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雑記帳2024-6-15 [代表・玲子の雑記帳]

2024-6-15
◆5月に武蔵御岳神社をたずねたのが発端で、6月は東国三社巡りをすることに。

神社信仰があるわけではなく、御朱印を集める趣味などさらさらなくても、歴史や人々の向き合い方を知るのは面白いものです。。

東国三社とは、下総国(現在の千葉県北部から茨城県の一部)の香取神社、鹿島神宮、息栖(いきす)神社をいいます。江戸時代には、お伊勢参りをした関東以北の人々がその帰りに立ち寄った事で知られています。じつは、伊勢までは行かなくてもこの三社を巡る旅が江戸の庶民の大きな娯楽だったのです。

江戸の庶民が三社巡りを楽しんだのは利根川の改修のおかげでした。
東京湾に注ぐ利根川の改修を命じたのは徳川家康です。天正18年(1590)家康の江戸移封ののち利根川と渡良瀬川をつなぐ大工事はげ元和7年(1621)までつづき、銚子河口から太平洋につながる、現在の利根川になりました。

遥か縄文の昔からこの一帯には香取海(かとりのうみ)と呼ばれる大きな内海がひろがっていました。家康は利根川の改修と同時に、香取海の干拓も進めました。浅間山の噴火や利根川の改修による土砂の堆積もともなって香取海は姿を変えていきます。今ではわずかに印旛沼や手賀沼、水郷地帯に名残をとどめる一帯が昔は海だったとは驚きでした。
三社はいずれも香取海の入口に鎮座したとおり、三社の一の鳥居は社殿に続く二の鳥居から離れて、利根川に面して建てられています。

江戸中期からは、治水、整備が完成した利根川の水運を利用して物資の輸送がさかんになります。運ばれる年貢米の中にはもちろん香取海の干拓でうまれた田圃の米もはいっています。利根川河口の町、銚子は、関東第一の港になり、銚子で造られた醤油は江戸に運ばれて江戸の人々の食生活を支えました。当時から醤油屋といえば大店で、中でもヤマサ醤油が有名でした。町に醤油屋が何軒もあるということは豊かさの象徴でした。

水運が活発になると、往来する人も増え、利根川は次第に庶民の観光にも利用されるようになり、舟を使って三社をめぐる旅が流行しました。旅の様子は松尾芭蕉や十返舎一九も紹介、更には浮世絵にも描かれて、人気は明治以降までつづいたということです。

なぜ鹿島神宮、香取神宮、息栖神社の三社が東国三社なのか。その理由は、大国主命(おおくにぬしのみこと)の国譲りの神話に遡ります。

鹿島神宮の主祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)、香取神宮の主祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)だといわれています。この二神は天照大神(あまてらすおおみかみ)に遣われて大国主命に国を譲ってもらえるよう交渉をしました。これが「国譲り」の伝説です。
そして、その交渉を平定に導くために二神を先導し全国を案内したのが、息栖神社のご神祭である久那戸神 (くなどのかみ)と天鳥船命 (あめのとりふねのみこと) だったのです。

茨城県にある息栖神社は、香取・鹿島が神社の中でも別格の神宮であるので、比べれば格下にみえるかもしれませんが、境内もひろく、決して小さな神社ではありません。(ちなみに神宮と名のつくのは伊勢を含めて三宮だけです。)
楼門、拝殿は修理中で写真はとれず。時節柄大祓いの茅の輪がたてられています。

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息栖神社二の鳥居
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本殿前の夏越の大祓いの輪

鹿島神宮は。2600年以上前に創建された関東最古の神社であり、全国に約600社ある鹿島神社の総本社です。茨城県鹿嶋市に位置し、かつての常陸国(ひたちのくに)で最も格式が高いとされた一宮(いちのみや)にあたります。

戦や旅に出る人が出発前に安全や武運を祈って鹿島神宮に参拝していたことから、旅の安全を祈り、願いをこめて旅に出発することを「鹿島立ち」と言います。「勝運」がつくということで、スポーツ選手のお参りも多いそうです。

江戸時代、徳川家との縁は深く、徳川頼房が奉納した楼門は日本三大楼門のひとつだと「いことですが、kちらも修復中でみられませんでした。200万坪に及ぶ神宮の森は、800種を超える草木が繁茂、森そのものが天然記念物です。前日の雨も上がって静謐さはよりましているようでした。

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意外に質素な茅の輪
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静謐な鹿島神宮の森
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奥宮
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御手洗の池

千葉県香取市にある香鳥神宮は、鹿島神宮と同様に2,600年以上の歴史を誇り、全国に約400社ある香取神社の総本社です。、
武術の神様「経津主大神(ふつぬしのみこと)」を祀り、勝運・交通・災難除けなどにご利益があるとされて、人気は高い。鹿島神宮とともに関東の東を護る地域全体の守護神として、千葉県最強の霊力を持っているパワースポットです
国の重要文化財として指定されている本殿や楼門は、1700年に徳川幕府の手によって造営されました。香取神宮のシンボルともいえる美しい建築物は、見どころの一つです。

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車祓い
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総門
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拝殿
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要石

三社を巡れば近隣の名所旧跡もたどりたくなるもの。
中でも、歌舞伎役者市川団十郎が帰依した成田山新勝寺は庶民の絶大な信仰を集めました。
成田山の本尊である不動明王は、真言宗の祖である弘法大師空海が自ら祈りをこめて敬刻開眼したとあります。弘法大師が中国より伝来した真言密教の教えをつないで、千年以上つづく御護摩祈祷が有名です。

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総門
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重文の三重の塔
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経堂 経典を納めた輪蔵も輪蔵を回す猿も極彩色
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大本堂

三社をめぐったあとの最後の打ち上げは、奇岩やダイナミックな景観の連なる銚子の磯巡りでした。その果てには3億年前から20万年前の地層をみることが出来る屏風ケ浦がひろがっています。
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屏風が浦の地層

利根川観光にくりだした江戸の人々は風景だけでなく、食も楽しみの一つでした。。成田の雑魚、銚子はカツオ・・・。令和の私たちも江戸に習って、成田山参拝の後は名物の鰻をたのしみました。

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鰻は静岡産
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江戸時代から続く老舗の女将さんは12代目。



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雑記帳2024-6-1 [代表・玲子の雑記帳]

2024-6-1
頼清徳さん台湾・新総統に

   5月20日。台湾民進党の頼清徳さんが新しい総統に就任しました。 頼さんはこの日の朝、台北の総統府に夫人とともに現れ宣誓式を行ないました。蔡英文前総統とともに総統府前に作られた特設ステージに立ち、就任演説を述べました。   

 私は中国に対し、台湾への威嚇をやめ、台湾と共に世界の責任を負い、台湾海峡や地域の平和と安定の維持に力を注ぎ、世界が戦争の恐怖から免れるのを確保するよう呼びかけたい。中国に対して圧力をかけるのをやめるよう求めるとともに、卑下せず、おごらず、現状を維持する。中国は中華民国の存在事実を直視し、台湾人民の選択を尊重することを望む。

頼さんは、台湾と中国の現状を尊重し、台湾は独立した国家であつて中国の一部でない。、中国とはその現状に基づいて平和的に話し合っていきたい主張したのでした。

これに対して、中国は台湾が中国の一部であって統一されるのは歴史の必然であるとするのは、中国の基本路線であると反駁しています。

台湾からの情報では、総統就任式を前に中国軍の軍用機と艦船が事実上の停戦ラインである台湾海峡の中間線付近で確認され、軍用機6機は中間線を越えたとのことです。

中国から新総統に対するるさまざまな形の圧力が強まると思われます。これから頼さんの慎重なかじ取りに期待します。

◆東京の西郊、標高900m余の御岳山は古くから霊山として信仰されてきました。江戸時代、徳川家康が西の守りとして社殿を整備してからは、庶民の社寺詣でが盛んになったのとあいまって、江戸中期には。大山、富士山と並ぶ人気の山になりました。

名称未設定 2 のコピー2 のコピー.jpg御岳神社のお札を目にしたことがある人は多いでしょう。お札にあるのは神社のシンボル、おいぬ様です。
道に迷った日本武尊を導いた犬(大口真神)が起こりだということですが、どうやらモデルは絶滅したニホンオオカミのようです。オオカミは病気を運んだり作物を荒らすネズミを退治してくれるとして、古来、特に農村では大切にされていたのです。幕末にコレラが流行した折には「おいぬさま」のお札が江戸の町中にはられたということです。

様々な団体、結社のことを「講」といいます。砂川村にも御岳講ができました。
御(おし)による「講」の組織化によって、御岳信仰は武蔵・相模を中心に関東一円にひろがりました。
字(あざ)単位の講はいくつかの組に分かれ、毎年、組の代表が交代で御岳にもうでます。
その御岳講が今も続いているという砂川の中里講の代参に同行させてもらいました。

マイクロバスで立川を出発して1時間足らずで御岳山の麓に到着しました。山頂にはケーブルカーで上ります。
標高400mの滝本駅から400m差の山頂まで斜度22度を6分かけてのぼりました。
御岳山はレンゲショウマや高山植物の宝庫。都内で山気分が味わえるとあって、登山客に人気です。この日も臨時のケーブルカーがでるほどでした。

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麓の滝本駅

山には御師の経営する宿坊が10数4軒あります。食事やお風呂も備えた宿泊施設です。その中で、立川は昔から山香荘ときまっていました。
ケーブルカーを降りて平坦な山道を10分あまり歩くと、山香荘では講元の山木さんが待っていてくれました。親の代からの世話人ということです。

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講元の山木さん
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御師の鈴木さん

ニ拝二拍手 祝詞の儀式のあと、代参帳を見せてもらいました。
300年も続いている講の歴史ですが、もうその資料は殆ど残っていません。地元で保管できなくなった帳面を御師に預ける講がふえてきましたが、ここでも代が替わると管理はむつかしいのだそうです。砂川で一番古いので昭和40年のものでした。

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通常なら御師さんが拝殿まで案内して説明もしてくれるそうですが、この日、御師の鈴木さんはいそがしそう。神社まいりは、代参だけで急坂を上ることになりました。高齢者には無理だと思うほどの、まことに急な坂道でした。

参道には参拝を記念して奉納された石碑が大きさを競うようにたちならんでいます。
刻まれた地名から御岳信仰が関東一円だったことがうかがえます。

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厳しい坂道を上がってようやく拝殿にたどりつきました。東の守りの東照宮にたいして御岳は西の守りというだけあって、極彩色の造りは東照宮に劣りません。

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御開帳は12年に一度、酉年にあります。
酉年御開帳のいわれは諸説あるようです。御岳山には多種の鳥が棲んでいるからというのもさりながら、晴れた日にはスカイツリーまで東京中が見下ろせる御岳山です。見下ろせば江戸城は酉の方角に当たるからというのが当たっているような気がします。

祭神は100柱を超えるといわれる境内には社殿の数も多い。先のおいぬ様を祀る大口真神神社をはじめ、家康を御祭神とする東照社、菅原道真の北野社、などなど・・・神明社の祭神は天照皇大御神です。
造られたの時期はまちまちですが、山頂の社殿造営はさぞかし大変だったのだろうと思わずにはいられません。
元旦や節分など古式ゆかしい年中行事の祭礼の中には、相模の大山神社からオオカの骨を運んでの神事もあるそうです。

宝物殿には国宝の鎧が2点、8代将軍吉宗と10代家治の鎧が収められています。宝物殿の前にある石像は畠山重忠。
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神社に詣でた後は宿坊に戻って、皆さん、お楽しみの食事会です、私は一人で山を下りました。途中、目に留まったお茶処にたちよりました。
こちらの馬場家住宅は幕末の御師住宅の完備した形をのこして、東京都の有形文化財になっていました。

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萱ぶき屋根の馬場家住宅
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客間には祭壇がある
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いただいた茶のお菓子は青梅産の柚子を練り込んだ羊羹

神社本庁に属さない武蔵御岳神社には宮司はいません、代わりに御師と呼ばれる人たちが活動しています。
御師は神職であると同時に、宿坊で参拝客をもてなし、冬には里へ降りてお札をくばって歩きます。全国に御師のいる神社は他にもありますが、むかしながらの活動を今でも受け継いでいるのは御岳講だけだそうです。

そして、江戸時代から続く講の代参は、豊作の祈願や娯楽だけでなく、全国から集まるに人々の情報交換の場でもあったのです。今は日帰りできる御岳もうでも時代の流れと共に数は減ってきているといいます。今回連れて行ってくださった世話人の岡部さんも「いつまでつづけられるだろうか」と思案顔でした。

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下りもケーブルカーで
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斜度22度の窓外


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雑記帳2024-5-15 [代表・玲子の雑記帳]

2024-5-15
◆5月は「麦秋」の季節です。栃木県にある大麦畑の一坪オーナーである私は刈り取りを迎えた麦畑を見学できることになりました。

きっかけは通信販売で大麦のお菓子を買ったことから。大麦の効用はしらないまでも、食物繊維が豊富だ位は知っていた。食べてみると、適度に美味しく、適度に安かった。

ある年、耕作放棄された荒れ地を麦畑に変えたいという会社の便りが届きました。1万円で願いを敵える手助けをしてほしい、というお誘いでした。世にある、高齢者がよくかかる詐欺まがいではないのか。そうだとしても1万円ですむのなら、見返りを求めなければだまされてもともとくらいの気持ちになれます。こうして畑の一坪オーナーになったのでした。

オーナーには毎年、この季節に見学会のおしらせがきます。たわわに実った麦の穂を一度見たいものだと思っていましたが、足利は遠い。どうやって行こうかと思案していたところ、知り合いが車を出してくれることになりました。運よく、この日のメニューには畑の見学と2人分のお昼がついていました。

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ランチのお弁当はなかなか美味しかった。ごはんは麦ごはん。

足利にある「おおむぎ工房」は、実は15年前のNHKのテレビ番組「小さな旅」でその前身が紹介されていました。社長の浅沼 誠司さんがまだ父親の小さな洋菓子店で働いていたころのことです。
大学を出て店の営業をしていた当時、地方からの帰路で、車窓に見た故郷の景色を忘れることができないといいます。それは夕陽をあびて黄金色に輝く麦の畑でした。この光景を残したい、そのために自分になにができるのかを考えたそうです。地域の特産である大麦を使ってお菓子はできないだろうか。

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浅沼さんが見た景色と同じ風景が車窓に広がる。大麦は黄金色に小麦はまだ青い。

栃木県、なかんずく足利は全国有数の大麦の産地です。私も40年以上前に福岡にすんでいたころ、筑後平野で大麦が栽培されていたことを思い出しました。聞けば、栃木と佐賀県が大麦の栽培で全国1,2位を競っているということです。栽培されている二条大麦はいずれも麦酒の原料になります。 なので、すべて契約栽培。農家の収入は安定しますが、逆に、麦酒以外の用途で大麦を育てている農家はいないのです。その中で何とか5キロの大麦を手にいれた浅沼さんでしたが、粉に挽くにも苦労がありました。お菓子の原料を確保するために、みずからの畑で大麦栽培に取り組む事は欠かせませんでした。

国の減反政策で農家が手放した田圃は今でも全国にたくさんあります。放置された田圃は荒れ、やがて森や林になってしまいます。社員一丸となって、樹を切り、耕して育てた大麦畑をこの日、私たちは見ることができました。

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人の腰の高さまで実った大麦畑。

浅沼さんの麦畑は海外からの視察も多いそうです。
同行した連れも私も昭和の子どもで、小さい頃、麦ふみをした記憶があります。冬に麦をふみつけることが、麦の成長をうながすのですが、それが麦をいためているのではないかと一様におどろくそうです。広い畑は人力では追いつかず、今は機械が代わりだということでした。

ところで、私たちが一般に目にする小麦粉にたいして、わざわざ大麦粉という名前がないように、小麦と大麦は同じイネ科の植物ながら用途も性質も違います。大麦は越年草で小麦は一年草。大麦はそのままの形で発酵させて味噌やビールに、小麦は粉にしてパンや菓子、麺類などに加工されます。成分は似ていますが、大麦には食物繊維が多く、小麦にはグルテンが多く含まれます。練るとネバネバするグルテンのないことが、大麦がお菓子作りにむいていない理由です。浅沼さんが大麦のお菓子を商品化するまでには試行錯誤の日々があったということです。会社の看板メニューの「大麦ダックワズ」は、メレンゲが主な材料なので生まれたお菓子です。

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二条大麦 2本の筋がある。
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大麦にはノゲとよばれる毛があって風がふくと畑に黄金色の波ができるのだという。小麦にはない。

大麦工房では検品の際に出てくる不良品を「わけあり」商品として、安い値段で提供しています。私も実はわけあり商品の愛用者です。フードロスにつながるので、他でも値引きした訳あり商品がひろがるといいなと思っています。

行きは圏央道から関越を、帰りは東北道を利用したので、関東を一円することになった楽しい大人の遠足でした。乗せて行ってくれた連れに感謝です。
それにしても麦秋とは言いえて妙。美しい日本語の一つだと思います。


5月12日は国営昭和記念公園の無料開放日でした。

連休つかれなのか、比較的早い時間帯だったせいなのか、来場者は思ったより少なく、この季節の花々をじっくり眺めることができました。日本庭園のアヤメは見ごろを過ぎていましたが、花木園のショウブはまだ養生中です。そんな中でネモフィラの寿命は長いです。つつじの終わった園内には、シャリンバイやカルミアがいたるところで満開になっていました。

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シャリンバイ(日本庭園)
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ベニバナトチノキ(花木園内のハーブ園)
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エゴノキ(日本庭園)
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キンセンカ(こもれびの里)
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スイカズラ(こもれびの里付近ノサイクリングロード)

楓風亭のこの日の生菓子は「薫風」でした。新緑のこの季節にぴったりの名ではありませんか。

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薫風

立川で一番新しい街区グリーンスプリングズでは、連休中、アロハフェスが開かれていました。
運営にあたるスタッフは皆若く、次々に湧いてくるような人の流れを見ていると、賑わいを租出する様々な工夫があるのだろうと思わされました。今、このエリアは若者の集まるファッショナブルな街として注目されています。

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雑記帳2024-5-1 [代表・玲子の雑記帳]

 2024-5-1
◆『望郷五月歌』は数ある故郷の歌の中でも心惹かれる卓抜な一つだと思います。

5月は故郷を偲ぶ月です。
人は心の中にそれぞれの故郷を抱いています。
幼い日々を育んでくれた故郷
志をたてて旅だった故郷
父母の暮らす故郷
懐かしく思い出す故郷
口ずさむ故郷

佐藤春夫は39歳の時、故郷を偲んで『望郷五月歌』を発表しました。
佐藤春夫(1892-1964)は和歌山県新宮市の医家に生まれ、少年の頃から和歌を作りました。慶應義塾に学び,25歳で『西班牙犬の家』『田園の憂鬱』を発表し、作家・詩人としての地位を確立しました。以後、浪漫派の作家として幅広い創作活動を展開、1960年に文化勲章を受章しています。

長い詩ですが、ひと思いに紹介させて頂きます。 

『望郷五月歌』
                   佐藤春夫
  塵まみれなる街路樹に
  哀れなる五月(さつき)來にけり
  石だたみ都大路を歩みつつ
  恋しきや何ぞわが古郷(ふるさと)
  あさもよし紀の国の
  牟婁の海山
  夏みかんたわわに実り
  橘の花さくなべに
  とよもして啼くほととぎす
  心してな散らしそかのよき花を
  朝霧か若かりし日の
  わが夢ぞ
  そこに狹霧らふ
  朝雲か望郷の
  わが心こそ
  そこにいさよふ
  空青し山青し海青し
  日はかがやかに
  南国の五月晴(さつきばれ)こそゆたかなれ
  心も軽くうれしきに
  海(わだ)の原見迥(みはる)かさんと
  のぼり行く山辺の道は
  杉檜樟の芽吹きの
  花よりもいみじく匂ひ
  かぐはしき木の香薰じて
  のぼり行く路いくまがり
  しづかにも昇る煙の
  見まがふや香爐の煙
  山樵(やまかつ)が吸ひのこしたる
  鄙ぶりの山の煙草の
  椿の葉焦げて落ちたり
  古の帝王たちも通はせし
  尾の上の道は果てを無み
  ただつれづれに
  通ふべききはにあらねば
  目を上げてただに望みて
  いそのかみふるき昔をしのびつつ
  そぞろにも山を下りぬ
  歌まくらはなれ小島に
  立ち騒ぐ波もや見むと
  辿り行く荒磯石原(ありそいしはら)
  丹塗舟(にぬりぶね)影濃きあたり
  若者の憩へるあらば
  海の幸鯨(いさな)捕る船の話も聞くべかり
  且つは聞け
  浦の浜木棉(はまゆふ)幾重なすあたり何処(いづく)と
  いざさらば
  心ゆく今日のかたみに
  荒海の八重の潮路を運ばれて
  流れよる千種百種(ちぐさももくさ)
  貝がらの数を集めて歌にそへ
  贈らばや都の子等に

◆「上越・下越へ 新潟グルメ紀行」の3日目は佐渡の宿根木でした。

佐渡には島の中央・国仲平野の公家文化とちょっと北の武家文化、そして、南の小木半島には町人文化と、3つの文化があるといわれています。
公家文化は中世、此の地が配流の地であったために都からの流人によってもたらされ、戦国時代から近世初頭にかけては金山のある相川を中心に武家文化が根をおろして、佐渡は辺境の島とは思えない豊かな文化をうんでいます。同じく戦国から近世にかけて、北前船による商品経済は佐渡に豊かな富をもたらし、宿根木は町人文化が栄えました。北前船は千石船と呼ばれました。」

宿根木は小木半島にあって、船主(船頭)、船大工、船乗りの、海運に必要な全てを抱えた、北前船のの村でした。日本から瀬戸内海へ自由に航海する北前船は物資の交易だけでなく、当時の情報網をも握っていたのです。しかし、江戸時代、繁栄を極めた北前舩も、明治には輪船の建造が禁じられたために、明治末期には姿を消しました。

何漕もの船をもつ裕福な船主の屋敷は、外観は質素ながら内部は贅を尽くした総漆。強風から漆喰を守るために全体を囲った蔵や、狭い土地に密集して建てられた家々など、江戸時代から残る街並みは、平成3年に、重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。これは全国で30番目だということです。ちなみに、現在、この指定を受けた地域は120か所をこえています。
海からの強風に絶え、狭いエリアに軒を並べる、独特の街並みを巡りました。

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強風で屋根がとばないよう、案内所の屋根には石がおかれている。

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移築の崔、敷地に合わせて三角形にきりつめた三角家(さんかくや)。
まるで船の舳先のようです。
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世捨て小路と呼ばれるメインストリート。石畳は真中がへこんでいる。
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清九郎。安政5年の改築。江戸時代後期から明治にかけて在をなした巡船主の邸宅。建築材料、技術とも当時の宿根木集落の最高水準を誇る建物。
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川にかかる石橋は福井産の石。財力にまかせて石工まで連れてきた作らせたという。
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回り舞台もあるという公会堂。今も現役です
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称光寺。1349年、佐渡最初の時宗寺院として開基。1717年の棟札が残る山門は宿根木でもっとも古いと言われる

廻船主砂糖伊左衛門家の屋敷は土地に余裕のない宿ね基にあって、珍しく広い庭がある。今はあなぐちの名でレストランになっている。お昼はここでいただきました。食材はその日港に上がった魚、パンには佐渡産の小麦粉「ゆきちから」を使うなど、地産地消にこだわった創作フレンチでした。

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あなぐち入口
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 いごねり(まえごという海藻をかためたもの)
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春のポタージュ
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鰯のパートブリック(春巻)
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豚肉のロースト

折角ここまで来たのだから名物のたらい船にのりました。
今は観光用ですが、もともとは、入り組んだ狭い小木湊の入り江で漁をするために考案された舟でした。

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雑記帳2023-4-15 [代表・玲子の雑記帳]

2024-4-15
◆2024年最初の遠出は上越・下越を巡る旅でした。

最初におとずれた糸魚川は誰もが知る翡翠の産地です。日本列島を東西に分かつ「糸魚川ー静岡構造線」が通る糸魚川には、約5億年前に生まれたヒスイを初め、多種多様な岩石があります。海岸で見つかる石の種類は日本一だそうです。火成岩、堆積岩、変成岩・・・

中で、ヒスイは新潟県が国内随一。約6500年前から世界最古のヒスイ文化がさかえていたといいます。東北を旅したとき、ヒルイを求めて古代から豊かな交易があったことが実感されたことを思い出しました。

ヒスイと聞けば、ばくぜんと緑の石を連想しますが、実はヒスイは緑の石はめったにありません。殆どは白い石だそうです。たちよったフォッサマグナミュージアムで、糸魚川の海岸で石拾いをするときにヒスイを見分ける特徴をおしえてもらいました。ヒスイは密度が高くて重いこと、固くて割れにくく、他の石より角ばっていること。そして、ヒスイは細かい結晶があつまってできているので、光を当てると、キラキラ光るのだそうです。

2016年の糸魚川の大火をおぼえている人も多いでしょう。おりしも日本海の季節風、フェーンの風にあおられて街の中心部は焼失。7年経って復興なった今は、新しい街並みにうまれかわっていました。

糸魚川は江戸時代、100万石の加賀藩の宿場町でした。
1652年には本陣が置かれ、本陣となったのが今に続く酒造「加賀の井」さんでした。
1650年創業の加賀の井酒造は、軟水の多い酒造界では珍しく、仕込み水に中硬水を使っているのが特徴。先祖が探し当てた自社井戸はいまも大切に使い続けて、大火の折には避難した人たちの飲み水にもなったということです。軟水とは異なる「まろやかで力強い味」をうたっていました。大吟醸山田錦はアルコール度17度だそうですが、お酒に縁のなかった私でも飲めました。
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火災の教訓を残すためにあえて燃えた蔵をのこしてある。
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これ全部試飲しました!

この旅のもう一つのテーマは「新潟の豊かな食文化」を味わうことでした。
宿の夕食はまさに、新潟の海の幸がいっぱいでした。

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 前菜 紅ずわい蟹甲羅盛り、ひすい豆腐、蛍烏賊麴漬け
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お造里 鯛、鰤、細魚(さより)、鰆
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火の物 めぎすつみれ汁、かんずりをそえて
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箸休め 真昆布蕎麦
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進め肴 幻魚とめぎすの干物
幻魚は日本海の深海魚。海から上がったときは透明。冬、寒風干しにして干物にする。

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台の物 黒毛和牛とのど黒のせいろ蒸し
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留椀 こくしょ汁(のっぺ汁の糸魚川版 冠婚葬祭の折に供される)

糸魚川市にはわずか10体の仏像を展示する小さな美術館があります。その名も「谷村美術館」。当地の実業家の谷村繁雄氏が蒐集した彫刻家・澤田政廣の作品を展示するために、谷村氏が建築家・村野藤吾に設計を依頼したという、作品と建物が一体となって鑑賞できる美術館でした。

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入口を抜けると、シルクロードの遺跡、敦煌の石窟寺を思わせる建物が出現します。そこへ一直線に延びる日本風回廊を美術館へと進みます。回廊は法隆寺をイメージしたのだそうです。

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砂漠の向うにシルクロードをイメージした建物
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法隆寺をイメージした回廊

館内には、湾曲した半円形の部屋、洞くつのような部屋の中に、弥勒や観音などの仏像が1体ずつ安置されています。人工の照明は入場者の足元を照らすためで極力抑えられ、作品の照明は天井からの自然の光です。光は作品と見る者を優しく包むこんでくれるようです。(館内写真はとれないので、パンフレットから1枚)


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自然光は時間や天候によって変化するので、その時々に仏の印象も違ってみえるかもしれません。季節によっても違うでしょう。小さいながらもう一度おとずれたいと思わせる美術館でした。

美術館に隣接して庭園がありました。
遠くの山並みを借景にして、広大な空間に川や築山を設けた見事は造りはどこかで見たような・・・。作庭家の名を聞いて合点がいきました。この庭を造った造園家・中根金作は足立美術館を造った人でした。足立美術館は海外の観光客に人気があり、世界で最も人気のある美術館のひとつです。
庭は中に入ることはできず、室内から鑑賞するようになっています。室内に置かれた大きなテーブルは他ならぬヒスイでした。

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庭園の入口には、自然石の大観音像(全長8m、約90t)が立てられています。
人の手がくわわっていないのに、見る角度によって人の顔に見える石です。バスが海際を走る今回の旅では、実はそんな岩をいくつも見かけました。

上越市高田は夜桜で有名です。
日本に三大〇〇があまたある中で、桜について言えば、三大夜桜は高田城址、上野公園、弘前城。三大桜スポットは弘前、吉野、高遠のこと。ちなみに三大桜とは、山梨の神代桜、根尾の薄墨桜、三春の滝桜をいうそうです。

例年なら、4月上旬のこの時期には満開の桜を見ることができるそうですが、今年は3月が寒かったため全国的に開花が遅れ、高田公園でも桜は未だのようでした。それでも桜祭りは開催されていて、園内に200店あるという屋台は大にぎわい。地元愛にあふれるボランティアのガイドさんが高田城の案内をしてくれました。

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堀に掛かる極楽橋から三の櫓を望む
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流石新潟、堀には錦鯉

高田に城が築かれたのは徳川家康の六男忠輝が入封したとき。豊臣との抗争が激化する中で前田を牽制するためだったといいます。突貫工事で4か月で築かれた城には天守閣も城につきものの石垣もなく、60haを越える広大な城郭にあるのは、櫓と、石垣の代わりにめぐらされているのは土塁です。

外堀を埋め尽くす蓮の花は、元は、明治になって困窮した家臣達の食用に植えたものでした。当時、品種として食用にはいまいちだった蓮が、今では東洋一と呼ばれて、観光の目玉になっているのです。
蓮の堀に掛かる橋からは、はるかに妙高山の雪形を仰ぐことができます。ゴールデンウィーク前後に見られる跳ね馬の形をした雪形は、昔は農作業の目安になりました。今年は雪が少ないので、4月初めにもうそれらしい姿がみえました。

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お昼をいただいたのは百年料亭「宇喜世」でした。140年前の創業以来守られて来た建物の一部はは国登録有形文化財になっています。合併によって上越市になった高田は、明治時代に陸運の駐屯地があったおかげで、料亭文化の名残もあるのでしょう。

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153帖の大広間
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仲三階  勝海舟も泊まったという一番小さい4畳半の部屋
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 国指定の有形文化財の北門
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箱御前
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3段のうちの一段目

新潟の食を訪ねる旅はあと1日あるのですが、佐渡島の食紀行は次回に。


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雑記帳2024-4-1 [代表・玲子の雑記帳]

2024-4-1
◆この春、高校を卒業した従妹の孫娘がたずねてきました。

「おばちゃん、こんにちわ」
「大学の試験はどうだったの」
「合格です。経済学部で決めました」
「よかったわね。おめどとう。そこで何するの。キンケイ?マルケイ?どっち?」
「はっ、それって何ですか」
私は驚く。経済学部ならそのどちらかに決まってるではないか。
「キンケイは近代経済学、マルケイはマルクス経済学よ」
「うちの経済学部の科目一覧には、キンケイもマルケイもないです」
私は慌てる。
えっ、そうなの。私が古いのかも知れない。いくつか、大学の経済学部の科目を見てみるわね」
ネットを開く。東京大学を手はじめに一橋大学、慶應義塾、早稲田大学、上智大学、国際基督教大学……      マルクス経済学の科目は見当たらない。
もしかしたらソ連の崩壊と関係があるかかもしれない。世界初の社会主義国としてマルクス経済を実施してきた(?)のはソ連なのだから。
「あらほんとにキンケイもマルケイもないわ。私の不勉強だわ」
「おばさん、マルケイって何ですか」
「あなた世界史はやったわね。マルクスを聞いたことあるでしょ」
「その名前は世界史じゃなくて、倫理、コウリンで聞いたことがあります」
「どんなことを憶えてるの」
「産業革命により、資本家が労働者を雇って生産する資本主義が発展しました。自由にモノをつくり、自由にモノを買う市場経済です。そして貧富の差がひろがりました。マルクスはそれを改善するために、資本家がもっている工場や土地を、労働者のものにして、何が必要なモノかを計画してつくる計画経済を行う。労働者が主人公となる社会をつくる共産主義を主張したのです」
「あなた、よく憶えているのね。私も大学の一般教養科目で勉強しただけだけど、思いだしてきたわ。マルクスの思想により,レーニンは共産党は1917年にロシアで革命をおこし、ソビエト連邦を創ったの。世界最初の社会主義国として注目されたのよね」
「でもソ連は1991年に崩壊しているじゃないですか」
「そうなのよ.ソ連共産党は一党独裁だった。ソ連は5ヶ年計画で工業化をすすめ、一定の効果を挙げたといわれている。だけど国全体でモノを造るのに,何がどれだけ必要で、どれが不必要かを決めるのは,需要と供給の関係を正確につかまなくてはならない。そんなことは不可能でしょ。計画経済は破綻します」
「学校でも、現在、社会主義国というのは、中華人民共和国、北朝鮮 、べベトナム、ラオス 、キューバ の5か国だけと聞きました」
「社会主義国は大なり小なりに市場経済を採用しているわ。それはマルクスの思想とはまるで違うことよね。中国などは,共産党独裁の資本主義を実行しているわよね」
「だから日本の大学の経済学部からマルクス経済学の講座が消えたんですね」
「まあ、こうやって話してみるとマルクス経済学が消えたのも無理ないことね。」
「私、先輩から聞いたんですけど、経済学部の講座は,よく数字を使うということです。私は数学が嫌いじゃありませんから、むしろ楽しみにしています」

大河ドラマ「光る君へ」の影響か、源氏物語が人気です。旅行や美術館で紫式部や源氏物語に関する企画が目白押し。3月には八王子の富士美術館で「源氏物語」展が開かれていました。

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パンフレットの表紙から

開館40周年の記念事業とあって、絵巻や画帖、屏風絵にとどまらす、工芸や現代アートまで、源氏文化の拡がりを一望できる大掛かりな企画展でした。

紫式部が「源氏物語」を執筆したのは今から1000年前、最初の絵巻はそれから100年後に生まれました。物語の場面を絵画化した「源氏絵」はその後、流派や時代を越えて数多く描かれました。描かれた源氏物語は、当時の平和貴族の文化や生活を知る貴重な資料にもなっています。

「源氏物語とその時代」と称する第一部では、色紙や詞書とともに、筝を始めとした楽器や文房具が展示されていました。物語の中で主人公や姫君が手にしたこれらの文物をとおして、私たちは王朝文化の一端にふれることができるのでした。

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紫式部(尾形光琳)

第二部はあらすじで辿る源氏物語の絵画です。

源氏物語は絵巻を初め、冊子、扇、色紙などの小画面のものから、屏風や襖のような大画面のものまで、多種多様な携帯で描かれています。中世末期の12世紀に生まれた源氏絵は、近世、室町時代から桃山・江戸時代前期にかけて様々な流派の絵師が制作しました。中でも土佐派の大和絵を代表するような華麗な色彩には目を奪われました。いっぽうで、もう少し軽い、瀟洒な住吉派の絵も展示されています。

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桐壺(土佐光吉)
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若紫(土佐光吉)
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帚木(安田靫彦)

江戸時代には源氏は錦絵にも登場します。大和絵とは異なる画風の、明快な色使いや簡潔な線で軽妙さを打ち出した浮世絵師たちの仕事は、従来の源氏絵とは異なる源氏物語の世界を生み出しました。印刷の技術革新もあって、江戸時代は源氏の人気は庶民の間に高まった時代でもあったのです。
菱川師宣が源氏に由来した美人画を描いたのはもちろん、浮世絵の元祖と呼ばれた岩佐又兵衛も源氏物語の場面を沢山残しています。

浮世絵に対抗して大和絵を継承していたのは狩野派です。第三部の源氏物語の名品のコーナーには狩野養信の大作「源氏物語屏風」には、新春の六条院、源氏40歳の賀の席で玉鬘が若菜を信条する場面、二条院での宴に柏木と夕霧が舞う場面が描かれて、目をひきました。

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狩野養信の源氏屏風絵
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養信の屏風絵の一部

蒔絵で有名な尾形光琳は絵ものこしていました。
ここでは、江戸時代に制作された、印籠や蒔絵硯箱、彩色貝桶や蒔絵引き出し箱等の優れた工芸品が展示されていました。中には源氏香の図や香箱もありました。香道は室町におこったことを学びましたね。

近世に比べると、近代は源氏絵の制作は減少しますが、それでも、源氏物語と紫式部は画家たちの創作意欲をかき立てる対象であり続けました。
大和絵の作風を継承した作品もあれば、美人画で有名な上村松園はかわいい紫式部を描いています。中で目を引いたのは上村松園の「焔」下絵でした。

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眉をひそめ髪の毛を食いしばる姿は異様で、妖気すら感じさせます。
源氏との関係に思い悩んだ六条御息所は生霊となって葵上に取りつき、遂には死にいあたらせる、自身の情念に翻弄される御息所の苦悩も描かれているようでした。あとで知ったところによると、この絵を制作した荘園も又、この時期スランプに苦しんでいたということです。

この時代、源氏物語は与謝野晶子や谷崎純一郎による新訳がでています。その表紙や挿絵もまた源氏絵に連なるものとして残されています。

さて、現代、1000年を越えて読み継がれて来た源氏物語は、映画や漫画は言うに及ばず、染色、ガラス、写真など、新たな表現の世界をひらいています。
平安の女性が身に着けた十二単は今でも女性の憧れの的です。
会場入口には御簾に隠れた女性の内掛けが展示されていました。色の複雑な組み合わせに当時の人々の繊細な美意識を覚え、再現しようとする染色家は多い。

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御簾ごしに見る再現された装束
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女三宮の袿

更に、多くの作家のイマジネーションを刺激した現代の新訳は、国内にとどまらず、世界にもひろがっているようです。時代、時代に解釈されて来た源氏物語が内に人間の永遠の課題をはらんでいるからでしょう。今ならさしずめ、ジェンダーでしょうか。


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雑記帳2024-3-15 [代表・玲子の雑記帳]

2024-3-15

◆3月に入ると株価は上昇し4日には史上初めて4万円台を記録しました。その後いくらか値下がりがありますが、日本経済 が確かな業績をあげていることを反映しているといわれます。

生活者にとって春最大の話題は春闘による賃上げです。
日本最大の労働団体・連合(日本労働組合総連合会・組合員約699万1千人)は、1月24日、月額平均1万4000円の賃上げ要求を打ち出すと共に3月13日を集中回答日としました。
今年の春闘は労使共々に賃上げの必要性を認めています。そこで大手企業では集中回答日をまたずに「満額回答」が相次いでいます。  

集中回答日を含めてこれまでに判明している大手企業の一部の状況は次の通りです。

トヨタ自動車年間一時金7.6月、日産自動車月額18000円年間一時金5.8月,
ホンダ13500円、年間一時金7.1月、マツダ16000円、年間一時金5.6月、
三菱自動車17500円年間一時金6.0月、日立製作所13000円年間一時金6.17月、
パナソニック13000円年間一時金・業績連動、東芝13000円年間一時金・業績連動、
三菱電機13000円年間一時金5.8月,日本製鉄35000円年間一時金・業績連動、
FEスチール30000円年間一時金業績連動,JAL15000円年間一時金・業績連動、
ANA11000円年間一時金・業績連動 (以下省略)

中小企業や非正規雇用で働く人たちにも賃上げの勢いを行き渡らせ、持続的な賃上げを実現できるかどうかが問題です。
そのためには原材料費や人件費などの上昇分を元請けの大企業に対して価格転嫁しやすい環境を整えることが重要です。
賃上げで個人消費が活発になり、経済の好循環が実現することがなによりも望まれます。

年金生活者の私には、賃上げ効果の波及はありません。.目に余る物価高に生活費の切り詰めを迫られる毎日ではありますが……

◆斉藤陽一さんの『京都ルネサンス』の第一部、伊東若冲の講座が終了しました。西洋美術研究家の視点からの解説が面白く、月に一度、会場の三光院に通うのが楽しみでした。印象に残ったいくつかをご紹介しましょう。

30枚の『動植綵絵』の中でも最もよくしられるているのは「群鶏図」です。

13羽の鶏がそれぞれ、向きを変えて描かれ、見る者は鶏たちの赤いトサカを彷徨って視点が定まりません。心理学者の北岡明佳氏によると、赤い色は火などを連想させ、人間は本能的に赤に集中するのだそうです。

比較されるのがダヴィンチの「モナリザ」です。モナリザを見る人は誰もが彼女の口、一点に集中するのです。

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遠近感のない画面に望遠レンズをとおして迫ってくるような距離感、不思議なシュールな絵画の世界は現代アートに通じる、斬新なデザインです。これは西洋が20世紀になって獲得したものでした。

「薔薇小禽」は紅白の薔薇が目の醒める華やかさでえがかれ、乱れ咲く花々の中に一羽の小鳥がとまっています。

なだれ落ちる、跳ね返る、乱舞するのは、溢れるような薔薇の生命力です。一つとして同じ表情の花はありません。そして、小鳥が眺めている先には若冲画! 若冲のあそび心が見えます。

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「池辺群虫図」は画面に70種の虫が描かれた楽しい絵です。
食べる側と食べられる側、反復して描かれた蛙のなかに一匹だけ異なる蛙がいる、生まれたばかりの命を表すオタマジャクシたち、草木国土悉皆成仏の仏国土を表した曼荼羅虫図です。

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とがった貝、大きく口を明けた会、渦巻貝など、眺めるたびに発見のある「貝甲図」もまた貝曼荼羅です。描かれた140種の貝の中には当時の日本人にはなじみのない南洋産の貝もあります。これは若冲と交流のあった、大阪の教養人、木村蒹葭堂の影響かと見られています。彼は酒造家であり、生物悪者でもありました。若冲や若冲と交流のあった相国寺の大典和尚が、当時の関西の知識人のネットワークに組みこまれていたことは、講座のはじめに学んだことでした。

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「老松白鳳図」は太陽に向かって鳴き声をあげる純白の鳳凰が描かれています。 

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金色に輝いて見える鳳凰の羽根は実は金色をつかっていません。    
黄土と呼ばれる黄色の顔料を裏にぬり、その上に黒をおいて、表の白と、黄色と、隙間から見える黒の絶妙なバランスによって黄金色をだしているのです。金を使わずに金色の効果を追求した若冲マジックとも呼ばれるものです。
雄の鳳凰の表情はなぜかなまめかしく、写実を旨とする若冲の作品の中では得意な絵だといわれています。

虫や貝ばかりでなく若冲は魚も描いています。  
住まいのあった錦市場の魚を子細に観察して描いたと思われるこの絵にはプルシャンブルーがつかわれています。プルシャンがプロシャをさすことからベルリン藍と呼ばれました。北斎が富嶽36景に用い、のちに広重ブルーと呼ばれるようになった「ベロ藍」は、実は日本では若冲が最初につかったのでした。

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「動植綵絵」最後の一幅は「紅葉小禽図」。570枚のモミジが描かれています。
赤くなる前のミミジ、今が盛りの真っ赤なミミジ、盛りが過ぎて黒ずんできたモミジ。
モミジは一つずつ異なる色彩で描かれ、よく見ると、紅葉した葉は後ろから光を浴びて、明るい絵がうまれました。
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混ぜれば混ぜるほど黒に近づく絵の具に対し、光は混ぜれば混ぜるほど白に近くなります。西洋の印象派の画家たちよりも半世紀も前に若冲は絵の具の宿命に気づいていたのでした。

なぜ光にこだわったのか。人の目には見えなくても仏には見えると言い、動植綵絵すべてを釈迦三尊像とともに寺に寄贈した若冲は、あらゆるものに光がいきわたる世界を仏に見せたいと思ったのではないでしょうか。

鮮やかな色彩が印象深い若冲は実は水墨場の分野でも傑出した描写力を発揮しています。そのほか、枡目画き(モザイク画)、拓本画など、さまざまなジャンルに飽くなき挑戦をつづけました。晩年は明暦の大火で住居を失い、深草の黄檗宗の石峯寺の門前で暮らし、寛政12年(1800)、85歳で生涯を閉じました。当時としては相当の長命でした。寺には若冲の彫った五百羅漢が残されています。


◆三光院の弥生のお膳は菜の花のおすもじでした。

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ごま豆腐のくずとじ  
まだまだ寒いこの季節に体を温めて
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菜の花のおすもじ とあられのお吸い物     
菜の花漬けを中に入れた海苔巻き おすもじは御所言葉でおすしのこと


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雑記帳2024-3-1 [代表・玲子の雑記帳]

2024-3-1
◆株価が史上空前の高値を記録した3月は春闘の月です。

2月22日、東京証券取引所は、日経平均株価3万9千102円を記録しました。約30年前の記録を更新したのです。日銀植田総裁は日本経済がデフレを脱却してインフレにシフトしているとの見解を表明しました。日本経済の底堅さがはっきりしたのです。
日々の暮らしに物価と賃金の好循環を維持していかなければなりません。
長い間の閉塞感を抜け出したニュースを背景に、私たちは春3月を迎えました。

3月は春闘の月、満額回答か゛次々に

3月は春闘の月です。春闘は春季生活闘争の略語。労働組合と経営側が賃金の引き上げを中心に労働条件の改善を話しあいます。
 テレビ・新聞を通じて伝えられていることを私なりに整理してみました。
 さる1月24日、経団連(日本経済団体連合会)の主催で「労使フォーラム」が開かれました。
 経営側を代表する十倉雅和経団連会長は、ビデオメッーセージで、
 「2024年の春季労使交渉では、23年以上の熱量と決意をもって物価上昇に負けない賃金引上げを目指すことが経団連・企業の社会的責務である」
 と積極的に賃上げに取り組むことを強調しました。

これに対し、労働組合側を代表し5%の賃上げを要求している連合(日本労働組合総連合会・組合員700万人)の芳野友子会長は「5%以上を目安とする統一要求を設定し昨年を超える高い賃上げを求め、働き方の改善、政策・制度実現に向けて取り組む」と見解を表明しました。

これまでのに判明している状況をみてみますと、組合要求に対して経営側の満額回答か゛次々とでているのが注目されます。

自動車メーカーの労働組合のうち、全トヨタ労働組合連合会は、 企業内最低賃金は18万円以上、一時金(ボーナス)は昨年同様、年間5カ月以上を要求すしています。 
ホンダは、ベースアップ(ベア)1万3500円を含む賃上げ総額2万円と年間7.1カ月の一時金を求める組合要求に満額回答しました。
マツダは定期昇給分とベアを含めた総額で1万6千円、一時金は年間5.6カ月を要求。経営は満額回答しています。

日本製鉄など鉄鋼大手3社の労組は、賃金改善分として3万円の賃上げを求めています。
三菱重工業や重工大手各社の労組は1万8000円、三菱マテリアルなど非鉄各社は1万5000円を要求しています。

続いて日立、パナソニックの電機大手2社も、月額13000円の値上げを要求しました。
IHIは労組の要求した月1万4000円で、定期昇給分を含めて約6%にあたる満額回答。

これから産業別・企業別と、それぞれの経営・労組の間で協議が本格化します。労使双方が協調して話しあうとしています。賃上げの原資となる製品・サービスなどへの価格転嫁をどう乗り切るかが経営の課題です。
賃上げか゛物価上昇を上回るとはたらく人の生活は豊かになります。

労働組合のない数多くの非正規労働者にも賃上げの効果が及べばいいなと思います。
すでに一部の専門家から、賃上げは3.5%から3.8%で落ちつくのではないかとの予測も出ていますが……。

桜の季節を前にして、一番早く花が咲く河津桜を見たくて伊豆へ出かけました。
バス旅行の当日はあいにくの雨模様。夏のような陽気だった前日とはうって変わって真冬の寒さに逆戻りでした
それでも満開の桜と菜の花を堪能することが出来ました。

河津町への道すがら、バスは海沿いに、熱海や伊東の温泉街をぬけて行きます。アタミザクラやイトウザクラの早咲きの桜が窓外に流れて、街道はさながら桜のテーマパークのようです。色も白からピンク、紫の近い赤まで色とりどり。掛け合わせて今や桜の種類は日本中に500種類もあるというのです。濃いピンクのカワヅザクラは白のオオシマザクラと赤の緋寒桜を掛け合わせて今から70年前に生まれました。毎年、2月になると、どこよりも早く河津桜まつりが開かれ、多くの観光客がおとずれます。今年は、2月20日に満開になりました。

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雨にもかかわらず川沿いには多勢の観光客
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来宮橋から上流を眺める
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交流館前にも河津桜
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こちらは河津桜と同じ原木から生まれた「かじやの桜」。個人が管理している。
河津桜より10年遅れての開発だという。
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河津川沿いのお土産屋さんを覗くと吊るし飾りがならんでいました。

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つるし飾りは昔から子どもや孫の幸せをねがってつくられてきました。雛飾りの季節に一緒に飾られることが多いのですが、子規を通して楽しむこともできると言います。それぞれに意味があり、一つ一つ心を込めて手づくりするということです。その意味を教えてもらいました。

  兎=神様の使い、  座布団=元気な子供に育つように  
  桃=桃の実には霊があるとされ、悪魔を退治して花が咲く
      猿=災難を去る
  とうがらし=嫌な虫がつかないように
  巾着=お金に不自由しない
  ふくろう=福がまいこんでくる
  姫だるま=七転び八起 出世を願う
  柿=医者にかからない 食べ物にことかかない
  ねずみ=お金に困らない 人助けができる
  三角=富士山のように高く上に上がる人間になりますように
  羽子板=正月の心のように明るく一年がすごせますように

この日のランチは「ミクニ伊豆高原」の地中海料理でした。建物は木材をふんだんに使った隈研吾氏の設計です。なるほど、伊豆半島は地中海の海や太陽を思わせる。「海の輝き」と名付けられたコースは魚も野菜も伊豆の産物を生かした地産地消。その名もオテル・ド・ミクニで鳴らした料理人、三国清三氏の原点のようでした。
2年前に四ツ谷にあった店舗を閉めるに際し、氏が「もう一度原点にもどりたい」と言った話はニュースになりました。北海道の農家出身という氏の原点とは・・・・? 全国に展開してる「ミクニ●●●」はiいくつかあって、四ツ谷の「オテル・ド・ミクニ」も春には再開するということです。

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本日のアミューズ
原料の豚肉は「富士生き生きポーク」

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伊東漁港直送の魚のだし、伊東産の紅しぐれ大根と黒大根のマリネ、
伊豆産金時人参のコンフィ(中央の丸い黒大根の後ろにある棒状のものが金時人参。これが美味しかった)

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伊東漁港直送の鮮魚の炭火焼、伊東産新玉葱のステーキ、山菜のフリット、
新玉葱のソース、静岡産芽キャベツのアチャール

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デザートも地産地消
伊豆産金時人参のカステラと市川製茶の抹茶のクリーム
静岡産ワラビのわらび餅、姉川黄な粉と黒蜜
静岡産柚子、チョコレートと山椒のソルベ


※フリットは衣にメレンゲを加える。
※アチャールとは、インドのピクルス(漬物)のこと。玉ねぎやにんじん、きゅうり、キャベツ、かぶ、唐辛子などのさまざまな野菜を、香辛料や酢で味付けします。


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雑記帳2024-2-15 [代表・玲子の雑記帳]

2024-2-15

◆2月の国営昭和記念公園は梅の花の大饗宴。どこを走っても梅の花にであいます。

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中でもこもれびの池周辺と花木園の梅林は、まとまってみることができるので家族連れで人気です。連休中には梅の香りを楽しむ子供の声が響きました。

素人目には紅梅と白梅、一重か八重か、の区別くらいしかできませんが、品種は500を越えると言われ、昭和記念応援の梅の品種も実はたくさんあるのです。いわく、月影、冬至、八重寒梅、大盃、麝香梅(じゃこうばい)、鹿児島紅、八重野梅、道知辺(みちしるべ)、鴛鴦、玉牡丹、などなど・・・

名付け方がいろいろあって、一定ではないので、余計に素人にはわかりにくいのですが、「月影」や「道知辺」など、由来を訪ねたい木もありますね。
2月中旬に見ごろの、ネームプレートの読めた梅の木をご紹介しましょう。

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玉牡丹
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月影
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見驚
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鹿児島紅
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大盃
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道しるべ
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八重寒梅
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八重野梅
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連久
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武蔵野

盆栽苑の梅の木も見ごたえがあるのですが、丁度、上野の東京都美術館で開催中の「国風盆栽展」に出展のため、出払っていました。残ったのは2点のみ、ちょっと淋しい盆栽苑ではありました。

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大湊
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八重海棠

◆インターネットがテレビを抜いて

一人で坐っていると、夫、息子、娘の4人で食卓を囲んでいた日々を思うことがあります。夫は会社の業務に専心し、息子と娘はそれぞれの進路をさがしながら学んでおり、私は家族を支えていました。充実した、どこにでもある家庭でした。ダイニングキチンにはテレビがありました。

子どもの小さい頃、家族が食卓を囲む日曜日、テレビには「日本昔話」がありました。ちょっと大きくなると、NHKの「ニュース」、TBSの「8時だョ!全員集合」、「筑紫哲也 NEWS23」などもみんなで視ていました。テレビは茶の間の一つの中心でした。

子育てを終え、一人になって……  今は昔ほどレビを視なくなっています。スマホやインターネットでニュースを知り、興味のあることをインターネットで調べたりします。
私は日本経済新聞を購読していますから、毎日、新聞に目を通しますが、知り合いの中には、新聞を読まなくなった方もかなりいます。
インターネットをのぞいてみると、テレビにはない異色のおもしろさがあります。

私の生活態度が変化していることと同時に、テレビや新聞にも変化が起きているのではないだろうか。そこで長らく広告代理店で活躍されていた旧知の清水さんに教えを乞うたところ、こころよくご教示頂けました。それは初めて眼にするマスメデイアの内側でした。
インターネットに公表されているデータを検索しました。

まず総合広告会社・電通の「日本の広告費」の2022年の資料を調べました。

日本の総広告費  7兆1021億円

そのうちの媒体別の構成比は、                 
  マスコミ4媒体 33.8%    (新聞・雑誌・テレビ・ラジオ)
  インターネット 43.5%

インターネットは広告媒体として圧倒的な強さを発揮しています。
総広告費を100として各媒体別の構成比でみると

  テレビ 25.4%
  新聞  5.2%
  雑誌  1.6%
  ラジオ 1.6%              
  インターネット 34.9%
  プロモーション・メディア 22.7%                      
(屋外広告、交通広告、折り込み広告、ダイレクトメール、フリーペーパー、イベント・展示、POPなど)
POPとは主に店頭で商品の情報を提供する広告や宣伝物をさします。

日本の総広告費は
  2007年 7兆191億円
  2022年 7兆1021億円

と変わりませんが

2007年 マスコミ4媒体 50.9%
           インターネット8.6%

だったのが、高速通信環境が発展したことにより、インターネットの広告費がインターネットが34.9%と劇的に変化してきているのです。
それは広告代理店の売り上げ順位にも現れています。と

  電通                  1兆855億円    総合広告
   博報堂               8950億円    総合広告
  サイバーエージェント     6664億円      インターネット
  デジタルホールディング     905億円     インターネット

電通は赤字を出し、その回復のために本社ビルを売るうるなどしましたが2つの有力代理店を傘下におさめ、インターネット広告代理店を買収するなどの経営努力の結果、黒字に転換し、業界一位の位置を保っています。
第2位の博報堂もインターネット広告代理店を買収、堅実に売り上げを確保しています。そして売り上げ上位にインターネット広告代理店が登場しています。

テレビはこれまで最大のメディアでした。今はスマートホンがあります。テレビは熟年層だけが見るもので、若者はテレビ離れしています。30代から50代の世代はインターネット、スマートホン。
こうした状況は、広告を提供する各企業が販売戦略の主な目標をインターネットにシフトしたから生まれたのです。

全盛期を知る身の皮膚感覚ではテレビはもっと後退しているかと思いきや、数字上では意外に善戦しているようにみえます。テレビの視聴者離れをうながしたのは番組の制作面だけでなく、企業の販売戦略もからんでいたとは意外でした。が、言われてみればなるほど。テレビは時代を映すという言葉を思い出します。今後どう変化していくのか、テレビ創成期の世代がいなくなった後もみていきたいものです。


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雑記帳2024-2-1 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2024-3-1
◆三光院サロンの講座、斉藤陽一さんの「京都ルネサンス」から、伊藤若冲の「動植綵絵」の一部をご紹介します。

江戸時代に活躍し、人気のあった伊藤若冲は明治以降、長く忘れられていました。1974年、今からちょうど50年前に、日本美術史研究家の辻惟雄(つじのぶお)が若冲を紹介しましたが、当時、研究者もおらず、若冲への社会的関心はたかまっていませんでした。
辻惟雄は若冲に先だって、江戸期の岩田又兵衛や歌川国芳を「奇想の系譜」に位置づけて紹介しています。二人とも、正統派からちょっと外れながらも個性的で優れた浮世絵を残しています。

10年ほど遅れて若冲を世に出したのは京都にいた狩野博之さんです。狩野さんの案内で、2年前のコロナ禍に、京都に若冲ゆかりの寺を訪ねたことを思い出しました。雑記帳(2921-10-15)にも書きましたが、紅葉にはまだ遠い秋に、義仲寺や相国寺、伏見の海宝寺や石峯寺をまわったのでした。海宝寺には若冲の筆折りの間が残されており、石峰寺は若冲が最晩年を過ごした地です。庭には若冲の彫った五百羅漢が無造作に置かれていました。大津の義仲寺には、若冲が石峯寺のために描いた天井絵130枚のうち15枚が移されていて、その謎がとけたのを憶えています。

21世紀にはいって、京都だけでなく、上野の国立博物館でも若冲展が開かれると、若冲人気に火がつき、2016年に東京都美術館で開かれた若冲生誕300年記念展には長蛇の列ができました。2年前に、若冲の「動植綵絵」が皇室の私有財産から国のものとなり、国宝に指定されたことはまだ耳新しいニュースです。

大胆な構図、まぶしいほどの色彩、細部にわたる細やかな描写に、人々は目を奪われました。彩色、点描、障壁画、モザイク画、水墨画・・・あらゆるジャンルを形式にとらわれずに描いた、高価な絵の具をおしみなく使っているなどから、自由に枠にはまらず、実験をすることができた画家としてしられるようになり、若冲は今や国民的画家になっています。

1716年(正徳6)若冲は京都・錦市場の青物問屋「桝屋」の長男として生まれました。生家は、代々伊東源左衛門を名乗り、市場の株を持つ裕福な家系でした。
周辺には蕪村、応挙、池大雅が住み、18世紀後半の京都はまさに京都ルネサンスと呼ぶにふさわしい土地でした。
24歳で家督をつぎましたが、絵を描きはじめたのもその頃とされています。
「若冲」の画号を用いるようになったのは30歳のころです。

若冲の画号は、相国寺の大典顕常が名づけたといわれています。出典は「老子第45章」にある「大盈若沖 其用不窮(大盈(たいえい)は沖(むな)しきが若(ごと)く 其の用窮(きわ)まらず)」。若冲の「冲」の字は「沖」の俗語です。

この画号を用いた最も初期の作品は「松樹番鶏図」。若冲36歳。若冲居士の落款が見られます。

若冲は最初、狩野派に学んだものの、永徳の粉本(ふんぽん)主義に飽き足らず、次に、中国古画千本を模写したと言います。そして、いくら模写しても彼らと肩は並べられないと悟り、自宅の庭で数十羽の鶏を飼って観察・写実することを始めました。なので、初期の作品には鶏の絵が多いのです。

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40歳で家督を次弟に譲って隠居、画業三昧のくらしにはいります。弟もよく兄をささえ、自らも絵師として兄の一門に名をつらねるなど、兄弟仲はよかったようです。
この時の若冲を明治の画家、久保田米遷が出家者として描いています。

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先の相国寺の大典顕常とは30代半ばに知り合い、同じ年ごろとあって、若冲の生涯の心の師になりました。
大典は禅僧で詩人。早くから寺の住職を嘱望されながら、住職になる前に寺を出て詩を書いていた時期がありました。常人を越えた、細部に渡る細かな描写へのこだわりがまるで何かにすがるような感さえある若冲に、大典の影響があったのかもしれません。

若冲の心の師はもう一人いました。
黄檗宗の僧・月海で、その名も売茶翁(ばいさおう)です。
大変な学問僧でしたが、50歳の時、僧職をすて、煎茶をたてて、僅かの金を得ながらひょうひょうと暮らしていたと言います。このため、人々に売茶翁と呼ばれ、煎茶の中興の租ともいわれています。
大典、売茶翁、二人が若冲に影響を与え、いわば、二人の関西の知識人のネットワークの中に若冲も組みこまれたといえるでしょう。
若冲の描いた売茶翁の肖像画が残っています。

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そして、43歳の時に描き始めた「動植綵絵」は、51歳ごろに完成。一括して相国寺に寄進されました。
綵は五色の彩りを言い、綵雲といえば浄土にかかる美しい五色の雲です。名前が示すように「動植綵絵」は仏の世界を荘厳する絵でした。
若冲は同時に広幅の絹地に描かれた「釈迦三尊像」を寄進しています。

釈迦三尊像3.jpg釈迦三尊像1.jpg
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臨済宗の相国寺には「観音懺法(かんのんせんぽう)」と呼ばれる重要な法要がありました。毎年行われる観音懺法の時に、寺は方丈に若冲の絵を並べて、信者の目に触れるようにしたのです。
こうして、動植綵絵は釈迦三尊像と一体となって、京の人々にごく親しまれ、人気のあった存在でしたが、明治の廃仏毀釈にともなう寺の衰亡のおりに、動植綵絵は皇室に献納されて、御物として秘蔵されることになりました。そして、2021年、皇室の手を離れて国宝に指定されたのです。長く忘れられていた若冲の絵は、秘蔵されていたおかげで保存状態は良く、再びよみがえったのでした。

そんな「動植綵絵」を高精度画像を駆使してみれば、様々な技法をこらした画面の、目に見えないような細かな部分にまで若冲が気をくばっていたことがわかります。
1幅目の「芍薬郡蝶図」をみてみましょう。

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この図は珍しく空間がたっぷりあります。花にとまるアオスジアゲハを除いてほかの蝶はみな宙を舞っていますが、標本のよう。まるで白日夢の雰囲気です。おなじものを描きながら一つだけちがうものを忍び込ませる、若冲好みの構図のようですが、宙を舞う蝶を標本のようにこれ見よがしにたくさん描いたのは、この時代は博物学ブームがあったこともあるようです。ちゃっかり時代の空気も読んでいるのですね。

芍薬の描写も精緻を極めています。一つ一つの花は微妙な濃淡で描きわけられています。
輪郭線を用いずに彩色の濃淡だけで描く画法は没骨法と呼ばれるもので、芍薬の花びらに輪郭はありません。絹の地色が意識的に活かされているのです。
また、絹の裏側から色を塗る裏彩色は、肌裏に黒を使い、絹地を通して黒が仄かに浮かんで見えます。

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二幅目の「梅花小禽図」では、空間充填癖の若冲らしく、画面に隙間なく描かれた梅の木の一つ一つの花までが細かく描かれています。花におさまる点々は雄蕊の花粉でしょうか。

細かく見ればきりがないほど細部にこだわるのはなぜか。若冲は「人の目にはみえなくても、仏の目には見える」と言っています。
若冲の絵は仏を希求する若冲の心そのものだったのではありませんか。

若冲の絵が再び紹介されたとき、人々は驚きをもって若冲を迎えました。今世界的にも人気のある若冲を、世界は「最初に光に目覚めた画家」だと評価しています。
若冲が「動植綵絵」を描いたのは、光を追求した印象派が西洋に生まれるよりもずっと前のことでした。

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1788年(天明(8年)若冲は京都の大火により居宅を失います。78歳でした。
晩年は伏見・深草の黄檗宗・石峯寺の門前に庵を結んで暮らし、1800年(完成12年)85歳で死去しました。
大火にあうまでは画材に金の暇をかけず、描いた絵も全て寄進していた若冲でしたが、流石にこのころは売画を余儀なくされたということです。


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雑記帳2024-1-15 [代表・玲子の雑記帳]

2024-1-15
◆台湾総統選挙がおこなわれました。知の木々舎には台湾在住の何聡明さんから、昨年末に、総統選の行方について寄稿がありました。「有事」が取りざたされる中、総統選の結果と頼政権の行方をまとめてみました。

 4年に1度の台湾の総統、立法院議員選挙が終わりました。1月13日、台湾の1900万人の有権者は次の4年間を担う指導者をえらんだのです。民進党・頼清徳氏が国民党・侯友宜氏に90万票の差をつけ勝利しました。

民進党・頼清徳5586019
国民党・侯友宜4671021
民衆党・柯文哲3690466

頼清徳氏は勝利宣言を行い、よびかけました。
「この結果は台湾の人びとの民主主義の勝利であり、これまでの8年間、蔡英文総統が中国の覇権主義に対抗し、民主化を進めてきた路線の正しさです。私もそれを引き継ぎます。平和的で民主的な対話のみが、台湾海峡を挟んだ台湾と中国の人の最大の利益となり、双方が利益を得る唯一の方法です」
頼清徳氏は5月に新総統となり、これから4年間の台湾を率います。

一方、定員113人の立法院の選挙では、民進党51、国民党52、民衆党8の結果でした。
政権与党の民進党は、選挙前61の議席を持っていましたが、今回過半数割れとなりました。国民党も過半数には達していません。過半数歩をえて円滑な議会運営をはかるためには、民衆党の協力が必要となります。民衆党がキャスチング・ボートを握りました。

台湾は東京から台湾の首都・台北まで約2000キロ、飛行機で約3時間の距離にあります。
台湾島は中国福建省の海岸から台湾海峡をはさみ160から180キロ東に位置します。
日本と台湾が近いことから、台湾からの旅行者は年間489万人、台湾を訪れる日本人旅行者は217万人とお互いに親密な関係です。

台湾は中華民国という独立国家です。国家とは、国土、国民、政治組織をそなえている機構を指します。台湾は台湾島という国土、2400万人の台湾人という国民、中華民国という政治組織をそなえています。中国は台湾と外交関係のある国にけ、援助などを持ちかけることで、台湾と断交するようにはたらきかけました。その結果多くの国が断交に踏みきり、現在国交のあるのは13ヶ国に縮小しています。この中にはバチカン市国があります。
この国はイタリアのローマ市内にある。カトリック信仰の中心で、ローマ教皇が統治しています。中国が強権により、チベット、新疆ウイグル自治区で、住民の思想改造を行い、拷問や収容所で強制労働などを行ない、国内の カトリック信者の信仰の自由を圧迫していることもあり、民主主義の定着している台湾と外交関係を維持しているのです。

これに対し、中国は台湾は中華人民共和国の一部であり、それは中国の基本的な考えである。そして台湾を中国の領有にするためには、武力を使うと主張しています。

台湾の帰属は曖昧なままにされてきています。。
台湾は895年の日清戦争の結果、日本に割譲されました。台湾は日本の植民地して総督府が置かれ、産業、文化、教育、交通の近代化が進められました。
1945年10月、台湾総督兼日本陸軍第10方面軍司令官の安藤利吉大将は、中華民国代表に対し。総督府の機能と軍の降伏を記した降伏文書に署名しましたが、台湾がどこに帰属するかは書かれていません。
中華民国は、台湾は中華民国に属するとして軍隊と総督府が管理の要員を派遣して、実体的に台湾を領有しました。
日本政府は台湾の帰属について、見解を述べたことはありません。それについて国際会議が開かれたこともなく、中華民国の実体的領有がつづいているのです。

台湾の武力解放とは、中国が台湾解放と称して兵力を武力を発動することです。中国は世界第3位の軍事大国です。陸軍兵力で約200万人、戦車3500、装甲戦闘車33000,空軍で約3500機、中距離弾道ミサイル(IRBM)と準中距離弾道ミサイル(MRBM)を278基を保有しています。
真偽の程は分かりませんが、中国は福建省沿岸に、6000発のミサイルを設置しているといいます。海軍は航空母艦3隻、弾道ミサイル原子力潜水艦7隻、攻撃型原子力潜水艦9隻、通常動力型潜水艦48隻、駆逐艦50隻、フリゲート57隻、コルベット27隻、高速戦闘艇65隻以上、ドック型揚陸艦4隻、戦車揚陸艦29隻、強襲揚陸艦2隻を保有しています。
これに対する台湾の兵力は、陸軍24万人、戦車1000両、装甲戦闘車1000両、航空機1250機。海軍は約40,000名の兵力を有し、128隻の艦艇、28機の航空機を運用しています。
とてもまともに対抗できる状況ではありません。

中国はどのように台湾を攻撃するでしょうか。中国にとって台湾の軍事能力を粉砕し、国民生活を破滅させることは難しいことではありません。しかし、中国は台湾を領土の一部とし、台湾国民を中国人民としていかなければならないのです。このようなやり方はとれません。

台湾の損害を必要最小限にして台湾を占領しなければならないので。どこの何を攻撃し、どこの何は保存するのかを決めておかなければなりません。その作戦展開は難しいことです。
一方、受けて立つ台湾はどうするのか。台湾の指導者は、台湾の兵力の限界は百も承知しています。台湾防衛には、アメリカの支援が必要不可欠です。

アメリカには、1979年に制定された「台湾関係法」があります。これは台湾を防衛するための軍事行動の選択肢を合衆国大統領に認める。米軍の介入は義務ではなくオプションであるため、アメリカによる台湾の防衛を保障するものではないとしています。台湾有事の際に、軍事介入を確約しないアメリカの伝統的な外交安全保障戦略は、「戦略的あいまいさ」(Strategic Ambiguity)と呼ばれます。

中国が武力を発動したら、アメリカはどうするのか。それはアメリカ大統領の選択にゆだねられています。とはいえ、多くの人は、自由陣営の旗手であるアメリカが、軍事力を発動するのは自明のことと見ています。日米安保条約により、日本も協同することになるでしょう。
この法律の存在が、中国の行動に制約をかけていると思います。これと並行して東太平洋を担当する世界最強のアメリカ第7艦隊の存在が、中国を牽制しています。
中国が声高に、台湾解放を主張しても、台湾有事とならないのは、この法律と第7艦隊の存在の効果だと思います。

現在、約100万人の台湾人が中国で働いています。 中国はこれらの人びとにさまざまな制約をかけています。難しいことですが、賴政権はこの人達の生活を守るために働きかけなければなりません。
台湾人の間に、自分は台湾人であるという意識が増えています。それは中国の台湾政策によって醸し出されたものです。
民進党は、台湾独立を意図していますが、現在、それを主張していません。両者の関係が先鋭化し緊張が高まるからです。アメリカもそれに反対です。
台湾海峡に緊張がうまれない現状維持(STAT US QUO)が好ましいのです。
賴新政権の行く手は容易ではありません。

◆三光院の1月のおもてなし。睦月の献立には、いつもの花の宴に金銀富貴が加わりました。

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前夜、雪がちらついた当日は暖炉のお出迎え。
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三光院の紋、ササリンドウの紋最中
 あんこは 大徳寺納豆のほんのり塩味が効いてます。

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お煮しめ
ヤマトイモの海苔巻き、高野豆腐の含め煮、牛蒡の胡麻和え、南京の煮物、

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豆腐の茶碗蒸し
具材はなす、しいたけ、人参、ぎんなん。卵は使えないので豆腐を使って。

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金銀富貴
金は金柑、銀はぎんなん、富貴はふき、この3種が盛られた一皿。
今年一年、金銀に恵まれて豊かな年になりますようにの願いをこめて。

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香栄とう冨(豆腐の燻製)
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  木枯らし(なすの田楽)
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あかのおばん(御所言葉で小豆ご飯のこと)

三光院サロンの斉藤陽一さんの今年の講座は名付けて「京都ルネッサンス」。講座の最初の主人公は若冲です。

若冲が居住していた京都・錦市場にほぼ近く、お~いと呼べばこたえられるくらいの地域に、時を同じくして蕪村や池大雅、円山応挙が住んでいました。

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彼らは互いに影響し合って、江戸とはまた違った文化を育みました。その流れはやがて次の世代にうけつがれていきます。まるで、19世紀後半、フランスではバルビゾンに印象派が集い、やがてそれは世紀末と呼ばれた世代を産み、さらにはドガやゴッホらの世代へとつながる土壌を作ったのと同じではありませんか。

明治以降長く忘れられていた若冲の人となりについては詳しいことはわかっていません。かかわりのある相国寺の大典和尚の文書もひもときながら、若冲の残した傑作「動植物綵絵」30枚を読み解いていく講座はなかなかに興味深く、次回以降にご紹介したいと思います。お楽しみに。

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若冲の肖像画
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若冲の数少ない友人売茶翁
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若冲の最初の絵にも鶏が描かれている。


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雑記帳2024-1-1 [代表・玲子の雑記帳]

2024-1-1
◆明けましておめでとうございます。

2009年に創刊した『知の木々舎』は、今年は丸15年、5月には16年目にははいります。
ご縁を頂いた執筆者は100名を越え、いまも月2回の更新は変わらず、毎回20点ほどの記事を掲載しています。
創刊当初から原稿を寄せてくださっている執筆者もいれば、創刊当初からの熱心な読者もいらっしゃいます。
この間には亡くなられた方もいらっしゃいますが、その度に新しいご縁が生まれました。
武蔵野の雑木林が豊かなくらしを育んだように、「くらしの中に句読点」を掲げて、今年も武蔵野の地からの発信を続けます。

◆清春芸術村は、山梨県北杜市にある芸術文化複合施設です。
清春白樺美術館、安藤忠雄の光の美術館を始めとし、アトリエ、茶室、図書館など複数の施設が開設されています。

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清春白樺美術館は、武者小路実篤や志賀直哉ら白樺派同人による美術館構想を、親交のあった吉井長三が私財を投じて実現したことで知られています。
銀座に画廊をもつ吉井は、廃校になっていた清春小学校を訪れて、八ヶ岳や南アルプスの山々に囲まれ、遠くには富士山をも望むその景観に魅了されたといいます。のちに桜の季節に友人の小林秀夫や白洲雅子らと共に訪れ、その後押しもあってこの地を購入たというエピソードが残っています。

白樺派は文人だけでなく、画家や思想家等様々なジャンルの芸術家が集っていました。印象派は彼らを通じて日本に紹介されたのでした。
小学校跡地にふさわしく、グランド周辺に何本となく植えられていた桜の木がそのまま残されて、春には美しい光景が見られます。私がたずねたのは12月中旬、一本の冬桜が満開でした。

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村のシンボルであるラ・リュージュの建物は1981年に芸儒家たちの集合アトリエとして建てられました。1900年のパリ万博に建設されたパビリオンと同じ設計です。アーギュスト・エッフェルが芸術家のアトリエ兼住居として設計した建物が万博でパビリオンとして使われ、万博終了後、シャガールやモジリアニなど20世紀を代表する画家たちのアトリエになったことに因んでいるのです。エッフェルの名はこれも万博の遺産、エッフェル塔に残っているのはご存知の通りです。

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ラ・リュージュ
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エッフェルと螺旋階段

一番面白いと思ったのが『撤』と名のついたツリーハウスです。
一本足の茶室を支える檜は清治村に植わっていた樹齢80年の檜を倒してつかったものだそうです。地上4m、室内は1.7坪の究極の茶室です。名前は哲学者の谷川徹三からとったそうです。ツリーハウスは、キャンピング大流行の今なら特に珍しいことではありませんが、以前四国の中津万象園を訪ねて、江戸時代、殿様一人用の茶室が内海を見下ろす岩のてっぺんにあったのを思い出して、昔から人のあこがれだったのかもしれないと思っています。いみじくも名付けた『轍』に因んで、独りになれば人は哲学する気分になるのかもしれません。

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茶室『轍』

ルオーの礼拝堂は20世紀最大の宗教画家であるルオーを記念して建設された礼拝堂。入口ドアの上にはルオー自身の制作した美しいステンドグラスが飾られています。光の美術館は、展示室に人工照明はなく、季節や時間とともに変化する自然光のみで作品を鑑賞するしくみになっています。設計者は安藤忠雄。

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安藤忠雄・光の美術館
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白樺の林を抜けてルオー礼拝堂へ。
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清春白樺美術館は企画展中なので菅愛撮影禁止。外観だけOKでした。

芸術村の複数の建物は、一度にたてられたのではなく、何年もかけて拡充されてきました。
設立当初のコンセプトどおり、芸術家同士、あるいは訪れた人同士が交流できる場になっているようです。

おりしも、清原芸術村といくつかの美術館や神社をつないで、山梨国際芸術祭がひらかれていました。
近年の多様性重視の文化は実は細分化や分断を招き、孤独や閉塞感をもたらしていると言われます。八ヶ岳のフォッサマグナの分断に位置する北杜市が、分断を抱えながらも豊かな生態系を築いている八ヶ岳から、多様と連帯を両立するヒントを得ることは出来ないかと生まれた芸術祭です。

その会場の一つ、中村キースへリング美術館は、2007年に設立された新しい美術館です。

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キース・ヘリングは、アンディ・ウォーホルやジャン=ミシェル・バスキアなどと同様に、1980年代のアメリカ美術を代表するアーティスト。わずか31年という短い生涯で、希望と夢を残していった伝説のストリート・アーティストです。彼の名を知らなくても町のどこかで彼のイラストを見た人はたくさんいるのではないでしょうか。
傾斜のある、迷路のように辿る館内は、現代のポップアートの展示を更に面白くさせ、子ども連れの家族の姿も見られました。

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清原白樺美術館が先駆けとなって、北杜市には芸術家のアトリエや美術館が次々に誕生しました。平山郁夫シルクロード美術館はJR小海線の甲斐小泉駅のすぐそばにあります。ここにはシルクロードに魅せられた画家の1万点に及ぶコレクションが収納、展示されています。豊かな自然に恵まれて、北杜市は今、進化するアートタウンとして注目されています。

◆国営昭和記念公園のお正月です。

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こもれびの里長屋門
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こもれびの里古民家の正月飾り
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日本庭園楓風亭から池を望む
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お正月の生菓子も「松」に
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水鳥の池


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雑記帳2023-12-15 [代表・玲子の雑記帳]

2033-12-15
◆『食とくらしと環境を考える会」の12月の講座は「冬に美味しい大根を使って」。

どこにでもある食材や調味料を使ってちょっとひとてまかけて美味しくなる講座は人気です。特に今回は参加者のうち3人がアジア出身。お米は洗わないというお国がらに驚きながら国際交流もできました。

◇ブロッコリーとえびの薄くずスープ

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<材料>(4人前)
ブロッコリー2房、人参1/3本、かぶ2個、えび4~8本、
塩小さじ1、酒大さじ1、片栗粉大さじ1、和風だしカップ4,5
<作り方>
①ブロッコリーは一口大の小房に分ける。(一人2個、生のまま)
②人参は皮をむいて長さはそのままで、1.5cm各に切り、面取りする。(一人2個)
③かぶは八ツ割にし、面取りをする。(ニトリ2個)
④鍋に4.5カップのだしを入れて火にかけ、人参を加え、7分くらい煮たらかぶを加える。かぶの色が変わってきたら塩と酒で味を調える。
⑤全体gあやわらかくなったら、ブロッコr-・えびを入れ、大さじ2で溶いた片栗粉をまわし入れ、とろみをつけてできあがり。

◇薄切り豚肉のみぞれ煮

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<材料>
豚モモ肉200g、片栗粉大さじ1、大根50cm、和風だし100cc、醤油大さじ1、青味(小葱、スプライトなど)
A(ショウガ搾り汁大さじ1、塩小さじ1/2、策大さじ1)
<作り方>
①豚肉はr¥食べやすい大木さに切り、Aのショウガ、塩、酒で下味をつける。
②鍋に湯を若し沸かし、①の豚肉に片栗粉をまぶして、1枚ずつ入れて湯がき、容器にとっておく。
③大根は皮ごとおろしておく。
④鍋に100ccのだしを入れて火にかけ、②の肉を入れてあたため、大根おろしを汁ごと加える。最後に醤油を加えて香りを付けて火を止める。
⑤器にもりつけ、青味をちらして出来上がり。

◇冬の彩りサラダ

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<材料>
ブロッコリ。大根、人参、適宜
塩小さじ1/2、酢大さじ2、コショウ少々、サラダ油大さじ1
<作り方>
①ブロッコリーは小房に分けてゆでておく。
②大根、人参は短冊の薄切りにする。
③塩、酢、コショウをまぜてドレッシングをつくる。
④ ①②③を加えて出来上がり。

調理でかぶの余りがあればうすぎりにして加えても可。

◇サラダの代わりに◇ゆず大根はいかが。

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<材料>
大根200g、塩小さじ1、ゆず適宜、
砂糖大さじ1.5、酢大さじ1.5、赤唐辛子首相、ゆず果汁適宜
<作り方>
①大根は厚さ2cmの輪切りにして皮をむき、2cm✕1cm✕1cmの拍子切りにする。塩をまんべんなくふりかけ、10分以上おいて水気をとっておく。
②ゆずは皮の黄色い部分を向いて千切りにし、果肉はとっておく。
③唐辛子は付け根の部分を切り取り、種を取り除き、好みでそのまま・二つに切る・輪切りにする。
④ボウルに調味料と②の皮、③を入れて混ぜる。
⑤ポリ袋に①と④を入れ固くねじって結び、冷蔵庫で1時間冷やしたら完成。
⑥半日以上漬け込むと味がなじみ、よりおいしくなる。

◆消費者団体と東京都の協働事業「くらしフェスタ東京」では毎年、「東京のがんばる農業応援企画 食と農セミナーが開かれます。

今年の講演会のテーマは「雑草と私たちのくらし~っ雑草から農業と環境を考える」でした。講師は宇都宮大学名誉教授の小笠原勝さんです。

いったい雑草とは何なのでしょう。
弥生時代から日本では畑や田圃で草をむしる行為がありましたが、面白いことに、どの国にも草をむしって管理することはなかったのだそうです。
雑草という言葉がきかれるようになったのは明治以降のことで、それまではただ「草」でした。役に立たない草の意味で、ヨーロッパからもたらされたものだといえます。
また、人の価値観で定義しようとすると、例えばネジバナをきれいだと見れば雑草ではなくなります。意外に「雑草」の定義はむつかしいのです。

役に立たないと言われながら雑草にも有用性はあります。
たとえば、セイヨウタンポポのように、カフェインレスコーヒーとして食用になるものもあれば、イヌビエはカドミウムを吸収してくれるし、コブナグサは黄八丈の色の原料に、もともとゲンノショウコは薬用、カラムシは織物の材料になる、雑草はあなどれません。

忘れてならないのは雑草は穀物の祖先だということです。
エンバクは大麦の、ツルマメは大豆の、セイヨウカラシは菜種の祖先・・・といった具合に。ランドサットをかけ続けた大豆がツルマメに先祖返りをしたという、面白い話を聞きました。、

ここで問題です。春、桜に菜の花は日本ならではの光景だと誰もが思うところですが、河川敷のカラシナは残すべきでしょうか。
管理されずに繁茂した雑草は有害虫の宿主になります。ヒメシバにはカメムシが、シロツメクサにはアザミウマが、イスズメノテッポウにはイネウイルスが、などなど。
カモガヤのように花粉症の原因にな雑草もあります。(セイタカアワダチソウは実はぬれぎぬだったことが近年わかったそうです。)
ヨウシュヤマゴボウ、シロバナチョウセンアサガオ、ワルナスビ、ムラサキケマンなどはそれ自体が毒をもっています、

この結果、雑草は直接的には農産物のの収穫低下や品質低下をまねき、間接的には宿主の発生源になったり、からまって農機具をいためたり、ひいては農村景観の低下ももたらします。

そこで農薬の出番になるのですが、何故農薬は消費者にきらわれるのでしょうか。
農薬のことはよくわからないという漠然とした理由だけでなく、農薬を使った場合の直接的な利便性が共有されていないことにあると小笠原さんはいいます。
利便性を明らかにするために農薬不使用で生じる経済的損失をひいてくれました。
先ず収穫量はマイナス25%、額にして5,746億円。人力除草をした場合の人件費は時給1500円として1兆162億54万円。人手不足の中、この費用と労力を誰が負担するのか。これに対して除草剤にかかる費用は433億円です。河川の雑草は堤防の弱体化やゴミ不法投棄の助長にもなっている現状も知らなければなりません。

出来れば使いたくないという一方で、農薬が本当に安全なのか、環境に悪いのか、使用を控えた場合に代替物はあるのか、様々な観点で考える必要があるようですね。
「ビッグモーター」が農薬を大量にまいて街路樹をからしたニュースがありました。画面をみてやっぱり農薬は怖いと思った消費者もいるかもしれません。

ここで面白い話があります。講演会のあとグループでの交流会の席で、ある農家さんから「畑の土と道路の土は違う」という話がでました。農家はは絶えず堆肥で土づくりをしているが、道路の土には農薬を分解する菌はいないのです。それでいつまでも農薬が残っている。日本では畑の農薬の管理はきびしく、出荷する時には残留していないことが義務づけられています。

そうした現実を知ったうえで、最終的に選ぶのは消費者です。農地法の改正により農地の貸借が可能となり、新規参農者も見込まれる今、都市部でも自然農法がみなおされる気運もあります。消費者にとっては選択の幅がひろがったとみるべきなのでしょうか。

◆イチョウの黄葉が終わって行楽の人影も引いた昭和記念公園です。

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葉を落とし始めたメタセコイヤ(第4サークル)
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川面を飾る落葉たち(日本庭園西の橋から)
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かたらいの道のいちょうも散りおわり
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紅葉が過ぎてさびしくなった園内を彩るのはイイギリの実(第2サークル)
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マユミ(日本庭園)
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楓風亭のお菓子も「木枯らし」に。そう言えば今年は木枯らしがあまり吹かなかった。


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雑記帳2023-12-1 [代表・玲子の雑記帳]

2023-12-1
◆「旬の野菜を美味しく食べて都市農業の魅力を知る」

立川市の農業委員になって4期目をむかえています。1機3年ですからもう9年もたずさわっていることになります。この間、研修や現地調査で、多くの農地を見学させてもらいました。昨年は所属するネットワーク団体で「都市農業の魅力発見」と銘打って、市内にある農業試験場(現。東京都農林総合研究センター)の見学や元気な農家さんをまねいて市民向けにシンポジウムを開催したりもしました。
畑を訪れる度、常に何かしら新しい発見があって、都市農業の魅力は尽きないなあと思っていたところ、まちデザインの市民講座に、上記の『旬の野菜をおいしく食べて都市農業の魅力を知る』という講座を見つけました。

見学先は多摩市にある青木農園です。
園主の青木幸子さんは農家に嫁いだことをきっかけに就農した人です。
プロフィールによると、野菜作りの経験はなく、本を読んだり研修会に参加しながら農業を学んだとのこと。現在、農作業と並んで、農家レストラン「青木農園農家料理」を運営し、自身の畑で獲れた野菜を使った料理は地域の人々に愛されていると紹介されていました。

先ずは、青木さんの畑の見学です。多摩市内を流れる大栗川の川沿いに青木さんの畑はありました。周囲は住宅が立ち並び、農地としてのこっているのはわずか。それも駐車場のアスファルトをはがして畑にもどしたという、青木さんの畑です。

畑では年間を通して70種類もの野菜や果実を栽培しています。
少量多品種は都市農業の典型。ネギやたまねぎは言うに及ばず、黒キャベツや空心菜、ミントやブロッコリー。栗や柚子、柿にパッションフルーツ等の果樹類。畑の境にはブラックべリーもありました。中でもトマトは大、中、小が13種類もあるとか。それぞれが味が違うのを知るのも楽しい。ブロッコリーもジャガイモだって何種類もあります。
青木さんは、種類の違う野菜にさわったり匂いをかいだり、かんで味わってもらいながら野菜の説明をしてくれます。「語れる農家」が青木さんのスタイルなのです。ヘチマだって若いうちは食べられます。

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消費者の好みをさきどりするように次々に開発される新しい品種の野菜の栽培に取り組む一方で、青木さんは固定種も大切にしています。
ナスや唐辛子の畝の一角に江戸小松菜が育っていました。
昔から栽培されて来た「江戸東京野菜」は、小松菜や亀戸大根、練馬大根など50種ほどありますが、品種改良されたF1と違って手間のかかる固定種を栽培する農家は少なくなっています。江戸小松菜は収穫して時間が経つとしおれてくるので見栄えはよくない、スーパーには出せないけれど、庭先販売にはむいているということでした。スーパーに並ぶ小松菜と違って、口にふくむと驚くほどやわらかい。色も優しめでした。

安心して食べられる野菜をと、農薬や除草剤は使わず、一番大事にしているのは土づくりです。近年、都市部ではハウスの水耕栽培がさかんになっており、上述の農総研でもそうしたスマート農法を薦めていますが、やはり農業の基本は土だという思いは私たち消費者にも根強くあります。青木さんは「良い土で育った野菜は細胞がしっかりと生きているため、野菜本来の甘味がある」と言います。

青木さんの畑では収穫した後も株は花が咲くまで残してあります。高価なエデイブルフラワーを求めなくても、野菜は花も食べられる、大根の花は大根の味がするのだそうです。

こうして育てた旬の野菜を美味しくたべてもらいと始めたのが農家レストラン「青木農園農家料理」です。

大栗川をわたって坂道をのぼったさきにある古民家(青木家の母屋です)に、少し前レストランはマンションからひっこしてきました。裏山は息子さんが育てる果樹園がひろがっています。すだちやミカン、晩白柚、香りを楽しむ柑橘類たちです。すだちは黄色くなると酸味はうすれていきますが、ドレッシングにするといいと教えてもらいました。

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ワンプレートに盛られた色鮮やかな野菜たちを、野菜の話を聞きながら味わいました。
野菜は色と香りと触感をあじわってほしい。
採れたて野菜はゆですぎず、しゃぶしゃぶのように鍋にいれたとたんにひき上げるのが一番だそうです。牛蒡のアクも栄養のうち。アクを抜かず香りも楽しんで。

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落花生ご飯、ビーツのコロッケ、バジルやスダチのドレッシングを使った野菜の数々・・・
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ブラックベリーソーダ
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デザートは季節で変わる。ついこの前までは栗のデザ-トだった。
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質問に答える青木さん

義父母の介護を通して食べることの大切さを学んだ知恵は、プレートの上にも生かされています。
ゆっくり時間をかけて食べてもらいたいと、用意されているのはお箸だけです。流動食しか受け付けなかった高齢の両親が、とにかく時間をかけてゆっくり食べることで固形でも食べられるようになった。「ゆっくり」は子育てで忙しくしている若いお母さんにとっても大切なことではないか。青木さんの思いをひきうけるかのように、リピートしてくる人は地域の子育て中の女性が多いとか。

多摩市は高度成長時代、丘陵を開いて団地ができました。多摩ニュータウンです。土地を手放した農家は多く、今では70人ほどになり、ご多聞に漏れず、都市の農地をどうやったら残せるかが課題になっています。
場の野菜で親子料理教室を開いたり、トマトジャムのレシピを開発したり。地域の人に美味しい野菜を届けて喜んでもらいたいという青木さんの活動は、レストランだけでなく、さまざまな形で地域とつながっているのです。

地域とつながることの大切さを思うとき、思い出す言葉があります。
「農家は単に畑を耕している人という意味ではなく、「農家という生き方」を選んだ人のことだ。」
農地を通して紡がれて来た地域の伝統や文化も、畑がなくなれば消えてしまう。
食用ではなく、地域の年中行事のために今も大麦や陸稲を大切に育てている農家もあれば、新しい形で地域とつながろうとしている農家もある。農地を残すために各地で様々な工夫が生まれてもいます。都市に農地は要らないと言われた時代から、ようやく都市の農地の役割が見直されるようになった今、消費者としてはそうした農家さんお一人お一人を応援したい気持ちでいっぱいです。

◆小春日和の続く中、国営昭和記念公園は紅葉狩りの来場者でにぎわいました。 

夏の猛暑がいつまでも続いたせいか、カエデやモミジの紅葉は例年に比べて今一つの感がありましたが、イチョウの黄葉は見ごろをむかえていました。

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池のそばの四阿には花手水も
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楓風亭のお菓子も「紅葉」
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カナールの傍のイチョウ並木
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カナール対岸のいちょう並木

こもれびの里は収穫の季節です。大例祭の幟が掲げられ、野菜の宝船を居合わせた中国人の親子がめずらしそうに見入っていました。

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秋季例大祭の幟
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11種類の野菜で作られた宝船
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こもれびの里古民家ではひと月遅れのえびす講。五穀豊穣を願って赤飯やお頭つきの鯛がお供えしてあった。

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雑記帳2023-11-15 [代表・玲子の雑記帳]

2023-11-15
斉藤陽一さんの『日本四代絵巻』をひもとく講座、今回は『伴大納言絵巻』をご紹介しましょう。

『伴大納言絵巻』は『鳥獣戯画』ほど馴染みはありませんが、ひもとくほどに面白い。絵巻のもとになったのは「応天門の変」です。

平安初期の貞観8年(866年、3月10日(奇しくも東京大空襲と同じ日です)、大内裏の「応天門」が放火によって炎上しました。
同年8月、「犯人は大納言・伴善男と一味」の告発があり、伴一門は流罪、晩善男は伊豆へ流されて、伴家は歴史の舞台から消えました。
当時、伊豆は京都からはるかに遠い、遠流の地だったのです。

今も真偽は不明ですが、事件後、道長へとつづく藤原北家の摂関政治が確立していくのは歴史でならったとおりです。伴氏が消えると同時に、源家も政治から身を引き、平安末期に武士の集団源氏が台頭するまで、源の名を見ることはありませんでした。

それから300年、平安末期に編まれた説話集『宇治拾遺物語』に、この事件が登場します。説話なので、史実のままではありません。伴大納言絵巻は説話をもとに、歴史にフィクションを加えて描かれたのです。発注者は後白河上皇、命を受けたのは宮廷絵師・常盤光長でした。

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絵巻は上・中・下の3巻からなります。
≪上巻≫は応天門炎上の場面が描かれています。
普通絵巻は詞書が先にくるものですが、上巻はいきなり絵から始まっています。放火され、炎上した応天門に駆けつけた検非違使一行と火事を見る人々・・・。

検非違使を見れば、弓をもってはいるが太刀を持っていない、鐙にかけた足は靴を履いている者もいれば中には素足の者もいる、あわただしく緊迫した様子が伝わります。

当時火事は起こってしまえば消すすべはなく、検非違使は火災現場の治安と秩序を守るために出勤してきたのでした。消防が意識されるようになるのは江戸時代まで待たのはを待たねばなりません。
急に駆けつけたため、従者も普段着に素足です。

絵巻を左に見ていくと、見物の人だかり。100人に及ぶ人物がえがかれています。口喧嘩をしている者、女性に悪戯を仕掛ける者、僧侶もいればのんびりと高見の見物をする下級貴族もいる。二人として同じ表情をしていない、二人として同じ服装をしていない。表情の百花全書と言われる所以です。
検非違使の緊迫感と見物人ののんびりとの対比の構図が見事です。

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火事を見ようと朱雀門に集まって来る人々
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火事を見上げる人々 表情も様々
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群衆の中には女にけしからぬ行為をするものも

又、日本における三代火災表現と言われる火災の描写も見事です。火の粉の飛び散る様子は実際に火災の現場を体験した者でなければ描けないとまで言われています。

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次ぎの場面は、清涼殿の庭にたたずむ、後ろ姿の謎の人物。

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謎の人物はもう一人、広廂に座るのは頭中将藤原基経といわれtています。

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宇治拾遺習によると、「今は昔、水尾の帝(清和天皇)の時代に、応天門が放火で焼けるという事件があった。時の大納言・伴善男が「犯人は左大臣の源信です」と朝廷に訴えたので、左大臣は処罰されることになった。その頃、太政大臣・藤原良房は、政務は弟の右大臣に譲って、自分は隠棲していたのだが、左大臣処罰の報をきいて驚き、普段着のまま馬を飛ばして、天皇のもとに馳せ参じた。太政大臣は天皇にこう申し上げた。「これは、左大臣に罪をなすりつけようとする者の虚言かもしれませぬ。よくよくお調べになり、事の是非を明らかにしてから処罰されるのがよろしいかと」。天皇はもっともなことよと思い、よく調べると左大臣が犯人だという証拠もないので、赦免することにした。」

≪上巻≫の最後は太政大臣・藤原良房が天皇に諫言する場面です。良房は天皇の祖父。天皇も良房も普段着です。

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内裏で対面する良房と清和天皇

≪中巻≫は源信(みまのとのまこと)邸と子どもの喧嘩と噂の拡がりが描かれます。
源信邸にむかう赦免の使者一行、主人に次げるために小走りに走る従者がいます。
赦免をまだ知らない源信は後ろ姿で懸命に天に祈っています。

処罰を覚悟して家中が悲嘆にくれていましたが、やがて赦免を知り、悲しみは喜びに変わります。ほっとした妻の様子やうれし泣きする侍女達は、ここでも表情の百科全書の名にふさわしく、一人一人描きわけられています。

赦免されたものの、源信は宮仕えに嫌気がさし、自ら政治の表舞台から身をひいてしまいました。

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ひたんにくれる源家の女房たち、その様子も様々
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赦免を知り喜ぶ侍女たち 喜びの表情も様々

邸の外ではこどもの喧嘩の場面です。
舎人の子どもと臨家の伴大納言の出納の子どもの喧嘩です。
そこへ大納言家の威光をかさにきた出納が出てきて、舎人の子どもをけっとばし、さんざんに痛めつけます。
舎人夫婦もだまったはいません。舎人は3月の応天門の火災のおり、朱雀門から出てくる大納言一味を目撃したことを暗ににおわせるのです。
その喧嘩の一部始終を見物する人々がいます。見物人の中には高下駄をはいた女性もいます。トイレのなかった時代、高下駄は外で用を足す女性には必需品でした。

こどもの喧嘩から始まり、両方の親が出てくる→出納が舎人のこどもを蹴とばす→舎人が叫ぶ→見物人の群れ。一つの画面にこれら5つの場面がよどみなく描かれた画法は異時同画法とよばれるものです。

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舎人の子と出納の子の喧嘩
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我が子を連れ帰る出納の妻
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喧嘩を見に集まった人々  なにかあれば野次馬が集まるのは昔も今も変わらない。

≪下巻≫では舎人の尋問と、伴大納言の逮捕と流罪が描かれます。
詞書には噂がひろがっていき、調停にまで達したことが書かれています。
遂に役人が舎人を連行、尋問することになりました。
臨家の出納は連行される舎人を不安げにみています。

この場面は、隣同士ながら、出納の家は板垣、舎人の家は土壁、と描き分けられた、対比の構図になっています。

伴善男定に向かう検非違使一行は総勢36人。物々しく武装した郎党たちには緊迫感がただよっています。先に述べた女性の高下駄同様、当時の風俗を知る資料的価値は十分です。

伴大納言の逮捕の瞬間は描かれず、次ぎの場面は邸で悲嘆にくれる妻と次女たちが描かれます。
侍女たちにしてみれば、失業して明日から露頭に迷う身、呆然自失のそれぞれの表情も見事に描き分けられています。

最後は伴善男を連行する検非違使一行です。ここでも伴大納言は描かれず、牛車からのぞく衣装の一部で暗示されています。検非違使たちは大物逮捕でほっとした表情をしています。

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大納言亭に向かう検非違使一行
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牛車で連行される大納言。牛車からわずかに衣装が見える

こうして、応天門の変は、大納言伴善男が左大臣源信を失脚させて自分がその地位に収まろうとして起こした事件として決着し、この結果、名門「源家」は政治の舞台から消え、大友氏以来の由緒ある「伴氏」一門は没落しました。
これにより、藤原良房―基経が一挙に権力を得、藤原北家の支配体制が確立したのです。

『伴大納言絵巻』は、表情の百科全書や資料的価値は勿論のこと、史実ではない絵巻の真相はどうだったのかと思いをめぐらすのも面白い。
絵巻が描かれたのは平安末期。事件から300年経ち、武士が台頭する中で流石の藤原氏も力をうしなっていました。絵巻の一部が意図的に削られている、その画面には誰がいたのかを想像するのだって面白いではありませんか。真犯人はひょっとしたら藤原氏だったのかも・・・

『伴大納言絵巻』は今、出光美術館が所有しています。

◆11月の三光院の精進料理、月替わりの品はは「吹き寄せ」です。

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おばんざいはしめじのごはん



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雑記帳2023-11-1 [代表・玲子の雑記帳]

2023-11-1
◆武蔵小金井の三光院サロンの今秋の講座は斉藤陽一さんの『絵巻の魅力』です。
今回は2講目の『鳥獣戯画戯画』を紹介しましょう。

『鳥獣戯画』は『源氏物語絵巻』『伴大納言絵巻』『信貴山縁起絵巻』とともに、「四代絵巻」と呼ばれ、いずれも国宝に指定されています。

全長44mに及ぶ絵巻は甲、乙、丙、丁の4巻からなる絵巻は、彩色を施さず、すべて墨のみでえがかれています。詞書(ことばがき)もなく、制作年代も定かではありません。また、どういう絵師が描いたのか、宮廷絵師なのか、絵仏師なのか、画僧なのかわかっていません。制作年代は各巻で異なっていることから見て、平安から鎌倉時代初期に描かれたらしい。どうやら異なる時期に複数の絵師によって段階的に描かれたと想像されています。

また、多くの人に親しまれている『鳥獣戯画』は京都、高山寺に伝わっているものの、どのようにして高山寺に伝わったのかは不明。こうした謎だらけの絵巻ですが、謎を知らなくても十分に楽しめるのが絵巻なのです。
現在、鳥獣戯画絵巻は甲乙巻は東京の、丙丁巻は京都の国立博物館に寄託されています。

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斉藤さん持参の甲、乙、丙、丁の4巻

講師の斉藤さんは現役時代、担当するNHKの番組「日曜美術館」で『鳥獣戯画』をとりあげました。その折、ゲストに漫画家の手塚治虫さんを招いたところ、手塚さんは非常に驚かれ、「戯画は漫画そのもの」というメモをのおしています。斎藤さんは「一体、漫画というものはどれだけ進歩したのだろうか。もう何百年も前にやられてしまった。」という手塚さんの声を聴きました。今世界中で日本のアニメは人気ですが、そのルーツはすでにこの時代にあったのですね。信貴山縁起絵巻にも既にアニメのテクニックが見られるそうです。

ちょうど、上野の国立博物館では「やまと絵」を開催中で。国宝四代絵巻は機関限定で展示されていました。
平安末期、それまでの中国の山水画から脱して日本独自でしゅ。画風が生み出されたのがやまと絵です。

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国立博物館のやまと絵展ポスター

さて、絵巻の甲巻の前半は、上質の杉原紙に擬人化した動物たちの遊びが描かれます。
「兎と猿の水遊び」はいきなり絵から始まります。泳ぎの得意な兎、下手な猿の構図はまるで夏休みの子どもたち。絵巻の中から音や声がきこえてきそうです。

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兎と猿の水遊び

注目すべきはこの画面の最後に秋草が描かれていることです。秋草は日本絵画を象徴する重要なモチーフで、夏の遊びがおわって秋になったことをあらわすのです。源氏物語にも多くの場面に登場しますが、夏から秋、やがて冬に向かって滅び去る、そんな時間の経過を示す役割をもっています。画面にすやり霞や秋草を用いて晩秋の風景に変わる、異時同図法は日本画独特の手法です。

「賭弓(のりゆみ)」は兎チームと蛙チームの弓試合です。

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平安末期、権力を誇った後白河上皇は大の遊び好き、同時に絵巻も大好きでした。上皇の命により、宮中の「年行事絵巻」がつくられましたが、弓試合も宮中行事の一つとして描かれています。、

次ぎの画面は「宴会の酒肴を運ぶ」場面です。

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ご馳走一杯の画面には焼き鳥役の動物も登場します。すべての動物がごっこ遊びに参加しています。

「空を飛ぶ兎」には秋の夜の観月が描かれ、月の中では兎が餅をついているようです。今昔物語の兎がモデルだといわれています。

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「甲巻」は全部で23紙あります。前半の10紙につづく後半は、絵巻通常の杉原紙を使った前半にたいして、使用済みの紙をすき返した再生紙に描かれています。画風も異なっているため、別の絵師が公的な注文品ではなく、極私的な形で制作されたのではないかと推測されています。

「猿の僧正への贈り物」には権力者に贈り物をする様子が描かれています。

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猿が僧正になって威張っている様子は人間の世界と全く同じ、それだけで面白いのですが、別の視点からみてももおもしろいことにきづきます。
ここに登場する贈り物の中に鹿や猪があり、猪は馬の見立てだと言われています。
「甲巻」に登場する動物たちの8割が実は兎、猿と蛙です。甲巻の三役は、いずれも説話や伝承で、「不思議な力をもった存在」とされていました。

乙巻にはこの三役は登場せず、牛、馬、犬、庭折など身近な家畜が描かれます。
仏教では、「牛・馬・犬・鶏・豚・羊」は「六畜(りくちく)」と呼ばれ、それらの出産と詞は「穢(けが))れ」の対象とされました。
甲巻には六畜は描かれていない、猪を馬に見立てたのはそのためです。

「印地打(いんじうち)」の場面では、兎が猿をおいかけています。横にはひっくり返った蛙がいます。
印地打は節句の行事として行われた子どもたちの石合戦です。

「蛙の田楽おどり」には猫やイタチも登場します。
「年中行事絵巻」にも「田楽」の場面があります。「田楽」は怨霊をしずめるため、御霊会(ごりょうえ)などの時に催されました。

『鳥獣戯画』の中で、最も親しまれている場面は「蛙と兎の相撲」ではないでしょうか。」兎を投げ飛ばして見栄を切る蛙の図は「異時同図法」ですね。

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「蛙と兎の相撲」は真に遊びに徹していて、実際の力士の取り口「河津がけ」を蛙がとっているなんて、誰だってわらってしまう。先に紹介した、遊び大好きの後白河上皇の今様を「梁塵秘抄」に見ることができます。

     遊びをせんとや生まれけん 戯れせんとや生まれけん
      遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ ゆるがるれ

「法会(ほうえ)」には読経する猿の僧正と供養の参列者たちが描かれています。

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膝で印字を結ぶ蛙は釈迦如来象にになりきっているよう、ミミズクは聞き耳をたてています。
法会が終了し、猿の大僧正にはお礼の品々を献上されます。
膝で手の指を結ぶ蛙の僧正は釈迦如来の像をまねて満足げ。様々な供物を運ぶ動物たちが描かれる場面で甲巻はおわります。

過去のずさんな修復の斎、バラバラにされて散逸してしまった画があったり、継ぎ合わせた際に順序を間違えたのだはないかと思われる場面もありますが、それを抜きにしてもとにかく『鳥獣戯画』は面白い。
当時、貴族の家の男子は寺で教育を受けました。年中行事を教えたり、一緒に遊んだりするために絵巻を使ったと考えられます。
手塚治虫も、絵巻には子どもも大人も楽しめる魅力があると言っています。

乙巻は、甲巻には描かれていない身近な動物や想像上の霊獣、珍獣が描かれた一種の動物図鑑です。
巧みな動物描写から甲巻後半の作者と同一人物ではないかとされています。

丙巻は、甲巻、乙巻とは異なる画風で、制作年代は鎌倉時代初期と思われます。
前半は人間たちの、後半では動物たちの遊戯が描かれています。

丁巻の制作年代も鎌倉時代。
最初から最後まで人間たちで構成され、即興的なタッチで描き出された画面は、他の三巻には見られない特徴で、近年は「名人が他の巻をパロデイ化したもの、敢えてくずして描いた」との評価もあるということです。」、

三光院の10月の精進料理のメインは里いものあんかけです。寺の畑で収穫されたばかりの里いもをいただきました。

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雑記帳2023-10-15 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2023-10-15
◆銅板造形作家、赤川政由さんからラインでコンサートの案内が送られてきました。

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骨折してから6週間、ちょうど私の膝の固定装置をはずしたばかり。歩行器も杖も使わず、自分の足でそろそろと歩きはじめたときのことでした。

会場はいつものスタジオラララ。崖線の上に建つ小さなスタジオです。
ここで、9月末からさとうそのこさんの人形展がひらかれていました。
10月9日は最終日ゆえ、そのクロ-ジングコンサートだったのです。

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木立の中の坂道を下っていくとラララの看板が見える。

人形作家として知られるさとうそのこさんは赤川さんの亡くなった奥さんです。
お二人は旧米軍ハウスをアトリエにして活動していました。戦後、米軍基地のあった時代に全国に建てられたものの、今では数少なくなった「ハウス」が立川にはまだ残っていて、取材させてもらったこともありました。ハウスの2DKの間取りは戦後の日本の団地の間取りのモデルになったといわれています。当時の日本人にとって、DKは新鮮でした。小学校の音楽の教科書にも登場する、独特のそのこ人形はハウスで生まれました。

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会場はそのこさんと一緒に世界を旅した人形たちのイラストが壁一面にかざられていました。中に、吹奏楽器を奏でる子どもたちもいます。これは東日本大震災のおりにサントリーホールで催された大震災高校吹奏楽大会に因んで、出場した高校生をモデルにしたものです。ラララの主、しおみえりこさんは、復興の最中に演奏の場を失ったピアノを被災地の記憶を伝える震災ピアノとしてひきとったり、被災した着物の端切れを使ったパッチワークを世界中に広げる活動をしたり、被災地の復興を様々な形で応援してきましたが、そのこさんも被災地に心をよせていたのですね。

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コンサートの第一部は、歌うピアニスト、吉村安見子さんの弾き語りでした。
「そのこさんに聞いてもらいたい曲を選んだ」と言って演奏されたのは、バッハのアリアに並んで、フランスの詩人、プレベールの「朝の食事」、林光の「ペーペーの草刈り」、木島始の「草の葉」など、など・・・最後に演奏された曲の詞が心に残りました・

      あらゆる若葉には香りがある
      あらゆる目の光には矢印がある
      あらゆる子どもの魂には翼がある
      あらゆる営みで わたしたちは結ばれている

第二部のハイライトはそのこさんの夫である赤川ボンズさんの朗読です。
「魚のいない水族館」やシベリウスの「白樺」の演奏のあと、赤川さんが登場しました。朗読する本のタイトルは「大きなクスノキ」。御園孝さんの文にそのこさんが絵を付けました。二人の合作による絵本は何冊も出版され、そのうち2冊は『知の木々舎』でも紹介しました。

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出番を待つ赤川さん
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朗読する赤川さん 隣はしおみえりこさん

本は、校庭を広げるために切られることになったクスの大木を何とか助けたいと奔走する子どもたちの物語です。子どもたちの願いがこどものころクスノキと遊んだ周りの大人たちを動かして、クスノキは無事に移植に成功します。

これは決して架空のお話ではありません。渋谷区の小学校で本当にあったできごとです。立川でも、同じように道路拡張の為に切られる運命だった3本のプラタナスを赤川さんたちが子どもたちと一緒に守ったことがありました。以前雑記帳で紹介したプラタナスは戦前、アメリカから友好の印として立川基地に贈られ、戦後、基地がなくなった後もずっと立川を見守ってきた樹でした。それを知るこの日の観客の中には、朗読を立川のプラタスと重ねて聞いた人もいたことでしょう。年老いたそのプラタナスは今、防護柵に守られて、若者の集うイケヤのそばに立っています。

アンコールの声に赤川さんは「妻が亡くなって4年たつのに、日に日に僕の中では彼女の存在は大きくなる」と応えていました。

会場に、「大きなクスノキ」の文を書いた御園孝さんの姿がありました。本のモデルになったのは御園さんのお孫さんの通う学校だったそうです。
「樹木の移植ってお金かかるんじゃないですか? 大きな木なら費用も大きい。ここはクラウドファンディングの出番ですね。」
「そうなんですよ。渋谷の場合、1500万円の募金をつのったんです。そうしたら2000万円以上あつまったそうですよ。」

御園さんは、『知の木々舎』にも紹介したミツバチ保護活動家です。本業の造園業のかたわら、自らの畑で自然農法を実践したり、世界中にミツバチを訪ねたり、ブータンの王宮で田植えをしたり、世界を股に、活動はマルチです。このほど嵐山に広大な農地を取得、念願の養蜂家になったということでした。

帰りみち、モノレールの駅でいっしょになった女性から声をかけられました。
「いいコンサートでしたね。(ご夫妻が)羨ましいですね。」
「ええ、ほんとうに。」

ラララは30人も入れば一杯になる小さなスタジオです。
1か月半ぶりに家から出た私の最初の訪ね先になりました。

◆「食とくらしと環境を考える会」の12月の講座のメニューが決まりました。

冬に美味しい大根を使った「薄切り豚肉のみぞれ煮」と「お正月のサラダ」を紹介します。汁ものには「ブロッコリーとエビの薄葛スープ」を用意しました。試作なので写真だけ。レシピは次回に。

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雑記帳2023-10-1 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2023-10-1
警視庁予備隊と赤トンボ

 立川市内で市民に、「あなたは砂川闘争知っていますか」  「あなたは砂川事件を知っていますか」  と訊ねると、「知りません。それは何ですか」という答えが返ってきます。
 砂川闘争、砂川事件これは今から68年前、昭和の時代に起きた大きな事件です。
 立川市民でこの時代に20代だった人も80歳代では約12000人と少なくなっいます。知らなくて無理はないのです。

 砂川闘争から68年。少し前に立川飛行場拡張をめぐって激しいもみ合いのあった地点の私有地にアパートが2戸、独立家屋が1戸建ちました。新しい住人は、砂川の歴史を知らないでしょう。
 拡張予定地には、平和問題に力を入れていた藤井日達が興した法華宗の日本山妙法寺が1950年代に建立した「南無妙法蓮華経」の石碑が建っています。 一時期、その下に日本山妙法寺の精進小屋を建て、尼が数人修行していたこともあります。

 立川市砂川町は、昭和38年5月に立川市と合併するまでは、独立した町でした。
慶長8年(1603年)幕府が開かれ、立川の大部分は幕府の直轄領の天領となりました。人びとは養蚕と茶を主体とした農業で暮らしていました。
 西暦1630年ころになると、新田開発によって砂川新田が開かれました。承応3年(西暦1654年)には玉川上水が引かれました。その後、砂川新田は五日市街道に沿って東西に広がっていきました。立川は柴崎村、砂川村を中心に伸びていきました。
 明治時代には立川駅の設置、府立二中(現・立川高校)、立川飛行場が建設されました。
 戦後立川飛行場はアメリカ軍の基地となり,立川は基地の町となりました。

 昭和30年5月、政府はアメリカ軍の要請により、爆撃機の発着のためとして小牧・横田・立川・木更津・新潟の5飛行場の拡張を発表しました。立川飛行場は5万坪の拡張長を要求したのです。 これに対し砂川町長の宮崎傳左衛門はじめ町議も反対。町ぐるみの闘争を展開しました。これが砂川闘争であり砂川事件なのです。
 拡張予定地の買収には、土地の区画の確認のため、実地の測量が必要です。測量は八州測量が担当。地元民は道路に座り込んだり、畑に立ちはだかったりして何度となく抵抗します。警視庁は測量支援のため警察予備隊(現・機動隊)を動員して、妨害を排除しました。
 地元反対同盟の行動隊長青木市五郎の「土地に杭は打たれても心に杭は打たれない」の言葉に人びとは感銘しました。

 1955年に入り、当時最大の労働組合組織、日本労働組合総評議会「総評」が乗り出し、51の労働組合が反応。砂川町基地拡張反対労働組合支援協議会を結成し、本格的な支援体制をつくりました。毎日、1000名を越える労働者が参加しました。、
 日本共産党が指導している全学連(全日本学生自治会総連合)の指導の下、数百人の学生が参加しました。砂川闘争は全国ニュースの扱いになりました。

 1955年9月13日、強制測量で警官隊と地元反対派・支援労組・学生が衝突しました。
 14日、ふたたび衝突。11月5日、精密測量を強行し、重軽傷20人余がでました。
 1956年10月13日、地元農民らと武装警官隊が衝突、1195人が負傷し13人が検挙され「流血の砂川」の事態となりました。10月14日夜、政府は測量中止を決定しました。
 このあと亀井文夫監督の記録映画「流血の砂川」が多くの反響を呼びました。

 10月13日の激突をめぐって、「砂川闘争と赤とんぼ」というレジェントが生まれました。
 雨の畑の中で、警官隊と地元民学生たちがもみあい、学生は追い詰められました。
その時、最後に向き合ったのは学生ら50人と、警官150人だったといいます。
学生たちは 声をそろえて「赤とんぼ」の歌をうたったのです。、

全学連の砂川闘争委員長として現地で指揮した政治評論家の森田実さん(75)はこう語っています。
 「警官があと半歩出れば私たちは負ける状況で、獰猛な相手を人間的な気持ちにさせようとした。勇ましい『民族独立行動隊』を歌えば警官も勢いづける。そこで『赤とんぼ』を選び、日没までの30分、繰り返し歌った。警官隊は突撃して来なかった。私たちは人道主義で戦った。警官にも純粋な気持ちがあった」

鈴木茂夫さんは当時、ラジオ東京テレビジョン(現・TBS)のディレクターとして、連日砂川闘争の取材をしていました。この現場に立ち会っていました。
午後4時30分過ぎ、現場は測量予定地の東の端。栗原ムラさん(故人)宅の横手です。数人の女学生がいて(もしかしたら看護師だったかもしれません)腕に赤十字の腕章をしていました。赤十字の旗を棒きれに巻き付けてたてていました。「救護所」の旗も見えました。それはさながら野戦病院のまがいのようでした。そこに寝ている人はいません。
そこから20メートルほどの地点で、小柄な予備隊(現・機動隊)の指揮者が「集合」と声をかけました。
指揮者は昵懇な第4予備隊の守田警部でした。少し離れた所から私が右手を挙げて挨拶すると、同じように挨拶が返ってきました。
守田警部の横に、予備隊員1個中隊約70人が2列横隊に整列しました。
救護所の女学生が並んで、予備隊に向けるように、

  夕焼小焼の赤とんぼ 負われて見たのはいつの日か
  山の畑の桑の実を 小籠につんだはまぼろしか

  十五で、姐(ねえ)やは 嫁にゆき お里のたよりも たえはてた
  夕焼け小焼けの 赤とんぼ とまっているよ竿の先

私は守田警部に近づき、
「この連中は捕らないの」
守田警部は左腕の時計を差し出して
「もう4時50分、午後5時には作業終了ですよ。それにね、それに捕る,つまり逮捕したりすると弁解録取書と身上経歴に関する供述調書をつくらなきゃならないんですよ。隊員もくたびれてますから帰ります。それじゃあ」
守田警部を先頭に予備隊は、基地のフェンスに沿って第4ゲートから基地内に入った。
予備隊がいなくなると、女学生の歌声もやんだ。(鈴木さん)

この砂川闘争と唄「赤とんぼ」の話はz新聞でもといあげられ、全国的に有名になりました。
以下は朝日新聞記者の伊藤千尋さんの記事から

《「赤とんぼ」には、伝説化した話がある。56(昭和31)年、東京・立川の米軍基地拡張に反対した砂川闘争で、警官隊と立ち向かった学生や農民たちからわき出た歌が「赤とんぼ」だった。「日本人同士がなぜ戦わなければならないのか」と歌声は問いかけた、と伝えられる。
当時、動員された学生は3千人。雨の中、警官隊と肉弾戦となり負傷者が続出した。最後に向き合ったのは学生ら50人と、警官150人だった。「今だから話しましょう」と、全学連の砂川闘争委員長として現地で指揮した政治評論家の森田実さん(75)はこう語る。
「警官があと半歩出れば私たちは負ける状況で、獰猛な相手を人間的な気持ちにさせようとした。勇ましい『民族独立行動隊』を歌えば警官も勢いづける。そこで『赤とんぼ』を選び、日没までの30分、繰り返し歌った。警官隊は突撃して来なかった。私たちは人道主義で戦った。警官にも純粋な気持ちがあった」
母のぬくもりを懐かしみ、郷愁を誘う「赤とんぼ」は、自らの人間性を思い出させる歌でもあった。この美しい感性を、日本人は持ち続けられるだろうか。
「赤とんぼ みな母探す ごとくゆく」(畑谷淳二)》

以下はこの砂川闘争の概要です。
  6月3日、基地問題について衆議院内閣委員会が開催され、参考人としての意見陳述が行われた。砂川代表は「一坪たりとも土地の接収はご免だ」と堂々と意見をのべた。委員会終了後、衆議院第一議員会館に基地代表が集まって話し合い、「手を結び合って共に頑張っていこう」と、全国基地拡張反対連絡協議会の結成について確認しあった。
 反対闘争の背景にあって活躍したのは、砂川町勤労者組合の存在である。勤労者組合は戦後まもなくして地域組合として結成された。一時期アカの組合だとレッテルを貼られたが、住宅難解決のため町営住宅建設、公民活動強化のための公民館建設、幼児保護対策としての保育園建設、町民サービス向上のための出張所設置、民主教育委員に代表などと町長に申し入れ、約束させ遂次実現させていたことから、真面目な勤労者の集まり、町をよくしょうとする団体であることが理解されて認知された。私を含め町議2人、教育委員、公民館長を擁し、無視できない存在となった。基地闘争については、主要メンバーがしばしば集まって、政府を相手にしてのたたかいであり、敵の力、味方の力を十分に知って戦術をたてなければならない。政争の激しい町だけに町ぐるみ闘争にヒビがはいらなければよいが、ということで慎重に戦術を考えて対応した。

非暴力、無抵抗の抵抗で
  反対同盟は基本方針として、
   ●個人の立場でいっさい話をしないこと。
   ●文書類などについては開封せず闘争本部に届けること。
   ●不審な者に対しては理由をただし、闘争本部に急報すること。
   ●反対同盟の情報以外はいっさい信用しないこと。
   ●すべてのことについてて反対同盟に白紙委任すること。
などを確認した。戦術としては非暴力=無抵抗の抵抗を貫き、具体的には、穴掘り作戦、煙幕作戦、黄金作戦で対抗していくことにした。

 6月9日、三多摩労協との共闘受入れが決まり、基地拡張反対町民総決起集会が開催され、目印として三多摩労協旗一本が認められ、労働組合として初めて参加し労農共闘、共同して大会決議をおこない成功裡に終わった。
 警官が導入されての闘いは、9月13日、14日の阻止闘争である。田中副闘争委員長(町議会副議長)、内野全町行動隊長(町議)、宮岡行動副隊長をはじめ12人、支援労組員15人が不当検挙された。
 この間、条件派の動きも活発化し、12人が脱落して基地問題処理懇談会をつくった。その後、会長に若松元町長をえらんで基地拡張対策処理連盟を結成し本格的な活動を展開した。
 条件派ま要求は、(1)滑走路部分を地下道にする、(2)慰謝料として各戸に50万円、(3)農地補償として坪当たり4500円、宅地補償として5万円、(4)移築費用として3万500円、(5)税を10年間免除する、事などである。多分に反対派工作(宣伝効果)を意図したものと思われていた。

荒れ狂う警察の暴力
 1956年10月13日、14日歴史に残る阻止闘争として、小雨降る中、抵抗闘争が展開された。マスコミの報道でも、「砂川に荒れ狂う警官の暴行」、「絶対許せぬ機動隊の暴挙」、「警棒の雨、突き破られたスクラムの壁」、「行き過ぎだ、警官の実力行使」などなど言語に絶するものがあった。この日の闘いの中で印象に残るものは、闘いの合間に自然発生的に合唱された「赤とんぼ」、「カラスなぜ鳴くの」、「ふるさと」であり、警官り良心をとりもどすものであった。
 日本人同士がなぜ闘わなければならないのか、憎しみを持ってなぜ血で血を洗うようなことをしなければならないのか、国民世論は逆上した。政府のこれ以上、測量を強行することは事態をますます悪化することになるとの判断から、14日午後8時、測量中止を決定し発表した。この報に接した砂川町は、「勝った」、「勝った」の歓声で、五日市街道はどよめき、喜びと化し、「ワッショイ」、「ワッショイ」のデモガ繰り広げられ、無法地帯の様相を呈した。
 59年には反対派の基地侵入事件で、「憲法は安易な政策論で解釈されるものでなく、憲法9条規定は、武力保持を禁じており、外国軍隊の駐屯は、明らかに憲法違反である。よって刑事特別措置法も違反である」との判決が行われ、画期的な「伊達判決」として注目された。その後、検察側の上告により破棄されてしまい、伊達裁判長はこれを不服とし、裁判官を辞して弁護士となり、全電通労組(現NTT労組)の顧問弁護士団長として活躍され、1995年の春、惜しくも帰らぬ人となってしまった。

ついに土地収容認定取り消し
 「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」の名文句をのこして闘われた砂川闘争は14年の永きにわたっての闘いでした。不屈な闘いが功を奏し、1968年12月19日、基地計画中止発表。1969年4月18日土地収容認定取り消し発表が行われ、その後、基地三分割によって、基地東側地区を「業務地区」として、官公庁施設が使用。中央地区は「防災地区」として、実質的には自衛隊が使用。西側地区は「公園地区」として昭和記念公園に生まれ変わりました。
 残る激戦地の拡張予定地は、地権者を中心に1996年3月2日、砂川中央地区町づくり懇談会がもたれ、1998年6月21日、砂川中央地区町づくり推進協議会として発足し、砂川闘争の歴史を無にすることなく、平和利用を基本に協議がつづれけられています。

いくつものエピソードをうんだ砂川闘争に加わった弁護士の榎本信行さんは、当時立川高校の学生でした。スクラムを組んだおばあさんから、「お兄ちゃん、このことをしっかり見て、後の時代にも伝えてね。」と言われたことから、弁護士をこころざしたそうです。基地闘争は榎本さんのライフワークになりました。基地闘争そのものは内地ではもはや昔の話のようですが、基地の問題は人権の問題になってきたように思います。『知の木々舎』では、榎本さんの著書『軍隊と住民』を連載しました。


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雑記帳2023-9-15 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2023ー9-15
◆9月1日(金)
1週間後の診察日である。
最近はどこの病院も診療所も予約が徹底していて、昔のように、早く行って順番確保をする必要がないのは助かる。それと同時に、診断技術も進化していて、全てCTやレントゲンである。医者は患者の顔もみない。勿論患部にもさわらない。実際、折れた骨は外からみえるわではないので、合理的といえば合理的である。

診察の前に撮ったレントゲン写真を見ながら
「前と変わらないようですね。おさらも骨もずれていませんからこのままいきましょう。」「膝がはれてまだ熱をもっているんですけど」
「痛かったらひやしてください。」
(そんなことくらい、先週、言ってほしかった)
「右足がむくんでるんですけど。」
「歩けるようにならないとね。足首をたててふくらはぎの筋肉をひっぱると血流がよくなります。足首まわしたくらいではあまり効果はないですネ。」
(先週足首を回せと言ったではないか。)
むくんでいると言ってもはれていると訴えても患部を見ない。ちょっと触ってどんな状態かみてくれたっていいではないか。「ちょっとはれてますね」と同情くらいしてくれてもいいではないか。そのうえで「大丈夫ですよ」の一言くらい言ってくれてもいいではないか。

医者は怪我をなおすことが仕事なので、患者、まして高齢の患者の美醜など知ったことではないのか。私としては、膝はかくれるからまだしも、むくんだ右足がこのままなおらないのではないかと心配になる。まるで象の足だ。
なにしろ足の骨折は初心者である。知らないことばかりだから、何をどう注意すればいいのかもわからない。幸い膝がずれていないというが、どうしたらずれるのか。いや、どんなことに注意すればずれないのか、最初に患者が質問しなければわざわざ言ってはくれないのだ。救急で説明をうけたきは治るのにどれくらいかかるのかばかりが心配で、医者の説明もわかったようなきがしたが、一週間不自由にくらしてみて出てきた疑問だから、一週間前に聞けるはずがない。聞いたときにはtoo lateではないのか。事細かく言わなかったのは重大事ではなかったということなのかもしれないが。

この日、近所の友人が車を出してくれた。ご主人をのせて何度も通った病院だから、心配しないでと言ってくれた。持つべきは茶飲み友達と大見えをきった後ではあるが、こどもにしてみれば別の問題があるようだった。

こどもにとって高齢の親は世話しなけれならない存在で、その親が世間さまに迷惑をかけているのではないかというのは重要な問題なのだと思う。もし事故にでもあったらどうするのか、などと考えれば、心配するのも無理はない。
「今度はタクシーにしてね。」(でも会社に電話してタクシー呼んでもなかなか来ないのよ。いつも今配車できるエリアにいませんと言われるのよね。)

いったい、高齢者は世間に迷惑をかけるだけの存在なのだろうか。
永田町辺りはたしかにいるような気がするが、経済力もなく政治的な発言力のない一般の高齢者が生きづらい世の中であることは確かだ。
まず、degitalの進化と使いにくさは高齢者に親切とはいえない。漸く慣れたころ次々にアップグレイドされる新兵器に追いつけない。これも自己責任なのだろうか。
事故を起こしたとき心配だから車を手放せと言われても、そもそも車など持っていなかった高齢者だって多い。

世間に迷惑をかけないようにと考えれば自分の世界を狭くするほかない。孤立して認知症になるかもしれない。認知症がわるいわけではないが、年取ればだれもが認知症になる時代、「安心して認知症になりましょう」というキャンペーンなど見たことがない。「どうしたら認知症にならないか」という本ばかりが売れる。認知症も自己責任といわんばかりである。

高齢者にとって、これから起きることはすべて人生初めてのことだと覚悟しなければならない。昔出来たことができなくなるし、初めてのことに敢然と立ち向かうには、これまでの学習や経験が邪魔をする・・・。体力あるだろうか。
もろもろの妄想のあげく、これで100歳まで生かされるのはまっぴらだと思う。

9月4日 (月)
足が不自由で家にいてもすることはある。
9月の予定を全てキャンセルしたので、出席できないぶんカバーすることはあって、パソコンの前に座りっぱなしである。
怪我を知った知り合いから次々お見舞いのメールをもらった。
中に、要件の報告のあと、「本当に頼りしていますので、落ち着いてお大事にしてください。」と寄せてくれた友人があった。

彼女は私より5歳年下の、五黄の虎のうまれである。
むかし、五黄の虎生まれの女性は気が強い、と敬遠された時代があった。ジェンダー論議盛んな今なら叱られそうだが、これが意外に当たっていて、私の知る1950年生まれの女性はみんな元気である。消費者庁長官をやった阿南さんとは生協時代意見のあわないこともあったが、彼女も五黄の虎である。喧嘩したら絶対に負けない。
メールをくれたのは阿南さんではないが、やっぱり生協で知り合い、もう30年になる。

落ちこんでいるときに「頼りにしている」と言われるのは何よりの希望だ。
これでもまだ役に立つことはあるのならもうちょっと頑張ろうと思えてくる。

9月5日(火)
台湾の何聡明さんからメールで原稿が届いた。添付は何と2通である。「2024年の台湾相当選挙たけなわ」と「九州への船旅」。
年初、もう年で書く体力もおちたからこれからは原稿を送るのは年3回にする、とメールがあったのを思い出し、思わず笑ってしまった。これはうれしい誤算である。総統選挙の話題はわかるが、九州への船旅はよほど心うつものだったにちがいない。 何聡明さんは93歳になる。

9月6日(水)
サンパウロの李渭賢さんが雑記帳を読んで驚いたと言ってメールをくださった。高齢者の3つの禁物は「風邪」「誤嚥」「転倒」とあった。            
町で元気に歩いているお年寄りは皆これらの禁物を避けてきた人なのだと思うと、心底偉いなと思う。

9月8日(金)
診察日は台風にぶつかった。苦労してたどり着いた病院のロビーは人影も少ない。
「ずれはないようですね。この調子なら2週間後には24時間つけている固定装置も歩くとき以外ははずしてもよさそうです。」
「外しているときにはリハビリとして膝の曲げ伸ばしをしていいです。まず90度曲がるのをめざしましょう。器具が完全にはずれるのは10月6日を目標にします。」
「自転車にはいつ乗れるようになるでしょう。」
「膝が120度曲がるようになったらOKです。そんなにあせっちゃダメですよ。」

自慢の自転車は娘にサドルをさげられてしまった。
「だいたいその齢で足がつかない自転車に乗るなんて危ないでしょ。若いひとだってそんなにサドル高くしてないわよ。」
「サドル高いと目線も高くなって走ってて気持ちいいのよ。」
「スピードもでるから事故ったらもっとひどいことになるでしょ。」
「私、自分の足で転んでも自転車で転んだことはないのに。」
「とにかく転ぶ前に予防しなくちゃ。転んでからではおそいのだからね。」

これでも、私は70歳の時、クロスバイクに乗るのを諦めたことがある。
60歳のとき、あこがれのクロスバイクを手にいれて、多摩川の土手をよく走った。軽いので分解して電車に乗って遠出をするのを夢見ていたが、プロの自転車屋さんに「素人がこんなことしちゃいけません、事故のもとです。」と言われて、分解組立をあきらめた。スピードが出て、まちなかを走っても爽快だった。だが、70歳の時、子ども3人を乗せて走った30代とはバランス感覚や瞬発力が明らかに違うことを自覚した。溝のない細いタイヤで、万一縁石で滑ったら危ないと思って乗るのをやめたのだ。分別がないと自他ともに認める私でもそれくらいの分別はある。それなのに、ママチャリのサドルを高くすることさえ許されないというのか。

ともあれ、先は見えてきた。元通りではないが、足のむくみも少し改善したような気がする。
母が90歳のとき転んで車いすになったのを思い出す。90歳に比べればまだうんと若いのに転んだとは恥ずかしいが、その齢になって初めて転ぶ前に予行演習をしたのだと思えばいい。なにしろこれから出会うことは初めてのことばかりだから、その前に練習しておけば、(治療も含めて)おろおろしないですむだろう。
まだリハビリで回復できる余力のあることに感謝して、頑張ろうと思った。

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スエーデン製の歩行器
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鈴木さんがさしいれてくれたnoshの弁当「チキンのトマト煮」 容器も紙なのがよい
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サドルを下げて普通のママチャリになったマイバイク(後ろは20代の姪が乗っているサドルの高い自転車 5㎝の差は大きい!)





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雑記帳2023-9-1 [代表・玲子の雑記帳]

2023-9-1
◆この夏、四国に住む妹が、娘の出産に合わせて上京、1か月間、我が家に滞在しました。
この間、マンションのゲストームや近くのホテルを利用した数日を覗けば、ほぼ毎日、立川から娘の住む五反田まで電車通勤したわけですが、夏の猛暑と相まって、つくづく年齢を感じさせる夏になりました。

10歳年下の妹は便在68歳。夫が亡くなった20年近く前、高校を卒業した彼女のこども3人を次々、我が家で預かったことがあります。、それぞれ大学や専門学校を卒業して、今では皆自立した社会人になっています。出産したのは2番目の子(?)で、外資系の金融会社で共働きをしながら流行りのタワーマンションに住んでいます。

岸田さんは「異次元の少子化対策」という言葉を使って少子化に取り組む姿勢をみせています。東京都も出産時の援助は手厚く、50万円とか80万円の声も聞きます。子育て中の支援も品川区は非常に手あつくなっているようです。1人でも年収1,000万円を越えるパワーカップルなら愛育病院での出産もなんということはない、援助などなくても産める。少子化対策として本当に支援が必要なのはどこなのか、考えざるを得ません。(そもそも今の日本は少子化の原因そのものが分かっていない政治家が多すぎる。個別に支給すればいい問題ではないことに気づかない。格差や貧困さえ「自己責任」にすり替えて、政治の問題だとは思っていないのです。)

勿論、赤ちゃんは可愛い。これは別問題です。
ミルクを呑んでおしめを替えてもらって満足しきって寝ている顔はいつまで見ていても飽きない。おなかがすいたとき、ウンチをしたとき、泣きわめく顔だってかわいい。仁君は(赤ちゃんの名前です)しかめっ面をするとまるで分別臭いおじさんのような顔になるのだけど、それも文句なく可愛い。

妹にとっては、電車やバスでの通勤も、タワーマンションの生活を目にするのもはじめてです。私など、今では電車に乗るだけで疲れてしまうありさまですが、さすがに10歳の差は大きい。1週間ほどですっかり慣れて、駅の戒壇の上り下りに脚が適応してくれるようになったと言います。
マンションに住んだことにない私は、慣れないタワマンの出入りにもおろおろ(あのセキュリテイの面倒くささは何だ!)、車止めの不自由さにもとまどいます。1か月も通った妹のほうは、マンションのコンシュエルジュを相手にそれにも慣れた様子でした。

この暑さの中、駅前のスーパーで買い物をし、重い袋を下げてマンションにたどり着く作業は今の私にはできません。特にこの夏は暑さに絶えられず、1人暮らしも身について、買い物は量も最小限なら陽ざしを避けて買い出しにいくのも最小限と言った具合でした。なかんずく、若い夫婦の食べる量は半端じゃない。肉や野菜の買い出しも毎回、相当な量になったはずです。私も60代、いや、70代前半だったらできたなあと思い、後期高齢の意味がよくわかった気がしました。

1か月の産後手伝いを終えて、妹は無事帰郷しましたが、これには続きがありました。なんと、妹が帰る前日、私は転倒して骨折という憂き目にあったのです。
日頃、走ってはいけないと肝に命じていたにも拘らず、すぐそこの物をとろうと思わず走ってしまったのが原因でした。まるで高齢者の見本のようだ、が一瞬頭をよぎりました。

8月24日(木)
救急で運ばれた病院でレントゲンとCTで骨折が判明。入院手術するか自宅で直すかは相談して決めよと言われ、紹介状を書いてもらってひとまず帰宅。
夜、仕事を終えた娘夫婦がコンビニで弁当を買って来てくれた。もともと木曜日は週に一度二人が我が家に晩御飯を食べにくる日だった。私にすれば週に1回でもひとの為に料理をする時間であり、むこうにすれば、認めたくはなかったが、年寄りの見守りの意味もあっただろう。はからずも今度のことで、後者の意味合いがはっきり出てしまったようだ。
「走らないようにずっと気をつけていたのに・・・」(私)
「でも走っちゃったんでしょ。高齢者がみんな転ぶわけでなく、ころばない人だって大勢いるよ。以前できたことが今はできなくなっているという自覚がたりないのね。」
(まことにその通りです。転んだのはひとえに自己責任。だからほうっといて。)
「お義母さん、怪我したら損だと思って気をつけるのがいいですよ。」
これには説得力がある。その通りなので反論のしようがない。

婿は年齢のわりに分別があるのだ。以前もこんなことを言われたことがある。
「お義母さん、その年齢で責任を持たなければいけないような仕事は受けないほうがいいですよ。」
私は、自分が彼ほどの分別をもちあわせないのを恨めしく思うことがある。子どもの頃、分別はおとなになったらつくものだと思っていた。でも、そそっかしさやせっかちは生来もってうまれたものなので、大人になったら治るものではなく、努力してカバーしなければならないのだ。努力が足りないわたしい¥としてはと人は言うのかもしれない。その意味でも損をしている。

夜、独りになって、ひざが曲がらないように固定されて慣れない松葉杖で過ごしてみて、その不自由さに参った。一日もはやくらくになりたいと思った。

8月25日(金)
紹介状を持ってふれあい相互クリニックへ。タクシーを呼ぼうとしても出払っていてなかなか配車できないとのこと、相当待ってようやく来てもらえた。バス停が近くなので必要ないと思っていた配車アプリが必要かもしれない。
「手術してもしなくてもどちらでもいい状態です。手術すれば早く歩けるようになりますが、それなりのリスクはともなう。年齢を考えると、早く社会復帰しなければならないほどのこともないのではありませんか。」
ここでも年齢のことを言われてしまった。
昨夜は早く楽になりたい一心だったが、話を聞くうちに骨が自然にくっつくのがいいようㇴな気がしてきた。
「一週間後に見て、ずれがひどくなっているようだったら手術しましょう。手術はそれからでもおそくありませんよ」
「ベストの選択かも。」と、あとで娘の弁。

8月26日(土)
骨折と聞いた知人が歩行器を貸してくれた。
スエーデン製のすぐれものである。さすが介護王国、頑丈で安定性があって、なかなかに具合がいい。松葉づえがいまいちへたくそな私には有難かった。
惜しむらくはトイレの間口が狭くてここには使えない。
この知人は国労出身で、今でも情熱的にマルクスを語る。ただし、親の残してくれた不動産があって何棟かのアパートを経営しているから、順然たるプロレタリアートではないことに屈折した思いはあるのかもしれない。彼が最近読んでいるのがむのたけじ。戦後、ジャーナリストの戦争責任を問うて朝日新聞社をやめ、郷里の横手から「たいまつ」を発信しつづけた人である。今どれくらいの人がむのたけじを知っているのだろうか。
実は『知の木々舎』は創刊時、横手のむのさんに電話して詞集『たいまつ』を連載させてもらったことがあった。横手は冬寒いので晩年はさいたまの息子さんの所に住んでおられた。そこにも電話して、いつかお昼をご一緒しましょうと話したことがある。100歳を越えて、「今、100歳から14歳の君へというのを書いている」と聞いたのが最後になった。声は100歳の老人とは思えないほど力強かったのをおぼえている。

8月27日(日)
骨折してどこにも出かけられず無聊をかこっているだろうからと、鈴木さんから電話があった。鈴木さんは例によって日曜日のお昼探訪を楽しんでいるらしい。今日は西国分寺駅の構内にある寿司屋へ行ってきたという。JR中央線の西国分寺駅は国分寺崖線の谷底に出来た駅で、狭いホームやコンコースを非常にうまくつかっている。後で知ったことだが、知人の町づくりデザイナーがプランニングしたということだった。狭い場所を上手く利用してコーヒーやカレー、うどんなどのファストフードショップがならび、果てはカウンターだけだが寿司屋まであるのである。

鈴木さんによると、西国分寺の寿司屋の魚は立川の駅ビルにある「魚力」より上ではないか。ただ、汁の方は浅利が3つ入った「魚力」の味噌汁が美味しいとのこと。料理がうまいまずいは人それぞれ、でも自分なりのものさしを持っているのは悪くないと思う。
四国出身の妹は、今回、東京で何がつらかったかというと、美味しい魚が手に入らないことだったという。魚は特にその地で獲れたものをそこで食べるのが一番。瀬戸内海の魚を東京で食べようと思うのがまちがいだと笑った。料亭や有名レストランで目が飛び出るほどのお金を出せば食べられるかもしれないが、地元ならそんな必要はない。輸送の技術が発達した今でも、美味しいものを食べたければその地へ行くのが正解のようだ。

鈴木さんはそのあと、立川へ戻って、立川駅のホームの蕎麦屋でおでんそばなるものを食べたそうだ。そして、締めは、モノレール立川北のミスタードーナッツである。92歳でこれだけ食べられるのが元気のもとなのだろう。昔食いしん坊だった私でさえもはや食もほそくなり、最近は必要な栄養をとるにはもっと食べなければならないと痛感している。タンパク質はもちろん重要だが、鉄やカルシュームのような微量栄養素は十分にとれていない。嫌いだったサプリメントの出番かもしれない。金曜日には鈴木さんは冷凍の弁当noshを差し入れてくれた。これも私には相当のボリュームだった。

8月28日(月)
怪我をして5日目にもなると、段々慣れてくる。歩行器を連取したら苦手だった松葉づえも上手にあやつれるようになった。人間はかってなものだ。丈夫なだけが取り柄だった私が怪我して使い物にならないなんて、生きていてもしょうがないとまで落ち込んでいたのが、気分も少し上むきになるのだった。

今日は近所の宮崎さんが今年の梅でつくった梅干しと梅ジュースを持って来てくれた。、落下していた梅の実がもったいないと持ち主に了解を得てもらったものである。見事なできばえだった。とりとめのないおしゃべりをして、たまたま落っこちた簾を、2階に上がれない私の代わりにかけかえてもらった。

骨折して出歩けないながら、一日中、まったく一人になることはありませんでした。買い物を頼んだり病院への送り迎えにも誰かがいました。一人で暮らす高齢者が持つべきものは茶飲み友達だとつくづく思います。


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