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雑記帳2021-5-1 [代表・玲子の雑記帳]

2021-5-1
◆江戸城外堀歩きは4回目。漸く古地図が読めるようになりました。今回はJR四谷駅から水道橋駅までを歩きます。

前回、JR中央線の四ツ谷駅の麹町口で四谷門の石垣を見たところからの出発です。
四谷門は江戸城外堀の門のなかでも大きい門でした。現在の新四谷見附橋の場所に橋がかかっており、その東粟にありました。今も城門の一部が残っています。

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四ツ谷駅
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四谷見附橋からJR中央線を見下ろす

江戸時代、五街道の一つ、甲州街道は江戸から甲府を経て下諏訪まで続いていました。四谷門をう回して道は直線ではなかったのですが、大正2年(1913)に四谷門跡の道の敷き直しが行われ、それまでの屈折した道から一直線になったのでした。
甲州街道の敷き直しにともなって、四谷見附橋が外堀に架けられました。

橋をわたった四谷駅の北側の外堀は埋め立てられて鉄道用地と外堀公園になっています。
外濠公園は、江戸城外濠の土手や濠の跡を利用して作られており、堀に沿ってJR中央線四谷駅北側から飯田橋駅付近までの約2kmにわたって細長く続いています。

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外堀公園入口

公園入口に立って道路向かい側に一番に目にはいるのが、ひときわ高いCOMORE YOTSUYAです。
約2.4ヘクタールの土地にオフィスやマンション、商業、教育などのはいる複合施設です。災害時には帰宅困難者の一時滞在場所や地域住民の一時集合場所にもなります。名前は「木漏れ日」と「common 」をかけた造語だそうです。元四谷第三小学校跡に建ち、工事中に江戸時代の町や糀室が出土しましたが、埋め戻されています。

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COMORE YOTSUYA

入口を入ってほどなく土木学会の建物が見えてきました。
土木事業の発展と技術者の育成目的とする土木学会は、全国の橋梁の状態を定期的に調査し、必要があれば整備の要請もするという所です。その土木学会の本部がこの外堀公園にあるというのも縁を感じますね。

外堀は四谷門のあった場所が最高地点で、そこから南北に水が流れ下っていました。従って、外堀沿いの道も下り坂になっています。現在メグミルクの本社がある所に旗本高力家の屋敷があったことから高力坂と呼ばれていました。長い、緩やかな坂です。

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高力坂

まもなくJR市ヶ谷駅。駅は市ヶ谷門の跡地にたっているのです。地下鉄南北線市ヶ谷駅構内には江戸歴史散歩コーナーがあり、南北線建設工事の時に発掘された江戸城の石垣が復元、展示されています。

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堀のむこうに見えるのがJR市ヶ谷駅

亀岡八幡宮は全国に数多くありますが、市ヶ谷の亀岡八幡宮は太田道灌が鎌倉の鶴岡八幡宮から勧請して建てたと伝えられています。令和の今も地域住民の信仰を集めているほか、新宿区に残る江戸時代唯一の銅の鳥居や狛犬、境内の力石、几号水準点(水鉢台座)など、見るものはたくさんあります。(ちなみに都内には37か所の几号水準点が現存しています。)周辺は尾張徳川家の屋敷跡、辿っていけば佐内坂です。

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亀岡八幡宮

外堀側から見れば、この辺りから東に向かって神楽坂まで、台地がせり出しているのがよくわかります。それに伴って幾筋もの坂が見えます。いわく、左内坂、浄瑠璃坂、逢坂、庚嶺坂(ゆれいざか)、神楽坂の中にも坂は何本もあります。そして、それぞれに係わった人や事件が伝わっているのです。
奈良時代の武蔵守と少女の悲恋が伝わる逢坂。近くには平将門伝説の残る築土神社。中国の梅の名所に因んだ庚嶺坂。浄瑠璃坂の仇討は、赤穂浪士が吉良邸に討ち入る30年前のことでした。この事件では仇討に成功した主人公を召しかかえた藩主がいましたが、忠臣蔵ではそうはいきませんでした。
庚嶺坂の上にある若宮八幡宮は、この神社の御神楽の音が坂まで聞こえたからだという、神楽坂の由来にもなっています。

神楽坂はかって花街として栄えました。今もお洒落な店や飲食店が立ち並び、若者でにぎわっています。
坂の上にある善国寺は商売や技芸の神様、毘沙門天として知られ、江戸時代から参拝客がたえません。毘沙門天は寅年のとらの刻生まれということから門前にいるのは狛犬ならぬ狛虎です。

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善国寺の狛虎(!)
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神蔵坂に4軒残る料亭のひとつ「うを徳」

お昼は路地の「鳥茶屋」で親子御膳を。江戸風のしっかりした味付けは、関西風とは言っているものの、これはくだらない味かなあと思いました。

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鳥茶屋の親子御前

「くだらない」は決して差別用語ではありません。江戸時代、上方から荷揚げされる品々は下り物と呼ばれ、対する江戸産の品々はくだらない物でした。初期にはくだらない物はその名の通り、品質は劣っていましたが、江戸の人口がふえるにつれて made in Edoも腕を磨き、下らない物は次第に上方の下り物を凌駕していくことになったのです。

JR中央線の飯田橋駅は長かった改修工事を終え、すっかり明るくなっていました。
ここには牛込門がありました。牛込の名はかって牛の牧場があったことに由来しています。台地の名前も牛込台地。明治27年に御門跡に牛込駅ができ、関東大震災後に飯田橋駅になったのです。
駅に隣接する飯田橋セントラルプラザ(通称ラムラ)の1階には、千代田区と新宿区の境をしめすプレートが床に埋めこまれています。
そして、現在のJR中央線と総武線は外堀の土塁の上に敷かれているのです。

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ラムラのステンドグラスは今の若者には珍しいとあって人気らしい。
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新宿区と中央区の区境のプレート

水戸徳川家の上屋敷は外堀の北側にありました。明治時代にはそのほとんどが陸軍の兵器工場である東京砲兵工廠になりました。関東大震災で砲兵工廠は小倉に移転、その跡地は現在、東京ドームやホテルになっています。

その上屋敷の庭園が今の小石川後楽園です。東京ドームに隣接する、東京で最も歴史のある都立庭園です。上屋敷が兵器工場になるにあたり、工場建設に係わったフランス人ジョルジュ・ド・ボーンが時の宰相、山形有朋に保存を強く訴えたことにより、現在まで庭園が残ることになったのでした。この小石川後楽園の塀の石垣には江戸城外堀の石垣の石が使われています。

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小石川後楽園の塀には外堀の石が使われている。

水戸藩初代藩主・徳川頼房が作庭家・徳大寺左兵衛に命じて築いた庭園を、嫡子の光圀が改修、明の遺臣朱舜水(朱之瑜)の選名によって「後楽園」と命名して完成させました。名前の由来は中国の「岳陽楼記」の「天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から名づけられたといわれています。光圀の中国趣味は随所に現われています。コロナ禍で残念ながら休園していましたが、隣接する遊歩道を歩いて庭園を偲びました。

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小石川後楽園横の緑道公園

水戸徳川家の門の正面には小石川門がありました。そのあと地に架けられている鉄橋は1904年製のドイツ、ハーコート社のものです。
明治時代、鉄道建設が始まった日本では、土木技術を諸外国にたよっており、ハーコートは甲武鉄道にも採用されました。会社はなくなりましたが、技術は100年以上たった今でも現役です。旧甲武鉄道の昌平橋や万世橋に同じものがあるということです。
土木技術を頼られた当時のお雇い外国人技術者たちは、競って自国の技術を導入しました。面白いところでは私の郷里、愛媛県の別子銅山(今、マイイトピア別子)にもハーコート社の鉄橋が残っています。

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水道橋駅近くのハーコート社聖の鉄橋

この地点で、日本橋川と神田川が合流しています。先日の日本橋川クルーズでは川面から合流点を見ましたが、今度は橋の上から眺めることができました。橋の名前は三崎橋。おなじみのゴミ運搬船も橋の上から撮ったほうがきれいに撮れました。

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ゴミ運搬船と曳舟

ここまでくれば終点の水道橋駅はすぐそばです。
駅は明治37年に甲武鉄道がお茶の水まで延長したときに、江戸城外堀の土塁の上にできました。

今回の旅の終わりは水道橋駅そばの三崎稲荷神社。
2代将軍秀忠の時代、神田川の改修・整備を命じられたのは伊達藩でしたが、そのおり、藩主伊達綱村は工事の無事を三崎神社に祈願しました。無事完成したのちに綱村は新たに土地を寄進し社殿を新築しました。その場所が外堀の土塁の上にあったことから、明治37年の水道橋駅建設あたり、現在の場所に移転したのでした。旅の安全を祈ったり、無事の帰還を報告するにぴったりではありませんか。

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三崎稲荷神社

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雑記帳2021-4-15 [代表・玲子の雑記帳]

2021-4-15
◆妙義神社の円空仏と名水が流れる織田家ゆかりの城下町甘楽を歩く

1682年岐阜羽島に生まれた円空は、幼くして長良川の洪水で母を亡くし、天涯孤独になります。僧を志して白山に修行に入り、修行の一つとして仏像を彫り始めました。
貧困や病気に苦しむ人々のよすがに仏像を分け与えることにしたのです。
36歳の時、12万体の仏像を発願、最後の1体は飛騨・高山の神社にあるそうです。
ナタでわり、ノミのあとも残る素朴な仏像は、琵琶湖一帯から北海道まで、広く残っていますが、現在発見されているのは約5300体。寺の秘仏ではなく、手にとって撫でて、一緒に風呂に入って、子どもにすれば友だちのような円空仏は使い古されて薪になったり、行方が分からなくなったりするのは当然かもしれません。その円空仏が今、見直されているというのです。

全国いたるところ、法隆寺にさえあるという円空仏も、琵琶湖より西にはないということから、四国出身の私には馴染みはありませんでした。亡くなった夫は美濃の人だったので円空は身近な存在だったようです。
個人では見られない円空の不動明王が妙義神社にあるときいて出かけました。

富岡市にある妙義神社の主祭神は日本武尊、豊受大神、菅原道真、桑蚕の神様でもあります。
妙義山の主峰白雲山の東山麓に位置し、創建は約1500年前とわれています。元の名「波己曽(はこそ)神社」は「イハコソ神社」に通じ、御神体は妙義の岩山だった事がわかります。初期の神祇信仰の対象が岩であることはよく知られるようになりました。
本社は全国的にも珍しい黒漆権現造り。唐門、総門と並んで国の重要文化財になっています。関東一と称される総門の高さは12m。1683年建。上州の東照宮と言われるのもむべなるかなです。

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関東一の高さを誇る総門
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波己曽社
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黒漆塗の本殿

神仏習合の時代、神社の境内に僧房がおかれ、別当寺と呼ばれました。妙義神社の別当、石塔寺は寛永寺の末寺でした。寛永寺の住職は代々天皇家に縁の宮様が務めており、戊辰戦争では江戸を逃れた輪王寺宮の隠居所となりました。現在の宝物殿は宮様御殿と呼ばれ、御座所の配置や城のような石垣、借景庭園など見どころは沢山あります。金具類にはすべて菊の御紋がはいっていて、格式の高さを誇っています。そこに円空の不動明王はありました。

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宝物殿(宮様御殿)
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意外に小さかった円空の不動明王

富岡市にほど近い甘楽町は織田家ゆかりの城下町です。
鎌倉時代からこの地を治めた小幡氏は、南北朝時代には上杉氏の重鎮として活躍しました。
秀吉の小田原攻めで北条氏が滅ぶと甘楽を家康に明け渡して信州にのがれました。
その後の小幡城にはいったのが、信長の次男、信雄でした。城は当時、陣屋と呼ばれていました。

信雄は、本能寺で信長と長男信忠が討たれるも山崎合戦には参戦しませんでした。このため、信長のあとに秀吉がかついだ信忠の嫡男・三坊師の後見人にとどまります。
賤ケ岳の合戦で三男信孝が柴田側に付いたのに対し、信雄は秀吉側につきます。
その後も小田原攻め、関ヶ原、大阪の陣など戦のたびに、家康についたり西軍についたり、はたまた東軍についたりと、のらりくらり。結局、大和宇陀郡と上野甘楽郡の、合わせて5万石の領主となり、4男信良に甘楽を譲って宇陀に隠居、1630年に73歳で没しています。あまり知られていませんが、長女の小姫(おとめ)は幼少の秀忠の正室でした。死別だったかどうかは定かではなく、成人した秀忠の正室はご存知、豪姫です。
のらりくらりは日和見のせいか、言われるように無能だったのか。織田氏が明治になるまで生きのびたのは無能ではなく、失敗から先を見る智恵があったのかもしれません。

その小幡藩は信良が藩主となって、7代にわたり甘楽を治めましたが、内紛(明和事件)で改易にあい、織田氏が出羽高畠に移封した後には松平氏が入りました。そのころは陣屋は城になっていたということです。

富岡と甘楽を流れる雄川から取水した水路が、小幡城下に全長20キロにわたってめぐらされていました。雄川堰は、日本の名水百選にも選ばれています。
用水は藩政時代以前にすでに「古雄川堰」が存在していたと推考されています。現存する用水は1865年(慶応元年)、7か月と250人の労力で造られ、当時の高い土木技術をしめしています。
豊かな水は感慨用水や生活用水、防火用水に利用され、両脇の208戸の家に洗い場がもうけられていました。
水を生かしたまちづくりは今に続き、各戸につながる洗い場では生活用具だけでなく、養蚕器具の洗浄にも使われました。現在でも日常的な農作物の食材洗い場として利用されています。

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名水100選にも選ばれた雄川堰 幅2mもある
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雄川堰に沿って裕福な養蚕農家群の街並みが続く

養蚕最盛期を象徴する建物が歴史民族資料館です。
煉瓦造りの、元繭倉庫として使われた建物は、町の重要文化財になっています。
富岡製糸場の煉瓦は甘楽町で焼かれました。
資料館の2階に円空仏が3体ありました。

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かっては繭倉庫でもあった歴史民俗資料館

1Fには富岡製糸場絵馬や養蚕に使われていた道具類が展示されています。
2Fには織田家ゆかりの品々。小幡家の赤備具足の展示をみることができます。赤備といえば武勇のぢ名詞、彦根の井伊家、信州の真田家が有名ですが、北条氏が小幡家の武勇を認めていたことがうかがえました。

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小幡氏の赤備具足
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3体の円空仏

小幡の陣屋に入城した織田氏が造った庭園が「楽山園」です。
戦国時代から平和な時代に移る過渡期の大名庭園と思われます。雄川堰の水を引いて造られました。池泉回遊様式は京都の桂離宮と同じ特色だといわれています。
中央に広い池を堀り、48の大石を配して、築山に四阿を建て、周辺の山々の借景をとりいれて庭園美を盛り上げる造り方は当時の大名の趣向をよく表しています。

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楽山園
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築山の四阿

織田家は武勇の家柄だとばかり思われていますが、有楽斎に代表されるように、実は、茶の湯に通じた文化人の側面があることを思い出さなくてはなりません。
楽山園の名は「論語」の「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」からとったといわれています。複数の茶屋があることからも「織田氏と茶事」の関係がうかがえます。信良は大叔父の有楽斎に師事していました。

楽山園は明治以降、畑同然になっていたのを近年復元し、園内には拾九間長屋も復元されています。
近辺には今も人の住む武家屋敷が連なります。城下で上級武士と下級武士が出逢ったとき、顔をあわさなくてすむように作られた「食い違い廓」も残されていました。

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復元された拾九軒長屋
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大名屋敷の石垣

元和元年(1615年)から織田氏の所領となって以来152年、初代信雄から七代信富に至る7代の墓が崇福寺の旧境内にあります。風化を防ぐため墓石はそれぞれ屋根のある囲いに納まっていますが、かっては7基の五輪の塔が並ぶ姿が見られたそうです。
4代目信久の時に織田家の菩提寺になりました。

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遠景に7代の墓石が並ぶ
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信良の五輪の塔が中にある

織田家の最初の菩提寺は菩提寺です。
有楽斎に茶道を習った信良が寄進した茶釜を見せてもらいました。
200本の桜、1500株のアジサイ、300本の紅葉を有して、東国花の寺とよばれています。
鎌倉時代に天台宗の寺として創建され、室町時代からは曹洞宗になりました。建物は230年前のものです。

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花の寺・宝積寺
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親良寄進(?)の茶釜

旅の最後は雄川堰取水口です。豊かな水量は今も絶えることがないようでした。

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雄川堰取水口





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雑記帳2021-4-1 [代表・玲子の雑記帳]

2020-4-1
緊急事態宣言解除の予報が出た週末、久々の街歩きにでかけたのは日本橋川クルーズ。

例年になく早い桜の開花でしたが、まだ満開には遠く、川風も冷たい週末のことでした。
乗船場は日本橋の南東詰にありました。ここは江戸時代、近くの小伝馬町に収容されていた罪人の晒し場でした。

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乗船所 奥に見えるのは野村證券のビル

日本橋川の9割は首都高速の下を流れています。
40年前の東京オリンピックに合わせて用地買収の不要な川の上に高速道路を作ったためでした。なんとも無粋な景観だと嘆く声も聞かれましたが、高速道路のなかった時代を知る人は少なくなりました。

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日本橋のアーチ 川の上を首都高速が走る

それでも、江戸のまちを川から眺めるクルーズでは、地上を歩いているときには見えないものが見えてきます。先ずアーチの橋梁にある獅子のレリーフ。獅子は東京を守護する、日本橋のシンボルです。

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橋にかかる獅子のレリーフ

乗船場を出てまもなく見えてくるのが一石橋です。以前雑記帳でも紹介しましたが、日本銀行の前にある一石橋は、江戸時代、迷子のお尋ね場所でもありました。金座や商店、魚河岸の並ぶ繁華街はさぞかし迷子も多かったのでしょう。この橋の再建を援助したのが2軒の後藤家だったので、「五斗+五斗」で「一石」だともじったのが由来です。

大正12年(1923)に起きた関東大震災後の復興事業では東京市内の川に架かる橋の再建も大きな課題でした。日本橋川に架かる橋には昭和に再建された橋も多い中で、復興橋梁と呼ばれる橋がいくつか残っています。1925年から32年に架けられたものです。

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復興橋梁にかかる「復興局」の印

常盤橋御門のあった常盤橋公園には澁澤栄一の像が立っています。奥州街道につながる重要な地点として設けられた常盤橋御門でしたが、明治維新後にとり壊されるところを、保存に尽力したのが澁澤だったのです。

鎌倉橋は、江戸城の石垣の石を伊豆から運んで荷揚げした場所、その舟が鎌倉を通って来たからというのが名の由来です。橋には空襲の跡が残っています。
当時からにぎわった橋の周辺は今、再開発された大手町。コロナ前の昼間の人口は23万人を数えたそうです。テレワークが普及した現在はどれくらいなのでしょうか。

歴代将軍が上野寛永寺へ参詣する時に渡ったで御成橋と呼ばれた神田橋やアールデコの錦橋を過ぎれば一ツ橋です。
錦橋辺りから続く石垣の雑な摘み方は後世に修復された証、当時のまま残っている一ツ橋の石垣は、石工の心意気を見せて、隙間のない見事な積み方です。

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石垣が続く

靖国神社につづく靖国通りにかかるので幅も広い俎板橋。神田川開削の折に埋め立てられたため堀がここで終わっていたというので堀留橋(埋め立て地は1903年に再び開削されて日本橋川と神田川はつながりました)。次に来るのがあいあい橋です。「あいあい」の名は飯田橋の「IIDA」からとったのだそうです。

あいあい橋を過ぎて、JR総武線中央線が走る鉄道橋が見える三崎橋で日本橋川は神田川と合流します。運よくゴミ運搬船にであいました。自力では動けない運搬船は毎日、ひき舟に曳航されて中央防波堤まで通っています。くらしに欠かせない仕事を人知れず黙々とこなす運搬船(と乗組員)に思わず拍手が起きました。

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ゴミ運搬船 カラフルな曳舟が後方に見える。

神田川にかかる小石川橋から水道橋一帯は水戸徳川家の領地でした。
水道橋は神田川の掘削と同時に架けられた橋で、本橋の下流に神田上水掛樋があったことに由来しています。掛樋は江戸時代に作られた上水道で、神田上水の水を江戸市中に通水するための水道管の橋でした。
水道橋を過ぎればお茶の水。崖すれすれにあるようなJRお茶の水駅のホームを川から見上げれば、正にここはその名の通りお茶の水渓谷だということがよくわかります。2代将軍の時代、神田川の原型を作ったのは仙台藩でした。幕府には東北の雄藩の力をそぐ狙いもあったのでしょう。重機のない時代、台地を削り水路を掘る工事はすべて手掘りでした。

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お茶の水渓谷 右手前方に見えるのがお茶の水駅ホーム

聖橋は御茶ノ水駅のホームから一番美しく見えるようにデザインされているそうです。、神田川両岸の湯島聖堂とニコライ堂の二つの聖堂をむすぶことから名付けられました。アーチ型の美しい橋はライトアップもされています。

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聖橋

昇平橋、万世橋にはかって、それぞれ、中央本線の駅がありました。橋に因む名前の駅は廃駅になりましたが、どちらも東京駅よりも古く、駅舎は都内最古の鉄道駅遺構です。煉瓦造りの重厚な昌平橋駅は今はカジュアルな飲食店が入るビルになり、万世橋駅はホームが残されてカフェやショップの並ぶ商業施設になっています。

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万世橋駅あと

舟が隅田川にちかづく頃見えてくる柳森神社は太田道灌が江戸の鬼門よけに設けた神社です。椙森神社、烏森神社と並んで江戸三森の一社と呼ばれました。
浅草橋の歴史は古く、1605年頃にはすでに存在していました。

上方から来た荷は江戸湾から隅田川(大川)に入り、いくつもの水路を通って荷揚げされました。荷揚げ場だった柳橋は神田川のほぼ入り口にあります。賑わいは柳橋芸者の名に残り、今でも船宿が残っています。

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柳橋には今も船宿が残り、屋形船が並ぶ。

柳橋から隅田川に入ると、広い川幅といきなりの波。カメラをもってうっかり立ち上がれないほどの揺れに驚きました。隅田川が海につながっていること、江戸の人々が大川と呼んだことが実感できるのでした。

その隅田川は全長23,5キロ。一部ではありますが、両国場や隅田川大橋、清洲橋、名だたる橋をくぐりました。

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隅田川大橋

両国橋は武蔵と上総の2つの国にまたがる橋です。千住大橋以外に橋のなかった隅田川に。明暦の大火で大勢の死者を出したことから、2番目の橋として架けられました。
隅田川大橋からはスカイツリーの絶景が見られます。

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隅田川大橋から振り返って見た清洲橋とスカイツリー

永代橋(1609年頃)から佃島を眺めれば、タワーマンションの林立する光景はまさに東京のマンハッタン。佃は徳川家康が江戸の町づくりを進める中で、摂津の佃から漁師を呼んで住まわせた地として知られています。佃煮発症の地です。

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東京のマンハッタン・佃島

神田川、隅田川を渡ってきた舟が豊海橋から日本橋川に入ると、日本橋袂の船着き場までは残りもわずかです。

湊橋のそばにたつミツカンは、江戸時代から此の地にありました。
ゆりかもめの群れとぶ岸辺を見ながらさらにすすむと、萱場橋や鎧橋。萱場橋はカヤの荷揚げをしたことから名づけられました。鎧橋のあたりは兜町です。鎧に兜とは言いえて妙ですね。そして、最後の橋が江戸橋でした。

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鎧橋の傍には澁澤栄一の邸宅だった日証館がたつ。

明治44年に架けられた石造りの日本橋は、今年、110歳になります。
江戸時代には度重なる火事や水害で15年に一度はかけ替えられたという日本橋でしたが、石造りになってからは長寿の橋になりました。

橋の両側にある麒麟と獅子の像の作者渡辺長男(おさお)は彫刻家・朝倉文雄の長兄です。
獅子は東京を守護し、麒麟は繁栄を意味すると言われています。獅子は東京都の紋章を抱えています。

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江戸時代、日本橋は国内五街道の起点だったことから、橋の中央に「日本国道路元票」が埋め込まれています。首都高速の高架橋上にも道路元標地点碑のモニュメントがあります。

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この下に道路原票がある安愛は高速道路にもかあけられている。

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「道路原票」の字は佐藤栄作なら「日本橋」の字は徳川慶喜。

橋北詰には魚河岸がありました。一日に千両の金が飛び交うといわれた魚河岸は、大正12年(1923)関東大震災で築地に移るまで、300年間、江戸・東京の庶民の台所でした。
魚河岸記念碑の反対側には高札場の跡。明治10年に廃止されるまで、撰銭や切支丹、火付けや駄賃などの一般法令を周知させるために江戸市中に幕府が設けた高札の一つです。

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日本橋高札場の跡

およそ2時間の船旅はなかなかに充実したたものでした。お昼は高札場あとのそばの「イチノイチノ」で鯛飯をいただきました。




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雑記帳2021-3-15 [代表・玲子の雑記帳]

2021-3-15
◆水の郷、日野を歩く

立川に隣接する日野市は水の豊かなまちだと聞いていました。
多摩川と浅川の二つの川に囲まれて、台地や丘陵地の崖線に湧水を多くもち、用水路が縦横に流れる田園風景を歩いてみました。

JR中央線の豊田駅は不思議なかたちをしています。
改札を出て階段をのぼり、北の出口に出ると、そこが台地の上だという事がわかります。駅前広場が台地の上にあるので駅舎はまったく見えない、地下鉄でもないのに、こんな駅はほかにないくらいめずらしい地形なのだそうです。

駅から北東方向に細長くつづく約1.7キロの段丘崖は、東京都の「東豊田緑地保全地域」に指定されています。崖下から染み出る湧水を活用して、黒川清流公園は昭和60年頃に整備されました。
冬は雨が降らないので湧水の量も減っているとはいうものの、池にはコイの姿も見られます。

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なだらかな段丘崖がつづく東豊田緑地保全地域
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池には鯉の姿も

緑地の中ほどにある施設は、その名も「カワセミハウス」。日野市の豊かな環境情報を発信する場です。同時に市はここが市民の新たなコミュニティになるのを期待しているのだそうです。カワセミは日野市の鳥なのです。
ちなみに都内には50の緑地保全地域があり、立川にも矢川緑地が指定されています。

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カワセミハウス

黒川清流公園からいったん駅にもどり、駅の南側にでます。そこから500mほどの所に市立中央図書館があります。図書館の窓越しに見えるのは八幡神社。実は図書館は八幡神社の敷地にたっているのです。
神社の鳥居は台地の下です。湧きだす水量は市内でも2番目だということで、泉には誰が植えたのか、ワサビがそだっていました。かっては湧水のいたるところに見られたワサビでしたが、水温が高くなった今ではほとんど見られなくなったということです。

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八幡神社の社
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神社の鳥居は崖下にある。崖上の建物は中央図書館
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崖下の湧水

八幡神社下の湧水は東京の名湧水57選にも選ばれています。
湧水の流れのそばにたつのはNBC.メッシュテック、旧日本篩絹の工場です。
篩絹とは昭和初期に開発された生活用・産業用の絹の篩(ふるい)です。この地で製粉用篩絹の製織から出発した会社は今、その技術を生かしたグローバル企業になっています。そして、篩絹の製織には豊富な水が必要だったのです。

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NBCの本社工場

流れはやがて浅川から取水された豊田用水に注ぎます。
幅2メートルの石積み護岸がつづく用水は、段丘沿いをゆったりと流れています。
今はなくなりましたが、かって周辺には広大な水田がひろがっていました。四季折々の植物や野鳥とともに、コイヤハヤの泳ぐ水路はまちに溶け込み、人々の心に潤いをもたらしました。

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幅2メートルの石積みの用水路
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用水路にはサギやカモも観察できる。

用水沿いに、歴史を偲ばせる黒塀や蔵、欅の大木のある家を見つけました。明治の終わりごろ、豊田の耕地整理や駅の誘致に尽力したY邸です。豊富な地下水を利用してビールを作っていた時期もあったそうです。残したい風景ですが、残念なことに、区画整理によって、家を取り囲んでいた生垣や浅川の石を使った石積みの塀も取り壊されたのだそうです。

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Y邸

市内は今、あちこちで区画整理がすすんでいます。
市民生活の安全を優先すれば、新しいまち並みには2メートルもの水路はもはや望めず、風景もかわっていかざるをえないのでしょうか。

自宅裏の崖下から出る湧水で、野菜などの洗いものに利用している家がありました。
昔はもっと水量も多く、飲み水にも利用されていたのだそうです。洗い場は「カワド」と呼ばれていました。

豊田用水から浅川へむかう堀之内緑道沿いに日枝神社があります。
境内のムクノキは樹齢300年をこえるといわれています。

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日枝神社本殿の裏にある樹齢300年を超えるムクノキ

かっては汚染されていた浅川は、下水処理場が整備されてからは水もきれいになり、生物の住みやすい環境になりました。アユがのぼり、メダカやコイのほか、10種類以上の川魚が住んでいます。歩いたこの日、カワセミこそ見なかったものの、コサギやチュウサギ、カモの姿を見ることができました。
浅川からは豊田用水の他にも、日野用水、上田用水など、何本もの用水がとりこまれて市内を縦横にながれているのです。

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向島用水の取水口

中でも向島用水は、かってはコンクリート護岸でしたが、素掘りの親水路として再整備され、市民の憩いの場になりました。
500mの遊歩道沿いには水車やあずまやがあり、子どもたちが水遊びや魚とりもできるように工夫されています
向島水車は臼が2基ある本格的な水車です。これを活用しようと、有志が集まって、精米や発電の実験を公開しながら、昔の智恵を伝える活動を始めました。

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親水路に変わった向島用水
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遊歩道の周辺は向島緑地
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向島水車

もともと農業用に造られた用水は活用されなければやがてきえていく。
水車活用プロジェクトをを立ち上げた佐藤美千代さんは、向島用水がそばを流れる畑を借りて「せせらぎ農園」を開きました。 近隣約200世帯の生ごみを回収して堆肥化し、無農薬・無化学疲労で野菜や花を栽培する自然循環型のコミュニテイガーデンです。2008年のことででした。2015年には田んぼも復活させて稲づくりも開始しました。

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せせらぎ農園入口の看板

農園は市の委託金170万円で運営され、週3日の農作業日には誰でも気軽に参加することができる。決まりはなにもないのだそうです。参加者はお礼に作物をもらって帰ります。
近隣の保育園や幼稚園児の農体験の場にもなっていて、異なる世代が集える場、地域に開かれた農園として親しまれています。
堆肥は直接畑にまいて土と混ぜた生ごみをシートで覆って発酵させるのがミソ。手間もかからず、好気性のバクテリアがよく働いてくれるそうです。

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発酵している土は暖かい

残念なことに、せせらぎ農園も区画整理の対象になって、13年続いた農園は、来年3月には閉園になるそうです。それでも佐藤さんは、場所を変えても活動を止めるわけではないと元気でした。
日野市は「水辺のある風景 50選」を策定、「水の郷、日野」のまちづくりに活かそうとしています。   

  

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雑記帳2021-3-1 [代表・玲子の雑記帳]

2021-3-1
◆今年は近場で雛祭り。

立川には市指定文化財の古民家があります。川越道に接する緑地にある古民家園には、江戸時代に組頭を務めた小林家の住宅と須崎家の内蔵が移築復元されています。
麦刈や脱穀など昔の農作業の体験学習や、毎月のお茶会などの市民参加の年中行事も、コロナの昨年からはすべてとりやめになっていましたが、令和3年の今年は桃の節句が公開されました。

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ナカノマに飾られていた八段飾り(上部は神棚)
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オカッテに飾られていた内裏雛

小林家は江戸時代、砂川九番組の組頭を務めていました。住宅の母屋は、六間型(むつまがた)と呼ばれ、台所をのぞいて6部屋(ザシキ・ナカノマ・トバノオク・ナンド゙・オカッテ)で構成されています。母屋北西の「オク」と呼ばれる座敷は、床の間・違い棚・付書院が配置され、当時の武家屋敷に匹敵するほどの高い格式をもっていました。

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建築されたのは嘉永5年(1849)とのことですが、この年は徳川幕府12代将軍徳川家慶の時代で、ペリーが浦和に来航する1年前にあたります。江戸後期の優れた建築技術と材料が使われています。
平屋に見える住宅は実は3階建てで、2階はここで働いていた男衆と女衆の部屋、3回は物置で、江戸末期の富裕な上層農家の生活様式を今に伝えています。

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砂川八番組の組頭を務めた須崎家の内蔵は、江戸時代末期から明治時代初期頃に建てられた、数少ない木造3階建ての土蔵です。須崎家はかっては質屋を営み、蔵は質蔵として利用されていたものです。
この時代、砂川村は、養蚕業、とりわけ桑苗の特産地として栄えました。以前にも雑記帳で紹介しましたが、砂川の桑苗は全国の養蚕農家から取引されていた時期もありました。蔵はその時代の盛んな商業活動を象徴する建物です。もとは内蔵でしたが、移築復元の際に、外蔵になりました。

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竹林の向うに見える蔵

古民家園に収納されているもう一つは砂川十番組の大幟(のぼり)です。
幟は神社の祭礼時に参道や氏子区域にたてられました。今から170年前に制作された幟は長さ14.6メートル、幅2.2m。近隣のものに比べて大変大きなものだったようです。今なら機械の力を借りなければたてられないほどの大きな棹と幟を、どうやって作り、たてたのか、昔の人の智恵と心意気をおしはかるだけですが、当時の地域共同体の社会経済活動を知る貴重な資料です。
現在、立てた幟はめったに見ることはできませんが、昭和記念公園のこもれびの里では砂川5番組の幟のレプリカを毎年春と秋に1種間ずつ掲揚しているそうです。

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幟が収納されている

◆歴史民俗資料館でも雛祭り。
この時期、古民家園の本館にあたる歴史民族資料館でもロビーで市民から寄付された雛飾りを公開しています。
こちらも大正時代以降のもの。御殿びなは昭和30年代に流行したそうです。

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立川市歴史民俗資料館
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御殿びな
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2月の市の広報で羽衣町の向郷(むかいごう)遺跡が紹介されました。
JR南武線西国立駅周辺に広がる26,000㎡もの大遺跡で、多摩川に面する段丘の上にありました。南には湧水を集めた矢川が流れており、日当たりの良い段丘は古代人にとっても快適な住宅地だったようです。
歴史民族資料館では小規模ながら、遺跡の出土品を常設展示しています。市内には他にも二十か所に及ぶ古代・縄文時代や奈良平安時代の遺跡のあることがわかりました。

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向郷遺跡の墓穴からは縄文土器や石器の他に、コハク製の垂飾りが出土しています。コハクは千葉県の銚子や岩手県の久慈が主な産出地でしたから、縄文時代の人々の往来を思い起こさせて興味をひきます。
そのほか、縄文の住居跡だけでなく、奈良・平安時代の住居跡もみつかった遺跡もある一方、下大和田遺跡の掘建柱建物は小古代の役所跡と推測されています。

◆日野宿本陣の雛祭り。
古民家と歴史民俗資料館をまわって、隣の日野市まで足を延ばしました。日野宿本陣でも恒例の雛が飾られているのです。

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床の間に飾られているのは、日野市の旧家、有山家の古今雛です。明治時代のものだということです。カラフルな装束をまとい、歌舞伎役者のような顔立ちの、江戸生まれの古今雛は、上方の雛より人気があり、今のお雛さまの原型になりました。
雛段の前には雛祭りのルーツである流し雛が再現されていました。                    
会場には手作りのつるし雛も随所に飾られています。大根は毒消し、兎は神様のつかい、柿は長寿、ヒョウタンは無病息災など、つるし飾りもそれぞれ意味があるそうですが、建物全体を使っての雛飾りはなかなか見ごたえのあるものでした。

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明治の古今雛
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米粒で流しびなを再現
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各地の土雛もそろっています

日野宿は江戸時代、規模の大きい宿場ではなかったものの、多摩川の渡し場を管理する、甲州街道の重要拠点でした。そのため、幕府の支配は緩やかで、2人の名主と配下の組頭による農民自治の伝統が長くつづきました。本陣には江戸末期、名主の佐藤彦五郎の開いた佐藤道場があり、新選組の隊士たちが稽古に励んだ事は広く知られています。

彦五郎の日記によると、既に京都で活動していた土方俊三や近藤勇がこの建物を訪れたことが記録されています。京都から所用で江戸へ戻る土方は何度か日野宿に足を運んで義兄と語り合いました。鳥羽伏見で敗れて江戸にもどった近藤勇や土方俊三が、甲陽鎮部隊として甲州へ向かう途中でこの本陣で休憩したという建物を見ようと、訪れる新選組ファンの若者は多いようです。

現存する本陣は、嘉永2年の火災で焼失した後に再建されたもので、築150年余。都内に残る、唯一の木造本陣として、市指定の有形文化財になっています。
有山家は先の日野宿の名主佐藤彦五郎の四男彦吉の養子先です。明治36年の大火で焼失したため、本陣の母屋の一部が有山家に曳屋されて、今に至っているということです。

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◆2月21日、関千枝子さんが亡くなりました。
『核なき世界をめざして』に連載中だった関千枝子さんが亡くなりました。広島で被爆し亡くなった女学校の同級生を訪ねて書き残すことが自分の使命だと、生涯、核のない世界を呼びかけました。『知の木々舎』には、『県立広島第二高女二年西組』以来、絶えることなく原稿を届けてくださいました。同じ被爆者だった作家、中山士朗さんとの往復書簡はまとまると本になり、西田書店から出版されました。その落穂ひろいのような『はるかなる呼び声』が2月15日号で最後になりました。『知の木々舎』にとっても、創刊以来大切にしてきたこのコーナーを守りたいと思っているのですが・・・。ご冥福をお祈りいたします。合掌。

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雑記帳2021-2-15 [代表・玲子の雑記帳]

2021-2-15
◆「感染症は農耕社会を選んだ人類の宿命」?

オンラインセミナー「パンデミックを生きる指針」に参加しました。
講師の京都大学准教授の藤原辰史さんは、『浜田山通信』で紹介された斎藤幸平さんとならんで、気鋭の若手研究家。ふたりとも関西在住で、対談もしています。パンデミックは今が初めてではなく、それが起きた時代背景を振り返ることは今の私たちが今後どういう社会を望むのかの指針になると思います。

先ず指摘されたのは、感染症は農耕社会を選んだ人類の宿命だということでした。10万規模の都市が形成されることで、感染症は多発することになります。鼠が媒体となるペストの流行は何度もおきましたが、最たるものはヨーロッパ全土を覆った14世紀のペストでした。あまり知られていませんが、その時にもユダヤ人の虐殺がおきています。
その後の大航海時代、コロンブスの新大陸発見はヨーロッパの病原菌を新大陸に運び、植民地政策と相まって感染症はグローバル化していきました。

ちょうど100年前のスペイン風邪はまだ記憶に新しく、その時代の背景や社会の反応を見ると、なんだか身につまされます。
時は第一次世界大戦末期。兵士は世界中から参戦していました。そこでインフルエンザに感染したアメリカ兵が母国に持ち帰ることによって感染が爆発的に広がりました。感染者数は18億人、死者は4000万人から1億人にも上りました。(新型コロナでは感染者数は1月4日現在で77億人、死者は184.3万人。)運び屋が当時は帰還兵だったこと、今はツーリストですから、感染のグローバルな実態がわかるというものです。

感染症は病気の流行だけですむわけではなく、複合禍をともないます。
戦争とスペイン風邪は世界に飢餓や貧困をもたらしました。(第一次大戦は食料戦争だとさえ言われています。)コロナでも同じように貧困が指摘され、周辺では地震や津波、水害などの自然災害が起きています。そして、今また、世界の食糧危機が叫ばれているのです。
また、リスクにさらされやすい対象が、コロナの今は高齢者に対し、当時は元気な若者だったという点こそ違うものの、低所得者、清掃業従事者、ケア労働従事者だった点は今と変わりません。
アメリカではフェイクニュースがはびこり、マスク反対や精神主義が結構広く支持されました。また、アフリカなどの植民地でのずさんな管理ものちに明らかになりました。

遠く離れた日本にもスペイン風邪はやってきました。国内では米騒動が起きた年でした。
当時日本も台湾、挑戦、中国関東州、樺太に植民地をもっていました。植民地のインフルエンザの死亡率は、内地の8%に対し、13~35%というきわめて高い数字を示しています。
残された個人の日記や新聞記事から、右往左往する企業や人々の姿が昔も今も変わらないということがうかびあがってきます。

スペイン風邪から約半世紀後の1970年代に生まれたのが新自由主義の考え方です。
緊縮財政の強制、競争原理の徹底、生命領域(労働力と自然)の商品化をうたった、サッチャー、レーガン、竹中平蔵氏らに代表されるものです。
資本主義の利潤が増えないことから、新たな商売を求めて「規制」を突破しようとしたのでしたが、その結果、気候温暖化とともに起きた様々な問題に直面しています。
日本でも、小さな政府を目指して、中曽根内閣の民営化に始まる構造改革は着々とすすめられてきました。菅内閣の下では、いまも中小企業の再編やベイシックインカムがとりざたされています。政策はコロナ禍に対応できるのでしょうか。

新型コロナウイルスという「抜き打ちテスト」で、様々な問題点が明らかになりました。
1. 大規模自然破壊とそれに由来する気候変動
2. 非正規雇用労働形態の脆弱さ
3 男性中心社会の暴力性
4. 都市と大企業一極集中の脆弱さ
これらはすべて新自由主義の限界を示しているではありませんか。
興味深いことに、藤原さんはさらに言葉や文化の側面もあげていました。
5 言葉の破壊(詭弁に矛盾、「総合的、俯瞰的」の多用、など)
6 人文学・文化の軽視(政治と経済に集約された社会では歴史と批判が希薄)

一方、コロナと期を一にして鳥インフルエンザが猛威をふるっています。
鶏は摂取したエネルギーを肉に持って行きやすいように品種改良され、ゲージに詰め込まれ、免疫力が落ちているので、その結果インフルエンザにかかりやすくなり、抗生物質が与えられ、抗生物質に耐性をもつもっと強烈なウイル スに突然変異する可能性が出てきている 。コロナでも変異種が次々見つかっていますが、鳥インフルの変異にどれほど危機感を抱けているのでしょうか。

藤原さんは. 戦争の兵士と産業の「兵士」の類似的構造や、雇用者と被雇用者の搾取の関係、人間と自然の搾取の関係は、本来同根ではないか、といいます。
そして、 労働に関心をもつ人と、エコロジーに関心をもつ人は、結びつきが弱いけれども、衣食住、特に食べものが蝶番になると見ています。

ファストフードに席巻された食の根源をとらえなおす3つの視点として、藤原さんは植物の思想、分解の思想、縁食の思想を揚げました。①植物の知性に学べ(植物の根はすさまじいほどの知覚を持っているのです!)、②微生物の力を借りたエネルギー革命、③孤食と共食のあいだの縁食(えんしょく)の勧め、です。縁食の例にとりあげたのは、地魚や地場野菜を利用した今治市の学校給食でした。

小規模の共同購入、地産地消をすすめる学校給食、子ども食堂・・・、新自由主義に取り込まれることなく食を取り戻す活動は、今、地道ながら、様々なところに広がっています。
食の根源をとらえなおすことは、食量を他国に頼ることのない、持続可能な農業につながります。類まれな多様性を持つ小農列島、日本が世界をリードしていけるかが問われます。

◆アーノルド・ローベル展が立川で開かれています。
アメリカ生まれの絵本作家アーノルド・ローベルの日本初の展覧会が、立川市の「PLAY! MUSUEM」で開かれました。

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PLAY MUSIUMの正面

ローベルは「がまくんとかえるくん」シリ-ズで知られています。子どもが幼稚園の頃、我が家の本棚にもありました。
「ふたりはいっしょ」、「ふたりはともだち」の、「きみがいてくれてうれしいよ」という言葉にほのぼのとした想い出を持った読者は数しれません。 その「がまくんとかえるくん」のスケッチ約100点と同時に、隠れた名作の版画やスケッチも初公開されていました。

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ローベル展のポスター
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同時開催されていたエリック・カールの「はらぺこあおむし」の看板

PLAY! MUSUEMは絵とことばをテーマに、大人も子どもも楽しめる美術館として生まれました。
ローベル展でも随所にローベルの言葉がかかげられていました。勿論「きみがいてくれてうれしいよ(I'll be glad not to be alone)」もありました。. 
コロナ禍のわたしたちにぴったりのメッセージではありませんか。

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I am on my way!  「ぼくは自分の行く道を見つけたよ。」
幼い頃両親が離婚して母方の祖父母に預けられ、孤独な少年時代を過ごしたローベルが自分の才能にめざめて、絵本作家として立って行く決心をしたときの言葉です。

Don't preach me.  「お説教はまっぴら。」
求められてイソップの絵本を作ったとき、その教訓臭さが嫌だったローベルは、絵本の中で教訓をずらした落としどころを探したといいます。

I am the stage directer, the costume designer, the man who pulls the curtain.
  私は舞台監督、衣装デザイナー、幕を引く者だ。」
高校生の頃から舞台にあこがれていた作家の言葉の端々には、舞台につながる言葉が出てきます。

がまくんシリーズで、人は誰かとつながり、孤独でないことがどんなに大切せかを描くいっぽうで、かえるくんのこんな言葉が紹介されているのも面白いですね。
    しんあいなるがまくん
     ぼくはいません
     でかけています
     ひとりきりに
       なりたいのです

作品が出来上がったとき必ず自分で声に出して読み、作品のリズムを大切にしたというローベルにふさわしく、会場内には朗読のコーナーがありました。丸みをおびた木の壁や緑色の薄いカーテン、段ボールの展示台など、他所にない雰囲気を持つ美術館のスタッフは、みな驚くほど若い人たちでした。新しい形の美術館の今後が楽しみです。

「PLAY! MUSUEM」のある「PLAY!」は、昨年、立川市の一番新しい街、GREEN SPRINGSに誕生しました。子どものための屋内広場「PLAY! PARK」を併設しています。
CAFEではMUSIUMに関連したオリジナルスイーツも提供されます。コロナ下でも子ども連れの若いお母さんたちの姿が絶えませんでした。

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かえるくんのイラストが浮かぶカフェラテ
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同時開催中の「はらぺこあおむし」に因んだプチケーキ
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壁にはローベルの本のコーナーも。客は自由に手に取ることができる。


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雑記帳2021-2-1 [代表・玲子の雑記帳]

2021-2-1
◆温暖化がわたしたちの食べ物を変える?

オンラインセミナーで、温暖化が動植物に与える影響を学びました。今でも21世紀の地球が寒冷期にあると信じている人もいる中で、農業に現われた具体的な現象は温暖化を考える上で大いに参考になると思いました。

地球はこの100年で気温は1.2度上昇しました。一貫して上昇してきたものの、1970年代、80年代にくらべると90年代以降は急上昇しています。

1.2度は感覚的には大したことはないように思われるし、3~4度の振れ幅は昔からあっりました。冷害の年もあれば高温の年もあった。問題は、冷害の被害が減って、高温被害が多発しているということです。

人間の体温は36度で一定しており、気温による変化はありませんが、植物は温度に敏感です。わずか1度でも高くなれば高温被害はでるのです。
家畜は哺乳類ですから人間と同じ。気温が高いと餌の摂取量が減ったり、繁殖性が低下するといったことはありますが、早く大きくなる事はありません。動物でも昆虫類には変化がおきていて、それは畑の害虫の被害にあらわれています。

雨はどうか。実は降水量に変化はありません。が、降り方が変わってきたのです。
年単位で見れば降水量は変わってないのに、月単位で見ると、降り方が極端化して、少雨のために旱魃がおきる一方で、集中豪雨になったりして、治水の施策が必要になってきました。

植物の発育速度には最適速度があります。早すぎてもおそくてもだめなのです。
米の場合、出穂後20日間高温が続くと、デンプンが十分詰まらずに白未熟粒になります。デンプンが詰まらなかった細胞に空気の隙間ができて食べてもおいしくありません。

露地野菜、例えば夏撒き冬取りのキャベツは、高温になると生育のスピードが早くなって、普通30日かかるところを今年は20日ごとに収穫しなければなりませんでした。収穫時期が集中して値段が下がるし、その後に獲れるキャベツがなくなってしまいました。

温暖化の影響を一番受けているのは果樹です。
開花が早いと着色が進まないため収穫が遅れます。生育期間が長いと光合成の期間も長くなり、糖度が増えて酸度は下がります。今の果実は全体に甘くなっているのです。昔の味を知っている高齢者は味が呆けてきたと感じますが、最近の消費者は甘いのを好むので、問題にはならないようです。

越冬の為に寒さに強い体質を作らなければならない植物は、秋の気温が高いと成長が早すぎて耐冬性の獲得が遅れます。春の開花に向けた準備の休眠もできなくなります。
秋まきの小麦は秋の気温が高いと越冬がむつかしくなり、ソメイヨシノの開花が九州より東京の方が早いという逆転現象もおきています。さらに温暖化が進むと開花しない。すでに沖縄ではソメイヨシノは咲きません。
そのような現象は果樹でもおきていて、ハウスでの発芽不良や、ブラジルではふじは葉より先に花が咲きます。いずれ日本でも起きてくる現象です。

病害虫はどうでしょうか。
3種類のカメムシはそれぞれ東日本、西日本、九州にすみわけていましたが、その境界線が北にあがってきています。斑点米や、高温になると出やすいりんご輪紋病が増え、逆に低温になると出やすいイモチ病は減っています。

こうした現象に対して、被害を軽減する様々な対策がうまれました。
作付けの時期を移動したり、遮光資材や水を利用するなどして温度を下げる。凍害対策として、越冬する樹木や野菜の細胞から水を抜いて成長しにくくする。チッソ肥料を減らしたほうが着色いいことから、収穫が終わってすぐ撒いていた肥料を春になってから撒く。等の工夫です。
福島、山形が北限だったモモは青森でも栽培されるようになりました。
さらに、温暖化対応の品種の開発もすすんでいます。
白未熟病にならない米、温帯性の温州ミカンと亜熱帯のスイートレモンを掛け合わせたハイブリッドのみかん、受精しなくても発芽するナスなどの例があげられます。

海外では四大穀物の収穫量が低下していますが、適応策は普及していません。コストが吸収出来ない、誰がコストを負担するのががネックになっているのです。

過去100年で1.2度上昇した気温は今後100年間で1.1~4.4度上昇すると言われています。温室効果ガス排出制限は大きな問題です。
日本は耕作放棄しておいて世界の森林の農地転換に加担すべきではありません。
気象庁は、現在の4週間先の予報を長期化して3か月、4か月先まで出せると、対応策として、品種の更新や果樹の栽培適地の北上を進めることができます。今、亜熱帯果樹への期待がたかまっています。アボカドなどはそのいい例でしょう。

国は2005年までは日本の農業に温暖化への影響はないと考えていました。被害が出ている認識が次第に高まって、ようやくCO2排出制限への動きがでてきました。2018年、温暖化適応法が制定され、昔と比べれば対策の姿勢が見られます。お金もでるようになりましたが、十分ではありません。対応策の普及とコストをどう考えていくかが課題です。

◆ネコ展に行ってきました!

しおみえりこさんからネコ展の案内をもらって、出かけました。会場は多摩都市モノレールの「柴崎体育館」駅近くのスタジオLaLaLaです。

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ねこ展のちらし
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坂をくだって木立の中にあるスタジオは看板がなければ迷いそう。
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LaLaLaの入口に飾ってあったねこ展ののれん

―そもそもなんでネコ展を?
―発信元は(赤川)ボンズさんなんです。 去年おくさんのそのこさんの偲ぶ会をやったの、おぼえているでしょう? 亡くしてからずっとボンズさんはハウスでひとりくらしをしていたの、猫と一緒に、ね。
高齢になると、お風呂でうとうとしてしまうことってあるじゃないですか。
(ああ、私も、しりあいにそれで亡くなった人がいる。)
ボンズさんもうとうとしてたら猫が起こしてくれたんですって。普段ぜったいお風呂になんか入ってこない猫よ。それが風呂場のボンズさんのそばに来て鳴いたんですって。どうやってお風呂のドアあけたのかしら。少し隙間があったのかしらね。

―猫は命の恩人ですね。
―そう、命の恩人のネコ展をぜひやろうというので知人に呼びかけたら、31人もの参加があったのよ。

狭い会場いっぱいに飾られたねこ、ネコ、猫・・・

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来場者も猫を描かされる。

銅板造形作家の赤川ボンズさんに始まって、フェルト作家、アクセサリ-作家、服飾デザイナー、イラストレーター、舞台美術家、様々なジャンルのアーティストたちが猫をよせてくれたのです。3月にLaLaLaでコンサートをする予定の、歌手の庄野真代さんの作品もありました。(コロナ次第で予定は未定です。)

来場者にはお茶を出すのがえりこ流。お茶をいただきながらひとしきり猫談義に花がさきました。
―猫ってどうしてあんなに可愛いのか。
―NHKの「チコチャンに叱られる」でやってたね。大きくなっても顔の目鼻のバランスが変わらないんだって。普通は成長すると大人顔になるのに、猫はこどもの時のままだそうよ。
―顔だけじゃなく肉球もしぐさもかわいいよ。
―うちには猫が2匹いるんだけど、保護猫を見に行って1匹見付けたら、その猫と仲のいいという猫も一緒にくっついてきちゃった。仲がいいといってもそれぞれにテリトリーはあって、住み分けているみたいだ。

―うちの猫は夜必ずお布団の中にはいってきた。あさ起きたらまくらに頭をのせて私と同じ向きで寝てた。

―猫100匹も飼っている友人がいるの。家の外に50匹、中に50匹。2階のフロアー全部猫の居場所にしているの。エサ代だけで10万円以上かかるそうよ。
―今は猫を室内で飼わなくちゃいけなくなって、トイレなんかどうしているんだろう。
―エイジがいた頃、ちょうど家の前に耕作放棄の畑があって、そこがエイジのトイレだった。見てると、それはそれは恍惚とした表情で、あれは至福のときだったのだはないかしら。終わった後、入念に土をかける様子は儀式みたいだった。

そういえば、街猫の姿が消えました。
20~30年くらい前までは野良ネコもいっぱいいて、ゴミ出しも猫に袋を破られないよう注意が必要でした。ボスがいて、夜の猫の集会というのもあったようで、エイジも時々朝帰りでした。
避妊が進んで野良猫は急速に姿を消しました。今我が家の近所に1匹だけいます。あんなにいた友だちがみんないなくなっていくのを彼はどんな気持ちで見ていたんだろう、と姿を見るたび思います。




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雑記帳2021-1-15 [代表・玲子の雑記帳]

2021-1-15
◆豊泉喜一さんの「こもれび講話」を聞きました。

国営昭和記念公園の一角にあるこもれびの里は武蔵野の農の風景を保存しています。

長屋門のある大きな古民家を中心に、ボランテイアさんが伝統的な農作業をしながら、希望者は古民家での年中行事を体験することができます。そこでは月に一度、定期的にボランテイアを束ねる豊泉喜一さんによる「こもれび講話」が実施されていています。コロナ禍で年末から昭和記念公園も臨時休園になっていますが、休園になる直前、2020年最後の「こもれび講話」に運よく参加することができました。

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こもれびの里小屋で講話をする豊泉喜一さん

今回参加したのは「立川深層」と題する立川の歴史第11回目。「所沢海道八店」でした。八店は「はちてん」、店の名前です。

立川には明治時代の立川の風景を描いた「立川村十二景」が市の有形文化財になっています。そのうちの一つが明治38年の様子を描いた「所沢街道八店」です。
場所はJR立川駅から直線で300m、立川通りと南北通りの分岐点。姿は変わっているものの、店は今もこの地に残っています。
画面中央に今をさかりと咲きほこっているのは、武蔵野の雑木林の中でまっ先に咲くといわれる「こぶし」の花で、こぶしは現在、市の花に指定されています。
ちなみに、駅から八店までの現在のメインストリートの街路樹はこぶしに代わり、欅です。

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立川市指定有形文化財 馬場吉蔵画「立川村十二景 所沢街道八店 明治三十八年時代」

絵が描かれたのは、明治22年(1889)に甲武鉄道(言中央線)が開通して17年後。駅からわずか300m離れたこの八店は、砂川、小平、所沢方面への分岐点でした。立川へ出入りする人や荷馬車の馬方の休憩場所であり、往来する人々の休憩場所としてにぎわいました。

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八店のあった現在の場所。右が高松通を抜けて所沢方面へ、左は砂川方面へむかう。(基地時代はフィンカム通りとよばれていた。)

絵の左下に白く描かれている流れは、玉川上水から引いた芋窪新田用水の分水です。分水は現在の立川駅の西地下道付近まで流れ、左折していました。この水を線路際にあったタンクにくみ上げて甲武鉄道の蒸気機関車に供給するために掘られた分水でした。一説によれば、この分水によって立川駅の北口が開設されたのだそうです。駅の南側には柴崎分水がありましたが、蒸気機関車の為に貴重な農業用水を分けるのを嫌がったのだと言われています。

大正11年(1922)には立川飛行場が誕生しました。
八店のあるこの分岐点西側に立川飛行場正門ができて、この付近は大変賑やかな場所になりました。飛行場出入りの関係者や軍人たちのための土産物屋、記念写真を撮る写真館や飛行場郵便局もできました。

戦後飛行場はアメリカ軍に接収され、極東地区の補給基地になり、この付近には米兵相手の横文字の店が立ち並び、景観は一変します。
昭和52年に全面変換されるまで、立川は基地の町として全国に名をはせましたが、返還後は跡地利用が進んで、業務地区としての整備が進みました。
おりしも日本はバブル崩壊前、基地跡の整備と共に駅前の再開発も進んでいました。

基地跡地で整備された地区は図書館や女性センター、ホテルや百貨店などさまざまな機関が林立し、立川のビジネス街になっています。恵比寿ガーデンプレイスと同じ頃にオープンしたこの街区はその名も「ファーレ立川」。FARETファーレはイタリア語の「FARE(創造する)」に立川のTをくわえて名づけられました。完成して20数年になりました。

平成3年、飛行場の正面だった場所に、市政50周年を記念して憩いの広場が作られました。公園には噴水が設置されましたが、周辺のビルに噴水のしぶきがかかるということで、あまり使われることなく廃止されました。噴水の後は埋めたてられて芝生になっています。その奥に、先に紹介した「立川村十二景」が陶板で展示されています。残念ながらそれに気付く人は少ないようですが・・・。

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芝生になっても市章の五角形の形を残した公園
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立川十二景の陶板レリーフ
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陶板の一枚「多摩川雑炊渡船」
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「甲州街道多摩川渡し雪景」

この「ファーレ立川」のもうひとつの自慢は街角アートです。アートプランナーの北川フラム氏が選んだ世界36か国の著名なアーティストの作品が109点も展示されています。これもバブルのおかげでしょうか、今なら手の出ない作家たちの作品も少なくありません。
作品の見学ツアーにはボランテイアさんの解説に耳を傾ける子どもたちの姿が屡々見かけられます。

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高島屋の前に酋長が勢ぞろい
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これもアートです。

立川は飛行場があったために基地になり、発展が遅れていました。30年余り前に移り住んできた頃、「基地と競輪の町」のイメージは、お隣の「学園都市・国立」とは格段に差がありました。大手銀行の支店も八王子に行かなければならなかったくらいです。が、その後の様子を見ると、発展が遅れていたことが良かったのか悪かったのか、一概には言えないと、豊泉さんは言います。基地があったために細切れの開発を免れた手つかずの土地が残されていたのですから。

多摩都市モノレールの開設と合わせて(そのおかげで、今や立川は中央線では新宿に次いで2番目に乗降客の多い駅です!)、返還後の整備が順調に進んだことは時代の流れで幸運だったといえるでしょうか。

当時、政界を牛耳っていたのは金丸信さんでした。基地跡の一部を昭和記念公園にしたのは多分に金丸さんの功績だったといいます。立川にはその金丸信さんと親交のあった市議さん(故人)がいたのです。(何かと噂のあった人ですが。)昭和天皇記念館も立川に作られました。「政治家は私たち市民と違う目線で動く、2足す2を5にする力が政治にはあるのかなあ」と豊泉さんは感慨深げでした。

その豊泉さんは実は立川市議会の議長も務めた方ですが、自分の仕事は武蔵野の伝統的な農業を後世に伝えることだと、早々に引退したのでした。『知の木々舎』にも30回に渡って、『上農は草を見ずして草を取る~農に見る人生の極意』を連載しました。それを目にした大学生から論文に使いたいと問い合わせがあったのをおぼえています。勿論気持ちよく了承してくださいました。

豊泉さんが最後に紹介したのは、立川の文化人として知られた三田鶴吉さんの言葉です。「家廻り20種(の鳥)、路傍60種(の木や草花)」。
その気でいればたくさんのものが観察できる。 何気なく歩いていては何にも見えないし聞こえない。おぼろにではなくいつもそのつもりでいなさい。
それからもうひとつ、「道端の柿は旅人のもの、梢の柿は鳥たちのもの」も、三田さんから聞いたのだそうです。

◆ファーレのパブリックアートをいくつかご紹介しましょう。

コンセプトは「世界を映す街」「機能(ファンクション)を美術(フィクション)に」「驚きと発見の街」の三つです。広さ6haの街を森にに見立てて、森にいきづく妖精のように作品を置いたということです。

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タン・ダ・ウ(シンガポール) 「最後の買い物」(換気口)
素材はグラスファイバー。

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ニキ・ド・サンファル(フランス)  「会話」(ベンチ)
本当にベンチとして利用され、退色すると塗りなおしもしています。

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藤原吉志子(日本) 「ウサギとカメ」)(車止め)
  子どもがよじ登ったり大人が腰かけたりして、てっぺんピカピカがいいのだそうです。



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雑記帳2021-1-1 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2021-1-1
新年おめでとうございます

  新型コロナに振り回された年があけました。
 何でもない日常が奪われて、あらためて人が寄り添うことの大切さを思い直した年でした。今年は牛年。走らなくてもいい。牛のようにゆっくりだけど誠実に、着実に、一歩一歩進んでいけたらいいと思います。
 執筆者のみなさん、読者のみなさん、ことしもよろしくお願いいたします。

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              (写真はスイスのベコ)


◆国営昭和記念公園のお正月です。

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古民家長屋門
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古民家外蔵の正月飾り
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こもれびの里「武蔵野の農ここにあり」にもしめ縄
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日本庭園の松飾


◆おせちにあきたら韓国料理はいかが?

チャプチェ(春雨と野菜の炒め物)

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◇材料 干しシイタケ2枚、きくらげ3g、玉ねぎ小1/2個、きゅうり1本、ピーマン1個、
    にんじん1/2本、卵1個、牛もも肉100g(切り落としでもなんでもいい)、
    春雨100g(さつまいも由来がベター)、いりごま適宜、塩少々、こしょう少々
◇野菜炒め用の調味料
    塩1つまみ、こしょう少々、ごま油適宜
◇牛肉炒め用の調味料
      醤油小さじ2,砂糖大さじ1/2,ごま油大さじ1/2,すりごま大さじ1/2,
      にんにく 1/2かけ(すりおろす)
◇春雨炒め用の調味料
      醤油大さじ2,ごま油大さじ1、砂糖大さじ1,すりごま大さじ1,酒小さじ1,
  にんにく1/2かけ(すりおろす)
◇作り方
①干しシイタケは戻して軸をとり、千切り。きくらげは戻して固い部分を取り除き千切り。玉ねぎは縦に3cm、人参・ピーマンは千切り。きゅうりは縦半分に割斜め薄切りにして塩をふり、搾って水気をきっておく。卵は薄焼きにして長さ4cmの千切り。
②春雨はたっぷりの熱湯にほぐしいれ、2分間茹でて火をとめ、芯がなくなるまで2分ほど蒸らす。冷水にとり、
るにあげて水気を切り、食べやすい長さに切る。
③フライパンにごま油少々を熱し、玉ねぎ・にんじん・きゅうり・ピーマン・きくらげの順に加えて炒め、塩・こしょう少々をふり、とりだす。
④牛肉炒め用の調味料を混ぜ合わせて、牛肉を加えて炒め、肉の色が変わってきたらシイタケを加え、煮詰めて皿にとっておく。
⑤春雨用の調味料をあわせてフライパンに入れ、春雨を炒める。
⑥炒めた春雨に、牛肉・野菜を加え、全体を炒め合わせる。
⑦塩・こしょう各少々で味をととのえ、卵の千切り・ごまをふり、かるく和え、器に盛る。

※文字に起こすと面倒にみえますが、実は野菜を切って炒めるだけの簡単料理。フライパン1個で効率よく調理できるので苦になりません!

ヤッチェサム(野菜巻き)

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◇材料  豚肉150g、レタス 適宜、にんじん1/2本、大根適宜、きゅうり1本
◇味噌ダレ
        赤味噌100g、玉ねぎすりおろし大さじ2,にんにくみじん切り小さじ1,
        コチュジャン小さじ2,砂糖、みりん,ごま油各小さじ1
◇作り方
①たれ用の材料をよく混ぜ合わせてみぞだれを作る。
②野菜は太目の千切り、または細めの短冊に切る。
    (生で食べられるものなら何でもよい)
③豚肉は食べやすい大きさに切り、軽く塩コショウして焼く。
④レタスに豚肉・野菜・味噌だれをのせ、巻いていただく。
    (サラダ菜など、巻ける野菜なら何でもよい))

※野菜はなんでもよいので味噌だれがミソ。試してみたところやっぱり赤味噌があうようです。

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雑記帳2020-12-15 [代表・玲子の雑記帳]

2020-12-15
信濃町から歩いてゴールは表参道、青山に縁の深い女性作家3人の跡を辿ります。

信濃町の名の由来は、江戸時代、下総、上総の藩主を務めた永井家の2代目当主、永井尚政が信濃守となった折、ここに下屋敷があったことに由来します。

駅前に、江戸後期の戯作者、滝沢馬琴の住居がありました。(馬琴はペンネーム、ならば本来は曲亭馬琴というべきところでしょうが、現在はこの名で通っています。)
馬琴は深川の生まれ、信濃町の御家人屋敷に住んで、漢文調の長編「南総里見八犬伝」106巻を執筆しました。執筆途中で失明した馬琴を長男の嫁、路が助けた話はよくしられています。

明治神宮は大正9年、明治天皇と昭憲皇太后を祀って設立されました。今年で100年をむかえます。

神宮外苑は元青山練兵場。聖徳記念絵画館を中心に、体力の交情や文化芸術の普及のためにて、明治記念館や多くのスポーツ施設が造られました。
明治神宮体育大会の為に国立競技場もつくられ、のちに国民体育大会の基になりました。

聖徳絵画館には幕末から明治時代までの明治天皇の生涯の事績を描いた絵画を展示しています。昭和43年には明治100年を記念して絵画館学園が併設されました。
建物は、建設当時のまま保存されていて、国の重要文化財になっています。

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聖徳記念絵画館の建物を正面に見て左側の繁みの中に1つの石があります。 これは、レプリカではあるものの、1926年(大正最後の年となる大正15年)に 樺太庁より寄贈された4個のうちのひとつです。
日露戦争の結果、南樺太が日本に割譲されると、樺太中央部の北緯50度線が日露の国境になり、日本は4個の標石を設置したのでした。
今は樺太はロシア領に復帰していますが、当時日本で唯一の地続きの国境でした。

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都心とは思えないほど緑が多く残されている外苑には、銘木がいくつも見られます。中には2代目が天然記念物だったというなんじゃもんじゃの木(今のは3代目)や御観兵の榎(2代目)など麗々しい名前の付いた樹もあります。

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夏には白い花が咲くというなんじゃもんじゃの木(学名ヒトツバタゴ)
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御観兵の榎

青山通りから絵画館をのぞむ道の両側が外苑イチョウ並木です。
250mに146本のイチョウが植えられた並木は、明治41年、新宿御苑から在来種の種をもらって育てたということです。
4年に一度トリミングして先端の尖っを樹形をたもち、1本ごとに10cmずつ高さをズラすなど細かな手入れをしています。そのかいあって、毎年、木の葉が色づく秋は都内有数の人気スポットです。コロナ禍の今年は外国人観光客はいませんでしたが、11月最後の土曜日、黄金色の葉が風に舞う様は、イチョウがまさに今年の最後の輝きを見せているようでした。

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ここでもテラス席は人気。

青山小学校となり 青山南23番地の大貫家に岡本かの子は生まれました。ここに大貫家の別荘があったのです。
与謝野晶子に師事して歌人としてスタート、画家の岡本一平と結婚して生まれたのが岡本太郎です。
作家としての活動は晩年でしたが、死後に妖艶な作風の多くの遺作が発表されました。
実生活でも奔放な恋愛でしられ、一時期は夫と愛人が同居するという奇妙ななくらしもあったといいます。そのくせデリケートな心は傷つかずにはいられない、そんな彼女を一平は終始支えたのでした。自らの放蕩の負い目があったのかもしれません。
かの子と一平、太郎の3人のお墓は多摩霊園にあります。そういえば、かの子の墓石はなぜか観音像でした。

青山に縁の深い女流作家が3人います。共通点は奔放に生きたことでしょうか。

青山通りの名は美濃郡上藩青山家の下屋敷があったことに由来します。
4代目藩主、青山幸成(ゆきなり)の院名が梅窓だったことから菩提寺は梅総院と名付けられました。小藩ながら老中もつとめた青山家の敷地跡に建つ13000坪の広大な寺院(現在は4000坪)です。

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金明竹のアプローチもおしゃれな寺です。

女流作家3人の2人目、宇野千代は梅窓院に眠っています。
何人もの画家や作家との同棲や別離、結婚をくりかえしながら、96歳で亡くなるまで現役の作家として活躍しました。

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「幸せは 幸せを 呼ぶ」と刻まれた石には晩年彼女が愛した桜の花びらも刻まれている。

近くの長者丸通りには宇野千代が晩年住んだウノハウスがあります。今は一階にショップのある、3階だての小さなマンションです。
長者丸通りは、昔、この付近に渋谷氏の長者が住んでいた、とか、この付近に長者丸という千石船の船着き場があった、とか諸説あるようです。

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ウノハウス

善光寺は信州善光寺の東京別院です。
徳川家康により谷中に勧請されましたが、元禄の大火でこの地に移転、現在の本殿は昭和49年のものですが、こちらもなかなか立派なお寺です。
境内には高野長英が逃亡中たちよったという高野長英の碑があります。
善光寺の境内神社だった秋葉神社は 明治になると分離されて近くに移転しました。今も青山の鎮守です。

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善光寺

青山では路地裏のフリーマーケットもおしゃれ。おしゃれな店はいっぱいあります。

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青山古市 
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静岡発のタルト専門店 キルフェボンQuil-Fait-Bon

路地を巡って表道にでると、山陽道書店の壁に谷内六郎の壁画が目に入りました。
山陽堂書店は120年以上の老舗です。

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「傘の穴は一番星」の壁画

表参道は大正8年(1919)に整備された明治神宮の参道です。
青山通りから原宿駅まで約1キロのケヤキ並木が続き、世界的な有名ブランドのショップが立ち並ぶ、人気のおしゃれな通りです。
そんなところにも小さな稲荷神社を見つけました。大松稲荷神社です。
江戸時代、巨大な松がたおれた跡に祠が建てられ、あたり一帯が組屋敷であったころには、神楽の音もひびいていたとか。

稲荷神社のかどを曲がった小さい通りに南青山第一マンションが建っています。
かって皇室中心主義運動を唱えた徳富蘇峰の寄付により文化施設として建てられた青山会館が昭和46年に建替えられ、今のマンションになりました。
ここに3人目の作家、向田邦子が住んでいました。台湾旅行中、51歳の若さで飛行機事故で亡くなりましたが、数多くの人気TV番組の脚本やエッセイを残しました。

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南青山第一マンション

彼女がが亡くなって来年は40年、表参道に建つホール併設のビル、スパイラルでは今、向田邦子没後40年のイベントが企画されています。
そのビルの前に、高野長英隠れ家跡の標識があるのですが、これに気づく人はほとんどいないということです。

蛮社の獄で小伝馬町の牢につながれたものの牢の火災に乗じて脱獄、各地を転々としたのちに江戸に舞い戻って隠れ住んだ屋敷の跡です。(6年間の逃亡は吉村昭の小説「長英逃亡」に詳しい)ここで捕らえられた長英は護送の途中で絶命しました。

話は前後しますが、青山通りは江戸時代、青山百人町と呼ばれていました。
若年寄り支配下の鉄砲隊「百人組」の組屋敷は青山、根来(市ヶ谷)などにあり、今でも新宿百人町が町名にのこっています。屋敷には下級武士が多く住んでいました。

ランチは「カフェ&ダイニング・ゼルコバ表参道」で。ここもテラスが人気のお店です。
石川県の有機野菜とカンパチの前菜、メインは鮭のグリルでした。

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雑記帳2020-12-1 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2020-12-1
◆江戸城外堀巡り3回目は溜池山王から四谷まで。圧巻はホテルニューオータニでした。

地下鉄銀座線溜池山王池に建つ山王パークタワーは現在NTTdocomoの本社がはいっています。この場所にはかって山王ホテルがあり、昭和11年(1936)に怒った二・二六事件では、反乱軍の司令部がおかれていました。赤坂周辺をあるく今回のコースはあちこちに二・二六事件の跡をたどることになりました。
山王パークタワーの正面は首相官邸です。

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山王パークタワー

慶長11年(1606)、生活用水を確保するために、自然の川をせき止めて人口の池が造られました。 溜池は江戸時代を通じて上水の水源として利用されていましたが、昭和初期に暗渠化され、姿を消しました。
溜池の水が枯れないように堤が築かれ、堤を強化するために桐畑がありました。
桐畑の跡には料亭が並び、最盛期には60店舗ほどあったそうです。

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足の下は溜池だった
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今も残る数少ない料亭の一つ「つる中」

赤坂に縁の深い人物と言えば勝海舟です。
江戸時代後期から明治にかけて、3回にわたり赤坂に住んでいます。
結婚して最初に住居をかまえたのが今のTBSの近く、ここから溜池にあった福岡黒田藩の屋敷に足繁く通って蘭学を学びました。

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海舟の旧居のあった通りにある「四方」は寛永元年創業の、東京でもっとも古い酒屋

二番目に住んだのが氷川神社の隣です。今は小さなマンションの建つ勝海舟住居跡から本氷川坂をのぼっていくと氷川神社にたどり着きます。
氷川神社は紀伊和歌山藩徳川家の産土神だった神社です。もともとは赤坂見付駅近くにあったものを、享保15年(1730)、徳川吉宗によって現在地に移転、建て直されました。
度重なる火災や空襲で多くの神社仏閣が建立時の建物を失う中で、氷川神社の本殿は戦火を逃れ、東京都の有形文化財に指定されています。
本殿は質素なつくりながら、8対もある狛犬(中にはユーモラスなものも)、樹齢400年の大銀杏や包丁塚など興味深く、境内の西行稲荷や四合(しあわせ)稲荷は海舟が命名しました。

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氷川神社本殿
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境内のイチョウは樹齢400年を超える。

維新後はいったん静岡に移りましたが、明治政府に呼び戻されて現在の氷川小学校跡に住みました。2000坪もある広大な敷地だったそうです。
その一部、400坪の土地に教会が建ちました。
生活に困窮していたアメリカ人伝道師のホイットニー一家を支援して、海舟が敷地の一部を提供、一時は病院も経営していました。今は礼拝堂のあとに小さな教会のみ。海舟の嫡男梅太郎はウィリス・ホイットニーの妹クララと結婚しました。

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赤坂教会

TBSは坂の上。新しい愛称の赤坂サカス(AKASAKASAKAS)は右から読んでも左から読んでもサカサカサカ。それほど坂の多いことを表しています。商店街には歴史のある店舗も残っています。
赤坂田町は町が出来る前は田がひろがっていたことが名の由来です。江戸時代から溜池に面して景観を売りにする飲食店が多かったことが、明治以降に赤坂の花街へと発展したのです。

外堀通り沿いには高級ホテルが多く、そのうちの一つ、ホテルニュージャパンでは、昭和57年(1982)に33人の死者を出す、日本最大のホテル火災が起きました。
ここも二・二六事件のおり、部隊が立ち寄った料亭の跡地でした。
火災後は暫く放置されていた時期もありましたが、現在はプレデンシャル生命保険の社屋ビルとして、オフィスや外国人の高級賃貸住宅を有するプレデンシャルタワーとなっています。

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プレデンシャルタワー

通りをさらに進むと赤坂見附交差点。頭の上では高速道路も交差しています。
堀に架かる弁慶橋は江戸時代、岩本町にあった橋が、なかなか立派だったので、明治になって解体したその部材を利用して駆けた橋です。大工の棟梁の名前がそのまま残っているのです。

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弁慶橋

弁慶橋を渡れば紀尾井町。堀の内にはいります。
地名はかってこの地にあった紀州徳川家中屋敷、尾張徳川家中屋敷、彦根井伊家中屋敷に由来しており(それぞれ紀州家、尾張家、井伊家と呼ばれた)、各家の文字を1文字ずつとって町名としました。多くの著名人も住んだ所ですが、現在はホテルやレストラン、企業の本社社屋が並んで、一般住宅はほとんど見られなくなりました。

赤坂を歩いてきてちょうど2時間。お昼は今人気のレストラン「Aux Bacchanalesオー・バカナル紀尾井町」でいただきました。老舗料亭「福田屋」の、通りをはさんで建つ同店は、特にテラス席は予約がとれないほどの人気だということです。

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オーバカナルのテラスはいつも予約でいっぱい

紀州徳川家の中屋敷跡は現在、ガーデンテラス紀尾井町と清水谷公園になっています。
ガーデンテラス紀尾井町は旧赤坂プリンスホテル。新装なったホテルの庭内にはかっての赤プリ、赤坂クラシックハウスも移されています。
ここは、大韓帝国李王家に生まれ、最後の皇帝・純宗の皇太子になりながら、日韓併合の歴史の波にもまれて数奇な運命を辿った李垠と妻方子の暮らした邸です。もとはジョサイア・コンドルが設計した北白川宮邸でした。美しい外観は、建設当時の煉瓦も残された数少ない遺構としても見る価値があります。

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赤坂御門の石垣 通りの向いは議員宿舎
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赤坂クラシックハウス

ガーデンテラスに隣接する清水谷公園も紀伊徳川家の屋敷内にありました。今は千代田区の区立公園になっています。谷に湧水があったことから清水谷の名が付きました。(現在は枯れています。)
近くに住んでいた大久保利光が暗殺された(紀尾井坂の変)場所として有名ですが、崖を利用した林や池はなかなか見ごたえがあります。大久保利光の碑とともに、玉川上水の石管が展示されているのも面白いです。

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大久保利通の碑
                    
紀州徳川家邸に隣接していたのが彦根井伊家の屋敷でした。
元は加藤清正の下屋敷でしたが、清正の死後、加藤家は改易となり、屋敷跡は彦根井伊家に与えられました。明治以後は伏見宮邸、第二次大戦後はホテル・ニューオータニとなりました。
丹下健三設計によるニューオータニと言えば高台の廻るラウンジで知られます。そのラウンジから見下ろす庭園が見事。清正時代から変わることなく、そのままうけつがれているのです。
大戦後、GHQに接収されましたが、戦時中「鉄鋼王」と呼ばれていた大谷米太郎が私財を投げうって土地を購入、オリンピックの年にホテルが誕生しました。庭園は残されたのです。(国技館建設の勘定元にもなったこの人の一生は波乱万丈です。)
大木の化石や赤玉石、カヤやイヌマキの大木、それぞれが歴史を持つ数多くの塔や灯篭・・・、高低差のある広い庭を見て回るだけでゆうに30分はかかります。数ある大名庭園の中でも屈指といえるでしょう。

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庭の一部
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巨大な赤玉石も無造作に庭に転がっている

紀尾井町の最後に残るは尾張徳川屋敷跡です。ここは今、上智大学になっています。
紀尾井坂の名前も紀伊徳川、尾張徳川 井伊家の屋敷に囲まれていたことが由来です。
紀尾井坂を下って迎賓館通用門に向かう途中に喰違見付がありました。
外堀の城門の一つで、冠木門があるだけの簡素な門でした。明治7年に岩倉具視暗殺事件がおきています。大久保利光が暗殺された場所のすぐ近くです。
迎賓館通用門は紀伊徳川屋敷が一部が解体された時の部材で建てられました。

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喰違木戸跡の説明板

喰違見付からは、左右に上智大学のキャンパスを見ながら外堀の土塁を歩けばJR四谷駅に出ます。
外堀の造営に真田親子が加わっていたので真田彫と呼ばれた堀は、瓦礫処理の為埋め立てられて今は上智大学のグランドです。

土塁から線路をみおろしながら四谷駅に近づくころ、御所隧道と呼ばれる煉瓦造りのトンネルが見えます。明治27年(1895)に造られました。当時甲武鉄道が建設した4ッのトンネルのうち、唯一現存するものです。

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土塁から見下ろす四谷駅付近

本日のゴール、四谷駅の前を通る国道20号線は江戸時代の甲州街道です。日本橋を発して江戸城内堀の南側を回り、半蔵門から西へと向かう街道でした。四谷門を出た後、八王子や甲府を経て中山道に合流します。
甲州街道は尾根道なので、外堀の最高地点は四谷門付近でした。

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四谷駅から見た四谷門の石垣

半蔵門から始まる甲州街道の両側にある江戸時代の町人地は麹町と呼ばれました。今もこの町名がのこっています。
四谷駅周辺では四谷門や見付橋の石垣を見ることが出来ます。
赤坂から四谷への史跡めぐりは、幕末から明治にかけての思いのつまったコースでした。


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雑記帳2020-11-15 [代表・玲子の雑記帳]

2020-11-15
◆東京の名湧水を巡って国分寺崖線を歩きました。

東京で暮らすようになって気になったのが「国分寺崖線」という名前です。高校の地理では段丘は習ったけれども、「崖線」という言葉はなかった。パソコンを使い始めた頃「がいせん」を変換しようとしても出来ないので、「がけせん」と入れて変換する、そんな時を経て、東京独特の国分寺崖線が次第に身近になっていったのでした。

武蔵野台地は日本有数の洪積台地で、多摩川が造り出した扇状地です。
地盤の隆起や、箱根と富士山の火山灰の降り積もるなか、多摩川は南方に移動しながら側面を削って段丘面を造っていきました。その結果生まれた、東西に長い崖が続く地形が国分寺崖線で、約3万年前に形成されたといわれています。立川(武蔵村山の説もある)を起点とし、世田谷の等々力渓谷や大田区の田園調布あたりまでつづく、約30kmの崖線です。
立川には立川崖線(青梅が起点、狛江まで40km)や青柳崖線も走っていて、いずれも国分寺崖線より南に位置しているので、多摩川が蛇行した跡がよくわかります。立川崖線が形成されたのは2万年前だということです。
水の便に恵まれて日当たりの良い段丘面は、数千年もの昔から人が住むには絶好の場所でした。

崖線は「ハケ」とも呼ばれて、随所に湧水がでるスポットがあります。
JR中央線に沿って、国分寺から小金井まで歩いてみると、東京名湧水57選として知られる池をいくつも見つけました。昔は今より水量も多く、ワサビ田が広がり、蛍が舞っていたそうです。また、このあたりは明治末期から昭和初期に数多くの別荘が建てられたところでもありました。

先ず立ち寄ったのは国分寺駅南口にある殿ヶ谷戸庭園です。

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本館

大正期に、旧満鉄副総裁の江口定條(じょうえ)がこの地に別荘を構え「随宜園(ずいぎえん)」となづけました。昭和初期には三菱財閥岩崎彦彌太(ひこやた)が買い取り、高低差のある地形を生かして、現在のような回遊式庭園を完成させました。
庭園の中心にある次郎弁天池は東京の名湧水57選のひとつ、数寄屋造りの茶室、紅葉亭からは、池やモミジの林が見下ろす事ができます。

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紅葉邸から見下ろす弁天池

弁天池に通じる竹の小路は東京の庭園には珍しい孟宗竹の竹林です。

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竹の小路脇の竹林

昭和初期に建てられた本館は和洋折衷の造りで、食堂は今展示室になっています。

昭和40年代の宅地開発計画に反対して保全を求める住民運動が起こり、昭和49年に東京都が買収、整備して都立の庭園として開放されています。平成23年には「殿ヶ谷戸庭園(随宜園)」として国の名勝に指定されました。

庭園を出てバス通りを進むとほどなく左前方にこんもりとした森がみえてきます。JRの電車の窓からも見える東京経済大学です。
創設者の大倉喜八郎はホテルオークラや大成建設を造った人です。大倉商業学校を前身とする東京経済大学の、崖線の地形を利用した広大なキャンパスの中にも、東京の名湧水57選の湧水池があります。元学長の名前に由来するという新次郎池です。
あいにくとコロナのために部外者はキャンパス内に入れず、外から塀越しに見ることが出来ただけでした。

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新次郎池

国分寺崖線は西に行くほど高低差がなくなります。世田谷で20m、国分寺では10m、立川に至ってはほとんど高低差はありません。そんな中にあって、小金井あたりは坂が多いのが特徴です。
東経大の横を通るくらぼね坂の斜度8パーセントに始まり、斜度10パーセントの三楽坂、14%のさわらび坂など、小金井市には数多くの坂があります。

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新次郎池から出る湧水は多摩川の支流の野川に注ぎます。
くらぼね坂をくだったところにある鞍尾根橋はちょうど国分寺市と小金井市の市境になっています。
野川は改修されて、カモやシラサギのいる憩いの水辺になっていますが、近くには昔の野川の流れに沿った湧水の道が整備されています。この湧水の道をたどると、ほどなく貫井神社に出ます。

貫井神社は元は貫井弁財天と称し、武蔵野段丘のふもとの景勝の地に鎮座して、貫井部落の氏神として崇拝されていました。明治の寺社離政策のより当地に移りました。
境内には、これも東京の名湧水57選に選ばれた清水の池があります。また、縄文土器を中心に貫井遺跡が付近各所より、多数出土することから、早い時期から集落があったことがわかります。

本殿西側から湧き出るる水量は今も豊かです。湧水スポットは本殿裏にもありますが、こちらは水量が多くない時は枯れることもあるそうです。
大正時代には神社の下に湧水を利用したプールがあったそうですが、湧水の温度は真夏でも摂氏15度。冷たくて長時間はプールにいられなかったでしょう。現在は駐車場になっています。
貫井の名も小金井の名も井を持っているのは、昔から水に恵まれた地であることを意味しているのです。

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貫井神社本殿
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湧水の池 亀が数匹甲羅干しをしていた
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神社の湧水口

貫井神社をでて道なりに10分ほど歩いて、弁車の坂(江戸時代に弁次郎が営んでいた水車が坂下にあった)を登ればバス通りです。ここから小金井駅まで歩いても10分もかかりません。
都立小金井工業高校のバス停すぐのところにあるのは「滄浪泉園(そうろうせんえん)」です。

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ここは明治・大正期に銀行家、外交官、政治家として活躍した波多野承五郎の別荘でした。受付でもらった案内によると、友人、犬養毅が名づけたという庭庭の名前は、「手や足を洗い、口をそそぎ、俗塵に汚れた心を洗い清める、清々と豊かな水の湧き出る泉のある庭」という意味だそうです。
かっては現在よりも敷地も広く、湧き水も水車がまわるほどの量がありました。(坂の名に名残がある)宅地開発により敷地は徐々に縮小、マンション建設の計画もある中で、住民運動の結果、昭和52年に東京都が買い取りました。買収直前に長屋門や邸宅は取り壊されたため、庭園としてではなく、緑地保全地域に指定されています。池はもちろん東京の名湧水57選の一つ。
縮小されたとはいえ12,000平方メートルの園内は今でも武蔵野の面影を十分にとどめ、うっそうとした樹林や野鳥の声には深山の趣があります。今でもはけの生態系を保っている貴重な場所です。

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木の間越しに見る湧水の池
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湧きだす水は澄んでいて寮もたっぷり

殿ヶ谷戸庭園から滄浪泉園まで約1時間。
ここからは薬師通りを通って、はけの道沿いにある美術の森まで足を延ばしてみませんか。此処には「はけの森美術館」があるのです。「はけの森美術館」は、以前知の木々舎にも連載した画家・中村研一のアトリエでした。
訪れたこの日、美術館では作品展「ふたたびの北京官話~中村研一が描く人体のフォルム」を開催中でした。

森の中には小さいながら池があり、これも東京の名湧水57選のひとつです。その脇に画家の愛した数寄屋造りの茶室「花侵庵(かしんあん)」が建っています。
池の背後には竹林に包まれたハケが続いていて、石の階段を上ってハケ上に出ると、裏口には小さな木戸が設けられています。この緑地は貫井神社とともに大岡昇平の「武蔵野夫人」の舞台になりました。

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茶室「花侵庵」
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池の向うに見えるのは中村健一の旧主屋
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はけの森の木度

美術館の前には小金井市が整備した「はけの小路」がのぞいています。わずか数十メートルの石畳の小径は小さなせせらぎもあって、心地よい空間になっていました。

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はけの小路

午前中を歩いてくるとちょうどお昼時。茶室と並んで建つ、かって画家の主屋だった建物が今、カフェになっています。森の中のカフェでいただくランチは特別なメニューではないけれど格別でした。

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雑記帳2020-11-1 [代表・玲子の雑記帳]

2020-11-1
◆外堀巡り2回目は鍛冶橋後から溜池山王まで。

江戸城外堀は、幕府が諸大名を動員して寛永3年(1636)に完成させた、江戸城の外郭をなす水濠です。
三大将軍家光の時代、参勤交代で江戸にやってくる大名の邸が内堀の中ではまにあわなくなり、内堀の外に作った武家屋敷と商人町や寺町を区分するために作ったのが外堀です。
外堀は明治以降も鉄道や駅、高速道路に利用されて、東京の町づくりに大きな影響を与えています。
東京駅周辺の、幅60mもあった外堀は、昭和20年代、第二次世界大戦の戦災瓦礫の処理のためにすっかり埋めたてられてしまいました。
その東京駅八重洲地下街に八重洲の名の由来になった、ヤン・ヨーステンの胸像があります。
ヤン・ヨーステンはオランダ人商人。1600年に来日して徳川家康の外交顧問となり、江戸城内堀沿いに屋敷を与えられました。その半年後に関ヶ原合戦がおこります。同じ船にはイギリス人のウイリアム・アダムスも乗っていました。胸像の横にはヤン・ヨーステンのの乗ってきたリーフデ号の航海の様子を伝えるパネルがならんでいます。

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ヤン・ヨーステンの胸像

埋め立てられた外堀を東京駅から鍛冶橋(ここには鍛冶職人の住む町に通じる鍛冶橋門がありました)へすすむと、東京国際フォーラムが見えてきます。今は新宿にある東京都庁があったところです。都庁は明治27年までは東京府庁でした。

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国際フォーラム

幸橋門内にあった東京府庁が、土佐藩山内家と阿波藩蜂須家家の屋敷跡に移転してきたのは明治22年(1889)年のことです。 5年後にドイツ風の庁舎に建替えられ、当時流行した煉瓦造りの建物の並ぶ通りは煉瓦通りとよばれました。東京駅はイギリス風、設計者の辰野金吾がイギリス人のジョサイヤ・コンドルの弟子だったのに対し、府庁を設計した妻木頼黄はドイツで学んだからです。妻木は日本橋も造っています。

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鍛冶橋から煉瓦通りを振り返ると東京駅

江戸城を語るとき、太田道灌の名ははずせません。国際フォーラムには朝倉文夫の手になる太田道灌像があります。
道灌は江戸の町づくりに力を注いだので、家康が入府したときには江戸はすでに、のちに言われるほどの寒村ではありませんでした。

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太田道灌像
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今はない江戸城天守閣の模型

鍛冶橋交差点南から外堀の跡地は高速道路とショッピングセンターになっていますが、カーブした水路をそのまま利用したのがわかります。
有楽町駅前には南町奉行所がおかれていました。
交通会館の地下には発掘で見つかった穴倉や水道管、石垣の石などが無造作に展示され、それと気付かずに椅子として利用されたりしています。

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木管
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椅子に使われている石垣の石

有楽町の名は織田信長の弟、織田有楽斎がここに茶室をかかまえたことからきています。茶室と言えば数寄屋造りです。数寄屋橋門は慶長7年(1602)に設けられました。
関東大震災後に晴海通りに移転した昭和の数寄屋橋は、高速道路建設のため外堀の埋め立てに伴って撤去され、橋の欄干の一部が数寄屋橋公園にのこされています。

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公園には岡本太郎の太陽の子の像がたっている、

この橋を渡って城に入る高麗門のあとはいま、朝日新聞記念館になっています。
数寄屋橋公園の隣にあるのは泰明小学校です。
関東大震災後の復興事業として建てられた校舎は昭和初期の立派なつくりです。
銀座にある小学校として人気があり、学区外からも入学を希望する生徒がいて、夜間人口の減った銀座で廃校はまぬがれているようです。島地藤村や北村透谷が学びました。

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泰明小学校の贅沢なつくりの玄関

近くにある外堀門の一つ、山下門は、江戸城の城門の中でもっとも小さな門でした。
山下御門から幸橋御門の外堀後は、高速道路とJRの線路になっています。高架下は飲み屋がならび、一歩入った奥路地には最近ショッピングモールがオープンしました。今風の華やかなモールの壁には、大正3年に新橋から東京への鉄道建設時に作られたJRの煉瓦製高架をのこしています。
ちなみに明治27年に新橋を最初に出発した鉄道は横浜までで、東京駅につながったのが大正3年のことでした。

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モール壁には大正の鉄道の名残が。

幸橋門内にあった大和郡山藩柳沢家の屋敷跡には明治元年、最初の東京府庁がおかれました。現在の東京国際フォーラムの場所に移転するまでここにあり、現在は帝国ホテルがたっています。
道路を挟んで、現在東京電力別館になっているところは薩摩藩中屋敷のあったところです。もともとは上屋敷でしたが、外様藩第2の大藩である薩摩藩には手狭になったため、三田に上屋敷を移してここを中邸としたのでした。
9時半に出発して2時間ほど、本日の行程の半分を歩き、お昼は新橋の「板前バル」で。
いかにもエネルギッシュな江戸を感じさせる特性和ランチでした。

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いかにも江戸っ子の好みそうなボリュームたっぷりの和ランチ

新橋の名は汐留川にかかっていた橋の名前に由来します。
花街としては後発でしたが、新橋界隈は各藩の大名屋敷から距離的に都合の良い場所にあったため、公儀の役人や他藩の客人との接待・外交の場として利用されました。
明治に入り、江戸期からの花街柳橋とともに「柳新二橋」と称して人気の花街となりました。明治期に伊藤博文や板垣退助など新政府高官が新橋芸者をひいきにしてその名を不動にしました。出身地の金春通りに隣接する通りに今でも新橋芸者の検番があります。
新橋駅の前は内幸町です。外堀の門の一つ、幸門は外堀が完成した1636年に石垣が築かれました。将軍がこの門を通って増上寺へお成りになるというので、縁起を担いでつけられた名前です。その内側にあるというのが内幸町の名の由来です。
ここから虎ノ門へ伸びる外堀跡は外堀の中でももっともはやく、明治37年に埋め立てられました。今、多くの官庁が立ち並ぶ一帯にはビルの建設工事の折に発見された石垣の石がつまれています。それらの石垣は文部科学省や地下鉄虎ノ門駅構内にも見ることができます。

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文部科学省に残された石垣。この辺りでは随処に石垣が見られる。

関ヶ原の折、大津城を守って戦功のあった京極家は虎ノ門に上屋敷を構えました。その折、郷里の丸亀領内にあった金刀比羅宮を勧請して屋敷内に建立したのが、広重の浮世絵にも描かれています。
城を攻めた立花氏は武勇に優れていたため、関ヶ原で敗れたのちに、諸藩から復興の嘆願が出され、幕府は立花藩復興を認めたという珍しい経緯があります。
江戸の人口が増えるにつれて、生活用水の確保は大きな課題でした。
江戸時代初期に浄水の水源として利用されたのが現在の溜池山王にある貯水池(溜池)です。
ここに立てば地形的にもいちだんと低い土地であることがわかります。
幕府はその後も神田上水を開き、玉川上水を掘削するなど江戸時代を通じて水の確保に追われました。
溜池は明治には水量も減り、昭和初期には暗渠になって姿を消しました。
この溜池や赤坂を見下ろすように建っているのが山王日枝神社です。
堀の外側には当時日枝神社の下に多くの寺院がたちならんでいました。これらは明治初期に廃寺となり、跡地にはヒルトンや山王ホテルなどが建ちました。

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日枝神社(鳥居の三角の屋根は日枝神社にのみ許されたという)

日枝神社は太田道灌が川越から観桜したのがはじまりといわれていますが、もっと前からあったという説もあります。もともとは江戸城内にあったのが、宝暦の大火後に現在地に落ち着きました。 山王祭は神田神社の神田祭と並んで江戸の二大祭になっています。


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雑記帳2020-10-15 [代表・玲子の雑記帳]

2020-10-15
◆近世日本画壇を牽引した狩野派と長谷川派の相克~その時、京都画壇は戦場だった!?

10月に入り、GoToトラベル東京発着も解禁となり、最初に出かけたのは京都。講師とともに2日間で、狩野永徳と長谷泡等伯の絵を探して7つの寺院を巡りました。

いったい、桃山時代というのはいつをさすのか。一般には、信長が室町将軍を追い出し、家康が将軍になるまで(1603)も30年間をいいますが、関西では少し違って、1615年、大阪夏の陣で豊臣家が滅びるまでをさすようです。さすが太閤びいきですね。

信長と秀吉が活躍した時代を「織豊時代」と呼ぶのにならうと、「安土桃山」は「安土伏見」と呼ぶべきではないのか。秀吉が建てたのは桃山城ではなく伏見城だからです。

伏見城は玄和元年、豊臣家が滅びると同時に廃城になりました。
城内にあった多くの建物はとり壊されたり、京都の他の寺普請に使われました。
消滅した伏見城のあとに桃の木が植えられて、伏見の丘は花見客でにぎわうようになりました。なるほど、当時は金の産出量が一番多かった時代、桃の華やかなイメージは金箔と相まって、のちに名付けられた「桃山時代」にふさわしいですね。
この時代に活躍したのが2人の天才絵師、加納永徳と長谷川等伯でした。

等伯は七尾畠山氏につかえる奥村姓の武士ながら染物屋の長谷川家の養子になりました。対する狩野家は狩野川上流を治める頼朝の家来、出自は伊豆です。

室町将軍のお伽衆を務める中で絵の旨い狩野元信が狩野派の祖となり、数えて4代目が永徳です。

等伯は1572年、31歳の時、養父母が相次いで亡くなったのを機に、息子久蔵とともに七尾を出て京都にやってきます。染物屋は絵心が無ければ務まらない職業でしたから、養子として修業するうちに絵の才能を開花させたのでしょう。
ときのお抱え絵師集団のリーダーである元信が自ら手ほどきしたという永徳に、等伯は強い対抗意識をもっていたようです。

51歳のとき、等伯は大徳寺山門の天井画を描いています。大徳寺の山門を増築したのは千利休です。利休も法華宗信徒であり、等伯と利休の強い係わりを示すものです。

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南禅寺山門 等伯の天井画ががある。

利休は茶人としてだけではなく、権力者とも強い結びつきがありました。
等伯は利休の美意識にあわせて、画壇にのしあがっていきます。

1591年、秀吉の嫡男、鶴松が亡くなると、秀吉は祥雲寺の造営を開始します。
寺の障壁画を誰がまかされるのか。その前年に永徳を失った混乱に乗じて勝ち取ったのは長谷川一門でした。

ところが、京都・智積院に遺る祥雲寺障壁画の制作の最中に、将来を嘱望されていた久蔵がわずか28歳で急死してしまいます。等伯の失意はいかばかりだったか。一説には毒殺ともいわれています。

利休の美意識に合わせていた等伯でしたが、利休亡きあとは利休好みを離れ、秀吉好みの英徳風の画風を駆使して精力的に活動を続け、家康の求めに応じた江戸へ向かう途中、1612年、72歳で没しました。

最初に訪れたのは堀川通を左に入った妙蓮寺です。

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妙蓮寺山門

堀川通を挟むこの一帯は、秀吉の街づくりで法華宗の寺が多く集まっています。
法華宗は禅宗と違い、町衆の信仰をあつめました。すぐそばには西陣の町です。

法華宗と等伯の関係は深く、等伯が七尾を出て最初にわらじを脱いだのが妙蓮寺に近い、法華宗の本山、本法寺でした。

妙蓮寺には長谷川派の42面の障壁画があります。
モダンな雰囲気の「鉾杉図」は、エリザベス女王が訪日の折、どうしても見たいという女王の意向を受けて、東京まで運んだそうです。
等伯の「松桜図」は金地に力強い松と桜の花びらが描かれています。松は画面の外から身をのりだすように大胆に、花びらはち密に。

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長谷川派 鉾杉図
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長谷川等伯「松桜図」

厚みのある桜は長谷川派の特徴で、厚みを増すために胡粉をまぜているのです。
本来襖絵には不向きで、保存も難しい技法をあえて選んだ京都文化の凄さを示しています。胡粉ののりは米のり、甕に入れて30年たって弱くしたのを使う、100年たてば粘着力はさらに弱くなるので修理する。日本の絵は描く側も100年先の修理を見越して描いている、そこが奥の深さだというのです。勿論、修復の糊も30年寝かせたものでなければなりません。

大徳寺の多くの塔頭の中で、聚光院には永徳とその父親、松栄のふすま絵が38点あります。オリジナルは保存のため京都国立博物館に寄託されました。

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聚光院

聚光院は永禄9年三好長慶の菩提を弔う寺として建立されました。利休が檀家として資材をよせたことから、三千家の菩提所となっていて、有名な利休の八窓の茶室もみることができます。
永徳24歳の作「花鳥図」は、力強い梅の巨木に勢いよく直行する雪解け水、飛ぶセキレイに視線を合わせる岩のセキレイが描かれています。モチーフを拡大して協調する永徳独特の手法はエネルギーにあふれています。七分咲の梅は信長へのオマージュだといわれています。ルーブルの「モナリザ」が日本に来た時、交換されたという襖絵です。

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狩野永徳「花鳥図」

中国の士丈夫が身に着けるべきとされた4つの芸を描いたのは「琴将書画図」です。

「竹虎遊猿図」「瀟湖八系図」は父、松栄の作で、親しみやすく穏やかな表現は、永徳よりもタッチが柔らかく、親子でも個性に違いがあるのがわかります。

妙心寺塔頭の一つ、天球院には、重要文化財の襖絵56面と、杉戸絵16枚があります。こちらもオリジナルは京都国立博物館に寄託されていますが、永徳の弟子、狩野山楽・山雪の「竹に虎図」があります。

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狩野山楽「竹に虎図」

山楽は永徳の養子、山雪は山楽の娘婿という関係、永徳との血縁関係はありませんが、永徳の実子や孫が家康について江戸に移ったのに対し、京に残って京狩野派をたてました。

扁平な雲の輪郭線、画面に収まりきらない勢いのある画風は永徳譲りで、江戸初期の桃山の雰囲気を残しています。京画は永徳の美意識を素直にうけついでいるのを誇りとし、同じ永徳の流れを汲みながら徳川の美意識に染まった探幽を終生、江戸画と呼んできらっていたということです。
それにしても京と江戸、両方の狩野派をならべると、なんという豊饒さでしょうか。

最も奥の部屋には一転して、中国の文人を描いた「山水人物画」の墨絵があります。山雪の多才ぶりを示すもので、一番位の高い部屋に墨絵を置くという発想は、それまでの着色こそ最高と言われた格式の伝統をうちやぶるものでした。
そして、襖絵は、四隅が直角の部屋の中で座って鑑賞するもの、平面的なタブロイドとはちがいます。画家はそれを計算にいれて、座った目線で描いたのだと学びました。

秀吉の長男、鶴松の菩提寺として造営された祥雲寺を飾り、秀吉の期待に見事にこたえた長谷川等伯と一門の名は天下に知れ渡り、狩野派と並ぶ地位と名誉を得ることになりました。
祥雲寺の後身、智積院には桃山時代の最高傑作と呼ばれる、等伯の「楓図」や久蔵の「桜図」ほかの国宝が残されています。 総金地に浮き桜の「桜図」を描いた久蔵はこの後、急死するのでした。

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長谷川久蔵「桜図」

都の北方、一乗寺にある曼殊院門跡は、小坊ながら代々の僧主が皇室ゆかりという、格式の高い寺です。小さな桂離宮とも呼ばれています。
ここでは永徳伝の襖絵「竹虎図」の本物を、退色もあって必ずしも保存状態がいいとは言えませんでしたが、まじかに見ることができました。
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曼殊院

応仁の乱で破壊された南禅寺を復興したのは、江戸初期、家康以下徳川三代にわたって黒衣の宰相とよばれた金地院崇伝です。 それゆえ、大伽藍の南禅寺の塔頭の中でも金地院はもっとも格が高いのです。小堀遠州の「鶴亀の庭」「八窓の茶室」も有名です。

小書院の「猿猴捉月図」は「老松」の図と並んで等伯の作品です。

修復なった猿猴の図は、片手で松の木の枝に捕まった猿が水面の月に手をのばす様子が描かれています。4枚の襖絵は真中で直角に折れて奥行が生まれ、猿の動きがよりダイナミックに感じられます。 見る者の目線と室内を計算に入れた画は、展覧会場ではなく、襖絵として使われてきた部屋に座って初めてわかる醍醐味でした。 

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等伯「猿猴捉月図」

南禅寺の中でも「御所」と呼ばれる本坊には、桃山前期の、数多くの狩野派の障壁画が残されていましたが、殆どが収蔵庫に保管、デジタル撮影した画像を元に、江戸初期から中期の色合いで復元したものを公開しています。 書院を巡って探幽の「群仙図絵」や「群虎図」(これだけ実物)などを見ることができます。

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南禅寺本坊
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永徳筆「群仙人図襖」

狩野派も江戸へ入った探幽の時代になると、桃山時代の、画面からせり出すような躍動感が消えていきます。二条城に代表される探幽の絵は、雲も木も、画面の中に納まる徳川の美意識でした。

豪華賢覧、目くるめくような桃山の30年、等伯や永徳の壮大な実験は、それを許した権力者や後援者がいた社会を映していました。

せっかく京都に来たのだから、一度くらいは京都の味をと、2日目の昼食は宝ヶ池の近く平八茶屋で麦飯とろろ膳をいただきました。

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雑記帳2020-10-1 [代表・玲子の雑記帳]

2020-10-1
ろくもんの次はTOHOKU EMOTION!

コロナの終息はまだ見えないなか、9月には東京発着を除いたGo To トラベルがスタートしました。対象にはならなくてもそろそろ出歩いても後ろ指をさされなくなったのです。申し込んで運よく催行決定になったのがTOHOKU EMOTION の旅でした。

四国出身の私には東北は縁の薄い土地です。新幹線が走るようになってもまだ数えるほどしか乗っていない。混雑する東京駅のホームに目指すはやぶさを見つけるだけでもうろうろしてしまいます。

馴染みがないだけ何もかもが新鮮です。JR東日本の機関紙「トランヴェール」だって貴重です。なにもしなくてもビジネスマンが乗ってくれるJR東海にはなんのサービスもありません。クオリテイもなかなかで、トランヴェール今月号の特集「『おくのほそ道』翻訳トラベル」は、アメリカ生まれの詩人アーサー・ビナードさんと辿るみちのくの芭蕉の句と足跡は充実した内容でした。

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初めて降り立った八戸駅のコンコースに立派な山車が飾ってありました。
えんぶりとならんで、八戸三社大祭は東北を代表する夏の祭りです。日本一と呼び声も高い山車はユネスコの有形文化財にもなっていて、毎年、多くの観光客がおとずれます。今年はコロナのため、残念ながら山車行事はとりやめになりましたが、この日、駅で見た山車は「鍾馗」。まさに今にぴったりの、疫病を退治する神様でした。

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いま、国内では食事と風景を楽しむ観光列車が次々に誕生しています。
そのひとつ、TOHOKU EMOTION は、2011年の東日本大震災の1年後に復旧したJR八戸線を走る観光列車です。 復興と地元に元気をもたらすためにと2013年の秋から運航しています。
列車はキハ110系一般形気動車の3両。客席2両の間にライブキッチンをそなえています。内装にもこだわって、車両の床や照明、あるいは小物に、島の刺し子織り、青森のこぎん刺し、岩手の南部鉄や琥珀など津軽の伝統工芸が使われて、車内に居ながらにして東北の文化にふれることができます。

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TOHOKU EMOTION
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オープンキッチン
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車内はソーシャルディスタンスをとって。窓の照明は琥珀、床は青森のこぎん刺し。

季節によってメニューは変わりますが、食材はすべて地元産。夏場はイタリアンでした。
客は八戸から久慈まで片道2時間を、美味しい料理と三陸の景色を楽しんで過ごすのです。
週の半分ほどしか運航しないにもかかわらず、開業早々黒字になったとか。

11:00に出発してすぐ運ばれてきたウエルカムドリンクは青森産のリンゴのシードルでした。食事中のアルコールやソフトドリンクはお好みをお替り自由で。山形の高畠ワインもあります。

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前菜は真鯛のマリネ、コンソメジュレをのせた生ウニとカリフラワークリーム、青森産ベビーホタテのスモーク、岩手産豚すね肉のミートボール、などなど、のっけから、東北の味満載です。

パスタはイカ墨を練りこんだショートパスタ。ソースは青森産スルメイカのラグーでした。

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メインはアベドリのロトロ。ロトロはパスタシートに詰め物をして煮込んだ料理を言います。アベドリは東北の優、阿部氏に因んだ名前でしょうか。岩手・青森で一番おいしい鶏肉だとスタッフのお嬢さんは得意気でした
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それぞれの器にもみちのくの工芸品が使われていました。
メインの皿は岩手の小久慈(こくじ)焼き。プティフールの入れ物は会津塗の霧箱でした。
小久慈焼きは江戸時代に始まった焼き物のですが、釜元はそれ以前からあり、西に比べればば数少ない焼き物の、日本最北の窯元だそうです。

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会津塗の霧箱の中に3種のプティ・フールが入っていた

三陸海岸を走る列車の窓からは太平洋が目の前です。この日はお天気も良く、白波のたつ美しい海洋の色を堪能しました。背には色づくにはまだちょっという田んぼや芒の原。風に輝く銀色の芒は一足早い秋を感じさせてくれました。

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白波寄せる太平洋

12:56 久慈駅到着。駅では歓迎の旗をもった駅員さんのお出迎えがありました。
復旧なった三陸鉄道の久慈駅はすぐとなりにあります。

NHKの朝ドラ「あまちゃん」の舞台になった久慈は日本有数の琥珀の産地です。
既に6世紀後半から、この地で掘り出された琥珀は東山道を通って、碓氷峠を超え、木曽谷を経て、遠く奈良の都まで運ばれたのでした。
松脂の化石である琥珀には古代の生き物が閉じ込められていることがあります。
はるばる峠を越え谷を渡る琥珀の旅も思いあわせると、なんともロマンを感じるではありませんか。
金も産出した東北はまた、古代ローマと交易のあったことがわかっています。400年前発掘された縄文の遺跡から、古代ローマのきのこが発見されたのです。
蝦夷と呼ばれた東北がどれだけ豊かであったことか、その後の歴史を思うと、胸の痛む思いがします。

14:15 1時間あまり昭和レトロな久慈の町を散策のあと、復路、デザートビュッフェの列車の出発です。
普通ならランチかデザートかどちらかを選ぶのでしょうが、今回は両方を楽しむ欲張りな企画でした。
アソートプレートから始まって、オーダービュッフェのデザートとオードブルがつづきます。これらを好きなだけ食べるにはもう少し若い時に行きたかった。一口くらいの大きさだからと言いながら全種類は食べたけれど、好きなだけ美味しく食べるには体力が要る、あんなに食いしん坊んだった私としたことが、無念の涙をのみました。

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デザートのアソートプレート
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6種類の焼き菓子は好きなだけお替りできる
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これもお替り自由のオードブル 右のローストビーフの皿は青森のヒバ

翌日は「自然を感じる奥入瀬渓流、十和田湖、種差海岸」をバスで巡ります。
途中、採用されてまだ1年という、初々しい青森美人のバスガイドさんから八戸の歴史を聞きました。

800年前、源頼朝の奥州藤原氏討伐のおり、戦功のあった南部三郎光行が山梨から一族を引き連れて移ってきたのを祖とし、江戸時代に28代目が南部藩当主となり、その何代目かが分家して八戸藩を起こしたということです。岩手だとばかり思っていた南部が青森にもまたがっていることを知ったのはつい最近のことで、一帯を南部というのは光行由来だと合点がいきました。

奥入瀬は奥に入るほど瀬が多いという意味です。
十和田湖から流れ出る豊かな水は幾筋もの滝をつくり、ブナやクルミ、楓やかつら、とちの林が奥入瀬の景観をつくっています。

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奥入瀬の源、十和田湖は周囲から流れ込む川がなく、水は湧水です。
20万年前の火山の噴火によって誕生したカルデラ湖の水深326.8mは国内3位と言われ、その水が、唯一流れ出る先が奥入瀬川なのです。

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どこまでも青い十和田湖の湖面

「奥入瀬を見ずして十和田を語るなかれ」と言ったのは明治に活躍した大町桂月です。高知県出身の桂月はよほどこの地が好きだったのでしょう。晩年を十和田の蔦温泉ですごしています。今は知る人も少なくなった桂月ですが、奥入瀬の名を全国に広めた恩人です。

十和田のもう一人の恩人は高村光太郎です。
愛する妻智恵子をなくし、戦後は岩手県花巻の郊外に隠遁していた光太郎は、乞われて十和田湖畔に乙女の像を作りました。智恵子を象ったといわれる乙女の像は、すでに結核の末期にあった光太郎が最後の力を振り絞るように制作したものでした。

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遊覧船から望む乙女の像

旅の最後は八戸に戻って種差(たねさし)海岸へ。名前はアイヌ語のタンネからきています。
タンネは芝を意味するアイヌ語です。その名のとおり、一面に天然の芝が広がる海岸は、春から初夏にかけて、ハマナスやハナショウブ、キリンソウ、スカシユリなど多くの海洋植物が咲き乱れ、花の渚ともよばれています。
近くには、繁殖のためにウミネコの飛来する蕪島(かぶしま)があり、巣立ちして島を離れる時のウミネコの数はなんと4万羽。中には子育てを終えてもこの地にとどまるウミネコもいるということです。

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種差海岸の芝生
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沖合の小島にウミネコの姿が見える

蕪島、種差海岸のある八戸から気仙沼まではかって陸中海洋と呼ばれていましたが、今、三陸復興国立公園になっています。あの震災と復興を記憶にとどめたい思いが感じられました。

 

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雑記帳2020-9-15 [代表・玲子の雑記帳]

2020-9-15
◆「プラスチックなくしたい!~レジ袋削減の先に」のオンライン交流会を実施しました。

2012年から多摩地域で活動する消費者団体が連携して行う、年に一度の交流会のテーマはプラスチックに決まりました。

この7月からスーパーーやコンビニなどのレジ袋が有料になりました。長年、有料化が求められていましたが、客が離れるという業界の強い反対もあって実現しませんでした。しかし、レジ袋を使わない日常が始まってみると、コンビニでのレジ袋辞退率は75%という意外な結果、なかなかの好発進です。

9月7日の開催にはコロナの為草々にオンラインでの実施が決まりました。
一緒に活動している仲間は高齢者も多く、パソコンやスマホの扱いに慣れていない不安はありましたが、呼びかけには90名を超える参加がありました。

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当日はDVD「プラスチックの行方~リサイクル日本の幻想」視聴と、東京農工大学教授・高田秀重さんの講演、流通と生産を扱う生協の取り組み紹介という組み立てでした。

DVDは「日本がプラスチックごみを海に流しているというのは誤解です」という安倍首相のパフォーマンス画像から始まります。(安倍さんは本当かどうかは別として、両手を広げて世界にアピールするのが好きです。オリンピック誘致の時に福島が完全にunder controlだと言った時もそうでしたね。)
それこそが誤解であることはすぐにわかります。確かに日本の海岸に打ち上げられた大量のプラスチックごみの中にmade in Japanはみあたりません。しかし、海はつながっており、ハワイ島の海岸で見つかる一番多いプラごみは日本製なのです。

1950年代200万トンだったプラスチックの生産量は今や4億トン、200倍です。
それに伴って大量に廃棄されたプラスチックをとおして魚の体内にとりこまれる環境汚染が問題になりました。
その危険性にまず注目したのは実はルワンダ、タンザニア、ケニアなどアフリカの、途上国と呼ばれる国々でした。 アメリカではカリフォルニア州がそのあとに続き、2016年には900か国が使い捨てプラスチック容器の規制をしています。

その動きの中で、中国は資源としてプラスチックごみを受け入れてていました。日本の分別されたプラスチックごみは中国に輸出されることで処理されていたのです。その中国でさえ2017年に輸入禁止をしたのは周知のことです。

日本では1995年に容器包装リサイクル法が施行され、2017年には900万トンの86%が有効利用されていることになっています。
2019年にはG20サミットで、大阪ブルーオーシャンビジョンが示され、(先の安倍首相のパフォーマンスはこのときのものです)使い捨てプラスチック削減ももりこまれました。
一見、日本はプラごみの先進国のようにみえますが、実はここで言われる「リサイクル」の殆どが焼却だということを私たちは知らなければなりません。真のリサイクルはほんの一部にすぎないのです。

容器包装リサイクル法は、使用済みのプラスチックを回収する仕組みを作ったものの、問題をかかえながらの出発でした。
回収・処分の費用は企業に対して市町村の負担がはるかに大きく、負担に耐えられない自治体はサーマルリサイクルに頼らざるをえません。焼却で発生する熱を地域に還元するという側面はありますが、CO2発生という別の環境問題を抱えることになるのです。
海外の流れを見ると、日本はむしろ後進国です。
ドイツでは容器包装の回収費用は企業が負担しています。

中国だけでなく、東南アジアの国々でも規制が始まって、プラスチックごみを処理コストの安い途上国に依存していた日本は、行き場を失ったごみがたまりはじめました。結果、焼却による問題を抱えたまま、環境省は焼却をすすめています。
輸出や焼却への依存を脱するためには、つくってしまうと将来につけをまわすことになるという認識をもって、脱プラスチックのために選択肢を増やすことが必要です。

現在、プラスチックが石油生産量に占める割合は8~10%ですが、2050年には20%になるといわれています。最もリサイクル率の高いペットボトルでさえ回収率は89%ですから、1%が海に出るだけでも数千万本になるのです。

流れている間に紫外線によって劣化し細片化したプラスチックが、マイクロプラスチックです。マイクロプラスチックは使い捨ての容器だけでなく、スポンジや人工芝、タイヤ、化粧品のマイクロビーズなどさまざまなものが原因になります。化学繊維は洗濯のたびにマイクロプラスチックを生じています。
こうして世界の海には今50兆個ものマイクロプラスチックがあるといわれています。
このマイクロプラスチックを海洋生物が餌と間違えてとりこんでいることが昨年多くの人々の関心をあつめました。さらに食物連鎖によってマイクロプラスチックは生態系のすみずみにおよんでいます。

マイクロプラスチックの問題だけではありません。
プラスチックには、性能を維持したり、使いやすくするために多くの化学物質が添加されています。色や柔らかさを奪う紫外線の吸収剤は欠かせません。 劣化を抑えるための紫外線吸収剤はペットボトルのふたにまでつかわれています。
添加材の一部は水や食べ物にとけ、環境ホルモンとして、生殖に関係するだけでなく、アレルギーや免疫力の低下をひこおこすといわれています。

プラスチックの半分を占める容器包装の廃棄は、管理して海へ流れるのを止めなければなりません。そのためにはどうすればいいのか。
埋め立てれば土中で分解して有害物資が染み出し、川を汚染することになります。
焼却すれば、(現在日本では7割がサーマルリサイクルとして焼却されています)CO2発生による温暖化を促進することになります。
さらに高性能の焼却炉はダイオキシンの発生は防ぐことはできますが、高温の焼却炉の寿命は30年しかなく、一基100億円もかかるという、きわめてコストの高いものなのです。
今話題になっている植物由来の生分解性プラスチックも、完全に分解するすることはなく、中途半端に分解して細かくなったものはマイクロプラスチックになってしまいます。

リサイクルも完全ではありません。                      
まずリサイクルには手間も費用もかかることを覚悟しなくてはなりません。
そしてリサイクルするたびにポリマーの質は低下するので、無限にリサイクルできるわけではないのです。

結局のところ、使用量を減らすことしかありません。
まず、3R(reduce(減らす)>reuce(再利用する)>recycle)を徹底し、優先順位をつけることです。先ず減らすことを最優先する考え方です。
使い捨ての弁当箱、ポケットテイッシュ、液体洗剤などを断る(refuse)ことも必要です。
詰め替え容器はボトル容器に比べて環境にやさしいと考えてはいけません。プラスチックを何層も重ねた詰め替え容器は決してエコではないのです。

リサイクルが最後とはいえ、大切です。リサイクルしやすい商品のデザインや流通の仕組みは徐々にできつつあります。
たとえば、化粧品会社のLUSHは、液体の化粧品を固体化することで、パッケージをなくしました。

7月から有料になったレジ袋について、プラスチック総量のわずか2%にすぎないレジ袋を有料化することにどんな意味があるのでしょうか。
実はレジ袋は他のプラスチック製品よりも多くの有害な添加物がつかわれており、レジ袋自体が直接海洋生物に影響をおよぼしています。それが削減されることは、思っていた以上に効果があることがわかりました。
レジ袋有料化から始まる他のプラスチックごみ削減への道を開くために、環境省はその道筋を示してほしいものです。

農工大では上記の3Rにrenewable、resaearchを加えた5Rキャンパスとして脱プラ宣言をしました。キャンパス内に給水器を設置して、ペットボトルを0(零)に、レジ袋も廃止。プラスチックフリーや再生可能な(renewable)素材のグッズを採用する。バイオマスの研究(research)を通して3Rを進める。それらの取り組みが今、各方面から注目されています。

コープデリの宮川さんからは生協の取り組みを紹介してもらいました。客の利便性を優先する現場では一気に削減を進めることが難しい場面もありますが、SDGSの取り組みに貢献したいと、refuse、reduce、reuse、ecycle、renewableの意識がが根付いていることを学びました。メーカーや流通の現場でも脱プラスチックの動きは始まっているのです。

◆今年もアールブリュット立川展が開かれました。2015年に始まった同店は今年で6年目になります。

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アールブリュットとは、「加工されていない、生(き)のままの芸術」という意味のフランス語で、画家のジャン・デュ・ビュッフェによって考案された言葉です。
英語では「アウトサイダ―」と称され、伝統や流行教育などに左右されず自身の内側から湧き上がる衝動のままに表現した芸術と言われています。
日本では、知的障害者の制作する美術を指すことが多いようですが、世界でも高く評価されているということです。
9月2日から15日までは市内の高松学習館で、9月16日からは伊勢丹で開かれます。

実行委員長の松島ゆかりさんによると、始めた当初はアール・ブリュットについて知らない人が多かったが、毎年開催したことで多くの方に、その魅力を知ってもらえるようになったそうです。特に今年はコロナの関係でアート展示が中止になることが多く、開催を喜ぶ人も多いということです。

今年のテーマは「エコ」。廃材、段ボール、糸くず、フルトップ、新聞紙などを使った作品も出品されました
学習館に伺って写真をとらせてもらいました。
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会場で一案の大作『カンブリア』
作者の鈴木晧平さんはヒラメの独特の世界観があり,それをモチ-フにした絵を描くことが多いそうです。

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雑記帳2020-9-1 [代表・玲子の雑記帳]

2020-9-1
◆Go toトラベルは始まったものの、東京発着は対象外。ステイホームが長引くなかで、熱中症を避けて出歩くこともせず、ひきこもる日が続きました。

コロナを契機に生活のさまざまな面で変化がおこりました。
テレワークや巣篭り、片付け、タッチレス生活がくらしのキーワードになりました。
一方で、減った行動は化粧やおしゃれです。
人のために装う必要がなくなったのです。
マスクをする日常では化粧は手抜き、テレワークなら高価なスーツも要らず、ユニクロで十分。緊張感を欠いたくらしはじつは誠に居心地がいいのでした。

ひきこもりの中でも変化は欲しいと出かけるのも近場です。
この春オープンした立川の新街区GREEN SPRINGSは、まだちょっとときめき感のある場所です。おしゃれな、若者も集まるエリアは「ここが立川?」と思わせます。

3,000人収容のSTAGE GARDENは、ホールが密室状態ではなくオープンになっているのが特徴です。2階席後方が開放されて、野外に音が流れる構造になっています。
コロナ禍でのびのびになっていましたが、辻井伸行さんをむかえたこけら落としもすみ、8月は恐竜ショー「デイアノアライブ」がひらかれました。
新街区は開発前の数年間、ヤギが飼われていたところです。「ヤギのあとは恐竜か」と野次る声もきこえてきそうですが。

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池のむこうがSTAGE GARDEN
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恐竜ショー

辻井さんのコンサートはオンラインで開催されました。
この日は街区を訪れた人たちも開放された窓から聞こえる音を楽しむことができました。最初に演奏された曲はGREEN SPRINGSのために辻井さんが作曲したオリジナルだということです。

子連れの若いお母さんたちが多いと思っていたら、ここは商業区ながら保育園もあるのです。子どもの喜ぶスポットはホール外階段の流れる水だけではありません。その名も「Play!」のプレイルームもあり、小さい子がいても入りやすいレストランが併設されています。

ビオトープのある豊かな植栽は、ここが階上にあることを忘れさせます。
欅やかつら、紅葉などの樹々も、時を経ればもっと大きくなって、風の通り抜ける空間に木陰をつくり、もっと心地よくなるはず。

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街区の中心、SORANO HOTEL(空のホテル)オープンのテープカットが、立川にある国立文学研究資料館館長のロバート・キャンベルさんと元テニスプレイヤーの杉山愛さんを迎えて行われたことはお知らせしたでしょうか。そのSORANO HOTELがWell Beingをコンセプトに食には特にこだわっていると聞いて、「食とくらしの会」の8月の定例会はSORANO HOTELのランチに決めました。

SORANO HOTELには3つの「O」があります。ロゴにあるその「O」の位置が少しずつずれているのは、上ったり沈んだりする太陽をあらわしているのだそうです。

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ホテル正面入り口
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エントランスを入ってすぐ横の壁にあるロゴ

立川は、都心より産地に近いことが魅力。DAICHINO RESTAURANT(大地のレストラン・・・空のホテルに呼応して)では多摩、秩父、甲信地域の産物が提供されます。野菜や肉だけでなく、調味料も、あきる野市にある、東京で唯一の醸造所の丸大豆醤油を使うというこだわりです。

グループなので、通された部屋は適度にソーシャルディスタンスをとって。

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最初に出てきたのは食前酒ならぬ、食前出しでした。
本枯節を使った一番出し汁は富士山の雪解け水、函館の塩がつかわれています。
富士の湧水は国内有数の「超」散水だということです。水の硬度が高いとグルタミン酸のうまみが充分にひきだせず、低いとよく出るということをご存知でしたか。

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野菜は「地産地消」をうたいたいが、立川産だけでは間に合わず、エリアを甲信地域までひろげたのは、「適地適作」の考えもとりいれたからだそうです。青柚子のドレッシングをかけたサラダは実にカラフル。皿の淵にはひしおの合わせみそ。出し酢とショウガのジュレがついてきました。

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メインには富士山サーモンにだし巻き卵。卵は立川の伊藤養鶏場の卵です。
しょうがご飯は那須で栽培された自慢のコシヒカリ。SORANO米の名がついています。

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デザートは3種から選べる。コーヒーは別料金

あいまに出されたお茶はルイボスティ。鉄分もおおく、健康や美容にいいと、女性に人気のお茶です。発酵していないお茶は抗酸化作用があるとききました。
1回や2回、たまにランチするくらいでは効果は期待できませんが、世はPR次第の時代、Well Beingのコンセプトも女性に人気がありそうです。個室を出てくると、レストランのフロアいっぱいの客はほとんど女性でした。

◆長い休みの間に訪ねたもう一軒のカフェは、武蔵五日市駅にほど近い古民家カフェ「小机邸」でした。ぐるなびに紹介され、明治時代に建てられた建物は東京都の有形文化財になっています。

あきる野市三内にある小机家は、江戸時代に山林業で財を成し、明治期に入ってからは五日市線の開業に尽力するなど、地域の発展に尽力してきた旧家です。
その、明治初期に建てられた和洋折衷の母屋の一角が、週末に喫茶室として開放されているのです。

小机邸があるのは、JR五日市線の武蔵五日市駅から秋川街道を青梅方面に進むこと約700mの所。本数は少ないながらバスの便もあります。
五日市線の線路の下をくぐり、坂道を登って、道なりに進むと、間口の広い入り口が見えてきます。そばのバス停の名前も「小机」。「安居」の表札がかかっています。

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入口をはいって、まず目につくのが右手にあるロッジ風の建物。こちらは別に文化財ではなく、ご主人の趣味に使われてているそう。母屋は奥にあります。

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文明開化の時代、西洋風の、バルコニーのついた煉瓦造りの建物が次々にたてられ、その波はここ、西多摩の地にも伝わったのでした。

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外観はそのままに、玄関部分が明治期のままで、靴を脱いで上がった先にある喫茶室は昭和初期に改築されたものだということでした。
相客のいないのを幸い、開放されている1階の写真を撮らせてもらいました。
木造住宅には珍しい螺旋階段、段のひとひとつに彫刻がほどこされていて、当時、贅を凝らして建てたことが推測されました。

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玄関にある螺旋階段
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玄関横にある明治の和室
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喫茶室に隣接する、改装された方の和室
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昭和初期には暖炉はハイカラだった?

メニューはコーヒー、紅茶、抹茶。私が頼んだのは抹茶です。付いたお菓子はひまわりでした。
街道に面しているにもかかわらず、静かな喫茶室で、暫くのんびりお茶をいただきました。

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三時のお茶の時間ちかくになると、客がどっと来店、狭い部屋は密になりそうになりました。あわてて退散しましたが、ひと時、昭和初期のレトロな雰囲気の残る部屋で、静かにお茶を楽しめたのは幸運でした。


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雑記帳2020-8-15 [代表・玲子の雑記帳]

2020-8-15
◆薬用植物園は夏の花でにぎわっていました。

我が家から自転車で20分ほどのところにある都立薬用植物園は、これまで春と秋に見学会を企画して多様な植物の生体や禁断のケシの栽培をみてきました。が、流石に夏は暑さをさけて訪れたことはありませんでした。
意を決して出かけてみると、カメラかたての見学者もちらほら、林の中では高齢のご夫婦がベンチで一休みする風景も見られました。
広い敷地は風が通り抜け、真夏でも日陰は意外に筋しいのです。
林の中には小さいながら野外ステージもあります。

夏はやはりシソ科やナス科の植物が元気です。
筆頭はコガネバナ。夏に鮮やかな」あお紫の花をたくさんつけます。
周皮を除いた値が薬用部位で、黄色の染色用にも用いられ、生薬名は黄芩(オウゴン)と紹介されていました。

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シソ科の植物は他にカワミドリ、茎葉や根が漢方薬に用いられています。
ハーブのミントの仲間だと言えば憶えやすいでしょうか。

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タバコがナス科だと知っていましたが。
葉がタバコの原料になるのは承知のことですが、栽培は自由化されています。花が意外にかわいいので、花タバコとして改良されているそうです。

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ナス科はほかにもオオセンナリ。実はホオズキに似ているが有毒なので食べられません。

ムクゲは韓国由来とおもっていましたが、原産地は中国です。鮮やかな大輪の花をつけていました。民間悪として、花を煎じて下痢どめにするそうです。

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そういえばユリの花も夏ですね。
オニユリは梅雨明けから赤橙色にはんてんのある花を咲かせます。
歯の付け根にムカゴをつけて繁殖します。ユリ根と言われる地中の輪形を蒸して乾燥させたものを生薬にするるのだそうです。

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有毒の花も咲いていました。センニンソウです。別名ウマクワズともいわれ、馬や牛は絶対に口にしない。歯や茎は皮膚炎の原因になるともいわれます。キンポウゲ科で、仲間にはクレマチスが観賞用に栽培されています。

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秋に実のなるウリの花は夏です。これは赤い実でおなじみのカラスウリの花ですが、ヘビウリの花も同じように白い花びらに糸をつけています。普通、夜に花が咲くのだそうですが、午前中に行って、咲きのこっているのを写真にとりました。

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近年健康食として人気があり、食用に栽培もされているキクイモと似ているのでつけられた名前のキクイモモドキです。花は丈夫で長持ちするので、花の少ない時期に商法されています。

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トロロアオイの花はオクラに似ているので花オクラとも呼ばれます。
値から抽出されるネリ(糊)と呼ばれる粘液がかまぼこや蕎麦のつなぎ、漢方薬の成型に利用されています。
赤まんまとも称されて私の母も大好きだったイヌタデより、もっと大きいのがオケタデです。虫刺されのとき、これの生場をもんで汁をなすりつけるという民間療法がありました。


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他にもハマナスの実、ノゲイトウ。ロックガーデンエリアには松虫草を見つけました。


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立秋をすぎる頃とあって、キキョウやオミナエシ、ハギなど秋の七草もそろそろと咲きはじめています。

◆猛暑に悲鳴を上げる中、「食とくらし」の会では、この季節にぴったりの簡単レシピを作りました。材料は4人前。

◇豚冷しゃぶフレッシュトマトソース
<材料> 豚しゃぶしゃぶ用280g、 トマト小2個、 玉ねぎ中1/2個、パセリ1/2束、
              酢大さじ1.5、塩小さじ0.5、オリーブ油大さじ1、コショウ少々
<作り方>
①鍋にカップ5の湯を沸かし、豚肉を1枚1枚湯にくぐらせ、皿にとっておく。
②トマト・玉葱・パセリはみじん切りにする。(たまねぎ、トマトは余り細かくすると調味料を合わせたとき水っぽくなるので粗めでよい)
③調味料(酢・塩・オリーブ油・コショウ)を合わせ、②とよく混ぜたわせるとフレッシュトマトソースの出来上がり。
④豚肉にたっぷりのソースをかけていただく。

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◇ナス,トマト、夏野菜のイタリア風

<材料> なす2個、トマト1個、玉ねぎ1/2個、ピーマン1個、ニンジン1/2本、
            ベーコン薄切り50g, ニンニク1かけ、オリーブ油大さじ4、水1/4カップ、 
            粉チーズ大さじ4、塩小さじ1弱、コショウ少々、パセリ1/2束
<作り方>
①なすは皮を縞目にむいて1.5cm幅の輪切りにする。
②トマトは湯引きして種を除き、ざくぎりにする。
③玉ねぎは横半分に切り、それぞれを6~8等分する。
④ニンジンはやや集めの短冊、ピーマンは縦2つに割り種を覗いてそれぞれ4つに切る。⑤ベーコンは補足霧、ニンニクは包丁の腹でつぶす。
⑥オリーブ油でニンニク・玉ねぎを炒め、次ぎにニンジンを入れて炒める。
⑦さらになすを入れて焼くように炒め、トマト、ピーマン、ベーコン、水を加えて塩・こしょうで調味し、中火で20分くらい煮る。
⑧パセリ。粉チーズをふり、蒸らす。

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◇きゅうりと卵のスープ
<材料> きゅうり1本 卵1個 ねぎ1本 しょうが1かけ、塩小さじ1/2
           スープ(豚のゆで汁) カップ4、酒大さじ1
<作り方>
①きゅうりは斜めに薄切りにする。
②卵は割りほぐす。
③スープにねぎ、生姜を入れ、煮立たせながら灰汁を丁寧にとり、酒を入れ塩で味を調える。
④にきゅうりを入れしんなりするまで煮る。
⑤卵を回し入れ、さっとかき混ぜて日を止める。

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◆長かった梅雨があけたと思えばすぐ立秋、猛暑でも暦の上ではもう秋です。GoToトラベルにもかかわらず、ステイホームの東京で、つれづれに一茶の句を拾いました。

   けさ秋ぞ秋ぞと大の男哉      七番日記  化7
   けさ秋と云ばかりでも小淋しき   七番日記  化11(
   立秋もしらぬ童が仏哉       七番日記  化11
  夕やけや人の中より秋が立     七番日記  化11
   秋立といふばかりでも足かろし   文政句帖  政8
  秋来ぬとしらぬ狗が仏かな     文政版     政3
   藪竹の曲った形に秋は来ぬ          発句集続篇
 

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雑記帳2020-8-1 [代表・玲子の雑記帳]

2020-8-1
◆コロナのため延期されていた映画「瞽女」の試写会が有楽町のマリオンでありました。

瞽女は、三味線を奏で、語り物などを歌いながら各地を門付けして歩く盲目の女旅芸人です。かっては日本全国に存在した瞽女が、戦後の高度成長で消滅していくなかで、“最後の瞽女”と呼ばれた新潟県三条市出身の小林ハルさんの半生を描いた映画の完成試写会がありました。監督は瀧澤正治さん。今風に、ソーシャルディスタンスをとった会場では、入場前の消毒、検温も欠かしません。

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「瞽女」のポスター
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ロビーに飾られていたお酒の銘柄も「瞽女」

生後3か月で失明したハルは2歳で父と死別。7歳で瞽女になります。
盲目の娘が親なきあと自立できるようにと願った母トメは、心を鬼にして厳しくしつけます。
象徴的なのがミズと呼ぶ針の穴に糸をとおす場面です。
大きいミズから始めて次第にミズを小さくしていく、目がみえないからできないと泣く娘にトメが言った言葉は「お前は手だけで糸をとおそうとしている。目がみえなくても、口も舌も指もみんな、体全体が目なんだよ。」

冬には「かんごえ」と呼ばれる厳しい修行もあります。降りしきる雪の中、薄い着物一枚に足袋も履かず、川に向かって声を出すのです。一度喉をつぶしてのちに出るようになった声は、90歳をこえてもなお艶のあるハルさんの瞽女歌のもとになったのでした。

今なら虐待とかたづけられそうな、そうしたしつけや修行を強いた母は子供には自分をいじめる鬼としか映らず、トメの臨終にハルは涙一滴こぼすことはありませんでした。
後年、親方となったハルが幼い弟子を育て、糸通しを教えるとき、できないと泣いて反抗する弟子にかっての自分が重なって、はじめて母親の深い愛を知るのです。

瞽女の一年の大半は巡業の旅です。
視力のある手引きを先頭に、親方と姉弟子、弟子が、前を歩く人の荷に手を触れて動きを知り、右手に持った杖で足元を確認しながら旅をして、瞽女を待ち望む山村へき地の村人に瞽女唄を届けます。
旅は、瞽女自身は見ることのない、美しい越後の風景とともに流れました。

娯楽の少ない村人にとって、瞽女宿に集まって瞽女唄を聴くことは楽しい年中行事でした。
同時に、瞽女は貴重な外の情報を村にもたらすものでもありました。
瞽女さと呼んで瞽女を迎える村人はみなやさしく、差別はありませんでした。

過酷な瞽女人生の中で、ハルが縁した親方は二人いました。
意地悪なフジ親方からは理不尽な仕打ちを受けながらも決してうらむことなく、瞽女として生き抜く力を学びます。
そして、やさしいサワ親方からは瞽女の心を学ぶのです。ハルさんの言葉です。
「いい人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修行・・・」

サワ親方は小林綾子さんが演じていました。ハルさんの言う、祭りのように楽しい旅の印象的なシーンがあります。
花の咲き乱れる野にいても、目の見えない瞽女は花の色がわかりません。
サワ親方はいうのです。
「色は見えずとも、臭いをかぎ、手で触り、風に揺れる音と聴いて、体全体で花を見るんだよ。」
花畑の中で3人の瞽女が楽器を打ち鳴らし踊る様はさながら夢のように美しい場面でした。

サワ親方が語った言葉はほかにもあります。
「人は誰でも神様から与えられた授きものがある。その授きもので他人(ひと)を喜ばせることができるんだよ。」
親方亡き後、、自身が親方となったハルの瞽女唄に村人がききほれるとき、ハルは心の底から思うのです。「かみさま、私にこんな授きものをくださって、ありがとうございます。うれしい・・」

映画はここでおわっていますが、その後もハルさんの人生は決して平坦ではなく、養子縁組した婿からの搾取や実家との縁切りなど、苦労の絶えることはありませんでした。それは終の棲家となる老人ホームに入所するまでつづきました。
それらの過酷な運命を逍遥としてうけいれ、廃業してホームに入ったのち1978年に無形文化財となった瞽女唄の保持者と認定され、1979年には黄綬褒章もうけています。
ホームには高田瞽女の杉本キクエさんも入所しており(ハルさんは長岡瞽女)、奇しくも最後の瞽女たちが集った形です。晩年になってようやく穏やかなくらしを手にいれることができたのでした。

終演後、監督と出演者の舞台挨拶がありました。
主人公・ハルの成人期を演じたのは吉本実憂さん。彼女は約1ヶ月半の三味線や歌の練習に励んだということです。「小学生の時に4ヶ月くらい遊びで触ったことがある程度で、本格的に習ったのは初めて。指の皮がたくさんめくれましたし、声も喉が常に潰れていた」と、苦労しながらも、映画の中では見事な音と声をきかせてくれました。

舞台挨拶にはそのほか、少女時代の川北のんちゃん、母トメの中島ひろ子さん、小林彩子さん、歌手の小林幸子さんたちが出席していました

小林幸子さんは赤ん坊のハルの運命を左右した占い師の役でした。赤ん坊のハルを見て、
「この子は長生きするよ。人に喜びをもたらす子になる。瞽女にしなさい。」
ハルさんと同じ新潟出身の彼女は、幼少期に瞽女たちの三味線芸に触れていたそうです。「祖父母が瞽女さまが家に来るのが楽しみにしていた。90歳になっても素晴らしい声を保っていたハルさんのように、私も90歳まで歌っていたい」と語っていました。

映画「瞽女」には瀧澤監督の17年の思いがこもっています。
「映画を監督したいと思い立ったのは 2003年1月のことでした。 テレビ番組で初めて瞽女・小林ハルさんの 存在を知ったのがきっかけです。完成まで17年かかったが、17年は苦しい時間ではなく、いい時間だった。いろんな人に出会いいろんなことを学んだ。一人ではたどりつけなかったと思います。ぜひ多くの人にみてもらいたい。」

瞽女は新潟だけでなく、長野、福島、山形、千葉や福岡にいたるまで、全国にいました。
彼女たちは村々に娯楽をとどけるとともに、閉ざされた社会に外からの情報をもたらす役割も果たしていました。テレビの普及ととともに瞽女の文化は次第に消えていきました。

小林ハルさんは104歳で死去。瞽女はいなくなりましたが、彼女に教えを乞うた人達によって今も瞽女唄は歌い継がれています。

ハルさんの生涯はWikipediaに詳しくかかれています。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/小林ハル
紹介されるハルさんの言葉はどれも胸にひびくものばかりです。
映画は8月8日からハルさんの故郷、新潟で先行公開されます。

目が見えないために一生だれかの世話にならなければならない、そのためには人に迷惑をかけてはならないと思う母親は、目の見える人以上の身なりや生活のしまつを娘に厳しくしつけました。母親の思いはそのままハルさんにうけつがれました。
福祉の環境も制度も無かった時代に、それは必要な厳しさだったのでしょう。
以前、瞽女のドキュメンタリーを見る機会がありました。盲目の彼女たちの凛とした生き方に圧倒されたことを思い出します。共同して自立した生活を営む彼女たちの日常の、礼後作法のすがすがしさとともに、見事に片付いた部屋にはちりひとつ、ほこりひとつないのでした。

数年前、訪れた新潟県頚城郡の寒村、少子化で廃校の目立つ村に、都会からやってきた若者たちが介護サービスを展開している姿が忘れられません。
瞽女を受け入れることで外部に開かれていた土壌が、高齢化と過疎の村に若者を呼び込むことにつながっているのではないでしょうか。

◆7月15日、立川市富士見町に、さとうそのこさんのギャラリーがオープンしました。

人形作家のさとうそのこさんが亡くなったのは昨年秋のことです。友人だった音楽プロデューサーのしおみえりこさん夫妻が、自宅のガレージ跡を提供し、そのこさんの作品を集めたギャラリーが誕生しました。その名も「ガレージギャラリー・カメレオン/そのこメモリアル」。青梅線西立川駅の近くにあります。

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立川市の元米軍ハウスに住み、そこをアトリエにして、ご主人の銅板造形作家、赤川ボンズさんと創作活動を続けていました。『知の木々舎』には、みそのたかしさんとの共著、絵本『かみさまからのおくりもの』を紹介しました。戦後全国の基地の街にあった「ハウス」が消えて行く中で、立川に残っている「ハウス」を取材におとずれたのがご縁でした。

オープンを知って訪ねあてた8畳ほどの小さなギャラリーは、壁いっぱいにそのこさんの作品が展示されていました。思わず「わあ、色があふれてる」と言いながら、ご主人の赤川さんの「(そのこさんは)色が暖かい」という言葉を思いだしていました。
小学校の音楽教科書の表紙もかざったことのある「そのこ人形」は、ふっくらしたおなかに、ゆらゆら揺れるような優しい感じと色が人気でした。

訪ねた日、ギャラリーは数人の中学生たちが先客でした。密にならないよう、入れ替わりながら、赤川さんとおしゃべりを楽しんでいるようでした。コロナのためにかってのような人とのつながりがうすれると心配されていますが、こんなところにもたまり場はできると思わされた場面でした。

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雑記帳2020-7-15 [代表・玲子の雑記帳]

2020-7-15
◆本場のキムチは薬膳? 韓国人の朴さんにキムチを習いました。

所属するサークルのメンバーの一人、朴さんは、牧師のご主人に伴って日本へやってきました。大学を卒業したあと、日本の学校給食を学びにきた留学経験もあります。いまは教会に来る人達の求めに応じてキムチを教えています。

何十人も泊まれるような大きな屋敷に家政婦さんに囲まれて育った朴さんは、実はそれまで自分で料理をしたことはありませんでした。大学で学んだのも調理ではなく、あくまで食品化学、食べ物をその成分を数値で理解していたのだと笑います。日本に来て、指先が変形するくらい必死でキムチを漬けるうちに、今では朴さんにキムチを教わりたい人があとをたちません。

「食とくらし」の会も、この冬、朴さんに習ってキムチづくりに挑戦しました。

唐辛子、ニンニク、ショウガの薬味はもちろん、セリ、ニラ、分葱、ネギ等の香味野菜をたっぷり使います。
松の実、ゴマ、塩昆布、アミの塩辛等は朴さんに用意してもらいました。
面白いことに煮干しで出したダシも使いました。

①白菜を1/4にカットし容器に敷き詰めるように入れ、白菜の4%の塩分量で一晩水漬けする。その後、よく水洗いして塩を抜く。

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②ヤンニョム(本漬けの際に白菜と合わせるうま味・辛味の素)や薬味などを合わせるのり(米粉や小麦粉)は濃く煮出した煮干しだしを使う。

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せりやネギ、ニラなど香味野菜
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煮干しでとった「だし」と「のり」
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唐辛子はこんなにたくさん使う
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朴さんに用意してもらったヤンニャムいろいろ
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韓国では白菜はカットしないで一株まるまる漬ける。

⓷好みで香味野菜や塩辛なども入れる。

大切なのは白菜の塩抜きと水切りです。
一晩塩水につけた白菜は、洗ってから水切りをしてヤンニョムを入れて本漬けをします。4%の塩分は多いような気がしますが、塩はヤンニョムがなじむためのものなので、白菜がしんなりしたらしっかり塩抜きするのがコツです。

ヤンニョムは「薬念」と書きます。すべた体に良いものです。
ニンニク、ショウガ、葱が基本、青みも必須なので、セリや青唐辛子がはいります。
「アミ」は蛋白として、「のり」は糖としての役目もあります。
多種類の野菜を使っていかにもヘルシーです。

この時作ったキムチは3日が消費期限。あっという間にたべきってしまいました。
その後、コロナ自粛の間に朴さんからキムチ談義を聴くことができました。

キムチは各家庭に伝わる伝統料理です。
地域の気候、産物によって、酒類は100種類以上あるといわれています。。
トマトキムチもあれば、海産物のキムチもあります。
なんでもキムチになるのです。

韓国ではキムチも北と南では味もちがいます。
北はうすく、あっさりした味、南は重くてこってりした味だということで、韓国では南の味が好まれているそうです。

面白いことにキムチに欠かせない唐辛子は実は日本から入ったのだそうです。それまで韓国には唐辛子はなかったのです。
もちろん野菜を漬ける文化は唐辛子が入る前からありました。
昔から、醤油やみそを入れる甕の周りには赤いケイトウを置く習慣がありました。
赤は悪をおいだすと考えられていたので、ケイトウは甕を守るためでした。
唐辛子の赤も同じ考え方として、韓国に受け入れられ、根付いたのでした。日本の辛い唐辛子は今は韓国向けに改良された品種になっています。

朴さんがキムチを語るとき、日本と韓国の食文化の違いがよくわかります。
先ず日本の漬物のおいしさは「甘味」だというのです。浅漬けのように食材そのものの単純な味が日本人は好きです。(「甘味」は一般に言われるのとはちょっと違うようです。「さっぱり」くらいの意味でしょうか。)
対して韓国のおいしさは「深み」です。深みは薬と時間をかけて生まれるおいしさです。
このため、日本では柔らかくてみずみずしい白菜が好まれるが、韓国は固くて長持ちする白菜を求めます。冬につけたキムチは冷蔵して1年中食べるのです。日本の一般の白菜漬けはとてもそんなにもちませんが、11月に収穫される「新理想」という長野県産の白菜は硬くて甘味も強く、長持ちするのだそうです。

韓国の食はニンニクと牛肉に尽きるが、日本の食はショウガと豚肉だと朴さんは言います。
キムチにしても韓国はショウガはニンニクの1/10程度しかいれないが、日本なら同量使う。日本人はショウガが好きです!
この段で行くと、中国はタマネギと鶏肉になるのだそうです。

キムチのおいしさは歯ごたえにあるともいわれます。
薬念を入れて漬けこんだキムチは時間とともに発酵して化学反応を起こす。
ぷくぷくと炭酸がでてくるのを朴さんはサイダーと呼んでいますが、サイダーは発酵のしるしです。食べるときの爽快感にもつながるのです。
発酵でVCと乳酸菌がふえつづけ、それがピークに達したときが一番おいしいのだそうです。
過ぎると酸味が出て、歯ごたえも悪くなります。

色と同じように野菜の鮮度は大切です。
野菜の鮮度を保つため、干すことを朴さんは日本で学んだと言っていました。
唐辛子といい、野菜を干すことと言い、韓国の代表的な食べ物に日本がからんでいたというのは面白いではありませんか。

野の花が少なくなるこの季節、昭和記念公園では渓流広場に夏の花壇が出現します。
春、ここはチュリップ畑でした。6月になって再開したものの以前の賑わいには遠く、今年はプールのないとあって、水の広場もひっそりとしています。

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渓流広場夏花壇
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渓流広場近くではダリアも見ごろ。
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緑の文化ゾーンの花壇
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日本庭園楓風亭のお菓子は季節さきどりの撫子でした。


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