BS-TBS番組情報 №320 [雑木林の四季]
BS-TBS 2025年1月後半のおすすめ番組
BS-TBSマーケテイングPR部
MUSIC X
BS-TBSマーケテイングPR部
MUSIC X

1/16(木)午後9:00~9:54
☆世代間のギャップを超え、音楽的ジャンルの垣根も越えて多様な音楽カルチャーを発信!
☆世代間のギャップを超え、音楽的ジャンルの垣根も越えて多様な音楽カルチャーを発信!
#38 じっくり聴いて欲しい愛の歌
オトナ世代が共感するヒットナンバーをお届けする音楽番組!世代間のギャップを超え音楽的ジャンルの垣根も越えて様々な音楽がクロスオーバー!
オトナ世代が共感するヒットナンバーをお届けする音楽番組!世代間のギャップを超え音楽的ジャンルの垣根も越えて様々な音楽がクロスオーバー!
司会:関根勤、早見優
ゲスト:K、May J.、五条院凌(ピアニスト)
Sound Inn S
ゲスト:K、May J.、五条院凌(ピアニスト)
Sound Inn S

1/18(土)午後6:30~7:00
☆最高のアーティスト・サウンドメーカー・ミュージシャンが一堂に会し、「時を超えた、ここでしか聴くことの出来ないサウンド」をお届け
#118 こっちのけんと
紅白歌合戦への初出場も決めた、今注目のアーティスト・こっちのけんとさんがゲスト!
人気曲「はいよろこんで」のほか「チキンライス」「さよならエレジー」をカバー。
出演・ナレーション:恒松祐里
紅白歌合戦への初出場も決めた、今注目のアーティスト・こっちのけんとさんがゲスト!
人気曲「はいよろこんで」のほか「チキンライス」「さよならエレジー」をカバー。
出演・ナレーション:恒松祐里
世界一周魅惑の鉄道紀行

1/18(土)よる7:00~8:54
☆リビングに居ながらにして、大人の旅を味わえる鉄道紀行。世界各地の名所や美食を堪能!
☆リビングに居ながらにして、大人の旅を味わえる鉄道紀行。世界各地の名所や美食を堪能!
三ツ星のレストランや史跡を辿りたい。美味しいワインを飲み歩きたい。あの名画をこの眼で見たい。しかも、電車に乗ってゆっくりと…。そんな目的を持った大人の旅を、リビングに居ながらにして味わうことのできる鉄道紀行。
個性豊かな旅人も登場。実際に世界各地を巡り、大人の鉄道旅をお届けします!
個性豊かな旅人も登場。実際に世界各地を巡り、大人の鉄道旅をお届けします!
一生に一度は乗ってみたい憧れの豪華列車オリエント急行の旅。ロンドンからパリを経由してヴェネチアへ向かいます。車中では、一流のレストランに匹敵する食堂車で極上の料理を味わい、隅々まで行き届いた丁寧なサービスに酔い、バーや自分のキャビンで絶景を堪能!世界のオリエント急行もご紹介します。さあ、皆さんも極上の列車旅へ、是非ご一緒に!
(初回放送:2013年)
(初回放送:2013年)
海の見る夢 №93 [雑木林の四季]
海の見る夢
-修道院の庭で―
澁澤京子
・・目的へとひた走る意識が目指しているのは精神の全体ではなく、そこから切り取られた非循環的なシークエンスである。~中略~ 意識のやり方には、確かに高い効率がある。しかし意識にとってのコモンセンスに従うことは、智を欠いた貪欲な生き物に滑り落ちる効率的な方法ではないか。私の言う「智」とは、「生き物であるところの全体から差し出される知識を受け止め、それに導かれる心」という意味であります。
~『精神の生態学』グレゴリー・ベイトソン
三鷹市に移り住んでから驚いたのは、カラスより野鳥が多い事。実家のあった渋谷にはやたらとカラスが多く、野鳥などはめったに見られなかった。先日、胸の羽毛が玉虫色に輝く美しいハトがベランダの手すりに止まっていて、それが渋谷ハチ公辺りに生息する薄汚れたドバトと同じ種類であることに気が付いて驚いた。ドバトがこんなにきれいなハトだなんて・・
毎朝ベランダにリンゴを細かく刻んでおいておくと、あっという間になくなってしまう。今朝起きると、すでにヒヨドリが何羽か木の枝に止まって、リンゴを待っていた。ヒヨドリのほかにムクドリ、ツグミ、メジロ、尾長、シジュウカラなどがベランダにやってくる。リンゴを置くと、すぐに食べるわけではなく、まずピイ~と他の仲間を呼びに行く。ヒヨドリの鳴き声につられて、シジュウカラや尾長もやってくる。
三鷹市に引っ越してきてから、にわかバードウォッチャーになった。毎朝、野鳥を観察していると、鳥の動きに見とれて思わず時間がたってしまうのは、野生生物の動きというものが、全体と見事に調和がとれているせいかもしれない。人のように人間中心の視野しか持てないのではなく、あくまで彼らが全体の部分であり、また全体(環境)に対して常にオープン敏感であるからに違いない。人は言葉で世界を経験するが、うちのインコを見ているとまず環境(特に音)の模倣から始まる。どんな微かな音も聞き逃さない、窓の外を見ていて、突然飛び立つのは視覚で何かをキャッチしたからだろう。常に周囲全体に神経を拡大しているような感じである。ちなみに飼っているインコは、私が彼女の環境世界の一部なので模倣の対象になっていて、窓の外の野鳥の鳴き声を聴くと、自分も鳥なのに「トリちゃん・・」とつぶやく。
子どもの時から、遊園地は好きではなく、海や山のほうがずっと好きだった。人混みが苦手だったのである。自然のほうが、遊園地のような人工的なものよりもずっと贅沢なのにと子供心に思っていて、それは今も変わらない。遊園地でも唯一の例外が、東横線の多摩川駅の近くにあった「多摩川園」。夏になるとよくお化け屋敷が開催されていて、敷地の半分がほぼ自然化した空き地のある、人気のない寂れた遊園地だった。
「自然との共存」というテーマで建てられ、壁面のガラスの鏡にくっきりと映し出された木々に、鳥が勘違いして激突死することが多いのに対し、爆撃によって空けられた穴に、鳥の巣がいくつもできるパレスチナ人の住居のほうがむしろ立派な「自然との共存」になっているらしい。先進国の「自然に優しい」というのは欺瞞にしかならず、人為では到底自然には及ばないということなんだろう。
地球温暖化によって、真夏の東京は、まるで砂漠を歩いているかのように木陰というものがなくなった。(猛暑のある日、まったく木陰のない住宅街で道に迷い、遭難するかと思うくらい暑かったことがある)それでもなお街路樹や樹木を伐採するという都市開発のセンスには驚くしかないし、それって、かなり時代から取り残された発想じゃないか。
・・一個の内在する精神とは、身体だけに内在するのではなく、対外の伝達経路やメッセージに含めた全体に内在する。そしてこれら個々の精神をすべてサブシステムとして組み込んだ、大文字の「精神」が存在する。
~『精神の生態学』グレゴリー・ベイトソン
三鷹の団地から今住んでいる家に引っ越してきたのは去年の12月。山積みの段ボールと格闘しているクリスマスの朝、どこからかクリスマスの聖歌が流れてきた。地図を見ると、家の近所に修道院があるので歩いて行ってみた。修道院の庭は市民に開放され公園になっていて、以来、この庭が気に入って何度も訪れている。すぐ近くの井の頭公園よりも人がいなくて静寂だからだ。早朝から起きて一日中祈りと作務に捧げている尼さんたちの沈黙が、あたりに漂っているようで、とても落ち着く場所なのである。
都会というのはどこもかしこも意味と目的に満ち満ちた場所だが、自然というのはそういった窮屈な世界から人を解放してくれる。意味の世界では、知性と感情、部分と全体など断片に分けて考える。そこから「全体」とか「個」といった考えが生まれて、社会の「個か全体か」という議論になる。社会では個人の違いを無視した(みんな一緒)が強引に押し付けられたり、あるいは逆に差異を強調するための階級意識などが生まれたりする。
自然というものははるかに鷹揚で寛大であり、多様なものすべてをつなげて融合するのである。こうやって静かに林の中に座っていると、はるか昔から人は樹木と対話していたのかもしれないな、と思うのである。
地球千鳥足Ⅱ №61 [雑木林の四季]
パリジェンヌに見初められた郷愁のメトロ
~フランス共和国~
小川地球村塾塾長 小川彩子
小川地球村塾塾長 小川彩子
バックパッカーの私たち夫婦、最近の徘徊地は主として途上国だったが、たまには先進国へ、とパリへ。面白い格安切符を見つけたのだ。飛行機とホテル1週間(5泊)で10万円弱。おまけに地下鉄の切符11枚、セーヌ川遊覧切符2枚が付いていた。35年前、子どもと家族旅行した華のパリへの感傷旅行も悪くないナ、と夫婦で出かけた。
安ホテルは問題があり過ぎたが、まずはベルサイユ宮殿へ。東京・山の手ほどの面積に王と4000人の貴族が共に暮らした宮殿だ。357点の絵画が展示されている鏡の廻廊は記憶にあり、懐かしさを禁じえなかった。35年前の訪問地はほぼ網羅し、噂のモン・サン・ミッシエルにも足を延ばした。
ベルサイユの帰路、都心オペラ座裏でバスを降りセーヌ川に向けて歩いたが、途中来たバスに飛び乗り、ズバリ、ノートルダム寺院の前へ。まるでパリつ子ね、と自己満足。別名バックシャンの同寺院の裏手がセーヌ、かたわらの橋には恋愛成就を願う鍵がピッシリ張り付いている。ラトビアでも見た風景だ。
帰路のメトロで驚いたのは車内放送だ。フランス語の後が日本語。「スリにご注意ください」と。いかに日本人観光客と日本人の被害者が多いか、ということだ。
ルーブル美術館は35年前も「日曜日が入場無料」と夫が覚えていたが、最近は第1日曜だけ。周知の事実らしくルーブル前は大変な行列だった。早朝9時に着いたが入場まで1時間並んだ。私たちの前にはニューヨークから来た夫婦、後ろは韓国からの女性。前後左右の列にありとあらゆる人種が並び、写真を撮り合ったり荷物の見張りをし合ったり、笑顔で会話を楽しみ、おとなしく入場の順を待っている。この光景こそ多文化共生の姿だと感動した。ルーブルの内部は広く、モナリザの微笑もミロのヴィーナスも翼を広げた女神像にも無事再会できた。
午後、雨宿りしたバス停である中年女性と出会い、おしゃべりするうち、再建後1000年の古い教会サン・ジェルマン・デ・プレへ一緒にバスで行くことにした。「1000年記念のイベントは今日まで」と聞いて。ここでも1時間待った。少人数ずつしか中に入れないからだ。内部は真っ暗にし、1000年の歴史を劇で見せていたが、1000本のろうそくが美しく揺れていた。
帰路のメトロでもまた「携帯品にご注意ください!」と日本語放送が。アルマ橋で降りようと夫と声をかけ合ったらにこやかなマダムが後について降り、「シヤシユショシユシュ!」とフランス語で話しかけてきた。スリではなかった。私たちの写真を撮りたいという。私たちペアの身なりが目立ったのか。エッフェル塔の見える橋で撮ってくれた。すぐにその夜iPadで写真を受け取り、お礼を英語で送信したらもう一枚写真が届いた。マルティーヌ・コンスタン。パリガイド(Guide parisienne)のうちの一冊の著者、とメールの署名にあった。そのうち、我々の写真がパリ案内のパンフレットを飾っているかもしれない。
(旅の期間::2015年 彩子)
『地球千鳥足』 幻冬舎
『地球千鳥足』 幻冬舎
美味懐古 №8 [雑木林の四季]
橋善
加茂史也
加茂史也
前説・世の中の移り変わりに消えていった店がある。1950年代から1970年にかけ東京
にあった店。今も憶えている店。そんな店を心の内に訪ねてみた。
天麩羅の老舗・橋善は、銀座8丁目から高速道路の下を抜け昭和通りとの交差点にある。
昭和24年(1949年) 春。
大学に入学した喜びのままに銀座を訪ねた。新橋駅から銀座通りへ入ろうとする四つ角のそばに橋善はあった。和風木造づくりの平屋、なぜか銀座の老舗の食堂のように見えた。とても貧しい学生の入れる店ではないと思った。
9月、育英資金をもらえることになり, 大学の会計課で初めての支給を受けた。 2か月分3600円だった。にわかに裕福な気分になり、思い切っておそるおそる橋善の暖簾をくぐった。
広い座敷の中に かなりの客が入っている。 丼飯をかき込んでいるのが目につく。メニューを開く。天重、盛り合わせ、定食などのあとに天丼100円が目についた。
これならいけると給仕のおばさんに声をかけた。ついでだからここはどういうお店ですかと尋ねる。
「学生さんはいいわね。素直に質問して。それはね、よく聞かれるの 」
おばさんは一息入れると愛想よく話してくれた。
1831年(天保2年)、創業者の橋本善吉が新橋で屋台の蕎麦屋をはじめ、名前をつめ て橋善と名乗り、ついで天麩羅の店を開いて今日に及んでいるという。
私の食卓から厨房の様子がよく見える。 大きな鍋に職人が素材を投げ入れている。
おばさんに尋ねた。
「あそこの大鍋で天ぷらを揚げるんですか」
「 そうなのあれがね、天ぷら鍋よ。 南部鉄よ、重さは20キロ、鍋の厚みは2cmある。 あの鍋で天ぷらをうまく揚げるには、一年や二年の修行じゃダメね」
おばさんは自分が天ぷらを揚げるような顔をした。
待っていた天丼が食卓に置かれた。ふたをとる。 大きなかき揚げが載っている。
「 中身はね、 玉ねぎ、三つ葉、むきえび、小柱、イカ。直径は12cm、厚さは10cm。これか゛うちのかき揚げよ」
それは初めて食べるかき揚げだった。信じられない大きさだ。夢中で食べる。喉が渇いてきた。
「 あの味噌汁のおかわりを……」
「 いいわよ。 何杯飲んでも無料ですから」
私は東京の天ぷらの味をここで覚えた。 あのおばさんの客あしらいが懐かしい。
私の雑のう №2 [雑木林の四季]
はるかなる山河に その2
矢作啓太郎
矢作啓太郎
はじめに
雑嚢とは雑多なものを入れ肩から掛ける布製の小型のカバン。何を入れるかに決まりはない。小型だからあまり大きいものは入らない。適当な大きさのものを選んで自分の好きなようにすればよい。これは90歳を超えた老人が雑嚢にためこんだとりとめもない駄文のひとつだけれど……。
目黒 晃 東大文学部社会学科 29歳
昭和16年9月 華中岳州野戦病院で戦病死
(父への手紙)
父さん、かうして愈々この支那事変といふ未曾有の戦の中に在って一兵士として私の進む道も決められました。来たるべき日がとうとうやって来たのです。幾度も父さんは私に今日の日に生きるべき覚悟を促して来ました。私はその度に新しい意気を振ひ起こして此の困苦の中に生きる心算をねりました。残念乍ら私は未だに悟ることは充分ではありません。唯若い者の盲滅法の精神を以て進むだけの事であります。
父さん、正直の所私は此の中支の地で今迄の何ヶ月の間に父さんだの,母さんだのに身近に、あの子供の時分の様に愚痴をこぼし、訴へたい様な事が幾らもありました。それは意地悪な友達が家に帰って両親に告口する様な子供らしさではありましたけれど…… いろんな事を聞いて戴き度くて、淋しくて孤りで夜、表に出て黙って星空を眺めた事が幾度もありました。
菊山裕生 東大法学部 24歳
昭和20年4月29日 比島エチアゲ飛行場て戦死
実際、12月の末、1月の始め頃は上靴で撲られ、帯革で撲られたりしていた。飯のつけ方遅すぎると言って2時間も立たされた末、散々蹴られたり,撲られたりするのもあった。君も知っている通り、動くことの不精な、要領の悪い私も亦其の例に洩れなかった。消燈ラッパは「新兵さんは可哀やのう又寝て泣くのかよう」と鳴るといふが、何度も
撲られて,床の中につきとばされた時は,痛いよりも口惜しくて,実際,「状袋」の中で泣かなければならなかった。気が弱くなった。五ヶ月教育といふうが、その5ヶ月が終わるまで何日あるかと毎日の様に数へた。夜便所へ行く途中、寒々とした月を見ては、あの満月を幾度ここで見ること思ふのだった。早く戦線に立ちたいといふのも寧ろ一つの泣き言でしかなかった。
海上春雄 東大経済学部 24歳
昭和20年1月9日 比島リンガエン湾で戦死
遺書
死こそは正に人生の深淵にして人たる者の心の中に常に留め置かる可き事とは言いひ乍ら事に際してその決意を新にす可きこそ肝要ならん。
顧みるに吾この世に生を享けしより20有余年一つとして偉大なる天地万物の恩愛に浴せざりし事なくそれに報ゆ可き何物も有るせざりき。
吾只吾が命の為にのみありし
凡てのものの為に徒死を願はず吾只報恩の途を進まん。
海上春雄
絶筆
(昭和20年1月 比島ルソン島基地ニテ出撃前「メモ」ノ紙片ニ鉛筆書ノモノ
父上様、母上様。
父上様、母上様。
元気デ任地ヘ向ヒマス。春雄ハ凡ユル意味デヤハリ学生テシタ。
春雄
澤田泰男 東大法学部 23歳
昭和20年5月本州上空で戦死
すべての障害を気持の上で除去し得て虚偽のない赤裸々な気持になれと言ったことがあるが、さう言った自己が今にしてやっと赤裸々な気持になり得ているのだ。誠に恥しい次第です。再び違った意味と気持で君の夢を見つづける様になった。この気持こそ生涯変るままい。これが私の本心だ。(中略)かうした二人がお互にかくまでしっかり結び合わされたことは永久に二人の結合いみするものではなからうか。私も先短い命、君は許してくれるものとして出来うるならば、この気持を実現してゆきたいとの思ひ切なり。
切々たる思いを祖国日本によせて,若者たちは散った。私たちはその思いの上に生きている。戦後80年、私たちは戦争のない社会に生きてきた。そうであるからこそ、若者の思いを思い起こしたい。
この本の編集部は巻末に、生き残ったわれわれに、生きていく意義を訴えている。
失われなかった人間性
私達は生き残った。あの激しい戦争の中をとにもかくにも生き残った。(中略)
どうして生き残ったか。 運命による者もある。 戦争で私達は運命の力の恐ろしさをひしひしと身に感じた。 (中略)
祖国を愛し家を愛するゆえに、大部分のものは喜んで行った。皇国の不滅と不敗とを信じて敢然として敵艦船に単機をかって飛び込みさえした。
特攻隊志願を航空隊でかたく拒んで生き残った者もある。上官からは乱臣賊子とののし れ、同僚にはひきょうものとあざけられ、しかも彼は断固として志願しなかった……
こうして私達は生き残った。
終戦の時、何よりも強く感じたのは私達が生き残ったという事だった。その感動はすぐ敗戦の祖国の上に及んだ。その再建、いやもっといえば新日本の創造が生き残った私達の大きなつとめだという事を全身で自覚した。(中略)
私達はこの再建の基盤を早くも戦時のこれらの手記に見いだすのだ。これらの人々を持った日本はまだ決して滅びないと感ずる。
私の雑のう №1 [雑木林の四季]
はるかなる山河に その1
矢作啓太郎
矢作啓太郎
はじめに
雑のうとは雑多なものを入れ肩から掛ける布製の小型のカバン。何を入れるかに決まりはない。小型だからあまり大きいものは入らない。適当な大きさのものを選んで自分の好きなようにすればよい。これは90歳を超えた老人が雑のうにためこんだとりとめもない駄文のひとつだけれど……。
書架から何気なく新書版の一冊を引き出した。
手にしたのは『はるかなる山河に』東大戦没学生の手記 東京大学出版会 1951年だった。この本はよく憶えている。
昭和27年(1952年)大学3年の秋。東京大学でレッドパージ反対を叫ぶ都学連(東京都学生自治会連合)の集会があり、20数校の大学から2000人近い学生が集まった。
この年の春、講和条約が発効し、約7年間の占領時代が終わっていた。日本が戻ってきたと思ったのもつかのま、6月末には北朝鮮軍が韓国に襲いかかっていた。
戦争が間近だ。進歩的な教授を大学から追放するレッドパージが、現実のものになるという危機感があった。集会の帰途、この本を東大の生協で買い求めた。
そんな時代の雰囲気の中でこの本を読んだ。
冒頭に2人の教授が学生たちを追悼している。
戦没学生にささぐ 南原繁
……一たび動員下命、学生の特権が停止せられて戦に召されるや諸君はペンを剣に代えて粛然として壮途に上った。その際多くの学徒のうち誰一人、嘗て他国に見られた如き命を拒んで国民としての義務を免れんとする者はなかった。 諸君の総ては国家の意志と命令に忠実に従ったのである。(中略)
諸君は客年8月15日、 わが邦肇国以来の呪わ式運命の日を目撃しなかった。(中略) 俺らは真に愛するべく浸しむべき幾万の額とをしなった。
然し、諸君に告げたいことは、われらの行く手に民族の新たな曙光、大いなる黎明はすでに明け初めつつあることである。
序 辰野 隆
青春の遺書を読まねばならぬ老者の胸は痛い。
我らは真に愛する可く親しむ可き幾万の学徒を失った。 今や諸国の領土は狭められ。 衣食住は前代未聞の制限を強いられ。一日を糊するにもなほ我等は常ならぬ努力に疲れているが、斯のような艱難な、我等は如何ように刻苦しても、不撓の努力を重ねて徐ろに償い得ることであろう。然し一度征いて帰らぬ青年学徒の命数を想ふと、今日我等老骨がおめおめ生き残っていることが、赦されぬ逆事として、折りにふれて、良心を悩まし,苦しめるのである。
昭和16年(1941年)12月8日。 日本はアメリカ、イギリス,オランダに対して宣戦を布告、大戦争が始まった。緒戦は南方戦域で勝ち続けた。しかし、アメリカは反撃を開始し昭和17年(1942年)夏以降、戦局の主導権は逆転した。
昭和18年(1943年)10月21日。秋雨が降りしきる明治神宮外苑競技場(現・国立競技場)に首都圏の大学・高専77校の25000人が参加して学徒出陣の総会が開かれた。
学生代表の東京帝国大学2年生だった江橋慎四郎さんは答辞を述べた。
生等今や、見敵必殺の銃剣をひっ提げ、積年忍苦の精進研鑚を挙げて、悉くこの光栄ある重任に獻げ、挺身以て頑敵を撃滅せん。生等もとより生還を期せず。
このあと出陣学徒は小銃を担いで分列行進し前線へと向かった。
戦いを厳しく多くの学生は学園へと戻らなかった。
今、再び読み返すと感慨は新ただ。学徒の思いの抄録を試みた。
佐々木八郎 東大経済学部 23歳
昭和20年4月14日 沖縄海上で昭和特攻隊員として戦死
では何の為に僕は,海鷲を志願するのか。さういふ風に,僕の今の気持は,日本人ではあるが,狭いショーヴィニズムを離れた風来の一人間として,カーライルではないが、父も知らぬ,母も知らぬ、この世に生まれた一人の人間として,偶然置かれたこの日本の土地、この父母、そして今迄に受けて来た学問と,鍛へあげた体とを、一人の学生としてそれらの事情を運命として担う人間としての職務をつくしたい。全力を捧げて人間としての一生をその運命の命ずるままに送りたい、さういふ気持なのだ。そしてお互に生まれもった運命を背中に担いつつ,お互夫々きまったやうに力一杯戦はうではないか。つまらない理屈をつけて、自分にきまった道から逃げかくれすることは卑怯である。
大井栄光 東大理学部数学科 25歳
昭和16年華北柿樹園で戦死
(母へ 昭和15年4月17日)
母上様
いよいよ別離の日が参りました。
けれども私は元気にいって参りますから、呉々もお体を大切になさって苦心して生還した時には、一層御元気なるお姿に接し得ることを祈っております、
何の屈託もなく何の感情の高揚沈低も無きかの如く装ふて居りましても私はやはり多くの未完成を抱いたまま戦地に参ります。そこには寂寞の感もありますし,愛惜の情もあります。けれども見えざる神の意志の支配に全幅の信頼を置いて,危難地に赴く構へは聊か乍ら既に会得して居ると自負して居ります。此の上はママも義光も三重子も皆が私の心情をくみとってせめて笑顔をもって私を送っていただきたかったのですが、やはり親と子の情はもっと深刻切実のものである様です。私はママの涙をいとひませぬ。しかし此の後はなるべく朗らかに日々を過ごされて私の出しますたよりをお待ち下さることを願上げます。
BS-TBS番組情報 №319 [雑木林の四季]
BS-TBS 2025年1月前半のおすすめ番組
BS-TBSマーケティングPR部
吉田類の酒場放浪記 元日SP!

お伊勢参りで開運祈願&奈緒さんと乾杯!
1月1日(水)よる7:00~8:54
☆元日2時間スペシャル!吉田類さんがお伊勢参りへ&俳優・奈緒さんとのサシ飲みも!
今年は「年またぎ」ではなく「元日」2時間スペシャル。まずは、吉田類さんがお伊勢参りへ!
四日市市から伊勢神宮まで伊勢街道70kmを辿り、三重県の酒場や名所をめぐる。そして、番組の大ファンという俳優・奈緒さんと初対面でサシ飲み!奈緒さんの酒場での過ごし方、お酒との向き合い方の話に、吉田さんはいたく感心。さらに吉田さんから奈緒さんに粋なもてなしが!? 今年の初飲みはみんなで乾杯しましょう!!
カンニング竹山の昼酒は人生の味。

1/1(水)・2(木)よる11:00~0:00
☆飲み仲間を探しに街へと繰り出す昼呑み番組。青空の下で、一緒に泣いたり笑ったり怒ったりルール無用の人情トークを展開!
ちょっとオトナは夜ではなく昼に呑む。そんな昼酒人の人生物語をカンニング竹山が訊く。
今回訪れるのは竹山の思い出の街、高円寺。
#5「高円寺(前編)」
まずは「田舎割烹 にし川」で昼酒を共にしてくれる人を探す。道を歩いていた日本人男性とチェコ人女性の国際カップルに声をかけ昼酒スタート。マッチングアプリで出会ったという彼らの恋愛事情を訊く。
続いて声をかけたのは寝起きの部屋着でブラついていた男性4人組。現在、社会人として働く彼らは大学時代からの友人グループだという。若者ならではの悩みごとに竹山が向き合う。
お店を移動して「四文屋 高円寺北口店」で昼酒を再開。道中で声をかけたのは高円寺在住の新婚夫婦。出会いは高校時代であったが長年実らなかったというそれぞれの想いを訊いていく。
#6「高円寺(後編)」
まずは「鉄板ホルモンの四文屋」で昼酒を共にしてくれる人を探す。偶然通りかかった2人組の男子大学生に声をかけ昼酒スタート。彼らは中学生からの幼馴染で最近ルームシェアを始めたという。
竹山、2軒目を探し歩いていた女性2人組にも声をかけ招き入れる。なんと10年ぶりに再会を果たした高校時代の友人同士だという。そこに3人目のルームシェア仲間も合流し、彼らの学生ならではの生活事情を訊く。
お店を移動し「クラフト麦酒酒場 シトラバ 高円寺店」で昼酒仲間を探す。道行くミュージシャンの多さに高円寺という街の魅力を改めて噛みしめる竹山。そんな中、店前を通りかかった同じ会社の同僚だったという3人組に声をかけ昼酒を再開。営業職で働く彼らの飲み会事情と処世術を訊いていく。
薬丸マネー塾~人生後半お金に好かれる生き方~

1/11(土)ごご6:30~7:00
☆今回のテーマは「スマホと仲良くなって、暮らしを豊かに」。スマホのさまざまな便利機能をご紹介!
「薬丸マネー塾」の第10回目テーマは、「スマホの活用術」スマホの便利機能を使っていない方に向けた内容です。
▽賢人の驚きのスマホ画面を拝見
▽地図アプリの便利な使い方
もう道に迷うこともありません!
▽PayPayのインストールから、入金、支払い方まで、南後杏子アナが丁寧に紹介
お財布を持たなくても、買い物が出来ちゃう!
▽同じくモバイルスイカの使い方も紹介。
切符を買う手間からサヨナラ!
スマホでこれらの便利機能を使えば、暮らしが変わりますよ!
【司会】薬丸裕英
【進行】南後杏子(TBSアナウンサー)
【ゲスト】
藤川太(家計の見直し相談センター・代表)、閑歳孝子(くふうカンパニー代表執行役、家計簿アプリZaim開発者))、星野貴彦(「プレジデント」編集長)
海の見る夢 №92 [雑木林の四季]
海の見る夢
-ああベツレヘムよー
澁澤京子
・・知識こそ、イスラエルの最大の敵である。啓蒙こそ、イスラエルが最も憎み、最も恐れる脅威である。だからこそイスラエルは、大学を襲撃するのだ。彼らが殺したいのは不正義と人種差別の下で生きることを拒否する決意自体なのだ。
~「ガザは問う」リファルト・アルアライール
クリスマスに歌われる聖歌でも、私が好きなのが「ああベツレヘムよ」で、去年に引き続き、今年もベツレヘムの教会ではクリスマスを祝う事はなかった。キリストは瓦礫の下に埋もれたままだからだ。
去年の10月7日以来、一年以上にわたってパレスチナの惨劇を見続けていた人々は、精神的にダメージを受けたり、中には体調を崩した人も少なくないんじゃないか、と思う。まさか、こんなひどいことはそんなに長続きしないと思っているうちに状況はどんどん悪化して深刻なものとなり、つい最近もジャーナリストの乗ったバスが爆破され5名のジャーナリストが殺されたばかり。
冒頭に引用したのは、去年の12月に家族とともに爆撃されて殺された詩人のリファルト・アルアライールの言葉。無知であることと無垢とは全く違うものであり、子供の無垢にはまったく偏見がないが、大人は無知であればあるほど、どうしても偏見が強くなってしまうのは、相手を理解する前に勝手なイメージや思い込みで決めつけてしまい、また、いい加減な話を鵜呑みにしてしまいがちだからだろう。日本について無知な中国人よりも、日本人の友人がいたり、日本語を学習しているとか日本について学んでいる中国人ほど日本人に対する偏見が少ないというが、相手の事や相手の状況を理解しようと努力するのは知性なのだと思う。良心の呵責のように、社会の理不尽に違和感を持って抵抗するのも知性であり、知識も経験も、知らない物事や他人を知ろうとするためには必要なものではないだろうか?同質性の強い国では、相手のことを「わかったつもり」になりがちだが、人と人がわかりあえるのはそんなに簡単なことじゃないだろう。
陰謀論やデマの飛び交う今、クリント・イーストウッド監督の最新作『陪審員2番』は、まさにタイムリーな映画といえる。法廷もので「正義」をめぐるこの映画には善良な市民しか出てこないが、いかに私たち誰もが持つ「偏見」や他人の意見に流されやすさや、「自己保身」のためのウソやごまかしというものにより、物事の真実がねじまがってゆくかが描かれていて、そしてついに人々は真実とは反対の、間違った方向に流されてゆく。映画の中のほとんどの人が自分の間違いには無自覚であるが、自覚しながら自己を守るために他人のせいにしたり、あるいは見ないふりをしたまま平和な日常生活を送る人間もいる。そして、そうした自己保身の陰には、罪を着せられた犠牲者がいるのである。
人は誰でも自分の狭い視野と世界観でしか物事を見ることができない、肩書や印象だけで簡単に人を判断する、あるいは他人のことなどより、自分やせいぜい自分の家族さえよければいいといった、私たち誰もが持っているようなエゴイズムがこの映画の登場人物たちのなにげない言葉の端々ににじみ出ていて、『陪審員2番』は、善良な市民の持つエゴイズムが、集団となれば容易に悪に転化することを描いた傑作。94歳になってもなお、こうした優れた映画を作れるクリント・イーストウッドの、時代を見抜く鋭さと明晰さには感服するばかりである。なぜ彼が「正義」というテーマをあえて選んだのか?「どっちもどっち」の相対主義で、他人に無関心になりがちな私たちの今の社会に警鐘を鳴らしているように思えてしまう。
私たちには時に、自分の都合のいいことしか聞こうとしない、不快なこと、あるいは異なった意見があっても耳を傾けないし理解しようとする努力すらしない傾向がある・・わかりやすいエゴイズムよりも、そうした隠れたわかりにくいエゴイズムのほうが、自覚がないだけにむしろ厄介なのである。自分たちに都合よく歴史を書き換え、都合の悪い事には耳をふさぎ、見てみないふりをし、自分たちの都合でしか物事を見ようとしない今のイスラエル政府の自己中心的な歴史修正主義は、おそらく私たち個人の中にもひっそりと潜んでいるものではないかと思う。
悪意による噂話やデタラメを垂れ流して言葉を粗末にするのは、人を踏みにじっているのとまるで同じ行為なのであって、真実というのは、人の命と同じくらい大切なものではないだろうか?
・・もしわたしが死ななければならないとしたら
きみは生きなければいけない
わたしの物語を語って・・
「わたしが死ななければならないとしたら」
リファルト・アルアライール
この詩の「物語」というのはまさに真実にほかならないだろう。
住宅団地 記憶と再生 №52 [雑木林の四季]
Ⅶ ひばりが丘団地(ひばりが丘パークヒルズ)
国立市富士見台団地自治会長 多和田栄治
ひばりが丘団地の暮らし
この団地に入居し、子育ても終えて20年以上になる居住者の生活ぶりや団地のコミュニティづくりの様子が、1981年6月8日に公団家賃裁判の法廷に立った戸石八千代原告の陳述によく描かれているので引用しておく(『東京地裁・公団住宅家賃裁判II』1983年、東京多摩自治協、84~86ページ)。
私は原告の戸石八千代です。
私は昭和34(1959)年5月30日に現在の住居ひばりが丘82-105の3Kに入居いたしました。もう22年前になります。当時家族は夫婦と子ども4人の6人家族でしたから、畳の部屋が3部屋あるというので、3Kに申し込みました。そのときの主人の給料は34年4月24,480円で、ひばりが丘団地3Kの家賃は6,550円とあまりにも高すぎ、給料から家賃を差し引くと、家族の生活に支障をきたしました。そのため主人はアルバイトをして家賃をどうにか支払うことにして入居しました。
3部屋あるということで希望に胸ふくらませて入居いたしましたが、「団地サイズ」でそれぞれの部屋がいかにも狭く、お台所は食器棚をうしろに置くと、流し台の前に私のような小柄なものがやっと立てるスペースしかなく、肥った人は蟹の横ばいでなければ通れないのです。
つぎに洗濯機を置こうと思ったら置き場がなく、仕方なくベランダに置けば、雨にぬれて損傷が早く、カバーをかけてもモーターのいたみが早くすぐだめになってしまうのです。玄関には下駄箱がなく、ベランダにあるべき物入れが玄関わきにあるので、物入れの整理中に来客があると大慌て、たいへん不便です。
下駄箱のかわりなのでしょうか台所の壁の下のほうに戸棚のようなものがあって、これがまた場所的にとても使いづらいのです。こんなありさまで、どれ一つとってみても住む人の身になって造られているとは思えません。一事が万事で、玄関わきにお風呂場があり、もちろん更衣室もありませんので、お風呂に入っているとき玄関に人が来ますと、その
人が帰るまで風呂場から出られなし)で困ったこともしばしばあります。
壁の結露にしても長いあいだ悩まされています。押入れにいれた本がぬれて駄目になったり、お布団がかびたりはつい最近までつづいています。
ただ、当時主人が九段会館で入居説明を聞いてきたその日からずっと言いつづけてきたことは、「なんといっても個別原価方式で土地代まですべて含まれているので、いまは高家賃でたいへんだが、住んでいるかぎり家賃が上がることがないのだから、今に楽になるよ」との言葉でした。私もずっとそれを信じてまいりました。
ところがその家賃が「不均衡是正」の名のもとに、こんなにも古くなってから7千円も上げられてしまったのです。黙っているわけにはいきません。
20年以上もたって、どんなに大切にして住んでも、あちこち破損していく現在、ガスもれがあったり、排水管がくさって水があふれたり、住まいについて不安なことはいっぱいあります。外壁の亀裂、いくらいっても20年間一度も塗装もしていない、汚れほうだいの建物が今後の地震に耐えられるのだろうかと心配です。
そのうえ建物の内部の修繕は個人負担といわれ、20年間に畳替え、ふすまの張り替え、壁の塗り替え等みんな私たちが個人でやってきたのです。
入居当時2,700戸の建物と小学校が一つあるだけでしたが、住みよい環境にしたいと自治会をつくり、みんなで力を合わせて保育園をつくり、児童館を建て、幼児教室を育て、図書館をつくり一生懸命努力してきたいま、一方的に家賃値上げ通告をしてきて、いやなら出て行けといわんばかりの態度は納得いきません。
ひばりが丘団地は20年以上たちますので、老人世帯も必然的に増えてきました。私の家庭も最近主人が亡くなり、現在長男と二人暮らしですが、やがて長男が結婚して別所帯になったときに、いまのような公団の一方的な家賃値上げがくりかえし行われると、歳をとり一人暮らしで収入も少なくなったときに追い出されるのではないかといちばん心配し
ています。このことは多くの老人世帯が同じぐ悩み心配しています。
またここから狭いため去った子どもたちにとって、ここは懐かしい故郷なのです。成長期をここで育った子どもたちが故郷を求めて帰ってくる日のために、老朽化がすすみスラム化しつつある団地の修繕や補強にも力を注いでいただきたいと思います。
昔から衣、食、住は人間が生活するうえで大切なものとされています。その「住」生活がいまおびやかされています。
以上申しあげました理由によりまして、もう一度声を大にしてこの一方的値上げにたいして、私は納得のいくまで断固反対していくことを述べて私の陳述を終わります。
団地建て替え事業に着手
住宅・都市整備公団がひばりが丘団地を建て替え調査団地に指定し、空き家補充を停止したのは1991年である。きっそく自治会は「建て替え対策委員会」を発足させ、その後、住民懇談会や棟集会、青空集会をかさね、アンケート調査もくりかえして、居住者の意向や要望を確かめてきた。対策委員会は、建て替え先行団地の見学や公団「説明会」の傍聴、多摩公団住宅自治会協議会とともに合同の公団東京支社交渉などもおこない、東京都住宅局にたいしては都営住宅の団地内併設を要請してきた0団地は当時3市にまたがり、自
治体要請では特別の困難をかかえつつも、そうした経過のなかで94年には3市と自治会、公団による「ひばりが丘団地建啓に係る三市連絡協議会」を発足させた。
翌1995年に公団は早々と「ひばりが丘団地建替グランドプラン」を作成し、東京都および3市に協力をもとめて事業を進めていた。それによると、公団自身の手で184棟、2,714戸を建て替え、3,588戸の住宅をはじめ、都市計画道路等の公共施設、保育所、児童館、派出所などの公益施設を建設する。高層化によって大幅の戸数増をはかる一方で、建ペい率を33.3%から26.0%に下げて緑のスペースと駐車場(総戸数の60%)を確保し、住宅規模は平均38.6㎡から66・6㎡に広げるという計画であった。全体像が明らかになって、自治会と公団は居住者の戻り住宅の間取りや外構、団地の屋外空間と景観、保存樹木等にかんする勉強会やワークショップをおこない、97年からは事業着手前に月1回程度の会合をもっている。ここでとくに問題になったのは、事業手法の「期別制」であった。
「期別制」とは、団地全域の建て替え方針をきめながら工事プログラムはしめさず、一部区域についてのみ事業説明会をひらき、指定した工事区域以外は他団地扱いにする手法をいう。したがって大半の居住者には自分が住む区域の事業説明会がひらかれるまで着手時期は不明であり、もちろん家賃がどうなるかも分からず、生活の見通しが立たない。引っ越しを考えるにしても、未定区域の居住者には建て替えにともなう措置は適用されず、取り壊す住宅でも退去のとき原状回復の修繕費が請求され、引越し料はもちろん自己負担になる等である。一方、計画修繕や環境改善は建て替え予定を理由に指定区域外もストップする例が多い。公団は期別制をとることで、居住者に困惑と犠牲を強い、自己負担での退去をよぎなくさせる。
自治会は1998年1月にも文書で、居住者が戻り入居できる高家賃の是正とともに、「期別ブロック方式」反対などり項目を強く申し入れている。
『住宅団地 記憶と再生』 東信堂
『住宅団地 記憶と再生』 東信堂
地球千鳥足Ⅱ №60 [雑木林の四季]
坤吟する二匹の大亀‥ガラパゴス
小川地球村塾村長 小川律昭
大海で亀の泳いでいる場面に出会う。ちょうどダーウィン研究所でゾウガメを見てゴムボートで停泊汽船に帰る途中のこと、ウミガメが首をもちあげ、我々に注意深く目を配りながら泳いでいるのだ。時として水中に身を沈め、また浮き上がっては泳ぐ。体長一メートルはあろうか。水面に首を出して用心を怠ることのないその姿に緊張の表情がうかがわれる。
大海で亀の泳いでいる場面に出会う。ちょうどダーウィン研究所でゾウガメを見てゴムボートで停泊汽船に帰る途中のこと、ウミガメが首をもちあげ、我々に注意深く目を配りながら泳いでいるのだ。時として水中に身を沈め、また浮き上がっては泳ぐ。体長一メートルはあろうか。水面に首を出して用心を怠ることのないその姿に緊張の表情がうかがわれる。
亀の寿命は平均して二十年から三十年といわれている。この大きさまで成長したのは老獪に生き抜いた証明であろう。それはそれは危険に満ちた自然界、幾多の弱肉強食の試練を経てきたことだろう。その真剣な眼ざしは、かつて出会った危険な体験を思い出したかのようだ。とくに人間には要注意。出来うる限り離れようとするのだが、人間どもは彼を追うことしか考えない。海中にいくら潜っても、すぐに追いかけてくる人間は始末が悪い、という表情で、我々人間から日を離すことなく懸命に泳ぐ姿が痛々しい。
時は夕暮れ、どこまで泳いでいくのであろう。餌を求めてか、ねぐらを求めてか、それとも家族に会いにかえるのか。執拗についてくるボートの人間どもを睨みながら、みずからが定めた意思を貫徹すべく泳ぐのであった。私がいましがた見た、飼育されている亀の仲間と対比するに、どちらの亀が幸せか。日がな寝そべって暮らす亀と危険を冒して大海を泳ぎ、餌を求めなければならない亀。食料と引き換えに自由を奪われた一生と毎日が挑戦である一生と生き甲斐はどちらに? 表情を身近に見てその心理に触れた思いがした、極めて印象的な彼の眼であった。
同じガラパゴスの別の島での情景。かつての入り江が陸地で遮断され、フラミンゴの飛来する海水の沼になっている。その沼に動く生き物を遠くから発見する。凝視するとそれは亀だった。二匹の大亀が岸に近づくにつれて水が引き、もがいていた。その沼から潅木林を経て海がぁる。その亀が海の匂いのする方向へ泳いできたのはいいが、そこは水が減り、泥沼になっていた。泥濘にからだの自由を奪われ、両手、両足を懸命にばたつかせるが、どろどろの地面には抵抗がないので前進出来ない。大きな身体を浮かせるのが精一杯だ。遠くてその表情はわからず、時折頭の向きが少し変わるだけ。だが死にもの狂いの彼の行動は伝わってくる。沼が満タンに水を湛えたかつての日、すいすい泳いだ経験があったから横断しようとしたのであろう。今は底無し沼、進もうと意志働けど身体は自由にならない。見ていて哀れだがどうしようもない。係員が助けに行ったが、人間も足が深みに沈むばかりで、ズボンをまくって行ったものの途中で諦めて帰ってきてしまった。
亀は十日間ぐらい食べなくてもよい体質だといわれている。が、いずれは力尽きて死ぬ運命に従わざるを得ないだろう。偶然の幸運に出会って助かるよう祈るのみだが、自然淘汰の酷さに心乱れた。情報の発達している人間社会なら、気象状況が予測出来る。本能に知恵と工夫を重ねて今日まで進歩し続けてきた人間と異なり、この大亀たちがここまで生きられたことが不思議であるが、それゆえにこそ亀だからと眼をそらすのはつらい。人間も亀も運命にさいなまれた一個の平等な生命体なのだ。亀たちの幸運を祈るのみの私の無力さ。
一年強のメキシコ駐在を終え、日本への帰国に際し、このガラパゴスに立ち寄ったのだが、動植物の生態が自然のままで存在するこの太平洋に浮かぶガラパゴス諸島、緑豊かで大きい島は自然環境も抜群、木々の茂った一五〇〇メートル級の山もある。エクアドルの領土であるゆえ、自然の状態が維持されたのである。これがアメリカであればハワイ諸島のような文明を人工的に作り上げていよう。人工の手が入らない大自然が貴重になった現在、ここでの余暇を楽しむことの出来た自分を幸せに思う。二匹の大亀の生きざまに感動と哀憐の情を誘われつつ。
(一九九八年七月)
(一九九八年七月)
『万年青年のための予防医学』 文芸社
美味懐古 №7 [雑木林の四季]
外食券食堂
加茂史也
前説・世の中の移り変わりに消えていった店がある。1950年代から1970年にかけ東京
にあった店。今も憶えている店。そんな店を心の内に訪ねてみた。
昭和24年(1949年)4月。私は東京渋谷の天理教教会に入居、東京での生活が始まった。 3度の食事時間は決まっている。 私は気ままに寝たり起きたりする。だからすぐに教会で食事する員数から外されてしまった。自力で食事ができる安価な食堂を見つけなければならなくなった。
そんな時、級友の一人が、
「君、外食券食堂知ってるの」
「いや、知らない」
「学生向けに安価でいいんだ。大隈講堂の横手にあるんだよ。案内しよう」
木造平屋全面ガラス戸の一軒があった。20卓ほどの机と椅子。奥は厨房。店との境目のガラス棚にたくさんの料理が陳列してある。
サバの味噌煮、。鮭の切り身、アジのフライ、イカの姿煮、、金目鯛の煮付け、マグロ煮付け、豚生姜焼き、肉野菜、さんま焼き、ホッケの一夜干し、鶏肉から揚げ,ニラレバ.
ハムエッグ、コロッケ、目玉焼き。さつま揚げ、メンチカツ,、麻婆豆腐、とんかつ、カレーライス,生卵。 納豆。冷奴、味噌汁、焼き海苔、しらすおろし、大根おろし……
級友は慣れている。
「飯⒉人前、サバの味噌煮、しらすおろし、味噌汁」」
指名した料理を皿の上に取りよせる。手早く会計のおはさんが、
「3品で90円だよ」
級友が私の番だと目顔で知らしせる。私は級友の注文にならった。
気の良い級友は、外食券食堂に講釈してくれた。
戦時中に食料事業が悪化したため 米は配給制度の対象になった。 食糧不足が続き 戦後も配給制度が続いている。旅館で宿泊するには、米の現物を持参しなければ、食事ができないと言われた。
都会で外食する勤労大衆のために外食券食堂が設立された。外食券食堂は外食券と引き換えに米飯を提供する。米飯だけではなく副食も提供する。
外食券は米の引換券だ。米の配給を担当している販売店で申請すれば受け取ることができる。甲券と乙券の2種類がある。甲券は米280グラム、乙券は米337グラムだ。乙券は筋力労働者のためと言われている。
これに対して。 一般の飲食店は配給制度に頼らない割高な米を仕入れて営業しているから。 料理の値段は高くなる。外食店食堂の料理の値段は割安だ。
東京にはざっと500軒の外食券食堂があるという、
昭和23年になると食糧事情が好転してきたから、 外食券無しでも割増料金を払えば 食事できるようになっていた。
この日以後、私はもっぱら原宿駅近くと、大隈講堂横の2軒の外食券を利用した。
外食券食堂は、一般の食堂と様子が違う。外食券食堂に入っても、「いらっしゃい」と声はかからない。料理の陳列棚を眺めていても、「これが美味しいですよ」と示唆しない。代金を払っても「ありがとうございます」とは言わない。不親切で無愛想な見えるけれど、料理について質問したりすると、きちんと説明してくれる。どうもそんな対応が店の流儀のようだ。そんな流儀にも慣れる。
手持ちのお金に余裕があるときは、飯⒉人前を頼む。丼にこんもりと盛り上がった飯は、見るからに食欲をそそった。
私の好みは、アジのフライとイカの姿煮だ。陳列棚に出来立てのアジがあるとご機嫌だ。
厚みのあるアジに噛みつくと、美味しいなあと思う。
イカの姿煮は冷めていても、イカを一匹まるまる食べられるという期待で充足した。
BS-TBS番組情報 №318 [雑木林の四季]
BS-TBS 2024年12月後半のおすすめ番組
BS-TBSmアーケティングPR部
BS-TBSmアーケティングPR部
町中華で飲ろうぜ

12/16(月)よる10:00~11:00
☆恒例企画となっているリクエストSP。今回は、お店から直々に玉ちゃんへラブコールが…
#321 リクエストSP 玉袋筋太郎、ゲスト:江頭2:50
今回は恒例企画となっているリクエストSP。しかも、今回は、お店から直々に玉ちゃんへラブコールが…
向かった先は、かつて、鳩ヶ谷市だった埼玉県の川口市。昭和33年開業の「亀田屋」が今回の舞台です。お店に到着早々、ラブコールをくれた店の2代目にお礼を言いつつ、瓶ビールで乾杯。町の歴史やお店の成り立ちなどを聞くうち、すっかりお酒が進む玉ちゃん。
すると…突然、上半身が裸で、黒タイツの男が店に殴り込み。そう、現れたのは玉ちゃんがゲストとして呼んだ30年来の親友と言う江頭2:50さん。聞けば、あの『浅草橋ヤング洋品店』以来、本格的な共演は実に28年ぶり。2人の出会いから、下積み時代の苦労話。山あり谷ありの二人の人生を町中華をつまみながら語らいます。
最後は、玉ちゃんが大粒の涙。その訳は…
#322 リクエストSP 樋口日奈、清田みくり
今回は番組公式SNSに寄せられた、フォロワーさんオススメの町中華を巡る恒例企画「リクエストスペシャル」。しかも、町中華スナイパーの日奈ちゃんと、エスパー清田の初共演。
そんな2人の今回の舞台は、西武新宿線「田無駅」から徒歩12分、西東京市の「谿明飯店(開業・昭和48年)」。口コミ通り、住宅街の暗がりに突如現れる感じの外観に、食品サンプルの焼け具合が秀逸。そんな店の渋さに触れた後は、いつもの「瓶ビール」で2人だけでの初共演に乾杯。選んだ料理も、フォロワーさんオススメの「餃子」と「唐揚げ」。餃子は肉汁たっぷりで、唐揚げはボリューム満点。トークを忘れて、料理を楽しみます。
そんな中、2人は4月から番組に加わった苦悩や心の変化、お互いの作品について語らいながら、ついついお酒が進みます。その雰囲気は、初代の秋ちゃんと茜ちゃんとはちょっと違った和やかさ。
最後は、初代が横浜中華街で覚えたという横浜名物「サンマーメン」で、その夜を締めくくります。まだまだ成長する「伸びしろ」もたっぷり。お互いに切磋琢磨しようと意気込む初共演となりました。
MLB大谷翔平ハイライト2024
〜伝説誕生 世界一への軌跡〜

12/28(土)よる7:00~8:54
☆ついに『世界一』の称号を手に入れた大谷翔平…2024年に大谷翔平が刻んだ“伝説”を様々な角度から解析!怪我をしても出場し続けた“ワールドシリーズの戦い”、知られざる真実とはー
メジャー7年目。ついに『世界一』の称号を手に入れた大谷翔平。
打者に専念し50本塁打&50盗塁(50−50)を超え、MLBの歴史にその名を深く刻み込んだ。
まさに伝説となった今シーズンの大谷の活躍を、野球大好き“MLB通”伊沢拓司がデータから紐解く。
さらに、怪我をしてもなお出場し続けた“ワールドシリーズの戦い”、知られざる真実とは..。
元メジャーリーガー五十嵐亮太が大谷の戦いを分析。
そして、高校時代から大谷を取材するジャーナリスト・石田雄太が、進化し続ける理由を語る。
他にも、大谷だけじゃない!今シーズンの日本人メジャーリーガーの模様もお届け!
2024年、大谷翔平が刻んだ“伝説”を様々な角度から解析!
<出演>
MC/伊沢拓司
アシスタント/皆川玲奈(TBSアナウンサー)
スタジオゲスト/五十嵐亮太(元MLB選手)
山本萩子(MLB取材経験豊富・フリーアナウンサー)
石田雄太(ベースボールジャーナリスト)
ナレーション/日野聡
ヒロシのぼっちキャンプ ~年またぎ4時間スペシャル~

12月31日(火)よる9:00~翌深夜1:00
☆「ヒロシのぼっちキャンプ」が、初の大晦日特番「ヒロシのぼっちキャンプ~年またぎ4時間スペシャル~」を放送!
毎週水曜よる10:00から放送中のBS-TBS「ヒロシのぼっちキャンプ」。
ヒロシの飾らないきままな姿と、繊細で美しい映像が人気を博し、今年9月で放送5周年を迎えた。
そんな「ヒロシのぼっちキャンプ」が、初の大晦日特番「ヒロシのぼっちキャンプ~年またぎ4時間スペシャル~」を放送する。
今回訪れる場所は、フィリピン・セブ島と那須高原。
さらに、事前に番組公式SNSで視聴者から募集した"焚き火で炙ると美味しい食材"を紹介しながらカウントダウンも。
賑やかな番組が並ぶ大晦日に、普段と変わらない静かな時間をお届けする。
ヒロシがまず訪れたのはフィリピン・セブ島。
紺碧の海を目の前に臨む「ブルーウォーター マリバゴ ビーチ リゾート」で南国の空気を堪能してから、食材調達のために「ロビンソンズ・スーパーマーケット」へ。1人サイズの缶詰や、調理済みのフィリピン料理も充実している。セブ島のキャンプといえばバーベキューが主流だが、ヒロシは何をチョイスするのか?
その後は、干物店や雑貨店が密集するローカルマーケット「タボアン市場」へ。竹細工や手作りの調理器具、ランタンなどがズラリと並ぶ。
そしていよいよキャンプ場「Camp foRRest」へ。島全体を見渡すことができる開放感抜群の立地で、バンガローやゲルも常設されたセブ島ならではのエリアだ。
そしてセブ島の次に訪れたのは、標高560mの森の渓流に沿って広がる「那須高原ITAMUROキャンプ場」。2024年の夏に訪れた際にもみじが豊かに茂っており、紅葉シーズンにピッタリということで再訪した。
また、番組公式SNSで募集した、視聴者おすすめの"焚き火で炙ると美味しい食材"の中から、広島の牡蛎や仙台の牛タン&笹かまをチョイス。ヒロシが実際に調理して試食する。そのお味は...?
海の見る夢 №91 [雑木林の四季]
海の見る夢
-メリー・ウィドウー
澁澤京子
ヒトラーが絵描きを目指していたのは有名な話で、今はインターネットを検索すればヒトラーがどういう絵を描いていたのかがすぐにわかる。はっきり言ってかなりデッサン力があり、構図も上手い。対象になっているのはヨーロッパの街並み、古い建物、古城、田園風景が多い。細部も丁寧に描かれ、まるで写真のようなのだが、もしも感想を聞かれたら「とても絵がお上手なんですね‥」といった言葉しか出てこないような感じの絵なのである。一昔前の観光地の絵ハガキのような、と言ったらいいだろうか・・ようするにつまらないのである。(ヒトラーの絵で、唯一いいなと思ったのは愛犬や恋人のスケッチで、彼の愛情が伝わってくる)ヒトラーの熱狂的なスピーチとは裏腹に、ヒトラーの絵には生気というものがない。そしてこの「空虚」でありながらやたらと「熱狂的」というのは、ファシズムの特徴なのかもしれない。
・・搾取や抑圧すらも社会を機能せしめ、そしてある種の秩序を生み出す。権力なき富と政治意志なき尊大さのみが、寄生的なもの、余計なもの、挑発的なものと感じられるのだ。それらはルサンチマン(怨恨)を掻き立てる・・『全体主義の起源』ハンナ・アレント
アレントがトクヴィルを引用して叙述しているように、フランス革命当時、貴族はすでに権威も権力を失っていた、民衆の怨恨と憎悪はすでに「役立たず」となった貴族や王族に向けられた。なぜなら「役立たず」「余計な富を持つもの」は秩序の破壊者であると考えられたからだ。もともと金融業に従事するものや商人、富裕層や知識人が多く、なおかつ国家や階級を持たないユダヤ人は、労働者階級の敵がブルジョワジーとなるように、人々から敵視され、また、ナチスによるユダヤ利権の解体は多くの人々の支持を得た。その上、ユダヤ議定書のような偽文書も流布されてユダヤ陰謀論が囁かれた挙句に多くの無辜のユダヤ人が犠牲となったのである・・支配被支配の人間関係で生きる人間にとっては、ユダヤ人が世界支配をもくろんでいるという妄想のほうがリアリティがあったのだろう。ユダヤ陰謀論を信じる人々から見れば、ナチスはユダヤ資本という既得権益と戦う改革者だったのだ。ちょうどその逆になるが、今の市場原理主義経済の支持層が、「既得権益の破壊」を支持し、それを「改革」のように思うのと同じではないだろうか。問題は国家や資本にあるのではなく、それらに振り回され、人を人とも思わない権力者や資本家が生まれ、それに追随する群衆が出てくるということにある。
実際の議事録をもとに作られた映画『ヒトラーのための虐殺会議』。カメラは終治、森の中の美しい別荘の中を撮影して残虐なシーンは一つもないのに、こんなにおぞましい映画ってあるだろうか?ナチス幹部で開かれたこの会議では「いかにコスパよくユダヤ人を殺せるか」というテーマを中心に議論が行われ、法を楯にして抵抗する法律家は、周囲の圧力に負けて「ユダヤ人断種法案」の提案を始めるし、「倫理上、問題がある」と反対した幹部の一人は「倫理なんて・・」と周囲からバカにされた挙句、圧力に屈して(コスパのよい)ガス室に賛同させられるはめになる。この映画では、たとえ良心を持っていたとしても、周囲の圧力によって人が次第に悪に染まってゆく様子が非常にリアルに描かれている。ここであたかも正義のように重要視されているのは「コスパの良さ」であり、「役に立つ」ことだけなのであり、そこにあるのは他人の死に対する恐ろしいほどの無関心と冷淡さ。「コスパの良さ」と「役に立つこと」から、収容所のユダヤ人の中でも働けない高齢者や子供から真っ先に殺され、ユダヤ人以外では精神障碍者、身体障碍者も殺戮の対象になったのは言うまでもない。この映画でよくわかるのは、人がその良心や人間性を破壊されるのはとても容易いという残酷な事実であり、多数の圧力によって、理不尽な言説がそのまま常識であるかのように通用してしまうという怖さである。根拠のないデマに多くの人が飛びつくのは今の日本にも見られる現象ではあるが、まさにハンナ・アレントが『全体主義の起源』で指摘した通り、ファシズムは国家と政治、経済が弱体化しているときに起こる・・ファシズムは国家・政治の弱体化、民主主義の死によっておこるのである。
・・モッブ(群衆)は選ぶことができない。喝采するか投石することしかできないのだ。
『全体主義の起源』ハンナ・アレント
斎藤県知事は集中して叩かれていると思ったら、今度は不当なほど持ち上げられて、その代わり叩かれるのは百条委員会と、上司から追い詰められて亡くなった県民局長となった。パワハラ疑惑も解明されないままデマが飛び交い、再び知事に当選するという不可解な出来事が起こった。何が真実かわからない不安な人々は、ウソでも何でも他人、さらに自分にさえもレッテル貼りすることで安心する。不安な時代は、思い込みによる決めつけや偏見が世の中に氾濫する。「わかったつもり」になりたがるのは、不安ゆえであり、また、オールドメディアVS SNSであるとか、わかりやすい二項対立や分断を好む。(実際はそんな簡単に分けられるものでもないと思うが・・)多数と同じことを述べるのが正しいと思う。(なので同じ様な言説ばかり目立つ)また、オカルトや陰謀論のような因果関係が単純なわかりやすい話、一昔前の女性週刊誌にあったような扇情的な記事や、誹謗中傷記事を好む・・空虚な日常に堪えられない人々が、そうしたセンセーショナルな話に飛びつくのかもしれない。そして、捏造された派手なデマに流されやすい人が多ければ多いほど、その国の国力は明らかに劣化しているということなのだ。
ヒトラーは画家になりたかった。美術学校の試験に落ちて、教師から画家よりも建築家に向いていると説得されるが、割と素直に教師の言葉に従っているのは、彼が現実的な性格だったからなのだろうか?『我が闘争』を読むと、ヒトラーが少年期からハプスブルグ家やブルジョワ階級、知識人を憎悪し、思考の迷路の元となるような読書を嫌い、フランス文化的なチャラチャラしたものを嫌悪し、「質実剛健」と「労働」を賛美、要するに「役に立つ」ものを好むきわめて効率主義の人だったということがわかる。効率主義は同時に排他主義にもつながってゆくのだが。また、ヒトラーはマルクシズムを「文化を破壊するもの」として徹底的に批判したが、一方でヒトラー自身も文化を破壊しようとした。
頽廃美術展。現代アートのゲルハルト・リヒターが、子供のころ叔母に連れられて見に行った美術展。(芸術家だったリヒターの叔母はその後、精神錯乱者として強制収容所で殺された)ナチスから「頽廃」という烙印を押されたのは、クレー、シャガール、ココシュカ、キルヒナー等々の画家で、ナチスがユダヤ人富裕層から奪った美術品の中からゴッホ、ピカソ、マリー・ローランサンなどの絵もヒットラーから「へたくそ」「病的」と言われ、競売にかけられ大安売りされた。画家の描く対象が、娼婦、同性愛者など都会の夜の風景だったり、プルースト的個人の内面であったり、戦争の悲惨をグロテスクに描いたものも「頽廃的」と言われ、逆にナチスが賛美したのは神話をモチーフにしたもの、田園風景、労働や家族がテーマであるもの、またはギリシャ彫刻的な理想的肉体美であり、またレンブラント、ダ・ヴィンチ、フェルメールなど古典的な巨匠の絵であった。
ヒトラーから見れば、シャガールの空中に飛ぶ恋人たちも、クレーの絵も「頭のおかしい」しかも「へたくそ」な画家の描いたものにしか見えなかったのだろう。しかし、頽廃美術と烙印を押された画家の絵には、ヒトラーの絵には決してみられない「個性」と「人間らしさ」があり、それらは「役に立つ・たたない」の価値観とは反対のものであり、人の心の繊細さと多様性といったらいいだろうか?ヒトラーは、多くの人の「価値観」「美意識」という個人の内面までをも支配しようとしたのだ。
ヒトラーというとワグナーだけど、意外なのがオペラ「メリー・ウィドウ」を好んでいたということで、そのおかげで作曲したレハールは妻がユダヤ人だったのにも関わらず、ヒトラーによって保護された。なぜ、ウィーン風の、ヒトラーの好みそうにもないような未亡人のラブ・コメディオペラなのかはわからない。もしかしたら未亡人が再婚することによってその莫大な遺産が国外に流出しないで済んだという、このオペラの物語の結末をいたく気に入ったのだけなのかもしれない、あるいはヒトラーと最後まで一緒に過ごし殉死した恋人、エヴァ・ブラウンのことを脳裏に浮かべでいたのだろうか。
住宅団地 記憶と再生 №51 [雑木林の四季]
Ⅶ ひばりが丘団地(ひばりが丘パークヒルズ)
国立市富士見台団地自治会長 多和田栄治
国立市富士見台団地自治会長 多和田栄治
ひばりが丘団地 ひばりが丘パークヒルズ
東京都北多摩郡保谷・久留米・田無町 東京都西東京市・東久留米市
入居年月1959.04~1960.02 2004.03~2012.07
敷地面構 34ヘクタール 15.0ヘクタール
184棟 2~4階 30棟 3~12階
lDK~4K(平均38㎡) 1,504戸 1K~4LDK(30~106㎡)
小世帯 448戸 家賃 80,000~193,000円
世帯 2、236戸
店舗付 20戸
計 2,714戸
当初家賃 4,700~6,500円
「ひばりが丘団地」(当初は「ひばりケ丘団地」)といえば、わたしが20代のころ憧れの的だった。知り合いに何人か住人がいて、応募倍率が何十倍だったとか、家賃が高くて入居者が少なく、公団が大手の会社を回って御社の社宅にとセールスをしていたとも聞いた。ある新聞社の元記者が「わが社宅」と書いていたのをみて調べたら、ひばりが丘団地だった。公団が企業にまとめ貸しをしていたのだろう。
おなじ公団の団地でも、その後にできた団地の住民からみて、用地名は当時めずらしく平仮名で、のどかな響き、広々とした敷地のなかに樹種ゆたかな木立ちにかこまれ、中層は4階建て、はかにテラス住宅あり星形住棟あり、変化と階調に富んだ光景は、うらやましかった。わたし自身の記憶をたどると、ひばりが丘の自治会とたんぽぼ幼児教室は全国的にも先駆的な活動をしていたので、なんども訪ねているし、自治会結成30周年から60周年まで周年の祝賀会には欠かさず列席している。思い出にのこる人も多い。
2019年11月16日の自治会60周年祝賀会に参加したさい、建て替えが終わって久しい団地のなかを歩いてみた。強いて探せばわずかにケヤキ通りや松の木立ちに面影がしのばれたが、高層マンションに並んで空中にクルマがずらっと姿をみせるSF的光景のまえには、60年はまったくの抽象的な数字でしかない。わたしは「見知らぬ土地のよそ者」で、なつかしさの感情がよみがえらなかったのはいいとして、この地に生まれ、生活の根を下ろしていた人たちとって、「あのひばりが丘」はどこかに残っているのだろうか。60年余にわたり団地住民が培ってきた、「コミュニティ」という一語だけでは言いつくせない無形の蓄積も、地霊までも消されてしまったのだろうか。感傷がわたしのなかで広がっていった。「再生」とか「持続的なまちづくり」というなら、60年の記憶をよみがえらせ、はっきり印象づける形が、皇太子の訪問跡のほかにも大切に残されていてもいいのではないか、と思った。
ひばりが丘団地のなりたちと魅力
ひばりが丘団地は、武蔵野台地のほぼ中央に位置し、西東京市(2001年に田無市と保谷市が合併)と、東久留米市にまたがる地域に、1959年から60年にかけて建設され、住宅戸数2,714戸の首都圏初の大規模団地として誕生した。西武池袋線ひばりケ丘駅から直線距離で約400メートルの距離にあり、もと中島航空金属(株)田無製作所の跡地であった。団地の敷地面積は34ヘクタール。ここは当時「緑地地域」に指定され、そのため団地の西側と南側に緩衝地帯として10メートルのグリーンベルトを設けていた。このグリーンベルト沿いの木々のあいだに2階建て低層の4K住棟と、テラス・庭付き3K住棟が不連続に入りまじって並び、団地の中央部にはランドマークの給水塔、その北寄りに団地の花形的存在であったスターハウス4棟が配置され、景観にアクセントをあたえていた。多くは4階建て中層フラット住棟で東寄りにひろがっていた。型式のちがう住棟が見え隠れするばかりでなく、同じ型式でも住棟の長さ、規模がそれぞれ異なり、その配置も向きも直線的、並行的ではなく、眺める地点がちがえば、見える風景もちがってくる。各所に
児童遊園や武蔵野の面影をのこす雑木林があり、団地東側と中央を南北にめふるサクラ並木、中央を東西につうじるケヤキ並木のプロムナードはここの団地のシンボルといえよう。高さも型式も規模も外壁の色もほぼ同じ住棟がほぼ一直線に並列し、樹木といえばケヤキばかり、見える景色はどこに立っても同じ、なんの変哲もないわが団地とは別天地であった。
星形(2DK)は中央が階段室で三方が住戸の4階建て、低層(3Kと4K)耐火構造の長屋形式、庭付き(26㎡)テラスハウスもあり、4戸あるいは8戸つづき、中層型(1DK、2D
K、3K)は4階建て鉄筋コンクリート造り、階段室の各階左右が玄関になっている。昭和30~40年代の公団住宅の設備は万事「団地サイズ」といわれ、たたみ1畳は16×80センチ(江戸間17.6×88.0センナ)と狭かった。3Kといっても2DKとあまり差のない面積に3室つくった。)ので、このサイズでは古い家具はおけなかった。洗濯機などは当初からすべての家庭に普及していたのに置き場は設計されておらず、ベランダ等を利用して
置いたりした。とくにテラス住宅の狭さには耐えきれず、1976年以後に、1棟全戸が合意すれば棟ごとの増築してよいことになって、棟により6畳か8畳1室を増築している。
断わっておくが、そうはいっても1950年代末いっきょに流行語となった「ダンチ族」を絵に描いたようなひばりが丘団地への入居が幸運な人たちにとって無上の喜び、ひそかな誇りであったにちがいない。10年、20年とたち子どもたちも成長するなかで狭さの解消、居住性能の改良要求がめばえてきた。
ひばりが丘団地は、江戸東京博物館5階の「高度経済成長期の東京」コーナーにその1室が復元され常設展示されている。また公団は当時、ひばりが丘の2DKの新居をモデルにPR映画をつくっていて、いまでもウェブサイト下で見ることができる。ただし室内がいかにモダーンかの宣伝に終始していて、屋外空間のすばらしさを展示も映像も見せてくれないのは残念である。
ひばりが丘団地の記憶すべき特徴として、建物や屋外空間の優越性だけでなく、その先進的な「まちづくり」もあげておかねばならない。公団が発足して郊外に大団地建設をはじめたものの、周辺に利便施設がない。その調査検討、あるいは試行してきた末に「ひばりが丘団地によって定着した」といい、『日本住宅公団20年史』はこう書いている。「この団地では、スーパーマーケット、店舗、集会所、管理事務所、小学校、市役所出張所、巡査派出所など施設が充実しており、配置技法の進歩とともに“新しいまちづくり”として、団地が脚光をあびるようになった」(『日本住宅公団20年史』1975年、106ページ)
団地のマーケット街は、団地中央バス停を中心に道路にそって広がり、大いに賑わっていた。いまもこのバス通りを「賑わいの創出」空間としているが、跡肋に商店街はなく、建ち並んでいるのは老人ホームや老健施設等で、ここから雄れた団地内北端に大型スーパーができている。
『住宅団地 記憶と再生』 東信堂
『住宅団地 記憶と再生』 東信堂
地球千鳥足Ⅱ №59 [雑木林の四季]
好事たっぷり魔は少し、笑顔盗れるアラブの国
~オマーン国~
小川地球村塾村長 小川律昭・塾長 小川彩子
小川地球村塾村長 小川律昭・塾長 小川彩子
入国時、観光客の隣に長蛇の列が。並んでいるのは私たちが多く旅した国々、インド、バングラデシュ、パキスタン辺りの人々に見えた。彼らは写真撮影や面接など、観光客と異なる手続き。入国官に「働く人が大勢来るんですね」と話しかけたら彼はニッコリ笑って「We need more people」と。たいていの国で入国官は厳めしく無言だが、この国では最初に会った人から笑顔で人懐こかった。道路を走るタクシー車は全部トヨタ、乗用車もトヨタが断然多い。
夜遅い到着ゆえ三ツ星のミダン・ホテルと出迎え車を予約しておいたが、運転手はインド、ケララ州の出身。着いたホテルの受付はネパール出身1人のほか、3人がすべてケララ州の出身だった。地図を見るとアラビア海の向こうにインドがありケララ州は特に近い。
以後はインド人に会うと「ケララから?」と訊いたがたいてい当たった。
最南端の街サラーラは現カブース国王の生まれ故郷、椰子の木が生い茂る南部独特の街。
近郊には古代エジプトなどと交易した乳香の木が多い。乳香博物館では日本人歓迎の印にと、乳香の木から芳香を放つ樹脂を取って頂いた。シバの女王の宮殿跡もあるホール・ルーリーでは、ラクダの親子が多数水を飲み、タカという港街でも無数のラクダが歩き回っていた。
歴史が古く安全で緑濃く、出会いの数も抜群、人の親切も濃厚、ああ書ききれない。入国から出国まで笑顔と親切に会い続けたのはトルコ以来だろう。「近代先進国を目指しつつアラブの伝統を守っている魅力的なこの国を再訪しよう!」と夫と語り合っている。
(彩子)
観光バスはマトラ・スーク(市場)、国立博物館、メラニ砦、アラム王宮など、要望地点で降りて見ることができる。モスクと砦の多さが印象的だった。オマーンは、多文化料理が味わえる国だ。散髪屋はトルコからの移民が多く500円で上出来。人も物資もすべて輸入の国と感じた。
カタール空港で娘さんにiPadの使い方を習ったのが緑で、オマーンに着いたらリガヤ家に招かれ、思わぬ歓待を受けた。民族を超越した人間愛を感じた。イスラム文化の粋を集めたスルタン・カブス・モスクやマトラ・スークと有名所を案内してもらいご馳走になったが、この出会いは今後の生き方に一つの指針を与えてくれた。感謝! マスカット の郊外のルスタックは巨大な城砦都市を持つ。金曜日は休みで入れず周囲を車で見ただけだが、価値があった。
近くにアイン・アル・カスフアなる温泉がある。円形の池でボコポコと湧いている源泉から湯がコンクリートの大型樋を流れている。深さは40センチぐらい、首まで湯に浸かる程度。隣との間隔は150センチぐらいで背丈まで敷居がある。「熱い!」。長くは浸かれない。空が見える。
帰路のアイン・アットワラ温泉は車で30分走った所。ここは幅広い小川自体がぬるい湯。1か所だけまとめて湧いている湯船があり、外気温と混ざって丁度よい湯加減。だが、浸かったのは私と地元の子どもだけだった。
オマーンはモスクと城砦が見所。人々は開放的、親切でにこやか、歴史的な背景の中で温泉にも浸かれるので至福の時が過ごせる国だ。 (律昭)
(旅の期間‥2013年 彩子・律昭)
『ちきゅ千鳥足』 幻冬舎
『ちきゅ千鳥足』 幻冬舎
美味懐古 №6 [雑木林の四季]
マキシム・ド・パリ
加茂史也
前説・世の中の移り変わりに消えていった店がある。1950年代から1970年にかけ東京
にあった店。今も憶えている店。そんな店を心の内に訪ねてみた。
1966年、銀座数寄屋橋交差点に都市の景観を創造する芦原義信(1918年- 2003年)が設計して地上8階、地下5階のソニービルが完成。地下3階にマキシム・ド・パリが開店した。
ここではきちんとしたドレスコードが要求される。
薄暗いらせん階段を降りきると、美食の舞台装置である濃密な空間に入り込む。赤いライトに照らされたアール・ヌーヴォー様式の装飾だ。壁面には分厚いカーテン、そしてしっかりした毛脚の絨毯が音を吸い込んで静かだ。室内は明るくはないが、決して暗くない。重厚な椅子に座り机を前にするとこれからはじまる食事への期待感が湧いてくる。
メニュー
オマールとホタテ貝のテリンヌ・クレソンソース
カニのサラダ・パリ風
ゼリーコンソメ・ピーメント風味
オマールのビスク
サーモン・クッション風蒸し煮ラディッシュソース
鴨蒸し焼き・洋桃添え
牛ロースグリル・モアール添え
コーヒー・リキュールのビスキムース
苺のミルフィーユ
大判のメニューを眺める。料理の名前が呼び起こす期待感とその金額をにらんで、持ち合わせの金との釣り合いを考える。そして注文する悩ましい選択の時間だ。
豪華な皿にのったオマールのビスクの濃厚な味わいに陶然。ふと眼があった給仕に、バンを指さすと軽くうなずいた。客の希望を機敏に読み取ってくれたのだ。さっとパンが運ばれる。その機敏な給仕は、豊かに食べることの楽しさを充たしてくれた。
鴨蒸し焼き・洋桃添えは、軟らかく仕上がった鴨の噛み応えが嬉しい。
デザートの苺のミルフィーユはボリュームもあって、人気があるというのはうなずける。
ここは料理の味わいの善し悪しばかりではなく、豊かに食べる楽しさを提供してくれる。
BS-TBS番組情報 №317 [雑木林の四季]
BS-TBS 2024年12月前半のおすすめ番組
BS-TBSマーケティングPR部
Musical Stage 24

12/1(日)よる9:00~10:54
☆人気、実力共に話題沸騰中の豪華アーティストが集う一夜限りのステージ
8月19日(月)に横浜市の関内ホールで開催されたライブ「Musical Stage 24」をドキュメンタリー映像と共に12月1日(日)に放送!
テーマは「ミュージカルスターが挑む、新しいステージ」。
日本のミュージカル界を牽引するトップスター中川晃教と、幅広いステージで活躍する加藤和樹を筆頭に唯月ふうか、辰巳ゆうと、新浜レオンといった豪華キャストの歌唱力・表現力で様々な音楽を披露するまったく新しいライブエンターテイメント。
往年のミュージカルナンバーから、時代を超えて愛される歌謡曲、大ヒットJ-POPソングまで…
新進気鋭の若手歌手も交えながら、ここでしか聞けない「Musical Stage 24」スペシャルアレンジを迫力の生バンド演奏と共にお届け。
また、会場は関内ホール(横浜市)ということもあり、横浜にちなんだ曲を披露する「YOKOHAMA STORY」コーナーも。
番組ではライブ映像に加え、稽古の様子や舞台裏も放送。
24時間ミュージカルを堪能したい人の為の「Musical Stage 24-Songs&Dance&The history of Pops-」
人気、実力共に話題沸騰中の豪華アーティストが集う一夜限りのステージをお見逃しなく!
日本のミュージカル界を牽引するトップスター中川晃教と、幅広いステージで活躍する加藤和樹を筆頭に唯月ふうか、辰巳ゆうと、新浜レオンといった豪華キャストの歌唱力・表現力で様々な音楽を披露するまったく新しいライブエンターテイメント。
往年のミュージカルナンバーから、時代を超えて愛される歌謡曲、大ヒットJ-POPソングまで…
新進気鋭の若手歌手も交えながら、ここでしか聞けない「Musical Stage 24」スペシャルアレンジを迫力の生バンド演奏と共にお届け。
また、会場は関内ホール(横浜市)ということもあり、横浜にちなんだ曲を披露する「YOKOHAMA STORY」コーナーも。
番組ではライブ映像に加え、稽古の様子や舞台裏も放送。
24時間ミュージカルを堪能したい人の為の「Musical Stage 24-Songs&Dance&The history of Pops-」
人気、実力共に話題沸騰中の豪華アーティストが集う一夜限りのステージをお見逃しなく!
出演者:中川晃教、加藤和樹、唯月ふうか、辰巳ゆうと、新浜レオン
中川 賢
中川 賢
内野まことのフラフラタビ

12/3(火)から4週連続放送
火曜よる11:00~11:30
火曜よる11:00~11:30
☆大人気観光地ハワイの知られざるローカルエリアの魅力を発掘!
次ハワイに行ったらマネしたくなる玄人情報満載の番組。
次ハワイに行ったらマネしたくなる玄人情報満載の番組。
「吉田類の酒場放浪記」「町中華で飲ろうぜ」など街ブラ+酒というBS-TBSの伝統文化がハワイという新たな舞台へ!
これまで何度となくハワイを訪れている視聴者を唸らせる情報や、ガイドブックに載っていない現地民から愛される食事や酒などを紹介する。人とは被らない、次ハワイに行ったらマネしたくなる玄人情報満載の番組。
これまで何度となくハワイを訪れている視聴者を唸らせる情報や、ガイドブックに載っていない現地民から愛される食事や酒などを紹介する。人とは被らない、次ハワイに行ったらマネしたくなる玄人情報満載の番組。
番組がフラフラ(訪れた)したのは観光客で賑わうワイキキ周辺のアラモアナや観光地の喧騒から離れたカイムキ、かつて王族の静養地でもあったサンドアイランド地区などで、紹介する店は昔ながらのポリネシアンスタイルのバーや町中華、日本料理店など様々。食事やお酒の紹介だけではなく、お店はその場所にどのくらい根付いているのか、毎日どんなお客さんが来ているのかなど、この番組でしか知る事の出来ない情報をお伝えします。約40年間、ハワイをフラフラしてきた内野さんだからこその自然体な姿にも注目だ。
ゲキ推し旅!

12/7(土)よる7:00~8:54
☆独自の「推し」を持つ3人の芸能人が「推し」に会いに旅に出る!
☆独自の「推し」を持つ3人の芸能人が「推し」に会いに旅に出る!
独自の「推し」をもつ3人の旅人が、
是非見てみたいという「推し」に会うためにそれぞれ旅にでる。
是非見てみたいという「推し」に会うためにそれぞれ旅にでる。
松本の推しは「多肉植物」。結婚の際に松盆栽をプレゼントされて以来植物にハマったといい、現在は多肉植物を中心に飼っているという。そんな松本が選んだ「推し旅」の舞台は長崎。長崎の多肉植物好きが集まる園芸栽培の「エコグリーンヒガシ」や準絶滅危惧種になっている「ツメレンゲ」に会いに対馬に向かう。
2人目の旅人、森崎の推しは「飛行機」。子どもの頃にパイロットに憧れ、それ以来、飛行機が好きになったという。そんな森崎が選んだ「推し旅」の舞台は、空港周辺。「飛行機撮影の聖地」と言われる大阪「千里川土手」や日本一のエアターミナルである羽田空港、日本海と砂丘の上を飛ぶ飛行機を見ることができる鳥取空港(鳥取砂丘コナン空港)を旅する。
3人目の旅人、菅井の推しは「馬」。小学5年生の時に親友に誘われ乗馬を始め、中学から馬術競技に熱中した。そんな菅井が今回選んだ「推し旅」の舞台は北海道。馬グッズを集める菅井が行ってみたかった馬具メーカー「ソメスサドル」を訪れる。また、菅井が見てみたいという競走馬の育成や、憧れの馬であるイクイノックスにも対面し、熱き想いが溢れた。
2人目の旅人、森崎の推しは「飛行機」。子どもの頃にパイロットに憧れ、それ以来、飛行機が好きになったという。そんな森崎が選んだ「推し旅」の舞台は、空港周辺。「飛行機撮影の聖地」と言われる大阪「千里川土手」や日本一のエアターミナルである羽田空港、日本海と砂丘の上を飛ぶ飛行機を見ることができる鳥取空港(鳥取砂丘コナン空港)を旅する。
3人目の旅人、菅井の推しは「馬」。小学5年生の時に親友に誘われ乗馬を始め、中学から馬術競技に熱中した。そんな菅井が今回選んだ「推し旅」の舞台は北海道。馬グッズを集める菅井が行ってみたかった馬具メーカー「ソメスサドル」を訪れる。また、菅井が見てみたいという競走馬の育成や、憧れの馬であるイクイノックスにも対面し、熱き想いが溢れた。
出演者:松本利夫(EXILE)、森崎ウィン(俳優・アーティスト)、菅井友香(俳優)
海の見る夢 №90 [雑木林の四季]
海の見る夢
-静かな音楽ー
澁澤京子
・・あの青い空の波が聞えるあたりに
何かとんでもない落とし物を
ぼくはしてきてしまったらしい
「かなしみ」谷川俊太郎
まだ子供が小さかったから、今から30年位前にもなるだろうか。その頃、フランスから友人が帰国していて、彼女とその夫(仏人)を骨董市に案内しているうちにすっかり骨董にはまって、暇を見つけては骨董屋巡りをしていた。もちろん、そんなにお金がなかったので買うのは安物ばかりだったが。
ある秋の夕暮れ、半地下になった骨董屋に入って店の中を眺めているうちに、店内に渋い枯葉色のセーターにジーンズをはいた男の客がいて、そのセーターの色があまりに素敵だったので、骨董よりもそのセーターに目が釘付けになった。たぶんシェトランド毛糸で編まれたセーターだったけど、見たこともないような見事なグラデーションの色彩でジーンズのブルーにこれ以上ないほど合っていて、その枯葉色のセーターを着ていたのは谷川俊太郎さんだった。(さすが!)である。谷川俊太郎さんは骨董のお皿を手に取ってしきりに眺めていらしたが、衣服にしても、お皿にしても、車でも家でも、(あるいは)恋人にしても、谷川俊太郎さんはきっと、吟味の上に吟味を重ねた美意識で選ぶ人に違いない、と感心したのであった。(私は茶系のセーターが好きだけど、いまだに谷川俊太郎さんが着ていらしたような枯葉色のセーターには巡り合えずにいる)
谷川俊太郎さんが亡くなった。大好きだった「鉄腕アトム」のテーマ曲の作詞は谷川俊太郎さんだった。ちなみに私が小さかった頃は、土曜日の夜の「夢で逢いましょう」、日曜の朝の「題名のない音楽会」、「あなたのメロディ」では毎回、高木東六さんの朗らかなおしゃべりが聞けて、テレビをつけるとクレイジー・キャッツが大活躍していた。その頃は、とても良質の音楽があふれていたような気がする。
今年の夏、入院した時に友人が送ってくれた谷川俊太郎さんの絵本で心が慰められただけに、なんとも言えず寂しい。最近の、暴力や脅しのあった滅茶苦茶な兵庫県知事の選挙といい、何の恥らいのかけらもなく大声で他人のプライヴァシーを踏みにじり、まっとうな言論を平気で踏みにじる人間が勝つような、まさにフェイクファシズムという表現がぴったりの狂乱の世の中で、温かい灯りがひっそりと静かに消えた。
・・ネロ
お前は死んだ
誰にも知られないようにひとりで遠くに行って
お前の声
お前の感触
お前の気持ちまでが
今はっきりと僕の前によみがえる・・
「ネロ」谷川俊太郎
谷川俊太郎さんの詩で私が最も好きなのは、谷川さんの若い時のもので、教科書にも載っていた「ネロ」という死んだ犬に捧げた詩だった。
萩原朔太郎や室生犀星には猫が似合いそうだけど、西脇順三郎や谷川俊太郎には犬がよく似合う。萩原朔太郎や室生犀星は着物がよく似合い、玄関が引き戸になっている日本家屋に住んでいそうだが、西脇順三郎や谷川俊太郎にはセーターとジーンズが似合う。そして、佐藤春夫の小説に出てくるような暖炉のある小さな西洋館に住んでいて、落ち葉の積もった散歩道を、犬を連れて軽快に歩きそうな雰囲気がある。
いい詩というのは、人の心の中に埋もれている、何かとてつもなく懐かしい感じのものを掘り起こしてくれるのである。谷川俊太郎さんほど、小さな子供からお年寄りまで幅広く愛された詩人ってなかなかいないだろう。そして、大衆に愛されながらも、決して最後までそのレベルの高さを落とさなかった。
今頃、谷川俊太郎さんは仲の良かった武満徹さんとともに、森の中で静かな音楽を聴いていらっしゃるような気がしてならない。
住宅団地 記憶と再生 №50 [雑木林の四季]
Ⅵ 武蔵野線町団地(武蔵野緑町パークタウン)
国立市富士見台団地自治会長 多和田栄治
建て替え20年後の現実
ひさしぶりに2020年2月に線町団地を訪ねた。武蔵野住宅のバス停をおりると、まわりは高層の建物ばかりで記憶にのこる光景は一変しており、団地の方角に一瞬戸惑った。団地のなかに円弧を描く道路と集会所のある建物のまえの広場や木立ちに、ややかつての面影は見いだせるが、やはりまったく新規の団地にはちがいない。
他の建て替え団地も念頭におきながら、自治会が住民案をしめして公団原案を修正させたいくつかの点を確認して歩いた。なかでも関心をもったのは、ユニット戸数の少ない住棟づくりと、1階に設けられた出会いの場、潜り抜け通路の設置である。自治会はなによりも住民コミュニティの形成を第一に団地設計も要求してきたが、やはり戸数の少ない住棟のはうが住民同士まとまり、交流しやすいことは確かなようだ。わたしはドイツの団地で、エレベーターの有無にかかわらず片廊下式の多階住棟は見たことがない。コミュニティの形成を図るなら階段室式であるべきだと思っている。エレベーターを共用する戸数が少なければ片廊下式でも階段室式の効果があるのだろう。
建て替えは、従前居住者が全員戻り入居してもこれまでに築いたコミュニティをご破算にすることであるし、隣人関係の原状回復は望めない。ましてこの団地では、建て替え後家賃があまりにも高くて、戻り入居者は当初おそらく30%程度、10年間の家賃減額期間が終わるところには戻り入居者の多くが定年期をむかえ、再退去をよぎなくされて20%に、さらに高齢化、所得低下もすすみ、いまでは10%を切っているのではないか。
コミュニティの形成が困難なのは、従前からの継続居住者が極端に少ないからだけではない。より大きな問題は入退去の頻発である。この団地855戸のうち最多の2DK、2LDK(45~68Iポ)で家賃は概ね10~18万円である。民間家賃より高いとの世評もあり、年間120~130件の入退去をくりかえし、「定期借家」を理由に家賃割り引きをし空き家を埋めてはいるが、10%は常時空き家である。安定した継続居住がなければ、継続居住によってこそ育まれる住民の連帯、地域への愛着なしに、コミュニティが形成され、成熟する道理はない。「公共住宅建て替え」の意味をきびしく問われなければならない。
政府・都市機構がつくりだした困難な条件のもとで、この団地の自治会も、きっとどこかで「賽の河原」の虚しさを感じながらも、必死にコミュニティづくりに努力しているのであろう。入居の新旧を問わず住民共通の関心事である「防災」をテーマに活動を強め、全戸の安否確認訓練、炊き出しなどのほか、夏祭りや喫茶「グリーングラス」、映画会、コンサート等々だれもが参加できるイベントを重ねている。こうして培われている住民パワーは、居住を守る対抗力にもなりうる。
旧縁町団地の敷地内に道路をはさんで都営住宅が併設された。戻り入居のできない人たちも同じ地域で住みつづけられる点では、自治会運動の一定の成果ではある。併設された都営住宅240戸のうち120戸は、緑町団地はか他の建て替え団地からの転居先に確保されている。ともに新設された隣り合わせの両団地の住民どうしの交流、親睦の実情についてたずね、所得によって住む建物をあからさまに区分する差別政策が人心に及ぼす影響を知らされた。近隣ではあっても人工の壁が人びとの交流を阻んでいる。都営に移って両団地合同の老人会を立ちあげ、盛りたててこられた故Yさんのご苦労をうかがった。
古くからわたしが見知っていた人たちはもうこの団地には住んでいないようで、別れを告げるような思いで帰途についた。
『住宅団地 記憶と再生』 東信堂
『住宅団地 記憶と再生』 東信堂
地球千鳥足Ⅱ №58 [雑木林の四季]
奔放の旅 2
小川地球村塾村長 小川律昭
ブラジルのリオ・デ・ジャネイロで航空機のチケットを紛失し、やってきた空港カウンターでの出来事。コンピューターには予約されていることがわかっていても、お金を支払ったかどうかわからないから領収証を見せろと言う。その領収証も紛失したと言ったら、改めて航空券を買えと言う。そんな無茶な! 夜だから代理店は閉まっており連絡のしようもない。運良く切符を買った航空代理店のスケジュール表と購入金額の記載したコピーがあったので提示した。押し問答の末に係員が上司に相談することになった。その結果は再発券、手数料七〇ドルを支払って乗ることが出来た。言葉は満足に通じないし、汗みどろだった。航空券と領収書は大事なものだからと一緒に切符袋に入れて携帯しがちだが、両方失うとこんな苦労が待ち受ける。最近では大抵E(電子)チケットなので紛失しても大丈夫なのだが。
小川地球村塾村長 小川律昭
ブラジルのリオ・デ・ジャネイロで航空機のチケットを紛失し、やってきた空港カウンターでの出来事。コンピューターには予約されていることがわかっていても、お金を支払ったかどうかわからないから領収証を見せろと言う。その領収証も紛失したと言ったら、改めて航空券を買えと言う。そんな無茶な! 夜だから代理店は閉まっており連絡のしようもない。運良く切符を買った航空代理店のスケジュール表と購入金額の記載したコピーがあったので提示した。押し問答の末に係員が上司に相談することになった。その結果は再発券、手数料七〇ドルを支払って乗ることが出来た。言葉は満足に通じないし、汗みどろだった。航空券と領収書は大事なものだからと一緒に切符袋に入れて携帯しがちだが、両方失うとこんな苦労が待ち受ける。最近では大抵E(電子)チケットなので紛失しても大丈夫なのだが。
同じチケット関連で別の冷や汗。これは自分のミスではなくどこかの空港のチェック・イン・カウンターの係員のミスだが、乗り継ぎを繰り返したグァナアキル(エクアドル)でのこと。行き先ごとにチケットを一枚ずつ取られていくのだが、「貴方のサンホセ(コスタリカ)行きのチケットがない」と言う。そんなはずはない。サンホセから来たのだから。「前の乗り換え時、空港の誰かが間違って二枚取ったのだろう」と言い合いになる。よくあることだ。結果は「上司に相談して」と言うことで当然ながら搭乗出来たが、その間三十分は待たされた。この時はガラパゴス諸島を観光しての帰りであり、乗り継ぎ時間を気にしながらの降って湧いたようなトラブルだった。個人旅行をしていると次には何が起こるかわからない、と覚悟すべきだが時間さえ余裕があればクリアー出来るだろう。
これもエクアドルのグァナアキルだが、ヒッチハイクをあてにして温泉に行くことにした。行きは長距離バスがあり、同じバスで下車した地元の人の迎えの事に乗せてもらって温泉へ。大きい浴槽、砂浴、泥浴とそれらしき設備はあったが、お客を歓待するには何とも質素な施設であった。車でしか来れないのでパラパラ程度のお客だった。それでも温泉地、近辺に食事をする場所もあり、温泉に浸かった気分になった。帰りの草はヒッチハイクしかない。教えられたそれらしき場所で待つこと一時間以上。地元のおじさんも同じく待っていた。せっかく温泉浴をしたのに、イライラと時間を過ごしたせいか汗もかき不快になったが仕方ない。
その時一台の事が猛スピードで目の前を通りぬけた。何と無謀な運転だ、と目を見張っているうちに道路をはみ出しヤブの中に突っこんで止まった。隣のおじさんが駆けて行った。運転者が車から出てきて、ボンネットを開けてなにやらしている様子。再び車をバックさせ、元の道路に戻ってきた。おじさんが呼んだので乗せてもらえることになったのだ。大丈夫かな?このボンコツ車、アクセルが元に戻らなくて止まらなかったというのに…。だが他に車が来ないのだから、乗せてもらうしかない。いざという時、車から飛び出せるよう、ドアロックが開けられれば、と捜したが、壊れていた。外からでないと開けられない始末。乗ったからには運は天に任せようと観念した。生きた心地のしない十五分間だった。どうにか主要道路のバス停に出てホッと一息ついたが、とんだ温泉行きだった。
ところで旅をするにあたっては、まずおおざっぱな計画を立てる。実行の段階では、状況次第で計画の変更も柔軟に。宿や交通機関を予約すれば、却って行動の制約を受ける。後ろ髪を引かれる思いはしたくないし、二度と来られないかも知れぬ土地、気にいれば滞在を延長、気にいらねば省略する気ままさがあってよい。予約がないことの不安もあろうが、「心配しないで!」と言いたい。たとえ出迎えを予約してあっても、その時の事情で相手が来られないことだってある。一人旅の体験はとっさの判断の訓練にもなる。
提案をひとつ。海外ビジネスで現地法人に出張する場合、迎えなどしてもらわない方がよいと思う。国際感覚を体得するためにも、事務所やホテルまで一人で行っていただく方が好ましい。海外で、初めから日本人に会って、日本語を使って、日本食を食べたのでは、グローバルに仕事の出来る人間は育たない。まずその国を体験し、人々に交わることだ。
本稿では紙面の都合上第二部は中南米中心になったが、次稿では「地球千鳥足」としてより広範囲に及ぶ国々の旅を紹介したく思っている。
旅を通じて思うこと。とっさの判断を要求される場面や文化、習慣の違いから起こる問題への対応と、みずからの汗を流さざるを得なかった体験は、長く脳裡に刻まれる。私の旅は緊張感と解放感が隣り合わせで大変楽しいものだった。もちろん日本の生活は忘却のかなた。旅は私にとって心身の活性化、老化防止、つまり「予防医学」そのものなのである。
(二〇〇二年四日
『万年青年のための予防医学』 文芸社
『万年青年のための予防医学』 文芸社