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はるかなる呼び声 №12 [核無き世界をめざして]

追悼の記

 突然の訃報に、頭のなかはいまだに整理されていません。
 関さんはどちらかといえば寡黙の人でした。私の記憶では、「やってみたら」と言われたことが強く思い出されます。
 その言葉にしたがってやってみて、長年つづいているのは、澁澤栄一記念財団が発行している「青淵」誌への寄稿、関さんから声をかけられて二人で始めた『関千枝子・中山士朗往復書簡」などがありますが、 '九九年五月には『原爆亭折ふし』(随筆集)を発行し、平成五年に日本エッセイスト・クラブ賞を受賞することができました。これは関さんにすすめられまとめたものですが、関さん自身も推薦してくれ、受賞したのです。
 この作品と関さんとの出逢いは、まったく偶然としか言い様がないものでした。
 東京の家を売り払って、別府湾を一望できる高台に移住して来たのは平成四年三月のことでした。その頃にはまだ広島ー別府間の定期航路がありましたが、それからほどなくしてその定期船は姿を消してしまいました。
 私たちが引っ越してきて間もなく、関さんが不意に「新居拝見」といって姿を見せたのは驚きでした。博多に来たついでにと、名物の辛子明太子を持って現われたのでした。   その日は、別府市内の生簀料理店に案内し、私の家に泊まってもらいました。その頃、私の妻も健在で、親しく接したのはこの時一度限りでした。それ以前、私は東京で勤めながら創作活動を続けていましたが、「薬事日報」という業界紙に長年にわたってエッセイを執筆しておりました。そして、別府に移住して来てからは、大分合同新聞のコラム欄に執筆した原稿もたまり、それらを合わせて本にしたいと思いながら暮らして居りました。そのことを知った関さんは、「やってみたら」と本にすることをすすめ、東京に戻るとすぐに西田書店に紹介し出版の話をまとめてくれたのでした。つまり、関さんの「やってみたら」のひと言から始まったことでした。
 関さんは、高校も、大学も同じ道を歩んだ二歳年下の学友でもありました。
 昭和二十五年四月、早稲田大学文学部の建物の前の校庭で、「中山さんですね」と声をかけて挨拶されたことが、現在でも強く記憶に残っています。

                  2021.3.7   中山士朗

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