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夕焼け小焼け №32 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

テニスコートを復興、そして弁論

                    鈴木茂夫
 
  惟信中学の5年生になり、学業の成績も落ちついた。そこでテニスをやりたいなと思った。私は高雄中学に入学して庭球部に入り、一学期間は愉しくラケットを振っていた。内地でもやりたい。
 級友に尋ねると、戦時中にテニスコートは掘り返して芋畑にしたという。体育の桜井義高先生が運動場に面した木造平屋教室の横ならコートにしてもいいよと言われた。
 自作してもいいのだ。図書室にあったテニスの規則集で寸法を調べた。全長23.77m、幅10.97m、巻き尺で計ってみると現場は十分な広さがある。体育の物置の隅にいくつものレンガがあった。テニスコートに使っていたもののようだ。
 授業が終わると、私は作業にかかった。それを見ていた級友の桑子君が、一年生の時、テニスをしていたからもう一度やりたい、手伝うと言ってくれた。2人でまずベースラインを決める。何事なのだろうと見物していた数人がさらに手伝いに加わった。
 センターライン、サービスライン、センターマーク、シングルスライン、ダブルスラインとポイントにレンガを埋め、ポールを立て、ネットを運んできて張った。ラインマーカーに白石灰を入れ、白線を引いた。やったぞと歓声が上がる。2時間たらずでコートは完成した。
 桜井先生が庭球部の成立を認めてくれた。
 桑子君はじめ手伝った連中も、庭球部に入るという。私たちのテニスは軟式(現・ソフトテニス)だ。1年生から4年生まで、約20人が集まった。
 電停のそばの惟信堂文具店のおばさんが、Futabayaのラケットがあるよという。みんなでそれを購入した。
   
  翌日からはやばやと登校、練習をはじめた。 戦争でテニスなどをしている閑はなかった。誰もが思うように球を打てない。笑いながら球を拾う。
 練習を重ねると、少しずつ球の打ち合いらしくなってくる。
 テニスコートに面する教室には、新しい学制による港区立の西港中学(学校統合により消滅)の生徒が入った。男女共学だ。窓に群がって私たちを眺めている。見物のいることで、気合いが入る。
 朝の授業開始前の時間、昼の昼食時間、放課後、テニスは愉しかった。

 小原重二君が教員室から書類をもらってきた。
 愛知県中学校弁論大会の要項だ。
 昭和22年11月2日(日曜日)午前10時より
 会場は名古屋市公会堂第7集会室(150人収容)
 参加・愛知県内の中学校
 弁士・各校1名
 弁論時間5分
 私に、服部、増井、小原の4人組が顔をそろえた。
 「弁論大会でるのはどうだ」
 「やったことはないが、面白そうだぜ」
 「英語の授業で、フォックス先生が力を入れたのは、シェイクスピアのジュリアス・シーザーだった。シーザーを殺したブルータスの演説、これもなかなかいい。そしてその後に話したアントーニオの演説は、なおよかった」
 「小原、君が出ろよ」
 「僕は人前できちんと話したことはない。だがやってみよう」
 「それじゃ、何を話すんだ」
 「新憲法ができただろ、その時、天皇をどうするかと議論になった。国体護持と天皇制打倒と意見が2つあった。俺は憲法第一条を憶えてい。『天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く』これがそうだ。話はいろいろあって結局はこの条項になっている。つまり国体護持で落ちついた。それが世間の意見だよな。だからな、天皇制打倒でやると、目立つだろ。それでいくのはドウだ」
 「それは共産党の意見じゃないか。それでいいのか」
 「良いか、悪いかじゃない。まあ言えばな、国体護持は名古屋の常識。天皇制打倒は少数意見だから注目を浴びる。」
 「天皇制の欠陥というか、悪い点には何がある」
 「何せ国民統合の象徴だからな、責め立てる問題点を洗い出すのは難しいぜ」
 「天皇は金持ちだ」
 「何なの、それは」
 「膨大な御料林があるそうだ。」
 「御料林は皇室財産となっていた森林のことだ」
 「江戸時代に幕府や諸藩が支配・管理していた山林を明治憲法のもとで、皇室財産に編入したんだよ。今は国有財産に移されているとか」
 「その山林を問題にした議論があるが、天皇と直接にどう関係するかは分からない」
 「戦時中、俺たちは天皇が大元帥であると言われた。」
 「軍人勅諭は暗記していたからな。勅諭の前文に『朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ』とあった。そうだとすると敗戦の責任者は天皇になるだろうが」
 「戦争を企画し、軍隊を派遣し、作戦を行ったのは軍人だぜ。天皇は軍人の報告を聞いていただけだ」
 「天皇は戦争犯罪人だという声がアメリカにあるそうだ」
 「日本にいるアメリカの最高指揮官ダグラス・マッカーサーはそんなことを何も言っててないぞ」
 「天皇について悪いという意見は、そんなところかな。小原、この話し合いをもとにして原稿をつくってみてよ」
 「分かった。やってみよう。でもそんなに論点はないから、長くはつくれそうにないな」

 本番当日、私たち4人は会場にいた。
 参加しているのは、愛知一中、明倫中学、熱田中学、昭和中学、津島中学、中川中学、東海中学、金城学院、市立第2高等女学校,県立第1高等女学校、南山中学など20数校。
 弁論の題名には、こんなのがあった。
学校で民主主義を学ぶ。個性を活かす学習を。平和を愛する学校。私たちは人権を大切にする。
 参加校は弁論で話すのだが、聴衆として反応もした。拍手をおくったり、声援するときもあった。

 県立第1高等女学校は、「民主主義に学ぶ」としていた。
 「アメリカの独立は、イギリスの過酷な植民地支配に対する現地住民の戦いでした」

 東海中学の番だ。題名は「天皇はあこがれの中心」としている。
 弁士は海部俊樹君と呼ばれてゆっくりと演壇に立った。原稿を開き、水差しからコップに水を注ぎ喉を湿してから、口を開いた。通る声だ。
 「新しい憲法が生まれました。新しい憲法に親しむにはどうすればよいでしょうか。憲法は文字で書かれています。文字で書かれてはいますが、国民精神が結晶して表現されているものであります。その憲法の芯になるものは、何でありましょうか。それは日本の国体であります。国体とは天皇をあこがれの中心とする国民の心のつながりであります。これを元にして国があるのであります。私たちの国体に関する考えは変わっていないのです」
 海部は会場を見回し、落ちついて語る。
 天皇を国民の憧れの中心とするのは保守派の見方だ。大多数の国民考えと言ってもいい。制限時間を充分に活かして話し終えた。
拍手が湧いた。私もそう思う。この人はまぎれもない雄弁家だ。

 惟信中学の番がきた。
 「天皇制に替わる民主体制を」これが題名だ。小原重二が演壇に立った。
「天皇家という 一個人・特定一家が国民統合の象徴となっているのは、民主主義と人間の平等とはならばない。天皇家という皇室一家は,日本の象徴という立場から退いてもらい、国民が選ぶ代表者が象徴ではなく、国の元首になってほしい。また天皇は、日本の軍隊の大元帥として位置していた。敗戦の責任は天皇にもある。その責任から言っても、天皇は退位されたほうがよい」
 小原の声は低かった。聴衆から「ブー」という声も聞こえた。予想通り、天皇制打倒は人気がない。私たちは評価の結果を待った。
 最後の弁論が終わって,成績の発表。
 東海中学は1位、優勝だ。
 われわれは東海中学のところへ行き、
 「優勝おめでとう。立派な弁論でした」
 笑顔で迎えた海部俊樹が、
 「いやあありがとう。僕がうちの学校の弁論部をつくつたの。みんなで苦労してきたけど、優勝は嬉しい。これからも頑張ります」
 僕たちはそれぞれ自己紹介し、握手して分かれた。

 これが海部俊樹さんとの初めての顔合わせだった。
 あくる昭和23年春、私たちが新制高校の3年生になったとき、海部さんは中央大学の角帽をかぶって広小路を歩いていた。
 翌昭和24年春、私が早稻田大学に入学。当時大学が所有していた甘泉園で、海部さんは早稻田大学雄弁会の一員として、発声練習をしていた。
 お互いに見かけると、やあと声をかけ話し合った。
 昭和35年(1960年),第29回衆議院議員総選挙で、全国最年少議員として当選。取材のために国会へ行くとよく顔を合わせた。
 昭和49年(1974年)、三木内閣の官房副長官に。
 昭和51年(1976年)、福田内閣の文部大臣に。
 平成元年(1989年)内閣総理大臣に。
 海部さんが出世の階段を上るにつれ、顔を合わせるのもまれになった。
 東海中学の海部ですと挨拶した海部さんの風貌は鮮やかに記憶している。
これにひきかえ、私たち惟信中学の弁論部は、一度だけの大会に出場、二度とこれを続ける興味はなくした。だから惟信中学に弁論部が存在したと誰も理解していない。


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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №221 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

空知川橋梁水鏡・根室本線・東鹿越駅~金山

            岩本啓介

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かなやま湖に流れ込む空知川橋梁の「山桜の紅葉」を撮る予定が、『水鏡の紅葉&列車』も綺麗で、急遽変更し、撮影しました。

2023年10月14日15:14

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押し花絵の世界 №199 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「桜のスマートフォンケース」

               押し花作家  山﨑房枝

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自宅に咲いた河津桜を押し花にしました。
ソメイヨシノが咲く前に、一足早く春を届けてくれるピンクの可愛い花びらを、スマートフォンケースにアレンジしました。
仕上げに花びらや金箔を散らして、ゆらゆらと風が流れているようなイメージで作りました。


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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №53 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

私には伝えたいことがある I have maney thngs to tell

          銅板造形作家  赤川政由

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「青梅老人ホーム」
介護老人保健施設西粟京ケアセンター 青梅市友田

少女がおじいさんに「お話しして」とせがんでいる。おじいさんは、私には伝えたいことが沢山あるんだよ」と胸を張って言っている。老人は子とも達に、様々なことを伝えなければならないと思う。老人ホームの皆さんも、務めてお話しして下さい、との願いを込めた。


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多摩のむかし道と伝説の旅 №122 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

          多摩のむかし道と伝説の旅(№29)
             ー西多摩の多摩川河畔の桜道を行く-
                   原田環爾

29-6.jpg 車両の行き交う広い睦橋通りに入る。かつて伊奈(武蔵増戸)の石工達が伊奈と江戸との間を往還した道筋で伊奈道と呼ばれた。緩やかな坂道を下るとすぐ多摩川に架かる大きな睦橋の袂に出る。睦橋の左手には広い河川敷が広がり福生南公園となっている。その先遥か多摩川の対岸には多摩の戦国史を今に伝える滝山城址のある加住丘陵が横たわっている。一方右手の多摩川堤には見事な桜並木が続いている。今回の桜道はまさにここから始まる。なお橋の袂には睦橋の由来を記した自然石が立っている。由来碑にはこんな風に記されている。「昔この地に、伊奈宿から江戸へ向かういな道の「熊川の渡し」があり、江戸時代、石切職人らの往来でにぎわっていた。いな道は、その後、五日市宿が栄えるとともに五日市街道と呼ばれるようになり、やがて、熊川の渡しもその主役を上流の「牛浜の渡し」に譲るにいたって、明治の中頃その姿を消した。以来百年余りの歳月を経て、橋がかけられ、この地は再び秋川ぞいのまちの表玄関としてよみがえることになった。この橋は、両岸のまちの親睦と共栄の願いをこめて「睦橋」と命名された」と。
29-7.jpg 睦橋由来碑の傍らから福生南公園に入ると睦橋のガードがある。ガードをくぐるとそこは多摩川堤下の桜通りだ。この道を進むのもいいが見晴らしのいい堤の道に上がる。堤は延々と桜並木が続き、その先遠くにJR五日市線の鉄橋が遠望できる。実に見事な眺望だ。堤防下の明神下公園を右にやり桜堤を進むとやがて五日市線の鉄橋の下に来る。河川敷に下りて鉄橋をくぐると河川敷に広がる多摩川中央公園に入る。雑木林と原っぱからなる広大な公園だ。園内の小道から再び堤の道に上がると堤の道は二股に別れる。堤から離れて行く右手の道が桜道なのだ。その分岐点に土砂を2m程の高さに盛った台形状の小丘は水防用の堤防だ。その小丘の向こうに天を突くように青い鉄塔が聳え立っている。先端に29-8.jpgはパラボラアンテナが据えられている。国土交通省の河川監視用の鉄塔と聞く。更に鉄塔からほんの少し進んだ所に面白い眺望案内板がある。奥多摩連山の山々の名称が写真とともにこと細かく記されているのだ。大岳山、奥の院、御岳山、雲取山、本仁田山等々。眼を上げると遥か彼方の空との境界に案内板の写真と全く同じ山並みが見える。一方堤から河川敷の多摩川中央公園に眼をやると公園の中ほどに石碑が立っている。牛浜渡船場跡を示す碑だ。先の「熊川の渡し」はここへ移ってきたのだ。石碑には「石濱渡津跡」という文字が刻まれている。     
29-9.jpg 牛浜がなぜ石浜なのか奇妙なことだが、これには歴史的な事情が絡んでいる。すなわち建武中興から南北朝動乱期を描いた「太平記」の中に「石浜」の地名が登場する。足利尊氏は正平7年(1352)閏2月20日に武蔵国人見原(府中市)・金井原(小金井市)で南朝の残党を結集した新田勢と対戦した。この時尊氏方は苦戦を強いられ石浜にのがれた。尊氏は窮地を脱して、28日小手指原(所沢市)・入間河原(狭山市)などで、次々と新田勢を破った。その一連の合戦を武蔵野合戦という。尊氏が逃れた「石浜」の所在地については諸説がある。江戸浅草の石浜神社辺りとする江戸時代の学者新井白石の説。「江戸名所図会」の斉藤幸雄や「武蔵野話」の斉藤鶴磯の牛浜説がある。牛浜説の根拠の一つは太平記の石浜での戦闘記述「河の向こうの岸高く屏風を立てたる・・・」に相当する場所が石浜になく、牛浜にある屏風岩がそれに相応しい地形であることをあげている。
29-10.jpg 堤の分岐点から右手の桜道に入る。桜は沿道右手の土手に沿って立ち並んでいる。やがて多摩橋へ向かう五日市街道にぶつかる。街道を渡ると左に市営プール、右に福生中央体育館となる。その間を抜ける通りは大多摩ウォーキングトレイルと言って羽村堰迄通じる続きの桜道なのだ。この桜の小道を進むと、いつしか福生柳山公園の横に至る。福生柳山公園は多摩川に沿う細長い樹林で覆われた静かな公園だ。公園の樹間からは多摩川に架かる永田橋を望むことができる。樹林を抜けると公園も終わり永田橋の袂に出る。桜道も一旦ここで終わる。橋の通りは都道165号線で日の出町へ通じる通りだ。
 通りを横切ると道は2つに分岐する。左は川沿いの細い道で、右手は集落へ入る道だ。ここからは右手の集落への道を採る。集落は閑静な宅地街になっている。すぐ左に小さな社が現29-11.jpgれる。堰上明神社という。鳥居横の社名を刻んだ石標は裏には田村半十郎の名が刻まれていることから、すぐこの先の田村酒造の当主によって寄進されたものとわかる。猫の額ほどの小さな境内の一角には田用水改修記念碑や昭和34年の熊川堀改修碑などがたっている。社を後にするとすぐ通り右手に右側に石垣に黒板塀、黒瓦に白壁という古式ゆかしい味わいのある建物が見えてくる。「まぼろしの酒」と銘打って宣伝している多摩の地酒「嘉泉」を醸造している田村酒造だ。入口には田村半十郎の表札が掛けられている。文政5年(1822)創業で「多満自慢」で知られる熊川の石川酒造とともに福生の老舗だ。田村家は旧福生村の名主を務め、当主は代々田村半十郎を名乗る。田村酒造の筋向いにある玉雲山長徳寺は臨済宗建長寺派の寺で田村家の菩提寺だ。本堂の裏の墓苑の中に銀杏の巨木が立つ一角が田村家の墓所だ。
29-12.jpg ここを過ぎて50mも進めば奥多摩街道に接した玉川上水の宮本橋の袂に出る。かつては宝蔵院橋とも呼ばれたという。というのも橋の向こうに、明治2年に廃寺となった宝蔵院という真義真言宗の寺があった。いまは廃寺跡に小さな観音堂が残されている。宮本橋の上に立って上水の川面を眺めると、流れは実に穏やかでかつ水量も豊富でなんとも言えない爽やかな気分になる。玉川上水は江戸時代の承応2年(1653)から翌年にかけて、江戸の水事情を解消するため、時の老中松平伊豆守信綱の発議を元に、庄右衛門と清右衛門の兄弟によって開削された。羽村の堰で多摩川から取水され、武蔵野の大地を通って四ッ谷大木戸に至る全長約43kmの水路である。上水の開削工事は難渋を極めたと伝えられる。当初取水口を日野橋下流の青柳付近から取水し、谷保の田畑を抜けて府中まで開削したが「悲しい坂」で通水29-13.jpgに失敗。やむなく次ぎの候補地福生熊川から開削を再開したがこの地の水喰土の言い伝えが現実のものとなりこれも失敗。最後に羽村から取水することでようやく成功したと言われる。兄弟は二度の失敗でお上から預かった工事費六千両をすべて使い果たし、不足分は私財を投じて完成させたと伝えられる。兄弟はその功により玉川姓と帯刀を許されたという。
 宮本橋の袂から玉川上水の右岸に沿う道に入る。50mも進むと妙源院という小寺があるが、その辺りで上水は不自然に大きく右方向へ曲がる。実はこの先の玉川上水は新堀で、玉川兄弟が開削した当初の堀はこのまま真っすぐ開削されていたという。その屈曲点から20~30m進むと左へ分岐する下りの坂道が現れる。「かに坂」という。上水沿いの道とかに坂の間には高さ10m足らずの林で覆われた丘が連なる。なおかに坂を下るとそこは多摩川河畔の福生かに坂公園が広がる。それにしても「かに坂」とは奇妙な地名もあるものだ。(つづく)

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夕焼け小焼け №31 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

団らんの茶の間

              鈴木茂夫

 上村家の前に道を隔てて2棟の大きな倉庫が中川運河に面している。しじゅう港から団平船で板ガラスが運ばれてくる。日本板硝子と旭硝子の製品だ。10人ほどの沖仲仕が板ガラスの箱を肩にのせて倉庫に運び込む。倉庫の中は板ガラスで埋まっていた。戦後、上村ガラス店の事業規模を拡張し、名称も愛知県板ガラス販売と変えていた。戦後復興の気運があって事業は安定しているという。
 オート三輪車に板ガラスを満載して、市内の小売店に配達する。市の中心部に建設中のアメリカ軍家族住宅の現場にも運ばれる。
 よくアメリカ兵がジープで訪れる。伝票を差し出して、
  「We are 000 Batallion,,here is Quota」
 職人さんはあわてない。日本語だけで対応する。
 「コータあるの」
 兵士もあわてない。書き付けを渡す。笑顔を見せる。握りこぶしに親指を立ててコータを差し出す。
 職人さんはコータを注目すると、
 「OK」
 私はコータとは何だろうと思った。聞くのは恥ずかしいから辞書で調べた。Quotaとは割り当て、割り当て数量とあった。

 上村家の茶の間は8畳敷き、良一氏と豊子夫人と5人の子どもたち、それに私が入ると7人で円形の座卓を囲む。あぐらをかいているから、脚が触れあっている。
 食卓には茶碗にご飯と味噌汁がよそってある。味噌汁は八丁味噌のだ。
 女中のツネさんはすぐ後ろでご飯のお代わりと味噌汁をついでくれる。白いエプロンがけの30代だ。小柄でよく働く。婚約している上村家の職人さんが戦地から帰るのを待っている。食べながら話をする人はいない。黙々として食べるのだ。 
 豊子夫人は優しく見渡しながら、静かに箸を進めていた。
 食事は美味しかった。私は夢中で食べる。お代わりを差し出す。人心地がつくのが3杯目、4杯目で気持ちが落ちつき、5杯目で満腹感に浸る。毎食、白米のご飯を頂けるのは贅沢な暮らしだ。
 ときたま、カツオの切り身がこんもりと皿に盛られて出てくる。3片か4片をご飯にのせ、熱いお茶を注ぐ。カツオの表面が白く変化する。醤油をすこしかける。カツオ茶漬けだ。カツオの新鮮な味わい、お茶の香り、ご飯の感触、それらが口の中で渾然とする。
 食が進むのだ。ツネさんはひときわ忙しくなった。
 とろろ汁のときもある。ほとんど噛むか噛まないかでのみこむ。お代わりが、ほうぼうから差し出されていた。
 年に一度、上村家の大盤振る舞いがあった。良一氏の家族と一族への親愛の趣だ。
 馴染みの寿司の老舗・寿司文の主人がオート三輪に、食材を詰めこみ、職人2人をつれてやってきた。 この日は良一氏の兄弟、豊子夫人の実家の家族など、30人は越える人で賑わう。
 寿司文の3人が手際良く握っていく。できた寿司に伸びる手の方が早かった。これほど賑やかで笑顔の人、寿司の味、良一氏はニコニコとそれらを眺めていた。
 午後6時、ラジオから「カムカム英語」が流れてくる。
  
    Come come everybody. How do you do, and how are you?
           Won’t you have some candy?
  One and two and three, four, five.
            Let’s all sing a happy song Sing trala la la la.

 かならず誰かが唱和する。英語ではない。

   カムカム エブリボディ  ハウドウユドウ アンド ハウアーユー
   ウオンチュー ハブサム キャンディ ワンアンドツーアンドすりーホーファイブ
         レツオルシンガハッピーソング  シングタララララ

 この元歌が「証城寺の狸囃子」なのを、みんな知っているから、みんなすぐに歌える。
 番組の開始を告げるこの歌が終わると、司会の平川唯一さんの軽快な語りが続く。

 「みなさんこんばんは。平川唯一です。きょうは挨拶からはじめましょう」
 
 英会話の初歩というか基本の話し方を展開する。聞いているみんなは、それだけで英語に親しんだ気分になる。食卓の誰もが食べるのに集中する。あれよあれよと15分が経過すると。番組は終わる。

 「話の泉」も人気があった。
 聴取者が出した問題をあてるのだ。クイズという言葉はなかった。あてものといっていた。
 回答者は教育者の堀内敬三、詩人のサトウハチロウ、漫談家の徳川夢声、元朝日新聞記者の渡辺紳一郎、映画監督の山本嘉次郎、音楽評論家の大田黒元雄、詩人の春山行夫、物知りとして知られる有名人だ。
 司会のアナウンサーの和田信賢が、

  司会「私の家は長く続いています。私で122代目です」
         「そんなに長い家なんてないでしょ」
        「私は子どもの頃は、京都で暮らしていました」
        「今は東京にいるの」
        「その通りです」
   「大きくなって何になったの」
        「私はみなさんに親しまれています」
        「待てよ、それはもしかしたら天皇家だよ。今の天皇陛下は124代だから,2代前とい
          えば、明治天皇様だね」
    「ご名答」

 司会は和田信賢アナウンサーの「ご名答」流行語になっている。
 回答者との愉しいやりとりが、ラジオを聞く者興味をかきたてる。

 昭和22年(1947年)7月の毎週土曜日と日曜日の午後5時15分から15分番組「鐘のなる丘」が登場した。空襲のため親も家も失った戦災孤児が、信州の山村に設けた施設で共同生活を送りながら、元気に育っていく。子どもたちの成長に多くの人が共感した。

   緑の丘の 赤い屋根 とんがり帽子の 時計台 鐘が鳴ります キンコンカン
 メイメイ小山羊も ないてます 風がそよそよ 丘の上 黄色いお窓は おいらの家よ

 戦地から復員してきた加賀美修平は、両親が空爆で亡くなっていることを知った。一人の弟の修吉は戦災孤児として孤児収容所にいた。戦災孤児たちは上野駅や新宿駅の地下道で野宿し、靴磨きなどして生きていた。修平は弟と同じ環境にいる子どもたちに、安心して暮らせる場を信州につくりたいと念願する。修平は子どもたちの兄貴分として活動する。
 当時の日本には何万人もの浮浪時児と呼ばれる戦災孤児がいたのだ。
 苦しい生活難の中で、明るく元気にいきぬいていく孤児たちに感銘した。

 『二十の扉』は、毎週土曜日の19時30分から30分間、NHKラジオ第1放送で放送されたクイズ番組だ。司会は藤倉修一アナウンサー。回答者には宮田重雄(医師、画家)、柴田早苗(女優)、藤浦洸(作詞家)、大下宇陀児(作家)がつとめる。
 番組は司会者と回答者のあいだでの質疑応答で展開する。
 問題は藤倉アナが「動物」「植物」「鉱物」のいずれかに分けて出題する。そのとき、会場にいる観客には,回答者に見えないように正解が張り出される。聴取者には「影の声」で正解を放送する。
  「キリン」が正解の場合、出題時に「動物です」と告げられる。回答者は「それは○○○ですか」と20問まで質問できる。司会の藤倉アナとの質疑応答で推理していき、「キリン」という答えを出せば良い。
 影の声で正解を知っている聴取者は、回答者の質問に一喜一憂する。大人から子供まで世代を問わずに誰でも楽しめたことから国民的な知名度と人気を誇った。
 五男の祥吾ちゃんが、ときどきラジオに向かって叫ぶ。回答者を応援するのだ。


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押し花絵の世界 №198 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「My favorites」

                 
山﨑房枝

2024.3月上.jpg
18.5cm×14cm

花の色が多く、寄せ植えやブーケなどに重宝することから、お祝いシーンのプレゼントにも人気のビオラ。
飾りやすい小さいサイズの額にデザインしました。
ベッドの横のナイトテーブルに置いて、朝目覚めるたびに元気をもらっています。


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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №52 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「大地の音・大地の声」A sound of the earth-a vojce of the earth

       銅板造形作家  赤川政由

52大地の音・大地の声.jpg
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JJR青梅線栗中神駅 江戸街道沿い
東中神駅から歩いて5分、江戸街道筋のオケットパークに設置。銀色のラッパは長瀬絞りの仕事。昭島市の地下水がほとばしる姿と、鯨の化石で有名なこの町のために鯨の潮吹きをイメージしている。昭島市にはたくさんの町工場があった。老練な職人たちがいた。ピノキオのおじいさんは最後に自分の技術に心を込めてピノキオを作った。採算や、効率から放れてものを作れるのは、歳を重ねてこそ。ものに心を刻み付けてこそ、素晴らしいものができる。ラッパには、耳を寄せる天の風の音や、大地の響きが、聞こえて<る……。


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多摩のむかし道と伝説の旅 №121 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

          多摩のむかし道と伝説の旅(№29)
            ー西多摩の多摩川河畔の桜道を行く-
                   原田環爾

 多摩には桜の名所と呼ばれる所が幾つもある。とりわけ水辺の桜は清々しい周囲の景観と相まってことのほか美しい。そんな水辺の桜の一つに多摩川河畔や玉川上水水辺の桜がある。総延長数十kmに及ぶ河畔には、上流から下流にかけて各所に見ごたえのある桜処が散在する。そんな中、西多摩の福生熊川の睦橋から羽村堰にかけての多29-1.jpg摩川河畔と、更にそれに続く上流の多摩川河畔には桜並木が切れ目のなく続き、まさに桜の回廊とも言える道筋になっている。都心から遠く離れているだけあって、それらを取り巻く緑溢れる山河の風景とあいまって一層桜を引き立たせている。更に福生熊川や羽村は古い土地柄だけあって、そこかしこに歴史的な遺構、文化財、伝説が散在している。例えば熊川分水や多摩川の渡し跡、旧鎌倉道に酒蔵、中世の西多摩を支配した三田氏や坂東の英雄平将門と伝説の将軍藤原秀郷らの伝承を伝える社寺などがある。今回はJR青梅線の拝島駅から小作駅に至るまでの西多摩の多摩川河畔に連なる桜道を辿ってみたいと思う。ただ歩くと相当な距離になるので、ここでは前編に拝島駅から羽村駅までのコース(桜:睦橋~羽村堰)を、後編に羽村駅から小作駅までのコース(桜:羽村堰~阿蘇神社)と2コースに分けて実踏経験を解説する。

[前編]拝島駅から羽村駅まで(桜:睦橋~羽村堰)
 本コース概略は次の通り。JR青梅線拝島駅から明神通りを経て旧村の集落に入る。熊川神社、熊川分水、下の川緑地せせらぎ緑道を経て睦橋の袂に出る。睦橋からは福生南公園を経由して多摩川河畔の桜堤に入り、多摩川中央公園を経て福生柳山公園へと桜の道を進む。 福生の地酒の老舗田村酒蔵を経て玉川上水の宮本橋の袂に出る。宮本橋からは上水沿いに、かに坂、加美上水公園を経て羽村に入り、上水の桜堤を進んで羽村堰へと向かう。帰路はJR羽村駅へ至るものとする。詳細地図を次図に示す。

29-2.jpg

 拝島駅を出て駅前の道を右へ進み、突き当たりの稲荷の前を左に曲がる。そのまま直進してもよいが、車が多いのでコンビニの横で右折して山王橋通りに入る。すぐ 国道16号東京環状の武蔵野橋のガードをくぐり、そこから2つ目の丁字路帯で左折して真っすぐ直線的に延びる明神通りに入る。通りの名はこの先の熊川神社(熊川明神とも呼ばれている)に通じる道だからであろう。200mも進めば車が激しく行き交う新奥多摩街道に出る。街道の筋向いにファミリーレストラン「BigBoy」があり、その左隣りから集落へ入る狭い路地が見える。街道を横切りその路地に入るとすぐ左右2つに分岐する。右の小路をとると傍らに幅1m足らずの用水路に清澄な水が流れている。玉川上水から分水された熊川分水だ。目をあげて小路の前方に目をやると、こんもりと茂った林を背景に鳥居が立っている。それが熊川の鎮守熊川神社だ。鳥居の前まで来ると神社の玉垣の外周を沿うように熊川分水が流29-3.jpgれている。鳥居の前左手には神社が運営する「杜の美術館」がある。土日祝日のみの開館で拝観料は500円となっている。境内に入ると正面に拝殿があり、裏にまわると骨組み柱だけの覆殿に納められた本殿がある。そのほか琴平神社、「村人の資料館」といった建屋もある。また七福神のすべてを祀っているのも面白い。なお熊川神社がいつ創建されたかは不詳だが、平安時代の初めに多摩川の砂鉄を産鉄していた部族が鉄神として宇賀神を祀ったのが始まりという。その礼拝塚が後に神社になったという。江戸時代は礼拝大明神と称し、熊川村の鎮守であった。祭神は大国主命。本殿は現存する棟札から慶長2年(1597)に建てられたもので、都内に現存する本殿としては2番目に古い建物という。境内に奉られている琴平神社は讃岐の金毘羅宮から明治13年に勧請したもので、当時熊川にあった製紙工場の女工達の憩いの場として毎月10日の縁日は賑わったという。なお正面鳥居横の「杜の美術館」は文政8年(1825)に建立された村の寄合所という。
29-4.jpg 熊川分水はここより北約500mの所にある牛浜幸楽園辺りの玉川上水から分水され、熊川地区の中央を流れ下って福生南公園のどうどう橋付近から下の川に流れ込む全延長約2kmの分水だ。比高差10mもの拝島段丘上にある熊川村は水が乏しく村民は難渋していた。承応3年(1654)玉川上水の開削後も分水は容易に行われず、明治になって石川酒造の当主石川弥八郎等の尽力により分水が許可され、明治20年(1887)から工事を開始、明治23年ようやく完成した。工事には述べ7000人余りが従事したという。経費一万五百円の約4割を石川家が負担したという。分水された水は飲料水、生活用水、水田の灌漑用水、酒造、製紙業などの工業用水として使われた。
29-5.jpg 熊川神社の西鳥居を出て熊川通りに入る。熊川通りは拝島段丘の断崖上に沿う道のため、多摩川低地に広がる住宅街を一望の元に見渡すことができる。通りを南へ50mも戻れば段丘下へ降りる坂道がある。坂道を下り降りると、そこはせせらぎが流れる瀟洒なハケ下の遊歩道となっている。かつては味気のない用水路であったが、その後整備され、平成16年に「下の川緑地せせらぎ公園」としてオープンした。遊歩道を南へ進む。所々ハケ上へ上がる階段や下り階段が備えられている。ハケ上には見晴らしのいい展望台がある。この先遊歩道は睦橋通りぶつかって終わる。(つづく)


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夕焼け小焼け №30 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

父の葬儀 

        鈴木茂夫

  昭和21年(1946年)秋、小原村の戸籍係が訪ねてきた
 「廣蔭さんの消息が分かりましたか」
 母は
 「まるで何の知らせもありません」
 戸籍係は、口ごもりながらもはっきりと話した。
 「戦争が終わって1年以上経っている。戦地にいて生存している方は、それぞれ引き揚げて復員されています。未だに生存不明という方は、戦死されたと思わざるをえません。戸籍の整理もしなくてはなりません。お宅で了解されれば、役場としては戦死の通知を出せます。いかがですか」
 母は怒った。
 「何も知らない役場が戸籍の都合で、戦死を判定するのは非常識じゃあリませんか」
 「ご家族のお気持ちは分かります。お考えが変わったら連絡してください」

 昭和22年(1947年)2月。
 ボルネオで父に随行していた海軍中尉から手紙を頂いた。それには前線から退避した父の動向が記されていた。

 ボルネオ島は東南アジアに位置する。南シナ海、スールー海、セレベス海、ジャワ海に囲まれた世界第3位、日本の国土の1.9倍ある大きな島だ。
 父のいたタラカン島は、ボルネオ島の北東岸沖のセレベス海西部に位置する。この周辺から石油を産出する。日本が占領した後、石油製品の集積センターを建設し、日本本土や多くの前線へ石油を送り出していた。
 父は海軍の嘱託として石油送り出しの業務の管理を担当していた。島の防衛には 海軍第2警備隊の2200人があたっていた。
 昭和20年(1945年)4月から連合軍が島の奪還をめざして進攻してきた。制海権、制空権を失い、石油積み出しは不可能になった。
 状況が緊迫したため、嘱託の鈴木廣蔭が民間人のままでいるのは好ましくないと。現地応召となり、海軍兵曹となった。
 5月4日にはオーストラリア第9師団の第26旅団を基幹とする11800人がタラカン島に上陸した。激しい戦闘が繰り広げられたが、日本側には専門の戦闘員が少なく、多くの損害を出した。
 7月に入り、タラカン島の海軍司令部は石油の精製施設を自ら破壊した。残存している部隊をとりまとめて、7月14日ボルネオ本島に退避することにした。
 鈴木広蔭は、ボルネオ本島にも連合軍は展開しているだろうから、自分はタラカン島の隣のスノカン島に移りたいと主張。本隊は本島に移った。
 7月15日夜、スノカン島から銃撃戦の音が聞こえた。それ以後、鈴木広蔭の消息は不明。この夜、戦死したと推測される。

 「これだけはっきりした情報があるのね。はっきり戦死と決めましょう」
 母からの連絡を受け、戸籍係から戦死の公報がもたらされ、遺骨箱も届いた。それを開けると円い石が1つ置いてあった。
 母の慈しんでいたササゲがたわわに実った。母はササゲを入れて赤飯をつくった。
 わが家の畑の一角に私の背丈ほどのこぢんまりした古い白梅がある。
 季節となり開花した白梅。それだけがきょうの飾りだ。
 その下に茣蓙をしいて3人前のささやかな料理を並べた。
 私は何を言っても涙がでそうになるので黙って赤飯を食べた。
 母はノートブックに何か書いていた。書き終えてそれを差し出した。

      君を待ち 育てしササゲ 実れども  戦死の知らせ 耳にする今

   「僕は頑張るよ」
 私はそれだけを口にした。
  父・廣蔭の葬儀を行った。
  一番大切な上村良一氏、妻の豊子さんも来て頂いた。父の幼なじみが数人見えた。  
  導師は小松禅龍師、3人の従僧を伴って現れた。
  「きょうは普段の葬儀の順序から離れて、生死のことを考え見ましょう。修証義をとりあげます」
 小松禅師はそう言って、修証義を読誦した。

 生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏あれば生死なし、 但生死即ち涅槃と心得て、生死として厭ふべきもなく、涅槃として欣ふべきもなし、 是時初めて生死を離るる分あり、唯一大事因縁と究尽すべし。

 無常憑み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、身已に私に非ず、 命は光陰に移されて暫くも停め難し、紅顔いずこへか去りにし、尋ねんとす るに蹤跡なし、熟観ずる所に往事の再び逢うべからざる多し、 無常忽ちに到るときは国王大臣親暱従僕妻子珍宝ほう たすくる無し、唯独り黄泉に趣くのみなり、己れに随い行くは只是れ善悪業等のみなり。

 「これが戒名です」

     護国院廣蔭聖道居士

 「私は生死涅槃と受け止めています。生死とはひとつの貨幣の表と裏、2つにして1つ。1つにして2面。愛する者との別れは辛い、苦しいものです。つまり愛別離苦です。 命あるわれわれは、必ず死にます。そして別れます。それが苦しみです。その苦しみの元は執着です。執着から煩悩が生まれます。煩悩の火を消せば、苦しみも消えるといわれますが、私にはとてもできません。執着を大切にしています。煩悩も自分のものと受け入れます。これが凡夫である私の生き方です」
 禅龍師はありのままのありようを話された。私はそれが分からぬままに、心に入った。
 父と語り合うことはもうないのだと切なかった。


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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №220 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

北海道の秋  

            岩本啓介
  
ととろ峠・ねこバス 深川市

220猫ばすB のコピー.jpg
   
秋の北海道で、一番に行きたい場所だったんです
北海道深川市にある戸外炉(ととろ)峠は、「となりのトトロ」の「トトロ」と同じ名前
それにちなんで なんと、ネコバスが置かれています。
このネコバスは道内外から写真を撮影しようと訪れる人がいる隠れたフォトスポット
 


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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №51 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「マジシャン」A Magician

       銅板造形作家  赤川政由

51マジシャン.jpg

くるる/TOHOシネマズ府中
府中市宮前町 1-50


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夕焼け小焼け №29 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

カワウソ先生・坂本先生

         鈴木茂夫

 佐藤先生は漢文の担当だ。頭には白髪が目立つ。歯が出張っているところからか、カワウソと呼ばれる。真面目に情熱をこめて話す。話が弾んで予定された教科通りには進まないことが多い。つまり脱線するのだ。そのせいか生徒には人気がある。
 「きょうは孟子からはじめよう」
 先生は黒板に書き出した白文を読み上げる。
 「これは孟子の教えの根本だ。人の性は生まれながらに善とする性善説だ。人の心には『四端』がある。仁・義・礼・智のことで、「仁」は人を憐れむ心、「義」は自分の不正を恥じる心、「礼」は人に譲る心、「智」は是非の心をさしている。自分の不善を恥じ、他人の不善を憎む心のないものは人ではない。譲り合う心のないものは、人ではない。善し悪しを見分ける心がないものは、人ではない。人の不幸を見過ごせない心は、仁の芽生えである。自分の不善を恥じ、他人の不善を憎む心は、義の芽生えである。譲り合う心は、礼の芽生えである。善し悪しを見分ける心は、智の芽生えである。人がこの四つの芽生えを持つことは、ちょうど両手両足があるのと同じなのだ。生まれたままの状態の「四端」は小さいが、学問をし修養を積めば「四端」の徳を自分のものにできるのだ」
 先生は一息入れて続けた。
 「人は存在する。存在とはザインだ。人にはかくあるべきものがある。英語で言えば、should又はoughtだろうか。それはゾルレン、つまり当為だ。われわれは漢文をとおして、善悪の当為を学ぶんだ。漢文とはそういう学問、つまりヴィッセンセンシャフトだ」
 先生は立ち上がった。
 「われわれは一人で存在するのではない。社会に生きている。そこで出来上がるのがゲマインシャフトだ。それは血縁組織であったり、教会組織、自治組織であったりする。もう一つの組織にゲゼルシャフトがある。これは組織自体に目的がある。通常の企業だな」
 カワウソ先生は、黒板に書いたり、自分のノート見たりして話し終えた。どうも、ザインだのゾルレンとは、ドイツの哲学の用語だ。現実と理想の関係を考えるのだという。
 生徒は聞きなれているようだ。ゾルレンが出てくると話は終わると教えてくれた。   

 坂本右先生も国語の担当だ。東京の出身で東京文理科大学の卒業だという。戦前最高の教育機関だ。
 戦時中は、在学中に将校を育成する特別甲種幹部候補生として教育を受け少尉だった。
 戦後は復員して、大学に戻り卒業したとのこと。
 中肉中背で肩幅が広い。太めの眼鏡枠の奥に、落ちついた瞳が光っていた。いつも旧軍の軍服を着ている。
 名古屋弁ではない。生粋の東京言葉だ。静かな語り口で生徒には人気がある。
 ある日、先生は教室に入ってくると、一人でうなずき、黒板に書き出した。

     垂乳根乃 母之手放 如是許 無為便事者 未為國

 「君たちは、この万葉仮名が読めるかな」
 誰も返事する者はいなかった。
 「それでは読めるように書こう」
 
    たらちねの母が手離れかくばかりすべなきことはいまだせなくに

 「これは万葉集の中でも有名な歌だ。作者は分からない。どういう意味か、分かるかな」
 戸田が手を挙げて席から立った。
 「母親の手元からはなれ、こんな辛い思いをしたことがないです」
    私もそのように理解したのだが。
 「そのまま読めば、そうも理解できるがそうではない。ほかに意見はないか」
 答弁は出てこない。
 「この歌は少女の歌なんだ。作者の人麻呂は、少女の初恋を歌っているんだよ。母の手から離れ、成人して以降、こんなに切なくやるせない、思いにとらわれたことは、いまだかってありません。歌の中の、すべなきことは、どうしていいか分からないだ。はじめて感じること、つまり愛することだよ」
 先生の解説に、みんな腑に落ちたという思いだった。
 また違った歌を先生は書き出した。

    五月待つ花橘の香をかけば昔の人の袖の香ぞする(よみ人知らず)

 「これは古今和歌集にあります」
 私は書かれてあるとおりで、特に難しいことはないのにと思った。
 「ここにある昔の人とはなんだろう。袖にたきこめた香りを作者は忘れてはいない。つまり昔の人とは、昔の恋人のことだね。そうだとすると、花橘とはむかしの恋人の面影なのだということが浮かんでくる。今は昔となった恋人を偲んで切ない。男の心情だね」
 「先生、ボクは今の人もおらんのに、昔の人がいるわけがないですよ」
 増井君が抗議するかのように発言した。先生は微笑した。
 「君の発言はもっともだ。でもね、文学の世界では現実にはそうでなくても、想像するということはできるんじゃないかな」
 「先生、この歌は想像で歌っているのではなく、作者の体験を歌っているのと違いませんか」
 増井君の頬は紅潮していた。
 「君の言うとおりだね。ところで関係ないけど、君には今の人がいるのかな」
 増井君はうつむいた。私はどんな答えが出てくるのかと期待した。
 「それはボクひとりが、今の人と思ってるだけですけど」
  ほうという賛嘆の声が漏れた。私には今の人はいない。うらやましかった。
 「きょうは教科書から脱線してしまったが、たまにはこんな話もいいだろう」
 先生は一人語りをするようにつぶやいて教室を後にした。恋の話は悪くない。
 先生には、今の人がいる。そして忘れられない昔の人もいるんだと思った。


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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №219 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

雨宮21号・いこいの森

         岩本啓介

219雨宮21号・2023年10月15日 のコピー.jpg

JR石北本線『丸瀬布』駅から車で22分、いこいの森公園内に設置された2キロの軌道を走ります
その昔、この地域で木材の運搬に活躍した蒸気機関車です。国内唯一の動く森林鉄道蒸気機関車です
貴重な財産として後世に引き継いでいます。いこいの森の開園期間は5月1日~10月31日です
2023年10月15日11:24


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押し花絵の世界 №197 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「ビオラのランチョンマット&コースター」

        押し花作家  山﨑崎房枝

2024.2月上.jpg

ビオラは開花期間がとても長く、冬のガーデニングには欠かせない存在です。
品種や色数が豊富で、毎年新品種が作りだされています。
可愛らしいビオラで制作したランチョンマットとドリンクを置くコースターが、ティータイムに華やかに彩りをそえてくれて晴れやかな気持ちになりました。


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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №50 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「くるるの番人」Kururu's Keeper

       銅板造形作家  赤川政由

50くるるの番人.jpg

府中市宮町1-5

くるる/TOHOシネマ


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夕焼け小焼け №28 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

オノケーに学んで

           鈴木茂夫

 昭和21年(1946)の夏休みになると、母のところへ帰った。
 母は大倉を本拠地として暮らすことに腹をくくったのだ。父のソフトハットを押し縮めてかぶっていた。それは父が愛好していたアメリカのステットソン社のもので茶色だ。村の人たちは、あの尊いお方の帽子にそっくりだ。つまり大倉の皇后陛下だなと呼んでいる。母はこうと決めたらなりふりにかまってはいない。
 畑仕事に精出していた。

  私は座敷の襖を開き、文机を置いて座った。風が通り抜けて心地よい。たぶん祖父もそうしていたのだろう。
  戦時中、私たちは英語を敵性言語と言って授業がなかった。中学の2年では、スコップを担いで、町の中に防空壕を掘っていた。3年になったら、一切の授業はなくなり、台湾にいた私たちは、陸軍2等兵にされていた。戦争が終わった。それはもう過去のことだ。
 オノケー の 「新制英語の文法研究法」を開いた。著者の本名は小野圭次郎。高名な英語学者で多くの著作がある。受験生には必読と言われている。約300ページだ。4週間でこれを仕上げようと決意した。
 英文法の最初は名詞だ。あらゆる単語は名詞のどれかにあてはまる。 品詞は10種類ある。名詞、代名詞、形容詞、副詞、動詞、助動詞、前置詞、接続詞、冠詞、間投詞だ。
 それぞれの品詞が、どういう性格なのか。はじめてのぞく英語の世界だ。国文法を習ったことがあるから理解できる。難しいが、やれば覚える。意外におもしろい。
 
 母がなけなしの金をはたいて、うどんを買ってくれていた。昼飯はうどんの釜揚げだ。
囲炉裏に釜がかかっている。熱いうどんを汁に入れて食べる。汗が噴き出す。うまい。
がむしゃらに食べる。そしてわが家の3メートル四方の池に入る。汗が流れ落ちる。首まで水につかる。疲れがとれる。心地よい。そして机に戻る。オノケーを凝視する。睡魔に襲われると、また池に入った。
 
 動詞は動きを表す言葉だ。be動詞と一般動詞がある。さらに自動詞と他動詞がある。
動詞は、現在、過去、過去分詞に分けられる。

 背中に風呂敷包みを背負った中年の男が現れた。この家には立派な竹藪があるから、竹の箸を造る機具を買わないかという。代金は機械を納入し、分割払いでいい。農家の手堅い内職になるよと言う。現金が入ってくる仕事というのに、心惹かれる。難儀な上級学校の試験に合格しなくても良いのだ。
  話を続ける男の肩越しに、母の姿が見える。母の期待に応えることは、試験に合格することだけだ。男には入学試験に合格することだけに集中しているから、竹の箸づくりは無理だと言った。

 英語には5つの文型がある。文章は主語S、動詞V,目的語O,補語Cで成り立つ。
第1文型SV、第2文型SV、第3文型SVO 、 第4文型SVOO 、第5文型SVOCだ。例文で、なんども演習した。これは手を抜けない。ほぼ理解できるようになった。音読した。父のなめらかな発音が懐かしい。二学期が待ち遠しく思える。
 オノケーをひとわたり仕上げたので、再度はじめから取り組む。英文法の概略が見えてきた。

 8月14日水曜日。
  旧のお盆だ。母と廣圓寺に出かけた。
  廣圓寺の奥の座敷に招かれた。小松禅龍師は、お茶を私たちに差し出し、て
 「私は、あんたたちが台湾から引き揚げてこられ、お寺との関係が深くなってきたことから、鈴木家の様子も理解しました。お母さんの一人手息子を育て上げるのは容易ではない。息子の茂夫さんの人となりもわかりました。この先、茂夫さんを廣圓寺の跡取りにするのはどうじゃろうか」
 和尚は私たちから視線をそらさない。
 「茂夫を跡取りにするとはどういうことですか」
 「跡取りとはこり寺の住職として生きていくことです。賛成してくれれば、駒澤大学で仏教とくに曹洞宗を学ぶ。場合によっては大学院に進むのもよし、それから福井の大本山永平寺か神奈川の大本山総持寺で2年間で修行する。その学歴に廣圓寺の寺の格、私の資格などが勘案され、恥ずかしくない僧階が与えられるでしょう。そうして廣圓寺に入る。このための生活費、学費は廣圓寺が負担する。こんなことです」
 なにか考えたこともない世界が見える。生活苦から抜け出せるのは魅力だ。しかし私は作家かジャーナリストになりたいと思っている。
 二人してありがたいお申し出ですが、それなりに自立しますとお断りした。

 時制は12種類だ。現在形、過去形、未来形、それに進行形が加わる。現在進行形、過去進行形、未来進行形がある。完了形に現在完了形、過去完了形、未来完了形がある。現在完了進行形、過去完了進行形、未来完了進行形がある。
 フォック先生が力説していたハヴ・プラス・ぴーぴーは、現在完了だったのだ。ここで一学期の授業に追いついた。だがまごまごしてはいられない。次だ。

 時制が出てきた。それは全部で12種類ある。時制の基本には現在形、過去形、未来形がある。それに進行形が現在進行形、過去進行形、未来進行形がある。
 最初に時制にはいくつ種類があるのか並べてみる。基本時制と呼ばれるもっとも基本的な文型が3つ。そして完了進行形として現在完了形、過去完了形、未来完了形がある。最後の完了進行形は、現在完了進行形、過去完了進行形、未来完了進行形がある。
  フォックス先生が繰り返し言っていたハブ・プラス・ピーピーだ。例文で確かめる。授業の内容に追いついたと嬉しかった。内容をよく読み込めば理解できる。だがまごまごしてはいられない。
 オノケーを読み上げ、さらに繰り返し読んだ。練習問題もひとわたりこなした。
 充実した夏休みだった。自信をもって名古屋に戻った。
 


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押し花絵の世界 №196 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「タツノオトシゴ」                 

               山﨑房枝

2024.1月下.jpg

23cm×18cm

今年の干支は辰年なので、自然の植物でタツノオトシゴを制作しました。
唐蒸草の葉脈やギザギザを生かして体のベースを作り、カーネーション、バーベナ、忘れな草などの小花で可愛らしくアレンジしました。
背景の海藻はイタドリ、キョウカノコ、額紫陽花。
水泡はビオラを様々な大きさにカットしました。
3歳の息子が「可愛い!これ何のお花?」と沢山質問してくれました。
押し花アートを通じて子供達が植物に興味を持ってくれるきっかけになると嬉しいです。


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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №49 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

風の精 Fairy of Wind

          銅板造形作家  赤川政由

49風の精.jpg

府中市宮野町 1-5 くるる YOHOシネマ府
前回の『時を告げる人』と同じ、府中駅前さいごの再開発プロジェクトのために作られた作品。

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夕焼け小焼け №27 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

祖父は逝き、祖母は去った

            鈴木茂夫

 5月11日土曜日。

 ソフシス スグカエレ

 電報がきた。祖父が亡くなったのだ。すぐに大倉に戻った。
 座敷に祖父大八の遺体を収めている。享年80歳。枕元に円い桶が用意されている。座棺だ。
 瞑目している祖父の顔がすこし縮んだのではないかと見えた。
  大八は地元小原村の大草小学校を卒業すると、独学で中等学校卒業の検定試験に合格。挙母村からとくを迎え、長男広蔭、長女ふみ、次男勝海、次女栄枝設けた。
 大八は中等学校教員検定試験にも合格。市場集落の本城小学校の教員となり、校長にもなった。さらに中等教員検定試験に合格。一家は岡崎市に転居。岡崎の高等女学校で国語漢文を担当した。
 さらに大阪の市岡高等女学校で国語漢文を担当。それにより一家は市岡元町に移転した。55歳で定年退職した。  戦災のため家を失い、郷里の小原村大倉に戻っていた。

 長男広蔭は市岡中学を卒業、神戸高等商業(現・神戸大学商学部)に進み、ボートを漕いで名古屋出身の上村良一氏と親友の交わり。東京高商が東京商科大学(現・一橋大学)になるのを機に進学。卒業して大阪商船(現・商船三井)に就職。
 長女ふみは女学校を終え、将棋士の小林氏と結婚。

 次男勝海は市岡中学を卒業、大阪薬学専門学校(現・大阪大学医学部薬学科)に学ぶ。

 次女栄枝は、女学校を終え、建築家熊田氏と結婚。

 葬儀には大倉の人たちが集まってきた。大八と小学校で同級だったという老人が、
「なにせ大八さんは。背筋を伸ばして机に向かい、閑さえあれば本を読んどらしたぜ。わしらがものを尋ねると、それはそれは丁寧にきちんと答えてくれたもんや。こんな偉い人は二度と出るまい」
 数人の男衆が大八を持ち上げ、手足を折り曲げて棺桶に収めた。
 菩提寺の廣園寺から和尚の小松禅龍師が3人の従僧と共に見えた。
 「これが大八さんの戒名です」
 教導院大円融照居士

 禅龍師が曲録に座った。葬儀の始まりだ。大悲心陀羅尼だ。和尚の声が流れる。
 
 南無喝囉怛那哆羅夜耶。南無阿唎耶。婆盧羯帝爍鉗囉耶。菩提薩埵婆耶
    なむおりやーぼりょきーちーしふらーやー。ふじさとぼーやーもこさとぼーやー。

    3人の従僧が、それぞれの楽器をならす。
 
 チン ドン ジャラン  と鳴り響いた。

 生死往来雲変更 迷途覚路夢中行 元師一句猶余得 梁木泰山不撐                   
  しょうじおうらいくものへんこう めいずかくろ むちゅうにいく 
  げんしのいっくなおあましえたり りょうぼくたいざんついにささえず

 和尚が深く頭を下げた。会衆が焼香。
 数人が座棺を持ち上げて棒で担ぎ、家の横の墓地へ向かう。私は喪主だからその先頭に立った。その後ろに祖母とくが続いた。墓地には既に穴を掘ってあった。座棺を穴に収めて葬儀は終わった。その時、涙がこぼれてきた。

 囲炉裏を囲んで祖母と母と私。薄明るい電灯の下で夕食だ。その時を待っていたように、祖母が口を開いた。
 「お祖父さんを送ったから、わしの仕事も終わりました。わしはこれから奈良県王寺の勝海のところに行くでな。後のことはよろしく」
 しっかりとした口調だ。よく考えてのことなのだろう。
 母がそれに応じた。
 「鈴木の家は、長男の広蔭が受け継いでいます。戦地に行ったきりで、消息は分かりません。生死がはっきりするまでは、私たちとこの大倉で待ちましょう」
 「幸枝さん、わしは広蔭の消息がどうなるかは関係ない。はっきり言って、わしはあんたたちが好かんのや。勝海と嫁の君枝さんは、わしに優しくしてくれる」
 祖母は言うだけのことは言ったという風情。とりつく島はない。
 翌日一番のバスに乗って祖母は去った。


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