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『知の木々舎』第377号・目次(2025年1月下期編成分) [もくじ]
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【文芸美術の森】
石井鶴三の世界 №272 画家・彫刻家 石井鶴三
大安寺・四天王 1952年/不動明王。木造彩色・平安藤原期 1952年
西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」№144 美術史研究家 斎藤陽一
江戸・洋風画の先駆者たち 亜欧堂田善 7
浅草風土記 №42 作家・俳人 久保田万太郎
夏と町々 香取先生 1
山羊の歌 №8 詩人 中原中也
都会の夏の夜
霧笛 №4 作家 大佛次郎
詩人の本棚 №2 高松力平
森 鴎外
【ことだま五七五】
こふみ句会へGO七GO №138 俳句 こふみ会
「賀状書く」「冬銀河」「おでん」「ねんねこ」
読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №199 川柳家 水野タケシ
12月18日、25日放送分
【雑木林の四季】
BS-TBS番組情報 №320 BS-TBSマーケティングPR部
2025年1月のおすすめ番組(下)
海の見る夢 №93 渋澤京子
修道院の庭で
住宅団地 記憶と再生 №53 国立市富士見台団地自治会長 多和田栄治
ひばりが丘団地 3
地球千鳥足Ⅱ №61 小川地球村塾塾長 小川彩子
パリジェンヌに見初められた郷愁のメトロ・フランス共和国
美味懐古 №8 加茂史也
橋善蕎
私の雑のう №2 矢作啓太郎
はるかなる山河に その2
【ふるさと立川・多摩・武蔵】
線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №240 岩本啓介
大糸線 青鬼集落
夕焼け小焼け №52 鈴木茂夫
母と同居・卒業の準備を
押し花絵の世界 №216 押し花作家 山﨑房枝
「ビオラのクリップ」
赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №69 人形作家 さとうそのこ
そのこ人形 6
多摩のむかし道と伝説の旅 №138 原田環爾
古歌に詠われた向ノ岡から多摩の横山道を行く 4
国営昭和記念公園の四季 №166
ソシンロウバイ こもれびの池
【代表・玲子の雑記帳】 『知の木々舎 』代表 横幕玲子
石井鶴三の世界 №272 [文芸美術の森]
大安寺・四天王 1952年/不動明王 1952年
画家・彫刻家 石井鶴三
画家・彫刻家 石井鶴三
大安寺・不動明王 1952年 (201×143)
不動明王・木造彩色・平安時代藤原期 1952年 (200×143)
**************
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社
西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」 №144 [文芸美術の森]
シリーズ:江戸・洋風画の先駆者たち
~司馬江漢と亜欧堂田善~
第13回
美術ジャーナリスト 斎藤陽一
「亜欧堂(あおうどう)田(でん)善(ぜん)」 その7
≪江戸時代最大の油彩画≫
今回は、亜欧堂田善が描いた江戸時代最大の油彩画であり、しかも、他には見当たらない「油彩屏風」である「浅間山図屏風図」を紹介します。
この絵のサイズは150×338.2cm、六曲一隻の屏風絵で、国の重要文化財に指定されています。
全面に大きくとらえられているのは「浅間山」。
これまで見てきたような田善の銅版画や油彩画のような、「透視画法」とか「陰影法」があまり見られない。
しかも、田善がしばしば絵の中に描き込んできた人物の姿も見られない。
だから、一見すると、田善の作品としてはどこか平板な印象を受けてしまう。
それゆえ、かつては「このような大きな絵に取り組んだ田善の技量の限界」という見方もありました。
ところが、平成3年(1991年)、福島県須賀川市の旧家から、この屏風絵の稿本(下絵)が発見され、田善の当初の意図が明らかになりました。(下図参照)
上図の下絵では、左側に煙が上がる炭焼き窯、その横に二人の人物が。一人は炭焼き、もう一人は薪を割る仕事をしている。この部分は、下絵の大きな部分を占めており、写実的に描かれている。右下には裾野の風景も描かれる。
ということは、田善は当初、得意な風俗描写を大きく取り込んだ風景画を描こうとしていたことが分かる。
ところが、もう一つの下絵(下図)では、炭焼きの男と炭焼窯は消え、薪を割る一人だけになっている。
画面をよりすっきりとした構成にしたかったのでしょうか。
今度は、完成図(屏風絵)と第二の下絵とを比べてみよう:
完成図では、左側にあった人物たちや炭焼き窯などがすっかり消えている。
さらに、下絵の右下にあった「裾野」の代わりに、なだらかな丘陵と雲が描かれている。その結果、画面はより落ち着いたものとなった。
おそらく田善は、それまでの銅版画や油彩画とは異なり、室内に飾って鑑賞する「屏風」という形式を考慮して、意図的に、写実的な風俗描写や立体感の表現を抑え、平面的で装飾的な美を表現しようとしたのかも知れません。
この屏風絵が描かれたのは文化年間の後半、田善の最晩年にあたる60代後半。
田善が新たな方向を模索していた可能性も考えられる。
最後に、もうひとつ、晩年の亜欧堂田善が描いた異色の油彩による山水画を紹介します。
右図がそれで、絹地に油彩で描いた「山水人物図」。
これは写実的な風景ではない。
伝統的な「山水画」の概念を「油彩」で表現してみせたのです。
だから、何とも不思議な、いわば「シュールな風景画」となっています。
岩の形は「キュビスム」の絵のよう・・
岩の彩色は、灰色に薄いベージュを重ねて、東洋水墨画の岩とは異質なぬめぬめとした岩肌となっている。
それを、中国風の衣装を着けた高士が見つめている。
急峻な山岳風景の中に、高士と従者を描き込むという画題は、東洋山水画の伝統的なスタイルです。
しかし、田善のこの絵から受ける印象は、まるで異質な感じ。田善独自の絵画世界です。
まさにこの絵は、田善が、東洋伝統の山水画を、新たに油彩で西洋画風に描いてやろうと試みた意欲作なのです。
次回は、亜欧堂田善が、自分を引き立ててくれた白河藩主・松平定信の期待に応えて、銅版画で制作した「世界地図」や「解剖図」を紹介します。
(次号に続く)
浅草風土記 №42 [文芸美術の森]
香取先生 1
作家・俳人 久保田万太郎
香取先生
一
「……偖我が浅草小学校訓導香取真楯先生には明治三十年本校に教鞭を執られてより在職当に三十二年の其間温厳宜しきを得て児童を教育せられたる功績は本校関係者の熟知せる所に有之候。宜なるかな昨秋御大礼に際し文部大臣より功労顕著なる故を以て表彰せられたる事や、是先生の御栄誉は勿論本校としても全国を通じて僅かなる特別功労老中に加はるべき先生を出したるは非常の名誉と存じ候。仍(よ)つて有志相図り先生の為に左記の通り祝賀会を開き並びに記念品を贈呈致し度候間先生に縁故を有せらる方は勿論本校関係者諸氏は右趣旨御賛成の上奮って御参会被下度此段待貴意候。敬具。」
「浅草小学校香取先生表彰記念祝賀会」からこうした印刷のてがみをわたしはうけとった。香取先生というのはわたしのむかしの先生である。むかし小学校で教わった先生である。――小学校ではじめてわたしの英語を教わった先生である。
勿論、その時分でも、英語は正課ではなかった。高等三年以上……だったと思う……の希望のものだけがそれをやり、やりたくないものはやらなくってもいい、そういう自由な規則だった。で、そのためには、正規の稽古の終ったあと一時間でも二時間でもなお残らなければいけなかった。だから、自然、それを希望するものは、級の中でもある程度の成績をかちえているもの……端的にいって「勉強家」……その時分の言い方でいって「学校の好きな」ものばかりに結句限られた。――なかでも、わたしの、優秀な成績をもった生徒、感心な勉強家、不思議に「学校の好きな」子供だったことはいうをまたない。
ところがその優秀な成績をもった生徒の、感心な勉強家の、不思議に「学校の好きな」子供の仮面が、あるとき、痛快に、もののみごとに引ッ剥がれた。その英語の時間にである、その時問に香取先生によってである。
「勉強せい!」
一ト言……たったそう一ト言いわれてすくみ上った。
というのも重々こっちがわるかったので、忘れもしない、神田リーダーの、あなたはわたくしよりせいが高い、かれはあなたよりせいが高い、かれは三人のうちで一番せいが高い。……そこんところを香取先生、噛んでくくめるように二ことを幾度も、しかくあなたはわたくしよりせいが高い、かれはあなたよりせいが高い、かれは三人のうちで一番せいが高いとそればかりくり返すのをじれったく、もういい分った、いつまでおんなじことをいっているんだ、と甚だ不届きに、わきを向いて、となりのものとわたしは話をはじめた。――勿論なんの話、どんな話をそのときはじめたかはおぼえていないが、どのみち公園の、加藤剣舞の最近替った演(だ)しものについての話、でなければ押川春浪の『海底軍艦』の話か、でなければすぐもうそこに眼のまえに迫った四万六千日の話か……なぜならそれが一学期の末の、すぐもうあかるい夏休みになるであろう時分だったから。……おそらくそんなこと位に違いない。……
と、そのとき、
「久保田!」
不意にそう呼ばれた奴である。~はっとしたって間に合わない……
二
が、優秀な成績をもった生徒は、感心な勉強家は、おくめんなくすぐ立上った。
「つぎを読みなさい。」
香取先生は敢然といった。
「……」
勿論、わたしは、無言に立ちすくんだ。――読めといわれたってどこを読んでいいのか
分らないのである。――わたしの持って立った本の、すくなくもいままでわたしのあげて
いた部分には、ことさらそんな読まなくッちゃァならない文章なんぞ存在しないのである。
わたしはわたしのうえに教室中の眼を感じた。――わたしはカッカした……
「出来ません。」
潔くわたしはいった。
「出来ない?」
それは、だが、香取先生にとって意外な返事らしかった。
「……出来ません。」
もう一度わたしは……だが、今度は、まえほど決していさざよくなくいった。
「…………一
急にあたりのしんとしたのをわたしは感じた。――と、そのとき――そのときである……
「勉強せい!」
……わたしはすくみ上った.。
というのが、これ、そこにいるのは始終一しょにいる仲間ばかりでないのである。その時間に限って女が一しょなのである。男女共学なのである。――入らざるよそ外の奴たちのまえにかかなくってもいい恥をかき、うしなわなくってもいい面目を失ったわたしに、そのままぼんやり腰をかけたわたしに、その教室(とはほんとうはいわなかった、その時分まだ教場といっていた)の、どこもすっかりせいせいとあけッぴろげた三方の窓、その
窓々の白い金巾のカーテンをふき抜いて来る午後の風があくまで無心にやさしかった。
わたしは眼をそらした。
そのカーテンのかげに、七月のあかるい濃い空が、カッとした、殿きつくような感じにひろかっていた。
不思議とそのけしきを、夢のように、いまだにわたしはおぼえている。
が、それ以来、わたしにとって香取先生は怖い先生になった。それまででも怖くないことはなかったけれど、すくなくもそれ以来、はッきりと怖くなった。ごまかしのきかない先生、油断の出来ない先生、だらしのないことの大嫌いな先生として、わたしばかりでなく、外のものでもみんな気ぶッせいがった。――ということの一つは、そのときの、われわれ高等三年担任の先生が音無しすぎるほど音無しい先生だったからである。やさしすぎるほどやさしい先生だったからである。だから何をしても大丈夫という肚がみんなにあった。――そこへゆくりなくあらわれたのが香取先生……剛毅そのもの、果断そのもののような香取先生だった…・
実際この紺の背広につつんだ先生の短躯……先生はふとって小柄だった……にはみるから精悍の気がみなぎっていた。太い眉、けいけいと輝いた限、ふさぷさと濃い毛を無雑作に分けた頭。――運動場で号令をかけるのを聞いても、誰よりも、先生、一番キビキビと大きな声だった。
わたしの記憶にもしあやまりがなければ、ふだんは先生、尋常三年だか四年だかうけもちの先生だった。
『浅草風土記』 中公文庫
『浅草風土記』 中公文庫
山羊の歌 №8 [文芸美術の森]
都会の夏の夜
詩人 中原中也
詩人 中原中也
月は空にメダルのやうに、
街角(まちかど)に建物はオルガンのやうに、
遊び疲れた男どち唱ひながらに帰ってゆく。
――イカムネ・カラアがまがつてゐる――
その唇(くちびる)はひら(月+去)ききつて
その心は何か悲しい。
頭が暗い土塊になって、
ただもうラアラア唱ってゆくのだ。
商用のことや祖先のことや
忘れてゐるといふではないが、
都会の夏の夜の更(ふけ)――
死んだ火薬と深くして
眼に外燈の滲みいれば
ただもうラアラア唱ってゆくのだ。
霧笛 №4 [文芸美術の森]
霧笛 4
作家 大佛次郎
「あんた、まだ飲まないんじゃない?」
作家 大佛次郎
「あんた、まだ飲まないんじゃない?」
と、娘は千代吉の顔色を伺うように見た。
「飲むさ、いくらだい? 取ってくれたらいい」
千代吉は、女の目の色のおどおどしているのを見ていっそう迫るようにいった。
娘はしばらく黙っていたが、
「あんたの召上がった分だけでいいわ」
といって、台の上の銀貨を取ろうとした、そのとたんに千代吉は台越しに腕を伸ばして、
女の顔を両手ではさんでいた。微かに驚きの声を漏らした唇は、別の唇で、まったく蓋を
されていた。女はもがいて、夢中で千代吉の顔をかきむしった。はじめて千代吉は手を放した。
それからお互に、離れたまま、敵同士のように目と目とを見合せていた。
「悪かったかね?」
男はかみつくような声で、押しだすようにこういい放った。大胆不敵な目の色はいっこうに変りがなかった。強い非難を含んで見つめている女の方で、かえって、先に弱々しく視線を外して不平らしく口の中でなにかつぶやいた。
「異人の真似(まね)なんか、よしたらいいー」
「悪かったね。それでいくらなんだ。足りなければもっと出すぜ」
「なんに払うっていうの?」
「なにからなにまで、すっかり、こめてだ」
「持ってもしないくせに」
「冗談でしょう。俺ア買物をするときは、いつだって財布に相談してからにする。高すぎるものは手をだしたことがないんだ。煙草が欲しいが持ってねえか」
女は、千代吉の手がとどかないように台から離れて、背後(うしろ)の棚にすれすれに立っていて、煙草を袂(たもと)から出しながら、千代吉には渡さないで冷然と自分の口に啣(くわ)え、火をつけてから故意に静かに一服して、もやもや漂う煙の陰から男の顔を見つめた。
「持っていても、お前さんにはあげられないね」
千代吉はあきれたように、女の姿を見まもっていた。つめたい顔立が、いけぞんざいな口のきき方が、不思議になまめかしく見えることだ。千代吉は、唇に残ってるキスの味を思い返した。
「くれないっていうんならもらわなくたっていい。そう欲しくもないんだ」
「負惜(まけお)しみでしょう?」
女は千代吉の怒りをこめた顔つきを見つめていた。右の頬に糸のように血のにじんでいるのを見た。さっき、自分が夢中で爪で引っかいたものなのだ。そんなにしたのも、男のやり方がびっくりさせられるほど、がむしゃらで烈(はげ)しかったせいなのである。女はそれを考えるといまは急におかしくなっていた。
「富さんをぽかぽかやったって、本当?」
千代吉は急に両手を宙にひろげて大きな欠伸(あくび)をして、なにか力をこめて抱えこむような恰好で腕組みしてからいった。
「奥へ行ってみよう」
「…………」
「誰かもっと親切な奴が、煙草ぐらいくれるだろう。なんにしてもお前さんの顔を、少し長く見すぎていたようだ。ほかにも誰かきれいなひとが多勢いるんだろう」
「ええ、多勢」
女は煙草を啣えたまま台にもたれて、千代吉を見送った。肩幅の広い、太い木の幹でも見るようにがっしりしたたくましい胴を、あらためて物を見なおすような、烈しい興味の窺(うかが)える目つきでじっと見まもっていた。
奥は小部屋に分れていた。廊下は薄暗い。各部屋の壁の上部にある風抜きの窓から漏れる瓦斯灯(ガスとう)の青い光が、天井を明るくしているだけだった。
千代吉は、平らな廊下でつまずいて、まだ酔っているなと自覚した。知らずに、壁にもたれて立って、大きな息をしているのである。ただ、自分の身体の中に平常抑えつけて暮している獣物(けだもの)のようなものが、忽然と幅を増し、背たけを加えて、棒を立てたように身体の中にわさのさばっているのを感じる。どこへ行こうがなにをしようが勝手なのだ。噂では日本人の客は頑として拒むとか聞いている外人相手の商売家へ入ってきているわけだが、こんな安普請の、ペンキ塗りの家なんか、自分が毀(こわ)そうと思えば、たちまちに毀してしまえると思うのだ。
廊下の奥から誰か出てきた。長襦袢一枚の女で、ふいと出てきたときは、薄暗いところで見るのだし、細長くて幽霊のような感じを与えた。女は裸も同じような姿だった。千代吉がいるのに気がつき、そんな日本人がいるのを不審に思ったように見返りながらひどく事務的な冷淡な様子で、はだけた胸を合せもしないで便所らしいガラス戸の中へ姿を消した。
(つんつんしてやがる。女郎め)
千代吉はむやみと腹が立った。出てくるのを廊下に待っていて、なにか、悪戯してやることも考えないではなかった。少し前から人の気配がしていた側のドアの中からお代官坂の富の声がしたのに気がついて、乱暴に、その把手(ハンドル)をつかんで開けようとした。
「誰?」
と、女の声でとがめた。
千代吉は返事もしないで、むりに開けようとして、鍵がかかっているのに気がついてから、
「俺だ」
といった。
鍵の音をさせてドアをあけてくれたのは、富だった。
煙草の煙がもうもうとこもった部屋の中に、女が三人と、富のほかに、もっとでっぷりした男が一人、テーブルを囲んでいて、入ってきた千代吉に一度に視線をあびせかけた。洋酒の壜やコップのほかに、めいめいの前に、辞夢と群や銀貨がちらぼっていた。
「待っててくんな」
と、富はいった。
「もう、すぐだ」
「酔っぱらいさんかい?」
と、巻煙草を嘲えた、相撲のように肥った女が側からいった。
「富の奴、もう、さんざんなんだよ」
「まったく、すっからかんだ。今夜ぐらい、けちのついたことはない」
「今夜とは限んないね」
この四十がらみの大柄の女がこの家のおかみさんらしかった。ほかに二人いる女も、どちらも一見して異人屋敷の女とわかる。その一人の年若い方は、胸のところに首から金鎖を垂らしていた。千代吉が支那人かと最初思ったのは、正面にいた大男だった。顎なんか二重になっている、色の白い、でっぷりした男で、顔の色つやもいいし、われるくらい福相の、絶えずにこにこしている男だった。
「さあ、やろう」
と、その男がいった。
千代吉が入ってきたのでいったん中断された注意を各人が急に回復して、手の中の加留多に向けなおしたものに違いない。勝負に特有の緊張した沈黙が、卓を中心にしてみなぎった。
千代吉は自分だけ除外されているようでおもしろくなかったので、部屋の隅にある寝台に腰をおろしかけたが、不満を抑えきれなかったので、
「おい」
と、故意に無作法に、連れに話しかけた。
「豚常って奴は、どこにいるんだい?」
富は答えなかった。代りに、千代吉のいるところからは正面になっていた大男がひょいと顔をあげて千代吉を見て、
「なにか用があるのかい?」
と、おだやかに尋ね返した。
「常五郎はおれだが……」
気がついて見るとお代官坂の富が顔色を変えて、今さら、制(と)めようもないので途方にくれたような顔色になっていたので、はじめて、千代吉にも、その福相の男が、その豚常だと、わかって、不意を衝かれた形で即座の返事も出なかった。
豚常という男には、どこか大きいところがあった。こちらが返事に詰っているのを見ると、強いて問い返そうとする様子もなく、ちょうど自分の番に廻ってきていた加留多を無造作にめくって、見入った。
「気をつけなよ。手前、酔ってやがる」
と狼狽えて持薬をはさんだのは、富だった。千代吉は、無言で挑むように肩をそびえさせた。その間も目を放さずに豚常の顔を見つめていたのだが、豚常の方ではいっこう気にかけないでいるらしいのが、甘く見られるようで、むやみに、腹が立ってきた。
「酔っちゃいねえ、あれっばっちの酒で」
「おい、兄(あに)さん」
と豚常は、愛橋のある目もとを笑わせて、おだやかに声をかけてきた。
「どんな話か知らねえが、他人(ひと)がせっかく愉快に遊んでいるところだ。用があるなら後で聞くから、少し待ってもらおうよ。はははははは、……どこの若い衆だ? おい、富さん、お前の番だ」
「へえ、おれの番か?」
「めくるんだ」
豚常は、卓の上へひじをつきながら、離れてでくの坊のように立っていて、自分でもそれを知っていっそうけわしい顔つきになってにらんでいる千代吉の方を、ゆったりと見て笑うのだった。
「どこかの屋敷にいる人かい?」
番はまた廻ってきた。豚常は、めくった加留多を返してみながら、
「こいつはいいね」
「また、いいの? ついてるんだね。親方」
「そうかも知れねえ。負けたくっても、これじゃア負けようがない」
「いよいよ、おれもお陀仏か?」
「気の弱いことをいう! いつもの富さんのようでもない。なんなら…⊥
豚常は悠然(ゆうぜん)と目をあげて、千代吉の方を見た。
「その若い衆もやるんだろう。代ってもらってもいいぜ。少しは風の向きが違ってくるかもしれない。どうだい、兄さん。お前さん、富さんの代りをしないか?」
千代吉は、この相手の申し出ることならなんでも拒まずにはいられなかったので、無言のまま、首を振ってみせた。
豚常は、また機嫌よく笑っていた。
「そいつも、いやか? 困ったもんだね。まあ、いいや。富さん、そのまま、やんねえ」
「いや、待っておくんなさい」
お代官坂の富は、自分の困った立場の申訳(もうしわけ)にも、千代吉をここで勝負に加えて、なんとかこの場の恰好をつけたいと、あせっているようだった。
「おい、兄さん、お前、代ってくんないか? 大丈夫だ! お前、今夜は、べらぼうに運が.いいんだから、ひとつ、おいらの代りにやって、大きく当てて、皆をあっといわしてくれ。なあ、兄さん」
富は、わざわざ立ってきていた。
「ええ。まったくだ。お前、今夜はおれより運のいいのは確かなんだ。そうだろう。いいじゃないか? やってくんなよ、
その間も、豚常は、千代吉のことをまるで念頭においていないように、隣に坐っている女になにか話しかけながら、手を伸ばして女のえりの金鎖を引きだして鎖の端につけてある金色の十字架を薄ら笑いを含んで眺めていた。てんで、こちらを無視しているらしい態度が、最初に富から聞いた話と思い合せて、相手の底の知れない不安を千代吉に抱かせてきていたのも事実であった。
「さあ……」
わざわざ腕をつかんで、強いる連れに、千代吉は、まだ逆らいながら、最初ほどの気勢もなく、豚常と卓を隔てて坐らせられていた。
「さあ、やろう。やろう」
豚常は、相変らずの機嫌で向きなおって若者の顔を見つめた。
「親は、こんどはお前さんだな」
詩人の本棚 №2 [文芸美術の森]
東西の文化を踏まえた森鴎外
高松力平
高松力平
林太郎・森鴎外(1862-1922)は、島根県津和野町に津和野藩医森静男の長男として生まれた。19歳で東大医学部を卒業、軍医となる。23歳でドイツに留学。ライプチヒ、ミュンヘン、ベルリンに滞在、研究に励んだ。ヨーロッパの風土に馴染み、日本人であることも同時に意識していたと思われる。 以下は、それ以後の鴎外を底流した立場だ。
「新しい日本は東洋の文化と西洋の文化とが落ち合って渦を巻いている国である、そこで東洋の文化に立脚している学者もある、西洋の文化に立脚している学者もある、どちらも一本足で立っている、(中略)現にある許多(あまた)の学問上の葛藤や衝突はこの二要素が争っているのである、そこで時代は別に二本足の学者を要求する、東西両洋の文化を、一般ずつの足で踏まえて立っている学者を要求する、真に穏健な議論はそういう人を待って始て立てられる、そういう人は現代に必要なる調和的要素である」「鼎軒先生」
26歳で4年間のをドイツ留学を終えて帰国。
30歳で本郷駒込千駄木町(現・文京区千駄木1丁目)に居を構えた。⒉階から遠く品川の海を望めたので『観潮楼』と命名。残る30年の人生を家族とともに過ごした。
軍医として才能を発揮し陸軍医務局長や陸軍軍医総監の地位に進む。その一方、明治文壇の重鎮として大きな業績を残した。
代表作としては
『舞姫』(1890)
『雁』(1915)
『うたかたの記』(1890)
『即興詩人』(1901)
『ヰタ・セクスアリス』(1909)
『阿部一族』(1913
『山椒大夫』(1915)
『高瀬舟』(1916)
『渋江抽斎』(1916)など。
鴎外の文体は鮮やかだ。確固とした漢文の素養に裏打ちされた言文一致で展開する。音読してみるとそれが実感できる。鴎外の作品は小説について語られることの方が多いが、詩作でも卓抜な作品を遺している。
鴎外は詩集『於母影』(おもかげ)を編むのに際し。「独り西詩の意思世界と情感世界との美ならず又西詩の外形の美をも邦人に示」そうとしたのだと言っている。
「オフェリアの歌」は,シェクスピアの『ハムレット』が原詩だ。第4幕5場で,可憐な狂ったオフェリアが歌う歌だ。
『於母影』
オフェリアの歌
いづれを君が恋人と
わきて知るべきすべやある
貝の冠とつく杖と
はける靴とぞしるしなる
かれは死にけり我ひめよ
渠(かれ)はよみぢへ立ちにけり
かしらの方の苔を見よ
あしの方には石たてり
柩(ひつぎ)をおほふきぬの色は
高ねの雪と見まがひぬ
涙やどせる花の環(わ)は
ぬれたるままに葬(ほうむ)りぬ
問答形式のこの歌は、当時の観客に喝采を浴びた。
こうして鴎外は,これまでの日本には見られなかった新しさを切り拓いた。
笛の音
少年の巻
その1
君をはじめて見てしとき
そのうれしさやいかなりし
むすぶおもひもとけそめて
笛の声とはなりにけり
おもふおもひのあればこそ
夜すがらかくはふきすさべ
あはれと君もききねかし
こころこめたる笛のこえ
その2
君をはじめて見しときは
やよひ二日のことなりき
君があたりゆ風ふきて
こころのかすみをはらひけり
おぼろ月夜のかげはれて
さやけき光のそのうちに
みゆるかつらのその花は
うれしや君が名なりけり(以下略 )
沙羅の木
褐色(ちかいろ)の根府川石(ねぶかわいし)に
白き花はたと落ちたり、
ありとしも靑葉がくれに
見えざりしさらの木の花。
いねよかし
その1
けさたちいでし古里(ふるさと)は
青海原(あおうなばら)にかくれけり
夜嵐(よあらし)ふきて艪(ろ)きしれば
おどろきてたつ村千(むらち)どり
波にかくるる夕日影(ゆうひかげ)
追ひつつはしる舟のあし
のこる日影もわかれゆけ
わが故郷もいねよかし
その2
しばし波路(なみじ)のかりのやど
あすも変らぬ日は出でん
されど見ゆるは空とうみと
わがふるさとは遠からん
はや傾きぬ宿の軒(のき)
かまどにすだく秋のむし
垣根にしげる八重葎(やえむぐら)
かど辺(べ)に犬のこえかなし
東京三鷹市の禅林寺に鴎外の墓がある。その墓碑銘には
余ハ石見人 森 林太郎トシテ
死セント欲ス 宮内省陸軍皆
縁故アレドモ 生死別ルヽ瞬間
アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス
森 林太郎トシテ死セントス
鴎外は人生の最期を、壮麗な官職・鴎外という名声を取り除いた森林太郎として迎えると言い切っている。私たちはその鮮やかな覚悟に合掌するのみだ。
読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №199 [ことだま五七五]
読む「ラジオ万能川柳」プレミアム☆12月18日、25日放送
川柳家・コピーライター 水野タケシ
川柳家・コピーライター 水野タケシ
川柳家・水野タケシがパーソナリティーをつとめる、
読んで楽しむ・聴いて楽しむ・創って楽しむ。エフエムさがみの「ラジオ万能川柳」、
12月18日の放送です。
読んで楽しむ・聴いて楽しむ・創って楽しむ。エフエムさがみの「ラジオ万能川柳」、
12月18日の放送です。
来週は年末特番!!
「ラジオ万能川柳」は、エフエムさがみの朝の顔、竹中通義さん(柳名・あさひろ)が
キャスターをつとめる情報番組「モーニングワイド」で、
毎週水曜日9時5分から放送しています。
エフエムさがみ「ラジオ万能川柳」のホームページは、こちらから!
https://fm839.com/program/p00000281
放送の音源・・・https://youtu.be/5GmiyoOTCCk
キャスターをつとめる情報番組「モーニングワイド」で、
毎週水曜日9時5分から放送しています。
エフエムさがみ「ラジオ万能川柳」のホームページは、こちらから!
https://fm839.com/program/p00000281
放送の音源・・・https://youtu.be/5GmiyoOTCCk
先週のボツの中からあさひろさんイチオシの句をご紹介!!
あさひろさんのボツのツボ
「今日は寝て明日はあすの俺がやる」(そうそう全裸名人川柳家作)
あさひろさんのボツのツボ
「今日は寝て明日はあすの俺がやる」(そうそう全裸名人川柳家作)
(皆さんの川柳)※敬称略
※今週は170の投句がありました。ありがとうございます!
・けんけんさん嬉しかったわ五年ぶり(大柳王・すみれ)
・年の瀬や母の検査に付き添いて(ヴィノクロ)
・下半身麻痺笑っていたら自分がなった(初投稿・上田文一)
・へその緒を切られた日から大冒険(ぱせり)
・新年の抱負毎年ダイエット(のりちゃん)
・硬い本読むと五分で眠くなる(初投稿・こすもす)
・平凡が実は奇跡で非凡です(矢部暁美)
・ 12月増殖中の千鳥足(シゲサトシ)
・寝床から出たくないのよシッコなきゃ(大柳王・平谷妙子)
・あっ家に忘れたマイナー保険証(柳王・せきぼー)
・飲み会でなくても部下は無礼講(柳王・恋するサボテンちゃん)
・物欲がうごめいている聖なる夜(柳王・ぼうちゃん)
・宅配員年末ピッチ走行に(柳王・東海島田宿)
・満月の夜空見上げて赤ワイン(柳王・ポテコ)
・片づけ中思い出しては手が止まり(初投稿・オクラの花)
・健康も平和も後で悔やむもの(大名人・高橋永喜)
・キティちゃん50過ぎてもキティちゃん(大名人・美ら小雪)
・同じ酒だけどグラスで変わる味(大柳王・アンリ)
☆タケシのヒント!
「作者ならではの発見があって良いですね。特別な日のお酒は、グラスもちょっとこだわるといいかもしれませんね。」
・ふるさとへ片道9時間あと幾度(大名人・マルコ)
・ファンブック会ってないのに懐かしい(大柳王・里山わらび)
・水曜のハラハラドキドキ心地良く(雄之丞)
・初Zoom母はしきりに白髪撫で(柳王・ワイン鍋)
・しぼんだかフィット感ある前リュック(大名人・不美子)
・川柳を嘘でも嬉しいほめられた(大名人・くろぽん)
・カーナビのとおりに行って遠回り(大塚敦也)
・天使さんオレよりやんちゃかも知れず(ナンパも大名人・soji)
・銀行を忙しくするお年玉(名人・大和三山)
・ぶつかるよこのままいけば大夕焼け(大柳王・けんけん)
・ユニクロのダウン日本の人民服(大柳王・入り江わに)
・年末句どころか句できないと母(名人・しゃま)
・今年の一句決まってるけど決まらない(大柳王・咲弥アン子)
・最終話いつも大河は無理がある(名人・のりりん)
・検尿はやっぱ和式に限ります(大柳王・ユリコ)
・ボツ続きデビューをしたぜふんすい塔(柳王・フーマー)
・かたつむり殻コの中でひなたぼこ(大柳王・ひなたぼっこ)
・月あかり送迎輸送パワーアップ(相模のトムクルーズ)
◎今週の一句・同じ酒だけどグラスで変わる味(大柳王・アンリ)
◯二席・初Zoom母はしきりに白髪撫で(柳王・ワイン鍋)
◯三席・へその緒を切られた日から大冒険(ぱせり)
【お知らせ】
9月から編集作業を行ってきた毎日新聞朝の顔「仲畑流万能川柳」、
その交流誌「仲畑流万能川柳ファンブック」125号(12月号)、
ついに完成しました!! /
さあ、今号の目玉は、なんといっても、もちろん、ヒットメーカー対談!!
仲畑さんが前号でホストを勇退されてはじめての対談!!
今回のホストはご存じ宮本佳則殿堂!!そして、ゲストは当ラジセンでも
「ナンパも大名人」として大人気のsojiさん!!さあ、どんな対談になっているか!!
これは大々注目です!! /
川柳界の中村雅俊!!
【編集後記】
来週25日は2時間の年末特番です!!
スケジュールも詰まっていますが、
健康第一で駆け抜けます!!(水野タケシ拝)
○12月25日の放送
今年もありがとうございました!!
放送の音源・・・https://youtu.be/ktFhXDNdS9k
2024年のあなたの一句
(皆さんの川柳)※敬称略
※今週は131の投句がありました。ありがとうございます!
・ 松山へ60代の一人旅(ぱせり)
・列島は揺れて水害暑い夏(柳王・東海島田宿)
・始まった川柳講座駅近で(柳王・ポテコ)
・日本一今日も六回頬つねり(名人・パリっ子)
・辰年に煽られ上げた我が運気(のりちゃん)
・友歌う第九のように電話越し(大柳王・ひなたぼっこ)
・転んだらタダで起きれぬ歳を知る(大柳王・アンリ)
・新たなるステージ開く強運会(名人・大和三山)
・ミポリンや嗚呼ミポリンやミポリンや(初投稿・佐藤仲由)
・日常を一歩踏み出し投句始め(ワイヒデ)
・川柳で日々の生活張りが出て(大柳王・平谷妙子)
・携帯の大手キャリアと離婚する(柳王・せきぼー)
・ラジ川で笑い今年も仲間増え(大名人・やんちゃん)
・よく行った涼を求めて図書館に(名人・まご命)
・戦争のニュースできつい年でした(大名人・おむすび)
・家庭内妻に敗れて銀メダル(大塚敦也)
・悲しみはどっかへ飛んでる作句中(名人・のりりん)
・ラジオ聴き生活変化テレビ消す(相模のトムクルーズ)
・アツかった気候スポーツ目頭も(刑事コロンダ)
・初めての笑点・コロナ・強運会(柳王・ワイン鍋)
・実家への旅費で買えちゃう乗用車(なつ)
・当て字する四半世紀をあさひろと(名人・居酒屋たつみ)
・やっぱりね今年も猛暑からの冬(あやや)
・カルチャーで師匠と柳友5年ぶり(大柳王・すみれ)
・今年また雇用契約ありがたく(大名人・くろぽん)
・念願の七十五歳の歌手デビュー(大名人・じゅんじゅん)
・毎日があちこち痛い記憶だけ(名人・金星玉三郎)
・クリスマスこの日はちょっとグフフフフ(恋愛名人見習い・名もなき天使)
・春夏秋冬お暇なかった旅カバン(水谷裕子)
・手術より麻酔の二本痛かった(名人・遊子)
・妻の母亡くし孝行せず悔やむ(大名人・高橋永喜)
・9連休五七五に浸る夢(シゲサトシ)
・妹に手引かれデビュー夢の年(雄之丞)
・癌でガーン生存率にほっとする(大柳王・入り江わに)
・一年中老若男女したナンパ(ナンパも大名人・soji)
・半か月コロナ入院死の彷徨(柳王・フーマー)
・去年より楽しく過ごせたよ今年(柳王・ぼうちゃん)
・追突をされた夜にはコロナ熱(柳王・はる)
・クリスマスイブのナンパが大金星(大柳王・咲弥アン子)
・ときめきは薬に勝る若返り(大柳王・けんけん)
・川柳で締める平和に感謝する(大名人・不美子)
・あと7日だけよどうする姫初め(大柳王・ユリコ)
・お別れの会無く続く家族葬(どんからりん)
・7キロを完走したぞ次8キロ(辰五郎)
・原爆が来るか来ないかクリスマス(名人・バレリア
名人・メン子ちゃんの一句
・愛と金選ぶべきものどっちかな
あこさんの一句
・しまえないこれっきりになりそうで
名人・あさひろさんの一句
・シックスティシックスティ花も嵐も踏み越えて
タケシの一句
・だったねえだっただったとまた今年
〇3席・悲しみはどっかへ飛んでる作句中(名人・のりりん)
〇2席・川柳で締める平和に感謝する(大名人・不美子)
〇1席・ときめきは薬に勝る若返り(大柳王・けんけん) ・・・
【プチお知らせ】
25日の毎日新聞の夕刊に「仲畑流万能川柳で振り返る2024年」が
掲載されましたす!今年を振り返る80句!あなたの川柳が載っているかもしれませんので、
ぜひご覧ください。夕刊買えなかった、という方は、図書館に行くことがありましたら、ぜひご覧ください! /
【編集後記】
今年一年も大変お世話になりました!!
みなさまのおかげで、今年も年末スペシャルをお届けできました!!
ありがとうございます!!
新年は1月8日(水)朝9時5分からスタート!!
ますます川柳でつながりましょう!!(水野タケシ拝)
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水野タケシ(みずの・たけし)
水野タケシ(みずの・たけし)
1965年生まれ。コピーライター、川柳家。東京都出身
著書に「水野タケシ三〇〇選」(毎日新聞東京センター)、
「いちばんやさしい!楽しい!シルバー川柳入門」(河出書房新社)、
「これから始める俳句・川柳いちばんやさしい入門書」(神野紗希さんとの共著、池田書店)。
ブログ「水野タケシの超万能川柳!!」 http://ameblo.jp/takeshi-0719/
雑記帳2025-1-15 [代表・玲子の雑記帳]
2025-1-15
◆今年のNHKの大河ドラマ「べらぼー」の主人公は、江戸天明の出版王・蔦屋重三郎、通称蔦重です。 その蔦重ゆかりの絵師3人が冬の三光院サロンのテーマになりました。初回は喜多川歌麿。歌麿の美人画を知らない人はいない、それでも、当時の背景を知り、鋭い観察や写生の腕を知れば、歌麿の大首絵を見るとき、より楽しくなるではありませんか。
◆今年のNHKの大河ドラマ「べらぼー」の主人公は、江戸天明の出版王・蔦屋重三郎、通称蔦重です。 その蔦重ゆかりの絵師3人が冬の三光院サロンのテーマになりました。初回は喜多川歌麿。歌麿の美人画を知らない人はいない、それでも、当時の背景を知り、鋭い観察や写生の腕を知れば、歌麿の大首絵を見るとき、より楽しくなるではありませんか。
蔦重が手がけた出版分野は浄瑠璃本、吉原再見、狂歌絵本、黄表紙、洒落本、読本、往来もの、学術書など、多岐にわたります。その上に浮世絵です。
それゆえ人脈も凄い。作家には、朋誠堂喜三二、恋川春町、太田南畝(蜀山人)、山東京伝、十辺舎一九、曲亭馬琴・・・、絵師には北尾重政、北尾政演(山東京伝)、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎・・・目がくらみそうです。
それゆえ人脈も凄い。作家には、朋誠堂喜三二、恋川春町、太田南畝(蜀山人)、山東京伝、十辺舎一九、曲亭馬琴・・・、絵師には北尾重政、北尾政演(山東京伝)、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎・・・目がくらみそうです。
蔦重が発掘し、世に出した歌麿は、彼とほぼ同時代を生き、独特の気品と憂愁をおびた美人画の名手年てしられますが、歌麿自身については謎が多く、生地、生年も正確なところはわかっていません。菩提寺に残る記録から没年は58歳とのみ。少年時代に江戸の狩野派に弟子入りしたあたりから少しずつ歌麿がみえてきますが、この頃の作品は残っているものはわずかです。
美人画の第一人者として本人も美男子であったかといえば、そうでもなく、醜男だったという説もあり、唯一残っている自画像は顔をかくしています。
天明期に入り、版元・蔦屋重三郎とくんで、次々と個性的な浮世絵を発表していきます。
最初の大判錦絵は「青楼仁和嘉女芸者部」です。
吉原の芸者衆のおねりの状況をえがいたこの絵の、衣装や芸者おいよの顔つきをよくみてみましょう。憂いを帯びた品格ある表情は、ある種理想化された女性の顔です。衣装の細かな描写は、絵師、彫り師、摺り師の三位一体の技術が創り上げた至高の作品です。
最初の大判錦絵は「青楼仁和嘉女芸者部」です。
吉原の芸者衆のおねりの状況をえがいたこの絵の、衣装や芸者おいよの顔つきをよくみてみましょう。憂いを帯びた品格ある表情は、ある種理想化された女性の顔です。衣装の細かな描写は、絵師、彫り師、摺り師の三位一体の技術が創り上げた至高の作品です。
次なる歌麿の傑作は「狂歌絵本」三部作です。
天明期の江戸は狂歌ブーム。この流行に目を付けた蔦屋重三郎は歌麿を起用して浮世絵と狂歌を組み合わせた「狂歌絵本」の制作にのりだしました。
天明期の江戸は狂歌ブーム。この流行に目を付けた蔦屋重三郎は歌麿を起用して浮世絵と狂歌を組み合わせた「狂歌絵本」の制作にのりだしました。
歌麿は天明6年(1785年)から寛政2年(1790年)の5年間に14種の「狂歌絵本」を描いていますが、中でも次の三部作は歌麿の驚くべき観察力と写実力が見て取れます。
上図の3枚は狂歌の席題を絵にした『画本虫撰』『潮干のつと』『百千鳥』。「つと」は貝のことです。
飛んできた蝶や蜻蛉、様々な貝、鳥を描いた観察力と写実力はやがて美人画に結晶していきます。
飛んできた蝶や蜻蛉、様々な貝、鳥を描いた観察力と写実力はやがて美人画に結晶していきます。
天明の後にやってきたのは寛政の改革です。蔦屋は資産の半分を没収、手鎖50日の刑をうけました。蔦重は美人画で立ち直りを図りました。それまで美人画といえば前身画だったのを大首絵にしたのです。
それまで美人画と言えば全身像だった
寛政3~4年ごろの作品、10枚シリーズの『婦女人相10躰』の一つ、「浮気の相」は湯上りの図です。振り向いた瞬間を捉えたしぐさや繊細な浴衣は制限された数少ない色目で表現され、三位一体となったチームプレイの見事な出来上がりです。
寛政5年には有名な『寛政3美人~富本豊雛、浪速屋おきた、高島おひさ』が出版されました。モデルの3人は実在の人物です。
歌麿の力をもってすれば美人はそれぞれの違いを描けたはず、なぜ、みな同じようなパターン化された顔になるのでしょうか。実は、日本画には、気高さや気品を記号化する伝統がありました。
美人は見る人それぞれに理想のイメージがあります。絵師はそのイメージを壊さないようにとみちびかれたのが、源氏物語絵巻に見られる「引き目かぎ鼻」でした。その伝統は江戸にも継承されました。浮世絵の美人画もその伝統を踏まえていたのです。
美人は見る人それぞれに理想のイメージがあります。絵師はそのイメージを壊さないようにとみちびかれたのが、源氏物語絵巻に見られる「引き目かぎ鼻」でした。その伝統は江戸にも継承されました。浮世絵の美人画もその伝統を踏まえていたのです。
『寛政3美人』はパターン化されてはいますが、芸者・豊雛のきりっとした気質、男たちを接待する明るくやさしいおきた、大事に育てられた甘えん坊のおひさ、3人それぞれが微妙に描きわけられています。
歌麿は3人を一枚に一人ずつ描いてもいます。そして、驚くことに、高嶺の花の美人画を、かけそば1杯とほぼ同じ値段で庶民が買う事ができたのでした。(当時かけそば1杯16文。錦絵は20文)
『ぽっぴんを吹く女』は着物の市松模様や髪の毛手のこんだ描き方が注目されます。手が小さく描かれているのは顔にリアルな手を描き込むと全体をこわすことになるからです。これはギリシャ彫刻にも見られます。
同じころ描かれた『歌撰恋之部』のモデルは素人の女性です。豊かな商家に嫁いだ若奥さんの「物思恋』。揺蕩う思い、目つき、腕や髷の描写、どれをとっても三位一体の世界最高の技。それを庶民が買うことができたのは、世界史上、江戸のこの時期だけです。唇や袖から見える僅かな赤は黒と相まって効果的です。『深忍恋』は百人一首の平兼盛の歌を連想させます。・・・「しのぶれど色に出にけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで」。
歌麿は『青楼十二時』以外にも吉原を舞台にした『北国五色墨』などの大首絵をたくさん描いています。青楼も北国も吉原のことです。
下級遊女をモデルにした「河岸(かし)」や「てっぽう」、一方でトップ花魁がモデルの「小紫」。着物やさりげなく置かれた小物にいたるまで、吉原を熟知していたからこそ描けたものでした。
下級遊女をモデルにした「河岸(かし)」や「てっぽう」、一方でトップ花魁がモデルの「小紫」。着物やさりげなく置かれた小物にいたるまで、吉原を熟知していたからこそ描けたものでした。
寛政7年頃には、蔦重の組む相手は写楽へ移り、歌麿は別の版元から「台所」を出します。この後、歌麿は多くの母子像を描きました。生地も生年も不詳の歌麿にはつきることのない母性願望があったようです。これはダ・ヴィンチと同じですね。
台所
歌麿を世に出した蔦重は寛政9年(1797年)に48歳の若さで亡くなりました。死因は当時江戸わずらいと呼ばれていた脚気でした。この時歌麿は40代前半。幕府の締め付けは厳しさを増してゆきます。
美人画に女性の実名を刷り込むことを禁止したのを皮切りに、奉行所による錦絵の検閲強化はやがて大首絵の禁止にまでなりました。
美人画に女性の実名を刷り込むことを禁止したのを皮切りに、奉行所による錦絵の検閲強化はやがて大首絵の禁止にまでなりました。
厳しい締め付けをしたたかに生き抜いたように見えた歌麿でしたが、思いがけないところで手鎖50日の処罰を受けることになりました。文化元年(1804年)に描いた歴史画『太閤五妻洛東遊観図』が豊臣家を題材にしていたため法にふれたのです。
晩年の歌麿の作品
太閤五妻洛東遊観図
この刑は晩年の歌麿には相当こたえたようで、憔悴のうちに、2年後の文化3年(1806年)にこの世を去りました。。
◆三光院でいただく睦月の献立のメインは「金銀富貴」でした。金はきんかん、銀はぎんなん、富貴はふき。縁起物の一皿です。
金銀富貴
精進料理では卵は使わず豆腐を使った茶碗蒸し
BS-TBS番組情報 №320 [雑木林の四季]
BS-TBS 2025年1月後半のおすすめ番組
BS-TBSマーケテイングPR部
MUSIC X
BS-TBSマーケテイングPR部
MUSIC X
1/16(木)午後9:00~9:54
☆世代間のギャップを超え、音楽的ジャンルの垣根も越えて多様な音楽カルチャーを発信!
☆世代間のギャップを超え、音楽的ジャンルの垣根も越えて多様な音楽カルチャーを発信!
#38 じっくり聴いて欲しい愛の歌
オトナ世代が共感するヒットナンバーをお届けする音楽番組!世代間のギャップを超え音楽的ジャンルの垣根も越えて様々な音楽がクロスオーバー!
オトナ世代が共感するヒットナンバーをお届けする音楽番組!世代間のギャップを超え音楽的ジャンルの垣根も越えて様々な音楽がクロスオーバー!
司会:関根勤、早見優
ゲスト:K、May J.、五条院凌(ピアニスト)
Sound Inn S
ゲスト:K、May J.、五条院凌(ピアニスト)
Sound Inn S
1/18(土)午後6:30~7:00
☆最高のアーティスト・サウンドメーカー・ミュージシャンが一堂に会し、「時を超えた、ここでしか聴くことの出来ないサウンド」をお届け
#118 こっちのけんと
紅白歌合戦への初出場も決めた、今注目のアーティスト・こっちのけんとさんがゲスト!
人気曲「はいよろこんで」のほか「チキンライス」「さよならエレジー」をカバー。
出演・ナレーション:恒松祐里
紅白歌合戦への初出場も決めた、今注目のアーティスト・こっちのけんとさんがゲスト!
人気曲「はいよろこんで」のほか「チキンライス」「さよならエレジー」をカバー。
出演・ナレーション:恒松祐里
世界一周魅惑の鉄道紀行
1/18(土)よる7:00~8:54
☆リビングに居ながらにして、大人の旅を味わえる鉄道紀行。世界各地の名所や美食を堪能!
☆リビングに居ながらにして、大人の旅を味わえる鉄道紀行。世界各地の名所や美食を堪能!
三ツ星のレストランや史跡を辿りたい。美味しいワインを飲み歩きたい。あの名画をこの眼で見たい。しかも、電車に乗ってゆっくりと…。そんな目的を持った大人の旅を、リビングに居ながらにして味わうことのできる鉄道紀行。
個性豊かな旅人も登場。実際に世界各地を巡り、大人の鉄道旅をお届けします!
個性豊かな旅人も登場。実際に世界各地を巡り、大人の鉄道旅をお届けします!
一生に一度は乗ってみたい憧れの豪華列車オリエント急行の旅。ロンドンからパリを経由してヴェネチアへ向かいます。車中では、一流のレストランに匹敵する食堂車で極上の料理を味わい、隅々まで行き届いた丁寧なサービスに酔い、バーや自分のキャビンで絶景を堪能!世界のオリエント急行もご紹介します。さあ、皆さんも極上の列車旅へ、是非ご一緒に!
(初回放送:2013年)
(初回放送:2013年)
海の見る夢 №93 [雑木林の四季]
海の見る夢
-修道院の庭で―
澁澤京子
・・目的へとひた走る意識が目指しているのは精神の全体ではなく、そこから切り取られた非循環的なシークエンスである。~中略~ 意識のやり方には、確かに高い効率がある。しかし意識にとってのコモンセンスに従うことは、智を欠いた貪欲な生き物に滑り落ちる効率的な方法ではないか。私の言う「智」とは、「生き物であるところの全体から差し出される知識を受け止め、それに導かれる心」という意味であります。
~『精神の生態学』グレゴリー・ベイトソン
三鷹市に移り住んでから驚いたのは、カラスより野鳥が多い事。実家のあった渋谷にはやたらとカラスが多く、野鳥などはめったに見られなかった。先日、胸の羽毛が玉虫色に輝く美しいハトがベランダの手すりに止まっていて、それが渋谷ハチ公辺りに生息する薄汚れたドバトと同じ種類であることに気が付いて驚いた。ドバトがこんなにきれいなハトだなんて・・
毎朝ベランダにリンゴを細かく刻んでおいておくと、あっという間になくなってしまう。今朝起きると、すでにヒヨドリが何羽か木の枝に止まって、リンゴを待っていた。ヒヨドリのほかにムクドリ、ツグミ、メジロ、尾長、シジュウカラなどがベランダにやってくる。リンゴを置くと、すぐに食べるわけではなく、まずピイ~と他の仲間を呼びに行く。ヒヨドリの鳴き声につられて、シジュウカラや尾長もやってくる。
三鷹市に引っ越してきてから、にわかバードウォッチャーになった。毎朝、野鳥を観察していると、鳥の動きに見とれて思わず時間がたってしまうのは、野生生物の動きというものが、全体と見事に調和がとれているせいかもしれない。人のように人間中心の視野しか持てないのではなく、あくまで彼らが全体の部分であり、また全体(環境)に対して常にオープン敏感であるからに違いない。人は言葉で世界を経験するが、うちのインコを見ているとまず環境(特に音)の模倣から始まる。どんな微かな音も聞き逃さない、窓の外を見ていて、突然飛び立つのは視覚で何かをキャッチしたからだろう。常に周囲全体に神経を拡大しているような感じである。ちなみに飼っているインコは、私が彼女の環境世界の一部なので模倣の対象になっていて、窓の外の野鳥の鳴き声を聴くと、自分も鳥なのに「トリちゃん・・」とつぶやく。
子どもの時から、遊園地は好きではなく、海や山のほうがずっと好きだった。人混みが苦手だったのである。自然のほうが、遊園地のような人工的なものよりもずっと贅沢なのにと子供心に思っていて、それは今も変わらない。遊園地でも唯一の例外が、東横線の多摩川駅の近くにあった「多摩川園」。夏になるとよくお化け屋敷が開催されていて、敷地の半分がほぼ自然化した空き地のある、人気のない寂れた遊園地だった。
「自然との共存」というテーマで建てられ、壁面のガラスの鏡にくっきりと映し出された木々に、鳥が勘違いして激突死することが多いのに対し、爆撃によって空けられた穴に、鳥の巣がいくつもできるパレスチナ人の住居のほうがむしろ立派な「自然との共存」になっているらしい。先進国の「自然に優しい」というのは欺瞞にしかならず、人為では到底自然には及ばないということなんだろう。
地球温暖化によって、真夏の東京は、まるで砂漠を歩いているかのように木陰というものがなくなった。(猛暑のある日、まったく木陰のない住宅街で道に迷い、遭難するかと思うくらい暑かったことがある)それでもなお街路樹や樹木を伐採するという都市開発のセンスには驚くしかないし、それって、かなり時代から取り残された発想じゃないか。
・・一個の内在する精神とは、身体だけに内在するのではなく、対外の伝達経路やメッセージに含めた全体に内在する。そしてこれら個々の精神をすべてサブシステムとして組み込んだ、大文字の「精神」が存在する。
~『精神の生態学』グレゴリー・ベイトソン
三鷹の団地から今住んでいる家に引っ越してきたのは去年の12月。山積みの段ボールと格闘しているクリスマスの朝、どこからかクリスマスの聖歌が流れてきた。地図を見ると、家の近所に修道院があるので歩いて行ってみた。修道院の庭は市民に開放され公園になっていて、以来、この庭が気に入って何度も訪れている。すぐ近くの井の頭公園よりも人がいなくて静寂だからだ。早朝から起きて一日中祈りと作務に捧げている尼さんたちの沈黙が、あたりに漂っているようで、とても落ち着く場所なのである。
都会というのはどこもかしこも意味と目的に満ち満ちた場所だが、自然というのはそういった窮屈な世界から人を解放してくれる。意味の世界では、知性と感情、部分と全体など断片に分けて考える。そこから「全体」とか「個」といった考えが生まれて、社会の「個か全体か」という議論になる。社会では個人の違いを無視した(みんな一緒)が強引に押し付けられたり、あるいは逆に差異を強調するための階級意識などが生まれたりする。
自然というものははるかに鷹揚で寛大であり、多様なものすべてをつなげて融合するのである。こうやって静かに林の中に座っていると、はるか昔から人は樹木と対話していたのかもしれないな、と思うのである。
住宅団地 記憶と再生 №53
Ⅶ ひばりが丘団地(ひばりが丘パークヒルズ)
国立市富士見台団地自治会長 多和田栄治
事業着手を延期して家賃減額新制度の適用 公団はひばりが丘団地については2期制をとり、当初、1997年度の事業着手を予定していたが、この年に従前居住者にたいする家賃減額方式の改正が試みられ、98年に新制度の創設がきまった。新制度によって、とくに公営住宅収入基準に該当する高齢者世帯等には公営住宅並みに家賃減額する措置(本来家賃の50%を限度)が設けられ、戻り入居がしやすくなる。新制度適用は発表の98年8月以後になり、公団は自治会と協議のうえ事業着手を99年度に延期をきめた。ひばりが丘は新制度適用の第1号団地となり、第1期建て替え事業説明会は従前戸数1,346戸を対象に99年3月にひらかれた。その日から2年を期限に居住者は移転し、公団は「一団地の住宅施設」の都市計画を変更し、都条例にもとづく環境アセスメントの手続きをへて、建物の解体、建て替え工事が本格化したのは2002年7月であった。
公団が建て替え事業に着手したのは1986年であり、ひばりが丘団地が遠からず対象になりうることは察せられたにせよ、まだ調査対象にも指定してきていない1990年と、いよいよ第1期第1ブロック先工区の工事がはじまった2000年における団地全体の世帯数(居住戸数)、人口とその年齢構成を単純に比較してみた。1990年はまだ2,609世帯、人口6,619人、世帯主55歳以上はその24・7%にたいし、2000年には1,529世帯、3,229人に半減し、高齢層は47・7%と倍増している。建て替え着手まえに総戸数の半数近くがすでに空き家になっていた。もとより10年が経過し、空き家補充も停止して高齢化率が高まるのは当然であるが、その間に高齢層が建て替え後の住宅にもどり継続居住しやすい家賃措置が新設された影響は大きく、戻り入居希望者は50%から70%へ上がったといわれる。
それにたいし従前居住の若年層には戻り入居を容易にする減額措置はなく、あとで述べる公団の新設住戸は戻り入居戸数にかぎる縮小方針への転換とあいまって、若年の低所得層を追い出し、世代バランスをこわして人口構成を歪める結果をまねいたといえる。
建て替え工事がはじまって3年も経過すると、居住戸数は半減していた。2002年相におこなった第6回「団地の生活と住まいアンケート」結果(配布数1,359、回収961世帯、71%)によると、世帯主は男性68%、女性32%、60歳以上が64%、単身32%、2人世帯37%と高齢化、単身化がすすみ、20年以上の居住が74%を占める。収入源は年金43%、給料23%で、当時の世帯収入は37%が260万円未満、71%が所得5分位の第1分位層(469万円未満)であった。家賃は85%が6万円以下で、公団賃貸に住みつづけたいは67%(3年前80%)、公営住宅入居希望が26%あった。
ひばりが丘では団地建て替えそれ自体に反対しつづける動きはあらわれなかったが、アンケート結果がしめすように、圧倒的多数の「ひばりが丘に住みつづけたい」願いと家賃が高くなって住めない、引っ越さねばならない苦悩とやりきれなさは切実であった。
第2期事業計画の大幅変更
1999年3月に第1期第1ブロック、2002年3月に第2ブロックの着手説明会がひらかれ、第1ブロックは04年3月、第2ブロックは07年3月に竣工し、入居が始まった。
この期間、公団住宅は存続の危機、公団廃止「民営化」への瀬戸際に立たされ、建て替え事業の基本方針も大きく変更された02001年4月に小泉内閣が発足し、12月には「特殊法人等整理合理化計画」が閣議決定され、「2005年までに都市公団は廃止し、独立行政法人にひきつぐ」をはじめ、「賃貸住宅の新規建設は行わない」「管理の民間委託を拡大する」「棟単位で賃貸住宅の売却に努める」政府方針がきまった。これにもとづいて2004年7月に都市基盤整備公団を都市再生機構に改臥06年住生活基本法が成立007年用に第1次安倍内閣が汗規制改革推進3か年計画」を閣議決定して、「公団住宅肖瞞」大方針のもとに、「収益本位の建て替えと整備敷地(余剰地)の民間売乱「家賃減額の縮小」を機構に指示した。
ひばりが丘団地では自治会と公団が10年余にわたって話し合いをかさね、自治体をふくめ団地全体のまちづくり構想に同意したうえで建て替え事業に着手した。2,714戸を建て替え約3,600戸に増やそうという計画であった。このグランドプランのもとに1999年3月、第1期1,346戸を対象に建て替え事業に着手し、工事は進められた。その後、機構からの連絡は途絶え、2004年2月になって、事前の協議もなく突如、三者合意を一方的に破棄して大幅変更した第2期計画をしめして着工説明会を強行しようとした。建て替えは戻り入居希望戸数にとどめ、3,600戸構想を1,700戸に縮小する、広大な「余
剰地」は、あきらかに民間売却を視野にいれて「他に活用する」といいだした。自治会はただちに「信頼関係を断ずるもの」として公団東京支社長に抗議をした。
そして第2期事業は1,368戸を対象に、2005年3月第1ブロック、08年3月第2ブロックの着手説明会がひらかれた。第2期工事は08年11月から12年7月にかけて竣工、入居を開始した。
ひばりが丘団地34ヘクタール、2,714戸の建て替えは、1999年3月に着手し、13年をへて2012年7月に、約15ヘクタール、機構賃貸住宅1,504戸を「ひばりが丘パークヒルズ」として建設して完了した。従前居住者約900世帯が新設住宅に戻り入居した。多くは戻り入居を予定して居とどまっていた約1,300世帯にたいしては70%の戻り率であり、これまでの建て替え団地のなかで「画期的な」高率といえよう。とはいえ、団地住民の60~80%が「公団賃貸に安心して住みつづけたい」とする願いからすれば、ひばりが丘団地においても、従前総世帯の33%しか建て替え住宅には戻れず、大半の住民は拝みなれた地を離れなければならなかった。
『住宅団地 記憶と再生』東信堂
地球千鳥足Ⅱ №61 [雑木林の四季]
パリジェンヌに見初められた郷愁のメトロ
~フランス共和国~
小川地球村塾塾長 小川彩子
小川地球村塾塾長 小川彩子
バックパッカーの私たち夫婦、最近の徘徊地は主として途上国だったが、たまには先進国へ、とパリへ。面白い格安切符を見つけたのだ。飛行機とホテル1週間(5泊)で10万円弱。おまけに地下鉄の切符11枚、セーヌ川遊覧切符2枚が付いていた。35年前、子どもと家族旅行した華のパリへの感傷旅行も悪くないナ、と夫婦で出かけた。
安ホテルは問題があり過ぎたが、まずはベルサイユ宮殿へ。東京・山の手ほどの面積に王と4000人の貴族が共に暮らした宮殿だ。357点の絵画が展示されている鏡の廻廊は記憶にあり、懐かしさを禁じえなかった。35年前の訪問地はほぼ網羅し、噂のモン・サン・ミッシエルにも足を延ばした。
ベルサイユの帰路、都心オペラ座裏でバスを降りセーヌ川に向けて歩いたが、途中来たバスに飛び乗り、ズバリ、ノートルダム寺院の前へ。まるでパリつ子ね、と自己満足。別名バックシャンの同寺院の裏手がセーヌ、かたわらの橋には恋愛成就を願う鍵がピッシリ張り付いている。ラトビアでも見た風景だ。
帰路のメトロで驚いたのは車内放送だ。フランス語の後が日本語。「スリにご注意ください」と。いかに日本人観光客と日本人の被害者が多いか、ということだ。
ルーブル美術館は35年前も「日曜日が入場無料」と夫が覚えていたが、最近は第1日曜だけ。周知の事実らしくルーブル前は大変な行列だった。早朝9時に着いたが入場まで1時間並んだ。私たちの前にはニューヨークから来た夫婦、後ろは韓国からの女性。前後左右の列にありとあらゆる人種が並び、写真を撮り合ったり荷物の見張りをし合ったり、笑顔で会話を楽しみ、おとなしく入場の順を待っている。この光景こそ多文化共生の姿だと感動した。ルーブルの内部は広く、モナリザの微笑もミロのヴィーナスも翼を広げた女神像にも無事再会できた。
午後、雨宿りしたバス停である中年女性と出会い、おしゃべりするうち、再建後1000年の古い教会サン・ジェルマン・デ・プレへ一緒にバスで行くことにした。「1000年記念のイベントは今日まで」と聞いて。ここでも1時間待った。少人数ずつしか中に入れないからだ。内部は真っ暗にし、1000年の歴史を劇で見せていたが、1000本のろうそくが美しく揺れていた。
帰路のメトロでもまた「携帯品にご注意ください!」と日本語放送が。アルマ橋で降りようと夫と声をかけ合ったらにこやかなマダムが後について降り、「シヤシユショシユシュ!」とフランス語で話しかけてきた。スリではなかった。私たちの写真を撮りたいという。私たちペアの身なりが目立ったのか。エッフェル塔の見える橋で撮ってくれた。すぐにその夜iPadで写真を受け取り、お礼を英語で送信したらもう一枚写真が届いた。マルティーヌ・コンスタン。パリガイド(Guide parisienne)のうちの一冊の著者、とメールの署名にあった。そのうち、我々の写真がパリ案内のパンフレットを飾っているかもしれない。
(旅の期間::2015年 彩子)
『地球千鳥足』 幻冬舎
『地球千鳥足』 幻冬舎
美味懐古 №8 [雑木林の四季]
橋善
加茂史也
加茂史也
前説・世の中の移り変わりに消えていった店がある。1950年代から1970年にかけ東京
にあった店。今も憶えている店。そんな店を心の内に訪ねてみた。
天麩羅の老舗・橋善は、銀座8丁目から高速道路の下を抜け昭和通りとの交差点にある。
昭和24年(1949年) 春。
大学に入学した喜びのままに銀座を訪ねた。新橋駅から銀座通りへ入ろうとする四つ角のそばに橋善はあった。和風木造づくりの平屋、なぜか銀座の老舗の食堂のように見えた。とても貧しい学生の入れる店ではないと思った。
9月、育英資金をもらえることになり, 大学の会計課で初めての支給を受けた。 2か月分3600円だった。にわかに裕福な気分になり、思い切っておそるおそる橋善の暖簾をくぐった。
広い座敷の中に かなりの客が入っている。 丼飯をかき込んでいるのが目につく。メニューを開く。天重、盛り合わせ、定食などのあとに天丼100円が目についた。
これならいけると給仕のおばさんに声をかけた。ついでだからここはどういうお店ですかと尋ねる。
「学生さんはいいわね。素直に質問して。それはね、よく聞かれるの 」
おばさんは一息入れると愛想よく話してくれた。
1831年(天保2年)、創業者の橋本善吉が新橋で屋台の蕎麦屋をはじめ、名前をつめ て橋善と名乗り、ついで天麩羅の店を開いて今日に及んでいるという。
私の食卓から厨房の様子がよく見える。 大きな鍋に職人が素材を投げ入れている。
おばさんに尋ねた。
「あそこの大鍋で天ぷらを揚げるんですか」
「 そうなのあれがね、天ぷら鍋よ。 南部鉄よ、重さは20キロ、鍋の厚みは2cmある。 あの鍋で天ぷらをうまく揚げるには、一年や二年の修行じゃダメね」
おばさんは自分が天ぷらを揚げるような顔をした。
待っていた天丼が食卓に置かれた。ふたをとる。 大きなかき揚げが載っている。
「 中身はね、 玉ねぎ、三つ葉、むきえび、小柱、イカ。直径は12cm、厚さは10cm。これか゛うちのかき揚げよ」
それは初めて食べるかき揚げだった。信じられない大きさだ。夢中で食べる。喉が渇いてきた。
「 あの味噌汁のおかわりを……」
「 いいわよ。 何杯飲んでも無料ですから」
私は東京の天ぷらの味をここで覚えた。 あのおばさんの客あしらいが懐かしい。
私の雑のう №2 [雑木林の四季]
はるかなる山河に その2
矢作啓太郎
矢作啓太郎
はじめに
雑嚢とは雑多なものを入れ肩から掛ける布製の小型のカバン。何を入れるかに決まりはない。小型だからあまり大きいものは入らない。適当な大きさのものを選んで自分の好きなようにすればよい。これは90歳を超えた老人が雑嚢にためこんだとりとめもない駄文のひとつだけれど……。
目黒 晃 東大文学部社会学科 29歳
昭和16年9月 華中岳州野戦病院で戦病死
(父への手紙)
父さん、かうして愈々この支那事変といふ未曾有の戦の中に在って一兵士として私の進む道も決められました。来たるべき日がとうとうやって来たのです。幾度も父さんは私に今日の日に生きるべき覚悟を促して来ました。私はその度に新しい意気を振ひ起こして此の困苦の中に生きる心算をねりました。残念乍ら私は未だに悟ることは充分ではありません。唯若い者の盲滅法の精神を以て進むだけの事であります。
父さん、正直の所私は此の中支の地で今迄の何ヶ月の間に父さんだの,母さんだのに身近に、あの子供の時分の様に愚痴をこぼし、訴へたい様な事が幾らもありました。それは意地悪な友達が家に帰って両親に告口する様な子供らしさではありましたけれど…… いろんな事を聞いて戴き度くて、淋しくて孤りで夜、表に出て黙って星空を眺めた事が幾度もありました。
菊山裕生 東大法学部 24歳
昭和20年4月29日 比島エチアゲ飛行場て戦死
実際、12月の末、1月の始め頃は上靴で撲られ、帯革で撲られたりしていた。飯のつけ方遅すぎると言って2時間も立たされた末、散々蹴られたり,撲られたりするのもあった。君も知っている通り、動くことの不精な、要領の悪い私も亦其の例に洩れなかった。消燈ラッパは「新兵さんは可哀やのう又寝て泣くのかよう」と鳴るといふが、何度も
撲られて,床の中につきとばされた時は,痛いよりも口惜しくて,実際,「状袋」の中で泣かなければならなかった。気が弱くなった。五ヶ月教育といふうが、その5ヶ月が終わるまで何日あるかと毎日の様に数へた。夜便所へ行く途中、寒々とした月を見ては、あの満月を幾度ここで見ること思ふのだった。早く戦線に立ちたいといふのも寧ろ一つの泣き言でしかなかった。
海上春雄 東大経済学部 24歳
昭和20年1月9日 比島リンガエン湾で戦死
遺書
死こそは正に人生の深淵にして人たる者の心の中に常に留め置かる可き事とは言いひ乍ら事に際してその決意を新にす可きこそ肝要ならん。
顧みるに吾この世に生を享けしより20有余年一つとして偉大なる天地万物の恩愛に浴せざりし事なくそれに報ゆ可き何物も有るせざりき。
吾只吾が命の為にのみありし
凡てのものの為に徒死を願はず吾只報恩の途を進まん。
海上春雄
絶筆
(昭和20年1月 比島ルソン島基地ニテ出撃前「メモ」ノ紙片ニ鉛筆書ノモノ
父上様、母上様。
父上様、母上様。
元気デ任地ヘ向ヒマス。春雄ハ凡ユル意味デヤハリ学生テシタ。
春雄
澤田泰男 東大法学部 23歳
昭和20年5月本州上空で戦死
すべての障害を気持の上で除去し得て虚偽のない赤裸々な気持になれと言ったことがあるが、さう言った自己が今にしてやっと赤裸々な気持になり得ているのだ。誠に恥しい次第です。再び違った意味と気持で君の夢を見つづける様になった。この気持こそ生涯変るままい。これが私の本心だ。(中略)かうした二人がお互にかくまでしっかり結び合わされたことは永久に二人の結合いみするものではなからうか。私も先短い命、君は許してくれるものとして出来うるならば、この気持を実現してゆきたいとの思ひ切なり。
切々たる思いを祖国日本によせて,若者たちは散った。私たちはその思いの上に生きている。戦後80年、私たちは戦争のない社会に生きてきた。そうであるからこそ、若者の思いを思い起こしたい。
この本の編集部は巻末に、生き残ったわれわれに、生きていく意義を訴えている。
失われなかった人間性
私達は生き残った。あの激しい戦争の中をとにもかくにも生き残った。(中略)
どうして生き残ったか。 運命による者もある。 戦争で私達は運命の力の恐ろしさをひしひしと身に感じた。 (中略)
祖国を愛し家を愛するゆえに、大部分のものは喜んで行った。皇国の不滅と不敗とを信じて敢然として敵艦船に単機をかって飛び込みさえした。
特攻隊志願を航空隊でかたく拒んで生き残った者もある。上官からは乱臣賊子とののし れ、同僚にはひきょうものとあざけられ、しかも彼は断固として志願しなかった……
こうして私達は生き残った。
終戦の時、何よりも強く感じたのは私達が生き残ったという事だった。その感動はすぐ敗戦の祖国の上に及んだ。その再建、いやもっといえば新日本の創造が生き残った私達の大きなつとめだという事を全身で自覚した。(中略)
私達はこの再建の基盤を早くも戦時のこれらの手記に見いだすのだ。これらの人々を持った日本はまだ決して滅びないと感ずる。
夕焼け小焼け №52 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
母と同居・卒業の準備を
鈴木茂夫
鈴木茂夫
昭和28年(1953年)初頭。
母は私が東洋哲学科からロシア文学科に転科し、そのために卒業が1年延びることを深刻に受け止めていた。卒業できるのかもよく分からない。そして私が腸閉塞で生死の境をさまよったのを受け、容易ならざる状況だと思った。
天理教東中央大教会で、はぐれ者のように暮らしているのも好ましくない。
母は私のそばで生活を見守るしかないと決意した。中村館長に事情を話して、興望館を退職することを認めてもらった。収入は途絶するのだ。大倉を売却したお金に手をつけるのもやむをえないとした。
母は教会にかけあい、教会の戦災にあった赤煉瓦の二階家の1室を確保した。ここはもともと大山巌元帥陸軍大将の豪華な赤煉瓦のゲストハウスだった。空襲で屋内が焼け、赤煉瓦の外壁が残った。東京都が戦災者の仮設住宅として内部を補修して住めるようにしたものだ。上下で8家族が入居している。あてがわれた部屋は12畳の広さはある。炊事、便所は共同使用だ。
私は3畳間から書籍、寝具、衣類を2階へ運び上げた。そこには窓から差し込んでくる陽の光がある。地中のモグラが地上にでたような気分だった。私は東中央分教会の人員から外された。
母は東中央分教会に住み込むのではなく、独立して東芳陽布教所を祀りたいと申し出た。天理教の組織では、組織の中心である天理教教会本部、大教会、分教会、布教所、講社がある。大教会は本部に直属し、傘下に50以上の分教会があることが求められる。分教会は所属の大凶会長の承認というか認証があって設置できる。布教所は分教会長の承認、認証があって設置できる。講社は布教所長の承認、認可があって設置できる。簡便な神棚が持ち込まれた。
興望館から母の身の回りの品を運び込んだ。なけなしのお金をはたいて炊事道具を買い求めた。
母が共同の炊事場に行き、午後6時過ぎに夕食を持ち帰った。チャーハンだ。おかずはない。口にする。外食券食堂の味とは違う。食べ慣れた母の味だ。何も話さない。ひたすら食べる。皿に盛られたチャーハンの一粒ものこさず食べた。そしてやっと、
「おいしい。みんな食べきったよ」
「よかったわね」
母は中華鍋に残っていた僅かな量を口にしていた。
お腹にしっかりと食べたので、体中が温かくなった。眠くなってくる。
早稻田大學5年目の新春だ。授業料は3分の1程度に安くなった。育英資金は4年間支給されたが、5年目にはもう支給されない。
私は1年遅れになっているから,この1年でロシア文学科の必修科目の単位を取得し、卒業論文と就職をしなければならない。
母と同居することになったので、これまで始終感じていた孤独も食べ物への飢餓感も消えた。そして何よりも家庭にいるのだと満ち足りる。教会に顔を出さなくてもいい。
毎日が楽しくなった。
私は朝食を終えると通学。必ず授業を受けるようになった。授業は楽しかった。
露文科の主任教授の岡沢秀虎先生は「ロシア文学思潮」の担任だ。学生時代は早稻田大學児童文学会で活躍していたという。スターリン体制には批判的だ。
「この3月に卒業、難関といわれる放送会社・ラジオ東京に就職した萩元晴彦君はチェーホフを卒業論文の題材とした。私はこれを読んで嬉しかった。よく書けていた。10年に1度でるかでないかという傑作だ。私はこれを諸君の前で朗読する。君たちもこれにならい、すぐれた卒業論文を書くようにになることを希望する」
岡沢先生は、その論文を取り出して読みはじめた。
「チェーホフの出現はロシア文学の歴史にあらたな視点をもたらした。チェーホフは貴族階級ではなく雑階級の出身であることが、自由で平明な作品を創出しえたのである……」
確かに萩元の論文はチェーホフをよく描いている。
岡沢先生は萩元の論文に傾倒しているから、メリハリをつけて読んでいく。しかし読まされているわれわれはげんなりしてくる。萩元論文は4回講読されて終わった。チェーホフを卒論の題材にしてはダメだなと、われわれは話しあった。
卒業論文はまずどの作家を対象に選ぶかだ。そして担任教授を選ばなければならない。近代ロシア文学の主な作家を列挙するとアレクサンドル・プーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』、フョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、ニコライ・ゴーゴリの『ディヵーニカ近郷夜話』、レフ・トルストイの『戦争と平和』、イワン・ツルゲーネフの『猟人日記』、アントン・チェーホフの『桜の園』、イワン・ゴンチャロフの『オブローモフ』などがいる。
大物作家は翻訳作品も多い。これまでにその評論・批評も多い。だから新たに視点を開拓するのは至難だ。しかしよく勉強してきている学生はその難関に挑む。
中流作家は,原典も翻訳作品も少ない。ロシア語の評論・批評は適当にある。狙い目と言える。
奇策だがあまり卒論の対象にされてこなかった小粒の作家を選ぶことだ。一人いた。
フセーヴォロド・ガルシン(1855-1888)だ。エカテリノスラフ県で生まれた下級貴族の子だ。幼いときからロシアの古典はじめトルストイなどの作品に親しんでいた。中学のころ、精神疾患に悩まされるようになる。
露土戦争のさなかの1877年に従軍してブルガリアなどに出かけた。
その体験を、『四日間』や『戦争情景』に書いた。それで認められる。
1883年に医学生のナジェージダ・ニコラエヴナと結婚。『ナジェージダ・ニコラエヴナ』を書き上げた。1888年、コーカサスに転地療養する直前に飛び降り自殺を図り、その際の怪我が致命傷となり永眠した。享年33歳。作品は20数点。
私は名古屋でガルシンの『赤い花』を読み、惹かれていたからそれに決めた。
本郷・神田の書店を訪ね、本郷の文生書院でガルシン全集上下2巻(創芸社刊)を求めた。
なんとしてもガルシンで卒業しなくちゃ。
卒業論文を見て頂く教授を誰にしようか。これも考えどころだ。
ロシア文学科主任教授の岡沢秀虎先生はソビエト文学について研究されている。私と顔を合わせると、なによりもロシア語の習得、きちんとした学習そして生活をと訓戒をたれてくださる。まごまごしているともう1年ロシア語を学べばと言われる。
谷耕平先生は、ネクラーソフの『デカブリストの妻』の翻訳で知られる。デカブリストとは1825年12月、貴族の将校が皇帝専制の打破をめざして叛乱。首謀者5人が絞首刑、106人がシベリア流刑となった。事件はロシア語で12月を意味するデカブリストと言われる。
2人の妻が夫とともに旅する物語だ。専制は言葉の厳格さを大事にする。
横田瑞穂先生はショーロホフの大作『静かなドン』を翻訳した。温厚な人柄だが、授業受けたことはない。後年、五木寛之や後藤明生の指導に当たられたかとか。お願いに参上するのに躊躇してしまった。
米川正夫先生は,他の先生が早稲田の卒業生なのに、めずらしく東京外語の出身だ。、ドストエフスキーの『白痴』『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『未成年』『罪と罰』の後期5大長編をすべて翻訳されている。日本語でロシア文学を語るとき第一人者だ。いつもいそがしくされている。
黒田辰男先生はファジェーエフの『若き親衛隊』で社会主義リアリズムを解説された。ソビエト作家同盟と親密だ。
松尾隆先生は早稻田大學英文科の卒業だ。木寺黎二の筆名で『ドストエフスキー文献考』翻訳にロシアの実存主義にたつ『シェストフ選集』がある。唯物弁証法、社会主義などを訴え、進歩派の教授として学生に人気がある。
私はロシア文学科のなかでは,異端と目されている松尾隆先生を選んだ。大学に近い大名庭園・甘泉園のそばの自宅を訪れた。
「僕に卒論を頼みに来るのはめずらしいね。あまり厳格な指導はよそう。君はロシア語の成績があまりよくないから、良い点を与えるのは難しいかな。原稿用紙60枚以上書いてあれば合格点をとるように努力するよ。評価は『可』なら大丈夫だ。僕は君たちも知っているように、英文科の卒業だ。番外の人間だが、科内の序列は3番目だ。なんといっても教授だからな」
「先生、なんとしても『可』を保証して下さい。お願いします」
私に異存はない。『可』なら問題なく卒業できるのだから。先生の選択も間違ってはいない。
母は島根県飯石郡赤名町の郵便局に勤める岩佐平治さんに連絡、娘の芙美子さんに東京で美容を学ばせたらどうかと呼びかけた。平治さんは芙美子さんと話し合い上京を決めた。
芙美子さんは「わが家」に住み込み、代々木の山野高等美容学校に通い始めた。女の子が加わり、なんとなく賑やかになった。
私は押し入れの棚に布団を入れて寝た。寝心地は悪くない。
母は朝食を終えると、横浜の赤十字病院にいる三村安雄さんの介護に訪ねる。安雄さんは重篤な結核患者で数年間入院している。知り合いの人からの紹介で出かけるようになった。、満州で役人をしていた主人が亡くなり、母一人、子一人のかていで生活保護を受けているとか。母は看護婦の担当領域以外の洗濯、排泄の援助などを引き受けている。天理教の布教活動、おたすけだ。母は夕食前には帰ってくる。ときどき、本牧で安く売っていたとシャコを買ってきた。
3人で囲む食卓は、つましいけれど心豊かだった。
線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №240 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
大糸線 青鬼集落
岩本啓介
NHKのBSの旅番組「にっぽん縦断 こころ旅」で14年間にわたり“旅人”として全国各地を回った火野正平さんが、2024年11月14日に他界されました。75歳でした。今朝、1月14日放送の『NHKBSこころ旅』は見ていたら 今日から『火野正平さんのピンチヒッター』に『俳優・坂上忍さん』が登場していました。
岩本啓介
NHKのBSの旅番組「にっぽん縦断 こころ旅」で14年間にわたり“旅人”として全国各地を回った火野正平さんが、2024年11月14日に他界されました。75歳でした。今朝、1月14日放送の『NHKBSこころ旅』は見ていたら 今日から『火野正平さんのピンチヒッター』に『俳優・坂上忍さん』が登場していました。
今週は『ゴールの熊本』です。2025年春の『こころ旅』がスタート宮崎~ゴール岩手で再スタートも決定の様です。
押し花絵の世界 №216 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
「ビオラのヘアクリップ」
押花作家 山崎房枝
押花作家 山崎房枝
冬のガーデンを可愛く彩ってくれるビオラをメインに、紫の紫陽花やピンクの霞草を取り入れて、粉雪をイメージしながら白いレースフラワーを散らしました。
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