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はるかなる呼び声 №5 [核無き世界をめざして]

はるかな呼び声 ⑤   中山士朗から関千枝子様

             作家  中山士朗

 お手紙拝読して『広島第二県女二年西組』が広く読み継がれ、人々に深い感銘を与えていることを知り、嬉しく思っております。昔、ある作家が、「同じ作者による作品でも、よく働いてくれる作品と、そうではない作品がある」と言いましたが、『広島第二県女二年西組』はまさしくよく働いてくれる作品だと思いました。それというのは、名作に他ならないからです。さまざまな企画が成功するよう祈っています。
 先日、テレビで先月亡くなられた大林宣彦監督の病床での会話の場面を見ていましたら、対岸の原爆ドームを眺めながら、原爆の映画を作ってみたいと語っておられた時の姿が回顧されていましたが、それがかなわず逝ってしまわれたことはまことに残念でなりません。  
 けれども、関さんが山田洋次さんとお会いになられたことを伺い、大変嬉しく思っております。山田洋次さんと言えば、大分の湯の原温泉にある渥美清さんの等身大の写真像にメッセージを貼られたことで知られています。
 次に広島が片仮名のヒロシマについてのお尋ねの件ですが、充分に時間をかけて調べることができませんでしたが、中国新聞社発行の『ヒロシマの記録』(被爆30年写真集)の年表をめくっておりましたら、昭和21年年表の8・31欄に、
 米ニューヨーカー誌「ヒロシマ特集」(ジョン・ハーシーのルポ)1日で30万部売り切る。
 と、初めて片仮名の「ヒロシマ」の文字が見られます。ちなみに大江健三郎さんの「ヒロシマ・ノート」に当たってみますと、この書物は1965年6月21日に岩波書店から発行されたことがわかりました。恐らくその頃から、広島がヒロシマになったのではないでしょうか。私自身はそれより少し前に、次のような文章を書いております。
 <職のない僕は>いたたまれないようなジレンマに襲われ、訳もなくヒロシマに帰ってみた。<原爆乙女をアメリカに送ったヒロシマ、平和観光都市として道路を広々と採ったヒロシマ。平和という名前がゾッキ本屋のように安く売られているヒロシマ、僕のケロイドをまじまじと見るヒロシマ>
 <こうした平和都市ヒロシマでは、今年になって7人目の原爆症患者が死んだ。そして、アメリカで手術中の原爆乙女の一人が死んだ>
 そして、広島城跡の焼け崩れた石垣のもとにひっそりとたたずむ、原民喜の「碑名」が刻まれた詩碑の前に立ったのでした。
  遠き日の石に刻み
  砂に影おち 
  崩れ墜つ 大地のまなか
  一輪の花の幻
<僕はその碑の前に立った時、唖然としてしまった。碑の角は小石をなげられて欠けていたし、「碑銘」の彫られた陶焼きの板は、文字が読み取れぬほどに痛めつけられていた>。


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