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BS-TBS番組情報 №301 [雑木林の四季]

BS-TBS 2024年3月後半のおすすめ番組

                     BS-TBSマーケティングPR部

新時代の歌姫!丘みどり熱唱SP~演歌・ジャズ・洋楽からJ-POPまで

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3月19日(火)よる9:00~10:54 
☆令和の歌姫、丘みどりのコンサートの模様を余すところなくおとどけ!

天才民謡少女として注目を浴び、高校生でアイドル歌手デビュー、さらに演歌歌手と再デビューして開花したその歌人生は今、あらゆるジャンルの作品を歌いこなす歌姫として結実している。
日本全国津々浦々の大ホールでのコンサートも満員にする人気の丘みどりが、昨年初挑戦した都心のライブハウスでの公演。
そこでは、日本のポップスや洋楽をはじめ、実力を問われるジャズやシャンソンまでを見事に歌い上げ、耳の超えた観客に真っ向勝負を挑んだ。

この番組では、ボーカリスト・丘みどりを堪能する、この特別なシークレットライブに加え、プラチナチケットと言われる王道演歌の大ホールコンサートの模様、さらには彼女の歌人生を追うVTRとを合わせて、令和の歌姫の実力と魅力を紐解いていく。

憧れの地に家を買おう

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3月22日(金)よる10時~10時54分 
☆物件購入を本気で考える武井壮が、世界移住を夢見るゲストと夢を語ります!

#67 ベトナム・ホーチミン

今回の憧れの地は、ベトナム・ホーチミン。東洋のパリと呼ばれる古い建築と高層ビル群が同居する活気ある商業都市。最初に紹介されたのは、ヨーロッパのような美しい街並みの中にある、ラグジュアリーな4階建てタウンハウス。グランドピアノが置いてある4階の部屋は他の階より天井が高く、インドシナ風建築によく見られるドーム型天井です。ジム、屋外ラウンジ、テニスコートまで共用施設が充実。次に紹介する物件は、現在建設中の新しい街に建つお手頃物件です。日本のマンションよりも窓が大きい為、部屋全体が明るく、広く感じられる造り。ホーチミンに移住した日本人は、YouTuberとして活動し、映画にも出演している人気者。最後に登場する物件は、エンタメ満載のリゾートアイランド、フーコック島にある、プライベートビーチ付き物件。ヨーロッパ風の内装でオシャレなシャンデリアが使用されています。

MC:武井壮 ゲスト:三浦大輔

こども音楽コンクール

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3月30日(土)よる11時~11時30分
☆“音楽を身近に楽しむ”というコンセプトのもと、1953年にスタートした小学校・中学校が対象の音楽コンクール。

今年度はコロナ禍の影響が色濃く残る中、全国949の小・中学校から2万1053人が参加。小・中学校それぞれ6つの部門(重唱・合唱・重奏・合奏第1・合奏第2・管楽合奏)で「文部科学大臣賞」受賞校が選出されました。
「文部科学大臣賞」受賞校と「審査員特別賞」受賞校には、
3月2日(土)、東京オペラシティ コンサートホールで行われた「文部科学大臣賞授賞式・記念演奏会」で賞状が授与されました。番組では当日の模様をお送りします。・
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海の見る夢 №73 [雑木林の四季]

    海の見る夢
         -柳宗悦のラブ・レター―
                    澁澤京子

 アインシュタインとフロイトの往復書簡『人はなぜ戦争をするのか』で、アインシュタインの質問に対し、フロイトは戦争を抑制するものとしてまず「文化」を挙げ、「知性を強めること」と「攻撃本能を内に向けること」が人にとって最も重要であると答えている。昔、この本を読んだときはピンとこなかったけど、ヘイトスピーチ、差別と暴力のあふれる今読み返してみると、フロイトの言っていることは実に正しい。

飢餓状態に追い込まれ、やっと届いた小麦粉に群がったパレスチナ人を撃ち殺す(100人以上が亡くなった)イスラエル兵士の残虐な行動と、ヘイトスピーチに共通するのはまさに「知性の欠如」と外に向けられた「攻撃性」以外の何物でもない。今のイスラエル兵士が、まるでターミネーターのような非情さを発揮し、ヘイトスピーチが虚勢や嘲笑の形をとるのは、彼らが人を見下すことによって、辛うじてあるかなきかの己の優越心を保とうとするからだろう。(それが集団化すると暴力に)逆に今のパレスチナの人々が、優れた人間性を見せるのは、民族性もあるのかもしれないが、彼らがすべて奪われた無防備な状態に置かれているからではないだろうか。

それでは「知性」とは何だろうか?

・・・日本が神の国において罪深いものとして見られる事は、私の忍び得ることではない、私は日本の栄誉のためにも、我々の故国を宗教によって深めたい。私は目撃者ではないとはいえ、様々な酷い事があなた方の間に行われたのを耳にする時、私の心は痛んでくる。それを無言のうちに堪え忍ばねばならないあなた方の運命に対し、私は何を言うべきかを知らない。~『朝鮮の友に贈る書』柳宗悦1920年

韓国映画やドラマを見て気が付くのは、時々セリフにハッとさせられるような詩的表現が多いこと。少女の交流を描いた『わたしたち』ユン・ガウン監督や、『それから』ホン・サンス監督、『ペパーミント・キャンディ』イ・チャンドン監督などを観ると、こういう繊細な、人情の機微や人の痛みを表現できる韓国っていったいどういう国なんだろう?と思う。晩年、詩人の茨木のりこさんが朝鮮詩を原語で読みたくて、韓国語を勉強し始めた気持ちもわかるような気がする

朝鮮の陶磁器や仏教美術を通して、朝鮮半島の人々の繊細さと芸術性のレベルの高さに魅入られたのが柳宗悦。エッセイ『朝鮮の友に贈る書』が書かれたのはちょうど朝鮮半島の3・1独立運動を日本総督府が弾圧したころのことで、関東大震災が起こり朝鮮人虐殺があったのがその三年後になる。日本人の朝鮮人に対するむごい扱いと差別を人づてに聞き、いたたまれない思いで書いたのだろう。この美しいエッセイは、目の前に置かれた李朝の器を通して朝鮮の人々に語りかける、柳宗悦の熱烈なラブ・レターである。

支那もすぐに降伏すべしと思ひ足らんが、案外長く抵抗する―朝鮮も後には追々苦情を申し立て我に背くあらん。自分ばかり正しい、強いと言ふのは日本のみだ。世界はさう言わぬ。                     ~『氷川清話』勝海舟
この頃、人が世に処し事に従う様子を見ると、その目的とするところは自己の利益を得るためかそうでなければ名誉権威を求めることであって、精神誠意国を想い、道を行うものは甚だ稀である。                 ~嘉納治五郎

柳宗悦は1889年、東京・麻布で藩士の家に生まれた。叔父が嘉納治五郎、母方の父が勝海舟と懇意な関係にあり、のちのバーナード・リーチ、河井寛次郎等との交友関係も含み、宗悦の植民地主義に抵抗する思いや今でいう人権意識の高さは彼を取り巻く人間関係の影響が大きかった。勝海舟は日清戦争にも強固に反対し、日米修好通商条約が不平等なまま、朝鮮半島を植民地化して不平等を押し付けることにも反対し、好戦的な薩長を頂点とする新政府とは対立していた。(今の自民党の欧米には弱腰、その逆にアジア諸国を見下すといった構図はこのころからあったのか・・・)勝海舟は、欧米列強の植民地化に対抗するには、中国、朝鮮半島、日本とアジアの国でお互いに共存、連帯するしかないと考えていたのである。勝海舟の構想していた「儒教文化圏構想」。それは、その後の仏教がベースになっている西田幾多郎の大東亜共栄圏構想とも、国家神道がベースの八紘一宇とも違う。植民地化した朝鮮半島に神社を建立し、日本語教育を押し付けることになったのは、道義的世界統一の理念を示したのは神武天皇という、田中智学の八紘一宇思想によるもの。勝海舟は、儒学者である横井小楠から影響を受けていたため、そうした誇大妄想的な国粋主義や差別による排他主義とは無縁だった。

昔、朱子学と陽明学の本を集中して読んだことがあって、「用」とか「体」とか禅で使われる言葉が頻繁に出てきた事を覚えている。陽明学のほうが「頓悟」(一気に悟る)で、朱子学が「漸梧」(次第に悟る)に似ていたと把握している。禅は陽明学と似ているが、横井小楠が重要視したのは、陽明学の主観主義ではなく、朱子学の「格物致知」であり、合理性と客観性だった。中国の易姓革命(能力主義)は日本では無視され、世襲制になったが、横井小楠は、日本の血縁世襲制度を批判し、能力主義を奨励した。易姓革命の理論では幕府のみならず万系一世も否定されてしまうが、横井小楠は日本人には珍しい純粋な思想家であり妥協がなかったためか、暗殺された。(日本人は、状況に応じて適当に周囲に自分の意見を合わせるご都合主義者が多く、特にそうした修正主義の長州人には小楠のことは到底理解できないだろう、と勝海舟は述べた)また、横井は日本の政治の本質は「鎖国主義」とも、批判している。彼は西洋のキリスト教に対抗できるのは、儒学しかないと考えていたのである。横井小楠は利他を説くキリスト教をとても評価していた。
~参照『横井小楠』松浦玲著

横井小楠の日本批判はとても鋭く、今の日本にもそっくりそのまま当てはまる。「血縁世襲制度」「鎖国政治」と言えば、世襲議員が多く、派閥のことばかり考え、自己保身のことしか頭になく、大衆受けのパフォーマンスしか考えない与党を連想させるし、興味の対象が内向きで視野が狭く、うちわの人間関係や物事に拘泥しがちの日本人の欠点もよくとらえている。利益第一の欧米のやり方は「仁」ではないと批判し、また、ヨーロッパの植民地政策も「仁」の観点から批判し、さらに「開国」を主張した横井小楠。彼は徹底的に朱子学を学ぶことによって道義とともに近代的合理性をも身につけていた。勝海舟は、頭の切れる横井小楠を「天下第一流」と絶賛した。

『幕末の水戸藩』山川菊栄著によると幕末のころには、無学で乱暴な武士、屋敷に押し入り主人を切り殺して書庫の本に火をつける荒くれもの、農家にお金を無心に行く武士、また武士でありながら占い師を信用するなど、堕落した武士やならず者の多い物騒な時代だった。世の中が混乱し、今の言葉でいうと「反知性主義」と暴力が蔓延していたのだろう。  

横井小楠から影響を受けた勝海舟や嘉納治五郎も極めて近代的、合理的な判断力を持っていた。勝海舟は蘭学を学び咸臨丸でアメリカに渡っているし、フェノロサに教わった嘉納治五郎はヨーロッパに遊学している、二人とも儒教の合理精神をベースにした欧米文化に対する理解力を持っていたため、土着的な血縁主義や排他主義にはならなかった。嘉納治五郎も平等思想の持主で、学習院院長に任命された三浦梧楼(長州藩)の国粋主義や階級意識の強さとは反りが合わず、三浦による朝鮮の閔妃暗殺事件をきっかけに学習院を辞職、外遊に出る。~参照『柳宗悦と朝鮮』韓永大 

・・今の外交家のする仕事は、俺の目には小人島の豆人間が仕事をするように見えるのだよ。
                            ~『氷川清話』    

新政府の外交が目先の事しか見えてない、と批判する勝海舟だが、西郷隆盛の人物はとても高く評価している。朝鮮征伐ではなく、礼節正しい外交をと主張した西郷は、大久保らと対立し辞職した(これが西南戦争につながる)当時からアジアに対する「弱腰外交」を嫌う、故・石原慎太郎のような好戦的、タカ派の日本人が多かったのだろうか。道義を重んじた横井小楠。新政府に対して批判的だった嘉納治五郎と、勝海舟。彼らの「仁」を大切にする考え方は、今の、法を無視した何でもありの時代に生きていると、逆にとても新鮮に見えてくる。

・・こうして書いてみると、日本人の本質は幕末のころから大して変わっていないんじゃないかという気もするが、裏金問題を起こしても平気で開き直る、すれっからしの今の自民党議員と比べるのは、さすがに維新政府の人々に対して失礼というものだろう。

そうした二人の影響を受けた柳宗悦。柳宗悦の自宅は朝鮮人の出入りが激しかったので、周りには常に特高の監視があったが、少しもひるまずに宗悦は朝鮮を擁護し、日本政府による同化政策や日本人による人種差別に徹底的に抵抗した。

‥ある国のものが、他国を理解しようとする最も深い道は、科学や政治上の知識ではなく、宗教や芸術の内面の理解だと思う。~『朝鮮とその芸術』

相手の国の文化や芸術を尊重できない人間は、自国の文化・芸術の良さも結局わからないだろう。柳宗悦が朝鮮李朝の磁器を通して知ったのは朝鮮の人々の温かさと寂しさであった。知性というのは、そうした柔らかな感性をベースにして生まれるものだと思う。

幕末、明治、大正時代と違い、私たちはいくらでも情報を入手できる時代に生きている。恵まれた状況にありながら、SNSの悪意あるデマや噂に安易に飛びつくのではなく、つまり、勝手に決めつけたりせずに、まず、白紙になって相手のことを理解しようとするのがフロイトのいう「知性」なのではないかと考える。

※最近、You tuberとして人気ある、30歳になったばかりの若いバックパッカー、バッパー翔太君のファンでよく見る。バックパッカー特有のブロークンな英語でいろんな国のいろいろな人にインタビューしてゆくのだが、その質問の仕方や対応が、どんな人に対する時も彼のリスペクトが感じられて、感じがいい。天然の天真爛漫さで、ロスのギャングだろうがホームレスだろうが、メキシコ国境やインド、インドネシアの未開民族、どんな場所に行っても、相手の懐になんの抵抗なく飛び込んでいく。しかも、番組最後に語る彼の感想が、毎回なかなか深い。インドネシアに世界中のゴミが押し付けられていることも、アメリカのラストベルト地帯に住む人々のことも、ゴミの問題から貧困と格差の問題まで彼のレポートで知った。元々の素質もあるが、おそらく彼の「知性」をはぐくんだのは学校ではなく、彼が今まで出会った世界中の多くの人々なのだろう。こういう生きた知性を持つ若者にどんどん出てきてほしいと、もう二度とバックパッカーというハードな旅ができなくなった年寄りは思う。バックパッカーにはリスクは伴うが、その代わり安宿でいろんな国の大学生と話しをしたり、現地の人と話す機会が多いので、若かったら手軽なパックツアーに参加するのではなく、バックパッカーになってほしい。

若い時の、いろんな人とのいろんな出会いはその人の「知性」となり、また一生の宝物になるだろう。



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住宅団地 記憶と再生 №31 [雑木林の四季]

ベルリン・ヘラースト地区の団地

      国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

全棟にエレベーター付設、バルコニーの拡張

 通路側から見える部分では、玄関回り、バルコニーの改修、エレベーターの付設などが、わたしの関心の的だった。それらはいずれも改修を際立たせるかのように非常にカラフルに彩色されていて、微笑ましくなった。,
 あとで気がついたのだが、わたしはベルリンの団地で片廊下式住棟をみた記憶がない。すべて階段室型である。旧東ベルリンのどこの団地でも中層住宅のエレベーター付設工事がすすめられている。終わっているといえようか。
 エレベ一タ-はごく簡易な造りで、住棟に接合している。車椅子ともう一人がようやく乗れる程度の狭い機種だが、高齢者や障かい者対策ならあれで十分で、各階のフロアーに止まる,。それにくらべ、わが公団住宅がごく一部の既存住棟に追築しているエレベーターは建屋と住棟を廊下でつなぐ方式をとり、もっと「立派」だが、階段室の踊り場止まりで、入口トアまではまた階段の上下が必要であり、だからだろうが隔階止まりにしている。金をかけるわりに不便である。エレベーター付設は本体とは独立の設備とみなし、接合型の造りは建築法税上認められないのだそうである。
 エレベーターの新設にあわせて玄関回わりを改修し、デザイン、色彩によって玄関ごとの個性化が見られる。
 バルコニーを拡張し、ロッジア風に改造して生活空間としての利用価値を高める工夫をしている。それぞれに花を飾り、道ゆく人たちの目を楽しませてくれる。よく確かめなかったが今になって、あれはバルコニーをロッジア風化して一部屋増築にしたほか、バルコニーのなかった側の外壁をぶち抜いてばるこにーを設置したのでないかと、自分の撮った写真を昆ながらそんな気がしてきた。バルコニーの改造等は、エレベーターの付設は別として、どの住棟でも行われているわけではない。全体から見ればまだ一部である、住民合意の形成、工事予算の都合等でおそらく10年、20年と時間をかけての長期計画だろうし、改修の方式、デザイン等も変わっていくのだろう。
 外から見ただけでもかなり大胆な改修をしているのだから、内部の階段室や室内の改造にはさらに興味深い。
 大胆な団地改造といえば、その手法に減築、さらには住戸の撤去もあるのだろうが、わたしが歩いたこの地区には高層の滅築も長い住棟の分断も気づかなかった。空き家は目についた。空き家の窓には、直径40センチはどのオレンジ色の丸い紙に「ミ一テ・ミヒ(私を借りて)と連絡先の電話番号を書いた貼り紙がしてあるからわかる。わたしの住む団地には階段によっては10戸に4戸、5戸の空き家があるから、窓にこんな貼り紙をしたら、どんな見世物になるか、異常な眺めであろう。
 2019年9月に再訪したさい、ミーテ・ミヒの貼り紙は見あたらなかったし、この地区では新築工事さえ見かけた。古い住棟を除却した跡なのか空地だったのかは分からない。地下車庫つきの家族壇住宅149戸の建設と標示している。へラースドルフを歩いてわたしが気づいた団地の現状である。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂


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地球千鳥足Ⅱ №43 [雑木林の四季]

マツタケ狩り奥義
       小川地球村塾村長  小川律昭

 毎年八月末にはコロラドにマックケ狩りに行きたくなる。趣味といってしまえはそれまでだが行きつけになって六年に及ぶ。
 降雨量の影響で全然採れない年もある。今までのところ確率は五十%である。にもかかわらず、その時期が来ると行きたい衝動に駆られるのは何故だろう。青年時代、田舎で秋になるとキノコ狩りに行っていた。種々のキノコを採ったがマツタケは一回だけだった、あの見つけた時の快感が今でも脳裡に残っていて、郷愁も含めて忘れられないからだと思う。探ったものを食べることにはそれほど興味はない.

 この地のマックケ狩りの出は、海技二〇〇〇メートルぐらいの唐松林の中である。実際、一人で山に入って探し出すのだが、湿地で別のキノコが生えているような場所にマツタケも生えるのだ。もちろん、コロラド駐在のマックケ狩り大先輩から教わったから言えることだ。時期は八月終わりから。暑かった夏の気温が下がって摂氏一九度ぐらいになってから生え出す。
 山に入れば二時間をめどに探すのだが、ただ下を見て歩いているだけではそう簡単に見つけることは出来ない。まずありそうな場所の選定から始める。直径二五センチぐらいの松ノ木の周辺一・八メートル以内の乾燥した場所か、小さな尾根を形成しているところを地面をなめるようにじっくり探すのだ。日当たり確率四〇%の場所がいい。一本見つかればその周辺四メートルに渡ってリング状に点在して生えている。木の根元にもたまにはある。後はしゃがみ込んで根気よく見つけ山すことである。初めの一本を見つけるのがポイント、それは地面の松葉がこころもち膨れ上がっているところ、その松葉の下をかき分けると鎮座まします。大きく膨れ上がったところは別のキノコだ。よくよく見れば松葉がなくても地面が割れている箇所にもある。地面三~六センチと結構深いところにあるから、キノコの周辺を掘らないとうまく採れない。
 山は下から登って行く方が見つけ易い。下からだと透かすように見上げられるから膨らみもわかり易いし、大きなマックケなら傘の裏が見える。だが大抵虫が入っており、茎も柔らかくて駄目だ。だがその周辺をなめるように探すことに意義がある。一本あればそれが呼び水と思えばよい。必ず沢山あるはず。誰も採っていないところなら一箇所で十~十五本はかたい。
 次のポイントは鹿の糞がかたまってあるところ。松ノ木周辺に彼らが掘った後の穴があいている。ヤツらは匂いで嗅ぎ分けているから間違いはない。その困りを探すことである。最後に人が円周状に採取した後に、遅れて生えたものを前述の要領で狙う。この場合多くは望めぬが二、三本なら探れる。結論として松ノ木の下、この辺で一休みしたいようなところ、キレイで木陰から日もさし、小尾根のある乾燥した斜面に生える確率が大きい。

 いずれにせよマックケ狩りは山をドンドン歩くのではなく、地面を透かし、なめるようにゆっくり歩いて、落ち葉上の膨らみを見つけ出すことである。男性より女性の方がゆっくり歩くし集中力があるから向いているかもしれない。ここにはマツダケが必ず生えているのだ、という信念を持つことが大切である。
                    (二〇〇一年九月)
『万年青年のための予防医学》 文芸社

 

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山猫軒ものがたり №35 [雑木林の四季]

炎 1

             南 千代

 能ヶ谷川での釣りが解禁になった。川は三年おきに禁漁と解禁をくりかえす。これまで、川をのぞき込んでは魚が泳ぐのを「早く大きくなあれ」と眺めているしかなかったのだが、いよいよ釣ることができるのだ。
 といっても、釣りは子どもの頃以来である。敵は渓流の女王であるヤマメ。さっそく、釣りの名人である時次郎さんに教えを請いに行った。時さんは、この川の管理を任されており、禁漁中に釣りをしている人を見かけると、葵の御紋のごとく漁業組合の監視員証を見せるのが自慢である。
 明日から解禁というその日、時さんの顔はイキイキと輝いていた。懇切ていねいに釣り万を教えてくれ、おまけに釣竿ひとそろいを貸してくれた。翌朝、夜が明けるのを持って川へ降りた。いた、いた。ヤマメが泳いでいる。泳いでいる口元に釣糸を垂れるのだから、釣れないわけがない。またたく間に五匹釣れた。まだ小さな一匹は、キャッチアンドリリース。
 必要以上に釣ることはない。すぐに家に引きしけて竹串に刺し、囲炉裏で焼く。まず一匹を山猫軒の主である黒猫のウラに献上し、残り三匹を私たち二人と絵筆で食べる。うまい。身は引き締まっていて、透き通るように白い。
 この日の朝は和食。玄米ご飯にフキノトウの味噌汁。まだほんのり温かい産みたて玉子に。たくあえ、梅干し、材料から梅干しにいたるまで、すべて自家製のいつものメニューに、久々の新鮮な魚がついた豪華版である。
 この春からは、田の近くに新しく二反の畑も始めることになっていた。地元の人たちと親しくなると、畑地の話は向こうからいくらでもやってきた。
 高齢者の多いこの集落では、耕していない田畑が多い。耕してはいなくても、周り近所の迷惑を考えると草刈りなどの管埋はきちんとしておかなくてはならない。作物を作るための草刈りならまだしも、ただ放置しておくだけの土地の手入れは、精神的にもかなり辛い。
 きちんと作物を作り、管理し、周りの百姓たちともトうブルを起こさずうまくやってくれる人なら、ただでも貸したいと思っている土地の人は少なくない。が、いったん貸して返してほしくなったときなどに、面倒がおきるような人だと困る。だから、どこの誰ともどんな人ともわからない最初からは、ふたつ返事では貸さない。もっともだと思う。家の場合と同じだ。
 そういう点では、私たちは紹介者もいて、ほんとに恵まれていた。「三キロの近くに借りられることになった佃は、元は田んぼだったリ、土砂を埋め立てた地であったりと、それなりに開墾や石除け等を行い、畑にするまでのきつい作業はあったにせよ、向うから「使ってくんねえか」と言われるのは、ありがだいことであった。
 冬の間に、借りることになった畑の開墾はすませておいた。玉川村をはしめ、あちこちに少しずつ間借りしていた小さな畑は返した。今年からは、まとまった畑で存分に野菜を作ることができるのだ。
 ギヤラリイの方では、ひさ子さんの作品展を開催している間に、次々に新しい企画が生まれてきた。この町の出身だというので訪ねてきてくれたのは、バロックリュートなどの古楽器奏者である立川さん。夫の古くからの友人であるジャズベーシストの井野さんもやってきた。
 すると、山猫ギャラリィは今度は猫の目のように早変わりして、コンサート会場に。数十個の椅子は、太い丸太を総動員。時には囲炉裏端お座敷ジャズのスタイルで。古い家は、建具を外せば大広間になり、七、八十人と予想外の人数を受け入れてくれる。
 鶏のコケコッコーやヤギのメエメ工、犬のワンワン、蝉しぐれ、とアドリブ参加もあり人も楽器も動物も風も、今、ここにあるすべての状況と生をひっくるめての、山猫ライブである。
 やろうとしさえすれば、ほんとになんでもやれるものだ。生越町に住む若手作家たちで、
合同展をやろうという話も持ち上がった。地元作家の作品を、地元の人々にも観てほしい。第一回目の参加作家は十一人。絵画、彫刻、染色織物、陶芸、草工芸、写真、金属、木工などジャンルもさまざまだ。
 「この町にも、こんなにいろんな作家がいるんですね。自分の町を何だか見直しちゃった」
 町の駅東に住む中川さんが言った。.読女は、牛乳パックの回収などリサィクル活動をこの町で地道に着実に続けている人で、借りているこの家の遠戚にあたる人でもある。うれしかった。

『山猫軒ものがたり』 春秋社



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BS-TBS番組情報 №300 [雑木林の四季]

BS-TBS 2024年3月前半のおすすめ番組

          BS-TBSマーケティングPR部

第37回ダイキンオーキッドレディスゴルフトーナメント

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3月1日(金)午後6:30~7:30
3月2日(土)午後7:00~8:00
3月3日(日)午後5:30~6:54 

☆日本女子プロゴルフツアー開幕戦!女子プロゴルフ界を代表する強さと美しさを兼ね備えたトッププレーヤーたちがビッグタイトル獲得に挑む!

日本の女子プロゴルフトーナメントは、南国・沖縄で開幕戦を迎える。
「第37回 ダイキンオーキッドレディスゴルフトーナメント」。
世界基準の4日間競技で開催され、賞金総額も1億2千万円(優勝賞金2,160万円)とツアー初戦から真の強さが試される。戦いの舞台は沖縄県南城市にある美しく戦略性に富んだ琉球ゴルフ倶楽部。華やかな舞台で日本女子プロゴルフ界を代表する強さと美しさを兼ね備えたトッププレーヤーたちがビッグタイトル獲得に挑む。

いぬじかん

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3月12日(火)よる11時~11時54分 

☆犬好きMC関根⿇⾥&岡部⼤(ハナコ)が送る犬が主役のワンワンバラエティー! 犬にまつわる役立つ情報から感動のストーリーまで、一時間まるごとワンコだけでお送りする超癒し系番組です!

#11 今回は犬とのよりよい暮らしが見つかる大型複合施設のWANCOTTを紹介。

MC:関根麻里 岡部大(ハナコ)

ヒロシのぼっちキャンプ Season8

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3月13日(水)よる10時~10時54分

☆ヒロシが自分のためだけにするひとりぼっちのキャンプ。ほんとうの自由がここにある。

#83「バラとヒロシと春雨の森」/#84「大きな岩と俺のお花見キャンプ」(再放送)
4月上旬、雨が降る静岡県富士宮市にやってきたヒロシは、清流沿いのキャンプ場の森の奥でひっそりと佇む苔むした巨石と出会う。巨石のそばを居場所に決めてテントを設営するとさっそく焚き火を始めようとするのだが、すっかり雨に濡れた森の薪にはなかなか火を着けることができない。
今回の主役にとスーパーで買ったうなぎを美味しく焼き上げるには、じっくり熱を伝えてくれる絶品の熾火を作らなければならないのだが・・・。春雨の森で自分なりのお花見キャンプを楽しもうとするヒロシの一日を描く。


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海の見る夢 №72 [雑木林の四季]

    海の見る夢
        ―Sky Lark-                                                       
               澁澤京子

いまだ停戦せず、ますます虐殺非道の続くパレスチナ。正義なんてないんだ、と思いながらCDを整理していたら、『真夜中のサヴァナ』クリント・イーストウッド監督の映画のサントラ盤が出てきた。クリント・イーストウッドのものにしては、異様な雰囲気の映画だったけど、さすがクリント・イーストウッド、映画で使われるジャズ音楽が私の好みだったので以前CDを買ったのだ。特に、「スカイラーク」ってこんなにいい歌だったのか、と感心したのがK.D.ラングというジャズシンガーで、ジャケットには、両手に皿を持って首を傾げた女の子の銅像の写真。あの映画に出てきた、公園の女の子の銅像は「正義」のシンボルだったんだ、と今更ながら気が付く。そこでもう一度映画を見直す事に。サヴァナで起こった事件をもとに書かれた小説が映画化されたもので、「ムーン・リバー」「スカイラーク」「酒と薔薇の日々」「フールズ・ラッシュイン」など数々のジャズの名曲の作詞家であるジョニ―・マーサーの生家で実際に起こった殺人事件。ジョニ―・マーサーのジャズ詩は何となくデカダンなものが多く、ジャズをこよなく愛するクリント・イーストウッドがこの小説を映画化したのも頷ける。

「・・悲惨な話を隠すのがサヴァナ流だ。」~『真夜中のサヴァナ』映画より

ジャーナリストのジョン(ジョン・キューザック)が、サヴァナの名士ジム(ケヴィン・スペイシー)にインタビューするために街に着くところから話は始まる。サヴァナというアメリカに実在するこの港町が実に美しい。街路樹は生い茂り人々に木陰を提供し、歴史ある美しい建物と公園、明るい陽射し、抜けるような青空・・しょっちゅうどこかの家ではパーティが催され、住人は中流階級の裕福な人々が多く、まるで、もてなし上手の老練なマダムのような街なのである。かつてのジョニ―・マーサーの邸宅は、今は骨董商で名を成したジムがそれを買い取って住んでいる。

ところが、ジムのパーティの最中に殺人事件が起こる。ジムと痴話喧嘩になった自動車整備士で男娼でもあるビリー(ジュード・ロウ)が激昂して暴れ、撃ち殺されてしまう。後半は法廷ものになり、犯人とされたジムは優秀な弁護士を雇って無罪になるが・・この映画は、最初に犯人がわかってしまうので謎解きでもない、むしろ映画全体から浮かび上がってくるのはそうした事件の究明よりも、不自然な街の人々の姿。パーティの最中に殺人が起こっても、見て見ぬふりで無関心のまま談笑し続ける人々・・死んだ犬の散歩をする紳士、いつもペットのアブを顔の回りに飛び回らせている男、醜聞をひそひそ囁きあう奥さんたち・・つまり、社交的だが他人に無関心、奇妙な街の人々の姿が浮き彫りにされる。そのため、この街の青空が抜けるように透明であるほど、逆にその明るさが不気味に見えてくる。そして、殺された貧しい青年ビリーの死を悲しむのは、街の人々から密に侮蔑されている男娼仲間のレディ・シャブリだけ。この街の裕福な人々は、男女を問わずビリーと肉体関係を持った人が多いのに,ビリーのような貧しい若者の存在は、社交生活では空気のように無視される。

クリント・イーストウッドが描きたかったのは、起こった犯罪よりも、むしろこの街の人々の異様さだったんじゃないかと思うと、両手に皿(天秤)を持った、銅像の女の子が暗い表情なのも腑に落ちる。社交では何事でも他人事のように語られ、無関心が蔓延、ジムのような権力者がその財力によって罪に問われないのは日常茶飯事のこと。そうすると人々は、理不尽を理不尽とも思わないほど感覚がマヒしてしまうのかもしれない。

「死者と語らないと、生者のことはわからない。」

良心の呵責に苦しむジムの唯一の相談相手、ヴ―ドゥ呪術師のミネルバの言葉。タイトルの『真夜中~』は、ミネルバの呪術が真夜中に行われる事からくる。死者との語りは、内省であり、祈りでもあり、また、音楽の根源もそこにあるんじゃないかと思う。世の中には、他人の苦しみのわかる人と、わからない人がいるだけなのかもしれない。法廷で無罪判決が出てから、ジムは心臓発作を起こして死ぬが、最期の瞬間にジムが見たのは、殺されたビリーの微笑む姿で、それはビリーがようやく復讐を遂げた微笑みなのか、それともジムへの愛なのかは神のみぞ知る、だろう。

一見、人種差別もなく平和、多様性に寛大でリベラル、経済的にも豊で美しい街サヴァナ。しかしその裏には経済格差と貧困、人種差別、ゲイ差別というものが密に隠されていて、原作のタイトルは『Midnight Garden of Good and Evil』。クリント・イーストウッドは、原作にはなかった、両手に皿を持つ女の子の銅像(正義の象徴)を登場させた。正義というものが不均衡なものでしかない今の世界で、この銅像の少女の暗い表情は妙に脳裏に焼き付く。もしかしたら、正義は死者との語りの中に存在するものなのかもしれない。

※ここまで書いていたら今、(2月26日夕)、アーロン・ブシュネルさん(25)米兵が、ワシントンのイスラエル大使館前で抗議、パレスチナ解放を叫びながら、焼身自殺するという痛ましいニュースが飛び込んできた。今、パレスチナで連日起こっている虐殺が、感受性の強い一人の優しいアメリカの青年の心を踏みにじったのだ。さっそく、ブシュネルさんに対し「精神疾患」というレッテル貼りする人々が出てきたが、もしそうであるならば、おそらく世界は、彼よりもずっと狂っているのに違いない。

アーロン・ブシュネルさんの魂が安らかでありますように。


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住宅団地 記憶と再生 №30 [雑木林の四季]

18.ベルリン・ヘラースドルフ地区の団地 Berlin-Hellersdorf

      国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

●ヴーレタルWuhletal駅から

 メルキッシェス・フイアテルが旧西ベルリンの大団地の代表とすれば、旧東の代表には「へラースドルフ団地」があげられる。
 2010年の10月15日、団地再生の好例として紹介されている団地をこの目で見たくて、へラースドルフ駅にむかうU5バーンに乗った。外を眺めているともう何駅も手前から緑のなかに高層の住棟が連続して見えはじめたので、あわててヴーレクル駅で下車した。へラースドルフ駅の4駅も手前である。団地の所在を予めよく確かめずに来てしまったのが失敗だった。進行方向にむかって駅の左前方、歩いて数分のところに団地がひろがっていた。団地のなかで「ここはへラースドルフか」と聞くと「そうだ」という。団地の名称を聞いても、けげんな顔をして答えてくれない。行政区はたしかにへラースドルフだが、これが団地名ではなさそうだし、固有の団地名が必ずあるとは限らない、と思えてきた。団地内のすべての通路には通り名があり、玄関ごとに番号があるのだから、それだけで住所表記は十分である。団地名はないのかもしれない。団地の入口近くに「住宅建設組合ヴーレタル」WG Whletal e.Vの建物があった。
 あとで調べたら、この組合は旧東ドイツのベルリン、ケムニッツ、ノイブランデンブルク、シュヴェーリンの建設企業の連合体であり、1980年代に3,000戸余りの住宅をへラースドルフ地区に建設し、企業本社の所在地名を建設した居住地区の名にしている。わたしが歩いたのは、ルートヴィヒスルスター通りとパルヒマ一通りがかこむ「シュヴェーリン住区」であった。近くのヴーレ川沿いは緑の回廊になっている。
 外壁は白色か薄茶色を基調にした、まだ新しく見える、すてきな団地である。駅に近い住棟は5階建て、奥にむかって高層化、といっても6~7階建てである。ベルリンでは団地の計画的なリノベーションが90年代にはじまっている。ここでも玄関口やバルコニーの改修と塗りかえ、エレベーターの追築などの工事が施されている。その後さらに改修、近代化が進められている。
 団地内を歩いていて、どの住棟も長大であることが気になった。その後グーグルマップでみると、内側の何棟かが工事中のようだったし、いまその区画=公園になっている。撤去されたのであろう。
 寮内については知る由もないが、外観上の改修工事を一部この団地でも見ることができた。団地の中央に4階建ての住宅管理事務所があり、管理窓口で喫茶店も経営し、かなり大きな建物のなかは会議室やクラブ活動のための部屋などになっている。
 ここにいても「へラースドルフ団地」行きに気がはやり、早々とこの団地に別れをつげ、へラースドルフ駅にむかった。ただし、ここでは地理的にヴーレタルに接したカオルスドルフ・ノルトへの訪問記を先にしるす。

●カオルスドルフ・ノルトKaulsdorf-Nord駅から

 カオルスドルフ・ノルトもよく聞く地区だから、2019年にベルリンに来たさい9月7日に訪ねてみた。U5バーンのヴーレクル駅のつぎである。駅の両側に5~12階建ての住棟群がせまっている。
 ヴーレタルとカオルスドルフ・ノルトとは、居住地区がつながっていて境界があるわけではなく、歩きはじめた地点はちがうが、9年前と同じところまで足を延ばしていることに気づいた。団地の風景も、思いだせば似ている。そのはずである。この地区とヴーレタルは、旧東ドイツの同じ各都市の建築家たち(おそらく労働者も)が担当し、建物とその配置、空間のデザインに覇をきそったと記されている。住棟ブロックそれぞれに個性的ではあるが、光景は両地区共通の印象をうける。まえに来たときよりも色彩的にいくらか鮮やかに感じるのは、9年のあいだに団地の改修が進んだせいかもしれない。
 カオルスドルフ・ノルトは、ツェツイリエン通りをはさんで南北に、第1区と第2区にわかれ、1979年から86年にかけて、3~5室のアパートがそれぞれ5,486戸、2,050戸建設された。1区には、保育園6、幼稚園11、学校6、ショッピング・センター3、レストラン5のほか社会施設があり、2区にも各種施設が設立されている。建設されてベルリン市区に引き渡され、管理(所有)は複数の半ば公的な組織に託されたのであろう。わたしが歩いたのは、ギュルツオヴェル通りとリリー・ブラウン通り界隈であるが、この辺りはシュタット・ウント・ラント(都市と土地)社Stadt und Land Wohnbauten GmbHが管理している。
  住棟はどこもほぼ5階から、高くて12階建てで、正方の中庭を大きくコの字型、あるいはL字の組み合わせ型にかこむかたちで建てられている。駅近くは11~12階住棟が建ち並ぶ。ある12階建て高層住棟はl階が住宅ではなく事務所、集会所などに共同使用されている。その先には、5~6階建てがつづく。
 5~6階建てには明らかに改修の跡がみられる。エレベーターの付設とバルコニーの拡張である。当初エレベーターはなかったのであろう。いまではすべての住棟の階段ブロックごとに1・5メーター四方の赤褐色のボックスが付設されている。表玄関脇が多いが、裏口側への付設もみかけた。バルコニーの改造はすべての住棟ではなく、おそらく住民合意にたっした階段ブロックごとに施工されているのだろう0バルコニー枠を増築し、張り出させてロッジア風に改造し、居住面積の拡大にもなっている。

『住宅団地 記憶と再生』東信堂



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地球千鳥足Ⅱ №42 [雑木林の四季]

こんなところで日本人5人と会った!
~べリーズ~    

            小川地球村塾村長  小川律昭

 ベリーズは全体的には安全な経済成長過程国で、カリブ海の水はコバルト色だ。だが空港のあるベリーズ・シティは少々治安が悪い。我々は恐れず第一夜をここに取り、着いた早々まず市内を散策した。街角でビニール袋売りの裁断マンゴーを食べている、痩身の若い日本人女性に逢った。テレビ取材の手伝いで半日雇われたという。彼女はTさんといい、「キーカーカー島に住んでいる」と言った。忙しそうだったのでそれで会話は終わり。日本人男性2人がその傍におり、カメラマンと渉外係のようだった。テレビ番組、「世界の村で発見! こんなところに日本人」の取材中とのことだった。この取材陣に「ご夫婦とマイアミからの航空機で一緒でした」と言われたがこちらは記憶になかった。リュックを担いだ合計156歳の夫婦は目立ったのだろう。
 ベリーズ・シティは壊れかけた建築物やバラック建ても多く、街並みは汚い。空港も古くて質素、航空機への乗降は徒歩だ。首都のベルモパンには空港がないのでここが国際空港、うらぶれた都市である。200年前宗主国イギリスから運ばれたレンガで建造されたセント・ジョーンズ教会と、カリブ海に面した総督官邸を見学したが、現今は迎賓館、熱帯植物に囲まれた優雅なたたずまいだ。刑務所だった博物館は厳重な鉄格子塀に囲まれていた。政策として強調しているのはカリブ海のレジャー観光とリゾート産業のようだ。
 頭髪をアフリカン・アメリカン状に編んだ女性から声がかかった。「日本人ですか?」と。2時間半バスに揺られ、サン・イグナシオに着いたところだった。ワイフと日本語を交わしたのを聞いたのだろう。黒く日焼けした、日本人にしては大柄な女性で、10ドルかけてネイティヴのように髪結いしたという。ここ、サン・イグナシオでは最高のホテル、カル・ペチ・リゾートを選んだ。
 ベリーズを代表するシユナントゥニッチ遺跡は密林に覆われた丘の上にある。9世紀頃繁栄した神殿都市という。高さ40メートルのピラミッドは保存状態もよく壁面には神や踊る人、怪物や貝殻なども刻まれており当時の文明を偲ばせる。ホテルから見下ろせるカル・ペチ遺跡は歩いて数分の距離、紀元前3世紀から紀元後8世紀にかけてのものが混在し、独特のマヤ・アーチ状の構造が特徴だ。
 南のリゾート地プラセンシアのスーパーで会った日本人女性はワイフが私を「お父さん!」と呼ぶ声を聞き、話しかけて来た。夫はアメリカ人、政府系の仕事をしていて定年後ここに来て家を建築したと言う。日本人が懐かしいのか30分も立ち話をした。物価も安いしカリブ海の温暖気候が気に入ったのだ。この国には16人ほどの日本人が居住するとのことだ。
 プラセンシアは昔の漁村、今は高級リゾート地でホテルもレストランも高価だ。その関連で仕事もある。シーズン・オフで人影を見かけない海水浴場だった。砂浜沿いの貸小屋は空家。ホテルのカヌーやサイクリング車で楽しめた。
 キーカーカーは俗化していて砂の小島ではなくなった。サン・ペトロも桟橋やマリンレジャーに人が集まり過ぎて海辺を汚している。バリア・リーフやブルー・ホールへ船で出かけて珊瑚礁の海底を覗くほうがいいだろう。
                     (旅の期間‥2013年 律昭)

珍遇が取り持つ縁は地球の一角から
                          
 「事実は小説よりも奇なり」といわれるが、誰しも体験があるだろう。人と人は見えない糸で繋がっていると思わざるをえない事件がままある。人生行路はある時重なり合い、交友範囲が拡大し、生きる楽しみも増える。覚えている範囲の珍遇、奇遇を紹介しよう。
 成田からの国際線ダラス行きの機中、飛び立って2時間後、フライトアテンダントが我が隣の空席に客を連れて来てよいか尋ね、了解したら日本人女性が座った。驚いたことに、彼女はシンシナティの我が家のご近所イーナおばさんの所に以前寄宿していた。その後日本で結婚したが、高校、大学時代ともイーナおばさんと暮らしたという。我々夫婦もイーナと付き合っているが、そもそも彼女とのご緑は、別の寄宿人をイーナが空港に迎えに出た折、私が近所と知り同乗させてくれたことが始まりで、今も信頼感で結ばれている。
 エストニアのタリンで、隣国ラトビア行きのバスの切符を求めていた時、小柄な女性が列の後ろに。ブラジルから来た日本人夫婦だった。私の元勤務先のブラジル支社駐在員が共通の友だちだった。バスがすぐ出るので名前を交換しただけで別れたが、隣国ラトビアの中心街リーガの街中で「小川さ~ん!」と呼ぶ女性の声。よくも同じ時間に同じ街の一地点をすれ違ったものだ! 5分ずれたら会えてはいなかった(ラトビア共和国の項参照)。この国はホテル探しが大変な国だった。やっと見つけた小ホテルのエレベーターで「やあ、小川さん」と今度は旦那さん。これが何の打ち合わせもなしで3度目の出会いだった。朝食を共にして話をしたら、お互い日本に生活拠点を置き、定年後彼らはサンパウロ、我々夫婦はシンシナティに活動拠点を置く元駐在員だった。似た夫婦同士、バルト三国をうろついていたのだから奇遇だろう。再々会は打ち合わせをして、ブラジルはサンパウロの日本人開拓時代の博物館で。もちろん日本でも国分寺で会食を楽しんだが、世界各地で計5回も会ったのだ。
 彼らとの出会いは霊感に導かれた必然的偶然とでも言えるのではなかろうか。海外で日本人らしき人に会えば私はよく話しかける。好奇心が働くからだ。「地球の一角でいつ人との出会いや緑が始まるかわからない」と期待しつつ、行動する我が好奇心とその果実に乾杯!                      (2015年執筆 律昭)

『地球千鳥足』 幻冬舎


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山猫軒ものがたり №34 [雑木林の四季]

ムラの名人たち 2

             南 千代

 私が料理を習っている間、夫は薪集めの毎日だった。ガスのない暮らしが不都合もなく続いていたため、台所に風呂に暖房にと、一年に使う薪の量は、四トン車でおよそ二、三台分。
 夫はコーさんに紹介されて、キコリの名人である小沢さんの山仕事の加勢に行くようになっていた。一緒に出かけて仕事の手伝いをし、不要な枝を薪用にもらってきていたためである。
 木には「伐り旬」とキコ与たちが呼ぶ伐りどきがある。秋から冬にかけての季節だ。つまり、木が根から水分を吸い上げていない時期である。この頃になると、キコリたちは忙しい。倒された木の、要らない枝を集める夫も忙しい。地下足袋に脚絆(きゃはん)を巻き、弁当とチェンソーとついでにカメラも持って、彼らと共に、朝七時半に家を出る。
 枝といっても直径二十センチ、長さ数メートル。とても男一人が持てる重さではなく、チェンソーで切った後、クレーンで積み下ろしする。こうして何日も山に通った後、はじめて薪になる材料が集まる。
 ケヤキ、カシ、エノキ、ナラ。集めた木は、切りやすく割りやすい生木のうちに薪にする。ストーブに入る五十センチ程の長さに切り揃えた後、斧で割る。割る作業は、薪作りの過程のフィナーレみたいなものだ。
 これを家の周りにグルリと積んで半年ほど乾燥させた後、薪になる。灯油を買ってきて使うことを思うと、おそろしく時間がかかるのは、米や野菜作りと同じである。
 「何だって今の世の中は、買った方が安くつくよ。でも……」
 と夫は、囲炉裏に薪をくべながら言う。
 「薪が暖めてくれるのは、こうして燃えている時だけじゃないんだよ。チェーンソーを振り回している時も、薪割りをしている時も体があったまるよ」
  キつりたちとのつきあいやおしゃべりは心を暖めてくれ・家の周りに積まれた薪は、断熱材代わりとなって家自体をも暖めてくれるというわけだ。
  さて、キコリたちの主な仕事はもちろん木を倒すことだが、伐り倒す行為自体は、米作りにおける田植えや稲刈り、薪作りにおける薪割りと同様、作業全体のクライマックス的一部にすぎない。チェーンソーが使えさえすれば、木を伐ることは誰にでもでき、名人とはならない。
 しかし、たとえば。木のすぐそばに家や電線があったら、大木が杖を張ったその姿のまま倒れる空き地がなかったとしたら、単純に根元を伐るだけで木を倒すわけにはいかない。
 地元では空師と呼ばれている名人・小沢さんの仕事は、そのような木を伐ること。作業の大部分は、十数メートルの高木の上で行われる。

 はしごも届かない高い木には、クレーンで移動する。クレーンのフックに足を乗せ、サーッと木の頂上あたりに運ばれると、木に飛び移り、まるでセミみたいにピタリと張りつく。そこで足場を確保しながら、チェーンソ1でまず枝の先を切り落とす。
 手頃な足場がないときは、ロープで腰を木に縛りつけた格好でチェーンソーを奮う。太い枝は、クレーンのロープで枝を縛った後に切り放し、吊られた状態で下ろす。胴体だけになった木も同様に上から少しずつ、つめていく。
 クレーンアームの位置や木の重心を見極めないと、木を吊った位置や切り放した角度によって空中で木が安定を欠いて大きく振れ、危険を招く。
 木が倒れても大丈夫を長さにまで切りつめた後、地面に降り、予定した方向と場所へ木を倒す。ようやく、根元へチェーンソーを入れるわけだ。望む方向へ木を倒すには、あらかじめ木の倒す側に、角度をつけて切り込みを入れ、受け口を作る。反対側にチェーンソーを入れると、木は受け口の中心に向かって倒れることになる。
 このように、空の上で仕事をする空師は、近隣でも数えるほどしかいないとか。倒せる高さにまで木をつめた後、隣の木でもう一度同じ作業をしなければならない場合がある。そんなとき、地面に降りて再び隣の木に登るのは時間がかかる。どうするかというと、木から木へロープを渡して空中移動、ロープを伝って隣の木まで這っていく。軽業師顔負けの芸当である。
 小沢さんが木の上で作業をしている間、一緒に仕事をする他のキコリたちは、ロープを引っ張ったりして彼の作業を助ける。落ちてくる枝を集める、チェーンソーで整理する、運ぶ、トラックに積むなどの作業もある。
 倒した後は、木の売れる部分は市場に持って行き、商品価値のない枝などの部分は、処分する。夫は作業やトラックの運転を手伝い、この部分を薪用にもらってくる。
 夫は、加勢の合間に小沢さんの仕事ぶりを、写真に撮っていた。しかし、その身のこなし、スリリングな速さや強さに、唖然として見とれてしまい、つい、手の中のカメラを忘れてしまうことも度々あるらしい。キコリの加勢はまだまだ続きそうだ。
 チェーンソーを振り回すおかげで、夫の腕にはポパイのようなカコブができた。
 「南さんはカメラマンにしとくのは惜しいや、うちで働かねえか」
 夫は、小沢さんに誘われ、苦笑していた。

『山猫軒ものがたり』 春秋社



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BS-TBS番組情報 №299 [雑木林の四季]

BS-TBS 2024年2月後半のおすすめ番組

     BS-TBSマーケティングPR部

皇室2024秘蔵映像SP 陛下と共に雅子さま心を寄せる旅路

298皇室2024ロゴ入り.jpg
2月18日(日)よる6:00~6:54

☆心温まるエピソードや秘蔵映像をお送りします。

両陛下は、ご結婚30年という節目の年だった昨年6月、国賓としてインドネシアを訪問されました。国際親善を目的とした両陛下そろっての外国ご訪問は実に21年ぶりで、即位後初めてのことです。今回番組は、両陛下と交流した日本語を学ぶインドネシアの大学生たちを取材。両陛下は、愛子さまと同世代の学生にお会いになり、卒業論文についてお話をされたといいます。

また、安住紳一郎アナウンサーが昨年の春、天皇ご一家がご静養のため5年ぶりにご訪問された栃木県の御料牧場を取材。宮中晩さん会などの料理にも用いられる農畜産物が生産される現場や、
宮中の伝統的なお正月の料理のために生産される細ごぼうの収穫など、関係者から話を聞きました。

東京ドーム約54個分という「皇室の牧場」の知られざる姿を紹介するとともにご静養中のご一家の様子や子牛に愛子さまが名前をつけられたという心温まるエピソードなど秘蔵映像と貴重な証言を交えてお伝えします。

ナレーション
安住紳一郎(TBSアナウンサー) 皆川玲奈(TBSアナウンサー)

X年後の関係者たち

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2月19日(月)よる11;00~11:54

☆大ヒット企画の“関係者同窓会”を開催!なぜブームになったのか?ヒットとなる過程には何が?その舞台裏に迫る!

#61「魔法の天使クリィミーマミ」

遡ること41年…
「魔法少女」を題材として作られたそのアニメは、少女向けであったにもかかわらず男性ファンも獲得し、最高視聴率が20%を超えるなど大ヒットを記録しました。
その作品の名は…「魔法の天使クリィミーマミ」

この作品は大ヒットアニメ「うる星やつら」を制作した「スタジオぴえろ」の初オリジナル作品として誕生し、1983年に放送を開始。

パステルカラーの美少女キャラや豊富なアイドルソングなど、後の「美少女アイドルアニメ」のさきがけとなりました。なぜ、少女だけではなく老若男女に愛される「魔法少女」となりえたのか?今回は「魔法の天使クリィミーマミ」が国民にかけた魔法の秘密を解き明かします。

MC:カズレーザー(メイプル超合金)
<関係者> 伊藤和典(原案・脚本)高田明美(キャラクターデザイン)望月智充(演出・監督)堀越徹(プロデューサー)
<立会人> 高橋望(元アニメージュ編集者)

関口宏の一番新しい中世史

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2月24日(土)ひる12;00~12:54

☆現代社会にも通じる“日本文化の基礎”が形成された<中世史>を覗きに行こう。<br>司会・関口宏の歴史シリーズ第3弾!

~安土桃山時代~#96 <1600年9月~10月>
今回は天下の分け目となる「関ケ原の戦い」。
徳川家康方の東軍が勝利。 家康は大坂城に凱旋、豊臣秀頼と謁見し戦勝を報告。西軍の石田三成・安国寺恵瓊・小西行長を処刑します。

<キャスト>
関口宏
加来耕三・・・歴史家・作家
大宅映子・・・評論家・(公財)大宅壮一文庫理事長

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海の見る夢 №71 [雑木林の四季]

      海の見る夢
      ―人の望みの喜びよ~バッハー
                      澁澤京子

  希望とは何かがよくなるという確信ではない。実際の結果にはかかわりなく、何かが意味を持つという確信だ。  ヴァーツラフ・ハヴェル(故人・チェコの作家・大統領)  

若者に混じって「即時停戦」デモに参加していた時、私とほぼ同年代と思しき通行人の叔母様から、軽蔑のこめられた一瞥をチラッと投げつけられたことがあって、デモを「迷惑」と思っている日本人は多いんだろうなと思った。特に今のパレスチナ停戦デモは海の向こうの、遠い中東で起こること。私たち日本人には関係ない、デモは無意味な行為と思うのかもしれない。グローバル企業が力を増せば増すほど、無関心と排外主義が広がってゆく今の時代、

いったい、いつまで私たちはイスラエル軍の野蛮な行為を見ていないといけないのだろう?南アフリカの訴えが通ったのにもかかわらず、今のイスラエル軍の行っていることは狂気としか思えない。パレスチナ支援物資のトラックを阻止するために集まった多くのイスラエル市民・・目隠しされたパレスチナ人の子供たちを建物の中に連れて行き、建物ごと爆破させるイスラエル兵・・飲み水さえも十分に確保されないパレスチナでは、すでに数人の子供が餓死しているという。こんな残酷が許されてもいいのだろうか。こうした狂気は、今、ミャンマーで、ウクライナで、さまざまな国でも起こっていて、解決の出口を見失い、(何のために)戦っているのかわからなくなればなるほど、人はますます残酷になるのかもしれない。

そして、今はパソコンを開けてX(ツイッター)を見れば、目の前で虐殺が展開されているのである。情報の少ない第二次大戦のように普通の市民は「知らなかった」で済まされる時代じゃないだろう。目的や意味を喪失しているのは決して今のイスラエル兵だけではなく、先の見えない不安と閉塞的な状況にいるのは日本も同じではないだろうか?パレスチナ人虐殺と並行して、群馬県の朝鮮人慰霊碑が撤去されたが、都合の悪い歴史を無視するのはイスラエルと同じで、そうした歴史の書き換えがまずいのは、必ずスケープゴートにされた国に対する差別が起こるからだ。第二次大戦で、日本は加害国であり被害国でもあったわけだが、ねじれた被害者意識が、自分より弱者に対する差別感情になって、人を踏みにじるような暴力に発展してゆくのだと思う。

たとえば今、パレスチナに対して非道な行為を行っているのは、実際のホロコースト経験者ではない。むしろ、実際のホロコースト経験者(高齢者)や、その話を聞いた子供たちには、今のイスラエル政府に対する批判者が多くみられる。靖国を賛美する人に、実際の戦争体験者がほとんどいない日本の状況と同じだろう。(中東和平協議に尽力したジミー・カーターの『パレスチナを語る』を読むと、長いアパルトヘイト政策の末に、計画的な今のパレスチナ人虐殺があるということがよくわかる。)

今年のアメリカの大統領選。いったいどういう人がトランプを支持しているんだろう?という疑問を持って実際アメリカに行った朝日新聞の記者、金成隆一さんの書いたルポ『トランプ王国』のシリーズがとても面白いので全部読んでしまった。これを読んで、トランプ支持者のすべてがQアノンであるとか、人種差別者、陰謀論者というのは、私の偏見だったと言う事に気が付いた。(もちろん、一部にそういう人達はいる)つまり、トランプ支持者の中には、トランプという差別主義者は嫌いだが、他に選択肢がないので投票する人々が少なくないのである。金成さんはトランプ支持者の多い、ラストベルト地帯(錆びた工場地帯)に住んでインタビューを続ける。ちょうど日本の高度成長期にあたる時期には自動車産業や製鉄業で栄えた町が、自動車産業や製鉄業の衰退とともに、失業率が高く、日本円に換算して自給900円くらいで働いて生活している人が多いのである、この記事が書かれたのは2016年、私がクリーニング屋のパートで働いていた時期で、なんとラストベルト地帯の時給は、日本のパートの時給(最低ラインの)とほぼ同じだったのだ。

昔は、工場で普通に働いていれば休暇ごとに旅行に行けるほど豊かだったのに、今では生活するのがやっとの苦しい状況。本来は労働者の味方であった民主党から共和党に人々が流れたのは、一つはベトナム戦争をきっかけに民主党が労働組合から離れていったこと、さらに左派である民主党議員にアイビーリーグ出身者が多く、知的エリート化して庶民からかけ離れてしまったことが、労働者階級の民主党離れの大きな原因だという。オバマのような、知的エリートより、大音響でかけられた「YMCA]の曲で踊るトランプのほうが、親しみやすい存在なのだろう。

気候変動やLBGTなどより、労働者である彼らにとって切実な問題は良い仕事に就くことと賃金アップであり、希望になるのはトランプの掲げる「強いアメリカ」なのであって、オバマのような(能力主義のエリート)による「アメリカンドリーム」の実現は、手の届かない夢でしかない。アマゾンの倉庫で働く季節労働者の映画『ノマドランド』の、主人公の女性の住んでいた町も、企業が撤退したゴーストタウンだった。主人公は定年退職した年齢であるのにもかかわらず、キャンピングカーを住居にして働くのである。アマゾンの倉庫でのAIに管理された労働がどんなに非人間的で過酷なものであるのかは、『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した』J・ブラッドワース著に詳しい。

ラストベルト地帯の生活の様子は、実際にそこで生まれ育ち、奨学金を取ってイェール大学に進んだ『ヒルビリー・エレジー』J・D・ヴァンス著に詳しいが、失業率の高さと貧困、将来に対する絶望から薬物、アルコール中毒者が多く、この自伝を書いたヴァンスの母親も長いこと刑務所に入っていた。同級生のほとんどが、両親のどちらかが薬物中毒か、あるいは両方とも薬物中毒かアル中で、そうした地域では放置されて育った子供が多い。いくらオバマが「妻、ミシェルは労働者階級ですが、努力してハーヴァードに入りました」と言っても、努力しても成功するのはほんの一握りの選ばれた人間だけ、ということを人々は知っているし、そうしたアメリカンドリームはむしろ人々に余計に劣等感と無力感を抱かせるだけ・・そして、新しいグローバル企業の浸透に伴い、職を失い、自信も希望も失って、薬物中毒か、アルコールにはまってゆく。一握りのエリートと、成功から取り残された多くの人々。アメリカの格差と分断は深刻である。

アメリカほどすさまじい学歴社会でも格差社会でもない日本では、アメリカでの能力主義による極端な格差はそのままあてはまらないかもしれない、ただし、ネット右翼のヘイトスピーチや排外主義、陰謀論、歴史修正主義、自分に都合の悪い情報は何でも「フェイク」と決めつける人々・・今の与党にいる失言の多い政治家にはトランプとの共通性がたくさんあるし、AIによる管理社会が進むにつれ、日本でもこれからますます格差は広まり、生きる意味や目的を喪失した閉塞感の漂う社会になるんじゃないだろうか。閉塞感の大きな原因に、時代の変化についていけずに取り残される人々、また、他人の動向や思惑を気にする、他人志向型の人間が増えたこともある、皆が良いと思えば良いと思い、皆がバッシングすればバッシングし、皆が見て見ぬ振りすれば、どんな理不尽なことでも容認してしまう窒息しそうな社会。先が見えない不安な時代には、ますますそうなってゆくだろう。

他人から解放されるというのは、実は自我から解放されるのと同じことで、解放されて自由にならない限り、人は本当の生きる意味を見つけることはできないのではないだろうか。

‥変わりたいという真摯な気持ちがありながらも、実際は変わることの難しさに直面して、気持ちをくじかれた人を、これまで数えきれないほど見てきた。しかし、私がその瞬間、その男の子に接した瞬間に感じたものは自分が変わるという経験にかなり近いものだった・・
                     『ヒルビリー・エレジー』J・D・ヴァンス

ラストベルト地帯で育ったヴァンスは重い閉塞感を抱いたまま軍隊に入り、イラクに派遣される。ある日、人見知りするイラク人の子供に消しゴムをプレゼントすると、その子供が大喜びし、その様子を見ているうちに、まるで神の啓示が降りたかのようにヴァンスに変化が訪れる。彼の閉塞感に風穴を開けたのは、軍隊での経験もあるが、何より決定的だったのは消しゴムで喜ぶ一人のイラク人の子供だったのだ。そして、帰国してから、夢中になって勉強をして奨学金を取ることになる。一人のイラク人の子供との出会いによって、彼は、はじめて自分に与えられた今までの人生に感謝し、生きる意味と自分の方向性を見出すことができた。おそらく、ヴァンスの体験は、言葉では簡単に説明できないような、宗教的な深い体験だったのに違いない。重要なのはヴァンスがアイビーリーグに進学して成功したことではなく、彼の心境に変化が訪れたこと。人が、生きる意味を見つけて変化するのは、そのくらいすごいことなのだ。

伊藤忠商事は、イスラエルの軍事企業との提携を打ち切った。このニュースは、多くの「停戦デモ」参加者に希望を与えてくれる。ヴァンスが、イラク人の子供との出会いで突然変わったように、生きていると予想もしなかった体験をするし、喜ばしいことも時々起こる。殺伐としたこのニヒリズムの世界では、自分は無力であるとあきらめずに行動してみる事、苦労を厭わない事が最も大切じゃないだろうか。そして、継続すること。虚栄も名誉も人を不幸にしかできないが、結果がどうあろうと、人生に意味を見つけた人はそれだけでも十分に幸福な人なのだと思う。


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住宅団地 記憶と再生 №29 [雑木林の四季]

 17.メルキツシェス・フイアテル Marrkisches Viertel(Wilhelmsruher Damm,Senftenberger Rlng,Dannenwalder Weg,Finsterwalder Str.13435 Berlm)

    国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 ベルリン最北部のライニケンドルフ区にある。Sl、S2バーンとU8バーンが交差するヴイツテナオ駅を降りるとすぐ先にメルキッシェス・フイアテル(辺境の市区)団地が見える。
2010年1月9日、雪がふり道もぬかるみ、駅前にタクシーが停まっていたので、団地までのつもりで乗り込んだ。運転手が団地のどこで降りるのか聞くので、目的を話したら笑って「団地のまわりを車でゆっくり一周するだけでも40分はかかるよ」という。結局、雪のちらつくなかだし、団地内のところどころで降り、運転手に案内してもらいながら車で団地を一周することにした。
 都市計画当局での検討は1950年にはじまり、63年から10年がかりで、国内外20人以上の建築家が参加し、社会住宅建設協会Geseuschaft fur sozialen Wohnungsbau gemeinntitzig AG=GeSoBauが主に、DeGeWo、DeBauSie社等も加わって建てられた。370ヘクタールの土地に5~18階建て16,943戸(1975年のデータ、以下同じ)、旧西ベルリンで戦後最初の代表的な大団地である。ここには4.5万人が住み、団地内に学校12(小8、中高2、特別2)、幼稚園15(うち市立9)、中高年センター1、屋内プール(50メートル)1、運動場(競技場大5、小10、テニスコート5)、文化センター1のはか、図書館、病院や診療所などの公共施設がそろっているという。中央には大ショッピングセンター「メルキッシェ・センター」があり、各所に商店街や教会も見かけた。団地の周辺にも、学校やスポーツジム、アートセンター、劇場などがある。スキー場かと思ったのは、近くにあるはずの貯水湖で、氷がはって雪におおわれていた。
 円形ではないが直径およそ2キロの用地がいくつかの街区に分かれ、それぞれ中高層の住棟が連鎖、配列の形、建築様式と彩色を異にして、広大な緑のスペースのなかに建ち並んでいる。緑地の比率はベルリン最大だという。訪ねたとき木々は雪をかぶり、群楢、芝生は一面の雪だった。団地ができた後、、まわりに低層住宅地区が広がり入り組んで団地の境界は溶けていったようだ。中高層と低層の組み合わせでオープンスペースはいっそうその広がりを見せている。
 運転手に家賃をたずねたら暖房費をふくめて4~5万円、高くはないという。生活の便も悪くはなさそうだった。それでも人気はいまいち、高層階に空き家が多いらしい。
 太団地の建設自体が社会的な産物だし、団地の人口流出や空き家の増大も、けっして個々人にとっての団地の魅力や人気、生活の便不便のせいだけではなく、基本的には社会や産業の構造的な原因によるものだろう。しかし、そうした社会の構造変化や建物の劣化等の問題を問うまえに、あきれるほど巨大な団地をみて、人間の居住空間には一定の適正な規模があるのではないか、規模が大きすぎるそのこと自体がもたらすマイナス、問題があるように思えた。
 20世紀の30年代までに建てられた、当時は大団地といわれた100戸単位、1,000戸台の団地を見てきて、これくらいの戸数の中低層住宅がやはり「ヒューマンスケール」なのではないかと、あらためて強く思った。それは、わたしが田舎育ちで、いま2,000戸余が3街区に分かれた団地に住み、それとの親和感のせいばかりではあるまい。住民相互の絆が大切な居住空間を育み持続させるうえで、「大きいことは良いことだ」とはけっして言えまい。
 とはいえ、団地を目前にしてわたしが最初に感じたのは、規模の巨太さにギョッとしたが、団地の明るさと眺めの美しさ、オープンスペースの広さ、伸びやかさであり、率直にいって、すばらしいとさえ思った。
 戦後建設されたドイツの大団地に、建物や設備の老朽化、不備とともに、人口減少、コミュニティの崩壊、治安の悪化等がすすんでいる事実はあったのだろう。わが国の研究者たちのレポートも、きまってそのことを前書きしたうえで「団地再生」計画について述べている。「再生」がいわれている団地だから「荒廃」のさまを思い浮うかべていただけに、その美しさはわたしの想像を超えていた。

 住民参加の「都市改造」プログラム
 わたしたちがまず知らなければならないのは、連邦・州政府が主導し、都市改造プログラムのもとに「団地再生」計画を実施し、各団地の居住環境を改善、向上させてきたこれまでの経過である0メルキッシェス・フイアテルについては、1983年版のガイドブックに「当初インフラ(道路や交通機関など)は不備というはかなく、店もレストランもパブもあまりにも少なく、学校も幼稚園も遊園地も不足していた」と書かれ、不人気で問題も多かったようである。
 その問題の一つに、生活インフラの不備にくわえ、経験したことのない超高層居住と住民の孤立がある.入居してすぐ新たな住環境のなかで近隣関係をきずくことの難しさがあった。地方から移住し、また下町再開発から追われ、これまで培ってきた社会的絆は断たれ、たがいに見知らぬ同士の入居者たちである。自殺者がでる。治安の悪化や過激派グループの活動が発覚する。空き家が出はじめる。マスコミが悪評を書き立て団地の人気はさらに下がる。
 こうしたなかで1984年に、居住者も参加して具体的な改善プログラムを作成し、2000年代にはいると社会住宅建設協会GeSoBauは財政支援をうけて改善事業に取り組み今日にいたっている.
悪い団地イメージの刷新は住戸エントランスの改修にはじまり、インフラ整備、商店誘致や学校建設が重点的にすすめられた。さらに2008年には住宅および地域の「近代化」がはじまったと紹介されている。
その主なテーマは、エネルギー効率向上と環境対応型への住宅改修、緑地と水系の再整備と広範にわたっている。50年以上前の団地を想像するに、緑のないコンクリートの砂漠しか思い描けない。いまは緑の海原である。
 団地が40週年をむかえたとき、平均居住年数は17年だったという。ここで育った子どもたちが、いまや家庭をもってここに住んでいる。いまでは環境も整って居住者に受け容れられ、多様な世代の借家人たちが良好な近隣関係をつくって生活している、とライニケンドルフ区役所がインターネットで紹介している。
 2017年にはじまった新たな「都市改造」プログラムは、このうえ何をめざすのか興味ぶかい。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂



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地球千鳥足Ⅱ №41 [雑木林の四季]

「あった!」 父の故郷

      小川地球村塾村長  小川律昭

 かつて父が十三年間サン・フランシスコで生活の場としていた住居を訪ねて見たいと、かねがね考えていた。きっかけは田舎の土蔵の中で発見した二枚の写真。父はサン・フランシスコでランドリーをやっていたという。それも独身時代のことだ。父が四十六歳の時の子供である私は、接触が少なかったので、母を通してしか父のアメリカ時代のことは知らない。発見した一枚の写真はカンパニー・カーで、そこに「PHONE.OAK.3958.ADDRESS. N2510.FILBERT ST.」と記載されていた。もう一枚は乗用車、田舎のわら屋根を背景に日本で撮ったものだ。帰国時に、アメリカから鳥取県の田舎の実家に送ったのだ。日付は大正七年(一九一八)。乗用車はデトロイトのフォードミュージアムで調べてもらって、当時のキャデラックとわかった。今回の家族四人の旅は観光はもちろんだったが、この写真にあった住所の調査が私の密かな目的であった。
 いよいよその日が来た。日本から子供たちを呼び、サン・フランシスコで待ち合わせた。我々は一日早くシンシナティからサン・フランシスコに飛び、ホテルを取り、万一会えない場合を想定して最初の宿だけを事前に知らせ、当日彼らを迎えるためにサン・フランシスコ空港に出向いた。子供たちが結婚する前の話だ。
 ワイフは、「あなたのプロジェクトなんですから一人で探し当ててみたらどうですか?」と提案した。言外には、自分の親父の住所捜しは独力でやる方が有意義だろうという考えがあったようだ。私も同意し、ワイフたち三人は明日のホテルと今後の観光ルートを決め、予約するものはしてしまい、その後は市内で自由に過ごし、私は写真の住所をたよりに、かつての父の住んでいた場所を捜す、という行動分担を決めた。
 さてさて見知らぬこの広大なシスコの街、どう始めるか考えた末、昔の市内の状況や地理を知るには、市役所か図書館しかないと思った。図書館が近くにあることを知り、図書館内ではあっちこっちの人にたらい回しにされながら写真を示して尋ねた。後になってつくづく思ったことだが、満足に言葉もわからないのによくまあ調べることが出来た、と自分ながら感心した。おそらく私の真剣さが伝わって、相手もまじめに対応してくれたのだろう。余談だが、キャデラックの年式をデトロイトのフォード・ミュージアムで教えてもらった時もそうであった。

 なかなかすんなりいかなくて困惑していたら、図書館のとある部屋の人が、「待ちなさい、貴方に会わせる人がいる」と言って、ナント日本人のおばさんを連れて来てくれたのだ。もちろん職員のようだ。オハイオから来たこと、七十六年前の車の写真とその下にタイプされた父の住所だけが頼りであること、そのあたりの歴史を知りたいこと、など訴えた。するとおばさんは別な部屋に私を案内し、色々資料を調べて、サン・フランシスコにはこの住所はない、と言う。シスコに間違いないかと再質問されたが、私は「それしか開いていない」と答えるしかなかった。

 彼女は気が利いた。サン・フランシスコ湾を隔てた隣のオークランド市を捜し、「番地もぴったり合っている」と言って、今度は年代別の電話帳を三冊持ってきて、「これを調べましょう」と示した。あるではないか! なんと氏名、住所、電話番号が一致しているページが。 ”Ogawa”の名を見つけた時は天に昇る心地であった。さすがアメリカだ。旧い電話帳が保管してあるのだから、それもオークランドではなくサン・フランシスコにあったのだから、感動この上もなかった。後でわかったことだが、当時オークランド市はサン・フランシスコの一部だったのだ。

 宿に帰った。「お父さんどうだった? 私たちは宿も予約したし、ラツシアン・ヒルもチヤイナ・タウンにも行ったわ」とワイフはあっさりしたものだった。多分期待してなかったのだろう。私はこの時ほど得意満面だったことはない。ワイフの驚いた顔は感銘に変わった。私が日本人に会えてヘルプを得られたことはすぐには話したくなかったが、図書館に入るという考えが成功をもたらしたことに間違いはない。

 翌日はうだるような暑い目であった。オークランドには電車で行き、人に尋ねながら捜すのだから時間がかかった。気だけは焦るがなかなか見つからない。草臥(くたび)れてテレンコと足を引きずる家族。私は先に歩きながら捜し、ようやくにして写真に記載の同番地を見つけた。周辺は昔ながらの閑散とした住宅街、かつては高級住宅地であった面影が古い建物に残っていたが、今は庶民的な街となっていた。住んでいた家は、この辺りでは珍しい煉瓦作りの平屋。日曜学校として使われていた。ランドリー工場であったから住宅としては使用出来なかったのだろう

 父の故郷健在! やけにその番地がまぶしく感じられた。探し求めて来た甲斐があった。
 我々が入り口で「ここだ、ここだ⊥と騒がしくしていたら、隣家から黒人の男性数人が出てきて「何事か」と尋ねた。写真を見せ、「かつての父の家を訪ねて来た」と言ったら、「それじゃあ、あなたはこの建物を購入するために来たのだね」と笑いながら質問されたのには驚いたが、家族全員大笑いした。アメリカ文化の背景から考えれば、わざわざ来たということは当然の質問かもしれない。また冗談だとしても、とっさにこんな嬉しくなるジョークが言えるなんて、アメリカ人は素敵だなあ、と四人とも感心した。フレンドリーな彼と記念写真を撮って、父の七十六年前の生活を思い、瞼に去来する在りし日の父の苦難の日々を忍びながら、そこを去った。

 縁があって捜せたのか、仏が導いたのか、人間その気になれば道は開けるものだ。父から、「これは一〇〇ドルもしたのだよ」と言われてウォルサム製の腕時計をもらったことが懐かしく脳裡をよぎった。渡航に際して父が祖父から渡されたお金は、二〇〇ドルであったと聞いている。十九歳の青年、父賢蔵はアメリカで使い走りから始めて、ランドリーの経営者になり、アメリカ車を持って帰った。時代は変わろうとも当時の青年の夢は、現代の若者に通じることであろう。(一九九一年九月)

『万年青年のための予防医学』 文芸社 
                                     

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山猫軒ものがたり №33 [雑木林の四季]

 ムラの名人たち 1

          南 千代

 捨て子の仔犬がようやく、洗剤のひと箱や、菓子折りなどに姿を変えて消えていった。捨て猫は、一匹だけが引取り手がなく残ったので、これは絵筆と名をつけて山猫軒で飼うことにした。白黒のブチで、白い尾の先だけが黒く、絵筆のようになっている。
 ボロボロの障子もようやく貼り替えた。計二十八枚。セピア色だった室内が、急に白々と明るい。たくあん漬けも終えた。ウラが、樽の重石そっくりの姿で囲炉裏端に丸まっている。

 コンニャク玉を掘り上げる時期になり、私は、作り方を習おうと、おシゲさんの家を訪ねた。龍ケ谷では、たいていの家でコンニャクを作るが、おシゲさんの作るものがおいしいと評判であった。私も一度もらったが、ほんとにおいしい。
 地元には、その道の名人と呼ばれる人がいる。ワラ空の名人は赤岩さん、うどん打ちならハツばあちゃん、自然薯(じねんじょ)掘りは吉山さん、コンニャク作りはおシゲさん、梅干なら和子さん、キコリなら小沢さん、といった具合である。
 おシゲさんの家は、下の集落で製材工場をやっている。若夫婦は、工場の方に住み、おシゲさん大姉だけが能ヶ谷に住んでいた。
 コンニャクはサトイモ科の植物で、その茎はまだらになっており、マムシ草に似ている。裏庭の斜面に五月頃ニョキニョキと伸びてくる。土の下の根が玉になっていて、玉は年々大きくなる。掘って使えるほどの大きさになるまで四、五年かかるとか。混ぜものなしの生芋で作ったコンニャクは、プリプリしていて肉のような食べ応えがある。
 秋になるとコンニャクの地上部は枯れてしまう。芋の掘り時だ。茎の大きなものを教本掘る。真っ黒な玉が出てくる。
 「この黒い皮をむいて作れば真っ白なコンニャク、皮が残ってると黒くなっちまうけどよ。まあだいたいむいて、なよ」
 へえ、そうだったんだ。おシゲさんは、ゆでたコンニャク玉を次は、ゆで汁ごと数回に分けてミキサーにかける。
 「おろし金ですりおろしてから煮る人もいるけどよ、この方が手間なくていいんだ。私はかまわず、こうしてよ」
 それをまた鍋に戻して温度を上げ、溶かした石灰乳を入れる。かき混ぜていると、だんだん固まってきて重くなる。バットに移し平らにする。こうして十分ほどおくときれいに固まる。切り分けて、たっぷりの湯でゆで、水にさらしてアク抜きをする。
  一キロほどの芋で、大きなコンニャクが八丁もできた。
 「石灰乳がない時は、コンニャク用のカセイソーダを売ってるからよ。それでいいんだ」
 と教えてくれる。この町では、雑貨屋にそうしたものをいまだに売っている。ヘチマから取ったヘチマ水も、薬局に一升瓶で持っていくと化粧水にしてくれる。私も持っていき、一年分ほどの化粧水を作ってもらった。
 できたコンニャクは煮て使ってもよいが、刺し身風にわさび醤油や柚入りの酢味噌で食べてもうまい。この地方では、おでんというと、このコンニャクの熱いものに練り味噌をつけたものを呼ぶ。寒い季節にフーフ-吹きながら食べるおでんも、またうまい。
 さっそく家にもどって、忘れないうちにと復習してみる。柔らかすぎたり、固すぎたり。おシゲさんと一緒にやった時は、あんなにうまくできたのに。一人で作ってみると、なかなかうまくいかない。水の量と石灰孔の加減が難しい。
 水の量は、掘りあげて間もない芋か、乾燥した芋かなどでも違ってくるという。おシゲさんも料理の本のように、芋何キロに水何リットルと教えてくれるわけではない。コツがわかりかけた頃には、山猫軒の炊事場はコンニャクの山となった。

 コンニャクが何とかできるようになると、次に、そば打ちを習うことにした。習ったのは、組内の和子さんと、ハツぱあちゃん。二人は、わざわざ山猫軒まで出向いてきてくれた。
 そばは、徳打ち棒での伸ばし方がうどんより簡単、ゆでるのもサッと上がってラクだと言う。そば粉は、和子さんの家でとれたものだ。
 道具は、この家にあった瀬戸のこね鉢や、半畳ほどの薗打ち台、打ち棒を使った。和子さんは、ちょうど私の母ぐらいの年、ハツぱあちゃんは、そのまた母親ほどの年齢である。
 私は、高校を卒業すると同時に宮崎の実家を離れ、親に家事や料理を習うことなどいっさい経験することなしに今まできてしまっていた。このように、世代の違う先輩主婦と行き来できる時間は、同世代の女友だちと過ごす時間とは、また違った温もりのある時間であった。
 一般にムラによそから移り住むのは、人間関係において何かと難しいと言われがちだが、少なくとも龍ケ谷の入組では、その心配はまったくなかった。この土地の人々は、皆、ほんとに人が良く、親切だ。

『山猫軒ものがたり』 春秋社



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台湾・高雄の緑陰で №39 [雑木林の四季]

2024年1月13日の選挙を経た台湾

        在台湾・コラムニスト  何聡明

去る1月13日の中華民国(在台湾)総統選挙と立法委員(国会)選挙の結果は予想どおり与党民進党総統候補の頼清徳氏は当選、立法委員の選挙で民進党候補は苦戦の末、62議席より51議席に減少、野党中国国民党は37議席より52議席に増加、野党民衆党は5議席より8議席に増加、無党派は2議席で、三政党はいずれも半数以上の57議席を確保できず,与党は立法院で少数派となり、今後は片ちんばで政権運営せねばならなくなり苦労をするのは必定である。
与党が立法委員の選挙で失敗した原因は多いが、その一例として、同一選挙区で与党は候補者を1人指名したが、党員の1人は脱党して同士討ちの果て,野党中国国民党候補に当選を許したのである。与党の選挙対策機能が弛んでいたのは明白である。

2年後に行われる地方選挙で与党が良い結果を得なければ、政権運営が更に困難になるのは必定である。
仮に、それより2年後の総統と立法委員選挙で民進党が敗退すれば、台湾は専制中華人民共和国に併呑される可能性が生じる。何故なら、台湾の両野党の党員には中国国家主席の習近平が唱える「九二共識(中国共産党政府は台湾に中国と異なった政治制度を許すが、台湾は中国の一部だ)」に同調する親中派党員が多いからである。
与党民進党は真の台湾人の政党であるので、大多数の台湾人の期待に添った経済、財政、福利、教育、国防、外交等の政策を遂行しながら、台湾の民主政治の維持と主権の独立を目指して切磋琢磨することを切に願いたい。

仮に、台湾が 中華人民共和国  に併呑されたら、その次に中国が狙うのは日本の尖閣列島と沖縄県であろう。


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BS-TBS番組情報 №298 [雑木林の四季]

BS-TBS 2024年2月前半のおすすめ番組

       BS-TBSマーケテイングPR部

クイズ!薬丸家のSDGs生活#26

297クイズ!薬丸家のSDGs生活 メイン.jpg
2月3日(土)よる6:30~7:00
☆個性豊かな4人家族がクイズ形式で学び、地球の未来を考える。
新感覚SDGsクイズバラエティー!

◆キャスト
父:薬丸裕英 母:山内あゆ(TBSアナウンサー) 息子:ナダル(コロコロチキチキペッパーズ) 娘:岡田結実

「こんなところにも!?」と思わず言ってしまうSDGsな施設をクイズ形式で紹介します!
今回ご紹介する"こんなところにSDGs"は、ナダルお兄ちゃんの相方、西野さんがレポートする「フードロス対策で社会貢献しているゲームセンター」。そして「体に障害がある方など外出が困難な方々でも接客のお仕事が出来る!」コンビニ・カフェなど…世の中ではあまり知られていない、でもこれからの社会に必要とされるであろうSDGsな施設を紹介します!

X年後の関係者たち
あのムーブメントの舞台裏

297X年後の関係者たち.jpg
2月5日(月)よる11:00~11:54
☆大ヒット企画の“関係者同窓会”を開催!なぜブームになったのか?ヒットとなる過程には何が?MCカズレーザー(メイプル超合金)のその舞台裏に迫る!

前週に続き、テーマは「タツノコプロ」。
「ヤッターマン」や「ガッチャマン」などアニメのヒット作を続々と生み出してきた舞台裏とは?アニメ制作への想いや苦労とは?アニメ界のレジェンドたちが語り尽くす。

<関係者>
笹川ひろし(タイムボカンシリーズ監督)
天野喜孝(キャラクターデザイナー)
大河原邦男(メカニックデザイナー)
石川光久(Production I.G? 代表取締役会長)

表現者ちあきなおみ ジャンルを超えた魅惑の歌声(再放送)

297ちあきなおみ-.jpg
2月6日(火)よる9:00~10:54
☆ちあきなおみのジャンルを超えた“不滅の歌声”を貴重映像で振り返る

圧倒的な歌唱力と歌心。“不滅の歌声”と謳われるボーカリスト、ちあきなおみ。
平成4(1992)年 9 月、歌手活動を休止して以来、長い沈黙を続けている。 マイクを置いて 30 年。だが、その存在は今も多くの人を魅了している。その証として、折々に発売されるCDアルバムは本人不在にもかかわらず、 売り上げチャートの上位にランクイン。2022年10月に発売されたコンセプトアルバム「残映」は、週間アルバムランキング演歌・歌謡曲部門で1位を獲得した。

アイドル歌手としてデビューし、キャリアを積み「喝采」で日本レコード大賞を受賞、やがて、自らの歌の世界を構築。その思いは日本の歌だけにとどまらず、世界へ広がり、新たな道を歩いた。 時代を超え人々の心に生き続け、絶頂期を知らない世代にとっても、リスペクトされているちあきなおみ。歌謡曲、演歌、シャンソン、ファドとジャンルを超えたボーカリストの歌声を、TBSや所属事務所に残る貴重映像を中心にあますことなく紹介する。

初回放送:2023年2月


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海の見る夢 №70 [雑木林の四季]

     海の見る夢
         ―愛の夢ー
               澁澤京子

国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)へ、資金援助停止を決定した国々。米国、イギリス、カナダ、オーストラリア、ドイツ、イタリア、スイス、フィンランド、日本・・(1月30日現在)今回のパレスチナ人虐殺で明らかになったのは、欧米の「人権」にはダブルスタンダードがあること。本来はイスラエルが保護すべき占領地パレスチナを、UNRWAが肩代わりに支援してきたことを考えると、今回の資金援助の停止はダブルスタンダードというよりは、狂気の沙汰としか思えない。「日本は欧米に追随していればいい」という姿勢をいい加減、改めることはできないのだろうか?

今、パレスチナ問題に関心を持つ女性は、私の周囲ではシスターたち、それから難民問題に取り組んでいる女性、市民運動されている女性などごく少数の人々。昔、集団的自衛権のデモに参加した時も、高齢の日本人シスターのグループが静かにデモに参加されていた。一見、浮世離れしているように見えるシスターたちだが、いろんな国に派遣されて、ホームレスや難民のお世話をするせいか、政治、社会、歴史などに詳しいし、とてもよく勉強されている。経済格差や気候変動、これから増えるであろう難民などの問題が山積みの今、子供の将来を考えれば、今はむしろ女にとって切実な時代ではないだろうか。(特に気候変動はかなり深刻なところまで来ていて、国連の報告では、今年の2024年は2023年をさらに上回る異常気象が予測されている)

私が若い時から、年取ることに抵抗がなかったのも、政治に興味を持つようになったのも、フラメンコのK先生の影響がとても大きい。「女でも、社会や政治に興味持たないとだめだ。」当時80歳を超えていた先生は毎朝、朝刊を隅から隅まで読み、疑問に思ったところには必ず赤ペンで線を引く。先生の新聞はいつも赤ペンの線と書き込みだらけで、さらに政治に対して「おかしい」と感じた時は、すぐに赤いスポーツカーを飛ばして国会まで文句を言いに行く。「また、あのお婆さんが来たって思うんだろうね。行くとたいてい、議員会館でお昼をごちそうされてさ、追い返されるんだよ。」先生にとって、昭和の大恐慌はまるで昨日のような出来事だったので銀行を信用せず、また泥棒に入られたらいけないと一万円札を常に新聞紙の間に挟んでいた。(時々うっかり、お札の挟んである新聞紙の束をゴミと一緒に出していたらしいが)しかし、亡くなった後、彼女の新聞紙貯金は舞踊基金となって立派に活用された。

私は普通の主婦になったが、ある時期、サルトルを日本に紹介した竹内芳郎先生の政治討論塾に通っていたことがある。竹内先生のお弟子さんは大学教授が多く、専業主婦は私一人。そのころ、クリーニング屋にパートで働き始めたばかりで疲れていたのと、毎回、読まなくてはいけない難解な本が多すぎるので途中で断念したが、竹内先生が嫌いな政治家(自民党)の話になると、その悪口がユーモラスで抱腹絶倒だったことを思い出す。竹内先生は、90歳を過ぎても、話題になっている本は翻訳を読む前に必ず英語か仏語の原書を丁寧に読むような、誠実な学究の徒だった。

フラメンコのK先生は1902年上海生まれ。イギリスにバレエ留学、それからアメリカに渡って、ずっと向こうで舞踊の仕事をされていた。ちょうど、イギリス、アメリカで女性参政権運動の最も華やかな時期に、彼女は青春時代を過ごしたのである。K先生の持つスケールの大きさと大胆さ、おおらかで自由な空気は、あの時代特有の雰囲気なのかもしれない。時代というのは空気のようなもので、その時代に生きる人に自然に染みつく。例えば原節子は、やはり大正時代の独特の雰囲気から生まれた女優さんだと思う。それと同様に、道徳も世の中に空気のように自然に存在するものであって、いくら「教育勅語」を復活させても、おそらく戦前の日本のようには決してならず、形だけのものになるのではないかと思う。

日本に女性参政権が公布されたのは敗戦後の1945年、GHQに女性参政権が与えられるより前に日本政府から公布をという市川房枝らの訴えがついに通ったのである、ちなみに国連に緒方貞子を送り出したのも市川房枝で、市川房枝は、K先生より少し上の世代。昔、市川房枝のファンだった三宅一生が、彼女のために服をデザインしたが、一生何かに身を捧げて生きた女性というのは、年取ってから輝くような魅力を放つ人が多い。

もう一人の魅力的に年取った女性は、私の禅の師であるシスター・K。大学の時に日本に来日して以来、79歳の今も日本に滞在。参禅して禅のマスターとなり、禅を指導される傍ら、小児がんの子供のケア、難民のケアと毎日、他人のお世話をするために奔走している。仏教にもキリスト教にも哲学にも造詣が深く、彼女と話しをしていると、深い魂のところで会話しているような気持ちになる。シスター・Kは、東京のミッションスクール(女子校)で英会話の先生をされていた時、「もっと政治や社会に関心を持ちなさい」と女生徒たちを激励したらしいが、日本の女性には比較的、政治や社会問題に関心が薄い人が多いのを心配されたのだろう。しかし、最近デモに行くと、グレタさんやバンクシーの影響なのか、20代くらいの若い女の子が多いのはとても心強い。

「人は年取るほど若くなる」はヘッセの言葉だけど、それはシスター・KとK先生の両方に共通していることで、天衣無縫で、おおらかで自由で、一緒にいるとこちらまで自由な気持ちにさせてくれる。子供っぽい大人は多いが、本当の子供の純心を持った大人は少ない。一緒にいる人をノビノビと自由に開放させてくれるような、そうした資質は、まぎれもなく「善」だと思うが、舞踊も禅も(無心)というものを目指すせいもあるのかもしれない。年寄にありがちな人生訓などは語らず、もちろん愚痴もこぼさず、むしろ年取れば年取るほどわからないことが増えてくるといった感じで、常に他人から自分の知らないことを熱心に学ぼうとする好奇心の強さ、また、安易に人や物事を決めつけたりしないせいか偏見も少なく、要するに、二人とも頭の良い女なのである。勘がよくて、物事の本質をつかむ能力が優れているのも、余計な思い込みや偏見が少ないせいかもしれない。

一人は芸術の女神に、もう一人は神に恋をして一生を捧げられるというのは、よほど激しい情熱がないとできないことだろう。二人とも、並外れたロマンティストなのだ。フラメンコのK先生には彼女が亡くなるまで遠距離恋愛していた恋人が南米にいたらしいが、ああやっぱり、と思うほど彼女は魅力的だった。

同じロマンでも、「美しい日本」を標ぼうする今の保守政治家は、神宮外苑の伐採といい、辺野古の埋め立てを強行するなど、ロマン主義とは正反対の、自然の美に対する鈍感さ。ものの価値基準がお金しかなくなる(これもロマン主義とは正反対)とこうなるのだろうか。自民党刷新でいったい何が変わったのだろうか?かつて小泉進次郎氏のスピーチ「今、このままでは、日本はいけない。だからこそ日本はこのままではいけないのだと思います。」が(中身のない同語反復を指す)小泉構文と言われていたが、今の自民党刷新も小泉構文と同じように、あたかも何か新しいことに取り組んでいるようなポーズを見せるだけで、その実、たいしたことは何もしない、ただの見せかけなのだろう。

人も組織も見せかけだけにこだわっていれば、内部から腐敗してゆくだけなのである。

男であるとか女であるとか、また年齢とかも一切関係なく、立ち止まることなくずっと走り続けられる人は美しい。そして、その原動力は、対象は何であれ、やはり「恋」なのだと思う。


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住宅団地 記憶と再生 №29 [雑木林の四季]

Ⅳ 戦後建設の巨大団地の再生

   国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 あとでくわしく述べるが、わが公団住宅の建て替え事業は、地価バブルを機に、これに便乗し1986年に急きょ始まった。バブルがはじけ、賃貸住宅市場の様相が変わり団地の一体的な建て替えが見込めなくなると、2000年代にはいって「団地再生」と名をかえ、地域のミニ再開発にあわせ団地削減にむかった。その間に国の住宅政策の基本は公共責任から市場原理に転換、公団は廃止され独立行政法人の都市再生機構に移行した。機構の賃貸住宅ストック政策は2007年の「再生・再編方針」に定められた。かつての全面建て替えの名目が「好立地を活かした良質な住宅の供給促進」とすれば、その後の団地再生の目標は、公団住宅の戸数削減、敷地の民間売却である。
 そのいずれもスクラップ・アンド・ビルト型の建物取り壊し、新規建設あるいは敷地の処分であることに変わりはなく、居住者の継続居住の保障は事業計画のどこにも位置づけられてこなかった。新設住宅に即した市場家賃を設定し、支払えない従前居住者には退去の道しかない。現にいまも「団地再生」とはいえ、事実は団地の一部(あるいは全体)住棟を取り壊して更地にし、民間あるいは機構による高層化と敷地売却が主なねらいである。居住者にたいしてはもっぱら移転先のあっせんである。この方針にマッタをかけ、居住の
継続安定と公共住宅として団地を守る住民運動の立場から、わたしはドイツに戦後建設された大団地の再整備事例に関心をよせ、見学してきた。
 とはいえ、これまで書いたルール地方の労働者住宅やフランクフルト郊外、ベルリンの近代的な住宅団地とちがって、数万戸にもおよぶ中高層の巨大団地ともなると、旅行者が見学して何かが分かるというには程遠く、垣間見たにすぎない。団地のなかを巡り歩いて、素人にも気づく改修の跡らしきものについての見聞や印象を記すだけである。それでも「団地再生」について考えるうえで役立つかもしれない。
 わたしが訪ねたのは、旧西ベルリンのメルキッシェス・フイアテルと、東の代表的なマルツアーン=へラースドルフ区の団地群である。そのはか、バウハウス100年を祝うデッサウに行ったさい、同市のツオーバーベルク団地に立ち寄った。
 1990年のドイツ統一後、とくに旧東ドイツで問題になったと聞くのは、戦後はプレハブ工法による建築がほとんどで、コンクリート・パネルの質が悪く建物、設備の劣化がすすみ、都市機能は不備、商業施設・公共サービスに欠け、人口が流出、空き家の増加がつづいている、団地内のバンダリズム(破壊行為)が社会問題化しているといった話である。
 これまで1970年代にはじまるドイツの古い住宅団地の修復、文化財としての保護、「慎重な都市更新」原則の徹底の経過をたどってきたが、戦後建設の大団地再生の課題解決には、さらにその枠組みを超えた革新的なプログラムが求められていた。その基軸となった代表的なプログラムが、政府が2002年に旧東ドイツ5州とベルリンにたいして実施した資金調達プログラム「東の都市改造」、旧西の連邦州でも04年にはじまった「西の都市改造」である。
 都市改造プログラムの対象地区は、さきに記した19世紀末から20世紀初めに形成された既成市街地と、戦後郊外に建設された大団地であり、とくに大団地については、差しせまった問題の解決にとどまらず、住棟の減築、撤去等を計画にとりいれ、「都市縮小」「集合住宅撤去」「団地再生」がキーワードとなった。
 ドイツの団地再生の政策決定と進捗状況については、わが国でも数多くのレポートが出ている。ここには、大村謙二郎の82ページにあげた論文のほか、「ドイツにおける縮小対応型都市計画:都市再生を中心に」(土地総合研究所『土地総合研究』2013年冬号)、「ドイツにおける団地再生と都市計画文脈」(日本都市計画学会『都市計画』Vol.65/No.4 2016/9)をあげておく。大村論文にかぎらず、レポートから知るところは多くても、わが国政府、そのもとで都市再生機構が進めている「団地再生」事業との接点はしめされない。参考に資するには、納望的な相違ばかりが目につく。研究者たちのレポートは他国の問題、経過の紹介に終始し、わが国で進行している政策、事業の実態への言及にはあま
りにも慎重にすぎる。
 以下にのべるメルキッシェス・フイアテルとマルツアーンの団地にかんするデータの一部は、ブラウン『分断ベルリンの大団地建設-メルキッシェス・フイアテルとマルツアーン』Braun,J・P:Groβsiedlungsbau im geteilten Berlin)から引いた。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂


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地球千鳥足Ⅱ №40 [雑木林の四季]

アルプスの少女アヤコ
  ~リヒテンシュタイン公国~

      小川地球村塾塾長  小川彩子

 ありのままの社会に感動し溶け込む私にとって、リヒテンシュタイン(Liechtensteiin.以下L)はとりわけ楽しい国だった。7月中旬、観光客の一人もいないハイランド、早朝のマルブンで、「アルプスの少女」アヤコは、なだらかな山を駆け巡りながら色とりどりの高山の花を摘み、可愛い花束を手に下界を見下ろしつつ 「ヤッホー」と叫び、「ヤッホー」と答える山彦との会話を楽しんだ。アルプスの少女ハイジがスイスはアルムの大自然を駆け巡ったように、皺少女アヤコはLの高地マルブンで心ゆくまでアルプス劇場の主役を楽しんだ。夕方にもまたやって来て、夕陽を浴び真っ赤に染まった山間で乳牛や可愛い大角の山羊を見た。マルブンは丘のように優しい山が折り重なるスキー場だが夏は人が少ない。日本の皇太子殿下がこの国の侯家から招かれてスキーをなさった山だ。誰も乗っていないリフトが揺れていた。乗って来たバスは少女アヤコが戻るまで待っていた。私は今マルブンの余韻に浸り、マルブンの花のカラフルな標本を眺めながらこれを書いている。
 立憲君主国Lはスイスと同様中立国、スイスから入国すると検問がなく、スイスとの関税協定によりスイス・フランを使用する。公用語は北りの強いドイツ語だ。私たちはスイスとの国境の街、サルガンスから郵便バスで首都ファドゥーツに来た。チューリッヒで友だちになった一女性はL出身、結婚してスイスへ。「スイスは物価が高いからファドゥーツヘ買い物に行く」と言っていた。ファドゥーツで親切にしてくれた一女性は「スイスから嫁いで来た」と語った。両国は密接な関係があり、国の違いを意識せず暮らせる。税金は安く失業率は低いと聞いた。この国の名の入った記念品を求める日本人グループに多く出会ったが、折角お土産に買ってもLiechtensteinの字はパッと読めない人が多かろう。
 ファドゥーツ城は下の街から見ると山の頂上に、まるでお伽の国のお城のようにそびえ立ち、誰でもそこまで登ってみたくなる。よいしょ、よいしょ、と自分を励まし、休み休み登ったがそれでも友だちになったドイツ人家族より早くお城に着いた。なんとこのお城は私が生まれた年に建立、オーストリアのリヒテンシュタイン家12代目、フランツ・ヨーゼフ2世侯(先代)がウィーンからファドゥーツのこの城へと住まいを移したのだった。
 私と同い年のこのお城の先代に興味を惹かれたが先代は既に亡く、現在はその息子の侯爵
ご一家がお住まいだ。侯爵家は国家元首、政治力は大きいが、国からの費用は辞退されているとか。従ってこのお城はプライベート・ゾーン、中には一歩も入れない。
 首都ファドゥーツと高地マルブンの中間に位置するトリーゼンベルクはなんという長閑な村だろう。海抜700~2000メートル、日当たりのいい斜面や坂の多い村、東スイス・アルプスからライン峡谷を見渡す庄倒される眺望はハイカーのパラダイスだ。中心部は海抜900メートル、この村の象徴オニオン・タワーがすぐに眼に飛び込んでくる。それは天辺にユニークで巨大な玉葱の尖塔が載っている聖ジョーゼフ教会の時計塔だ。玉葱の色は上品な青銅色、内部もとても美しい。私たち夫婦はその向かい側のホテル・クルムに泊まった。夜中に目覚めたらそのオニオン・タワーが、私の眼前で神秘な藍色に輝いていた。真夜中の幻想的オニオン劇場に魂を動員され眠ることあたわず、地元産BiOワインで乾杯した。
 坂道ばかりのトリーゼンベルクぶらぶら歩きは地球千鳥足夫婦、毒舌夫と頑固妻の生命にバイタリティと陽気さをもたらした。意見衝突の多い「異文化」夫婦もここでは仲良し、アルプスの少女ハイジやペーターのように口笛の合奏を楽しんだ。口笛の合間に出るのは眼下の眺望への感嘆詞ばかり。歩き疲れるとカフェに入り、そこのテラスからコーヒー片手にライン川を見下ろし、「絶景かな!」と口々に叫んだ。騙され事件も問題もなく、「ヤッホー」と「絶景かなー」を連発した国だった。
         (旅の期間一2012年 彩子)

『地球千鳥足』 幻冬舎


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