SSブログ
核無き世界をめざして ブログトップ
前の20件 | 次の20件

対話随想余滴 №36 [核無き世界をめざして]

余滴36  中山士朗から関千枝子さま

                作家  中山志朗

 このたびの新型コロナウィルス感染症の世界的な拡大に伴う混乱について、連日、感染者数が伝えられ、アメリカのトランプ大統領は、日本の真珠湾攻撃や貿易センターへのテロ攻撃を例にとって「戦争だ」と言い、日本の安倍首相は「第三次世界大戦」と表現しました。互いに戦争体験のない宰相の発言を聞きながら、私は強い違和感を覚えたのでした。
 なかんずく、ジャーナリスト田原総一郎氏が首相と面会した折の言葉が、氏のブログに残されていましたが、その内容を知り驚かざるを得ませんでした。
 首相は、
 「第三次世界大戦は核戦争になるであろうと考えていました。だがこのコロナウイルス拡大こそ、第三次世界大戦であると認識している。」
と語っています。
 この発想、認識は、トランプ大統領が使いやすい新型核兵器開発を宣言したことと相通ずるものがあります。
 そのようなことを考えておりましたら、このところやたらと「新型」という文字が羅列されている記事が多いことに気づきました。ある新聞の「食習慣」という欄があって、管理栄養士さんの書いた文章の見出しに、
 飽食の今こそ要注意「新型栄養失調」?
とありました。
 このように、私はなぜか、「新型」という言葉にこだわってしまうようになってしまいました。これは、この十一月には九十歳になる私の年齢がなせる業なのかと思ったりしますが、やはりそれ相応の理由があるようです。
 私は昭和五年十一月二十二日の生まれですが、十四歳の時、広島に原爆が投下された時、爆心地から一・五キロメートルの場所で被爆したのです。その時の、大本営の広島被爆について、次のように発表されたのでした。
一、昨八月六日広島市は敵B29少数機の爆撃により相当の被害を生じたり
二、敵は右攻撃により新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり(八月七日)
 つまり、私は新型爆弾によって生まれ変わった人間というべきかもしれません。ですから、新型という文字に接すると、自然に顔に大きなケロイドをのこして生きなければならなかった私の、当時の暗い、絶望的だった生活が思い出されてくるのです。
 そして、現在の、残り少ない時間御中で安倍首相の感染拡大を戦争としてとらえる「戦時の発想」の転換による「緊急事態宣言」を聞くにつけ、「新型」という文字にこだわってしまうのです。 
 ある学者が
「地球は、野生動物との共生の場です」
と語っていましたが、恐ろしい現実を突き付けられた思いがします。
 今日の手紙は暗いものになってしまいましたが、静かに時間をやり過ごすしか仕方がないのでしょうか。
 そんな中での、内海氏子さんを招いての女性「9条の会」の学習会を開催し、その開会の挨拶、司会をされた話を聞きながら、お元気でご活躍のこと嬉しく思っております。
 一昨日、関さんもご存知の野村勝美君から久しぶりの電話があり、三十分ばかり話をしましたが、私が九十歳になってなお書き続けていることに驚いている様子でした。
 私は、
「関さんに引っ張られて書いているだけ」
と答えておきました。
 振り返ってみますと、「青淵」をはじめとして多くの書く場所を紹介してもらい、現在もこうして「往復書簡」が続けておられることに、心から感謝しております。


nice!(1)  コメント(0) 

対話随想余滴 №35 [核無き世界をめざして]

余滴35 関千枝子から中山士朗様

            エッセイスト  関 千枝子

 きょうは三月二八日、私の誕生日なのですが、都知事の「自粛」要請が出ていて、なんだかしんとしています。新型コロナウィルスは日本だけでなく欧米でも急に増えて、大変な騒ぎになっています。コロナを軽く見るつもりはありませんし、まだまだ分からない面も多く、慎重に対処しなければなりませんが、何だか私には腑に落ちないことが多いのです。それに、慌てふためく人々、情けないし、私は日本人に対して少し、「不信感」を抱きました。戦前、国策に沿い、お国のためなら仕方がないと、一丸となり突き進んでいったことを思い出します。もちろん、戦争と、感染症と一緒にしてはいけませんし、少しでも早くコロナを退治したい思いは同じですが。
 今回の都知事の要請は、「不急不要」の外出を取りやめてほしいと言い、都だけでなく都を取り巻く県(神奈川、埼玉、千葉、山梨)も同調したので、多分、都心や盛り場はガラガラになると思います。それはいいとして、要請が出た直ぐ後、買い占めがおこったのには驚きました。食べ物(冷凍食品など)を買い占めるなど、スーパーの前には朝から長蛇の列、大混雑になったそうです。(情報を入れてくれる人がいるので)。こんな混みようでは、一番いけないと言われる人々の密集状態になるのではと思います。ひところトイレットぺーパーがなくなるというデマが飛び、大丈夫といくら言っても駄目で、トイレットペーパーは売り場から消えました。駅のトイレに積んであるトイレットぺ-パーを盗んでくる人もあったそうで驚きましたが、二七日のスーパーでもトイレットぺ-パーを抱えている人を見かけました。いくらあると言っても不安なのですかね、本当に足りないマスクや消毒薬はものすごく高いのが出回っていたり、こんな時に儲けようなんて、あきれ返ってしまいますが。 
 さて、私の「不信感」の内容ですが、とにかくオリンピックの延期が決まったら急に感染者の数が増えてきたことです。安倍さんはとにかく自分の任期中にオリンピックをしたい、だから、感染の数を抑えてきた。というのは、日本の検査体制は非常に遅くて、まだ検査未了がいっぱいある、韓国は非常にチェックが早く、だから韓国の数が多いという話もあります。検査が遅いのは問題だとかねて思っていました。それがイタリアはじめ欧州、そしてアメリカの広がる、その中でオリンピック延期が当然のことのように言われ、一年後に完全な形でやる、と安倍氏の思うような形で収まった。中止にならないで、安倍さんはほっとしたと思います。学校の一斉休暇で日本人の中にも委縮気分が蔓延している。これも想定以上の成功ではないでしょうか。
 私、安倍首相が全国一斉に学校の休校を言いだし、これは専門家にも相談せず、萩生田文科相とも少し意見が違ったのに(萩生田氏は安倍さんに最も信頼受けている人)、要請を出した。学校の休校は、地域の教育委員会で決めることで総理の権限でないのに、結局、九八%の学校が休校になった。新型インフルエンザ対策特別措置法の対象に新型コロナを加える改正法も成立、何時でも「緊急事態宣言」を出せる。 
 その直後、オリンピックを延期せよという声が出始めたのですが、今年の夏は無理として、安倍首相の望む、延期して完全な形でやる、ということになった。その直後から東京の感染者が急に増えだした。どうもこれ、遅れている検査の中で判明した感染者の数を出してきたのではないかと思うのですが、私の考えすぎかな。そして、週末に自粛を呼びかける都知事の要請が出た。感染源が判らない感染者が増えたためと言いますが、その方々のデータが全く出さず、ただ重大な局面を強調するだけなのに私は不信感を持っています。感染源が判らなくてもその方々の行動がもう少し詳しく判ればと思ったのです。東京は広いです。例えば、私の住む南部臨海方面と、都の北西のはずれ、八王子あたりと全くちがいますものね。
 それで、自粛の週末が終わり、新たな感染者の数が発表され、それが今までの最大の数だったのですが、その中に感染経路がよくわからない人が多くいることが発表されました、また、驚いたことに台東区の大きな病院で、感染が出ていることが分かりました。小池都知事は不要不急とは何だと問われ、生活物資を買うため(スーパーなど)や、医療のためなら仕方がないといったのですが、病院の大量発生とはね。また、感染経路のわからぬ人の中に、バーやキャバレー、若い人ならカラオケなど具体的な名前を出し、特に夜間の自粛を要請したのです。夜のテレビは、飲み屋街などがガラガラになっているさまを見せ、これらを経営している人々の困っているさまを映し出していました。コロナ騒動が起こってから消費がぐんと落ちているのに、これで、小さな飲み屋などつぶれてしまうのではないかしら。
 自粛がうまくいかなかったら、総理の「緊急事態宣言」しかない。都知事も大阪府知事もそれを待つようなことを言っていました。緊急事態になって、それこそ集会は三人でも行けない、二人で歩く時も一メートル八十センチは開けろ(ニューヨーク市はそんなことになっているみたい)なんてことになったら大変だと思います。しかし、いわゆる「進歩派」でもコロナは別だ、自粛しようという人が多いのですが。
 私たち、女性「九条の会」(私も世話人の一人です)では、学習会に内海愛子さんを招き日本とアジアの問題を勉強する計画を立て、三月七日に学習会を開きました。「嫌韓」などという言葉ができるくらい、韓国に対して風当たりが強く、テレビのお昼のニュースショーなどを見ていると本当に戦争が始まるのではないかと思うくらいでしたので、時宜にあった企画と思ったのですが、コロナの騒ぎで、安倍首相の大きな集まりは持つな、密集はいけない、不急不要の催しは持つな、などの話があり、空気が一変しました。公共の会場は閉じてしまったところもありました。私たちの会にも予約の取り消しをいってくるひともありました。
 コロナという得体のしれない相手ですから、皆が恐れるのはわかりますが、これは過剰だと思うこともありました。私の街の図書館に私は本を予約していたのですが、取りに行くと、カウンターは開けていて予約した本を受け取ることはできるのですが、席も書架もロープを張りめぐらし、人が入れないようになっているのです。町の図書館で席と言ってもせいぜい一〇人くらいで一杯、書架に人があふれるようなこともありません。考えすぎではないかと思ったのですが、カウンターにいる係の人に言っても、区内の図書館は全部こうしています、というだけラチが開きません。私はこれはおかしいと思って朝日新聞の声欄に投書して採用されたのですが、反響多く、うちの街の図書館は締めてしまったという人もありました。
 それから、三月八日、私は大阪に芝居を見に行くつもりでした。大阪の人びとと私はかねて仲が良く、シニア劇団が私の『広島第二県女二年西組』の朗読劇をしていることなど前に書いたこともあると思いますが、大阪のいくつかの劇団が連携して、国防婦人会のことをドラマ化するというのです。私は国防婦人会が生まれた大阪築港の街で国防婦人会設立の十日後に生まれており、興味を持っていたので、大阪に見に行くことにしていたのですが、それも中止になってしまいました。大阪ではライブハウスで集団感染がおこり、それ以来空気が変わってしまったそうです。
 内海さんの学習会にもいろいろあり、本当にやるのですか、と、聞いてくる方も多かったです。でも、私は絶対にやろうと言い、内海さんも大変喜んでくださいました。私は開会のあいさつ、司会をやりました。こんな自粛ムードの時に来てくださった方に感謝し、この会は「不急」かもしれませんが「不要」とは思いませんので、と言いました、予約が減ったため会場も机なしで七十人くらい入る部屋で、机を入れて三十数人、広々と、密集ではありません、何お問題もない!
 学習会の内容は素晴らしく本当によかったです。こんな時集会など開いてもしもの事が会ったら、と皆、不安になるのではないかしら。でも私たちの会、開いてから二十日経ちましたが感染者も出ていませんし、何の問題もありません。
 しかし、コロナはますます感染を広げそうですし、いつおさまるか見当もつきません。
いろいろな会、中止、延期が続きます。困ったことです。
私がかねて心配していた被爆後七五年。オリンピックと重なることはなくなりましたが、コロナが収まらない、被爆の式典も自粛し時間も少なく簡素に、世界からの客もいらない、なんてことになったらどうしよう、など、今から心配しています。

nice!(1)  コメント(0) 

対話随想余滴 №34 [核無き世界をめざして]

   余滴34  中山士朗から関千枝子様

                作家  中山士朗

 私の入浴について貴重なご意見を頂きありがとうございました。世間では、風呂に入りたがらない年寄りは呆けの始まりと言うようですが、あるいはこの類ではないかと内心恐れを抱いております。
 とりわけ「一人暮らしになったのが運命と、思うしかないのではないでしょうか」この言葉は身にこたえました。
 なぜならば、関さんにもお読みいただいたと思いますが、私が小説を書き始めた頃の作品の中に、「浸蝕」という私小説風に綴った短編があり、被爆の後遺症を恐れ、子どもをもうけない夫婦の話を書いたことがあります。このことが、関さんの言われる「運命」かもしれないと思いました。その一方で、関さんの言われる「孤独が嫌なら一人暮らしを止め施設に入るしかありませんが、私は、一人暮らしの方が気楽でいいと思っています。一人で暮らせる限り一人で暮らしたいと思います」という思考には同感です。しかし、私には子どもがいないので、相談する相手もいないのですから、月に一度、独居高齢者の家を訪問してくださる民生委員の方と、これからはよく連絡が取れるようにしたいと思っております。
 私たちの往復書簡において、このところ倒壊の恐れがあるため解体を検討されている広島被服廠の建物について記述が続いておりますが、この建物について、峠三吉の原爆詩集に関さんが触れておられましたので、その詩集を書庫から探してみました。一九五二年五月十日に,青木書店発行の青木文庫として発行された『原爆詩集』は、当時は紙質も悪かったせいか、表紙も中のページも茶渋色に染まっていました。巻末になかの・しげはるの「解説として」という文章がありました。一九五二年と言えば、私も関さんもまだ早稲田大学文学部露文科に在籍していた頃ですから、六十八年昔のことですね。
 中野重治は解説の中で、
<峠三吉は、これらの詩をむしろ静かな態度で書いた。またそれをつつましい形で世に出した。広島の荒廃、多くの人の肉体的苦痛と餓えのなかから芽ぐんできた芸術と文学とへの民衆的要求、そこから生まれた「われらの詩の会」の仕事を組織しながら、彼がこれらの詩を書き、平和擁護の仕事の力ぞえするため、また、一九五一年八月の広島平和大会にささげようとして、彼は貧しいガリ版ずり本としてこれを出したのである。>
と書いています。
扉に
―――― 一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在に至るまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ、と記し、詩集の「序」で、

  ちちをかえせ  ははをかえせ
 としよりをかえせ
 こどもをかえせ

 わたしをかえせ  わたしにつながる
 にんげんをかえせ

 にんげんの にんげんのよのあるかぎり
 くずれぬへいわを
 へいわをかえせ

と謳った峠三吉には、その直後に被爆した人間の姿が冒頭の「八月六日」の詩に書かれていました。

 やがてボロ切れのような皮膚を垂れた
 両手を胸に
 くずれた脳漿を踏み
 焼け焦げた布を腰にまとって
  泣きながら群れ歩いた裸体の行列

 詩集は、やがて「倉庫の記録」へと移っていくのです。
 この倉庫というのは、現在、倒壊の恐れがあるということから一部解体するという旧陸軍被服支廠の建物です。
 峠三吉は、ここに六日間滞在し、記録を残していたのです。関さんは既にご存知のことですが、「その日」の項のみ抜粋してみました。

 いちめん蓮の葉が馬蹄型に焼けた蓮華の中の、そこは陸軍被服廠倉庫の二階。高い格子窓だけの薄暗いコンクリートの床。その上に軍用毛布を一枚敷いて、逃げてきた者たちが向うむきに横たわっている。みんなかろうじてズロースやモンペの切れはしを腰にまとった裸体。
 足のふみ場もなくころがっているのはおおかた疎開家屋の跡片付けに出ていた女学校の
下級生だが、顔から全身へかけての火傷や、赤チン、凝血、油薬、包帯などのために汚辱な変貌をして物乞いの老婆の群れのよう。
 窓際や太い柱の陰に桶や馬穴が汚物をいっぱい溜め、そこらに糞便を流し、骨を刺す異臭のなか(中略)
 灯のない倉庫は遠く燃えつづけるまちの響きを地につたわせ、衰えては高まる狂声を込めて夜の闇にのまれてゆく。

 中野重治が解説で。「峠三吉は、これらの詩をむしろ静かな態度で書いた。またそれをつつましい形で世に出した。」と書いた個所のところで、私は関さんの手紙にありました七年前に高校平和大使を務め、大学院生となった現在もブラジルのヒバクシャに興味を持ち、ブラジルに通いながら、話を聞いている女性のことを思い浮かべました。こうした若い人々がいて「継承」「核兵器廃絶の闘い」が引き継がれていくと関さんは語っておられますが、その通りだと思います。
 しかし、そのブラジルのサンパウロで二月下旬にあったカーニバルのパレ―ドにサンバチーム「アギア・ジ・オウロ」(金の鷲の意味)の山車が登場しましたが、これは原爆をモチーフにしたものでした。米軍の爆撃機B29を模した飛行機の下にキノコ雲が立ち上がり、後ろには炎に包まれる原爆ドームがあるという制作でした。テーマは.「知識の善悪}。原爆は「史上最悪の形で知識が使われた例」として扱われました。チームには広島や長崎にルーツを持つ日系人も参加したということでした、このコンテストで、チームは優勝しました。ブラジルの被爆者らでつくるブラジル被爆者平和協会は「原爆が人類史の一つの悲惨な出来事だととらえていた。優勝で、そのことが広く伝わった」と評価し、これを機に、語り部活動などを通じ、ブラジルの人にも被爆の実態をさらに伝えていきたいと語っていました。


nice!(1)  コメント(0) 

対話随想余滴 №33 [核無き世界をめざして]

余滴33 関千枝子から中山士朗様  

           エッセイスト  関 千枝子
 
 中山さんも、「乾燥期」で湿疹などお悩みのようですが、私も暮れから蕁麻疹が二カ月も続き、本当に困りました。私は子どものときから蕁麻疹体質なのですが、こんなに長く、しかもひどいのは初めてです。しかし、蕁麻疹で死ぬことはありませんし、おおらかに生きたいと思います。中山さんの痒さが、じんましんか、単に老人性の乾きから来るかゆみか分かりませんが、どちらでも、蕁麻疹の薬・抗ヒスタミン剤を飲むといいと思います。
 私の経験では、かなりかゆみが軽くなります。ヒスタミン剤は、医師の診断書がなくても普通の薬屋で買えますし、医師の話では抗ヒスタミン剤は飲み続けても悪いことはなく、花粉症にも効くそうですから。昔、年寄りは、老人性の皮膚の乾きに「孫の手」と称するもので、ひっかいたのですが、ひっかくといいことは何もないと思います。とにかく一時でも薬で抑えるのが一番です。
 それより心配なのは、入浴しないことです。これはいけませんね。私は毎日入浴します。足の具合で風呂桶に入るのが難しいので、行政の介護の方に相談、風呂桶に入るためのボードのようなものを使い、入浴します。暖かい湯に入るのが一番の健康法と思います。
 一人で入浴中の孤独死が怖いとありますが、一人暮らしをしていれば孤独死は仕方ないこと。一人暮らしになったのが運命と、思うしかないのではないでしょうか。
 ソフアに座っていても、楽しくテレビを見ていても、急にガクッと来ることはあります。むしろぐずぐず長患いして皆に迷惑をかけて死ぬより、いいではありませんか。風呂場の死ですが、一人暮らしでなくてもありうることで、私の知っている方、娘婿と飲んでいて、「風呂に入る」と言いだし、風呂に入った。婿は一人で飲み続けていて、ちょっと遅いなと思い、行ってみたら彼が死んでいた。心臓麻痺か何か起こし溺死だそうですが、婿も目覚め悪いし、ほかの子どもも、気づくのが遅かったとぶつぶつ言い、その後、関係がまずくなったとかで、難しいことです。娘婿も悪げがあったわけでなし、気の毒です。私は、風呂場で死ねば、体は奇麗になっているし(あとの手間はなく)、呑んでご機嫌よく、そのまま亡くなったわけで、いい死に方じゃないかと思ったりするのですが。
 入浴中の孤独死を恐れ、行政の施設にふろ場を作れなど運動しているところがありますが、私は湯冷めするたちで、遠くに行くなどまっぴらだと思います。孤独死がいやならひとり暮らしを止め施設に入るしかありませんが、私は一人暮らしの方が気楽でいいと思っています。一人で暮らせる限り一人で暮らしたいと思います。

 お手紙にありますように、広島被服支廠の方は、県が「様子見」で、解体先送りになっています。はじめ県は二月議会に出す予定で自民党県議が賛成していたのですが、あまりの反対の多さにびっくり。自民の広島県出身の国会議員からも声があったようで、自民の県議も、これはまずいということになったようです。中山さんにもお願いしました「署名」がものを言ったようで、署名などしても無駄、ではなかったのです。よかった、と思います。これから論議がいい方に向かいますよう祈っています。
 さて、世間は今新型肺炎コロナウィルスでほかのニュースが消えてしまったような感じですが、ほかにも心配なこといっぱい起こっています。 核に対する世界の動向、アメリカのトランプの動きなど恐くてしかたがありません。お手紙にもありました、潜水艦への小型弾頭など腹立たしいばかりです。世界的にもトランプに似た「右」の多さもぞっとしますが。でも、まともな声は多い、核を持たない小さな、弱いと思われている国の頑張り、決してあきらめてはならないと思います。
 そのなかで出来ることをやってゆく、それがどんなに小さなことであっても。
 この間*1高校生平和大使を七年前にやり、今大学院生でブラジルのヒバクシャに興味を持ち、ブラジルに通いながら(これ大変、ブラジル遠くて飛行機代も高いので)ヒバクシャに話を聞いたりしている女性に会いました。高校生平和大使はいいけれど、卒業後、核の問題をどう考え関わっているのだろうと思っていたのですが、こんな大学院生もいることに感動しました。こう言う若い方々がいて「継承」、「核兵器廃絶の闘い」が引き継がれていくのだろうと。
 
 いろいろな会に出ています。コロナウィルスで「不急不要」の会に出るなと言われても
行かないわけにはいきません。報告したいことも多いのですが、この前からスペースがなく書けなかった、山田洋二監督の新しい映画「『男はつらいよ お帰り 寅さん』の話をいたしましょう。行ったのは一月五日今年初めての日曜日、品川駅前品川プリンスホテルの中のシアターです。かなり広い劇場が六つほどあり、それぞれ違う映画をやっています。待合の場に人が大勢いて、正月のためか、子どもも多く、子どもも寅さん見るのかな、と、ちょっと感激したのですが、子どもたちはみなスターウオーズらしく、寅さんの劇場は三分の一くらいの入りでした。いろいろな方の観劇記を見ると、若い人もおり、年配者は、大いに笑い、みな寅さんの大ファンらしかったなど書いてあるのですが、この日の品川のお客様は年よりは多かったが、静かで、少し、違うのかな。
 でも、やはり山田洋二監督はうまいなと思いました。おいちゃんもおばさんもタコ社長も死んでしまっていないけれど、さくらもひろしさんも、タコ社長の娘も皆元気です。
さくら夫婦は昔のくるま屋に住んでいますが、団子屋でなくて喫茶店になっています。
随所に懐かしい名場面が出てきます。「寅さんを一番懐かしがっているのは山田監督じゃないか」と思いました、物語の中心になっているのは満男で、妻は六年前に死に高校生の娘と暮らしています。サラリーマンをやめ、書いた小説が当たったが、まだ次作が書けるかどうかもわからない、という設定で、大作家ではありません。かつての恋人・いずみは欧州に住んでいますが、たまたま仕事で日本に来て、本のサイン会をしている満男とぱったり会います。
 いずみのゴクミ(後藤久美子)は本当に今ヨーロッパに住んでいるのですね、彼女の出演がなかったらこのドラマは成立しない、山田監督は一番初めにゴクミに電話して出演してくれるかどうか聞いたそうです。若い(当時の)俳優たちの中でも、満男(吉岡秀隆)とゴクミは山田監督の「好み」ではないかな、どこかちょっと陰りがあって。
 とにかく満男もいずみも思いは深いが、結局、さよならと別れるしかありません。
 満男の方は、好意的な出版社の編集の女性を満男の娘も好いていて、なにか今後発展しそうな予感を抱かせます。新しい物語はここから始まるという人もありますが、どうでしょうね。
 私は満男は寅さん二世にはなれない。「風天」にはなれない。寅さん流に行きたいと思っても無理です。寅さんを生かしていた職業・香具師(ヤシ)は、もう過去の商売になってしまいました。正月の初もうではまだ生きていますが、どこを見渡してもあのにぎやかな口上で「ちょっといかがわしいもの」を売りつけるヤシの姿はありません、あの商売はこの国ではもう成り立たない。・百貨店も危なくなって、通販、ネット販売の時代ですから。いかがわしくその日その日を暮らす人々、どこへ行ってしまったのでしょう、路上生活?とにかくもはや寅さんは、「生きていくこと不能」の時代です。これはいいことなのでしょうか。満男君は、一応安定したサラリーマンを捨て先行き分からぬ小説家になりますが、それでもそれは「風天」ではありません。寅さんのあの時代は、「はずれもの」もまだ生きられたのですね。そして、高度成長期は過ぎたけれど、豊かになった日本で、人々は、金もない定職も無い、外れている寅さんを愛しました。できたら自分もああなりたいと思っていたかもしれません。
 書き忘れていました。映画の最初に出てくる「歌」、この作品ではサザンの桑田が歌っています。桑田はもちろん成功した大スターですが、あの歌声に、山田監督は、野性味というか、主流でないものを感じて、桑田を使ったのでないかと思いながら聞いていました。
 そしたら、物語の終わりで又出てくる「寅さん」の歌、それは渥美清が歌っているのですよ、桑田は出てこなくて。その意味を深く考えるのはやめて、は気楽に渥美さんの声を楽しんでいました、渥美さんは歌もうまかったな、と思って。

 正月には考えもしなかった新型肺炎コロナウィルスにもう日本中大騒ぎです。大掛かりなイベント中止の首相要請、確かにスポーツなどの大掛かりな催しは、感染を広げる要因になるかもしれませんが、日に日に外に出る人は減り、街はがらんとしています。経済の落ち込みも心配。それにしても人々の浮足立っているさまは。大きなイベントでなく小さなイベントのやめなくてはいけないように言う人も。まさに「自粛の全体主義」ではないかしら。
 予約した本を取りに図書館に行きましたら、カウンターは空いていて予約した本は受け取れるのですが、書架も席もロープを張って締め切り、誰も入れないのです。つまり人を入れないようにしているのですね、街の図書館で何人もの人が集まれるものでもありません。これは行き過ぎではありませんかと言ったのですが、カウンターに一人いる若い職員に言ってもどうにもなりません、しかし、おかしいと思います。
 そんなことを思っていたら、安倍首相の全国一斉・学校の休校の要請です。国に学校の休校の権限はないはずで、それぞれの自治体の教育委員会の権限のはずです。それを何の論議もなく、受け入れる、おかしいのではないでしょうか。この国の民、委縮してしまっているようで、私はその方がよほど怖い、コロナウィルスについていえば、一番の問題は検査体制の遅れ、(韓国に比べ数十倍の時間がかかっていてこれが治療体制の遅れで、問題を大きくしている)のに、それに対して抗議の声が少ないのは問題だと思います。
 実は、三月八日、大阪にドラマを見に行くところでした。大阪のいくつかの劇団が共同して行うので、私は大阪の劇団のかたに、わたくしの「…二年西組」の朗読劇でお世話になっているし、ドラマが国防婦人会を取り上げているのでぜひ行きたいと思っていました。私は国防婦人会が誕生した大阪築港で会結成の十日後に生まれていて、非常に興味があるのです。それが急に中止になりました。大阪ではドラマをやる劇場のすぐ近くで感染者が発生、空気が一変、そこへ学校休校などの安倍の要請。大阪では劇場も映画館などもみな臨時休業に追い込まれているとかで、このドラマも中止です。コロナウィルスを馬鹿にするわけではありませんが、私、この国の民の騒ぎぶり、ウィルスよりこちらの方が恐ろしいです。
 

nice!(1)  コメント(0) 

対話随想余滴 №32 [核無き世界をめざして]

余滴32  中山士朗から関千枝子様

                 作家  中山士朗

 足のお怪我その後いかがかと案じておりましたが、お手紙を拝見して安堵しております。けれども、決してご無理なさらないように願います。
 私自身もこのところ、心身ともに乾燥期に入ったらしく、全身に湿疹状の痒さが出て何事にも集中力が欠けてしまい、困ったものだと思いながらその日、その日を暮らしております。
 考えてみれば、今年の十一月に誕生日が来れば九十歳になるのですから、致し方ない生活環境なのかもしれませんが、老齢期を実感しながらの生活を送っています。
 先日、私たちの「往復書簡」を読んでくれている知人から、「私生活を味わい深く読ませてもらっています」という葉書が届き、嬉しく思いました。
 そんな訳で、これからも私生活を少しずつ書いてみたいと思っています。
 つい先日、野球の野村監督が風呂場で死去されたということを新聞のニュースで知りましたが、他人事とは思えない事象でした。私は、温泉が出なくなったことが一因ですが、この冬は入浴しない日々が続きました。これは、入浴中に孤独死するのを恐れたからです。温泉地である別府では、十二月、一月に入浴中に人知れず死亡する人が多く、昨年の統計では、一月に一二七人が亡くなっています。つい先日も、マンションで一人暮らしをしている人が入浴して亡くなり、数日たって発見されたという記事が新聞に載っていましたが、他人事ではないと思いながら読んだ次第です。
 それにしても、お手紙を読み終えた時、竹内さんの学習会での話、跡見学園中学二年生の広島修学旅行の事前授業での講演、立川での宋神道さんの写真展に行かれた話はまさに行動する関千枝子さんだと思いました。ことに、「跡見の場合中学二年生、私のクラスが被爆して全滅した時と同じ年です」、この言葉には言い知れぬ重さを感じました。
 また、韓国の元慰安婦・宋神道さんの「戦争がいけねえ、何があっても戦争をしちゃあいけねえ」という言葉に胸打たれました。
 また、このたびのお手紙の中にも、広島の被爆建物である旧陸軍被服支廠の解体計画が触れられていましたが、この件は一部解体の着手が先送りになったようです。二月四日の朝日新聞の記事によると、「全棟保存を求める市民の要望が相次ぎ、県議会からも{時期尚早}との声が上がった」ためとされていました。
 それから数日後、朝日新聞の<折々の言葉>鷲田清一に、

 そうか。廃墟に棲むことを選ぶ人がいてもいいのだ。
              与那覇潤   

 この文章の解説として
 同時代の社会を捉えるために「歴史」の中にそれらを丹念に位置づける努力を人々はしなくなった。それでも、国の隅々にまで、あるいは国境を跨いで、一つの歴史をおしつけ。刷り込もうとするよりは、この語り得なさの絶望の内に立ち尽くし、「歴史」の記憶を密かに繕いつつ、「歴史」が朽ちゆくのを眺めているほうが意味あると歴史学者は書く。『荒れ野の六十年』から。
 この思想は、私の「廃墟は 廃墟たらしめて保存する」という私の想念と合致するものであります。
 こうして私たちが<核兵器のない世界>を目指して、こつこつと「対話随想」を続けているさなか、二月五日の新聞に米国防省が、低出力で「使える核兵器」と称される新型の小型核弾頭を搭載した潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)を海軍が実験配備したとの記事が掲載されていました。
 この低出力核弾頭の潜水艦配備は初めてで、核戦略の増強をはかる中国、ロシアに対抗する狙いもあると報道されていました。
 この記事を読みながら、私は核の抑止力の強化はおろか、新たな危険を生み出すだけのようにしか思えませんでした。新聞のさらに細かい報道によりますと、この小型核弾頭は爆発力を抑え、敵の施設への局地攻撃などを想定して開発されたものだということです。
米メディアによると現行の核弾頭の爆発規模は約百キロですが、小型核弾頭は約五~七キロトン。.広島に投下された原爆は一六キロトン。長崎は二一キロトンだということですが、核が惨苦を再びもたらすことが「小型だから」と正当化されるシナリオなどは、人道法上許されるはずもなく、武力衝突の規模を制御できると思うのも誤りです。
 今年は、広島、長崎の被爆から七十五年に当たります。冷戦期から世界の核管理の支柱である不拡散条約(NPT)も、発行から半世紀になります。四,五月には、条約加盟国が五年に一度不拡散と軍縮への関与を確認する再検討会議が開かれることになっておりますが、その義務は果たされていません。その一方で、北朝鮮は核開発を止めず、南アジアや中東も核問題に直面しております。非核国が中心になって結ばれた核兵器禁止条約について、日本は保有国と非核国との橋渡し役を自認しておりますが、その存在感は薄いものであります。
 トランプ政権は核兵器関連予算の大幅増額を求め、核の役割を増大させる構えです。「核の傘」強化を求める日本政府は「核体制の見直し(NPR)を高く評価した経緯があります。
  

nice!(1)  コメント(0) 

対話随想余滴 №31 [核無き世界をめざして]

余滴31   関千枝子から中山士朗様

           エッセイスト  関 千枝子

 なんだかあまり大したことをしていないのですが、野暮用が多く、足の方は順調なのですが、じんましんが二カ月近くも続いて閉口しているところへ、被服支廠問題。年明け早々なんとなく気ぜわしいです。被服支廠問題は、この前少し電話でお話しいたしましたが、大きな話題となり、皆さん関心が高いようです。竹内さんの学習会で緊急臨時学習会を組み、その第一回が一月十九日だったのですが、六〇人以上も集まり、机も取り払い、補助いすを入れ、超満員でした。この日は、永田浩三さん(元NHK)が問題提供者だったのですが、永田人気というのがあるそうで、それで人がたくさん来たのですが。永田さんの話はそんなに目新しいものではなく、(永田さんも戦後生まれ、ですから)でも、いろいろな映像を見せ、映像に合わせて、峠三吉の詩「倉庫の記録」の朗読が入ったことが、皆さんの感動を呼んだようです。この詩、「原爆詩集」に入っており、被服支廠の倉庫の二階・被爆者の収容所になったあの場所の惨状をリアルにつづった紙ですが、峠さんの「ちちをかえせ ははをかえせ」の詩を知っている人も、この「倉庫の記録」は知らない人が多いようで、みな静まり返って聞いていました。
 広島から参加された多賀俊介さん(被服支廠の保全を願う懇談会)が、現在の運動の状況を語られ、当時学徒動員でここで働き、軍靴を作っていた中西さんのお話、そして何より、竹内さんの膨大な資料(竹内さんの会に行くたび、感心します)なぜ倉庫を全部保存したいか、よく意味が分かってくださったようでした。
 広島被服支廠は大正二年に建ったもので、一万七千平米の広大なものです。工場(軍服、軍靴)と倉庫がありました。私も一九四四年、女学校一年生の時、臨時動員で、一週間ばかり働いたことがあります。その時は全体がどんな構造になっているかなど全く分からず、倉庫など、どこにあったのやら全然わかりませんが。とにかく戦後、工場の部分は全部取り壊され、別のものになっており、今は倉庫四棟だけが残っております。南側から北へ、三棟の大きな倉庫が並び、これが県の所有です。一番南の倉庫の横、エル字型に、もう一つ倉庫があり、これは国の所有だそうです。
 この県所有の三棟が、今回、保存か処分か問題になっています。被爆、そしてそれからの月日に傷んでおりますが、当時を物語っています。煉瓦作りのように見えますが、コンクリートの躯体の上にレンガを積み上げたもので、建築学上でも貴重なものだそうです。建築以来百年たち、地震がくれば危ないというので、県は全部補修すれば金が膨大にいる(一棟約三十億)ので、一番南の一号棟のみ補修して残す、二号棟三号棟は解体する。一棟だけ残せば、状況はわかるという案を出しました。すると反対の声がわっと出ました。被爆建物は現在広島市に八十数棟しかないそうで、その中で被服支廠は最大の建物、古いものをすぐ壊してしまうのは問題。分けてもこの被服支廠は文化財としても重要というのです。もちろん、壊すのは仕方ないではないかという声もあります。原爆ドームにしても、原爆のことを思い出したくない、壊してしまえという声もあったそうですから。
 私も、この倉庫の歴史などを聞くのは初めてで、いろいろ勉強になりました。私自身は、戦時中の臨時動員の時しか思い出はなく、収容所、になった時のことも、たくさんの死体を積み上げて焼いた話もあとで聞いただけですが。でもこの日、いらした方々は、やはり残っている建物は、残すべきだと思われた方が多かったようです。
 それにしても、私このごろ不思議に思うのですが、建物の修復の費用にしても新たな建築費用にしても、そんな値段?というように高いの、不思議に思います。今度の件にしても一棟三十億というのは、ほんと?と言いたいのですが。もしかしたらこの業界だけ安倍さんの望むインフレになっている?
 なお、その後の情報によると、この件は、広島県や県議会の方からも慎重論が出て、結論先送りになっているようです。もともと広島県の二棟解体案は二月の県議会に出すはずで県議会の自民党は解体案に賛成だったのですが、反対の声が高まる中、自民の中でも慎重に討論すべきだという声が出、その後、県選出の自民国会議員の中でも動きが出ているようです。まあ、結構なことだと思いますが。
 
 今年、年賀状でも、いろいろな方に、今年の8・6,8・9がオリンピックに吸い込まれそうでとても心配ということを書きました。すでにこのことに気が付いている方もいるようで、あちこちから講演の話が来てありがたいことだと思います。また、オリンピックの開会式に、いつも国連事務総長が出席するのが慣わしなのだそうですが、今年国連事務総長は、開会式に出ず、広島の8・6に出て、そのあと閉会式に出ることになったと報道がありました。(一社だけの報道ですが間違いないと思います)。うれしいことですね。世界中の多くの人々が核廃絶に真剣になっているのに、核兵器禁止条約に否定的で、オリンピックを隠れ蓑に、憲法改悪だの様々なことをやってしまいそうな安倍。許せない感じです。
 
 そんな中、一月二十二日には跡見学園中学二年の広島修学旅行の事前授業に行きました。この学校は歴史の古い私立の学校ですが、大変平和教育に熱心です。前に話題になりました、渡辺美佐子さんたち女優たちの「夏の会」の朗読劇も、毎年第一回の公演は、跡見の講堂でするのです。あと三の高校生たちも朗読に加わります。私は毎年この跡見での公演に招待されておりまして、それで跡見という学校が平和教育に熱心なことを知り、その縁で毎年、跡見にお話しに行くようになったのです。跡見の場合中学二年生、私のクラスが被爆全滅した時と同じ年です、私も張り切って話しますが、跡見の先生は、生徒たち全員に私の本を読ませて、講演の前に生徒たちの質問や感想をとってくださいます。ですから、私も、50分という短い時間に何を語ればいいか、考え考え語ります。
 一月二十四日。立川で、宋神道さんという元慰安婦を写した写真展がありました。韓国の方ですが、さまざまなことがあって戦後に日本に住みました。唯一の在日慰安婦として生きましたが、明るく踊りが好きな方で、「戦争がいけねえ、何があっても戦争をしちゃいけねえ」と言っておられたのを思いだします。
宋さんは何度も取材したことがあり、遠い立川までわざわざ行かなくてもと思っていましたが、展覧会の実行委員会の谷口和憲さんがあまり熱心でお手紙などくださるので、思い切って立川まで行きました。
 谷口さんは性暴力に反対する男たちの立場から運動に入った人で、生活は食えるだけの仕事をし、運動をし、それからこれはすごいのですが、一人で「戦争と性」という雑誌を出しています。この雑誌で、原爆のことを取り上げたことがありその時からの知り合いです。谷口さんが中心で、この展覧会を考え、飾りつけなども全部素人の実行委員たちの総力でやりました。会場費もいるし、展覧会はタダでやっていますし、大変だろうと思いましたが、賛同のカンパが二百人以上から集まり、無事に開催にこぎつけたとか。「入り」もよかったと思います、宋さんの日常を撮った写真に皆さん見入っていました。
 この展覧会のこと宋さんのこと。もっと書きたいのですが、また長くなってしまいました。またの機会に書きます。こんな展覧会をすれば「右」というか、慰安婦なんかいなかった、などとめちゃめちゃなことを言う方がいて,展覧会など開くと、よく暴力をふるうのですが、そんな方が会場に見えなかったのはよかったです。前の日に、一人そんな方が来て、しかしこの人は暴力を振るわないで、話し合いをずっとやったけど、平行線だったと言っていました。一度や二度の話し合いで通じるものではないでしょうが、暴力lでなく、論戦はいいことですね。
 私も、折角立川まで行ったのだからと、立川の友達に声をかけ会場まで来てもらいました、知の木々舎代表の横幕玲子さんも来てくださいました。知の木々舎のブログ、大いに増え、それはいいことですが、月二回、あれをブログに載せるの大変だろうと思いましたが、一時コーナーが四十を超え、作業が大変だったが、今は、三十数個に減った。今ちょうどいいくらい、だそうです。私たちの「核なき世界を求めて」も、大いに頑張って書き続けてくださいということでした。

 今年の正月明け、「男はつらいよ お帰り 寅さん」を見に行きました。考えてみますと映画館に行くのは久し振りです。大腿骨骨折手術後、杖だけではパワー不足ということでサイドカートを使っています。これで歩行はずいぶん早くなったのですが、階段の上り下りは、階段によっても違いますが、くたびれます。エスカレーターの方が楽です。
劇場や映画館は劇場の中に小さな階段があって不便なところが多く、つい敬遠していたのですが、この日はお天気も良く、出かけました。私が映画を見るのは、品川プリンスというホテルの中にある劇場で、六つの劇場が入っています。行ってみると相当の人が入場を待っていて、子ども連れが多く、これが皆寅さんかとびっくりしましたが、子どもたちはスターウォーズらしく、寅さんの劇場の入りは半分以下でした。入っている人も年配ばかりで、みな、寅さんを懐かしむ人のようです。寅さんの映画の感想を少し書きたいのですが、もう三千八〇〇字を超えてしまいました。次回に書きます。


nice!(1)  コメント(0) 

対話随想余滴 №30 [核無き世界をめざして]

  余滴30 中山士朗から関千枝子様

                 作家  中山士朗

 昨年の十二月十三日の安保法制違憲訴訟・女の会の裁判での証人、原告の「尋問」の個所を読みながら、もっとも悪い時代に生まれたわれわれの世代、しかも戦争を知る最後の私たちが切実に後世に伝えようとする意思を強く感じました。そして、広島で偶然に知り合われた堀池美帆さんのその後の動向を知るにつけ、お二人の「生命」を生き尽くす、燃焼力に触れた思いがしました。
 お手紙にありましたように、敗戦・被爆七十五年にあたる今年は、東京オリンピック開催一色に彩られ、戦争がもたらした悲惨な状況は語られることはないと思われます。
昨年、来日したフランシスコ・ローマ教皇は被爆地の長﨑、広島を訪れ、「核兵器のない世界の実現」を訴えました。しかし、安倍首相は、教皇と会談後のスピーチで、「日本は唯一の戦争被爆国として、核兵器のない世界の実現に向け国際社会を主導する使命を持っている」と強調。「核保有国と非核保有国との橋渡しに努め、双方の協力を得ながら対話を促す」と訴えましたが、国連で採択された核兵器禁止条約は「安全保障の現実を踏まえずに作成された」として、条約参加の意思を示しませんでした。
 そのようなことを考えておりました時、大分合同新聞の夕刊のコラム「灯」に、私が住んでおります六郷満山には、千三百年前に開山した両子寺の鐘があり、平和の鐘として発願されたという記事が掲載されていました。
 この鐘は戦時中に軍需供出され、戦後一九四八年(昭和23年)に再鋳造されたものでした。これは、執筆者である両子寺法嗣・寺田豪淳さんによると、祖父・豪延さんが終戦後広島を歩きその悲惨な体験から平和の鐘として発願したと語っていました。七十数年前にその鐘に刻銘された百七十名に上る方々は一人を残して他界されたということでした。そして、その鐘は物資乏しき折のもので内部の亀裂が生じ、応急措置の柱もひび割れが各所にできたために、再建に踏み切ったそうです。
 師走に、落慶式がありましたが、この令和の三百年は持つという設計の新鐘楼は、世界平和の祈りを乗せて、新たな歴史を刻んでいくというお礼の言葉で結ばれていました。
 こうしたことと反して、新年早々の新聞に、被爆しながらも倒壊を免れ、今も残る最大級の建物「旧陸軍被服支廠」(広島市南区)を、県が一部解体の方針を示したことに対して、保存を求める声が広がっているとの記事が二度にわたって書かれていました。
 新聞の記事によると、広島氏が被爆建物として登録した建物は市内に八十六件、その中で最大級のものが被服支廠だということです。約一万七千平方メートルの敷地に四棟がL字形に並んでいます。一九一三年に軍靴や軍服を作る工場として建設されましたのが、そのうち三棟を所有する広島県は、一棟は改修して保存しつつ、地震による倒壊の恐れを理由に二棟解体の方針が県議会に示されたということのようです。
これに関して、被服支廠で被爆した中西巌さん(八十九歳、呉市)は、
「核廃絶の役立つ施設、完全な形で残したい
と記者会見で語っていました。
 同席していた他のメンバーらも、
「第二の(世界遺産)原爆ドームになり得る建物だ」
と語気を強めた人もいたようです。
松井一実市長は、
「できる限り全棟を保存してほしい」
と要請し、
「失われると二度と取り戻すこと9ができない」
と意義を強調したと告げられていました。
 この議論は、保存予算の問題として県と市の間で折り合いがつかず、被爆建物の継承を巡って目下、署名運動が行われていて、一万五千筆の署名が集まっているということです。
 私は、この間のやりとりの中で、「失われると二度と取り戻すことができない」という発言にこだわってしまいました。私はかねてより原爆ドームを補修して保存することに異を唱えていました。廃墟は廃墟たらしめ、保存すべきだと思っておりました。そして、思ったことは、心や体に被爆の傷を残して死んで逝った者の死は、どのように考えられていたのかという疑問でした。
 私は、今年の誕生日を迎えると、九十歳になります。
恐らく、過去の戦争について記憶し、語ることができる最後の世代だと思っていますが、それもきわめて短い時間しか残されていません。これまでの生きて来た証として、できるだけ多くの言葉を書き残しておこうと思っています。

nice!(1)  コメント(0) 

対話随想余滴 №29 [核無き世界をめざして]

余滴29 関千枝子から中山士朗様へ

            エッセイスト  関 千枝子

 この項、昨年(二〇一九年)暮れに書きあげていまして、それを送ろうと思っていたのですが、年が明けてみると新しいことを書いてみたくなり、最初の部分書き換えました。
 私のところでは、毎年正月子どもたちに集まってもらい、私の作った正月料理を食べてもらう習慣です。我が子どもたちみないま働き盛りで忙しいし、年一回だけの親子宴会なのですが、今年は私体力が持たないと思い、取りやめることにしました。料理がうまいわけでもないのですが、出来合いの味が嫌いです。例年通りのことをやっていたらとても体が持たない、それに家の片付けもできていませんし、思い切って今年は取りやめを宣言しました。これは成功したようです。
 料理の数量を減らし、掃除も気にしないだけで、うんと体が楽になりました。大晦日も余裕たっぷりです。精神的にもイライラしないせいか、このところ一か月ばかり「じんましん」に悩まされていたのですが、それも卒業できそうです。大晦日や、正月のテレビも楽しめましたが、その話はまた次にして。
 いろいろな方にお世話になったので年賀状だけは出しましたが、多くの方に書いたのは二〇二〇年の八月の不安です。オリンピックが八・六、八・九に重なること気が付いていない人が多く、オリンピックに浮かれて、敗戦・被爆七十五年であることも分からなくなるような状況になったらと大変心配と、くどくどと書きました。
 実は私、十二月十三日がとても大変な大役があってそれがすむまで落ち着かなかったのです。この日は、安保法制違憲訴訟・女の会の裁判で、証人、原告の「尋問」が行われる日で、私も原告十人の中に入りましたので、責任を感じておりました。「尋問」というのは裁判用語で、意見を書いてくださった証人や陳述書を提出している原告(もちろんその中から選ばれた数人)に法廷で、弁護士との間で一問一答方式で、言いたいことを述べる、単に陳述書を読むより迫力あるものになります。それが嫌なのか、時間を取り面倒なのか、裁判官は嫌い。「必要ない」と受け付けない人が多いいのですが、この女の裁判では、裁判官が原告の意見を聞く姿勢を見せ、二日にわたって「尋問」のスケジュールを認め、私たちも張り切っていたのです。ところが、十月十八日の法廷へ行ってみたら、裁判官が変わっているではありませんか、弁護士のところにも通知がなく、弁護士たちもびっくり!こんな失礼なやり方は、普通は考えられない。新裁判官のことをどんな人か調べてみたら、最高裁の事務職とか、「事務職」のベテランのようですが実際の裁判はあまりしたことがない人のようです。何だか妙です。この頃の司法の姿勢 怒ることばかりですが、仕方ないので新裁判長と話し合い、従来通りの尋問を認めさせたのです。
 十三日は証人の尋問と原告四人の尋問、私が最後の四人目、時間が二十分しかありません。十月十八日から十二月十三日まで私たち原告と尋問担当の弁護士との間で「予行練習」が始まりました。皆言いたいことは山のようにあるが、全部は言えない(時間が足りない)何をどういうふうに言うかです。私の場合、『戦前を知る者』として「少国民」に仕立てあげられた戦前の学校や社会の様子を詳しく書くべきかと考考えましたが、もっと原爆のことを書いてほしいという意見が出ました。実際に被爆者の方も何人か原告におられるのに。尋問に選ばれた被爆者は私一人、やはり原爆のことは言わなければなりません。
 尋問の組み立ては被爆したことから始めました。その時の様子(私の体験)から始まり、作業地で被爆した友人の様子。仲の良かった友の家に行ったのに何もできず逃げかえり、その後彼女の家に行けなかったことの悔恨を語り、何年経っても原爆への怒り、苦痛(生存者としての辛さ、休んで助かったことの罪悪感も含めて)は癒えないこと、もし癒える日があれば、それは核兵器がなくなる日であることを話し、ヒバクシャの思いは核兵器の廃絶。核兵器禁止条約に対する日本政府(安倍氏)への怒りを強調しました。そして、「‥‥二年西組』を書いた話から、建物疎開作業で死んだ少年少女たちが「軍国少国民」として死んでいったものが多いという話から、いかに私たちが「少国民に仕立て上げられたか」を語りました。
 若い方がご存知ないこと、それはあの一九三〇年代、「平和」という言葉が大いに言われ、私たちは東洋平和(世界平和)のためにやむなく戦争をしている。聖戦だから勝たなければいけないと思ったことも語りました。それは安倍さんの言う「積極的平和」のウソに通じることであるのですが。
 安倍さんは、安保関連法が「戦争法」と言われるのを嫌って、「国際平和支援法」とか、平和という言葉を入れ、もっともらしい名付けをしていますが、そんな「平和」がいかにあてにならないかを強調しました。その証拠に、私たちが子どものころ愛唱した歌で「東洋平和のためならば」という言葉があること、愛国行進曲(この歌・「みよ東海の空あけて」を忘れる人いませんね}にも「正しき平和打ち立てん」とあること、そしてなんと、あの一九四一年十二月八日、米英等との開戦の詔勅にも平和という字が六ケ所もあることを言いました。この話には傍聴の人びとも驚かれたようです。
 私自身、この「尋問」のため調べてみて驚いたのですが、「東洋平和のためならば」という歌、調子が良くて私はっきり覚えているのですが、曲の名前も全体の歌詞もメロディも全く覚えていなかった。それが今度きちんと調べてみて、なんと「満州行進曲」という名前で私の生まれた一九三二年に作られた歌、しかも作曲者が堀内敬三さんなのです。これには驚きました。堀内さんと言えば戦後も華々しく「話の泉」などで大人気、「音楽之友社」を作られたのも堀内さんですね、いいイメージしかありません。それがこんなに早く、満州国成立の年に、国策イメージの曲を作っていたとは!しかも、ご本人が、レコード店を使って宣伝した最初の曲、などと言っているのです。
 確かに、あの頃、街のレコード屋でガンガン曲を流している風景がありましたが。そうして子どもまで東洋平和のためならば、と歌っていたのですね。この「東洋平和のためならば」の曲に関しては私くらいの方から「自分も歌っていた」と思い出を語ってくださる方、たくさん知っています。
 実はこの歌のこと調べているうち、「開戦の詔勅」が見つかり六ケ所も「平和」という言葉があるのに驚いたのです。あの「勅語」に関しては、開戦後、八の日が「大詔奉戴日」となり、いやというほど聞かされたのに、覚えている人は少ないのではないでしょうか。私も、教育勅語は腹立たしいことに、まだほとんどソラで言えるのに、開戦の勅語については全くおぼえていません。敗戦の勅語は「堪え難きを耐え忍び難きを忍び」の有名な言葉がありあそこだけは言えますが。逆にそうなると教育勅語がなぜみなの頭に沁みこんでいるかという疑問に突き当たりますが。
 ともかく私は開戦の勅語に平和という文字がたくさん入っていることを発見、驚きました。つまり天皇は自分は全く戦争はしたくない。世界の平和を願っているのに、シナが言うことを聞かず、米英等が言うことを聞かないのでやむを得ず戦争をするのだ。戦争は自分の志ではない、ということをくどくど言っているのです。とにかく、太平洋戦争開戦のころまでは「平和」という言葉がまだまだ飛びかっていた。戦争の様子がおかしくなっていくなか、歌もまるでケンカのようなものすごいものになって行く。「平和」という言葉も消し飛んでいったのでしょうね。
 こんなことを資料で示し、最後はヒバクシャの思い、同盟国の核の傘の下に身を置き、核の傘を認めるのは、核兵器廃絶の背を向けることで断じて許せないという言葉で締めました。
 しかしこれだけのことを二十分で言うのは大変で、言葉を選び思い切って削り簡略にしました。これを全部丸暗記すれば問題ないのですが、俳優ではない私、丸暗記は下手。それから詰まって言い直しなどしていると時間を食ってしまいます。結局言わなければならないこと、質問の順序をよく頭に入れておき、そこで何を言うか。しっかり頭に入れました。予行演習もニ三度したのですが、かなり緊張しました。 
 おまけに私、このところ夜の頻尿に悩まされ、薬を飲んでいますが、薬のため口が乾き声が出なくなるのです。水を飲んでもすぐ乾くので仕方なく飴をなめるのですが、これをどの時間でなめ始めるか、いろいろ気を使います。ともかく、無事に行き(ほかの皆さんもとても素晴らしかった)ほっとしました。
 前に書いたヨーロッパで能の会、多田富雄さんの長﨑のマリア像の能の上演などもあったのですが、これのワルシャワ公演を見た、堀池美帆さんが講演の様子をまとめたビデオを送ってくれ、様子が分かりました。
実はこの話、講演の話というより堀池さんのことを書きたかったのです。彼女のこと、前にも書きましたので覚えておられるかどうか、もう七,八年前彼女が高校に入ったばかりの時広島に来、その時知り合ったのですが、大学生たちの中に混じって高校に入ったばかりの彼女が原爆のことに関心持っているのに驚いたのですが、会った翌日、偶然、平和資料館の前で、外国人を捕まえ、感想を聞いている彼女に驚きました、それから彼女と友達となり、彼女も毎年広島に来てくださったのですが、東日本大震災の時はボランティアになり、現地に手伝いに行く、学校の外国との交流行事でイギリスに行ったときはイギリスの人にヒロシマを語り、千羽鶴を折ってもらうとか、社会問題に関心深く、そして行動的でいいと思えばすぐやる、今時の若い子でこんな人はいないとどこでも評判だったのですが。それが、大学に入ると能楽に凝ってしまったのです。観世流の同好会があって、仕舞いや謡いを習うのですが、彼女、能にはまり込んでしまいました。ヒロシマ関係で彼女と知り合った人で能のことなどに詳しい人はいませんので、私が彼女の能への関心を引き受けることになりました。私は父が能を好きだった関係でかなり能に詳しいのですよ。彼女の能への打ち込み方は尋常ではなく、大学の卒業を一年遅らせたのには私もびっくりしました。
 そして昨年。幾らなんでもこれ以上大学に居られない、私は彼女がビデオ作りなども結構うまいので(彼女のお父さんはそちらの方の仕事というか、プロダクションの人です)、ひとまず映像の世界に行って、そちらの方で力をつけるよう勧めました。能楽の方で仕事を見つけるというのは、ほとんど不可能でしょうから。彼女もその気で、NHKを受けたのですが、ダメで、映像制作のプロダクションに入りました。今年の四月に入社したのですが、まだ下働きでそう忙しくないようで、八月にはヒロシマに来てくれました。そして、九月に観世流の銕仙会が、ヨーロッパ公演をする、その中に多田富雄さん原作の「長崎のマリア」も上演される、というのです。そしてヨーロッパ公演の中心で、講演ではシテ役をやる清水寛二先生がちょうどいま広島におられるからと私に引き合わせてくださったのです。彼女は同じ観世流でも銕仙会ではなく彼女自身清水先生と会うのは初めてらしいのですが(このあたり強引というか、彼女らしいのですが)。公演はパリ、ジュネーブ、ワルシャワで彼女はワルシャワの切符をすでに購入しているというのでびっくりしました。
 いくらプロダクションとはいえ、新入社員がそう休みをとれるのか、心配して聞くと、会社との交渉はこれからと言います。驚きましたが、清水先生は立派な方で、非常に参考になるいいお話を伺えよかったです。
 それで堀池さんですがその後もどうなったか心配していたのですが、会社は能の外国公演などあまり興味はなく、そんなに休みを取られても困る、ワルシャワ行きはよせというので会社を辞めちゃった、というのです。とにかく気が大きいというか、私ならせっかく見つけた会社辞められないと思うけど。でも彼女平気で、ワルシャワに行ってよかった、清水先生のおかげで、能の公演だけでなく舞台裏も写させてもらいとてもよかったと言います。暫くお父さんの会社でバイトをし、その後はある日本料理の店の「給仕」というのでまた驚いたのですが、普通の料理屋でなく、その道を究めた人で、予約の客だけ受け入れる、客も外国人が多いのでその説明もあり普通の「給仕」ではだめなのですね。堀池さんは、英語は相当うまいし(普通の会話は困らない)うってつけのようです。この店のこともインターネットで知り、この「料理人」の本を読み、ここならいけると思ったそうです。
 それから大分時がたち、どうなったかと思っていたら彼女からビデオが送られてきました。銕仙会の公演報告に使われたもので、二十一分に要領よくまとめられていました。ワルシャワの公演場になった昔の王宮の美しさに感心し、能とよくマッチするのに驚きました。
 能は「長崎のマリア」だけでなくほかの新作能も入るのですが,間狂言に向こうの方が向こうの言葉で語ったり、色々面白い演出があって面白かったです。また観客の方の感想もとっていましたが、好意的な感想が多かったです。原爆で汚れたマリア像の顔、新しく面を作ったのですが(今も能面を作りつづけている人いるのですね)いい面で、ポーランドもカトリックの方が多いし、原爆の恐ろしさも平和のこともよく理解されたようでした。
 ビデオに同封された手紙には、新しい職場は面白く、いろいろなことを教わり刺激的だとありました。楽しく働いているようで安心しました。堀池さんに今度お会いするのが楽しみです。 まだ報告すべきことあるのですが、いかになんでも長すぎるので次回に回します。

nice!(0)  コメント(0) 

対話随想余滴 №27 [核無き世界をめざして]

余滴27 関千枝子から中山士朗さまへ

           エッセイスト  関 千枝子

 この前、台風16号のこと書けなかったので、それを書きたいなど思っていたのですが、あの台風の悪夢が去らないうちのまた21号台風関連の大雨で千葉、茨城、福島など広い面で被害大変です。ことに千葉はこれでもかこれでもかというような災害です。でも十月になっての激しすぎるほどの台風、大雨、私には地球温暖化がもたらす現象としか考えられません。
そんなことを考えていましたら八千草薫さんが亡くなったという報道、続いて緒方貞子さんの訃報、なんだか惜しい方がどんどん亡くなられて残念です。
 
 でも、大分県立図書館の朗読会、よかったですね。私たちの「往復書簡」が朗読に耐えられるかどうか、面映ゆい気がしますが、原爆について、知ってもらい継承してもらうための一助になれば本当にうれしいことです。中山家のお風呂の温泉も春には復活できそうでよかったですね、この年になると、本当に身体を暖めることの大切さがわかります。
 実は;私、このあたりでとてもいい報告ができると思っていたのです。「決まった」という返事がないので、あきらめながらイライラしていたのですが。でも来た「知らせ」は、だめと決まったということで、本当にがっかりしています。
 実は八月の終わりに、某テレビ局の方(局の正社員でなく、製作ディレクター)から話があり、来年の夏、私の『広島第二県女二年西組』を再現ドラマにしたいということでした。それは、来年夏は大変。つまり夏はどのメディアも戦争と平和のことを考えるチャンスで、原爆関係の番組もこの時期に放送されることが多いのですが、来年は七十五年という節目の年なのにもかかわらず、こうした番組が全部姿を消す恐れがある。それは、来年のこの時期はオリンピックで、八月九日など閉会式直前で、マラソンの時期です。メディアはオリンピック一色となり、原爆関連の番組など吹き飛んでしまう。テレビの心ある人々はみなそれを心配しているそうです。
 彼女が言うには、この時期に大企画をぶつけてみたい。具体的にはオリンピックとパラリンピックの間に特番をぶつけたいというのです。そして、それは二年西組の再現ドラマを持ってきたいと。私はそれまでオリンピックが、原爆の日にちょうどぶつかるなど考えもせず、伺ってびっくりし、でも、とてもうれしく思ったのです。その女性ディレクターは大体の構成まで作っておられました。彼女は「再現ドラマ」を作ったこともあり、女学校の二年生、まだあどけない(戦時中で、体も小さい)女学生たち、戦中の軍国少女ではありますが、箸が転げてもおかしい年ごろ、その様を描きながら原爆で全滅の悲劇。そしてそれが今に伝わっている(西組の少女たちの甥や姪、一人助かった同級生が戦後中学の教師になり、原爆を生徒たちに伝えた、彼女の教え子たちは今も先生を偲ぶ会をやっている)
 話は繋がっていきます、その中に原爆開発の実記録の映像も入ったら‥‥。
 私は企画がほとんど決まっていると錯覚し、彼女と局の方を前に、いろいろ意見を言ってしまったのです。その後、この企画が正式に決まったわけでなく、彼女の頭の中にあるだけということが判りました。そして、私の言い方が少しまずかったのではないか、など思いましたが、でも、企画の通ることを願い、「再現ドラマ」をどうすれば安く、しかも事実にできるだけ近く作る方法を考えておりました。
 そのうち、予想もしなかった「二年西組」関連の嬉しい出来事が入ってきます。本当に今年、不思議なのですが。以前、劇団大阪の熊本一さんが、彼の指導するシニア劇団で、「二年西組」の朗読劇を意欲的に上演してくださっている話をお伝えしましたが、そうした劇団の一つの方からお手紙が来、十一月三日にある市の平和関係の催しで上演することになったとお知らせがあったのですが、なんとこの公演の中心になっている女性、とても熱心で、一人で広島に行き、関係する建物や登場する地を訪ねたのだそうです。何しろ広島は、昔とすっかり変わっていますので、なかなか場所が判らなかったり苦労されたようです。私、今度、あなたを案内しますよ、などと手紙を書いたのですが、もし、こんな「ご案内」が実現すれば、それも、再現ドラマの一節になるのではないか、など考えました。
 オリンピックと重なる怖さもわかってきました。この間、ラグビー人気が盛り上がる現象があったのですが、あの熱狂怖くなりました。私、スポーツ大好き人間であり、ラグビーはとても面白いスポーツだと思っています。しかし、日本ではラグビーはそれほどの人気スポーツではなかった。しかし、にわかファンが、日に日に増え、熱狂をもたらした。悪いとは言いません。しかし、あのラグビーの間、多くの方は現実の世のことを忘れ、ラグビー一色になってしまった。
 とにかく熱狂しやすい国民性です。これがオリンピックになったらどうなるか。七十五年節目の年なのに原爆のことなど吹っ飛んでしまうのではないか、ニュースの中のひとふし、いやもしかしたらニュース番組さえ吹っ飛んでしまうのではないか、という心配です。ラグビーのあと、世界陸上があったのですが、中継権を取ったTBSは夜のメインニュースも人気のサンデーモーニングも吹っ飛ばしてしまいました。あの、報道のTBSといわれたところが、ですよ!
 そんな状況に、オリンピックとパラリンピックの中間の時期に、素晴らしい原爆企画を立ててくださった、このディレクターの立派だと思いました。
 しかし、その後彼女から局の決定について何も言って来ません、催促しますと十月末になるという話。そのうち十一月になってしまい、だめかとあきらめながら、一縷の希望を持っていたのですが。ようやく来たお返事は企画は却下されたという事でした。
 原爆、核廃絶など「危険な」番組だからか、と思ったのですが。彼女のお話ではもっと恐ろしいことでした。
 原爆の話だからダメというのではない。あの企画は報道を通ったのだから。しかし編成で却下された。それは金の問題だと彼女は言うのです、
 今、日本の経済はリーマンショックの時より悪い、スポンサーも渋い。とても危ない状態、あの企画は金がかかる。ドラマは、金がかかるというのは皆が承知の事実、よほど視聴率よく安定したドラマでないとなかなか難しい。再現ドラマはその中でも金がかかる。特に戦争中の再現ドラマは金がかかる。
 「結局テレビは金がかからないバラエティのような番組ばかりになってしまうだろう」と彼女も悔しそうで、でも「こればかりはどうしようもない。例えば、彼女自身が全財産はたいて作ろうとしたところで、そんな金では到底できない。NHKでしか、こったドラマはできない時代が来るかも」と、なんとも怖いような残念な話でした。
 私も本当に残念ですが、これこそ何ともなりません、「大きな夢」がつぶれました。
 そんなとき、去年も行った川崎市中原区の「平和を願う原爆展」の方から緊急の依頼が来ました。この平和展は一週間もやっておりその中で三日、ヒバクシャの話を聞くコーナーがあり、私も昨年参加しているのですが、今年話をする被爆者の方が急に身内の方が亡くなり、長崎に帰ってしまわれた。とにかく急なことで、間に合わない、あなたピンチヒッターをやってくれと。
 この日、十七日、の日曜日、ちょうどあいているのですね。私、飛んでいきました。
 会場は武蔵小杉です。昔の感じではとても遠いのですが、今横須賀線で鎌倉逗子方面行に乗りますと品川から二つ目であっという間に武蔵小杉なのです。昔の横須賀線の感じですとどうして武蔵小杉か、全くぴんと来ませんが。
 今年の展示は、近頃有名になった、広島市立基町高校の生徒が描いた原爆の絵の展示です。私も何枚かの実物は見ていますが、こんなに多くの原画を見るのは初めてで、戦争を知らない若い高校生がここまで描けたことに感心しました。
 夏にヒロシマに行き学習した小学校六年生の広島原爆についての報告(大きな紙に手書きで)なかなかしっかりかけていまして若い人やるな!
 若い力を感じながら、私も一生懸命に語りました。前に紹介したアーサー・ビナードさんの紙芝居も演じられました。
 もう一つこの原爆展の実行委員会女性ばかりです。展示を貼ったりするの、力仕事で大変でしょうが、頑張っておられます。頼もしいです。
 そこへ、フランシスコ教皇の来日。明快な言葉で、核兵器廃絶を語り、「核抑止論」もはっきり否定、感動しました。安倍首相も教皇に会ったのですが、相変わらず核を持つ国との「橋渡し役」とか、従来の態度を変えず、本当に腹が立ちました。

nice!(1)  コメント(0) 

対話随想余滴 №26 [核無き世界をめざして]

余滴26 中山士朗から関千枝子様

                 作家  中山士朗

 はじめに、二つばかり報告事項があります。
 最初は、私たちの『往復書簡』の朗読会が、この十一月一日から大分県立図書館で開かれるという知らせがありました。これまで、内田はつみさんが由布市で絵本の朗読をしている人を集めて、朗読会を開いておられましたが、このたび『往復書簡』第一巻の関さんの「まえがき」を内田さんが読み、そのあと順次、二時間かけて交代で朗読がなされるそうです。そして、次回からは県立図書館でということになったようです。
 内田さんは作詞家でもあり、イベントの演出などもされています。出会いは、プランゲ文庫に、旧制広島一中の文芸誌に私の「風鈴」という随筆が載っていたことが発端ですが、朗読会で『往復書簡』を読むということは、戦争を知らない世代の人たちに、戦争とは何か、原爆とは何かを知ってもらうための勉強であり、また、大人としての教育でもあると内田さんは語っています。
   次は。我が家の温泉が出なくなったことを報告いたしましたが、その後温泉組合の方から連絡があり、少しずらして温泉を採掘したところ温泉が出ることが判明したとの報告がありました。しかし、新しく採掘するに際しては、所轄の官庁への申請手続きに、利用者全員の賛成として、それぞれの印鑑証明、住民票、議事録を提出しなければならないとの連絡がありました。しかし、書類が受理されても、審査に時間がかかり、来年の三月になってようやく温泉が使えるとこことでした。この採掘には、一千万円ほどの費用が掛かるようですが、積立金の残で処理できるとのことでした。温泉のある終の棲家で余生を送るという、私の夢がかなえられ、人安心しております。
 このように民間の温泉利用が厳しくなる一方で、ホテルが一棟百五十五室の増設をして温泉を多量に使用するという現状に、何ら制限措置が取られていない矛盾を感じずにはおられません。のっけから変な話になってしまい申し訳ありません。
 このたびのお手紙、「あまり長いので、少しちぢめようと思っていますが‥‥」という断り書きがありましたが、非常に楽しく読ませて頂きました。そして関さんの自由自在の文章に敬服しました。  
 ことに、主治医の小松大悟先生との術後のユーモラスな会話を中心に、私たち被爆者の高齢化した者の入浴に苦労する様子や、辰濃文庫訪問の際の話は、その文章に吸い込まれ、さすが新聞記者だった人の文章だと感心いたしました。
 殊に、辰濃さんが二万冊に及ぶ蔵書の多くに、筋を引いて読んでおられるという事実に、私は辰濃さんの誠実さを感ずるとともに、私のエッセイスト・クラブ賞の受賞式で、選考委員長として私の文章を褒めて下さったことが、思い出されてなりません。
 関さんが私たちの往復書簡で辰濃さんのことについて思いを取り交わしたその部分が、思いがけず本になった(『対話随想』)を贈呈するために、不自由な身体を推して辰濃文庫を訪れられたことを知り、頭が下がる思いです。
 そこで、私の『原爆亭折ふし』を発見され、「選考の時は、クラブで買った本で読むので筋をつけるはずはなく、きれいな本なので、選考が終わってから自分で買い求められたのかしら、とみますと小さな付箋が貼ってある箇所を見つけました。それは「水」の部分でした。これが、何を意味するのか私にはわかりかねますが」と書いておられますので、私自身、あらためて「水」を読み直した次第です。
 その終わりの部分で、
<私の家では、夜寝る前に薬缶に水が一杯入っているかどうか確かめることにしている。いつなんどき不慮の事態が発生するかもしれない、という危惧の念からである。それというのも、私に原爆の被爆体験があるからかもしれない。水を一杯飲めば死んでも本望、とその直後に思った。死者のすべてが、最後に天に向かって水を求めた。その声が今も私の耳に残っていて、あの時、腹いっぱい水を飲ませてやりたかったと思う。
 人間が死に臨んで訴えるのは水である。その貴重な水が、洗車のために惜しげもなく使用されている光景に出会うと、何となく気持ちがふさいでくる。ましてや、天然の水が缶や壜に詰められて販売される時代になってくると、人類の文化が進歩しているのか、それとも退歩しているのか、まったく分からなくなってくる。>
 と書いているのですが、この部分をご覧になったのではないでしょうか。ここまで書いてきた時、辰濃さんの温顔が偲ばれてきました。
 話を元に戻します。最近私たちの「往復書簡」を読んだ人たちから、関さんを「行動する人」として賞賛する声が多くなったように感じております。
 そして、最後に原ひろ子さんの訃報に、八十五歳、老衰とあったことに触れておられましたが、私もその記事を読みながら(最近では、新聞の訃報記事は必ず目を通し、亡くなった人の年齢、病名などを丹念に拾っております)、八十五歳の死は老衰なのかと思っていたところでした。
 そして、関さんが小松先生との会話の後で、「老婆は一日にしてならず」とうそぶかれる場面を想起し、私も、「老爺は一日にしてならず」とうそぶいた次第であります。
 それにしても、戦時中に中学生だった私たちは、人生二十年、お国のために、散ってこそ男子の本懐と教えられたものでした。けれども、私は、被爆しながら八十八の今日までよく生きたものだと思います。やがて十一月になりますが、すると私は八十九歳になり、ますます老爺として老けていかねばなりません。関さんの「八十八になる老衰せず、認知症にもならず。大事に一日一日生きなければと思います」の言葉通り、残された時間を大事に生きなければと思います。
 本論にもどりますが、私たちの「往復書簡」も、二〇一二年から始めて七年になります。その間、四冊の本にまとめることができましたが、読者から筆者の生活の匂いが感じられないという声もありましたが、私たちはそれぞれの私生活を語ることなく、対話して参りました。
 ところが、最近になってその後も交信をつづけております余滴では、関さんが大腿骨骨折で入院されたことをきっかけに、互いの日常生活に触れるようになり、互いをいっそう理解できるようになったのではないかと思っております。たまたま入浴時の難儀な話から始まったことなのですが、高齢化した被爆者の実態を伝えるものにもなったのではないかと思っております。
 そして、最後に四〇〇勝をはじめ、球界でのすべての記録をもつ故・金田正一さんについて書かれた文章に触れますと、改めて能楽をはじめとする、関さんの多様性の世界に触れたような気持ちでした。


nice!(1)  コメント(0) 

対話随想余滴 №25 [核無き世界をめざして]

余滴25  関千枝子から中山士朗様

            エッセイスト  関 千枝子

 私、慌て者でとんでもない読み違いをしていたようです。中山さんのお宅の温泉が出なくなって、洗面台の前に椅子を置き、シャワーを浴びると書いておられたので、浴槽に入れず、シャワーだけかと思い、それでは風邪をひいてしまう、大変だと、深刻に心配してしまいました。浴槽にはふつうのお湯なら出て、浴槽で身体を暖めることはできるのですね、安心しました。もちろん、日常的に温泉に入るのが素敵だと思われ、別府住まいを考えられた中山さんにとっては残念でしょうが。
 中山さんの方も思い違いがあるようです。私が浴槽に入れないのでシャワーを浴びているように思われているようですが、旅行先のホテルでは浴槽に入れないのでシャワーを浴びるしかないが、私の泊る安ホテルでは浴槽の外ではシャワーが使えず浴槽の中に入ってシャワーを浴びるしかない。浴槽に入れるかどうか心配だったのですが、うまくまたげて入れ、難関をクリアしたと申し上げたのです。
 私は浴槽に入っています。大腿骨骨折後の状況では、普通の浴槽では、浴槽が深すぎては入れず、もし入れたとしても、出ることは困難です。これは「手すり」くらいではどうにもなりません。我が家の浴槽は、もう十年くらい前に、「高齢者用」の対策は全部してもらっていまして浴槽も手すりがつけてあります。しかし、大腿骨骨折の場合、手すりや浴槽外シャワーチェアーくらいではどうにもなりません。私の場合、ボード方式でやっています。
 浴槽にボード(台)を置き、それに身体を乗せ、足をあげながら浴槽方面に移し、浴槽に入ります。浴槽に入れたらボードを外しボードとセットになっている小さな椅子(あらかじめ浴槽内に入れておきます)に腰かけ身体を暖めます。出るときまたボードを浴槽のふちにかけ、体を乗せ、足を持ち上げながら浴槽の外にでます。浴槽内の椅子など昔は考えたこともなかったのですが、浴槽に入り腰を下ろしてしまうと、浴槽の外に出られないのです。けがの前は想像もつかなかったことでした。旅行のときは、ボードや浴槽内椅子を持っていくことは不可能ですので(かなり重いです)、ホテルではシャワーということになったのです。
 大腿骨骨折の説明など中山さんには関係ないことを長々と書いて申し訳ありません。今、順調に生活しています。歩行はまだ杖だけではパワーがたりないので杖とサイドカートと両方使っていますが、退院した頃より倍くらい早く歩けるようになりました。これでバス、電車、新幹線、すべてOKうまくいっています。靴下をはくときもそれ専用の仕掛け(器具?)があるのですが、それなしでも穿けるようになりましたし、一番すごいのは、これは一生だめ、皮膚科医に切ってもらいなさいと生活治療士に言われた足の爪切りができるようになったことです。とにかく日々できることが増えるのはうれしく、介護ヘルパーさんに週一度来てもらっていますが、私のできないこと、浴槽の掃除、トイレの奥の方の掃除だけをしてもらっています。
私がしっかり外出しているのを危ながる人もいますが、外出してある程度歩く方が健康上もよろしいようです。私が大腿骨骨折したので家に閉じこもりきりになると心配していた人は、がっかりしている?ようですが。
 これだけ元気になっているのは、手術してくださった先生のおかげで、よき先生にめぐり合えたことを感謝しています。
 我が主治医・小松大悟先生は、三月一日私が転倒した時の晩、新宿メディカルセンター(昔の厚生年金病院)の救急センターの当直でした。この日私は友人の息子さんのピアノコンサートに行っていたのですが、もとより転倒など思いもよらぬこと。会場に近いこの病院に救急車で担ぎ込まれたのですが、大腿骨骨折など夢にも思いませんでした。
 即入院となり、翌朝小松先生が来られ、当直をしていた私があなたの手術をすることになった。手術は三月七日と言われました。その時、私はまだ事の重大さが判らず、困ったと思いました。三月五日から八日まで日程が込んでいて、特に三月八日は国際女性デーで、神奈川の大会での講演することになっており、女性デー関係の会は久し振りで張り切っていたのです。どうしても行かなければならない会がある、七日の手術を遅らすわけにはいきませんか、と頼んだのです。先生は呆れてしまい、どうやって行くのですか?「車椅子にのり車で‥‥」、と言いましたら先生ますます呆れて、「不可能ですよ。今のあなたの状態では車いすに乗るのも無理、寝台車でも乗せるのは三人がかりですよ。」こんな問答をしているうちでも、ちょっと体を動かしても痛い。身動きできない状況ということがだんだんわかってきて、結局、「あきらめる」ことにしたのですが。
 でも、小松先生はこの騒ぎで、私のことを「変な患者」と思われたのでしょう。病院に娘が来た時、手術の説明をしてくださったのですが、従来の手術では術後、前かがみが不可能で、普通の生活は無理。大きな人工関節を入れる。これだとかなり前屈もできる。手術が大変だから皆、あまりこれをやりたがらないのだが、何しろ、元気な患者さんだから。というふうな説明でした。この整形の病室、女性の高齢者ばかりですが、小松先生いわく、元気のない人ばかりで、私のような元気な年寄りは珍しい。だからあなたには、この人工関節で手術したい、というふうなお話でした、娘も、はあ、元気だけは保証します、みたいなこと言っていましたが。
 でも私、今、この先生にめぐりあってよかったと思っています。前屈ができないのは不便で、床の物を拾うこともできない、髪を洗うのに美容院方式の仰向けでなければだめ、大変です。歩くのも、今のようにはいかないと思います。
 この先生、言いたい放題言われてとても面白い方です。術後、回診に来られて「元気ですか」、と聞かれるので、元気ですと、大いに元気を誇示しますと「あなたね、十年前だったら、あのくらい転んだところで大腿骨骨折はしませんよ」「それはつまり元気ぶってもババアはババアということですか?」「まあそういうこと」で大笑いです。八七歳はババアには違いないので,「老婆は一日にしてならず」なんて威張っていますが。
 退院後の検診の時、レントゲン写真で、手術の個所を見ましたが、大きな人工関節でびっくりしました。ずいぶん立派ですねと感心。記念にとお願いして、レントゲン写真を頂いてしまいました。病院からの資料を読み返してみても、要するに大腿骨骨折というのは痛みをとるための物のようです。認知症でも、年取ってやる気が全くない人でも、痛みは感じるから何とかしなければなりません。しかし、これでは一人暮らしは無理、よほど家族の介護がいいか、それがだめなら、施設に行くしかないでしょう。
 とにかく、一人暮らしでなんとかなり、これだけ活動できるのは、小松先生とめぐり合え、よい手術方法をとっていただいたためで、私は運が良かったと思います。退院後検診でも先生がまず言われるのは「元気?ちゃんと仕事してる?」「してます、金が入らないから仕事と言えないかもしれないけど」「ボランティア?」「ボランティアではないけれど」「つまり活動しているわけですね?」ということで、先生がどのくらい私のやっていることの中身を察しておられるかわかりませんが、やる気があって「大ババア」になっても「活動」しようとする者には、できる限りのことをしてやろうというお気持ちなのだろうと思い感謝です。私に使われている人工関節と同じものを見せていただきましたが、大きくてびっくり。あれが私の体の中に入っていると思うと、うーん、です。

 ごめんなさい、つまらないことばかり書いてしまいました。
 九月二四日,辰濃和男文庫に行ってまいりました。朝日新聞のもと天声人語氏、辰濃さんが亡くなられてもう二年です。私たちの往復書簡でも辰濃さんのことについて思いを取り交わした。その部分の書簡が思いがけず本になった(対話随想)。その本を差し上げなければと思っていた今年二月、朝日新聞東京版で思いがけず、辰濃文庫のことを知ったのです。その記事で辰濃さんが亡くなられてから、辰濃さんの家は取り壊され、奥様は施設に入られた、そのとき、たくさんの書籍をどうするか困ったが、辰濃さんの友人の佐藤清さんの手で、東松山市(埼玉県)の古い蔵を改造した家に収納され、辰濃文庫となっていることを知りました。佐藤清さんに電話し、もう少し暖かくなったら行きますと言っていた、その矢先、私が骨折してしまったのです。三カ月病院に塩漬けになり、退院して佐藤さんに連絡しなければと思ったのですが、取りおいていたはずの新聞の記事がどこに行ったかなかなか見当たらず、困ってしまい、結局図書館で二月の朝日新聞を探して、佐藤さんの電話番号を見つけ、連絡しました。
 遅くなった訳を話し、お詫びし八月に丸木美術館に行けたので、大丈夫行けそうです、といったのですが、東松山駅まで車で迎えに行ってあげるといわれます。お言葉に甘えることにしました。
 車で十数分かかりました。森の中のようなところに、古い建物があり、「エコビレッジ東松山」という家です。自然の中でお茶を飲んだり食事をしたりという所らしく、食事を作られているのは佐藤夫人で、筋金入りベジタリアンです。
 佐藤さんは建築家です。建築家でも障害者の建築とか、そういうことに興味を持つ、少々変わった建築家です。こんな方ですから辰濃さんと仲が良かったらしいです。
本好きの辰濃さんは、蔵書が2万冊にもなり家が傾くというか扉の開けたてが難しくなったので、佐藤さんが家を直してあげたのだそうです。
 辰濃さんが亡くなられてからまず困ったのが二万冊の本、そこで佐藤さんが思いついたのがこの「エコビレッジ」の主屋の傍に立っている蔵、これも本当に古いものですが、この蔵に少し手を入れて文庫にしようという案でした。
 蔵の中に入ってみますと壁にぎっしりと書棚、本の山。佐藤さんが辰濃さんのご長男と相談し、適当に種分けして並べたけれども、ということでした。ここにあるのは一万冊くらい、まだ整理がつかなくて、藏の屋根裏部分に置いてあるのもあり、ご長男が処分されたものもあり、ということでした。
 とにかく辰濃さんは本をよく読んだ。自分で買ったものだけではなく人にもらったものもあるでしょうが、読まずにそのままということがない人だったようです。それに本を読むと筋をつけて読む人で…と佐藤さんが言っておられましたが、本当に本を開けて見ます行の脇に筋をつけてあるところがいっぱいあります。精読されたと言う事でしょうね。
 私の『広島第二県女二年西組』もありました!第一版です。開けて見たら、筋がいっぱいあってうれしくなりました。この本は辰濃さんの「天声人語」に取り上げられ、それで大変よく売れたのですが、辰濃さんは筋をひきながら、どの部分を、あの短いコラムに活かすか考えておられたのだと思うと胸が熱くなりました。
 中山さんの『原爆亭折ふし』も見つけました。これがエッセイストクラブの賞の候補になった時、辰濃さんはもう「天声人語」を卒業、クラブの理事長で、賞の選考委員もされていたはずです。選考の時はクラブで買った本で読むので、筋はつけるはずはありません。きれいな本なので、選考が終わってから自分で買い求められたのかしら、とみますと小さな付箋が貼ってある箇所を見つけました。それは「水」の部分でした。これが何を意味するのか私にはわかりかねますが。
 辰濃さんの本は多種多様、間口が広いのですが、水上勉の本が多いのが目立ちました。辰濃さんと仲がよかったようです。本田勝一さんとか、朝日の記者の作品もたくさんありました。もちろん、辰濃さんらしく、自然に関する本もいっぱいありました。
 そうそう、この日のいちばんの目的は「対話随想」の贈呈です。二冊持っていきました。辰濃さんのことを書いた個所には付箋をつけておきました。一冊は佐藤さんが辰濃夫人に差し上げてくださるそうで、もう一冊は多分辰濃文庫においてくださると思いますが。
 とにかく藏は風情がありますが、不便な森の中、人がそう来るわけではなさそうです。佐藤さんのお話では朝日の若い記者や割合近所に住んでいるに日経の記者は来てくれたが、地域の方はあまり関心がないようで、と少し残念そうでした。東武東上線の東松山の先にある小川町の女性の図書館員が来て、図書館のニュースに書いてくださったそうです。小川町の図書館はなかなかユニークで、和紙の町らしい風情もありとても素敵な女性図書館員がおられました。あの方が来られたのかしら、など想像してしまいました。
でも、数多くの人が来るということではなさそうで、少し残念ではあります。でも、かく言う私も、この後この文庫に二度と来る機会があるかどうか。何しろ我が家から三時間余りかかりますから。
 お腹がすいたので佐藤夫人手作りの食事を食べました。本格的なベジタブル食、大変おいしかったです。でも、このエコビレッジも、そんなに多くの人が来るとは思えません。佐藤夫妻の「思い」の場のようで、その中に辰濃さんの本が生き残っているようです。

 ここまで書いてまた長すぎて余滴25はこれで終わりにしようと思ったら、テレビで金田正一の死を報じていました。かねやん、わが世代の英雄、寂しく思いながら、あれだけ元気、身体能力抜群、そして健康にもひどく気を使っていた人が死ぬ、私より若いくせに!、人にはやはり寿命というものがあるものかと思って、新聞を広げたら原ひろ子さんの死(10月7日)が報じられていました。女性学に詳しく御茶ノ水女子大のジェンダー研究所の所長もした方です。八十五歳、老衰。彼女こんなに若かったの!老衰とは何!

 私も中山さんも生かされているのかもしれません。八十八になり老衰せず、認知症にもならず。大事に一日一日生きないと、と思います。

 ここまで書いて、後はまたゆるゆると思っていましたら台風19号のあの大被害です。次の号で書くことになるかもしれません。


nice!(1)  コメント(0) 

対話随想余滴 №24 [核無き世界をめざして]

余滴24    中山士朗から関千枝子様

                 作家  中山士朗

 その後、お身体の具合如何かと案じています。
 離れた土地に住んでおりますと、お見舞いにも行けず申し訳ありません。最近では思いもかけぬことばかりが発生し、日々その対応に追われている有様です。
 その一例が、温泉が出なくなったことです。関さんのお手紙に、浴槽に入れないのでシャワーを浴びて おられる話がありましたが、その時、我が家の温泉で療養されてはどうかとふと思ったことでした。なぜならば、家を建てる時、女性の設計士の方が股関節を手術した妻のために浴室にも手すりをつける設計が施されていたからです。
 ところが、その温泉が突然出なくなったのです。温泉は、地下二〇〇メートルの温泉から汲み上げられて給湯タンクに貯蔵し、各家庭に配られる仕組みになっているのですが、それが突然不可能になったのです。パイプの一部が腐食しているということで、一回り太いパイプと交換して入れ替えたところ、源泉が消え失せていたのだそうです。最近、温泉の掘削が厳しくなりましたが、一〇〇メートル以内での再掘は許可されているのだそうです。けれども、その範囲内に源泉はなかったのです。
 温泉のある終の棲家と思って、東京から移住して来た私ですが、自然の力の前には諦めるより仕方がないということなのでしょう、入浴は、身体を動かすことが不自由になった高齢者にとっては、唯一の心の安らぎを得る場所ではないでしょうか。私は、浴室の洗面台の前に椅子を置き、浴槽で身体を暖めては座ってシャワーを浴びるようにしております。しかし、若い頃、自分がそのような姿で入浴するようになろうとは、夢にも思ったことはありませんでした。
 温泉が出なくなった原因は、近年、新しく豪華なホテルが建設され、また既存のホテルの屋上に、海が展望できる棚湯と称する露天風呂が開設されるなど、常時、多量の温泉が汲み上げられ、消費されるため、その付近一帯で温泉が出なくなったという話も聞いております、
 このたびの台風15号による千葉県下の停電、断水の被害を思うと、温泉が出なくなったぐらいで不平を言ってはいけないと思いました。
 お手紙を読みながら、被爆直後の広島での電気、水道の状況を鮮明に思い出しました。
停電が続いた暫くは、夜になると溶かした蝋石の中に布切れで繕った芯を浸して明かりとし、断水中は井戸水を組んで使用したことなぞが記憶によみがえってきました。
 そして、関さんが毎日新聞社に入社された時、最初の赴任地が千葉だったというのも何かご縁があったのだろうと想像しました。
 そのようなことを考えていた折しも、杵築市熊野に住んでおられる池尾照美さんという方から葉書が届き、末尾にご自分の近況が書き添えられていました。池尾さんについては、以前に「往復書簡」でご紹介したことがありますが、私が大分合同新聞社に書いたエッセイを読んで手紙をくださった人です。彼女は東京に在住の頃、私が住んでいた杉並区八成の同じ借家に住んでいたという人です。杵築に移住してこられ、「風の空間」という和食の店を開いておられました。
 葉書には、
 私も六月二十五日に左足かかとを骨折して三カ月余り、不自由な毎日でした。九月に入り、松葉杖を返上、そして一週間程毎にリハビリ杖も返上。まだうまくは歩けませんが、日常生活が戻りつつあります。
 と書かれていました。
 まさに「老人は転ぶな、風邪ひくな」というある人の言葉が、身に沁みて感じられる今日この頃です。
 このたびのお手紙には、黒川万千代さんにまつわるアンネ・フランクの薔薇、広島の焼け跡に残った一株のハマユウの話は感動的でした。関さんにとっては姉上に当たられる黒川万千代さんには『原爆の碑』(1976年8月6日発行)という立派な著があります。
 その「はじめに」の中で黒川さんは、
      慰霊碑――広島の心、と題して
 ヒロシマの原爆の慰霊塔は百以上もある。平和公園の有名な碑から、郊外の空地にひっそりと建てられた、忘れられた碑まで――その一つ一つに、残されたものの悲しみと憤りがこめられている。三十年たっても消えぬ心の痛みがこめられている。
 ここ数年、原爆慰霊碑の写真を撮るために、仕事の合間を縫って、東京から広島へ通い続けた。多くの慰霊碑に、いつ行ってもきれいに掃き清められ、花が添えてあった。被災の地に建てられた慰霊碑で、その周りに関係者は、誰も住んでいないのに――。頼まれたわけでもないのに近所の人たちが毎日清掃し、花を捧げているのだった。「これが広島の心ですよ」と言葉少なに語って、そっと花を置く人たちだった。
 と書かれています。
 これを読んだ人たちは、広島平和公園のアンネ・フランクの薔薇、広島市からハマユウ三株をわけてもらい、一九八八年、ロシア正教会一千年記念式典に贈ったのは黒川さんを介してのことに他ならないことは、容易に察することができます。まさに、広島の心と言うべきでしょう。
 そして、その手紙の続きには、ヒロシマ軒として沼田さんの青桐のことが書かれていましたが、頃を同じくして、一〇月一日の朝日新聞・第二大分版に、広島長崎の中間点である福岡県上毛町で平和を願って植樹の記念行事があったことが報告されていました。
 新聞には、次のように報じられていました。

 被爆後も枯れずにいた両市の樹木の種や苗から育てたクロガネモチ、イチョウ、クスノキ等の「被爆樹木」が、町内の大池公園に植樹された。町と広島東南ロータリークラブ、長崎南ロータリークラブが協力し、「未来へつなぐ平和の架け橋事業」として準備を進めてきた。
 被爆樹木の植樹は午前中にあった。公園内の池の東岸に設けた『広島の丘』と西岸に設けた「長崎の丘」に、坪根秀介町長、両ロータリークラブ代表、地元中高校生らが植えた。その後モニュメントを除幕した。
 式典もあり、約三〇〇人が出席した坪根町長が「中間点の町として平和を発信する拠点となり、すべての町民が核兵器の廃絶と平和な世界の実現を誓う」と、平和宣言を読み上げた。
 松井一実・広島市長と田上富久・長崎市長も出席。

 記事には、「広島の丘」、「長崎の丘」で植樹する男女・中学生の写真が掲載されていました。こうした記事を読みますと、残された日の少ない私たちには、次世代に平和が繋がれてゆく光景が浮かび上がってきます。
 このたびのお手紙によって、関さんの絶えざる平和への思いと行動を知り、生きることの何かを教えられたような気がしております。そして調布の町の話、一中時代の友人の消息を知り、歳月を経ることの速さを覚えずにはいられません。

nice!(1)  コメント(0) 

対話随想余滴 №23 [核無き世界をめざして]

  余滴23  関千枝子から中山士朗様

                 エッセイスト  関 千枝子
 
 お元気になられたようで、安心いたしました。とにかくこの夏の暑さ、天候不順、高齢者の体にはよくないようで、気をつけなければなりません。
 この前は、台風15号の影響を心配してくださり電話を頂きましたのに、そっけない応対ですみませんでした。実はあの時、全国ニュースではよくわからなかったと思いますが、千葉の酷さがもうわかっていまして、ちょっと、カリカリしていました。とにかく、台風後十日以上たってもまだ停電だの断水など、尋常ではありません。
 考えてみますと、あの原爆の後、停電は続きました。私のいた宇品など焼けてない地区で、電気が戻ったのは八月十日ごろだったと思います。しかし当時、電気は、照明以外は、ラジオ、アイロン、扇風機くらい、そんなものもない家が多かったかもしれません。今、電気がなければどういうことになるか。本当に生活は何一つできないですね。
 それに、あの時の広島で凄かったのは、水道が止まらなかったことです。私たち、これを当たり前のように思っていましたが、水道が止まると大変な事は、九月の枕崎台風の時わかりました。(枕崎台風の後、宇品では水が引くまで、半日くらい水道が止まり、翠町の井戸のある家まで水を汲みに行ったこと覚えています)。宇品地区は井戸が掘れないところですから(埋立地ですから)、あの原爆の時水が止まったらどんなことになったか。水道関係の人びとの大変な苦労があったと聞きましたが、すごいことでした。
 それからはるかに生活などの技術は進んでいるはずなのに、台風15号の被害の酷さ、対応の悪さ。とにかく千葉県や政府の動きがおそく、四,五日経ってから。政府は内閣改造でそれどころではなかったみたい。事態が伝わらない情報手段の途絶えもあったでしょうが。千葉だけでなく、東京都でも伊豆大島も酷かったのですが、安倍首相が動いたのはつい先日。ほんとに困ったものです。大島だの、千葉でも南の方(はずれ)は、無視されている感じがします。電柱が倒れても山の中だから気が付かない?腹立たしいです。
 私、毎日新聞に入って最初に配属されたのが千葉支局でした。ですから、なじみのある地名も多く、本当に腹立たしいです。
 ここまで書いてきて今日の新聞(九月二十三日)を見ましたら、屋根瓦が飛ぶ(雨漏りで家がびしょびしょになっても)、外壁が崩れガラスが割れても一部損傷ということなのだそうで、国の補助は出ないのだそうです。腹が立ってきました。国民の安全を叫び、軍備にものすごい金をつかい、トランプにお世辞を使って入りもしないトウモロコシを買う金を、こういうことの支援に使ってもらいたいのに!
 
 なんだか予定していなかったことを。長々と書いてしまいました。

 実は前の余滴二十一で、スぺ-スの関係で書けなかったことの補足を。
 村上俊文さんの会で、参加者から思いがけない質問があったのです。それは、平和記念公園の中に、アンネ・フランクの形見の薔薇が咲いている。それを寄贈したのは京都府綾部の方ですが、それを仲介したのはヒバクシャという記事がある、このヒバクシャは、あなたの姉の黒川万千代さんではないか、という質問です。多分それは黒川のことだと思うと言い、姉がアンネ・フランクの研究に没頭し、あちこちに、アンネの薔薇を広げる運動をしていることを話しました。そうしたら、この方は植物に興味を持っておられる方らしく、ハマユウの話まで出てき、さまざまな新聞等のコピーまでいただきました。
 ハマユウというのは、広島市比治山で被爆した尾島良平さんという元兵士が、焼け跡に緑の葉を出しているハマユウを発見、鎌倉の自宅に持ち帰り栽培。神奈川県の被団協のシンボルのようになっていたのですが、一九六九年広島市に寄贈。このハマユウを、一九八八年ロシア正教会一千年記念式典に招待された黒川が。広島市に頼み、三株分けてもらい、ロシアに贈ったのです。そんな昔の記録を読み、薔薇も黒川に違いないと思いました。
このごろ、ヒロシマの木と言えば沼田さんの青桐ばかりでハマユウのことなど言う人もなく、私もすっかり忘れていたのでびっくりしました。それで、いろいろ説明し、黒川が八年前に急性白血病で死んだことなども言うことになってしまいました。
この方、村上さんとは知り合いではなく、集会のチラシをどこかで見て参加されたようです。
いろいろな方がいろいろな方面からヒロシマ、原爆に拘っておられることを知りました。

 広島から帰ってからもいろいろごちゃごちゃあったのですが、八月十一日に都下調布市に行ったことを報告いたします。調布市は「非核平和都市宣言」をしている都市で、今年はその三二回目を記念する集いです、この集いの実行委員に、画家の津田櫓冬さんがおられまして、これもずいぶん前、丸岡秀子さんを偲ぶ会をやりまして、会の中心の一人津田さんと知り合いました。彼は長く調布の市民だったのですが、今住まいは移されていますが、まだ調布で活躍中です。津田さんから連絡があり、今年は、私の講演で行くとお誘いがありました。この平和の集い大掛かりで、パネル展示などもあり、講演の会場も広く百人くらいは入れそうで緊張しました。一生懸命に話しましたが、皆様とても喜んでくださり、本もよく売れました。九月に入ってから連絡があったのですが、この日の報告を冊子になさるそうでとても喜んでいます。
 私も骨折後,調布に行くのは初めてで、時間通り行けるかどうかかなり緊張して行ったのですが、とにかく、私も、元気を頂けた日でした。
 八月一七日は、丸木美術館に行き、アーサー・ビナードさんの原爆紙芝居を見、アーサーさんのこの紙芝居にかける思いを聞きました。
 アーサー・ビナードさんの紙芝居、なぜ?と思ったのですが、彼が、紙芝居という日本独自の文化に以前から非常に興味を持っておられたことを知り、単なる思い付きで始められたのでないことがわかりました。彼はこの紙芝居を作るのに数年がかりで、すでに二度試作品を作り上げ、これが三作目であることを知り、まずこれに感動してしまいました。しかし、なぜ原爆の紙芝居に丸木さんの作品からなのか、そのあたりもっと詳しく知りたかったし、丸木美術館の学芸員岡村さんが質問してくださるというので、期待していたのですが、アーサー・ビナードさん、よくしゃべる方で、話し出すと止まらず、岡村さんの質問も二つくらいで時間が来てしまいました。私の少しの質問、十一月に、例の竹内さんの会で、ビナードさんを招き話を聞くので、行ってみようかと思います。
 それにして遠い、不便としかいいようのない丸木美術館まで(私は二時間半以上かかって行きました)大勢の参加者があったのには驚きました。予約を取り六〇人で締め切ったのですが、満員で、断られたれた方もあったようです。帰りのタクシーで(丸木美術館は駅まで遠くてとても歩けません)一緒に乗り合わせた方は神戸から来たとのこと、遠方から来た方は多かったようで、すごい人気ですね。驚きました。
 
 このほかにも、とてもいいプランがあり、報告ができると思ったのですが、それはまだいろいろハードルがあり、報告に至りません。次回には何とかなると思います。
 ここまで書いたところで調布から報告集のゲラや、さまざま資料などが届いたのですが、驚きました。調布には、広島一中、国泰寺高校関係者が多いそうです。今年も私の講演会とは別に八月一日から八日まで原爆展をやったらしいのですが、語り部四人のうち三人が国泰寺高校ゆかりの方だったそうです。こうした情報を教えてくださったのは調布市民でこれも中山さんと同期の丸本規雄さんで、丸本さんは覚えておられると、思いますが。調布市の被団協の会長も国泰寺高校の九回生だそうです。なんだか縁があるのですね。あんまり驚いたので、付け加えました。
もうひとつつけくわえ 千葉で問題になった一部損壊、今回は特例措置で国の援助があるそうです。災害の規模、激しさが変わっている今、国の規定等、見直すべきですね。

nice!(1)  コメント(0) 

対話随想余滴 №22 [核無き世界をめざして]

    余滴22 中山士朗かから千枝子さま

                  作家  中山士朗

 このたびも休筆してしまい、申し訳ありませんでした。私たちの往復書簡は平成12年から始まりましたが、その間、急病入院し、三度も関さんにご迷惑をかけてしまいました。
 四度目のこのたびは、上行結腸がんからの大量出血による貧血を生じたもので、検査を受けて点滴、輸血するという事態になったものでした。ご心配かけてもうしわけありませんでした。
 報告からがた、自分の病気のことから書き始めてしまいましたが、 関さんの前回からのお手紙を読みながら、大腿骨骨折の手術後のリハビリ生活がいかに苦痛を伴うものかを知りました。けれども、その苦痛を克服しながら、ご自分の生活を貫いておられる様子を拝見し、敬服しております。そして、その何分の一かの精神力が私にあればと思ったりしています。また、お手紙によると狩野さんも大腿骨骨折で目下入院加療中と聞きましたが、これは単なる偶然ではなく。被爆の影響によるものではないでしょうか。関さんは広島で被爆、狩野さんは長崎で被爆されております。関さんの姉上様がいつか、「七十年経った今も、仇をなす」と語っておられた言葉が実感として迫ってきます。私自身のがんについても、また、被爆直後に、私を捜し歩いた母と姉が後年になって、大腸がんに罹ったことを思えば、私が現在癌に侵されていることに、何ら不思議はありません。被爆直後、火傷の治療を受けた医師から、「被爆者の骨は脆くなっていますから、転ばないように気をつけてください」と言われたことが、今、あらためて思い出されます。
 先ごろ届いた、日本エッセイストクラブの会報を読んでいましたら、ある人の近況報告に、腰痛と肺炎にかかった報告の後で、
  老人は転ぶな、風邪ひくな
 と、のたもうておられましたが、まさにその通りだと痛感した次第です。
 雑談になってしまい、申し訳ありません。
 本論の返事に入りますが、まずもって、関さんの行動範囲の広さ、そして、私の知らない世界で活躍している人々との文化交流の様子が伝えられていて、感銘を覚えました。特にポーランドで、長崎原爆にちなむ多田富雄さん原作の新作能が公演され、その折に、ウイーン、パリ。ワルシャワで今の世界の人々に「平和」について訴えるというお話は、能について無知な私にも、感動を与えます。
 そして、お手紙の末尾に書かれている村上俊文さんのこと、食事会で「二年西組」の忘れられない二人のクラスメートの甥と姪の方に会われたというお話は、単なる縁というものを超えた、感動的な出会いを感じずにはいられませんでした。
 順番が後先になってしまいましたが、弁護士会館でのお話について書いてみたいと思っています。
この八月四日に弁護士会館で開催された。平岡敬・元広島市長にTBSの金平茂紀さんが聞く「ヒロシマがヒロシマでなくなる日」という対談の内容が紹介されていましたが、身近に、感じたあの時代の熱っぽい空気が伝わってくるのを覚えました。
 TBSの金平記者については、私たちの「対話随想」二〇一七年八月の「証言の夏、地獄で見た夏」(11)で、関さんが書いておられることを思い出しました。それには、次のように語っておられました。
 
 帰ってから、十九日、土曜日、TBSの報道特集で中国放送の秋信記者のことを取り上げていてびっくりしました。彼とは中山さんの番組「鶴」の取材のころ、初めてお会いしたのですが、その後、昭和天皇への原爆についての鋭い質問に感心していました。この番組では原爆による小頭児についての特集でしたが、この問題を最初に取り上げたのは、秋信さんだったのですね。驚きました。このことをしっかり取り上げ、この時期の原爆報道にされたTBSの金平記者に感動しました。

 とありました。
 この文章の中に出てくる「鶴」は、一九八五年に中国放送が、被爆四十周年報道特別番組として制作されたものでした。これは、広島一中遺族会、広島一中同窓会、広島大学医学部の協力を得て、『星は見ている』(広島一中遺族会編)のなかから、十六人の遺族を選び、日本各地を訪ねるという番組内容でした。広島一中の「追憶の碑」には、建物疎開作業、そのほか学校防衛の任に当たっていて被爆死した、一年二八七名、三年五五名。そのほか九名の名前が刻まれています。
 「鶴」の制作が企画されたころ、TBSには、早稲田大学文学部露文科で一緒だった萩元晴彦君がプロヂューサーとして在籍しており、私と秋信さんは連れだって挨拶に行ったことがあります。また、TBSでは、「鶴」の朗読を樫山文枝さんにお願いしていた関係もあって、録音室をお借りして、樫山さん、秋信さん、私の三人は採録のために長時間こもった思い出があります。このことは、私たちの「ヒロシマ往復書簡」(第ⅲ集)に詳しく書いていますが、秋信さんと一緒に出水市荒崎地区を訪れ、鶴がシベリアに帰って行く光景を撮影し、それを背景に樫山さんに朗読してもらったのです。

<タイトル前のプロローグから>
昭和二十年八月六日、広島市に原子爆弾が投下されて四十年の歳月が経った。
その日、私たちの前から不意に姿を消してしまった大勢の学友は、今どこにいるのだろうか。未だに子どもの死に場所も判明せず、遺骨の一片もない遺族は、今もあの日を生き続けているにちがいない。その当時、事実として伝えられ、伝えられた方も事実として受け止め、深くは確かめようとはしなかった。それが死者に対する礼儀のように思われた。
 しかし、四十年経った現在、その事実を深く確かめてゆくと、曖昧な部分が残る、
 その曖昧な部分を明確にすることが死者へのくようになるのではないだろうか。
                  (出水に向かう車中)

 鶴が舞う姿は美しい。しかし、その鳴き声は決して美しいものではなく、野性的な声の中に、一抹の哀切がこもっていた。あの日の死者たちは、忽然とこの地上から消えていった。
 儀式があり、人々が哀しむ中で別れを告げたのではなかった。醜く焼け爛れた手を虚空に差しのべ、水を求めながら、誰からも気づかれずに死んでいった幾千、幾万の執念の声を聞いたように思った。その声の中に、亡くなった同級生の声も混じっていた。
                  (大空に向かって鳴く鶴)

 引用が重複しましたが、関さんのお手紙を読んでいるうちに、「鶴」制作中に中国放送を訪れた際、秋信さんに紹介されて平岡さん(当時・専務)にお目にかかった日のことを思い出し、その頃の熱気のようなものに触れたかったのかもしれません。
 いみじくも、対談の内容が「ヒロシマがヒロシマでなくなる日」とあるのも、むべなるかなと思いました。平岡さんの<原爆を落とした米国への責任追及>、怒りを忘れるな、日本はアジアへの謝罪を忘れるな、アメリカの核の傘の下で核廃絶を言うのは偽善だ、和解のためには加害者の謝罪が必要、核廃絶し、貧困や差別のない世界を作ること>の論旨は素晴らしい内容だと思いました。

nice!(1)  コメント(0) 

対話随想余滴 №21 [核無き世界をめざして]

余滴㉑ 関千枝子から中山士朗様

            エッセイスト  関 千枝子

 体調崩されて入院されていたとは、全く知りませんでした。退院されたそうですが、お電話のお声はお元気そうでしたが、その後体調いかがですか?とにかく気候がおかしく、暑く、時折豪雨、身体にいいわけありませんので、ご無理なさらないように。

 というわけで21は、本来、中山さんからの番ですが、一回休みということで、関の報告を続けます。

 八月四日から広島に入りました。これは前から予定していたことで、すでに二月に宿はとっているのですが、その後、大腿骨骨折があり、少し緊張しました。杖とサイドカートと、二つを使っての歩行、大分うまくなってきて心配しませんでしたが、ホテルが心配でした。つまり入浴がうまくできるかということです。もちろんバスタブに入っての入浴はできません。バスタブに入り横たわってしまうと出られなくなるので。だからシャワーで体を洗い流すしかないのですが、安物ホテルなのでバスタブの中に入らないとシャワーを使えません。うまく入れるかどうか。心配でした。
 でも、バスタブにうまく入れ、(私の足が以前より高く上がることができた、リハビリの成果が出ているわけです)問題はクリアしました。三泊四日の旅で着替えが三日分いります。去年までは、途中でホテルの洗濯機で洗っていたのですが、洗濯物を洗濯機から出す時が大変で、低い位置の物をつかみだす道具(アイアンハンド)がいるのですが、これを持っていくには少し大きすぎる。やむなく、軽いリュックを買いました。また、靴下をはくのが大変で、これも道具がいるのです。元気ならいらないものがいり、やれやれですが、まあ何とか自分で持てる量に収まりました。
 こんな格好で四日の朝早く新幹線で広島着。まず、弁護士会館に向かいます。ここで、平岡敬・元広島市長にTBSの金平茂紀さんが聞く「ヒロシマがヒロシマでなくなる日」という対談を聞きに行く、これが今回の広島旅行の最初です。
 二時間余りのこの会をすべて書くというわけにもいきませんが、内容の濃い会でした。金平さんは「これは僕の取材、それをオープンにする」ということで、徹底的に聞き手に徹しておられました。私も知らないことばかりで、平岡さんが小学生の時、ソウル(当時の京城)におられ、京城中学に学んだこと、京城帝大予科の時、学徒動員され、敗戦を迎える。京城中学のころは学校に朝鮮人はおらず、ソウルにおりながら朝鮮人の友はなく、大学予科の時朝鮮人の友と知り合った。敗戦後、旧制広島高校に入り早稲田大学へ。卒業して中国新聞社記者になった。
 中国新聞時代、在韓ヒバクシャに光を当てた記事を書いたのは有名ですが、「朝鮮への郷愁もあり傲慢な日本人への怒りもあった。戦前の創氏改名、神社参拝の強制など朝鮮人を日本人にしてやる」と言った思い上がり。慰安婦、徴用工、ヒバクシャ問題にしても日本人の朝鮮人への差別感が根強くあり、村山談話、河野談話などで一応謝ったが、安倍首相は認めていない。
 唯一の被爆国など言いながら韓国人被爆者問題に知らん顔をしているのはおかしいと、中国新聞、中国放送の四人(平岡さんや秋信さんなど)が、社の仕事ではなく、行なった。韓国へ行く経費など自弁だった。経費自弁に驚く聴衆に、「社の仕事でないからできたのですよ」と言われました。
 ヒバクシャ団体も原水協も当時は韓国人被爆者問題には関心が薄く、「森滝一郎さんだけがカンパをくださった。確か五千円だったと思う」。
 韓国も難しい時代で、政府は反共、韓国人の原爆観は、「日本に原爆が落とされ、戦争が終わってよかった、だった」。それが、「かわってきたのです!」。
 昭和天皇の記者会見での秋信さんの質問のことは、金平さんも関心強く、裏話を大分披露されました。大体あの頃(一九七五年頃)、天皇の記者会見などなかった。それがアメリカの記者がやってしまったことから、日本人記者もということになった。たまたま地方記者として秋信さんが抽選に当たり出られることになった。その会見で戦争責任をきかれ、天皇が「文学方面は弱く、そんな言葉のアヤはよくわからん」という答弁が出ました。秋信記者がヒロシマの記者として千載一遇の機会と原爆をどう受け止めるか聞いたところ、「遺憾だが、戦争中だから仕方がない」と答えた。原爆に対する記者の質問は、歴史的にあれだけ。秋信さんは質問させてくれた日本記者クラブに感謝していると言ったそうです。
 秋信さんは真摯な記者で営業に回されてからも胎内被曝・原爆小頭児問題などに自腹を切って取り組みました。
 平岡さんは「私たちは課外活動と言っていた。あの頃は、全国紙の記者たちと一緒に勉強会もよくしたものですよ」と言っておられました、
 平岡さんは中国放送の社長をし、市長になるのですが、最近の情勢について「アジアへの謝罪がない」ことを言っておられました。
 結局、平岡さんの一番言いたいことは、①原爆を落とした米国のへの責任追及、怒りを忘れるな。同時に、日本はアジアへの謝罪をを忘れるな。アメリカの核の傘の下で核廃絶を言うのは偽善だ。
②和解のためには加害者の謝罪が必要(つまり米国の原爆投下への謝罪、同時に日本のアジアへの謝罪)③核廃絶し、貧困や差別のない世界をつくること。
ということになるでしょうか。対談が終わっても皆さんなかなか帰らずサインを求める人の列が続いたのですが、私はかいくぐって平岡さんの所に行き、ごあいさつし、「怒りを忘れず、命ある限り中山さんとの往復書簡を書き続けます」と申し上げました。
 この話だけで長くなりました。この日は荷物をホテルに預け、YWに行きました。弁護士会館からホテルまで、なかなかタクシーは通らず、スマホを持っている人に頼み、タクシーをよんでもらったのですが、これがなかなか来ず、暑いし、立っているのが辛く、苦しかったです。今回の旅で身体的に苦しいと思ったのはこの時だけで、後は皆様の協力でラクさせt6得頂きました。
 ホテルに荷物を置き、YWへ。YWはここ十数年夕張との交流を続け中学生二人と先生一人を広島に招いていますが、三、四年前から資金が尽きて招けなくなってしまいました、しかし、夕張の方が広島に自費で参加するようになりました。そして広島YWCAもできるだけの接待をやっています。この日も夕張の方に手作りの夕食をごちそうし、ヒバクシャの体験談もありました。私も一緒に参加、とても勉強になりました。
 五日朝はフィールドワーク、YWCAの主催になってから六回目になります。
 去年と同じコースですが、時間の制限もあり、最初の話でできるだけ、建物疎開作業で若い少年少女たちが死んだ(重い火傷を負った)ことを説明するのですが、若い方たちは建物疎開と言ってもぴんと来ないのが今。なかなか骨が折れます。慰霊碑のところで説明するのですが、これをできるだけ簡単にしました。昨年までとかえたことは、私たちの学校の慰霊碑の説明を加えたことです、この慰霊碑は、町内会の敷地に作られたもので、作ることができたのも維持も町内会のおかげで成り立っています。町内会に直接関係ない第二県女と山中高女の碑が町内会の手で守られています。広島の慰霊碑は多いと思いますが、こんな慰霊碑はほかにはありません。大勢の犠牲者を出した雑魚場地区(今は国泰寺町)の町の人々の「心」を語りました。
 終わってからYWの難波さんや関係者の方々と食事をしました。フィールドワークの責任者の難波さんは今年から広島YWの会長になられたそうで、忙しく、それにご自分も足が悪いのに、本当に面倒をかけました。この昼食で、前にお話したフランス在住の松島かず子さんとご一緒できたのも幸いでした。松島さんは、昨年の取材のドキュメンタリーはまだ完成しないのですが、ちょうどいま鳥取のご実家に帰っておられます。上の娘が9歳になって広島を見せておきたいが…などいろいろ言っておられましたが、結局二人の娘さんをお母さまと夫に預け、広島に来てくださいました。彼女も元気でうれしかったです。
 六日、七四回目の原爆忌、私は私の学校の慰霊碑に近い(歩いて行ける)ので、宿は東横インに決めてあるのですが、毎年行きなれた慰霊碑なのに、一つ道を間違えてしまいました(町自体がどんどん変わっているせいもありますが)。高齢化現象かと冷や汗をかきました。
 慰霊祭には毎年来られる方が減っています。皆様お年なので心配なのですが…。でも、福山から平賀(水木)先生が元気な顔を見せられたのはうれしかったです。この方は戦前山中高女の先生、戦後第二県女の先生になられた方で、二つの慰霊碑の両方の先生をされた方などこの方しかおられません。すべての先生たちが鬼籍に入られた今、ただ一人の生き残り。その元気なお声! 八十代と言っても信じる方がいるくらい。でも先生九十八歳ですって!私もがんばらなきゃあ。
 慰霊祭に来てくれた堀池美帆さんと平和公園方面に向かいました。堀池さんは対話随想でも紹介しましたが、私の若い友人です。高校一年の時広島に来た彼女と知り合い、若い彼女が原爆のことに関心が深いのに驚き、友達になりました。彼女はその後も毎年広島に来ましたが、東日本大震災があるとボランティアで現地に行ったり、とにかく社会問題に熱心というか、近頃珍しい若者です。それが大学に入るとたまたま能のクラブに入ったのですが、能に夢中になりました。.原爆関係で彼女と知り合った人で、能などに詳しい人はいません。私は父が能好きだったため、子どもの時からこの世界のことに詳しく、一応の知識もあるものですから、彼女の能の修業にも付き合ってきました。とにかく彼女、入れ込むたちというか、関心を持つと、そのことに深く入ってゆく、一過性の趣味で終わらない人のようです、彼女も今年三月大学を卒業、ドキュメンタリー制作のプロダクションに勤めているので、今年は広島にも来れないだろうと思ったのですが、休暇をとって来てくれたのです。
彼女の話によると九月にポーランドで長崎原爆にちなむ多田富雄さん原作の新作能の公演があり、彼女はすでにその切符まで買っているのです。そしてその上演が観世流銕仙会の仕事で(彼女も大学で、観世会です)、その主演をなさる清水寛二さんが今広島に来ているのでぜひ会ってほしいというのです。
 どうもこれは彼女の方では別の目論見があったらしく、彼女は多田富雄さんのこともあまり知らなかったようですが、私は、こんなポーランド公演のことなど全く知らなかったので、(マスコミでな全く報道されていない)とても面白く話を伺いました。
 この公演はポーランドだけでなく、ウィーン、パリ、ワルシャワでやるのだそうです。講演は多田富雄さんの新作能「長崎の聖母」とオーストリアの人の作の「ヤコブの井戸」(これは新約聖書のヨハネの福音書からの話をもとにしています)。両方ともシテ、演出は清水さん、長年にわたり、欧州の人びととやりとりし、内容を練って来たもののようです。能というもの、囃子も、地謡もいり、かなりの人数が必要です。面も新たに作られたようで、お金も大変だと思います。多田さんは、原爆や慰安婦など多方面の現代の社会問題を能にされた方、私も台本を読んだことはありますが、本物を見たことはありません。しかし、この二つの能が、今の世界の人々に「平和」について深く訴えるであろうことは間違いありません、
 堀池さんがワルシャワの切符をすでに買っているのも驚きで、彼女が帰ってからの土産話も楽しみです。清水さんのような方の存在にも驚きました。大学の講師もされているようですが、プロの能楽師でもあるのです。
この日聞いたお話、まだまだ書きたいことありますが、もう行数一杯で、また今度にします。
 七日、朝、昨年も話をした(対話随想の最後から二つ目の章で書いています)村上俊文さんの案内で、リニューアルなった資料館本館を見学しました、村上さんのこと昨年はよくわからなかったのですが、資料館のボランティア(案内人)でもあるのですね、本館は広いし、途中で座る所もないからと、車いすに乗せてもらい、村上さんに押してもらいました。村上さんは車椅子を押すのもうまいそうです! 本館は以前に比べ実際の遺品が増えたり、ヒバクシャの絵を多用したり、わかりやすくなったと思います。蝋人形がなくなったことがよく言われますが、私たちが見たらあの人形ではきれいごととしか思えず、かえって良かったと思います。どんな展示をしてもあの地獄の模様は示せないのですが、苦心はされていると思います。足りないところは核兵器廃絶の闘いの歴史だろうと思いますが、これは行政の仕事としては無理でしょうね。
 これを見て後、皆さんと一緒に食事をしたのですが、二年西組のクラスメートの甥と姪の方がおられるのにびっくり。この二人と初めて会う方ですが、忘れられない級友の身内です。そしてこの二人が互いに知っておられるのに驚きました。
 会には五、六十人みえたと思いますが、村上さんの問題提起に従い、ヒバクシャの貧困の問題や、子どもが戦争のために闘わされたことなどについて語りました。最後は、ヒバクシャにもいろいろな考えの方がおられるが、あの爆弾はもうごめんだ、人類と共存できない、ということだけはみな一致している。あの爆弾をなくすには核兵器廃絶条約しかない。その会議にも参加せず、署名もしない我が政府を許せないと申しました。
 この日このまま、駅に直行帰京しました。まだ書くことあるのですが、字数多すぎるようです。次回に回します。


nice!(1)  コメント(0) 

対話随想余滴 №20 [核無き世界をめざして]

余滴20 関千枝子から中山士朗様へ

           エッセイスト  関 千枝子

 選挙も済みましたが、私、結果も結果ですが、あの投票率に呆れています。日本人は自分たちが主権者であることを忘れてしまったのでしょうか。
 と言っているうち八月ももうすぐ。忙しくなりますので、余滴の20を今書いています。この次は八月広島報告となりますかな。
 余滴19の冒頭にありました狩野さん大腿骨骨折で、今リハビリ病院入院中です。まだしばらくは入院しているようですから、退院となった時、私たちのやりとりのコピーでも送りましょう。この前電話ありましたが、声は元気です。私も声は元気なのですが、体力の復活がまだまだです。全く、年寄でなければ、大腿骨骨折はしないと我がドクターは言っておられましたが、困ったものです。しかし、体がこうなると今まで平気だった道などのバリアーが見えてきます。これは悪いことではありません、今度の参院選で山本太郎の「れいわ新選組」=このネーミングは嫌ですね=が身障者を国会に送り出すことになりました。どんな騒ぎになるか。もっともALSの人は声も出すこともできませんから介助者が二人以上いるでしょう。騒ぎになりそうですね。
 この前は狩野さんのお便りしか紹介しませんでしたが、「対話随想」にたくさんの方から礼状が届いております。ほんのちょっと紹介しただけの、山梨の劇団「山なみ」の方は、劇団員に本を読んで紹介した、団員一同喜んだ、とありこちらの方こそ、恐縮です。昨年、原爆証言に行った都立高校の先生からは、都立高校の修学旅行の費用の上限が一万円上がって、沖縄にも行けることになったとありました。これはうれしいことです。平和教育に修学旅行の力は大きいです。昔のような、平和修学旅行の復活を祈っています。
 さて、渡辺美佐子さんの「夏の雲は忘れない」の公演が今年でおしまいになるということですが、渡辺さんのあの新聞インタビューでは少しわかりにくいかと思い、ちょっと「説明」を加えます。
地人会の木村光一さんが朗読劇「この子たちの夏」を始められたのは一九八五年です。その時私のところにも話があって、私の本の中から一部使いたいということだったのですが、脚本が私の気持ちとちょっと違うように思い、お断りした(脚本から抜いてもらった)ことがあります。この朗読劇は評判になりましたが二〇〇七年地人会解散の時に、劇はこれで打ち切ると木村さんは言われました。出演の女優さんたちは続けたかったのですが、木村さんは許されませんでした。そこで女優さんたち十八人は新しい脚本で(原爆の手記はたくさんありますから)「夏の雲は忘れない」を作り、その公演が今に続いています。それが今年でおしまいになるわけです。(その後、この子たちの夏も、2011年復活しました。).
「夏の雲は忘れない」が始まる時、舞台の映像に私の本からの写真を使いたいというお話があり、そんなこともあって「夏の雲…・」の公演の第一回に私も招かれました。そこが跡見学園だったのです。
 跡見は狩野美智子さんの母校でもあり、戦時中でも割合おっとりしたところのある学校だったようです。
 「夏の雲…・」の公演のやり方は、その公演を企画してくださった地元の方の中から何人かの人を選びその人たちが朗読の一部を受け持ち、女優さんたちとともに舞台に立つ方式です。跡見でも高校生の何人かがともに朗読しました。とても好ましく思われ感心したのですが、私たちが公演を見に行ったことを、跡見の学校の方が大変喜ばれ、跡見に関する資料をくださったのです。私はそれを読み、学園長先生の文章に大変感動し、学園長先生にお手紙を出してしまったのです。先生はそれを読まれ、当時から跡見は中学生が広島に修学旅行をしていたのですが、中二の担任の先生に私のことを紹介してくださり、私は以来(毎年冬一月ごろですが)事前学習に伺っています。ここは、とても熱心で、冬休みに入る前に私の本を全員に読ませ、(素晴らしい感想もいただいています)、そのあと私の「講演」になるのですが、「私のクラスはあなた方の年にみな死んでしまったのよ」というと、会場は静まり返り、皆、よく話を聞いてくださいます。私は高校生にも話すことがありますが、跡見が一番話しやすく、熱が入ってしまうのです。私の「広島第二県女二年西組」が版を重ね、今11刷りになっているのは、この跡見で中学二年生全員に読ませてくださっているのが大きいのではないかと思うのですが。
 一方、『夏の雲…・』の方も、毎年公演を続けていますが、これも必ず第一回が跡見なのです。毎年、十八人の女優の一人、大原ますみさんが日取りを知らせてくださり、私も万障繰り合わせ参加。こうして、毎年二回の跡見行きが一〇数年つづいたわけです。
 それが今年は六月二十八日だったのです。ししかし、この日は女性「9条の会」の世話人会の日とぶつかり、この会にも私の骨折事故でご迷惑をかけており、この日はしばらくぶりで「役目」も持たされていたものですから、残念ながら、『夏の雲…・』にはいけませんでした。今年で最後になるというときに、本当に残念でしたが‥‥。
大原さんは、一二年間、毎年電話をくださっていました。確か、始めは大原さんと山口果林さんのお二人からあったと思うのですが、ずっと連絡くださっていたのは、大原さんでした。この舞台の背景の映像に、私の第二県女の級友の写真が使われているから、というご縁で、毎年義理堅くお声をかけてくださった。その最後の跡見の公演に行けなかったのは本当に残念でした。
 この一週間後七月十三日、私の所属しているパルシステムという生協で、「原爆から74年、時代を越えて平和を語り継ぐ」という催しがあり「はだしのゲン」の映画を見、そのあと私が少しお話をしました。生協は全国組織が一緒になって、広島、長崎ツアーをし、わが生協もそれに参加します。その参加者の事前学習に私、毎年招かれているのですが、去年は「都合がつかない」と言って来ない人が多く、事前学習そのものが流れてしまったのです。もともとツアー参加者はそんな多くではない(全国の催しなので参加数の限りがあります)ので、小さな事前学習会では申し訳ないと、今年はオープン方式というか、ツアー参加者だけでなく一般組合員にも呼び掛けたというのです。そうしたら「はだしのゲン」の映画が当たったか、七〇人も参加、しかも半数が小中学生だというのです。
私もたいへん張り切りました。私、中学生に話すの好きですから。
 とにかく、天気が悪いのに七〇人集まりました。小学生が多くて中学生は一人でしたが(でも、その子、二年生)、原爆のリアルな描写に気持ち悪くなる子がいては、と生協のスタッフは心配していましたが、そんなこともなく、皆、よく集中して熱心に見ていました。その後も、子どもにもわかりやすく、原爆のことを知らない人にもわかりやすく、(中にはウラニウム爆弾とプルトニウム爆弾の違いもよく知らない人もいるようで)話したつもりです。皆とても静かに聞いてくれました。
「どうしてはだしのゲンの漫画が学校の図書室から取り除かれたりしたのでしょう」という質問が出ました。「子どもに見せるのは残酷だ、など言われたこともあったようです。でも、ゲンの話は本当にあったことなのですよ。ゲンは、小学生で、実際にこんなひどい経験をしたのです。それが戦争、原爆なのです」と私は言いました。
 たくさんの人が感想を書いてくださいました。大人の人が書いたのが多かったのですが、とても真剣な感想がおおかったです。原爆のことをよく知らず、ゲンの映画を見たのも初めて、ヒバクシャの話を聞いたのも初めてで、珍しい経験をしたなどというのもあり考えさせられました。
 しかし、前回の手紙で報告した、私が会った熱心な大学生、彼も、最初のきっかけは小学生時代の『はだしのゲン』の映画だと言っていました。この日の子どもたちの心のどこかに、人類と共存できない凶器、核兵器について、記憶が残るだろうと思っています。
 この後八月、大変充実した日を過ごしたのですが、あまり長くなってしまいました。次の号で報告します。

nice!(0)  コメント(0) 

対話随想余滴 №19 [核無き世界をめざして]

余滴19  中山士朗から関千枝子様へ

                 作家  中山士朗

 まずもって、狩野美智子さんの歴史的記憶を傷つけたことを深くお詫び申し上げます。改めて『広島対話随想』の四十六ページから五十一ページを読み直し、ラジオ放送の」天気予報」復活にこだわり過ぎ、不適格な表現になっていて、狩野さんにご迷惑をおかけしたこと、深く反省しております。どうぞ、関さんからもよろしくおとりなしくださいますようお願いいたします。
 このところ、狩野さんをふくめて関さんや私たちの世代の戦争、原爆に対する発言が、新聞紙上で大きく取り上げられるようになりました。被爆、敗戦七十四年目の夏を迎えての特集記事だろうと最初は思いましたが、そうではなく、あの戦争を体験し、その記憶を語ることのできる最後の世代の人びとが消えてゆくために、その証言を遺し、継承するためであることに気づきました。私たちの『ヒロシマ対話随想』と同じように、消えてゆく者の証言、継承の静かな語りがありました。
 はじめに、関さんが『ヒロシマ往復書簡』で、平幹二朗さんとニ人だけの出演「黄昏にロマンス』について語っておられましたが、その俳優の渡辺美佐子さんについて書いてみたいと思います。
 現在八十六歳になる渡辺さんは、広島、長崎で被爆した人の体験記を読む朗読劇「夏の雲は忘れない」を戦後四十年の節目の年に始め、三十四年にわたって、千回も公演を続けている人です。
 その朗読劇が、幕を閉じることになったと六月十九日の朝日新聞に報じられていました。
これについて渡辺さんは、
「私たちが年を取って、体力的に限界になりました。女優達だけで運営しているので、十八人いたメンバーも十一人になりました。一九八五年に始まった『この子たちの夏』は原爆で子どもを失くした母親の話が中心で四十から五十代の女優たちが出演しました。各地からお呼びがかかり、それ以後三十四年間、七月と八月はほかの仕事を断って、全国を回る夏が続きました」
 と答えていました。
 このことは六月二十一日の大分合同新聞にも大きく報じられていて、今月中旬に東京都内で行われた稽古に、渡辺美佐子さん(86),高田敏江さん(84)、長内美那子さん(80)、山口果林さん(72)らが参加している写真が掲載されていました。
 そして、
 -―広島の原爆で初恋の人を亡くしたことが、参加するきっかけだったそうですね。
この質問に対して、渡辺さんは、
「劇の始まる五年前、テレビの対面番組で、国民学校時代の級友が広島の原爆で犠牲になったことを知りました。私が会いたいと願っていた水木龍雄君でした。番組に出てきた彼の両親は、「遺体も遺品もなく、目撃者もいないので、いまだに墓も作れない」と語りました。広島で十四万人、長崎で七万四千人が犠牲になったことは知っていましたが、その中に彼がいたことは衝撃でした。」
 「テレビのカメラは私の涙を撮ろうとして近づきましたが、私は泣かなかった。あの時、こらえた涙が心の中で固まって理不尽なものへの怒りに変り、その後の私を動かす力になってくれたと思います。」
 私はその時の場面をテレビで見ていて、その話を往復書簡で書いております。 
そして、一九四五年の東京大空襲の経験について質問されると、
「私が小三の時、太平洋戦争がはじまりました。戦禍が拡大して、多くの級友が疎開する中、「死んでもいいからお母さんと一緒にいる」と言い張り、終戦の三カ月前まで東京に残った、「毎晩十二時になると空襲警報が鳴り、防空壕に入る。焼夷弾はひゅる ひゅる、ひゅる、爆弾はザーと落ちてくる。」
 「一番つらかったのは、食べ物がなかったことです。父がどこからか時々真っ黒な米をもらってきましたが、食べられたものじゃなかった。母が煎った数十粒の大豆を袋に入れて渡されるのが一日分の食糧でした」
 と答えていました。
 この個所を読んだとき、前回の関さんの手紙に「山の手大空襲を語る会」で関さんの東京女学館の後輩生徒が、焼夷弾が落ちるときのザーという音について質問している場面を思いだしました。そして、私自身は、原爆が炸裂した時の、地の底から私自身の全身を貫き、一瞬耳の鼓膜が破裂したかのような音響が伝わってきたことを昨日のことのように思い出したのでした。
 最後に、戦争の継承についての質問については、
「大事なのは教育だと思います。どうして日本は勝つはずもない戦争をしたのか。なぜ、年寄りと子ども、女しか住んでいない都市に原爆が落とされたのか。戦争に行けば、普通の人間が人を殺す。そういった事実を子どもたちにきちんと教えれば、ばかばかしい戦争が防げるのではないでしょうか。学校で戦争の恐ろしさを教えてくれれば、私たちの朗読劇も必要なくなるんですよね。」
 そして、「今の綱渡りの世界の平和が、広島、長崎の犠牲者に支えられていることを私は忘れません」と語っていました。
 その直後の六月二十七日のNHKテレビで、奈良岡朋子さん出演の番組がありました。番組の標題は、<奈良岡朋子89歳大女優と戦争体験。運命の広島公演に向け>となっていました。
 奈良岡さんは、渡辺さんと同じ日本橋の出身で、大空襲に遭って食糧難に喘ぎ、青森に移るまでの三カ月、草などを摘んで飢えをしのんだことを語っていました。彼女は、毎年八月六日が近づいてくると、井伏鱒二の『黒い雨』の朗読会を開いています。今年は、山形で開かれる様子でした。
 広島との縁は、昭和二十五年に新藤兼人監督の映画『原爆の子』に出演したことでした。
 昭和二十五年と言えば、広島市内は原爆で破壊された風景がまだ生々しく残っていました。したがって、現在のように宿泊するホテルや宿の設備がなかったので、普通の民家に泊めてもらって撮影に行ったと語っていました。
 彼女らは広島に行くと、必ず丸山定夫の「移動演劇隊殉難の碑」を訪ね、合掌していました。最後に、「朗読ならば、車椅子でできますからね」と語った言葉が、強く印象に残りました。

nice!(1)  コメント(0) 

対話随想余滴 №17 [核無き世界をめざして]

対話余滴 17 中山士朗から関千枝子様

               作家  中山士朗

 お手紙拝見しながら、退院後の生活のご苦労が伝わってきます。
 入浴時には、ヘルパーさんに頼んで入浴介護を受けられてはいかがでしょうか。私は要支援1の資格認定なので、そうした介護は受けられませんが、私的に週一度程度掃除、買い物を手伝ってもらっています。
 以前は、独居老人の浴室での溺死、転倒死が新聞などで報じられても、他人事のように思っていましたが、足、腰の衰えを感ずるようになった現在では、一人で入浴するのが何となく不安に思われるようになりました。
 そのために入浴介護をお願いしたのですが、最初はやせさらばえた老体、被爆してケロイドを残した肌を異性の人の目に晒すことの気恥ずかしさを覚えましたが、今では、安心して入浴しております。
 関さんもぜひ入浴介護を依頼されて、安全、快適な入浴時間を持たれるよう、余計な事のようですが、提案いたします。
 トマトの話、被爆後にしきりに欲しがったことを思い出しました。その記憶のせいか、今でもトマトは欠かさず食べています。特に野菜中心の食事に切り替えてからは、スープ、マリネ、サラダは欠かさず食べています、サラダにはトマトが中心になった調理になっています。そのせいか、体調はいいようです。
 私のつまらぬ話ばかりしてしまいましたが、健康の秘訣は、目的のある仕事を持ち、楽しいことを想像しながら、美味しい食事を摂ることだと言われていますから、関さんもぜひそうしてください。
 とは言え、関さんの何時に変らぬ、しっかりした文体のお手紙を読ませて頂き、安心しております。特に早川与志子さんの思いを引き継いだ北杜市のコンサート再演の話、二〇二〇年の東京オリンピックの最中にシニア劇団の全国大会が開かれ、それに大阪のシニア劇団が関さんの『広島第二県女二年西組』で参加する話は、お聞きしているだけでもうれしくなってきます。
 お手紙の冒頭に書いておられました「令和ブーム」の現象、それに比し「海ゆかば」が人々の記憶から消え失せていることへの思いが綴られていましたが、私も同様な思いです。
 いつかも「令」について「命令」のイメージにとらわれると書いたことがありましたが、六月二日の朝日歌壇に高野公彦、永田和宏両氏の選の中に、
 令の字につきまとわれし兵の日日知る人ぞ知る今も夢路に
                (枚方市)鈴木七郎
の和歌が選ばれているのが目にとまりました。
 安倍首相は、しばしば「民意」という言葉を用いますが、この和歌に込められたものこそ民意であろうと私は思いながら読んだことでした。「海ゆかば」についても同じことが言えると思います。
 こうした民意をないがしろにした日本の政治は、どこに向かって行くかと想像すると、昔歩んできた道を行くようなきがしてなりません。
 お手紙の終わりに、ヒバクシャ問題に関心のある二人の大学生にお会いになられることが書かれていましたが、こうした若い人たちがヒバクシャから話を聞き、自分たちの言葉で、語り継ごうとする動きがあることに、私は期待しております。
 と言うのは、六月十三日の大分合同新聞の夕刊「旬の人」というコラムに、核廃絶への国会議員の姿勢を問うサイト開設に携わった安藤真子さん(24歳)の話が載っていたからです。彼女は広島市出身で、現在は神戸大大学院で被爆体験の継承方法を研究していて、「自分の言葉で広島。長崎を語り継いでいきたい」と決意を述べていました。
 彼女は身内に被爆者はいませんでしたが、周囲から「体験者の生の声を聴くことのできる最後の世代」と言われて育ったと言います。非核を訴える署名運動やヒバクシャへの聞き取りに関わりはじけたのは、高校一年生の時。原爆の記憶を家族にも話せなかった人が「あなたになら」と口を開いてくれたそうです。「思いに触れても、完全に理解することはできない」と悩んだこともあります。けれども。高齢化する被爆者から、「二度と同じ体験をさせたくない」との願いを託された気がして、「駆り立てられるようにして」話を聞いたと言います。
 ICANのノーベル賞受賞を祝う会で川崎哲氏と知り合い、被爆者と船で、世界各地を巡り、記憶を伝える活動に共に参加しました。航海を終えて、帰国した昨年末、前期サイトの解説への協力を依頼され、議員調査を担当し、事務所に約五百通のメールを送ったが、返事はほとんどなかったそうです。「核廃絶の立場が選挙で問われたことはない。各議員の姿勢を明らかにすることで、現状を変え、政府を動かしたい」との抱負を述べています。
 関さんがお会いになられる二人の大学生、そして安藤真子さんのような若い人たちが次次々に現れて欲しいと思います。そのためには、体験を語ることのできる最後の世代の私たちが、正確な記憶、記憶を継承しておかなければならないと思っております。

nice!(1)  コメント(0) 

対話随想余滴 №16 [核無き世界をめざして]

対話余滴 16   関千枝子から中山士朗様

            エッセイスト  関 千枝子

 退院から早くも二週間たちました。なんだかばたばたしていて、もうそんなにたったかしら、という感じです。
 世の中、相変わらず「令和ブーム」で、バカみたいと思うことばかりです。「海ゆかば」の話は、ほとんどの人が話しませんし、皇室の記事が異常に増えているのが目立ちます。本当に何か、変、です。
 退院後の暮らしも、三カ月の病院生活の間に、用事をたくさん先送りしていて、それを片づけるのも大変だったのですが、介護支援2に判定され、介護の人との打ち合わせなども、大変でした。退院のその日に、打ち合わせに来てくださり、とても親切なのですが、いろいろ契約とかなんとか、いちいちハンコがいりまごまごです。この頃ハンコ使うこと減って来たこともあり、私、ハンコ押すのへたくそ、大変!。用具も購入したのですが、この一つ一つに契約書やハンコ。
生活支援のヘルパーさん、大変ベテランらしく、手際がいいのですが、来るたびにハンコがいります。連日のハンコにびっくり。それでも、用具は、定価の一割で買えありがたいです。九割は公的な補助なので、書類やハンコがたくさんいるのも仕方ないかもしれません。わかりますが。 
 生活支援は、週一度、私のできないところの掃除などを手伝ってくださいます。もしかしたら中山さんのところにもこんなヘルパーさんが来てくださっているのかもしれませんが、本当に四十分くらいで、手早く上手に仕事してくださり、感心してしまいます。 
 用具の中でみなさんあまりご存知ないと思う道具は風呂に入るためのもの、病院のリハビリではシャワーを練習させられ、これは自分一人で完璧にできるようになったのですが、シャワーだけでは嫌ですね。暑い日であっても湯のなかでゆっくり温まりたい。しかし、私の足の状態では、風呂桶が深すぎては入れない。そんなとき助けのために、風呂桶の上に板、桶の中に椅子を置き、これを使うとうまく入れるのです。こんな道具など三点を一万円位で、購入できました。大助かりです。介護の制度についてはいろいろ問題も多いと思いますが、やはり大事な制度だと思いました。
 食事は食欲も、まあまあですが、毎日トマトをたくさん食べています。病院の食事は野菜が多く、ヘルシーだったのですが、トマトは、高価なためか、あまりなく、トマトが欲しいと言って娘に差し入れてもらったこともあります。退院後、毎日トマトを食べているのですが、トマトには病気の人を癒やすなにかがあるのでしょうか。原爆の時のことを思い出しました。中山さんもトマトを欲しがりお父さんが苦心された話、前に伺いましたが、本当に原爆の時、けがをした皆さんがトマトを欲しがったのを思い出します。トマトが、傷に沁みないのがよかったのか。そんなことを思いながら毎日トマトを食べています。

 まあ、こんなことで。ガタガタしていますが、とにかく私の今の状態はパワー不足、体力不足なのです。それだけ大腿骨骨折は体力を使うということらしいです。もちろん手術のすぐ後からリハビリ、歩く練習をしているのですが、私の今の状況では歩行が、ちょっと長いところは杖だけでは無理で、杖とサイドカートの二つで歩いているのです。もちろん歩行器などをつかえばもっと楽に歩けるのですが、近所だけでなく、さまざまな場所にいくのに歩行器では不便です。さまざまな乗り物を使う、階段、エスカレーターをつかわなければならないところもある。いろいろなことを考え、少し遠い距離を歩くには杖とカート、近いところ(わがマンションの中など)は、杖。ほかに屋内は,伝い歩きも併用、何もなしで歩きます。
こんなことでも、体力不足ですぐ息が上がってきますが、体力(パワー)を取り戻すためには、結局歩くことしか方法はないということです。それで、毎日できるだけ歩くようにしています。ただ杖とサイドカートの歩行ですと傘がさせず、雨の日が問題なのですが。

 まあ、こんな日々で時間のロスも多く、かっかとしていますが、とてもうれしい知らせも入っています。
 対話随想で、早川与志子さんの北杜市の感動的なコンサートのこと書きました。早川さんからうれしい便りが来ました。あのコンサートで歌われた歌手の方から、今度は自分たちが早川さんの思いを引き継ぎ、コンサートをしたいと言ってこられたそうです。核廃絶、平和の気持ちを引き継いで、ヒロシマから被爆二世の方も招くそうです。こうしたことには広島市も、被爆二世の方の旅費などをヘルプしてくださるそうで、いいですね、早川さんも、もう二度と同じようなことはできないと思っていたそうですが、歌手の方の熱心な思いに、司会などを手伝うそうです。早川さんの思いが引き継がれたそうで本当にうれしいですね。
 それからある大学の学生さんが、ヒバクシャの問題に関心があり仲間の友人と二人でぜひ話を聞きたいと言ってきて、六月の末、お会いすることにしました。この学生さんは、竹内良男さんの紹介です。でも、近頃原爆のことに興味を持ったようで、私の本など読んでいないようです。でも、こういう若い人々が出てくるということはうれしいことですね。
 それから、「対話随想」の二〇一七年ごろにも書きましたが、シニア劇団の全国集会があり、奈良の熊本一さん(劇団大阪)のシニア劇団が『広島第二県女二年西組』を演じ、それを見て、このドラマを演じる劇団もあったという話を書きました。其の後、劇団大阪のシニア劇団「豊麗線」は、熱心にこのドラマを演じてくださっていますが(出前公演などもなさっています)、二回目のシニア劇団の全国大会の方が二〇二〇年、オリンピックの真っ最中に東京で開催されるそうです。それに「豊麗線」は「二年西組」で参加すると言われ、そんなことができればいいですがね、と半分は本当かなという気で聞いていたのです。そしたら、本当に二〇二〇年夏、東京で大会をやることが決まったのですって。「豊麗線」は本当に「二年西組」で参加するのですって!
えらいこっちゃ、大いに宣伝して、人集めしないと、と思っています。 それまでに、大いに元気のならないと。ぼやぼやしてはいられません。

nice!(1)  コメント(0) 

対話随想余滴 №15 [核無き世界をめざして]

対話余滴15中山士朗から関千枝子様

                 作家  中山士朗

 五月二〇日、日高さんから余滴14のお手紙が送られてきました。その時、関さんの退院が25日に決まったことが伝えられ、共に安堵したことでした。三カ月の療養生活の間、さまざまな感慨がよぎったことでしょうが、どうぞ、焦ることなく、ゆっくりと事を運んでください。
 前回頂いたお手紙に、「海ゆかば」についての考察、それに伴う「萬葉集ブーム」、元号が「令和」に変ったことによる若い世代の人々の、意識の低さについて述べられていましたが、私も同感しながら読ませてもらいました。そして、「平成は戦争がなく、ンよかったと言いますが、私から見れば、この三十年、限りなく戦争に近く、戦前の趣を呈しているように思えてならなうのですが」という趣旨の言葉がありましたが、その通りだと思います。
 関さんの手紙が届いた翌二十一日の新聞に、丸山穂高議員の発言問題が発生したことが伝えられました。これは北方領土へのビザなし交流訪問団に同行していた十一日国後島の宿舎で酒に酔い、元島民の団長に「戦争でこの島を取り戻すのは賛成ですか、反対ですか」「戦争をしないと、どうしようもなくないですか」と質問し、元島民から厳しい批判が相次いだと言います。日本維新の会では、十四日に除名処分にしましたが、与党はけん責案を衆議院に提出しましたが、野党からの議員辞職勧告決議案は否定されました。この野党の決議案に対し、丸山議員は「言論の府が自らの首を締めかねない」と反発し、辞職を否定しています。
 こうした事実を新聞、テレビの報道で知ったとき、私は、戦争を体験したことのない世代の発言だとは思いましたが、歴史から何も学んでいない人間が国会議員になっていることの恐ろしさを感じずにはいられませんでした。
 前回の四月二十二日付の手紙に、偶然に「令和」という元号が、萬葉集からの典拠だという説明について、私は「安倍首相もやはり戦争を知らない世代の人だと思いました。知らないというより、歴史から学ぼうとしない宰相としか思えません」と書いているのです。繰り返しになりますが、萬葉集と言えば、私たちの年代の物は、すぐさま戦時中にしばしば歌わされた「海ゆかば』に直結してしまうのです。
   海行かば水漬く屍
   山行かば草生す屍
   大君の辺にこそ死なめ
   顧みはせじ

 こうした私個人の感情と機を一にした川柳が、五月三日の朝日新聞の西木空人選による七句のうち二句が選ばれているのが目に止まりました。
    「憲法を守り」が令和で「のっとり」に  福岡県 牧 和男
    おおきみの辺にこそ死なめと説くなよな  広島県 廣田 勝弘

 安倍政権はこれまで安全保障関連法を成立させ、集団的自衛権の行使や多国軍の後方支援拡大への道を開いてきました。その一方で戦後七十年以上たち、戦かを知る世代は少なくなっているのが現状です。そんな状況の最中、安倍政権は憲法に自衛隊明記、憲法改正に躍起になっているのです。改元を利用した政治の在り方に疑問を抱いている最中の丸山発言でした。この宰相にしてこの議員あり、と簡単に言って済ませることではないと思うのですが、『一億総活躍時代へ』の言葉に、戦禍を体験し、記憶している私たちにはいつ一億一心 火の玉や、一億玉砕、総決起に振り代わるかも知れない、という危惧の念が生じて来るのです、ましてや、失言した大臣を抱え、その湿原のためのマニュアル迄作成しなければならない政府のこと、何が起こるかわかりません。丸山発言は、まさしくその象徴のように私には思われてなりません。
 暗い話になってしまいました。この辺で打ち切ります。
 このところ、私たちの「ヒロシマ往復書簡」を呼んだ人たちから、いい仕事をしているとの評価をいただき、嬉しく思っています。その評価の背景にあるのはブログで読むのと本になって読むことの違いが指摘されていました。ブログではその時点で書かれたことしか読まないけれども、本になるとその前後と関連しながら読むのでいっそう理解が深まるという趣旨の言葉が多くありました。
 それというのも知の木々舎の厚意によって、七年簡にわたって発表の場を与えて出させているおかげだと思っております。関さんも、私の年齢相応の病気を抱えておりますが、「核なき世界のために」のコーナーで執筆していることの幸せと感謝の念を抱いているのではないでしょうか。死ぬまで書き続けるという意思の現れは、ここから始まっているような気がします。

nice!(1)  コメント(0) 
前の20件 | 次の20件 核無き世界をめざして ブログトップ