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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №56 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

行田の童たち原画 2

      銅板造形作家  赤川政由

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多摩のむかし道と伝説の旅 №126 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

             多摩のむかし道と伝説の旅(№29)
              ー西多摩の多摩川河畔の桜道を行く-6
                    原田環爾

 徳川家康の江戸入府以来、膨張する江戸の飲料水を確保するため、溜池上水や神田上水が開削されてきたが、抜本的な解決を図ることは出来なかった。4代将軍家綱の時、川越藩主で老中の松平伊豆守信綱は多摩川から水を引くことを発議、関東郡代伊那半十郎忠治の指揮のもと羽村出身の江戸の町人、庄右衛門・清右衛 門兄弟に工事を請け負わせた。開削工事は承応2年(1653)に開始されたが難渋を極めた。当初取水口を日野橋下流の青柳付近29-33.jpgから取水し、谷保田圃を抜けて府中まで開削したが、悲しみ坂で通水に失敗。やむなく次ぎの候補地福生熊川から開削を再開した。しかし古来言い伝えられてきた水喰土の伝承が現実のものとなり、水が地中に吸い込まれて通水に失敗。最後に信綱の家臣で土木技師の安松金右衛門の技術支援を得て、羽村から取水することでようやく成功したと言われる。二度の失敗でお上から預かった工事費六千両をすべて使い果たし、不足分は私財を投じて完成させたと伝えられる。兄弟はその功により幕府から玉川の姓を与えられ帯刀を許された。
 第二水門の上の小橋を渡って段丘を上がるとそこは旧奥多摩街道の道筋だ。街道に沿って50~60m辿れば水神宮がある。古びた木の鳥居に「水神宮」と書かれた神額が掛かっている。その横に立っている風格のある門は玉川上水羽村陣屋にあった陣屋門だ。つまりここは陣屋跡で、上水道の取り締り、水門・水路・堰堤等の修理・改築などの上水管理を行った役所の跡だ。堰を通過する筏師達もここで厳しい監視を受けたに違いない。門を入ると広い庭があり、その奥に陣屋敷、水番小屋があったというが、今は陣屋門が残るのみで、建物は明治維新のドサクサに紛れて処分されてしまったという。
29-34.jpg 玉川水神社は東京水道の守護神で、玉川上水が承応3年完成された際、水神宮として建設された。建設地は現在の場所と異なり、旧奥多摩街道を挟んで丁度筋向いの多摩川へ突き出た崖の上に建てられていた。以来300余年江戸町民及び上水路沿いの住民より厚く信仰せられてきたが、明治26年名を玉川水神社と改めた。水神社としては最も古いものの一つだ。
 水神社の前からは奥多摩街道を離れて多摩川沿いの水上公園通りに入る。沿道左手に広がる羽村堰上流の多摩川の雄大な景観が素晴らしい。遥か対岸に見える三角屋根の建物は羽村郷土博物館だ。程なく水上公園通りは二つに分岐する。右手ハケ上へと続く道は水上公園通りで、左手の道は少し下って堤の道となる。桜が沢山植えられており、桜堤通りと呼ばれている。その桜堤通りの降り口の土手に羽村市福島県人会が市制10周年記念に寄贈したという三春の滝桜がある。 満開の頃はそれは見事な咲きっぷりである。桜堤通りを100mもすすめば、先のハケを背景とした水上公園がある。人工の泉やプールを備えた29-35.jpgモダンな公園だ。この先堤を進むのもいいがハケ上の水上公園通りを採ることにする。通りを200mも進めば禅福寺という山門の見事な寺の前にくる。山門の前には大きな延命地蔵が立っている。山門脇から中を覗けば左右の墓苑の先に本堂が見える。妙徳山禅福寺は臨済宗建長寺派の寺で本尊は文殊菩薩。応安年間(1368~74)の創建という。山門は寛正3年(1462)の建立された。文化6年(1809)江戸の文人太田南畝(蜀山人)もこの山門前に来たと伝える。
 門前の水上公園通りを進めば程なくハケを下る坂道が分岐する。この下り道は面白いことに「雨乞街道」といい、坂を「雨乞坂」と呼ぶ。雨乞坂の名の由来は次のようなものである。江戸時代のこと、夏の日照りが続いて田圃の稲が今にも枯れそうになった時のこと、途方に暮れた村人が禅福寺の境内に集まり、水神の龍を作って雨乞いすることになった。松の木で龍頭をつくり、剣を角にして指し、胴体を藁でつくり、雌雄2頭の龍を作った。その龍を村の若衆が担いで、寺の前のハケの坂を駆け下り、根溺前の丸太橋を通って多摩川に入 り、龍を沈めて雨乞いをした。するとその日の夕方雨が降り、田圃の稲は枯れずに助かったという。このことからこの坂道を「雨乞坂」と呼ぶようになったという。
29-37.jpg 雨乞坂を下り降りると、眼前に広大な田園風景が広がる。右手のハケ下から左手遠くに見える多摩川堤との間に広がるこの広大な田園地帯を、土地の人は根溺前水田と呼んでいる。羽村で唯一の水田地帯と言われてきた所だが、今はチューリップ畑でよく知られている所で、5月から8月にかけては他に大賀ハス、牡丹、芍薬、白蓮が栽培されており、花好きにはこたえられない所になっている。根溺前水田をハケ下に沿って遥か遠くに目をやると黒い屋根の一峰院が豆粒のように望める。雨乞坂の割烹旅館「玉川苑」を左にやり多摩川堤の方向へ向かう。小さな用水路の小橋を横切ると程なく多摩川の堤下に出る。堤に上がると雄大な多摩河原が展開する。河川敷には広大な宮ノ下運動公園が広がる。宮ノ下の名はこの先に阿蘇神社があることによるのだろう。大正土手と呼ばれる綺麗な桜堤を進むと堤防下に古びた杉の木が1本立っている。古くから一本杉と呼ばれているものだ。残念ながら近年伐採されて今は切り株だけになっている。由緒書によると根溺前は羽村唯一の水田地帯であることから根溺前水田と呼ぶ。明治末期、2回にわたる洪水で田畑が水没したことから、大正12年に一本杉前の護岸工事が行われた。大正時代に造られたということから「大正土手」と呼ばれるようになった。平成6年には桜並木に改修された。一本杉については工事以前からこの土手に孤立して立っていたという。(この項つづく)


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夕焼け小焼け №35 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

上村蔵書のはざまで 2

             鈴木茂夫

 スターリンの率いるソ連は共産党が前衛として、理想的な社会主義国家が建設されているとされていた。文学の世界を作家同盟は規制した。作品の中で共産党が方針を示し、その組織が正しく活動を指導する状況を表現しなければいけないとしていた。
 「若き親衛隊」「静かなドン」などは社会主義リアリズムの傑作とされていた。私も一時期、ソビエト文学にある種の共感を抱いていた。しかし、つまらなくなった。
 スターリン批判が出てソビエトの暗黒面が浮き彫りされた。
 スターリンは何十万人の無辜の人を殺した恐るべき独裁者であると批判され暴露された。パステルナーク、ソルジェニーツィンが描きだした暗黒の世界に、社会主義の虚妄を知った。私はこれらの作品を二度読み直した。そして社会主義への幻想は消えた。
 
石原慎太郎「太陽の季節」、大岡昇平「レイテ戦記」、山田風太郎「柳生忍法帳」、野村胡堂「銭形平次捕物控」、江戸川乱歩「孤島の鬼」、羽仁五郎「都市の論理」、五木寛之「青春の門」、司馬遼太郎「竜馬がゆく」、三島由紀夫「禁色」、ジャン・ジュネ「泥棒日記」レイモン・ラディゲ「肉体の悪魔」、ロマン・ロラン「愛と死との戯れ」、高村光太郎「智恵子抄」、ジャンポール・サルトル「嘔吐」、谷川俊太郎「20億光年の孤独」、有吉佐和子「紀ノ川」、木下順二「夕鶴」、エーリヒ・レマルク「西部戦線異状なし」、和辻哲郎「風土」、 開高健「裸の王様」、キェルケゴール「死に至る病」原田康子「挽歌」、田中英光「オリンポスの果実」、有吉佐和子「紀ノ川」、太宰治「人間失格」、織田作之助「夫婦善」、中島敦「山月記」、埴谷雄高「死霊」、坂口安吾「白痴」伊藤整「小説の方法」、ス」、井伏鱒二「黒い雨」、有島武郎「或る女」、丹羽文雄「親鸞」、宮本百合子「貧しき人々の群」石川達三「蒼氓」、直木三十五「南国太平記」、

 昭和19年(1944年)4月からはじまったレイテ島の戦いで日本軍は84000人の犠牲を出した。大岡昇平の「レイテ戦記」は、戦いの現実を克明に描写している。
 大岡昇平は「私は『レイテ戦記』を特に歴史と考えて書いたわけではなかった。民間の一個人として完全な歴史を書くには資料が不足しているのである。〃〃多くの僚友が惨めな死に方をした。戦争という非情な殺戮の場に巻き込まれた人間の惨めさを私は書いた。当時はレイテ島戦闘の全体をより大きな敗軍の地獄図と考えていたのである」

大佛次郎「天皇の世紀」、三木清「人生論ノート」、海野十三「浮かぶ飛行島」、石川啄木「一握の砂」、川端康成「雪国」、葉山嘉樹「海に生くる人々」、横光利一「上海」、野間宏「真空地帯」、三島由紀夫「金閣寺」、森正蔵「旋風20年」、徳田球一・志賀義雄「獄中18年」、井原西鶴「好色一代男」、安陪公房「壁」、遠藤周作「沈黙」、大佛次郎「鞍馬天狗」、徳永直「太陽のない街」、山中峯太郎「亜細亜の曙」、高見順「故旧忘れ得べき」。

 大佛次郎「天皇の世紀」は黒船来航に始まる幕藩体制の動揺。明治維新をへて近代日本が生まれる。その足跡を大きく描いた歴史小説だ。多くの人があらわれ、時代を切り拓く。
 膨大な資料を駆使した歴史巨編だ。読み進むほどに歴史の現場を作者と共にする。
 原稿用紙をひろげてこんな歴史小説がかければと思ったことが何度もある。

 ドス・パソス「USA」、ヤロスラフ・ハシェク「兵士シュヴェイクの冒険」ジャック・ロンドン「野性の呼び声」、ジェローム・ジェローム「ボートの三人男」、チャールズ・ディケンズ「オリバー・ツイスト」、芹澤光治良「巴里に死す」、シャーロット・ブロンテ「ジェーン・エア」、サン=テグジュペリ「星の王子さま」、ジョージ・エリオット「サイラス・マナー」、アーサー・コナンドイル「緋色の研究」、オスカー・ワイルド「ドリアン・グレイの肖像」、エミリー・ブロンテ「嵐が丘」、ダニエル・デフォー「ロビンソン・クルーソー」、 サマセット・モーム「人間の絆」、ジョージ・オーウェル「動物農場」、ヘンリク・シェンキェヴィチ「クォ・ヴァディス」、ダンテ・アリギエーリ「神曲」、アントン・チェホフ「桜の園」魯迅「阿Q正伝」、坪内逍遙「小説神髄」 
                                                                             
 ドス・パソス「USA」は忘れられない。 「北緯 42度線」、「1919年」 「ビッグ・マネー」の3部作だ。20世紀初頭からの3激動する30年間を描いている。
 初めててにしたとき、これは文学狭品なのだろうかと違和感があった。
 男女6人の物語がある。新聞記事、流行歌の1節、社会情勢などが次々に現れる。バラバラのデータに見える。これまでに読んだ作品とはまるで違う。面白くなかった。本を閉じた。でも何かが違う。それには惹かれる。再び読み直す。ニューズ・リールが使われている。現在の状況が記された新聞記事が紹介される。それは新しい手法だと気がついた。時代を表現しているのだ。作品は私の中に重く沈殿した。
 私は放送人となり、携帯用の録音機を担いで、その日のできごとを録音で伝えた。まとまった主題の番組を構成した。録音したデータを、小さな単位にしていくつもつくり構成した。コラージュだ。私の中で「USA」が顕在化した。音声や映像はもちろん、文字でもこの手法により、作品としたいと思った。
 拙著「台湾処1945年」は、ドス・パソスに学んだ。大東亜戦争の末期の台湾の状況、日本人の引き揚げまでの状況をまとめるのに、その手法をお手本にした。

 ある日、書棚に「小説神髄」を発見した。                                         
 新しい小説が,勧善懲悪を柱としていた江戸時代の戯作とは異なると述べている。    
 逍遙は江戸時代、幕末に行われた著名な文芸作品について、幅広く深い知識がある。それらを具体的な例に挙げて論評する。                                               
 江戸時代から明治時代へと大きく社会が変転していくなかて、新しい文芸はなにか、どうあるべきかを具体的に指し示した。                                              
 「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ。人情とはいかなるものをいふや。曰く、人情とは人間の情欲にて、所謂百八煩悩これなり。夫れ人間は情欲の動物なれば、いかなる賢人、善者なりとて、未だ情欲を有ぬは稀れなり。賢人不肖の弁別なく、必ず情欲を抱けるものから、賢者の小人に異なる所以は、一に道理の力を以て若しくは良心の力に頼りて情欲を抑え制め、煩悩の犬を攘ふに因るのみ」                                    
 小説総論で、美術とは如何なるものなりや、小説とは美術なりという。             
 小説の起原と歴史の起原と同一なり。                                             
 小説の主眼は専らに人情にある。小説には、模写小説と勧懲小説との差別がある。     
 文は思想の機械なり、また粧飾なり。小説を編むにはもっとも等閑にすべからざるものなり。小説の文体として、雅文体、、俗文体、雅俗折衷文体のそれぞれの得失を論じる。  
 文章上にて用ふる言語と、平俗談話に用ふる言語と、さながら氷炭の相違あり。       
 主人公とは何ぞや。小説の眼目となる人物是れなり。或ひは之を本尊と命くるも可なり。
 主人公の員数には定限なし。唯一個なるもあり,二個以上なるものあり、されど主人公の無きことはなし。       
                                                      
 後にも先にもこれほど丁寧な文学論は見当たらない。私は海水と淡水が入り交じる汽水湖を思った。               
 坪内逍遙の「小説神髄」は近代文学の礎石といえる。私はこれに接し感動した。       
 これを読むと読まないとにかかわらず、逍遙の示唆した新しい文芸が花咲いたのだ。  
                                                                               
  私自身の好みの作家をあげてみた。
 芥川龍之介、夏目漱石、井伏鱒二、大佛次郎、島崎藤村、坂口安吾、織田作之助、二葉亭四迷、太宰治、宮沢賢治、石川純、吉川英治、石川淳 、高見順 、樋口一葉、中島敦、司馬遼太郎 、有吉佐和子、伊藤整、 伊藤桂一、火野葦平、佐々木譲、城山三郎、半藤一利  藤沢周平、野坂昭如、谷川俊太郎、寺山修司 、大岡信、中原中也,白石和子、北川幸彦 ,田村隆一

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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №224 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

樽見鉄道・谷汲口(たにぐみぐち)駅の桜

             岩本啓介

224樽見鉄道こうみ神海~谷汲口たにぐみくちハイモ330‐701.JPG
  
日本三大桜のひとつ『根尾谷の薄墨桜』を観に行きました
途中駅の『谷汲口駅』の桜が綺麗で、思わず下車
  
2017年4月11日15:11


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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №56 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

行田の童たち 原画 1

        銅板造形作家  赤川政由

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埼玉県行田市の街づくりにこたえて、メインストリートに40体の童像を設置しました。
いま、当時の市長も替わり、再開発のもとで、この童たちも行方が心配です。

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◆葉っぱ葉っぱ葉っぱ展のお知らせ

        MATプロヂューサー  しおみえりこ

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押し花絵の世界 №202 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

 「薔薇のウェルカムボード」

         押し花作家  
山﨑房枝

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30cm×30cm

友人の結婚式のウェルカムボードを、ピンクの可愛いミニ薔薇や、桜を使用してハートの形に制作しました。
アクセントに水色のデルフィニィウムを取り入れ、背景は若草色に染めた布の上にレースを置いて爽やかなイメージに仕上げました。

結婚式当日は、幸せに満ち溢れた2人の披露宴会場に彩りを添えさせてもらえて嬉しかったです。

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              <押し花展のお知らせ>

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多摩のむかし道と伝説の旅 №125 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

           多摩のむかし道と伝説の旅(№29)
              ー西多摩の多摩川河畔の桜道を行く-5
                    原田環爾

[後編]羽村駅から小作駅まで(桜:羽村堰~阿蘇神社)

 コース概略は次の通り。JR羽村駅を出発し、五ノ神神社、牛坂通りを経て玉川上水水辺に出る。羽村関を経て堰界隈の古社寺に立ち寄って根溺前水田へ。続いて多摩川桜堤を通って阿蘇神社と一峰院に立ち寄った後、羽西の里道を辿って小作堰へ。終着は奥多摩街道からJR小作駅へ至るものとする。詳細地図を以下に示す。
29-31.jpg JR青梅線羽村駅を北側に出て、駅前ロータリーの右手西友のすぐ裏にある五ノ神神社へ向かうことにする。狙いはそこにある「まいまいず井戸」を見るためである。まいまいず井戸とは、武蔵野台地のような火山灰地の乏水地帯で水を得るために築造されたすり鉢状の古井戸のことである。五ノ神神社は推古天皇9年(601)創建と伝える。宝亀年間(770~780)に熊野五社大権現を祀ったことから、元は熊野社と称し、五ノ神の地名が生まれたという。祭神は天照大神、素戔嗚尊、天児屋根尊、伊弉冉尊、事解能男尊、現在の本殿は文久2年(1862)に竣工したものである。五ノ神神社の前にある「まいまいず井戸」は伝承では大同年間(806~810)に造られたと言われるが、実際には鎌倉時代に創建されたものと推定されている。記録によれば元文6年(1741)五ノ神村で井戸の改修工事が行わている。地表面での直径16m、深さ約4.3m、底面直径約5mのすり鉢状の窪地で、すり鉢の底中央に直径約1.2m、深さ5.9mの掘り井戸がある。井戸に向かって降りる通路が「かたつむり」に似ていることから「まいまいず」の名がある。

29-27.jpg

 再び羽村駅の改札口の前を通って駅の南側に出る。駅前からすぐ左へ入る路地を採る。狭い路地を線路とほぼ平行に100mも進めばやや広めの車道に出て、すぐ南へ入る街路が現れる。道標に街路の名を牛坂通りと記している。一風変わった名である。この道はかつてはまいまいず井戸に通じていた。実際街路を振り返ってみると、すぐ20~30m先でJR線にぶつかって終わっている。線路の向こうに延長すればまいまいず井戸に至ることは容易に理解できる。牛坂通りの名は、江戸時代の元文6年(1741)のまいまいず井戸大修理の際に、ここより南1k29-28.jpgmほどの所にある多摩川から石や砂を運んだが、その間に3つの坂があったので、牛を使って運んだということからこの名がある。伝える所によるとこの坂道は牛にとっても相当重労働であったようで、井戸から300m の所にあった坂で何頭かが倒れて死んだという。
 牛坂通りに入る。何の変哲もない街路だ。街路は右の羽東地区と左の川崎地区の境界を縫う道だ。ほどなく緩やかな下り坂となり、下りきった所で新奥多摩街道と交差する。街道を横切ると牛坂通りは再び平坦な街路となる。ほどなく右手アパートのある丁字路帯に来る。ここから右手分岐道の先に眼をやると羽村東小が見える。ちなみに羽村東小の校門前には旧鎌倉街道の道筋が今も残されている。またこの丁字路帯の一角に、この付近一帯が縄文時代の遺跡跡であることを示す解説板が立っている。解説によると、羽村東小を西端とする東西約500mは縄文中期(4~5千年前)の集落跡で、羽ヶ田上遺跡という。昭和28年、学校建設に伴う発掘調査で発見された「東ガヤト遺跡」と明治時代以来土器片が採集されていた「川崎遺跡」を合わせて「羽ヶ田上遺跡」と称されるようになったという。
29-29.jpg 丁字路から先の牛坂通りは狭い路地となる。程なく緩やかに右方向へカーブすると、眼下に玉川上水を望む河岸段丘の上に来る。道はこの先急な長い下り坂となるが、左手を見ると段丘上にささやかな公園が隣接している。川崎西公園と言い、公園突端からの眺望は良く、特に玉川上水第3水門を一望に見渡せるのがいい。第3水門の役割は狭山丘陵村山貯水池へ送水するための水を取水することにある。頭を180度巡らせて公園の北側に目をやると、真っすぐ北東方向へ延びる道が目に入る。この道筋こそその水道道路で、地下に送水管が埋設されているのだ。羽村村山線と言い、大正5年~13年にかけて帝都の水瓶として建設された村山貯水池へ多摩川の水を送水する導水管が埋設されている。途中福生29-30.jpgの横田基地で分断されるが、その先武蔵村山に入ると再び姿を現し、野山北公園自転車道となっている。面白いことに昭和初期にはこの同じ道を鉄道が走っていた。昭和3年~8年にかけて第二期工事として山口貯水池建設が行われ、そのため多摩川の良質の砂利を大量に必要とし、その輸送手段としてこの水道上に鉄道を敷設、いわゆる軽便鉄道を走らせた。
 またこの小公園はもう一つ別の歴史的遺構の跡地でもある。先の羽村東小で途切れた旧鎌倉街道が通っていた道筋に相当するのだ。かつては遠江坂と称する坂道があったという。遠江坂は、旧羽村と川崎村の境にあったが、大正時代に羽村堰から村山貯水池への取水工事のため壊され、今はかつての姿を留めていない。戦国時代、当地を支配した豪族大石遠江守が、この坂の付近に居館を構えていたことから遠江坂の名がある。遠江坂を下り、多摩川を渡って秋川方面へ向かう古道は鎌倉街道とも遠江街道とも呼ばれ、大石氏や小田原北条氏の滝山城や高月城を望む要衝として大石氏が館と築いたものと考えられている。(なおごく最近、川崎西公園の界隈は大幅に区画整理がなされ、記載内容とは少し変わっている可能性があるので要注意。)28-33.jpg
 坂道を下って奥多摩街道に入る。第3水門を後にして玉川上水左岸を100mも進めば、青い陸橋と信号付横断歩道のある羽村橋の袂に来る。橋の袂には都の天然記念物という欅の巨木が立っている。目通り幹囲約5.5m、樹高約23.5mという。羽村橋を渡り上水の右岸に回る。右岸は桜並木になっていて季節の頃は花見客で賑わう所だ。やがて左手から多摩川堤が接近し上水の桜堤と合流すると、前方には広々とした河原29-32.jpg風景が展開するとともに羽村の堰が姿を現す。やがて取水堰を眼下に見下ろす広場に入る。広場には玉川上水の開削に心血を注いだ玉川兄弟の像が立ち、また別の一角には多摩川の水流を調節するのに使われた牛枠が置かれている。広場の突端からは左手に投渡し堰、正面に第一水門と吐水門、右手段丘 下に第二水門が見ることができる。(この項つづく)


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夕焼け小焼け №34 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

上村蔵書のはざまで 1

             鈴木茂夫

  私がどんな書籍を読んでいたかを覚えているままに書き出してみた。
 上村良一氏は読書家だ。元事務所の3つの壁面に多くの書籍を収容してある。
 日本文学、世界文学の全集があった。哲学書もあった。れは私には宝の山だった。手当たり次第に接した。読書にはジャンルの選択や順序があるのかも知れない。だが私はそのようなものがあることを知らない。なんらかの方針があったわけではない。作家がどのような人であるかは知るよしもない。それこそ手当たり次第に読んだ。上村家のお世話になった3年間の濫読だ。読み終わってはじめて作家と作品について知ることができた。
 これは上村蔵書のはざまで私が学んだ随想である。

 学校の授業に追いつくために、英語はもちろん、漢文、日本史などを習得しなければならなかった。帰宅すると、これらの参考書に取り組み午後10時で区切りをつける。
 軽く整理体操をしてから好みの読書をはじめた。どれを読んでも面白い。知らなかった世界が広がっているからだ。難しい熟語、単語は、学校の休み時間に漢和辞書をひいて覚えた。
 雑ぱくに読み込んでいくと、作家への好き嫌いがでてくる。優しいか難しいかに分かれる。それは作品の文体に触発されたからだ。どのような文体が好ましいかが、頭の中に沈潜する。自分の文章を書くとき、それを手本にすることもある。
 私の文学作品に関する基礎知識はこうして養われた。この中には東京へ出てから読んだものも混交している。またこれらの中には途中で投げ出したものもある。
 本棚と本棚のはざまに座り込んで本とのつきあいを書き留めてみた。

 尾崎紅葉「金色夜叉」、幸田露伴「五重塔」森鴎外「高瀬舟」、二葉亭四迷「浮雲」、島崎藤村「夜明け前」、正岡子規「病牀六尺」、福沢諭吉「学問のすゝめ」、夏目漱石「こころ」、国木田独歩「武蔵野」、徳冨蘆花「不如帰」、泉鏡花「高野聖」、吉川英治「宮本武蔵」、永井荷風「ふらんす物語」、坪内逍遙「沙翁全集」小林秀雄「様々なる意匠」、志賀直哉「暗夜行路」

   シェイクスピア全集がある。坪内逍遙がそのすべてを翻訳している。私はその中の「ジュリアス・シーザー」が好きだ。
 3月15日、不吉なことが起きるとの予言をよそに、シーザーは群衆の中に出ていく。雷鳴がとどろくなかで、数人の刺客に襲われる。そこにブルータスを認め、「や、ブルータス、お前までが、ぢゃ、もう」言い終わって シーザーは死んだ。

ブルータスは語る。
「此の群衆中にシーザーの真の親友が居らるるなら,予は其人に対って言ひます。ブルータスのシーザーを愛する心も決して其人劣らなかったと。では何故ブルータスはシーザーに敵対したか、と若し其の人が問はれるなら,予は斯う答へる。それはシーザーを愛する心が浅かった為ではない。ローマを愛する心が更にそれよりも深かった為であると」
ブルータスは雄弁に自らの行動を正当化した。
この後に、アントーニオが語る。シーザーを称え、ブルータスを糾弾する。アントーニオの弁舌はブルータスを上回るのだ。 二人の対立する雄弁が盛り上がる。

 出隆「哲学以前」、谷崎潤一郎「春琴抄」、小泉信三「共産主義批判の常識」、倉田百三「出家とその弟子」、斎藤茂吉「赤光」。与謝野晶子「みだれ髪」、野上弥生子「海神丸」、武者小路実篤「友情」、芥川龍之介「地獄変」、林芙美子「放浪記」、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」、西田幾太郎「善の研究」、宇野千代「色ざんげ」佐藤春夫「田園の憂鬱」、原田康子「挽歌」田辺聖子「感傷旅行」林芙美子「放浪記」、城山三郎「落日燃ゆ」、 幸田文「流れる」、

 「共産主義批判の常識」は、左翼のパンフレットを読んで共産主義に共感を抱いていた私を根底から揺さぶった。労働が価値を生み出すという左翼の主張に対して、
  「深海の底にもぐって採取される真珠は高い価値を持っている。 しかしこの価値は果たして潜水労働によって造り出されたものであるか。真珠と同じ深さの海底から同じ困難さをもって採取されるものは、役に立つものも立たないものも、美麗なるものもならざるものも、如何なるものも皆等しき価値を有すると考えられるか、何人もそうでないことを承知している。第一、人はそのような役に立たぬ、或いは美しからぬ物を採取するために潜水の労苦を敢えて忍ぶという如き物好きをせぬであろう。ということは、価値は労働によって造り出されるのではなくて、物に価値あればこそ、人がそのため労働を費していとわという方が真実なのである」
 私は何を言っているのか反発した。だがこの主張に反論することができなかった。この意見を左翼の友人に語ると、反動学者の戯言だと言ったが、明快な意見を聞くことはなかった。

「哲学以前」は哲学の手引き書だった。しかし受験生には無縁、入学してから哲学を考えられる。作者は日本共産党に入党、除名されるなど振幅が大きい。
「善の研究」は、1つの事柄を受け止めると主語や述語に整理して、意味のある文章に転換していく。それ以前の主語もない、述語にも分かれる以前の渾然とした思いを大事にする。それを純粋経験という。わからないままに心惹かれた。

ボリス・パステルナーク「ドクトル・ジバゴ」、ウラジーミル・マヤコフスキー「マヤコフスキー詩集」、ミハイル・ショーロホフ「静かなドン」、 アレクサンドル・ソルジェニーツィン「収容所群島」、イリヤ・エレンブルグ「パリ陥落」、アレクサンドル・ファジェーエフ「若き親衛隊」、ミハイル・レールモントフ「現代の英雄」、 マキシム・ゴーリキー「母」、ニコライ・ゴーゴリ「外套」、アレクさんドル・プーシキン「プーシキン詩集」、フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」、レフ・トルストイ「戦争と平和」、イワン・ツルゲーネフ「猟人日記」、アントン・チェーホフ「桜の園」、ミハイル・アルツィバーシェフ「サーニン」、イワン・ゴンチャロフ「オブローモフ」、ニコライ・ネクラーソフ「ロシアは誰に住みよいか」、 アレクサンドル・ゲルツェン「誰の罪」、ニコライ・オストロフスキー「鋼鉄はいかに鍛えられたか」、コンスタンチン・シーモノフ「プラーグの栗並木の下で」、


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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №223 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

葉桜と八重桜・立川モノレール  

               岩本啓介

223葉桜と八重桜・立川柴崎町駅近く のコピー.jpg
 
     
多磨モノレールと奥多摩街道が交差するモノレールの高架下から
見上げるように撮った一枚です。桜は葉桜となり、八重桜が満開でした
柴崎体育館駅~甲州街駅
    
2017年4月25日15:22
    


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押し花絵の世界 №201 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「アスターとオステオスペルマム」

         押し花作家   山﨑房枝

2024.4月下.jpg
20cm×16cm

どこにでも飾りやすい小さくてシンプルなサイズの額に、ブルーの鮮やかなアスターと、毎年のように新種が発表されるオステオスペルマムを使用してシンプルに仕上げました。



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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №55 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

森と泉と命の木

      銅板造形作家  赤川政由

55 のコピー.jpg
55-2.jpg

奥多摩綴奥多摩駅前観光協会

奥多摩駅前の観光案内所にあるモニュメント。この土地は国定公園の入り口。山々の樹々は、だんだん枯れかけている…と小鳥たちが何やら騒いでいる。動物たちもやって来て心配そうだ。ブッポウソウの家は木の葉すくで、本当は鳴いている。キツネがウソを見破っている。
人々が暮らすには自然を守らなければならない。そんな思いで作られた命の木は足元にはヤマセミの噴水があり、ここから水がやがて多摩川に流れていくというイメージ。


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多摩のむかし道と伝説の旅 №124 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

           多摩のむかし道と伝説の旅(№29)
             ー西多摩の多摩川河畔の桜道を行く-4
                    原田環爾

29-25.jpg これより羽村駅へ向かうこととする。お寺坂と呼ばれる切り通しになった急坂の上り口には、長編小説「大菩薩峠」で知られる中山介山の眠る禅林寺がある。墓は寺の裏のハケの上の墓苑の中ほどにある。禅林寺は文禄2年(1593)島田氏の祖島田九郎右衛門を開基に、円覚寺の三伯禅師の弟子春覚禅師を開山として創建された臨済宗建長寺派の寺だ。古い地名の東ヶ谷戸にあることから山号を東谷山と号す。また禅林寺の寺名は建長寺の「天下禅林」の額の二字をもらったものという。本尊は如意輪観音。他に豊臣秀吉縁の観音像がある。境内には天明4年(1784)の大飢饉の際に農民一揆で犠牲となった9名を義民として称え、明治27年建立された天明義挙の碑がある。また裏の丘の上の墓苑の中ほどには、長編小説「大菩薩峠」の著者として知られる中里介山の墓がある。
禅林寺を後にし切り通しになった急坂のお寺坂を上る。坂道途中左に「馬の水飲み場跡」と称する石垣で囲まれた遺跡が残されている。坂の下の農民達は、段丘上の畑に肥料を運んだり収穫物を運んだりするのに、馬に荷車を引かせた。急坂で疲れた馬にここで水を飲ませたという。また明治27年(1894)以降は、多摩川の砂利を羽村駅まで運搬する馬の水飲み場として大いに利用されたという。明治の中頃までは荷車がやっと通れる程度の道幅だったという。
29-26.jpg お寺坂を上がり切ると3本の道が交差する新奥多摩街道の交差点に出る。ちなみに北西から東南にかけて斜めに交差する細い道筋は旧鎌倉街道である。辻の一角にこの古道の由緒書が立っている。由緒書によれば、羽村の旧鎌倉街道は、ここより北方へ約3kmの所にあった青梅市新町の「六道の辻」から羽村駅の西を通り、羽村東小学校の校庭を斜めに横切って遠江坂を下り、多摩川を越え、あきる野市折立を経て滝山方面へ向かっていたという。入間市金子付近では、竹付街道とも言われ、玉川上水の羽村堰へ蛇籠用の竹材などを運搬した道筋であったという。
辻を渡れば羽村駅はもう目前だ。(この項 後篇へつづく)


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夕焼け小焼け №33 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

新聞『葦笛』

            鈴木茂夫
 
 昭和22年(1947) 4月 12日土曜日。
 午前中だけの授業が終わった5年1組。みんな昼飯をおえると帰っていった。がらんとした教室に、いつも語り合う4人がなんとなく教室に居残った。
  服部、増井、小原、そして私だ。いつも議論する。
 新聞やラジオで問題としている「天皇制」を取り上げたこともある。
 天皇の権限を縮小して,将来は大統領制にするのがいいと、服部、鈴木で主張した。  日本は天皇を憧れの中心として、心の繋がりを持っている国家なのだと小原、増井が反論した。
 「天皇の姿を思い出したよ」 
 小原が呟いた。

 昭和21年(1946年)2月から天皇の発案により、近県を手はじめに各地を巡幸されている。背広姿でソフト帽をかむつた天皇は笑顔で手を振っていた。戦災に痛めつけられた国民感情は、天皇の飾らない親愛の思いに接した。人びとは辛い思い出を抱きながら、天皇と一体感で結ばれていた。天皇はまぎれもない国民の天皇だった。
 10月22日、天皇は名古屋を訪問。私たちも歓迎の列に加わった。天皇を目の当たりにして感動した。日本人として心のつながりを感じたのだ。

「天皇は大切にするべきだ」
 増井が言い切ると、議論は止まった。
  夢中になって議論するのだが、服部が新聞や総合雑誌からの受け売りしているに過ぎないと指摘し、バカバカしくなって止めた。

 増井士郎が口を開いた。
 「1年先輩の山下さんが,われわれの学校新聞『惟信週報』と名付け、手書きの原稿を謄写版(鉄筆でロウ紙原紙に字を書く。その原紙を木枠の刷り台に取り付け、インクをつけたローラーを原紙に転がし印刷する)で制作していただろ。山下さんは今年卒業したから、『惟信週報』はなくなる。これの代わりを出すのはどうだろう」
 「謄写版印刷は手間がかかりすぎる。やるなら活版印刷が良いぞ」
 「活版には賛成だ」
 服部英二がうなずいた。題名はどうすると、つぎつぎに意見が出た。
 『惟信中学新聞』こ『新聞惟信』『惟信週報』『惟信タイムス』『新聞ひいらぎ』
 増井が黒板に書き出した。
 「それぞれもっともな題名だが、なんとなくぴたっとせんな」
 小原重二が頭をふりながら呟いた。
 「学校のそばを流れる庄内川には葦が茂ってる。『葦笛』はどうだろう」」
 これは私・鈴木茂夫の意見だ。
 「葦笛は女学校の新聞みたいな感じがするが、在来の枠にはまらない新鮮さがある」
 「まあええわ。それでやろまいか」
 服部の一声で題名は決まった。
 発行は月に1回。タブロイド判。200部刷ろう。先生の協力も求める。定価は5円。4年生の岡本の家は印刷所だから、お願いしよう。創刊号の売り上げで、印刷代は払う。
 「ところで誰が編集長をやるんだ」
  「鈴木、君がやれ」
 私はうなずいた。
 「会計は小原頼むぞ」
 残る2人は、さしずめ論説委員と記者だ。服部が、
 「俺は詩というか随筆というか,そんなのを書きたい」
 「僕は英語の詩を訳して載せたい」
 増井の頭には、すでに対象としているのがあるようだ。

 創刊号の1面を飾るのには何がいいと考えていたら、愛知一中とのバスケットボールの試合があった。勝てば金沢で開かれる第2回国民体育大会の愛知県代表として参加できるのだ。われわれ「葦笛」編集部は全員応援に参加した。
 試合は惟信中学体育館で行われた。愛知一中から選手のほかに数十人の生徒が応援にと同行していた。
 試合に先立ち、体育の桜井義高先生は、
 「愛知一中にはバスケットボールの伝統がある。これまで試合してわれわれは勝ったことがない。きょうも必ず勝つつもりで来ているはずだ。君たちには何があるかな。これまで練習してきた成果に自信を持て。勝つと思うことだ。私は君たちを信じる」
 体育館は応援の生徒で身動きできない。
 試合開始。双方5人の選手がコートに入った。
 第1クォーター。一中の選手はみんな背高だ。軽やかにパスを回す。ロングシュートで6ポイント獲得。惟信は動きが鈍い。
 第2クォーター。桜井先生に指示されて動きが活発になる。ボールを保持し、ランニングシュート、ロングシュートを決め6点。
 第3クォーター。一中も猛反撃。相次いでシュート。8点獲得。惟信押され気味。う
 第4クォーター。惟信も立ち直って攻勢。動きが敏捷になりシュートが決まる。12点。
一中も選手を替えて攻勢に立つ。4点獲得。惟信の動きは一中を上回る。シュートで8点。

 思いもかけず惟信が勝利した。選手に涙が光る。

 試合から3日、選手は名古屋駅に集まった。金沢をめざすのだ。
 見送りに来た永田正一が、
 「惟信中学校歌を歌うぞ」

  ここは尾張の 広野のもなか 富と文化の 新たに栄え
  国の柱と 立つ中京の中にも若き 町のまなびや

  新興の気を 身に負いしめて 堅実勤勉 二つの旗を
  旗色著るく かゝげて進み われらの校風 高くも揚げよ

 選手は整列して頭を下げていた。
 スクラムを組んで歌う。私ははじめて聞く校歌だ。 惟信中学も悪くないなと思った。

 「葦笛」の1面トップは惟信の勝利だ。
惟信中学が勝った
宿敵愛知一中を撃破 
 「撃破は戦争中の用語だけど、これでいいか」
 服部がうなずいて了解したようだ。
 小原が学校教育制度が新しくなり、63制になる解説記事を担当した。
 現在、われわれの在籍している5年制の県立中学は今年度で終わり、来年度つまり昭和23年には新制の高等学校になる。現在の5年生は進級して高校の3年生になる。現在の4年生は2年生、3年生は1年生になる。2年生と1年生は、惟信高等学校の併設中学の生徒になる。

 私はふと思いついた。
 「今はなんでも民主主義と言わないと通りが悪い。俺たちも民主主義を載せよう」
 服部がいぶかしげな顔だ。
 「民主主義を話すのにどの先生がいいんだ」
 「うちの学校の先生だと、なかなか決まらない。俺の思いは、民主主義さんに話してもらうんだよ」
 「わからんな。民主主義さんてなんだ。どういう意味だ。簡単に言えよ」
 「俺たちは占領されてるよな。占領しているのはアメリカさんだ。名古屋の軍政部がある。アメリカの兵隊に話してもらうんだよ」
 「それはいいけど、ボクらは知らんぞ」
 「訪ねりゃいいんだよ。そろっていこまいか」
 そこで私たちは、軍政部を訪ねようと出かけた。県庁と市役所の向かい側にこじんまりした建物があった。増井がここは海軍が使っていたところだという。
 Nagoya Military Governent Civil Infotmation and Education と標識があった。
入り口に一人の日本人が受付に立っていた。
 「僕らは民主主義の話を聞きに来たんです」
 「何っ、民主主義だと。分かったちょっと待ってて」
 男は二階に駆け上がっていった。しばらくすると、男は一人のアメリカ兵を連れてきた。
 背格好はそんなに高くない。明るい笑顔で、
 「やあみんな、僕はBruce  E Robinsonだ。corporalだ」
 はじめて聞くアメリカ人の英語だ。通訳の人がいるものと思っていたのだ。
 僕たちは顔を見合わせた。目顔で増井にしゃべるようにうながした。増井は頬を紅潮させているが、首を振った。三人に押し出されるように私が前に出た。
 「僕たちは惟信中学の生徒、5年生です。今、学校の新聞をだそうとしている。その第1号に民主主義とは何かを載せたい。あなたにそれをお願いしたい」
 私は知っている単語を並べた。文法のことなぞ、かまっていられない。話さなければ。
 Bruce は右手の拳に親指を立ててうなずいた。
 「わかった。2階においで」
 2階は事務室だ。20人近い人たちが事務を執っていた。
 Bruceは僕たちを座らせると、リンカーンの話をはじめた。
 「ゆっくり話して」
 僕たちはあわてて、ノートに書き込む。
 Bruceは僕たちの顔をみつめ、話が理解されているのを確かめるように話した。その気配に数人の兵士がわれわれを取り巻いていた。その中の一人が、われわれにガラス瓶を差し出した。飲んでごらんという顔だ。それは甘苦い。病院でくれる水薬に似ている。気持ちが悪くなりそうだったが飲み干した。顔をしかめる。
 「それはコカコーラだよ。慣れると美味しいよ」
 Bruceが笑った。コカコーラにもアメリカの民主主義にも、初めての出会いだった。


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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №222 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

裏高尾の春

           岩本啓介

裏高尾・荒井梅園

222特急かいじ186号・189系国鉄色・高尾荒井梅林.jpg

JR高尾駅から散歩がてら40分程歩くと、荒井梅林に到着します。
眼下に中央線、後ろを見上げると、中央高速の道路が見えます。
懐かしい『国鉄色特急上りかいじ』がやってきました。引退して5年です。

2017年3月18日 9時40分


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押し花絵の世界 №200 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「Flower Dance」

              押し花作家  山﨑房枝

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70cm×55cm

(第22回 押し花絵画創造展 特別出品作品)

色鮮やかなガーベラ、クレマチス、アンスリウムなどをアレンジして、植物達がダンスを踊っているような陽気なイメージで制作しました。

国営昭和記念公園 花みどり文化センターにて
4月12日(金)〜4月14日(日)まで開催予定の
花と緑で楽しむアートクラフト展in東京2024で展示されます。
終了後は5月1日〜5月7日まで、あべのハルカス近鉄本店にて巡回展覧会予定です。
お近くにお越しの際は是非ご覧ください。


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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №54 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「ドードードリと少女」Doh-doh Bird and a girl

        銅板造形作家  赤川政由

54ドードードリと少女.jpg


JR奥多摩綿奥多摩駅前観光協会
観光案内所のベランダにある鳥たちの水飲み嵐ドードー・ドリは人類が即に絶滅させた生物。不思議の国のアリスにも登場する。この頃の小学校四年生の教科書に載っていて、娘が教えてくれた。夜になると子どもを乗せて、子どもの思いを叶えてくれるというお話。ここのドードー・ドリに乗った少女は、子ともたちの願いのく木の葉>を持って飛んで行く。夢の中で!

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多摩のむかし道と伝説の旅 №128 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

          多摩のむかし道と伝説の旅(№29)
             ー西多摩の多摩川河畔の桜道を行く-3
                   原田環爾

29-14.jpg29-15.jpg かに坂にはこんな話がある。昔、宝蔵院の近くにおみよという女の子がいた。ある日、親戚でもらった柿を持って帰ってくると、男の子が川で捕えた沢蟹を焼いて食べようとしていた。おみよは沢蟹がかわいそうと思い、柿と交換して沢蟹を助けてやった。沢蟹は嬉しそうに去って行った。さらにしばらく行くと、今度は大きな蛇が蛙を呑みこもうとしていた。おみよは蛙を助けたい一心で、もし蛙を逃がしてくれたら蛇の嫁になってもいいと言った。29-16.jpgそれを聞いた蛇は蛙を離し、3日後におみよを迎えに行くと言って去って行った。家に帰ったおみよからその話を聞いた両親は大変驚き、蛇が家の中に入ってこないよう戸や窓に釘を打ち付け隙間がないようにした。1日、2日たち、3日目の夜、戸をたたく音がする。覗くと金色の目をした気味悪い男が立っていた。蛇男がおみよを迎えに来たのだ。ところが蛇男は戸を開けようとしたが開かない。騙されたとわかった蛇男は怒り狂って真っ赤な口を開け大蛇に変身し、家に絡みついて尾で家を叩き潰そうとした。もはやこれまでと思った時、大蛇のとてつもない叫び声が聞こえ、やがて静まり返った。恐る恐る外へ出てみると、そこに巨大な蟹が大蛇をズタズタに切り裂いていた。蟹はやがて小さな沢蟹の姿に戻ると、多摩川へ向けて坂を下っていった。いつか助けた沢蟹が恩返しをしたのだ。それ以来、いつしかこの坂は「かに坂」と呼ばれるようになったという。
29-17.jpg 玉川上水沿いの静かな雑木林の道に入る。程なく加美上水橋の袂にくる。橋の左手は福生加美上水公園の入口になっている。公園はここから次の新堀橋まで細長い雑木林で覆われた段丘で構成されている。この福生加美上水公園の入口の左の段丘下に沿って玉川上水の旧掘の遺構が残されている。旧堀は先の宮本橋のすぐ上流の屈曲点辺りからこの先の新堀橋のすぐ上流50mの辺り迄の間であったと言われる。なお、この段丘は新堀を掘削した時に生じた残土を積み上げた築堤という。ところでなぜ改修が必要であったのか。玉川上水は羽村から四谷大木戸まで総延長43km、それに対する高低差はわずか90m。水を自然流下させるには水路を武蔵野台地の尾根筋に沿って開削する高度な技術が必要だ。その水路の最初の障害は羽村堰で取水した水を、如何にして河岸段丘を乗り越えさせるかにある。開削当時の旧堀は多摩川堤の内側に沿って築堤し、その間を通水しながら少しずつ段丘を這い上がらせ、宮本橋あたりで最初の段29-18.jpg丘を上りきったという。しかしながら、度重なる出水で築堤はしばしば決壊し通水に支障をきたしたので、天文5年(1740)北側に長さ約613mほどの新堀を開削し付け替えたのだという。なお、上水が武蔵野台地の尾根筋に完全に上りきるのは、西武拝島線の玉川上水駅付近であるという。
 加美上水公園内の旧堀跡を辿り、行き着いた所で段丘崖を上がると園内の尾根筋となる。尾根筋を上水に平行に進むとやがて下って公園の北29-19.jpg端に至る。そこは新堀橋の袂で、傍らの小山の頂に金毘羅宮の小祠がある。古い書物にある神明山とはこの山のことを指すのであろうか。新堀橋の下流50m付近が旧堀と新堀が合する所と言われるが、目視する限りではその痕跡は何も認められない。更に進むと左側遠くに多摩川を垣間見ることが出来る様になる。やがて雑木林から抜け出て視界が開け、行く手に再び鮮やかな桜並木が見えて来る。福生から羽村に入ったのだ。
 普段はほとんど人影もないほど静かな堤の道なのだが、桜の季節の土日ともなれば、色々な出店が出て大賑わいになる。昔薬師堂があったという堂橋の袂を過ぎ、羽村大橋の下をくぐり、羽村橋の袂を過ぎると、第三水門の施設の横にでる。ここは玉川上29-20.jpg水の水を取水して狭山丘陵にある村山貯水池(多摩湖)に送水しているのだ。やがて左手に多摩川に架かる羽村堰下橋を見ると間もなく前編の終着点の上水公園に到着する。公園の休憩所からは青梅・奥多摩の山々を背景に大きく湾曲する雄大な多摩川の流れと、玉川兄弟が起死回生の思いで開削した羽村堰を眼下に望むことが出来る。傍らには昭和33年造立の取水堰に向って指差す玉川兄弟像が立っている。後世の人々にこれほどの貴重な水と雑木林と輝かしい歴史を残してくれた先人の偉業にただただ心から感謝したい。
 江戸時代の羽村堰は投渡し堰、第一水門、吐水門、第二水門などから構成されている。蛇籠や牛枠で制御した水流を堰とめて第一水門で取水し、第二水門を経て玉川上水路に通水していた。第一水門と第二水門の間には吐水門があり、必要以上に取り込ん29-21.jpgだ水は多摩川へ戻す仕組みになっていた。また堰の一部は筏が通行出来るだけの水路が確保されていた。今の羽村堰はもちろん当時の堰とは異なり、堅牢な建材・構造になっているが、基本構造、原理は同じで、今も現役の投渡し堰だ。洪水時は堰を払って強大な水圧から水門が破壊するのを守る仕組みになっている。公園先端の小橋は第二水門上の橋で橋上からは第一水門や吐水門を眼下に眺めることが出来る。
29-22.jpg 羽村の堰の開削工事と言えば檜原白倉の鬼源兵衛の伝説が思い出される。鬼源兵衛は大岳山の申し子と言われ、子宝に恵まれなかった両親が、大岳神社にお百度踏んでようやく生まれたのが源兵衛という。小さい頃から毎日麻糸を一本づつ増やしては引っ張り切る修行をしていたため、ついには満願の日に八百貫の大岩を麓から大岳山の頂上まで引っ張29-23.jpgり上げたという。源兵衛のゆるぎ岩と呼ばれるのがそれだ。羽村堰の開削工事の折、幕府は各村々から多数の人夫を徴発したが、檜原にも当然のこと割り当てが下った。困り果てた村の衆を見て、源兵衛は自分一人で十分と、村を代表して工事に参加した。役人はたった一人で来て、しかものんびり稗餅を食っている源兵衛を見て腹をたてたが、やがて源兵衛はむっくり立ち上がると、やおら傍らに生えていた青竹を引き抜いて、指で潰して引き裂き襷掛けにするや、持ち前の怪力で河原の大岩を取っては投げ取っては投げして、9人分の人夫の働きをしてしまったので、役人は腰を抜かして驚いたという。ただ面白いことに彼の怪力は大岳山が見える所でないと力が発揮出来なかったとも言われている。なお、源兵衛は架空の人物ではなく、実在の人物であったらしく、檜原村助役を勤めた大谷氏は源兵衛の子孫という。
29-24.jpg 睦橋から羽村堰までの前編の桜道の旅はひとまず終わりとする。第二水門の上の小橋を渡って段丘を上がるとそこは旧奥多摩街道の道筋だ。街道に沿って50~60m辿れば玉川水神社がある。東京水道の守護神で、玉川上水が承応3年完成された際、水神宮として建設された。建設地は現在の場所と異なり、旧奥多摩街道を挟んで丁度筋向いの多摩川へ突き出た崖の上に建てられていた。以来300余年江戸町民及び上水路沿いの住民より厚く信仰せられ、明治26年名を玉川水神社と改められた。水神社としては最も古いものの一つだ。古びた木の鳥居に「水神宮」と書かれた神額が掛かっている。その横に立っている風格のある門は玉川上水羽村陣屋にあった陣屋門だ。つまりここは陣屋跡で、上水道の取り締り、水門・水路・堰堤等の修理・改築などの上水管理を行った役所の跡だ。堰を通過する筏師達もここで厳しい監視を受けたに違いない。門を入ると広い庭があり、その奥に陣屋敷、水番小屋があったというが、今は陣屋門が残るのみで、建物は明治維新のドサクサに紛れて処分されてしまったという。(この項つづく)


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夕焼け小焼け №32 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

テニスコートを復興、そして弁論

                    鈴木茂夫
 
  惟信中学の5年生になり、学業の成績も落ちついた。そこでテニスをやりたいなと思った。私は高雄中学に入学して庭球部に入り、一学期間は愉しくラケットを振っていた。内地でもやりたい。
 級友に尋ねると、戦時中にテニスコートは掘り返して芋畑にしたという。体育の桜井義高先生が運動場に面した木造平屋教室の横ならコートにしてもいいよと言われた。
 自作してもいいのだ。図書室にあったテニスの規則集で寸法を調べた。全長23.77m、幅10.97m、巻き尺で計ってみると現場は十分な広さがある。体育の物置の隅にいくつものレンガがあった。テニスコートに使っていたもののようだ。
 授業が終わると、私は作業にかかった。それを見ていた級友の桑子君が、一年生の時、テニスをしていたからもう一度やりたい、手伝うと言ってくれた。2人でまずベースラインを決める。何事なのだろうと見物していた数人がさらに手伝いに加わった。
 センターライン、サービスライン、センターマーク、シングルスライン、ダブルスラインとポイントにレンガを埋め、ポールを立て、ネットを運んできて張った。ラインマーカーに白石灰を入れ、白線を引いた。やったぞと歓声が上がる。2時間たらずでコートは完成した。
 桜井先生が庭球部の成立を認めてくれた。
 桑子君はじめ手伝った連中も、庭球部に入るという。私たちのテニスは軟式(現・ソフトテニス)だ。1年生から4年生まで、約20人が集まった。
 電停のそばの惟信堂文具店のおばさんが、Futabayaのラケットがあるよという。みんなでそれを購入した。
   
  翌日からはやばやと登校、練習をはじめた。 戦争でテニスなどをしている閑はなかった。誰もが思うように球を打てない。笑いながら球を拾う。
 練習を重ねると、少しずつ球の打ち合いらしくなってくる。
 テニスコートに面する教室には、新しい学制による港区立の西港中学(学校統合により消滅)の生徒が入った。男女共学だ。窓に群がって私たちを眺めている。見物のいることで、気合いが入る。
 朝の授業開始前の時間、昼の昼食時間、放課後、テニスは愉しかった。

 小原重二君が教員室から書類をもらってきた。
 愛知県中学校弁論大会の要項だ。
 昭和22年11月2日(日曜日)午前10時より
 会場は名古屋市公会堂第7集会室(150人収容)
 参加・愛知県内の中学校
 弁士・各校1名
 弁論時間5分
 私に、服部、増井、小原の4人組が顔をそろえた。
 「弁論大会でるのはどうだ」
 「やったことはないが、面白そうだぜ」
 「英語の授業で、フォックス先生が力を入れたのは、シェイクスピアのジュリアス・シーザーだった。シーザーを殺したブルータスの演説、これもなかなかいい。そしてその後に話したアントーニオの演説は、なおよかった」
 「小原、君が出ろよ」
 「僕は人前できちんと話したことはない。だがやってみよう」
 「それじゃ、何を話すんだ」
 「新憲法ができただろ、その時、天皇をどうするかと議論になった。国体護持と天皇制打倒と意見が2つあった。俺は憲法第一条を憶えてい。『天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く』これがそうだ。話はいろいろあって結局はこの条項になっている。つまり国体護持で落ちついた。それが世間の意見だよな。だからな、天皇制打倒でやると、目立つだろ。それでいくのはドウだ」
 「それは共産党の意見じゃないか。それでいいのか」
 「良いか、悪いかじゃない。まあ言えばな、国体護持は名古屋の常識。天皇制打倒は少数意見だから注目を浴びる。」
 「天皇制の欠陥というか、悪い点には何がある」
 「何せ国民統合の象徴だからな、責め立てる問題点を洗い出すのは難しいぜ」
 「天皇は金持ちだ」
 「何なの、それは」
 「膨大な御料林があるそうだ。」
 「御料林は皇室財産となっていた森林のことだ」
 「江戸時代に幕府や諸藩が支配・管理していた山林を明治憲法のもとで、皇室財産に編入したんだよ。今は国有財産に移されているとか」
 「その山林を問題にした議論があるが、天皇と直接にどう関係するかは分からない」
 「戦時中、俺たちは天皇が大元帥であると言われた。」
 「軍人勅諭は暗記していたからな。勅諭の前文に『朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ』とあった。そうだとすると敗戦の責任者は天皇になるだろうが」
 「戦争を企画し、軍隊を派遣し、作戦を行ったのは軍人だぜ。天皇は軍人の報告を聞いていただけだ」
 「天皇は戦争犯罪人だという声がアメリカにあるそうだ」
 「日本にいるアメリカの最高指揮官ダグラス・マッカーサーはそんなことを何も言っててないぞ」
 「天皇について悪いという意見は、そんなところかな。小原、この話し合いをもとにして原稿をつくってみてよ」
 「分かった。やってみよう。でもそんなに論点はないから、長くはつくれそうにないな」

 本番当日、私たち4人は会場にいた。
 参加しているのは、愛知一中、明倫中学、熱田中学、昭和中学、津島中学、中川中学、東海中学、金城学院、市立第2高等女学校,県立第1高等女学校、南山中学など20数校。
 弁論の題名には、こんなのがあった。
学校で民主主義を学ぶ。個性を活かす学習を。平和を愛する学校。私たちは人権を大切にする。
 参加校は弁論で話すのだが、聴衆として反応もした。拍手をおくったり、声援するときもあった。

 県立第1高等女学校は、「民主主義に学ぶ」としていた。
 「アメリカの独立は、イギリスの過酷な植民地支配に対する現地住民の戦いでした」

 東海中学の番だ。題名は「天皇はあこがれの中心」としている。
 弁士は海部俊樹君と呼ばれてゆっくりと演壇に立った。原稿を開き、水差しからコップに水を注ぎ喉を湿してから、口を開いた。通る声だ。
 「新しい憲法が生まれました。新しい憲法に親しむにはどうすればよいでしょうか。憲法は文字で書かれています。文字で書かれてはいますが、国民精神が結晶して表現されているものであります。その憲法の芯になるものは、何でありましょうか。それは日本の国体であります。国体とは天皇をあこがれの中心とする国民の心のつながりであります。これを元にして国があるのであります。私たちの国体に関する考えは変わっていないのです」
 海部は会場を見回し、落ちついて語る。
 天皇を国民の憧れの中心とするのは保守派の見方だ。大多数の国民考えと言ってもいい。制限時間を充分に活かして話し終えた。
拍手が湧いた。私もそう思う。この人はまぎれもない雄弁家だ。

 惟信中学の番がきた。
 「天皇制に替わる民主体制を」これが題名だ。小原重二が演壇に立った。
「天皇家という 一個人・特定一家が国民統合の象徴となっているのは、民主主義と人間の平等とはならばない。天皇家という皇室一家は,日本の象徴という立場から退いてもらい、国民が選ぶ代表者が象徴ではなく、国の元首になってほしい。また天皇は、日本の軍隊の大元帥として位置していた。敗戦の責任は天皇にもある。その責任から言っても、天皇は退位されたほうがよい」
 小原の声は低かった。聴衆から「ブー」という声も聞こえた。予想通り、天皇制打倒は人気がない。私たちは評価の結果を待った。
 最後の弁論が終わって,成績の発表。
 東海中学は1位、優勝だ。
 われわれは東海中学のところへ行き、
 「優勝おめでとう。立派な弁論でした」
 笑顔で迎えた海部俊樹が、
 「いやあありがとう。僕がうちの学校の弁論部をつくつたの。みんなで苦労してきたけど、優勝は嬉しい。これからも頑張ります」
 僕たちはそれぞれ自己紹介し、握手して分かれた。

 これが海部俊樹さんとの初めての顔合わせだった。
 あくる昭和23年春、私たちが新制高校の3年生になったとき、海部さんは中央大学の角帽をかぶって広小路を歩いていた。
 翌昭和24年春、私が早稻田大学に入学。当時大学が所有していた甘泉園で、海部さんは早稻田大学雄弁会の一員として、発声練習をしていた。
 お互いに見かけると、やあと声をかけ話し合った。
 昭和35年(1960年),第29回衆議院議員総選挙で、全国最年少議員として当選。取材のために国会へ行くとよく顔を合わせた。
 昭和49年(1974年)、三木内閣の官房副長官に。
 昭和51年(1976年)、福田内閣の文部大臣に。
 平成元年(1989年)内閣総理大臣に。
 海部さんが出世の階段を上るにつれ、顔を合わせるのもまれになった。
 東海中学の海部ですと挨拶した海部さんの風貌は鮮やかに記憶している。
これにひきかえ、私たち惟信中学の弁論部は、一度だけの大会に出場、二度とこれを続ける興味はなくした。だから惟信中学に弁論部が存在したと誰も理解していない。


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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №221 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

空知川橋梁水鏡・根室本線・東鹿越駅~金山

            岩本啓介

221-2.jpg


かなやま湖に流れ込む空知川橋梁の「山桜の紅葉」を撮る予定が、『水鏡の紅葉&列車』も綺麗で、急遽変更し、撮影しました。

2023年10月14日15:14

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押し花絵の世界 №199 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「桜のスマートフォンケース」

               押し花作家  山﨑房枝

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自宅に咲いた河津桜を押し花にしました。
ソメイヨシノが咲く前に、一足早く春を届けてくれるピンクの可愛い花びらを、スマートフォンケースにアレンジしました。
仕上げに花びらや金箔を散らして、ゆらゆらと風が流れているようなイメージで作りました。


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