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はるかなる呼び声 №4 [核無き世界をめざして]

はるかなる呼び声④    関千枝子から中山士朗様

          エッセイスト  堰 千枝子

 思いがけない「素晴らしい」出来事が続いています。前の手紙でも書きましたように、「あの時」もう少し、何かできることがあったのではないか、という後悔、そして聞こえてくる友――死者の声、「どうしてあんな爆弾がなくならないの、もう七五年もたったのに、という声、そんなことを書くつもりだったのに、素晴らしいことを報告することになりました。でも、これ「縁(えにし)」としか思えず、友たちが呼び入れてくれたのではないかとさえ思えるのです。
 まず最初、某私大(超一流大学)の法学部一年生のFさん(こんな逆流の時代です。名前を出すと、嫌がらせなどがあるかとも思い、フルネーム書きません)から手紙が来ました。彼女とは六年くらいの付き合いです。私のヒロシマのフィールドワークの参加が始まりだったと思います。そのとき彼女十三歳だったそうで、私のクラスが作業中に原爆にあい死んだ話に驚き、同じ十三歳なのに、勉強さえも許されず、作業に駆り立てられ、死んでいったことに何とも言えぬ思いになったというのです。その後、私の本を読んで、いろいろ質問をくれ、それを元に、レポートを書いたことを報告してくれたり、一回のフィールドワーク参加だけでなくその後もずっと手紙のやりとりが続きました。将来のこともしっかり考えていて、得意の英語を活かし、国際弁護士を目指すというのです。そして今春、無事志望校に入れ、喜んでいたのです。
 ところがコロナ騒ぎで、大学も普通の授業はできず、同じクラスにどんな友がいるかもさっぱりわからず、彼女がっかりしていたのですが、大学に寄宿舎での生活が大変面白いと言っていました。コロナのため夏になっても帰れず、東京で八月六日を迎えることになったのですが、彼女、東京の八六にびっくりしたようです。広島ではとにかくこの日は特別の日です。テレビなども昔のような特集大番組は減っても、何かしら原爆のことを放送しています。広島に住んでいれば、この日が何の日か知らない人はいません。ところが東京では。彼女は八月六日と言ってもそれが何のことか全く知らない人が多いのに愕然としました。しかし、それでへこたれないのが彼女です。ツイッターだか何だか知りませんが、近頃の若い方々の機器で八六のことを大いに宣伝、市長の平和宣言なども広めたのです。そうしたら。かなりの数の人が興味を持ってくれ、コロナが収まったら一緒に広島に行こう、平和資料館にも行きたいと言っているのだそうです。私は感心し、嬉しくなってしまいました。原爆のこと、ヒバクシャの思い、近ごろ継承者のことが熱心.に言われますが、継承者に名乗り上げず、日ごろは普通の仕事や学業をしながら、何時も関心を持ち、必要なとき声を上げ、広める。これこそ、本当の「継承者」ではないかしら。若いFさんがしっかりやっておられるのに感激してしまいました。
 手紙と一緒に、私の手作りです、フィールドワークのときなどにつけてくださいとペンダントが入っていました。円形の輪に小さい折り鶴がついています、ペンダント全部が手作りではなくて、あるいはキットのようなものがあって一部を手作りするのかな、と思いましたが、とても可愛いのです。広島に少し関連するような催しなどの時、つけていますが、皆可愛いと言い、なにこれ?と聞いてくれますので、由来を話し、核の話など話します。自然に、核廃絶を語れます。
 Fさんの手紙のすぐあと、H君に会いました。大学生で卒論で原爆と取り組み、教員、それも小学校教員志望です。なぜ小学校?と聞きましたが、彼は小学生にこそ、平和教育を、と言います。「はだしのゲン」の映画を小学生の時に見て衝撃を受け、戦争のことに関心を持った自分の経験がもとにあるようです。教員試験に受かったようですが、コロナのため遅れている教育実習がまだ残っていて忙しい中、卒論を(出来上がっている部分だけですが)持って、まだ聞きたいことがあると来てくれました。自分の体験から入り、変に肩肘張らず、共感の持てる序章でしたが、その中に、なぜ「ヒロシマ」か、という問題提起があります。私も頭を抱えてしまいました。今、私も平気でヒロシマという書き方をつかいますし、カタカナでヒロシマとあれば、原爆を受けたヒロシマと皆分かります。でも、誰がいつこういう書き方を使い始めたか、なぜ?その思いは?わからないことだらけです、何時から「ヒロシマ」が使われだしたのでしょうね、中山さん、記憶ありますか?
 その後の現実のことになって、私はうなってしまいました。勘違いが多いのです、でもそれは彼を責めるより、私、自分が話している時、こんなことはわかっていると思い込んでいる、でも若い人はわからない、戦争の時代はあまりに遠いのですね。むしろ私、自分の反省になりました。
 たとえば、作業に行ったとき弁当の入った背嚢や手提げ袋を持ったままでは作業できないので道端に置く、すると弁当泥棒が来るので、弁当番を作るのが常だったと話したところ、彼はそれを学校の授業のときも弁当番があったと書いているのです。学校の授業なら自分の机に持ち物を置く、弁当番は必要ない、それに中学、女学校に行っている家はかなりの家の子が多く、弁当は何とか(たとえ麦入り、おかずはカボチャだけでも)持たせられた、弁当が作れない(おかゆでは弁当になりませんね)。国民学校高等科などの悲劇、と言っても、H君はなかなかぴんと来ないようで、高等科などと言っても、あの頃の学制、なかなか理解できない。次に会う時までにH君、もっと勉強して来るということになったのですが、むしろ、私、自分はわかりやすく話しているつもりでも。若い方はわかっていなかったのだということに気づきました。
 H君と会った後、NHK広島の女性の.ディレクターと会いました。彼女、あの時の疎開地の作業で、若い少年少女が,亡くなり、あるいは傷ついたことにこだわっている人です。あの日動員された少年少女八千人、亡くなった方六千人以上、これは日本教育史上最大の悲劇なのに、広島でさえ、このことが忘れられています。対馬丸の悲劇は有名なのに。
 彼女はこだわり企画もいろいろ出しているようですが、あの惨劇のことを描くのは難しいですね、もっと企画を練って、と、先輩たちに言われているようですが、とにかくコロナ騒ぎが長引く中、東京に来るのも難しい中、わざわざ来てくださったことに本当に感動しました。
 そこへ、NHK国際部の栄久庵耕児さんから、大叔母の昌子(ひろこ)さんのことをNHKWEBニュースに書いたからと知らせてくださいました。昌子さんはかの大グラフィックデザイナー栄久庵憲司さんの妹です。当時山中高女二年生、私のクラスと同じ雑魚場で疎開作業で働き亡くなりました。
 栄久庵憲司さんには中山さんへの手紙でも何度か報告しました河勝重美さんの仕事でお目にかかりお世話になりました。河勝さんは被爆五十年の年、友人岡田悌次さん(広島一中四年生のとき被爆)が体験記を書かれたのをドイツ語に翻訳するのを手伝い、当時ドイツにいらしたのでドイツ語で本にしたいと思い、私の本(広島第二県女二年西組)を知りいくつかのエピソードを紹介更に被爆者の絵を知り、それを入れた「原爆地獄」をドイツ語で本にしました。その後日本に帰国、帰国してからも日本語版、日英版等たくさんの本を出しましたが、これには河勝さんの都立五中(小石川高校)の時の仲間、岡田さんと栄久庵さんの援助があってできたことでした。
. 栄久庵家は広島の大きな寺で、昌子さんは、広島の山中高女に通っておられたのです。山中高女は私と同じ地区での作業だったので、前日には私と昌子さんはそう遠くないところで作業をしていたわけです。栄久庵憲司先生は当時海兵にいて、敗戦後、帰路広島によって昌子さんの骨を受け取るるのですが昌子さんの詳しい死の模様は御存じないようでした、、憲司先生も岡田悌次さんも鬼籍に入られました。
 栄久庵耕児さんにとっては顔も知らない大叔母ですが、思うところありこのたび調べて見て昌子さんの死の直前にあった先生がいることが分かった、昌子さんは「エクアンです」と叫び水をくださいと言っているのです。水をやると死ぬぞと言われている時だから水は上げられない、しかしい珍しい名なので先生はよく覚えていてまだ御存命らしい、栄久庵耕児さんは九八歳の先生を福山に尋ねて行き、話を聞くのですが。驚きました。この水木(平賀)栄先生、戦後は第二県女の先生になり、私もよく知っています。山中、第二県女の慰霊碑は一緒のところにあり、今夏も平賀先生は遠くからよく来てくれたと私の肩を抱いて喜んでくださいました。栄久庵先生のことも思い出しながら、中山さんもよく言っておられる「縁(えにし)」を感じました。
 そして、最後。これこそ一番の大驚きです。三年前、どこの局とも言わず、「二年西組」を使って大きな企画があるという話があると報告しました。覚えておられますか。あれはNHKエンタープライズからのお話で、そう簡単な企画ではないから時間がかかっていると途中報告がありましたがその後何もないので、あきらめておりました。すると先日、ディレクターの中村雅人さんから「実は大林宣彦監督、山田洋次脚本でやることが、決まっていたのだが、大林監督が急に亡くなってしまし困っているのです」。ビッグネームの続出に私ビックリしていましたら、大林さんと山田さんはとても親しかったそうで、企画は大林監督中心で進んでいて、大林さんが脚本はぜひ山田さんでと言われたようです。 
 そんなことで企画のやり直しもまだ正式に決定していないのだが、とにかく山田さんが会いたがっている、会ってくださいますか。もちろんありがたく行きますと答えました、山田洋次さんはとても腰が低い方だそうで、私の足を心配して、私の家に近いところまで来てくださると言われたのですが、我が家は場末、いろいろあってNHKエンタープライズでお会いし、いろいろお話し、あっという間の二時間でした。
 まだ正式の企画になってないものことを早々報告してしまっていいかしらとも思いますが、山田洋次監督のような大物を引っ張り出しているのですからそうむざむざとは企画はつぶれないだろう、どんな構想になるのか、それはまだわかりませんが、形になることを信じてます。いろいろビックリ報告の最後にします。このところいろいろあって、学術会議のことやらがたがた怒っているのですが、あまり長くなりましたので、今回はこれで。

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