SSブログ

浦安の風№4 [アーカイブ]

新しい地域共同体への試み

                          ソーシャル・オブザーバー    横山貞利

 去る6月27日(土)「レインボー エージ ネットワーク」の発会式を行いました。この「レインボー エージ ネットワーク」は、わたしが居住している団地(256世帯)の熟年世代(原則として60歳以上)を対象にした組織で、発会式までに30世帯35人(うち女性13人)が申し込みスタートしました。
 「レインボー エージ ネットワーク」を考えるきっかけは、顔見知りの方が昨年末“孤独死”されたことでした。普段、お会いした折には挨拶を交し合ったのですが、彼が独り住まいであったことは知りませんでした。“孤独死”についてはニュースで知ってはいたのですが、まさか自分の身近でおこるとは信じられず、とても他人事とは思えませんでした。そこで、親しい仲間に呼びかける一方団地管理組合や自治会に申し入れ、何らかの組織を作ることや資金面を含めた全面的な協力を諒承してもらいました。そして、仲間たちと発起世話人会をつくって6ヶ月にわたって検討を重ね「レインボー エージ ネットワーク」として立ち上げた訳です。
 このネットワークの原則は
1. 個人の任意の参加であって強制するものではないこと。
2. 個人のプライバシーを侵してはならないこと。
3. あくまで互助の精神を大切にして、日々の安寧を共有しあうこと
 です。そして、人生のヴェテランとして、当団地に居住している人たちのために役立つよう、参加者がいろいろアイディアを持ち寄って、より温かく元気が出る居住空間を構築するとともに人と人とが手を繋ぎあって輪を創り、共に人生をエンジョイすることを目指していこうというものです。
 そのために、ネットワークの運営は数人の世話人たちが中心になって進めますが、アイディアの提案者がリーダーになり、それを世話人たちが補佐し参加者と共に歩いていくことになります。従って「歩きながら考え、考えながら歩く」ことをモットーに「日々之好日」に努めます。現在、決まっていることは、月1回の茶話会を行うほか、年2、3回の食事会、会費1000円(世帯)を予定しているくらいのことです。
 こうしたことを通して参加者のコミュニケーションを図り、情報を交換し合い手助けを行う“横の繋がり”と同時に次世代やその子どもたちと行動を共有し会う“縦の繋がり”も考えています。例えば、熟年世代が子どもの頃習い覚えた竹馬作りやお手玉作りなどを行い、作り上げた竹馬やお手玉で一緒に遊ぶことを通して遊びの文化を伝承しながら“生活の知恵”を伝えていくことも計画しています。この他、ウィークデーの日中に災害が興った時には、このネットワークの参加者が対応していくことになります。
 こうした横への繋がりと縦への繋がりを通して、浦安のような新開地にあって新たな“地域共同体”の在り様を模索していきます。これが、「レインボー エージ ネットワーク」の基本的な姿勢です。
 ところで、「レインボー エージ ネットワーク」と命名したように、熟年世代は人生のあらゆる色を体験しています。それを色に譬えれば“レインボー”と言えましょう。また“レインボー”は“空の橋”ですから、人と人を結び合わせる“かけ橋”でもあり、「Оver The Rainbowー虹のかなたの何処かに」ある筈の“何か”を求めつづけることも意味しています。将に、わたしたちが試みる方向性を表していると言っても過言ではないと思います。
 やっと「レインボー エージ ネットワーク」は緒についたところです。半年後、1年後に、わたしたちが目指していることがどれ程実現できているか全くわかりません。
 人間は、自分が他者のために何をしてやれるのか、他者まかせでなく自ら他者に働きかけ、その結果どんなに小さなことであっても他者の喜びを見出すことができた時、自らの心の充足感を得られるものでしょうし、それによって“生の喜び”、自己の“実存”を確認できるのでしょう。
 「レインボー エージ ネットワーク」は、参加者一人ひとりの小さな力を結び合わせて、お手伝いしあえる組織なのです。暗中模索、思考錯誤を繰り返すでしょうが、荒涼とした現代社会にあって、小さくも“新しい地域共同体”作りへの試みを始めていきたいと考えています。


公私日記№1 [アーカイブ]

「公私日記」と研究会
                                   「公私日記」研究会会員  森信保

 「公私日記」とは、幕末争乱の時期に一豪農(名主)平九郎が、柴崎村の人々の日常生活を公務・家務を取り混ぜながら自由奔放に気の向くまま、主観を入れず客観的に記録したメモとして貴重な日記とされています。
 この日記が発見されたのは、昭和36年(1961)当時立川市の収入役だった(後に市長)鈴木清氏宅でした。鈴木家は長らく江戸時代名主を勤めた家柄で、老朽化した家を建て替えるため取り壊し作業中、天井裏にあった大きな箱の中から発見されたものです。
 日記が書かれた時代は、江戸後期の天保8年(1837)から安政5年(1858)の年間を23冊に綴り込まれた冊子で、発見したときは百年以上も経過していたため、かなりの虫食いと、湿気のため堅い板状の冊子でひどい状態でした。
 この日記の解読に取り掛かったのは、昭和45年(1970)当時私が社会教育課に異動になり取り組んだ記憶があります。時はちょうど日本の高度成長を続ける時代で、歴史資料や民俗的な文化財など失われつつある変化の時でもあり、とくに、調査、収集保存の必要な年代ともいえました。
 この日記の発刊については、歴史的幕末混迷期の貴重な内容を一般の市民の人々に公開し、また、多方面に活用をして頂くために、当時「立川市史」の編集にあたられた水野祐早稲田大学教授に解読を依頼したのでした。とくに解読に関われた関係者には、虫食いと板状のはがし、達筆の特徴には大変苦労されたと聞いております。
 この日記の公刊とその継続については、近世史と地方文書の専門家でもあります伊藤好一明治大学講師を中心に多くの方々の協力により、昭和46年から10年計画で発刊を進められ、昭和60年までに終了いたしました。
 毎年の発刊につれて、一般市民の関心も高まり、教育委員会では「公私日記」の解読と地方史の研究の入門講座として、伊藤好一先生を迎え公開講座を実施しました。
昭和51年(1976)6月講座終了後参加者の継続熱望と、伊藤講師の熱心な指導などにより自主学習サークル「公私日記研究会」として発足しました。
 以来、地道な研究会ですが、今日まで約30数年間にわたって毎月2回の輪読会をはじめ、展示・研究発表会など継続して活動しています。
 今後、研究会員諸氏のそれぞれの研究分野に関しての考察が紹介されていく筈です。


the Sound of Oldies in TACHIKAWA№2 [アーカイブ]

栄えてる方・北口 その1                           

                                                                                                       鈴木 武

 006.jpg俺もおかあに連れられてデパートにはよく行ったな。弟とおもちゃ売場を見るのが楽しみでさ、常に旬の商品をリサーチして誰よりも先に知ってなきゃ気がすまなかったな。俺も意外とボンだったから、仮面ライダーの変身ベルトやタイガーマスクのソフビ人形用のリングなんかも持ってたんだぜ。今だったらオークションで高く売れたよな。
欲しいものを見つけ、それが一個しかねえ時は、売れないように棚の奥に隠したりもしたな。変身サイボーグ1号のグレイなんつうのはレアだからさ、すぐになくなっちまうんだよ。

 ある日の高島屋おもちゃ売場での記憶・・・
女の子用のボードゲーム・デートゲームを手にした女の子 「パパこれ欲しい、買って」
パパ「まだ、早い」
今も昔も、立川のおもちゃ売場では、いたいけな子どもたちの悲喜交々の物語が展開されているのである。

 008.92.5.8.jpgある程度の歳になると、南口に住んでる俺たちも、ガキだけで都会・北口のデパートに遠征したな。立川百貨展界の双璧、一方の雄、中武には階段のおどり場にオレンジジュースの自動販売機があってさ、三角すいの紙コップで飲むんだけど、上の方についてる透明な部分に噴水みてえに吹き出る様子が見えんだよ、食堂に行って高価なクリームソーダなんか飲めねえガキにとっちゃ10円というリーズナブルさがありがたく、必ず飲んでたな。思い出せば粉ジュースの味でしかねえんだけど。
 もう一方の第一には屋上に続く階段で雛段式に金魚だとかはつかネズミなんかを並べてたよな。今で言うペットショップみてえなもんなんだろうけど、近頃見かけるようなスカした動物は皆無だったよ。さすがに学校の前で売ってたスプレーで色づけされたひよこは売ってなかったけどな。
 地下にあったたいやき屋には「およげ!たいやきくん」が流行った時に階段の上まで行列ができてた。第一といえばもうひとつ忘れられない思い出が、高校生になって間もなく、友達が本を買うから付き合えつうんで4階の本屋に行った。図書カードを何枚も持ってくから参考書でも買うのかと思ったらよ、そいつが手にしたのは何と「135人の女友達」。俺も欲しかったなあ。男子はみんな欲しかったよな?ちなみに最近手に入れました。
 第一のとなりにソフトクリームや生ジュースを売っているスタンドがあってな、ある日、俺は下駄を履いた親父とその前を通ったのよ。そしたらそこにバナナの皮が落ちててそれを踏んだ親父がすべった。バナナの皮ですべった奴をマンガ以外で見たのは、俺のこれまでの人生で後にも先にもその一回だけだよ。
 その他、伊勢丹(現在のビックカメラ)の一階には立川初のマクドナルドがあった。初めて食ったハンバーガーは強烈にピクルスの印象が残り、最近まで抜いて食ってたな。昔のマックシェイクは今より濃度が高く(気のせいか?)、ストローに詰まっちまって酸欠になったもんな。
 高島屋の地下には立ち食いのやきそば屋があった。育ち盛りの俺たちにはオアシスみたいな所で、紫色のプラッチックのコップに入った水を2杯、自分の前に置き、150円の大盛りをかっ食らい、続けて100円の並を食いながら、それをガブ飲みした。ソーセージ入りとかチャーシュー入りには目もくれねえ、そんな金があるなら、もう一杯!その店は玉川良一とガンツ先生に似たおっちゃん二人が仕切ってた。ある日銭湯でガンツ先生に会った。そしたらtachikawa004-0051 (2).jpg
「お兄ちゃん、いつもどうもねー」
俺は面が割れるほど通ってたつうことか!?                                                              

 ある日、この店を出て友達に会った。
友達「お前、高島屋でやきそば食ったろ?」
 俺「な、何で?」
 友達「だって歯に青のりついてるもーん」

 その頃、高島屋は夕方6時で閉店だった。その時間になると高島屋オリジナルメロディが立川に鳴り響いた。それは俺たちの住んでる地域にまで聞こえてきて、家路につく合図になってた。

 (上)(中)昭和37年中武デパート 開店セールと屋上風景  (右下)昭和57年北口駅前 
Photo(C)Tsurukichi Mita/Chubu bilding/Tachikawa Printing Factory.All Righits Reserved  


玉川上水の詞花№3 [アーカイブ]

  イヌカキネガラシ (あぶらな科)            

                                                                                           エッセイスト  中込敦子
 
 inukakinegarasi2.jpginukakinegarasi2.jpg梅雨入り前後の湿った上水堤のへりで、イヌガラシに似ているが草丈が50~80センチと高くほっそりしている野草に出会った。

黄色い4弁の頭花はカキネガラシより少し大きめだが、直径は1センチぐらい。図鑑によるとイヌカキネガラシでヨーロッパ原産の一年草で昭和初期に渡来。市街地の道路脇に多く見られるそうだ。明治末期に渡来した説もある。

上水堤では日照不足なのかあまり茎葉を張ってないが、長さ7~10センチの細長い線形の葉や茎が横に張り、利用価値がないのでその名前が付けられたとのこと。茎先がやたら折れているように見えたが、実はそれが果実だった。長さ3~4センチで、マッチの軸ぐらいの太さだ。

ハナナ(菜の花)などアブラナ科特有の黄色の4弁花は目立たないが、控え目な可愛さを持っており、周囲に繁茂している下草の端っこに棲家を見つけて、懸命に花を咲かせている姿が忘れがたい。  『もぐら通信』


立川市長20年の後に№2 [アーカイブ]

平井川の彼岸花
            
                           前立川市長 青木 久 

 私は幼い日々のことをはっきりとは憶えていない。でも、眼を閉じて思いをはせると、よみがえってくる感触がある。それをなんと言葉にしてよいのか。脈絡のあるようなないような短い言葉がつぎつぎと浮かぶ。
                                 *
 それはぼんやりと滲んでいる
 私は、小さな紅色を憶えている。緑のなかのいくつもの紅色だ。
   ゆらゆら揺れていた。
 私は背負われていたのだろう。
   頬を風が撫でていた。
   水の流れがあった。水の中からわき出てくる無数のざわめきを聞いていた。
    「ねんねんころりよ、ねんねしな……」
   「お母ちゃん」の声だ。今も耳に灼きついてる。
    「おかあちゃん」
   「あいよ、ちゃっちゃん、何がしたいの」
     「トリ」
   「そうだよ。トリだよ」
   「お母ちゃん」は、「トリ」と言った。
 そして私は「ちゃっちゃん」と呼ばれていた。
                                 *
     薄暗い空間に人の気配がする。
   火が燃えている。
     温かくくるまれていた。
   柔らかな手触り。
   むしゃぶるように吸い付いた乳房。
   「お母ちゃん」のじゃない。
   でも浸される充足。
   瞼がしまる。とろけるような開放感。
   小さな乳房。
   大きな乳房。
   いくつもの乳房のおぼろげな記憶がある。
                                  *
 私が5歳になった ある日の朝。
 いろりを囲んだ食膳で家族のみんなが奇妙にかしこまっていた。
 ばあちゃんが私を見つめ、
 「ちゃっちゃん、今日からお前は砂川に戻るんだよ」
 言い終えるなり、ばあちゃんは肩を揺すって泣き出した。
 「お母ちゃん」も、涙をぬぐっている。
 「ちゃっちゃん、出かけるよ」
 私は手を引かれ、長い長い道のりを歩いた。
 いくつもの大きな木が道に並んでいた。
 とある一軒の家へ入る。
 室内に坐っていた一人の女性が、私を抱いた。
 「ちゃっちゃん、大きくなったね。お母ちゃんだよ」
 その人の涙が、私の顔にも落ちた。
 私は驚いた。私はその人の手を払いのけようした。
 その人は、しっかりと抱きしめる。
 私はもがいた。そばに「お母ちゃん」がいる。
 「お母ちゃん」は、笑顔でうなずいている。
 私には、まるで理解できない。
 何かが崩れ落ちるようで怖かった。
 だから大声で泣いた。 
                                   *
 「トリ」ではない「お母ちゃん」は、真剣な顔で、自分が「お母ちゃん」なのだと語りかけた。なんどもなんども語りかけた。
 私は乳飲み子から幼年になるまでの数年間を、西多摩郡多西村原小宮代田(現・あきる野市原小宮字代田)過ごしたのだった。
 そこは「トリ」じゃない「お母ちゃん」の実家なのだという。「トリ」は、小学校の先生だった「お母ちゃん」の「教え子」で、「お母ちゃん」の代わりに「お母ちゃん」として私の面倒を見ていたのだという。
 村の何人ものおばさんが、私に乳をふくませてくれたという。トリは娘だから乳は出なかったという。
 「お母ちゃん」は、私を生んで間もなく、肺結核になったために、家族とは離れて療養していたのだという。
 そして私が連れてこられた家は、連れてこられたのではなく、私の実家、つまり、北多摩郡砂川村二番組の青木家なのだという。
 そんなことを言われても、私にはまるで理解できない。話を聞く度に、私は泣いた。そしてだんだんと私が事の次第を理解し、納得するまでには時間がかかった。
                                   *
  私が小学生になり、夏休みのある日、級友の砂川昌平君と連れだってお母ちゃんの実家に行った。そこには、手伝いに来ているというトリもいた。母親になったトリは、幼い子どもを背負っていた。
 私たちは近くの平井川の川原へ出かけた。トリも一緒だった。
 土手の上に、紅い花が群がって咲いてた。
  「あっ、紅い花」
 私はあの赤色に出会ったのだ。そしてこの村での暮らしとも……。
 「そうだねえ、ちゃっちゃんの好きだった彼岸花だよ」
 トリの顔が少しゆがんだ。トリの背中の子が、私のように思えた。
 私もくちゃくちゃになった。
 強い陽射しの中で、彼岸花は燃え立つように紅かった。


生と死をみつめて№3 [アーカイブ]

福祉とは何か、実践に導く好著       

                                                           ジャーナリスト・清泉女子大学講師  錦織文良
                                                                           藤原瑠美著「ニルスの国の高齢者ケア―エーデル改革から15年後のスウェーデン」
 
 スウェーデンの福祉運営は、国の津々浦々まで制度の趣旨と国民の意思が徹底している。それが強みで世界のモデルになった。日本の、わが町の参考にしようと、議員さんや行政の見学が引きも切らずだが、参考にした割にはめざましい改善の実例に乏しい。老人と医療の膨張に手をつけかねたまま、非効率で悲観的な見通しの弥縫策を繰り返すばかりである。
 藤原瑠美さんの「ニルスの国の高齢者ケア―エ-デル改革から15年後のスウェーデン」は、現地で定点取材を徹底した力作リポートである。そして、にっちもさっちも行かない日本の医療・介護の実態に、福祉先進国の仕組みを照射した提言、警告の書でもある。
 著者はかつて会社勤めをしながら、老母を11年間、91歳で看取るまで在宅介護を貫いた経験を持つ。その体験を受けて、2001年10月に立ち上げた「ホスピタリティ☆プラネット」は、病院の機械・検査を駆使した医療漬け介護から、自宅での安らかな死を迎える態勢に転換する方策を模索し提言し続けている。とはいっても、その実現となると容易ではない。これまでの政治・行政のミスリードと、それを刷り込まれた国民のほぐしがたい感情があって、見通しはおぼろである。なにしろ、昭和30年代中頃の在宅死85%、病院でのベッド死13%が、いまはそのまま逆転しているのだ。
 藤原さんは、銀座のデパートの婦人用品部長や支店長など華やかなキャリアウーマンは経験したが、大学教授やお役所や有名文化人などとは無縁の、権威なき一介の市民である。「亡き母の介護でお世話になった社会に還元したい」というのが運動を始めた動機だった。
 このテーマの類似書は山ほどあるが、この本はさまざまな実践を積み重ねて編み上げた貴重なリポートであり、指針の書である。聞きかじりや理屈ばかりのふやけた頭に、事実の説得力が伝わってくるのである。                  


昭和の時代と放送№2 [アーカイブ]

時間メディアの誕生
                                   元昭和女子大学教授 竹山昭子

無線電話(ラジオ)の公開実験-新聞社による先駆け①
 1920年代、日本では、逓信省をはじめ陸海軍、鉄道等の諸官庁だけでなく、民間でも無線電話(ラジオ)の研究が進められており、社会一般が放送に深い関心を持つようになっていた。マスメディアでは新聞、雑誌などのプリント・メディアが新しいメディアの登場を積極的に取り上げ、なかでも新聞企業は、ラジオの持つ速報性・同時性というジャーナリズムとしてのすぐれた機能に注目した。かれらはこのすぐれた機能を持つメディアを掌握したいと考え、さらにラジオにコミットすることによって新聞事業を発展させたいという意欲を持ったのである。
 こうして主要各新聞社は、政府がラジオ放送について具体的な検討を始めた1922(大正11)年ごろから、いっせいに、一般市民に対するラジオ情報の紹介や知識の普及に乗り出していく。むろん、逓信省や大学、無線研究者なども無線電話の実験を行っているが、一般社会へのラジオ知識の普及に大きな役割を果たしたものとして特筆すべきなのは、新聞社による公開実験であった。 新聞社は新しいメディアの誕生を情報として紙面で取り上げるだけでなく、一種のイベント・キャンペーンとして、積極的に企業活動を行ったのである。
 そのころから放送開始の1925(大正14)年にかけての新聞社によるキャンペーン活動は、まことに華々しいものであった。『東京放送局沿革史』は「民間に於ける放送実験」の節を立てて、「実験及び運動が我放送事業実現の為め非常に有力なる寄与であった事は云ふ迄もない」(註1)と書き、1922(大正11)年の「東京日日新聞社」「東京朝日新聞社」、1923(大正12)年の「東京日日新聞社」「報知新聞社」、1924(大正13)年の「大阪毎日新聞社」、1925(大正14)年の「大阪朝日新聞社」の名を、他の研究機関とともにあげている。
 しかしこの時期に新聞社が行った企業活動は、後年、あまり顧みられることがない。そこで、日本のラジオ放送開始以前における新聞社による公開実験のいくつかを、ここに取り上げてみよう。

▽東京朝日新聞社は、政府がラジオ政策・監督について検討を始めた1922(大正11)年、東京上野公園で開催された平和記念東京博覧会(3月10日~7月31日)の会場に受信装置を設け、6月2日から、京橋の東京朝日新聞社屋上の送信装置によってレコード音楽を送った。これは屋上で開催中の芸術写真展覧会の会場から「無線電話実況公開」と銘打って電波を発信したもので、博覧会の電気工業館に設けた安中電機製作所の出品所で受信した。「東京朝日新聞」は「屋上に設けられた無線電話も頗る(すこぶる)好人気で終日混雑を呈した」と記している。(6月3日紙面)
▽「東京日日新聞」1922(大正11年9月16日の記事の見出しは「日本もいよいよ無線電話の時代」とある。
 無線電信電話の要求切実になって来た。何事も新し好き発明好きの米国ではこの春から一般の無線電話が許可されるや、発展はおどろくべき程でブロードキャッスチングステーション(音楽や演説の送話をする会社)は既に百ヶ所を越え、受話機を持ってゐるものは百万人を越す盛況(中略)英国でも無線電話の一般許可をしきりに渇望してゐたがいよいよ去る五月から実施された。(中略)
 本社の無線電話機の装置方式は東京無線真空球方式で知識普及用として特に逓信省から許されたものであって通話時間は午前十時から午後三時までで、既にお茶の水高等師範大講堂との間に第一次試験を終へたが、その結果は頗る(すこぶる)良好(中略)。
 無線電話は前述の如く未だ逓信省が許可してゐないので勝手に受話機を買って受信する事は出来ないが、若しもこれが許可の暁(あかつき)にはわが社もブロードキャッスチングステーションとして読者の自宅へニュースは勿論音楽、講演等を送話する計画である。(9月16日紙面)

 このように「東京日日新聞」は海外の状況を紹介しながら、日本でも一般の受信が許可され次第「わが社もブロードキャッスチングステーションとして読者の自宅へ」と、放送事業進出への意欲を強く示した。

註1・越野宗太郎編『東京放送局沿革史』東京放送局沿革史編纂委員会 1928 P251


 


ニッポン蕎麦紀行№2 [アーカイブ]

~釧路の蕎麦は緑色・釧路市柏木町~          

                                                                                         映像作家  石神 淳

 前回に続き、また釧路発のエピソードで恐縮ながら、何卒おつきあいください。
 釧路の中心街から少し離れた柏木町で、一見、料亭風の構えとも思える、大正12年創業「竹老園東家総本店」の歴史は幕末に遡る。いささか講談調になるが、時代は明治2年。幕末の混乱を逃れ、越前福井藩下級武士の伊藤文平一家は、北前舟の船底で耐えに耐え、食うや食わずで小樽港にたどり着く。何とかして家族を養わねば、ジキに酷しい冬がやってくる。文平は武士のプライドをかなぐり捨て、屋台の蕎麦屋で寝ずの商売に励み一家を養った。                     
侍あがりの文平は、けっして商い上手とは言えなかった。文平の息子の竹次郎は、そんな小樽の暮らしに飽き足らず、家を飛び出し、当時、文明開化で華やかな函館に新天地を求めた。やがて、人も羨む出世を遂げるが、不幸にして明治40年の函館の大火で繁盛していた蕎麦屋を失い呆然となる しかし、ここで挫けなかったのが竹次郎のド根性だ。裸一貫となった竹次郎は、こんどは築港景気にわく釧路に活路を求め再出発したが、運悪く便乗した海産物問屋の回船が大シケで遭難。真冬の海に投げ出された竹次郎は、命からがら南部海岸のオコッペに打ち上げられた。                                                                     無一文の竹次郎が、幽霊のような姿でヨロヨロと釧路に辿り着いたのは、明治も終わりに近い年の瀬だった。その後は、まさに爪に灯をともすような赤貧の暮らしが続き幾年月。やっと貯めた金で小さな蕎麦屋を開店するが、またも近所から出た火事で類焼の憂き目に。「人生、七転び八起き」竹次郎は東家を再建した後、雪深い越後の栃堀村から、養子の星野徳治を迎え、関東の「藪」で聞こえた緑色の御膳蕎麦をお手本に、(釧路の蕎麦は緑色)と思わせるほど、竹老園東家の基盤を築く。幕末にはじまる「東家一代記」は、地元劇団の手で上演され、喝采を浴びた。

 昭和2年、養子の徳治が竹次郎のために建てた隠居所は、東家総本店として当時の姿で商いを続けている。老舗「藪」とは姻戚関係はないが、御膳粉を使った緑色の蕎麦と、甘酢をきかせ海苔で巻いた(蕎麦ずし)は、確実に釧路の市民権を得た。                                                                      「父は、蕎麦に凝り固まった男でした」店主の正司さんは、徳治の思い出を懐かしげに語る。看板メニューは先祖伝来の(緑色の蕎麦)だが、東家にはもう一品、誇りとする蕎麦がある。それは、御膳粉を色鮮やかな卵黄だけで打つ「蘭切り」だ。卵の黄身だけで打つ蘭切り蕎麦は、見た目も鮮やかに食欲をそそる。昭和天皇ご夫妻が釧路湿原をご巡行おり、蘭切り蕎麦が献上された。「たいへんにお気に召され、おかわりをされまして・・・」そこまで話すと、正司さんは、感極まって言葉に詰まった。店先では、東京から帰ってきた、大手家電メーカーT社コンピュータ技師だった、息子の純司さんが司令塔を務めていた。 
 東家の蕎麦は、手で捏ねて機械で切る。「客を待たせず出来立てを食べて貰う」竹次郎が編み出した商法で、そのために製麺機を入れたそうだ。そのチームワークのよさに納得させられた。とかく「老舗は暖簾に胡座」と言われがちだが、デンと構えた伊藤徳治の胸像が、四六時中店を見守っていては、気が抜けそうもない。道産子として釧路に根付いた開拓精神が、ここにも息づいている。
     
 竹老園東家総本店 北海道釧路市柏木3  電話 0154-41-6291
                                                                               


無言館へ行ってきました [アーカイブ]

 6月27日、梅雨の晴れ間をぬって小さな旅を計画、長野県上田にある無言館をたずねました。上田は信州の鎌倉と呼ばれる塩田平に広がる町で、別所温泉や真言宗の古刹、前山寺が知られています。無言館はその前山寺のそばの丘の上に、さりげないたたずまいで訪れる人を迎えてくれます。「美術館がある町に住んでいる市民は本当にうらやましい」と云うのは同行のNさんの弁です。

 無言館は窪島誠一郎さんが館長を務める、夭折した戦没画学生の絵を展示することで知られています。窪島さんは別のことで有名になられましたが、やはり夭折した画家たちのデッサンを集めた「信濃デッサン館」を造られていて、無言館はこの「信濃デッサン館」の実は分館です。どちらも才能にめぐまれながら若くして亡くなった無念が思い偲ばれて、訪れる人は誰も口数は少なく、ひっそりと館を後にする気配がします。

 無言館の絵の作者たちは皆20代から30歳前後で戦争で亡くなりました。その多くが、日本が絶望的な戦争の終結にむかう、昭和20年になって亡くなっています。戦地からの手紙や兵士としての写真が展示されている中で、不思議なことにみんな立派な兵隊の顔をしているとSさんが云いました。だから余計に切ないのだと。受付で求めた『「無言館」にいらっしゃい』は窪島さんが「無言館ってこんなところだよ」と子供たちに語りかける本ですが、その本の中でも、戦争に行った画学生たちの多くが、実は心ならずもではなく、国のため、家族のためといさんで戦地に赴いたことが書かれています。だから余計にせつない・・。反戦の言葉はどこにもなくても、無言館は訪れる人に静かに反戦を訴える場所なのだと思います

 『知の木々舎』のこのブログには第五福竜丸の編集記事を連載しています。戦後は遠くなり、ビキニで被爆した第五福竜丸のことを知っている人もどんどん少なくなっていく。風化してなくならないうちに伝えていくことは、知っている人の使命なのだという気がしています。

 

 

 


第五福竜丸は平和をめざす№3 [アーカイブ]

第五福竜丸は南太平洋へ          

                                           『知の木々舎』編集部・構成

まえがき

以下の記事は、『写真でたどる第五福竜丸』(財団法人第五福竜丸平和協会・2004)、同協会発行の『福竜丸ニュース』掲載の記事を基礎に同協会の了承をえて編集部で構成しました。 

 マグロ船第七事代丸は、19535月、焼津の西川角市氏に買い取られて、船名も第五福竜丸となりました。そして焼津港を母港に、同年6月から4回、太平洋赤道海域にマグロを求めて航海しました。第五福竜丸は、1954122日、5回目の航海に出ました。  

 船長・筒井久吉 22(当時・以下同様)  漁労長・見崎吉男 28  機関長・山本忠司 27 無線長・久保山愛吉 39 以下、冷凍長、冷凍士、操舵手、操機手、甲板員など乗組員総員23人、平均年齢25歳の若者たちでした。(2008年末現在で、生存者は9人、多くが原爆症をはじめ肝臓ガン、肝硬変、肝障害などで亡くなっている) 

 この航海では最初、ミッドウェー海域でめばちマグロを狙いました。しかし二度目の延縄で縄が切れて流され半分を失い、予定になかったマーシャル方面の南の海へと向かいました。労長・漁労長・見崎吉男さんは、以下のような「船内生活心得」<抜粋>を作成して、規律ある航海生活を打ち出していました。 

 新しき出発と新しき束縛1954年を迎えた そして私は私なりの所感を発表する喜びを感ずる‥‥‥我々も又小さな古船ではあるけれど 何千浬を航海し新しい大きな歴史を作るため命を掛け目標に向かって努力しなければならない……‥我々は世上最大の勝負士である。 常に真剣勝負である……我々の生活は御輿をがつぐに等しい 一人でも抜けたら又肩をゆるめたら全員に負担をかける事を忘れてはならない……常に思ひ出せ出帆の際我々にどんな期待を掛け安全と幸を祈って送って呉れた愛する人々のある事を……信頼と団結によって力強い誇り得る伝統を生み、愛する人々の期待にそむかない最良の航海を続けなければならない       

 1.本船の基礎となる大事な項目を左に記す               一 時間を厳守する事               一.出帆及作業前の飲酒を厳禁す               -.船中の賭博行為を厳禁す               一.船中航海当直に関する件                      当直操舵手はラットの後方羅針盤方位の線上において行動を要望す      

 2.一つ一つの事項に関しては今更説明を必要としない各人立派な良心の所有者である    (中略)    昭和29128日 見崎吉男記  

 27日 ミッドウエー海域でメバチをねらって初の操業9日 漁具のはえ縄の半数以上を失い、3日間するがほとんど回収できず、南下してマーシャル諸島に近づいていました。アメリカの水爆ブラボー実験 アメリカは19457月、ニューメキシコ州のアラマゴードで成果最初の原爆実験に成功。同年869日、広島・長崎に原爆を投下、21万人を越える人びとが犠牲になりました。これにより、アメリカは世界唯一の核保有国としての優位を保持していましたが、19498月、ソ連が原爆実験に成功しました。これが契機となり、世界の二大強国は、とめどない核兵器開発競争に突入したのです。 

 アメリカは、195211月、南太平洋エニウエトク環礁で初の水爆実験、ソ連も19538月、水爆実験に成功しました。 アメリカは、高性能の水爆開発のため、集中して6回の原水爆の爆発実験を行うキャッスル作戦を54年3月から5月に行いました。その最初が3月1日のマーシャル諸島ビキニ環礁での水爆ブラボーの実験でした。この実験に先立ち、アメリカ政府は、危険水域を指定し、一般船舶の立ち入りを禁止していましたが、日本の遠洋漁船には知らされていませんでした。 降りそそぐ死の灰 実験は事前には告知されません。1954(昭和29)年31日午前645分(現地時間。日本時間午前345分)、操業中の第五福竜丸の乗組員は、西の空水平線のかなたが、突然明るく輝くのを目撃しました。つづいて7,8分後に大きな海鳴りをともなう爆発音がとどろいたのです。あわてて延縄を揚げる作業を始めて2時間ほどたつと空全体をおおった雲から、白い灰のようなものが落ちてきて、しだいに雪のように降りそそぎ、甲板に足跡がつくほどに積もりました。白い灰は乗組員23人の顔、手、足、髪の毛に付着し、腹巻きにまでもたまりました。鼻や口から体内にも吸い込みました。やがて「死の灰」と呼ばれるこの白い灰は、核爆発によって吹き上げられた大量の放射能を含んだサンゴ礁の細かいチリで、付着したところは、放射線により火傷の状態になったのです。頭痛、吐き気、目の痛みを感じ、歯ぐきからは血がにじみ、髪の毛を引っ張ると抜けるなどの症状を示しました。  

 第五福竜丸の当直日誌は、次のように記録しています。

当直日誌31日の記載03h7m(日本時間の午前37)14回目投縄(はえ縄の投げ込み)終了 同30m(30)機関停止漂泊ス 04h30m(午前430)揚縄(はえ縄の巻き上げ)開始 揚縄初ノ位置16650E(東経16650)1153N(北緯1153)、ビキン二環礁の中心迄87(161) ビキン二島迄75(145)03h30m(午前330) ビキン二島に於いて原爆実験行はる夜明前なるも非常に明るくなり煙柱あがり2時間後にはE80(東方127)の地点の本船には爆発灰多数の落下を見る5時間に至る身の危険を感じ只ちに揚縄を開始この海域からの脱出をはかる終了後燃料の調査する 厳重な警戒を以て帰路につく  

 314日日曜日、第五福竜丸は母港・焼津に帰りました。乗組員はその午後、焼津協立病院で診察を受けました。大井俊亮当直医師は、広島・長崎の被爆者と同じ「原爆症」ではないかと疑いました。大井医師は症状の重い2名の乗組員を翌朝東京へ向かわせ、東京大学附属病院(文京区)で診察してもらいました。 316日火曜日、読売新聞朝刊は、 「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇-23名が原子病-1名は東大で重症と診断」との衝撃的な見出しで、世界的なスクープを報じました。報道機関もつぎつぎに報じました。 

 この事態に厚生省から調査団(東大医学部、理学部から9名)が焼津に派遣されました。調査団は乗組員の症状を「急性放射能症」と呼び、広島・長崎の「原爆症」と区別しましたが、いずれも放射線障害であることに変わりはありませんでした。第五福竜丸の船体や漁具などからも高い放射能が検出されました。  第五福竜丸の乗組員は焼津の協立病院と北病院で2週間過ごした後、東京に移送されました。さきに入院した2名を加え7名が東京大学附属病院に、16名が国立東京第一病院(新宿区、現国際医療センター)に入院しました。 

 乗組員は、放射線によって冒された骨髄組織に対する治療を受けましたが、容態は楽観を許すものではありませんでした。乗組員の受けた放射線量は、少なく見積っても200レントゲンであろうと指摘する専門家もおり、致死線量600レントゲン、半致死線量400レントゲンとされているところからみても、乗組員の受けた放射線量がいかに危険な線量であったかが推測できます。

 

 イベント等の問合せ

 東京都立第五福竜丸展示館  URL http://d5f.org    東京都江東区夢の島3-2 夢の島公園内  TEL03-3521-8494 FAX03-3521-2900
   E-Mailfukuryumaru@msa.biglobe.ne.jp

                 


図書館の可能性№4 [アーカイブ]

図書館の可能性                

                                                                 昭和女子大学教授  大串夏身

図書館の価値を高める

(図書館の価値)と言ったとき、次の三つが考えられる。1)図書館それ自体がもつ価値。それぞれの設置目的にあわせた良質なコレクションをもつこと、つまりコレクションの価値である。2)利用者に目的をもって活用してもらい、その結果、社会的に有用な、あるいはプラスの成果物をもたらすことによって価値を評価される。3) 社会的、国家的な視点からの価値の評価。   

 

 1) 「図書館それ自体がもつ価値。それぞれの設置目的にあわせた良質なコレクションをもつこと、つまりコレクションの価値である」 これは、優れた図書をもっている図書館が社会的に高い評価を受けていることから言える。ヨーロッパの歴史ある図書館の多くは、良質なコレクションをもっていることで社会的に高い評価を受けている。日本では、その例として東京大学附属図書館が上げられる。同図書館は、紀州徳川家から「南葵文庫」 の寄贈を受け、現在そのコレクションのすばらしさを称賛されている。これは図書館が本来もっている役割、資料を後世に伝える役割を実現していると言える。 

もう少し述べておくと、コレクションのなかに歴史的に重要な図書、学問史上重要な図書、文化的な観点から評価が高い図書などが含まれている場合、一般に価値が高いと見なされる。ヨーロッパでは、羊皮紙の美しい写本やグーテンベルクの 『四十二行聖書』やインキュナブラなどを所蔵し、その点数が多い、系統的に収集されているなどの要素が加わると価値が高くなる。日本では、江戸時代の多色摺りの図版がある、滝沢馬琴などの著名作家の刊本がそろっている、近代になると有名作品の初版本があることなどで評価が高くなる。それらは、ときどき資料展示として公開される。もちろん特定テーマに関して系統的な収集が行われているとか、そうした収集を行った収集家のコレクションが寄贈されているなどによっても、高い評価が与えられる。   

 

2) 「利用者に目的をもって活用してもらい、その結果、社会的に有用な、あるいはプラスの成果物をもたらすことによって価値を評価される」 これは、小説家や研究者の成果物、つまり著名な小説や研究の新しい知見を生み出すもとになった資料を提供したとか、その図書館で勉強して立身出世した著名人、有名人がいるなどである。アメリカでは、図書館で勉強して、それがその人の人生を変えて、社会にプラスの効果をもたらしたなどの例は枚挙にいとまがないようである。たとえば、アンドリユ1・カーネギーがそれで、カーネギーはそのことを忘れず、多くの人に図書館の恩恵を受けてほしいという願いを込めて、生まれ故郷のスコットランド、そしてイギリス、アメリカに二千五百館の図書館を作るための援助を行ったと言われている。このような例は、日本ではあまり聞かない。この価値をもつのは、ノトヘル賞受賞、有名実業家、高名な小説家、著名な人物などが活用した場合である。  

 

3)「社会的、国家的な視点からの価値の評価」 これは、図書館が収蔵する学術研究成果や知識・情報の蓄積、図書館の役割が企業・国家の戦略などを考えるうえで欠かせないという視点から、価値を評価するもので、アメリカは図書館を民主主義社会を作る基盤として位置づけている。また、国が図書館にかかわる各種の政策を立案して、それをすすめようとしているのもこれにあたる。企業が企業内図書室や情報センターを充実させたり電子図書館に取り組むことなどもこれにあたる。

 次に、図書館を充実させる考え方・方法について考えてみよう。

『図書館の可能性』青弓社


書(ふみ)読む月日№3 [アーカイブ]

願はくは ③

                          国文学者 池田紀子

 

  二人で歩く道すがら、今は昔となった子育ての頃を懐かしく思い出し、立派に成人した子どもたちの今日を、嬉しく話題にいたします。

 私たちには、二人の子どもがいます。昭和42年(1967115目、二卵性双生児を授かったのです。二人は文(あや)と学(まなぶ)と言います。両親が共に学ぶ文学を一文字ずつに分かったのです。生まれたとき、双子としては大きくて、体重3000グラム、身長50センチ。用意された保育器も使わずにすみました。

 私は出産を機に、それまで勤めていた府中の明星学苑を退職、育児に専念しました。

 二人の子どもが健やかに育って欲しい。この子たちをしっかりと育てなければならない。

 私は大学ノートを育児日記としました。毎日、体温、体重、食事、排尿、排便の回数、状態、予防接種、発育状況の観察、衣服などについて、克明に記録しました。もちろん、食欲がなかったり、風邪を引いたり、下痢をしたり、高熱を出したり、泣きやまなかったり、私が泣きたくなったりしたことが、そこには書き込まれています。ノートの数が3冊、4冊と増えていくのにつれ、子どもたちは成長していきました。

 暇を見つけ、このノートをもとに、子どもたちの発育の過程と、母としての情念の過程を、『ふたりはひとり』とでも銘打って、まとめてみたいと考えています。

 幼稚園の先生は、

 「お母さんは、膝をついて子どもの目線で話をすることが大切ですよ」

 と話されていました。

 しかし、私の子育ての方針は、私の目線に子どもを抱き上げて、私が子どもの目線に下りることをしないということでした。

 子どもには、少し理解しつらい時もあったと思いますが、この方針を曲げないで育ててきました。

 とはいえ、子どもたちを乳母車に乗せて散歩していたとき、団地の建築場で、学がお茶の花を見て、

 「おうち畑」

 と指さし、つづいて文が、

 「ポップコーンだ」

 などと口走ると、この子達は言葉の天才ではなかろうかと、大喜びで帰宅したりする親馬鹿でもありました。

 この二人も、健やかに成長し、それぞれ素敵な伴侶に恵まれました。

 文は、背が高くてやせていない人が理想の夫と言い続け、ついにその望みどおり、彼女とは30センチも背丈が違う知的で蓮しい男性と結ばれました。

 学は同じ大学のゼミ仲間だった聡明で優しい女性を妻に迎えました。

 私ども夫婦は今、何かと口実をもうけては、時間のやりくりをして、若い2組の夫婦や彼や彼女の両親とも歓談をしたり会食をして楽しんでいます。そして、その席上回顧談にふけっています。

 しかし、昨今の話題の人物は、学の長男・淳之介です。

 2004105、歳になった孫の淳之介は、湯河原の家が大好きです。幼い時から来ていたこともありますが、お風呂から海を見るのが好きと言います。鉄道好きなので、ベランダから新幹線や東海道線の列車の往来を見られるのが嬉しいのです。また、この家でしかできないからと、リビングルームの中一面に、プラレールの線路を組み立て、夢中になって走らせています。

 20052月のある日、淳之介は両親抜きで、私たち祖父母に伴われて一泊しました。

 お気に入りのレストランに入り、好物のエビフライを頬ぼりながら、

 「ここのご飯は美味しい。きっと魔法をかけているんだよね」

 と言って、店の主人を喜ばせました。幼い子のちょっとした心からの言葉は、時として大人を感動させるのです。

 私たちは、生まれ育った地というわけではないけれど、そんな風にすっかりこの地を好きになりました。私どもの終焉(しゅうえん)の地だとも思い、ある日、最期はここに眠ろうと決心し、谷崎潤一郎の屋敷跡近くの墓地に墓石をたてました。さくら石というのだそうですが、うっすらピンク色のその石の表には桜の枝のスケッチと「この地を愛し、この地に眠る」と刻んであります。墓石の横には、朱色で、私ども夫婦の名前が記されています。

 はるか伊豆半島や沖の島々、目の前に海を見下ろす高台にあるこの地は、心穏やかに、癒しさえ感じられる場所なのです。

 「なんだか準備万端ね。でも安心、お墓参りも、帰りに温泉に入れるし、ちょっと遠いけど、海を見ながら来られるし…」

 などと子どもたちは言います。

 「願はくは、谷崎ゆかりの桜が満開の頃…」

 これは、私ども夫婦の会話です。

『書読む月日』ヤマス文房

 

台湾・高雄の緑陰で№1 [アーカイブ]

台湾を正しく知ってほしい(1)         

                                         コラムニスト  何 聡明  

「知の木々舎」の皆さんは日本の沖縄県那覇市より南へ約630キロの海上にある台湾と呼ぶ島国を知っているだろうか?1945年以前に日本の初の植民地であった台湾へ移り住んだ人がいたかも知れないし、戦後台湾へ旅行に行った人もいるかもしれないが、私は皆さんのほとんどは台湾を知らないと言う想定で、台湾を皆さんにご紹介したいと思う。

  台湾は本島と澎湖諸島からなっており、幅員は36千188平方キロで、現在人口は約2,300万人、其の内84%は台湾人、14%は194510月以降蒋介石政権に従って中国大陸から移住してきた外省人と呼ばれる中国人と其の子孫である。個人平均年収入は16,630ドル(2005年);国防のため陸海空軍将兵29万人を常備する(2006年)。現在国民義務教育は9年制であるが、12年学制に引き上げる計画が進められている。総人口中文盲は約5%。

 現在台湾を統治する中国国民党政府は1949年中国大陸の内戦で中国共産党軍に大敗して台湾へ逃亡、更に1971年に連合国から追放されたが、今なお中南米、アフリカ、太平洋の22国と外交関係を保っている。現在の与党は馬英九を総統兼党首とする中国国民党(中国と統一志向)、野党第一党は民進党(台湾独立志向)であり、定員113席の国会における議席の比率は3(国)対1(民)である。  

 台湾が世界地図に現れるようになったのは16世紀の中葉である。ポルトガルの船が台湾沖を通過したとき、船員が「イラ フォルモサ!(美しき島よ!)」と叫んだ後からだと伝えられている。それ故、欧米では今でも台湾は「フォルモサ(Formosa」として知られている。だが、1642年に未開発の台湾に上陸し初めて台湾南部の開発と経営をしたのはオランダ人であった。1626年にはスペイン人が台湾北部を占領したが、1642年オランダ人はスペイン人を北台湾から追放した。

 1661年、明朝の遺臣で平戸出身の日本人を母に持つ鄭成功(日本では国姓爺で知られている)はオランダ人を打ち破って台湾を占領した。鄭成功は間もなく病歿したが、鄭王朝は22年続いた後清国に降伏、1684年台湾は清国領となる。清国の台湾統治は211年続いたが、終始台湾住民の大小の抵抗にあい、歴代の軍政長官は「台湾は三年小乱、五年大乱の地」であると朝廷に苦情を具申しながら台湾西部を経営した。台湾東部には殆ど手をつけず、東部は清国統治中は未開発のままであった。

  1895年、清国は日清戦争で日本に敗れて台湾を日本に譲渡した。日本は植民地を持つ新興国に列せられ、台湾の経営に情熱をつぎ込んだが、領台当初は住民の頑強な反抗と現地の熱帯疫病に悩まされ、一時は台湾売却論が出た。1898年に至り、台湾人の武力抵抗は下火となり、児玉源太郎総督と後藤新平民政長官が就任するに及び、「飴と鞭」の統治方法を行使して、台湾統治はようやく軌道に乗った。領台10年後には財政的に自立できるようになった。

  日本は有能な官僚と技師を派遣して台湾の開発と発展に務めたことに台湾人は今でも大いに其の功績を認めているが、台湾総督府の植民地人民に対する差別待遇の実在は1941年太平洋戦争が勃発した年に皇民化運動が発動された後でも、日本人並みの改姓名を行った台湾人と一般民衆が終始感じたことであった。だが、差別なく部下を指導した官庁や会社の日本人上司と差別なく真面目に生徒を教えた日本人教師に対して、台湾の元部下や教え子達は戦後台湾から去った上司や教師への感謝と敬意を今でも惜しんでいない。

  太平戦争20万人に登る台湾人は軍属や志願兵又は徴兵で、日本人と共に各戦線で戦い、3万人以上が戦病死し、負傷者の数も数万人あった。今靖国神社に祭られている台湾人兵士は27,863柱である。其の中にはフィリッピンで戦死した李登輝前総統の長兄も含まれている。戦時中台湾は大日本帝国南進の基地としての機能を十分に発揮した。それ故、アメリカ海軍潜水艦隊による台湾海峡の封鎖は1943年、アメリカ空軍による無差別爆撃は1944年から始まった、其の犠牲となった台湾人の数は万単位で計算された。―続く―  


浜田山通信№4 [アーカイブ]

毒蝮参上                           

                                                                                       ジャーナリスト  野村勝

 全国どこでも同じだが、商店街はクシの歯が抜けるように古い店が姿を消していく。駅前から北へ井の頭通りまでの浜田山銀座商店会(メインロード商店会とも云う)でも「ペットの楽園」、ブティック「PINKs」がやめた。

 ペットの楽園は昭和52年ライブタウン商店街ができた時からの店だが、金魚やメダカ、ペットフードなどはスーパーでも売っており、店主も高齢化したので引退と云うことになった。あとには6月15日から有明堂鍼灸・接骨院が開業した。マッサージ、ハリ灸をやる店は、この商店会の50店ばかりのうち5店を占める。

 PINKsのあとは久しぶりに子供服店がはいった。ブティックはこの狭い地域に28店もあるといわれたが、さすがに飽和状態のようだ。廃業するのは要するにやっていけないからだが、中でも気の毒なのは、ウナギの浜田屋さんのケースだ。

 浜田山駅から区のコミュニテイバスすぎ丸が阿佐ヶ谷まで行く。駅を西に向かって出るとすぐ右折し、人見街道でまた右折するが、この斜めの道を昔は地蔵通りといった。人見街道(大宅八幡から府中まで)の角にお地蔵さんが並んでいたからだ。いまは高井戸よりの松林寺境内にある。この通りの中ほどに仕舞屋があり、それを不動産屋が買収して商店4軒分に建て替え分譲した。浜田屋さんは板前の修業のあと30歳をすぎて独立した。近所の商店主たちとのつきあいもよく、なにより神輿かつぎが大好きで、浜睦会に入会し、祭礼には祭ばんてんを着込み、威勢よく町内を練り歩いた。ただ商売のほうはかならずしも順調とはいえなかった。

 私の田舎(福井)ではウナギを食べることがなかったのでよくわからないが、江戸っ子には昔からごちそうだった。土用の丑の日はもちろん来客があると、きも吸いつきの鰻重をとった。落語にも、ウナギに逃げられて大騒ぎになる「鰻屋」や「鰻の幇間」「後生鰻」など名作、名演がある。それが近年は中国から真空パックの蒲焼きが大量に入り、スーパーで売られるようになると、値段的に太刀打ちできなくなった。どの街にも1軒や2軒あったうなぎ屋は店をたたんだ。

 浜田屋さんは63歳、つらいことに肺ガンが見つかった。奥さんとも別れている。店を隣のいろは鮨に売り、ケアつきホームに入った。いろは鮨は有名店になり、2代目もがんばっているが、手に職をつければ何とかなった時代は、遠い昔のことである。

 浜田山のもう1軒のうなぎ屋さか井は繁盛中。6月22日にはTBSラジオ大沢悠理のゆうゆうワイドで毒蝮三太夫がきて大賑わいだった。


戦後立川・中野喜介の軌跡№4 [アーカイブ]

 基地と横流し(1)     

                                  立川市教育振興会理事長 中野隆右 

 陸軍の飛行基地であった立川にアメリカ軍が入ってきたのは、敗戦から半月ほどが経った昭和209月初めのことである。昭和44年に立川市が刊行した『立川市史』では、その人市の様子を次のように記している。

 昭和20815日、聖断が下りてわが国はポツダム宣言を受諾し、帝国陸海空軍部隊は連合国軍に無条件降服をした。時を移さず連合国軍はハーシー提督のアメリカ海軍第三艦隊が相模湾へ、828日に陸軍部隊を厚木飛行場へ進駐させ、同月30日には連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が厚木に着いた。越えて93日から4日にかけて、米軍進駐部隊はジープやトラック等に分乗して立川市内に進駐して来たのである。

 米軍は八王子方面より日野橋を渡って、立川市内に入り、柴崎町の旧市役所前を通過し、立川基地に入った。一部は日野橋から立川温泉前を通り、東京府立第二中学校(現都立立川高等学校)に入り、そこに宿泊をした。この武装した長い輸送部隊を立川の市民はただ黙って見送っていた。部隊の進軍中その列の前を横切った者は射殺されるかも知れないからである。又当時市中の婦女子は、身の安全を守るために田舎へ逃げる方がよいというような流言があり、実際立川から近郊へ避難した者も多数あった。当時の三浦立川市長は、市民に対して、外出は極力さけるようにと警告を発していた。

 アメリカ軍司令部兼宿舎としては、一先ず府立二中の校舎が使われ、将校宿舎としては楽水荘や、料亭業平があてられ、一般軍人は曙町の都立立川短期大学校舎(旧陸軍特攻隊宿舎)を兵舎として使用した。

(『立川市史』 下巻 第九章 大正・昭和時代の立川 第四節 敗戦と連合国軍の進駐

※一部誤植は修正した)

 

 軍の飛行場、そしてその関連産業である航空機産業をはじめとする軍需産業によって6万の人口を擁した「軍都立川」の繁栄は、この米軍進駐によって終わりを告げる。これまでいくたびか触れてきたA氏も、「産業戦士」として働いた軍需工場を去り、新しい戦後の生活に踏み出していた。

 「私は日立にいて、終戦になってから、結局幾らかその当時、岡部さんたちのグループに参加していた。年が若いから、今で言えばチンピラだよね。十七歳だもの。それで、いろいろの使役だとか小間使いなどをしていて、たまたま基地へ働きに行った。当時基地から日本人の従業員を最初は駅前にトラックで迎えに来たんですよ、彼らが、通訳を交えて。それで日本人がみんな雑嚢へ弁当を入れて、それで駅へ集まるの。いわゆる日雇いですけれどもね。そうすると、このトラックへ何人使役、20人なら20人。だから、早いもの順なんです。それで、どこへもっていかれるんだか分からないけれども、駅からトラックへ積まれて、中の残務整理をしたんです」

 そこで、前に触れた資材の山を目の当たりにすることになる。倉庫に文字通り山と積まれた軍刀、飛行服、半長靴…物資のない時代のこと、それは目のくらむような光景だったに違いない。

 「当時、私たちは被服なんかなかったでしょう。私とほかの2人と3人で、〝何とかこいつを外へ持ち出す方法はないか〟 と考えた。それで、昔は駅に踏切番の駅員がいたでしょう。西立川の踏切番のすぐ手前が基地の塀でした。その塀のコンクリートの上にあったバラ線を切って、そこを通してその駅員さんに渡したんです。

駅員さんには、―ここで、中から外へ出すから、駅員の宿直室へ一時保管しておいてくれ。あとで取りに来るから―と、あらかじめ話を通しておきました。それで、本刀や服をかなり大量に掘り出して、成功したわけです」

 不思議に犯罪という意識はなかったという。

 「当時、アメリカのものをかっぱらうというのは、ひとつも悪くないというか、みんな誰も何とも思わなかった。ごく当然みたいに。だって、それまでは鬼畜米英だの何とかって、そういう感情があったんですから」

 単に都合よく言い繕っているのではなく、それが当時の一般的な感情でもあったことは、駅員の協力という行為自体が、裏付けていると言えよう。無論、ほめられた話ではないのだが。

 駅員から物資を受け取った3人は、市内のガラス屋の2階の3畳間を借りて用意した盗品隠匿所〟に、友人から借りたリヤカーで運び込むことに成功した。持ちだした物資は閣屋に売りさばいた。

 「あの当時は闘屋さんがいっぱいいました。そして問屋さんは何でも欲しがっていましたよ。たとえば時計なんか持って行けばいくらでも売れました。こんな風にして関屋さん相手に、〝こういうものがある″ と話を持って行ったことが何回あったか知れない」

 豊富な物資に囲まれて働いていた基地の従業員の中には、隙あらばと様子をうかがっている者も珍しくなかったという。

 「一時、日本人で基地に働いているやつは泥棒で、女はバンスケだなんて言われたくらい。泥棒をしたからって周りの日本人には、〝おめえ、まずいよ〟ってとがめる人はだれもいないんだものね。おこぼれにあずかれば嬉しいぐらいなものです。

むしろ いいものがあるんだねえ〟なんて言っている。あんた、今度こういうのをやってきてよ。もし取れたら持ってきてよ〟なんて。だから、MPにすれば、気がついていても、もうしようがねぇなと。日本人の側も、負けたんだから、体裁よくしてあれして、とにかく世の中うまく渡るよりしょうがないや〟なんていう気持ちが、当時は本当にあった」『立川 昭和20年から30年代』ガイア出版


砂川闘争50年・それぞれの思い№4 [アーカイブ]

砂川を記録する会代表 星紀市編

「金は一時、土地は末代」(2)     

砂川町基地角拡張反対同盟・町議会議員・全電通労働組合 石野昇さん(故人)

  1955年年914日、町会議員も逮捕されるという激しい激突がありました。逮捕されたのは内野議員と田中議員、あと地元の人も逮捕されました。その衝撃は大変大きかったと思います。経験したことのないことだったので、「これはえらいことだ」 という雰囲気でした。その前から、反対同盟を結成したが、このまま続けていったらどうなるか、それよりも条件闘争に切り替えていった方が、この町のためになるのではないかという動きはありまして、その動きがこれを契機に全面的に出てきました。町内で同盟派と非同盟派の冷たい対立があり、これをめぐって臨時町議会も開かれました。このまま続けていっても得策ではない、条件を決めて、条件をめぐってというのが良いのではないかという主張が出てきたんです。

 条件を決めて闘争をするということになると、政府に頭を下げるということになるし、政府のやる施策の方向で我々が関与せざるを得ないということになります。基地拡張を許すということになると、農民の生活を奪われるということもあるし、そういう意味では 「あくまでも反対を貫くべきではないか」と、条件か反対かで議論は真っ向から対立しました。最終的にはいろいろ議論して、午前3時項までかかりました。とにかく喧喧囂囂で、最終的には 「これ以上議論してもつきない」と採決することになりました。結果的には採決になってしまいましたが、反対闘争に賛成したのが9名、条件闘争に切り替えるが8名、議長は反対闘争委員長でしたが、保留とした議員が2名。保留とした議員は、従来の砂川町の選挙の構図である地主対小作の地主側に近い立場でしたが、それぞれの葛藤の中で良心が勝ったのではないかと思います。「態度が鮮明にできない」というところで保留にしたのではないかと。もしこのとき反対決議ができなかったら、闘争の構図は変わっていたでしょう。

 警察の介入があったとき、砂川三三(さんぞう)町長であったら、町長自ら条件闘争へ切り替えていたと思います。その意味で4月に7票差で、大方の予測を覆して宮伝町長が選出されていたということの意味は大きい。また労働組合とのパイプを持つ町議が選出されていたことも大きいと思います。砂川の選挙は従来、地主対小作の構造でしたが、終戦後、砂川勤労者組合ができ、そこに結集した人々は小作派を支持してきたんです。

19561013日に歴史的な流血の闘いがあって、政府から上地測量作業中正の情報が入り、翌日、阿豆佐味天神社での勝利集会がありました。当時私は東京都知事に抗議に行った帰り道で、五日市街道は勝利にわき上がる人たちでいっぱいでした。「闘争の一区切り」

として、反対派の気勢はあがり、感慨無量であったが、政府は態勢を立て直してくるだろうと思い、全国へ協力を要請しました。

 闘争はその後いろいろな経緯がありましたが、土地取り上げ反対闘争からなぜ原水爆基地反対闘争へと発展したかというと、当然のこととして労働組合と共闘する中、毎年メーデーにも参加するようになり、砂川の菅さんの意識としても、ただ土地取り上げ反対と云うだけでなく、日本の平和を守るということ、原水爆の基地にしてはならないと云うことが必然的に位置づけられていったからです。特ににその原水爆基地反対の運動に頑張った方で、砂川ちよさんという砂川町教育長がいらっしゃって、原水爆反対運動(※注1) にも参加するというようになりました。どこかから意識付けを行ったというわけではなくて、いろいろな集会に反対同盟のメンバーが出て行き、その出会いの中で、「自ら意識付けしてきた」というのが素直な受け止め万ではないかと思います。

 今振り返って砂川闘争の勝利の要因を挙げてみると、基地闘争で重要なことは条件闘争にする派が出ないことだと思いますが、往々にしてどの基地闘争でも闘争の過程の中で条件で解決しようとする派が出てくる。条件派を作るために、国としても相当の多額な費用を投入していると思いますね。土地を協力した者に対しては謝礼を上積みしたり、いずれの基地闘争もそうです。しかし、いつも、「金は一時、土地は末代」ということです。基地闘争では条件派が出てくると隊列が乱れる。終始一貰して反対派が反対を貫くことが大切です。原発の問題もそう。条件で解決しようというものが出てくるから作られてしまう。裏では相当な挺入れがあると思います。とにかく条件で間題を収拾するのではなく、平和を守り民主主義を守るという原則を貫いていけば、必ず砂川闘争のように展望が開けてくるはずです。

1998年年819日インタビュー/1926916日生まれ、2002313日没

※注1

195431日、アメリカは南太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁で水爆実験を強行しました。付近を航行中だった日本のマグロ漁船「第五福竜丸」が、水爆実験による「死の灰」を浴び、乗組員二±二人全員が被曝しました。その半年後の1954923日、「第五福竜丸」の無線長だった久保山愛吉さんが40歳の若さで亡くなります。その死を契機に原水爆禁止運動が日本全国に広がりました。『砂川闘争50年 それぞれの思い』けやき出版


今日に生きるチェーホフ№3 [アーカイブ]

日本でいちばん愛されるロシア人

                            神奈川大学名誉教授・演出家 中本信幸

  

  タガンローグを訪れた日は、あいにく博物館の休館日であったが現地の方々の格別のご厚意で、関連施設を観覧でき、歓待された。 没後一〇〇年記念カレンダー『タガンローグはチェーホフの故郷』では、チェーホフがサハリンで日本の外交官らと交歓する写真が使われている。サハリンで撮られたチェーホフの写真の大部分は公表されていたが、日本人と親しく交歓する写真は、ひさしく公開されなかった。「ロシアを代表する作家が、敵国日本の外交官と親しく付き合うとは、もってのほか」というわけだ。この写真の公表に先鞭をつけたのは、サハリンの新聞である (「ソビエツキー・サハリン」紙1981年10月17日付)。  

 チェーホフは、1890年、シベリア経由で遠路はるばるサハリンにやってきた。当時のサハリンは、樺太・千島交換条約(1875年)によりロシア領になっていた。帝政ロシアは一九世紀半ばから、流刑囚や移民を送ってサハリン島の開発にあたらせた。流刑囚たちの悲惨な実情を調査して、その「地獄」のような実態を明らかにしたのがチェーホフの 『サハリン島』である。チェーホフは、『サハリン島』でサハリンの開発に果たした日本人の貢献を強調するとともに、間宮林蔵の業績も高く評価しているのだ。ソ連時代のロシアは、間宮はじめ日本人の業績を無視してきた。1995年9月にユジノ・サハリンスクの国際学会(チェーホフとサハリン)で、ロシアの歴史家B・ポレポイが、基調報告「チェーホフが解明するサハリン開発史」で「日本人の貢献の過小評価」を反省した。 

 韓国で初めて催された国際学会(チェーホフと現代)(10月23日、天安の檀国大学)も充実していた。ロシア・アカデミーのチェーホフ委員会議長Ⅴ・カターエフや、ヤルタのチェーホフ博物館長G・シャリユーギンに再会できた。この学会でD・カブスチン檀国大学教授は、報告「チェーホフと東方への旅」で、ロシア人研究者として初めて未開拓のテーマ「チェーホフと東方」をとりあげ、チェーホフが日本を愛し、交歓した日本の外交官を絶賛したことも強調した。学会のあとの交流会は、「チェーホフとアジア」という主題で多面的な国際研究学会を近々のうちに開催しょうという話で盛り上がった。   

 11月9日に国立サハリン大学で催されたチェーホフ・シンポジウムに出席し、その後、北サハリンのアレクサンドロフスクに二泊三日滞在し、コルサコフでは、旧日本領事館の跡地を突き止めた。 筆者にとっては五回目のサハリン訪問である。今回で三回目の訪問地アレクサンドロフスクでは、旧知のチェーホフ博物館館長T・ミロマーノフの案内で廃坑の町ドゥーエにも足をのばした。 

 一月前に就任したⅤ・ワシリエフ市長はじめ郷土史家らは、日本人の手になる墓や記念碑などの復元に意欲的に取り組んでいた。 市長は、稚内市が提案し、ロシア当局の反対で暗礁に乗り上げている「間宮林蔵像の設置」問題も打開したいと抱負を語った。 ミロマーノフは、1991年に亡き父とともにサハリンから重いチェーホフ像をバーデンワイラーに運んだときの苦労話をした。 バーデンワイラーの市長がその後、アレクサンドロフスクを訪れてチェーホフ像贈呈の謝辞を市民に述べたという。1992年にサハリンの彫刻家Ⅴ・チェボタリョフ制作のチェーホフ像がバーデンワイラーに設置されたことは、バーデンワイラーでもサハリンでも国際交流の誇らしい記念的事件として喧伝されている。 

 チェーホフの精神にのっとって、「民族的」ないし「国家的」エゴイズムを排して歴史の真実を明らかにして、ひいては国際親善を図ろうとする動向が、チェーホフゆかりの地域で定着していく気配だ。 

 休館日なのに、不意の客を歓待してくれたコルサコフ郷土博物館には、チェーホフが日本の外交官と交歓する写真が麗々しく飾られていた。 メリホボの国際学会でも、ロシアの研究者から、「いまだに信頼に値する伝記がない」、「外国の研究者のほうが、客観的な伝記を書けるのではないか」という発言が相次いだ。チェーホフ最晩年の事柄が、いまだに明らかになっていない。 

 チェーホフの亡くなった年に日露戦争が始まった。チェーホフは、日露戦争に、とりわけ日本の運命に人一倍注目していたのだ。亡くなる三旦剛に対戦国日本を「奇蹟的な国」と呼び、死の床で日本人について、軍神広瀬武夫の事件について口走る。拙著『チェーホフのなかの日本』(大和書房)で試みたように、チェーホフ最晩年の資料にあたって、チェーホフの実像があぶりだされるようになった。 チェーホフの人柄と作品の魅力は衰えず、国際親善の懸け橋になっている。                       

司馬遼太郎と吉村昭の世界№3. [アーカイブ]

司馬遼太郎と吉村昭の歴史小説についての雑感 3
歴史小説にいたるまで――司馬さんの場合2            

                                                                                             エッセイスト 和田 

 直木賞受賞(昭和35年)で、司馬さんは一躍全国に名を知られた作家になったが、『梟の城』以後書かれた長篇小説は、『花咲ける上方武士道』(註1)(幕末を舞台に腕の立つ公家の活劇)、『風の武士』(御家人の次男坊が公儀隠密となって活躍する)、『風神の門』(伊賀忍者・霧隠才蔵の奮闘)、『戦雲の夢』(長曾我部盛親の物語)と、いわば血湧き肉躍る痛快時代小説に徹している。剣あり恋ありの活劇である。
 唯一、『戦雲の夢』は実在の人物が主人公だが、歴史小説からは遠い、波乱に富んだ物語り仕掛けだ。おもしろい小説なのだが、どういうわけか、全集収録作品からこの長篇を外すよう私は指示を受けた(あとで復活させてもらったが)。こういう指示を受けた長篇小説はまだ他に二、三ある。これについてはまたあとでふれる機会があるかも知れない。
 『竜馬がゆく』は、司馬さんが産経新聞社を退社して作家専業になった次の年、昭和37年から取材費などいくら使ってもいいという、元の会社の社長のお声がかりで新聞連載が始まった。司馬さんにとってはじめての全国紙の舞台であった。
司馬さんは張り切ったであろう。そして事実、名作が出来上がった。司馬作品でもっとも売れた、つまり人気が高いのがこの作品である。これは今も変わらない。
 物語は冒頭から目が離せない展開となる。ただし、旧来の時代小説とあまり変わらない、次から次へと恋と剣の活劇風仕立てである。
 まず竜馬の剣術修業への旅立ちから始まるが、すぐに得体の知れない泥棒稼業の男が現れ、これが若者竜馬の人生指南役のように振る舞い、狂言回しを務める。主筋のお嬢さんが旅でいっしょになり、どうも竜馬に関心がある風情。と、そこに元遊女が誘惑してくるが、女には仇がおり、それがまた絵に描いたような悪党なのだ。江戸につけば道場主の娘も好意を寄せてくるといった具合に、連載を始めて三、四カ月もたたないうちに、物語はじつににぎやかな様相を呈してくる。が、快調に話を操る司馬さんは次第に竜馬を持て余しはじめる。(註2)
 冒頭の剣術修業に旅立つ時、竜馬は数え19歳、嘉永6(1853)年のことである。竜馬が江戸についた途端にペリーが浦賀に来航する年なのだ。ご存知のようにここから幕末の狂騒が始まる。ところが竜馬は剣術に夢中になっているだけで世の動きには無関心なのである。安政の大獄やその反動としての桜田門外の変も、まるで竜馬に関係ないことであった。同じ土佐藩の革新派・武市半平太などに「あいつは晩稲(おくて)で困る」と嘆かせている。仲間の狂騒をよそにのんびりしているのだ。とにかくこの男は、33歳で暗殺されるのだが、28歳で脱藩するまでおよそ志士らしくない。19歳から物語を始めたものの、10年間は剣術しか興味のない男なのであった。
 とにかく竜馬に寄り添って物語を進めてゆけば、世の中の重大事件はすべて伝聞で書かねばならない。幕末の政治状況の推移を説明しておかないと、のちに竜馬が果たす「薩長同盟」の介添え役がなぜ大仕事だったか、読者に伝わらないであろう。連載が始まって一年たったころから、司馬さんは竜馬に関係なく時勢の動きを実況し始める。始めは控えめに、そして次第に大胆に。
 時代小説作家の司馬さんとしては、小説に「理屈」を持ち込みたくなかった。が、ついには連載のその回の冒頭から、「筆者言う」といった風に作者が表に出て解説するようになった。
 それは次第にエスカレートし、ある人物について「筆者は一種の悪意を感じているらしい」などと、小説の中で作者の好みまで述べるようになる。司馬さんの心の中で従来の時代小説から、誰も書かなかった新しいスタイルの歴史小説へ向かう機が熟したのだった。

註1 『花咲ける上方武士道』は「週刊公論」に昭和35年に8カ月連載されたが、本として出版する時に『上方(ぜえろく)武士道』と改題された。全集にもそのタイトルで収録されているが、これは評論家・大宅壮一氏のアドバイスによるもの。中央公論の社主で司馬さんと同い年で友人でもあった嶋中鵬二氏が長年それを気にしていて、司馬さんの没後、元の題名に戻されて現在に至る。中公文庫 
註2 司馬さんが『竜馬がゆく』で筆法が変わったことについては、かつて書いたことがある。(「竜馬で幕開いた司馬ワールド」・週刊朝日MOOK「週刊司馬遼太郎」。このムックは現在第5巻まで出版されているが、第1巻には巻数名がついていない)


こころの漢方薬№4 [アーカイブ]

風邪の効用         

                                  元武蔵野女子大学学長 大河内昭爾

 

 野口晴哉という人の『風邪の効用』という本は、そのタイトルからしてなかなかユニークである。氏によると風邪一つ引かない丈夫な体というものはなく、それは単に「適応感受性」というものが鈍っているからにすぎないという。といってしょっちゅう風邪を引いているらしい私などが丈夫なわけはないが、風邪に効用があるという考え方が面白い。

一冊の本の中身はかんたんに伝えられないし、また野口氏の大きな業績だったらしい整体術というものについても私は無知だから、ここでふれる気はないけれども、風邪の効用という負(マイナス)をプラスに転換する発想に大いに興味がある。

 風邪というものは、治療するのではなくて経過するものでなくてはならない。(略)風邪を引くような偏り疲労を潜在させる生活を改めないで、風邪を途中で中断してしまうような事ばかり繰り返しているのだから、いつまでも体が丈夫にならないのは当然である。

という。

氏によると風邪も下痢も同じで、その処理が無理なく行われるか否かが、弾力を欠いた体にしてしまうか否か境だと説く。そして「治ると治すの違い」を指摘して、病気でさえあればあせって治すことばかり考え、体の自然というものを無視してかえって寿命を削ってはならないと訴える。

その野口氏もすでに亡くなったが、生前に氏の話を一度だけうかがったことがある。自家用のロールスロイスを渋滞の多い東京の街で走らせていると、大方調子が悪くなり、たまにそれを高速道路へ持っていって性能十分の速力を出しきるようにすると本来の調子なとりもどすという小気味のよい比喩だけ記憶している。もちろん『風邪の効用』には治療の具体的な方法がのべられているのだが、私には「寝相が悪いというのは、疲労を恢復するための活元運動のようなものだ」といった発言の方が面白かった。何しろ私たちの医学的な常識がいろいろ否定されるのが刺戟的である。

 つまりそれは病気を介して心身の自然体を回復し見いだすということのように思える。風邪を効用としてとらえていく考え方は、仏教の「対治と同治」ということでいえば、同治(同事)という東洋的な方法に属するものであろう。それは病気を退治(対治)するものとしてではなくて、体の自然のリズムをとりもどすものとして受け入れるべきだと説いているのである。よくよくふりかえってみれば、われわれの日常には風邪の効用と同様の働きが、もちろん体だけのことに限らず、あらゆるところに、あらゆることに多くひそんでいるに相違あるまい。『こころの漢方薬』彌生書房


雨の日は仕事を休みなさい№5 [アーカイブ]

物事にとらわれるのはやめなさい~人の世の儚さ(はかなさ)を理解しろ

                   

                                    鎌倉・浄智寺閑栖 朝比奈宗泉

 

  私は今年で85歳になりますが、大して体調を崩すことなく毎日を過ごしております。日本人の平均寿命は男女とも世界一だそうです。喜ばしいことですが、なかには「老いる」ことに恐れを抱いている方も多いのではないでしょうか。しかし、「老いる」ことは決して「死」への一里塚ではありません。たわわに実った「人生の実」を収穫し、後世に残すという時期なのです。

 とはいえ、かくいう私も、ときどき老いに対する恐怖めいた感情を抱くことがあります。たとえば朝起きて雨戸を開けるとき、戸がぎこちなく音を立てたりすると、「自分も、この雨戸と同じで、いずれ開かなくなるのではないか」と。でも、同時にこうも思います。「だが、今日のところは大丈夫。ならば今日やるべきことを、きちんとやり遂げよう」と。毎日がこのくり返しです。

 ある檀家さんの一人が、長年連れ添った奥様を亡くされ、たいそう気落ちしておられました。ある日、お話しする機会があり、近況をおうかがいしてみますと、「今は何もやる気が起きません」ということでした。そこで、境内の庭木の世話でもしてみませんかとお誘いしました。その方は不承不承でしたが、翌日から寺におみえになり、庭仕事に精を出しておられました。そして、一週間ぐらい経ったころから、その方の表情が生き生きとしてきたのです。

 また、こういうこともありました。十年ほど前、東大を卒業して司法試験に挑戦中の若い人がおり、受験に失敗し、大変落ち込んでいたそうです。そこで、彼の知り合いの人が浄智寺へ連れてきて、「司法試験に失敗したことばかりを考えている。少し庭掃除でもさせながら落ち着かせたい」ということでした。もちろん私どもに異存はありません。その後、一週間に一、二度やってきて、朝から夕方まで庭掃除をするようになりました。

 彼は非常に真面目な優しい青年で、寺の人たちとは誰とでも気さくに話すタイプでした。裁判官志望で勉強中だということはみんなが知っていましたから、「どうだい、勉強しているかい」などと声をかけたりしていました。そして、二年ほど通ってきたころには司法試験に合格し、現在は当初の志望通り裁判官になっています。

 先の奥様を亡くされた方もそうですが、この青年にしてもあまりにも目の前のことにとらわれすぎて、己を見つめる努力が必要だったといえます。物事にとらわれすぎると本質を見失いがちです。庭掃除という作業を熱心に続けることで、日頃の煩悩や妄想を忘れられたのです。その無の心境が心を落ち着かせ、己の新しい生き方に立ち向かう力となったのではないでしょうか。

 竹影掃階塵不動 月穿澤底水無痕(竹影階を掃って鹿動ぜず、月渾底を穿って水に痕無し)『普燈録』巻七 

                                                                     

 「竹影階を掃(はら)って塵(ちり)動ぜず」とは、竹が風で揺れて動くので、影が階段を砕いているようだが、塵は少しも動いていない。「月たんていを穿って水に痕無し」とは、月の光が深い湖の底まで差し込んでいるが、どこにもその痕跡はみられない、という意味です。両句は対句になっており、同意語です。東慶寺と浄智寺の住職をされた私の師匠の井上禅師は、幽冥境を異にする旅立ちをされる(亡くなられる)方のために、この両方の句を朗々と詠まれ、一喝して引導とされていました。

 いずれも煩悩や妄想など微塵もない研ぎ潜まされた無心の境地を端的にあらわしています。また、どちらからも自然界の静かな動きのなかに、無情ともいえる厳しい静寂さを感じさせられます。しょせん、人生とは竹の影や月の光の痕跡のような寂しいものなのでしょうか。この儚さをよく理解し、噛み締めて自分なりに乗り切ることができれば、立派に人生を全うすることになるのです。

 ここで鎌倉円覚寺の開山、無学祖元禅師の逸話を紹介します。

 宋末の徳祐元年(1275)に元の大軍が宋に乱入してきたとき、禅師は泰然として次の偈を唱えこれを押し返しました。その第四句「電光影裏春風を斬る」(でんこうえいりしゅんぷうをきる)も有名です。私を斬るなら斬れ、春風を斬るようなものだ。煩悩や妄想を棄てきった禅師に、元の兵士は庄倒されて退散しました。この限界が迫った状況下で、一切空の境地でおられた禅師の心根こそ、現代人も学ぶべき大切な心のあり方です。まさに塵一つ動かない静けさの心になることです。

『雨の日は仕事を休みなさい』実業之日本社