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国営昭和記念公園の四季 №44 [国営昭和記念公園の四季]

銀杏 こもれびの里駐輪場


銀杏3 のコピー.jpg

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『知の木々舎』第292号・目次(2019年10月下期編成分) [もくじ]

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【文芸美術の森】

ケルトの妖精 №13               妖精美術館館長  井村君江
 ガンコナー 1
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2019-10-12-8

じゃがいもころんだⅡ №19             エッセイスト  中村一枝
 台風の怒り                                                       
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2019-10-12-5

渾斎随筆 №43                       歌人  会津八一
 綜合大学を迎へて 
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2019-10-12-6

石井鶴三の世界 №150               画家・彫刻家  石井鶴三
 月光菩薩 1930年/中宮寺弥勒 1930年
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2019-10-12-7

過激な隠遁~高島野十郎評伝 №14      早稲田大学名誉教授  川崎 浹
  第三章 帝大学生時代から戦後まで 9
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2019-10-12-4

往きは良い良い、帰りは……物語 №75    コピーライター  多比羅 孝
  『曼珠沙華』『獺祭忌』『芋虫』『鰯雲』
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-09-29-4

西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」№20 美術史研究家 斎藤陽一
 尾形光琳「紅白梅図屏風」その1
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2019-10-12-2

祖道傳東Ⅱ №4                     水墨画家    傅 益瑤
 彿陀聖旅
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2019-10-12-3

正岡常規と夏目金之助 №15           子規・漱石研究家    栗田博行
 子規・漱石~生き方の対照性と友情。そして継承  
   第一章(番外)子規における「ますらおぶりとたおやめぶり」2(再掲)
      ※文末に今後の予定についてのおことわり
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-27-6

【ことだま五七五】

日めくり汀女俳句 №44                中村汀女・中村一枝
 五月六日~五月八日
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2019-10-12-1

猿若句会秀句選 №101                                         猿若句会会亭    中村 信
  2019年9月21日
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-09-29-2

草木塔  №50                        俳人  種田山頭火
 柿の葉 1
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2019-10-12

読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №74                  川柳家  水野タケシ
 10月2日、9日放送分
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2019-10-11-8

【核無き世界を目指して】

対話随想余滴 №23                                      エッセイスト  関 千枝子   
 関千枝子から中山士朗さまへ              
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2019-10-10-5

【心の小径】

論語 №83                                                                 法学者  穂積重遠
 二六五 閔子(びんし)側(かたわら)に侍す、闇闇(ぎんぎん)如(じょ)たり。
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2019-10-10

【雑木林の四季】

浜田山通信 №252                                        ジャーナリスト  野村勝美
 台風とラグビーと
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2019-10-11-5

私の中の一期一会 №199              アナウンサー&キャスター    藤田和弘
 最強台風19号は上陸後、記録的大雨を降らせ東日本の広範囲で被害が多発
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2019-10-11-6

BS-TBS番組情報 №196                                        BS-TBS広報宣伝部
 2019年10月のおすすめ番組(下)
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2019-10-11-4

医史跡を巡る旅 №63                                 保健衛生監視員  小川 優
 「西洋医学事始め・たあへる・あなとみあ」
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2019-10-11-3

いつか空が晴れる №69                       渋澤京子
 ~Joe's Blues~
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2019-10-11-2

梟翁夜話 №49                                    翻訳家  島村泰治
 「ゴールデンバットが消える」
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2019-10-11-1

検証 公団居住60年 №42   国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治
 中曽根「民活」― 地価バブルの中の公団住宅 2
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2019-10-11

コーセーだから №55            (株)コーセーOB  北原 保
 50歳創業の哲学 16
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-09-25-8
    
地球千鳥足 №127       グローバル教育者・小川地球村塾塾長  小川彩子
 癌再発、アメリカへ:会えるすべての友人に「さよなら」を言って来た!
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2019-09-25-7

【ふるさと立川・多摩・武蔵】                                                   

立川陸軍飛行場と日本・アジア №182     近代史研究家  楢崎茂彌
 第三中隊にコンクリートの整備地盤を新設
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2019-10-10-4

旬の食彩 僕の味 №106 レストラン「ヴァンセット」オーナー大澤 聡
 前菜の盛り合わせの意義
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-09-10-4

線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №135            岩本啓介
 多摩モノレール    
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2019-10-10-3

押し花絵の世界 №95                                      押し花作家  山﨑房枝
 「コスモスの押し花葉書」
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2019-10-10-2

ミツバチからのメッセージ №16 造園業・ミツバチ保護活動家  御園 孝
 野生トウヨウミツバチの南限 3
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2019-10-10-1

国営昭和記念公園の四季 №44
  銀杏 (こもれびの里)
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2019-10-14-1

【代表・玲子の雑記帳】            『知の木々舎 』代表  横幕玲子
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2019-10-11-7


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愉しく読むために読者への手引き
ネットマガジン『知の木々舎』を愉しくお読みいただくための手引きをご案内します。

発行回数・月に2回(上期・下期)ネットマガジンを発行します。
カテゴリー・記事の分類です。
「もくじ」・「執筆者紹介」・「代表玲子の雑記帳」・「心の小径」・「文芸美術の森」・「ことだま五・七・五」・「雑木林の四季」・「ふるさと立川」・「核無き世界をめざして」があります。
もくじ・ネットマガジンの号数・編成期(×月の上期・下期の別)を表示し、その下に最新の記事のタイトル・見出しが URLをカテゴリー別に掲載しています。
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ケルトの妖精 №13 [文芸美術の森]

ガンコナー

             妖精美術館館長  井村君江

 ある村はずれの谷間に羊飼いの一家が住んでいた。その家にはモイラという年頃の美しい娘がいた。モイラは、山の牧草地に羊を迫っていくのが仕事だったが、牧草地と谷間の家の往復ばかりで、生まれてこのかた一歩もほかの場所へ行ったことがなかった。
 いつのころからか、モイラは、明るい陽のあるうちは羊を追って、快活な気分でいたのに、夕暮れになって家路につくころには、なぜだか心にポッカリと穴があいたような気持ちになるのだった。
 ある日、いつものように羊の群れを、谷あいの道から山の牧草地に追っていった。谷を登るにつれ、芽吹いたばかりのやわらかい黄緑色の草が現れ、やがて山の斜面いっぱいに牧草が広がる場所に着いた。そこからは、麓の村が小さく見える。モイラは杖をおき、そこで羊たちに思い思いに草を食べさせていた。
 しばらくすると、山の頂きのほうから霧が這いおりてきた。嵐になるような天気ではなかったので、モイラは袋のなかから肩かけを取りだして、露を避けていた。
 しかし、変わりやすい山の天気は、ひとときもすると灰色の霧をはらい、陽も戻ってモイラを安心させた。
 ほっとしたモイラがふと見ると、羊の群れのなかに見知らぬ若者が立っていた。
 「どこから現れたのだろう」とモイラはいぶかった。
 男の靴が見えたが、靴はぬれてもいず、汚れてもいないところを見ると、いま霧でぬれた草を踏んで歩いてきたとは思えなかった。
 若者は、ドゥディーンというすてきなパイプをくわえ、かすかに煙をくゆらせていた。煙草の甘い香りがモイラのほうに流れてきて、モイラをなんともいいようのない心地に誘った。甘い香りのせいだけではなく、若者が山の人とは思えないような、息をのむほどの美貌のせいもあったにちがいない。
 その若者はモイラに話しかけてきて、モイラが見たことのない、遠くの街々のことを語ってくれた。そして若者は、立派な城に住む王女さまや、白馬に乗って駆ける王子さまのこと、恋をする男と女の胸のときめきを語った。
 モイラの心は夢のような若者の話と、村いちばんの笛吹きの吹く笛の音よりも美しい声の響きにとらえられた。モイラは罠にでもかかったかのように若者に恋をした。
 生まれてはじめて感じる心のときめきがうれしくて、モイラは夢中だった。
 ふたりは抱きあって、ひとつになった。モイラが見ているのは若者の澄んだ瞳とやさしいくちびるだけ、ほかの何もモイラの目には入らなかった。
 耳にも、若者のささやく声以外、羊たちの鳴き声も、夕暮れを知らせる風の音も入らなかった。
 喜びが大きすぎて、モイラの胸からあふれだしそうだったから、モイラは十字を切って神に祈りをささげた。
 と、そのとたんに、かき消すように若者はモイラの腕からいなくなってしかった。
 それから毎日、モイラは若者と出会った山へ羊を追っていったが、どんなに探しても、二度と若者の姿を見ることはなかった。モイラがどんなに恋心をつのらせても、若者は応えてくれることはなかったのだ。
 羊を追った強い脚も、日に焼けてバラ色に輝いていた頬も、もうモイラから消え失せてしまった。すべてをあきらめたモイラは、だれにも告げず、自分で死の衣装を用意して、やせて、うつろな目をして、そして死んでいった。

◆ 妖精に恋をした人間の命を、愛の代償として奪う妖精は、女の妖精がリヤナンシー、男の妖精がガンコナー(ギヤン・カナハ)と呼ばれる。リヤナンシーはいわば詩の女神で、愛する人間の男の血を吸う代わりに芸術の霊感を与える。詩人が早死にするのはそのためといわれる。ガンコナーは別名「愛をささやく者」(ラブ・トーカー)ともいわれる。

 わたしたち二人は抱き合った
 外の世界を意識からしめだして……
 あの人の目は炎、言葉は罠、
 十字を切ると、男は悲しげな声をたて、
 雲が通りすぎたかとおもうと、わたしはひとりきり……

 「愛をささやく妖精に会った娘は、死の衣装を織るだろう」
 むかしの言い伝えが、いつも頭にうかんでた
            (アンナ・マクマナス 『口説きの妖精』の一節より)


『ケルトの妖精』 あんづ堂

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石井鶴三の世界 №150 [文芸美術の森]

月光菩薩 1930年/中宮寺弥勒 1930年

              画家・彫刻家  石井鶴三

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月光菩薩 1930年 (181×140)
1930中宮寺弥勒.jpg
中宮寺弥勒 1930年 (181×140

**************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社

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渾斎随筆 №43 [文芸美術の森]

綜合大学を迎へて

                     会津八一

 綜合大学が新潟に出来ることに本ざまりにきまったといふことはまことにうれしい。いち早く気勢を上げて、猛烈に奔走してくれた指導者たちに感謝しなければならない。
 けれども、綜合大学は、もう全国に二十も出来てゐる。ひろく見渡せば、珍しいものがこれから出現するのではない。これが出来たからといって、この県が他県に封して大に威張れるといふのではない。もし大に威張りたいなら、実質的に、ほんとに上等のものを作って見せなければならない。貧弱なものでは威張るどころの話でない。
 大学といふのは学校としては一番高等のもので、最高の学府などといってゐる。敷地の廣いのも、建物の立派なのも必要ではあるが、それより大切なのは、いい教師といい学生のたくさん集まることである。いい学生はいい教師のゐる大学でなければ集まって来ない。いい教師は器械や、標本や、参考書が必要なだけ設備してもらへないやうなところへは来てくれない。だからかうした設備のことは敷地や建物よりずつと大切だ。そんなことは分りきってゐるといってはいけない。ほんたうに分られてゐたとは思はれない。その証拠は、今日までに出来てゐた二十の綜合大学でも設備がよくて、教師も学生も理想的に整ってゐる所ばかりであったとはいへない。だからまた、これから我等の県で作る大学が、これらの不完全だらけな従来の大学より、もつと粗末なものであってはならない。勿論従来のものを凌駕するだけの意気込も熱意もなければいけない。その覚悟がついてゐて、その上で、私のいふことを、分り切ってゐるといふならば、まことに頼もしい。
 これまでは、教育のことは御上まかせで、文部省の役人が案をひねって、上から命令してやらせたが、これからは、国民が自分なり自分の子弟なりを教育する機関や方法を、自分でよく考へなければならなくなった。自分等のために自分等が実行することを、自分等で考へるのはあたりまへのことである。新潟県がいい大学を持つやうに大に考へてもらひたい。
 ことに、これまでの大学には、徴兵猶予の特典を悪用して、学間などは少しも好きでないものや、または、就職の時に履歴書を飾るといふ、ただそれだけのために、卒業証書をほしがるものなどが、入学の手続をしに集まったものも少くなかった。そんなことでは、ほんとの学間も教育もが、どこの大学でも行はれてゐなかつたと、いってもいいかもしれぬ。そんな大学ばかりではこれから平和のうちに文化を以て世界に国を建てるなどといふわけにはいかない。なまやさしいことで学間の蘊奥を窮めるなどといふことは出来るものでない。だから今の時勢にぴったりと適合した大学をこちらで建てるつもりなら、在来のものより、ずつと理想も高く、覚悟も深く、いかなる犠牲をも甘んずるといふのでないといけない。しっかりと腰を据ゑてかかつてもらひたい。
 正直にいへば、新潟県人は、他県の人たち--たとへば長野などに較べて、知識欲が強いとか、研究心が強いとか、文化が高かったとはいへない。そこへ、こんど大学が出来れば、自然そんな方面もずんずん進歩するのであらうが、知識も食物のやうにほんとに空腹でありもせぬのに漫然と箸を取れば、消化もしない。吸収もしない。おまけに中毒も起るといふものだ。大学が出来て、山海の珍味ともいふべき学問の御馳走が御膳立てされぬちに、県民一同が、まづめいめいに自分の腹をなでてみて、めいめいがほんとに空腹になってゐるか、何うか、念のためしらべてみてもらひたい。そしていよいよこの御馳走に箸をつけることになったら、出来るだけ立派な御馳走になるやうな大学にしてもらひたい。金のかかるのは当然のことだ。金をかけるほどの必要がないと思ふくらゐならば、つまらぬ大学なら、ない方がいい。もう今日は徴兵猶予の必要はないが、職業教育だけで最高学府でもあるまい。もつと上等な、ほんとのっ学問のために、そして世界の文化のために、新潟の大学が、天下を睥睨するやうに、一つ大に御奮発を願ひたい。(『夕刊ニイガタ』昭和二十三年十月九日)

『会津八一全集』 中央公論社

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じゃがいもころんだⅡ №17 [文芸美術の森]

台風の怒り

             エッセイスト  中村一枝

 子どもの頃、秋になると台風のくるのはまるで当たり前のように思っていた。台風のあまりない年は何となく物足りない気分さえあった。それだけ台風の被害を受けずに今まで年をとって来られたと言うことだろう。でも今回の台風報道を見ていると、低い土地や土砂災害補償にあいそうな場所に住んでいる人達の苦悩や抜け道のない苦しみがひしひしと伝わってくる。普段はこの上なく住み心地がよく景色も抜群で、その土地に住む幸せを感じつづけてきた人が多いに違いない。そこから引っ越したり、移住したりするなんて考えもつかない日々を過ごしてきたに違いない。それがある日雨が降りつづいて突然川が変化する。昨日までの春の小川のような静かでやさしい川が牙をむくのだ。
 戦争中伊豆に疎開するまで私はずーっと都会っ子であった。それが突然、まちの真ん中を流れる川の上流に疎開する事になった。伊東の駅からは2、30分は歩く。町外れを過ぎると左手に川が流れていた。歩くのは高石垣の上の道。左側は底までこ見通せる。川幅はさして広くないが上から水の底まで見通せる。右側は畑や田んぼが広がっている。今思っても何とも穏やかで牧歌的な風景だった。道を歩いていても川の底の石までよく見える。何とも穏やかな風情の一本道だった。その先をちょっと右に曲がったところに当時は別荘と呼ばれていた家が二、三軒あった。私たちが借りたのはそのうちの一軒で、大家さんのおじいさんが住んでいたらしい。八畳と六畳二間のちいさな家だった。玄関の隣の六畳が父の書斎になった。父は一応物書きを仕事にしていたからいつもそこで仕事をした。お客さんが来ると母や私より先に父が顔を出すので東京から父のところに来る人は当惑したらしい。
 この家がある夏、大雨で家周りが全部水になった。道より一段と高かったその家はおかげで水害には逢わなかったが、朝、起きると周りの石垣の下まで水がひたひたと寄せていたのには 驚いた。当時五年生で、国語の教科書に高松城の水攻めの話が出ていて、私はそれが大好きだったからひとりで喜んでいた。もっともあの時その場にいた大人たちの中で身の危険を感じた人は一人もいなかったと思う。当時は自然と共生すると言うのはごく当たり前だったのではないか。今のように消防団もなく、自然との共生がごく普通のことだった。身構えるわけでもない。今はお互い対峙し身構えている。自然を傷つけているのは人間に他ならない。やたらにハイウエイをつくり高速鉄道を走らせ、効率と利益しか考えない人間に自然が愛想をつかしたとしても当然のことである。人間が手を加え便利に使いやすくするたびに自然はかなしそうに身を縮めていくことを私たちはわきまえるべきなのだ。ここ何十年もの間に何度も起きている自然災害は、どうしても人間が自らの手で安全なくさりをひきちぎったむくいではないかと思えてしかたがない。




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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №14 [文芸美術の森]

激動の時代に反撃する野十郎 4

          早稲田大学名誉教授   川崎  浹

 帰国、そして戦中、戦後 1

 昭和八年(一九九三三)、四十三歳の野十郎はヨーロッパから帰国後、久留米の生家に戻り、しばらく家や酒蔵をアトリエとするが、その後庭に椿柑竹(ちんかんちく)と名づけたアトリエを建てる。持ち帰った絵にさらに手をくわえて、「高島野十郎滞欧作品油絵個人展覧会」を福岡市の生田菓子舗で開くのは、翌々昭和十年(一九三五)である。総計六十七点。
 野十郎はヨーロッパ各地とニューヨークでも、かの地の石の文化、堅牢な建築類は避けて、自然の風景、また舟が浮かぶ海辺や川を好んで題材にして、印象派風にまとめている。ひとつには国外で一点の制作に長時間をかけられないことや、本人が楽しく遊ぶ気分でいたことに由来するだろう。
 展覧会の翌昭和十一年(一九三六)、実家との間にトラブルがあったといわれるが、縁を切って上京し北青山に住まう。昭和十二年(一九三七)十月に日本橋の白木屋で「高島野十郎滞欧作品展」を開いた野十郎は四十七歳。三ケ月前に日中戦争が生じ、日本社会は軍事一色に塗りこめられていく。翌々年、野十郎は大阪で滞欧作品展を開いた。さらに二年後の昭和十六年(一九四一)、この年の六月に画家は銀座の菊屋という所で個展を開くが、十二月に日本は真珠湾を攻撃し、米国に宣戦布告している。
 当時の雰囲気を知る私としては、真珠湾攻撃の六ケ月前だったので個展の開催ができ、幸運だったと思いこみがちだが、野十郎は二年後の昭和十八年(一九四三)十月にも同じ銀座の菊屋で個展を開き、《高原夕色》や《早春》などを展示している。この頃まで神宮球場で野球の早慶戦も開かれていたというから、余裕というものが意外な場所に隠れていることに驚かされる。
 この昭和十八年は敗戦二年前で、米軍が占領したガダルカナルから日本陸軍が撤退し、ラバウル基地で空軍が防戦に転じた頃。連合艦隊司令長官山本五十六が四月十八日ラバウル基地を視察に訪れたが、米軍が暗号を解読して撃墜、山本は戦死する。これは国民に戦況の逼迫を告げる不吉な兆候となった。
 さて野十郎は座禅一途に専念する兄との間も以前のようではなくなったが、昭和十八年、宇朗が福岡県太宰府の碧雲寺に移住したので、またちょっと距離が遠くなった。
 日需品や食料が配給制度になり、成人男女ともに町内会の軍事、防火の訓練に狩りだされたとき、五十三歳の野十郎はどうしていたのだろうか。徴兵されるには年をとりすぎ、工場に徴用された形跡もない。自らは従軍画家にもなろうとせず、戦況が悪化し物資不足がひどくなる中ひとり悠々と絵を措き、書物や経典に目を通していたのだろう。

『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍堂

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祖道傳東Ⅱ №4 [文芸美術の森]

第四図 彿陀聖旅

        画  傅 益瑤・文  曹洞宗大本山永平寺

祖道傳東4.jpg
              《紙本墨画彩色》 九〇×一二五 軸装
 人間の苦悩を解決する道は何か。釈尊は、真実の道を求めて二十九歳の時、世俗の王位を捨て、一介の沙門となりました。求道の旅の初めは、当時最も勝れた師と称せられた、アーラーラ・カーラーマ仙人を訪ねました。師は有處虞無處の境地を説いて釈尊もそれを悟(さと)られましたが、末だ真の解決を得られず、次にウッダカ・ラーマプツタ仙人を訪ねます。師は非想非非想處の法を説き、釈尊もそれをようやく体得しました。しかし未だ問題の解決に至らないことを知って苦行林に入り、難行苦行六年の歳月を費やし、苦行は結局悟りへの道でないことを知って山を下り、尼連禅河に沐浴して大樹の下に端坐いたします。ときに村人が乳糜(にゅうび)を献じてくれました。釈尊はこれによって枯渇した身心を癒しながら、さらに三昧に入って十二月八日暁の明星を一見して、正覚を成じ、仏陀となったのであります。
 やがてベナレスに赴いて、共に修行した五人の比丘(ぴく)に初めて法を説きました。これで仏法僧の三宝が完全に整ったのです。やがて、次第に弟子が集まり、竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)、王舎城、霊鷲山(りょうじゅせん)など広く行脚(あんぎゃ)して正法を広めることになります。そして八十歳でクシナガラの沙羅林の中で涅槃(ねはん)に入られました。
『祖道傳東』大本山永平寺

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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」 №20 [文芸美術の森]

           シリーズ≪琳派の魅力≫

                          美術ジャーナリスト 斎藤陽一
                                       
          第20回:  尾形光琳「紅白梅図屏風」 その1
(18世紀前半。二曲一双。各156×172.2cm。国宝。熱海・MOA美術館)

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≪画業の総決算≫

 尾形光琳は、47歳の時に江戸に行き、5年ほど滞在したあと、52歳で京にもどりました。江戸では、大名家や豪商の家に出入りして、画業に励んでいましたが、京での雅びな暮らしぶりと比べれば、江戸での生活は堅苦しく、面白味のないものだったようです。

 今回から7回にわたっては、晩年の光琳が、京で描いた「紅白梅図屏風」をじっくりと見てみましょう。

 光琳が40代半ばで「燕子花図屏風」を描いてから、15年近くの歳月が流れました。「紅白梅図屏風」は、人生の年輪を重ねた光琳の画業の総決算ともいうべき作品です。

 この屏風は「二曲一双」形式です。「二曲一双」と言えば、俵屋宗達が「風神雷神図屏風」で創始した形式です。左右に相異なる概念のモチーフを描き、その二つが対立するときのインパクトと緊張感を表現するのに適する、独創的な形式の屏風です。

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 尾形光琳も、ここで、宗達の「二曲一双」を継承しています。二つの屏風には、およそ百年の時の隔たりがあります。
宗達がモチーフとしたのは「風神・雷神」だったのに対して、光琳が左右に描き分けたのは「紅梅・白梅」でした。つまり、「風神」に対応するかたちで「紅梅」が、「雷神」に対応するかたちで「白梅」を描いています。どちらも背景は金地です。

しかし、「風神雷神図」とかなり異なるところは、「紅白梅図」では、中央に黒い川の流れを大きく描いていることです。しかも、この黒い川は、右隻と左隻の境で分断されている・・これは、それまでの屏風絵ではあまり見られない大胆な構図です。
光琳には、私淑する宗達のかたちを継承しながらも、「自分自身の二曲一双を作るぞ」という挑戦的な気持もあったかも知れませんね。

この黒い水流が、何とも言えない幻想的な雰囲気を生み出しており、そこがこの絵の魅力なのですが、これについては、あとの回で詳しく見ることにしましょう。

 ≪紅梅と白梅が象徴するもの≫

 先ずは、左右に描き分けられた「白梅」と「紅梅」をじっくりと眺めたい。

20-3.jpg 「白梅」は、太さや曲がり具合から、相当な古木であることが分かります。
 この老木は、幹の根もとから左に大きく曲がったまま、枠によって切断され、画面の外で枝をはりめぐらしていることが暗示されます。その枝の一部が、今度は、左上から画面内に降りて来て、地面すれすれのところでV字型に曲がり、上に向かっている・・
 この感じは、年老いた人間が、腰をかがめて、川に手をかざしているようにも見えます。そして白い梅の花、これは老人の白髪を暗示しているかのようです。

 今度は「紅梅」に注目しましょう。
 こちらは、「白梅」と対照的に描かれていますね。大地に足を踏ん張って立つ「若木」なのでしょう。全体に、溌剌とした勢いが感じられる。
 ぐんと胸をそらせた姿勢の幹からは、しなやかな枝が伸び、赤い花を咲かせている。血色のいい若者の生命力を暗示しているかのようです。

 「白梅」と「紅梅」の描線にも注目・・・
 「白梅」は、ごつごつとして直線的、「紅梅」は、弧を描くように曲線的であることが見てとれます。これは、それぞれ、直線的な文字である「漢字」と、曲線的な文字である「ひらがな」を想起させます。
 ここに、光琳の絵画の基礎となっている「漢画」と「やまと絵」を読み取る研究者もいます。
 前回に紹介した「燕子花図屏風」で明らかになったように、尾形光琳は、単純化した構成の中にも、隅々まで研ぎ澄ました造形感覚を働かせる理知的な絵師ですから、そのくらいのことは考えて描いているかも知れません。

 次回は、「紅白梅図」で使われている技法と、この絵の“具象性と抽象性”についてお話ししたいと思います。
                                                             



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日めくり汀女俳句 №44 [ことだま五七五]

五月六日~五月八日

          俳句  中村汀女・文  中村一枝

五月六日
青嵐住みなすといふ日数(ひかず)かな
               『紅白梅』 青嵐=夏
 会社にも学校にも縁がなくなった老夫婦の生活でも、週始めと週末とでは何となく心持ちが違う。若い人が花金(はなきん)とか、花木(はなもく)とかいう夜になると、外へ行くわけでもないのに浮き立ってくるものがある。今や土曜も日曜も関係ない身分なのに、ざわめいている町の空気に乗せられて足の運びも軽やかだ。
 ようやく曜日に関係のない身分になれて気楽だと思っていた矢先、伏兵があった。ゴミの収集である。分別ゴミはいつ、可燃ゴミは、資源ゴミはビンの回収は……。おかげで私の頭のゴミ一覧表は無休で稼働している。

五月七日
エーデルワイスと声に乗せけりたのしげに
        『軒紅梅』 エーデルワイス=夏
 エーデルワイスは日本ではミヤマウスユキ草と同じ品種と言われる。八ヶ岳の高原にも夏になるとよくみかける。先端が細っそりととがった乳白色の目立たない花だがそこはかとない気品が漂う。ひっそりとしているが凛然という気配。
 確かオーストリアの国花だった。
 山の花は園芸栽培された花たちと違って自主独立の精神というか、内に秘めた闘志のようなものがあって、見あきない。
 ひそやかでいて存在感がくっきりしている。冬の風雪にも耐、え、自然のままに生きる花の自信だろうか。

五月八日
兢豆(えんどう)飯灰(ほの)かに灯虫来そめし夜
        『紅白梅』 豆飯=夏 灯虫=夏
 豆のご飯が好きである。塩味で炊いても、薄い醤油味でもいい。豆の青っぽい匂いが炊き上がったご飯にほのかに残るこの味わいがいい。
 終戦直後、幼ななじみの男の子が、突然亡くなった。彼は母親の連れ子で、新しい父親が厳しい人でつらい思いをして育った。当時の貧困な医療事情のせいで手当てが遅れた。
腸閉塞だった。十一歳の少年である。貧しいアパートのミカン箱の上に飾られた人なつっこい笑顔が涙で曇った。あの子が好きだった豆飯を、と出された豆ご飯。塩辛い涙が、お米の中にしみていった。

『日めくり汀女俳句』 邑書林

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草木塔 №50 [ことだま五七五]

柿の葉 1

                俳人  種田山頭火

   生野島無坪居
 
 あたたかく草の枯れてゐるなり
 旅は笹山の笹のそよぐのも

   門司埠頭
 
 春潮のテープちぎれてなほも手をふり

   ばいかる丸にて
 
 ふるさとはあの山なみの雪のかがやく

   宝塚へ
 
 春の雪ふる女はまことうつくしい
 あてもない旅の袂草こんなにたまり
 たたずめば風わたる空のとほくとほく


『草木塔』 青空文庫

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読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №74 [ことだま五七五]

           読む「ラジオ万能川柳」プレミアム☆10月2日、9日放送分

        川柳家・コピーライター  水野タケシ
  
川柳家・水野タケシがパーソナリティーをつとめる、
読んで楽しむ・聴いて楽しむ・創って楽しむ。エフエムさがみの「ラジオ万能川柳」、
2019年10月2日放送分です。

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ラジオの後はテレビ朝日へ。長ーい一日
ラジオ万能川柳」は、エフエムさがみの朝の顔、竹中通義さん(柳名・あさひろ)が
キャスターをつとめる情報番組「モーニングワイド」で、
毎週水曜日9時5分から放送しています。
エフエムさがみ「ラジオ万能川柳」のホームページは、こちらから!
http://fm839.com/program/p00000281
放送の音源は……https://youtu.be/oefADiPL9bs

【質問】
毎日新聞・仲畑流万能川柳の交流誌「ファンブック104号」が届きました。
素朴な疑問ですが、このファンブック、いつもタケシさんがお一人で制作されているんですか?
もしそうだとしたら、これは大変な作業ですよ。(離らっくすさん)

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https://youtu.be/oefADiPL9bs

(みなさんの川柳)※敬称略 今週は166句の投句がありました!!
・まとめ買いすぐになくなる酒タバコ(名人・キジバト交通)
・ライバルの酒にこっそり水いれる(初投稿=折鶴翔)
・慎之助今季で引退晋三は?(よっきゅん)
・名人もぼつになるなら仕方ない(和こころ)
・ファンブックとてっちゃん句集お手本に(重田愛子)
・古希過ぎりゃ秀才鈍才みな同じ(昔のジョー)
・関電のばれたら返す袖の下(東孝案)
・店よりもチンするスパの美味いこと(名人・東海島田宿)
・秋がくる前にインフルやって来た(名人・あまでうす)
・ラグビーへ駆け付けファンが駆け付ける(ホッと射て)
・被災地を思えば言えぬ愚痴不満(名人・やんちゃん)
・破綻せず原発マネーのサイクルは(恵庭弘)
☆タケシのヒント!
「関西電力のネタがたくさん届きましたが、この句が一番皮肉が効いてました。原発政策は破綻してしまったのに、原発マネーはいまだに…というのが、いかにも川柳ならではの「うがち」ですね。」

・値上げ前買いだめしたいけど刺身(名人・龍龍龍)
・パンダからピエロになったシンジロー(大名人・秦野てっちゃん)
・CS祝いいっぱいいかがあさひろさん(パリっ子)
・温暖化苦にしないのはトップのみ(大名人・平谷妙子)
・ラグビーで日本中が活気づく(白ポロ)
・土屋さんのサイン誰かに持ってかれ(模名理座)
・閉店のデパートの床走れそう(名人・マルコ)

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・脳トレをやっているよな消費税(大名人・アキちゃん)
・燃えました何も知らずに燃えました(名人・かたつむり)

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・セクシーにお送りしますラジ川も(司会者=名人・あさひろ)
・七十年祝うそばでは大暴動(つや姫)
・彼岸花なんだか俺を誘ってる(大名人・春爺)
・若いのに見上げたもんだ屋根直し(たつみ)
・結婚でアイドルなみに人気下げ(大名人・入り江わに)
・こちらこそ季節阪神六連勝(大名人・光ターン)
・ナンなんだ10月なのにこの暑さ(のりりん)
・夢を見たママに抱かれている少女(大名人・けんけん)
☆あさひろさんのボツのツボ!
「ラジオ万能川柳。今週は秀作が多かったね、と師匠。「消費税・ラグビー・原発マネー・環境大臣」などに166句。そんな中でボツのツボは『良い人と人が良いとはチョと違う』けんけん。似て非なるもの、ありますね「悪い親父」にはなりたくありませんが、「ちょい悪オヤジ」にはなってみたい気もします。」

・勝って尚静かに明日を見据える目(ペンギン)
・来世また一緒よと妻ネコに言う(はる)
・増税になる前最後外食へ(名人・ポテコ)
・就任後環境変化身にしみる(里山わらび)
・弁護士が相撲取りにもつく時代(小把瑠都)
・まず風が秋が来たよと知らせに来(ゆうがお)

◎今週の一句・破綻せず原発マネーのサイクルは(恵庭弘)
◯2席・七十年祝うそばでは大暴動(つや姫)
◯3席・セクシーにお送りしますラジ川も(司会者=名人・あさひろ)

【お知らせ】
皆さん、テレビ朝日で大好評放送中の「川柳居酒屋なつみ」ご覧いただいていますでしょうか?
今週は人気ドラマ「相棒」の角田(かくた)課長と青木捜査官のコンビでしたが、
実に味のあるコンビで楽しかったですね。

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実は今晩テレビ朝日で収録がありまして、
これからテレ朝に行ってまいります!!
今回の収録分から、さらに川柳が重要な役回りとなりそうで、
急きょスタジオに気に来てください、とお声がかかりました。

 【放送後記】
早朝はエフエムさがみ、
夜はテレビ朝日と長い長い一日になりました!!

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「川柳居酒屋なつみ」はこれからさらに役割が増えそう。
どんな展開になるか、どうぞご注目くださいね!!
(タケシ拝)
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〇2019年10月9日放送分です。 

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週末の台風が心配な相模原!!
放送の音源は……https://youtu.be/N2tIB1EQgVI

【話】
先週の水曜日は本当に長い長い一日でした。
まず4時に起きて、一仕事して、朝食をとって、6時過ぎにエフエムさがみに向かいました。
生放送が終わって帰宅。そこからまた通常の仕事をして、
毎日新聞に用があって外出。
毎日新聞から、赤坂にあるテレビ朝日のアーク放送センターに向かいました。
「川柳居酒屋なつみ」の収録の立ち合いです。

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https://youtu.be/N2tIB1EQgVI

(みなさんの川柳)※敬称略 今週は174句の投句がありました!!
・どこまでを散歩というか徘徊か(重田愛子)
・手土産の底に忍ばす金貨の絵(うさぎの小雪)
・10%(パー)は20%(パー)への通過点(名人・グランパ)
・今の世に小判使うというスゴさ(大名人・雷作)
・英会話出来ずに辞退ノーベル賞(名人・キジバト交通)
・関電も死人に口無し心得て(恵庭弘)
・秋夕焼ちょっぴり丸くなる心(名人・やんちゃん)
・袖の下もとをただせば電気料(東孝案)
・権力がマスク恐れる恐れ入る(名人・東海島田宿)
・停電に雨漏り時代逆戻り(たつみ)
・北風でなく太陽を香港に(名人・荻笑)
・スポーツの秋と威張るが観てるだけ(大名人・光ターン)
・水没の画像を重ね見る東京(名人・龍龍龍)
・天低く台風ばかりやってくる(大名人・入り江わに)
・雑草の庭にススキが2本揺れ(模名理座)
・狙ってる人にはやるな平和賞(小把瑠都)
・愛犬が遺してくれた柳友(とも)とファン(大名人・秦野てっちゃん)
・駅前で善人になる赤い羽根(名人・不美子)
・いじめはねこうと手本を先生が(爽抜天)
・いつもなら捨てちゃうレシート読みふける(よっきゅん)
・シンデレラストーリー生むユーチューブ(柳王・ユリコ)
・熟年の夫婦に欲しい温暖化(ただのおやじ)
・オーカネダヒロオカ昭和遠くなり(名人・フーマー)
・有難うまず底を見るお菓子箱(大名人・けんけん)
・少しずつルール覚える日本人(大名人・アンリ)
・AIと競わない職探す孫(名人・マルコ)
・豪快にやったるでーと天上へ(里山わらび)
・レジの子が言うまま払う消費税(はる)
☆タケシのヒント!
「複雑すぎてわかりにくい、新しい消費税。声高に批判するのではなく、句の余白に皮肉がこめられています。」

・連休に来る台風の嫉妬心(クッピー)
・来年は絶対絶対来年は(パリっ子)
・ノックオン解らないけど興奮し(司会者=名人・あさひろ)
☆あさひろさんのボツのツボ!
「ラジオ万能川柳。174の投句、有難うございます。今週は、ラグビーワールドカップ、原発マネー、香港の民衆デモ、台風19号関連句が特に多くありました。中国の覆面禁止法に対する香港デモに共感の句も。ボツの壺『カツラでも覆面と言って止められる』恋するサボテンちゃん。じゃあ、あの子のお化粧も?」

・「サンマですね」と来る回覧板(名人・かたつむり)

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・母と娘(こ)の断捨離思い出邪魔をする(ゆうがお)
・今週はラグビーネタが8割か(のりりん)

◎今週の一句・レジの子が言うまま払う消費税(はる)
◯2席・豪快にやったるでーと天上へ(里山わらび)
◯3席・連休に来る台風の嫉妬心(クッピー)

【お知らせ】
皆さん、冒頭でもお話ししましたが、テレビ朝日で大好評放送中の
「川柳居酒屋なつみ」ご覧いただいていますでしょうか?
来週と再来週は、去年「おっさんずラブ」が流行語にもなった
人気ドラマ「おっさんずラブ」から俳優の戸次重幸さんと千葉雄大さんが出演!!
ムロさんと戸次さん、千葉さんが番組初の企画「川柳対決」を行います!!
2回勝負をしますよ!!

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 【放送後記】
またまた台風が来てますね。
12日には私主宰の句会があるのですが、
台風19号が直撃しそう。天気予報を見ては、頭を悩ませています。
皆さまもどうぞご安全に!!
(タケシ拝)

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  水野タケシ(みずの・たけし)

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 1965年生まれ。コピーライター、川柳家。東京都出身。
 著書に「水野タケシ三〇〇選」(毎日新聞東京センター)、
「いちばんやさしい!楽しい!シルバー川柳入門」(河出書房新社)、
「これから始める俳句・川柳いちばんやさしい入門書」(神野紗希さんとの共著、池田書店)。


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雑記帳2019-10-15 [代表・玲子の雑記帳]

2019-10-15
◆伊香保温泉、対象ロマンの館で竹久夢二の世界にひたる

群馬県は古来、位置的に日本列島のど真ん中にあり。日本のへそといわれてきました。
上毛三山の一つ、榛名山は2000年前に噴火、その後、今から400年ほど前に温泉がひかれた伊香保は、ちょうど、榛名山の中腹、海抜700メートルのところにあります。

竹久夢二美術館は生地岡山をはじめ、全国にいくつかあります。
伊香保は、滞在した期間はさほど長くはありませんでしたが、夢二がこよなく愛した土地でした。ここに、大正ロマンのテーマパークができ、夢二記念館はその森の中にあるのです。

毎年、9月の2週間だけ、この記念館で、夢二の「黒船屋」が特別公開されます。
夢二の代表作「黒船屋」のためだけにに造られたという「奥座敷」で、「黒船屋」をみることができると聞いて出かけました。

夢二の人気が絶頂にあった明治44年、一人の少女の手紙が夢二と榛名を結びました。
手紙をもらったものの、一度もおとずれたことがなかった伊香保を夢二が訪れたのは大正8年のことです。その後、昭和になって、伊香保温泉の人気は高まり、大勢の文人墨客が伊香保をおとずれるようになりました。この時期夢二の人気は下降気味でしたが、昭和5年、夢二は島崎藤村らの賛同をえて、伊香保に生活美術研究所をつくります。46歳のときでした。自然の中で、日常生活に必要なものを制作するという、人間の心の原点を榛名の自然にもとめたのでした。
その思いは昭和6年の「榛名山賦」に結実します。榛名山を背景に、春の女神、佐保姫を描いています。

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久方の 引けりたたえて 匂ふなり 榛名の湖に 春たちにけ里(榛名山賦)

絵だけでなく、夢二は、詩、短歌、俳句など、様々なジャンルの作品を残しています。、
デザイナーとしても千代紙、半襟、浴衣、封筒、便せん、うちわ、ポチ袋、手ぬぐいなど、残された小間物の作品は数知れず、まさに生活美術を地で行く仕事をするのです。

夢の実現のために海外へ資金集めに出かけるも、世界は経済恐慌のさ中、資金繰りはうまくいかず、友人とは仲たがいし、自身も病を得て帰国、長野県富士見高原療養所にて死去。49歳と11か月でした。

伊香保夢二記念館は昭和53年に開館しました。
壁や天井にステンドグラスをはめこむなど、夢二の時代の雰囲気を漂わせる建物です。

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夢二記念館本館
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入口天井のステンドグラス

本館ロマンの館の1Fホールには夢二の作品の展示とともに、100年以上前のピアノやオルゴールがありました。
ピアノは130年前のウイーンで作られたベーゼンドルファー。学芸員さんが、テネシーワルツにはじまり、ふるさとや宵待ち草などの日本の曲のメドレーを演奏してくれました。ベーゼンの深くやわらかな音色に当時がしのばれました。。
アメリカ製ジュークボックスに使われたオルゴールや、スイス製の家庭用オルゴール、立型の大きいドイツ製のオルゴール、いずれも100年以上前のものだということです。曲も、宵待ち草やアベマリア。と、窓のステンドグラスとともに、さまざまに大正の雰囲気を醸し出すしかけです。

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ホールのピアノやオルゴール
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売店窓のステンドグラス

2Fは夢二の代表作が展示されています。
前出の「榛名山賦」は屏風絵になっています。渡米前に制作しました。
もう一つの代表作「青山河」はアメリカで描かれました。夢二には珍しく油絵です。
これも折屏風になっていて、バックに描かれているのははやはり榛名山です。
モデルは亡くなった恋人の彦乃に自身のイメージを重ねたといわれています。

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ロマンの館に接する本館、黒船館は夢二の代表作「黒船屋」の寄贈をきっかけに建てられました。
3Fの奥座敷に通じる階段やロビーには、夢二の愛した生活美術の観点から館がコレクションしたアンティークの豆皿、ランプが壁いっぱいにかざられています。

蔵座敷は「黒船屋」のための部屋です。
江戸時代に作られたという鉄製の重い扉を開けると、床の間にかけられていたのは、年に2週間だけ公開されるという「黒船屋」の掛け軸でした。
この絵が描かれたのは大正8年、ちょうど100年前でした。
画家として油がのっていたにもかかわらず、恋人、彦乃と引き離された失意のうちに絵が描けなくなっていた夢二に、再び絵筆を持つよう、持ちかけたのは表具師の飯島勝次郎でした。
黒い額縁を表装した「黒船屋」は評判となり、飯島はこの作品で受賞しました。記念に飯島はあるだけの金をかき集めて買いとろうとしましたが、夢二がその半分の75円しかうけとらなかったという逸話がのこっています。
飯島からコレクターの長田幹雄に譲られた絵は、のちに永田の友人の夢二記念館の館長木暮享に無償で譲られました。「黒船屋」は、お金を介在せずに守られた珍しい作品です。
木暮はこの絵が一番美しく見えるように蔵座敷を造ったのでした。
蔵座敷に入ると、扉は閉ざされて、客と学芸員(亭主)だけの空間になる。そこで学芸員さんの説明を聞きながら、客は床の間の黒船屋と向き合う、贅沢な時間をすごすのです。

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黒の額縁で表装された奥座敷床の間の黒船屋
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絵葉書の黒船屋

夢二と彦乃が出会ってわかれるまで6年。彦乃をモデルに描いた「黒船屋」は夢二の最高の傑作となりました。
「黒船屋」は夢二の自伝小説「出船」に登場する架空の店名。夢二が日本橋呉服町に営んだ「港屋」がモデルといわれています。港屋は夢二がデザインした小者類を販売して、東京名所の一つになっていました。

「大正ロマンのテーマパーク」の敷地内にはほかに新館と別館があります。
新館は「義山楼(ぎやまんろう)」と呼ばれ、明治、大正のガラスの器の展示されています。

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魏山朗の展示の一部

別館は「子供絵の館」です。ここには、「子どもの友」「新少女」「中学世界」などの雑誌に夢二が描いた表紙や挿絵、ポスターが展示されています。夢二のデビュー作「筒井筒」もありました。デザイナーとしての仕事もさることながら、これらの多くの仕事を精力的にこなしていたことに、夢二の意外な一面を見る思いがしました。

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子どもの館外観と内部

榛名湖畔の、榛名神社にむかう丘の中腹に夢二のアトリエがあります。
昭和4年から5年にかけて、夢二45歳の時、榛名湖畔にアトリエをたて、生活と芸術を結ぶ運動「榛名山美術研究所」を宣言した場所です。
木造2階建て。1Fにアトリエ、2階に和室と厨房がある、シンプルな造りでした。
夢二はここから眺めた榛名山を生涯愛し、作品の随所に榛名山を描きました。
渡米して活動する中でも、榛名に帰ってこの経験をいかしたいと願い、療養中にも心は常に榛名にとんでいたといいますから、あたかも人を恋するように榛名を恋うた、その一途さには脱帽するしかありません。

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坂の下から望む夢二のアトリエ
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アトリエへ向かう道端にはシモツケソウやツユクサなどの野草がいっぱい。
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榛名湖 正面は榛名富士(榛名山は榛名湖を造った火山を総称して呼ぶ名前。一番高いのが春奈富士です)

アトリエから程近い湖畔に夢二の歌碑が建っています。昭和10年、夢二の一周忌に有島生馬の提唱でたてられました。

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さだめなく 鳥にうくらむ 青山の 青のさびしさ かぎりなければ

伊香保温泉を訪れる観光客は多くても、榛名湖やアトリエまで足を伸ばす人はあまり多くないのかもしれません。ちょっとさびれた感じの湖畔の風景が、実は人のにぎわう観光地よりも夢二には似合っているように思われました。

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私の中の一期一会 №199 [雑木林の四季]

      最強台風19号は上陸後、記録的大雨を降らせ東日本の広範囲で被害が多発
           ~気象庁が異例の記者会見で厳重な警戒を呼び掛けたのに・・・~

        アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 大型で非情に強い台風19号が12日午後7時ごろ伊豆半島に上陸した。
 9月の15号台風よりはるかに大きな暴風圏を持つ“スーパー台風”が東日本を直撃し、河川の堤防決壊や土砂災害など東日本の広範囲で大きな被害が発生している。
 この台風は6日に南海上で発生した時の気圧は992ヘクトパスカルだったが、翌7日の午後6時には915ヘクトパスカルまで気圧が急速に低下していた。短時間で“猛烈化した”ものといえるだろう。
 気象庁の発表によれば、台風19号は12日午前8時現在、八丈島の西南西海上を時速20キロで北に向かって進んでいた。
 その中心気圧は936ヘクトパスカル、中心付近の最大風速は45メートルで、最大瞬間風速は65メートルに達するというものであった。
 日本近海の水温がかなり高いため強い勢力を保ったまま、ゆっくり近づいてきていたのだ。
 なにしろ、中心の東側370キロ以内と西側280キロ以内が風速25メートル以上という広い暴風域を持っているので、上陸すれば本州の半分が暴風圏にスッポリ入ってしまうほどの巨大台風だった。
 問題は、この台風が非常に強い勢力のまま、本州に上陸するのが確実なことであった。
 気象庁が台風の上陸前に記者会見を開くのは異例のことだろうが、梶原靖司予報課長は11日午前、“臨時記者会見”を開いて“厳重な警戒”を呼び掛けたのである。
 昭和33年(1958年)に伊豆半島の狩野川が氾濫して死者・行方不明者1269人を出した「狩野川
台風」に匹敵する暴風雨になる恐れがあり、広範囲に「大雨特別警報」を出す可能性が高いことを指摘しながら、「自分の命、大切な人の命を守るため、“風雨が強まる前に”、また“夜間暗くなる前に”、早め早めの避難、安全確保をお願いします」と呼び掛けた。
 スーパー台風19号は風が強いことに加え、15号より雨の量が記録的に多くなることが予想されたからである。
 12日夜から13日未明にかけて東日本を縦断した台風19号は各地で荒れ狂いながら駆け抜けていった。
 気象庁は、上陸直後から静岡、東京、神奈川、埼玉、群馬、山梨、長野の1都6県に“重大な災害が発生する恐れがある”として「大雨特別警報」を発令し、最大級の警戒を呼び掛けた。
 近くに住む友人から「風、段々凄くなってきた。家が古いのでちょっと怖い。あと3時間我慢」というメールがきた、時刻は21時27分だ。台風が首都圏を通過中だった頃ではないかと思う。
 我が家では、テレビの台風情報を見ながらも「風の音が凄いなあ」と思っていた時であった。
 1時間後「ピークは過ぎたようです。今のところ大きな被害なし」のメールが来て、ひと安心したが、台風19号は、北上しても雨の勢いがあまり衰えなかったのである。
 12日に“24時間降水量の観測記録”を更新した地点が16の都県の84カ所に及んだ。
 神奈川県の箱根町では12日だけで922.5ミリの雨が降り、48時間では1001ミリを記録した。
 この観測史上最高の降水量で、芦ノ湖から湖水が溢れ出して観光地に影響を与えた。
 小田原土木センターは、「気象庁の降雨予測に従い、10日から放水を開始して台風に備えたが予測を上回る降水量だった」と話した。
 長野市穂保地区では13日朝、千曲川の堤防が70メートルにわたって決壊した。大量の濁流が流れ出し、
長野新幹線車両センターが水没、多数の新幹線車両が水に浸かったという。
 その他、堤防近くの住宅が浸水して避難勧告が出た。福祉施設で高齢者360人が孤立したり、停電も発生した模様である。
 堤防は5年前に強度を高める工事を終えていたというから、加藤久雄市長にとっては想定を超える災害だった。
 「工事を終えたばかりの堤防だから大丈夫だと思っていた。市民生活を取り戻すため一日も早く堤防の復旧工事を終えたい」と述べている。
 被害が広い範囲にわたって発生しているため実態の把握は遅れているが、毎日新聞の集計によると、この台風で11の県で65人が死亡し、6県で14人の行方不明者が出ていると分かった。
 死亡者は福島県で24人、神奈川県13人、宮城県10人、群馬・栃木の両県で各4人、岩手・茨城・埼玉・長野の各県で各2人、千葉・静岡の両県では各1人である。
 しかし、福島県いわき市が今日午前、新たに6人が死亡していたと発表しており、自治体や警察が身元確認を急いでいるという報道もある。犠牲者は今後も増えるかも知れない。
 14日の夜を迎えても6つの県の約39万人に避難指示が出されたままだし、13都県の避難所には約5500人が身を寄せているという。
 床上、床下浸水などの住宅被害は埼玉・栃木・長野各県を中心に1万戸にのぼる。
 土砂災害は各地で146カ所確認されている。
 14日も雨が降ったところがあり、引き続き土砂災害への警戒や河川の増水に注意するよう国交相が呼びかけている状況なのである。
 安倍首相は14日、「躊躇せず被災地が全力で応急対策や復旧作業に取り組めるよう激甚災害に指定する方向で調査を進める」という方針を示した。
 関係閣僚にも被災者が一日も早く安心して暮らせるよう全力を尽くして欲しい」と指示した。
 台風の接近に伴い首都圏の鉄道各社は「計画運休」を上陸前日に発表して実施した。
 これまでは交通機関が、災害を前に事前に予告して列車の運航を中止することはなかったから、利用客は駅での混乱に巻き込まれなくて済む。運休や運転見合わせで途方くれたり、運転再開時の混雑や駅間で停った列車に閉じ込められることもなくなる。いいことの方が多いではないか。
 JR釜石線の終日運休で、ラグビーW杯のナミビア・カナダ戦が中止になったが、大会組織委の中止判断にも計画運休は役だったかも知れない。
 ラグビーといえば、8強進出を目指した日本は、スコットランドとの運命の一線を前にした12日午前8時すぎ強風と大雨の中で1時間の調整練習をしたというから驚く。
 それにしても過去1勝10敗という難敵を相手に日本は粘い強い戦いをみせた。激しく追い上げるスコットランドの猛攻を全員で必死に耐えて、28-21で破り、初の決勝トーナメント進出を果たしたのは凄かった。計画運休ならぬ「計画休養」をしなかったのが良かった?のだろうか・・・



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浜田山通信 №252 [雑木林の四季]

台風とラグビーと

                          ジャーナリスト  野村勝美

 台風19号、大丈夫でしたか。わが弊屋は二部屋で雨漏りし、なかなか眠れなかった。なにしろ築43年のマンションで、外側のタイルにすきまができ、そこから雨水がしみ込んでぽたぽた雨水が落ちてくる。管理会社へ電話しても通じるものではない。そのうち台風が通り過ぎ雨が上がると雨漏りも止まって眠れた。台風は関東、東北の山間部に大雨を降らせ、千曲川や阿武隈川など21河川で堤防決壊、住宅や田畑を水びたしにした。これだけ広範囲に人的物的損害を出した台風はなかったのではないか。わが家の損害など人さまにいうほどのことではない。
 13日は日中、台風被害のTVニュースをみていたが、夜は一家でラグビーの日本×スコットランド戦を見て喚声をあげる。私はスポーツナショナリズムがきらいで、オリンピックにも興味がないし、ラグビーも初めてだからルールや選手のこともわからない。それでもこれまでワールドカップ戦で1勝しかしていない相手に勝ったのだから一般のファンとしてはたまらない。私としても7点差であと1分、それも相手チームのゴール前でのもみ合いの時は、TVの時間の表示だけが気になった。
 それにしても台風の被害ニュースから一転してラグビーの大騒ぎ。他のスポーツや芸能でも勇気を貰ったなんてことを、TVは地震や台風被害者に語らせてきたが、災害被害者とスポーツの勝ち負けの間には距離がありすぎて、人間はどうしようもないなと思う。
 考えてみればこの前の台風15号にしろその前の西日本台風にしろ、あるいはモンスーンやハリケーンにしろすべて地球温暖化現象なのだ。そのことは日本では宇沢弘文さんが早くから言っていたし、オゾン層破壊が問題になったころは世界中の人々が問題を深刻に考えた。アメリカのゴア副大統領が温暖化防止を掲げて世界中に訴え回った頃も同様だった。それが15年もたつとすっかり忘れる。台風による洪水で家屋、人命、田畑が失われても同じ日本人が一夜明けるとラグビーに熱狂する。それが人間さと私の中のもう1人の私がささやく。
 いまから30年ほど前には環境ジャーナリストがいっぱいいた。朝日の辰濃和男、毎日の原剛、作家の立花隆らが大活躍した。辰濃は環境ジャーナリストの会の会長を務めていたが、環境問題でいちばん大切なことは、第一に「未来人」の立場に立つことだと言った。その未来人の代表が、世界中のおとなたちに衝撃を与えたスエーデンの16歳の高校生グレタ・トウンベリさんだった。彼女は、経済成長というおとぎ話を信じ、環境破壊が目に入らないおとなたちを痛切に批判した。彼女たちは自分たちが温暖化する地球環境の中で生きのびられないことを実感している。私はグレタさんに感動し、皆が言っていたようにことしのノーベル平和賞は彼女にまちがいなしと思っていた。しかし彼女は受賞しなかった。その理由を推測する言説すらメディアには出なかった。」

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BS-TBS番組情報 №196 [雑木林の四季]

BS-TBS 2019年10月のおすすめ番組(下)

                BS-TBS広報宣伝部

新・地球絶景紀行

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2019年10月16日スタート 毎週(水)よる10:00~10:54
10月16日は初回2時間スペシャル よる9:00~10:54

☆悠久の時を刻む自然美、人智が到達し得た創造美──。心を揺さぶるかけがえのない景色を求め、地球を駆け巡る。

ナレーション:吉田 羊

2010年4月から8年半に渡り、放送されていた「地球絶景紀行」が「新・地球絶景紀行」として新たに放送をスタート!番組は、旅人(ナレーター)が地球を旅し、そこで出会った絶景を紹介。今回はどんな「絶景」に出会えるのでしょうか。

■10月16日放送
初回2時間スペシャル 「エジプト・ナイル 今昔物語」

クレオパトラが愛した古代エジプト最古の都アレクサンドリアを出発し、ナイル川に沿ってアブシンベル神殿のあるアスワンを目指す。アレクサンドリアからカイロに移動し、世界最大ギザのピラミッドへ。古代エジプト文明を象徴する三大ピラミッドとスフィンクスはまさに圧巻。夜行列車に乗り込みルクソールに到着すると古代エジプト最古の神殿カルナックがお出迎え。数多く残る遺跡を堪能した後は、クルーズに乗ってナイル川を下りアスワンへ。最終寄港地アスワンから車で目指すのはラメセス2世が建造したアブシンベル神殿。自らの権力を誇示するべく建てられたこの神殿は、まさにナイル川によって育まれた高度なエジプト文明の結晶ともいえる壮大さが現代にも受け継がれていた。
※4Kチャンネル「BS-TBS 4K」では4K映像でお楽しみ頂けます。

未来へつなぐ にっぽんの歌魂

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2019年10月19日(土)よる7:00~8:54

☆世代を超えて未来へと、演歌の世界を歌い継ぐスペシャル

司 会:峰竜太、小倉弘子(TBSアナウンサー)
ゲスト:細川たかし、坂本冬美、城之内早苗、北山たけし、辰巳ゆうと、三田杏華

演歌、それは日本人の心の拠りどころ。
演歌の素晴らしさを全力で伝えようと命を燃やす歌手たちが、演歌新時代を担う若手を応援すべく力を注ぐ。
ベテランから新人、世代を超えて未来へと、演歌の世界を歌い継ぐスペシャルが始まる。
目玉となる2つの特集コーナーでは、番組独自のリサーチによるランキングを発表!
■第一特集「デュエット演歌」コーナー
ベテラン歌手と、新人若手歌手による極上のコラボレーションで人気のデュエットナンバーを披露!
「ふたりの大阪」「新宿そだち」「北空港」「二人は若い」ほか
■第二特集「セリフ入り演歌」コーナー
歌手の実力が問われる、「セリフ入り」の名曲に挑戦!
「からたち日記」「傷だらけの人生」「男はつらいよ」「岸壁の母」ほか
さらに、「新人演歌歌手の紹介&応援コーナー」を企画。
今注目の若手演歌歌手・辰巳ゆうと、三田杏華の持ち歌と人柄を、本人の家族や地元の人々の応援VTRとともにご紹介。
ほかの番組ではあまり紹介する機会のない新人の歌とキャラクターをたっぷりとお届けします。
もちろん、人気歌手たちの代表曲や新曲もたっぷりお届け!
「北酒場」細川たかし、「夜桜お七」坂本冬美、「あじさい橋」城之内早苗、「男鹿半島」北山たけしほか
演歌一色の2時間。どうぞお楽しみに!!

がん新治療&健康長寿 先端医療の未来モデル

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2019年10月27日(日)午後5:00~6:54

☆「がん」治療の最前線に迫る!

ナビゲーター:真矢ミキ
監修・コメンテーター:冨田勝(慶應義塾大学先端生命科学研究所 所長)

人生100年時代。最期まで健康で生きていたい。その願いに立ちふさがるのが、「がん」。いま、免疫療法をはじめとする“体に優しい”治療が開発され、さらに、がんの超早期発見や、がんを未然に防ぐ研究が進む。しかし、そんな先端医療を誰もが受けられるようにするには、乗り越えなければならない様々な大きな壁がある。誰もが安心して、健康に暮らせる未来を作るには、どうすれば良いのか?そのヒントが鶴岡にあった。全く畑違いの世界からやって来た若者たちに託された、日本の医療の未来とは?医療特番シリーズ第三弾!先端医療の未来。


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医史跡を巡る旅 №63 [雑木林の四季]

「西洋医学事始め・たあへるあなとみあ」

            保健衛生監視員  小川 優

「彼が某所をさして肺なりと教へ、これは肝なり、腎なりと切り分け示せりとなり。」
虎松の祖父による鮮やかなメス捌き(この時代メスがあったかは疑わしいので、おそらくは出刃包丁かと思います)を、食入るように見つめていた杉野玄白、前野良沢ら一行、手元の解剖書「Ontleedkundige Tafelen」の絵図と見比べては、その都度どよめきを上げていたことでしょう。

「観臓記念碑」

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「観臓記念碑」 ~東京都荒川区南千住五丁目 南千住回向院

それまでの知識、主に中国医学をもとにした「五臓六腑」説に当てはまらない現実、「みな千古の説と違ひしゆえ、毎度毎度疑惑して不審開けず。」(「蘭学事始」より。以下特記のない引用は同書から)ジレンマが、「良沢と相ともに携え行きし和蘭図に照らし合せ見しに、一としてその図に聊か違ふことなき」を目の当たりとし、疑問がまるで春先の淡雪のように溶けていったのです。帰りがけに玄白は「何とぞこのターヘル・アナトミアの一部、新たに翻訳せば、身体内外のこと分明を得、今日治療の上の大益あるべし」と提案します。
玄白は、解剖によって人体の仕組みを知ることが、外傷や疾病の治療にとって必要なことであり、治療法の向上のためにも不可欠な知識であると考えていました。解体新書の中でも、「それ臓腑、骨節、その位置一も差す所あれば、即ち人は何を以てか立たん。治は何に因りてか施さん」と述べています。
現実としては江戸の御代、腑分けを気軽に行うことはできず、それを見学、観臓することもままなりません。実際に体験できずとも、せめて正確な教科書があれば、医学を志す者の役に立つだろうということで、玄白たちはターヘル・アナトミアの翻訳作業に取り掛かります。
なお杉田玄白、前野良沢両名とも、観臓に当たり「Ontleedkundige Tafelen」を持参したのは全くの偶然で「これ誠に奇遇なりとて、互ひに手をうちて感ぜり」とあります。まさに様々な偶然が重なって、天下の偉業は始まったといえます。

「蘭学の泉はここに」

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「蘭学の泉はここに」 ~東京都中央区明石町

こうして腑分けに立ち会った翌日から、前野良沢の住む中津藩中屋敷に集まり、翻訳作業が始まります。しかし専門用語の訳語はもちろん、日常会話程度のオランダ語の辞書すらもなく、心得があるのも前野良沢のみ。「誠に艪舵なき船の大海に乗り出せし如く、茫洋として寄るべくかたなく、ただあきれにあきれて居たるまでなり」状態であったわけです。「ウエインブラーフといふものは目の上に生じたる毛なりとあるやうなる一句も、彷彿として、長き春の一日には明らめられず、日暮るゝまで考へ詰め、互いににらみ合ひて、僅か一二寸ばかりの文章、一行も解し得ることならぬことにてありしなり。」つまり、「ウェインブラーフこと眉」の解説文の一節を訳すのだけに、一日では終わらなかった。菊池寛の小説「蘭学事始」には、このあたりの苦労が生き生きと描かれています。

「杉田玄白墓碑」

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「杉田玄白墓碑」 ~東京都港区虎ノ門三丁目 栄閑院

良く知られた逸話に「フルヘッヘンド」の話があります。解剖書に書かれた「フルヘッヘンド」という一語、何冊も買い求めた蘭書の小冊子の中から見つけ出したは良いものの、「フルヘッヘンドの釈註に、木の枝を断ち去れば、その跡フルヘッヘンドをなし、また庭を掃除すれば、その塵土聚まりフルヘッヘンドす」としか書かれていません。まさに謎々の世界です。考え倦んだのち「翁思ふに、木の枝を断りたる跡癒ゆれば堆く(うずたかく)なり、また掃除して塵土聚まればこれも堆く(うずたかく)なるなり。鼻は面中に在りて堆起せるものなれば、フルヘッヘンドは堆(うずたかし)ということなるべし」ということに落ち着きます。こうして手探りで進みながらも、訳せた時には「その時の嬉しさは、何にたとへんかたもなく、連城の玉をも得し心地せり。」となり、「かくの如きことにて推して訳語を定め」、翻訳を進めていきます。
ちなみにこのフルヘッヘンド、医史学の第一人者である酒井シヅ先生によると、実際には原典に出てこないそうです。verheffenフルヘッヘンは動詞形で、その形容詞形verhevenフルヘーヘンは原典の鼻の項の少し後、鼻背の項で使われていますが、解体新書では略されているとか。蘭学事始は玄白晩年の回想録、勘違い、あるいは苦労を面白おかしく伝えるための創作であったのか、今となっては想像の域を出ません。
専門用語についても、翻訳のやり方がいくつかあり、従来からある言葉に当てはめる方法、新しく造語する方法、外来語として当て字を当てる方法を駆使しています。例えば中国から伝わった肝や骨といった漢字をそのまま、あるいは曖昧な意味から新たに定義づけて使う方法が一番目のやり方になります。またセイニーという言葉は、血管とは別の体内を走る経路ということで「經」の字を用い、「神気」のようなものが伝わるものとして、新たに「神経」なる言葉を造語した、というパターンもありました。骨膜、骨髄、軟骨、筋、動脈、食道、盲腸、睾丸、神経など、解体新書に使われた解剖用語の多くは、現在もそのまま使われています。

「解体新書」

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「解体新書」 ~大分県中津市鷹匠町 大江医家史料館蔵

明和8年(1771)の観臓から三年たった安永3年(1774)、「解体新書」本文四巻、附図一巻がとうとう刊行されます。そこには実質的に翻訳を牽引したはずの前野良沢の名はありませんでした。大義のために発行を急いだとはいえ、蘭学を学ぶ身として、不完全なものを世に送り出すことを恥じて、との説があります。
初版の「解体新書」の訳が不十分であり、間違いが多いことは杉田玄白も自覚していました。そこで門下である大槻玄沢に改訂版を作ることを命じます。訳そのものは寛政10年(1798)に終わりましたが、「重訂解体新書」12巻附言1巻として実際に刊行されたのは、杉田玄白の死後である文政9年(1826)のことでした。

「重訂解体新書」

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「重訂解体新書」 ~大分県中津市鷹匠町 大江医家史料館蔵

解体新書に名前が記されている中川淳庵、石川玄常そして桂川甫周のそれぞれの人となりは次の通りです。

中川淳庵
元文4年(1739)生まれ。杉田玄白と同じく小浜藩の藩医であり、後輩にあたる。玄白に借りてきた「Ontleedkundige Tafelen」を見せて、購入の決意をさせたのが淳庵だったといわれる。解体新書の観臓、翻訳ともに携わる。天明6年(1786)没。

石川玄常
延享元年(1744)江戸に生まれる。江戸、京都で医学、蘭学を学んだ蘭方医。途中から解体新書の翻訳に参加、所有する蘭書の知識から意見を述べる。のちに一橋家の侍医に召される。文化12年、72歳で死去。

「桂川甫周墓」

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「桂川甫周墓」 ~神奈川県伊勢原市上粕屋 上行寺

甫周は通り名で、本名は国端(くにあきら)。宝暦元年(1751)、代々将軍家奥医師を勤める桂川家に生まれる。父甫三は青木昆陽に蘭学を学び、杉田玄白、前野良沢と親交があった。桂川家には甫周を名乗った者は二人おり、解体新書に関わったのは四代目当主にあたる。21歳の頃から解体新書の翻訳に携わり、完成後は桂川家の推挙により、将軍家の内閲を受ける。奥医師の最高位である法眼を名乗ることを許されたほか、幕府医学所では後進の育成に当たる。また難破してロシアで保護された大黒屋光太夫らを尋問し、「漂民御覧記」にまとめている。文化6年(1809)死去。はじめ目黒にあった上行寺に葬られるも、同寺の移転により神奈川県伊勢原市に一族の墓も移る。

「桂川甫周屋敷跡」

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「桂川甫周屋敷跡」 ~東京都中央区築地一丁目

桂川家は将軍家から屋敷を拝領しており、築地に住んでいました。当時を偲ぶものは何も残っていませんが、中央区教育委員会によってプレートがたてられています。

安永5年、杉田玄白は藩医も務めながら日本橋浜町で開業します。外科に優れ、多くの患者が集まりました。また晩年には回想録である「蘭学事始」をまとめますが、原稿そのものは数奇な運命をたどり、刊行されたのは明治2年(1869)、福沢諭吉らによってでした。
83歳という当時としては長寿を全うし、文化14年(1817)、息を引き取ります。


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いつか空が晴れる №69 [雑木林の四季]

        いつか空が晴れる
             ―Joe’s Blues-
                     澁澤京子

 その日は雨が降っていた。カウンターのテーブルの下に引っ掛けておいた濡れた傘が何度か足元に落ちたのを覚えている。

百軒店を上ってそのまままっすぐに細い路地を行くと、つきあたりに「安吞(あんのん)」というカウンターしかない飲み屋があって、横には小さな神社がある。
店にいるのは、私とN田君とK君の三人だけで、二人とも浪人生だった。
「『ガルシアの首』を墓から掘り起こすシーンがあるだろう?あそこのシーンがすごいなんてもんじゃない・・」
酔っ払ったN田君がサム・ペキンパー監督の『ガルシアの首』について、ひとり饒舌に語っている。
『ガルシアの首』は、ある大地主が、娘を妊娠させてしまった男の首に100万ドルを賭ける、賞金を巡って何人もの人間が殺される・・というストーリーだ。名誉とお金を巡ってのすさまじい殺戮が繰り広げられる・・
時折、相槌をうつK君。

私は自分の傘をどこに置いたら一番安定するかということに半分気を取られた状態で、N田君とK君の話を聞いていた。カウンターだけの狭い店なので傘の置場がないのだ。濡れた傘を足元の床にそのまま横にして置くのも抵抗がある・・

「いやあ、ペキンパー最高!」真っ赤な顔でますます上機嫌になって喋りつづけるN田君。バイオレンス映画を好きだと言っても、N田君は友人の中では一番温厚な性格で、機嫌がよくなると、ダジャレを連発しては、一人で愉快そうに笑っていることが多い。
そして、皆は汚いジーンズを履いてたけど、N田君だけブルックスブラザーズのジャケットにチノパンを履いたりして、なかなかのお洒落でもあった。

友人たちがN田君のために作った「N田のブルース」というギターで弾き語る歌があった。
~おれはN田だ 19になった~ ボロロン
 19になって初めて言った冗談は 「山手線まだかな?」「いやまて。まだだ」・・ボロン
 ・・・面白いねえ・・ボロロロ~ン~

誰も聞いてなくても、ダジャレを言っては一人で上機嫌に愉快そうにいること。それはよほど自意識のない無防備な状態じゃないと、なかなかできないことではないだろうか?
身だしなみには人一倍気を使うN田君も、ダジャレが出るときはとても無邪気だったのだ。
そして、バイオレンス映画とハードボイルド小説が好きだった。

世間では暴力というものは露骨にふるうわけにもいかないので、代わりに他人を責めたり糾弾する、あるいは貶めるとか嘲笑して相手を打ち倒すという、日常でよく見られる光景に変化することがある。
N田君は映画のバイオレンスは好きだけど、そういった変形した日常での暴力は苦手とするような実に温厚な人物だった。もしかしたら、そういった女々しい暴力は彼の「男の美学」に反するものだったのかもしれないが・・

今度は椅子の小さな背もたれに掛けておいた私の水色の傘がバサッと派手な音を立ててまた落ちたので、私は椅子を降りて拾ってから、ついに観念して傘を左手に持つことにした。

N田君は相変わらず上機嫌でしゃべっている。
「最近、ジョー・パスを聴いてるんだよ。」
「ジョー・パスか。シブいなあ・・」
「いやあ、しみじみと聴くとこれがまたいいんだ!すごく胸にしみるんだ・・」
N田君はしみじみというより、この上なく上機嫌に紅潮した笑顔でジョー・パスについて語り続ける・・
一人でも楽しそうにダジャレを飛ばしては朗らかに笑うN田君と、ジョー・パスのしんみりとしたソロギター。

話題はサム・ペキンパーからジャズギターの話になって、夜は静かに更けてゆく。

一日中冷たい雨の降る、秋の夜のことだった。




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梟翁夜話 №49 [雑木林の四季]

「ゴールデンバットが消える」

                 翻訳家  島村泰治

人は歳を重ねて老い、モノは時間を経て枯れる。一世紀の余も生きればモノも生きもののようで、時間の波に流されて消えてゆく様(さま)は見るからに愛しくも憐れだ。

煙草の銘柄に「ゴールデンバット」といふのがある。明治39年の発売で、緑色の包装に金色の蝙蝠(かうもり)をあしらったデザイン、如何にも時代がかったイメージがちと憎い両切り煙草。清国向けの輸出銘柄だったさうで、デザインがどことなくオリエンタル、一風変わった味と安価で巷に広がった。

私ごとで恐縮だが、わが父は馬と鹿がつくほどの愛煙家、愛煙を超えて滅法な煙草のみだった。親父の辺りにはいつも「ゴーデンバット」があって、煙草とは知らず、筆者はあの緑の包みと銘柄名に親しんでゐた。懐かしいカタカナである。

太平洋戦争に先立つ1940年(昭和15年)から戦後の1949年(昭和24年)まで、敵性語とて「ゴールデンバット」の名称が消え、神武天皇の神話に纏(まつ)はる八咫烏、「金鵄(きんし)」と改名された。戦時中、すべてが配給制になり、小回りのきく私は何日かおきの煙草の配給日には、親父の代役で近所のタバコ屋の前に並んだ。そんなことで、私は「ゴーデンバット」の金鵄への変身をリアルタイムで知ってゐる。

「ゴーデンバット」。この煙草は趣のある余話で彩られてゐる。比較的安かったから巷の愛煙家に愛されたこともあったが、この銘柄を好んだ人びとのなかに著名な作家たちが紛れてゐたからでもある。

まず、芥川龍之介。彼はすこぶる付きの愛煙家で、とくに「ゴーデンバット」を好んだことで知られている。太宰治や中原中也もさうで、作家たちの作品の中に「バット」はしばしば登場する。煙草好きの愛読者はこぞって「ゴーデンバット」に靡き、「ゴーデンバット」で煙草のみになったとか。南方熊楠も「ゴーデンバット」を喫煙、空箱に粘菌の標本を入れていた逸話も知られてゐる。

さて、その「ゴーデンバット」は、今次の消費税引き上げの余波で消える。煙草税では軽減措置の対象だったが、「旧3級品」に分類する措置が先月末で廃止されたことから、在庫が払底次第「ゴーデンバット」の販売が終わることになる。

JT=日本たばこ産業によれば、「ゴーデンバット」は今後は種類の違ふ葉巻たばことして生まれ変わり、北海道限定で販売されるといふ。

ちなみに、措置の対象だったたばこの中で、値上げをして販売を継続するものもある。沖縄県限定で販売されている「ウルマ」といふ銘柄がそれだ。これも昔からなじみのある銘柄で、安価も手伝って年齢層を問はず根強い人気があり、土産品として人気で1日の販売個数でも上位に入るといふ。

この10月1日、「ゴーデンバット」が消えると決まった当日、芥川の墓前に封を切った「ゴーデンバット」が供えられてゐた。

ゴールデンバット.png




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検証 公団居住60年 № [雑木林の四季]

Ⅷ 公団住宅の市場家賃化と「建て替え」着手
      国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

2.家賃値上げの国会審議と「国会要望」
 全国自治協は1988年、例年の秋とは別に春にも緊急に全国統一行動をよびかけた。第3次家賃値上げ案の撤回とともに、居住者も納得できる家賃改定ルールづくりを要求し、公団が建設大臣に値上げの承認申請をするにおよんでは国会での集中審議を求めた。短期間に約57万人の署名が集約された。こうした運動の結果、4月15日に衆院、同21日に参院の各建設委員会で公団家賃問題にかんする審議がひらかれ、両委員会とも全国自治協の代表が参考人として招かれ、意見を述べた。両参考人は、①基本懇家賃部会での審議のあり方、②家賃値上げにたいする自治協の基本的な考え方、③家賃改定の方法、④公団住宅居住者の生活実態などについて発言した。
 両院建設委員会は審議のあと委員長要望(衆院7項目、参院8項目)をまとめ、全会一致で採択した。「国会要望」によって、値上げ上限額それぞれ500円の引き下げ、敷金追加徴収の中止などの成果のほか、家賃改定ルール、建て替え、住宅修繕、高齢者世帯への措置等について公団とひきつづき交渉する足がかりを得た。
 ここで4月15日の衆院建設委員会にわたしが参考人として出席したので、会議のもようを一部紹介しておこう。
 会議は午前10時にはじまり、午前中の参考人は石原舜介(東京理科大学教授)、畑中達敏(住宅新報社顧問)、多和田栄治(全国自治協代表幹事)、午後は丸山良仁公団総裁ほか公団理事たちのそれぞれ3名であった。午前の会議では、参考人がそれぞれ約15分意見を述べたあと、各党委員が参考人を指名して質問するかたちで進められ、午後は委員が順に質疑をおこない、6時30分に終わった。
 公団基本懇家賃部会長をつとめる石原は、家賃改定ルールが適切な手続きをへてつくられ、公営限度額方式に欠けている地価反映を補正することで妥当な算定方法といえると述べた。畑中も同部会のメンバー、民間家賃との不均衡を強調し、今回の改定方式では不均衡はいつまでも是正されないから、将来は不動産鑑定評価手法が望ましいとの見解を示した。
 多和田は、「はじめに家賃値上げありき」と第3次値上げ案に「改定ルール」をセットした押しつけであり、国会要望の趣旨に反すること、地価高騰便乗型の高家賃化ルールであること、居住者の負担能力、住宅設備の実態を無視していることの3点を指摘した。
 委員の質問は、おもに基本懇家賃部会の運営、公営限度額方式の問題にむけられ、多和田には「家賃の不均衡」についての意見を求めた。
 石原は、4人の専門家が検討したルール案をもとに家賃部会を4回ひらき、12対1の賛否できめた。十分審議された、強行ではないという。多和田は、専門部会に当事者の居住者代表を加えず、しかも何が討議され、どういう資料が出されたのかいっさい非公開、部会で値上げ案はほとんど討議されていない。公団家賃の問題点について十分に検討し、資料も公開して世論にも問い、そのうえで家賃改定ルールを固め、値上げを提案するのは筋ではないかと反論した。委員から「自治協委員1名は数十万居住者の代表」との発言があった。
 石原は、公団家賃は地価を正当に反映していないといい、居住者の負担能力について問われると「公団は福祉政策的な対応をする性質のものではない」と答える。畑中は空き家応募倍率の高さも立地補正の根拠にあげる。
 多和田は、質問に答えるなかで両氏に反論をくわえつつ、公団家賃の住宅相互間、民間家賃との格差を公平性とか不均衡の問題としてとらえる前に、良質で低廉な公共住宅の絶対的な不足、高家賃を野放しにして不均衡をつくりだしている住宅政策をこそ審議するのが国会の役割ではないか、との観点から意見をのべた。
 後日、家賃改定ルールと第3次値上げ案の国会審議にそなえ公団が作成した「公団家賃値上げに関する国会対策・住民対策問答集」を入手した。163項目にわたり200ページをこえる。想定問答集をなぞった発言ばかりの「学識経験者」「有識者」といわれる人たち。その正体、役割を知らされた。


『検証 公団居住60年』東信堂

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