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日本の原風景を読む №43 [文化としての「環境日本学」]

宮沢賢治の海-石巻 2

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

苦しみ、もがき、希望を喪わず生きる

 岩手県宮古市の郊外、重茂半島の丘陵を縫う浜街道の光景に息を呑んだ。
 左側の谷間から遥か海辺まで、壊滅した人家が累々と連なる。右側の断崖直下、波静かな入り江に白砂の孤を描き、陸中海岸国立公園・浄土ケ浜が静まりかえっている。三百年の昔、訪れた高僧が「極楽浄土のごとし」と感嘆した絶景のままに。
 架橋の中央に立つと、左右の光景が同時に視界に入る。
 この信じ難い現実を、どのように受け止めるのか。
 仏教と日本人の自然観が融合した浄土を表現する最高傑作として、人類共有の世界文化遺産に指定された平泉・毛越寺(もうつうじ)の大泉が池畔に、藤里明久貰主代行を訪ねた。毛越寺は嘉祥三年(西暦八五〇年)慈覚大師円仁によって開山された。その一九年後、三陸地方に貞観十一年の大地震が起きた。さらに約千年を経て今回の大震災に遭った。
 「ある漁師さんが、私は家族を失ったけれども、やっぱり海に出たい、とおっしゃっていました。重みのある言葉だと思います。我々は自然から逃れることも、自然を拒否することもできない。そういう所に生きているのが私らだということを震災に遭い、身体全体で受け止めたと思っています。浄土というのは単なる理想ではなくて、この現実の中で苦しみながら、もがきながら、しかし希望を失わずに生きることだと私は思っているんです。仏教者は、その希望の明かりを少しでも灯して水先案内をしなければならない。しっかりと、小さくてもいいですから何らかの明かりを灯す。人間の弱さを知っているということが宗教者の一番大切なことですから、人の弱さに寄り添っていくことが、今は大事だと思っているところです」。

 翌二〇一二年七月七日夜、ライトアップされた浄土ケ浜の岩塊群を背景に、平泉の浄土思想を今に伝える毛越寺の延年舞(国の重要無形民俗文化財)「老女」が厳かに舞われた。演者は藤里買主だった。
 浄土ケ浜で舞う意義を問われ、藤里買主は次のように答えた。
 「沿岸を含め東北はかって藤原氏が統治し、仏国土を作ろうとした地域。平泉にとってもかけがえのない地域だ。浄土といわれる浄土ケ浜で鎮魂の行事を行いたい、と熱心なお話があった。死者の霊を舞で慰めたい」。
  ―― 「老女」が表現するものとは。
 「災いが少なく、疫病、戦乱のない時代を乗り越えたからこそ老婆は長命した。それを感謝して舞を舞う」。
 「舞を通じて神仏の力を引出し、そのご加護により多くの方を救っていただく。舞や演者に人を救う力があるわけではない。真撃に舞う心持ちが通じる」。 (『岩手日日新聞』二〇一二年七月八日)
 藤里貫主による「延年舞」の風景を、『岩手日日新聞』は「『真筆な心』に救う力」、『岩手日報』は「鎮魂の七夕、幽玄延年舞」との見出しで報じた。「魂の不滅のふる里」の風景への共感が伝えられたといえよう。

中尊寺,金色堂に合祀された賢治

 昭和三十四(一九五九)年、中尊寺は藤原三代公の遺体をおさめた金色堂に宮沢賢治を合祀した。
 中尊寺ではその日、哲学者谷川徹三氏を招き、金色堂の近くに設けられた賢治の詩碑「中尊寺」の除幕式が行われた。
 谷川は本堂での講義で賢治の詩「われはこれ塔建つるもの」を朗読した。

 手は熱く足はなゆれど
 われはこれ塔建つるもの
 滑(すべ)り来し時間の軸の
 をちこちに昇ゆくも成りて
 燦々(さんさん)と闇(やみ)をてらせる
 その塔のすがたかしこし

 熱にうなされながら賢治は書いた。密やかな祈り、自戒のつぶやきである。それは暮らしの中で、めいめいが心に塔を建ててはしいと求める法華教の精神である。
 「谷川徹三氏はそのように語りました」。佐々木邦世中尊寺仏教文化研究所長は賢治と中尊寺の深い縁を明かした。
 除幕式の後、薗実円貫主ら一山の僧たちは金色堂に入り、予め決めてあった式次第に従い、賢治の霊を合祀し、供養した。
 知られざる中尊寺金色堂の史実である。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に」 藤原書店



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