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立川市長20年のあとに№3 [アーカイブ]

砂川二番のわが家

                                        前立川市長 青木 久

 平井川から砂川村に連れ戻され、実の母親にようやくなじみはじめた。
 藁葺きのわが家の前は、砂利道の五日市街道、ケヤキの大木が生い茂っている。何しろ村が生まれたころに植えられたというのだから200数十年は経っている。そして街道の両脇に、砂川用水が流れている。村の北を流れている玉川上水から分流したものだ。

 村は街道に沿い、西から東へ、一番組から十番組と集落がある。さらに西砂、榎戸といった新田開拓による新しい集落も生まれている。わが家は二番組にあって、子供心に憶えている住所は、東京府北多摩郡砂川村336番地(現・立川市上砂町)と言った。

 わが家は藁葺きの農家だ。隣近所に比べても大きな家だ。屋号を「油屋」といった。明治の中頃まで、農業のかたわら、油の販売をしていたのだという。2つの土蔵には、数多くの油壺が収納されていた。
 父親・正作は豊島師範(現・東京学芸大学)を卒業、小学校で教鞭を執っている。
 母親・婦美はしっかりとした女性だった。結核が治癒して療養先から帰宅したばかりで、まだ体力が元に戻っていたのではないだろうに、きっちりと家の中を取り仕切っていた。
 そして私は男4人、女2人の。長男の兄が早く死んだので、私が長男格だった。とはいえ、私が戻ってきた当時は、妹と二人だけだった。

 私たちは、朝起きるとめくら縞の着物に着替え洗面をすますと、両親に両手をついて「お早うございます」と両親に挨拶した。それから勝手で朝食となる。父親を中心にして兄弟が食卓の両脇に坐り箸をとる。母親は下座に陣取って、惣菜を配ったり、ご飯のお代わりをしてくれた。
 父親は、私たちとほとんど口をきかない。怖い人だ。でも私たちを眺める眼差しは優しい。
 食事を終えると、父はカバンを小わきに抱え、母に見送られて出かけて行く。

 「ちゃっちゃ、遊びに行っておいで」
 母の声を合図に、外へ駆け出す。裏の畑道を、肩掛けカバンを提げた小学生が次々と通っていく。西砂川尋常高等小学校は、わが家の南約100メートルに位置している。真新しい黒い学帽に「西砂」と記した徽章をつけた男子がいる。新入生だ。
 「かっこええなあ、おらも来年は入学するぞ」
 小学生が行ってしまうと、隣近所から同じ年頃の子どもが゛一人二人と顔を見せる。この連中とも、もうすっかり仲良しだ。
温かい春の陽射し。
 数人で群れなして歩き始める。

 「ピーチク、ピーチク」とヒバリのさえずりが聞こえた。仲間としゃがみ込み、上を見上げる。何も見えない。しかし、空の一点から聞こえてくる。しばらく眼をこらしていると、音が消え、小さな粒が落下したように思えた。黙って、一人の子がかなたを指さした。そっと近づいて行く。少し先の草むらが揺れて、ヒバリが飛び立った。私たちは散開する。
 「やあ、見つけたぞ」
 仲間の一人の足元の草の陰に、小さな巣があった。二羽のヒナが口を開いて、エサをせがんでいる。大発見だ。私たちは口もきかずに、しばらく観察してそこを離れる。胸がどきどきした。
夏雲が秩父の山並みにいくつも広がっている。

 ハルゴ(春蚕)の季節だ。。農家は二階の蚕室でカイコを飼う。朝早くから、大人たちは篭を背中に桑の葉を摘む。カイコが桑の葉を食べる音は、何十枚もの紙が擦れ合うようだ。
 私たちは、「ドドメ突き」を手にして、桑畑へ繰り出す。それは、竹の節を抜いた小さな水鉄砲だ。ドドメ(桑の実)を筒の中に入れ、クワゼンボー(桑の枝)で圧迫すると、筒の先端の小穴から、ドドメの汁が流れ出る。甘酸っぱい、味わいが口の中に広がる。押しつぶしたドドメのカスを捨て、新しい実に入れ替えて吸う。いつしか口のまわりは赤紫色に染まる。着物にも斑点が付着する。

 家に戻ると、母親がいつも言った。
 「ちゃっちゃん、主(ぬし)はなんちゅう顔になってんだよ、井戸端で顔洗ってきな」
風が涼しい秋の一夜。
 夕食がすむと、いよいよお月見だ。縁側にはちゃぶ台を置く。キキョウ、オミナエシ、ススキ、坊主花(ワレモコウ)、クズなどを案配よく花瓶にさして縁側を飾る。母親手製の団子は、お月様へのお供え物だ。澄んだ空の月を仰いで、
 「今年も良い月だなあ」
 父が静かに茶を口にする。母はうなずいていた。
 私は妹と二人して、かしこまって正座していた。すぐに足がしびれてくる。間が持てない。
きな粉をまぶした団子を頬張って、喉がつまりそうになったことも何度もある。(あれこそは、まさに母の味わいだった)
 月見は父母にとっては、しんみりとしたひとときだったのだろう。しかし私には、気詰まりなわが家の行事ではあった。

 木枯らしの年の暮れ。
 正月の餅つきは、押し迫った暮れの28日とされていた。その日、午前2時半には、何人もの男衆、女衆がやって来た。朝食を終えると、台所には糯米を蒸す蒸籠から、蒸気が上がっていた。土間に置いた木臼で、男衆が杵(きね)を振り上げ、威勢良くつき始める。
 「よいしょ」
 「こらさ」
 たたみ込むような間合いをとって、隣のおばちゃんが、手際よく手水をさす。
 つきあがった餅は、女衆の手でのし餅、鏡餅と作られていく。
 「子どもは、あん餅にするかい」
 女衆がつきたての柔らかな餅を手に取り、小豆あんを包み込む。それを両手で受け取る。温かな甘さだ。柔らかい餅を噛みしめると、喉がなった。
 お年玉はもらえるかな。待ちこがれながら指折り数える元旦までの数日間だった。


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