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ミツバチからのメッセージ №41 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

イタリアー1

    造園家・ミツバチ保護活動家  御園 孝
    
 フランスのシャモニーからモンブラントンネルを抜けると、イタリアのクールマイユールです。ここからは長い下り坂が続き、路線バスは多くの小さな集落に寄りながらアオスタへ向かいます。小さな集落には朽ち果てた廃屋が点在しているのですが、そのどれもが目を見張る美しさがあり、ゆっくりと見学したかったのですが先を急ぐためかないませんでした。
 昔ケルト人やリグリア人が住みつきサラシット人が合流して平和に暮らしていたアオスタに、ローマ軍が攻め込み占領され全ての人が頃背れたり奴隷として売り飛ばされてしまいました。アオスタはアルプス越えの起点で重要な戦略的位置にあり、ローマと同じ年を建設しました。しかしその後ローマ帝国が滅びましたが、この重要な戦略的拠点は様々な民族が奪い合い支配され続けました。

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凱旋門
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劇場後
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劇場後
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劇場後
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町の周りには高い建物が今も残る  

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多摩のむかし道と伝説の旅 №55 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

                         -中世の軍道、深大寺道を行く- 1
               原田環爾

 調布の深大寺に向けて北多摩を南北に縦断する一条の道筋がある。深大寺道という。芳賀善次郎著『武蔵古道ロマンの旅』によれば、深大寺道は室町から戦国にかけて、小田原北条氏と関東の覇権を争った関東管領上杉氏が拓いた軍道という。上杉氏は川越城を本拠に、北条氏に対抗するため深大寺の南の丘に深大寺城と呼ぶ出城を築城した。その深大寺城と川越本城との間を上杉の兵どもが往還したのであろう。道なかばの清瀬市と所沢市の都県境を流れる柳瀬川のほとりには、上杉氏の重臣大石氏の滝の城があり、中継地となっていたのであろう。深大寺道の一部は既に失われてはいるが、それでもなお概ね辿ることは出来る。道筋の多くは住宅街を抜ける街路で、昔を偲ぶ遺構や景観は少ないが、一部には通りの名称を「深大寺街道」と表記され、寺社も散在し、古道の名残を留めている。今回はそんな上杉氏の軍道を深大寺城から滝の城まで辿ってみたいと思う。すなわち京王線布田駅を出発し三鷹通りを北上し、まず深大寺城に立ち寄る。そこから一路北を目指し、武蔵境駅の東でJR中央線を横切り、玉川深大寺道1-1.jpg上水を越え、大師通りを経て武蔵野大学の傍らから深大寺街道に入る。西武新宿線柳沢駅の西方に至ると、榎ノ木通りに入り、西武池袋線のひばりが丘駅へ。そこから東久留米市と新座市の市境を北上して黒目川、野火止用水を越えて清瀬市に入り、柳瀬川北岸の滝の城へ至る。帰路はバスでJR武蔵野線東所沢駅へ向かうものとする。
 布田駅を出て車両の行き交う三鷹通りに入る。通りを北へ向かうと旧甲州街道との交差点「布田駅前」に来る。北東の角地には常性寺という真言宗の寺がある。鎌倉時代の創建で、元は多摩川沿いの調布第三中学校辺りにあったが、慶長年間(1596~1614)に移築されたという。境内には本堂、不動堂、薬師堂があり、特に不動堂には成田山不動尊の分身をまつり、布田のお不動さんとして信仰されている。その他、文政7年(1824)の馬頭観音堂や布袋像などもある。
 深大寺道1-2.jpg更に三鷹通りを北へ進み交差点「下布田」で甲州街道を渡る。道はゆっくりS字状にカーブし、程なく川もないのに榎橋という擬宝珠のついた古びた石橋が現れる。すぐ先を流れる野川が改修される以前の川筋なのであろう。橋の横には「記念の森児童公園」と称する瀟洒な緑道がある。古橋の袂から右手に分岐する路地が本来の旧道で、入ればすぐ野川にかかる青い人道橋に出る。人道橋からは野川の流れが望める。すぐ川上には三鷹通りに架かる現代の榎橋が見える。人道橋を渡ると再び元の三鷹通りに復する。佐須街道を越えると通りは上り坂となる。古くは坂の上に稲荷があったことから稲荷坂と言った。中央自動車道のガードをくぐり、稲荷坂を上ってゆくと左手遠方に谷戸を隔てて林で覆われた丘陵が望めるようになる。谷戸は神代水生植物園になっていて、丘陵上には今回の深大寺道の所以となる深大寺城址が佇む。谷戸と丘陵を左に見て坂道を登りきると丁字路帯で「深大寺小前」と記された道標が掛かっている。角地に建つ深大寺小学校は明治6年に開校した旧弘道学舎が前身という由緒ある小学校だ。丁字路帯を西へ分岐する道は深大寺通りで、傍らの大きな石柱には「深大寺東参道」と刻まれている。まずは今回の道の起点となる深大寺城址へ向かう。深大寺道1-3.jpg参道を100mばかり進んだ所にある神代水生植物園の入口から中へ入り、右手丘の上へ進むとこんもりと樹木で覆われた城跡がある。本丸、空濠、土橋等が見事に整備されて遺されている。戦国時代に上杉氏によって築城された城である。すなわち室町幕府の支配権が衰え戦国時代へと移行した16世紀前半、 関東は管領上杉氏と新興勢力の後北条氏(小田原北条氏)との覇権を争う場となっていた。大永4年(1524)上杉朝興は北条氏綱と江戸で合戦して敗走。享禄3年(1530)府中にて再度合戦するも相次いで敗北。天文6年(1537)上杉朝興が死去すると、弱冠13歳で家督を継いだ嫡男上杉朝定は北条氏に対抗するため、直ちに深大寺の地に深大寺城を構築し、武州松山の難波田弾正を配した。しかし築城後間もなく河越合戦で決定的敗北を期し、関東の覇権は後北条氏の手に移っていった。深大寺城は与えられた任務を果たすことなく廃城となった。
深大寺道1-4.jpg 元の「深大寺小前」に戻り、深大寺道(三鷹通り)の稲荷坂を登りきると陸橋がある。それをくぐると沿道左に鳥居が目に入る。樹木で囲まれた青渭神社がそこにある。鳥居の左手には「青渭神社のケヤキ」と呼ばれる目通り5.5m、高さ34m、 樹齢数百年という市内随一の大欅が聳えている。また神社の筋向いは池谷戸と呼ばれる所で、この辺り一帯も樹林が豊かな空間になっている。青渭神社の創立年代は詳らかでないが、先住民が水を求めて居住した際、祠を建て水神を祀ったものと伝えられている。往古は社前におよそ5町歩余の境内地があり、大池に混々と湧水があり青波をたたえていた所から、青波天神社とも称されたという。旧深大寺村の総鎮守である。
深大寺道1-5.jpg 青渭神社を後にすると左手に神代植物公園3号地の広大な公園が広がる。公園を左に緩やかな坂道を上ってゆくと五差路「深大寺五差路」に出る。深大寺道は北西方向へカーブしてゆく。500mも進めば陸橋が現れ三鷹通りはゆったり北東方向へ転じるが、そのまま北西方向へ向かう鄙びた分岐道が深大寺道だ。三鷹通りに別れを告げ分岐道に入る。途端に喧騒な車両の通行は皆無となりのどかな里道の風景に変貌する。路傍には寛延元年(1748)造立の青面金剛像を刻んだ庚申塔が佇むなど古道の風情を留めている。道筋はS字状に緩やかにカーブする。竹林や洋ランを売る店を左に、またクリニックを右にやると、道は調布市から三鷹市へ入り、ほどなく車両の行き交う東八道路に出る。(つづく)




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道つづく №2 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

歩き散らし
            
鈴木闊郎

     夕立や追はれ追はれし柳橋

     柳橋彫りし簪夏はるか

     夕立や亀清桜もビルの中

    夕立中舟宿二つ三つ見ゆれ

    一葉の通ひし質屋夏暖簾



花鳥諷詠誌「駒」二〇一一年二一六号 

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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №166 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

五能線    

               岩本啓介              

冬の到来 

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雲が広がり 日本海の波しぶきがが列車に迫ります      


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押し花絵の世界 №126 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「冬の3連作」

          押し花作家  
山﨑房枝

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30cm×25cmの額を3つ

春夏秋冬の四季を3連作でオーダーしていただいた作品の冬バージョンです。
中心の額は筍の皮やラグラスでトナカイ、ギンポプラや薔薇で雪だるま、建物は紅葉の葉などで制作してクリスマスの風景を描きました。
両側の額はステンドグラス風にカットした黒い紙のフレームに、薔薇、クリスマスローズ、クレマチス、葉牡丹などの植物をカットして貼りつけて仕上げました。


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ミツバチからのメッセージ №40 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

フランスー6

           造園家・ミツバチ保護活動家  御園 孝

シャモニーの西の外れルファイエからトラム(登山電車)で最終駅の二デーグル(標高2372m)まで行き、がれ場の山道をしばらく登っていくとビオナッセイ氷河の目の前にたどり着きます。ゴツゴツした氷の塊が温暖化の影響で急速に溶け出して、岩と氷がガラガラと音を立てて崩れ落ちていました。ここは比較的人が少なく野生のアイベックが群れをなして出没します。妻と姉が見当たらず探していると、多くの人がモンブランへ向かって登っていくのを横目に、登山道に這いつくばってシャモニーの高級水晶を探していました。帰りは途中駅ベルヴューからロープウェイでレズーシュまで下りました。

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ビオナッセイ氷河

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 ビオナッセイ氷河

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アイベック
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妻たちは水晶探しに夢中
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収穫した水晶
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カンパニュラ

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道つづく №1 [ふるさと立川・多摩・武蔵]


掃苔  會津八一先生の後墓前にて

            鈴木闊郎 

 瑞光寺暑気拂ひにと酒と猪口

 秋篠の寺の暑さや諸佛をり

 せみしぐれ裏頭の僧に会ひにけり

   雲一片西塔ややも高く美優

 赤膚の窯場拝見夏茜

                                       花鳥諷詠誌「駒」より
                    二〇一一年八月二一五号 


≪鈴木闊郎氏略歴≫
 1937年 立川市生まれ。早稲田大学卒。(株)立川印刷所2代目オーナー。
 立川の粋人として知られた。俳誌『駒』同人。2017年没。
                                                                                   

                               

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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №165 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

五能線 

                  岩本啓介                           

小さな漁港とタラコ2連 

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    国鉄時代の気動車、キハ40系が主役の五能線               
    中でも 首都圏色(通称タラコ)塗装の気動車が人気        
    その人気のタラコが2両連結でやってきます

塩見崎のタラコ2連 

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     人気のタラコ2連を人気の場所で撮る これも撮り鉄の醍醐味                         
     五能線でも一番人気を争う墓所 塩見崎のポイントです    
     天気まあまあ 場所良し 気動車良し 待った甲斐ありです

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押し花絵の世界 №125 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「Love & Peace」

                  押し花作家  
山﨑房枝

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葉書にビオラをアレンジしてメッセージを入れました。
冬は花が少ない季節なので、可愛いビオラに癒されて楽しんでいます。


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ミツバチからのメッセージ №39 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

フランスー5

        造園家・ミツバチ保護活動家  御園 孝 

 シャモニー(標高1036m)の中心部からバスに乗り、シャモニー谷の一番奥のルトゥールに向かいました。もちろん町の中心部にも豊かな自然は残っているのですが、人里を少し外れたところには養蜂場が有るはずと車窓を眺めていると、次第に建物が少なくなりミツバチを飼育するのによさそうな場所が現れてきました。バスを降りてのんびりと歩いていると、バスからでは見つけることはできないような場所に、ミツバチの巣箱を発見しました。
 ルトゥール(標高1462m)からロープウェイ・でシャラミオン(標高1850m)まで登り、レ・オウタン(標高2195m)までリフトで登ると、花咲き乱れる草原が広がっています。草原を30分も歩くとそこはもうスイスで、国境の代わりに境石が1本埋けられているだけでした。

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ルトゥールで見つけたカラフルな巣箱
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ルトゥールの木陰には巣箱がいっぱい
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レ オウタンの草原はお花畑 
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     レ オウタンの草原はお花畑 
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  レ オウタンスイス側もお花畑  
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 国境は堺石だけ


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多摩のむかし道と伝説の旅 №54 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

            多摩のむかし道と伝説の旅
     ―松姫と童謡「夕焼け小焼け」ゆかりの案下道を行く―4

                原田環爾

案下道5-1.jpg バス停「力石」を過ぎると派出所の前にくる。派出所の左横に北へ入る路地がある。因みに路地に入って前方の丘を上れば将門神社がある。将門とはもちろん平将門のことである。将門の活躍した舞台は常陸(茨城県)や下総(千葉県)であり、恩方に将門ゆかりの神社があるというのは不思議なことである。将門は桓武平氏の祖高望王の孫で。10世紀の初頭腐敗した京の中央政権に反抗して常陸で反乱を起こした坂東の英雄だ。天慶3年(939)常陸国府を襲撃、更に坂東八ヶ国の国府を次々と落とし、自らを新皇と称して独立王国を宣言した。朝廷は参議藤原忠文を征討大将軍として京より派遣するとともに、東国の諸豪族に将門討伐を命じた。その命に応じたのが下野の豪族藤原秀郷だ。将門は秀郷との戦いに敗れ天慶4年(940)落命する。歴史的には将門が西多摩に足を踏み入れたという事実はないが、将門を祀る神社や伝説は西多摩各地に残されている。考えられる理由の一つとして将門一族が西多摩に遁れて隠れ住んだことによるのかもしれない。将門神社のある丘の麓に草木家の墓所がある。草木家には将門の遠裔との言い伝えがあり、家臣として仕えたとの家伝があるという。

案下道5-2.jpg 力石の集落を後にするとやがて前方右手斜面に尖がり頭をしたガラス張りの温室群が見えてくる。温室の前には数軒の民家があり、沿道左には「夕焼け亭」と称する質素な小屋があってかつては蜂蜜を売っていた。陣馬街道を訪ねた折りは必ずここに立ち寄りアカシアやレンゲの蜂蜜を買ったものだ。

 ほどなく「夕やけ小やけふれあいの里」に差しかかる。街道案下道5-3.jpg右手に詩人中村雨虹の墓がある。墓は新しく近年移設されたものと思われる。「夕やけ小やけふれあいの里」の正面入口に来る。園内すぐの所の建屋はお土産を売る棟だ。入口をやり過ごしバスターミナルを過ぎると高留橋に来る。橋を渡ると道はほぼ直角に左へ折れて進むが、橋の袂から右の山手へ入る小道がある。小道の先にはこんもりと樹林で覆われた小山があり、その上に宮尾神社がある。宮尾神社は童謡「夕焼け小焼け」の作詞者である詩人中村雨紅の生家で、宮司を務めた神案下道5-4.jpg社でもある。静まりかえった境内には下記の童謡歌碑が刻まれた石盤碑がある。

    夕焼け小焼けで日が暮れて
   山のお寺の鐘が鳴る
      お手々つないで皆かえろ
      烏と一緒に帰りましょう

 中村雨紅は明治30年宮尾神社の宮司の次男として生まれた。詩人野口雨情に師事したことからペンネームを雨紅とした。青山師範学校在学中、東京から郷里へ帰る際は八王子からこの案下道を徒歩で往来した。そんな夕暮れ時のある日、道沿いの寺々から聞こえる染み入るような鐘の音に思わず浮かんだ詩が「夕焼け小焼け」となって生まれたのだろう。

高留橋に戻り北浅川沿いに進む。高留はレトロな郵便局や民家が建ち並ぶ小さな山里の集落だ。長い風雪を経てきた旧家が散見され、味わい深い景観を見せている。この集落はまたの名を関場と呼ぶ。近くのバス停にも「関場」という名称になっている。というのはかつてここに関所があったことによる。すなわち集落の中程の一角に口留番所の旧跡碑が立っている。江戸時代甲州裏街道である案下道の出入りを監視するために設置された。番所は村持ちで、村方36人が交代で警備に当たったという。明治初年に廃止された。またこの地は信玄の娘松姫が武蔵国へ案下落ちした最初の場所である。口留番所碑の傍らには「松姫之碑」も併せて立っている。碑面には郷土史家の佐藤孝太郎氏撰になる次の様な格調高い碑文が記載されている。

案下道5-6.jpg 「甲斐の山々憂愁に静み、天下布武の叫喚は、風林火山の家風を焼き、甲源の嫡流挽歌哀し。天正十年壬午四月武田信玄第六女松姫ら、勝沼開桃寺を脱し甲斐路の山谷を武州案下路の山険を踏み分け、和田峠を下り、高留金照庵に仮宿の夢を結ぶ。故郷の風雪はるかに偲び肌寒きを受け、転じて河原宿心源院の高僧に参禅し、更に転じて横山(八王子)御所水に移り住み、機織の手作りに弟妹を育つ、幾ばくもなく天正十八年庚寅六月関東の世変に会し、北条氏亡び徳川氏江戸に入府と共に甲斐の旧臣八王子千人同心を結び、八王子 守衛に来り住し、松姫の安否を尋ね、米塩の資を助く。元和二年(1616)四月十六日年五十六にして信松院に歿す。松姫の生涯は戦国動乱の中に終始し、政略婚の辛酸に殉じ、清純の操志を貫き通す。その清風の香しき清節は武甲の天地にこだます。婦道の鑑といふべし。先代尾崎栄治つとに松姫の生涯を貞婦婦道の象徴とし、金照庵址保存を宿願す。茲に追慕の碑を建て先覚の遺風を継ぐものなり」と。

 街道の少し先の落合橋で道は二手に分岐し、左は橋を渡って和田峠へ向かう陣馬街道、右は檜原へ抜ける醍醐道である。その醍醐道を入った所に松姫ゆかりの金照庵があったという。今は小学校の敷地内になっている。

落合橋を渡ると、この先陣馬高原へ向う街道は山も深くなり、また道幅も一 段と狭くなり、バス1台がようやく通れる程度となる。山懐の深い緑に見とれながら特養ホーム横のくぬぎ沢橋を過ぎればやがてバスの終点「陣馬高原下」に至る。ここから先はもう陣馬山への急登の坂道となる。案下道(陣馬街道)の旅はここで終わりとする。



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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №164 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

津軽線 

                 岩本啓介                           

静かな朝 

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164津軽線浜名漁港キハ48-1520と505.jpg
浜名漁港

朝7時42分 タラコ色気動車が浜名漁港を通ります                           
漁港に人影の気配がありません。私ひとりの様です                          
10月28日撮影             

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押し花絵の世界 №124 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「クリスマスローズ」

                 
山﨑 房枝

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33cm×28cm

楕円形の額の内側に黒いレースを貼って制作したフレームの中に、色とりどりのクリスマスローズと秋色紫陽花やシルバーレースなどをデザインしてエレガントに仕上げました。


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多摩のむかし道と伝説の旅 №53 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

           多摩のむかし道と伝説の旅
     ―松姫と童謡「夕焼け小焼け」ゆかりの案下道を行く―4

                原田環爾

 都道61号線で鍵の手で交差し。上宿通りと称する宿場通りに入る。150m南の現陣馬街道と平行する真直ぐな通りだ。源正院入口を左にやり更に進むと再び鍵の手となる。角の一角に地蔵堂が立つ。鍵の手に曲がって更に進むと恩方第一小学校の前に出る。グランドの外縁に沿って道なりに回り込むと小さな下り坂となって、程なく北浅川沿いの陣馬街道に出る。近くにはバス停「松竹」がある。川原宿はここで終わるのであろう。ここから先の案下道は現在の陣馬街道を西へ辿ることとなる。因みに街道を東へ下り、交差点「川原宿」の手前の小道(鎌倉街道山ノ道)を右折して深澤橋で北浅川を渡れば、そこに心源院という古刹がある。信玄の娘松姫が仏門に入った寺だ。
案下道4-1.jpg さて北浅川に沿って街道を西へ採るとすぐ松竹橋の袂に来る。現在の橋は新しく架け替えられたもので、橋の袂に昭和32年竣工の旧橋名板が記念として保存されている。松竹橋は八王子城の搦め手口に通じる橋で、落城秘話を伝えるものである。すなわち天正18年(1590)、天下統一を目指す豊臣秀吉が小田原城を包囲した頃、支城である八王子城は前田利家や上杉景勝からなる北陸部隊の猛攻を受けた。前田利家は大手門から、上杉景勝は松竹橋の搦手口から攻めた。景勝には配下に城内をよく知る平井無辺なる八王子出身者がいたことで奇襲に成功。城主北条氏照不在の中、城代横地監物の懸命な守備にもかかわらずたった1日で炎上陥落した。城攻めは戦国の作法を越える凄惨なもので、城内にいた兵も女子も大半が命を落としたという。
案下道4-2.jpg 松竹橋を後にすると、街道と北浅川を跨ぐ巨大な圏央道が現れる。鄙びた山間には似つかわしくない構造物だ。圏央道をくぐり、恩方事務所を右にやりすごすと浄福寺の門前に来る。真言宗智山派の寺で山号を千手山と号す。鎌倉時代の文永年間(1264~1275)に創建されたと伝えられる。裏山は浄福寺城址で、室町時代の至徳元年(1384)、大石信重が築城したと言われる。案下城とも新城とも呼ばれ、中世の多摩を生きた大石氏代々の居城となった。ちなみに大石氏は木曽義仲を祖とし、室町時代の初頭、幕府より武蔵国の目代にとりたてられ、入間・多摩13郷を支配した豪族だ。当初は秋川二宮館にいたが、大石信重の時、下恩方の案下道沿いの浄福寺城へ移転して多摩に根をはった。長禄2年(1458)11代大石顕重の時、案下道4-3.jpg多摩川と秋川の合流点に高月城を築城して移る。混沌とした戦国期にあって、大石氏は関東管領上杉氏の重臣として活躍した。16世紀に入ると小田原北条氏が関東の覇権を掌握するところとなり、大永元年(1521)第12代大石定重は自領防衛のため加住丘陵北端の要害の地に強大な滝山城を築いて城替えした。
 浄福寺を後にバス停「大久保」を過ぎると道は大きく右へカーブし、檜林の通りとなる。檜林を抜けると再び左へカーブし、右手に恩方中学が現れる。その右隣りの路地から裏手にまわるとそこに皎月院と称する小寺がある。曹洞宗の寺で山号を常円山と号す。心源院の隠居寺として創建されたという。その皎月院の参道入口に「ぐち聴き六地蔵」と称する面白い6地蔵がある。地蔵の背に立てかけた木板にこんな風に書かれていた。
「ぐちを言ってもいいだべ 泣いたっていいだべ 笑える時も来るさ 人間だもの」
 北浅川が再び街道に添うように流れる。バス停「佐戸」を過ぎると、川筋は北へ蛇行する。それに伴い街道は駒木野橋を渡って右岸に回り大きく北へ方向転換する。程なく駒木野の集落に入る。街道沿いに十軒ばかりの家が軒を並べている。どの民家も長い風雪に耐えてきた旧家で、しっとりと落ち着いた風情が実に味わい深い。
案下餅4-4.jpg 駒木野を過ぎると黒沼田に入る。そこに一刻芸術会館という山里にしては洒落た洋館作りの喫茶店がある。田中一刻という仏像彫刻家が、作品の展示に併設して喫茶店を営んでいるのだ。店内に沢山の美術品が並べられているのが見える。かつて一刻芸術館に立ち寄ったことがあるが、館内に入ると右の部屋が作品の展示場、左の部屋が喫茶室になっている。展示場の作品の素晴らしさは当然のことながら、喫茶室の調度品も素晴らしく、一杯のコーヒーで実に快適なひと時を過ごしたことを記憶している。なお田中一刻氏は既に平成8年に他界したと聞いている。
 一刻芸術会館を後にすると、右手に広々した田園風景が展開する。黒沼田橋で再び大きく蛇行してきた北浅川と出会う。橋を渡ると北浅川は案下道の左へ移る。程なくバス停「狐塚」に来る。狐塚と言えばあの天正18年(1590)の八王子城落城の折、炎上する本丸を脱出した城代家老の横地監物吉信のことが頭をよぎる。彼は同じ北条氏方の檜原城を目指して、詰めの城、富士見台を通って尾根伝いにこの狐塚辺りで案下道に出た後、高留まで進んで醍醐、市道山を経て檜原へ落ちたのかもしれない。
案下道4-5.jpg案下道4-6.jpg バス停のすぐ近くに右手北へ真直ぐ入る小道がある。この先200mばかり行った所の山腹にある興慶寺の参道だ。臨済宗南禅寺派の寺で山号を萬蔵山と号す。至徳元年(1384)八王寺山田の広園寺の令山和尚によって開山された。「夕焼け小焼け」の歌を作した詩人中村雨虹が「山のお寺の鐘がなる♪」と歌ったのは、この興慶寺の梵鐘の音ではなかったかと言われている。参道を進むと墓苑が現れる。墓苑の一角は綺麗な薔薇園になっている。墓苑の中の上り坂を登って行くと、程なく長い急坂の石段の案下餅4-7.jpg下に来る。石段を上りつめた所に山門があり、くぐると目の前が本堂だ。境内地は山腹のせいか狭い。境内の片隅に大きな番犬シェパードの檻があり、訪問者に吠えたてるから要注意だ。ところで「山のお寺の鐘」はというと、右手の庫裡を迂回して更に急坂を上った山の中腹に鐘楼がぽつんと建っている。梵鐘は元は宝暦2年(1752)鋳造のものであったが、先の戦争で供出となり、現在の梵鐘は復元されたものである。それにしても鐘楼からは遥か下方に望む恩方の谷筋に散らばる集落の風景は絵にも写真にもなる美しさだ。
 興慶寺を後にするとテニスコートがあらわれる。コートは何面もあり、時には若い人達で賑わい歓声が聞こえることがある。程なく街道は大きくS字状に曲がり力石の集落に入る。北浅川は街案下道4-7.jpg道にぴったり寄り沿う形となり大きく蛇行する。それとともに川原は広がり、広々した山里の風景が展開する。川岸には恩方ます釣場があり釣り人で賑わう。ます釣場の入口前は丁字路になっていて、北へ向う分岐道がある。小津・美山方面へ抜ける丘陵越えの道で小津坂が見える。もう何年も前のこと、丘陵向こうの小津集落から峠を越えてつづら折りの小津坂を下って恩方力石に出たことがある。その折小津坂から見た恩方力石の美しい風景に感動したことを思い出す。
   (この項つづく)

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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №163 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

北上線 

                 岩本啓介 
                         
163錦秋湖・ほっとゆだ駅美術館裏 (2).jpg

錦秋湖 ほっとゆだ駅近く                                
冬の空模様 陽が当ったところは 綺麗な紅葉です                          
風景に溶け込んだような単行の気動車 ステキでした 

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押し花絵の世界 №123 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「おとぎの国の古城」

             押し花作家  山﨑 房枝

12月上.jpeg
40cm×33cm

カラムシ草や紅葉の葉でおとぎ話にでてきそうな古城を作りました。
ベージュの布にお線香で焦げ目をつけてオリジナルのアンティーク調のフレームを作り、上にクリスマスローズやエビヅルを置いてアレンジしました。


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ミツバチからのメッセージ №38 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

フランス−4

      造園家・ミツバチ保護活動家  御園 孝

 シャモニー(標高1036m)の街の中心部からロープウェイで、たったの20分ほどでエギーユディミディ(標高3842m)の山頂まで楽に登ることができるのですが、そこは日本一の富士山よりも高い山なのです。
  街を出発するときはさわやかな初夏の風が清々しいのですが、ロープウェイを下車した途端雪深い極寒の地で吹雪いていて外に出ることもできません。
  しばらくすると青空が広がり眼前にはモンブランやグランドジョラス、眼下には光り輝くシャモニーの街並みが広がっていました。
  頂上の展望台は四方だけでなく床部分までガラス張りで、断崖絶壁から突き出て真下は千数百m程の上に立っている状態です。

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エギーユディミディ山頂
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頂上からの景色
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頂上からの景色
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エギーユディミディ頂上標高3842m
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眼下に広がる街並み
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垂直の北壁グランドジョラス
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モンブラン


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多摩のむかし道と伝説の旅 №52 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

             多摩のむかし道と伝説の旅
      ―松姫と童謡「夕焼け小焼け」ゆかりの案下道を行くー 3

                原田環爾

 元の街道に戻って更に進み弐分方町に入る。弐分方町一帯は古代の官牧由比牧があった所と言われている。バス停「二分方入口」にくると右斜めへ入る狭い分岐道が現れる。これがかつての案下道で、街道から集落に約50m入った辺りを街道に並行して走っている。沿道には畑風景の広がる所もあり、郊外の雰囲気が感じられるようになる。やがて再び街道に合流する。合流点には蕎麦屋「つくし家」がある。街道はこの先左手に樹木が覆う小丘辺りで左へ急カーブしている。ここが「切通し」の地名で呼ばれる所だ。ここを境に街道は大きく西へほぼ90度方向案下道3-1.jpg転換する。小丘は日枝神社の境内で、鳥居をくぐって50段を越える急勾配の石階を上がると社殿がある。伝承によれば神社は文武天皇の697年、武蔵国に由比牧を定め、国造が大巳貴命を祀って創建したという。平安時代の末期、由比牧を管理していたのは日奉氏を祖とする西党由井氏で、その居館があったとされる。由井氏はやがて八王子の横山に進出してきた横山氏に支配権を取って替ええられる。なお日枝神社の左手に切り通しとなった細い坂道がある。これが切通しの地名の由来となった道で、明治17年に造られた小田野へ抜ける道で、旧陣馬街道とも言える道筋である。
 切通しより先の現陣馬街道は左へほぼ直角に折れて西へ向かうが、案下道は全く異なる。急カーブ地点で北へ向かう細い分案下道3-2.jpg岐道が案下道なのである。分岐道に入り民家の傍らを抜けると北浅川南岸の未整備の空地に出る。路傍の雑木の根元に埃をかぶった小さな朽ちかけた堂宇がある。中には石塔が1基納められている。磨滅が激しくて良く分からないが馬頭観音と思われる。馬頭観音堂を後にすると雑木が払われて、明るい草原が覆う北浅川の河原風景が広がる。その河原風景の中を案下道はS字状にうねって北浅川の畔に出ると、そこに幅1mばかりのベニヤ板作りの仮橋が川面すれすれに架けられている。かつての案下道の風情を彷彿とさせるそんな風景がそこにはある。
案下道3-3.jpg 仮橋を渡り北秋川の北岸の西寺方町に入る。辺りの景観は山を背にした鄙びた里風景に一変する。里道に変貌した案下道をうねうねと進むと、再び路傍に身の丈50~60cmばかりの馬頭観音が現れる。先の川向うの馬頭観音と対になっているようだ。馬頭観音の傍らに立つ由緒書によれば、この馬頭観音は江戸時代前半の貞享2年(1686)に暴れ川の北浅川を渡る旅人の安全を祈願して造立されたものという。先の川向うの馬頭観音より130年ほど早く立てられということになる。
 釣堀の森屋荘を右にやり過ごし案下道を道なりに進む。左手の草原に稲荷であろうか、赤い鳥居の小祠が見える。何とものどかな風景が展開する。再び右側路傍に自然石を組んで造られた馬頭観音塔が佇んでいる。台座の石には「三疋」と刻まれている。由緒書によれば、この馬頭観音も1680年代の造立という。案下道3-4.jpg恩方古道(佐野川往還)の交通を妨げる暴れ川(北浅川)を渡る荷馬の往来は馬にとって 過酷を極め、濁流の犠牲となる馬も多かった。角柱に刻まれた「三疋」の文字は当時失った馬を憐れみ、馬頭観音によって救われることを祈って、堅牢な自然石によって建立されたものという。またそこからすぐ先の民家の前の路傍には質素なお堂がある。中に大小2体の石仏が奉られている。大きい方は宝暦14年の造立で、願主は寺方村沓屋観雄法師と刻まれている。更に道なりに進むと程なく西寺方(旧大幡村)の古刹宝生寺の門前に出る。
案下道3-5.jpg 宝生寺は真言宗の寺で山号を大幡山と号す。応永32年(1425)明鑁によって開山された。高尾山薬王院有喜寺に並ぶ古刹である。先の大戦では八王子空襲で伽藍の一切を失い、戦後再建された。滝山城主北条氏照も深く帰依したという。10世住職の頼紹は八王子城の落城時、先の西蓮寺の祐覚和尚とともに猛火の城内で護摩祈祷して壮烈な死を遂げたと伝えられる。境内は広く大幡山を背景に、山門、本堂それに都指定文化財の毘沙門天立像を祀る毘沙門堂等がある。ただ戦後の再建築であるため全体にコンクリート造りなのが残念である。なお境内の一角に案下道3-6.jpgは詩人中村雨紅ゆかりの「お手々つないで」の像が立っている。
 宝生寺の門前から寺の外壁に沿う小道を西へ進むと、宝生寺角栄団地から南北に下ってきた太い車道に出る。車道を南へ下ると陵北大橋の袂の交差点に来る。陵北大橋は北浅川とその支流との合流点に架かる朱塗りの大橋である。交差点を右折し大橋の袂の陵北児童公園を左に見て西へ向う。程なく集落の中に入る。小さな地蔵堂を左にやり、集落の中程の紙谷町会会館の前で左に折れて南へ100mも進めば紙谷橋に出る。紙谷橋から右手の上流側を見れば20~30mすぐ先で北浅川の支流である小津川と山入川が合流している のがわかる。ところで西寺方町で目につく大幡とか紙谷という名はこの地域の古い地名である。陵北大橋の西側は紙谷集落で大幡紙を漉いた所で、宝生寺の僧侶達はこの紙を用いて写経したという。
 紙谷橋を渡り下恩方町に入る。ここから先の案下道は川原宿へ向かうのであるが、元木小界隈は新興住宅街で変貌しており、どこをどう辿るべきかよくわからない。推測として元木の菅原神社辺りを通ったと考え、そのまままっすぐ進むことにする。ゆるやかな下案下道3-7.jpgり坂を200mばかり進めば、左手にいささか古びた神社が現れる。それが元木の菅原神社または天神社だ。神社前は小田野からの道と合わさって丁字路帯を形成しており、ここを右へ折れる。車両が通る割には歩道がないので注意が必要だ。すぐ沿道左に大きな石仏石塔を納めたお堂が現れる。寛政7年の地蔵菩薩を真中に、左に弘化3年の庚申塔、右に安永2年造立の如意輪観音の3体が並ぶ。地蔵菩薩は背の高さが2m近くもある巨大なものである。
 お堂を後にすると前方右手少し入った所に高い煙突のある工場らしきものが見えてくる。「高尾山」「陣馬山」「日出山」等の八王子の地酒で知られる中島酒造場だ。やがて道は緩やかに右へカーブしながらの上り坂となる。上りきると「上野原」の道標が架かる辻に出る。辻を左に折れると真直ぐな道が続いている。ここより川原宿の下宿となるのであろうか。右にグラウンドを見て旧道を真直ぐ進む。高尾製作所を過ぎ調理師専門学校前まで来ると、道は鍵の手状に屈曲する。かつての川原宿の入口に見られた鍵の手と思われる。鍵の手を抜けると宿場通りは再び真直ぐ西へ向かう。400mも進めばかわさきクリニックで南北に走る車道に出る。車道は都道61号線でかつての鎌倉街道山ノ道だ。かわさきクリニックの横には萬延元年(1860)造立の大きな自然石の庚申塔が立っている。都道61号線案下道3-8.jpgの工事でここに移設されたという。ところで鎌倉街道山ノ道とは、中世の頃、東国の武士達が彼らの居館と鎌倉とを往還した道筋である。主な鎌倉道に上ノ道、中ノ道、下ノ道があったが、そのほかにも支道、間道が多数あり、山ノ道もその一つである。山ノ道は群馬高崎から秩父、名栗を経て小沢峠で多摩に入り、松ノ木峠、榎峠を越えて青梅軍畑へ。軍畑から多摩川を渡河し、平井を経て秋川を渡り、網代から秋川丘陵を越えて八王子に入ると、ここ川原宿を通って高尾、町田を経て鎌倉へ通じていた。(この項つづく)


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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №162 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

陸羽東線 

                 岩本啓介
 
162鳴子峡・陸羽東線・中山平温泉~鳴子温泉.jpg
                     
                        
錦秋の鳴子峡を列車が走ります                    
いつかは行きたい と思っていた鳴子峡                    
トンネルを出た列車は ゆっくり鉄橋を渡ってくれました                    

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押し花絵の世界 №122 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「鳥と少女」

             押し花作家  
山﨑 房枝

11月下.jpeg
33cm×28cm

背景には秋明菊を並べて、鳥はラグラスと色とりどりの花弁で作りました。
少女の帽子はトウモロコシの皮、髪の毛はクレマチスの花が咲き終わった後のふわふわの花芯を使用しました。
花が咲いている時だけではなく、咲いた後も工夫次第で使えるのもまた押し花アートの醍醐味です。

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