線路はつづくよ №67 [アーカイブ]
落葉松のまぶしい黄葉 小海線
岩本啓介
落葉松の黄葉が綺麗な佐久広瀬駅に行ってみたくて
数日前から天気予報とにらめっこ。
一日中晴れ予報の11月9日に出かけました。
晴れ予報でも列車の通る時間に太陽が雲に隠れて・・・
通った後が いい光だったり、なかなか難しいです。
小海線・佐久広瀬
赤川Bonzeと愉快な仲間たち №58 [アーカイブ]
ゴンの木
銅板造形作家 赤川政由
あえてなんの木か、と、いわれても、名前は、ありません。私は、お話の木と、なづけております。新美南吉さんが、子供たちに、木の上に、座って、自分の、作品の、読み聞かせをしています。でんでん虫の悲しみ。手袋の話。ランプの木の話、それらのお話のキャラクターが、木上に、のっています。大きな木の上には、またこれは、大きな懐中時計が、ありまして、南吉さんは、二つ懐中時計を、もらってもっていたそうです。
玉川上水の詞花 №148 [アーカイブ]
ムラサキシキブ (くまつづら科)
エッセイスト 中込敦子
秋が深まるにつれて、寄り集まった小粒の玉がパープルから紫色に変化し、清楚な鮮やかさを増して上水堤に興を添えてくれるムラサキシキブ。
宝飾品のようで、その大人の色気を感じさせる実から、『源氏物語』『紫式部日記』の作者として名高い紫式部の名を冠せられたネーミングも素晴らしい。古名はコメゴメとかゴメゴメでたくさん実が付くことからきているらしい。
平安時代の才媛の名に因む落葉低木のこの木の花はあまり知られてないが、上水と並んで流れる商大橋から桜橋にかけての用水際で、初夏に淡紅色の軽やかな小花が房咲きになっている。
葉は対生し、長さ6~13cmの楕円形又は長楕円形。縁には細かい鋸歯がある。
庭木として植えられているのは、ほとんどがコシキブだといわれ、ムラサキシキブに比べて房状になった実が整然と並び、枝がしなやかに垂れている。
花 期
春 3~5月 夏 6~8月 秋 9~11月 冬 12~2月
○
モグラ通信:http://www.h4.dion.ne.jp/~mogura1/index.htm
線路はつづくよ №22 [アーカイブ]
富士急行 2014年12月 3日
岩本啓介
お正月には富士山はつきもの・・・というわけで富士山と電車のコラボを
富士山を仰ぎ、眼下に電車が小さく 大月・菊花山
大月駅から菊花山の登山道へ。落ち葉を踏みしめ、ゆっくり登ります。鉄塔を過ぎたころから、段々と厳しい山道に・・・いたる所にロープが設置され、本格的登山模様に。
着いたところは崖っぷちでしかも強風です。眼下の電車も良く見えません。怖くて撤退を判断。でも、せっかく来たんで富士山だけでも撮ろうと左手で松の根っこを掴み、右手でシャッターを押しました。ウチで確認したら、なんと電車が写っていました。
うそっ~みたいですが・・・万歳、万歳です。
富士山を仰ぎ
地元の人お薦め 寿駅の日月神社へ
大月駅に戻り、富士急行で『寿』駅へ。正月らしい駅名でしょう。コンビニでコーヒー飲んで一息入れてましたら、地元の人から声がかかりました。“おすすめポイントはどこですか”と尋ねると、“そりゃあ神社からだよ”との答え。素直にその言葉に従い、神社の高台まで登りました。旧標準色と呼ばれる塗装の元京王線の電車です。
日月神社より
富士山と富士登山電車
神社から降りて三つ峠駅方面へ20分ほど歩きます。定番の中の定番撮影地へ。菊花山と日月神社で時間を使い過ぎて、お昼頃到着になったので、撮影場所はあいにくの逆光。
水戸岡さんデザインの富士登山電車がやってきました。逆光もいいですね。
富士登山電車
夕暮れ迫り 見上げれば月
すぐ隣の松久保踏切あたり。マッターホルン鉄道風塗装の2代目電車です。富士急行は塗装がカラフルでいいですね。三つ峠駅まで30分ほど歩き電車に乗り大月へ向かいました。
マッターホルンⅡ世
立川陸軍飛行場と日本・アジア №107 [アーカイブ]
伊藤東一郎翁、一気に25歳若返る。煙突男がんばる。
近現代史研究家 楢崎茂彌
伊藤東一郎翁、一気に25歳若返る
前回、103歳で大阪から立川まで飛行機に乗って来た伊藤翁はただ者ではないようだと書きましたが、翁は7年後(1937年)1月10日に大阪で行われた、自慢の“はげ”と“巨体”をもちよる「珍年宴会」に招待されています。当時伊藤翁は110歳、“わしの体は鉄筋コンクリートでおじゃる、130歳になるまでは絶対に杖はつかぬ”と豪語しています。
阪大医学部が伊藤翁の体を科学的に解明したいと申し出て、翁の体のレントゲンをとり、「完全な心臓の活動ぶり、一点の汚点すらない肺臓、実に驚嘆すべきものです」と舌をまきました。翁の体は写真でも分かるように立派なものですね。
翁は健康の秘訣を聞かれて“一、小食 二、禁酒 三、くよくよするな 四、毎朝味噌汁を一杯 五、偏食するな 六、日本人は日本食を 七、間食はするな 八、早起き 九、熟睡 十、若い時にこそ適当な性生活”と答えています(「東京朝日新聞」1937.1.12)。もっともですが、なかなか難しい訓えが並んでいます。
この年の6月に近衛文麿が首相になると、伊藤翁は激励のために首相官邸を訪問しています。すっかり有名人ですよね。7月には岩村俊武退役海軍中将(72)と富士山頂を目指します。合わせると182歳になる二人は、7月11日午前6時に大宮(現富士宮)登山口を出発すると午後3時半、八合目の小屋に着き、ここで一泊して翌午前4時半御来光を仰ぐと5時5分には頂上目指して出発、9時に頂上に立ちました。
僕は中学2年生の時に、友人二人と共に大学生に連れられて御殿場口から富士山に登ったことがあります。夕方から登り始めて八合目にようやくたどり着いた時には友人二人は疲れ切っていて小屋に泊まろうと言い出しました。僕はそのまま登りたかったのですが、大学生の判断で伊藤翁と同様8合目に泊まりました。しかし翌朝疲労困憊のために御来光を仰いだのち、頂上を極めることなく下山した苦い思い出があります。思い出すたびに、あのまま登ればよかったという後悔の念がこみ上げて来ます。
それに比べて伊藤翁達は凄いと思いながら新聞をめくってみると、翁たちは1合目から6合目半までは馬に乗って登ったことが分かりました。でも、そこからは歩いたのだからやっぱり凄い!下りは“私も強そうな顔をして居るが、少々疲れたワイ”と言いながら御殿場口に向かい、5合目からは砂橇(そり)にのって下山しました。
富士登山のあと、翁が滋賀県で田植えした米2合を包装して“長寿米”と名付けて近衛文麿や金子堅太郎に贈ったり、田植えをした“長命田”周辺を別荘地として売り出すチャッカリした業者もいたようです。
ところが、余り有名になったためにその年齢に疑問がもたれ、調査によって翁の戸籍上の生年月日は、母親のものを誤記されたものだということが判明してしまいます。翁の戸籍上の生年月日は文政11(1828)年3月4日ですが、実際に生まれた日は嘉永6(1853)年6月20日だったので、翁は一気に25歳も若返ることになりました。嘉永6年はペリーが浦賀に姿を現した年だから、若返っても相当の年齢であることは間違いありませんが。
この事態に伊藤東一郎翁は動じません。記者の質問に次のように答えています。
“百歳が八十歳だろうが長寿に変わりがない。百歳以上でなければ長寿と言われない訳ではない。たとひ戸籍上の悪戯にしろ、まだまだ五年や十年で死のうとは思っていない。第一わしには世間でいふような老若の観念がないよ。そんなこと兔や角いふから長生きできなくなるといふものだ。昔は今のやうに戸籍なんか喧しくなかったものだ。子供が生まれたからと言って直ぐに届ける者などはなかった。嫁を娶るようになって慌てて庄屋の処に駆けつけるやうな者さへあって、十歳や十五歳の無籍のものはざらだったよ。それに当時は禁鳥となっていた鶴でも獲ろうものなら“分ぎれ”といって籍を抹殺されたものだから、かうした“分ぎれ”者さえ続出したものだから生年月日など正確なものは一人もないといって好い。何かにつけ今のようにこせこせせず、のんびりしたものだった。戸籍を訂正したからと言って長命になるわけでもないし、伊藤の寿命に変わりはない。戸籍とは別にこれからもうんと長生きする積りだ。それに二十五歳も若返るというのだから名実ともに日本一の長寿者になってみせる。”(「東京朝日新聞」1940.2.3)この気合いが長生きの秘訣に思えて来ました。
ところが、愛知県警刑事課の発表によると、翁は戸籍に誤りがあるとはつゆ知らなかったが、昭和3年に76歳の時に101歳の待遇を受けるにいたって、心ならずも日本一の長寿者になり済ましていたと面目なさそうに語ったようです。やっぱり知っていたんですね…。
煙突男がんばる
ブルース夫人が大阪に降り立った11月21日に、神奈川県川崎市にある富士瓦斯紡績川崎工場の高さ39メートルの煙突から滞空130時間の煙突男が地上に降り立ちます。彼はなぜ煙突に登ったのでしょうか。
この富士瓦斯紡績川崎工場では、6月には従業員の約13%に当たる378人が解雇され、さらに一割の賃下げが行われたので、組合執行部の指導に不満を持つ一部の労働者がストライキを決行します。会社はこれに対して中心メンバーを解雇し、争議は40日を越え労働者側の敗色が濃厚になって行きます。すると11月16日午前5時、一人の労働者が煙突をよじ登り避雷針に赤旗を結びつけ争議団を激励する演説を始めました。会社側は煙攻め水攻めで煙突男を下ろそうとし、警察は補給する水に麻酔薬を入れる作戦などを検討しますが、煙突男は屈しません。
19日午後7時、時事新報の加藤記者が煙突を登り、煙突男の単独インタビューに成功します。男は横浜市電にいたことがある田辺潔27歳と名乗ります。彼は上空は寒いので記者にオーバーをくれと頼みますが、加藤記者はチョッキを進呈し、田邊氏は「ありがとう、感謝する。死を覚悟した俺だが、この上まさか君に遭うとは思わなかった。敵でも味方でも人間の顔なら嬉しいよ」と答えました。加藤記者が「どうだ君の体が持つまい」と降りることをすすめますが、田辺氏は「御心配ありがとう。しかし死ぬ覚悟で登ったのだ。解決せねば決して降りない」と答えます。記事は“一問一答二十五分、空の男に暇乞いして煙突を降りる”と、煙突男に好意的なトーンで結ばれています。女工さんたちも嬉しそうに上を見上げてますよね。
21日は川崎大師の縁日に当たることもあって、煙突男を見学する見物人は一万人を越え、彼が煙突の上で立ったり座ったりするたびに歓声を挙げて大喜び、かん酒や今川焼の屋台が十数台も並ぶお祭り騒ぎになりました。
21日午後には岡山で行われた陸軍特別大演習から帰る昭和天皇を乗せたお召列車が工場のそばを通る予定です。煙突男が見下すことになることを恐れた内務省の意向を受けた川崎警察署長は強硬だった会社側を説得し、会社は解雇者の一部復職、争議団への解決金の支給などを提案します。これを受けた田辺氏は滞空130時間22分の記録を作って地上に降ります。彼は富士瓦斯紡績の従業員ではなく、横浜合同労働組合の活動家で、出迎えた記者団に“労働運動というものは表面より陰の応援者が余程辛い。今度の問題には僕よりも争議団の人が辛かったと思う”と、とてもまっとうな事を言っています。
田辺潔氏は家宅不法侵入の罪で起訴されました。その裁判が翌年1月22日横浜区裁判所(現在の簡易裁判所に相当)で行われ、200人余りが傍聴に押しかけました。公判で煙突男は次のように証言しています。
裁判官 一体どうしてあんなことをしたのか
煙突男 争議は40日も越えてすっかりいぢけてしまった。こいつは一つ命がけでアジっ て争議を続けさせなば駄目だと思った
裁 よく入れたね
煙 持久戦だったから、もう暴力団も警察も居なかったですよ
裁 杉田から金をもらったのは何のためか
煙 買い物をしたのです。靴下、手袋、バット十箱、マッチ二箱、するめ二十枚、ウイスキー一本、チューイングガム一つ、雨よけ油紙一枚…、これだけを赤旗に包み腰につけ入口の守衛室の前を顔を背けてわけなく登りました
裁 お前は本当に死ぬつもりでやったのか
煙 それはさうですよ
裁 珍しいことやった訳だが、良いことをしたと思うか悪いことをしたと思うか
煙 好いも悪いもない。それまでの手段を講じなければ、われわれは生活を保障されないのです。だが目的は一つも達せられず、結局惨敗です。(「東京朝日新聞」1931.1.23)
検事は田辺氏に対し懲役3カ月を求刑し、弁護側は彼は富士紡の職工たちを助けるために煙突に登ったもので、工場側は職工達の住居に不法侵入したというが、職工達は大歓迎しており、家宅侵入の罪は成り立たないと反論し傍聴人の声援を受けました。しかし、2月4日の判決は懲役3カ月執行猶予3年というものでした。
煙突男の闘いは、田辺氏が言う通り、追いつめられた労働者側の命をかけた最後の手段であり、当時の労働組合が置かれていた状況を反映したものでした。彼は2年後に横浜で変死体で発見されています。
なお「富士紡績株式会社五十年史」(富士紡績・1947年刊)は、この争議については一言も触れず、従業員挙げて合理化に協力したような記述になっています。鐘紡と違った会社の体質を伺えるように思います。
写真上 「“鉄筋”製の百十歳翁」 「東京朝日新聞」1937.1.12
写真2番目 「心臓は四十代だ 伊藤翁」 「読売新聞」 1937.7.9
写真3番目 「空の男へ食糧を」 「東京日日新聞」1937.11.19
写真4番目 「空を見上げる女工達 煙突男にざわめく富士紡」 「東京朝日新聞」1930.11.21
写真5番目 「盛んなるかなこの人気」 「東京朝日新聞」1930.11.22
雑記帳2009-07-14 [アーカイブ]
上田に無言館を訪ねたおり、「刀屋」と云うお蕎麦屋さんにたちよりました。上田の街では知られた蕎麦屋ということでしたが、驚いたことにさほど大きくない店の前には行列ができているのでした。グルメ情報はあっというまに全国にネットを通じて配信される時代とあらば、観光客が押し寄せるのも無理はない? 私は四国の出身、云わずとしれた讃岐うどんでありますが、ばくぜんと西はうどん文化、東はぞばだとくらいにしか思っていませんでした。ここにきて、おもしろいことに、うどんであつくなる人はいないのに蕎麦を語る人は大勢いるのだと云うことを知りました。我がネットマガジンには比留間享一さんが「ニッポン蕎麦紀行」を寄せてくださっています。入稿すると不思議なくらいすぐに反応があるのです。蕎麦を打つひと、作るひと、はたまた蕎麦を食べる人、蕎麦を語れば果てしがない。釧路から始まった蕎麦の旅は沖縄まで続きます。蕎麦通の皆さん、お楽しみに。ちなみに「刀屋」の蕎麦は気取らず、リーズナブルな値段で量もたっぷり、つけてもらった山菜の天ぷらもおいしかったです。
ネットマガジン発行以来2ヶ月半がすぎ、アクセスは10,000に迫ろうとしています。この間、毎日パソコンと格闘する日が続きましたが、未だに発展途上です。「司馬遼太郎と吉村昭」を書いてくださっている和田宏さんからは文字化けのご指摘を、ご自身の「もぐら通信」からの転載を許可してくださった中込敦子さんからは、行間を空けたり写真を入れたりして読みやすい工夫をとのアドバイスなどをいただきました。執筆者の方々が原稿料無料という虫のいい話を受けてくださっただけでなく、こうしてブログを読んで育ててくださっていることに感謝の気持ちでいっぱいになります。
6月後半から青木久立川前市長さんの連載が始まりました。なんと云っても20年と云う長い間、立川市の市政を預かった方ですから、立川のことを語るのに今これ以上の人はいないのではないでしょうか。幼年時代からご自身の育った西砂の様子を克明にかいてくださっていますので、読者はしらずしらずに砂川や立川の歴史をたどることになります。青木さんて実はいい人だったんだと今になって気づいたと云う声も届きました。市長時代に入るのはまだ先になりますが、こちらもどうぞお楽しみに。
公私日記№2 [アーカイブ]
『公私日記』のことば①
『坊っちゃん』(漱石)との用字の共通性(その①)
公私日記研究会会員 若杉哲男
過日森信保氏が「『公私日記』と研究会」で紹介されたような経緯で公刊された『公私日記』が、その詳細な内容や記述から、近世農村史・文化史・女性史・民俗学・寺子屋教育・天文気象・用字用語など各分野から注目され、多くの考察・論究が存する。
私も研究会発足後暫くして会員の末に加えていただき、爾来断続しながら江戸時代末の言語資料として『公私日記』に接して来た。
その間に持った感想や得た知識を、気楽に断片的ではあるが書き連ね、その多彩な文章表現や用字用語の実態を浮かび上がらせたいと思う。
昨年夏より秋にかけ2か月足らず宿病の治療のため入院生活を送った。その折旧知の鈴木真喜男氏より、〔大きな文字で読みやすい〕文庫本数冊と新書版『直筆で読む「坊っちゃん」』の差し入れを頂戴した。氏の体験に基づく御好意に感謝しながら、余り明るくない病室の照明のもとで何十年ぶりかで『坊っちゃん』と再会した。漱石の直筆原稿(のコピー)でその筆跡を辿るのは楽しいことであった。筆跡を辿ると言えば『公私日記』の流暢な行書・草書にいつも悩まされていたのであるが、両者に共通する文字の使用に気がついた。
① 現行の字体とは異なる「く・こ・た・な・れ」などの文字の「変体仮名」
② 「ねる」に相当する「寐」の字
③ 現在「縁側」と書くべき字を「椽側」としている
等である。
毛筆で行・草書で書かれた候文体の『公私日記』とペン書きでほぼ楷書の口語文の『坊っちゃん』では見た目にはひどく印象が異なるが、仔細に検討すると、江戸末と明治期との時代差を越えた、共通の継続する書記習慣が存するように思われる。
①については、現行の字体が定められたのは、明治33年(1900)の「小学校令施行規則による。『坊っちゃん』はその6年後に発表されたものであるが、漱石は前掲の幾つかの仮名に、字源または崩し方を異にする「変体仮名」(異体仮名とも)を用いている。これらは『公私日記』の用字と多くの場合は共通する。
現代の出版物ではこうした変体仮名にお目にかかることは無いが、私は私より年輩の方の私信に何度も接したことがある。
② 「ねる」に相応する「寐」の字
『直筆で読む「坊っちゃん」』で秋山豊氏が「自筆原稿を読む楽しみ」で「寝室」を除いて〔「ねる」に「寐〕の字を用いる癖がある(文庫などはみな「寝」に直すが、意味は同じでも異体字ではなく別の文字である)〕(同書42ページ)と指摘し、漱石の「書き癖」とされている。
『公私日記』でも「朝寐・昼寐」(天保12年巻末・流行の苗売)・「寐汗」(安政5年5月16日認)・「同寐」(嘉永7年閏7月8日)〈この語、辞書に見当たらず〉など、私が気付いた字体はすべて「寐」である。これも「書き癖」と断じてよいであろうか。
③ 「縁側」と「椽側」に関して、『坊っちゃん』では「椽側」が2回、「椽鼻」(縁端の意)が2回用いられ、「因縁」「茶碗の縁」などとは異なる字である。
『公私日記』では「竹椽」(天保11年8月18日・19日)・「椽側」(嘉永4年8月6日)・「椽之下」(嘉永7年3月20日)・「はま椽」(安政3年12月29日)などが目につく。唯一の例外は、江戸城の「御白書院縁頰」(天保12年9月7日)である。「縁」の例は挙げるに遑が無い。
「えんがわ」の場合の「椽」を用いる点では『公私日記』と『坊っちゃん』が全く同じと言っても差し支えないであろう。
「椽」は呉音・漢音とも「テン」で、訓は「たるき」である。
以上のような読後の感想(『公私日記』の用例は別として)を鈴木氏に電話で話したところ時日をおかずに最近の国語・漢和辞書の「えんがわ」の標出漢字表記の状況を知らせて下さった(内容について今は省略に従う)。更にお弟子さんの雑俳の用字用語に詳しい西譲二氏に話されたようで、西氏から雑俳(冠附)5種の「椽」と「縁」の使用状況を知らせて下さった。それによると〔今回の5種の文献につきましては使い分けがなされているように見えます。すなわち、現在いうところの「えんがわ」は「椽」、「関係・つながり・ふち」などを意味するものは「縁」というようになっています〕として、調査結果が添えられていた。
鈴木・西両氏の御教示により、全く関係が無いような両書が、実はその背景に時代を超えて共通する言語意識・書記習慣を有していたと言えるように思われる(後に、同時代の辞書では、嘉永3年の『早引万代節用集』(高梨信博士の改編本による)に「椽側」が存するのを見出した。
玉川上水の詞花№4 [アーカイブ]
アカバナユウゲショウ
エッセイスト 中込敦子
初夏から盛夏にかけて上水周辺の草地で淡紅色の可憐な花を見かけたが、しばらく名前が分からなかった。
インターネット植物図鑑でマツヨイグサを調べている時に、その仲間であるアカバナユウゲショウだと判明して、何て優雅な名前だろう!と感動した。
4枚の花弁からなる花の径は1センチ前後だが、周囲の草葉に埋もれながらも薄紅色の花は人目を引いて清涼感がある。
葉は互生し長さ約3~5センチ、幅は1~2センチの披針形~卵状披針形で,縁は浅い鋸歯があり波打っている。
帰化植物でアメリカ大陸より明治期に渡来した当初は鑑賞用だったが、現在はほぼ野生化しているアカバナ科の多年草だ。
夕方に開花するのでその色と合わせて赤花夕化粧の名前がつけられているが、昼間から開花していることも多い。
ユウゲショウ(夕化粧)は古くからオシロイバナの別名として知られるが、それと区別するため科名のアカバナをつけたとも言われている。その名に相応しい優雅な花だ。
立川市長20年のあとに№3 [アーカイブ]
砂川二番のわが家
前立川市長 青木 久
平井川から砂川村に連れ戻され、実の母親にようやくなじみはじめた。
藁葺きのわが家の前は、砂利道の五日市街道、ケヤキの大木が生い茂っている。何しろ村が生まれたころに植えられたというのだから200数十年は経っている。そして街道の両脇に、砂川用水が流れている。村の北を流れている玉川上水から分流したものだ。
村は街道に沿い、西から東へ、一番組から十番組と集落がある。さらに西砂、榎戸といった新田開拓による新しい集落も生まれている。わが家は二番組にあって、子供心に憶えている住所は、東京府北多摩郡砂川村336番地(現・立川市上砂町)と言った。
わが家は藁葺きの農家だ。隣近所に比べても大きな家だ。屋号を「油屋」といった。明治の中頃まで、農業のかたわら、油の販売をしていたのだという。2つの土蔵には、数多くの油壺が収納されていた。
父親・正作は豊島師範(現・東京学芸大学)を卒業、小学校で教鞭を執っている。
母親・婦美はしっかりとした女性だった。結核が治癒して療養先から帰宅したばかりで、まだ体力が元に戻っていたのではないだろうに、きっちりと家の中を取り仕切っていた。
そして私は男4人、女2人の。長男の兄が早く死んだので、私が長男格だった。とはいえ、私が戻ってきた当時は、妹と二人だけだった。
私たちは、朝起きるとめくら縞の着物に着替え洗面をすますと、両親に両手をついて「お早うございます」と両親に挨拶した。それから勝手で朝食となる。父親を中心にして兄弟が食卓の両脇に坐り箸をとる。母親は下座に陣取って、惣菜を配ったり、ご飯のお代わりをしてくれた。
父親は、私たちとほとんど口をきかない。怖い人だ。でも私たちを眺める眼差しは優しい。
食事を終えると、父はカバンを小わきに抱え、母に見送られて出かけて行く。
「ちゃっちゃ、遊びに行っておいで」
母の声を合図に、外へ駆け出す。裏の畑道を、肩掛けカバンを提げた小学生が次々と通っていく。西砂川尋常高等小学校は、わが家の南約100メートルに位置している。真新しい黒い学帽に「西砂」と記した徽章をつけた男子がいる。新入生だ。
「かっこええなあ、おらも来年は入学するぞ」
小学生が行ってしまうと、隣近所から同じ年頃の子どもが゛一人二人と顔を見せる。この連中とも、もうすっかり仲良しだ。
温かい春の陽射し。
数人で群れなして歩き始める。
「ピーチク、ピーチク」とヒバリのさえずりが聞こえた。仲間としゃがみ込み、上を見上げる。何も見えない。しかし、空の一点から聞こえてくる。しばらく眼をこらしていると、音が消え、小さな粒が落下したように思えた。黙って、一人の子がかなたを指さした。そっと近づいて行く。少し先の草むらが揺れて、ヒバリが飛び立った。私たちは散開する。
「やあ、見つけたぞ」
仲間の一人の足元の草の陰に、小さな巣があった。二羽のヒナが口を開いて、エサをせがんでいる。大発見だ。私たちは口もきかずに、しばらく観察してそこを離れる。胸がどきどきした。
夏雲が秩父の山並みにいくつも広がっている。
ハルゴ(春蚕)の季節だ。。農家は二階の蚕室でカイコを飼う。朝早くから、大人たちは篭を背中に桑の葉を摘む。カイコが桑の葉を食べる音は、何十枚もの紙が擦れ合うようだ。
私たちは、「ドドメ突き」を手にして、桑畑へ繰り出す。それは、竹の節を抜いた小さな水鉄砲だ。ドドメ(桑の実)を筒の中に入れ、クワゼンボー(桑の枝)で圧迫すると、筒の先端の小穴から、ドドメの汁が流れ出る。甘酸っぱい、味わいが口の中に広がる。押しつぶしたドドメのカスを捨て、新しい実に入れ替えて吸う。いつしか口のまわりは赤紫色に染まる。着物にも斑点が付着する。
家に戻ると、母親がいつも言った。
「ちゃっちゃん、主(ぬし)はなんちゅう顔になってんだよ、井戸端で顔洗ってきな」
風が涼しい秋の一夜。
夕食がすむと、いよいよお月見だ。縁側にはちゃぶ台を置く。キキョウ、オミナエシ、ススキ、坊主花(ワレモコウ)、クズなどを案配よく花瓶にさして縁側を飾る。母親手製の団子は、お月様へのお供え物だ。澄んだ空の月を仰いで、
「今年も良い月だなあ」
父が静かに茶を口にする。母はうなずいていた。
私は妹と二人して、かしこまって正座していた。すぐに足がしびれてくる。間が持てない。
きな粉をまぶした団子を頬張って、喉がつまりそうになったことも何度もある。(あれこそは、まさに母の味わいだった)
月見は父母にとっては、しんみりとしたひとときだったのだろう。しかし私には、気詰まりなわが家の行事ではあった。
木枯らしの年の暮れ。
正月の餅つきは、押し迫った暮れの28日とされていた。その日、午前2時半には、何人もの男衆、女衆がやって来た。朝食を終えると、台所には糯米を蒸す蒸籠から、蒸気が上がっていた。土間に置いた木臼で、男衆が杵(きね)を振り上げ、威勢良くつき始める。
「よいしょ」
「こらさ」
たたみ込むような間合いをとって、隣のおばちゃんが、手際よく手水をさす。
つきあがった餅は、女衆の手でのし餅、鏡餅と作られていく。
「子どもは、あん餅にするかい」
女衆がつきたての柔らかな餅を手に取り、小豆あんを包み込む。それを両手で受け取る。温かな甘さだ。柔らかい餅を噛みしめると、喉がなった。
お年玉はもらえるかな。待ちこがれながら指折り数える元旦までの数日間だった。
昭和の時代と放送№3 [アーカイブ]
時間メディアの誕生
元昭和女子大学教授 竹山昭子
無線電話(ラジオ)の公開実験-新聞社による先駆け②
関東大震災が日本を襲ったのは、まさに、こうしたラジオというニューメディアへの関心が高まっていた最中の1923年9月1日のことである。帝都東京を大混乱におとしいれ、14万人を超える死者、行方不明者を出したマグニチユード7.9の大地震は、人びとに”ラジオさえあれば流言飛語による人心の動揺を防げたであろう″という思いを起こさせ、放送事業開始の要望が急速に高まっていく。
それを受けて逓信省は23年12月21日、逓信省令「放送用私設無線電話規則」を公布する。これは放送局を建設・運営しようとする者、および受信機を設置して聴取しようとする者に必要な手続きや守るべき事項を定めたもので、放送事業民営の可能性を公に確認することを意味したから、各地の無線電話の公開実験はそれ以前にも増して一段と活発になった。
▽報知新聞社は、1923(大正12)年春、東京有楽町の本社に送信装置、上野公園の第3回帝国発明品博覧会会場に受信設備を設け公開実験を行った。これは放送の企業化を目指す本堂平四郎が製作した東洋レディオ式機器を用い、東洋レディオ会社と共同で、3月20日から5月20日まで受信公開を行った。
この受信公開では、報知新聞の記者が本社の屋上からニュースを通話して人気を博したと記し、写真も掲載している。線がないのに遠くの声が聞こえる不思議さの体験である。
報知新聞は翌1924(大正13)年にも公開実験を行った。これは無線知識の啓発に情熱を傾けた加島斌の主宰する無線科学普及会が10月25日から11月9日まで上野不忍池畔で開催した無線電話普及展覧会に協賛して行った「音楽の無電放送」である。
展覧会には多くの電気・無線業者が送信機や受信機、部分品を出品、また加島自身による放送実験公開も行われた。日本電気会社所有のウエスタン電気会社製放送機を展覧会場に据え付け、受信所を三越ほか数か所に設けて、洋楽、和楽、講演などを放送した。
会場における報知新聞の放送を紙面から拾うと、毎日午後3時から4時まで新聞記事(ニュース)、午後7時から8時半までは日本蓄音器商会芸術家による独唱やピアノ、ハーモニカ、琵琶、長唄などを、聴取所を銀座日本蓄音器商会、上野いとう松坂屋、鍛冶橋中山太陽堂に設けて聴衆に聞かせた。
出演者は声楽・柴田秀子、武岡鶴代、松平里子、ピアノ・榊原直、琵琶・高峰筑風、長唄・芳村孝次郎といった一流の芸術家であった。最終日、9日の紙面の番組表「報知ラヂオ」には、松竹座で公演中の「カルメン劇」の井上正夫(ホセ)、英百合子(カルメン)の独白(せりふ)という演目もある。
銀座日畜前などは聴衆がひしめきあい交通巡査が出動したと伝えられている。
『ラジオの時代・ラジオは茶の間の主役だった』竹山昭子著 世界思想社 2002
ニッポン蕎麦紀行№3 [アーカイブ]
~「北厳そば」に生きて・北海道音威子府村~
映像作家 石神 淳
玄蕎麦(蕎麦の実)の生産量は北海道がダン突だ。国内の年間消費量は、ざっと12万ton。国内産2万tonのうち北海道産が約8千tonを占めるから、国内生産量の三分の一が北海道で生産されている計算になる。あとの10万tonは、中国、カナダ等からの輸入だから、日本の自然食を誇る蕎麦好きにとっては肩身が狭い。玄蕎麦は遠く戦国時代から、五穀から外された統制外の救荒作物や代用食として扱われて来た。歴史を振り返ってみると不思議な穀物だ。
北海道中川郡音威子府村は、道内では、いちばん小さな村だそうだ。しかし、訪れた印象は広大にして自然が雄大だ。悠久の大地を縫うように、宗谷本線に沿って流れる「天塩川」は、アイヌ語で「流木が堆積する川」という語源だそうだ。安政4年(1857)、探検家の松浦武四郎が天塩から石狩上流への探索で、野営した筬島(おさしま)の地で出会ったアイヌの古老が語った「カイナー」の意味から、「北海道」の地名を発想したと伝えられる。天塩川沿いの平坦な畑から、どこまでも緩やかに連なる丘陵地帯のほとんどが北限の蕎麦の畑だ。初夏から秋にかけての田園風景は、バルビゾン派の絵画を思わせる鑑賞価値があるが、冬は2メートルもの積雪がある豪雪地帯だ。
先ずは村役場を訪ねると、平日なのに人影がまばらだ。広い役所の片隅で数人の所員が働いていたが、あきらかに主の居ない机が異様に目立った。村の目抜き通りも人影まばらで、申し訳ないが、西部劇のゴーストタウンを感じさせた。天塩川沿いで何軒も見かけた、半壊した廃屋が夏草に埋もれ、生活の痕跡が生々しかった。農道の随所に「熊、出没注意」と、大きな看板がある。「ここは、熊や鹿が人口より多いんだよ」地元の人の言葉に、返答に窮し黙って頷いた。
「北厳そば」(玄蕎麦商標)を生産する三好農場を訪ねたのは、厳蕎麦収穫期の9月中旬だ。初対面の挨拶もそこそこに、三好和巳さんが運転する大型トラックを夢中で追走した。巨大なコンバインが秋色の蕎麦畑に踏み込んで行く、限られた期間に、百ヘクタール余りの蕎麦畑を一人で刈り、二千俵余りの玄蕎麦を収穫する。果敢に大地に挑む男の姿がそこにあった。オートマチックにコンバインからトラックに移し替えた玄蕎麦を、乾燥工場に持ち込み、砂利やゴミを取り除き、水分の含有率を16%に乾燥させて出荷する。これも極めて重要な作業だ。勝負どころの収穫最盛期は、畑と乾燥工場の間を往復するだけで、ろくに風呂にも入れないし、中学生の娘さんの顔も見れない過酷な労働が続く。最近は、三好さんに畑を預け、離農して音威子府を去る人もいるとか。高齢化の波がここにも押し寄せていた。個人の設備投資が大く、異常気象の影響や価格競争も激しい。
三好さんは、はじめての試みに、乾燥工場まえの広大な畑に菜種を巻いた。バイオ燃料の時代を睨んでのことか。それとも、大地に生きる男のロマンだろうか。3日間の慌ただしい取材が終わって別れの時、二人の男は黙って握手した。とうとう酒を酌み交わすユ余裕もなかったが、秋風が心地よかった。春には、菜の花が真っ黄色な絨毯を野辺を敷きつめただろうか。そして今年も、広大な蕎麦畑に、真っ白で可憐な花が咲き乱れる季節がやってくる。
三好農場(三好和巳) 北海道中川郡音威子府村咲来
( 写真はコンバインの前の三好和巳さん )
図書館の可能性№5 [アーカイブ]
図書館の充実・改善を通した可能性の実現
昭和女子大学教授 大串夏身
(1)社会の期待に応える
「現在の図書館に対する人びとと社会の期待に応えることを通して図書館の(可能性)を高める」
いま、日本で図書館に対する期待が高まっているのは、新しい技術を活用したサービス、特にインターネットを活用したサービス、課題解決型サービスの創造、読書の推進、読書環境の整備などである。ここでは、読書の推進、読書環境の整備を取り上げて考えてみよう。
読書の推進、読書環境の整備に関する図書館への期待は、2001年(平成13年)12月に法律第154号として公布された「子どもの読書活動の推進に関する法律」とそれにかかわる計画、2005年(平成17年)7月に法律第91号として公布された「文字・活字文化振興法」とそれにかかわる議員連盟の動きなどに示されている。
「子どもの読書活動の推進に関する法律」は、第2条の「基本理念」 に示されているように「子ども(おおむね18歳以下の者をいう。以下同じ。) の読書活動は、子どもが、言葉を学び、感性を磨き、表現力を高め、創造力を豊かなものにし、人生をより深く生きる力を身に付けていく上で欠くことのできないものであることにかんがみ、すべての子どもがあらゆる機会とあらゆる場所において自主的に読書活動を行うことができるよう、槙極的にそのための環境の整備が推進されなければならない」という考えに基づき策定されたものである。この法律は、法の趣旨を実現するために、第8条で「子ども読書活動推進基本計画」を国がまず策定し、これに基づき都道府県と市町村がそれぞれに基本計画を策定し、その計画を実現するよう努力することを求めている。また衆議院文部科学委員会で付帯決議が行われ、その第3項で「子どもがあらゆる機会とあらゆる場所において、本と親しみ、本を楽しむことができる環境づくりのため、学校図書館、公共図書館等の整備充実に努めること」と図書館の整備・充実について言及があった。
基本計画のなかで、学校図書館、公共図書館をそれぞれに充実することが示されたのは言うまでもない。国の計画の場合、公共図書館での子どもの読書活動の推進、図書館の設置促進、学校図書館の蔵書の充実、司書教諭の配置の促進など図書館にかかわる項目が示され、計画内容が書き込まれている。学校図書館の蔵書の充実について、国は学校図書館図書整備5力年計画を作り、平成14年度からの5年間、地方交付税を活用して毎年130億円、総額約650億円の財政措置を行ってきた。しかし、これは十分活用されているとは言えず、平成19年度からは増額して5年間で総循2千億円を措置することになっている。
「文字・活字文化振興法」では、よりはっきりとした形で図書館の充実がうたわれている。
第7条には、次のように書かれている。
第7粂 市町村は、図書館奉仕に対する住民の需要に適切に対応できるようにするため、必要な数の公立図書館を設置し、及び適切に配置するよう努めるものとする。
2 国及び地方公共団体は、公立図書館が住民に対して適切な図書館奉仕を提供することがで きるよう、司書の充実等の人的体制の整備、図書館資料の充実、情報化の推進等の物的条件の 整備その他の公立図書館の運営の改善及び向上のために必要な施策を講ずるものとする。
学校図書館については、第8粂第2項で「国及び地方公共団体は、学校教育における言語力の涵養に資する環境の整備充実を図るため、司書教諭及び学校図書館に関する業務を担当するその他の職員の充実等の人的体制の整備、学校図書館の図書館資料の充実及び情報化の推進等の物的条件の整備等に関し必要な施策を講ずるものとする」と人材の面での充実も示している。
また、「文字・活字文化振興法」を提案した超党派の国会議員でつくる活字文化議員連盟は、「文字・活字文化振興法に基づき、政治・行政・民間は連携して、次の施策を推進する」として、次のような「文字・活字文化振興法の施行に伴う施策の展開」を発表している。
文字・活字文化振興法の施行に伴う施策の展開
1、地域における文字・活字文化の振興
○ブックスタートの普及による子育て支援
○本の読み語り支援、読書アドバイザーの育成
○移動図書館の普及・拡充
○作文アドバイザー(著述業、作家等)のネットワーク化による作文活動の奨励
○読書・絵本のまちづくり活動の支援、小規模書店の個性化・ブックフェア等の支援
○教育機関の図書館の地域開放等支援
○未設置市町村における公共図書館の計画的な設置
○公立図書館設置基準の改革(自治体単位から人口比への改善)
○公立図書館図書の学術・研究等専門書の整備・充実
○公立図書館への専門的な職員・読書アドバイザーの配置の推進
2、学校教育に関する施策
○読書指導の充実、読書の時間の確保による「言葉力」の教育支援
○教員養成課程への「図書館科」(仮称)または「読書科」(仮称)などの導入による教員の資質の向上
○学校図書館図書標準の達成、学校図書館図書整備費の交付税措置の充実・予算化
○小規模校(十二学級未満)への司書教諭の配置、学校図書館に関する業務を担当する職員配置の推進
○司書教諭の担当授業の軽減・専任化などの推進
○高校図書館の充実
○盲・ろう・養護学校の読書環境の整備
○新聞を使った教育活動の充実
○読み書き活動の基盤である国語教育の充実・より豊かな日本語の教育支援
○学校図書館支援センターによる学校間、公立図書館との連携・推進
○IT化の推進による学校図書館・公立図書館と国際子ども図書館等のネットワーク化の推進
3、出版活動への支援
○文字・活字にかかわる著作物再販制度の維持
○学術的価値を有する著作物の振興・普及
○著作者及び出版者の権利保護の充実
○翻訳機会の少ない国々の著作物の翻訳、日本語著作物の翻訳の振興・支援、それに必要な翻訳者の養成
○世界各地で開催されるブックフェア等国際文化交流の支援
以上のように、読書の環境を整備し読書を推進するために、図書館に対して期待が集まっている。これに応えるために図書館が積極的な活動を展開することが、日本社会での図書館の可能性を高めることにつながる。
このように地域社会や国民の期待に応えていくことは、図書館に対する認知度を高め、図書館の必要性に対する理解を促進し、図書館に対する支持を広げる点できわめて有効で、支持が広がり、理解が深まれば、図書館が提案するサービスに対して予算や人がより多く配分され、図書館活動がそれだけ活発になる結果をもたらす。
図書館に対する期待を、読書の推進を例に考えてみた。このほか、インターネットを活用した図書館サービスの新しい展開や課題解決型サービスの創造なども、国民、住民の期待するところである。『図書館の可能性』青弓社
第五福竜丸は平和をめざす№4 [アーカイブ]
第五福竜丸は平和をめざす④
特別寄稿・無線長久保山愛吉さんのたたかい
作家・元TBSニュース チーフディレクター 鈴木茂夫
風化した私の取材ノートに、あの鮮烈な時間が息づいている。
昭和29年夏……
日本国民は一人の男の病状を気遣っていた。
*
3月1日、中部太平洋マーシャル海域でで一隻のマグロ延縄漁船がアメリカの水爆実験による死の灰を浴びて帰港。放射能症に冒されていることが判明したからだ。
国立東京第一病院3階南病棟11号室、そこが第五福竜丸無線長・久保山愛吉さんの病室だ。小山副院長、熊取主治医が懸命の治療に当たっている。しかし、治療法は確立されていない。
8月末、小康状態だった病状が悪化。
このため、報道陣は、病院前の小旅館に泊まり込みを始めた。
私もその中の一人だった。
この年の春、ラジオ東京(現TBS)に入社した録音ニュースの制作のディレクター。
病状発表が1日に3回になった。
「体温36度8分、脈拍90、呼吸18……」
この内容から、病状をどう読み取ればよいのか。私にはまるで分からない。知り合いの医師に訊ねてみる。首を振るだけだった。
*
病院での発表の後、取材本部の旅館に戻る道筋には、
流行歌「お富さん」旋律が流れている。
「粋な黒塀 見越しの松にあだな姿の洗い髪……」
それは奇妙な対照だった。
*
9月2日午前、新聞、テレビ、ラジオ、ニュース映画などの代表取材。
私はマイクを握って病室に入る。20畳あまりの広さだ。久保山さんがベッドに一人。黄ばんだ顔。閉じた瞼。枕元にすずさん。夫を見つめている。妻はひたすらに看取りつづける他になすすべはない。 時が緊迫を刻んでいる。
久保山さんのあえぎ。酸素吸入のフラスコの中から、泡立つ空気の音。
私はそこにマイクを差し出した。くぐもったポコポコという響き。それがラジオで伝えられる唯一の生きている証だった。
*
この頃、ラジオが放送の主役だった。午後7時過ぎからの録音ニュースを、多くの人が聴いていた。
だからこそ、良い病状を伝えられないことを後ろめたく思ったりしていた。
*
9月23日午後6時56分、主治医が久保山さん死去を発表。
死因は、放射能症。所見として身長157センチ、体重52キロ、全身に無数の火傷、死の直前に白血球が異常に増えたという。
久保山さんは
「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」
という言葉を遺した。
妻すずさん(33歳)、3人の女の子(みや子9歳、安子7歳、さよ子4歳)、母しゅんさんが遺されたのだ。
2人の医師の眼に光るものがあった。
一瞬、記者団も沈黙した。しかし、すぐに誰もが本社への連絡にと駆けだした。
*
26午後1時35分、遺族は、東京駅から東海道本線豊橋行きの普通列車の3等車両に乗り込んだ。
すずさんの膝には遺骨の包み。身じろぎもしない。
列車は一つ、一つとすべての駅に停車していく。そこには深く頭を下げて、手を振る人びとの群がりがあった。 すずさんは、そっと黙礼して応える。
午後6時5分、列車はようやく故郷焼津の駅に到着。
3月28日、故郷を後にして181日目のことだ。
*
それからしばらくして、また焼津を訪れた。
自宅からほど遠くない、菩提寺・弘徳院の墓所に遺骨が収められた。
僧侶の読経、漁協の関係者、近隣の人の声を収録、仕事は終わった。
私はふと思い立って、寺の後背にある虚空蔵山の小径をたどった。山頂からは、太平洋を一望できる。船舶無線電信発祥の碑があった。
久保山さんもこの碑を見て無線技術者として身を立てることを志したのだろうか。
日本本土から4000キロ離れた太平洋の漁場から、久保山さんは電鍵を叩き、ツートト、ツーツーツーとモールス信号で漁獲と安否を送り続けていたのだ。
麓から吹き上げてくる風に乗って波の音。私の耳には、焼津漁協の通信室の、絶え間ない信号音が、それに重なって聞こえた。
イベント等の問合せ 、
東京都立第五福竜丸展示館 URL http://d5f.org)
東京都江東区夢の島3-2 夢の島公園内
TEL:03-3521-8494 FAX:03-3521-2900
E-Mail:fukuryumaru@msa.biglobe.ne.jp
書(ふみ)読む月日№4 [アーカイブ]
人も惜し (1)
国文学者 池田紀子
人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は 後鳥羽院
今年、2005年は、太平洋戦争が終結して60年の節目の年にあたります。それは日本が、3年9ケ月に及ぶ、アメリカ、イギリスなどとの戦いに敗れ、無条件降伏したことです。この戦いで、2百万人を超える兵士が亡くなりました。数百万人の民間人が、家を焼かれ、家族を失いました。
日本は敗戦直後から、6年9ケ月の間、連合軍の占領下に置かれました。日本は、占領軍に監督され、憲法、農地改革、教育改革、税制改革など、多くの改革が行われました。
日本人は、勤勉に働き、荒廃した国土の復興に努力、高度経済成長を経て、今や世界有数の経済大国となっています。
しかし、今なお世界の多くの地域で、戦火は消えることなく、紛争は終結してはいません。
私たちは、自らの歴史の教訓に学び、国際社会と協調して、諸国民の平和を繁栄を実現したいと願っています。その決意を新たにするためにも、あの戦争の体験を風化させてはならないのです。
幼かった私にとって、忘れられない夜の思い出があります。そのとき、私は5歳でした。
昭和20年8月2日未明。
私の瞼に刻まれている映像…。
巨大な翼。
それが群をなして空を覆っていた。
何本かの光の柱。
それが捉えた翼の星のマーク。
空中で町を昼間のように照らし出す光の塊。
赤々と燃え立つ炎。
影絵のように映じる黒い屋根。
それが火炎に包まれている。
道を走り回る人の群れ。
火だるまになって倒れる人。
私の耳の奥から消えない音…。
空から聞こえる体を押し潰すよな爆音。
ヒユーツ、ヒユーツ その昔が地面で消えると炎が噴いた。
バリパリッ、燃える家の悲鳴。
逃げろっ、退避っ、警防団のメガホン。
助けてー、痛いよう、おとなや子どもの悲鳴。
ゴーッ、ゴーッ、炎が巻き起こした風の音。
私の鼻は今もあの臭いを…。
焦げ臭い、息の詰まるような臭い。
肉の腐った匂い、吐き気を催す死体を焼く臭い。
私の皮膚と掌に残る感触…。
両掌に握っていた両親の温もり。
息が詰まるような熱風。
死が間近にあることが皮膚に伝わって…。
浅川の水の冷たさが生きていることを教えてくれた。
私の五感に残っているのは、これだけです。生々しく私の中にあります。それは鮮烈な体験でした。しかし、これを順序立てて、まとまりのある体験談とすることはできません。いつ、どこで、だれが、どのように、なぜ、という文とするための要件のことごとくが、分からないからです。なにしろ、まだ五歳の私ですから、これらは多分に追体験に他ならないと思います。
この体験を、いつの目にか形のあるものとし、次の世代に語り伝えようと、心に深く期していました。『書読む月日』ヤマス文房
浜田山通信№5 [アーカイブ]
老人会のバス旅行
ジャーナリスト 野村勝美
6月22日から2泊3日で福島県の母畑(ぼばた))温泉に行った。和泉下高地区いきいきクラブ連合会の定期総会旅行である。老人会のバス旅行。
和泉下高地区というのは、杉並区東南の方南町、和泉、永福、下高井戸、浜田山をさす。老人会は14。区全体では78クラブあり、会員6800人。去年1年で3クラブ300人が減った。急激な減り方である。会員1人ひとりが友達、知り合いに声をかけてほしいと、宿についてすぐ始まった総会で会長が訴えた。
私は商店会のつきあいで、20年ほど前から名前だけは老人会に入っていた。浜田山白寿会という。今回の旅行の参加者は男3人、女6人。14クラブで96人だから平均よりは多いが、往時と比べると半数にも満たない。最盛期にはバス6、7台も連ねたが、ことしは2台だけ。隔世の感。
考えてみれば昔は団体旅行が盛んだった。商店には商店会の旅行。月5000円の積み立てで年6万円、けっこう豪華な慰安旅行だったが、もう10年も前に廃止された。自営業の転業が続き、いまや会の役員、会長のなり手がいない。業界のメーカー、問屋の招待旅行は多く、地元代議士主催の旅行もあった。そういえば、会社の社員旅行もなくなったのではないか。高齢の旅行会が細々ながら続いているのはむしろふしぎなことかもしれない。
私はサラリーマンをしていたから地域との接触は全くなかった。連れ合いはおもちゃ屋をやり、学校のPTAに参加していたのでこの半世紀の間にすっかり地域の人になった。60歳になって老人会にはいるのになんの抵抗もなかったようだ。当時、白寿会の会員数は150人を超えていた。それがいまは男10人、女60人。どのクラブもそうだが、女性が断然多い。そして平均年齢80歳。連れ合いは79歳だが、彼女より年下の人は2,3人しかいない。つまりいま70歳前半以下の「老人」はだれもはいってこなかったというわけだ。どうも老人会をいきいきクラブといってみたり、敬老会館をゆうゆう館と名称変更したあたりから地域社会の構造そのものが家庭、親子関係も含めて変化したようなのだ。
老人会や町会、商店会、さらに防犯協会、交通安全協会、消防団などは、地域の自治会、原住民の組織で根強い保守地域だが、それも崩壊しつつある。こんどの旅行でも祝電を打ってきたのは都議連自民党候補一人だった。
それはともかく、旅行は那須高原南ケ丘牧場、那須峰を望むチーズガーデン、翌24日白河の関、乙字滝、須賀川芭蕉記念館、25日御斎所街道、塩屋崎灯台美空ひばり碑、小名浜港とそれなりに楽しいものでした。
司馬遼太郎と吉村昭の世界№4 [アーカイブ]
司馬遼太郎と吉村昭の歴史小説についての雑感 4
歴史小説にいたるまで――司馬さんの場合3
エッセイスト 和田 宏
今回と次回は、やや回想風に。
昭和40(1965)年に、私が文藝春秋に入社したとき、『竜馬がゆく』の連載は産経新聞夕刊に進行中であり、第3巻「狂欄篇」まで単行本になっていた。「司馬遼太郎」はまだそんなに有名ではなかった。連載が始まったのはその3年前で終わったのは1年後だから1335回にわたる連載小説は佳境に入っていた。あとから考えると、司馬さんが蝶になる時期に私はこの業界に入ったのであった。
入社後に配属されたのは、その本を作っている出版部であったから、とにかくおもしろいから読めと先輩から奨められて手にとった。途中で読むのを止められなかった。
ところが、司馬さんに頼み込んで、この小説の出版を引き受けてきた先輩のT女史の話によると、「どうしようかとあのとき青くなったわよ」ということだった。最初は本がまったく売れなかったのである。2巻目の「風雲篇」など返本がかさんで、一部処分したそうだ。「連載はまだまだ続きそうだし、この先どうなることかと……」というT女史の心配は長くは続かなかったのだった。3巻目あたりから火がつき出した。司馬さんの才能が鉱脈を探り当てたのだ。
第1巻「立志篇」の初版部数は8000部であった。この数字は微妙なのである。まだ新人扱いなのだ。どのくらい売れるものなのかわからないが、しかし大衆小説なのだから、つまり損をしてまで出す本ではなく儲けないといけない本だから、採算点を考えるとこのくらいは刷らないと定価のつけようがない、というぎりぎりの部数なのだ。少ない部数で儲けを見込んだ定価をつければ高くなって余計売れない。だから多少の返品は覚悟して八千は刷っておこう、というのが出版責任者の肚の内なのである。この部数では一冊ずつ配っても全国の本屋さんにはゆき渡らない。当時はどこの商店街に行っても本屋さんが一、二軒はある時代であった。全国で2万店は超えていた。(註1)
さて、その40年の8月に第4巻「怒涛篇」が出る。本の売行きも怒涛のようになってきた。そしてその翌年、最終巻「回天篇」が出て、司馬さんは一流作家の仲間入りした。秋には『竜馬がゆく』と『国盗り物語』の完結に対して菊池寛賞が贈られることになる。
それにしても小説の連載中から、切りのいいところで本にしてしまうというやり方はどうであろう。どうしても巻ごとに薄いのと厚いのができることになる。最終巻など早々と連載が終わってしまったらどうなるのか。気がもめることだ。事実、『竜馬がゆく』の単行本は全5巻の厚さがでこぼこである。したがって全巻共通の定価がつけられないという面倒なことになる。のちに新装版など作ったが、「立志篇」とか「風雲篇」など各巻にネーミングしてあるからいまさら均一ページにはできない。というより旧版で途中まで買っていて、新装版で買い足そうという人だっているのである。
こういうやり方を拙速主義といっていいのかどうか分からないが、しかし文藝春秋が出版社というより、「雑誌社」であることの体質からきていることに間違いないだろう。いいもの、よさそうなものがあったら、完璧を期するよりできるだけ早く読者に提供しよう、という行き方なのである。
当時、文藝春秋は出版部門が弱く、自社の雑誌で連載した評判の小説が他社から出版されていたりしたのである。そこでこれからは出版に力を入れねばならぬ、同時にそのころ収入面で大きな戦力になり始めた「週刊文春」にも力を入れようと、昭和40年にはたった総勢200人の会社が編集部員だけで8人、総員で30人も採用したのである。東京オリンピックの次の年なので、マスコミは人を採らないだろうなと思っていた私などが入社できたのには、そのような事情があった。
さて、半年ばかりいた出版部から、週刊文春編集部に異動の辞令が出たのはたしか10月下旬。ちょうど司馬さんの「十一番目の志士」の連載が始まったばかりで、私はその担当を命じられた。そして初めて司馬さんに会うことになったのである。
註1 書店の数はバブル期には2万店を軽く超えていたが、長期低落傾向にある。2000年の2万1千店から現在は1万6千店台。ただし一店舗の規模が大きくなる傾向があるので、売り場面積は店舗数ほど減ってはいない。
砂川闘争50年・それぞれの思い№5 [アーカイブ]
「砂川を記録する会」代表・星紀市編
労働組合は出しゃばらず、地元の意向を尊重 (1)
関口和(かのぶ)さん 国鉄労働組合・三多摩地区労働組合協議会事務局長・鉄道退職者の会全国連合会会長
私は、1953年から国鉄労働組合の八王子支部専従として組合運動をしていましたが、そのころ、地域の運動も日本の労働組合運動では重要で、三多摩地区労働組合協議会の事務局長もしていました。
1955年5月1日、砂川では、宮伝町長成立、石野昇、萩原一治・2名の社会党町議選出がありますが、5月4日に降って湧いたように、五日市街道を跨(また)いで米軍基地拡張の申し出が、砂川だけでなく、「立川・横田・新潟・小牧・木更津」とありました。おそらく朝鮮戦争の影響があったと思いますが、立川は特に補給基地という特徴があるので、「首都圏としては珍しいが拡張したい」という申し入れでした。当時米軍も、こうした問題を担当していた調達庁も「拡張はそう難しくないと思った」と思います。それまで砂川は何回も拡張を経験していたし、間題はないと……
話があってすぐに石野君から相談がありました。当時は新間も取り上げなかった。石野君や萩原さんと相談し、「このまま見逃すという手はないだろう、運動に立ちあがりたがりたいという希望を砂川町長は持っているだろう」という話があったんで、労働組合は何があるかわからないが、また米軍基地反対闘争というのは初めてであったので、どういうかかわり方をしたらよいのか、とにかく当時はあんなに大きくなるとは考えていなかったので、「一緒にやろう、支援をしよう」という決意だけ、5月中の幹事会で私が提案し、満場一致で決議しました。
そのうちに砂川の中でもいろいろな機運が盛り上がり、6月18日阿豆佐味天神社で町民総決起大会をするといぅことを聞いた。それで決議しっぱなしじゃしょうがないから、我々にも参加させてくれと話しました。すると向こうでは返事ができなかった。それは歴史がないからです。全国でいろいろありましたが、労働組合と地元の人たちの運動の融和点というのが必ずしも.一致しない、だから勝手に動いてしまってもしょうがないから、砂川の土地を持っている住民の人たちが何を考えているのか、どう思っているのか、静かに参加して見極めてみようと、決議しました。そして6月18日の総決起大会に参加するということになりましたが、参加させる、させないで地元は相当もめたらしいです。
初めて集まるわけだから目印として組合が組合旗を立てる、それは困るというのが砂川の地元から出てきた。石野君と直接会って、我々に何を望むか、何をすればいいのか、参加するに当たって目印として組合旗の一本だけを端っこに持ち込むということを認めて欲しいと話をしました。なかなか 「うん」と言ってもらえなかった。結果として組合旗を持ち込む、一本と集約した。「これはしょうがない」ということで集会に参加しました。参加してみると、砂川のあらゆる層の人、農民だけでなく、いろいろな人、代議士、自治体の長も来ているんです。1700名くらい集まったのではないでしょうか。国労も100名くらい行ったと思います。
砂川の人たちが反対の意志決定をしました。しかし、その後、「決めたたけではどうにもならない。東京都知事、内閣に申し入れをする。そのとき、5月、6月なので農作業がお留守になる。私たちが、そのお手伝いをしよう」と。後で名前をつけるのですが、援農動員です。大体コンスタントに1日50人ほど、農作業の経験のある人を集めました。かなり喜ばれました。そして信頼関係を作り、困っていることを、まず手伝いました。こうしたことが夏をはさんで2ケ月くらい続いたんです。砂川でスイカを食べながらね。動きはあまりなかったように思います。でも駆け引きはありました。
運動を広げようということで、この間題を総評、東京地評に持ち込みました。労働運動全体でもいろいろ地域の運動をやっていこうと決議があったときで、国鉄機関tの先輩たちのところを回ったんです。とりあえず、砂川に来てもらうという体制を作る、決議をする。あわせて労働組合だけではしょうがないと、文化人、当時清水幾太郎さん、中野好夫さん、壷井栄さんという人たちに、とにかく砂川を見てくれと、何が起きているのか、政府は何をしているのか、と言って回りました。これがその後、生きたんですね。当時テレビができたばかりで、こ の問題を機会があるごとにその人たちがしゃべる、マスコミも放っておく訳にはいかないとそういう風に、準備期間をはさんで、文化人も、マスコミも動員するということを、僕たちは役割として援農の傍らでやっていました。支援は山形や愛知やいろいろなところでできるが、やはり東京で盛り上がらなければならない、全東京の闘いだ、という機運を作っていったんです。『砂川闘争50年 それぞれの思い』けやき出版
雨の日は仕事を休みなさい№6 [アーカイブ]
全力投球するのはやめなさい 「ほどほど」が好結果を生む
鎌倉・浄智寺閑栖 朝比奈宗泉
禅の話はどうしても抽象的になってしまいますが、ここで現実的な話をしてみましょう。
これも、テレビ局時代のことです。弟が関係する知人の技術者でした。常に終電車で帰るほどよく働く人で、その日も、時計をみると終電車近くなっていました。彼は慌てて会社を退社し、最寄り駅まで走りました。改札を駆け抜けると、ホームには電車が入っており、発車ベルが鳴っていたそうです。乗り遅れないように、階段をかけ降りようとしたとき、あまりにも慌てていたので階段を踏み外してしまい、そのまま下まで転がり落ちてしまいました。意識不明のまま救急車で病院へ運ばれましたが、結局、意識は戻らず、脊椎を傷つけたらしく植物人間状態のまま2年ほど入院生活を続けた末に、亡くなられてしまいました。
彼がそれほど慄てず、力いっぱい走らず、階段を踏み外したときに、ちょっと踏み止まる余力を残していれば、そんな不幸は起きなかったでしょう。彼は仕事のできる男だっただけに、あとが大変でした。彼の抜けた会社では、彼がほとんど技術的なことを任されていたので、周りが右往左往してしまいました。
もちろん、彼と彼のご家族には恩わぬご不幸でしたが、会社周辺にまで迷惑をかけてしまったことになります。結果論ですが、もう少し力を抜いて、仕事に打ち込めば、こんな結果にはならなかったのでは、と考えるしだいです。彼は仕事に全力を使い尽くしてしまったのです。
先の防衛省前事務次官の贈賄事件も内容は違っても、まさに同様な事件だと思われます。順調に出世して事務次官にまで上り詰めました。順風満帆、彼の人生には向かうところ敵なしの状態だったのでしょう。それが公私を混同させる結果になったのだと思います。
「騎虎(きこ))の勢い」という言葉もあります。勢いに乗ってしまい、途中でやめにくいことをいいます。前事務次官が贈賄に手を染め始めたころは、「こんなことをしていてはいけない」という気持ちがあったと思います。それを何回も練り返しているうちに、その感覚も麻痺し、気がついたときにはもう引き返せないところまできていたのでしょう。彼はその地位(勢い)を使い尽くすようにして破たんしたわけです。
また、日本のバブル時代、この世の春を謳歌した人々が多くいました。金余り日本はアメリカの不動産を買い占め、アメリカ文化の象徴である映画会社まで買収しました。それがどれほどアメリカ国民の反発を買っていたか、思い到っていた人が日本人のなかにどれほどいたでしょうか。
今、日本はアメリカ資本などに脅かされ、従来の逆の道をたどっています。順調に出世したり、商売で儲けたり、思わぬ余録にありついたときこそ注意すべきです。本当にこの波に乗っていいのか、と……。
選勢不可便尽(勢い使い尽くす可からず)『大慧武庫(だいえぶこ)』
中国末代の法演禅師が、弟子の仏果禅師(『碧巌録』の大成者)を舒州(じょしゅう)の太平寺の住職にするにあたり、与えた四つの戒め(「法演の四戎」)の第一戒です。
「勢い使い尽くす可からず」を法演禅師は「勢いを使い尺くすと必ず禍いに圭る」と自ら説いています。
人は物事がうまくいっていると、「いいわ、いいわ」といい気になって大きな動きをし、失敗します。力は八分で止めておかなければなりません。ついつい、「オレはそれだけの地位にある、力を持っているのだから、何をやってもいいのだ」と考えがちですが、そこは上手な人の生き方からすれば、調子に乗ってはいけないポイントです。うまくいっているときが一番用心しなければならないときなのです。
ちなみに、「法演の四戎」には、第一戒以外に次の3つの戒があります。
第二戒 福不可受尽(福受け尽くす可からず)
第三戒 規矩不可行尽(規矩(きく)行い尽くす可からず)
第四戒 好語不可説尽(好語説き尽くす可からず)
福(幸福・楽しみ)、規矩(規律)、好語(真理、美句など)、いずれも人間にとって大事なことですが、やり過ぎると禍いになる、ほどほどにしておけと説いています。
『雨の日は仕事を休みなさい』 実業之日本社
こころの漢方薬№5 [アーカイブ]
旅の効用
元武蔵野女子大学学長 大河内昭爾
ふらんすへ行きたしと恩へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。
萩原朔太郎の「旅上」という有名な詩の前半である。この一節は旅が話題になるときよく引用される。昔とちがってフラソスへも容易に行ける時代になると、この詩が古びてみえるかというと意外とそうでもない。旅へのあこがれはいつの時代でもかわることがないからだ。この詩は旅への空想をここちよく刺激する。
旅に出るということは、日常の生活環境から脱出することだ。平生の習憎的生活から解放されることである。旅を新鮮にするか杏かは日常からの脱出いかんにかかっている。
旅の上手とは、ホテルの予約や日程の組み立ての手ぎわのよさ以上に、日常からの解放という心の切りかえの上手な人をいうのであろう。風景の変化や食べものなど心の切りかえの手がかりは、旅そのものにあるが、旅の行く先々どこにでもころがっている。五木寛之氏の『ちいさな物見つけた』(箕社)という本の帯に「旅が百倍娯しくなる。人生が百倍愛しくなる」としるされていた。旅先で求めた「小さな物」のひそかに語りかけ訴えてくるものを作者はみのがさない。ストレス解消と称して人が買い物にいそしむのはごく一般的なことだが、「ちいさな物見つけた」のようなモノの言葉に耳を傾け、手にさわり、手にとってモノのすがたをいとおしむような買い物でなければ、旅情を慰め、旅情をよみがえらせるよすがにはなるまい。たとえば、陶器のひらたい四角な函の蓋に、なんともいえず風情のある葛の花を描いた朱肉入れが紹介されている。それは「蓋の四隅のなだらかに落ちた肩の線もじつに美しい」という文章どおり、小粋な朱肉入れの写真がそえてあった。「肩書きも箱書きもいらない。あるがままで美しいものに出合うとほっとする。野の花のようなそんな作品が僕は好きだ」と作者はしるしている。そんな小さな物との出合いも旅のよろこびにはかならない。
そういえば、吉行淳之介氏に「街角の煙草屋までの旅」という心にくいタイトルのエッセイがあった。「旅」という一字のもたらす空間のなんと多様なことか。『こころの漢方薬』彌生書房
戦後立川・中野喜介の軌跡№5 [アーカイブ]
基地と横流し(2)
立川市教育振興会理事長・中野隆右
基地の中から持ち出すだけでなく、基地の引き込み線を出入りする貨車からもたびた荷物を失敬したという。たとえばこんな具合だ。
「当時の汽車は石炭車でした。線路を横切る道路へ通行人なり自動車なりが通ると、駅員が汽車の先に回って止めていました。そして通行人や車を優先させて、もう誰もいないなとなると汽車を通していた。そういう状態だから、走っている時でもそんなに速度はなかった。そこで、その貨車に乗り込んで、荷物を失敬する。米軍用の貨車に積まれた荷物の箱には番号がついていて、番号を見ればどんな品物が入っているか区別がつきました。番号の見分け方は基地の通訳から事前に聞き込んでいましたから」
基地の中から物を持ちだすには、基地の中に入り込まなければならない。当時の基地のゲートは、フインカム基地の正門のほか、西立川、中神、今の大山団地近くのランドリーゲート、それから砂川に一つあった。当初の出入り口はそれだけしかなかった。
ゲート以外の周囲は、全部バラ線が張り巡らしてあった。そして出入りはほとんどが正門からだった。
「最初は基地に入るのは全部、MPでも何でも正門からでした。それから二年ぐらいしてから日本人の警備員をMPと一緒につかせるようになった。これは専属の職場に通うような日本人の従業員の出入りが激しくなったからです。それまでは、全部その日その日の日雇いの時にはまとめてトラックで入るのでパスは必要なかった。でも、それぞれクラブだとか、ランドリーだとか、それぞれのハウスメイトだとか、ボーイとか、そういう固定した仕事を持つようになって正式に個人的なパスをもらうようになると、日本人の通用門では英語だけしか通じないと困る場合がある。だから今度はMPだけでなく日本の警備員も一人必ずつくようになった。 それでなおかつ用の足りないときは、適訳が一緒に同伴する。また、パンパンの場合は自由に出入りはできないけれど、兵隊が一緒に行けば、自由に出入りできるわけ。だから、土曜、日曜なんかになると、パンスケがみんなゲートのところへ来て、それぞれ約束した彼が迎えに来る。それでゲートのところでメモへチェックして自分の名前と女を一人どこのクラブへ連れて行くなどと書いて一緒に入るわけです」
基地の中に正規に入り込むにはこのようにパスが必要だが、そんなものはない。使役で入った時のように理由があればともかく、そうそう都合よく入り込めるきっかけなどあったものではない。かといって忍びこもうとしても、軍事基地であるから警備自体は決して甘いものではない。
とにかく手っ取り早く米軍物資にありつくためには、米軍基地に出入りする貨車を狙うのが一番だったのだ。ちなみに、当時米軍基地から持ちだした物品で、一番値がよかったのは、当時不足していたフィルムだったという。
もちろん悪事は悪事。いつでもうまくいくとは限らない。時にはこんな失敗もあった。
「ある時、時計をうまく引き出しました。懐中時計のような大きな時計を五十個ぐらい。それを時計屋さんへ持っていった。"おやじ、この時計買わないか″って。するとおやじは、〝何だ、こんなもの″って言うんだね。"これ、時計ったって、ストップウォッチだ。こんなものをうちは買わない"って。当時、スポーツなんてやる機会がないでしょう。だから分からなかったんですよ。かといって私が持っていてもしようがないから、"もう、幾らでもいいから″って、あの当時でたしか二百円ぐらいで引き受けてもらいました」
この時引き受けてくれた時計屋さんは、街の普通の時計屋さんである。この当時は、一般の商店でも、闇の商品を引き受けていたのだ。また、少なくとも前後のやりとりから、故買品だと想像がついたはずなのだが。
「そりゃ、分かっていても平気で買っていましたよ。横流しとか何とか言っても、もうかるんだもの。タバコでも何でも、みんなどこから来たのか分からないようなものを売っていましたよ」
ただし、決して闇物資の取締りがゆるかったというわけではなかったようだ。A氏は続ける。
「その当時は、アメリカ軍がまだ基地に来たばかりで、ジープに乗ったMPが街をいろんな面で取り締まっていました。あいつらは威張りくさっていやがってね。しかも怖かったですよ、大きいしね。それがまた反感を感じるんだよね。街へ乗り 込んでくるMPは、露天商の側から言わせれば、我々の縄張りのところへやってきたということになる。それで本当に拳銃の撃ち合いなんかしたんです。当時の模様なんていうのは、本当に西部の開拓地と同じですよ。外人を日本人がみんなで袋たたきにして、緑川の中へ放り込んだり、そんなことはもうしょっちゅうありましたよ」
こののち、A氏の生活も変転をとげていくことになる。『立川 昭和20年から30年』ガイア出版