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国営昭和記念公園の四季 №108 [国営昭和記念公園の四季]

スカシユリ  西立川口ぶらぶら坂

スカシユリ のコピー.jpg

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『知の木々舎』第316号・目次(2022年6月下期編成分) [もくじ]

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【文芸美術の森】

妖精の系譜 №29               妖精美術館館長  井村君江
 シェイクスピアの妖精 6
石井鶴三の世界 №212              画家・彫刻家  石井鶴三
 眼鏡の人 1937年/鹿 1940年 
武州砂川天主堂 №4                作家  鈴木茂夫
 第1章 慶應四年 明治元年 4
西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」№84 美術史研究家 斎藤陽一
 喜多川歌麿≪女絵(美人画)シリーズ≫第12回「遊女の一日」
こふみ会・句会物語(行くも良い良い、行かぬも良い良い句会物改め)№108 
                   俳句・こふみ会同人  多比羅 孝
  「麦嵐」「早乙女」「古茶」「鰻」
【ことだま五七五】

日めくり汀女俳句 №108              中村汀女・中村一枝
 十一月十四日~十一月十六日
読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №138           川柳家  水野タケシ
 6月1日、8日放送分
【心の小径】
論語 №142                                            法学者  穂積重遠
  四五三 子のたまわく、飽食終日、心を用うる所なきは難いかな。
【文化としての環境日本学】

日本の原風景を読む  №42                早稲田大学名誉教授  原 剛
 宮沢賢治の海~ 石巻 1
【雑木林の四季】

私の中の一期一会 №259         アナウンサー&キャスター    藤田和弘
 「今がコロナ感染対策を見直すタイミング」阪大病院は面会制限を緩和した
BS-TBS番組情報 №260                             BS-TBS広報宣伝部
 2022年6月のおすすめ番組(下)
医史跡を巡る旅 №106           保健衛生監視員  小川 優 
  安政五年コレラ狂騒曲~戸塚村、磯子村
海の見る夢 №33                              渋澤京子
  64歳になったら
梟翁夜話 №113                            翻訳家  島村泰治
 「心残り」
検証 公団居住60年 №114  国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治
 規制改革路線をひきつぐ民主党政権。迷走の3年余 8 
地球千鳥足Ⅱ №2            小川地球村塾塾長  小川彩子
  貧しい女のコと分け合った誕生日のランチ~ニカラグア
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2022-06-13-7

台湾・高雄の緑陰で №33      在台湾。コラムニスト  何 聡明
   台湾問題の解説

【ふるさと立川・多摩・武蔵】   
                                               

線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №200         岩本啓介
 芸備線①     
押し花絵の世界 №160                            押し花作家  山﨑房枝
 「イングリッシュガーデンへようこそ」
ミツバチからのメッセージ №68  造園業・ミツバチ保護活動家  御園 孝
 東京のニホンミツバチ 1
赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №12      銅板造形作家  赤川政由
 「ラブソング」
多摩のむかし道と伝説の旅 №80               原田環爾
 武蔵嵐山の栄光と悲運の武将の里道を行く 2
国営昭和記念公園の四季 №108
 スカシユリ  西立川口ぶらぶら坂
【代表・玲子の雑記帳】            『知の木々舎 』代表  横幕玲子

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妖精の系譜 №29 [文芸美術の森]

民間伝承をもとに作り上げられたパック 2

     妖精美術館館長  井村君江

 十六、七世紀におけるイングランドのすべてのホプゴブリンのうちで、もっともよく知られ、もっともしばしば言及されたもの。実際のところある意味では、ロビン・グッドフェローは、ホブゴブリンに属する他のすべてのものを包含し、ホブゴブリンに属する他の名称は、すべてロビン,グッドフェローの別名と思われるほどであった。シェイクスピアにおいてすら、ロビン,グッドフェローとパックは同一存在である。『夏の夜の夢』でパックとさ迷う妖精の間にとり交されるすこぶる有益な会話の中で、妖精がパックを「ロビン・グッドフェロー」と呼んで会話が始まるのであるが、その妖精はパック自身が「パック」と呼ばれるのを好むと考えているふしもある。
 「ホプゴブリンとか、かわいいパックとか呼んでくれる人間には、あんたは力になって幸運を与えてやるんでしょう」

 右の引用の中で、プリッグズが指摘しているように、、パックは「ロビン・グッドフェロー」とか、「スイート・パック」と呼ばれるのが好きであるようで、そう言われると人間によいことをするといわれている。前述したようにパックには悪魔と同義語であった歴史があり、悪名を「スイート」という言葉でやわらげられるのを喜んだこともあろうが、ロビン・グッドフェローと言われたりホプゴブリンと呼ばれると喜ぶとされているのは、当時、妖精王オベロンの息子ロビン・グッドフェローの冒険物語が流行しており、民衆の間でその名が有名であったのを、シェイクスピアが知っており、そのポピュラーな名前で呼ばれるのをパックが嬉しがったからともとれようか。『ロビン・グッドフェローの生涯』、『ロビン・グッドフェローのバラッド』及び『パックのいたずら』といった作者不詳の小冊子の物語は、一六二八年にコリヤーが蒐集し、一七八三年になってジョゼフ・リトスンが『イギリス歌謡集』の中でとりあげ、さらに一八四五年にバリウエル=フィリップスが『ロビン・グッドフェローの生涯』という題をつけて一冊に編むのだが、その中で「確証はないが、シェイクスピアもこれらの小冊子を読んでいたであろう」という推定を述べている。
 一六二八年には、『ロビン・グッドフェロー、悪ふざけと陽気な悪戯、罪のない浮かれ騒ぎ、沈んだ心を治す良薬』という題であったこの物語は、二部より成っており、ロビンの出生、家出、冒険、いたずら、最後にオベロンに連れられ妖精の国を見るまでが語られる。あらすじはまず第一部で、妖精王オベロンが人間の美しい田舎娘のもとに通って息子が生まれ、ロビンと名づけられるが、半妖精すなわち人間と妖精の合いの子で、「早熟さ、いたずら好き」という性質はあっても妖精としての特別の能力はない。六歳であまりにいたずらで母に叱られて家出し、仕立て屋の小僧となるが、すぐに逃げ出し地べたに眠って妖精の夢を見る。目覚めると傍に黄金の巻き物があり、それは父オベロンが妖精の能力を授けてくれたものであった。「自分の好むものは手に入り、馬や豚、犬や猿に変身できる」超能力を授け、「正直者を愛し困った者を助け、悪い者ほこらしめる」ことを教えたものであった。早速その能力を使い、馬に化けて悪い田舎者を乗せ水たまりに放り出すと、「ホーホーホー」と大笑いをして逃げ出したりする。
 第二部では、好きになった「気立てのよいきれいな女中」の手助けをして、亜麻をほぐしたり小麦粉をふるいにかけてやる。ロビンが服を着ていないのに気づいた女中がチョッキをやると、「クリームがほしかったのに、ホーホーホー!」と笑いながら行ってしまう。また鬼火に化けて旅人を迷わせたり、ウサギに変身して繁みに人をさそって尻をつねったり、熊に変身して食物を一人占めにしたりの活躍をする。最後に父オベロン王はロビンを妖精界に連れてゆき、親指トムのバグパイプの音楽で妖精たちと踊ったあと、「人間界には明かしたことのない妖精界の秘密」をみせ、ロビンは一生をホブゴブリンとして送ることになるというのが物語である。
 『夏の夜の夢』の中ではパックは、ティタニアの侍女の妖精に「すばしっこいいたずら好きのロビン,グッドフェロー」あるいは「ホプゴブリン」と呼ばれており、パック自身の台詞から彼のやることは「手臼を動かして村の娘をびっくりさせたり」、「おかみさんがバターを作ろうとするミルクの上澄みをすくったり」、「ビールの酵母を泡立たなくしたり」、「夜の旅人を道に迷わせたり」、「子馬に化けて雄鳥をだましたり」、「焼きりんごに化けておばあさんの薬酒にもぐり込んだり」、「三脚椅子に化けておばあさんに尻もちをつかせたり」という、いたずらぶり、変身ぶり、悪ふざけ、陽気な戯れ、掃除をしたりの清潔好きなところ等が語られているが、これらは本来のロビン・グッドフェローと非常に類似した性質と活躍ぶりである。
 またその描写の筆つきにも類似したところが多く、バリウェル=フィリップスは註の中で、もしロビン,グッドフェローの小冊子がシェイクスピアより先だという確証があれば、明らかに彼はこの物語を粉本にパックを作ったといえるようであると言っている。例えば次の一節は夜の情景と月夜の踊りを歌ったものである。

  月は澄んで輝いて
  フクロウどもは月に従い
  人間どもも枕の上で
  いまや休む その時に
 一格蟻どもは壇出をし
  人間どもを夜ガラスは
  死者の国へと呼び招く。

 『夏の夜の夢』の終幕で、深夜の鐘が十二時を打つと、登場するパックは次の歌を歌うが、この情景がそのまま重なってくる。両者はともにこのあと「いまや踊らん楽しげに」となるのである。

  いまやライオンどもは飢え、
  狽どもは月に吠え
  つらい仕事に疲れはて
  疲れた百姓眠る間に、
  いまや暖炉も燃えつきて、
  鋭くフクロウどもは鳴き、
  瀕死の床に臥す人に、
  思い出させる死の衣。

 シェイクスピアはさらにパックの性質に、前述したタールトンが来世でなった「家庭の守護神」の属性も与えており、新郎新婦の新床を清めて子孫の繁栄や幸福をもたらす能力を与えている。パックは『夏の夜の夢』の最後で、この属性を持った「家つき妖精」あるいは「家事妖精」の象徴である「帯」をかついで登場するのであるが、実はロビン・グッドフェロ1も帯を持って夜歩きをする。「ロビン・グッドフェローは帯を肩にかついでよく夜歩きまわり、「煙突掃除屋」と叫ぶのだが、もし誰かが彼を呼んだりすると、「ホーホーホー!」と言って笑いながら逃げていってしまう」。
 物語ではオベロンとロビン・グッドフェローは親子であるが、『夏の夜の夢』ではオベロンとパックは王とその宮廷の従者となっており、王の命令を忠実に遂行するところは、プロスベロとエアリエルの関係に似ている。四十分で地球に帯をかけられる飛翔能力、薬草で人を眠らせる術もなかなかであるが、ダッタン人の矢よりも速く飛んで命令を遂行したらこれが彼の聞き違いで、間違えてしまうところなどは少々あわて者だし、失敗を叱られると、「ここから先は、運命に手綱を渡しましょうよ。誠実な恋なんか百万人に一人、約束の空手形が飛び交ってどうなることか」と茶化してしまうところなぞ滑稽で愛すべき「化け茶目」(坪内冶遠の命名)であり、民衆に愛されてきた妖精のイメージをシェイクスピアが巧みに用いてパックを作りあげ、舞台で縦横に活躍させたことがわかるのである。
 『夏の夜の夢』に登場するオベロン、ティタニア、パックという三人のフェアリーに共通する重要な特徴がひとつある。それはこの三人の性格が喜劇的なものになっているという点であって、この一見外的な事情が、こののちのイギリスの妖精の性格を決めるのに少なからざる影響を与えた。シェイクスピアは妖精を舞台に乗せるのに、当時としては比較的広い範囲から材料を集め、これを自由自在に駆使しているが、それにしても彼はあくまで劇作家であって、妖精の登場もまた観客の喜びのための一つの趣向である。そしてこの戯曲が喜劇であり、妖精たちが脇役として軽い扱いを受けるのではない以上、彼らもまた喜劇的にならざるを得なかった。従って載然と区別することはできないにしても、妖精本来の性格と同時に喜劇の登場人物(先にかれを「魔法を使うフォルスタッフ」と述べたことを思い出していただきたい)としての性格も持ちあわせているのが、オベロンでありティタニアでありパックであって、これは次に述べる『嵐』のエアリエルの性格と比べればよくわかることである。またこのことが『夏の夜の夢』の成功もあって、これ以後のイギリスの妖精の性格をある程度変えたということができるだろう。

『妖精の系譜』 新書館



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石井鶴三の世界 №212 [文芸美術の森]

眼鏡の人 1937年/鹿 1940年

      画家・彫刻家  石井鶴三

1937眼鏡の人.jpg
眼鏡の人 1937年 (183×138)
1940鹿.jpg
鹿 1940年 (142×182)

**************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。


『石井鶴三素描集』形文社

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武州砂川天主堂 №3武4 [文芸美術の森]

第一章 慶應四年・明治元年 4

         作家  鈴木茂夫

四月十一日朝、仙台。

 青葉城から打ち出される番太鼓(ばんだいこ)とホラ貝の調べが、仙台の町々に響き渡った。藩士たちは、軍装してぞくぞくと登城する。
 城中表の間で、鎧に身を固めた仙台藩主伊達慶邦が戦勝を祈願し、伊達家の軍旗である日の丸を旗奉行(はたぶぎょう)に手渡した。石高六十二万石、東北最大の藩が行動を開始したのだ。
 竹内寿貞は、正義隊の隊長として三十人ほどの戦士を率い、仙台市内長町(ながまち)の茂ケ崎(しげかさき)の大年寺(だいねんじ)に集結。寿貞たちは、鎧を身につけることなく第一梯団(ていだん)の戦列に入り行進した。
 仙台藩六千百余人の全兵力は、会津藩との国境に陣を布いた。
五月二十一日、武州・砂川村。
 「旦那、奇妙な奴を引っ捕らえたんでさあ」
 「ただのネズミとは思えねえ」
 「その野郎は、表にいるんでさあ」
 農兵隊(のうへいたい)の若者数人が息を切らして勝手口に駆け込んできた。
 農兵隊は、代官所が声をかけて生まれた村の武装組織だ。みんな小銃を手にしている。
 いろり端で茶をすすっていた源五右衛門は、
 「ちっとばかし騒がしいことだな」
 苦笑をうかべて立ち上がり、表玄関へ廻った。
 そこには農兵に取り囲まれ、藍色の唐桟を尻はしおりにして股引を穿いたこざっぱりとした中年の男が、神妙な顔で立っていた。
 「なんだか知らねえが、まずは事の次第を聞かせてくれ」
 「夕べ、四番組の留蔵(とめぞう)の家に、強盗が入って家人をおどかし、金子を少々巻き上げて逃げてったんで、俺たちは今朝から隊列を組んで村の巡邏(じゅんら)にあたっていたんです。そしたら五番組のあたりの街道をうかがうように歩いてくるこの男を見かけたんでさ。こいつはね、俺たちの姿を見ると、眼をそらし、街道から畑道へ入っていったんでさ。街道を歩いているだけなら、よその村の衆かも知れねえ、だがこいつは足早に畑道へ入り込んだ。どうもおかしいぞと、後を追うと小走りに走り出したから、こっちも追っかけて流泉寺(りゅうせんじ)の墓地で捕まえたんでき。どこの誰で、何をしてたんだと問いただしたんだか、何一つ答えねえ。そのくせ、驚いたり、怯えている風でもねえ」
 源五右衛門が男に声をかけた。
 「お前さん、どこから来たんだい」
 「あっちからで」
 「あっちってのはどこだい」
 「江戸から、いけねえ、いや東京からです」
 「お前さんは、何者なんだい」
 「何者ってほどの者じゃありません」
 「そいじゃあ、何しに俺の村に来たんだい」
 「あちこち歩いている中に、ここまで来たんです。特に用事はない」
 男は涼しい顔で返事した。
 源五右衛門は、この男の背後に何かが控えている、この男はその何かの手先なんだと直感した。そこでいきり立っている農兵たちに話しかけた。
 「これだけとぼけた返答してるんだ。肝っ玉がすわってるよこの男は、まあ、ただのネズミじゃあねえ」
 「ずいぶん、ふざけた野郎だねえ旦那」
 「俺が話を聞くことにしよう。身柄は俺が預かる。みんなご苦労だった」
 農兵たちは、納得しきれない顔つきだったが、源五右衛門に頭を下げて帰って行った。
 「足をすすいだら、座敷へ上がんな」
 源五右衛門は男に言い捨てて奥へ入った。男はすぐに上がり込んで座り、源五右衛門と相対した。
 「俺んとこは、代々名主の家だ。村のことを仕切っている。こちらの問いかけにはきちんと返答してもらおう。とぼけて見せても駄目だぜ。皆は町人風にやつしているが、あんたの額には面ずれの跡がある。かなり剣術はやっていたようだ。俺も少しは剣術の心得がある。身のこなしからして侍に間違いはない。改めて聞こう。お前さん、名は何という」
 「松村半兵衛と申します」
 男の言葉遣いが改まっていた。
 「やはりお侍さんか。どこの人間なのですかい」
 「あたしゃ、三条実美公の手の者です」
 「三条さんてのは、お公家さんじゃないか。侍の家来なぞいるはずもない。もしそうなら、京言葉を話すはずだ。でもあんたの言葉は江戸の言葉だ」
 松村半兵衛は、うなずいた。苦笑しながら、
 「実は官軍が江戸へやってきてから、三条公に仕えるようになった次第、その前は取るに足りない貧乏旗本の端くれ、情けないが食うに困ってね。そこは余り詮索してくださるな」
 「徳川の家来が、官軍に鞍替えしたってことかい。それで何しに来たのよ」
 「新政府は、江戸を治めるのに東京鎮台(ちんだい)って役所を作った。三条公はその総大将。江戸の周辺の村々の様子を探索してこいといわれてやってきたんです」
 「分かったよ。お前さんは、正直に話してくれたようだ。しかし、念には念を入れたい。三条様のところへ書面を出して確かめさせる。使いが帰ってくるまで、この屋敷に寝泊まりしてもらおう。ただずらかりたかったら、ずらかってもいいよ」
 「よしなに頼みます」
 松村は頭を下げて、砂川家のにわか客分となった。
 松村はすりかり打ち解けて、家族と共に三度の食事をした。
 源五右衛門が大政奉還以降の多摩の村々の様子をかいつまんで聞かせると、松村は取り出した帳面にそれを克明に書き留めた。
 それから三日ほどして、江戸から一人の侍が現れた。
 「それがしは、三条家の用人の一人太田源治と申します。三条の手の者、松村の不調法でお世話いただき、恐縮でござった。手前はお詫びとお礼を申しあげ、松村を引き取って帰らせていただきたい」
 源五右衛門は笑顔で答えた。
 「松村さんの話に嘘偽りがあるとは想いませんでしたが、世間物騒な昨今、大事をとって確かめさせていただきましたまでのこと。ま、おくつろぎください」
 「三条公にも、あなたの念入りなお仕置のことを伝えましたところ、非常にお喜びでした。これもご緑です。江戸へ戻るわれらと出かけませんかな。そうすれば、三条様に報告かたがた、あなたを引き合わせることもできます。いかがかな」
 源五右衛門は計略(けいりゃく)が的中したとうれしかった。徳川が倒れて、新政府ができた今、これまでの仕来り(しきたり)、役所の手順、人と人との結びつき、すべてが変わっている。それに新政府も、どこまで信用してよいかはわからない。だが、新政府の大物につながりができたのは心強い。
 「三条様にお目にかかることができれば結構なことです。お供しましょう」
 翌朝、三人は江戸をめざした。五日市街道を直進、鍋屋横町で青梅街道に入り、昼過ぎ、内藤新宿に到着。宿場は閑散として人気も多くなかった。世間が騒がしく、庶民の旅は少なくなっているのだ。更に四谷見附から江戸市中へ入る。ここで洋服を着た官兵が二人一組になって銃を担い、巡邏(じゅんら)しているのに出会う。甲州街道に道を採り、半蔵門に達した。江戸城は目の前だ。白塗りの塀は、そのままに白いが、濠の法面(のりめん)には雑草が生い茂っている。荒れているのだ。こんな無様な城は見たこともなかった。徳川の時代は変わったのだと、源五右衛門は知った。
 桜田門の前を通り、日比谷を過ぎ、数寄屋橋御門近くの元の南町奉行所に設けられた東京鎮台へ到着した。
 奉行所の門には、真新しい東京鎮台の表札がある。
 中へ入ると雑然とした人の動きがあった。着物姿の人、袴姿の人、官兵の姿など、まとまった空気ではない。ざわついているのだ。
 太田は勝手知った様子で、誰に断るでもなく、ずかずかと奥まった室内に入り、とある座敷に源五右衛門を案内した。
 席を外していた太田が先に立って部屋に戻ってくると、その後ろには、狩衣(かりぎぬ)を着た三条実美が姿を見せた。かしこまって平伏する源五右衛門に手を挙げ、気さくに声をかけた。
 「話は聞いたえ。大儀なことや。これからも頼んます」
 源五右衛門は頭を下げた後、これが初めて見る公家なのかと、三条を凝視した。
 「三条公はおんさんとですか」
 大声で叫ぶように一人の男が現れた。小柄だが目つきが鋭い。髷が乱れている。かなりくたびれた袴だ。
 「失礼、これは客人でありましたか、」
 三条実美が、男を手招きした。
 「いやあ、江藤さん、ええとこへ来やはったな。このお人は、多摩から来た砂川源五右衛門さん、砂川村の名主や。そしてこの江藤さんは、東京鏡台を治める六人の判事のお一人で民政と会計を扱われるお方や。風体にはかまわん人やが知恵と勇気のかたまりや」
 「おいが江藤新平たいね」
 「砂川源五右衛門と申します。お見知りおきください」
 「おいは、九州は佐賀の人間たい。江戸の地理、人情は知らん。ばってん、江戸の民政を仕切んばいかんたい。ばってん、肝心の金のたらんとよ。はっきり言うぎ、なあもなか。そいに、役人も足りんとたい。なんでんかんでんなかと。わいの住んどっこの多摩の村々は物の有っとね」
 江藤の質問は単刀直入だ。
 「江藤様、貧しくはありませんが、豊かとは言えません。横濱が開港になり、絹が売れていますので、少しは潤っております」
 「村の産物はなんね」
 「手前の村の主な産品は、桑苗(くわなえ)、蚕糸、紬、茶といったところでございます。百姓はひたすら、畑仕事や養蚕、機織りに精出しております」
 「多摩と東京とは、どぎゃんつながりのあっと」
 「奥多摩は槍原村で産み出した炭は五日市街道を経て東京市中へ送り込みます。手前の住む砂川村は、その輸送の伝馬で日銭を稼ぎます。また、村の中を多摩川の水を取り込んだ玉川上水が東京へ伸びております」
 「よか答えたい。わかりやすか。あんたは名主として、何ばしようと役ば勤めとっとね」
 「憧りながら、ふつつかではありますが経世済民(けいせいさいみん)を目途(もくと)といたします」
 「そいぼ旗印に、あんたは何ばやっとっとかい」
 「村民の暮らしが成り立つような方策を立てることこれにつきます。さて、そのことですが、代官様に何度もお願いしましたが、お取り上げにならなかった一件があります」
 「ううん、そりゃなんね」
 「それは玉川上水であります。上水とは水を運ぶ水の道、この水の道を使わせて頂きたいのです。つまり、船を浮かべ、これに村の作物を乗せ、江戸まで運びたいのです」
 「おもしろかね。船ね。船は便利か道具よ。おいも船で仕事ばしてきたことのあっけん、船の便利はよう分かるとよ」
 「ご高察、ありがとうございます」
 「砂川君、船が走れぎ、その通行料として運上金は払えるとね」
 「充分に利益を見込めますから、運上金を納めることはできます」
 「東京鎮台が何ばすんにも金が要る。ばってん、金が足らん。台所は火の車たい。そいけん、おりゃ、金の欲しか。そんことは考えてみるよ」
 「ぜひ、よろしくお願い申します」
 「お主の経世済民の方策は、なかなかのもんばい。機会をみて、砂川村に行ってみるよ」
 江藤は大きく領くと、さっと立ち上がり座敷を後にした。
 「江藤さんは、こんな人。空っ風のようなお人なんや」
 三条公は笑っていた。

『武州砂川天主堂』 同時代通信社


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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №84 [文芸美術の森]

        喜多川歌麿≪女絵(美人画)≫シリーズ
         美術ジャーナリスト  斎藤陽一
          第12回 「吉原 遊女の一日」

84-1.jpg


≪朝の二度寝≫

 喜多川歌麿は「青楼の画家」とも言われるほど、吉原遊郭を主題に、たくさんの浮世絵を描きました。「青楼」とは遊郭のことです。

 今回紹介する「青楼十二時」(せいろうじゅうにとき)は、一日を12に割った「時」(とき)ごとに、吉原の遊女の暮らしぶりを描き分けた12枚のシリーズです。
 このシリーズの特徴は、遊女たちを全身の姿で描いていること、および、あえて客の男たちを一人も描かずに、遊女たちの日常の姿を描いていることです。随所に、歌麿らしい観察眼を働かせて、遊女の生態のみならず、その心情さえもとらようとしています。
 今回は、この「青楼十二時」シリーズの中から、いくつかを見てみたいと思います。

 先ずはじめは「辰の刻」(上図)。現在の午前8時頃にあたる時間です。
 早朝の午前6時頃(明け六つ)に、泊りの客を送り出したあと、遊女たちは、朝の二度寝をするのが習慣でした。
 
84-2.jpg この絵では、朝の二度寝から起き出す時刻、一人の遊女が先に起き上がり、もう一人に声をかけています。しかし、こちらはまだ眠そう・・・。
女たちの寝乱れた寝間着、ほつれた髪、布団をかき上げる仕草など、何ともなまめかしい。
 衣装や布団の図柄の精緻な描写と繊細な色づかいにも注目してください。
 この二人の女は、「振袖新造」という妓楼でも下級の階級の遊女です。「花魁」という名称でも呼ばれず、自分の部屋(個室)も与えられず、共同部屋で生活し、客をとる場合も共有の「まわし部屋」を使いました。ちなみに、上級の「花魁」には、個室と客を迎える座敷が与えられました。

≪朝湯のあと≫

 次は、「青楼十二時」シリーズの中の「巳の刻」(午前10時頃)。
 
 遊女たちは、早朝に客を送り出し、二度寝から覚めたあと、朝湯に入る。そして、さっぱりとしてから朝食をとり、お化粧にとりかかります。それらを終えると、午後2時から始まる「昼見世」にならぶのです。

84-3.jpg 右図では、朝湯に入った後、汗をぬぐっている姉さん女郎に、お茶を差し出している妹女郎(振袖新造)を描いています。

 この姉さん女郎は、花魁格の遊女でしょう。花魁には、それぞれ「振袖新造」が付いて、いろいろと世話をしたのです。

 浴衣を引っ掛け、片肌脱いで、乳房をチラッと見せている姉女郎の姿が、エロチックです。

≪張見世に向かう花魁≫

 次は、「酉の刻」(とりのこく:午後6時頃)。
84-4.jpg 既に夕方です。
 「昼見世」で客の相手をしたあと、身だしなみを整えて、夕食をとります。
 その後、「夜見世」が始まる頃には、妓楼の遊女たちは一斉に「張見世」に並びます。
「張見世」(はりみせ)というのは、店先の格子の内側のスペースのこと。そこに並んで顔見せをしながら、客を待つのです。

 この絵の遊女は、薄暗くなった夕方、下働きの女の持つ提灯の光に足元を照らしてもらい、二階から一階の「張見世」に向かう遊女のようです。

 構図は巧みです。
 前かがみの姿勢で描かれた女中とすっくと立つ遊女とを対比させ、さらに、かがんだ姿勢で花魁の顔を見る女中の視線の延長線上に、花魁の顔を描き、その顔に私たちの視線を導くという構図です。遊女の顔には、これから夜の仕事に臨むときの複雑な気持ちが秘められているようにも思えます。
 いかにも歌麿らしい、品のいい色彩センスにも注目してください。

≪手紙を書く花魁≫

 次は、「青楼十二時」シリーズの中の「戌の刻」(いぬのこく)。午後8時頃です。

 この時間は、本来なら「夜見世」が始まっている頃ですが、この花魁は手紙を書きながら、お付きの禿(かむろ)に何事かをささやいています。まだ客のついていない遊女かも知れません。

84-5.jpg 馴染みの客への誘いの手紙でしょうか。
 それにしても、長文の手紙です。もしかすると、この遊女の情夫(いろ)にあてた手紙かも知れない。

 江戸の廓を主題とした小説などでは、「遊女の手紙」は、客の男を喜ばせ、引き付けておくための「手練手管」のうち、とされました。

 ともあれ、立膝でさらさらと文を書く姿はなかなか婀娜(あだ)めいていますね。
 花魁から耳元でささやかれ、手を握りしめて腰を浮かしている禿(かむろ)の仕草も可愛らしい。

≪深夜にどこへ?≫

 最後に、「青楼十二時」シリーズの中の「丑の刻」(うしのこく)。午前2時頃、深夜です。
 どのような情景か、分かりますか?
 寝間着姿の遊女が、右手に御簾紙(みすがみ)、左手に「紙燭」(しそく)を持ち、片足に草履をひっかけて、どこかへ行こうとしています。
84-6.jpg 「紙燭」(しそく)というのは、紙のこよりを油に浸したもので、これに火をつけて短時間の照明に使いました。

 そう、この寝ぼけ眼の遊女は、真夜中に、寝床を抜け出して、厠(かわや)に向かおうとしているのです。
 客の男は、屏風の影で寝入っているのだろうか?
 それとも、今夜は客がつかず、独り寝だったのか?

 随所に歌麿の観察眼が働き、深夜の物憂いような情感をみごとに表現しています。

 今回は、吉原遊郭の遊女たちの一日を紹介するため、「青楼十二時」シリーズ12枚の中から5図を取り上げましたので、少し長い回となりました。

 次回は、寛政の中頃、歌麿が試みた、それまでの「女絵」とはちょっと異なった趣向の作品を紹介します。
(次号に続く)


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日めくり汀女俳句 №108 [ことだま五七五]

十一月十四日~十一月十六日

    俳句  中村汀女・文 中村一枝

十一月十四日
みかん狩ねずみくはへし猫は駈け
         『薔薇粧ふ』 蜜柑狩=冬

 わが家の鼠は、例の仕掛け人軍団の活躍で一時的にせよ八月以降、音もしなくなった。
 ところが、三、四軒先の家で、糞が家の中にあったと言う。そのうち、同じ大田区内の友人から、またまた鼠の話を聞かされた。友人宅もこの夏、鼠が現れ、ダニに悩まされた点も、わが家と同じである。友人の話だと、地下鉄の駅や渋谷駅周辺でも鼠が集団で出没しており、中でも大田区は多いのだそうだ。
 今の鼠族、賢くて人間の対応の方が追いつかない。鼠に向かって断固たる決意を見せる姿勢が必要とのこと、鼠作戦末だ続きそう。

十一月十五日
顔まかす子のいとしけれ七五三
         『薔薇粧ふ』 七五三=冬

 幼い頃、近くに同い年の友達がいた。母親同士も仲良しで、お陰でいつも同じ格好をさせられた。三つのお祝いは白の水兵服。かもめの水兵さんの童謡がはやった頃だ。七つのお祝いには、お揃いの振り袖をどことかやらで注文した。その時彼女はピンクのしごきを着けていた。私のは黄色と赤のだんだら模様、ピンクのしごきがうらやましくて仕方なかった。その着物、三十年たって娘の七五三に受け継がれた。孫のために新しい着物をと心づもりしていた汀女は、少しがっかりしたらしい。そのあたり、今になると胸が痛い。

十一月十六日
山茶花に移らむ心ひそと居り
         『汀女句集』 山茶花=冬

 「熊本から山茶花の苗をいっぱい持ってきたから取りにきなさい」、と汀女から電話をもらったのは、二十年以上前のことである。汀女がなにかくれるというと、いつも「いりません、いりません」とにべもなく断る私にしては珍しくいそいそとした表情をしていた。
もらった三本(一本は椿だった)のうち結局、鮮やかな紅の山茶花だけが根づいた。
 ここ数年、また見事に花をつける。花を見ていると下北沢の家の庭に咲いていた、赤白だんだらの大輪の椿をふと思い出す。庭も、家も今はただ記憶の底に留められているだけである。

『日めくり汀女俳句』 邑書林



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読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №138 [ことだま五七五]

   読む「ラジオ万能川柳」プレミアム☆6月1、8日放送分

      川柳家・コピーライター  水野タケシ

川柳家・水野タケシがパーソナリティーをつとめる、読んで楽しむ・聴いて楽しむ・創って楽しむ。エフエムさがみの「ラジオ万能川柳」、6月1日放送分です。 

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もう6月!!

ラジオ万能川柳」は、エフエムさがみの朝の顔、竹中通義さん(柳名・あさひろ)がキャスターをつとめる情報番組「モーニングワイド」で、毎週水曜日9時5分から放送しています。
エフエムさがみ「ラジオ万能川柳」のホームページは、こちらから!
放送の音源・・・https://youtu.be/mX019D-NHS4

【あさひろさんのボツのツボ】
先週のボツの作品から、あさひろさんセレクトの1句をご紹介!!
(皆さんの川柳)※敬称略  今週は156句の投稿がありました!
 ・ほんとですなおみ見に行き午前様(パリっ子) 
 
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・久々の散歩でかかる熱中症(カラリ)
・じゃれ合い句輪に入れずにボツ続き(大名人・龍龍龍)
・柳友に一年ぶりに会える会(恵庭弘)
・突然の竜巻クルマ宙を舞い(名人・やんちゃん)
・介護券回数無限期限なし(くろぽん)
・星屑に願いを掛けている平和(須賀毅)
・堂々のワイロ議員に逆あっぱれ(大名人・東海島田宿)
・マンションは良いなと思い毟る草(高橋永喜)
・Zoomでも柳友増えたミーティング(柳王・アンリ)
・今日一歩心のドアを開けました(名人・美ら小雪)

☆タケシのヒント!
「美ら小雪さん、これで5回目の秀逸、大名人昇進です。おめでとうございます!!いろいろ想像させる句です。コロナも落ち着いてきたし、そろそろ一歩踏み出そうかな、とそんな前向きな気分にさせてくれますね。」

・妻は好きたまには違う人も好き(名人・どんぶらこ)
・4回目もうイヤだとも言えず(大名人・重田愛子)
・倍増と言われ響かぬ資産ゼロ (柳王・フーマー)
・空き箱が大好き猫と里の母(名人・ワイン鍋)
・TOPGUNずいぶん時が過ぎたんだ(新名人・おむすび)
・ 4歳児一つサバ読み5歳と言う(ぽこにゃん)
・わこりんは筆箱で顔を隠す(柳王・平谷妙子)
・顔出しの句会で出せぬエッチな句(柳王・荻笑)
・初対面?マスクした顔想像し(名人・不美子)
・つぶやきを確かに聞いた「ありがとう」(柳王・けんけん)
・衣替え服が縮んだ騒ぐ妻(名人・まご命)
・ボツよりも師匠のツボをおさえたい(そうそう)
・梅雨まえに夏の予告か入道雲(大名人・咲弥アン子)
・暑くなる暑くなるゾと天気予報(名人 ・のりりん)
・母遺す種で畑を継いでゆく(大柳王・ユリコ)
・わこりんを見られた人の運の良さ(soji)
・夏が来たその後梅雨が来るんかい(柳王・光ターン)
・好きなもの体に悪いものばかり(翔のんまな)
・トリマーになって気づいたアレルギー(名人・はる)
・天気予報セカンドオピニオンを見る(名人・ぼうちゃん)
・いざ出番西瓜そうめんかき氷(名人・里山わらび)
・いつの間に流行ってますねボツのツボ(居酒屋たつみ)
・おとしどこどこにするかは夫婦でも(柳王・かたつむり) 

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・浜ちゃんに勝る司会をする師匠(しゃま)

◎今週の一句・今日一歩心のドアを開けました(名人・美ら小雪)
◯2席・衣替え服が縮んだ騒ぐ妻(名人・まご命)
◯3席・空き箱が大好き猫と里の母(名人 ・ワイン鍋)

【お知らせ】
毎年夏の恒例、
第49回ぬまづ市芸術祭 文芸部門「ぬまづ文芸」の応募が本日6月1日からスタートしました!!
締め切りは7月いっぱい!!皆さん奮ってご応募ください!! 

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【放送後記】
週末の第2回仲畑流万能川柳Zoomファンミーティング、
昨年を大幅に上回る46名の参加で大いに盛り上がりました。
北海道から沖縄まで、またフランスやイタリアからのご参加もあり、これぞ「令和の集い」という感じがしました。
でも、でも、来年こそは実際にお会いしたいですね。

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◆6月8日放送

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梅雨入りしました。。。
放送の音源・・・https://youtu.be/8FT7BxBkG20

【あさひろさんのボツのツボ】
先週のボツの作品から、あさひろさんセレクトの1句をご紹介!!
(皆さんの川柳)※敬称略 今週は178句の投稿がありました!
・予算案立てて下手くそ使い方(柳王・入り江わに)
・選に漏れ楽しみ増えたボツのツボ(東孝案)
・人のもの片づけるのは超簡単(カラリ)
・つゆが来る冷やし中華もうまくなる(プチトマト)
・マスクして頭良さそうに見えた人(柳王・平谷妙子)
・常識があるから政治分からない(翔のんまな)
・匿名の頭文字でもH議長(柳王・雷作)

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土屋耕一先生(ミスター・コピーライター)
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H議長

・心には響いてこない選挙カー(名人・やんちゃん)
・子が作る野菜炒めは残さない(新大名人・美ら小雪)
・水たまり映る自分を踏んでいた(大名人・恋するサボテンちゃん)
・この魚火薬の臭いがするような(ぽこにゃん)
・ヘンシーン突然蝶になる男子(名人・じゅんじゅん)
・雨宿り昔の彼と出会う梅雨(柳王・アンリ)
・父の日が母の日よりも先ならば(名人・ワイン鍋)
・給付金家族仲良くだまし取る(大名人・東海島田宿)
・宇宙人夢が膨らむはやぶさ2(柳王・鵜野森マコピイ)
・梅雨入りと白内障のメス入りと(桐山榮壽)
・アルミ鍋軽くて丈夫30年(くろぽん)
・ポイ活で資産形成してる孫(大名人・マルコ)
・夏終わりさぁ梅雨入りだ長袖だ(柳王・光ターン)
・顔上げて傘のあなから眩しいよ(秀クリーム)
・子の記名残る分度器捨てられず(名人・不美子)
・見てみたいねこが泳いでいるすがた(名人・わこりん)
・九州を差し置き関東梅雨入りし(名人・のりりん)
・母遺品毛皮5円で買い取られ(大柳王・ユリコ)
・ポケットに持ち歩いてる思いやり(柳王・けんけん)
・爆発の跡にまで生え夏の草(バレリア)
・つばめ来てウフフ私が大家さん(しゃま)

☆タケシのヒント!
「読む人まで「ウフフ」と笑顔になってしまう愉快な作品です。つばめの巣は幸運の象徴といいます。しゃまさんにもきっと幸運が訪れることでしょう。」

・新しい傘は濡らすのイヤと孫(soji)
・虎視眈々カビが勢力拡大し(名人・ぼうちゃん)
・白髪の冒険キラリ日焼け顔(名人 ・里山わらび)
・生きることあきらめないで生きて今(そうそう)
・ハシゴする昔居酒屋今スーパー(柳王・荻笑)
・いい仕事していますよねはやぶさ2(柳王・かたつむり)  

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・ああ締め切りの時間今週あきらめよう(大名人・咲弥アン子)
・水曜は私が一番元気な日(大名人・重田愛子)

◯今週の一句・つばめ来てウフフ私が大家さん(しゃま)
◯2席・この魚火薬の臭いがするような(ぽこにゃん)
◯3席・人のもの片づけるのは超簡単(カラリ)

【お知らせ】
4月から編集作業を行ってきた交流誌「仲畑流万能川柳ファンブック」115号(6月号)、
ついに完成いたしました!!皆さま、楽しみに、楽しみに、お待ちください!!

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今号の目玉は、なんといっても、
昨年11月27日に開催された、万能川柳30周年記念トークイベント、
仲畑さんと糸井重里さんのスペシャル対談、そのパート2!!

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【放送後記】
どういうわけか、近ごろは雨が嫌いではなくなってきた私なのですが、
それでもラジオがある朝だけは雨は降らないでほしいと願っています。
自転車だと時間通りスタジオ入りできます。
バタバタしてしまうと落ち着いて選句ができませんから。
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水野タケシ(みずの・たけし)
1965年生まれ。コピーライター、川柳家。東京都出身。
ブログ「水野タケシの超万能川柳!!」 http://ameblo.jp/takeshi-0719/ 


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雑記帳2022-6-15 [代表・玲子の雑記帳]

2022-6-15
◆梅雨入り前の一日、群馬に、近代和風建築を訪ねました。

明治の文明開化は日本のあらゆる分野に西洋化をもたらしましたが、建築はその最たるもののひとつです。この時代、今に残る多くの西洋建築が建てられました。
その中で、和風建築は着実に発展を続け、それらが今見直されているといいます。
群馬県に点在する近代和風建築を訪ねました。

群馬県の県庁所在地は前橋市です。県庁が前橋に落ち着くまでに高崎と何度かいれかわったこともある面白い歴史をもっています。
前橋県庁の近くにあるのが臨江閣(りんこうかく)です。

臨江閣は、明治17年(1884)、当時の県令・楫取元彦の提言により、地元有志や企業の寄付で建てられた迎賓館です。

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威風堂々たる臨江閣
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臨江閣庭

そばに利根川が流れ、県を代表する妙義、浅間の山々を望む地に建てられた迎賓館は、まさに伝統的な和風建築。明治天皇の行幸の際の行在所になったのをはじめ、多くの皇族方に利用されました。特に、大正天皇は皇太子時代からこの建物を大層気に入ったようで、おとずれると、2週間は滞在したとか。利根川や山々の自然に癒される思いだったのかもしれません。

昭和20年から29年までは、仮の市庁舎として使われ、その後は平成19年まで公民館として利用されたといいますから、何とも贅沢な公民館だったのではないでしょうか。

敷地内には、迎賓館が地元有志の協力で建てられたことに心を動かされた楫取元彦が呼びかけて、県庁職員の募金によって建てた茶室があります。本館とならんで数寄屋造りの茶室は、京都の茶室大工、今井源兵衛の手になる140年前の技巧が随所にこめられているとききましたが、残念なことに現在は公開されていない様子でした。

明治43年(1910)、一府14県連合共進会が前橋で開催されました。県をあげてのビッグイベントに取り組むにあたり、貴賓館として別館が建てられました。
寺社建築と書院造、数寄屋造、江戸時代にはそれぞれ別個のものだった建築様式が、ここでは混在しているということです。格式ある書院造の内部に対し、縁側は数寄屋風の屋根、大屋根や階段の手すりは寺社の高楼、といった具合に。2階は180畳の大広間ときけば、その威風堂々ぶりが想像できるというものです。
別館は、共進会閉会後は前橋市に引き渡されて、本館と同様、一時期、大公民館として利用された時もあります。

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180畳の大広間

本館も別館も茶室も、これだけのものを建てるには莫大な費用が必要でしたが、その大部分は財界や市民の寄付でまかなわれました。それが可能だったのは群馬県が絹産業でうるおっていたからだといいます。江戸時代から養蚕、製糸、織物が栄えた群馬県は、明治になると輸出によってさらに豊かな富を蓄積していたのでした。

富岡市には誰もが知る、世界遺産の富岡製糸場があります。その製糸場を見下ろすような高台に富岡市社会教育館がたっています。高台は、群馬県の一之宮、貫前(ぬきさき)神社の境内です。
昭和9年(1934)に、群馬県で行われた陸軍特別大演習に昭和天皇が行幸され、貫前神社に参拝されたのを機に、この地に精神修養の場として東國敬神道場が建設されました。竣工は昭和11年。現在の富岡市社会教育館の前身です。

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富岡社会教育館門

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富岡社会教育観玄関

設計は当時、近代和風建築の第一人者だった大江新太郎の率いる建築事務所「大江國風建築塾」。明治神宮や日光の社寺、高野山、住吉神社などの改修を手がけていました。
全て平屋の建物は、講堂棟や講師室棟、玄関・事務室棟、宿泊・食堂棟が配置され、廊下でつながっています。戦前は群馬県下の青年男女が宿泊しながら精神修養を行う施設でした。戦後は進駐軍に接収されて、講堂がダンスホールに利用された時代もありました。、県立施設としての広域性が薄れてきたことから、現在は富岡市に移管されて、市の社会教育館になっているのです。宿泊は現在は廃止されています。国の登録有形文化財。

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宿泊棟
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講堂と宿泊棟をつなぐ廊下

宿泊棟は現在つかわれていませんが、講堂に比べると質素な造りながら、テーブルに椅子式の食堂や炊事場など、当時としてはハイカラだった設備を見学することができます。

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当時としてはモダンな食堂

県下から集まった青年男女が研修を受ける講堂には立派な神殿があり、神殿をを礼拝するのが日課でした。今は勿論神殿はありませんが、幕のうしろに形だけ残しています。

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講堂

ナショナリズムの高まりの中で造られた建物が、ダンスホールにつかわれたり、今は社会教育の場になったりしているのをみると、時代の変化を感じますね。

(ちなみに、貫前神社は宮崎の鵜戸神宮、大分の宇佐神宮とならんで、日本の「三大下り宮としてもしられています。「下り宮」というのは、鳥居(門)からの参道が下り坂になっているお宮のこと。地形や成り立ちには面白い特徴があるようですが、今回は貫前神社は訪ねませんでした。)

中島飛行機の創業者、中島知久平が両親のために建てた豪邸が太田市にあります。中島知久平は鉄道大臣や政党総裁も務めた実業家でした。邸は昭和初期に建てられました。
1万㎡に及ぶ広大な敷地には、玄関、客間、居間、食堂の4つの棟が中庭を囲むように建っています。それぞれが違う大工が建てたという面白い造りです。

4つの棟のうち、入館できるのは玄関棟だけです。
先ず、客は車寄せの驚くほど巨大な唐破風に圧倒されます。玄関先の階段は一枚物の白御影石。石にしろ、木材にしろ、使われた材料はすべて国中から選ばれた一級品です。応接間は洋式で、ステンドグラスやシャンデリアが目をひきました。

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圧倒される立派な車寄せ
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車寄せの屋根のを支える木材も贅沢に
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応接間
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客室棟とプライベートな居間棟は中にははいれませんが、外から見学できます。客室はシャンデリアを除けばすべて和風の書院造。長く使われていなかったためにすっかり荒れてしまった客室も、まだ修復されてはいないものの、襖や壁の装飾の豪華さを偲ぶに難くありません。

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客間

日清・日露戦争を経た日本では、ナショナリズムの高まりとともに、建築でも和を追求する機運が高まっていました。江戸時代に培われた職人の高度な技術が、おしみない財力を注がれて、最も自由に発揮されたのが、実は昭和初期であったというのです。贅を尽くした建物を巡ればそれぞれに職人の心意気がしのばれるというものでした。

平成になって住む人もいなくなり、空き家になったのを契機に、太田市が土地を買収、建物は寄付されて市の所有となり、「太田市中島知久平邸地域交流センター」としてオープンしました。平成25年、国の重要文化財に指定されましたが、管理するのは自治体です。客室を修理するのにいったいどれくらいかかるのか、中島知久平が惜しみなく財力を注いだエネルギーは今の日本にはもはやない。それでも、地域の交流センターに生まれ変わって、住民が集える場所になったのは決して悪いことではありません。

群馬といえばこんにゃくです。
お昼にこんにゃくの会席料理を頂いた「ときわ荘」は、前述の大江新太郎の建築塾の設計でした。こちらも国の登録有形文化財になっています。

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こんにゃく御膳
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ときわ荘外観
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ときわ荘庭



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私の中の一期一会 №262 [雑木林の四季]

  「今がコロナ感染対策を見直すタイミング」阪大病院は面会制限を緩和した
  ~政府はマスク着用について新しい見解。でも国民はマスク無しには慎重~

      アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 東京では13日、新たなコロナ感染者が960人確認されたが、先週の月曜日より53人少なくなった。
 1月11日に959人を記録して以来5カ月ぶりの1000人以下であった。
 大阪府でも424人で先週の月曜日の461人と比べると37人少ない。
 国立感染症研究所の脇田隆宇所長は「確かに感染者数の全国的な減少傾向は継続している。横ばいだった死者数も減少に転じた」と語っている。
 今後も減少傾向は続くと見込めるが、ワクチン接種3回の人の免疫力が徐々に減ることが分かっている上に「BA・5」など新たなウイルスも検出されているので油断は出来ない。
 夏ごろになって「BA・5」が増加する懸念もゼロではない、まだ手放しで減少傾向を喜ばないほうがいいようである。
 そんな中、大阪大学医学部付属病院では「6月9日(木)から面会制限を緩和しました。面会の際にPCR検査の陰性証明が不要になりました。
 面会の方は、エレベーター前の受付で必ず“面会時の注意”の動画を視聴してください」と言われる。
 動画を見て分かることは・・・
 1)面接の方は満16歳以上の方1名に限る。(16歳以上なら家族、知人でもよい)
 2)面会時間は13時~18時
 3)面会はデイルームで30分以内、
 注意事項
  本院への入館中はマスク着用です。
  フェイスシールド,アイシールドでは入館できません。
  入院患者、医療従事者への感染を防ぐためご理解、ご協力をお願いします」ということ。
 このビデオに出演した大阪大医学部の忽那賢志教授の説明によると、まだ多くの大きな病院が面会を制限しているのが現状だ。
 そうした中で阪大病院は面会条件を緩和した。
 9日からワクチン接種率もPCR検査の陰性証明は不要になった。
 しかし面会者の健康チェックは行い、手や指の衛生などの感染防止対策はキチンとやってもらう。
 面会する人数、面会場所も決まっていて入院患者の病室には入れない。
 こういうことをキチンと守ってくれないと、患者や医療従事者を感染から守れない。
 コロナが始まって以来どの病院もそうだと思うが、阪大病因もずうっと面会は禁止だった。
 デルタが流行した「第5波」のあと感染者数が減った時、ワクチンを2回接種していることを条件に面会制限を緩和することにした。
 2021年10月に初めて阪大病院は面会制限を緩めたのである。
 ところがオミクロンの出現によって急速に感染者が増えて、しかも全国に拡大した。
 22年1月4日、面会は全面的に禁止せざるを得なくなってしまった。
 阪大病院は長期入院者が多いこともあって、コロナ禍の“面会禁止3年”は長い。
 患者の家族からは「何とか面会できないか」という声は絶えずあった。
 オミクロンの「第6波」はこのところ落ち着きを見せ、感染者数が減り続けている。
 感染リスクをゼロに出来ればいいが、世界中を探してもその方法は見つからない。
 感染リスクを考えると、“面会させないほうが安全”に決まっている。
 出来るだけ安全にというルールの下で面会が出来るようにと考えたのが、今回の面会緩和だ。
 でも、コロナウイルス自体の性質も変わってきて、あまり重症化しなくなってきた。
 軽症で終わる人も多いし、死者が減ってきている。
 こうした流行状況の変化を観察しなからゼロリスクを目指すのではなく、ある程度のリスクを許容しながら制限を緩めていけるタイミングになってきたのではないか。
 阪大の面会緩和が、コロナ感染対策見直しのキッカケになってくれれば・・というのが忽那教授の思いである。
国立感染症研究所の脇田所長は、「今後も減少傾向が続くと思うが、ワクチン接種3回目の免疫力が徐々に減ることや「BA・5」などのような新たなウイルスが検出されたりすれば状況は変わってくる。
 日本ではもう2年以上マスクをする生活が日常化している。
 道行く人、電車の中、スーパーの買い物客などでマスク無しの人を見たことがない。
 政府は5月20日、マスク着用について新しい見解を示した。
 公園など屋外で人と会話しないような時はマスクをしなくてもよくなった。
 屋内でも隣の人との距離が十分にあり、会話もしないような時もマスクを外してもよくなった。
 未就学の子供は夏に向かって原則マスク不要になった
 「まだ油断は出来ない。引き続きマスクをしていきたい」という人もいれば、「いいと思う、いつもマスクをして熱中症になったらと心配だった。外せるようだったら外したい」と歓迎の声も聞こえた。
 マスクを持って外出して、着けたり外したり臨機応変にすればいいのではないか。
 私は月1回、ハートクリニックを受診しているが、検温と必ずマスク着用である。
 先月、白内障の手術をしたが、眼科でもマスク着用のこととなっていた。
 “マスクなしの日本”になるのは、まだ先のようである。



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BS-TBS番組情報 №260 [雑木林の四季]

BS-TBS 2022年6月のおすすめ番組(下)

      BS-TBS広報宣伝部

Style2030 賢者が映す未来

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2022年6月19(日)午前10:00~10:54

☆ジャーナリスト龍崎孝と各界の賢者が対談!新しい生き方を提案する。

龍崎 孝(ジャーナリスト/流通経済大学副学長・教授)
皆川玲奈(TBSアナウンサー)
ナレーター:逸見友恵

#15
ゲスト: 海部陽介(人類進化学者・東京大学総合研究博物館教授)

SDGsの目標達成期限2030年に私たちの社会や暮らしはどうあるべきか?ジャーナリストの龍崎孝が、人類進化学者の海部陽介氏との対話を通じて、新しい生き方のヒントを探る。 
海部陽介氏が注目したのは「人や国の不平等をなくそう」そして「平和と公正をすべての人に」。
冒険心や創造力にあふれた「人間」が作り出した平和の尊さや差別について、独自の視点を披露する。
「思うほど人間は多様ではない、むしろ共通点に注目すべき」という海部さん。
日本人の起源を探るため、旧石器時代の3.8万年前に台湾から与那国島への航海を再現した海部陽介さんが考える「新しい生き方のヒント」とは?
番組内で「グラフィックレコーディング(グラレコ)」という手法をつかって、対談内容をリアルタイムで「見える化」する過程にも注目!海部氏が描く2030年の社会を、色彩豊かに描き出す。
「Action2030」は、紫外線LEDを使った浄水装置を開発した東京大学大学院の小熊久美子准教授の研究にスポットをあてる。家庭でも利用できる小型浄水システムでSDGsの6番「安全な水とトイレを世界中に」に貢献する研究チームを取材した。

田中ウルヴェ京のココロラボ

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2022年6月19日(日)午前11:00~11:30

☆現代のストレス社会を生き抜くために目指すべきは “強くてしなやかなメンタル”。
世界で戦うトップランナー達のメンタルを田中ウルヴェ京が分析し、最強のメンタル術をお届け!

出演:田中ウルヴェ京
ナレーター:喜入友浩(TBSアナウンサー)
ゲスト:三宅宏実

#12 引退後は…重量挙げ三宅宏実のセカンドキャリア
今回のゲストは、女子重量挙げのレジェンド・三宅宏実さん。
父・義行さんと二人三脚で2004年のアテネ五輪から5大会連続出場という偉業を達成。ロンドンで銀メダル。リオで銅メダルを獲得。東京オリンピック後、昨年11月に現役引退。現在は、コーチとして後進の指導にあたる傍ら、講演活動など幅広く活動に挑戦する三宅さんのセカンドキャリアにスポーツ心理学者の田中ウルヴェ京が迫ります。
毎週(月)よる 10:00~10:54

☆日本の文化・人物・事象などの歴史を徹底解明!!

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出演:田辺誠一
ナレーション:鈴木順

■6月20日(月)
#307「若き織田信長の野望!尾張統一への道」
そもそも信長の織田家は尾張国の守護でも守護代でもないその下の家臣という立場、天下取りなど遥か彼方のはずだった。そんな家に生まれながら、いかにして信長は天下人目前まで駆け上がることができたのか?その謎を解く手掛かりは信長の若き日にあった。
▽なぜ「うつけ」と周囲から疎んじられた信長を父・信秀は後継者に指名したのか?
▽天才的な戦略眼を養った少年期のエピソード
▽信長を幼少期から見守って来た重臣・平手政秀が突如、切腹した理由は?
▽尾張統一の最大の敵は実の弟だった!熾烈な兄弟の戦いの顛末は!?

■6月27日(月)
#308 「家康のブレーン!青い目のサムライ・三浦按針」(仮)
かつての江戸城…現在の皇居に程近い、東京都中央区日本橋室町一丁目。ここに“按針通り”と呼ばれる小さな通りがある。按針とは、中世における航海士のことで、かつてこの地に徳川家康に仕えた航海士の屋敷があったことから、そう呼ばれるようになった。航海士の名は、三浦按針。本来の名をウィリアム・アダムスという青い目のサムライ。三浦按針ことウィリアム・アダムスはイギリスの出身。関ヶ原の戦いのおよそ半年前に日本にやって来て、天下人・徳川家康と運命の出会いを果す。そして、家康の外交顧問となり、日本の行く末に大きな影響を及ぼしていくのだが…その生涯は、まさに波乱万丈!今回は、青い目のサムライ、ウィリアム・アダムスの数奇な人生を見ていく。



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台湾・高雄の緑陰で №33 [雑木林の四季]

台湾問題の解説

     在台湾・コラムニスト  何 聡明

 私は毎日台湾に関する多様な日本のメイルマガジンを読んでいるが、台湾問題を論ずる日本学者のなかには台湾の歴史と現情を良く知らない学者がいることを遺憾に思っている。拓殖大学海外事情研究所の富坂聡教授は其の一人である。富坂氏は中国の北京大学中文系を中退しているのか、その著作の多くは中国大陸の元中華民国と中華人民共和国に限られている、台湾での留学経験がないため台湾の過去と現在を深く研究しなかったのであろうか。
 富坂氏は最近のメイルマガジンで:「台湾海峡は文字通りアジアの火薬庫だ。その危険性を認識せず、安易に口を挟むのは、ある意味で最上級の「平和ボケ」だ。台湾海峡問題の源流は戦後間もなく起きた中国共産党と中国国民党の内戦だ。現在も内戦は続いているが、長らく戦闘は起きていない。それは米軍の存在からも説明できるが、やはり大きいのは中国が一方的に「平和統一」を掲げ、舵を切ったことだ。ただ共産党指導層がどうしても譲れない条件が一つあった。それこそが「台湾独立」だ。中国が「平和統一」を掲げながら武力統一の旗を完全には下ろさないのは、その線を越えれば「いかなる犠牲を払っても」阻止するという決意を示すためだ。」と論ずる。
 富坂氏は現在も内戦は続いているというが、中国国民党と中国共産党の内戦はすでに終止し今では両党の擬似和解が進んでいる。中国共産党は台湾本土の民主進歩党(爾後、民進党と略称)政府が独立を目指せば台湾を侵略をすると脅かしているのだ。
 米国は1979年に中華民国と断交して、中華人民共和国を承認したあと、台湾との関係を米国国内法の「台湾関係法」等で維持しながら、中国は中華人民共和国だけである「一つの中国政策」を維持してきた。一方、中国は「一つの中国原則」を主張、その原則は台湾は中国の一部であり、台湾海峡も中国の領海であると勝手に決めている。
 富坂氏はまた「いま台湾海峡がきな臭くなってきているのは、長らく中台間で「一つの中国」を確認する──いわゆるレッドラインは踏み越えないとする──記号だった「九二コンセンサス(注:中華人民共和国と中華民国は各自『一つの中国原則』を堅持することでは一致するが、其の一中が誰かは必ずしも一致していないコンセンサス)を民進党の蔡英文政権が「なかった」と宣言したためだ。」と説く。台湾には戦後中国より亡命して来た中国国民党による外来政権と1986年に成立した民進党による本土政権との間に極めて相異した立場と意識、生活文化、価値観に亘って葛藤が続いているのである。
 然しながら、「九二コンセンサス」の存在を最初に否定したのは初の台湾人総統である中国国民党籍の李登輝氏であり、2000年に李政権を引き継いだ本土民進党の陳水扁総統も続いてそれを否定した。「九二コンセンサス」を肯定したのは、2008年に陳政権を継いだ中国国民党籍の外省人馬英九総統だ。2016年の選挙に勝って馬政権を引き継いだ民進党の蔡英文現総統は当然「九二コンセンサス」を否定したので、中共政府は蔡政権に激怒しているのだ。
 富坂氏はさらに:「こんななか日本がアメリカの手先となって台湾問題に口を出すメリットは何なのだろう。口を挟んでも日本の安全保障環境が好転することはない。むしろ明確な敵を一つ作り出し、悪化は明白だ。日本の過去の侵略が台湾から始まったことを考えれば、戦後77年間の平和への取り組みも水泡に帰すかもしれない。」と説く。これこそが「最上級平和ボケ学者」の警告であろう。ウクライナ侵略の次は台湾かもだが、若しロシアが日本の北方四島占領に止まらず北海道侵略、共産中国が尖閣列島と沖縄県侵略の際、防衛力のない平和日本はアメリカの手先にななって台湾問題に口を出すなである。
 1894年の日清戦争は日本が台湾への侵略から始まったのではなく、日清戦争で勝利した日本帝国が敗者の清国と1895年4月17日に下関で締結した日清講和条約で清国が日本に台湾を割譲したのが史実であり、太平洋戦争で日本帝国が敗戦するとサンフランシスコ平和条約で、日本は台湾の主権を放棄したが、勝者代表の米国は日本の殖民地人民であった台湾住民の意向を問わず、誰も署名していない新聞広報の「カイロ宣言」に基づき、台湾本島と澎湖諸島を中華民国の管轄に組み入れて現在に至っている。だが前述の如く米国は40年前既に中華民国と断交し、台湾との関係は台湾関係法等に基づいている。
 「台湾独立」は戦後の1947年台北市で起こった中国国民党陳儀政府による228台湾人虐殺事件と1949年国共内戦に敗れて中国大陸から台湾に亡命政権を樹立後蒋介石元帥率いる中国国民党政権が38年間施行した軍事戒厳令に反抗して数多くの犠牲を払った本土台湾人の長年の念願と努力であることを是非富阪氏に知って欲しい。絶対多数の台湾人は中国国民党の専制政権に勝るとも劣らない中国共産党専制政権に武力または平和的に統一されることを全く望んでいない。米国の協力を得て自衛力を強化するのは当然である。
 ちなみに、21世紀に入り、共に民主主義を尊ぶ台湾と日本は最友好隣国であるとお互いに考えているのが現実ではないかと私は思う。それゆえ、台湾政府は早急に中華民国憲法を破棄し、台湾憲法を制定して「台湾共和国」と名乗ることを最重要国策として尽力すべきである。

2022年6月15日  


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海の見る夢 №33 [雑木林の四季]

            海の見る夢
        -64歳になったらー
                澁澤京子

 若い時は自分が64歳になったら?なんてあまり考えなかった。ビートルズの歌にあるように、なんとなく年取って落ち着いてるんじゃないかと漠然と思っていた。ところが私の場合、それほど落ち着いたものでもなかった・・実際に気が付いたのは、年取るというのは(中身は大して変わらないが、外側だけ老けていく)ということ。

しかも最近、2,3日前のことは平気で忘れるのに、若い時の事や子供の頃の事を割とはっきりと思い出したりするのは年取ったせいだろうか?祖父がよく、子供の頃を思い出しながらハモニカを吹いていたが、私もあの境涯に近づきつつあるのかもしれない・・

ある程度の年齢になると、(政治ではなく)「保守的」か、「革新的」か、人によって大きく差が出てくるような気がする。落ち着く人は落ち着くし、自由になってはじける人ははじける。はじける人が少数派であるのは、はじける方がエネルギーがいるからだろう・・

結婚して、子供を産んで育てている時に自分がすごく守りの体制になっていることに気が付いたことがある。特に子供が小さい時とか、守りの体制になっていないと子育てできないようなところがあるし、家庭を維持するためにはある程度の保守性は必要だし、肉体的にも衰えてくるので落ち着く人が多いのは自然なのだ。

『アイリス・アプフェル 94歳のニューヨーカー』を観た・・94歳のファッションアイコン(私の父と同じ年齢なので今年100歳、まだ現役で活躍している)。元々はインテリアデザイナーとして活躍し、夫と共同経営のテキスタイル会社が成功をおさめ、ホワイトハウスのインテリアデザインを任されるというキャリアを持つ。メトロポリタン美術館からコレクションの展示を依頼されてから、彼女の抜群のセンスの良さが世間に注目される。

こんなに自由ではじけているお婆さんっているだろうか?と思うほどはじけていてすごいチャーミング。見ているだけで楽しくなるような大胆でポップな色使い、服装とアクセサリーの組み合わせ(ジャズと同じでアドリブなのよ、と映画の中で語っている)安物のアクセサリーをジャラジャラつけ、原色の黄色、紫、ターコイズ色という禁じ手の組み合わせをしても、お洒落。ルールを逸脱しても決して下品にならない人なのだ。

若い時のアイリス・アプフェルを見ると、大人しい上品な服装をしている、センスのいいマダムといった感じ。「センスがいいとか悪いとか、どうでもいいことよ」と映画の中で語っていたが、はじけてポップな服装をするようになった彼女の方が魅力的だし面白い。自分が楽しいからお洒落すると語っていたが、要するに年取って、自由になって彼女はすごく魅力的になったのだ・・

「ファッションはアートか?」というのがあるけど、アイリス・アプフェルの場合はアートじゃないだろうか。最高のエレガンスと、下品すれすれが同居して、エレガントな高級品からキッチュな安物まで同等に扱い、融合させてしまう。今までおとなが見向きもしなかった100円ショップのアクセサリーにも美を見出し、彼女の天衣無縫ぶりは、ファッションにおいて年齢とか規則とかそうした「常識」や「まともな世界」なんか吹っ飛ばしてしまうほどのエネルギーとパワーを持つ。「お若いですね」という薄っぺらなお世辞など彼女の前では吹き飛んでしまう小気味よさ。彼女のモットーは(自分自身であること)

自分自身であるという事は、はっきりとした自分の美意識を持つということだ。自分自身であるとは、信用できる直観を持っているということであって、ちょうどそれは優れた画家が無意識の内に物事の本質をとらえてしまうのと一緒だろう。ふつう、直観は間違えることが多いが、彼女の的確な直観は、彼女の本来の素質と、長年のインテリアやテキスタルデザインの仕事の経験で培われたものだろう。つまり、自分自身であることは「70にして矩を超えず」の「矩」を持つことで、「矩」を持っているとどんなにルールをはずしても決して品が落ちないのだ。しかし、「矩」というのは誰でも簡単に持てるものではないから非常に難しい・・「矩」は、ちょうどピアニストやダンサーが毎日のストイックな修練の積み重ねによって徐々に身につけてゆく肉体的な理性のようなものじゃないかと思っている。

私の知っている最もチャーミングな女性は、20代の私にとって祖母のような年齢だったフラメンコのK先生。ワガママで気難しい所もあったけど、面白くて可愛くて、品のいいお婆さん(天衣無縫な性格がすごく魅力的だった)。短気ではあったけど、悪意というものがなく、他人をジャッジするなどのネガティブなことはほとんど言わず、80過ぎても毎朝のバレエの基礎レッスンはかかさなかったが、「身体が年取ってしまったから、今度は頭を鍛えることにしたよ」と舞踊を教える傍ら、哲学の勉強に取り組んでいた。好奇心が旺盛な人だったのだ・・当時、彼女は癌を患っていて、相当身体は辛かったと思うが、そんな様子は微塵も見せず、私は全く気が付かなかったのだ・・母の友人の舞台照明の人がK先生と一緒に仕事して「今まで会ったことないくらい可愛いらしい女性です。」と話していたというから本当にチャーミングな人だったのだと思っている。「矩」を持っていた明治生まれのお婆さん。彼女と一緒にいるだけで、いつも私は「自由」と「生きる勇気」を貰えた。

芸術は人を解放して自由にしてくれる。見たり聴いたり読んだりするだけで、あるいは会うだけで自由なおおらかな気持ちになったり、楽しくなったり、気持ちが楽になったり、あるいは立ち止まって考えるきっかけになったり、優しい気持ちになったり、感動させたり。そうしたものは人間であれ何であれ、紛れもなく「善」なのだと思う。

年を取ると、親の介護や仕事から解放され、自分の好きなことをはじめられる。何が人を不自由にしているかというと、思い込みやつまらない偏見や世間体に囚われることで、年取ることは、そうした余計なものから自分を開放できるチャンスの時でもある。他人のことを気にせず好きなことに没頭できる最後のチャンスではないだろうか?まず、自分自身であるためには、夢中になれる何かを見つけることが一番いいのかもしれない・・幾つになろうが、誰の前にも世界は神秘のまま開かれている。


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梟翁夜話 №113 [雑木林の四季]

「心残り」

      翻訳家  島村泰治

中学を卒業する間際の頃だから、昭和二十五年三月のある日、私は七辻の一角に立ってゐた。終戦の一年前、縁故疎開で埼玉に引っ越して以来、初めて来た南六郷(大田区)に昔の風情はほぼ皆無、見渡す家並みは別世界で、南西の角にあったはずのあの本屋はなく、南東の奥にあるはずの寺も前に立ちはだかる建物の影に隠れて見えない。真南に伸びる街道の先は羽田で、真向ひには京急線の出村駅(今は無い)につながる道が真北に走ってゐる。七辻は東西南北に都合七本の道が分れることからその名があり、昔も今も珍なる街道辻として知られ、格好な道標にもなってゐる。

その日、心算があって私は七辻を背に真っ直ぐ西へ歩いていった。この道の先に六郷神社があり、秋祭りの喧嘩御輿は子供心に心逸る出来事だった。七辻から一丁ほどに四角《よつかど》、ここには北西角に材木置き場があったはずだが今はなく、工場の壁だった左角は何やらの建物、その向ひも見知らぬ空き地がばうと広がってゐる。四方八方見知らぬ街になってゐる。

右手前、北東の角に確かキャンディー屋があったはずだが、と一望して私は棒立ちになった。ある、確かに何やらを商《あきな》ってゐる店らしき家が残ってゐる。店先に何やらを並べて商ふ風情が懐かしい。戦災の焼かれた周囲の景色の中に、逞しく生き残った様子が痛々しくかつ凛々しい。さうか、ここに昔の面影が残ってゐるではないか。私は記憶を弄《まさぐ》ってこの一角の姿を追ひ描いた。

さうだ、キャンディー屋だ。夏の盛りによく五銭玉を握って走ったアイスキャンディーの店だ。自転車の後ろに夏っぽい柄の箱に詰めて売りにも来た、あのキャディーを大きな冷凍庫から直に買へる店、子どもたちにはオアシスにも思へた場所だった。さうだ、同級生がゐたな、キャンディー屋の誰だったか・・・さうだ、確か牧野、牧野君だ、牧野誰だったか、思い出せないが牧野だった。出雲国民学校の同級生だった「牧野君」を思ひ出さうと私は瞑目した。しきりに思ひ出さんにも、牧野君の記憶は学校の場では思ひ出せない。何か思ひついても、全てキャンディーのイメージに上書きされてしまふ。

諦めて目を開けて私はぎょっとした。その店の東隅に人影が見える。見据へればどうやら子供っぽい、年恰好が私に近い男の子だ。何をするでもなく、店の東側にぽつねんと立ってあらぬ方向を眺めてゐる。牧野君じゃないか、と私は咄嗟に思った。東をむいてはゐるが、気なしか右顔でこっちを見てゐるやうにも見へる。思わず一歩、そっちへ歩き始めて私は、何かに抑へられて踏み止まった。ちょっと待てよ、牧野君じゃなかったらなんて言ふんだ、がっかりしたら辛いぞ、良く考へて・・・。

その場に逡巡すること数分、私は思ひ悩んだ末に、ふっとその角を左折して南へ歩き出した。南六郷一丁目二四の六を見てからの帰りにしやう、その時あの子がまだゐれば、思ひ切って尋ねてみやう、と。この番地は私の昔の家があったところだ。まだあるかないか、それを確かめるための南六郷行だったのだ。

左折した先には、左手道路側に「天下一家」の石碑があるはずだ。その石碑の向かいが矢作食堂で、その傍を西に入る道の左側にわが家があるはずだ。

幼時の記憶が頼りの探索行だ。幼時とはいへ十年余程の前に過ぎない。大筋は変はってはをるまいとの期待はすでに七辻で裏切られてゐる。別世界の有り様、あれほど知り切った辻の姿が豹変してゐる現実を突きつけられて、私の幼時の記憶はぐらぐらと揺らいでゐた。

おゝ石碑があるぞ、あの角から思ふより近く幼い頃に馴染んだ「天下一家」の石碑が飄然と立ってゐた。漢字を覚えた頃には、この四文字が何と勇ましく、何と意味ありげに映ったことか。私はクレヨンで文字跡をなぞって胸を膨らましたものだ。

嘗て町会のあった辺り立つその石碑は、腰の高さほどに縮んで見るも貧しい。目を近づけて見れば、彫り込まれた草書の四文字の漢字の底には微かにクレヨンの跡が残ってゐる。私は感極まって石碑を抱きしめた。まだ石碑と同じ身長だった私が、いい字だからなぞって覚えるんだと、クレヨンでなぞった目の高さの天下一家の四文字がここにある、と、私は周囲の怪訝な目を尻目に、石碑を撫でまくった。

七辻から石碑まで、ないもの尽くしで歩いてきた私は、天下一家を背に西をみた。そこにあるはずのものがないこと知り肩を落とした。ここには矢作食堂と云ふ食堂があったはずだ。近所で評判でいつも店内は人が満ちてゐた。その脇を真西へ走る小路が伸び、その途中左側にわが家があるはずだ。あれば一丁目二四の六番地が住んでいた場所に、なるはずだった。

ない。

わが目を疑った。食堂の側を真西に走るはずの小路がない。道はあるが真西ではなく、左斜めに南西へ向かって伸びてゐる。その時点で、私はその日の南六郷行が空しかったことを悟った。その斜っかいの道を辿っては見たが、一丁目二四の六番地はついになく、似ても似つかぬ街並みが延々と南西に続いてゐた。

私は肩を落としてもときた道を戻った。石碑をもうひと撫でして、あの四角に来て「キャンディー店」を見る。目はあの同じ年恰好の男の子の姿を追ふ。が、その子の姿はどこにもなかった。しまった、さっき話し掛けで置けばよかったと悔やみながら、なぜかどこかほっとした思ひが交差した。七辻へ戻る道すがら、あれは牧野君だったろうかとの想像が、刻々とさうに違ひないと思ひ込んでいただけに、不思議な心理だった。

私は米寿を目の前にして大いに悔やむのである。あの日、なぜ卒然とあの店を訪《とぶら》ひ、決然と君は牧野君だろうと語りかけなかったのか。十代の気後れか、己れの肝の足りなさか、私はあの時たしかに何か大切なものを置き忘れたか、取り損ねたかした。今ならば、私は何のこだわりもなく店を訪ね、かの人物に会釈して問ふただらう。牧野君ならそのやうに、人違ひならばそれなりに、語り分けて意味あるいっ時を過ごせただらうに。

思ひ出すままにこれを綴りながら、いましみじみ思ふ。あの日のあの少年は、きっと牧野だったに違ひない。だから、あの日あの時、あの少年にさっくりと話し掛けなかったことが無性に口惜しく、いま私の果てぬ心残りになっている。了


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検証 公団居住60年 №114 [雑木林の四季]

XⅥ 規制改革路線をひきつぐ民主党政権、迷走の3年余

   国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治 

8.公団住宅分割・株式会社化方針とたたかった2012年

 2012年1月20日に「独立行政法人の制度及び組織の見直しの基本方針」、都市機構については分割・再編、特殊会社化が閣議決定されると、全国自治協は1月24日、国会内で「公団住宅を公共住宅として守れ!緊急国会要請集会」をひらいた。与野党議員20人、代理20人が出席し、自治協支持と激励のあいさつで集会は大いに盛りあがった。この日を皮切りに、衆議院解散の11月まで、全国の自治会、自治協はみごとな団結で民主党内閣の公団住宅解体方針とたたかった。
 閣議決定をうけた都市機構の在り方調査会の最終報告はその年の夏に予定されていたので、12年前半が自治協運動のヤマ場であった。
 2月、3月には各団地自治会で、野田佳彦首相、岡田克也行革大臣、前田武志国交大臣あての「機構貸賃住宅を公共住宅として継続することを求める要請署名」と、地方議会にたいする「公共住宅としての継続と居住の安定を求める意見書」採択の請願・陳情にとりくみ、約260団地の会長署名を提出、55地方議会の意見書、12首長の要望書が送付された。首相および各大臣国会議員には居住者一人ひとりから万を数える要請のはがき・手紙がとどけられた。
 国会内では、自治協の動きに呼応して2月から4月にかけて衆院予算、国土交通の各委員会で質疑がかわされた。とくに4月11日の衆院国土交通委員会では自民、公明、社民の3議員が質問にたち、ミニ集中審議となり、前田国交大臣、中塚一宏行革副大臣から「居住者の居住の安定」「機構賃貸住宅の大きな公的役割」についての積極的な答弁をひきだした。
 全国自治協の第39回定期総会は6月16~17日、公団住宅の「分割、特殊会社化」について内閣府の調査会がまもなく結論をだそうとしていたその最中にひらかれた。総会後ただちに、岡田行革大臣と羽田雄一郎国交大臣あての各団地自治会「会長署名」に再度とりくむとともに、両大臣に面会しての署名提出と、8月9日の「緊急国会要請集会」の開催をきめた。
 民主党内閣の国土交通大臣は3年のあいだに前原、馬渕、大畠、前田、羽田とめまぐるしく変わり、要請相手はそのつど別人、その頼りなさがいっそう不安をかきたてた。
 3月につづく再度の自治会会長署名は、岡田行革大臣にあてに7月26日、羽田国交大臣には翌27日に大臣室にたずねて提出し要請した。この日の午前中には衆院国土交通委員会がひらかれ、公明・共産の各委員が調査会の最終報告をまえに質疑をおこない、羽田大臣は、居住者の居住の安定が最優先、委員の論旨は理解していると答えている。全国自治協の役員9人が大臣に面談したさいも、質問者をふくめ民主、自民、生活、公明、共産の5党から9人の国会議員が同席し、それぞれ熱く要請した。大臣につづき8月7日には吉田おきむ国交副大臣とも面会した。
 わたしが自治協役員として関係各大臣、副大臣に直接会って要請する際しばしば感じたのは、閣議決定がさだめた方向、文書に記された方針と、担当の大臣ないし副大臣が個々にかたる談話の内容との違い、隔たりである。「あなた方の言うことはよく分かる」と対応する。だったらなぜ、当事者たちが懸命に反対しているのに、客観的にみても大義の認められないそんな方針を、党として、または内閣が出してくるのか、と首をかしげたくなる。しかし、引っ込めるとはけっして言わない。ふりかえれば、そんな遣り取りをへて、押されながらも公団住宅を守ってきた。当事者の必死の運動があってこそ、力をゆるめ手を引いたらそうはいくまい、と思うことにしている。
 地元選出の国会議員を中心に要請行動をくりかえし、国会内集会をかさね、党派をこえて国会議員のなかに自治協支援のウイングを広げ、担当大臣にも面会をもとめて要請し、政府の決定、方針に待ったをかけてきた。公団住宅の存廃にかかわる今回の事態では、その行動パターンを徹底的につらぬいたと思う。
 8月9日、国会は内閣不信任案提出で緊迫した情勢を迎えていた。岡田行革大臣は内閣の危機をのりこえるためにも、調査会の議論を打ちきりゴリ押しで結論をだしそうだと伝えられた。この日、衆院第1議員会館多目的ホールでひらいた「緊急国会要請集会」も熱気をおび、盛り上がりをみせた。全国から86自治会の代表167人が参加した。集会には、かつてなく多い8党から26人の国会議員と代理24人が出席した。このあと民主党議連総会がもたれ、全国自治協も同席した。
 機構の在り方調査会は2012年8月28日に報告書を発表。9月14日の閣議後、行政改革実行本部はこれを了承した。
 全国自治協は8月31日、調査会報告書にたいする「反論」を発表し、「抗議と撤回要求」声明をだした。この文書をもとに各地方自治協ではいっせいに学習会をもち、宣伝活動を展開し、地方ごとの総決起集会をひらいて、2012年全国統一行動のスタートをきった。
 11月16日に国会解散、12月4日告示、12月16日の投票日まで国をあげての選挙戦にはいった。東京都は石原都知事が都政を投げ出したため、あわせて都知事選もたたかわれた。
 その選挙戦のさなかに全国自治協は12月6日「公団住宅の分割・売却、民営化に反対!公共住宅として守ろう-2012年全国公団住宅居住者総決起集会」を日本教育会館大ホールで開催、146団地873人が参加した。選挙戦のさなかにもかかわらず民主、自民、公明、共産、社民各党の議員から激励のあいさつ、メッセージがよせられた。全国249団地自治会が2012年統一署名にとりくみ、集会後に要請団を編成して機構理事長と国交大臣に提出した署名数は、それぞれ約12万世帯22万人をかぞえた。
 12月16日、総選挙の結果、自民党が勝利し、第2次安倍内閣が成立した。

『検証 公団居住60年』 東信堂



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地球千鳥足Ⅱ №2 [雑木林の四季]

貧しい女の子と分け合った誕生日のランチ~ニカラグア共和国~

    小川地球村塾塾長  小川彩子

 私はスペイン語圏が好き、つい先頃ニカラグアを旋風訪問した。中南米は北米と時差が少ないので、僅かな日程でも楽しんで来られるのが嬉しい。マナグアのホテルの受付が「危ないから一人で外出するな」とホテルの車で見所を案内してくれた。だが、それではアヤコさんの旅ではない。タクシーで身ぐるみ剥がれた体験もある私だ。恐れずバスでグラナダに向かった。
 ニカラグアは大変不幸な歴史を持ち、経済発展はこれからの課題だ。スペインから独立したのは1821年、自由派対保守派の内戦、英国の支配、米国の介入と俺偏政権、サンディーノの戦い、1972年の地震によるマナグアの壊滅、ソモサの悪政、国家債務、米国の再度の介入や米国企業の進出等、読むほどにつらくなる歴史だ。貧困対策はさぞ難問であろうと思える。
 どの通りにも痩せ枯れて手を差し出した老人が座っている。治安は悪く、刃物や拳銃強盗が増えている。いたいけな子どもがバスに乗り込んで逞しく物売りや動物の物まねをしている。食べ物をあげ、不要なものでも唄ってあげた。感染症の新型インフルエンザ・HINlは今が盛りと外務省の注意にあり、私は花粉症用のマスクと消毒紙を持って行ったが、3つの注意を唱えつつ歩いた。「強盗に注意、HINlに注意、下痢に注意」。
 長距離バスは冷房がなく、窓から風と蚊が入ってくる。花粉症マスクが大変役に立った。消化器系のばい菌を殺そうと、食事ごとビール(Victoria、70セント)を注文した。時にはビールでグラスをこっそり拭いて残りを飲んだ。
 グラナダは古い伝統を守っている魅力的な町だ。16世紀のコロニアルスタイルの家並みを見ながらカルサダ通りをニカラグア湖まで歩いた。オメテペ島へのフェリー乗り場の入り口は内戦時、敵と戦った要塞になっており、暇な衛兵に誘われピアーをてくてく歩き、きれいに霞むモンバチョの丘を眺めた。通貨単位になっているコルドバ像の近くから2頭立ての馬車に乗り、快適な蹄の音を立てながらコロン公園周辺や古い街並みを優雅に観光した。
 その時、思い出した。今日は誕生日だ! 下痢に注意、といったって今日ぐらいは食べなくちゃ。道路端の丸テーブルに座り、ビーフサンドを注文した。すると3歳ぐらいの可愛い顔立ちの女の子がチョコンとテーブルの向かい側に座った。あたかも招待されたかのごとく澄ました顔で座り、手を差し出した。熱々のフライドオニオンを手に載せてあげるとニッコリして食べ始めた。手も顔も汚れてまっ黒。大きなサンドイッチも半分に分けてお皿に載せてあげた。周囲の食事客たちが微笑んだ。彼女も幸せ、誕生日に食事を分ける相手が現れた私も。
 美しいメルセー教会の屋上には日本のお寺の鐘とそっくりで綱までついている鐘があり、引っ張るとゴーンと懐かしい音が響く。四方の眺めは最高! コロン公園、カテドラル、ニカラグア湖、私の好きな中南米独特のオレンジ色のスレート瓦のその古さと情調にうっとりする。夏の中米の教会の屋上で大鐘の下に一人件む中年?の女、映画のシーンみたいでしょ?
 誕生日に外国で鐘を撞く嬉しさ。吹き抜ける風の心地よさ。夜は公園脇のレストランで魚のバター焼き。夕食を始めた時なんとマリアッチがやって来た。2、3のテーブルで断られ私の席へ来た。もちろん頼んだ。彼らはニコニコして、「ベッサメムーチョがいいでしょ」と勝手に決め演奏し始めた。手元に3ドルしかなかったがとても喜んで、代表が「日本人、大好きー」と言ってバグしてくれた。私が皮切りになって次々とお呼びがかかり、彼らはハッピー、マリアッチの音楽で誕生日の夕食が盛り上がった私も幸せ。素晴らしきかな、ニカラグアの誕生日。
 レオン市までまたマスクをして得意の長距離バスで到着。詩人ルベン・ダリオの家、レコレクシオン教会、ソモサ将軍の撃たれた家、革命に命を捧げた若者の写真が並ぶ英雄記念館、サンディニスタ民族解放戦線の事務所等歩き回った。ウナン・レオン大学も訪問して暫し大学生との会話を楽しんだ。だが魂を揺さぶられたのは中米最大のカテドラルだった。内部にはキリストが処刑され十字架から下ろされるまでがリアルなタッチで描かれ説明付きで展示されている。目を奪われていた時、ミサの鐘が鳴り、司教の説教が教会内に響き渡った。次の言葉も次の言葉も波紋のようにこだましていく。人生観が変わるほど心に響いた。「以後は清廉潔白に生き正義を忘れないぞ!平和に身を捧げるぞ!」と青年のように誓ったのだった。         (旅の期間・2010年・彩子)

『地球千鳥足』 幻冬舎


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日本の原風景を読む №42 [文化としての「環境日本学」]

宮沢賢治の海-石巻 1

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

形あるものが消えた時、言葉とは

 東日本大震災と東京電力原発のシビア事故は、人類史上空前の環境破壊事件である。地震、津波、放射能によって被災地の「自然環境」と「人間環境」は壊滅した。
 形あるものはことごとく破壊され、無形の「文化環境」が人々の心に残った。私は、私たちは何者であるのか、どこから来て、どこへ行こうとしているのか。己れのアイデンティティを確かめることが、被災地にとどまらず心ある日本人に問われている。
 被災地では軒下の段ボールの端に、瓦礫の壁に、消えた町を見下ろす寺社の境内の到る所に、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩がなぐり書きされていた。とりわけ、津波に直撃されて解体作業の受け入れを意思表示した人家の壁に、時には張り紙にしてこの詩の一部が記されていた。人々は瓦礫の街、故郷を去る間際に、賢治の「雨ニモマケズ」を思い浮かべたのである。
 被災地に狼火のように明滅する「雨ニモマケズ」の詩の断片の背後にある被災者たちの心情が、谷川俊太郎の詩「言葉」に活写されているように思える。

  何もかも失って
 言葉まで失ったが
 言葉は壊れなかった
 流されなかった
 ひとりひとりの心の底で
 言葉は発芽する
 瓦礫の下の大地から
 昔ながらの訛り
 走り書きの文字
 途切れがちな意味
 言い古された言葉が
 苦しみゆえに蘇る
 哀しみゆえに深まる
 新たな意味へと
 沈黙に裏打ちされて

 それによって暮らしてきた形あるものが消し飛ばされたとき、人は生きるよすがとして無形の存在を思うものなのか、あるいは否か。3・11が私たちに発した不可避の問いのように思える。原子炉のメルトダウンとあわせ、二大事故の連動が日本にとって文明史的な事件であり、社会規範の変化を伴う出来事とみられている背景である。
 しかし、東日本大震災から九年を経た二〇二〇年の現在も、当時直観的に予測されていた社会の「変化」は、この社会に潜在したままで、原発再稼働にみられる「復旧」のみが目立つ。首都圏直下型地震と東南海トラフ地震の向こう三〇年間の発生確率が八〇パーセントと予測されているにもかかわらず、である。

宮沢賢治と津波の海

 海に向かって壊滅した町を一望に収める石巻市の日和山公園の頂きには、震災の直後段ボールを長方形につなぎ合せて「雨ニモマケズ」の全文が黒い槽書文字で記されてあった。賢治は、死者・行方不明約二万二千人を記録した一八九六年の「明治三陸地震」(マグニチュード八・二)の二か月後に生まれた。そして世を去る半年前の一九三三(昭和八)年三月三日、約三千人の犠牲者を伴った「昭和三陸地震」(マグニチュード八・一)が起きた。二つの三陸大地震の間を生きた賢治の身体性が予見していたのだろうか、日和山公園にある賢治の碑に、あたかも津波を予感するような「われらひとしく丘にたち」の詩が刻まれている。
 明治四十五(一九一二)年五月二十七日、賢治が中学校四年の修学旅行の折に、北上川を川蒸気で下り、石巻の日和山から生まれて初めて海をみて強い感動を受け、その折の印象をこのように詠んだ。

 われらひとしく丘にたち
 青ぐろくしてぶちうてる
 あやしきもののひろがりを
 東はてなくのぞみけり
 そは巨いなる盤の水
 海とはおのもさとれども
 博へてききしそのものと
 あまりにたがふここちして
 ただうつつなるうすれ目に
 そのわだつみの潮騒の
 うろこの国の波がしら
 きほひ寄するをのぞみゐたりき
 苦しみ、もがき、希望を失わず生きる

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店


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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №200 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

芸備線① 

       岩本啓介     
                                 

芸備線げいびせんは、岡山県備中神代駅から広島県三次駅を経て広島駅に至るJR西日本の鉄道路線                   
今回は備中神代~比婆山の区間です。山あり川あり田んぼあり 長閑な里山の風景でした

①ヒバゴンのふるさと  

200芸備線・備後落合~比婆山キハ120 (3).jpg
                                                   
ヒバゴンは、日本に生息すると言わる類人猿型の未確認動物のひとつで、ヒバゴンの名称は比婆山に由来しています。昔、騒がれたましたね。そこら辺にいても おかしくない秘境感漂う 場所でした                                    備後落合~比婆山                                                                                                                                        

②雲が流れる棚田   

200芸備線第5成羽川橋梁・内名うちな~おぬか小奴可443Dキハ120.jpg
                                                    
朝 昼 晩 一日3往復の区間、人も自転車も通りません。 懐かしい日本の里山風景が広がります
JR西日本営業係数ワースト1区間で、来年もこの景色は見ることができればいいのですが
内名うちな~おぬか小奴可 

③藁ぶきの古民家  

200芸備線・道後山~備後落合・古民家.jpg
                                            
藁ぶきの古民家の多くはトタンを被せた屋根に変わってしまいましたが ここは現役です
この景色が できるだけ長く あるといいなあ。と願うばかりです                    
道後山~備後落合                                                                                                                                                                                                                                                                                      


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押し花絵の世界 №160 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「イングリッシュガーデンへようこそ!」

      押し花作家  山﨑房枝

2022・6月下.jpeg
54cm×45cm

アリッサム、レースフラワー、ワスレナグサなど合計20種類の植物を使用した華やかなイングリッシュガーデンです。
洋館は白樺、牛蒡、筍の皮、クリスマスローズなどで制作しました。



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ミツバチからのメッセージ №68 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

東京の二ホンミツバチ 1

   造園家・ミツバチ保護活動家  御園 孝

 多くの人たちはミツバチと言ったらセイヨウミツバチを連想するでしょう。しかし東京にも野生二ホンミツバチが、意外と多く住みついています。
 巣などが人に見つかると、刺されたら危険だと言って、殺虫剤でアッという間に殺されてしまっていましたが、処分される前に保護をするようになると、少しづつ保護依頼が来るようになりました。
 都心の浅草にある浅草寺と浅草神社境内には、以前7群ほどの二ホンミツバチが住み着いていました。第二次世界大戦の東京大空襲で焼けて復活した木には、高さ4~8m付近に洞ができ二ホンミツバチの住処になっています。多くの観光客でにぎわっても、高い部分の二ホンミツバチと遭遇することはありません。低い部分の洞や石塔などに住み着いた群れは、駆除対象になるので保護するようになりました。保護した群れは安全な場所に移動させます。

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都会のど真ん中の浅草寺に二ホンミツバチがいる
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浅草寺のお隣の浅草神社にも二ホンミツバチがいる 
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高い部分の巣は問題ない
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低い部分は保護対象
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浅草神社の縁の下のミツバチ




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