SSブログ
代表・玲子の雑記帳 ブログトップ
前の20件 | -

雑記帳2022-5-15 [代表・玲子の雑記帳]

2022-5-15
◆立川に「けやき座」という名の大衆演劇場がオープンしてまもなく7年になります。

大衆演劇は、日本の演劇におけるジャンルの一つ。一般大衆を主な観客とする娯楽性を重視した演劇のことで、剣劇、軽演劇、レビュー、ミュージカル、ストリップなどが当てはまります。今では伝統芸能とされる歌舞伎や人形浄瑠璃も、実は、その成立まで遡れば大衆演劇と言えるでしょう。昭和20年代に当時「寄席芝居」や「旅芝居」と呼ばれていた劇団が、自らの劇を「大衆演劇」と読んだことから言葉が定着しました。

大衆演劇の黄金時代は、昭和10年(1935)から昭和16年(1941)、そして第二次世界大戦後の昭和20年(1945)から昭和28年(1953)頃まで続いたと言われています。最盛期には日本全国に600を越える劇場がありました。

 昭和28年(1953)はテレビ放送の始まった年です。テレビの普及にともなって、大衆演劇の人気は低迷します。例えば関西では1960年には55館あった常打ちの劇場が、1965年には20館、1973年には5館にまで減ったそうです。これに危機感を覚えた団体の努力で、九州、関西、東京に新しい大衆演劇の常設小屋が復活しました。

東京に常設の小屋は数えるほどしかありません。そのうちの一つが、なんと立川にあるのです。浅草の木馬館、北区十条の篠原演芸場とならんで、立川にあるのがけやき座です。東京都の大衆演劇場では38年ぶりとなる2015年8月にオープンしました。月替わりに人気劇団を招致して、ほぼ毎日、公演を行っています。

5月は長谷川劇団。総座長は愛京花という名の女性です。座員は子役も入れて15名。昼と夜、3時間の公演をほぼ毎日打っています。出し物も日替わりで、日によっては劇団同志のゲストの出演もあるようです。芝居の演目は昼と夜でも変わります。連休の一日、昼の部をのぞいてみました。

IMG_3688 のコピー.jpg
江戸時代を思わせるような外観
IMG_3629.jpg
のぼりや花が飾られた華やかなエントランスは雰囲気も抜群です。

IMG_3630.jpg
場内
IMG_3631.jpg
客席と舞台の距離感も近く、しっかりした花道も設けられていて、役者の舞台を目前で楽しむことができます。

開園前、椅子席でお弁当を広げる人もいます。お目当ての俳優さんがいるのか、被り付きの桟敷に陣取る人も。定員170名という会場は、結構、自由な雰囲気です。

休憩をはさみながらの3時間の構成は、芝居と歌謡・舞踊ショーです。芝居の、この日の演目は古典落語の「紺屋高尾」でした。
神田紺屋町の染物屋の奉公人、久蔵の一途な愛に、吉原一の太夫、高尾が応えるハッピイエンドのお話です。主役2人を演じるのは一座の花形、長谷川一馬と京未来です。一馬君は高橋一生風のハンサム男子。可愛い未来ちゃんは、他の旦那に目もくれず職人の久蔵といっしょになる花魁の心意気を上手に演じていました。

IMG_3637.jpg
IMG_3638.jpg
「紺屋高尾」の舞台から

開園直前に、若い女の子が二人かけこんできました。
となりの席にすわったのを幸い、幕間にちょっとおしゃべりをしました。

「若いけど(あっ、こんな言い方はハラスメントかも。ごめんなさい)、よく来るの? 誰か贔屓の役者さんでもいるの?」
「はい、よく来てます。押しは一馬君。俳優さんみたいにきれい。」
「やっぱりね。(私みたいな)おばさんだって美男子見るのは気分いいものね。」
「初めてなんですか?」
「そうなの。大衆演劇ってどんなのか、一度見てみたいと思って。昔、競輪場の近くの路地に、大衆劇場の看板を出してる小屋があったのよ。だけど、いつのまにかなくなってしまって。そしたらここにけやき座というのがあるよと教えてくれた人がいてね。」
「立川の人なんですね。おうちは近いんですか。」
「自転車で15分もかからないくらいよ。」
「それじゃあ、これからも是非来てあげてください。夜は特にお客も少ないみたいだし。私、(隣に座る友人らしき女性を差して)今日はこの人を連れてきたんです!」
(その友人)「連れてきてもらいました!」
「どう?」
「ちょっとドキドキしてます。一馬くん、ハンサムですねえ。」
若いのに(また言ってしまった)好きな役者のために宣伝もするなんて、しっかりしてる。仮にYさんと呼びましょうか。

芝居のあとの花形役者のショーにつづいて、最後は一座の座員全員の繰り広げる賑やかな舞台です。歌に踊りにコントに、役者は花道や舞台から下りて観客のそばを歩いてもくれる、サービス溢れる時間です。

ここで、Yさんはすばやく、一馬君の着物のの襟に1万円札をクリップでとめました。そのしぐさがいかにも自然で、あっという間だっだのです。このために彼女は花道のすぐそばの席を予約していたのでした。気がつくと客席の後ろからも、レイをもったおじさん、おばさんたちが次々に花道へ寄って来る。おひねりはYさんのように裸のばあいもあれば、のし袋にいれて役者の懐に差し入れる人もいる。ちなみに裸の1万円は新札でした!

IMG_3636.jpg
IMG_3647.jpg
IMG_3633.jpg
IMG_3634.jpg
華やかな舞台の役者たち 一番下の写真が一馬君

役者はみんな芸達者。おひねり貰った役者さんは、舞台がはねて帰る客の所にやってきてお礼を言ってくれます。ハンサムな一馬君に流し目されたらYさんもきっとドキドキするでしょう。そんな客と役者の交流を見ているのがこれまたおもしろい。
1800円の入場料を払っただけの私は、流儀を知らない新参者だと、肩身の狭い思いをしたものでした。今度行くときはおひねり用意しなきゃ、ね。

友人に宝塚の大ファンがいます。
コロナで中止になった公演も多かったようですが、ようやく復活したようです。
贔屓の組の舞台は出待ち、入り待ちは勿論、ファンクラブの集いに参加するのが生きがいなのだそうです。そこでは、スターがファンを徹底的に大事にしてくれる。一人一人をおぼえてくれて、ファーストネームで呼びかけてくれる、おばさんでさえ、自分が大切にされていると感じられる場所は大事なのだと思います。

◆まもなく梅雨の季節です。今年は例年より早いそうです。久々に一茶の句をひろいました。

  塀合に卯の花降し流けり            寛政句帖   寛5
  里の女や麦にやつれしうしろ帯      享和句帖   享3
    入梅晴や二軒並んで煤はらひ        八番日記   政2    
    五月雨や二階住居の草の花          享和句帖   享3
    草刈のざくり ~ や五月雨          七番日記   化11

◆梅雨入り前の国営昭和記念公園の花たちです。

イチハツ2 のコピー.jpg
イチハツ(日本庭園)

トチノキ のコピー.jpg
トチノキ(花木園)

ベニトチノキ のコピー.jpg
ベニトチノキ(花木園)

スイレン2 のコピー.jpg
スイレン(花木園)

シャクナゲ のコピー.jpg
シャクナゲ(日本庭園)

エゴノキ(花木園) のコピー.jpg
エゴノキ(花木園)

nice!(1)  コメント(0) 

雑記帳2022-5-1 [代表・玲子の雑記帳]

2022-5-1
◆金沢は「空から謡が降ってくる」城下町です。そこには前田家の戦略があったのです。

2月に茶の湯文化を訪ねて北陸へ行ったところ、雪まみれの冬の北陸にすっかり魅了されました。今回は桜花爛漫の金沢に、百万石の藩主が愛した能の世界をたずねました。

鼓門4 のコピー.jpg
能の鼓をイメージした金沢駅の鼓門(つづみもん)

能の起源は古く、奈良時代にさかのぼります。6世紀、中国から「雅楽」とともにもたらされた民間芸能が「散楽」とよばれていました。それが日本古来の芸能とまざりあって、「猿楽」として流行したのが起源とされています。
鎌倉時代には、農耕儀礼から生まれた「田楽」や、僧侶たちの寺院芸能である「延年」が流行しました。こうした芸能に、歌曲や舞が加わって、ストーリー性のあるものが構成されていきます。
そして、室町時代、観阿弥・世阿弥父子の登場によって、王朝文芸とまざりあった、洗練された高度な舞台芸能へと大成されていきました。
こうした歴史を持つことで、「能楽」はユネスコによって日本で最初の無形文化財に登録されたのでした。

能楽はシリアスは歌舞劇である能と、写実的な演技によって滑稽な人間の姿を描く狂言とで構成されています。能は仮面劇でもあり、題材は神話や伝説、或いは伊勢物語や源氏物語、平家物語などからとられています。

能には観世流を初めとして、宝生、金春、金剛、喜多の5流があることがしられています。
金沢は加賀宝生の名で有名ですが、これにも歴史があるのです。
桃山時代、能は武将の重要な社交の手段でした。秀吉が金春流を贔屓にしていたため、、前田家の初代利家は金春流でした。江戸時代には武家の必須教養となり、前田家では権力者の好みを反映させながら、能楽を保護育成していきます。その結果、藩主お抱えの専業役者「御手役者」だけでなく、町人専業の「町役者」が活躍するようになりました。こうして、植木職人や左官にいたるまで、能を謡い舞う風土がつくられたのでした。
そして、5代綱紀が将軍綱吉お気に入りの宝生9世に入門して御手役者も町役者も宝生流に転流させたのが加賀宝生のはじまりでした。以来、金沢では宝生の伝統を今もうけついでいるのだということでした。

おもてと呼ばれる能面は無表情に見えますが、じつは僅かな角度の変化や動きで様々な表情が感じられる工夫がされています。豪華な装束もまた、舞台を読み解く重要なカギです。
金沢能楽美術館は加賀宝生に伝わる能面や能装束を収蔵展示する施設として建てられた市立の美術館です。金沢能楽堂の復元模型も展示されているほか、1階展示室の壁にはおなじみの世阿弥の言葉の数々も紹介されています。曰く「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」曰く「命には終わりあり、能には果てあるべからず」・・・

能楽美術館 のコピー.jpg
市立能楽美術館
能楽美術館2 のコピー.jpg
翁と媼の能面
能楽美術館11 のコピー.jpg
装束と面をつけてもらってちょっぴり能の世界を体験

百万石の加賀藩はその財力で幕府から一目置かれると同時に危険視もされたはずです。前田家が茶の湯や能などの文化・芸術に力を注いだ(それも権力者の好みを反映させながら)のは加賀藩の保身の策だったのでは、と、この日の講師、宝生流能楽師の渡辺茂人さんの言葉にもありました。

金沢には能楽の拠点として、もう一つ、県立能楽堂があります。建物の中にある能舞台は、上記の金沢能楽堂を県が譲り受けて移築したものです。舞台の各部分の名称には子供用の解説書もあって、なるほど、当地では子どもころから能に親しんでいるのだと納得しました。年間を通して子供向けの狂言や謡、仕舞の教室も用意されているようでした。面白いと思ったのは、役者が橋がかりに入る揚げ幕が普通5色であるのに、宝生流では4色、白がないのです。徳川に遠慮してのことだという話でした。
能舞台に屋根が有るのは、能がかって野外で演じられていた名残です。

能楽堂5 のコピー.jpg
県立能楽堂
能楽堂4 のコピー.jpg
能楽堂内にある能舞台

昔、松山にある母の実家に遊びに行くと、リタイアした祖父がなにか唸っていたのを思い出します。子ども心には退屈この上ないものでしたが、後に、祖父が喜多流をたしなんでいたことを知りました。女系家族の中で引退すれば居場所もなく、所在無げだった祖父の唯一の楽しみだったのだと思うと、ほろ苦く、おじいちゃんにもっと優しくしてあげれば良かったと後悔したものです。
或いは小学校高学年だったころ、学校の講堂で狂言を見たことがありました。その時の記憶は強烈で、役者は舞台で三角に動くという話だの、太郎冠者を追う長者の声が今でも耳に残っています。今回の旅で、戦後衰頽した能楽をささえるために、能楽師達が手分けして全国の小中学校を巡っていた時代があったことを知りました。
祖父の記憶と言い、初めてみた狂言の記憶と言い、無縁だと思っていた能楽の世界とも、実は意外な処で接点はあったのですね。

能楽堂で、講師の渡辺さんの仕舞をたのしみ、謡曲「高砂」の譜面を読んだ後のお楽しみは加賀料理です。加賀料理と言えば治部煮。金沢名物のすだれ麩と共に味わいました。

大網茶屋先付 のコピー.jpg
先付(桜胡麻豆腐)
大名茶屋八寸 のコピー.jpg
八寸(上・海老うま煮、花見団子、左・五郎島金時カステラ)
大名茶屋椀物 のコピー.jpg
椀物(海老新丈、菜の花)
大名茶屋向付.jpg
向付(鮪、替、カンパチ、あしらいに蓮の茎)
大名茶屋治部煮 のコピー.jpg
治部煮(鴨、すだれ麩、生麩)
大名茶屋焼き物 のコピー.jpg
焼き物(鰆の幽庵焼き、しらがねぎ、はじかみ、わらび)

金沢のシンボル、金沢城は、復旧なった石垣が見事です。金沢城公園は天守も御殿もないけれど、無料で市民に公開されているのが自慢だとは、案内してくれたガイドさんの言葉でした。訪れた日は4月の中旬で、東京では桜はおわっていましたが、金沢はちょうど満開を迎えたところでした。しかも、「弁当忘れても傘を忘れるな」と言われる金沢で、なんとこの日の天気は日本晴れ。随所で桜を楽しむことができました。

堤亭から桜 のコピー.jpg
石川門方面を望む桜並木

国内3名園に数えられている兼六園は観光客も多く、誰もの知る所ですが、隣接する「成巽閣(せいそんかく)」を訪れる人はあまり多くはないようです。

文久3年(1863年)に加賀藩13代藩主・前田斉泰が母・真龍院(12代斉広夫人)の隠居所として建てた歴史的建造物で、前田家の奥方御殿として国の重要文化財に指定されています。時節柄か前田家伝来の雛人形道具特別展がひらかれていました。残念ながら内部の写真撮影は禁止されていますが、縦横文化財の建物は一見の価値ありです。

成巽閣3 のコピー.jpg
成巽閣
成巽閣庭3 のコピー.jpg
成巽閣庭

石川門の反対側、金沢城公園の鼠多門側にあるのは「玉泉院丸庭園」です。前田家3代の利常の時代に作庭がはじまり、幕末まで歴代藩主が愛した庭園ということで、小さいながら兼六園よりも古いのです。
庭園を巡ればいくつもの石垣、中でも有名なのが色紙短冊積石垣です。石垣の上部に滝を組み込んだ特別な石垣で、石樋からの落水の背後に色紙形の石を段違いに配して、城郭石垣の技術と庭園としての意匠とが見事に融合した金沢城ならではの傑作とされています。TV番組「プララモリ」で、この石垣を見上げたタモリさんが、「加賀の殿様、石で遊んでいますね」と言ったのはまだ記憶に新しいところです。

玉泉院丸庭園5 のコピー.jpg
玉泉院丸庭園
色紙短冊石垣 のコピー.jpg
色紙短冊形石垣

金沢では「弁当忘れても傘忘れるな」は本当です。庭園を巡った日は「運よく」以外のなにものでもありませんでした。前日は昼間晴れていたのに、夕方になると急に空がくもり、雨が降り始めたのです。天気がいいに超したことはないけれど、雨が降ればそれなりにまた別の風情があるものです。人(ひと)気のないひがし茶屋街で雨宿りして抹茶を頂いたのも思い出です。


ひがし茶屋街 のコピー.jpg
加賀棒茶をたのんだらこんなかわいいお菓子がついてきました


nice!(1)  コメント(0) 

雑記帳2022-4-15 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2022-4-15
◆昨年から琳派にはじまって、広重、菱川師宣ら浮世絵の画家たちを学んできましたが、残るは喜多川歌麿になりました。歌麿はちょうど今、この『知の木々舎』に、斎藤陽一さんが『西洋美術研究者が語る日本美術は面白い!』に連載中です。

美人画。それも、胸から上をクロ-ズアップした構図の大首絵で有名な歌麿は、実は生年も出身地も不明です。
江戸中期の明和7年(1770)、17才で狩野派に学び、5年後、本格的に画工の仲間入りをします。曲折を経て、喜多川歌麿を名乗ったのは天明4年(1784)31才のときでした。
天明6年(1786)、初の狂歌絵本を発表したのを皮切りに、稀代のプロデューサー蔦屋重三郎とタッグを組んで、豪華な体裁の「画本虫撰」など多くの狂歌絵本を手がけました。滑稽を盛り込んだ短歌を挿絵入りでまとめた狂歌絵本は、自費出版の場合、豪華なつくりにできるので、卯頭路も力をいれたようです。極彩色の、精密で写実的な描写は高く評価されました。美人画とは全く趣の異なる植物や虫の絵に、歌麿の優れたデッサン力を見ることができます。
その後、天明8年から寛政5年(1793)にかけて、美人画大首絵を次々に発表して人気を博するも、寛政・享保の相次ぐ改革で浮世絵に規制がはいります。
幕府をはばかって春画を描いたり、画題を教訓的にしたりしたものの、ついに捕縛され手鎖50日の処分を受けて、解放されたのち、文化3年(1807)に死去しました。54才でした。

歌麿の大首絵は、役者似顔絵に使われていた構図です。それまでの美人画は呉服屋の広告媒体となることが多く、全身像が基本でしたから、人々っはその斬新さに夢中になりました。。

また、余白部分は一色にして人物に意識を集中させたり、雲母(きら)摺りで仕上がりを豪華にしたり、輪郭線を用いずに色の実で形を表現する無線摺りや髪の毛1本1本の生え込みまで表現する毛摺りや、色を使わず版木に強く押し当てて紙に凹凸をつくるきめ出しなどの摺りの技術を駆使する工夫がこらされています。歌麿の美人画は、彫師、摺師の技術とい一体になった浮世絵そのものでした。

名称未設定 2 のコピー.jpg
「婦女人相学十体 ポッピンを吹く女」
背景をはぶき、余白を一色で摺る地つぶしで、人物に意識を集中させている。
雲母摺りを用いて、パール効果を狙い、豪華な仕上がり。

虫かご.jpg
「虫籠」
髪の毛1本1本、生え際まで表現する毛摺りの技術で表情が自然に見え、美人に見える。

当世三美人.jpg
「当世三美人」のモデルは左から煎餅やの娘お久、売れっ子芸者豊雛、茶屋の娘おきた

歌麿はまた、「青楼の絵師」とも呼ばれました。
青楼は遊郭のことです。描いた作品の3割を占めるほど、多くの遊女を描きました。
歌麿の遊女たちは皆、澄んだ目を見開き口をわずかにひらいて、艶治な表情をしています。
そして、売れっ子の芸者や茶屋の看板娘など、実在のモデルがいたことから、客はモデルに会いに茶屋や茶店に通う、相乗効果もあったのです。

「蔵の町」栃木は、歌麿ゆかりの地です。
栃木は江戸時代に皆川氏の居城のあった土地です。日光東照宮への奉幣使が通る例幣使街道(れいへいしかいどう)の宿場町として、また、江戸へ通じる巴波川(うずまがわ)の舟運の要所として栄え、とちぎ商人は大隆盛をほこりました。
江戸と交流のあった栃木は文化の面でも影響を受け、狂歌文かが花ひらきました。喜多川歌麿は、当時流行の狂歌を通じて栃木の豪商と親交があったのです。

歌麿は生涯に30点の肉筆画を描いていますが、そのうち3点は栃木の豪商、善野家の依頼を受けて製作したものでした。「雪月花」と呼ばれるシリーズは、深川、品川、吉原という江戸の遊所に取材した、何れも箪笥2棹分の大きさのある大作です。うち、「深川の雪」は2012年に日本にもどってきてきましたが、「品川の月」、「吉原の花」は海外に渡ったままだということです。
その他、近年、市内の民家・ゆかりの旧家から肉筆画「女達磨図」「鍾馗図」「三福神の相撲図」が見つかり、とちぎ蔵の町美術館に所蔵されています。

蔵の街美術館歌麿3.jpg
蔵の街美術館にある「女達磨図」

蔵に残された所蔵品を公開している「あだち好古館」では、歌麿の『山姥と金太郎』が展示されています。「あだち好古館」は、江戸時代末期より呉服類を手広く扱う卸問屋に生まれた初代足立幸七が集めた浮世絵や書簡、彫刻、古美術品など、蔵に眠っていた古民具も含めて展示公開しています。展示室は7つ、一番古い約160年前のをはじめ、全室100年以上の土蔵倉庫でした。古い蔵の中に、無造作に壁いっぱいに飾られた広重の「東海道五十三次」(なじみのある保永版)や狩野常信の「王親子虎狩りの図」など、、公的な美術館のように撮影禁止など言わないおおらかさに、江戸時代の豪商の名残をみるようでした。

あだち好古館 のコピー.jpg
あだち好古館 左に「日光例幣使町」の字が見える
あだち好古館3 のコピー.jpg
広重の「東海道五十三次」(保永版)が一堂に

例幣使街道沿いにある「とちぎ歌麿館」は、街道に遺る最古の建物です。弘化2年(1845)築。歌麿の狂歌絵本や復刻版浮世絵を展示しています。

とちぎ歌麿館6.jpg
とちぎ歌麿館
名称未設定 1 のコピー.jpg
復刻版の「吉原の花」
とちぎ歌麿館5 のコピー.jpg
箪笥の前に歌麿の肉筆画復刻版がおかれているが、実際の1枚の大きさは箪笥2棹分もある愛作だった。
狂歌絵本4 のコピー.jpg
狂歌絵本の1枚

この日、訪ねたもう1つの美術館は、那賀川町立馬頭広重美術館です。
栃木県の北部にある町立の小さな美術館です。街に寄贈された青木コレクションの公開と、地域文化活動の活性化を目的として平成12年にオープン、浮世絵を中心に企画展も開催されます。

小さな町に美術館を持つとは何たる贅沢かと思いきや、町は、実はその昔、金がとれたというのです。奈良時代、聖武天皇が東大寺大仏を造営するにあたり、日本中から金をさがしたところ、一番に産出の報告があったのが下野国のこの地でした。戦国時代には武茂(むも)郷を納めていた佐竹氏も、領内の金山開発を積極的に行ったということです。現在でも、当時の金山の跡がのこっているそうです。佐竹氏はのちに秋田に転封となり、つかえていた武茂の城主も同行したため、武茂城は廃城となり、武茂の名を知る人もいなくなりました。

竹の茂る裏山を背景に、この美術館を設計したのは建築家の隈研吾氏です。展示品はご多聞に漏れず撮影することはできませんでしたが、町はむしろこの建物を自慢したい様子で、積極的にインスタに挙げてほしいということでした。建材はこの地に産する八溝杉(やみぞすぎ)、特徴のある杉の木材は各所に使われていて、町の誇る美術館になっているようでした。
馬頭広重美術館2 のコピー.jpg
隈研吾氏の設計による那賀川町立馬頭広重美術館
馬頭広重美術館影3 のコピー.jpg
ルーパーの造り出す影も見ものだとか。

青木コレクションは、さくら市を郷里とする肥料商、青木藤作が大正から昭和初期にかけて収集したコレクションで、広重の浮世絵と共に肉筆画も多数おさめられています。ちょうど、企画展として『河鍋暁斎(かわなべきょうさい)』展がひらかれていました。

馬頭広重美術館河鍋暁斎 のコピー.jpg
「餓鬼 河鍋暁斎」のポスター

自らを「画鬼」と称した河鍋暁斎は、広重や歌麿よりちょっと遅れて幕末から明治に活躍した画家として知られています。幼いころから画才を発揮して、歌川国広に師事、狩野派にも学んで、日本古来の画流を広くおさめて、浮世絵にとどまらず、多彩なジャンルの作品を残しました。
水墨技術の粋を尽くした「鵜図」や、迫力に満ちた「鍾馗図」には圧倒されます。かと思えば隣には、頬杖をついて休息するユーモラスな鍾馗の図もありました。諧謔に満ちた動物や妖怪たちは「鳥獣戯画」の世界そのままでした。

私は暁斎をずっと「ぎょうさい」と読んできましたが、本当は「きょうさい」が正しいらしい。43歳のとき、ウイーン万博・内国勧業博覧会に出品して、西洋の画家や収集家からも注目されるようになりました。暁斎を頼って弟子入りしたのが有名なジョサイヤ・コンドルです。コンドルはご存知。明治政府のお抱え建築家、辰野金吾らの弟子を育てる一方で、鹿鳴館やニコライ堂、数々の要人の邸宅など時代を代表する建築をいくつも残していますが、彼が暁斎の弟子だったというのも面白いではありませんか。
晩年には狩野派を託され、59才で亡くなる時にはコンドルが看取ったということです。


nice!(1)  コメント(0) 

雑記帳2022-4-1 [代表・玲子の雑記帳]

2022-4-1
◆3月中旬、シニアのための京都の料亭を巡るツアーがありました。今回は食レポをお届けします。

食べるのが目的とはいえ、折角京都まで来たのだからと、立ち寄った先は、観光地としてはさほど知られていない、宇治田原町です。名前からも判るように、周辺一帯は宇治茶の産地です。

京都市内を出て、車窓に茶畑が点在するのを眺めながら、瀬田川に沿って山道をたどること約1時間の所に宇治田原町はあります。山の斜面に小規模の茶畑が点在する風景は、郷里、四国中央市の新宮村(昨年ノーベル物理学賞を受賞した真鍋淑郎さんの出身地です!)によく似ていました。谷を流れる川からは朝夕霧が立ち、その霧がおいしいお茶を生むと言われて、実は新宮茶はその味で全国一になったこともあるのです。

茶畑 のコピー.jpg
お茶畑

その宇治田原町は、江戸時代に永谷宗円が青製(あおせい)煎茶製法を開発したことで知られ、町は「日本緑茶発祥の地」とよんでいます。

日本にもたらされ栽培されるようになった茶は、春に摘み取った新芽を蒸すか、ゆでるかした後乾燥させたもので、茶葉の色は黒っぽいものでした。

青製茶葉製法は、乾燥させる前に「揉む」工程を入れることで、茶葉が緑色にしあがるのです。それまでのものを「黒製」と呼んだのに対して「青製」と呼ばれて、庶民の間でお茶が広くのまれるようになった江戸時代に、品質向上に大いに貢献したのでした。彼一人の発明によるというより、当時民間で流行り始めていた製法を確立して宇治茶の販路を広げたというのが実情でしょうか。
ちなみにお茶漬け海苔の永谷園の創業者は宗円の10代目の子孫にあたります。

宇治田原町にある正寿院(しょうじゅいん)は、駐車場でバスを下りてさらに、狭い坂道を1キロほどのぼった所にある、真言宗の寺院です。800年前、鎌倉時代に建立されました。猪目窓(いのめまど)と言われるハート型の窓や天井画が知られています。

正寿院8 のコピー.jpg
正寿院のハート型の窓

ハート形の窓など何が面白いのかと思っていたのでしたが、実はハート形の猪の目文様は仏教では重要な要素、1400年前の仏教伝来と同時にもたらされたものでした。厄除けとして様々な所に用いられ、鴨居の釘隠しにも猪の目を見つけることができます。

正寿院5 のコピー.jpg
釘隠し 猪の目文様が分かりますか?

重要文化財になっている、快慶作と言われる不動明王座像は、寺の所有であるにも拘らず、奈良国立博物館に寄託されています。小さな寺では文化財に指定した国の基準を満たせず、寺内に保管することができないのだということでした。

正寿院に通じる坂は狭いながらも歴史街道、名にしおう「家康伊賀越えの道」でした。本能寺の変を逃れた家康が命からがらこの道を駆けて堺までたどりついたのでした。
道筋に若い夫婦が看板を出している「茶園散歩」の店を見つけました。客は入場料として一杯500円のお茶を買って、飲みながら茶畑を巡る事ができます。若い感性を活かした、京都ならでは、宇治ならではの趣向だと思いました。

さて、夜はお目当ての「下鴨茶寮」の京懐石です。
弥生の献立には早春の食材が数多くちりばめられています。数えてみるのも一興かと。

●先付  蛤、独活、蕗、若布
下鴨茶寮4 のコピー.jpg

●向付    鯛、鴟尾(しび 西では鮪のことをいう)、縞鰺(しまあじ)
下鴨茶寮3 のコピー.jpg

●椀物  玉子豆腐、車海老、こごみ、碓氷豆腐摺り流し
下鴨茶寮2 のコピー.jpg

●八寸   細魚(さより)小袖寿司、赤貝ぬた和え、蕗の薹(とう)厚焼き、飯蛸、
      葉牛蒡、 鶏松風、蓬(よもぎ)麩田楽、白魚香煎
下鴨茶寮5 のコピー.jpg

●鉢物  信田巻き、鯛子、竹の子、天豆
下鴨茶寮6 のコピー.jpg

●焼物    鰆味噌漬け、独活のきんぴら、タラの芽のてんぷら
下鴨茶寮7 のコピー.jpg        

●強肴  黒毛和牛、花山葵(わさび)、黄身卸し
下鴨茶寮1 のコピー.jpg

●食事  桜海老釜炊きご飯、留椀、香物 (京丹後産コシヒカリ使用)
夕4食事 のコピー.jpg

●水物  苺、甘酒ブラマンジェ
夕5水物 のコピー.jpg

●甘味  蕨餅

食後、むかえのバスを待つ間に、邸内の飾り物を見せてもらいました。
ちょうど雛飾りの季節、そういえば、今年は雛を見にどこにも行かなかったと思いながら、大正時代のお雛様を鑑賞しました。江戸と違って京雛は内裏の夫婦の位置が反対です。
薄暗い廊下に無造作に置かれた(勿論ガラスのショーケースには入っていましたが)茶碗や皿や壺には、マイセンあり、ピカソあり、浜田庄司あり、河井寛次郎あり…。しっかり目の保養でした。

翌日の昼は「美濃吉」本店、竹茂楼です。 こちらも春のお献立。

●先付  櫻寿し、小鮎山椒煮、一寸豆、押し玉子、川海老、花弁百合根、竹の子木の芽和
ランチ先付 のコピー.jpg

●椀   白味噌仕立て(春大根、油目、花弁人参、春菊)
       大根には隠し包丁、油目は山菜(タラの芽が山菜の王様なら油目は山菜の女王)
ランチ椀 のコピー.jpg

●向付    桜鯛、鯉の洗い、あしらい、土佐醤油、酢味噌でいただく
下鴨茶寮8 のコピー.jpg

●焼物    信州サーモン蕗の唐みそ焼、タラの芽、蕗の唐
ランチ焼き物 のコピー.jpg

●鉢   若筍蒸し、鯛真子、木の芽あえ
ランチ鉢2 のコピー.jpg

●ご飯  ちらし寿司、赤だし(しじみ)
ランチご飯2 のコピー.jpg

●香物    三種盛り
●水物  苺、オレンジ、キウイ、黄な粉アイスのアフォガード

竹茂楼は鴨川のちょっと北よりのところにあります。入口の暖簾には「生州」の文字。その意味があとでわかりました。享保年間に出た絵草紙によると、高瀬川筋三条の北にあった美濃吉は川辺に生州をしつらえて、魚や鳥料理でもてなしたとあります。調理に取り掛かる寸前まで、目の前に生きていた新鮮な魚を賞味するのにこれほどの妙案はない。珍しさもまたご馳走のうちと心得た料理屋があったらしく、座敷の中にまで生州を設けていたという話もつたわっています。また、生州は、料理屋にはお決まりの芸者や琴三味線も必要とせず、ひたすら料理を味わうことを楽しみにやってくる客を相手にしていたのでした。鯉こくや鰻の川魚料理なら、私たちが思う京風ではなく、江戸風の濃い味が好まれたかもしれません。椀の白みそ仕立ては思いの他濃い味でしたから。当時、京都所司代の認可を受けて川魚生州を出す料理屋は8軒あったということです。

昼食前に立ち寄った先は大原です。
三千院や寂光院などに多くの観光客を集める大原は京都の北部にある山里です。京の漬物にかかせない、ここは全国一のしその産地です。大原の土地がしその栽培に適していただけでなく、外来種との交配をさけるための努力は欠かせません。畑に建てられた小さな看板に、固定種が大切に守られていることがわかりました。この度改定された種苗法では、開発された新品種の国外流出防止に力点がおかれ、在来の固定種の保護には配慮はありません。消費者としては食べて応援するしかありません。以来、京土産のしば漬も味わって食べようという気持ちになりました。



nice!(1)  コメント(0) 

雑記帳2022-3-15 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2022-3-15
◆千葉市美術館ではこの冬、「Japonizme 世界を魅了した浮世絵」展が開かれていました。館の所蔵する膨大な浮世絵コレクションとともに、19世紀以降、浮世絵に影響を受けた西洋文化をながめた、興味深い企画でした。

ポスター のコピー.jpg
「Japonisme 世界を魅了した浮世絵」のポスター

幕末、世界に国を開いた日本からは多くの美術工芸品が西洋にわたり、西洋は初めて目にする日本の美に熱狂しました。それは、生活の様々な分野に変化をもたらして、その動きはジャポニズムとよばれました。
中でも、浮世絵版画に影響を受けた画家は想像していた以上に多かったのです。

千葉市美術館は8階建ての旧川崎銀行千葉支店ビルを保存、修復して利用しています。
浮世絵を8つのテーマにわけた会場を巡れば、浮世絵が世界を席巻した時代の状況と同時に、浮世絵自身の全貌も眺められるようになっていました。

IMG_3034 のコピー.jpg
千葉市美術館 旧銀行のビルを修理して使っている

例えば第1章「大浪のインパクト」で、まず目に入るのは、誰もが知る北斎の代表作「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」です。
ダイナミックに立ち上がる波と飛沫のはるか向こうに小さく富士山が描かれた大胆な構図は、西洋の画家たちの度肝をぬくものでした。 
北斎のこの絵に触発されたのはゴッホやゴーギャンだけではありません。何人もの画家がその手法をまねた絵を残しています。北斎のあとにつづく浮世絵画家たちにも影響を与え、波は浮世絵の重要なテーマになったのです。

北斎富嶽36景1.jpg
北斎の富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」
ヴァデイム・ドミトリヴィッチカプリ島.jpg
ヴァデイム・ドミトリヴィッチ「カプリ島」

新興都市江戸は様々なインフラ整備をすすめ、次第に上方を凌ぐ文化を形成していきます。その文化の担い手は、これまでの貴族や武士ではなく、町人でした。浮世絵はまさに町人文化の象徴でした。描かれる舞台も物語のそれではなく、現実のくらしです。
水の都、江戸では、隅田川は恰好の材料でした。川にかかる橋、橋に群がる人々、つながれた小舟、或いは橋脚そのものまでが数多く描かれ、同じような構図の西洋画も数多く紹介されていました。

広重名所江戸百景京橋竹がし.jpg
広重「名所江戸百景 京橋竹がし」
ドミトリヴィッチ高い橋.jpg
ドミトリヴィッチ「高い橋」

西洋の絵画が視点を固定して写実的に描かれているのにたいして、日本絵画の美意識では、写実的に描くことに執着せず、自在に視点の高さを変えています。
北斎におくれること20年余、おなじみの広重の「名所江戸百景 深川須崎十万坪」は、上部に大きく飛ぶ鳥を配し、隅田川から深川方面に広がる雪景色を描いています。
平安時代の絵巻からつながる「俯瞰の構図」はジャポニズムの特徴と捉えられ、模倣もされましたが、これほど大胆な構図は見当たりません。西洋の画家たちの眼には広重はまさに「空飛ぶ浮世絵師」だったのではないでしょうか。

広重名所江戸百景深川州崎十万坪.jpg
広重「名所江戸百景 深川州崎十万坪」

ジャポニズムの特徴は空間だけでなく、形や色彩にもあらわれています。

面白いと思ったのは、立体感を重んじる油絵の西洋絵画では、黒は色としてではなく、影に利用されていただけなのに対し、墨が基調の日本絵画にとって黒は重要な色だったことです。
平面性を重要視する日本絵画では、黒は形を明確にする輪郭線であり、彩色される色です。色数が限られ、平面的な構成によって成立する浮世絵版画に於いては一番重要な効き色だったようです。鈴木晴信の「夜の梅」は、画面の2/3を黒が占めています。役者絵の背景の広い面に黒が使われていたり、人物の着物の色に黒を効果的に使っている作品が沢山ありました。この黒の使い方にもゴッホは強い衝撃をうけたようです。有名なロートレックのポスター「デイヴァン・ジャポネ」は黒いドレスの女性が印象的です。

春信夜の梅.jpg
鈴木晴信「夜の梅」

広重の「名所江戸百景シリーズ」は、縦長の狭い画面に風景を切り取った印象的な構図です。手前に大きく木や花を描き、遠景に小さな風景を入れて遠近感を出す手法も西洋にはなかったものでした。モネの「睡蓮の池」は広重の「亀戸天神境内」の構図にそっくりです。構図だけではなく、花鳥風月を愛でる日本人には馴染みの、蜻蛉や蝶のような身近な小動物や植物のモチーフは新鮮な驚きを西洋にもたらしました。

広重名所江戸百景亀戸天神.jpg
広重「亀戸天神境内」
モネ睡蓮の池.jpg
モネ「睡蓮の池」

日本人にとって四季は常に身近で、それは絵画にも反映されています。花や月だけでなく、雨や雪も重要なモチーフになりました。広重の「東海道五十三次」にも雨や雪の中を行く旅人が頻繁に描かれた他、歌麿や晴信の美人画にも傘をさす主人公が登場します。西洋には、背景の景色としては描かれても、雨や雪の降る様を描くことはありませんでした。触発されて雨の風景画を描いた画家の中にはロシアやスエーデン生まれの画家たちもいて、まさにジャポニズムが世界中を魅了したことがうかがえました。

浮世絵は風景画や美人画だけではありません。
日常の庶民の暮らしがいきいきと写された絵を、人々は競って購入しました。中でも人気があったのは「母と子」でした。第8章のテーマは「母と子の日常」でした。
ジャポニズム以前の西洋絵画に登場する母子といえばマリアと幼子イエスにかぎられていたことを思うと、当時の日本社会の、想像していた以上に自由な空気を感じるではありませんか。

母と子の日常が浮世絵に登場するのは、江戸も開幕から150年経ち、インフラもすすんで都市の機能も充実してきたころです。人々は平和に馴れ、恵まれた都市の環境の中で、子育てにも余裕がうまれたのでしょう。子供が大切にされていたことがうかがえます。
子供に行水をさせる図は、歌麿や国貞も描いています。それをまねて、明治時代に来日したアメリカ生まれのメアリー・カサットが「湯あみ」を出したほか、幸福な母子像に影響を受けた西洋の画家は少なくありませんでした。

歌麿風俗美人時計子の刻.jpg
歌麿「風俗美人時計子の刻」
名称未設定 1 のコピー.jpg
ヘレン・ハイド「かたこと」

こうしてみると、改めて、浮世絵は平和な時代の産物だったことがわかります。(上記写真はいずれも会場内で撮影許可された作品)
この浮世絵の祖と呼ばれているのが「見返り美人図」の作者、菱川師宣です。

4代将軍家綱の時代、まだ木版画が発生する前は肉筆の浮世絵の時代でした。このころに活躍した岩佐又兵衛をもう一人の浮世絵の祖と呼ぶ人もいます。
明暦の末に初めて木版の墨摺絵が生まれ、出版文化の到来とともに、挿絵から独立した風俗画・役者絵がはじまりました。墨摺絵はその後多色刷りの錦絵に発展します。
師宣はこの時代に生まれました。

平安の末法思想は江戸に入ると、つかの間の仮の世であればこそ「うきうきくらそう」という享楽的な考えに変化しました。その「享楽的な現代の様」、つまり、今様・当世風をえがいた絵画が浮世絵とよばれたのです。

長い間経済や文化の中心だった大坂・京都から中心が江戸に移った時期、美人画では江戸風の美女がもてはやされ、役者絵も荒事が好まれました。

師宣は安房の国保田(ほた)にうまれました。家業の刺繡の下絵を描く手伝いをしながら絵を学び、1657年、明暦の大火後江戸に出ます。
1671年(寛文11年)に初作「私可多咄」刊行、翌年「武家百人一首」で挿絵画家としてデビューしました。多くの草紙本の挿絵を描くうち、添え物だった挿絵が一枚絵として独立する時代になります。師宣は絵入り本の挿絵でしかなかった浮世絵版画を、鑑賞に耐えうる一枚の絵画作品に高めるという、絵画史に重要な役割を果たしました。

若々しくのびのびとして翳りのない画風は、明暦の大火後の復興に沸く市民の気風にマッチし、健康的であけっぴろげな図柄も時代を反映するものでした。
描いたのは二大悪所と言われた歌舞伎と遊里、隅田川や花火の名所に集う遊女です。粋な江戸風の美人画は大いにもてはやされました。
「見返り美人図」に表現されている、おおらかで優美な作風は同時代に活躍した俳諧人宝井其角から「菱川やうの吾妻俤」と評されました。女性の髪形や着物、帯等、結び方に至るまですべて当時(享保年間)流行していたもの、いわばファッションリーダーでもあったのです。

その師宣記念館が師宣の生地、鋸南町にあります。ちょうど、「おいしい浮世絵展」を同時開催中。当時の売れっ子浮世絵師たちの描いた江戸の庶民の食事風景には、屋台あり料亭あり、ファストフードあり宴席料理あり、豆腐百珍あり倹約料理取り組み表あり、江戸の食文化はまさに百花繚乱。浮世絵はそんな暮らしも伝えているのですね。記念館では師宣を「大江戸のあけぼのを描いた男」と紹介していました。

IMG_3045 のコピー.jpg
菱川師宣記念館
見返り美人.jpg
師宣の代表作「見返り美人」
名称未設定 1 のコピー.jpg
おいしい浮世絵展ポスター


nice!(1)  コメント(0) 

雑記帳2022-3-1 [代表・玲子の雑記帳]

2022-3-1
◆今年のNHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は、政治が貴族から武士の手に移り、中世を築いていく歴史の転換点を描いています。

主役の坂東武者を生んだのは栃木県です。
昔、栃木県と群馬県を一つにした広大な地域は「野(け)の国」と呼ばれていました。平安時代、国は下野(しもつけ)と上野(こうづけ)の二つの国に別れ、下野になったのが栃木県です。そして、平安末期、下野守となってこの地に赴任したのが、名高い武士の棟梁、八幡太郎源義家でした。

義家は征夷大将軍として、保元・平治の乱で奥州鎮圧の功をあげました。以来、将軍といえば、義家の血をひく源氏でなければならず、秀吉が何とかして足利義昭と繋がりを作ろうとしたけれぼ遂に将軍になれなかったのはよく知られた話です。その義家の系譜が鎌倉と室町、二つの幕府へつながっていきます。

次男・義親の系統が鎌倉幕府へつながったのに対し、三男・義国の系統は足利氏となって、室町幕府を生みました。鎌倉がわずか3代で消滅したあと、北条氏の天下の下で、足利氏は深謀遠慮の150年を耐えて8代の尊氏へつないだのでした。

義家の荘園のあった足利にちなみ、足利氏を名乗ったのは、義国の子、義康です。その子、義兼は、北条政子の妹、時子と結婚したことによって頼朝と義兄弟になりました。鎌倉殿の13人とまではいかなくても、義兼は大いに頼朝を支え、頼朝亡き後も足利氏は鎌倉幕府の中で重要な地位を占めるのですが、近づいたり離れたり、権力の中枢とは微妙な距離を保ちつつ生き残ります。問答無用の武力の下では生き残ることこそが勝者なのでした。名門といえども、北条と縁戚関係を持ちながら近づきすぎたために滅ぼされた三浦氏の例もあるのです。

宇都宮にある県立博物館では、1月から2月中旬まで、「鎌倉殿源頼朝と義兄弟 足利氏の軌跡」展がひらかれていました。後三年合戦絵巻から始まって、頼朝を支えた足利の嫡流から室町初代将軍の尊氏までの軌跡をたどるものでした。

県立博物館 のコピー.jpg
栃木県立博物館
県立博物館2 のコピー.jpg
「足利氏の軌跡」展ポスター
県立博物館合戦絵巻.jpg
後三年の合戦絵巻

博物館で義家から尊氏につながる足利氏の軌跡をみたあと、市内の足利ゆかりの地を巡りました。
まずは、足利氏の祖、義兼の入定の地、樺崎(かばさき)八幡宮へ。
曾祖父、義家が創立したと言われる八幡宮に、義兼が頼朝の奥州征伐の戦勝祈願のために樺崎寺を造り、以来、足利家の菩提寺となっていました。

樺崎八幡 のコピー.jpg
樺崎町八幡宮

義兼はなかなかの知恵者で、頼朝を支えながらも、血筋からいえば頼朝に代わる将軍としてかつがれるのを避けて、呆けたふりをした時期もあったとか。
また、義経追悼のため出向いた奥州で、毛越寺や中尊寺の影響を受け、妻・時子の為に浄土庭園を造りました。その庭が復元されて八幡山の下にひろがっています。

樺崎八幡宮池 のコピー.jpg
復元された池 義兼が妻時子のために創った

武勇にすぐれていたとはいえ、幾多の戦いで人を殺した悔いの念は強く、晩年は僧となって念仏三昧の日々をおくり、最後は生き仏として入定したと伝えられています。48歳でした。父親が入定したその地に3代義氏が堂を建てて霊をとむらいました。義兼の遺体は今も八幡宮本殿の床下に眠っています。

樺崎八幡宮本殿 のコピー.jpg
今も義兼の遺体が床下にあるという八幡宮本殿

八幡山からはのどかな里山の風景が見張らせます。
宮司のいない八幡宮は氏子の手で代々大切に守られてきましたが、その氏子も、過疎化のため、いまは200人に減ったとか。寺は明治の廃仏毀釈によって廃寺となったあと、近年の発掘調査によって、ようやく復元されたのは庭だけで、その他は跡を示す板が立つのみ。重要文化財に指定はしたものの、足利市の財政にゆとりがないことを、案内してくれた氏子総代の斎藤さんは残念がっていました。足利市に限らず、これはどこの自治体でも同じかもしれません。
樺崎八幡宮2 のコピー.jpg
八幡山から里を見下ろす。
樺崎寺多宝塔後 のコピー.jpg
樺崎寺 多宝塔の跡

足利といえば足利学校。日本史上、最古の学校です。一説には義兼が創建したともいわれ、室町時代、上杉憲実によって再興されたとつたわっています。安土桃山の時代にはフランシスコ・ザビエルによって「もっとも有名な坂東の学校」として世界に紹介されています。江戸時代には徳川の支援を受け、方丈には歴代将軍の位牌がまつられています。
最初は孔子の儒教を学ぶ場でしたが、人気は易学、漢籍へと移り、江戸時代には8割が僧籍だったということです。明治の初めに役割をおえましたが、生涯学習の原点として、学校の「自学自習」の精神は現代にもひきつがれています。
国指定の史跡として、世界遺産認定をめざしています。

足利学校学校門 のコピー.jpg
足利学校には3つの門がある。これは学校門
足利学校孔子 のコピー.jpg
孔子は2メートルを超す巨漢だったとか、構内にある孔子像も見上げる大きさ
足利学校北条・庫裏 のコピー.jpg
方丈と庫裏

足利学校のすぐ近くに、義兼が創建した鑁阿寺(ばんなじ)があります。元は足利氏の居城でした。その跡は、寺を取り巻く土塁に残されています。
本堂の大屋根を見上げると、黄金の三つの紋章がみえます。寺の紋章と足利家の家紋と共にある菊の紋章は天皇家との縁をあらわしています。経堂は京都知恩院に次ぐ大きさとか。
戦災にも会わず、寺史によれば、創建当時のままの姿をつたえていると言われています。

鑁阿寺本堂 のコピー.jpg
鑁阿寺本堂
鑁阿寺土塁 のコピー.jpg
居住跡を残す土塁

県立博物館で、絵巻や尊氏の文書に混じって、弟、直義(ただよし)の御教書(みきょうしょ)が展示されていました。室町幕府成立当初、尊氏と直義の二頭政治で軍事と行政をつかいわけていたという通説に反して、直義が一時期尊氏の専権事項をさえ握っていたという新発見は、毎日新聞栃木版にも紹介されて、今回、展示の目玉になっていました。
実は私はご多聞に漏れず判官びいきです。有能なのに早死にした直義に同情して、できる弟に嫉妬する兄像を尊氏に見ていたので、この新発見には思わず「直義君、やったね」という気分になりました。が、客観的にはそうばかりも言っておられず、夢想礎石に師事した尊氏が敷いた幕府の体制が15代240年続いた事は評価しないわけにはいきません。その間に、武家と公家、僧の融合した独特の室町文化は花開き、武家政治は戦国を経て徳川250年につながるのです。尊氏の定めた儀礼は、その後も、高(こう)家の手本として、江戸幕府にも受け継がれたのでした。
後醍醐天皇を吉野に押し込めて自らが京都に幕府をひらいたことで、長い間、逆賊のイメージが強かった尊氏像が、今、見直されているということです。

栃木県の現在の県庁所在地は宇都宮ですが、廃藩置県後の一時期、栃木市にありました。
江戸時代には巴波川の水運が江戸の物資や文化をはこび、朝廷から日光東照宮へと派遣された使者(例幣使)が通行した例幣使街道の宿場町として盛えました。蔵の街として知られ、水路を生かした街づくりで、栃木は川越などと並んで小江戸とよばれています。

その栃木市で今、町おこしに一役買っているのが「とちぎ江戸料理」です。
江戸時代の庶民や旅人が食べていた料理をそのままに、今の時代に復活させたのだそうです。市内の20余りの飲食店が栃木の食材を使って思い思いに提供するメニューはすべて「とちぎ江戸料理」になります。
海のない栃木で、旅人が満足するどんなご馳走ができるんだろう。瀬戸内なら魚さえ出せばご馳走になるのですが・・・。でも、すぐに、海はなくとも鯉や鰻がある、友人から郷土料理の「しもつかれ」を教わったことを思い出しました。
というわけで、この日のお昼はシティホテルの「とちぎ江戸料理」弁当でした。

とちぎ江戸料理弁当 のコピー.jpg
左 梔子(黄染)のおこわがおいしかった
とちぎ江戸料理弁当2 のコピー.jpg
いかにも栃木らしい鯰や干瓢の天ぷら、鯉の甘露煮、鶉の卵などなど・・



nice!(1)  コメント(0) 

雑記帳2022-2-15 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2022-2-15
◆国営昭和記念公園では、年明けの1か月間、「新春!日本庭園セルフツアー」が開かれていました。

セルフツアーなので、ガイドはなし、入場者は入口におかれたマップを手に、庭内を巡るという手法です。何度も通って知っていると思っていた庭園でしたが、改めてセルフツアーを試みました。

平成9年9月、昭和記念公園に、公共では初めての、茶室を備えた本格的な日本庭園がオープンしました。池を中心として、滝や流れ、州浜、木橋、菖蒲田などを巡る、江戸時代の大名庭園に見られる池泉回遊式庭園」です。

日本庭園マップ.jpg

入口は東と南に2つありますが、通常東門は閉じられていて、南門から入ります。
門をくぐって振り返ると目に入る、木戸に施された彫り物は、庭内の草花を大切にというメッセージがこめられているということです。

IMG_2690 のコピー.jpg
正月の南門
IMG_2692.jpg
門扉の裏に見える「草花を稚拙に」のメッセージ

順路に従って進みましょう。先ず左手奥に四阿。四阿の前には春を待つ牡丹の雪がこいが広がっています。

四阿 のコピー.jpg

庭園の中心の池には北と東から水が注ぎ、西から流れ出るようになっています。
西の流れを渡ると、「青池軒」の名の休憩所があります。池に突き出すように建てられているので、対岸からは池に浮かんでいるように見えます。ここからの眺める風景はまるで、額縁にはいった絵を見るようです。
西の流れ のコピー.jpg
西の流れ
青池軒2 のコピー.jpg
青池軒
青池軒 のコピー.jpg
青池軒からの眺めはどこを切り取っても額縁効果満点

「青池軒」と並ぶ「楓風亭」の前は、春はシャクナゲ、秋にはモミジが楽しめます。冬、この周辺の土には「松葉敷」が施されます。藁で囲った土俵の中に松葉を敷き詰めて、苔などを霜の害から守るのです。「松葉敷」とは造園技術で使われる用語です。一般的に、茶室の庭などに、枯(こ)の風情を楽しむために施されるということです。

昭和記念公園に行くと必ず立ち寄る「楓風亭」で、池を眺めながら抹茶をいただきます。
お菓子は日によって変わり、この日は「梅」です。立春を過ぎて訪ねた時は「下萌え」でした。
いつもちょっとだけ季節を先取りする和菓子は、市内の菓子屋「伊勢屋」さんがつくっています。610円の値段は手頃なので、私の友人もこれを目当てに夫婦で公園の散歩を楽しんでいるのだと言っていました。

下萌え2 のコピー.jpg
下萌え(雪の下からかに緑が覗く)

建物は、京都北山の杉、吉野の錆、木曽の檜板等を随所に用い、檜皮葺きの屋根や柱と桁の仕口・継手など、今では数少なくなった数寄屋大工の職人の伝統的な技術をふんだんに取り入れています。現在の数寄屋に対応できる最高の技術だということでした。
伝統的な数寄屋の技法だけでなく、漆や左官など、細部にも、一般的な日本建築で殆どみられなくなった様々な技術を駆使しています。ちょうど楓風亭は春まで改修工事中。母屋はまだ使用できませんが、お茶をいただいた立礼席の、改装したばかりの腰張りは土佐和紙をつかっていました。
「青池軒」「楓風亭」以外にも数軒ある庭内の建物は。すべて数寄屋造りだということです。

楓風亭腰張り のコピー.jpg
土佐和紙の腰張り

お茶を頂いた後は盆栽苑へ。
平成16年にオープンした我が国初の国営盆栽苑です。歴史と伝統ある国風盆栽クラスの盆栽を鑑賞できると、マニアの間で評判になっています。
残念ながらコロナ下で、鑑賞も制限されてしまいましたが、「讃樹亭」の床の間では季節ごとに見事な盆栽が飾られていました。今の時期、展示場で見られるのは、梅と並んで仏手柑(ぶっしゅかん)。ミカン科の仲間で香が強く、茶の湯や正月用の飾りに利用されます。読んで字のごとく佛の手を連想させる樹です。

仏手柑 のコピー.jpg
仏手柑の盆栽

盆栽苑を出ると、庭の北側に小さな滝もある山が造られています。東山を借景にして作庭した京都とは違って、ここはどこまでも平らな武蔵野の原。奥行を出すには、標高30メートルの人工の森を造らなくてはなりませんでした。落差7メートルの北の流れは滝を作りながら池に注ぎ、最初の滝のそばに、池を見下ろす「涼暮亭(滝見四阿)」が建っています。

涼暮亭1 のコピー.jpg
涼暮亭
涼暮亭から のコピー.jpg
涼暮亭から池を見下ろす

「涼暮亭」を下って、池にかかる「大木橋」を渡りましょう。ここからは西に楓風亭の全容が眺められます。東側は、夏には菖蒲、秋は紅葉が湖面に浮かぶなど、西とは別の景色がひろがります。

IMG_2694 のコピー.jpg
大木橋から見た楓風亭
大木橋西側 のコピー.jpg
大木橋から東を見る。写真の白く見える木道沿いには初夏になると菖蒲が見られる。

橋を渡りきると休憩所。「昌陽」の名前がついた四阿です。
すぐ横には、ひっそりと隠れるるように船着き場があるのですが、殆ど人目にふれることがありません。なぜ、こんなところに船着き場があるのか。実はこのセルフツアーで私も始めて知ったのですが、ここから客は対岸の楓風亭まで船で渡るイメージを楽しんで、ということのようでした。京都の迎賓館と同じ趣向ですが、池はそれほど大きくはないので、こちらはイメージだけです。
船着き場の横にはアカマツの「雪吊り」が見られます。今年は『知の木々舎』でも新年号の表紙に使いました。

IMG_2701 のコピー.jpg
船着き場につながれた小舟
IMG_2697 のコピー.jpg
雪吊りの赤松

藤棚は園内で一番高いところにあります。規模は小さいながらここからは庭園全体を一望できることになっています。
藤棚を下りれば芝生広場を横切って、出口はすぐです。

庭園は、「緑の回復と人間性の向上」という国営昭和記念公園の基本理念に添って、日本人が育んできた自然観を、6ヘクタールの面積に凝縮させています。季節折々の樹木や草花の変化に、楽しみはつきません。

1月のセルフツアーの後、2週間後に訪れた公園は、春を待つ空気に包まれていました。

IMG_2945 のコピー.jpg
     みんなの原っぱのシンボルのケヤキはまだ冬景色ですが・・・
ロウバイ3 のコピー.jpg
 こもれびの里のロウバイ
こもれびの里雛飾り のコピー.jpg
古民家の雛飾り
花の丘 のコピー.jpg
養生中の花の丘(春にはシャーレーポピーのお花畑になります。




nice!(1)  コメント(0) 

雑記帳2022-2-1 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2022-2-1

◆北陸には戦国時代から茶の湯が日常にある城下町がありました。今も市民の暮らしに根づく北陸の茶の湯文化を巡る旅を見つけました。

戦国大名朝倉氏の遺跡は、福井市街からさほど遠くない地に、四方を山に囲まれた谷間にあります。昭和40年代に発掘されてから近年のお城ブームと重なって、今、一乗谷は人気の観光地になっているようです。

朝倉氏について、かって私は、織田信長に滅ぼされた戦国大名の一人のイメージしかありませんでした。 実は、朝倉氏は、15世紀、一乗谷を拠点に越前を統治して、初代孝景から五代義景に至る100年間、町は大いに繁栄、京都からもたらされる高度な文化が花開いていたのです。

初代当主孝景が活躍し、信長に敗れた五代義景が自刃する(1573)までの100年間は、応仁の乱に始まり室町幕府が倒されるまでの戦国時代の100年間とぴったり重なり、まさに、戦国は朝倉に始まり朝倉におわるといってもいいかもしれません。
焼きつくされた町を逃げた人々は落ち着いた先で、城下町一乗谷の智恵を町づくりに生かしたとも聞いています。

田畑になっていた一乗谷遺跡の発掘は昭和42年に始まりました。174万点の出土品の中には多数の茶道具が含まれていました。当時大名の間で茶の湯が流行し、家臣もそれに習って茶の湯をたしなんでいた事が分かります。将軍をはじめとした権力者が中国や朝鮮からの輸入品を飾って権力を誇示したのに対し、中級、下級武士は高価な渡来物に手は出ず、出土した多くは瀬戸や美濃焼でした。千利休がわび茶を世に問う前の時代のことです。

一乗谷には上城戸から下城戸までの1.7キロの間に街並みが拡がり、当時8.000人から10.000人が暮らしていたと言います。城は典型的な山城です。

一乗谷唐門 のコピー.jpg
雪中の唐門を望む この後ろに城があった

山中の、特別名勝となっている4つの庭園は、京都の金閣、銀閣寺、奈良の平城宮、広島の厳島とならんで全国でも6例しかありません。遺跡は特別史跡として、また、全体が国の重要文化財と、なんと、三重指定を受けて、福井市ではロータリークラブの協力を得て、遺跡の管理、保全に力を尽くしています。

おとずれたこの日は一面の雪。 名勝の庭園はビデオで鑑賞、降りしきる雪の中に遠く唐門を望んで、足元を気にしながら、僅かに、復原された街並みをあるきました。ガイドの久保さんは復元をあえて「復原」としたことを強調していました。

復原街並み のコピー.jpg
復原街並みをボランテイアさんが雪かきをしていた
陶器屋 のコピー.jpg
商家の中
下級武士の家 のコピー.jpg
下級武士の家

旅のテーマとは無関係ながら、福井に来たら寄らぬ手はない永平寺も雪の中です。めったにお目に掛かれない雪中の永平寺は美しく見ごたえがありました。

永平寺3 のコピー.jpg

福井の夜は芦原温泉。県内でも、一乗谷は北の荘でしたが、芦原温泉のある地域は若狭と呼ばれ、昔から京都の奥座敷と言われていました。冬の日本海の味、のどぐろの姿焼きが卓にのりました。

あわら温泉6 のコピー.jpg
のどぐろの姿焼き

金沢は言わずと知れた加賀100万石の城下町です。
この地に茶の湯文化をもたらしたのは千利休の曽孫、千仙叟(せんそう)でした。利休が前田家と縁が深かったことから、仙叟は茶道奉行として京都から金沢に招かれ、40年に渡って前田家につかえたのでした。仙叟は茶の湯を武家だけでなく町人にも広め、石川県は現在も茶道人口の割合、和菓子の消費額は全国一だそうです。

仙叟が京都からともなったのが、楽茶碗で知られる楽家の四代の高弟、長左衛門でした。長左衛門の開いた窯は金沢郊外の大樋(おおひ)村の土を用いた大樋焼として代々受け継がれ、現在11代目になりました。

お茶の世界では、一楽、二萩、三唐津の言葉があるように、楽茶椀は最も高く評価されています。大樋焼は、楽焼の伝統をひき、轆轤は使わず手捻りで成形し、ひとつひとつ箆で削りながら造り上げていきます。短期間に窯の温度を上げた後、引き出して急冷するという、温度差の急な焼成は楽焼と大樋焼だけに見られる手法です。初代長左衛門が京都より金沢に出向く際に楽家より与えられたという、独特の飴色は、雪国にふさわしい暖かい味わいだと言われています。

初代長左衛門は茶碗や水差し、香炉など、仙叟好みと呼ばれる器を多く残しています。
メインロードに面した大樋長左衛門窯ギャラリーの後ろに四階建ての大樋美術館が建っていて、初代長左衛門の作品を中心に歴代の器を見ることができます。残念ながら内部の写真は撮ることができないので、初代長左衛門の代表作を一つ紹介しましょう。今まさに飛び立とうとする鳥を象った香炉は、現代人には表現できない想像的な作品だと言われています。写真の、この大ぶりの香炉は、美術館のパンフレットにのっていたものです。
先代の、10代目長左衛門さんは90歳を越えてまだ現役、63歳の11代目をまだまだと言っているそうです。華道家の勅使河原宏氏と東京芸大の同期、2011年に文化勲章を受けています。

大樋美術館 のコピー2.jpg
大樋美術館
大樋焼香炉「.jpg
初代長左衛門作の釉明烏香炉
大樋長左衛門窯4 のコピー.jpg
長左衛門窯ギャラリー

お茶にお菓子は欠かせません。長左衛門窯の道路を挟んだ正面には、前田家ゆかりの老舗菓子店、「森八」があります。寛永2年(1625)創業、前田利常が江戸に献上した落雁「長生澱」は、新潟県長岡の「腰の雪」、島根県松江の「山川」と並んで日本の三大銘菓の一つになっています。2階の金沢菓子木型美術館には、森八歴代の当主が刻んだ菓子木型が千数百点も展示されています。
俗にいう勝負菓子が東京なら虎屋の羊羹とするなら、金沢なら森八のお菓子なのだそうです。ガイドさんに紅白の求肥のまんじゅうがおいしいと勧められて、長正澱と一緒に四国の妹におくったところ、煎茶で食べるのはもったいなくて、久しぶりに抹茶を点てたと、後で電話がありました。森八は本店以外にもひがし茶屋街に店を出していました。

森八 のコピー.jpg
森八本店
森八長生澱.jpg
落雁「長生澱」の命名、字は小堀遠州とか

ひがし茶屋街は金沢でも人気の観光スポット。石畳の通りに格子戸の古い建物が並ぶ街並みは重要伝統的建物群保存地区に指定されて、散策する若者が引きも切りません。
中でも特に目を引く建物があります。文政3年(1820)に創立され、典型的なお茶屋の造りをそのままのこしている、国指定の重要文化財「志摩」で、抹茶をいただきました。お菓子は「南天」でした。

志摩6 のコピー.jpg

お茶屋は封建制度のもと、町方にわずかに許された娯楽と社交の場でした。上流町人や文人が集い、琴や三弦、舞に謡、茶の湯から俳諧までこなして、客は芸妓と遊んだのです。芸事はもちろん、芸妓の衣装や髪飾り、宴を彩る優美な道具なども一体となって茶屋文化は形成されました。そのぜいたくさは途方もなく、藩は何度となく禁止令を出しましたが、10年もたたないうちに復活したということです。

客が座敷に通される前に案内される前座敷の、ベンガラの壁や、床の間にかかる狩野元信の絵(正月には三幅の探幽だったそうです)、螺鈿の琴の胴を見るだけでもそのぜいたくさがわかるというものです。

ひがし茶屋街4 のコピー.jpg
ひがし茶屋街の街並み
志摩8 のコピー.jpg
前座敷床の間 掛け軸は狩野元信
志摩7 のコピー.jpg
座敷への入退出を告げる触れ太鼓は散財太鼓と呼ばれた

北陸の茶の湯を巡る旅の最後に訪ねたのは富山県高岡市の金屋町です。
加賀百万石の二代藩主、前田利長は早くに引退して高岡に移り住み、高岡城を築いて城下町の町づくり、産業づくりに励みました。慶長16年(1611)河内の流れを組む鋳物師(いもじ)7人を呼び寄せて住まわせたのが金屋町です。400年を経た今も、当時の街並みのまま、千本格子の家並みが続く町は、金沢のひがし茶屋街と同じく重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。重要伝統的建造物群保存地区は武家町、商家町、宿場町や山村集落などの指定が多く、モノづくりに係わる町は極めて少ないとされ、金屋町は唯一「鋳物師の町」として選定された個性的な町なのです。
そのうちの1軒、畠春斎さんの工房を見学させてもらいました。

金谷町 のコピー.jpg
石畳も美しい金屋町の街並み

釜師3代目の畠さんは、茶瓶や茶釜を制作しています。
茶瓶は、重い上に、錆びるのが嫌われて、せっかく求めても手放す人が多いようです。それでも、鉄で沸かした湯で入れたお茶はまろやかだと知人に勧められて、私も数年前に南部鉄瓶を買いました。
茶道具から生まれた畠さんの鉄瓶は、普段使いが目的の南部鉄瓶に比べると値段はずっとはるようでしたが、表面に漆をやきつけるという話を聞き、手間のかかるすべての工程を一人でこなしている工房を見せてもらうと納得がいきました。そして、いつか、その鉄瓶を使ってみたいと、そんな気持ちになりました。
錆止めの効果はあるとはいえ、焼き付けた漆はなんども重ね塗りをする漆器と違って、長い間使っているうちにいつかは剥がれてきます。鉄瓶は湯を沸かすだけなのでごしごし洗う必要はないのです。やさしく扱ってくださいと、畠さんの言葉です。

畠工房 のコピー.jpg
畠さんの工房
畠家4 のコピー.jpg
畠さんの茶釜や茶瓶

この日のお昼は金沢城のそばのホテルで、フレンチのフルコースでした。

城の石垣をみながらの贅沢なお昼です。食材は特に加賀産にこだわってはいませんでしたが、色鮮やかなキッシュやくっきりした金沢らしい(?)味のメインの肉や魚に目も舌も満足でした。

ランチ2 のコピー.jpg
色鮮やかな色彩の前菜
ランチ4 のコピー.jpg
メインの魚と肉はひとつのプレートで

nice!(1)  コメント(0) 

雑記帳2022-1-15 [代表・玲子の雑記帳]

2022-1-15
◆からだほっこり 蒸し鶏の野菜あんかけはいかが?
野菜をたっぷり使った蒸し鶏とゆず大根のメニューです。柚子で色付けしたぎゅうひは電子レンジを使えば超簡単。12月に行った講座で大好評でした。

※蒸し鶏の野菜あん
◇材料(2人分)
[蒸し鶏】 鶏肉(むね肉)1枚(約250g、酒 大さじ2、ねぎ 適宜、生妻 適
[野菜あん】野菜(チンゲン菜・エノキ・にんじん・シイタケ・ねぎ等なんでも)適宜
      蒸し汁+水 200cc、みりん 大さじ1、醤油 小さじ2、塩 小さじ1/2 
      片栗粉 大さじ1
◇作り方
①鶏肉は皮を取り、厚い部分はそいで2枚にし、酒を振る。生姜は皮つきで薄切り、ねぎは4cmくらいのぶつ切りにし、鶏肉を囲むように器にのせて約10分位蒸す。蒸し汁は野菜あんの出汁として使う。
②蒸した鶏肉は、包丁で食べやすい大きさに切る。
③チンゲン菜は白く厚いとこうは縦に、葉のところは横に切る。にんじんは4cmの長さに千切り、エノキは根の部分を切り落とし2等分、根に近い部分はほぐしておく。ねぎは斜め細切り、椎茸は薄切りにする。
④片栗粉大さじ1を大さじ2の水で溶いておく。
⑤みりん・醤油・塩はあらかじめ合わせておく。
⑥(蒸し汁+水)200ccを煮立たせ、にんじん・しいたけ・チシゲン菜の白い部分を入れ、煮立ったらエノキ・ねぎ・調味料を加え、味を調えてひと煮立ちさせ、片栗粉の水溶きを少しずつ入れながらとろみをつける。
⑦器に盛った蒸し鶏に野葉あんをがけて出来上がり。

蒸し鶏野菜あん のコピー.jpg

※ゆず大根
◇材料(2人分)
 だいこん 200g、塩 小さじ1、ゆず 適宜
 砂糖 大さじ1.5、酢 大さじ1.5、赤唐辛子、ゆず果汁 適宜
◇作り方
①だいこんは厚さ2cmの輪切りにして皮をむき、2cm厚×1cmXI cm幅の拍子切りにする。塩をまんべんなくふりかけ、10分以上おいて水気を絞っておく。
②ゆずは皮の黄色い部分をむいて千切りにし、果肉は絞っておく。
③唐辛子は付け根の部分を切り取り、種を取り除き、好みでそのまま・二つに切る・輪切りにする。
④ボウルに調味料と②の皮③を入れ混ぜる。
⑤ポリ袋に①と④を入れ固くねじって結び、冶蔵庫で1時間冷やしたら完成。
※半日以上漬け込むと味がなじみ、より美味しくなる。

蒸し鶏ゆず大根 のコピー.jpg

※ぎゅうひ
◇材料(白&ゆず各4個分)
[白]白玉粉 25g 砂糖 25g 水 45c c
[ゆず】白玉粉 25g 砂糖 25g 水40cc ゆず果汁 約5cc ゆず皮すりおろして少々
 手粉洋に片栗粉10g
◇作り方
①耐熱容器に白玉粉・砂糖・水を入れ、ダマがなくなるまで良く混ぜる。
②ラップをかけて電子レンジで3分加熱する。
③木杓子で良く混ぜ、片栗粉を敷いたバットにとって四角くのばし、冷まして切る。切り口に片栗粉をまぶす。
④ゆずのぎゅうひは、白玉粉・砂糖・水を混ぜたあとに、果汁を加えて、同様に作る。
(色付けに皮少々すりおろして入れると、色、香りともに良い)

蒸し鶏求肥 のコピー.jpg

琳派、安東広重に続いて江戸絵画の3回目は狩野派です。

狩野派と言えば私たちがイメージするのは絢爛豪華な安土桃山時代の狩野永徳です。
雄大なスケールの力強い作風は、「欅図屏風」や「唐獅子図」によくあらわれています。襖の枠をつきやぶらんばかりの巨木の表現は、群雄割拠する戦国武将の気風に合致し、権力者が次々と建てる城郭で腕を振るいました。

永徳襖.jpg
永徳の襖絵
永徳唐獅子.jpg
永徳の「虎」

狩野派の最大の特徴は常に時の権力とむすびついていたということでした。
秀吉亡き後、永徳の孫、探幽は、徳川幕府御用絵師となり、江戸へ移ります。
探幽は大和絵や古画の研究や漢画の日本化などに優れた絵の才能を発揮しただけでなく、マネージメントにも優れ、一門はその後400年間、画壇の頂点に君臨しつづけるのでした。狩野家の下で学んだ絵師たちは、序列によって、奥絵師や表絵師として幕府の御用絵師、あるいは、諸藩の御用絵師になりました。序列下位の、民間で活動する絵師たちも、大規模な幕府御用の際には奥絵師や表絵師を支えました。
瀟洒淡麗なその画風は、江戸狩野派と呼ばれ、既に安定した権力となった徳川好みに合わせたものでした。枠からはみ出すような永徳とちがって、対象が枠内に安定して描かれ、余白をたっぷりとって、余白に抒情を盛り込もうとしました。「波濤水禽図屏風」に描かれる岩や波は漢画風、鵜は写実的で、探幽がその両方を融合しようとした跡が見られます。

探幽襖.jpg
探幽の襖絵
探幽虎.jpg
探幽の「虎」

探幽は粉本主義と言われる、師の手本を模写することを重視した教育法を建て、弟子たちはひたすら模写に励みました。伊藤若冲と同時期に活躍した円山応挙も京都の狩野派に学んでいます。が、応挙は狩野派の教育からはみ出して個性的。平明で親しみやすい画風から、三井家をはじめとする裕福な町人層に好まれ、「円山は」の祖となりました。

応挙虎.jpg
応挙の「虎」

応挙は際立って写生を重視した画家です。暇さえああればスケッチに余念がなかったといいます。
客観的に描かれる空間は、写生の技術と「眼鏡絵」という独特の視点によって、画中の山や川などが見る者の現実空間と一体になるのです。

「淀川両岸図巻」は京都伏見~大阪天満橋の風景を描いた巻物です。川を下りなが両岸の風景がみられるようになっているこの絵は、川沿いに暮らす人々様子や、夕暮れ時、巣に帰る鳥たちも描かれています。現代の私たちがみれば違和感のない絵ですが、当時、これほど写実的に風景を描いた絵はなかったといいます。

応挙の特徴を最もよくあらわしている「淀川両岸絵巻」が群馬県の原美術館ARCに展示されていました。
同美術館には明治の実業家原六郎の850点に及ぶ東洋古美術コレクションが所蔵されています。 東京にあった原美術館が群馬の別館に統合されてリニューアルしたこの美術庵で、この秋冬季の企画展に、応挙の「淀川両岸図」や狩野派の「雲竜図」、「野馬図」が出展されました。残念なことに、館内は撮影禁止。「雲竜図」は余白を十分に生かした、まさに江戸狩野派の構図になっていました。

応挙淀川コピー.jpg
応挙「淀川両岸図巻」一部

「雲竜図」は狩野派が好んで描いたテーマです。同じ群馬の水沢観音の仁王門に、狩野派の絵師が雲竜図を残しています。原美術館の雲竜図の代わりに、こちらの天井画を紹介しましょう。江戸後期、狩野探信に学んだ狩野探雲が、郷里に戻って85歳の時に描いたものといわれています。

水沢観音仁王門天井画 のコピー.jpg
水沢観音仁王門天井画の「雲竜図」

もともと品川にあった原美術館は、現代アートの美術館です。統合されて群馬にうつっても、その伝統は消えず、奈良美智、森村泰昌、草間彌生等、内外の人気作家の作品が常設されています。牧場を併設する広い敷地には20点もの屋外アートがあって、こちらは撮影自由です。有名なアンディ・ウオーホルの「キャンベルズトマトスープ」は世界に3点しかないという貴重な作品です。

IMG_2645 のコピー.jpg
アンデイー・ウオーホルの「キャンベルズトマトスープ」
IMG_2641 のコピー.jpg
エントランス前にある、はーと型のこれも屋外アート



nice!(1)  コメント(0) 

雑記帳2022-1-1 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳20220101
◆明けましておめでとうございます。寅年のご挨拶をもうしあげます。

2022年年賀状.jpg

お正月なので、ちょっと晴れ晴れしく、モダン建築を探して京都へ行った折に見学した京都迎賓館をご紹介しましょう。

京都迎賓館は、海外からの賓客をもてなすために、日本の歴史・文化を象徴する京都に、2005年(平成17年)4月にに開館しました。江戸時代に複数の公家の邸宅が建っていた京都御苑の敷地の一角にあります。

東京の迎賓館、赤坂離宮が洋風建築であるのに対し、京都迎賓館はひと言で言えば「和モダン」。数寄屋創りを中心とした「和」」の建築です、そして日本の「工の技」の集大成だと言われています。
壁や調度品、花生けにいたるまで、螺鈿、截金(きりかね)、美濃和紙、西陣織などなど、贅を尽くしたと言うより、粋を極めた部屋の飾り、小物の数々は全て「人間国宝」など第一級の作者の手になるものです。

迎賓館玄関3 のコピー.jpg
迎賓館玄関
迎賓館玄関 のコピー.jpg
玄関軒下と入り口の一枚板の扉
迎賓館11 のコピー.jpg
夕映えの間 壁面は織物
迎賓館8 のコピー.jpg
藤の間  天井の照明を包むのは美濃和紙
迎賓館4 のコピー.jpg
霧の間で賓客気分を味わって
迎賓館10 のコピー.jpg
蒔絵の飾り台
迎賓館美濃和紙障子 のコピー.jpg
御所張りと呼ばれる美濃和紙の障子
迎賓館 のコピー.jpg
聚楽の間のコオロギの彫りもの

京都迎賓館のもう一つの特徴は、庭と建物が一体(庭屋一如・ていおくいちにょ)になっていることです。
建物を行き来する回廊で仕切られた庭はどの部屋からも眺められ、回廊からは遊泳する錦鯉が鑑賞できます。鯉は、日本一の呼び名の高い新潟県山越村から届けられました。また、古来から貴族に嗜まれてきた舟遊びも体験できるということで、舟遊びを体験した要人も何人かいたそうです。

迎賓館池3 のコピー.jpg
迎賓館庭2 のコピー.jpg
迎賓館池舟 のコピー.jpg
池を巡る和舟の船着き場

迎賓館とともに紹介したいのが京都府庁舎です。
ここは、江戸末期、京都守護職を務めた松平容保の屋敷のあった所です。明治の一時期、京都府中学校がたっていました。煉瓦作り2階建ての建物は、天然スレートぶきの屋根を持つ、ルネッサンス様式。中庭を持つロの字型で、正面に知事室などの主要室を配置、背面に議事堂が置かれています。庁舎と議事堂を一体化するロの字型平面は府県庁舎の完成形とされています。
明治37年に建てられた旧本館は当時としてはハイカラなセントラルヒーティング、建物は今も現役で使われています。見事な格天井を持つ議事堂は、流石に手狭になって、現在は議事堂の役目を終えましたが、市民に貸出されているそうです。



京都府後者3 のコピー.jpg
京都府庁旧本館
京都府庁舎議事堂 のコピー.jpg
議事堂
京都府庁舎2 のコピー.jpg
館内には今も様々な部署が同居している。昔懐かしい部屋の名札。
京都府庁舎8 のコピー.jpg
円柱の形をした石は五条大橋の橋梁だったのを再利用。迎賓館の池にも同じ石がある。

迎賓館を訪ねた日、昼食をいただいたのは、京都人でも敷居が高いと言われる「長楽観」でした。こちらも京都のモダン建築の一つです。煙草王・村井吉兵衛の別邸として1909年(明治42年)に建築されました。

貧しい煙草商人の家に生まれた村井吉兵衛は、煙草の行商から身を起こし、やがて銀行も含めた村井財閥を築くに至ります。当時、澁澤栄一や岩崎弥太郎と肩を並べる実業家でした。
日本初の紙巻たばこ「サンライズ」がヒットしたのち、パリ万博に出品した両切り煙草「ヒーロー」が金賞を.受賞するなど、煙草王と呼ばれるようになったのです。

吉兵衛は円山に別荘を建てることが夢だったといいます。維新後、貴族たちが競ってここに別荘を構えていたからです。夢がかなってその一角に建てられた「長楽韓」の命名者は伊藤博文です。当時、長楽韓の立つ坂を少し北に上がったところに長楽寺という寺があったからだと言われていますが、ここはまさにゆったりとした時間を楽しむ上流階級の社交の場になりました。 設計はアメリカ人のJ..M.ガーデイナー。

現在、長楽韓はホテル機能を持つオーベルジュとして利用されています。
ランチは古典的なフレンチのフルコースですが、聖護院鏑のポタージュや魚は鰆、など、京都らしいこだわりの食材でした。

長楽韓4 のコピー.jpg
長楽韓
ランチスープ のコピー.jpg
キッシュ・ロレーヌと聖護院蕪のポタージュ
ランチ肉.jpg
牛肉の赤ワイン煮込み

ちなみに、祇園祭で有名な八坂神社が建立されたのは平安遷都の約150年前の656(斉明天王2)年のことです。疫病退散の願いとともに、庶民から広く崇拝されるようになりました。「祇園社」や「祇園感神院(ぎおんかんじいん)」と称されていましたが、明治初期の神仏分離令のもとで、八坂神社に改称されました。祇園の名は消えましたが、京都人は今でも八坂神社のことを親しみを込めて“祇園さん”と呼んでいます。

八坂神社の在る円山の地には他にも多くの寺社がありますが、廃仏毀釈の一環として境内の一部を明治政府が没収、日本で最初の公園を整備するとともに、周辺が別荘地として開発された、そんな歴史もあるのです。円山公園はその後京都市に移管され、都市公園として池泉回遊式の今の形になったのは、大正になってからのことでした。

こちらは国営昭和記念公園のお正月です。(12月31日~1月1日は休園なので、2021年12月30日に撮影しました。)

IMG_2689 のコピー.jpg
日本庭園入口の門松
IMG_2685 のコピー.jpg
古民家の正月飾り
IMG_2686 のコピー.jpg
「武蔵野の農ここにあり」にも注連縄
IMG_2681 のコピー.jpg
門松は砂川口にもたてられています。


nice!(1)  コメント(0) 

雑記帳2021-12-15 [代表・玲子の雑記帳]

2021-12-15
◆新装なった京都市京セラ美術館で、開館1周年記念の「モダン建築の京都」展がひらかれています。会場には厳選された36の建物が写真や物語と共に紹介されています。

京セラ美術館 のコピー.jpg
モダン建築の京都展のポスターは、賀茂川を真中に京都の町を鳥瞰するデザイン

震災や戦災による被害が殆どなかった京都には、明治から、大正、昭和にかけて建てられた洋風建築や近代和風建築、モダニズム建築などのモダン建築がが今も数多く残っています。京都は、建物を巡りながら日本の近代化の過程を肌で案じることができる町だと言われているのです。

京セラ美術館の前身、京都市美術館も昭和のモダン建築です。昭和天皇即位を記念して建てられた京都市美術館は、国の威信をかけて建てられ、今のお金にして100億円の寄付が集まったそうです。ドイツ新古典主義の洋風建築に銅板瓦ぶきの屋根を載せた帝冠様式は、ライトの帝国ホテルの影響が見られ、上野の国立博物館本館も同じ様式です。

京セラ美術館14 のコピー.jpg
京都市京セラ美術館外観
京セラ美術館庭庭5 のコピー.jpg
京セラ美術館庭庭8 のコピー.jpg
建物内部も見どころいっぱい

周辺には平安神宮や府立図書館があり、それぞれ明治、大正時代の建物です。ここに立てば明治、大正、昭和が一度に体験できる場所になっているのです。平安神宮、府立図書館の設計者はいずれも伊東忠太。

府立図書館 のコピー.jpg
府立図書館

京都の町づくりに伊東忠太を忘れることはできません。
明治になって首都が東京に移り、衰退した京都の町の復興のために市が頼ったのが、帝国大学を卒業したばかりの伊東忠太でした。彼の平安神宮は、同じころ造られた琵琶湖疎水とともに、近代化をすすめる京都の、今の形を作る基になりました。
辰野金吾に学んだ伊東は、当時「造家」と呼んでいたarchikectureを「建築」と改めたり、誰もが知る築地本願時や東京都慰霊堂などをはじめ、明治から昭和初期にかけて数多くの作品を残しています。

師の辰野金吾ら、ジョサイア・コンドル門下の建築家たちは、西洋の建築を学んだ第一期生として、国威としての建築を造りました。対して、それから4代目に当たる伊東忠太は日本独自の建築をあみだそうとしました。忠太の卒論は、法隆寺のの柱はパルテノン神殿のエンタシスの柱がシルクロードを経て日本にたどり着いたのだというものでした。それは、地理的な面からも、日本がすべての文化が落ちる所という信念に基づくものでした。面白いことに、パルテノン神殿の柱はもとは木造だったのだそうです。忠太の説は学会では長く無視されていましたが、和辻哲郎の「古寺巡礼」は彼の説を引くものでした。
「建築は進化する」というのも彼の信条でした。

その伊東忠太の作品の一つ、「大雲院祇園閣」を見学することができました。

祇園閣 のコピー.jpg大雲院は京都府京都市東山区に、織田信長、織田信忠父子の供養のために創建された寺です。そこに、昭和3年、ホテルオークラの創始者、大倉喜八郎の建てた別邸の一部が祇園閣です。緑色の屋根が目をひく塔は、祇園祭の山鉾を模して建てた3階建ての建物で、国の登録有形文化財に指定されています。内部壁面には敦煌の壁画の模写が奉納されていましたが、撮影禁止。閣上から一望できる東山一帯の風景も、残念ながら撮影することができませんでした。

祇園閣5 のコピー.jpg
屋根に祇園祭の山鉾を載せた祇園閣(右上の写真はその頭頂部)

祇園閣の正面の左右に坐る狛犬は、曲線も愛らしく、西洋の獅子像やスフィンクスの姿もかさねあわされています。玉を抱える照明器具の妖怪は、案内人の京セラ美術館学芸員の前田さんによると、江戸時代の寺社彫刻のようでもあり、ゴシック建築のゴーガイルのようでもあるとか。階段を上りきったところにある天井装飾は、ロマネスク建築やインド建築に見られる、生命力にあふれた彫刻をほうふつとさせました。忠太の世界各地の見聞を交えて、京の遊び心に近代的な贅沢を加えたのだということです。ちなみに前田さんは今回の「モダン建築の京都」を企画推進したおひとりです。

祇園閣12 のコピー.jpg
愛くるしい狛犬

鴨川に架かる四条大橋東詰めに日本最古の劇場である南座が建っています。
桃山風デザインの建物は大正時代の建築。このほど改修工事を終えました。

南座 のコピー.jpg
南座

対岸にあるのがちょうど同じころに建てられた「東華菜館」です。建てられた当初は「矢尾政」というビア・レストランでした。戦時中、洋食レストランの存続が許されなくなった時に、店は中国人に託され、今は北京料理のレストランになっています。日本最古のエレベーターのある「東華菜館」でお昼をいただきました。

ランチ のコピー.jpg
前菜
ランチ6 のコピー.jpg
鶏肉の紹興酒の香付け揚げ
ランチ7 のコピー.jpg
水餃子

「東華菜館」は外壁にテラコッタを用いたスパニッシュ・バロックの様式で建てられています。設計したのはウイリアム・ヴォ―リス。
ヴォ―リスは宣教師として来日しましたが、建築師、実業家としても広く活躍しました。日本に帰化して、ウイリアム・メレル・ヴォ―リスのメレルを米来留にあてるなど、しゃれっ気もある人でした。
ヴォーリスの起こした近江兄弟社のメンソレータムは日本中で愛されたほか、建築士としては、日本各地に学校や教会、百貨店など数多く手がけました。中でも岡山駅舎や富郷小学校はよく知られています。

東華菜館8 のコピー.jpg
四条大橋から見た東華菜館

昼食後訪れたのは山科にある「栗原邸」です。緑豊かな敷地のすぐ裏には琵琶湖疎水が流れています。
本野清吾の設計による昭和初期の建物は、当初は「鶴巻邸」と呼ばれていました。施主の鶴巻鶴一は、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)の校長を務めた染色の専門家でした。平安時代に途絶えていた「ろうけつ染め」を復活させた人です。家具調度類や食器もデザインし、客間と食堂を仕切る建具には自身の手で獅子と桜を描いています。

栗原邸10 のコピー.jpg
栗原邸(3階の雨戸にはペンキのあともなまなましい)

邸はコンクリートブロックを採用した鉄筋コンクリート造りで、左右対称を貴重とした外観は落ち着いた雰囲気を漂わせています。南側の中央にある玄関ポーチには2本の丸柱が建っていて、西洋構造建築のような壁面と合わせて、古典的なデザインを強調しています。戦後の一時期、進駐軍に接収されて、内部はかなり米軍好みに塗り替えられたこともありました。今は無人の空き家状態になっているので荒れた感じはありますが、案内してくれた京都工繊大の助教、笠原さんは、なんとしてもこの家を保存したいと、時間を見つけては仲間と手入れにはげんでいます。今は手の回らない庭も、手を入れれば見違えるようになるだろうと言い、この家に住んでほしいと、現在買い手を募集中とのことでした。ちなみに疎水の流れる裏山も含めて売り値は2億円だそうです。

栗原邸玄関 のコピー.jpg
玄関ポーチ
栗原邸4 のコピー.jpg
お洒落なガラス窓の居間
栗原邸9 のコピー.jpg
ろうけつ染めを復活させた鶴巻は家具や食器もデザインした。

夕方、新幹線の出発時間を気にしながら、小さな商店街を抜けて30分ほど歩きました。
通り沿いには今も現役の郵便局や銀行があります。京都では市役所や府庁舎もも建築当時のものが使われているのです。持ち主が変わってショップやホテルに利用されているモダン建築をたくさん見つけました。日本銀行京都支店は、京都文化博物館になっていました。おなじみの辰野金吾の作品が、今、市民の作品の展示なども出来る、コミュニテイセンターのような機能を持つ場所にもなっているのです。

京都市庁舎2 のコピー.jpg
京都市役所
IMG_2562 のコピー.jpg
京都文化博物館(旧日本銀行京都支店)
IMG_2566 のコピー.jpg
銀行の窓口もそのまま残っている。

建物の保存は、それ自身の持つ空間と、そこに住んだ人が紡いできた時間の、両方を保存することだと前田さんは言います。京都はまさに生きた建築博物館。古い建物が名前を変えたりカフェやホテルに変わりながら、住み継がれて行く京都の奥深さを感じさせる旅でした。


nice!(1)  コメント(0) 

雑記帳2021-12-1 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2021-12-1
◆静岡市由比の地に広重美術館があります。11月は十返舎一九の弥次喜多道中に合わせた広重の「東海道五十三次」展が開催されていました。

東海道五十三次ポスター.jpg
東海道五十三次展のポスター

『知の木々舎』の『西洋美術研究家が語る「日本美術は面白い!」』は日本固有のの伝統的な文化だと思われている琳派や浮世絵の画家たちの作品を西洋美術の視点から眺める、ユニークな展開が好評です。
今、安東広重の『東海道五十三次』を終え、同じ画家の『江戸名所百景』を連載中です。

広重は寛政9年(1797)常火消同心の家に生まれました。13歳で両親を相次いで亡くし、家督を次いで、火消同心となりました。
幼い頃から絵が得意で、狩野派の絵師との交流もありました。当時、微禄の御家人は副業をもたざるを得ず、広重も家計の補助として絵の道をさぐっていたようです。16歳で画壇デビュー、27歳で年下の叔父に家督を譲って、画業に専念することになります。師匠は歌川豊広、

19世紀にはいると、江戸は空前の旅ブーム。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」がベストセラーになりました。同時に出版技術が向上した時代でもありました。
版元の保永堂から東海道に取材した風景版画を依頼された広重は、天保4年(1833)、「東海道五十三次」を発表して大人気となりました。18世紀前半に遠近法が伝わってから100年が経ち、2年前には葛飾北斎が「富嶽三十六景」を発表して、深みのあるベロ藍がふんだんに使われるようになっていました。

その後、街道ものの他名所図絵師の第一人者として、多くの作品をてがけました。安政3年(1856)60歳で剃髪して法体となるも健筆を振るい続けて、安政5年(1868)コレラで亡くなりました。まだ62歳の若さでした。コロナ禍の現在、なんだか身につまされますね。

広重の風景画には真実味があり、もっともらしさが人々に受けたと言われます。彼には「写真(しょううつし)」という言葉通り、写生したように表現できる自負がありました。更に、写生画に取捨選択するという演出を加え、理想の心象風景にしあげたのです。その、温雅で文学的な情趣は破綻がなく、日本人の感性に通ったのでしょう。広重は死ぬまで売れっ子でした。

保永堂版の五十三次から15年後に再び注文を受けて制作したのが、今回企画された五十三次でした。
保永堂版ではなく隷書(れいしょ)版と言われるこのシリーズは、日本橋を横からではなく正面から描く構図や、鞠子のとろろ汁の茶店、山中で突然の驟雨に慌てる旅人などの、ドラマチックな仕立てで私たちになじみの広重はありません。まるで今の観光地の絵ハガキを見るように描かれています。
保永堂販を見慣れた私たちにすれば、堅苦しくて面白みに欠け、色も全体に薄く、地味な印象です。また、色を載せずに凹凸感だけで煙を表すからくり技法と呼ばれる技法は、摺り師といったいになって工夫を凝らしたものでしたが、そのような画面は見当たりません。
それでも当時、弥次さん喜多さんと一緒に旅する気分はそれなりにうけたという事でした。

広重日本橋 のコピー.jpg
保永堂版の日本橋
広重日本橋(ポスター).jpg
ポスターにも使われている隷書版の日本橋

東海道は慶長9年(1604)、日本橋が起点となって宿駅の整備がはじまりました。
寛永元年(1624)に完成、様々な人物が東海道を旅しました。
由比宿は江戸から36里、旅籠は32軒ありました。「さざえの坪焼」が名物でした。今、この辺りの特産物は桜エビ。季節にはゆでたエビを干して浜が真っ赤にそまるそうです。

桜エビ御膳 のコピー.jpg
お昼に食べた桜エビ御膳(箱の右上が桜エビのかき揚げ)

東海道五十三次の16番目に、由比宿の薩埵峠(さったとうげ)が登場します。
保永版では、峠道はただの断崖絶壁で、画面の左上にいる三人の人物が、眼のくらむような斜面から今にも転落しそうに描かれていて、ここがいかに難所だったか、広重は緊張感あふれる大胆な構図で表現しています。

53次由比宿 のコピー.jpg
保永堂版の由比宿

現在、由比宿の本陣跡は整備されて由比本陣公園になり、広重美術館は交流館と並んで、園内にあります。

本陣公園2 のコピー.jpg
本陣公園正面
交流館2 のコピー.jpg
交流館
広重美術館3 のコピー.jpg
広重美術館

由比の本陣は街道に家屋を直面せず、石垣と木塀が作られています。敷地は1300坪、物見やぐら・本陣井戸がのこっています。石垣にそった水路は馬の水飲み場でした。

本陣当主は、1560年に今川義元とともに桶狭間の戦いで討ち死にした由比助四郎光教の子が帰農してからと言われ、代々継承されています。

由比本陣 のコピー.jpg
本陣水飲み場跡 のコピー.jpg
かっての馬の水飲み場ではいま、亀が甲羅干し
本陣を中心に、かっての由比宿を歩いてみました。宿場の入口は、街道をカギの手に曲げて桝形にして万一の攻撃に備え、更に木戸や土塁を作って宿場の印になっていました。桝形は西の出口にもありました。

桝形跡2 のコピー.jpg
桝形の跡(写真の道の真中へんにかすかにカギに曲がっている跡がある)

西国の大名の中には、江戸の屋敷と領国の居城との連絡に直属の通信機関(七里飛脚)をつかっている大名もありました。お七屋飛脚の役所跡は紀州徳川家のもので、当時、江戸~和歌山間584kmに七里(28km)毎に中継ぎ役所を置き、主役(お七里役)と飛脚5人を配置していました。毎月3回、江戸は5の日、和歌山は10の日に出発し、普通便なら8日間、徒急便なら4日間で到着したそうです。
飛脚は剣道・弁節に優れた者で、昇り下り龍の伊達半纏をまとい、「七里飛脚」の看板を持ち、刀と十手を差し、御三家の威光を示しながら往来したそうです。

今、年配者以外知る人も少なくなりましたが、名前の通り、由比正雪はこの地の生まれです。江戸時代から400年続く正雪紺屋は正雪の生家とされ、藍甕や染物道具、藍染明王の神棚などが残っています。
正雪の乱そのものは未然に発覚して自刃しましたが、4代将軍家綱の時代、それまでの大名取り潰しによって全国に溢れていた浪人の増加が社会不安にむすびついていることが事件の背景にあるとして、幕府はその後、武断政治から文治政治に舵を切ることになります。

正雪紺屋4 のコピー.jpg
正雪紺屋
正雪紺屋2 のコピー.jpg
現在は使われていないが、店内に藍甕が残されている。

本陣は参勤交代の大名や幕府役人が宿泊する施設、多くは名主の居宅が指定されました。宿の主人には名字帯刀の特権があたえられましたが、宿泊者からは謝礼のみで、これは支払う側にも接待する側にも大層な負担だったようです。中には本陣を辞退するという申し出もあったとか。そんな中で由比には脇本陣が3軒もあったことから、町が豊かだったことを伺わせます。江戸後期から脇本陣を務めた温鈍屋(うんどんや)が残っています。
脇本陣温どん屋2 のコピー.jpg
脇本陣の温鈍屋

明治4年、日本に郵便制度が創設されました。江戸時代の飛脚屋は「由比郵便取扱所」になり、明治6年「由比郵便局」になりました。明治39年、当時の郵便局長が自宅を洋風の局舎に新築して郵便局を移転、建物は昭和2年まで郵便局として使われていました。現在は私宅となっています。

郵便局 のコピー.jpg
私宅なので塀越しにしか見られないが、なかなか立派な元郵便局

西の桝形を過ぎれば由比川です。川には仮設の板橋が架けられて旅人はそれをわたっていました。雨で水量が増すと橋は取り外されました。徒歩で渡る川は徒歩(かち)渡りと呼ばれました。由比川で溺れた水難者を供養する入上(いりがみ)地蔵がまつられています。

由比川2 のコピー.jpg
由比川


このほか、1キロたらずの街道沿いには、先のお七里飛脚役所跡や正雪紺屋、郵便局をはじめ各所に説明版があり、今も旅人には親切な街でした。

加宿問屋場跡 のコピー.jpg

宿場のはずれに、ガイドさんおすすめの菓子屋「春埜製菓」があります。道中弥次さん喜多さんも食べたというたまご餅を、おばあさんが今も一つ一つ手作りでつくっています。大正15年の創業だということでした。

春野製菓 のコピー.jpg

浮世絵は、どのように絵を描くかを決める版元と、構図や絵を描く絵師、色を付ける摺り師の共同作業です。これは現在のアニメ制作と似ていると言われます。北斎漫画のような、個人の連作そのものも勿論、アニメだと思わせますが、日本にはそれぞれの分野のスペシャリストが協力しあってより素晴らしいものを作り上げる伝統があることをしみじみ感じさせます。それこそが日本の文化なのでしょうか。


nice!(1)  コメント(0) 

雑記帳2021-11-15 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2021-11-15
◆北鎌倉の古刹。浄智寺と円覚寺を訪ねました。

鎌倉時代、幕府が鎌倉に招へいした臨済宗の寺は建長寺を初め五山があります。そのうち、第2、第4にあたる円覚寺と浄智寺を巡りました。
円覚寺は日本で最初の禅寺、浄智寺には鎌倉以外では見られない仏像があることで知られています。

JR横須賀線の北鎌倉駅に降り立てば、その前を通るのは鎌倉街道。浄智寺はすぐ近くです。
浄智寺は鎌倉幕府第5代執権北条時頼の三男で、執権になることもなく亡くなった北条宗政の菩提を弔うために、弘安6年(1283)に創建されました。最盛期には七堂伽藍を備え、塔頭も18寺院に達するなどの隆盛を見せました。現在は創建当時の建物は残っていませんが、山間の古刹らしい佇まいは鎌倉後山4位の寺格だったことを偲ばせます。

参道入口には鎌倉10井の一つ、「甘露の池」があります。池に渡す太鼓橋は苔を守るため通行禁止になっています。

池のすぐ奥にある総門は、質素な棟門形式の、16世紀の城郭建築です。円覚寺開山の無学祖元の手になる「寶所在近(ほうしょざいきん)」の額がかかっています。寶所在近とは「大切なものは遠くではなく近くにある」という意味で、転じて「仏を信じ修行を積めば、心の平穏が得られる」という仏の教えにつながっているそうです。

総門4 のコピー.jpg
「寶所在近」の額のかかる総門

鐘楼門は江戸時代末期の門の様式を踏襲して平成19年(2007)に再建されたものです。建築様式は和洋、唐様、大仏様が混在していますが、全体の雰囲気は建築当時の様式を残しています。

鐘楼門 のコピー.jpg
鐘楼門

浄智寺の本堂、曇華殿(どんげでん)は、3000年に一度花を咲かせるという珍しい「優曇華(うどんげ)」の花に由来した名前は、極めて珍しい仏に巡り合える建物の意味で名づけられたとか。本尊の室町末期の木像3世仏は神奈川県の重要文化財になっています。阿弥陀、釈迦、弥勒の3体の各如来はそれぞれ、過去、現在、未来を司る仏とされています。

曇華殿5 のコピー.jpg
優曇華

衣の裾を台座に長くたらした姿は「法衣垂下」様式と呼ばれ、鎌倉仏だけにみられる特徴です。奈良・平安の仏教と違って、鎌倉仏教は東日本、武士を中心としたものであり、様式も関東だけに見られるものなのです。

曇華殿2 のコピー.jpg
「法衣垂下」様式の阿弥陀、釈迦、弥勒3体の如来像

殆どの建物が建築当初の様式を残しながらも最近になって建てかええられた中で、大正13年建築という茅葺の書院は、浄智寺のなかでは一番古い建物です。

書院 のコピー.jpg
写真では茅葺の趣が十分に撮れず残念。
浄智寺境内にはヤグラと呼ばれる、鎌倉独特の墓所がいくつも見られます。
ヤグラは、鎌倉の周辺で、鎌倉時代中期以降から室町時代前半にかけて作られた横穴式の納骨窟または供養堂で、市内では今も3000基以上が確認されているそうです。風化して苔むし、ただの洞穴のように見えるヤグラも、建立当時は内装も豪華で、火葬骨のほか多くの副葬品が収められていました。。

やぐら4 のコピー.jpg
穴の奥に観音像が見えるヤグラ

鎌倉と聞けば「いざ鎌倉」を思い出すのは謡曲「鉢の木」のせいです。その名にちなんだ「鉢の木」でお昼を頂きました。

鉢の木2 のコピー.jpg


円覚寺は正式には端鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)。臨済宗円覚寺派の大本山です。
弘安5年(1282)、時の執権・北条時宗が、宋から招いた無学祖元を開祖として開かれた古刹です。開基である時宗は18歳で執権職につき、無学祖元の説く禅宗に深く帰依していました。その時宗が国家の鎮護を祈り、蒙古襲来の文永・弘安の疫の殉死者を弔うために発眼したと言われます。

北鎌倉駅のホームはそのまま円覚寺、境内の中を横須賀線が走っています。
又、駅前を通る鎌倉街道をほんの少し南に入って今も残る旧鎌倉街道には、円覚寺の石垣が残されています。円覚寺は創建時、広大な敷地に18の塔頭を持つ、鎌倉屈指の大寺院でした。総門、山門、仏殿、方丈と、伽藍が一直線に配置されている伽藍配置は、宋様式独特のもので、境内全体が国の史跡に指定されています。

円覚寺内横須賀線 のコピー.jpg
境内を横須賀線の電車が走る
旧鎌倉街道 のコピー.jpg
旧鎌倉街道沿いに遺る円覚寺の石垣

ちなみに塔頭とは、禅宗寺院で、祖師や門徒高僧の死後その弟子が師の徳を慕い、大寺・名刹に寄り添って建てた塔や庵などの小院のことです。

総門の手前にある横須賀線の踏切の南側の左右一対の池は白鷺池と呼ばれ、創建当時から残る数少ない遺構です。池の石垣そのものが天然記念物です。

総門は大寺とは思えないような簡素な門ですが、山門は二重門形式の壮大な門でした。
浄智寺の高麗門が和洋、唐様、大仏の折衷建築であったのに対し、ここは上層の長押など一部の和様を覗いて、徹底的に唐様で建てられています。

山門 のコピー.jpg
山門

ちなみに山は寺を意味し、山門はこの世とあの世の境界です。
山門はは三門とも書き、三門は三解脱門とも呼ばれて、貪・瞋・痴(とん・じん・ち)の三毒からの解脱を意味するのです。

一直線に並ぶ伽藍をちょっと外れて険しい石段を上って行くと、弁財天を祀る弁天堂があります。その横にある「洪鐘(おおがね)」は国宝。一見の価値があるといわれています。北条時宗の息子、鎌倉幕府第9代執権の北条貞時が寄進したもので、関東では最古級、高さは259m、重さは5トンもあるという、大鐘です。「おおがね」に「洪鐘」の字をあてるのはここだけだそうです。

洪鐘 のコピー.jpg
国宝の洪鐘

円覚寺の本尊が祀られている仏殿は関東大震災で倒壊した後、昭和39年(1964)に再建されました。外壁に立湧欄間(たてわきらんま)という、格式の高い、縁起の良い文様がほどこされています。
本尊は宝冠釈迦如来。釈迦如来は本来解脱した存在なので、宝冠のような装飾品はつけていないのですが、そうした通形の釈迦如来像とは異なり、髪も螺髪ではなく頭上で大きく結び、宝冠や髪飾りをつけています。
釈迦が冠や飾りを身に着けているのはまだ解脱していない姿です。解脱しようと精進修行する釈迦にみずからを重ねる禅宗の考え方は、700年前の中国で最先端の仏教でした。そして、鎌倉幕府が招へいした無学祖元ら宋の高僧は直接鎌倉に来たために、鎌倉仏教は京都や奈良へ伝わることはなかったのです。

仏殿2 のコピー.jpg
仏殿
仏殿4 のコピー.jpg
立涌欄間
仏殿7 のコピー.jpg
本尊は近づけば圧倒されるほどの大きさの仏さま

唐門は天保10年(1893)に再建されました。江戸時代、大名や幕府の要人を接待するために再建された格式の高い建造物です。

唐門 のコピー.jpg
唐門

唐門をくぐった先にある大方丈では国の辞意用文化財「五百羅漢図」が公開中でした。
大方丈は儀式や行事に用いられ、北側には心字池のある美しい庭園があります。

方丈裏庭園2 のコピー.jpg
大方丈の庭園

妙香池は創建当初からある放生池。江戸時代初期の絵図に基づいて、平成12年(2000)に復元されました。

更に奥に進むと、円覚寺の塔頭の一つである正続院の中に、神奈川県唯一の国宝建造物、舎利殿があります。正続院は無学祖元を祀る重要な塔頭。入母屋造、柿(こけら)葺きの舎利殿は、15世紀、室町時代の代表的な禅宗様建築です。立湧欄間はここにも見られました。通常は非公開。

舎利殿3 のコピー.jpg
一見2階建てに見えるが一重裳階(もこし)付きの舎利殿

一番奥にあるのが、円覚寺の開基である北条時宗を祀る仏日庵です。時宗はこの場所で小さな庵を結び、禅の修行をしたと伝わっています。時宗の死後、弘安7年に、開基廟として創建されました。幾度もの戦火を潜り抜け、幕府をまとめあげた時宗は、学問の神、開運の神としてもあがめられたということです。

佛日庵 のコピー.jpg
仏日澱

円覚寺はじっくり回ればゆうに3時間はかかる大寺です。
見残した塔頭もあり、鎌倉仏教の特徴を示す数々の仏像なども、もう一度見たいと思わせます。鎌倉の紅葉は12月といいますから、観光客が増えるのはこれからかもしれませんね。



nice!(1)  コメント(0) 

雑記帳2021-11-1 [代表・玲子の雑記帳]

2021-11-1
◆熱海のMOA美術館では10月中、「琳派」展が開かれていました。

MOA美術館正面 のコピー.jpg
琳派看板 のコピー.jpg

本阿弥光悦、俵屋宗達に始まる様式が琳派と呼ばれるようになったのは、実は1960年以降のことです。それまでは尾形流、光悦流等と呼ばれていました。欧米で琳派愛高熱が高まり、彼らにとって発音しやすい「琳派」が定着して、日本に逆輸入されたのです。
その特徴は、平安以来の大和絵の彩色・技法の伝統を受け継ぎながら再生した独創性にあると言われます。

俵屋宗達が活躍したのは17世紀前半、徳川幕府草創期の京都です。政治的、経済的に圧倒的に優位に立つ江戸にたいして、京では伝統的な貴族文化が見直されていました。
宗達は「俵屋」という絵画工房を率いて、料紙装飾や扇絵に力を揮い、京の町衆に支持されました。宗達の描いた風神雷神はその後も琳派を代表するテーマになりました。
一方、光悦は、家康から土地を拝領して芸術村「光悦村」を築き、陶芸、漆、出版、茶の湯にも係わるマルチアーティストでした。

名称未設定 1 のコピー.jpg
琳派のテーマになった宗達の風鈴雷神図

大和絵の伝統を尊重した宗達にとって絵物語は重要な画題でした。宗達はそれを、大胆に省略したり敢えて主要人物を描かないなど意匠的な形態の作品にし、古典を新演出しました。また、彼の描く生き物は単純化され、親しみやすさや諧謔性があります。唐獅子は権力の誇示ではなくおどけていて、重量感のある白像は諧謔性と同時に目の鋭さが特徴です。墨の拡がりや滲みで描き出すたらし込みの技法は琳派のトレードマークになりました。

IMG_1123[1] のコピー.jpg
宗達龍虎図
IMG_1122[1] のコピー.jpg
宗達・源氏物語末摘花手習図
名称未設定 8 のコピー.jpg
宗達・軍系図

光悦は寛永の三筆と呼ばれる書家でした。その流麗な書は蒔絵に多く残されています。特徴はデフォルメと立体デザインにあるといわれています。蒔絵に大きく盛り上がった大胆な器形を用いたり、蓋と蓋裏の図柄がつながる、三次元的なしかけを作ったりしています。
下の「樵夫蒔絵硯箱」の、きこりが歩いている土橋はふたを開けると内側にも橋が続くように描かれています。きこりの脚には螺鈿が施され、誠に芸が細かいのにおどろかされます。

名称未設定 3 のコピー.jpg
光悦・樵夫蒔絵硯箱

宗達の誕生(1579年)からおよそ90年後に生まれたのが尾形光琳です。江戸では。室町時代の水墨画や狩野派が流行していたころのことです。華やかな意匠と奇抜な構成は宗達光悦に私淑したものと言われています。5歳年下の弟の乾山と共に、一つの時代を築きました。このころ、京ではパトロンが消失、兄弟は活動の場を江戸に移します。琳派は社会的、文化的な基盤を離れ、一つの伝統としてうけとめられていくのです。

光琳・乾山の生家は呉服商でした。没落後、光琳は本格的に絵師となり、乾山は窯を開いて陶器の制作を始めました。
光琳は、絵画では宗達風画風に魅かれ、蒔絵では光悦風を慕う気持ちが強いようです。模倣を通して光琳独自の明るい蒔絵の世界がうみだされました。
光琳風のデザイン「光琳模様」は18世紀前半、上方で大流行、5弁の花びらをひとまとまりに描いた「光琳梅」は多くの絵師に採り入れられました。

光琳秋草模様小袖 のコピー.jpg
伝光琳・秋草模様描絵小袖
名称未設定 6 のコピー.jpg
光琳・寿老人団扇
名称未設定 5 のコピー.jpg
光琳の蒔絵は印籠にもなった。

光琳が造形性を重視したのに対して、弟の乾山は絵と書が一体となった素朴な世界が特徴です。絵は技巧を否定、書は独学で無造作な書風です。
乾山焼きは懐石用の食器で人気があり、斬新で機知にとんでいました。和歌や漢詩の文学的要素を焼き物に展開しているのです。

名称未設定 4 のコピー.jpg
     乾山・色絵皿
乾山蒔絵染付売価蓋物.jpg
乾山・蒔絵染付梅花蓋物
IMG_1100[1] のコピー.jpg
乾山・色絵十二か月歌絵皿
 

同時代に活躍した野々村仁清を忘れることはできません。
仁清は実用の器である茶碗を、具体的な文様で色鮮やかに飾り、鑑賞性を重視した作品を創りました。
伝統と先進性を兼ね備えた仁清焼きは、京文化にあこがれる大名に人気がありました。

IMG_E1054[1].jpg
仁斎・色絵藤花文茶壷
     
18世紀半ばの京都では、円山応挙や伊藤若冲ら個性的な画家が活躍していました。
その後、18世紀末から19世紀初の江戸では、新たな琳派様式の流行が始まりました。代表的な画家は酒井抱一や弟子の鈴木其一がいます。
酒井抱一は、琳派画風の継承と新たな展開を打ち出して琳派を再興しました。奇しくも光琳から100年後にあたります。
抱一の、琳派の伝統的を意識しながら情趣や写実的な視点を採り入れた様式は江戸琳派と呼ばれます。一時は途絶えたかに見えた光琳様式は江戸の地で新たな息吹を得たのでした。

抱一藤蓮楓.jpg
抱一・藤蓮楓図図
抱一伊勢物語.jpg
抱一・伊勢物語図
      
琳派は、権力とむすびついた儀礼や様式とは関係なく、趣味の世界に近いと言われます。諧謔性や意匠的な構成などの遊び心は、権力から遠い位置にいたために、形式や伝統に縛られず、革新的な仕事ができたからでした。
装飾性を追求した作家たちの作品はモダンで、正に現代のデザイナーのようでした。

MOA美術館は昭和57年の会館。創立者は、宗教家・画家・書家・建築家の岡田茂吉。
国宝の尾形光琳『紅白梅図屏風』や野々村仁清の「色絵藤花茶壷』など重要文化財67点を含め所蔵は約3000点。
黄金の茶室や能楽堂のほか、復元された光琳屋敷も見どころです。光琳が晩年、京都に住んだ邸でした。併設された「茶の庭」は入口の唐門や「樵亭」と名付けられた茶室等、趣のある庭になっています。

IMG_1081[1] のコピー.jpg
館内から眼下に太平洋が見下ろせる
黄金の茶室 のコピー.jpg
黄金の茶室
IMG_2082 のコピー.jpg
茶の庭への門
IMG_2088 のコピー.jpg
茶の庭の一白庵でお茶を一服。

締めは『琳派御前」で。肴の皿は乾山好みでした。

IMG_1136[1] のコピー.jpg
 琳派御膳

◆『バルタンの呟き』を連載中だった飯島敏宏さんが亡くなりました。。
 
映画『ウルトラマン』の監督、飯島敏宏さんに初めてお会いしたのは、、映画「ホームカミング」の試写会でした。『知の木々舎』の顧問、鈴木茂夫さんがテレビ草創期に、TBSでご一緒だったのがご縁でした。TVドラマ「金曜日の妻たち」で一大ブームをまきおこしたあと、この映画も舞台は同じ東京の郊外。高度成長期の開発頭初、ちょっとお洒落で、若い家族の賑やかな声にあふれていた町が、30年の時を経て、高齢者ばかりが目立つようになった、(それは日本の縮図でもありました。)自身の住む町の変わり様を愛情をこめて見つめた作品たちでした。

原稿をいただくようになって、ウルトラマンの生まれた光の国が実は沖縄であったことを知りました。バルタン星人はそのウルトラマンの敵役ですが、飯島さんはそのバルタン星人を悲哀のある、どこか憎めない存在ととらえていました。『ウルトラマン50年』のあとを受けて連載した『バルタンの呟き』は100回を越える連載になりました。どれもが日常の些細な事柄を追いながら平和への思いにあふれていました。戦争を体験した世代が次々に亡くなって行く中で、命ある限り平和の大切さを伝えることを使命としておられたようでした。ご冥福をお祈りします。合掌。



nice!(1)  コメント(0) 

雑記帳2021-10-15 [代表・玲子の雑記帳]

2021-10-15
◆奇想の画家「伊藤若冲」の絵画とゆかりの地を訪ねました。

この夏、皇室私有の財産だった美術品のいくつかが国宝になったことがニュースになりました。その中に、狩野永徳の『唐獅子図』や小野道風の書に混じって、伊藤若冲の『動物彩絵』がありました。
コロナ第5波の緊急運事態宣言が解除された10月はじめ、京都に伊藤若冲ゆかりの寺を訪ねました。

最初に訪れたのは大津市膳所(ぜぜ)にある義仲寺(ぎちゅうじ)です。
その名の通り、平家討伐の兵を挙げて都に入ったものの、頼朝軍におわれて粟津の地で壮絶な最期を遂げた木曽義仲を葬った寺です。
江戸時代までは小さな塚でしたが、周辺の美しい景観をこよなく愛した松尾芭蕉がたびたび訪れ、後に芭蕉が大阪で亡くなったときは、遺言によってここに墓が立てられました。
境内には芭蕉の辞世の句である「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の句碑のほか、本堂の朝日堂、翁堂、無名庵、文庫等が立ち、境内全域が国の史跡に指定されています。
そして、この寺の翁堂に、若冲の15枚の天井絵があるのです。

義仲寺 のコピー.jpg
     旧東海道に面する義仲寺 昔は門の辺りまで琵琶湖だった
      室町時代の創建、現在は住職も檀家も無い寺だが、市が大切に守っている。

翁堂には壁一面に芭蕉の多くの弟子たちの肖像がかざられています。
ここに、もともとは京都伏見の石峰寺のために若冲が描いた130枚の内の15枚の天井絵がありました。現在、堂にあるのはレプリカ、実物は大津氏の歴史博物館に所蔵されています。残りは京都信行寺にあるということですが、公開されていません。

義仲寺7 のコピー.jpg
翁堂の天井絵

若冲最晩年の作と言われる天井絵がなぜここにあるのか、長い間、明治の廃仏棄釈の結果だと思われていました。それが、最近の研究によって、若冲の母の実家が滋賀にあったことから、江戸末期の安政期に大津の商人が買って、寺に寄進したことが分かりました。
古美術の世界では、これはワクワクするような大発見なのだそうです。
また、若冲の絵が1.2cmの方眼紙の上に描かれているのは、親戚に友禅織を営む家があり、小さいころから親しんでいたことと無関係ではないだろうという話を聞きました。
もちろん若冲自身が方眼をひいたわけではない、工房には大勢の弟子たちがいたはずだから。

若冲は、絵を生活の糧にする画家ではありませんでした。
絵の具や紙、絹布など、当時の最高の画材を全て自分のお金で購入し、全て無償で寺に寄贈しています。こんな事ができた絵描きはいない、世界を見渡しても宋の徽宗皇帝がいるのみだということです。

京都の青物問屋桝屋の長男として生まれた若冲は、40歳で弟に家督を譲り、絵に専念することになります。当時、青物問屋というのは株をもち、相当の財力を誇っていたようです。家業が裕福な商人であったことで、コストを考えることなく好きな絵を描くことができた、幸せな人だったと言えるでしょう。

京都御所の近く、同志社大学の隣に建つ相国寺(しょうこくじ)には若冲の「釈迦三尊像」があります。絵の描かれた絹は一枚絹です。当時、国内にはこれだけの幅のある絹織物は作られていませんでした。当然、2枚か3枚の布を継ぎ合わせなければなりません。それでは描きにくいということで、若冲は身銭を切って中国から取り寄せたのでした。
若冲と住職。大典善治との親交は深く、相国寺には「釈迦三尊像」」と同時に24幅の「動植綵絵」も寄進しています。

相国寺7 のコピー.jpg
狩野永徳の天井衛がある相国寺法殿、建物自体も国の重要文化財
Rコピー.jpg
動植彩絵の1枚(全部で30幅ある)
相国寺8.jpg
釈迦三尊像の1枚 絹も絵の具も最高のものを使った

金閣寺、銀閣寺を山外塔頭に持つほどの相国寺も、実は明治時代、廃仏毀釈によって寺の存続がおびやかされるほどに困窮しました。それを救ったのが「動植綵絵」でした。
この絵を皇室が1万円で買い上げてくれたことで、相国寺は生き延びることができたということです。その「動植綵絵」がこの度、皇室の手を離れて国宝になったというのも面白いで巡り合わせのような気がします。
金閣寺にも若冲の50面の障壁画が残されています。

◆閑話休題
この日の宿は、今京都で一番新しいと言われるJR西日本直営の「梅小路ポテル」でした。インバウンドめあてに、ホテルながら日本の旅館の気分も味わえるように、ホテル本体の外に居酒屋や町の風呂屋を併設、セパレートの部屋義で移動可能という、カジュアルな創りでした。夕食もフレンチではなく、イタリアンです。

ホテル7 のコピー.jpg
ホテルの横に路地を作って左右に居酒屋やまちのお風呂屋さん
ホテル のコピー.jpg
各部屋のベランダからは、早朝の公園を散歩する京都人のくらしがかいま見える
ディナー のコピー.jpg
夕食の前菜 季節魚(今日はタイ)のカルパッチョ
ディナー3 のコピー.jpg
メイン(子牛の炭焼きボルチーニ茸ソース)
朝食 のコピー.jpg
朝食はバイキング。つけものをはじめ京野菜がたっぷり。

◆2日目は伊藤家の菩提寺、宝蔵寺へ。
伊藤家の菩提寺ではありますが、若冲本人の墓はありません。江戸時代、厳しい檀家制度のもとでは、途中で家督を譲って隠居したり、改宗したりした若冲は、菩提寺に墓を立てることが許されなかったのです。とはいえ、弟の白斎は若冲の絵の弟子として若冲派に名を連ねており、兄弟の仲は決して悪くはありませんでした。

宝蔵寺 のコピー.jpg
宝蔵寺
宝蔵寺4 のコピー.jpg
伊藤家の墓 ここに若冲の墓はない

ここには拓本画の「即路図」と「竹に雄鶏図」が残されています。
「竹に雄鶏図」は若冲初期の作品。長い間本人の作品とは見なされていませんでした。
「若冲の絵は眼光を見よ」という言葉があるそうです。普通、鳥を正面から描くことはないが、この絵の雄鶏は正面を向いています。そのため、若冲の他の作品に比べて一見元気が無いようにみえました。しかし、正面を向いた鶏の眼には力があると、2016年の没後200年の「若冲展」で本物と判明しました。当時のどの画壇にも属さずに、型にとらわれず、自由奔放に描いた若冲の面目躍如ではありませんか。

名称未設定 1 のコピー.jpg
眼光鋭い雄鳥の図

若冲は江戸時代を通じて人気の画家でした。それが明治以降、専門家以外には殆ど人眼に触れることなく忘れられていました。2000年、京都国立博物館で生誕300年の若冲展が開かれたことが今の若冲ブームにつながりました。
今回の旅の講師、狩野博之さんは、大学の教員だった40年ほど前に請われて学芸員として国博に赴任し、若冲を世に出してブームに火をつけた仕掛け人です。一人のスターを生み出したことは何ものにも代えがたい勲章だと感慨深げでした。

嵐山ではちょうど、福田美術館と嵯峨嵐山文華館が共同で「京(みやこ)のファンタジスタ~若冲と同時代の画家たち」を開催中です。いずれの美術館も渡月橋に近く、桂川を望む景勝の地にあります。

福田美術館は金融会社アイフルの社長が作った美術館。相当数の若冲を所蔵しているようでした。
若冲と同じ年に生まれた与謝蕪村、同時代を生きた円山応挙や池大雅の作品が展示されています。
嵐山文華館では若冲・応挙・芦雪・呉春など、18世紀から19世紀にかけて活躍した画家たちの絵と共に、宝蔵寺所蔵の先出の「竹に雄鶏図」や若冲派の絵が貸し出されていました。

福田美術館4 のコピー.jpg
福田美術館
嵐山文華菅 のコピー.jpg
嵐山文華館
嵐山文華館4 のコピー.jpg
若冲の屏風絵の展示も

若冲の晩年、中国の僧、隠元が京都の宇治に黄檗宗万福寺を開きました。
衰退しかかっていた禅の復興のために、幕府の認可を受けての事でした。新しい風は江戸でも流行しました。徳川が終わると同時に衰退するのですが、若冲は黄檗宗の粋に魅かれて得度、伏見にある海宝寺、石峰寺で晩年を過ごしました。

隠元と共に来日したのが普茶料理です。
もともとは法事の後に皆で食べる、中国の会席料理でした。普茶料理はダイニングテーブルで大皿からとりわけながら食事をする文化をもたらしました。
お昼に海宝寺の「若冲筆投げの間」で普茶料理をいただきました。
海宝寺には若冲の襖絵があったことで知られています。

海宝寺 のコピー.jpg
海宝寺
海宝寺ランチ のコピー.jpg
      コロナのため、大皿から取り分けるスタイルではなく、

石峰寺は黄檗宗の禅道場として建立された寺です。寛政年間、若冲は石峰寺の門前に庵をむすび、五百羅漢を作成しました。当時は千体あったといわれますが、現在は四百数十体が裏山に残されています。明治の廃仏毀釈にあい、無住になったために、盗まれた羅漢は数知れません。現在は再興されています。
義仲寺で見た天井絵は石峰寺の薬師堂にあったものです。

石峰寺8 のコピー.jpg
石峰寺の山門 黄檗宗独特の門の形をしている
石峰寺五百羅漢4 のコピー.jpg
石峰寺の裏山をおおいつくすように五百羅漢が

伏見といえば、当時も今も京都では片田舎。明暦の大火で家を失った若冲は相国寺を離れて、石峰寺門前の庵で妹と二人で晩年を過ごし、この地で亡くなりました。享年85歳。石峰寺の墓地には、生涯描き続けた若冲を象徴するように筆の形をした墓石が並んで立っています。

石峰寺5 のコピー.jpg
石峰寺の若冲の墓


nice!(1)  コメント(0) 

雑記帳2021-10-1 [代表・玲子の雑記帳]

2021-10-1
◆府中に古代武蔵国の国府がおかれた理由は地形にあった!

かって国府のおかれた府中は政治だけでなく文化の中心地でもありました。中心となった理由の一つがその地形にあったというのです。
当時の多摩川は今より北を流れ、府中崖線の崖下からは豊富な水が湧き出していました。崖上の台地は誠司や文化の舞台としてふさわしい場所だったのでしょう。

大國魂神社はまさに府中崖線の上に達ち、神社に対面するように建つ国府跡は、眼下に多摩川を見下ろして、対岸の彼方に、多摩の横道と呼ばれた多摩丘陵を見晴るかす場所にありました。
京王線府中駅に降り立てば先ず目に入るのは「馬場大門のけやき並木」。ケヤキ並木としては国内唯一の国指定の天然記念物です。
起源は古く、1062年、源頼義・義家親子が東北遠征の祈願成就のお礼として1000本のケヤキの苗木を寄進したと伝えられています。 江戸時代にはここに馬場がたち、家康もケヤキを寄付しています。府中と馬の歴史は競馬場だけではなかったのです。
ケヤキ並木はまた、大國魂神社の参道になっています。

ケヤキ並木2 のコピー.jpg
馬場大門のケヤキ並木

鳥居をくぐり、拝殿に入る直前の隋身門の前を旧甲州街道が通っています。
旧甲州街道は東山道を経て京都まで繋がり、江戸時代は「京所道(きょうずみち)」とも呼ばれていました。門前の狛犬の台石には、江戸時代のこの地の宿場の名前(番場宿)や旅籠の名前(左右に箱屋、東屋)がきざまれています。

大國魂神社2 のコピー.jpg
石に番場宿、箱屋の名前が刻まれているのが見える。

大國魂神社は鎌倉海道を歩いたときにも登場しました。高天原に出雲の国を譲った大国主神を祭神として祀っています。大国主神は此の地の守り神として、人々に衣食住の道を教え、又医療法やまじないの術も授けました。境内には江戸名所図会にも載っている鶴石亀石や、水神社のさざれ石など、面白い石のほか、鼓楼は神仏集合の名残を残すものでした。

大國魂神社拝殿 のコピー.jpg
拝殿(本殿はそのうしろにあり、通常は入れない)
大國魂神社さざれ石 のコピー.jpg
水神社のさざれ石

面白い社もいくつかあります。その一つ、宮之咩(め)神社は、安産の神様、天鈿女命(あめのうづめのみこと)をまつっています。絵馬の代わりにそこの空いた柄杓を奉納します。
もう一つは松尾神社。醸造の神様なので、小さい境内には多摩の酒屋さんの樽が積んでありました。

大國魂神社宮之咩神社2 のコピー.jpg
                宮之咩神社に奉納された底の開いた柄杓
大國魂神社松尾社2 のコピー.jpg
松尾神社に奉納された東京の地酒の樽

大國魂神社に面して、武蔵国府跡国司館跡があります。古代武蔵国の国府に赴任した国司が居住した館です。府中崖線の段丘面が南に張り出した絶好の場所でした。
江戸時代には家康が鷹狩りをする際に宿泊・休憩した「府中御殿」が置かれていました。

武蔵国府跡国司館6 のコピー.jpg
無左飛国校区府国司館跡

ここから坂を下っていく途中にある妙光院は、江戸時代には20を越える末寺を抱えていたと言われる古刹です。
周辺には地獄坂、天神坂と呼ばれる坂があり、いずれも由来ははっきりしないが、と石の案内板がたてられています。府中市内には他にもたくさんの坂があり、市は説明版や石段を整備しています。天神坂に隣接するのは日吉神社。大國魂神社の末者として古くから祀られていたようです。
府中市内には縦横に府中用水が流れていました。いま、多くは暗渠になっています。天神坂をくだりきっ平地に出ると、東京競馬場の前を走る道路に出ますが、この道路も用水の暗渠の上につくられています。

府中崖線の崖を背にして、妙顕神社、馬頭観音、馬霊塔が並んでたっていました。
馬霊塔は競走馬の供養の為に建てられた塔です。塔の両側には名馬の名前が刻まれた十数基の墓石がおかれています。脇の馬頭観音菩薩は、競馬の開催される期間中は各厩舎の紅白の幟が奉納されるそうです。

競馬場の中に入ることはできませんでしたが、場内には16世紀末に府中を開拓した井田是政の墓があるそうです。是政の名は西武多摩川線の終点、是政駅に残っています。

馬霊塔 のコピー.jpg
場霊の塔

東京競馬場からみあげる坂の上は京王線東京競馬場正門前駅。駅から一直線に競馬場に下りてくる坂の名前は普門寺坂です。
説明版によると、この坂名は,坂の西側にある真言宗普門寺の寺名に由来しています。別名を「薬師の坂」といい、これは普門寺にまつられている薬師如来からついた名のようです。この薬師様は「目の薬師様」として有名です。奉納された絵馬が「め」なのも面白いですね。
普門寺2 のコピー.jpg
普門寺に奉納された「め」の絵馬

普門寺から京司道(旧甲州街道)をたどれば、大國魂神社の東側にある武蔵国府国衙(こくが)地区に出ます。
「国府」とは、奈良時代の始めごろから平安次代の中頃にかけて、全国60か所におかれた役所です。その国の政治はいうに及ばず、行政、文化、経済の中心地でした。武蔵国の国府は府中に置かれました。

武蔵国は、現在の東京都、埼玉県のほぼ全域と神奈川県の川崎市・横浜市の大部分を含む広大な地域で、21の郡を管轄する大国でした。
「国府」の中心の役所である「国庁」では、国司が政治や儀式をおこなっていました。国庁の周辺には行政事務を行う建物群があり、それが「国衙」でした。
今から30年ほど前に発掘された国衙跡からは、大型の掘立柱や礎石の跡、武蔵国内の郡の名前が刻まれた瓦や煉瓦が発見されました。
ちなみに、都から赴任してきた国司が最初にする仕事は、地域の祭神に参拝することでした。武蔵国には一の宮から六の宮までが広い地域に散在していました。全部回るのはめんどうというわけで、1か所に合祀してお参りしたのが大國魂神社です。大國魂神社を六所宮といい、総社と呼ぶのはそのためです。

武蔵国衙跡2 のコピー.jpg
武蔵国国府国衙跡 掘立柱が建つ

旧甲州街道を西へ進んで、街道が旧相州街道(現在の府中街道)と交わる地点にたつのは高札場跡です。 日本橋をはじめ、江戸幕府が法度や禁止令の通達を掲示した高札場は宿場や交通の要衝にたてられました。庶民でも読むことが出来るように、簡易なひらがな交じりで書かれた文章は、寺子屋の教科書がわりにもなって、意外にも、庶民の教育に一役買ったようです。明治になって廃止されましたが、高札場跡は多摩地域には府中の他にもう1か所、東大和市蔵敷にもあるそうです。

高札場 のコピー.jpg
高札場跡(街道交差する地点で高札は斜めを向いている)

高札場から府中街道を南に下っていくと、崖線の崖際に善明寺という寺があります。崖下にはJR南武線が通っています。小さな寺ですが、よく手入れされた庭がきれいでした。寺に安置されている鉄造の阿弥陀如来座像は、国分寺の「刀鍛冶・藤原助近の手になる日本最大級の鉄仏で、国の重要文化財に指定されています。

善明寺2 のコピー.jpg
善明治 山門の間から手入れのゆき届いた庭が見える

明治43年(1910)、多摩川の砂利採取と運搬を目的に、国分寺と下河原館に鉄道が敷かれました。東京砂利鉄道です。競馬場への支線も開設されましたが、昭和48年(1973)、武蔵野線の開業によって廃止されました。跡地は自転車と歩行者専用の緑道になっています。

砂利鉄道跡遊歩道 のコピー.jpg
砂利鉄道跡

再び旧奥州街道にもどって西に向かうと、以前にも紹介したことのある高安寺です。

平将門を打ち取った藤原秀郷の居館であったことから、境内には秀郷稲荷が鎮座しているほか、崖下には義経と弁慶が般若心境を書き写すために井戸の水で墨を摺ったという伝説にちなんだ古井戸が残っています。崖上の高台にあって眺望がいいことから鎌倉時代から室町時代にかけてたびたび合戦の本陣になりました。足利尊氏が寺を再興して、護国禅寺としたと伝わっています。
本堂や山門、鐘楼は東京都の歴史的建造物に指定されています。
高安寺からJR南武線分倍河原駅まではすぐです。

高安寺3 のコピー.jpg
高安寺山門
高安寺弁慶硯の井戸 のコピー.jpg
弁慶の硯の井

府中から調布まで続く府中崖線は、国分寺崖線ほど高低差がなく、歩きやすい散策路だと言えます。コロナで自宅待機が長かっただけに、なまった体にはほどよい3時間でした。



nice!(1)  コメント(0) 

雑記帳2021-9-15 [代表・玲子の雑記帳]

2021-9-15
◆レストランヴァンセットはコロナ下でも元気です。

『旬の食彩 僕の味』を連載した大澤聡さんは27歳の時、立川駅近くにフレンチレストランを開きました。27歳だったので店の名も『RESTRANT 27(ヴアンセット』。
『知の木々舎』には折に触れて便りが届き、『旬の食祭 僕の味』は100回を越える連載になりました。パリで修行中に、ソムリエ酒豪中だったマダムとしりあったという、出逢いもロマンチックなご夫婦です。店は花屋さんの2階にあります。

シェフ大澤さん のコピー.jpg
シェフの大澤さん

便りには面白いトピックがいくつもありました。
最近人気の出てきたジビエ料理も、閉店後スタッフ総出で毛抜きをする場面があって、出来上がりはおしゃれなジビエも現場はwildだなあと妙に納得したのを憶えています。
数年前に減圧調理器にであって、レパートリーが増えたことも紹介されました。この調理器を使って試作を繰り返す様子が『知の木々舎』に載っています。
研究熱心なことも合わせて平成30年には立川市の「輝く個店」に選ばれました。

どの店もシェフには食材にこだわりがあるようですが、大澤さんのこだわりも相当なものです。野菜も肉も魚も、産地を尋ねながら味わう一皿にはドラマがあって、まるで日本中を旅している気分になります。 レストランでゆっくりと味わう2時間は、私のようにアルコールを飲めない場合でさえ、料理を食べる時間だけでない楽しみがあるのだとしみじみ思うのです。飲めたらもっと楽しいだろうと思うと癪ですが。

で、コロナ自粛でもちょっと旅気分を味わいたくてヴァンセットへ出かけました。
9月10日過ぎの、季節が変わり目のとき、メニューは夏の名残と秋の入り混じったコースです。

最初の一皿・・・キャビア・オーベウジーヌとグージェール

前菜1-2 のコピー.jpg
(手前) シュー生地の中に茄子のピューレがはいっている
(奥)オリーブとグリエールチーズのパウンドケーキ

桃の冷製スープはヴェんセットの夏の定番です。

桃の冷製スープ のコピー.jpg
桃は山梨県古谷農園のゴールデンピーチ 固形のものはコンソメゼリー

前菜盛り合わせは目が覚めるほどカラフルな一皿です。

前菜2 のコピー.jpg
●30種以上の野菜はそれぞれこだわりの産地から(ブロッコリーは静岡、カリフラワーは香川、茄子は新潟などなど)
   ハーブ系は静岡、エデイブルフラワーはなんと立川産。
●中央には対馬産アナゴと新潟県産十全茄子のセルクル仕立て
       ゼリー状のアナゴは圧力なべで煮たそうです。
   セルクルは洋菓子の型枠のこと。お菓子のように二層になっている。
       十全なすは昭和初期からあった新潟県のブランド茄子。一般には浅漬け用。
●総州古白鶏の減圧ハム
     65℃で30分 低温では長時間煮ても味ははいらないが、減圧なら味が入るそうです。
●イベリコ豚のテリーヌ
    
メインは仔鴨のコンフィ、牛ひれ肉のステーキ、鮮魚のポワレから選ぶ。
今日は仔羊の煮込み、ビーツのソースを。いちぢくは淡路島産。

メイン のコピー.jpg

デザートは秋らしく和栗のモンブランでした。 

デザート2 のコピー.jpg
中はチョコレートのアイスクリーム。栗は熊本産。
コーヒーカップ のコピー.jpg
コーヒーカップはウエッジウッド。

◆今年もアール・ブリュット展が開かれました。

ポスター9 のコピー.jpg
2021年のポスター

アール・ブリュットとは「加工されていない、生(き)のままの芸術」という意味のフランス語で、画家のジャン・デュ・ビュッフェによって考案された言葉です。英語では「アウトサイダ―」と称され、伝統や流行教育などに左右されず自身の内側から湧き上がる衝動のままに表現した芸術と言われています。。 

福祉施設に通う子どものお母さんたちが実行委員会をたちあげたのは2015年。メッセージは「障害のある人もない人も共に生きる社会の実現につながるように」というものでした。今年で7回目になりました。

ポスター1 のコピー.jpg
第1回アール・ブリュット展のポスター

例年、秋に百貨店や多摩都市モノレールの駅を会場に作品展が開かれていますが、コロナ下の今年は開催方法が変わりました。
6月、昭和記念公園の花と緑の文化ゾーンに設けられた展示や体験コーナーは、大勢の参加者で賑わいました。そして、9月、例年より規模を縮小して、高松学習館で作品が展示されました。
しまうまの山 のコピー.jpg
        今年のポスターになった関山隆之さんの「しまうまの山」
From a corner of Asia のコピー.jpg
曼荼羅を思わせる玉川宗則さんの「From a corner of Asia」
虹色の魚 のコピー.jpg
柴田将人さんの「虹色の魚」
名称未設定 1 のコピー.jpg
坪井勇馬さんの「お花畑」
        
アール・ブリュットという芸術分野は、「表現の可能性」「人の果てしない想像の力」を体感させ てくれるとして、現在欧州を中心に世界で展示会が行われています。作品を見ると、その自由な想像や表現は、障害の有無に関係のないことに気づかされます。芸術はそもそもが障害の有無をいうものではないのだと改めて気づくでしょう。 

◆駅コンコースは魅力がいっぱい!

駅のコンコースでは駅ビルにはいっていない店が出ることがよくあります。
急いで通りすぎるので、ゆっくり見ることは少ないのですが、この日は面白い出店がありました。「東京NEO  FARMERS!」の旗がたっていました。
イケメンの若いお兄さん(マスク越しなので誰もイケメンにみえる!)に尋ねると、異業種から農業に参入した若者のグループだとか。

東京Neo Farmers のコピー.jpg

今、都市の農地関連の法改正を受けて、都内では新規農業者が次々に誕生しています。農地の貸借の規制が緩和されたため、職業としての農業に魅力を感じて取り組む若者がふえているのです。都会に住みながら、地方の農業とは一味違った東京農業をつなぎ、どのように成長していこうとしているのか、なかなか面白いではありませんか。現在50名を越えるメンバーが活動しているそうです。
ちょっと珍しい野菜もありました。コリンキーというカボチャは生で食べられるそう。
写真下はこれもまだ珍しいバターナッツ、おなじくカボチャの仲間です。

neo farmersコリンキー のコピー.jpg
neo farmers バターナッツ のコピー.jpg


nice!(1)  コメント(0) 

雑記帳2021-9-1 [代表・玲子の雑記帳]

2921-9-1
◆知り合いから、このたび、立川の隣の東大和市にある戦績、旧日立航空機変電所の案内人になることが決まったと報告がありました。
それも、ボランテイアではなく、週2日勤務という、非常勤ながら職員待遇ということです。東大和市の、戦争や平和の取り組みの姿勢がうかがわれるようではありませんか。

IMG_1685 のコピー.jpg
日立航空変電所

日立航空株式会社立川工場(通称 日立変電所)はこの雑記帳でも一度紹介したことがあります。当時は公開されていませんでしたが、この数年の間に、市は戦績として公開に向けた整備をすすめ、ようやく一般公開出来るまでになったのです。

変電所は、西武線玉川上水駅の北側、団地とならぶよう位置する都立東大和南公園の一角に、おびただしい数の機銃掃射や爆弾の爆裂痕を残して建っています。
この建物は、昭和13年(1938年)、当時の東京府北多摩郡大和村に建設が開始された飛行機のエンジンを製造する軍需工場に電気を供給する重要な施設でした。

太平洋戦争末期になると、軍需工場が集中していた多摩地域は、数多くの空襲を受けることになります。この工場でも昭和20(1945)年、3回の爆撃を受けて、工場の従業員や動員された学生、周辺の住民など100人を超える犠牲者を出しました。4月24日の空襲では、工場は8割方壊滅したといわれています。

変電所の窓枠や扉などは爆風で吹き飛び、壁面には機銃掃射や爆弾の破片による無数のクレーター状の穴ができました。が、鉄筋コンクリート造りの変電所は幸いにも決定的な損傷を受けることなく、戦後の平和産業の受電施設としてその後も稼働し続け、平成5年(1993年)まで変電所として働き続けました。しかも、爆撃を受けた生々しい痕跡を残したままの状態で使われていたのです。

IMG_1689 のコピー.jpg
壁中に弾痕が残っている

平成5(1993)年、変電所を含む工場の敷地は、都立公園として整備されることになり、建物は変電施設としての役割を終えました。

しかし、地域住民や元従業員の方々の強い要望により、変電所の建物はそのままの場所で保存されることになりました。
戦争で多くの尊い命が犠牲になったことを、誰よりも雄弁に物語ってくれるこの変電所を、東大和市はその年、文化財に指定し、後世に伝えることにしたのです。

公開をまえにして、残念なながらコロナ下の緊急事態宣言にあたってしまいました。
建物の前には公開延期の張り紙と、秋の平和学習の講演会のお知らせがありました。

IMG_1688 のコピー.jpg

◆立川にも山中坂に、戦争の傷跡を残す戦災供養地蔵尊があります。

陸軍飛行場を中心に陸軍航空工廠や軍需工場が集中していた立川は、米軍からは重要拠点とみなされて、昭和20年には13回に及ぶ空襲を受けました。

立川市富士見町5丁目にある通称「山中坂」は、残掘川の崖に面した坂です。
この地には崖を利用して横穴式の壕が掘られていました。もともとは役所の重要書類を退避させるために掘られた所蔵庫だったのを、使われなくなったので近所の住民が防空壕として活用をしていたそうです。

昭和20年4月4日は 第二波の空襲が特に激しく人々は山中坂の防空壕に避難しました。
このとき、B29が投下した250kg爆弾が防空壕の入り口付近に命中し、防空壕の中にいた全員が犠牲となりました。犠牲者は42名ともいわれています。

山中坂が被弾した理由は諸説あります。
立川陸軍航空工廠と立川飛行機砂川工場を狙ったものが逸れた、中央線の鉄橋を狙ったものが逸れた、などと言われる他に、防空壕の入口付近を出入りしていた子供たちが照明弾で発見されたとの説もあるそうです。
大勢の子供たちが亡くなったことを思うと、なんとも痛ましい理由です。

防空壕のあった跡には亡くなった人々の霊を慰めるために「戦災供養地蔵尊」が建立されました。

山中坂4.jpg
戦災供養地蔵尊の祠と碑
山中坂.jpg
祠の中のお地蔵さん

          山中坂悲歌 (エレジー)
      作詞 小沢長治  作曲 新田光信

      夜明けが遠い 闇の中 
      山中坂の防空壕に
      息つめよりそう四十一人
      子ども年より女の人 
      爆弾つんだ飛行機がくる
      闇をひきさき とどろく音 
      防空壕に爆弾が落ちた
      埋められた四十一人
      子ども年より女の人 
      二度とかえらぬみんなの命

      ああ 悲しみが坂を流れる 
      桜の花がなきがらに降った
      あの日のように花びらが舞う
      山中坂よ 小さなほこら 
      お地蔵さまに祈る誓い

      あの悲しみを くり返さない 
      あの悲しみを くり返さない 

戦後76年がたち、各地で戦災の記憶や遺構をどう保存し伝えていくかが問われています。戦争を経験した世代がほぼ80代に入り、次々と亡くなっていく中で、残す作業がいかに大変か、携わる人々の絶え間ない努力を思い、私たちが関心を持ち続けることの大切さを思わずにはいられません。

◆コロナ下のオリ・パラリンピック喧噪のうちに夏が過ぎようとしています。久しぶりに訪れた薬用植物園は、人影もなく、ひっそりとしていました。

梅雨明けから続いた猛暑のあと、8月中旬には東京は1週間もの長雨に見舞われました。線状降水帯の被害が各地に出ていたころです。8月中旬を過ぎると例年ならぼつぼつ咲き始める秋の七草も、今年はその気配は薄く、僅かにオミナエシが元気でした。初秋の数少ない花を拾いました。

オミナエシ のコピー.jpg
オミナエシ
ヘビウリ のコピー.jpg
ヘビウリ(花弁のふちがレース状になっているのはカラスウリの仲間の特徴、若い果実は食用に)
トロロアオイ のコピー.jpg
トロロアオイ(オクラの仲間。粘液は和紙の材料や漢方薬の成型に利用された)
ノゲイトウ のコピー.jpg
ノゲイトウ
ヘチマ のコピー.jpg
ヘチマ    

炎天にさらされて、夏のおわりには園内もすっかり疲れてしまったように見えます。コロナ下では、イベントもボランテイアさんのガイドもありませんが、昨年は緊急事態宣言中ずっと閉園してていたことを思うと、開園しているだけでももうけものと思わなけえばなりません。変わらないのは温室でした。

カカオ2 のコピー.jpg
カカオの実
パパイヤ のコピー.jpg
パパイアの実
使君子 のコピー.jpg
使君子(珍しい名前のこの植物も殺虫作用、消化促進、鎮痛作用、精神安定、食欲増進などの生薬の原料になる)

◆ノウゼンカズラは9月1日号の表紙にするにはちょっと遅かったので・・・

ノウゼンカズラ4 のコピー.jpg

真夏の炎天にひけをとらない、あの悩ましい色は何なのか、名前さえも悩ましい、と思っていました。調べてみても意外にあっさりと、夏から秋に美しい花をさかせる、しか書かれていない。8月20日過ぎ、ひとまず、玉川上水口に咲くノウゼンカズラの写真を撮ることに成功したので、雑記帳で紹介することにしました。


nice!(1)  コメント(0) 

雑記帳2021-8-15 [代表・玲子の雑記帳]

202-8-15
◆すずかけ三兄弟の保存運動の歴史が銅人形になりました。

戦後米軍に接収されて立川基地が全面返還されたのは1977年(昭和52年)のことです。
跡地の一部は1983年に国営昭和記念公園にうまれかわりましたが、そのあとも町の再開発は続きました。
1999年、開発のために伐採される計画だったのが、3本のプラタナスの木でした。終戦の年に進駐してきた米兵が、基地の中に日米友好の印にと植えたアメリカスズカケノキは。立川の50年の歴史を見つめてきた木でもありました。それを知った市内に住むアーティストや子どもたちが保存を求める運動をはじめ、直線の道路をほんの少しカーブさせて、木は残ったのでした。立川の土地に合ったのか、50年の間にスズカケノキはすっかり巨木になっていました。
見る角度によっては2本にみえる3本のプラタナスはいま、「すずかけ三兄弟」と呼ばれて親しまれています。

篠懸三兄弟 のコピー.jpg
すずかけ三兄弟、街路樹としては老木なので、しっかり補強もされました。

保存を呼びかけた一人が銅板造形作家の赤川政由さんです。そして、赤川さんの友人の音楽家たちが、2006年からこの保存運動を構成に伝えるコンサートをひらいています。
赤川さんは、市民運動によって保存された歴史をモチーフに、3人の奏者が木管楽器を演奏する姿を銅板作品に仕上げました。作品名は「三本のプラタナスとしあわせな三楽士をつくった人々」。オーボエ、ファゴット、クラリネットの三重奏をイメージしたものです。「スズカケを守った歴史をこども達に伝えたい」との思いが形になったのです。像は、立川で一番新しい街「グリ^ンスプリングス」の一角に設置されました。ちょうど、すずかけ三兄弟と向かい合うような場所です。

三楽士 のコピー.jpg
三本のプラタナスとしあわせな三楽士(腰かけているのがプラタナス)

赤川さんは全国各地に銅板造形作品を提供しています。立川市内には、駅北口の「風に向かって」や女性センターの「指揮者」、幸学習館の「セロ弾きのゴーシェ」など30体以上もあります。埼玉県行田市には「童」の像が36体、これは行田が足袋の町でさかえていたころの子供の姿をイメージしたもの、などなど。行田の童はこの『雑記帳』でも何体か紹介したことがありました。大きいものでは愛知県半田市の「新実南吉さんのお話の木」でしょうか。童話作家・新実南吉の故郷は半田市です。『知の木々舎』で紹介した作品はたくさんあります。

風に向かって のコピー.jpg
「風に向かって」は戦前、青森県三沢基地から飛び立って世界初の太平洋無着陸横断飛行に成功した「ミス・ビードル号」を題材にした。ビードル号はまず立川飛行場を出発して三沢まで飛んだのです。

赤川さんの師匠は彫刻家の故・藤原吉志子でした。かって米兵の住居だった「ハウス」に住む赤川さんはいま、ハウス内のアトリエ・ボンズ工房で弟子を育てています。
実は「三本のプラタナスと幸せな三楽士・・」の制作中、完成まじかにご本人が体調を崩して入院、というハプニングも起こりましたが、5人のお弟子さんたちが協力して完成させたそうです。完成した像の設置にはもちろん退院したご本人も立ち合いました。友人の音楽プロデューサー、しおみえりこさんは 「お弟子さんにとってもいい機会だったのではないかしら」と話していました。弟子の一人、安東けいさんは『知の木々舎』の『赤川BONZEと愉快な仲間たち』にも何度か登場しています。

兎と亀 のコピー.jpg
    師匠の藤原吉志子の「兎と亀」(ファーレのパブリックアートから)
名称未設定 2 のコピー.jpg
安東ケイさんの作品

◆緊急事態宣言中ではありますが、国営昭和記念公園は開園しています。今回はあまりなじみのない「こどもの森」を紹介しましょう。ところどころに子ども向けの説明版もついています。

パークトレイン のコピー.jpg
園内を走るパークトレイン 色も形も違うのが数台走っている。乗車料金は一回300円。
森ワクワク広場 のコピー.jpg
メインゲート  ワクワク広場
森風車ゲート2 のコピー.jpg
風車(かざぐるま)のゲート 木道の下は季節の花畑になる
森トイレ のコピー.jpg
    森のトイレ
森テント のコピー.jpg
特に禁止していないのかテントが随所にからrている。
森トランポリン のコピー.jpg
ゴムでできた小さい子でも遊べる大きなトランポリン!
森太陽のピラミッド2 のコピー.jpg
太陽のピラミッド
(説明版)遠い空のかなたにある太陽が見えますか。太陽は地球上のすべての現象の源となる、ばくだいなエネルギーをもっています。こどもの森で一番高い太陽のピラミッドに登り、太陽に一歩でも近づいてみましょう。

森地底の泉2 のコピー.jpg
地底の泉
(節寧番)ここは古くからある「まいまいず井戸」と同じ、すりばちの形をした泉です。泉の水は地中の水が自然にしみだしてきた地下水で、雨の量によって水の量が変わります。カタツムリの殻の形に似たうずまきの道にそって下の方におりてみましょう。上を見上げると、ほら、空が丸く見えます。大自然を感じませんか。

森光の道 のコピー.jpg
    光の道路 メタセコイヤの並木は秋になると金色に光る

◆ステイホームのつれづれに、一茶の句を拾いました。 

    毒草やあたり八間はびこりぬ 
    うら窓や頭痛にさはる草いきれ 
    昼顔にふんどし晒す小僧かな
    夕顔やはらはら雨も福の神
    夏の雲朝からだるう見えにけり     
    夏山の膏ぎつたる月よ哉            
    御地蔵や花なでしこの真中に

そういえば、昭和記念公園でもこの季節、楓風亭の献茶のお菓子は撫子でした。

撫子 のコピー.jpg

nice!(1)  コメント(0) 

雑記帳2021-8-1 [代表・玲子の雑記帳]

2021-8-1
◆青山霊園には外人墓地があるのを知っていますか。

地下鉄千代田線乃木坂駅の近くにある青山霊園は、明治5年(1872)に日本最初の公営墓地として開かれました。広さは東京ドーム5.5個分。都心にあり、交通の便にすぐれていることから、大変な人気で、1区画440万円の墓地には、公募の度に10倍以上の応募があるそうです。開園当初は神道のみを受け入れていましたが、まもなく宗教を問わなくなりました。

一角に外人墓地があって、ここを巡れば何人もの興味深い人物に出逢うことができます。ガイドさんが最初に連れて行ってくれたのが、ジョセフ・ヒコ(浄世夫彦)の墓でした。
ジョセフ彦は日本名浜田彦蔵。13歳のとき、乗っていた漁船が嵐で難破、アメリカに渡って教育を受け、帰国して通訳も務めたという、ジョン万次郎とほぼ同じ時代を生きた人です。(万次郎のほうが帰国が10年早い)

時代は幕末、ペリーの日本来航とダブって帰国に際してはいろいろ紆余曲折ががあったものの、運よくスポンサーに恵まれて洗礼を受け、時の大統領リンカーンにも会って言葉をかわしたりもしています。アメリカの民主主義を肌身に感じ取ったことが、のちに日本で初めての新聞「海外新聞」の発行につながりました。彦は日本の「新聞の父」なのです。

日本人にとってジョセフ彦の名はジョン万次郎ほど知られてはいません。
帰国の時期や係わった人物・事件が万次郎を有名にしました。ジョセフ彦は主に貿易商人として活躍し、神戸に住んで多くの事業をてがけましたが、帰化したアメリカの国籍を終生変えることはありませんでした。そのことで日本人の偏見にさらされることも少なくなかったようです。アメリカ人ジョセフヒコとして、彼の墓は外人墓地にあるのです。

青山・ジョセフ彦 のコピー.jpg
ジョセフヒコの墓

ヘンリー・スペンサー・パーマーは日本初の近代的水道である横浜水道を完成させた、イギリス陸軍の工兵少将です。当時のお雇い外国人のひとりでした。
住民わずか数十名だった寒村が開港して外国人の居留地となった横浜にとって、水の確保は喫緊の課題でした。300年前に家康が幕府を開いて江戸のまちづくりに着手したのと同じです。海辺なので、掘れば塩分の混じった水の出てきたという状態も江戸そっくりです。相模川支流の道志川から引いた水道の巣水にはイギリスから取り寄せた蛇口が使われました。完成後も横浜港、横浜ドック、大阪水道、神戸水道、函館水道、東京水道など、日本の近代化に足跡を残しました。退職後は日本に落着き、日本人女性と結婚しています。

青山・パーマー のコピー.jpg
パーマーの墓

お雇い外国人といえば、グイド・フルベッキの名に思い当たる人は多いのではないでしょうか。
ガイドさんはふれませんでしたが、ヘルマン・フルドリン・フェルベックは大隈重信の英語の先生です。余り知られていないものの、大隈重信の英語力は本場でも非常に高く評価されています。通訳を交えず対外交渉にあたり、長時間議論を戦わせてほぼ完ぺきな英語だったと相手が舌をまいたという話が伝わっています。佐賀藩士だった彼の英語能力を開花させたのは、当時長崎で私塾をひらいていたフルベッキだったのです。
その縁で、もともとは宣教師として来日したにもかかわらず、明治政府の下で、法律の整備や学校の設立にかかわりました。多くの政府要人と関係を持ち、東京大学の前身の開成学校で教師を務めたり、早稲田大学では開学の祖とも呼ばれています。彼の華々しい活躍は宣教師仲間からは大いに嫉妬されることになったのですが・・・

青山・フルベッキ のコピー.jpg
フルベッキの墓

青山霊園には外人墓地のほかにも、多くの著名人や一族の墓があります。たとえば、斎藤茂吉や志賀直哉の一族の墓、乃木希典の乃木家の墓など。中でも大久保利通の墓は出色です。

青山・大久保利通 のコピー.jpg
大久保利通の墓は鳥居の億に

維新の立役者、大久保利通は紀尾井坂で暗殺されました。西南戦争で亡くなった西郷隆盛と比べられることの多い人物ですが、生涯、友としては変わらず、最期の懐にも西郷からの手紙をしのばせていたそうです。明治政府の事業はほぼ大久保の借金で始められたので、死後莫大な借金の証文がでてきたといいます。大久保自身のくらしは贅沢なものではなかったようです。
神式の墓は、巨大な墓石を亀(贔屓)が背負っている形をしています。中国では碑文の石の下で支える亀を「贔屓」と呼んでいました。俗にいう「ひいき」の語源とされていますが、もちろん特定の人の肩を持つという意味上の語源ではありません。

青山・大久保利通5 のコピー.jpg
墓を背負っているのは亀(贔屓)

大久保が暗殺されたとき、乗っていた馬車を曳いていた馬も殉死(?)しました。大久保家ではその馬を供養して隣に墓を建てています。

青山・大久保利通3 のコピー.jpg
暗くて写真にはうまくとれなかったが、奥のほうが馬のレリーフのある墓

青山霊園を出て、外苑のイチョウ並木を横目に青山通り行くと、オリンピック開幕前の国立競技場が見えて来ました。
準備段階から出鼻をくじかれたTOKYO 2020ではありました。世界中の建築家が競った競技場のデザインは、採用されたのちにお金が掛かりすぎると白紙撤回され、隈研吾氏らのデザインに落ち着きました。高度成長を象徴する壮大な建築は、もはや時代暮れになっていたのでした。新しい競技場は高さを抑えて木材を多用し、外壁にも全国から集められた各県を代表する木が使われています。ゆったりとした観覧席は満員でなくても気にならない、まるで密を避けたコロナ禍を先取りしたようです。ご本人も「これからの建築は環境と調和したものでなければならなり」と言っています。一方で、競技場を「黄昏の時代の象徴」と言った建築批評家もいました。建築が時代を映すことを人々が改めて認識したことはレガシーになり得ると思います。競技場に限らず、現在の五輪の負の側面がさまざまな形で露呈されたこと、それこそがTOKYO 2020のレガシーではないでしょうか。ともあれ、アスリートには責任はなく、この稿がアップされる8月1日はオリンピックの真っ最中。人々がテレビ観戦に一喜一憂していることはまちがいないでしょう。

オリンピックスタジアム のコピー.jpg
競技場のコンクリートのように見えるポールは全国から寄せられた各県の木

この日は(7月10日)4回目の緊急事態宣言が出る直前、オリンピックミュージアムも中に入る事はできません。テレビで毎日目にする五輪のモニュメントだけは、写真を撮る家族連れでにぎわっていました。

オリンピックミュージアム のコピー.jpg
ミュージアム横の五輪のモニュメント

五色のモニュメントと並んで、競技場前の芝生には、近代オリンピックの父・クーベルタンと、少し離れて、嘉納治五郎の像がたっています。昨年の大河ドラマのおかげで、嘉納治五郎が柔道だけの人でないことが知られるようになりました。彼が日本に招致しようと奔走したオリンピックが、その後も政治に翻弄され、今や金まみれになった状態を見たら何と思うのでしょうか。

嘉納治五郎 のコピー.jpg
嘉納治五郎の像

競技場を後にして明治通りへすすむ途中で立ち寄ったのは鳩森神社です。860年に慈覚大師(円仁)が正八幡宮として創建したという、鎌倉の鶴岡八幡宮よりもずっと古い八幡さまです。境内にある「千駄ケ谷の富士塚」は東京都の有形文化財になっています。本殿前には時節をうつして茅の環がたてられていました。この夏、須佐之男命を祭神とする神社は、コロナという疫病退散を願う恰好の場になるのでした。

鳩の森神社富士塚 のコピー.jpg
千駄ケ谷の富士塚
鳩の森神社3 のコピー.jpg
鳩森神社の茅の環

鳩森神社のとなりには将棋会館。藤井聡太君の活躍でいちやく人気の出た将棋界です。将棋盤の脚にくちなしが使われているのは、「将棋刺しに口を出すな」という意味からだと教えてもらいました。

将棋会館2 のコピー.jpg
将棋会館の2階は将棋道場になっている

TOKYO2020では、ソフトボールやサッカーで,日本はメキシコと対戦しました。目白通り、トルコ大使館の近くにメキシコ料理のレストラン「フォンダ・デ・ラ・マルガレーダ」があります。1993年にオープンしました。シェフがメキシコ人という店の内装もメキシコ風。これでも日本人向きにアレンジしたという、スパイシーな味とボリュームたっぷりの皿を堪能しました。

FDAランチ のコピー.jpg

前菜奥左 グアカモレ(アボガドのディップ)とトトポス(トルティーヤのチップ)
メキシコの代表的なアボガドのデイップ。チップにしたコーンのトルティーヤに漬けて食べる。トルテイーヤは世界遺産。メキシコはアボガドの生産量世界一です。
前菜右 ケセデイーヤ  大きめのタコスの皮にチーズを包んだメキシコのファストフード
前菜手前 プルポアルアビージョ(タコの唐辛子炒め) ニンニクたっぷり、辛い!
この3点だけでおなか一杯になりそう。

FDAランチ2 のコピー.jpg
コンソメデポジョ 鶏肉、アボガド、米、トマトのはいったコンソメ味のチキンスープ

FDAランチ4 のコピー.jpg
メイン左 ポジョコンモーレ 30種類のスパイスとチョコレートを使ったモーレソースで食べるグリルチキン
 メイン右 カマロネスアラテキーラ  エビにテキーラをきかせたクリームソースをかけている。ライスと混ぜて食べる

FDAランチ5 のコピー.jpg
デザート カサデフラン   卵、コンデンスミルクを使って焼き上げたたメキシコのホームメイドプリン




nice!(1)  コメント(0) 
前の20件 | - 代表・玲子の雑記帳 ブログトップ