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はるかなる呼び声 №3 [核無き世界をめざして]

はるかなる呼び声③ 中山士朗から関千枝子様へ

                 作家  中山士朗

 その①、②熟読いたしました。
 そのなかに朝日新聞8月6日の「天声人語」に触れている個所がありましたが、私もその記事を読み、関さんの『広島第二県女二年西組』に触れられているので、切り抜いて保存していたところです。読みながら、世の中、具眼の人がいるものだと感心していたところです。筆者は

 広島で14万人、長崎で7万の無辜の命を奪った原爆投下から、4分の3世紀。核兵器は今も世界に存続し続け、使用可能であり続けている。核の時代にいる私たちすべてが、かろうじて生き残っているだけなのかもしれない。
 大惨事は起きる直前まで、その姿を現さない。あの時の広島がそうだったように。

と筆を結んでいます。
 そのようなことを頭の中で考えながらお手紙を読んでおりますと、私たちはこれまで死者たちの声について触れていなかったことにあらためて気づいた次第です。その死者たちの声を届ける最後の世代が、90歳近くになる私達であることに気づかされたのでした。
 関さんが『はるかなる呼び声』と題して、死者の声を書き残しておかなければという使命感のようなものを感じざるを得ません。為数美智子さんの記憶、「ひな鳥を慈しむ母鳥のように」生徒たちを抱きしめている波多先生のこと、先生の髪は「見る見るうちに白髪に変わった」という坂本節子さんの証言を読みながら、死者の声が私の耳に届いたのでした。
 その二年西組でただ一人生き残った坂本さんは、合同追悼会で追悼の辞を述べましたが、弔辞の最期は、「すみません、すみません、すみません‥‥」と一人生き残った詫びの言葉だったそうです。
 この個所を読みながら、被爆直後の広島で「すまない」という言葉がしきりに発せられたことに気づいたのです。生き残った男性の間では、広島弁で「すまんかったのう」という言葉がしきりに発せられていた記憶が残っています。それと並行して、「よう生きとったのう」言葉が、再会直後に発せられた言葉でした。
 本来、「すみません」という言葉は、辞書によると「あやまる時、礼を言う時、依頼する時などに使う語」で「すまない」の丁寧語と書かれていますが、被爆直後の広島で生き残った者たちが廃墟の地で出会い、最初に交わした言葉でした。
 そのようなことを回顧している時、私は中学校時代の友人である藤井勝君のことを思い出さずにはいられませんでした。
 一年生のときは同じ学級でしたが、二年生になった時に組替えがあり、別れ別れになってしまいました。そして二学期からは学徒動員が始まりいっそう疎遠の間柄にしまいました。藤井君の学級は、己斐の近くにあった広島航空に、私たちの学級は向洋にあった東洋工業に動員され、それぞれ兵器生産に従事していました。しかし、原爆が投下された日、藤井君は爆心地にほど近い小網町で、私は爆心地から1・5㌔離れた鶴見町でそれぞれ建物疎開作業中に被爆したのでした。
 その結果、藤井君は死亡、私は顔に広範囲の火傷の痕を遺して生き残ることになったのです。
 戦争が終わってからしばらくして、私は焼け跡に建てられたバラックの藤井君の実家を訪ね、仏壇に向かって合掌させて頂きました。女学校の先生をしておられた姉上様が会ってくださいましたが、私が、仏壇に向かって「すまんかったのう」と言ったのを姉上様が止められ、「どうか勝の分まで生きてやってください」と言われたことが、今も克明に記憶に残っています。私の手元には、陸軍幼年学校に入った阿久根君と藤井君、私の3人で撮った記念写真が残っています。
 関さんの手紙から、75年前の日々が鮮明に浮かび上がってきました。そして当時を語り合える同時代の友人がいなくなったことに、あらためて気づいた次第です。




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