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妖精の系譜 №72 [文芸美術の森]

自由な「中間王国(ミドルキングダム)」 2

         妖精美術館館長  井村君江

 民間に昔より伝わっていた土着信仰である妖精信仰は、アイルランド民族の精神の深いところに根ざしたものである。古代の人々に連なる思想の一つである、とイエィツは考えている。従って文学作品のプロットやテーマという表面的なものではなく、彼自身の血の中から必然的に求められたものであったといえよう。そして彼の詩はつねにこの土着のものと深く結びついているため、アイルうンドの土地、ケルトの世界観、民族の風習や考えから理解する必要があろう。従ってイエイヅが採集しているアイルランド伝承の妖精物語の知識から彼の書いた詩をみていくとき、いままでとは違う解釈ができるように思うのである。その一例を示してみょう。
 イエイツが死去する前年、一九三八年九月に書いた『ぺン・バルベンの下』という詩がある。その最終第六連の最後の三行は、今でも墓碑銘としてスライコーのドラマクリフに建つ墓に刻まれている。

  生も、死も、    Cast a Cold eye
  冷たく、見ながせ、  On life, on death
  騎馬の男よ、行け!  Horseman pass by!

 第六連には「裸のべン・バルベンの頂きの下、ドラマクリフの教会墓地にイエイツは横たわる。昔、祖先の一人がここの教区牧師をしていた」とあり、曽祖父ジョン・イエイツが牧師をしていた教会の墓地、彼の愛した母方の故郷スライゴーのペン・パルベンの山が見はるかせるところに、石灰岩の墓石の表に「神の求めにより」イエイツ自身の遺志で右の一詩句が刻まれたことがわかる。しかし教会境地といっても近くには古い石のケルト十字架が建っており、へン・バルベンの山は妖精伝承物語の宝庫であり、キリスト教と異教とが妙に入り混った場所なのである。
 この三行の詩句のうち「騎馬の男」というのは!自分の墓のそばを通る見知らぬ人、馬に乗った旅人として、この詩句の意味を「生を終えいま死にある自分の墓を冷たく見ながら通りすぎよ」と呼びかけるのだとする解釈が一般的である。しかし、この詩の第一連をみると、初めは「騎馬の男ら」と複数であり、女たちも馬に乗っているので集団の一人であることがわかる。

  あの騎馬の男ら、あの女どもにかけて誓え、
  肌の色合、姿かたちが超人のあかしだ。
  情念の完璧さによって、不死の性を
  おのがものとし、空をかけゆく、
  あの色青ざめた面ながの一群にかけて誓え。
  べン・バルべンが情景をさだめるところ、
  いま、冬の夜明けに、彼らは鳥を駆る。

 馬に乗る者たちは、色青ざめ面長な顔をし「超人」となっているし、また「不死の性」を持つものであり、冬の夜明けにベン・バルベンの山の彼方の空を駆ける者たちなのである。これは人間ではない、あの世に近い者たちであることがわかる。

  人は二つの永遠にはさまれて、
  種族の永遠と魂の永遠にはさまれて、
  何度でも生き、何度でも死ぬゥ
  古代アイルランドはそれを知りぬいていた。
  ベッドで死のうと
  ライフル銃で撃ち殺されようと同じこと、
  恐ろしいといっても、たかだか、
  一時のあいだ親しい者と別れるだけだ。
  墓掘り人足がどんなに手間をかけて働いても、
  どんなに筋肉がたくましくても鍬の刃が鋭くても、
  結局は埋葬した者を、また、
  人間の精神のなかに押しもどすだけだ。

 「人は二つの永遠にはさまれ、何度も生き、死ぬ」「死は一時親しいものと別れるだけ」この考え方を「古代アイルランドは知りぬいていた」というのは、アイルランドに古代からいきわたっていたドゥルイド思想にある「霊魂不滅」「輪廻転生」の考え方であり、「死はもう一つの生の「入り口」とする死生観である。またこの世で死んだ者は、「人間の精神のなかに押しもどされるだけ」というのも、森羅万象を通じてめぐっている大霊の中に戻り、そこで転生するという考え方にほかならない。人は死んでもまた生まれかわるとすれば、死はただ一時の別れにすぎない。こう生死を達観できれば生も死も冷たく見ながすことができる。すなわち生死の区別というものがそこでは消えているのである。
 こう考えてくると、騎馬の男ら女らというのはこの世の生を終えたものたち、大霊と一つになりまた輪廻するものたちともとれる。あるいはハローウィン前日(十月三十日)の夜から暁にかけ、一年に一度、自分の丘を一めぐりすると言われる妖精の騎馬行の一行と見られるのである。英雄妖精であるアーサー王は永遠のその時が来るまで眠っているカドベリーの丘のまわりを、またフィッツジェラルド伯はムラグマストの丘のまわりを、多勢の従者と一緒に馬に乗って、ハローウィン前夜にひとめふりするのである。彼らは不死の生を得ているのである。
 イエイツが最後に、「騎馬の男よ、行け」と呼びかけているのは自分自身に対してであるという解釈ができるように思う。いま地上の死というくびきを断って、次の生へと飛び立つのだ、地上より空へ回かって、行け、そして暁の空駆けるあの騎馬の一群に加われ、そして共に永遠の妖精の騎馬行を行うのだ、と、自らに言い聞かせているととれるのである。
 この解釈を可能にさせる一つの新しい資料が最近発見された。イエイツの未発表の書簡であり、一九三八年八月十五日付で、リルケに関する意見を余白に書きつけたものである。そこには前述の二行の墓碑銘の前にもう一行つけ加わっていた。しかし詩集に入れるときは削除してしまった言葉である。
 手綱を引け、息を吸え(Draw rein, Draw breath)で、ここにはこれから馬を駆けさせる騎馬の男の用意する姿勢がうかがえるのである。そしてこれは自分に向かって心の準備を言っおり、しっかり息をし、手綱をとり、勇気をもってこの世の生を終りもう一つの生へ、永遠の生を生きるために冬の夜明けの空を駆け、大霊のもとへ行く妖精の騎馬行の群れに加われと言っていると解釈できるのである
 このように「騎馬の男(ホースマン)」一語の解釈についても、イエイツが知っていたであろうフェアリー信仰の妖精の騎馬行からみていくと、新しい解釈が生まれてくるのである。

  大理石は要らない。決まり文句も要らない。
  ちかくから切り出した石灰岩に、
  彼の求めによってつぎの言葉が刻まれる。

    生も、死も、
    冷たく見ながせ、
    騎馬の男よ、行け!

『妖精の系譜』 新書館


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