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はるかなる呼び声 №2 [核無き世界をめざして]

はるかなる呼び声 ②            

        エッセイスト  関千枝子

 私は、被爆者の中でも、もっとも“幸運な”被爆者だと思っています。家は焼けず、家族にけがなどもなく、父の会社も宇品の一番南(爆心から五㌔)、私たちはその前年、父の仕事で広島に行ったため、親類も広島には皆無、被害がなかったのです。中でも私は、あの日、もし、体調を崩さず作業を休まなかったら、九十九%死んでいます。本当に私は好運だったのです。でも、「私は運のよい子」と言われるたび、素直に喜べず、身をさかれる思いでした。原爆で命が助かった人の中には、ほんの一日、いえ、ほんの十分か十五分の差で助かったという人が結構多いのです。その人たちは。その何とも言えない”幸運”を「すまない」という言葉で表します。今、何も言えない、証言もしていない被爆者たちに話を聞こう、という運動が起こっているのですが、私は、もっともひどい被害を受けた人、それはあの時(少なくともあの年中に)死んでしまった人だと思います。「運のよい子」と言われるたびに、私は私が落とした原爆ではないのに、と思いながら、胸をかきむしられる思いでおります、いまだに!
 今年の八月六日、朝日新聞の「天声人語」で、私の「広島第二県女二年西組」が紹介されました。事前に取材などもなかったし、まさか三十五年前に出した本が紹介されるなど、夢にも思っていなかったので驚いたのですが、ありがたかったのは、私の問いかけ、「私は運がよかったとして、私の級友は、いや十四万人と言われる広島の死者たちは、運が悪かったのだろうか」という思いを紹介してくださったことです。 
 「なぜ?」、突き詰めて考えるたび、思い当たる非条理さ。そして、戦争を放棄した憲法に、「これしかない」、こんな憲法が前からあったらと思った、その思いです。

 「すまない」という言葉。広島では戦後たびたび聞いた言葉ですが、でも、最初に衝撃的に聞いたのは、原爆の翌年の三月三日でした。この日、県立広島女専と廣島第二県女の合同の原爆死者への合同追悼の会が開かれました。女専は原爆の死者は非常に少なかったのですが、第二県女は二年西組が全滅、一年生は東練兵場で全員火傷です。第二県女を代表して生徒の追悼の辞は、二年西組でただ一人生き残った坂本節子さんが行いました。二年西組のいた雑魚場地区は百人に一人くらい奇跡的生き残りのある地区ですが、ほかの学校は生き残りの気持ちを考え、なるべく目立たないよう隠すようにした学校が多いのですが、第二県女の場合、原爆というと坂本さんを前面に押し出すようにしたのです。この日が、坂本さんいとってその第一日だったのです。 
 彼女の弔辞は、記録が残っています。彼女は、「原爆の子」などに手記を遺していますが、その記述とこの時の弔辞と、ほとんど変わりません。一瞬にして目がくらみ、気絶、気が付くとあたりは真っ暗。自然発火して見たあたりの様子は、大やけどでボロボロに焼け誰が誰かわからぬ級友、泣きながら先生の周りに集まると「先生はひな鳥を慈しむ母鳥のように」生徒たちを抱きしめていたこと、先生の髪は、見る見るうちに白髪の変わったこと」を証言しています。担任の波多先生は、当時では大ベテランの生生でしたが、調べてみたらまだ二十九歳でした。髪が白髪に変わる,恐怖、驚愕、責任感‥‥ 、しかし、これは坂本節子が一人生き残ったため、証言できたのです。母鳥のように生徒を抱きしめる教師の姿は、節子の胸に焼き付き、あるべき教師像となったのでしょう。 弔辞の最後は自分一人生き残ったことへの「詫び」の言葉です、「すみません、すみません、すみません‥‥」。
 彼女と、親しく話し合うようになったのは、高校二年のときでした。新制度の高校になり、その頃広島の女子の高校は、文科、理科、家庭科とクラス分けする学校が多かったのですが、私たちの学校もそのようなことで、私と坂本節子は文科でした。家庭科に比べ、人数が少なかったので、なにかと話す機会が多かったのです。生き残った者の、「すまない」思いを話したこともありました。この頃になると、私のように欠席生き残りのことは皆忘れてしまい、私も西組だったと言っても「そうじゃったかね」になるのですが、坂本節子のことを忘れる人は誰もいませんでした。坂本は私が西組だったことを覚えていて、「あんたは気楽じゃ。休んだんじゃけえ。うちはあの場に居ながら一人助かったのだから‥‥」というのです。「貴方が助かったのは神様の思し召し。あなたの運じゃ、誰が悪いのでもないわ」と私は言うのですが。彼女の「すまない」という気持ちは少しも癒えませんでした。彼女は思いを抱きながら広島女子短大(女専の後身 )を出て中学教師になりましたが、大変勉強を教えるのがうまい教師でありましたが、ちょっとした時でも時間さえあれば、自分の被爆体験を語る 「被爆教師」でもありました。彼女には被爆を隠すことなどありえませんでした。原爆の事実を伝えるそれが自分の使命だから。その心の底に何時もあったのは「すまない」という思いでした。
 私の「すまない」思いは彼女より、もしかしたら「濁っている」かもしれません。生き残ったことへの罪深さのような気持ちと同時に、あの時、もっと何かできたのではないか、という深い後悔があります、この後悔は、多分、為数美智子さんの私を呼ぶ夢の中の声とともに、墓場にまで持っていくことになるのではないかと思うのですが、
 なんだか、くだらないことを長々と書いてしまいました。「後悔」の中身をこの後書いていきます。


 「余禄」の最後、「はるかな呼び声」の①で、中山さんの手記はもう終わりのようなことを書いてすみませんですぃた。その後、中山さんも考え直してくださり、もう一度、私たちの手紙交換に参加してくださることになりました。「呼び声」の③は中山さんお手紙になると思います。よろしくお願いします  


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