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はるかなる呼び声 №12 [核無き世界をめざして]

追悼の記

 突然の訃報に、頭のなかはいまだに整理されていません。
 関さんはどちらかといえば寡黙の人でした。私の記憶では、「やってみたら」と言われたことが強く思い出されます。
 その言葉にしたがってやってみて、長年つづいているのは、澁澤栄一記念財団が発行している「青淵」誌への寄稿、関さんから声をかけられて二人で始めた『関千枝子・中山士朗往復書簡」などがありますが、 '九九年五月には『原爆亭折ふし』(随筆集)を発行し、平成五年に日本エッセイスト・クラブ賞を受賞することができました。これは関さんにすすめられまとめたものですが、関さん自身も推薦してくれ、受賞したのです。
 この作品と関さんとの出逢いは、まったく偶然としか言い様がないものでした。
 東京の家を売り払って、別府湾を一望できる高台に移住して来たのは平成四年三月のことでした。その頃にはまだ広島ー別府間の定期航路がありましたが、それからほどなくしてその定期船は姿を消してしまいました。
 私たちが引っ越してきて間もなく、関さんが不意に「新居拝見」といって姿を見せたのは驚きでした。博多に来たついでにと、名物の辛子明太子を持って現われたのでした。   その日は、別府市内の生簀料理店に案内し、私の家に泊まってもらいました。その頃、私の妻も健在で、親しく接したのはこの時一度限りでした。それ以前、私は東京で勤めながら創作活動を続けていましたが、「薬事日報」という業界紙に長年にわたってエッセイを執筆しておりました。そして、別府に移住して来てからは、大分合同新聞のコラム欄に執筆した原稿もたまり、それらを合わせて本にしたいと思いながら暮らして居りました。そのことを知った関さんは、「やってみたら」と本にすることをすすめ、東京に戻るとすぐに西田書店に紹介し出版の話をまとめてくれたのでした。つまり、関さんの「やってみたら」のひと言から始まったことでした。
 関さんは、高校も、大学も同じ道を歩んだ二歳年下の学友でもありました。
 昭和二十五年四月、早稲田大学文学部の建物の前の校庭で、「中山さんですね」と声をかけて挨拶されたことが、現在でも強く記憶に残っています。

                  2021.3.7   中山士朗

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はるかなる呼び声 №11 [核無き世界をめざして]

 はるかなる呼び声(11)関千枝子から中山士朗様へ

         エッセイスト  関千枝子

 なんだか少しお元気がないようなお手紙ですが、でも、コロナでめちゃめちゃな世の中、本当に嫌になってしまいますね、 
 コロナ蔓延激しい東京など首都圏ですが、小池都知事の毎日の協力呼びかけ‥‥私には自分の体は自分で守れ、コロナになったら自分が悪いのだぞという、脅しのように聞こえるのですが‥‥夜の飲食店の八時終了、お酒は七時まで、本当に食べ物屋さんにしたら死ね、というようなことですが、どうも期待のように感染者の数は減らず、緊急宣言も延長されそうです。
 盛り場に出ている人があまり減っていないなど言われますが、私の住む地域など、バスもいつもガラガラだし、わが棟(140世帯くらいいるのですが、)廊下も玄関も。人が全くいなくてがらんとしています.。第一波の時はスーパーで買い占めがあったりしたようですが、今回は別にそんな動きもなく、皆さん、大いに「自粛」「ステイホーム」に協力措定ると思うのですが。でも、感染者は思うように減りませんね。このままだと、緊急事態宣言が延長になるのではと心配です。
 私にしたら、感染が減らないのは当たり前と思うのですが。家庭内クラスターが増えていると言いますが、当たり前で、日本の家では、家庭に一人感染者が出たら、相当気を付けても、家族に感染は防げないと思います。一人で閉じ込めておく部屋があっても、トイレ、洗面所、風呂まで別にできないでしょう。どうしてもうつりますね、感染の症状が相当酷くても、病院が間に合わず家庭で「自粛」させられている人が多い、これで感染を防げ、と言っても無理でしょう。私は、感染者が出たらその近辺を一刻も早く検査して、軽症の人、無症状の人も、ホテルなどで一時隔離するのが、感染を抑える一番の手だと思うのですが。
 病院に入りたいのに、なかなか入れない状況が起こっているのに、特別措置法は、病院入りを断る人に罰金だの刑事罰だの、何を考えているのかと思います。これには野党だけでなく与党のなかにも反対があり,修正意見で成立すると思いますが、政府というもの、新しい法律を考える時、まず、罰則を考えるものなのですね、怖いことです・
 コロナを決して軽視するつもりはありませんが、こんな中でコロナ恐怖心が蔓延しているのも怖いです。不要不急を恐れるあまり、竹内良男さんのヒロシマ講座、部屋を貸している会館の方がいち早く部屋貸しを一切閉鎖してしまいました。緊急事態宣言でもイベントは定員の50%までよいといっているのですから、は何の問題もないはずで、明らかに「先取り」自粛で困ったことだと思っていましたら、キリスト教の教会まで「閉鎖」です。ある教会のお部屋を借りてニュースの発送作業などをしているのですが、これも断られました。なんでも礼拝までオンラインなんですって。要するに、感染が出たりしたら、あそこから感染が出たと大騒ぎになり。その会館の「営業」にもかかわる。そうなる前の自粛してしまえというのでしょう。
 緊急事態宣言は、予想通り延長されるようです。「夜の街」いじめくらいで、そんなに感染減りませんから、園長やむなしですが、規制がどんどん増え、本当に社会活動も、文化も消えてしまうような事態が来るのではないかと恐れます。皆さんの萎縮もひどいですから。
 私は、別に外に行く事を恐れません。出る時間もラッシュアワーではありませんから「密」ではありません。マスク、手洗い等普通のことは、やっていますが、何の異常もありません。新しい変異ウイルスのことが言われますが、感染力が強いと言ってもマスクを突き破るほどのことではないでしょう。コロナは、飛沫感染ということは変わりないので。 

 そんな中で、この一年半、ある大学生のヒロシマをテーマにした卒論の作成を手伝っていたのですが、このほど完成しました。この学生さんのこと、前にも書き、今度出る私たちの新しい本「続対話随想」にも何度か書いていますが、このごろになって、今の大学のびっくりするような「現実」を知りました。
 とにかく、昨年、コロナ騒ぎが高まってから、大学は、全部オンライン授業なのですね。彼の大学だけでなく、ほかの大学もそうらしいです。小、中、高はとにかく授業しているのに大学がしていないというのはおかしいですね。彼の大学では、全学生に5万円をくれ、パソコンを持たないものはこれで買うように言われたそうです。それで大学に行く事もできず、ゼミも、教授と顔を合わせることもなく、パソコンだけが大学とのつながりのようです。
 私、大学というもの、教授の講義ももちろん大事ですが、友人との交わりや。先生との個人的交わりがとても大事なことと考えているので、びっくりしました。
 卒論も、書いたものをメールで送りつけなければだめ。郵送も駄目なのだそうです。彼、大いに悩み、締め切りの日の一日前に送信し、大丈夫ミスなく送信できたことを確かめるという騒ぎでした。
 彼のゼミでは、卒論の発表会があるらしく、彼の論文も優秀作品として、発表に選ばれているのですが(ゼミの先生、この方は、核実験がたびたび行われたマーシャル諸島の調査研究で有名な学者で、彼のゼミには原爆や、戦争と言った社会問題に興味を持つ学生が多いそうです)発表時間が15分くらいしかないので、とてもそれでは彼の3万字におよぶ卒論の全部を発表できない。それでまた悩み、相談に乗ってほしいというので、また彼と会いました。私はオンライン卒論発表など言われてもなかなかイメージもつかめず、不得手なので、竹内良男さんを助っ人に呼びました。もともとこの大学生に私を紹介したのは竹内さんなので。竹内さんの助太刀で何とか彼の発表の仕方の手助けになったな、と思います。
 あとは発表を聞くだけ。Zoomで私も聞けるので。彼についていえば、彼一年半の間にずいぶん勉強したし、小学校の教員希望というのが面白く、私も今の若い人が、まったく体験のない戦争、原爆に対してどう感じているのか、初めてわかることも多かったです。このぐらいっているだろうと思ってしゃべる、しかし若い人は全く分かっていない、けれど「そこわかりません」と言わないで、話が通り抜けていくのですね。私、彼との一年半で、私の独りよがりがわかり、大いに勉強になりました。戦争。原爆、75年前の話なのですね、でも考えてみれば、戦争のない時代が75年も続いた。これ大変なことですね、

 ごめんなさい。今日の手紙では別のこと書きたかったのでした。あなたは野村勝美さんが毎朝、29個の薬を苦労しながら飲むさまを、自分と同じと言っておられるのでちょっとびっくりしました。あなたもたくさん薬飲んでおられるのですか? 実は私も薬飲むの不得意で、うまくのめないことがあります。私の友人でも誤嚥性肺炎で死んだ人もありコロナの肺炎は逃れても誤嚥性肺炎で死ぬのはまっぴらだからなど言っているのですが、そんな矢先、元横綱の栃の海が誤嚥性肺炎で亡くなったという記事を見てびっくりしました。結構、誤嚥性肺炎で亡くなる方多いので注意しなければなりませんが、私、薬は4個なのですよ。それでもうまく飲めないことがあるのに29個なんて考えられない。私の飲んでいるのは血圧、中性脂肪、胃の逆流防止、それに関連しての胃薬です。血圧など私は全く気にしなかったのですが、かかりつけの医師に、少し高いと言われ、飲まされています。然し薬を飲みだしてから血圧は全く正常、とてもいいので、もう薬はいいのではありませんか、と言ったら薬を飲んで正常のだからやめたら上がりますと言われ、もうずいぶん長く薬を飲み続けています。胃の逆流の方は私の胃、すぐ逆流し、それで胃潰瘍になったこともあり飲んでいます。これは医師が逆流が止まったらやめてもいいというのですが、食事の後下を向いているとすぐ胃液が上がったりするので、止められません。
 たった4個でも誤嚥に気を遣うのに29個というのは多いですね、と思っていたら、たまたまある医療生協の新聞をもらい、それにポリファーマシーに気をつけろという記事を見つけました。ポリファーマシーというのは薬が必要以上に多く出され、安全性に問題があることを指すのだそうで6種類以上に薬が増えてくると問題が起こるそうです、漫然と処方された薬がそのまま飲み続けられたり、複数の病院にかかると同じような薬が増えたりということのようですが、医師に相談しあるいは行きつけの薬剤師に相談し余分の薬を減らすことが大切と言っています。ポリファーマシーになると転倒の危険も出て来るし、私など被爆者手帳のおかげでこうした薬代、無料ですが、普通の方、高齢者医療でも相当の額なりますね、こんなことで高齢者の医療費がかくなっている事があったらたまりませんから。
 何だか妙な事ばかり書いてしまいましたが、とにかくコロナで大変な時代です。ワクチンは四月ごろになるなど河野大臣は言っていますが、副作用などいろいろ問題あるし、困惑します。とにかく情報をきちんと出してほしいと思います。


 

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はるかなる呼び声 №10 [核無き世界をめざして]

はるかなる呼び声(10) 中山士朗から関千枝子さまへ

            作家  中山士朗

 この二十日、はるかな呼び声(9)を送っていただき、(6)から通読いたしました。
 ご不自由な日常生活の中にもかかわらず、思想と行動一如の生活、ただただ敬服のいたりです。
 私ごときは、いつかも野村勝美君が「浜田山通信」に

 ・・・私は毎日、朝昼晩の食前、食後に26種類の薬を飲んでいる。1回に3錠ずつ、2回に分けて飲む。薬の形が丸いのや細長いのがあり、おまけに大小さまざまだ。のどをスムースに通らせようとして一気に飲み込むが、小粒の方が入れ歯と歯茎の間に残ってしまう。毎日命がけ。

 とありましたが、同じ状況に私も陥っています。
 こうして男どもは、しがない日常生活を送っていますが、関さんはそれに比し、「日本政府に核兵器禁止条約の署名・批准を求める署名」活動に専念されていることに深い尊敬の念を覚えます。
 そして、この八年間、私の文章の補遺をしてくださったことをこのたびの(6)から(9)までのお手紙を読みながら知りました。あらためて、お礼申し上げます。
 パソコンの件、電池がなくなっていたのが原因でした。簡単に直りました。然し何しろ古い機械、今後どうするか、私の残された寿命と、対処能力の有無を勘案しながら電気屋さんと検討しているところです。
 竹内さんの「ヒロシマ講座」が首都圏4都県の緊急宣言によって閉鎖されたのは残念ですね。
 相手がコロナでは、すべては事が収まってからでしょうから、静かに時を待つしか方法がないのでしょうね。




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はるかなる呼び声 №9 [核無き世界をめざして]

はるかなる呼び声➈ 関千枝子から中山士朗様

          エッセイスト  関 千枝子

 妙なことで、また私が書くことになってしまいました。ごめんなさい。

 中山さんからなかなか手紙が来ないので、催促の電話をしました。あまり遅くなってくると、この前の⑧のようにうちミスが多くなってしまいますので、申し訳ないと思いながら電話を入れましたら、薬のせいで体調が悪かったが、今から書くからということです。でも、お声はとてもいいので安心して待っていたら、電話。中山さんが、「大変、パソコンが壊れて。全く動かない。業者を呼んでいるのだが、いつ来るかわからないし、すまないがもう一度。そちらで書いてくれないか」。慌てましたが、また私が書くことになりました。
 電話とFaxは大丈夫なのだから、手書きで原稿書いてと言いたかったのですが。もともと中山さんは非常に字がうまく、というより書道を小学生の頃から習っていらして、大変うまく、高校の頃は学校の書道部の部長だったくらいなので。
 しかし、考えました。年を取ると手書きの字が非常に汚くなります。私もこの頃自分であきれるくらい汚い。それに800字か千字か、字を手書きしますと疲れますので、これはお願いできないと思いました。
 しかし考えてみれば心配です。中山さんのパソコンは非常に古いのです。ワープロが壊れて買い求められたのですが、本当にワープロ代わりというか、原稿の打ち込みにしか使われず、インターネットもしておられません。だからこの往復書簡も中山さんが打ち込んだ原稿を、Faxで送られ、私がそれを私のパソコンで打ち直し、知の木々舎に送るという作業を8年間していました。
 おそらく中山さんのパソコンは10年以上の年代物で、ちょっとさぼってストライキ、ではなく、寿命なのかもしれませんね、それで買い直しになると大変なこと(時間かかる)になるよと、心配です。
 正月早々、コロナはいよいよひどくなるし、北陸の方は記録的大雪でハイウエイは動かなくなるし、中山さんのパソコンは動かなくなるし、まあ、今年も嫌な年!
 とかなんとか言いながら、私は結構忙しいのですよ。前の号で書きましたように、「日本政府に核兵器禁止条約の署名・批准を求める署名」年取った友や、地方に住む友に、手紙を出し署名協力を頼みましたところ、思いがけない大反響、多くの方が、知り合いに広げてくださいまして、私もびっくりするほど。新年になってからも署名が届きますし、年賀状を見て、署名用紙を請求する方もあり大忙しで、嬉しい悲鳴をあげています。
 この署名運動、ネット署名もやっているようですが、あまりそちらの方に関係ない年寄りの打てば響くような反響、本当に私の励みになりました。

 残念なこともあります。例の竹内さんの「ヒロシマ講座」、首都圏4都県の緊急事態宣言が出ましたら、さっそく、お部屋を借りている民間の会館から2月7日の宣言終了まで、部屋を閉鎖すると言ってきました。おかげで私、2月6日に講師で出ることになっていたのに、中止、やれやれです。いつ再開できるか、2月7日で感染者が激減するわけでなく、宣言が継続するのではないかと思いますので、いつお話しできるか全くわからず、残念です。宣言で、禁じているのは主に飲食店、お酒、会食などで、イベントは、50%、5000人以下で、前とほとんど変わりません。竹内さんの講座は、前から定員の半分でやっていまして、何も宣言に違反しないのに、こういうことになると、分別あるインテリの方々の方が、怖がるようです。もし感染者が出たら大変、何か言われそう。貸した施設も、悪評で人が来なくなりつぶれるかもしれない。
 こんな状況、文化の火が消えるかもしれないと心配する人もいます。私もその危惧を痛感しています。〔不急不要〕ってなんだ!
 この頃他県を跨ぐのはいけない、とよく言われます。でも東京と神奈川、東京と千葉、埼玉など他県と言われても困る、例えば、私の住む南部地区など、川崎や横浜から通勤しているなど当たり前、東京都の遠いところより、川崎の方がずっと近いのです。都庁には他県から通勤している人いないかしら。
 ものを食べるときもマスクをしろなど変なことを言う人もいます。マスクをパッととって食べものをかきこみ、口の中にまだ食べ物あるのにマスクをつけるのですかね。軽業。
 コロナを馬鹿にしろというのではありません。きちんと気をつけながら、やるべきことはやれと言っているのです。不急ではないかもしれないけど不要ではない、とかねがね私は言っているのですが、
 コロナのことばかり書いてしまいました。でも…‥.
 この騒ぎの中で、コロナであまり人に会えないので署名は少ないが、と詫びを入れながら署名用紙を一枚おくってくださる方、私はそれがとてもうれしいのです。
 明日、明後日は医者の予約で結構忙しいのです。これは絶対「急を要し、必要だぞ!」。




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はるかなる呼び声 №8 [核無き世界をめざして]

 はるかなる呼び声⑧    関千枝子から中山士朗様

               エッセイスト  関 千枝子

 今回は中山さんの番だったのですが、中山さんが、勘違いされ、一月十五日号に書くと思伊混んでしまわれました。私の送り状が悪かったため、申し訳ありません。というわけで、もう一度.関が書きます
 前回は中山さんの体調が悪かったのですが、今はお元気で、以前お知らせしましたこのコーナーで「余滴」として書きました二〇一八年から二〇二〇年の八月までの分の本の校正も無事終わり、来春早々には本が世に出ます(余滴では多少気が引けますので、題名は、続対話随想 とする予定です)。中山さんも今作業で体調取り戻されたようでした。

 さて、私の年頭の思いは、昨年はコロナ禍で大変、秋の第三波が始まってから少しも収まる気配がなく、東京など最高の数字が続き、そこへイギリスで発生した変形のコロナですか、感染力が強いそうで、まあ散々な世の中。国や小池都知事の言う通り、ステイホーム、忘年会も新年会もなし、家でじっとしていても収まるかどうか、何とも困った事態です。
 前回女子学院に被爆の話をしに行った話は書きましたが、二つの学年はオンラインなどという形でも、きちんとできましたのは、やはり女子学院だからか、とも思います。例年一月は跡見学園の中学二年の修学旅行事前学習に行くのですが、今年は何も連絡なく、中止かな、と思っています。十年以上続いたことですし、私のクラスが全滅した時と同じ二年生。そのことを言うと、シーンとして本当によく聞いてくれますので私は跡見に行くのが大好きでした。しかし、修学旅行ができるかどうかわからないのでは事前学習も何もあったものではありませんね。新しい年もコロナのおかげで厳しい年かと思えます。

 でも今日は、とてもうれしい報告をいたしましょう。いま、「日本政府に核兵器禁止条約の署名・批准を求める」署名というのが始まっています。
 二〇一七年この条約ができました時、本当にヒバクシャたちは喜びました。ヒバクシャにはいろいろな考えの方がおられますが、すべてのヒバクシャに共通している思いは、「もうあんな爆弾はいらない」ということでしょう。あんな凶悪な爆弾は人類と共存できない、どこの国人の上にも落とせない、という思いです。核兵器を一切否定するこの条約を、ヒバクシャはどんなに嬉しく思ったことか。しかし日本政府は、常々「唯一の被爆国」などと言っている癖に、この条約の会議にさえ参加しませんでした。空席の日本の席に、大きな折り鶴の折り紙が置かれました。本当に恥ずかしい、と思いました。条約は圧倒的に多くの国々の賛成で成立したのですが、もちろん会議にも出なかった日本は署名もしませんでした。
 この条約に、核を持つ国は反対ですし、その国の核の傘に護られている国(日本もどこかの大国の核の傘に隠れていますね)は条約に反対の立場です、被爆国である日本は、「核を持つ国と持たない国との橋渡しをする」など言いながら、強い同盟国の言いなり。ヒロシマ、ナガサキの式典で両市の市長に条約参加を迫られても、すべて無視でした。
 こんな中被団協は、核兵器禁止条約に賛成する署名を取り圧倒的に多くの署名を集めましたが、政府は終止無視です。
 条約は賛成の署名だけでなく、発効のためには批准がいります。これはいろいろ大変なのですが先日条約発効の五十か国に達し、一月二十二日、、国連の条約として発効することが決まりました。
 この期に及んでも日本政府は知らん顔、国連の会議に妙な決議案を提案したりして心ある国々から顰蹙をかっています。
 そこで日本でも新たな署名が始まりました。日本政府に「核禁止条約」の署名、批准を求める署名です。
 実は、私は、前から条約賛成の署名だけでは、ダメ。政府にせまらないと、と言っていました。かねがね私の持論の署名が始まり、呼び掛け賛同人もたいへん幅広くていいのですが、署名の事務局が原水協になっています。もちろん原水協の方は原水禁の方でも保守系の方でも誰でも結構と言っています。そして、あちこちで街頭署名などやっているようです。私は考えました。コロナ騒ぎの今、街頭署名は集まりにくいし、原水協というとどうしても、先入観を持つ人がいる。でもこの署名は失敗したら大変。あまり集まらないと菅首相に馬鹿にされ相手にもされないだろう。
 私なりの署名運動を考えました。もちろん、足の歩行がゆったりで、立っていることの苦手な私、街頭署名などだめ。手紙作戦です。コロナで年寄り仲間、外に出ることを家族に嫌われ、家の中でくすぶり、足腰を傷めたりしています。その方々がまずターゲット。それから地方の友達であまり労働組合などと縁がない方々。考えるとそんな方多くて、四十通ばかり手紙と署名用紙を送ってみました。そしたらどうでしょう、あちこちとから打てば響くような反響。ネットで署名したが。ネット署名しない人に話をしてみるという方。そして多くの方が、自分の署名だけでなく、友人や自分のネットワークに拡大拡散してくださいました。この署名だけはしなくてはね、という方もあり手紙を送った方大部分が署名の種子に共感してくださったと思います。
 事務局に直接送ってくださってもよし、嫌なら私のところへ、と言っておりますのでまだ実数はわかりかねますが、私のところに来ている反響から、恐らく四〇通の手紙が十倍以上、千位になったと思うのですが。
 私は、本当に皆様の協力に勇気を頂きました。そして核兵器などいらないと、死んだわが友たち、冥途で怒りながら叫んでいると思いました。本当にこの条約ヒバクシャの平和愛好者の七十五年の思いですから。
 すみません。まだ集計中です。もっと詳しいこと次々回の手紙で報告できると思います。

少し希望の見えた新年でした。





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はるかなる呼び声 №7 [核無き世界をめざして]

はるかなる呼び声⑦  関千枝子から中山士朗さま

            エッセイスト  関 千枝子

 本来、今回は、中山さんからの発信なのですが、昨日電話がかかって来て体調が悪い、ということで、関が慌てて書いています。中山さんのお体の具合心配なのですが、日常のことは何とかできるからといわれますので、天候も変だし、とにかく「お大事に」と言って電話を切りました。

 さて、私のですが、元気に「できること」をやっていますが、悲しいニュースもあります。中山さんも私も、ともに会員であります「鯉城同窓会」(広島県立国泰寺高校の同窓会)のニュースが届いたのですが、それに号外がついていて、児玉光雄さんの訃報が伝えられていました。児玉さんは、被爆時広島一中の一年生、広島原爆のとき、疎開地作業中でしたが、半数ずつ、交代で働いていて児玉さんらは校舎内で待機していた。屋外で作業していたものは全部死亡、倒壊した校舎からはい出し、助かったもの18人。この人々も、みな亡くなっていますが、児玉さんは最後の生き残りとして証言活動に奮闘、「壮絶」としか言いようがなかったと言います。10月28日、腎臓がんで亡くなったそうですが、ニュース「校了」後伝えられた訃報に号外を作られた同窓会編集委員会に敬意を表します。
 被爆世代が急激に減って行く事も感じます。鯉城同窓会ニュースで会長の交代が報じられていましたが、新会長は私たちの子どもの世代です。これを書いている時、NHKの番組「朝イチ」に室井滋さんが出ていました。中山さんはご存知かしら、仏文で私の一年下にいた室井君のこと。米川良夫君(米川正夫先生の息子)と仲が良くて、私はよく覚えているのですが。室井滋さんの活躍、説明もいらないことで、私はつくづく、我らの世代は隠居(終焉が近い)と思うのですが、それだけに、最後まで叫ぶぞ(書くぞ)とも思うのです。
 前の便で報告した女子学院中学ですが、コロナで三年生にだけ話し、一年.二年生にはオンラインだったのです。その後三年生から感想が届き、とてもいい感想でうれしくなったのですが、その後下の学年からも素晴らしい感想が届き、私の方が目が潤んでしまうような感想がありました。この人たちきっと成人した後でも原爆の残酷さ、平和の大切さを覚えておいていただけるだろうと信じます。この生徒さんたち、祖父や祖母も戦争を知らない世代です。帰宅してから、おばあさんに話を伝え、話しながら泣いてしまったという感想もありました。
 はるかなる呼び声の④で紹介したNHKの栄久庵耕児さん、今度は、私の第二県女二年西軍を中心に書いてくださいました。彼は、生き残った者が、単純に幸運と思えず、『済まない』という言葉でその心情を表現するのにとても関心を持たれ、しつこいくらい熱心に取材されました。NHKのWEBニュースなど言われても、私など全くぴんと来ないのですが、よく見られるらしく、栄久庵さんのお話では今回は12万ヒットで、大変評判よかったとのことですぅ。そんなニュースをみ見るのは若い人かしらと思います。若い人に原爆の話が.伝わるのはうれしいことです。伯母さんの被爆死から、原爆への関心を強めてくださる栄久庵さんに感謝です。
 さて、今私が必死になっているのが⑥でも書きました、日本政府に「核兵器禁止条約の署名批准を求める署名」の署名運動です。前回書きましたように、外へ出ることも控えているような昔の友中心に手紙を出したのですが、出した人々からまた広がり、手紙を出したのは40通くらいですが、10倍以上に広がり、私もびっくりしています。とにかく核兵器禁止条約こそ、わたくしたち被爆者の望みに望んだ条約、つまり核兵器というものは無くしてしまわなければならないものだからです。これに背を向け、条約を決める会議にも出ず、核兵器を山のように持つ強大な同盟国の「核抑止力」の壁に頼り、口だけは「核を持つ国と持たない国の橋渡しをする」など言っている日本政府が許せないからです。しかし多くの方が判ってくださり署名手紙作戦に賛同していただけたこと、本当にうれしく思います。この作戦の詳しい報告は多分次の次の号位だと思います。




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はるかなる呼び声 №6 [核無き世界をめざして]

はるかなる呼び声⑥  関千枝子から 中山士朗様

          エッセイスト  関 千枝子

 東京付近はいい天気が続き、気持ちいい日が続いています。私も元気で忙しくしていますが、やはり、年の正、諸事、やることが遅く、能率は悪いのですが。
 こんな日々、身体というより背中の渇き、中山さんも前に言っておられた老人性のかゆみ、その後いかがですか。私も少し、かゆみを感じることがあるのですが、独り者だと手が後ろに伸びにくく、クリームを塗るのも大変です。でも、皮膚科の医者に言ってみましたら、スプレー式の薬を処方してくれました、なるほど、これは便利。それでもかゆみが止まらなければ抗ヒスタミン剤を飲む。我慢せず、色々言ってみるものですね。医者、薬代もばかにならない世の中ですが、被爆者手帳があるのはありがたいことで、被爆者の先輩たちの長年の闘いに感謝です。
 前の便で報告しました通り、被爆関係の「活動」続いております。コロナでいろいろな催しが中止になった今年の前半を思うとウソのようです。 
 先日は延期になっていた女子学院の中学に行ってきました。この学校は私も含めた事前勉強の後、ヒロシマ修学旅行をなさるのですが、「三密」で、宿泊なども従来どおりにできるかどうか。でも、私の話はできました。
  この学校は中学の1,2,3年に話をすることになっているのですが(だから、私はこの学校に4年に一度うかがっています)、今年は三密対策で講堂で話を聞くのは3年生だけ、1,2年生は部屋でオンラインで聞くというのです。それでさんざん考えたあげく、私の体験は20分ほどにし、後は被爆者の絵を見せながら説明しました。これは成功したようです。講堂の3年生も、絵が始まるとよく集中して話を聞いてくれました。75年間、平和が続き、親どころか祖父祖母も戦争を知らないというのが、今の中学生、話だけでは実像を想像できないようで、絵の持つ力をあらためて感じました。
 この後、小さなパンフが届きました。これは昨年8月、都下調布市で行われた「第32回調布平和の集い」での私の講演を文章に起こしたものですが、この時も前半、私の体験、後半被爆者の絵という構成をとっています。調布の時は時間がたっぷりありましたので、女子学院の講演の倍はしゃべっています。これを文章にし、被爆者の絵も黒白ですが、印刷、講演の再現に、気を使われたのですが、私が、何気なくしゃべっている言葉、例えば、少国民とか、隣組とかの言葉も、今の人は、わからない、と実に詳しい(注)を付けて下さった。それもスマホで簡単に調べるというようなことでなく、専門書にあたり、丁寧に説明してくだった。このため大変制作に時間がかかり一年かかって完成したのです。小さなパンフですが、本当に熱い思い尾がこもっていて、ただ感謝です。
 パンフが届いた翌日、前便で書いた、卒論でヒロシマのことを書いているH君と会うので、このパンフを持ち、さらにこれも前の便で書いたFさんの手作りペンダントをしていきました。Hさんの卒論の前半、相当思い違いがあって、私の意見をメールで言ったのですが、彼はもっと詳しく聞きたいようで4時間以上も話しました。彼、小学校教員希望ですが(H君の違憲では小学生にこそ、本当の平和教育が必要だそうです)、小学校だけでなく中学や高校の教育実習で忙しく、これから卒論に集中だそうです。卒論は来年一月初めに提出すればいいのですが、コロナ騒ぎで手で持参することも(大学はまだ封鎖状態のようです)、郵送も駄目で、オンラインで提出しなければいけないのですって。1,2枚のレポートならともかく相当の枚数のある卒論をオンラインなんて驚きますね。送りに失敗したら大変なので、締め切り最終日でなく、前の日に出してちゃんと届いているかどうか確かめると言っていましたが、こんなことで神経使って大変ですね、本当にこのコロナ騒ぎ、何だかおかしいですね。
 女子学院の中学生にもH君にも強調したのは、ヒバクシャにもいろいろな考えの方がいるが、とにかく一致しているのは、「あんな爆弾はいらない」ということ。あれは人類と共存できない凶器。どこの国の人の上にも落としてはならないのです。長年の被爆者の思いが結実したのが核兵器禁止条約です。その条約の会議にも参加せず、核を持つ国との橋渡しをするなどとうそぶき、強大な同盟国の核の壁(核抑止力)に隠れ、お粗末な核軍縮決議案を出し世界の物笑いになっている政府を許すことはできません。今、日本政府に「核兵器禁止条約の署名批准を求める署名」の運動が起こっています。私はこれに大賛成ですが、まだ広がりが悪く、知らない方が多いので、コロナで、外に出ることも控えているような方々(昔の友)たちに手紙で署名を呼び掛けています。これ、今はやりのネット署名もできるようですが、それも知らない(であろう)人びとに手紙を送りつけています。私の最後の直接運動になるかも、などと思っています。個人でやれることは知れているかもしれませんが、何人かの人から返事がき、その方からその方の友人知人へと輪が広がっています。そんなことをしても、と、馬鹿にする人もいますが、もし日本が条約に署名批准したら、核を持つ国にも、ほかの核抑止の壁の中にいる国にも、相当、影響を与えると思いません?
 こんな思いで、一晩過ごし、今朝(17日)、新聞を見たら、津田櫓冬さんの死亡が書かれていて驚きました。津田さんは画家ですが、立派な活動家で、「第32回平和調布の集い」の代表でもあります。私が調布に話をしに行く事になりましたのは、津田さんと私のご縁からでした。津田さん去年はあんなにお元気だったのに。私より若いのに、と悲しくなりました。戦争を知る平和活動家がまた一人亡くなった、活きている者は頑張らないと、と思います。





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はるかなる呼び声 №5 [核無き世界をめざして]

はるかな呼び声 ⑤   中山士朗から関千枝子様

             作家  中山士朗

 お手紙拝読して『広島第二県女二年西組』が広く読み継がれ、人々に深い感銘を与えていることを知り、嬉しく思っております。昔、ある作家が、「同じ作者による作品でも、よく働いてくれる作品と、そうではない作品がある」と言いましたが、『広島第二県女二年西組』はまさしくよく働いてくれる作品だと思いました。それというのは、名作に他ならないからです。さまざまな企画が成功するよう祈っています。
 先日、テレビで先月亡くなられた大林宣彦監督の病床での会話の場面を見ていましたら、対岸の原爆ドームを眺めながら、原爆の映画を作ってみたいと語っておられた時の姿が回顧されていましたが、それがかなわず逝ってしまわれたことはまことに残念でなりません。  
 けれども、関さんが山田洋次さんとお会いになられたことを伺い、大変嬉しく思っております。山田洋次さんと言えば、大分の湯の原温泉にある渥美清さんの等身大の写真像にメッセージを貼られたことで知られています。
 次に広島が片仮名のヒロシマについてのお尋ねの件ですが、充分に時間をかけて調べることができませんでしたが、中国新聞社発行の『ヒロシマの記録』(被爆30年写真集)の年表をめくっておりましたら、昭和21年年表の8・31欄に、
 米ニューヨーカー誌「ヒロシマ特集」(ジョン・ハーシーのルポ)1日で30万部売り切る。
 と、初めて片仮名の「ヒロシマ」の文字が見られます。ちなみに大江健三郎さんの「ヒロシマ・ノート」に当たってみますと、この書物は1965年6月21日に岩波書店から発行されたことがわかりました。恐らくその頃から、広島がヒロシマになったのではないでしょうか。私自身はそれより少し前に、次のような文章を書いております。
 <職のない僕は>いたたまれないようなジレンマに襲われ、訳もなくヒロシマに帰ってみた。<原爆乙女をアメリカに送ったヒロシマ、平和観光都市として道路を広々と採ったヒロシマ。平和という名前がゾッキ本屋のように安く売られているヒロシマ、僕のケロイドをまじまじと見るヒロシマ>
 <こうした平和都市ヒロシマでは、今年になって7人目の原爆症患者が死んだ。そして、アメリカで手術中の原爆乙女の一人が死んだ>
 そして、広島城跡の焼け崩れた石垣のもとにひっそりとたたずむ、原民喜の「碑名」が刻まれた詩碑の前に立ったのでした。
  遠き日の石に刻み
  砂に影おち 
  崩れ墜つ 大地のまなか
  一輪の花の幻
<僕はその碑の前に立った時、唖然としてしまった。碑の角は小石をなげられて欠けていたし、「碑銘」の彫られた陶焼きの板は、文字が読み取れぬほどに痛めつけられていた>。


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はるかなる呼び声 №4 [核無き世界をめざして]

はるかなる呼び声④    関千枝子から中山士朗様

          エッセイスト  堰 千枝子

 思いがけない「素晴らしい」出来事が続いています。前の手紙でも書きましたように、「あの時」もう少し、何かできることがあったのではないか、という後悔、そして聞こえてくる友――死者の声、「どうしてあんな爆弾がなくならないの、もう七五年もたったのに、という声、そんなことを書くつもりだったのに、素晴らしいことを報告することになりました。でも、これ「縁(えにし)」としか思えず、友たちが呼び入れてくれたのではないかとさえ思えるのです。
 まず最初、某私大(超一流大学)の法学部一年生のFさん(こんな逆流の時代です。名前を出すと、嫌がらせなどがあるかとも思い、フルネーム書きません)から手紙が来ました。彼女とは六年くらいの付き合いです。私のヒロシマのフィールドワークの参加が始まりだったと思います。そのとき彼女十三歳だったそうで、私のクラスが作業中に原爆にあい死んだ話に驚き、同じ十三歳なのに、勉強さえも許されず、作業に駆り立てられ、死んでいったことに何とも言えぬ思いになったというのです。その後、私の本を読んで、いろいろ質問をくれ、それを元に、レポートを書いたことを報告してくれたり、一回のフィールドワーク参加だけでなくその後もずっと手紙のやりとりが続きました。将来のこともしっかり考えていて、得意の英語を活かし、国際弁護士を目指すというのです。そして今春、無事志望校に入れ、喜んでいたのです。
 ところがコロナ騒ぎで、大学も普通の授業はできず、同じクラスにどんな友がいるかもさっぱりわからず、彼女がっかりしていたのですが、大学に寄宿舎での生活が大変面白いと言っていました。コロナのため夏になっても帰れず、東京で八月六日を迎えることになったのですが、彼女、東京の八六にびっくりしたようです。広島ではとにかくこの日は特別の日です。テレビなども昔のような特集大番組は減っても、何かしら原爆のことを放送しています。広島に住んでいれば、この日が何の日か知らない人はいません。ところが東京では。彼女は八月六日と言ってもそれが何のことか全く知らない人が多いのに愕然としました。しかし、それでへこたれないのが彼女です。ツイッターだか何だか知りませんが、近頃の若い方々の機器で八六のことを大いに宣伝、市長の平和宣言なども広めたのです。そうしたら。かなりの数の人が興味を持ってくれ、コロナが収まったら一緒に広島に行こう、平和資料館にも行きたいと言っているのだそうです。私は感心し、嬉しくなってしまいました。原爆のこと、ヒバクシャの思い、近ごろ継承者のことが熱心.に言われますが、継承者に名乗り上げず、日ごろは普通の仕事や学業をしながら、何時も関心を持ち、必要なとき声を上げ、広める。これこそ、本当の「継承者」ではないかしら。若いFさんがしっかりやっておられるのに感激してしまいました。
 手紙と一緒に、私の手作りです、フィールドワークのときなどにつけてくださいとペンダントが入っていました。円形の輪に小さい折り鶴がついています、ペンダント全部が手作りではなくて、あるいはキットのようなものがあって一部を手作りするのかな、と思いましたが、とても可愛いのです。広島に少し関連するような催しなどの時、つけていますが、皆可愛いと言い、なにこれ?と聞いてくれますので、由来を話し、核の話など話します。自然に、核廃絶を語れます。
 Fさんの手紙のすぐあと、H君に会いました。大学生で卒論で原爆と取り組み、教員、それも小学校教員志望です。なぜ小学校?と聞きましたが、彼は小学生にこそ、平和教育を、と言います。「はだしのゲン」の映画を小学生の時に見て衝撃を受け、戦争のことに関心を持った自分の経験がもとにあるようです。教員試験に受かったようですが、コロナのため遅れている教育実習がまだ残っていて忙しい中、卒論を(出来上がっている部分だけですが)持って、まだ聞きたいことがあると来てくれました。自分の体験から入り、変に肩肘張らず、共感の持てる序章でしたが、その中に、なぜ「ヒロシマ」か、という問題提起があります。私も頭を抱えてしまいました。今、私も平気でヒロシマという書き方をつかいますし、カタカナでヒロシマとあれば、原爆を受けたヒロシマと皆分かります。でも、誰がいつこういう書き方を使い始めたか、なぜ?その思いは?わからないことだらけです、何時から「ヒロシマ」が使われだしたのでしょうね、中山さん、記憶ありますか?
 その後の現実のことになって、私はうなってしまいました。勘違いが多いのです、でもそれは彼を責めるより、私、自分が話している時、こんなことはわかっていると思い込んでいる、でも若い人はわからない、戦争の時代はあまりに遠いのですね。むしろ私、自分の反省になりました。
 たとえば、作業に行ったとき弁当の入った背嚢や手提げ袋を持ったままでは作業できないので道端に置く、すると弁当泥棒が来るので、弁当番を作るのが常だったと話したところ、彼はそれを学校の授業のときも弁当番があったと書いているのです。学校の授業なら自分の机に持ち物を置く、弁当番は必要ない、それに中学、女学校に行っている家はかなりの家の子が多く、弁当は何とか(たとえ麦入り、おかずはカボチャだけでも)持たせられた、弁当が作れない(おかゆでは弁当になりませんね)。国民学校高等科などの悲劇、と言っても、H君はなかなかぴんと来ないようで、高等科などと言っても、あの頃の学制、なかなか理解できない。次に会う時までにH君、もっと勉強して来るということになったのですが、むしろ、私、自分はわかりやすく話しているつもりでも。若い方はわかっていなかったのだということに気づきました。
 H君と会った後、NHK広島の女性の.ディレクターと会いました。彼女、あの時の疎開地の作業で、若い少年少女が,亡くなり、あるいは傷ついたことにこだわっている人です。あの日動員された少年少女八千人、亡くなった方六千人以上、これは日本教育史上最大の悲劇なのに、広島でさえ、このことが忘れられています。対馬丸の悲劇は有名なのに。
 彼女はこだわり企画もいろいろ出しているようですが、あの惨劇のことを描くのは難しいですね、もっと企画を練って、と、先輩たちに言われているようですが、とにかくコロナ騒ぎが長引く中、東京に来るのも難しい中、わざわざ来てくださったことに本当に感動しました。
 そこへ、NHK国際部の栄久庵耕児さんから、大叔母の昌子(ひろこ)さんのことをNHKWEBニュースに書いたからと知らせてくださいました。昌子さんはかの大グラフィックデザイナー栄久庵憲司さんの妹です。当時山中高女二年生、私のクラスと同じ雑魚場で疎開作業で働き亡くなりました。
 栄久庵憲司さんには中山さんへの手紙でも何度か報告しました河勝重美さんの仕事でお目にかかりお世話になりました。河勝さんは被爆五十年の年、友人岡田悌次さん(広島一中四年生のとき被爆)が体験記を書かれたのをドイツ語に翻訳するのを手伝い、当時ドイツにいらしたのでドイツ語で本にしたいと思い、私の本(広島第二県女二年西組)を知りいくつかのエピソードを紹介更に被爆者の絵を知り、それを入れた「原爆地獄」をドイツ語で本にしました。その後日本に帰国、帰国してからも日本語版、日英版等たくさんの本を出しましたが、これには河勝さんの都立五中(小石川高校)の時の仲間、岡田さんと栄久庵さんの援助があってできたことでした。
. 栄久庵家は広島の大きな寺で、昌子さんは、広島の山中高女に通っておられたのです。山中高女は私と同じ地区での作業だったので、前日には私と昌子さんはそう遠くないところで作業をしていたわけです。栄久庵憲司先生は当時海兵にいて、敗戦後、帰路広島によって昌子さんの骨を受け取るるのですが昌子さんの詳しい死の模様は御存じないようでした、、憲司先生も岡田悌次さんも鬼籍に入られました。
 栄久庵耕児さんにとっては顔も知らない大叔母ですが、思うところありこのたび調べて見て昌子さんの死の直前にあった先生がいることが分かった、昌子さんは「エクアンです」と叫び水をくださいと言っているのです。水をやると死ぬぞと言われている時だから水は上げられない、しかしい珍しい名なので先生はよく覚えていてまだ御存命らしい、栄久庵耕児さんは九八歳の先生を福山に尋ねて行き、話を聞くのですが。驚きました。この水木(平賀)栄先生、戦後は第二県女の先生になり、私もよく知っています。山中、第二県女の慰霊碑は一緒のところにあり、今夏も平賀先生は遠くからよく来てくれたと私の肩を抱いて喜んでくださいました。栄久庵先生のことも思い出しながら、中山さんもよく言っておられる「縁(えにし)」を感じました。
 そして、最後。これこそ一番の大驚きです。三年前、どこの局とも言わず、「二年西組」を使って大きな企画があるという話があると報告しました。覚えておられますか。あれはNHKエンタープライズからのお話で、そう簡単な企画ではないから時間がかかっていると途中報告がありましたがその後何もないので、あきらめておりました。すると先日、ディレクターの中村雅人さんから「実は大林宣彦監督、山田洋次脚本でやることが、決まっていたのだが、大林監督が急に亡くなってしまし困っているのです」。ビッグネームの続出に私ビックリしていましたら、大林さんと山田さんはとても親しかったそうで、企画は大林監督中心で進んでいて、大林さんが脚本はぜひ山田さんでと言われたようです。 
 そんなことで企画のやり直しもまだ正式に決定していないのだが、とにかく山田さんが会いたがっている、会ってくださいますか。もちろんありがたく行きますと答えました、山田洋次さんはとても腰が低い方だそうで、私の足を心配して、私の家に近いところまで来てくださると言われたのですが、我が家は場末、いろいろあってNHKエンタープライズでお会いし、いろいろお話し、あっという間の二時間でした。
 まだ正式の企画になってないものことを早々報告してしまっていいかしらとも思いますが、山田洋次監督のような大物を引っ張り出しているのですからそうむざむざとは企画はつぶれないだろう、どんな構想になるのか、それはまだわかりませんが、形になることを信じてます。いろいろビックリ報告の最後にします。このところいろいろあって、学術会議のことやらがたがた怒っているのですが、あまり長くなりましたので、今回はこれで。

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はるかなる呼び声 №3 [核無き世界をめざして]

はるかなる呼び声③ 中山士朗から関千枝子様へ

                 作家  中山士朗

 その①、②熟読いたしました。
 そのなかに朝日新聞8月6日の「天声人語」に触れている個所がありましたが、私もその記事を読み、関さんの『広島第二県女二年西組』に触れられているので、切り抜いて保存していたところです。読みながら、世の中、具眼の人がいるものだと感心していたところです。筆者は

 広島で14万人、長崎で7万の無辜の命を奪った原爆投下から、4分の3世紀。核兵器は今も世界に存続し続け、使用可能であり続けている。核の時代にいる私たちすべてが、かろうじて生き残っているだけなのかもしれない。
 大惨事は起きる直前まで、その姿を現さない。あの時の広島がそうだったように。

と筆を結んでいます。
 そのようなことを頭の中で考えながらお手紙を読んでおりますと、私たちはこれまで死者たちの声について触れていなかったことにあらためて気づいた次第です。その死者たちの声を届ける最後の世代が、90歳近くになる私達であることに気づかされたのでした。
 関さんが『はるかなる呼び声』と題して、死者の声を書き残しておかなければという使命感のようなものを感じざるを得ません。為数美智子さんの記憶、「ひな鳥を慈しむ母鳥のように」生徒たちを抱きしめている波多先生のこと、先生の髪は「見る見るうちに白髪に変わった」という坂本節子さんの証言を読みながら、死者の声が私の耳に届いたのでした。
 その二年西組でただ一人生き残った坂本さんは、合同追悼会で追悼の辞を述べましたが、弔辞の最期は、「すみません、すみません、すみません‥‥」と一人生き残った詫びの言葉だったそうです。
 この個所を読みながら、被爆直後の広島で「すまない」という言葉がしきりに発せられたことに気づいたのです。生き残った男性の間では、広島弁で「すまんかったのう」という言葉がしきりに発せられていた記憶が残っています。それと並行して、「よう生きとったのう」言葉が、再会直後に発せられた言葉でした。
 本来、「すみません」という言葉は、辞書によると「あやまる時、礼を言う時、依頼する時などに使う語」で「すまない」の丁寧語と書かれていますが、被爆直後の広島で生き残った者たちが廃墟の地で出会い、最初に交わした言葉でした。
 そのようなことを回顧している時、私は中学校時代の友人である藤井勝君のことを思い出さずにはいられませんでした。
 一年生のときは同じ学級でしたが、二年生になった時に組替えがあり、別れ別れになってしまいました。そして二学期からは学徒動員が始まりいっそう疎遠の間柄にしまいました。藤井君の学級は、己斐の近くにあった広島航空に、私たちの学級は向洋にあった東洋工業に動員され、それぞれ兵器生産に従事していました。しかし、原爆が投下された日、藤井君は爆心地にほど近い小網町で、私は爆心地から1・5㌔離れた鶴見町でそれぞれ建物疎開作業中に被爆したのでした。
 その結果、藤井君は死亡、私は顔に広範囲の火傷の痕を遺して生き残ることになったのです。
 戦争が終わってからしばらくして、私は焼け跡に建てられたバラックの藤井君の実家を訪ね、仏壇に向かって合掌させて頂きました。女学校の先生をしておられた姉上様が会ってくださいましたが、私が、仏壇に向かって「すまんかったのう」と言ったのを姉上様が止められ、「どうか勝の分まで生きてやってください」と言われたことが、今も克明に記憶に残っています。私の手元には、陸軍幼年学校に入った阿久根君と藤井君、私の3人で撮った記念写真が残っています。
 関さんの手紙から、75年前の日々が鮮明に浮かび上がってきました。そして当時を語り合える同時代の友人がいなくなったことに、あらためて気づいた次第です。




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はるかなる呼び声 №2 [核無き世界をめざして]

はるかなる呼び声 ②            

        エッセイスト  関千枝子

 私は、被爆者の中でも、もっとも“幸運な”被爆者だと思っています。家は焼けず、家族にけがなどもなく、父の会社も宇品の一番南(爆心から五㌔)、私たちはその前年、父の仕事で広島に行ったため、親類も広島には皆無、被害がなかったのです。中でも私は、あの日、もし、体調を崩さず作業を休まなかったら、九十九%死んでいます。本当に私は好運だったのです。でも、「私は運のよい子」と言われるたび、素直に喜べず、身をさかれる思いでした。原爆で命が助かった人の中には、ほんの一日、いえ、ほんの十分か十五分の差で助かったという人が結構多いのです。その人たちは。その何とも言えない”幸運”を「すまない」という言葉で表します。今、何も言えない、証言もしていない被爆者たちに話を聞こう、という運動が起こっているのですが、私は、もっともひどい被害を受けた人、それはあの時(少なくともあの年中に)死んでしまった人だと思います。「運のよい子」と言われるたびに、私は私が落とした原爆ではないのに、と思いながら、胸をかきむしられる思いでおります、いまだに!
 今年の八月六日、朝日新聞の「天声人語」で、私の「広島第二県女二年西組」が紹介されました。事前に取材などもなかったし、まさか三十五年前に出した本が紹介されるなど、夢にも思っていなかったので驚いたのですが、ありがたかったのは、私の問いかけ、「私は運がよかったとして、私の級友は、いや十四万人と言われる広島の死者たちは、運が悪かったのだろうか」という思いを紹介してくださったことです。 
 「なぜ?」、突き詰めて考えるたび、思い当たる非条理さ。そして、戦争を放棄した憲法に、「これしかない」、こんな憲法が前からあったらと思った、その思いです。

 「すまない」という言葉。広島では戦後たびたび聞いた言葉ですが、でも、最初に衝撃的に聞いたのは、原爆の翌年の三月三日でした。この日、県立広島女専と廣島第二県女の合同の原爆死者への合同追悼の会が開かれました。女専は原爆の死者は非常に少なかったのですが、第二県女は二年西組が全滅、一年生は東練兵場で全員火傷です。第二県女を代表して生徒の追悼の辞は、二年西組でただ一人生き残った坂本節子さんが行いました。二年西組のいた雑魚場地区は百人に一人くらい奇跡的生き残りのある地区ですが、ほかの学校は生き残りの気持ちを考え、なるべく目立たないよう隠すようにした学校が多いのですが、第二県女の場合、原爆というと坂本さんを前面に押し出すようにしたのです。この日が、坂本さんいとってその第一日だったのです。 
 彼女の弔辞は、記録が残っています。彼女は、「原爆の子」などに手記を遺していますが、その記述とこの時の弔辞と、ほとんど変わりません。一瞬にして目がくらみ、気絶、気が付くとあたりは真っ暗。自然発火して見たあたりの様子は、大やけどでボロボロに焼け誰が誰かわからぬ級友、泣きながら先生の周りに集まると「先生はひな鳥を慈しむ母鳥のように」生徒たちを抱きしめていたこと、先生の髪は、見る見るうちに白髪の変わったこと」を証言しています。担任の波多先生は、当時では大ベテランの生生でしたが、調べてみたらまだ二十九歳でした。髪が白髪に変わる,恐怖、驚愕、責任感‥‥ 、しかし、これは坂本節子が一人生き残ったため、証言できたのです。母鳥のように生徒を抱きしめる教師の姿は、節子の胸に焼き付き、あるべき教師像となったのでしょう。 弔辞の最後は自分一人生き残ったことへの「詫び」の言葉です、「すみません、すみません、すみません‥‥」。
 彼女と、親しく話し合うようになったのは、高校二年のときでした。新制度の高校になり、その頃広島の女子の高校は、文科、理科、家庭科とクラス分けする学校が多かったのですが、私たちの学校もそのようなことで、私と坂本節子は文科でした。家庭科に比べ、人数が少なかったので、なにかと話す機会が多かったのです。生き残った者の、「すまない」思いを話したこともありました。この頃になると、私のように欠席生き残りのことは皆忘れてしまい、私も西組だったと言っても「そうじゃったかね」になるのですが、坂本節子のことを忘れる人は誰もいませんでした。坂本は私が西組だったことを覚えていて、「あんたは気楽じゃ。休んだんじゃけえ。うちはあの場に居ながら一人助かったのだから‥‥」というのです。「貴方が助かったのは神様の思し召し。あなたの運じゃ、誰が悪いのでもないわ」と私は言うのですが。彼女の「すまない」という気持ちは少しも癒えませんでした。彼女は思いを抱きながら広島女子短大(女専の後身 )を出て中学教師になりましたが、大変勉強を教えるのがうまい教師でありましたが、ちょっとした時でも時間さえあれば、自分の被爆体験を語る 「被爆教師」でもありました。彼女には被爆を隠すことなどありえませんでした。原爆の事実を伝えるそれが自分の使命だから。その心の底に何時もあったのは「すまない」という思いでした。
 私の「すまない」思いは彼女より、もしかしたら「濁っている」かもしれません。生き残ったことへの罪深さのような気持ちと同時に、あの時、もっと何かできたのではないか、という深い後悔があります、この後悔は、多分、為数美智子さんの私を呼ぶ夢の中の声とともに、墓場にまで持っていくことになるのではないかと思うのですが、
 なんだか、くだらないことを長々と書いてしまいました。「後悔」の中身をこの後書いていきます。


 「余禄」の最後、「はるかな呼び声」の①で、中山さんの手記はもう終わりのようなことを書いてすみませんですぃた。その後、中山さんも考え直してくださり、もう一度、私たちの手紙交換に参加してくださることになりました。「呼び声」の③は中山さんお手紙になると思います。よろしくお願いします  


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はるかなる呼び声 №1 [核無き世界をめざして]

はるかなる呼び声 ①                  

            エッセイスト  関千枝子

 往復書簡「余滴」が突然終わってしまいまして、申し訳ありませんでした。今年の8月で、まとめて本にしておきたいという中山士朗さんのご希望は前から聞いていたのですが、その後も、書き続けてくださると思っていたのですが、これで往復書簡のやりとりはすべて終わりにするということで実は私も驚いてしまったのです。その前から、書くのが遅くなった、など言われており、また、中山さんは非常に料理が得意で日々の生活には困らないと言っておられたのが、時々食事の支度が面倒になるなどとも言っておられたので、体の具合が悪くなったのかと心配しました。しかし、それは心配なく、癌の進行は遅く、頑張っておられるようです。結局、「原爆について書くべきことはすべて書いた、自分も九〇歳であり、筆力の衰えぬ前に、八年にわたるこのシリーズを終わらせたいという気持ちのようで、私も無理は言えないと思いました。中山さんは広島原爆で爆心から一キロ半の鶴見橋で大やけどを負い、命はとりとめたものの、ケロイドと差別や偏見に悩み続けました。結婚されましたが、子どもを作ることも断念されました。心臓病に悩まされましたが、原爆症の認定も受けられず、二〇一七年大腸がんを発症され、初めて原爆症に認定されました。中山さんは、手術も抗がん剤も断られ、自然に任せた生活をされているのですが、それは命などいらないということでなく、友人で手術や抗がん剤で認知症になった方もあったため、それは避け、何としても、意識の健全なまま、最後を送りたいというお気持ちだったようです。がん発病後の手紙のやりとりが「余滴」となりました。
 中山さんの思いは、被爆の惨禍、被爆者の痛切な思いをこの八年間のやりとりした手紙を読んで理解していただきたい、そしてこのような残酷な兵器を地球上から失くしたい、という核兵器廃絶の思いです。どうぞ、皆様、思いを読み取り、核兵器廃絶の声を上げてくださいませ。
 
 さて、「余滴」は終わりましたが、私は、まだまだ書きたいこともあり、このコーナーを続けさせていただきます。新しい題は「はるかな呼び声」とさせていただきました。
 何、その題の意味は?と言われる方もあるかもしれません。第一回は、題の説明にさせていただきます。
 「声」とは、原爆で全滅した私のクラス・広島第二県女二年西組のクラスの人びとの声です。
 あれは、被爆六〇年ごろでしたか、それから十数年、夏が近づくと、私は夜明け前、目覚めの前ごろ、夢の中で「富永さん(私の旧姓)」という呼び声が響き、その声で目覚めるようになりました。その声は私の仲の良かった友、為数美智子さんの声です。
 二年になってから同級になった彼女は、前年東京から広島へ来て、広島のことも何も知らず、うろうろまごまごしていた私の友になってくださいました。家が近かったせいもあって三カ月半ばかり、私は彼女と一日中、学校が終わった後も、いつも一緒にいました。そのころ、学校は作業などの動員が多かったのですが、どこそこに集合と言われてもどこに行くのやら見当もつかない私に、タメ子(彼女はそんな愛称で呼ばれていました)はいつも私の家に迎えに来てくれたのです。
 あの八月、広島市は、全市をあげて強制建物疎開の跡片付け、道などを作る作業を行い、一日一万人を超える大動員の主役は中学や女学校の低学年一、二年生、まだ十二,三歳の少年少女。一年生など、国民学校(小学校)をでたばかり、本当に幼い子どもたちでした。
 私たちの学校は、八月五日から出動、雑魚場と当時呼ばれていた市役所の裏のあたりで、作業をしました。私も前日はタメ子が迎えに来てくれ、出動しました。その晩、近くの街の空襲があり、朝方まで寝られなかった私はひどい下痢をしました。母はどうしても行ってはいけないと言い、争いに疲れ、うとうとしているところへ、タメ子が迎えに来てくれたのです。こんな時、彼女は玄関からでなく、庭から入り、座敷の前あたりで「富永さん」と声をかけるのが常でした。この日もうつらうつらしている私の耳に彼女の声がしっかり響いています。そして、母の声。母は病気でと断り、「今日も暑くなりそうね。あなたも、休んだら…」と冗談交じりに言い、まじめなタメ子が笑いながら、「先生に言っておきます」と行ってしまったのです。「あの時無理にも止めて置いたら」と母があと後まで言っていたのですが。
 この後、一時間半、ピカとなるのですが。
 夢の中のタメ子の声は確かにあの時の呼び声です。はっと目覚めた私の耳に、「ねえ、どうしてあんな爆弾無くせないの」という声が聞こえるような気がします。そしてクラスみんなの声が。「どうして!どうして!」
 今、私の耳に「どうして!」という声は聞こえません。夏の朝の夢も見ません。七十五年たって、原爆のことを忘れてしまったのか、とんでもない、何十年経っても、あの恐怖、悲しさ、辛さ、忘れられません。 多分「どうして」の夢が亡くなったのは二〇一七年「核兵器禁士条約」ができてからだろうと思います。しかし、私は、あの条約の協議に参加もせず、もちろん署名も批准もしない日本政府に怒りまくっております。 
 今年の原爆忌の広島市、長崎市の式典もコロナのため縮小されましたが、両市長とも条約の署名、批准を強く求めました。しかし、安倍首相は条約に一言も触れず、無視でした。核廃絶を本当にやる気があるのか!
 日本政府の態度が変わらず、条約がもし、批准国が少なく発効しなかったら。「どうして!?」の声は夜明けだけでなく一日中響き渡るかもしれません。どうしてあんな爆弾を無くせないの?はるかに響く「友の声」を書き続けたいと思います。


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対話随想・余滴 №44 [核無き世界をめざして]

 「余滴」最後の手紙となりました。
 2012年から始めました私たちの往復書簡は、これまで、往復書簡集Ⅰ~Ⅲ、随想集としてまとめることができました。そして、ここに「余滴」44の手紙を関さんに送らせて頂き、終了としますが、同時に「余滴集」発行の準備に取りかかっています。
 今年は、戦後75年という節目の年とされ、戦争で生き残った証言者の談話が新聞紙上で取り上げられていますが、いずれの証言者も、私たちと同年代の人たちで、戦争体験を語っています。私同様に、残り少ない時間の人たちばかりですが、真剣に語り、戦争を否定し、平和な世界の実現を望んでいました。取材者自身は、戦争体験者から直接話を聞ける最後の世代と言っていましたが、私は違和感を覚えました。そして、私たちが8年かけて綴った往復書簡集をぜひ読んで欲しいと思った次第です。
 老人の繰り言になってしまいましたが、この8年間、発表の場を与えて下さった「知の木々舎」の横幕さん、出版の労をとって下さった西田書店の日高さんに心からお礼を申し上げます。そして、往復書簡に誘って下さった関さんに改めて感謝、お礼を申し上げます
            2020年8月     中山士朗

  「余滴」が突然こんな形で終わりましてすみません。実は、被爆75年の8月で、まとめて本にしたいという中山さんの希望は聞いており、賛成していたのですが、その後も余滴は書き続けてくださると思っていましたので、実は驚きました。ただ、これは中山さんの健康状態が悪化したためではなく、書くことは書きつくした、このあたりで締めたい、ということと思えました。二人の往復書簡を始めてからこの余滴44で、ちょうど200回になるようで、その意味でも、きりのいい時かとも思えます。
 ただ、私は被爆のこと、次代への継承など、まだ書きたいことがあり、また、「核なき世界をめざして」のコーナーは、往復書簡が始まる前からのものでこのコーナーに、穴をあけるわけにはいかないと思います。私がしばらく一人で書き続けさせていただきます。
タイトルは「はるかな呼び声」としたいと思っています。よろしくお願いします。
                2020年8月      関千枝子



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対話随想・余滴 №43 [核無き世界をめざして]

余滴 43  関千枝子から中山士朗様

           エッセイスト  関 千枝子

 八月四、五、六日、広島に行ってまいりました。いくら小池都知事が「不急不要」のお出かけはお控えください、他県へは行かないで、など言っても「不要」ではない、と思いまして。八六の広島行きは、私の「決まり事」ですから。
 今年は思いがけない新型コロナ騒ぎ。すっかり様相が変わってしまいました。毎年やっていた、少年少女たちの跡を訪ねるフィールドワーク、心配していたのですが、主催事業にしていただいていた広島YWCAから、はっきり今年は無理と言われてしまいました。三密を避けなければということになれば、四十人でのフィールドワークなどできません。YWCAの方は、バスを仕立てて、あの疎開地作業で死んだリ、傷ついたりした少年少女たちの全ての地をたどるツアーも考えたいと言っておられたのですが全てだめになりました。いろいろな催しなどができなくなり、広島市の式典も人数を絞った形で行い、一般の参加者は入れない、ということが伝えられましたが、私はそれでも広島行きをあきらめませんでした。
 そんな時信じられない朗報が届きました。私の『広島第二県女二年西組』を、朗読劇にしてくださっているグループがあって大阪周辺に多いのです。これも今年中止が相次いでいたのですが、その中の一つのグループ(プロの俳優たちです)が七月二十七日に大阪府島本町の「反核・平和・人権フェスティバル』で上演することに決まったと、お知らせがあったのです。こうしたフェスティバルも今年は中止が多いし、奇跡のような話です。このグループはこの朗読劇に熱心で、去年も上演し広島で公演したいと言っておられたのです。それならと彼女らの台本に大幅加筆したのですが、それを上演するというのです。観客は二〇名にしぼるそうですが、驚きました。そして彼女たちは私と日程を合わせ、俳優四人で五,六日広島に来るというのです。こんな時の八六に広島に来るという彼女らに感激、私は二年西組の関係地をご案内することにしました。
 案内の方法ですが、大勢の人、タクシー一台では乗り切れませんので、大型の車を借りるしかなく、例の「ヒロシマ講座」の竹内良男先生にご相談、お願いしたのです。
 その後、東京のコロナ感染者は増え続けました。四百を超す数が出たりして、緊張が高まる中、竹内先生が、「今年は広島行きを断念する」と言われました、竹内先生はここ三五年八六に広島行きをされています。なぜ?それはほかのヒバクシャや原爆のことで活動されている方が広島行きを止められたこともあり、「コロナ蔓延の東京から行っても嫌われるのではないか。一応歓迎してくださっても本心は嫌なのではないか」と言われるのです。驚きました。でも決意が固そうなのです。
 私は、NHKの出山アナが広島に帰っている(これは変な言い方かもしれません。彼はもともと広島の人ではありません。しかし、彼は四回目の廣島勤務。彼の夫人は広島の平和ボランティアで、彼が転勤しても広島に残っていました)ことを聞いていたので、出山さんに電話してみました。彼は、六日の市の式典を実況するので(全国放送。中山さんもご覧になりましたでしょう?)五日はリハーサルがあり、お手伝いできないがと、ジャンボタクシーを手配してくださいました。出山さんが手配してくださったのですいすい事は運び、あっという間に準備完了です。島本町の公演も無事すみ、観客も共感してくださったようです。 
 そこへ、堀池美帆さんから広島に行きたいと言ってきました。もう社会人だから無理だろうと思ったのですが、来ると言います、今度はこんな具合で、大阪の方を案内するので、と言ったのですが、一緒に回りたいと言い、私と同じホテルをとってしまいました。例年ならこの時期、広島のホテルなどとれっこないのですが、今年はキャンセル相次ぎ、ホテルもガラガ、客に大喜びのようです。
 四日、新幹線に乗って驚きました。ガラガラ。これならコロナ予防にも文句ないはず。
しかし、何だか妙ですね。
 四日、私は鯉城同窓会に行来ました。ちょうど熱心な職員の方がいらして、同窓会資料のことなどでいろいろご相談しました。この間、堀池さんには平和資料センターなどに行ってもらいました。
 五日、大阪の方は(三人に減ったのですが)時間より早めに来てくださり、堀池さんも同乗して案内です。この大阪の俳優の方々は、第二県女の慰霊碑はすでに知っておかれるのですが、まずここから始めました。なぜこの碑がここに建てられたかの話もしました。この碑は、広島に例のない、町内会が持っている碑です。六十年前建てられた時、その後の維持に当時の町内会長さんが本当に熱心だったことを話しました。
 それから二年西組の足跡をたどる案内です。最初、担任の先生が、生徒一人を抱き、一人を背に負ぶって倒れていらした日赤の前庭のところです。日赤はすっかり立て直され、昔をしのぶもの何もありませんが、位置だけは昔と変わらないこと、被災地とすぐ近くなのに、火の中、真っ暗な中をここまで来るのがいかに大変か(ここまで来れず川の方に逃げた生徒が多い)分かっていただきたいと話しました。
 そして電車道を走り、御幸橋を通って宇品に入り学校まで。
 車で走るとすぐなのですが、少女たちが衣服が焼け焦げ、体中大やけど、歩くのがどんなに大変だったか。幾分わかっていただけたかと思います。
 広島女専はいま県立大学、共学の大学になり、正門は昔と全く別の場所にあります、昔の正門は裏門として残っているのを一昨年私は見たのですが、なんとそれも、なくなっていました。驚いてしまいましたが、位置関係だけを説明し、昔、第二県女の一棟だけの校舎のあった位置を説明しました。その後、為数美智子さんの家の跡をお見せしようと思ったのですが、一方通行なので大回り、竹内先生が広島市内の運転は、と嫌がられたわけが分かりました。そのあと私の家の跡に行きました。私の家の跡は今高齢者の施設になっていまして、有名な語り部・沼田鈴子さんが最期まで暮らした施設として有名です。我が家の北にあった広陵中学はもう郊外に行ってしまい、今はマンション街で、このあたりで、キノコ雲を見て、と説明するしかありません、そのあたりで一軒だけ昔からの古い家があって、一昨年までは昔のままあったのですが、今年は、まったく新しい建物になっていました。なるほど被爆建物が、減って行くはずだと思いました。  
 その後被服支廠に案内しました。私のクラスではここに来た人はないのですが、雑魚場地区で建物疎開作業中被害に遭った少年少女の多くがここに収容されましたし、わがクラスの森沢妙子さんの場合も兵器支廠と書いていますが、実はどちらか、よう覚えとらん、まあ、兵器支廠にしておいてくれと森沢さんのお父さん雄三さんが言われたので、もしかしたら被服支廠かもしれません。ここは倉庫が4棟残っているのに、それを一つだけ残して壊してしまえという県、国に対し、全部残せという保存運動が起こっています。古い建物を耐震の手当をして保存すると莫大な金が要るというのですが。しかし、行ってみて、倉庫の大きいことに驚き、ここに何千人もの被爆者が詰め込まれた様を思い、耐えられない思いがしました。その後、時間があったので兵器支廠の跡に行ってみようと思ったのですが、驚いたことに運転手さんは、兵器支廠がどこにあったかも知りません。取り壊されてもう影も形もないのですね、ここで堀池さんのスマホが活躍、兵器支廠の跡は広大医学部の病院になっていることが分かり、行ってみました。中の建物の中に壁の一部が保存されているそうで、説明のプレートがありました。
 この日はこんなことで終わり、明日六日は、広島の街や学校の慰霊祭相次ぐ中、私たちの学校の慰霊祭はしますので、明日そこへ来てくださいとお願いお別れしましたこれで、五日の予定は無事終わったのですが、驚いたことに、私はくたくたに疲れてしまいました。外に食事に行く元気も、食欲もなくなり、堀池さんがコンビニで買ってきたものの中で、冷たいうどんと豆腐がやっと口に入りました。堀池さんが来ると言った時、今年は大阪の俳優さんたちを案内するので、あなたにあまりかまってあげられないからと言ったのですが、彼女が来てくれてよかったと思いました。コロナは大丈夫ですが、(マスク、手洗いは当然、毎日検温も欠かさず)自分の高齢化現象には驚き貸した。いろいろなところで彼女に助けてもらい、今度の広島行きは彼女のヘルプなしではできませんでした。
 六日、慰霊祭、大阪の俳優さんたちは朝早くから来て参加してくださいました。第二県女の同窓会は高齢化のため解散、後を町内会に託しています。山中高女の方は広大福山分校の付属中、高校を継承校とすることに成功し、今慰霊祭は、町内会と山中同窓会の共催の形です、コロナ禍の今年も開催し、福山から若い生徒さんたちが来てくださり、感謝に堪えません。それに戦前、山中で教え、戦後第二県女の先生のなられた平賀栄枝先生、今年数えの九九歳なのに、福山から来られ参加されたのです。私を見て、「遠くからよく来てくれた」と涙を浮かべいぇよろこんでくださいました。当時の先生で生きておられるのはこの方だけです。来年も生きていて逢いましょう、涙が出ました。
 町内会の方も、頑張ってくださり「まだまだ頑張ります」と言ってくださいました。感謝です。
 この慰霊祭には、朗読劇に出て来る方、森沢妙子さんの弟さんと、藤井秀子さんの娘さんの斉藤正恵さんが来てくださることになっていました。森沢さんは見えましたが、斎藤さんは見えません。斉藤さんは約束をたがえたり時間を間違えたりする方ではありません、電話も連絡つかず家を出ていることは間違いないが、事故でもあったのではないかと心配しましたが、仕方ありません、次の場所、動員学徒慰霊碑に行きました。ここまで行くのが大変ですが、出山さんの夫人が来てくださり私たちを助けて車で運んでくださったのですが、平和公園は警備で大変、車を入れてくれません。動員学徒の碑は公園の外なのに、怒りながら碑まで歩きます。結構距離があって私はまたフーフー。動員学徒のところも今年は慰霊祭はしなかったのですが、献花に来る人があるというので、役員の方は詰めておられます。ここに本地文枝さんの甥、石川清子さんの姪の方がおられるのは、俳優さんたちに紹介しました。本地さんのお母さんは詳しく被害を物語られ、朗読劇の中でも圧巻の場面です。本地さんは文枝さんのお兄さんの子どもですが、おばあさんや、文枝さんと似て細面で、なんとなく感じが似ています。
 そんなことをしているうちに式典の中継を終わった出山さんも来られました。
 この後、公園の北の方にある供養塔に行きました。広島原爆の誰のものかわからぬ遺骨を納めてあります。県議と兼任で広島市助役になり、広島を平和記念都市にするなどブルドーザーのような剛腕で働いた森沢雄三氏が40万円という退職金を市に寄付、それで出来たのがこの供養塔です。森沢雄三さんは、身元不明の白骨の中に、行方のわからぬ娘・照恵さん(わが級友妙子さんの姉)の骨もあると考えたのでしょう。森沢雄三氏が戦後海に向かって「テルエー、タエコー」と叫ぶ場は朗読劇の盛り上がりの場です。供養塔の前で森沢さんは父の話し、供養塔の話をなさいました。供養塔のことは案外知られていなくて、俳優の中のある方は去年もヒロシマに来られたのですが、ご存知ありませんでした。供養塔を見ていただいてよかったです。
 こうして劇に出てくる遺族の方全てに引き合わせたのですが、斉藤さんだけが連絡つかず困っていたのですが、これまた堀池さんのスマホのおかげでやっと連絡がつきました、なんと彼女、五日に反核平和のデモに出て二時間も歩いたそうですが、その夕方気を失って昏倒、意識のないまま救急車で病院に運び込まれたそうです。六日の朝はまだ身動きできず、連絡もできなかったそうで驚きました。でも、事故などでなく無事が分かったし、堀池さんのスマホで聞いた声はもう大丈夫そうで、俳優さんたちとも連絡がつきました。
 私、東京に帰ってから斉藤さんと電話で話しました。彼女は平和、原爆反対に熱心で、私たちの学校の被爆二世の中で彼女のような方はおられず、感心しています。でも彼女も還暦です。「無理しないで、歳も考えて!」と言って笑いあいました。
 今年の広島の八六、縮小や中止ばかり、灯篭流しまでバーチャルとか、腹立たしくもある七五年目でしたが、私は充実しておりました。
 疲れもあり、七日は早々と帰ってきましたが、新幹線はガラガラ、驚いてしまいました。コロナ防止のためには「最高の環境」ですが、考えてしまいました。


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対話随想余滴 №42 [核無き世界をめざして]

余滴42  中山士朗から関千枝子様へ

                作家  中山士朗

 お手紙を拝見して、どんな状況に陥ろうとも闘い、強く生き抜いて行かれる、関さんの姿勢には感動せずにはいられません。
 その後、瀬戸内寂聴さんの「残された日々」61「書き残した≪百年≫」を再読し、感じましたことを述べてみたいと思います。
 <ふと気がつくと、こんな時、すぐ電話で便りを問いあった親しい身内やなつかしい友人のほとんどが、今はいない。彼等の命は果たしてあの世たらで、互いにめぐりあえているのであろうか。やがてそちらへ行きつく自分は、先に行ったなつかしい人たちに、果たして逢うことができるのであろうか。>
 <出家して、四十七年にもなるが、あの世のことは何ひとつ理解できていない。親しい人、恋しい人はほとんど先に旅立ってしまい、あの世からは、電話もメールも一切来ない>
 この思いは、深く私の胸にもあります。
 瀬戸内さんの文章を読みながら、何時も亡くなられた河野多恵子さんを思い出してしまうのです。その原因は、丹羽文雄さんが主宰されていた「文学者」の会で、お二人が常に一緒の場面を見ていたからです。一度は、お二人が歩いておられる後ろ姿を拝見したことがあります。二度目は、丹羽先生の会があって、受付の前で順番を待とうとした時、「お先にどうぞ」と、声がかかり、ふと振り返るとそこに瀬戸内さんの姿があり、お言葉にしたがって前に進んだことが、今でも鮮明に思い出すことができるのです。河野多恵子さんとは「文学者」が再刊されるまでの間に同人雑誌として発行されていた「現実」で一緒でしたし、手紙の往復もありましたのでよく存じ上げております。
 こんなことを考えておりますと、瀬戸内さんの「親しい人、恋しい人はほとんど先に旅立ってしまい、あの世からは、電話もメールも一切来ない。」という切実な思いが伝わってくるのですが、その一人は間違いなく河野多恵子さんだと思います。
 話が横道に逸れてしまいましたが、それにしても、人々が関さんの言われる「コロナ症候群」に陥っている時、オンラインシンポジュ―ムに参加して、オンライン会議を積極的に体験されるなど、生きるということの意味を教えていただいたような気がします。私なぞは、新しい言葉が生まれても、それに対応するだけの頭脳、体力の無さを感ずる年齢になってしまいました。関さんのご叱責も、当然のことだとかみ締めております。
 話がすっかり横道に逸れてしまいましたが、今回のお手紙には、「ヒロシマへ ヒロシマから」通信に関さんが寄稿された文章が添えられていて、私にとってきわめて懐かしい「大石餅」の近況を知ったことでした。
 この大石餅は、「通信」に詳述されていましたように、浅野内匠頭が吉良上野介を傷つけるという事件のあと、浅野家は広島の本家に引き取られましたが、その時、大石内蔵助の三男と妻、娘がついて広島に来て、その大石家が作った餅だという話は薄々聞いてはおりました。小学校の厳島神社への遠足の時、己斐駅から松並木が続く旧街道を入って間もなく、左側に大石餅の店があり、そこを通り過ぎて行ったものでした。
 その大石餅が現存していることを知るに及んで、ぜひ食してみたいものだという味覚の里帰りを覚えます。そんなことを回想しておりますと、戦前、広島には本通りに「ちから」という甘味喫茶の店があって、母に連れられて行ったことを思い出されました。そこで、白い、小さな形をした「ちから餅」を食べた記憶があります。今になって思えば、「ちから」は、大石主税(ちから)に由来する店名ではなかったのでしょうか。
 以上、そのようなことを回顧しておりましたら、その直後の大分合同新聞の、「原爆投下から75年」という特集記事の中に、広島を支えたお好み焼きについて、四歳で孤児となった女性が鉄板とともに生きた人生、「広島お好み焼き物語」を世に出した、三歳の時被爆した児童文学作家の那須正幹さんの証言が掲載されていました。

 <おいしものはいろいろとあるだろうけど、食べ物というとついお好み焼きを思い出す。爆心地からやく三キロの自宅で被爆した僕にとっては、戦後復興期の象徴。自分史にもつながっている。>
 <そんな広島で、お好み焼きの発展は街の復興とちょうど一緒だった。物心ついたころ、焼け野原にはバラックが立ち並び、その中でぽつぽつと店ができた。少ない小遣いでも食べられる。皆、腹を空かせていた。>
 <作家になって編集者から声が掛かり、『ヒロシマお好み焼物語』でルーツを探った。いろんな文献を読み、一日で四枚食べ歩いたこともある。あの日のことを後世に伝えたいとの思いから、原爆被害についても書きこんだ。>

 記録によれば、お好み焼きの原型「一銭洋食」は、一九一〇年から三〇年にかけて西日本で広まったと記されていた。
 昭和五年生まれの私は、小学生の頃、県庁近くの中島新町というところにあった祖母の家にしばしば泊まりに行き、そのつど近くの老婆が営む一銭洋食の店に通ったものでした。
 そして現在も、一人で、一銭洋食を作り、食べています。
 今日の手紙、食べ物三昧になってしまい申し訳ありませんでした。
  

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対話随想余滴 №41 [核無き世界をめざして]

余滴 41 関千枝子から中山士朗様

           エッセイスト  関 千枝子

 この間のお電話で、食べ物を作るのが面倒になる時があると言われ、介護の支援が切られていると聞き、心配していましたが、余滴40が届き、ほっとしました。介護の支援という仕組み、介護のヘルパーさんも忙しくて嫌われるそうで、すぐ切られるようですが、ともかく何とかしてきてもらい、助けてもらうことです、中山さんのおうちは広いし、風呂の掃除なども大変だと思いますし、例えば布団を干すとか、シーツのような大きなもの干すの大変ではありませんか?できないことはできないと言い、助けてもらうことです。それから人に来てもらうことは、いいことです。中山さんは、風呂で事故のことなど思うと心配で風呂に入れないなど言っておられましたが、そのためにも人が来てくれることはいいことだと思います。私も風呂の掃除(ちょっと深いので、大変なので)、トイレの奥のところ(手が届かない)、シーツなど大きなものを干す、などをやっていただくよう契約しています。ちよっとした助けで、安心して一人暮らしができればまことにいいことですから。

 さて、コロナウイルスの「自粛」のさまをご自分の若い頃に重ね合わせて書いておられますが、中山さんは「自粛」などしておられませんよ。学校にも行き、小説も書き、サラリーマン生活もされ、ちゃんと社会生活をやっておられたので、今のコロナの、人と人との交わりを禁じるような「自粛」の要請とは全く違います。ウイルス感染を防ぐために仕方ないと、みな思い、協力しているのですが、何とも腹立たしくなることがあります。同年配のヒバクシャ、外に出ようとすると家族に、止められます。彼女は、大丈夫私は元気なのに、と思いながら、もし感染したら家族に迷惑をかけると思うと外に出られない。そして閉じこもる。てきめん、足が弱ります。健康にもよくない。私は「コロナ症候群」といっていますが。
 一番困るのは、集会室などがとじられてしまったことです。予約していた集会も全部中止になり、大騒ぎになりました。緊急事態宣言が解除になっても、三密はダメ、人との間隔を二メートル明けろ。マスクをつけろ、手洗い励行。
 コロナは人との接触、それも唾液やしゃべった時のしぶきで感染すると言われ、軽症者や感染御自覚がない人からもうつると言われれば、誰だってたじろぐし、怖い。〔不急不要〕など言われたらもうなるべく家の閉じこもるしかありません、しかし、「不急不要」って何でしょう。
 ようやく会議場の閉鎖が収まり、集会が再開、ということになっても、「三密」のはいけない」ということで、例えば五〇人の会場でも一六,七人しか入れないことになります。部屋を貸すところからきつく言われますので。これでは貧乏な市民団体は、大きな部屋を借りなければならず、ものすごく高い参加費を参加者からとらなければやっていけない。大きい部屋が取れなければ、参加をお断りせざるを得ない、これでは、どんな団体だってやっていけません。
 三密をあそこまで言う必要があるのか、私は疑問です。人と人との間隔を二㍍とれと言っても、込み合う路上で二メートル明けられますか?スーパーは今も混んでいます。レジのところに線を引き、間隔をあけて並べというので、長い長い列が棚の中まで続き、棚のところは人でごったかえしています。この方がよほど「三密」だと思うのですが。しかし、市民の間に染み付いた恐怖感――私だってコロナの感染力を無視するわけでなく、感染しても症状が出ない人があり、そんな人からもウイルスが出ているという事実を知っています。それでも、この「三密」騒ぎは何だろうと思います。とにかくこれを厳密に言えば、市民の会だけでなくあらゆる芸能、カラオケなどもやっていけません。資本のある大きな劇場は観客層を減らしてもなんとかって行けましょうが小劇団はアウトです、
 そんな中でこのごろはやっているのがズームというのかオンラインの会議、私は始め、大変難しく思えて断っていましたが、先日、素晴らしいオンラインのシンポジウムに参加し、これはこれで素晴らしいと思いました。
 その会は、私たちの子どもの年代が主催した会です。早稲田の同学年の友のお嬢さんも入っています。{彼女は史学科ですが)。彼女らは五年前、若者から若者への手紙という仕事をやりそれを本にまとめました。つまり、一九四五年の若者(戦争体験者)の証言に、二〇一五年の若者が手紙を書くのです、証言の中には自分の辛い思い出だけでなく、兵隊にとられ、中国大陸に行き、ひどいことをした、つまり被害と加害の両方を体験した人もいます。事実にしっかり向き合い戦争とは何か突き詰めます。凄まじい証言に、今の若者たちが、しっかり向き合って手紙を書きました。すばらしい本になりました。
 この企画者たちは、本にしただけで満足せず、シンポジウムを開いたり本の英訳をしたり頑張っていたのですが、本が出てから五年目の今年、シンポジウムを企画しました。ところがコロナ騒ぎです。会が開けない状況の中で彼女らが考えたのが、オンラインシンポジウムです。私も参加(聴衆として)を求められ、私の技術で参加できるのか心配しながら、この会との今までの縁もあり参加申し込みました。参加は意外に簡単にできました。皆はきはきと平和や戦争について語るのに感動しました。また登壇者の中には今、ドイツにいる人、沖縄にいる人もあり、それがごく当たり前のように語り合う、こんなことがオンラインではできるのだと思い、びっくりしました。コロナ騒ぎでこの技術が広まったわけですが、これはいいことですね、不思議な気がします。参加者の私たちも手を挙げればしゃべることができ、それが画面に出るのですが、え、本当かしら。私のパソコンの部屋、掃除が悪くて汚いので画面に出ちゃうと大変と、手はあげませんでしたが、本当にびっくり。外国在住の方などが参加(登壇)するシンポジウム、私たち貧乏な市民の会では考えられない「贅沢」これが簡単にできるのですから凄いですね、
 内容も核抑止力の壁に守られての沖縄の基地、そのなかで戦争はない。しかし、これが平和と言えるのか、とか、ドイツでは平和という言葉より、人権、民主主義ということがよく言われるという発言もありました。ドイツもナチを担いだ加害の国、そして最後は庶民はボロボロに被害を受けた、その国の人の「態度」として、非常に感銘を受けました。
 そんな中、六月二七日、竹内良男さんお久しぶりの『ヒロシマ連続講座』がありました。コロナのため、二〇人しか参加できないということです(普通なら四〇人は入れる部屋です)。参加受付を始めたらあっという間に二〇人になったそうです。この日の講師は丸木美術館の岡村幸宣さんなので、私もぜひ行きたかったのですが、この日を待ちわびている人の多さに、私は遠慮し、ほかに竹内さんや岡村さんと話したいこともあったので、会の終わった頃行く事にしました。
 コロナ騒ぎの中でどんな様子か心配でしたが、申込者で欠席した人もなく、竹内さんも、いろいろ考えて、模様を映像にとり(協力してくれる人あり良かったですね)ユーチューブで流すということで、よかったですね。会は四時までのはずですが熱心な質問が相次ぎ四時半ごろまで伸びました。この会場は民間の施設です、この竹内さんの講座を最初から開いているところ。協力的で、七月からでないと貸室再開できないのに、この日からできることにしてくださり、人数もまあ、二〇人くらいならいいではありませんかと言ってくださったそうです(自治体の会場ならこの規模の部屋なら一五人くらいに抑えられそうです。間隔を二メートル明けろ!で)。でも、私この参加者の中から感染者が出るなど到底思えません。小池都知事は緊急事態宣言を解除その後も感染者が減らない(このところ連日五十人以上)のに、アラームを出さない、夜の町の接待を伴う店で従業員の大量感染者が出ているのにそちらはあいかわらずで、この会議場の厳しい制限はゆるめません。不急不要の「三密」禁止です。どうも私は、反体制の集会などを恐れる政策としか思えないのですが。
 岡村さんに、先日の中山さんの余滴四〇を差し上げておきました。(もう、知の木々には送ってあるので)とても喜んでおられました。
 あと喫茶店でお茶を飲みながら話し合いました。この店、変な印(座っていけないという罰点印。駅の中のコーヒーショップなどこれで座れない籍の方が座れる席より多く、客も来ず、商売にならないと嘆いています)もなし、結構隣り合って座ったのですが、皆平気でしゃべりました。お茶を飲むのならマスクは外さなければいけないし。でも、唾液が飛ぶこともなかったと思いますよ。感染防止を言うなら、もう少しほかの方法があると思います。
 例えば学校なども机と机の間をあけたり大変なようですが、子どもはどうしても休み時間などで互いに近寄ったり抱き合ったりじゃれます。二メートル以内に近づくな、など無理です。何かおかしいと思います。新学期を九月からにとか変な意見が出ていましたが、私ならこの際学級の定員を減らし(二五人くらいに)先生の数を増やすべきだと思いますが、そんなこと考えもしないようです。先生は生徒の分散従業で同じことを二度も三度も教えたり、くたくたのようです。
 コロナ騒ぎで、被爆年の年なのに、さまざまな集会が中止、広島の平和式典も参加者も限られ普通の市民はあの日の午前中は式典の傍にも行けないそうで、どうなっているのかと思います。私のフィールドワークも開催できず、学校などの慰霊祭もしないところが多いようで、わが校の場合もどうなるか、でも私はせっかく宿もとってあるし広島に行こうと思っています。
 私の第二県女を朗読劇なのになさっている方も今年は中止相次いでいるのですが、ある会の方から七月二七日に、大阪府島本町で講演できることになったという通知を五アただ来ました。まだ詳しいことはわかりませんが、こんな状況の中でも被爆の話、核廃絶の思いは、言い続けたいと思っています。

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対話随想余滴 №40 [核無き世界をめざして]

余滴40  中山士朗から関千枝子様へ

                 作家 中山士朗

 私は目下、朝日新聞に連載されている瀬戸内寂聴さんのエッセイ『残された日々』を愛読していますが、とりわけ五月四日の「59 白寿の春に」を読んで心にしみるものがありました。
 これは、瀬戸内さんが、冒頭に「満九十八歳の誕生日を明日迎えてしまう。数えでなら、九十九歳。白寿の祝いということであろう」と書いておられ、
 「生きている間に、こんな誕生日を迎えることがあろうなどは、夢にも想像したことがなかった。コロナ騒ぎで、国中、ひっそりと蟄居生活を強いられているせいで、仕事も電話も、メールも、鳴りをひそめている。」
と書いておられ、最後に、
 百年目に訪れたというコロナ厄病に身をひそめながら、葵祭が誕生日という私は、生きてきた百年近い日をしみじみ振り返っている」
 と述懐されています。
 また、四月九日付けの新聞では、「58 コロナ禍のさなか」と題して、
 「百年近くも生きたおかげで、満九十七歳の今年、とんでもない凶運にめぐり合わせてしまった。九十七年の生涯には、戦争というもっとも凶運の何年かを経験している。何とか生き残って、これ以上の凶運の歳月には、もう二度とめぐり合うことはあるまいと、考えていたところ、何と百年近く生きた最晩年のこの年になって、戦争に負けないような不気味な歳月を迎えてしまった。新型コロナウイルスの発生と、感染拡大という事件が突発的に生じ、世界各国に感染者と死者が増大した。」
 と語っておられます。
 これを読んだ時、この十一月には九十歳になる私の心境と重なるものを覚えました。そして、中学三年生の時、広島で爆心地から一・五キロメートルの地点で被爆した私は、
顔に傷を負い、醜くなった顔を人目に晒さないようにして生活したことが甦ってきました。それからも、私は今で言う「自粛」生活を続け、現在に至っていることをあらためて認識した次第です。
 そんなことを感じながら暮らしておりましたら、一昨日、テレビをつけてNHKのニュース番組を見ようとしましたところ、いきなり、「原爆の図 丸木美術館」の岡村幸宣さんの姿が写し出されたのには驚きました。
 この番組は二〇二〇年四月二四日の東京新聞によれば、新型コロナウイルスの感染拡大が「原爆の図」を継承する東松山市の「原爆の図 丸木美術館」の新館建設計画を直撃している。九日からの自主休館で入館収入がなくなっただけでなく、五月から始める予定だった米国でのクラウドファンディングの立ち上げが、当地の感染拡大で流動的になったことで、「原爆の図・記憶継承に黄信号が点ったと報じられていました。
 岡村さんは、最後に丸木位里、俊夫妻の共同制作による「原爆の図」を前にして、「後世に伝え、のこさなければなりません」と語っていました。
 この場面は偶然出会ったものですが、それからしばらくして、六月二〇日の朝日新聞で鷲田清一氏の<折々の言葉>に出会ったことも驚きでした。
 形のきれいな松ぽっくりだけ選んじゃ駄目よ。形の良くないのだって.面白いんだから。みんな同じ松ぽっくりなんだ。ぺしゃんこの空き缶だって、道に捨てた人と車で轢いた人と拾って工作する人の共同作品なのだと。
                万年山えつ子

 丸木美術館で長く工作教室を担当した画家の万年山は、「原爆の図」を夫・位里と制作した丸木俊からこう学んだという。(中略)人が選ぶことの不遜をふと思う。
 岡村幸宣の『未来へ 原爆の図 丸木美術館学芸員作業日誌2011―2016』から。
 とありました。
 そして、岡村さんは、
「新館建設を断念するつもりはないが、延期や縮小も検討しなければならないかもしれない」
 苦しい胸の内を語っていました。
 こうした事実を知るにつけ、私たちの「往復書簡」も死ぬまで筆をとり続けなければと思った次第です。

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対話随想余滴 №39 [核無き世界をめざして]

余滴39  関千枝子から中山士朗様へ

            エッセイスト  関 千枝子

 新型コロナウイルスに対する「緊急事態宣言」残っていた都.と県、北海道なども全面解除になり、ほっとしている人が多いようです。ですが、私、小池都知事の「ステイホーム」の自粛要請、複雑かつ一面冷ややかな気持ちで見ていましたので、万歳万歳と手放しで喜べない気持ちです。季節的にもこれから夏に向かい、コロナは下火に向かうでしょうが、多くの専門家が第二波の襲来を言っています。全滅していないのだから.第二波は当然あるだろうと思います、すると秋はどうなるのか。それより前、八・六,八・九はどうなるのか考えると、本当に心配です。
 中山さんの前の手紙、コロナは戦争かどうかの論のことが書いてありましたが、私の周辺では、その論はもう少なくて、「コロナと共存」のことが多く言われています。確かに、人類は様々なウイルスに見舞われ、ワクチンの形で共存してきたと言えるのでしょうか。新型コロナのことが問題になってき.た時、カミュのペストが読まれるようになっていると話題になり、そうか、ペストもウイルスだったのだと思い出したのですが、はるかに世代が下がり第一次大戦のころのスペイン風邪もウイルスだったんですね。あれも第二次感染があり、島村抱月がその第二次感染で死んだのですね。私そのことも今度、初めて知りました。私の持っている百科事典、島村抱月を取り上げているのですが、舞台人としての業績や松井須磨子との恋は書いてあっても、死因は病死とだけ。スペイン風邪のことなど書いてないものですから。
 サーズは日本ではあまり流行らず、被害がひどかった台湾や韓国では、その経験から今回非常に対処がよかったようですが、日本では、まったく久しぶりのウイルスで、対処がいまいちだった。
 とにかく検査体制が悪く保健所だけではお手上げの忙しさ、感染している人が放置され、検査してもらえないうちに重症になる、検査の結果が出るのも時間がかかり、遅れている、その問題が根本的な問題と私は思いますのに、小池都知事がわめきだし、全都民の自粛、ステイホームを叫んだ。ウイルス疾患が蔓延した状態になると、確かに全面自粛の緊急体制をとるしか方策はないようですが、こうした検査体制のことなど少しも言わず、「命の問題」「あなた自身の問題ですよ」を繰り返す小池氏の態度に私は少し怒りました。
 とにかく皆、恐れおののき、インテリというか、少し物を考える人の層が一番萎縮したと思うのですが。日本の安倍首相小池都知事の態度は、市民の民主主義、自由の大切さを言いながらこうした緊急措置をとらざるを得ないことを国民に真摯に詫び、協力を要請したドイツのメルケル首相の態度と明らかに違っていました。安倍首相に至っては、火事場泥棒のように国家公務員の定年を引き上げる法案に検察官を入れる法案を通そうとするなどめちゃめちゃと思っていました。そうしたら無理やり閣議で定年延長を決め、検事総長にしようとした黒川弘務氏がこともあろうに賭けマージャンで辞職ということになりました。これは、安倍さんにとっては想定外だったでしょうが。全国民が「人に会わないよう」自粛している最中に、麻雀です。(三密の最たるものと自粛を要請された企業の一つがマージャン荘です)。それに賭けマージャンとは。賭け事は国の法律で.御法度なのに、検事が三年にわたってやっていたというから、弁明のしようもない、しかも相手が新聞記者というから嫌になってしまいますね。まあ、昔から取材先に取り入る新聞記者が大勢いることは知っていますが。週刊誌に暴かれて辞職したのですが、これが訓告という比較的軽い処分で退職金も規定通りもらえる、六千万円ですって。あきれてものも言えません。小企業に勤めて退職金ももらえないような人も多いのに、ね。
 これで、内閣支持率は急落したのですが、安倍さんは、任命責任は私にあると言い、真摯に受け止めると言いながら、絶対にやめようとしません。彼にとっては、何よりも来年オリンピックをしたい、オリンック会場で開催国首相としてふるまうことは、最高の舞台、その時に憲法も改悪しておきたいのでしょうが。小池都知事だってオリンピックの時に絶対都知事をしたい。この前、一言の失言で、支持を一挙に失った彼女、都知事選は七月です。大勝負の時です。彼女のステイホームの訴えに安倍首相も乗り、緊急事態宣言になりました。この宣言、外国などから見れば手ぬるいものに見えたようですが、国民はよく、協力したと思います。かなりうまくいったのではないか。いわゆる進歩層というか、日ごろ政府に批判的な人々も「三密」に従い、すべての集会は延期、中止になってしまい、それを怒る人は誰もいません。
 テレビなども日本人の高い品性をたたえ、日本だからこれだけのことができたと言い、政府は、最初の計画より早く、解除し、感染者の多い首都圏や北海道なども全面解除になりました。
 でも、どう思います?緊急事態宣言で、あまりに多くの人々が収入を失くし、ひどいことになってしまった。この人々へ援助すると言っていますが、経済へのダメージの酷さ、何とか早く元に戻さないという焦り、それが解除を早めたのではないか。小池知事も都は自前の金を他県より多く持っているので、解除がこんなに早くなくてもいいと思ったのではないかと思うのですが。とにかく国とこのところ仲良くやっているようです。小池都知事はご承知のように自民党の都の組織とケンカし、都知事選に出馬、勝ってしまった。都の、自民党としては、因縁もあり面白くない面もあるでしょうが、自民党の本部は今度の都知事選に自民党から候補を出さないとはっきり言っています。おそらく自民党と小池さんの間には、この話はついていたか、暗黙の了解だったか知りませんが。都知事線はもうすぐです。小池さんは知事選のこと一言も言っていませんが、今回のコロナ騒ぎで人気相当回復、今も毎日テレビで選挙活動しているようなものですから、恐らく当選間違いないでしょうね。
 恐ろしいと思うのは第二波です。専門家たちも分からないと言いながら、第二波はあると思っているようです。多くの人は秋に来ると言っていますが。もし、大きな波が来たら。IOCは、来年夏に延期されたオリンピック、できるかどうか判定はこの十月、これでダメと言われたらもうこれ以上延期はなく、東京オリンピックは中止しかないと言っています。
 日本の不安だけでなく世界中のコロナ騒ぎ、ヨーロッパは収まって来たようですが、アメリカやブラジルが大変です。殊にブラジルの大統領はトランプ以上にめちゃめちゃな人らしく、あんなものは風邪だと言い、サンパウロあたりの貧民街では酷いことで、これから南米に広がると大変なことです。コロナの騒ぎは今後どうなることやら、です。
 ペストの騒ぎはヨーロッパの人々の考えを変え、ルネッサンスを呼んだと言いますが、コロナで日本人の生き方が変わるのか、私はどうも心配でたまりません。会場が閉鎖されているという問題も、ズームというのですか、パソコン会議が大流行です。私も、学習会をこれでと誘われたけれど、どうにも私の力では難しそうで断りました。私、皆で顔を突き合わせじかに話をする、これの良さを捨ててたまるかと思うのですが、どうももう、時代遅れのようです。でも、ねえ。
 何度もお話をしている竹内良男さん、彼もヒロシマ講座、中止に追い込まれたのですが、7月には再開できそうというのですが、三密はいけないと、一五人かせいぜい二〇人くらいの学習会でないと開けそうもなく、頭を抱えています。でも、彼の凄いのは<ヒロシマからヒロシマへ>というA4の紙一枚の通信をこのところ毎日のように出し、ネットで会員(今までよく講座に来ていた人たち)に、配信していることです、彼は技術もあるし、この程度の通信を出し続けるのは、毎日でも困らないというか、負担にならないそうです。すごいなあ、と年寄りの私は感心するばかりです。
 今年のヒロシマはどうなるか、何かとても心配ですが、頑張っている竹内先生のような方に「乾杯」という気持ちです。
 ただ、私は不信感というか、どうも市民に対して、おかしいよと言いたい。ステイホームの要請が出ても、「行ってもいい」スーパーは超満員。小池都知事は三日に一回にしろと言ったのですが、スーパーに行ってみると大量に買い込む人でスーパーは前より混雑、密も密も超密。家族の多い人は買う量が増えるというのですが、それだけとも言えない「買い込み」を感じました。都知事は下々のことわからないとつくづく感じました。
実は私、日ごろの買い物は生協でやっていて、スーパーにはいかなくてもいいくらいなのです。ところがこのところ、生協に配達が欠品、注文が多すぎて抽選になったが落選、というものばかりなのです。先週は野菜で八品も欠品があり、これでは明日から生活できないので、スーパーに行ったら、超密だったわけです。生協では、今まで考えられないほどの注文が来て、生協の倉庫にも入らないし、対応できないのでというのですが。子どもが学校休みだったりして、買い物量が増えざるを得ないということもあるのですが、ちょっと妙です。とにかく自粛期間、買い込み現象が起こったとしか思えません。
 自粛がすんで、用があり、スーパーに行ってみました。人が少ないのです。レジで待ち時間ゼロ。何でしょう、これ。私、市民不信になってしまいそうです。


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対話随想余滴 №38 [核無き世界をめざして]

余滴38  中山士朗から関千枝子へ

                 作家  中山士朗

 お手紙拝見し、新型コロナウイルス感染拡大の影響の重苦しさがひしひしと伝わってくるのを覚えました。ことに、「原爆の図」を展示する東松山市の「原爆の図丸木美術館」の新館建設の計画を直撃しているというニュースは、あらためてその影響の恐ろしさを感じずにはいられません。
 お手紙にありました、関さんの朝日新聞への図書館についての投書に関して反響が大きく、一カ月後に反響特集が組まれた由。そして、図書館を愛する人の多さに感動した、と関さんは書いておられました。私も朝日新聞を購読していますが、私が住んでいる大分県では、朝日新聞西部本社福岡本部で制作されるため、東京版の記事が割愛されたのではないでしょうか。残念でした。それにしても、自粛が要請される中にあって、女性「九条の会」で、内海愛子さんを囲む学習会を行われたり、展覧会などに行かれたりと、「行動する人である関さんのお姿がありありとうかんで参ります。
 それに比し、自粛が促される以前から、万年自粛生活の我が身が思いやられずにはいられませんでした。
 考えてみれば、被爆直後に顔のケロイドに鬱屈して、家に閉じこもってばかりいた頃のことに非常に似通った現象であることに気づいたという次第です。ですから、先の手紙でアメリカのトランプ大統領や日本の安倍首相が大型コロナウイルスの感染拡大の混乱について「戦争」という言葉を用いたことに反発を覚えた文章を書きましたが、その直後の五月六日付の朝日新聞に、対コロナ「戦争」の例えは適切か、と題した社説が掲載されていました。国民の生命を脅かし、経済にも大きな打撃をもたらす、その危機の深刻さを訴える狙いがあるとしても、新型コロナウイルスへの対応を「戦争」と例えることに、政治家はもっと慎重であるべきだろう、という書き出しではじまる論説が私の心を捉えました。
 それによると、
 トランプ大統領は、
 「戦時大統領」と名乗り、
 中国の習近平国家主席は、この闘いを
 「人民戦争」と称した。
 フランスのマクロン大統領も
 「我々は戦争状態にある」と述べた。
 ドイツのシュタインマイヤー大統領は、国民に向けたテレビ演説で、「感染症の世界的拡大は戦争ではない。国と国、兵士と兵士が戦っているわけでもない。私たちの人間性が試されている」と語っているとあります。
 そして、最後に、
 「ひとびとの生命と暮らしを守るたしかな行動を促すため、冷静に考え抜かれた言葉こそ、政治家にもとめられる」
 と結ばれています。
 話が後先になりましたが、関さんの通院や薬の記録を拝読しながら。私自身の日常生活を振りかえりましたが、同病相憐れむというか、同じ苦難の道を歩んでいるのを強く感じました。
 お手紙のなかにありました、
 「今年は被爆七五年、幼少期に被爆、やっと切り抜けたのに人生の最後に来てコロナ」と怒る人の言葉、まことにもって身に沁みます。


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対話随想余滴 №37 [核無き世界をめざして]

 余滴37 関千枝子から中山士朗様

            エッセイスト  関 千枝子

 全く、コロナ騒ぎには嫌になる、というか、もう、危機的ではないかと思います。コロナの蔓延が大変、医療が破滅的状況になっていることもありますが、日本全部がおかしくなって、革新的と言いますか、ともに活動してきた人たちも委縮(自粛でなくて)してしまっていることです。
 コロナの感染が危ないということで、自治体などの貸会議室などはすべて閉館になり、いろいろなイベントは全部中止、民主団体の集会も、会議も、人の集まることはすべてだめになってしまいました。私は民間の施設を借りたらと思い(多少高くても)聞いてみたのですが、皆さんいやがるのです。「こんな時ですから」。もし万が一、感染者が出たら、と心配なのですね、もし、感染者を出したら、それこそ、屋形船や大阪のライブハウス同様、非難と恐れで、経営傾きますものね。
 都心の有名な会議室ばかりではありません。気づいてみると、わが棟の集会室も、コロナのため当分使用禁止とあり(ここは公社の経営で、公社がそう決めたらわれわれ住民は文句言えません)、その横に、管理人も今まで週一回の休みだったのが、当分週3回休むと書いてあります。
 公園の遊具にもロープ.が張ってあり使えなくしてありますし、公園自体が締めきっているところもあります。いつもお送りしている知の木々舎の表紙の植物の写真、先日お送りしたの、紫色の花、なにか違うような気がしていたのですが、横幕さんのメールで分かりました。立川の昭和記念公園、全部締め切っていて、写真撮れず、去年とった写真を使ったのですって。あの公園は昔の砂川基地闘争の跡。広大な面積で、相当人が入っても、そんなに密集状態にならないと思うのですが。何かおかしいですね。 
 博物館、美術館の閉館では、丸木美術館も閉館状態に追い込まれ、イベントもすべて中止。.原爆の絵の保存事業も見直しになるのではと大変心配されています、これ、別に資料を送りますのでご覧ください。
 今年は被爆七五年、ある被爆者の友が、幼少期に被爆。やっと切り抜けたのに人生の最後に来てコロナ、なんてことだと怒っていました。私、今年六月、七月にかけ、あちこちで被爆の話をすることになっていたのですが、全部キャンセルになりました。本当に悔しいです。
 会議などは皆ネットで。メーデーも憲法記念日も、デモ行進はなく、式典をネット配信です。コロナには勝てない!
 今日は小池都知事の言うステイホームの最初の日(四月二五日)になります。私も別に出かける用事もないので家にいますが、静かで子どもの声も全く聞こえません。私、どうも気に食わないのは、感染者を調べるのに、日本はとても時間がかかり、まだ検証.されていないのが多い、その問題を放っておいていいのかしら。台湾、韓国はこの調べが大変早くて、今ほとんどコロナを抑え込んだ形になっています。そこを改善しないで、盛り場ばかりを調べて何割減ったと言ってもおかしいと思うのです。スーパーが、混んでいるのにと思っていましたら、今度はスーパー通いも三日に一度など言いだしました。
 私、クリーニング屋に洗濯物を取りに行く用事があったので(わが町ではあらゆる店が一か所に固まっています)スーパーに行ってみましたら聞きしに勝る混雑でした。レジに並ぶ人の列、どこがおしまいだかわからぬ列、商品をとろうとしても、人が邪魔で行けないくらいの混雑。三日分の買い出しのせいばかりとは言えぬ買い物のヤマ。大きな米袋を三つも担いでいる人もいました。米を買いあさっている人がいると話には聞いたのですが、本当だ。でも、なぜ米?
 私は、ずっと生協で物を購入、基本的にはそれで全部間に合っているのですが、先日生協の届け物を見て驚きました。いつも購入しているものがないのです。生協からの手紙を見ると、今までの購入では考えられないほどの量の注文で、生協では対応しきれないので、届けられなかった、とありました。生協にもトイレットペーパーや、ティッシュの大量の注文があるのだそうです。バナナまでないのには驚きました。バナナなどもつものでもなし、そんなに買い込んでも仕方ないのに、ね。私、このごろ朝、果物を食べるのですが、バナナを半分ほど食べるのです。別に果物のプレートにバナナがなくても困りませんが、考えられない事実です。
 とにかくこの混雑ぶり、相当衛生に悪いと思いました。どんな集会より「三密」です。
 結局皆さん、コロナを大変怖がっている、それで、都知事の自粛要請もよく守るのですが、どうも根本のところで、国や行政を信じていないのではないか、と思いました。
 さきほど台湾のこと、申しましたが、台湾は非常に早くから手を打ち、それが成功したようですが、私が一番感心したのは、衛生関係の最高責任者の方が、毎日記者会見し、徹底的に情報を出し説明し、質問の全てに応えるのだそうです。これで民の信頼が得られたようです。それに対して日本の状況は…‥。
 都知事の「今が最大のヤマ」の言葉に反論するつもりはありませんが、その前に検査体制を何とかしないと、本日の感染者と発表される数字が、本当に今日の感染者か、と思うのです。ステイホームもいいけれど、私はまずなすべきことは検査体制の改善ではないでしょうか、
 本当になんとかしないと。検査を一手にひき受けている保健所の方も、もうぶっ倒れそうですから。
 日本でも和歌山は近隣の府県の協力で成功しています。
 コロナはまだまだ分からないことが多い。最初安倍首相の要請は「不要不急」の会や、全国的な大きな会は規模を縮小して」でした。しかし、その後、学校の閉鎖を要請しました。首相の権限がないにもかかわらず九八%の学校が閉鎖したと言います。
 私はそんなとき。図書館に行ってみて、書架や席にロープを張って人を締めだし、予約の本だけがカウンターで貸してもらえるのに、驚き、疑問を朝日新聞の声欄に投書しました。
 大きな会でなく小さな会まで自粛、中止が相次ぐ中、女性「九条の会」で、内海愛子さんを囲む学習会を行いました。七〇人入れる部屋の三十数人の参加者、三密に程遠く、私は絶対感染者は出ない、と自信がありました。そしてあれからひと月半たちましたが、何の問題もありません。展覧会なども自粛相次ぐ中、決行した会に行きました。そんなに参加者が多くない展覧会で、気持ちよく楽しめました。
 図書館の投書は、反響多く、投書が出てから一か月、四月一五日に朝日新聞は反響特集をしてくださいました。図書館を愛する人々の多さに私は感動しました。
 四月になると、都知事のコロナに対する危機感発言が目立ち、自治体の集会場は全部閉鎖、図書館も簡単に閉館されてしまいました。
 もし、私たちの内海愛子さんの講演会も、もしあれがひと月後だったら、開催できなかったと思います。会場の閉鎖とは凄いことを考えたものです。もう東京周辺では会は絶対にできません。でも、コロナは命の問題と言われたら、誰も反論できません。
 しかし、訳がわからんことが多すぎます。小池知事は、生活用品や医療は今までと変わらないといったのですが、私の行っている皮膚科、は休診に追い込まれています。この皮膚科医、タコや魚の目の治療が多く、外反母趾で足のタコが多い私は月に一度は削ってもらわないと大変なのですが、医院の看護師さんから連絡があり休診するからというのでおどろきました。コロナのためというのですが、皮膚科の治療は体を寄せるからでしょうか。納得できないまま、蕁麻疹の薬だけ(蕁麻疹は、皮膚科が専門医なのです)処方箋を書いてもらいましたが、六〇日分薬を頂いたので驚きました。皮膚科医はそれくらい、ステイホームが続くと思っておられるようです。でもタコの方は、私、今、靴を履くと足に当たりとてもつらいのだけど。
 私の行きつけのクリニックに行き驚きました、連休に入るのでお薬を早めにもらいに行ったのですが、何時も朝八時四〇分から始まるのに、診察時間が午後一時から一八時までとなっているのです。コロナにより、人員の配備ができないから、と言います。何のことかと思ったら、このクリニック、電気治療もやっているのですが、これが体が密接に近づいていけないらしいのです。電気治療は相当流行っていましたので、これができないと、看護師さんも、余ってくる(休職させたのかしら?)。それでこんな診察時間になったようです。知らないで、電気の治療に来た人たち、皆驚いていました、
 皮膚科にしてもこのクリニックの電気治療にしても、お医者さんの方から言いだして、休診にしたとは思えない、誰か偉い人がいうのでしょうね、都から?医師会?何だか妙ですね。とにかく、それでもコロナのためと言われればおとなしく従い、マスクをしていないで歩いている人を見ればにらみつける人あり、買いだめはすごいし、本当に変です。


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