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『知の木々舎』第284号・目次(2021年6月下期編成分) [もくじ]

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【文芸美術の森】

妖精の系譜 №5               妖精美術館館長 井村君江
 中世の古文献にひそむ妖精 5
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-06-14-6

じゃがいもころんだⅡ №53           エッセイスト 中村一枝
 ミーコ
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-06-14-4

石井鶴三の世界 №189            画家・彫刻家 石井鶴三
 観音菩薩像・法隆寺 1964年/観音菩薩・四十八体仏の中 1964年 
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-06-14-5

過激な隠遁~高島野十郎評伝 №53   早稲田大学名誉教授 川崎 浹
   第八章 「晩年柏のアトリエ」 4
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-06-14-3

西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」№60 美術史研究家 斎藤陽一
 歌川広重≪東海道五十三次≫ 「御油旅人留女」
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-06-14-9

往きは良い良い、帰りは……物語 №95  俳句・こふみ会同人 多比羅 孝
 コロナ禍による在宅句会 その10
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-05-30-3

エラワン哀歌 №4                  詩人  志田道子
 はなの午後
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-06-14-2

【ことだま五七五】

日めくり汀女俳句 №84               中村汀女・中村一枝
 九月三日~九月五日
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-06-14-1

草木塔? №90                    俳人 種田山頭火
 旅心 6
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-06-14

読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №113     川柳家 水野タケシ
 6月9日、16日放送分
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-06-13-7

【心の小径】

論語 №121                    法学者  穂積重遠
 三七九 子のたまわく、由(ゆう)よ、徳を知る者は鮮(せん)なし.。
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-06-12-1

批判的に読み解く「歎異抄」№30    立川市・光西寺住職?  渡辺順誠
 「歎異抄」の著者(唯円)の立場  歎異抄の批判的読解
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-06-12

【文化としての環境日本学】

日本の原風景を読む? №27         早稲田大学名誉教授 原 剛
 リンゴ園を統べる岩木山
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-06-12-7

【雑木林の四季】

浜田山通信 №288             ジャーナリスト  野村勝美
 「屁みたいな話」
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-05-29-6

私の中の一期一会 №239      アナウンサー&キャスター 藤田和弘
 急ピッチで進むワクチン接種。不慣れな作業で各地でミスが続出
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-06-13-5

BS-TBS番組情報 №236             BS-TBS広報宣伝部
 2021年6月のおすすめ番組(下)
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-06-13-4

バルタンの呟き №99              映画監督  飯島敏宏
 一億一心火の玉だ? 
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-06-14-8

医史跡を巡る旅 №89          保健衛生監視員  小川 優
 江戸のコレラ~安政5年 原宿その後
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-06-13-3

海の見る夢 №9                       渋澤京子
 あの町 この町~夕暮れの子供たち                 
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-06-13-2

梟翁夜話 №89                 翻訳家  島村泰治
 「歳の重み」
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-06-13-1

検証 公団居住60年 №90 ? 国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治
 小泉「構造改革」と公団住宅民営化の道 
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-06-13

【ふるさと立川・多摩・武蔵】

道つづく №13                      鈴木闊郎
 柴崎分水
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-06-12-6

線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №176    岩本啓介
 北海道 丘から俯瞰    
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-06-12-5

押し花絵の世界 №136            押し花作家  山﨑房枝
 「木漏れ日の風景」
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-06-12-4

ミツバチからのメッセージ №47 造園業・ミツバチ保護活動家 御園 孝
 イタリア 7
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-06-12-3

多摩のむかし道と伝説の旅 №63              原田環爾
 狭山丘陵南麓の横通り道を行く 4
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-06-12-2

国営昭和記念公園の四季 №84
 ガクアジサイ  花木園
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-06-15-1

【代表・玲子の雑記帳         『知の木々舎 』代表  横幕玲子


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妖精の系譜 №5 [文芸美術の森]

十七世紀の妖精研究者たち 1

      妖精美術館館長  井村君江

 (7)のロバート・バートンはオックスフォードのプレイズノーズ・カレッジで学び、クライストチャーチの学者となった人であり、その著書『憂鬱病の解剖』の中の「妖精逸話」(第一部二節)で、当時の妖精信仰についてかなり包括的に記述している。バートンは妖精を肯定的に扱っているわけではなく、すでに清教徒たちの否定的見方がゆきわたらていた時代であったためか、妖精を下位にある悪魔の一族とみなしているようであるが、ギリシャ、ローマ、バビロニア、イタリア、フランスと各地に伝わる妖精逸話を博引芳証(はくいんぼうしょう)しながら、各国学者の説も紹介し、その間にイギリス伝承の妖精を記しているところは重要である。十九世紀になってこの本をひもといた詩人のジョン・キーツがその中の一節に触発されて、蛇女『レイミア』の物語詩を書いたことは有名である。
 バートンは妖精を、①「水魔(ウオーター・デヴィル)」と②「陸魔(テレストリア・デヴィル)」とに分けている。①は水辺や川辺に棲むナイアス、水のニンフを指すとあり、ディアーナ(月の女神)やケレース(デーメーテールと同じく地下と豊穣の女神)の話を挙げており、明らかに古典神話との混同がみられる。②にはラール(ローマの家の守護神)、ゲこウス・ロキ(土地の守護神)、ファウヌス、サチユロス、森のニンフ、フォリオットすなわちホブゴブリン、フェアリー、ロビン・グッドフェロー、トロールなどで、「人間と接触することがないだけに危害を加えることも多い」としている。ここでもイギリスの妖精であるホブゴブリンやロビン・グッドフェローと、ギリシャ神話のサチユロスや北欧のトロールを同列においているし、さらに筆は古代に及び、ペリシテ人のダゴン、バビロニア人のベル、シドン人のバール、エジプト人のイシスとオシリスがこの範噂に入るとして、古代の神々と同じに扱っている。もちろん妖精の淵源を異教の神々とすれば、これらすべては同種類とみなされるわけである。

 妖精は昔は迷信とともに敬遠されていた。家の中を掃除し、きれいな水の入った手桶や食物などを出しておけば妖精につねらわれないし、靴の中にお金が入っていたり、やることもうまく行くといわれていた。妖精はヒースの上や草原で踊り、そのあとによく見かける緑の輪を残す、とラヴァータやトリテミウスは考えているし、オラウス・マグメスも書き加えている。しかしある者はこの緑の輪は隕石の落下でできたもの、あるいは土地が肥沃になりすぎてできるとも考えている。年寄りや子供は妖精によく会う。

 バートンは妖精の輪を隕石の落下でできると一見科学的な説明をしているが、現在ではキノコの胞子のため土が酸性になり一夜のうちに草が枯れてできるという本当の原因が判明している。
 われわれがホプゴブリンとかロビン・グッドフェローとか呼んでいるやや大きい種類の妖精は、迷信深い時代には、ひとしぼり分のミルクをやればそのお礼に麦をひいてくれたり木を切ったり、いろいろ骨の折れる仕事をしてくれたものである。
 ここにはホプゴブリンとロビン・グッドフェローがイギリスの妖精の代表として挙げられており、一杯のミルクの報酬で農家の手伝いをするという、今では定まった妖精の性質もすでに記されている。バートンの記述の中でとくに興味深いのは、あまり他では書かれていないイタリアの妖精フォリオット(イタリア語ではフォレスト)について記していることである。これは、十六世紀の物理学・数学・占星学にくわしかったイタリアの学者カルダーノ(一五〇一~一五七六)の言葉として記されているのであるが、ドイツのポルターガイストとよく似た性質を見せている妖精である。

  フォリオットは夜中に奇妙な声を出し、ときには哀呻き呻き声をたてたかと思うと、笑い声をたて、大きな炎で燃えたかと思うと、息に明るい光を発したり、石を投げたり、鎖をガチヤガチャいわせたり、人のヒゲを剃ってしまったり、扉を開けたり閉めたり、お皿や椅子や引出しを放り出したり、ときには兎や烏、黒犬などの姿をして現われたりする。

 (8)のロバート・カークの『エルフ、フォーン、妖精の知られざる国』は、「十七世紀の妖精伝承に関するもっとも詳細でかつ権威ある論文」とプリッグズが言うように、当時としては珍しく妖精の性質や衣、食、住、行為、人間との関係に関し広範囲にわたって書かれた本である。一八一五年に初めて印刷され、一八九三年に民俗学者アンドリュー・ラングの編集で再版されたが、さらに今世紀になって完全な形の写本がエジンバラ大学のラング・コレクションの中に発見され、一九六四年スチュアート・サンダーソンが編集し詳細な序文を付けて刊行された。

『妖精の系譜』 新書館


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石井鶴三の世界 №189 [文芸美術の森]

観音菩薩像・法隆寺 1964年/観音菩薩・四十八体仏の中 1964年 

        画家・彫刻家  石井鶴三

1964観音菩薩像・法隆寺.jpg
観音菩薩像・法隆寺 1964年 (175×121)
1964観音菩薩・四十八体仏の中.jpg
観音菩薩・四十八体仏の中 1964年 (173×120)

**************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。


『石井鶴三素描集』形文社

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じゃがいもころんだⅡ №53 [文芸美術の森]

ミーコ

           エッセイスト  中村一枝

 幸せなことに、私には親友といっていい友人が何人かいる。いずれも小学生のときからの友達である。その中でも一人特別な友達といえばミーコである。
 ミーコは猫ではない。本名嘉納ミサワ、幼い頃からの呼び名がミーコである。ミーコは私と同じ年の六月生まれ、私は四月生まれ、当時仲良しだった二人の母親は、同い年の二人の女の子を授かって、手を取り合ってキャーと言ったかどうかはわからない(それくらいのことはやりそうだ)が、随分喜んだに違いない。それからはミーコも私も着るものも一緒、どこへ行くのも一緒、といった風に育った。ミーコも私もあまり体が丈夫でなく、ミーコはよくおなかを怖し、私はよく風邪を引いた。同じ小学校に通い、同じクラスの隣同士の机でつかみ合いのけんかもした。ミーコのお父さんは評論家だったが、家庭を大事にするタイプではなく、ミーコとお母さんはいつも二人で暮らしていた。ミーコと一緒に食べた夕飯の数など数え切れない。ミーコのママは北海道生まれ、色白で細面のきれいな人だった。戦時中を含めて短い髪にパーマという斬新なスタイルで目を引いた。対する私の母は、長い髪をくるくるとまとめて後ろにひっくるめる従来の日本型、スタイルからして全く違っていた。 ミーコのパパが家庭を顧みない人だったので、私の家に泊りに見たミーコと私の枕元で、夜中に私の母が「ミーコ、かわいそうね」と言ったのをおぼえている。
 私たちは同じ高校に通い、同じ大学に入った。私は国文、ミーコは仏文である。ミーコが一年間フランスに留学が決まり、羽田にミーコを見送った。羽田空港の大きな柱の陰で、おばちゃんが涙を拭いていた。
 一年で帰ると言う約束は果たされず、ミーコはそれ以来ほとんど日本に帰らなくなった。モンマルトルの丘で一目ぼれされて日本人の彫刻家と結婚し、既に70年位のパリ暮らしである。それでも私たちは何年かに一度は顔を合わせて、「ミーコ」「まさちゃん(私の通称)」と手を取り合い、その度にたちどころに何十年も前に戻ることができたのだった。この不思議さ、である。
 長い友情と繋がり、性格も趣向もまるで違っているのに、通じ合っている、友だちという存在の面白さと不思議さに改めてむきあってしまう。離れていてもお互いの存在が息づいている、これが本当の友達ではないかとつくづく思う。
  二年前にパリの自宅が強盗にあって、慣れ親しんだ家を移った知らせがあった。今はコロナである。パリと東京は遠すぎる。二人の年齢を考えればもう二度と逢うことはないかもしれない。でも、二度と逢うことは無くても、この世に生を受けたときから友だちだったと、つくづく思うのである。

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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №53 [文芸美術の森]

第八章 晩年南柏のアトリエ
 
    早稲田大学名誉教授  川崎 浹

「イギリス紳士のような」高島さん

 ある日とつぜん「イギリス紳士のような」高島さんが武藤歯科医院を訪れ、日頃のお礼
に牛肉を手渡した。画家が風呂好きなのを知っていた女医さんがぜひ家の風呂をお使いく
ださいと勧めたが、というのはアトリエには風呂がなかったからだが、画家は静かに辞去
したという。
 増尾でも柏でも、外出するときの高島さんがいつも「ぱりっとした」服装をしていたと
周囲の人たちが驚き、伝説にさえなっている。畑仕事をする野良着姿の画家や、質素な小
屋を見慣れた、またルンペン絵かきと呼ぶような周囲の人たちの目にはそう映ったのだろ
う。
 しかしそれは話が逆だと思う。私から見た高島さんはつねにきちんとした「紳士」であ
り、かれの服装はかれの精神の格を表していた。画家の経歴や長い欧米生活はいわずもが
な、歴とした人間にふさわしい服装をしていたまでのことである。私も、欧州の都市で帽
子をかぶった中老の婦人たちが身ぎれいな正装で八百屋や肉屋を訪れているのを見て感じ
たことがある。
 高島さんは自分自身にふさわしい風姿で生涯をとおした。その人がたまたま質素な小屋
に暮らし、土まみれの畑仕事をしたにすぎないのであり、路上に出るときは正常の自分の
服装にもどった。こちらのほうが高島さんの精神のあり方には自然でふさわしい。
 遺稿『ノート』の次の成句は当然のように、そのことを乞食という逆の視点から語って
いる。

   武士は食はねど高揚子
   乞食
      精神文化の極致

 野畑と林と一本の樹と藁屋根の一軒屋に雪が降りつもる《積る》が画架に置かれていた。雪国はどこですか、武藤さんが開くと、山形県の小国のあたりとの答え。「女先生」は父親が山形出身のせいかひどく惹かれる絵だったが、「絵は売らない」と画家が言う。「それでは購入したいので早く個展を開いてください」と彼女がお願いした。
 季節になるとアトリエの土間に三十センチほどの筍が生えてきた。一週間おいて「女先
生」が訪れると筍が三メートルほどに伸びていて、目を瞠らさせた。
 画架には《菜の花》が置かれ、《雨 法隆寺塔》もあった。野十郎は個展でもある種の絵
を非売品のつもりで展覧していたので、信じられないようなことが生じている。
 私が最初に青山のアトリエを訪れて感銘をうけた《流》が、なんと十七年後の柏のアト
リエにも置かれていたのである。ところが彼女が次の週に訪れた際《流》が見えず、怪訝
におもい尋ねると、購入者が持ち去ったとの答え。体力がとみに衰えてきた画家が考える
所あって手放し、購入者も待ちに待って機をうかがい初志を通したのではなかろうか。こ
の絵は公共施設に買い上げられている。
 高島さんの大作が個展に出品されながら購入されないまま取り残されていたのは、最初
から非売品としたのか、画家があえて鑑賞者の購買意欲をそぐためにひどく高価な値段を
っけたからと考えられる、西本匡伸氏の推測に私も同感である。画家がこれを自分の手も
とに置いて「見る」、つまり「研究」するためである。画家は自分の「研究」の長い時間
が蓄積されている絵と向き合い、いつまでつづくか分からぬ対話をさらにつづける。
 ァトリエの土間に筍が生える前後の三月、五月に、八十二歳の画家は京都、奈良、木曽
に旅行しているが、その後、足が弱り遠出ができなくなる。それでも新しいアトリエを待
て画家は世俗の騒音に悩まされず画業を続けることができるようなった。

『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社


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エラワン哀歌 №4 [文芸美術の森]

はなの午後

          詩人  志田道子

 幼児が語り掛ける声に
 長いひるねの夢から覚めると
 路地裏の小さな庭には
 さくらのはなが散る
 やわらかなはなびらの群れ
 なかに数枚
 風に吹かれて清緑に上がり
 畳の上を駆けてゆく
 やがて群青色の空が黒い枝を包み
 閲を逃れたはなびらが時折いくつか風に舞う
 はなは流れる はなは落ちる はなは飛ぶ
 はなは撥ねる はなは回る はなは留まる
 はなは舞う
 
 記憶は人の心に留まる術を失い
 今日という日は心もとない
 はにかむ笑顔が老人の頬に甦る
 
 幼児は消えた
 ひととき闇を逃れたはなびらは漂う

『エラワン哀歌 志田道子詩集』 土曜美術社出版販売


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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №60 [文芸美術の森]

                          歌川広重≪東海道五十三次≫シリーズ

             美術ジャーナリスト  斎藤陽一

                       第11回 「御油旅人留女」
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≪旅人を引きずり込む留女≫

 前回は、広重の連作「東海道五十三次」の第21図「丸子名物茶店」を紹介しましたが、そのあとに続く14の宿場を飛ばして、今回は第36図「御油旅人留女:ごゆたびびととめおんな」(上図)を取り上げます。

 御油(ごゆ)は現在の愛知県豊川市御油町にあたります。「御油宿」は、古くから「遊女の宿場町」として知られ、江戸後期には、旅籠百軒余りに遊女を300人も置いていたと伝えられています。もっとも表向きには「飯盛り女」と呼んで、泊り客の“飯を盛る(給仕をする)”女として取り締まりを逃れていました。
 宿の表に出て、街道をゆく旅人を勧誘するのも彼女らの務めで、「留女:とめおんな」とも呼ばれたのです。現在の言葉で言うならば、「客引き」ですね。旅籠に引っ張り込んだ客の一夜を慰めるのも彼女らの仕事でした。

 ところが、この「御油」から次の「赤坂宿」まではわずか1.7kmほどの距離なので、放っておくと旅人は御油を素通りして赤坂に宿を取ってしまうかも知れない。そこで、御油の「留女」は力づくでも旅人を連れ込もうとしたのです。旅人が泊り客になってくれれば、自分の夜の稼ぎにもつながります。

 そのような事情を頭に置くと、この絵は分かりやすい。
 黄昏時の御油の宿場。沢山の旅籠が軒を並べている。そのうちの一軒の宿の前で、体格のよい客引き女(留女)が、街道をゆく二人の男を力づくで自分の旅籠の中に引っ張り込もうとしている。
60-2.jpg 男たちは、あまり器量の良くない女たちから逃れようとしている。もし引きずり込まれたら、彼女らが今夜の相手になるかも知れないからです。
 女たちにとっては、彼らは「今夜のかせぎの相手」ですから、手加減しない。こちらに顔を見せている男は、首にかけた荷物を引っ張られて苦しそう。もう一人の男は、左腕と袖とをしっかりとつかまれて逃げるに逃げられない。

 前回に紹介した「丸子名物茶店」(第21図)の中の、床几に座ってとろろ汁を食べる二人の旅人には「弥次さん喜多さん」が投影されている、と指摘しましたが、御油宿のこの二人も同様です。
 十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』でも、弥次さんが留女に引っ張られ、這(ほ)う這(ほ)うの体で逃げ切る場面が書かれています。
 広重の「東海道五十三次」シリーズには、随所に「笑いと遊びの精神」が発揮された場面が見られますが、それらは、『東海道中膝栗毛』のユーモア精神と、俳諧のもつ一面である「滑稽と軽み」などが背景にあるのではないか、と思います。

≪細かい描写にも味わいが≫

 広重の描写は細かいので、他の登場人物たちにも目を向けてみましょう。

60-3.jpg 右側では、玄関の上がり框に腰かけた武士が、婆さんの差し出す盥(たらい)の水で草鞋を脱いだ足を洗っている。その左には、頬杖をついて通りの騒ぎを眺めている女。この女性は若くて器量好しなので、このお侍を宿泊客にすることに成功したのでしょう。
 その窓下には、町娘が面白そうに留女と旅人の“格闘”を見ている。広重は、脇役とも言える周囲の人物をもきめ細かに描写します。

60-4.jpg さらにこの絵で興味深いのは、宿の壁にずらりと掛けられた名札です。
 左から「一立斎圖」(広重画)、「摺師平兵衛」「彫工治郎兵エ」「東海道続画」と読めます。右端の札の文字は半分しか見えませんが、「三拾五番」と読め、出発点の江戸日本橋を除く35番目の宿場・御油を指しています。大きな円の中に書かれているのは「竹之内板」、これは版元・竹内孫八(保永堂)の名です。
 この頃の広重は「一立斎:いちりゅうさい」と号していました。

 それにしても、絵の中に、絵師の名前のほかに摺師や彫師の名前をはっきりと描き込むということは珍しいことでした。「浮世絵版画」は、版元のもとで絵師・彫師・摺師の三者がチームを組んで制作するものですが、ほとんどは「版元」と「絵師」の名前だけが記されるのみで、このようにチーム・メンバーをはっきりと表示するものはあまり見られません。この1枚は、竹之内版(保永堂版)「東海道五十三次」シリーズの宣伝を摺り込んだものと考えられます。

≪遠近法的構図≫

 「構図」にも注目したいと思います。
 宿場と街道は、きちんとした「遠近法」で描かれ、私たちの視線を奥へと誘います。家並みも奥へ行くにしたがって影の中に沈み、夜のとばりが下りつつある風情が醸し出されています。
 若き広重が歌川派に入門してからしばらくの間は、絵師としてほとんど芽が出ませんでした。その間、広重はさまざまに絵の勉強範囲を広げ、自分の中に蓄えました。その中には「西洋画」の学習もあったのです。そこで広重は「西洋的遠近法(透視画法)」を修得しました。そのような学習の成果が、この「東海道五十三次」の随所で発揮されています。

 現在、東海道は全体として昔の面影を残すところは少ないのですが、御油には連子(れんじ)格子(ごうし)の家並みや松並木が残っていて、旧東海道の中で最も昔の面影を偲べるところとして知られています。

 次回は、「東海道五十三次」中、「蒲原夜之雪」(第16図)と並んで名作との評判高い「庄野白雨」(第46図)を取り上げます。



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バルタンの呟き №99 [雑木林の四季]

一億一心火の玉だ?        

        映画監督  飯島敏宏

 新型コロナウイルス狂騒曲はZ番が終章かと思いきや、同じ小節を際限なくリフレインする木偶指揮者の背後から、大作曲家の姓を名乗る影の指揮者が、リモートで姿を顕わしてIOCからタクトを振り、わがJAPAN国は、エピローグとしてVaccineワクチン狂騒歌の大斉唱となってしまったようです。通底する筈のメロディー緊急事態宣言は、もはやほとんど聞こえません。郊外観光地の人出は減少したものの、各都心に寄せる人波が日に日に激しくなってきました。
 9月の任期満了が潮時と踏んだかのように、わがJAPANの宰相は、東京オリンピック・パラリンピック催否の決断を迫られれば、主催者でもなく当事者でもなく、判断は主催者である東京都と自ら言いながら、世界七大国指導者の頂点と称するG7に出かけて、既に耳タコ!の「新型コロナウイルスを制圧した証として、安心安全な東京オリンピック・パラリンピックを世界に発信する」とはいうものの、コロナ下で握手(シェイクハンド)や抱擁(ハギング)の代替として行われている強張った笑顔の肘(エルボウ)合わせ(タッチ)に応ずる英仏首脳らの情熱のないショットを見ていると、超高齢者ながら未だワクチン一回目接種の予約日が訪れていない僕、バルタンとしては、なぜか「安心、安全な、東京オリンピック・パラリンピックにお出かけください」と鸚鵡の「オタケサン!」同様にコメントするわが国の代表が、実は肘合わせではなく、肘鉄砲を食らっているように見えてしまうのです。
 もし、在任中の実績作りの旅であれば、北朝鮮訪問は無理としても、いまやレームダック化したとは言われるものの、北朝鮮と近しい隣国の文在寅韓国大統領の肘をしっかりとつかんで、「金正恩に会わせてくれ伝えてくれ」とめぐみさんはじめ未帰還者のすでに老いた家族との着任時の誓いを果たす努力をすべき、と苛立つのは僕だけではないと思うのですが・・・直近の定例人事異動で何が行われたのか、硬派のアナウンサーや辛口のアンカーの姿が見えなくなったNHK報道の中には、その香りはまったくありません。
 閑話休題、眼を転じて、新型コロナウイルス征圧の証の方です。わが宰相が、G7に携行した土産の目玉として差し出したファイザー製ワクチン、いまだに先進国最低の基準にある苦しい国内事情から絞り出したワクチン献上だった筈が、その効果を帳消しにするほど大量の同社製ワクチンを、盟友と頼むG7最大の巨頭アメリカのバイデン大統領から先んじて持ち込まれて、あわててワクチン担当大臣がメーカーに自国用の在庫確認するという椿事です。これは最早コミックと笑ってはいられない漫画、または戯画を見せられたような気がするのですが、いかがでしょう。僕、バルタンの僻目でしょうか。
 さて、現在のわがJAPAN国は、お上の脅しともとれるお達しで、ワクチン接種オリンピックとでもいうような騒ぎです。まるで雨後の筍というべきか、あらゆるところに臨時の接種場所が設けられて、歯医者さんはおろか、研修医どころか医と名のつく全ての関係者に筋肉注射の訓練を施してワクチン接種が行われ始めています。我が街のいわゆるかかりつけ医の先生方も、総動員ですが、至極健康で、年に一回ほどしか係った事のない人は、一見(いちげん)さんとみなされて医院での予約が取れずとも、接種拒否という方を除いては、ほぼすべての高齢の住民が、公共機関での予約は取れているようです。僕自身も、かかりつけ医が遠いので、幸運?にも、予約解禁日にPCに熟達した子バルタンのワンタッチで取れた地区センターの予約日待ちという仕儀になっています。しかし、予約開始時には予想もしなかった政府と自治体が競い合って設け始めた臨時設置個所の急増で、わが地区センター接種の要員がどうなるのか、仮に自衛隊であっても、果たして衛生班での経験があった人員なのか、地域の急造ボランティア看護師さんなのか、はたまた強引な要請にこたえて駆り出された、平生は注射などの処置を看護師さんに任せていて、久々に震えがちな手で注射器を握るお医者様なのか、もし、現場で急激な副反応を起こした時に、救護体制は大丈夫なのか、日が迫るにつれて不安がつのっています。しかも、問題は、「来ないでくれ、行かないで」という都心へ、臨時接種場ががら空きで開店休業らしいと知って、ダブルブッキング承知で接種を受けに行き、ついでに久々の都心外食など観光気分で済ませ、予約取り消しを忘れたり怠ったりする人もいるということです。これはもう戯画というよりドタバタ喜劇ではないでしょうか。
 昨今のテレビを見ていると、年齢のせいか最近霞みがかってきた僕バルタンの眼には、まるで何処からか要請されたように、「安心、安全な東京オリンピック」まっしぐらで、国民を駆り立てているように映っています。僕が、皇国の少国民だった頃、内閣情報局の規制下にあったNHKラジオが、第一放送第二放送声を合わせて一日中叫び続けた「国民精神総動員!一億一心!火の玉だ!」と、鬼畜米英との本土決戦に駆り立てた悪夢を連想してしまうのですが、これも、僻目でしょうか。いや、僻目であってほしいのです。
 NHKは、予算、決算の決定に国会が関わっていますが、国営放送ではありません。国民のみなさんが視聴料を払っている唯一の民間放送なのです。本当の意味で、皆さんの放送局でなくてはならないのです。民放と呼ばれている、スポンサーの広告料で賄ういわゆる民間放送は、商業放送と分類される存在なのです。媒体としての存在を通信に脅かされながらも、信頼を失うことなく報道を続けようとする新聞各紙も、此処へ来ての有力スポンサーの欠落にコロナ禍オリンピックへの反論の姿勢が揺るぎ始めているように見えます。
 バルタンの眼が、断じて許せない実例を一つだけ挙げましょう。先日久々に行われた国会の党首討論。野党筆頭のオリンピック開催実行か中止かの質問には答えず、首相が自らの前回東京オリンピック観戦を延々と語った次第を、当日午後7時のニュースでは、感情をにじませる首相の顔に、東洋の魔女と呼ばれたバレーボールなどの感動シーンの映像を重ねて情緒的に盛り上げる編集を加えながら、コロナ禍での開催反対を称える野党党首側に、重症化に苦しむ患者の映像を挟み込むこともしなかった処置は、中庸を旨とする民間放送が、断じて行ってはならない不祥事なのです。
 コロナ禍と東京オリ・パラの永いトンネルの向こうに見えてくる景色が、決して、核ミサイルの飛び交う戦争の惨禍に壊滅するJAPANでないことを!一億一心火の玉は御免蒙ります!


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日めくり汀女俳句 №84

九月三日~九月五日

  俳句  中村汀女・文  中村一枝

九月三日
朝露の秋草も摘み髪も硫き
       『花影』 朝露=秋 秋の草=秋
 「あれっ、叉色を変えたの?」息子の髪の毛の色を見て思わず笑い出した。一年の間に六回以上も、金・緑・灰色・まだら………職業がデザイナーだから、まわりもさして気にとめない。それにしても髪の色、髪型、これだけ自由なのに、未だにくせっ毛にストレートパーマをかけさせたり、天性の茶髪を黒に染めさせたりする学校もあるらしい。
 私も若かったら、きっと、いろんな色に染めちゃって楽しんだかも知れない、と言ったら、友人のヘアデザイナー曰く、
 「あんた、これだけ髪の毛を痛めつけてりゃあ、三十年先には多分そこいら中、ハゲになると思うわよ」

九月四日
明日たのむ心に秋の行方かな
         『薔薇粧ふ』 秋=秋
 昭和二十五(一九五〇)年汀女は五十歳。
自分はずいぶん年をとったと言っているが、今の感覚で五十歳は若い。「風花」の刊行も順調、句会も人が増え、あちこち講演にも引っ張り出される。そういう目立つことが特に好きな人だったとは思わないが、にぎやかで華やかなこともまた好きな人である。
 「風花」のいわれについて、風花とは晴天に風が吹いて小雪の舞うことを言うが、汀女は、風も花も、その日その日に新しい、そういう心だと言い、今日の風、今日の花という心境だと述べている。

九月五日
秋桜会ふ人との み思ひ来て
          『春暁』 秋桜=秋
 「お嬢さんに好きな人がいるのか」。
 そういう問い合わせをしてきたのは、四十年前、「週刊朝日」の新延修三氏だった。聞かれた両親は困ったらしい。その頃私は、まさに好きな人がいてのぼせていた。でも相手が振り向いてくれない。毎日悶々としていた。彼は父の担当の出版社の人、父は意を決して「娘を貰わないか」と言ってくれた。言われた方は当惑したらしい。はかばかしい返事のないまま、半年以上過ぎた。
 中村汀女の長男だという男の写真が新延氏から届いたのは、それから四カ月後のことだった。

[日めくり汀女俳句』 邑書林


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草木塔 №90 [ことだま五七五]

旅心 6

         俳人  種田山頭火

     湯田名所

 大橋小橋ほうたるほたる

 このみちをたどるほかない草のふかくも

     妹の家

 たまたまたづね来てその泰山木が咲いてゐて

 泊ることにしてふるさとの葱坊主

 ふるさとはちしやもみがうまいふるさとにゐる

 うまれた家はあとかたもないほうたる

『草木塔』 青空文庫


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読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №113 [ことだま五七五]

       読む「ラジオ万能川柳」プレミアム☆ 6月2日、9日放送分

      川柳家・コピーライター  水野タケシ

川柳家・水野タケシがパーソナリティーをつとめる、
読んで楽しむ・聴いて楽しむ・創って楽しむ。エフエムさがみの「ラジオ万能川柳」
6月2日放送分です。 

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今日から下は短のパン!

「ラジオ万能川柳」
は、エフエムさがみの朝の顔、竹中通義さん(柳名・あさひろ)が
キャスターをつとめる情報番組「モーニングワイド」で、
毎週水曜日9時5分から放送しています。
エフエムさがみ「ラジオ万能川柳」のホームページは、こちらから!
放送の音源・・・https://youtu.be/1YRqeUqHwQ
【お知らせ・その1】
毎年夏の恒例、第48回ぬまづ市芸術祭 
文芸部門「ぬまづ文芸」の応募が6月1日からスタートしました!
締切は7月いっぱい!皆さん奮ってご応募ください

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ttps://youtu.be/1YRqeUqHwQg

(みなさんの川柳)
※敬称略 今週は181句の投稿がありました!
・コネがなくひたすら予約電話する(東孝案)
・コロナ禍に知った温い目冷たい目(翔のんまな)
・ぽさはあるけれどらしさがまるでない(名人 ・グランパ)
・腹痛で良かった学校からのTEL(美ら小雪)
・タピオカの次の流行りはマリトッツオ(おむすび)
・皆が皆カネで動くと思うなよ(名人・わこりん)
・接種場バアちゃんなんで朝5時に(恋するサボテンちゃん)
・級友の還暦祝いブッ飛んだ(パリっ子)
・日焼け止めとマスク忘れてマチコ巻き(ワイン鍋)
・梅雨晴れの空はみんなのランドリー(せきぼー)
・ユーミンを妻にしたらばチト疲れ(柳王・平谷妙子)
・自粛して体力落ちて来た不安(模名理座)
・久しぶり会えば怖いと孫が泣く(名人・どんぶらこ)
・ワクチンを打っても自粛続けている(大名人・龍龍龍)
・唐揚げが人気で鶏青ざめる(ぽこにゃん)
・今日こそはワクチン予約手を合わす(名人・キジバト交通)
・人生の狭いところにお茶入れる(バレリア)
・今回はスルーした円四郎ロス(味野素子)
・小規模でもイベント開催超うれしい(白ポロ)
・朝風呂に浸かりラジ川聴く至福(名人・じゅんじゅん)
・交流戦よりコーチ話題のドラゴンズ(大名人・フーマー)
・日々百万何時になるのか友と賭け(つや姫)
・先生のたとえ話はみな野球(柳王・荻笑)
・聖なる火けふはどこまで行ったやら(柳王・春爺)
・雰囲気も酒もすっかりバーなつみ(名人・不美子)

☆あさひろさんのボツのツボ
「ラジオ万能川柳。今週もこの季節ならではの句材の秀作が多数。さて、日本ダービー。2年ぶりに有観客で行われた“競馬の祭典” 制したのは4番人気の馬でした。最後の直線のせめぎ合いは見ごたえがありましたね。ボツの壺『鼻の差かぁ腹の差ならば勝てるのに』不美子。小把瑠都氏は的中させたでしょうか?」

・歩道橋に一人モデルっぽく歩く(名人・ぼうちゃん)
・家の中はゆらゆらゆらり洗濯モン(のりりん)

☆あさひろさんのボツのツボ
「のりりんさん、これで3回目の秀逸、名人昇進です。おめでとうございます。梅雨の時期の部屋干しの洗濯物ですね。梅雨にコロナに、「ゆらゆらゆらり」はまるで、私たち自身のよう。」

・コロナでも空は青いし鳥も鳴く(名人・はる)
・種を採るまでが仕事の農作業(大柳王・ユリコ)
・いい夢を見よういい事なかった日(柳王・けんけん)
・メルカリでワクチン売っていないかな(soji)
・大笑いひさびさの寄席で福来たる(芭南南)
・断捨離に浮かぶあの頃また仕舞う(里山わらび)
・梅雨入りを宣言したらやんだ雨(大名人・アンリ)
・いつの日かなるぞ川柳マイスター(居酒屋たつみ)

◎今週の一句・家の中ゆらゆらゆらり洗濯モン(のりりん)
◯2席今日こそはワクチン予約を手を合わす(名人 ・キジバト交通)
◯3席・コロナでも空は青いし鳥も鳴く(名人・はる)

【お知らせ・その2】
 絶好調、テレビ朝日の「川柳居酒屋なつみ」、
さて次回の放送は、6月4日と11日、夜の9時から、
アベマTVで配信となります。今回のお客様は、
今やもうお笑いタレントの枠を超えて、
コメンテーターとしても大活躍、メイプル超合金のカズレーザーさん!!

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【放送後記】
忙しかった5月が終わり、6月に入ってのんびりしています。
6月に入るとすぐにファンブックが届くと皆さんに届くと思います。
どうぞお楽しみにお待ちください。(タケシ拝)

◆6月9日の放送です

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水分補給を忘れずに!

放送の音源・・・
https://youtu.be/YGuGu_POg4

【質問】
人に見せられない句がたくさんできます。今、保管に困ってます。
子、孫に見せられません。思い切って、捨てましたーー。どこか、ホッ。
どのように整理したらいいのでしょう。
そろそろ入院もあるので気になっています。(かたつむりさん)

(みなさんの川柳)
※敬称略 今週は225句の投稿がありました!
・接種して無敵じゃないよ気をつけて(ぶたのはなこ)
・ラジ川は気軽に投句いと楽しい(くろぽん)
・親孝行少し出来たと予約取り(名人・重田愛子)
・お偉方火消しに躍起尾身発言(大名人・東海島田宿)
・すごい音孫が階段転げ落ち(模名理座)
・戦中の配給のような接種列(翔のんまな)
・髪型が違っています棋聖戦(柳王・平谷妙子)
・無為無策寄らば大樹の議員たち(初投稿・まあ坊)
・ 2回目の休校たったの2週間(名人・わこりん)
・ご褒美にお菓子をくれる塾にする(美ら小雪)
・カルガモも親の背中を見て育つ(名人・和こころ)
・大臣は余人をもって代えやすし(大名人・龍龍龍)
・コロナさんもうこの辺でよかでしょう(おむすび)
・星空に囲まれて発つ終列車(初投稿・もふもふ)
・ダイエットもったいないが邪魔をする(名人・やんちゃん)
・美味しそう期間限定付くだけで(名人・はる)
・哀愁を笑いに変えて辰さん句 (名人・じゅんじゅん)
・沿線会二人同時におめでとう(大名人・アンリ)
・接種済み天下御免の気分なり(パリっ子)
・お手軽な遺言アプリ日々更新(名人・マルコ)
・スポーツの快挙でコロナ薄めさせ(辰五郎)
・ニッポンはIOCの植民地? (大名人・羽田のてっちゃん)
・コロナ禍で長髪似合うという発見(ワイン鍋)
・主催者じゃないと首相はまた逃げる(大名人・フーマー)
・4年ぶり交尾とパンダばらされる(大柳王・ユリコ)
・良くやった2年がかりの0秒2(つや姫)

☆タケシのヒント!
「100メートルで日本新を出した山県選手を詠んだ句です。この2年、肺気胸なども患った山県選手。『良くやった』はまさに日本中のつぶやきですね。」

・休校でわこりん何と詠んだやら(柳王・入り江わに)
・日本中9.95に元気出る(新名人・のりりん)
・羽一本拾い広がる物語(柳王・光ターン)
・ラジセンに追われ渋谷を忘れがち(soji)
・自分だけ自由時間が減少化(大名人・ポテコ)
・ワコリンちゃんまた宿題があるのかな(柳王・けんけん)
・注射器とマスクのゴミの量想う(柳王・荻笑)
・接種券来るのをおとなしく待つわ(名人・ぼうちゃん)
・町中華冷やし中華がはじまった(芭南南)

☆あさひろさんのボツのツボ
「ラジオ万能川柳。今週は225句。ボツの壺は逃げた怪鳥に思いを寄せたこの句。南アフリカからいつ、どんな理由で遠く離れた日本へ連れて来られたのか?答えが見つからないままゲージを越えた“ミナミジサイチョウ”。1年半の逃亡の末、答えは見つかったのか?『青い鳥探してたのかい?黒い鳥』里山わらび」

◎今週の一句
・よくやった2年がかりの0秒2(つや姫) 
◯2席・接種して無敵じゃないよ気をつけて(ぶたのはなこ)
◯3席・コロナ禍で長髪似合うという発見(ワイン鍋)

【お知らせ】
ライフルホームズ第5回住まいの川柳、
今回は「おうち時間あるある」の川柳でしたが、
昨日結果が発表されました!!

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4852句から、大賞(アマゾンギフト10万円)は、
『プロポーズ「ずっと一緒」が実現し』のmumu_1050さん!!

【放送後記】
自家製ソーダ製造機を購入しました。
プラごみの日のたびに、ペットボトルの数に
心の負担を感じていただけに、ちょっとホッとしています。
楽しみも限られている日々ですが、この夏は思う存分ソーダを楽しみます。(タケシ拝)
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水野タケシ(みずの・たけし)
1965年生まれ。コピーライター、川柳家。東京都出身。
ブログ「水野タケシの超万能川柳!!」 http://ameblo.jp/takeshi-0719/ 


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雑記帳2021-6-15 [代表・玲子の雑記帳]

2021-6-15
◆深大寺は武蔵野台地の標高50mラインのオアシス。

東京の西郊、調布市に在る深大寺は日本三大だるま市の一つとして知られ、多くの人々の信仰を集めてきました。

開山は奈良時代の733(天平5)年,開祖は満功上人。東京では浅草の浅草寺に次ぐ古刹です。境内の深沙堂は、上人の両親が恋の成就を祈願した深沙大王が祀られており、深大寺の名の由来になったといわれています。開山時は法相宗、平安時代に天台宗に改宗しました。深沙大王は水の神様です。
慶応年間の火災で堂宇の大半を焼失しましたが、山門は唯一火災を免れています。

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山門
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深沙堂

天台宗となった深大寺には中興の祖、慈恵大師(良源)が祀られています。良源は命日が正月三日であることから、元三大師(がんざんだいし)とよばれて親しまれています。
元三大師はまた、中世以降は民間において「厄除け大師」など独特の信仰を集めるようになりました。角大師とも言われ、境内には角のはえた元三大師の石像が見られます。人気を繁栄してか、火災のあと一番先に再建されたのは本堂ではなく、大師堂でした。毎年3月に大師堂で行われる「厄除け元三大師大祭」、通称「だるま市」には10万人以上の参拝客が集まるそうです。コロナ禍の今年、密を避けてだるま市は中止になりました。
釈迦堂には、国宝の、都下最古の白鳳仏がありますが、コロナ禍で見ることはできませんでした。

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大師堂
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大師堂のだるま

明治以降、多くの文人墨客がおとずれたようで、高浜虚子や中西悟道の胸像、石田波郷の句碑なども見受けられました。中西悟道は日本野鳥の会の創始者です。

深大寺は湧水の多い国分寺崖線の崖面に抱かれるように立地し、現在でも境内にいくつもの湧水源を持っています。湧水を利用した「不動の滝」は「東京の名湧水57選」にも選定されているのです。 門前の側溝にも豊かな水量の水が流れています。湧水は大切に管理されて、カワニナを放つなどホタルの育つ環境がつくられていました。

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不動の滝は2つあり、もう一つのほうが東京の名湧水57選に選ばれている。
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湧水の流れの一つ

武蔵野台地は日本最大級の洪積台地です。
多摩川が造り出した扇状地上に、火山灰の関東ローム層がつもり、各所で湧き出す地下水はほぼ標高50mで連なっています。なかでも、井の頭池、前夫生地池、三宝字池は武蔵野三大湧水地として知られています。深大寺の湧水もこのラインにそっているのです。旧石器時代や縄文時代、武蔵野台地で人々が住んでいたところは、水が得やすく食べ物に困らない、池や川に近い日当たりのいい高台でした。
崖線から湧き出す豊富な水に、やがて、人びとは素朴な信仰を抱いたのではないでしょうか。深大寺によれば、水源地であるがゆえに霊場でもあったこの地が仏教の伝来以降あらためて注目され、“水神「深沙大王」”ゆかりの深大寺建立に至ったのではないかということです。

「深大寺そば」が名物として発達したのも水の恵みと無関係ではありません。蕎麦の栽培、そば打ち、釜茹で、晒しに湧水が利用されただけでなく、水車を利用してのそばの製粉も行われました。そば観音の像も在る深大寺には復元された水車がまわっています。

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復元された水車

寺を出て多門院坂をのぼると三鷹通りに面してたつのは青滑(あおい)神社です。
江戸名所図絵にも描かれている青滑神社は延喜式式内社に載る古社です、「あおなみさま」と呼ばれて地元の人々に親しまれてきました。此の地に青波をたてる大池があったことに由来しています。深大寺町の総社であり、神仏混合の江戸時代には、隣接する深大寺は青滑神社の別当寺でした。青滑神社は稲城や青梅にもあります。
御神木の大欅は樹齢600年を越え、調布市の天然記念物になっています。

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青渭神社
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青渭神社の大欅

三鷹通りを挟んで青滑神社の前に広がるのは東京都立農業高校神代農場です。
コロナのため、中に入ることはできませんが、谷戸地形と豊富な水を利用した広大な敷地内にはワサビ田もあるそうです。崖を下って行った農場裏にも湧水が流れ、地域の農地や水田を潤しています。

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都立農業高校神代農場正面

中央道の高架の下をくぐると深大寺自然広場、ここには調布市立野草園があります。4,000平方メートルの野草園には多摩地域に自生する野草を中心に、現在300種以上の野草が植えられているということです。咲いていたのはカンゾウでしょうか。

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野草園

農場や自然広場をぐるりとめぐって戻ってくると、深大寺小学校の下に広がっているのは水生植物園です。都立神代植物公園の分園として、昭和60年に開園しました。深大寺に隣接する神代植物公園は、都立で唯一の植物公園として広く知られ、特に薔薇の季節は大変な人気ですが、深大寺をはさんで後からできた水生植物園の方は訪れる人も少ない様子でした。6月の今は、ちょうどハナショウブの季節です。


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水生植物園の木道 右手の森の向うに深大寺城があった
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ナハショウブ

深大寺城跡はこの水生植物園の付属施設です。
深大寺城は、国分寺崖線と谷戸に囲まれた舌状台地に築かれた天然の要塞でした。築城時代は明らかではありませんが、戦国時代の1537(天文6)年、扇谷上杉氏が小田原の北条氏との決戦に備えて古い館を再興したものです。しかし北条氏は深大寺城を迂回して直接川越城を攻めたために、上杉氏は松山城に敗走しました。敗将の城は廃城にはなったものの、戦いが行われなかったことが幸いして、土塁と空堀をめぐらせた「ふるき廓」の貴重な遺構が残されることになったのです。2007年には国の史跡に指定されました。
ちなみに、廓(くるわ)とは城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称をいい、曲輪とも書きます。門や堀、櫓のほか、兵糧を備蓄する蔵も備え、戦時、それぞれの廓には守備を担当する兵たちが駐屯しました。

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深大寺城3 のコピー.jpg
城郭の柱のあともそのままに

深大寺に来て「深大寺そば」を食べない手はありません。コロナ下とはいえ、昼時ともなれば込み合います。弁天池のそばに立つ茶店でいただいた二八そばは、思いの外量もたっぷりで、満足、満足。
小学校前や深大寺城跡の一角にはそば畑があり、どれほどの収穫が期待できるかはおぼつかないものの、「深大寺そば」の伝統を伝えようとしていました。
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深大寺城跡のそば畑

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私の中の一期一会 №239 [雑木林の四季]

       急ピッチで進むワクチン接種。不慣れな作業で各地でミスが続出
 ~ワクチン保存の超低温冷凍庫の電源が切れていた。6400回分が無駄に!~
 
      アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 高齢者を対象にしたワクチン接種が各地で急ピッチに進められている。
 全国の自治体では、集団接種会場の数を増やしたりして接種のペースアップに余念がない。
 私は〝かかりつけ医”で、今月10日に2回目の接種を受けることが出来て、ワクチン接種を完了した。
 最初、1回目は6月下旬頃になると言われていたが、菅首相の〝鶴の一声”があったせいだろうか、5月24日と6月14日に接種できると電話連絡を受けていた。
 実際に1回目を打ってもらったのは5月20日であった。
 その日は定期受診の予約日でワクチン予約の日ではなかったが、出掛ける前に「今日、ワクチンも打てますよ」という電話があった。
 予約日より4日早いが、当方は〝異存なし”だった。
 ちょっと気になったのは、接種後15分待機しなければならないのに、そう広くもない待合室が座る場所を探してウロウロする程混んでいたことだ。
 診察だけの人、ワクチンだけの人、両方受ける人で混み合っていたのである。
 接種すると、注射部位の痛み、頭痛、関節の痛み、疲労感、悪寒、発熱などの副反応が出ることがあると説明書に書かれていたが、私の場合は〝注射部位の痛み”だけで、他は全く何もなかった。
 注射部位の痛みも、翌日には押さなければ痛くなくなっていた。
 2回目の時は、〝強い反応が出るかも知れない”と看護師さんに言われたが、部位の〝痛み”以外は何も感じなかった。
 我が家では、カミさんが5月早々に予約が取れて6月30日と7月21日に決まっていた。
 私が早くなったので相談してみたら、6月15日と7月6日に繰り上げとなった。
 こうしたワクチン接種ペースアップの裏で、〝ワクチン管理”や”希釈作業”などを巡る「ミス」が跡を絶たないと産経新聞が書いている。
 川崎市は13日、ワクチン6396回分を廃棄したと発表した。
 ワクチンは高齢者施設の利用者らへの巡回接種用のファイザー製だったが、ワクチンを保管する超低温冷凍庫の温度が上昇する事故があったからだという。
 ファイザー製ワクチンは、マイナス70~80度で冷凍保存しなければならない。
 13日朝、冷凍庫の警報音が鳴ったので、何か異変が生じたことが分った。
 温度計の記録を調べてみたら、冷凍庫が9.1度になっていたことが分かったという。
 その後、また冷凍に戻ったが。ファイザー製は一度解凍したワクチンを再冷凍して使用することが禁じられている。
 冷凍庫メーカーが原因を調べたら、冷凍庫が不良品だったことが分かり新品と交換したそうだ。
 貴重なワクチン約6400回分が無駄になった事実は変わらない。
 和歌山県有田町でも、ワクチンを保管していた冷蔵庫が正常に作動しない事故があった。
 中に入っていたワクチンは、解けていて使えなくなっていた。
 有田町は〝品質を保証出来ないものは使えない”として990回分が廃棄された。
 大阪・堺市の集団接種会場では、ワクチンを保管していた冷蔵庫の電源がOFFになったいたため、ワクチン456回分が無駄になった。
 市の担当者が冷蔵庫に〝電源が入っていないことに気付かなかった”ためと分かった
 この会場では、それ以前にも電源を入れ忘れ210回分を廃棄していた。
 福島県二本松市でも、ワクチン管理に失敗している。
 ワクチンを解凍した後は〝冷蔵保存”すべきところ、誤って〝冷凍保存”にしてしまったからだった。
 問題なのは、この不適切に保管されたワクチンを施設の高齢者や職員100人に注射してしまったことである。
 体調の異常を訴える人はいなかったいというが、このワクチン接種は〝誤接種”に該当するケースではないだろうか。
 余った70回分を廃棄したらしいが、本当に無害なのかどうかを検証したかどうかは分からない。
 有効性が無い接種だったら、やり直さなければならないだろうに・・・
 誤接種ミスはあちこちで起きている。
 千葉県南房総市で、嘱託医が市内の高齢者施設で、誤って生理食塩水だけを6人に注射するミスを犯したと発表した。
 施設の看護師たちが入所者と職員54人に接種していた時、注射器に希釈液しか入っていなかったのに気付かず6人に注射してしまった。
 別の看護師が容器の数と注射器の本数が会わないことに気付いてミスが分かった。
 健康被害は報告されていないが,市では経過観察を続けている。 
 生理食塩水のみの注射は、沖縄の浦添市でも5人に行われたことが分った。
 高齢市民は213人だが、5人の特定はできていない。
 浦添市では2回目の接種の際に213人全員の抗体検査を行うことになった。
 福井市でもワクチン162日分が廃棄されるミスがあった。
 医療機関の個別接種用に配送するワクチンの分配と管理を請け負っている業者の社員が、医療機関への配送分を別容器に移す作業をしていた。
 残りの「瓶」は冷凍庫に戻さなければならないのにそれを忘れ、ワクチンは放置されたままになった。
 27瓶162回分が使えなくなってしまったのである。
 千葉県柏市は、使用期限の過ぎたワクチンを診療所の医療従事者や患者ら34人に接種したと発表した。
 ファイザー製ワクチンは希釈後6時間以内に接種しなければならない。
 市の医療者向け説明会で「希釈後の使用期限は24時間以内」という誤った情報が共有されたため、10時間を過ぎたワクチンが疑いもなく使われた。ちょっと怖い話だと思う。
 医療の安全対策に詳しい近大の辰巳陽一郎教授は「今回のように不慣れな短期間事業ではミスを完全に防ぐのは難しい」と指摘して、ミスを最小限に抑えるため「各自治体のミス情報をリアルタイムで共有することが必要」と訴えている。
 埼玉県戸田市では、実際に全国で起きたミスを、報道ベースでまとめた「アクシデント事例集」を作成した。
 これを市内の医療機関にメールで配信している。
 市の担当者は「様々な事例を知ることが、ミスを未然に防ぐことにつながる」と期待している。
 東京都が築地市場後に開設した大規模接種センターで、誤ってワクチンを大量に解凍してしまい、警視庁職員ら約1300人が急遽接種を受けた。
 都は担当者間の連絡ミスが原因と説明している。
 日本のあWクチン接種のゴールはまだ遠くに霞んで見えない。
 ワクチン接種ミスは、減ることはあってもゼロにはならないだろう・・・



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BS-TBS番組情報 №236 [雑木林の四季]

2021年6月のおすすめ番組(下)

         BS-TBS広報宣伝部

麺鉄
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2021年6月19日(土)よる7:00~7:54
2021年6月20日(日)よる9:00~9:54

☆鉄道大好き芸能人が、各路線と沿線の魅力を紹介しながら「駅メン」を堪能!

▽6月19日(土)
#3「メン食い鉄道 絶景の旅 初夏の九州・久大本線&熊本電鉄&熊本市電編」
出演:六角精児
六角さんが向かったのは、‘ゆふ高原線’として有名な久大本線。乗車するのは鉄道ファン憧れの観光列車「ゆふいんの森号」。車窓に広がるのは緑豊かな山々や田園風景。そしていただく駅麺は大分の郷土料理「だご汁」。そのユニークで素朴な味わいにほっこり…。その後、湯布院の温泉で癒された六角さんは、今温泉街で知る人ぞ知る一杯となっている山椒カレーうどんにチャレンジ。刺激的な味に酔いしれます。
翌日は熊本へ。お目当ては、かつて東京で活躍した地下鉄車両が走る熊本電鉄。今回特別に‘青ガエル’の愛称で有名な5000系の車内を見学させていただきました。六角さんの反応は?そして熊本での駅麺は、郷土料理「太平燕(タイピーエン)」。発祥のお店と言われる会楽園へ。歴史ある一杯をすすります。

▽6月20日(日)
#4「メン食い鉄道 絶景の旅 初夏の九州・長崎本線&大村線&松浦鉄道編」
出演:市川紗椰
市川さんは佐賀県・鳥栖駅をスタート。この駅にある中央軒は九州立ち食いうどんNO.1と呼ばれ、名物の「かしわうどん」をいただきます。駅麺ファンを虜にするそのお味とは?そして長崎本線を西へ、日本最先端の鉄道・松浦鉄道に乗車。伊万里から佐世保まで地域密着路線で降り立ったのは、日本最西端の駅・たびら平戸口。お目当ては駅ソバならぬ駅チャンポン。サザエがたっぷり入った海鮮チャンポンに市川さん、テンションアップ。その後はJR大村線へ。真っ青な海と潮風楽しみながら長崎へ。
路面電車に乗りかえ長崎市内で向かったのは麺激戦区の思案橋。ここでいただくのは極上の皿うどん。長崎麺グルメを堪能します。

Style2030 賢者が映す未来

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2021年6月20日(日)午前11:00~12:00

★ジャーナリスト龍崎孝と各界の賢者が対談!新しい生き方を提案する。
出演:龍崎 孝(ジャーナリスト/流通経済大学教授)/皆川玲奈(TBSアナウンサー)
ゲスト:本郷和人(歴史学者・東京大学資料編纂所教授)
SDGsの目標達成期限2030年に私たちの社会や暮らしはどうあるべきか?ジャーナリストの龍崎孝が、日本の中世史が専門の歴史学者、本郷和人氏との対話を通じて、新しい生き方のヒントを探る。
本郷和人氏が注目したのは、「住み続けられるまちづくり」そして「すべての人に健康と福祉を」。
本郷氏は、サステナブルなまちづくりになぜ「愛郷心」は欠かせないのか、人々はいつから統一「日本人」を意識したのか、そして、地方分権がニッポン浮揚のカギとなる、など独自の視点を次々と披露する。また、疫病や飢餓の封じ込めに活躍した上杉鷹山や松平定信ら歴史上の人物を紹介する一方、いま起きている100年に1度のコロナ禍を、歴史編纂者としてどのように記録し、後世に伝えるのかを語る。
番組では「グラフィックレコーディング(グラレコ)」という手法をつかって、対談内容をリアルタイムで「見える化」。本郷和人氏が提言する「まちづくり」「健康と福祉」を色彩豊かに描く過程にも注目!

橋田壽賀子ドラマスペシャル「妻が夫をおくるとき」

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2021年6月20日(日)午後2:00~4:00

★橋田壽賀子が体験した実話をもとにした、妻と脚本家の狭間で揺れた“私”を描く自叙伝的ドラマ。

脚本:橋田壽賀子
演出:荒井光明
制作:2012年

出演:私(橋田壽賀子)…岸本加世子、岩崎嘉一…大杉漣、倉石プロデューサー…中村梅雀、竹田制作助手
…小泉孝太郎、石井ふく子…薬師丸ひろ子、大原医師…神田正輝、和田利子…泉ピン子

今年4月に95歳で亡くなった脚本家・橋田壽賀子さんを偲び、2012年にTBSで放送された作品を放送する。
この作品は、橋田壽賀子が体験した実話をドラマ化したもの。夫婦に必ず訪れる別れのとき、何を想いどう行動したのか?「これ以上の苦しみはなかった」と自ら告白。妻と脚本家の狭間で揺れた“私”を描く自叙伝的ドラマ。

▽あらすじ
ずっと二人で、ノンキに笑っていられるって 信じていた。
それは余りにも突然だった。
岩崎(大杉漣)が59歳、私(岸本加世子)※(=橋田壽賀子※以後、私)が63歳の秋だった。
岩崎が55歳で定年を迎えたと同時に、ある病気で大手術し、そのあとリハビリに1年以上もかかり、やっと夢だった畠作りをしながら好きな仕事をやりたいと、自分の会社も起こして東京と熱海での暮らしを始めた頃でもあった。
胸の痛みを訴える彼に、病院での検査を勧めた私だが、畠仕事を難なくこなす岩崎の姿からは大病の心配など微塵も無い。いかし、検査から帰った岩崎の口からは「左の肺に影があるらしいので、検査入院しろと言われた」と言う。
健康診断から3ヶ月の出来事で、もし癌だとしても手術で克服できると思っていた。病院への付き添いも、大河ドラマを引き受けた君は一日も無駄にしてはいけないと、岩崎から明るく断られていた。
そんなある日、珍しく東京に原稿を届けに行った私が、大河ドラマの制作助手、竹田君(小泉孝太郎)に岩崎の入院を伝えると、一緒に病院へお見舞いに行くという。
ほどなく、病院で明るく2人を出迎えた岩崎とは裏腹に、担当の大原医師(神田正輝)はご本人に検査結果を報告する前にと、残酷な検査結果が伝えられる。岩崎は手術できない癌に犯されていて、持ってあと半年だという。夫婦の運命を決めるには余りにも短い報告だった。
病気と戦うことも出来ず、延命しか残されていないと知った私は、岩崎に告知はせず、隠し通すことを選択した……。


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医史跡を巡る旅 №89 [雑木林の四季]

江戸のコレラ~安政五年 原宿その後

        保健衛生監視員  小川 雄

また1回お休みしてしまいました。

首相のなりふり構わない国民皆ワクチンの大号令下、皆様はいかがお過ごしでしょうか。もうワクチンはお済みになったでしょうか。

必要とする人に、いち早くワクチンを接種することについては、全く異論はありません。ただそもそものワクチン確保の遅れや、無策ともいえる感染抑制への苛立ち、やっている感の演出のために、無理に無理を重ねて接種を推し進めることは、ただでさえひっ迫している医療体制をさらに圧迫することになります。それだけではなく、接種を希望する人々のニーズとはかけ離れた形で空回りすることなり、限られた時間と医療資源、人材という貴重なリソースを無駄遣いすることとなります。

毎日のように、それも時には一日何件もワクチンの保管や運送の失敗、希釈・分注・接種ミスが報道されています。今までの他のワクチンとはデリケートさが格段に違う新型コロナワクチンを集団に接種することを、医学や薬学の専門知識のない人間が計画し、実行している。これがどれだけ危ういことなのかを如実に示しています。否、報道されるということは誰かが気付き、問題意識を持って発表されたということで、表に出ている案件を起こしてしまったところは、失敗に気付けるだけ、まだ「まとも」なところといえます。おおくのところが失敗にも気づかず、見過ごされ、あるいは「なかったこと」にされていないか、危惧されます。

当初から示していたワクチン接種のロードマップを有名無実化し、「打てるところからどこにでも」という政策は、恵まれているものを優先し、弱者を置き去りにすることになりかねません。接種が遅れている地区は、それなりの理由があるはずです。その原因を探り、排除することもなく、数字的に政府のお眼鏡にかなうところを称賛し、優遇する。「ダメなところ」には躊躇のない恫喝と、脅しが線状降水帯のように降り注ぐ。ちなみに一番最初に終わらせるべき医療従事者向けのワクチン接種も、1回目の接種は済ましても、まだ2回目の接種が終わっていない人の割合は現時点で約24%、4分の1に上ります。そしてこの計算には、まだ1回目の接種すら終わらせてない人の数は含まれません。

「挙国一致」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」「自力更生」「理屈言ふ間に一仕事」…昨日今日の政治家の発言ではありません。今から80年ほど前、戦争遂行のために、国策的に用いられた標語のいくつかです。対新型コロナ戦は、純粋に科学とウイルスとの戦いです。そこに精神論を持ち込むことは80年前の悪夢の再現にほかなりません。

あだしごとはさておき。
安政五年のコレラ流行において、大きな流行を見た吉原宿の隣にある原宿。さてここでの被害はどれほどだったのでしょうか。
再び「原宿問屋渡辺八郎左衛門日記」を見てみましょう。

「原宿問屋渡辺八郎左衛門日記」

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「原宿問屋渡辺八郎左衛門日記」~沼津資料集成6 沼津市立駿河図書館刊行

前回は原宿住人に初めて犠牲者が出た件までご紹介しました。

(安政五年八月)十七日己未曇五ツ半時より晴
(略)ふじや縫右衛門殿方格兵衛殿死去題目講中一人も立會不申尤も親類も同断之よし雲助弐人え金壱両ツゝ与ヘ取形付爲致候趣哀れ之事ニ御座候

格兵衛に続いて、二十七日には二人目の犠牲者が発生します。

廿七日己己曇
繪図面描之新兵衛相談ニ来左官吉五郎死去後佛致ニ付夜ニ入篝火焚騒く江都より麻ノ一帰り宅え来

そして三人目の犠牲者の時には諍いが起こります。

(九月)九日辛巳朝ヨリ天氣夜清光
目出度重九之禮ニ歩行元兵兵衛殿乍禮遊ニ来其後予も西屋敷え遊ニ行以上みたまやおてつどの死去然ル処宮地に住居いたし候ニ付通行路六ヶ敷地方役人より作兵衛平七間道を通し可申由理解申付通す積りニ相成候処往来大道を籠ニて送り申候ニ付東組より嚴敷掛合ニ相成申し候

コレラに罹患し死亡した「みたまや」の「おてつ」の亡骸を寺に運ぶのにあたり、神社や街道(東海道)を避けて脇道を行くように取り決めたにもかかわらず、籠に乗せて街道を通ったとして、東町からクレームが付いた、ということです。感染拡大を恐れる隣町の感情と、せめて故人を普段通りに送ってやりたいとする遺族の感情がぶつかり合っています。

原宿には前回ご紹介した西の浅間神社のほかにもうひとつ、東町で本陣に近い位置に浅間神社があります。
こちらが前回ご紹介した西の浅間神社。

「浅間神社」

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「浅間神社」 ~静岡県沼津市原

こちらは元々の原宿の中心にあったと考えられます。
そしてもうひとつの浅間神社。

「浅間神社」

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「浅間神社」 ~静岡県沼津市原

原宿が高潮などに悩まされた結果、慶長年間に東海道そのものと共に山側に移転します。その中心になったのが後者の浅間神社となります。その後はこちらを原浅間神社とし、宿場町が形成されていきます。幕末期、宿場町中心部に設けられる本陣、高札場はこの浅間神社の前に建てられました。

「高札場跡」

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「高札場跡」 ~静岡県沼津市原

こうした移転の経緯もあってか、疫病化の混乱の中で、東町と西町の緊張が顕著化したものと考えられます。沼津資料集成6にはこの日記のほかに、原宿の構成もまとめられており、添付された原宿図が当時の状況を理解するのに役立ちます。

「原宿問屋渡辺八郎左衛門日記 付図 原宿図」

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「原宿問屋渡辺八郎左衛門日記 付図 原宿図」~沼津資料集成6 沼津市立駿河図書館刊行

さて話がそれましたが、渡辺八郎左衛門日記に書かれた原宿の被害は以上3人になります。隣の吉原宿が人口2,036人に対して死者213人も出したのに、原宿の被害がなぜわずかで済んだのでしょうか。
あくまで推定になりますが、町の規模の問題があります。人口比率での死者数ということもありますが、宿場の大小によって参勤交代での利用状況が異なっていたことも一つの理由と考えられます。
原宿にも御大老井伊掃部頭様(原文ママ)御家中が宿泊し、その一行の中からコレラ患者が出ていることが記されています。安政五年のコレラ流行では、江戸を中心に地方との間をダイナミックに移動する大名行列が、感染拡大の一端を担ってしまったと考えられます。今回のGO TOと同じ図式です。そして大大名、つまり大人数の一行ほど、規模が大きく収容人数の大きな宿場に泊まらざるを得ません。幸いにも原宿はそれほど大きな宿場町でなく、頻繁に大人数が宿泊することが少なかった。そのために大きな感染拡大を見ずに済んだのではないかと思います。

過去の日記の中に、現代の今まさに起こっていることと同じような状況を見出す。不思議な感覚を覚えます。


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海の見る夢 №9 [雑木林の四季]

       海の見る夢
          -あの町この町~夕暮れの子供たち~
                 澁澤京子
 一時期、とび職の恰好をして働いている、イランから出稼ぎにやってきた人達をよく見かけた。結婚して世田谷に住んでいたとき、近所の小さな公園でよくパリージョ(フラメンコのカスタネット)の練習をしていたが、ある時、ブラボー!というかけ声や口笛が聞こえるので見ると、建築中の家からイラン人大工さんたちが一斉に私に声援を送ってくれたのだった。
フラメンコのカンテ(歌)はコーランの旋律にかなり似た節回し・・スペインにはイスラム教が入っていたせいか、スペイン音楽はアラブ音楽に似ているところがある。私の(それほど上手くもない)パリージョが彼等の郷愁をくすぐったのか?(そう思いたいが・・)

アザーン、コーラン詠唱の旋律は実に美しい。聴いているとなんとなく夕焼けの色が浮かんでくるのは私だけだろうか?

イランのアッバス・キアロスタミ監督の『友だちのうちはどこ?』をずいぶん昔に、母に薦められて見たことがあった。友達のノートを間違えて持って帰ってきてしまい、その友達が退学になることを心配して、遠くの町までノートを返しに行く子供の話。最近、これが『オリーブの林を抜けて』と『そして人生はつづく』の三部作になっていることを知り、改めて三作を見直した。

友達のうちはなかなか見つからず、焦燥感とともにどんどん日が暮れていく・・何しろ子供なので友達が宿題をしなかったら、先生に叱られて大変なことになると真剣に思い詰めてしまう、そう、子供って逃げ場がないからささいなことで思い詰めたりしたことを思い出す・・しかも、家の前に枯れ木があるという漠然とした情報だけで探すから、なかなか見つかるわけがない・・風が強くなって、辺りはどんどん暗くなり、やがて家の窓から漏れる灯りを頼りに友達の家を探して路地を歩きまわり、・・ああ、これって野口雨情の「あの町この町日が暮れる~」みたいだし、小川未明の童話にもありそうだし、「週刊新潮は本日発売です・・」の表紙の谷内六郎さんの夕暮れの子供の風景の様でなんだかとても懐かしいのである。おそらく、どこの国の人が見ても郷愁を感じる、夕暮れ時の子供の風景。映像も全編が詩のように流れ、『オリーブの林を抜けて』でも『そして人生はつづく』でも、映画の中では詩が朗読されることが多い。

低予算でも、監督次第では素晴らしい映画を作れるというお手本のような映画。
なんでもない日常の光景と日常の出来事。セリフで説明したり人生訓を語ったりしないところが、とても洗練されていて、たとえば小津安二郎を初めて観た外国人も日本映画に対して同じような感想を持ったんじゃないだろうか。こういう映画はストーリー展開でごまかせない分だけ繊細な感受性が必要とされるから、文化レベルが高くないとなかなか作れないだろう。出てくる子供も大人も皆、現地で集めた素人。とにかく子供が皆(特に主役の男の子)自然体でかわいらしい。

中東は大雑把に「ペルシャ・アラブ・トルコ」にわけられるらしい。皆、古い文化を持っているけど、中でもペルシャは詩や文学が発達しているんじゃないだろうか?私でも知っている、オマル・ハイヤームも、イスラム神秘主義のルーミーもペルシャの詩人。

イランの女性アーティスト、マルジャン・サラトピの『ペルセポリス』という自伝漫画がとてもいい。(日本語に翻訳されて出版されている。絵のタッチも私好み)1969年に生まれてテヘランで育ったサラトピは上流階級の出身で、子供の時からフランス語の教育を受ける、知識人の両親の方針で自由に育てられたサラトピは、イランの保守的な環境ではどうしてもはみ出してしまう。特にホメイニ師のイラン革命以後、政情も不安定なイランでますます学校でも孤立して、とうとう14歳でウィーンに留学させられるることになる・・ヨーロッパで自由を満喫できると思いきや、イラン人であることで差別を受け(当時、イランはアメリカにより悪の枢軸国のように言われていた)失恋して傷心のまま帰国するのである・・帰国してからは、ヨーロッパに無邪気に憧れる女友達にも、ますます厳しい状況になっていくイランにもなじめず、とうとううつ病になってしまう・・

ちょうどサラトピが留学していたときは、イラン・イラク戦争の一番激しかった頃。彼女の父親が「・・西欧の列強が両陣営に武器を売り、われわれは愚かにもこのゲームに参加してしまったというわけさ。」と帰国したサラトピに戦争について語るくだりがある。

そう、戦争での一番の勝利者はイランでもイラクでもない、それは武器商人たち。

イランのホメイニ師に対抗させる形で、アメリカ(CIA)はフセインを支援し、フセインの独裁政権がはじまった。アメリカは(中国もだが)、イランへもイラクへも武器を輸出していてレーガン時代に「イラン・コントラ事件」が暴露され、イランへの武器提供で得た資金を、ニカラグアの反共ゲリラに提供していたことがばれる。他に、イランにはイスラエルが、イラクにはソ連やフランスも武器を提供していて、もともと歴史的にあったアラブ・ペルシャの対立を、武器商人たちにいいように利用された、ともいえるし、中東の支配者は愚かにもうまくのせられたともいえる・・

宗派の対立や部族・国家の対立よりも、むしろそれを故意に煽ることによって、支配力をふるったり利益を得る人たちがいなくならない限り、戦争はなくならないだろう。

ちなみに日本が「武器輸出三原則」を撤廃して武器輸出を自由化したのは、2014年の安部政権の時。ニコニコと満面の笑みを浮かべ、ネタニヤフ首相と握手している安倍首相の写真が実に不愉快でしたが・・

アッバス・キアロスタミの『ホームワーク』と言うドキュメンタリー映画を観ると、小学校の朝礼で毎朝子供たちが「フセインは地獄に落ちろ!」と唱えるシーンが見られるけど、イランではそういった狂信的な洗脳教育を行っていたのがわかる。

うつ病になってしまったイラン女性サラトピのように、西洋文化にも、保守的なイスラム原理主義にもなじむことのできない、いわばアイデンティティのよりどころを失ってしまった中東のインテリ層(自由な教育を受けた)って結構多いんじゃないかと思う。

サラトピはその後、アーティストとして活躍することによってうつ病から回復する。アートには国境はないからだ・・サラトピの漫画が原作となった『チキンとプラム』(楽器を奪われた音楽家の死ぬまでの8日間)は映画しか見てないけど、全編夕焼け色のとても美しい作品。

激動のイラン・イラク戦争に思春期を過ごしたサラトピ。今のイランに、芸術家はとても住めないので、現在はパリに住んでいるらしい。彼女もまた、故郷を喪失した、「夕暮れになって帰る家を見失った子供」だったのだ。シリア、イラン、イラク、パレスチナ、アフガニスタン・・中東には帰りたくとも故郷に帰れない人々がいまだに大勢いる・・

言葉がわからない外国人でもコーラン詠唱の旋律に感動することができるし、ドイツ人でなくてもベートーヴェンに感動することができるし、日本の琵琶音楽の好きなロシア人女性だっているし、バッハの好きなフラメンコジプシーだっている・・別に日本人だから邦楽のよさがわかるというわけでもないだろう。私たちは芸術という普遍があるからこそ逆に安心して、違う文化や多様性を尊重できるのではないだろうか?違いを尊重することは、自分自身を尊重することでもあるのではないだろうか。

子供の頃の夕暮れ。テレビから大相撲の呼び出しが流れてきて(大相撲の、西~という「呼び出し」?はちょっとコーランの旋律に似ていると思う)、コトコトと夕餉の支度の音が聞こえて、子供部屋で明日の学校の用意をしていたこと・・夕方、家に帰るのが遅くなってしまったときの焦燥感・・そんな誰でも持っている子供時代の記憶の断片。

国や文化は違っても、夕暮れ時のノスタルジーには万国共通の普遍性があるのであり、私たちが一生かけて探しているのはもしかしたら「帰る場所」なのかもしれない。



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梟翁夜話 №89 [雑木林の四季]

「歳の重み」

         翻訳家  島村泰治

数ヶ月ぶりに伺った上野毛の主治医に、四捨五入で九十になられたましたねと念を押された。益々ご壮健で何よりとも言われたから、笑みは返しつつ一言もなく黙したが、それを言われた瞬間、九十と言う数字の語感に実はぎくっとした。

ここ数年、前立腺癌や膝の手術、ばね指の手術やらで医者通ひが続き、壮健を自負する己の身体に翳りの兆しが出てをり、そのいずれも何なく凌いでやれやれと心を安んじてゐた時だったから、その数字に殊更に反応をしたのだった。

折々に雑文を書き連ねているHPに、思ふところあり巧んで時計をふた種類載せてゐる。ひとつは並みの奴で、年から秒まで時が累積する様子を可視化してゐる。それは、ふた親が長生きで、母は百まであと二歳と長らへたから、それを因果に自分もあと二桁は生きるだらうと踏み、生きるつもりと覚悟しての証しのつもりだ。

もうひとつの奴は、生きるつもりの百歳から逆算して、それまであとどれほどかを戒める時計で、絶えず降り積もる雪年に身が細る思ひを敢えて具現化しやうと云ふ、甚だ自虐的な計らいだ。

時を双方向に測る企みは、まだまだあるぞと安んじる心を、それそれ指間から漏れ落ちてをるぞと戒める思ひが絶えず抑えるイタチごっこで、時間のあるなしが絶えず意識に顕在してゐる仕掛けだ。

だから、五入すればもう九十との指摘は、存外こっちには響いたのである。何の因果か四十、五十の年頃に加年の意識がまったくなく、還暦とて周囲が騒ぐなか六十歳の大台さえも無感覚で過ごしたから、古希と名指しされた時も世間並みの挨拶程度で受け止めた。折からネット上でSNS経由の翻訳や書きものの仕事が増え、歳に似合わぬ社会的な関わりが要らぬ斟酌に及ぶ時間を掻き消してゐた。

そして八十歳、傘寿の壁は難なく越えはしたものの、如何なる作用かさしも加齢に無感覚な身が俄かに時間を意識し始める。HPに例の積算時計を掲げたのは八十二歳、追って逆算時計を添えたのが八十五歳、刻々と刻む秒針の動きに年毎に敏感になり、怠惰を戒める言動が増えた。

いま八十六歳と三カ月、時計どものに言はせれば86年114日11時56分45杪で残り13年250日18時間3分15杪だ。流石に分秒に煩わされはしないが、日々を時間単位で生きてゐるまでに「時」に敏感になってをる。

五入で九十はそんな時に囁かれた。虫の居所も悪かったのか、聞かされてぎくっとしたのである。さうさう早まっては困る、もちっと穏やかに流れて欲しい、その歳迄にせねばならぬことが済んでゐないぞ、などの雑念がどっと押し寄せる。事と次第によっては自分から吐きそうな一言が何故あれほど応へたのか、ひと月も経ったいまは滑稽にも思へる。

世に晩節と云ふ言葉がある。汚すべからずと云ふあれだ。自分がいまその領域に踏み込んでをるらしい実感が、この五入の一件で浮き彫りになった。思へば佳き時に囁かれたと、むしろ感謝の念が湧いてゐる。流石わが主治医、そこまで深掘りしての一言だったとは思へぬが、時を得た戒めには違ひない。五入されて失ふ四年を心して生きるべし、と秘かに覚悟を新たにしてゐる。

ホームページアドレス : https://wyess11.xsrv.jp/main/


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検証 公団居住60年 №81 [雑木林の四季]

ⅩⅢ 独立行政法人化して都市再生機構に改組
 
     国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

9.都市再生機構の中期目標と中期計画

 都市機構の性格と方向は、発足にさいし公団終期のバランスシートを乱暴に作りかえたその中身にもはっきり見ることができる。そうしなければ都市機構は発足できない、そのために都市機構に改組したとさえ思えた。
 ①地価バブル崩壊後にも借入金を年々増やし、つぎ込んで都市開発部門の資産を膨らませ、地価下落により保有地は不良資産化している。②借入金の利子負担は営業利益を上回り、同部門の経常利益は連年赤字を出し、公団経営を圧迫している。③公団の営業利益の概ね9割を生みだしてきたのは賃貸住宅部門であり、家賃収入が部門収入の9割を占める。④乱脈経営のツケは賃貸住宅部門の家賃収入に回され、家賃くりかえし値上げへの圧力となった。
 ⑤公団は、かつては広大な塩漬け土地を買い込み、バブル崩壊後は銀行・大企業がかかえる不良債権処理にあたってきた。そして今、リスクが多く利益の期待できない基盤整備をになって民間ディベロッパーに奉仕する都市再開発を事業の最重点にしている。⑥機構設立後の2005年6月には公営住宅法等一部改正によって、家賃収入が主体をなす賃貸住宅事業利益を赤字部門に繰り入れることを法定化した。
 ①公団経営の失敗や財務の不健全さへの反省、まして抜本的改善への方向性はまったく見られない。「時価評価」を理由に部門別の資産評価額をすり替え、「繰越欠損金」を計上して機構の開始バランスシートを作りかえ、政府・機構幹部の積年の無責任経営のツケと失敗を帳消しにした。⑧そのうえで、「都市再生」事業の名のもとに国家的プロジェクトに格上げし、大企業に奉仕をする都市開発に機構事業を重点化していく足場をならし、賃貸住宅経営の営利事業化に拍車をかける体制をととのえた、と言わざるをえない。

 独立行政法人の役割、組織・運営の大枠については、すでに述べた。機構業務は、政府がきめる「中期目標」とこれにもとづいて機構がつくる「中期計画」に列記されている。第1期の中期目標・計画の期間は04年7月1日~09年3月31日である。
 業務の重点は、民間ディベロッパーに新たな事業機会を創出するための市街地整備と民業支援におく。既存賃貸住宅の管理は「ストック再生・活用」を中心とする。業務運営については、その効率化と財務内容の改善を目標にかかげ、2008年度末の目標期間までに一般管理費20%以上、事業費25%以上を削減する、「譲渡収入、家賃収入の確保、資産売却の促進等により収入を確保する一方で、徹底したコスト削減等により支出を削減する」としている。
 この政府の「目標」にそって機構がつくる「中期計画」、さらには「ストック総合活用計画」は、既存住宅にかんして「棟単位で売却に努める」を前提に、「事業効率の高い」団地の建て替えと、「市場価値を高める」増改築の推進が柱だという。経常的な住宅の維持保全こそ居住者共通の第一の要求であるが、順位は最後の項目である。なお建て替えをつうじて目標期間中に住宅戸数を7,000戸減らし、整備敷地100haを生みだし売却するとしている。
 機構は「建て替え」も「ストック活用」も、その目的が住宅戸数の削減と整備敷地の売却にあることをいっそう明確にした。建て替えによって造りだした敷地の売却実績は、十数年をへて2004年度末までの公団期に約61haである。機構になって5年間で100haを売却するという。その加速ぶりの具体例として、05年3月24日に機構全支社合同でおこなった民間事業者向け用地売却説明会と、4月27日に衆院国土交通委員会でとりあげられた東京・ひばりが丘団地の建て替え計画変更の問題をあげておく。
 ひばりが丘団地では自治会と旧公団が10年余にわたって話し合いをかさね、自治体をふくめ団地全体のまちづくり構想に同意したうえで建て替え事業を発足させた。2,714戸を建て替え3,600戸に増やそうという計画であった。第1期工事は1999年3月、1,346戸に着手した。機構への移行をはさんで第2期、1,368戸に着手予定の2005年3月までなんの連絡がないまま、機構は突如、三者の合意をM一方的に破棄して大幅変更した第2期計画をしめして着工説明会を強行しようとした。建て替えは戻り入居者相当分にとどめ、総戸数は、3,600戸構想を1,700戸に縮小する、広大な「余剰地」は、あきらかに民間売却を視野にいれて「他に活用する」といいだした。
 「中期計画」は建て替え事業を中期目標期間中に概ね150地区で実施し、70地区完了するとともに、建て替えによって生みだす整備敷地100haの売却をかかげている。それにさきがけ機構は、売却対象全国50地区、約46haについて民間事業者向け説明会をひらくなど、建て替え計画の大幅変更とともに、敷地売却に本格的にのりだした。
 「余剰地」売却がねらいの建て替えとともに、住宅管理コストの削減も中期計画の重点課題である。機構は「コスト構造改革プログラム」をつくり、2007年度において対02年度15%の総合コスト縮減とその方策をさだめた。また現地管理業務(居住者対応、窓口案内等)では民間委託の拡大をはかり、05年11月には、500戸未満の1,000団地の現地管理業務を09年度までに民間に委託すると意向をしめし、06年度には76団地を委託し、年々拡大していった。一般競争入札による工事および管理の業務委託の拡大は、安かろ悪かろの結果をまねき、非効率と混乱、サービス水準の低下となってあらわれた。

『検証 公団居住60年』 東信堂


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日本の原風景を読む №27 [文化としての「環境日本学」]

リンゴ園を統べる岩木山

    早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

津軽人の魂のよりどころ

 山麓をリンゴの紅の実で埋め、山腹にブナ原生林の黄葉をめぐらせた岩木山(二ハ二五メートル)は、晩秋の装いを終えていまにも津軽平野、弘前の街へ歩みださんばかりの親しげな風情を見せている。作家太宰治は弘前城からの風景に感動し「ここは津軽人の魂の拠りどころである」と記した。
 市内約六千戸の農家が三一二万本の樹を育て、日本一、一六万トンのリンゴを穫る。
 岩木山山頂から駆け降りる紅葉前線を引き込んで、広大な山麓を赤、黄に彩るリンゴ樹海は、大自然と人の壮大、華麗な営みを描いて、観る者の心をゆさぶる。
 近代化を急ぐ明治政府の殖産興業策に乗って、かっての津軽藩下級武士たちの手でリンゴの栽培が明治八(一八七五)年から試みられた。以来一四五年、リンゴの栽培、技術と品種改良を、地域ぐるみでとことん追い求めた努力はリンゴ文化創造の物語に他ならない。
 九月の「つがる」に始まり、十月の「ジョナゴールド」「陸奥」「大紅栄」を経て、十二月上旬が盛りの「ふじ」に到る紅色系のリンゴ景観は、果てしなく広がる深紅のバラの園を思わせる。
 九月の「きおう」から「トキ」を経て、十「月の「王林」「金星」に到る黄色系も負けじと競い合う。
 津軽を歌う「りんご追分」など美空ひばりのヒット曲中、一、二の人気を誇る「津軽のふるさと」(作詞・作曲=米山正、一九五三年)もまた日本人の愛唱歌となった。

  りんごのふるさとは 北の果て
  うらうらと山肌に 抱かれて夢を見た
  あの頃の思い出 ああ 今いずこに
  リンゴのふるさとは 北の果て

山越え阿弥陀、自神山地

 弘前城の本丸(一六一一年)や、実業家藤田謙一の豪邸、藤田記念庭園(一九七年)がなぜそこに作られたのか。それは「岩木山」を眺める最良の適地だからだ。「家のどこからか、岩木山が見える建て方」が弘前市民の常識とされてきたのだ。
 およそ四百年の昔、日本海側の山麓深浦から、人夫を率いて弘前城づくりに加わった人夫頭の子孫、宮川慎一郎さん(弘前市観光振興部)もまた先祖譲りの「親方町」に住み、朝に夕に岩木山と親しく対している。
 「鎌倉時代から岩木山を描いた絵には『山越え阿弥陀』といって、頂上に阿弥陀如来像が描かれました。極楽は西に、西方浄土の仏教思想のせいです。岩木山は弘前の西にあり、浄土信仰の対象なのです」。岩木山はまた冷害をもたらす偏西風を八甲田山と共に防ぎ、津軽平野に稲を豊かに実らせる。
 東に連なる白神山地は世界自然遺産(一万六九七二クタール)の冷温帯ブナの大原生林におおわれている。「ブナ山に水筒いらず」のたとえどおり、ブナは巨大な樹体と落ち葉が積み重なった森床に無限の水をたたえ、津軽平野を潤す。豊かに実るブナの実は生物の命を支え、故にブナは欧州でマザーツリー(母なる樹)と愛称されている。
 青森県内だけでも北から南へ岩木川、赤石川、追良瀬川、吾妻川、笹内川、津梅川が自神山地に発し、日本海へ注いでいる。いずれも秋には鮭が帰ってくる清流である。
 日本海に臨む漁港・深浦町のはずれ、サケマス増殖センターの河畔に、「鮭魂塔」と刻まれた自然石の碑が、「限りなき 父なるこの大地 恵み深き 母なるこの川 和してこの故里を こよなく愛しつづけよう」と記されている。沢水が洗う山際と屋内に連なるプールにはサクラマス、ニジマス、ヤマメの稚魚が銀白色に群がる。
 弘前市と日本海側の鯵ヶ沢町とを結ぶ白神ラインの中間点、津軽峠、天狗峠から望むブナの大原生林は、世界遺産にふさわしい、生命あふれる迫力で迫ってくる。
 白神山地のブナ林を伐採するため青森、秋田両営林局が青森県西目屋と秋田県八森町の間に「育秋林道」を通そうとした一九八三年、追良瀬内水面漁協組合の組合長黒滝喜久雄さんは、地元から率先して反対運動に立ち上がった。
 「私自身が林業者としてブナを切り、ヤマを荒らしてきた。木を見て森を見ざる反省を栽培漁業につなげたい。〝木に縁りて魚を求める″時代ではないか」。
 黒滝さんらの問いかけに応え、林野庁は一九九〇年、白神山地一万六六〇〇ヘクタールを森林生態保護地域に指定した。木材のみを生産する国有林から、数千年をかけ日本列島の森林が育んできた自然と生物との係わり (生態系) を保存する林政へ転換点となった。

津軽方言詩人たち

 石坂洋次郎、佐藤春夫、葛西善蔵、太宰治、長部日出雄、副士幸次郎ら個性豊かな作家、詩人をこれほど密度濃く輩田した地域はめずらしい。
 出色は津軽方言詩人たちだ。一戸謙二、高木恭造、植木曜介らの津軽弁の詩は、その言葉の意味もさることながら、行間に溢れる、懐かしく暖かい抑揚とリズム感が、津軽三味線の奏でるじょんから節を思わせて心を揺さぶる。

   弘前(シロサキ) 一戸謙三
 何処(ド)サ行(イ)ても
 おら連(ダツ)ねだけァ
 弘前(シロサキ)だけァえンたどこァ何処(ドゴ)ネある!
 お岩木山(ユウキサマ)ね守ら工で、
 お城の周りさ展(フロダ)がる比のあづましいおらの街(マズ)

 どこに行っても
 俺たちには
 弘前のような場所はどこにあるというのだ!
 お岩木山に守られて
 お城の周囲に広がるこの快適な、心穏やかな俺の街…

 春の夕暮れ、ひとり弘前城を訪れ、岩木山を眺望した弘前高等学校文科生太宰治は、その時の印象を後に作品『津軽』(一九四四年)に記した。
 ―重ねて言ふ。ここは津軽人の魂の拠りどころである。何かある筈である。日本全国どこを捜しても見つからぬ特異の見事な伝統がある筈である。私はそれを、たしかに予感してゐるのであるが、それが何であるか、形にあらはして、はっきりこれと読者に誇示できないのが、悔しくてたまらない。この、もどかしさ。
 リンゴの樹海にあでやかにたたずむ岩木山の山麓風景が、太宰の「もどかしさ」の思いを、現代に解いてくれるかもしれない。それは大自然と人の営みが「共生する豊穣の大地」であるように思える。
 一九五五年、弘前大学に農学部(現・農学生命科学部)が作られた時、学内から「りんご学部」に、という声が挙がった。学部長の神田健策教授が率いるリンゴ振興センターは「自然、人文、社会科学各分野の教員が加わり文化としてのリンゴの研究を進めています」。
 新種のリンゴ「紅(くれない)の夢」は、果肉が赤く紅玉に似た味わいだ。津軽リンゴ文化の創造は脈々と続いている。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店



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