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対話随想余滴 №40 [核無き世界をめざして]

余滴40  中山士朗から関千枝子様へ

                 作家 中山士朗

 私は目下、朝日新聞に連載されている瀬戸内寂聴さんのエッセイ『残された日々』を愛読していますが、とりわけ五月四日の「59 白寿の春に」を読んで心にしみるものがありました。
 これは、瀬戸内さんが、冒頭に「満九十八歳の誕生日を明日迎えてしまう。数えでなら、九十九歳。白寿の祝いということであろう」と書いておられ、
 「生きている間に、こんな誕生日を迎えることがあろうなどは、夢にも想像したことがなかった。コロナ騒ぎで、国中、ひっそりと蟄居生活を強いられているせいで、仕事も電話も、メールも、鳴りをひそめている。」
と書いておられ、最後に、
 百年目に訪れたというコロナ厄病に身をひそめながら、葵祭が誕生日という私は、生きてきた百年近い日をしみじみ振り返っている」
 と述懐されています。
 また、四月九日付けの新聞では、「58 コロナ禍のさなか」と題して、
 「百年近くも生きたおかげで、満九十七歳の今年、とんでもない凶運にめぐり合わせてしまった。九十七年の生涯には、戦争というもっとも凶運の何年かを経験している。何とか生き残って、これ以上の凶運の歳月には、もう二度とめぐり合うことはあるまいと、考えていたところ、何と百年近く生きた最晩年のこの年になって、戦争に負けないような不気味な歳月を迎えてしまった。新型コロナウイルスの発生と、感染拡大という事件が突発的に生じ、世界各国に感染者と死者が増大した。」
 と語っておられます。
 これを読んだ時、この十一月には九十歳になる私の心境と重なるものを覚えました。そして、中学三年生の時、広島で爆心地から一・五キロメートルの地点で被爆した私は、
顔に傷を負い、醜くなった顔を人目に晒さないようにして生活したことが甦ってきました。それからも、私は今で言う「自粛」生活を続け、現在に至っていることをあらためて認識した次第です。
 そんなことを感じながら暮らしておりましたら、一昨日、テレビをつけてNHKのニュース番組を見ようとしましたところ、いきなり、「原爆の図 丸木美術館」の岡村幸宣さんの姿が写し出されたのには驚きました。
 この番組は二〇二〇年四月二四日の東京新聞によれば、新型コロナウイルスの感染拡大が「原爆の図」を継承する東松山市の「原爆の図 丸木美術館」の新館建設計画を直撃している。九日からの自主休館で入館収入がなくなっただけでなく、五月から始める予定だった米国でのクラウドファンディングの立ち上げが、当地の感染拡大で流動的になったことで、「原爆の図・記憶継承に黄信号が点ったと報じられていました。
 岡村さんは、最後に丸木位里、俊夫妻の共同制作による「原爆の図」を前にして、「後世に伝え、のこさなければなりません」と語っていました。
 この場面は偶然出会ったものですが、それからしばらくして、六月二〇日の朝日新聞で鷲田清一氏の<折々の言葉>に出会ったことも驚きでした。
 形のきれいな松ぽっくりだけ選んじゃ駄目よ。形の良くないのだって.面白いんだから。みんな同じ松ぽっくりなんだ。ぺしゃんこの空き缶だって、道に捨てた人と車で轢いた人と拾って工作する人の共同作品なのだと。
                万年山えつ子

 丸木美術館で長く工作教室を担当した画家の万年山は、「原爆の図」を夫・位里と制作した丸木俊からこう学んだという。(中略)人が選ぶことの不遜をふと思う。
 岡村幸宣の『未来へ 原爆の図 丸木美術館学芸員作業日誌2011―2016』から。
 とありました。
 そして、岡村さんは、
「新館建設を断念するつもりはないが、延期や縮小も検討しなければならないかもしれない」
 苦しい胸の内を語っていました。
 こうした事実を知るにつけ、私たちの「往復書簡」も死ぬまで筆をとり続けなければと思った次第です。

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