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夕焼け小焼け №31 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

団らんの茶の間

              鈴木茂夫

 上村家の前に道を隔てて2棟の大きな倉庫が中川運河に面している。しじゅう港から団平船で板ガラスが運ばれてくる。日本板硝子と旭硝子の製品だ。10人ほどの沖仲仕が板ガラスの箱を肩にのせて倉庫に運び込む。倉庫の中は板ガラスで埋まっていた。戦後、上村ガラス店の事業規模を拡張し、名称も愛知県板ガラス販売と変えていた。戦後復興の気運があって事業は安定しているという。
 オート三輪車に板ガラスを満載して、市内の小売店に配達する。市の中心部に建設中のアメリカ軍家族住宅の現場にも運ばれる。
 よくアメリカ兵がジープで訪れる。伝票を差し出して、
  「We are 000 Batallion,,here is Quota」
 職人さんはあわてない。日本語だけで対応する。
 「コータあるの」
 兵士もあわてない。書き付けを渡す。笑顔を見せる。握りこぶしに親指を立ててコータを差し出す。
 職人さんはコータを注目すると、
 「OK」
 私はコータとは何だろうと思った。聞くのは恥ずかしいから辞書で調べた。Quotaとは割り当て、割り当て数量とあった。

 上村家の茶の間は8畳敷き、良一氏と豊子夫人と5人の子どもたち、それに私が入ると7人で円形の座卓を囲む。あぐらをかいているから、脚が触れあっている。
 食卓には茶碗にご飯と味噌汁がよそってある。味噌汁は八丁味噌のだ。
 女中のツネさんはすぐ後ろでご飯のお代わりと味噌汁をついでくれる。白いエプロンがけの30代だ。小柄でよく働く。婚約している上村家の職人さんが戦地から帰るのを待っている。食べながら話をする人はいない。黙々として食べるのだ。 
 豊子夫人は優しく見渡しながら、静かに箸を進めていた。
 食事は美味しかった。私は夢中で食べる。お代わりを差し出す。人心地がつくのが3杯目、4杯目で気持ちが落ちつき、5杯目で満腹感に浸る。毎食、白米のご飯を頂けるのは贅沢な暮らしだ。
 ときたま、カツオの切り身がこんもりと皿に盛られて出てくる。3片か4片をご飯にのせ、熱いお茶を注ぐ。カツオの表面が白く変化する。醤油をすこしかける。カツオ茶漬けだ。カツオの新鮮な味わい、お茶の香り、ご飯の感触、それらが口の中で渾然とする。
 食が進むのだ。ツネさんはひときわ忙しくなった。
 とろろ汁のときもある。ほとんど噛むか噛まないかでのみこむ。お代わりが、ほうぼうから差し出されていた。
 年に一度、上村家の大盤振る舞いがあった。良一氏の家族と一族への親愛の趣だ。
 馴染みの寿司の老舗・寿司文の主人がオート三輪に、食材を詰めこみ、職人2人をつれてやってきた。 この日は良一氏の兄弟、豊子夫人の実家の家族など、30人は越える人で賑わう。
 寿司文の3人が手際良く握っていく。できた寿司に伸びる手の方が早かった。これほど賑やかで笑顔の人、寿司の味、良一氏はニコニコとそれらを眺めていた。
 午後6時、ラジオから「カムカム英語」が流れてくる。
  
    Come come everybody. How do you do, and how are you?
           Won’t you have some candy?
  One and two and three, four, five.
            Let’s all sing a happy song Sing trala la la la.

 かならず誰かが唱和する。英語ではない。

   カムカム エブリボディ  ハウドウユドウ アンド ハウアーユー
   ウオンチュー ハブサム キャンディ ワンアンドツーアンドすりーホーファイブ
         レツオルシンガハッピーソング  シングタララララ

 この元歌が「証城寺の狸囃子」なのを、みんな知っているから、みんなすぐに歌える。
 番組の開始を告げるこの歌が終わると、司会の平川唯一さんの軽快な語りが続く。

 「みなさんこんばんは。平川唯一です。きょうは挨拶からはじめましょう」
 
 英会話の初歩というか基本の話し方を展開する。聞いているみんなは、それだけで英語に親しんだ気分になる。食卓の誰もが食べるのに集中する。あれよあれよと15分が経過すると。番組は終わる。

 「話の泉」も人気があった。
 聴取者が出した問題をあてるのだ。クイズという言葉はなかった。あてものといっていた。
 回答者は教育者の堀内敬三、詩人のサトウハチロウ、漫談家の徳川夢声、元朝日新聞記者の渡辺紳一郎、映画監督の山本嘉次郎、音楽評論家の大田黒元雄、詩人の春山行夫、物知りとして知られる有名人だ。
 司会のアナウンサーの和田信賢が、

  司会「私の家は長く続いています。私で122代目です」
         「そんなに長い家なんてないでしょ」
        「私は子どもの頃は、京都で暮らしていました」
        「今は東京にいるの」
        「その通りです」
   「大きくなって何になったの」
        「私はみなさんに親しまれています」
        「待てよ、それはもしかしたら天皇家だよ。今の天皇陛下は124代だから,2代前とい
          えば、明治天皇様だね」
    「ご名答」

 司会は和田信賢アナウンサーの「ご名答」流行語になっている。
 回答者との愉しいやりとりが、ラジオを聞く者興味をかきたてる。

 昭和22年(1947年)7月の毎週土曜日と日曜日の午後5時15分から15分番組「鐘のなる丘」が登場した。空襲のため親も家も失った戦災孤児が、信州の山村に設けた施設で共同生活を送りながら、元気に育っていく。子どもたちの成長に多くの人が共感した。

   緑の丘の 赤い屋根 とんがり帽子の 時計台 鐘が鳴ります キンコンカン
 メイメイ小山羊も ないてます 風がそよそよ 丘の上 黄色いお窓は おいらの家よ

 戦地から復員してきた加賀美修平は、両親が空爆で亡くなっていることを知った。一人の弟の修吉は戦災孤児として孤児収容所にいた。戦災孤児たちは上野駅や新宿駅の地下道で野宿し、靴磨きなどして生きていた。修平は弟と同じ環境にいる子どもたちに、安心して暮らせる場を信州につくりたいと念願する。修平は子どもたちの兄貴分として活動する。
 当時の日本には何万人もの浮浪時児と呼ばれる戦災孤児がいたのだ。
 苦しい生活難の中で、明るく元気にいきぬいていく孤児たちに感銘した。

 『二十の扉』は、毎週土曜日の19時30分から30分間、NHKラジオ第1放送で放送されたクイズ番組だ。司会は藤倉修一アナウンサー。回答者には宮田重雄(医師、画家)、柴田早苗(女優)、藤浦洸(作詞家)、大下宇陀児(作家)がつとめる。
 番組は司会者と回答者のあいだでの質疑応答で展開する。
 問題は藤倉アナが「動物」「植物」「鉱物」のいずれかに分けて出題する。そのとき、会場にいる観客には,回答者に見えないように正解が張り出される。聴取者には「影の声」で正解を放送する。
  「キリン」が正解の場合、出題時に「動物です」と告げられる。回答者は「それは○○○ですか」と20問まで質問できる。司会の藤倉アナとの質疑応答で推理していき、「キリン」という答えを出せば良い。
 影の声で正解を知っている聴取者は、回答者の質問に一喜一憂する。大人から子供まで世代を問わずに誰でも楽しめたことから国民的な知名度と人気を誇った。
 五男の祥吾ちゃんが、ときどきラジオに向かって叫ぶ。回答者を応援するのだ。


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