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雑記帳2024-2-1 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2024-3-1
◆三光院サロンの講座、斉藤陽一さんの「京都ルネサンス」から、伊藤若冲の「動植綵絵」の一部をご紹介します。

江戸時代に活躍し、人気のあった伊藤若冲は明治以降、長く忘れられていました。1974年、今からちょうど50年前に、日本美術史研究家の辻惟雄(つじのぶお)が若冲を紹介しましたが、当時、研究者もおらず、若冲への社会的関心はたかまっていませんでした。
辻惟雄は若冲に先だって、江戸期の岩田又兵衛や歌川国芳を「奇想の系譜」に位置づけて紹介しています。二人とも、正統派からちょっと外れながらも個性的で優れた浮世絵を残しています。

10年ほど遅れて若冲を世に出したのは京都にいた狩野博之さんです。狩野さんの案内で、2年前のコロナ禍に、京都に若冲ゆかりの寺を訪ねたことを思い出しました。雑記帳(2921-10-15)にも書きましたが、紅葉にはまだ遠い秋に、義仲寺や相国寺、伏見の海宝寺や石峯寺をまわったのでした。海宝寺には若冲の筆折りの間が残されており、石峰寺は若冲が最晩年を過ごした地です。庭には若冲の彫った五百羅漢が無造作に置かれていました。大津の義仲寺には、若冲が石峯寺のために描いた天井絵130枚のうち15枚が移されていて、その謎がとけたのを憶えています。

21世紀にはいって、京都だけでなく、上野の国立博物館でも若冲展が開かれると、若冲人気に火がつき、2016年に東京都美術館で開かれた若冲生誕300年記念展には長蛇の列ができました。2年前に、若冲の「動植綵絵」が皇室の私有財産から国のものとなり、国宝に指定されたことはまだ耳新しいニュースです。

大胆な構図、まぶしいほどの色彩、細部にわたる細やかな描写に、人々は目を奪われました。彩色、点描、障壁画、モザイク画、水墨画・・・あらゆるジャンルを形式にとらわれずに描いた、高価な絵の具をおしみなく使っているなどから、自由に枠にはまらず、実験をすることができた画家としてしられるようになり、若冲は今や国民的画家になっています。

1716年(正徳6)若冲は京都・錦市場の青物問屋「桝屋」の長男として生まれました。生家は、代々伊東源左衛門を名乗り、市場の株を持つ裕福な家系でした。
周辺には蕪村、応挙、池大雅が住み、18世紀後半の京都はまさに京都ルネサンスと呼ぶにふさわしい土地でした。
24歳で家督をつぎましたが、絵を描きはじめたのもその頃とされています。
「若冲」の画号を用いるようになったのは30歳のころです。

若冲の画号は、相国寺の大典顕常が名づけたといわれています。出典は「老子第45章」にある「大盈若沖 其用不窮(大盈(たいえい)は沖(むな)しきが若(ごと)く 其の用窮(きわ)まらず)」。若冲の「冲」の字は「沖」の俗語です。

この画号を用いた最も初期の作品は「松樹番鶏図」。若冲36歳。若冲居士の落款が見られます。

若冲は最初、狩野派に学んだものの、永徳の粉本(ふんぽん)主義に飽き足らず、次に、中国古画千本を模写したと言います。そして、いくら模写しても彼らと肩は並べられないと悟り、自宅の庭で数十羽の鶏を飼って観察・写実することを始めました。なので、初期の作品には鶏の絵が多いのです。

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40歳で家督を次弟に譲って隠居、画業三昧のくらしにはいります。弟もよく兄をささえ、自らも絵師として兄の一門に名をつらねるなど、兄弟仲はよかったようです。
この時の若冲を明治の画家、久保田米遷が出家者として描いています。

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先の相国寺の大典顕常とは30代半ばに知り合い、同じ年ごろとあって、若冲の生涯の心の師になりました。
大典は禅僧で詩人。早くから寺の住職を嘱望されながら、住職になる前に寺を出て詩を書いていた時期がありました。常人を越えた、細部に渡る細かな描写へのこだわりがまるで何かにすがるような感さえある若冲に、大典の影響があったのかもしれません。

若冲の心の師はもう一人いました。
黄檗宗の僧・月海で、その名も売茶翁(ばいさおう)です。
大変な学問僧でしたが、50歳の時、僧職をすて、煎茶をたてて、僅かの金を得ながらひょうひょうと暮らしていたと言います。このため、人々に売茶翁と呼ばれ、煎茶の中興の租ともいわれています。
大典、売茶翁、二人が若冲に影響を与え、いわば、二人の関西の知識人のネットワークの中に若冲も組みこまれたといえるでしょう。
若冲の描いた売茶翁の肖像画が残っています。

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そして、43歳の時に描き始めた「動植綵絵」は、51歳ごろに完成。一括して相国寺に寄進されました。
綵は五色の彩りを言い、綵雲といえば浄土にかかる美しい五色の雲です。名前が示すように「動植綵絵」は仏の世界を荘厳する絵でした。
若冲は同時に広幅の絹地に描かれた「釈迦三尊像」を寄進しています。

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臨済宗の相国寺には「観音懺法(かんのんせんぽう)」と呼ばれる重要な法要がありました。毎年行われる観音懺法の時に、寺は方丈に若冲の絵を並べて、信者の目に触れるようにしたのです。
こうして、動植綵絵は釈迦三尊像と一体となって、京の人々にごく親しまれ、人気のあった存在でしたが、明治の廃仏毀釈にともなう寺の衰亡のおりに、動植綵絵は皇室に献納されて、御物として秘蔵されることになりました。そして、2021年、皇室の手を離れて国宝に指定されたのです。長く忘れられていた若冲の絵は、秘蔵されていたおかげで保存状態は良く、再びよみがえったのでした。

そんな「動植綵絵」を高精度画像を駆使してみれば、様々な技法をこらした画面の、目に見えないような細かな部分にまで若冲が気をくばっていたことがわかります。
1幅目の「芍薬郡蝶図」をみてみましょう。

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この図は珍しく空間がたっぷりあります。花にとまるアオスジアゲハを除いてほかの蝶はみな宙を舞っていますが、標本のよう。まるで白日夢の雰囲気です。おなじものを描きながら一つだけちがうものを忍び込ませる、若冲好みの構図のようですが、宙を舞う蝶を標本のようにこれ見よがしにたくさん描いたのは、この時代は博物学ブームがあったこともあるようです。ちゃっかり時代の空気も読んでいるのですね。

芍薬の描写も精緻を極めています。一つ一つの花は微妙な濃淡で描きわけられています。
輪郭線を用いずに彩色の濃淡だけで描く画法は没骨法と呼ばれるもので、芍薬の花びらに輪郭はありません。絹の地色が意識的に活かされているのです。
また、絹の裏側から色を塗る裏彩色は、肌裏に黒を使い、絹地を通して黒が仄かに浮かんで見えます。

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二幅目の「梅花小禽図」では、空間充填癖の若冲らしく、画面に隙間なく描かれた梅の木の一つ一つの花までが細かく描かれています。花におさまる点々は雄蕊の花粉でしょうか。

細かく見ればきりがないほど細部にこだわるのはなぜか。若冲は「人の目にはみえなくても、仏の目には見える」と言っています。
若冲の絵は仏を希求する若冲の心そのものだったのではありませんか。

若冲の絵が再び紹介されたとき、人々は驚きをもって若冲を迎えました。今世界的にも人気のある若冲を、世界は「最初に光に目覚めた画家」だと評価しています。
若冲が「動植綵絵」を描いたのは、光を追求した印象派が西洋に生まれるよりもずっと前のことでした。

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1788年(天明(8年)若冲は京都の大火により居宅を失います。78歳でした。
晩年は伏見・深草の黄檗宗・石峯寺の門前に庵を結んで暮らし、1800年(完成12年)85歳で死去しました。
大火にあうまでは画材に金の暇をかけず、描いた絵も全て寄進していた若冲でしたが、流石にこのころは売画を余儀なくされたということです。


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