夕焼け小焼け №49 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
平和と独立の配布・小河内村山村工作隊 1
鈴木茂夫
鈴木茂夫
昭和26年11月10日火曜日。
党の細胞会議が開かれた。文学部地下のソビエト研究会の部室でだ。40人でタバコの煙が充満している。
私は露文科のクラスの党員や文学部の前の広場によくいる党員学生と話しあううちに、ずるずると党組織・細胞の会議に顔をだすようになっていた。党員ではなく党の支持者・シンパとしてでいいという条件でだ。だから党費を払ったことはない。
日本共産党新宿地区委員会で学生を担当している常勤の林田が話し始めた。
「同志諸君、党が進駐軍や治安当局の弾圧を受け、幹部は地下に潜り込む緊迫した情勢になっている。われわれの置かれている状況を簡単に述べ、行動目標を明らかにしたい。
さる2月23日、第4回全国協議会・4全協が開かれ『軍事方針』が提起された。
『敵の軍事基地の拠点の麻痺・粉砕』『軍事基地、軍需生産、輸送における多種多様な抵抗闘争』『意識的な中核自衛隊の結集』『自衛闘争の中からつくりだされる遊撃隊』などが発表された。党地下軍事組織は『Y』と呼ぶ。また山村地区の農民を中心として全国の農村地帯に『解放区』を組織することを指示した」
林田はそこでタバコに火をつけた。
「10月には第5回全国協議会・5全協が開かれた。『日本共産党の当面の要求――新しい綱領』(51年綱領)が採択され、「われわれは、武装の準備と行動を開始しなければならない」とする軍事方針が打ち出された。その骨子は『 われわれが軍事組織をつくり武装し、行動する以外にない。われわれの軍事的な目的は、労働者と農民のパルチザン部隊の総反抗と、これと結合した、労働者階級の武装蜂起によって、敵の兵力を打ち倒すことである。同志諸君には、軍事方針の徹底のため,頑張ってもらう」
それだけ言うと林田は去った。
執行部の杉谷は
「軍事方針およびYの担当任務については個々の同志に連絡する。同志鈴木には平和と独立の配布責任者になっもらおう」
非合法機関紙「平和と独立」は、1950年8月に創刊されたタブロイド判だ。この編集、発行、所持にかかわると,ポツダム政令325号違反として逮捕され、進駐軍の軍事裁判にかけられる。
私は仕事をはじめた。指定された無人のポストへ行き、新聞の包みを受け取り、今度はそれを別の何カ所かのボスとに配布するのだ。
はじめて指定された集配ポストへ行く。
大隈講堂を後にして、郵便局、蕎麦屋金城庵を過ぎる、都電の早稲田停留所前だ。電車道から神田川にかかる豊橋を渡る。通りの両側には雑貨屋や八百屋、魚屋が軒を並べている。
そこから4つばかりの丁字路や十字路を過ぎて直進。その右手に木造二階建てのアパートがある。そこの木造の階段の下に、10数個の郵便受けがある。その中の一つにハトロン紙で包んだ「平独」があった。私は包み紙を肩で担ぐようにした。重い。
通りがかりの理髪店に私の姿が映っている。長く伸びた髪、すり切れた背広、陸軍払い下げの編み上げ靴、それは明らかに左翼学生の姿だ。これでは警察に怪しまれても不思議ではない。姿形を普通の学生のように変えなければいけない。
私は帰宅して、「平和と独立」を開いてみた。
平和と独立 第68号 1951年11月5日
主張
第5回全国協議会の実践に立ち上がれ
わが党は、凶暴な弾圧に抗して、10月はじめ第5回全国協議会を開催した。この会議
には地方党機関紙の代表、主要な大衆団体グループ代表、および中央党機関の同志が
参加した。
この会議は、わが党にとって歴史的な重要性を持つものである。
第20回中央委員会によって決定された「日本共産党の当面の要求・新しい綱領草案」の
審議を終結し、大会に代わって満場一致これを採択した。
この綱領草案は、発表以来全党に感激を持って迎えられ、かつてない熱心な討議が全
細胞で行われた。
全国協議会は、この細胞の討議を基礎に、これを審議したのである。
これによって綱領は、全党の行動の基準となり、全国民の勝利の旗印となった。
わが党は、既に規約で定められている通り、この綱領を認め、党費を規則的に納め、
党の一定の組織の中で活動するものの組織であり、この綱領に反するいっさいの分派
思想や分派組織を許さない鉄の規律によって固められているのである。
われわれは今後この綱領と規約によって党の団結を一層強めなければならない。
党の軍事方針の対象とは何を想定しているのか。日本の警察権力か、アメリカ占領軍のいずれかか、その両方なのか。
日本共産党は、国際共産党の指導機関であるコミンフォルムが、日本共産党の方針を批判したことで党内が分裂状態となり、武装方針に変更したのだ。党は独立自主の党ではないことは明かだ。
私は軍事方針の必要なことの理由が分からない。と同時にその相手が巨大であることに怖れを感じる。
戦後の日本共産党の叫び声は、焼け跡の町に明るく響いた。占領軍を解放軍とし、議会で活動をする姿は悪くなかった。だが共産党は場合に応じて七変化するのか。
名状しがたい疑いを抱きながら,私は共産党の方針に従っている。
1952年(昭和27年)3月31日午後。
緊急細胞会議だという。文学部地下のソビエト研究会に党員が集まった。
細胞指導部の村山が口を開いた。
「きわめて重大な事態が発生した。一昨日29日の早朝、国家地方警察東京都本部は、青梅、五日市、福生、八王子の各警察署に指令。約100人の警官隊を動員して、小河内村に定住して活動していた同志23人を逮捕した」
発言を求める声。
「俺たちが小河内へ行こう」
「指導部としての意見も、小河内村の拠点は守り抜くとした。早稻田の細胞は弾圧に屈しない。新たな第2次山村工作隊を派遣することにしたい。その氏名は指導部に一任してほしい」
「異議なし」
「指導部としては、明朝先発隊10人を送り出す。その任務は寝泊まりする場所を確保する。食器、毛布を運び込む。つぎに今度の日曜日の6日、本隊として約20人を送り出す。学内の文化団体に呼びかけ、平和ハイキングとして行こう」
私は第2次本隊に指名された。「平独」の配布で、かなり露出しているので、その任務は終わって小河内に行くというのだ。手当たり次第、危険な仕事を回してくるようだ。
線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №237 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
熊本・肥薩線
岩本啓介
岩本啓介
球磨川第1橋梁を渡るキハ40
2020年7月3日からの豪雨で球磨川流域では甚大な災害が発生、第一橋梁が崩壊しました
60数年ぶりの帰省した時の写真です。この時は水害前で 橋梁も健在でしたが・・・
この景色が再び見られる事を期待しています
2015年10月12日11:35
押し花絵の世界 №214 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
「ビオラと粉雪のスマホケース」
押花作家 山﨑房枝
押花作家 山﨑房枝
冬のガーデンを可愛らしく彩ってくれるビオラをメインに、キラキラ輝く冬の夜をイメージしながら粉雪のような白いレースフラワーをふわりとアレンジして、仕上げに金箔を散りばめました。
多摩のむかし道と伝説の旅 №135 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
多摩のむかし道と伝説の旅(№31)
-古歌に詠われた向ノ岡から多摩の横山道を行く-1
原田環爾
-古歌に詠われた向ノ岡から多摩の横山道を行く-1
原田環爾
万葉の昔、多摩丘陵は多摩の横山と呼ばれた。縦の川としての多摩川に対し、その右岸一帯に横へ長々と伸びるなだらかな丘陵を総称して多摩の横山と呼んだ。多摩の横山には古代、辺境の防備兵として北九州へ赴いた防人達が歩いた道筋や、中世の頃、東国の武士達が武門の都鎌倉との往還に踏み固めた古道が残されている。その横山の尾根筋には今日都市基盤整備公団によって全長9.5kmの「多摩よこやまの道」が整備されている。また多摩の横山の東端の多摩川を望む連光寺辺りは古くから向ノ岡(むかいのおか)と呼ばれた。武蔵国の国衙があった府中から多摩川の対岸に優美な丘が望めたことからこの名があるのであろう。明治天皇の行幸の地としても知られ、丘陵上には広大な桜ヶ丘公園がある。多摩の横山には万葉集に多摩の防人の妻が詠んだ歌が、また向ノ岡には平安朝の歌人小野小町の詠んだ歌が残されている。今回はこれら古歌に詠まれた向ノ岡から多摩の横山を辿る旅をしたい。。京王聖蹟桜ヶ丘駅を出発し大栗川と乞田川の合流点を経て向ノ岡に上り、桜ヶ丘公園を抜け。多摩東公園近傍の丘の上広場から多摩よこやまの道に入る。よこやま道には唐木田までの東路と唐木田から長池公園までの西路がある。本稿では東路を終着小田急線唐木田駅までの実踏経験を詳述し、西路については伝説等を簡潔に紹介する。以下3章(Ⅰ向ノ岡、Ⅱよこやまの道東路、Ⅲよこやまの道西路)}に分けて順次解説する。
[Ⅰ]古歌に詠まれた向ノ丘を行く
聖蹟桜ヶ丘駅から車が行き交う賑やかな川崎街道に出る。街道に沿って東へ進む。歩道に楽人のプラッツ像という面白い彫像が立っている。鎌倉街道との大きな交差点に出る。交差点を渡って街道の東側歩道に入る。新大栗橋で大栗川を渡り、その橋の袂から川沿いの小道に入るとそこは乞田川との分岐点になっている。分岐点の乞田川の上には向ノ岡橋という名の小橋が架かっている。小橋の袂から大栗川の下流を望むと向ノ岡の丘陵へ上がって行くように一定の勾配をつけて架かる大きな新向ノ岡橋が目に入る。向ノ岡は古より多摩の横山の一つとして和歌にも詠われた丘陵だ。乞田川左岸に沿って堤の道を進むと程なく行幸橋と呼ぶいかにも一時代昔の名前の橋と人道橋がある。かつて明治天皇がこの地で兎狩りをした折に渡ったことを記念して名付けられたのであろう。ここから向ノ岡の丘陵越えが始まる。
行幸橋を渡り上り坂を左にカーブしつつ上って行く。坂道の途中左手には春日神社があるが、切り通しの上なのでうっかりすると見過ごしてしまう。由緒書によれば連光寺一帯は稲毛三郎重成の所領で、平安末の治承5年(1181)建立という。小さな神社であるが境内に大欅が2本立っている。更に坂道を進むとバス停「春日神社」があり、そのすぐ横の丁字帯から右側の丘陵に立ち並ぶ住宅街へ入る記念館通りと言う道がある。都立桜ヶ丘公園はこの記念館通りに入るのであるが、それは一旦後に回して、先にこの近くにある2つの旧跡に立ち寄ることにする。
バス停先から左斜めに入る街路を採る。道は大きく右に回り込む上り坂となり、上がり切ると川崎街道に架かる桜橋の袂に至るのであるが、その途中に対鴎台公園という一風変った名の公園がある。園内の奥には「明治天皇行幸所対鴎荘」と刻んだ石碑が立っている。対鴎荘とは明治維新で活躍した公卿三条実美公の別荘に由来する。別荘は元は隅田川河畔の橋場(台東区)にあったもので、三条実美が明治6年(18733)に建てた。明治天皇は征韓論の政争で病に倒れた実美公を対鴎荘に見舞いに訪れたという。実美の死後、対鴎荘を買い取った豪商が昭和4年(1929)保存のために多摩の連光寺に移築した。当初は観光客も多く訪れ、戦後は料亭として利用されたが、老朽化が激しく昭和63年(1988)取り壊された。そこで近年対鴎荘のあったごく近くのこの高台にその名に因んで対鴎台公園が整備されたという。(この項つづく)
バス停先から左斜めに入る街路を採る。道は大きく右に回り込む上り坂となり、上がり切ると川崎街道に架かる桜橋の袂に至るのであるが、その途中に対鴎台公園という一風変った名の公園がある。園内の奥には「明治天皇行幸所対鴎荘」と刻んだ石碑が立っている。対鴎荘とは明治維新で活躍した公卿三条実美公の別荘に由来する。別荘は元は隅田川河畔の橋場(台東区)にあったもので、三条実美が明治6年(18733)に建てた。明治天皇は征韓論の政争で病に倒れた実美公を対鴎荘に見舞いに訪れたという。実美の死後、対鴎荘を買い取った豪商が昭和4年(1929)保存のために多摩の連光寺に移築した。当初は観光客も多く訪れ、戦後は料亭として利用されたが、老朽化が激しく昭和63年(1988)取り壊された。そこで近年対鴎荘のあったごく近くのこの高台にその名に因んで対鴎台公園が整備されたという。(この項つづく)
夕焼け小焼け №48 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
プラークの栗並木の下で 3
鈴木茂夫
鈴木茂夫
10月はじめ、三宅久之が弾んだ声で部室に現れた。恋人の柳平秀子さんと手をつないでいる。
「やあおはよう。やったぞ、俺は」
「三宅さん、どうしたの」
「毎日新聞に合格したよ」
その場にいた10数人が
「ひぁあ、おめでとう三宅さん」
「競争倍率が100倍を超えていたっていいますよ」
「入社試験のなにがよかったんですか」
「答案を書く一般社会、英語はもちろんだけど、面接で点を稼いだと思う」
「毎日新聞を狙ってたんですよね」
「ありがとう。そうだ。毎日を本命にしていたからな」
「三宅さんは社会部の事件記者するの」
「俺はだ。政治部にいきたい」
「秀子さんもよかったね」
「俺は給料がもらえるから、世帯をもてる」
この一言には重みがあった。就職した三宅はもはや学生の枠組みにはいない。
坂田純ちゃんがふらっと部室にやってきた、手にしていたカバンを机の上に置いた。授業に出ていたようだ。私は声をかけた。
「純ちゃん、君は就職、どうなつてるの」
純ちゃんは、いつもの笑顔を浮かべた。
「うん、それか。なんとか決まったよ」
「ほんと、よかったね。どこなの」
「三越だよ」
「えっ、三越って、百貨店の三越なの」
「おめでとう。三越は慶應義塾の優秀な学生を採用すると言われているじゃない」
「そうなんだよね。早稻田からの採用は俺一人みたい」
純ちゃんは、ごく普通の話をしているようだが、三越が早稻田の学生を採用するのもあまりないことだ。
「純ちゃんは試験を受けたの」
「いや、三越に行ったら、採用内定と言われたんだ。紙の試験問題は関係ないよ」
話をきいていた連中は、唖然として声も出ない。純ちゃんには、よほど力のある三井系の人が推薦しているに違いない。純ちゃんは家系のことなぞ口にしたことはない。でもいざとなると、その家系が威力を発揮したのだ。
話の接ぎ穂がなく、就職の話はそれだけで終わった。
私たちが劇の中で歌った宇野誠一郎さん作曲の『第七旅団の歌』は、いつしか歌い継がれスペイン内戦で歌われていたとして、過激派学生の間で愛唱された。
第七旅団の歌
俺〈オイ〉らの生れはここではないが
俺らの胸はともに高鳴る
頭の上にはおんなじ旗だ
容赦なく、またつねに容赦求めず
俺らは戦うために来たのだ
第七旅団のゆくところ
ファシストは滅ぶ
第七旅団のゆくところ
ファシストは滅ぶ
進め! 進め!
妻と老〈オイ〉とを家に残して
世界の果てから集まり来〈コ〉しは
一歩も退却するためならず
俺らの数は少いけれど
死人〈シビト〉も俺らと一緒に進む。
第七旅団のゆくところ
ファシストは滅ぶ
第七旅団のゆくところ
ファシストは滅ぶ
進め! 進め!
1963年夏、機会があって私は一人でプラハを訪れた。 モルダウ河が街を貫通し、噂の通り、百塔の街だ。第二次大戦の戦禍をあまり受けていないこの街は落ちついている。
私は16ミリ撮影機を手に、テレビ局に飛び込んだ。1日仕事でプラハを撮りたいので援助して欲しいと申し述べると、男女二人のディレクター・ボリス、イリナさんが快諾してくれた。二人は手際良く市内の著名な建造物に案内してくれた。
ボリスさんが、
「あなたはロシア語しか話さないの」
私は、
「英語でも良いですけど」
「それはいい。私たちはロシア語を話したくないの。つまりソビエト・ロシアは好きではないから」
私も英語に切り替えた。
「1945年5月、ソビエトの赤軍がプラハを解放してくれたではないですか」
と反問すると、
イリナさんが、
「ソビエトは,ソビエトの赤軍がプラハを解放したと主張しているわ。だけどですね。
あの年の4月から5月にかけて、ソビエトから民衆が蜂起するようにとの連絡があり、多くの市民がパルチザンとしてそれに参加したの。少数で貧弱な武器のパルチザンは、ナチスの兵力の前に多くの人が犠牲になったの。私たちはソ連に支援を求めたの。ソ連は何もしてくれなかったわ。パルチザンが壊滅状態になり、ナチスの軍隊が撤退してから,ソ連の赤軍は姿を見せたの。だから私たちは、今もソ連を信頼していないの」
こんな話は日本で聞いたことがなかった。
私は学生の頃、「プラーグの栗並木の下で」に関わったと話した。二人はそんな戯曲は全く知らないと答えた。プラハで上演したら、民衆は大反発するでしょう。
そしてプラハには栗並木の並木道は存在しない。マロニエの並木道は誰もが知っている。原題の POD KASHTANNAMI PRAGI の KASHTANNにはマロニエ,栗の意味があるから,間違えてそうなったんでしょうねと教えてくれた。
私は「プラーグの栗並木の下で」で、ソビエトの国際連帯に陶酔していたのだ。プラハの街、ボリスさん、イリナさんは,私を目覚めさせてくれた。
1968年4月、チェコのドブチェク第一書記は、社会主義路線を転換し人間の顔をした社会主義、つまり民主主義改革をすすめると宣言した。
これにたいしソ連は「社会主義陣営全体の利益のためには、一国の主権は制限されても良い」と主張。8月17日にソ連軍はじめワルシャワ条約機構の5カ国の兵力を動員してチェコに侵攻。チェコの民主化を粉砕した。
線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №236 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
熊本・三角線 住吉~肥後長浜
岩本啓介
岩本啓介
三角線は熊本県・宇都駅~三角駅のJR九州の線路です
旧暦8月1日に 不知火海(八代海)に観られる蜃気楼現象は国の名勝に指定されています
小学生のころ 親父に誘われ 八代港に不知火しらぬい を観に出かけた 思い出があります
夕陽にギラリ・住吉海岸・長部田海床路から
海へと続く道が不思議な長部田海床路は,海苔養殖・採貝を営む漁業者のためにつくられました
干満の差が激しい有明海では,潮位が下がると沖の船は入港することができません。
船を沖合にそのまま停泊させ,海での仕事を終えた漁師たちは,この海床路を使って陸に上がります
海床路の先に広がる海と空の幻想的な色調も相まり,近年,インスタスポットとしても人気の場所です
押し花絵の世界 №213 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
「ミュシャと日本の秋」
押し花作家 山﨑房枝
32cm×17cm
アール・ヌーヴォーを代表する画家のミュシャの絵画と日本の秋の植物をコラボレーションしました。
黄色とオレンジ色の鮮やかな黄花秋桜をメインに、南天の葉、紅葉、ドクダミの葉、ホラシノブなどの秋色の植物を、キャンパスに絵の具を塗るようなイメージで楽しみながら配置しました。
夕焼け小焼け №47 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
プラークの栗並木の下で 2
鈴木茂夫
5月20日。本番の日が来た。大隈講堂に看板をだした。
鈴木茂夫
5月20日。本番の日が来た。大隈講堂に看板をだした。
座席には大勢の若い観客が座っている。
開幕のベルが鳴った。私は舞台の袖にいた。私は感動していた。その感動の根源は,私が舞台に立っているのか、舞台に立っているマチェクの私なのか。私は瞬時にして理解した。俳優はこの感動を体感する。この感動を体感するため、俳優は舞台に立つ。
私たちは客席から俳優を見る。つまり芝居を見るのだ。
私はマチェクに扮し、マチェクを演じているのか、私がマチェクになっているのか、それからが渾然として私を包んだ。
第三幕
ボジェーナ ユリー、ピアノの前に座って頂戴。
マチェク 何のために。
ボジェーナ 私歌うからこれをやって頂戴。(一本指でひく。マチェクはアコードを選ぶ。)
ボジェーナ いいえ、駄目だわ。よして。この方がいいわ。(マチェクに譜を渡す。マチェク弾く。ボジェー ナ 長い沈黙ののち歌い出す。)
プラーグの栗並木の下で
君と坐れば
栗の葉がヒラヒラと舞い落ちる
ものみなは過ぎゆき過ぎゆきて
語りし言葉
枯れ葉となり 川に落ち流れ行く
マチェク 私の最後の言葉です。あなたは明日私の妻にならなければなりません。 一日ものばすことはできま せ ん。
ボジェーナ (非常に静かに。疲れたように) ユリー、あなたには何もお解りにならなかったのね。私は決して あなたの妻にはなりません。
ボジェーナ (非常に静かに。疲れたように) ユリー、あなたには何もお解りにならなかったのね。私は決して あなたの妻にはなりません。
マチェク でもあなたは私の許嫁になることを承知なさったじゃありませんか。
ボジェーナ (静かに) それはドイツ軍のいた時のことよ。あの頃はまるで棺桶なかにひっそりしていて、私は もうどうでもよかったの。私はまたあなたを怒らせたのね、ごめんなさい。あなたの気を悪くしたく はなかったんだけど。(沈黙) ユリー,私は今までとは違うほかの世界を見たの。他の人間を、全然 別 の人間を。
マチェク どこで。コンセントレーション・キャンプで。
ボジェーナ そうなの。その時からなの。あなたとまるで別の人間。そしてもし私が別の世界の人で、あの人 達 の世界に入ることができないなら、あなたのそばで退屈して、あなたを苦しめるより、この戸の前 で 死んだ方がましなんです。私がどんなに話しているかおわかりでしょう。私の約束の言葉を私に 返して,私を許して下さいまし。ではさようなら。
マチェク あとで残念に思うようなことはありませんか。
ボジェーナ 決して
マチェク さようなら (退場)
私はピアノが弾けない。舞台に面したピアノの前に道具箱のようなものを置いた。宇野誠一郎君が私の前にかがみ手を伸ばして弾くと、宇野君の姿は観客には見えない。宇野君はピアノの鍵盤面をみないで弾いた。名人芸だ
幕が下り、見物席から拍手が聞こえてきた。舞台では、ひどくおごそかな静けさが支配していた。
純ちゃんが俺たちの歌を歌おうと叫んだ。
幕を上げ劇団員が全員並んだ。自由舞台の歌を歌う。
自由舞台 劇団歌
(「線路は続くよ」のメロディーで)
輝く太陽 大空に 自由の世界に さあ手に手をとって
行こうよ 共よ 足並みそろえて 明るい希望の 歌声に
どんなに辛く 苦しくても 大きな誇りと 喜びをもって
行こうよ 友よ 足並みそろえて 明るい希望の 歌声に
客席からも歌声が聞こえる。
私は自分が観客から弾かれたような気分になった。
私はもう演じなくていい。マチェクはいなくていいのだ。私からマチェクが消えて、そこには大きな空白が残っている。
「プラーグの栗並木の下」は終わった。公演は大成功だった。
私の演劇との関わりも終わった。演劇・映画の世界に入ることはない。自由舞台での体験は愉しく貴重だった。そして演出の仕事にも俳優にも、むいていないと分かった。
公演の後に
5月に『プラーグの栗並木の下で』の公演を終え、秋を迎えた。
線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №235 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
廃駅続くJR北海道
岩本啓介
岩本啓介
①留萌本線・明日萌駅と秋の雲
NHKの朝ドラ60作目、1999年度は『すずらん』北海道・留萌線『恵比島駅(ドラマでは明日萌あすもえ』でした。ヒロインは青年期【遠野凪子】、老齢期【倍賞千恵子】でした。2023年3月31日に廃駅に。
でも、ドラマのセット『足萌駅』は現在でも保存されているようです。
2022年10月20日8:16
②根室本線・布部駅とラベンダー
みなさんもご存じの1980~90年代に放送されていた国民的ドラマ『北の国から』にゆかりのある駅です
布部ぬのべ駅は放送1回目に登場した駅で、駅の開業は昭和2年でしたが、2024年3月末に廃駅に
駅前のは畑のラベンダーが とても綺麗でした
2022年7月5日9:43
押し花絵の世界 №213 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
「薔薇とラナンキュラスのミニ額」
押し花作家 山﨑房枝
21cm×17cm
お祝いの花束を小さい額に入れてプレゼントしたいとご要望をいただいたので、花束に入っていた薔薇とラナンキュラスの花びらを1枚1枚乾燥させてから丁寧に組み立て、小ぶりなサイズのお花を作りデザインしました。
どこにでも飾りやすいコンパクトサイズなので手軽に喜んでいただけて嬉しいです。
夕焼け小焼け №46 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
プラーグの栗並木の下で 1
鈴木茂夫
鈴木茂夫
昭和27年(1952年)1月のある日。自由舞台年明けの部会だ。法学部地下の部室に40人はいた。
幹事役の坂田純治が上座の机から立ち上がった。商学部の4年だ。上背がある。声ののびがいい。大学へ来るとまず部室に顔をだすが、授業にも出席している。、
「今年の、昭和27年(1952年)4月28日には、サンフランシスコ平和条約により主権が回復する。占領時代が終わり日本が独立を回復する。7年に及ぶ占領期間が終わるんだ。じっくりと嬉しい気持ちがする。きょうは、今年の公演予定を決めたい。坪松君が腹案があるという。それを聞こう」
坪松裕が立ち上がって一礼した。黒色の徳利セーターに進駐軍のフィールドコートを羽織っている。いつものいでたちだ。
私にとって坪松は不思議な人だ。私と同年。都立の工業高等学校から教育学部教育学科に籍を置く。戦後の数年間に知識をえたのだろうが、日本の新劇の歴史に詳しい。口を開くと、1923年の関東大震災の翌年、土方与志と小山内薫が創設した築地小劇場の歴史を語る。そして戦後は千田是也,滝沢修、山本安英など多くの人材が巣立ったと流れるように語る。音楽にも詳しい。
「第二次大戦ではナチス・ドイツと連合国の激しい闘いがあった。僕はそのなかで、ソビエトの作家・コン寸タンチン・ミハイロビッチ・シーモノフの『プラーグの栗並木の下で』を取り上げたい。シーモノフは1915年にペテログラード(現・サンクトペテルプルグ)に生まれた。現在37歳の働き盛りだ。第二次大戦で前線におもむき、「ユーゴスラビアの手帳」、「ロシアの人びと」、「昼となく夜となく」を発表。絶賛を受けた。スターリン賞、レーニン勲章、祖国戦争勲章などが与えられている」
坪松はそこで座った。三宅久之が手を挙げた。三宅は独文科4年の異才だ。辛口の発言があるが優しい。個性的な風貌と人を惹きつける語りがある。大学の文化団体連合会の副会長だ。切符の販売などで力を発揮する。俺は早稻田だから朝日・毎日・読売の三大新聞のどこかに入ると言い切っている。
「君がそこまで打ち込んでいるなら、それでいいよ。でもどういう芝居なのか話してよ」
「三ちゃん、話を急ぎ過ぎたようだ。ちょっと長くなるけど話そう。この芝居は新協劇団、確認していないけど九州大学の劇団か上演したことがあるとか。1939年ナチスドイツはチェコスロバキアを制圧していた。 1945年5月9日、ソビエトはナチスに勝利した。戦勝記念日としている。第二次大戦は終局を迎えたのだ。ナチス・ドイツは連合国降伏した。チェコスロバキアの首都プラハにはナチスドイツの中央軍集団の総勢90万人の兵力がいた。これに対して連合国側はチェコスロバキア第一軍団はじめ総勢200万人がいた。5月9日、ソ連の赤軍はチェコスロバキアのパルチザン部隊とも協力してナチスドイツ軍を攻撃してプラハを解放した。5月11日、一部の残存していたナチス兵力を平定した。この芝居はこの日を設定している。チェコスロバキアがソビエト軍によって解放された日の首都プラハに生きる一家庭の動向を描いている。主題はソビエトのナチズムとの闘い。ソビエトの国際連帯。ソビエトのヒロイズムだね」
「大きいテーマだな。ところで何幕なの」
「黒板に書き出してみるよ
第一幕
第一場
プラーグ郊外にあるフランチーシェク・プロハーズカ家のホール。夕方。
第二場
同じ場所。三日後。深夜十二時。
第二幕
同じ場所。二日後。朝。
第三寞
同じ場所。二日後。
第四寞
同じ場所。
「四幕構成でも舞台装置は1セットで足りるね。やろうよ。そこまで話をしたんだから、 松さん、君が演出するんだろうね」
「ここでみんなが賛同してくれればね」
「異議なし」
全員賛成の声。三宅が、
「俺は来年卒業だ。今年は就職活動で忙しくなる。でも最後の仕事にプロデュースは引 き受ける」
坂田が発言を求めた。
「俺はね、みんなも知っているとおり、一年間、旧制の第二高等学院にいた。その時の級友に宇野誠一郎君がいる。今は第一文学部の仏文に在籍している。NHKの仕事も手がける優しいすぐれた音楽の専門家だ。この芝居の音楽の作曲を頼みたいと頼んだら、引き受けようと言ってくれた」
音楽は素敵な仕上がりになるだろう。
手回しよく台本が配られた。
坪松が部屋の中心に座った。稽古のはじまりだ。みんな台本を手にしている。
まず配役だ。
「医者のプロハーズカ二は、坂田純ちゃんをあてたい」
「次はその息子ステファンだ。茂夫君、君はどうだ」
思いがけないご指名だ。だが、
「俺は思想的に元気溌剌じゃない。むしろ独文の浅野多喜雄君を推薦したい。そして俺はボシェーナと婚約している医者のマチェクがいい。」
坪松はうなずいた。
「プロハーズカ家の娘は」
女声が聞こえた。
「それは吉永春子さんじゃない」
「主な配役はこんなところでいこう」
坪松は微笑して台本を閉じた。
フランチーシェク・プロハーズカ 医者
ステファン その息子 チェコ軍団 大尉 26歳
ボジェーナ その娘 ステファンと双生児 26歳
リュードヴイク その息子 17歳
ボグスラフ・チーヒー 詩人
ユリー・マチェク 医者 ボジェーナの許婚者
ジョキチ 盲目 38歳
チェコ軍の民兵 二三人
チェコ軍の将校
以上 チェコ人
イワン・アレクセーウィチ・ペトロフ ロシア軍大佐 38歳
マーシャ・カノネンコヴア ロシア軍曹長 落下傘部隊無線通信士 21歳
ゴンチャレンコ ロシア軍の自動車運転手
以上 ロシア人
稽古は本読みからだ。部室の机を縦2列に並べた。
演出の坪松はタンかを切るように、
「俺はこの芝居を、スタニスラフスキー・システムで仕上げる」
坂田が驚いた表情だ。
「なんでもいいけど、スタニスってのは何なの。ロシア人の名前だったら、茂夫君君は知ってるのか」
「それは有名な人だから名前だけは知ってるけど」
「松さん、その人の本でもあるの」
「スタニスラフスキー・システムを扱った日本語の本は出ていないよ」
「松さん、それじゃ知りようがないよ」
「俺が演劇雑誌のテアトロなどで読んだ少しばかりの記事が土台だ」
「分かったよ。松さん、君のやりたいようにやればいい。それがスタニスラフスキー・システムかどうかはどうでもいいことだ。茂夫君もそう思わないか」
「俺たちは仲間だ。お互いを信頼している。松さんのシステムでやるのがいいよ」
坪松が台本とノートを手にして、
「われわれの演劇のもっとも重要なことは、俳優の意識的な心理技術によって自然の無意識的なはたらきを刺激することだ。紋切型の『形で示す』演技じゃだめなんだよ。俳優の有機的な自然にひそむ潜在意識で創造される演技、つまり『役を生きる』んだ」
「松さん、それ何なの」
純ちゃんが噛みついた。坪松は平然としている。
「思わず、演出者の任務とは何かということを読み上げてしまった。演劇雑誌のテアトロの紹介記事を書き抜いておいたんだ」
「坪松さん、俺浅野としては、スタニスラフスキー・システムは小難しいね」
浅野は回りくどい表現に弱い。
「藪から棒に、そんなこと言われたって分からないよ」
坪松は平然している。
「俳優は自己の肉体を表現手段とする芸術家だよ。新しい役を演じる場合、思いつく、あるいは使われてきた表現手段の中から、何かを選び取って表現する。或いは表現してきた。それを紋切り型と言って良い。欲しいのは俳優自身の中から、紋切り型ではない表現を造り出していくことだ。それはまさに『役を生きる』ことだよね。俺は小難しい注文を出してはいない。俳優の創造性に期待しているだけだ」
私はふとした成り行きから、俳優をやることにになった。私は医者・マチェクだ。老練なプロハーズカ教授のお気に入りだ。そして教授の娘のボジェーナの婚約者だ。マチェクはボジェーナと落ちついた家庭を創り上げたいと思っている。今度の戦争とチェコの成り行きがどうなるのかにはあまり関心がない。だがボジェーナはチェコの将来について明確な意思を持っている。私はそれをめぐって議論になると、どちらにもつきかねる。ボジェーナと私の関係は冷えてきている。二人の関係は破局が予感される。
俳優とは何かと考え込む。俳優は役を与えられて役を演じる。それを扮するというのだ。
稽古は坪松のスタニスラフスキーシステムで進んだ。
第一幕
マチェク (登場) どこへ行っていたんですか。二度もお寄りしたのに。
ボジェーナ プラーグを散歩していましたの。
マチェク 誰と
ボジェーナ チーヒーさんと。
マチェク (安心して) そうですか。
ボジェーナ きょうは具合が悪そうね。どうかなさったの。
マチェク あなた僕を愛していらっしゃらないということのほか、別に変わったことはありません。
私は医師マチェクとして、許嫁ボジェーナとの関係に集中して見ていく。
ボジェーナはナチスに対抗するとしてコンセントレーション・キャンプに収容されていたが、捕虜として捕らえられていたロシア軍の女性通信士マーシャとともに脱走して戻ってきた。その際の過酷な体験から、優柔不断な許嫁のマチェクの生き方を受け入れられない。プラハ解放に進撃してきたソビエト軍のペトロフ大佐に惹かれている。
私は台本を慎重に読み、医師・マチェクという役を演じる。
そうしたある日、稽古の合間の休憩時間に,純ちゃんに尋ねた。
「君はさ、松さんのいう役に生きてるの」
「はっきり言って、そのことは分からない。ペトロフ大佐のことは考えるよ。でも稽古場に入ってから、真剣に考えるね」
「ふうん。スタニスラフスキーシステムは飲み込めてるの」
「それはだ。まるで分かってないね。松があれこれ言うと、俺なりに考えてやる。すると松が『純ちゃん、いいね。それでいこう』という。つまりそれは俺がスタニスラフスキーシステムの役作りに合格したってことになるだろ。ともかく、俺は俺のやり方でやってるよ」
「そうか、それを聞いて俺も安心したね。医師のマチェクも同じやり方でやってる」
俺たちはスタニスラフスキーを理解していない。しかし、俺たちの演技には、坪松がOKを出す。坪松のOKが何より大切だ。
こうして稽古は進んだ。
三宅はいくつかの女子大を訪ね、
「俺たちの芝居は、もっとも進んだ演出法でつくりあげてます。日本が独立を回復した今だから、ぜひ見に来てよ」
こう言ってよびかけたという。三宅の弁舌は説得力がある。切符は予期していたより売れたとか。
「学生演劇で赤字にはならない。ということは大成功だぜ」
三宅の報告は嬉しかった。
線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №234 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
秋の日高本線・発電所バック
岩本啓介
岩本啓介
①廃駅・浜田浦駅待合所・2023年4月1日廃駅
待合室は電灯なし・土間で、床もありません・でも味のある待合室です 2022年10月28日11:22
②夕闇迫る厚真発電所バックにキハ40
夕闇迫る厚真発電所をバックに、雲が綺麗でした
浜厚真~浜田浦
2022年10月28日15:24
押し花絵の世界 №212 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
「60本の薔薇の花束」
押花作家 山崎房枝
70cm×55cm
母の友人が還暦のお祝いに、息子さんご夫妻からプレゼントされた60本の豪華な赤い薔薇の花束を記念に残したいとご要望をいただいきました。
デザインや額などは全てお任せしていただいたので、シンプルなデザインで、額はエレガントで華麗な物を選んだらところ、とても気に入ってくださりました。
ご家族の大切な思い出の品を作らせていただけて光栄です。
多摩のむかし道と伝説の旅 №134 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
多摩のむかし道と伝説の旅(№30)
−⼆ヶ領⽤⽔⽔辺の道を⾏く−5
原田環爾
[Ⅲ]宿河原⽤⽔の本流合流点から川崎堀へ 2
円筒分水の周辺に社寺があるので立ち寄ることにする。平瀬川隧道出口の上の傍らに久地神社がある。鳥居をくぐって参道の石段を上がれば、ささやかな境内に本殿がある。また町田市域以外では珍しい地神塔も立っている。境内の由緒書には問い合わせ先を溝口神社としているので、溝口神社が管理しているものと思われる。神社の創立年代は不詳であるが、江戸時代の元禄の頃に久地の農民38戸によって祀られたのが始まりという。江戸時代は赤城社と称し、溝口神社の兄弟神として、毘沙門天や弁財天をお祭りしていたという。しかし明治の神仏分離令により、御神体は近隣の浄元寺に遷し、村内の伊勢宮と富士浅間社を合祀し、天照大神を主祭神に久地神社と改称したという。
久地神社の傍らの坂道を上って行くと、久地神社の裏手に久地弁財天がある。境内には 石の鳥居と小祠、小池に架かる赤い橋があるが、立ち入り禁止になっているので境内に入ることはできない。先の久地神社の元の御神体である弁財天が祭られていたのであろうが、雑草も茂り十分管理されていない様子で哀れである。なお久地弁財天は、弁財天の他に、元禄年間(1688~1703)に久地に来住した比丘尼を祀っていた御堂ともいう。比丘尼は元上杉氏に仕えていた女性で、久地という地名は比丘尼が転訛したものとの説がある。境内の池は蛇神が棲むことから蛇神池と称し、干ばつでも水が絶えないことから「雨乞い弁天」とも呼ばれたそうだ。
更に坂道を上って行くとその奥まった突き当りに久地不動尊がある。正式には成田山久地不動尊護尊寺と称す。元は東京浅草の新吉原にあったという。猫の額ほどの小さな境内であるがお堂は立派である。お堂の前には「六根清浄」と刻んだ石の倶利伽羅剣と不動明王が鎮座している。ちなみに倶利伽羅剣が盤石に突き刺さった姿は不動明王の化身とされるようだ。こんな面白い話がある。新吉原は昼と言わず夜といわず人が絶えない遊郭で、不動明王には喧噪で我慢できず、「私を静かな場所に移せ」と寺の者に告げた。これを聞いた寺は驚いて久地に移すことにした。ところが移転を前に関東大震災がおこり寺は全焼してしまった。しかし不動明王は自ら古井戸に飛び込み難を逃れたという。
再び円筒分水に戻り、これより川崎堀に沿って東へ向かう。川崎堀に入って間もなく堀に架かる小橋がある。そこ小橋で右手の路地に入ると、津田山山麓に浄元寺という日蓮宗の寺が佇んでいる。こじんまりした境内に本堂、日蓮上人像、瓦塔のほか、大きな大黒天の石像などがある。山号を秋興山と号す。創建年代は不詳であるが、開山は日應上人で、池上本門寺の末寺という。江戸時代までは毘沙門天と弁財天を祀る赤城社(現久地神社)の別当寺だったが、明治の神仏分離によって赤城社は久地神社に改称し、祭神であった毘沙門天と弁財天は浄元寺に写された。
更に川崎堀に沿って進むと程なく激しく車両の行き交う厚木街道(国道246号線)に 出る。堀は一旦暗渠となるが、陸橋で街道を渡り溝口に入ると再び開渠となって姿を現す。水辺の道は両岸とも広く伸びやかである。法泉坊橋を過ぎると次は濱田橋の袂に来る。濱田という橋名は陶芸家の濱田庄司に由来するという。濱田庄司は明治27年溝口生まれ。英国人バーナードリーチと共に陶芸に目覚め、栃木県益子で作陶に入り、益子焼を芸術にまで高めた。昭和30年人間国宝に、昭和43年文化勲章を受章した。
次いで西浦橋をやり過ごすと大石橋に出る。親柱にはコンクリート製ながら石灯籠を備えた風格のある橋になっている。それもそのはず、大石橋の通りは江戸時代に大山参詣で賑わった大山街道なのだ。しかもこの界隈は街道の宿場があった所で、橋の北詰には宿場を管理する問屋場があった。また大石橋から北へ50mも行った沿道左には大山街道の古びた石の道標が立ち、そこに「大山街道ふるさと館」がある。
大山街道は、古代から存在した古い道筋を江戸時代に整備した脇往還の一つである。赤坂御門から青山、三軒茶屋、二子、溝口、長津田、厚木、伊勢原、松田惣領、矢倉沢関所に至る道で、更にその先足柄峠を越えて駿河方面へ通ずる道筋である。矢倉沢の関所を通ることから矢倉沢往還とも呼ばれた。宿場と同じ役割を担う継立村が17か所設けられていた。江戸時代の庶民にとっては大山詣の参詣道として大いに利用された。即ち大山詣は伊勢原で矢倉沢往還から分岐し阿夫利神社へと向かった。
これより終着点溝の口駅へ向うが、その途中にある溝口神社に立ち寄ることにする。大 石橋から大山街道を南へ少し辿ると街道の右手に溝口の総鎮守溝口神社がある。溝口神社の創立年代は詳らかでない。江戸時代は毘沙門天と弁財天を祀り、神仏習合により溝口村の赤城大明神と称していた。明治維新後、神仏分離の法により溝口村の総鎮守として新たに伊勢神宮より天照大神を主祭神に勧請し溝口神社と改称した。安産、子育て、縁結び、家内安全のご利益があり、参拝客で賑わう神社である。
溝口神社を後に大山街道から離れると、すぐ目の前が終着点東急田園都市線溝の口駅であり、かつ南武線の武蔵溝ノ口駅でもある。(完)
夕焼け小焼け №45 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
虚実皮膜・友は就職
鈴木茂夫
秋の学期がはじまった。
細胞会議に顔は出さない。私が出なくても、出席を促す党員学生はいない。一般の新聞紙面から共産党の暴力というか武力闘争というか,騒がしい記事はなくなっている。党は軍事方針は変わったんだ。なぜだ。そんなことは分からない。そもそも党が武力闘争をはじめた理由が理解できないのだから、武装闘争を止めたという理由も分かるはずがない。 私は毎日教室に出るようになった。久しぶりの教室は懐かしかった。教室の中には,良くも悪くも知的な語らいがある。私はその枠組みからずいぶんとはみだしていたのだ。学校はいいなと思う。
そんな私を、どうかしたのかと、いぶかしげに見る学友の支線があった。しかし、そんなことを気にはしていられない。
私は卒業しよう。なんとしても卒業して、それなりの企業に就職しようとおもいさだめたのだ。そうしなければ,安定した生活は望めない。不安定な生活環境の中に生きるのは、とてもやりきれない。それは経済的なことだけにかぎらず、精神の動揺をもたらす。
母は私が卒業してしかるべき業に就職する日が来ると信仰している。それが母の人生だ。母を裏切ってはならない。
その卒業には、128単位を履修しなければならない。私は東洋哲学科に在籍していた2年間に90単位以上は学習している。だが転科したロシア文学科の必修科目が、ほとんど取れていない。その取得が最大の難関なのだ。ともかくやるしかない。それには授業への出席が欠かせない。
平穏な時間が流れていく。
授業の合間に、早稻田文庫でひとときを過ごす。都竹が笑いながら、
「君もようやく、授業に出るようになったのか」
「俺はきちんと卒業する。一年遅れだが5年で出る。ところで君は何か書いているのかい」「ま、その、構想を温めている」
都竹はうろたえ気味に返事した。
どうやら、私は落ちついた学生生活に立ち戻ったようだ。
午後1時、昼の休み時間は終わった。文学部前にたむろしていた連中も、それぞれに正面の階段を上がって教室に向かう。気がつくと、私だけが取り残されていた。
私もその後を追い、1階のこぢんまりした教室に入った。最後列に坐る。横にいた学生に尋ねると「文学概論」だという。私は1年生の時に、この講座の単位は取得していた。でももう一度きいてみよう。
定刻を10分ほど遅れて、焦げ茶の大島紬に羽織袴姿の教員が、左手に風呂敷包みを抱えて静かに扉を開いた。英文科の本間久雄教授だ。明治42年の卒業生だから,66歳にはなっているはずだ。でも黒髪はつややかに整えられている。広い額と太い黒縁の眼鏡の奥に、穏やかな瞳が光っていた。
「文芸批評の標準、または態度というものは,要するに人生派の批評と芸術派のひひょうとの是非論に他ならないのです。人生派の批評は、人類全体のための一種の理想を、その最後絶対の標準としています。これに対して芸術派は、批評家その人のその作品から受ける感受性を唯一の根拠としています。この派の批評は,できるだけ自己の理想を捨て、先入観を去り、虚心に作品を味わおうするのです。人生派の批評には『判断』または主張が重大要素となるのに対して,芸術派のそれは常に『鑑賞』と『解説』がちゅうしんとなっています」
この人は、流暢な弁舌の人ではない。とつとつとして、いささかの東北訛りで話す。
「文芸批評の標準を,鑑賞家ないし批評家の主観以外の外的な境地に求めるようなフォーマリズムの批評は、今日ではすでに跡を絶ったというべきでしょう。『人は皆自己を標準として万事を判断する。人は自己の外に何らの標準を持たない』と言ったアナトール・フランスの言葉は、真理であります。今日の文芸批評は,その意義も、その価値も、大部分はその批評家の『自己』にかかっていると見てよいのです」
この人は「深く感動する能力」を文芸批評の柱だと言っている。それは同時に、文芸制作の根本であるとも主張しているのだ。気がつくと、,私は何度となくうなずいていた。私はこの先生の言う芸術派の視点に共感していた。授業に出て良かったと思う。
私が物思いにふけっている間に、話は次のテーマに移っていた。
「文芸における表現の問題として、虚実のことがあります。先生は『小説神髄』において、文学作品の制作に際し、虚構を排除して事実を重んじると模写主義を唱えられた。これに対し、森鴎外は『早稲田文学の没理想』と題する一文を発表。逍遙が,世界は実だけではなく、想に満ちていることを見過ごしていると反駁。二葉亭四迷も『小説総論』で、虚をとることこそ、大切であると反論したのです」
本間教授は、ここでふと一息入れた。この人が姓を呼ばずに「先生」呼んだのは、他ならぬこの人の恩師・坪内逍遙のことだ。この人はその弟子として,早稲田文学の世話役を長く務めてきている。「先生」と口にすると、この人の脳裏を師の面影がよぎるのだろう。私は逍遙の風貌に接したことはない。文学史に現れる人物として理解している。しかし本間教授のふとした口ぶりから、私たちも逍遙の学灯につながっているのだと思う。
「ここにいう虚といい,実といわれるものは何なのか。何はさておき、虚実のことについては、近松門左衛門を取り上げなければなりません。浄瑠璃における五句の評釈書『難波土産』(なにわのみやげ)は、近松の聞き書きとして、『芸といふものは実との皮膜の間にあるものなり』としています。世に『虚実皮膜の論』(きょじつひまくのろん)と言われるのがこの一文です。イギリスでは、こうした虚実の形象化をAesthetic processと言います」
本間教授は、このくだりをしみじみとした口調で話された。私の勝手な想像だけど、きっと恩師逍遙も、そこを強調されたのだろう。
私のささやかな体験から,、俳優における表現とは,肉体の制御なのだと思っている。では文学における表現とは何だろう。それは言葉の選択と語り口しかないはずだと思う。つまり文体だ。そしてその文体こそ、本人の生き様なのだろう。そして文学作品は、虚と実の統合なのだ。
私は書きたいのだ。文学作品を書きたい。私が紡ぎ出し,織り上げる物語をだ。そこにはさまざまな文様を描き出そう。虚と実が渾然として輝くものにしたい。
私の中に埋もれていた炎は、消えてはいなかった。素直にそれが嬉しかった。それは同時に,私が原稿用紙に字を書けないのは、文体の芯となる私自身があやふやであるということにつきる。お前はなになのだと、自分に問いかける。この問いに答えることができないで、私はたじろいでいる。しかし、私の創作する文学作品に,、私以外の誰も関与することはない。創作は自らに発し、自らに完結するのだ。
僧侶である石堂さんも、自分を律するのは自分だけだと言っていた。そして神や佛という絶対を信じても、そこに信じる自分がいる。その自分がどれほど、小さく、取るに足りなくても、神や佛に向き合うのは、その自分以外には自分はいないと言った。まさにそうだと私も思う。私はいい加減な生き様をしていたと思う。
本間教授は,、読み手の観点から,文学作品を分析し、主題を吟味し、構成を明らかにし、文体の特色をあげて、文学作品の鑑賞の方法を提示してくれた。それを聞きながら、私の中にはじけるものがあった。読み手の観点というのは、作品の外側から眺めてゆく。そうであるなら、書き手の観点というのは、まさに作品の内側から組み立ててゆくものに違いない。
もしかしたら、本間教授は、間接的に文学創作の方法を教えてくれたのかもしれない。
10月はじめ、三宅久之(故人・毎日新聞・政治評論家)が弾んだ声で部室に現れた。恋人の柳平秀子さんと手をつないでいる。
「やあおはよう。やったぞ、俺は」
「三宅さん、どうしたの」
「毎日新聞に合格したよ」
その場にいた10数人が
「ひぁあ、おめでとう三宅さん」
「競争倍率が100倍を超えていたっていいますよ」
入社試験のなにがよかったんですか」
「答案を書く一般社会、英語はもちろんだけど、面接で点を稼いだと思う」
「毎日新聞を狙ってたんですよね」
「ありがとう。そうだ。毎日を本命にしていたからな」
「三宅さんは社会部の事件記者するの」
「俺はだ。政治部にいきたい」
「秀子さんもよかったね」
「俺は給料がもらえるから、世帯をもてる」
この一言には重みがあった。就職した三宅は学生の枠組みにはいない。
坂田純(故人)ちゃんがふらっと部室にやってきた、手にしていたカバンを机の上に置いた。授業に出ていたようだ。私は声をかけた。
「純ちゃん、君は就職、どうなつてるの」
純ちゃんは、いつもの笑顔を浮かべた。
「うん、それか。なんとか決まったよ」
「ほんと、よかったね。どこなの」
「三越だよ」
「えっ、三越って、百貨店の三越なの」
「おめでとう。三越は慶應義塾の優秀な学生を採用すると言われているじゃない」
「そうなんだよね。早稻田からの採用は俺一人みたい」
純ちゃんは、ごく普通の話をしているようだが、三越が早稻田の学生を採用するのもあまりないことだ。
「純ちゃんは試験を受けたの」
「いや、三越に行ったら、採用内定と言われたんだ。紙の試験問題は関係ないよ」
話をきいていた連中は、唖然として声も出ない。純ちゃんには、よほど力のある三井系の人が推薦しているに違いない。純ちゃんは家系のことなぞ口にしたことはない。でもいざとなると、その家系が威力を発揮したのだ。
話の接ぎ穂がなく、就職の話はそれだけで終わった。
線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №233 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
秋から冬へ・根室本線 空知川第4橋梁
岩本啓介
岩本啓介
富良野ワインハウスの奥、駐車場からちょいと歩くと 眼下に絶景が広がります
空知川が流れ、長い橋梁が続きます
①紅葉の空知川第4橋梁・緑の貨物列車
朝の貨物列車を待ちました。
バックの山は芦別岳と思います。
2022年10月26日8;56
②冬の空知川第4橋梁・単行のキハが
紅葉お素晴らし景色ですが、冬の雪景色も素晴らしい絶景です。
2022年2月10日10;40