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山猫軒ものがたり №40 [雑木林の四季]

タヌキの赤ちゃん 2

        南 千代

 体調が二十センチほどになった頃、真つ黒だった毛の頭の部分だけに、茶褐色のタヌキ色の毛がやっと生え出してきた。顔も鼻がとがってきて、少しだけタヌキらしくなってきた。成長すると、臭くなるのではないだろうか。なぜか私には、タヌキは臭いというイメージがあった。
 「フロに入れてやれば、匂わねえよ」
 と、吉山さんが言う。よし、小さい頃から習慣づけてしまえば、風呂が好きになるだろう。私は、タヌちゃんを洗面器のぬるま湯に、毎晩入れることにした。気持ちがいいのか、お湯につけるとボーッと眠そうな顔をしてじっと目を閉じる。すっかり風呂が気に入った様子だ。
 しかし、実のところ、ヤギがヤギの匂いであるのと同じ程度に、タヌキはタヌキの匂いがするものの、そう臭くはなかった。
 狭い小屋の中で排せつの場も一緒にして飼えば、これはタヌキに限らず、人間だって臭いに決まっている。匂うのは、タヌキでなくその排せつ物である。
 タヌちゃんは、習性なのか、ウンチをする場所はいつも一カ所に決まっていた。最初は、リビングルームに置いた電話台代わりの椅子の下。これはやはり困るので、そのたびにウンチを家の外の決めた場所に置き、ここよ、と教える。きちんと柚の木の根元でするようになった。
 野生の動物なので人には慣れないだろうと思っていたが、時が経つにつれ、タヌキは、呼ぶとキイーッと鳴きながら走ってきて、抱いてやると喜ぶほどに慣れていた。暑い季節になると、風呂は、水浴びになっていた。タヌキは、ものを食べるときに、クチャクチャと口に音を立てる。たまに人間にもこのような人がいる。タヌキの場合は仕方ないと思えるが、これが人だと、下品な食べ方だなあと、思ってしまう。
 タヌちゃんがある日、フッと姿を消した。山に帰ったのならいいけれど。まだ子どもなので少し心配だ。土問の火消し壺や釜にも念のために声をかけてみる。化ける練習をしていて、タヌキに戻れなくなってしまったのではないだろうか。
 二、三日が経った。ふと気づくとタヌちゃんが土間にちょこんと座っていた。やはり何かに化けていたらしい。
 この頃になると、歯が鋭くとがってきた。犬の子もそうであるが、モノを喫むのがおもしろいのか椅子の足など盛んにいろんなものをかじる。椅子の足ならよいのだが、人の足や抱いた手にも、時おりじゃれて歯を立てるようになってきた。甘咬みであっても、歯が鋭いとブスりと刺さる。
 親兄弟と一緒に育っていれば、多分、じゃれる時とそうでない時の咬み方が身につくのだろうが、タヌちゃんにはそれができない。こちらが扱いに慣れていれば、歯を立てられないようにできるけれど、扱う呼吸がつかめない夫などは、たびたび歯を立てられていた。
 ガルシィアがヒーヒー泣いて、土間に突っ立ったまま、こちらの座敷に向かって何か言っている。どうしたの、とそばに行ってみると、タヌちゃんがコアラのようにガルシィアの太い足にしがみついて歯を立てている。タヌちゃんも別に悪気があって咬みついているわけではないので、ガルシアも怒るわけにはいかなかったようである。
  座敷に上がり込んで走り回り始めたこともあり、また、週末はギャラリィの客が大勢来ることもあってタヌちゃんは、つないでおくことにした。散歩は、犬たちと一緒である。

 夫は、材木が集まると作業場に通い、今度は刻みを始めた。木を組み合わせて家を支える構造のため、木の一本一本に、組み合わせるための刻み(仕口)を入れなければならない。仕口には、継ぎや組みの目的と用途に応じて、二十六種類の刻みのカタチがある。カタチは、素人にはまるで、知能テスト用材木版キュービックのように複雑。
「今日は少し慣れて、金指継ぎがやっと五つぐらいできるようになったよ」
 夫は、毎日喜んで帰ってくるが、約一千個は要りそうな仕口すべての数を思うと、気が遠くなる思いがする。私も手伝える日は、作業場に通った。仕事やギャラリーや農作業を通して知り合った友人など仲間たちも、みな時間ができると加勢にやってきた。
 画家の田中さんは絵筆を持つ手にのみを握り、ベースの井野さんも弓代わりにのこぎりを挽き、木工家の川合さん、笠原れい子さんも。それぞれの時間と関わり方で、仕口は少しずつ刻まれていった。
 現代においては、時は金。またたく問に出来あがる家もあるけれど、こんな家づくりも時にはあつてもよいのかもしれない。
 田植えの合間に家通り、その合間に仕事をし、ヤギを飼いつつギヤラりィをやり、その合間に畑を耕し、タヌちゃ人をだっこしてジャズライブ行い。夜は夜で、さばいた鶏を肴に「みんなで盃を重ねる、という、もう何がなんだかわからない、合間だらけの混沌とした暮らしになっていった。すべてが遊びのようでもあり、仕事のようでもある。

 そこへまた、三羽のカラスがやってきた。時次郎さんが、巣から落ちた仔ガラスを持ち込んできたのだ。同じ色の仲間に、黒猫のウラがこタッと笑ったような、笑わなかったような。ウラは、時々チシャ拓のように笑うのだ。カラスはまだ、庭をよたよた歩いている。
 こうなると、名前をつけるのもお手軽になってしまい、アーちゃん、イーちゃんにした。次に動物がきたら、ウーちゃん、エーちゃんだ。
 カラスの嘴というのは、仔ガラスでも大きくてちょっと怖い。ドッグフードを柔らかくふやかして箸で口元に持っていくと、ぴっくりするほど大きな口を開けた。黒い羽が、七つの虹色に光り、うらやましいほどきれいだ。
「よしよし、育ててやるがらね。大きくなったら、忘れずにやってきてカラスの恩返しをするんだよ」
 私は、エサをやりながら、言い聞かせた。

『山猫軒ものがたり』 春秋社


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台湾・高雄の緑陰で №39 [雑木林の四季]

新総統頼清徳を迎えた台湾

        在台湾・コラムニスト  何 聡明

今年の1月13日に行われた台湾総統の選挙は台湾派の民進党候補頼清徳氏が当選したので、民進党政権は台湾では記録的に第9年目の政権に入り、5月20日頼新総統は台北市の総統府で盛大な就任式を行なった。

今年1月の総統選挙と同時に行われた立法院委員(国会議員)選挙で民進党委員は過半数に至らず、これから4年間頼清徳総統は困難な国政の運営を迫られることになるのは必定である。頼氏がその困難を如何に克服するかに与野党の関心が集まっている。因みに台湾の国会は単一国会で、議員定数は113人で目下与党51人、野党60人、無党派2人であるが、この2人は第一野党中国国民党に従属している。

現在台湾最大の国内問題は1949年に中国共産党との内戦に敗れた蒋介石は中国大陸より中国国民党の軍官民を引き連れて台湾へ亡命して以来1999年まで中国国民党は台湾で独裁統治をしたが、2016年以降中国国民党は民進党政府の最大野党に留まっていた。機会主義者を党首に戴き4年前に「台湾民衆党」と名乗る新第二野党は反台湾派の最大野党と組み、執拗に憲法違反、且親中反台的な法律の制定に熱中しているので国会で与野党の激烈な闘争が始まっている。

中国共産党政府はこの「親中反台」の中国国民党を利用、または指示をして「台湾は中国の一部」であると言う空言を更に強調している。一方、中国人民解放軍は海と空から毎日台湾に威嚇を続けている。言わば中国国民党は中国共産党の子分に成り下がりつつあるのか、それとも台湾を中国に売却する準備を進めているのかと疑われている。

頼総統は就任演説で台湾は民主制度の主権国家で有り、中国とは隷属関係にないと述べ、台湾は民主主義国家と結束し、戦争を厭わない独裁国家に隙(すき)を与えない事が重要だと強調した。中国共産党政府は頼総統の就任演説を強く批判した。

話は変わるが、日本人は平和でさえあれば独裁国の属国であっても構わないと考える人を「平和ボケ」と呼んでいるのだろうか?平和ボケの人達は「台湾有事は日本有事」だと述べた故安倍元首相は「好戦者」だったと考えているのだろうか?台湾では「日本有事は台湾有事」だと考える有識者が日々増えているが、その台湾人も「好戦者」なのだろうかと私は頭を抱えている。

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BS-TBS番組情報 №305 [雑木林の四季]

BS-TBS 2024年5月後半のおすすめ番組

     BS-TBSマーケテイングPR部


関口宏のこの先どうなる!?

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5月19日(日)ひる12:00~12:54 
☆日曜のお昼は関口宏と未来について考える!世界が抱える〝今〟の問題と日本の〝未来〟を紐解いていく。

#5「少子化」
2023年の日本の出生率は1.20。

出生率過去最低を記録し、少子化が止まらないニッポン。政府は2030年までが、少子化反転へのラストチャンスと位置づけているのだが…。
少子化は、日本だけでなくアジア全体で深刻な問題に。韓国でも出生率0.72と、過去最低を更新。世界が少子化に陥る理由とは?

番組では、出生率1.88をほこる、熊本県のとある街を取材!少子化打開策は、”東京一極集中”を解消すること?
少子化問題の「この先」を考えるー
【出演】関口宏、川口盛之助(未来予測研究家)
【ゲスト】森永康平(経済アナリスト)

開演!時代を彩る名曲七番勝負

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5月19日(日)よる9時~10時54分 
☆デビュー15年までの若手演歌歌手が集結!2チームにわかれて7曲の歌勝負!

◆キャスト
司会:武井壮、市川美織

進行:宇内梨沙(TBSアナウンサー)
出演:松阪ゆうき、パク・ジュニョン、羽山みずき、彩青、望月琉叶、竹野留里、木村徹二、藤井香愛、松尾雄史、三丘翔太、二見颯一、原田波人、小山雄大、田中あいみ

歌手歴15年以内の若手演歌歌手が、2チームに別れて対決!各チーム7曲を交互に披露して勝者を決める。審査をするのは、10代・20代の男女20名。勝負毎に「もう一度聞きたい!!」と思った方に1票を投じる。勝利チームは、新曲の1コーラスメドレーを披露することができる。
各勝負にはテーマが存在。『1970年代に発売された曲』、『1980年代に発売された曲』、『デュエット曲』、『1990年代に発売された曲』、『2000年以降に発売された曲』、『3人以上で歌う曲』など、選曲も重要となる。

カンニング竹山の昼酒は人生の味。

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5月21日(火)よる11時~11時30分
☆飲み仲間を探しに街へと繰り出す昼呑み番組。青空の下で、一緒に泣いたり笑ったり怒ったりルール無用の人情トークを展開!

◆キャスト
【出演】カンニング竹山

記念すべき第1回は上野にある新鶯亭から始まる。
スタッフが店内に入ると、竹山さんが団子とおでんをつまみにビールで一杯やっていた。
「色んな出会いを求めていきながら美味い酒を呑む」と語る竹山さん。
さっそく呑み仲間を探すべく、動物園や美術館などの観光スポットで賑わう上野の街へと繰り出す。
そこで出会った夜勤明けのサラリーマンや青森の親子とお酒を飲みながら仕事での悩みから人生についてまでを語り尽くす!


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海の見る夢 №76 [雑木林の四季]

       海の見る夢
            -1995年。夏―
                     澁澤京子

 夕食が済んだある夏の晩のことだった。何かお菓子を買いに行こうと妹が言い出し、私たちは山のふもとのコンビニまで車で出かけることになった。その夏、妹と小さい息子二人と八ヶ岳にいたのである。私たちがコンビニで買い物をしていると、女性と子供たちの団体が入ってきた、子供たちも女性も着の身着のままといった感じの異様な風体で、たくさんの飲み物や食べ物を買うのに、すべて小銭で支払っているので会計にとても時間がかかっている、小銭を積み上げて支払いをしている女性は、自然食にこだわる女性にいそうな、長い髪を束ねたほっそりした女性だった。ちょうど上九一色村のオウムの施設に一斉捜査が入っていて、テレビをつければオウム事件の報道ばかりで、江川紹子さんや有田芳生さん、弁護士の滝本さんなどレギュラーが連日テレビ出演していた頃のこと。八ヶ岳から上九一色村は車で行けばそれほど遠くない、あの晩、コンビニで買い物をしていたあの人たちは、もしかしたら施設から逃げた女性と子供たちだったのかもしれない。

最近、森達也さんのドキュメンタリー映画『A』『A2』を観て、オウム真理教の問題は、別に宗教だけの問題じゃないということにやっと気が付いた。

事件後からオウム信者に密着して撮影されたこの映画を見て最初に気が付くのは、元オウム信者よりもむしろ、元オウム信者を近隣から追放しようとする一般市民のほうが暴力的に見えるということ。連日のオウム報道を見て教団に恐怖心を抱くのはよくわかるし、オウム側にあまり反省の色が見られないのは何よりも問題だと思う。しかし、元オウム信者に対する恐怖心も度を越せば、つまり理性を欠いた警戒心というのは、実は誰よりもオウム教団が持っていたものではないだろうか。オウム事件について書かれた森達也さんの本を読むと、麻原の側近であった村井(事件直後、刺殺された)が、米軍の飛行機が自分たちを偵察しているなど被害妄想の発言が多かったこと、また死刑になった井上実行犯がフリーメイソン陰謀論にはまるような陰謀論者であったこと、麻原自身がノストラダムスの大予言にはまり、ハルマゲドンや終末思想、「光と闇の戦い」(自身は光の戦士)を信じていたこと、麻原は自分と似た者同士の側近たちの情報を日常的に真に受けていた。麻原と側近たちとの相依存の関係の中で、集団妄想は定着し事件に至ったということなのだろう。オウムの特徴は、何よりもリアリティ感覚の希薄さにある。

事件直後に撮影された『A』で目立つのは信者の「尊師が~こう言ったので」発言が多いことで、事件が発覚してもなお、この教団では尊師の意見が絶対であり信者はそれに従順であったことがわかる。また、信者の間で(魂の)ステージが高いとか低いとかの話題がよく出るが、麻原を頂点として支えていたのはこうしたヒエラルキーの構造なのだ。江川紹子さんの『オウム裁判傍聴記』によると、あるオウム幹部が一般信者を「ヒラ信者」と言ったことを聞き逃していない。当時のオウム幹部は、特にそうしたエリート意識がひときわ強かったのだろう。

『A』『A2』を通してみてわかるのは、浮世離れはしているが、元オウム信者たちの純粋さと感じの良さである。反対運動していた住民の中には、長い付き合いの中で個人的にオウム信者と仲良くなるものも結構いて、オウムが出版した本を借りて読んだりしているという微笑ましい光景も出てくる。つまり、基本的に善良であることにおいては、反対運動する市民もオウム信者もそれほど変わらない。

それでは、なぜそのような善良な人々の集団があのような事件を起こしてしまったのか?

オウム事件がカルト宗教の起こした特殊な事件とも一概にいえないのは、教団内部のヒエラルキー構造、上からの指令がない限り自分の意見を言えない(つまり自分がない)、トップである麻原に対する弟子たちの従順さと忖度、広報である上祐氏の饒舌、閉鎖性、秘密主義、排他性、仮想敵の設定、自衛のための武装、陰謀論の蔓延、同調圧力の強さ、都合の悪い事実の隠ぺい・・こう書いていると日本社会(特に故・安倍政権時代の)にもそのままあてはまるような現象ばかりではないだろうか。オウム真理教には○○省がいくつもあって、事件後のオウム幹部の対応が官僚的(機械的)だったのも、さながらミニ国家のようであったことも頷ける。一般信者には厳しい修行を課しておきながら、麻原と幹部たちは外食したり、カラオケに行ったりしていたというのも、裏金問題を起こしても平気で開き直る与党、そして日本社会のミニチュア版ではないか。

オウム真理教のついての本を読んでいると、しきりに出てくるのが「カルマ落とし」という言葉。たとえば、ユダヤ人はイエス・キリストを殺したためカルマ落としで離散することになったらしい。なんとなく小泉政権時代の「痛みを伴う改革」を連想する。「今はつらいが、カルマ落としなので我慢しよう」と言った感じか?しかし、こうした言葉は自身に向けば内省となるが、他者に向かうと暴力になる。そうした暴力が極端な形をとったものが「ポア」ではないだろうか。前述したように、オウムには完全なヒエラルキーが存在している、ステージの高い者が低い者に対して「カルマ落とし」「ポア」を行うのは「慈悲」であるというのがオウムの常識なのである。

麻原には、手かざしである程度、病気を治す能力があったと言われるし、あれだけの人数の弟子を集めるということはカリスマ性もそれなりの力もあったのだと思う。「修行すれば君にも超能力が付く!」がオウムの勧誘の謳い文句であり、麻原の終末思想と世界観、選民思想などの誇大妄想は、「未来少年コナン」*「宇宙戦艦ヤマト」などのアニメや、神智学による魂のヒエラルキーなどオカルトによって育まれたものであった。だから法廷で、弟子たちに次々と離反された麻原の精神が完全に壊れてしまったのも納得できる。彼の荒唐無稽な世界観と陰謀論を共に支えていたのは弟子たちだったからだ。オウムに最も欠けていたのは成熟した人格だったのではないだろうか。

江川紹子さんはその著書の中で「オウムは時代のカナリアだった」と書かれているが、本当にその通りで、政治家がどんなにウソをついても不祥事を起こしても、メディアも国民もかつてのオウム信者のようにおとなしく従順な人が多くなった。

藤原新也さんの本『黄泉の犬』で、熊本県八代市で生まれ育った麻原の弱視が、水俣病認定を申請したにもかかわらず却下されていたことを初めて知った。(最近は水俣病被害者に対しても匿名の嫌がらせメールが届くというのには驚く)また、子供の時に全寮制の盲学校に自分を入れた両親を麻原が恨んでいたとか、なぜオウムがあのような反社会的な犯行を起こしてしまったのか、様々な角度の視点から憶測が流れているが、どれもがこれが決定的な原因とは言い切れない。また、決して麻原だけに問題があるわけではなく、麻原を教祖に持ち上げてしまった取り巻きの弟子たちにも問題があると思う。麻原はお気に入りの弟子たちにとっては優しい父親であり母親でもあり、その反面、教団を守るために自分に対する批判者や離反者は平気でポアできる独裁者でもあった。強いて言うとオウム事件というのは、外側からの情報に乏しい閉鎖的なヒエラルキー集団が暴走してしまった事件であり、それは条件さえ整えば、どんな集団でも組織でも、あるいは国家であっても十分に起こりうるということじゃないだろうか?人の孤立化が進めば進むほど、集団に埋没したがる欲望はより大きくなっていくだろう、そこでなおざりにされてしまうのは、個人の生なのである。個人というものが深く掘り下げされない限り、人と人との真の絆は決して生まれないのではないだろうか?

昔、恵比寿の駅前で選挙演説をしている麻原を見かけたことがある。麻原は、テレビで見るよりもずっと小柄で、象の帽子をかぶったオウムシスターズに取り囲まれ、『ショーコ―、ショーコ―、ア・サ・ハ・ラ・ショーコ―』と歌っていた。その歌がしつこいCMソングのようにしばらく耳にこびり付いてなかなか離れなかったが、今ではどんな曲だったのかは全く思い出せない。


   参考文献
『オウム真理教裁判傍聴記』江川紹子 
『終末と救済の幻想』ロバート・リフトン(オウム真理教と太平洋戦争での皇軍との比較が興味深い)
『A3』森達也
『黄泉の犬』藤原新也
『オウム事件17年目の告白』上祐史浩
『現代オカルトの根源』大田俊寛
『慟哭』佐木隆三

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住宅団地 記憶と再生 №35 [雑木林の四季]

21・補記 ライネフェルデの団地 Leinefelde Sudstadt (37327 Leinefelde-Worbis,Thuringen) 1

     国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 わたしが訪ねた第2次大戦後建設の団地はベルリンとデッサウだけだが、ドイツの団地再生のモデルとしてわが国でもよく知られているのは、ライネフェルデの団地である。その記録と成果は、ヴオルフガング・キール『ライネフェルデの奇跡』にまとめられ、本書はライネフェルデ=ヴオルビス市の認定を得ている。訳書の宣伝コピーには、「老朽化団地の問題に悩む人々には、ライネフェルデの視察を薦める。減築や撤去ばかりが有効だったわけではない。ライネフェルデは“成長なき時代のまちづくり”のポジティブ・メッセージ」とある。表題もしめすように、奇跡の成功例なのだろう。
 これまで書いたわたしの見聞は、ドイツの団地再生事業を伝えるにはごく限られており、理解を広げるため『ライネフェルデの奇跡』から一部を紹介して補うことにする。
 ライネフェルデはテユーリンゲン州の北西部、北にハルツの山並み、西に大学町ゲッティンゲン、ドイツのど真ん中に位置する。とはいえ大戦が終わり東西に分裂して東ドイツの西の端になった。交通の要路にはあるが、中小企業が立地する人口2,500人の田舎町だった,。1961年にヨーロッパ最大の紡繚工場が建設され、64年に操業した。60年代末に 6,000人、86年には16、500人へと人口はふくれあがり、さらなる人口増が見込まれていた。,しかし1990年10月、ドイツが統一して暗転、紡績コンビナートは閉鎖、短期間に4,000人がこの地を去った。近くのカリ鉱山も閉山され アイヒスフェルト郡で4分の3の職場を失った。
 この時期のライネフェルデの特徴を2つあげると、ニュータウン(団地)の斬人口14,000人の平均年齢は25歳と若く、旧市街の2、500人と対照をなし、パネル工法の団地が市域の住宅の90%を占める点である。1990年代半ばにかけて団地は荒廃し、バンダリズムが横行、「パネル住宅はゲットー」とまでいわれた。94年の市による転出者調査によると、新しい職場へは5.3%、14・7%が高家賃、11%持ち家希望、26%、4人に1人が同地の不健全な社会環境からの脱出をのぞんでいた。10%が空き家になった。
 再出発を期してライネフェルデ市の取り組みは、他の自治体にさきがけ早かった。当初の私有化の試みは早々に失敗し、その教訓が再出発の土台となった。住宅ストックのほとんどはライネフェルデ住宅公社Wohnungusbau-und Verwaltungs GmBh Leinefelde=WVLと住宅組合Lelinefelder Wohnungsbaugenos~senschaft  c.G.=LWGの所有、ほぼ市の管理下にあった。1990年の東ドイツ初の自由選挙で選ばれたゲルト・ラインバルト市長は「われわれ自治体の責任において、どんな結果も引き受け、その状況を打開していく」と決意をのべた。92年には旧東ドイツ各州と連邦政府による大規模団地再生プログラムが施行された。市と議会、設計者との調整は迅速にすすみ、93年には総合戦略プラン(マスタープラン)の作成をダルムシュタットのヘルマン・シュトレ-プ率いる都市計画グループGRASに委託した。93年に作成されたマス々-プランは明確に、ドイツではその後も「都市の縮退」がタフ一視されていたなかで、大規模な撤去、滅築を打ちたした。
 しかし住民感情が過激な改造ブランをうけいれるか。実施にあたっては「シグナル効果」のあるプロジェクトから若手した。手始めにボニフアティウス広場を改修して周辺の雰囲気を一変させた。第2段階は、ちょうど1995年秋、2000年開催のハノーバー万博では「場外会場」が設置されるとの情報を入手、ハノーバーを流れるライネ川の源流はここ、万博へのの場外参加である。参加を決めることで、動かせないタイムリミットと国際的舞台のスポットライトという試練を自らに課し、プロジェクト実施に弾みをつけ、同時に世界の注目と評価をうけることで住民意識の転換の効果をねらった。
 ライネフェルデの都市開発は、1996年におこなった国際コンペによって新局面を開いた。48社の設計事務所が、旧東ドイツのどこにでもあるパネル工法住宅への提案を競い合った。提案はフィジカー(物理学者)街区とディフィター(詩人)街区の建物を対象とする撤去と減築による解決法だった。残る建物についても住戸平面の多様化、設備やエネルギーの改良とともに、街区の形状変更、地上階に店舗やサービス施設の設置なと、住戸ブランから都市計画まで幅広い課題にわたっていた。審査の結果、2事務所が選ばれ、デザインコンセプトが大きく異なる提案の実施に取り組むことiこなった。コンペの結果だから尊重し即刻実施に移すが、審査会では、建物を撤去、減築した後のこの街がそもそも「都市」といえるのか、住宅が散在するだけの集合住宅地になってしまうのかについてのコンセンサスさえ得られないままだった。115ペーシ上図は1994年フイジカー街区の航空写真で、撤去と減築の対象住棟を表示している。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂


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地球千鳥足Ⅱ №47 [雑木林の四季]

中欧の秘宝リヴィウの石畳みに映える美男美女
   ~ウクライナ②~

       小川地球村塾塾長  小川彩子

 ウクライナは美男美女の国、外観はもちろんのこと、内面から輝いているし怪しさとプライドで。
 ロシアとヨーロッパの挟間、ウクラィナでは、ウクライナ人としての誇りからロシア語を使わないという人々に会ったが、特にリウィウではロシア語を聞くことはなかった。キエフからリヴィウに飛んだがリウィウはなんと良い街であろう。ここでもホテル従業員その他誰もかも親切で笑顔がチャーミングな美男美女ばかり、流行りの言葉ではブッチギりだ。
 13世紀にルーシーの一公国として発展し、その後ポーランドやハプスブルグ帝国の支配を受けたリヴィウはなんとも懐かし味のある古都、中欧の秘宝とも表現したい街で旧市街まるごとが世界遺産だ。ある土曜日、新婚さんが写真家の注文に応じてユニ一-クなボーズをとっていた。教会の前、石畳の露地、城壁の前と、街中に写真家を引き連れた新婚さんが溢れていたが、毎週土曜目に見られる光景だそうだ。ポーズの最中私に「こんにちは!」と挨拶をしてくれた。この街では旅行中アジア人には出会わなかったがとても親日的だ。
1735年別業以来ここで売っているという、万病に効く鉄ワインを買った。私は9月末から10日間、ウクライナを旅したが、出発直前に皆から「右腎臓で”第三細胞”活動中!(腎う癌発見!)」という警告を受けた。ひるまず出かけたが、旅の間中気のせいか背中が痛んだ。だがこの鉄ワインを飲んだら痛みが消え、気分良く旅ができた。1瓶10グリヴナ、100円ほどだ。18世紀の街並みにどっぷり浸れる石畳の街、リウイウに出かけて是非一度お試しあれ。
 リヴィウでは、夫が下痢で1日半寝た。夫に消化の良い食料を買ってホテルに帰る時、スヴアポーディ大通りのシェフチェンコ像の真上に満月が、オペラ座も浮かび上がらせて。中欧の秘宝、リヴィウという古い街で、難病の疑いを秘めた女が、病気の夫への買い物抱えて見た月! 二度とは来ることのないだろう街で見上げた満月の、煌々と冴えわたる孤高の美しア、忘れない。         (旅の期間:2012年 彩子)

『地球千鳥足』 幻冬舎


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山猫軒ものがたり №39 [雑木林の四季]

タヌキの赤ちゃん

             南 千代
 
「いいモン持ってきたよ。これ、何だか当ててみな」
 吉山さんがやってきた。手にダンボール箱を持っている。不安な予感。私はおそるおそる、箱を開いてみた。中には、十センチほどの小さな黒い塊が。動物だ。
「何ですが、これlU クマの仔、じゃないよね」
「タヌキの仔だ」
 山で木を倒し、根返しをしたら根元が巣になっていたらしく、タヌキが飛び出したと言う。
「そいてもってよく見たらよ、仔がいたんだ」
「親は連れて逃げなかったの?」
「いや、一匹はくわえて行ったみたいだな。しばらくあたりをウロウロしてこっち見てたけど、あきらめて、どっか行っちまった」
 そのまま、そっとおいておけば親が連れに来たかもしれないのに。地元の人は、そういう動物を見つけると、そっとしておくということを、あまりしない。
 吉山さんではなかったが、野ウサギの仔を、草刈りしてて見つけたから飼え、と言って持っ来られたこともあった。それも親切に、立派なウサギ小屋まで造って一緒に持って来られると、断るのはなかなか難しい。いったんもらっておいて、二、三日したら山に放した。持ってきてくれた人には悪いけれど、逃げてしまったとウソをついた。
 野生のウサギは、ペット用に改良されたウサギとは違って、人間が見ている昼間は絶対に草を食べない。見ているからではなく、夜行性をのかもしれない。いずれにしても、野生の動物は自然の中にいるのが一番良い、と私は思う。
 それにウサギは山猫軒でも飼っていたが、死んだのをきっかけに、ウサギは飼わないことにしていた。犬や描みたいに人とコミユニケーションが図れなかった。かといって毛皮を出荷することもなく 食用でもないので、家畜ではない。
 ウサギはケージの中でエサを食べ続けるだけ、人間はエサをやり続けるだけ、の関係は、飼い続けていると辛いものがある。飼う方も、飼われる方も、そこに何らかの相互関係がないと、ただウサギを閉じ込めているだけ、という不毛な気がして罪悪感がある。
 ダンボール精の中のタヌキは、目が開いたばかりらしく、開いてはいるもののまだ見えてはいないようだ。片手のひらに、すっぽりおさまるほど小さい。
「どうだ、かわいいだろ。飼ってみな」
「そりゃかわいいけどねえ。どうやって飼うのよ」
「ヤギの乳かなんか飲ませれば、育たねえかな」
 いくら野生動物は自然の中にいた方が、と言ってもこのまま放り出せば死んでしまうのは目に見えている。飼つて、大きくなったら山に帰そう。でも、うまく、育てることができるだろうか。
 箱に入れたまま、半日ほど様子をみていたが、ふと気づいた。ウンチもオシッコもしない。腹をさすっても出ないタヌキの仔はどうやって排せつするのだろうか。えーと、赤ちゃん、赤ちゃん……。犬の華が赤ちゃんを育てている時は……。そうだ、なめてやっている。刺激を与えてみよう。
 ティッシュを湿らせ、おしリを刺激してみた。出た。ウンチもオシッコも、まだ自分ではできないんた。あーあ。大変な仔を引き受けてしまったなあ。
 次はミルク。スポイトでヤギの乳を口元に与えてみる。何度試しても飲もうとしない。
哺乳瓶がいいのだろうか。きっそく買ってきたが、人間用で乳首が大きいのかこれもダメ。棒物用の噛乳瓶があるだろうか。きっとあるに違いない。でも、この町にはぺットショップなどない。夫が車を走らせ、犬猫用の哺乳瓶を捜し求めてきてくれた。
 飲んだ、成功。やれやれ。しかし、問題はまだあった。ミルクもオシッコもマメに面倒を見なければならない。私も夫もでかけて不在の時がある。誰がクヌちゃんの世話を、どうやってするか。
 私は思いがけず話か大きくなってしまった家造りの建築資金を作るために、コピーの仕事を積極的に受けつつあり、都心に出かける頻度が高くなってきていた。
 夫は実際に家を造る仕事にかかりきりである。結局、二人とも不在のときは夫にミルクを持たせ、車にタヌキを乗せて出てもらうことにした。早く大きくなって、木の葉を一万円札に変えてくれるといいのだけれど。
 一週間はどすると、タヌちゃんはゴソゴソと這い出した。何しろ、ネズミぐらいの大きさしかない。土問で育てているが、ちょっと目をはなすと油断ができない。姿が見えないので捜していると、薪ストーブのそばで眠りこんでしまったのが、勲すぎてグッタりとなり、ひっくりかえってしまっていたこともあった。
 そのうちタヌちゃんは、同じく土間に一緒にいるガルシィアの、長い毛にもぐりこんで眠るようになった。時おり、寝返りを打ったガルシィアの大きな体の下敷きになってしまい、キィーッと叫び声を上げている。

『山猫軒ものがたり』 春秋社


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BS-TBS番組情報 №304 [雑木林の四季]

BS-TBS 2024年5月前半のおすすめ番組

       BS-TBSマーケティングPR部

関口宏のこの先どうなる!?

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5月5日(日)ひる12:00~12:54 
☆日曜のお昼は関口宏と未来について考える!世界が抱える〝今〟の問題と日本の〝未来〟を紐解いていく。

<司会> 関口宏  
<オブザーバー> 川口盛之助

#3「人類の食料危機」
いま世界では異常気象や紛争により、“史上最大の食料危機”がおきている。
日本国内では高齢化に伴い農家と漁師の数が減り、食料自給率の低下がとまらない。このままでは主食がイモの時代に逆もどり!? 
世界では人口増加に伴い肉が不足し、2030年には深刻なタンパク質不足代に…。
さらに異常気象でコーヒーの生産地が激減、2050年には1杯1000円の時代になる可能性も!
私達にとって身近な「食」の問題、その解決策は…?人類の食料危機の「この先」を考えるー
【ゲスト】齊藤三希子(PwCコンサルティング合同会社)

ラーメンを食べる。

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5月7日(火)よる11時~11時30分 
☆仕込みから閉店まで…ラーメン店に密着。最後はラーメンを愛する芸能人が珠玉の一杯を食す!

#9「Ramen FeeL(青梅)」
神奈川・湯河原の名店「らぁ麺 飯田商店」が唯一公認した独立店「Ramen FeeL」に密着。情熱を持ちストイックにラーメン作りに取り組む店主。その店主が素材にトコトンこだわって生み出す究極の一杯を俳優の森愁斗が食べる。森は、1日3回ラーメンを食べることもあるという筋金入りのラーメン好き。また、ラーメン店勤務の経験もある森が思わず唸った一杯とは?

X年後の関係者たち あのムーブメントの舞台裏

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5月13日(月)よる11時~11時54分
☆大ヒット企画の“関係者同窓会”を開催!なぜブームになったのか?ヒットとなる過程には何が?その舞台裏に迫る!
#65「駄菓子業界の3M」
遡ること65年。戦後間もない時代に、日本では駄菓子メーカーが次々と誕生。

その中で低価格で勝負し、空前の大ヒット商品を生み出したのが「チロルチョコ」の松尾製菓、「ベビーラーメン」の松田産業、「マーブルガム」の丸川製菓。この3社は社名の頭文字が“ま行”で始まることから「駄菓子業界の3M」と呼ばれ、今も昔も変わらぬ「味」と「値段」で子ども達を夢中にさせ、ヒット商品を世に送り出しています。
今回は各社の看板商品の誕生秘話から独創的過ぎて受け入れられなかった失敗作まで、数々の開発現場の苦悩を告白!さらには、駄菓子大好きな丸山桂里奈が選抜した「究極の駄菓子イレブン」を発表。

駄菓子業界を牽引してきた関係者たちが、その知られざる秘密を語り尽くします。

MC:カズレーザー(メイプル超合金)
<立会人>丸山桂里奈(元サッカー日本女子代表)
<関係者>
松尾裕二(チロルチョコ株式会社 代表取締役社長)
中村元洋(株式会社おやつカンパニー 常務執行役員 営業本部長)
田中依子(丸川製菓株式会社 代表取締役)


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海の見る夢 №76 [雑木林の四季]

    海の見る夢
        -鳥のカタログ―
                澁澤京子

  ・・光は裂け目から射し込んでくる
                  『Anthem』レナード・コーエン

左の股関節を悪くして不自由している。足が悪くなると、うちからバス停までの距離を、うちから吉祥寺駅くらいの距離に感じ、吉祥寺駅まで行くのに、新宿に行くくらい遠くに感じるようになった。歩く速度が遅くなることによって距離感覚が変わったのだ。のろのろと歩いていると青信号の時間が短いことに気が付くし、手押し車を押して歩いているお年寄りの気持ちがよくわかるようになってきた。

桜の時期に、うちの近所の桜を立ち止まってぼんやり見ていたら(足が痛かったので立ち止まっていた)、桜の花がいきなり大きくなって目の中に飛び込んでくるように見えたので驚いた。毎年、桜の花を見ているが、こんな見え方をしたのははじめて。たまたまその時の私の波長が桜にピッタリと合ったのかもしれない。健脚だと、もっといい桜を、いい場所に行こうと考えておそらく通り過ぎてしまうところを、痛くて歩けなくなったために、普段では見えなかった桜の声が見えたのだ。

自然と会話ができるというと連想するのは、小鳥に説教したという聖フランチェスコの逸話。昔は、小鳥に説教したというのは作り話だろうと思っていたが、鳥を飼い始めてから実際にそういう事はあったのだろうと思うようになってきた。去年オカメインコを探しているときに気が付いたのだが、野鳥というのはこちらが口笛を吹いたり話しかけると、必ず返事をするのである・・返事されるとその度にうちのオカメインコかと思い、何度も樹上を見上げて探すはめになったが。

シジュウカラの言語の研究をされている鈴木俊貴さんによると、シジュウカラは20余りの単語を使い分け出来るそうで、危険な生物である蛇やカラスの場合はそれぞれを指し示す単語を持ち、また同じ単語でもアクセントの違いで別の意味として聞き分けることができるのだそうだ。鳥が意味ある言語を持っているという考え方は、鳥を飼っている人にとっては「ああ、やっぱり」となるだろう。シジュウカラの言葉の聞き分けができるということは、鈴木さんはシジュウカラとある程度のコミュニケーションがとれると言う事で、実にうらやましい。今うちにいるウロコインコ(9か月)は、朝、歯を磨いていると、洗面台にとまってしきりにこちらに話しかけてくることがあるが、哀しいかな何を言っているのかよくわからない・・しかも時折、急に攻撃的になるのは、鳥というのは犬や猫と同じように人の気分を察知する能力も優れているのでイライラするのかもしれない。もちろん、鳥は人とは別の世界に住んでいる、しかし両者を結ぶ「通路」は確実に存在する。 

 ―小鳥は言葉を使わずに音楽で 天使のように囀ります
        ~『アッシジの聖フランチェスコ』オリヴィエ・メシアン

人の音楽の好みというのが一体何によって決定されるのかよくわからないが、音楽ではまず、恋愛のような一目?ぼれ現象が起こり、明けても暮れても恋の相手を想うように、同じ曲を何度も繰り返して聴いたり、同じ作曲家や演奏家の曲を続けて聴くことになる。「これだ!」という感じでまるで天啓のように脳天を直撃するのが音楽なのである。

鳥に恋して世界中の鳥の鳴き声を採譜し、鳥類学者のように鳥の生態も研究していた作曲家オリヴィエ・メシアン。メシアンはその鋭い聴覚で500種類以上の鳥の声を聴き分けることができ、シジュウカラの研究をしている鈴木さんと同じように、鳥が意味ある言語でお互いに会話していることをよくわかっていたのである。博物学者であったハドソンは逆に、鳥類観察者は一流の音楽家になれるくらいの鋭敏な聴覚で鳥の鳴き声を聴き分けると書いている。

メシアンは『鳥のカタログ』など鳥の鳴き声をベースにして何曲か作曲しているが、同時に敬虔なカトリック教徒でもあったのでオペラ『アッシジの聖フランチェスコ』を作曲した。そこで聴いてみたが、とにかく難解だし長い・・長時間に及ぶこのオペラを全曲聴くのはかなりの忍耐力を要する。しかもyou tube画面には楽譜しか出てこないし。(字幕は出てくるが)。オペラの後半になってくると、聖フランチェスコの口を借りて自分の鳥に対する熱い思いを打ち明けているんじゃないかと思うほど、鳥に対する賛美が続き、メシアンにとって、地球上で最も優れた音楽家であり、また最も洗練された美しい生物は鳥だったのだ。

ところで、オペラ『アッシジの聖フランチェスコ』を聴いて忍耐力を付けた後にメシアンの『おお聖なる饗宴よ』(O Sacrum Convivium)を聴いてみたら、思わず鳥肌がたったのであった。こんなに神秘的で荘厳な聖歌ってあるだろうか?・・私にとっては桜が親しく目に飛び込んで見えたのも、この曲を聴いて感動したのも足が悪くなったおかげで、普段だったらメシアンをここまでじっくりと集中して聴かなかっただろうし、その魅力もわからなかっただろう。メシアンの音楽は一人でいる時にしんみりと聴くのにいい。メシアンのほうがラヴェルのピアノ曲より瞑想的であり、俗世間の汚れを洗い流してくれるような浄化作用を持っているが。

 -音楽は真理に欠けている私たちを神に導きます。
                       ~メシアン

メシアンの『鳥のカタログ』を聴いていると、鳥の群れの動き・・まったく予測不可能でいながら全体では統制の取れている、活き活きした鳥の群舞を連想する。そしてそれは流れる雲の動きと同じで、二度と同じ瞬間がやってこないことも思い起こさせるし、鳥の囀りの持つ自然の調和が、私たち人間が持っている調和のイメージとも違う事にも気が付く。

毎朝、起きると紅茶を飲むためにヤカンを火にかける、そうするとうちのウロコインコは私の肩にとまってお湯が沸く前に「ピーッ」とお湯の沸いたヤカンの音を再現してみせる、紅茶にお湯を注ぐ前に「ジュウッ」と注ぐ音を再現する。鳥の音に対する記憶力と予測能力は素晴らしく、それゆえ「ゴアン」(ごはん)、「ルーちゃん」(寂しい時、ケージから出してほしい時)など様々な鳴き声で人に訴えるのである。窓の外でムクドリやヒヨドリの群れが騒いでいると、しきりに「ルーちゃん」と連呼して自分の存在を懸命にアピールしているのが愛らしいのと同時に、決して野生には戻れないことを考えると可哀そうでもあるが。

鳥を飼っている方なら、鳥がどんなにか賢く、また素早いテンポで生きていて、時折予測不能な動きをするのかをご存じだろう。ストラヴィンスキーの「火の鳥」や「ペトリューシ-カ」のテンポの速さはかなり鳥のテンポに近いが、メシアンの『鳥のカタログ』には間というか余白があって、余白があるために鳥の囀る風景全体も、聴いている人に想像できるようになっている。

メーテルリンクの『青い鳥』では、チルチルとミチルが大喜びで夜空を飛ぶ青い鳥の群れを追いかけて、捕まえたとたんに死んで黒くなってしまうというシーンがある。また、聖フランチェスコの逸話で、兄弟レオが「真の歓びは何ですか?」とフランチェスコに尋ねる。すると、すべての人を回心させても、奇跡を起こしたとしてもそこに真の歓びはない、と聖フランチェスコは答える。人が窮乏した、最もみじめな状態に置かれたときに、初めて真の歓びがわかるだろう、と言うのだ。真の幸福は自己満足の状態にあるものではなく、むしろその反対の欠乏した状況で初めて見えるということ、つまり真の幸福は、自分の意志によって獲得されるのではなく、神の恩寵のみにあるということだろう。

愛というのは、完全なものが不完全な人間に与えるようなものではなく、むしろ両者が対等であるときにはじめて成立するのかもしれない。メシアンがその教室で多くの優れた弟子(クセナキス、ピエール・ブーレーズ、シュトックハウゼンなど多数)を育てることができたのも、彼があくまで生徒と対等な立場をとれる「愛の人」だったからであり、メシアンは自分の追随者を嫌った。(鳥の社会には上下関係がないように)

メシアンは鳥の研究を通して、神(自然)の秩序に限りなく接近しようとした。(敬虔なカトリック教徒であったメシアンにとって「偶然」は存在しない)幼い時、教会のステンドグラスの色彩に音を感じるという共感覚の持主だったメシアン。メシアンはやはり、天上の音楽(調和)を信じたピタゴラスの末裔の一人だったのだと思う。


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住宅団地 記憶と再生 №34 [雑木林の四季]

20.デツサウのツオーバーベルク団地Siedlung Zoberberg (06847 Dessau-Roβlau〕 1

       国立市富士見台団地自治会長 多和田栄治

 2019年はバウハウス設立100周年にあたり、デッサウに「バウハウス美術館デッサウ」が9月9日に開館した。9月初めにベルリンに行くので、デッサウまで足をのばし、新美術館を見学し、近郊のツオーバーベルク田地を訪ねる予定をしていた。開館日の混雑をさけて翌10日に出かけた。ベルリンからマルティン・ルターの町ヴイツテンベルクで乗りかえデッサウまでは約1時間である。
 デッサウは旧東ドイツ、いまはデッサウ・ロシュラウ市、人口8万人をこえザクセン・アンハルト州第3の郡市である。エルベ川とムルデ川の合流点に近く、ベルリンとライブツイヒの中間地点にあたる。デッサウは中世から開け、18世紀の啓蒙君主の治世、「ヴェルリッツ庭園王国」Gartenreich Dessau Worlitzの造営など由緒ある歴史をもっている。20世紀にはいってはユンカース、航空機とエンジン、ガス工業の軋工業が栄えて町は発展し、
1925年にバウハウス造形学校がヴァイてルから移ってくる.。しかしバウハウスは、1931年にナチス党員がデッサウ市長につくと32年に閉鎖された。ナチス政権の戦略的要衝であったデッサウは、第2次大戦で空爆の標的となり、破壊しつくされた。
 戦後、工業の復興は多くの労勧者を必要とし、人口増に対応して住宅建設は最優先の課題となった。1980年代から低コストのプレハプ工法によって、伝統的な建築様式などはかえりみず高層の団地建設がすすめられた。
l80年代末まで工業も人口も上向き値向にあったが、ドイツ統一後は反転、工業は衰退、町の主要企業は倒産、転出がつづき、大量の雇用を失った。雇用の喪失は人口減少をうながし、空き家を生みだしたばかりか、地域コミュニティを崩壊させる,。都市の「縮小」と「再生」という困難な課題に向きあわざるをえずザクセン・アンハルト州は、10ページに書いた1BAエムシャーパークと同様に、2002年にlBAザクセン・アンハルト事業をはじめることを決め、州開発公社とバウハウス・デッサウ協会が協衝した。都市縮小・改造計画の検討と提案がつづけられた。デッサウ・ロシュラウ市の具体的な縮小政策は「東の都市改造」プロジェクトを中心こ展開された。その象徴ともいえるヅオーバーベルク団地の一部撤去は2013年に指定された。
 片やバウハウス美術館デッサウの新設は、市にとっては画期的な「都市再生」のモニュメントといえよう。
 そんな経緯は、デッサウ駅に降り立って感じたわたしの第一印象にはすくには結びついてこない。壮大なアンハルト劇場を右に見てアントアネット通りをすすみ、木立ちにかこまれた市立公園に接して建つ完成したばかりの新美術館に着くまでの短い間、整然とした美しい街並みに目をみはるばかりである。,わたしにとっては文献上の記憶でしかないが、しかしここ15年間の郡市改造の進展に思いをいたすとき、感銘はずっと重いものとなる。
 新美術館は外面すべてガラスのカーテンにおおわれて何の装飾の類もなく、まわりの公園、市街の全景を映し出しているだけである。心おどらせ入ったが、チケットは人手できなかった。入館は1時間に150人のみ、本臼分は売り切れとのことであった。残念、、またいつの日かを期して、つぎの予定、近郊のツオーバーへルク団地にむかった。トラムでユンカース・パーク行き、デッサウ駅から約15分である。l断っておくが、わたしがツオーバーベルク団地に関心をもったのは、もっぱら服部圭郎「ツオーベーベルク団地(デッサウ)の撤去事業の関する研究」(『明治学院大学産業経済研究所年報』第33号/2016年)に〉負っている。以下に書くのも、筆者の許しを得ないで借用し紹介しながら、わたしの見聞をくわえたものである。
 市は2013年に「東の都市改造」プロジェクトの対象地区を数か所指定し、地区ごとの戦略(マスタープラン)を策定した。そのコンセプトは、、A維持優先、B維持、C更新優先、D更新、E経過観察、F安定地区に分類される。A:安定的にこ維持することが重要、さらに改修、近代化すべき地区、H:安定化を図るべき地区、C:撤去を優先させ、跡地はランドスケープ・ゾーンを形成する地区、D:修繕、再開発などをしたが問題は解決されず、将来的に撤去の検討もする地区、E・F:制作的干渉も対策もしない地区である。ツオーバーべ凡クはC地区に指定された。
 このプロジェクトは、さきに書いたとおり、2012年から16年までの時限的な施策でその後とうなっているか調べていないが、空き家率の高い戦後建設団地の撤去にあたっては費用の半分を連邦政府が、軍律半分を州政府が負担する施策メニューである。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂


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地球千鳥足Ⅱ №46 [雑木林の四季]

変動と新生のイエロ1・ストーン公園

      小川地球村塾村長  小川律昭

 日本人が富士山に心の郷愁を感ずるように、ロッキー山脈を中心に広がる天然モニュメントの数々は、アメリカ人のみならず世界各地から人を引きつける。その代表イエロー・ストーンは、海抜二〇〇〇メートルの山岳高原で天然魔可不思議の百貨店である。渓谷、特色ある滝、二十を越す三〇〇〇メートル級の山々、何千個の温泉、冬には一メートルの氷の張る湖など、知りうる限りの自然の形態がそこにはある。アメリカで最初に国立公園に指定されたこの公園の名の由来だが、露出した地層に苔が生え、それが黄色く見えたことからつけられた。熊、大鹿、狼等、多くの動物が生息し、車の目の前で見ることが出来る。

 十年前、西から入国してすぐショックを受けたのが山火事の跡の真っ黒焦げの樹林だった。一〇キロ走ってもまだ続いた。愕然となった心は、道のど真ん中に座るバイソンによって慰められ、そのうち風景が豊かな緑に変わった。十年後の二〇〇一年、再び訪れた時には焼け跡は縁の若木に変わっており、バイソンの群れは健在だった。朝霧に包まれた木々の問を陽光が貫き、谷川にシルエットを描く様は幻想的だった。

 一定間隔で空中高く吹き上げる間歓泉はツーリストの呼びもの。次の噴出の瞬間をこの目で見ようと待っている人たち、池や湖の底から湧き上がる温泉群が点在し、流出するお潟の流れ込む熱い川から意気が昇る。野原一帯でもあちこちに蛸壺のように大小の穴ぼこ温泉が群をなし、その湯気が閻辺を霞のように巻いている。洞窟の奥で竜の咆哮のごとく音が反響する温泉もある。湖のほとりで銀色になった枯れ木がたたずんでいる様は、抽象画の世界で、立ち去りがたい。温泉のミネラル分を吸い上げ百年朽ちず耐えているという。
 他の呼びものは重畳する石灰石のパレットだった。受け皿から受け皿へ湯が溢れ、流れ落ちていたが、ここも十年後の二〇〇一年には変わっており、お湯は滴れ果て、パレットは一部こわれて過去の栄光いずこに、であった。その上方では突出した岩のど真ん中から湧き出した温泉が、塵れたローソクのように石灰層を作っていて、ここが新コースになっていた。新たに湧いた温泉群や空中に惜しみなく真珠が吹き上げられるような豪華な間駄泉も出現し、以前にはなかった遊歩道も作られていた。

 この公園が与えてくれる感動は大自然の変動と新生。何百年もの間、火事と蘇生を繰り返し、動植物の生息体系を変えて行く。山火事による枯れ木群の根元には実生の幼木が息づき、育っている。今豊かな森林も数十年後にはどうなるか。温泉これしかり。
 大小のすり鉢状の穴が至る所に見られ、盛んにブクブク湧いているもの、湯が滴れ、悲しげに語りかける穴もある。森羅万象が活動と枯渇を繰り返しながら新しいものに形態を変え、再び出現するのだ。人間社会も同様でありたい。先達の遺産は必ずや形を変え、発展的に再生されて行くべきことを、この大自然公園で学んだ。変動と新生のイエロー・ストーンに来て生の息吹きに触れ、十年後も生きてここを訪れようと心に誓った。
                         (二〇〇一年十二月)

『万年青年のための予防医学』 文芸社 


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山猫軒ものがたり №38 [雑木林の四季]

小屋を建てる夢 2

            南 千代

 高橋さんも考えこんでしまった。和風なのか、洋風なのか、昔的なのか、現代的なのか、そのいずれのことばを使ってもピッタリ説明できない。私たちは、彼のアドバイスで、望む家のイメージを捜すために、さまざまな建物を見て回ることにした。
 高橋さんの知り合いや、私たちの友人から紹介を受けた個人住宅、狭山の東野高等学校、川崎の民家園、川島町の遠山記念館などなど。洋書や国内建築誌も開いた。小屋ひとつ造るのに、何もそこまでする必要はないのかもしれないが、多種多用な建築物を、造る、あるいは住むという目で見て回るのは、楽しく おもしろいことだった。
 民家園では「こんな家だったら今度は、馬も飼える」とうれしくなったり、遠山記念館では其のぜいたくなつくりに、優雅に暮らす自分を想像したり。雑誌を聞いては、英国のコテージ風にしたら花は何を植えようか、とプランしたり。
 イメージが次第にふくらみ始めた。高橋さんは、木造伝統⊥法を試してみることをすすめてくれた。真壁(柱が見える建築)で梁組を見せる日本の在来工法(基本構造の締結部に金具を使わず、木組だけで支える、昔の寺社や民家建築に見られる工法)である。この構造は、建物の大小を問わず、住まいの空間である本屋を造り、その上に小屋を組み屋根をかけ、床や壁などの造作をして一軒の建物とする。建物の主体である本屋と小屋は、一度組んだら何百年、時には一千年以上生き続ける、という。
 川崎の民家園の見学は、それを実際に確かめるためでもあった。民家園には、代表的なところでは、たとえば岐阜の白川郷の家のように、国内各地の古い民家が集められている。
 民家は、海辺の家は浜風で曲がってしまった松をそのまま梁に用いたり、川辺の家は杉皮の屋根の押さえに、川石をずらりと並べたり、屋内の土間が匠ほど広く、作業場を兼ねた家があったりと、それぞれの家が地域性や住む人の暮らしを語っていて、個性的である。
 日本の住まいには、同じ木でもログキャビンではなく 日本のその地域の気候風土が育てた家が、科学的にも景観的にもあうのではないだろうか、と思い始めた。
  昔ながらの伝統工法による建築物といえば、山猫軒もまさしくそうである。百十年前に、分家としての初代である恰五郎という人が造ったそうだ。専門とする大⊥に頼むところもあったかもしれないが、当時この地元においては、石垣の石組ですら自分でやれる所は自分で造ったそうである。思えは、今の時代だからこそ自給自足は、暮らし方のひとつの提案になりうるが、ひと苦前の農村部においては、あたり前の生活だったのかもしれない。
 陽あたりのよくない山猫軒から避難するために、模索した家造りの方法は結局、山猫軒に習うことになりそうだ。
 さまざまな家を見学して回る過程において、木の入手の相談をしながらっプランを酒の話題にしながら。私たちは、友人、知人、ムラの人、キコリたちなど、すでに多くの人を巻き込みつつぁった。集まった人たちと夜な夜な話を重ねる中で、家の顔が次第に見え始めた。
 「何百年も生き続ける家を造ろう。せっかくだから、ぼく、麻布のスタジオも今度造る家に移そうかな」
 夫が言い出した。数坪の小屋のつもりが、話がだんだん大きくなっていく。夫の目のレンズには、すでに伝統工丁法による家がしっかり映っているようだ。私はこれから長く生きても数十年、百年以上ももつ家など必要ないのではと思ったが、夫の目がキラキラと輝いているので、黙っていることにした。
 だが、そうなると、とても夫が自分だけで造ることはできない。結局、最初はアドバイスと協力を頼む予定だった高腑さんにも、全工程に関ってもらうことになったが、高橋さんとて家を建てるのは初めての経験。全く素人の    夫と共に、家を造ろうと、よく決意してくれたものだ。
 高橋さんだけではなかった。川合さん、井野さん、れい子さん、古山さん、小沢さん、みんなできることは協力するから、やろう、と言ってくれた。何ものにも代えがたい、仲間たちの大きな力を得て、私たちは家造りのスタートを切った。
 今日は大黒柱にする木を伐ってくる、今日は梁になる木を。夫は、造ると決めてからは、ほとんど毎日、弁当を持ってキコリと一緒に朝七時半には家を出るのだった。
 木の伐採地は、建てる現場予定地の裏山をはじめ、この近辺の山々が中心だ。犬の為朝も、お供に通う。為朝は、夫と一緒に軽トラックで出かけるのが大好きで、エンジンがかかると、自分で飛び乗ってしまう。田に畑に山に、為朝はいつも夫と一緒だ。
 高繚さんが家のカタ千を考えてくれている間に、夫は木を伐り集めた。伐った木は、製材に出し、高橋さんの工房そばに借りた作業所に運び、貯めておく。木を雨露にあてた後、ここで約半年乾燥させる予定である。

『山猫軒ものがたり』 春秋社


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BS-TBS番組情報 №303 [雑木林の四季]

BS-TBS 2024年4月後半のおすすめ番組

                         BS-TBSマーケティングPR部

関口宏のこの先どうなる!?

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4月21日(日)ひる12:00~12:54 
☆日曜のお昼は関口宏と未来について考える!世界が抱える〝今〟の問題と日本の〝未来〟を紐解いていく。

<司会> 関口宏  
<オブザーバー> 川口盛之助

英国の産業革命から約300年、インターネットの本格登場から約30年、「ChatGPT」の公開からわずか1年強・・・かつてない技術革新のスピードに戸惑い、その功罪に様々な心配を抱くのは、令和世代も昭和世代も同じであろう。この番組では「AI」「医療」「環境問題」「食の安全」など気になる話題すべてをテーマに、世界が抱える〝今〟の問題と、私たちの生活および日本の〝未来〟を紐解いていく。
司会はテレビ人生60年の関口宏。オブザーバーは未来予測研究家の川口盛之助(かわぐちもりのすけ)が務め、ゲストには令和の日本を担う若き専門家たちを迎える。

昭和生まれの関口宏が、各界の専門家の頭脳を拠り所に視聴者の漠然とした不安を解きほぐし 、明るい未来へ導くヒントを提示する〝未来予測番組〟。初回放送は4月20日、「生成 AI」をテーマにお届けする。

ラーメンを食べる

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4月23日(火)よる11時~11時30分 
☆仕込みから閉店まで…ラーメン店に密着。最後はラーメンを愛する芸能人が珠玉の一杯を食す!

#7「純手打ち 麺と未来(下北沢)」 
下北沢一番街商店街に2018年にオープンした「純手打ち 麺と未来」。看板メニューの「塩ラーメン」は、鶏の手羽肉、アサリ、昆布、カタクチイワシ、かつお節などの素材を凝縮させた出汁に、ミネラル豊富な塩だれをベースにしている。博多うどんにインスパイアされた極太ぶよぶよ麺や、プリプリの海老が入った雲吞も特徴的。
今回ラーメンを実食するのは、毎週火曜よる9時にBS-TBSで放送中のドラマ「御社の乱れ正します!」で主演を務める俳優・山崎紘菜。

こちら歴史ミステリー旅行社 幕末の京都 謎解きツアー

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4月27日(土)よる7時~8時54分
☆旅情感にあふれる新たな歴史謎解き旅番組第二弾!今回は幕末の京都!

歴史の謎解きツアーを企画する旅行会社HMTA(Historical Mystery Travel Agency)の企画部社員:要潤が、今回は「幕末の京都ツアー」を企画する。歴史アドバイザーの河合敦さんと共に幕末の京都の謎を解き明かしながら、旅情ある2泊3日のツアープランを作り上げるという歴史紀行番組。
京都で解き明かす、歴史ミステリーは3つ。混乱する京都の治安を守るべく結成された「新選組」は何を目指していたのか?15代将軍・徳川慶喜は、将軍になってわずか10か月でなぜ大政奉還したのか?そして、坂本龍馬はなぜ、誰に暗殺されたのか?
魅力あふれる京都の観光地をめぐり、激動の幕末の舞台を訪ね、歴史の謎にまつわる美味しいものを食べ、絶景の宿に宿泊します。果たして、要潤はどんな旅のプランを完成させるのでしょうか?


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海の見る夢 №75 [雑木林の四季]

               海の見る夢
        -パーフェクトデイズ―
                 澁澤京子

 ・・元来、僕は美術的なことが好きであるから。実用とともに建築を美術的にしてみようというのがもう一つの理由であった。・・
『落第』夏目漱石~『漱石のデザイン論』川床優からの又引用

渋谷、六本木、下北沢という昔から親しんだ街は再開発されて変貌が激しく、もうあまり歩きたい街ではなくなってしまった。昔から残っていた商店街とか路地や居酒屋、そうした生活感のある空間がなくなればなくなるほど、街はどんどん無機質なつまらないものになり、街の情緒がなくなる。今、渋谷でにぎわっているのはかつての宮下公園下の飲み屋街であり、店は新しく変わったが路地はそのままの道玄坂百軒店ではないか。これ見よがしの都庁のイルミネーションとか街路樹を伐採するとか、東京を非人間的な都市にするつもりなのだろうか。煌々とライトアップされた桜は明るすぎて、夜桜だったら風に吹かれて揺れる提灯の薄暗い灯りで見たほうが、風情があって美しい。(桜の花というのは闇の中にあると、うすぼんやりと白く浮かんで幻想的なのである)

コルビュジェ式のモダニズム都市再開発に反対し、ニューヨークを救ったのがジェイン・ジェイコブズ。(コルビュジェの構想したパリ再開発も、フランス人の反対にあって実現しなかった)ブルックリンで生まれ育ったジェイコブズは、都会は混とんの中に秩序があることをよく知っており、ハーレムを壊す再開発や高速道路建設計画に反対運動を起こして勝利した。再開発側の人間は政府と結託し、古く汚くなったものを取り除き、過去を清算して新しく作り直せば誰でも便利で快適に暮らせると考えていたが、ジェイコブズはそれを否定した。彼女は人間というものがどういうものなのかをよくわかっていたのである。コルビュジェ式のモダニズム都市計画は車が移動手段であり、街に死角をつくり人のコミュニティを壊すとし、あくまで歩く人の目線で街を考え、自然発生した路地を大切にした。ハーレムは長い年月を通し住民によって自然にできた、生きた道や空間なのであり、実際、シカゴでは都市再開発で計画的に作られた公営住宅はその後スラム化して犯罪の温床となる。今の中国の高層建築の廃墟化もそうした都市再開発によるものだという。今はまた、住む人を中心にして考えたジェイコブズの都市計画が見直されてもいいんじゃないだろうか。

吉祥寺を気に入っているのは、家に帰るときにバスの窓から井の頭公園の緑が見えること。そして迷路のような闇市とか老舗のジャズ・バーとジャズ喫茶がいまだに昔のまま健在なことと、古本屋も多いことだろう。この間、インドに帰る友人のお別れ会の二次会で入ったジャズ喫茶(モア)は、平日の昼間というのに、若者が多くて混んでいたので驚いた。「ブルー・ジャイアント」というジャズ漫画が流行していて、その影響で若いジャズファンが増えたという。(やたら熱いジャズ漫画でした)それにしても、まさかジャズ喫茶が再び活気を見せるとは想像しなかった。私が通っていた頃のジャズ喫茶は、かなりマニアックな常連客のたまり場で敷居が高く、すでに時代から取り残されていたが、今、ジャズはもっとオープンに聴かれているのだろう。ジャズの持つ混沌としたエネルギーに、若い人が惹かれるのはとてもわかる。

最近の「ブルータス」のジャズ特集を読むと、昔のジャズ喫茶のように、友人とのたまり場を兼ね備えた新しいジャズ喫茶、ジャズ・バーも、六本木や高田馬場などに次々とできている様子。日本のジャズ喫茶が逆輸出され、北欧あたりにもぼつぼつとできているらしい。洗足に某大学ジャズ研OBのたまり場(You would be)があり、友人に連れられてそこには何度か足を運んだ。(月に一回、セッションがあります。演奏レベルが高く、オーナーご夫婦がとても優しく居心地がいい)

重いドアを開けるといきなり大音響のジャズ(大抵チャーリー・パーカー)がドアの隙間から漏れてきたかつての百軒店の「Swing」。夕方になると居酒屋(田吾作や焼き鳥屋)からは演歌が流れ、センター街のパチンコ店からは、ピンクレディやキャンディーズなどの歌謡曲が流れていた。昔、渋谷の街を歩くと種々雑多な音楽が流れていて、それが渋谷の街の情緒であり風情にもなっていた。

いまだに古い建物が残っていることと生活の匂いがあることは街の情緒にとっては不可欠で、新しい建物や無駄のない設計に情緒はない。おそらく情緒というものは、全体から生まれるものであり、決して計算から生まれるものではないのだろう。自然が多様性に満ちているように、世界は複雑な無数の絡まりによってできているので、無駄を省くと同時に、人は重要なものも喪失してしまうのではないだろうか?

設計家になりたかった父の影響か、私は不動産広告の間取りを見てあれこれ空想するのが好きだ。間取り。こんなに人の想像力を掻き立てるものってあるだろうか?漱石の小説が好きなのも、漱石の住んでいる家の雰囲気が好きだからと言う事に、ある時気が付いた。漱石の小説には、書斎とか縁側とか厠とか障子とか、どんな間取りの家に住んでいるのかこちらの想像を掻き立てる言葉が頻繁に出てくる。出窓のついた書斎、陽当たりのいい縁側、台所と厠、引き戸になっている暗い玄関、玄関の横のやつで、玄関の上の丸い電灯、祖父の家に似たそうした家を想像してしまう。漱石の文章全体からにじみ出てくるゆとりというのは、きっと漱石の家に似ているのに違いない。漱石の「草枕」を愛読していたグールドの晩年のゴールドベルク変奏曲のゆったりしたテンポは、漱石の文章のテンポに似ていると思うのは私だけだろうか?お金のかかった豪邸が必ずしもゆったりしているわけでもなく、古い木造の小さな家でもゆったりとした品のいい感じの家があるから実に不思議。贅沢なゆとりというのは決してお金から生まれるものじゃないということだろう。

家を探すときは、窓から樹木が見えることを条件にして探しているが、なかなかそうした条件のマンションも家も少ない。私が今住んでいる団地は、偶然にも窓から椋の木とモクレンが見えてうれしいが、去年、オカメインコを探しているうちに近所に、もっといい感じの団地があることを発見した、中庭には樹木が生い茂り住民の憩いの場所になっていて、古いけど温かみのある感じのいい団地。樹木というのはとても重要で、国立という街がいい雰囲気なのも駅前から続く街路樹の木陰と一橋大学の庭の林の存在は大きい。樹木は人の気持ちを落ち着かせる力を持っている。子供のころの東京の住宅街にはまだ大きなお屋敷がところどころに残っていた。お屋敷の庭の樹木がこんもりと生い茂っているせいで、道を歩けばところどころに木陰があったが、それらはマンションに代わって樹木は伐採され、木陰のある住宅街は都内では本当に希少な存在になってしまった。(そして夏はますます高温に)

この間、設計家のFさんにいろいろとお話を伺った。奥多摩に故ラ・サール神父が建てた瞑想の家「神瞑窟」がある。湿気でところどころ朽ちていた「神瞑窟」が、村野藤吾の設計であることを発見したのも、坐禅会にたまたま参加したFさんだった。「神瞑窟」には広い禅堂やお御堂、図書室があり、キリスト教と禅関係の書物がたくさんあり、昔、神父さんが住んでいた部屋には十字架とベッドだけが残され、天井は朽ちて床には無数の虫の死骸が散乱していた。回廊が中心となった不思議な建物と思っていたが、Fさんが発見しなかったら誰にも気が付かれないまま放置されただろう。(その後、Fさんが登録し、建物を修復)亡くなった父が村野藤吾のファンで、箱根プリンスができた時に村野藤吾の設計と言う事で、家族で泊まりに行ったことがあった。

最近のマンションを見ると、部屋がやけに小さくて間取りもチマチマと感じるという話をしたら、最近のマンションの畳サイズは昔より小さく作られているのだとか。昔のアパート、たとえば同潤会アパートなどは小さくても部屋はゆったりと作られていたのだそうだ。原宿の同潤会は有名だが、渋谷桜ケ丘や代官山にも同潤会アパートがあったことを思い出す。桜ヶ丘の同潤会アパートの中庭の真中には古い井戸があった。昔のアパートが狭くてもなんとなく雰囲気があるのは、人の体温を吸収した年月の積み重ねにより、自然に近くなるせいかもしれない。建築を「凍った音楽」と言ったのは誰だか忘れたけど、家も音楽と同じで、結局「情緒」というものがとても重要なのかもしれない。建築も音楽も数学的なものを基礎としながら、情緒を生み出す。演奏家によって同じ曲でも全然違ってくるように、家も、住む人の心が染みつくのだろうか?陽当たりがいいのになんとなく冷たい感じの家もあるし、逆に日当たりが悪くて狭いのになぜか温かい感じの家もある。コンパクトな「風と共に去りぬ」風の家もあれば、斬新なデザインの家もあるし、昔ながらの生垣に囲まれた家もある・・家は視覚化された物語のようで外側から見ているだけでも楽しい。

「パーフェクトデイズという映画をご覧になりましたか?主人公が住んでいるアパートが、都内ではもうほとんど残っていないような昔のアパートで、それが実にいいんですよ。」とFさんに勧められて友人と映画を観に行った。主人公(役所広司)は浅草近辺の古い木造アパートに住んでいる。玄関を開けると急な階段がある二階建てアパートで一階は台所、二階は畳敷きが二間あり一間を寝室にしていて、もう一間には小さな苗木のコレクションが並べてある。毎朝、苗木に霧吹きで水を吹きかけてから公園のトイレ清掃の仕事に出かけ、仕事から帰ると銭湯で汗を流す、家に帰ると、二階の畳敷きの部屋には裸電球がぶらさがっていて、文庫本がきちんと並べられた本棚。毎晩、スタンドの灯りで文庫本を読んでから眠りにつく・・早朝、仕事の車に乗ると缶コーヒーを飲みながらその日のカセットを選び、音楽を聴きながら運転する。ほとんどが60~70年代の音楽で、ルー・リードの「パーフェクトデイズ」が流れる。時々、古本屋の100円コーナーで文庫本を買う、「読書と音楽」の静かな日々。主人公の平山さんはスマホもPCも持たない、もちろんテレビはないし、まるで沈黙の行を守っているかのように寡黙な人なのである。スマホや世間話などで逃避をしないですむのは、内面が豊かで充足しているからであり、「孤独」という贅沢な時間を持てる人であり、今の世の中、こういう豊かな生き方のできる人はほとんど稀で理想的な生き方だろう。小さなカメラで木漏れ日の写真を撮るのが趣味で、夕方には浅草駅構内のカウンター飲み屋に寄る毎日。

そういえば、昔は車で音楽聴くときはカセットテープだったなあと、カセットから流れる音楽といい、私の世代(~上の世代まで)にとっての学生時代の楽しみは「音楽・読書」だったと懐かしい。渋谷のいくつかの大型書店も消え、道玄坂途中の古本屋も、今はなき東急プラザ裏の古本屋もなくなってしまった。本というものは今では無駄なものなのかもしれないが、人が生活からそうした無駄をどんどん排除していくのと同時に情緒も消滅し、つまらない街になってしまったのではないか?『パーフェクトデイズ』の主人公の平山さんは優秀なトイレ清掃員だが、何かをきっかけに今までの生活を捨てた人間だろうということが映画を見ているうちにだんだんわかってくる。お金とか肩書とか名誉、そうした世俗の虚栄から脱出した男の話なのだ。

若い一時期漱石は、協調性がない自分にもできる仕事として、設計家を目指していたというのを『漱石のデザイン論』川床優著 で初めて知ったが、優れた美意識を持った漱石が、建築家を志したというのはとてもわかる。明治時代の漱石全集の柿色の装丁は漱石自身のデザインだが、彼が建築家だったらいったいどんな家を建てただろう?漱石の家はすべて借家だったが、それでも自分の家を建てたいという夢は持っていたという。政治家をはじめとして見せかけがあふれ、漱石のいう「自己本位」(周囲に流されずに自分の意見と主体性を持てる人)で生きる人間がまずます希少になっている今、平山さんは迷わずに「自己本位」の生き方を選んだ人なのである。(妹の訪問で、彼が以前は裕福な生活を送っていた人間だったことがなんとなくわかる)

離婚した森茉莉が浅草あたりの下町に一人で住んでいた時、下町の人間の、決して他人をあれこれ詮索しないが他人を気に掛ける優しさ、下町の人々の人間関係の距離の取り方がとても居心地よくて、パリにいた時のように自由気ままに過ごすことができた、と書いている。昔の東京の下町の人間には「粋」という美意識が残っていたのだと思う。(今もそうした下町の美風が残っているかはわからないが)

幸田露伴は娘に「たとえお金がない時でも、ただ近所を散歩して自然を楽しめるような人が本当の知性ある人間なのだ」と言うような事を娘の文に教えるが、平山さんや漱石はまさに「知性」の人なのであり、そうした「知性」は美意識でもあり、それは孤独の時間によって培われるものだろう。そしてまた、美意識というのは限りなく自然に接近するものじゃないかと思うのである。


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住宅団地 記憶と再生 №33 [雑木林の四季]

l9. ベルリン・マルツアーン地区の団地 Ber1in-Marzahn 

      国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 ヘラースドルフ地区の大団地を最初めぐったのは9年前である。その間に、団地の活性化、改造事業は進んだにちがいない。それをこんどは、プロジェクトの指針も財政支援も同じだろうから、隣りのマルツァーン地区で確かめてみようと思い、まずマルツァーン地区の北端、いま「マルツァーン地中海の風情」をキャッチフレーズにしている「アーレンスフェルデのテラス」を見ることにした。
 2019年9月8日の朝、オストクロイツ駅からS7バーンに乗った。日的他は終点、といっても30分ほどで着くはずのアーレンスフェルデ駅である。しかし、この日、その時刻は途中のシュプリングプ-ル駅どまり。ドイツではよくあることだが、その先は定期バスかトラムに乗り換えろとの表示である。すぐ来たバスに乗ってアーレンスフェルデにむかった。もうこのシュプリングプフールあたりは高層住宅群にかこまれ、Sバーンに並んではしるメルキッシェ・アレー沿いにその先は、とくに右側に切れ目なくつづいている。車中から見えるのは、デザインと色彩にそれぞれ変化をみせる高層の人大きな建物、舗装した大きな広場、緑ゆたかな大きな公園ばかりである。乗客は若い人がほとんどで、半数以上が外同籍出身と思われる。バスは、Sバーンと大差はなく20分ほどで終点に着いた。マルファーンの団地群を通り抜け、一気にその全景を眺めた気分である。
 マルツァーン地区の大団地建設は、年表をみると、1971年のSED(社会主義統一党)第8回党大会で、76~90年間に280~300万戸を新設および改修する住宅建設計画を73年10月の中央委員会で具体化すると決定し、73年に政治局がピースドルフ北隣りマルツアーン村を中心に76年から35万戸を建設すると決めたことにはじまる。
 施主は国営住宅建設企業Staatlicher Wohnungsbau der DDRであった。その第1号が完成したのは1977年12日である。シュプリングプフール駅に近いマルクヴィツア通り43-45の1O階建て住棟である。その後急ピッチに道路・交通の整備とともに開発地域を拡大していった。STバーンでいえば、マルツァ-ン駅からラウル・ヴァ-レンベルク通り駅、メ一ロアー・アレ一駅にいたる広大な地域を「マルツァーン居住地区1、2、3」の名で1989年までに38,332戸を完成させた。さらに80年からその北へ、東へと建設地域を拡大していった。最終的にはマルツァーン地区全域に1990年までに5~21階建て住宅および施設あわせ約62,000戸を建設したことになる。

 ●アーレンスフェルデのテラス

 「マルツァーン」は、区の南端の小さな村の名が団地建設の拡大とともに北上して広域にわたる行政地区名となり、またそれが居住地区の総称ともなっている。その最北端にあるのがアーレンスフェルデ地区である。わたしが歩いたのは、線路沿いのメルキッシェス・アレ一、ハーフェマン通り、ボルクハイダー通り、ヴイテンベルガー通りにかこまれた区画である。
 メルキッシェス・アレ-沿いには11~12階の高層住棟が正方形に3つのブロックをつくり、東側の中央部には、6階あるいは8階建て、なかには3階建てもあり、長短の住棟が曲線をなして並列しており、低層の幼稚園や小学校などもある。3階建ては、あきらかに減築、大改造をした住棟である。同地のなかの道幅は狭く、緑ゆたかな植栽、築山があったりして、曲がりくねっている。減築し大改修をしたと思われる中低層の建物が多い区画には高層住棟は見られず、緑地がひろがっている。高層住棟が撤去された跡かもしれない。
 もっとも目引くのはベルコニーの改造である。同じ住棟でも減築した階層が階段室ごとに異なり、4階あるいは6階建てになっている。薄い色合いの躯体に後付けされた色鮮やかなベルコニーとその枠、並べられた鉢植えは、明るい雰囲気を放っている。3階建てに減築され、おそらく切断されて短くなった住棟のバルコニーは、大きく外に張り出していて広いスペースを作っており、階段室だけが4倍まであるのは、屋上がテラスになっているのであろう。この低層住棟にはテナント・ガーデンが整備され、高い生け垣にかこまれてプライバシーが守られている。

 先にみたように、とくに旧東ドイツの高層大団地は、さしせまった住宅難解決のため1970~1980年代にプレハブ工法で大量建設されたもので、質より量、スピードが求められた。10年もすると高層住宅の魅力は急速に失われ、多くの住民は離れていった。1期7年に建ったばかりなのに、マルツァーン北端のこの団地はドイツ統一後、2000年代になると空き家率30%を記録した。状況は最悪だった。ベルリン市議会は団地リノベーションにもう資金を投じたくない、解体が唯一の解決策と言いだした。
 住民、.住宅団体、地区代表たちはこれにこぞって反対した。関係者協議の末、アーレンスフェルデを将来「小さいが、よりよい住宅」をモットーに、野心的な目標をたて、ベルリンの都市再開発プロジェクトに合意した。ベルリン市の住宅建設振輿協会Deutsche Gesellschaft zur Forderung des Wohnungsbaus AG=DcGcWoは、「東の都市改造」の資金援助をうけた。2003~05年に11階建て16ブロックを3~6階建てに滅築した。高さが波うち、屋上にはテラスとしいった雰囲気である。このエリアを「アーレンスフェルデのテラス」と名づけ、「マルツァーンに地中海の風情」Ahrensfelder Terrassen --Mediterranes Flair in Marzahnをキヤ・フレ-ズにした。、
 プレハブ構造だから、レゴのようにパネルを外したり、部品を取り換えたりして建物の部分解体、改築、近代化は案外容易かもしれない。室内をすっかり改造してキッチンや浴室を新しくし、バルコニーを改修、テナントガーデンも整備できた。DcGeWo社は48~102㎡の床面債にたいし39タイプのフロアー・プランをもっているという。借り手の少ない5DKなど大型住宅は小住宅に分割された。高層プレハブ住棟は一部撤去され、広々とした緑のスへ-スが生み出された。
 わたしが一巡した地区に大きなスーパーマーケットが2店あった。通りに画して店をだしているのはカフェバーや花屋が多く、ハーフェマン過り治いの商店街は40~50メートルもつづく。トルコ料理のファーストフード店でビ一ルを飲み遅い昼食をとりながら、遺行く人を眺めていた。外国籍出身らしい人たちはたしかに多いが、トルコ人がとくに目立っわけではない。安くてボリュームのあるケバブなどが人気なのだろう。マルツァーンの人口統計によると、ドイツ人のほかは、旧ソ連人、ベトナム人、ポーランド人なども多いはずである。

 アーしンスフ上ルデのテラスから市内にもどる途中、トラムでアルト・マルツァーンに下車、アレー・デア・コスモナオテンとブレンハイム通りにかこまれた地域を歩いた。18階建ての高層マンションも近くに1棟あったが、11階建て住棟が並列で、あるいは5階建てがコの字型に組み合わさって建っている。3階建ては11階を滅築して大改修をしたのか、バルコニーは張り出していて、塗り色もまだ鮮やかに見える。所有主は住宅阻合フリーデンスホルトWohnungsgenossenschaft Friedenshort e Vである。
 どこでも住棟は鍵をもつ入居者か入居者が室内から招く者しか入れなくできている。わたしは玄関パネルをながめ、入居世帯や空き室を数えたり、「チラシの投入お断り」の貼り紙などを見ていた。そのとき外出しようとした老夫婦が玄関ドアを開けたまま、わたしにむかって「どうぞ」といったので、遠慮なく建物のなかに入れてもらった。階段を上下したり、エレベーターで最上階まで行き、緑ゆたかな中庭の植栽や住居の裏側を観察し、中高層住宅群の遠景をカメラに収めることができた。
 すでにいくども述べたことだが、ベルリンの大団地はどこでも郊外の、かっては農耕地や沼地、雑木林だったところに建設されたのだろうが、公共交通機関が同時に整備され発達していて、初めての外国人旅行者にも容易に、しかも短時間に行ける点が大きな特徴に思える。市の中心部から遠くても40分以内に行ける。,片道1~2時間もかけて通勤をよぎなくされている東京生活者にはうらやましい限りである。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂


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地球千鳥足Ⅱ №45 [雑木林の四季]

死の谷、死のスピン

       小川地球村塾村長  小川律昭

 ワイフとラスヴェガスで待ち合わせをし、カリフォルニア州のデス・ヴアレー(死の谷)をドライブすることにした。私は成田からラスヴェガスに向かった。飛行機で見下ろすと砂漠に突然灯火の海が現れ、きらびやかなことこの上ない。これもアイデアと財宝投入して.-つの街を造った人間の業、目標意識と行動がセイジ・ブラシ(やまよもぎ)しか育たない砂漠を都会に変化させた際立った例であろう。
 空港やホテル、どこに行ってもスロットマシンが設置してある。さすがはギャンブルの街である。フラミンゴ・ホテルに一泊、真似事程度のギャンブルをした。ルーレットで二〇〇ドルを失うのに時間はかからなかった。やり方次第で楽しむことも出来ただろうが、面倒くさくなって賭ける札数を増やしたのは、止める潮時だったようだ。経験することに意義あり、だ。

 翌朝セイジ・ブラシ以外何もない荒地を走ること三時間、目的の死の谷に着いた。谷底を走る一本の道を挟んで白っぽい荒地が広がっている。奇妙な形の山肌あり、砂丘あり、乾いた塩の河や渓谷あり、涌き水あり。最北端のスコッティ・キャッスルとバッド・ウオーター問での七五キロに見どころが点在、もちろん、死の谷といえども小部落の民家も存在している。これは鉱山跡の名残であろうか。
 中心部ファーナス・クリークから一二マイル地点のストーン・ブリッジを見ての帰りだった。下りのジヤリ道で突然ブレーキがきかなくなった。加速して車が滑って行くではないか。どうしよう! どうして? どうしてブレーキがきかないの? 右足に力が入るが、車はさらに加速するのみ.ああ、横転するぞ。もうだめだ! ああ……。
 ハンドルにしがみついた剥郡、轟音とともに車がストップした。 一瞬意識を失っていた。気がつくと、フロント・ガラスがもうもうとした埃で真っ白になり、何も見えなくなった。ああ、何と車が止まったではないか。窓が閉まっていた車の中も攻でもうもうとしているJ何が起こったのか? ここは何処? 車はどちらを向いているのか、何もわからない。ワイフも「死ぬんだ!」と思ったのち意識が失せていた、と言う。

 動くかな、とエンジン・キーを回した。エンジンはかかり、アクセルを踏んだら前進した。その時フロント・ガラスの埃が取れた「何と車は逆に坂を上がる方向を向いているではないか。バックして車の方向転換し、さて前進しようとしたら車の前面から埃がドーッと内部に人づてきた。ワイフが「車が壊れたのでしょう!」と叫んだ。降りて調べたら、前輪左側タイヤのホイールとゴム部がはずれ、潰れてジャリの中に沈んでいる。同じ側の後輪もホイールとタイヤ間にジャリが数個食い込みパンクしそうな状態になっている。ようやく状況を把握した。ブレーキがきかなかつたのはローリング現象、スピ-ドとともにタイヤの表面のジャリが、一緒にくっついて回転し、摩擦抵抗が小さくなったせいだろう。さらにタイヤがジャリ道に食い込んで、かなりのジャリがタイヤ内に食い入り、パンクさせたのだろうか。下り坂ゆえ加速も手伝ってハンドルを取られ、スピン{回転)し、それで止まったことがわかった。「駄目だ!」「これまでか!」と剥那に去来した恐怖を思い出しゾーッとした。場合によっては横転を繰り返して車はつぶれ、「死の谷」の名のごとく死への旅立ちとなったに違いない。
 さて、パンクだけの被害とわかったものの、これからが大変。タイヤとジャッキを取り出した。アメリカでは初めての体験ゆえ、ジャッキの固定さえ不慣れで思案していたところ、通りかかったジープのおじさんたちが手伝ってくれた。というより、さっさとやってくれてタイヤ交換がほどなく終了。日本のスナック数袋を咄嗟にワイフが差し上げた。アメリカに住んでいたワイフのために日本から持参して車につんでいたものだ。おじさんたちはニコニコと手を振って走り去った。この出来事は我が運転生涯初めての経験であったしあのような恐怖の一瞬では理性も判断も利かない、ということを知った。ただ、運だけで救われた。神のご加護で「生」をいただいたと感謝した。

 ショックから覚めやらなかったが、途中、死の谷きっての景観地、ダンテス・ヴュー見学を抜かすわけにはいかない、とワイフが言い、上通路から外れること一三マイル、標高一六六五メートルの高地に向かった。標高差一〇〇〇メートル、夕暮れ時に上る車は私たちの一台のみ、もう七時近くですれ違う車は一台もない。二人とも心細さほひとしおながらも口に出きず、遅い時間を気にしながらなんとか頂ヒの見晴らし場に着いた。それでも三台の先客の車があった。とっくに日は沈み、山陰からの残照に映える紅色の雲の美しいこと。見晴るかす裾野には谷を埋め尽くす塩の河があった。白く浮き立って薄暗い山間と調和し、表現しきれぬ雄大な光景、死のスピンからの生還と、静寂の中のスペクタキュラーな大自然を短時間のうちに経験し、言葉にならない感動で立ち尽くした。立ち去りがたい余韻に後ろ髪をひかれつつそこを山発した。

 一路帰路へ、あとは、カー・ジャツクに怯えながら、左右にくねった道を暗闇の中一気に下山するのみ 二人とも心中の複雑な興奮と緊張で身を固くし言葉少なであった。

 その日モーテルに落ち着いたのは九時過ぎ、田舎のカジノを兼ねたレストランで、無事であったことに乾杯した。人間の生命とは宿命づけられたものがあるのだろうか。
                                                             (一九九六年十月)

『地球千鳥足』 幻冬舎


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山猫軒ものがたり №37 [雑木林の四季]

小屋を建てる夢 1

              南 千代

 龍ケ谷のみんなは、うちとけてくると、
「よくこんな所に住む気になったなあ。ここは、私らでも龍ケ谷のチベット、と呼んでたくらいでよ。ここらでもー番、陽があたんなくて寒い場所だかんな」
 と言った。そして、
「冬の問だけでも陽があたる所に小屋でも建てて、寝起きしたらどうだい」
 と、すすめてくれた。
 十一月も勤労感謝の日を過ぎると、山猫軒の屋内はすっかり冷え、冬場の室温は零下五度ぐらいになる。家の前の通も凍る。冬は、ギャラりィもさすがに休みにした。
 ほんとに、暖かい小屋があるといいな。ひと部屋でかまわない。簡素なべリドに薪ストーブ、小さなテーブルをひとつだけおこう。窓もつけよう。朝は、キリリとした水のように冷たくおいしい空気と、光のおしゃべりで目覚めることができるだろう。l
 ストーブで沸かした湯でコーヒーを入れ、.パンを焼いて食べる。それから山猫軒にもどれば今まで通りだ。この想像は、まるで隠れ家造りを企んでいるときのように私たちを楽しくさせた。私は、想像することが大好きだ。それだけで、楽しくなれる。ずっとずっと想像していると、それはほんとにカタチを創ってしまう気もする。
 長い夜。夫がテーブルの上で厚紙の小さな家を造っている。
「ぼく、小屋を自分でコツコツと建ててみようかな。土地はどこかに借りてさ。食べ物はほぼ自給できるようになったから、次は家だ。材料になる木さえ手に入れることができれば、何とか建てられると思うんだ」
 ちょうどその頃、梅本のコーさんが古くなった家を新築した。聞くと、自分の山の木を材料に使ったこともあるが、かかったという費用が驚くほど安い。一軒の家で数百万円なら、私たちの冬場だけの小屋は、もっと気軽な金額でできるだろう。親から継いだ財産な幸いにも私たちには何ひとつなく.家を建てるなどとは考えたこともなかった。が、夫はキコりたちと親しくなるうちに、また、コーさんの話を聞くうちに、それなら、自分にも何とかなるのではと思い始めたようである。
 問題は、貸してくれそうな土地だ。小沢さんに相談に行った。小沢さんもあちこち心あたりを捜してくれるという。場所が、見つかった。龍穏寺から東へ両を越えて、同じ龍ケ谷でも、小沢さんが住む戸神へ向かう途中、山猫軒から約一・五キロの地。山の中の楊たまりに、土地を借りられることになった。
 土地の字(あざ)名は、奇しくも「南」。すぐ積には南川という渓流も流れている。
 自分たちの手で建てることに決めはしたものの、さて、どう建てるか。夫は、一番簡単に手造りできる家、というとやはり丸太小屋だろうか、と思案している。丸太小屋 ― いわゆるログキャビン? 材料に、木を使いたいことは変わらないが、ログキヤビンというのも、どうもイメージが違うような気がする。
 靴をはいたままで生活するログキャビンの暮らしならよいけれど、多湿である日本の気候風土では、農家の土間ならともかく、室内の床の上を土足で歩く生活は難しいのではないだろうか。雨の日など、靴の裏が、とうしても大量の泥を部屋の中に持ち込んでしまう。
 もっとも、市街地や整備された別荘地のように、周囲や退路がコンクリートで固められている場所に建つログキャビンは、この場合、全く別の世界である。
 家を一歩出たら土である環境のログキャビンでは、どうしても屋内に入る時は、靴を睨ぐことになるだろう。そしてスリッパに履きかえ、また、じゅうたんの上ではスりッパを脱ぎ、こたつに入ってみかんを食べながらテレビを見る……。普通の家でなら何とも感じないそんな暮らしも、これがログキャビンの中での生活となると、想像していて何だかちぐはぐな気分になるのは、私だけだろうか。使いもしない暖炉や薪ストーブが、家の中にインテリアとして飾ってあるのを見かけた時も同様の気分になってしまう。
 では、どんな木の家がいいのかとなると、やはり、寝起きできる場とストーブがある小屋というだけで 例にあげることができるような、具体的な建物が出てこない。
 私たちは、隣の集落である黒山に住む高橋さんに相談に行った。高橋さんは、身障者用の椅子などを造る木工家である。三宅島で行われた木造伝統工法による家づくりの、図解書の作成作業を終え、この地に帰ってきたばかりであった。何かよいアドバイスが受けられるのではないかと考えたのである。高橋さんは、れい子さんの夫だったので、私たちも幾度か会ったことがあった。

『山猫軒ものがたり』 春秋社


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BS-TBS番組情報 №302 [雑木林の四季]

BS-TBS 2024年4月前半のおすすめ番組

         BS-TBSマーケテイングPR部

御社の乱れ正します! 

301御社の乱れ正します!.jpg
4月2日(木)よる9:00~9:30
☆BS-TBSドラマがゴールデンタイムに進出!不倫カップルを断罪する人気漫画を実写化。

<キャスト>
三枝 玲 … 山崎 紘菜
鹿妻 新 … 飯島 寛騎
ガンちゃん … 小笠原 海(超特急)
ほか

#1 
「オフィスAIRクリーニング」の社長・三枝玲は、周囲に迷惑をかける社内不倫の当事者たちを鮮やかな手口で別れさせる社内不倫別れさせのプロ。玲に別れさせられない不倫カップルはいない!
今回の玲の仕事は、イベント会社で社内不倫を行う妻子持ち課長・槇原と若くて可愛い女性社員・梨々香を別れさせること。玲は地味な派遣社員に扮して、イベント会社に潜入する。梨々香は全く仕事が出来ず、彼女が起こしたトラブルは、他の社員に多大な迷惑をかける。しかも、梨々香の肩を持つ槇原課長によって、トラブルの責任は梨々香に仕事を教えていた高橋さつきが取らされることに。あまりの理不尽さに涙を流すさつきのもとに玲が現れる。「社内不倫は排除されるべき迷惑行為です。誰かが別れさせてくれるといいんですけど...」と意味深な言葉を残し去って行く玲。玲は、仲間の鹿妻新、ガンちゃんに対し、「クリーニングを開始する!」と宣言。玲は美しく変身すると、槇原課長に、偶然を装って接触を図るのだった・・・。

関口宏の一番新しい江戸時代

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4月5日(土)ひる12:00~12:54 
☆日本の礎は<徳川260年の歩み>にあり。古代、中世に続く最新シリーズ!

~江戸時代~#101「江戸時代の始まり『天下泰平』へ家康の構想」
・徳川家康 鉱山を直轄地化、貨幣を鋳造へ
・家康が江戸幕府を開く
・家康が息子・秀忠に将軍職を世襲→大御所政治へ
・利根川東遷が始動
・「禁教令」公布
出演者:関口宏、涌井雅之(造園家・東京都市大学特別教授)、田中優子(法政大学名誉教授、江戸文化研究者)

薬丸マネー塾~人生後半お金に好かれる生き方~

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4月5日(土)よる6:30~7:00
☆お金に好かれたい人は必見!薬丸裕英と一緒に学ぶマネー塾。

<キャスト>
司会:薬丸裕英
進行&リポート:御手洗菜々(TBSアナウンサー)、南後杏子(TBSアナウンサー)

#1「新NISA」
御手洗アナウンサーが今年から始まった「新NISA」を調査。お金の賢人として登場するのは、「家計の見直し相談センター」代表の藤川太、家計と健康、介護福祉に詳しいファイナンシャルプランナーの黒田尚子、「プレジデント・オンライン」編集長の星野貴彦。

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海の見る夢 №74 [雑木林の四季]

         海の見る夢
        -Highway Star-
                澁澤京子

~最も人道的な人々は革命を始めません。彼らは図書館を始めます。
                         ~『わたしたちの音楽』ゴダール

一日中、遠くからサイレンの音やヘリコプターの音が聞えていた。終礼の時間に、まだ興奮を隠せない若い担任の女の先生が三島由紀夫の自決を告げたのは、中学一年の秋だった。

70年代は三島由紀夫の自決と共に始まった。そのころ、Gパン屋に入るとお店のBGMによく流れていたのはディープパープルで(昔のGパンは藍の染料の匂いがした)、本屋に行くと新潮文庫のサルトルが充実していて(背伸びしてサルトルやジャン・ジュネを読んでいた)「なんでも見てやろう」小田実、「書を捨てて街に出よう」寺山修司、「見る前に跳べ」大江健三郎など、やたらと「行動」を呼び掛けるタイトルの本が多かったのを覚えている。同級生と銀座の映画館で「燃えよドラゴン」を見て衝撃を受けたのも70年代だった。

実家の本棚にあった三島由紀夫の「午後の曳航」を読んだのは小学校高学年の時。それから家にあった三島由紀夫の本は夢中になって片端から読んだ、三島由紀夫の本は、思春期の自意識の不安定な時期にしっくりとしたが、三島由紀夫ほど「観念的」と批判される作家もいなかった。三島由紀夫にはチェーホフのような恋の哀しみと滑稽さは書けなかったと思うし、三島由紀夫の好きなダヌンツィオの『死の勝利』のような、腐れ縁の男女関係のどうしようもなさも書けなかっただろう、出征した丸山真男の『超国家主義~』の底辺に流れるやり場のない怒りも、彼の経験したことのないものだった。『三島由紀夫VS東大全共闘』は、三島由紀夫自身の育ちの良さと、誠実な人柄がよくわかるドキュメンタリー映画だが、彼は、早熟な天才少年の心のままこの世を去ってしまったのではないだろうか。

70年代は「肉体」「暴力」という言葉がやたらと氾濫した時代だった。東大全共闘の芥正彦氏と三島由紀夫の対話で、芥氏が、(我々を束縛する)イメージ・観念を乗り越えるための(空間・時間からの自由)を主張するのに対し、三島由紀夫はあくまで国体(天皇)を目指すのである。三島由紀夫があくまで「絶対」を希求しアイデンティティのよりどころを求めていたのに対し、世界をドラマツルギーとして見る演劇人である芥氏は「絶対」などは存在しないという相対主義の立場。常識や既成観念をひっくり返し、人に不安を与えたい」と三島由紀夫は語っていたが、それは全共闘もまた目指しているものであった。しかし、人は自分の価値観からそんな簡単に自由になれるものではなく、無意識状態になれば、ほとんどの人が自分自身の(習慣や価値観の)奴隷になっているのである。

肉体というのは混とんとした理不尽なものである、三島由紀夫が横尾忠則を高く評価したのも、初期の横尾忠則の絵には日本人の泥臭さというものがかなり意図的に描かれていたからだ。柳田国男がブームで、東北旅行がしきりと宣伝(そのころのJRの中吊り広告)されていたのも70年代だったし、やくざ映画や任侠ものの流行も70年代だったと記憶している。藤圭子「夢は夜開く」が大ヒットし、日本人の原点は東北や演歌、任侠モノにありといった時代風潮があり、まだ貧しさの残る日本の風景を、ノスタルジックな美しさとして描いたのはつげ義春だった。かつて永井荷風が向島を逍遥したように、生活感のある風景が徐々に日本から失われつつある時期だったのだと思う。

「荒野にて」という三島由紀夫のエッセイに、ある晩、頭のおかしくなった三島ファンの青年がガラスを割って家に侵入してきたという話があって、その青年がまるで自分の無意識からやってきたような気がした、と書いてある。人の無意識は荒野のようなもので一体、何が潜んでいるのか本人にもわからないと締めくくってあって、昔、そのエッセイがとても印象深かったので覚えている。

ニーチェが好きで、弱者のルサンチマンが嫌いだった三島由紀夫は、学生運動の時代を「女子供の時代」といったが、観念→行動という観念的である点で三島は全共闘に親近感と愛情を持っていた。三島由紀夫が最も嫌ったのは、今の世の中にもたくさんいる冷笑主義者で、変に醒めたことを言ってマウントを取り、それを「知的」と勘違いしている人々(ネット右翼に多い)。三島由紀夫は今の、うそとごまかしで「美しい日本」を掲げる、右派政治家たちをどう思うだろうか?お金に汚い今の議員や、三島由紀夫の大嫌いな「寄らば大樹の陰」「集団化」を好むネット右翼をどう思うだろうか?都合の悪い情報はフェイクと決めつけ、平気でデマを垂れ流し、(これが正直だ!)といわんばかりに、パフォーマンスとしての差別発言を行う右派の政治家たちをどう思うだろうか?

~心を空にせよ  型を捨て形をなくせ 水のように~
~良き人生は過程であって、結果ではない。方向性であって目的ではない。~
ブルース・リー

三島由紀夫と東大全共闘の対談に出てくるのが「認識・肉体」「言語・肉体」の一致についてで、三島由紀夫の認識(言語)→肉体とは全く逆のコース、肉体の鍛錬によって、肉体→認識に至ったのが、ブルース・リーだった。三島由紀夫が常に「死」「無」を意識していたのに対し、ブルース・リーは常に「生」を生きていた。ブルース・リーの映画を見て衝撃受けるのは「こんなに美しい身体の動きがあるなんて・・」という驚きであり、実際ブルース・リーはダンス大会でも優勝している。その流れるような体の動きと言い、ブルース・リーは天才的な身体感覚を持っていた。十代の時にボートを漕いでいて、オールで叩いても水は傷つかないことに気づき、忽然と武術の本質がわかったというのだからすごい。老荘思想というのは本来、身体感覚で「理解」するものなのかもしれない。子供の時から喧嘩が強く不良だったブルース・リーは、武術を習うことによって徐々に変わってゆく。そして32歳で突然死するまで、修行僧顔負けのストイックな肉体の鍛錬に励んだ。もし突然死がなかったら、ブルース・リーはその後、瞑想家になっていたんじゃないだろうか。作家だった三島由紀夫が切腹自殺したのに対し、格闘家だったブルース・リーは逆に精神の中に静かな場所を発見していた。そして、二人とも「唐突に」この世から姿を消した。

三島由紀夫のボディビルで鍛えられた肉体、ブルース・リーの鍛錬された無駄のない肉体。彼らの盛り上がった筋肉を見ていると、肉体というのはなんて孤独なものだろうと思う。「全共闘VS三島由紀夫」の冒頭で「他者」の問題が出てくる。他者、そして自分の肉体の「モノ化」がエロティシズムと暴力の始まりなのである。しかし「肉体」の鍛錬から精神的な境地に至ったブルース・リーからわかるように、「肉体」そのものに問題があるわけじゃない、問題は肉体の「モノ化」なのであり、肉体のモノ化、人のモノ化は結局、今のイスラエル政府や、あらゆる国の分断と残虐、セクハラ問題までつながってゆくだろう。
三島由紀夫は自決せずに、肉体→精神のプロセスをたどり、もう一度作家に戻ったほうがよかったんじゃないかと思う・・

インターネットの登場とともに、ますます肉体のモノ化(自他含めて)はひどくなり、同時に言葉(知性)の劣化も始まった。自分自身や他人を単純にキャラ化したりカテゴリー化して安心し、人の無意識の深さと複雑さは尊重されるどころか闇に葬られるようになった。言葉というのは安易に使えば多様性を抹殺するが、同時に言葉は世界の多様性に対して開かれるものでもあると思う。物語が延々と紡がれてゆくのはそのためなのだ。

パレスチナ問題を扱ったゴダールの映画『わたしたちの音楽』には、イスラエルに暗殺された詩人ダルウィーシュの話が出てくる。詩は暴力より強いのか?と映画は問いかける。イスラエルが真っ先に爆撃したのがパレスチナの大学と病院だったが、イスラエル政府が恐れているのはパレスチナ人の知性であり、これから大人になる子供たちなのだろうか?今のパレスチナ停戦デモは60年代の学生運動とは全く違う。むしろ、警官の警備のほうが強制的で暴力的に感じるほどで、「暴力肯定」の全共闘世代のデモと違うのは、革命ではなく是正を目指すからだろう。今は、「人に不安を与えたい」と三島由紀夫が語った高度成長期の70年代のように「安定」した時代じゃなく、イデオロギーというものも消失し、日本経済の落ち込みや異常気象などでむしろ私たちは、「安定」した日常を脅かされている時代に生きている。異常気象が世界中に影響を及ぼしているのと同じように、アメリカやパレスチナで起こることは、同時にどこの国でも起こりうる、というグローバルな時代。憲法を改正したところで日本の軍隊はアメリカの指揮下だろう。そして、今の時代の「反知性主義」は70年代の「肉体の復権」「混沌」などではなく、もっと劣化したものであって、何でも単純化することにはじまって、野蛮な差別や分断と排外主義、ヘイトスピーチという言葉の暴力なのであり、それは人間性の喪失と野蛮への退行だろう。

今の時代に必要なのは、むしろ繊細な感受性を伴った「言葉の復権」、つまり「知性」ではないかと思う。知性を持つということは、他人の痛みに対して敏感な身体感覚を持つ事であり、他人に耳を傾けることであり、世界に対してオープンな心を持つ事であり、また、世界の理不尽に対して目を閉じないことだろう。少なくとも書物、映画や哲学、文学や芸術は、世界も人もそんなに単純なものではないことを教えてくれるだろう。


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住宅団地 記憶と再生 №32 [雑木林の四季]

ベルリン・ヘラースト地区の団地
 
      国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

団地再生への公的資金と当事者全員参加

 あえて特記するならば、団地の大規模改修にたいする住民の協力態勢と事業の進め方についてである。
 既存住宅を住民が住んだままの状態でここまで大規模に改修するうえでの住民の協力態勢づてりは学ぶべきだろう。住宅の所有形態は、おそらく買付が多く、管理者は単一組織ではないだろうから、団地改造を円滑にすすめ、再生を実現するには、計画段階から住民の参加、自治体をはじめ管理主体と建設会社、専門家等による協議と合意、それに公的資金の援助が不可欠である。そのプロセス、とくに住居および屋外改修にたいする住民の参加と裁量について詳細に知りたいところである。
 それに元々が社会主義体制のもとでの国営であり、ベルリン市に移管され、管理が民間組織に託されても、まだ民間資本の所有に分断されてはいまい。その背景が、利益本位の介入を許さず、関係者合意を進めやすくしていると思える。そのうえ、さきにも紹介した順重な都市更新のための12の原則」に象徴される基本の徹底である。団地再生への当事者全員参加、維持保全と改造の優先、公的資金の投入などの原則が実施に移されていった。こうした背景があり条件が保障されていてこそ、団地再生も進み、ひろい意味での国民資産の保護向上が実現するのであろう。
 さらに、へラースドルフの団地再生事業の理解を深めるために、あらためて「ヘラースドルフ・プロジェクト」と「へラースドルフとマルツアーン」地域の2点について補記しておく。

◇ヘラースドルフ・プロジェクト

 1981年に大団地建設をはじめ、10年後には建物の劣化、、住環境の不備が露呈していた。東西ドイツが統一して91年にベルリン市は、へラースドルフ全域の団地について、ヘラースドルフ住宅建設会社“Wohnungsbau gesellschaft Hellersdorf mbH=WoGeHe、その他パートナー企業とともに団地改修計画にのりだした。92年から94年にかけて6つの戦略のもとに各地区に固有の多様なモデル・プロジェクトを設定した。その実施にあたっての重要な前提として、目に見える形で住民に「団地改修が始まった」「住みとどまることにしよう」と思わせる必要、住民・行政・事業者の共同協力の必要、生活条件改善の長期的な目標と計画を明示する必要を指摘している。戦略の概要はつぎのとおりである(WoGeHe:The Hwllsersdorf Project)。ちなみにこれらは、都市計画の目標および計画作成にあたって考慮すべきと建設法典(2004年改正)が定める衡呈事項に対応している。
 戦略1:環境に配慮した住戸の近代化―9一雨水、太陽光の利用とごみ減量、ファサード、バルコニー、窓、玄関、階段室の改修、エレベーターの付設、住んだままでの工事の計画づくりをあげる。
 戦略2:居住階層、ニーズの多様化に対応する魅力の創建とソーシャル・ミッゥスの維持一一DIYをふくめ室内改修、バルコニーの拡張、都会生活と緑の享受、所有形態の多様化をかかげる。
 戦略3:都市機能をはたす都市センターの創出一―1992年の国際コンペにより、アリス・サロモン広場を中心にショッピング街だけでなく、医療・教育機関もあわせ、市民ホール、遊園地、アイスリング、緑の公園等をつくる。
 戦略4:生活水準と生活の質の改善一一若者にスポーツ施設、中高年に集会所の建設、野外映画会の開催・コミュニティの形成とともに砂漠から緑のオアシスへ,テナント庭園で「緑のリビング・ルーム」をめざす。
 戦略5:大団地を自然の領域に統合――バルコニーと庭園の連結ビオトープ、グリンベルトの形成、動物保護、自然保護と環境教育の推進をはかる。
 戦略6:計画実施は民主的に一―大団地の開発方針は住民の生活に直接影響をおよぼす。計画づくりには、まず住民の日常生活上の経験と意見を吸収し、それを行政、建築家、事業者の専門知識につなげる(住民は計画プロセスの最初から参加し、決定結果をうけいれる。住民参加なしの計画はありえない。くわえて、その地域の歴史をたどり、地域道産を活かす。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂


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