線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №231 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
寝台特急「北斗星」乗車
岩本啓介
岩本啓介
前号の『カシオペア』乗車は、実は3回目の寝台列車です。
昭和42年大学入試で上京した寝台特急『はやぶさ』が1回目。
2回目は今回の寝台特急『北斗星』、上野~札幌直通の寝台特急でした。
昭和42年大学入試で上京した寝台特急『はやぶさ』が1回目。
2回目は今回の寝台特急『北斗星』、上野~札幌直通の寝台特急でした。
①北斗星・上野駅
上野出発前の北斗星&カミさんの一枚です。
②北斗星の切符です
車掌さんの『気風拝見』の時、シャワー券を購入しました
ネットで発見したのですが、函館北斗駅近くに『引退北斗星の「宿泊所』発見
次回は、止まっている『北斗星』に泊まってみたいものです。
ネットで発見したのですが、函館北斗駅近くに『引退北斗星の「宿泊所』発見
次回は、止まっている『北斗星』に泊まってみたいものです。
③札幌駅到着
16年前 まだ 59才。髪の毛も いっぱいでした。
押し花絵の世界 №210 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
「千鳥草と紫陽花のスマホケース」
押花作家 山﨑房枝
押花作家 山﨑房枝
お客様にオーダーしていただいたスマホケースです。
藤色とブルーの花をメインに、グリーンの葉を沢山入れてほしいとのご要望をいただいたので
千鳥草と4種類の紫陽花を入れて、グリーンの部分はビバーナム、マイクロアジアンタム、ツタ、人参の葉などを使用しました。
葉と言っても、濃い緑や黄緑色などの様々な色合いがあるので、自然が創り出す植物の奥深さを感じます。
多摩のむかし道と伝説の旅 №131 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
多摩のむかし道と伝説の旅(№30)
−⼆ヶ領⽤⽔⽔辺の道を⾏く−4
原田環爾
[Ⅱ]宿河原⽤⽔⽔辺の道 宿河原⽤⽔とは初代⼆ヶ領⽤⽔が完成してから20年後の寛永6年(1629)、次第に深刻化した末端の⽔量不⾜を解消するため、関東郡代伊奈半⼗郎忠治が⼿代筧助兵衛に命じて中野島取⽔⼝の下流3kmの宿河原の地に新たな取⽔⼝を設け、久地駅付近まで開削して⼆ヶ領⽤⽔本流に合流させて出来た⼈⼯の⽔路である。
ここではJR南武線登⼾駅を出発し多摩川堤に出て宿河原の取⼊⼝に向かう。そこから⾱駄天を祀る天神社宿河原⽤⽔に沿って⽔辺の道を辿り、本流との合流点を⾒届けた後、終着点JR南武線の久地駅に⾄るものとする。
登⼾駅北側の多摩川⼝を出て⾞道を渡り、⼩⽥急線沿い進んでガードをくぐり多摩川堤に出る。そこはかつての登⼾の渡しがあった所だ。下流⽅向に⽬をやれば400〜500m先に⼆ヶ領宿河原堰が遠望できる。堰堤の⼿前にある⼆ヶ領⽤⽔の宿河原取⼊⼝を⽬指して堤の上を進むと、程なく河原へ斜めに降りて⾏く細い坂道が現れる。坂道を採って河原を進むと間もなく取⼊⼝に到着する。宿河原取⼊⼝は上流の中野島取⼊⼝よりもやや⼤きい印象がする。台⾵直後のためか取⽔⼝の⽔⾯は流⽊で覆われている。
江⼾時代の宿河原取⽔⼝は多摩川の⽔を⾃然流⼊で取⽔し、⽔量の少ない時は⼀時的に蛇籠を並べて対応していた。やがて流域の⽥畑が増え⽔量不⾜をきたすようになり、更に砂利の採取で川床が低下し取⽔が困難になってきた。そこで⼤正の初期、蛇籠を何段も重ねて堰を造ったのが⼆ヶ領宿河原堰の始まりだ。しかし蛇籠は洪⽔で流され復旧も⼤変なことから昭和24年コンクリートの固定堰に改造された。しかし昭和49年台⾵16号で多摩川が氾濫し⺠家19⼾が流されるという狛江⽔害が発⽣した。原因のひとつが⽔圧を逃せない固定堰にあるとして訴訟さえ起った。そこで平成11年、⽔⾨を調節できる可動堰に改造されて今⽇に⾄っているという。
ここより⽤⽔路の右岸に沿って進むことにする。取⼊⼝から100mも進んだ所に⽔⾨の橋がある。橋の向こうの取⼊⼝対岸にまわれば「⼆ヶ領せせらぎ館」がある。館内には宿河原堰の全貌を確認できる模型があり、また多摩川に⽣息する淡⽔⿂をまるで⼩さな⽔族館の様に展⽰しているので楽しめる。なお建屋の裏に回れば実際の宿河原堰を眼前で⾒ることが出来る。
せせらぎ館の東側の堤のすぐ下に⼩さな社が⾒えるのは船島稲荷だ。この地を開拓した祖先の⽒神という。別名沓稲荷とも呼ばれていたそうだ。もとは現在の狛江市に道祖神猿⽥彦を祀ったことに始まるという。⼟地を開拓した祖先が、治⽔興農の⽒神として祀ったものという。別名「沓稲荷」とも呼ぶ。これにはこんな⾔い伝えがある。昔、殿様が鷹狩に訪れたとき、愛⾺が病に倒れ、⼟地の伯楽(⾺医)が⼿当てして治した。信條深い伯楽は精進のため、京都の伏⾒稲荷に参詣して分霊し、⾺学の発展と⾺の健脚を祈願して⾺の草鞋を奉納した。このことから⾜を怪我した際はこの草鞋を持ち帰ると早く治るとされ、その御礼に新しい草鞋を掛けて帰るのだという。その他百⽇咳にも効くといわれ、草鞋を持ち帰ると病が治り、草鞋を倍にして返したという。
元の⽔⾨の橋の袂に戻り、堤防下の多摩沿線道路を横切ると⾚レンガ造りの⾈島⼈道橋の袂に出る。ここから宿河原⽤⽔⽔辺の道を辿る。右岸左岸どちらでもよいがとりあえず右岸を採る。⽔辺は親⽔⼯事が施され、両岸には桜が植樹され、また川⾯のすれすれに遊歩道が設けられているので気持ちよく散策することができる。次の船島橋で⾞道を渡ると、親⽔遊歩道のある左岸に回る。蛇⾏する川に従い⽔辺を辿ると程なく南武線と交差する。ガード下も遊歩道が続くが⾼さが低いので腰をかがめて通⾏する必要がある。「頭上注意」だ。川筋は⼤きく左へカーブし程なく北村橋に来る。なお北村橋を南へ200mばかり進んだ集落の中に埋もれるように常照寺という寺がある。宿河原の南側に横たわる⻑尾丘陵の峰にある松寿弁財天と関係がある寺なので⽴ち寄ることにする。真⾔宗豊⼭派の寺で⼭号を雁三⼭と号す。明応6年(1497)賢智和尚による開⼭と⾔われるが詳細は不明。当寺には安政5年(1858)に制作された宿河原網下ヶ松と松寿弁財天の霊験を図⽰した紙本墨画着⾊・松寿弁天図を所蔵している。毎年旧正⽉前後に弁財天護摩供養が⾏われているという。(つづく)
夕焼け小焼け №42 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
新宿の記憶 その2
鈴木茂夫
鈴木茂夫
歌舞伎町二丁目
西寄りに東京都保健医療公社大久保病院・東京都健康プラザハイジア、東側にはラブホテル街が広がり、区役所通り付近はクラブ、ホストクラブなどが多数あるが、一丁目と違い表立って性風俗店は見当たらず、職安通りと明治通り沿いはオフィスビルやマンションが立ち並ぶ。
酒を飲まない私はいくつかの飲食店を訪れるだけで、奥深いこの街をよく知らない。
ゴールデン街は花園神社の西向かいにある。終戦直後、進駐軍が新宿駅の東側にあった闇市を旧三光町に移転させたのだという。当時は荒れ果てた空き地だったとか。それがこの場所だ。
街には東西に6本、南北に1本の通りがある。十平方メートルから十五平方メートルの狭い木造二階建ての店が約二百八十店密集している。ゴールデン街の西橋を都電が走る。
それぞれの店は売春を認める赤線の許可をとってはいない。だがここを訪れた客は、店の女と交わることができた。それは非合法だ。つまり青線なのだ。(1957年以降、売春防止法の施行により青線の時代は終わっている)
昭和25年(1950年)春、まだ青線の時代だ。ロマンと言う名の一軒を訪ねた。カウンターの中に女性が二人いた。四十代の女性が笑顔を見せた。ママというか女将なのだろう。二十代女性は流しで洗い物をしている。
椅子は6席、客の男が一人いた。焼酎のコップを前にしている。少し酔っている。着慣れた感じのジャケットを羽織っている。落ちてくる長い髪を右手で掻き上げた。芥川龍之介の顔写真で見たことがあるようだ。テーブルの上に原稿用紙らしいのを置いている。まさに文士といえばいい。男は私たちに向き合った。
「君たち早稻田」
「そうです」
「雰囲気で言えば文学部だろ」
「そうです」
「俺も文学部だ。旧制だけどな」
「英文科でしょ」
「そうだ。よく分かるなあ」
「雰囲気で言えば。そうですよ」
「なんか良い出会いだな。俺がおごるよ。何か頼んで。」
われわれは遠慮せずにサイダーを頼んだ。
「君たちは何か書いてるの」
「いや」
「書く気はあるの」
「その時がきたらですね。先輩は何を書いているんですか」
「いいぞ。よく聞いてくれた。小説を書いている」
「どんな小説ですか」
「俺は近代日本文学の伝統にしたがい、私小説を書いている」
「あのう、私小説って何を書くんですか」
「私小説は、文字通り私を書くんだ」
「私の何を書くんですか」
「私の体験。私の思い。私を取り巻く環境。私に関すること」
「私以外のことは書かないんですか。自伝小説ですよね」
「君は何を聞いているの。そのことを分かっているの」
「私が分からないから聞いているだけです」
「君は初対面の僕に,遠慮なしにズバズバ聞いてくる」
「私小説は日本だけのモノですか。ヨーロッパの私は日本の私と違うのですか」
「君は私小説の問題点をついている。書く対象を私だけにしぼってしまうと、孤独で孤立している修行者のようになってしまう。ほどほどにして文章の描写に打ち込む。私小説をめぐって多くの評論があるのは、そこの兼ね合いをどうするかだ」
男は上着のポケットから本を一冊取り出した。
「これは評論家・小林秀雄の有名な『私小説論』だ。私小説を批判している」
文学を軽べつすることと文学を一生の仕事と覚悟する事とは紙一重だ。そしてこの間 の事情を悟るにはもはや他人の言葉は一文の足しにもならぬ。古来若年者で大小説を 書いた人は一人もいない。詩人は若くして一流の詩がかけた人がいる、だが彼等はそ の詩のため当然不幸にしてその身を殺した。
「小林は私小説に良い作品があることを認めながらも,日本文学に現れる私を批判する」
女将があくびをかみ殺して笑った。
「あんた,初めての人だと必ずそこを開くのね」
男は照れた。前髪をかきあげる。
「先輩の作品を読ませてください」
「実を言うと,書くんだが,形のある作品はできていない」
「私小説に徹すると行き詰まるんですか」
「ところで君たちは童貞なのかい」
男の思いがけない問いかけにうろたえた。
「はっ」
「女を知らないで小説は書けないよ」
「はあ」
「女と寝てはじめて人生が見える。」
それは含みのある言葉に聞こえた。だが女と寝た男はすべて人生が見えているのか。
会話が途絶えた。
そのとき、
大ぶりの封筒を持った中年の男が顔をみせ、店の端に腰掛けた。
「酒はあとにするよ」
女将がうなずいた。
「由希子さん、それじゃ」
由希子さんと呼ばれた若い女は男と二人で狭い階段を上っていった。
私たちの会話は途切れた。私はサイダーで喉を湿した。
二階から鈍い音が聞こえてきた。柱がちいさくきしんだ。安普請のだ。その音の意味を知って、みんな黙っていた。女将がコップ酒を口にした。
柱のきしみが消えると、すこし間をおいて二人が下りてきた。なにごともなかった顔つきだ。ほっとして私たちは話しはじめた。
2023年現在、今も営業しているゴールデン街で個性的な店を。
かおりノ夢ハ夜ヒラク
藤圭子の代表曲「圭子の夢は夜ひらく」に因んだ店名。ママはかおりさん、明るい笑顔、ハスキーな声が売り。軽い話で客を惹きつける。
奥亭
四十数年前からの老舗。壁にはコンサート、ライブ、演劇のポスターが貼り出され、すり減っている。若者に古きよき時代を思い出させる。
呑家 しの
40年以上営む。昔話に花が咲く。裏表のない明るい優しい性格。心と心を素直に開いて客と対等に呑む。席料なし。お通し500円。飲み物500円から。
はるぼら屋
狭い店。目の前の鉄板で豚ロースやなどを炒める。いつも満席か満席に近い。牛すじ煮込みが評判。美味しいです。
月に吠える
萩原朔太郎の詩集を店名にしている。日本一、敷居の低い文壇バー。本好きや作家・ライター、出版業界などの人々が集まる。席料800円、飲み物700円から。
駄菓子バー・吉田商店
駄菓子をつまみにして、幼い頃に親しんだモノを見つければ。隣に座った人との思わぬ昔話に花が咲くとか。マスターは日替わり。席料500円、飲み物一律700円
線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №230 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
寝台特急「カシオペア」乗車
岩本啓介
寝台特急『カシオペア』、一度は乗りたいと思っていましたが、定時運行が終了して、さてどうしたものかと、ネット検索。
上野~盛岡のカシオペアを発見、カミ」さんと2人で乗ってみました。
上野~盛岡のカシオペアを発見、カミ」さんと2人で乗ってみました。
①最初で最期のカシオペア乗車・夕食は豪華三段重ね弁当
美味しくいただきました。
2016年8月27日 17:42
2016年8月27日 17:42
②盛岡駅の朝
記憶がさだかではありませんが、盛岡から新幹線で『函館北斗』まで行きました。
2016年8月27日
2016年8月27日
多摩のむかし道と伝説の旅 №130 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
多摩のむかし道と伝説の旅(№30)
−⼆ヶ領⽤⽔⽔辺の道を⾏く−3
原田環爾
踏切を渡ると道は左右に分かれる。枡形山へはどちらかも上れるが、ここでは左手から上ることにする。線路沿い左に入るとすぐ山へ向かう上り坂が分岐する。上り口の勾配はかなりきつい。この坂道は「くらやみ坂」と呼ばれている。800年前の枡形城への上り口のこの坂は、生い茂る木々で陽光を遮られていたことからこの名があるという。左にマンションを見てS字状に曲がると右手に寺の門前が現れる。寺は広福寺といい、枡形城の城主稲毛三郎重成の居館があった所と言われている。真言宗豊山派の寺で山号を稲毛山と号す。平安時代の承和年間(834~848)に慈覚大師(円仁)により創建され、鎌倉時代にこの地の領主稲毛三郎重成により中興されたと伝えられる。本尊は鎌倉末~南北朝初期の木造観世音菩薩立像という。参道右手に鐘楼、左手に本堂、正面奥に石段を上がって観音堂、裏は墓苑で、その一角に稲毛三郎重成の五輪塔がある。
因みに稲毛三郎重成は秩父流桓武平氏末で源頼朝の御家人である。町田の小山田(現大泉寺)に居館を構えた小山田別当有重の三男として弓矢に秀でた武人であった。稲毛の枡形山に城を構えて稲毛氏を名乗った。内室は源頼朝の妻で北条時政の娘である北条政子の実妹であるが、建久6年(1195)病死している。重成は悲しみのあまり出家し広福寺を氏寺として中興したという。建久9年(1198)3回忌供養にと相模川に馬入橋を架橋したが、この橋供養で頼朝が落馬して急死している。頼朝が亡くなると、幕府権力の掌握を狙う北条時政の謀略により、元久2年(1205)従兄弟で武蔵武士の鑑と言われた畠山重忠の謀殺に荷担し、ついには重忠謀殺の首謀者とされて、弟の榛谷四郎重朝とともに誅殺されている。
広福寺を後にして坂道をうねうねと登ってゆく。やがて民家も途切れがちになると前方に鬱蒼とした林が目に入ってくる。林に入ると風景は一変する。両側に深く落ち込む谷が現れ、かつての山城の要害としての地形がよくわかる。やがて標高84mの枡形山山頂に到着する。ここが枡形城址である。山頂は平らでしかもかなり広く、一般的に見られる山城の狭い山頂とはずいぶん趣が異なる。ベンチもトイレはもちろんのこと、小児のための遊具広場まであり、時には遠足の児童で賑わう時さえある。山頂には大きなエレベーター付きの展望台があり、上がれば東西南北、都心の大半を望むことができる絶好の眺望ポイントを提供してくれる。山頂広場の南西端には枡形門と称する重厚な歌舞伎門があり、ここを抜ければこの先の日本民家園など生田緑地の多くの施設につながっている。山頂の中央には枡形山頂を示す石標柱が立ち、展望台下の一角に枡形城址の由来を記した石碑が立っている。
枡形城址碑には次のように記されていた。枡形山は約7アールのほぼ正方形の平地を山頂とし、その四方は刀をもって削り去ったような絶壁で眺望もよく天然の要害をなしている。その名も形が枡に似たところに由来するのであろう。 源頼朝開幕の頃、領主稲毛三郎重成がここを居城としたと相伝え、下って永正元年、扇谷・山内 両上杉氏の抗争に際し、扇谷方に味方した北条早雲は、立川に陣する山内軍を攻めるため、伊豆から進軍して途中ここに布陣し、駿河の今川氏親もこれに駆け参じたことが当時の記録に残されている。また永禄12年、甲斐の武田信玄が小田原へ乱入したとき、土地の豪族横山式部少輔弘成は塁をここに築いて、北条氏のために守ったとの古伝もある。これらのことから、この枡形山が山城としてしばしば戦国の武将に利用されてきたことが推察される。
これより枡形山を下り終盤に向かう。城跡の北西部の「グリーンアドベンチャーコース」の案内板のある下山口から下る。鬱蒼とした樹林の中を急坂の小道を下る。小道はしっかりと丸太で階段として造られているので安心だ。一気に下り降りるとやや傾斜の緩い土の道に変貌する。左へグリーンアドベンチャーコースの分岐道が現れるが、これを無視し道なりに下ってゆくと明るい広場に出る。広場の中央には平らな石畳の上に、何やら短い電信柱の様な柱が約10本ばかり立っていて、まるで宮殿の跡のような雰囲気になっている。道はその宮殿跡を通り抜けて、やはり石を敷き詰めた参道を下るようになる。実はここはかつて戸隠不動尊というお堂あった跡地なのだ。昭和2年、枡形山のこの地に一堂が建てられ、信州戸隠神社の不動明王が安置されたという。信州戸隠神社の実動院にあった不動明王(像高39.5cm)と二童子は、明治初年、東京本所竪(立)川の法樹院に奉安されたが、その後昭和5年、現在地に本堂が建立され安置された。昭和40年、武相不動尊霊二十八札所の第二十六札所となり、酉年には多くの参詣者が訪れたが、平成5年焼失してしまったという。
戸隠不動尊の旧参道を下ると、左に「ほたるの里」へ入る分岐道が現れる。分岐道をやり過ごし更に道なりに下って行くと民家が建つ山麓の舗装道路に出る。舗装道路を更に100mばかり下れば一本の道に合流する。合流した道は専修大学の通学路になっていて、いつも狭い道に大量の学生が行き来する姿にぶつかる。実はこの道は旧鎌倉道の支道といわれる。枡形城の稲毛氏が幕府の御家人として鎌倉との往還に使った道筋であり、従って”稲毛氏の鎌倉道”ともいえる道筋なのだ。稲毛氏の鎌倉道に入って50mも下れば左手に鳥居が現れ、急勾配の石段が目に入る。天神社と呼ばれる社で、古くは韋駄天社と称したという。韋駄天は足の速い神として知られ、韋駄天像は今も広福寺の守護神として祀られているという。
ほどなく小田急沿線の道に出る。これより終着点向ヶ丘遊園駅へ向かうことにする。左手の踏切を無視し、くらやみ坂への道を右にやりすごし、そのまま線路沿いの道を進む。やがて左手から先の松本橋で見た五反田川が接近してきて、すぐさま追分橋で二ヶ領用水に合流する。追分橋の上からは2つの河川が合流する様子を見ることができる。追分橋を渡り街中を鍵の手に進めば向ヶ丘遊園駅はもうすぐだ。
なおこの先二ヶ領用水は府中街道に沿って東流し、JR南武線の久地駅付近で次節で述べる宿河原用水と合流することになる。(つづく)
夕焼け小焼け №41 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
新宿の記憶 その1
鈴木茂夫
鈴木茂夫
昭和24年(1949年)から数年の新宿の記憶を掘り起こしてみよう。それはもう70余年前のことだ。記憶はおぼろげになっている。誤りもあるだろう。だがそれが私の新宿だ。
新宿は江戸時代に江戸と甲府を結ぶ甲州街道の最初の宿場町として整備されていた。近代に入ると渋谷、池袋と共に3大副都心として発展してきた。戦時中の空襲で街は被害を受けたが繁華街、歓楽街、ビジネス街として復興した。
新宿は2023年現在、いくつかの地区で大型ビルによる再開発の計画が進んでいる。これが完成すれば、新宿はこれまでにない新しい街となるだろう。
古本屋でも見てみようと早稻田の周辺を歩いていたら、廣い庭園に入り込んだ。甘泉園と表札があった。近くにいた学生に訪ねたら、ここは早稻田大学のものだという。池を囲んで木々の綠が美しい。あてもなく路を行くと軟式のテニスコートがあった。40人ほどの学生が練習している。
見ているうちにやりたくなった。
「すこしやらしてください」
「ああいいよ。君は新入生だろ。そこにあるラケットを使って。僕はマネージャーだ」
半ズボンの背丈のある学生が、コートに入るように合図した。久しぶりだ。軽く打ち返す。彼が打ち返してきた。鋭いストレートだ。バウンドした球がトップに跳ねたところを思い切り叩いた。彼が笑いながら打ち返す。夢中になってラリーを楽しんだ。
「いい球筋だよ。スピードを上げると良くなるね。良かったらメンバーになれよ」
大学の庭球は鋭い。高校とは違う。集中して打ち続けた。気がついたら夕方だ。2時間近くプレーしていた。身体の気力を使い切った気分だ。そしてなによりも空腹だ。お礼をいってコートを後にした。メンバーになるのはいいなと思う。
高田馬場まで歩き、山手線に乗り新宿で下車。東口から地下道へ入り西口に出た。線路に寄り添うようにバラックづくりの店が立て込んでいる。その外側にもう一列店がならんでいる。初めて来た場所だ。大福餅と書いた標識の店が3軒もある。その1軒で大福餅を注文した。1個60円。出されたお茶で喉を湿しながら大福餅を味わう。お腹に染みて美味だ。若い店の主人が愛想笑いをしながら、
「うちの大福餅はもとがいいからうまいんだよ」
すこし日本語のアクセントにくせがある。
「わたしは台湾人。戦争に負けたのは日本人。だからわたしは第三国人。食糧の管理など日本の法律関係ない」
いつもそう言っているのだろう、話慣れた口調だ。
その店の隣に中華そばの店があった。五目そばに惹かれて注文する。大ぶりの丼に、文字通り五目がのっかったそばが出てきた。焼き肉、卵、イカ、野菜などがたっぷりと盛られている。戦後初めての豪華版だ。思わず笑顔になる。店の主人も笑顔で見ている。夢中で食べた。 丼を両手で持ち最後の汁をすするようにして飲み干す。お腹が温かい。代金120円を支払う。
財布の残金を見る。今月の小遣い3000円から教科書を買ったりして1700円ほどになっていた。ふと我に返った。テニスの後の空腹に、五目そばを食べると2週間で残金は底をつく。テニスをやるのは無理だ。それに五目そばを食べるのも無理だ。この二つは諦めるしかない。
新宿駅の西口には、人気の無い広場に浄水場の広がっている。それに隣接して精華高等女学校と看板のある校舎が広がっていた。学校が閉鎖してしまっているようだ。すこし明るい人通りに出ると淀橋警察署があった。
駅の方角に戻る。平屋建ての小田急線と京王線の乗り場の案内がある。乗り場をめざす人の群れ。バスがたまに通る。その近くに和服の女性、洋装の女性、さまざまないでたちで10人ぐらいのぐらいの女性が離ればなれに立っていた。
見ていると男が近づき女と二人連れとなって歩いて行く。立ちんぼの街娼だ。バンバンとも呼ばれる。近づくとつくり笑いを浮かべた。私は慌てて頭を下げた。
線路にそったバラック建てのマーケットは、戸板一枚で仕切っている。天ぷらだの,寿司だの,焼き肉だのの店が並んでいる。そこそこの値段で提供している。味は悪くない。
ラッキー・ストリートと言ったが、思い出横丁と名を変えた。その中の一軒が奇妙なものを売っている。店の名前は覚えていない。丼によそった流動体だ。店の主人は、
「これは新橋の第一ホテルを接収している進駐軍の兵士の残したシチューだ。中で赤く見えるのはコーンビーフ、混ぜ物はないよ」
それは安いのが一碗10円、高いのが30円だ。安いのはみずで薄めている。高いのは出てきたままのもの」
残り物に特有の匂いがする。思い切って流し込むようにするのだ。渋谷食堂に行く金が無いときは、当然10円のもの、腹が空いているときは、10円のを二つ頼んだ。
新宿西口で忘れられないのは韓国料理の明月舘だ。終戦直後に開店した。もしかしたら東京で一番古い店かも知れない。アルバイトで稼いだ700円があったとき、店の客になり300円払った。七輪の上に金網を置き、肉を焼いた。いくつもの七輪から煙が立ち上がる。煙に包まれて肉を口にした。それが焼き肉だった。体中に気力が流れた。
新宿を眺めるのにJR新宿駅を真ん中に置く。そして街を左右・東西に分ける。まず東から見てみよう。
駅舎の正面に新宿通が伸びている。右手に高野のフルーツパーラー、カレーライスと肉まん中村屋、三越百貨店が並ぶ。それに続いて帝都座,帝都座の5階にある,日活名画座は安い料金でフランス映画を楽しめた。 夢中で映画を見ていたのだ。思い出すままに見た映画を列挙してみよう。
「舞踏会の手帳」、「モロッコ」「巴里祭」、「霧の波止場」、「望郷」、「にんじん」、「商船テナシチー」、「未完成交響楽」、「乙女の湖」、「心の旅路」、「鉄道員」、「カサブランカ」、「ミモザ舘」、「邂逅」、「地の果てを行く」,「南方飛行」、「どん底」、「終着駅」、「モダンタイムス」,「うたかたの恋」、「風と共に去りぬ」、「哀愁」、「ローマの休日」、「慕情」、「歴史は夜作られる」、「白鳥の死」,「民族の祭典」,「駅馬車」、「我が道を往く」、「旅情」、「天井桟敷の人々」、「汚名」、「第三の男」,「雨に唄えば」、「恐怖の報酬」、「昼下がりの情事」、「ベン・ハー」、「会議は踊る」、「モンパルナスの夜」、「また逢うまで」,「自転車泥棒」、「海の牙」、「我が道を往く」、「帰らざる河」,「美女と野獣」、「外人部隊」、「黄金時代」、「巴里の屋根の下」、「自由を我等に」,「大いなる幻影」、「ラ・マルセイエーズ」、「旅路の果て」、「鉄路の闘い」、「白痴」,「肉体の悪魔」、「双頭の鷲」,「北ホテル」、「霧の波止場」,「しのび泣き」、「犯罪河岸」、「情婦マノン」。
名画座はいつも混んでいた。入れ替え制ではなかったから、いつまでもいた。通路に座り込むのだ。映画の途中からみはじめ、次ぎに頭から上映されると、先に見始めたところと話のつじつまが合う。頭の中で映画の編集をしたのだ。
昭和25年(1950年)春に今井正監督の「また逢う日まで」が上映された。
昭和18年、東京は空襲にさらされていた。2人の若い男女,田島三郎と小野蛍子 が出会う。惹かれる2人。三郎に召集令状が来る。蛍子の家のガラス窓ごしに接吻。
蛍子は出会う約束の場所で爆死。三郎は蛍子に会えず戦地へ。昭和20年、戦争が 終わったとき、三郎の肖像画は黒布に包まれていた。
若い世代に深い感動をもたらした。私はつごう3回見た。そのつど新たに涙が出てきた。
図書館で原作と言われるロマン・ロランの「ピエールとリュース」も読んだ。
映画と劇場の帝都座。女体を額縁に登場させる額縁ショウで話題を呼んだ。ここの5階の名画座は入場料30円で主にフランス映画を上演。学生にはなくてはならない映画館だ。後年映画評論家になった人たちの揺籃と言って良い。
新宿は映画館の街でもある。 私の記憶では20舘あった。新宿ローヤル、新宿西口パレス、新宿日活名画座、新宿文化、シネマ新宿、新宿日活オスカー、新宿ロマン、 新宿京王名画座、アルゴ新宿、 新宿日活、、新宿東映、新宿東宝、新宿大映、昭和舘、ヒカリ座、地球座、新星舘、新宿松竹。それぞれの映画館には広告があった。映画のハイライトを描き出した看板だ。看板に惹かれて入った店が何軒もある。
映画館の売店は大事だ。どこもそんなに変わったものは無い。ポップコーン、煎餅、缶コーヒー、コーラこのへんが定番だ。ソフトクリームが登場したのはかなり後だ。夢中になって食べ過ぎると胸やけを起こしたりする。
新宿で賑やかなのは東口だ。駅舎の正面には路を隔てて二幸ビル(現・アルタ)。右手には和田組のマーケットと呼ばれるバラックの飲み屋街、シナそ焼き鳥、焼き豚、チャーハン、天ぷら、一膳飯、餃子なんでもあった。高野フルーツパーラー、カレーライスの中村屋本店、馬上盃、洋食なんでもの渋谷食堂、映画の武蔵野館、ここの地下の小映画館はなぜかいつまでもお産の映画を上映していた。
ライオンビアホール、赤い風車の飾りをつけた劇場ムーランルージュがある。この劇場はストリップ・ショウも軽演劇もごちゃ混ぜの面白さだった。踊りはそれほどではないが20代の女体が発散する若さはまぶしかった。ストリップの合間に登場する男役は笑いをとろうと苦心していた。名優森繁久弥もこの頃、出演していたという。無名の森繁を知るよしもなかった。
表通りの向かい側には少し奥まって木造二階建ての紀伊國屋書店がある。岩波書店の書籍は二階にあった。斎藤茂吉の『万葉秀歌』上(赤版)を買う。評判になっているのだ。
書店の正面の横に紀伊國屋が運営する喫茶店がある。私はそこで『万葉秀歌』を開いた。
斎藤茂吉は「万葉集」のなかでも柿本人麻呂を深く学んだ。惟信高校の坂本右先生も斎藤茂吉に傾倒していた。万葉世界に入り込んで、斎藤茂吉に接している感じがした。東京のど真ん中にいる嬉しさがあった。紀伊國屋書店で本を買うと喫茶店に入るのがしきたりのようになった。
三越百貨店の裏に、天ぷらの船橋屋とつな八が隣り合うようにして看板を出していた。学生のときは看板を見るだけだった。給料をもらうようになって店の客になったとき、どちらの天ぷらも甲乙つけがたい美味しさだった。喫茶店のローレルは二階建て、少し高価なコーヒーで客を集めていた。その裏手にある風月堂は新宿の一つの顔だ。ここでは議論が絶えない。
二幸ビル「現・アルタビル」の裏手に昭和38年(1963年)に洋食屋アカシアが誕生。ロールキャベツを表看板に今も繁盛している。このころは給料取りになっていた。職場の仲間と訪問。「悪くない味わいですね」との批評だった。
進駐軍が接収している伊勢丹ビル。その向かいのビルの5階にはドイツ料理エッセン。ハム、ソーセージ、ジャガイモが登場。安いので若い世代でいつも混み合っている。
ザウアーブラーテンをよく注文した。ドイツ料理の定番と言われる。子牛の肉をワインビネガーで浸して煮込み、香辛料で味を調えたものだ。ボリュームがあって飽きなかった。
妻となった貞子と、友人同士として食事を共にするようになっていた。それもドイツ料理を愛好した大きな理由の一つだ。
新宿の芯の一つ歌舞伎町は戦後復興の流れに添って生まれた。歌舞伎町は福岡の中州、札幌のススキのともに日本の三大歓楽街といわれる。明治通り、靖国通り、JR中央線、職安通りで東西南北を囲んだ地域をさす。西武新宿駅の周辺が歌舞伎町一丁目、北側が歌舞伎町二丁目だ。
歌舞伎町一丁目には飲食店、風俗店,居酒屋、酒場、クラブなどが密集している。ここではいくつかの映画館が閉館したが、令和5年(2023年現在、)地上48階、地下5階建ての新宿東急歌舞伎町タワーが完成した。高さ225メートル、ホテルが2つ。HOTEL GROVE SHINJUKU,APARKROYAL HOTEL、BELLUSTAR TOKYO A PAN PACIFIC .映画は 109シネマズプレミアム新宿、エンターテインメントにはTheater Milano-zaがある。街の景観は変わった。
線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №229 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
留萌線の配線・廃液めぐり~留萌本線
岩本啓介
①芦別跨線橋から
2023年3月に石狩から留萌が廃駅になりましたが、
その前の2016年12月に、留萌~増毛がすでに廃止になっています。
増毛駅へ向かう下りの列車を、芦別跨線橋から海を少しいれて撮りました。
その前の2016年12月に、留萌~増毛がすでに廃止になっています。
増毛駅へ向かう下りの列車を、芦別跨線橋から海を少しいれて撮りました。
撮影:2023年7月13日5:56pm
②増毛駅
終点の増毛駅です。
線路のカーブを入れて終点らしく撮ってみました。
線路のカーブを入れて終点らしく撮ってみました。
撮影:2023年7月19日16:24pm
押し花絵の世界 №206 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
「押し花コンパクトミラー」
押花作家 山﨑房枝
押花作家 山﨑房枝
押し花を使ったミラーを6種類のパターンで制作しました。
カスミソウ、紫陽花、ノースポール、メラスフェルラ、バーベナ、ビオラ、わすれな草、レースフラワーなどの色鮮やかな可愛い小花を、様々なパターンで楽しみながらデザインしました。
プレゼントにご好評いただいてます。
多摩のむかし道と伝説の旅 №129 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
多摩のむかし道と伝説の旅(№30)
−⼆ヶ領⽤⽔⽔辺の道を⾏く−2
原田環爾
交差点から先の⼆ヶ領⽤⽔は⾒事な親⽔護岸⼯事が施されており、素晴らしい親⽔緑地となっている。元は農業⽤⽔、⽣活⽤⽔であったが、時代とともに河川環境の改善や緑化が求められるようになって、平成2年親⽔護岸⼯事が⾏われたという。⽔辺に降りられる所もありなかなかいい。ほどなくJR南武線の踏切を渡る。踏切を渡って40〜50mばかりの所には、直径10cmばかりの丸太を何⼗本も打ち込んだ乱杭堰(⽊杭に⼩枝を絡ませるので草堰ともいう)とその⼿前左岸に分⽔⼝が⾒られる。ほどなく中野島橋の袂に来る。右岸の通りの筋向いに雑草で覆われた⼩さな堀跡のようなものが斜めにぶつかっている。⽩い解説版があり、ここが⼤丸⽤⽔跡であることが記されている。⼤丸⽤⽔は多摩川の上流、稲城市の⼤丸から取り⼊れられ、中野島付近を潤していた。⽔量が少なく⽔争いの種でもあったという。明治の中ごろまで、この地点に⼆ヶ領⽤⽔と⽴体交差する樋があった。
続いて⽥村橋を過ぎ、中野島中学校前の北星橋を過ぎると沖川原橋という⼩さな⽊製の⼈道橋にくる。奇妙なことに沖川原橋は⼆ヶ領⽤⽔に架かっているのではなく右岸歩道上に並⾏している。よく⾒ると右⼿南側から⼆ヶ領⽤⽔にほぼ直⾓に流れ込む⽤⽔に架かっている⼩橋なのだ。実はこの⽤⽔こそ旧三沢川で、ここが旧三沢川と⼆ヶ領⽤⽔との合流点になっている。更によく⾒ると右岸の通りもここでは橋そのもので、傍らの古びた橋標⽯には「みさわがわば」「昭和⼗年 竣⼯」と刻んであった。従って沖川原橋の名は本来不適当で「旧三沢川橋⼈道橋」とでもするのが正解だろう。
これよりしばらく⼆ヶ領⽤⽔は北の中野島地区と南の⽣⽥地区との境を流れる。新川橋を過ぎ橋本橋の袂にくる。橋本橋は⾞両が多く⾏き交う⾞道になっている。橋本橋の北詰めの⼀⾓に古い⽯の道標が⽴っている。表⾯に「正⾯ 當字ヲ経テ調布村⽅⾯」「→ ⼟淵ヲ経テ⾼⽯柿⽣村⽅⾯」「← 登⼾ヲ経テ榎⼾⾼津⽅⾯」と記され昭和三年御⼤典記念で造⽴したものとなっている。橋本橋から⼤和橋の⼿前までは狭いながら河川敷に⼩道がついており親⽔歩きができるようになっている。途中、⼀本⼊圦橋を過ぎ紺屋橋の下をくぐるが、紺屋とは染物屋のことで、この付近に⽤⽔を利⽤した紺屋があったことに由来している。なおこの⼀本⼊圦橋から紺屋橋辺りはかつては堰があったというが今は姿を消して⾒られない。やがて台和橋の袂にくる。ちょっとレトロな橋に結構⾞の通⾏がある。⼿すりには⼩泉次⼤夫のレリーフがはめ込まれている。この台和橋下には南から⼭下川が合流している。橋を渡って左岸にまわり更に⽔辺を進む。この辺りの両岸は北が登⼾地区、南が枡形地区になっている。⽔辺の景観は次第に中⼼市街地の様相を呈してくる。やがて新川橋で激しく⾞両の⾏き交う県道3号線と交差する。新川橋を後にすると前⽅に⼩泉橋が⾒えてくる。この橋を通る道筋は古からの津久井道で、江⼾と津久井との往還路である。何の変哲もない平凡な橋だが、かつては市内最古の⽯橋が架かっていたという。この辺りは近年の⼤規模な都市改造で、津久井道はすっかり直線的に整備され、かつての旧道のイメージはなくなっている。因みに⼩泉橋は古くは榎⼾橋とも称し、元は天保15年(1844)の市内最古の⽯橋であったという。橋の名の由来は⼟地の豪農⼩泉利左衛⾨が架けたことによるもので⼩泉次⼤夫とは関係ない。神奈川新聞社発⾏「⼆ヶ領⽤⽔400年」にこんな話が記されていた。それによると利左衛⾨の家に寄寓していた盲⼈が3両余りを残してなくなった。⽣前、村内の⽤⽔に橋がなくて困っていたことを知り⽯橋を架設することを思いたった。そこで盲⼈の残した3両を基⾦に、⾃ら念仏講をひらいて⽯橋供養にと村々を念仏修⾏して廻り浄財を集め、さらに私財も投げ出して架橋資⾦に充てた。⽯材は伊⾖で調達し多摩川を船で運んだという。そして思い⽴ってから18年後の天保15年⽯橋は完成した。その功績により幕府から苗字か帯⼑のいずれかを許されることになり、苗字を選んで⼩泉を名乗ったという。時代は下って明治33年(1900)陸軍砲兵隊が多摩川での演習の折、⼩泉橋から砲⾞を⼆ヶ領⽤⽔に落とし橋を損壊した。その時利左衛⾨のひ孫の弥左衛⾨が私財を投じて改修したという。
なお津久井道は三軒茶屋を起点とし、登⼾、⽣⽥、万福寺、柿⽣、鶴川、橋本を経て津久井へ⾄る道である。津久井往還ともいう。沿道の⼈々の⽣活を⽀える商業路で、⿇⽣の禅寺丸柿や⿊川炭、絹の原料の繭を江⼾に運ぶ道であり、また津久井、愛甲地⽅の⽣⽷などがこの道を通って江⼾へ運ばれた。
これより先、⼆ヶ領⽤⽔⽔辺の道は⼀旦終わりとし枡形城址へ向かうことにする。⼩泉橋で津久井道に⼊り橋を渡るとすぐ⾞の⾏き交う幅の広い府中街道と交差する。右⼿⼩泉橋の南詰に変わった形状のモニュメントが⽴つ。「市制60周年祈念」と記した⽯標柱だ。以前は左側の⾓に1本の榎があり、その傍らに「市制60周年祈念」の⽯標柱が⽴っていた。榎はこの辺りを榎⼾と称していたから榎が植えられていたのだろう。ここは交通の要衝で明治〜⼤正の頃は銀⾏や⾺⾞の発着所があったという。府中街道を渡ると津久井道は狭い街路となる。古びた家並みを進むとすぐ津久井道は右へ折れる道となる。この先津久井道は採らず枡形⼭へ向かう。狭い街路を抜けると松本橋の袂に来る。下には五反⽥川が流れている。五反⽥川は⿇⽣区の⾼⽯辺りを⽔源とする川で、この橋から下流200mばかりの所で⼆ヶ領⽤⽔に合流している。松本橋を渡るとほどなく⼩⽥急⼩⽥原線の踏切に出る。踏切の向こうはもう枡形⼭の⼭麓で上り坂が⽬に⼊る。(この項つづく)
夕焼け小焼け №40 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
暮らしの算段 大倉の夏 1
鈴木茂夫
鈴木茂夫
私の寄寓する天理教東中央分教会は、明治神宮表参道から横に入ったところにある。
教会長の柏木倉治(1888-1977) は天理教教会本部の役員で参議院議員だ。大分県中津藩の武士の家系。中津中学を終えると朝鮮・京城に渡り材木店を開く。勤勉に働き材木店は成長、手広く営業した。
山口県の寺院の娘・明子と結婚。子どもをもうけたが、何人も幼児のうちに病をえて死去。たまたま男児が生まれたときに、天理教の布教師が、運命を開くのにとすすめられ信仰しはじめる。3人の子どもに恵まれ、それぞれすこやかに育った。
柏木夫婦は神様の守護によると感謝、自分たちも布教をしようと東京へ出た。借家を布教所として布教活動をはじめた。信者になってもらうのは容易なことではなかったが、庫治は人に好まれる明るい性格と弁が立つので信者を増やすことができた。そこで布教書から分教会へと発展していた。
柏木倉治は子どもが立派に育ったのは、信仰と神様の守護によると誇りにしている。
長男の大安は,東京大学農学部の土壌研究室の副手として勤務している。妻は天理教大教会のなかの最古参東本大教会の娘。
次男の正幹は父・柏木倉治の公設秘書。妻は某大教会の娘。
長女長子は一流商事会社に勤める天理教会の息子の嫁。
私が挨拶すると二人ともそれに応える。それだけだ。会話はない。
名古屋では上村家の子どもたちと一緒の生活だった。父の学友との友情、同じ信仰でつながっている教会での暮らしとの違いを思う。
教会のすぐ上の敷地を購入して新しい建物の建設をしている。そこに2階建ての赤煉瓦の舘がある。日露戦争の陸軍の総司令官をつとめた大山巌の迎賓館だったという。戦災で焼けたのだが、焼け残った赤煉瓦の外郭はそのままに、内部に応急の2階を構築してあった。その中に、窓のない3畳間あった。そこで暮らしていいかと訊ねると、誰も住み手がいないから構わないとの返事。私はそこに入った。部屋の上に板張りの上床があり梯子もついている。布団をそこに上げると、住み心地は良かった。
教会は木造2階建て、2階に神殿を設け60畳敷きの広間で祭儀が行われる。2階の端に別棟がある。会長一家専用の居住区画だ。で奥という。会長夫妻、長男夫妻、次男夫妻の居室、浴室、手洗い、炊事場が設けてある。
本棟の階下にはまんなかに畳敷きの廊下、左右両側に8から10畳の部屋があり、住み込みの信者が入る。階下の建物に隣接して,廣い浴室、炊事場がある。
教会には約30人の住み込み人がいる。毎朝、大きな握り飯を持って布教に出かける青年が2人いる。そこで連れてきた生活困窮者もいた。夫婦者、子どもと同居している夫婦、子ども連れの女、独身の若い男性、独身の女性などさまざまだ。建前は信者なのだが、生活にゆきづまって便宜的に教会に入り込んだ親子もいる。寝込んでいて起き上がれない病人もいる。
毎日働きに出る人もいるが、その収入が教会に入ることはないようだ。教会の雑用は住み込みの人の担当だ。
一般信者の炊事場には,大きなかまどがあり、薪で飯を炊いたり、味噌汁をつくる。炊事場の横に風呂の焚き口がある。薪は住み込みの青年が調達してくる。
そうした人たちの中の中年の婦人3人が、炊事場で食事をつくる。米、野菜や魚は月並祭のお供えを使う。
献立は飯、味噌汁、漬物、主菜は野菜の煮付け、たまにサバの味噌煮、鶏の唐揚げ、鰯の煮付けなどのどれかだ。時間に間に合わない人には、食器棚に置いておく。
教会の食事は、私の口には合わない、まずいのだ。贅沢を言うのではないが、名古屋で3年間、食事に恵まれていたから。
しかたないから、お金があるときは、近くに壮年の夫婦で揚げ物を売る小さな店へ行く。1個8円のコロッケだ。たまにそれを食事に加えると、なんとも言えない充足感があった。
教会には朝夕2回、おつとめがある。朝勤めは午前7時、雄勤めは午後6時だ。
おつとめは1番太鼓が30分前、2番太鼓が10分前、3番太鼓が5分前に打たれる。
おつとめは神前にある拍子木、ちゃんぽん、太鼓、すりがねなどの楽器を使う。
参拝者は全員でみかぐらうたを唱える。
あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと
ちよとはなしかみのいふこときいてくれ あしきのことはいはんでな
このよのぢいとてんとをかたどりて ふうふをこしらへきたるでな
これハこのよのはじめだし なむてんりわうのみこと
あしきをはらうて たすけせきこむ いちれつすまして かんろだい
このあと,参拝者は立って「よろづよ8首」かせ12くだりまでの1つをえらんでておどりをするばあいもある。
私は幼いとき、母に伴われて天理に行き天理教越国大教会の詰め所で半年暮らしたから、祭儀のおつとめには習熟している。教理のお話も、子ども心によく聞いていたから、憶えている。
毎月19日の月並祭には200人以上の信者で賑わう。教会は活気づいているのだ。部下となる教会も50を越え、大教会に昇格するのも間近と言われている。
私はこうした教会のしきたりとは関係なく暮らした。夜遅くまで起きているから、朝は起きるのが遅い。朝飯は食いはずれる。夕食の時間にも食いはぐれる。夜更けに戻ると食器棚に置いてある。何度も残したままにしたら、いつしか食器棚へ置かなくなった。私は食事の予定から外されたのだ。無理もない。私はろくでなしの学生として札付きだ。
手持ちの金がなくなっているとき、たまに食事の時間に顔を出すと、当然無視される。頭を何度も下げ、愛想良く食事が食べたいとお願いする。すると不機嫌な顔つきで、食事の乗った盆が差し出された。
居室も食事も学生には,優遇措置をとってほしいと思ったが、それは単なる私の甘えだった。学生下宿は朝夕の2食付きで1畳1000円が相場だという。規定の下宿料を払えば、何の制約もない。だがそれには金が足りない。いやおうもなく教会の奇遇はやめられない。
母は毎月3000円送ってくれる。夜なべをして稼いだ金だ。育英資金は毎月1800円支給される。これは生活費だ。週のうち、少なくとも4日は、好むと好まざるとにかかわらず、教会の食事を食べる。
学徒援護会が斡旋してくれる仕事の日給は200円前後だ。月のうち10日はアルバイトで稼ぐ。
そこで暮らし方を変える。たとえば19日の月並み祭の日は,早起きして朝食を食べ、おつとめに参加、祭典に参加される信者さんの世話をする。この日は昼食も悪くない。夕食もいつもより弾んだ飯にありつける。炊事の婦人に愛想良くすれば、お昼の握り飯ももらえた。学食で副食を注文してそれと一緒に食べた。
教会の青年が教会の雑用を一緒にやろうとよってくると、笑顔で大學の時間割がつまっていて、教会の雑用のお手伝いができないと婉曲に断った。
アルバイトにも取り組んだ。九段下から九段坂を上がり、田安門をくぐると旧近衛師団の兵舎が残っている。警察学校の校舎、学徒援護会、学生寮などに使われている。
援護会の壁面に,作業内容を書いたチラシか数多く貼ってある。
窓口でアルバイト仕事の斡旋票をもらい、東京駅前の丸ビルにある大日本精糖に行く。株主名簿の整理だ。すでに何人かの学生が作業していた。住所・氏名・生年月日、保有株数などを原簿と照合する。氏名は必ず原簿のとおり記入する。略字は認めない。1時間も取り組んでいると、目が痛くなった。
突然、ベルが鳴った。室内の社員が廊下に出る。学生にも出るように指示された。
「社長のお通りです。急いで」
廊下の両側に人垣ができ、中央が空いている。何か気配がして、頭を下げる。
通路を数人が通る。先頭に一人の人物が見えた。新聞で見たことのある藤山愛一郎だ。
人垣には目もくれないで、急ぎ足に通り過ぎた。こんなしきたりのある会社もあるのだとおもしろかった。
朝9時から夕方5時まで1週間働いた。会計係は10パーセントの天引きはしてあるよと\1400をくれた。初めての体験だ。丸ビルの中にいるサラリーマンも楽ではないのだと感じた。
線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №228 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
日高線・廃駅巡り
岩本啓介
①ホームには先人がひとり。話を聞くと『東京の人』で『同好の人』でした。
2022年12月21日13:02
②浜田浦はまたうら駅2023年3月18日廃駅
この駅に駅舎はありません。駅舎ではなく、『待合室』なのです
それも、昔風で、床は無く、土の上にコンクリートブロック造りの『待合室』
昔の農家には土間がありましたが、土間の上に直接立てた『待合室』
何か 懐かしい風景が無くなるのは 寂しい限りです
2022年12月22日12:04
押し花絵の世界 №205 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
「夏色のヘアクリップ」
押花作家 山崎房枝
押花作家 山崎房枝
ブルーや紫色の紫陽花、白いレースフラワー、霞草などの涼しげな花材を使ってヘアクリップを作りました。
最後にシルバーのラメを散らして花火のようなイメージに仕上げた後に、UVレジンでコーティングしてライトで硬化しました。
硬化後に裏側にクリップを付けて出来上がりです。
様々な色合いのお花で楽しめるので、お教室の生徒さん達からも人気です。
多摩のむかし道と伝説の旅 №128(30話) [ふるさと立川・多摩・武蔵]
多摩のむかし道と伝説の旅(№30)
−⼆ヶ領⽤⽔⽔辺の道を⾏く−
原田環爾
原田環爾
⼆ヶ領⽤⽔の名は稲⽑領、川崎領の⼆ヶ領を流れることに由来する。今から約400年前の慶⻑2年(1597)徳川家康の命を受けた⼩泉次⼤夫が、農⺠の協⼒を得て10年6ヶ⽉の歳⽉を費やして開削した⼈⼯の⽤⽔路である。中野島(現多摩区菅稲⽥堤)で多摩川から取⽔され、稲⽑領(多摩区、⾼津区、中原区)から川崎領(中原区の⼀部、幸区、川崎区)へと流れる延⻑32kmの⽔路で、この開削によりこれらの地域の新⽥開発は⼤いに進み60ヶ村の耕地を潤した。まさに川崎のルーツとも⾔える⽔路である。現在の⼆ヶ領⽤⽔の⽔辺は親⽔護岸⼯事が施され、環境に⾒事に配慮された瀟洒な散策路となっている。
開削の経緯を詳しく述べる。戦国末の天正17年(1589)多摩川が⼤洪⽔で流路が⼤きく変わり、農⺠の⽣活は⾏き詰っていた。新⽥開発を急ぐ必要に迫られた家康は、平安末以来の代々⽔利⼟⽊技術を受け継ぐ⼩泉次⼤夫を六郷、稲⽑、川崎領の⽤⽔奉⾏として多摩川両岸の⽤⽔路開削に当らせた。慶⻑2年〜3年(1597〜98)にかけて稲⽑領、川崎領、世⽥⾕領、六郷領の四ヶ領の測量が⾏われ、慶⻑4年(1599)から六郷領を⽪切りに、3ヶ⽉後には川崎領と、多摩川を挟んで交互に両岸の開削⼯事が⾏われ、約10年6ヶ⽉の歳⽉を費やして慶⻑14年(1609)六郷⽤⽔と⼆ヶ領⽤⽔の本流が完成した。その後は各村への分⽔路が切り開かれ、すべてが完成したのは慶⻑16年(1611)、測量開始から14年の歳⽉をかけた⼤⼯事であった。その⼤⼯事の完成から20年後の寛永6年(1629)、次第に深刻化した末端の⽔量不⾜を補うため、関東郡代伊奈半⼗郎忠治の⼿代筧助兵衛は中野島⼝の下流3kmの宿河原に新たな取⽔⼝を開削した。宿河原に新設したのは、中野島の対岸に六郷⽤⽔の取⼊⼝があるため中野島⼝を広げることはできないこと、及び中野島の下流は伏流⽔により⽔量は回復するので宿河原で取⽔できることにあったという。この新たな⼆ヶ領⽤⽔は宿河原⽤⽔とも呼ばれ南武線の久地駅付近で本流に合流する。合流後の⼆ヶ領⽤⽔は更に東流し、津⽥⼭付近で分⽔され稲⽑・川崎領各地に配られた。現在は昭和16年建設の久地円筒分⽔で各所に分⽔されている。その分⽔路の⼀つに川崎堀がある。
今回は⼆ヶ領⽤⽔を[1]中之島取⽔⼝から登⼾へ⼆ヶ領⽤⽔⽔辺の道、[Ⅱ]宿河原⽤⽔⽔辺の道、[Ⅲ]宿河原⽤⽔の本流合流点から川崎堀へ、と3 領域に分けて稲⽥堤から溝の⼝までの実踏経験を詳述する。
[Ⅰ]中野島取⽔⼝から登⼾へ⼆ヶ領⽤⽔⽔辺の道
コース概略は次の通り。JR南武線稲⽥堤駅から多摩川縁へ出て中野島取⼊⼝へ向かう。取⼊⼝からは⼆ヶ領⽤⽔に沿って⽔辺を下り登⼾に⼊り、⼩泉橋まで来ると津久井道を経由して終着点の⼩⽥急線向ヶ丘遊園駅に⾄る。なお登⼾では近傍に⽣⽥緑地があり、その⻄の⼀⾓に枡形⼭と呼ぶ⼭がある。鎌倉時代の枡形城の城跡で、秩⽗平⽒末の稲⽑三郎重成の居城があった所だ。今回は終盤の寄り道として枡形城址を訪ねた後向ヶ丘遊園駅
へ向かうものとする。
JR南武線稲⽥堤駅を降り線路沿いの道を東へ進む。すぐ次の踏切から来る道で左へ曲がり多摩川へ向かう街路に⼊る。この辺りは菅稲⽥堤といい、沿道には梨園が点在する。菅、中野島、⽣⽥辺りは昔から多摩川梨の産地として知られ、特に⼤正時代以降盛んになったという。そのため梨もぎ取り園も多く⾒られる。ほどなく多摩川の堤防にぶつかる。堤防に上がると堤は多摩沿線道路という⾞道で、その向こうには広々とした多摩川が広がる。頭を右側に巡らせば多摩川の流れをせき⽌める巨⼤な⼆ヶ領上河原堰堤が⽬に⼊る。また堤防外側下にはつい最近まで川崎⽔道局の施設が広がり、円柱形の古びたコンクリート建造物が印象的だったが今はない。⾞道を渡り⼆ヶ領上河原堰堤に向かって堤防の縁を進むと、傾斜⾯に稲⽥堤の桜の歴史を記したガイド板が⽴っている。ここはかつて稲⽥堤と称し桜の名所として知られた所だ。
ガイド板によれば、稲⽥堤の桜は⽇清戦争の勝利を記念して明治31年に菅村の⼈々によって中野島から⽮野⼝境にかけて250本の桜が植えられたことによる。桜は⾒事な桜並⽊となり、昭和の初期には東京近郊の花⾒の名所になり賑わったという。作曲家の古賀政男は稲⽥堤で遊んだ印象から名曲「丘を越えて」のメロディーを作曲したという。残念なことに昭和43年、多摩沿線道路の拡幅⼯事で桜は切り払われてしまい今は全くその⾯影はないとのことである。
ガイド板の傍らの⼩道を下って河原に降りると、そこが⼆ヶ領⽤⽔の中野島取⼊⼝になっている。すぐ下流の堰堤で堰き⽌められた多摩川の⽔がここから⼆ヶ領⽤⽔となって流れ出ている。この先⼆ヶ領⽤⽔の右岸に沿って進む。200mも進めば珍しい現象に出会う。南⻄⽅向から流れ下ってきた三沢川と交差しているのだ。三沢川は川崎市⿇⽣区⿊川を源流とする川で、この交差点の橋上から眺めて200mばかり下った所で多摩川に注ぎ込んでいる。丁度先の⼆ヶ領上河原堰堤のすぐ下流付近だ。川の交差とは奇妙なことだが、サイフォンの原理で⼆ヶ領⽤⽔が三沢川の下をくぐっているのだ。
因みに初めて⼆ヶ領⽤⽔と三沢川との交差を⾒た時不思議な思いにかられた。⼈⼯の⽔路である⼆ヶ領⽤⽔をなぜわざわざ三沢川と交差するという⾯倒な⽅法をとったのか。取⼊⼝をほんの少し下流にもって⾏けば交差は回避できたのにと・・・。しかし調べてゆくうちに事情は理解できた。三沢川は元はここを流れておらず、ここよりずっと南側を東流し、ここより下流で⼆ヶ領⽤⽔に合流しているのだ。ところが川幅が狭くたびたび氾濫することからいち早く多摩川へ流す改修⼯事が必要となり、昭和16年(1942)から戦後にかけて、⼩沢城址北麓の菅城下で新⽔路が設けられ流路変更が⾏われたのだ。流路変更した新三沢川は当初は⼆ヶ領⽤⽔の下をくぐらせていたというが、なお不都合で後に⼆ヶ領⽤⽔を三沢川の下をくぐらせるようになったという。なお菅城下から下流のかつての三沢川は旧三沢川と呼ばれ、今もその流れはある。(つづく)
線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №227 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
廃線・廃駅巡り
岩本啓介
①昆布干場に昆布なし 日高幌別~鵜苫(うとま)
私が北海道に出かけたのは 息子が高校生で そろそろ将来の仕事を考える時期,
日高線は苫小牧~静内を走っていました。レンターカーで息子と二人で、日高地方
の牧場を中心に巡り、最後に社台ファームの『サンデーサイレンス』に会えました
ここは日高幌別の白泉集落の昆布干場ですが 線路が寂しく残っています
2019年7月13日8:29
②短くなる日高線
牧場の片隅に線路が見えます。
かつて襟裳岬の近くまで続いていたJR日高本線、2021年4月に鵡川から様似まで約...
116kmの線区が廃止になりました。高波による路盤土砂の流出が原因です
2019年7月13日11:12
押し花絵の世界 №204 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
「スターフロックスのスマホケース」
押し花作家 山﨑房枝
アゲハ蝶の尾尻の突起のような切れ込み入りの花弁を持っているスターフロックス。
別名「星咲フロックス」とも呼ばれ花火にも見える不思議な形をしています。
ブルーの爽やかな紫陽花、レースフラワーと共にに夏の花火大会をメージした爽やかなケースに仕上げました。