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対話随想余滴 №23 [核無き世界をめざして]

  余滴23  関千枝子から中山士朗様

                 エッセイスト  関 千枝子
 
 お元気になられたようで、安心いたしました。とにかくこの夏の暑さ、天候不順、高齢者の体にはよくないようで、気をつけなければなりません。
 この前は、台風15号の影響を心配してくださり電話を頂きましたのに、そっけない応対ですみませんでした。実はあの時、全国ニュースではよくわからなかったと思いますが、千葉の酷さがもうわかっていまして、ちょっと、カリカリしていました。とにかく、台風後十日以上たってもまだ停電だの断水など、尋常ではありません。
 考えてみますと、あの原爆の後、停電は続きました。私のいた宇品など焼けてない地区で、電気が戻ったのは八月十日ごろだったと思います。しかし当時、電気は、照明以外は、ラジオ、アイロン、扇風機くらい、そんなものもない家が多かったかもしれません。今、電気がなければどういうことになるか。本当に生活は何一つできないですね。
 それに、あの時の広島で凄かったのは、水道が止まらなかったことです。私たち、これを当たり前のように思っていましたが、水道が止まると大変な事は、九月の枕崎台風の時わかりました。(枕崎台風の後、宇品では水が引くまで、半日くらい水道が止まり、翠町の井戸のある家まで水を汲みに行ったこと覚えています)。宇品地区は井戸が掘れないところですから(埋立地ですから)、あの原爆の時水が止まったらどんなことになったか。水道関係の人びとの大変な苦労があったと聞きましたが、すごいことでした。
 それからはるかに生活などの技術は進んでいるはずなのに、台風15号の被害の酷さ、対応の悪さ。とにかく千葉県や政府の動きがおそく、四,五日経ってから。政府は内閣改造でそれどころではなかったみたい。事態が伝わらない情報手段の途絶えもあったでしょうが。千葉だけでなく、東京都でも伊豆大島も酷かったのですが、安倍首相が動いたのはつい先日。ほんとに困ったものです。大島だの、千葉でも南の方(はずれ)は、無視されている感じがします。電柱が倒れても山の中だから気が付かない?腹立たしいです。
 私、毎日新聞に入って最初に配属されたのが千葉支局でした。ですから、なじみのある地名も多く、本当に腹立たしいです。
 ここまで書いてきて今日の新聞(九月二十三日)を見ましたら、屋根瓦が飛ぶ(雨漏りで家がびしょびしょになっても)、外壁が崩れガラスが割れても一部損傷ということなのだそうで、国の補助は出ないのだそうです。腹が立ってきました。国民の安全を叫び、軍備にものすごい金をつかい、トランプにお世辞を使って入りもしないトウモロコシを買う金を、こういうことの支援に使ってもらいたいのに!
 
 なんだか予定していなかったことを。長々と書いてしまいました。

 実は前の余滴二十一で、スぺ-スの関係で書けなかったことの補足を。
 村上俊文さんの会で、参加者から思いがけない質問があったのです。それは、平和記念公園の中に、アンネ・フランクの形見の薔薇が咲いている。それを寄贈したのは京都府綾部の方ですが、それを仲介したのはヒバクシャという記事がある、このヒバクシャは、あなたの姉の黒川万千代さんではないか、という質問です。多分それは黒川のことだと思うと言い、姉がアンネ・フランクの研究に没頭し、あちこちに、アンネの薔薇を広げる運動をしていることを話しました。そうしたら、この方は植物に興味を持っておられる方らしく、ハマユウの話まで出てき、さまざまな新聞等のコピーまでいただきました。
 ハマユウというのは、広島市比治山で被爆した尾島良平さんという元兵士が、焼け跡に緑の葉を出しているハマユウを発見、鎌倉の自宅に持ち帰り栽培。神奈川県の被団協のシンボルのようになっていたのですが、一九六九年広島市に寄贈。このハマユウを、一九八八年ロシア正教会一千年記念式典に招待された黒川が。広島市に頼み、三株分けてもらい、ロシアに贈ったのです。そんな昔の記録を読み、薔薇も黒川に違いないと思いました。
このごろ、ヒロシマの木と言えば沼田さんの青桐ばかりでハマユウのことなど言う人もなく、私もすっかり忘れていたのでびっくりしました。それで、いろいろ説明し、黒川が八年前に急性白血病で死んだことなども言うことになってしまいました。
この方、村上さんとは知り合いではなく、集会のチラシをどこかで見て参加されたようです。
いろいろな方がいろいろな方面からヒロシマ、原爆に拘っておられることを知りました。

 広島から帰ってからもいろいろごちゃごちゃあったのですが、八月十一日に都下調布市に行ったことを報告いたします。調布市は「非核平和都市宣言」をしている都市で、今年はその三二回目を記念する集いです、この集いの実行委員に、画家の津田櫓冬さんがおられまして、これもずいぶん前、丸岡秀子さんを偲ぶ会をやりまして、会の中心の一人津田さんと知り合いました。彼は長く調布の市民だったのですが、今住まいは移されていますが、まだ調布で活躍中です。津田さんから連絡があり、今年は、私の講演で行くとお誘いがありました。この平和の集い大掛かりで、パネル展示などもあり、講演の会場も広く百人くらいは入れそうで緊張しました。一生懸命に話しましたが、皆様とても喜んでくださり、本もよく売れました。九月に入ってから連絡があったのですが、この日の報告を冊子になさるそうでとても喜んでいます。
 私も骨折後,調布に行くのは初めてで、時間通り行けるかどうかかなり緊張して行ったのですが、とにかく、私も、元気を頂けた日でした。
 八月一七日は、丸木美術館に行き、アーサー・ビナードさんの原爆紙芝居を見、アーサーさんのこの紙芝居にかける思いを聞きました。
 アーサー・ビナードさんの紙芝居、なぜ?と思ったのですが、彼が、紙芝居という日本独自の文化に以前から非常に興味を持っておられたことを知り、単なる思い付きで始められたのでないことがわかりました。彼はこの紙芝居を作るのに数年がかりで、すでに二度試作品を作り上げ、これが三作目であることを知り、まずこれに感動してしまいました。しかし、なぜ原爆の紙芝居に丸木さんの作品からなのか、そのあたりもっと詳しく知りたかったし、丸木美術館の学芸員岡村さんが質問してくださるというので、期待していたのですが、アーサー・ビナードさん、よくしゃべる方で、話し出すと止まらず、岡村さんの質問も二つくらいで時間が来てしまいました。私の少しの質問、十一月に、例の竹内さんの会で、ビナードさんを招き話を聞くので、行ってみようかと思います。
 それにして遠い、不便としかいいようのない丸木美術館まで(私は二時間半以上かかって行きました)大勢の参加者があったのには驚きました。予約を取り六〇人で締め切ったのですが、満員で、断られたれた方もあったようです。帰りのタクシーで(丸木美術館は駅まで遠くてとても歩けません)一緒に乗り合わせた方は神戸から来たとのこと、遠方から来た方は多かったようで、すごい人気ですね。驚きました。
 
 このほかにも、とてもいいプランがあり、報告ができると思ったのですが、それはまだいろいろハードルがあり、報告に至りません。次回には何とかなると思います。
 ここまで書いたところで調布から報告集のゲラや、さまざま資料などが届いたのですが、驚きました。調布には、広島一中、国泰寺高校関係者が多いそうです。今年も私の講演会とは別に八月一日から八日まで原爆展をやったらしいのですが、語り部四人のうち三人が国泰寺高校ゆかりの方だったそうです。こうした情報を教えてくださったのは調布市民でこれも中山さんと同期の丸本規雄さんで、丸本さんは覚えておられると、思いますが。調布市の被団協の会長も国泰寺高校の九回生だそうです。なんだか縁があるのですね。あんまり驚いたので、付け加えました。
もうひとつつけくわえ 千葉で問題になった一部損壊、今回は特例措置で国の援助があるそうです。災害の規模、激しさが変わっている今、国の規定等、見直すべきですね。

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対話随想余滴 №22 [核無き世界をめざして]

    余滴22 中山士朗かから千枝子さま

                  作家  中山士朗

 このたびも休筆してしまい、申し訳ありませんでした。私たちの往復書簡は平成12年から始まりましたが、その間、急病入院し、三度も関さんにご迷惑をかけてしまいました。
 四度目のこのたびは、上行結腸がんからの大量出血による貧血を生じたもので、検査を受けて点滴、輸血するという事態になったものでした。ご心配かけてもうしわけありませんでした。
 報告からがた、自分の病気のことから書き始めてしまいましたが、 関さんの前回からのお手紙を読みながら、大腿骨骨折の手術後のリハビリ生活がいかに苦痛を伴うものかを知りました。けれども、その苦痛を克服しながら、ご自分の生活を貫いておられる様子を拝見し、敬服しております。そして、その何分の一かの精神力が私にあればと思ったりしています。また、お手紙によると狩野さんも大腿骨骨折で目下入院加療中と聞きましたが、これは単なる偶然ではなく。被爆の影響によるものではないでしょうか。関さんは広島で被爆、狩野さんは長崎で被爆されております。関さんの姉上様がいつか、「七十年経った今も、仇をなす」と語っておられた言葉が実感として迫ってきます。私自身のがんについても、また、被爆直後に、私を捜し歩いた母と姉が後年になって、大腸がんに罹ったことを思えば、私が現在癌に侵されていることに、何ら不思議はありません。被爆直後、火傷の治療を受けた医師から、「被爆者の骨は脆くなっていますから、転ばないように気をつけてください」と言われたことが、今、あらためて思い出されます。
 先ごろ届いた、日本エッセイストクラブの会報を読んでいましたら、ある人の近況報告に、腰痛と肺炎にかかった報告の後で、
  老人は転ぶな、風邪ひくな
 と、のたもうておられましたが、まさにその通りだと痛感した次第です。
 雑談になってしまい、申し訳ありません。
 本論の返事に入りますが、まずもって、関さんの行動範囲の広さ、そして、私の知らない世界で活躍している人々との文化交流の様子が伝えられていて、感銘を覚えました。特にポーランドで、長崎原爆にちなむ多田富雄さん原作の新作能が公演され、その折に、ウイーン、パリ。ワルシャワで今の世界の人々に「平和」について訴えるというお話は、能について無知な私にも、感動を与えます。
 そして、お手紙の末尾に書かれている村上俊文さんのこと、食事会で「二年西組」の忘れられない二人のクラスメートの甥と姪の方に会われたというお話は、単なる縁というものを超えた、感動的な出会いを感じずにはいられませんでした。
 順番が後先になってしまいましたが、弁護士会館でのお話について書いてみたいと思っています。
この八月四日に弁護士会館で開催された。平岡敬・元広島市長にTBSの金平茂紀さんが聞く「ヒロシマがヒロシマでなくなる日」という対談の内容が紹介されていましたが、身近に、感じたあの時代の熱っぽい空気が伝わってくるのを覚えました。
 TBSの金平記者については、私たちの「対話随想」二〇一七年八月の「証言の夏、地獄で見た夏」(11)で、関さんが書いておられることを思い出しました。それには、次のように語っておられました。
 
 帰ってから、十九日、土曜日、TBSの報道特集で中国放送の秋信記者のことを取り上げていてびっくりしました。彼とは中山さんの番組「鶴」の取材のころ、初めてお会いしたのですが、その後、昭和天皇への原爆についての鋭い質問に感心していました。この番組では原爆による小頭児についての特集でしたが、この問題を最初に取り上げたのは、秋信さんだったのですね。驚きました。このことをしっかり取り上げ、この時期の原爆報道にされたTBSの金平記者に感動しました。

 とありました。
 この文章の中に出てくる「鶴」は、一九八五年に中国放送が、被爆四十周年報道特別番組として制作されたものでした。これは、広島一中遺族会、広島一中同窓会、広島大学医学部の協力を得て、『星は見ている』(広島一中遺族会編)のなかから、十六人の遺族を選び、日本各地を訪ねるという番組内容でした。広島一中の「追憶の碑」には、建物疎開作業、そのほか学校防衛の任に当たっていて被爆死した、一年二八七名、三年五五名。そのほか九名の名前が刻まれています。
 「鶴」の制作が企画されたころ、TBSには、早稲田大学文学部露文科で一緒だった萩元晴彦君がプロヂューサーとして在籍しており、私と秋信さんは連れだって挨拶に行ったことがあります。また、TBSでは、「鶴」の朗読を樫山文枝さんにお願いしていた関係もあって、録音室をお借りして、樫山さん、秋信さん、私の三人は採録のために長時間こもった思い出があります。このことは、私たちの「ヒロシマ往復書簡」(第ⅲ集)に詳しく書いていますが、秋信さんと一緒に出水市荒崎地区を訪れ、鶴がシベリアに帰って行く光景を撮影し、それを背景に樫山さんに朗読してもらったのです。

<タイトル前のプロローグから>
昭和二十年八月六日、広島市に原子爆弾が投下されて四十年の歳月が経った。
その日、私たちの前から不意に姿を消してしまった大勢の学友は、今どこにいるのだろうか。未だに子どもの死に場所も判明せず、遺骨の一片もない遺族は、今もあの日を生き続けているにちがいない。その当時、事実として伝えられ、伝えられた方も事実として受け止め、深くは確かめようとはしなかった。それが死者に対する礼儀のように思われた。
 しかし、四十年経った現在、その事実を深く確かめてゆくと、曖昧な部分が残る、
 その曖昧な部分を明確にすることが死者へのくようになるのではないだろうか。
                  (出水に向かう車中)

 鶴が舞う姿は美しい。しかし、その鳴き声は決して美しいものではなく、野性的な声の中に、一抹の哀切がこもっていた。あの日の死者たちは、忽然とこの地上から消えていった。
 儀式があり、人々が哀しむ中で別れを告げたのではなかった。醜く焼け爛れた手を虚空に差しのべ、水を求めながら、誰からも気づかれずに死んでいった幾千、幾万の執念の声を聞いたように思った。その声の中に、亡くなった同級生の声も混じっていた。
                  (大空に向かって鳴く鶴)

 引用が重複しましたが、関さんのお手紙を読んでいるうちに、「鶴」制作中に中国放送を訪れた際、秋信さんに紹介されて平岡さん(当時・専務)にお目にかかった日のことを思い出し、その頃の熱気のようなものに触れたかったのかもしれません。
 いみじくも、対談の内容が「ヒロシマがヒロシマでなくなる日」とあるのも、むべなるかなと思いました。平岡さんの<原爆を落とした米国への責任追及>、怒りを忘れるな、日本はアジアへの謝罪を忘れるな、アメリカの核の傘の下で核廃絶を言うのは偽善だ、和解のためには加害者の謝罪が必要、核廃絶し、貧困や差別のない世界を作ること>の論旨は素晴らしい内容だと思いました。

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対話随想余滴 №21 [核無き世界をめざして]

余滴㉑ 関千枝子から中山士朗様

            エッセイスト  関 千枝子

 体調崩されて入院されていたとは、全く知りませんでした。退院されたそうですが、お電話のお声はお元気そうでしたが、その後体調いかがですか?とにかく気候がおかしく、暑く、時折豪雨、身体にいいわけありませんので、ご無理なさらないように。

 というわけで21は、本来、中山さんからの番ですが、一回休みということで、関の報告を続けます。

 八月四日から広島に入りました。これは前から予定していたことで、すでに二月に宿はとっているのですが、その後、大腿骨骨折があり、少し緊張しました。杖とサイドカートと、二つを使っての歩行、大分うまくなってきて心配しませんでしたが、ホテルが心配でした。つまり入浴がうまくできるかということです。もちろんバスタブに入っての入浴はできません。バスタブに入り横たわってしまうと出られなくなるので。だからシャワーで体を洗い流すしかないのですが、安物ホテルなのでバスタブの中に入らないとシャワーを使えません。うまく入れるかどうか。心配でした。
 でも、バスタブにうまく入れ、(私の足が以前より高く上がることができた、リハビリの成果が出ているわけです)問題はクリアしました。三泊四日の旅で着替えが三日分いります。去年までは、途中でホテルの洗濯機で洗っていたのですが、洗濯物を洗濯機から出す時が大変で、低い位置の物をつかみだす道具(アイアンハンド)がいるのですが、これを持っていくには少し大きすぎる。やむなく、軽いリュックを買いました。また、靴下をはくのが大変で、これも道具がいるのです。元気ならいらないものがいり、やれやれですが、まあ何とか自分で持てる量に収まりました。
 こんな格好で四日の朝早く新幹線で広島着。まず、弁護士会館に向かいます。ここで、平岡敬・元広島市長にTBSの金平茂紀さんが聞く「ヒロシマがヒロシマでなくなる日」という対談を聞きに行く、これが今回の広島旅行の最初です。
 二時間余りのこの会をすべて書くというわけにもいきませんが、内容の濃い会でした。金平さんは「これは僕の取材、それをオープンにする」ということで、徹底的に聞き手に徹しておられました。私も知らないことばかりで、平岡さんが小学生の時、ソウル(当時の京城)におられ、京城中学に学んだこと、京城帝大予科の時、学徒動員され、敗戦を迎える。京城中学のころは学校に朝鮮人はおらず、ソウルにおりながら朝鮮人の友はなく、大学予科の時朝鮮人の友と知り合った。敗戦後、旧制広島高校に入り早稲田大学へ。卒業して中国新聞社記者になった。
 中国新聞時代、在韓ヒバクシャに光を当てた記事を書いたのは有名ですが、「朝鮮への郷愁もあり傲慢な日本人への怒りもあった。戦前の創氏改名、神社参拝の強制など朝鮮人を日本人にしてやる」と言った思い上がり。慰安婦、徴用工、ヒバクシャ問題にしても日本人の朝鮮人への差別感が根強くあり、村山談話、河野談話などで一応謝ったが、安倍首相は認めていない。
 唯一の被爆国など言いながら韓国人被爆者問題に知らん顔をしているのはおかしいと、中国新聞、中国放送の四人(平岡さんや秋信さんなど)が、社の仕事ではなく、行なった。韓国へ行く経費など自弁だった。経費自弁に驚く聴衆に、「社の仕事でないからできたのですよ」と言われました。
 ヒバクシャ団体も原水協も当時は韓国人被爆者問題には関心が薄く、「森滝一郎さんだけがカンパをくださった。確か五千円だったと思う」。
 韓国も難しい時代で、政府は反共、韓国人の原爆観は、「日本に原爆が落とされ、戦争が終わってよかった、だった」。それが、「かわってきたのです!」。
 昭和天皇の記者会見での秋信さんの質問のことは、金平さんも関心強く、裏話を大分披露されました。大体あの頃(一九七五年頃)、天皇の記者会見などなかった。それがアメリカの記者がやってしまったことから、日本人記者もということになった。たまたま地方記者として秋信さんが抽選に当たり出られることになった。その会見で戦争責任をきかれ、天皇が「文学方面は弱く、そんな言葉のアヤはよくわからん」という答弁が出ました。秋信記者がヒロシマの記者として千載一遇の機会と原爆をどう受け止めるか聞いたところ、「遺憾だが、戦争中だから仕方がない」と答えた。原爆に対する記者の質問は、歴史的にあれだけ。秋信さんは質問させてくれた日本記者クラブに感謝していると言ったそうです。
 秋信さんは真摯な記者で営業に回されてからも胎内被曝・原爆小頭児問題などに自腹を切って取り組みました。
 平岡さんは「私たちは課外活動と言っていた。あの頃は、全国紙の記者たちと一緒に勉強会もよくしたものですよ」と言っておられました、
 平岡さんは中国放送の社長をし、市長になるのですが、最近の情勢について「アジアへの謝罪がない」ことを言っておられました。
 結局、平岡さんの一番言いたいことは、①原爆を落とした米国のへの責任追及、怒りを忘れるな。同時に、日本はアジアへの謝罪をを忘れるな。アメリカの核の傘の下で核廃絶を言うのは偽善だ。
②和解のためには加害者の謝罪が必要(つまり米国の原爆投下への謝罪、同時に日本のアジアへの謝罪)③核廃絶し、貧困や差別のない世界をつくること。
ということになるでしょうか。対談が終わっても皆さんなかなか帰らずサインを求める人の列が続いたのですが、私はかいくぐって平岡さんの所に行き、ごあいさつし、「怒りを忘れず、命ある限り中山さんとの往復書簡を書き続けます」と申し上げました。
 この話だけで長くなりました。この日は荷物をホテルに預け、YWに行きました。弁護士会館からホテルまで、なかなかタクシーは通らず、スマホを持っている人に頼み、タクシーをよんでもらったのですが、これがなかなか来ず、暑いし、立っているのが辛く、苦しかったです。今回の旅で身体的に苦しいと思ったのはこの時だけで、後は皆様の協力でラクさせt6得頂きました。
 ホテルに荷物を置き、YWへ。YWはここ十数年夕張との交流を続け中学生二人と先生一人を広島に招いていますが、三、四年前から資金が尽きて招けなくなってしまいました、しかし、夕張の方が広島に自費で参加するようになりました。そして広島YWCAもできるだけの接待をやっています。この日も夕張の方に手作りの夕食をごちそうし、ヒバクシャの体験談もありました。私も一緒に参加、とても勉強になりました。
 五日朝はフィールドワーク、YWCAの主催になってから六回目になります。
 去年と同じコースですが、時間の制限もあり、最初の話でできるだけ、建物疎開作業で若い少年少女たちが死んだ(重い火傷を負った)ことを説明するのですが、若い方たちは建物疎開と言ってもぴんと来ないのが今。なかなか骨が折れます。慰霊碑のところで説明するのですが、これをできるだけ簡単にしました。昨年までとかえたことは、私たちの学校の慰霊碑の説明を加えたことです、この慰霊碑は、町内会の敷地に作られたもので、作ることができたのも維持も町内会のおかげで成り立っています。町内会に直接関係ない第二県女と山中高女の碑が町内会の手で守られています。広島の慰霊碑は多いと思いますが、こんな慰霊碑はほかにはありません。大勢の犠牲者を出した雑魚場地区(今は国泰寺町)の町の人々の「心」を語りました。
 終わってからYWの難波さんや関係者の方々と食事をしました。フィールドワークの責任者の難波さんは今年から広島YWの会長になられたそうで、忙しく、それにご自分も足が悪いのに、本当に面倒をかけました。この昼食で、前にお話したフランス在住の松島かず子さんとご一緒できたのも幸いでした。松島さんは、昨年の取材のドキュメンタリーはまだ完成しないのですが、ちょうどいま鳥取のご実家に帰っておられます。上の娘が9歳になって広島を見せておきたいが…などいろいろ言っておられましたが、結局二人の娘さんをお母さまと夫に預け、広島に来てくださいました。彼女も元気でうれしかったです。
 六日、七四回目の原爆忌、私は私の学校の慰霊碑に近い(歩いて行ける)ので、宿は東横インに決めてあるのですが、毎年行きなれた慰霊碑なのに、一つ道を間違えてしまいました(町自体がどんどん変わっているせいもありますが)。高齢化現象かと冷や汗をかきました。
 慰霊祭には毎年来られる方が減っています。皆様お年なので心配なのですが…。でも、福山から平賀(水木)先生が元気な顔を見せられたのはうれしかったです。この方は戦前山中高女の先生、戦後第二県女の先生になられた方で、二つの慰霊碑の両方の先生をされた方などこの方しかおられません。すべての先生たちが鬼籍に入られた今、ただ一人の生き残り。その元気なお声! 八十代と言っても信じる方がいるくらい。でも先生九十八歳ですって!私もがんばらなきゃあ。
 慰霊祭に来てくれた堀池美帆さんと平和公園方面に向かいました。堀池さんは対話随想でも紹介しましたが、私の若い友人です。高校一年の時広島に来た彼女と知り合い、若い彼女が原爆のことに関心が深いのに驚き、友達になりました。彼女はその後も毎年広島に来ましたが、東日本大震災があるとボランティアで現地に行ったり、とにかく社会問題に熱心というか、近頃珍しい若者です。それが大学に入るとたまたま能のクラブに入ったのですが、能に夢中になりました。.原爆関係で彼女と知り合った人で、能などに詳しい人はいません。私は父が能好きだったため、子どもの時からこの世界のことに詳しく、一応の知識もあるものですから、彼女の能の修業にも付き合ってきました。とにかく彼女、入れ込むたちというか、関心を持つと、そのことに深く入ってゆく、一過性の趣味で終わらない人のようです、彼女も今年三月大学を卒業、ドキュメンタリー制作のプロダクションに勤めているので、今年は広島にも来れないだろうと思ったのですが、休暇をとって来てくれたのです。
彼女の話によると九月にポーランドで長崎原爆にちなむ多田富雄さん原作の新作能の公演があり、彼女はすでにその切符まで買っているのです。そしてその上演が観世流銕仙会の仕事で(彼女も大学で、観世会です)、その主演をなさる清水寛二さんが今広島に来ているのでぜひ会ってほしいというのです。
 どうもこれは彼女の方では別の目論見があったらしく、彼女は多田富雄さんのこともあまり知らなかったようですが、私は、こんなポーランド公演のことなど全く知らなかったので、(マスコミでな全く報道されていない)とても面白く話を伺いました。
 この公演はポーランドだけでなく、ウィーン、パリ、ワルシャワでやるのだそうです。講演は多田富雄さんの新作能「長崎の聖母」とオーストリアの人の作の「ヤコブの井戸」(これは新約聖書のヨハネの福音書からの話をもとにしています)。両方ともシテ、演出は清水さん、長年にわたり、欧州の人びととやりとりし、内容を練って来たもののようです。能というもの、囃子も、地謡もいり、かなりの人数が必要です。面も新たに作られたようで、お金も大変だと思います。多田さんは、原爆や慰安婦など多方面の現代の社会問題を能にされた方、私も台本を読んだことはありますが、本物を見たことはありません。しかし、この二つの能が、今の世界の人々に「平和」について深く訴えるであろうことは間違いありません、
 堀池さんがワルシャワの切符をすでに買っているのも驚きで、彼女が帰ってからの土産話も楽しみです。清水さんのような方の存在にも驚きました。大学の講師もされているようですが、プロの能楽師でもあるのです。
この日聞いたお話、まだまだ書きたいことありますが、もう行数一杯で、また今度にします。
 七日、朝、昨年も話をした(対話随想の最後から二つ目の章で書いています)村上俊文さんの案内で、リニューアルなった資料館本館を見学しました、村上さんのこと昨年はよくわからなかったのですが、資料館のボランティア(案内人)でもあるのですね、本館は広いし、途中で座る所もないからと、車いすに乗せてもらい、村上さんに押してもらいました。村上さんは車椅子を押すのもうまいそうです! 本館は以前に比べ実際の遺品が増えたり、ヒバクシャの絵を多用したり、わかりやすくなったと思います。蝋人形がなくなったことがよく言われますが、私たちが見たらあの人形ではきれいごととしか思えず、かえって良かったと思います。どんな展示をしてもあの地獄の模様は示せないのですが、苦心はされていると思います。足りないところは核兵器廃絶の闘いの歴史だろうと思いますが、これは行政の仕事としては無理でしょうね。
 これを見て後、皆さんと一緒に食事をしたのですが、二年西組のクラスメートの甥と姪の方がおられるのにびっくり。この二人と初めて会う方ですが、忘れられない級友の身内です。そしてこの二人が互いに知っておられるのに驚きました。
 会には五、六十人みえたと思いますが、村上さんの問題提起に従い、ヒバクシャの貧困の問題や、子どもが戦争のために闘わされたことなどについて語りました。最後は、ヒバクシャにもいろいろな考えの方がおられるが、あの爆弾はもうごめんだ、人類と共存できない、ということだけはみな一致している。あの爆弾をなくすには核兵器廃絶条約しかない。その会議にも参加せず、署名もしない我が政府を許せないと申しました。
 この日このまま、駅に直行帰京しました。まだ書くことあるのですが、字数多すぎるようです。次回に回します。


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対話随想余滴 №20 [核無き世界をめざして]

余滴20 関千枝子から中山士朗様へ

           エッセイスト  関 千枝子

 選挙も済みましたが、私、結果も結果ですが、あの投票率に呆れています。日本人は自分たちが主権者であることを忘れてしまったのでしょうか。
 と言っているうち八月ももうすぐ。忙しくなりますので、余滴の20を今書いています。この次は八月広島報告となりますかな。
 余滴19の冒頭にありました狩野さん大腿骨骨折で、今リハビリ病院入院中です。まだしばらくは入院しているようですから、退院となった時、私たちのやりとりのコピーでも送りましょう。この前電話ありましたが、声は元気です。私も声は元気なのですが、体力の復活がまだまだです。全く、年寄でなければ、大腿骨骨折はしないと我がドクターは言っておられましたが、困ったものです。しかし、体がこうなると今まで平気だった道などのバリアーが見えてきます。これは悪いことではありません、今度の参院選で山本太郎の「れいわ新選組」=このネーミングは嫌ですね=が身障者を国会に送り出すことになりました。どんな騒ぎになるか。もっともALSの人は声も出すこともできませんから介助者が二人以上いるでしょう。騒ぎになりそうですね。
 この前は狩野さんのお便りしか紹介しませんでしたが、「対話随想」にたくさんの方から礼状が届いております。ほんのちょっと紹介しただけの、山梨の劇団「山なみ」の方は、劇団員に本を読んで紹介した、団員一同喜んだ、とありこちらの方こそ、恐縮です。昨年、原爆証言に行った都立高校の先生からは、都立高校の修学旅行の費用の上限が一万円上がって、沖縄にも行けることになったとありました。これはうれしいことです。平和教育に修学旅行の力は大きいです。昔のような、平和修学旅行の復活を祈っています。
 さて、渡辺美佐子さんの「夏の雲は忘れない」の公演が今年でおしまいになるということですが、渡辺さんのあの新聞インタビューでは少しわかりにくいかと思い、ちょっと「説明」を加えます。
地人会の木村光一さんが朗読劇「この子たちの夏」を始められたのは一九八五年です。その時私のところにも話があって、私の本の中から一部使いたいということだったのですが、脚本が私の気持ちとちょっと違うように思い、お断りした(脚本から抜いてもらった)ことがあります。この朗読劇は評判になりましたが二〇〇七年地人会解散の時に、劇はこれで打ち切ると木村さんは言われました。出演の女優さんたちは続けたかったのですが、木村さんは許されませんでした。そこで女優さんたち十八人は新しい脚本で(原爆の手記はたくさんありますから)「夏の雲は忘れない」を作り、その公演が今に続いています。それが今年でおしまいになるわけです。(その後、この子たちの夏も、2011年復活しました。).
「夏の雲は忘れない」が始まる時、舞台の映像に私の本からの写真を使いたいというお話があり、そんなこともあって「夏の雲…・」の公演の第一回に私も招かれました。そこが跡見学園だったのです。
 跡見は狩野美智子さんの母校でもあり、戦時中でも割合おっとりしたところのある学校だったようです。
 「夏の雲…・」の公演のやり方は、その公演を企画してくださった地元の方の中から何人かの人を選びその人たちが朗読の一部を受け持ち、女優さんたちとともに舞台に立つ方式です。跡見でも高校生の何人かがともに朗読しました。とても好ましく思われ感心したのですが、私たちが公演を見に行ったことを、跡見の学校の方が大変喜ばれ、跡見に関する資料をくださったのです。私はそれを読み、学園長先生の文章に大変感動し、学園長先生にお手紙を出してしまったのです。先生はそれを読まれ、当時から跡見は中学生が広島に修学旅行をしていたのですが、中二の担任の先生に私のことを紹介してくださり、私は以来(毎年冬一月ごろですが)事前学習に伺っています。ここは、とても熱心で、冬休みに入る前に私の本を全員に読ませ、(素晴らしい感想もいただいています)、そのあと私の「講演」になるのですが、「私のクラスはあなた方の年にみな死んでしまったのよ」というと、会場は静まり返り、皆、よく話を聞いてくださいます。私は高校生にも話すことがありますが、跡見が一番話しやすく、熱が入ってしまうのです。私の「広島第二県女二年西組」が版を重ね、今11刷りになっているのは、この跡見で中学二年生全員に読ませてくださっているのが大きいのではないかと思うのですが。
 一方、『夏の雲…・』の方も、毎年公演を続けていますが、これも必ず第一回が跡見なのです。毎年、十八人の女優の一人、大原ますみさんが日取りを知らせてくださり、私も万障繰り合わせ参加。こうして、毎年二回の跡見行きが一〇数年つづいたわけです。
 それが今年は六月二十八日だったのです。ししかし、この日は女性「9条の会」の世話人会の日とぶつかり、この会にも私の骨折事故でご迷惑をかけており、この日はしばらくぶりで「役目」も持たされていたものですから、残念ながら、『夏の雲…・』にはいけませんでした。今年で最後になるというときに、本当に残念でしたが‥‥。
大原さんは、一二年間、毎年電話をくださっていました。確か、始めは大原さんと山口果林さんのお二人からあったと思うのですが、ずっと連絡くださっていたのは、大原さんでした。この舞台の背景の映像に、私の第二県女の級友の写真が使われているから、というご縁で、毎年義理堅くお声をかけてくださった。その最後の跡見の公演に行けなかったのは本当に残念でした。
 この一週間後七月十三日、私の所属しているパルシステムという生協で、「原爆から74年、時代を越えて平和を語り継ぐ」という催しがあり「はだしのゲン」の映画を見、そのあと私が少しお話をしました。生協は全国組織が一緒になって、広島、長崎ツアーをし、わが生協もそれに参加します。その参加者の事前学習に私、毎年招かれているのですが、去年は「都合がつかない」と言って来ない人が多く、事前学習そのものが流れてしまったのです。もともとツアー参加者はそんな多くではない(全国の催しなので参加数の限りがあります)ので、小さな事前学習会では申し訳ないと、今年はオープン方式というか、ツアー参加者だけでなく一般組合員にも呼び掛けたというのです。そうしたら「はだしのゲン」の映画が当たったか、七〇人も参加、しかも半数が小中学生だというのです。
私もたいへん張り切りました。私、中学生に話すの好きですから。
 とにかく、天気が悪いのに七〇人集まりました。小学生が多くて中学生は一人でしたが(でも、その子、二年生)、原爆のリアルな描写に気持ち悪くなる子がいては、と生協のスタッフは心配していましたが、そんなこともなく、皆、よく集中して熱心に見ていました。その後も、子どもにもわかりやすく、原爆のことを知らない人にもわかりやすく、(中にはウラニウム爆弾とプルトニウム爆弾の違いもよく知らない人もいるようで)話したつもりです。皆とても静かに聞いてくれました。
「どうしてはだしのゲンの漫画が学校の図書室から取り除かれたりしたのでしょう」という質問が出ました。「子どもに見せるのは残酷だ、など言われたこともあったようです。でも、ゲンの話は本当にあったことなのですよ。ゲンは、小学生で、実際にこんなひどい経験をしたのです。それが戦争、原爆なのです」と私は言いました。
 たくさんの人が感想を書いてくださいました。大人の人が書いたのが多かったのですが、とても真剣な感想がおおかったです。原爆のことをよく知らず、ゲンの映画を見たのも初めて、ヒバクシャの話を聞いたのも初めてで、珍しい経験をしたなどというのもあり考えさせられました。
 しかし、前回の手紙で報告した、私が会った熱心な大学生、彼も、最初のきっかけは小学生時代の『はだしのゲン』の映画だと言っていました。この日の子どもたちの心のどこかに、人類と共存できない凶器、核兵器について、記憶が残るだろうと思っています。
 この後八月、大変充実した日を過ごしたのですが、あまり長くなってしまいました。次の号で報告します。

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対話随想余滴 №19 [核無き世界をめざして]

余滴19  中山士朗から関千枝子様へ

                 作家  中山士朗

 まずもって、狩野美智子さんの歴史的記憶を傷つけたことを深くお詫び申し上げます。改めて『広島対話随想』の四十六ページから五十一ページを読み直し、ラジオ放送の」天気予報」復活にこだわり過ぎ、不適格な表現になっていて、狩野さんにご迷惑をおかけしたこと、深く反省しております。どうぞ、関さんからもよろしくおとりなしくださいますようお願いいたします。
 このところ、狩野さんをふくめて関さんや私たちの世代の戦争、原爆に対する発言が、新聞紙上で大きく取り上げられるようになりました。被爆、敗戦七十四年目の夏を迎えての特集記事だろうと最初は思いましたが、そうではなく、あの戦争を体験し、その記憶を語ることのできる最後の世代の人びとが消えてゆくために、その証言を遺し、継承するためであることに気づきました。私たちの『ヒロシマ対話随想』と同じように、消えてゆく者の証言、継承の静かな語りがありました。
 はじめに、関さんが『ヒロシマ往復書簡』で、平幹二朗さんとニ人だけの出演「黄昏にロマンス』について語っておられましたが、その俳優の渡辺美佐子さんについて書いてみたいと思います。
 現在八十六歳になる渡辺さんは、広島、長崎で被爆した人の体験記を読む朗読劇「夏の雲は忘れない」を戦後四十年の節目の年に始め、三十四年にわたって、千回も公演を続けている人です。
 その朗読劇が、幕を閉じることになったと六月十九日の朝日新聞に報じられていました。
これについて渡辺さんは、
「私たちが年を取って、体力的に限界になりました。女優達だけで運営しているので、十八人いたメンバーも十一人になりました。一九八五年に始まった『この子たちの夏』は原爆で子どもを失くした母親の話が中心で四十から五十代の女優たちが出演しました。各地からお呼びがかかり、それ以後三十四年間、七月と八月はほかの仕事を断って、全国を回る夏が続きました」
 と答えていました。
 このことは六月二十一日の大分合同新聞にも大きく報じられていて、今月中旬に東京都内で行われた稽古に、渡辺美佐子さん(86),高田敏江さん(84)、長内美那子さん(80)、山口果林さん(72)らが参加している写真が掲載されていました。
 そして、
 -―広島の原爆で初恋の人を亡くしたことが、参加するきっかけだったそうですね。
この質問に対して、渡辺さんは、
「劇の始まる五年前、テレビの対面番組で、国民学校時代の級友が広島の原爆で犠牲になったことを知りました。私が会いたいと願っていた水木龍雄君でした。番組に出てきた彼の両親は、「遺体も遺品もなく、目撃者もいないので、いまだに墓も作れない」と語りました。広島で十四万人、長崎で七万四千人が犠牲になったことは知っていましたが、その中に彼がいたことは衝撃でした。」
 「テレビのカメラは私の涙を撮ろうとして近づきましたが、私は泣かなかった。あの時、こらえた涙が心の中で固まって理不尽なものへの怒りに変り、その後の私を動かす力になってくれたと思います。」
 私はその時の場面をテレビで見ていて、その話を往復書簡で書いております。 
そして、一九四五年の東京大空襲の経験について質問されると、
「私が小三の時、太平洋戦争がはじまりました。戦禍が拡大して、多くの級友が疎開する中、「死んでもいいからお母さんと一緒にいる」と言い張り、終戦の三カ月前まで東京に残った、「毎晩十二時になると空襲警報が鳴り、防空壕に入る。焼夷弾はひゅる ひゅる、ひゅる、爆弾はザーと落ちてくる。」
 「一番つらかったのは、食べ物がなかったことです。父がどこからか時々真っ黒な米をもらってきましたが、食べられたものじゃなかった。母が煎った数十粒の大豆を袋に入れて渡されるのが一日分の食糧でした」
 と答えていました。
 この個所を読んだとき、前回の関さんの手紙に「山の手大空襲を語る会」で関さんの東京女学館の後輩生徒が、焼夷弾が落ちるときのザーという音について質問している場面を思いだしました。そして、私自身は、原爆が炸裂した時の、地の底から私自身の全身を貫き、一瞬耳の鼓膜が破裂したかのような音響が伝わってきたことを昨日のことのように思い出したのでした。
 最後に、戦争の継承についての質問については、
「大事なのは教育だと思います。どうして日本は勝つはずもない戦争をしたのか。なぜ、年寄りと子ども、女しか住んでいない都市に原爆が落とされたのか。戦争に行けば、普通の人間が人を殺す。そういった事実を子どもたちにきちんと教えれば、ばかばかしい戦争が防げるのではないでしょうか。学校で戦争の恐ろしさを教えてくれれば、私たちの朗読劇も必要なくなるんですよね。」
 そして、「今の綱渡りの世界の平和が、広島、長崎の犠牲者に支えられていることを私は忘れません」と語っていました。
 その直後の六月二十七日のNHKテレビで、奈良岡朋子さん出演の番組がありました。番組の標題は、<奈良岡朋子89歳大女優と戦争体験。運命の広島公演に向け>となっていました。
 奈良岡さんは、渡辺さんと同じ日本橋の出身で、大空襲に遭って食糧難に喘ぎ、青森に移るまでの三カ月、草などを摘んで飢えをしのんだことを語っていました。彼女は、毎年八月六日が近づいてくると、井伏鱒二の『黒い雨』の朗読会を開いています。今年は、山形で開かれる様子でした。
 広島との縁は、昭和二十五年に新藤兼人監督の映画『原爆の子』に出演したことでした。
 昭和二十五年と言えば、広島市内は原爆で破壊された風景がまだ生々しく残っていました。したがって、現在のように宿泊するホテルや宿の設備がなかったので、普通の民家に泊めてもらって撮影に行ったと語っていました。
 彼女らは広島に行くと、必ず丸山定夫の「移動演劇隊殉難の碑」を訪ね、合掌していました。最後に、「朗読ならば、車椅子でできますからね」と語った言葉が、強く印象に残りました。

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対話随想余滴 №17 [核無き世界をめざして]

対話余滴 17 中山士朗から関千枝子様

               作家  中山士朗

 お手紙拝見しながら、退院後の生活のご苦労が伝わってきます。
 入浴時には、ヘルパーさんに頼んで入浴介護を受けられてはいかがでしょうか。私は要支援1の資格認定なので、そうした介護は受けられませんが、私的に週一度程度掃除、買い物を手伝ってもらっています。
 以前は、独居老人の浴室での溺死、転倒死が新聞などで報じられても、他人事のように思っていましたが、足、腰の衰えを感ずるようになった現在では、一人で入浴するのが何となく不安に思われるようになりました。
 そのために入浴介護をお願いしたのですが、最初はやせさらばえた老体、被爆してケロイドを残した肌を異性の人の目に晒すことの気恥ずかしさを覚えましたが、今では、安心して入浴しております。
 関さんもぜひ入浴介護を依頼されて、安全、快適な入浴時間を持たれるよう、余計な事のようですが、提案いたします。
 トマトの話、被爆後にしきりに欲しがったことを思い出しました。その記憶のせいか、今でもトマトは欠かさず食べています。特に野菜中心の食事に切り替えてからは、スープ、マリネ、サラダは欠かさず食べています、サラダにはトマトが中心になった調理になっています。そのせいか、体調はいいようです。
 私のつまらぬ話ばかりしてしまいましたが、健康の秘訣は、目的のある仕事を持ち、楽しいことを想像しながら、美味しい食事を摂ることだと言われていますから、関さんもぜひそうしてください。
 とは言え、関さんの何時に変らぬ、しっかりした文体のお手紙を読ませて頂き、安心しております。特に早川与志子さんの思いを引き継いだ北杜市のコンサート再演の話、二〇二〇年の東京オリンピックの最中にシニア劇団の全国大会が開かれ、それに大阪のシニア劇団が関さんの『広島第二県女二年西組』で参加する話は、お聞きしているだけでもうれしくなってきます。
 お手紙の冒頭に書いておられました「令和ブーム」の現象、それに比し「海ゆかば」が人々の記憶から消え失せていることへの思いが綴られていましたが、私も同様な思いです。
 いつかも「令」について「命令」のイメージにとらわれると書いたことがありましたが、六月二日の朝日歌壇に高野公彦、永田和宏両氏の選の中に、
 令の字につきまとわれし兵の日日知る人ぞ知る今も夢路に
                (枚方市)鈴木七郎
の和歌が選ばれているのが目にとまりました。
 安倍首相は、しばしば「民意」という言葉を用いますが、この和歌に込められたものこそ民意であろうと私は思いながら読んだことでした。「海ゆかば」についても同じことが言えると思います。
 こうした民意をないがしろにした日本の政治は、どこに向かって行くかと想像すると、昔歩んできた道を行くようなきがしてなりません。
 お手紙の終わりに、ヒバクシャ問題に関心のある二人の大学生にお会いになられることが書かれていましたが、こうした若い人たちがヒバクシャから話を聞き、自分たちの言葉で、語り継ごうとする動きがあることに、私は期待しております。
 と言うのは、六月十三日の大分合同新聞の夕刊「旬の人」というコラムに、核廃絶への国会議員の姿勢を問うサイト開設に携わった安藤真子さん(24歳)の話が載っていたからです。彼女は広島市出身で、現在は神戸大大学院で被爆体験の継承方法を研究していて、「自分の言葉で広島。長崎を語り継いでいきたい」と決意を述べていました。
 彼女は身内に被爆者はいませんでしたが、周囲から「体験者の生の声を聴くことのできる最後の世代」と言われて育ったと言います。非核を訴える署名運動やヒバクシャへの聞き取りに関わりはじけたのは、高校一年生の時。原爆の記憶を家族にも話せなかった人が「あなたになら」と口を開いてくれたそうです。「思いに触れても、完全に理解することはできない」と悩んだこともあります。けれども。高齢化する被爆者から、「二度と同じ体験をさせたくない」との願いを託された気がして、「駆り立てられるようにして」話を聞いたと言います。
 ICANのノーベル賞受賞を祝う会で川崎哲氏と知り合い、被爆者と船で、世界各地を巡り、記憶を伝える活動に共に参加しました。航海を終えて、帰国した昨年末、前期サイトの解説への協力を依頼され、議員調査を担当し、事務所に約五百通のメールを送ったが、返事はほとんどなかったそうです。「核廃絶の立場が選挙で問われたことはない。各議員の姿勢を明らかにすることで、現状を変え、政府を動かしたい」との抱負を述べています。
 関さんがお会いになられる二人の大学生、そして安藤真子さんのような若い人たちが次次々に現れて欲しいと思います。そのためには、体験を語ることのできる最後の世代の私たちが、正確な記憶、記憶を継承しておかなければならないと思っております。

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対話随想余滴 №16 [核無き世界をめざして]

対話余滴 16   関千枝子から中山士朗様

            エッセイスト  関 千枝子

 退院から早くも二週間たちました。なんだかばたばたしていて、もうそんなにたったかしら、という感じです。
 世の中、相変わらず「令和ブーム」で、バカみたいと思うことばかりです。「海ゆかば」の話は、ほとんどの人が話しませんし、皇室の記事が異常に増えているのが目立ちます。本当に何か、変、です。
 退院後の暮らしも、三カ月の病院生活の間に、用事をたくさん先送りしていて、それを片づけるのも大変だったのですが、介護支援2に判定され、介護の人との打ち合わせなども、大変でした。退院のその日に、打ち合わせに来てくださり、とても親切なのですが、いろいろ契約とかなんとか、いちいちハンコがいりまごまごです。この頃ハンコ使うこと減って来たこともあり、私、ハンコ押すのへたくそ、大変!。用具も購入したのですが、この一つ一つに契約書やハンコ。
生活支援のヘルパーさん、大変ベテランらしく、手際がいいのですが、来るたびにハンコがいります。連日のハンコにびっくり。それでも、用具は、定価の一割で買えありがたいです。九割は公的な補助なので、書類やハンコがたくさんいるのも仕方ないかもしれません。わかりますが。 
 生活支援は、週一度、私のできないところの掃除などを手伝ってくださいます。もしかしたら中山さんのところにもこんなヘルパーさんが来てくださっているのかもしれませんが、本当に四十分くらいで、手早く上手に仕事してくださり、感心してしまいます。 
 用具の中でみなさんあまりご存知ないと思う道具は風呂に入るためのもの、病院のリハビリではシャワーを練習させられ、これは自分一人で完璧にできるようになったのですが、シャワーだけでは嫌ですね。暑い日であっても湯のなかでゆっくり温まりたい。しかし、私の足の状態では、風呂桶が深すぎては入れない。そんなとき助けのために、風呂桶の上に板、桶の中に椅子を置き、これを使うとうまく入れるのです。こんな道具など三点を一万円位で、購入できました。大助かりです。介護の制度についてはいろいろ問題も多いと思いますが、やはり大事な制度だと思いました。
 食事は食欲も、まあまあですが、毎日トマトをたくさん食べています。病院の食事は野菜が多く、ヘルシーだったのですが、トマトは、高価なためか、あまりなく、トマトが欲しいと言って娘に差し入れてもらったこともあります。退院後、毎日トマトを食べているのですが、トマトには病気の人を癒やすなにかがあるのでしょうか。原爆の時のことを思い出しました。中山さんもトマトを欲しがりお父さんが苦心された話、前に伺いましたが、本当に原爆の時、けがをした皆さんがトマトを欲しがったのを思い出します。トマトが、傷に沁みないのがよかったのか。そんなことを思いながら毎日トマトを食べています。

 まあ、こんなことで。ガタガタしていますが、とにかく私の今の状態はパワー不足、体力不足なのです。それだけ大腿骨骨折は体力を使うということらしいです。もちろん手術のすぐ後からリハビリ、歩く練習をしているのですが、私の今の状況では歩行が、ちょっと長いところは杖だけでは無理で、杖とサイドカートの二つで歩いているのです。もちろん歩行器などをつかえばもっと楽に歩けるのですが、近所だけでなく、さまざまな場所にいくのに歩行器では不便です。さまざまな乗り物を使う、階段、エスカレーターをつかわなければならないところもある。いろいろなことを考え、少し遠い距離を歩くには杖とカート、近いところ(わがマンションの中など)は、杖。ほかに屋内は,伝い歩きも併用、何もなしで歩きます。
こんなことでも、体力不足ですぐ息が上がってきますが、体力(パワー)を取り戻すためには、結局歩くことしか方法はないということです。それで、毎日できるだけ歩くようにしています。ただ杖とサイドカートの歩行ですと傘がさせず、雨の日が問題なのですが。

 まあ、こんな日々で時間のロスも多く、かっかとしていますが、とてもうれしい知らせも入っています。
 対話随想で、早川与志子さんの北杜市の感動的なコンサートのこと書きました。早川さんからうれしい便りが来ました。あのコンサートで歌われた歌手の方から、今度は自分たちが早川さんの思いを引き継ぎ、コンサートをしたいと言ってこられたそうです。核廃絶、平和の気持ちを引き継いで、ヒロシマから被爆二世の方も招くそうです。こうしたことには広島市も、被爆二世の方の旅費などをヘルプしてくださるそうで、いいですね、早川さんも、もう二度と同じようなことはできないと思っていたそうですが、歌手の方の熱心な思いに、司会などを手伝うそうです。早川さんの思いが引き継がれたそうで本当にうれしいですね。
 それからある大学の学生さんが、ヒバクシャの問題に関心があり仲間の友人と二人でぜひ話を聞きたいと言ってきて、六月の末、お会いすることにしました。この学生さんは、竹内良男さんの紹介です。でも、近頃原爆のことに興味を持ったようで、私の本など読んでいないようです。でも、こういう若い人々が出てくるということはうれしいことですね。
 それから、「対話随想」の二〇一七年ごろにも書きましたが、シニア劇団の全国集会があり、奈良の熊本一さん(劇団大阪)のシニア劇団が『広島第二県女二年西組』を演じ、それを見て、このドラマを演じる劇団もあったという話を書きました。其の後、劇団大阪のシニア劇団「豊麗線」は、熱心にこのドラマを演じてくださっていますが(出前公演などもなさっています)、二回目のシニア劇団の全国大会の方が二〇二〇年、オリンピックの真っ最中に東京で開催されるそうです。それに「豊麗線」は「二年西組」で参加すると言われ、そんなことができればいいですがね、と半分は本当かなという気で聞いていたのです。そしたら、本当に二〇二〇年夏、東京で大会をやることが決まったのですって。「豊麗線」は本当に「二年西組」で参加するのですって!
えらいこっちゃ、大いに宣伝して、人集めしないと、と思っています。 それまでに、大いに元気のならないと。ぼやぼやしてはいられません。

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対話随想余滴 №15 [核無き世界をめざして]

対話余滴15中山士朗から関千枝子様

                 作家  中山士朗

 五月二〇日、日高さんから余滴14のお手紙が送られてきました。その時、関さんの退院が25日に決まったことが伝えられ、共に安堵したことでした。三カ月の療養生活の間、さまざまな感慨がよぎったことでしょうが、どうぞ、焦ることなく、ゆっくりと事を運んでください。
 前回頂いたお手紙に、「海ゆかば」についての考察、それに伴う「萬葉集ブーム」、元号が「令和」に変ったことによる若い世代の人々の、意識の低さについて述べられていましたが、私も同感しながら読ませてもらいました。そして、「平成は戦争がなく、ンよかったと言いますが、私から見れば、この三十年、限りなく戦争に近く、戦前の趣を呈しているように思えてならなうのですが」という趣旨の言葉がありましたが、その通りだと思います。
 関さんの手紙が届いた翌二十一日の新聞に、丸山穂高議員の発言問題が発生したことが伝えられました。これは北方領土へのビザなし交流訪問団に同行していた十一日国後島の宿舎で酒に酔い、元島民の団長に「戦争でこの島を取り戻すのは賛成ですか、反対ですか」「戦争をしないと、どうしようもなくないですか」と質問し、元島民から厳しい批判が相次いだと言います。日本維新の会では、十四日に除名処分にしましたが、与党はけん責案を衆議院に提出しましたが、野党からの議員辞職勧告決議案は否定されました。この野党の決議案に対し、丸山議員は「言論の府が自らの首を締めかねない」と反発し、辞職を否定しています。
 こうした事実を新聞、テレビの報道で知ったとき、私は、戦争を体験したことのない世代の発言だとは思いましたが、歴史から何も学んでいない人間が国会議員になっていることの恐ろしさを感じずにはいられませんでした。
 前回の四月二十二日付の手紙に、偶然に「令和」という元号が、萬葉集からの典拠だという説明について、私は「安倍首相もやはり戦争を知らない世代の人だと思いました。知らないというより、歴史から学ぼうとしない宰相としか思えません」と書いているのです。繰り返しになりますが、萬葉集と言えば、私たちの年代の物は、すぐさま戦時中にしばしば歌わされた「海ゆかば』に直結してしまうのです。
   海行かば水漬く屍
   山行かば草生す屍
   大君の辺にこそ死なめ
   顧みはせじ

 こうした私個人の感情と機を一にした川柳が、五月三日の朝日新聞の西木空人選による七句のうち二句が選ばれているのが目に止まりました。
    「憲法を守り」が令和で「のっとり」に  福岡県 牧 和男
    おおきみの辺にこそ死なめと説くなよな  広島県 廣田 勝弘

 安倍政権はこれまで安全保障関連法を成立させ、集団的自衛権の行使や多国軍の後方支援拡大への道を開いてきました。その一方で戦後七十年以上たち、戦かを知る世代は少なくなっているのが現状です。そんな状況の最中、安倍政権は憲法に自衛隊明記、憲法改正に躍起になっているのです。改元を利用した政治の在り方に疑問を抱いている最中の丸山発言でした。この宰相にしてこの議員あり、と簡単に言って済ませることではないと思うのですが、『一億総活躍時代へ』の言葉に、戦禍を体験し、記憶している私たちにはいつ一億一心 火の玉や、一億玉砕、総決起に振り代わるかも知れない、という危惧の念が生じて来るのです、ましてや、失言した大臣を抱え、その湿原のためのマニュアル迄作成しなければならない政府のこと、何が起こるかわかりません。丸山発言は、まさしくその象徴のように私には思われてなりません。
 暗い話になってしまいました。この辺で打ち切ります。
 このところ、私たちの「ヒロシマ往復書簡」を呼んだ人たちから、いい仕事をしているとの評価をいただき、嬉しく思っています。その評価の背景にあるのはブログで読むのと本になって読むことの違いが指摘されていました。ブログではその時点で書かれたことしか読まないけれども、本になるとその前後と関連しながら読むのでいっそう理解が深まるという趣旨の言葉が多くありました。
 それというのも知の木々舎の厚意によって、七年簡にわたって発表の場を与えて出させているおかげだと思っております。関さんも、私の年齢相応の病気を抱えておりますが、「核なき世界のために」のコーナーで執筆していることの幸せと感謝の念を抱いているのではないでしょうか。死ぬまで書き続けるという意思の現れは、ここから始まっているような気がします。

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対話随想余滴 №14 [核無き世界をめざして]

対話余滴14 関千枝子から中山士朗様

             エッセイスト  関 千枝子
 
 なんだか、この前の手紙、泣き言ばかり書いたようで失礼しました。ただ、大腿骨骨折のリハビリの大変さを、痛感しています。退院は四月は無理で五月になりました。
 それにしても驚くのは年寄りの入院者の多いことで、まるで老人病棟のよう。それも女性が多いのです。完全に認知症と思われる人もかなりいます。年寄りの骨折がいかに多いか、ということだと思います。身の回りのことも何もできない人も多く、結局家族が見るということなのでしょう。幸せな方々かもしれませんが、いろいろな意味で考えてしまいます。ただ一つ言えることは、やはり、けが(骨折)はいけませんね。高齢者には禁物です。屋内で骨折する人も多いようなので、中山さんも、これだけは気を付けてください。
 病院に篭っているうちに世の中いろいろ変わってきました。不愉快なことが多いです。まず、元号騒ぎです。これで安倍氏の支持が増えたなど、信じられませんね。でも、中山さんのお便りに「海ゆかば」のことが書いてありうれしくなりました。「令」の字の持ち上げや萬葉集賛歌が言いふらされる中、「海ゆかば」のことを誰も言わないのに、私は怒っております。最近、「海ゆかば」のこと書いている新聞もあることに、気づきましたが、とにかくテレビの世界では(今、私は、新聞を読む機会が少なくて、多くの情報をテレビに頼っていますので)、海ゆかば」のことに触れているテレビ番組など見当たりません。戦中を少しでも生きた人間だったら「海ゆかば」を忘れた人はいないでしょうに。
 あまり腹が立ち、女性文化研究所の機関誌(ニュース)に、そのことを書かせていただきました。依頼は「今伝えたいこと」というテーマで、数回連載で、思っていることを書いてくれということで、私の生まれたころからのことを書こうと思ったのですが、この「令和騒ぎ」で、昨今の話題と絡めて皆さんが忘れていることを書こうと思います。
 第一回は、「海ゆかば」のことを書きました。萬葉集が貴族から庶民までの歌を集めた国民の歌集のように言われるが、あの頃の庶民があの難しい万葉仮名を書けたか。その中でも貧しい東国の防人が歌を詠み、書くことができたのか。五七調は日本語をしゃべる人にとって言いやすいので、少し教えれば、短歌めいたものをしゃべることはできたかもしれませんが、万葉仮名で書くことはどうでしょうか。誰かがあとから添削したものではないか、そんな疑問をもっています。
 さらに、「海ゆかば」の曲のでき方に対する腹立たしさです。
 あの歌は、一九三七年、盧溝橋事件から始まったシナ事変が実質的戦争に広がり、近衛内閣が、「国家総動員計画」を立てた。その最初の国民を鼓舞する大宣伝が「国民歌謡」でした。月に一度「国民歌謡」を作りラジオで放送するというのです。昭和の初めに出現したラジオは、満州事変を経て国民に広く普及、よく聞かれておりました。国民歌謡の第一回が「海ゆかば」でした。信時潔氏の作曲による荘重な調べは国民の心をとらえ、誰一人知らぬものはない曲となりました。天皇のために命を惜しまない、それが日本人、戦死は「誉」という考えが自然に国民の中に行きわたっていったのです。
 特に忘れられないのは戦争末期、玉砕の報とともにこの調べが流されたことです。鬼畜米英憎し、一億火の玉となって聖戦を闘い抜く、と悲壮な気持ちになったものです。
 なぜ、国民歌謡第一作が「海ゆかば」だったか。私は、どう考えても信時氏が自分で海行かばの歌を選んだとは思えないのです。国家総動員で難局に対処する、国民を鼓舞する歌には何がよいか。それには防人の天皇への忠誠の歌こそ最高、と考えた人がいて、当時超一級の作曲家信時潔氏に曲をつけることを依頼したのではないかと思うのです。
 この歌のすさまじさ。海でも山でも野垂れ死にOK。屍などどうなっても構わない、遺骨どころではありませんね。しかし、こんなことを本当に防人が心から思って歌に詠んだのだろうか。万葉仮名を自分で書くことは無理でしょうから、元歌のようなものがあっても誰かが手を加えたのではないだろうか、と疑ってしまうのですが。
 もっとも恐ろしいことは、今回の「令和」騒ぎで万葉ブームが起きたのに、「海ゆかば」のことを誰も言わないことです。皆さん、「海ゆかば」のこと忘れてしまったの!
 とにかく、元号というものに、私は大反対で、世界に通用しない日本だけの「馬鹿な習慣」それに対し、まったく無批判で、「時代の区切り、節目だから」など平気でしゃべっている人の多さ、何だか、悲しくなってしまいます。
 こんなことを書いているうち五月一日になってしまいました。今日から令和一年になるわけで、テレビをひねったら、一晩寝ずに踊っただの、令和と名付けたお菓子に行列ができたの、デパートの初売りに大騒ぎだの、まるで、去年のハロウィーンの渋谷の騒ぎを思い出すような騒ぎがあちこちで行われたようで、ほとほといやになってしまいました。日本人はお祭りが好きで、なにかにつけ直ぐ舞い上がるようで、怖いと思います。新しい時代になったなど平気で言っている人、何を考えているのでしょうね。世界中の大部分に人が元号なんて知らないのに、日本人だけが「新しい時代」なんておかしいですね。
 天皇(上皇ですか)は平成を戦争がなく、好かったと言いましたが、私から見れば、この三十年、限りなく戦争に近く、戦前の趣を呈しているように思えてならないのですが。
 世の中の「バカ騒ぎ」と別に、とても心配です。日本だけでなく、世界中の逆コース(こんな言葉、ありましたね。覚えておられますか)心配です。NPO会議でも核を持つ国々の態度はますます荒々しく、気持ちが逆立ってくる思いです。


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対話随想余滴 №13 [核無き世界をめざして]

        対話随想余滴⑬  中山士朗から関千枝子様

                作家  中山士朗

 このたびの関さんの闘病記を読みながら、やはりもの書きの人が書いた文章だと感心いたしました。
私なぞは、最近、私たちの『対話随想・余滴』を読んでくれている親しい人に「文章に脳軟化の兆候が表われていると思ったら、教えてください」と依頼している有様です。それに較べて、大変な手術を受けられ、そのリハビリも苦痛を伴うにも関わらず、自分自身を客観的に観察されている文章の鋭さには敬服いたします。そのような状態のなかにあって、仕事のことが念頭から離れない新聞記者の魂のようなものを感じました。それにしても、お怪我をされた後の日程の詰りには驚きました。このたび出版されました私たちの『ヒロシマ対話随想』の帯に、「行動の人」と日高さんが命名されたのもむべなるかなと思いますが、これからは少しご自分の時間を持たれるようにされてはと念願しております。
 そのことを感じながら読んでおりますと、被爆直後の私の姿が彷彿としてきました。
 そして、いつかも『往復書簡』の中で書いたと思いますが、原爆の放射能と熱線を浴びて顔や手足に火傷を負った私が、現在では看護師長というのでしょうか、外科病院の看護婦長から三ヶ月の間、毎日治療を受けた日々のことが鮮明によみがえりました。それは、火傷した顔や手足の焼け剥がれ、爛れた皮膚の下の組織から滲出するおびただしい膿液を拭い、チンクオイルを塗布するだけの治療でしたが、クレゾール水溶液を含ませた消毒綿が触れただけでも飛び上がるような痛みを感じました。
 気丈な婦長さんは、私を押さえつけ「身体じゅうに蛆をわかせ、臭くなって死んでもええと言いんさるか」と語気を強め、額に汗を浮かべながら私の体を押さえ続けるのでした。私は私で「こんとに痛いんなら、死んだ方がましじゃ」と叫んでいました。おしまいには、家人が手伝って私を押さえつけ、ようやく治療が終了するという始末でした。
 ですから関さんが術後に身体をひねったり、前にかがんではいけないと看護師の方から注意され、介護ヘルパーさんに支えられての生活に気落ちされたことは、よく理解されます。私も治療が終わった後で「よく頑張りましたね」と褒められたことを、関さんの闘病記を読み終えて思い出しました。
今後、日常生活において色々と支障を来たすことがあるかもしれませんが、乗り越えて下さい。関さん流に言えば、「目」、「耳」、「口」が達者なら大丈夫です。私は、それに「手」を加えております。吉村昭さんが、作品は「手」で書くものといわれた意味が、最近ようやくわかるようになりました。そして「手」は、生命維持の 根源の機能をもっていると思うようになりました。
お手紙の冒頭に、私の肺炎後の健康状態についてご心配を頂いておりますが、つつがなく暮らしておりますのでご安心下さい。けれども、最近、新聞の訃報欄を眺めておりますと、高齢者の肺炎による死亡が多いことにあらためて気づいているところです。幸い命が助かったものの、気をつけなければならないと思っております。
このたびのお手紙の締めくくりとして、元号「令和」の典拠の歓迎ムードについての考察が述べられていました。私も関さん同様に、新元号発表後の安部首相の談話には腹立たしさを覚えました。
 初春令月 気淑風和(初春の令月にして、気淑く風和ぎ)「萬葉集」巻五、梅花の歌の序を典拠したことを告げた後で、「天皇や皇族、貴族だけでなく、防人や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められている」と説明し、国書からの典拠と説明しました。その結果、異様な歓迎ムードが高まったのでした。政策的にも、効果をもたらしたのです。
こうした決定の談話を聞いておりますと、安倍首相はやはり戦争を知らない世代の人だなと思いました。知らないというより、歴史から学ぼうとしない宰相としか思えません。
戦争の最中に育った私たちは、萬葉集と聞けば、
海行かば水清く屍山行かば草生す屍大君の辺にこそ死なめ顧みはせじ
と、事あるごとに歌わされましたが、学徒勤労動員で派遣された工場でも、日本軍玉砕のニュースが伝わった際には、作業を中止して斉唱し、必勝祈願したことがまず頭の中に浮かんできます。
また「令」という文字を見た瞬間、私は「命令」という文字がイメージされました。それは、私たちが戦時中に、国民学校令、学徒出陣命令、中学生の勤労動員令、女子挺身勤労令、ひいては勅令、召集令状、戒厳令などの言葉に出会ったからだと思います。その他に朝令暮改、巧言令色鮮仁(論語)という言葉もあり、「令」という文字に関しては良い印象がないのです。戦争を体験した世代がやがて消滅すれば、「令」は安部首相の言う麗しい時代を象徴する言葉になるのでしょう。
「令」という言葉は、関さんの言われるごとく、中国の古典の影響を受けているのはまちがいありません。萬葉集は、日本が律令国家を形成していた頃、つまり随・唐にならって七世紀半ばから形成され、奈良時代を最盛期とし、平安初期の一〇世紀までとされていますが、その間三百五十年間にわたって詠まれた長歌、短歌、施頭歌など約四千五百首も収められているのです。
「律令」は辞典によれば、律と令。律は刑法、令は行政法などに相当する中央集権国家統治のための基本法典、と示されています。律も令も古代中国で発達、随・唐時代にともに完成し、日本はじめ東アジアに広まったとされていますから、やはり萬葉集からの典拠として決めつけるのは無理があるような気がします。




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対話随想余滴 №12 [核無き世界をめざして]

余滴12   関千枝子から中山士朗様

             エッセイスト  関 千枝子

 私のけがでご心配かけましたが、中山さんは、肺炎の後、すっかりよろしいのでしょうか。ご自分の体のことは書いておられないので、心配です。でも、定政さんや、中国新聞の西本さんが別府まで見えたとのこと。よかったですね。別府は近頃広島からは不便で、皆さま行きたいと思いながら敬遠されるのですが、本当に良かったと思います。でも、中山さんの一中同窓会(鯉城高校の一年だけの卒業生ということになりますか)、「二三会」十五人参加というのは厳しいことですが、それにしても幹事役がいて、同窓会が開けるだけでも立派だと思います。

 この後、前の余滴の10での書き残しですが、一応書いていたものを送ります。書いてから少し時間がたって、少しバカみたい問われながら思うこともあるのですが、一応ご報告ということで。

 杖を使い始めたのはずいぶん前です。十年以上前です。転ばぬ先の杖、絶対に転倒することはないと威張っていたのですが、過信だったようです。倒れた瞬間痛いという感覚はなく、みっともない、起きなくてはと思ったのに、立ち上がろうとしても体が動かず変だと思っているうち人が寄ってきて皆様のお助けでひとまずロビーの椅子に腰かけました。落ち着いたので、体を動かそうとしても動きません。変だなと思っていると、水戸さんのお友達の介護の専門家の方が来ていらしたのですが、私の足などを動かしてみて、これはちょっと楽観出来ないと、自分で電話をかけ救急車を呼び、さまざまな手続等をとってくださいました。あれがなければもっと面倒なことになっていたかもしれません。救急車に乗る時、担架に乗せられる時の痛さ、思わず悲鳴が出、我ながらただ事でないと思いました。着いた先は東京新宿メディカルセンター(昔の厚生年金病院)です。整形外科では定評があるところで、まずはよかったと思いました。これからが大変で、検査があり、大腿骨骨折をしている、このまま入院と言われ、驚きました。一応ノートに子どもたちの電話が書いてあるのですが、なかなか通ぜず、大変でした。
 しかしこの救急センター、救急のけが人で一杯なのにも驚き、看護師さんたちの親切なことに心温まる思いでした。次の日が土曜日で、医師が決定しないというので心配しましたが、翌朝、救急センタ―の当番医師だった。小松先生が執刀すると言ってくださいました。
 この日からあと私は予定がぐっと詰まっていたのです。五日が選択議定書批准を目指す院内集会、六日が歯医者、七日が女性「9条の会」主催の澤地久枝さんの講演会、八日は昼間が安保関連法女の裁判の法廷があり、夜は、「38国際女性デー神奈川集会」に講演に行くことになっていました。この中で一番困ったと思ったのは、国際女性デーでした。ふつつかな私がメイン講演者です。責任もあり、日にちが迫っています。誰を代役にするにしてもお困りのことよくわかります。ほかの会は私の役と言っても大したものでなく、誰でも代わりはききますが、8日のことは本当に悩みました。
 主治医の小松先生に8日に講演に行けないかとお願いしてみました。「不可能ですよ。」と小松先生。「あなたの状態では今車いすに乗ることも不可能です。車に乗せるにしても3人がかりですよ。」確かに私も、その後、身動きできない痛さを経験しました。すぐそこの物が取れない。少し体を動かしてもイタイタ。何とも情けないがどうにもならないのです。小松先生に「あきらめます」というしかありませんでした。
 でも本当に悩みました。金曜日の夜の事故なので土日が入り、事故のことを知らせたのが月曜、期日までに代役決まるかしら。申し訳なく、死ぬ思いで、持ってきてもらったパソコンで、レジュメの梗概はできていましたので話し言葉で書きました。病院の病室には電源はあるが、インターネットは通じません。外部との連絡は携帯のみ、閉ざされた世界になりそうで、困ったのですが、娘たちのスマホにつなぐことでインターネットにつながることが判りました。その時だけですが、私に来たメールは全部開けられますし、明けたメールは後から読むこともできます。メールも飛ばせます。この機能を生かし、神奈川の女性デーの実行委員会に原稿を送ろうかと思ったのですが、そんなのをもらってもかわりに読む人はないし、と、断られてしまいました。それはそうですね、娘たちも却って失礼だよ、と言っていましたから。ただ私、精魂込めて書いたので少しがっかりしました。3・8の中央集会なども、今年は女性差別撤廃条約40周年を言っていますが、私は長い38の歴史、共産党だけの祭りだ、と、時の政府や占領軍などに言われながら、この日を守り抜いた日本の女性たちの歴史を強調したかったのです。
 もう一つ驚いたことは、病院の看護師の女性たちも「38女性デー」のことなど全く知らないことでした。女性デーにとり組んでいる人は多いし、皆がんばっています。しかし女の運動、まだまだ少数派というか、女性の中でも主流になっていない。これは問題だと思いました。「女性デー」を国民の祝日に、という運動ができないものかと思いました。
 私は今の祝日が、ほとんど全部、戦前の皇室関係の祝日がそのまま残っていることに、本当に問題を感じます。一月一日や、春分の日、秋分の日など関係ないではないかと思われるかもしれませんが、正月元旦は皇室にとって最大に大切な祭祀の日、皇室は天照大神の子孫で、太陽信仰です。春分や秋分は春季皇霊祭,秋季皇霊祭という太陽信仰に由来する大切なお祭りの日でした。あとになってできた海の日などの祝日も何やら皇室がらみだったり、こんな祝日ばかりで女の日がないのはおかしいではありませんか。
 
 イタイイタイで騒ぐうち七日には手術となりました。手術は寝ているだけですから私は気楽ですが。翌日からのリハビリで、けがのあと始末の大変なことが判ってきました。
 実はここまで書いて止まってしまったのは、ショックを感じてしばらく茫然としていたからで。手術の翌日からリハビリなどと言いますと、昔の人はびっくりしますが、リハビリは早い方が回復が早いと言います。リハビリの先生たちは親切ですし、いつも思っていることですが、この方々は、絶対に悪く言わず褒めてくださいます。昨日よりよくできましたよ、と言われるとたとえ御世辞でもうれしくなるというものです。
 それで何となくほんわかしていたのですが、手術後一週間たち、シャワーを浴びていいことになりました。これも順調でいいことのはずだったのですが、何しろ初めて電話、がみがみ言われ、看護助手の人が体を左に(左は手術したほう)ひねってはいけない、かがんではいけない、そうすると手術のあとが悪くなるようですが、自分は前のような体になれないのか、前にしゃがむこともできないのかと、ものすごくショックでした。つまり落ち込んでしまったのです。髪も洗ってもらったのですが、美容室スタイルであおむけ、前かがみはだめと言われるとこれは退院してからどうなるのだろうと考えてしまいます。
 手術の前に先生と話し合い前かがみにも耐える金具を使ったはずですが、看護師にがみがみ言われると本当に嫌になりシャワーして気持ちいいはずがイヤーな気持ち。
その後看護師の方も、少し前かがみは構わないとも訂正され、生活指導の先生も髪もうつぶせで洗ってもいいと言われたのですが、とにかく衝撃でした。私は、けがの前のような状態になると思い込み、多少歩くのが遅くなるかも、くらいに思っていたのですが。とにかく術前にもどれず、介護ヘルパーの世話がなければいけないのでは嫌ですね、心配で心配で、夜も寝られぬ感じです。
ここまで書いてしばらくお休みしていました。だいぶ状況が変わり気持ちも変わってきました。シャワーもだいぶ上手になっていますし(整形外科のシャワーって、サービスでなく、リハビリのトレーニングの一つなのですね)。リハビリもよれよれだったのが、歩行器で歩けるようになりましたし、杖で歩くのも始まりました。まだ歩くと息が上がりますが、かなり上手に歩けました。息が上がるのは体力が減っているからで身動きできない頃、かなり体力を使っているからと、リハビリの人は言います。
この病室年寄りが多く、私は元気派のようです。前の日、分かっていたのに、次の日、自分がどこにいるかもわからなくなる人もいてびっくりすることもあります。認知症の人のけがも大変ですね。要するにけがをするのは年寄りに多いということでしょうか。
でも医者に、「あなたが六〇歳だったらあのくらい転んでも大腿骨骨折になりませんよ」と言われてしまいました。元気を装っていても婆は婆あだと思います。過信せず落ち込まず、リハビリにつとめなければなりません。ともかく外歩きができ、一人で、暮らしていけるようにならないと。
こんなことを言っているうち、テレビは、新しい元号でバカ騒ぎです。私は元号というものにそもそも反対で、日本だけなぜこんなバカなことがあるのか、西暦で通した方が、ずっと経済的だし、グローバル化など言われるのに、元号にしがみつくのはおかしいと思うのですが、世の中大騒ぎで、万葉集ブームとか、梅の名所がブームだとか、あの万葉集の歌が詠まれた九州大宰府の神社に人が押しかけているとか、誠にばかばかしく思えます。安倍さんは、万葉集を日本古来のものということを強調、日本の文化と伝統を言っていますが、萬葉集自体中国の古典の影響を受けていますし、万葉仮名、つまり漢字で日本語を書いたわけで、字を中国からもらい、それを日本流に直していったわけで、中国の古典の影響、少しも恥ずかしいことではない。それに万葉集は、貴族から庶民まであらゆる階層の人の歌と言いますが、本当に貧しい人や防人たちが、あの難しい万葉仮名をかけたのだろうか。誰か「手を入れた」のではないだろうか。私はなんとなくそんな疑問も持っているのですが。「防人の歌」というと私たちの世代、すぐ思い出すのが「海ゆかば」です。でも、テレビなどを見る限り、それを言う人はありません。私はあの歌がすぐ頭に浮かび、げっそりしたのですが。
とにかくすぐバカ騒ぎに乘ってしまい(乗りやすい)、さらにそれを商売にしてしまう、日本人の体質、私恐ろしく思われてならないのですが。

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対話随想余滴 №11 [核無き世界をめざして]

    対話余滴11 中山士朗から関千枝子様へ

                  作家  中山士朗

 今回の国泰寺高校の同窓会にまつわるお話は、私たちの旧制広島一中同窓会の現況を思い出させるものでした。
 学制改革で昭和二三年に旧制最後の一中(この後、鯉城高校となり、関さんが一期生となられた国泰寺高校になるのですが)を卒業した私たちの同窓会は「二三会」と称し、広島在住の世良邦治君が世話役で、これまでは年一回開催の会が運営されていました。昨年を最後にその呼びかけが中止されることになりました。世良君の説明によると、年々、高齢化による疾病などで出席者が減ったためということでした。私も、折角の案内状をもらっても出席できない者の一人でした。
  したがって、昨年、世良君の提案で、広島における最後の「二三会」が開かれました。案内状を送ったのは九〇名でしたが、出席者は十五名ということでした。私達の学年は、入学時には五学級二五〇名が在籍していましたが、一学級が爆心地近くの建物疎開作業に出動していて全員被爆死しましたので、生存した生徒数は二〇〇名ですから、現存者数はその45%ということになります。
 最後ということで、校庭のユーカリの前に集合し、被爆死した学友の名前が刻まれた「追憶の碑」の前で黙祷した後、男女共学の時代ではない当時は、近くに広島第一縣女があったために禁止されていた通学路、現在は平和大通り近くに門柱のみが遺跡として残されていますが、その道筋をたどったり、私たちが建物疎開の作業で出動していて被爆した鶴見橋に立ち寄ったりしながら逍遥し、黄金山の麓にある「半兵衛」という料亭にたどり着くという趣向が凝らされたものになりました。そして、席での近況報告では、通常病気の話が多くなりがちなために、それには触れないという申し合わせで行われ、好評だったそうです。年齢を重ねた同窓会は、なにかと気を遣うことが多いようです。
 関さんにもこうした同窓会の変化がありながら、個別的な交友関係が残されていることがお手紙に記されていました。それによって、関さんのお怪我の原囚がよく分かりました。
 それにしても、この場面の描写が、実に生き生きと、かつユ-モラスに描かれていることに感心いたしました。
 そのようなことを考えながら暮らしております時、広島から一中時代の友人である定政和美君が見舞いがてら、日帰りで訪ねて来てくれました。それは、私が大腸に癌が見つかったことを電話があった時話していたので、自身も体調不良にもかかわらず見舞いに来てくれたのでした。
 定政君のことは、これまで『私の広島地図』、関さんとの共著『ヒロシマ往復書簡』の中で書いておりますので、ご承知のことと思います。
 彼は、小学校に上がる年にアメリカから帰国し、昭和一八年にー中に入学した時に私と知り合いになったのでした。三年生になった時、学徒動員先の軍需工場からの指示で、建物疎開作業の現場である鶴見橋の西側の袂(爆心地から1.5㎞)に集合していて、共に被爆し火傷を負ったのでした。
 彼の家は、現在の原爆慰霊碑に近い中島本町にありました。家業は菓子の卸、販売をしていました。原爆が投下された日、家には病身の母、その介護のために勤労奉仕を休んだ父がいましたが即死。広島女学院の大學で英文学の研究をしていた姉は、第二総軍に動員されていて、縮景園にあった通信部にいて被爆、行方不明。
 その後に海軍経理学校生徒でありた兄が戻って来て、二人は鷹匠町で暮らしていましたが、昭和二十Ξ年に兄の友人を頼って一人アメリカに帰って行きました。その別れに彼が訪ねて来た日のことは、今でも鮮明に思い出されてきます。今から七十年前の話です。
 アメリカに帰ってからは、雇われての農作業、兵役に従事するなどの苫労がありました
が、除隊後はユナイテッド・エアライン、日本航空に勤務し、日本から妻を迎えてサンフランシスコ近郊に居を構えました。そして2013年10月に最終的に広島に帰国したのでした。ひっきょう定政君は、二つの故国で生きたことになるのではないでしょうか。つまり、原爆を落した国と落された国を二往復して暮らしたことになるのです。日本の例では、広島・長崎の二つの縣で二重被爆した人の例がありますが、定政君のような経験者は他にはいないだろうと思います。
 このたび会った時に、彼がしみじみと語った言葉が、私の脳裏にこびりついています。
 それは、疎開の荷物を父とー終に己斐の親戚の家に預けに行く途中で、「一人になってはだめだぞ」と諭されたということです。そして、原爆が投下された日の朝、父が「今日は休んだらどうか」と言ったことの意味があらためて思い出されると語りました。アメリカで長く暮らしていた父親は、日本は戦争に負けると常々語っていたそうです。
 別府駅で別れる時、「元気な顔を見て安心した」と彼は言ってくれました。
 私は、「お互い、も少し生きてみよう」と言って別れました。
 それから八日後に、突然の電話で中国新聞の西本雅実氏が別府に見えたのでした。
 西本氏は定政君の取材中に私の病気のことを知り、門司に取材に来られた機会に別府に足をのばされた様子でしたが、私の無事を確かめて帰って行かれました。その際、私たちの『対話随想』が四月中旬に出ることを伝えておきました。取り上げて下さるようでした。
 できるだけ癌のことは忘れて暮らしたい、と私は願いながら生きているのですが、思うようにはいかないものです。


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対話随想余滴 №10 [核無き世界をめざして]

対話余滴⑩ 関千枝子から中山士朗様

            エッセイスト  関 千枝子
 
 予想もつかないことが起こりました。
 3月1日の夜、コンサートを聞きに、市ヶ谷のルーテルセンターに行きました。国泰寺高校時代の同級生水戸栄子さんのお子さんの水戸博道さんのピアノリサイタルがあったのです。水戸博道さんは明治学院大学の音楽教育学の先生ですが、ピアノの演奏会も時々されているようです。演目がとても面白かったし(私の好みに合う)、水戸さんとも不思議なつながりがありありがたく招待券を頂いたのです。
 水戸さんは有朋高校(第一県女)からいらした方で、学校のスターでした。栗村麗子さんとコンビを組み、軟式テニスをやっていたのですが、このコンビなかなか強くて、高校選手権で全国制覇、大スターだったのです。軟式庭球というと若い方はなんだそれと言われますが、当時テニスなどと言えば大金持ちのスポーツで軟式のボールでも、高くて、皆大変と言っていましたから。第二県女など、校庭は広島女専の借用だし、小さい学校で校友会費も少なく、テニス部はなかったという時代ですから。テニス部と言えば、みなのあこがれでした。
 だから、私の記憶にある多山さんと言えば、真っ黒になってテニスをしている姿でほかの想い出はあまりなくなく、卒業してからも余り縁はなかったのですが、60余年たって、お姉さまは能の金剛流の家元に嫁ぎ(お子様は今、家元)、お子様はピアノ。音楽教育の先生、であることを知り、なんと芸術にかかわりの深いお家だとびっくりしました。私は、父が能が好きでなかなか上手でしたから、結構、話は通じるのです。
 七、八年前になるかしら、広島の国泰寺高校第一期の同窓会が、実務の担い手がなくて閉会になるという時、水戸さんにお会いしました。お連れ合いが亡くなり、東京の御長男(博道さん)のおうちに居を移すということで、本家の広島が閉会になっても東京の同窓)会は続けるということが決まっていましたので、喜んで、東京の仲間に入っていただくことになりました。東京の仲間も一人減り二人減り、久しぶりの新会員でみな大喜びです。東京の同窓会は、本家の同窓会の何周年の年に、皆さん参加しませんかと、私が呼びかけたところ、皆から「広島に行くのは大変だ」「広島に行くことはあるが、同窓会の日に合わせるのは無理や。いっそ東京でやらないか」という意見続出。それで私が「ほんとに参加する?」と確かめたところみな「参加する」と言います。それじゃ、と私が行きがかり上幹事をすることになり、以来私、万年幹事なのです。
 私が東京の同窓会を始めるのに、慎重だったのは理由があります。中山さんもご存知と思いますが、1949年(昭和24)、広島県全部が学制改革で新しい高校を作ることになり大騒ぎ。特に広島市は普通科の中学、女学校が三校ずつ、そのほかに商業や工業、それが全部一緒になって、完璧に地域割り、広島市に、地域性、総合性、男女共学の六つの公立高校ができました。準備も遅れて開校式が五月、てんやわんやのスタートでした。先生たちも始めての経験で、大変、大忙し。その中で私たち3年生は自分たちの手でこの新しい高校を素晴らしい高校につくりあげようと奮闘しました。自治会に、クラブ活動に、数校のメンバーが一緒に協力したクラブもあり、寄せ合い所帯は大変うまくいったのです。そんな中で、私はどこの学校にもできる人がおリ、リーダーがおり、クラブ活動などに熱心な人がいる(中等学校に入る時、輪切りがあるのですが、勉強の点数はともかく、世の中で役に立つ人とは別物)、ということも学びました。私などあの1期の同級生、同志のような感覚で懐かしいのです。
 でも何しろ実質8カ月の付き合いです。東京在住者は数が少なく、互いに名前も覚えていない人もいる。卒業後全くあっていない人も多い。心配しながら手紙を出してみたのですが、8割以上12人だか参加がありびっくりしました。でも当時は男子ばかりでした。私以外に一人女性はいるのですが、彼女は就職したこともなく、男ばかりの中に一人いても会話もないからと言います。それでずっと男の中に女は私一人でした。
 でも、この東京同窓会の第一回をやった時、期せずして皆が原爆体験を話しだし、4時間もの集まりになったことを忘れられません。「それは、ヒバクシャ、仲間内の集まりじゃ。当たり前じゃ。どこでもそれが通用するものじゃないで」とある方に言われたことを思い出します。その方の意見ではヒバクシャでも話したがらない方が多いと。
 水戸さんが来てくださって皆、大喜びでしたが、なんと彼女、女の参加者をもう一人増やしてくださったのです。渡辺、かつての栗村麗子さんです。
 栗村さんは、国泰寺の同窓会に出たことがありませんでした。なんでも彼女のお連れ合いが、熱烈に彼女を愛し、猛烈に嫉妬し、男子のいる同窓会に出てもいけないというのですって!「だからあの人有朋の同窓会には出るけれど国泰寺には出られないのよ」というのを聞いて大笑いしたことがあります。それがお連れ合いの具合が悪くなって、施設に入られることになり、『自由もできて』国泰寺東京同窓会にでる、といわれるのです。
これは、水戸さんとの友情がずっと続いていて、水戸さんとは家族ぐるみの付き合いがあること、息子さんが、医者で茅ヶ崎に住んでおられるので出やすいことなどあります。
 これで我が同窓会、女の参加者は私一人、殺風景な同窓会から女性が半分近くいる「にぎやかな」会になったのですが、栗ちゃんの張り切りようと言ったら。広島のお菓子『紅葉饅頭』やら何やら段ボール箱いくつかを宅急便で送りつけ、みなびっくり。「うちは、主人に尽くせるだけ尽くしたけん」今度は少し自分が遊ぶぞ、といった口ぶりでした。
 ともかく私が感心したのは水戸さんとの友情が、70年も続いていることです。幾ら高校時代のペアと言いながら凄いですね。昔、私がいくつか聞いた女性を蔑視する言葉がありますが、その一つが「女には友情はない」でした。
 こんなに驚いた言葉はありません。誰だって仲のいい友はいると思うのに、その方の言うには、女学校時代どんなに仲が良くても、結婚すると環境が変わる、環境があまり変わると話があわなくなったり、また互いに交際しづらくなるというのです。つまり女は結婚相手次第ということなのですね。私はその話に反発しましたが、反論しようにもデータがありません。五十年ののち。新しい友・運動する女友達はずいぶん増えましたし、少女時代に別れた友とも歳月を経て今同じことを思っていることが判り、大の親友になっている人もいます。要するにものの考え方が問題。環境でなく互いの心の問題だとはっきり分かります。言い換えれば、それだけ昔の女は、心の付き合いをする、あるいは社会的なことを話す機会に恵まれなかったというか。
 ともかく、栗ちゃんと、たーこのむかしながらの親友ぶりは「美談」でもあります。
 まあ、こうして高校時代の物語は楽しいのですが、その水戸さん(多山さん)から昨年手紙がきがまして、私はすぐ行くと返事を出しました。息子の博道さんは明治学院大学の音楽教育の先生ですが、一方、コンサートピアニストでもあるようです。しかし、東京でのコンサートは始めてのようですし何とか成功させたいというお気持ちもくみ取れるので、遠慮なく招待券を頂くことにしました。
 とてもポピュラーな選曲なのですがちょっと変わっていて面白いと思ったのです。まず始めはべートーベンが二つ並ぶのですが、最初は「イギリス国歌による八つの変奏曲」、イギリス国歌など誰でも知っていますが、なぜこれがオープニングなのか。その次は月光奏鳴曲これもポピュラーな曲ですが、なぜこれをここに据えたのかちょっとわかりかねましたが、非常に熱情的な演奏でした。次にラベルが入って、ここで休憩。この後ショパンのスケルツオなのですが、ここで失態、観客席からホール真ん中の通路に出るところで転んでしまったのです。私、杖を使いだして、もう20年になりますが、転倒はなく、私の杖を嗤う仲間のことを嗤っていました、杖がみっともなくても転ぶよりいいと威張っていました。この、ときも急激な転倒にまずいと思ったのですが、その瞬間あまり痛さはなくて、大したことでなくてよかったと思ったぐらいです。驚いた人々がかけよってきて、立ち上がろうとしたのですが、まったく立ち上がれないのです。多くの人々の助けで、ロビーに出て、椅子に座り、ちょっと落ち着いたところで、と思ったのですが、体が動かないのです。そこに水戸さんの友達で介護士の方が来ておられて私の体を動かしてみて、「これは大変」と直ぐてきぱきと救急の方に連絡してくださいました。担架に載せられるまでの痛かったこと。私もやっとけがの酷さが分かりました。近いところということでしょうか東京新宿メディカルセンターに運び込まれ、しばらくしてそこが昔の厚生年金病院だと気づきました。私・むかし、ひじの痛みがあって一度行ったことがあるのですね。記録が残っていて「昔横浜にいた方ですね」といわれてびくうりしました。
 たくさんの検査をされ、夜中のことでなかなか連絡が付かず、困りました。病院というのはいまだに家族の連隊責任とかめんどうなのですね。

 とにかく今日はここまで。後いろいろあるのですが、続きで書くことにします


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対話随想余滴 №9 [核無き世界をめざして]

余滴9 中山士朗から関千枝子様へ

                 作家  中山士朗

 私が病気で入院したために、関さんが連続して筆を執られるようになったのは、今回で三回目です。このたびは、重い肺炎にかかり、かかりつけの病院から国立病院機構の別府医療センターの呼吸器科に送られて、二十日ほど入院いたしました。老齢者の肺炎は危険だと後で知り、ぞっとした次第です。作家の橋本治氏が肺炎で亡くなられたのは、私が肺炎になった同じ時期だったということを新聞で見て知りました。
 こうした事情から、関さんが止む無く忙しい最中、往復書簡が途切れぬようにと執筆して下さったことに心から感謝しております。この背景には、私たちには被爆者として、死ぬまで原爆廃絶に向けて書き続けていくという強い意思があるからです。
 しかし、人間の生命には限りがあるのを、八十八歳の現在に至ってようやく実感できたというのが正直なところです。このたびの二度のお手紙には、戦争を知る世代の死が多く伝えられていました。そのなかでとりわけ心に残ったのは、朝日新聞の「天声人語」氏とも言われた辰濃和男さんの「辰濃文庫」に関する文章でした。辰濃さんにつきましては、私たちの「対話随想」にも書かせて頂いたことがあり、振り返りますと、その美しい文体と温顔がたちどころによみがえってきます。その背景に、二万冊にも及ぶ蔵書があったことを関さんのお手紙によってはじめて知りました。
 その辰濃さんから、日本エッセイスト・クラブ賞の受賞式の時、私の文体を褒めて頂いたことは、今でも思い出しますと胸が熱くなります。関さんが「対話随想」が出版することができたら、「辰濃文庫」に納めたいと語っておられましたが、ぜひそうしていただきたいと思っております。そして、あらためて関さんにとっても私にとっても、辰濃さんとの縁の深さを思わずにはいられません。ぜひとも「辰濃文庫」を訪ねてみて下さい。そのご報告を楽しみにしております。
  以上が、前回頂いたお手紙を読みながら感じたことを書かせてもらいましたが、そのなかで気にかかる個所がありました。それは中塚先生とお会いになられた際の、外反母趾についての会話でした。関さんがそのような病状を抱えておられることをつゆ知らずにいましたが、お手紙を読んではじめてそのご苦労を知ったという次第です。
 そうした状況にあるとき、西田書店の日高さんから、関さんが大腿骨を骨折され、更生年金病院に入院されたとの報告を受けました。一ヶ月の入院ということでした。折り返し詳しい情報を聞くために電話しましたが、連絡がつかないということでした、
  瞬間、私は、前回の手紙のなかでの文章を思い起こさずにはいられませんでした。
  会の終了後、中塚先生にお連れ合いのことを伺ってみましたら、「もう歩くことができなくなり、私では介護できず施設に入りました」ということでした。お連れ合いの足が悪くなったのは、外反母趾からだそうで、私の足をご覧になって「あなたも用心しなさいよ」と言われてしまいました。靴を履いていても私の足、外反母趾と分かりますので。先生はそれで一人暮し、料理も洗濯も一人でなさるそうです。
  こうした内容が綴られたお手紙を拝見した後で、「余滴」⑤の関さんの文章が浮び上がってきました。正月料理をしつらえられた後に、述べられた感想で、私の心の隅に響いた言葉でした。
 
 しかし、この味でいいのだろうかなど不安に思ったり、年相応の衰えは如何ともしがたい。多分来年はできないだろうなど子どもたちに言ったのですが、まあ、どうなりますやら。
 とにかく、今年は絶対に頑張りたいと思います。そして、物書きとして、死ぬまで書きつづけたいと思います。もし、体が動かなくなっても、頭だけはしっかりして、物が書ければいいなと思っております。

  この思いは、私も同様です。
二月に肺炎を患い、不意に〝死の予感〟を覚えたときの時間に通ずるものがあります。どうか、お力落しなく、治療に専念して下さることを析っています。

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対話随想余滴 №8 [核無き世界をめざして]

余滴8 関千枝子から中山史郎様へ

             エッセイスト  関 千枝子

 本来なら今回は中山さんからの番なのですが、中山さんは、二月初めから入院中です。肺炎ということで、数日の入院かと思っていましたが、入院が長引き心配しました。年寄りの肺炎は気を付けなければいけないと言いますし、甘く見てはいけないようです。でも、とにかく快方に向かっておられるそうです。でも、今しばらく入院が続きそうですし、とりあえず、今回は関からの発信をもう一度続けます。

 私はあいかわらず、連日あたふたいろいろなことをやっております。何をやっているか、詳しくお知らせしなければなりませんが、とりあえず、今回は原爆のことを中心に書きます。
 二月八日、中塚明さんの「日本人の明治観を正す」という講演会に行きました。中塚さんは歴史家で元奈良女子大学長。いま、日本では韓国、朝鮮に対する反感がひどいですが、それにはあまりにも朝鮮のことに対する無知、明治は素晴らしいといったいわゆる「司馬歴史観」が「常識」になっているからだと思います。
中塚さんは以前から司馬史観に批判的で、私は、日韓関係の歴史の専門家(研究者)として最高の方だと思っています。ここ数年、お連れ合いの介護でなかなか外に出られないと言っておられたので、心配していたのですが、先日朝日新聞に「東学党」のあとをたどるツアーのことが上丸洋一記者の執筆で出ており、その中で中塚先生がツアーの案内役として活躍しておられることが出ており、お元気なのだ!と思っておりました。そのうち二月八日の講演会の情報が入り、ぜひ行かなければと思っているとき、中塚先生から講演会のことを知らせる手紙が来たのです。これは何としても行かなければなりませんね。
 中塚先生のお話は、朝日新聞の記事のことに始まり、「東学党のことを日本の新聞で取り上げたのは、初めてのことではないか。画期的だ」と言われました。そして、日清、日露という戦争を通じて日本が朝鮮侵略を進めた歴史が話されました。会場には上丸さんも来ておられたので、私は、「いい連載だったけれど、五回で終わったのは残念」とからかったのですが、上丸さんは「まあ、あれはあのぐらいで。今度、三・一独立運動のことを書きますから」と言っておられました。三・一独立運動も今年、一〇〇年。日本人は、こうした朝鮮の歴史を知らなすぎます。朝日新聞にいい記事が出たらいいな、と思っています。
 会の終了後、中塚先生にお連れ合いのこと伺ってみましたら、「もう歩くことができなくなり、私では介護できず施設に入りました」ということでした。お連れ合いの足が悪くなったのは、外反母趾からだそうで、私の足をご覧になって「あなたも用心しなさいよ」と言われてしまいました。靴を履いていても私の足、外反母趾と分かりますので。先生はそれで一人暮らし。料理も洗濯も一人でなさるそうです。
でも、東京まで来るのはこれが最後かもしれないが、と先生は言っておられました。もう八十九歳ですものね。よく頑張られます。脱帽です。
 先生の専門の日韓の話ばかりしてしまいましたが、先生と知り合いになりましたのは、実は「原爆」からなのです。一九八五年、私の『広島第二県女二年西組』が出版された年の暮れ。新聞で、識者を集めて「今年の三冊」と言った企画がよくありますが、それに中塚先生が、私の『広島第二県女二年西組』を取り上げてくださり、この中に登場する少女・玖村佳代子さんのお兄さんが、中塚先生が楽長である奈良女子大の付属高校の教頭、ということが書いてあり、私は驚いて、先生に手紙を差し上げたのですが、折り返し来たお返事に、残念なことに玖村先生は急逝されたとあり、本当にびっくりしました。それからいろいろあり、玖村由紀夫先生の追悼文集もいただいたのですが、玖村先生は大変教育熱心な数学の先生。若い頃から八月六日に水を求めて死んだ原爆の死者のことを偲び、この日は一滴の水も飲まなかった、などという話が書いてあり驚きました。こんなことで、中塚先生とその後の長いご縁ができたのです。
 原爆関係では、九日に、例の竹内良男先生の会で、川本隆史さん(国際基督教大学教授)の「記憶と忘却」という話を伺いました。ヒバクシャの記憶継承が大いに言われる(推奨される)世の中ですが、忘却(特に日本御加害の歴史など)の問題など問題提起され、「広島学」がなぜできないか、など鋭い問題提起がありましたが、この問題、簡単に言えることでもありませんので、今回はこんな話があったというだけにしておきます。とにかく若い(この方は一九五一年生まれ、広島学院など戦後できた名門校から東大を出た方です)方の視点は面白いし、竹内さんがこうした方と親交を結び、彼の講座に引っ張り出してこられるのにも、敬意を持っています。
 二月一七日は、調布市の大河みと子さんという市民派市議の方の勉強会に行きました。この日私に求められたテーマは「戦争中の暮らし」で、戦争の中で庶民の生活がいかに苦しくなっていったか、自分の記憶を重ねながら、女性の歴史とあわせて少し話しました。
 大河さんのおすすめでン原爆のことも少し話させていただきました。ヒバクシャにももちろんいろいろな方がいらして、特に広島は保守的なところですが、核兵器だけはごめんだと思っていることはみな一致しているということは強調しました。安倍さんは「核の壁、核の抑止力論者」ですが、北朝鮮との話し合いを「評価」して、ノーベル賞にトランプ氏を推すなど噴飯ものと言いますと、皆さん全員、同感と怒っておられました。まったく、安倍さん何を考えているのやら、です。
 そんなときですが、朝日新聞のこちらの地方版に、もと「天声人語」氏、故辰濃和男さんの蔵書で、「辰濃文庫」ができたという記事を見ました。辰濃さんは蔵書家で2万冊の本で玄関の扉も締まりにくくなっていたそうで、知り合いの建築家佐藤清さんが家の補強をされたそうですが、その佐藤さんが、辰濃さんの家が処分されると聞き、遺族から蔵書のうち約一万冊をもらい、ご自分の家の蔵を改造、文庫にしたのだそうです。場所は埼玉県の東松山市、我が家からは遠い遠いところですが、丸木美術館のある街です。一度行ってみようと思っています。
 実は、今度出ます「対話随想」に辰濃さんのことを書いていますし、出来上がったら、お連れ合いに本を送ろうかと考えていたのですが、佐藤さんに電話して聞いてみたところ、辰濃さんの小金井のお宅はもう取り壊されて空き地になっており、お連れ合いは老人施設に入っておられるとのこと(息子さんたちはもともと別の場所に住んでおられます)。もし、この記事が出なければ、誰もいない空き地に本がおくられ、むなしく帰って来るところでした。不思議なことに思えました。我らの「対話随想」が無事出版できましたら、この文庫に行き、辰濃さんに捧げたいと思います。
 これまた不思議なことですが、中塚明さんが私の「第二県女」を知ってくださったのが、辰濃さんの「天声人語」を読んだからです。それで.本を購入され、玖村という珍しい名前に目を止められたのが、始まりでした。中山さんがよく言われる「縁」と「伏流水」を感じております。
 それから前の号でお話いたしました、松本昌次さんのこと、「偲ぶ会」でなく、「語る会」が四月六日に開かれることになりました。ご本人が「お別れ会も偲ぶ会もやってほしくない、ただ、僕を肴に考えたり批判したりするのは一向にかまわない」と言っておられたのだそうです。これもいい会になるかと思います。すぐれた先輩、同時代の方々、その妥協しない奥の深い精神を継承したいと思います。
 

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対話随想余滴 №7 [核無き世界をめざして]

   対話随想余滴⑦ 関千枝子から中山士朗様

             エッセイスト  関 千枝子

 さまざまな大事な用事、つまらぬ雑事、雑用、立て込んでいまして、手紙を書くのがひどく遅くなりまして、すみません。
 実は昨日、一月二十三日、跡見学園という古い歴史を持つ私立の女子中学に平和学習(原爆)に行ってまいりました。なんだか、これが終わるまでそわそわして、じっくり手紙も書けない気分でした。
 跡見中学に行くのはこれが八年目です。
 「夏の会」という会があります。原爆の詩や手記の朗読を女優さんたちがなさっている会です。地人会の「この子たちの夏」というのがあり一九八五年から二〇〇七年まで二十三年間も行われていたのですが、地人会の解散により中止となった。これを惜しんで、女優さん十八人が新しい会を立ち上げ、新しい脚本で「夏の雲は忘れない」という朗読の公演をはじめ、今年で十周年になります。その最初の年、跡見学園の講堂で立ち上げ公演があり、私も招かれて行きました。女優さんだけでなく、跡見の高校生たちの朗読グループも参加し、一緒に舞台を作り大変感動的だったのです。私は跡見という学校が平和や原爆の問題に熱心なことを知り感心したのですが、その時跡見の学校の方から、跡見のいろいろな資料をいただいたのです。その中に当時の学園長の方が跡見という学校の歴史や、平和学習への取り組みなどいろいろなことが書かれていたのですが、私はこの文章に大変感動しまして、この先生にお手紙を差し上げたのです。当時から跡見は中学三年生が広島へ修学旅行に行くことになっていたようですが、園長先生は、修学旅行に行く学年の主任を呼び、事前学習にこの方の話を聞けば、と言ってくださったのです。
 こうして、私と跡見との縁が始まりました。修学旅行は中三の年ですが、二年生の三学期・一月に、生徒たちに話をしてほしいということになったのです。
 二年の学年主任・矢内由紀先生は大変熱心でしたし、私は中二が対象ということで感激してしまいました。私のクラスは女学校二年生で全滅しました。昨日まで楽しく笑ったり冗談を言ったり、そんなクラスメートが全員大やけどを負い死んでしまう、そんなことが起こったのですよ、それがあなたの年齢なのですよ、というと、皆、顔が引き締まります。私は夢中で話しました。そして、その後も毎年私は跡見に行くようになりました。
 「夏の会」も毎年、スタートは跡見でということが定着し、私は毎年一月と夏に跡見に行くのが習慣になりました。中二の学年主任は毎年変わるのですが、最初の矢内先生は,以来ずっと年賀状をくださいます。こんなに丁寧な先生は珍しいです。
 この学校の素晴らしいところは、単に私を呼んで話をさせてくださるだけでなく、その前から事前学習を行っていて、私の「広島第二県女二年西組」を全員に読ませてくださるのです。生徒さんたちはそれでレポートを書き、毎年素晴らしいレポートがあり、感動しています。今年は矢内先生が、生徒たちに二年西組の生徒から、特に記憶に残る一人を選び感想を書くよう言ってくださったそうです。この現物はまだ見せていただいておりませんが、どの人に一番関心が集まったか、それこそ、私、興味を持っております。
 そんなことで、今年も跡見に張り切って、というより少し緊張して参りました。この学校は茗荷谷にあるのですが、我が家からは少し遠く、また私の歩き方が少し遅くなっていますので、十分時間をみなければなりませんが、講演の時間が朝の一時間目なのです。遅れては大変です。目覚めましなどをかけ、前の晩から緊張です。
講演時間は一時間です。今年は私の話(体験)は短めにし、原爆全体のことを知っていただくためヒバクシャの絵を十六枚ほど見せました。絵を見せるのは毎年のことなのですが、今年は少し内容を変え、沼田鈴子さんと、佐伯敏子さんの描いた絵を入れてみました。有名な「証言者」のことを言っておきたかったのですが。こんな証言者たちがもはや出ることはないと思いながら。沼田さんの絵は、沼田さんが麻酔もなしで足を切られる手術をされるところ。佐伯さんの絵は、自分が見た被爆者たちの絵。このヒバクシャは、怖い顔をして鬼のようです。あまり怖い顔で、色なしのデッサンということもあって、ヒバクシャの絵としては、あまり「人気」がないのですが、佐伯さんには傷ついたヒバクシャの顔が鬼のように見えたのでしょうね、と話しました。その後、矢内先生が代表していくつか質問してくださいました。これからどうすれば、の質問に、ヒバクシャの証言を忘れず、一部分だけでも胸にとどめて来るださい。そしてまたもっと若い世代に語り継いでください。核兵器は人類と共存できない最悪の兵器、なんとしてもこの兵器を禁止したい。その世論を強めてくださいと言いました。

 それにしても、今年、わが世代というか、戦争を知る世代の死が続きます。樹木希林さん、兼高かおるさんに続き、市原悦子さん、その同じ紙面に梅原猛さんが出ていて、うーんと思っていたら、今度は松本昌次さんの死去が新聞に出ていて、少しおちこみました。松本さん、一月十五日死去、腎臓がん、九一歳。松本さんは、知る人ぞ知る未来社の大編集者、後、影書房を作り,この時代に井上光晴さんの第二次「辺境」を編集。だいぶ前の手紙に井上先生に「書け」とはっぱをかけられたことを書きましたが、それで、出かけたのが影書房、同社がまだ大塚にあった時です。
 松本さんにはお世話になりました。落ちこんだとき行っては一緒に酒を飲みました。ここには金はないけれど、いつも不思議に酒はあるという松本さん。「編集者には人を癒す才能もあるので」と言われたのも忘れられません。それから長い編集者生活、儲かることは一度もなかったけれど、いい本を出し、頭も体も衰えず、最後まで健筆をふるわれた。「9条連ニュース」に昨年までコラムを書いておられたと思います。九十一歳だから、まあ仕方ないと思うけど、寂しいです。

 昨年暮れのNHKテレビ「天皇 運命の物語」の件ですが、どうも、見た方が多くて少々困っております。当時の毎日新聞の皇太子記者はもう皆亡くなっていますし(一人存命)、ぜひ当時の証言をと言われたら、出ざるを得なかったのです。ほとんど半日くらい録音した中であの部分だけ編集されると、少し、違うなと思うこともあり、困るのですが。「皇太子の恋」までの大きな流れがあり、それが見えないと困るのですが、
 ともかく、一番驚いたことは、あれを見た人の多さで、まあ、びっくりです。天皇のこと、皆そんなに興味があるのかと思ったり。それがかなり進歩的なインテリばかりだったのに驚きました。面白いことに、私の住む地域の女性たち、「皇室アルバム」に夢中になってみている方々が多いのですがこの方々はあの種の番組は見ていないのですね。あまりごちゃごちゃ言われなくてほっとしたのですが。この話、詳しくするとこんなスペースでは書けません。必要なら(中山さんがもっと知りたいと言われるなら)、また改めて書きます。
 追記 これで⑦はおしまいのはずでしたが、今、平岡敬さんからお葉書を頂きました。奥様が亡くなったので「喪中欠礼」のお葉書いただいていたので、私、新年になってから寒中見舞いを出しておいたのですが、そのお礼の手紙です。平岡さんの奥様第一県女と聞いておりましたが、一年生だったのですね。私と同じで体調を悪くし、作業を休まれ、助かったそうです。苦しかったこと、推察できました。作業を休んで助かったものは、単純に「運がよかった」など言えない思いがあります。「私は運が良かったとして、死んだ友は運が悪かったのか!」という思いです。生き残りの辛さ。実は私、跡見の二年生にも、この思いを語ったのです。
 多分、平岡さんの奥様も同じ思いを抱えながら、亡くなられたのではないか、と思いました。

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対話随想余滴 №6 [核無き世界をめざして]

   対話随想 余滴⑥中山士朗から関千枝子様へ

                 作家  中山史朗

 まずは、新年おめでとうのご挨拶をもうしあげます。
   めでたさも 中の下なり おらが春
 私たちの「往復書簡」が始まってから七年の歳月が経ったことに、改めて驚いております。このような長い時間をかけて途絶えることなく続いている「往復書簡」は、過去に例がないのではないでしょうか。しかも、二人の被爆者によって紡がれた、証言の記録、核なき世界への希求が述べられた手紙の往復は、二人の生命が続く限り続くものと願っております。
 昨年は暮れの十二月二十四日に、NHKテレビで、たまたま『天皇運命の物語②』「いつもふたりで』を観ておりましたら、関さんが出演しておられる場面に出合わせ、そのあまりの偶然のことに驚きながら、拝見させていただきました。
 この番組は、天皇の平成最後の誕生日を記念して作られた、二夜にわたる特別番組でした。関さんは、▽日本中が沸いた世紀のご成婚▽その裏にあった強い決意とは、その場面で解説されていました。当時、毎日新聞に入社して間もない関さんが、取材チームに加わって取材されている写真や記事が出ておりました。淡々と解説される関さんは、堂々として見事でした。二十三年ぶりにお会いした関さんでした。
 この番組を観始めた時、大分県日出町に住む女性の方から電話が入り、「関さんが今テレビに出ておられる」と教えてくれました。「私も今観ているところです」と答えると「安心しました」と言ってすぐに電話が切られました。彼女は『往復書簡』の読者でしたが、嬉しい話でした。
 年頭のお手紙を読みながら、関さんがお正月の料理を調えてお子様たちも迎えられる、温かい光景が伝わってきました。そして、「たぶん、来年はできないだろう」という関さんの年相応の衰えの予感、それは私にも共感されるものですが、深くつたわってきました。
私の新年は、四日にかかりつけの医院、九日には別府医療センターの診察ということからはじまりました。いずれも、ボランティアの人に付き添ってもらっての病院通いですが、身体のあちこちに支障をきたし、まさしく明日をも知れぬ身を感じざるを得ません。
 昨年末、広島の中国新聞の客員編集委員・富沢佐一さんから電話取材がありました。その記事は、十二月二十八日の『高校人国記』国泰寺高校(広島市中区)に、核兵器廃絶へ思いを一つに生きた学者・医師が取り上げられていました。その中の一人として、私も加えられていました。その見出しは、
  <愚直の一念。被爆者の痛みを死ぬまで書く>
 となっていました。
 また、余滴②で爆心地から七〇〇メートル離れた広島一中で、倒壊した校舎から脱出することができた生徒が、その後、多発性癌に侵され、九回も手術をしたという話を書きましたが、このたびの記事によって、その生徒の名前は児玉光雄(86)君と言い、一九回もがんの手術を受けながら、広島市被爆体験証言者として、語り続けていることが分かりました。
 私たちの対話随想で何度か書きました片岡脩君も児玉君同様に倒壊校舎からの脱出組の一人でしたが、原発不明の癌で亡くなっていることをあらためて思いました。
 こうしたことを振りかえりながら手紙をしたためておりますと被爆死ながら八八歳の今日まで命長らえたことが不思議としか思えません。戦時中は、二十歳の命と教えられ、陸軍幼年学校や海軍兵学校が憧れの対象でした。原爆が投下された広島は、六十五年間は草木も生えぬと言われ、ましてや、被爆した者の生命は短いとされました。そうして歳月を経てこの年齢まで生きていることは、死者によって生かされているというよりも、罪深さのようなものが私の内部に沈殿していることも事実です。
 最近、平成最後の年、戦争がなく災害の多かった三〇年ということがしきりに言われるようになりました。けれども、今年は昭和九十四年と換算する私にとっては、昭和の戦争は、敗戦で終わったとは思っていないのです。したがって、このたびの関さんのお手紙を読みながら同じ思いで筆を執っておられることを感じました。
 石浜みかるさんによって、お父さんのキリスト教の信徒である石浜義則さんが、治安維持法違反で捕まり、そこでン原爆に遭った話。獄内での朝鮮半島出身政治犯との交流。そのうちの一人が韓国でヒバクシャ運動をはじめ、一九九七年に最初の使節団で来日した際、石浜さんの証言で被爆者手帳を取得した話。石浜みかるさん本人は、目下、キリスト教の満蒙開拓団のことを調べておられ、間もなく出版される予定であるとの報告がありました。
 その他に、NHKの山上博史さんとピアノの先生長橋八重子先生(以前往「往復書簡」に掲載)との追憶。宇都純子さん(原爆の詩や手記の朗読)が復活公演として、佐伯敏子さんお手記を一時間半にわたって朗読された話。武蔵大学で行われた被爆遺産継承の会の報告、韓国被爆者たちの手記の朗読、その運営に当たった同大学の教授・永田浩三氏(元NHKディレクター)は広島の被爆二世という宿命がありました。お母さんは、被爆後縮景園を通って、原民喜と似たようなコースをたどって避難されたとのことでした、
 手紙の末尾には、「二世の方々、若い方々、ヒバクシャでなくて原爆の問題に熱心な方々と知り合い、私は改めて勉強しなおしました」
 と結ばれていました。
 この言葉のように、関さんは今もって大勢の被爆関係者を訪ね、話を聞いておられます。
  私自身を振り返ってみても、関さんとても年齢から来る体力の衰えはあると思われますが、知れを克服しながら話を聞きに行かれる姿勢には敬服せざるを得ません。そこには辛い歴史を埋もれさせず、戦争の悲劇を伝え、核なき世界を後世に伝えるという強い意志の表れだと思います。国策が生んだ惨禍を記憶に残し、証言できる最後の世代の発言だと思っています。

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対話随想余滴 №5 [核無き世界をめざして]

  対話余滴⑤ 関千枝子から中山士朗様へ

             エッセイスト  関 千恵子

 二〇一九年の年明けですが、素直に「おめでとう」と言えず、なんとも不安いっぱいの世界の情勢です。でも,もう、できないのではないかと思っていた我が家の正月行事(子どもたちが来てくれる)も、とにかく正月の料理も作れましたし、(例年より支度を早く始める)などいろいろありましたが、とにかく無事終えました。しかし、この味でいいのだろうかなど不安に思ったり、年相応の衰えは如何ともしがたい。多分来年はできないだろうなど子どもたちに言ったのですが、まあ、どうなりますやら。
 とにかく、今年は絶対に頑張りたいと思います。そして、物書きとして、死ぬまで書き続けたいと思います。もし、体が動かなくなっても、頭だけはしっかりして、物が書ければいいなと思っております。

 これからは昨年の報告の積み残しです。なんだか少しずれて申し訳ないようですが、昨年はいろいろありすぎました。
 十二月一日、例の竹内良男さんの学習会に行きました。石浜みかるさんのお話でした。重いお話ばかりで、三時間の例会に収まらないような話でした。
前にもお話したことがあると思いますが、石浜さんのお父さん・石浜義則さんは、キリスト教の無協会派の小さな教団の信者で、歯医者さんですが、街頭で戦争反対を説き、治安維持法違反で捕まり、広島の吉島刑務所に収監され、そこで原爆にあったという方です。   この方は被爆の手記を書いていますが、どうしてか、その手記が掲載されたのが長﨑の証言集で、この方のこと、広島の原爆関係者もあまり知らないのではないかと思います。
 刑務所の高い塀に阻まれて石浜さんのお父さんはケガもなかったようですが、刑務所の建物も壊れ重傷者も多く、囚人同士で助け合ったとのこと。翌日から囚人たちは救援活動に駆り出されるが(二次放射能)、政治犯は数珠つなぎにされて山口刑務所に連れていかれる(広島に置いておくと暴動でも起こし危ないと思った[?])のです。この政治犯の中には朝鮮半島出身者が多くいた、独立運動のためということですが、ちょっとしたことに、言いがかりをつけられたということが多かったようですね。とにかく、石浜さんは山口に連れていかれ、戦争が終わって広島に戻されるが十月ごろまでそのままにしておかれたそうです。
 釈放になるが、朝鮮出身者修身の人びとはどこかへ行けと言われても行く場所がない。仕方なく石浜さんは、妻子を山口県の大三島の妻の実家に預けていたので、そこへ朝鮮人たちを連れて行くのです。治安維持法違反の政治犯などというと大変なので、妻の実家にはことをごまかしていたので、朝鮮人たちを連れて行くのは大変だったようです。
 ようやく朝鮮半島出身者たちを、数日食わせ、彼等も帰るルートが見つけられ帰国。石浜さんは歯医者をしようとするのですが政治犯だったため免許が取り上げられ歯医者ができない。仕方なく歯科技工でしばらく過ごしたそうです。戦前歯科技工士という職はなく、歯医者さんたちが自分でやっていた。歯科医の中にはそれが得意でない人もいる、石浜さんは結構これがうまくて、技巧の仕事で糊口をしのいだというのですが。やっと免許を取り戻すまで生活も、大変だったようです。
 帰国した韓国人たちとはそれきり連絡がつかなかったが、そのうちの一人が韓国でヒバクシャ運動をはじめ、一九七七年最初の使節団で日本に来られた時、石浜さんと再会、石浜さんの証言で被爆者手帳をとれたとか。
参加者の皆さん、びっくりして聞いておられました。
 石浜みかるさんは、今キリスト教の満蒙開拓団のことを調べておいでです。満蒙開拓団に加わらなければ、という状況に追い込まれる。それを進めた人たちの中には、賀川豊彦もいるとかのことです。これも重い話なのですが、こちらは時間もなく、石浜みかるさんの新著も年明け早々出るということで、またもう一度話を聞きたいということになりました。
 四日に、もとNHkのいらした山上博史さんという方から連絡があり、会いました。この方のお父様が音楽関係の方で広島大学の教授だった方ということです。このお父様が、私のピアノの先生長橋八重子先生に大変お世話になった、長橋先生の写真があるから見てほしい、自分は長橋先生の顔を知らないからと言われるのです。長橋先生の顔分かるかしら、とふと心配になりました。前に、長橋先生のこと、「往復書簡」でも、話に出ましたね、その時中山さんから長橋先生のお宅という新川場町の家の写真を送っていただいたことがあり、これは違うとお申しました。新川場の家の写真は古い家のようで、先生の家は確か小町(一中の裏の方)、とにかく素敵なおうちでしたから。私は長橋先生のお家についてよく覚えており、「広島のわずかに残る文化だ」、と思っていました。だから家についてはいくらでも思い出を語れるのですが先生のお顔、はっきり言えないのです。子どもだし先生の顔をそんなにじろじろ見られず、ただ老婦人ということしか(老婦人と言っても多分先生五十代ではないかと思うのですが)言えないのです。
 でも写真を見ると先生だとすぐわかりました。先生の小町の素敵なお家のテラスで撮っておられるので。先生に間違いないとわかりました。
それから山上さんと長いことしゃべりました。不思議な縁です。山上さんは戦後の方でお父様が長橋先生の弟子(長橋先生の夫君の弟子ではないかと思いますが)戦前のことは御存じないのに、なんでこんなに話が弾むのか。
 最愛の息子さんを失くされ、悲しみの中にいらした長橋先生、先生のおうちのグランドピアノの傍で遺体が発見されたそうです。ピカの瞬間、何と思われたか。
 十二月十四日、宇都純子さんの復活公演に茅ケ崎に行きました。宇都さんが原爆のことに打ち込まれ、十数年にわたって夏に、原爆の詩や手記の朗読をされていることは、何度も書いたと思います。それが二〇一七年は乳がんのため公演できなかった。昨夏もできず、とても心配していたのですが、12月になって復活公演となったのです。
 佐伯敏子さんの手記を朗々と読まれました。佐伯さんは身内十三人を失くし、手記もとても長く一時間半はかかります。でも、皆、じっと身じろぎもせず聴き入っていました。宇都さんの声は、病気の前よりかえって通り、よくなったような気がしました。本当に感動しました。
 十五日、武蔵大学に行きました。西武線新桜台というところにあり綺麗なキャンパスですが景色を観る暇もありません。道を尋ねながら行ったら二時間半以上かかりました。
 例の被爆遺産継承の会のセンター設立資金集めの第一号の会らしいけど、それにしては地味ですね。でも、若い方のいろいろな活動を聞け、悪い会ではなかったのですが。
このキャンパスで次の週も(土曜日)催しがありました。今度は在韓被爆者関係です。詩の朗読が中心の会なのですが、武蔵大学の学生たちの朗読が新鮮でした。韓国人被爆者たちの手記の朗読ですが、二十人くらいの朗読(群読は少なく、ひとりひとりかわるがわる読むスタイルですが)若い人がこれだけ集まると迫力があります。
 この武蔵大の生徒たちを指導し、また大学の教室を貸してくださるのも同大学の教授永田浩三さんがいてこそなのですが。永田さんは昔、NHKの有名なディレクタ-ですが、よく、原爆関係の会に来られます。広島局にいたことはないのに、と不思議に思っていましたら、会の後、お茶を飲んで話し合ったら、彼、広島の被爆二世なのですね。お母様は被爆後縮景園を通って、原民喜と似たようなコースをとって逃げておられるのだそうです。広島問題に熱心なわけわかりました。
 二世の方々、若い方々、ヒバクシャでなくて熱心な方々と知り合い、私も改めて勉強しなおしました。

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対話随想余滴 №4 [核無き世界をめざして]

  対話随想 余滴④.中山士朗から関千枝子様

                  作家  中山史郎

 新聞のコラムによれば、暑い夏の後には寒い冬が訪れると諺にある由。
 とにかく、この寒さに身も心も縮み、とうとう今年も身の回りの始末をつけないまま師走を迎えたという思いに沈潜しています。
 実は以前から思っているのですが、関さんが毎回送ってくださる複写に、知の木々舎の横幕さんが撮影された季節の美しい写真が添えられていますが、今度、『余滴』が本になる場合は、その都度その写真で飾って頂ければ、文章に季節感がにじみ出ていいだろうなと想像しています。最近では送った原稿に、書いた年月日を覚えとして記しているので、ふとそのようなことを思いました。
 このたびの関さんのお手紙を読みながら、書くということは、大勢の人と出会い支えられ、支えて生きていくものだとつくづくと感じました。そして、そこには作品の運命も関わっているように思いました。
 とりわけ、関さんと井上光晴さんとの出会いをこのたびの劇団大阪による『明日』の公演を通じて回顧される場面を読んで、はじめて知りましたが、物書きが歩んだ一端をうかがい知ることができました。同時に、その頃から関さんとのつながりがあったことに驚いております。
 と言いますのは、その頃、私も井上光晴の作品をしきりに読んでいたからです。
 お手紙を読んだ後で、書庫を覗いて調べてみましたら、『流浪』『暗い人』『乾草の車』『黄色火口』『階級』『残虐な抱擁』『虚構のクレーン』『幻影亡き虚構』『地の群れ』『九月の土曜日』『辺境』「明日』『眼の皮膚』『曳舟の男』『暗い人』と十五冊もありました。 
 そして、井上光晴さんから頂いた葉書のことを思い出しました。手紙の束から取り出して、改めて読みなおしました。
 
「死の影」頂きながらお礼がおくれました。今「石の眠り」一篇を読んだところです。何かつらい感じでした。どうかがんばって下さい。文学は困難な道ですが、歩き続けるより仕方ありません。時間をみつけてほかの作品をよみます。

 葉書の住所は、世田谷区桜上水四の一となっており、その頃私が住んでいた三鷹市中原四丁目宛てに頂いたものです。
はからずも、関さんのお手紙によって、井上光晴さんの作品に親しんでいた頃の私を思い出しながら、その頃は関さんとお目にかかる機会はありませんでしたが、現在、ご縁があって六年にわたって往復書簡をつづけさせてもらっているのが不思議にかんじられてなりません。
 それとは別に。関さんが母子家庭の現実を書きたい、と井上光晴さんに手紙を出した後の電話で、次のような言葉がありました、
「書きなさい、すぐ」、「わかっている、もう読んだ」、「一〇〇枚書きなさい」「ちまちましたことを考えるな、一〇〇枚書きなさい」。
 この言葉によって関さんは、井上光晴さんの個人誌「辺境」に七〇枚ずつ三回にわたって書かれました。これは後に農文協から『この国は恐ろしい国』となって出版されたということをこのたびはじめて知りました。
 この個所を読みながら、私が吉村昭さんに出会った頃のことが思い出されました。
 丹羽文雄さん主宰の「文学者」に加入する前のことです。ある同人雑誌に載せた作品を吉村さんに読んでもらったところ、「原爆は君にしか書けないんだ。それを書くだけの力が君にある」と励まされたのでした。そして、私は『文学者』に七〇枚の作品を載せてもらったのです。それは後に一〇〇枚に書き直し、吉村さんの紹介で南北社から発行されていた『南北』に「死の影」として掲載されたのでした。そして、昭和四十二年十月に「死の影』となって世に問われたのでした。関さんと同じような経路をたどって、処女作が世に出たように感じております。
 そして、劇団大阪の公演舞台の中でのゲートルの話の場面、なるほどなあ、と思いながら読ませてもらいました。
 昭和十八年四月に中学校に入学した私たちは、入学早々に配給されたのは、スフ織りの制服と制帽、ゲートルでした。いずれも当時、国防色と言われたカーキ一色のものでした。そして、最初に、軍事教練の配属将校からゲートルの巻き方について教えられたのでした。軍足と呼ばれる靴下の上部を下ろし、そこに三角形に折りたたんだズボンの端を置き、その上に軍足を元に戻し、そしてゲートルを巻いていくのですが、最初の二段は斜めに折ってそれから膝まで巻をいていきます。朝、家を出るときに巻いて行き、下校して家に着いてはじめてゲートル解くのです。そして、固く巻き戻しておくのです。巻き方が緩いと、軍事教練や行軍の最中にたるみ、列外に出て巻き直しをしなければなりませんでした。
 この厄介な代物を、敗戦直後、私は原爆で焼け野原になった土の上で燃やしたことを今でもはっきりと思い出すことができます。そのゲートルには、原子爆弾が炸裂した際の熱線によって濃い焦げ目が残っていました。
 このゲートルという名詞、死語になったかなと思って念のため辞書で調べてみましたら、<フランス語。西洋のきゃはん.。まききゃはん。≫とありました。

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対話随想余滴 №3 [核無き世界をめざして]

   対話随想 余滴③関千枝子から中山士朗様

                      エッセイスト  関 千枝子

 “暑い夏”、“温かい秋も、ここへ来て少し涼しくなり活気づいてみれば師走です。
 あれから色々ありました。行事も多く、何やかやとせわしく、折角始めた「終活作業」も少しも進まず、再来年の予定も入って、あと二年くらい死ねないぞ、など思っています。
 参加した行事も、偲ぶ会あり、出版記念会あり、さまざまですが、私たちの同世代、とにかく戦争の痛みが心に残っていて、傷ともなり、あるいは出発点でもあり、あの15年戦争の意味を、もう一度考えたりしました。
 その中で十一月十七日に行われた加納実紀代さん(歴史研究者、彼女の肩書は色々上げられますが、この言い方が一番ふさわしいと私は思います)の出版記念会。彼女は戦争中、女も戦争を担ったことを最初に言いだし、グループを作り、研究誌(銃後史ノート)を出し続け、大学の先生になります。私は彼女の仕事を取材し続け四〇年近くになります。彼女はその名前が示すように紀元二六〇〇年の生まれ、私よりずっと若い彼女が、肺気腫で体が悪いことをきき、心配していました。このたび一冊新刊を出され、出版記念会と聞き、彼女の最後の本での別れの会と思い込み、出かけたのですが、彼女想像していたより、元気で、声もよく出、新しい本の企画なども言われ、少し安心しました。
今度の新刊の本のタイトルは『「銃後史」を歩く』です。銃後史の研究のことが中心なのですが、冒頭がヒロシマでの被爆の体験談なのです。やはり彼女の人生、そして生き方の始まりが広島原爆だったのだな、と思いました。
彼女は三歳の時、二葉の里で被爆しています。屋外で遊んでいて被爆。でも、運よく日陰で火傷はしなかったのですが、彼女はピカを鮮明に覚えています。近所の少女が疎開作業に行って傷つき、ジャガイモのように皮膚が剥けているのをはっきり記憶しています。
 でも、私が、この話を聞いたのは彼女と知り合ってから大分後で、私が被爆者と彼女が知ってからも、なかなか自分のことは言ってくれなかった。しかし彼女の被爆の思いは深く、放射能への恐れも持っています。何しろ爆心から2キロ、そして屋外ですから。複雑な気持ち、よくわかります。
 とにかく彼女の研究に、紀元二千六百年と原爆が深く関係していたことは間違いありま)複雑な気持ちよくわかります。せん、そして、彼女は,女たちの被害と加害(それまで誰も言わなかった)に目を向けて行った。これは、私の思いとも重なり、私が「銃後史ノート」の取材に夢中になり、多くのことを教わるのですが。
 
 加納さんの会の前、十一月十一日は大阪に劇団大阪のお芝居を見に行きました。この会の前代表・熊本一さんとは深いおつきあいで、いつも公演のプログラムを送っていただいているのですが、なかなか大阪に行けずにいたところ、今回は井上光晴さんの原作の「明日」だというので急に行く気になったのです。
 井上さんの「明日」、素晴らしい作品だと思います。一九四五年八月八日の長﨑。その日に結婚式を挙げる人。お産をした人。牢屋にいる夫に会いに行く人…様々な人が暮らし、その日を送っています。この人々が明日(八月九日長崎原爆の日)どうなるかわからない、明日をそんな日と想像する人もいない。”明日“どうなったか何も書いていませんが、この人々の暮らしているところから無事であったとは思えないのですが。
劇団大阪も「明日」は二〇年ぶりの上演、二〇年前の脚本で演ずるそうです。
 私、井上さんには「恩義」がありまして。これも三十余年前のことです。井上さんが個人誌「辺境」の第二次を出すという話を新聞で読み、思い切って手紙を出してみました。”辺境”の中でも最も崖淵のところにいるのが母子家庭、その貧困の現実を書きたいと書いたのです、すぐ井上さんから電話がかかってきました。「書きなさい、すぐ!」と言われるのです。私がくどくどと、自分は『広島第二県女二年西組』という本を出していて、などいうと、「わかっている、もう読んだ」と言われるのです。そして「一〇〇枚書きなさい!」
 驚きました。雑誌に書く文章など大体二〇枚か三〇枚です。え、と驚く私に「ちまちましたことを考えるな、一〇〇枚書きなさい!」。結局、七〇枚ずつ三回書かせてもらい、これがもとになり『この国は恐ろしい国』(農文協)という一冊になりました。
 
 劇団大阪の本拠・谷町劇場は、谷町六丁目、ビルの一角にある稽古用舞台といった小さな劇場です。芝居だけでは到底採算がとれないこうした劇団がともかくやっていられるのは、この劇場を持っているからと言います。谷町は昔、中小の町工場が立ち並んでいたところで、それが再開発され今の街になったそうで、工場は今一軒もありませんが、下町風庶民的です。地下鉄の駅から劇場まで歩く道すがら空堀という通りがありますが、そこに、「ハイカラ通り」という看板が掛けてあります。なるほど。しゃれた感覚。いいね!。
劇場に着くと、小さな劇場ですがほぼ満員です、この日だけでも二回、全部で六回も
公演するのに立派なものです。
皆さん、とにかく熱演で、感動しました。服装も戦争中らしいもので、苦労があったろうと思いました、男の人にもちゃんとゲートルを穿かせていましたが、(今の人ゲートルと言ってもわからず、テレビのドラマでも戦中なのにしゃんとした背広、ネクタイなどして笑ってしまうことがあります)、ゲートルには困ったのでしょう、手作りでしたが、ゲートルらしからぬ布地で、これはどうしようもありませんかね。「明日」が原爆と一言も言わない舞台、見る人がピンと来るかしらと心配になりました。おそらく二〇年前初演の時は、大半の人がピンと来ていたのでしょうが。
 
 熊本さんには私個人的にも大変お世話になっています。最初の出会いは三十年前でした。私の『広島第二県女二年西組』を、関西芸術座というところでドラマ化してくださいまして、熊本さんは企画で演出もされたと記憶しています。脚本は関西演劇界の大御所で、うまい台本で皆さん満足だったと思いますが、原作者としては少し違和感があったのです。そして大変不躾だと思いましたが、もし私が書いたらという台本を熊本さんにお渡ししたのです。それから四半世紀、そんなこともすっかり忘れていた私に、熊本さんから、今こそあの台本を生かしてみようと連絡がありました。二〇一五年のことです。手書きでくしゃくしゃ書いた台本を、熊本さんは捨てずにとっておいてくださった、そして原爆で死んだ少年少女たちの靖国神社合祀の問題も今こそ、世に問うべきだと言ってくださったのです。そしてその台本を全日本リアリズム演劇会議の機関誌「演劇会議」に載せてくださり、ご自分が指導しておられるシニア劇団(現役退職の人びとのための演劇講座を修了した人たちの劇団)で上演すると言ってくださいました。シニア劇団は大阪、奈良で講演し、このドラマを引っ提げ、シニア劇団の全国大会にも出場。雑誌を見て上演してくださったところもあり、被爆の事実を訴えた朗読劇の輪が少しずつ広まっているのです。熊本さんには改めてお礼を言いたいと思ったのです。
 熊本さんも私を歓迎してくださり舞台終了後、劇団の方々と会食の場を設けてくださいました。そこで、シニア劇団の方々が夏に京都の教会で「第二県女…」を演じてくださったこと、皆様とても喜んで素晴らしい感想が来ていることなど、伺いました。そして驚いたことに、シニア劇団の方々、全国どこへでも出張公演しますよと『広島第二県女二年西組』を宣伝してくださっているのだそうです。そして、明後年、ちょうどオリンピックのとき、東京で第二回のシニア劇団全国大会があるのだそうですが、これに「第二県女」を出したいと言われるのです。私は驚き喜び、「それまで頑張って生きています!」と言ってしまいました。
 この後、奈良に行き例の「原爆地獄」の本を出された河勝さんに逢いました。(と、偉そうなこと言いますが、初めて同然の土地、熊本さんに連れて行っていただきやっと行けたのですが)。
 河勝さん、八九歳。ますますお元気です、被爆の証言をした中学時代からの親友岡田悌次さん、同じく学友の栄久庵憲司さんもなくなり、もうお金の面でヘルプしてくれる人が亡くなり、本を出すのは無理、それで電子本を作るのだそうです。今までの「原爆地獄」の本の集大成。英語版。アマゾンなどにも出し、世界中で読んでもらえると気宇壮大な話です。
 そんな活動の一方、長唄、謡、詩吟、書道、絵を習い、長唄は名取り。皆半プロの腕前、絵は今書いておられるのを見ましたが、大きなキャンバスに被爆死した人々のことを少しシンボリックな筆使いで書いておられます。とにかくお元気な事驚いてしまいました。
本当にすごい人です。私も体が弱っただの、原稿を書くのが遅くなっただの言ってはおられません。二〇二〇年まで頑張らなければと思いました。


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