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夕焼け小焼け №38 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

早稻田入学式・早稻田文庫

           鈴木茂夫

 昭和24年(1949年)4月1日金曜日。快晴。
 きょうは早稻田大学の11の学部の入学式だ。大隈講堂で行われる。午前10時からの第一政経学部、第一法学部、そして第一文学部だ。講堂の前は角帽をかむった新入生で埋まっている。
 私は一階の中程に席を占めた。隣に座った男が笑顔で話しかけてきた。
「僕は岩丸太一郎、ロシア文学科です。君は」
「僕は鈴木茂夫、東洋哲学科、名古屋の惟信高校からです」
 肩幅の広い岩丸は、
「僕は東京、都立青山高校。学校新聞を作っていた。『くまんばち』っていうの。君は」
「僕たちは『葦笛』です。僕が編集長だった。月に一度出す」
「『くまんばち』は月に2回出していたんだ。忙しかったけど」
 定刻だ。舞台の緞帳が開くとガウンにた角帽をかむった教授が並んで席についた。舞台下のオーケストラ・ボックスには、学生のブラス・バンドが待機している。
 島田孝一総長が演壇に立った。
「新制早稻田大学は、ここに最初の君たち新入生を迎える。おめでとう。今度の戦争で
  約4500人の学生が学園から戦いに出かけた。戦時中の空襲によりいくつもの被害を受けた本学は、学園復興に取り組んでいる。君たちがわが学園の伝統を受け継ぎ、孜々として勉学に励んで欲しい」
  第一文学部長谷崎精二が訴えた。
「早稻田の文学は坪内逍遙先生にはじまり、多くの文人・作家を生んで今日にいたっている。その流れを汲んで欲しい。君たちはその歴史の後継者だ」
 文学部長の訴えは胸に響いた。
 ブラス・バンドが前奏を開始。1000数百の学生が起立し校歌の斉唱だ。
  
  都の西北 早稲田の杜に そびゆる甍はわれらが母校
     われらが日ごろの抱負を知るや 進取の精神学の独立
     現世を忘れぬ久遠の理想 輝くわれらが行く手を見よや
     早稻田 早稻田 早稻田 早稻田 早稻田  早稻田  早稻田
 
 みんな懸命に歌っている。私も声をあげた。夢中で歌った。故郷の山に何度も歌った。でもそれとは違う。総長が歌っている。教授も斉唱している。大勢の学友と歌っている。私は陶酔していた。この学校の一員に晴れてなったと嬉しかった。

    東西古今の文化の潮 一つに渦巻く大島国の 大なる使命を担いて立てる
    われらが行く手はきわまり知らず

  私たちはこうして、早稻田の一員になったことを自覚したのだ。私は作家かジャーナリストをめざそうと改めて心に刻んだ。

 式典が終わり、みんな外へ出た。それをまとまるように一人の若者が整理している 。
 その前に三脚を立ててある。記念写真だ。400人以上が講堂の入り口には階段に並んだ。
  「いいですか。いきますよ。目を開けて」
 写真技師は大声だ。いつも集団の写真を撮り慣れているんだ。三回シャッターを切って終わり。その場で撮影料を支払う。

 なんとなく文学部の前まで来ると、年期の入った顔つきの女性が前に立ちはだかった。 「あなた新入生でしょ。わたしは旧制の英文科の二年柳瀬従子。あのね、新しくつくる早稻田文庫のメンバーになってよ」
 「はあ、なんですかそれは」 
 「そこのね、南門を出ると高田牧舎があるでしょ。その裏手のこじんまりした家があるの。国文科の富安先輩の家よ。そこにね。仏文の新庄先生、小林先生が賛同して蔵書の一部を持ち込んだの。おばさんがコーヒーを淹れるわ。あなたたちは基本金1000円を払ってメンバーになる。月々の会費は1000円だわ」
 私は反射的にうなずいたようだ。 柳瀬女史は並んで門を出た。路地を入る。こじんまりした一軒家があった。柳瀬さんが扉を開けた。
 「新入生一人連れてきたわよ」
 女学生が3人拍手した。
 20坪ほどの大谷石を敷き詰めた部屋。2面の壁は天井近くまで書籍で埋まっている。椅子が10脚はある。腰をおろした。
 「君、じゃあ、払って」
 2000円払うと、コーヒーがでてきた。 私のたまり場ができたのだ。
  外に出て行った柳瀬女史が、新しい学生を連れてきた。顔見知りになっている大河内昭爾君だ。大河内君はニコニコしながら、
 「おや君も拉致されたの。僕は新人じゃないよ。去年旧制の第二高等学院に入学していたんだから」
  「あらそうなの。でも新制には間違いないでしょ」
 柳瀬さんは自分が旧制のお姉様であることを強調すると同時に、新制のわれわれを若く言う。
 コーヒーを口にしてから、大河内君は話し出した。
 「僕は国文科だ。早稻田の先輩の作家を何人も訪ねたんだ。今は丹羽文雄さんのところに入り浸っている。僕の家は宮崎県の浄土真宗の寺院だ。丹羽さんの実家も浄土真宗の寺院ということがあって出入りしている。丹羽さんのところでは、月の15日に集まる。十五日会という。そして同人雑誌『文学者』を主宰しているんだ。君もその気があるなら、いつでも案内するよ」
 大河内君はすでに文壇の片隅に登場しているんだ。

 週明けに早稻田文庫に顔を出す。10数人の顔があった。大河内君が同人雑誌の『流』の連中に呼びかけたらしい。  これらの人の後の職業を書き出してみた。大河内昭爾君(武蔵野女子大学学長),安倍徹朗(脚本家・鬼平犯科帳)、久本(文藝春秋編集部)山路(日本経済新聞)

 コーヒーを飲んで何時間でもいられる場所だ。噂がちらばって、ぼつりぼつりと会員が増えていった。

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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №226 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

廃線・廃駅巡り 

          岩本啓介

227石北本線旧白滝駅2016年3月25日廃駅 のコピー.jpg
   
石北本線・旧白滝駅2016年3月25日廃駅
実は JR北海道はもっと早く廃止したかったようなのですが
この「旧白滝駅」から「遠軽駅」まで通学する一人の女子高校生が卒業するまで
というJR北海道の「粋な計らい」があったようです(*^.^*)



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押し花絵の世界 №203 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

紫陽花のスマホケース

       押し花作家  山﨑房枝


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お母様から娘さんへのプレゼントにオーダーしていただきました。
ピンクが大好きな娘さんに、旬の紫陽花をたっぷり使い、パールやキラキラ光るストーンで装飾して可愛く仕上げました。
「お花を持ち歩けて嬉しい!」と喜んでいただけたとお聞きして、胸がいっぱいになりました。

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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №60 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

行田の童 原画 4

       銅板造形作家  赤川政由」

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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №225 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

廃線・廃駅巡り

           岩本啓介

JR北海道は毎年、3月末は 廃線・廃駅の季節

①根室本線・幾寅駅・映画ぽっぽやでは『幌舞駅』駅長が高倉健

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2016年の大型台風により、JR根室本線は大被害を受け、その後も復興することもなく、
ついに2024年3月に新得駅~富良野駅は廃線(※バス輸送に転換)が決定
ただ、列車の発着は無くなった幾寅駅ですが、年間3万人が訪れる観光地です
『幌舞駅』として存続していく模様です
       
2022年10月25日8:33撮影
        
②旧国鉄広尾線幸福駅・1987年廃線

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愛国駅から幸福駅行きの切符が「愛の国から幸福へ」のキャッチフレーズで一大ブームに
『幾寅駅』の未来は『幸福駅』のようになると、いいですね
     
2015年6月14日12:42撮影


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夕焼け小焼け №37 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

岡崎高校不合格・新制高等学校3年生 2

           鈴木茂夫

 私の予想だが、国公立の大学は、国語、英語、社会と数学と理科の5科目を出題するだろう。だったら国公立はあきらめるしかない。私立の大学は、理科系と文科系により、科目数が変わるのではないだろうか。たとえば南山外語が大学になったら、英国社の3科目だろう。慶應義塾は旧制の予科の試験に数学を出題している。慶應義塾は諦めるしかない。早稻田大学には、第一、第二の高等学院があり、第一高等学院は数学を出題、第二高等学院は、数学はなく英国社の3科目だ。ならば早稻田大学は、この流れを汲むのではないだろうか。
 私は早稻田の第一文学部を目標にしようと思った。早稲田文学の足跡が輝いて見えた。数学が出題されると合格はないと強調、母にひたすら早稻田に入りたいと願った。何度も話しあった末、早稻田ならいいだろうと了解してくれた。                             
 オノケーの英語参考書をはじめ、いくつかの英文解釈の参考書は、入学試験に出題された例題の文末に出題校が記してある。早稻田の高等学院は(早高)と記載されている。しらみつぶしに、早高の問題に取り組む。10ばかりの問題があった。問題は易しくはなかったが、無理なく解けた。

 学校の図書室で『英文法図表』をみつけた。著者は市河三喜、東京帝国大学文学部英語科の教授として英語学の基礎を築いた大家だ。好奇心からおそるおそるひもといた。

  CONJUNCTION   接続詞
  定義 語、句、文などを結びつける語。
   種類 Co-ordinate Conjunction(等位接続詞)文法的関係の対等なる語、句又は文を結び付けるもの。等位接続詞の一種に二語相関するものがある。これを特にCorelative Conjunction(相関接続詞)という。
        Both brother and sister are dead.
        Either my brother or John has done it.
        He neither drinks nor smokes.
        Subordinate Con;junction(従位接続詞) 従節を主節に結び付けるもの。例文にえ於て、“If  you see him,“ “after I‘ve  written  it.等は何れも従節、“tell him so,“I‘ll  let  you see it“ 等は主節である。
        
 難解な言葉がでてくるが、当然のことを当然として説明されている。慣れてくると言葉の言い回しも正確で、馴染んでくる。頑張って読み上げた。
小原君に得意になって話したら、「好んで難しい文法解釈するといいことがあるの」と笑った。

 ただ日本史には問題があった。戦後の歴史は西暦を使う。私は年号を皇紀で習っていたから、西暦に変換しなければならない。皇紀は西暦より660年古い。これは忘れなければならない。出題する先生も大変だ。
 日本史の流れを理解して「ゴミや(538)が伝えた仏教伝来」と語呂合わせしていくのだ。
「以後よく(1549)広まるキリスト教」「人群れ騒(1603)ぐ江戸幕府」一日に一回は、この語呂合わせを復習した。少しずつ身についていく。

 参考書籍を買おうと広小路に出る。第八高等学校に入学した熱田中学の内田に出会った。 「よう、君らは新制だから来年の試験に備えてるか。僕は旧制の八高だからよ、哲学をやっとる。フィロソフィーレンだ」
 頭ごなしにこの挨拶だ。いいように見下している。負けてはいられない。
 「君は来年旧制の大学に行けるのか。僕と同じ新制大学の試験を受けるのと違うのか」
 内田はふと困惑した。
 「うん、僕ら旧制高校一年生も、君らと同じ新制大学の試験を受けるのはたしかだ。だが学校では、伝統のある旧制高校の授業をやっとるんだ」
 「試験にフィロソフィーレンが出題されれば君の勝ちだ。君は頭が良いから、旧制の八高に入っている。新制高校の僕は新制大学受験の勉強をする。試験場で会おう」
 内田は黙って去って行った。

 夏休みは大倉で過ごした。学習は英語・国語・社会の3科目。8時間から10時間学習した。上半身裸で机に向かう。くたびれると水を浴びた。休憩時間に1時間ほど歩き、鍛治屋敷で牛乳を買ってくると,母がカスタード・プリンを作ってくれた。それは家族3人で暮らしていた頃の味だった。

 二学期になると、だれもが真剣に学習していた。試験の概要は分からないままだ。
 そんな時、軍が放出した冬の軍服の上着が配給された。分厚い生地だが、寒さをしのげそうだった。
 
  小原重二君は東京銀行の採用が決まった。東京銀行は明治13年(1880年)に設立された横浜正金銀行の流れを汲んで東京銀行となった。入行試験には常識問題はもちろん、英語も出題され、学校での成績も勘案、家庭調査も行われたという。新人は8人の採用。一流銀行に決まってよかった。

 3学期に入る。フォックス・柴田先生から話があった。
 「君はお父さんが戦死、お母さんと2人で台湾からの引き揚げ、名古屋でお父さんの親友の家から、惟信に通ってきた。早稻田大学が不合格だった場合、就職もかんがえざるをえないだろう。立ち入ったことになるが、新制弥富中学が英語担当の教師を欲しがっている。君の学力なら臨時教員としてやっていける。2年経って正規の教員の検定試験に合格すれば、しっかりと暮らせる。よかったら推薦するが」
 嬉しいありがたい話だった。しかし、早稻田には是非入りたい。
 「先生、ご配慮ありがとうございます。ですが、早稻田には入れるほどに勉強してきたつもりです。早稻田一本でやりたいのです」
 「きみがそういうなら、そうすればいい。もし不合格なら、もう一度相談しよう」
 先生の温かい気持ちが嬉しかった。でも合格をめざして頑張らなければ。

 それから2年。早稻田大学の構内で内田と出会った。内田は名古屋大学を受験して2回不合格。早稻田大学にも遅れて入学したという。私は「やあ、おめでとう」と握手した。内田も笑顔で応えた。一昔前のことは口にしなかった。学制改革は受験生に思わぬ結果を招くことがあった。


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押し花絵の世界 №203 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「紫陽花のコンパクトミラー」

         押花作家  
山﨑房枝

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2000種類以上ある紫陽花は押し花としても、とても可愛く使いやすい花材です。
今回はシンプルなシルバーのコンパクトミラーに、アクリル絵の具とレジン液を混ぜてピンクと水色のベースを塗り、その上に様々な種類の紫陽花とノースポールをデザインしました。
最後は透明のレジン液で全体をコーティングしてからUVライトで硬化して仕上げました。


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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №57 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

行田の童たち 3

        銅板造形作家  赤川政由

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多摩のむかし道と伝説の旅 №127 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

           多摩のむかし道と伝説の旅(№29)
              ー西多摩の多摩川河畔の桜道を行く-7
                    原田環爾

 一本杉を後にすると堤の道はゆっくりと右方向へカーブしてゆく。やがて前方堤の下に鳥居が立っているのが目29-38.jpgに飛び込む。羽村の羽加美にある古社阿蘇神社だ。鳥居は南参道の入り口なのだ。鳥居をくぐると真っすぐ伸びる長い未舗装の参道が続く。参道に入って間もなく、右手雑木林の中に古びた五輪塔と宝篋印塔、更に八幡祠と竜蚊社の合計5基の石造物が立っている。うち2基の五輪塔の1基は、この近くにある一峰院という寺を開基した三田雅楽之介将定等の墓と言われる。中世の青梅、奥多摩を支配した豪族三田氏の一門で、支配領域の東端に位置する長淵郷から羽村にかけて支配していた一族だ。29-39.jpg左端の八幡祠は将定を祀ったものと言われ、また右端の竜蚊社は一種の水神と言われる。
 陽光の降り注ぐ長い南参道を進む。細流を鍵の手状に渡って更に進むと、左に多摩川の流れが迫ってきて再び鳥居の下に来る。鳥居をくぐり階段を上がると、その段丘上に阿蘇神社の社殿が建っている。7世紀初頭の創建という古社である。境内はこじんまりとした樹林で覆われた空間であるが、左端は多摩川を望む段丘上の縁になっていて、遠くに小作堰の管理29-40.jpg橋を望む素晴らしい河原風景となっている。阿蘇神社には承平天慶の乱で活躍した平将門や藤原秀郷の伝説があり、社殿の左手の段丘上に秀郷の手植えという樹高18m、幹回り6.2mの椎の巨木が立っている。社伝によれば阿蘇神社は推古天皇9年(601)神託により当地に創建されたという。古くは阿蘇宮と称した。祭神は健磐龍命。神武天皇の皇子神八井耳命の御子で、九州阿蘇一帯を治めたことから阿蘇大神とも称する。平将門や藤原秀郷による社殿造営の伝説のほか、中世に於いては三田氏に手厚く庇護され造営された。
 29-41.jpg阿蘇神社にはこんな伝説がある。10世紀の初頭、桓武平氏の平将門は腐敗した京の中央政権に反抗して常陸で反乱を起こした。世に承平天慶の乱という。土地の相続を巡る叔父国香との衝突に端を発し、次第に反国家権力の姿勢を鮮明にし、天慶2年(939)常陸国府を襲撃、更に坂東八ヶ国を次々と落とし自らを新皇と称して独立王国を宣言した。丁度その頃、将門には奥多摩の棚沢の将門っ原に館があり、愛妾の滝夜叉姫を住まわせていた。将門は折を見ては29-42.jpg滝夜叉姫を訪ね、その際は必ず羽村の阿蘇宮に立ち寄った。承平3年(933)には社殿も造営している。一方将門の反乱に対し、朝廷は参議藤原忠文を征討大将軍として京より派遣するとともに、東国の諸豪族に将門討伐を命じた。下野の豪族藤原秀郷は帝の命に応じ、国香の息子平貞盛とともに3千の軍勢を率いて将門と戦った。将門は次第に追い詰められ、天慶3年(940)戦いの最中、額を矢で射抜かれて落命する。ところが将門討滅後、将門の魂が雷神になって敵将を焼殺したとか、京に送られた将門の首が目を見開いて白光を発して空を飛んだといった奇怪な噂が相次いだ。秀郷は将門の怨霊を鎮めるため、天慶3年(940)阿蘇宮の社殿を造営し、社殿の傍らに椎の木を手植えしたという。
 阿蘇神社の東参道の大鳥居を抜けると小さな辻になっている。右の里道へ折れて 一峰院へ向かう。里道に入ると畑の一角に吉祥寺跡と記した由緒書が立っている。今は廃寺となった寺の跡という。新編武蔵風土記稿によれば、吉祥寺は山号を山王山と号し、一峰院の末寺であったという。本尊は釈迦立身木造。文化11年(1814)火災で焼失したため、嘉永7年(1854)から一峰院の管理に移されたという。
29-43.jpg 里道をうねうねと辿りハケの急坂を下ると境内の竹林が見事な一峰院の山門の前に来る。山門は2階建ての楼門に鐘楼を兼ねた珍しい鐘楼門になっている。山門をくぐると正面に本堂があり、左手に半僧坊権現堂がある。その裏手には見事な竹林となっている。臨済宗建長寺派の寺で山号を龍珠山と号す。応永31年(1424)長淵系の三田氏である三田雅楽之助将定による開基とされ、開山は周防国高山寺に住した玉英和尚という。宝暦9年(1759)に焼失したが、明和3年(1766)再建された。寺宝に十一面観音像、不動明王像などがある。文化6年(1809)江戸の狂歌師太田蜀山人が幕府役人として羽村に来た折、一峰院に立ち寄り記録を残している。
29-44.jpg 一峰院の前は広大な根溺前水田が広がり、遥か遠くには先の雨乞坂辺りが遠望できる。山門前からハケ下に沿う道は50mほど先で緩やかに左へ曲がり上り坂となってハケを上がってゆく。この坂を間坂といい、それに続くハケ上 の北へ伸びる道を間坂街道という。この間坂辺りが三田氏支配領域の東端と言われ、ここを境に三田氏と小宮氏が支配地を分けていたようだ。なお一峰院前から坂の辺りにかけての崖下は白木と呼ばれ、古墳時代の遺物が出土し、羽村で最も早くから開けた所といい古い家柄の家も多いという。羽村町教育委員会「はむらの歴史」によれば、白木は羽村発祥の地と言われ、白木の意味は城木、すなわち城郭、居館の柵などを意味しているのではないかという。三田氏と関係のある地名という。
29-45.jpg 阿蘇神社の東参道前に戻り、羽加美の集落の小道をうねうねと進む。古い土地柄のため、道が複雑に入り組んでうっかりすると方向感覚を失ってしまうので注意が必要だ。要は多摩川の段丘の縁に沿って小作取水場を目指すことにある。羽村西小学校の校庭の外周路を過ぎ羽西地区に入ると、約100mにわたって鬱蒼と竹林が繁茂する多摩川べり段丘上の小路に出る。竹林を過ぎると視界が大いに開け、眼下に切り立った段丘下をとうとうと流れる多摩川の流れが目に飛び込む。目をあげれば前方に大きく近づいた小作取水堰の管理橋が望見できる。古くから土地の人が「精進ばけ」と呼ぶハケはこの辺りのことを指すのであろうか。精進ばけに伝わる伝承にこんな話がある。昔、精進ばけの上に大日如来を祀った古びた堂宇があった。ある時、多摩川が洪水に襲われ、その際にお堂が流れ出て、遥か川下の拝島の河原に上がった。それを見つけた村人が拾って手厚く祀った。それが拝島の大日堂である。但しこの話には他に日原鍾乳洞から流れ出たという説もある。
29-46.jpg 段丘上の遊歩道の小路に入り、うねうねと進むと小作取水堰の管理橋の袂に建つ民家にふさがれて進路を阻まれる。コの字型に迂回して坂道を下ると管理橋の北詰の削平地に出る。右手眼下には取水堰の施設を一望することが出来る。ここで取水された多摩川の水は水道管で山口貯水池(狭山湖)へ送水されているのだ。大正5年~13年にかけて狭山丘陵に村山貯水池(多摩湖)が建設され、これに引き続いて昭和3年~8年にかけて第二期工事として山口貯水池(狭山湖)が建設された。ともに羽村で取水された多摩川の水が送水されたが、昭和55年に新たに小作取水堰が建設され、ここで取水された多摩川の水が沈砂池で浄化された後、小作・山口線と称する直径3.8mの地下導水管によって送水されることになった。なお小作取水堰の管理橋は延長193mもある。
 小作取水堰を後に小作駅への帰路を採る。奥多摩街道に出て西へ進むと、東から長い坂で下ってきた都道249号線との交差点「小作坂下」に出る。斜め筋向いの丘は加美緑地だ。交差点を渡ると角地にガソリンスタンドがあり、その横に小作の講中により造立された馬頭観音が立っている。その傍らから緑地へ入る急坂の小路がある。小路をうねうねと上り切るとベルト状に延びる加美緑地に入る。ここから小作台小に沿って北へ向かう道を採れば、程なく新奥多摩街道と交差し、渡ればもうJR小作駅は目の前だ。(完)

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夕焼け小焼け №36 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

 岡崎高師不合格・新制高校3年生 1   

           鈴木茂夫

 昭和23年2月。
 旧制の愛知県惟信中学の5年を終える。旧制最後の高校、専門学校の受験がある。母は岡崎高等師範学校か第八高等学校にしろと言う。教員になるのも悪くない。
 岡崎高等師範学校は、昭和20,年(1940)全国で東京、広島、金沢についで四番目に設立された。旧制中学の校長・教員の育成を目的とする。旧中学の卒業生が入学し4年制だ。  社会科、英語科、社会科、数学科、物理科、化学科、生物科を設けている。全寮制で募集人員は約140人。学費は国が負担し学生には毎月手当が支給される。豊川市の元海軍工員の宿舎を校舎・学寮としている。
 学生寮は「振風寮」といわれ、約160人が生活していた。
 私は親友の一人服部英二君に、ここを受験しようと勧誘した。私の提案に、服部君はよく考えると答えた。2週間ぐらいして、教師になろうと賛成した。
 3月、服部君と受験に出かけた。受験の書類を提出し終えて外へ出ると、一人の青年に、
「君たちは受験生か」
 声をかけられた。 
  「それなら今夜は寮に泊るのがいい。俺はここの3年生で、蔵原という」
 寮に入ると、蔵原さんは同室の人たちに紹介してくれた。みんな笑顔で迎えてくれた。 私たちは嬉しくなって、高等師範の生活のことをあれこれ尋ねた。私は高揚していたのだろう。蔵原さんが学校の徽章をくれた。ここで4年間を過ごすのだと心がはずんだ。
 あくる日は試験だ。3つの教室が試験場となっている。受験生の数は少ない。
  英語、国語、社会、数学が出題される。 試験問題は難しくなかった。私は余裕をもって書き進んだ。ところが最後の教科の数学の用紙が配られると、顔色が変わった。問題はそれほど難しくはないのだが、私には全く分からないのだ。手のつけられない40分が過ぎ白紙で提出。服部君は数学が優しかったから、よかったと言う。私は4科目の総合得点で採点されるならいいのだがと思いつつ、寮で2泊目の夜を送った。
  あくる日の午前10時、発表だ。 私の名前はない。服部君は合格だ。
 「よかったね。おめでとう」精一杯の挨拶だった。
  私は駅をめざして走った。涙がこみあげる。電車の隅に座って帰った。

 4月。
 惟信中学は惟信高校になり、私は惟信高校の3年になった。学帽に白線が2本入る。
旧制高校の学帽にならったという。なぜ白線なのかは誰も知らない。
 服部君は岡崎高等師範学校社会科に、増井君は南山外語専門学校英文科に進んだ。
 残ったのは小原君と私の2人だ。小原君は高校修了で就職するというから、上級学校をめざすのは私・鈴木茂夫だけだ。
 受験勉強があるからと新聞『葦笛』の編集・印刷は2年生の岡本君に委譲した。
 クラスにいるのは、それぞれ上級学校を受験、不合格だった連中だ。落ちこぼれの予備校生のような気分がある。学制改革がなければ、受験浪人として予備校に行くしかなかっったのだ。
 
 ある日、Bruceが話しはじめた。名古屋軍政部のCIE,民間情報教育部は、市内の主な学校の生徒30人か40人を集めて名古屋青少年指導者研修会を開きたいと思っている。君たち二人、鈴木、小原はもちろん招待される。誰か適当な人物はいるかな。何人か推薦して欲しい。僕たちは松陰高校の石垣君、金城学院の伊藤さんを推した。
 一週間ほどして、高木教頭に呼ばれた。名古屋軍政部から、鈴木、小原を研修会に招待すると通知が来ている。学校としては、学業の一環として認める。
 明和高校、瑞陵高校、旭丘高校、菊里高校、東海高校、金城学院、松陰高校、私の惟信高校から約40人が参加した。学校新聞の会合に来ていた秀才らしい顔がいくつもみえた。
数人の男女の教員も参加者だ。
 会場は岡崎市の大樹寺だ。浄土宗の寺院で15世紀に建てられ徳川家と深いゆかりで結ばれている。戦災を免れたので立派な山門、総門、本堂、方丈を今に伝えている。
本堂の阿弥陀如来の背にして、制服をきた兵士が挨拶した。英語だ。通訳はない。
 「私たちは、みなさんに民主主義とその方法を学んで欲しいです」
 デモクラシーが民主主義のこととは理解できた。後はなんとなく分かった気分だ。
 数人の婦人将校( Women's Army Corps, WAC)が制服ではなく私服で来ていた。
「I am WAC.Women''s Army Corps」
 私たちが、理解しかねた顔をしたのだろう。通訳が、
「こちらのみなさんは、婦人将校です」
 私たちがうなずくと、にこやかな笑顔をみせた。WACはそれぞれが香水をつけている。一人だけだと、その香りを感じたが、何人かで集まると、香水の香りが混ざり合って、良くも悪くもないむせ返るように匂う。動物性の香りは刺激的だ。
WACの一人が私たちに呼びかけた。英語だ。ゆっくり話してくれる。不思議なことに、なんとなく意味が取れる。
 「会議の進め方を学びましょう。まず議長・プレジデント・presidentを決めるのよ。議長には槌・gavelが必要ね。ガベルは議事進行のために叩くの。また議長が議場の整理をするときもよ。きょうはガベルがないから、握りこぶしでやりましょう。会議では何かを議論しなければなりません。そのことを動議・motionといいます。動議は提出しなければなりません。提出するとは、move, intoduce,submit,offerなどが使えます〃〃〃」
 私たちは会議の進め方を学んでいるのか、それに関わる英語を学んでいるのか、混乱しながらも講義に聴き入った。
 夕食は庫裡で頂いた。厨房には白いエプロンがけの10人ぐらいの日本の婦人が働いていた。大樹寺の信徒の婦人が手伝いにきているのだ。
  一人ずつのお膳が並んでいる。ごま豆腐、巻き卵、魚黄金焼き、コロッケ、ポテトフライ、漬物、味噌汁,ご飯だ。WACも男性兵士もみんな一緒だ。美味しかった。
 食事が終わると、みんなで方丈に戻ってさまざまなアメリカ民謡を歌を歌った。
 日本語と英語と入り交じって愉しかった。

 たそがれにわが家の灯 窓に映りしとき     わが子帰る日祈る 老いし母の姿
 谷間灯ともしころ いつも夢に見るは  あの灯 あの窓恋し ふるさとのわが家
 
  My grandfather's clock was too large for the shelf So it stood ninety years on the floor
 おじいさんの時計は 棚に置くには大きすぎて 90年もの間 床に置かれていたんだ
 It was taller by half than the old man himself Though it weighed not a pennyweight more
 おじいさんの背丈より 半分以上も大きかったけど 重さは1グラム程も違わなかった

 この集いは一泊二日のアメリカ留学のようだった。民間情報教育部は、私たちが学校自治会などをはじめとする活動の中心となって活動していくのを期待したのだ。
 帰り道の電車の中で、さあ受験体制に戻らなければという声があった。

 進学情報は旺文社の受験雑誌「蛍雪時代」にたよるしかない。 
 来年(1949)、新しい教育制度により、新制大学が発足し初めての試験が行われる。
これが勝負なのだ。
 それぞれが目標とする学校を口にした。
 戸田は教職に就きたいから愛知第一師範が大学になるのをめざす。
 木村は旧制の名古屋薬学専門学校にしぼつている。
 浅野は東京高等商船学校が商船大学になるから、それ一本だという。
 岡本は南山外語が大学になるからそこへ行く。
 早稻田大学には西川と山口が受験すると話している。
 表野は各種の学校が大学に昇格する情報に詳しい。自分がどうするかは言わない。
 私はどうするかを発言しなかった。
 

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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №225 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

根室本線・富良野~野花南 

                 岩本啓介

根室本線・新得~富良野は2024年3月31日で廃線になりました
3月までに 北海道に行く予定でしたが 諸般の事情で行けませんでした
大好きな空知川第4橋梁を『富良野わいんはうす』から2022年撮影の2枚

①紅葉の空知川橋梁にタラコが似合います

297タラコわいんはうす のコピー.jpg
2022年10月25日8:33

②雪のキハもいいですね

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2022年2月10日10:40


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押し花絵の世界 №203 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

 「デルフィニュウムと千鳥草のスマホケース」

             押花作家  山﨑房枝

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ブルーのグラデーションが綺麗なデルフィニュウムと、鮮やかな青紫の千鳥草をアレンジして、仕上げにシルバーの箔を散らせて瑞々しく爽やかなイメージで制作しました。



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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №56 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

行田の童たち原画 2

      銅板造形作家  赤川政由

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多摩のむかし道と伝説の旅 №126 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

             多摩のむかし道と伝説の旅(№29)
              ー西多摩の多摩川河畔の桜道を行く-6
                    原田環爾

 徳川家康の江戸入府以来、膨張する江戸の飲料水を確保するため、溜池上水や神田上水が開削されてきたが、抜本的な解決を図ることは出来なかった。4代将軍家綱の時、川越藩主で老中の松平伊豆守信綱は多摩川から水を引くことを発議、関東郡代伊那半十郎忠治の指揮のもと羽村出身の江戸の町人、庄右衛門・清右衛 門兄弟に工事を請け負わせた。開削工事は承応2年(1653)に開始されたが難渋を極めた。当初取水口を日野橋下流の青柳付近29-33.jpgから取水し、谷保田圃を抜けて府中まで開削したが、悲しみ坂で通水に失敗。やむなく次ぎの候補地福生熊川から開削を再開した。しかし古来言い伝えられてきた水喰土の伝承が現実のものとなり、水が地中に吸い込まれて通水に失敗。最後に信綱の家臣で土木技師の安松金右衛門の技術支援を得て、羽村から取水することでようやく成功したと言われる。二度の失敗でお上から預かった工事費六千両をすべて使い果たし、不足分は私財を投じて完成させたと伝えられる。兄弟はその功により幕府から玉川の姓を与えられ帯刀を許された。
 第二水門の上の小橋を渡って段丘を上がるとそこは旧奥多摩街道の道筋だ。街道に沿って50~60m辿れば水神宮がある。古びた木の鳥居に「水神宮」と書かれた神額が掛かっている。その横に立っている風格のある門は玉川上水羽村陣屋にあった陣屋門だ。つまりここは陣屋跡で、上水道の取り締り、水門・水路・堰堤等の修理・改築などの上水管理を行った役所の跡だ。堰を通過する筏師達もここで厳しい監視を受けたに違いない。門を入ると広い庭があり、その奥に陣屋敷、水番小屋があったというが、今は陣屋門が残るのみで、建物は明治維新のドサクサに紛れて処分されてしまったという。
29-34.jpg 玉川水神社は東京水道の守護神で、玉川上水が承応3年完成された際、水神宮として建設された。建設地は現在の場所と異なり、旧奥多摩街道を挟んで丁度筋向いの多摩川へ突き出た崖の上に建てられていた。以来300余年江戸町民及び上水路沿いの住民より厚く信仰せられてきたが、明治26年名を玉川水神社と改めた。水神社としては最も古いものの一つだ。
 水神社の前からは奥多摩街道を離れて多摩川沿いの水上公園通りに入る。沿道左手に広がる羽村堰上流の多摩川の雄大な景観が素晴らしい。遥か対岸に見える三角屋根の建物は羽村郷土博物館だ。程なく水上公園通りは二つに分岐する。右手ハケ上へと続く道は水上公園通りで、左手の道は少し下って堤の道となる。桜が沢山植えられており、桜堤通りと呼ばれている。その桜堤通りの降り口の土手に羽村市福島県人会が市制10周年記念に寄贈したという三春の滝桜がある。 満開の頃はそれは見事な咲きっぷりである。桜堤通りを100mもすすめば、先のハケを背景とした水上公園がある。人工の泉やプールを備えた29-35.jpgモダンな公園だ。この先堤を進むのもいいがハケ上の水上公園通りを採ることにする。通りを200mも進めば禅福寺という山門の見事な寺の前にくる。山門の前には大きな延命地蔵が立っている。山門脇から中を覗けば左右の墓苑の先に本堂が見える。妙徳山禅福寺は臨済宗建長寺派の寺で本尊は文殊菩薩。応安年間(1368~74)の創建という。山門は寛正3年(1462)の建立された。文化6年(1809)江戸の文人太田南畝(蜀山人)もこの山門前に来たと伝える。
 門前の水上公園通りを進めば程なくハケを下る坂道が分岐する。この下り道は面白いことに「雨乞街道」といい、坂を「雨乞坂」と呼ぶ。雨乞坂の名の由来は次のようなものである。江戸時代のこと、夏の日照りが続いて田圃の稲が今にも枯れそうになった時のこと、途方に暮れた村人が禅福寺の境内に集まり、水神の龍を作って雨乞いすることになった。松の木で龍頭をつくり、剣を角にして指し、胴体を藁でつくり、雌雄2頭の龍を作った。その龍を村の若衆が担いで、寺の前のハケの坂を駆け下り、根溺前の丸太橋を通って多摩川に入 り、龍を沈めて雨乞いをした。するとその日の夕方雨が降り、田圃の稲は枯れずに助かったという。このことからこの坂道を「雨乞坂」と呼ぶようになったという。
29-37.jpg 雨乞坂を下り降りると、眼前に広大な田園風景が広がる。右手のハケ下から左手遠くに見える多摩川堤との間に広がるこの広大な田園地帯を、土地の人は根溺前水田と呼んでいる。羽村で唯一の水田地帯と言われてきた所だが、今はチューリップ畑でよく知られている所で、5月から8月にかけては他に大賀ハス、牡丹、芍薬、白蓮が栽培されており、花好きにはこたえられない所になっている。根溺前水田をハケ下に沿って遥か遠くに目をやると黒い屋根の一峰院が豆粒のように望める。雨乞坂の割烹旅館「玉川苑」を左にやり多摩川堤の方向へ向かう。小さな用水路の小橋を横切ると程なく多摩川の堤下に出る。堤に上がると雄大な多摩河原が展開する。河川敷には広大な宮ノ下運動公園が広がる。宮ノ下の名はこの先に阿蘇神社があることによるのだろう。大正土手と呼ばれる綺麗な桜堤を進むと堤防下に古びた杉の木が1本立っている。古くから一本杉と呼ばれているものだ。残念ながら近年伐採されて今は切り株だけになっている。由緒書によると根溺前は羽村唯一の水田地帯であることから根溺前水田と呼ぶ。明治末期、2回にわたる洪水で田畑が水没したことから、大正12年に一本杉前の護岸工事が行われた。大正時代に造られたということから「大正土手」と呼ばれるようになった。平成6年には桜並木に改修された。一本杉については工事以前からこの土手に孤立して立っていたという。(この項つづく)


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夕焼け小焼け №35 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

上村蔵書のはざまで 2

             鈴木茂夫

 スターリンの率いるソ連は共産党が前衛として、理想的な社会主義国家が建設されているとされていた。文学の世界を作家同盟は規制した。作品の中で共産党が方針を示し、その組織が正しく活動を指導する状況を表現しなければいけないとしていた。
 「若き親衛隊」「静かなドン」などは社会主義リアリズムの傑作とされていた。私も一時期、ソビエト文学にある種の共感を抱いていた。しかし、つまらなくなった。
 スターリン批判が出てソビエトの暗黒面が浮き彫りされた。
 スターリンは何十万人の無辜の人を殺した恐るべき独裁者であると批判され暴露された。パステルナーク、ソルジェニーツィンが描きだした暗黒の世界に、社会主義の虚妄を知った。私はこれらの作品を二度読み直した。そして社会主義への幻想は消えた。
 
石原慎太郎「太陽の季節」、大岡昇平「レイテ戦記」、山田風太郎「柳生忍法帳」、野村胡堂「銭形平次捕物控」、江戸川乱歩「孤島の鬼」、羽仁五郎「都市の論理」、五木寛之「青春の門」、司馬遼太郎「竜馬がゆく」、三島由紀夫「禁色」、ジャン・ジュネ「泥棒日記」レイモン・ラディゲ「肉体の悪魔」、ロマン・ロラン「愛と死との戯れ」、高村光太郎「智恵子抄」、ジャンポール・サルトル「嘔吐」、谷川俊太郎「20億光年の孤独」、有吉佐和子「紀ノ川」、木下順二「夕鶴」、エーリヒ・レマルク「西部戦線異状なし」、和辻哲郎「風土」、 開高健「裸の王様」、キェルケゴール「死に至る病」原田康子「挽歌」、田中英光「オリンポスの果実」、有吉佐和子「紀ノ川」、太宰治「人間失格」、織田作之助「夫婦善」、中島敦「山月記」、埴谷雄高「死霊」、坂口安吾「白痴」伊藤整「小説の方法」、ス」、井伏鱒二「黒い雨」、有島武郎「或る女」、丹羽文雄「親鸞」、宮本百合子「貧しき人々の群」石川達三「蒼氓」、直木三十五「南国太平記」、

 昭和19年(1944年)4月からはじまったレイテ島の戦いで日本軍は84000人の犠牲を出した。大岡昇平の「レイテ戦記」は、戦いの現実を克明に描写している。
 大岡昇平は「私は『レイテ戦記』を特に歴史と考えて書いたわけではなかった。民間の一個人として完全な歴史を書くには資料が不足しているのである。〃〃多くの僚友が惨めな死に方をした。戦争という非情な殺戮の場に巻き込まれた人間の惨めさを私は書いた。当時はレイテ島戦闘の全体をより大きな敗軍の地獄図と考えていたのである」

大佛次郎「天皇の世紀」、三木清「人生論ノート」、海野十三「浮かぶ飛行島」、石川啄木「一握の砂」、川端康成「雪国」、葉山嘉樹「海に生くる人々」、横光利一「上海」、野間宏「真空地帯」、三島由紀夫「金閣寺」、森正蔵「旋風20年」、徳田球一・志賀義雄「獄中18年」、井原西鶴「好色一代男」、安陪公房「壁」、遠藤周作「沈黙」、大佛次郎「鞍馬天狗」、徳永直「太陽のない街」、山中峯太郎「亜細亜の曙」、高見順「故旧忘れ得べき」。

 大佛次郎「天皇の世紀」は黒船来航に始まる幕藩体制の動揺。明治維新をへて近代日本が生まれる。その足跡を大きく描いた歴史小説だ。多くの人があらわれ、時代を切り拓く。
 膨大な資料を駆使した歴史巨編だ。読み進むほどに歴史の現場を作者と共にする。
 原稿用紙をひろげてこんな歴史小説がかければと思ったことが何度もある。

 ドス・パソス「USA」、ヤロスラフ・ハシェク「兵士シュヴェイクの冒険」ジャック・ロンドン「野性の呼び声」、ジェローム・ジェローム「ボートの三人男」、チャールズ・ディケンズ「オリバー・ツイスト」、芹澤光治良「巴里に死す」、シャーロット・ブロンテ「ジェーン・エア」、サン=テグジュペリ「星の王子さま」、ジョージ・エリオット「サイラス・マナー」、アーサー・コナンドイル「緋色の研究」、オスカー・ワイルド「ドリアン・グレイの肖像」、エミリー・ブロンテ「嵐が丘」、ダニエル・デフォー「ロビンソン・クルーソー」、 サマセット・モーム「人間の絆」、ジョージ・オーウェル「動物農場」、ヘンリク・シェンキェヴィチ「クォ・ヴァディス」、ダンテ・アリギエーリ「神曲」、アントン・チェホフ「桜の園」魯迅「阿Q正伝」、坪内逍遙「小説神髄」 
                                                                             
 ドス・パソス「USA」は忘れられない。 「北緯 42度線」、「1919年」 「ビッグ・マネー」の3部作だ。20世紀初頭からの3激動する30年間を描いている。
 初めててにしたとき、これは文学狭品なのだろうかと違和感があった。
 男女6人の物語がある。新聞記事、流行歌の1節、社会情勢などが次々に現れる。バラバラのデータに見える。これまでに読んだ作品とはまるで違う。面白くなかった。本を閉じた。でも何かが違う。それには惹かれる。再び読み直す。ニューズ・リールが使われている。現在の状況が記された新聞記事が紹介される。それは新しい手法だと気がついた。時代を表現しているのだ。作品は私の中に重く沈殿した。
 私は放送人となり、携帯用の録音機を担いで、その日のできごとを録音で伝えた。まとまった主題の番組を構成した。録音したデータを、小さな単位にしていくつもつくり構成した。コラージュだ。私の中で「USA」が顕在化した。音声や映像はもちろん、文字でもこの手法により、作品としたいと思った。
 拙著「台湾処1945年」は、ドス・パソスに学んだ。大東亜戦争の末期の台湾の状況、日本人の引き揚げまでの状況をまとめるのに、その手法をお手本にした。

 ある日、書棚に「小説神髄」を発見した。                                         
 新しい小説が,勧善懲悪を柱としていた江戸時代の戯作とは異なると述べている。    
 逍遙は江戸時代、幕末に行われた著名な文芸作品について、幅広く深い知識がある。それらを具体的な例に挙げて論評する。                                               
 江戸時代から明治時代へと大きく社会が変転していくなかて、新しい文芸はなにか、どうあるべきかを具体的に指し示した。                                              
 「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ。人情とはいかなるものをいふや。曰く、人情とは人間の情欲にて、所謂百八煩悩これなり。夫れ人間は情欲の動物なれば、いかなる賢人、善者なりとて、未だ情欲を有ぬは稀れなり。賢人不肖の弁別なく、必ず情欲を抱けるものから、賢者の小人に異なる所以は、一に道理の力を以て若しくは良心の力に頼りて情欲を抑え制め、煩悩の犬を攘ふに因るのみ」                                    
 小説総論で、美術とは如何なるものなりや、小説とは美術なりという。             
 小説の起原と歴史の起原と同一なり。                                             
 小説の主眼は専らに人情にある。小説には、模写小説と勧懲小説との差別がある。     
 文は思想の機械なり、また粧飾なり。小説を編むにはもっとも等閑にすべからざるものなり。小説の文体として、雅文体、、俗文体、雅俗折衷文体のそれぞれの得失を論じる。  
 文章上にて用ふる言語と、平俗談話に用ふる言語と、さながら氷炭の相違あり。       
 主人公とは何ぞや。小説の眼目となる人物是れなり。或ひは之を本尊と命くるも可なり。
 主人公の員数には定限なし。唯一個なるもあり,二個以上なるものあり、されど主人公の無きことはなし。       
                                                      
 後にも先にもこれほど丁寧な文学論は見当たらない。私は海水と淡水が入り交じる汽水湖を思った。               
 坪内逍遙の「小説神髄」は近代文学の礎石といえる。私はこれに接し感動した。       
 これを読むと読まないとにかかわらず、逍遙の示唆した新しい文芸が花咲いたのだ。  
                                                                               
  私自身の好みの作家をあげてみた。
 芥川龍之介、夏目漱石、井伏鱒二、大佛次郎、島崎藤村、坂口安吾、織田作之助、二葉亭四迷、太宰治、宮沢賢治、石川純、吉川英治、石川淳 、高見順 、樋口一葉、中島敦、司馬遼太郎 、有吉佐和子、伊藤整、 伊藤桂一、火野葦平、佐々木譲、城山三郎、半藤一利  藤沢周平、野坂昭如、谷川俊太郎、寺山修司 、大岡信、中原中也,白石和子、北川幸彦 ,田村隆一

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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №224 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

樽見鉄道・谷汲口(たにぐみぐち)駅の桜

             岩本啓介

224樽見鉄道こうみ神海~谷汲口たにぐみくちハイモ330‐701.JPG
  
日本三大桜のひとつ『根尾谷の薄墨桜』を観に行きました
途中駅の『谷汲口駅』の桜が綺麗で、思わず下車
  
2017年4月11日15:11


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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №56 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

行田の童たち 原画 1

        銅板造形作家  赤川政由

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埼玉県行田市の街づくりにこたえて、メインストリートに40体の童像を設置しました。
いま、当時の市長も替わり、再開発のもとで、この童たちも行方が心配です。

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◆葉っぱ葉っぱ葉っぱ展のお知らせ

        MATプロヂューサー  しおみえりこ

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押し花絵の世界 №202 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

 「薔薇のウェルカムボード」

         押し花作家  
山﨑房枝

2024.5月上.jpg
30cm×30cm

友人の結婚式のウェルカムボードを、ピンクの可愛いミニ薔薇や、桜を使用してハートの形に制作しました。
アクセントに水色のデルフィニィウムを取り入れ、背景は若草色に染めた布の上にレースを置いて爽やかなイメージに仕上げました。

結婚式当日は、幸せに満ち溢れた2人の披露宴会場に彩りを添えさせてもらえて嬉しかったです。

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              <押し花展のお知らせ>

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多摩のむかし道と伝説の旅 №125 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

           多摩のむかし道と伝説の旅(№29)
              ー西多摩の多摩川河畔の桜道を行く-5
                    原田環爾

[後編]羽村駅から小作駅まで(桜:羽村堰~阿蘇神社)

 コース概略は次の通り。JR羽村駅を出発し、五ノ神神社、牛坂通りを経て玉川上水水辺に出る。羽村関を経て堰界隈の古社寺に立ち寄って根溺前水田へ。続いて多摩川桜堤を通って阿蘇神社と一峰院に立ち寄った後、羽西の里道を辿って小作堰へ。終着は奥多摩街道からJR小作駅へ至るものとする。詳細地図を以下に示す。
29-31.jpg JR青梅線羽村駅を北側に出て、駅前ロータリーの右手西友のすぐ裏にある五ノ神神社へ向かうことにする。狙いはそこにある「まいまいず井戸」を見るためである。まいまいず井戸とは、武蔵野台地のような火山灰地の乏水地帯で水を得るために築造されたすり鉢状の古井戸のことである。五ノ神神社は推古天皇9年(601)創建と伝える。宝亀年間(770~780)に熊野五社大権現を祀ったことから、元は熊野社と称し、五ノ神の地名が生まれたという。祭神は天照大神、素戔嗚尊、天児屋根尊、伊弉冉尊、事解能男尊、現在の本殿は文久2年(1862)に竣工したものである。五ノ神神社の前にある「まいまいず井戸」は伝承では大同年間(806~810)に造られたと言われるが、実際には鎌倉時代に創建されたものと推定されている。記録によれば元文6年(1741)五ノ神村で井戸の改修工事が行わている。地表面での直径16m、深さ約4.3m、底面直径約5mのすり鉢状の窪地で、すり鉢の底中央に直径約1.2m、深さ5.9mの掘り井戸がある。井戸に向かって降りる通路が「かたつむり」に似ていることから「まいまいず」の名がある。

29-27.jpg

 再び羽村駅の改札口の前を通って駅の南側に出る。駅前からすぐ左へ入る路地を採る。狭い路地を線路とほぼ平行に100mも進めばやや広めの車道に出て、すぐ南へ入る街路が現れる。道標に街路の名を牛坂通りと記している。一風変わった名である。この道はかつてはまいまいず井戸に通じていた。実際街路を振り返ってみると、すぐ20~30m先でJR線にぶつかって終わっている。線路の向こうに延長すればまいまいず井戸に至ることは容易に理解できる。牛坂通りの名は、江戸時代の元文6年(1741)のまいまいず井戸大修理の際に、ここより南1k29-28.jpgmほどの所にある多摩川から石や砂を運んだが、その間に3つの坂があったので、牛を使って運んだということからこの名がある。伝える所によるとこの坂道は牛にとっても相当重労働であったようで、井戸から300m の所にあった坂で何頭かが倒れて死んだという。
 牛坂通りに入る。何の変哲もない街路だ。街路は右の羽東地区と左の川崎地区の境界を縫う道だ。ほどなく緩やかな下り坂となり、下りきった所で新奥多摩街道と交差する。街道を横切ると牛坂通りは再び平坦な街路となる。ほどなく右手アパートのある丁字路帯に来る。ここから右手分岐道の先に眼をやると羽村東小が見える。ちなみに羽村東小の校門前には旧鎌倉街道の道筋が今も残されている。またこの丁字路帯の一角に、この付近一帯が縄文時代の遺跡跡であることを示す解説板が立っている。解説によると、羽村東小を西端とする東西約500mは縄文中期(4~5千年前)の集落跡で、羽ヶ田上遺跡という。昭和28年、学校建設に伴う発掘調査で発見された「東ガヤト遺跡」と明治時代以来土器片が採集されていた「川崎遺跡」を合わせて「羽ヶ田上遺跡」と称されるようになったという。
29-29.jpg 丁字路から先の牛坂通りは狭い路地となる。程なく緩やかに右方向へカーブすると、眼下に玉川上水を望む河岸段丘の上に来る。道はこの先急な長い下り坂となるが、左手を見ると段丘上にささやかな公園が隣接している。川崎西公園と言い、公園突端からの眺望は良く、特に玉川上水第3水門を一望に見渡せるのがいい。第3水門の役割は狭山丘陵村山貯水池へ送水するための水を取水することにある。頭を180度巡らせて公園の北側に目をやると、真っすぐ北東方向へ延びる道が目に入る。この道筋こそその水道道路で、地下に送水管が埋設されているのだ。羽村村山線と言い、大正5年~13年にかけて帝都の水瓶として建設された村山貯水池へ多摩川の水を送水する導水管が埋設されている。途中福生29-30.jpgの横田基地で分断されるが、その先武蔵村山に入ると再び姿を現し、野山北公園自転車道となっている。面白いことに昭和初期にはこの同じ道を鉄道が走っていた。昭和3年~8年にかけて第二期工事として山口貯水池建設が行われ、そのため多摩川の良質の砂利を大量に必要とし、その輸送手段としてこの水道上に鉄道を敷設、いわゆる軽便鉄道を走らせた。
 またこの小公園はもう一つ別の歴史的遺構の跡地でもある。先の羽村東小で途切れた旧鎌倉街道が通っていた道筋に相当するのだ。かつては遠江坂と称する坂道があったという。遠江坂は、旧羽村と川崎村の境にあったが、大正時代に羽村堰から村山貯水池への取水工事のため壊され、今はかつての姿を留めていない。戦国時代、当地を支配した豪族大石遠江守が、この坂の付近に居館を構えていたことから遠江坂の名がある。遠江坂を下り、多摩川を渡って秋川方面へ向かう古道は鎌倉街道とも遠江街道とも呼ばれ、大石氏や小田原北条氏の滝山城や高月城を望む要衝として大石氏が館と築いたものと考えられている。(なおごく最近、川崎西公園の界隈は大幅に区画整理がなされ、記載内容とは少し変わっている可能性があるので要注意。)28-33.jpg
 坂道を下って奥多摩街道に入る。第3水門を後にして玉川上水左岸を100mも進めば、青い陸橋と信号付横断歩道のある羽村橋の袂に来る。橋の袂には都の天然記念物という欅の巨木が立っている。目通り幹囲約5.5m、樹高約23.5mという。羽村橋を渡り上水の右岸に回る。右岸は桜並木になっていて季節の頃は花見客で賑わう所だ。やがて左手から多摩川堤が接近し上水の桜堤と合流すると、前方には広々とした河原29-32.jpg風景が展開するとともに羽村の堰が姿を現す。やがて取水堰を眼下に見下ろす広場に入る。広場には玉川上水の開削に心血を注いだ玉川兄弟の像が立ち、また別の一角には多摩川の水流を調節するのに使われた牛枠が置かれている。広場の突端からは左手に投渡し堰、正面に第一水門と吐水門、右手段丘 下に第二水門が見ることができる。(この項つづく)


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夕焼け小焼け №34 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

上村蔵書のはざまで 1

             鈴木茂夫

  私がどんな書籍を読んでいたかを覚えているままに書き出してみた。
 上村良一氏は読書家だ。元事務所の3つの壁面に多くの書籍を収容してある。
 日本文学、世界文学の全集があった。哲学書もあった。れは私には宝の山だった。手当たり次第に接した。読書にはジャンルの選択や順序があるのかも知れない。だが私はそのようなものがあることを知らない。なんらかの方針があったわけではない。作家がどのような人であるかは知るよしもない。それこそ手当たり次第に読んだ。上村家のお世話になった3年間の濫読だ。読み終わってはじめて作家と作品について知ることができた。
 これは上村蔵書のはざまで私が学んだ随想である。

 学校の授業に追いつくために、英語はもちろん、漢文、日本史などを習得しなければならなかった。帰宅すると、これらの参考書に取り組み午後10時で区切りをつける。
 軽く整理体操をしてから好みの読書をはじめた。どれを読んでも面白い。知らなかった世界が広がっているからだ。難しい熟語、単語は、学校の休み時間に漢和辞書をひいて覚えた。
 雑ぱくに読み込んでいくと、作家への好き嫌いがでてくる。優しいか難しいかに分かれる。それは作品の文体に触発されたからだ。どのような文体が好ましいかが、頭の中に沈潜する。自分の文章を書くとき、それを手本にすることもある。
 私の文学作品に関する基礎知識はこうして養われた。この中には東京へ出てから読んだものも混交している。またこれらの中には途中で投げ出したものもある。
 本棚と本棚のはざまに座り込んで本とのつきあいを書き留めてみた。

 尾崎紅葉「金色夜叉」、幸田露伴「五重塔」森鴎外「高瀬舟」、二葉亭四迷「浮雲」、島崎藤村「夜明け前」、正岡子規「病牀六尺」、福沢諭吉「学問のすゝめ」、夏目漱石「こころ」、国木田独歩「武蔵野」、徳冨蘆花「不如帰」、泉鏡花「高野聖」、吉川英治「宮本武蔵」、永井荷風「ふらんす物語」、坪内逍遙「沙翁全集」小林秀雄「様々なる意匠」、志賀直哉「暗夜行路」

   シェイクスピア全集がある。坪内逍遙がそのすべてを翻訳している。私はその中の「ジュリアス・シーザー」が好きだ。
 3月15日、不吉なことが起きるとの予言をよそに、シーザーは群衆の中に出ていく。雷鳴がとどろくなかで、数人の刺客に襲われる。そこにブルータスを認め、「や、ブルータス、お前までが、ぢゃ、もう」言い終わって シーザーは死んだ。

ブルータスは語る。
「此の群衆中にシーザーの真の親友が居らるるなら,予は其人に対って言ひます。ブルータスのシーザーを愛する心も決して其人劣らなかったと。では何故ブルータスはシーザーに敵対したか、と若し其の人が問はれるなら,予は斯う答へる。それはシーザーを愛する心が浅かった為ではない。ローマを愛する心が更にそれよりも深かった為であると」
ブルータスは雄弁に自らの行動を正当化した。
この後に、アントーニオが語る。シーザーを称え、ブルータスを糾弾する。アントーニオの弁舌はブルータスを上回るのだ。 二人の対立する雄弁が盛り上がる。

 出隆「哲学以前」、谷崎潤一郎「春琴抄」、小泉信三「共産主義批判の常識」、倉田百三「出家とその弟子」、斎藤茂吉「赤光」。与謝野晶子「みだれ髪」、野上弥生子「海神丸」、武者小路実篤「友情」、芥川龍之介「地獄変」、林芙美子「放浪記」、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」、西田幾太郎「善の研究」、宇野千代「色ざんげ」佐藤春夫「田園の憂鬱」、原田康子「挽歌」田辺聖子「感傷旅行」林芙美子「放浪記」、城山三郎「落日燃ゆ」、 幸田文「流れる」、

 「共産主義批判の常識」は、左翼のパンフレットを読んで共産主義に共感を抱いていた私を根底から揺さぶった。労働が価値を生み出すという左翼の主張に対して、
  「深海の底にもぐって採取される真珠は高い価値を持っている。 しかしこの価値は果たして潜水労働によって造り出されたものであるか。真珠と同じ深さの海底から同じ困難さをもって採取されるものは、役に立つものも立たないものも、美麗なるものもならざるものも、如何なるものも皆等しき価値を有すると考えられるか、何人もそうでないことを承知している。第一、人はそのような役に立たぬ、或いは美しからぬ物を採取するために潜水の労苦を敢えて忍ぶという如き物好きをせぬであろう。ということは、価値は労働によって造り出されるのではなくて、物に価値あればこそ、人がそのため労働を費していとわという方が真実なのである」
 私は何を言っているのか反発した。だがこの主張に反論することができなかった。この意見を左翼の友人に語ると、反動学者の戯言だと言ったが、明快な意見を聞くことはなかった。

「哲学以前」は哲学の手引き書だった。しかし受験生には無縁、入学してから哲学を考えられる。作者は日本共産党に入党、除名されるなど振幅が大きい。
「善の研究」は、1つの事柄を受け止めると主語や述語に整理して、意味のある文章に転換していく。それ以前の主語もない、述語にも分かれる以前の渾然とした思いを大事にする。それを純粋経験という。わからないままに心惹かれた。

ボリス・パステルナーク「ドクトル・ジバゴ」、ウラジーミル・マヤコフスキー「マヤコフスキー詩集」、ミハイル・ショーロホフ「静かなドン」、 アレクサンドル・ソルジェニーツィン「収容所群島」、イリヤ・エレンブルグ「パリ陥落」、アレクサンドル・ファジェーエフ「若き親衛隊」、ミハイル・レールモントフ「現代の英雄」、 マキシム・ゴーリキー「母」、ニコライ・ゴーゴリ「外套」、アレクさんドル・プーシキン「プーシキン詩集」、フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」、レフ・トルストイ「戦争と平和」、イワン・ツルゲーネフ「猟人日記」、アントン・チェーホフ「桜の園」、ミハイル・アルツィバーシェフ「サーニン」、イワン・ゴンチャロフ「オブローモフ」、ニコライ・ネクラーソフ「ロシアは誰に住みよいか」、 アレクサンドル・ゲルツェン「誰の罪」、ニコライ・オストロフスキー「鋼鉄はいかに鍛えられたか」、コンスタンチン・シーモノフ「プラーグの栗並木の下で」、


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