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山猫軒ものがたり №33 [雑木林の四季]

米だ!米だ! 3

           南 千代


 私が大好きを稲ワラの使い方は、ワラを積み上げた納屋の二階で昼寝をすること。誰にも普請にも邪魔されず、絶好の隠れ家となる。太陽の匂いとワラの素朴な香りに包まれて眠る気分は最高だ。
 モミ殻は、苗代を作る時に焼いて使う。太陽熱の吸収をよくして地温を上げる、根元に酸素をいき渡らせる、苗取りをラクにするなどの効果がある。また、箱にこのモミ殻を敷いて玉子を詰めて贈り物にしたら、とても喜ばれた。
 クズ米やシイナ(まだ未熟だった米)は鶏のエサにした。鶏は、一定期間ごとにヒナを入れて、二百羽になっていた。養鶏は、卵を採る目的もあったが、もうひとつの大きな目的は、鶏糞によって自然循環型農業を営めることである。
 鶏糞を田や畑の肥料の一部として作物を育て、クズ野菜やクズ米は鶏のエサに使う。これを食べて鶏は卵を産む。玉子やたまにつぶす鶏は私たちの食糧となり、余りは売って現金にする。この一連のサイクルの中で、捨てるという無駄はいっさい出さずに済んだ。
 夫は、発酵飼料を自分で作り、オカラを豆腐工場に引き取りにいき、さまざまな材料を混ぜて鶏のエサを自分で作っていた。動物に正月や盆や日曜日はない。年中、一日の休みもなく水をやりエサを与え、玉子を集め、と世話を続けた。
 田畑もひと段落する頃、私たちは柚もぎと出荷の最盛期を迎えていた。鶏を放す借りために借りていた数百坪の上地は、斜面も含めて全面柚畑だった。私たちは、その下の土地だけを借りており、柚の木までは借りていなかった。
 柚は、虫がつかないよう、年に何回も木に農薬をかける。その下で鶏を飼っていたので、できれば消毒はしてほしくなかった。柚の持ち主も、老齢での斜面の消毒はきついし、真夏の風のない日を選んで行う農薬散布は、防護服を着て行っても、終わると二、三日は寝込んでしまうほど体の具合を壊すという。
 それなら散布をやめればよいのにと思うが、そうすると虫がついて肌の悪い果実が多くなり、出荷できる実が少なくなる。また、虫によるホシ(白い斑点)が入ると農協での引き取り価格も低くなる。消毒の有無など関係なく、見た目に大きくきれいな果実がいい柚として取り引きされているからである。
 柚で生計を立てている農家のほとんどは、その出荷先は農協であるから、虫がつかないように農薬を散布する。これは、もうひとつの越生町特産物、梅についても同様だ。
 そこで、私たちは柚畑の持ち主に頼んで、柚の木も借りることにした。農協に出荷する気は毛頭ない。販売先は、知り合いの自然食品屋に紹介を受け、都内近郊の自然食品店に野菜や食品を卸しているJAC(ジャック/ジャパンアグリカルチャーコミュニティ)に出荷できることになった。
 問題は収穫だ。柚は、枝に強く鋭いトゲがあるため、ミカンのように気軽な収穫はできない。地面から手の届く所は普通のせん定鋏で一個ずつ用心してとればよいが、手の届かない位置がほとんどである。そんな柚は、独特の長い柚取り鋏を高く差し上げ、一個ずつ収穫する。
 実は地面に落とすとキズがつく。鋏は、実のついた枝を切り、挟んだまま下ろせる仕組みになっている。収穫に慣れない私たちは、速くて一分間に三個、とりづらい高みになる実は一個とるのに二、三分もかかってしまう。荒くとると、枝のトゲで実を傷つけてしまう。とったときには気がつかなくても、トゲで少しでも傷ついた柚は、保管している間に、そのピンホールから腐ってくる。
 最初はとるのもおもしろかったが、陽もあたらない斜面で、毎日、毎日、毎日、柚をとり続けているとさすがに飽きる。毎日上を向きっぱなしで、首も肩もコリコリ。
 やっとカゴいっぱいになった柚カゴを背負い、斜面を降りる。足を滑らせてこけてしまい、おしりには柚のトゲ、カゴの柚はひっくり返っていっせいに下の道路までバラバラコロコロの失敗などすると、私はほんとに泣きたくなった。
 収穫した柚は、葉や枝を整理し、パックに並べて葉をつけ、ダンボールに納めて出荷する。買う立場にいたときは柚って高いなあと思っていたけれど、作る側に立つと何と安いのだろうと思ってしまうのは、野菜と同じだ。大きなキャベツが一個百円でならんでいると、これでは大量に化学肥料や農薬や除草剤をばらまいて、手早く効率的に、たくさん作らないとほんとに農家の生計は立たないだろうな、と思ってしまう。

『山猫軒ものがたり』 春秋社


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BS-TBS番組情報 №297 [雑木林の四季]

BS-TBS 2024年1月後半のおすすめ番組

      BS-TBSマーケティングPR部

「想い出づくり。」第一話

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1月23日(火)ひる12:59~1:55
☆結婚までに何か想い出を作ろうと必死に励む、3人の女性達の日常を描いたドラマ。

◆キャスト
森昌子、古手川祐子、田中裕子、柴田恭兵、佐藤慶、児玉清、谷口香、前田武彦、坂本スミ子ほか

結婚までに何か想い出を作ろうと必死に励む、適齢期を迎えた3人の女性達の日常を描いたドラマ。「青春の証明」を探す娘たちの地獄極楽巡り!!
※初回放送 1981年
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「夫婦の秘密」

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毎週木曜よる11:00~11:30
☆登場人物全員に裏の顔! 欺瞞に満ちた”愛憎・闇堕ち”ミステリー

◆キャスト
臼田あさ美、豊田裕大、山下幸輝、古川毅(SUPER★DRAGON)、桃月なしこ、別府由来、大月美里果、宮本真希、剛力彩芽

花屋を営む夫婦と近所でカフェを営む女店主、彼らを取り巻く人たちの幸せそうな日常とは裏腹のダークサイドを描いてゆく物語です。
本当の自分を隠して作りあげた偽りの幸せ、1通の手紙をきっかけに裂けていく夫婦、友人の絆。
次々と明らかになる秘密と裏の顔を予想のつかない展開で描きます。
一緒に暮らしている夫や妻が、あなたの知っている人物ではなかったら?
周囲にいる友人が、あなたを陥れようとしていたら? 
疑惑は嫉妬や執着を生み、やがて裏切りや復讐に発展・・・登場人物全員が裏の顔を持つ欺瞞に満ちた”愛情•闇堕ち“ミステリーをこの冬にお届けします。
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「X年後の関係者たち あのムーブメントの舞台裏」

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1月29日(日)よる11:00~11:54
☆大ヒット企画の“関係者同窓会”を開催!なぜブームになったのか?ヒットとなる過程には何が?その舞台裏に迫る!

#59「タツノコプロ・前編」
今回のテーマは「タツノコプロ」。
「ヤッターマン」や「ガッチャマン」などアニメのヒット作を続々と生み出してきた舞台裏とは?アニメ制作への想いや苦労とは?関係者が語り尽くす。
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海の見る夢 №69 [雑木林の四季]

    海の見る夢
    ―「I am still alive」―
                澁澤京子 

 「・・もし君に少しでも心があるのなら、パレスチナ人のために泣いているはずだ。」
               ノーマン・フィンケルシュタイン

ツィッター上で、ノーマン・フィンケルシュタイン(米・政治学者)の演説が出回っている。両親ともホロコースト生還のユダヤ人でありながら、シオニスト批判。シオニストを揶揄したナチスという言葉に反応し、泣きながら抗議する女子大生に「それをクロコダイルの涙という。」と教授はやり返した。フィンケルシュタイン教授は、イスラエル政府がホロコーストの被害者であることを強調してそれを政治利用し、同時にパレスチナ人の苦しみには鈍感なダブルスタンダードが我慢できないのである。(ツィッターで「クロコダイルの涙」で検索すると出てきます)クロコダイルの涙とは、(見せかけの涙)と言ったらいいだろうか?

ツィッターでの現地のパレスチナ人の書き込みを読むと、淡々と事実を述べた記述が多い。毎日流れてくる多くの「I am still alive」、その底流に流れる、自分たちを忘れないでほしいという思い、自分たちのために祈ってほしいという気持ち、そして想像を絶する悲しみを感じると、自分が浮ついたことしか言えない人間のように思え、とても恥ずかしくなるのと同時に、彼らのために何かを発信しないと、という焦燥感にもかられる。そして、彼らの「I am still alive」には、どんなレトリックも安っぽいチラシのように吹き飛ばしてしまうほどの力がある。

9・11の時、何かがはじけて、世界は後戻りできないとんでもない方向にズルズルと流れ落ちていくような感じがしたが、今回のパレスチナでは、世界は超えてはならない閾値を超えてしまったような気がする。

年が明けてから能登の大地震が起こった。能登の震災で明らかになったのは政府の対応の遅さ、劣悪な避難所、支援物資の遅れ(道が遮断されているというが、ヘリコプターや船では入れないのだろうか?)。自民党議員が街頭で募金活動をはじめたが、その前に、なぜ被災地への予算をもっと増やさないのだろう?万博や軍事費には惜しげもなく投入し、被災者救助には雀の涙の予算。

さらにSNSでは、ボランティアに現地に駆け付けた山本太郎さんに対する誹謗中傷がすさまじく、しかも批判の内容が、現地の人に迷惑だの、的外れ(一緒にカレーを食べたことが非難されている)なものばかり。故・中村哲さんの口癖は「議論よりまず行動」だったという。自分は何もせずに、行動する人を非難し嘲笑する人々。

また、SNSでは、外国人に対する警戒を呼び掛ける差別的な投稿も目立ったが、在日外国人の犯罪率は5パーセント、在日外国人総数の割合では0.3パーセントと別に犯罪は多くはない。トルコ人グループはいち早くボランティアの炊き出しに駆け付けたし、川口市のクルド人グループも支援している。在日外国人を警戒する以前に、日本の難民認定率が世界の中でも恥ずかしいほど低いこと、そのため仕事をしたくても仕事に就けない難民が多いという、彼らの困窮した状況を知る必要があるんじゃないだろうか。文化や言葉の壁もある。しかも、今の日本政府の対応よりも、ずっと人情があるではないか。外国人である彼らに比べたら、恵まれた状況にありながら、オレオレ詐欺や強盗殺人などの悪質な犯行を行うのはむしろ日本人のほうなのである。しかも昨年は、強制送還がもっと容易くなる「入管法改正案」が通ってしまった。「多様性の時代」と言いながら、どんどん逆の閉鎖的な方向に向かっている今の日本。「己のことばかり見つめるものは滅びる」は確かアラブのことわざだけど、個人もそうだが、今の日本のような内向きの国家は滅びの道をひたすら歩んでいるとしか思えない。

そして、沖縄では強引に辺野古工事に着手。しかも、住民の代表である沖縄県知事の反対を押し切って。民主主義を踏みにじり、世界に誇れる沖縄の美しいサンゴの海を、平気で埋め立てる鈍感さ。

「イスラエル人がトランプの行動を見ると心が安らぐのには明白な理由がある。それは、難民に対する無関心、移民への残酷な対応、法の支配への敵対、外国人嫌悪、嘘で塗り固めた発言、下劣な誹謗中傷、人種差別主義者へのおべっか、女性蔑視である。」

「ハアレツ」ヘミ・シャレブ記者~『イスラエル人VSユダヤ人』シルヴァン・シペルより

こうした風潮が世の中に蔓延し始めたのはいつのころだったか・・「ウソもつき通せば真実となる」はトランプの信念(故・安倍総理も同じ信念の持ち主)だったが、政治家がウソをつき通して隠そうとすれば、森友文書改ざんの責任を押し付けられて自死した赤木さんのように、真面目な人間が犠牲になるのである。

パレスチナに対するネガティブキャンペーンをまき散らされた挙句、標的にされたジャーナリスト、医療関係者たち(悪事の証拠を残さないため?)。また、安全な場所からゲーム機のように操作されるドローンの無差別攻撃がどんなに残虐な結果をもたらすことか・・ゲームのような虚構と現実があいまいな時代になると、病院、学校、避難したキャンプ地も片端から空爆を受け、乳児、子供、女性が容赦なく殺され、それをリアルタイムで見ながら止められない私たち。パレスチナの人口230万人に対し、死亡者は2万3000人以上(1月12日現在)国民のおよそ100人に一人以上のパレスチナ人が殺されている。負傷者60000人以上、特に両足や、腕を切断された子供が多い(医療品の不足により麻酔なしで)いったい、なんていう時代に生きているんだろう。

今、世界から失われつつあるのは正義と、そして他人の痛みや苦しみに共感する身体感覚なんじゃないだろうか?(正義というのはなかなか実現できないからこそ、逆に理念として価値を持つと思うが)

懇意にしているシスター・K(79歳)は、友人とハイキングに行った帰りの電車が混んでいて、座ることもできず、暑いのに上着を脱ぐこともできないでいるうち気分が悪くなり、我慢できずに戸塚で降りた。身体が動けなくなり手すりにつかまったまましゃがみこんだが、次に来た電車が止まり、またその次の電車が止まっても、聞こえるのは電車から降りてきた人々の足音だけで、誰も声をかけてくれなかった。しばらく気を失っていたら、「おい、大丈夫か?」とはじめて声をかけてくれたのはホームレスのおじさんだったのだそうだ。

「わたしはダニエル・ブレイク。人間だ、犬ではない。」
~『わたしはダニエル・ブレイク』ケン・ローチ監督

「ゆりかごから墓場まで」がとっくに過去の神話となってしまったイギリスで、さらにAIの導入により、ますます生活保護受給や失業手当の手続きが煩瑣になったうえに、役所の対応が非人間的になってしまった今のイギリスの状況を描いたこの映画は、ドキュメンタリーかと思うほど役者の演技が自然。パソコンなど触ったこともないのでオンラインから失業手当の手続きがなかなかできない大工(デイブ・ジョーンズ)が、追い詰められたシングルマザー(ヘイル・スクワイーズ)に温かい手を差し伸べようとするストーリーだが、特に主役のデイブ・ジョーンズが素晴らしく、困っている人のために思わずひと肌脱いでしまう、昔かたぎの職人役がぴったりはまっている。イギリスのみならず、いまだに日本の、あるいはどこかの国の下町には、こういう人情のある職人がひっそりと存在しているようなリアリティがある。政治が頼りにならなければ、寄り添いあって助け合うしかない。こうした状況は、日本では決して他人事じゃないどころか、実際に桐生市で起きた生活保護受給者に対する職員からのハラスメント(桐生市以外でも起こっているだろう)、そして、なぜか生活保護受給者に対するバッシングの起こる日本。怒りの矛先が政治ではなく、生活保護者や山本太郎さんといった見当違いの方向に向けられるのは、国から支給されているのを「ずるい」とばかりに、他人の足を引っ張らないと気の済まない人間が多いのと、「出る杭は打たれる」の国民性にあるのだろうか。他人の足を引っ張れば、自分も一緒に落ちるだけだし、出ない杭は地中で腐っているだけとなる。

「‥人が弱さを持っていると言う事は、非常に重要だ。」ケン・ローチ

ケン・ローチ監督の映画では役者が自然体なのだが、ケン・ローチは、役者を選ぶときに演技力よりもむしろその人の人間性を見て選ぶのだという。演技というテクニックよりも、本質、つまりその人の性格や「心」を重視しているのである。そして、そうした性格、その人の本質(心)は、最も弱さをさらけ出した無防備な状況に現れるということであり、また、困っている人、他人の弱さに対してどういう態度をとるかで人の本質(心)がはじめてわかる、ということだろう。

それでは本質(心)とは何だろうか?

人は普段は自意識が邪魔をして、なかなか無防備な状態にはなれない。芸術家は自意識と格闘するが、それは魂というものを直接伝えたいためなのである。同じ曲でも、ある演奏家の演奏には演奏家の魂を直接感じ、ある演奏家のものにはテクニックしか感じられないというのはよくあることだが、人の無意識にある感情、身体感覚と直結した心と、そしてさらに深いところにある魂は、芸術家にとってとても貴重なものであり、私たちを人間らしく保つのも、まさにその魂なのだと思う。魂はその人の心の有様と密接な関係にあるだろう。

SNSには、クロコダイルの涙のような中身のない言葉と、力ある言葉の玉石混合で、本当に伝えたい事、訴えたい思いがある人々からは、その人の体温が伝わってくる。そして、「I am still alive」は、パレスチナの人々の命そのものと直結した、魂からの声なのである。

※1月11日、インターネットで(日本のメディアが流さないので)ICJの中継(ボランティアの人たちが字幕を付けてくれた)を見た、イスラエルをジェノサイドとして提訴する南アフリカ側の弁論は本当に感動的で素晴らしかった。12日のイスラエル側の弁論は、(停戦したらより多くの人命が失われる)(ハマスが)などの長い言い訳と、南アの証言のあら捜し。人道的な配慮を行っているとか、まさに「ウソをつき通せば真実となる」の見本のような空疎な言説で、前日の南アフリカの弁論とは正反対の、中身のないスピーチだった。

南アフリカには、ネルソン・マンデラの魂が今も生き続けているのである。

パレスチナが自由にならない限り、私たちの本当の自由はない。~ネルソン・マンデラ


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住宅団地 記憶と再生 №28 [雑木林の四季]

「慎重な都市更新」原則と賃貸住宅「再公有化」運動 2

     国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

「慎重な都市更新12の原則」12Grundsatze der Stadterneuerungとは、つぎのとおりである。
1.再生は、現在の居住者や商工業者と共に計画し、本体を保持するかたちで実施されなければならない。
2.計画担当者は、再生の目標について現在の居住者や商工業者と意見が一致し、その技術的および社会的計画は共同して進めなければならない。
3.クロイツベルクの特色は維持されるべきであり、危機にさらされた地区の信頼と信用をとりもどされなければならない。放っておいたら建物が壊れてしまうようなダメージはすぐに修復されなければならない。
4.慎重に間取りを変えることは、新しい生活形態を可能にするためにも必要である。
5.建物全体や住居のリフォームは徐々に行われ、徐々に追加されていかなければならない。
6.建物の状況は、できるだけ取り壊しをしないで、中庭に緑を植えたり、建物の正面部分(ファサード)を変えたりすることで改善されなければならない。
7.道路、広場、緑地はもちろん公共施設は、必要に応じて更新され補充されなければならない。
8.社会計画における当事者たち(現在の居住者や商工業者)の参加権と物質的権利はきちんと規則化されなければならない。
9.都市再生の決定は公開で行われ、できるだけその場で討論されなければならない。当事者たちの意見表示は強化されるべきである。
10.信頼を得る都市再生を実行するには、確固たる予算保証が必要である。
 予算は個々のケースについてすぐに下り、すぐに使えるようでなければ ならない。
11.新しい形のスポンサー体制を開発する必要がある。受託される再開発課題(サービス業務)と建設措置は分離されるべきである。
12.このコンセプトによる都市再生は、IBA(国際建築展覧会)が終わってからも保証されなければならない。

 既成市街地にはじまったこの都市更新の原則が、巨大団地の団地再生にどのように発現しているかは、次章でみる。
 そのまえに、ドイツに起こっているもう一つの現実を見ておかなければならない。オンケルトムス・ヒュッテ団地の今後について危惧をしめしたように、住宅供給の市場化、民営化が進行している。行政はスクラップ・アンド・l・ルト型再開発をはじめ家賃設定等に法的規制をかけ、公的支援のもとに慎重に都市更新を進めながらも、他方で、とくに大都市の低所得層の居住をおけやかし、記念建造物や世界遺産団地の住宅もその波にさらわれかねない危機が迫っているのも事実である。
 さきにベルリンの古い団地の多くが、ゲハーグ杜の建設、現在ドイチェ・ボーネン社の所有・管理になっているのをみた。いまその同社が新たな住宅難の元凶の一つにあげられている。とくにベルリンでは「家賃の狂気」と低所得住民の追い出しが露わとなり、2019年4月6日、「ドイチェ・ボーネン仕没収」のプラカードをかかげ4万人がデモをおこなった。この日市民主導で、不動産会社各社がもつ総戸数のうち3,000戸以上の賃貸住宅はベルリン市が収用して公営の社会住宅にせよとの請願署名キャンペーンがはじめられた。成功すれば24万戸が没収され、社会化されるという。キャンペーンネームに、ベルリンに11万戸以上の賃貸住宅をもつドイチェ・ボーネン社があげられた。ドイツに住宅困窮が拡大し、「市場化」から「再公有化」への動きが活発になっている。その法制化をもとめる国民投票への署名運動が2019年にはじまり、いまその第2段階、21年9月の連邦議会とベルリン議会選挙に並行して収用にかんする国民投票の実現をめざしている。
 住宅公有化要求は、居住は人間の基本権を前提に、ボン基本法(ドイツ憲法)14条の2項「所有権の行使は公共の福祉に資するべきもの」、3項「公用収用は公共の福祉のためにのみ認められる」を根拠にしている。社民党・左派党・緑の党連立のベルリン市政はこの運動に距離をおいているようであるが、なりゆきが注目される。インターネットでDeutsche Wohenen enteignenをクリックすると、新しい動きがわかる。
 2019年9月、ブルーノ・タウトが建てたというクロイツベルクのアパートに住む知人を訪ねたさい、こんな話を聞いた。家主はアメリカ在住のユダヤ人でベルリン市内に貸家を数十戸所有している。管理サービスはいいとはいえないが、家賃値上げもしないので助かっている。不満はない、という。ベルリン旧市街の住宅は8割が賃貸で、社会住宅もまだ多い。民間借家といっても小規模所有の家主ばかりだが、近年は大手の不動産会社による員い占めが進んでおり、取り壊しも家賃値上げも規制されているはずだが、規制の網をくぐって、たとえば間取りの変更や室内改築を無理におこなって家賃値上げをし、低所得の若者や高齢者が追い出されている、と話していた。わたしも近くに、あちこちの窓にステッカー、横断幕をはりだしたアパートを見かけた。「街はみんなのもの」「ベルリンよ、買い戻せ」という文字が読めた。
(追記:住宅の市場化にたいし「再公有化」をもとめる住民運動が高まる反面、逆流も強まっている。ベルリン市(州)が独自に2020年施行した「家賃上限法」に連邦憲法裁判所は2021年4月15日、「無効」判決をくだした。また、ヨーロッパ最大といわれるドイツの住宅不動産グループ、ヴオノヴイアVONOVIAのドイチェ・ヴオーネン買収計画は2015年来ったえられてきたが、5月24日DW社が合意したと報じられた。)

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂



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地球千鳥足Ⅱ №39 [雑木林の四季]

遺書 (The Last Will)

       小川地球村塾村長  小川律昭

 日本も同じであるが死亡した本人の預貯金は、全部支払い停止となりその人の資産として差し止め、後ほどの遺産相続の対象となる。ところでアメリカでは、遺産相続決定権は死亡した本人にある。だからすべての資産を国が差し押さえ、負債と相殺してから、法律で定められた控除分相応を差し引き、その資産額に応じて、国が相続税を徴収することになる。その後において、残りの資産が遺産相続の対象となる。遺産の分配方法については日本とは異なり、すべて遺書により分配が決定される。遺書のない遺産は相続先まで迷いに迷って、見つからない場合、最後は国に没収される。日本では法定相続人、一等親から二、三等親にその相続権があり、その割合も決まっているから、黙っていても法律が相続人を決めてくれるのだが。

 アメリカに住んでいると、遺書は必ず書いておきなさい、とよく言われる。万一死亡した場合遺産のほとんどがなくなってしまうらしい。遺書が書かれてないと配分までこぎつけるのに、代理人の費用が大変な額で請求されるからだそうだ。もともと死亡した本人が相続税を払うシステムだから、その手配は専門家ロイヤーに任される。国の法律の複雑さをよいことにして、その手続きをすることで色々な手数料を取るようだ。遺書がないと、相続権は誰か、資産の売却管理人がいないからどうするかなど、何かとロイヤーにお願いするしかないというわけだ。ところが、遺産譲渡関連の遺書があれば、手続きが簡単で済むということらしい。遺族が日本から行き来しても様子がわからないので、ロイヤー任せとなる。法定相続人が資産の権利を主張するには、関連の資料を英文で提出しなければならず、これまた期間と経費を積み重ねることになる。

 最近、危険といわれるカラカス(ヴエネズエラ)に行くことになり、ちょうどよい機会であると思いロイヤーを呼んで遺書を残すことにした。遺書には三人の承認と遺産の管理執行人がいるので、隣家のカシュースキー一家にも臨席してもらい無事The Last Willを完成した。ロイヤーは隣家の知人なので気楽なムードだった。日本の遺産はこの遺書には含まれない。
 余談だがこの程度の資産では遺書を必要としないと、はっきりとではないがロイヤーに言われた。遺書を作るにしてはチト資産が少なかったようだ。小さな家と僅かの貯金だけだから。聞くところでは約八〇万ドルまでが控除の対象であって相続税はかからない。ただそれはシティズンであって外国人にはどうかな。まあ、やっておくに越したことはないだろう。

『万年青年のための予防医学』 文芸社


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山猫軒ものがたり №32 [雑木林の四季]

米だ!米だ! 2

           南 千代

 十月中旬、いよいよ稲刈りだ。田植えが遅いので稲刈りの時期も遅い。刈り取り期を判断するのもむずかしく、「夕陽に向かって穂をみると、穂が黄金色にすきとおって美しい状態になってきます。この時を収穫適期とみています」と、まことに詩的な表現をしている専門書もあるほど。
 子細に専門的立場から言えば、さまざまな判断があるようだが、ここは単純に稲の実の入り具合と、周りの百姓の動きから刈り取り期を決めることにした。
 ずいぶん、いい米だ.初めてとは思えないね、こりゃ負けそうだいな」
 刈り取り前の稲を見て、赤岩さんがほめてくれたので、夫はうれしそうだった。早く稲刈りがしたい。が、よその稲刈りを見ていた夫は、急にあわて始めた。
 「刈った稲を掛けるヤツを用意しなきやダメだ。竿と脚と、丸太が百本ほど要るよ。どうしたもんかな」
 そういえば、よその田の隅の方には、長いサオの丸太が伏せて収納してあった。ハザ架に使う木だったのだ。山から自分で伐り出して作るしかない。夫は、地主に頼んで、山の細いヒノキを、間伐させてもらうことにした。用意するのに三日ほどかかってしまった。
 事前の用意が必要なのは、田植えと同様だ。イナ架が強風で倒れないように、また風通しをよくするために、付近の風向きを考えて架を組む。柳田さんもまた、加勢にきてくれた。
 もちろん、手刈り。ノコギリ鎌という稲刈り専用の鎌で刈り、束にしてワラで縛っていく。
 刈っては縛り、運んで架に掛け。手作業は時間がかかる。二日かけて、ようやく刈り終えた。
 刈った稲は、乾燥するまで田に干しておき、脱穀する。稲からモミを落とす作業だ。脱穀には、山猫軒の納屋に眠っていた、足踏み式脱穀機を引っ張り出した。麦用に使っていたのだろう。まだ、使えそうだった。田に運んで行った。
 今は皆、脱穀も乾燥も機械なので、干した後の稲は、自宅に持ち帰る。まわりの田はもう、閑散としている。試行錯誤しながらガーコン、ガーコンと踏んでいると、遺行く百姓が、おもしろがって足を止め、ひやかしていく。
 「えらい懐かしい機械を使ってるじゃねえか。それじゃダメだ。穂が首から落ちちまうべ。どれ、かしてみな」
 ひやかしついでに、要領を教えてくれた。むしろの上にモミがいっぱいにたまっていく。丸一日かけて、ようやく脱穀終了。西の山に陽が沈もうとしている。赤い夕陽の中で、モミは黄金色に輝いた。
「やった、やった! 米だ、米だ! 金だ、金だ!」
 夫が、むしろの上のモミに体を埋め、両手で米を抱え込み、泳ぐようにして喜んでいる。体を起こして立ち上がると、夫は、私に胸を張って言った。
「これで、最低一年は、何があっても食べていけるよ」

 むしろの上にモミを広げての、天日乾燥。モミから殻をとって玄米にするモミスリ。ごはんとして食卓に来るまでに、まだまだ作業はあった。モミスリは機械がないので困っていたら、赤岩さんの家でやらせてくれた。ほんとに、赤岩さんがいなかったら、米はできなかったに違いない。
 こうして、ようやく六俵の※がとれた。三百六十キロだ。反当り六俵の収穫は、この山間部では、まあまあの成績だという。でも、年間に倣う私たち二人分の米の量としては、充分すぎるほどである。
 自分の手で作った米を薪のかまどで炊いて食べる。この味を知らずしてグルメを語るなかれ、の心境になるほどおいしい。米を作ると、何だかへンな自信もついてしまうらしい。
 米は、白米ではなくビタミンなど栄養たっぷりの胚芽を残した、玄米や五分づきの胚芽米で食べる。五分づきで出た糠は、糠漬けや鶏のエサに利用する。
 「ごはん粒を残さないように食べなさい。米は、八十八の手がかかっているって言うんだから」
 小さい頃、親にそう言われても全くピンとこず、平気で残していた。自分で作ってみると、釜の中にすら、ひと粒も残さないようにきれいに食べた。
 客が来て、出したご飯をすまして残されたりすると、もう、この人には絶対に食事は出さないぞ、と思ってしまうようになった。
 稲ワラとモミ殻も、米作りの大きな副産物だ。特に稲ワラの利用法は多い。苗や稲を縛ったり、ヤギや犬など動物小屋の敷きワラに使う。敷きワラは、そのまま堆肥作りに利用する。畑や柚の木の根元にも保温用や肥料として使う。正月のしめ飾りも作ることができる。昔の人なら、縄をなったり、むしろを編んだりと、まだまだ使い道があっただろう。

『山猫軒ものがたり』 春秋社



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BS-TBS番組情報 №296 [雑木林の四季]

BS-TBS 2024年1月前半のおすすめ番組

        BS-TBSマーケテイングPR部

中森明菜 女神の熱唱~新たな歌声&独占メッセージ~

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1月2日(火)よる7:00~8:54

☆中森明菜の全ヒット曲と誕生秘話を貴重映像とともにお届け!最新の中森明菜の肉声インタビューとレコーディング映像をテレビ初公開!

時にはアンニュイに、時には気だるく、独特の雰囲気を纏い、圧倒的な存在感で多くの人を魅了した中森明菜。16歳でのデビュー以来、数え切れないヒット曲を放ち歌謡界を彩った。なかでも権威と歴史を誇る日本レコード大賞を2年連続で受賞、という快挙も成し遂げた。さらに、歌に合わせたファッションやパフォーマンスは明菜、自らのプロデュースで「中森明菜の世界」を作り上げた。TBSには、その明菜の歌唱映像が数多く残されている。とくに「ザ・ベストテン」は223回もランクインし、移動途中に地方局の玄関や新幹線の中でも歌った。中森明菜の全ヒット曲と誕生秘話を「ザ・ベストテン」などの貴重映像で紹介。
さらに今回、新たな動きをみせる彼女の最新独占音声インタビューも収録!作曲家・林哲司氏のデビュー50周年トリビュートアルバムに「北ウイング‐CLASSIC」のセルフカバーで参加した際のレコーディング映像もテレビ初公開する。


中川大志の地球アドベンチャー 
  地上の楽園ハワイ 星空を旅した海の民を追え!

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1月2日(火)よる9:00~10:54

☆ハワイの先住民はどこから・どうやって・なぜ来たのか?中川大志が南の島ハワイの知られざる歴史に迫る!

コロナ渦で人の行き来が減ることにより、豊かな自然を取り戻したハワイ。この島は今、再び多くの観光客で賑わいを見せている。そんなハワイには知られざる歴史が...。
今から1000年以上前、遥か彼方の地からハワイ諸島まで海を渡り、大航海を成し遂げた、勇猛果敢な開拓者たちがいた。彼らは一体どこから、どうやって来たのか。この番組では、 “3つの謎”(どこからハワイに来たのか?・どうやって来たのか?・なぜハワイに来たのか?)をもとに俳優・中川大志がオアフ島を訪れ、その歴史に迫る。


噂の!東京マガジン 初笑い新春号

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1月4日(木)よる9:00~9:54

☆初笑い新春号を発刊!

◆キャスト
森本毅郎、小島奈津子、井崎脩五郎、清水国明、山口良一、深沢邦之
乱一世(ナレーター)

おなじみのコーナー「令和の常識やって!TRY」では、街の人たちがお正月にぴったりの料理に挑戦!そして日本橋ゆかり三代目・野永喜三夫さんが、腕を振るって和食の魅力を伝えます。

「噂の現場」では2023年に亡くなった笑福亭笑瓶を偲び、笑瓶さんが33年前に初めてレポートした“休肝日がある村”を再訪。その後村がどうなったのかを新たに取材してきました。


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海の見る夢 №68 [雑木林の四季]

     海の見る夢
         ―詩人は沈黙してはならないー
                     澁澤京子

   暖かな家で何事もなく生きている君たちよ・・・・
   これが人間か、考えてほしい
   ・・・・
   考えてほしい、こうした事実があったことを。
   これは命令だ
   心に刻んでほしい           

       『アウシュヴィッツは終わらない』プリーモ・レイヴィ

  ・・わけもわからず死んでゆく子供
    生きてるだけで罪悪感
    もう見たくない
    世界の裏を知りつつも目を伏せ綴る平和な日常
    そんなくだらないの書いて意味あんの?
   -中略―
    虐殺を止められない国際社会の一員
    それがうち・・
   ・・とにかくなりたくない恥知らずな作家
    Sell Out 金儲け・・         

       ~大田ステファニー歓人 すばる文学賞授賞式でのスピーチ

すばる文学賞をとった大田ステファニー歓人さんの小説「みどりいせき」はまだ読んでいないが、彼の授賞式でのスピーチ(詩)がとても新鮮だったので、一部抜粋して書き起こした。教会の帰り、「私はアメリカ人であることが恥ずかしい」と一緒に歩いていたシスターがおっしゃったが、今のパレスチナの問題はアメリカ人だけの問題じゃなく、「傍観者でいることが恥ずかしい」私たちも同じなのである。しかし、こうしたうしろめたさを覚える人は割と少なく、その代わりに、変に醒めたことを言いたがる人々が増えた。揚げ足を取ったり茶々を入れたり、つまらない屁理屈をこねる人々、そうした干からびた感受性の群れの中で、大田さんのスピーチはまるで造花の中の一輪の活きた薔薇のようにみずみずしい。

大田さんの詩は、ベトナム戦争とニクソンに対して怒りをあらわにした、ネルーダの呪詛のような詩に通じるものがある。世の中には「きれいな怒り」というものがあるのだと思う。

暮れに亡くなった山田太一さんの『岸辺のアルバム』(1977・TBS)は、崩壊しているのに見せかけの幸福にこだわる家族を描いた優れたドラマだけど、今見ても新しいのは、アルバムやマイホームといった見せかけを重視して、次第に人間性を喪失してゆく日本人の姿を描いているからだ。主人公(杉浦直樹)は、会社の売り上げのために闇の武器輸出や、東南アジアからの売春婦あっせんにも手を出してしまう。ちょうどバブルに突入する少し前のこのドラマでは、「お金」が価値観の中心となっている日本人の、次第にモラルが崩壊してゆく過程を描いていて、唯一まともな感受性を持っているのが浪人中の長男(国広富之)で、彼が家族の欺瞞・偽善を暴く告発者となっている。このドラマの投げかける「真の人間らしさとは何か」という問いは、見せかけや「お金」、物事の表面にこだわって本質を見失っている、今の多くの日本人に対する鋭い批判にもなっているだろう。

昔、朝鮮人慰安婦問題でも、まだ生存していた元慰安婦の訴えに対し「金銭が目的だろう」といった意見が圧倒的に多かった。そうした賠償金の問題よりも重要なのは、人種差別と性暴力であり、日本側の謝罪によって過去と和解したかった、彼女たちの心の問題でもあることに気を留める人は極めて少なく、そうしたデリケートな問題を、すべて政治や賠償金の問題に還元してしまえば、個人の痛みは全く無視されてしまうのだ、数字が刻印されたアウシュヴィッツの囚人のように。

今、朝鮮学校の無償化を生徒たちが訴えていて、それに対する心ないコメントや悪態が多くて日本人でいるのが恥ずかしい。ジャニーズの性加害問題では大騒ぎして、なぜこういう差別については平気で無視出来るのだろう、私たちと同じように税金を払っていれば、日本の高校と同じように平等の無償化を望むのは当然ではないか。

『岸辺のアルバム』で、主人公(杉浦直樹)は、洪水警報が鳴ってから危険を冒して家に戻り、家族のアルバムを取り戻そうとするが、窓辺に吊り下げられている鳥かごの中の二羽の黄色い小鳥は、家族の誰の気にも留められないままなのである。それは、自分たちも飢えているのに犬や猫、鳥といった小さな命を大切にする今のパレスチナの人々とは対照的で、『岸辺のアルバム』の日本の家族は、小さな命よりもアルバムのような形のほうが重要なのだ。(命よりも形や形式を重要視するところは、三種の神器にこだわって戦争終結をぐずぐずと引き延ばしてしまった、旧日本軍を連想させる)

詩人というのは、表面的な言葉からこぼれ落ちてしまう大切なものを拾い集めて表現する人々のことだが、その最も大切なものに無関心、あるいは気が付かないのは、言葉そのものとヒューマニティの危機であるということかもしれない。言葉の危機は、過激なシオニストやネット右翼のヘイトスピーチに顕著で、彼らの言葉がなぜステロタイプになるかというと、その訴える動機に深み、つまり人としての切実さが欠けた、ただの脊髄反射による反応だからだ。だから、いくら「美しい日本」と言っても、汚れた墓石の表面を白いペンキで塗ってごまかしているとしか思えない。どこの国でも急進的右翼は、敵対する相手をフェイクだの自作自演、虚構と決めつけるところが万国共通しているが、そういう発想から陰謀論にまっしぐらにはまってゆくのだろう。彼らは、何が真実で何が虚構かわからないといった、相対主義の時代の申し子なのかもしれない。戦争のリアルは無視し、靖国ロマンには陶酔するが、たとえば『きけわだつみの声』は読んだことあるのだろうか?あの本を丁寧にじっくりと読めば「美しい日本」のイメージはかなり崩れると思うのだが。

そして、蔓延する言葉の単純化、浅薄さは、「30分でわかる~」といった小説や哲学の要約本や、マニュアル本の流行と関係あるだろう、特に小説や映画などは要約されたあらすじよりも、ディティールのほうが重要なのであり、そうした要約本で育った子供が深い読解力と繊細な感受性を持てるだろうか?

  詩人とはどういうときにも沈黙してはならない人のことだ。つまりこれは勝算があるかないか、効率的かどうか、有効かどうか、とは違うということである。~『詩の力』徐京植

やはり暮れに、徐京植さんもまた亡くなった。ずいぶん昔、『子どもの涙』というエッセイを読んで、大変、感動したことがある。サラ・ロイの本にも対談で登場していると思っているうちに亡くなった。徐京植さんは、今のパレスチナの状況をいったいどのようにご覧になっていたのか、ぜひ知りたかった。

今、パレスチナのデモに参加する人々、たった一人で、毎晩大阪で、東京のどこかの町で、寒空のなか「停戦」のプラカードを掲げてスタンディングする人々、ツイッターで地道に翻訳して情報を流す人々、体調を崩しながらもパレスチナのための呼びかけを続ける人々、イスラエル企業のボイコットを呼びかける人々、皆、いてもたってもいられずに行動した人々ばかりで、そうしたすべての人の行動は、実に詩的じゃないかという気がしてくる。パレスチナ支持者に、ミュージシャンやアーティスト、女優や詩人が多いのも納得できる。

つまり、「役に立つ・たたない」とか、「勝ち・負け」といった、世俗の価値観からこぼれ落ちた、人間にとって本当に大切なものを拾う人びとが、詩人なのであり、今、世界中で停戦を叫び、パレスチナを様々なかたちで応援しようとしている人びとがまさにそうなのである。そう、徐京植さんの言うように「詩人とはどういうときにも沈黙してはならない人」なのだ。

「・・私たちの誇りは、人間性を保つところにあるのです。」        

       リファート・アラリエールが友達に語った最後の言葉
      (パレスチナの詩人:2023・12・7,家族と共にイスラエル軍に殺害)

パレスチナの男子校のカダシュ先生は生徒たちに、「鳥にはアイデンティティがない」と語った。私たちは日本人であるとかアメリカ人であるとかイスラエル人である前に、まず一人の「人間」なのであって、その「人間性」がどういうものであるのかが、最も大事だということを詩人は語っている。その人がどういう性格なのかとか、どういう品性の持ち主かが人の真のプライドになるのであって、人の価値は、決して国籍や肩書によって決まるものではない。殺されたパレスチナの詩人もカダシュ先生も似たようなことを語るのは、彼らが難民という不安定な立場にあるせいかもしれない。ナショナルアイデンティティや肩書をはく奪された裸の個人、つまり個人の人間性と品性で判断する彼らのやり方のほうが、見せかけにこだわる私たちの社会よりも、ずっと洗練されているように思う。

    参考文献 『詩の力』徐京植
         『ガザとは何か』岡真理・・最近、緊急出版されたこの本はとても
          わかりやすく、著者の情熱が伝わってきます。


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住宅団地 記憶と再生 №27 [雑木林の四季]

「慎重な都市更新」原則と賃貸住宅「再公有化」運動 1

     国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 以上みてきたのは、19世紀後半から20世紀30年代にかけて建設されたドイツの古い団地であり、それらを2010年以降にわたしが見聞した記録である。実地に見たあとで、各団地がたどった存続の危機、住民の労苦と世論の支援、記念建造物としての公的保護、団地再生への営為、なかには世界遺産への登録、等々の経過を知ることができた。これらの経過は、いうまでもなく、とくに大都市の住宅に共通してさまざまに生起した問題や施策の一環にすぎず、中央および地方政府の住宅法制と政策、市場動向等との関連においても検証すべきであろうが、それはできていない。
 ここではただ、これまでの記述のなかで点描した事実を拾いあげてつなぎ、ふりかえってドイツの都市再生の基本的な特質について再論しておきたい。
 ルール地方の労働者団地でみたように、所有主と自治体が取り壊しを計画し、再開発にのりだしたのは1960年代にはじまり、住民運動が計画に反対し、記念建造物として公的保護に転換させたのは70年代にはいってからである。74年のグスタフ・ハイネマン大統領の「社会的建築」発言の意義は大きかった。地区の社会的環境を解体し、地区住民の居住継続をおびやかすクリアランス型再開発は認めないとする表明であった。75年にはヨーロッパ記念物保護年のキャンペーンが各地で展開され、都心の再開発、都市開発が第2次大戦の空爆に匹敵する都市破壊、景観破壊とする告発、展示会がおこなわれた。こうしたなかで「市民に、自分たちが暮らす都市の独自の歴史、景観にたいする関心、愛着が高まってきた」(大村謙二郎「ドイツ都市計画の動向と展望」、『現代都市法の新展開』2004年東大社研・研究シリーズNo.16、17)。
 1970年代の特徴として、各自治体の都市計画観、計画実践に明らかな変化、転換がみえはじめ、とくに計画の早期段階からの住民参加、合意形成が制度上、明確に位置づけられたことがあげられる。法制上も、70年代に都市計画への住民参加制度が大きく改善され、80年代にはいり再開発法制が改正され、スクラップ・アンド・ビルド型の再開発から「保全的都市更新」へと転換していった。それは1986年の建設法典の制定となり、「現存の地区を保持し、更新し、かつ存続されること、地区の景観および自然景観の形成を改善すること、記念物保護の要請を考慮すること」という項目が新設された(広渡情吾ほか『現代の都市法』1993年東京大学出版会、49ページ)。
 ドイツだけでなく、1970年代から80年代はじめにかけては、オランダ、フランス、イギリスでも大都市に住宅占拠運動が燃えひろがった。都心部の古い、家賃の安い建物が解体されて、若者、学生、高齢の年金生活者など低所得者層は住居を奪われ、住みなれた地域を追われた。再開発が予定された地域は空き家、空き地が増え、これを占拠して住みつき独自の生活圏をつくる若者たちの運動が各所で起こった0空き家を占拠する住民運動は、都市を貪本収益の場とする再開発事業への抗議であるとともに、積極的には住宅政策の転換、都市改造への住民参加をもとめ、歴史的遺産をふくめ自然と景観を守るエコロジー運動でもあった。
 さきにあげた各団地での住宅補修は、第2次大戦の空爆被害にたいする応急的な処置にはじまり、80年代の団地修復は、明らかにクリアランス型再開発を対極に見ながらの、住宅占拠運動にも呼応する団地住民と都市自治体との連携した新しいまちづくりの取り組みであった。
 こうした都市改造をめぐる住民運動の高まりのなかで1982年にクロイツベルク地区でまとめられた「慎重な都市更新12の原則」は、83年に西ベルリンの原則として確認され、1984/87年のベルリン国際建築展のプログラムにもとりいれられ、やがてドイツの都市更新、団地再生の本流となり、現在に生きている。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂



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地球千鳥足Ⅱ №38 [雑木林の四季]

 バッグをギユツと抱え戦史と行動史を辿る旅
   ~フィリピン共和国~

      小川地球村塾塾長  小川彩子

 フィリピンという国名からあなたは何を連想しますか。日本やカナダ等世界中への出稼ぎ? 素晴らしい無血革命を成し遂げたあのピープルパワー(People Power)? 今は亡きコリー(コラソン)・アキノ元大統領の笑顔? 日本軍のコレヒドール島占領とバターン死の行進?と、歴史上の事件を逆に辿ってみたが、私にとっては常にバッグをギユツと抱えて歩かねばならない国。2012年の今回も、1987年、コリー政権下も、1979年の戒厳令下も、だった。33年前と同じ手口の睡眠薬強盗の記事が現在も観光客を怯えさせるが、想像を絶する貧困に喘ぎつつ明るい笑顔を忘れない人々も変わりなかった。訪問3度目の今回は日本軍による「バターン死の行進」跡を辿り、若き日の私の行動の跡も辿ってみた。また、戒厳令下の一人旅で、睡眠薬入り魔のビール、サン・ミグエルを振る舞われ、お金やフィルムを抜かれた雑炊屋を再訪した。
 スペインに300年以上、アメリカに48年、日本に3年支配されたフィリピン。1942年4月9日、日本がコレヒドール島を占領、投降した米比の捕虜7万6000人の半数以上をマリベレスからサン・フエルナンドまで3日間行進させた。マラリア、赤痢の蔓延する中、炎天下の行軍とあって7000~1万人がマラリア、飢え、疲労その他で死亡したものと見られている。これが悪名高き「バターン死の行進」だ。夫は当時の捕虜の気持ちを知りたいと、この行軍の出発地、0キロメートルポイントのマリベレスから5キロ地点まで歩くと決めた。私は1時間後タクシーで出発、1キロごとのマーカーを探しながら5キロ地点で夫を拾うことにした。1メートル余りの高さで尖塔のある白いマーカーには、倒れ死す寸前の捕虜2名の姿が描かれている。私は102キロのうち80キロまで撮りまくった。5月末の暑い日だった。こんなに長い距離、しかも坂道を炎天下、飲まず食わずで歩いたら死ぬしかない、と思いながら。私のタクシーの運転手は妙齢だったが、「死の行進の跡を辿るお客は貴女が初めて」と言い、「あ、あそこにある」「今度はここです」とマーカー探しに協力してくれた。所々に死の行進を悼む慰霊碑もあった。
 満潮時に捕虜が死すサンチャゴ要塞があった。第二次大戦中日本軍が占領、水雫の地下牢で、多くのフィリピン人が満潮時に水死させられた。「征服すれば容赦なし」のこの水攻め要塞では海水が入り込む穴が口を開け、見るもつらい。マニラ市のど真ん中で神も仏もない地獄社会が展開されていたのだ。一緒に来た運転手ジョナサンは二私は祖母に育てられました。その祖母は日本兵にレイプされました。でもそれは終わったこと、今では歴史です。もう忘れました」と言ってくれた。
 33年前の1979年、アジア最古の大学の一つ、UST(聖トマス大学)を訪問した。威厳のある正門から入り、学生たちと話し裏門に抜けると……純朴そうなおじさんに誘われある雑炊屋へ。ビールをご馳走になった。隣の2階でおじさんの妹君にマッサージを施され、まどろんでいる間に財布の中身もフィルムも抜かれたのだが、あの時同様、雑炊屋は狭く奥行きは長かった。だが改装され、隣家への恐怖の階段はなかった。店内には客2、3人、今度は自分でサン・ミグエルを買い、客に振る舞い、無事USTの表側、正門へ戻った。今回は、お金もフィルムも抜かれずに。
        (旅の期間一2012年 彩子)

『地球千鳥足』 幻冬舎


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山猫軒ものがたり №31 [雑木林の四季]

米だ!米だ! 1

         南 千代

 パーン、パパーン。朝一番。花火の音が聞こえた。今日は、地区対抗の町の運動会。出場者と出場種目はあらかじめ決められており、回覧板で回ってくる。龍ケ谷は若い人が少なく、三十歳を過ぎてしまった私たちでさえ、若者の部類であったから、二種、三種と競技に出ることになっていた。
 運動会なんて、高校時代以来のことである。場所は、町の中学校だ。私はドキドキしながムバイクを走らせた。夫は、自称、カメラ粧。ここに来てからは、地元の行事や歳時を機会あることに撮っている。中学校に着くと、龍ケ谷のテントを捜した。区長や各組長、スポーツクラブの役の人たちが、お茶入れなどみんなの世話をしている。

 地元には、運動会もそうだが、さまざまな集まりや行事、共同作業などがある。元旦には、朝十時に集合して熊野神社に詣で、元旦祭。年に二回の小祭、一回の大祭もある。夏のスポーツクラブのカラオケ大会やバーベキユー大会。農事の行事、お日待ちの宿。
 共同作業では、夏場ひんばんに行う道普請、女の人だけが定期的に受け持つ集会場の掃除。加えて葬儀から法事などまで、組内の冠婚葬祭のおつきあい。集会場を建直すための解体といった作業や道路沿いの桜の木の手入れ、などなど。
 地区ごとの役職や農事の役も分担で行う。区長、組長、班長。祭りの役である大当番、小集め。体育委員や衛生係、道路係。農協との間を取り持つ支部庁、班長など。役を受け持つのは、龍ケ谷全五十数戸に対し四十人ほど。私たちも、来て一年目から衛生係になっていた。
 大祭、小蒔釣りくつ察などは日曜、平目に関係なく星間に行われる。参加する一家の主は、ほとんど高齢者で勤め人などの祭。また、お年寄りの一人暮らしのケースはあっても、核家族という構成はない。家には、基本的にはいつも誰かがいるのがムラなのであった。
 このような状況で、個人的つきあいはともかく、地元づきあいも同等に担っていくには、私たちのような者にはかなり無理がある。私たちは、ここが実家ではない。たとえば、ムラでは、元旦は実家に帰ってくる家族を迎える立場だが、私たちは他県の実家に帰る立場なのだ。冠婚葬祭にしても同じ。
 しかし、当初三年間は、私たちは本業の仕事を断ってでも地元のつきあいには参加しょうと思っていた。夫も私も自由業だからできたことで、会社勤めの共稼ぎだったらとても無理だったろう。地元づきあいを大変だと思うか、興味を持って参加しようと思うかはそれぞれの価値観だが、私たちは後者だった。
 自分たちが腰を据えて住もうとする土地の、歴史、風習、暮らしを知ることは、おもしろい。また、そうして長年ムラの景観や慣習が保たれてきたからこそ、私たちもいい所だと喜んで住むことができたのかもしれない。それを思えば、共同作業などをきちんと務めることは、移り住んで来た者の礼儀だという気がした。
 冠婚葬祭のつきあいなどは、私たちのような者が今後増えてくれば、自然に改善されてくるだろう。長い時間はかかると思うけれど。
 農協へは加入する意味も必要も感じしかなかったが、集落の全員が加入しているので、つきあいの意味でも入ったほうがよいだろうと紹介者からすすめられた。加入する前に念のため、と町の農協に出かけて行き、組合長に会った。大まかに自分たちの状況を伝えた上で聞いた。
「農協に加入すると、何か良いことがあるのでしょうか」
 組合長は、やや考えて、シンプルに答えた。
「別に、そのようなことは何もありません」
 私たちは、ガッカリして一万円払って組合員になった。

 つな引き、リレー、とプログラムは次第に進んでいく。近所のおばあちゃんたちがすすめてくれるきんぴらや漬物を楽しみながら、私が出たのは玉入れと、みんなでジャンプという集団ジャンボ縄飛び、夫は、ムカデ競走だった。
 夫は、カメラの仕事のときはワークブーツ、畑作業のときは長靴か地下足袋しか履かない。今朝になって、スポーツシューズを持っていないことに気づいた夫の足元は、地下足袋である。トレーナーなども嫌いだと言って、持っていない。
 作業ズボンに地下足袋姿、丸坊主にアゴ髭スタイルの夫は、いやが上にもムラでは目立つ運動会ファッションだった。
 運動会の龍ケ谷の成績は、どリから二番目。それでも終わると、集会場で酒の慰労会がある。夫は、酒があまり強くないので・みんなの写真を撮ったりする。カラオケ大会の席などでも、カラオケが大嫌いなので、照明係を引き受け、難を逃れていた。

 芋、小豆、大根。畑の収穫期である。里芋が穫れる季節になると、毎年二度は行うのが、芋鍋大会だ。東北地方では、芋煮会と呼ぶ。
 畑のゴボウ、ニンジン、ネギなどの野菜もたっぷり使い、味噌仕立ての鍋をみんなで愉しむ。今年はコンニャクも手づくりなのがうれしい。三軒隣のおシゲさんからもらったものだ。
 山猫軒前の河原に石で即席のかまどを作り、鍋をかける。芋煮会に集まったのは、越生町にできた新しい友だちが中心だ。写真館の山口さんをはじめ、岩間さん家族。木工家の真田さん家族や、鍛金と陶芸の草地さん夫婦、革細工の佐藤さん家族、など。越生にはモノ作りの作家たちも少なくない。皆、私たちと同じ年代だ。
 山口さんを除けば、地元出身の人は少なく、ほとんどが、よそから移り住んだ人々だ。私たちのように山暮らしをしている人はおらず、皆、町の周囲に住んでいる。それぞれの理由からこの町にきた経緯を持っているが、住みついた理由には共通する点があった。
 必要なときには、都心に気軽に出かけられる距離。それでいて、創作活動のための工房や住居が、そう高くない値段で確保できる点。
 ムラの人、町の人。若い人からお年寄りまで。この町では多くの友だちや仲間たちができそうである。

『山猫軒ものがたり』 春秋社


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台湾・高雄の緑陰で №38 [雑木林の四季]

      2024年の台湾総統と立法委員選挙について

        在台湾・コラムニスト  何 聡明

 台湾の前途を決める2024年1月13日の総統及び立法委員(国会議員)選挙は1ヶ月後に迫った。
親中国の両野党、中国国民党と民衆党の総統候補は今年の11月中旬まで結束して民主進歩党(=民進党)を与党より追い落とす協議を重ねたが、11月24日に野党二党の結束協議が決裂して、與野三党の巴合戦が最終的に決まったのである。4人目の無党派候補者であった鴻海集團(フォクスコン)の創始者で中国に多額の投資をしている郭台銘氏は中国政府に退陣を迫られて候補を断念した。
 野党二党の協議決裂は民衆党の党首柯文哲氏(医師、元台北市長)が自分を総統候補に、中国国民党の総統侯有宜氏を副総統候補に据える事を堅持したからである。そもそも民衆党は柯氏が台北市長在任中の4年前に創立した若輩の政党であり、中国大陸で創立以来112年目を迎えた中国国民党の総統候補を柯氏が副総統にすえると堅持したことを中国国民党が強烈に反対したのは当然であろう。
 機会主義者または投機主義者といわれている柯氏はアスぺルガー症候群者でもある。医学博士司馬理英氏はアスペルガー症候群者の特性の一つは:「相手の立場に立って考えるのが苦手、自分にされて嫌なことなのに、相手にしてしまう、相手を思って言ったつもりが、相手を傷つけることもある」と述べる。柯氏は若輩小政党の党首でありながら、大先輩政党の総統候補を次席に置こうと堅持したので在野二党連盟の協議が失敗に終わったのである。
三党鼎立が決まると、台湾本土派の与党民進党の現職副総統で総統候補でもある頼清徳氏は元駐米代表(大使相等)の蕭美琴女史を副総統候補に指名;中国共産党政府との和解を望む国民党総統候補、侯有宜氏は親中国で極右派の外省人(戦後台湾に住み着いた中国人)趙少康氏を副総統に指名;中国寄りの民衆党総統候補、柯文哲氏は同党の立法委員呉欣盈女史を副総統に指名した。これで三党対決の顔ぶれが揃ったのである。
 今回の選挙戦で私が特に気ずいたのは、台湾本土派陣営に外省人が増えたことである。これは10年前なら考えられないことである。今回の主要三政党の総統候補は3人とも台湾人であることも始めてである。民進党と民衆党の副総統候補は台湾人だが国民党の趙氏は外省人で長らく台湾人を軽蔑し、台湾は最終的に中国の一部であると信じている胡散臭い人物である。彼は副総統候補でありながら、選挙戦術や中国国民党の主張等では総統候補の侯氏を後輩のように扱っているのが見え見えであるので、一部台湾人党員の不満をかっている。
 総統選挙の見通しだが、中国国民党の侯候補は今回の選挙は「中国と戦争か、平和かを決める選挙だ」と主張;民衆党の柯候補は「今回の選挙で当選は難しいが、次回の総統選挙で勝つ基礎を造りたい」と述べている。民進党の頼候補は「中国との戦争は全く考えていないが、台湾の主権を守る力をつける努力をする」と決意をしめした。総統選挙の結果、軍配は頼氏にあがる可能性が高いと思われているが、油断大敵であるので、着実に選挙戦を進めるべきだろう。
 民進党が来年も与党として居残れば、立法院での総席次113席半数の57席以上を獲得して、与党の政策に基ずいた立法を続けなければならないので、是非議席の半数以上を獲得する必要がある。與野党共に立法委員の選挙は絶対譲れないとして、その選挙戦も日増しに熱気をおびているが、与党は苦戦を強いられているようだ。
 来年以降の台湾の前途を決める選挙の投票日はもう間近だ。さて、どのような結果になるだろうか?私は一生台湾のどの政党にも所属していないが、常に我が祖国は台湾であると認めており、本土政党が長らく与党に留まることを願い、これから8年以内に台湾が建国できることを願っている。


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BS-TBS番組情報 №295 [雑木林の四季]

BS-TBS 2023年12月後半のおすすめ番組

        BS-TBSマーケティングPR部

JUJU Xmas box - 20 YEARS STORY

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12月24日(日)よる9:00~10:54
☆JUJUの20年の歩みを、独占インタビューとライブパフォーマンスの映像と共に振り返る。

JUJUの珠玉のパフォーマンスを集めた、特別番組を放送します。自身の音楽人生に大きな影響を与えたジャズとの出会いから、現在に至るまで、これまでJUJUが歩んできた20年の歩みを、独占インタビューとライブパフォーマンスの映像と共に振り返ります。今年のクリスマスイブは、JUJUからの歌声のプレゼントをどうぞご堪能ください。

ペットドクター花咲万太郎の事件カルテ2~お隣さんは殺人犯!?~

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12月29日(金)よる7:00~8:54
☆坂本昌行主演の新作2時間ミステリードラマ 第2弾!
動物を心から愛するマイペースで個性的な獣医師・花咲万太郎が事件を解決に導く!

◆キャスト
坂本昌行、矢田亜希子、中山優馬、秋元才加、小宮璃央、近藤公園、朝井瞳子、羽瀬川なぎ
佐野岳、横山由依、赤ペン瀧川、大野泰広、津田恭佑、山口良一、関武、さくら 他

犬の散歩を兼ねた町内の防犯パトロールの途中、玄関のドアが開いている家を見つけた万太郎たち。呼びかけても応答が無く、中に入ってみると…そこには瀕死の柴犬が倒れており、さらに奥へ進むと、背中から血を流した男性が死んでいた。
男の名前は青柳秀夫、株などの資産運用で生計を立てている人物だった。蓑田玲子と嵐山健吾が事件を担当するが、嵐山は第一発見者である万太郎を疑う。

捜査が進む中で、事件発生時に現場付近に新進気鋭のメディア社会学者・唐沢智之がいたことが判明する。さらに智之の妻・菜摘も何かを隠しているようで…?

そんな中、第二の殺人事件が起こる…!

「吉田類の年またぎ酒場放浪記 
      ~酒は愛!飲んで、食べて、冬の東北めぐり~」

294吉田類の酒場放浪記 みちのくSP.jpg

12月31日(日)よる9:00~翌深夜1:00
☆「酒は愛」をテーマに、吉田類が東北の魅力をたっぷりとお届する、みちのく380キロの旅!

舞台は、東北エリア。
被災した福島から岩手の海岸沿いを北上し、被災地の町の老舗酒場や酒蔵を飲みめぐります。旅のスタートは、福島県いわき市から!いわき名物「めひかりのから揚げ」を地酒で堪能します。
浪江では元教師のご主人が営む酒場を訪問。大きな被害を受けた気仙沼では、とれたての海の幸を無添加手作りで出してくれる酒場で一献。釜石では、被災後、移転して営業を再開した、創業60年以上の歴史を持つ老舗居酒屋と小料理屋をはしごしちゃいます!宮古の酒場では、三陸の新鮮な磯料理を堪能!「食べて応援!飲んで応援!」をテーマに、吉田類さんが東北エリアの魅力をたっぷりとおとどけします!
 
今年の年またぎ酒場は進行役に日比麻音子アナが登場!類さんと一年を振り返ると共に、視聴者から募集した「もう一度見たい放送回」を紹介。さらに「年またぎ酒場放浪記」の放送に先駆け、よる7時からは、20周年特番として9月に放送された「祝20周年初海外SP 台湾グルメで乾杯!」の未公開シーンを追加したスペシャル再編集版も放送!
大晦日は計6時間の酒場放浪記づくしで年を越そう!


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海の見る夢 №67 [雑木林の四季]

       海の見る夢
           ―イカロスの失墜―
                     澁澤京子

 ・・さて、ヘロデは占星術学者たちに騙されたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺させた。 マタイ2・16~(ユダヤ人の王が生まれるというお告げを聞いたヘロデは国中の幼子を殺した。幼子イエスとその母マリアはヨセフと共にエジプトに逃れていたので助かった)

もうすぐクリスマスなのに気持ちが沈むのは、やはりパレスチナのことがあるからだ。古代に、疑心暗鬼となったヘロデ王が起こした虐殺より、比較にならないほどひどい虐殺が同じ場所で行われているとは・・空爆が再開され、たった一日で700人以上のパレスチナ人が亡くなった。おそらくその半数は子供だろう・・イスラエル政府は、パレスチナ側が赤ん坊の人形を使って騙している、フェイクだと、公表したらしいが、それがイスラエル政府のウソに過ぎないのは、たとえばツイッターでGAZAあるいは「UNRWA」「国境なき医師団」で検索して流れる実際の映像を見れば一目瞭然。イラク戦争のころから、見え透いたプロパガンダに人があまり騙されなくなったのは、SNSの登場によって現地の映像を私たちも瞬時に見ることができるからである・・

イラク戦争の時は、脳みそを吹き飛ばされた子供を抱いた父親の写真に衝撃を受けたが、(5年間の間、イラク人死亡者は4万人)しかし、今回のパレスチナでは毎日そういう写真が次々と流れてくる。二か月もたたないうちにパレスチナで殺された子供の数はおよそ10000人以上、平均年齢5歳(およそ、になるのはカウントする4人が殺されたから)もはや、イスラエルの言い分とか、パレスチナ問題は複雑とか、右派とか左派のイデオロギーの話ではなく、今の状況はとてもシンプルで、ジェノサイド(特に子供の)を容認できるか、できないかの話だと思う。

日本のメディアはイスラエルメディアを真に受けた偏向した内容のものが多い。数少ない良心的なジャーナリストのひとりはTBSの須賀川記者。

瓦礫に埋もれたまま、まだ行方不明の子供、空爆により手足を失い、身体障害者となった子供の数を合わせればさらに膨大な数になるだろう。他の国の子供たちは、もうすぐやってくるクリスマスを楽しみにしているというのに、両親を失い、さらに自分も片足、片腕を失って血だらけで病院の床に寝かされているパレスチナの子供たち。

フランクルは『夜と霧』の中で「・・最も善良な人々は、みな逝ってしまった」と書いたが、半数の犠牲者が子供の今のパレスチナがまさにそうではないか。イスラエル政府の、どんどん土地を奪いながらパレスチナ人を追放し、追放できないとわかれば封じ込めて虐殺というのも、ナチスのやり方と似ている。相手の評判を落とすためにプロパガンダをばらまくという、卑劣なところも。

アウシュヴィッツも、パレスチナの民族浄化も、突然起こったことではない。長い期間にわたる人種差別、そして隔離があった。それらをごまかすために相手を悪党と決めつけて吹聴するという卑劣な手段も皆、プロパガンダの巧みなナチスのやったことと同じ。そして、それを薄々知りながら、世界は黙っていたことも。(最初、報告を受けたルーズベルトは強制収容所の話を捏造として一蹴した)

なぜホロコーストが起こっているときに、世界は沈黙していたのか今の状況を見ると本当によくわかる。ナチスを恐れていたように、イスラエルに他の国々が気兼ねし、そして周囲に歩調を合わせ、見て見ぬふりか「無関心」であるほうが、人は生きやすいということが。

・・昔の巨匠は「受難」について間違っていなかった
  -中略―
  農夫はイカロスが失墜して悲鳴を上げたのが聞こえたかもしれない
  だが、彼にとってそんなことはどうでもいいのだ・・
                           「美術館」オーデン

ブリューゲルの「失墜するイカロス」を見て書かれたオーデンの詩。私たちは、みんなこの絵に出てくる(無関心な)農夫なのかもしれない,他人の痛みと無関係にのんきな農夫。しかも、今、空から墜ちてくるのは、ブリューゲルの絵のように一人のイカロスではなく、無数の血だらけの小さな子供や赤ん坊たちなのである。

ベツレヘムもエルサレムも聖地どころか、パレスチナ人大虐殺の地となってしまった。イスラエルはパレスチナのみならず自身をも滅ぼしているとしか思えない。

通常は歴史を遡ると中立的な立場になることが多いけど、イスラエル・パレスチナの場合、まず75年にわたる想像以上に過酷なアパルトヘイトがある。それがどんなにひどいものだったのか、書物を読んで知れば知るほど、とても中立な立場はとれなくなる。そして、それを裏付けるかのように、ツイッターで流れてくる衝撃的な映像。イスラエル兵に目隠しをされ、まさに「人間の盾」とされている少年。サッカーをして遊んでいただけで、いきなり銃で撃たれて倒れる少年、狙撃の練習にパレスチナの子供をフェンス越しに撃ち殺すイスラエル兵・・ほとんどが、面白がってパレスチナの子供をいじめている、あるいは面白がって殺しているという吐き気を催すような映像ばかり・・そうした残虐を行う人間にイスラエル兵士が多いのは、よほど抑圧の大きいヒエラルキー社会なのかもしれない。パレスチナでは10月7日以前、いやもっと前からこうしたことは日常茶飯事だったのだ、と衝撃を受ける。そして、多くのパレスチナ人は訴えることもできずに泣き寝入りするしかなかったのだ。ハマスが人質を取ったというが、イスラエルが拘束しているパレスチナ人は1500人。(子供が多い)路上でもこれだけひどい残虐な行為、遊び半分の殺しをするくらいだから、果たしてどんなに恐ろしい拷問があることか・・

パレスチナ人を嘲笑し、差別する過激なシオニストと、韓国に対するヘイトスピーチを平気で行う日本のネット右翼の人々には共通するものがある。ゆがんだ愛国心と他国を見下してプライドを維持する幼稚なメンタリティ、そして厚顔無恥。1948年以来、イスラエル政府がパレスチナ人を虐殺、追放したことを見て見ぬふりし、正当化するために逆に相手にテロリストのレッテルを貼って責めるのは、南京大虐殺や朝鮮人慰安婦問題を否定してし、逆に相手が悪いとしてなじる「美しい日本」のネット右翼のやり方にそっくり。自分の都合の悪いところは見ようともせず、他人の痛みは平気で踏みにじり、悪のレッテルを貼りつけて吹聴するので、差別しているという罪悪感すらないのかもしれない。意図的に密入国者と女性タレントを決めつけ侮辱する区会議員、差別発言して堂々と開き直る自民党議員。両方とも女性とは・・他人を汚い言葉で侮辱することがストレス発散になっている人びと。

アメリカの大学では、親パレスチナのデモをした学生は就職できないようにしたり、仕事を首になったりしているらしいが、言論の自由とは、汚い差別発言は許されて、イスラエル政府批判は許さないものだったとは・・(反シオニズム=反ユダヤ)と、アメリカ議会で決議されたそうだが、実に姑息なやり方をする。イスラエル政府批判=反ユダヤとすることで、今のイスラエル政府に反対するユダヤ人や、他の国のシオニズム批判に対する口封じと脅しだろう。何度も書くが、反シオニズム≠反ユダヤなのである。

かつて、故・安倍総理とネタニヤフ首相が握手しているとき、二人の傲慢そうな笑顔に嫌な予感がしたが、一人は日本をダメにし(今、安部派は裏金問題で化けの皮がはがされているが)、一人はパレスチナを滅ぼそうとしている、そして、道義を踏みにじっても、品位を落としても恥じないほど、自己防衛心の強い拝金主義者であるところも二人は似ている。もちろん、その取り巻き・支持者も同じ穴のムジナで、今、イスラエルや日本、世界中で失われつつあるもの、それは人としての道義心と品性だと思う。

時折流れるツイッターでは、瓦礫に埋もれて動けなくなったロバを賢明に救助しようとしたり、配給された貴重な水を犬とわけあったり、鳩に食事を分ける子供たち、生き残った猫たちに餌をあげるジャーナリスト(彼はその後殺された)、そうした窮状にあるパレスチナの人々の、お互いに助け合ったり、動物を助けている映像が流れてくる。自分たちも水が不足し飢えていていつ死ぬかわからない状況なのに、他を思いやることを忘れない、パレスチナの人々の繊細さとやさしさ。パレスチナのドキュメンタリーを見ても、自分も大変なのに、まず他人を助けるために身体が動いてしまうような人が多い。「人権」から疎外されたような人々が逆に真の「人間らしさ」を見せるのは皮肉な話。一緒に空爆から逃れた犬を優しくいたわるパレスチナの少年の輝くような笑顔・・泣き叫ぶ母親・・悲しみと怒りの表情で天を仰ぐパレスチナの男・・人は真実であるときが最も人間の崇高さを見せるのかもしれない。パレスチナ人を見殺しにすることは、私たちが失いかけている人間のやさしさ、窮状にあっても道義を失わない品性、そうした人間の美しさを土足で踏みにじっているような気持ちになる。

・・鳥にはアイデンティティがない、そうだろ。国境も規則も持たない・・鳥は何を持つ?そう、自由だ、自由は最も素晴らしいものだ・・鳥が仲間を大切にするように、自由であるためには、他の人を尊重して大切にすることだ・・・
             ~ジアド・カダシュ先生(パレスチナの男子校の教師)
           『これはわたしの土地』2014仏制作ドキュメンタリー映画

どんなにパレスチナ人が閉じ込められて不自由か、どんなに過酷な日々を生き抜いてきたことか。もちろん、パレスチナの人々の「自由」と私たちの「自由」は違う。パレスチナの人々にとっての「不自由」は物理的なものであり、人間の尊厳を奪われた占領下の差別と不自由であるが、世界のあちこちで、政治力による圧力がかかり、ファシズムの足音が聞こえてくる今、この言葉は心に響く。偏見に凝り固まった不自由な心のほうがむしろ問題なのである。(いまだにハマス=テロリストを撲滅せよと騒ぐ人など)

今、私たちがパレスチナの人々を救うのではなく、むしろ我々のほうが彼らから学んでいるんじゃないかと思う。

カダシュ先生と教え子たちが、どうか今も無事でいますように・・また、『ガザの救急車』は2014年の空爆を記録したドキュメンタリー映画で、まるで悪夢のような映画だが、まさに今はこの数倍もひどい状況なのだと思うと言葉を失う。

※「アジアンドキュメンタリー」で優れたイスラエル・パレスチナのドキュメンタリー映画を見ることができます。

10月7日以後、あまりに衝撃的なニュースが毎日連続しているが、どうかもうこれ以上、パレスチナ人を殺さないでほしい。そして、エジプトに逃亡中に馬小屋で生まれたイエス・キリストのように、難を逃れた赤ちゃんの中から、暴力のない、新しい世界を再建するような、素晴らしい若者が出てくることを祈るばかりである。
 

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住宅団地 記憶と再生 №26 [雑木林の四季]

16・森の団地オンケルトムス・ヒュッテWhldsiedlung Onkel Tbms Hdtte(Zehlendorf.  Argentinische Alle,Onkel-Tom-Str.,Riemisterstr.14169 Berlin) 2

       国立市富士見台団地地自治会長  多和田栄治

 団地のあるツェーレンドルフは1900年ころからベルリンの別荘地、高級住宅地として知られるようになり、またグリューネワルトをひかえ行楽地としても開発がはじまっていた。この地で早くから行楽客に人気のあったビア・レストランがその名を、当時ドイツ語に訳されてよく読まれたストウの小説『アンクル・トムの小屋』からとった。
 マルテイン・ヴァグナーが1925年に馬蹄形団地の建設に着手し、次なる団地を探しにかかっていたとき、ツェーレンドルフの企業家アドルフ・ゾンノーフェルトからグリューネワルトのはずれの所有地の住宅開発をもちかけられ、26年にゲハーグ社が34.4ヘクタールの土地を取得した。ヴァグナーがブルーノ・タウトに託して団地設計にはいるや、市区当局がこれに干渉してきた。中流階級の住宅地に低所得者向けの集合住宅は許せない、という。市区がめざしたのは、税金が払える階級のための、高級住宅地にふさわしい三角屋根の絵のような邸宅であった。ヴァグナーとタウトたちのねばり強い戦いとヴァイマル憲法155条の支えが功を奏し、ツェーレンドルフの団地建設がはじまった。建築主はゲハーグ社、設計はタウトのはか、第1工期(1926~27年)のみフーゴ・ヘリンクとオットー・ルドルフ・ザルヴイスベルクが加わった。2人は南地区の連続戸別住宅を担当した。屋外設計はレベレヒト・ミッゲとマルタ・ヴイリングス=ゲーレ。工期は7期にわたり1931年に完成した。総戸数は1,915戸(アパート型式1,105戸、棟割り型式810戸)であり、うちタウトが設計したのは1,591戸(1,105戸と486戸)である。建物面積7.4ヘクタールにたいし庭と緑地は27ヘクタールと広く、まさに「森の団地」の名にふさわしく、団地名は地下鉄の駅名とともに人気のビア・レストランにあやかった。地下鉄の延伸と駅の開設は計画どおり1929年に実現し、33年にはザルヴイスベルクが駅中商店街を大改装した。
 団地建設の着手から完成までのあいだの市区当局と建築家たちの干渉、これとの戦いの経過についてタウトは、日本に亡命してきて著わした『ジードルンク覚え書』にくわしく書いている。このころすでに平屋根反対論は克服してきていたが、「しかしツェーレンドルフは特別な例外であった。美しい森の住宅区を建設しなければならなかった。この事実が世間に知れると、多くのツェーレンドルフの人びとは大真面目に泣いたそうである。この綺麗なな森にぞっとするような新しがりな平屋根の箱をおくとは、と。それなら、屋根が山形でも平形でも、同じように森と自然を楽しむことができるということを一般の人や役所の人に証明できたのか。その森がなぜ美しいかというと、それは数列の美しい大きな白樺がいくらか平凡な松林のなかに縫うていたからである。そこでわれわれは一本の白樺も伐らないような計画を立てた。この計画を役所に申しでると、この美しい白樺の列は全部伐り払えという。こうなると今度はわれわれ自身が森の美を保護する番になる。」
 「ところが1929年になると、ツェーレンドルフにおいて屋根論争がふたたび蒸し返された」一団地に隣接する地で、のちにナチスを支持する保守派の住宅会社GAGFAHが17名の建築家を糾合して博覧会をひらき、トンガリ屋根だけがみな同じの住宅団地をつくり、反「ノイエス・バウエン」のプロパガンダをはじめたことをさしている。「ツェーレンドルフ屋根戦争」はヴァイマル末期からナチス政権にいたる政治闘争の表われでもあった。平屋根形式はその後も普及していったが、「1930年および31年は、ジードルング建築の波も退潮の時期にあった」とタウトは書いている(タウト全集第5巻、283~286ページ)。
 きびしい財政条件のもとで、労働者・低所得者層向けの住宅を短期間のうちに大量に、しかも「戸外住空間」のコンセプトをもとに、いかに安価かつ美的に建設するか。これをやりぬくために、住宅設計や資金づくりはもとより、都市計画や交通行政との折衝など、どれだけの戦いと連携、計画の練り上げと説得を要したかは計り知れない。私的所有と戸建てを基本とする伝統的な観念から公共的所有の集合住宅への転換を求めつつ、たとえば三角屋根を平屋根にかえることへの抵抗、建物の彩色、配色へ異論、団地内の道路の幅員や強度、舗装、原生の樹木の伐採についての行政の干渉をはねのけてい 国難な道のりについてタウトは語っている。
 ただし、とくにオンケルトムス・ヒュッテ団地についていえば、「戸外住空間」を実現し、住生活近代化の試みを重ねてその方向性を示唆することはできたが、「労働者・低所得者向け住宅」の供給には程遠かったと言わざるをえない。入居者は官吏や職員といった中間層が中心で、タウト自身「中産階級への住宅」に終わったことは認めている。同時に「ジードルング建設の終焉」が近いことも感じとっていた。
 1932年にタウトはモスクワに仕事にでかけ、翌年ベルリンにもどるが、トトラー政権下となり、社会主義者ないしはシンパであったタウトもヴァグナ-も亡命をよぎなくされ、タウトは日本に逃れ、ヴァグナーはトルコに亡命した。タウトが1935年に建築学会の依頼をうけ、幻燈映写つきでおこなった講演記録『ジードルングス・バウ(集落計画)』、日本滞在中33年と36年に書いた『ジードルング覚え書』はタウト全集第5巻で読むことができる。
 オンケルトムス・ヒュッテ団地は、第2次大戦でほとんど戦禍をうけていない。戦後この地区はアメリカ軍の占領下にあって、団地の多くの住宅が、もとの住民は転居させられ、アメリカ軍関係者の宿舎になった(北村昌史論文『二十世紀の都市と住宅』中野陸生編、2015年山川出版社、239ページ)。わたしが最初に訪ねたのは1990年だから築後60年たっているが、70年代未から80年代にかけて総点検・修復がおこなわれてきているから、比較的原型に近い状態で見たことになる。ベルリンの記念建造物に指定され、ユネスコの世界遺産登録をもめざしたろうが、2008年の決定からは外れている。中流家庭が住み、専用庭も広いことから、ましてアメリカ人が住んだとあっては、室内外の改造、ペンキの塗り替えばかりか、テラス、物置きの増設などをして、世界遺産登録の条件である「原型に復す」状態にはなかったであろう。しかもその間、ゲバーク社が管理する賃貸住宅は民営化され、ドイツ住宅不動産業界2位のドイチェ・ヴオーネン社の所有に変わり、持ち家として売却されている。「買い取りができない住人は引っ越しを迫られている」(田中辰明『ブルーノ・タウト』2012年中公新書、45ページ)。公的保護と規制をはずされ個人所有になると、建物の様態どころか敷地用途さえも変貌をとげることになろう。わたしの「理想の原点」はどうなっていくか、たいへん気になる。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂
 

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地球千鳥足Ⅱ №37 [雑木林の四季]

料理と亡き母

      小川地球村塾村長  小川律昭

 半年以上も別居していると、自分で料理して食べるということが重要な行事になってくる。今までは与えられるものを無意識に食べていたのだから、料理人、つまりワイフが苦心していた気持ちなどわかっていなかった。時々形を変えて昨日のものが食卓に並んだので、残り物を食べさせられているという印象さえ持った。味より経済でいただく食事と理解していた。
 四十代の単身赴任の頃――そう長くはなかったが――は最初は自炊したが半年もすると嫌になって半分以上外食になってしまっていた。自炊だって簡単なフライパン妙めで作るものが多く、煮物や手の込んだ料理などしたことがなく、する意志もなかった。母親から食べさせてもらったものを思い出して作ったりした。

 自炊してみると、料理って何だろうと思う。食べさせる人がいるから作るものではないか。家庭もレストランもそうだ。自分だけで食べるのは何となく面倒だし、手間暇かけることなくィンスタント食品で間に合わせたくなる。今は電子レンジという重宝なものがあるのだから。
 趣味で料理を楽しんでいる人もいるのだろうが、男性の場合家庭で食べさせてもらっている限り作りたくないのが本音だろう。ところが私は今はやらざるをえない。最初の頃は妙める、ゆでる、焼く、チーン、の単純な料理であったが、繰り返しのメニューには飽きてきた。そこで食べさせる人がいなくったって、暇だし、自分のためにでも作ることにした。が、料理の本を繙(ひもと)く気分にまではいかず、煮ることから始めた。これは下準備に手間がかかる。魚の場合はイカ以外は切り身を使うから時間もかからないが。ワインと生妻を入れることでまあまあの味になることがわかった。調味料は計ったりしない。適当に使う。煮付けものはすべて味だしのため肉類を入れて作ることにした。昔は肉がなかったので母は前もって油で妙めてから煮込んでいたようだ。ゆでものは胡麻、ナマものは酢を使って調理するようになった。いずれも子供の噴、母親の作るのを見ていたから出来るのだろう。

 母親に可愛がられてずっとくっつきまわっていた。針仕事をする母のそばでいつも針のミミへ糸を通してやった。「おまえは女の子に生まれりやよかったな」と、よく言われたことを思い出す。この優しい母も、茶碗を床に落とすとこつぴどく叱った。そのくせ自分が落とした時は黙っていたこと、子供心によく見ていた。私たちは当時としては珍しく、靴を履いてテーブルで食事をした。アメリカ帰りの父が止まり木みたいな椅子を作ってくれていた。床はコンクリートだったから子供たちの手が滑って皿が床に落ちるとガチャンで泣き別れだったのだ。同じアヤコという名のワイフが私の失敗には目くじらをたて、自分の失敗には沈黙するが、その度に私は今は亡き母と子供の頃の食事テーブルを思い出す。

 母親は天ぷらもよく作っていたが、自分はまだだ。当時は油は注ぎ足して使っており、酸化などの知識はなかったようだ。油の粘度が目安だったのか。重曹を使っていたがその目的はわからない。料理は母に教わったような気がするが、ただ見ていただけでなく質問もしていた。あの頃のご馳走といえば鶏肉のカレーライス、とろろ芋、あご(飛び魚)のだんご煮、等ではなかったろうか。母は正月、鶏のガラでスープをとってそれを雑煮や煮物に使っていたが、その味は今でも忘れられない。米もかまどで炊いていたことを覚えている。美味しい材料のない中で、あるものだけを使って調理する母親の気持ちが、七十歳の今伝わってきたのは不思議にも懐かしくも思うが、これが別居の功徳というものだろう。
                         (二〇〇二年三月)

『万年青年のための予防医学』 文芸社


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山猫軒ものがたり №30 [雑木林の四季]

迷子のガルシィア

         南 千代

 木立ちをぬい、大地を渡ってくる緑の風。足元に冷たく透き通る、渓流のせせらぎ。夕立ち。蝉しぐれ。飛びかう蛍を眺めながら、縁側で食べる西瓜。線香花火の懐かしい硫黄の匂い。
 冬が寒かった分だけ、山猫軒の夏は快適だ。地元ではクーラーの入っている家はどこもなかった。
 西瓜やビールは、川で冷やす。小さな道をはさみ、山猫軒の前を流れている川には、この家の洗い場があった。渓流は、少しだけ溜りになるように川辺に引き込まれ、洗いものができるようになっている。たくさんの泥つき野菜を洗ったり、障子の貼り替えに戸板などを準っには格好の洗い場である。
 渓流は、私たちや動物にも天然の涼を与えてくれた。水は、暑い季節でも素足を五分もつけているとしびれてくるほどに冷たい。犬たちは、山を走り回って帰ってくると、まずこの洗い場にトコトコおりて、流れに腹ばいになって身体を冷やしている。
 川には、石を返すと小さな沢蟹たちもいた。この沢蟹は、時には家の土間まで這ってきて、猫たちのオモチャになっていた。小野路と変わらず、蛍がいたのもうれしかった。
  雨の日、ガルシィアが行方不明になった。為朝と華は山の中で育ったので、たまに自分たちだけで山を駆けて、一日中遊んでくることがある。朝、連れて出た散歩の途中で、スキを狙って姿を消すこともあれば、日中、フッと気が向いて遠出することもあるらしい。
 こちらのスキとは、歩きながら、何か他のことを考えたりしてしまう時。そのほんの瞬間をついて、二匹でいっせいに猛スピードで脱兎のごとく、走り去る。ハッと気づいて大声で呼び戻そうとするが、こんな場合は全く無駄。ふだんは、呼ぶと素直に、しつぼをふりふり来るのだけれど。つないでいなくても、常に犬たちの動きに関心を払っている時は、絶対に脱走しない。
 ガルシィアは、呼べば必ず来る犬で、脱走を企てる犬ではない。が、その日は、二匹の悪友にそそのかされて、ついフラフラと山へついていってしまったらしい。
 為朝と華が一緒だから大丈夫だろうと思っていたが、泥んこになって夕方帰ってきた二匹のそばに、ガルシィアの姿がない。
「ガルシィアはどうしたの?」
 と聞いても、為朝と華はしらんフリ。
 実は、ガルシィアが来て間もない時にも、同じようなことがあった。その時は雪。やはり、二匹についていき、迷子になったのだ。さんざん貼り紙をして、親切な人の電話で見つかった。場所は山ひとつ隣の集落である麦原の山奥。ムラの家の土間に、縄でつながれていた。
「また、ガルシィアを捨ててきたんじゃない?」
 私は、二匹の犬に言った。特に為朝は、夫と私が、賢く素直なガルシィアをいつもほめるのをおもしろく思っていないようだった。ほんとに、捨ててきてるんじゃないだろうか。そんな気もチラリとしたが、思い直して、ガルシィアを捜索することにした。
 名を呼びながら、パイクで山中捜したがいない。麦原にもいない。地図を広げて、考えてみた。
 龍ケ谷の山を沢沿いに最後まで上がると、地元の人が龍ケ谷富士と呼ぶ飯盛峠に出る。犬たちが、ここらまで上がったとする。そして、やがて腹もすき、家に帰ろうと思ったとする。
 しかし、近接している沢筋を一本間違えると、龍ケ谷ではなく麦原に降りてしまう。飯盛峠の下からは数本の沢が下っているが、さらにもうひとつの沢を降りると隣村の都幾川(ときがわょの氷川辿ることになり、椚平(くぬぎだいら)に出る。
 沢沿いの地形は、どこもよく似ている。ガルシィアが一度目に麦原で見つかった時、もしかして降りる沢を間違ったのでは、と感じていた。
 飯盛峠を中心に、またあちこち貼り紙をして捜すことにした。峠を尾根伝いに走るグリーンラインにも、また安原にも、隣の都幾川村の川沿いにも、貼り紙をした。南側の猿岩林道や窯山の集落も捜しに歩いた。
 今度は、なかなか見つからない。首回りの毛がライオンのように長く、毛玉になるので首輪もしていなかったのが、余計悪かった。それにしても、犬なのだから自分で帰ってきてもよさそうなものなのに。
 やはり、お坊っちゃんのせいだろうか。川の水にはようやく慣れたけれど、相変わらず、栗林は、散歩の時も遠回りをしてついてくる。栗のイガが嫌いらしい。でも、これは小さい時の環境なので、仕方がない。為朝と華にしても、社会見学をさせようと、小野路の山から初めて町へ連れ出した時には、道を走り抜ける車が怖くて、通路にはりついて伏せたまま、一歩も動こうとしなかったではないか。
 心配なままに、あれこれ思い巡らせ捜し歩き車を走らせ、ガルシィアがいなくなって、一週間が過ぎた。雑種ではなく毛並みも性格もよいし、どこかでかわいがられているに違いない、とあきらめかけた頃、電話があった。
「あの、お宅が捜してらっしやるようなコリーが、最近、近所のバス停で寝泊りしているんですが」
「バス停で?」
「バスの折り返し地点で、屋根のある待合所があるんですよ」
「場所はどこでしょうか」
「都築川の奥で……」
 やっぱり。今度は椚平だった。ガルシィアに違いない。私は、ていねいに礼を言い、夫とすぐに車を飛ばした。
 山の上なら、龍ケ谷川の源流から水川の源流まで、約一キロしか離れていない距離も、それぞれの里に下り、ここから椚平を訪ねるには車で三十分の距離となる。教えてもらったバス停をめざす。着いた。
 が、ガルシィアはいない。また、どこかに行ってしまったのだろうか。ゆっくり車を走らせつつ、あたりを捜す。見つけた。日も暮れかけた山道を、心なしか後ろ姿も情けなく、肩を落としてトポトボと山に向かい、歩いている。
「迷子のガルシィア君、どこいくの?」
 安心した私は、車を降り、ガルシィアの後ろから声をかけてみた。ガルシィアは、その声に立ち止まり一瞬キョトンとして周囲を見回し、後ろの私たちに気づくと、走り寄ってきた。
「どこ行ってたの、バカたん」
 夫と二人でそう言いつつ頭や体をなで始めた次の瞬間、ガルシィアは鼻先を私たちに必死で擦りつけ、すすり泣きともうれしさともつかない、かすれた声を立て続けた。
 電話をくれた家を訪ねて礼を言い、ガルシィアは無事に山猫軒に帰った。しかし、以降しばらく後遺症が残った。三匹を連れて山に出かけても、家から二キロほど離れるとガルシィアだけは、そこから一歩も前に進もうとしない。
 今日は一緒だから大丈夫だと、いくら言い開かせてもダメ。それでも私たちが、先へ行こうとすると、自分だけはくるりとUターンをして、すたすたと一人で家に帰ってしまう。迷子になったのが、よほどこたえたらしい。これだけは、言うことをきかなかった。
私は、迷子の貼り紙をはがして回った。二度までも、親切を好意の電話で救われたガルシィアも、私たちもほんとにラッキーである。感謝。
【山猫軒ものがたり』 春秋社



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BS-TBS番組情報 №294 [雑木林の四季]

BS-TBS 2023年12月前半のおすすめ番組

      BS-TBSマーケティングPR部

「クイズ!薬丸家のSDGs生活」#23

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12月3日(土)よる6:30~7:00

☆個性豊かな薬丸家がクイズ形式で学び、地球の未来を考える。
  新感覚SDGsクイズバラエティー!

◆キャスト
父:薬丸裕英 母:山内あゆ(TBSアナウンサー)息子:ナダル(コロコロチキチキペッパーズ) 娘:岡田結実 娘の友達:藤江萌
◆ナレーター 丸山未沙希

前回に引き続き、神奈川県立海洋科学高校で「豊かな海を守るためのSDGs」を学びます!

近年カワハギや車海老など、様々な生物が減少しています。
その対策として、生物環境科の学生さんたちが取り組む「種苗生産」に密着!

さらに温暖化などの影響で、
海底から海藻がなくなる「磯焼け」という現象が起こり、“海の砂漠化”が問題に。
実際に海底はどうなっているのか…学校の実習船で小田和湾の海洋調査を行いました!

※今回も娘・結実がお休みのため、お友達の藤江萌ちゃんが再登場! 

「噂の!東京マガジン」#136

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12月3日(日)ごご1:00~1:54

☆1989年創刊!テレビの週刊誌「噂の!東京マガジン」

◆出演者
森本毅郎/小島奈津子/井崎脩五郎/清水国明/山口良一/深沢邦之

【噂のあの人】
今回の「噂のあの人」は、東京から四国に移住した5人家族。人口約360人の過疎化が進む村で空き家を調査して、村の移住者を増やす活動をしています。しかし、この村へ来る前一度、移住に失敗したことがあったそう。あこがれの田舎暮らしにも、実際に住むと様々なトラブルがありました。挫折を経験し困難を乗り越えるために奮闘する家族の物語です。

「SASUKE甲子園」

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12月3日(日)よる7:00~8:54

☆「SASUKE」史上初、高校生を対象にした「SASUKE甲子園」開催!
高校生3人が1チームとなり、ステージごとに“SASUKE能力”を競う!優勝校には、SASUKE第41回大会の出場権が!

◆キャスト
スタジオ出演:兼近大樹(EXIT)・近藤夏子(TBSアナウンサー)
出演:山田勝己・漆原裕治・日置将士(※スタジオにも出演)・森本裕介
実況:杉山真也(TBSアナウンサー)
リポーター:佐々木舞音(TBSアナウンサー)

1997年から放送を続けるTBSの大型特番「SASUKE」。その番組史上初めて高校生を対象にした「SASUKE甲子園」を開催!

同じ学校の高校生3人が1チームとなり、ステージごとに“SASUKE能力”を競う。優勝校には、SASUKE第41回大会の出場権が優勝チーム3人全員に与えられる。
各校からは同級生や家族を中心とした応援団が集結し、同じ学校の仲間のチャンレジに応援を届ける。この各校のオリジナリティのある応援も見どころ。


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海の見る夢 №66 [雑木林の四季]

     海の見る夢
        ―ピエター
                  澁澤京子

 わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくも熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかどちらかであってほしい。熱くもなく冷たくもなくなまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出す。・・ヨハネ黙示録3:15~

 イスラエルの攻撃が始まってから、SNSを毎日見ているが、イラク戦争の時と比べ、会話が成立しない人々が大幅に増加した。イラク攻撃のころはまだ、「私はアメリカを支持する。なぜなら~」の三段論法で自分の立場をきちんと説明できる人間が多かったので会話ができたが、ひたすら「テロリストを擁護しているのか?」とか「中立じゃない、偏っている」などと他人に文句をつけるだけで自分の意見や立場を述べず、会話というものが成り立たない人が増えた。あるいは、「ひっしですね」「頑張ってますね」などと上から目線で茶化してみたり、どういう人だろう?とプロフィールを見ると日の丸や神社の写真などが掲げてある。いずれも「人間のクズ」を連発する日本保守党(百田尚樹代表)及びその支持者の自称保守の人々が多い。AでなければBと決めつける単純な図式しか頭になく、パレスチナの停戦を求めれば、即ハマス=テロリストの擁護と決めつけるのである。(イスラエル政府を批判し、親パレスチナで、かつ反ユダヤではない)という立場が彼らにはどうも理解できないらしい。

「・・熱くもなく冷たくもなくなまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出す」・・かつて一度も何かに夢中になったこともなく、一度も真剣に怒ったり反対したこともない「なまぬるい」人間が増加したような気がする。そうした(何をしたらいいのかわからない)人々が、トランプや日本保守党に、まるでカルト宗教にはまるようにはまってしまうのかもしれない。

居ても立っても居られない気持ちでイスラエル大使館の抗議デモに参加。地下鉄の麹町駅を出たとたん、すごい警備でこの風景は既視感がある、そう、集団的自衛権のデモに参加した時もこのようなものものしい警護だった。デモの参加者より警備の警官の人数のほうが多い。平日の昼間のせいか、参加者は私と同年代の中高年~高齢者か、あるいは学生のような若者。若い女の子が多く、しかも賢そうな美人が多かったことも一言書き添えておく。

国会で、パレスチナ情勢について鋭く突っ込んだ大石あきこ議員(れいわ)といい(この動画はアラビア語、スペイン語、英語などに翻訳されて瞬く間に世界中に拡散され何百万回も再生され称賛されたが、同時に大石あきこ議員にヤジを飛ばした自民党のおじさんも世界中に広がった・・)、イスラエルとの関係を断つバルセロナ市議のアダ・コラウ氏のスピーチといい、国連で見事なスピーチをしたパレスチナ大使の女性、そしてエジプトの女性ジャーナリスト、仕事を失うのを恐れず抗議したアンジェリーナ・ジョリー・ケイト・ブランシェット、スーザン・サランドン・・今回、とにかく勇敢で、頭の切れる女性が目立つのは、やはり圧倒的に子供の犠牲数が多いせいだろうか。

現時点(11月25日)、パレスチナで殺された子供の数は8176人。(欧州ヒューマンライツより)休戦のあと、イスラエルがまたどれだけパレスチナ人を殺戮するのかと思うと本当にやりきれない。

ツイッターにはあらゆる映像が流れてくる。自分の子供を探して瓦礫をトンカチで掘り続ける父親、白い布にくるまれた小さな亡骸を抱いてうつむく母親、亡くなった小さな娘を抱きしめる父親、両親を失い、自分も片足を失った小さな女の子の笑顔、爆撃の衝撃でバラバラになってしまった子供の遺体を抱きしめて病院を夢中になって走る父親・・そうした正視に堪えないガザの映像を次々とみているうちに、不謹慎かもしれないが、人間はなんて気高くて崇高なんだろう・・と一種の感動すら覚えたのである。ミケランジェロの「ピエタ」がなぜあんなに美しいのかやっとわかったのである。

人は「死」が身近な極限状況の時に、最も神に近い崇高な存在となるのだと思う。


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住宅団地 記憶と再生 №25 [雑木林の四季]

16・森の団地オンケルトムス・ヒュッテWhldsiedlung Onkel Tbms Hdtte(Zehlendorf.  Argentinische Alle,Onkel-Tom-Str.,Riemisterstr.14169 Berlin)1

     国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 「住居の理想は」と問われてもすぐには答えられないし、頭に描くこともできないが、ある光景に出会って「これだ」とひらめき、イメージが開けることはある。そんな経験をしたのが、1990年10月ツェーレンドルフのオンケルトムス・ヒュッテ団地を訪ねたときである。魅せられたのは、住宅の建物だけでなく、家並みをとりまく環境、地域の雰囲気をふくめてである。それから20年たって2010年と16年にも訪ねて団地のなかを歩きながら、その魅力は何なのかあれこれ考えてきたが、いまも筋道立てては言いあらわせないでいる。しかしわたしの「理想の原点」であることに変わりはない。世界遺産には登録されていないが、それとは別にこの団地だけは印象を書きとめておきたい。
 森の団地オンケルトムス・ヒュッテ(アンクル・トムの小屋)は、ベルリンの南西部、森が広がり、湖が点在するグリューネワルトに近い。最初に訪ねたのは、秋の日の夕暮れ、写真家のマリオがあそこが母校とベルリン自由大学を指さしながら連れていってくれた車から降り、しばしその光景に呑み込まれたように眺め、つよい印象を脳裏に刻みつけただけで、いまとくに記すべきことはない。

2回目は2010年1月6日、雪が降りつもっていた。都心から地下鉄U3で30分はどの、駅名は団地と同じである。地下鉄といってもこのあたりは掘割になっている。プラットホームから中地階、地上まで駅構内はそのまま長い商店街でもあり、花屋、菓子屋、文房具屋、雑貨屋、八百屋、洋品店、コーヒー店、クリーニング店、等々なんでもある。この日は団地の、線路をはさんで南側しか見ていないが、おそらく北側もふくめ商店街は近辺ではこの「エキナカ」しかないのだろう。
 アカマツ林のなかに白樺の並木、木々は雪をかぶり、雪のなかを歩いた。歩いていて、道路や植樹は新たに設計したのではなく、もとからの道や樹木はそのままに、その空閑地に住棟を設計したように思えた。カープした道にはそれに沿って住棟も曲線をえがく。住棟は木々と、雪がとければ緑地のあいだに疎らに建ち並んでいる。

広い道路沿いには3階建てアパート、狭い路地沿いは屋根裏部屋のある2階建ての連続戸別住宅である。その配列は非対象的というか変化をみせている。すべて平屋根の低層、各棟は比較的短く、とくにテラス住宅各戸の裏庭は広く、その日はいちめん雪におおわれ、住棟が疎らに感じられた。雪景色のなか、サンタクローズがやってくる煙突をまだ見かける。カッへルオーフェン(タイル張り暖炉)は撤去しても、タイルの一部は残しているにちがいない。

戸別住宅もアパートもその裏庭、中庭は低い金網か生垣、鉄扉で閉じられているが、外からうかがうことはできる。裏庭に小屋や遊具を備えたり、テラスを改造したり、サンルームを増築している家もある。これまで見てきた他の団地にはないバラエティ、風情を印象づけられた。
 訪問3回目の2016年11月19日は、秋も深まっていた。団地は地下鉄に沿って東西にはしるアルゼンチン通りと駅前で交差し南北につうずるリーマイスター通りに四分されている。この日は団地北側の東区画を歩いた。この区画は第3工期(1929~30年)に造成した第5区画にあたり、もっぱらブルーノ・タウトの設計として有名であり、くわしい設計資料が入手できたので参考にした(ビッツ他『ッェーレンドルフのオンケル団地』Pitz,H.u.a.=Bezirk Zehlendorf. Siedlung Onkel.)。
 概ね東西400メートル、南北250メートルの長方形をなし、西はリーマイスター通りに面し、北はアム・へ-ゲヴインケル、東はホルツングスヴェク、南はホーホズイツヴェクにかこまれ、そのなかを5本の道路が南北につうじている。南の道路沿いには10~15戸ユニットの住棟が6棟、間隔をおいて1列に、北は2~4戸の短い住棟が何棟も千鳥(ジグザグ)に並び、内側は5本の道路をはさんで6~8戸の住棟が3棟ずつ向きあっている。なかでも住棟の端の住戸はそのタイプや配置、高さ、色彩などに変化をつけ個性化することで、家並みに立体的なリズムをあたえている。この様式は、タウトが同じ時期に着手していたカール・レギーン団地でも見せた。またここでは、道路に接した端の住戸を半戸分ほどセットバックさせて、道路が交差あるいは曲折するあたりの空間を広くとっている。すでに1920年代にタウトはクルマ社会の到来を予見していたのであろうか。道路に面した玄関口沿いは低い植裁が連なり高木は少ないが、裏の金網にかこまれた専用庭には思いおもいの草木を植えている。春夏になれば緑いっぱいになるのだろう。わたしが歩いたのは木の葉が落ちてしまった季節、ぐるりを見通すにはちょうどよかった。
 住宅はすべて屋根裏部屋つき2階建ての連続戸別住宅であり、それに地下室があり、道路側玄関の裏側はガラス屋根のあるテラスにつづいて専用庭になっている。住宅タイプは2つとその若干のバリエーションがあり、この区画の総戸数419戸のうち最多の305戸のタイプは、戸あたり専有地面横は170.00㎡、建物面積42.50㎡、庭園は125㎡の広さである。居住面積は3室と物置き、キッチンと浴室、廊下で85.99㎡、テラスは12.18㎡である。もう1つは88戸、専有地350㎡、5室その他で居住面積106㎡、テラス14.68㎡のタイプである。
 この区画の住宅のタイプは、より経済性、合理性をもとめたのか、他の区画にくらべてもむしろ画一的、単調であるが、それだけに画一性、単調さを破って多様性をつくりだし、個性美を高めるために、タウトは、とくに玄関と窓のデザイン、全体としての色彩設計に意欲を燃やしているのが分かる。南北に並ぶ住棟の色彩は、東向きの外壁は灰緑色に、西向きは赤褐色に塗られている。冷たい朝の陽の光と午後の暖かく快い陽射し――日照と色彩がかもし出し、住空間を彩る効果をタウトは追及した。

北のジグザグ住棟は外壁すべて黄色、南に並ぶ住棟は、南面は白、内向きは黄色、各棟両端だけは青色に塗り分けられている。外壁の色とともにその窓枠のデザインと彩色は、住戸を個別化し、道行く人を楽しませてくれる。赤褐色の外壁にある窓枠は外枠から白、黄、赤、外壁が灰緑色なら窓枠は黄、赤、白の3色が使われている。黄色やベージュの壁面に黒白黒で彩った窓枠も、デザインの明確さを際立たせ、図形的な印象を強めている0玄関の扉とその枠取りも、外壁の色とのとりあわせで多彩に塗色されているが、扉の上部の欄間の横木だけはすべて鮮やかな赤色に統一され、統一性のシンボルのように多様性を引き締めている。色彩建築のマイスターとしてのタウトの本領は、この区画でもっとも体系的、集約的に発揮されていると思う。
 さきにフアルケンベルクの色彩、ブリッツの平屋根にたいし市区当局、建築業界からの反発、抵抗がいかに執拗で、タウトが「堅忍不抜の闘争と無際限の談合」をよぎなくされたかは書いた。しかし団地が完成すると「絵具箱ジードルング」と有名になり、ベルリン市長ベッスが「宗旨替え」をしたことをタウトは快くむかえた。とはいえタウトと「ノイエス・バウエン(新しい建築)」派による団地建設への攻撃が止んだわけではない。オンケルトムス・ヒュッテ団地も、その建設着手から完成後も、干渉、攻撃は絶えなかった。タウトが亡命した後、ヒトラーとシュペーアは、タウトの近代建築と色彩を「退廃芸術」と排斥し、「オウムの団地」と名づけて非難した。
 わたしがオンケルトムス・ヒュッテ団地を訪ねるときは、近くのダーレムやリュッケ(橋)」美術館にも立ち寄ることが多く、閑静な雰囲気のなか小豊かな体験をするばかりで、団地ができるまで、できてからの経過は、記録にたよるほか知る由もない。少しずつ分かってくることで、木立ちのなかの古びた家並みも、甦ってわたしのまえに出現する。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂


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