雑記帳2025-1-15 [代表・玲子の雑記帳]
2025-1-15
◆今年のNHKの大河ドラマ「べらぼー」の主人公は、江戸天明の出版王・蔦屋重三郎、通称蔦重です。 その蔦重ゆかりの絵師3人が冬の三光院サロンのテーマになりました。初回は喜多川歌麿。歌麿の美人画を知らない人はいない、それでも、当時の背景を知り、鋭い観察や写生の腕を知れば、歌麿の大首絵を見るとき、より楽しくなるではありませんか。
◆今年のNHKの大河ドラマ「べらぼー」の主人公は、江戸天明の出版王・蔦屋重三郎、通称蔦重です。 その蔦重ゆかりの絵師3人が冬の三光院サロンのテーマになりました。初回は喜多川歌麿。歌麿の美人画を知らない人はいない、それでも、当時の背景を知り、鋭い観察や写生の腕を知れば、歌麿の大首絵を見るとき、より楽しくなるではありませんか。

蔦重が手がけた出版分野は浄瑠璃本、吉原再見、狂歌絵本、黄表紙、洒落本、読本、往来もの、学術書など、多岐にわたります。その上に浮世絵です。
それゆえ人脈も凄い。作家には、朋誠堂喜三二、恋川春町、太田南畝(蜀山人)、山東京伝、十辺舎一九、曲亭馬琴・・・、絵師には北尾重政、北尾政演(山東京伝)、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎・・・目がくらみそうです。
それゆえ人脈も凄い。作家には、朋誠堂喜三二、恋川春町、太田南畝(蜀山人)、山東京伝、十辺舎一九、曲亭馬琴・・・、絵師には北尾重政、北尾政演(山東京伝)、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎・・・目がくらみそうです。
蔦重が発掘し、世に出した歌麿は、彼とほぼ同時代を生き、独特の気品と憂愁をおびた美人画の名手年てしられますが、歌麿自身については謎が多く、生地、生年も正確なところはわかっていません。菩提寺に残る記録から没年は58歳とのみ。少年時代に江戸の狩野派に弟子入りしたあたりから少しずつ歌麿がみえてきますが、この頃の作品は残っているものはわずかです。
美人画の第一人者として本人も美男子であったかといえば、そうでもなく、醜男だったという説もあり、唯一残っている自画像は顔をかくしています。

天明期に入り、版元・蔦屋重三郎とくんで、次々と個性的な浮世絵を発表していきます。
最初の大判錦絵は「青楼仁和嘉女芸者部」です。
吉原の芸者衆のおねりの状況をえがいたこの絵の、衣装や芸者おいよの顔つきをよくみてみましょう。憂いを帯びた品格ある表情は、ある種理想化された女性の顔です。衣装の細かな描写は、絵師、彫り師、摺り師の三位一体の技術が創り上げた至高の作品です。
最初の大判錦絵は「青楼仁和嘉女芸者部」です。
吉原の芸者衆のおねりの状況をえがいたこの絵の、衣装や芸者おいよの顔つきをよくみてみましょう。憂いを帯びた品格ある表情は、ある種理想化された女性の顔です。衣装の細かな描写は、絵師、彫り師、摺り師の三位一体の技術が創り上げた至高の作品です。

次なる歌麿の傑作は「狂歌絵本」三部作です。
天明期の江戸は狂歌ブーム。この流行に目を付けた蔦屋重三郎は歌麿を起用して浮世絵と狂歌を組み合わせた「狂歌絵本」の制作にのりだしました。
天明期の江戸は狂歌ブーム。この流行に目を付けた蔦屋重三郎は歌麿を起用して浮世絵と狂歌を組み合わせた「狂歌絵本」の制作にのりだしました。
歌麿は天明6年(1785年)から寛政2年(1790年)の5年間に14種の「狂歌絵本」を描いていますが、中でも次の三部作は歌麿の驚くべき観察力と写実力が見て取れます。



上図の3枚は狂歌の席題を絵にした『画本虫撰』『潮干のつと』『百千鳥』。「つと」は貝のことです。
飛んできた蝶や蜻蛉、様々な貝、鳥を描いた観察力と写実力はやがて美人画に結晶していきます。
飛んできた蝶や蜻蛉、様々な貝、鳥を描いた観察力と写実力はやがて美人画に結晶していきます。
天明の後にやってきたのは寛政の改革です。蔦屋は資産の半分を没収、手鎖50日の刑をうけました。蔦重は美人画で立ち直りを図りました。それまで美人画といえば前身画だったのを大首絵にしたのです。

それまで美人画と言えば全身像だった
寛政3~4年ごろの作品、10枚シリーズの『婦女人相10躰』の一つ、「浮気の相」は湯上りの図です。振り向いた瞬間を捉えたしぐさや繊細な浴衣は制限された数少ない色目で表現され、三位一体となったチームプレイの見事な出来上がりです。

寛政5年には有名な『寛政3美人~富本豊雛、浪速屋おきた、高島おひさ』が出版されました。モデルの3人は実在の人物です。

歌麿の力をもってすれば美人はそれぞれの違いを描けたはず、なぜ、みな同じようなパターン化された顔になるのでしょうか。実は、日本画には、気高さや気品を記号化する伝統がありました。
美人は見る人それぞれに理想のイメージがあります。絵師はそのイメージを壊さないようにとみちびかれたのが、源氏物語絵巻に見られる「引き目かぎ鼻」でした。その伝統は江戸にも継承されました。浮世絵の美人画もその伝統を踏まえていたのです。
美人は見る人それぞれに理想のイメージがあります。絵師はそのイメージを壊さないようにとみちびかれたのが、源氏物語絵巻に見られる「引き目かぎ鼻」でした。その伝統は江戸にも継承されました。浮世絵の美人画もその伝統を踏まえていたのです。
『寛政3美人』はパターン化されてはいますが、芸者・豊雛のきりっとした気質、男たちを接待する明るくやさしいおきた、大事に育てられた甘えん坊のおひさ、3人それぞれが微妙に描きわけられています。
歌麿は3人を一枚に一人ずつ描いてもいます。そして、驚くことに、高嶺の花の美人画を、かけそば1杯とほぼ同じ値段で庶民が買う事ができたのでした。(当時かけそば1杯16文。錦絵は20文)
『ぽっぴんを吹く女』は着物の市松模様や髪の毛手のこんだ描き方が注目されます。手が小さく描かれているのは顔にリアルな手を描き込むと全体をこわすことになるからです。これはギリシャ彫刻にも見られます。
同じころ描かれた『歌撰恋之部』のモデルは素人の女性です。豊かな商家に嫁いだ若奥さんの「物思恋』。揺蕩う思い、目つき、腕や髷の描写、どれをとっても三位一体の世界最高の技。それを庶民が買うことができたのは、世界史上、江戸のこの時期だけです。唇や袖から見える僅かな赤は黒と相まって効果的です。『深忍恋』は百人一首の平兼盛の歌を連想させます。・・・「しのぶれど色に出にけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで」。
歌麿は『青楼十二時』以外にも吉原を舞台にした『北国五色墨』などの大首絵をたくさん描いています。青楼も北国も吉原のことです。
下級遊女をモデルにした「河岸(かし)」や「てっぽう」、一方でトップ花魁がモデルの「小紫」。着物やさりげなく置かれた小物にいたるまで、吉原を熟知していたからこそ描けたものでした。
下級遊女をモデルにした「河岸(かし)」や「てっぽう」、一方でトップ花魁がモデルの「小紫」。着物やさりげなく置かれた小物にいたるまで、吉原を熟知していたからこそ描けたものでした。


寛政7年頃には、蔦重の組む相手は写楽へ移り、歌麿は別の版元から「台所」を出します。この後、歌麿は多くの母子像を描きました。生地も生年も不詳の歌麿にはつきることのない母性願望があったようです。これはダ・ヴィンチと同じですね。

台所
歌麿を世に出した蔦重は寛政9年(1797年)に48歳の若さで亡くなりました。死因は当時江戸わずらいと呼ばれていた脚気でした。この時歌麿は40代前半。幕府の締め付けは厳しさを増してゆきます。
美人画に女性の実名を刷り込むことを禁止したのを皮切りに、奉行所による錦絵の検閲強化はやがて大首絵の禁止にまでなりました。
美人画に女性の実名を刷り込むことを禁止したのを皮切りに、奉行所による錦絵の検閲強化はやがて大首絵の禁止にまでなりました。
厳しい締め付けをしたたかに生き抜いたように見えた歌麿でしたが、思いがけないところで手鎖50日の処罰を受けることになりました。文化元年(1804年)に描いた歴史画『太閤五妻洛東遊観図』が豊臣家を題材にしていたため法にふれたのです。

晩年の歌麿の作品

太閤五妻洛東遊観図
この刑は晩年の歌麿には相当こたえたようで、憔悴のうちに、2年後の文化3年(1806年)にこの世を去りました。。
◆三光院でいただく睦月の献立のメインは「金銀富貴」でした。金はきんかん、銀はぎんなん、富貴はふき。縁起物の一皿です。

金銀富貴

精進料理では卵は使わず豆腐を使った茶碗蒸し
雑記帳2015-1-1 [代表・玲子の雑記帳]
2025-1-1
◆あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
◆あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

『知の木々舎』は5月で17年目にはります。
始めた当初は斬新な媒体であったブログも、今やSNS全盛の時代。読者の数ではおいついません。それでも、まとまった文章を読みたい読者がいることに勇気をもらっています。
新年号を期して、新しい寄稿者も増えました。当初掲げた「くらしの中に句読点」を今年も大切にしようと思っています。
新年号を期して、新しい寄稿者も増えました。当初掲げた「くらしの中に句読点」を今年も大切にしようと思っています。
年末、風邪をひいてしまい、平均寿命が延びたとはいえ、「八十の坂を超えるのは難しい」という先人の言葉をかみしめています。
何とか坂をこえました。皆さま今年もよろしくお願いいたtします。、
何とか坂をこえました。皆さま今年もよろしくお願いいたtします。、
◆新聞の明日を考える。
頑張れ新聞・新聞の命はニュースだ
2025年の元旦。みなさまおめでとうございます。今年も「知の木々舎」をご愛読下さい。
にぎやかな元旦の新聞に目を通し筆をとっています。
毎朝、新聞が配られてくると、わたくしは食卓の上にそれを置きます。朝食を終えると、今日が始まるのだと朝刊を開きます。さまざまな記事が現れて、世間の様子を目にします。何十年も続き、今も続いているたわたくしのしきたりです。
ところがわが家を出て独立している子どもたちは、今新聞を読んでいるのは高齢者で、われわれ若い世代は、SNSやスマホで充分に用が足りていて。ほとんど新聞は読まないと言います。
子どもに言われるまでもなく、わたくしは高齢者になっています。そして、新聞は今どうなっているのだろうかと気になり始めました。
日本新聞協会に加盟しているのは96社、従業員総数は3万3,314人。全国 1 万 8367 店の新聞販売所と36 万 7809 人の従業員が、多様で正確な情報の流通をさえています。
新聞発行部数は3084万部となっています。
その新聞発行部数は年々低下しています。新聞発行のピークは1997年で、その時の総発行部数は5376万部。25年の間に2300万部余りが減少したのです。20年以内に紙の新聞は消滅してしまうとすら言われています。
新聞社は発行部数を公表しています。しかし、発行部数に比例して広告単価や販売収入が増加するため販売店に注文された部数以上の新聞を売りつけています。これを押紙といいます。5大全国紙でその実態を見てみると。
新聞社 押し紙率 実売部数
読売新聞 30% 約4,099,424部
朝日新聞 30% 約2,373,702部
毎日新聞 50% 約749,785部
日本経済新聞 (朝刊) 30% 約962,789部
日本経済新聞 (電子版) 0% 971,538部
産経新聞 30% 約594,854部
新聞の発行部数が低下すると。広告単価や販売収入が低下します。
広告費を主とした売り上げでみると、
日本経済新聞社 3,529億円
朝日新聞社 2,724億円
読売グループ本社 2,562億円
毎日新聞グループHD 1,304億円
産業経済新聞社 78 億円
発行部数とは違った局面が見えてきます。 中でも日本経済新聞社は、電子版の有料読者
数を10万人以上に拡充するどしたからです。
新聞社は発行部数が減少する状況の中で、さまざまな経営努力を重ねています。
朝日新聞社は、2024年3月期の連結決算で、売上高が前年比0.8%増の2691億1600万円、営業損益が57億8100万円の黒字を達成しまし。これは、前年の4億1900万円の赤字から2年ぶりの黒字を達成したという。
紙の新聞から 電子版に 注力している事例もあります。
アメリカを代表する新聞の一つ・ ニューヨーク・タイムズは、従業員2000人。 新聞発行部数はピーク時に約110万部,現在は63万部。ところが電子版の有料読者数が466万人なっており、経営基盤は安定しています。
紙の新聞と電子版の両立は、明日の新聞の姿を示唆しています。
新聞社が新聞社でありうることの核となるものは、優れた記者と記者が築き上げた情報網です。良質のニュースを届ける以外に新聞の使命はないと言っても過言ではないでしょう。SNSが混沌としていて、真偽がが分かち難い曖昧な情報が氾濫しているからこそ、事実に即して正しいニュースを提供する新聞の意義が明らかです。
また、これまで新聞の社説やコラムは、しばしは入試の題材になりました。わたくしたちはそこで正しい日本語のあり方を学んできました。
第77回(2024年度)新聞大会決議
「平和で豊かな未来に向け、私たちは正確で信頼される情報を届ける責務を改めて自覚し、全うすることを誓う」
わたくしたち読者は新聞の明日に期待したいと思います。
雑記帳2024-12-15 [代表・玲子の雑記帳]
2024-12-15
◆10月の雑記帳に円山応挙の講座を紹介しました。近代につながる日本絵画の全ては応挙に始まるといわれていたのは新しい発見でした。今回はその後半です。
◆10月の雑記帳に円山応挙の講座を紹介しました。近代につながる日本絵画の全ては応挙に始まるといわれていたのは新しい発見でした。今回はその後半です。
応挙は様々なジャンルに挑戦しています。中にはは美人画だってあります。「楚蓮香図」は有名です。
楚蓮香は中国楚の国に実在した美人と言われ、歩くとよい香りを放ち、いつも蝶がつきまとったという故事から、絵には必ず蝶が伴うとされています。上村松園も楚蓮香を描いています。応挙には「西施浣紗図」もあり、こちらは芭蕉が詠んだ「象潟や 雨に西施が ねぶの花」の西施がモデルです。西施も中国古代の美人として知られていますね。



美人は中国にかぎりません。摂津の国江口の里の遊女を描いたのが「江口君図」です。

摂津の江口は、淀川と神崎川の分岐点に位置する、平安時代から栄えた港町でした。西行がこの地を通りかかった折、突然の雨に遊離に雨宿りを求めて断られたのがきっかけで、江口の君と西行が歌をやりとり、歌をたしなむ面白さを一晩語りあかしたというエピソードがのこっています。二人の歌は古今和歌集にも載っています。能の「江口」をご存知の方も多いでしょう。後年、里を通りかかった僧が江口君の亡霊に出会い、成仏させた物語です。
「江口君図」はこうした物語を下書きにして描かれています。遊女、江口が乗っている白象は普賢菩薩の乗り物、彼女が菩薩になったことを暗示しています。
「江口君図」はこうした物語を下書きにして描かれています。遊女、江口が乗っている白象は普賢菩薩の乗り物、彼女が菩薩になったことを暗示しています。
応挙が足のない幽霊を描いたので、日本の幽霊に足がないのが定番になりました。(実際に応挙が描いた幽霊は3点しかありませんが。)「幽霊図」に描かれたお雪は、若くして亡くなった妻がモデルだといわれています。儚さが漂う一方で、恨めしさや執念はありません。
、

応挙の動物画は「かわいい系」の元祖だといわれています。
「木賊(とくさ)兎図」に描かれた3匹の兎のふわふわした毛並み、凸凹感は「写生図鑑」の写生が生きています。繊細な毛描きをほどこした可憐なうさぎ。緑色の上に極細の墨線で筋目と節を表わした木賊。柔らかさと硬さ、ふわふわ感とざらざら感、丸みと垂直の鋭さ、そうした質感や形態の対比が見事。抜群の描写力と気品、応挙の写生の魅力を最もよくしめす作品だといわれています。広重にも「兎図」がありますが、こちらも木賊と兎です。


「木賊兎図」
「鯉魚図」の鯉からは細やかな観察、ぬめぬめ感が伝わるようですね。

「鯉魚図」
国宝の「雪松図屏風」をみてみましょう。六曲一双です。
応挙の作品は多くが重要文化財になっていますが、国宝はこの1点だけです。対して雪州には国宝が8点あります。
応挙の作品は多くが重要文化財になっていますが、国宝はこの1点だけです。対して雪州には国宝が8点あります。

「雪松屏風図」
三井家の注文を受けて描かれた屏風は、黒と金。銀の地色に白が配されて、水墨画に新しい景色を開いたと言われています。奥行を感じさせる空間表現で、光景の美しさ自体をかんじさせています。
右の老松は見上げる形。てっぺんをあえて排除して高さを強調しています。雪ばれの朝の光と空気を表現しています。
右の直線性に対して左の松は曲線です。ここからも朝の煌めきや空気感がつたわります。
描かれているのは3本の松のみ、物語を排除して松の姿のみという表現は当時としてはめずらしく、近代性を感じさせます。
右の老松は見上げる形。てっぺんをあえて排除して高さを強調しています。雪ばれの朝の光と空気を表現しています。
右の直線性に対して左の松は曲線です。ここからも朝の煌めきや空気感がつたわります。
描かれているのは3本の松のみ、物語を排除して松の姿のみという表現は当時としてはめずらしく、近代性を感じさせます。
1787年、応挙は兵庫県香住町にある大乗寺の依頼で、一門上げて客殿12室の襖絵の制作にとりかかりました。応挙が京都で苦学をしていたころ、当時大乗寺の住職であった密蔵上人が才能を見込んで学資を援助したことが縁でした。前回に紹介したとおり、応挙がいいパトロンに恵まれていたのは幸運でした。
天明の大火で中断した時期を乗りこえ、襖絵は1795年に完成しました。応挙63歳。
天明の大火で中断した時期を乗りこえ、襖絵は1795年に完成しました。応挙63歳。
全165点のなかで、応挙自身は「山水図」、「郭子儀(かくしぎ)図」「松に孔雀図」の3点を残しています。絵は襖のおかれている空間も意識して描かれました。「虚実一体空間」は応挙の得意とするところでした。
郭子儀は、唐の玄宗皇帝に仕えた武将で、人格円満、長寿を保ち子孫も繁栄したので、おめでたさを象徴する人物として、好んで画題に選ばれました。八面の襖絵は、左右四面づつに分かれていて、左側には、郭子儀とその子供たちが描かれています。

「郭子儀図」
金地に黒の「松に孔雀図」。孔雀は阿弥陀如来の乗り物です。
金の中に墨の持つ幽玄さが見る人を引きつけます。青墨、赤墨を使い分けて、光の変化に伴って、松の葉は緑に、幹は茶色にみえてくるのです。孔雀の羽もまた、つややかな色彩を感じさせるのです。
金の中に墨の持つ幽玄さが見る人を引きつけます。青墨、赤墨を使い分けて、光の変化に伴って、松の葉は緑に、幹は茶色にみえてくるのです。孔雀の羽もまた、つややかな色彩を感じさせるのです。

「松に孔雀図」
応挙の絶筆は「保津川図屏風図」です。合わせれば10mにもなる八曲一双の絵は、応挙の死の1か月前に描かれました。川の早い流れを勢いよく描いた作品に、亡くなることを予測させるような弱弱しい処は一切ありません。

「保津川屏風図」
左隻。水の流れは、左手の小瀑布から落ちて右方向へ勢いよく流れてゆく。岸辺の松の枝が風に傾いています。
右隻。右手の瀑布から流れ落ちた水が、左手に向かって勢いよく流れています。左右両隻を併せ見ると、水は中央部分で合流し、別の流れをつくるように見えます。応挙は死の全¥前年にも「瀑布図」を描いており、応挙を「瀑布の画家」と呼ぶ人もいます。
「保津川図屏風」を完成させた1か月後、応挙は1795年(寛政7年)7月17日に亡くなりました。享年63歳。円山四条派の流れは近代へと続き、上村松園や竹内栖鳳などを生みました。
「保津川図屏風」を完成させた1か月後、応挙は1795年(寛政7年)7月17日に亡くなりました。享年63歳。円山四条派の流れは近代へと続き、上村松園や竹内栖鳳などを生みました。
◆三光院の霜月の献立には彩りも美しい「吹き寄せ」が加わりました。ご飯は「銀杏のおばん」です。

色そり美しい吹き寄せ

粟麩のおでん

銀杏のおばん
雑記帳2024-12-1 [代表・玲子の雑記帳]
2024-12-1
◆11月初め、福島へのツアーに参加して、二本松や飯館村の復興の現状を見てきましたが、下旬には、「福島を丸ごと食べる」集いがありました。場所は今はやりのコワーキングスペース「千代田プラットホームスクエア。今年オープンしたばかりのビルの1階にある 「結ぶ食房 しまゆし」が会場でした。
◆11月初め、福島へのツアーに参加して、二本松や飯館村の復興の現状を見てきましたが、下旬には、「福島を丸ごと食べる」集いがありました。場所は今はやりのコワーキングスペース「千代田プラットホームスクエア。今年オープンしたばかりのビルの1階にある 「結ぶ食房 しまゆし」が会場でした。

「しまゆし」は、客が持ち寄った故郷の食材を調理し、提供してくれる店です。なんだか暖かなイメージがあります。この日はタイトルの示すとおり、福島の阿武隈高原の野菜や卵、飯館村の飯館牛が食材でした。
阿武隈で有機農業を営む農家の菅野正寿さんを講師に、集まった人の中には、東京で有機栽培にとりくむ練馬の農家、白石さんの顔もみえました。
講師の菅野さんは、水田3ha、トマト14a、野菜・雑穀1haを耕す一方、農産加工所や農家民宿を通じて、里山と都市をつなぎ、食と農の価値を伝えてきました。
菅野さんによると、この日の朝の気温は-3度。安達太良に雪が降る、今年一番の寒さでした。けれども、福島はこの半年、10月になっても30℃を越える日が続き、四季がずれて紅葉は短かったそうです。
大豆は花の時期が高温だったため不作でした。季節をずらして植えた自家用の味噌の豆も足りない。トマトやニンジンも実がならない。リンゴはカメムシの被害にあった。東北にはいなかったカメムシが北上中ということを実感したということです。これは温暖化というよりも、気候の危機的状況ではないかとさえ思えてくるというのです。
菅野さんは詩人でもあります。私たちは、この日、菅野さんの詩を通して「復興を越えて進む地域農業の今」を学んだのです。
田んぼのとんぼ
6月の終わりの 生暖かい初夏の朝
僕は棚田に水を引くため あぜ道をいく すると
稲の葉から ヒラヒラと 羽化したとんぼが飛び立った
1つや2つではない 20羽、50羽、いやいやもっと飛び立った
ヒラヒラ ヒラヒラ やわらかな羽が 朝陽に輝き銀色に光ってる
僕はあぜ道に立ちつくす なんて美しいんだろう
緑の葉と葉の間には くもが糸をはる タガメがいる カマキリがいる
カエルが足元で飛びはねる 田んぼは小さな生命の世界
暑い夏に里山に上り 自由に空を飛ぶ
稲穂が黄金色になるころ とんぼはつがいでふるさとに帰ってくる
穂波に小川に産卵をする
僕は棚田に水を引くため あぜ道をいく すると
稲の葉から ヒラヒラと 羽化したとんぼが飛び立った
1つや2つではない 20羽、50羽、いやいやもっと飛び立った
ヒラヒラ ヒラヒラ やわらかな羽が 朝陽に輝き銀色に光ってる
僕はあぜ道に立ちつくす なんて美しいんだろう
緑の葉と葉の間には くもが糸をはる タガメがいる カマキリがいる
カエルが足元で飛びはねる 田んぼは小さな生命の世界
暑い夏に里山に上り 自由に空を飛ぶ
稲穂が黄金色になるころ とんぼはつがいでふるさとに帰ってくる
穂波に小川に産卵をする
田んぼから飛んだので とんぼというのだ
菅野さんはポット苗で稲を育てています。
ポットの間隔をあけて植えると光が当たって稲は太くなり、病気や雨風に強くなる。
農業は教育と似ている。40人学級よりも30人学級、20人学級の方が子どもが育つ。
薦められて殺虫剤をまいたらトンボがいなくなった。有機リン系の殺虫剤は後年禁止になったが、殺虫剤をつかわなくなって6~7年経ってようやくトンボが羽化した。
農家は野菜をつくっているだけでない、生き物を育てているのだと感じた瞬間でした。そして、都会の消費者に田んぼの光景を通して里山を丸ごと伝えたいと思った矢先に起こったのが原発事故でした。
ポットの間隔をあけて植えると光が当たって稲は太くなり、病気や雨風に強くなる。
農業は教育と似ている。40人学級よりも30人学級、20人学級の方が子どもが育つ。
薦められて殺虫剤をまいたらトンボがいなくなった。有機リン系の殺虫剤は後年禁止になったが、殺虫剤をつかわなくなって6~7年経ってようやくトンボが羽化した。
農家は野菜をつくっているだけでない、生き物を育てているのだと感じた瞬間でした。そして、都会の消費者に田んぼの光景を通して里山を丸ごと伝えたいと思った矢先に起こったのが原発事故でした。
土の力 稲の力
耕す 耕す 土を信じて
ぼくは種をまく 野菜をつくる
原子の鬼を土の中に 閉じ込めて耕す
土へんに鬼で「塊」だ この鬼を退治する
土はいきている 土のふところを
ぼくは信じて 今日も耕す
ぼくは種をまく 野菜をつくる
原子の鬼を土の中に 閉じ込めて耕す
土へんに鬼で「塊」だ この鬼を退治する
土はいきている 土のふところを
ぼくは信じて 今日も耕す
どんな冷害も 干ばつも乗り越えて
3000年 種は生きている
原子の鬼を塊にして 閉じ込めて耕す
葉が茎が籾が 種を守り 実をむすぶ
田んぼは生きている 稲の力のふところを
ぼくは信じて 明日も耕す
3000年 種は生きている
原子の鬼を塊にして 閉じ込めて耕す
葉が茎が籾が 種を守り 実をむすぶ
田んぼは生きている 稲の力のふところを
ぼくは信じて 明日も耕す
君よ 忘れないで 生きている土の営みを
君よ 忘れないで 未来に続く稲の道
君よ 忘れないで 未来に続く稲の道
福島では2011年の夏から放射線量の調査を始めました。研究のためではなく、住民のための調査をと依頼にこたえた新潟大の調査で、耕したいい土ほどセシウムを吸着して、野菜の根からは放射線が検出されないことがわかったのです。
かって東北は冷害に苦しみ、東北の歴史は冷害と闘った歴史でした。その中で生まれた雑穀や山菜、南瓜等の野菜たちが造り出した豊かな食文化を、わずか50年の歴史しかない原発に奪われていいはずがない。
阿武隈の詩(うた)
わらび ぜんまい たらの芽の いのちの芽吹く里の山
耕す春に心が踊る 耕す春に躰がうずく
黒い土が顔を出し カエルがぴょんと飛び跳ねる
ああ 君はわすれていないか いのちの春を
耕す春に心が踊る 耕す春に躰がうずく
黒い土が顔を出し カエルがぴょんと飛び跳ねる
ああ 君はわすれていないか いのちの春を
トマト、なす きゅうり 汗ばむ躰を冷やすから
丸かじりして田んぼに走る 夕立の来る入道雲
穂に花柵 稲妻の夏
ああ 君はわすれていないか ホタルの光を
丸かじりして田んぼに走る 夕立の来る入道雲
穂に花柵 稲妻の夏
ああ 君はわすれていないか ホタルの光を
きのこ 白菜 大根 里いも 芋にで躰を温めて
飴色の稲穂に 山の神 田の神 水の神が舞い降りて
老若男女が酔いしれる 秋の祭り
ああ 君は忘れていないか 優しいさざめきを
飴色の稲穂に 山の神 田の神 水の神が舞い降りて
老若男女が酔いしれる 秋の祭り
ああ 君は忘れていないか 優しいさざめきを
干し柿が北風に輝き 臼から上がる白い湯気 白い餅
みそ 納豆の仕込むころ 甘酒できたと
ばあちゃんのこたつに入る 寒いな
ああ 君はわすれていないか 里の温もりを
みそ 納豆の仕込むころ 甘酒できたと
ばあちゃんのこたつに入る 寒いな
ああ 君はわすれていないか 里の温もりを
ああ 君と歩きたい 美しい野の道を
ああ 君と歌いたい あぶくまの道
ああ 君と歌いたい あぶくまの道
山菜にはカロリーはなくても新芽の命をいただく。その山菜も今は出荷停止です。きのこも摂取制限、そして、避難した住民の、村によっては6割、9割がまだ戻らないのが現状です。干し柿や干しいもは干して水分を抜くとセシウムが凝縮されると言われて作らなくなった。芋煮会は冬の風物詩でした。もう一度旬を取り戻したい。旬を食べる大切さを農家は伝えていかなくては。菅野さんの願いです。
最後に菅野さんがとりだした紙には「風味」と「案山子」の文字が書かれていました。10月になっても暖かく湿気が多い今年は、稲の自然乾燥に苦戦したということです。冷たい風にさらす干し柿や干しいもの「風味」のある文化も残したい。
刈り取りの終わった田んぼにたてる案山子にこの字をあてるのはなぜ? 実は案山子は山の神様を案内する子どもなんです。山の神と人間が一体になった稲作文化を伝えたい。
刈り取りの終わった田んぼにたてる案山子にこの字をあてるのはなぜ? 実は案山子は山の神様を案内する子どもなんです。山の神と人間が一体になった稲作文化を伝えたい。
都会に住む私たち消費者は食べることでしか応えることはできませんが、耕す農村へ思いをいたすことを忘れずにいようと思います。農村と消費者が一体となって作る共生社会は、菅野さんのいうように、消費者自身も耕す時代なのかもしれません。
この日のメニューは、阿武隈山麓の東和町産の野菜の前菜に、飯館村の飯館牛のしゃぶしゃぶ、締めの雑炊でした。



あとで知ったことですが、菅野さんは有機農業を始めるにあたり、山形県高畠町の星寛治さんに弟子入りしたそうです。高畠は、戦後の食糧増産が叫ばれて化学肥料や農薬が推奨された時代に、その政策には乗らず、昔ながらの米作りを選択した先駆の町です。そのリーダーだった星さんは「西の山川(聡一)、東の星(寛治)」と呼ばれた詩人でした。『知の木々舎』では星さんの詩を連載させてもらったことがあります。
お二人が亡くなって、農の語り部がいなくなったと先述の白石さんは哀しんでいましたが、私はこの日、新しい語り部に出会えた気がしました。
お二人が亡くなって、農の語り部がいなくなったと先述の白石さんは哀しんでいましたが、私はこの日、新しい語り部に出会えた気がしました。
◆今年は、東京は10月をすぎても30℃を超える暑さが続き、紅葉が遅れました。平地では色づくまで待てずに葉が落ちたり、紅葉しても色がさえないと感じた人も多かったと思います。国営昭和記念公園も、楓やイチョウは今一つ、元気だったのが原種シクラメンでした。昭和記念公園の遅い秋です。


日本庭園

原種シクラメン(花木園)

つわぶき(日本庭園)

楓風亭のお菓子のお題は「里の秋」
雑記帳2024-11-15 [代表・玲子の雑記帳]
2024-11-15
◆2011年の東日本大震災は福島に未曾有の原発事故を引き起こしました。翌年から始まった「ふくしまの今を語る人」プロジェクトから私たちは毎年、語る人をお呼びして復興の歩みを聞く機会を持ちました。最初は何か力になれることがあればなどと思ったのに、実は私たちのほうが励まされていたことに気が付いておどろいたものです。
◆2011年の東日本大震災は福島に未曾有の原発事故を引き起こしました。翌年から始まった「ふくしまの今を語る人」プロジェクトから私たちは毎年、語る人をお呼びして復興の歩みを聞く機会を持ちました。最初は何か力になれることがあればなどと思ったのに、実は私たちのほうが励まされていたことに気が付いておどろいたものです。
放射能の除染が進んで帰還がはじまったばかりの飯館村をたずねときには、村役場から見える、日当たりの良い、村の一番いい場所に小学校を建てて村民の帰還を待つ、村の意気込みに感動したのを今もおぼえています。飯館村は平成の時代に合併を押しすすめた政策にのることなく、村で自立することを選んだ自治体でした。
その福島の復興の様子を訪ねるツアーがあるというので、一も二もなく参加を決めました。
その福島の復興の様子を訪ねるツアーがあるというので、一も二もなく参加を決めました。
午前10時福島駅集合。総勢16人。レンタカーで向かった先は二本松です。ソーラーシェアリングの実態を学ぶのが目的でした。
ソーラーシェアリングとは、農業用地に支柱を立てて上部空間に太陽光発電設備を設置し、農業を営みながら太陽光発電をおこなうシステムのことです。日本語では「営農型太陽光発電」と呼ばれています。よく目にするパネルを地面近くに設置するのではなく、支柱をたてるという所がみそなのです。パネルの下は農地として作物を栽培することができます。農作物と太陽光パネルで太陽の日差しを「シェア」して活用しているので、「ソーラーシェアリング」と命名されたのです。ちなみにソーラーシェアリング(solar sharing)は和製英語です。
二本松営農ソーラーに到着するころには雨は本降りになっていました。用意してもらった長靴に履き替えて畑へ。6ヘクタールの広い農地にパネルがはりめぐらされて、葡萄や人参、えごま、そば、大豆などが栽培されています。一角は牛の放牧地にもなっていました。


ソーラーシェアリングの下では牛の放牧も可能
代表の近藤恵さんに話を聞きました。
二本松で採用しているのはドイツからの輸入の「垂直営農ソーラー」。省エネ最優先の国ドイツはソーラーシェアリングの先進国なのです。両面パネルが地面と垂直にたつ。東西に向けて設置すれば発電のピークを朝夕にずらすこともできるそうです。
二本松で採用しているのはドイツからの輸入の「垂直営農ソーラー」。省エネ最優先の国ドイツはソーラーシェアリングの先進国なのです。両面パネルが地面と垂直にたつ。東西に向けて設置すれば発電のピークを朝夕にずらすこともできるそうです。
東日本大震災で原発事故がおきたとき、戦争よりひどいと思ったそうです。先の見えない、希望もないこの地でどういきていくのか。その日から今日まで願ってきたのは「(同じ汗をかくなら)怒りではなく、感謝と喜びの汗をかきたい」ということだったといいます。
既に耕作放棄地だった農地を買いとってはじめたソーラーシェアリングの営農は農地に負担をかけることもない。有機農業を営むいっぽうで、自らエネルギーを作り売電する、新しい農業の形ではありませんか。
既に耕作放棄地だった農地を買いとってはじめたソーラーシェアリングの営農は農地に負担をかけることもない。有機農業を営むいっぽうで、自らエネルギーを作り売電する、新しい農業の形ではありませんか。
二本松駅の近くにある市民交流センターでにはいっている食堂の「杉の家」さんは浪江焼きそばで有名です。浪江焼きそばは福島県双葉町浪江のソウルフード。店主は原発事故で避難してきた二本松で店を再開したとか。太目の麺250gに存在感ある豚肉、100g以上はいったもやしの一皿は食べ応え十分。こちらは一皿でおなか一杯になったというのに、高校生らしき一団はこの浪江焼きそばに丼のセットをたのむという、見事な食べっぷりでした。

浪江焼きそば
雨だったので暗くなるのも早く、「いいだていちごランド」でハウス栽培のいちごをみたあと、夕食は田舎レストラン「ラ・カッセ」でイタリアンを。真っ暗だったので、外観はまるでわからなかったのですが、建物は土地の木材を使って建てられています。もともと秋田出身の芸術家が飯館の風景に魅せられて建てたアトリエでしたが、冬の寒さに数年で引き払って空き家になっていたのをレストランにしたのでした。シェフの佐藤さんによると、店名の「ラ・カッセ」は村の人がよくつかう「寄ってかっせ」「食べてかっせ」(よってかない?食べてかない?)から採ったとのことです。
素材は勿論地産地消。飯館の美味しい秋野菜をたっぷりに、飯館牛のミートローフをメインに、パスタはカボチャとサツマイモのクリームパスタ。実は飯館の南瓜はおいしいので評判なのです。
素材は勿論地産地消。飯館の美味しい秋野菜をたっぷりに、飯館牛のミートローフをメインに、パスタはカボチャとサツマイモのクリームパスタ。実は飯館の南瓜はおいしいので評判なのです。

レストランの真ん中に立つ大黒柱も村の産

前菜は村の美味しい秋野菜

メインは飯館牛のミートローフ

南瓜とサツマイモのクリームパスタ
宿泊先は村の農業研修施設「きらり」です。村営の宿泊施設「きこり」に隣接しています。今年7月のオープンしたばかりの施設はお洒落で快適。しかも大浴場は温泉です。ただしホテルではないのでアメニティグッズのようなサービスはない、パジャマは持参、朝食は自炊。学生の頃の合宿を思い出しますね。
朝おきると雨もあがり、建物は池を見下ろす高台の林の中にある、見事なロケーションでした。もうちょっと東京に近ければ避暑に来たいと、誰かのつぶやきも聞こえました。

池を見下ろす雑木林も色づいて

宿泊施設「きらり」
2日目は飯館村大久保・外内集会所で「いいだて結い農園」のみなさんと交流しました。飯館村はかって村民主体の元気な村おこしで全国の注目を集めていました。ブランドの「飯館牛」も全国一流の牛肉にまけない味といわれるほどになっていたところを襲ったのが原発事故でした。全村避難から帰還して、一度は失った村の暮らしを再び取り戻すべく立ち上がったのが「結い農園」でした。 代表の長正さんは、全国一の農民文化村を目指すと言います。
阿武隈の高地にある飯館の里山の風景は誠に美しい。そこに広がる畑で今、栽培に取り組んでいるのがエゴマです。畑を見学して、作業場で選別、集会所ではエゴマをつかった「じゅうねんもち」作りを体験しました。
そこでわかったこと。エゴマオイルは何故高いのか。今はやりのオメガ3などの成分が優れているのが理由ではなく、とにかく手間がかかるということでした。
あの小さいエゴマの実をかりとってから選別を重ねて口に入るまで、すべて機械に頼らずに人の手でやり通すのはそれは手間のかかる作業なのです。までいに(丁寧に)それができるのは結い農園が高齢者の集団だからでしょうか。

エゴマ畑の広がる里山

収穫後脱穀したエゴマをさらに手で選別して精製するのに時間がかかる


村の集会所

煎ったエゴマをすりつぶすのも人苦労

じゅうねんもちの出来上がり。黒いのはあんこのぼたもち
じゅうねんは平仮名ですが、意味は十年です。「じゅうねん味噌」は、十年持つとも、食べれば十年寿命が伸びるともいわれています。
午後訪問した「図図(ずっと)倉庫」は、思いがけず、想像以上の施設でした。
ぞぞ震災で撤退した会社の倉庫を活用して、アート展や映画やコンサート等のイベントを企画運営しているのは都会から来た若者たちです。

図図巻
驚いたのは広い倉庫の半分を占めているのが、環境を学ぶスペースだったことです。
地球環境を構成する様々な物質、環境世界のありかたにふれ、地球の未来を考えようというプログラムの発信基地がこの倉庫だったのです。
無ぞうさに積んであったリ-フレットの中に「環境世界への旅」がありました。
地球環境を構成する様々な物質、環境世界のありかたにふれ、地球の未来を考えようというプログラムの発信基地がこの倉庫だったのです。
無ぞうさに積んであったリ-フレットの中に「環境世界への旅」がありました。
環境世界とは。ドイツの生物学者ヤーコブ・フォン・ユクスキュルが提唱した概念です。動植物、原子や分子、私たち人類も含めたすべての生物は、それぞれが主体的な知覚世界をもっています。すべての生物は自分自身の知覚によってのみ世界を理解しているので、私たち人間が五感を使って認識している世界もそのひとつにすぎません。
すべての生物に等しく存在するのが環境なのではなく、個々の生物が己の知覚で捉え構築した独自の世界としての環境は無数に存在するのです。環境も。この概念から入れば人類はいやでも謙虚にならざるをえない。
原発事故で放射性物質が放出されたことをきっかけに、自然環境との関係をみなおそうと、村では様々な観測や実験が行われています。
先ず、宇宙の誕生と同時に一番初めにうまれたのが素粒子です。環境を語るのにここから入るところが凄い。グローバルどころかユニバーサルです。自然界のミクロな世界、原子や放射線をこの倉庫で観測することから環境世界への旅がはじまります。外に出れば日本唯一の惑星観測所で宇宙というマクロな環境世界がまっています。観測所は東北大学によって設置されました。
原発事故で放射性物質が放出されたことをきっかけに、自然環境との関係をみなおそうと、村では様々な観測や実験が行われています。
先ず、宇宙の誕生と同時に一番初めにうまれたのが素粒子です。環境を語るのにここから入るところが凄い。グローバルどころかユニバーサルです。自然界のミクロな世界、原子や放射線をこの倉庫で観測することから環境世界への旅がはじまります。外に出れば日本唯一の惑星観測所で宇宙というマクロな環境世界がまっています。観測所は東北大学によって設置されました。
観測によって見出された現在の様々な環境課題に対し、次は実験です。飯館牛を復活させ、地元食材で作る、これも実験です。前日のレストラン、ラ・カッセもその一員であったことに気付きました。実験はさらに、里山と森を再生することにつながっていく。村全体が実験場なのです。、
倉庫を案内してくれたのは若い女性でした。彼女のお父上が大学で物理を教える先生だとあとで知りました。理系に弱い私は素粒子の話は苦手ですが、倉庫内の様々な展示から、こどもたちは、小さなミクロの環境世界を観測すると同時に、その世界と共存してきた飯館村の歴史を学びます。ここでは放射線自体は悪者ではありません。村が目指す未来が、2日間に訪ねた人や畑とつながっていきます。それを発信しているのが他所から来た若者だということが面白いではありませんか。
じつは、飯館村は、そのなりたちから、移住者を受け入れやすい土壌があったことを知りました。災害や飢饉で人口が極端に減った時も、移住者がそれをうめてきた歴史がありました。帰還者が避難前の半分にもならない中で、21世紀に再生をかける飯館の思いが伝わってきました。
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雑記帳2024-11-1 [代表・玲子の雑記帳]
2024-11-1
◆江戸中期、同じ場所で同じ時代に活躍した画家たちを産んだ「京都ルネサンス」は、伊藤若冲、与謝蕪村につづいて円山応挙です。10月はその1回目でした。
応挙の凄いところは、それまで日本絵画になかった写生をもちこんだところです。
江戸時代、狩野派の粉本主義は、お手本を模写し、筆使いまで忠実に学び継承することが大切とされていました。いわば型の文化だったのです。応挙は型にとらわれず、目の前のものを観察して正確に写しとろうとしました。写生に基づく現実感溢れる表現は、それまでの伝統的な装飾文化に新風を吹き込み、日本絵画史に革命を起こした画家でした。同時に、絵画の様々なジャンルに挑戦、近代日本画へとつながる道を開いて、全ては応挙に始まるとさえ言われています。
応挙の作品の多くが重要文化財になっています。そのひとつ、「写生図鑑」を開くと、昆虫やや草花、動物が精緻に、いきいきと描かれています。例えば、「たけのこ」の図をクロ-ズアップしてみると、笹の露、蜘蛛や蛍、イナゴや小鳥たち、竹だって一種類ではありません。そして、生写した図のいたるところに細かいメモが残っています。これは後に本画を描くのを想定して応挙が書き込んだものです。
応挙はこの写生図鑑のあと、研鑽をつんで、13年後に本画を描いています。


弟子の山埼鶴嶺の描いた応挙像を見ると、いかにも実直そうです。まさにそのとおり、生涯を通じて徳実の人だったようで、多くの弟子に恵まれました。一派は、弟子たちの集まった応挙の住居が円山にあったので「円山派」と呼ばれ、門下の呉春の開いた「四条派」と合わせて「円山四条派」と呼ばれるようになりました。

1733年(享保8)、応挙は丹波国穴太(あのう)村の農家に生まれました。穴太は当時、石工の集団として知られていました。生家が貧しかったので、幼いうちに寺の小僧に出され、15歳で京都に出て、商家に奉公しながら絵を学ぶことになります。
商家の名は玩具屋の尾張屋。店で扱っていた眼鏡絵制作を手伝うために、応挙の腕を見込んだ主が狩野派に入門させてくれたのです。狩野派の絵を学びながら眼鏡絵の制作に励むなかで、応挙は西洋風の遠近法を身につけ、空間を立体的にとらえる修練をしたのです。尾張屋での奉公は後に応挙が絵師として立つのにおおいに役にたちました。
このころ、若冲は「動植綵絵」を描いています。


狩野派に学ぶ一方で、応挙は中国の水彩画にも親しんでいました。独立する前の「白鷹図」は狩野派を越えたリアルな捉え方をしており、淡い墨のグラデーションに応挙の独自性がでています。
南宋時代の絵画を模写した「花鳥図」は模写でありながら模写を越え、羽毛の柔らかさにも応挙の独自性が見られます。



34歳で初めて雅号「応挙」を名乗り、絵師として独立します。応挙の名は生涯変わることはありませんでした。
独立してからの応挙は様々なジャンルに挑戦し、全ては応挙に始めるといわれる多彩な世界を展開していきます。
先ず「淀川両岸図」をごらんください。

早朝に伏見の港を出た舟が、夕方、大阪に到着するまでを、船中の旅人の視点で両岸の風景がえがかれています。時間の経過と共にある川沿いに住む人々の暮らしぶりも入っています。舟に乗っている旅人の目線なので、風景は右岸と左岸ではさかさまになっています。12mを越える絵絹がつかわれた大作です。
応挙は人物画も描いています。下は「大石良雄図」。

玩具屋の尾張屋は人形もあつかていたので、応挙は眼鏡絵だけでなく、人形の色付けもしていました。現実感のある肉付けはその時代に学んだものです。「人物を描く際には裸体に衣装をつけるべし」という応挙の言葉が残っていますが、おそらく裸体は人形をモデルにしたものでしょう。まことに応挙は修練の人でした。
10月3日、若冲と応挙の合作屏風絵が発見されたと、各紙が大きく報じました。

当時、すぐ近くに住んでいた画家同士に合作を依頼するようなパトロンがいたことは、容易に想像できます。応挙の犬の絵に蕪村が賛を付けた色紙もみつかっています。
画家としての力量と温厚な人柄で多くの弟子を集めた応挙にも、パトロンがいました。天台宗問責寺院円満院門主祐常が良き理解者として、応挙を支えました。
10歳年上の祐常は本草学に関心があり、応挙に物事を観察する指導もしたようです。
「七難七福図巻」は、言葉よりもリアルな描写の方が説得力があると、祐常が依頼したもので、3年かけて制作された大作です。祐常が序文を書いています。

「牡丹孔雀図」は最上級の絵の具が使われ発色がいい。細部もみごとです。当時、孔雀茶屋なるものもあったようなので、恐らく実際に見て生写したのでしょう。

滝のない円満院のために描いた「大瀑布図」は中国山水画の「三遠法」を応用した描き方をしています。なだれ落ちた俯瞰部は畳の上にはうように置かれるので、近くによってみると、本物の滝をを見るような臨場感があります。「虚実一体空間」の先駆けとなった作品です。

祐常とのつき合いの中で画風を確立した応挙でしたが、41歳の時、祐常が亡くなりました。祐常がなくなった2年後に描いた六曲一双の「雲竜図屏風です。


右隻の、垂らし込みやぼかしなど水墨画の技巧をこらした迫力ある雲の描写は、まるで宙(そら)を駆け下りる、龍そのものが動いているように感じさせるのです。
左隻に使われている金泥は光を感じさせます。龍の表情は生き生きとし、うろこの一つ一つにも明暗があり、微妙な陰影には現実感と立体感があります。
いずれも、この世に存在しないものを現実にあるかのように感じさせる「虚の写生」なのです。
同じ年に応挙が描いた「雨竹風竹図屏風」です。右に雨竹、左に風竹が描かれています。墨色だけの画面は、一滴の雨も一陣の風も描かれていないにも拘らず、竹の葉や枝のしなりで雨竹なのか風竹なのかがわかります。描かれない気象や湿気さえ見る者に感じさせる、応挙の「生を写して気を描く」到達点でした。

◆10月の三光院の献立は、里いものあんかけがメインでした。9月には畑で収穫されたばかりの、一口ほどの小さかった里いもがすっかり大きくなりました。ご飯は大黒のあばんです。
通常「花の餐」のコースをいただていますが、今月は少し奮発して「月の餐」にしたところ、「粟麩のおでん」が加わりました。


雑記帳2014-10-15 [代表・玲子の雑記帳]
2024-10-15
◆CSまちデザインが企画す市民講座「私たちの食と農の未来は私たちがきめる」が面白くて時々参加しています。以前、多摩市の農家、青木さんの農家レストランを紹介しましたね。今回はハチミツです。
◆CSまちデザインが企画す市民講座「私たちの食と農の未来は私たちがきめる」が面白くて時々参加しています。以前、多摩市の農家、青木さんの農家レストランを紹介しましたね。今回はハチミツです。
立川には専業の養蜂農家が1軒あります。『知の木々舎』にはニホンミツバチの保護活動家、御園孝さんの、世界の養蜂事情を訪ねた記事を連載したこともあります。御園さんはその後、ミツバチの為に埼玉県に広大な農地(山林)を取得しました。
加えて、多摩川の立川辺りの河原にはニセアカシアが群生しているエリアもあって、ハチミツを知る環境はそろっていました。
加えて、多摩川の立川辺りの河原にはニセアカシアが群生しているエリアもあって、ハチミツを知る環境はそろっていました。
現在、世界の主要な作物100種類のうち、75%の品種がミツバチを中心としたハナバチに花粉交配を依存していると言われます。ハチの少ない山梨県では、交配は人の手でおこなわれています。今、世界中でミツバチが減っていると言われていますが、本当でしょうか。
ミツバチが減っている原因はいくつかあります。
先ず、天敵であるダニの増加です。ダニはミツバチに寄生し、様々な病気をもたらします。ウイルスに取りつかれた巣は壊滅的な被害をうけるのです。
現在、農家は野菜をまもるために殺虫剤や除草剤を使わざるを得ないのが現状ですが、使い続けることでダニは農薬に対する耐性ができる。ダニを壊滅することはできません。
そして、農薬自体もミツバチの健康を害しています。
先ず、天敵であるダニの増加です。ダニはミツバチに寄生し、様々な病気をもたらします。ウイルスに取りつかれた巣は壊滅的な被害をうけるのです。
現在、農家は野菜をまもるために殺虫剤や除草剤を使わざるを得ないのが現状ですが、使い続けることでダニは農薬に対する耐性ができる。ダニを壊滅することはできません。
そして、農薬自体もミツバチの健康を害しています。
2つ目は豊かな自然の減少と栄養不足です。
講師の志村さんが見せてくれたのは広大なカリフォルニアのアーモンド畑でした。この広大な畑があるのにミツバチは栄養不足になるのでしょうか。
改めてきづいたことは、花粉はじつはミツバチにとって主食ではないのです。
講師の志村さんが見せてくれたのは広大なカリフォルニアのアーモンド畑でした。この広大な畑があるのにミツバチは栄養不足になるのでしょうか。
改めてきづいたことは、花粉はじつはミツバチにとって主食ではないのです。
農作物の効率的な大量生産には、広大な農地に単一作物を栽培し、農薬や化学肥料が必要です。本来の自然の姿からかけ離れた農地は、生物多様性にとって「緑の砂漠」でしかありません。
こうして、野生動物の住めない土地で、蜜蜂たちは花粉交配に投入され、栄養不足と農薬に苦しむことになります。
ミツバチの飛行距離は10㎞だそうです。ここにアメリカ中から集められたミツバチが交配の為に「死の行進」をさせられると想像するだけでかなしくなりませんか。
こうして、野生動物の住めない土地で、蜜蜂たちは花粉交配に投入され、栄養不足と農薬に苦しむことになります。
ミツバチの飛行距離は10㎞だそうです。ここにアメリカ中から集められたミツバチが交配の為に「死の行進」をさせられると想像するだけでかなしくなりませんか。
アーモンド畑だけではありません。もう一つ見せてもらったのは同じくアメリカのコットン畑でした。面積はアメリカ全土の2.5%を占める広大な畑です。その畑にはなんと、世界の殺虫剤の15,7%が投じられているということです。
3つ目は気候変動です。
今年は夏の高温のため、栗の収穫量が減っているそうです。作物が影響を受ければミツバチも同じです。
統計によると、1990年代から2015年にかけてミツバチの数が減少しました。EUでもアメリカでも同じで、2015年には日本では半分になりました。一方、アジアやアフリカでは増えており、実は、世界全体で見れば、ミツバチの数は一貫して増えているのです。
今年は夏の高温のため、栗の収穫量が減っているそうです。作物が影響を受ければミツバチも同じです。
統計によると、1990年代から2015年にかけてミツバチの数が減少しました。EUでもアメリカでも同じで、2015年には日本では半分になりました。一方、アジアやアフリカでは増えており、実は、世界全体で見れば、ミツバチの数は一貫して増えているのです。
ではなぜ減っていると言われるのでしょうか。
実は、減っているのは野生のミツバチなのです。そして、養蜂によってミツバチを増やすことはできますが、様々な問題からから減少したハナバチは増やすことはできません。
養蜂でミツバチを増やすことができるからと言って安心していいわけではありません。
飼育されるミツバチは花粉交配にとって欠かすことができない大切な存在です。それ以上に大切なことは、野生のハナバチやそのほかの昆虫たちだと考えられているからです。、
実は、減っているのは野生のミツバチなのです。そして、養蜂によってミツバチを増やすことはできますが、様々な問題からから減少したハナバチは増やすことはできません。
養蜂でミツバチを増やすことができるからと言って安心していいわけではありません。
飼育されるミツバチは花粉交配にとって欠かすことができない大切な存在です。それ以上に大切なことは、野生のハナバチやそのほかの昆虫たちだと考えられているからです。、
私たちはどうすればいいのか。「私たちにできること」として志村さんのあげた言葉は胸をうちました。全然難しくない。容しい(優しい?)のです。
先ず知ること。ハチミツを通じて見えてくる世界の入口は小さくとも、その背景には壮大な物語があることを。
ミツバチの目線で考えてみること。日々のくらしをミツバチになったつもりで見てみると、今まで気付かなかった発見があり、それがくらしを豊かにしてくれるではありませんか。
そして、やりすぎないこと。庭の草取りを毎日ではなく2日に一回にしてみることです。そうすることで、土の中にいる生物たちが雑草と一所に退治されてしまうのを避けることができるのです。
先ず知ること。ハチミツを通じて見えてくる世界の入口は小さくとも、その背景には壮大な物語があることを。
ミツバチの目線で考えてみること。日々のくらしをミツバチになったつもりで見てみると、今まで気付かなかった発見があり、それがくらしを豊かにしてくれるではありませんか。
そして、やりすぎないこと。庭の草取りを毎日ではなく2日に一回にしてみることです。そうすることで、土の中にいる生物たちが雑草と一所に退治されてしまうのを避けることができるのです。
志村さんの話をきいたあとで、テーブルの4ッのハチミツを試食しました。
かすかな香りの違いが分かる程度で、ハチミツ音痴の私には味はどれもハチミツでした。
かすかな香りの違いが分かる程度で、ハチミツ音痴の私には味はどれもハチミツでした。

そのあとでの種明かしです。
国産の純粋ハチミツ、国産のハチミツ入りシロップ、アカシアの中国産純粋ハチミツ、 同じく中国産のアカシア20%の純粋ハチミツ。値段は100g700円から50円まで。こんなに差があります。消費者としては、購入の際に表示をみるしかありませんが、中には添加物の表示のないものもある。(これは違法です。)なかなかてごわい。日頃、フェアトレードを唱え、物には適正価格があることを承知していながら、我が家も子育て中は100g700円は高くて手がでませんでした。あまり安いのはハチミツではない別のたべものだと思うのがいいのかもしれません。
国産の純粋ハチミツ、国産のハチミツ入りシロップ、アカシアの中国産純粋ハチミツ、 同じく中国産のアカシア20%の純粋ハチミツ。値段は100g700円から50円まで。こんなに差があります。消費者としては、購入の際に表示をみるしかありませんが、中には添加物の表示のないものもある。(これは違法です。)なかなかてごわい。日頃、フェアトレードを唱え、物には適正価格があることを承知していながら、我が家も子育て中は100g700円は高くて手がでませんでした。あまり安いのはハチミツではない別のたべものだと思うのがいいのかもしれません。

ちなみに国内のはハチミツの消費量は年間45,000トン。そのうち95%は外国産。1kg500円未満が1万トン、加工用によく売れてれているそうです。
学習会の後にいただいた、ハチミツいっぱいのランチです。

つくね ハチミツ塩のたれ、焼きナスの黒ゴマ酢和え、あげ牛蒡のハニー梅絡め、ひじきの煮物、トマトの茶碗蒸し、スイートポテト(芋は紅優甘)
◆9月末、丹波に秋の味覚をたずねました。今回は観光はほとんどなし、ひたすら食べるだけのツアーです。
丹波といえば、栗とまつたけ。茨城県の笠間、長野県の小布施、岐阜県の恵那など、栗の産地は全国にいくつもあるけれど、丹波の栗は大きさにおいてどこにも負けません。
残念なことに松茸はこの時期まだ丹波産ではなく、岩手産という、漫画チックな旅でしたが、しばらく松茸はいいというくらい堪能しました。たらふく食べると言うのは実はかならずしも幸せなことではなく、もうちょっとくらいがいいのだと、芥川の『芋粥』さながらの旅になりました。
残念なことに松茸はこの時期まだ丹波産ではなく、岩手産という、漫画チックな旅でしたが、しばらく松茸はいいというくらい堪能しました。たらふく食べると言うのは実はかならずしも幸せなことではなく、もうちょっとくらいがいいのだと、芥川の『芋粥』さながらの旅になりました。
京都駅から1時間も走れば丹波の里。里という言葉がぴったりの山里です。山陰本線の和知駅前にある鮎茶屋で栗三昧のお昼をいただきました。




店自慢の栗のコロッケ

季節は過ぎたとはいえ、吸い物に鮎がはいっていた。
夜は松茸づくしの会席。

皿の左上の器は丹波の古民家を模したものとか



翌日のお昼は平安神宮そばの園堂で京風の天ぷらです。
何が京風かといえば、さらさらの綿実油でからりとあがった素材の野菜はいずれも京都の産でした。
メニューは鯛のしそ巻、えび、アナゴの定番に、野菜はコーン、甘唐辛子、オクラ、蓮根などなど。
何が京風かといえば、さらさらの綿実油でからりとあがった素材の野菜はいずれも京都の産でした。
メニューは鯛のしそ巻、えび、アナゴの定番に、野菜はコーン、甘唐辛子、オクラ、蓮根などなど。

コーン

客一推しの稚鮎

唐辛子

しめは赤だしにかき揚げ丼
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雑記帳2024-10-1 [代表・玲子の雑記帳]
2024-10-1
◆7月の三光院サロン『京都ルネサンス』は、与謝蕪村の登場でした。9月はその後半です。『知の木々舎』で再掲中の「郷愁の詩人与謝蕪村」は、明治の詩人、萩原朔太郎の手になるものです。朔太郎と同郷の斉藤陽一さんは、晩年京都におちつくまでは一所不在だった蕪村の後半の人生を、画家としての面から迫りました。
東北から近畿まで、一所不在の身で各地を巡ったあと、ようやく都に腰を:落ちつけ、蕪村は本格的に、師につくことなく、絵の修行を始めました。やがて、京都画壇での知名度も上り、文人画家としてしられるようになった蕪村は、明和8年、池大雅と「十便十宜図」の競作を行います。
国宝の「十便十宜図」を所有していたのがなんと川端康成と言うのも面白いではありませんか。
国宝の「十便十宜図」を所有していたのがなんと川端康成と言うのも面白いではありませんか。


大雅の絵には、おおらか、大胆、のびやか、おだやか、といった鑑賞がよせられています。飄逸にして天真爛漫、とらわれない大雅の気質があらわれているのでしょう。
これにたいして、蕪村はどうでしょう。
蕪村は「詩書画三絶」を意識して、自然への関心が強い作品になっています。
詩書画三絶とは中国文人の理想であり、詩、書、画の三つに優れていることを意味する中国がの伝統滴絵画観です。
これにたいして、蕪村はどうでしょう。
蕪村は「詩書画三絶」を意識して、自然への関心が強い作品になっています。
詩書画三絶とは中国文人の理想であり、詩、書、画の三つに優れていることを意味する中国がの伝統滴絵画観です。
絵には小路が描かれます。朔太郎は蕪村を「小路に郷愁を憶える詩人」と評しています。気を付けてみると蕪村の絵には小路が必ずでてきます。多くは曲がった行先が風景の中に消えてしまう。蕪村の、生まれながらに細やかな、感受性の強い資質なのかもしれません。
蕪村の絵は、俳味と詩情ただよう独自性を発揮しています。
「王子猷訪戴安道図」をみてみましょう。天明元年、蕪村66才のと気に描かれた一幅です。
「王子猷訪戴安道図」をみてみましょう。天明元年、蕪村66才のと気に描かれた一幅です。

雪の日、友人の家を訪ねた蕪村が、家にたどり着いたものの興が尽きたからと会わずに帰ったというエピソードがあります。自身の経験をそのまま絵にしたものです。風雅を愛する文人は、交わりの清さを良としました。月光に照らしだされた雪あかりの景色には日本人の四季に対する感性があらわれています。
蕪村は家には寄らなかったものの、その時の句をいくつも残しています。
君子の交わりを良しとしながら、実際は情愛の深い人だったのでしょう。
君子の交わりを良しとしながら、実際は情愛の深い人だったのでしょう。

「山野行楽図屏風」は六曲一双の重要文化財です。

右には三日月、秋の気配です。時刻は黄昏。左図に描かれているのは全部酔っ払いです。
人恋しさの気質があらわれているような画面です。
背景が省略された絵は人物だけが描かれ、もはや伝統的な山水画ではありません。
ここにも小路がでてきます。蕪村は小路好き。俳画一体となった境地です。
人恋しさの気質があらわれているような画面です。
背景が省略された絵は人物だけが描かれ、もはや伝統的な山水画ではありません。
ここにも小路がでてきます。蕪村は小路好き。俳画一体となった境地です。
「竹林家屋・柳陰騎路図屏風」重文。

右図は、線のグラデーションで霞にかすむ竹林が描かれ、さわやかで清々しい。隠棲した老人は蕪村の憧れでした。
左図には雨にけぶる柳の連なる長い道があります。無常を感じさせます。
背景の山さえ省略された、日本特有のやわらかい空間表現は、湿潤な日本の風景にぴったりです。
この絵にちなんで、蕪村はこんな句も残しています。
左図には雨にけぶる柳の連なる長い道があります。無常を感じさせます。
背景の山さえ省略された、日本特有のやわらかい空間表現は、湿潤な日本の風景にぴったりです。
この絵にちなんで、蕪村はこんな句も残しています。
春風や道長うして家遠し
ここにも郷愁の中の小路が登場し、近くに住みながら一度も足を踏み入れることのなかった故郷、毛馬村への思いがあふれるようです。
蕪村の最晩年の作品は、異色の三部作と言われます。

「富嶽列松図」

蕪村の心の中にある富士山を象徴的に描いています。
松林は筆の濃淡によって描き分けられています。
方や、何もない真っ白な富士山。最も簡潔な山です。
単純化された画面は俳句の世界と同じです。
松林は筆の濃淡によって描き分けられています。
方や、何もない真っ白な富士山。最も簡潔な山です。
単純化された画面は俳句の世界と同じです。
上図の3部作の画像のうち、右下の「峨眉露頂図」は、頂の部分だけを切り取った峻厳な峰々が描かれています。
李白の四言絶句「峨眉山月の詩(うた)」からとられました。三日月と相まって幻想味のある風景画です。
李白の四言絶句「峨眉山月の詩(うた)」からとられました。三日月と相まって幻想味のある風景画です。
「夜色楼台図」

京の雪景色です。
一見して中国の水墨画のように見えますが、舞台が京の都であることが異色と言われる所以です。蕪村にとっては京は生活の場でもありましたが、都をそんな視点で捉える画家はいなかったのです。
胡粉やぼかし、垂らし込みなどの技法をこらして、降り続く雪の質感を感じさせる。家々に使われてる赤絵の具は灯を暗示します。底冷えのする京都の雪景色中に営まれている人々のくらし・・・。
この絵に因んだ蕪村の句です。
一見して中国の水墨画のように見えますが、舞台が京の都であることが異色と言われる所以です。蕪村にとっては京は生活の場でもありましたが、都をそんな視点で捉える画家はいなかったのです。
胡粉やぼかし、垂らし込みなどの技法をこらして、降り続く雪の質感を感じさせる。家々に使われてる赤絵の具は灯を暗示します。底冷えのする京都の雪景色中に営まれている人々のくらし・・・。

この絵に因んだ蕪村の句です。
埋み火や わが隠れ家も 雪の中
三好達治の詩、「雪」をおぼえていますか。「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降り積む・・・」はこの絵を見て着眼したと言われています。
もう一つ、迫力ある双福の絵をご紹介しましょう。
もう一つ、迫力ある双福の絵をご紹介しましょう。
「鳶・鴉図」

蕪村の到着点といわれる大作です。
右図の、いどむような鳶に対し、左に描かれた二羽の鴉は、静かに降りしきる雪の中に肩をよせあって寒さに耐えているようです。
去来、芭蕉の句を発想源にしながら、それだけだはない。
鳶は茶色、薄い墨を重ねて羽毛の質感を出し、眼は黄色を付けて鋭い眼光をあらわしています。
鴉の羽には藍色を加えて、つややかさを出し、眼には赤い顔料がつかわれています。
降りしきる雪はあえて塗り残し、墨の滲みとともに重たい雪の質感を出しています。
蕪村は弟子にもやさしかったといわれていますが、暖かいまなざしが感じられる絵です。
去来、芭蕉の句を発想源にしながら、それだけだはない。
鳶は茶色、薄い墨を重ねて羽毛の質感を出し、眼は黄色を付けて鋭い眼光をあらわしています。
鴉の羽には藍色を加えて、つややかさを出し、眼には赤い顔料がつかわれています。
降りしきる雪はあえて塗り残し、墨の滲みとともに重たい雪の質感を出しています。
蕪村は弟子にもやさしかったといわれていますが、暖かいまなざしが感じられる絵です。
そして、元明2年、蕪村67才の時に描かれた「山水図屏風」は最後の力作となりました。
元明3年(1783年)、12月25日、蕪村は68才で生涯を閉じました。辞世の句です。
しら梅に 明くる夜ばかりと なりにけり
◆三光院の菊月のメニューには今年一番に採れた里いものふり柚子が加わりました。ご飯は黄菊のおばんに月見だんごの吸い物が付きました。


雑記帳2024-9-15 [代表・玲子の雑記帳]
2024-9-15
◆長野県を走るローカル線、篠ノ井線に姥捨(うばすて)駅があるのを知っていますか。
初めてその名を知ったとき、余りに生々しくて、何て名前があるんだろうと思いました。
今は千曲市に属する姥捨は、その名の通り、姥捨て伝説に因む地名です。
その姥捨の棚田が、日本三大車窓の風景の一つであることを最近知って、JR東日本のツアーに参加しました。
篠ノ井線は、信州の山岳地帯を南北に走り抜け、長野と松本を結ぶ主要ルートになっています。日本列島を分断するフォッサマグナの真中にあって、長野盆地と松本盆地をむすんでいます。それは、盆地にある長野市と松本市を結ぶだけでなく、太平洋側と日本海側を結ぶ、重要なルートの一部でもあるのです。
その路線中にある姥捨は。芭蕉が句を詠み、広重が浮世絵に描いた名勝地です。
眼下に善光寺平、背後には盆地を囲むように山々が連なって、まことに美しい光景です。昔、地理で習った田毎の月はこの時期に見ることはできませんが、色づき始めた棚田の風景は 見る者の郷愁を誘います。田植え前の水をはった田圃は田毎の月が、田植えを終えた早緑の季節には田を渡る風が、秋には色づいた稲穂の波が、季節季節に旅人の心に残るのでしょう。
地理の専門家によると、ここは扇状盆地。土石流による岩石堆積物に粘土が混じって水が地下に抜けづらいため、千枚田ができたのだそうです。
九州を直撃した台風10号の影響で、前日は土砂降りの雨にみまわれたものの、この日は運よく晴れました。晴れたのはいいが、なにしろ今夏の猛暑にはお手上げです。棚田を巡る散歩は通常2時間のコースですが、暑さと坂道は高齢者には難度が高く、列車が来るまでの30分が限度でした。
愛用のデジカメでは距離感が上手く出ませんが、少しだけでもおすそわけしたい気分です。

姥捨駅

観光列車「リゾートビューふるさと」

普通列車だけど全席指定で中はゆったり

棚田の風景

駅の階段上からスマホで撮った
車窓の風景を楽しみながら列車は昼過ぎに松本駅に。
遅めのお昼に駅弁を貰って「あずさ」に乗りました。


その昔、領主の石川和正が月見の席で家臣にふるまったという月見五味弁当、容器も山の幸たっぷりの中身もなかなか豪華。
夕方早めの到着は夏中遠出を避けていた後の足ならしにはぴったりでした。なおかつ、「あずさ」は立川駅で途中下車もOK.という、まことに都合のいい旅でした。
棚田を見るのが目的とはいえ、それだけでは企画のしようがないとあって、付録もあります。前日は雨のなか、塩田平のいくつか寺をめぐったのをご紹介しましょう。
長野新幹線上田駅で降りて最初に向かったのは信濃屈指の古社、生島足島(いくしまたるしま)神社です。延喜式にも記載されるほど歴史は古く、日本列島のほぼ真中に位置する日本の総鎮守社です。
本社は、池に浮かぶ小島の上に鎮座する「池心の宮」という古代的形態を採るといわれ、なるほど、外堀から眺めた外観は池に浮かぶ社のようでした。東国の神社のような大きな規模ではありませんが、今も土地の氏神として大切に守られているようでした。

大鳥居

水に浮かぶ社?
日本遺産の境内にある歌舞伎舞台は、明治元年に建てられました。間口九間(16.36メートル)、奥行七間(12.27メートル)で農村歌舞伎舞台の中で最大規模を誇ります。江戸期の農村歌舞伎舞台の典型的な姿を完全に伝えており、県の宝に指定されています。現在は武田信玄の川中島合戦の「戦勝願文」や武将たちに忠誠を誓わせた起請文の展示室になって公開されています。これらの文書は国の重要文化財です。

県宝の神楽殿
塩田平は信州の鎌倉と呼ばれて多くの文化財がのこされています。
別所温泉のの周辺にある3つの寺は、石段をいとわなければ短時間で廻れる距離にあります。まずは北向き観音。
厄除け観音として全国の人々の信仰を集め、二年詣りの節分には数万人の善男善女でにぎわうとか。長野の善光寺の南向きとむきあっているので北向きと呼ばれ、善光寺の未来往生とこの寺の現世利益が一体とされて、両方詣でるのが常道といわれています。温泉に長期滞在して怪我や病気が治ったと言う現世ご利益のエピソードは多く残されていて、昭和の文人たちにも愛されました。境内の愛染桂の木は樹齢1200年になります。

薬師瑠璃殿 北原白秋の歌碑がある

梵鐘の前で説明するボランテイアさん
北向き観音の参道を抜ければすぐの所にあるのが曹洞宗安楽寺。信州最古の寺です。開祖の樵谷惟仙(しょうごくすいせん)和尚が宋から禅宗を伝えたのが、鎌倉ではなくこの地であったことが、信州の鎌倉と呼ばれるようになった由来です。国内唯一の木造の八角三重塔は国の重要文化財だけあって見ごたえがあり、一見四重塔のように見える裳階 も近づいて見ることができました。

安楽寺本堂

国宝の八角三重塔
常楽寺の開山はベ諸温泉を開いた円仁慈覚大師とつたえられています。安楽寺と共に北向き観音の本坊です。本堂は小さいながら風格があり、天台宗別格本山の名たらしめています。本堂の裏山にある遺志で栗田泓応は国の重要文化財に指定されていますが、今石造り多宝塔を残す寺は他にないという話でした。境内の、樹齢350年の御船の松は、舟の形をした美しい松でした。

常楽寺本堂

木立の中、柵の向うに石造り多宝塔。思いのほか小さかった。

樹齢350年の御船の松
別所温泉の3寺を案内してくれたボランテイアさんは、お坊さんの恰好をしていましたが僧ではなく、専業主夫だということでした。別れ際、「奥さんは働いているので、今から帰って夕食の支度をします。」
その夜の宿泊先は戸倉上山田温泉。ホテルの従業員さんに「お国はどちら?」と聞けば「ベトナムです。」
ジェンダーも人手不足も、すっかり今風ですね。
ちなみに、ベトナム出身の彼女がお給仕してくれた宿の夕食です。
食前酒には杏酒、先付には信州サーモンの生春巻き、県産牛にきのこたっぷりの杏風味のすき焼き、椀の味噌は町内産などなど、信州ならではの味をたのしみました。
長野県は戦時中の集団疎開で、大勢のこどもたちをうけいれましたが、疎開した子どもたちの中には障害児学級の子供たちもいました。戦後、首都では障害児の施設の復興が遅れる中で引き受け手はなく、上山田ホテルは戦後6年間、オルガンなどの設備もろとも受け入れて、障害児教育の場になったそうです。その様子は紙芝居になって伝わっていました。
考えてみれば誰もが疎開を余儀なくされたあの時代、障害児だって疎開したのだ。食糧難の時代「蛍の墓」はまれではなかった。いっぽうで、国の誤った政策に翻弄されながら、人々は懸命に生き、支え合った記憶がここにもあったのですね。
出発のバスを待つ間、たまたまロビーの隅に飾られていた紙芝居を見つけたところからわかったことでした。
雑記帳2024-9-1 [代表・玲子の雑記帳]
2024-9-1
◆酷暑の夏は熱中症を避けてひたすら家にこもる日が続きました。日中の陽ざしはまだ強いものの、日の入りが少しはやくなるころ、「農にまつわるワークショップ」に参加しました。会場は「わくわく都民農園小金井」です。
3回目になるこのワークショップの今回のテーマは「さつまいもの可能性を追求」でした。
さつまいもの栽培に取り組んでいる若い農家さんを中心に20名ほどが集まり、さつまいもの可能性を探りました。
◆酷暑の夏は熱中症を避けてひたすら家にこもる日が続きました。日中の陽ざしはまだ強いものの、日の入りが少しはやくなるころ、「農にまつわるワークショップ」に参加しました。会場は「わくわく都民農園小金井」です。
3回目になるこのワークショップの今回のテーマは「さつまいもの可能性を追求」でした。
さつまいもの栽培に取り組んでいる若い農家さんを中心に20名ほどが集まり、さつまいもの可能性を探りました。

ワークショップ会場風景
先ずは「さつまいもを利用したまちの賑わいづくり」。小金井市観光まちおこし協会の千葉さんが、「わくわく都民農園小金井」の成り立ちを話してくれました。
「わくわく都民農園小金井」はJR中央線武蔵小金井駅のすぐそば(駅から徒歩5分)にあります。地主さんから土地を借りて、農地保全のモデル事業として、令和3年に開園しました。農地の貸借を利用した都内唯一の農園として、東京都が施設を用意し、運営は小金井観光町おこし協会にまかされたのです。目的は高齢者に活躍の場を提供することと、多世代の交流ができることでした。

目的に応じて3,000㎡の園内はシニア農園、子ども農園、福祉農園などのエリアに分けられるいっぽうで、広大なサツマイモ畑もつくられました。
秋になると、ほぼ1か月、毎日のように収穫体験の予約が入ります。一人2株2,500円。
今は収穫体験だけですが、畑づくり体験もできる場にという計画もあるそうです。
加工や商品化も視野にあり、やがてはさつまいもを題材にした参加型の体験事業の対象を、都内全体に拡大したいということです。駅から徒歩5分の至近距離だからこその発想ですね。
秋になると、ほぼ1か月、毎日のように収穫体験の予約が入ります。一人2株2,500円。
今は収穫体験だけですが、畑づくり体験もできる場にという計画もあるそうです。
加工や商品化も視野にあり、やがてはさつまいもを題材にした参加型の体験事業の対象を、都内全体に拡大したいということです。駅から徒歩5分の至近距離だからこその発想ですね。

わくわく都民農園のサツマイモ畑 すぐそばをJR中央線が走り、武蔵小金井駅のビルも見える。
農園内には小金井の畑で採れた野菜を使った食堂もあります。
平日のランチの他、日曜日には、地域の商店も参加したマルシェがひらかれて、地域の人たちは買い物やワークショップを楽しんでいるということです。
東京都では、小金井を第1号として、今後23区にも都民農園を増やしていく構想です。
平日のランチの他、日曜日には、地域の商店も参加したマルシェがひらかれて、地域の人たちは買い物やワークショップを楽しんでいるということです。
東京都では、小金井を第1号として、今後23区にも都民農園を増やしていく構想です。

エリア農園

農園のカフェ。ワークショップの会場になった。
続いての発信者は府中の「うちで農園」の小勝正太郎さん。自宅そばの東京外国語大学に入学したものの、卒業は早稲田大学政治経済学部という、変わった経歴の持ち主です。
農園で栽培するトマトは「よみがえりトマト」の名で名をはせ、ブルーベリーやトウモロコシのもぎ取りの農業体験が出来る農園としてもメデイアに登場しています。
農園で栽培するトマトは「よみがえりトマト」の名で名をはせ、ブルーベリーやトウモロコシのもぎ取りの農業体験が出来る農園としてもメデイアに登場しています。
その小勝さんが。学校ではなく地域でする活動として、部活のような学びの場をもうけたのです。時間をかけて取り組むことで、農業の奥深さを知って欲しいという思いでした。選んだのがさつまいもでした。
武蔵野の雑木林は誰もが知るところです。けれど、関東ローム層は実は農作物の栽培にはむいていません。やせた赤土を肥沃な農地にするために必要だったのが雑木林の落葉を利用する落葉堆肥農法でした。この武蔵野の落葉堆肥農法を400年間、営々と営んできたのが府中~川越のエリアです。この地で栽培されたさつまいもは富をもたらし、「富の川越いも」と呼ばれ、「三富新田」の地名をのこしています。府中~川越ラインはさつまいもと相性がいいのです。
子どもたちとさつまいもを育てて、農業には癒しの力があることを改めて知ったほか、いくつも分かったことがありました。
利点としては、旱魃や台風、高温などの自然災害に強い、スイーツや健康食などの利用性が高いことです。
逆に、弱点としては寒さに弱い、0度以下になると貯蔵が難しいのです。さつまいも特有病気もあれば、ハリガネムシやゾウムシなどの害虫の被害、異常気象による壊滅的な被害も経験しました。グローバルな今日、今まで日本になかった病気も発生したそうです。
利点としては、旱魃や台風、高温などの自然災害に強い、スイーツや健康食などの利用性が高いことです。
逆に、弱点としては寒さに弱い、0度以下になると貯蔵が難しいのです。さつまいも特有病気もあれば、ハリガネムシやゾウムシなどの害虫の被害、異常気象による壊滅的な被害も経験しました。グローバルな今日、今まで日本になかった病気も発生したそうです。
こうした経験から改めて認識したのは、農業はは難易度が高いということです。さらに、相続時の難問をかかえると、都市農業は無理ゲーではないかということでした。
それを知ったうえで、小勝さんはめげません。都市に農地を残すために何ができるか、苦闘は日々続きます。
それを知ったうえで、小勝さんはめげません。都市に農地を残すために何ができるか、苦闘は日々続きます。
お二人の話を聞いた後の小グループに別れてのワークショップでは、さつまいもにまつわる思い出や加工に取り組んでいる情報などを交換しました。昭和世代には懐かしい芋がゆも、今の若い人たちは知らない。私のグループでは焼き芋談義でもりあがりました。
予定の時間をオーバーしてのプログラムも大詰め。生産者も交えたトークセッションでの、印象に残ったさつまいもの利用をメモしました。
さつまいもは 扱いやすい、加工しやすい。
親子、シニア、いろんな人が触れあえる。
小さい畑でも集まりの場になる
親子、シニア、いろんな人が触れあえる。
小さい畑でも集まりの場になる
さつまいもは 野菜として
お菓子として
カフェのメニューとして(話題の新品種を使ったパフェはいかが・・・)
クラフトビールの原料として
ダイエット食として
離乳食として
介護食として
マタニテイフードワークの認証食として
防災食として
ペットのおやつとして(乾燥イモは飼い主も一緒に食べられるよ)
さらに 焼き芋はコミュニケーションのツールとして最高!
お菓子として
カフェのメニューとして(話題の新品種を使ったパフェはいかが・・・)
クラフトビールの原料として
ダイエット食として
離乳食として
介護食として
マタニテイフードワークの認証食として
防災食として
ペットのおやつとして(乾燥イモは飼い主も一緒に食べられるよ)
さらに 焼き芋はコミュニケーションのツールとして最高!
たかがいもと侮るなかれ。その豊かさはおどろくばかりです。
最後に、さつまいもを離れて、八王子の中西農園の面白い取り組みが紹介されました。
畑は雑草とりと称して子どもに開放され、入園料無料。ただ走るだけでいい。回数はポイント制で、たまれば園のロゴのはいった帽子がもらえる。この帽子がクラスで人気なのだそうです。地域ぐるみの活動が注目されているのです。
畑は雑草とりと称して子どもに開放され、入園料無料。ただ走るだけでいい。回数はポイント制で、たまれば園のロゴのはいった帽子がもらえる。この帽子がクラスで人気なのだそうです。地域ぐるみの活動が注目されているのです。
今は楽しむことにお金を惜しまない時代。楽しんでもらう時間にお金をだしてもらう時代だそうです。700円の入場料を払って、畑の中を自由に散策してもらう。写真をとってもいい。そんなプログラムもあります。ロケ地として貸している畑もあるそうな。こちらの賃貸料は〇十万円だそうです。
参加していた農家の女性は皆若く、新しいことに挑戦する意欲にあふれていました。彼女たちにとって経営tとして成り立つかどうかは重要な問題です、地域性も考えながら、できることを探っているようでした。うちの畑で芋ほり体験はぜひやってみたい、でも、2株2500円は高いな、立川ならどれくらいだと人が来てくれるのだろう・・・。焼き芋まで持っていければ一大イベントになるけど、これは一人ではむつかしそう・・・。
終了後、うちで農園の「ソイシェイク」を試飲。焼き芋がまるまる1本はいった、濃厚なシェイクでした。さつまいもを題材にしながら、都市農業を考える集いになりました。


うちで農園特制のソイシェイク 600円
2024-8-15雑記帳 [代表・玲子の雑記帳]
2024-8-15
◆山梨県は環境先進県です。山がちで急峻な川が多い、日本有数の日照時間が長いといった利点を生かして、自然エネルギーへの取組は他県に先駆けていました。私の所属する「多摩コンシューマーズネットワーク」で小水力発電を町全体でとり組んでいる都留市へ見学に行ったのはもう10年近く前です。大きな河川ではなくとも電力をうみだせる、その電力を生かした植物工場を見学しましたが、今はどこにでもある植物工場も、当時はまだ珍しかったころのことでした。今回、持続可能な次世代エネルギーとして注目されているグリーン水素PR施設「きらっと」を見学しました。
◆山梨県は環境先進県です。山がちで急峻な川が多い、日本有数の日照時間が長いといった利点を生かして、自然エネルギーへの取組は他県に先駆けていました。私の所属する「多摩コンシューマーズネットワーク」で小水力発電を町全体でとり組んでいる都留市へ見学に行ったのはもう10年近く前です。大きな河川ではなくとも電力をうみだせる、その電力を生かした植物工場を見学しましたが、今はどこにでもある植物工場も、当時はまだ珍しかったころのことでした。今回、持続可能な次世代エネルギーとして注目されているグリーン水素PR施設「きらっと」を見学しました。

きらっとは甲府市の南部、米倉山にあります。
2012年に「ゆめソーラー館やまなし」として開館し、2024年リニューアルして「きらっと」になりました。
2012年に「ゆめソーラー館やまなし」として開館し、2024年リニューアルして「きらっと」になりました。
バブルの頃、山梨県は工場誘致のためここに広大な用地を造成しましたが、バブル崩壊とともに、放置されることになりました。
社会は徐々に地球温暖化への関心が高まり、再エネルギーの必要性が認識されるようになっていた時でした。
社会は徐々に地球温暖化への関心が高まり、再エネルギーの必要性が認識されるようになっていた時でした。
山梨県はもともと地形的な有利性を生かして水力発電が盛んな土地です。また、日本でも有数の、日照時間が長い県でもあります。そうしたことが、自然エネルギーには適した場所でもあったのです。が、有利な地域制は実は天候の影響を受けやすいという弱点でもありました。そこで、不安定な自然エネルギー安定したエネルギーになる水素を作ろうと、巨大な実験施設が誕生しました。それが米倉山次世代エネルギー研究開発ビレッジNesrado(ネスラド)です。

Nesradoは、山梨県米倉山電力貯蔵技術研究サイトの太陽光発電、水素、ユーティリティなどの様々な研究機関・企業が連携して次世代エネルギーシステムの研究開発をサポートする山梨県営の入居型研究棟です。きらっとはこの新エネルギー開発の様々な手法や実証実験などをわかりやすく来訪者に説明するための施設なのです。


地球温暖化や次世代エネルギーの現状と将来予想等を紹介する大型ビジョンや壁面パネルコーナー、双方向・対話的に学習できるタッチパネルなどを展示して環境学習の場となっています。そして、県内外に次世代エネルギーの情報発信を行うとともに、将来の次世代エネルギーシステムの推進を担う人材育成のきっかけを創出することを目的としています。



Nesradoでは、再生可能電力を用いて水を電気分解して水素を作り。誕生した水素はグリーン水素と呼ばれ、このグリーン水素を安全に貯蔵する施設も同時にそなえています。
グリーン水素を水素吸蔵合金タンクで安全に貯蔵するシステムは、P2Gやまなしモデルとして、燃料電池、水電解装置、電解層の安全確保や輸送なに複数の企業が関わり、世界の主力電源化をめざしています。
P2Gで作られたグリーン水素は22年から東京ビッグサイトの電源として使用されています。P2Gとは「Power to Gas(パワーツーガス)」のことで、余剰電力を気体燃料に変換(気体変換)して貯蔵・利用する方法です。
P2Gで作られたグリーン水素は22年から東京ビッグサイトの電源として使用されています。P2Gとは「Power to Gas(パワーツーガス)」のことで、余剰電力を気体燃料に変換(気体変換)して貯蔵・利用する方法です。
近年、地球温暖化防止や化石燃料の高騰などの観点から、太陽光・風力・地熱など自然エネルギーを利用する再生可能エネルギーの普及・拡大が進んでいます。
しかし、再生可能エネルギーのうち太陽光発電や風力発電などは、気象条件によって発電量が大きく変動するため、発電量が電力需要を上回るときは余剰電力を貯蔵する必要があります。
しかし、再生可能エネルギーのうち太陽光発電や風力発電などは、気象条件によって発電量が大きく変動するため、発電量が電力需要を上回るときは余剰電力を貯蔵する必要があります。
従来の余剰電力貯蔵には、揚水式水力発電、蓄電池、フライホイールなどが利用されてきましたが、それぞれ、立地の制約、大容量化・コスト低減に課題、短時間供給に限定という欠点があります。P2Gは、これらに代わる新たな貯蔵方法として期待されているのです。

山梨県北杜市にはサントリー白州醸造所がありますが、ここに隣接する県有地に、現在P2Gの水素製造工場を建設中です。このプロジェクトにもサントリー、東京電力、東レ、日立などが参入しています。サントリーは天然水の殺菌用燃料として、将来はウィスキー醸造所のボイラー燃料として利用することでCO2の年間1万6千トンの削減をめざしています。
朝日新聞には、8月9日の「水素社会」を取り上げた記事がありましたが、「脱炭素の力に 走り始めた国内」と題して、米倉山が紹介されていました。水素を作るための電化移送や貯蔵するための設備が並ぶNesradoが、東レやドコモなどの企業の実験場としても使われていることが紹介されていました。
こうした研究と企業を結ぶ役割をしているのが山梨県企業局です。
電気、温泉、地域振興を行っており、電気事業には次世代エネルギーシステム開発も含まれていて、「きらっと」も企業局が管轄しています。こんな部署は山梨県だけかと思っていたら、そうではありませんでした。
各県にも水道事業や観光事業などの収益事業を実施するための部署が存在していて、東京都には公営企業局があり、交通、水道、下水道を管轄しています。
電気、温泉、地域振興を行っており、電気事業には次世代エネルギーシステム開発も含まれていて、「きらっと」も企業局が管轄しています。こんな部署は山梨県だけかと思っていたら、そうではありませんでした。
各県にも水道事業や観光事業などの収益事業を実施するための部署が存在していて、東京都には公営企業局があり、交通、水道、下水道を管轄しています。
きらっとを案内してくれた職員の話では、再生エネルギーを利用して水素を作る上で、最大の難点はコストがかかるということです。企業にとっても安く供給できなければ使いにくいのです。
先の朝日新聞には政府の試算も載っていました。「現状の水素の供給コストは液化天然がス(LNG)の4倍とか。むこう15年刊は価格差を埋める補助金がでるそうですが、何とかコストを下げるために、製造効率の向上とともに、需給調整(室力制御)で捨てられる再エネの電力を使えるようにすることが提案されています。
この夏の猛暑は、命にかかわる危険な暑さ形容されて、高齢の我が身にはこたえました。
人はくらしを快適に豊かにするため技術開発をすすめてきましたが、そのために温室効果ガスを異常に発生させ、今や地球上のあらゆる生物に命の危機が訪れています。
人はくらしを快適に豊かにするため技術開発をすすめてきましたが、そのために温室効果ガスを異常に発生させ、今や地球上のあらゆる生物に命の危機が訪れています。
再生可能エネルギーを利用した水素の活用はまだ実験や試用の段階でコスト、安全性などの課題がありますが、人がエネルギーを必要としている限り、より安全で地球やそこにくらす生物の負荷を高めないエネルギーを選んでいくことが現在生きている私たちの務めと言えるでしょう。
雑記帳2024-8-1 [代表・玲子の雑記帳]
2024-8-1
◆三光院サロンの「京都ルネサンス」、夏の講座は蕪村です。
◆三光院サロンの「京都ルネサンス」、夏の講座は蕪村です。
江戸中期に活躍した与謝蕪村は画・俳 二つの道を息、いずれにおいても余人を許さない足跡を残しています。享保元年(1716)生、天明3年(1783)没。同じ年に伊東若冲がうまれています。池大雅、円山応挙も同時期、住んだ場所も若冲の住まいのあった錦市場を中心に極めて近い場所にいたこともあって、この4人の活躍した時代を「京都ルネサンス」と呼ぶ人もいます。
芭蕉と共に日本の俳句の道を開いた蕪村でしたが、画家としての評価が高かった割には、俳聖と言われた芭蕉の陰で、俳人としての評価は決して高くありませんでした。
その蕪村を「先進的で優れた俳人」として発掘したのが正岡子規でした。萩原朔太郎も子規に続き、蕪村を『郷愁の詩人」と呼び、ました。(『知の木々舎』では現在、朔太郎の「郷愁野詩人与謝蕪村」を連載中です。)明治の新体詩に先駆けて、「近代的な感覚を持って斬新な俳句を生み出した先駆的な俳人」は、与謝野晶子、石川啄木、北原白秋ら当時の多くの文人たちに影響を与えたのでした。
その蕪村を「先進的で優れた俳人」として発掘したのが正岡子規でした。萩原朔太郎も子規に続き、蕪村を『郷愁の詩人」と呼び、ました。(『知の木々舎』では現在、朔太郎の「郷愁野詩人与謝蕪村」を連載中です。)明治の新体詩に先駆けて、「近代的な感覚を持って斬新な俳句を生み出した先駆的な俳人」は、与謝野晶子、石川啄木、北原白秋ら当時の多くの文人たちに影響を与えたのでした。
蕪村が残した買いがと俳句をしさいにみると、絵画も俳句も不可分・一体のものであったことがわかります。いくつか紹介しましょう。
先ず「花の香や」の扇絵です。

賛は「花の香や 嵯峨の灯火(ともしび) きゆる時」
絵は昼の光景を描いているようにみえますが、民家に灯る明かりによって、夜も同時にえがかれているのです。民家の灯が消えて暗闇の中に、ほのかに花の香がするという句にたいして、明かりを触媒に、嗅覚の世界をも表現しているのです。
絵は昼の光景を描いているようにみえますが、民家に灯る明かりによって、夜も同時にえがかれているのです。民家の灯が消えて暗闇の中に、ほのかに花の香がするという句にたいして、明かりを触媒に、嗅覚の世界をも表現しているのです。
次に「暗夜漁舟図」。

篝火を焚いて漁をする親子がえがかれています。
水面に反射する篝火を蕪村は墨絵でえがいています。
遠くの家には明かりがともり、漁をしている父と子を待つ母親がいることをうかがわせます。
これには賛がありませんが、あるとすれば「住む方の秋の夜遠き灯影かな」でしょうか。
萩原朔太郎はこの絵を評して「蕪村は郷愁の詩人である」と書いています。
水面に反射する篝火を蕪村は墨絵でえがいています。
遠くの家には明かりがともり、漁をしている父と子を待つ母親がいることをうかがわせます。
これには賛がありませんが、あるとすれば「住む方の秋の夜遠き灯影かな」でしょうか。
萩原朔太郎はこの絵を評して「蕪村は郷愁の詩人である」と書いています。
「新緑杜鵑(とけん)図」

若葉が萌え始めた新緑の頃の、日本独特の湿潤な気候が表されています。中国の山水画とは違う、柔らかい風景です。かすかに樹木々の間から空中に一羽のホトトギスがとんでいるのが見えるでしょうか。実はホトトギスは鳴き声をよむ鳥と言われ、姿の見えない鳥です。絵はホトトギスの鳴き声を視覚化して、日本的な感性をとらえた山水画といえます。
賛は「ほととぎす 平安城を すじかいに」
賛は「ほととぎす 平安城を すじかいに」
蕪村は享保元年、摂津国毛馬村(現在の大阪市都島区毛馬)に生まれましたが、20歳で江戸に出るまでのおいたちについては生涯語ることはありませんでした。一説には母親が正妻ではなかったのではないかと言わていますが、生母への思慕は生涯持ち続けていたように思われます。
江戸に出た蕪村は俳人早野巴人の住み込み弟子になりました。巴人は芭蕉の門人だった企画と風説の指導を受けた俳人で、蕪村は芭蕉の、いわばひ孫弟子にあたります。師を通して芭蕉への憧れをつのらせ、敬愛は生涯変わることはありませんでした。
27歳の時巴人が死去。蕪村は江戸を離れて結城へ、この地で出家。結城を拠点に北関東を旅し、時には芭蕉の足跡をたどって奥州にもおもむきました。西行伝説の残る栃木県那須町には「遊行柳」を読んだ句がのこされていて、実は芭蕉も同じところで句をよんでいるのです。

道のべに清水流るる柳かげ しばしとてこそ立ち止まりつれ (西行)
柳散り 清水涸れ石ところどころ (芭蕉)
田一枚 植えて立ち去る 柳かな (蕪村)
柳散り 清水涸れ石ところどころ (芭蕉)
田一枚 植えて立ち去る 柳かな (蕪村)
29歳で初めて蕪村をなのります。その時詠んだ句は明らかに芭蕉を意識したものでした。
古池に 鶯鳴きぬ 日もすがら (蕪村)
古池や 蛙飛び込む 水の音 (芭蕉)
古池に 鶯鳴きぬ 日もすがら (蕪村)
古池や 蛙飛び込む 水の音 (芭蕉)
結城で世話になった俳人・早見晋我が亡くなった際に詠んだ長編詩「北寿老仙を悼む」は、清新な抒情性と深い感情に満ちた先進的な「新体詩」として、後世、萩原朔太郎によって絶賛されました。長いので少しだけ紹介します。
君あしたに去りぬ ゆふべのこころ千々に
なんぞはるかなる
君を思ふて岡のべに行きつ遊ぶ
をかのべ何ぞかく哀しき
なんぞはるかなる
君を思ふて岡のべに行きつ遊ぶ
をかのべ何ぞかく哀しき
蒲公英(たんぽぽ)の黄に薺(なずな)のしろう咲きたる
見る人ぞなき
雉子のあるか ひたむきに鳴くを聞けば
見る人ぞなき
雉子のあるか ひたむきに鳴くを聞けば
・・・
・・・
31歳で江戸に戻り、芝・増上寺の近くに住んで、漢詩人として知られた服部南部に漢詩・漢文をまなびます。
服部南部は江戸・文人画の先駆者のひとりでした。烏孫が俳画を描くきっかけになったともいわれています。
服部南部は江戸・文人画の先駆者のひとりでした。烏孫が俳画を描くきっかけになったともいわれています。

36歳で再び江戸を離れ、京におもむきます。江戸の師であった早見巴人がかって京都で門人を抱えていた縁で、その門人たちにむかえられたのです。
39歳で京を離れ、丹後の宮津に向かいました。結城の浄土種の寺でで出家した縁で、ここでも浄土宗の見性寺に寄宿しています。
宮津で3年間、絵を描き、句を作る生活を送っていますが、近くの加悦(かや)与謝野町が蕪村の母の出身地であるという伝説があります。蕪村はここにも足をはこんでいます。
下図は蕪村が丹後で描いた山水図です。陶淵明をえがいた三幅には、有名な「帰去来辞」の「帰りなんいざ 田園まさに蕪れんとす」がみえますが、蕪村の名は実はここから採ったものだったのです。


その後、42歳で再び京へもどり、ここでようやく腰を落ちつけることになるのですが、こうして前半生を見てみると、まさに「一所不在」、行脚と修行を繰り返していたように思えます。でも、赴く先々で、不義理はしていない、師や世話になった人に対する敬愛のねは強く、誠実な人となりがうかがえました。後半は京に腰をすえて独自の世界「画俳二道」に精進する蕪村を学びます。
三光院の7月の献立には押し胡瓜の酢のもの、おなすの枝豆和えが加わりました。
ご飯は青じそのおばんです。
ご飯は青じそのおばんです。

押し胡瓜の酢のもの

お茄子の枝豆和え

雑記帳2024-7ー15 [代表・玲子の雑記帳]
2024-7-15
◆内子は愛媛県南予地方の入口にある、山間の小さな町です。ノーベル賞作家の大江健三郎の故郷として知られるほか、蝋の流通で財をなした商家が建ち並ぶ町並み保存地域としてしられています。
◆内子は愛媛県南予地方の入口にある、山間の小さな町です。ノーベル賞作家の大江健三郎の故郷として知られるほか、蝋の流通で財をなした商家が建ち並ぶ町並み保存地域としてしられています。
大洲に隣接し、松山から40kmの地点にある町は、古くから大洲街道の交通の要衝として、また四国遍路の通過地として栄えていました。
江戸時代から明治時代には、和紙と木蝋の生産で栄えました。特に木蝋は海外でも高く評価され、最盛期には全国生産の約30パーセントを占めるほどでした。
英語でwaxの蝋は漆と同じウルシ科のハゼノキの実から作られます。果実を抽出した油を固めたものが木蝋、さらにそれをさらしたのが白蝋と呼ばれ、内子は白蝋の技術が高かったのだそうです。
南予にはもともとハゼノキが多く自生していたことから蝋の生産が始まりました。
大正時代以降は、石油や電気の普及によって木蝋生産は衰退しましたが、当時の繁栄ぶりをうかがわせる商家の町並みが今ものこっています。 この歴史的な町並みは、1982年(昭和57年)に国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されました。
町はこれをきっかけに、「白壁と木蝋のまち」づくりを進めてきました。
奥の村へとつづくエリアを含めて「エコロジータウンうちこ」を打ち出して、まちなみ、村なみを謳い、農村観保全やグリーンツーリズムを通じて多くの観光客を受け入れています。「からり」という名の農産物直売所は今では全国何処でも見られる産直市場のさきがけになりました。直売所にはパンやソーセージ、シャーベットの加工場もあり体験教室やイベントも開催されます。農村民泊などの取組みも含めて、第一次産業の活性化のモデルとして、全国的にも知られるようになっています。
奥の村へとつづくエリアを含めて「エコロジータウンうちこ」を打ち出して、まちなみ、村なみを謳い、農村観保全やグリーンツーリズムを通じて多くの観光客を受け入れています。「からり」という名の農産物直売所は今では全国何処でも見られる産直市場のさきがけになりました。直売所にはパンやソーセージ、シャーベットの加工場もあり体験教室やイベントも開催されます。農村民泊などの取組みも含めて、第一次産業の活性化のモデルとして、全国的にも知られるようになっています。
東西に長い愛媛は松山を中心とする中予を真中に、東は東予、西は南予と呼ばれていますが、それぞれ気風や文化は異なります。東予出身の私はまったくと言っていいくらい南予の事は知りませんでした。この度、郷里に残っていた一番下の妹がさそってくれて、姉妹3人の旅が実現しました。
先ずは内子の街並み散策です。
重要伝統的建物郡保存地区は現在、全国に130箇所ほどあります。内子では八日市街道そいに、漆喰塗蝋の重厚な建物が並ぶ街並みをみることができます。
重要伝統的建物郡保存地区は現在、全国に130箇所ほどあります。内子では八日市街道そいに、漆喰塗蝋の重厚な建物が並ぶ街並みをみることができます。
最盛期には20数軒の蝋生産家があったという中で、一番の大手は芳我家でした。本家の本芳我邸は今も主が住んでいるので邸内をみることはできませんが、分家の上芳我邸は建築当時の姿のままに、木蝋資料館もあります。
建物は、内子の製蝋行の最盛期であった明治27年(1894年)に上棟され、往時の豪商の暮らしぶりがうかがえます。居住空間だけでなく、釜場や蔵、物置などの木蝋生産施設も一体で残されており、平成2年には国の重要文化財の指定を受けました。現在の建物は建築当時のまま、平成20年代に修復されたもの。

通りは山へ向かって坂道になっている

路地は情緒ある石畳


本芳我家住宅 邸内をみることはできないが、庭は公開されている。

漆喰の古民家がつづく

独特の鬼瓦のある上芳吾亭 こちらは中を見学できる

2階から中庭を見下ろす

芳賀我家のもう一つの分家である下芳我邸は商店街でそば処になっている。
歴史的検図物指定地区と並んで忘れえてらないのは内子座です。
芳我邸のある街並みからはちょっとはずれますが、こちらも建物は国の重要文化財です。
大正5年に大正天皇即位を記念して建てられました。
芳我邸のある街並みからはちょっとはずれますが、こちらも建物は国の重要文化財です。
大正5年に大正天皇即位を記念して建てられました。
小屋は歌舞伎や文楽、落語や映画上映など、さまざまな催しに使われます。
じつは、大正時代には、同じような芝居小屋が県内に1000軒あったといわれます。全国を見ればその数、押して知るべし、人々が芸術や芸能を愛でる余裕がうまれたのですね。残念ながらその殆どが老朽化のため、昭和には姿を消してしまいました。内子座も取り壊されることになっていましたが、町並み保存地区に近接していることから、まちづくりの核として活用していくことになったということです。
内子座では子ども狂言の発表会も行われるそうです。町の豊かな財政のもと、文化度もたかったのですね。
じつは、大正時代には、同じような芝居小屋が県内に1000軒あったといわれます。全国を見ればその数、押して知るべし、人々が芸術や芸能を愛でる余裕がうまれたのですね。残念ながらその殆どが老朽化のため、昭和には姿を消してしまいました。内子座も取り壊されることになっていましたが、町並み保存地区に近接していることから、まちづくりの核として活用していくことになったということです。
内子座では子ども狂言の発表会も行われるそうです。町の豊かな財政のもと、文化度もたかったのですね。

堂堂たる構えの内子座

建物はそのままに、椅子席に改修されていまも多くのイベントに利用されている。
宿の「オーベルジュ内子」は、内子の町を見下ろす高台にありました。
レストランと大浴場のある本棟から数分のところにあるヴィラが5棟の、こじんまりとした宿です。1棟だけは特別仕様のようでしたが、私たちはベッド2つの普通のタイプに泊まりました。内子和紙や内子杉をつかった数寄屋造り、ガラス張リのひろびろとした桧風呂は温泉。時計もテレビもない、なにもしない贅沢をうたった宿でした。なによりのご馳走は緑一色の自然にかこまれていたことでしょうか。
レストランと大浴場のある本棟から数分のところにあるヴィラが5棟の、こじんまりとした宿です。1棟だけは特別仕様のようでしたが、私たちはベッド2つの普通のタイプに泊まりました。内子和紙や内子杉をつかった数寄屋造り、ガラス張リのひろびろとした桧風呂は温泉。時計もテレビもない、なにもしない贅沢をうたった宿でした。なによりのご馳走は緑一色の自然にかこまれていたことでしょうか。
とはいえ、そこはオーベルジュです。オーナーであるシェフの自慢の料理は文句なくおいしかったです。
到着して通されたロビーでウエルカムドリンクをいただきました。
夕食時には蝋燭がともされてすっかり内子気分。

夕食のメニュー

生ハムのグジュール

野菜20種は自家菜園でとれたもの、ひしおをドレッシングにして

内子産ポークのショリソー

大洲トウモロコシの愛媛ソワーレ

愛南町イサキをのせた小エビとあおさ海苔のリゾット

はなが牛(内子」のブランド牛)熟成50日サーロイン
天然酵母のパン
武井茶園の緑茶プリンキャラメルのジェラート
小菓子 コーヒー
武井茶園の緑茶プリンキャラメルのジェラート
小菓子 コーヒー
朝食は和食。土鍋で炊いたご飯のおいしさに、つい食べ過ぎてしまいました。一押しは御多分に漏れず卵かけご飯。

齢のはなれた3人組に、スタッフさんは何の集まりかと思った様子。「姉妹なんですよ。3婆です。」の答えに、「まあ」と驚いて、「素敵ですね。」が返ってきました。中の妹をはさんで私と末の妹は10歳違い。子守はしましたが、一緒に遊んだ記憶はなく、おとなになってもそれぞれが遠く離れた地域に住み、子育てや介護に追われて過ぎました。年取ってようやく一緒に旅ができるようになたのだと、感慨深いものがありました。
そうした感慨にふけるのも私たち世代まで。少子化の未来には灌漑にふける光景はもうないのかもしれません。
そうした感慨にふけるのも私たち世代まで。少子化の未来には灌漑にふける光景はもうないのかもしれません。

三婆姉妹です。
雑記帳2024-7-1 [代表・玲子の雑記帳]
2024-7-1
◆「食とくらしと環境を考える会」の6月の講座は「旬のトマトでイタリアン~トマトと蒸し鶏の冷製パスタ」でした。
◆「食とくらしと環境を考える会」の6月の講座は「旬のトマトでイタリアン~トマトと蒸し鶏の冷製パスタ」でした。
◇トマトソース
<材料>完熟トマト 中2個、ミニトマト200g、ニンニク1/2片、
EXVオr-ブオイル大3、塩小1
<材料>完熟トマト 中2個、ミニトマト200g、ニンニク1/2片、
EXVオr-ブオイル大3、塩小1
<作り方>
①湯むきしたトマトは1,5cm角に小さく切る。
②ミニトマトはへたをとり、横半分に輪切りにする。
③ニンニクはみじん切り。
④オリーブオイルを引いた鍋に、トマト、ミニトマト、ニンニク、塩を加え、ふたをする。⑤ジュウジュウ音がしたら蓋を開けて、ときどきかき混ぜながら、15分ほど煮込む。(中火)水分がなくなったら粗熱をとり冷ましておく。
①湯むきしたトマトは1,5cm角に小さく切る。
②ミニトマトはへたをとり、横半分に輪切りにする。
③ニンニクはみじん切り。
④オリーブオイルを引いた鍋に、トマト、ミニトマト、ニンニク、塩を加え、ふたをする。⑤ジュウジュウ音がしたら蓋を開けて、ときどきかき混ぜながら、15分ほど煮込む。(中火)水分がなくなったら粗熱をとり冷ましておく。
◇蒸し鶏
<材料>鶏むね肉1枚(250g)、
生姜絞り汁小1、砂糖小1、酒小1、片栗粉小1
<材料>鶏むね肉1枚(250g)、
生姜絞り汁小1、砂糖小1、酒小1、片栗粉小1
<作り方>
①鶏むね肉の皮をはぎ、肉の両面をフォークでさして全体に穴をあけておく。
②①に調味料を入れ、よく揉みこむ。出来れば10分おく。
③ふんわりラップをかけ、電子レンジで3分加熱する。
④裏返して2分加熱。そのままレンジ内において、予熱で火を通す。
⑤粗熱をとって食べやすい大きさに切り、冷ましておく。
①鶏むね肉の皮をはぎ、肉の両面をフォークでさして全体に穴をあけておく。
②①に調味料を入れ、よく揉みこむ。出来れば10分おく。
③ふんわりラップをかけ、電子レンジで3分加熱する。
④裏返して2分加熱。そのままレンジ内において、予熱で火を通す。
⑤粗熱をとって食べやすい大きさに切り、冷ましておく。
◇パスタ
<材料>スパゲッテイ(1.4㎜)280g、トマト中2個、新玉ねぎ1/2個、
Aオリーブオイル大1
Bニンニク1/2個、バジル1/2P、塩(茹でよう)大2、オリーブオイル大3
<材料>スパゲッテイ(1.4㎜)280g、トマト中2個、新玉ねぎ1/2個、
Aオリーブオイル大1
Bニンニク1/2個、バジル1/2P、塩(茹でよう)大2、オリーブオイル大3
<作り方>
①トマトは半分に輪切りして2cm角に切り、オリーブオイル大さじ1をふり掛けてひやしておく。新玉ねぎもは薄くスライスして冷やしておく。
②ボールにニンニクを塗り付けて香りをつけ、冷やしたトマトソース、蒸し鶏、トマト、新玉ねぎをボールにいれ、オリーブオイル大さじ3を加えてよく和える。(パスタソースのできあがり)
③パスタソースの準備ができたら、湯を沸かしておいた鍋に塩を加えて(通常の1.5倍位)表示通りの時間でパスタをゆでる。
④ゆであがったら水にとり、ザルにあげ、絞るように水気をきって②のボールに移す。そのあと、飾り用のバジルをちぎって加え、よく和える。
⑤お皿に彩りよくパスタを盛り、残りのソースをかけて、バジルをかざり、できあがり。
①トマトは半分に輪切りして2cm角に切り、オリーブオイル大さじ1をふり掛けてひやしておく。新玉ねぎもは薄くスライスして冷やしておく。
②ボールにニンニクを塗り付けて香りをつけ、冷やしたトマトソース、蒸し鶏、トマト、新玉ねぎをボールにいれ、オリーブオイル大さじ3を加えてよく和える。(パスタソースのできあがり)
③パスタソースの準備ができたら、湯を沸かしておいた鍋に塩を加えて(通常の1.5倍位)表示通りの時間でパスタをゆでる。
④ゆであがったら水にとり、ザルにあげ、絞るように水気をきって②のボールに移す。そのあと、飾り用のバジルをちぎって加え、よく和える。
⑤お皿に彩りよくパスタを盛り、残りのソースをかけて、バジルをかざり、できあがり。

★トマトの湯向きは簡単です。頭に十文字に包丁を入れ、網杓子に乗せて熱湯にさっとくぐらせて(2~3秒)、ボールにとって皮をむきます。
★ミニトマトは色や甘味が通常のトマトより強いので、甘味のある色鮮やかなソースを作るために使います。
★蒸し鶏は優れもの。簡単にできて、市販のサラダチキンよりずっとおいしい。つくりおきすれば他の料理にも利用できるので便利です。
★ゆであがったパスタを絞るのがミソ。絞るのが難しければザルに押し付けて水分を切ります。これでパスタの味がずっとよくなります。
◇フルーツの寒天ゼリー
<材料>ももの缶づめ1/4缶、ブルーベリー。クコの実適宜
粉寒天2g、水150cc
上白糖30g、、水125cc、缶詰シロップ25cc
<材料>ももの缶づめ1/4缶、ブルーベリー。クコの実適宜
粉寒天2g、水150cc
上白糖30g、、水125cc、缶詰シロップ25cc
<作り方>
①ももは8mm角のさいの目に切る。
②ブルーベリーは1人5粒を用意する。
③クコの実は、さっと洗って水に浸しておく。1人3粒ほど。
④粉寒天は150ccの水で溶き、沸騰させる。
⑤④にもも、ブルーベリー、クコの実を入れ、彩りよく混ぜ合わせ、型に流し込む。
⑥粗熱が取れたら冷蔵庫で冷やし、好みの大きさにきってできあがり。
①ももは8mm角のさいの目に切る。
②ブルーベリーは1人5粒を用意する。
③クコの実は、さっと洗って水に浸しておく。1人3粒ほど。
④粉寒天は150ccの水で溶き、沸騰させる。
⑤④にもも、ブルーベリー、クコの実を入れ、彩りよく混ぜ合わせ、型に流し込む。
⑥粗熱が取れたら冷蔵庫で冷やし、好みの大きさにきってできあがり。

★寒天は冷えるとすぐ固まるので、講座のように時間が限られている場合は便利です。ゼラチンのように温度管理もむつかしくないのも手軽です。粉寒天は便利ですが、昔の棒寒天が手に入らなくなったのは寂しい。
◆NHKの朝ドラ「虎に翼」で主人公たちがよく食べている甘味どころ「たけもと」は神田淡路町にある「竹むら」がモデルだそうです。
神田淡路町といえば、サラリーマンの町、最近のIR駅周辺の再開発ですっかり変わったとはいうものの、周辺には多くの文人たちが集った食べ物屋さんが沢山ありました。中で、江戸時代からつづくと言われる老舗の「神田藪そば」で江戸の蕎麦の味を楽しみました。昼前に行ったのに1時間はまたされる長蛇の列。若いカップルも多く、よほど人気があるのでしょうか。店員のおばさんは客のさばき方も歯切れよく、さすが江戸かと感心しました。

竹むら(日曜なのでお休みだった)

伊勢源(うなぎや)

藪そば

すっきりした味で、そば通でない私でも2枚は軽いせいろ

月見
◆6月の昭和記念公園は紫陽花の競演です。
花木園から西へつながるさ散歩道は紫陽花ロードと名付けられ、道沿いには何種類もの紫陽花が次々に花をさかせます。こもれびの里や残堀川沿いなど、園内いたるところで紫陽花が見られます。


紫陽花の仲間、シモツケも満開に。(花木園)







楓風亭のお菓子も紫陽花
雑記帳2024-6-15 [代表・玲子の雑記帳]
2024-6-15
◆5月に武蔵御岳神社をたずねたのが発端で、6月は東国三社巡りをすることに。
◆5月に武蔵御岳神社をたずねたのが発端で、6月は東国三社巡りをすることに。
神社信仰があるわけではなく、御朱印を集める趣味などさらさらなくても、歴史や人々の向き合い方を知るのは面白いものです。。
東国三社とは、下総国(現在の千葉県北部から茨城県の一部)の香取神社、鹿島神宮、息栖(いきす)神社をいいます。江戸時代には、お伊勢参りをした関東以北の人々がその帰りに立ち寄った事で知られています。じつは、伊勢までは行かなくてもこの三社を巡る旅が江戸の庶民の大きな娯楽だったのです。
江戸の庶民が三社巡りを楽しんだのは利根川の改修のおかげでした。
東京湾に注ぐ利根川の改修を命じたのは徳川家康です。天正18年(1590)家康の江戸移封ののち利根川と渡良瀬川をつなぐ大工事はげ元和7年(1621)までつづき、銚子河口から太平洋につながる、現在の利根川になりました。
東京湾に注ぐ利根川の改修を命じたのは徳川家康です。天正18年(1590)家康の江戸移封ののち利根川と渡良瀬川をつなぐ大工事はげ元和7年(1621)までつづき、銚子河口から太平洋につながる、現在の利根川になりました。
遥か縄文の昔からこの一帯には香取海(かとりのうみ)と呼ばれる大きな内海がひろがっていました。家康は利根川の改修と同時に、香取海の干拓も進めました。浅間山の噴火や利根川の改修による土砂の堆積もともなって香取海は姿を変えていきます。今ではわずかに印旛沼や手賀沼、水郷地帯に名残をとどめる一帯が昔は海だったとは驚きでした。
三社はいずれも香取海の入口に鎮座したとおり、三社の一の鳥居は社殿に続く二の鳥居から離れて、利根川に面して建てられています。
三社はいずれも香取海の入口に鎮座したとおり、三社の一の鳥居は社殿に続く二の鳥居から離れて、利根川に面して建てられています。
江戸中期からは、治水、整備が完成した利根川の水運を利用して物資の輸送がさかんになります。運ばれる年貢米の中にはもちろん香取海の干拓でうまれた田圃の米もはいっています。利根川河口の町、銚子は、関東第一の港になり、銚子で造られた醤油は江戸に運ばれて江戸の人々の食生活を支えました。当時から醤油屋といえば大店で、中でもヤマサ醤油が有名でした。町に醤油屋が何軒もあるということは豊かさの象徴でした。
水運が活発になると、往来する人も増え、利根川は次第に庶民の観光にも利用されるようになり、舟を使って三社をめぐる旅が流行しました。旅の様子は松尾芭蕉や十返舎一九も紹介、更には浮世絵にも描かれて、人気は明治以降までつづいたということです。
なぜ鹿島神宮、香取神宮、息栖神社の三社が東国三社なのか。その理由は、大国主命(おおくにぬしのみこと)の国譲りの神話に遡ります。
鹿島神宮の主祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)、香取神宮の主祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)だといわれています。この二神は天照大神(あまてらすおおみかみ)に遣われて大国主命に国を譲ってもらえるよう交渉をしました。これが「国譲り」の伝説です。
そして、その交渉を平定に導くために二神を先導し全国を案内したのが、息栖神社のご神祭である久那戸神 (くなどのかみ)と天鳥船命 (あめのとりふねのみこと) だったのです。
そして、その交渉を平定に導くために二神を先導し全国を案内したのが、息栖神社のご神祭である久那戸神 (くなどのかみ)と天鳥船命 (あめのとりふねのみこと) だったのです。
茨城県にある息栖神社は、香取・鹿島が神社の中でも別格の神宮であるので、比べれば格下にみえるかもしれませんが、境内もひろく、決して小さな神社ではありません。(ちなみに神宮と名のつくのは伊勢を含めて三宮だけです。)
楼門、拝殿は修理中で写真はとれず。時節柄大祓いの茅の輪がたてられています。
楼門、拝殿は修理中で写真はとれず。時節柄大祓いの茅の輪がたてられています。

息栖神社二の鳥居

本殿前の夏越の大祓いの輪
鹿島神宮は。2600年以上前に創建された関東最古の神社であり、全国に約600社ある鹿島神社の総本社です。茨城県鹿嶋市に位置し、かつての常陸国(ひたちのくに)で最も格式が高いとされた一宮(いちのみや)にあたります。
戦や旅に出る人が出発前に安全や武運を祈って鹿島神宮に参拝していたことから、旅の安全を祈り、願いをこめて旅に出発することを「鹿島立ち」と言います。「勝運」がつくということで、スポーツ選手のお参りも多いそうです。
江戸時代、徳川家との縁は深く、徳川頼房が奉納した楼門は日本三大楼門のひとつだと「いことですが、kちらも修復中でみられませんでした。200万坪に及ぶ神宮の森は、800種を超える草木が繁茂、森そのものが天然記念物です。前日の雨も上がって静謐さはよりましているようでした。
千葉県香取市にある香鳥神宮は、鹿島神宮と同様に2,600年以上の歴史を誇り、全国に約400社ある香取神社の総本社です。、
武術の神様「経津主大神(ふつぬしのみこと)」を祀り、勝運・交通・災難除けなどにご利益があるとされて、人気は高い。鹿島神宮とともに関東の東を護る地域全体の守護神として、千葉県最強の霊力を持っているパワースポットです
国の重要文化財として指定されている本殿や楼門は、1700年に徳川幕府の手によって造営されました。香取神宮のシンボルともいえる美しい建築物は、見どころの一つです。

意外に質素な茅の輪

静謐な鹿島神宮の森

奥宮

御手洗の池
千葉県香取市にある香鳥神宮は、鹿島神宮と同様に2,600年以上の歴史を誇り、全国に約400社ある香取神社の総本社です。、
武術の神様「経津主大神(ふつぬしのみこと)」を祀り、勝運・交通・災難除けなどにご利益があるとされて、人気は高い。鹿島神宮とともに関東の東を護る地域全体の守護神として、千葉県最強の霊力を持っているパワースポットです
国の重要文化財として指定されている本殿や楼門は、1700年に徳川幕府の手によって造営されました。香取神宮のシンボルともいえる美しい建築物は、見どころの一つです。

車祓い

総門

拝殿

要石
三社を巡れば近隣の名所旧跡もたどりたくなるもの。
中でも、歌舞伎役者市川団十郎が帰依した成田山新勝寺は庶民の絶大な信仰を集めました。
成田山の本尊である不動明王は、真言宗の祖である弘法大師空海が自ら祈りをこめて敬刻開眼したとあります。弘法大師が中国より伝来した真言密教の教えをつないで、千年以上つづく御護摩祈祷が有名です。
中でも、歌舞伎役者市川団十郎が帰依した成田山新勝寺は庶民の絶大な信仰を集めました。
成田山の本尊である不動明王は、真言宗の祖である弘法大師空海が自ら祈りをこめて敬刻開眼したとあります。弘法大師が中国より伝来した真言密教の教えをつないで、千年以上つづく御護摩祈祷が有名です。

総門

重文の三重の塔

経堂 経典を納めた輪蔵も輪蔵を回す猿も極彩色

大本堂
三社をめぐったあとの最後の打ち上げは、奇岩やダイナミックな景観の連なる銚子の磯巡りでした。その果てには3億年前から20万年前の地層をみることが出来る屏風ケ浦がひろがっています。

屏風が浦の地層
利根川観光にくりだした江戸の人々は風景だけでなく、食も楽しみの一つでした。。成田の雑魚、銚子はカツオ・・・。令和の私たちも江戸に習って、成田山参拝の後は名物の鰻をたのしみました。
3

鰻は静岡産

江戸時代から続く老舗の女将さんは12代目。
雑記帳2024-6-1 [代表・玲子の雑記帳]
2024-6-1
◆頼清徳さん台湾・新総統に
◆頼清徳さん台湾・新総統に
5月20日。台湾民進党の頼清徳さんが新しい総統に就任しました。 頼さんはこの日の朝、台北の総統府に夫人とともに現れ宣誓式を行ないました。蔡英文前総統とともに総統府前に作られた特設ステージに立ち、就任演説を述べました。
私は中国に対し、台湾への威嚇をやめ、台湾と共に世界の責任を負い、台湾海峡や地域の平和と安定の維持に力を注ぎ、世界が戦争の恐怖から免れるのを確保するよう呼びかけたい。中国に対して圧力をかけるのをやめるよう求めるとともに、卑下せず、おごらず、現状を維持する。中国は中華民国の存在事実を直視し、台湾人民の選択を尊重することを望む。
頼さんは、台湾と中国の現状を尊重し、台湾は独立した国家であつて中国の一部でない。、中国とはその現状に基づいて平和的に話し合っていきたい主張したのでした。
これに対して、中国は台湾が中国の一部であって統一されるのは歴史の必然であるとするのは、中国の基本路線であると反駁しています。
台湾からの情報では、総統就任式を前に中国軍の軍用機と艦船が事実上の停戦ラインである台湾海峡の中間線付近で確認され、軍用機6機は中間線を越えたとのことです。
中国から新総統に対するるさまざまな形の圧力が強まると思われます。これから頼さんの慎重なかじ取りに期待します。
◆東京の西郊、標高900m余の御岳山は古くから霊山として信仰されてきました。江戸時代、徳川家康が西の守りとして社殿を整備してからは、庶民の社寺詣でが盛んになったのとあいまって、江戸中期には。大山、富士山と並ぶ人気の山になりました。
◆東京の西郊、標高900m余の御岳山は古くから霊山として信仰されてきました。江戸時代、徳川家康が西の守りとして社殿を整備してからは、庶民の社寺詣でが盛んになったのとあいまって、江戸中期には。大山、富士山と並ぶ人気の山になりました。

道に迷った日本武尊を導いた犬(大口真神)が起こりだということですが、どうやらモデルは絶滅したニホンオオカミのようです。オオカミは病気を運んだり作物を荒らすネズミを退治してくれるとして、古来、特に農村では大切にされていたのです。幕末にコレラが流行した折には「おいぬさま」のお札が江戸の町中にはられたということです。
様々な団体、結社のことを「講」といいます。砂川村にも御岳講ができました。
御(おし)による「講」の組織化によって、御岳信仰は武蔵・相模を中心に関東一円にひろがりました。
字(あざ)単位の講はいくつかの組に分かれ、毎年、組の代表が交代で御岳にもうでます。
その御岳講が今も続いているという砂川の中里講の代参に同行させてもらいました。
御(おし)による「講」の組織化によって、御岳信仰は武蔵・相模を中心に関東一円にひろがりました。
字(あざ)単位の講はいくつかの組に分かれ、毎年、組の代表が交代で御岳にもうでます。
その御岳講が今も続いているという砂川の中里講の代参に同行させてもらいました。
マイクロバスで立川を出発して1時間足らずで御岳山の麓に到着しました。山頂にはケーブルカーで上ります。
標高400mの滝本駅から400m差の山頂まで斜度22度を6分かけてのぼりました。
御岳山はレンゲショウマや高山植物の宝庫。都内で山気分が味わえるとあって、登山客に人気です。この日も臨時のケーブルカーがでるほどでした。
標高400mの滝本駅から400m差の山頂まで斜度22度を6分かけてのぼりました。
御岳山はレンゲショウマや高山植物の宝庫。都内で山気分が味わえるとあって、登山客に人気です。この日も臨時のケーブルカーがでるほどでした。

麓の滝本駅
山には御師の経営する宿坊が10数4軒あります。食事やお風呂も備えた宿泊施設です。その中で、立川は昔から山香荘ときまっていました。
ケーブルカーを降りて平坦な山道を10分あまり歩くと、山香荘では講元の山木さんが待っていてくれました。親の代からの世話人ということです。
ケーブルカーを降りて平坦な山道を10分あまり歩くと、山香荘では講元の山木さんが待っていてくれました。親の代からの世話人ということです。

講元の山木さん

御師の鈴木さん
ニ拝二拍手 祝詞の儀式のあと、代参帳を見せてもらいました。
300年も続いている講の歴史ですが、もうその資料は殆ど残っていません。地元で保管できなくなった帳面を御師に預ける講がふえてきましたが、ここでも代が替わると管理はむつかしいのだそうです。砂川で一番古いので昭和40年のものでした。
300年も続いている講の歴史ですが、もうその資料は殆ど残っていません。地元で保管できなくなった帳面を御師に預ける講がふえてきましたが、ここでも代が替わると管理はむつかしいのだそうです。砂川で一番古いので昭和40年のものでした。


通常なら御師さんが拝殿まで案内して説明もしてくれるそうですが、この日、御師の鈴木さんはいそがしそう。神社まいりは、代参だけで急坂を上ることになりました。高齢者には無理だと思うほどの、まことに急な坂道でした。
参道には参拝を記念して奉納された石碑が大きさを競うようにたちならんでいます。
刻まれた地名から御岳信仰が関東一円だったことがうかがえます。
刻まれた地名から御岳信仰が関東一円だったことがうかがえます。

厳しい坂道を上がってようやく拝殿にたどりつきました。東の守りの東照宮にたいして御岳は西の守りというだけあって、極彩色の造りは東照宮に劣りません。


御開帳は12年に一度、酉年にあります。
酉年御開帳のいわれは諸説あるようです。御岳山には多種の鳥が棲んでいるからというのもさりながら、晴れた日にはスカイツリーまで東京中が見下ろせる御岳山です。見下ろせば江戸城は酉の方角に当たるからというのが当たっているような気がします。
酉年御開帳のいわれは諸説あるようです。御岳山には多種の鳥が棲んでいるからというのもさりながら、晴れた日にはスカイツリーまで東京中が見下ろせる御岳山です。見下ろせば江戸城は酉の方角に当たるからというのが当たっているような気がします。
祭神は100柱を超えるといわれる境内には社殿の数も多い。先のおいぬ様を祀る大口真神神社をはじめ、家康を御祭神とする東照社、菅原道真の北野社、などなど・・・神明社の祭神は天照皇大御神です。
造られたの時期はまちまちですが、山頂の社殿造営はさぞかし大変だったのだろうと思わずにはいられません。
元旦や節分など古式ゆかしい年中行事の祭礼の中には、相模の大山神社からオオカの骨を運んでの神事もあるそうです。
造られたの時期はまちまちですが、山頂の社殿造営はさぞかし大変だったのだろうと思わずにはいられません。
元旦や節分など古式ゆかしい年中行事の祭礼の中には、相模の大山神社からオオカの骨を運んでの神事もあるそうです。
宝物殿には国宝の鎧が2点、8代将軍吉宗と10代家治の鎧が収められています。宝物殿の前にある石像は畠山重忠。

神社に詣でた後は宿坊に戻って、皆さん、お楽しみの食事会です、私は一人で山を下りました。途中、目に留まったお茶処にたちよりました。
こちらの馬場家住宅は幕末の御師住宅の完備した形をのこして、東京都の有形文化財になっていました。
こちらの馬場家住宅は幕末の御師住宅の完備した形をのこして、東京都の有形文化財になっていました。

萱ぶき屋根の馬場家住宅

客間には祭壇がある

いただいた茶のお菓子は青梅産の柚子を練り込んだ羊羹
神社本庁に属さない武蔵御岳神社には宮司はいません、代わりに御師と呼ばれる人たちが活動しています。
御師は神職であると同時に、宿坊で参拝客をもてなし、冬には里へ降りてお札をくばって歩きます。全国に御師のいる神社は他にもありますが、むかしながらの活動を今でも受け継いでいるのは御岳講だけだそうです。
御師は神職であると同時に、宿坊で参拝客をもてなし、冬には里へ降りてお札をくばって歩きます。全国に御師のいる神社は他にもありますが、むかしながらの活動を今でも受け継いでいるのは御岳講だけだそうです。
そして、江戸時代から続く講の代参は、豊作の祈願や娯楽だけでなく、全国から集まるに人々の情報交換の場でもあったのです。今は日帰りできる御岳もうでも時代の流れと共に数は減ってきているといいます。今回連れて行ってくださった世話人の岡部さんも「いつまでつづけられるだろうか」と思案顔でした。

下りもケーブルカーで

斜度22度の窓外
雑記帳2024-5-15 [代表・玲子の雑記帳]
2024-5-15
◆5月は「麦秋」の季節です。栃木県にある大麦畑の一坪オーナーである私は刈り取りを迎えた麦畑を見学できることになりました。
◆5月は「麦秋」の季節です。栃木県にある大麦畑の一坪オーナーである私は刈り取りを迎えた麦畑を見学できることになりました。
きっかけは通信販売で大麦のお菓子を買ったことから。大麦の効用はしらないまでも、食物繊維が豊富だ位は知っていた。食べてみると、適度に美味しく、適度に安かった。
ある年、耕作放棄された荒れ地を麦畑に変えたいという会社の便りが届きました。1万円で願いを敵える手助けをしてほしい、というお誘いでした。世にある、高齢者がよくかかる詐欺まがいではないのか。そうだとしても1万円ですむのなら、見返りを求めなければだまされてもともとくらいの気持ちになれます。こうして畑の一坪オーナーになったのでした。
オーナーには毎年、この季節に見学会のおしらせがきます。たわわに実った麦の穂を一度見たいものだと思っていましたが、足利は遠い。どうやって行こうかと思案していたところ、知り合いが車を出してくれることになりました。運よく、この日のメニューには畑の見学と2人分のお昼がついていました。

ランチのお弁当はなかなか美味しかった。ごはんは麦ごはん。
足利にある「おおむぎ工房」は、実は15年前のNHKのテレビ番組「小さな旅」でその前身が紹介されていました。社長の浅沼 誠司さんがまだ父親の小さな洋菓子店で働いていたころのことです。
大学を出て店の営業をしていた当時、地方からの帰路で、車窓に見た故郷の景色を忘れることができないといいます。それは夕陽をあびて黄金色に輝く麦の畑でした。この光景を残したい、そのために自分になにができるのかを考えたそうです。地域の特産である大麦を使ってお菓子はできないだろうか。
大学を出て店の営業をしていた当時、地方からの帰路で、車窓に見た故郷の景色を忘れることができないといいます。それは夕陽をあびて黄金色に輝く麦の畑でした。この光景を残したい、そのために自分になにができるのかを考えたそうです。地域の特産である大麦を使ってお菓子はできないだろうか。

浅沼さんが見た景色と同じ風景が車窓に広がる。大麦は黄金色に小麦はまだ青い。
栃木県、なかんずく足利は全国有数の大麦の産地です。私も40年以上前に福岡にすんでいたころ、筑後平野で大麦が栽培されていたことを思い出しました。聞けば、栃木と佐賀県が大麦の栽培で全国1,2位を競っているということです。栽培されている二条大麦はいずれも麦酒の原料になります。 なので、すべて契約栽培。農家の収入は安定しますが、逆に、麦酒以外の用途で大麦を育てている農家はいないのです。その中で何とか5キロの大麦を手にいれた浅沼さんでしたが、粉に挽くにも苦労がありました。お菓子の原料を確保するために、みずからの畑で大麦栽培に取り組む事は欠かせませんでした。
国の減反政策で農家が手放した田圃は今でも全国にたくさんあります。放置された田圃は荒れ、やがて森や林になってしまいます。社員一丸となって、樹を切り、耕して育てた大麦畑をこの日、私たちは見ることができました。

人の腰の高さまで実った大麦畑。
浅沼さんの麦畑は海外からの視察も多いそうです。
同行した連れも私も昭和の子どもで、小さい頃、麦ふみをした記憶があります。冬に麦をふみつけることが、麦の成長をうながすのですが、それが麦をいためているのではないかと一様におどろくそうです。広い畑は人力では追いつかず、今は機械が代わりだということでした。
同行した連れも私も昭和の子どもで、小さい頃、麦ふみをした記憶があります。冬に麦をふみつけることが、麦の成長をうながすのですが、それが麦をいためているのではないかと一様におどろくそうです。広い畑は人力では追いつかず、今は機械が代わりだということでした。
ところで、私たちが一般に目にする小麦粉にたいして、わざわざ大麦粉という名前がないように、小麦と大麦は同じイネ科の植物ながら用途も性質も違います。大麦は越年草で小麦は一年草。大麦はそのままの形で発酵させて味噌やビールに、小麦は粉にしてパンや菓子、麺類などに加工されます。成分は似ていますが、大麦には食物繊維が多く、小麦にはグルテンが多く含まれます。練るとネバネバするグルテンのないことが、大麦がお菓子作りにむいていない理由です。浅沼さんが大麦のお菓子を商品化するまでには試行錯誤の日々があったということです。会社の看板メニューの「大麦ダックワズ」は、メレンゲが主な材料なので生まれたお菓子です。

二条大麦 2本の筋がある。

大麦にはノゲとよばれる毛があって風がふくと畑に黄金色の波ができるのだという。小麦にはない。
大麦工房では検品の際に出てくる不良品を「わけあり」商品として、安い値段で提供しています。私も実はわけあり商品の愛用者です。フードロスにつながるので、他でも値引きした訳あり商品がひろがるといいなと思っています。
行きは圏央道から関越を、帰りは東北道を利用したので、関東を一円することになった楽しい大人の遠足でした。乗せて行ってくれた連れに感謝です。
それにしても麦秋とは言いえて妙。美しい日本語の一つだと思います。
それにしても麦秋とは言いえて妙。美しい日本語の一つだと思います。
◆5月12日は国営昭和記念公園の無料開放日でした。
連休つかれなのか、比較的早い時間帯だったせいなのか、来場者は思ったより少なく、この季節の花々をじっくり眺めることができました。日本庭園のアヤメは見ごろを過ぎていましたが、花木園のショウブはまだ養生中です。そんな中でネモフィラの寿命は長いです。つつじの終わった園内には、シャリンバイやカルミアがいたるところで満開になっていました。
連休つかれなのか、比較的早い時間帯だったせいなのか、来場者は思ったより少なく、この季節の花々をじっくり眺めることができました。日本庭園のアヤメは見ごろを過ぎていましたが、花木園のショウブはまだ養生中です。そんな中でネモフィラの寿命は長いです。つつじの終わった園内には、シャリンバイやカルミアがいたるところで満開になっていました。

シャリンバイ(日本庭園)

ベニバナトチノキ(花木園内のハーブ園)

エゴノキ(日本庭園)

キンセンカ(こもれびの里)

スイカズラ(こもれびの里付近ノサイクリングロード)
楓風亭のこの日の生菓子は「薫風」でした。新緑のこの季節にぴったりの名ではありませんか。

薫風
◆立川で一番新しい街区グリーンスプリングズでは、連休中、アロハフェスが開かれていました。
運営にあたるスタッフは皆若く、次々に湧いてくるような人の流れを見ていると、賑わいを租出する様々な工夫があるのだろうと思わされました。今、このエリアは若者の集まるファッショナブルな街として注目されています。
運営にあたるスタッフは皆若く、次々に湧いてくるような人の流れを見ていると、賑わいを租出する様々な工夫があるのだろうと思わされました。今、このエリアは若者の集まるファッショナブルな街として注目されています。





雑記帳2024-5-1 [代表・玲子の雑記帳]
2024-5-1
◆『望郷五月歌』は数ある故郷の歌の中でも心惹かれる卓抜な一つだと思います。
◆『望郷五月歌』は数ある故郷の歌の中でも心惹かれる卓抜な一つだと思います。
5月は故郷を偲ぶ月です。
人は心の中にそれぞれの故郷を抱いています。
幼い日々を育んでくれた故郷
志をたてて旅だった故郷
父母の暮らす故郷
懐かしく思い出す故郷
口ずさむ故郷
人は心の中にそれぞれの故郷を抱いています。
幼い日々を育んでくれた故郷
志をたてて旅だった故郷
父母の暮らす故郷
懐かしく思い出す故郷
口ずさむ故郷
佐藤春夫は39歳の時、故郷を偲んで『望郷五月歌』を発表しました。
佐藤春夫(1892-1964)は和歌山県新宮市の医家に生まれ、少年の頃から和歌を作りました。慶應義塾に学び,25歳で『西班牙犬の家』『田園の憂鬱』を発表し、作家・詩人としての地位を確立しました。以後、浪漫派の作家として幅広い創作活動を展開、1960年に文化勲章を受章しています。
佐藤春夫(1892-1964)は和歌山県新宮市の医家に生まれ、少年の頃から和歌を作りました。慶應義塾に学び,25歳で『西班牙犬の家』『田園の憂鬱』を発表し、作家・詩人としての地位を確立しました。以後、浪漫派の作家として幅広い創作活動を展開、1960年に文化勲章を受章しています。
長い詩ですが、ひと思いに紹介させて頂きます。
『望郷五月歌』
佐藤春夫
塵まみれなる街路樹に
哀れなる五月(さつき)來にけり
石だたみ都大路を歩みつつ
恋しきや何ぞわが古郷(ふるさと)
あさもよし紀の国の
牟婁の海山
夏みかんたわわに実り
橘の花さくなべに
とよもして啼くほととぎす
心してな散らしそかのよき花を
朝霧か若かりし日の
わが夢ぞ
そこに狹霧らふ
朝雲か望郷の
わが心こそ
そこにいさよふ
空青し山青し海青し
日はかがやかに
南国の五月晴(さつきばれ)こそゆたかなれ
心も軽くうれしきに
海(わだ)の原見迥(みはる)かさんと
のぼり行く山辺の道は
杉檜樟の芽吹きの
花よりもいみじく匂ひ
かぐはしき木の香薰じて
のぼり行く路いくまがり
しづかにも昇る煙の
見まがふや香爐の煙
山樵(やまかつ)が吸ひのこしたる
鄙ぶりの山の煙草の
椿の葉焦げて落ちたり
古の帝王たちも通はせし
尾の上の道は果てを無み
ただつれづれに
通ふべききはにあらねば
目を上げてただに望みて
いそのかみふるき昔をしのびつつ
そぞろにも山を下りぬ
歌まくらはなれ小島に
立ち騒ぐ波もや見むと
辿り行く荒磯石原(ありそいしはら)
丹塗舟(にぬりぶね)影濃きあたり
若者の憩へるあらば
海の幸鯨(いさな)捕る船の話も聞くべかり
且つは聞け
浦の浜木棉(はまゆふ)幾重なすあたり何処(いづく)と
いざさらば
心ゆく今日のかたみに
荒海の八重の潮路を運ばれて
流れよる千種百種(ちぐさももくさ)
貝がらの数を集めて歌にそへ
贈らばや都の子等に
佐藤春夫
塵まみれなる街路樹に
哀れなる五月(さつき)來にけり
石だたみ都大路を歩みつつ
恋しきや何ぞわが古郷(ふるさと)
あさもよし紀の国の
牟婁の海山
夏みかんたわわに実り
橘の花さくなべに
とよもして啼くほととぎす
心してな散らしそかのよき花を
朝霧か若かりし日の
わが夢ぞ
そこに狹霧らふ
朝雲か望郷の
わが心こそ
そこにいさよふ
空青し山青し海青し
日はかがやかに
南国の五月晴(さつきばれ)こそゆたかなれ
心も軽くうれしきに
海(わだ)の原見迥(みはる)かさんと
のぼり行く山辺の道は
杉檜樟の芽吹きの
花よりもいみじく匂ひ
かぐはしき木の香薰じて
のぼり行く路いくまがり
しづかにも昇る煙の
見まがふや香爐の煙
山樵(やまかつ)が吸ひのこしたる
鄙ぶりの山の煙草の
椿の葉焦げて落ちたり
古の帝王たちも通はせし
尾の上の道は果てを無み
ただつれづれに
通ふべききはにあらねば
目を上げてただに望みて
いそのかみふるき昔をしのびつつ
そぞろにも山を下りぬ
歌まくらはなれ小島に
立ち騒ぐ波もや見むと
辿り行く荒磯石原(ありそいしはら)
丹塗舟(にぬりぶね)影濃きあたり
若者の憩へるあらば
海の幸鯨(いさな)捕る船の話も聞くべかり
且つは聞け
浦の浜木棉(はまゆふ)幾重なすあたり何処(いづく)と
いざさらば
心ゆく今日のかたみに
荒海の八重の潮路を運ばれて
流れよる千種百種(ちぐさももくさ)
貝がらの数を集めて歌にそへ
贈らばや都の子等に
◆「上越・下越へ 新潟グルメ紀行」の3日目は佐渡の宿根木でした。
佐渡には島の中央・国仲平野の公家文化とちょっと北の武家文化、そして、南の小木半島には町人文化と、3つの文化があるといわれています。
公家文化は中世、此の地が配流の地であったために都からの流人によってもたらされ、戦国時代から近世初頭にかけては金山のある相川を中心に武家文化が根をおろして、佐渡は辺境の島とは思えない豊かな文化をうんでいます。同じく戦国から近世にかけて、北前船による商品経済は佐渡に豊かな富をもたらし、宿根木は町人文化が栄えました。北前船は千石船と呼ばれました。」
公家文化は中世、此の地が配流の地であったために都からの流人によってもたらされ、戦国時代から近世初頭にかけては金山のある相川を中心に武家文化が根をおろして、佐渡は辺境の島とは思えない豊かな文化をうんでいます。同じく戦国から近世にかけて、北前船による商品経済は佐渡に豊かな富をもたらし、宿根木は町人文化が栄えました。北前船は千石船と呼ばれました。」
宿根木は小木半島にあって、船主(船頭)、船大工、船乗りの、海運に必要な全てを抱えた、北前船のの村でした。日本から瀬戸内海へ自由に航海する北前船は物資の交易だけでなく、当時の情報網をも握っていたのです。しかし、江戸時代、繁栄を極めた北前舩も、明治には輪船の建造が禁じられたために、明治末期には姿を消しました。
何漕もの船をもつ裕福な船主の屋敷は、外観は質素ながら内部は贅を尽くした総漆。強風から漆喰を守るために全体を囲った蔵や、狭い土地に密集して建てられた家々など、江戸時代から残る街並みは、平成3年に、重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。これは全国で30番目だということです。ちなみに、現在、この指定を受けた地域は120か所をこえています。
海からの強風に絶え、狭いエリアに軒を並べる、独特の街並みを巡りました。
海からの強風に絶え、狭いエリアに軒を並べる、独特の街並みを巡りました。

強風で屋根がとばないよう、案内所の屋根には石がおかれている。

移築の崔、敷地に合わせて三角形にきりつめた三角家(さんかくや)。
まるで船の舳先のようです。

世捨て小路と呼ばれるメインストリート。石畳は真中がへこんでいる。

清九郎。安政5年の改築。江戸時代後期から明治にかけて在をなした巡船主の邸宅。建築材料、技術とも当時の宿根木集落の最高水準を誇る建物。

川にかかる石橋は福井産の石。財力にまかせて石工まで連れてきた作らせたという。

回り舞台もあるという公会堂。今も現役です

称光寺。1349年、佐渡最初の時宗寺院として開基。1717年の棟札が残る山門は宿根木でもっとも古いと言われる
廻船主砂糖伊左衛門家の屋敷は土地に余裕のない宿ね基にあって、珍しく広い庭がある。今はあなぐちの名でレストランになっている。お昼はここでいただきました。食材はその日港に上がった魚、パンには佐渡産の小麦粉「ゆきちから」を使うなど、地産地消にこだわった創作フレンチでした。

あなぐち入口

いごねり(まえごという海藻をかためたもの)

春のポタージュ

鰯のパートブリック(春巻)

豚肉のロースト
折角ここまで来たのだから名物のたらい船にのりました。
今は観光用ですが、もともとは、入り組んだ狭い小木湊の入り江で漁をするために考案された舟でした。
今は観光用ですが、もともとは、入り組んだ狭い小木湊の入り江で漁をするために考案された舟でした。

雑記帳2023-4-15 [代表・玲子の雑記帳]
2024-4-15
◆2024年最初の遠出は上越・下越を巡る旅でした。
◆2024年最初の遠出は上越・下越を巡る旅でした。
最初におとずれた糸魚川は誰もが知る翡翠の産地です。日本列島を東西に分かつ「糸魚川ー静岡構造線」が通る糸魚川には、約5億年前に生まれたヒスイを初め、多種多様な岩石があります。海岸で見つかる石の種類は日本一だそうです。火成岩、堆積岩、変成岩・・・
中で、ヒスイは新潟県が国内随一。約6500年前から世界最古のヒスイ文化がさかえていたといいます。東北を旅したとき、ヒルイを求めて古代から豊かな交易があったことが実感されたことを思い出しました。
ヒスイと聞けば、ばくぜんと緑の石を連想しますが、実はヒスイは緑の石はめったにありません。殆どは白い石だそうです。たちよったフォッサマグナミュージアムで、糸魚川の海岸で石拾いをするときにヒスイを見分ける特徴をおしえてもらいました。ヒスイは密度が高くて重いこと、固くて割れにくく、他の石より角ばっていること。そして、ヒスイは細かい結晶があつまってできているので、光を当てると、キラキラ光るのだそうです。
2016年の糸魚川の大火をおぼえている人も多いでしょう。おりしも日本海の季節風、フェーンの風にあおられて街の中心部は焼失。7年経って復興なった今は、新しい街並みにうまれかわっていました。
糸魚川は江戸時代、100万石の加賀藩の宿場町でした。
1652年には本陣が置かれ、本陣となったのが今に続く酒造「加賀の井」さんでした。
1650年創業の加賀の井酒造は、軟水の多い酒造界では珍しく、仕込み水に中硬水を使っているのが特徴。先祖が探し当てた自社井戸はいまも大切に使い続けて、大火の折には避難した人たちの飲み水にもなったということです。軟水とは異なる「まろやかで力強い味」をうたっていました。大吟醸山田錦はアルコール度17度だそうですが、お酒に縁のなかった私でも飲めました。
1652年には本陣が置かれ、本陣となったのが今に続く酒造「加賀の井」さんでした。
1650年創業の加賀の井酒造は、軟水の多い酒造界では珍しく、仕込み水に中硬水を使っているのが特徴。先祖が探し当てた自社井戸はいまも大切に使い続けて、大火の折には避難した人たちの飲み水にもなったということです。軟水とは異なる「まろやかで力強い味」をうたっていました。大吟醸山田錦はアルコール度17度だそうですが、お酒に縁のなかった私でも飲めました。


火災の教訓を残すためにあえて燃えた蔵をのこしてある。

これ全部試飲しました!
この旅のもう一つのテーマは「新潟の豊かな食文化」を味わうことでした。
宿の夕食はまさに、新潟の海の幸がいっぱいでした。
宿の夕食はまさに、新潟の海の幸がいっぱいでした。

前菜 紅ずわい蟹甲羅盛り、ひすい豆腐、蛍烏賊麴漬け

お造里 鯛、鰤、細魚(さより)、鰆

火の物 めぎすつみれ汁、かんずりをそえて

箸休め 真昆布蕎麦

進め肴 幻魚とめぎすの干物
幻魚は日本海の深海魚。海から上がったときは透明。冬、寒風干しにして干物にする。

台の物 黒毛和牛とのど黒のせいろ蒸し

留椀 こくしょ汁(のっぺ汁の糸魚川版 冠婚葬祭の折に供される)
糸魚川市にはわずか10体の仏像を展示する小さな美術館があります。その名も「谷村美術館」。当地の実業家の谷村繁雄氏が蒐集した彫刻家・澤田政廣の作品を展示するために、谷村氏が建築家・村野藤吾に設計を依頼したという、作品と建物が一体となって鑑賞できる美術館でした。

入口を抜けると、シルクロードの遺跡、敦煌の石窟寺を思わせる建物が出現します。そこへ一直線に延びる日本風回廊を美術館へと進みます。回廊は法隆寺をイメージしたのだそうです。

砂漠の向うにシルクロードをイメージした建物

法隆寺をイメージした回廊
館内には、湾曲した半円形の部屋、洞くつのような部屋の中に、弥勒や観音などの仏像が1体ずつ安置されています。人工の照明は入場者の足元を照らすためで極力抑えられ、作品の照明は天井からの自然の光です。光は作品と見る者を優しく包むこんでくれるようです。(館内写真はとれないので、パンフレットから1枚)

自然光は時間や天候によって変化するので、その時々に仏の印象も違ってみえるかもしれません。季節によっても違うでしょう。小さいながらもう一度おとずれたいと思わせる美術館でした。
美術館に隣接して庭園がありました。
遠くの山並みを借景にして、広大な空間に川や築山を設けた見事は造りはどこかで見たような・・・。作庭家の名を聞いて合点がいきました。この庭を造った造園家・中根金作は足立美術館を造った人でした。足立美術館は海外の観光客に人気があり、世界で最も人気のある美術館のひとつです。
庭は中に入ることはできず、室内から鑑賞するようになっています。室内に置かれた大きなテーブルは他ならぬヒスイでした。
遠くの山並みを借景にして、広大な空間に川や築山を設けた見事は造りはどこかで見たような・・・。作庭家の名を聞いて合点がいきました。この庭を造った造園家・中根金作は足立美術館を造った人でした。足立美術館は海外の観光客に人気があり、世界で最も人気のある美術館のひとつです。
庭は中に入ることはできず、室内から鑑賞するようになっています。室内に置かれた大きなテーブルは他ならぬヒスイでした。

庭園の入口には、自然石の大観音像(全長8m、約90t)が立てられています。
人の手がくわわっていないのに、見る角度によって人の顔に見える石です。バスが海際を走る今回の旅では、実はそんな岩をいくつも見かけました。
人の手がくわわっていないのに、見る角度によって人の顔に見える石です。バスが海際を走る今回の旅では、実はそんな岩をいくつも見かけました。
上越市高田は夜桜で有名です。
日本に三大〇〇があまたある中で、桜について言えば、三大夜桜は高田城址、上野公園、弘前城。三大桜スポットは弘前、吉野、高遠のこと。ちなみに三大桜とは、山梨の神代桜、根尾の薄墨桜、三春の滝桜をいうそうです。
日本に三大〇〇があまたある中で、桜について言えば、三大夜桜は高田城址、上野公園、弘前城。三大桜スポットは弘前、吉野、高遠のこと。ちなみに三大桜とは、山梨の神代桜、根尾の薄墨桜、三春の滝桜をいうそうです。
例年なら、4月上旬のこの時期には満開の桜を見ることができるそうですが、今年は3月が寒かったため全国的に開花が遅れ、高田公園でも桜は未だのようでした。それでも桜祭りは開催されていて、園内に200店あるという屋台は大にぎわい。地元愛にあふれるボランティアのガイドさんが高田城の案内をしてくれました。

堀に掛かる極楽橋から三の櫓を望む

流石新潟、堀には錦鯉
高田に城が築かれたのは徳川家康の六男忠輝が入封したとき。豊臣との抗争が激化する中で前田を牽制するためだったといいます。突貫工事で4か月で築かれた城には天守閣も城につきものの石垣もなく、60haを越える広大な城郭にあるのは、櫓と、石垣の代わりにめぐらされているのは土塁です。
外堀を埋め尽くす蓮の花は、元は、明治になって困窮した家臣達の食用に植えたものでした。当時、品種として食用にはいまいちだった蓮が、今では東洋一と呼ばれて、観光の目玉になっているのです。
蓮の堀に掛かる橋からは、はるかに妙高山の雪形を仰ぐことができます。ゴールデンウィーク前後に見られる跳ね馬の形をした雪形は、昔は農作業の目安になりました。今年は雪が少ないので、4月初めにもうそれらしい姿がみえました。
蓮の堀に掛かる橋からは、はるかに妙高山の雪形を仰ぐことができます。ゴールデンウィーク前後に見られる跳ね馬の形をした雪形は、昔は農作業の目安になりました。今年は雪が少ないので、4月初めにもうそれらしい姿がみえました。

お昼をいただいたのは百年料亭「宇喜世」でした。140年前の創業以来守られて来た建物の一部はは国登録有形文化財になっています。合併によって上越市になった高田は、明治時代に陸運の駐屯地があったおかげで、料亭文化の名残もあるのでしょう。

153帖の大広間

仲三階 勝海舟も泊まったという一番小さい4畳半の部屋

国指定の有形文化財の北門

箱御前

3段のうちの一段目
新潟の食を訪ねる旅はあと1日あるのですが、佐渡島の食紀行は次回に。
雑記帳2024-4-1 [代表・玲子の雑記帳]
2024-4-1
◆この春、高校を卒業した従妹の孫娘がたずねてきました。
◆この春、高校を卒業した従妹の孫娘がたずねてきました。
「おばちゃん、こんにちわ」
「大学の試験はどうだったの」
「合格です。経済学部で決めました」
「よかったわね。おめどとう。そこで何するの。キンケイ?マルケイ?どっち?」
「はっ、それって何ですか」
私は驚く。経済学部ならそのどちらかに決まってるではないか。
「キンケイは近代経済学、マルケイはマルクス経済学よ」
「うちの経済学部の科目一覧には、キンケイもマルケイもないです」
私は慌てる。
えっ、そうなの。私が古いのかも知れない。いくつか、大学の経済学部の科目を見てみるわね」
ネットを開く。東京大学を手はじめに一橋大学、慶應義塾、早稲田大学、上智大学、国際基督教大学…… マルクス経済学の科目は見当たらない。
もしかしたらソ連の崩壊と関係があるかかもしれない。世界初の社会主義国としてマルクス経済を実施してきた(?)のはソ連なのだから。
「あらほんとにキンケイもマルケイもないわ。私の不勉強だわ」
「おばさん、マルケイって何ですか」
「あなた世界史はやったわね。マルクスを聞いたことあるでしょ」
「その名前は世界史じゃなくて、倫理、コウリンで聞いたことがあります」
「どんなことを憶えてるの」
「産業革命により、資本家が労働者を雇って生産する資本主義が発展しました。自由にモノをつくり、自由にモノを買う市場経済です。そして貧富の差がひろがりました。マルクスはそれを改善するために、資本家がもっている工場や土地を、労働者のものにして、何が必要なモノかを計画してつくる計画経済を行う。労働者が主人公となる社会をつくる共産主義を主張したのです」
「あなた、よく憶えているのね。私も大学の一般教養科目で勉強しただけだけど、思いだしてきたわ。マルクスの思想により,レーニンは共産党は1917年にロシアで革命をおこし、ソビエト連邦を創ったの。世界最初の社会主義国として注目されたのよね」
「でもソ連は1991年に崩壊しているじゃないですか」
「そうなのよ.ソ連共産党は一党独裁だった。ソ連は5ヶ年計画で工業化をすすめ、一定の効果を挙げたといわれている。だけど国全体でモノを造るのに,何がどれだけ必要で、どれが不必要かを決めるのは,需要と供給の関係を正確につかまなくてはならない。そんなことは不可能でしょ。計画経済は破綻します」
「学校でも、現在、社会主義国というのは、中華人民共和国、北朝鮮 、べベトナム、ラオス 、キューバ の5か国だけと聞きました」
「社会主義国は大なり小なりに市場経済を採用しているわ。それはマルクスの思想とはまるで違うことよね。中国などは,共産党独裁の資本主義を実行しているわよね」
「だから日本の大学の経済学部からマルクス経済学の講座が消えたんですね」
「まあ、こうやって話してみるとマルクス経済学が消えたのも無理ないことね。」
「私、先輩から聞いたんですけど、経済学部の講座は,よく数字を使うということです。私は数学が嫌いじゃありませんから、むしろ楽しみにしています」
「大学の試験はどうだったの」
「合格です。経済学部で決めました」
「よかったわね。おめどとう。そこで何するの。キンケイ?マルケイ?どっち?」
「はっ、それって何ですか」
私は驚く。経済学部ならそのどちらかに決まってるではないか。
「キンケイは近代経済学、マルケイはマルクス経済学よ」
「うちの経済学部の科目一覧には、キンケイもマルケイもないです」
私は慌てる。
えっ、そうなの。私が古いのかも知れない。いくつか、大学の経済学部の科目を見てみるわね」
ネットを開く。東京大学を手はじめに一橋大学、慶應義塾、早稲田大学、上智大学、国際基督教大学…… マルクス経済学の科目は見当たらない。
もしかしたらソ連の崩壊と関係があるかかもしれない。世界初の社会主義国としてマルクス経済を実施してきた(?)のはソ連なのだから。
「あらほんとにキンケイもマルケイもないわ。私の不勉強だわ」
「おばさん、マルケイって何ですか」
「あなた世界史はやったわね。マルクスを聞いたことあるでしょ」
「その名前は世界史じゃなくて、倫理、コウリンで聞いたことがあります」
「どんなことを憶えてるの」
「産業革命により、資本家が労働者を雇って生産する資本主義が発展しました。自由にモノをつくり、自由にモノを買う市場経済です。そして貧富の差がひろがりました。マルクスはそれを改善するために、資本家がもっている工場や土地を、労働者のものにして、何が必要なモノかを計画してつくる計画経済を行う。労働者が主人公となる社会をつくる共産主義を主張したのです」
「あなた、よく憶えているのね。私も大学の一般教養科目で勉強しただけだけど、思いだしてきたわ。マルクスの思想により,レーニンは共産党は1917年にロシアで革命をおこし、ソビエト連邦を創ったの。世界最初の社会主義国として注目されたのよね」
「でもソ連は1991年に崩壊しているじゃないですか」
「そうなのよ.ソ連共産党は一党独裁だった。ソ連は5ヶ年計画で工業化をすすめ、一定の効果を挙げたといわれている。だけど国全体でモノを造るのに,何がどれだけ必要で、どれが不必要かを決めるのは,需要と供給の関係を正確につかまなくてはならない。そんなことは不可能でしょ。計画経済は破綻します」
「学校でも、現在、社会主義国というのは、中華人民共和国、北朝鮮 、べベトナム、ラオス 、キューバ の5か国だけと聞きました」
「社会主義国は大なり小なりに市場経済を採用しているわ。それはマルクスの思想とはまるで違うことよね。中国などは,共産党独裁の資本主義を実行しているわよね」
「だから日本の大学の経済学部からマルクス経済学の講座が消えたんですね」
「まあ、こうやって話してみるとマルクス経済学が消えたのも無理ないことね。」
「私、先輩から聞いたんですけど、経済学部の講座は,よく数字を使うということです。私は数学が嫌いじゃありませんから、むしろ楽しみにしています」
◆大河ドラマ「光る君へ」の影響か、源氏物語が人気です。旅行や美術館で紫式部や源氏物語に関する企画が目白押し。3月には八王子の富士美術館で「源氏物語」展が開かれていました。

パンフレットの表紙から
開館40周年の記念事業とあって、絵巻や画帖、屏風絵にとどまらす、工芸や現代アートまで、源氏文化の拡がりを一望できる大掛かりな企画展でした。
紫式部が「源氏物語」を執筆したのは今から1000年前、最初の絵巻はそれから100年後に生まれました。物語の場面を絵画化した「源氏絵」はその後、流派や時代を越えて数多く描かれました。描かれた源氏物語は、当時の平和貴族の文化や生活を知る貴重な資料にもなっています。
「源氏物語とその時代」と称する第一部では、色紙や詞書とともに、筝を始めとした楽器や文房具が展示されていました。物語の中で主人公や姫君が手にしたこれらの文物をとおして、私たちは王朝文化の一端にふれることができるのでした。

紫式部(尾形光琳)
第二部はあらすじで辿る源氏物語の絵画です。
源氏物語は絵巻を初め、冊子、扇、色紙などの小画面のものから、屏風や襖のような大画面のものまで、多種多様な携帯で描かれています。中世末期の12世紀に生まれた源氏絵は、近世、室町時代から桃山・江戸時代前期にかけて様々な流派の絵師が制作しました。中でも土佐派の大和絵を代表するような華麗な色彩には目を奪われました。いっぽうで、もう少し軽い、瀟洒な住吉派の絵も展示されています。

桐壺(土佐光吉)

若紫(土佐光吉)

帚木(安田靫彦)
江戸時代には源氏は錦絵にも登場します。大和絵とは異なる画風の、明快な色使いや簡潔な線で軽妙さを打ち出した浮世絵師たちの仕事は、従来の源氏絵とは異なる源氏物語の世界を生み出しました。印刷の技術革新もあって、江戸時代は源氏の人気は庶民の間に高まった時代でもあったのです。
菱川師宣が源氏に由来した美人画を描いたのはもちろん、浮世絵の元祖と呼ばれた岩佐又兵衛も源氏物語の場面を沢山残しています。
菱川師宣が源氏に由来した美人画を描いたのはもちろん、浮世絵の元祖と呼ばれた岩佐又兵衛も源氏物語の場面を沢山残しています。
浮世絵に対抗して大和絵を継承していたのは狩野派です。第三部の源氏物語の名品のコーナーには狩野養信の大作「源氏物語屏風」には、新春の六条院、源氏40歳の賀の席で玉鬘が若菜を信条する場面、二条院での宴に柏木と夕霧が舞う場面が描かれて、目をひきました。

狩野養信の源氏屏風絵

養信の屏風絵の一部
蒔絵で有名な尾形光琳は絵ものこしていました。
ここでは、江戸時代に制作された、印籠や蒔絵硯箱、彩色貝桶や蒔絵引き出し箱等の優れた工芸品が展示されていました。中には源氏香の図や香箱もありました。香道は室町におこったことを学びましたね。
ここでは、江戸時代に制作された、印籠や蒔絵硯箱、彩色貝桶や蒔絵引き出し箱等の優れた工芸品が展示されていました。中には源氏香の図や香箱もありました。香道は室町におこったことを学びましたね。
近世に比べると、近代は源氏絵の制作は減少しますが、それでも、源氏物語と紫式部は画家たちの創作意欲をかき立てる対象であり続けました。
大和絵の作風を継承した作品もあれば、美人画で有名な上村松園はかわいい紫式部を描いています。中で目を引いたのは上村松園の「焔」下絵でした。
大和絵の作風を継承した作品もあれば、美人画で有名な上村松園はかわいい紫式部を描いています。中で目を引いたのは上村松園の「焔」下絵でした。

眉をひそめ髪の毛を食いしばる姿は異様で、妖気すら感じさせます。
源氏との関係に思い悩んだ六条御息所は生霊となって葵上に取りつき、遂には死にいあたらせる、自身の情念に翻弄される御息所の苦悩も描かれているようでした。あとで知ったところによると、この絵を制作した荘園も又、この時期スランプに苦しんでいたということです。
源氏との関係に思い悩んだ六条御息所は生霊となって葵上に取りつき、遂には死にいあたらせる、自身の情念に翻弄される御息所の苦悩も描かれているようでした。あとで知ったところによると、この絵を制作した荘園も又、この時期スランプに苦しんでいたということです。
この時代、源氏物語は与謝野晶子や谷崎純一郎による新訳がでています。その表紙や挿絵もまた源氏絵に連なるものとして残されています。
さて、現代、1000年を越えて読み継がれて来た源氏物語は、映画や漫画は言うに及ばず、染色、ガラス、写真など、新たな表現の世界をひらいています。
平安の女性が身に着けた十二単は今でも女性の憧れの的です。
会場入口には御簾に隠れた女性の内掛けが展示されていました。色の複雑な組み合わせに当時の人々の繊細な美意識を覚え、再現しようとする染色家は多い。
平安の女性が身に着けた十二単は今でも女性の憧れの的です。
会場入口には御簾に隠れた女性の内掛けが展示されていました。色の複雑な組み合わせに当時の人々の繊細な美意識を覚え、再現しようとする染色家は多い。

御簾ごしに見る再現された装束

女三宮の袿
更に、多くの作家のイマジネーションを刺激した現代の新訳は、国内にとどまらず、世界にもひろがっているようです。時代、時代に解釈されて来た源氏物語が内に人間の永遠の課題をはらんでいるからでしょう。今ならさしずめ、ジェンダーでしょうか。