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押し花絵の世界 №183 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「precious memories」   

        押花作家  山﨑房枝

2023.7月上.jpg
55cm×45cm

最近は結婚式のお色直しのブーケも一緒に、1つの額に2つ納めるデザインが人気です。
数年前にお姉様のブライダルのお手伝いをさせていただいて、今回は妹さんからのご依頼でした。
大切な日の思い出作りのお手伝いをさせていただきましてありがとうございました。


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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №35 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「バッカス」Bacchus

        銅板造形作家  赤川政由

36バッカス.jpg
国立駅前西友地下 国立市中

国立駅前にある関屋ビル西友の地下の酒場広場。オーナーから、シンボルの噴水にシンボルになるようなモニュメントを依頼された。イメージはローマ神話のワインの神であるバッカス。この作品は120cmの高さがある。脇に抱えたツボから水が溢れ出て、下のツボに流れ落ちる。台座にあたる部分からは、水が溢れ下に落ちていく仕組み。水景彫刻は製作中は大変だが、楽しい作業でもある。

バッカス2.jpg


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多摩のむかし道と伝説の旅 №111 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

          多摩のむかし道と伝説の旅(№26)
     - 御岳渓谷、鳩ノ巣渓谷、数馬峡を辿る奥多摩への道-4
                 原田環爾

111-1.jpg これより鳩ノ巣渓谷の道に入る。雲仙橋の袂から谷へ向けて急坂を下る。手打ち蕎麦で有名な一心亭の横をじぐざぐと下り降りると水神橋という赤い小橋を渡って谷底の岩場に着く。岩場には一際巨大な岩山があり、その上に水神様が祀ってある。岩山のに鳩ノ巣の由来を記した由緒書が立っている。
 由緒書によれば江戸時代の明暦3年(1657)、江戸で大火が発生した際、復興用資材として奥多摩から大量の材木が切り出され多摩川を下った。この地は大変な難所で番所が置かれていたが、この時森に祀られていた水神のそばの木に鳩の夫婦が営巣していた。人々は仲むつまじい鳩の夫婦を霊鳥として大切にし安全を祈願したことから、この地を鳩ノ巣と呼ぶようになったという。
111-2.jpg 上流すぐ目の上に小さな吊橋が架かっている。鳩ノ巣小橋という。細い道を少し上がって渓谷を眼下に見下ろす喫茶店「ギャラリーポッポ」の横を通って鳩ノ巣小橋を渡る。橋の中ほどから下流を見ると先ほどの水神社が大岩の上に鎮座しているのがよく見える。対岸は巨大な城山と称する山塊が渓谷に直接落ち込む険しい地形で、渓谷の道は巨岩がごろごろ転がっている。せわしく流れる渓流を目の当たりにしながら、右に左に上に下へと岩から岩へ飛び移りながら進む。まさに渓谷の道の醍醐味が味わえる。
 ところで鳩ノ巣渓谷の南岸の山塊を城山と呼ぶのはなぜだろうか。実は奥多摩伝説でしばしば登場する平将門の城がこの山にあったというのである。平将門は10世紀の平安時代、京都の腐敗した中央政治権力に反抗して常陸( 茨城県)で反乱を起こした坂東の英雄だ。下総や常陸を中心に活躍した平将門が奥多摩まで足を踏み入 れたという歴史的証拠はないが、将門111-3.jpg伝説は奥多摩各地に残る。おそらく将門の死後、一族郎党が落人となりこの深山幽谷の地に移りすんだことが伝説を残す素地となったと思われる。また中世の奥多摩渓谷を支配した青梅の三田氏が自らを平将門の後胤と称したことも関係しているかもしれない。
 やがて遥か前方に渓流を遮る何やら構造物らしきものがちらりと見えるようになる。白丸湖のダムサイトだ。渓流を遡る魚のための魚道もかすかに見える。ここから先、深い渓谷の道は一旦途切れ、急坂をよじ登って渓谷中腹の道筋に向う。上がりきった所は吾妻屋のある休憩ポイントになっている。吾妻屋を後 にして小径を進むと白丸湖のダムサイトに到着する。白丸湖はエメラルド色の水をたたえて渓谷の中にひっそり佇んでいる。堰堤から今来た渓谷方向を眺めると、先ほど見た階段状の魚道がはっきりと確認することが出来る。ちなみに111-4.jpg白丸ダムは水力発電用のダムで白丸発電所と呼んでいる。最大取水量5.3m3/秒、貯水量は300,000m3だそうだ。白丸ダムは高さが30mもあることから鮎や虹鱒、やまめ等の魚達の遡上を助ける魚道に大変工夫がなされている。魚道の幅は2mほどで、下の渓流から一旦ダムとは逆方向に上った後、反転してダムに向って上がって行き、最後はトンネルを潜ってダム湖に出るという仕組みになっている。全長332m、落差27mもあるそうだ。
 湖畔には白丸調整池巡視道路と言う綺麗な遊歩道がある。エメラルド色の湖水をたたえた白丸湖を右に見ながら遊歩道を進む。湖畔の道半ばの小橋の袂に小さな石仏が111-5.jpgぽつんと佇んでいる。小橋を渡り更に進むとやがて前方遥か上方に渓谷を跨ぐ橋があるのに気づく。数馬峡橋だ。ここで湖畔の道は上り坂となり 数馬峡橋の袂にあるレストラン「アースガーデン」(かつては手打ちうどんの「鴨足草(ユキノシタ)」と言った)という店の前に出る。数馬峡橋の袂には昭和59年文化勲章を受章した奥田元宗先生の詩碑がある。詩碑にはこんな歌が刻まれていた。
「ひとり来て 生きる命を 思いたり 紅葉のくらき 山にむかいて」
 数馬峡は昔から奥多摩きっての難所で、左岸にはこの難儀を解消するため元禄年間に切り拓かれた数馬の切り通しが今も残されている。
 この先右岸には数馬峡遊歩道と称する遊歩道があるので、この遊歩道を辿って氷川まで向うことは出来る。ただ今回は数馬の切り通しを訪ねることを優先し、それに併せて最寄りの白丸駅を旅の終着点とすることにする。
111-6.jpg 数馬峡橋を渡り青梅街道に出る。街道を右に折れるとすぐ左に山腹へ上がる細い車道がある。この道は近年造られたもので数馬の切り通しへ向かう近道になっている。本来の道は街道をもう少し進んだところで左手へ上がる坂道を上って一旦白丸駅へ出る。そこから山腹の集落の中を縫う旧青梅道をうねうねと辿り、青梅線のトンネルの上を横切り、集落の外れにある細やかな十一面観音堂を左にやり、樹林が覆う山道に入る。現在は先ほどの新設の道でここまで簡単に来れるようになっている。寂しい山道を更に進むと鬱蒼とした樹林の中に数馬の切り通しがある。古より青梅街道は甲州裏街道として重要な道筋であった。中でも数馬峡は街道筋最大の難所で、江戸時代の初めまでは山越えが唯一の道だった。元禄の頃ようやく切り通しが開削された。それがこの数馬の切り通しだ。その後の改修により奥地との物流交換が可能となったという。数馬の切り通しからは下方に現青梅街道を望むことができるが、残念ながらここから先は通行止めとなっていて降りることは出来ない。今回の旅はここで終わる。今来た道を辿って終着点白丸駅へ向かうことにする。(完)


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夕焼け小焼け №15 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

物心のついた街・基隆

             鈴木茂夫

 生い立ちの日々を点描してみよう。
  父母から何度か聞いた2人の経歴がある。父広蔭は大阪の市岡中学「現・市岡高校」から神戸高等商業「現・神戸大学商学部」を経て東京商科大学「現・一橋大学商学部」に学び、大阪商船株式会社「現・株式会社商船三井」に就職。
 母幸枝は徳島の小学校を卒業、新宿の精華高女「消滅」に編入、日本大学高等師範部「現・日本大学文理学部国文学科」を卒業。大原社会問題研究所に勤務。
 祖父大八「市岡高女、国漢教諭」が幸枝の兄三木正一「日本大学教授・現近畿大学」と話し合って結婚したという。
 昭和6年(1931年)、父は下関支店勤務。私茂夫が誕生。母は近くの赤間宮にお礼参りをしたとか。
 昭和8年(1933年)、父は門司支店に転勤。次男徹が誕生。生後10ヶ月で死去。
 昭和10年(1935年)、父は台湾の基隆支店に転勤。

 幼い頃の記憶をたどると、おぼろげながら3歳から5歳を過ごした基隆が浮かんでくる。
 基隆は日本内地を結ぶ日本郵船と大阪商船の定期航路の基地だった。そのほか中国大陸との交流も盛んだった。大型船舶から帆走するジャンク船までが出入りし、港はいつも活気にあふれていた。
 基隆港には基隆支店「現・文化財」、日本郵船の支店が隣接していた。赤煉瓦造りの建物は立派で、父がそこで働いていると誇らしげに感じた。基隆支店の前は広場だ。これも赤煉瓦の基隆駅は、小1時間で首都台北に通じた。駅前広場に接して、大阪商船指定の旅館常盤館があった。木造2階建ての和風建築だ。表玄関に瑞穂丸の50分の1の模型がガラス箱の中に飾ってある。全長3メートルの船体は、実船と寸分変わらぬ精緻な仕上げた。船体が漆塗りのような色艶、船橋の操舵輪まで見える。私はこの前に座り込むと、いつまでも見とれていた。
 すこし離れて日本郵船指定の旅館も繁盛していた。(なんという名前であったか思い出せないが)常盤館には日本内地に渡航する船客が前日に宿泊する。また内地から渡来した船客が台湾各地へ行くため、1泊して息抜きした。
 常盤館は和食を提供した。茶碗蒸しやお吸い物は珍しかった。女将は優しく接しくれた。
 わが家は最初、海岸に近い数十軒の日本家屋があるそのなかの一軒家に住んでいた。小高い山が迫っていて、そこには要塞があるから、登ってはいけないとされていた。
 水着になるとクルベー浜と言っていた海岸までは歩いて行った。夏場は大勢の人たちで賑わった。海辺には鉄筋2階建ての「カイラクエン」があり、食事もできた。
 次に港に近い入舟町の一軒家に移った。街の中心の義重町にも近い。日本人と台湾人がさまざまな店を並べていた。母は真言宗の久宝寺の児童の保育の指導をしていた。
 4月8日はお釈迦様の誕生日花まつりだ。いろんな花で幼いお釈迦様が立っている花御堂を飾る。桶から甘茶を掬い、お釈迦様にかける。花まつりの歌を斉唱する、
       春の野のうるわしき花々を 清き思いに集め来て  み仏に捧げ供える
       たのし たのし 今日のまつり
 歌につづいて園児がお化粧して稚児行列だ。私もその列に加わった。
 母は家庭の幸福を願って、天理教を信仰しはじめていた。
 私を連れて天理教教会本部のある丹波市町(昭和29年1954年に天理市へ)へ出かけた。
 昭和12年(1937年)4月。双葉小学校に入学。私にはランドセル、教科書、学帽、制服などを買いに行った記憶がまるでない。運河を右手に見ながら登校したようだ。
 ここに入学した私と女性が写っている一枚の写真が残っている。基隆に駐在している陸軍衛戍病院院長の娘さんだと記憶している。ぼんやりと将校の服を着て軍刀を下げていた人を覚えている。
 7月12日月曜日。
  朝礼で全校生徒が運動場に集合した。校長先生が演壇にたち、
 「とても大切なことを話します。お父さんやお母さんから聞いたり、みんなもラジオや新聞などで知っている人もいると思います。先週の7日、北京の西南にある盧溝橋で、シナ軍と日本軍が衝突し小競り合いとなりました。シナ軍と日本軍の間で衝突が広がらないようにと話し合っていますが、衝突は続いています。みんなは落ちついて勉強して欲しい」  父は「もしかしたら、大きな戦争になるかもしれない」と言った。
 そんな時、父は大阪本社に転勤するように言われた。


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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №217 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

旧名寄線・上興部駅  

            岩本啓介
    
①旧名寄線上興部駅のキハ27

217-2.JPG

旧2番線上に横付けする形でキハ27 109のディーゼルカーが静態保存・展示
1960年代に製造されたレトロ感漂う顔をした車両です。
車体の側面に「JR」のロゴが残っているのはJR北海道に継承後も2年間走っていた証
2022年10月20日14:10

②旧上興部駅の駅名版

217-1.JPG
       
大正9年に開業。駅舎は開業当時そのままの姿を残す下見板貼りの木造建物。今年で100年
駅舎内は「上興部鉄道記念館」として名寄本線ゆかりの資料を展示しています。
2022年10月20日14:16


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押し花絵の世界 №182 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「感謝の赤い薔薇」
 
          押花作家  山﨑房枝

2023.6月下.jpg
30cm×25cm

結婚式のお花を使用して、両親に感謝の気持ちを伝えたいとご依頼をいただきました。
「私は今とても幸せです、ありがとう」とメッセージを描いたオリジナルの台紙に、赤い薔薇と霞草をアレンジしました。
新郎新婦両方のご両親にプレゼントする為に同じ物を2つ作り、とても喜んでいただけました。


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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №34 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

少女
       銅板造形作家  赤川政由

34少女.jpg

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多摩のむかし道と伝説の旅 №110 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

        多摩のむかし道と伝説の旅(№26)
   -御岳渓谷、鳩ノ巣渓谷、数馬峡を辿る奥多摩への道-4
              原田環爾

 瓜生卓造著「奥多摩町異聞」によれば、明治から昭和初期にかけての筏師の有様を概略こんな風に記している。管流しといって急流を1本1本ばらばらに下ってきた丸太を古里で引き揚げ角材に削り(江戸時代は丸太のまま)110-1.jpg筏に組んだ。材の長さ3m、幅1.8m、これを5つ繋げて長さ約15mにした。これを1枚と称し約120本の材木が組まれたそうだ。筏には古里から沢井・軍畑辺りまでは1枚に2人の筏師が乗り、ここを乗り切ると後は1人で操る。青梅の千ヶ瀬で3枚に繋いで全長50mとし、羽村の堰に至ると月6回しかない堰開けを待つ(江戸時代は月3回)。堰を通れば次は拝島泊り、次いで府中か調布、二子か宿河原と順に下って六郷に着いた。筏師のいでたちは半纏に袴下、地下足袋、日の強い時は菅笠、雨の日はミノを着ていたという。行きに4日帰りに2日の旅だったという。
 滝沢 博著「続 多摩」に筏師達が唄ったというこんな面白い歌が紹介されている。
  ♪きのう山下げ、今日青梅下げ
  明日は羽村の堰おとし
  堰をおとせば府中の宿で
  可愛いあの子が手で招く
110-2.jpg  筏乗り実で乗るかよ、浮気で乗るか
  上木を流して実で乗る♪
 橋を後にすると一転上り坂となる。古びた集落をうねうね上ると青梅街道直下の平坦部にでる。ここで道は二手に分かれ、右は旧青梅街道の続きで、このまま坂道を上って現青梅街道に合流する。一方左の下り坂を採れば渓谷へ向かう道だ。すなわち坂道を下って行くと樹間から深い谷に架かる赤い寸庭橋が姿を現す。寸庭橋の橋上から先の古里附の土場はもちろん、緑深い渓谷の景観を楽しむことが出来る。橋を渡ると右岸に渓流沿いの細い小径がある。そこを進むとやがて渓流を離れて深い山へと入って行く。110-3.jpg残念ながら鳩ノ巣までの水辺の道はなく山歩きとなる。従って今回はこの道は避け、一旦元の寸庭橋に戻って先に述べた青梅街道に出る道をとることにする。
 青梅街道を200~300m進むと大きく左にS字状にカーブする。この付近に舌状台地が南へせり出し、それに伴い渓谷が大きくS状に蛇行していることによる。この辺りは棚沢と呼ばれる地域だ。舌状台地への分岐道を過ぎる辺りに奇妙な名のバス停がある。バス停の名は「将門」となっている。これは右手山腹に平将門ゆかりの神社があることによる。バス停横に神社へ向かう細い急階段の参道がある。参道を登って行くとすぐ樹林で覆われた暗いジグザグの山道となる。やや開けた踊り場のような所に将門一族の供養塔が立っている。供養塔からは下方に先の舌状台地が望める。古110-4.jpgくは将門原と呼ばれた所だ。鳩ノ巣へ向かう山腹を縫うような旧青梅道が現れる。旧青梅道を避けて「ゆきひめらん参道」と名付けられた細い参道を上って行くと程なく将門神社の鳥居の前に来る。深い樹林で覆われた実に寂しい神社だ。鳥居をくぐり急斜面の石段を上って行くと将門を祀る社殿がある。平将門と言えば10世紀の初頭、腐敗した京の中央政権に反抗して東国で反乱を起こした坂東の英雄だ。承平天慶の乱という。天慶2年(939)常陸の国府を襲撃、更に坂東八ヶ国を次々落とし自らを新皇と称して独立王国を宣言した。驚いた朝廷は将門討伐の命を発し、それに応じた下野の豪族藤原秀郷によって討たれた。そんな将門の嫡男平良門が天徳年中父の遺跡を慕って棚沢に来て、父の肖像を彫刻して納めたのが将門神社の始まり110-5.jpgという。神社は幾多の変遷を経た後、昭和50年棚沢に将門神社が再建された。社殿の左手には樹々が払われた小さな削平地があり、そこに平将門の愛姫御幸姫の観音像が立っている。観音像の前方には遙か下方に先の将門原が望める。伝説によれば将門討滅後、御幸姫は棚沢の将門原に移り住み。亡くなるとここに御幸塚が築かれた。塚は昭和14年の青梅線の鉄道工事の折撤去されてしまったが、将門神社が再建されると境内に御幸姫観音像が建立されたという。
110-6.jpg 元の青梅街道に戻り分岐道から舌状台地の将門原に入る。渓谷の奥多摩には珍しい広々した平坦地でそこに集落が形成されている。やがて道は右へカーブし、ほどなく大きく蛇行した深い渓谷に架かる鳩ノ巣大橋に来る。橋の上からは先の棚沢の将門神社がある山腹を遠望することができる。やがて丁字路で坂下の集落に入る。右折し坂道を道なりに下って行くと。先の大きく蛇行してきた渓谷に架かる雲仙橋の袂に来る。雲仙橋の中程から見下ろすと、鳩ノ巣渓谷は目もくらむほどの深さだ。(この項つづく)


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夕焼け小焼け №14 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

ラーメンを訪ねる

           鈴木茂夫
 
 私は立川市に住みついて55年になる。東京の渋谷から引っ越してきた当座は、赤坂の会社まで通うのは気骨が折れた。しかし住めば都である。町に親しんだ。知人友人もそれなりに増えた。定年退職してからは、すっかりわが町になっている。
 「ラーメンメンを食べ歩くのも面白いですよ」
 定期的に通っているリハビリテーション・スタジオの池島社長が言う。そしてスマホにラーメン・マップというソフトを入れてくれた。これを開くと地図が出てきて全国のラーメン店を探せる。ラーメンにもすっかりご無沙汰している。やってみようと思った。
 この際、ラーメン評論をするのではなく、素人としてラーメンに親しむのがいい。
 JR立川駅の周辺にはラーメン屋が密集したように暖簾を出している。だが店の前に並んでいる人がいれば、ここは評判なのだと理解できる。
 目にした店を手はじめに「探索」をはじめた。ラーメン屋に大きく広い店はまずない。狭い空間に中央設備と客席を設けている。入り口には券売機がある。食券を買うのも慣れがいる。座席に座ると、水は自分で確保する。
 10軒ばかり訪れたら、スープの味わいによる分類ができた。豚骨ラーメン、味噌ラーメン、醤油ラーメン、塩ラーメン、牛骨ラーメン、海鮮ラーメン。店によって味は異なる。スープで店の特色を出しているのだ。さしあたって立川の何軒かを取り上げてみた。
 ラーメンの複雑な味を言葉にするのは難しい。言葉は限られている。

「日高」
チェーン展開している店。値段を抑えてチャーハン、おつまみなど幅広く展開している。それが人気を呼んで客は多い。
中華そば(390円)を試みる。具はメンマ、海苔、チャーシューだ。鶏肉ベースの醤油味。これは昔懐かしい。あっさりした味わいだ。

 「鏡花」
立川駅南口。室内の照明を落とし、らーめんだけを浮き上がらせるような演出をしている。醤油ラーメン、芳醇なスープ。吊し焼きチャーシューが美味だ。

 「井の庄」
  立川駅南口のたま舘にある4軒の店の1軒。つけ麺が得意だ。海鮮スープ。麺の歯触りがいい。スープの濃さが麺を引き立てる。しつこくない。素直にいくらでも食べられる印象だ。ごく自然な感触で食べきってしまう。

「天下一 油そば」
油そばは初めてだった。豚骨のスープが丼の下にある。かき混ぜて食べたが抵抗はなかった。ラーメンの世界の第三の存在だ。 チャーシューも悪く無い。ラーメンとつけ麺の間に位置する感じ。飽きがこない味わいかな。

「青樹」
豚骨や鶏ガラを丁寧に下処理し、じっくりコトコト煮込み、旨味だけを抽出、スープの核となる煮干しは、さまざまな産地のものを常に吟味し、良い状態のもの数種を独自配合して土台となる動物系スープとブレンドして仕上げるとか。  
豚骨煮干しラーメンというところだ。麺は食べやすい。複雑な味わいが広がる。

「麺屋かなで」
立川駅からすこし距離がある。狭く細長い店。壁に口上が書いてある。
鶏淡麗系中華そばの店です。スープは鶏ガラ、丸鶏を使用し炊き上げ、より美味しく仕上げるため、不純物を取り除いた水を使用しております。麺は数種類の上質な厳選した小麦を配合、全粒粉。スープは鶏の味。麺に絡み合ってしつこくない。

「楽観」
立川のラーメン店をリードしている。客が堪えない。抜群の醤油味。ラーメンを、琥珀、真珠、珊瑚と銘打って提供している。丼から透き通ったスープの香りが上がってくる。醤油、塩ラーメン、どちらもバランスのとれた端麗系。甘味、塩味、苦味、酸味、旨味の五味を創ると国産の鰹節、煮干しでスープを作っている。細かい麺は固めだ。歯ごたえがあって飽きがこない。チャーシューはよく煮込んである。メンマも味が染みていてよい。
多くの客が再び訪れるのには理由があるようだ。


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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №216 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

宗谷本線 名寄駅  

           岩本啓介
   
①名寄駅より北進列車は運転取りやめ

216宗谷本線名寄駅.JPG
宋や本線 名寄駅

大寒波襲来の中 やっとたどり着いた名寄駅。翌朝、名寄から稚内へ出発予定でしたが普通列車は運転取りやめ 特急も20時台の1本のみ やむなく名寄駅撮りで・・・失礼をホテルで夜中に起きだし 翌日の稚内方面の天気を確認し、これ以上の北進は無理で危険と判断し 稚内の温泉地2泊をやむなくキャンセルに
名寄駅2022/12/19/1408
       
②どでかいソフトみたいな雪 名寄駅

216でっかいソフトクリームのある名寄駅.JPG
でっかいソフトクリームのある名寄駅

名寄駅折り返しの旭川行の普通列車が発車を待っています 
どでかいソフトみたいな雪の塊が 列車に覆いかぶさるかのようです
2022/12/19/1411


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押し花絵の世界 №181 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「清流のほとり」

           押花作家  山﨑房枝

2023.6月上.jpg
30cm×26cm

新築祝いにオーダーしていただいた作品です。白樺を細く切って森を作り、マイクロアジアンタムの黄緑や濃い緑の濃淡で印影を表現しました。
川のほとりには、姫うつぎ、都忘れ、霞草、ノースポール、レースフラワーなどの小花が可憐に咲き誇る癒しの風景に仕上げました。
「見るたびに癒される」と喜んでいただけたので嬉しいです。


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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №33 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

おじいさん

         銅板造形作家  赤川政由

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前回のおばあさんと同様、普済寺の無縁物墓地にある

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多摩のむかし道と伝説の旅 №109 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

        多摩のむかし道と伝説の旅(№26)
   -御岳渓谷、鳩ノ巣渓谷、数馬峡を辿る奥多摩への道-3
              原田環爾

 1kmほど行くと神塚橋という古びた小さな石橋があり、続いて綺麗なコンクリートアーチの大正橋という大丹波川に架かる橋の袂に来る。橋の袂に庚申塔と大橋供養塔がそっと佇んでいる。大正橋は元は文化11年109-1.jpg(1814)川井村の名主中村庄蔵により造られたという。当時は「大橋」又は「沢井之橋」と呼んだそうだ。山梨県大月市の猿橋に似た肘木橋で橋長7間(14.5m)、巾4尺(1.2m)の木橋だっ たという。大正8年(1919)架け替えがあったことから大正橋という名が生まれた。当時は赤煉瓦の味のある橋だったという。なお大正橋の傍らの小道を上がるとそこに川井駅がある。一方大正橋の左手渓谷に忽然と巨大な白い吊橋の奥多摩大橋が全貌を現す。あまりの大きさに圧倒される。奥多摩大橋は平成8年に竣工した新しい橋だ。
 109-2.jpg奥多摩大橋を渡る。大橋から深い川井の渓谷と遥か下の川井キャンプ場をしばし眺めて後、対岸の吉野街道へ回る。大橋の袂には「梅沢」の標識が掛かっている。梅沢はこの辺りの土地の名だ。人気の無い吉野街道を古里に向けて進む。沿道右に千島わさび園の奥多摩わさび直売所が現れる。やがてぽつぽつと民家が立ち並ぶ様になる。そのうち沿道左に「丹三郎」と記したひときわ古風な店構えのそば・うどん屋が目に入る。通称丹三郎屋敷と呼ばれている旧家だ。由緒書によれば、丹三郎屋敷は明応・天文の頃、丹三郎集落を拓いた原島丹三郎友連、その末裔により集落の庄屋名主として代々受け継がれたもので、建てられて二百余年たつ旧家という。ちなみに丹三郎の兄、原島丹次郎友一は日原を拓いている。彼らは元は埼玉県大里郡原島村からやってきた一族で、奥多摩地方開拓の祖と言われる。古くは武蔵七党の武士団の一つ丹党ゆかりの人達という。
109-3.jpg やがて万世橋の袂に来る。橋上から渓谷を横目に見ながら渡り終えると青梅街道に丁字路でぶつかる。ここは古里の中心部で正面土手の上に古里駅はある。青梅街道に沿って100mばかり進めば沿道左に「奥多摩福音の家」「奥多摩町消防団第1分団第1部」があり、その傍らから左手集落へ入る分岐道がある。分岐点に「大多摩ウォーキングトレイル」の案内板が立っている。分岐道に入って再び渓谷の道を目指す。この分岐道はかつての旧青梅街道なのだ。
109-4.jpg
静かなたたずまいの集落の 坂道を下って行くと、右手土手の中腹に石塔1基と石燈籠が立っている。石塔は聖徳109-6.jpg109-5.jpg太子塔で弘化2年(1845)と刻まれている。この辺りは昔から林業を生業とする杣職人が多いことから、古くから林業・建築の神として崇敬された聖徳太子を祀っているのであろう。また隣の石燈籠は秋葉大権現・愛宕山大権現、榛名山大権現と刻まれている。更に旧青梅道を進むと分岐点にさしかかる。その角地に小さなお堂があり、中に高さ1mばかりのコケシの様な形状の石塔が祀られている。石塔をよく見ると上部に複数の地蔵が彫り込まれている。通常六地蔵と呼ばれている。その堂宇の筋向いの一段下がった所に小屋があり、中に湧水を称えた大釜が鎮座している。「釜の水」といっ109-7.jpgて、青梅街道を行き交う旅人がここで喉を潤したという。分岐点を左に採り、更に下って行くと、下りきった所に沢に架かる石橋がある。石橋は清見橋という。古い書物では古里附橋、更に昔は垢離尽橋と称し、小丹波村と棚沢村の境界をなしたという。橋の下を流れる沢は入川で、橋の上から右手を見ると入川の滝壷になっていて激しい水音を立てている。不動滝とも呼ばれている。伝えるところによれば、御岳参籠をする信者は、まずこの不動滝に浴して垢離を取り、潔斎してから登山したという。そのことから、垢離尽(古里附)の名が起109-8.jpgこったという。一方橋の左はと見ると入川が多摩川に向かって流れ下り50mくらい先で多摩川に注いでいる。多摩川の景観は木立で阻まれてすっきりは見えないが、この辺りの河原はかなり広い。実はこの河原、筏流しが盛んな頃は多くの筏が組まれた土場なのだ。幕末から明治にかけてこの辺りは杣職人や筏師で大いに賑わっていたのであろう。橋の近くにある石仏は磨滅してよくわからないが、これも聖徳太子像ではなかろうか。(この項つづく)


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夕焼け小焼け №13 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

 ラーメンを楽しむ その2

            鈴木茂夫

 TBSも東京・赤坂に本拠をかまえて3年、町の中になじんで来た。
 昭和33年(1958)のある日、地元の情報に明るい坂元が、嬉しそうに口を開いた。
 「うまい料亭があるんですよ」
 「ここは料亭の町だ。どこのだって、うまいに決まってるよ」
 「中華料理の赤坂・栄林(えいりん2022年閉店)です。昼なら俺たちも食えますよ」
 坂元を先頭に一ツ木通りからみすじ通りへ出た。栄林は立派な構えの店だ。丁寧な女性の挨拶を受け、テーブルに着く。
 「この店は、料亭栄林(りょうていえいばやし)だったのですが、中華料理・栄林に改めました。ご贔屓にしてください」
 メニューを眺める。料理はそこそこの値段だ。坂元の顔を見ると、
 「スーラータン麺お願いします」
 と注文した。10分ほどすると丼が運ばれてきた。
 とろっとした仕上がりのスープ。口につけると、酸と酸と辣が入り交じって酸味を強く感じる。爽やかな感触。麺は細めで柔らかい。具は椎茸、タケノコの細切り、溶き卵の甘みと酸味が舌に優しく絡む。
 誰も黙って食べている。先に食べ終えた坂元が、口を拭って、
「スーラータン麺は、酸辣湯麺と書くんですよ。ここのシェフが創り出したので、これはここにしかないんです」
 「ご馳走さま、うまかったなあ」
 誰もがうなずいた。私もその一人だった。栄林の麺はこれだけではない。豚肉あんかけ焼きそば、豚肉つゆそば、青菜つゆそば、五目つゆそばなど。それらを食べるのにせっせと通ったものだった。通算で30年を超えるつきあいだった。
 スーラータン麺はカップラーメンとなっている。明星 中華三昧 赤坂榮林 酸辣湯麺 (スーラータンメン)
 栄林・赤坂店は2022年に閉店。栄林・神楽坂店に移転、東京都新宿区袋町3-6 神楽坂センタービルANNEX 2F 電話050-5589-2383として営業している。
 榮林・軽井沢店は、毎年4月中旬から11月初旬までの季節営業

 昭和35年(196011月、ある夜、取材先からハイヤーで帰社する途中、千駄ヶ谷の国立競技場の近くに、タクシーが10数台も停車しているのを見かけた。運転手に、
 「どうしたんだろう、何かあったのかな」」
 「ラーメン店があるんですよ。私もときどき食べてます」
 「有名なんだ。ここは。食べていこうか」
 車は道路脇に駐車した。
 「ホープ軒」の看板。店のカウンターに席はない。立ち食いするのだ。メニューを手にし、ワンタンメンを注文した。空いた席に座る。丼が出された。
 スープは濃い味だ。うまい。太めの麺は腰がある。予期していたよりも、上質のラーメンだ。ふうふう言いながら食べ終わった。この日の夕食はこれで間に合う。
 「ご馳走さま、美味しかったよ」
 カウンターの中にいる鉢巻きした親父に声をかけると、
 「ありがとうございます」
 良い笑顔で応えた。それから数日して、仕事仲間とお昼にやってきた。たまたま、客が少なかったので、親父さんが牛久保英昭と名乗って話してくれた。
 昭和35年に、屋台で商売をはじめたとか。ラーメンの作り方は我流で勉強しました。
  昭和50年(1975)に、この店を構えました。豚の背脂を入れたスープ。麺は中太で腰があります。今は4階建てにして、自前の製麺所で生産しています。
 おかげさまで多くのお客様に支えられ、繁盛しています。店は若い者と一体になり、店の味を良くしていくつもりです。
 24時間営業のホープ軒は、賑わっている。


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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №215 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

根室本線

           岩本啓介

①根室本線 金山ダムの端っこから

215★金山ダム.JPG

5月の連休にはエゾヤマザクラが満開になるのですが・・・・
退院が遅れて、エゾヤマザクラではなく、雪景色でご勘弁ください・・・・
東鹿越~金山
2022年12月17日9:16    

②いつの鉄橋は吹雪いています

215 (2)金山湖with篠崎.JPG

昔務めた会社の後輩と富良野で合流、早朝にも関わらず、私の宿に来てもらいました
趣味の取り持つ縁は不思議な縁ですね。吹雪の中で折り返しの列車を待ちました
東鹿越~金山
2022年12月18日14:52


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押し花絵の世界 №180 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「ミニ薔薇と春の小花達」

             押花作家  山﨑房枝

2923・5月下.jpg
38cm×18cm

新築祝いのプレゼントにオーダーしていただいた作品です。
ピンク色の可愛いミニ薔薇、アリッサム、ノースポール、わすれな草などの春を彩る小花達を主役に、可愛らしく華やかな雰囲気に仕上げました。


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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №32 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

おばあさん An elderly woman


       銅板造形作家  赤川回由

32おばあさん.jpg


玄武山 普済寺
立川市富士見町


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多摩のむかし道と伝説の旅 №108 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

        多摩のむかし道と伝説の旅(№26)
   -御岳渓谷、鳩ノ巣渓谷、数馬峡を辿る奥多摩への道-2
             原田環爾

108-1.jpg 多摩川を左に見て青梅街道を西へ進む。アンティーク煉瓦等の販売する店を過ぎると道路脇に青い金網のフェンスが現れる。フェンスに沿って50mも進めば「御岳渓谷遊歩道入口」と記した道標があり、左手に渓谷へ下る細い道筋が現れる。林の中を細い階段を辿って降りて行くと渓流の傍らを縫う遊歩道に出る。涼風を頬に受けながら川面から眺める渓谷の風景は格別だ。この辺りは時折釣り人が竿に糸を垂らしているほかはほとんど誰もいない。遊歩道は1~ 2m幅で多少の石ころや凹凸はあるものの、よく整備されていて歩くのに特に支障は無い。やがて前方に楓橋というグリーンの吊橋が見えてくると沢井108-2.jpgだ。楓橋のすぐ下流辺りは塚瀬と呼ばれ、かつて筏を組んだ土場があった所という。沢井の界隈は行楽客の集まる所で、地酒「澤乃井」で知られる元禄15年創業という小澤酒造がある。楓橋の袂には澤乃井直営の料亭「ままごと屋」が豆腐や湯葉料理を楽しませてくれる。ままごと屋の前には同店の澤乃井園があり、園内の売店では地酒をはじめ、わさび漬けや酒饅頭など様々のお土産が販売され食事も出来る。庭園の片隅には詩人北原白秋 の歌碑が立っている。
108-3.jpg「西多摩の 山の酒屋の鉾杉は
 三もと五もと 青き鉾形」
 鉾杉とは鉾の形をした杉のことを言うそうだが、大正12年白秋が友人達と一緒に御岳山を登山した際に、途中この蔵元に立ち寄って見た酒造りに感銘を受け作られた歌という。一方楓橋の対岸の山肌には昭和5年中国蘇州の寒山寺を模して造られたという奥多摩寒山寺が佇み、水墨画に見るような景観を見せてくれる。
 楓橋を後にし、民家を右に見ながら渓谷の道を進む。この辺りからは渓流をカヌーで楽しむ人たちが目立つよう108-4.jpgになる。赤や青や黄色の色とりどりのカヌーを巧みに操りながら岩の間を滑る情景はいつまで見ていても飽きないものだ。小さな鵜の瀬橋を過ぎると「ゆずの里」というカフェがあり、その玄関口に『お山の杉の子記念碑』が立っている。佐々木すぐる作曲、吉田テフ子作詞の昔懐かしい童謡の記念碑だ。佐々木すぐるの自宅は都心にあったが、戦争中この地に疎開していたことから、当地で作曲したのだという。
「むかしむかしそのむかし 
   椎の木林のすぐそばに
     小さな小山があったとさ
         あったとさ  ・・・・・・・」
108-5.jpg ところで、鵜の瀬橋とカフエ「ゆずの里」の中間辺りに細い路地がある。路地を北に採り急坂を上るとすぐ青梅街道で、筋向いに丘陵を背景として大きな石の鳥居が立っている。ここは清和源氏の祖である源経基の伝説を残す青渭神社だ。上り坂の参道を400mばかり辿れば拝殿があるので時間があれば立寄ると良い。青渭神社は延喜式内社の古社で、ここ山裾には拝殿があり、本社は裏山の惣岳山の山頂にある。
108-6.jpg 青渭神社にはこんな伝説が残されている。承平天慶の乱のあった10世紀、将門追討の命を受けて京より東国へ下ってきた清和源氏の祖源経基が、将門を追ってこの辺りまでやってきた時のこと、多摩川の水が急に青く変わった。奇妙なこともあるものだとしばらく佇んで眺めていたら、神社の方から一人の童女が現れて、経基に「神のご加護により、必ず戦に勝つであろう」と告げた。経基はこのお告げに大いに力を得て、やがて将門を討ち反乱を鎮圧したという。
 元の道を進む。ほどなく比較的広い川原の横を通る。川原の端に「名水百選御岳渓流」と刻んだ大きな石碑が立っている。やがて前方に再び吊橋が見えてくる。御岳小橋だ。ここも行楽のポイントで橋の袂はちょっとした公園108-7.jpgになっている。対岸には奥多摩を愛した日本画家川合玉堂の作品を収めた玉堂美術館がある。木の間から見え隠れする古びた美術館は辺りの深い緑とあいまって、なかなか味わいのある景観を呈している。奥多摩小橋を後にするとすぐ前方に巨大なコンクリート製の御岳橋が渓谷の遥か上方を大きく跨いでいるのが見える。御嶽駅のすぐ前に架かっている橋だ。御岳橋の界隈は谷が一段と深く昼間でも 薄暗くひんやり感じられ、晩秋の頃は燃えるような紅葉が素晴らしい。カヌーも一段と増えて賑やかになってくる。御岳橋を抜けてすぐの所で、何気なく見上げると見事な石垣の遺構が目に入る。旧御岳万年橋の跡で、昔はここに橋脚の無い木製の太鼓橋が架かっていたという。文政3年(1820)の「御嶽山一石山紀行」によれば、長さ24間(約43.63m)、幅4尺5寸(約1.36m)、橋杭なし、牛馬の通りなしとのこと。天保13年(1842)、安政6年(1859)、明治31年に再架され、大正6年までここにあったという。
108-8.jpg 御岳万年橋跡を後にし、杣の小橋を過ぎると対岸に発電所が現れ、川筋は右へ大きく湾曲する。川筋に沿って右へ回り込むと前方に神路橋という吊橋が見えてくる。御嶽駅から徒歩で御岳山へ向かう際によく通った人道橋だ。神路橋を通り過ぎると広い河原が開け、川筋いっぱい迫っていた山は後退し、一瞬渓谷の雰囲気はなくなる。 そこに奥多摩フィッシングセンターの鱒釣り場があって、多くの釣り客が釣りを楽しんでいる。やがて遊歩道はゆったり左へ曲がり民家の並ぶ水辺の道になる。そのまま進むと青梅街道に出る。出口には以前は蕎麦懐石の「丹縄」があったが今は「せせらぎの里美術館」に変わっている。御岳渓谷遊歩道はここで終わる。
 ここからはしばらく青梅街道を進む。街道は大きく右へカーブする。惣岳山からの支脈が急傾斜で多摩川に落ちる。伝説にいう「尾崎の柵」とはこの辺りを指すのであろうか。
108-9.jpg 伝説によれば、承平年間平将門がここより上流の棚沢に居住した折、家臣の尾崎十郎が川井に尾崎の柵を、また対岸に浜竹五郎が浜竹の柵を構えたという。その柵にまつわる伝説に姫ヶ淵伝説がある。尾崎十郎の息子と浜竹五郎の娘は相思相愛の仲であった。娘は笛が上手で、夜毎娘の笛の音を合図に、若武者は藤蔓橋を渡り、浜竹の川辺で逢瀬を重ねていた。これに嫉妬した浜竹五郎の家臣が藤蔓橋の蔓に鉈目を入れたため、それとは知らない若武者はたちまち蔓が切れて谷へ落ちて死んでしまった。悲しんだ娘は以来笛を吹くことも無く、ある夜家を抜け出し淵へ身を投げてしまった。淵にはただ笛が一管漂っていただけだった。娘の死を哀れんだ村人は、この淵を姫ヶ淵と呼ぶようになったという。(この項つづく)


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夕焼け小焼け №12 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

 走れホンダのアコード 

          鈴木茂夫

 私は1931年生まれの92歳。60数年間、自動車を愛用していた。数年前に車を孫娘に譲り、電動アシスト自転車に乗り換えた今も自動運転技術の進歩には関心がある。
 私は自動運転草創期にあったホンダのアコードとのつきあいを忘れられない。
これは約20年前の単なる自動車好きの懐古だ。

 わが愛車はアコードセダン2005年式24-TL。最高出力200PS、最大トルク23.7k、10モード燃費12.0kml。そして何よりの特色はHIDSを搭載していることにある。
 HIDS (Honda Inteligent Driver Support System)を、ホンダは「ホンダ運転負荷軽減システム」と言う。まことにしかつめらしく、取っつきにくい名称ではある。それを単純に言えば、「定速走行」と「車線維持」の二つの機能で構成されている。そしてこの機能は、主に高速道路の走行時に真価を発揮するのだ。

 私の住居は都心から約36キロ、東京・立川市にある。
5月の連休明け。家内と2人、一泊旅行にと磐梯高原をめざした。
 東京都・立川市の自宅から一般道を20キロ走り、所沢インターからETCゲートを抜け、関越自動車道上りの走行車線に入る。
 そこでハンドル右手のHIDS スイッチをオン。
 メーター内に「HIDS作動」を示す緑色の表示灯が点灯。
 軽くアクセルを踏み込む。
 制限速度の時速80キロに達したところで、SET/DECELスイッチをオン。
 アクセル・ペダルから右足を離す。
 メーター内に設定速度80キロと設定車間距離(長・中・短)の白い横線が表示。
 車間距離を「長」に設定してあったから3本の白い横線が表示されている。
 横線を挟んで「車線維持」機能の作動開始を知らせる2本の白い縦線が表示される。
 ちょうど、漢字の「日」のような形になる。
 その上に、白い車のマークも表示されている。先行車がいるのだ。
 ハンドルに軽く握っていると、車は車線の中央に位置しながら走る。
  HIDSの機能開始。
 先行車の速度が遅くなった。こちらもシステムが瞬時に対応して速度を落とし、設定した車間距離を保っている。
 道路の流れが良くなった。先行車の速度が上がる。こちらも設定車間距離を保ちながら、それに対応して設定速度まで速度が上がった。
 この間、運転者である私自身は、ハンドルを軽く握っているだけだ。他には何の操作も行っていない。システムの機能を信頼して、車の走行と道路状況を把握しているだけでいいのだ。

 関越道を走って9キロ弱、大泉から外環道に移る。急ぐ旅ではない。走行車線を選ぶ。この道路はいつでも交通量が多い。このため、速度は設定速度より遅くなりがちだが、それなりに流れて約17キロ、川口から東北道へ入った。
 郡山JCTまで約220キロの長丁場の始まりだ。
 浦和の料金所を過ぎると制限速度は100キロとなる。RES/ACCELスイッチを一度押すと5キロずつ加速する、このスイッチを数回押して設定速度を100キロとする。
 車は車線を維持して設定速度の100キロで走る。道路がカーブしていれば、ハンドルが軽く動いて確実に車線を維持する。そのハンドルの動きが、手のひらに感じ取れる。
 運転者の私が車線を維持しているのではない。システムが維持しているからだ。

 川口から30分、佐野SAで一息入れる。燃費は12kml。
 この日は快晴、道路は新緑の山に見守られながら延びている。タコメーターは2100rpm~2200rpmを表示している。家内と2人きりの移動し続ける空間そして時間。とりとめもなく話したり、景色に見とれたり。

 HIDSは、ただそれだけのシステムだ。ただそれだけを確実に行ってくれる。
 特別な走り方をするわけではない。高速道路を走る多くの車に混じって通常の走り方をしているだけだ。助手席に座っている人も、あらかじめこのシステムのことを話しておかなければ、ときどき発生するブザー音以外には、システムが作動していることに気づかないだろう。
 HIDSは自動運転システムの一種なのだろうか。それはまったくそうではない。厳密に自動運転の車を定義するなら、人が行く先を入力してキャビンに座れば、後は車が安全に道路を走って目的に到着するものをさすことになるだろう。
 HIDSは、運転席に座って主体的に車を操作する人をサポートするシステムだ。
 HIDSをセットすると、運転者である私は、先行車との車間距、車線の維持から解放される。
  HIDSは、高速道路走行時に求められる配慮の相当部分を軽減してくれる。別の言葉で言えば、緊張を和らげてくれるのだ。この緊張の緩和によって、他の車線の車や後続車の動向、さらに前方の道路状況を落ち着いて観察できる。運転技量の確かな助手の運転を監督している気分と言っても良い。単なる想像なのだが、航空機の主操縦士と副操縦士の関係に似通っているのかなと思ったりもする。そのおかげで、疲労感が少なくなる。
 親しい友人の一人は、私がHIDS搭載のアコードを買うと言ったとき、
 「そんなシステムを使うと、車を運転する楽しみがなくなるよ」
 と笑った。
 私は、敢えてそれに反論しなかった。確かに、車を運転するときの機械を操作しているという楽しさは格別だからだ。
 とはいえ、HIDSを伴侶とすることで、私は在来の運転環境とは異なる異次元の感覚を楽しんでいる。
 高速道は、緊張を体感する場ではなく、安定を実感する空間と変化したのだ。
 それから2年。車での旅も回を重ねた。

 カーナビゲーターの表示していたとおりの1時間で那須高原SAに立ち寄る。車の外に出て、両手を上に伸ばし背伸びする。腰を大きく回す。気分は爽快だ。疲労感はさしてない。さあもう一走りだ。
 
 自動車での旅とは何だろう。日帰りであれ宿泊旅行であれ、片道100キロから400キロ内外というのが多いのではないだろうか。この場合、一般道路のみを走ることはまれで、通常は、高速道を走ることとなる。

 わが家から、行楽地までの行程を計算してみた。そのいくつかを挙げてみよう。
 最寄りの山中湖までは、距離約90キロ、そのうちの高速区間約77キロ、距離における高速区間の割合(高速割合)は約88パーセント。
 箱根までの距離約104キロ、高速割合約71パーセント。
 軽井沢まで距離約140キロ、高速割合約70パーセント。
 草津まで距離約165キロ、高速割合約95パーセント。
 鬼怒川までの距離約185キロ、高速割合約80パーセント。
 赤倉までの距離約260キロ、高速割合約93パーセント。
 猪苗代湖まで距離約290キロ、高速割合約90パーセント。
 高速道路網が整備されてきている現在、多少の数値は変動するにしても、多くの人にとって、似たような事情になるだろう。

 そこではっきりしてくることは、自動車の旅の大部分は、高速道路の走行に費やされることになることだ。
 では、運転者にとって高速道路の走行は、楽しいものなのだろか。高速道路は、信号や交差点によって停車しなければならない障害がないから、渋滞しない限り、走り続けられる。しかし、あの無機質で単調な道路は、楽しめるようなものだろうか。私にとって、楽しい走りの思い出は、高速道を下りてからの山道であったり、ひなびた里の道につながっていた。
 しかし、HIDSは在来の、現在も大半の車がそうであるのとは、まるで異なる異次元の運転感覚を創り出してくれた。そのおかげで、高速道も信頼して走れる安心な道となったからだ。

 磐梯高原ICまで小1時間。それから約30分、緩やかな山道を上った。
 五色沼は、晩春から初夏へと移り変わっている。この時季特有の柔らかいかすむようなミズナラやブナの新緑の芽吹き。ウグイスやカッコウの鳴き声。林間の小径をたどり、私たちは山の精気を味わった。

 往復約600キロを走って、燃料消費は14.6kmlを記録した。(搭載燃料消費計による)
HIDS使用で時速100キロ走行の場合、定速走行の効果が現れているのだろう。300キロを超えるHIDSの使用走行の際、悪くても13kmlにはなる。カタログに記載されている10モードの燃費12.0kmlを超えるのだ。

 HIDS で私の車の旅の態様は変化した。
 団塊の世代、熟年世代の人たちにはお勧めである。
 ただ、難点がないわけではない。
 車はホンダ製品、しかも車種は限られてくる。レジェンド、インスパイア・アコードだけだ。システムが工場での装着となるから、注文時に指定しなければならない。後付は不能なのだ。 それになんといっても高価である。
 でも、やはり勧めたいのだ。カーナビゲーション、ETC、車の新製品が登場したとき、性能・効果よりも、価格の高さが問題になった。しかし、価格よりも、もたらされる利便の大きさが認められて普及した。
 HIDS は、疑いもなく明日の自動車運転の幕開けに位置している。であるにもかかわらず、そのことはあまり知られていない。
 このHIDS について、自動車評論家の論評を雑誌・インターネットで見かけたことはまずない。これは私には実に興味あることだった。あれほど自動車について、さまざまな批評を展開するのに、なぜ、HIDS を批評しない、あるいは批評していないのだろうか。
 評論家は、外装、エンジン、ブレーキ、回転性能、乗り心地などにつき、自らの見識を発揮して書きまくり、語ったりもしている。だのになぜ、このシステムには触れないのか。
 私はHIDSで長旅をしてみて、その理由が分かったように思う。このシステムは安定している。システムをセットすると、車は安定して設定車速と車線を維持して走る。それだけだ。それ以上でも、それ以下でもない。だから、システムの基本や効能について論評しづらいのだ。

 熟年世代のあなた、ぜひ、HIDS搭載車に試乗してみませんか。きっと、あなたは、違和感に近い驚きを体感するはずです。
 それはあなたが、従来の自動車によくなじんでいるからの戸惑いです。私もそうでした。
 定速走行を設定すると、右足をどうすればよいのかと迷いました。
 車線維持が機能しはじめると、思わずハンドルを握る手が汗ばんできました。
 そして、何度かこうした体感を味わった後に、システムとなじみます。
 あなたがシステムを制御しはじめるのです。
 その時、きっとあなたは、高速道の走りを満喫していることでしょう。                                                              
 今や昔のアコードでさまざまな度を楽しみました。アコードは自動運転の先駆けでした。
 これは一人の老人の回顧録からの報告です。


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押し花絵の世界 №179 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「愛と感謝」

        押花作家  山﨑房枝

愛と感謝.jpg
55cm×45cm

母の日のプレゼントに制作した作品です。
河原母子の葉を交互に重ねて編んだ花籠の中に、カーネーションをメインに、ミニ薔薇、マーガレット、ノースポール、ムスカリなどの花材をアレンジして明るく可愛いらしい印象に仕上げました。



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