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夕焼け小焼け №32 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

テニスコートを復興、そして弁論

                    鈴木茂夫
 
  惟信中学の5年生になり、学業の成績も落ちついた。そこでテニスをやりたいなと思った。私は高雄中学に入学して庭球部に入り、一学期間は愉しくラケットを振っていた。内地でもやりたい。
 級友に尋ねると、戦時中にテニスコートは掘り返して芋畑にしたという。体育の桜井義高先生が運動場に面した木造平屋教室の横ならコートにしてもいいよと言われた。
 自作してもいいのだ。図書室にあったテニスの規則集で寸法を調べた。全長23.77m、幅10.97m、巻き尺で計ってみると現場は十分な広さがある。体育の物置の隅にいくつものレンガがあった。テニスコートに使っていたもののようだ。
 授業が終わると、私は作業にかかった。それを見ていた級友の桑子君が、一年生の時、テニスをしていたからもう一度やりたい、手伝うと言ってくれた。2人でまずベースラインを決める。何事なのだろうと見物していた数人がさらに手伝いに加わった。
 センターライン、サービスライン、センターマーク、シングルスライン、ダブルスラインとポイントにレンガを埋め、ポールを立て、ネットを運んできて張った。ラインマーカーに白石灰を入れ、白線を引いた。やったぞと歓声が上がる。2時間たらずでコートは完成した。
 桜井先生が庭球部の成立を認めてくれた。
 桑子君はじめ手伝った連中も、庭球部に入るという。私たちのテニスは軟式(現・ソフトテニス)だ。1年生から4年生まで、約20人が集まった。
 電停のそばの惟信堂文具店のおばさんが、Futabayaのラケットがあるよという。みんなでそれを購入した。
   
  翌日からはやばやと登校、練習をはじめた。 戦争でテニスなどをしている閑はなかった。誰もが思うように球を打てない。笑いながら球を拾う。
 練習を重ねると、少しずつ球の打ち合いらしくなってくる。
 テニスコートに面する教室には、新しい学制による港区立の西港中学(学校統合により消滅)の生徒が入った。男女共学だ。窓に群がって私たちを眺めている。見物のいることで、気合いが入る。
 朝の授業開始前の時間、昼の昼食時間、放課後、テニスは愉しかった。

 小原重二君が教員室から書類をもらってきた。
 愛知県中学校弁論大会の要項だ。
 昭和22年11月2日(日曜日)午前10時より
 会場は名古屋市公会堂第7集会室(150人収容)
 参加・愛知県内の中学校
 弁士・各校1名
 弁論時間5分
 私に、服部、増井、小原の4人組が顔をそろえた。
 「弁論大会でるのはどうだ」
 「やったことはないが、面白そうだぜ」
 「英語の授業で、フォックス先生が力を入れたのは、シェイクスピアのジュリアス・シーザーだった。シーザーを殺したブルータスの演説、これもなかなかいい。そしてその後に話したアントーニオの演説は、なおよかった」
 「小原、君が出ろよ」
 「僕は人前できちんと話したことはない。だがやってみよう」
 「それじゃ、何を話すんだ」
 「新憲法ができただろ、その時、天皇をどうするかと議論になった。国体護持と天皇制打倒と意見が2つあった。俺は憲法第一条を憶えてい。『天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く』これがそうだ。話はいろいろあって結局はこの条項になっている。つまり国体護持で落ちついた。それが世間の意見だよな。だからな、天皇制打倒でやると、目立つだろ。それでいくのはドウだ」
 「それは共産党の意見じゃないか。それでいいのか」
 「良いか、悪いかじゃない。まあ言えばな、国体護持は名古屋の常識。天皇制打倒は少数意見だから注目を浴びる。」
 「天皇制の欠陥というか、悪い点には何がある」
 「何せ国民統合の象徴だからな、責め立てる問題点を洗い出すのは難しいぜ」
 「天皇は金持ちだ」
 「何なの、それは」
 「膨大な御料林があるそうだ。」
 「御料林は皇室財産となっていた森林のことだ」
 「江戸時代に幕府や諸藩が支配・管理していた山林を明治憲法のもとで、皇室財産に編入したんだよ。今は国有財産に移されているとか」
 「その山林を問題にした議論があるが、天皇と直接にどう関係するかは分からない」
 「戦時中、俺たちは天皇が大元帥であると言われた。」
 「軍人勅諭は暗記していたからな。勅諭の前文に『朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ』とあった。そうだとすると敗戦の責任者は天皇になるだろうが」
 「戦争を企画し、軍隊を派遣し、作戦を行ったのは軍人だぜ。天皇は軍人の報告を聞いていただけだ」
 「天皇は戦争犯罪人だという声がアメリカにあるそうだ」
 「日本にいるアメリカの最高指揮官ダグラス・マッカーサーはそんなことを何も言っててないぞ」
 「天皇について悪いという意見は、そんなところかな。小原、この話し合いをもとにして原稿をつくってみてよ」
 「分かった。やってみよう。でもそんなに論点はないから、長くはつくれそうにないな」

 本番当日、私たち4人は会場にいた。
 参加しているのは、愛知一中、明倫中学、熱田中学、昭和中学、津島中学、中川中学、東海中学、金城学院、市立第2高等女学校,県立第1高等女学校、南山中学など20数校。
 弁論の題名には、こんなのがあった。
学校で民主主義を学ぶ。個性を活かす学習を。平和を愛する学校。私たちは人権を大切にする。
 参加校は弁論で話すのだが、聴衆として反応もした。拍手をおくったり、声援するときもあった。

 県立第1高等女学校は、「民主主義に学ぶ」としていた。
 「アメリカの独立は、イギリスの過酷な植民地支配に対する現地住民の戦いでした」

 東海中学の番だ。題名は「天皇はあこがれの中心」としている。
 弁士は海部俊樹君と呼ばれてゆっくりと演壇に立った。原稿を開き、水差しからコップに水を注ぎ喉を湿してから、口を開いた。通る声だ。
 「新しい憲法が生まれました。新しい憲法に親しむにはどうすればよいでしょうか。憲法は文字で書かれています。文字で書かれてはいますが、国民精神が結晶して表現されているものであります。その憲法の芯になるものは、何でありましょうか。それは日本の国体であります。国体とは天皇をあこがれの中心とする国民の心のつながりであります。これを元にして国があるのであります。私たちの国体に関する考えは変わっていないのです」
 海部は会場を見回し、落ちついて語る。
 天皇を国民の憧れの中心とするのは保守派の見方だ。大多数の国民考えと言ってもいい。制限時間を充分に活かして話し終えた。
拍手が湧いた。私もそう思う。この人はまぎれもない雄弁家だ。

 惟信中学の番がきた。
 「天皇制に替わる民主体制を」これが題名だ。小原重二が演壇に立った。
「天皇家という 一個人・特定一家が国民統合の象徴となっているのは、民主主義と人間の平等とはならばない。天皇家という皇室一家は,日本の象徴という立場から退いてもらい、国民が選ぶ代表者が象徴ではなく、国の元首になってほしい。また天皇は、日本の軍隊の大元帥として位置していた。敗戦の責任は天皇にもある。その責任から言っても、天皇は退位されたほうがよい」
 小原の声は低かった。聴衆から「ブー」という声も聞こえた。予想通り、天皇制打倒は人気がない。私たちは評価の結果を待った。
 最後の弁論が終わって,成績の発表。
 東海中学は1位、優勝だ。
 われわれは東海中学のところへ行き、
 「優勝おめでとう。立派な弁論でした」
 笑顔で迎えた海部俊樹が、
 「いやあありがとう。僕がうちの学校の弁論部をつくつたの。みんなで苦労してきたけど、優勝は嬉しい。これからも頑張ります」
 僕たちはそれぞれ自己紹介し、握手して分かれた。

 これが海部俊樹さんとの初めての顔合わせだった。
 あくる昭和23年春、私たちが新制高校の3年生になったとき、海部さんは中央大学の角帽をかぶって広小路を歩いていた。
 翌昭和24年春、私が早稻田大学に入学。当時大学が所有していた甘泉園で、海部さんは早稻田大学雄弁会の一員として、発声練習をしていた。
 お互いに見かけると、やあと声をかけ話し合った。
 昭和35年(1960年),第29回衆議院議員総選挙で、全国最年少議員として当選。取材のために国会へ行くとよく顔を合わせた。
 昭和49年(1974年)、三木内閣の官房副長官に。
 昭和51年(1976年)、福田内閣の文部大臣に。
 平成元年(1989年)内閣総理大臣に。
 海部さんが出世の階段を上るにつれ、顔を合わせるのもまれになった。
 東海中学の海部ですと挨拶した海部さんの風貌は鮮やかに記憶している。
これにひきかえ、私たち惟信中学の弁論部は、一度だけの大会に出場、二度とこれを続ける興味はなくした。だから惟信中学に弁論部が存在したと誰も理解していない。


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