道つづく №5 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
初芝居
鈴木闊郎
豆を打つ馴れぬ袴をつけてをり
水仙の四五本ありてけなげなり
寒稽古固き畳の広々と
初芝居石切梶原吉右衛門
長岡の「八一」なる酒拳にぬくし
花鳥諷詠誌「駒」二〇十二年二月二二一号
鈴木闊郎氏略歴
1933年 立川市生まれ。早稲田大学卒。(株)立川印刷所2代目オーナー。
立川の粋人として知られた。俳誌『駒』同人。2020年没。
線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №169 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
飯山線
岩本啓介
積雪7.85m日本記録・秋山郷

秋山郷の最寄り駅・森宮野原駅に記念碑があります
昭和20年2月12日の記録ですから ずいぶん昔
でも 豪雪地帯の雰囲気は 今でもありますね
森宮野原~横倉
雪の棚田と志賀高原の山並み

千曲川と飯山線に囲まれた小さな棚田
すっぽり 雪に覆われています
蓮~替佐
すっぽり 雪に覆われています
蓮~替佐
押し花絵の世界 №129 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
「My garden」
押し花作家 山﨑房枝

54cm×45cm
背景には紅葉の葉を並べて全て植物で作った作品です。
色鮮やかなポピーやアネモネの花弁を表情豊かに組み立てデザインしたお庭に、アグロステンマで作った蝶々を飛ばして賑やかに仕上げました。
道つづく №4 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
万治の石佛
鈴木闊郎
秋艸署酒のラベルの凛として
秋茜下社春宮万治佛
カルヴァドス辛きを銜み秋に入る
大蜻蛉新薬師寺の如来像
蝉を愛でつつ脚湯漬かりをり
信花鳥諷詠誌「駒」二〇二一年十月 二一七号
鈴木闊郎氏略歴
1933年 立川市生まれ。早稲田大学卒。(株)立川印刷所2代目オーナー。
立川の粋人として知られた。俳誌『駒』同人。2020年没。
線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №168 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
津軽鉄道
岩本啓介
津軽の雪夜

雪夜と列車を初めて撮影したのが この1枚
金木駅から五所川原に向かう津軽鉄道です
コロナ自粛中 2014年1月28日撮影
ミツバチからのメッセージ №42 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
イタリアー2
造園家・ミツバチ保護活動家 御園 孝
スイスのツェルマットから眺めるマッターホルン(標高4478m)は均整がとれていて美しく、この山を見るために多くの観光客が訪れます。この山を真裏からも眺めることが出来るのですが、そのことは全く関心が無い様であまり知られていません。
アオスタからバスを乗り継ぎ到着した標高1524mの山裾の町ブレイユ(チェルビニア)から眺めるマッターホルンは、ツェルマットから眺める美人の山とは全く違って、均整がとれていないゴツゴツと荒々しい形相です。
マッターホルンはイタリア名チェルビーノと言い、私はブレイユから眺めるチェルビーノを結構気に入っています。ふもとに広がるヤナギランの大群落は、夏の間ずっと花が咲き乱れ山の景色を引き立てています。
ブレイユの町外れから3本のロープウェイ・を乗り継いでプラトーローザ(3480m)まで楽々登ることが出来ます。頂上付近では目の前に荒々しい氷河を眺めることが出来感動します。頂上のロープウェイ駅はイタリアとスイスの国境ですが、黄色いペンキで線が引かれているだけで、そこを超えるとあっというまにイタリアからスイスにはいります。

イタリア ブレイユ(チェルビニア)から眺めるマッターホルンはヤナギランが花を添える

スイス ツェルマットから眺める均整がとれているマッターホルン

頂上付近の氷河

プラトーローザ頂上スイス

この先は断崖絶壁

押し花絵の世界 №128 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
「オリエンタルローズ」
押し花作家 山﨑房枝

54cm×45cm
ワインレッドの布の上下に黒いレースを重ね、丁寧に押し花にした10種類のクリスマスローズを着物の帯のように並べて、エレガントなデザインに仕上げました。
多摩のむかし道と伝説の旅 №56 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
中世の軍道 深大寺道を行く 2
原田環爾

野崎八幡社を後にすると深大寺道は武蔵境通りとなる。以前は道幅が狭い割に交通量が多い道であったが、今は拡幅工事がなされすっかり様変わりしてしまった。通りを北へ向かうと交差点「三鷹市野崎」に来る。東西に交差する道は人見街道といい古い時代の官道だ。すなわち7世紀の古代武蔵国の官道である大宮街道の一部であるという。武蔵国の
国府が府中に置かれる前は大宮が暫定的な国府であった。府中が整備されて後、府中と大宮を結ぶ郡衙道を大宮街道といい、その大宮街道のうち三鷹以西を人見街道と呼んだという。府中大国魂神社の祭礼の折は、大宮の氷川神社の神輿がこの大宮街道を通って人見村(現府中若松町)の御旅所まで来たという。

人見街道を越えると続いて山中通りと交差する。ほどなく沿道左の細い路地の奥に小さな社が見える。井口新田の鎮守井口八幡だ。元文元年(1736)の創建で祭神は応神天皇だ。この辺りは武蔵境通りを挟んで左は井口、右は上連雀となる。どちらも江戸時代にここから北方2km付近を東西に流れる玉川上水が開削されたことにより拓かれた新田村だ。井口新田は江戸中期の享保期、八代将軍徳川吉宗の享保の改革により推進された武蔵野新田開発の波に乗り、上連雀村名主井口権三郎により西隣に続く新田として開発された。なお連雀の名は、玉川上水が開削されて間もない明暦3年(1657)、振袖火事(明暦の大火)により、焼け出された神田連雀町の町民達が土地を火除地として没収され、その代替として三鷹下連雀の地に移住させられ、そこに下連雀新田を開いたことに由来する。上連雀は寛文12年(1673)に検地が行われた新田で、豊島郡関村の井口家が拓いたという。


やがて丁字路「塚」で連雀通りにぶつかる。かつてこの辺りに二つの塚と徳川尾張公鷹場碑跡があったというが今はない。少し左手に江戸中期に創建されたという小さな大鷲神社が建っている。元は二ツ塚跡にあったが、明治初年の道路改修で塚は
撤去され祠はこの地に移された。祠内には鷹場碑の破片が納められているという。因みに鳥居横の標石に刻まれた「大鷲神社」という字は武者小路実篤揮毫による。なお二ツ塚は江戸中期から明治初期頃まで深大寺道(鎌倉道)の宿場として栄えたという。

「塚」から先の深大寺道はかつては集落の中を縫う細い街路であったが、今は拡幅工事された真っ直ぐ北へ伸びる車道になっている。そこを更に進んで上連雀一之橋という小さな橋を渡る。下を流れる細い用水路は仙川の上流部だ。仙川は小金井市貫井町北町の東京学芸大学辺りに端を発して東流し、武蔵境で中央線の南側にまわって三鷹市内に入り、三鷹からは調布を経て世田谷に入り、野川に合流した後二子玉川の兵庫島付近で多摩川に注いでいる。



道つづく №3 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
柔道
鈴木闊郎
秋の夜の寝技多きは齢ゆゑ
秋夜なるやや形づく横捨身
三三に打込むべきか夜の長し
棋醇てふ古碁繙きて夜寒かな
色葉散り女黙して歩み去る
花鳥諷詠誌「駒」 二〇一一念九月 二一六号
線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №167 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
五能線
岩本啓介
荒れ模様の日本海

1月は コロナに加え 大雪で撮影自粛中です
昨年11月末の五能線でご容赦下さい
11月23日撮影
押し花絵の世界 №127 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
「冬の願い」
押し花作家 山﨑房枝

41cm×41cm
冬の花が主役の花絵画コンテスト入選作品
紫色のカラーペーパーをカットして縁取りした上にレースを貼り付け、可愛いフレームを作りました。
落ち着いた色合いのクリスマスローズをメインに、ノースポールやレースフラワーなどの小花でリースを作り「貴方に幸せが訪れますように」とメッセージを入れて仕上げました。
ミツバチからのメッセージ №41 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
イタリアー1
造園家・ミツバチ保護活動家 御園 孝
フランスのシャモニーからモンブラントンネルを抜けると、イタリアのクールマイユールです。ここからは長い下り坂が続き、路線バスは多くの小さな集落に寄りながらアオスタへ向かいます。小さな集落には朽ち果てた廃屋が点在しているのですが、そのどれもが目を見張る美しさがあり、ゆっくりと見学したかったのですが先を急ぐためかないませんでした。
昔ケルト人やリグリア人が住みつきサラシット人が合流して平和に暮らしていたアオスタに、ローマ軍が攻め込み占領され全ての人が頃背れたり奴隷として売り飛ばされてしまいました。アオスタはアルプス越えの起点で重要な戦略的位置にあり、ローマと同じ年を建設しました。しかしその後ローマ帝国が滅びましたが、この重要な戦略的拠点は様々な民族が奪い合い支配され続けました。

凱旋門

劇場後

劇場後

劇場後

町の周りには高い建物が今も残る
多摩のむかし道と伝説の旅 №55 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
-中世の軍道、深大寺道を行く- 1
原田環爾
原田環爾
調布の深大寺に向けて北多摩を南北に縦断する一条の道筋がある。深大寺道という。芳賀善次郎著『武蔵古道ロマンの旅』によれば、深大寺道は室町から戦国にかけて、小田原北条氏と関東の覇権を争った関東管領上杉氏が拓いた軍道という。上杉氏は川越城を本拠に、北条氏に対抗するため深大寺の南の丘に深大寺城と呼ぶ出城を築城した。その深大寺城と川越本城との間を上杉の兵どもが往還したのであろう。道なかばの清瀬市と所沢市の都県境を流れる柳瀬川のほとりには、上杉氏の重臣大石氏の滝の城があり、中継地となっていたのであろう。深大寺道の一部は既に失われてはいるが、それでもなお概ね辿ることは出来る。道筋の多くは住宅街を抜ける街路で、昔を偲ぶ遺構や景観は少ないが、一部には通りの名称を「深大寺街道」と表記され、寺社も散在し、古道の名残を留めている。今回はそんな上杉氏の軍道を深大寺城から滝の城まで辿ってみたいと思う。すなわち京王線布田駅を出発し三鷹通りを北上し、まず深大寺城に立ち寄る。そこから一路北を目指し、武蔵境駅の東でJR中央線を横切り、玉川
上水を越え、大師通りを経て武蔵野大学の傍らから深大寺街道に入る。西武新宿線柳沢駅の西方に至ると、榎ノ木通りに入り、西武池袋線のひばりが丘駅へ。そこから東久留米市と新座市の市境を北上して黒目川、野火止用水を越えて清瀬市に入り、柳瀬川北岸の滝の城へ至る。帰路はバスでJR武蔵野線東所沢駅へ向かうものとする。
布田駅を出て車両の行き交う三鷹通りに入る。通りを北へ向かうと旧甲州街道との交差点「布田駅前」に来る。北東の角地には常性寺という真言宗の寺がある。鎌倉時代の創建で、元は多摩川沿いの調布第三中学校辺りにあったが、慶長年間(1596~1614)に移築されたという。境内には本堂、不動堂、薬師堂があり、特に不動堂には成田山不動尊の分身をまつり、布田のお不動さんとして信仰されている。その他、文政7年(1824)の馬頭観音堂や布袋像などもある。
更に三鷹通りを北へ進み交差点「下布田」で甲州街道を渡る。道はゆっくりS字状にカーブし、程なく川もないのに榎橋という擬宝珠のついた古びた石橋が現れる。すぐ先を流れる野川が改修される以前の川筋なのであろう。橋の横には「記念の森児童公園」と称する瀟洒な緑道がある。古橋の袂から右手に分岐する路地が本来の旧道で、入ればすぐ野川にかかる青い人道橋に出る。人道橋からは野川の流れが望める。すぐ川上には三鷹通りに架かる現代の榎橋が見える。人道橋を渡ると再び元の三鷹通りに復する。佐須街道を越えると通りは上り坂となる。古くは坂の上に稲荷があったことから稲荷坂と言った。中央自動車道のガードをくぐり、稲荷坂を上ってゆくと左手遠方に谷戸を隔てて林で覆われた丘陵が望めるようになる。谷戸は神代水生植物園になっていて、丘陵上には今回の深大寺道の所以となる深大寺城址が佇む。谷戸と丘陵を左に見て坂道を登りきると丁字路帯で「深大寺小前」と記された道標が掛かっている。角地に建つ深大寺小学校は明治6年に開校した旧弘道学舎が前身という由緒ある小学校だ。丁字路帯を西へ分岐する道は深大寺通りで、傍らの大きな石柱には「深大寺東参道」と刻まれている。まずは今回の道の起点となる深大寺城址へ向かう。
参道を100mばかり進んだ所にある神代水生植物園の入口から中へ入り、右手丘の上へ進むとこんもりと樹木で覆われた城跡がある。本丸、空濠、土橋等が見事に整備されて遺されている。戦国時代に上杉氏によって築城された城である。すなわち室町幕府の支配権が衰え戦国時代へと移行した16世紀前半、 関東は管領上杉氏と新興勢力の後北条氏(小田原北条氏)との覇権を争う場となっていた。大永4年(1524)上杉朝興は北条氏綱と江戸で合戦して敗走。享禄3年(1530)府中にて再度合戦するも相次いで敗北。天文6年(1537)上杉朝興が死去すると、弱冠13歳で家督を継いだ嫡男上杉朝定は北条氏に対抗するため、直ちに深大寺の地に深大寺城を構築し、武州松山の難波田弾正を配した。しかし築城後間もなく河越合戦で決定的敗北を期し、関東の覇権は後北条氏の手に移っていった。深大寺城は与えられた任務を果たすことなく廃城となった。
元の「深大寺小前」に戻り、深大寺道(三鷹通り)の稲荷坂を登りきると陸橋がある。それをくぐると沿道左に鳥居が目に入る。樹木で囲まれた青渭神社がそこにある。鳥居の左手には「青渭神社のケヤキ」と呼ばれる目通り5.5m、高さ34m、 樹齢数百年という市内随一の大欅が聳えている。また神社の筋向いは池谷戸と呼ばれる所で、この辺り一帯も樹林が豊かな空間になっている。青渭神社の創立年代は詳らかでないが、先住民が水を求めて居住した際、祠を建て水神を祀ったものと伝えられている。往古は社前におよそ5町歩余の境内地があり、大池に混々と湧水があり青波をたたえていた所から、青波天神社とも称されたという。旧深大寺村の総鎮守である。
青渭神社を後にすると左手に神代植物公園3号地の広大な公園が広がる。公園を左に緩やかな坂道を上ってゆくと五差路「深大寺五差路」に出る。深大寺道は北西方向へカーブしてゆく。500mも進めば陸橋が現れ三鷹通りはゆったり北東方向へ転じるが、そのまま北西方向へ向かう鄙びた分岐道が深大寺道だ。三鷹通りに別れを告げ分岐道に入る。途端に喧騒な車両の通行は皆無となりのどかな里道の風景に変貌する。路傍には寛延元年(1748)造立の青面金剛像を刻んだ庚申塔が佇むなど古道の風情を留めている。道筋はS字状に緩やかにカーブする。竹林や洋ランを売る店を左に、またクリニックを右にやると、道は調布市から三鷹市へ入り、ほどなく車両の行き交う東八道路に出る。(つづく)

布田駅を出て車両の行き交う三鷹通りに入る。通りを北へ向かうと旧甲州街道との交差点「布田駅前」に来る。北東の角地には常性寺という真言宗の寺がある。鎌倉時代の創建で、元は多摩川沿いの調布第三中学校辺りにあったが、慶長年間(1596~1614)に移築されたという。境内には本堂、不動堂、薬師堂があり、特に不動堂には成田山不動尊の分身をまつり、布田のお不動さんとして信仰されている。その他、文政7年(1824)の馬頭観音堂や布袋像などもある。




道つづく №2 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
歩き散らし
鈴木闊郎
鈴木闊郎
夕立や追はれ追はれし柳橋
柳橋彫りし簪夏はるか
夕立や亀清桜もビルの中
夕立中舟宿二つ三つ見ゆれ
一葉の通ひし質屋夏暖簾
花鳥諷詠誌「駒」二〇一一年二一六号
線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №166 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
五能線
岩本啓介
冬の到来

雲が広がり 日本海の波しぶきがが列車に迫ります
押し花絵の世界 №126 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
「冬の3連作」
押し花作家 山﨑房枝

30cm×25cmの額を3つ
春夏秋冬の四季を3連作でオーダーしていただいた作品の冬バージョンです。
中心の額は筍の皮やラグラスでトナカイ、ギンポプラや薔薇で雪だるま、建物は紅葉の葉などで制作してクリスマスの風景を描きました。
両側の額はステンドグラス風にカットした黒い紙のフレームに、薔薇、クリスマスローズ、クレマチス、葉牡丹などの植物をカットして貼りつけて仕上げました。
ミツバチからのメッセージ №40 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
フランスー6
造園家・ミツバチ保護活動家 御園 孝
シャモニーの西の外れルファイエからトラム(登山電車)で最終駅の二デーグル(標高2372m)まで行き、がれ場の山道をしばらく登っていくとビオナッセイ氷河の目の前にたどり着きます。ゴツゴツした氷の塊が温暖化の影響で急速に溶け出して、岩と氷がガラガラと音を立てて崩れ落ちていました。ここは比較的人が少なく野生のアイベックが群れをなして出没します。妻と姉が見当たらず探していると、多くの人がモンブランへ向かって登っていくのを横目に、登山道に這いつくばってシャモニーの高級水晶を探していました。帰りは途中駅ベルヴューからロープウェイでレズーシュまで下りました。

ビオナッセイ氷河

ビオナッセイ氷河

アイベック

妻たちは水晶探しに夢中

収穫した水晶

カンパニュラ
道つづく №1 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
掃苔 會津八一先生の後墓前にて
鈴木闊郎
瑞光寺暑気拂ひにと酒と猪口
秋篠の寺の暑さや諸佛をり
せみしぐれ裏頭の僧に会ひにけり
雲一片西塔ややも高く美優
赤膚の窯場拝見夏茜
花鳥諷詠誌「駒」より
二〇一一年八月二一五号
≪鈴木闊郎氏略歴≫
1937年 立川市生まれ。早稲田大学卒。(株)立川印刷所2代目オーナー。
立川の粋人として知られた。俳誌『駒』同人。2017年没。
線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №165 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
五能線
岩本啓介
小さな漁港とタラコ2連

国鉄時代の気動車、キハ40系が主役の五能線
中でも 首都圏色(通称タラコ)塗装の気動車が人気
その人気のタラコが2両連結でやってきます
塩見崎のタラコ2連

人気のタラコ2連を人気の場所で撮る これも撮り鉄の醍醐味
五能線でも一番人気を争う墓所 塩見崎のポイントです
天気まあまあ 場所良し 気動車良し 待った甲斐ありです
押し花絵の世界 №125 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
「Love & Peace」
押し花作家 山﨑房枝

葉書にビオラをアレンジしてメッセージを入れました。
冬は花が少ない季節なので、可愛いビオラに癒されて楽しんでいます。