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私の中の一期一会 №199 [雑木林の四季]

      最強台風19号は上陸後、記録的大雨を降らせ東日本の広範囲で被害が多発
           ~気象庁が異例の記者会見で厳重な警戒を呼び掛けたのに・・・~

        アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 大型で非情に強い台風19号が12日午後7時ごろ伊豆半島に上陸した。
 9月の15号台風よりはるかに大きな暴風圏を持つ“スーパー台風”が東日本を直撃し、河川の堤防決壊や土砂災害など東日本の広範囲で大きな被害が発生している。
 この台風は6日に南海上で発生した時の気圧は992ヘクトパスカルだったが、翌7日の午後6時には915ヘクトパスカルまで気圧が急速に低下していた。短時間で“猛烈化した”ものといえるだろう。
 気象庁の発表によれば、台風19号は12日午前8時現在、八丈島の西南西海上を時速20キロで北に向かって進んでいた。
 その中心気圧は936ヘクトパスカル、中心付近の最大風速は45メートルで、最大瞬間風速は65メートルに達するというものであった。
 日本近海の水温がかなり高いため強い勢力を保ったまま、ゆっくり近づいてきていたのだ。
 なにしろ、中心の東側370キロ以内と西側280キロ以内が風速25メートル以上という広い暴風域を持っているので、上陸すれば本州の半分が暴風圏にスッポリ入ってしまうほどの巨大台風だった。
 問題は、この台風が非常に強い勢力のまま、本州に上陸するのが確実なことであった。
 気象庁が台風の上陸前に記者会見を開くのは異例のことだろうが、梶原靖司予報課長は11日午前、“臨時記者会見”を開いて“厳重な警戒”を呼び掛けたのである。
 昭和33年(1958年)に伊豆半島の狩野川が氾濫して死者・行方不明者1269人を出した「狩野川
台風」に匹敵する暴風雨になる恐れがあり、広範囲に「大雨特別警報」を出す可能性が高いことを指摘しながら、「自分の命、大切な人の命を守るため、“風雨が強まる前に”、また“夜間暗くなる前に”、早め早めの避難、安全確保をお願いします」と呼び掛けた。
 スーパー台風19号は風が強いことに加え、15号より雨の量が記録的に多くなることが予想されたからである。
 12日夜から13日未明にかけて東日本を縦断した台風19号は各地で荒れ狂いながら駆け抜けていった。
 気象庁は、上陸直後から静岡、東京、神奈川、埼玉、群馬、山梨、長野の1都6県に“重大な災害が発生する恐れがある”として「大雨特別警報」を発令し、最大級の警戒を呼び掛けた。
 近くに住む友人から「風、段々凄くなってきた。家が古いのでちょっと怖い。あと3時間我慢」というメールがきた、時刻は21時27分だ。台風が首都圏を通過中だった頃ではないかと思う。
 我が家では、テレビの台風情報を見ながらも「風の音が凄いなあ」と思っていた時であった。
 1時間後「ピークは過ぎたようです。今のところ大きな被害なし」のメールが来て、ひと安心したが、台風19号は、北上しても雨の勢いがあまり衰えなかったのである。
 12日に“24時間降水量の観測記録”を更新した地点が16の都県の84カ所に及んだ。
 神奈川県の箱根町では12日だけで922.5ミリの雨が降り、48時間では1001ミリを記録した。
 この観測史上最高の降水量で、芦ノ湖から湖水が溢れ出して観光地に影響を与えた。
 小田原土木センターは、「気象庁の降雨予測に従い、10日から放水を開始して台風に備えたが予測を上回る降水量だった」と話した。
 長野市穂保地区では13日朝、千曲川の堤防が70メートルにわたって決壊した。大量の濁流が流れ出し、
長野新幹線車両センターが水没、多数の新幹線車両が水に浸かったという。
 その他、堤防近くの住宅が浸水して避難勧告が出た。福祉施設で高齢者360人が孤立したり、停電も発生した模様である。
 堤防は5年前に強度を高める工事を終えていたというから、加藤久雄市長にとっては想定を超える災害だった。
 「工事を終えたばかりの堤防だから大丈夫だと思っていた。市民生活を取り戻すため一日も早く堤防の復旧工事を終えたい」と述べている。
 被害が広い範囲にわたって発生しているため実態の把握は遅れているが、毎日新聞の集計によると、この台風で11の県で65人が死亡し、6県で14人の行方不明者が出ていると分かった。
 死亡者は福島県で24人、神奈川県13人、宮城県10人、群馬・栃木の両県で各4人、岩手・茨城・埼玉・長野の各県で各2人、千葉・静岡の両県では各1人である。
 しかし、福島県いわき市が今日午前、新たに6人が死亡していたと発表しており、自治体や警察が身元確認を急いでいるという報道もある。犠牲者は今後も増えるかも知れない。
 14日の夜を迎えても6つの県の約39万人に避難指示が出されたままだし、13都県の避難所には約5500人が身を寄せているという。
 床上、床下浸水などの住宅被害は埼玉・栃木・長野各県を中心に1万戸にのぼる。
 土砂災害は各地で146カ所確認されている。
 14日も雨が降ったところがあり、引き続き土砂災害への警戒や河川の増水に注意するよう国交相が呼びかけている状況なのである。
 安倍首相は14日、「躊躇せず被災地が全力で応急対策や復旧作業に取り組めるよう激甚災害に指定する方向で調査を進める」という方針を示した。
 関係閣僚にも被災者が一日も早く安心して暮らせるよう全力を尽くして欲しい」と指示した。
 台風の接近に伴い首都圏の鉄道各社は「計画運休」を上陸前日に発表して実施した。
 これまでは交通機関が、災害を前に事前に予告して列車の運航を中止することはなかったから、利用客は駅での混乱に巻き込まれなくて済む。運休や運転見合わせで途方くれたり、運転再開時の混雑や駅間で停った列車に閉じ込められることもなくなる。いいことの方が多いではないか。
 JR釜石線の終日運休で、ラグビーW杯のナミビア・カナダ戦が中止になったが、大会組織委の中止判断にも計画運休は役だったかも知れない。
 ラグビーといえば、8強進出を目指した日本は、スコットランドとの運命の一線を前にした12日午前8時すぎ強風と大雨の中で1時間の調整練習をしたというから驚く。
 それにしても過去1勝10敗という難敵を相手に日本は粘い強い戦いをみせた。激しく追い上げるスコットランドの猛攻を全員で必死に耐えて、28-21で破り、初の決勝トーナメント進出を果たしたのは凄かった。計画運休ならぬ「計画休養」をしなかったのが良かった?のだろうか・・・



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浜田山通信 №252 [雑木林の四季]

台風とラグビーと

                          ジャーナリスト  野村勝美

 台風19号、大丈夫でしたか。わが弊屋は二部屋で雨漏りし、なかなか眠れなかった。なにしろ築43年のマンションで、外側のタイルにすきまができ、そこから雨水がしみ込んでぽたぽた雨水が落ちてくる。管理会社へ電話しても通じるものではない。そのうち台風が通り過ぎ雨が上がると雨漏りも止まって眠れた。台風は関東、東北の山間部に大雨を降らせ、千曲川や阿武隈川など21河川で堤防決壊、住宅や田畑を水びたしにした。これだけ広範囲に人的物的損害を出した台風はなかったのではないか。わが家の損害など人さまにいうほどのことではない。
 13日は日中、台風被害のTVニュースをみていたが、夜は一家でラグビーの日本×スコットランド戦を見て喚声をあげる。私はスポーツナショナリズムがきらいで、オリンピックにも興味がないし、ラグビーも初めてだからルールや選手のこともわからない。それでもこれまでワールドカップ戦で1勝しかしていない相手に勝ったのだから一般のファンとしてはたまらない。私としても7点差であと1分、それも相手チームのゴール前でのもみ合いの時は、TVの時間の表示だけが気になった。
 それにしても台風の被害ニュースから一転してラグビーの大騒ぎ。他のスポーツや芸能でも勇気を貰ったなんてことを、TVは地震や台風被害者に語らせてきたが、災害被害者とスポーツの勝ち負けの間には距離がありすぎて、人間はどうしようもないなと思う。
 考えてみればこの前の台風15号にしろその前の西日本台風にしろ、あるいはモンスーンやハリケーンにしろすべて地球温暖化現象なのだ。そのことは日本では宇沢弘文さんが早くから言っていたし、オゾン層破壊が問題になったころは世界中の人々が問題を深刻に考えた。アメリカのゴア副大統領が温暖化防止を掲げて世界中に訴え回った頃も同様だった。それが15年もたつとすっかり忘れる。台風による洪水で家屋、人命、田畑が失われても同じ日本人が一夜明けるとラグビーに熱狂する。それが人間さと私の中のもう1人の私がささやく。
 いまから30年ほど前には環境ジャーナリストがいっぱいいた。朝日の辰濃和男、毎日の原剛、作家の立花隆らが大活躍した。辰濃は環境ジャーナリストの会の会長を務めていたが、環境問題でいちばん大切なことは、第一に「未来人」の立場に立つことだと言った。その未来人の代表が、世界中のおとなたちに衝撃を与えたスエーデンの16歳の高校生グレタ・トウンベリさんだった。彼女は、経済成長というおとぎ話を信じ、環境破壊が目に入らないおとなたちを痛切に批判した。彼女たちは自分たちが温暖化する地球環境の中で生きのびられないことを実感している。私はグレタさんに感動し、皆が言っていたようにことしのノーベル平和賞は彼女にまちがいなしと思っていた。しかし彼女は受賞しなかった。その理由を推測する言説すらメディアには出なかった。」

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BS-TBS番組情報 №196 [雑木林の四季]

BS-TBS 2019年10月のおすすめ番組(下)

                BS-TBS広報宣伝部

新・地球絶景紀行

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2019年10月16日スタート 毎週(水)よる10:00~10:54
10月16日は初回2時間スペシャル よる9:00~10:54

☆悠久の時を刻む自然美、人智が到達し得た創造美──。心を揺さぶるかけがえのない景色を求め、地球を駆け巡る。

ナレーション:吉田 羊

2010年4月から8年半に渡り、放送されていた「地球絶景紀行」が「新・地球絶景紀行」として新たに放送をスタート!番組は、旅人(ナレーター)が地球を旅し、そこで出会った絶景を紹介。今回はどんな「絶景」に出会えるのでしょうか。

■10月16日放送
初回2時間スペシャル 「エジプト・ナイル 今昔物語」

クレオパトラが愛した古代エジプト最古の都アレクサンドリアを出発し、ナイル川に沿ってアブシンベル神殿のあるアスワンを目指す。アレクサンドリアからカイロに移動し、世界最大ギザのピラミッドへ。古代エジプト文明を象徴する三大ピラミッドとスフィンクスはまさに圧巻。夜行列車に乗り込みルクソールに到着すると古代エジプト最古の神殿カルナックがお出迎え。数多く残る遺跡を堪能した後は、クルーズに乗ってナイル川を下りアスワンへ。最終寄港地アスワンから車で目指すのはラメセス2世が建造したアブシンベル神殿。自らの権力を誇示するべく建てられたこの神殿は、まさにナイル川によって育まれた高度なエジプト文明の結晶ともいえる壮大さが現代にも受け継がれていた。
※4Kチャンネル「BS-TBS 4K」では4K映像でお楽しみ頂けます。

未来へつなぐ にっぽんの歌魂

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2019年10月19日(土)よる7:00~8:54

☆世代を超えて未来へと、演歌の世界を歌い継ぐスペシャル

司 会:峰竜太、小倉弘子(TBSアナウンサー)
ゲスト:細川たかし、坂本冬美、城之内早苗、北山たけし、辰巳ゆうと、三田杏華

演歌、それは日本人の心の拠りどころ。
演歌の素晴らしさを全力で伝えようと命を燃やす歌手たちが、演歌新時代を担う若手を応援すべく力を注ぐ。
ベテランから新人、世代を超えて未来へと、演歌の世界を歌い継ぐスペシャルが始まる。
目玉となる2つの特集コーナーでは、番組独自のリサーチによるランキングを発表!
■第一特集「デュエット演歌」コーナー
ベテラン歌手と、新人若手歌手による極上のコラボレーションで人気のデュエットナンバーを披露!
「ふたりの大阪」「新宿そだち」「北空港」「二人は若い」ほか
■第二特集「セリフ入り演歌」コーナー
歌手の実力が問われる、「セリフ入り」の名曲に挑戦!
「からたち日記」「傷だらけの人生」「男はつらいよ」「岸壁の母」ほか
さらに、「新人演歌歌手の紹介&応援コーナー」を企画。
今注目の若手演歌歌手・辰巳ゆうと、三田杏華の持ち歌と人柄を、本人の家族や地元の人々の応援VTRとともにご紹介。
ほかの番組ではあまり紹介する機会のない新人の歌とキャラクターをたっぷりとお届けします。
もちろん、人気歌手たちの代表曲や新曲もたっぷりお届け!
「北酒場」細川たかし、「夜桜お七」坂本冬美、「あじさい橋」城之内早苗、「男鹿半島」北山たけしほか
演歌一色の2時間。どうぞお楽しみに!!

がん新治療&健康長寿 先端医療の未来モデル

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2019年10月27日(日)午後5:00~6:54

☆「がん」治療の最前線に迫る!

ナビゲーター:真矢ミキ
監修・コメンテーター:冨田勝(慶應義塾大学先端生命科学研究所 所長)

人生100年時代。最期まで健康で生きていたい。その願いに立ちふさがるのが、「がん」。いま、免疫療法をはじめとする“体に優しい”治療が開発され、さらに、がんの超早期発見や、がんを未然に防ぐ研究が進む。しかし、そんな先端医療を誰もが受けられるようにするには、乗り越えなければならない様々な大きな壁がある。誰もが安心して、健康に暮らせる未来を作るには、どうすれば良いのか?そのヒントが鶴岡にあった。全く畑違いの世界からやって来た若者たちに託された、日本の医療の未来とは?医療特番シリーズ第三弾!先端医療の未来。


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医史跡を巡る旅 №63 [雑木林の四季]

「西洋医学事始め・たあへるあなとみあ」

            保健衛生監視員  小川 優

「彼が某所をさして肺なりと教へ、これは肝なり、腎なりと切り分け示せりとなり。」
虎松の祖父による鮮やかなメス捌き(この時代メスがあったかは疑わしいので、おそらくは出刃包丁かと思います)を、食入るように見つめていた杉野玄白、前野良沢ら一行、手元の解剖書「Ontleedkundige Tafelen」の絵図と見比べては、その都度どよめきを上げていたことでしょう。

「観臓記念碑」

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「観臓記念碑」 ~東京都荒川区南千住五丁目 南千住回向院

それまでの知識、主に中国医学をもとにした「五臓六腑」説に当てはまらない現実、「みな千古の説と違ひしゆえ、毎度毎度疑惑して不審開けず。」(「蘭学事始」より。以下特記のない引用は同書から)ジレンマが、「良沢と相ともに携え行きし和蘭図に照らし合せ見しに、一としてその図に聊か違ふことなき」を目の当たりとし、疑問がまるで春先の淡雪のように溶けていったのです。帰りがけに玄白は「何とぞこのターヘル・アナトミアの一部、新たに翻訳せば、身体内外のこと分明を得、今日治療の上の大益あるべし」と提案します。
玄白は、解剖によって人体の仕組みを知ることが、外傷や疾病の治療にとって必要なことであり、治療法の向上のためにも不可欠な知識であると考えていました。解体新書の中でも、「それ臓腑、骨節、その位置一も差す所あれば、即ち人は何を以てか立たん。治は何に因りてか施さん」と述べています。
現実としては江戸の御代、腑分けを気軽に行うことはできず、それを見学、観臓することもままなりません。実際に体験できずとも、せめて正確な教科書があれば、医学を志す者の役に立つだろうということで、玄白たちはターヘル・アナトミアの翻訳作業に取り掛かります。
なお杉田玄白、前野良沢両名とも、観臓に当たり「Ontleedkundige Tafelen」を持参したのは全くの偶然で「これ誠に奇遇なりとて、互ひに手をうちて感ぜり」とあります。まさに様々な偶然が重なって、天下の偉業は始まったといえます。

「蘭学の泉はここに」

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「蘭学の泉はここに」 ~東京都中央区明石町

こうして腑分けに立ち会った翌日から、前野良沢の住む中津藩中屋敷に集まり、翻訳作業が始まります。しかし専門用語の訳語はもちろん、日常会話程度のオランダ語の辞書すらもなく、心得があるのも前野良沢のみ。「誠に艪舵なき船の大海に乗り出せし如く、茫洋として寄るべくかたなく、ただあきれにあきれて居たるまでなり」状態であったわけです。「ウエインブラーフといふものは目の上に生じたる毛なりとあるやうなる一句も、彷彿として、長き春の一日には明らめられず、日暮るゝまで考へ詰め、互いににらみ合ひて、僅か一二寸ばかりの文章、一行も解し得ることならぬことにてありしなり。」つまり、「ウェインブラーフこと眉」の解説文の一節を訳すのだけに、一日では終わらなかった。菊池寛の小説「蘭学事始」には、このあたりの苦労が生き生きと描かれています。

「杉田玄白墓碑」

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「杉田玄白墓碑」 ~東京都港区虎ノ門三丁目 栄閑院

良く知られた逸話に「フルヘッヘンド」の話があります。解剖書に書かれた「フルヘッヘンド」という一語、何冊も買い求めた蘭書の小冊子の中から見つけ出したは良いものの、「フルヘッヘンドの釈註に、木の枝を断ち去れば、その跡フルヘッヘンドをなし、また庭を掃除すれば、その塵土聚まりフルヘッヘンドす」としか書かれていません。まさに謎々の世界です。考え倦んだのち「翁思ふに、木の枝を断りたる跡癒ゆれば堆く(うずたかく)なり、また掃除して塵土聚まればこれも堆く(うずたかく)なるなり。鼻は面中に在りて堆起せるものなれば、フルヘッヘンドは堆(うずたかし)ということなるべし」ということに落ち着きます。こうして手探りで進みながらも、訳せた時には「その時の嬉しさは、何にたとへんかたもなく、連城の玉をも得し心地せり。」となり、「かくの如きことにて推して訳語を定め」、翻訳を進めていきます。
ちなみにこのフルヘッヘンド、医史学の第一人者である酒井シヅ先生によると、実際には原典に出てこないそうです。verheffenフルヘッヘンは動詞形で、その形容詞形verhevenフルヘーヘンは原典の鼻の項の少し後、鼻背の項で使われていますが、解体新書では略されているとか。蘭学事始は玄白晩年の回想録、勘違い、あるいは苦労を面白おかしく伝えるための創作であったのか、今となっては想像の域を出ません。
専門用語についても、翻訳のやり方がいくつかあり、従来からある言葉に当てはめる方法、新しく造語する方法、外来語として当て字を当てる方法を駆使しています。例えば中国から伝わった肝や骨といった漢字をそのまま、あるいは曖昧な意味から新たに定義づけて使う方法が一番目のやり方になります。またセイニーという言葉は、血管とは別の体内を走る経路ということで「經」の字を用い、「神気」のようなものが伝わるものとして、新たに「神経」なる言葉を造語した、というパターンもありました。骨膜、骨髄、軟骨、筋、動脈、食道、盲腸、睾丸、神経など、解体新書に使われた解剖用語の多くは、現在もそのまま使われています。

「解体新書」

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「解体新書」 ~大分県中津市鷹匠町 大江医家史料館蔵

明和8年(1771)の観臓から三年たった安永3年(1774)、「解体新書」本文四巻、附図一巻がとうとう刊行されます。そこには実質的に翻訳を牽引したはずの前野良沢の名はありませんでした。大義のために発行を急いだとはいえ、蘭学を学ぶ身として、不完全なものを世に送り出すことを恥じて、との説があります。
初版の「解体新書」の訳が不十分であり、間違いが多いことは杉田玄白も自覚していました。そこで門下である大槻玄沢に改訂版を作ることを命じます。訳そのものは寛政10年(1798)に終わりましたが、「重訂解体新書」12巻附言1巻として実際に刊行されたのは、杉田玄白の死後である文政9年(1826)のことでした。

「重訂解体新書」

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「重訂解体新書」 ~大分県中津市鷹匠町 大江医家史料館蔵

解体新書に名前が記されている中川淳庵、石川玄常そして桂川甫周のそれぞれの人となりは次の通りです。

中川淳庵
元文4年(1739)生まれ。杉田玄白と同じく小浜藩の藩医であり、後輩にあたる。玄白に借りてきた「Ontleedkundige Tafelen」を見せて、購入の決意をさせたのが淳庵だったといわれる。解体新書の観臓、翻訳ともに携わる。天明6年(1786)没。

石川玄常
延享元年(1744)江戸に生まれる。江戸、京都で医学、蘭学を学んだ蘭方医。途中から解体新書の翻訳に参加、所有する蘭書の知識から意見を述べる。のちに一橋家の侍医に召される。文化12年、72歳で死去。

「桂川甫周墓」

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「桂川甫周墓」 ~神奈川県伊勢原市上粕屋 上行寺

甫周は通り名で、本名は国端(くにあきら)。宝暦元年(1751)、代々将軍家奥医師を勤める桂川家に生まれる。父甫三は青木昆陽に蘭学を学び、杉田玄白、前野良沢と親交があった。桂川家には甫周を名乗った者は二人おり、解体新書に関わったのは四代目当主にあたる。21歳の頃から解体新書の翻訳に携わり、完成後は桂川家の推挙により、将軍家の内閲を受ける。奥医師の最高位である法眼を名乗ることを許されたほか、幕府医学所では後進の育成に当たる。また難破してロシアで保護された大黒屋光太夫らを尋問し、「漂民御覧記」にまとめている。文化6年(1809)死去。はじめ目黒にあった上行寺に葬られるも、同寺の移転により神奈川県伊勢原市に一族の墓も移る。

「桂川甫周屋敷跡」

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「桂川甫周屋敷跡」 ~東京都中央区築地一丁目

桂川家は将軍家から屋敷を拝領しており、築地に住んでいました。当時を偲ぶものは何も残っていませんが、中央区教育委員会によってプレートがたてられています。

安永5年、杉田玄白は藩医も務めながら日本橋浜町で開業します。外科に優れ、多くの患者が集まりました。また晩年には回想録である「蘭学事始」をまとめますが、原稿そのものは数奇な運命をたどり、刊行されたのは明治2年(1869)、福沢諭吉らによってでした。
83歳という当時としては長寿を全うし、文化14年(1817)、息を引き取ります。


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いつか空が晴れる №69 [雑木林の四季]

        いつか空が晴れる
             ―Joe’s Blues-
                     澁澤京子

 その日は雨が降っていた。カウンターのテーブルの下に引っ掛けておいた濡れた傘が何度か足元に落ちたのを覚えている。

百軒店を上ってそのまままっすぐに細い路地を行くと、つきあたりに「安吞(あんのん)」というカウンターしかない飲み屋があって、横には小さな神社がある。
店にいるのは、私とN田君とK君の三人だけで、二人とも浪人生だった。
「『ガルシアの首』を墓から掘り起こすシーンがあるだろう?あそこのシーンがすごいなんてもんじゃない・・」
酔っ払ったN田君がサム・ペキンパー監督の『ガルシアの首』について、ひとり饒舌に語っている。
『ガルシアの首』は、ある大地主が、娘を妊娠させてしまった男の首に100万ドルを賭ける、賞金を巡って何人もの人間が殺される・・というストーリーだ。名誉とお金を巡ってのすさまじい殺戮が繰り広げられる・・
時折、相槌をうつK君。

私は自分の傘をどこに置いたら一番安定するかということに半分気を取られた状態で、N田君とK君の話を聞いていた。カウンターだけの狭い店なので傘の置場がないのだ。濡れた傘を足元の床にそのまま横にして置くのも抵抗がある・・

「いやあ、ペキンパー最高!」真っ赤な顔でますます上機嫌になって喋りつづけるN田君。バイオレンス映画を好きだと言っても、N田君は友人の中では一番温厚な性格で、機嫌がよくなると、ダジャレを連発しては、一人で愉快そうに笑っていることが多い。
そして、皆は汚いジーンズを履いてたけど、N田君だけブルックスブラザーズのジャケットにチノパンを履いたりして、なかなかのお洒落でもあった。

友人たちがN田君のために作った「N田のブルース」というギターで弾き語る歌があった。
~おれはN田だ 19になった~ ボロロン
 19になって初めて言った冗談は 「山手線まだかな?」「いやまて。まだだ」・・ボロン
 ・・・面白いねえ・・ボロロロ~ン~

誰も聞いてなくても、ダジャレを言っては一人で上機嫌に愉快そうにいること。それはよほど自意識のない無防備な状態じゃないと、なかなかできないことではないだろうか?
身だしなみには人一倍気を使うN田君も、ダジャレが出るときはとても無邪気だったのだ。
そして、バイオレンス映画とハードボイルド小説が好きだった。

世間では暴力というものは露骨にふるうわけにもいかないので、代わりに他人を責めたり糾弾する、あるいは貶めるとか嘲笑して相手を打ち倒すという、日常でよく見られる光景に変化することがある。
N田君は映画のバイオレンスは好きだけど、そういった変形した日常での暴力は苦手とするような実に温厚な人物だった。もしかしたら、そういった女々しい暴力は彼の「男の美学」に反するものだったのかもしれないが・・

今度は椅子の小さな背もたれに掛けておいた私の水色の傘がバサッと派手な音を立ててまた落ちたので、私は椅子を降りて拾ってから、ついに観念して傘を左手に持つことにした。

N田君は相変わらず上機嫌でしゃべっている。
「最近、ジョー・パスを聴いてるんだよ。」
「ジョー・パスか。シブいなあ・・」
「いやあ、しみじみと聴くとこれがまたいいんだ!すごく胸にしみるんだ・・」
N田君はしみじみというより、この上なく上機嫌に紅潮した笑顔でジョー・パスについて語り続ける・・
一人でも楽しそうにダジャレを飛ばしては朗らかに笑うN田君と、ジョー・パスのしんみりとしたソロギター。

話題はサム・ペキンパーからジャズギターの話になって、夜は静かに更けてゆく。

一日中冷たい雨の降る、秋の夜のことだった。




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梟翁夜話 №49 [雑木林の四季]

「ゴールデンバットが消える」

                 翻訳家  島村泰治

人は歳を重ねて老い、モノは時間を経て枯れる。一世紀の余も生きればモノも生きもののようで、時間の波に流されて消えてゆく様(さま)は見るからに愛しくも憐れだ。

煙草の銘柄に「ゴールデンバット」といふのがある。明治39年の発売で、緑色の包装に金色の蝙蝠(かうもり)をあしらったデザイン、如何にも時代がかったイメージがちと憎い両切り煙草。清国向けの輸出銘柄だったさうで、デザインがどことなくオリエンタル、一風変わった味と安価で巷に広がった。

私ごとで恐縮だが、わが父は馬と鹿がつくほどの愛煙家、愛煙を超えて滅法な煙草のみだった。親父の辺りにはいつも「ゴーデンバット」があって、煙草とは知らず、筆者はあの緑の包みと銘柄名に親しんでゐた。懐かしいカタカナである。

太平洋戦争に先立つ1940年(昭和15年)から戦後の1949年(昭和24年)まで、敵性語とて「ゴールデンバット」の名称が消え、神武天皇の神話に纏(まつ)はる八咫烏、「金鵄(きんし)」と改名された。戦時中、すべてが配給制になり、小回りのきく私は何日かおきの煙草の配給日には、親父の代役で近所のタバコ屋の前に並んだ。そんなことで、私は「ゴーデンバット」の金鵄への変身をリアルタイムで知ってゐる。

「ゴーデンバット」。この煙草は趣のある余話で彩られてゐる。比較的安かったから巷の愛煙家に愛されたこともあったが、この銘柄を好んだ人びとのなかに著名な作家たちが紛れてゐたからでもある。

まず、芥川龍之介。彼はすこぶる付きの愛煙家で、とくに「ゴーデンバット」を好んだことで知られている。太宰治や中原中也もさうで、作家たちの作品の中に「バット」はしばしば登場する。煙草好きの愛読者はこぞって「ゴーデンバット」に靡き、「ゴーデンバット」で煙草のみになったとか。南方熊楠も「ゴーデンバット」を喫煙、空箱に粘菌の標本を入れていた逸話も知られてゐる。

さて、その「ゴーデンバット」は、今次の消費税引き上げの余波で消える。煙草税では軽減措置の対象だったが、「旧3級品」に分類する措置が先月末で廃止されたことから、在庫が払底次第「ゴーデンバット」の販売が終わることになる。

JT=日本たばこ産業によれば、「ゴーデンバット」は今後は種類の違ふ葉巻たばことして生まれ変わり、北海道限定で販売されるといふ。

ちなみに、措置の対象だったたばこの中で、値上げをして販売を継続するものもある。沖縄県限定で販売されている「ウルマ」といふ銘柄がそれだ。これも昔からなじみのある銘柄で、安価も手伝って年齢層を問はず根強い人気があり、土産品として人気で1日の販売個数でも上位に入るといふ。

この10月1日、「ゴーデンバット」が消えると決まった当日、芥川の墓前に封を切った「ゴーデンバット」が供えられてゐた。

ゴールデンバット.png




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検証 公団居住60年 № [雑木林の四季]

Ⅷ 公団住宅の市場家賃化と「建て替え」着手
      国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

2.家賃値上げの国会審議と「国会要望」
 全国自治協は1988年、例年の秋とは別に春にも緊急に全国統一行動をよびかけた。第3次家賃値上げ案の撤回とともに、居住者も納得できる家賃改定ルールづくりを要求し、公団が建設大臣に値上げの承認申請をするにおよんでは国会での集中審議を求めた。短期間に約57万人の署名が集約された。こうした運動の結果、4月15日に衆院、同21日に参院の各建設委員会で公団家賃問題にかんする審議がひらかれ、両委員会とも全国自治協の代表が参考人として招かれ、意見を述べた。両参考人は、①基本懇家賃部会での審議のあり方、②家賃値上げにたいする自治協の基本的な考え方、③家賃改定の方法、④公団住宅居住者の生活実態などについて発言した。
 両院建設委員会は審議のあと委員長要望(衆院7項目、参院8項目)をまとめ、全会一致で採択した。「国会要望」によって、値上げ上限額それぞれ500円の引き下げ、敷金追加徴収の中止などの成果のほか、家賃改定ルール、建て替え、住宅修繕、高齢者世帯への措置等について公団とひきつづき交渉する足がかりを得た。
 ここで4月15日の衆院建設委員会にわたしが参考人として出席したので、会議のもようを一部紹介しておこう。
 会議は午前10時にはじまり、午前中の参考人は石原舜介(東京理科大学教授)、畑中達敏(住宅新報社顧問)、多和田栄治(全国自治協代表幹事)、午後は丸山良仁公団総裁ほか公団理事たちのそれぞれ3名であった。午前の会議では、参考人がそれぞれ約15分意見を述べたあと、各党委員が参考人を指名して質問するかたちで進められ、午後は委員が順に質疑をおこない、6時30分に終わった。
 公団基本懇家賃部会長をつとめる石原は、家賃改定ルールが適切な手続きをへてつくられ、公営限度額方式に欠けている地価反映を補正することで妥当な算定方法といえると述べた。畑中も同部会のメンバー、民間家賃との不均衡を強調し、今回の改定方式では不均衡はいつまでも是正されないから、将来は不動産鑑定評価手法が望ましいとの見解を示した。
 多和田は、「はじめに家賃値上げありき」と第3次値上げ案に「改定ルール」をセットした押しつけであり、国会要望の趣旨に反すること、地価高騰便乗型の高家賃化ルールであること、居住者の負担能力、住宅設備の実態を無視していることの3点を指摘した。
 委員の質問は、おもに基本懇家賃部会の運営、公営限度額方式の問題にむけられ、多和田には「家賃の不均衡」についての意見を求めた。
 石原は、4人の専門家が検討したルール案をもとに家賃部会を4回ひらき、12対1の賛否できめた。十分審議された、強行ではないという。多和田は、専門部会に当事者の居住者代表を加えず、しかも何が討議され、どういう資料が出されたのかいっさい非公開、部会で値上げ案はほとんど討議されていない。公団家賃の問題点について十分に検討し、資料も公開して世論にも問い、そのうえで家賃改定ルールを固め、値上げを提案するのは筋ではないかと反論した。委員から「自治協委員1名は数十万居住者の代表」との発言があった。
 石原は、公団家賃は地価を正当に反映していないといい、居住者の負担能力について問われると「公団は福祉政策的な対応をする性質のものではない」と答える。畑中は空き家応募倍率の高さも立地補正の根拠にあげる。
 多和田は、質問に答えるなかで両氏に反論をくわえつつ、公団家賃の住宅相互間、民間家賃との格差を公平性とか不均衡の問題としてとらえる前に、良質で低廉な公共住宅の絶対的な不足、高家賃を野放しにして不均衡をつくりだしている住宅政策をこそ審議するのが国会の役割ではないか、との観点から意見をのべた。
 後日、家賃改定ルールと第3次値上げ案の国会審議にそなえ公団が作成した「公団家賃値上げに関する国会対策・住民対策問答集」を入手した。163項目にわたり200ページをこえる。想定問答集をなぞった発言ばかりの「学識経験者」「有識者」といわれる人たち。その正体、役割を知らされた。


『検証 公団居住60年』東信堂

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私の中の一期一会 №198 [雑木林の四季]

  スウェーデンの環境活動家、16歳のグレタ・トゥ-ンベリさんを知っていますか?
   ~世界中の若者は「私達から未来を奪わないで欲しい!」と叫んでいる~

        アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 23日(日本は24日)、ニューヨークで開催された「国連気候行動サミット2019」に、若者世代の代表として招待されたスウェーデンの高校生グレタ・トゥーンべリさん(16)が、会場を埋めた各国の首脳や閣僚達を前にしておこなった演説は、世界中に大きな感銘を与えたものとして注目された。
 この模様を伝えた新聞によれば、グレタさんは目に涙を浮かべ、怒りで小さな身体を震わせながら熱弁を振るったという。
「気候変動で人々は困窮し、死に瀕している。生態系は壊れ、私達は大量絶滅の始まりにいる。それなのにあなた方は“お金”と“永続的経済成長”という「おとぎ話」ばかり語っている。よくもそんなことが言えますね・・・」国連本部の総会会場は静まり返った。
 この国ではあまり大きく報道されなかったように思うが、グレタさんの訴えは、サミットに出席した各国首脳の胸に突き刺ささるものだったに違いない。
 女性教育の必要性を国連で訴え、ノーベル平和賞の最年少受賞者となったパキスタンのマララ・ユスフザイさんを彷彿とさせるものがあった。
 物理学者でもあるドイツのメルケル首相は「地球温暖化と気候変動は人間によって引き起こされていることは疑いようがない」と発言して国際社会の取り組みを加速させる意思を表明したという。
 世界第2位の温室効果ガスの排出国アメリカは、トランプ大統領が会場に姿を見せたが一言も発言することなく姿を消した。
石炭火力の発電に頼る割合が多い日本は、二酸化炭素の非出量が多くサミットでの評判はあまりよくない。
発言の機会を与えられなかったせいだろうか、安倍首相は最後まで会場に姿を現わすことはなかった。
 地球温暖化の問題は、国籍や肌の色に関係なく人類の生存に関わる共通の問題である。
 スウェーデンにグレタ・トゥーンベリさんという16歳の環境活動家がいることを、ニュースを見るまで知らなかった自分を恥ずかしく思う。
 聞けば、グレタさんは2018年8月から、毎週金曜日に学校を休んで、ストックホルムの国会議事堂前に座り込んで、地球温暖化への対策を訴える環境運動をたった一人で始めたという。
 BBCによれば、それはスウェーデンの総選挙が迫っていた時期で、地球の温暖化に並々ならぬ関心を抱いていたグレタさんが「気候のためスクールストライキ」というプラカードを掲げて座り込んだのが最初だった。
 グレタさんがスゴイのは、総選挙が終わっても毎週金曜日の座り込みを続けたことだろう。
 グレタさんは、自分がアスペルガー症候群という知的障害を伴わない障害の持ち主であることを公表しているが、「アスペルガーは病気ではなく才能です。私がアスペルガーでなかったら、こうして立ち上がることもなかったでしょう」と話している。
 空気を読めないのは欠点だが、社会のルールや常識にとらわれず、思ったことをハッキリ訴えられるのはアスペルガーだからだとBBCにも語ったそうだ。 
 グレタさんの抗議行動は、FRIDAY FOR FUTURE(未来のための金曜日)と名付けられSNSを通じて世界中に発信された。
 グレタさんがが始めたデモによる抗議行動は、今や世界中で400万人が参加するまでになっているという。
 アメリカの世論調査機関ヒュー・リサーチ・センターが昨年実施した「米国人の気候変動に対する認識調査」には世代間で顕著な差が生じていることが分かった。
 パリ協定からの離脱を表明しているトランプ政権の気候変動対策を“不十分だ”と考える人々の割合は、52才以上では27%だったが、23歳から38歳のミレニアム世代になると47%に跳ね上がっている。
 大人世代が輩出した温室効果ガスによって、深刻な被害を受けるのは未来のある若者世代だからだろう。
 グレタさんが「私達から未来を奪わないで欲しい」と演説に込めた怒りは将来世代の「叫び」だといってもいいかも知れない。
 報道によれば、学校ストライキは北欧から海を越えてアメリカにも広がり始めている。
 ワシントン・ポストが発表した13歳~17歳の世論調査では、7人に1人が「学校ストライキ」に参加した経験があると回答していたのだ。
 グレタさんの呼びかけで、今年3月パリでは2万9000人の若者がデモに参加、グレタさんと同い年の16歳の男子高校生が「地球を守るために、僕たち若い世代が自分たちの未来のために動かないといけない」と訴えた。
 今月20日にも、最大規模の若者たちのデモが世界各地で行われ、150カ国の若者400万人が参加したという。
 気候変動を加速させた大人たちとの世代間ギャップを解消しようと学校を休んで活動しているグレタさん
には批判の声が無い訳ではない。
 そういう大人たちに対して、EUの会議に出席したグレタさんは「大切な勉強の時間を無駄にしていると言われるが、政治家たちはこの十数年間何もせず無駄にしてきた。私たちは温暖化の問題解決まで運動はやめない」と決意が固いことを示している。
 新聞の投書欄に、愛知県岡崎市の主婦(71)の「グレタさんの演説に共感」という一文が目についた。
「(前略)・・スウェーデンの女子高生グレタ・トゥーンべリさんが、若者たちの未来について涙を浮かべながら訴える姿に胸が痛かった。
 私たち大人は便利さ、豊かさを求めて知らぬうちに温暖化による気候の大規模変動を招いてしまった。
 大人には、この温暖化をストップさせて未来の地球を守る義務がある。そして、若者にはより良い地球を受け継ぐ権利がある。・・(中略)・・日本にはサミットでの発言機会はなかった。
 サミット前の関連イベントで小泉進次郎環境相は「気候変動のような大きな問題に取り組む際には、楽しく、格好良く、セクシイ―でなければならない」などと意味不明な発言をした。日本の温暖化対策に対する姿勢が問われる」と書いている。
 この夏は去年以上に暑かった気がする、余りの暑さに大袈裟ではなく「死ぬかも知れないな」と初めて思った。
 台風15号が上陸して千葉では57メートルという風も吹いた。信じられない強風である。
 我々は、間違いなく“大量絶滅の始まりにいる”という実感を持った。
 
 

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浜田山通信 №291 [雑木林の四季]

地球温暖化と経済成長という“おとぎ話”

                    ジャーナリスト  野村勝美

  前号で「グレタちゃん がんばれ がんばれ」と書いた。8月に15日かけてヨットで大西洋を横断、ニューヨークについた時に、新聞は2段扱い、TVもほとんど取り上げなかった。それが9月23日の国連気候行動サミットでの演説でメデイアの取り上げ方も、世論の受け止め方もがらりと変わった。
 「人々が困窮し、死にひんし、生態系が壊れる。私たちは絶滅を前にしている。それなのに、あなた方はお金と経済成長という『おとぎ話』を語っている」
 国連本部の総会ホールは静まり返ったそうだ。経済成長という“おとぎ話”が、集まった各国首脳たちにもこたえたはずだ。トランプ米大統領は聞く耳をもたないだろうが、あるいはいまだに開発途上国のふりをする中国も賛同しないだろうが、その外の国、とくに温暖化防止に係る政治家たちは何も言えなかった。もう少しグレタさんの国連演説を引用する。
 「この10年間に温室効果ガスの排出量を半分に削減するという一般的な考え方では、気温の上昇幅を1.5度以下に抑えられる可能性は半分、最も楽観的な試算でも67%です。しかしそれを実現するには2018年1月にさかのぼっても残り420ギガトンの二酸化炭素しか放出できません。今なら残り350ギガトン未満です。これらの数字に沿った解決策や計画は示されていません。若者はあなたたちの裏切りに気付き初めています。裏切ることを選ぶなら絶対許さない」
 TVもようやく大きく取り上げるようになった。やはり新聞の文字とTVの画面ではグレタ・トゥーンベリさんの表情や存在感はまるで違う。たまたま会場にやってきたアメリカ・ファースト大統領をにらみつけるグレタさんの鋭い眼光は、同世代の若い人を代表している自信と自負を物語っていた。
 考えてみると卒寿の人間には温暖化も正直言ってピンとこない。グリ-ンランドの氷が解け、キリマンジャロ山頂の氷雪が消えても、それが海面を上昇させても、私の命はもういくらもない、たしかに海水温上昇でひどい目にあうのは全世界の島国やジャカルタ、バンコク、東京の下町だが、それだけでなく孫やひ孫の時代は人間も生き延びることが不可能になる―。グレタさんの世代にはその悲惨さがはっきり分かっている。
 私は「グレタさん がんばれ がんばれ」などと書いたことが恥ずかしく情けなくなった。
 私の若い頃は、エアコンはもちろん電気こたつも炊飯器もトースターもTVもパソコンもなかった。いまは何もかもが電気仕掛けになり、石油や天然ガスなしで人間は生きていけなくなった。コンピューターやAIがあらゆる人間の行動、思考の分野に入り込んでくる時代、温暖化だけはなんとしてもくいとめなければならない。
 グレタという名前は、昔、グレタ・ガルボという大女優がいた。彼女もスエーデン人。DVDで「ニノチカ」というおもしろい映画がある。

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BS-TBS番組情報 №195 [雑木林の四季]

BS-TBS 2019年10月のおすすめ番組

                                             BS-TBS広報宣伝部

走る別荘!車中泊の旅 〜秋の信州と能登半島SP〜

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2019年10月11日(金)よる9:00~10:54

☆まるで「走る別荘」! いま大注目の「車中泊」の旅へ!

出演:馬場裕之(ロバート)、魔裟斗

近年、急激に人気が高くなっている「車中泊」。ネット上には、車中泊スポットの口コミサイトが続々登場。「車中泊」の専門誌や雑誌も発売され、YouTubeでは、車中泊関連の投稿が軒並み数十万単位で再生されている。
背景にあるのは、「全国に車中泊ができる『道の駅』が出来た」「ホテルや旅館と違って予約が不要」「キャンセル料の心配が無い」「小さい子ども・ペットが一緒でも迷惑をかけない」「走る密室!プライバシー保護も万全」「好きな場所に好きな時に立ち寄れる」「海・川の近く、森の奥まで車で行ける」「出発時間を気にせず移動できる」などなど様々なニーズや利点。
また、キャンピングカーを除いた普通自動車は、車中泊用に作られていないため、車中で快適に過ごすためのカスタム(DIY的改良)も楽しみのひとつ。
今回番組では、車中泊人気を支える二大要素<DIY的な車いじりの楽しさ>と<走る別荘で行く自由な旅>に注目!
ロバートの馬場裕之と魔裟斗が、料理、釣りなど、それぞれのテーマをもって、車中泊の旅に出発!車中泊ならではの旅を思う存分に楽しみ、車中泊の魅力を視聴者の皆さんにお届けします!

関口宏のもう一度!近現代史

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2019年10月12日スタート
毎週(土)ひる12:00~12:54

☆関口宏×保阪正康  日本の近現代史を通じて世の中を見てみよう!

関口宏が「日本近現代史」をテーマに、日本近現代史の第一人者・保阪正康氏をパートナーに迎え、歴史的テーマを取り上げる歴史番組。
時代は令和に代わり、ニュースでは国際関係が連日取り上げられている。めまぐるしく変化する現代社会を理解するための力強いツール、それが「日本近現代史」。
教科書で習った年表の一行。当時の空気や、日本人の思いを汲み取り、現代日本の足元を見つめなおすきっかけになるに違いない――。
初回10月12日放送は「大政奉還」、10月19日は「明治元年」がテーマ。

うた恋~歌に恋する音楽会~

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2019年10月12日(土)よる7:00~8:54

☆「演歌」、「歌謡曲」「ポップス」など、多岐にわたるジャンルのヒット曲を豪華ゲストの歌声とともに!

司会:由紀さおり、三山ひろし
ゲスト:天童よしみ、小林幸子、角川博、林部智史

「演歌」、「歌謡曲」「ポップス」など、多岐にわたるジャンルのヒット曲を豪華ゲストの歌声とともにお送りする音楽特番。
由紀さおりと三山ひろしを司会に迎え、上質で本格的な音楽をおおくりする2時間番組。
ゲストには名だたるアーティスト達を招き、その共演も見どころのひとつ。実力派アーティストたちが、歌とトークで魅せる、夜のひととき…「音楽に浸る至福の1時間」をお届けします!


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医史跡を巡る旅 №62 [雑木林の四季]

「西洋医学事始め・江戸の腑分」

            保健衛生監視員  小川 優

あちこち寄り道しましたが、いよいよ観臓のくだりに入ります。
解体新書といえば、杉田玄白が筆頭で名が挙がります。著者として名を連ねているのは、杉田玄白、中川淳庵、石川玄常そして桂川甫周の四人、そして名前は出ませんが実際に翻訳に加わった、むしろ主翻訳者の前野良沢がいます。それぞれの役割としては杉田玄白が「譯」、中川淳庵が「校」、石川玄常が「参」、桂川甫周は「閲」と記載されていますし、名前の順が年長順になっています。さらに元本の「Ontleedkundige Tafelen」は杉田玄白と前野良沢が持っていましたから、杉田玄白がこの翻訳事業の取り纏め役であったことは、間違いないでしょう。
杉田玄白のお墓は虎ノ門ヒルズの近く、緑の残る愛宕神社を背にした栄閑院にあります。

「杉田玄白墓」

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「杉田玄白墓」 ~東京都港区虎ノ門三丁目 栄閑院

享保18年(1733)小浜藩代々の医師の子として、江戸下屋敷に生まれる。医学を学んだのち小浜藩医となるが、宝暦7年(1757)町医者として、日本橋に開業する。当時日本橋長崎屋がカピタン参府の定宿となっており、親交のあった平賀源内とともに、長崎屋を訪れている。源内との交流はその後も続き、刃傷沙汰で源内が収監され、獄中死したあとも葬儀を執り行い、墓の隣に碑を建立している。明和8年、中川淳庵を介して医学書ターヘル・アナトミアを小浜藩費を用立ててもらって購入。詳細で緻密な記載に感嘆する。

我々が解体新書を記した杉田玄白らに抱いているイメージのいくつかは、事実と異なります。
「玄白らは自ら解剖をした」
「玄白たちは、自ら幕府(奉行所・老屋敷)に解剖を正式に願い出て、許可されて実施した」
「玄白らの観臓は、江戸で初めて行われた腑分けであった」

明和8年(1771)、玄白らの目の前で腑分けが始まります。
「蘭学事始」の記載によると、「さて、腑分のことは、えたの虎松といへるもの、このことに巧者のよしにて、かねて約し置きしよし」が、虎松が急に病気になったということで、彼の祖父が代わりに来ます。
宝暦4年(1754)の山脇東洋の時もそうですが、杉田玄白らも自ら執刀して解剖を行ったわけではなく、あくまで「観臓」、解剖を見学したのです。

「観臓記念碑」

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「観臓記念碑」 ~東京都荒川区南千住五丁目 南千住回向院

執刀したのは、百姓や町人、ましては武士とは異なる身分とされた人々でした。当時の医者は仏教的、儒学的に「ケガレ」観に囚われ、死者や罪人に直接触れることを好みませんでした。一方でこうした死や病に関わることを生業とした人々がおり、政策的に差別されていました。近代科学の黎明にも、日本における差別の明暗を見ることができます。

「南千住回向院」

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「南千住回向院」 ~東京都荒川区南千住五丁目 南千住回向院

次に山脇東洋の時のように京都所司代の正式・公式の許可、所謂官許を得てというよりは、かねがね奉行所や牢屋敷に観臓を希望する旨願い出ていたところ、たまたま処刑があり解剖するから見てもよし、というお達しがあった、というイメージのようです。奉行所のお達しに「手医師何某」のための腑分けがあるので見学をしてもよい、というくだりがあり、手医師とはお抱え医師のことですから、杉田玄白らのためにわざわざ行われたということではないのです。
そもそも刑場における解剖自体もこれが初めてということではなく、虎松の祖父曰く「若きより腑分けは度々手にかけ、数人を解きたり」、「その日より前迄の腑分けといへるは、えたに任せ、彼が某所をさして肺なりと教へ、これは肝なり、腎なりと切り分け示せりとなり。」(蘭学事始)
ここから玄白らの観臓以前にも、腑分けがたびたび行われていて、観臓した者がいることがうかがい知れます。ただ記録が公式に残されておらず、ただ観臓し、漢方人体図と実際が異なっていることに気が付いても、自分なりに納得(「みな千古の説と違ひしゆえ、毎度毎度疑惑して不振開けず。その度々異常と見えしものを写し置かれ、つらつら思へば華夷人物違いありや」蘭学事始)して終わっていたようです。

「延命地蔵(別名:首切地蔵)」

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「延命地蔵」 ~東京都荒川区南千住五丁目 延命寺

さて、当時の腑分けが行われた小塚原とはどんな場所だったのでしょう。罪を犯した者は捕らえられ、まず牢屋敷に収容されます。そして奉行所に引き出されて裁判を受け、刑が決まります。死刑となると牢屋敷に戻されて刑が執行されます。遺体は牢屋敷から運び出されて、小塚原に運ばれて浅く穴を掘り、土をかけて埋葬されます。原則遺体の下げ渡しは行われず、従って遺体を埋葬した墓は作られませんでした。江戸時代の罪人の墓は、せいぜい遺品や遺髪、それもない場合は供養のために建てられた墓になります。
本人の高尚な意思で行われる篤志解剖が一般になるのは明治になって暫くたってから、それまでは解剖といえば罪死人の遺体に頼るしかありませんでした。こうした状況から、小塚原ではたびたび腑分けが行われます。むしろ江戸では、小塚原以外で腑分けができなかったといってもよいかもしれません。玄白以降記録の残るところでは、文化12年(1815)の高須松斎によるもの、明治3年に行われた福井順道、大久保適斉とアメリカ人ヤンハンが行ったものがあります。

「松斎高須先生之碑」

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「松斎高須先生之碑」 ~東京都台東区谷中七丁目 谷中霊園

天明8年(1788)秋田出身。秋田久保田藩医に医学を学んだ後に江戸に出て、伊藤玄朴に師事する。長崎にも遊学し、西洋医学を学ぶ。文化12年(1815)、小塚原で刑死者の腑分けを行ったとされる。天保6年(1835)、秋田久保田藩医となる。明治2年に82歳で死去。

「解剖人墓」

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「解剖人墓」 ~東京都足立区日ノ出町 清亮寺

明治3年(1870)、まだ近代医学教育が始まったばかりの頃は、江戸時代と同じ形で解剖の授業が行われました。小塚原の刑場で処刑された後、ここで解剖された11人を供養しています。もともとは明治5年に建てられたものでしたが、傷みが激しかったため、昭和42年に以前からの墓の前側に、新しく碑が建てられました。

「解剖人墓(新)」

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「解剖人墓(新)」 ~東京都足立区日ノ出町 清亮寺

墓碑には11人の戒名、解剖日、俗名、年齢が刻まれ、執刀した医師の名前と人数、福井順道が一人、アメリカ人ヤンハンが一人、大久保適斉が9人と記されています。罪人の戒名のうち8人までに、「刃」の字が使われているのが印象的です。

こののち、解剖は医学校の解剖学教室で行われるようになります。
次回は、解体新書翻訳の苦労を辿ります。


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梟翁夜話 №48 [雑木林の四季]

生涯現役のパラドクス

                翻訳家  島村泰治

拠出金額がそもそも違ふ北欧諸国ではないのだから、この国では年金で食はうといふ考えが甘いことを知らぬはずはないのだが、なにやら老後を心配する余り、それと知りながらしきりに不安を訴える輩が増へてゐる。確か老後の蓄へが二千万円ないと不味いといふ話が原点のやうで、悪いことに団塊世代の引退時期に重なってゐることが話をややこしくしてゐる。

だうやら政府もあれこれ試案めいたものをちらつかせて、巷の騒ぎを知らぬわけではないといふジェスチャを見せてゐる。この話、実は起こるべくして起きているわけで、年寄りは働けるうちは働け、年金を貰ふのはもっと後にしろ、といふ正論を論(あげつら)いかねて茶を濁してゐる実情が生々しく露呈されてゐるに過ぎない。

裏にあるのは紛れもなく「団塊のうねり」だ。このうねり、今にうねり始めたものではなく、育児から教育システム、入試の狭き門から就職難まで、この世代が世渡りをする過程で随所に社会的ストレスを発生させてきた。いはば必然的社会現象を波状的に惹起させてきたわけで、此処にきて老後の懸念云々もこのうねりなしに語れぬとしたものだ。

話が飛躍するが、いま私はクラウドソーシングトップのランサーズの音頭取りで、生涯現役というハシュタグのキャンペーンを立ち上げてゐる。年寄りよ、引退とは意気地がないぞよ、踏み留まってなお現役たれ、といふ働きかけだ。人手不足だからと安易に外人を入れるまへに年寄りの余力を生かさうじゃないかといふ正論だ。

正論には違いはないのだが、現役で働けと云われて年寄りが現役たちに伍して馬車馬のように働けるものでもない。働きはするが昔のようには行かない、となれば年寄りらしく働いて世間のお役に立たうじゃないか、といふのが常識的な落とし処だ。

さて、その年寄りらしくといふことだが、力瘤がもうないからほどほどにといふなら、手間賃は妥協しても体力並みの働きをすればいい。力瘤ではなく脳味噌を使ってといふなら、話はグッと変わってくる。年寄りには年の功といふものがある。これには「味わひ」というふりかけが振ってあるから手間賃はむしろ上がってくる筈だ。年寄りの手に掛かると味わひが増す。ならば年寄りに頼むに限る。この側面が実は生涯現役のパラドックスなのである。

一般論としては、引退したら手間賃は下がっても仕方がなからうと云ふ。それが、逆に上がって然るべきだと云ふパラドックスが成立するとすれば、これには条件がある。それは年寄りの年の功に確たる潜在価値がありやなしやと云ふことだ。馬齢を重ねての価値と云ふなら俗に言ふ経験値といふことだが、それがあってはじめてこのパラドッククスは成立する。

さて、ならばどうする。これには二つ策がある。一つは働く年寄りを使ひこなす側の打算、もう一つは生涯現役を唱へる年寄りの立ち位置だ。つまり、かう云ふことだ。使う側は仕事の遅速を問わず、専ら成果の資質を重点的に評価する姿勢を守り、年寄りは年齢故の配慮を期待せず成果如何の立ち位置を崩さないことだ。

平たく云へば、使う側は年寄りを甘やかすな、年寄りは年齢を言い訳にするなと云ふことだが、生涯現役を実現するにはやはり年寄り側の意識改革が鍵になる。まず年の功がなくては始まらない。シニアと奉られるには、相応の経験値が不可欠だ。さすがだと思わせる何かがなければ、取引は成立しない。

結論は自明である。生涯現役を実現するには引退、だれもが定年に至る前の十年間に、意識的にその何かを蓄積する努力をすることだ。老後の貯金を心配する暇があったら、その何かを身に付ける努力の結果こそが老後の命綱になる。生涯現役のパラドックスは、それなくして、哀れ、砂上の楼閣なのだ。

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検証 公団居住60年 №41 [雑木林の四季]

Ⅷ 公団住宅の市場家賃化と「建て替え」着手

      国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

1.「市場家賃化ルール」論議と第3次家賃値上げ

 1981年5月に日本住宅公団は「行政改革」第1号として住宅・都市整備公団に再編された。同年7月に第2臨調が基本答申を、つづく8月に住宅審が答申をだし、これをうけて公団は、家賃改定のルールもなく、かつ裁判係争中にもかかわらず、大幅いっせい再値上げを発表し、82年11月に中曽根康弘内閣がうまれるとすぐ強行実施したことはすでに述べた。中曽根政権の82年から87年までの5年間、公団住宅居住者は家賃のくりかえし値上げと「建て替え」着手に苦しめられた。
 1978年、83年の家賃値上げは「ルールなし、話し合いぬき」だったことを国会、政府も認め、次回からは「まずルールづくり、話し合い」を約束した。それは裁判和解の条件であり、公団基本問題懇談会家賃部会への自治協代表参加もそのためであった。ところが公団は裁判和解の85年以降、同部会をまったく開かず、2年半がすぎ87年12月21日になって、家賃改定ルール案にセットして第3次値上げの具体案を提示してきた。値上げ実施は翌88年10月ときめ、改定ルール案も値上げ案も事実上検討はしなかった。これを公団は「反対は自治協代表1名だけ、他の12名の委員(公団総裁の選任)の賛同を得、十分な手続きを踏んでいる」と国会で説明した。
 公団「家賃改定ルール」案の大要は、①従来の「公営限度緻方式によって算定した値上げ額」を団地の立地条件により補正する、②団地周辺の市場家賃とのバランスをとる、③固定資産税評価額の見直しに合わせて3年ごとに家賃を見直す、④新設団地も傾斜家賃期間終了後3年経過したら値上げ対象とする、というのである。
 そもそも公営限度額方式は地価要因があまりにも大きく反映して、地価上昇のはげしい大都市圏の公営住宅では適用できず、当時すでに反古にされていた。その方式を大都市圏に集中する公団住宅に利用し、さらに「団地の立地条件」によって補正するというのだから、市場家賃化そのものである。しかもこのルールには建物や住宅設備の経年劣化等を考慮する算式はない。値上げ周期を5年から3年に早め、毎年急テンポに上がってきた傾斜家賃も3年後からまた値上げしようというのである。
 家賃部会で自治協委員は、改定ルール案の検討と第3次値上げ案の撤回を要求したが、公団は「基本的なことは住宅宅地審議会答申で指摘されている政府の既定方針だ」に終始した。
 公団が88年3月に各戸に配った「今後の家賃改定について(お知らせ)」は、改定理由に「家賃の不均衡是正」「管理経費の確保」にくわえ、「国民的視野」をかかげた。いわく「公団住宅のような公的サービスは、その受益者が比較的特定化されます。空き家住宅の入居希望者の募集には、昭和61年度をみても4大都市圏で延べ約60万人が申し込まれており、その1割程度の方々にしか需要に応じることができていないのが実情です」と、公共住宅のあきらかな不足の現実をテコに、「国民的な公正」の名において、市場家賃レ
ベルにまで引き上げることを正当化しようとした。
 公団は「改定ルール」にそって88年3月31日、建設大臣に約34万戸を対象に同年10月実施、全国平均約4,700円、18%の値上げを申請したした。上限額では1居住室の住宅8,500円、2居住室9,500円、3居住室以上10,500円という大幅な値上げ申請であり、あわせて値上げ後家賃の3か月分相当額までの敷金追加徴収等についても承認を求めていた。ちなみに同期の消費者物価上昇率は9%程度、家賃指数は18%の上昇。まさに市場家賃に合わせての値上げである。

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コーセーだから №55 [雑木林の四季]

コーセー創業者・小林孝三郎の「50歳 創業の哲学」  16

                (株)コーセーOB  北原 保

兄弟で信用つくる/責任感強く仕事熱心

孝三郎社長の横顔

 小林孝三郎氏は、結婚した大正13年、東洋堂販売部員で月給63円、その年の7月に68円になり、昭和3年には130円で販売部の東の責任者。4年に135円。5年140円と毎年5円ずつ昇給して営業部長になり、昭和16年の200円がサラリーマン時代の最高の月給ということになる。が、月給はさておき、大正の終わりから昭和のはじめの時代の孝三郎社長の横顔を、弟の小林聰三専務から話してもらうと――。
 大震災で東京は一変した。左翼運動が盛んになり、軍の力が台頭して治安維持法が公布された。皮肉にも巷では女性の流行は「みみかくし」やヘアーネットが一世を風びした。そのころ、ぜい沢品10割課税問題が持ちあがり、化粧品もぜいたく品と見られて業界は政財界上げて反対運動を始めていた。
 「不景気なころですけど、東洋堂といのは高橋志摩五郎前社長の堅実経営方針がよくゆきとどいていて、びくともしなかったですよ。オンリー化粧品にいた私は、お得意先が北海道や両毛地方でアイデアルと競合していましたね。安いオンリーのほうが人気が集まったけど、資本力のない悲しさ、乱売に追いこまれ、昭和4年に徴兵から帰ったとき、オンリー化粧品はつぶれていましたよ」
 そこで聰三氏は、兄孝三郎の口ききでアイデアル商事に入社することになった。兄弟が一つの会社でシノギをけずることになったのである。
 当時、兄孝三郎は東部地方の営業部長で一県一代理店という「アイデアルチェーン・システム」を管理していた。聰三氏はもっぱら西部地方の小売店のセールス担当だった。
 「アイデアルでは小林兄弟は仲がいいという評判がたっていた。田舎(茨城県岩井)の醤油業の長兄はたえず上京して相談にきていたし、仕事熱心な孝三郎兄はひら社員より多く出張していましたしね。だからよく兄の留守宅に遊びに行きましたよ」
 こんなことがあった――兄孝三郎夫婦は東五軒町(新宿区)の新婚生活から、高円寺に一軒の家を借りて住むようになった。なにせ、高円寺はいまとちがって「高円寺村」といわれたころ、畑の中にぽつんとある一軒家はさびしいものだった。それから若松町(新宿区)に移ったりして転転と居を変え、出張中に妻のきんさんは子どもたちをつれて引っ越ししたこともあるそうだ。
 小林孝三郎営業部長が九州に出張しているときのことだった。その留守の間に三男の省三が「エキリ」にかかって死亡した。出張先に死んだ知らせの電報が届き、孝三郎は悲しみと驚きで、しばらく祈っていたが、「骨にして待て」という電報をうって出張が終わるまでついに帰ってこなかった。
 帰路、孝三郎は、そのころ岡山営業所長をしていた弟のところに立ち寄った。弟は、兄がさぞかし力を落としていると思ったが、意外の元気さに、ちょっと戸惑いを感じながら、おくやみを言葉にすると、それまで懸命にガマンしていたのか、さっと二階にあがって肩をふるわせるほど泣いたという。
 「仕事熱心というか、責任感というのか、兄はたいした人です。また、留守を守った義姉の〝内助〟をおいては、いまのコーセー社長はなかったかもしれません。義姉はじっとこらえて兄の仕事を理解しようとつとめていましたからね。あの日のことは兄も忘れられないでしょう」東洋堂の高橋三四郎社長が、小林孝三郎営業部長を信頼していたのも無理はない。
 「私は兄ほど凝性じゃない。どちらかというとあっさり型の方です。アイデアル時代は私がアイデアル商事の責任者、兄は東洋堂の責任者で机を並べていたんですから、いま、なんとなく社長だの専務だのといって別れているとさびしいですね」
 事実、小林コーセーは、小林孝三郎と小林聰三専務の名コンビが、大きな信用をつくりあげたのだともいえる。
                                        (日本工業新聞 昭和44年10月25 日付)



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アイデアル時代から一緒だった弟の小林聰三とはコーセー創業に当たっては力を合わせて働いた(左が小林聰三専務 右が小林孝三郎社長 1949年)


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1969年の小林孝三郎社長と小林聰三専務(小林専務は1969年に副社長になる)


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1940年6月 三男省三の死を出張先の熊本で知り、仕事途中ですぐには帰れない状況から苦渋の決断で「コツニシテ マテ」という電報を送った心境をしたためた きん夫人宛の手紙(一部)

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地球千鳥足 №127 [雑木林の四季]

 癌再発、アメリカへ:会える全ての友人に「さよなら」を言って来た!

         グローバル教育者・小川地球村塾塾長  小川彩子

 またまたアメリカへ。アメリカは今年3回目かな?目的は、「20年住んだCincinnatiの友人たちにこんどこそ『さよなら』を言ってこよう」だった。「G様(癌)で手術入院するからにはそうそうアメリカに戻れないだろう」と。連日会えるだけの友人と食事をしつつ別れを惜しんだ。かつて教鞭を取ったUC(University of Cincinnati)の学部長だったDr. Robert Howellも再訪、大学の来客用カフェテリアで、またまた夫婦でご馳走になった。去る3月に夫が肺癌を発見され、翌日アメリカへ。親しい友人たちにサヨナラを言いに行ったのだが、到着直後に会った日本人の友人ヒロさんに「今は肺癌で死ぬ時代じゃないですよ!」と言われ、途端に元気付いて帰国したことは以前書いた。今回も上記の人々のほか、旧隣人のPaul、友人Dawn、Manish等、多くの友人・知人に会い、前記ヒロさんを含む日本人2組の夫婦とも再会、食事を共にし、筆者のG様(癌)を告げた。が、今回は筆者にG様が食らいついた臓器を聞いて、誰も「G様で死ぬ時代じゃないですよ!」とは言ってくれなかった。筆者の臓器はG様には相性が良さそうだ。G様に食いつかれても旅に出るこの地球千鳥足夫婦、滞在12日間で実に多くの友情で温められたCincinnati帰郷だった。
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 かつて学び、教えていたUCのビル群。ここでDr. Howellに会った
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現在も教鞭を取っているDr. Howell先生と
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かつてUCの新聞記者で今も友達、Dawnと
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かつての隣人Paulと
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かつてのご近所さんNancyと夫
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かつてのご近所さんRick(Nancyの夫)と
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よく日本に来てくれる教え子Mikeのご両親。どちらも大学教授です。
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9月にはもうハロウィーン一色
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最後の朝空港へ(レンタカーは空港で返すのです)

妻はG様再発で入院手術、夫はG様消去して医師を驚愕させた!


 入院、オペ、退院はあっという間だった!泌尿器科では日本一と評判で、韓国からも入院に来る長久保病院が近く、執刀は院長先生。この院長先生には3年前にも手術して頂いたので信頼抜群、緊張感無し。今回は再発の疑いということで、手術は1時間程度と聞いていた。半身だけの麻酔ゆえ、広い手術室でTVを横目で見せて頂きながらのオペだったが、雑草のようなものをジョキジョキ切り落として頂き、30分で終わった。筆者退院の2日後が夫の肺癌検診日ゆえ、筆者は1日休養しただけで夫に付き添って癌研に行った。夫の肺癌は2月に発見され、その時直径1cm、その後は経過観察、そして今回だ。お目々の鋭い女医さんが、夫の年齢からか、検査前には「言葉は悪いが寿命とのからみです」と宣もうた。が、放射線とCT検査の結果、「癌が小さくなり、癌っぽくなくなったネ」と驚きの表情。そして、「貴方の癌はもう気にしなくて良い!放射線の被爆量の方がこわいぐらいだ。検査も受けなくてよい!」とおっしゃった。癌を追っ払うとは、確かに凄いオッチャンだ!
アメリカに行く度会う友人、おトミさんは、「癌は甘いものが好きだから糖分を絶ちなさい! お菓子も白米も止め、玄米に!」。確かに筆者、前回のG様は玄米3、5年で追っ払ったが、胚芽米に変えたらまたG様がお戻りになったので、G様対策に玄米が強力な武器であること、重々承知していたが、甘いお菓子が駄目とは知らなかった。夫婦とも甘党で、ひと仕事の後や食後には必ずお菓子と、甘党タイムは日に5回もあった。ちょっと遅いかもしれないが、さあ、今日からお菓子を極力減らし、玄米と野菜でG様撃退、(癌)張ろう!


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私の中の一期一会 №197 [雑木林の四季]

          日韓の政治的対立で韓国人観光客が激減、観光地の悲鳴が聞こえる
        ~「早く仲直りしてくれないと困る!」が観光業者の本音かも・・~

         アナウンサー&キャスター  藤田和弘
              
  韓国のお盆休みに当る「秋夕」(チュソク)の連休が12日から始まっている。
 距離的に近い九州の各観光地では毎年この時期、多くの韓国人観光客で賑わうのが通例だったが、今年は事情が違い、予約が極端に低調だと西日本新聞が伝えている。
 日・韓関係が泥沼化している政治の問題が大きく影響していることは否定できない。
 韓国人に人気のある温泉地の一つは、大分県の由布院市湯布院町と観光名所の金鱗湖だと言われている。
 JR由布院駅の目抜き通りは土産物店や飲食店が並ぶから、平日でも韓国人旅行客でごった返すのが通例であった。
 だが、このところ韓国人観光客がめっきり少なくなっている。
 中国人や台湾人の観光客ば目立っているが、韓国人はまばらになってしまった。
 半年前までは大型バスが殺到していた金鱗湖近くの駐車場も、今は観光バスの数が多いとは言えない有様だというのだ。
「藤田さんと行った由布院の旅館。廃業のピンチらしいですよ」と懇意にしているドクターが電話してきたのはつい先週のことである。
 「へえ~、何で?」と聞くと「韓国人観光客が激減して、由布院ばかりでなく九州の各地の旅館やホテルは軒並み経営危機のようですね」ということだった。
 “由布院町づくり観光局”によると、2018年に由布院を訪れた外国人観光客は89万1676人で過去最高を記録した。そのうちの半数が韓国人観光客であった。
 16年3月、ドクターが宮崎市内で医療講座を開いて“免疫の話し”をしたことがあって私も同行した。 
 翌日、ドクターらと由布院で一泊した旅館が、今ピンチらしいと聞いてあまりいい気持ちがしなかった。
 あの時は、なるべく小規模の旅館を選んだのに、そこもほとんどが韓国人観光客で、我々日本人グループは数で負けていたのが印象に残っている。
 あの町に90万人の半分、約45万人の韓国人が来るとしたら目立たないほうがおかしい。
、韓国の文化観光研究院が11日“日本旅行に関するアンケート調査”の結果を発表した。
 それによると、8月23日から9月2日にかけて日本旅行を計画していた人は534人だったが、その約70%がキャンセルしたり、行き先を変更していたことが分かった。
 回答者の92%が「日韓関係の悪化」を変更理由にあげていたという。
 行先を変更した人の中には、国内旅行に変えた人が43.8%、海外ではベトナム、台湾、香港などに変更した人も多かった。
 多くの人が「日本へ行きたかったが、政治への配慮からやむを得ずキャンセルした」と回答していたようである。
 長崎県の対馬市は、釜山(プサン)から約50キロぐらいしか離れていない。フェリーで1時間ちょっとで行けるから、韓国人にとって「日帰りできる海外」という感覚になれるから人気があった。
 しかし、韓国人頼みになり過ぎた結果、対馬市は“韓国人に特化した観光地”になっていた。
 専門家に言わせれば、観光地としての多様性は失われ、韓国人以外には魅力のない観光地でもあったのだ。
 政治的対立の余波を受け、「韓国人観光客が来ない」となると、たちまち行き詰まるのは必至であろう。
 対馬市では、先月8月の韓国人入国者の数が激減したから、島内の業者は困惑した。
 韓国の旅行会社最大手のハナツアーが9月20日に発表したデータによると、8月の日本旅行の販売数は前年同月比で80%も減っていた。
 北海道の玄関口、新千歳空港の国際線新ターミナルはこの8月末にオープンしたばかりだが、いきなり訪日韓国人の激減という現実と向き合うことになった。
 空港関係者は「いよいよオープンという夏だったのに、今まで新千歳空港を支えてきた韓国人が大幅に減ったのが最悪でした」と嘆く。
 韓国の航空各社は、相次いで日本路線の運休や減便に踏み切っており、旅行シーズンが終わる今月後半からさらに訪日客が減るとみられている。
 官公庁のデータによれば、昨年の訪日韓国人客が消費した総額は約5900億円にのぼるという、少ない金額ではない。
 日本商工会議所三村明夫会頭は、「韓国人訪日客の減少レベルは相当なもので、北海道や九州は悲鳴に近い状況だ」と語り、日韓関係の悪化が地方経済に与えている影響は大きいと分析している。
 韓国人観光客に特化し観光地、対馬市には、昨年41万人の韓国人が訪れたが、今年7月は4割減少、8月は8割も減ってしまった。
 対馬市の市長は「7月は3億円の損失だったが、8月は7億円の損失に膨らんだ。2か月で10億円の損失は業者にとって死活問題だ」と発言、長崎県知事に支援を求める要望を提出している。
 日韓問題の解決が望ましいが、韓国人に依存し過ぎていた市の観光事業を国内観光客にシフトしていく必要もあると話している。
 今、日本の世論は韓国に厳しい、自治体や観光業界も声を挙げたくても挙げにくい状況にあるのは確かだろう。
 北海道の自治体職員が空港で「北海道へようこそ」とハングルで書いた横断幕を掲げて歓迎したら、「そんな必要はない」と批判に晒されたと知って、寂しい気持ちになったのは私だけだろうか。
 批判する側は多分、政治への“忖度”なのだろうけど、何とも息苦しい世の中になったものだ。
 佐賀県の唐津市では、この18,19の両日、韓国、麗水市の小学校児童20人のホームステイを受け入れるつもりで準備していたが、韓国側から延期の申し入れがあったという。
延期の理由や何時まで延期したいのか・・などは不明である。
 唐津の児童らが韓国でホームステイした時は、歓待されたそうで、唐津市の担当者は「交流自体を拒まれたとは思わない。状況を見守っているのではないか」と話していた。
 あちらでもバッシングや忖度があるのも知れない。 
 日本各地の観光事業関係者の側に立つと、なるべく早く仲直りするのが一番いいのだが、両国の意地の張り合いは当分続きそうな気がしてならない。


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浜田山通信 №290 [雑木林の四季]

グレタちゃん がんばれ がんばれ

                ジャーナリスト  野村須美

 9月9日関東を直撃した台風を私は何も知らずに昼頃起きた。私の寝室がマンションの凹んだ小さな庭に面しており、風の音も雨の音も聞こえない構造になっているからだ。起きて新聞をとりに玄関を出て驚いた。ドアの外は、前の小公園のイチョウの葉っぱがぎっしり道路まで落ちている。
 テレビをつけると千葉方面は、送電線の鉄塔が倒れたり。、倒木が電柱にひっかかったりで被害状況もわからないという。発表によると、千葉県から神奈川、静岡、茨城県にかけて50数万戸が停電、断水し、ガスも止まっていると。台風から5日たった13日現在10万8600戸の停電が続いており、政府の発表でも完全復旧まで1週間かかるという。内閣の改造などがあり台風どころではなかったのかもしれないが、東電はじめ県や自治体、政府も西日本の台風集中豪雨と比べるとのんきに構えていたのではないか。たしかにしばらく東京では台風被害にあっていないが、地球温暖化はどこでどんな異常気象をもたらすか判らない。アマゾンの森林火災はいぜんとして続いているし、アメリカの東海岸フロリダ沖のバハマ諸島は猛烈なハリケーンに襲われた。
 もう何年も前から北極海の氷山は解け、温暖化がすすんでいるというのに、温暖化そっちのけでロシアやアメリカは北極海開発の覇権争いに夢中だ。
 この状態を一番心配したのは、スエーデンの少女、グレタ・トゥーンベリさん、16歳。彼女は1年前から気候変動の危機を学校を休んで世間に訴えている。8月にはイギリス・プリマスからヨットで15日間かけて28日ニューヨークに着いた。30日には国連本部前での学生デモに参加した。トゥーンベリさんは国連本部で9月23日開催の「気候行動サミット」に招かれている。
 トゥーンベリさんはことしのノーベル平和賞の有力候補になっている。世界中で国家間あるいは民族間で争いが続いており、気候変動と並んで地球破壊の原因となる核戦争の危機もある。核の恐怖については、いくらアメリカファーストであろうが、ロシアファーストであろうが、人類もろとも地球が終わりになることを世界の指導者は知っている。しかし気候変動、異常気象にはほとんど無関心の様子だ
 エコロジー、環境問題が騒がれ始めてもう何年になるか。レーチェル・カーソン「沈黙の春」やヘンリー・ソロー「森の生活」、福岡正信「藁一本の革命」などを夢中になって読んでもう50年は経つ。福岡正信さんの農場のみかんを取り寄せて皆に配ったこともあった。しかしその後、本に書かれていたことはみな忘れ、無農薬の野菜や肉類を買ったり食ったりしたことはない。さすがに狂牛病が日本で見つかったときはギョッとしたが、それもいつか忘れ、いまや安いアメリカ、オーストラリア、スペイン産も平気で口にする。環境問題は先の短い年寄りは目をつむる。世界中のグレタちゃんたち、がんばれ、がんばれ。

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BS-TBS番組情報 №194 [雑木林の四季]

BS-TBS 2019年9月のおすすめ番組

                                                 BS-TBS広報宣伝部

世界陸上ドーハ


2019年9月27日(金)開幕

☆<史上、最も熱い戦い> BS-TBSは連日ゴールデンタイムでハイライトをオンエア!

出演
織田裕二 <「世界陸上」メインキャスター>
中井美穂 <「世界陸上」メインキャスター>
※メインキャスターのBS-TBSハイライト枠出演は、9月30日(月)、10月1日(火)、2日(水)、3日(木)、5日(土)を予定しています。
上村彩子(TBSアナウンサー)
日比麻音子(TBSアナウンサー)
解説
各競技解説者
※放送する競技の解説者が出演します。

9月27日(金)、陸上競技世界一決定戦「世界陸上ドーハ」が開幕する。
今大会の舞台は世界陸上史上初開催となる中東、平均気温40度を超えるカタールの首都ドーハ。
番組では「史上最も熱い戦い世界陸上ドーハ」をスローガンに掲げ、灼熱のドーハから世界の超人たちの熱戦を熱く伝える。
「世界陸上」は2年に一度行われる世界最大のスポーツの祭典。
五輪、サッカーW杯を超える200以上の国と地域からおよそ2000人のアスリートが集結、人類の限界をかけたパフォーマンスで世界を熱狂させる。
平均気温40度を超えるドーハで繰り広げられる今回の世界一決定戦。
果たしてどんな感動のドラマや伝説が生まれるのか?
また、2年前のロンドン大会で引退したウサイン・ボルトを超える超人が誕生するのか!?
そして、来年の東京五輪まで1年を切ったチーム日本の世界挑戦にも注目!
地上波TBS系列、BS-TBSを合わせた総放送時間は92時間!
「世界陸上ドーハ」の熱戦を熱くお伝えする。
BS-TBSでは9月28日(土)から10月6日(日)までの9日間、毎日ゴールデンタイムにて、前日行われた競技のハイライトを放送!

■放送スケジュール
9月28日(土) よる7:00~8:54 [ハイライト]
9月29日(日) よる6:00~7:00 [ハイライト]
9月30日(月) よる9:00~9:54 [ハイライト]
10月1日(火) よる9:00~9:54 [ハイライト]
10月2日(水) よる9:00~9:54 [ハイライト]
10月3日(木) よる9:00~9:54 [ハイライト]
10月4日(金) よる9:00~9:54 [ハイライト]
10月5日(土) よる9:00~11:54 [ハイライト]
10月6日(日) よる6:00~8:54 [ハイライト]
※番組の詳細情報は今後更新いたします。

パナソニックオープンゴルフチャンピオンシップ2019

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2019年9月28日(土)午後2:30~3:54
2019年9月29日(日)午後2:30~3:54

☆ゴルフのアジアナンバーワン決定戦!アジアから世界へ羽ばたけ!2020東京五輪の主役は誰だ?

解説:丸山茂樹プロ
オンコース解説:田島創志プロ(JGTOコースセッティングアドバイザー)
選手取材:吉田洋一郎プロ
実況:小笠原亘(TBSアナウンサー)

2008年、真のアジアナンバーワンプレーヤーを決める戦いとして産声を挙げた「パナソニックオープン」。日本ツアーの上位陣と、アジアで戦うプレーヤーたちが相まみえる貴重な場として大会が開催されてきた。2016年、リオデジャネイロ五輪ではゴルフ競技が112年ぶりに復活。2016パナソニックオープン王者の池田勇太がアジアの頂点から“世界”の舞台へと羽ばたいたように、今年も“2020東京五輪”へつながるアジア屈指の大会として熾烈な優勝争いが展開される。
本大会は「実力派」と呼ばれるプレーヤーたちが、歴代優勝者に名を連ねてきた。谷原秀人、丸山大輔、ブレンダン・ジョーンズ、平塚哲二、小林正則、川村昌弘、池田勇太、久保谷健一と、いずれも高度な技術を誇る面々が、アジア勢をおさえて栄冠を手にしている。それは「名門」と呼ばれる、美しくも高度な戦略を必要とするコースを選んで開催されてきたこと、そして「アジアナンバーワン決定戦にふさわしい」難易度を高めたコースセッティングが生み出した結果と言える。「真の実力者だけが勝ち抜ける戦い」それがパナソニックオープン。過去9度開催された大会はいずれも歴史に残る名勝負が刻まれている。昨年は舞台を関西に移し名門・茨木カンツリー倶楽部で行われ、インドのラヒル・ガンジーが涙の日本ツアー初優勝を飾った。
今年の注目は、本大会のチャンピオンでもある池田勇太、オリンピアンの片山晋呉、さらに昨年日本ツアーの賞金王に輝いた今平周吾。昨年、ツアー初優勝を挙げた星野陸也、腰痛から復活した選手会長の石川遼ら日本ゴルフ界を代表する選手たちが最高の布陣でアジアの強豪を迎え撃つ。
舞台となる「東広野ゴルフ倶楽部」は、2012年のパナソニックオープン(第5回大会)が開催されたコースで、小林正則が劇的な大逆転優勝を演じた。美しい景観を持つだけでなく、戦略性にも富んだ関西有数の難易度を誇る名門コース。巧みなコースセッティングが施され、最高のコースが最高の選手たちに最高のパフォーマンスを要求することだろう。
決勝ラウンドのもようをBS-TBSで放送。男子ならではの迫力・パワー・テクニックはもちろん、会場の興奮そのままの臨場感溢れる放送をお届けする。また、東京五輪へつながる真のアジアNO.1へ何が必要なのか、東京五輪ヘッドコーチでもある丸山茂樹プロが徹底解説!田島創志プロのラウンド解説、吉田洋一郎プロによる選手取材も注目!

ラストドライブ~涙と笑顔の免許返納!家族の絆物語~

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毎週木曜よる11:00~11:54

☆「免許返納」をめぐる家族の物語に密着!

出演:ヒデ(ペナルティ)、門脇佳奈子
ナレーター:窪田等

たくさんの思い出が詰まっている車。生活を支えてくれる車。でもいつかは訪れる「免許返納」の時…。
昨今増えている高齢者による自動車事故。
その度に話題にあがる「免許返納」。
いろんな思いを抱きつつ踏み出せない人、一大決心をして返納をする人。
免許返納に向き合ったとき見えてきた家族の絆物語に密着!

■2019年9月19日 #2
3組の家族に密着!
▽一緒に返したい!80歳夫と78歳妻の免許返納物語
▽田舎暮らしを決めた夫婦の免許返納物語
▽ともに悩み、ともに考えた妻と二人三脚の免許返納物語

■2019年9月26日 #1(再)
3組の家族に密着!
▽免許返納を願う家族とまだ返したくない祖母。「免許返納」を考えてもらうための家族の作戦とは?
▽亡き夫の形見の車を乗りこなす女性。夫との思い出の詰まった愛車は、今、ご近所の友人の足にもなり買い物や病院へ連れて行く大事なもの。手放すタイミングはいつなのか、向き合います。
▽免許返納を決めた家族のラストドライブ!家族3世代のラストドライブを決めたお父さんに娘からのサプライズが待っていました。どんなラストドライブになるのか!?

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医史跡を巡る旅 №61 [雑木林の四季]

「西洋医学事始め・蘭学の泉はここに」

             保健衛生監視員  小川 優

聖路加国際病院の南側、聖ルカ通りに面して三角形の緑地帯があり、二基の石碑が建っています。ひとつが「慶應義塾発祥の地」碑、そしてもうひとつが「蘭学の泉はここに」碑です。

「慶應義塾発祥の地」・「蘭学の泉はここに」碑

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「慶應義塾発祥の地」・「蘭学の泉はここに」 ~東京都中央区明石町

ここは幕末、中津藩の中屋敷があったところです。中津藩は蘭癖大名として有名な奥平昌高で知られるとおり、蘭学を奨励していました。前回、日本橋の長崎屋について触れましたが、江戸も長崎出島と並び当時の最先端情報が入手できる場所があり、中津藩中屋敷もその拠点の一つであったわけです。

「慶應義塾発祥の地」碑

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「慶應義塾発祥の地」 ~東京都中央区明石町

慶應義塾を作ったのは福沢諭吉、中津藩出身です。福沢諭吉は緒方洪庵のもと、大阪適塾で学びます。本人は血を見るのが苦手だったようで、もともと医者になるつもりはなかったようですが、蘭学を学ぶ中で西洋医学の必要性は強く感じていました。ただし慶應義塾開学時には教師等体制が整わず、やっと(1873)に慶応義塾医学所設立にこぎつけますが、7年ほどで廃止の憂き目にあいます。のちに北里柴三郎を迎えて、大正4年(1917)、慶應義塾大学部医学科が開設されますが、その時にはすでに、諭吉自身は他界した後でした。

「蘭学の泉はここに」碑

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「蘭学の泉はここに」 ~東京都中央区明石町

そしてオランダ語に長じていた前野良沢も中津藩医。中屋敷内に良沢の住まいもあり、ここに杉田玄白、中川淳庵が集まり、「ターヘル・アナトミア」の翻訳に取り組みます。そんな故あって、この場所を蘭学のはじまりとしたのが、この碑です。このあたりはのちに築地居留地となり、アメリカ公使館がおかれたり、運上所(税関の前身)が開設された地で、まさに明治初期には開化の窓口となります。

「運上所跡付近の隅田川遊歩道」

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「運上所跡付近の隅田川岸辺」 ~東京都築地七丁目

「遊歩道にある中央区案内板」

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「遊歩道にある中央区案内板」 ~東京都築地七丁目

川幅のある隅田川を登り、川岸を船着場とすることで海に面した港がなくとも、居留地として機能を果たすことが出来ました。居留地がなくなってからは、海軍関係の施設が立ち並ぶこととなります。かなり大きな船が通れるように、隅田川に架けられた昭和15年に完成の勝鬨橋も、中央部が跳ね上げ式の可動橋として設計されています。

「勝鬨橋」

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「勝鬨橋」 ~東京都築地七丁目

勝鬨橋の向こうには、築地市場がありました。築地市場にも船着場があり、漁船が直接市場に水揚げできるようになっていました。このように隅田川はしばらく前までは、水運の大動脈でありました。
ちなみに聖路加病院も元々の起源は、ここが居留地であったことを所以としています。

「聖路加国際病院」

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「聖路加国際病院」 ~東京都中央区明石町

「蘭学の泉はここに」碑の近くの公園には、シーボルトの胸像があります。

「シーボルトの像」

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「シーボルトの像」 ~東京都築地七丁目 あかつき公園

シーボルトは幕末の商館付医師で、普段長崎にいたわけですから、江戸、それもこの辺りに直接縁があったことを伝える史実はありません。なぜここに?と訝しく思って、説明文を読みます。

「シーボルト(1796~1866)
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、オランダの商館医員として文政六年(1823)七月、長崎に到着し診療の傍ら長崎の鳴滝に塾を開くなどして活躍した。
同九月正月、商館長と共に江戸へ向かい、三月四日、日本橋の長崎屋に止宿し、四月十二日出発するまでの間、江戸の蘭学者に面接指導し大きな影響を与えた。しかし同十一年シーボルト事件が発生し、十二月に日本から追放された。後に安政六年(1859)幕府顧問として再来日したが、まもなく帰国しミュンヘンで没した。
彼の江戸における指導は、江戸蘭学発展のために貢献するところが大きかった。この地が江戸蘭学発祥の地であり、且つ彼が長崎でもうけた娘いねが築地に産院を開業したこともあり、また明治初期から中期にかけてこの一帯に外国人居留地が設けられていたことからここに彼の胸像を建て、日本への理解と日蘭の橋渡し役としての功績に報いるものである。中央区教育委員会」

ちなみに、いねが開業した産院がどこにあったかは、今一つはっきりしません。

「シーボルトの像」

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「シーボルトの像」 ~東京都築地七丁目 あかつき公園

シーボルトの胸像はオランダ・ライデン大学とイサーク アルフレッド・エリオン財団から日蘭友好を目的として寄贈されたものだそうです。

なんとなく釈然としないままですが、蘭学の泉篇はここまで。次回はやっと、「解体新書」翻訳のお話に移ります。


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いつか空が晴れる №67 [雑木林の四季]

           いつか空が晴れる
            -二百十日―
                         澁澤京子

 朝起きて、雨戸をあけると庭に折れた木の枝がたくさん落ちていた。ゆうべの台風はかなりすさまじかったらしい。
台風が去ると猛暑がぶり返し、私は禅仲間のN子さんの絵が展示されてる六本木の美術館に向かった。ハンカチで額の汗をぬぐいながら歩く人の多い、蒸し暑い日だった。
N子さんは蓮の花をテーマにずっと描きつづけていている画家で、今年はどんな蓮の花になっているかいつも楽しみにしている。

枯れた蓮の背景にはすこんと抜けるような青空と海。

毎年、彼女の蓮はどんどん枯れていく一方で、何か心象風景が反映されていくものなのだろうか?一番年長のF森さんがその枯れた蓮に似合っているということで、ニコニコしたお人好しの丸顔のF森さんがその絵の前に立ち、写真を撮る。
といっても、他の人もみな白髪まじりの頭髪になっている年齢、誰が年長も何もないのだけど。

集まったのはみんな参禅歴の長い人たちばかりで、私を含めて還暦を越した人ばかり。
お昼に入ったミッドタウンのインド料理屋はビュッフェスタイル。何種類ものおいしそうなカレーやトッピング、デザートや果物、インド料理の好きな私は夢中になってお皿にとった。

最近、老師(禅の指導者)の体調がすぐれないことから話は始まった。
「背中が痛いってことは心臓ですね。」
「心臓か・・」
「独参(禅の個人指導)はどうなるのかしら?」
「永平寺がまた他のお坊さんを選ぶんだろうな。」
「W谷さんも、最近体調悪そうで、しかも・・同じ話を何度も繰り返すようになったんだよ・・認知症じゃないかな?」Oさんが声を潜めて言う。W谷さんも古参者のひとり。
「アラ、W谷さん、あの方って昔からそうだったわ。」と答えるのはやはり古参者のKさん。
「同じ話を繰り返すのは僕の知り合いにもいますよ。」
「嫌だ、うちの主人もそうだわ!人に何かを教える仕事をしていると、どうしてもそうなるのね。」Kさんが笑いながら言う。彼女の御主人は大学の先生なのだ。
「何度も何度も同じことを生徒に言っているとそのうち癖になっちゃうんだわ。」

「それにしてもうまいな、これ。」
「接心(泊まり込みの坐禅会)の時は緊張してこんなに食べられませんね。」
「沢庵を噛む音がちょっとぼりってしただけで、老師に何やっているんだ!そこ!って怒鳴られたことがありましたよ。」
「沢庵はお湯につけてふやかしてから音を立てずに飲み込むようにして食べるのよ。」
参禅歴の長い人ほど、ご飯をお代わりする余裕ができるけど、私は普通の人の半分の量で精いっぱい。お箸や食器で少しでも音をたてるとたちまち怒声が飛んでくるので緊張のあまり食べた気にならないのだ。

「Hさんは浄人のとき、ご飯をこんもりとよそいすぎませんか。」浄人というのはある程度経験のある参禅者がお給仕の役をすることで、私はあまりにもおかゆの給仕が遅いということで、老師に叱られ、浄人をクビになったことがあった。たくさんのおかゆが入った重いお鍋を持ってみんなの前できちんと作法通りにお給仕するのは至難の業で、緊張のあまりお鍋を落としそうだったのだ。あんなに緊張したことはない・・・

そのうち、新参の参禅者に厳しいOさんの事が話題になる。いつも陽気で口が悪いけど、老師の前では大人しいOさん。
「上司には優しく、部下には厳しいタイプだな、」
「そうよ、そうだわ、Oさんってそういうところあるわ!」
Kさん、N子さんと私が笑い転げる。
毒舌家のOさんは女性陣にやり込められて無言になる。Oさんはロシアに駐在していた商社マン。私に丁寧に英語を教えてくれたこともあったし、本当は部下にもとても親切な人なのだと思うけど。

接心で何日も泊まり込みで同じ釜の飯の仲間だと、気の置けない軽口を交わすのに、ちょうどいい関係になる。
禅味とも禅問答とももかけ離れた、おじさんとおばさんの無意味でクダラナイ会話が延々と続き、そのうちにお開きになった。

私は狸穴の事務所に行くというOさんと六本木の交差点で別れて、渋谷行のバスに乗った。
バスの窓の外の風景がゆらゆら見えるほど蒸し暑かったけど、どことなく秋の気配のある爽やかな一日であった。


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