SSブログ
文化としての「環境日本学」 ブログトップ
前の20件 | -

日本の原風景を読む №46 [文化としての「環境日本学」]

「日本はかならず 日本人がほろぼす」  ――あとがきにかえて 2
 
  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

「あじさゐに腐臭ただよい」
 政府・政治家、霞が関官僚、東西財界・経済人の行動と教養の劣化現象はただごとではない。為政者からここまでコケにされ、なお自覚できない少なからぬ日本国民の正体とは。
 哲学者図分功一郎は日本人多数の心の持ちようが困難な事態に陥った構造の素描を試みている。

 ― すべては、人が何らかの信ずる価値を持てずにいることに由来しているように思われる。何かを信じていないから、何でもすぐに信じてしまう。自分の幸福への無関心もおそらくそこ(軽信とシニシズム)に由来する。
 だから、自分の生きる場が危険に晒されても、それに真剣に対応しようとしない。だまされてもシニシズム(冷笑主義)でやり過ごせる。
 政権の知らんぶりが通用するのは、私たちが「これだけは譲れない」という何らかの価値を信じることができずにいるからだろう。政権はそのことを見抜いているから、このような事態に陥っても少しも焦っていないのである。(要旨)(『朝日新聞』二〇一八年七月十一日文芸・批評欄)

 塚本邦雄第二一歌集『風雅黙示録』の 「夢の市郎兵衛」から二首。

  あじさゐに腐臭ただよひ 日本はかならず 日本人がほろぼす
  八方破れ十方崩れみなずきの われのゆくてにネオナチもゐる

 滝壷を間近に、踏みとどまれないものか。流れに抗し、立ち直る手がかり、足場はないのだろうか。

アマゾン大河句会から
 日本人がアメリカ大陸へ移住しはじめて百年を機に、毎日新聞社会部の記者だった私は、南北アメリカ大陸の日系人移住地をアラスカからアルゼンチンまで、長期間にわたり取材した。
 日本人が移住先の社会で日本文化をどう保ち、変化させていったのか。「文化の変容」が取材の課題だった。アンデス山脈からアマゾン川へ向かい、支流アカラミリンの日系人移住地トメアスを訪ねた。赤い土の道(テラロッサ)を船着き場から集落へ向かう折に、人口千数百の村にしては異様に多い墓標に気付いた。南緯三度、酷暑とマラリアが猫僻する中で、原始林を拓いて火を放ち、畑を作る苛酷な開拓に、日本人の勤勉さが仇となり、恐るべき数の犠牲者の人柱を築いたのだと聞かされた。
 トメアスは戦後、胡椒の栽培に成功、億万長者の村として盛名を馳せる。「大河句会」などという俳人グループの句誌も発刊され、「秋冷えや 襟元活き 妻とゆく」など日本での記憶をたどったとみられる句も詠まれていた。
 山形県最上川の河口の村から十五歳でトメアスに移住した初老の男性は、暮らしのあまりの厳しさに何度か志が挫けかけた。
 さまざまな対象に心のよりどころを求めたあげく、「私を死から思いとどめさせてくれたのは、故郷の自然と人々のたたずまいの是でした」 と漏らした。
 溺れていく人間を最後に踏みとどまらせた水底の岩盤 - それが少年時代の風景であったという。厳しい自然にたゆまず立ち向かい続ける最上川河口の人々の生業の景色が、当時〝緑の地獄″などと称されていたアマゾンの、孤独な日本人に生きる力を廻らせたのであろう。顧みて、かけがえのない価値とはなにか。東南海トラフ地震や首都直下地震にとどまらない。政治や経済の混乱、人心の異変によって直面するであろう、生活の場が危機にさらされた時の心構えを、文化の表現である風景、共感をもたらす可能性のある 「原風景」 から読み取り、固めておきたい。
 試練を経て脈々と存在し続ける風景にこめられた意味、メッセージを解読し、混迷から蘇生への心の手がかりを得られないだろうか。

 「出版とは時空を超えた言論の場。社会に問題を提起する文化活動だ」。古武士のような風格。「気骨の出版人」は混迷する時代の先をにらんでいる。
   (『朝日新聞』二〇二〇年三月二十一日、藤原書店社主藤原良雄さんインタビュー)

 文化としての「環境日本学」のあり方を探求する早稲田環境塾の叢書、『高畠学』(二〇二年)、『京都環境学 - 宗教性とエコロジー』(二〇一三年)をいずれも藤原書店から出版した。本書を塾第3叢書と位置づけている。
 塾の理念を一貫して支えていただいている藤原社主と編集者刈屋琢さんのご尽力に、心底から感謝している。
   二〇一一〇年三月                                      原 剛

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店



nice!(0)  コメント(0) 

日本の原風景を読む №45 [文化としての「環境日本学」]

「日本はかならず 日本人がほろぼす」  ――あとがきにかえて 1

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

瀟洒、秩宕、美を想う
 富士山初冠雪の翌朝、私は河口湖畔に立つのが習わしである。それから本栖湖、田貫湖へ向かう。
 穏やかな水面を前景とする富士山は、「瀟洒」(すっきり、あかぬけている)、「扶宕」(奔放、堂々としていて細事にかかわらない)、「美」(美しく立派なこと。感覚を刺激して内的快感を呼び起こす)を表現してやまない。日本風景美の三要素とみた地理学者志賀重昂の『日本風景論』(一八九四年、明治二十七年) が思われる。
 「自然は芸術を模倣する」とは、皮肉屋オスカー・ワイルドの逆説めく言である。だが、和服の彩りや修験道者の道場にとどまらない。富士山の形象美は私たち日本人の美意識と精神の形成に深くかかわってきた。芸術を含む「文化は自然を模倣する」と私は考えている。世界遺産委員会が「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」を世界文化遺産への推薦の正式な名称としたゆえんである。ワイルドと同じ英国の作家ロレンス・ダレルは「人間は遺伝子の表現というよりは、風景の表現である」と記している。なるほど、かのアメリカ大統領の言動などは、アメリカ合衆国的原風景、カウボー イ(あるいはガンマン)の戯画を思わせるではないか。

カウボーイ大統領よ
 あなたが唾を吐いた温暖化防止条約のルーツを思い返すがよい。一九八〇年夏、巨大な高気圧がアメリカの穀倉地帯に二か月間居すわった。中西部の干ばつによって、この年の穀物生産量は一億九〇〇〇万トンにとどまり、アメリカ国内で年間に消費される二億六〇〇〇万トンを満たせなかった。高気圧が長期間居すわるブロッキング現象について上院公聴会で問われたハンセン海洋大気局長は、「二酸化炭素の温室効果による高温化と降雨パターンの変化により、干ばつが繰り返される可能性が高い」と警告した。同時にハワイ島マウナロア山観測所での海洋大気局のデークーが、毎年ほぼ1ppmのスピードで大気圏内二酸化炭素濃度の上昇を記録していることも明らかにされた。温暖化防止条約の原点である。
 資源、環境の制約などありはしない。炭鉱労働者の雇用のために火力発電所を増やせ、環境省など邪魔だ、予算を付けるな、といわんばかり。イケイケ、ドンドン、二丁拳銃を振りかざし、ドンドン、パチパチ、カウボーイ経済に戻って、無限な経済成長を遂げることこそがアメリカの国是である。そのゴルフ仲間と称する日本の首相も、負けずにこちらも戦国時代の故事〝三本の矢″にちなんだ何とかミックス政策(三本の矢は分解寸前だが)を掲げ、その同類相集う衆議院選挙に圧勝した。
 カニは甲羅に似せて穴を掘り、国民は自らにふさわしい政府をつくる。「瀟洒」「秩宕」「美」とは莫逆の日本社会と日本人の姿が二〇一七年のこの年露呈したのである。

温暖化は文化を破壊する
 皆してハメルンの笛吹き男にくっついて、行き着くところまで行くしかない。安倍晴明のご託宣を待たずとも、首都圏直下型だのトラフ型大地震とやらで、向こう三〇年間に八〇パーセントの確率で日本列島は沈没を免れないと予測されているではないか。自分の明日ある幸福などに関心は持てないし、それを信ずる手がかりもないのだから。
 しかし人間がその生命を依拠している自然環境は、人間の勝手な振る舞いを許さない。寺田寅彦の言ではないが、自然には自然の論理がある。人為の事情とは関係なく、地球の温暖化とトラフ型地震が一例であるが、自然は常にその固有の論理を科学的に貫徹しようとしている。
 二〇一七年、山火事はわが愛飲するカリフォルニアワインの谷を燃やし、フロリダ・キーウエスト在の敬愛するヘミングウェイの館を、史上最強のサイクロンが襲った。
 気候変動枠組条約は、ジュームズ・ワットの蒸気機関発明以来、二百余年に亘る自然破壊行為に対し、人類が示したささやかな反省の白旗である。だが、アメリカ伝統の宗教的反知性主義の権化である大統領は、それすらへし折ってしまった。
 気象庁は、地球温暖化による海面水温の上昇により、日本の南海上で猛烈な台風の発生頻度が増 えると警告している。自然災害の頻発に耐え切れず二〇一九年、損害保険会社は保険料金を一斉に値上げした。
 大気の変化は元に戻すことが著しく困難か、不可能な「不可逆変化」である。この認識が国連気候変動枠組条約を実現させた。
 自然界の固有の論理は、温暖化による気候の変化が比較的少ないとみられる中緯度にある日本列島でもジワリ、ジワリと現実に現われつつある。稲の高温障害による未熟米が全国で発生している。出穂後に高温が続いたためだ。害虫の多発、胴割れ粒の発生も相次いでいる。ぶどうの着色不良・日焼け、温州みかんの浮皮、野菜と花の生育不良、開花時期のずれも著しい。稲の高温耐性種への切り替えは、農業界の常識となってきた。温暖化が進むと主要な穀物は減収する恐れがあると農水省は予測している。農業は文化の集積である。温暖化は餓死を招く前に、究極として文化を破壊する。京都の紅葉が十二月も間近にずれ込んで久しい。直後に雪、そして正月を迎えなくてはならない。

『日本の「原風景」を読む』 藤原書店

                               

nice!(0)  コメント(0) 

日本の原風景を読む №44 [文化としての「環境日本学」]

3・11と魂の行方

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

蘇った『遠野物語』

 岩手県遠野市の中心街に市立博物館がある。東日本大震災の翌年二〇一二年二月二十一日、前川さおり学芸員を一人の男性が訪ねてきた。「『遠野物語』第九十九話「魂の行方」の四代後の子孫でした」。

 - 第九十九話には明治三陸地震津波の話が出てくる。『遠野物語』話者・佐々木喜善の大叔父にあたる「福二」という人は、山田長田ノ浜という三陸の海に面した集落に婿にいっていた。明治二陸地虐津波で家を流され、妻と子を失い、仮小屋をかけて生き残った子ども二人を育てながら暮らしていた。津波から一年後の夏の初めの月夜に、妻の幻と出会う。妻は結婚前に心通わせ、同じく津波で死んだ男と渚を歩いていた。呼び止めると妻は振り返り、この男と夫婦になったという。福二が、子供は可愛くはないのかと問うと、妻は顔色を変えて泣くが、やがて男と共に立ち去り消えていく。福二は追いかけるが、既に死んだ者と気づき、夜明けまで道中に立ちつくし、その後、長く病んでいたという。
 この話は『遠野物語』の題目では「魂の行方」に分類される話で、幽霊諦のようなものととらえられてきた。しかし一人の被災者の「心の物語」と捉えなおすことができるのではないか。震災を経て初めて気づいた。福二という男は、被災して仮設住宅で、男手ひとつで必死に子どもを育てている。津波によって受けた心の傷は癒えず、心身ともに疲れもたまってくるころであったろう。心に区切りを付けなければと思いながら、それができず葛藤の中でたちすくんでしまった。そして長く患ったという病は、災害による精神的なストレスによる病ではなかったのだろうか。この話は、遠野と三陸の精神的な近さと被災者の心のあり様を語り継ぐ、という内陸の遠野らしい繊細な記憶の仕方を示している。
 そんな風に考えていたところ、平成二十四年二月二十一日に「福二」の四代後の子孫にあたる男性が遠野市立博物館を訪ねてきた。聞けば男性は山田町に住んでいて、津波で家を流され、流失した家系図の復元をするために遠野の親戚を訪ねて歩いているとのことであった。親戚・家族の間では、(福二が長く患った)病のせいかあまり福二の話をしたがらなかったという。
 ただ一人、(男性の)母親だけが「本を買え、『遠野物語』に家の話がある。先祖のことだから、しっかり覚えておけ」と教えてくれた。しかしその母も今回の津波で行方不明になった。男性は母親を探して遺体安置所を巡り歩き、何百もの遺体を見ながら、「自分の先祖以外にもたくさんの悲しみがあったはずなのに、その物語はどうなったのだろう」と思ったという。そして「ただの教訓ではなく、人の口で伝えられた話こそが力を持つ。一人ひとりが血の通った物語を語り継ぐことでしか、次世代の悲しみはなくせない」。福二の四代目に当たる男性はそう語った。 (前川さおり「二つの津波と遠野~明治一一薩地震津波と東日本大震災から」)

 『遠野物語』第九十九話の再現か、と思わせる出来事が、東日本大震災の現場で繰り返されたことを前川さんはこのように紹介している。『遠野物語』第九十九話「魂の行方」を幽霊謂ではなく、被災者の「心の物語」ととらえる前川さんの指摘は共感を誘う。

魂の行方が問われる

 科学で説明のつかない不思議な体験が、東北の被災地で次々に語られているという。見えない力を目の当たりにした人々の心の移ろいをつづる。

 目の前で水の中に沈んでいった母、がれきの下から見つかった。二歳の息子。逝ったはずの人々がある日、悲しみの底にいる家族の前に姿を現す。決してもうもどって来ないそれでも残された人は「元気な様子」に安心し、死者との再会で生きる力を得ていく。
 慰霊とは、霊が遺族を慰める過程をも含むのかもしれない。
     (『朝日新聞』「試写室」欄、「NHKスペシャル 亡き人との〝再会″」の批評)

 犠牲者の遺体を確認することにより、死体は死者となり、残された者の心の対話の相手に変化する。語り継がれてきた民話、『遠野物語』の生と死の諸相は、東日本大震災の現場から新たな語り手によって語り継がれ、大自然と人間の営みがつむぐ日本文化の深層を作っていくことであろう。それは河童、山男、雪女、狼がうごめく柳田国男の『遠野物語』に、自然界に暮らす日本人の生活流儀を刻印し続ける伝承の記録となろう。

  ― なぜ東北の被災地で怪異詔が生まれるのか。文芸評論家東雅夫さんは「何が今東北なのか」を指摘する。「東北という、自然と一体化した独自の文化を育んできた土地柄が大きい。山深く厳しい自然。震災、冷害、大和朝廷の侵略といろんな苦難の歴史もありました。あの世とこの世の境界線が、もともとあいまいな風土なんです。その境界領域に生まれるのが怪談ですから。今生まれている話は、まさに『二十一世紀の遠野物語』だと思いますよ」。    (『朝日新聞』二〇一三年八月八日「新・遠野物語」)

 柳田国男は『遠野物語』の初版序文で「国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまだ無数の山神山人の伝説あるべし。願わくばこれを語りて平地人を戦懐せしめよ」と記した。3・11は私たち平地人に失われた多くの魂の行方を問うた。戦懐を覚える問いである。

 (コラム)『遠野物語』第九十九話「魂の行方」
 土淵村の助役北川活と云ふ人の家は字火石(あざひいし)に在り。代々の山臥にて祖父は正福院といひ、学者にて著作多く、村の為に尽したる人なり。清の弟に福二といふ人は海岸の田の浜へ婿に行きたるが、先年の大海嘯に遭ひて妻と子とを失ひ、生き残りたる二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。夏の初めの月夜に便所に起き出(いで)Lが、遠く離れたる所に在りて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正しく亡くなりし我妻なり。思はず其跡をつけて、遥々と船越村の方へ行く崎の洞ある所まで追ひ行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑ひたり。男はと見れば比も同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が婿に入りし以前に互いに深く心を通はせたりと聞きし男也。今は此人と夫婦になりてありと云ふに、子どもは可愛くは無いのかと云へば、女は少しく顔の色を変へて泣きたり。死したる人と物言ふとは思はれずして、悲しく情なくなりたれば足元を見て在りし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。追ひかけて見たりしがふと死したる者也と心付き、夜明けまで道中に立ちて考へ、朝になりて帰りたり。其後久しく煩ひたりと云へり。

『日本の「原風景」を読む』 藤原書店



nice!(1)  コメント(0) 

日本の原風景を読む №43 [文化としての「環境日本学」]

宮沢賢治の海-石巻 2

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

苦しみ、もがき、希望を喪わず生きる

 岩手県宮古市の郊外、重茂半島の丘陵を縫う浜街道の光景に息を呑んだ。
 左側の谷間から遥か海辺まで、壊滅した人家が累々と連なる。右側の断崖直下、波静かな入り江に白砂の孤を描き、陸中海岸国立公園・浄土ケ浜が静まりかえっている。三百年の昔、訪れた高僧が「極楽浄土のごとし」と感嘆した絶景のままに。
 架橋の中央に立つと、左右の光景が同時に視界に入る。
 この信じ難い現実を、どのように受け止めるのか。
 仏教と日本人の自然観が融合した浄土を表現する最高傑作として、人類共有の世界文化遺産に指定された平泉・毛越寺(もうつうじ)の大泉が池畔に、藤里明久貰主代行を訪ねた。毛越寺は嘉祥三年(西暦八五〇年)慈覚大師円仁によって開山された。その一九年後、三陸地方に貞観十一年の大地震が起きた。さらに約千年を経て今回の大震災に遭った。
 「ある漁師さんが、私は家族を失ったけれども、やっぱり海に出たい、とおっしゃっていました。重みのある言葉だと思います。我々は自然から逃れることも、自然を拒否することもできない。そういう所に生きているのが私らだということを震災に遭い、身体全体で受け止めたと思っています。浄土というのは単なる理想ではなくて、この現実の中で苦しみながら、もがきながら、しかし希望を失わずに生きることだと私は思っているんです。仏教者は、その希望の明かりを少しでも灯して水先案内をしなければならない。しっかりと、小さくてもいいですから何らかの明かりを灯す。人間の弱さを知っているということが宗教者の一番大切なことですから、人の弱さに寄り添っていくことが、今は大事だと思っているところです」。

 翌二〇一二年七月七日夜、ライトアップされた浄土ケ浜の岩塊群を背景に、平泉の浄土思想を今に伝える毛越寺の延年舞(国の重要無形民俗文化財)「老女」が厳かに舞われた。演者は藤里買主だった。
 浄土ケ浜で舞う意義を問われ、藤里買主は次のように答えた。
 「沿岸を含め東北はかって藤原氏が統治し、仏国土を作ろうとした地域。平泉にとってもかけがえのない地域だ。浄土といわれる浄土ケ浜で鎮魂の行事を行いたい、と熱心なお話があった。死者の霊を舞で慰めたい」。
  ―― 「老女」が表現するものとは。
 「災いが少なく、疫病、戦乱のない時代を乗り越えたからこそ老婆は長命した。それを感謝して舞を舞う」。
 「舞を通じて神仏の力を引出し、そのご加護により多くの方を救っていただく。舞や演者に人を救う力があるわけではない。真撃に舞う心持ちが通じる」。 (『岩手日日新聞』二〇一二年七月八日)
 藤里貫主による「延年舞」の風景を、『岩手日日新聞』は「『真筆な心』に救う力」、『岩手日報』は「鎮魂の七夕、幽玄延年舞」との見出しで報じた。「魂の不滅のふる里」の風景への共感が伝えられたといえよう。

中尊寺,金色堂に合祀された賢治

 昭和三十四(一九五九)年、中尊寺は藤原三代公の遺体をおさめた金色堂に宮沢賢治を合祀した。
 中尊寺ではその日、哲学者谷川徹三氏を招き、金色堂の近くに設けられた賢治の詩碑「中尊寺」の除幕式が行われた。
 谷川は本堂での講義で賢治の詩「われはこれ塔建つるもの」を朗読した。

 手は熱く足はなゆれど
 われはこれ塔建つるもの
 滑(すべ)り来し時間の軸の
 をちこちに昇ゆくも成りて
 燦々(さんさん)と闇(やみ)をてらせる
 その塔のすがたかしこし

 熱にうなされながら賢治は書いた。密やかな祈り、自戒のつぶやきである。それは暮らしの中で、めいめいが心に塔を建ててはしいと求める法華教の精神である。
 「谷川徹三氏はそのように語りました」。佐々木邦世中尊寺仏教文化研究所長は賢治と中尊寺の深い縁を明かした。
 除幕式の後、薗実円貫主ら一山の僧たちは金色堂に入り、予め決めてあった式次第に従い、賢治の霊を合祀し、供養した。
 知られざる中尊寺金色堂の史実である。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に」 藤原書店



nice!(1)  コメント(0) 

日本の原風景を読む №42 [文化としての「環境日本学」]

宮沢賢治の海-石巻 1

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

形あるものが消えた時、言葉とは

 東日本大震災と東京電力原発のシビア事故は、人類史上空前の環境破壊事件である。地震、津波、放射能によって被災地の「自然環境」と「人間環境」は壊滅した。
 形あるものはことごとく破壊され、無形の「文化環境」が人々の心に残った。私は、私たちは何者であるのか、どこから来て、どこへ行こうとしているのか。己れのアイデンティティを確かめることが、被災地にとどまらず心ある日本人に問われている。
 被災地では軒下の段ボールの端に、瓦礫の壁に、消えた町を見下ろす寺社の境内の到る所に、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩がなぐり書きされていた。とりわけ、津波に直撃されて解体作業の受け入れを意思表示した人家の壁に、時には張り紙にしてこの詩の一部が記されていた。人々は瓦礫の街、故郷を去る間際に、賢治の「雨ニモマケズ」を思い浮かべたのである。
 被災地に狼火のように明滅する「雨ニモマケズ」の詩の断片の背後にある被災者たちの心情が、谷川俊太郎の詩「言葉」に活写されているように思える。

  何もかも失って
 言葉まで失ったが
 言葉は壊れなかった
 流されなかった
 ひとりひとりの心の底で
 言葉は発芽する
 瓦礫の下の大地から
 昔ながらの訛り
 走り書きの文字
 途切れがちな意味
 言い古された言葉が
 苦しみゆえに蘇る
 哀しみゆえに深まる
 新たな意味へと
 沈黙に裏打ちされて

 それによって暮らしてきた形あるものが消し飛ばされたとき、人は生きるよすがとして無形の存在を思うものなのか、あるいは否か。3・11が私たちに発した不可避の問いのように思える。原子炉のメルトダウンとあわせ、二大事故の連動が日本にとって文明史的な事件であり、社会規範の変化を伴う出来事とみられている背景である。
 しかし、東日本大震災から九年を経た二〇二〇年の現在も、当時直観的に予測されていた社会の「変化」は、この社会に潜在したままで、原発再稼働にみられる「復旧」のみが目立つ。首都圏直下型地震と東南海トラフ地震の向こう三〇年間の発生確率が八〇パーセントと予測されているにもかかわらず、である。

宮沢賢治と津波の海

 海に向かって壊滅した町を一望に収める石巻市の日和山公園の頂きには、震災の直後段ボールを長方形につなぎ合せて「雨ニモマケズ」の全文が黒い槽書文字で記されてあった。賢治は、死者・行方不明約二万二千人を記録した一八九六年の「明治三陸地震」(マグニチュード八・二)の二か月後に生まれた。そして世を去る半年前の一九三三(昭和八)年三月三日、約三千人の犠牲者を伴った「昭和三陸地震」(マグニチュード八・一)が起きた。二つの三陸大地震の間を生きた賢治の身体性が予見していたのだろうか、日和山公園にある賢治の碑に、あたかも津波を予感するような「われらひとしく丘にたち」の詩が刻まれている。
 明治四十五(一九一二)年五月二十七日、賢治が中学校四年の修学旅行の折に、北上川を川蒸気で下り、石巻の日和山から生まれて初めて海をみて強い感動を受け、その折の印象をこのように詠んだ。

 われらひとしく丘にたち
 青ぐろくしてぶちうてる
 あやしきもののひろがりを
 東はてなくのぞみけり
 そは巨いなる盤の水
 海とはおのもさとれども
 博へてききしそのものと
 あまりにたがふここちして
 ただうつつなるうすれ目に
 そのわだつみの潮騒の
 うろこの国の波がしら
 きほひ寄するをのぞみゐたりき
 苦しみ、もがき、希望を失わず生きる

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店


nice!(1)  コメント(0) 

日本の原風景を読む №50 [文化としての「環境日本学」]

蘇る宮沢賢治-花巻 2

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛
 
宗教と科学へ — 井上ひさしの戒め

 二〇一四年三月、花巻・遠野への合宿に備え、早稲田環境塾は石井正己東京学芸大教授に、『遠野物語』と『銀河鉄道』からのメッセージ、を課題に講義をしていただいた。
 石井教授は、『銀河鉄道の夜』と『遠野物語』の両方を見据えられたただ一人の人は井上ひさしである、彼は柳田園男、宮沢賢治の両方を見ながら、それを評価しながら超えていこうとした唯一の人物であろうと指摘し、次のように述べた。
 ― 一九八〇年に彼は『イーハトーボの劇列車』という戯曲を書きます。これは宮沢賢治を主人公にしたものですが、その中で宮沢賢治を非常に愛読してきた、ただ愛読し賞賛するだけではない、宮沢賢治との格闘というのが出てくるわけです。たとえば前口上でこんなことを言っています。
 「これからの人間はこうであるべきだという手本、その見本の一つが宮沢賢治である気がしてなりません。必要以上に賢治を持ち上げるのは避けなければなりませんが、どうしてもそんな気がしてならないのです」。
 「科学も宗教も労働も芸能もみんな大切なもの。けれどもそれらをそれぞれが手分けして受け持つのではなんにもならない。一人がこれらの四者を自分という小宇宙の中で競い合わせることが重要だ。賢治全集に勝手気ままに補助線を引いて彼の思い残したことを私なりに受け継ぐなら右のようなことになるのではないかと思います。つまり宮沢賢治を持ちあげるとか賞賛するということだけではなくて、賢治は三十代で亡くなりますから、賢治が思い残したもの、それこそ受け取るべきものだ。この作品の中では、死んでいった人が渡す思い残し切符というのが出てきます。まさにその切符を受け取る必要があるだろうと、そう言うのですね。あらゆる意味で、できるだけ自給自足せよ、それがあって初めて他と共生できるのだよ、そうしないと、科学が、宗教が、労働が、あるいは芸能が独走して、ひどいことになってしまうよ。賢治がそう言っているように思えて仕方ありません」。
 宗教が独走してしまうとオウム事件みたいなものが起きるでしょう。科学が神話になって独走してしまえば、原発事故のようなものも起こるでしょう。ある種の共生といったものの難しさを、井上さんは賢治の中から嗅ぎとっているんですね。

諮り継ぐ文化としての風寮

 風景、文化はどのように継承されていくのだろうか。
 賢治が教壇に立った県立花巻農業高校の広々とした芝生の構内に、賢治の旧居(羅須他人協会)が移設され、多くの訪問者を迎えている。賢治が作詞した「花巻農学校精神歌」の一節、「ワレラヒカリノ ミチヲフム」と大書された看板が架かる木造二階建ての校舎から、多くの生徒たちがスケッチブックを手に、賢治の旧居と傍らの賢治立像の写生に向かう。歩む路傍に賢治の詩の一節を刻んだ石碑が。

 われらに要するものは
 銀河を包む透明な意志
 巨きな力と熱である……

 卒業生の多くは岩手大学農学部へ進学する。

 岩手大学(盛岡市、藤井克己学長)の卒業式が二〇二二年三月二十二日、同市の県民会館で行われた。四学部計二三五人が学生生活の財産を胸に、自身に与えられる使命を全うすることを誓った。
 卒業生、保護者ら約二二〇〇人が出席、藤井学長は各学部代表に学位記を渡し、「本学ゆかりの宮沢賢治は〝祈る″だけでなく、修めた農学を『みんなの本当の幸い』のために〝実践″した」と紹介。「学びや活動、経験の全てが人生の糧となり、花開くことを信じる」と激励した。
 四月から農水省に勤務する農学部の五日市真里衣さんは卒業生を代表し、「農村振興を仕事に選び、海水にまみれた農地を実りの大地へと蘇生するのも自分の使命。賢治先生の、幸福とは何かといった問いに自分らしく答えていきたい」 と述べた (『岩手日報』二〇一三年三月二十三日)。
 ちなみに花巻市内の小中高校には、賢治のいしぶみ(碑文)が多く見られる。「虔十公園林」(桜台小学校)、「農民芸術概論」(花巻中学校)、「ポラーノの広場」(花巻北高校)、「農民芸術概論」(花巻農業高校)、「花巻農学校精神歌」(花巻農業高校)。岩手県内では岩手医大、雫石高校、黒沢尻高校に賢治の詩文を記した石碑がある。
 内陸の民話の里遠野の県立遠野高校の庭に卒業生たちが建てた石碑がある。

 世界に対する大いなる希望をまず起こせ
 強く正しく生活せよ
 苦難を避けず直進せよ     (宮沢賢治『農民芸術論』より)

文化としての風景が鮮やかに伝えられている光景である。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店


nice!(1)  コメント(0) 

日本の原風景を読む №49 [文化としての「環境日本学」]

蘇る宮沢賢治-花巻 1

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

「賢治の家」を訪れた人々

 東日本大震災の直後から、岩手県花巻市にある宮沢賢治記念館、県立花巻農業高校の「賢治の家」を訪ねる人がともに増えた。備え付けのノートに記された訪問者の所感から、賢治の詩「雨ニモマケズ」が人々の心を奮い立たせ、救援活動に向かわせた様子がうかがえる。賢治の遺志で仏教の経本が埋められた丘の頂にある記念館から、賢治の作品の舞台となった眼下の光景に見入る人々が絶えない。
 「賢治の家」の訪問帳に、京都府宇治市から岩手県大槌町に救援に向かった、男性とみられる六十五歳の人物の所感が記されている。

 5/22
 午後12時半、小学生の時より頭の中に練り込まれた詩、雨ニモマケズ、風ニモマケズ……
 三月の東北大地震、大津波、自分が初めて東北・岩手に来る機会がこんな大変な時になって、まず脳裡に映ったのが、
 雨ニモマケズ……丈夫ナカラダヲモチ、東ニ……
 岩手大槌の山の中にテントを張り、三〇日間働かせてもらいました。
 そして多くのものをいただきました。人生観そのものも大きく変り、結局は自分とは、他者とはなんだ!という事を深く考えさせられました。そして岩手を離れるに当たって宮沢賢治さんの仕事部屋、勉強部屋を見せていただき有難く思っています。
・…‥ケッパレ東北、ケッパレ岩手!   (京都・宇治 六十五歳 T・K)

「東に……」 の部分は次のように加筆できる。
 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ     のはらのまづのはやしのかげの
 小サナ菅ラキノ小屋ニヰテ  ちいせかやぶぎのこやさいで
 東二病気ノコドモアレバ   ひがしさぐえわりやろいだら
 行ッテ看病シテヤリ     えってめんどうみでやって
 西ニッカレク母アレバ    にしさこえぐなたかかがいだら
 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ   えってそのいねのたばしょって
               (宮沢賢治記念館・牛崎敏哉学芸員)

デクノボーへのあこがれ

 「雨ニモマケズ」の〝サウイフモノ(者)″(デクノボー)は、災厄の傍らに「行く」ことを切望する。
 東に病気の子どもあれば、南に死にそうな人あれば…:・と続く。
 東日本大震災と東京電力福島原発メルトダウン事故で壊滅した三陸の海岸域には、およそ一二〇万人がボランティア活動に赴いた。T・K生の原像である。デクノボーとは、多くの日本人が心底に養い伝承してきた生き方の美学ではないだろうか。
 宮沢賢治は農芸化学の専門科学者、技術者であった。同時に、父親譲りの信仰心の篤い法華教徒でもあった。科学と宗教が同一人に体現された人格をはぐくみ、「みんなのほんとうのさいわい」を求めてイーハトーブ(理想像としての岩手県)に到る。その願望を込めた詩「雨ニモマケズ」が、この緊急時に人々の心の拠り所となっている社会現象を、私たちはどのように理解したらよいだろうか。
 「雨ニモマケズ」にこめられた、賢治の思いを読み解く手がかりとなるのは、キーフレーズ「みんなにデクノボーとよばれる」存在である。
 童話「虔十公園林」の主人公、虔十にうかがえる「デクノボー」の原型、モデルを賢治は誰に見出していたのだろうか。重病の床で手帳に記された「雨ニモマケズ」の終句、すなわち「サウイフモノニ ワタシバナリタイ」 に続けて
  南無無辺行菩薩
  南無上行菩薩
  南無多宝如来
  南無妙法蓮華経
  南無釈迦牟尼仏
  南無浄行菩薩
  南無安立行菩薩
と記されている。それは「法華経」の文言で、原文の文字の配列どおりに図示すれば、中央に一段高く置かれた法華の本尊の右傍を固める上行、無辺行、左側に侍る浄行、安立行の四菩薩に他ならない。四菩薩は大地から湧き出した無数の菩薩たちのリーダーとして法華経の流布教化を司る菩薩である。
 法華経に釈迦の高弟常不軽菩薩が登場する。すべての人々に仏性が宿ると、ことごとく他人に向かい合掌礼拝し、世間の攣塵をかう。お人よしのいささかノロマな人物とみられたのであろう。しかし釈迦はその資質を見抜き、高弟に招いた。
 デクノボーとは常不軽菩薩に他ならない。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店


nice!(1)  コメント(0) 

日本の原風景を読む №48 [文化としての「環境日本学」]

塩の神様への畏敬-塩竈神社 

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛                 

 海の労苦を背負う捜土老翁神

 『古事記』、『日本書紀』に由来する神話が宿る塩竃神社の野口次郎禰宜は、その瞬間、凶暴で鳴る須佐之男命(スサノヲノミコト)の乱暴狼籍を目撃した心境になったと顧みる。直近の塩釜湾から立ち上がった真っ黒い水の壁が人家を蹴飛ばし、田畑を一瞬に消し去った。「丁寧に作ってきた田や畑、ビニールハウスが押し寄せる津波に一瞬に飲み込まれていくさまに、須佐之男命の蛮行を嘆き悲しむ天照大神を思いました」。

 塩竈市中心の高台に鎮座する塩竈神社に、東日本大震災直後大勢の氏子が集い、恒例行事に代えて復興祈願が行われた。主神は「おらが塩竈さん」と親しみ呼ばれる塩の神様「鹽竈土老翁神(しおつちおじのかみ)」である。野口次郎禰宜が語る。
 「イメージは白い顎髪をたくわえていて、知恵の深い、物をよく知る、民を守ってくれる老翁です」。
 暑い盛りの七月四日から六日にかけ、塩竈神社で塩竈の町の名前の由来にもなった旗作りの祭り「藻塩焼神事」がとり行われる。鹽土老翁神が塩を作ったと伝えられる四つの神釜に一年間溜めておいた海水を、新しい海水と入れ替え、窯に火を焚いて塩をつくる。天変地異が起こるときには、水の色が変わると言い伝えられている。釜社守(かましゃもり)の目視によると、「今度の大震災の前に海水がおかしな色に変わりました」(野口禰宜)。伊達藩の時代は、神釜の水色を見守る記録係がいた。
 多くの灯篭が倒れたが「塩竈さん、以前の通りだね。ほっとした、とか気持ちが前に戻れた、とか、そういう言葉を漏らす参拝の方たちに多く接しています。神社の境内で見る風景が、以前と同じであるということが、被災者たちの心の救いになっているように思えます」(野口禰宜)。
 塩竃神社の社殿構成は特殊である。盤上老翁神、武餐槌神(たけみかつらのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)三柱を祀るが、主神である竈土老翁神の拝殿は正面ではなく右側に祭られている。
 神社の社殿は普通南向きに建てられるが、塩竈神社の拝殿は西向きに、海に背を向けている。野口禰宜はその理由を説明する。「神社の本殿は三つ、拝殿が二つあります。主神である竈土老翁神の拝殿は、海に背を向けて立っている。地元の人は海から上がった竈土老翁神が、そのまま海の苦労を背負っていてくれている、という言い方をします。この地方では津波のたびに、鹽の神様が千々に乱れた世の中を収赦し、鎮めることの繰り返しだったと思います」。
 人間が中心ではありえない、知を超えたところに我が身を置く。救いを求める。頼む。祈る。「見えない何か」と対話する。祈りの核心である。

暮らしの智恵 ― アニミズムとマナイズム

 風景論の第一人者で環境庁参事官をつとめた大井道夫氏は、文部省(当時)が主催した「文明問題懇談会」(昭和五十~五十一年)での文芸評論家山本健吉の見解を次のように紹介している。
   - 文学や芸術にあらわれた日本人の自然観の際立った特徴は、古代人が持っていたアニミズムとマナイズムである。アニミズムとは自然の中に霊魂を見ることであり、どちらかと言えば人間と自然の親密感を表すものである。マナイズムとは自然の中に超自然的な威力を感じることであり、それは自然に対する人間の畏怖の念をあらわすものである。古代日本人はこの両者をもっていたが、時代の経過とともにそれを失ってきた。とくに、明治以後、欧米文化が移入されるとそれらは迷信として排斥されるようになった、と山本氏は述べ、次のように指摘している。「しかし、単に迷信として捨ててしまっていいものかどうか、むしろそれは日本人が古来生きるための大変な知恵じゃなかったか、そういう考え方が、人間の生活を快適に暮らせてくれたんじゃないか。そういうプラスの面を考えていいんじゃないか。      (『大井道夫著作集』二〇〇ヒ年)

祭りは地域の尊厳

 神社は神を祭るのにふさわしい小高い所や森の奥に建っているので、多くの社は津波を免れた。しかし東日本大震災では一七九の寺院、三〇九の神社が全半壊し、住職三人、神官八人が死亡、行方不明となった。しかし壊滅した海辺の集落から残存した神社を足場に、尺取虫のように人々の動きが地域に広がっていった。最初にアニミズムとマナイズムをないまぜにした民俗芸能「祭り」が復活の動きをみせた。神輿や山車が修復され鹿踊り、虎舞、神楽が数少ない踊り手によって舞われた。
 浜辺の人々の多くが、神への奉献に由来する数々の神事に、地域立ち直りの手がかりを得ようとした。岩手、宮城、福島の三県で神楽、獅子舞など民族芸能が八百件、七夕、火祭りなどの祭祀行事約五百件が伝承されている。その理由はそれらが人々の絆を結び、心のよりどころとなっているからだ。
 脚本家内館牧子さんは仕事を休み、東北大学大学院で三年間宗教学を学び、祭りを追って東北の各地を巡った。
  ― 私はかって歩き回った地や、追いかけた祭りを思った。美しい山々や、豊かに広がる田畑を思い、そこで生きる人びとの笑顔や優しさを思った。そして、ハッキリとわかった。
 東北にとって、「水」と「緑」と「祭祀」は、尊厳に関わるものなのだと。この三つを無視する復興策を進めたなら、それがいかに利便性に富み、最新の町であろうと、東北ではなくなる。東北の尊厳に関わる部分に触れることは、断固として拒否しなければ、町は死ぬ。巨大な観覧車が夜空をかき回す景観や、万博会場のように整備されつくした町は、東北とは相いれない。私はそう思い復興構想会議でも言い続けた。
 驚いたのは、震災からほどなく、東北の人たちは、祭りの復活を目指したことだ。大切な人を亡くした悲しみも癒えず、ガレキも片付かず、放射線の状況に一喜一憂する中でも、祭りを準備する動きが出始めた。それは紛れもなく「尊厳に関わること」だと証明していた。たとえ一基の山車であっても、一人の雌子方であっても、町々で復活した。
 震災から三回目の夏、ぜひ東北の祭りを見ていただきたい。大きくよみがえったそれには東北の尊厳に全国の尊厳が重なる。全国の我が地、我が祭りの尊厳が宿っている。
                   (『朝日新聞』二〇一三年七月十八日「発言」)
 
 地域に潜在し受け継がれてきた日本文化の基層が、大震災によって鮮やかに掘り起こされ、人々の心をつなぎ、共有されているようだ。海の労苦を背負って立ってくれている軽土老翁神への畏敬は、歴史に鍛え抜かれた日本人の心の原風景像であるといえよう。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店



nice!(1)  コメント(0) 

日本の原風景を読む №47 [文化としての「環境日本学」]

心を映す風景 ― 東北の浄土、中尊寺 2

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

不慮の死を弔う

 --鐘声が、みちのくの地を動かす毎に、冤霊(えんれい)をして浄刺に導かしめん。
 中尊寺供養願文は天治三(一一二六)年三月、中尊寺大伽藍の落慶供養に奉納された。
 起草したのは藤原敦光、天皇の側近であった。
 「鐘楼の大きな鐘の音は千界を限らず、果てし無くどこまでも響き、その鐘の音の功徳はあまねく皆平等で、『官軍夷虜(かんぐんいりょ)』、官軍も辺境の捕虜も区別はない。人は誰でも死ぬ。鳥も獣も魚も、命あるものはみな死は免れない。その魂は他界(あの世)に去り、朽ちた骨だけがこの世の塵となる」。

 「争いを止めなさいという、戦争否定、非戦の思想が中尊寺の落慶供養の願文の中に述べられています。前九年後三年の長い長い戦い、それからさらに三年、この地方は蝦夷といわれ、道の奥であるがゆえに大義名分は常に都の側にあった。それにそぐわない、先行きが分からない存在だからという不安材料でもって都から攻められ、抵抗したからといってまた攻められました。この状態からようやく生き延びた清衡が、多くの人々の亡くなった霊を『冤霊』と表現しているのです」 (佐々木邦世住職)。

— どのような文字を。
住職 冤罪の「冤」は、兎(うさぎ)なんですね。いわれのない網にかけられたウサギが、ぶるぶる震えている象形文字だそうです。清衡の思いを込めた造語です。
— 故なくして命を落とし、落とされた思いを残しながら亡くなった人々の霊ですね。清衡は自身が覇権争いの渦中で家族は皆殺しに遭いました。
住職 多くの人々は自分の意思とは係わりのない場面で、突然網をかけられ命を奪われた。
ぱっとかけられたいわれのない網、そういう人の争いの中で命を失った人々を敵味方の区別なく弔う。そこが中尊寺が靖国神社とは違うところです。「官軍夷虜」、官軍も辺境の夷虜にも区別はない。

 世に知られていない事実であるが、中尊寺金色堂には藤原三代公の霊と共に、宮沢賢治の霊が合祀されている。昭和三十四年金色堂の傍らで、賢治の詩碑「中尊寺」の除幕式が行われた。その直後、薗実円買主始め一山の僧侶たちが金色堂に入り、式次第に従い賢治の宝を合祀し、供養した。この時代にあって宮沢賢治とはそのような存在なのだ。

海に祈る

 中尊寺からも多くの僧侶たちが東日本大地震の被災地へ向かい犠牲者たちと対面した。
 「何ができる、してあげるじゃなくて、一緒に手を合わせることしかないんですよね。手を合わせていると、最初の日の午前中にみなさん『ここに何しに来た』というような顔をしていたんです。でも、午後になって行ったら、そこにいるのは構わないくらいのことなんです。次の日は一緒に、三日目にはもう待っていてくれて、こっちまで拝まれるくらいになって。やっぱり一緒に気持ちを形で表すから、これはもう合掌する以外にないんですよ。それは『南無妙法蓮華経』と言おうと、『南無阿弥陀仏』と言おうと、どちらでもいいんです。とにかく海の方に向かって皆で一緒に拝む」(佐々木住職)。
 佐々木邦世住職は、被災地のガレキの合間に、何かを探している人々をしばし見かけた。
 「何か、物を探しているんじゃないと思うんですね。何を探すか、を探しているんじゃないか、と思うんですね」。
 形あるものがことごとく粉砕され、消失した巻で、人々は形のない価値、生きる拠りどころを探しあぐねているように思えた。

臨床宗教師の登場

 3・11直後の二〇二年五月七日、仙台市内のキリスト教会の神父と仙台仏教会の僧侶たちが宗派、宗教のワクを超え「心の相談室」発足の集いを東北大学で開いた。
 発起人は仙台市民教会の川上直哉牧師である。
 川上牧師は朝日新聞のインタビューに、心の相談室の開設に到るいきさつを語っている。

— 当初はいわば生者のための支援でしたが、やがて膨大な死者とその遺族のことを考えなくてはならなくなりました。身元不明のまま埋葬される人々、弔いさえできず自責の念に苦しむ家族。ある医師に「今ほど無力だと感じる時はない。これは宗教の領域ではないか」と言わ れたのです。
 「宗教にできることがある」と伝えたい。その一歩として「心の相談室」を支える会が発足し、活動を仙台以外にも広げることが決まりました。日本人と宗教の関係が変わるきっかけになればと思っています。    (『朝日新聞』二〇二年五月二日朝刊)

 「心の相談室」は東北大学宗教学研究室に事務局を設けた。教えを説くのではなく、現場で被災者と対話し、心のケアを試みる宗教者の専門職「臨床宗教師」の養成へと向かった。二〇一二年、東北大に実践宗教の寄付講座が設けられ、修了者たちが現場を目指した。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店



nice!(1)  コメント(0) 

日本の原風景を読む №46 [文化としての「環境日本学」]

東日本大震災の現場から

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

 『毎日新聞』に「新日本の風景」を連載中の二〇一一年三月十「日、東日本大震災が発生し、死者一万五八五四人、行方不明三〇八九人(二〇一二年三月二十八日時点)を数えた。東京電力福島原子力発電所の炉が連動して炉心熔解の大事故がおきた。放射能汚染のため三四万一四一一人(二〇一二年一月、政府発表)が居住所から脱出、退避を強いられた。文明史に刻まれた大事件、環境破壊事件である。事件の衝撃、負荷は二〇二〇年の現在もなお社会に重圧を加え続けている。
 『毎日新聞』朝刊に連載中だった「新日本の風景」は、取材現場を急遽東日本大震災の現場と周辺に切り替え、記事の核心を「文化としての環境日本学」の探求に定めた。取材グループのほぼ全員が、二〇〇八年以来「文化としての環境日本学」を探求していた早稲田環境塾の塾生であることがその背景にあった。破断された地域社会で、人々は何を心のよりどころにして、どのような行動に出たのか、を取材の主題とした。
 極限の危機に陥って「ゆずれないもの」、自分がなにものであるのか、「アイデンティティ」を被災者と支援者たちは自らに証明することを迫られたからである。
 明らかになった第一の事実は、「雨ニモマケズ」の宮沢賢治の人間像への渇望である。神仏への祈りと連動して、祭祀の復活への意思が第二の共通現象となった。
 「蘇る宮沢賢治」「宮沢賢治の海」は前者に、「心を映す風景」「塩の神様への畏敬」「3・11と魂の行方」は後者の現場と関連する。いずれも日本(東北)文化に潜在している基層が顕在化した現象ではないだろうか。
 地震の破壊エネルギーは地殻変動という科学的事実である。それは人間の側の事情にはかかわらず間断なく進む。人間の生死同様、不可避の自明の理である。自然は自らの論理を科学的に貫徹する。政府の地震調査委員会は、二〇一八年六月、今後三〇年間に震度6弱以上の揺れに見舞われる確率を地域ごとに公表した。東京、横浜、千葉などが確率最高レベルの「二六~一〇〇パーセント」とみなされた。トラフ型地震と直下型地震がその原因となる。いずれ遠からぬ日に、首都閣内にとどまらず全国域で3・11の混乱が再現されよう。その時社会は、人心はどのような状況におかれるのだろうか。心構え、覚悟が既に必要な時である。先行した3・∥現場の風景を記す理由である。

心を映す風景 ― 東北の浄土、中尊寺

鎮魂と非戦
 比叡山の基礎を築き、一〇年に及ぶ在唐日記『入唐求法巡礼行記』を著した第三代天台座主慈覚大師円仁(七九四~八六四)による開山(八五〇年)以来、時を刻む杉林の闇を抜けると急に視界が開け東物見台へ。桜、もみじの明るい木立を過ぎ、天台宗東北大本山中尊寺の表参道月見坂は、本坊を経て金色堂へ至る。西行が、芭蕉、賢治、斎藤茂吉らがこの道をたどった。
 ユネスコ世界遺産委員会から「普遍的な意義を持つ浄土思想」と評価された、西方極楽浄土の阿弥陀如来座像が、無限の光明をたたえて金色堂内陣(蓋)に在り、東日本大震災にも微動だにしなかった。
 奥州藤原三代の祖清衡(一〇五六~一一二八)が、前九年後三年の戦乱で殺害された親、妻子、戦乱の犠牲者の霊を敵、味方問わず慰め、「鎮護国家の大伽藍」としての思いを込め造営した(一一二四年)。
 中尊寺鐘楼の鐘の音は鎮魂と平和、非戦を祈願して柔らかく深い余韻とともに響く。鐘の撞座が窪むので、ほぼ一一百年経つと撞座を移していく。既に一巡したので、現在は鐘を突くのを正めている。世界文化遺産への登録に先立ち、ICOMOS(国際記念物・遺跡会議)のジャガス・ウィーラシンパ審査委員が調査に訪れた。
 「『鐘声がみちのくの地を動かす毎に、冤霊(故なくして命を奪われた人々の霊)をして浄土(寺)に導かしめん』(中尊寺供養願文)の思いをこめ、9・11ニューヨークテロ翌年の元旦に、犠牲者の鎮魂と非戦を祈念して鐘をつきました。その音色がNHKを通じてアメリカに伝えられたことを話すと、ジャガス氏は深くうなずきました」(中尊寺仏教文化研究所・佐々本邦世所長)。試みに鐘をついたジャガス氏は、もう一回、もう一回と三回鐘をついた。佐々木所長はその時「世界遺産中尊寺」を確信したという。鎮魂と非戦。中尊寺の祈願を日本と世界は、今痛切に共有している。

『日本の「原風景を読む~危機の時代に」 藤原書店


nice!(1)  コメント(0) 

日本の原風景を読む №45 [文化としての「環境日本学」]

コラム

 早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

温泉人の心意気
 一月二十四日は井上靖の「あすなろ忌」。地元の人々が加わる「しろばんば劇団」が二〇年間、『しろばんば』の名場面を上演し続けている。一日から四日は伊豆文学まつり。『しろばんば』の「洪作少年が歩いた道」の文学散歩を試みる。旅館白壁荘の主、宇田治良さんらの世話によるものだ。
 純白の漆喰に黒格子のなまこ壁が映える閑静な白壁荘に、井上靖はしばしば滞在し作品の構想を練った。
 宇田さんの祖母喜代さんは、近くの老舗旅館湯本館で川端康成の面倒を見た名物女将安藤かねさんの妹である。
 宇田さんと井上靖は親類で、東京在住の井上と地元とのつなぎ役を宇田さんがつとめた。白壁荘の一室「せんせいの間」に滞在した有名、無名の作家、学者、評論家たちが合わせて約三百冊もの本を書いた。お金がままならない人々に、いわば出世払いを認めた初代経営者宇田博司の配慮による。
 昭和二十八年、湯ケ島の街道筋で土産物屋を営んでいた博司が、逗留中の学者に「どうしたらお金が儲かるか」問うた。「私は金儲けのために経済学を学んでいるのではない」。経世済民を説く学者の気概に応え、博司は一室を志ある人が原を書く部屋に充て、「砂利部屋」 と名付けた。「せんせいの間」 の前身である。
 治良、倭玖子夫妻は「湯道」をたどった文人たちの足跡を、作品にちなんだ色彩で記す地図づくりを考案中だ。「たとえば『樟標』の作家梶井基次郎は黄色い線で。
 「湯道」― 美しい響きをもつ温泉への道は、井上靖の「白」の一筋を中心に、虹色に彩られるはずだ。

直感文化の粋
 三春の寺町不動山の山麓、臨済宗妙心寺派福聚寺(ふくしゅうじ)に作家、玄佑宗久さんを訪ねた。
 桜と日本人の心について聞いた。福聚寺は三春城主田村大膳大夫の菩提寺として知られている。玄佑さんは生家でもある福衆寺の第三十五世住職である。二〇一一年、政府の東日本大震災復興構想会会議の委員をつとめた。

  — 永正元年(一五〇四年)豪族の田村氏が三春城を築き、街づくりにとりかかって以来、藩主は滝桜を「御用木」と定め、枝の回り三畝(約三〇〇平方メートル、米の収穫量にして三斗二升五合に相当)の地租を免じたとのことです。桜を大切にするよう求め、最初の花が開いたら、早馬で知らせるように命じたと伝えられています。
 以後歴代の城主は神社、仏閣と藩政の拠点四八か所の館とを結び、同心円状に桜を植えたようです。ベニシダレザクラによる街づくりという壮大、華麗な計画です。
 福聚寺の境内にも滝桜の子孫とみられる五本のベニシダレザクラがあります。桜の数はいま三春が日本一です。およそ一万本。そのうち二千本がベニシダレザクラ。「種蒔き桜」というのもあります。そのサクラが咲くころ畑に作物のタネ、苗を植えます。講に加わっている人たちがこの木と決めて、何本かの桜の開花日をカレンダー上で賭けて競う、秘めたる楽しみもあります。
 動物=人間はより好ましい環境を求めて動き回ります。しかし植物=桜はこの地に生きる、この地の環境に自分を適応させて生きています。
 滝桜にしても鬱蒼とした夏の葉桜と葉を落とした冬とでは全く違う生き方をしているのです。人間は自分の体の外側に別の世代を生み出し、命を継承していきます。滝桜は体内に幾世代にもわたりファミリーを形づくる機能(不定根)を宿しています。数百年を経た老木に咲く花と、若木が初めて咲かせたみどり子のような花びらを顕微鏡でのぞいても、まったく区別がつかないそうです。
 若い衆に花を持たせて支えているお年寄りみたいな関係がみられます。
 西行も宣長も世阿弥も桜のたたずまいに託して、自らを桜と同化することによって、ものごとの本質を深く感知する直観「もののあわれ」を表現し、私たちもそこに感動を共有することができます。桜と私たちは日本の直観の文化を継承しているのです。

駒跳ねる、デコ屋敷
 三春、郡山では江戸時代が起源の「デコ屋敷」と呼ばれる民芸品の工房・売店が四軒営まれている。デコとは木彫りの人形木偶のことだ。
 名物の三春駒、張子人形と並んでダルマ、三春太鼓、ひょっとこの祝い踊り面など縁起物で賑わっている。
 橋本高宜さんはデコ屋敷「彦治民芸」の十代目築四百年の堂々たる茅葺屋根の工房で三春駒づくりの手を休めない。直線と面を組み合わせた単純明快な馬体と洗練された彩色への評価は高い。
 「民芸品への世間の関心が高かったのは昭和五十年代まででした。会津や温泉場に持っていくといくらでも売れました。客の世代が交代し、携帯電話が普及するにつれ、民芸品の人気は下火になり、デコ屋敷に撤退というわけです」。橋本さんは「庭先いっぱい赤いダルマを並べていた」当時を懐かしむ。三春駒の由来は坂上田村麻呂東征の伝説による。
 ホオノキに彫り、黒く彩色された三春駒は、江戸時代から子どもの守り神に。
 さらば老後の守りに、と橋本さんの父彦治さんは昭和二十七年から白い馬体の三春駒を制作し始めた。「若い人に伝統工芸のよさを知ってもらえたら」。デコ屋敷に陣取り、自らの作品に囲まれ、橋本さんは三春駒づくりに打ち込んでいる。

張子人形に想いを
 使い古した一枚板の工作台の向こうに、チョウナの削り跡が躍り、年を経て黒光りするヒノキの柱が。荒壁にがっしりと筋違(すじかい)が交差する。雪の重さにも地震にもしっかり耐えるつくりだ。
 雪見障子越しに年を経た一本の桜が。
 「滝桜の孫です。百歳、この家と同じくらいかな」。張子人形への絵筆を休めることなく小沢宙さんは語る。
 祖父太郎、父小太郎さんを継ぐ三春人形三代目の作家。京都の仏師について二年間仏像の型彫りを学び、帰郷。「小沢民芸」 は伝統の三春張子人形の中で、江戸時代の末期に最盛期を迎えた人型(ひとがた)人形を製作している。「江戸、元禄時代豪商に育まれ、庶民に継がれた、無限の遊び心の表現と伝えられています」。
 木型を彫り、和紙を膠で重ね合わせ、貝殻が原料の白色顔料、胡粉で素地を整え、絵の具で彩色していく。買い手は民芸品の愛好家、人形収集家、客の注文を受けての創作晶も。「もっと腕が上がってきたら、桜をモチーフにした作品を、と考えています」。
 父小太郎さんが製作した人形の表情が、娘の宙さんに似ているともっぱらの評判だ。
 「子どものころから父の人形づくりを見てきました。三春の自然のなかで、こういう暮らし方もいいだろうと感じています」。
 父と祖父の傑作人形が、工房の宙さんを見守っている。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店

 

nice!(1)  コメント(0) 

日本の原風景を読む №44 [文化としての「環境日本学」]

女神舞う、花の大滝 ― 三春

 早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

祈り拝げる人々
 空と大地を敢然と紅に染め、樹齢千年日本一巨大な紅枝垂れ桜(ベニシダレザクラ)、福島県三春町の「三春滝桜」が花期を迎えた。
 天空に架かる花の大滝、とてつもない花の奔流である。枝垂れる枝に三輪ずつ星形に密集、華麗の極みだ。「世の中に絶えて桜のなかりせば、春の心はのどけからまし、です」。木造二階建ての古びた町役場に、開花予想をたずねる電話が引きもきらない。そして、四月中旬の一週間余に、およそ三〇万人が滝桜を訪れる。滝桜への早朝散歩を欠かさない鈴木義孝町長だが、この季節、仕事が手につかず、業平の歌に桜守の心を託したくなるという。
 「サ」は稲など穀物の霊、「クラ」は神の座を意味する。「サクラ」とは農の神が宿る所なのだ。
 「幹に接して一の祠神明宮あり。祠の傍には更に小さなる祠あり」(大正十一年天然記念物指定時の調査讐)。この形は今も変わらない。岩手県のオシラサマと同じ棒状の人形信仰(神明様)がこの土地にも伝わり、毎年四月二十日ごろに滝桜の下で神明宮祭が催される。
 「集落の氏神が自然神への信仰と習合して、神社のような形に変化してきたのではないでしょうか」(三春町歴史民俗資料館・平田禎文副館長)。訪れる人々は陰影深い滝桜のたたずまいに神の気配を感じ、祈りを捧げると述べている。

不定根が支える千年の命
 東北新幹線郡山駅の東、阿武隈川を距てた山里、福島県三春町大字滝字桜久保が滝桜の生地である。南に開けた丘の斜面から存分に太陽を浴び、北側には安達太良山(一七六メートル)をのぞむ風避けの丘をめぐらせた万全の地形だ。
 ソメイヨシノなど栽培された桜と異なり、ベニシダレザクラは長命で知られるヒガンザクラが突然変異した野生系の種である。
 人気のソメイヨシノは百年そこそこの樹命だが、ベニシダレザクラ・滝桜は、樹齢およそ千年と推定信じがたい生命力のナゾが幹の根元の、人ひとり入れるほどの空洞(うろ)に潜んでいる。
 空洞化した主幹の内壁に沿って、家の柱ほどの太さの「不定根」が幾本ももつれ合って上方から地面に届き、がっしりと根を降ろし千年の巨木に新しい生命を与え、花の奔流を支えている。そと目には丸太の支え木なしには立っておれない老木と見せかけて、内側では幾本ものからみ合った不定根から養分を吸収し、いつ果てるともない豪勢な花の宴を演じているのだ。
 不定根は本来、根ではない。老木の幹の内側の細胞が、成長促進物質の力で分裂能力を回復し形成される、いわば根以外の器官からつくられる〝根″である。植物の不定根発生能力を生かしたのが「挿木」だ。
 滝桜は組織の一部を不定根に変化させ、平安時代から千年を超え、自らその生命を新たに支え続けているのだ。
 滝桜は大正十一年、国の天然記念物に指定された。推定樹齢千年、樹高一三・五メートル、根回り一一・三メートル、地上高一・二メートルで幹回り八・一メートル。枝は東に一一メートル、西へ一四メートル、南に一四・五メートル、北に五・五メートル張り出している。積雪と葉桜、雨の重さに備え、三〇本ほどの支柱が枝を支えている。
 四月中旬から下旬が花見時。町が高台にカメラをセットし、つぼみの膨らみ具合を刻々送信、ネットで観察できる。地元の「滝桜を守る会」が、四方に伸びた根の傍らを一メートルほど掘り下げ、毎年百俵近い堆肥を施している。
 地下の配管からは、根元に空気が送り込まれ、酸素が供給されている。

寄せ切り許さぬ心意気
 四月の三春は一万本もの桜に埋まる。うち二千本が滝桜系のベニシダレザクラだ。枝垂れの枝は横に伸び、毎年新しい枝が張りだしてくる。山あいの棚田、段々畑で、桜はしばしば農作業を妨げ、目陰をつくり、減収を招く。
 そこで樹形を主幹から南側五間、左側一〇間(一間は約一・八メートル)までに抑える「寄せ切り」が、この土地の農家のルールとされてきた。
 三春町七草木舘下の農業、渡辺茂徳さんの畑には、隣り合う神社の境内の桜から枝が伸び、日陰を作る。しかし渡辺さんは「寄せ切り」をしないよう神社に求めてきた。
 「桜は神様だから傷めないようにな」。そういう渡辺さんへ、仲間たちは枝を伸ばし放題の寺の桜が渡辺さんの畑の肥料を吸収するからと、その肥料代一五〇〇円を寄付し続けている。「養蚕が盛んだったころのマルクワという肥料一俵分の値段なんだ。もうやめなと言ってるんだけど」。
 妻のあささんも滝桜の子孫のタネを一昨年は一五〇粒、昨年は三百粒播いた。しかし遺伝子の関係でベニシダレザクラに育ったのは二本だけだった。「桜が咲くころには、いろんな人がここを訪ねて来てくれて、会うと私も元気になるんだよ」。梅の氷砂糖漬け、こんにゃく、ギンナン、あささんはすべて自家製の手料理を用意して花見の客に備える。

べニシダレザクラ、世界へ
 「三春さくらの会」前会長村田春治さんは経営する植物園に三〇年かけて、滝桜直系のベニシダレザクラ八本を育てる一方、桜の苗木を生産し、国内外へ送り続けている。
 東西ベルリンの壁の跡に、ロンドンの王立植物園へ、中央アジア・ウズベキスタンの首都タシケントの抑留日本兵の墓地、そして東日本大震災の被災地を訪れたブータンのワンチュク国王夫妻の宮殿の地へ、その美しさに魅せられた人々に乞われ、三春の滝桜は遥かな旅に出て、人々の心に感動の花の滝を架け継いでいる。

  ベニシダレのこの見事さ 美しさ 背景はあやめの空と 羊雲

 草野心平の詩碑「瀧桜」が安達太良山を望む滝桜の背後を固めている。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店


nice!(1)  コメント(0) 

日本の原風景を読む №43 [文化としての「環境日本学」]

作家たちの原風景-湯ケ島

    早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

しろばんばの追憶
 伊豆は温泉に浮かぶ半島である。山奥から海際まで富士火山帯から湯が噴き出し、大温泉郷を形作っている。作家井上靖や川端康成を育て、名作の舞台となった静岡県伊豆市の湯ケ島に、作家たちが愛した天城の風景を訪ねた。
 湯ケ島温泉の年末、狩野川に面した旅館「白壁荘」の植え込みに、米粒はどの白い綿毛のようなものが漂っていた。「雪虫です。きんもくせいの木を好むようで」。主の宇田治良さんの短い言葉の間に、虫は消えていた。十月から十一月に多く現れる。
 作家井上靖は軍医の父母と離れ、祖母と二人少年時代を湯ケ島で過ごした。自伝的小説は「しろばんば」と題された。
   - 夕方になると、きまって村の子どもたちは口々に〝しろばんば、しろばんば″と叫びながら、家の前の街道をあっちに走ったり、こっちに走ったりしながら、夕闇のたちこめ始めた空間を綿屑でも舞っているように浮沸している白い小さい生きものを追いかけて遊んだ。(中略)しろばんばというのは 〝白い老婆″ということなのであろう。                           (『しろばんば』前篇)
 しろばんばが浮遊している夕闇の中で、一番遅くまで一人遊んでいた洪作少年(井上自身がモデル)。「ああ、故郷の山河よ、ちちははの国の雲よ、風よ、陽よ」(「ふるさと」)。熱烈なふる里讃歌に、悲しみの影が宿る。
 「多忙な井上でしたが、しばしば湯ケ島を訪ね、少年時代の友達と酒を酌み交わし、しろばんばの同窓会を楽しんでいました」(井上靖の親類で親交があった宇田さん)。
 「魂塊飛びて、ここ美しき故里へ帰る」。井上宅跡に建つ詩碑に、望郷の思いが刻まれている。

「湯道」をたどる
 狩野川・西平橋から激流を眼下に、「湯遺(ゆみち)」と呼ばれる林間の小路が、大滝の湯(共同湯)へ向かう。里人たちが渓谷の共同浴湯へ通う路である。
  洪作少年も渓谷に湧き出している西平の湯へ毎日のように通った。
 東伊豆町文化協会会長の岡田善十郎さんによると田山花袋、北原白秋、若山牧水、宇野千代、尾崎士郎、川端康成、三好達治、林芙美子、井上靖、木下順二らが折々に湯道をたどった。猫越(ねっこ)河畔の椎の巨木の闇の空間を、一段と暗い「巨大な闇」と表現した梶井基次郎の「闇の絵巻」「寛の話」、湯道の風景を描いた田山花袋の「北伊豆紀行文」などの作品が「湯道」から直接生まれた。
 狩野川から取水した用水が湯道と並行して勢いよく流れている。「農業、消防、生活用水に今も使われています。あれが落合楼本館です」。岡田善十郎さんが指す河畔に、作家たちのサロンだった旅館落合楼が、玄関へ到る吊り橋ともども、どっしり構えている。かっての湯道の風景は今も保たれている。
 作家川端康成はしばしば落合楼を訪ね、出入りする人々を眺めて淋しさをまざらわせていたという。
  ―― 私は落合楼の庭を通り抜けて見たり、前の釣橋から二階を仰いでみたりして、秋や冬だと、私の宿ではまあ見られない都会の若い女、女に限らず男でも、廊下を歩いたり庭にたたずんだりしているのが見えると、心安らいで自分の宿に帰るのである。
                      (川端康成 「湯ケ島での思ひ出」)

川端を支えた温泉
 川端は並外れた温泉好きだった。
 「私は温泉の匂いが好きだ。以前は乗り物を捨て坂を下って宿に近づき湯の匂いを感じると涙がこぼれそうになり、宿の着物に替えると袖に鼻をつけてこの匂いを吸いこんだものだ。ここばかりでなく、いろんな温泉町のいろいろにちがった湯の匂いよ」(『伊豆の旅』、「温泉通信」)。
 川端は豊かな医家に生まれたが、父母、祖父母とあいついで死別し、十五歳で孤児に。沈みがちだった心と生来の病弱さをかかえ、第一高等学校生だった川端は大正七年、初めて伊豆を旅し、魅了される。その後約一〇年間、女将安藤かねさんの支えを得て湯ケ島温泉「湯本館」に毎年逗留し、「伊豆の踊子」(昭和二年)を世に出した。伊豆への初旅で旅芸人の一行と湯本館へ同宿、下田街道をともにたどった体験からみずみずしい作品が生まれた。
 作家たちは天城山中のさり気ない自然と人のたたずまいを、時には川の瀬音や野鳥のさえずりさえ伴って細密画風に描いた。
 伊豆を訪れ同じ目線で接する彼らの原風景に、読者である私たちも等しく共感を覚えることだろう。

女性的な温かさこそ
 伊豆の風景を愛し、伊豆に暮らした川端康成は「伊豆は海山のあらゆる風景の画廊である」と讃えた。例えば海岸線の岩壁、植物の逗しい茂みに川端は「男らしい力」を見る。対照的に「いたる所に湧き出る温泉は、女の乳の温かい豊かさを思わせる。そして女性的な温かさが、伊豆の命であろう」と記している(『伊豆の旅』)。
 さり気ない人と自然の仔まいの懐かしい風景が、伊豆ファンをとらえて離さない。例えばJR伊東線の沿線などもその現場だ。伊豆多賀、網代、宇佐美の高台から街並み越しに垣間見える海の紺色の深さ、小さく清らかな砂浜、アジ、サバの干物の香り、人影ない漁港にたゆとう小舟、懸命な釣り人たち。海を見守る恵比寿様、竜宮様の詞へ、海岸から山際にいたる路がなおしっかりと保たれ、季節ごとのお祭りも奉納されている。網代港に揚がる魚はお隣の伊豆多賀へ、見返りに野菜が伊豆多賀から網代の人々に届く。変わらぬ風景を支え、網代、宇佐美の湯は女性の乳の温かさを思わせて湧き続ける。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店



nice!(1)  コメント(0) 

日本の原風景を読む №42 [文化としての「環境日本学」]

縄文秋田の懐へ-乳頭温泉

 早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

地から湧く湯、地に根ざす食
 遠い昔の冬の夕暮れ、縄文時代の人々もまた田沢湖畔の、この風景の中にいたのかもしれない。駒ヶ岳(一六三七メートル)に架かる月を仰ぎみて、彼らは湖(最大深度四二三メートル)と森と山の奥に神々の気配を感じとっていたのではないだろうか。
 自然の神々は突然、無慈悲に人々を襲う。だが、普段は人々の営みに限りない恵みをもたらす。例えば駒ヶ岳の北に頂をのぞかせている乳頭山(一四七八メートル)の山麓には、秘湯中の秘湯、温泉ファンあこがれの乳頭温泉郷が湯煙に見え隠れしている。チシマザサが茂る山の急な斜面から、岩の隙間から湯が豊かに湧く。乳白色の、香り高い湯にザブリとつかるとき、私たちは「あァ~気持ちが良い」とか「生き返る」「極楽、極楽」などとつぶやいてしまう。全身で大自然と一体となり、自然の奥の神々からの大きな恵みに命の蘇りを感じとっているからであろう。
 仙北市田沢湖の郷土史家、歌人の大山文穂さんは、乳頭温泉・鶴の湯の風景を詠う。

 暗き廊下に小さき土鍋音たてて湯治の姐朝の飯炊く
 渓川の瀬音枕に五日寝て心清くなりたるごとし

 このあたりの食材もまた大地に根ざしてたくましい。もともとは駒ヶ岳の森に白生している自然芋をすりおろして作った団子を鶏肉、根曲がりタケノコ、ゼンマイ、マイクケなど山野草とともに鶏ガラのスープと醤油味で煮込んだ「山の芋鍋」がその代表格だ。「ヤマイモは腰が強くすり下ろしたままで団子になり、甘い濃厚な味が出ます。熊肉はミソ鍋にするけど、そんなに美味しいもんじゃないです。うさぎ、山鳩の方がよほどうまい」(レシピを考案した用沢湖・包和会の斎藤忠一会長)。
 春はワラビ、ゼンマイ、コゴミ、シドケ、ミズい 秋はマイクケ、ムキクケ、マックケ、ハッタケ、天然シイタケ、サワボタン。猟師がいるので家庭ではよくクマ鍋を。感心するはどうまくはない。クルミ、トチの実は餅に入れていつでも。「営林署なんかにいた人が、山専門の人になっていて、山菜、キノコ、木の実、クマ、頼めばどんなものでも山のものをちゃんと採って来てくれます。上他の人は昔から山へ入って山のものを食べてきました。今もそれが受け継がれています」。斉藤さんは縄文時代さながらの、野山での採取暮らしが今も営まれていると言う。
 毎月十二日は「ヤマノカミの祭り」が。猟師、営林署員、採石人、工務店の人々が集い、神のお払いをうけ、「直会(なおらい)」を催し神と酒食を共にする。

年に四回、桜咲く角館
 田沢湖、乳頭温泉郷は、東北文化の華・角館(かくのだて)城下町にほど近い。一六〇二年佐竹氏の領地とされた角館は、ゆったりした防火上豊により武家地、町人地、寺社に区分された藩政時代の地割りを、変えることなく現代に伝えている。
 黒塀を高く巡らせた質実剛健な構えの武家屋敷(国の重要伝統的建造物群保全地区)が連なる。どの屋敷も庭内に樅と柏の巨木とシダレサクラ(国の天然記念物)を配している。「角館のサクラは年に開聞咲きます。議、着発、紅葉、それに今どきの雪桜です。冷えこむ朝、桜の枝に積もった雪がキラキラおひさまにきらめくのです」(歴史案内人・畠山聖子さん)。
 下級武士の手内職に始まる角館の樺(かば)細工は、雪の湿気を帯びた山桜(地元では樺と呼ぶ)の樹皮の伸びが良い冬が製作の盛りだ。
 茶筒、ペンダント、カフスボタンなど「魂を込めて、どの作品にも伝統の心が乗り移るように願って作ります」(現代の名工・藤村志登麿さん)。ひっそりとした工房で、熱したコテとこカワを用い、型どりしたサワグルミの経木に山桜の樹皮を貼り付けていく。
 木材の伐採や加工に携わる角館、田沢湖の人たちは、毎月ト二日を 「ヤマノカミの口」と定め、とりわけ十二月十日には餅をついて配り、神社、お寺で厄払いを受ける。押入其食の直会は盛大な酒盛りとなる。自然に生かされている感謝をヤマノカミに捧げる。ただし山の神は荒々しく、この日は猛吹雪になるという。

秋田の風土が育てる味と人
 数々の銘酒を培ってきた秋田の酒文化は、麹と発酵の秘伝技術によって味噌、醤油の醸造産業も育てた。「冬を経ないと醤油も味噌も、きりっとした味に仕上がりません」。安藤味噌醤油醸造元の安藤恭子大女将は秋田の冬を天の恵みと讃える。十一月から桜が咲く五月始めまで、角館の町人文化を代表する蔵屋敷で味噌、醤油の仕込みが続く。大豆も、米も原料はすべて秋田産。少量生産にこだわり、直売と通販にとどめている。それが風土産業の生き方ではないか、と安藤さんは考えている。
 九月七、八、九日と町内挙げて秋祭りに熱中する。男女、親子総がかりで町内ごとにヤマ(神輿)を引き、ぶっつけ合って勢いを競い合う。〝喧嘩ヤマ″なので時にはかつぎ手が命を落とす。
 「郷土愛が強いのです。ヤマを引くため私の息予は町に戻り、家業を継ぎました。今二十七歳の孫もやがてそうするはずです」。自らもきかん気のヤマ戦士だったという安藤さん。本物の秋田美人を見るなら角館のヤマ祭りへ、とすすめる。
 「娘さん、お母さん、どの家からもすごい美人たちが、キリっとした祭りの装いを凝らして集まってきますから」。
 発酵熱のため半裸になって作業をするので、女人禁制とされた東京農大醸造学科卒の女性第一号安藤さんが「取締役・大女将」を名乗るゆえんである。文武の物語を秘め、角館の冬は深まっていく。

【日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店


nice!(1)  コメント(0) 

日本の原風景を読む №41 [文化としての「環境日本学」]

コラム

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

「ええ、ぼちゃだ」
 十日町の松代ではお風呂のことを「ぼちゃ」と呼ぶ。「ええ、ぼちゃだ」。
 芝峠の温泉「雲海」の露天風呂からは、三六〇度折り重なる山並みが雲海に沈み、たゆとう風景が洋々と拡がる。近くに蓬平’よもぎっだいら)、仙納、菅刈(すがかり)など棚田の名所が散在し、温泉浴と組み合わせた「棚田ツァー」が人気を呼んでいる。
 南側に隣り合う松之山には有馬温泉、草津温泉とともに三大薬湯とその効果が讃えられる名湯、松之山温泉が七百年の歴史を秘めて、いまだ動力に頼らず自噴し続けている。
 お湯の〝味わい″は真夏の海水浴のしょっぱさと変わらない。かって海であったところが地殻の変動で閉じ込められ、海水が温泉となって湧き出している。PH9の強アルカリ泉で湯ざめせず、肌はツルツルに。薬湯として知られるゆえんだ。
 新潟は有数の酒どころ。十日町にもすっきりした辛目の地酒がひしめいている。
 温泉と酒。敗戦後の混乱期に、太宰治と並び文学ファンの人気を二分した、新潟出身の無類の酒好きにして、無頼派作家、坂口安吾の遺品などを収蔵する「大棟山美術博物館」が、松之山にある。七百年の歴史を重ねた村山家三十一代の当主が、叔父安吾の思い出の品々を公開している。安吾は学生時代から松之山をしばしば訪れていた。
 今では〝絶滅種〟となった「酒豪、無頼派」の面影を、「温泉と酒」に浸ってしのぶのも一興であろう。

信州人情物語
 民宿「信濃百年」。IT技術者から転じた高橋俊三・文子夫妻が自ら汗を流し、長い時間をかけて古い農家をゆったりした囲炉裏と広い土間を持つ原型通りに修復した。映画『阿弥陀堂だより』のロケで寺尾聴、樋口可南子夫妻の住居になった。
 1R飯山線に架かる橋の向こうに、独り住む八十五歳の婦人をそれとなく見守る高橋夫妻。時おり民宿から届くご馳走に老婦人は感謝の返歌を和紙に記し、信濃百年のあがりかまちに季節の花を添えて置いていく。
  脱サラや 都忘れの 花の里
  やさしさの 味に煮えてる 煮大根
 飯山線の一時間に一本一両、時には二両編成の電車が、信濃百年と隣り合う掘り込み式の路床を走りぬける。田んぼと森の絶景を縫う電車に宿の客が手を振る。電車は時に汽笛を鳴らして挨拶を返す。
 客が訪れない開業の初期、照岡の集落の人々は、いろいろな口実を作って信濃百年に集い、支えた。汽笛は信濃百年を囲む営みを讃えるかのように、人々の心をつなぎ、揺さぶり続ける。

猿飛佐助はアウトサイダー
 lR上田駅前広場。真田家の家紋六文銭の臓が風に鳴り、甲再に身を固めた騎馬武者、真田幸村(信繁)が突進する。大坂夏の陣で宰相が討死して四〇二年NHKテレビ大河ドラマ『真田丸』が放映された。真田氏の居城上田城は関ケ原に向かう徳川秀忠の大軍を再度阻止した名城である。
 郷土史の研究家で上田養蚕業の創始者一族の子孫、益子輝之さんは「真田丸」現象について語る。
 「忍者猿飛佐助で少年の血を騒がせた立川文庫が原点です。アウトサイダーの物語ですね。忍者にしても、下克上の三好青海入道にしても、アウトサイダー。立川文庫が評判になったのは日本で中央集権が極度に進んだ時期です。ものごとがどんどん画一化され、中央集権化されていく世相への反発みたいなものが、どこかに流れていたのではないでしょうか。上田には昔からアウトサイダー気質がある。独立自尊、権威に支配されるのを嫌がる。真田幸村とは滅びの美学です」。戦国時代、地勢上武将たちが覇権めざして行き交ったこの土地で、郷土愛に支えられ民衆の自治意識が培われた、というのである。
 「わが社の蚕糸工場用地も益子さんのご先祖が当初から無償で提供してくれました。ご本人はお茶、お花、踊りを東京で修め、勘亭流の書家、出世欲なしの市役所観光課元職員。城主松平家に由来するといわれる風流上田人の典型です」(笠原一洋・笠原工業会長)。
 益子さんのひょうひょうとした生き方に、反骨の風流上田人の面影をみている。
 益子さんは地芝居「上田真田歌舞伎」の型を指導し、自ら出演し、名女形故市川鏡十郎仕込の型を伝える。「地芝居の伝統を絶やしたくない。地方が中央に太刀打ちできる唯一のものが風情ですから」。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店


nice!(1)  コメント(0) 

日本の原風景を読む №40 [文化としての「環境日本学」]

風と水を映す信州の原風景―上田

   早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

繭倉は語る
 長野県人はことあるごとに、時にはまわりからひやかされながら、県歌「信濃の国」(浅井例作詞、明治三十二年)を歌いたがる。
 上田市の風景も登場する。「蚕飼(こがい)の業(わざ)の打ちひらけ細きよすがも軽からぬ国の命を繋ぐなり」。駅正面出入り口の内壁に趣のある「蚕神像」(繭の女神)が架かっている。
 駅前の蚕影(こえい)町通り、繭倉(まゆぐら)から、真田丸の六文銭旗がはためく上田城、さらに歩を進め千曲川・岩鼻を経て、、臨川平へ。到るところで信濃路の原風景との出会いが待っている。
 上田のシンボル「繭蔵」は、漆喰白壁の瀟洒な木造五階建て、国指定の重要文化財だ。一九〇丘(明治三十八)年に建造された繭倉の三代目当主、笠原一洋笠原工業社長が自ら案内の先頭に立つ。
 「自然の息づかいをとらえる日本人の知恵と繊細な技が、一枚の床板、窓枠に到るまで刻まれています。年間降雨量九〇〇ミリ、乾燥し、陽光があふれる土地で、環境に敏感な蚕の生理にどのように対したか。蚕棚のしつらえ方から空気と光の流れへの工夫まで、先人たちの自然との共生の思想、いのちへの接し方、感性に共感を深めずにはおれません」。敷地内の常田館製糸場や煙突を含む一五棟が、通産省から近代化産業遺産に認定されている。
 上田の養蚕業は今も健在だ。繭倉から旧北国街道をたどり、こちらも近代化産業遺産の上田蚕種(株)へ。毎年三千箱の蚕種を全国七百戸の養蚕農家と研究機関に出荷している。
 隣接の上田東高校の前身は、明治二十五年に創設された小県蚕業学校。校門脇に土井晩翠作詩の校歌碑が。「国の富増し 世を利する わが蚕業の貴きを あけくれ常に胸にして 青春の子ら励み合う」。
 丈夫で着やすく、落ち着いた色柄が特色の上田紬織もしっかりと伝えられ、市内の四工房で着物、洋服地から帽子、マフラーなどを製造、販売している。小岩井紬工房の小岩井良馬さんは、江戸時代からの養蚕農家を経て手織り業三代目。「東日本大震災の衝撃で世間の風向きが本物志向に変わりました。原点にたちかえり、上田の蚕産業を立て直したい」。

強風繭を救う
 桑の葉に幼虫を寄生させるウジバ工が発生、世界各地の養蚕業が衰退していった当時、上田では一四五軒もの養蚕農家が展開していた。街の北郊、千曲川に突出する巨大な断崖「岩鼻」がこの危機を防いだ。下流から吹き寄せる強風が、岩鼻によって向きを変え、桑畑に吹き込んで虫を吹き払っていたのだ。
 「道と川の駅おとぎの里」公園から、自然界のこの壮大な営みを間近にすることができる。
 岩鼻に隣り合う塩田平は名湯別所温泉、国宝の八角三重塔や厄除け観音で知られる安楽寺、北向き観音堂などを擁する仏教文化の先駆地だ。加えて、秘められた文化財、稲と水の苦闘の歴史を伝える「塩田平ため池群」を訪ねたい。

心惹かれる塩田平、ため池郡
 一〇アール七二〇キロの収穫量は稲作日本一の水準だ。「乾燥地に先人が築いた溜め池あればこそです。一四〇の登録池を含め、三百池ぐらいが今も利用されています。どの溜め池にも神が住み、住民総出で毎年九月に雨乞い祈願の火祭りが奉納されます」(七〇ヘクタールを耕作する小林好雄さん)。
 森や祠、古い民家に囲まれた溜め池は、5メートルほどの落差で田んぼに連なる。五〇メートルプール大から湖クラスまで、ゆったりと貯えられた水面に心がなごむ。
 「最近コウノトリが溜め池に飛来するようになりました。生餌の宝庫ですから。おそらく兵庫県の姉妹都市・豊岡町からやってきたのでしょう」。溜め池を管理する田中栄二さんは力を込めて溜め池の生物多様性を語る。コウノトリは上田城のヒーロー、武将真田幸村にちなみ「ゆきちゃん」と呼ばれている。「溜め池が連なる野の花々の道へ、どうぞ」。環境省登録環境カウンセラー川上美保子さんのおすすめだ。
 地形と気候に人間がはたらきかけ、風景のおおもとが築かれる。風景の仕上げが文化。場所(トポス)と住民精神のかかわりの表現だ。「信州の学海」とたたえられた塩田平、国宝八角三重塔を擁する安楽寺の若林泰英住職に塩田平・上田人気質をたずねた。「これだ、と皆が結束する時、この土地の人々の力は凄い。死ねばもろとも。日照りに追いつめられると寺の地蔵さんを川に投げ込み、竜神様の池をわざと汚して神仏を怒らせ『天罰の豪雨』到来を願います。お隣は百姓一揆が日本一多発した青木村ですから」。若林住職は途上国支援の先陣を切って、タイのバンコク貧民街などで活動してきた曹洞宗のシャンティ国際ボランティア会の会長をつとめている。上田鉄道沿線の田には「途上国援助田」 の旗が翻っている。
 凧と水と人が作りあげた陰影深い環境の風景を、のびやかな上田盆地のどこからでも、
一望に収めることができる。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店

nice!(1)  コメント(0) 

日本の原風景を読む №39 [文化としての「環境日本学」]

人と環境が織り成す懐かしい風景-飯山

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

自然と歴史がともに築いてきた景色

 奥信濃・飯山、寺の町の風景は、自然のたたずまい、人の営み、文化の伝統が一つになって、本物の「環境」とは何か、を一瞬にして気づかせてくれる。
 飯山は「環境の原風景」を今に伝える懐かしい街である。千曲川に沿い河岸段丘を走るJR飯山線の車窓に、黄金色に波打つ棚田が迫る。柳やヤチダモの河畔林を深々とまとい、紅のリンゴ林を点綴させる表情豊かな風景は、小諸へ到らずとも島崎藤村のみずみずしい「千曲川旅情の歌」の風景を思わせる。
 歌い継がれてきた唱歌「朧月夜」の生誕の地「菜の花の丘」に立とう。
 水面を光らす眼下の千曲川を経て、南から北へ飯縄(一九一七メートル)、戸隠(一九一一メートル)、黒姫(二〇五三メートル)、妙高(二四望ハメートル)が雄大な稜線を連ねる。神と仏の教えを合わせて日本文化の源流を培ってきた修験道の本場である。
 歴史と信仰の伝統は、日本を代表する仏壇産業を飯山にもたらした。名うての豪雪に抗して築かれた愛宕町雁木通りには、豪勢な構えの仏壊・仏具店が連なる。木地師、蒔絵師、金具師、宮殿師、彫刻師が創造してきた日本文化の華である。百年を経て古びても、飯山仏壇は部品ごとに分解し、洗浄され、装いを新たにすることができる。仏壇通りを挟んで丘の麓には島崎藤村の『破戒』の舞台「蓮華寺」のモデル真宗寺や、飯山城主の菩提寺で、川中島合戦のヒーロー、槍の名人、鬼小島が眠る英岩寺などの名刺が連なる。
 「菜の花の丘」の背後間近から、福島新田の棚田が稲穂の黄金色の雪崩となって迫る。
 急斜面を大人の背丈ほどの高さにきっちりと刻み、石積みされた棚田は、凡帳面で郷土愛の強い長野県民気質のあらわれと言われる。桐の花が咲く五月、地元東小学校の児童は総田で棚田に苗を植える。

『阿弥陀堂だより』が求めた飯山

 棚田接する万仏山(一二七二メートル〕の山腹に、古びた藁葺き小屋が。映画『阿弥陀堂だより』で北林谷栄さんが演じる、仏と神と人間とを結ぶおうめ婆さんの住み家となった。都会暮らしで傷つき、疲れた人の心の回復の物語にふさわしいロケ地を探しあぐねていた小泉尭史監督は、福島新田を訪れその風景に触れ即断したと伝えられる。
 「信州の山奥は奥が深い、どこまで行っても律儀な信州人の跡が存在し、それがまた、ただの自然そのものよりも人の心に訴える懐かしい風景として目に映るのである。誰もが無意識のうちに持っている人間としての基本的な暮らし方の理想。そういったものが信州の田舎には色濃く保存されている」 (『阿弥陀堂だより』の原作者南木佳士)。
 阿弥陀堂の縁側から「環境の原風景地」飯山の遠景、中最、近景が一望できる。
 それは森と水の「自然環境」に支えられた暮らしが培う確かな「人間環境」、自然・人間環境の上に築かれ現代に伝えられ、息づく「文化環境」に他ならない。
 菜の花畠に 入日薄れ
 見わたす山の端 霞ふかし
 春風そよふく 空を見れば
 夕月かかりて におい淡し
 
 里わの火影(ほかげ)も 森の色も
 田中の小路を たどる人も
 蛙(かわず)のなくねも かねの音も
 さながら霞める 鹿月夜  (高野辰之 「臓月夜」)
 飯山の風景を訪ね歩くとき、心は深く憩い、懐かしさがこみあげてくる。

心を清める正受庵とブナ林

 飯山市民の心の背骨は正受庵(しょうじゅあん)・慧端禅師、市民の暮らしを支える水の源は、鍋倉山(一二八八メートル)の一帯四〇〇ヘクタールをおおうブナの天然林だ。
 正受庵は三三〇年の昔、松代藩主真田信之の子で、藩きっての剣の使い手であった慧端禅師の禅室である。飯山城主が寺領と大寺建立を申し出たおりに、慧端禅師は「出家は三衣一鉢あれば足りる。他は一切無用」と断り、一個の水石と一本の棟の木を求めた。正受庵の軒の下には水石が、庭先には礫の木が禅師の志を伝え、今も凛としてたたずむ。
 臨済宗中興の祖白隠はその弟子である。正受庵は明治政府の廃仏毀釈令により、明治七年廃寺となった。しかし幕末・明治の政治家で剣の使い手として知られた山岡鉄舟が正受庵復興を試み、「正受庵復興願文」で全国に呼びかけ、臨済宗が今日の形に復興した。
 「ブナ山に水筒いらず」のたとえどおり、広大なブナ林は飯山市民のいのちを支える緑のダムである。芽吹きの五月から紅葉の十一月まで森歩きを楽しめる。森の癒しを体験できる「森林浴」の効果あり、と日本で最初の「森林セラピー基地」に林野庁から認定されている。

『日本の「原風景」を読む』 藤原書店


nice!(1)  コメント(0) 

日本の原風景を読む №38 [文化としての「環境日本学」]

5 里山―懐かしい里山を訪ねる 2
 
   早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

棚田に刻まれた先人の営み

 田中 棚田一枚の形は、三角であったり丸であったりで機械を使えず、手作業が多くなります。その上、強湿田なのでコメ以外の作物を作るのがむずかしいです。棚田からはヤジリや住居跡が見つかります。大昔からこの土地に人々が住んでいたのです、私はここで生まれ、育ちました。小学生のころからコンバインを動かしたりして、やっぱり一生ここで仕事をするのがいいかな、と子どものころから思っていました。

 田中さんは高校から農業大学校を絶て、八年前に就農した。五ヘクタールの田を耕すが、そのうち四ヘクタールは五〇か所に散在する借地や作業委託地である。

 田中 棚田も農政に散々振り回されてきました。減反、転作、条件不利地への直接支払い。 しかし補助のやり方が散漫です。やる気のある者に集中して、農業機械など資本の整備をしっかりさせる。そうすれば棚田は担い手のもとに集まり、保たれていくでしょう。

 JA十日町は「安全、安心の米作り」のため〃土の診断〟を徹底させ、化学合成農薬、肥料の使用量を今までの基準から三〇パーセント減らす運動を進めている。刈り取った稲の茎と葉はその場で細かく砕かれ、有機肥料としてすき込まれていく。
 蛍やアキアカネ(トンボ)が舞い、ヤゴ、メダカが泳ぐ松代・松之山の棚田産コシヒカリは「棚田ロマン」、他の十日町産の高品質・高食味米は「魚沼ロマン」のブランドで日本一の高価格で取引されてきた。
 NHK大河ドラマ『天地人』の導入シーンに登場した星峠の棚田を始め、儀明(ぎみょう)、仙納、蒲生、狐塚、犬伏など松代、松之山の山あいには、訪れる者を惹きつけてやまない里山の原風景である棚田が連なる。
 なぜ人々は棚田に思いを寄せるのだろうか。
 人と自然の営みによって築かれてきた棚田の風景に、先祖の暮らしにつながる懐かしさ、心を奮い立たせる先人の努力の成果を読み取り、共感を覚えるからではないだろうか。
一五回目の「全国棚田(千枚田)サミット」が温泉郷でもある十日町で開かれた。迎えた地元からの言葉は「雪の雫が育ててくれた棚田。湯(ユー)、米(マイ)、心(ハート)のある十日町で待ってるすけの~」だった。

畦畔が描く棚田の美しさ

 畦畔(けいはん)。あぜ、くろとも呼ばれる。田んぼを区切る境目の土盛りのことだ。石積みも多く、日本中の総延長を合わせると万里の長城に等しいと言われる。繁茂する草を刈り払い、手入れされたすっきりと弧を描く畦畔があってこそ棚田は美しい。
 JAなどによる「魚沼米憲章」は「農道や畦畔は、草刈りを基本とすること」と定めている。除草剤など農薬を使わないように、との生産者の申し合わせである。
 稲への影響もさることながら、畦畔に生息する多様な生物への配慮からである。
 農政は米の生産農家に対する助成に、農業の持つこのような自然、環境保護の働きへの評価額を含めている。そのためには田んぼによる環境保護への貢献を金銭に換算することが求められる。
 民間の稲作研究所の稲葉光園理事長は、水田二〇アールの畦畔管理費を、年に五回の草刈りの労賃と燃料、機械の償却費とを合わせ一万円と見積もっている。
 安全な畦畔をたどり、田んぼが培う生物の豊かさを学び、冬も水を落とさない堪水によって、田んぼに住み、餌をとる水生生物や渡り鳥の生態を観察する。パネルや解説板を多用して田んぼと背後の森からなる生態系を学ぶ。このような棚田の風景は、〝効率と安さ〟 にふりまわされてきた生産や消費のあり方を、自然と人の共生から考え直し、私たちと動植物のいのちのつながりを学び、実践する教室になるはずだ。
 それは私たち-一人一人が秘めている内なる自然が、大自然の息吹き、生命の潮流に合流していることを実感し、のびやかに生きる力と知恵とを得る機会になるであろう。

温泉と雪が育てるカサブランカ

 信濃川のほとりから河岸段丘を山側へ。広々とした段丘の平地には人参、アスパラガス、中玉トマトの畑が広がる。冬から春にかけて栽培される青菜「城之古菜」の栽培も盛んである。
 冷涼な山あいでは純白の大輪ユリ、カサブランカが、さらに標高が高くなるとシャクナゲやオミナエシなど宿根草が作られ、きのこ、なかでもエノキ茸の栽培が盛んである。魚沼産コシヒカリ、エノキ茸、カサブランカは共通する白い色から「スリーホワイト」と呼ばれ、十日町の特産品とされている。
 人気のカサブランカを施設で栽培している根津一男さんを、標高三〇〇メートルの中里に訪ねた。初冬だというのに人の背丈に迫ろうというカサブランカが、大きなツボミをたくさんつけて勢いよく直立している。
 -三〇年ほど前にスカシユリの球根づくりを始めました。だが農産物の自由化で、オランダ産の球根に市場を奪われました。そこでオランダから小さい球根を安く輸入して、一年かけて大きく養成し、二年目にこうやって切り花にします。輸入ー作球と称していますが、国産に近いですよ。コシヒカリと同じで、ユリの花も、標高差があって、昼と夜の気温差が大きいほうが強く育ち、色が鮮やかになります。
 ハウスには近くの温泉からお湯を引いて暖房している。日本三薬湯の名湯、松之山温泉に近い土地柄ならではのエコ暖房である。
 JA十日町の構内にあるカサブランカの出荷作業場は、三月の彼岸に室内のおよそ二万の!を天
井まで雪で固め、九月いっぱい雪の冷熱で作業し、花の鮮度を見事に保っている。十二月中旬から四月中旬まで、平均積雪約二・五メートルの根雪となる自然条件を生かした、こちらはエコ冷房である。
 窓辺を飾るカサブランカに秘められた「温泉と雪」の恩恵。十日町ならではの、自然に連なって生きる暮らしの知恵を感じさせる。

『日本の「原風景」を読む』 藤原書店


nice!(1)  コメント(0) 

日本の原風景を読む №37 [文化としての「環境日本学」]

5 里山―懐かしい里山を訪ねる 1

   早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

 以前にどこかで見かけた風景を、今再び眼前にしているような「既視感」を私たちはしばしば覚える。旅路の風景に見る既視感は、その風景が各地に散在している類似の風景によってもたらされることが少なくない。日本人によって共有されている原風景ともいえよう。
 四季の車窓に映える稲田の彩り、穏やかな集落のたたずまいなどはその「既視感」をもたらす風景の例であろう。
 どこにでもありそうで「そこ」にしかない風景への共感は、親しさと懐かしさによるところが大きい。「ふる里」や「浜辺の歌」を愛唱する人々の心の風景を、私たちは共有しているのだ。
 私たちは風景に「風土」を視ている。
 風土とは気候と地形に人が働きかけて作り成した物理的な景観を基に、そこで培われた無形の文化の営みを重ね合わせて表現される。風土は人々が自己の独自性(アイデンティティ)を確認する場ともなる。アメリカの若者たちが休暇に大挙してヨーロッパを旅する現象は、そのルーツを訪ねる姿でもある。
 飯山、三春、上田、秋田角館、伊豆湯ケ島、新潟十日町の風景の、その地域独自の、しかし訪問者にも親しさと懐かしさをもたらす「風土」が明快に表現されている場所を紹介する。
 飯山は山岳信仰、修験道の道場となった飯縄、戸隠、黒姫、妙高の稜線のつらなりを遥かに望み、街中を千曲川が流れる。市の水源は山腹の深いブナの森に発する。木の根元は、冬の積雪の重さでくの字に曲がっている。
 山岳を遠景、ブナ森を中継、千曲川を謹啓とするのびやかで、均衡のとれた風景は、見る者を永遠なものへの思考にいざなう。奥羽縄文の里、田沢湖の夕景もまた、遠望する雪の乳頭山とあいまって、いにしえの人々の暮らしへの想像を刺激する。
 三春と角館は桜、上田は城、伊豆湯ケ島は名湯、十日町は棚田で名高い。自然と人間の秘められた物語に私たちは共感を覚える。そこで培われ、表現されている独自の文化(暮らしの流儀)が、訪れる人々の心にひびき、共感を分かち合えるからであろう。
 これらの土地には自然・人間・文化の環境の三要素が本来の姿で保たれ、懐かしさと深い安らぎ感をもたらしている。ふる里の原風景といえようか。

棚田に刻まれた先人の営み-十日町 1

魚沼産コシヒカリの里
 有数の豪雪の地、新潟県十日町(人口約六一〇〇人)は名高い「魚沼産コシヒカリ」の主産地である。信濃川に沿い山あいを縫うJR飯山線が、雄大な河岸段丘に達するところに十日町の街並みが広がる。信濃川の流れによって刻まれた段丘での農耕は、等高線にそって田畑を区画する「棚田」で営まれてきた。標高が高くなるにつれて地形は急峻、複雑になり、棚田は様々な形を描く。十日町・魚沼産コシヒカリの多くは、このような山腹に刻まれた棚田で作られる。昼と夜の気温差が大きくリン酸、ケイ酸を多く含む土壌が、イネの成熟度を高める。
 積み上げられてきた品種改良、栽培技術向上への努力、そして消費者から日本一の食味と評価され高値のつくことが、この地に産する「棚田ロマン」米の作り手の意欲を支えてきたといえよう。しかし棚田でのおいしいコメ作りは、担い手の不足と高齢化、農作業の困難さから、今までのやり方では作り続けることがむずかしくなりつつある。
 河岸段丘を登りつめ、分水嶺を越えて山地に深く分け入った松代、松之山では、農地はすべて棚田である。ひと冬の降雪量が二一メートル八九センチを記録したこともある日本一の豪雪の地、東頸城(くびき)丘陵を間近に望む松之山に、稲作農家の田中麿さんを「グリーンハウス里美」に訪ねた。新潟県初のグリーンツーリズムの農業体験宿舎である。米国人を交えた、家族連れの宿泊客で賑わっていた。

[日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店


nice!(1)  コメント(0) 

日本の原風景を読む №36 [文化としての「環境日本学」]

4 野鳥一文化としての野鳥 4

    早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛


アイヌの神、シマフクロウへの共感―根釧原野

 銀の滴ふるふるまわりに
 金の滴ふるふるまわりに
 という歌を歌いながら
 川に沿って下り
 人間の村を見下ろすと…・
(知里幸恵『アイヌ神謡集』 「フクロウの神が自ら歌ったユカラ」)

 世界一透明な湖、北海道摩周湖からの伏流水が西別川・シュワンベツ水源地に噴き出してくる。一九九三年秋新月の夜、一対の巨大な鳥影が養魚場に舞い降りた。
 「ボー、ボー」「ウー」。闇を圧してとどろく雌雄の鳴き交わし。養魚場を見張る男たちに緊張が走った。
 アイヌ集落の最高神コタン・コロ・カムイ(集落の守り神)。翼を広げると一・八メートルに達する大型の魚食性フクロウである。河川や湖沼周辺の森林に生息し、広葉樹の木に営巣。両生類、ほ乳類、鳥類を捕食する。北海道の広い範囲に分布していたが、現在は東部の日高山脈、知床半島、根釧台地に合わせて約一六五羽程度が生息している。一九七二年、シマフクロウは「絶滅危慎1A類」に指定された。

立ち上がった開拓農民の子孫たち

 標茶町で生まれ育った開拓農民の子孫たちは、シマフクロウの出現に驚きながらも、「何故養魚場の附近に住み着いたのか」に思いをめぐらせた。河川改修や砂防ダムによって、ヤマメやオショロコマなどの小魚が上流部に遡上できなくなっていた。餌を奪われたシマフクロウにとって、養魚場は最後の生命線だったのだ。彼らは「いのちのゆりかご」も奪われていた。巨木にできた「うろ」を利用して巣をつくる彼らにとって、牧草地をひろげるための森林伐採が、種の命脈を危くしていたのだ。
 「神様を救わねば……」。男たちはそう直感した。
 牛乳と鮭の日本一の大生産地、根釧台地とオホーツク海をつなぐ西別川の河畔に暮らす人々が手をつないだ。  「人々」とは、作家開高健が『ロビンソンの末裔』で描いた、不毛の大地で苦闘の歴史をたどった開拓民の末裔たちである。酪農家と漁業者をはじめ住民たち七五人は、一九九四年「虹別コロカムイの会」をつくり、「シマフクロウ百年の森づくり」に着手した。
  ―アイヌ民族は、シマフクロウを「国または村を持つ神」(kotan koro kamuiコタンコロカムイ)として大変尊敬してきた。その立派な風格とものごとをすべて見通してしまうような眼差しは、まさに神としてふさわしいものを持っている。
 私たちはシマフクロウの置かれている現状を憂慮し、少しでもシマフクロウが生存しやすい環境づくりのために、あらゆる努力を払う所存である。(虹別コロカムイの会、設立の趣旨)
 標茶町立虹別中学校は、毎年五月に行われる植樹祭での苗木植樹作業を正規の授業と定めている。漁民、酪農家、二股町民、遠来の支援者など二百人以上が、西別川沿いに拓いた植林地で、鋭い刃がついた島田グワを振って笹の根を切り拓き、森林組合員の手ほどきを受けて享本の広葉樹の苗木を植え付ける。この二四年間で西別川の両岸帖五〇メートルから二U〇メートルに約八万本の広葉樹の苗を植え、手入れをする一方、残っている巨木に巣箱を架け続けている。北海道に一六五羽しか生息していないシマフクロウの、実に三六羽がコロカムイの会員たちの手で巣立った。
 酪農家も川沿いの牧草地を植樹場所に提供、植樹したミズナラやバンノキが、今では三メートルを超す高さに生い茂っている。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店



nice!(1)  コメント(8) 
前の20件 | - 文化としての「環境日本学」 ブログトップ