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『知の木々舎』第365号・目次(2024年7月下期編成分)

現在の最新版の記事を収録しています。ご覧になりたい記事の見出しの下のURLをクリックするとジャンプできます。

【文芸美術の森】

石井鶴三の世界 №269                画家・彫刻家  石井鶴三
  定慶仁王 2点 1958年
西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」№132 美術史研究家 斎藤陽一
 江戸・洋風画の先駆者たち 司馬江漢 1 
浅草風土記 №30              作家・俳人  久保田万太郎
 浅草田原町 4
【ことだま五七五】

こふみ句会へGO七GO №132               俳句 こふみ会     
 「木下闇」「黴」「ペットボトル」「南風」
郷愁の詩人与謝蕪村 №33              詩人  萩原朔太郎
 冬の部 5
読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №187              川柳家  水野タケシ
 6月26日、7月3日放送分
【雑木林の四季】
BS-TBS番組情報 №308                       BS-TBSマーケテイングPR部
 2024年7月のおすすめ番組(下)
海の見る夢 №81                                渋澤京子
  聴くということ
住宅団地 記憶と再生 №39  国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治
 公団住宅の「建てかえ」事業とは難だったのか 
地球千鳥足Ⅱ №50           小川地球村塾塾長  小川彩子
 オモニは強し、「へその緒自分で切りました!」~大韓民国
山猫軒ものがたり №43                    南 千代
 山の宇宙船 2
【ふるさと立川・多摩・武蔵】                                                   

線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №228      岩本啓介
 敗戦・廃液巡り~日高本線
夕焼け小焼け №40                      鈴木茂夫
 暮らしの算段、大倉の夏     
押し花絵の世界 №205                              押し花作家  山﨑房枝
 「夏色のヘアクリップ」
赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №62       銅板僧形作家  赤川政由
 行田の童 原画 6
多摩のむかし道と伝説の旅 №128                  原田環爾
  二ケ瀬瀬用水水辺の道を行く
国営昭和記念公園の四季 №155
 カサブランカ 西立川口
【代表玲子の雑記帳】           『知の木々舎 』代表  横幕玲子

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石井鶴三の世界 №260 [文芸美術の森]

定慶仁王2点 1958年

       画家・彫刻家  石井鶴三

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定慶仁王 1958年 (175×126)
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定慶仁王 1958年 (175×126)

************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三』形文社


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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №132 [文芸美術の森]

        シリーズ:江戸・洋風画の先駆者たち
          ~司馬江漢と亜欧堂田善~
           美術ジャーナリスト 斎藤陽一
                 第1回
        「司馬(しば)江漢(こうかん)」 その1

 これからしばらくの間、鎖国体制下の江戸時代において、「洋風画」の先駆をなした二人の画家:司馬江漢(しばこうかん)と亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)について、その画業を紹介していきます。

≪司馬江漢と亜欧堂田善≫

 先ずは、下図の年表をご覧ください。

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 江戸時代中期に生れた司馬江漢と亜欧堂田善はほとんど同世代ですが、江戸生れ江戸育ちの司馬江漢は、天明3年(1747年)37歳の時に、日本最初の「腐蝕銅版画」(エッチング)の制作に成功していました。

 一方、東北の須賀川で生育した亜欧堂田善は、51歳頃に江戸に出て「銅版画」技術の習得を始めるという遅いスタートでしたが、「銅版画」の技術をより高度なものにしたのは田善でした。

 二人の顔つきも見ておきましょう。(下図)

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 左図が「司馬江漢の肖像」。描いたのは、明治開化期に洋画を修得しようと苦闘した高橋由一。由一は、洋画の先駆者への敬愛をこめて、江漢の時代に描かれたデッサンをもとに油彩で描いています。
 司馬江漢は、さまざまなことに関心をもち、新しいことに好奇心を燃やす多彩な才能の持ち主でしたが、生来の自己主張の強い性格ゆえに、やがて、それまで協力関係にあった蘭学者たちから指弾され、晩年は孤独な生活を送りました。

 右図は「亜欧堂田善の肖像」。描いたのは田善の弟子・遠藤田一。
 亜欧堂田善は、奥州・白河藩領内・須賀川の商人の息子でしたが、絵の才能を藩主・松平定信に見出され、その命によって江戸に出て「洋風画の研究」を始めました。50歳近い頃という遅い出発でした。

 先ず、「司馬江漢の画業」を見ていきましょう。

≪司馬江漢:洋風画への道のり≫

 江戸の芝・新銭座(現・浜松町あたり)に生れた司馬江漢は、生来、自負心と名誉欲の強い少年でしたが、絵を描くことが好きだったので、画家で身を立てることを志しました。
 最初は狩野派に学んだようですが、十代の末に浮世絵師・鈴木春信の弟子になり、春信調の美人画を描きました。
 やがて、中国・清朝の画家・沈南蘋(しんなんぴん)が日本にもたらした写実的な花鳥画(唐絵)に惹かれて、唐画風の絵を描くようになる。時には、浮世絵と唐画を融合したような「美人画」を描いたりしました。
 その後、江漢30歳頃、蘭学者・博物学者の平賀源内に出会ったことにより、江戸において源内の指導で洋風画(「秋田蘭画」)の制作に精進していた秋田藩士・小田野直武と知り合います。これがきっかけで、司馬江漢の関心は「洋風画」に向かいました。

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≪司馬江漢:日本初の腐蝕銅版画≫

 江戸時代、「木版画」の技法はきわめて高度な水準にあり、それを駆使した「浮世絵」が人気を博していましたが、西洋絵画に強い関心を持つ司馬江漢は、オランダ書などに描かれている「銅版画」を自ら制作することに強い意欲を燃やしました。
 そして天明3年(1783年)に、苦心の末に「日本初の銅版画」の制作に成功しました。
下図が、司馬江漢が制作した「日本初の腐蝕銅版画」(エッチング)の「三囲景」(みめぐりのけい)。三囲神社あたりの隅田川の風景を描いたものです。

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 江漢は、オランダ語に堪能な医師・大槻玄沢の助けを借りて、オランダ渡りの洋書の記載をたよりに、苦労しながら独自に「銅版画」の技法を編み出し、我が国初の「銅版画」制作に成功したのです。
 さらに江漢は、銅版画の上に、筆で色彩を施し、画面を生き生きしたものとしました。

≪腐蝕銅版画(エッチング)の制作方法≫

 ここで、「腐蝕銅版画」(エッチング)の制作方法を簡単におさえておきます。

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 まず銅板の面に、酸による腐食を防ぐ「防蝕剤」(グランド液)を塗る。次に、そのグランド液を乾かす。
 そのあと、乾いたグランドに覆われた銅板の表面に、先の尖ったニードルで線刻するように絵を描いていく。

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 次は、絵の描かれた銅板を腐蝕液に浸し、引っ掻いた部分を腐蝕させる。この時、防蝕剤である「グランド」で覆われた部分は腐蝕しない。

 そのあと、「グランド」を溶剤で洗い落とすと、銅板の凹凸が露わになる。つまり、ニードルで引っ掻いた部分は「窪み」(くぼみ)となって表われる。

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 今度は、その銅板の上に「インク」を塗る。(凹面に「インク」を詰める)

 次に、版面を布などできれいに拭き、余分なインクを拭き取る。すると、凹面(線描部分)だけに「インク」が残る

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 その銅板の上に紙をのせたあと、プレス機に通すと、紙に線刻したところが印刷され、プリントは完了する。(上の2図)

 機材の整った現代、エッチング技術は相当高度なものに進んでいますが、司馬江漢や亜欧堂田善らの時代には、オランド渡りの書物以外、何も無いところから手探りで技術を掴んでいったのです。

 ところで、司馬江漢が制作した「銅版画」は、「反射式のぞき眼鏡」というレンズと鏡のついた器具で楽しむ、いわゆる「眼鏡絵」と呼ばれるものでした。
 江漢は、この時期に制作した銅版による「風景画」5点を、下図の写真のような自作の「のぞき眼鏡」とセットで発売しました。
 この「のぞき眼鏡」は、台の上に絵を水平に置き、45度に傾けた鏡とレンズでのぞき見するものなので、鑑賞する原画は左右逆にプリントする必要があった。それを鏡に写せば、本来の正しい風景となって見えるという仕掛けです。
 当時、これをのぞき込んだ人は、強調された遠近法構図により、奥行き感のあるイリュージョンの世界を楽しんだことでしょう。

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 次回は、司馬江漢が制作した「銅版画」をいくつか紹介します。
(次号に続く)


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浅草風土記 №30 [文芸美術の森]

浅草田原町 2

       作家・俳人  久保田万太郎

 しかし、その、商売のほうといっても、栄ちゃんは、若旦那としての取扱いをうけたのではなく、兵隊検査までは、奉公人のなかに入って、奉公人と同じ修行をさせられるのでした。寝るから起きるまで奉公人と一しょ。~ということは、夜、おくの人たちがひけ てから木綿蒲団にくるまって見世に寝て、朝は、おくの人たちより早く起きるのです。
三度の食事も外の奉公人と一しょに台所で食べるのでした。
 拭掃除は勿論のこと、糊入二枚、水引一本の候でも、栄ちゃんに云いつけるという風でした。
 で、たまには、無理な小言もいわれるのでしょうが、でも、・栄ちゃんは、素直にいまでも働いています。
 お父さんは仕方がないとしても、しかし、おっ母さんの方がよく、それで、黙っていると思います。-——おっ母さんの身になったら、素直にそう働かれれば働かれるほど、人情にからみはしないだろうかと思いますが…・
 でも、二十一の暁になると、栄ちゃんは、すぐに、また、以前のとおりの秘蔵っ子に返るのです。そうして兵隊がすむと、許嫁の娘さんと一しょになるのです。――その許嫁の娘さんというのは、やっぱり同じうちにいるのですが、しかしこのほうは、お嬢さまさまでおくに納まっています。月に一度や二度は芝居にでも行くらしく、よく、おっ母さんや女中たちと一しょに草で出かけるのをみかけます。
 たしか今年、栄ちゃんは二十になった筈です。――もう一年です。あともう一年で罪障が消滅します。
 見世の月日と奥の月日とが、別々に経って、やがてまた、一しょになるのです。――それにしても、その、許嫁の娘さんはどう思っているのだろうと思います。
 しかし角のつるやでは、そのうちに、もう、お雛さまをはじめて、じきにまた、五月人形をはじめましょう。
 盆提燈がすむと、すぐに今度はお会式の造花。――そういううちにも、断えず、月日はながれて行くので……。

        

 いまをさる十一年まえ。――明治四十五年の一月に、わたしは、こうしたものを「三田文学」に書いた。
 明治四十五年の一月というと、わたしのまだ慶應義塾にいた時分。「朝顔」という小説を、その半年前に、はじめて世の中へ出したあと、一つ二つの小説と戯曲を同じく「三田文学」と「スバル」に書いた ――とはいわない、書かせてもらった時分で、在りようは、この文章、そのころの作家のだれでもが試みた「幼き日」の回想の人真似をしたと云えば足りる。

        

 が、「幼き日」の回想といっても、これによって、わたしは、ありがたちの、正直な、おもいでの物語を書こうとはしなかった。――むしろ、生れた土地を語るための、それに都合のいい空想をいろいろ組合せたといったほうがいい。――いまにしてその十一年まえの心もちに潮ることは出来ないが、おそらくは、この、二倍、三倍ぐらいの長さのものを、わたしは「浅草田原町」という名目の下に書きつごうとしたに違いない。――同時に、わたしの疎懶(そらん)が、そのわたしの意図を裏切ったのに違いない。
 ありがちの、正直な、おもいでの物語でないしるしには、この文章、わたしというものがはっきり出ていない。わたしというものを、あたまで、よそにしている。いうならば、これを読んでも、肝心の、わたしというものが田原町のどこに住んでいたのかさえ分らない。

『浅草風土記』 中公文庫

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郷愁の詩人与謝蕪村 №33 [ことだま五七五]

冬の部 5

        詩人  萩原朔太郎

愚(ぐ)に耐えよと窓を暗くす竹の雪

  世に入れられなかった蕪村。卑俗低調の下司(げす)趣味が流行して、詩魂のない末流俳句が歓迎された天明(てんめい)時代に、独り芭蕉の精神を持(じ)して孤独に世から超越した蕪村は、常に鬱勃(うつぼつ)たる不満と寂寥(せきりょう)に耐えないものがあったろう。「愚に耐えよ」という言葉は、自嘲(じちょう)でなくして憤怒(ふんぬ)であり、悲痛なセンチメントの調(しらべ)を帯びている。蕪村は極めて温厚篤実の人であった。しかもその人にしてこの句あり。時流に超越した人の不遇思うべしである。

蒲公英(たんぽぽ)の忘れ花あり路(みち)の霜(しも)

 小景小情。スケッチ風のさらりとした句で、しかも可憐(かれん)な詩情を帯びている。

水鳥や朝飯早き小家(こいえ)がち

 川沿いの町によく見る景趣である。
 水鳥や舟に菜を洗ふ女あり
と共に、蕪村の好んで描く水彩画風の景趣であって、薄氷のはる冬の朝の侘(わび)しさがよく現れている。

水仙や寒き都のここかしこ

 京都に住んでいた蕪村は、他の一般的な俳人とちがって、こうした吾妻琴風(あずまごとふう)な和歌情調を多分に持っていた。芭蕉の「菊の香や奈良には古き仏たち」と双絶する佳句であろう。

『郷愁の詩人与謝蕪村』 青空文庫


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読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №187 [ことだま五七五]

読む「ラジオ万能川柳」プレミアム☆6月19日、26日放送分

      川柳家・コピーライター  水野タケシ

川柳家・水野タケシがパーソナリティーをつとめる、
読んで楽しむ・聴いて楽しむ・創って楽しむ。エフエムさがみの「ラジオ万能川柳」
6月19日の放送です。

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そろそろ梅雨入り!?

「ラジオ万能川柳」は、エフエムさがみの朝の顔、竹中通義さん(柳名・あさひろ)が
キャスターをつとめる情報番組「モーニングワイド」で、
毎週水曜日9 時5 分から放送しています。

エフエムさがみ「ラジオ万能川柳」のホームページは、こちらから!
https://fm839.com/program/p00000281
放送の音源・・・https://youtu.be/m1a1CR05qa8

先週のボツの中からあさひろさんイチオシの句をご紹介!!
あさひろさんのボツのツボ
「平日に給食食べる運動会」(東 孝案さん作)

(皆さんの川柳)※敬称略
※今週は169 の投句がありました。ありがとうございます!
・幼さを武器に幼稚を棚に上げ(矢部暁美)
・与党さん立派な法をありがとう(東孝案)
・婆友はホテルでランチ爺留守番(名人・まご命)
・客は神ならば無茶など言いません(遊子)

☆タケシのヒント!
「カスタマーハラスメントの問題でしばしば引用される『お客様は神様です』。そのフレーズを下敷きにした句です。確かに、神ならば無茶なクレームはつけないですよね。」

・おぶさるの逆になったねお母さん(なつなつまーず)
・何したい心の声は大切に(ゆかいな仲間)
・開眼か次々句湧き寝付かれず(雄之丞)
・満面の笑顔眩しい詐欺商法(大柳王・平谷五七五)
・ MRI の中でも句が浮かび(シゲサトシ)
・思ったらすぐ口に出すありがとう(大名人・やんちゃん)
・新札の経済効果期待薄(初投稿・一刀両断)
・久し振り明日は年金刺身の日(じゅんちゃん)
・予報士さん服の予報はいらないよ(柳王・東海島田宿)
・父の日に父さんと飲む一対一 (大和三山)
・アイコンの受話器見たことない子たち(柳王・ぼうちゃん)
・全国の会でナンパのsoji さん(全裸名人川柳家・そうそう)
・川柳を詠んで何とかする老後(大名人・高橋永喜)
・減税に副作用とか無いですか (柳王・せきぼー)
・父の日は二年連続禁酒の日(柳王・アンリ)
・飲みたいなまだ飲めないの待てるかな(柳王・ポテコ)
・飲む時は口説くなという先輩ら(恋愛名人見習い・名もなき天使)
・ファンブック孝案さんの文に泣く(新柳王・ワイン鍋)
・この仕草はっと気づいた父譲り(大柳王・里山わらび)
・クイズ外した無念なりしゃまサイン(大名人・じゅんじゅん)
・句集への祝辞でスマホ涙で濡れ(しゃま)
・夕餉時愛していると言い出す子(初投稿・しゃまママ)
・父の日の夫はとても良いオヤジ(大柳王・けんけん)
・俺の写真五つも載ったファンブック(ナンパも大名人・soji)
・客は神三波春夫の真意とは(大柳王・ユリコ)
・新人さん増えてえり香にハッパかけ(柳王・咲弥アン子)
・看板犬だけが感じよかったレストラン(柳王・はる)
・ 8 時だよ!投句締め切り姑(はは)のライン (楠亀えり香)
・開設をしたのに終わりLINE Pay (柳王・フーマー)
・倒れてもラジ川だけは続けてネ(名人・のりりん)
・昨日より今日より明日せまる山(大柳王・かたつむり)

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・犬派だが猫のT シャツ買ってまう(大柳王・入り江わに)

◎今週の一句・客は神ならば無茶など言いません(遊子)
◯二席・思ったらすぐ口に出すありがとう(大名人・やんちゃん)
◯三席・この仕草はっと気づいた父譲り(大柳王・里山わらび)

【お知らせ】
昨年12月から編集作業を行ってきて、さまざまな波乱があった
交流誌「仲畑流万能川柳ファンブック」123号(6月号)、現在配本中です!!

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【編集後記】
ご心配をおかけしましたが、
左目の内出血も少しずつ薄くなってきています。
日にち薬以外の薬はなく、時がたつのを待っています。
痛くもかゆくもないのですが、見る人はみなギョッとするみたい(苦笑)。(水野タケシ拝)

〇6 月26 日の放送です

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6 月というのに暑い暑い!!

放送の音源・・・https://youtu.be/nb2htprf43I

先週のボツの中からあさひろさんイチオシの句をご紹介!!
あさひろさんのボツのツボ
「急な雨コンビニ傘がまた一本」(すみれさん作)

(皆さんの川柳)※敬称略
※今週は176の投句がありました。ありがとうございます!
・役所からくる封筒のコワイこと(とんからりん)
・空梅雨に咲いたアジサイ後悔す(初投稿・ハイ爺)
・絶妙な言い間違いで場がなごむ(ゆかいな仲間)
・家事育児男がやっていいんだよ(大柳王・平谷五七五)
・髪切った彼女ドキドキ止まらない(恋愛名人見習い・名もなき天使)
・ごめんねと言える強さと潔さ(矢部暁美)
・あのポスターそうそうさんならセクハラや(遊子)
・マイペースでんでん虫のひとり言(大柳王・すみれ)
・ジェンダーレス俺もやれるか巫女バイト(雄之丞)
・ボーナスを待ってましたとジャパネット(シゲサトシ)
・陽射しあり頭皮ヒリヒリ毛がほしい(柳王・東海島田宿)
・あさひろさんボツのツボにも称号を(柳王・はる)
・人生がカラフルになる川柳道(名人・大和三山)
・高齢化秘策は街のワンチーム(初投稿・松田茂樹)
・強雲会行くぞ人生変えるため(大名人・高橋永喜)
・買いたての傘を差さずに濡れてる児(柳王・アンリ)
・"さようなら"文化の違い変わる意味(楠亀えり香)
・しょうもないことが一番おもしろい(名人・わこりん)
・議場イスゆりかごよりも心地よい(大名人・くろぽん)
・裏金に群がるアリはどこに消え (大名人・マルコ)
・雨上がり空に七色美術展(名人・まご命)
・鶴光を知らない人が聴いたのね(柳王・ワイン鍋)
・梅雨寒という語も死語に仲間入り(大名人・不美子)
・ゴム伸びたパンツどうにも離せない(大柳王・ ・里山わらび)
・TOTO 川柳今年こそと勇み立ち(しゃま)
・クレソンを味噌汁に入れがん予防(しゃまママ)
・手の届くところに欲しいハンモック(初投稿・水谷裕子)
・弱そうな男子に弱いのよワタシ(大名人・じゅんじゅん)
・ゴクゴクと琉球グラスで夏を飲む(柳王・咲弥アン子)
・久しぶり食べたキャベツの旨いこと(大柳王・ユリコ)
・検索し裸ポスター見るエッチ(大柳王・入り江わに)
・全裸って聞くとやっぱり想像す(名人・のりりん)
・夕食がチン!チン!チーン!でハイ上がり(全裸名人川柳家・そうそう)
・汗かかぬようにそうっと歩いてく(名人・パリ子)
・次回から予選しましょう都知事選(じゅんちゃん)

☆タケシのヒント!
「じゅんちゃん、川柳は全ボツだったのですが、余白の「つぶやき」が面白く、少しだけ手直しして秀逸です。余白の「つぶやき」が川柳にならないか、ぜひご一考ください。」

・何思う日傘男子は何思う (大柳王・かたつむり)

◎今週の一句・次回から予選しましょう都知事選(じゅんちゃん)
◯二席・梅雨寒という語も死語に仲間入り(大名人・不美子)
◯三席・検索し裸ポスター見るエッチ(大柳王・入り江わに)

【お知らせ】
TOTO「第20回トイレ川柳」、ただいま川柳を募集しています!!
6 月17 日(月)~8 月25 日(日)必着、インタネットとハガキで応募できます。
ハガキは、官製はがきに、川柳、住所、氏名、ペンネーム(雅号)、年齢、電話番号、ご職業をご記入の上、
宛先:〒101-8977 日本郵便 神田郵便局留「TOTO トイレ川柳」係まで、どうぞ!!

【編集後記】
暑かった月曜日、ついに日傘デビューしました。
渋谷だったのですが、まだまだ日傘男子は少ないですね。
少し恥ずかしいところもあるのですが、少しずつ慣れようと思います。(水野タケシ拝)

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水野タケシ(みずの・たけし)
1965年生まれ。コピーライター、川柳家。東京都出身。
ブログ「水野タケシの超万能川柳!!」  http://ameblo.jp/takeshi-0719/




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雑記帳2024-7ー15 [代表・玲子の雑記帳]

2024-7-15
◆内子は愛媛県南予地方の入口にある、山間の小さな町です。ノーベル賞作家の大江健三郎の故郷として知られるほか、蝋の流通で財をなした商家が建ち並ぶ町並み保存地域としてしられています。

大洲に隣接し、松山から40kmの地点にある町は、古くから大洲街道の交通の要衝として、また四国遍路の通過地として栄えていました。

江戸時代から明治時代には、和紙と木蝋の生産で栄えました。特に木蝋は海外でも高く評価され、最盛期には全国生産の約30パーセントを占めるほどでした。

英語でwaxの蝋は漆と同じウルシ科のハゼノキの実から作られます。果実を抽出した油を固めたものが木蝋、さらにそれをさらしたのが白蝋と呼ばれ、内子は白蝋の技術が高かったのだそうです。

南予にはもともとハゼノキが多く自生していたことから蝋の生産が始まりました。

大正時代以降は、石油や電気の普及によって木蝋生産は衰退しましたが、当時の繁栄ぶりをうかがわせる商家の町並みが今ものこっています。 この歴史的な町並みは、1982年(昭和57年)に国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されました。

町はこれをきっかけに、「白壁と木蝋のまち」づくりを進めてきました。
奥の村へとつづくエリアを含めて「エコロジータウンうちこ」を打ち出してまちなみ、村なみを謳い、農村観保全やグリーンツーリズムを通じて多くの観光客を受け入れています。「からり」という名の農産物直売所は今では全国何処でも見られる産直市場の元祖です。直売所にはパンやソーセージ、シャーベットの加工場もあり体験教室やイベントも開催されます。農村民泊などの取組みも含めて、第一次産業の活性化のモデルとして、全国的にも知られるようになっています。

東西に長い愛媛は松山を中心とする中予を真中に、東は東予、西は南予と呼ばれていますが、それぞれ気風や文化は異なります。東予出身の私はまったくと言っていいくらい南予の事は知りませんでした。この度、郷里に残っていた一番下の妹がさそってくれて、姉妹3人の旅が実現しました。

先ずは内子の街並み散策です。
重要伝統的建物郡保存地区は現在、全国に130箇所ほどあります。内子では八日市街道そいに、漆喰塗蝋の重厚な建物が並ぶ街並みをみることができます。

最盛期には20数軒の蝋生産家があったという中で、一番の大手は芳我家でした。本家の本芳我邸は今も主が住んでいるので邸内をみることはできませんが、分家の上芳我邸は建築当時の姿のままに、木蝋資料館もあります。

建物は、内子の製蝋行の最盛期であった明治27年(1894年)に上棟され、往時の豪商の暮らしぶりがうかがえます。居住空間だけでなく、釜場や蔵、物置などの木蝋生産施設も一体で残されており、平成2年には国の重要文化財の指定を受けました。現在の建物は建築当時のまま、平成20年代に修復されたもの。

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通りは山へ向かって坂道になっている
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路地は情緒ある石畳
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本芳我家住宅  邸内をみることはできないが、庭は公開されている。
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漆喰の古民家がつづく
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独特の鬼瓦のある上芳吾亭 こちらは中を見学できる
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2階から中庭を見下ろす
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芳賀我家のもう一つの分家である下芳我邸は商店街でそば処になっている。

歴史的検図物指定地区と並んで忘れえてらないのは内子座です。
芳我邸のある街並みからはちょっとはずれますが、こちらも建物は国の重要文化財です。
大正5年に大正天皇即位を記念して建てられました。

小屋は歌舞伎や文楽、落語や映画上映など、さまざまな催しに使われます。
じつは、大正時代には、同じような芝居小屋が県内に1000軒あったといわれます。全国を見ればその数、押して知るべし、人々が芸術や芸能を愛でる余裕がうまれたのですね。残念ながらその殆どが老朽化のため、昭和には姿を消してしまいました。内子座も取り壊されることになっていましたが、町並み保存地区に近接していることから、まちづくりの核として活用していくことになったということです。
内子座では子ども狂言の発表会も行われるそうです。町の豊かな財政のもと、文化度もたかったのですね。

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堂堂たる構えの内子座
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建物はそのままに、椅子席に改修されていまも多くのイベントに利用されている。

宿の「オーベルジュ内子」は、内子の町を見下ろす高台にありました。
レストランと大浴場のある本棟から数分のところにあるヴィラが5棟の、こじんまりとした宿です。1棟だけは特別仕様のようでしたが、私たちはベッド2つの普通のタイプに泊まりました。内子和紙や内子杉をつかった数寄屋造り、ガラス張リのひろびろとした桧風呂は温泉。時計もテレビもない、なにもしない贅沢をうたった宿でした。なによりのご馳走は緑一色の自然にかこまれていたことでしょうか。

とはいえ、そこはオーベルジュです。オーナーであるシェフの自慢の料理は文句なくおいしかったです。

到着して通されたロビーでウエルカムドリンクをいただきました。

夕食時には蝋燭がともされてすっかり内子気分。

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夕食のメニュー 
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生ハムのグジュール
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野菜20種は自家菜園でとれたもの、ひしおをドレッシングにして

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内子産ポークのショリソー
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大洲トウモロコシの愛媛ソワーレ
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愛南町イサキをのせた小エビとあおさ海苔のリゾット
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はなが牛(内子」のブランド牛)熟成50日サーロイン

      天然酵母のパン
      武井茶園の緑茶プリンキャラメルのジェラート
      小菓子 コーヒー


朝食は和食。土鍋で炊いたご飯のおいしさに、つい食べ過ぎてしまいました。一押しは御多分に漏れず卵かけご飯。
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齢のはなれた3人組に、スタッフさんは何の集まりかと思った様子。「姉妹なんですよ。3婆です。」の答えに、「まあ」と驚いて、「素敵ですね。」が返ってきました。中の妹をはさんで私と末の妹は10歳違い。子守はしましたが、一緒に遊んだ記憶はなく、おとなになってもそれぞれが遠く離れた地域に住み、子育てや介護に追われて過ぎました。年取ってようやく一緒に旅ができるようになたのだと、感慨深いものがありました。
そうした感慨にふけるのも私たち世代まで。少子化の未来にはもうないのかもしれません。


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BS-TBS番組情 №308 [雑木林の四季]

BS-TBS 2024年7月後半のおすすめ番組 

       BS-TBSマーケテイングPR部

関口宏のこの先どうなる!? 

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7月21日(日)ひる12:00~12:54 
☆各界の若きトップランナーをゲストに迎え、私たちの生活および森羅万象の「今」と「未来」をわかりやすく紐解く教養情報番組。 
#14 「オーバーツーリズム」 

【出演】関口宏、西内啓(統計学者)、若林淑子(構成作家) 
【ゲスト】長野瑞樹(株式会社リクルート じゃらんリサーチセンター研究員) 

コロナが明け、歴史的円安の影響もあり、観光地に賑わいが戻ってきた日本。そんな中、問題となっているのが「オーバーツーリズム」。ゴミのポイ捨て、地域住民が電車やバスに乗れないなど…さまざまなトラブルが各地で起こっている。 
河口湖にあるコンビニの周辺には、富士山の絶景写真が撮れると多くの観光客が押し寄せ、近隣住民への迷惑行為が多発。富士山を見えなくする暗幕を設置する事態に。 

一方で、各地で起きる「オーバーツーリズム」とは裏腹に政府は外国人観光客誘致に動いている。 
押し寄せる観光客に対して、世界の観光地ではどのような対策がとられているのか? 
「オーバーツーリズム」のこの先を考えるー 

 プロ野球フレッシュオールスターゲーム2024 

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7月20日(土)よる6:00~8:53 
☆「スター選手への登竜門」フレッシュオールスター!プロ野球の未来を担うスター候補選手が大集結! 

【解説】仁志敏久 
【実況】古田敬郷(TBSアナウンサー) 

プロ野球の未来を担うスター候補選手が一堂に集う、プロ野球ファームの祭典「フレッシュオールスターゲーム2024」が、7月20日(土)にウインク球場(兵庫)で開催される! 

かつてはイチローがMVPに輝き、村上宗隆、岡本和真ら侍ジャパンの中心選手も戦ったフレッシュオールスターはいわば「スター選手への登竜門」! 

イースタンとウエスタンの2リーグで日々研鑽を積む若手選手の晴れ舞台であると同時に、今年は“ギータ2世”の呼び声高く豪快なプロ初ホームランも記憶に新しい笹川吉康(ソフトバンク)や、100球未満での完封“マダックス”を達成した石田裕太郎(DeNA)ら一軍の舞台で早くも大器の片鱗を見せる選手たちも出場予定。 

さらに、今年プロ野球ファーム公式戦に新規参入したオイシックス新潟(イースタン)・くふうハヤテ静岡(ウエスタン)からも4選手が参戦。 
この中から次回のWBCを戦う選手も出てくるかも!? 
未来のスターをいち早くチェックしよう!! 

美しい日本に出会う旅

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7月24日(水)よる9:00~9:54
☆どこか懐かしい町並やかわいい手仕事。日本が誇る世界遺産に国宝の数々。大興奮の祭りに、温泉めぐり。美しくて美味しい日本を楽しくご案内します。

#426「夏の朝、知らない京都へ 貴船川床の鱧しゃぶと南禅寺ヒミツの庭園」

語り:瀬戸康史
瀬戸康史さんが案内する涼やかな夏の京都。
清水寺は早朝が狙い目。清水の舞台から京都の街を眺めたら、老舗料亭「丹」で自家栽培米を使った極上和朝食を。
庭の奥深さを学ぶため南禅寺、無鄰菴へ。
雨に生える美しい庭に癒されたら、素材にこだわるジェラート店へ。意外な食材を使った新しい味に出会います。
着物のお洒落に欠かせない根付を展示する美術館、さらに叡山電車で貴船へ。
貴船神社、そして川床で鱧しゃぶを堪能します!



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海の見る夢 №82 [雑木林の四季]

         海の⾒る夢
        −聴くということー
               澁澤京⼦

・・しかし我々の⾒るところによれば、権威はなくなったのではなく、むしろ⽬にみえなくなっただけである。あらわな権威の代わりに、匿名の権威が⽀配する。その装いは常識であり、科学であり、精神の健康であり、正常性であり、世論である。

・・簡単に言えば個⼈が自分自身であることをやめるのである。すなわち彼は文化的な鋳型によって与えられるパーソナリティを、完全に受け⼊れる。そしてすべての⼈々と全く同じような、また他の⼈々が彼に期待する状態になりきってしまう。私と外界の矛盾は喪失し、それと同時に、孤独や無⼒を恐れる意識も消える。しかし彼の支払う代価は高価である。すなわち⾃⼰の喪失である。
              〜『⾃由からの逃⾛』E・フロム

E・フロムは、ファシズムは魂の問題であると考えた。自己を喪失した魂は権威や国家、あるいは集団と同⼀化しようと欲望する。そして当時のナチスによる破壊と暴力を支えていたのはドイツの上流階級やブルジョワの諦念と無関⼼、下層中産階級の「〜強者への愛、弱者に対する嫌悪、小心、そして本質的な禁欲主義というようなことである。‥彼らの人生観は狭く、未知の人間を猜疑嫌悪し、知⼈に対しては詮索好きで嫉妬深く、しかもその嫉妬を道徳的公憤として合理化していた」〜『自由からの逃走』と⾔った特徴などであった。ヒットラーは大衆の心理をよく把握していたのである。

都知事選が終わり、小池百合⼦氏の圧勝となった。都民として正直がっかりした・・神宮外苑伐採に反対する蓮舫氏を応援したが、それと政策は今一つ具体的によくわからない石丸氏がいて、その二人に共通するのは「媚がない」「対立を恐れない正直さ」であって、そうした姿勢が小池氏には欠けている。小池氏にチラチラと見えるのは、表面的には愛想がいいが、裏では何をしているのかよくわからない裏表のある人間性であって、故・安倍総理と言い、なぜ⽇本ではこのように表面を取り繕うような人物が好まれるのだろうか?

マスコミは都知事選を放送せず、真綿で首を絞めるようなファシズムがじわじわと広がっているような気がする。

石丸氏について評価は真っ⼆つに分かれるが、そもそもなぜ攻撃的な石丸氏が評価されたのか?彼は「政治屋を⼀掃する」と勢いよく宣言したが、「自己保身」「顔色うかがい」「人気取り」「⽇和⾒主義」「先に結論ありきの議論」「腹黒さ」・・こうした特徴を持つ今の与党のあいまいな体質とマスコミにいい加減にうんざりしている⼈が、若い世代を中心に石丸氏を支持したのだろう。ただし、石丸氏の政策には具体性がなく矛盾もあり、小池百合子氏の路線とほとんど⼀緒のところもあったので、私は彼を⽀持しなかった。

これを書いている今、フランスの選挙では極右に対し左派が圧勝、イギリスでも保守に対して労働党の圧勝。世界中で右傾化が蔓延している今の時代、(なんとかしないと⼤変だ)という英国とフランスの民意の現れであり、左派の弱体化=福祉の衰退、にうんざりしたのだろう。(そういう意味で小泉政権時代から自民党は、フランスの極右政党に近い)いまだにヨーロッパでは民主主義が機能し、有権者が政策で選んでいるのに対し、日本できちんと候補者の政策を吟味して投票する有権者っていったいどのくらいいるのだろうか?ほとんどが、イメージで、あるいはトレンドだからという理由で投票しているんじゃないだろうか?自民党=安定、共産党=怖いといった化石化したステロタイプのイメージ。特に、孤独を恐れる日本人は、常にマジョリティから外れることを危惧し、当たり障りのないことしか口にせず、他人に引きずられて皆と一緒の価値観を持ちたがる⼈が多い様な気がする。孤独を恐れると言う事は、考える時間も持たないということで、候補者を政策ではなくて、イメージやトレンドで選ぶのも仕方ないのかもしれない。そうすると候補者も、政策より自分のイメージだけを強調することになってゆく。

フロムは、人の思考能力を奪うものとして権威主義と冷笑主義、無関心を挙げているが、「考える」人と同時に少ないのが「聴くことができる」人だと思う。候補者の政策を吟味するのも相手の主張をじっくりと「聴くこと」なのである。

⼈と⼈との信頼関係には、長い時間をかけた友情の熟成と誠実さが必要だが、それ以前の問題として他人の話をじっくりと「聴くことができる」忍耐力を持つ人が少なくなったように思う。相手を理解しようと努力するのではなく、安易に結論を出して自分勝手に決めつける短絡的な⼈間が増えた事には⾮常に危機感を持っている。

「考える」も、「他⼈の話をじっくり聴いて理解しようとする」ことも同じコインの裏表なのであり、そのためには孤独な時間を必要とする。その反対の「何も考えない」「他人の話を聴けない」「短絡的に決めつける」が蔓延すれば、バラバラの個⼈はますます安易な絆に飛びつくだろう。ファシズムというのは、まさにそうした孤独に堪えられない⼈々による偽の連帯ではないだろうか。

フロムの晩年の著書である『聴くということ』を読むと、フロムがいかに誠実に患者に寄り添い、相⼿に耳を傾けたのかがよくわかる。忍耐強く相手に寄り添って「聴くこと」、そして理解しようと努力すること、それこそまさに「愛」そのもので、今の日本人に欠けているものではないだろうか。


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住宅団地 記憶と再生 №39 [雑木林の四季]

Ⅳ 公団住宅の「建て替え」事業とは何だったのか? 3
 
    国立市富士見台団地自治解消  多和田栄治 

「敷地の適正利用」と「居住水準の向上」
 
国鉄民営化のねらいの一つがその用地であったように、住宅公団はもっぱら好立地の住宅用地がねらわれた。昭和30年代に管理開始された17万戸は、都心とその周辺市街地など立地条件のよい場所に建てられ、しかも敷地の利用容積率は低い。大部分が法定容積率150~200%にたいし現況70%を下回っていた。初期の住宅規模はほとんどが2DK、3K以下で狭く、設備水準も今日からすれば劣っていたことは確かである.。これらの事実をもって、建て替えの理由に「敷地の適正利用」と「居住水準の向上」をあげたが、ねらいは団地敷地の開放にあった。
 建物が年をへて劣化していくのは自然であり、平素から修繕や設備改善、ときには改修や増築、住環境の再整備がおこなわれる。公団住宅の償却期間70年は家賃算定上のそれにすぎず、物理的な耐用年数ではなく、また管理のしかたによっても異なる。きちんと対処していれば100年はもつというのが専門家の見解であった。規模や設備は、建て替えるまでもなく改修、改善できることである。なお、規模の狭さ、設備水準の低さは、原価主義のもとで高家賃の抑制、あるいは支払い可能な家賃額設定の必要から来ており、「居住水準の向上」は入居者の家賃支払い能力しだいで、それとは関係なく保証されるものではない。ともあれ、築後30年の、まだ堅固な住宅が突如、中曽根民活と地価バブルの嵐に巻きこまれ、「老朽化」「社会的な陳腐化」のレッテルを貼られて建て替えを言いわたされ、居住者はもとより、公団職員にとっても寝耳に水だったであろう。
 公営住宅法は建て替え条項を定めているが、公団法規にその規定はなく、行革審答申は「法制上の整備」をもとめた。公団には用途廃止と建設、壊すことと建てることの規定が別個にあるだけで、「建て替え」の法的根拠はない。したがって従前居住者の地位保全にかんする規定もない。公団住宅の建て替えには借家法上も正当事由はない。公団は急きょ研究委員会(委員長玉田弘毅)をつくり、1986年3月に『既存賃貸住宅の建替えに係る法的問題に関する研究』(100ページ)を発表した。
 冒頭に「物理的な老朽化に至らない場合でも建替えを必要とすることがある」「公団の建替事業に明文規定がないからといって法的根拠をもたないということはできない」と弁明したうえで、「居住水準の向上と良質な住宅の大量建設供給」を同時に可能にする建て替えは社会的要請であると説く。法的根拠がなく「社会的要請」だけでは弱く、「国策」をにおわせた。公団は国からは「新規住宅供給の大幅削減」「都心部の賃貸住宅の民間売却」をせまられているもとで、「建て替え」の正当化と居住者にたいする最低限の補償に
ついての「研究」であった。
 建て替えが大方針となれば、建物の耐用性、劣化の程度を評価する基準は無用、建物の状況はもはや問わない。大規模修繕や改修などは計画から消える。昭和30年代の団地17万戸については、二重投資を口実に計画修繕は後過し、建物の劣化は加速する01992年には建設省が対象を昭和40年代団地にひろげる「公共賃貸住宅建替10か年戦略」をさだめ、公団住宅全体の劣化、荒廃化はさらに危ぶまれた。
 公団の建て替え事業がいう「居住水準の向上」とは、新たな建物の居住性能をさし、従前居住者にそれが保証されるわけではない。建て替えによってバネ上がる家賃が払えず戻り入居できなければ、住みなれた土地を追われ、また「陳腐化した」住宅に引っ越すしかない。「敷地の適正利用」という名目は、「建て替えとは何か」を端的にしめしている。①法定容積率にたいする現況容積の充足率を高める(=居住空間の過密化)、②建物の高層化(=高容積化)、立体化(=住宅以外の用途にも使用)を図る、③高騰した地価に見合った収益の確保(=家賃の高額化)をめざす。
 公団にとって「建て替え」事業は、大手ディベロッパーとの連携による既存建物の解体と跡地への高層マンション新設および「余剰地」の整備・売却につきる。このことは借地法・借家法改正案へのパブリックコメントとして公団が法務省に提出した意見書(1985年11月)からも明白である。公団は賃貸借契約の更新拒否または解約申し入れの正当事由に、①既存建物の取り壊しと別個の建物の築造、建物の所有以外の目的への敷地利用、②賃借人への代替住宅の提供と移転費などの支払い、この2項目追加を要請している。現
行法はまだこれを明文上認めてはいないが、裁判実務上は賃貸人の居住の権利を金銭給付で買いとる方向にあることは事実である。
 「敷地の適正利用」とは、結局は「高騰した地価に見合った収益の確保」である。ほんらい建て替えの利点は、地価が上昇しても用地の新たな取得を要せず、低コストで新築できることだが、公団にその意図はまったくなく、逆に地価上昇こそ収益を増やすチャンスであった。高騰した地価をもとに敷地を再評価し、新規住宅として家賃を設定し、高層化してつくりだした「余剰地」に分譲住宅を建設、または敷地売却を図った。公団住宅の建て替え方針決定にいたる政財界の大合唱、政策決定のプロセスからすでに明白であるが、
事業の進捗、その後の結末を追えば、「敷地の適正利用」の正体、「建て替え」による低所得居住者の団地追い出しの本質が見えてくる。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂


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地球千鳥足Ⅱ №50 [雑木林の四季]

オモニは強し、「へその鰭自分で切りました!」
          ~大韓民国~

       小川地球村塾塾長  小川彩子

 韓国唯一の萱葺き屋根の村がここ、済州島にある城邑民俗村だ。民族資料保護区に指定され、住民1500人が縄で押さえたモンゴル風の屋根の伝統家屋500軒に住む。この村の生活を説明するガイド、50代後半の女性、Jさんの能弁とユーモアのセンスに驚いた。自然な発音の流暢な日本語だ。
 Jさんいわく、「ここは男のパラダイス、ここは夜やかましい村です(笑)。男の子が生まれるまでお産をしなければなりません。私は4人目で男の子が生まれましたが、生まれてなければまだこの年で頑張らなければ(笑)。この村は男にとっては死ぬまで連休です。
この家では嫁さんが逃げました! 旦那が働かないので女が仕事をします。水がなかったので、オモニ(母)は重い水ガメを背負って1日10回水を運びました。だから足腰が強くなりました。女は丈夫になります。五十肩はありません。子どもを7人産んだ人も腰は曲がっていません。一人でお産する人が多いですが、私も一人でお産して、へその緒を自分で切りました。旦那が家庭を守らないので母が子どもを守ります。名門ソウル大学には済州島の子どもが一番多いんです。馬骨スープを飲むので入れ歯はありません。アルツハイマーもこの村にはありません。83歳の母は海女、今も海に潜りますが、もっと年上の人も潜っています。母が海女として日本に招待されたら自分は通訳として行こうと楽しみです。でも逃げて行く所も大阪に決めていますよ!(笑)…」と、シャレや下ネタで何度も笑わせてくれたが最後は悲歌、「アリラン」で締めた。自分の人生を回想しつつ歌う哀調が感染し私も同じムードで唱和した。
 済州島に多いものが3つある。石、風、そして女性だ。なぜ女性が多い、即ち男性が少ない?その理由には漁師たちの海での遭難もあるが、他に済川島の四二二事件が挙げられよう。第二次大戦終焉後、済州市内で自主独立国家の樹立を訴えるデモ中の島民に警察が発砲し6名が殺害されたが、これを契機として在朝鮮アメリカ陸軍司令部が警察官や右翼青年団体を済川島に送り込み、島民を弾圧し、虐殺を重ねた。日本に逃れた島民もいた。
虐殺は足掛け10年ほどの間に合計5万人とも10万人ともいわれる。やむをえず一夫多妻の時代もあったようだが、男性パラダイス時代の背景には悲惨な流血事件があったことを心に刻まねばならない。
 済州島はリゾート地、新市街はインフラが素晴らしい。過酷な歴史に璽升され1970年代まで辛酸を舐めてきた島民だが、1988年のソウル・オリンピック景気で暮らしが向上し始め、2000年ぐらいから生活と人生を楽しんでいる。見目麗しい女性と長身の青年が目立ったが、「きれい」や「かっこいい」が褒め言葉、背を高めるクリニックは韓国だけとか。子育て上手な観光バスガイドの金さんいわく、「膝を刺激するのが良いんです。成長期の縄跳びは大変効果があります」と。大韓航空の添乗員さんたちはみな身長が高く、162センチ以上が条件だそうだ。
 観光の見所については割愛するが、大浦海岸の柱状節理に白波が砕ける景観は一幅の絵以上だ。韓国料理にも触れておこう。オギョプサルは済州島名物、黒豚の焼き肉で、適度に脂を落として頂く。海鮮トッペギは海産物から出る美味しい汁と香味野菜のスープ、海の香りが素晴らしい。南米のソパ二ア・マリスコスを思い出し懐かしかった。訪れたのは四月、桜もあり、新緑と人々の笑顔が目に沌みた。 (旅の期間‥2013年 彩子)

『地球千鳥足』 幻冬舎


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山猫軒ものがたり №43 [雑木林の四季]

山の宇宙船 2

          南 千代

 こうして、新しい家は、夏に完成した。名づけて、山猫コレクションスタジオ。コレクション、集積。多くの人々のエネルギーと、時間と空間の集まり。
 七月。ギャラリイを始めて七回目のコンサートは、山猫スタジオでの完成記念コンサートとした。世話になった方の一部ではあるが、約八十人を招待しての開催である。演奏は、ジャズギターの高柳昌行氏。夫がもっとも尊敬し、人生の師とも仰いでいる日本前衛ジャズ界の大黒柱とも評されているギタリストである。
 私が初めて高柳さんの音を聴いたのは、阿部薫とのデュオである「解体的交感」のデモテープだった。その時、世の中にこんなにもスピードと緊張を感じさせる音があるのかと、ことばにもできない驚愕で、呆然としたのを覚えている。阿部薫は若くして亡くなり、高柳さんの音は、たまに渋谷のジアン・ジアンなどで聴くだけであったが、自分の家で演奏してもらうことになるとは、夢にも思わなかった。
 木造りのホールのためか、音響は予想以上にすばらしい。コンサート中、私は外にも出て、聞いてみた。自然の中で、ノイジィーなインプロヴィゼイションジャズは、どう聞こえるのだろうか。家屋の中で音が流れているのではなかった。家自体がまるで、ひとつの楽警なって音を出している。山に抱かれ、家が宇宙船のように浮かび、大音響となって震えている。
 さすがに高柳さんの音である。スピーFもエエネルギーお、自然に員けてなどいない。やはり、そうとうのパワーだ。音はうねりとなり、周囲の山々を雄大に洩っていった。「不思議な音が、山から流れてきて驚いたべ。いつもの魚売りの車の曲じゃねえし。南さんの
とこだったんだってな」
 翌日、二、三キロも離れた所に住む土地の人に言われた。
「お騒がせしました。すみません」
 以来、ギャラリイは古い民家で開催、コンサートは新しいスタジオで行うことになった。コンサートは、ジャズが中心である。
 奏者は、井野さんをはじめ、五十嵐一生、林栄一、豊住芳三郎、小山章太、板橋文夫、など各ジャズメンたち。フランス在住のトランペッター・沖至さんやドイツからはピアニストのアレックス、高瀬アキさんたちもやってきて、多くのミュージシャンが演奏してくれるようになった。堀内美肴さんも感動のシャンソンを聞かせてくれた。
 何しろ夫のカメラスタジオスペースを利用してのコンサートなので、八十人も入ればいっぱいの会場である。入る人数が限られているので、ミュージシャンには、特に奏者が多くなると満足なギャラも渡せない状況になってしまう。
 それでも彼らは、
「いいよ、いいよ。演奏がおわったら、おいしい料理で一杯飲ませてくれれば」
 と、言ってくれる。
 これが、数百人も入る会場であったり、酒などを出すジャズクラブであったりするのなら、ミュージシャンたちにも充分にお礼ができるのだけれど。金銭的な収支でいうなら、もちろん私たちにとっては、いつも赤字覚悟のコンサート開催である。これを収入のための仕事にしていれば、こんなことはできないに違いないが、好きでやっている強みである。それだけに聴く方はもちろん、演奏する側も開催する私たちも、満足できるコンサートでありたいと、いつも願っている。
 案内を作る、数百人の方々に郵送する。椅子を揃えピアノを揃え、駐車場にする土地の地主に了解をとる。家具を移動し、家中の掃除やガラスを磨き、飲み物や料理や器を揃、え、と、コンサートのために行う準備も少なくない。そんな時、心強いのが友だちの手助けだ。
 オブジェ作家のカオルさん、和紙作家の悦美さん、鳩山の竹林さん、旧友のニャン子に半田さん。女友だちは前日の掃除から会場作り、受け付けからキッチンなどまで心強いパ了だ。男性の村崎さんや吉山さん、木工家の川合さんや陶芸家の栄さんは、当日の車の誘導や駐車スペース作りなどを。悦美さんや竹林さんは、ご主人も揃っての強力な助っ人だ。
 演奏が終わると、奏者も交えて親しい人々やスタッフたちで、乾杯となる。時には、この乾杯かギャラりーの打ち上げを兼ねることもある。
 ギャラりィもオープン以米、途切れることなく続き、すっかり定着してきた。絵画、彫刻、人形、木工、陶磁器、藍や草木染め、金属や紙の造形、ガラスに版画、とそのジャンルもさまざまである。山猫軒というギャラリィ名もあり、宮沢賢治の物語をモチーフやテーマにした作家の人々と知り合う機会も多くなった。賢治の画本を出版している版画家の高野玲子さんや小林敏也さん、組木絵の中村道雄さんなどの作品展も行うことができた。
 たくさんの人々が集ま。、一緒に音楽や作品を愉しむ。田や畑の草取りや耕しに精を出す。仕事で机に座ってワープロを打つ。都心の会議室で打合せをする。犬たちやタヌキと山を歩く。親しい仲間たちとパーティーを開く。梅干しを漬ける。夫と二人、薪ストーブのそばで酒を飲 む。洗濯物を太陽に干す。鶏にエサをやる。
 すべて、自分が望んだ時の中で、私は「今」を慈しむ。

  *高柳昌行:一九九一年六月二十九日没。

『やまねこけんものがたり』 春秋社


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夕焼け小焼け №40 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

暮らしの算段 大倉の夏 1

          鈴木茂夫

  私の寄寓する天理教東中央分教会は、明治神宮表参道から横に入ったところにある。
 教会長の柏木倉治(1888-1977) は天理教教会本部の役員で参議院議員だ。大分県中津藩の武士の家系。中津中学を終えると朝鮮・京城に渡り材木店を開く。勤勉に働き材木店は成長、手広く営業した。
 山口県の寺院の娘・明子と結婚。子どもをもうけたが、何人も幼児のうちに病をえて死去。たまたま男児が生まれたときに、天理教の布教師が、運命を開くのにとすすめられ信仰しはじめる。3人の子どもに恵まれ、それぞれすこやかに育った。
 柏木夫婦は神様の守護によると感謝、自分たちも布教をしようと東京へ出た。借家を布教所として布教活動をはじめた。信者になってもらうのは容易なことではなかったが、庫治は人に好まれる明るい性格と弁が立つので信者を増やすことができた。そこで布教書から分教会へと発展していた。

 柏木倉治は子どもが立派に育ったのは、信仰と神様の守護によると誇りにしている。
 長男の大安は,東京大学農学部の土壌研究室の副手として勤務している。妻は天理教大教会のなかの最古参東本大教会の娘。
  次男の正幹は父・柏木倉治の公設秘書。妻は某大教会の娘。
 長女長子は一流商事会社に勤める天理教会の息子の嫁。
 私が挨拶すると二人ともそれに応える。それだけだ。会話はない。
 名古屋では上村家の子どもたちと一緒の生活だった。父の学友との友情、同じ信仰でつながっている教会での暮らしとの違いを思う。

 教会のすぐ上の敷地を購入して新しい建物の建設をしている。そこに2階建ての赤煉瓦の舘がある。日露戦争の陸軍の総司令官をつとめた大山巌の迎賓館だったという。戦災で焼けたのだが、焼け残った赤煉瓦の外郭はそのままに、内部に応急の2階を構築してあった。その中に、窓のない3畳間あった。そこで暮らしていいかと訊ねると、誰も住み手がいないから構わないとの返事。私はそこに入った。部屋の上に板張りの上床があり梯子もついている。布団をそこに上げると、住み心地は良かった。
 教会は木造2階建て、2階に神殿を設け60畳敷きの広間で祭儀が行われる。2階の端に別棟がある。会長一家専用の居住区画だ。で奥という。会長夫妻、長男夫妻、次男夫妻の居室、浴室、手洗い、炊事場が設けてある。
 
 本棟の階下にはまんなかに畳敷きの廊下、左右両側に8から10畳の部屋があり、住み込みの信者が入る。階下の建物に隣接して,廣い浴室、炊事場がある。

 教会には約30人の住み込み人がいる。毎朝、大きな握り飯を持って布教に出かける青年が2人いる。そこで連れてきた生活困窮者もいた。夫婦者、子どもと同居している夫婦、子ども連れの女、独身の若い男性、独身の女性などさまざまだ。建前は信者なのだが、生活にゆきづまって便宜的に教会に入り込んだ親子もいる。寝込んでいて起き上がれない病人もいる。
毎日働きに出る人もいるが、その収入が教会に入ることはないようだ。教会の雑用は住み込みの人の担当だ。

 一般信者の炊事場には,大きなかまどがあり、薪で飯を炊いたり、味噌汁をつくる。炊事場の横に風呂の焚き口がある。薪は住み込みの青年が調達してくる。
そうした人たちの中の中年の婦人3人が、炊事場で食事をつくる。米、野菜や魚は月並祭のお供えを使う。
 献立は飯、味噌汁、漬物、主菜は野菜の煮付け、たまにサバの味噌煮、鶏の唐揚げ、鰯の煮付けなどのどれかだ。時間に間に合わない人には、食器棚に置いておく。
 教会の食事は、私の口には合わない、まずいのだ。贅沢を言うのではないが、名古屋で3年間、食事に恵まれていたから。

 しかたないから、お金があるときは、近くに壮年の夫婦で揚げ物を売る小さな店へ行く。1個8円のコロッケだ。たまにそれを食事に加えると、なんとも言えない充足感があった。

 教会には朝夕2回、おつとめがある。朝勤めは午前7時、雄勤めは午後6時だ。
 おつとめは1番太鼓が30分前、2番太鼓が10分前、3番太鼓が5分前に打たれる。
 おつとめは神前にある拍子木、ちゃんぽん、太鼓、すりがねなどの楽器を使う。
 参拝者は全員でみかぐらうたを唱える。

    あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと

   ちよとはなしかみのいふこときいてくれ あしきのことはいはんでな
   このよのぢいとてんとをかたどりて ふうふをこしらへきたるでな
   これハこのよのはじめだし なむてんりわうのみこと
   あしきをはらうて たすけせきこむ いちれつすまして かんろだい

 このあと,参拝者は立って「よろづよ8首」かせ12くだりまでの1つをえらんでておどりをするばあいもある。

 私は幼いとき、母に伴われて天理に行き天理教越国大教会の詰め所で半年暮らしたから、祭儀のおつとめには習熟している。教理のお話も、子ども心によく聞いていたから、憶えている。

 毎月19日の月並祭には200人以上の信者で賑わう。教会は活気づいているのだ。部下となる教会も50を越え、大教会に昇格するのも間近と言われている。

  私はこうした教会のしきたりとは関係なく暮らした。夜遅くまで起きているから、朝は起きるのが遅い。朝飯は食いはずれる。夕食の時間にも食いはぐれる。夜更けに戻ると食器棚に置いてある。何度も残したままにしたら、いつしか食器棚へ置かなくなった。私は食事の予定から外されたのだ。無理もない。私はろくでなしの学生として札付きだ。
 手持ちの金がなくなっているとき、たまに食事の時間に顔を出すと、当然無視される。頭を何度も下げ、愛想良く食事が食べたいとお願いする。すると不機嫌な顔つきで、食事の乗った盆が差し出された。

 居室も食事も学生には,優遇措置をとってほしいと思ったが、それは単なる私の甘えだった。学生下宿は朝夕の2食付きで1畳1000円が相場だという。規定の下宿料を払えば、何の制約もない。だがそれには金が足りない。いやおうもなく教会の奇遇はやめられない。
 母は毎月3000円送ってくれる。夜なべをして稼いだ金だ。育英資金は毎月1800円支給される。これは生活費だ。週のうち、少なくとも4日は、好むと好まざるとにかかわらず、教会の食事を食べる。
 学徒援護会が斡旋してくれる仕事の日給は200円前後だ。月のうち10日はアルバイトで稼ぐ。
 そこで暮らし方を変える。たとえば19日の月並み祭の日は,早起きして朝食を食べ、おつとめに参加、祭典に参加される信者さんの世話をする。この日は昼食も悪くない。夕食もいつもより弾んだ飯にありつける。炊事の婦人に愛想良くすれば、お昼の握り飯ももらえた。学食で副食を注文してそれと一緒に食べた。
 教会の青年が教会の雑用を一緒にやろうとよってくると、笑顔で大學の時間割がつまっていて、教会の雑用のお手伝いができないと婉曲に断った。

 アルバイトにも取り組んだ。九段下から九段坂を上がり、田安門をくぐると旧近衛師団の兵舎が残っている。警察学校の校舎、学徒援護会、学生寮などに使われている。
 援護会の壁面に,作業内容を書いたチラシか数多く貼ってある。
 窓口でアルバイト仕事の斡旋票をもらい、東京駅前の丸ビルにある大日本精糖に行く。株主名簿の整理だ。すでに何人かの学生が作業していた。住所・氏名・生年月日、保有株数などを原簿と照合する。氏名は必ず原簿のとおり記入する。略字は認めない。1時間も取り組んでいると、目が痛くなった。
 突然、ベルが鳴った。室内の社員が廊下に出る。学生にも出るように指示された。
 「社長のお通りです。急いで」
 廊下の両側に人垣ができ、中央が空いている。何か気配がして、頭を下げる。
通路を数人が通る。先頭に一人の人物が見えた。新聞で見たことのある藤山愛一郎だ。
 人垣には目もくれないで、急ぎ足に通り過ぎた。こんなしきたりのある会社もあるのだとおもしろかった。
 朝9時から夕方5時まで1週間働いた。会計係は10パーセントの天引きはしてあるよと\1400をくれた。初めての体験だ。丸ビルの中にいるサラリーマンも楽ではないのだと感じた。

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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №228 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

日高線・廃駅巡り

         岩本啓介
   
①ホームには先人がひとり。話を聞くと『東京の人』で『同好の人』でした。

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2022年12月21日13:02
              
②浜田浦はまたうら駅2023年3月18日廃駅

228浜田浦駅待合所。電灯なし土間の床 のコピー.jpg

この駅に駅舎はありません。駅舎ではなく、『待合室』なのです
それも、昔風で、床は無く、土の上にコンクリートブロック造りの『待合室』
昔の農家には土間がありましたが、土間の上に直接立てた『待合室』
何か 懐かしい風景が無くなるのは 寂しい限りです
    
2022年12月22日12:04
      


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押し花絵の世界 №205 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「夏色のヘアクリップ」

        押花作家  山崎房枝

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ブルーや紫色の紫陽花、白いレースフラワー、霞草などの涼しげな花材を使ってヘアクリップを作りました。
最後にシルバーのラメを散らして花火のようなイメージに仕上げた後に、UVレジンでコーティングしてライトで硬化しました。
硬化後に裏側にクリップを付けて出来上がりです。
様々な色合いのお花で楽しめるので、お教室の生徒さん達からも人気です。


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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №62 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

行田の童原画 6

         早晩造形作家  赤川政由

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多摩のむかし道と伝説の旅 №128(30話) [ふるさと立川・多摩・武蔵]

多摩のむかし道と伝説の旅(№30)
−⼆ヶ領⽤⽔⽔辺の道を⾏く−

            原田環爾

 ⼆ヶ領⽤⽔の名は稲⽑領、川崎領の⼆ヶ領を流れることに由来する。今から約400年前の慶⻑2年(1597)徳川家康の命を受けた⼩泉次⼤夫が、農⺠の協⼒を得て10年6ヶ⽉の歳⽉を費やして開削した⼈⼯の⽤⽔路である。中野島(現多摩区菅稲⽥堤)で多摩川から取⽔され、稲⽑領(多摩区、⾼津区、中原区)から川崎領(中原区の⼀部、幸区、川崎区)へと流れる延⻑32kmの⽔路で、この開削によりこれらの地域の新⽥開発は⼤いに進み60ヶ村の耕地を潤した。まさに川崎のルーツとも⾔える⽔路である。現在の⼆ヶ領⽤⽔の⽔辺は親⽔護岸⼯事が施され、環境に⾒事に配慮された瀟洒な散策路となっている。

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 開削の経緯を詳しく述べる。戦国末の天正17年(1589)多摩川が⼤洪⽔で流路が⼤きく変わり、農⺠の⽣活は⾏き詰っていた。新⽥開発を急ぐ必要に迫られた家康は、平安末以来の代々⽔利⼟⽊技術を受け継ぐ⼩泉次⼤夫を六郷、稲⽑、川崎領の⽤⽔奉⾏として多摩川両岸の⽤⽔路開削に当らせた。慶⻑2年〜3年(1597〜98)にかけて稲⽑領、川崎領、世⽥⾕領、六郷領の四ヶ領の測量が⾏われ、慶⻑4年(1599)から六郷領を⽪切りに、3ヶ⽉後には川崎領と、多摩川を挟んで交互に両岸の開削⼯事が⾏われ、約10年6ヶ⽉の歳⽉を費やして慶⻑14年(1609)六郷⽤⽔と⼆ヶ領⽤⽔の本流が完成した。その後は各村への分⽔路が切り開かれ、すべてが完成したのは慶⻑16年(1611)、測量開始から14年の歳⽉をかけた⼤⼯事であった。その⼤⼯事の完成から20年後の寛永6年(1629)、次第に深刻化した末端の⽔量不⾜を補うため、関東郡代伊奈半⼗郎忠治の⼿代筧助兵衛は中野島⼝の下流3kmの宿河原に新たな取⽔⼝を開削した。宿河原に新設したのは、中野島の対岸に六郷⽤⽔の取⼊⼝があるため中野島⼝を広げることはできないこと、及び中野島の下流は伏流⽔により⽔量は回復するので宿河原で取⽔できることにあったという。この新たな⼆ヶ領⽤⽔は宿河原⽤⽔とも呼ばれ南武線の久地駅付近で本流に合流する。合流後の⼆ヶ領⽤⽔は更に東流し、津⽥⼭付近で分⽔され稲⽑・川崎領各地に配られた。現在は昭和16年建設の久地円筒分⽔で各所に分⽔されている。その分⽔路の⼀つに川崎堀がある。
 今回は⼆ヶ領⽤⽔を[1]中之島取⽔⼝から登⼾へ⼆ヶ領⽤⽔⽔辺の道、[Ⅱ]宿河原⽤⽔⽔辺の道、[Ⅲ]宿河原⽤⽔の本流合流点から川崎堀へ、と3 領域に分けて稲⽥堤から溝の⼝までの実踏経験を詳述する。

[Ⅰ]中野島取⽔⼝から登⼾へ⼆ヶ領⽤⽔⽔辺の道
 コース概略は次の通り。JR南武線稲⽥堤駅から多摩川縁へ出て中野島取⼊⼝へ向かう。取⼊⼝からは⼆ヶ領⽤⽔に沿って⽔辺を下り登⼾に⼊り、⼩泉橋まで来ると津久井道を経由して終着点の⼩⽥急線向ヶ丘遊園駅に⾄る。なお登⼾では近傍に⽣⽥緑地があり、その⻄の⼀⾓に枡形⼭と呼ぶ⼭がある。鎌倉時代の枡形城の城跡で、秩⽗平⽒末の稲⽑三郎重成の居城があった所だ。今回は終盤の寄り道として枡形城址を訪ねた後向ヶ丘遊園駅
へ向かうものとする。

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 JR南武線稲⽥堤駅を降り線路沿いの道を東へ進む。すぐ次の踏切から来る道で左へ曲がり多摩川へ向かう街路に⼊る。この辺りは菅稲⽥堤といい、沿道には梨園が点在する。菅、中野島、⽣⽥辺りは昔から多摩川梨の産地として知られ、特に⼤正時代以降盛んになったという。そのため梨もぎ取り園も多く⾒られる。ほどなく多摩川の堤防にぶつかる。堤防に上がると堤は多摩沿線道路という⾞道で、その向こうには広々とした多摩川が広がる。頭を右側に巡らせば多摩川の流れをせき⽌める巨⼤な⼆ヶ領上河原堰堤が⽬に⼊る。また堤防外側下にはつい最近まで1-3.jpg川崎⽔道局の施設が広がり、円柱形の古びたコンクリート建造物が印象的だったが今はない。⾞道を渡り⼆ヶ領上河原堰堤に向かって堤防の縁を進むと、傾斜⾯に稲⽥堤の桜の歴史を記したガイド板が⽴っている。ここはかつて稲⽥堤と称し桜の名所として知られた所だ。
 ガイド板によれば、稲⽥堤の桜は⽇清戦争の勝利を記念して明治31年に菅村の⼈々によって中野島から⽮野⼝境にかけて250本の桜が植えられたことによる。桜は⾒事な桜並⽊となり、昭和の初期には東京近郊の花⾒の名所になり賑わったという。作曲家の古賀政男は稲⽥堤で遊んだ印象から名曲「丘を越えて」のメロディーを作曲したという。残念なことに昭和43年、多摩沿線道路の拡幅⼯事で桜は切り払われてしまい今は全くその⾯影はないとのことである。
1-4.jpg ガイド板の傍らの⼩道を下って河原に降りると、そこが⼆ヶ領⽤⽔の中野島取⼊⼝になっている。すぐ下流の堰堤で堰き⽌められた多摩川の⽔がここから⼆ヶ領⽤⽔となって流れ出ている。この先⼆ヶ領⽤⽔の右岸に沿って進む。200mも進めば珍しい現象に出会う。南⻄⽅向から流れ下ってきた三沢川と交差しているのだ。三沢川は川崎市⿇⽣区⿊川を源流とする川で、この交差点の橋上から眺めて200mばかり下った所で多摩川に注ぎ込んでいる。丁度先の⼆ヶ領上河原堰堤のすぐ下流付近だ。川の交差とは奇妙なことだが、サイフォンの原理で⼆ヶ領⽤⽔が三沢川の下をくぐっているのだ。
1-5.jpg 因みに初めて⼆ヶ領⽤⽔と三沢川との交差を⾒た時不思議な思いにかられた。⼈⼯の⽔路である⼆ヶ領⽤⽔をなぜわざわざ三沢川と交差するという⾯倒な⽅法をとったのか。取⼊⼝をほんの少し下流にもって⾏けば交差は回避できたのにと・・・。しかし調べてゆくうちに事情は理解できた。三沢川は元はここを流れておらず、ここよりずっと南側を東流し、ここより下流で⼆ヶ領⽤⽔に合流しているのだ。ところが川幅が狭くたびたび氾濫することからいち早く多摩川へ流す改修⼯事が必要となり、昭和16年(1942)から戦後にかけて、⼩沢城址北麓の菅城下で新⽔路が設けられ流路変更が⾏われたのだ。流路変更した新三沢川は当初は⼆ヶ領⽤⽔の下をくぐらせていたというが、なお不都合で後に⼆ヶ領⽤⽔を三沢川の下をくぐらせるようになったという。なお菅城下から下流のかつての三沢川は旧三沢川と呼ばれ、今もその流れはある。(つづく)


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国営昭和記念公園の四季 №152 [国営昭和記念公園の四季]

ネムノキ  こもれびの里東サイクリングロード

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『知の木々舎』第364号・目次(2024年7月上号編成分) [もくじ]

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【文芸美術の森】

石井鶴三の世界 №259                 画家・彫刻家  石井鶴三
  妙見菩薩臓 2点 1958年
西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」№131 美術史研究家 斎藤陽一
 明治開花の浮世絵師 小林清親 14 
   「東京名所図」シリーズから:一日の中の光の変化
浅草風土記 №29             作家・俳人  久保田万太郎
 浅草田原町 3
武蔵野 №9                    作家  国木田独歩
【ことだま五七五】

こふみ句会へGO七GO №132              俳句 こふみ会     
 「木下闇」「黴」「ペットボトル」「南風」
郷愁の詩人与謝蕪村 №32              詩人  萩原朔太郎
 冬の部 4
読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №186              川柳家  水野タケシ
 6月5日、19日放送分
【雑木林の四季】

BS-TBS番組情報 №308                           BS-TBSマーケテイングPR部
 2024年7月のおすすめ番組(上)
海の見る夢 №81                                   渋澤京子
  サン・メリーの音楽師~難波田史男
住宅団地 記憶と再生 №38   国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治
 公団住宅の「建てかえ」事業とは難だったのか 
地球千鳥足Ⅱ №49            小川地球村塾村長  小川律昭
 天然の虹橋、レインボーブリッジ
山猫軒ものがたり №42                    南 千代
 山の宇宙船 1
【ふるさと立川・多摩・武蔵】                                                   

線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №227      岩本啓介
 敗戦・廃液巡り~日高本線
夕焼け小焼け №39                      鈴木茂夫
 早稲田 早稲田 早稲田     
押し花絵の世界 №204                                     押し花作家  山﨑房枝
 「スターフロックスのスマホケース」
赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №61      銅板僧形作家  赤川政由
 行田の童 原画 5
国営昭和記念公園の四季 №154
 ネムノキ こもれびの里東サイクリングロード
【代表・玲子の雑記帳】                『知の木々舎 』代表  横幕玲子

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