単純明快な馬体と洗練された彩色への評価は高い。
 「民芸品への世間の関心が高かったのは昭和五十年代まででした。会津や温泉場に持っていくといくらでも売れました。客の世代が交代し、携帯電話が普及するにつれ、民芸品の人気は下火になり、デコ屋敷に撤退というわけです」。橋本さんは「庭先いっぱい赤いダルマを並べていた」当時を懐かしむ。三春駒の由来は坂上田村麻呂東征の伝説による。
 ホオノキに彫り、黒く彩色された三春駒は、江戸時代から子どもの守り神に。
 さらば老後の守りに、と橋本さんの父彦治さんは昭和二十七年から白い馬体の三春駒を制作し始めた。「若い人に伝統工芸のよさを知ってもらえたら」。デコ屋敷に陣取り、自らの作品に囲まれ、橋本さんは三春駒づくりに打ち込んでいる。

張子人形に想いを
 使い古した一枚板の工作台の向こうに、チョウナの削り跡が躍り、年を経て黒光りするヒノキの柱が。荒壁にがっしりと筋違(すじかい)が交差する。雪の重さにも地震にもしっかり耐えるつくりだ。
 雪見障子越しに年を経た一本の桜が。
 「滝桜の孫です。百歳、この家と同じくらいかな」。張子人形への絵筆を休めることなく小沢宙さんは語る。
 祖父太郎、父小太郎さんを継ぐ三春人形三代目の作家。京都の仏師について二年間仏像の型彫りを学び、帰郷。「小沢民芸」 は伝統の三春張子人形の中で、江戸時代の末期に最盛期を迎えた人型(ひとがた)人形を製作している。「江戸、元禄時代豪商に育まれ、庶民に継がれた、無限の遊び心の表現と伝えられています」。
 木型を彫り、和紙を膠で重ね合わせ、貝殻が原料の白色顔料、胡粉で素地を整え、絵の具で彩色していく。買い手は民芸品の愛好家、人形収集家、客の注文を受けての創作晶も。「もっと腕が上がってきたら、桜をモチーフにした作品を、と考えています」。
 父小太郎さんが製作した人形の表情が、娘の宙さんに似ているともっぱらの評判だ。
 「子どものころから父の人形づくりを見てきました。三春の自然のなかで、こういう暮らし方もいいだろうと感じています」。
 父と祖父の傑作人形が、工房の宙さんを見守っている。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店

 

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日本の原風景を読む №44 [文化としての「環境日本学」]

女神舞う、花の大滝 ― 三春

 早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

祈り拝げる人々
 空と大地を敢然と紅に染め、樹齢千年日本一巨大な紅枝垂れ桜(ベニシダレザクラ)、福島県三春町の「三春滝桜」が花期を迎えた。
 天空に架かる花の大滝、とてつもない花の奔流である。枝垂れる枝に三輪ずつ星形に密集、華麗の極みだ。「世の中に絶えて桜のなかりせば、春の心はのどけからまし、です」。木造二階建ての古びた町役場に、開花予想をたずねる電話が引きもきらない。そして、四月中旬の一週間余に、およそ三〇万人が滝桜を訪れる。滝桜への早朝散歩を欠かさない鈴木義孝町長だが、この季節、仕事が手につかず、業平の歌に桜守の心を託したくなるという。
 「サ」は稲など穀物の霊、「クラ」は神の座を意味する。「サクラ」とは農の神が宿る所なのだ。
 「幹に接して一の祠神明宮あり。祠の傍には更に小さなる祠あり」(大正十一年天然記念物指定時の調査讐)。この形は今も変わらない。岩手県のオシラサマと同じ棒状の人形信仰(神明様)がこの土地にも伝わり、毎年四月二十日ごろに滝桜の下で神明宮祭が催される。
 「集落の氏神が自然神への信仰と習合して、神社のような形に変化してきたのではないでしょうか」(三春町歴史民俗資料館・平田禎文副館長)。訪れる人々は陰影深い滝桜のたたずまいに神の気配を感じ、祈りを捧げると述べている。

不定根が支える千年の命
 東北新幹線郡山駅の東、阿武隈川を距てた山里、福島県三春町大字滝字桜久保が滝桜の生地である。南に開けた丘の斜面から存分に太陽を浴び、北側には安達太良山(一七六メートル)をのぞむ風避けの丘をめぐらせた万全の地形だ。
 ソメイヨシノなど栽培された桜と異なり、ベニシダレザクラは長命で知られるヒガンザクラが突然変異した野生系の種である。
 人気のソメイヨシノは百年そこそこの樹命だが、ベニシダレザクラ・滝桜は、樹齢およそ千年と推定信じがたい生命力のナゾが幹の根元の、人ひとり入れるほどの空洞(うろ)に潜んでいる。
 空洞化した主幹の内壁に沿って、家の柱ほどの太さの「不定根」が幾本ももつれ合って上方から地面に届き、がっしりと根を降ろし千年の巨木に新しい生命を与え、花の奔流を支えている。そと目には丸太の支え木なしには立っておれない老木と見せかけて、内側では幾本ものからみ合った不定根から養分を吸収し、いつ果てるともない豪勢な花の宴を演じているのだ。
 不定根は本来、根ではない。老木の幹の内側の細胞が、成長促進物質の力で分裂能力を回復し形成される、いわば根以外の器官からつくられる〝根″である。植物の不定根発生能力を生かしたのが「挿木」だ。
 滝桜は組織の一部を不定根に変化させ、平安時代から千年を超え、自らその生命を新たに支え続けているのだ。
 滝桜は大正十一年、国の天然記念物に指定された。推定樹齢千年、樹高一三・五メートル、根回り一一・三メートル、地上高一・二メートルで幹回り八・一メートル。枝は東に一一メートル、西へ一四メートル、南に一四・五メートル、北に五・五メートル張り出している。積雪と葉桜、雨の重さに備え、三〇本ほどの支柱が枝を支えている。
 四月中旬から下旬が花見時。町が高台にカメラをセットし、つぼみの膨らみ具合を刻々送信、ネットで観察できる。地元の「滝桜を守る会」が、四方に伸びた根の傍らを一メートルほど掘り下げ、毎年百俵近い堆肥を施している。
 地下の配管からは、根元に空気が送り込まれ、酸素が供給されている。

寄せ切り許さぬ心意気
 四月の三春は一万本もの桜に埋まる。うち二千本が滝桜系のベニシダレザクラだ。枝垂れの枝は横に伸び、毎年新しい枝が張りだしてくる。山あいの棚田、段々畑で、桜はしばしば農作業を妨げ、目陰をつくり、減収を招く。
 そこで樹形を主幹から南側五間、左側一〇間(一間は約一・八メートル)までに抑える「寄せ切り」が、この土地の農家のルールとされてきた。
 三春町七草木舘下の農業、渡辺茂徳さんの畑には、隣り合う神社の境内の桜から枝が伸び、日陰を作る。しかし渡辺さんは「寄せ切り」をしないよう神社に求めてきた。
 「桜は神様だから傷めないようにな」。そういう渡辺さんへ、仲間たちは枝を伸ばし放題の寺の桜が渡辺さんの畑の肥料を吸収するからと、その肥料代一五〇〇円を寄付し続けている。「養蚕が盛んだったころのマルクワという肥料一俵分の値段なんだ。もうやめなと言ってるんだけど」。
 妻のあささんも滝桜の子孫のタネを一昨年は一五〇粒、昨年は三百粒播いた。しかし遺伝子の関係でベニシダレザクラに育ったのは二本だけだった。「桜が咲くころには、いろんな人がここを訪ねて来てくれて、会うと私も元気になるんだよ」。梅の氷砂糖漬け、こんにゃく、ギンナン、あささんはすべて自家製の手料理を用意して花見の客に備える。

べニシダレザクラ、世界へ
 「三春さくらの会」前会長村田春治さんは経営する植物園に三〇年かけて、滝桜直系のベニシダレザクラ八本を育てる一方、桜の苗木を生産し、国内外へ送り続けている。
 東西ベルリンの壁の跡に、ロンドンの王立植物園へ、中央アジア・ウズベキスタンの首都タシケントの抑留日本兵の墓地、そして東日本大震災の被災地を訪れたブータンのワンチュク国王夫妻の宮殿の地へ、その美しさに魅せられた人々に乞われ、三春の滝桜は遥かな旅に出て、人々の心に感動の花の滝を架け継いでいる。

  ベニシダレのこの見事さ 美しさ 背景はあやめの空と 羊雲

 草野心平の詩碑「瀧桜」が安達太良山を望む滝桜の背後を固めている。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店


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日本の原風景を読む №43 [文化としての「環境日本学」]

作家たちの原風景-湯ケ島

    早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

しろばんばの追憶
 伊豆は温泉に浮かぶ半島である。山奥から海際まで富士火山帯から湯が噴き出し、大温泉郷を形作っている。作家井上靖や川端康成を育て、名作の舞台となった静岡県伊豆市の湯ケ島に、作家たちが愛した天城の風景を訪ねた。
 湯ケ島温泉の年末、狩野川に面した旅館「白壁荘」の植え込みに、米粒はどの白い綿毛のようなものが漂っていた。「雪虫です。きんもくせいの木を好むようで」。主の宇田治良さんの短い言葉の間に、虫は消えていた。十月から十一月に多く現れる。
 作家井上靖は軍医の父母と離れ、祖母と二人少年時代を湯ケ島で過ごした。自伝的小説は「しろばんば」と題された。
   - 夕方になると、きまって村の子どもたちは口々に〝しろばんば、しろばんば″と叫びながら、家の前の街道をあっちに走ったり、こっちに走ったりしながら、夕闇のたちこめ始めた空間を綿屑でも舞っているように浮沸している白い小さい生きものを追いかけて遊んだ。(中略)しろばんばというのは 〝白い老婆″ということなのであろう。                           (『しろばんば』前篇)
 しろばんばが浮遊している夕闇の中で、一番遅くまで一人遊んでいた洪作少年(井上自身がモデル)。「ああ、故郷の山河よ、ちちははの国の雲よ、風よ、陽よ」(「ふるさと」)。熱烈なふる里讃歌に、悲しみの影が宿る。
 「多忙な井上でしたが、しばしば湯ケ島を訪ね、少年時代の友達と酒を酌み交わし、しろばんばの同窓会を楽しんでいました」(井上靖の親類で親交があった宇田さん)。
 「魂塊飛びて、ここ美しき故里へ帰る」。井上宅跡に建つ詩碑に、望郷の思いが刻まれている。

「湯道」をたどる
 狩野川・西平橋から激流を眼下に、「湯遺(ゆみち)」と呼ばれる林間の小路が、大滝の湯(共同湯)へ向かう。里人たちが渓谷の共同浴湯へ通う路である。
  洪作少年も渓谷に湧き出している西平の湯へ毎日のように通った。
 東伊豆町文化協会会長の岡田善十郎さんによると田山花袋、北原白秋、若山牧水、宇野千代、尾崎士郎、川端康成、三好達治、林芙美子、井上靖、木下順二らが折々に湯道をたどった。猫越(ねっこ)河畔の椎の巨木の闇の空間を、一段と暗い「巨大な闇」と表現した梶井基次郎の「闇の絵巻」「寛の話」、湯道の風景を描いた田山花袋の「北伊豆紀行文」などの作品が「湯道」から直接生まれた。
 狩野川から取水した用水が湯道と並行して勢いよく流れている。「農業、消防、生活用水に今も使われています。あれが落合楼本館です」。岡田善十郎さんが指す河畔に、作家たちのサロンだった旅館落合楼が、玄関へ到る吊り橋ともども、どっしり構えている。かっての湯道の風景は今も保たれている。
 作家川端康成はしばしば落合楼を訪ね、出入りする人々を眺めて淋しさをまざらわせていたという。
  ―― 私は落合楼の庭を通り抜けて見たり、前の釣橋から二階を仰いでみたりして、秋や冬だと、私の宿ではまあ見られない都会の若い女、女に限らず男でも、廊下を歩いたり庭にたたずんだりしているのが見えると、心安らいで自分の宿に帰るのである。
                      (川端康成 「湯ケ島での思ひ出」)

川端を支えた温泉
 川端は並外れた温泉好きだった。
 「私は温泉の匂いが好きだ。以前は乗り物を捨て坂を下って宿に近づき湯の匂いを感じると涙がこぼれそうになり、宿の着物に替えると袖に鼻をつけてこの匂いを吸いこんだものだ。ここばかりでなく、いろんな温泉町のいろいろにちがった湯の匂いよ」(『伊豆の旅』、「温泉通信」)。
 川端は豊かな医家に生まれたが、父母、祖父母とあいついで死別し、十五歳で孤児に。沈みがちだった心と生来の病弱さをかかえ、第一高等学校生だった川端は大正七年、初めて伊豆を旅し、魅了される。その後約一〇年間、女将安藤かねさんの支えを得て湯ケ島温泉「湯本館」に毎年逗留し、「伊豆の踊子」(昭和二年)を世に出した。伊豆への初旅で旅芸人の一行と湯本館へ同宿、下田街道をともにたどった体験からみずみずしい作品が生まれた。
 作家たちは天城山中のさり気ない自然と人のたたずまいを、時には川の瀬音や野鳥のさえずりさえ伴って細密画風に描いた。
 伊豆を訪れ同じ目線で接する彼らの原風景に、読者である私たちも等しく共感を覚えることだろう。

女性的な温かさこそ
 伊豆の風景を愛し、伊豆に暮らした川端康成は「伊豆は海山のあらゆる風景の画廊である」と讃えた。例えば海岸線の岩壁、植物の逗しい茂みに川端は「男らしい力」を見る。対照的に「いたる所に湧き出る温泉は、女の乳の温かい豊かさを思わせる。そして女性的な温かさが、伊豆の命であろう」と記している(『伊豆の旅』)。
 さり気ない人と自然の仔まいの懐かしい風景が、伊豆ファンをとらえて離さない。例えばJR伊東線の沿線などもその現場だ。伊豆多賀、網代、宇佐美の高台から街並み越しに垣間見える海の紺色の深さ、小さく清らかな砂浜、アジ、サバの干物の香り、人影ない漁港にたゆとう小舟、懸命な釣り人たち。海を見守る恵比寿様、竜宮様の詞へ、海岸から山際にいたる路がなおしっかりと保たれ、季節ごとのお祭りも奉納されている。網代港に揚がる魚はお隣の伊豆多賀へ、見返りに野菜が伊豆多賀から網代の人々に届く。変わらぬ風景を支え、網代、宇佐美の湯は女性の乳の温かさを思わせて湧き続ける。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店



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日本の原風景を読む №42 [文化としての「環境日本学」]

縄文秋田の懐へ-乳頭温泉

 早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

地から湧く湯、地に根ざす食
 遠い昔の冬の夕暮れ、縄文時代の人々もまた田沢湖畔の、この風景の中にいたのかもしれない。駒ヶ岳(一六三七メートル)に架かる月を仰ぎみて、彼らは湖(最大深度四二三メートル)と森と山の奥に神々の気配を感じとっていたのではないだろうか。
 自然の神々は突然、無慈悲に人々を襲う。だが、普段は人々の営みに限りない恵みをもたらす。例えば駒ヶ岳の北に頂をのぞかせている乳頭山(一四七八メートル)の山麓には、秘湯中の秘湯、温泉ファンあこがれの乳頭温泉郷が湯煙に見え隠れしている。チシマザサが茂る山の急な斜面から、岩の隙間から湯が豊かに湧く。乳白色の、香り高い湯にザブリとつかるとき、私たちは「あァ~気持ちが良い」とか「生き返る」「極楽、極楽」などとつぶやいてしまう。全身で大自然と一体となり、自然の奥の神々からの大きな恵みに命の蘇りを感じとっているからであろう。
 仙北市田沢湖の郷土史家、歌人の大山文穂さんは、乳頭温泉・鶴の湯の風景を詠う。

 暗き廊下に小さき土鍋音たてて湯治の姐朝の飯炊く
 渓川の瀬音枕に五日寝て心清くなりたるごとし

 このあたりの食材もまた大地に根ざしてたくましい。もともとは駒ヶ岳の森に白生している自然芋をすりおろして作った団子を鶏肉、根曲がりタケノコ、ゼンマイ、マイクケなど山野草とともに鶏ガラのスープと醤油味で煮込んだ「山の芋鍋」がその代表格だ。「ヤマイモは腰が強くすり下ろしたままで団子になり、甘い濃厚な味が出ます。熊肉はミソ鍋にするけど、そんなに美味しいもんじゃないです。うさぎ、山鳩の方がよほどうまい」(レシピを考案した用沢湖・包和会の斎藤忠一会長)。
 春はワラビ、ゼンマイ、コゴミ、シドケ、ミズい 秋はマイクケ、ムキクケ、マックケ、ハッタケ、天然シイタケ、サワボタン。猟師がいるので家庭ではよくクマ鍋を。感心するはどうまくはない。クルミ、トチの実は餅に入れていつでも。「営林署なんかにいた人が、山専門の人になっていて、山菜、キノコ、木の実、クマ、頼めばどんなものでも山のものをちゃんと採って来てくれます。上他の人は昔から山へ入って山のものを食べてきました。今もそれが受け継がれています」。斉藤さんは縄文時代さながらの、野山での採取暮らしが今も営まれていると言う。
 毎月十二日は「ヤマノカミの祭り」が。猟師、営林署員、採石人、工務店の人々が集い、神のお払いをうけ、「直会(なおらい)」を催し神と酒食を共にする。

年に四回、桜咲く角館
 田沢湖、乳頭温泉郷は、東北文化の華・角館(かくのだて)城下町にほど近い。一六〇二年佐竹氏の領地とされた角館は、ゆったりした防火上豊により武家地、町人地、寺社に区分された藩政時代の地割りを、変えることなく現代に伝えている。
 黒塀を高く巡らせた質実剛健な構えの武家屋敷(国の重要伝統的建造物群保全地区)が連なる。どの屋敷も庭内に樅と柏の巨木とシダレサクラ(国の天然記念物)を配している。「角館のサクラは年に開聞咲きます。議、着発、紅葉、それに今どきの雪桜です。冷えこむ朝、桜の枝に積もった雪がキラキラおひさまにきらめくのです」(歴史案内人・畠山聖子さん)。
 下級武士の手内職に始まる角館の樺(かば)細工は、雪の湿気を帯びた山桜(地元では樺と呼ぶ)の樹皮の伸びが良い冬が製作の盛りだ。
 茶筒、ペンダント、カフスボタンなど「魂を込めて、どの作品にも伝統の心が乗り移るように願って作ります」(現代の名工・藤村志登麿さん)。ひっそりとした工房で、熱したコテとこカワを用い、型どりしたサワグルミの経木に山桜の樹皮を貼り付けていく。
 木材の伐採や加工に携わる角館、田沢湖の人たちは、毎月ト二日を 「ヤマノカミの口」と定め、とりわけ十二月十日には餅をついて配り、神社、お寺で厄払いを受ける。押入其食の直会は盛大な酒盛りとなる。自然に生かされている感謝をヤマノカミに捧げる。ただし山の神は荒々しく、この日は猛吹雪になるという。

秋田の風土が育てる味と人
 数々の銘酒を培ってきた秋田の酒文化は、麹と発酵の秘伝技術によって味噌、醤油の醸造産業も育てた。「冬を経ないと醤油も味噌も、きりっとした味に仕上がりません」。安藤味噌醤油醸造元の安藤恭子大女将は秋田の冬を天の恵みと讃える。十一月から桜が咲く五月始めまで、角館の町人文化を代表する蔵屋敷で味噌、醤油の仕込みが続く。大豆も、米も原料はすべて秋田産。少量生産にこだわり、直売と通販にとどめている。それが風土産業の生き方ではないか、と安藤さんは考えている。
 九月七、八、九日と町内挙げて秋祭りに熱中する。男女、親子総がかりで町内ごとにヤマ(神輿)を引き、ぶっつけ合って勢いを競い合う。〝喧嘩ヤマ″なので時にはかつぎ手が命を落とす。
 「郷土愛が強いのです。ヤマを引くため私の息予は町に戻り、家業を継ぎました。今二十七歳の孫もやがてそうするはずです」。自らもきかん気のヤマ戦士だったという安藤さん。本物の秋田美人を見るなら角館のヤマ祭りへ、とすすめる。
 「娘さん、お母さん、どの家からもすごい美人たちが、キリっとした祭りの装いを凝らして集まってきますから」。
 発酵熱のため半裸になって作業をするので、女人禁制とされた東京農大醸造学科卒の女性第一号安藤さんが「取締役・大女将」を名乗るゆえんである。文武の物語を秘め、角館の冬は深まっていく。

【日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店


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日本の原風景を読む №41 [文化としての「環境日本学」]

コラム

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

「ええ、ぼちゃだ」
 十日町の松代ではお風呂のことを「ぼちゃ」と呼ぶ。「ええ、ぼちゃだ」。
 芝峠の温泉「雲海」の露天風呂からは、三六〇度折り重なる山並みが雲海に沈み、たゆとう風景が洋々と拡がる。近くに蓬平’よもぎっだいら)、仙納、菅刈(すがかり)など棚田の名所が散在し、温泉浴と組み合わせた「棚田ツァー」が人気を呼んでいる。
 南側に隣り合う松之山には有馬温泉、草津温泉とともに三大薬湯とその効果が讃えられる名湯、松之山温泉が七百年の歴史を秘めて、いまだ動力に頼らず自噴し続けている。
 お湯の〝味わい″は真夏の海水浴のしょっぱさと変わらない。かって海であったところが地殻の変動で閉じ込められ、海水が温泉となって湧き出している。PH9の強アルカリ泉で湯ざめせず、肌はツルツルに。薬湯として知られるゆえんだ。
 新潟は有数の酒どころ。十日町にもすっきりした辛目の地酒がひしめいている。
 温泉と酒。敗戦後の混乱期に、太宰治と並び文学ファンの人気を二分した、新潟出身の無類の酒好きにして、無頼派作家、坂口安吾の遺品などを収蔵する「大棟山美術博物館」が、松之山にある。七百年の歴史を重ねた村山家三十一代の当主が、叔父安吾の思い出の品々を公開している。安吾は学生時代から松之山をしばしば訪れていた。
 今では〝絶滅種〟となった「酒豪、無頼派」の面影を、「温泉と酒」に浸ってしのぶのも一興であろう。

信州人情物語
 民宿「信濃百年」。IT技術者から転じた高橋俊三・文子夫妻が自ら汗を流し、長い時間をかけて古い農家をゆったりした囲炉裏と広い土間を持つ原型通りに修復した。映画『阿弥陀堂だより』のロケで寺尾聴、樋口可南子夫妻の住居になった。
 1R飯山線に架かる橋の向こうに、独り住む八十五歳の婦人をそれとなく見守る高橋夫妻。時おり民宿から届くご馳走に老婦人は感謝の返歌を和紙に記し、信濃百年のあがりかまちに季節の花を添えて置いていく。
  脱サラや 都忘れの 花の里
  やさしさの 味に煮えてる 煮大根
 飯山線の一時間に一本一両、時には二両編成の電車が、信濃百年と隣り合う掘り込み式の路床を走りぬける。田んぼと森の絶景を縫う電車に宿の客が手を振る。電車は時に汽笛を鳴らして挨拶を返す。
 客が訪れない開業の初期、照岡の集落の人々は、いろいろな口実を作って信濃百年に集い、支えた。汽笛は信濃百年を囲む営みを讃えるかのように、人々の心をつなぎ、揺さぶり続ける。

猿飛佐助はアウトサイダー
 lR上田駅前広場。真田家の家紋六文銭の臓が風に鳴り、甲再に身を固めた騎馬武者、真田幸村(信繁)が突進する。大坂夏の陣で宰相が討死して四〇二年NHKテレビ大河ドラマ『真田丸』が放映された。真田氏の居城上田城は関ケ原に向かう徳川秀忠の大軍を再度阻止した名城である。
 郷土史の研究家で上田養蚕業の創始者一族の子孫、益子輝之さんは「真田丸」現象について語る。
 「忍者猿飛佐助で少年の血を騒がせた立川文庫が原点です。アウトサイダーの物語ですね。忍者にしても、下克上の三好青海入道にしても、アウトサイダー。立川文庫が評判になったのは日本で中央集権が極度に進んだ時期です。ものごとがどんどん画一化され、中央集権化されていく世相への反発みたいなものが、どこかに流れていたのではないでしょうか。上田には昔からアウトサイダー気質がある。独立自尊、権威に支配されるのを嫌がる。真田幸村とは滅びの美学です」。戦国時代、地勢上武将たちが覇権めざして行き交ったこの土地で、郷土愛に支えられ民衆の自治意識が培われた、というのである。
 「わが社の蚕糸工場用地も益子さんのご先祖が当初から無償で提供してくれました。ご本人はお茶、お花、踊りを東京で修め、勘亭流の書家、出世欲なしの市役所観光課元職員。城主松平家に由来するといわれる風流上田人の典型です」(笠原一洋・笠原工業会長)。
 益子さんのひょうひょうとした生き方に、反骨の風流上田人の面影をみている。
 益子さんは地芝居「上田真田歌舞伎」の型を指導し、自ら出演し、名女形故市川鏡十郎仕込の型を伝える。「地芝居の伝統を絶やしたくない。地方が中央に太刀打ちできる唯一のものが風情ですから」。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店


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日本の原風景を読む №40 [文化としての「環境日本学」]

風と水を映す信州の原風景―上田

   早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

繭倉は語る
 長野県人はことあるごとに、時にはまわりからひやかされながら、県歌「信濃の国」(浅井例作詞、明治三十二年)を歌いたがる。
 上田市の風景も登場する。「蚕飼(こがい)の業(わざ)の打ちひらけ細きよすがも軽からぬ国の命を繋ぐなり」。駅正面出入り口の内壁に趣のある「蚕神像」(繭の女神)が架かっている。
 駅前の蚕影(こえい)町通り、繭倉(まゆぐら)から、真田丸の六文銭旗がはためく上田城、さらに歩を進め千曲川・岩鼻を経て、、臨川平へ。到るところで信濃路の原風景との出会いが待っている。
 上田のシンボル「繭蔵」は、漆喰白壁の瀟洒な木造五階建て、国指定の重要文化財だ。一九〇丘(明治三十八)年に建造された繭倉の三代目当主、笠原一洋笠原工業社長が自ら案内の先頭に立つ。
 「自然の息づかいをとらえる日本人の知恵と繊細な技が、一枚の床板、窓枠に到るまで刻まれています。年間降雨量九〇〇ミリ、乾燥し、陽光があふれる土地で、環境に敏感な蚕の生理にどのように対したか。蚕棚のしつらえ方から空気と光の流れへの工夫まで、先人たちの自然との共生の思想、いのちへの接し方、感性に共感を深めずにはおれません」。敷地内の常田館製糸場や煙突を含む一五棟が、通産省から近代化産業遺産に認定されている。
 上田の養蚕業は今も健在だ。繭倉から旧北国街道をたどり、こちらも近代化産業遺産の上田蚕種(株)へ。毎年三千箱の蚕種を全国七百戸の養蚕農家と研究機関に出荷している。
 隣接の上田東高校の前身は、明治二十五年に創設された小県蚕業学校。校門脇に土井晩翠作詩の校歌碑が。「国の富増し 世を利する わが蚕業の貴きを あけくれ常に胸にして 青春の子ら励み合う」。
 丈夫で着やすく、落ち着いた色柄が特色の上田紬織もしっかりと伝えられ、市内の四工房で着物、洋服地から帽子、マフラーなどを製造、販売している。小岩井紬工房の小岩井良馬さんは、江戸時代からの養蚕農家を経て手織り業三代目。「東日本大震災の衝撃で世間の風向きが本物志向に変わりました。原点にたちかえり、上田の蚕産業を立て直したい」。

強風繭を救う
 桑の葉に幼虫を寄生させるウジバ工が発生、世界各地の養蚕業が衰退していった当時、上田では一四五軒もの養蚕農家が展開していた。街の北郊、千曲川に突出する巨大な断崖「岩鼻」がこの危機を防いだ。下流から吹き寄せる強風が、岩鼻によって向きを変え、桑畑に吹き込んで虫を吹き払っていたのだ。
 「道と川の駅おとぎの里」公園から、自然界のこの壮大な営みを間近にすることができる。
 岩鼻に隣り合う塩田平は名湯別所温泉、国宝の八角三重塔や厄除け観音で知られる安楽寺、北向き観音堂などを擁する仏教文化の先駆地だ。加えて、秘められた文化財、稲と水の苦闘の歴史を伝える「塩田平ため池群」を訪ねたい。

心惹かれる塩田平、ため池郡
 一〇アール七二〇キロの収穫量は稲作日本一の水準だ。「乾燥地に先人が築いた溜め池あればこそです。一四〇の登録池を含め、三百池ぐらいが今も利用されています。どの溜め池にも神が住み、住民総出で毎年九月に雨乞い祈願の火祭りが奉納されます」(七〇ヘクタールを耕作する小林好雄さん)。
 森や祠、古い民家に囲まれた溜め池は、5メートルほどの落差で田んぼに連なる。五〇メートルプール大から湖クラスまで、ゆったりと貯えられた水面に心がなごむ。
 「最近コウノトリが溜め池に飛来するようになりました。生餌の宝庫ですから。おそらく兵庫県の姉妹都市・豊岡町からやってきたのでしょう」。溜め池を管理する田中栄二さんは力を込めて溜め池の生物多様性を語る。コウノトリは上田城のヒーロー、武将真田幸村にちなみ「ゆきちゃん」と呼ばれている。「溜め池が連なる野の花々の道へ、どうぞ」。環境省登録環境カウンセラー川上美保子さんのおすすめだ。
 地形と気候に人間がはたらきかけ、風景のおおもとが築かれる。風景の仕上げが文化。場所(トポス)と住民精神のかかわりの表現だ。「信州の学海」とたたえられた塩田平、国宝八角三重塔を擁する安楽寺の若林泰英住職に塩田平・上田人気質をたずねた。「これだ、と皆が結束する時、この土地の人々の力は凄い。死ねばもろとも。日照りに追いつめられると寺の地蔵さんを川に投げ込み、竜神様の池をわざと汚して神仏を怒らせ『天罰の豪雨』到来を願います。お隣は百姓一揆が日本一多発した青木村ですから」。若林住職は途上国支援の先陣を切って、タイのバンコク貧民街などで活動してきた曹洞宗のシャンティ国際ボランティア会の会長をつとめている。上田鉄道沿線の田には「途上国援助田」 の旗が翻っている。
 凧と水と人が作りあげた陰影深い環境の風景を、のびやかな上田盆地のどこからでも、
一望に収めることができる。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店

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日本の原風景を読む №39 [文化としての「環境日本学」]

人と環境が織り成す懐かしい風景-飯山

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

自然と歴史がともに築いてきた景色

 奥信濃・飯山、寺の町の風景は、自然のたたずまい、人の営み、文化の伝統が一つになって、本物の「環境」とは何か、を一瞬にして気づかせてくれる。
 飯山は「環境の原風景」を今に伝える懐かしい街である。千曲川に沿い河岸段丘を走るJR飯山線の車窓に、黄金色に波打つ棚田が迫る。柳やヤチダモの河畔林を深々とまとい、紅のリンゴ林を点綴させる表情豊かな風景は、小諸へ到らずとも島崎藤村のみずみずしい「千曲川旅情の歌」の風景を思わせる。
 歌い継がれてきた唱歌「朧月夜」の生誕の地「菜の花の丘」に立とう。
 水面を光らす眼下の千曲川を経て、南から北へ飯縄(一九一七メートル)、戸隠(一九一一メートル)、黒姫(二〇五三メートル)、妙高(二四望ハメートル)が雄大な稜線を連ねる。神と仏の教えを合わせて日本文化の源流を培ってきた修験道の本場である。
 歴史と信仰の伝統は、日本を代表する仏壇産業を飯山にもたらした。名うての豪雪に抗して築かれた愛宕町雁木通りには、豪勢な構えの仏壊・仏具店が連なる。木地師、蒔絵師、金具師、宮殿師、彫刻師が創造してきた日本文化の華である。百年を経て古びても、飯山仏壇は部品ごとに分解し、洗浄され、装いを新たにすることができる。仏壇通りを挟んで丘の麓には島崎藤村の『破戒』の舞台「蓮華寺」のモデル真宗寺や、飯山城主の菩提寺で、川中島合戦のヒーロー、槍の名人、鬼小島が眠る英岩寺などの名刺が連なる。
 「菜の花の丘」の背後間近から、福島新田の棚田が稲穂の黄金色の雪崩となって迫る。
 急斜面を大人の背丈ほどの高さにきっちりと刻み、石積みされた棚田は、凡帳面で郷土愛の強い長野県民気質のあらわれと言われる。桐の花が咲く五月、地元東小学校の児童は総田で棚田に苗を植える。

『阿弥陀堂だより』が求めた飯山

 棚田接する万仏山(一二七二メートル〕の山腹に、古びた藁葺き小屋が。映画『阿弥陀堂だより』で北林谷栄さんが演じる、仏と神と人間とを結ぶおうめ婆さんの住み家となった。都会暮らしで傷つき、疲れた人の心の回復の物語にふさわしいロケ地を探しあぐねていた小泉尭史監督は、福島新田を訪れその風景に触れ即断したと伝えられる。
 「信州の山奥は奥が深い、どこまで行っても律儀な信州人の跡が存在し、それがまた、ただの自然そのものよりも人の心に訴える懐かしい風景として目に映るのである。誰もが無意識のうちに持っている人間としての基本的な暮らし方の理想。そういったものが信州の田舎には色濃く保存されている」 (『阿弥陀堂だより』の原作者南木佳士)。
 阿弥陀堂の縁側から「環境の原風景地」飯山の遠景、中最、近景が一望できる。
 それは森と水の「自然環境」に支えられた暮らしが培う確かな「人間環境」、自然・人間環境の上に築かれ現代に伝えられ、息づく「文化環境」に他ならない。
 菜の花畠に 入日薄れ
 見わたす山の端 霞ふかし
 春風そよふく 空を見れば
 夕月かかりて におい淡し
 
 里わの火影(ほかげ)も 森の色も
 田中の小路を たどる人も
 蛙(かわず)のなくねも かねの音も
 さながら霞める 鹿月夜  (高野辰之 「臓月夜」)
 飯山の風景を訪ね歩くとき、心は深く憩い、懐かしさがこみあげてくる。

心を清める正受庵とブナ林

 飯山市民の心の背骨は正受庵(しょうじゅあん)・慧端禅師、市民の暮らしを支える水の源は、鍋倉山(一二八八メートル)の一帯四〇〇ヘクタールをおおうブナの天然林だ。
 正受庵は三三〇年の昔、松代藩主真田信之の子で、藩きっての剣の使い手であった慧端禅師の禅室である。飯山城主が寺領と大寺建立を申し出たおりに、慧端禅師は「出家は三衣一鉢あれば足りる。他は一切無用」と断り、一個の水石と一本の棟の木を求めた。正受庵の軒の下には水石が、庭先には礫の木が禅師の志を伝え、今も凛としてたたずむ。
 臨済宗中興の祖白隠はその弟子である。正受庵は明治政府の廃仏毀釈令により、明治七年廃寺となった。しかし幕末・明治の政治家で剣の使い手として知られた山岡鉄舟が正受庵復興を試み、「正受庵復興願文」で全国に呼びかけ、臨済宗が今日の形に復興した。
 「ブナ山に水筒いらず」のたとえどおり、広大なブナ林は飯山市民のいのちを支える緑のダムである。芽吹きの五月から紅葉の十一月まで森歩きを楽しめる。森の癒しを体験できる「森林浴」の効果あり、と日本で最初の「森林セラピー基地」に林野庁から認定されている。

『日本の「原風景」を読む』 藤原書店


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日本の原風景を読む №38 [文化としての「環境日本学」]

5 里山―懐かしい里山を訪ねる 2
 
   早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

棚田に刻まれた先人の営み

 田中 棚田一枚の形は、三角であったり丸であったりで機械を使えず、手作業が多くなります。その上、強湿田なのでコメ以外の作物を作るのがむずかしいです。棚田からはヤジリや住居跡が見つかります。大昔からこの土地に人々が住んでいたのです、私はここで生まれ、育ちました。小学生のころからコンバインを動かしたりして、やっぱり一生ここで仕事をするのがいいかな、と子どものころから思っていました。

 田中さんは高校から農業大学校を絶て、八年前に就農した。五ヘクタールの田を耕すが、そのうち四ヘクタールは五〇か所に散在する借地や作業委託地である。

 田中 棚田も農政に散々振り回されてきました。減反、転作、条件不利地への直接支払い。 しかし補助のやり方が散漫です。やる気のある者に集中して、農業機械など資本の整備をしっかりさせる。そうすれば棚田は担い手のもとに集まり、保たれていくでしょう。

 JA十日町は「安全、安心の米作り」のため〃土の診断〟を徹底させ、化学合成農薬、肥料の使用量を今までの基準から三〇パーセント減らす運動を進めている。刈り取った稲の茎と葉はその場で細かく砕かれ、有機肥料としてすき込まれていく。
 蛍やアキアカネ(トンボ)が舞い、ヤゴ、メダカが泳ぐ松代・松之山の棚田産コシヒカリは「棚田ロマン」、他の十日町産の高品質・高食味米は「魚沼ロマン」のブランドで日本一の高価格で取引されてきた。
 NHK大河ドラマ『天地人』の導入シーンに登場した星峠の棚田を始め、儀明(ぎみょう)、仙納、蒲生、狐塚、犬伏など松代、松之山の山あいには、訪れる者を惹きつけてやまない里山の原風景である棚田が連なる。
 なぜ人々は棚田に思いを寄せるのだろうか。
 人と自然の営みによって築かれてきた棚田の風景に、先祖の暮らしにつながる懐かしさ、心を奮い立たせる先人の努力の成果を読み取り、共感を覚えるからではないだろうか。
一五回目の「全国棚田(千枚田)サミット」が温泉郷でもある十日町で開かれた。迎えた地元からの言葉は「雪の雫が育ててくれた棚田。湯(ユー)、米(マイ)、心(ハート)のある十日町で待ってるすけの~」だった。

畦畔が描く棚田の美しさ

 畦畔(けいはん)。あぜ、くろとも呼ばれる。田んぼを区切る境目の土盛りのことだ。石積みも多く、日本中の総延長を合わせると万里の長城に等しいと言われる。繁茂する草を刈り払い、手入れされたすっきりと弧を描く畦畔があってこそ棚田は美しい。
 JAなどによる「魚沼米憲章」は「農道や畦畔は、草刈りを基本とすること」と定めている。除草剤など農薬を使わないように、との生産者の申し合わせである。
 稲への影響もさることながら、畦畔に生息する多様な生物への配慮からである。
 農政は米の生産農家に対する助成に、農業の持つこのような自然、環境保護の働きへの評価額を含めている。そのためには田んぼによる環境保護への貢献を金銭に換算することが求められる。
 民間の稲作研究所の稲葉光園理事長は、水田二〇アールの畦畔管理費を、年に五回の草刈りの労賃と燃料、機械の償却費とを合わせ一万円と見積もっている。
 安全な畦畔をたどり、田んぼが培う生物の豊かさを学び、冬も水を落とさない堪水によって、田んぼに住み、餌をとる水生生物や渡り鳥の生態を観察する。パネルや解説板を多用して田んぼと背後の森からなる生態系を学ぶ。このような棚田の風景は、〝効率と安さ〟 にふりまわされてきた生産や消費のあり方を、自然と人の共生から考え直し、私たちと動植物のいのちのつながりを学び、実践する教室になるはずだ。
 それは私たち-一人一人が秘めている内なる自然が、大自然の息吹き、生命の潮流に合流していることを実感し、のびやかに生きる力と知恵とを得る機会になるであろう。

温泉と雪が育てるカサブランカ

 信濃川のほとりから河岸段丘を山側へ。広々とした段丘の平地には人参、アスパラガス、中玉トマトの畑が広がる。冬から春にかけて栽培される青菜「城之古菜」の栽培も盛んである。
 冷涼な山あいでは純白の大輪ユリ、カサブランカが、さらに標高が高くなるとシャクナゲやオミナエシなど宿根草が作られ、きのこ、なかでもエノキ茸の栽培が盛んである。魚沼産コシヒカリ、エノキ茸、カサブランカは共通する白い色から「スリーホワイト」と呼ばれ、十日町の特産品とされている。
 人気のカサブランカを施設で栽培している根津一男さんを、標高三〇〇メートルの中里に訪ねた。初冬だというのに人の背丈に迫ろうというカサブランカが、大きなツボミをたくさんつけて勢いよく直立している。
 -三〇年ほど前にスカシユリの球根づくりを始めました。だが農産物の自由化で、オランダ産の球根に市場を奪われました。そこでオランダから小さい球根を安く輸入して、一年かけて大きく養成し、二年目にこうやって切り花にします。輸入ー作球と称していますが、国産に近いですよ。コシヒカリと同じで、ユリの花も、標高差があって、昼と夜の気温差が大きいほうが強く育ち、色が鮮やかになります。
 ハウスには近くの温泉からお湯を引いて暖房している。日本三薬湯の名湯、松之山温泉に近い土地柄ならではのエコ暖房である。
 JA十日町の構内にあるカサブランカの出荷作業場は、三月の彼岸に室内のおよそ二万の!を天
井まで雪で固め、九月いっぱい雪の冷熱で作業し、花の鮮度を見事に保っている。十二月中旬から四月中旬まで、平均積雪約二・五メートルの根雪となる自然条件を生かした、こちらはエコ冷房である。
 窓辺を飾るカサブランカに秘められた「温泉と雪」の恩恵。十日町ならではの、自然に連なって生きる暮らしの知恵を感じさせる。

『日本の「原風景」を読む』 藤原書店


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日本の原風景を読む №37 [文化としての「環境日本学」]

5 里山―懐かしい里山を訪ねる 1

   早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

 以前にどこかで見かけた風景を、今再び眼前にしているような「既視感」を私たちはしばしば覚える。旅路の風景に見る既視感は、その風景が各地に散在している類似の風景によってもたらされることが少なくない。日本人によって共有されている原風景ともいえよう。
 四季の車窓に映える稲田の彩り、穏やかな集落のたたずまいなどはその「既視感」をもたらす風景の例であろう。
 どこにでもありそうで「そこ」にしかない風景への共感は、親しさと懐かしさによるところが大きい。「ふる里」や「浜辺の歌」を愛唱する人々の心の風景を、私たちは共有しているのだ。
 私たちは風景に「風土」を視ている。
 風土とは気候と地形に人が働きかけて作り成した物理的な景観を基に、そこで培われた無形の文化の営みを重ね合わせて表現される。風土は人々が自己の独自性(アイデンティティ)を確認する場ともなる。アメリカの若者たちが休暇に大挙してヨーロッパを旅する現象は、そのルーツを訪ねる姿でもある。
 飯山、三春、上田、秋田角館、伊豆湯ケ島、新潟十日町の風景の、その地域独自の、しかし訪問者にも親しさと懐かしさをもたらす「風土」が明快に表現されている場所を紹介する。
 飯山は山岳信仰、修験道の道場となった飯縄、戸隠、黒姫、妙高の稜線のつらなりを遥かに望み、街中を千曲川が流れる。市の水源は山腹の深いブナの森に発する。木の根元は、冬の積雪の重さでくの字に曲がっている。
 山岳を遠景、ブナ森を中継、千曲川を謹啓とするのびやかで、均衡のとれた風景は、見る者を永遠なものへの思考にいざなう。奥羽縄文の里、田沢湖の夕景もまた、遠望する雪の乳頭山とあいまって、いにしえの人々の暮らしへの想像を刺激する。
 三春と角館は桜、上田は城、伊豆湯ケ島は名湯、十日町は棚田で名高い。自然と人間の秘められた物語に私たちは共感を覚える。そこで培われ、表現されている独自の文化(暮らしの流儀)が、訪れる人々の心にひびき、共感を分かち合えるからであろう。
 これらの土地には自然・人間・文化の環境の三要素が本来の姿で保たれ、懐かしさと深い安らぎ感をもたらしている。ふる里の原風景といえようか。

棚田に刻まれた先人の営み-十日町 1

魚沼産コシヒカリの里
 有数の豪雪の地、新潟県十日町(人口約六一〇〇人)は名高い「魚沼産コシヒカリ」の主産地である。信濃川に沿い山あいを縫うJR飯山線が、雄大な河岸段丘に達するところに十日町の街並みが広がる。信濃川の流れによって刻まれた段丘での農耕は、等高線にそって田畑を区画する「棚田」で営まれてきた。標高が高くなるにつれて地形は急峻、複雑になり、棚田は様々な形を描く。十日町・魚沼産コシヒカリの多くは、このような山腹に刻まれた棚田で作られる。昼と夜の気温差が大きくリン酸、ケイ酸を多く含む土壌が、イネの成熟度を高める。
 積み上げられてきた品種改良、栽培技術向上への努力、そして消費者から日本一の食味と評価され高値のつくことが、この地に産する「棚田ロマン」米の作り手の意欲を支えてきたといえよう。しかし棚田でのおいしいコメ作りは、担い手の不足と高齢化、農作業の困難さから、今までのやり方では作り続けることがむずかしくなりつつある。
 河岸段丘を登りつめ、分水嶺を越えて山地に深く分け入った松代、松之山では、農地はすべて棚田である。ひと冬の降雪量が二一メートル八九センチを記録したこともある日本一の豪雪の地、東頸城(くびき)丘陵を間近に望む松之山に、稲作農家の田中麿さんを「グリーンハウス里美」に訪ねた。新潟県初のグリーンツーリズムの農業体験宿舎である。米国人を交えた、家族連れの宿泊客で賑わっていた。

[日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店


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日本の原風景を読む №36 [文化としての「環境日本学」]

4 野鳥一文化としての野鳥 4

    早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛


アイヌの神、シマフクロウへの共感―根釧原野

 銀の滴ふるふるまわりに
 金の滴ふるふるまわりに
 という歌を歌いながら
 川に沿って下り
 人間の村を見下ろすと…・
(知里幸恵『アイヌ神謡集』 「フクロウの神が自ら歌ったユカラ」)

 世界一透明な湖、北海道摩周湖からの伏流水が西別川・シュワンベツ水源地に噴き出してくる。一九九三年秋新月の夜、一対の巨大な鳥影が養魚場に舞い降りた。
 「ボー、ボー」「ウー」。闇を圧してとどろく雌雄の鳴き交わし。養魚場を見張る男たちに緊張が走った。
 アイヌ集落の最高神コタン・コロ・カムイ(集落の守り神)。翼を広げると一・八メートルに達する大型の魚食性フクロウである。河川や湖沼周辺の森林に生息し、広葉樹の木に営巣。両生類、ほ乳類、鳥類を捕食する。北海道の広い範囲に分布していたが、現在は東部の日高山脈、知床半島、根釧台地に合わせて約一六五羽程度が生息している。一九七二年、シマフクロウは「絶滅危慎1A類」に指定された。

立ち上がった開拓農民の子孫たち

 標茶町で生まれ育った開拓農民の子孫たちは、シマフクロウの出現に驚きながらも、「何故養魚場の附近に住み着いたのか」に思いをめぐらせた。河川改修や砂防ダムによって、ヤマメやオショロコマなどの小魚が上流部に遡上できなくなっていた。餌を奪われたシマフクロウにとって、養魚場は最後の生命線だったのだ。彼らは「いのちのゆりかご」も奪われていた。巨木にできた「うろ」を利用して巣をつくる彼らにとって、牧草地をひろげるための森林伐採が、種の命脈を危くしていたのだ。
 「神様を救わねば……」。男たちはそう直感した。
 牛乳と鮭の日本一の大生産地、根釧台地とオホーツク海をつなぐ西別川の河畔に暮らす人々が手をつないだ。  「人々」とは、作家開高健が『ロビンソンの末裔』で描いた、不毛の大地で苦闘の歴史をたどった開拓民の末裔たちである。酪農家と漁業者をはじめ住民たち七五人は、一九九四年「虹別コロカムイの会」をつくり、「シマフクロウ百年の森づくり」に着手した。
  ―アイヌ民族は、シマフクロウを「国または村を持つ神」(kotan koro kamuiコタンコロカムイ)として大変尊敬してきた。その立派な風格とものごとをすべて見通してしまうような眼差しは、まさに神としてふさわしいものを持っている。
 私たちはシマフクロウの置かれている現状を憂慮し、少しでもシマフクロウが生存しやすい環境づくりのために、あらゆる努力を払う所存である。(虹別コロカムイの会、設立の趣旨)
 標茶町立虹別中学校は、毎年五月に行われる植樹祭での苗木植樹作業を正規の授業と定めている。漁民、酪農家、二股町民、遠来の支援者など二百人以上が、西別川沿いに拓いた植林地で、鋭い刃がついた島田グワを振って笹の根を切り拓き、森林組合員の手ほどきを受けて享本の広葉樹の苗木を植え付ける。この二四年間で西別川の両岸帖五〇メートルから二U〇メートルに約八万本の広葉樹の苗を植え、手入れをする一方、残っている巨木に巣箱を架け続けている。北海道に一六五羽しか生息していないシマフクロウの、実に三六羽がコロカムイの会員たちの手で巣立った。
 酪農家も川沿いの牧草地を植樹場所に提供、植樹したミズナラやバンノキが、今では三メートルを超す高さに生い茂っている。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店



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日本の原風景を読む №35 [文化としての「環境日本学」]

4 野鳥一文化としての野鳥 3

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

越冬の雁、支える稲田-大崎耕土

 雁に托された想い
 その瞬間、沼がしなう。仙北平野の北、宮城県大崎市田尻の蕪栗沼(かぶくりぬま)。日の出を待って三万羽を超すマガン(雁)が一斉に飛びたつ。ドドドドーツ。大地は鳴動し沼畔のヨシの原ともども、一五〇ヘクタールの沼全体が翼の風圧に激しくしなうかのようだ。
 キャハハーン。すさまじい音量で鳴きかわし、仲間同上確かめ合うと、Ⅴ字型の雁行や直線の竿型に隊形を組み、地平線まで連なる田んぼへ索餌に向かう。
 落ちモミや田の草で胃を満たし、日の入りとともに仲間ごとに編隊を組み、四方八方から高く低く、ゴゴーッと大群が風切音とともに沼へ戻ってくる。平均体重二・五キロ、広げれば一・八メートルもの翼をたたみ、一羽ずつほとんど垂直に水面へ落下していく。
 歌川広重が描いた「落雁」の景だ。かっては東京上野の不忍池や芝高輪が落雁の名所だった。森鴎外は短編「雁」で、近代化の命運を暗示するかのように、医学生による不忍池での雁殺しの場面を描いた。東京上野の国立博物館に所蔵されている遮光器土偶は、蕪栗沼の近くから発掘された。縄文の昔、先人たちもまたこの光景を眺めていたのだろう。
 防寒服でふくれあがった愛鳥家たちが、いまも朝に夕に躍動する瞬間を見守る。
 「鳥そのものを見に来るというより、日本人の心の風景を求めて、皆さんここへやってくるのではないでしょうか」(雁の里親友の会・池内俊雄事務局長)。
 およそ雁ほど人間の思いを托された野鳥は稀だ。秋の彼岸、遥か北の空から現れ、春の彼岸にシベリアを目指して天涯に去っていく。先人は雁の渡りを、去来する故人の魂の記憶と重ね合わせた。仏教の経典、報恩経には雁の王が仏陀その人として、従う五百羽の群れは、悟りをひらいた修行僧の集団(羅漢)として登場する。
 「京都二条城老中の間の襖絵は、雁とヨシの生えた水面で構成された葦雁図です。ひっそりと暮らす雁に、名誉や金銭など執着心を放下した清明な心境を託したのでしょう」(池内さん)。
 宮本武蔵の遺品「葦雁図」には剣豪らしい緊迫した空気がみなぎる。ツバメと雁が春秋に入れ替わり飛来する様子は「燕雁代飛」と表現され、永遠に巡り合うことのない二人の運命にたとえられる。雁首、鴈爪、椎皮紙、雁金、落雁、雁木造、がんもどき。すべて雁にちなんだ言葉である。

 鴈とともに生きる人々
 釜石市の北上川河口から四〇キロ、標高わずかに三メートルの沼と周辺の湿地帯は縄文、弥生の時代から伊達藩政を経て明治、昭和に到る間、洪水との戦いに明け暮れた。長大な堤防を築いて河道を変え、水田を拓いた伊達政宗、大規模排永機場を設け、動力で水を干しあげた近代日本。富国強兵から高度成長経済へ、国策は変わっても一買して新しい水田の開拓に力がそそがれてきた。東日本一の米どころ大崎耕土(二万五〇〇〇ヘクタール)は、いまはコンバインにはじかれる未成熟米の大量の落ちモミと田のあぜの草とで日本一の雁の群れを養っている。
 北東ロシア・チュコト半島で繁殖したマガンは、カムチャッカ半島を経由した後、北海遺の石狩川流域まで約一〇〇〇キロを一直線に飛び、平均時速一〇〇キロ、およそ一〇時間で到達する。
 蕪栗沼と周辺の田んぼは二〇〇五年、水鳥の生息地を保護するラムサール条約の指定湿地に登録された。沼と田が保護地として併記されたのは世界ではじめてだ。
 水田と丘陵地が接する一帯は、渡り鳥の生息湿地を守るためラムサール条約に登録された伊豆沼・内沼(五五九ヘクタール)、蕪栗沼・水田(四二三ヘクタール)、仙女沼(三四ヘクタール)を擁し、「ラムサールトライアングル」と呼ばれている。
 雁は長らく稲を食べる害鳥祝されてきた。しかしコメの生産過剰から減反、そして環境保全型曲膳業へ、時代を経て農民、行政と自然保護グループが互いに理解を深めていく。例えば蕪栗グリーンファームの斎藤肇さんは、冬の田んぼに水を張る「ふゆみずたんば」農法で米を栽培している。雁や白鳥が降り立ち、その排泄物でイトミミズが増殖し、雑草が生えにくい除草剤不要の田に変わる。食害の補償、沼に隣り合う湿田の買い取り、沼へ戻す策などによって、豊葦原端穂の国の原型が、蕪栗沼と水田地帯によって保たれることになった。雁に寄せる人々の思いがその原動力になった。
 「これこそ日本の文化、多様な生物と共生する水田農業の努力する実践例です。渡り鳥の王者雁にお墨付きをいただいた大崎耕土のコメ、味わい深い食の文化は市民の誇りです」(伊藤康志大崎市長)。
 大崎地域一市四町は二〇一八年、国連食糧農業機関(FAO)から「世界農業遺産」に選ばれた。社会や環境に適応しながら何世代にもわたって形作られてきた伝統的な農業と農業上の土地利用や景観、農の文化、生物多様性などが一体となった世界的に重要な農業システムとして評価された。
 洪水や冬の北西風から家屋敷を守る、屋敷林「居久根(いくね)」の散居集落の景色も高い評価を受けた。多様な樹種で構成され、水田の中に浮かぶ森のように点在する居久根は、水田地帯に張り巡らされた水路と共に、多様性のある土地利用と独特な景観(ランドスケープ)を生み出した。
 この景観は、多くの動植物が生息できる環境も提供し、大崎耕土の湿地生態系の保全に貢献している。
 さまざまに雁と係わる市民グループの充実ぶりには目を見張らされる。
 「この素晴らしい鳥たちが将来にわたり、安心して人間と共に暮らすことができるように」(日本雁を保護する会・呉地正行さん)。
 「厳しい自然の中で家族が助け合っている姿を見ることで人の世の思いやり、情愛を思い出してください」(蕪栗ぬまっこくらぶ・戸島澗さん)。
 「田んぼの生産性と生物多様性をどう共生させていくか。その答えは人間が自然とどう付き合っていくかにつながります」(田んぼ・岩渕成紀さん)。
 呉地さんは物理学、戸島さんは原子核物理学、岩渕さんは教育学、雁の里親友の会の池内俊雄さんは古典文学のそれぞれ専門家だ。
 「西行や定家を原点に、日本人の季節観と死生観を研究していて桜と雁に行き着き、雁をその対象に選びました」。
 雁の文字「「」(がんだれ)は、Ⅴ字型に飛んでいる雁の列を、その中の「隹」(ふるとり)は、撃った雁を持つ人を表しているという。文字の意味と八年間の雁との付き合いから、池内さんは人が自然を守るのではなく、人は白然に生かされているのだと思うようになったと言う。
 沼に近い杉山集落の人々は 伊達藩以来の謡の伝統を継いでいる。
  長き命を汲みて知る
  心の底も曇りなき
 朗々と謡曲が流れる大空を、五百羅漢の大群がのびやかな雁行を描いて去来する。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店

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日本の原風景を読む №34 [文化としての「環境日本学」]

4 野鳥一文化としての野鳥2

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛
 
銃猟と近代農法に滅ぼされた朱鷺

 一九五〇年代末に本格化した高度成長経済の時代に、トキの体内から高濃度の農薬成分が検出された。その影響と思われる卵殻の薄い「軟卵」が、しばしばふ化しないままに見つかった。ドジョゥやタニシなど生き餌を恵んできた山あいの階段状の水田、棚田は農業の不振で耕作が放棄された。
明治の「銃猟」に続き、現代の環境荒廃がトキの生息域を壊滅させた。だが、時代は確実に変わった。
 本書カバーに掲載された稲田の開放水面から飛びたつトキの写真は、各方面から注目されている。新装なったまjR東京駅のステーションギャラリーでも展示された。稲田は生産過剰・減反、コメ市場の自由化を経てようやく農薬と化学肥料の投入を控えるに到った環境保全型の水田である。この写真はトキが生息可能な環境の条件を端的に示している。
 一九八一年、環境庁(当時)は最後まで野外に生息し続けていた佐渡のトキ五羽を捕獲して人工繁殖を試みた。だがヒナはかえることなく、環境省佐渡トキ保護センターは、中国から供与された五羽による人工ふ化の試みを一九八五年から続けてきた。二〇〇八年以来、6年連続で通算一九回、三二七羽が放鳥された。二〇十七年には六年連続して野生の環境でヒナが誕生した。二〇〇八年以来の環境省による放鳥と環境保全型農法へ地域ぐるみ転換の努力が実り、二〇一六年四月、四〇年ぶりに放鳥ペアから野生のトキが誕生した。二〇一八年現在、三七二羽が野外で生息している。
 二〇〇八年、訪日した中国の江沢民国家主席から天皇に贈られた、雄のヨウヨウと雌のヤンヤンの子孫たちだ。
 佐渡市新穂正明寺に設けられた環境省の「朱鷺野生復帰ステーション」では、自然界への放鳥に備え、人との触れ合いに馴れさせる訓練が行われている。例えば第一ステージでは、双眼鏡片手の女性観察員が近づく。次いでケージ内の棚田で男性が草刈り作業を披露する。
 二〇一八年十月には二羽が放たれた。
 「二〇〇八年以来、地元農家が『生き物を育てる』ためのコメつくりに取り組んでいる。利便性を追い求めた農業からの転換だった。トキの餌となるドジョウやミミズが生息出来るよう農薬を減らし、中干しをして周りの水辺に生き物が逃げ込める水路を作った。冬は田んぼに水を張って湿地の姿にし、年間通して生き物が生息する環境とした。田んぼと水路を結ぶ魚道、隣接するビオトープ整備、どれだけ田んぼに生き物がいるかの調査……。生き物を育む農法は各地に広がった。トキと共生する田んぼから収穫された米は、消費者に高く評価されている」(『日本農業新聞』一面コラム「四季」、二〇一六年四月三十日)。
 もうかる農業へ、作物の選択的拡大と経営規模の拡大を柱とする農業近代化(農業基本法農政)とは真逆の社会現象である。
  日本の原風景からトキが消えることの「心」への影響は軽視できない。わたしたちはトキの羽のあの絶妙な色合い、優美な舞い姿、トキが舞う森林の精気、トキのいる里の人々の暮らしなどから感動を得る機会を失ってしまうだろう。それは、喜び、恐れ、悲しみ、祈りなど、人が生きていくエネルギーの根源となるはずのものではないか。
 カッパ伝説の主ニホンカワウソの絶滅の道は、川遊びの〝ミズガキ″の歓声が消えていった記録でもあった。
 「自然の荒廃は、国民の士気と倫理を低下させる」。絶滅した日本産トキに、アメリカ合衆国環境教育法の冒頭の句が思い浮かぶ。

原日本の原風景.jpg
本書カバー写真

朱鷺と暮らす郷づくり認証米

 トキの主なエサは田んぼにいるタニシ、カエル、ドジョウである。二〇〇八年、佐渡市は農薬と化学肥料の使用量を慣行栽培よりも五〇パーセント以下に減らす「朱鷺と暮らす郷づくり」認証制度を米、づくりに設けた。
 冬の田への潅水、魚や生きものが集う場作りなど「生きものを育む技術」により生産された米に「朱鷺と暮らす郷づくり認証米」のラベルを貼り、五キロ三千円から三五〇〇円の高値で販売されている。トキとの共存のための費用を分担する環境支払が、都市の消費者にも受け入れられつつある。

佐渡に暮らす幸せとは

 「佐渡トキの田んぼを守る会」の斎藤真二即会長は、ブータンを訪れ、仏教思想に基づくGNH(国民総幸福貴、グロス・ナショナル∴ピネス)の社会を見てきた。近代化と共に国民が物欲をふくらませている矛盾は感じられるが、なお「GNH」の思想に私たちは学ぶところが少なくない、と斎藤さんは言う。GSH(佐渡総幸福竜、グロス・サド・ハビネス)を合言葉に、トキと共生する社会を佐渡に築きたい、と佐藤さんは願っている。
 佐渡の水田九二〇ヘクタールのうち六〇〇〇ヘクタールが「生き物を育む郷づくり」の認証を受けている。二〇一二年、地域の水田稲作は国連食糧農業機関(PAO)から世界で九番目、先准国では初の世界農業遺産に認定された。地域に合った営農方法を通して、自然と人が共生している地域として評価された。
 原風景の復活への努力である。

『日本「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店



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日本の原風景を読む №33 [文化としての「環境日本学」]

4 野鳥一文化としての野鳥

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

 昭和九年六月二目、富士山の山麓、須走の森で日本初の探鳥会が催された。
 詩人で天台宗の僧籍をもつ中西悟堂(日本野鳥の会会長)が主催し、三十余名が参加した。
 北原白秋、窪田空穂、柳田国男、金田一春彦、戸川秋骨、金田一京助、内田活之助、杉村楚人冠らである。参加者の多彩な顔ぶれから、野鳥への関心が日本文化の一要素を表現していることがうかがえる。
 「朱鷺、文化の舞」ではトキが万葉歌人の感動を呼び、一二〇〇年この方、伊勢神宮内宮に奉納され続けている須賀利御太刀の柄には、トキの尾羽が縫い付けられている神話の由来を紹介する。
 渡り鳥「雁」に托され、表現されている日本人の情感は世界にも例を見ない。北斎や宮本武蔵の画題とされ、仏教説話とも関連が深い。
 「越冬の雁、支える稲田」は、水田稲作と仏教文化に培われた「雁」が持つ文化としての野鳥の一面を紹介している。農薬によって亡ぼされ、減農薬農法によって蘇生したトキが、いち早く環境支払の先例となっていることに注目したい。中西悟堂は、著書『野鳥記』で野鳥に寄せる思いを「野の貢(みつぎ)、山河の頁の楽譜である羽族、光の粒」と記している。
 絶滅危倶種1A類のシマフクロウはアイヌの最高神である。明治時代に遡る日本の近代化政策は、アイヌ民族と共に彼らの神を追放した。しかし文化としての野鳥は、人々の意識になおとどまり、北海道聞拓者の末裔たちの環境への危機意識とあいまって保護、増殖への動きを促すことになった。「アイヌの神、シマフクロウへの共感」の底流、その共感の拡がりに注目したい。
 二〇一七年以降、日本野鳥の会(会員四・五万人、上田恵介会長)へ、年間最高七億円を超す寄付が続いている。ほとんどが相続の発生によるものだ。東日本大震災以後の現象である。野鳥は自然の科学的な指標と解されると共に、人の魂のシンボル祝されてきた。文化基層の豊かさを思わずにはおれない。
 東日本大震災以降、心のあり方への関心がかってなく高まり、日本人の意識の変化をうかがわせている。この社会現象と通底しているのではないかと思われる一例として、日本野鳥の会の「ツバメキャンペーン」(二〇一三年)に多くの、とりわけ若い女性が加わった。同会のロゴマークをあしらった携帯長靴は空前の売れ行きを続け、同会の活動資金になっている。
 文化・環境としての野鳥への気付き、認識を深めようと日本野鳥の会の機関紙『野鳥』はしばしば特集を組んでいる。
 「宮沢賢治と鳥」(№500)、「象徴としての鳥-古代エジプトの鳥たち」(№679)、「聖フランシスコと道元禅師 - 偉大な自然思想家たち」(No.691)などである。

朱鷺、文化の舞台-佐渡

朱鷺(トキ)は日本の文化
 日の出の瞬間、人家にほど近い林のねぐらから七羽のトキが一斉に飛び立った。新潟県佐渡市新穂、島の中央国中平野の一角。群は杉の木立にいったん止まって様子をうかがい、餌を探すため稲田に舞い降りた。
 陽光に包まれて翼の裏側、風切り羽、尾羽が淡い、におい立つような桃色に染まっている。和服の伝統色、朱鷺(トキ)色である。
 「飛び翔(かけ)るすがるの如き腰細に」「腰細の、すがる娘の、その姿の、瑞々しきに、花の如」(『万葉集』)。「すがるは腰の細い地蜂、または鹿の異名で、しなやか、うるわしいなどを意味します」(佐渡博物館資料)。いずれもトキへの讃歌である。
 私たちはいまトキが舞う風景から、遠く奈良時代の万葉歌人たちと感動を分かちあっているのだ。トキとは日本の文化に他ならない。
 「伊勢神宮の式年遷宮儀式では、天照大神をまつる内宮に奉納される須賀利御太刀の柄に、トキの尾羽二枚を赤い絹糸でまといつけます。一二〇〇年も続いているしきたりです」(羽生令書同館学芸員)。
 日の出に合わせ飛び立つ習性、太陽の色を思わせる羽の彩りが、天照大神(アマテラス)なる神話を生んだとみられる。
 トキ科トキ属の一属一種。学名ニッポニア・ニッポン(日本の日本)。
 佐渡で捕獲された最後の野生トキ、ミドリ(雄)による中国北京動物園での人工繁殖の試みが実らず、一九九二年九月、ミドリは佐渡・旧新穂村のトキ保護センターに戻された。この時、特別天然記念物、国際保護鳥、日本産トキの絶滅は決定的となった。
 わだつみの最中(もなか)の島に、絶えゆかむ命をつなぎ、種の持続僅かに残す、
 Nipponia nippon、幻の鳥その悲しみのごと。 (宮柊二 「朱鷺幻想」 部分)

『日本の「原風景」を読む』 藤原書店



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日本の原風景を読む №32 [文化としての「環境日本学」]

伝統と変革をつなぐ―日本橋

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

江戸広小路の復活へ
 一六〇四年、江戸幕府は日本橋川に架かる日本橋を東海道、中山道など五街道の基点と定めた。文明開化は江戸の動脈である日本橋川から始まった。
 莫大な物資と多彩な人材が水運と幹線道の拠点であるこの地に集まり、伝統と近代化とがせめぎ合う重要文化財「日本橋」の原風景を生んだ。現在のヨーロッパ風石造り二連アーチ橋は明治四十四(一九一一)年に架けられた。
 一九六三年、橋の真上に首都高速道路を架け、川はふさがれた。日本橋は生気を失った。高度経済成長後の街の衰退を脱し、日本橋では今、賑わいと潤いの回復、品格ある街づくりへの試みが盛んに行われている。
 江戸っ子気質が盛り上がる祭りの日々。毎年五月神田明神の「天下祭」、翌年六月には赤坂日枝神社の「山王祭」が交互に行われている。
 橋の北話から神田明神、南話から日枝神社の神輿が賑々しく登場する。しかし橋の中央「日本国道路元標」のあたりで神輿は静止する。双方の神の領分が接し、神輿を率いる江戸町火消名残の鳶頭(とびかしら)への配慮もある。祭りの頭上を首都高速道路が横切り、コレド室町1、2、3の壮麗、巨大などルが間近の空を圧している。
 「コレドのお蔭で日本橋界隈に人が集まり、商店の売り上げが増えているようだ。さりとて私には、再開発ビル群の街並みが日本橋伝統の街景とは思えません」。創業四百年、うちわと扇子を商う日本橋最古の商店「伊場仙」十四代目の主・吉田誠男さんの考えは明快だ。「路地に商いと暮らしが息づく風景を私たちは待ち望んでいるのです」。
 みゆき通りではヒートアイランドと温暖化を減らすため、間伐材で歩道を舗装し木のチップを敷き、電柱を地下化する「江戸広小路空間復活」の実験を中央区と共に試みている。
 日本将棋連盟の名だたる棋士を招いて、子供縁台将棋大会も催される。普段は人気のない裏通りが賑わう寶田恵比寿神社の「べったら市」(「月「九、二「日)が、路地空間復活のモデルだ。

日本場川に音空を、光を
 「日本橋地域ルネッサンス100年計画委員会」の会長、料亭「日本橋とよだ」の主、橋本敬さんは、デパート日本橋東急撤退の辞を今も恥辱としている。「日本橋には未来がない。町に元気がない。客が来ない」。
 「そんなことを言われては、黙っていられない、とルネッサンスの会を作りました」。
 架橋百年、「日本橋に青空を、日本橋川に光を」。一九六三年この方、頭上を覆っている首都高速道一号線の地下化に向けて衆参両院への請願に、三〇万人を超える署名が集まった。国、東京都、首都高速道路会社が三二〇〇億円超を分担、一〇年後に高速道は視界から消える。
 「歴史、文化、景観、自然環境を重んじる、世界に誇れる都市づくり」(請願趣旨)が始まろうとしている。一三一〇〇億円は、環境復元のため、社会が負担してもよいと認めた「環境支払」の具体例である。
 創業二百年うなぎ割烹「大江戸」の当主湧井恭行さんは、日本橋一の部連合町会長を務めている。
「ここで昔から商売をしている人たちと共存できるような街づくりを、三井不動産の岩沙弘道会長にお願いしました」。日本橋は三井グループ発祥の地。三井不動産は超高層ビルの谷間に、この土地に盛んな稲荷信仰の主神ともいうべき「福徳神社」を復活させた。
  街が巨大化、超高層化していく日本橋に江戸の広小路、路地空間を復活させるのは容易ではない。コレドの並びにある「料亭とよだ」とお隣の地下工事現場から、生簀が原型のまま発掘された。日本橋魚河岸時代の仲買店のものだ。店の地割も当時のまま今に引き継がれている。店の一軒、一軒が一五坪、二〇坪どまり。「再開発ともなるとやたらに地権者が多く、先祖から引き継いだ土地は、もう地球の芯まで他人には譲らない、ときます」。

粋の美学に生きる街
 日本橋の南話に絶本舗を構える「柴太棲」の細田安兵衛相談役は、日本橋への尽きせぬ思いを語る。「口本橋は大人の街にしたいですよ。教養、身だしなみ、優れた感性を持つ人々を迎えるにふさわしい品格のある街に。そして江戸の伝統工芸晶をこの場で作り、日本橋ブランド、文化として発信したいですね」。
 日本橋ではさまざまな伝統工房が公開され、実技教室が開かれている。
 なかでも小津和紙(一六革二年創業)の手漉き和紙体験工房と文化教室は、多くの人を集めている。ここにも伝統をつなぐ姿がある。これら日本橋、江戸文化の素材の多くは東京湾、利根川を経て、堀割とも言うべき日本橋川へ到る物流によってもたらされた。
 「失われた良きものは蘇らせ、伝統のあるものは残しつつ、薄っぺらな懐古趣味ではなく、新時代にふさわしい、絹地文化を含めた野暮にならない街づくりを合言葉に。一歩下がった控えめな目立たない美意識の姿こそ、日本橋での生き方の美学〝粋″の表現なのです」(榮太郎本舗・細田安兵衛相談役)。
 「創造なきノレンは真のノレンじゃない、ノレンは守るものじゃない。心をこめて育て、磨くものです。客を迎える側のそれが本物のもてなしです」。
 江戸っ子の心意気、ヤセ我慢。それもこれも日本橋での生き方の美学、〝粋〟の表現なのだ。
 日本橋川の水運によって培われた伝統と変革をつなぐこの街に、水面が光る江戸広小路空間の復活を願わずにはおれない。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店


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日本の原風景を読む №31 [文化としての「環境日本学」]

矢を射つ若き利根川  1

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原  剛

菩薩の乳の一滴を想う
 東京から約一五〇キロ、豪雪、強風の関東平野の北面を、もっとも手強い岩登り道場、谷川岳(一九七七メートル)が固める。その山麓は一八の源泉からなる水上温泉郷だ。渓谷深く、菩薩の乳の慈悲の一滴が源と伝えられる利根川上流の地みなかみは、到るところで激流が岩を噛む水源の郷である。
  岩の群(むれ)
  おごれど阻む
  力なし
  矢を射つつ行く
  若き利根川
 歌人与謝野晶子はしばしば水上温泉に滞在、二三〇首の歌を詠んだ。暴れ川、利根川水源の激しい流れが、晶子の不屈の情熱と通い合ったのだろう。その支流の一つ宝川の急流は「猫まくり」の異名をもつ。雨が降ると一気に水が増え、五分間ほどで.一メートルも水かさが増す。
 両側から断崖が迫る激流、深い森林が醸し出す香気、静寂。「イギリス、スペイン、イタリアからの観光客に人気です。サッカーのトルシエ監督も滞在しました。客の七〇パーセントは一七か国から外国人です」 (秘湯「汪泉閣」の主、小野与志雄さん)。

水源を旅した若山牧水
 みなかみの街中にとどまらず法師、猿ケ京、湯宿、室川など山と谷の奥に散在する秘湯では、先代の志を汲む館主たちが、文化性の豊かな旅の舞台を用意している。
 赤谷川に沿う三国街道沿いの湯宿「ゆじゅく金田屋」の主岡田洋一さんは、大正十一年九月二十三日、酒好きの歌人若山牧水が泊まり、廿みそを塗った干し鮎を肴にとめどなく酒を飲んだと伝えられる部屋の家具、調度品すべてを芝居の舞台のように保っている。
 毎年上月、全国から牧水ファンが金田屋に馳せ参じる。「牧水まつり」である。一同は酒宴に先立ち、部屋にかけてある掛け軸に大書された牧水の名歌を朗々と歌う。

  白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
  幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく

 牧水が水上を訪れたのは、彼が愛してやまない「水源」を旅することであった。
 
 私は河の水上というものに不思議な愛着を感ずる癖を持っている。一つの流れに沿うて次第にそのつめまで登る。そして峠を越せば其処に又一つの新しい水源があって小さな瀬を作りながら流れ出している、という風な処に出会うと、胸の苦しくなる様な歓びを覚えるのが常であった。
 やはりそんなところから大正七年の秋に、「利根川のみなかみを尋ねて見よう、とこの利根川の渓谷に入りこんできた。(『みなかみ紀行』)

 牧水は自然があたかも神であり、仏でもあるかのように接し、神仏を詠まなかった。「水源」はその始源、自然の営みの始まりであったのだろう。谷川岳直下の湯槍曽に到った牧水は湯檜曾(ゆびそ)の辺でも、銚子の河口であれだけに幅を持った利根が石から石を飛んで徒渉できる愛らしい姿になっているのを見ると、矢張り嬉しさに心は躍ってその石から石を飛んで歩いたものであった」 (『みなかみ紀行』)。

 往時の托鉢僧を思わせる旅衣、わらじ、丈余の杖に身を固め、牧水まつりの参加者たちは終日牧水になり切り、法師温泉から牧水がたどった三国街道を歩き、赤谷川の瀬音とどろく湯に浸り、ひたすら地酒を飲む。「牧水から純粋な日本人の自然観の原点を学び、受け継ぐ試みです」 (岡田さん)。
 「文殊の水の滴りは 暫し木の葉の下くぐり 清濁併せやがてまた 坂東の野をうるほさむ」(県立沼田高校校歌五番)。利根川は地域の人々の原風景なのだ。

 赤谷川深く森に潜む法師温泉長寿館。広々とした五か所の湯船の底に一面敷き詰められた丸石の隙間から、澄み切った湯が豊かに湧く。
 かって、旅ブームの発端となった旧国鉄のキャンペーン、「フルムーン」のポスター、俳優上原謙と高峰三枝子が湯船につかり、上原が高峰の労をねぎらうかのシーンは、長寿館の湯で撮影された。高齢となった同時代の旅人たちには、その忘れがたい旅へのいざないの且となっている。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に」 藤原書店


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日本の原風景を読む №30 [文化としての「環境日本学」]

三面川の鮭文化

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

鮭と人が一体に

 東北の屋根、飯豊・朝日連峰のブナ原生林から湧き田す三面川は、わずか五〇キロの間に標高差約二五〇〇メートルをいっきに下り、新潟県村上市郊外で日本海へそそぐ。弁慶ゆかりの多岐神社が鎮める河口一帯に、北限に近いタブの木の見事な「魚つき保安林」をめぐらせる。早春放流されて間もない鮭の稚魚が、長旅に備え森蔭に密集してくる。
 山・川・森・海が連なる壮大な自然の営みと、村上藩の昔に遡る人々の英知が、この地に類まれな「鮭文化」を生み、現代に脈々と引き継がれている。
 三月から四月にかけて八〇軒の町屋が、四千体ものひな人形を飾り人々を迎える。
 越後弁での会話も楽しめる町屋の「人形さま巡り」だ。
 その一角、伝統の漆喰塗り土壁、黒一色の田格子、面格子に昔風の大きな木製看板を掲げた鮭加工業「喜っ川」が、大町通りで村上名物の塩引鮭つくりに熱中している。
 「お早う。ありがとう!」。朝一番、店をあずかる吉川真嗣さんは、通り土間の高い天井からぎっしり吊り下げられた鮭に挨拶する。
 寒気鋭い土間の正面に、鮭を塩漬けにした巨大な桶はんぼ(半鮭)が。吉川さんは語る。
 「はんぼはもともと神様への御供え物用の尊い器です。私たちにとって鮭は、長旅から村上へ戻って来ていただいた神のような存在です」。
 十一月、塩引鮭の仕込みが始まる。一、二月の寒風で乾燥、三月から五、六月は湿度を吸って発酵させる。「つるした鮭の鼻さきからポタポタ体液が滴ります。鮭が泣くと言います」(吉川さん)。
 七月梅雨の湿気、八月盛夏の高温、そして九月の秋雨と出合い、塩引鮭は年間を通し発酵、熟成を繰り返す。それぞれの季節が絶妙の味を提供してくれるのだ。
 それが「村上鮭文化」と讃えられるのは、季節の節目に行われる伝統の生活行事を鮭が彩っているからだ。
 大晦日、食卓の主役は塩引鮭である。カマの下一番目のひれ(一のひれ)は、一家の主に供される。酵化して四年間、一瞬の休みもなく鮭は一のヒレを動かし続ける。そこには不屈の生命力が宿ると考えられ、一家を支える主に供される習わしだ。
 十一月の七五三には男の子の「袴儀」に塩引鮭が料理される。
 「たくましく育って、戻ってこい、との願いが込められています。鮭と人が一体になった村上の鮭文化です」(郷土史家、大場喜代司さん)。
 酒に浸して柔らかくした塩引鮭、飯寿司、ひずなますなどは定番だが、バンビコ(心臓)の塩焼き、ドンガラ(中骨)の煮込み、はは肉を味噌であえたホッペタミソ、内臓ごった煮のカジニとなるとうなってしまう。

切腹を忌む塩引き鮭

 三面川と鮭の歴史を支えたのは、村上藩の土木工事を取り仕切る郷村役の下級武士、青砥武平治(一七一三~八八年)である。江戸時代に陥った不漁の原因を探っていた青砥は、鮭が生まれた川に戻ってくることに気付き、自然産卵の数を増やす〝種川″つくりに着手、三五年かけて完成した。
 中洲を利用して川の流れを分かち、一本を本流、もう一本を分流(種川)とし、本流では漁を続けて運上金を得つつ、種川では産卵、醇化に拠る回帰数を飛躍的に高め豊漁を取り戻し、藩の財政を安定させた。世界で初の鮭醇化増殖は石狩川(北海道)、庄内藩(山形)、アメリカ、ロシア、カナダに相次ぎ取り入れられた。
 明治十五(一八八二)年、村上藩の旧士族たちは三面川の漁業権を国から継承し、「村上鮭産育養所」を設立した。「育養」の名称が示すとおり、収益は教育と慈善事業にも充てられた。大正六年には約四万六〇〇〇円の基金で財団法人を設立し、本格的に教育事業を進めた。村上ではこの育英制度で勉学した人たちを「鮭の子」と呼んでおり、多くの英才が輩出した。
 三面川で獲れた鮭の塩引きは、尾に向けて腹をすべて切開せずに、一部を残し内臓を取り出す。城ド町村上では〃切腹″のイメージを嫌ったのである。初冬、民家の軒先には、半開きの腹をさらした鮭が盛大に吊るされる。室内干しはマイナス四度に保ち、人間は厚着をして鮭に付き合う。

村上鮭の子-稲葉修の生涯

― 稲葉さんの郷里、三面川に鮭が帰ってくる季節になりましたね。
稲葉さん それで二月九日に東京の帝国ホテルへ天Fの名士三〇人を招いて、恒例の「三面川の鮭を食べる会」をやるんだよ。
 もう四〇年にもなるかな。私は毎秋、三南川で獲れた鮭を味噌漬けにしたのと塩引きにして干したものと二つ、天皇・皇后両陛ト、皇太子殿下を始め各皇族方に差し上げてきた。「日本一の三面川産鮭の味噌漬け樽ご愛嬌に献呈仕ります。新潟県村上市鮭鱒堂二代目主人、稲共修」と書いてね。初代の主人は私の長兄、圭亮だった。

 怖いものなし。〃稲葉節″とよばれた率直な発言と高潔な人格で親しまれた稲葉修衆議院議員(法務大臣)に、私がインタビューした折の記録である(一九八九年十月)。
 「我が旧藩内藤藩は歴代藩主が名君で、鮭を藩の産物とし、その利益を英才教育に使った歴史がある。私も〃村上鮭の子〟だった」と語り、目を輝かす稲輿さん。
 有数の鮭川、三面川の畔に生まれ育った稲葉さんは、四歳のころから三人の兄に、釣りを教え込まれる。豊かな山林からにじみ出た水が奔流となって万物のいのちをはぐくむ原風景を、〝稲葉少年〟は自己形成の空間として今も魂の奥に固く守り続けているようだ。川の自然の素晴らしさ、湧き出る感動を他に伝えずにはおれない-。「わしは村1鮭の子だ」と目を輝かす稲葉さんから、そういう気迫が伝わってくる。稲葉さんは田中角栄内閣で文部大臣、三木内閣で法務大臣をつとめた。

稲葉さん それでロッキード事件の頃たまたま一÷木内閣の法務大臣をやらされておったものだから、思い切って政界浄化になればと思いああいうこと(昭和五十一年七月二十七日田中角栄前首相を逮捕)をやった。ところが闇将軍みたいなことになっちゃって、ますます政界浄化はダメだ。せめて水でもきれいにしようと思ってね(「日本の水をきれいにする会」の会長に)。正しいことでも長く、粘り強くやらなければいかんもんだな、というのが教訓でしたな。
 北海道知床半島の鮭番屋のヤン衆が、鮭は生まれた川の紅葉の香りをかぎに戻ってくスのだ、と言ってました。
稲葉さん そう、そう、全問の河川でも海岸でも、水のよしあし、自然の貧富はその付近に住んでいる人間の品格によるね。悪い所は川の自然もだんだん悪くなっていく。鮭でも密漁なんかする奴が沢山いる所はダメだな。
 愛知県が推進した長良川河口堰について。
稲葉さん 三面川が一例だが、いっぺん川の自然を壊したら復元するのは大変なんですよ。
水を愛し、魚を愛せよ。フィロソフィ(哲学)のフィロは「愛」、ソフィは「知」なんだ。愛知県なんかもっとその辺を考えなきゃ(笑)。本当の意味の科学精神だが、まあ海部(総理)程度ではね。愛知県もな(笑)。
(一九八九年八月、稲葉さんは郷里の荒川でカジカ獲りの最中に脳内出血で倒れた)

 川畔の三面川鮭産漁協事務所で、佐藤健吉組合長は「村上鮭の子」の秘話を明かした。稲葉さんの遺骨は、夫人の手で秘かに上流に散骨されたという。釣り歴七〇年、「日本の水をきれいにする会」の会長を長年つとめた稲葉さんの夢がたゆとう三面川の風景である。
 初秋の三面川に戻った鮭は、タブの木の森が連なる右岸伝いにブナ林の上流に向かう。「鮭が三面川の用水の味を覚えているからでしょう」と佐藤組合長。かって林野庁が上流域のブナ林を伐採した時、反対する鮭漁師と市民たちが「鮭の森づくり」に集い、森からの実生の苗を集めて、朝日連峰山麓で植林を始めた。水と養分を供給するブナの木は森のいのちの源とされ、欧州では〝マザーツリー″と呼ばれている。日本の古い諺「ブナの実二升、金一升」も森と鮭の物語に托され、現代に生き続けている。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店




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