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国営昭和記念公園の四季 №160 [国営昭和記念公園の四季]

銀杏 こもれびの里駐輪場


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『知の木々舎』第370号・目次(2024年10月上期編成分) [もくじ]

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【文芸美術の森】

石井鶴三の世界 №265                 画家・彫刻家  石井鶴三
  薬師寺 1914年/薬師寺東塔 1914年
西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」№137 美術史研究家 斎藤陽一
 江戸・洋風画の先駆者たち 司馬江漢 6 
浅草風土記 №35             作家・俳人  久保田万太郎
 浅草の喰べもの 1
山羊の歌 №1                   詩人  中原中也
  春の日の夕暮
【ことだま五七五】

こふみ句会へGO七GO №135              俳句 こふみ会     
 「秋涼」「秋の田」「秋蝶」「苦瓜」
読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №192            川柳家  水野タケシ
 9月4日、11日放送分
【雑木林の四季】

BS-TBS番組情報 №313                         BS-TBSマーケテイングPR部
 2024年10月のおすすめ番組(上)
海の見る夢 №865                               渋澤京子
  島の言葉
住宅団地 記憶と再生 №44   国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治
 武蔵野緑町団地 3 
地球千鳥足Ⅱ №54            小川地球村塾村長  小川彩子
 人類の悲劇を表す橋=ボスニア・ヘルチェゴビナ
美味懐古 №1                        加茂史也
 オテル・ド・ミクニ
【ふるさと立川・多摩・武蔵】                                                   

線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №233      岩本啓介
 根室本線・空知川第4橋梁
夕焼け小焼け 45                          鈴木茂夫
 赤い陣羽織 2     
押し花絵の世界 №211                                     押し花作家  山﨑房枝
 「秋色のヘアピン」
赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №69      銅板僧形作家  赤川政由
 行田の童 原画 11
多摩のむかし道と伝説の旅 №133                                          原田環爾
  二ケ領用水水辺の道を行く 6
国営昭和記念公園の四季 №160
 銀杏  こもれびの里駐輪場
【代表・玲子の雑記帳】               『知の木々舎 』代表  横幕玲子

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石井鶴三の世界 №265 [文芸美術の森]

薬師寺 1914年/薬師寺・東塔 1914年

     画家・彫刻家  石井鶴三

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薬師寺 1914年 (201×142)
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薬師寺・東塔 1914年 (201×142)

**************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社


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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №137 [文芸美術の森]

               シリーズ:江戸・洋風画の先駆者たち
            ~司馬江漢と亜欧堂田善~
                    第6回
               美術ジャーナリスト 斎藤陽一
          「司馬(しば)江漢(こうかん)」 その6

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≪「究理学」への傾倒≫

 司馬江漢の面白いところは、絵画以外の科学的分野にも熱中したことです。もともと若い頃から、江漢は、平賀源内や蘭学者らとの交友によって、「究理学」(天文・地理・物理・博物学など)に強い関心を示していましたが、ことに長崎旅行以後の晩年は、世界や宇宙などへの関心が高まり、江漢が制作する「銅版画」の様相も変わってきます。
 江漢は、銅版画による「世界地図」や「地球全図」、「天球図」などを次々と制作、ついには、人々に「地動説」を説くに至りました。

 寛政5年(1793年)頃、江漢は日本初の「銅版世界地図」を完成させました。(下図)

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 円形で描かれた世界地図の周囲には、異国の風景や動植物図のほかに、「地球は球体であり、その周りを太陽と月が周回し、その軌道や傾きによって、四季の変化や月の満ち欠けが発生する」という見解を図示しています。まだこの段階では「地動説」には至っていません。 

 この「地球全図」、子細に見ると、オーストラリア大陸とニューギニア島が未分離のままくっついていたり、下部には伝説的な謎の「メガラン大陸」などが描かれたりして、現代の眼で見るとおかしなところもあります。これは、江漢が、やや時代遅れのフランス版の世界地図を模写したためではないか、言われています。

 その数年後の寛政8年(1796年)に、司馬江漢は、銅版による「天球図」を制作しました。(下図)

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 ここでは、「ギリシャ神話」にもとづいて、北天と南天の2枚の天球上に「星座」を描いています。江漢が下敷きとしたのは、オランダの「天球図」とされます。

137-4.jpg この頃になると、司馬江漢の「地動説」への理解が進むとともに、宇宙の全体像への関心を強めていきます。

 右図は、寛政8年に江漢が出版した『和蘭天説』の中の一図ですが、ここでは、「地動説」や「太陽系の構造」などについて説いています。

 晩年の司馬江漢は、生来の自己主張の強さや型破りの行いが蘭学者たちの反感を買い、断絶状態となってしまいます。
 60代に入ってからは、銅版画や油彩画はほとんど制作せず、禅や老荘思想に傾倒するという孤独な晩年でした。

 文化10年(1813年)には、江漢(67歳)は、下図のようなチラシを作って、人々に配るということをやっています。

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 ここには「鎌倉・円覚寺の誠摂禅師の弟子となり、ついに大悟したが、病で死んだ」と書かれている。何と、まだ生きているのに、自分の「死亡通知」を市中に配ったのです。
 その上、記された年齢も「76翁」と、実年齢(67歳)よりも9歳プラスして書いている。

 このような行動は、洒落っ気からやったのか?
 あるいは、世間に忘れられていく自分をアピールしようとしたのか?そして世間の反応を確かめようとしたのか?
 どこか屈折した、孤独な精神状況を感じさせます。

 司馬江漢が本当に死んだのは、その5年後のこと。文政元年(1818年)10月21日、72年の生涯を閉じました。
 まことに司馬江漢という人間は、江戸時代中期、社会の転換期に登場したそれまでに見られないタイプの革新的、かつ型破りの画家であり、間違いなく、新しい絵画のパイオニアだったと言えるでしょう。

 これで≪江戸・洋風画の先駆者たち≫のうち、「司馬江漢」についての紹介を終わりとします。
 次回からは、江戸時代中期、司馬江漢と共に、「銅版画」や「油彩画」などの「洋風画」に取り組んだ「亜欧堂田善」(あおうどうでんぜん)の画業を紹介していきます。
(次号に続く)


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浅草風土記 №35 [文芸美術の森]

浅草の喰べもの 1

        作家・俳人  久保田万太郎
                        
 料理屋に、草津、一直、松島、大増、岡田、新玉(しんたま)、宇治の里がある。

 鳥屋に、大金、竹松、須賀野、みまき、金田がある。

 鰻屋に、やっこ、前川、伊豆栄がある。

 天魅羅屋に、中清、天勇、天芳、大黒屋、天忠がある。

 牛屋に、米久、松喜、ちんや、常盤、今半、平野がある。

 鮨屋に、みさの、みやこ、すし清、金ずし、吉野ずしがある。

 蕎麦屋に、奥の万盛庵、池の端の万盛庵、万屋、山吹、薮がある。

 汁粉屋に、松邑、秋茂登、梅園がある。

 西洋料理屋に、よか榛、カフェ・パウリスタ、比良恵軒、雑居屋、共遊軒、太平洋があ
る。

 支那料理屋に来々軒がある。

 この外、一般貝のたぐいを食わせるうちに、蠣めし、野田産があり、てがるに一杯のませ、且、いうところのうまいものを食わせるうちに三角、まるき、魚松がある。

 これらのうち、草津、一直、松島、大増、新玉、及び、竹松、須賀野、みまき等は、芸妓の顔をみるため、乃至、芸妓とともに莫迦騒ぎをするために存在しているうちである。
宴会でもないかぎり、われわれには一向用のないところである。
 往年、五軒茶屋の名によって呼ばれたうち、草津、一直、松島の三軒は右の通り、万梅は四五年まえに商売をやめ、今では、わずかに、大金だけが、古い浅草のみやびと落ちつきとを見せている。
 座敷のきどり、客あつかい。――女中が結城より着ないゆかしさがすべてに行渡っている。つくね、ごまず、やきつけ、やまとあげ、夏ならば、ひやしどり、いつも定っている献立も、どこか、大まかな、徒らに巧緻を弄していないところがいい。――われわれ浅草に住む人間の、外土地の人の前に自信をもって持出すことの出来るのは、このうちと金田とだけである。
 金田は、同じ鳥屋ながら、料理は拵(こしら)えず、鍋で食わせるばかりのうちである。先の主人は黙阿弥と親交のあった人だったそうだが、そういう人の経営したところだけ、間どりもよし、掃除もつねに行届き、女中も十四五から十七八どま。の、始終樺をかけた、愛想のいい、中気のきいたものばかりを揃えてある。諸事、器用で、手綺麗なのが、われわれには心もちがいい。――使うしなものも、われわれのみたところでは、人形町の玉秀、大根河岸の初音、池の端の鳥栄とともに、きびきびしたいいものを使っている。
 ただ、残念なことに、ここのうち、功成り、名とげて、近いうちに商売をやめるといううわさがある。もしそのうわさが真実ならば、われわれは、あったら浅草の名物を一つ失うわけである。われわれはそのうわさの真実にならないことを祈っている。
 前川というと、われわれは子供の時分の印象で、今でも、落ちついた、おっとりした、古風な鰻屋だということが感じられる。だが、このごろでは、以前ほどの気魄はすでに持合わさないようである。時代は、浅草のうなぎやとして、ここよりも田原町のやっこのほうを多くみとめさせるようになった。――無駄をいうことを許してくれるならば、わたしは、名代な、あの、おひさという女中。――六十は、もう、何年かまえに越したであろう
と思われる、このごろでは馴染の客の顔さえときどきみ忘れることがあるという、いつも正しく小さな馨に結い、樺がけで、大儀そうに、また、張合なさそうに働いているあの女中が、ところもたまたま駒形の前川といううちの運命を寂しく象徴しているといいたい。
 やっこは前川にくらべると、今でも、やや品下ったところがある。それだけ景気がいい。
活気がある。表の見世は入れごみだけれど、裏にまわれば、玄関、座敷、その他、芸妓を入れることの出来るような設備がしてある。

『浅草風土記』 中公文庫


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こふみ会へGO七GO №135 [ことだま五七五]

こふみ句会へGO七GO  №135
「秋涼」「秋の田」「秋蝶」「苦瓜」 

                       俳句・こふみ会

幹事さんから、≪令和6年9月の句会≫の案内状が送られました。

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こふみ句会の皆さま
今月の幹事のすかんぽと蕃茄です。

大変お待たせいたしました。
秋風とともに9月のご案内……と言いたいところですが、
猛がつく残暑の中、句会のご案内をさせていただきます。

【兼題】(各兼題一句、計4句投句してください)
●新涼・涼新た・秋涼し
●秋の田・稔り田・稲田
●秋蝶・秋の蝶
●茘枝(れいし)・苦瓜・ゴーヤー

【スケジュール】
9月19日(木)24:00投句締切(すかんぽと蕃茄に送付お願いします)
9月24日(火)24:00選句締切(すかんぽと蕃茄に送付お願いします)

【トピック】
今月から新しいお仲間が参加されます。
サン・アドの若きコピーライターさんです。
以下、ご本人からのごあいさつです。

はじめまして、髙久(たかひさ)麻里と申します。
大友さんからお誘いをいただき、9月よりこふみ会に参加させていただきます。
同僚のコピーライターから佐藤文香さんの『俳句を遊べ!』をおすすめされ、
「面白そう!」と思ったことがきっかけで俳句をはじめました。
月にいくつかの句会に参加しつつ、8年ほど俳句を続けています。
今までずっと無所属でしたが、最近は結社にも興味が出てきました。
どうぞよろしくお願いいたします。

麻里さんの若々しい感性に、バージョンアップした英愛さんも加わり、
一段とにぎやかな9月の句会になりそうです。
皆さま、負けてはいられませんぞ!ご健吟を。

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案内に応じて以下の句があつまりました。18名72句。

【新涼】
01 新涼の銀座知人の版画展(一遅)
02 葉書書くインクの青や秋涼し(虚視)               
03 新涼や夕べ拾いし仔犬の目(鬼禿)
04 涼新た大地にしみる雨の朝(彌生)
05 新涼を嗅ぎとる今朝の遊歩道(玲滴)
06 涼新た半袖のままかはおろうか(兎子)
07 秋涼し葉擦れの音の乾きたる(なつめ)
08 新涼や血液検査の針痛し(矢太)
09 秋涼し妻の残り香ディオリッシモ(紅螺)
10 新涼と書いて貼れども涼は来ず(尚哉)
11 聞きに寄る水琴窟や涼新た(八傘)
12 新涼やサイフォンの音なつかしく(下戸)
13 新涼のグラスにそそぐ水の音(すかんぽ)
14 皮膚一枚脱ひだる心地涼新た(華松)
15 昼下がり忘れ帽子や秋涼し(蕃茄)
16 麻服の脱ぎ捨てられて秋涼し(茘子)
17 新涼や水はコップのかたちして(高久麻里)
18 新涼や指先迷う言の葉に(英愛)

【秋の田】
19 秋の田や電気自動車音もなし(英愛)
20 秋の田にふんばつてゐる長毛種(高久麻里)
21 稔り田と云へども色のまちまちに(すかんぽ)
22 秋の田や刈る鎌の手も早まりて(蕃茄)
23 頸椎が折れんばかりの稲田かな(華松)
24 人も鳥も笑い弾ける稔りの田(茘子)
25 コンバイン小豆に見える稲田かな(下戸)
26 垂れるさま絵の具重ねた稲田の絵(八傘)
27 稔る田をカメラ片手に進み行き(尚哉)
28 昏れてゆく稲田の風に笛太鼓(紅螺)
29 稲田に立つ案山子は聞くや神の声(矢太)
30 辻風にあおりあおられ稲田かな(なつめ)
31 からっぽのタナで待ちます稲田のギフト(兎子)
32 風走り棚田あざやかに色づきぬ(玲滴)
33 稔り田やまこと瑞穂の国なりき(彌生)
34 秋の田や日本武尊と黒い富士(鬼禿)
35 秋の田の一点の俺コンバイン(虚視)
36 秋の田や金髪が半分もう坊主(一遅)

秋蝶】
37 ひと夏の恋も終わりか秋の蝶(なつめ)
38 死にもせずただ生きており秋の蝶(鬼禿)
39 拉致家族には仄暗し秋の蝶(八傘)
40 同調圧振り捨て生きろ秋の蝶(尚哉)
41 秋蝶よ逃げよ列車の迫り来る(すかんぽ)
42 日の暮れになお生きいそぐか秋の蝶(玲滴)
43 浮かばない水辺を秋の蝶まはる(高久麻里)
44 苔の上むくろとなりて秋の蝶(虚視)
45 低木をそっと飛び越え秋の蝶(華松)
46 秋蝶や手紙となりて誰の手に(英愛)
47 秋蝶の休み休みゆく二頭連れ(一遅)
48 かの戦パンデミックも知らず秋蝶(彌生)
49 来世にも添い翔べ秋の蝶二つ(蕃茄)
50 秋の蝶追うて辿れば父の墓(茘子)
51 秋の蝶浅き夢見じ酔ひもせず(矢太)
52 歌舞伎町だまらせて飛ぶ秋の蝶(下戸)
53 屋上のはしで会いましょ秋の蝶(兎子)
54 風のまま伊良湖岬の秋の蝶(紅螺)

【苦瓜】
55 齢重ねゴーヤの苦味滋味と知る(玲滴)
56 年長けて苦瓜苦いほどうまい(紅螺)
57 親友は苦瓜ほどに嫌なやつ(下戸)
58 苦瓜の一つ残りて夏惜しむ(茘子)
59 苦瓜や思い出したくなきことばかり(矢太)
60 穫り忘れ苦瓜真っ黄 熟しに熟す(兎子)
61 ゴーヤ切る隣の声に手を休め(英愛)
62 苦瓜や今年も手出しできなくて(華松)
63 赤青黄信号機のごとゴーヤ熟れ(蕃茄)
64 苦瓜のワタをスーと匙でとる(一遅)
65 本音とは斯くなるものよ朽ち茘枝(鬼禿)
66 豆腐の角とれてゴーヤーチャンプルー(高久麻里)
67 熟れ熟れて苦瓜種より血を流す(虚視)
68 ゴーヤーの苦し旨しと笑みにけり(すかんぽ)
69 少し泣いて苦瓜ほじる爪痛し(尚哉)
70 室外機にもよく耐えしゴーヤ獲る(八傘)
71 苦瓜を割れば名残りの夏の香や(なつめ)
72  ゴーヤおそろし熟れて真っ赤な種を吐く(彌生)

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【天句鑑賞】  ※順不同

虚視選
新涼や水はコップのかたちして    (高久麻里)
一読、この句が頭から離れませんでした。
形のない水はコップに注がれれば、コップの形になって確かなものとして存在する。
新涼という形のない冷気は、どの様な形となって存在するのだろう。
いつの間にか寂寥感と共に夏という季節が終わり、秋の冷気が密やかに忍び寄る、
何処か不安に満ちた孤独感が見事に表現されています。

矢太選
秋蝶よ逃げよ列車の迫り来る     (すかんぽ)
景が鮮やかに浮かびつつ、心象風景を見事に成している。俳句の真骨頂である。

八傘選
秋蝶よ逃げよ列車の迫り来る     (すかんぽ)
決まったレールの上を巨大な決まりらしきものがくる、
はい、逃げてはみましょう。
力乏しき秋蝶には空なる作業とは思いますが、
それがレールの上にいる者の定め。へっ。

下戸選
葉書書くインクの青や秋涼し     (虚視)
「インクの青」と「秋涼し」の言葉のつながりが美しい。
気持ちのいい涼感が伝わってきました。

鬼禿選
拉致家族には仄暗し秋の蝶     (八傘)
泥水と馬鹿議員と虐殺戦闘の時代に 唯一の賢句。
ただ「お先真っ暗」を「仄暗し」と・・か。

弥生選
秋涼し妻の残り香ディオリッシモ   (紅螺)
一読 ディオリッシモの香りが広がりました。
甘過ぎず濃厚すぎず、爽やかな鈴蘭の香りは初秋にピッタリ。

茘子選
葉書書くインクの青や秋涼し    (虚視)
日常を優しい目で見つめている。
美しい文字で書かれたハガキが眼に浮かぶ、そんな素敵な句です。

紅螺選
低木をそっと飛び越え秋の蝶    (華松) 
夏を謳歌した蝶は静かに季節の終わりを
迎えようとしている優雅に、粛々と…

華松選
秋蝶の休み休みゆく二頭連れ    (一遅)
人も蝶も炎暑にくたびれ果てました。
休み休みゆくとの表現に、とても惹かれました。

なつめ選
新涼や夕べ拾いし仔犬の目      (鬼禿)
少し肌寒くなったと感じる秋風と、
懇願するかのような仔犬の瞳に物悲しさが重なります。
思わず愛犬を抱きしめたくなりました。

一遅選
稔り田やまこと瑞穂の国なりき    (弥生)
てらいの無い、明快で端正な立場の句。心地よさを感じました。

尚哉選
秋蝶や手紙となりて誰の手に     (英愛)
ひたすら綺麗な句です。死と転生のドラマ。
ギリシャ神話をほうふつとさせますね。

兎子選
苦瓜や思い出したくなきことばかり  (矢太)
「苦瓜」という言葉から、スッと素直に感じ取られる気分を
表現していると思いました。てらいなく、かまえなく。

玲滴選
葉書書くインクの青や秋涼し     (虚視) 
便りをするのは季節をとわないのに、一瞬インクの色に秋を感じた
遠い日の記憶がよみがえりました。
あのころはボールペンではなく万年筆だった・・・。

高久麻里選
秋涼し葉擦れの音の乾きたる     (なつめ)
夏から秋へと季節が移り変わったことを、音で知覚させる描きぶりが
巧みだと思いました。涼しさを感じる風と、
からっと晴れた天気に秋らしさを感じます。

英愛選
浮かばない水辺を秋の蝶まはる    (高久麻里) 
秋の蝶が水辺を舞う様子を、「浮かばない」という
意外性のある表現で描いた秀逸な一句。
季語の効果的な使用と独創的な視点が、
読者の想像力を刺激し、深い余韻を残します。
水面に映らない蝶の姿が、秋の儚さを象徴的に表現しています。

蕃茄選
本音とは斯くなるものよ朽ち茘枝   (鬼禿)
真っ赤な種を「本音」と詠んだ表現力に恐れ入りました。
あの鮮やかな赤には本音が詰まっていたんですね。

すかんぽ選
親友は苦瓜ほどに嫌なやつ      (下戸)
「親友」と言いつつ「嫌なやつ」と言い切る俳諧味。
しかも「ほど」として苦瓜の立ち位置を絶妙に表している。

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【今月の天地人】

【天】高久麻里・虚視・すかんぽさん37点

【天句】新涼や水はコップのかたちして(高久麻里) 30点
【地句】葉葉書書くインクの青や秋涼し(虚視)   23点
【人句】秋蝶よ逃げよ列車の迫り来る (すかんぽ)  19点
【人句】親友は苦瓜ほどに嫌なやつ (下戸)     19点

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【幹事よりひと言】

選句を集計している間に、待ちに待った秋が到来し、
秋を感じながら皆さまの句を鑑賞する楽しみを得られました。
高久さん、初参加で総合天・天句獲得おめでとうございます。
虚視さん・すかんぽさんと「37-37-37」と並んだのを見たときは
大谷翔平の特大ホームランのような衝撃でした。
総合天と天句の「50−50」も狙えるのではないでしょうか。(蕃茄)

いやはや、びっくりです。総合天が3人並んでしまいました。
高久さん、総合天おめでとうございます。前評判通りの実力を発揮されました。
今回は天句をはじめ選がかなり割れ、楽しい点盛りになりました。
みなさま、円滑なご協力ありがとうございました。(すかんぽ)


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山羊の歌 №1 [文芸美術の森]

春の日の夕暮

       詩人  中原中也

トタソがセソベイ食べて
春の日の夕暮れは穂かです  
アンダースローされた灰が蒼ざめて
春の日の夕暮れは静かです

吁(ああ)! 案山子はないか - あるまい
馬噺(いなな)くか - 噺きもしまい
ただただ月の光のヌメランとするまゝに
従順なのは 春の日の夕暮れか

ポトホトと野の中に伽藍は紅く
荷馬車の車輪 油を失ひ
私が歴史的現在に物を云へば
嘲(あざけ)る嘲る 空と山とが

瓦が一枚 はぐれました
これから春の日の夕暮れは
無言ながら 前進します
自らの 静脈管の中へです

『中原中也全詩集』角川文庫

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読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №192 [ことだま五七五]

      読む「ラジオ万能川柳」プレミアム☆9月4日、11日放送 

         川柳家・コピーライター  水野タケシ


川柳家・水野タケシがパーソナリティーをつとめる、 
読んで楽しむ・聴いて楽しむ・創って楽しむ。エフエムさがみの「ラジオ万能川柳」、 
9月4日の放送です。
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少しずつ秋の気配が。。。

「ラジオ万能川柳」は、エフエムさがみの朝の顔、竹中通義さん(柳名・あさひろ)が
キャスターをつとめる情報番組「モーニングワイド」で、
毎週水曜日9時5分から放送しています。
エフエムさがみ「ラジオ万能川柳」のホームページは、こちらから!
https://fm839.com/program/p00000281
放送の音源・・・https://youtu.be/yF7yecn_gTc

先週のボツの中からあさひろさんイチオシの句をご紹介!!
 あさひろさんのボツのツボ
「退職し我が家も金曜カレーの日」(とんからりんさん作)

(皆さんの川柳)※敬称略
※今週は178の投句がありました。ありがとうございます!
 ・看病も介護も忍の一文字で(矢部暁美)
・お見合いに免許写真は向いてない(東孝案)
・もう水曜日あっという間にラジ川日(ゆかいな仲間)
・悪口が得意な方が大統領(ヴィノクロ)
・信じない神も夫も占いも(大名人・美ら小雪)
・行きつけのお店コロナで消えている(とんからりん)
・少しだけ進展天使がんばった(恋愛名人見習い・名もなき天使)
・笑っちゃうお粥も並ぶ米の棚(名人・遊子)
・フォーク刺し食べたいような満月です(柳王・恋するサボテンちゃん)
・大雨に弱いBSと新幹線(柳王・東海島田宿)
・人は皆雨雲レーダー検索中(シゲサトシ)
・子の笑い声「騒音」じゃなく「宝」(名人・大和三山)
・絵日記をまとめて書いた罪悪感(柳王・ぼうちゃん)
・皆勤賞ムリをしたんだねと言われた(柳王・せきぼー)
・山車はある担ぎ手探し四苦八苦(じゅんちゃん)
・自慢げに夫をけなす熟女会(大名人・やんちゃん)

☆タケシのヒント! 
「賑やかな熟女会の様子が目に浮かぶようです。私もきっと妻にけなされているんだろうなぁ(苦笑)。」

・種類増え単にブドウは通用ぜず(雄之丞)
・コロナ明けスーパー行けば米が無い(柳王・アンリ)
・「きれいだね」寡黙な夫の先に月(大柳王・すみれ)
・散歩道ひと夏過ぎて空き店舗(ココナッツ)
・日本がよほど気に入ったか台風(柳王・ワイン鍋)
・食欲の秋を邪魔する米騒動(名人・しゃま)
・美女句会資格はあるが遠すぎる(大名人・くろぽん)
・シトシトと静かな雨よ今いずこ(大名人・じゅんじゅん)
・最初から格差なのかなベビーカー(名人・居酒屋たつみ)
・宴は続くパラリンピック(名人・パリっ子)
・日本中ひとつの雲に覆われる(柳王・はる)
・だったらば私行かなきゃ小田急会(大名人・不美子)
・この歳でLINE漫画にハマっちゃい(名人・のりりん)
・心配だ地球に優しいお嫁さん(柳王・咲弥アン子)
・美女ぞろい小田急会は夢の会(ナンパも大名人・soji)
・笹食べて高血圧になるなんて(大柳王・ユリコ)
・調子悪休まずご飯作らされ(柳王・ポテコ)
・歳言うとウソーと言われるそんな歳(大柳王・けんけん)
・妊婦さん見ると応援したくなり(全裸名人川柳家・そうそう)
・届いたぞ川柳プログラム開始(楠亀えり香)

◎今週の一句・自慢げに夫をけなす熟女会(大名人・やんちゃん)
◯二席・フォーク刺し食べたいような満月です(柳王・恋するサボテンちゃん)
◯三席「きれいだね」寡黙な夫の先に月(大柳王・すみれ)

【お知らせ】
不肖・水野タケシ、この秋、相模原市の田名公民館で川柳講座を行います!!
ただいま、電話にて申込受付中!!
参加費、なんと、無料。ご興味ある方はお気軽にご参加くださいね!!
講座は①9月20日(金)と②11月8日(金)の2回開催。
いずれも午後2時から4時まで。
相模原市内在住の成人を対象に30人限定。
①では川柳の楽しさを、②では自作の句を出し合い評価しあう「句会」の楽しさを
体感いただきます。
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【編集後記】
田名公民館での川柳講座もそうですが、
9月10月と川柳のイベントが目白押しです。
この9月10月が台風のシーズン。
何事もなくイベントが開催できることを祈っています。(水野タケシ拝)

〇9月11日の放送です
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ファンブック124号とともに!!

放送の音源・・・https://youtu.be/zKL_QYyCSsI

先週のボツの中からあさひろさんイチオシの句をご紹介!!
 あさひろさんのボツのツボ
「たまに居る句作り下手な句会好き」(じゅんじゅん大名人作)

(皆さんの川柳)※敬称略
※今週は156の投句がありました。ありがとうございます!
・老いてから妻が仏に見えてきた(柳王・春爺)
・マスコミを味方につける者の勝ち(なつ)
・投票率高い国ほど怖いような(名人・遊子)
・暑かった何とかもった水・電気(刑事コロンダ)
・雨上がりボディーラインに似たヘチマ(水谷裕子)
・ありますか美男が揃う川柳会(雄之丞)
・いつの間にお世辞も上手くなる夫(大名人・やんちゃん)
・初ボレー決めた娘のあの笑顔(大名人・美ら小雪)
・夏痩せの夫の体重越えました(初投稿・ぱせり)
・40にも45にも麻痺50だね(ココナッツ)
・日替わりで総裁候補と昼定食(名人・居酒屋たつみ)
・突然に蜂と遭遇アタフタタ(ゆかいなな仲間)
・車イス壊れないかと金トライ(柳王・東海島田宿)
・オオタニと政局ひりひりする9月(シゲサトシ)
・安心の味と居心地町中華(初投稿・てけさん)
・ラジ川のボツが仲畑流に載る(大名人・高橋永喜)
・石灰が走りて香る運動会(ヴィノクロ)
・暑いけど夜には秋の虫の声(柳王・はる)
・ 一票より気になる価格米一俵(名人・まご命)
・参加する事に意義ある総裁選(柳王・アンリ)
・あの記事がついに載ったかファンブック(名人・大和三山)
・戦場にポリオワクチン飲む笑顔(柳王・ぼうちゃん)
・あー今日も恙無き日よ五時の鐘(大柳王・すみれ)
・爺婆もアンパンマンにゃ勝てません(大柳王・里山わらび)
・没のツボ聞いて句帳にバツつける(大柳王・入り江わに)
・Zoomだけもったいないなファンデーション(TUNA M I)
・総裁にならなくたってやってくれ(柳王・ワイン鍋)
・同窓会モテた男は出て来ない(大柳王・平谷五七五)

☆タケシのヒント! 
「同窓会は川柳になりやすい句材ですが、これは面白い視点ですね。ズバッと見事に言い切りました。説得力があります。」

・パラリンの選手はみんなOnly One(名人・パリっ子)
・不美子さんをナンパしました小江戸会(名人・しゃま)
・「逢いたい」の4文字嬉し待ってます(大柳王・けんけん)
・無農薬理想に終わりキュウリ喰う(大名人・くろぽん)
・元気出る小田急会が楽しみで(柳王・咲弥アン子)
・日焼け止め切れてないかとナンパする(ナンパも大名人・soji)
・アナ泣かせパリパラリンよアリガトウ(全裸名人川柳家・そうそう)
・ちょっとだけ血圧上がる水曜日(名人・のりりん)

◎今週の一句・同窓会モテた男は出て来ない(大柳王・平谷妙子)
◯二席・日替わりで総裁候補と昼定食(名人・居酒屋たつみ)
◯三席・ 一票より気になる価格米1俵(名人・まご命)

【お知らせ】
4月から編集作業を行ってきた毎日新聞朝の顔「仲畑流万能川柳」、
その交流誌「仲畑流万能川柳ファンブック」124号(9月号)、現在配本中です!!/
さて、今号の目玉は、なんといっても、もちろん、ヒットメーカー対談!!
一応、仲畑さんがホストの「対談」はこれが最後になるということで、
これは、もう、大注目です!!31年間の集大成をぜひご覧ください!!
そして、5年ぶりにリアルで行われた強運者の集いのリポート!!
やっぱり、リアルで集うのはいいですねえ!!写真も素晴らしいですよ!!

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【編集後記】
朝晩は涼しい風が吹くようになりましたが、
日中はまだまだ暑いですね。夏が好き(だった)私も、
いい加減、つらくなってきました。日中も早く涼しくなってほしいな。(水野タケシ拝)
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水野タケシ(みずの・たけし)
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1965年生まれ。コピーライター、川柳家。東京都出身
著書に「水野タケシ三〇〇選」(毎日新聞東京センター)、
「いちばんやさしい!楽しい!シルバー川柳入門」(河出書房新社)、
「これから始める俳句・川柳いちばんやさしい入門書」(神野紗希さんとの共著、池田書店)。
ブログ「水野タケシの超万能川柳!!」  http://ameblo.jp/takeshi-0719/ 


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雑記帳2024-10-1 [代表・玲子の雑記帳]

2024-10-1

◆7月の三光院サロン『京都ルネサンス』は、与謝蕪村の登場でした。9月はその後半です。『知の木々舎』で再掲中の「郷愁の詩人与謝蕪村」は、明治の詩人、萩原朔太郎の手になるものです。朔太郎と同郷の斉藤陽一さんは、晩年京都におちつくまでは一所不在だった蕪村の後半の人生を、画家としての面から迫りました。

東北から近畿まで、一所不在の身で各地を巡ったあと、ようやく都に腰を:落ちつけ、蕪村は本格的に、師につくことなく、絵の修行を始めました。やがて、京都画壇での知名度も上り、文人画家としてしられるようになった蕪村は、明和8年、池大雅と「十便十宜図」の競作を行います。  
国宝の「十便十宜図」を所有していたのがなんと川端康成と言うのも面白いではありませんか。

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大雅の絵には、おおらか、大胆、のびやか、おだやか、といった鑑賞がよせられています。飄逸にして天真爛漫、とらわれない大雅の気質があらわれているのでしょう。
これにたいして、蕪村はどうでしょう。
蕪村は「詩書画三絶」を意識して、自然への関心が強い作品になっています。
詩書画三絶とは中国文人の理想であり、詩、書、画の三つに優れていることを意味する中国がの伝統滴絵画観です。

絵には小路が描かれます。朔太郎は蕪村を「小路に郷愁を憶える詩人」と評しています。気を付けてみると蕪村の絵には小路が必ずでてきます。多くは曲がった行先が風景の中に消えてしまう。蕪村の、生まれながらに細やかな、感受性の強い資質なのかもしれません。

蕪村の絵は、俳味と詩情ただよう独自性を発揮しています。
「王子猷訪戴安道図」をみてみましょう。天明元年、蕪村66才のと気に描かれた一幅です。

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雪の日、友人の家を訪ねた蕪村が、家にたどり着いたものの興が尽きたからと会わずに帰ったというエピソードがあります。自身の経験をそのまま絵にしたものです。風雅を愛する文人は、交わりの清さを良としました。月光に照らしだされた雪あかりの景色には日本人の四季に対する感性があらわれています。

蕪村は家には寄らなかったものの、その時の句をいくつも残しています。
君子の交わりを良しとしながら、実際は情愛の深い人だったのでしょう。

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「山野行楽図屏風」は六曲一双の重要文化財です。

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右には三日月、秋の気配です。時刻は黄昏。左図に描かれているのは全部酔っ払いです。
人恋しさの気質があらわれているような画面です。
背景が省略された絵は人物だけが描かれ、もはや伝統的な山水画ではありません。
ここにも小路がでてきます。蕪村は小路好き。俳画一体となった境地です。

「竹林家屋・柳陰騎路図屏風」重文。

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右図は、線のグラデーションで霞にかすむ竹林が描かれ、さわやかで清々しい。隠棲した老人は蕪村の憧れでした。
左図には雨にけぶる柳の連なる長い道があります。無常を感じさせます。
背景の山さえ省略された、日本特有のやわらかい空間表現は、湿潤な日本の風景にぴったりです。
この絵にちなんで、蕪村はこんな句も残しています。

  春風や道長うして家遠し

ここにも郷愁の中の小路が登場し、近くに住みながら一度も足を踏み入れることのなかった故郷、毛馬村への思いがあふれるようです。

蕪村の最晩年の作品は、異色の三部作と言われます。

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「富嶽列松図」

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蕪村の心の中にある富士山を象徴的に描いています。
松林は筆の濃淡によって描き分けられています。
方や、何もない真っ白な富士山。最も簡潔な山です。
単純化された画面は俳句の世界と同じです。

上図の3部作の画像のうち、右下の「峨眉露頂図」は、頂の部分だけを切り取った峻厳な峰々が描かれています。
李白の四言絶句「峨眉山月の詩(うた)」からとられました。三日月と相まって幻想味のある風景画です。

「夜色楼台図」

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京の雪景色です。
一見して中国の水墨画のように見えますが、舞台が京の都であることが異色と言われる所以です。蕪村にとっては京は生活の場でもありましたが、都をそんな視点で捉える画家はいなかったのです。
胡粉やぼかし、垂らし込みなどの技法をこらして、降り続く雪の質感を感じさせる。家々に使われてる赤絵の具は灯を暗示します。底冷えのする京都の雪景色中に営まれている人々のくらし・・・。

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この絵に因んだ蕪村の句です。

   埋み火や わが隠れ家も 雪の中

三好達治の詩、「雪」をおぼえていますか。「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降り積む・・・」はこの絵を見て着眼したと言われています。

もう一つ、迫力ある双福の絵をご紹介しましょう。

「鳶・鴉図」

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蕪村の到着点といわれる大作です。

右図の、いどむような鳶に対し、左に描かれた二羽の鴉は、静かに降りしきる雪の中に肩をよせあって寒さに耐えているようです。
去来、芭蕉の句を発想源にしながら、それだけだはない。
鳶は茶色、薄い墨を重ねて羽毛の質感を出し、眼は黄色を付けて鋭い眼光をあらわしています。
鴉の羽には藍色を加えて、つややかさを出し、眼には赤い顔料がつかわれています。
降りしきる雪はあえて塗り残し、墨の滲みとともに重たい雪の質感を出しています。
蕪村は弟子にもやさしかったといわれていますが、暖かいまなざしが感じられる絵です。

そして、元明2年、蕪村67才の時に描かれた「山水図屏風」は最後の力作となりました。

元明3年(1783年)、12月25日、蕪村は68才で生涯を閉じました。辞世の句です。

  しら梅に 明くる夜ばかりと なりにけり

◆三光院の菊月のメニューには今年一番に採れた里いものふり柚子が加わりました。ご飯は黄菊のおばんに月見だんごの吸い物が付きました。
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BS-TBS番組情報 №313 [雑木林の四季]

2024年10月前半のおすすめ番組

     BS-TBSマーケティンブPR部

第15回アジアパシフィックアマチュアゴルフ選手権

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10月5日(土)午後5:00~5:54
10月6日(日)午後7:00~8:54

☆優勝者は2025マスターズへの出場権獲得!若き日本人選手たちがアジア制覇を成し遂げられるか!? 

2009年の第1回大会は中国深圳(しんせん)、2010年は日本・霞ヶ関カンツリー倶楽部で開催。
2020年は新型コロナウイルスの感染拡大を受け中止となったが、今年14年ぶりに日本で開催!
舞台は、2018年に松山英樹監修のもと全面改修を行った太平洋クラブ御殿場コース。
この大会はアジア太平洋地域の将来有望なアマチュアゴルファー育成が目的とされ、優勝者は翌年のゴルフのメジャー大会であるマスターズと全英オープンの出場資格が得られる。
また2位の選手には、全英オープン最終予選会の出場資格が付与されるという、アマチュアゴルファーにとってはまさに“夢”のようなトーナメント!!

今年、出場予定の日本勢は10名。
昨年日本アマチュアゴルフ選手権を制した中野麟太朗(早大)や、今年の大学ゴルフスーパーリーグで、団体優勝と個人2位という成績を残した小林翔音(しょおん)なども出場。
さらには日本ミッドアマ3連覇中の47歳、豊島豊も若き選手に食らいつく。
日本人選手たちはアジア制覇を成し遂げることができるのか!?

<出場日本人選手> 
■中野麟太朗(早大) 
■小林翔音(しょおん)(日大)  2024大学ゴルフ団体優勝 個人2位/2024関東アマ優勝
■福住(ふくずみ)修(専修大)  2022日本学生ゴルフ選手権7位
■古瀬幸一朗(東北福祉大)
■隅内雅人(日大) 
■佐藤快斗(埼玉栄高)
■丸尾怜央(日章学園高校)
■松井琳空海(りうら)(香川西高)
■本(もと)大志(目黒日本大学高) 
■豊島豊(47歳) 日本ミッドアマ3連覇中

◆キャスト
解説:中嶋常幸
実況:小笠原亘(TBSアナウンサー)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ラーメンを食べる。

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10月8日(火)午後11:00~11:30

☆行列必至の人気ラーメン店の日常に密着。最後は店主の想いがつまった珠玉の一杯を、ラーメン好きの芸能人が黙々と味わい尽くす! 

行列必至の人気ラーメン店の日常に密着する番組。早朝の仕込みから閉店までを、ひたすらカメラが追いかける。そこから見えてくる、店主のラーメンに込める想いとは-。そして最後は、店主の想いがつまった珠玉の一杯を、ラーメン好きの芸能人が黙々と味わい尽くす!ラーメン好きの為のラーメンドキュメンタリーである。

【密着する店】
2022年9月に東京・亀戸にオープンした行列のできるラーメン店。「TRY ラーメン新店対象醤油部門」で1位を獲得するなど注目を集める店。
地鶏・ブランド豚・天然醤油など素材にこだわり作られた澄んだスープは、複雑で旨味も強い。さらにやわらかくコクのある豚を使用したチャーシュー、国産の小麦粉をブレンドして打つ滑らかなのどごしの自家製麺も魅力。

【ラーメンを食べる人】
フリーアナウンサーのほか、モデル、タレントなどマルチな活躍を見せる森香澄が、複雑な旨味を持つ澄んだスープと、滑らかなのどこしの自家製麺が魅力のラーメンを食す。果たしてそのお味は?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
美しい日本に出会う旅

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10月9日(水)午後9:00~9:54

☆ボクたちと一緒に、出かけましょう。井上芳雄、瀬戸康史、松下洸平。3人の気ままな旅人が、あなたを美しい日本にいざなう。

井上芳雄が案内する立山黒部アルペンルートの旅。
運河を通る⽔上ラインで海辺の町・岩瀬へ。
沙石で満寿泉を飲み比べ、江⼾時代から続く売薬⼀家・成⽥家の古⺠家「売薬宿屋 ⼭キ」で一泊。スティーブ・ジョブズが愛した越中瀬⼾焼の⼯房「庄楽窯」で貴重な作品を見学したら旅のメイン・立山黒部アルペンルートを目指す。美女平のタテヤマスギ、みくりが池の先にある⽇本⼀⾼所の天然温泉、絶景の大観峰を堪能!

語り:井上芳雄

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海の見る夢 №86 [雑木林の四季]

  海の見る夢
        -鳥の言葉―
                 澁澤京子

この間、you tubeで面白かったのが、トルコ人ユーチューバー、ルフィ・チネッツさんのタンザニアの狩猟民族ハッザ族を追ったドキュメンタリー。ハッザ族の人々の、その狩猟の対象とする鳥や動物の鳴き声の真似が動物や鳥にそっくりであること、また彼らの言葉には、舌を鳴らす音が多い事がとても興味深かった。そう、よく鳥を呼ぶときに人が舌で鳴らす「チッ、チッ」という音である。また、狩猟民族には時間の概念がなく未来のことを考えない、重要なのは「今・ここ」だけ。(時間の概念が出てくるのは農耕がはじまってからなんだろうか?)古代の狩猟民族の生活様式を保っている部族の言葉には、私たちの言葉のルーツというものが潜んでいるかもしれない。そして、ハッザ族の動物の鳴きまねの上手さは、かなり鳥に似ている。

我が家には今、ウロコインコ(一歳三か月メス)がいる。毎朝彼女は「チ―(ウンチ)」と教えるし、お腹がすいたときは「ゴアン(ゴハン)」、遊んでほしい時は「ルーちゃん(自分の名前)」を連呼。紅茶にお湯を注ぐ前に「ジュッ」とお湯を注ぐ音を再現し、ケージに入れられる時とか、あるいは叱られるようないたずらをした時に自分から「ダメ」と言う。野鳥の群れが囀っていると、一生懸命、窓の外に向かって「ルーちゃん」を連呼して自分をアピールしている姿を見るとなんだか可哀そうになるが・・you tubeで検索すると、「(ウンチ)出る」「(ウンチ)出た」と、現在形と過去形の使い分けのできるようなウロコインコや、色を識別し、さらに数を数えられ(8まで)、0の概念までわかるヨウムなど優秀な鳥をいくらでも見ることができるので、我が家のインコは鳥の中ではごく普通の知能だと思う。(アイリーン・ペパーバーク教授のヨウムのアレックス君は中でも飛び抜けた秀才)オウム返しというのは何も考えていないコミュニケーションのことを指すが、それはオウムにたいして失礼というものだ。別に人間が仕込んだわけではなく、鳥は人間が常に話かけていれば、臨機応変に言葉を使えるようになるのである。オウム返しの返答(記憶にございません)や、政治家による原稿棒読みスピーチ、社交辞令のやりとりなど、空虚な言葉のやり取りが多いのはむしろ人間のほうではないかという気さえしてくるが、いずれも本心を明かさないために編み出された形式化された会話なのだろう。

子どもの時から犬を飼っていたので、犬がとても賢いことはよく知っていたが、鳥がこんなに賢い生き物だとは知らなかった。鳥は賢いが誇り高く野性的で、決して従順に飼いならされない。野性的な縄文土器を好む岡本太郎が、カラスをペットとしていたのもわかるような気がする。うちのインコは時折、攻撃的になるので何度か手を噛まれて出血したが、それでも怒った後は100%私が悪かったと反省する事になる。(犬や小さな子供を怒った後はすぐに反省するのに、大人が相手だとなかなか反省できないのはなぜだろうか?)焼き鳥や鳥のスープが大好きな私だが、陽の当らない狭い鶏舎に押し込められ、大量生産、大量虐殺の悲惨な運命を生きる食肉用の鶏たちのことを考えると、鶏肉を以前のように積極的に食べられなくなってしまった。ちなみに、魚には痛覚がないというのはただの俗説で魚にも当然痛覚があるそうで、そう考えると魚の活け造りというのもかなり残酷な風習に思えてくる。「自然に優しい‥」というのは偽善でしかなく、自然に優しくないからこそ人類は生き延びてきたのではないだろうか?美味しい人工肉が早期に開発されることを切に願う。

ルソーは言語の基底には音楽、情感があると考えた。同じように鳥の囀り(歌)と人の言語の起源は似ているのではないかという仮説をもとに研究されている岡ノ谷一夫さんの本がとても面白い。鳥には「地鳴き」(お腹すいた、警戒、母鳥を呼ぶなど)と、鳥の歌である「囀り」があるそうで、囀りはオスがメスを惹きつけるために歌われるが、複雑な歌であればあるほど多くのメスを惹きつけ、単純な歌しか歌えないオスは、つがいの相手を見つけられずに一羽寂しく何処かに飛んで行ってしまうという・・「囀り」は、ヒナの時期から親鳥の歌をお手本に練習して習得するものだそうで、人が育てると我が家のインコのように歌を歌えなくなってしまうのかもしれない。You tubeでオカメインコが上手に歌う「となりのトトロ」をうちのインコに聴かせてみたら、かなり強い調子で「ダメ!」と拒否したのであわてて音を消した。うちのインコの気持ちを落ち着かせる音楽はフォーレ、クープランなどバロック音楽が主で、じっとして耳を傾けていたのは故・渡辺茂夫さんのバイオリンのCD。天才はすごい、鳥をも魅了してしまうと感心したのである。鳥にもそれぞれ人間のように音楽の好みというものがあるのかもしれない・・(余談だが、バロック時代のヨーロッパ宮廷人の衣装が、まるで孔雀などの美しい鳥のように過剰に装飾的だった事は興味深い。しかもこの時代は鳥を主題にした音楽が多い)

極楽鳥は美しい羽根を広げたダンスで自己アピールし、またニワシドリ、特にアズマヤドリは花などで装飾された個性的な巣でメスを引き寄せるが、鳥類では力の強いものというより、歌やダンス、装飾など美的センスに長けた鳥が生存競争に勝つ。人が自我を持つ代わりに彼らは美意識を発展させたのだ。人間の生存戦略も鳥のようにエレガントであればどんなに平和なことだろうか。ところで、うちのインコは時折「ダメ!」と言った後に自分で「ハッハハハ」と笑ったりするが、鳥には冗談のセンスも必要なのだろうか?(極楽鳥のダンス、アズマヤドリの巣作りはyou tubeで見ることができます)

岡ノ谷さんの分類によると

情動・・喜び、悲しみ、怒り、恐れ、派生情動・・嫌悪、驚き感情・・切なさ、妬み(自分が持っていないものを持っている人に対する感情)、羞恥、憎しみ(自分に不利益をもたらす相手に対する感情)、思いやり、などであり、情動が複雑になったものが感情であるという。鳥の地鳴きは情動から、鳥の囀りは人でいうと自己アピールにあたるだろうか。~『つながりの進化生物学』

※神経学者のアントニオ・ダマシオによると、ホメオスタシスが情動の根源にあり、ホメオスタシス→情動→感情・自我(意識)となるらしい。

そうすると、様々な社交会話なども、そのルーツは鳥の囀りのようなものと思ってもいいかもしれない。高級老人ホームでは、一部の富裕層老人の間で、かつての地位や肩書などの自慢話によるマウントの取り合いや、年取った女性同士の虚勢の張り合いなどが見られるらしいが、(そのルーツは縄張り争いと異性を惹き寄せるための自己アピール、つまり鳥の囀りと同じ)と考えればなるほど!と納得できるし、虚勢を張り合う老人たちもなんだか小鳥のような愛らしいものに見えてくるではないか。(・・そうでもないか)

さらに、鳥には時間の概念がなく、従って未来という概念もないが、人は死、あるいは将来に対する不安を持ち、人生のはかなさを嘆く。鳥のオスはメスの気を惹くために自己アピールするが自意識はなく、人は自意識を持つため世間体を気にしたり、自己憐憫など様々な感情を持つことになる。鳥は自他の比較をしないので他を妬んだりしないが、人は自他を比べて他人を妬み謗る・・鳥は言葉を持つ代わりに歌を歌う事になったが、人は言葉を持ったために文明を発展させ、宗教や国家を持つようになった。

人がサルと分かれたのはおよそ600万年前だが、鳥類が恐竜絶滅から逃れて生き延びたのは今から6550万年前。最近の恐竜図鑑を見ると、恐竜は鮮やかな色彩を持っているが、今も生存している大型鳥のヒクイドリの写真や映像を見ると、鳥類は紛れもなく恐竜の直系の子孫だということが一目でわかるほど色鮮やかで、その顔つきも精悍で恐竜に近い。

我が家のインコは手のひらに乗るサイズなので、一緒に遊ぶことができるが、その嘴も足の爪もとても鋭く、もしもインコが私と同じくらいのサイズ(160センチくらい)であったなら、別に悪気がなくとも、遊ぼうとじゃれかかってこられただけで、私は大怪我するか、もしくは致命傷の傷を負うだろうなと思いつつ、今日も指に止まった可憐なインコを楽しく眺めている。


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住宅団地 記憶と再生 №44 [雑木林の四季]

Ⅵ 武蔵野線町団地(武蔵野緑町パークタウン)
 
     国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

住民案を提示して公団案に修正せまる

 公団の事業説明会は1991年10月19~25日に4回ひらかれた。居住者からはきびしい意見や質問、全面ではなく一部住棟の建て替え、既存住宅の残存、増改築、プランの修正をもとめる要求等が出されたが、まともに答えず、公団は事業上の手続きとしてまったく事務的にすすめた。説明会後は公団が居住者各個に賃貸借契約の切り替えをもとめる段階に移るが、自治会は交渉が一定の前進をみるまで1年間はこれに応じないことを総会決議し公団に通告した。同時に、公団が発表した事業計画にたいし、住民案づくりへの参加を居住者に呼びかけ、「まちづくりプロジェクト」を発足させた。①樹木や雑草、鳥や虫を観察しマップに書きこみパネル展示するなどして、団地の土地と緑を守る「環境プロジェクト」、②うなぎの寝床型プランへの対案づくりに取り組む「間取りプロジェクト」、③団地生活の思い出や、建て替えにたいする不安、怒り、期待など居住者のさまざまな思いをつづる文集作成の「らくがき町倶楽部」の3プロジェクトである。「まちづくりプロジェクト」には若い母親たちの参加が目立ち、その輪は大きく広がっていった。
 公団の計画案にたいし、これに対抗する住民案の軸になるのは、住民一人ひとりに蓄えられた記憶を束ねて浮かびあがる団地の歴史であり、基本は環境と間取りのプロジェクトに参加した人たちがまとめた住民の願いである。これらをふまえ、1992年4月には専門家たちの協力をえて「土と縁とコミュニティを守る建て替え計画住民案」を作成した。自治会は住民案をしめしてこの4月から9月までの6か月間集中的に公団交渉をかさね、住民案の第2案を出すなどして公団案の見直しをもとめ、これには延藤らも参加した。大詰めの交渉にはおおぜいの住民がとり巻いた。10月に公団は当初計画について修正案を提起してきた。具体的には高層14階を12階とし、コミュニティに配慮して1棟ごとの戸数を60~80戸から平均46戸に減らし、広場をひろげ、東西にはしる緑道の拡幅、サクラ並木と小径の確保などである。計画戸数も60戸減らした。公団が説明会後に計画の一部にせよ自治会の要求を容れて修正した例はあまり聞かない。自治会の積極的かつ周到な提案とねばり強い交渉の成果である。延藤が「住民と公団のパートナーシップ方式」とまで評するほどに公団として稀有な対応であったといえよう。『10年間の歩み』を出したのも、稀有な評価をうけ、いくらかは胸を張れる結果となったからであろう。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂

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地球千鳥足Ⅱ №54 [雑木林の四季]

人類の悲劇を表す橋
   ~ボスニア・ヘルツェゴビナ~

        小川地球村塾塾長  小川彩子

 とても美しい橋だった。その名はスタリ・モスト、紺碧の空にのびやかにアーチを描いていた。橋の弓なりの角度は最高。石畳の坂は登るのにちょっときついが、その足応えは初体験だ。長さ30メートル、高さ24メートル、幅4メートルほどの小さな石造アーチ橋の下にはネレトヴア川が流れ、川幅は狭い。白い橋とエメラルドの水のコントラストが美しい。暖かい時期には多くの若者が橋から川へダイブを楽しみ夏には競技会があるという。
人々は子どもの頃から流れへのダイブを楽しんで来たのだ。自己顕示欲の強い若者はダイブ・ショーという名で小銭を稼ぐ。なんと近年日本人の青年も飛び込み観光客や地元女性の賞賛を浴びたそうだ。
 クロアチア側からネレトヴア川に沿ってバスが進み、ボスニア南部のモスタルに近づくにつれ山が迫り豊かな農村が現れる。この橋はオスマン帝国の置き土産で1566年に建造された。1992年にボスニア・ヘルツェゴビナが独立宣言を行い、クロアチア系住民、イスラム系住民、セルビア系住民による激しい抗争が繰り返され、1993年にこの美しい橋は破壊されたという。2004年にユネスコの援助で復元され2005年に世界遺産になったが、破壊前と寸分違わぬ美しい古橋になぜ復元できたのか。爆破で川に落ちた砕片を拾い尽くして利用し、438年前の美麗な橋に見事に復元したのだった。歩くと足元に16世紀の音が聞こえる。
 破壊したのはクロアチア系民族主義者といわれるが、イスラム文化が標的になったのか。
「殺してやりたいほど憎い」という人々もいると聞いた。人種、宗教、文化がからむ民族間の乳轢は単這族の我々の理解を超える感情だろう。現在も川を挟んでクロアチア系とイスラム系の人が別々に居住するという。橋の裸には「93年を忘れるな⊥と小さな石碑がある。川の周辺のビル群にも痛々しい銃痕が無数に残っている。人類の悲劇の象徴である。資料館で見たこの橋の物語で特に印象に残ったのは2004年の復元時、拾い集めた砕片を並べ、最後の一枚を誇らしげに嵌め込んでいる職人の表情だった。橋への深い愛情がひしひしと伝わる笑顔だった。
 橋の傍の売店でDVDを買ってきた。橋が爆破される瞬間は胸が痛む。砕片を拾い集める人々や橋職人、完成時の祝祭行事等、苦労して集めたフイルムを繋ぎ合わせただけの素朴なDVDだが、観るだけで心臓がドキドキするリアルな出来だ。爆破当時の恐怖と人々の悲しみが伝わってくる。なんとキャプションに1993年9月11日とある。9月11日の同時多発テロも9・11だった。チリのクーデターも9・11だった。単なる偶然だろうか?
 緑の木々を背景にエメラルドの水面を跨いで映えるこの橋から突然一人の男性が観光客数人の前で飛んだ。背中からのダイブだ。なんと美しいフォーム! 全身に神経が行きわたっている。誰かが「ケナンさんだ⊥と叫んだ。身体を拭き、衣服を着け、上がって来るともちろん振手攻め、その観客の中からケナンさんは若い女性の手を振った。「貴女が好き!」と言ったようだったが、残念ながら女性は手を振りほどいた。民族が異なるのか。民族意識が恩讐の彼方に雲散霧消するのはいつの日だろうか。
 美麗な橋、スタリ・モストが世界遺産に登録された理由は歴史的価値と民族融和の象徴(『デジタル大辞泉』より)としてだという。それはそれは美しいこの橋が民族の居住地を分け隔てず、人々の心を繋ぎ、笑顔を往来させ、民族融和の象徴になる日を願ってやまない。(旅の期間‥2011年 彩子)

『地球知恵織足』幻冬舎

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美味懐古 №1 [雑木林の四季]

オテル・ド・ミクニ

          加茂史也

前説・世の中の移り変わりに消えていった店がある。1950年代から1970年にかけ東京にあった店。今も憶えている店。そんな店を心の内に訪ねてみた。

1985年(昭和60年)、東京・四ツ谷駅から徒歩で7分、四谷中学の西側の住宅地にオテル・ド・ミクニは開業した。木造二階建ての洋風一軒家だ。あたりの住宅となんの違和感もない。
私がここを初めて訪れたのは開業2年目の1986年の春先だった。
玄関先に白衣のオーナー三国清三が立っていた。独特の笑顔で、
「やあいらっしゃい。よく来てくれました」
  店内には大きな鏡 狭い店を広く見せる効果アールヌーボーを意識したような調度品薄ピンクのテーブルカバー 無駄のないサービス構成だ。
  ⒉階のバーで食前のコーヒーを頂く。

オーナー・シェフ三國清三さんの略歴
1954年北海道増毛町生まれ。中学卒業後、札幌グランドホテル、帝国ホテルで修行し、駐スイス日本大使館ジュネーブ軍縮会議日本政府代表部料理長に就任。名だたる三ツ星で腕を磨き、1985年、オテル・ドゥ・ミクニを開店。2015年、日本人初となる仏レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ受章。世界各地でミクニ・フェスティバルを開催するなど、国際的に活躍。2013年、フランソワ・ラブレー大学より名誉博士号を授与される。
 「お客はなかなか集まらなかった。およそレストランがあるとは思えない場所だし、なにやら秘密めいた隠れ家の雰囲気もある。駐車場も無し。これじゃお客は来ないよという声も少なくなかった。なにくそと逆風に立ち向かって、奮起するのが僕の真骨頂だと絶対やってみせるお客様は絶対くると信じて料理に没頭することにした。……」 
                                 「僕はこんなものを食べてきた」-三国清三-

「今年(1986年)はバブル景気で日本中が沸いています。グルメブームに火がついて、店は連日満員です。……「 着飾ったゲストが次々と客席に着く。戦闘開始だ。その時の僕はきっと不動明王みたいに体中から火をふき上げ、動物のように方向しているのではないかと思う。自分を追い詰め、テンションを上げ。 注意を発する集中力で邁進する。  
                                  「僕はこんなものを食べてきた」-三国清三-

「私は昨年、30歳でこの店を開きました。私の初めての店です。ここで本格的に私の料理を展開します」
三国さんはそう前置きして、
「現代フレンチは10年単位で新たな波が生まれます。それに乗れず停滞していては、やがて飽きられ、衰退してしまう。自分らしさは守りながらも新しいことを取り入れていかなければ、ここまで続かなかったと思います」
                                      「僕はこんなものを食べてきた」-三国清三-

「 僕は北海道の漁村で漁師の子として育った。チーズどころか、ソースのケチャップもうちのだいどころにはなかった。家は貧しくて学校へ持って行く弁当は白いご飯だけだった。おやつは海辺に打ち上げられた貝であり。浜に打ち上げられているホヤをおやつ代わりによく食べていた。これで味覚を鍛えられた。ホヤは、苦み、甘味、酸味、しょっぱさという人間の4つの味覚をすべて感じられる唯一の食材で、小学3年生くらいまでに4つの味を知ると味覚が発達した。美味しいもの最高のものを作るためには、僕自身が食の喜び、食べる楽しさを知っていなければならない。料理の良き作り手は良き食べ手でもある。 お客様のために最高の美味を作り続け、その姿勢は変わらないが、同時に自分自身も最高の美味を堪能したい。研究の為でなく、純粋に食べる人になって食の喜びに浸りたい」
                                      「僕はこんなものを食べてきた」-三国清三-

「いつも、まだ誰もしていないことをし続けること。僕が故郷の北海道から、僕の母から受け継いだ、開拓者としての僕のマインドはこれからも変わることはない。そして僕が自分の道を拓いて歩き続けた結果を、社会の人たちに対して還元できるならば、こんな素晴らしいことはない。フロンティァとホスビタリティー.僕の永遠に変わることのないテーマだ.」
                         「ぼくの美味救新」-三国清三-

三国さんと語り合い、著書に眼を通し、出される料理を満喫した。
三国さんの調理の魔術に酔ってメニューの明細を記録するのを忘れた。

2022年12月末、三国さんは70歳を目前にして、37年にわたって愛されてきた「オテル・ドゥ・ミクニ」を閉店した。三国さんの新たな活躍の日を待ち望みたい。

風の便りにこの秋(2024年)、三国清三さんが、東京・四谷のオテル・ド・ミクニの跡地に新しいレストランを開くとか。客席は8人分の小さな店だと。三国さんが腕を揮うという。客が店を選ぶのではなく、三国さんが客を選ぶ店になるのだろう。
 

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夕焼け小焼け №45 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

虚実皮膜・友は就職

           鈴木茂夫

 秋の学期がはじまった。
 細胞会議に顔は出さない。私が出なくても、出席を促す党員学生はいない。一般の新聞紙面から共産党の暴力というか武力闘争というか,騒がしい記事はなくなっている。党は軍事方針は変わったんだ。なぜだ。そんなことは分からない。そもそも党が武力闘争をはじめた理由が理解できないのだから、武装闘争を止めたという理由も分かるはずがない。  私は毎日教室に出るようになった。久しぶりの教室は懐かしかった。教室の中には,良くも悪くも知的な語らいがある。私はその枠組みからずいぶんとはみだしていたのだ。学校はいいなと思う。
 そんな私を、どうかしたのかと、いぶかしげに見る学友の支線があった。しかし、そんなことを気にはしていられない。
 私は卒業しよう。なんとしても卒業して、それなりの企業に就職しようとおもいさだめたのだ。そうしなければ,安定した生活は望めない。不安定な生活環境の中に生きるのは、とてもやりきれない。それは経済的なことだけにかぎらず、精神の動揺をもたらす。
 母は私が卒業してしかるべき業に就職する日が来ると信仰している。それが母の人生だ。母を裏切ってはならない。
 その卒業には、128単位を履修しなければならない。私は東洋哲学科に在籍していた2年間に90単位以上は学習している。だが転科したロシア文学科の必修科目が、ほとんど取れていない。その取得が最大の難関なのだ。ともかくやるしかない。それには授業への出席が欠かせない。
 平穏な時間が流れていく。
 授業の合間に、早稻田文庫でひとときを過ごす。都竹が笑いながら、
 「君もようやく、授業に出るようになったのか」
 「俺はきちんと卒業する。一年遅れだが5年で出る。ところで君は何か書いているのかい」「ま、その、構想を温めている」
 都竹はうろたえ気味に返事した。
 どうやら、私は落ちついた学生生活に立ち戻ったようだ。

 午後1時、昼の休み時間は終わった。文学部前にたむろしていた連中も、それぞれに正面の階段を上がって教室に向かう。気がつくと、私だけが取り残されていた。
 私もその後を追い、1階のこぢんまりした教室に入った。最後列に坐る。横にいた学生に尋ねると「文学概論」だという。私は1年生の時に、この講座の単位は取得していた。でももう一度きいてみよう。
 定刻を10分ほど遅れて、焦げ茶の大島紬に羽織袴姿の教員が、左手に風呂敷包みを抱えて静かに扉を開いた。英文科の本間久雄教授だ。明治42年の卒業生だから,66歳にはなっているはずだ。でも黒髪はつややかに整えられている。広い額と太い黒縁の眼鏡の奥に、穏やかな瞳が光っていた。
 「文芸批評の標準、または態度というものは,要するに人生派の批評と芸術派のひひょうとの是非論に他ならないのです。人生派の批評は、人類全体のための一種の理想を、その最後絶対の標準としています。これに対して芸術派は、批評家その人のその作品から受ける感受性を唯一の根拠としています。この派の批評は,できるだけ自己の理想を捨て、先入観を去り、虚心に作品を味わおうするのです。人生派の批評には『判断』または主張が重大要素となるのに対して,芸術派のそれは常に『鑑賞』と『解説』がちゅうしんとなっています」
 この人は、流暢な弁舌の人ではない。とつとつとして、いささかの東北訛りで話す。
 「文芸批評の標準を,鑑賞家ないし批評家の主観以外の外的な境地に求めるようなフォーマリズムの批評は、今日ではすでに跡を絶ったというべきでしょう。『人は皆自己を標準として万事を判断する。人は自己の外に何らの標準を持たない』と言ったアナトール・フランスの言葉は、真理であります。今日の文芸批評は,その意義も、その価値も、大部分はその批評家の『自己』にかかっていると見てよいのです」
 この人は「深く感動する能力」を文芸批評の柱だと言っている。それは同時に、文芸制作の根本であるとも主張しているのだ。気がつくと、,私は何度となくうなずいていた。私はこの先生の言う芸術派の視点に共感していた。授業に出て良かったと思う。
 私が物思いにふけっている間に、話は次のテーマに移っていた。
 「文芸における表現の問題として、虚実のことがあります。先生は『小説神髄』において、文学作品の制作に際し、虚構を排除して事実を重んじると模写主義を唱えられた。これに対し、森鴎外は『早稲田文学の没理想』と題する一文を発表。逍遙が,世界は実だけではなく、想に満ちていることを見過ごしていると反駁。二葉亭四迷も『小説総論』で、虚をとることこそ、大切であると反論したのです」
 本間教授は、ここでふと一息入れた。この人が姓を呼ばずに「先生」呼んだのは、他ならぬこの人の恩師・坪内逍遙のことだ。この人はその弟子として,早稲田文学の世話役を長く務めてきている。「先生」と口にすると、この人の脳裏を師の面影がよぎるのだろう。私は逍遙の風貌に接したことはない。文学史に現れる人物として理解している。しかし本間教授のふとした口ぶりから、私たちも逍遙の学灯につながっているのだと思う。
 「ここにいう虚といい,実といわれるものは何なのか。何はさておき、虚実のことについては、近松門左衛門を取り上げなければなりません。浄瑠璃における五句の評釈書『難波土産』(なにわのみやげ)は、近松の聞き書きとして、『芸といふものは実との皮膜の間にあるものなり』としています。世に『虚実皮膜の論』(きょじつひまくのろん)と言われるのがこの一文です。イギリスでは、こうした虚実の形象化をAesthetic processと言います」
 本間教授は、このくだりをしみじみとした口調で話された。私の勝手な想像だけど、きっと恩師逍遙も、そこを強調されたのだろう。
 私のささやかな体験から,、俳優における表現とは,肉体の制御なのだと思っている。では文学における表現とは何だろう。それは言葉の選択と語り口しかないはずだと思う。つまり文体だ。そしてその文体こそ、本人の生き様なのだろう。そして文学作品は、虚と実の統合なのだ。
 私は書きたいのだ。文学作品を書きたい。私が紡ぎ出し,織り上げる物語をだ。そこにはさまざまな文様を描き出そう。虚と実が渾然として輝くものにしたい。
 私の中に埋もれていた炎は、消えてはいなかった。素直にそれが嬉しかった。それは同時に,私が原稿用紙に字を書けないのは、文体の芯となる私自身があやふやであるということにつきる。お前はなになのだと、自分に問いかける。この問いに答えることができないで、私はたじろいでいる。しかし、私の創作する文学作品に,、私以外の誰も関与することはない。創作は自らに発し、自らに完結するのだ。
 僧侶である石堂さんも、自分を律するのは自分だけだと言っていた。そして神や佛という絶対を信じても、そこに信じる自分がいる。その自分がどれほど、小さく、取るに足りなくても、神や佛に向き合うのは、その自分以外には自分はいないと言った。まさにそうだと私も思う。私はいい加減な生き様をしていたと思う。
 本間教授は,、読み手の観点から,文学作品を分析し、主題を吟味し、構成を明らかにし、文体の特色をあげて、文学作品の鑑賞の方法を提示してくれた。それを聞きながら、私の中にはじけるものがあった。読み手の観点というのは、作品の外側から眺めてゆく。そうであるなら、書き手の観点というのは、まさに作品の内側から組み立ててゆくものに違いない。
もしかしたら、本間教授は、間接的に文学創作の方法を教えてくれたのかもしれない。

 10月はじめ、三宅久之(故人・毎日新聞・政治評論家)が弾んだ声で部室に現れた。恋人の柳平秀子さんと手をつないでいる。
 「やあおはよう。やったぞ、俺は」
 「三宅さん、どうしたの」
 「毎日新聞に合格したよ」
 その場にいた10数人が
 「ひぁあ、おめでとう三宅さん」
 「競争倍率が100倍を超えていたっていいますよ」
 入社試験のなにがよかったんですか」
 「答案を書く一般社会、英語はもちろんだけど、面接で点を稼いだと思う」
 「毎日新聞を狙ってたんですよね」
 「ありがとう。そうだ。毎日を本命にしていたからな」
 「三宅さんは社会部の事件記者するの」
 「俺はだ。政治部にいきたい」
 「秀子さんもよかったね」
 「俺は給料がもらえるから、世帯をもてる」
 この一言には重みがあった。就職した三宅は学生の枠組みにはいない。
 坂田純(故人)ちゃんがふらっと部室にやってきた、手にしていたカバンを机の上に置いた。授業に出ていたようだ。私は声をかけた。
 「純ちゃん、君は就職、どうなつてるの」
 純ちゃんは、いつもの笑顔を浮かべた。
 「うん、それか。なんとか決まったよ」
 「ほんと、よかったね。どこなの」
 「三越だよ」
 「えっ、三越って、百貨店の三越なの」
 「おめでとう。三越は慶應義塾の優秀な学生を採用すると言われているじゃない」
 「そうなんだよね。早稻田からの採用は俺一人みたい」
 純ちゃんは、ごく普通の話をしているようだが、三越が早稻田の学生を採用するのもあまりないことだ。
 「純ちゃんは試験を受けたの」
 「いや、三越に行ったら、採用内定と言われたんだ。紙の試験問題は関係ないよ」
 話をきいていた連中は、唖然として声も出ない。純ちゃんには、よほど力のある三井系の人が推薦しているに違いない。純ちゃんは家系のことなぞ口にしたことはない。でもいざとなると、その家系が威力を発揮したのだ。
 話の接ぎ穂がなく、就職の話はそれだけで終わった。

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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №233 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

秋から冬へ・根室本線 空知川第4橋梁

          岩本啓介

富良野ワインハウスの奥、駐車場からちょいと歩くと 眼下に絶景が広がります
空知川が流れ、長い橋梁が続きます

①紅葉の空知川第4橋梁・緑の貨物列車

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朝の貨物列車を待ちました。
バックの山は芦別岳と思います。
2022年10月26日8;56

②冬の空知川第4橋梁・単行のキハが

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紅葉お素晴らし景色ですが、冬の雪景色も素晴らしい絶景です。
2022年2月10日10;40

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押し花絵の世界 №211 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「秋色のヘアピン」
          押花作家  山崎房枝

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紅花、バーベナ、赤く着色したカスミソウなどの暖色系の色合いの花を使用して、秋のイメージでヘアピンを制作しました。
仕上げに金箔を散らして大人っぽい印象に仕上げ、友人にプレゼントしたらとても喜んでくれました。


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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №67 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

行田の童 12

       銅板造形作家  赤川政由

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多摩のむかし道と伝説の旅 №133 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

多摩のむかし道と伝説の旅(№30)
−⼆ヶ領⽤⽔⽔辺の道を⾏く−5
 
            原田環爾

[Ⅲ]宿河原⽤⽔の本流合流点から川崎堀へ 1

本節ではJR南武線久地駅を出発し、⼆ヶ領⽤⽔に沿って東へ向かい久地円筒分⽔に⾄る。円筒分⽔とその界隈の 旧跡を訪ねた後、分⽔の⼀つである川崎堀に沿って進み終着点溝の⼝駅に⾄るものとする。

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 久地駅を出て府中街道を右に向かうと⼆ヶ領⽤⽔に架かる鷹匠橋の袂に来る。橋の名はこの近くに鷹匠が泊まる6-2 のコピー.jpg屋敷があったことによる。橋の傍らに⽴つ由緒書によれば、江⼾時代、川崎にも将軍家の御鷹場があり、この近くに鷹匠を⽌める名主の家があった。そこには常に御鷹部屋という特別の部屋が設けられて、鷹や鷹匠は⼤変⼿厚く
もてなされたという。
 鷹匠橋からは⼆ヶ領⽤⽔の左岸の道を採る。緩やかに蛇⾏する⽔辺の道を進むと程なく前⽅右⼿にマンションを戴く丘が⽬に⼊るようになる。駅名にもなっている津⽥⼭とはあの丘を指すのであろう。その津⽥6-3 のコピー.jpg⼭が次第に迫ってくるとやがて堰前橋の袂に来る。堰前とはこの先に堰が造られていたことによる名称であろう。堰前橋からの左岸には久地さくら緑地と称する瀟洒な緑道が整備されている。緑道が終わると前⽅に⽤⽔を斜めに跨ぐ幅の広い久地橋が⾒えてくる。橋の⼿前の路傍に⼩さな庚申堂が⽴っている。そお堂の左に「久地の横⼟⼿」と記した由緒書が⽴っている。横⼟⼿とはあまり聞きなれない⾔葉である。説明版から江⼾時代に洪⽔時の⽔勢を弱める⽬的で、多摩川に対して直⾓に造られた⼟⼿を指すようだ。しかし⾒たところ広い道路が北から南へ向かって来ているだけでその痕跡は⾒当たらない。なお⼯事は約300m進んだ所で中断したという。
6-4 のコピー.jpg 久地橋を後にして更に進む。橋の袂からは左岸に沿って「久地の⾥公園」という瀟洒な公園が伸びている。右岸は相変わらず津⽥⼭が⽤⽔近くまで迫っている。程なく⽤⽔沿いのフェンスにくっつくように1本の標⽯が⽴っている。標⽯には『⼆ヶ領⽤⽔「久地分量樋」跡』と刻まれている。江⼾時代にはここに分量樋があったとのことだが、⽤⽔を覗いても今は全くその痕跡は⾒当たらない。久地分量樋跡は久地で合流した⼆ヶ領⽤⽔の⽔を四つの幅に分け、各堀ごとの⽔量⽐を保つための施設で、江⼾時代中期に⽥中休愚(丘隅)によって造られた。明治43年には分量樋を⽊製から⽯材にかえる⼯事がなされている。しかし昭和16年、ここよりすぐ下流に久地円筒分⽔が完成したことでその役⽬を終了した。
 因みに⽥中休愚は武州多摩郡平沢村の農⺠出⾝で、宝永2年(1704)東海道川崎宿の名主と本陣・問屋役となり疲弊した川崎宿復興に功績を上げた。その後⺠⽣分野の研鑽により、享保の改⾰で町奉⾏⼤岡越前守忠相や⼋代将軍義宗の⽬に留まり、享保8年(1723)幕府から⼆ヶ領⽤⽔の普請を任された。享保10年(1725)深刻化する各村の⽔争いを解消するため分量樋を設置して問題を解決したおのことである。
6-5.jpg 久地分量樋から200mも進むと堰が現れる。その堰の右側に取⽔⼝があるが、それが久地円筒分⽔の取⽔⼝だ。⼀⽅堰を越えた本流は滝のようになって下の南北⽅向に流れる新平瀬川に流れ込んでいる。ところで新平瀬川は元は津⽥⼭の南を流れる平瀬川であったがしばしば氾濫するので、それを回避するため流路変更し津⽥⼭に隧道を造り、それに⽔を通して素早く多摩川へ流す新平瀬川を開削したのだ。但し⼆ヶ領⽤⽔の流路と交差するのでこれを避けるため川底を深く掘り、円筒分⽔への分⽔後の余⽔を滝のように新広瀬川に落として合流させ多摩川に流
している。
 6-6 のコピー.jpg続いて円筒分⽔へ向かう。合流点から新平瀬川のすぐ下流の新平瀬橋を渡り対岸の道を辿って再び合流点へ向かうと左⼿⼟⼿の下に特異なドーナツ構造をした久地円筒分⽔が姿を現す。取⽔された⽔が新平瀬川の下をサイフォンの原理でくぐり円筒分⽔に送られ、4つの⽔路が分⽔されているのだ。円筒分⽔の周りは⼩公園が取り巻きじっくり眺めることができるようになっている。由緒書によれば、久地円筒分⽔は平賀栄治が設計し⼿がけたもので、昭和16年完成した。多摩川から取⽔した⼆ヶ領⽤⽔を平瀬川の下をトンネル⽔路で導き、中央の円筒形の噴出⼝からサイフォンの原理で流⽔を噴き上げさせて、正確で公平な分⽔⽐で四⽅向(川崎堀、根⽅堀、久地堀、六ヵ村堀)へ泉のように⽤⽔を吹きこぼす装置により、灌漑⽤⽔の分⽔量を巡って渇⽔期に多発していた⽔争いが⼀挙に解決した。(つづく)


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国営昭和記念公園の四季 №159 [国営昭和記念公園の四季]

レモンブライト  花の丘


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