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司馬遼太郎と吉村昭の世界№4 [アーカイブ]

 司馬遼太郎と吉村昭の歴史小説についての雑感 4
          歴史小説にいたるまで――司馬さんの場合3

                                   エッセイスト   和田 宏
       
 今回と次回は、やや回想風に。
 昭和40(1965)年に、私が文藝春秋に入社したとき、『竜馬がゆく』の連載は産経新聞夕刊に進行中であり、第3巻「狂欄篇」まで単行本になっていた。「司馬遼太郎」はまだそんなに有名ではなかった。連載が始まったのはその3年前で終わったのは1年後だから1335回にわたる連載小説は佳境に入っていた。あとから考えると、司馬さんが蝶になる時期に私はこの業界に入ったのであった。
 入社後に配属されたのは、その本を作っている出版部であったから、とにかくおもしろいから読めと先輩から奨められて手にとった。途中で読むのを止められなかった。
 ところが、司馬さんに頼み込んで、この小説の出版を引き受けてきた先輩のT女史の話によると、「どうしようかとあのとき青くなったわよ」ということだった。最初は本がまったく売れなかったのである。2巻目の「風雲篇」など返本がかさんで、一部処分したそうだ。「連載はまだまだ続きそうだし、この先どうなることかと……」というT女史の心配は長くは続かなかったのだった。3巻目あたりから火がつき出した。司馬さんの才能が鉱脈を探り当てたのだ。
 第1巻「立志篇」の初版部数は8000部であった。この数字は微妙なのである。まだ新人扱いなのだ。どのくらい売れるものなのかわからないが、しかし大衆小説なのだから、つまり損をしてまで出す本ではなく儲けないといけない本だから、採算点を考えるとこのくらいは刷らないと定価のつけようがない、というぎりぎりの部数なのだ。少ない部数で儲けを見込んだ定価をつければ高くなって余計売れない。だから多少の返品は覚悟して八千は刷っておこう、というのが出版責任者の肚の内なのである。この部数では一冊ずつ配っても全国の本屋さんにはゆき渡らない。当時はどこの商店街に行っても本屋さんが一、二軒はある時代であった。全国で2万店は超えていた。(註1)
 さて、その40年の8月に第4巻「怒涛篇」が出る。本の売行きも怒涛のようになってきた。そしてその翌年、最終巻「回天篇」が出て、司馬さんは一流作家の仲間入りした。秋には『竜馬がゆく』と『国盗り物語』の完結に対して菊池寛賞が贈られることになる。
 それにしても小説の連載中から、切りのいいところで本にしてしまうというやり方はどうであろう。どうしても巻ごとに薄いのと厚いのができることになる。最終巻など早々と連載が終わってしまったらどうなるのか。気がもめることだ。事実、『竜馬がゆく』の単行本は全5巻の厚さがでこぼこである。したがって全巻共通の定価がつけられないという面倒なことになる。のちに新装版など作ったが、「立志篇」とか「風雲篇」など各巻にネーミングしてあるからいまさら均一ページにはできない。というより旧版で途中まで買っていて、新装版で買い足そうという人だっているのである。
 こういうやり方を拙速主義といっていいのかどうか分からないが、しかし文藝春秋が出版社というより、「雑誌社」であることの体質からきていることに間違いないだろう。いいもの、よさそうなものがあったら、完璧を期するよりできるだけ早く読者に提供しよう、という行き方なのである。
 当時、文藝春秋は出版部門が弱く、自社の雑誌で連載した評判の小説が他社から出版されていたりしたのである。そこでこれからは出版に力を入れねばならぬ、同時にそのころ収入面で大きな戦力になり始めた「週刊文春」にも力を入れようと、昭和40年にはたった総勢200人の会社が編集部員だけで8人、総員で30人も採用したのである。東京オリンピックの次の年なので、マスコミは人を採らないだろうなと思っていた私などが入社できたのには、そのような事情があった。
 さて、半年ばかりいた出版部から、週刊文春編集部に異動の辞令が出たのはたしか10月下旬。ちょうど司馬さんの「十一番目の志士」の連載が始まったばかりで、私はその担当を命じられた。そして初めて司馬さんに会うことになったのである。

註1 書店の数はバブル期には2万店を軽く超えていたが、長期低落傾向にある。2000年の2万1千店から現在は1万6千店台。ただし一店舗の規模が大きくなる傾向があるので、売り場面積は店舗数ほど減ってはいない。


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