SSブログ

多摩のむかし道と伝説の旅 №128 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

          多摩のむかし道と伝説の旅(№29)
             ー西多摩の多摩川河畔の桜道を行く-3
                   原田環爾

29-14.jpg29-15.jpg かに坂にはこんな話がある。昔、宝蔵院の近くにおみよという女の子がいた。ある日、親戚でもらった柿を持って帰ってくると、男の子が川で捕えた沢蟹を焼いて食べようとしていた。おみよは沢蟹がかわいそうと思い、柿と交換して沢蟹を助けてやった。沢蟹は嬉しそうに去って行った。さらにしばらく行くと、今度は大きな蛇が蛙を呑みこもうとしていた。おみよは蛙を助けたい一心で、もし蛙を逃がしてくれたら蛇の嫁になってもいいと言った。29-16.jpgそれを聞いた蛇は蛙を離し、3日後におみよを迎えに行くと言って去って行った。家に帰ったおみよからその話を聞いた両親は大変驚き、蛇が家の中に入ってこないよう戸や窓に釘を打ち付け隙間がないようにした。1日、2日たち、3日目の夜、戸をたたく音がする。覗くと金色の目をした気味悪い男が立っていた。蛇男がおみよを迎えに来たのだ。ところが蛇男は戸を開けようとしたが開かない。騙されたとわかった蛇男は怒り狂って真っ赤な口を開け大蛇に変身し、家に絡みついて尾で家を叩き潰そうとした。もはやこれまでと思った時、大蛇のとてつもない叫び声が聞こえ、やがて静まり返った。恐る恐る外へ出てみると、そこに巨大な蟹が大蛇をズタズタに切り裂いていた。蟹はやがて小さな沢蟹の姿に戻ると、多摩川へ向けて坂を下っていった。いつか助けた沢蟹が恩返しをしたのだ。それ以来、いつしかこの坂は「かに坂」と呼ばれるようになったという。
29-17.jpg 玉川上水沿いの静かな雑木林の道に入る。程なく加美上水橋の袂にくる。橋の左手は福生加美上水公園の入口になっている。公園はここから次の新堀橋まで細長い雑木林で覆われた段丘で構成されている。この福生加美上水公園の入口の左の段丘下に沿って玉川上水の旧掘の遺構が残されている。旧堀は先の宮本橋のすぐ上流の屈曲点辺りからこの先の新堀橋のすぐ上流50mの辺り迄の間であったと言われる。なお、この段丘は新堀を掘削した時に生じた残土を積み上げた築堤という。ところでなぜ改修が必要であったのか。玉川上水は羽村から四谷大木戸まで総延長43km、それに対する高低差はわずか90m。水を自然流下させるには水路を武蔵野台地の尾根筋に沿って開削する高度な技術が必要だ。その水路の最初の障害は羽村堰で取水した水を、如何にして河岸段丘を乗り越えさせるかにある。開削当時の旧堀は多摩川堤の内側に沿って築堤し、その間を通水しながら少しずつ段丘を這い上がらせ、宮本橋あたりで最初の段29-18.jpg丘を上りきったという。しかしながら、度重なる出水で築堤はしばしば決壊し通水に支障をきたしたので、天文5年(1740)北側に長さ約613mほどの新堀を開削し付け替えたのだという。なお、上水が武蔵野台地の尾根筋に完全に上りきるのは、西武拝島線の玉川上水駅付近であるという。
 加美上水公園内の旧堀跡を辿り、行き着いた所で段丘崖を上がると園内の尾根筋となる。尾根筋を上水に平行に進むとやがて下って公園の北29-19.jpg端に至る。そこは新堀橋の袂で、傍らの小山の頂に金毘羅宮の小祠がある。古い書物にある神明山とはこの山のことを指すのであろうか。新堀橋の下流50m付近が旧堀と新堀が合する所と言われるが、目視する限りではその痕跡は何も認められない。更に進むと左側遠くに多摩川を垣間見ることが出来る様になる。やがて雑木林から抜け出て視界が開け、行く手に再び鮮やかな桜並木が見えて来る。福生から羽村に入ったのだ。
 普段はほとんど人影もないほど静かな堤の道なのだが、桜の季節の土日ともなれば、色々な出店が出て大賑わいになる。昔薬師堂があったという堂橋の袂を過ぎ、羽村大橋の下をくぐり、羽村橋の袂を過ぎると、第三水門の施設の横にでる。ここは玉川上29-20.jpg水の水を取水して狭山丘陵にある村山貯水池(多摩湖)に送水しているのだ。やがて左手に多摩川に架かる羽村堰下橋を見ると間もなく前編の終着点の上水公園に到着する。公園の休憩所からは青梅・奥多摩の山々を背景に大きく湾曲する雄大な多摩川の流れと、玉川兄弟が起死回生の思いで開削した羽村堰を眼下に望むことが出来る。傍らには昭和33年造立の取水堰に向って指差す玉川兄弟像が立っている。後世の人々にこれほどの貴重な水と雑木林と輝かしい歴史を残してくれた先人の偉業にただただ心から感謝したい。
 江戸時代の羽村堰は投渡し堰、第一水門、吐水門、第二水門などから構成されている。蛇籠や牛枠で制御した水流を堰とめて第一水門で取水し、第二水門を経て玉川上水路に通水していた。第一水門と第二水門の間には吐水門があり、必要以上に取り込ん29-21.jpgだ水は多摩川へ戻す仕組みになっていた。また堰の一部は筏が通行出来るだけの水路が確保されていた。今の羽村堰はもちろん当時の堰とは異なり、堅牢な建材・構造になっているが、基本構造、原理は同じで、今も現役の投渡し堰だ。洪水時は堰を払って強大な水圧から水門が破壊するのを守る仕組みになっている。公園先端の小橋は第二水門上の橋で橋上からは第一水門や吐水門を眼下に眺めることが出来る。
29-22.jpg 羽村の堰の開削工事と言えば檜原白倉の鬼源兵衛の伝説が思い出される。鬼源兵衛は大岳山の申し子と言われ、子宝に恵まれなかった両親が、大岳神社にお百度踏んでようやく生まれたのが源兵衛という。小さい頃から毎日麻糸を一本づつ増やしては引っ張り切る修行をしていたため、ついには満願の日に八百貫の大岩を麓から大岳山の頂上まで引っ張29-23.jpgり上げたという。源兵衛のゆるぎ岩と呼ばれるのがそれだ。羽村堰の開削工事の折、幕府は各村々から多数の人夫を徴発したが、檜原にも当然のこと割り当てが下った。困り果てた村の衆を見て、源兵衛は自分一人で十分と、村を代表して工事に参加した。役人はたった一人で来て、しかものんびり稗餅を食っている源兵衛を見て腹をたてたが、やがて源兵衛はむっくり立ち上がると、やおら傍らに生えていた青竹を引き抜いて、指で潰して引き裂き襷掛けにするや、持ち前の怪力で河原の大岩を取っては投げ取っては投げして、9人分の人夫の働きをしてしまったので、役人は腰を抜かして驚いたという。ただ面白いことに彼の怪力は大岳山が見える所でないと力が発揮出来なかったとも言われている。なお、源兵衛は架空の人物ではなく、実在の人物であったらしく、檜原村助役を勤めた大谷氏は源兵衛の子孫という。
29-24.jpg 睦橋から羽村堰までの前編の桜道の旅はひとまず終わりとする。第二水門の上の小橋を渡って段丘を上がるとそこは旧奥多摩街道の道筋だ。街道に沿って50~60m辿れば玉川水神社がある。東京水道の守護神で、玉川上水が承応3年完成された際、水神宮として建設された。建設地は現在の場所と異なり、旧奥多摩街道を挟んで丁度筋向いの多摩川へ突き出た崖の上に建てられていた。以来300余年江戸町民及び上水路沿いの住民より厚く信仰せられ、明治26年名を玉川水神社と改められた。水神社としては最も古いものの一つだ。古びた木の鳥居に「水神宮」と書かれた神額が掛かっている。その横に立っている風格のある門は玉川上水羽村陣屋にあった陣屋門だ。つまりここは陣屋跡で、上水道の取り締り、水門・水路・堰堤等の修理・改築などの上水管理を行った役所の跡だ。堰を通過する筏師達もここで厳しい監視を受けたに違いない。門を入ると広い庭があり、その奥に陣屋敷、水番小屋があったというが、今は陣屋門が残るのみで、建物は明治維新のドサクサに紛れて処分されてしまったという。(この項つづく)


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。