立川陸軍飛行場と日本・アジア №107 [アーカイブ]
伊藤東一郎翁、一気に25歳若返る。煙突男がんばる。
近現代史研究家 楢崎茂彌
伊藤東一郎翁、一気に25歳若返る
前回、103歳で大阪から立川まで飛行機に乗って来た伊藤翁はただ者ではないようだと書きましたが、翁は7年後(1937年)1月10日に大阪で行われた、自慢の“はげ”と“巨体”をもちよる「珍年宴会」に招待されています。当時伊藤翁は110歳、“わしの体は鉄筋コンクリートでおじゃる、130歳になるまでは絶対に杖はつかぬ”と豪語しています。
阪大医学部が伊藤翁の体を科学的に解明したいと申し出て、翁の体のレントゲンをとり、「完全な心臓の活動ぶり、一点の汚点すらない肺臓、実に驚嘆すべきものです」と舌をまきました。翁の体は写真でも分かるように立派なものですね。
翁は健康の秘訣を聞かれて“一、小食 二、禁酒 三、くよくよするな 四、毎朝味噌汁を一杯 五、偏食するな 六、日本人は日本食を 七、間食はするな 八、早起き 九、熟睡 十、若い時にこそ適当な性生活”と答えています(「東京朝日新聞」1937.1.12)。もっともですが、なかなか難しい訓えが並んでいます。
この年の6月に近衛文麿が首相になると、伊藤翁は激励のために首相官邸を訪問しています。すっかり有名人ですよね。7月には岩村俊武退役海軍中将(72)と富士山頂を目指します。合わせると182歳になる二人は、7月11日午前6時に大宮(現富士宮)登山口を出発すると午後3時半、八合目の小屋に着き、ここで一泊して翌午前4時半御来光を仰ぐと5時5分には頂上目指して出発、9時に頂上に立ちました。
僕は中学2年生の時に、友人二人と共に大学生に連れられて御殿場口から富士山に登ったことがあります。夕方から登り始めて八合目にようやくたどり着いた時には友人二人は疲れ切っていて小屋に泊まろうと言い出しました。僕はそのまま登りたかったのですが、大学生の判断で伊藤翁と同様8合目に泊まりました。しかし翌朝疲労困憊のために御来光を仰いだのち、頂上を極めることなく下山した苦い思い出があります。思い出すたびに、あのまま登ればよかったという後悔の念がこみ上げて来ます。
それに比べて伊藤翁達は凄いと思いながら新聞をめくってみると、翁たちは1合目から6合目半までは馬に乗って登ったことが分かりました。でも、そこからは歩いたのだからやっぱり凄い!下りは“私も強そうな顔をして居るが、少々疲れたワイ”と言いながら御殿場口に向かい、5合目からは砂橇(そり)にのって下山しました。
富士登山のあと、翁が滋賀県で田植えした米2合を包装して“長寿米”と名付けて近衛文麿や金子堅太郎に贈ったり、田植えをした“長命田”周辺を別荘地として売り出すチャッカリした業者もいたようです。
ところが、余り有名になったためにその年齢に疑問がもたれ、調査によって翁の戸籍上の生年月日は、母親のものを誤記されたものだということが判明してしまいます。翁の戸籍上の生年月日は文政11(1828)年3月4日ですが、実際に生まれた日は嘉永6(1853)年6月20日だったので、翁は一気に25歳も若返ることになりました。嘉永6年はペリーが浦賀に姿を現した年だから、若返っても相当の年齢であることは間違いありませんが。
この事態に伊藤東一郎翁は動じません。記者の質問に次のように答えています。
“百歳が八十歳だろうが長寿に変わりがない。百歳以上でなければ長寿と言われない訳ではない。たとひ戸籍上の悪戯にしろ、まだまだ五年や十年で死のうとは思っていない。第一わしには世間でいふような老若の観念がないよ。そんなこと兔や角いふから長生きできなくなるといふものだ。昔は今のやうに戸籍なんか喧しくなかったものだ。子供が生まれたからと言って直ぐに届ける者などはなかった。嫁を娶るようになって慌てて庄屋の処に駆けつけるやうな者さへあって、十歳や十五歳の無籍のものはざらだったよ。それに当時は禁鳥となっていた鶴でも獲ろうものなら“分ぎれ”といって籍を抹殺されたものだから、かうした“分ぎれ”者さえ続出したものだから生年月日など正確なものは一人もないといって好い。何かにつけ今のようにこせこせせず、のんびりしたものだった。戸籍を訂正したからと言って長命になるわけでもないし、伊藤の寿命に変わりはない。戸籍とは別にこれからもうんと長生きする積りだ。それに二十五歳も若返るというのだから名実ともに日本一の長寿者になってみせる。”(「東京朝日新聞」1940.2.3)この気合いが長生きの秘訣に思えて来ました。
ところが、愛知県警刑事課の発表によると、翁は戸籍に誤りがあるとはつゆ知らなかったが、昭和3年に76歳の時に101歳の待遇を受けるにいたって、心ならずも日本一の長寿者になり済ましていたと面目なさそうに語ったようです。やっぱり知っていたんですね…。
煙突男がんばる
ブルース夫人が大阪に降り立った11月21日に、神奈川県川崎市にある富士瓦斯紡績川崎工場の高さ39メートルの煙突から滞空130時間の煙突男が地上に降り立ちます。彼はなぜ煙突に登ったのでしょうか。
この富士瓦斯紡績川崎工場では、6月には従業員の約13%に当たる378人が解雇され、さらに一割の賃下げが行われたので、組合執行部の指導に不満を持つ一部の労働者がストライキを決行します。会社はこれに対して中心メンバーを解雇し、争議は40日を越え労働者側の敗色が濃厚になって行きます。すると11月16日午前5時、一人の労働者が煙突をよじ登り避雷針に赤旗を結びつけ争議団を激励する演説を始めました。会社側は煙攻め水攻めで煙突男を下ろそうとし、警察は補給する水に麻酔薬を入れる作戦などを検討しますが、煙突男は屈しません。
19日午後7時、時事新報の加藤記者が煙突を登り、煙突男の単独インタビューに成功します。男は横浜市電にいたことがある田辺潔27歳と名乗ります。彼は上空は寒いので記者にオーバーをくれと頼みますが、加藤記者はチョッキを進呈し、田邊氏は「ありがとう、感謝する。死を覚悟した俺だが、この上まさか君に遭うとは思わなかった。敵でも味方でも人間の顔なら嬉しいよ」と答えました。加藤記者が「どうだ君の体が持つまい」と降りることをすすめますが、田辺氏は「御心配ありがとう。しかし死ぬ覚悟で登ったのだ。解決せねば決して降りない」と答えます。記事は“一問一答二十五分、空の男に暇乞いして煙突を降りる”と、煙突男に好意的なトーンで結ばれています。女工さんたちも嬉しそうに上を見上げてますよね。
21日は川崎大師の縁日に当たることもあって、煙突男を見学する見物人は一万人を越え、彼が煙突の上で立ったり座ったりするたびに歓声を挙げて大喜び、かん酒や今川焼の屋台が十数台も並ぶお祭り騒ぎになりました。
21日午後には岡山で行われた陸軍特別大演習から帰る昭和天皇を乗せたお召列車が工場のそばを通る予定です。煙突男が見下すことになることを恐れた内務省の意向を受けた川崎警察署長は強硬だった会社側を説得し、会社は解雇者の一部復職、争議団への解決金の支給などを提案します。これを受けた田辺氏は滞空130時間22分の記録を作って地上に降ります。彼は富士瓦斯紡績の従業員ではなく、横浜合同労働組合の活動家で、出迎えた記者団に“労働運動というものは表面より陰の応援者が余程辛い。今度の問題には僕よりも争議団の人が辛かったと思う”と、とてもまっとうな事を言っています。
田辺潔氏は家宅不法侵入の罪で起訴されました。その裁判が翌年1月22日横浜区裁判所(現在の簡易裁判所に相当)で行われ、200人余りが傍聴に押しかけました。公判で煙突男は次のように証言しています。
裁判官 一体どうしてあんなことをしたのか
煙突男 争議は40日も越えてすっかりいぢけてしまった。こいつは一つ命がけでアジっ て争議を続けさせなば駄目だと思った
裁 よく入れたね
煙 持久戦だったから、もう暴力団も警察も居なかったですよ
裁 杉田から金をもらったのは何のためか
煙 買い物をしたのです。靴下、手袋、バット十箱、マッチ二箱、するめ二十枚、ウイスキー一本、チューイングガム一つ、雨よけ油紙一枚…、これだけを赤旗に包み腰につけ入口の守衛室の前を顔を背けてわけなく登りました
裁 お前は本当に死ぬつもりでやったのか
煙 それはさうですよ
裁 珍しいことやった訳だが、良いことをしたと思うか悪いことをしたと思うか
煙 好いも悪いもない。それまでの手段を講じなければ、われわれは生活を保障されないのです。だが目的は一つも達せられず、結局惨敗です。(「東京朝日新聞」1931.1.23)
検事は田辺氏に対し懲役3カ月を求刑し、弁護側は彼は富士紡の職工たちを助けるために煙突に登ったもので、工場側は職工達の住居に不法侵入したというが、職工達は大歓迎しており、家宅侵入の罪は成り立たないと反論し傍聴人の声援を受けました。しかし、2月4日の判決は懲役3カ月執行猶予3年というものでした。
煙突男の闘いは、田辺氏が言う通り、追いつめられた労働者側の命をかけた最後の手段であり、当時の労働組合が置かれていた状況を反映したものでした。彼は2年後に横浜で変死体で発見されています。
なお「富士紡績株式会社五十年史」(富士紡績・1947年刊)は、この争議については一言も触れず、従業員挙げて合理化に協力したような記述になっています。鐘紡と違った会社の体質を伺えるように思います。
写真上 「“鉄筋”製の百十歳翁」 「東京朝日新聞」1937.1.12
写真2番目 「心臓は四十代だ 伊藤翁」 「読売新聞」 1937.7.9
写真3番目 「空の男へ食糧を」 「東京日日新聞」1937.11.19
写真4番目 「空を見上げる女工達 煙突男にざわめく富士紡」 「東京朝日新聞」1930.11.21
写真5番目 「盛んなるかなこの人気」 「東京朝日新聞」1930.11.22
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