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夕焼け小焼け №30 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

父の葬儀 

        鈴木茂夫

  昭和21年(1946年)秋、小原村の戸籍係が訪ねてきた
 「廣蔭さんの消息が分かりましたか」
 母は
 「まるで何の知らせもありません」
 戸籍係は、口ごもりながらもはっきりと話した。
 「戦争が終わって1年以上経っている。戦地にいて生存している方は、それぞれ引き揚げて復員されています。未だに生存不明という方は、戦死されたと思わざるをえません。戸籍の整理もしなくてはなりません。お宅で了解されれば、役場としては戦死の通知を出せます。いかがですか」
 母は怒った。
 「何も知らない役場が戸籍の都合で、戦死を判定するのは非常識じゃあリませんか」
 「ご家族のお気持ちは分かります。お考えが変わったら連絡してください」

 昭和22年(1947年)2月。
 ボルネオで父に随行していた海軍中尉から手紙を頂いた。それには前線から退避した父の動向が記されていた。

 ボルネオ島は東南アジアに位置する。南シナ海、スールー海、セレベス海、ジャワ海に囲まれた世界第3位、日本の国土の1.9倍ある大きな島だ。
 父のいたタラカン島は、ボルネオ島の北東岸沖のセレベス海西部に位置する。この周辺から石油を産出する。日本が占領した後、石油製品の集積センターを建設し、日本本土や多くの前線へ石油を送り出していた。
 父は海軍の嘱託として石油送り出しの業務の管理を担当していた。島の防衛には 海軍第2警備隊の2200人があたっていた。
 昭和20年(1945年)4月から連合軍が島の奪還をめざして進攻してきた。制海権、制空権を失い、石油積み出しは不可能になった。
 状況が緊迫したため、嘱託の鈴木廣蔭が民間人のままでいるのは好ましくないと。現地応召となり、海軍兵曹となった。
 5月4日にはオーストラリア第9師団の第26旅団を基幹とする11800人がタラカン島に上陸した。激しい戦闘が繰り広げられたが、日本側には専門の戦闘員が少なく、多くの損害を出した。
 7月に入り、タラカン島の海軍司令部は石油の精製施設を自ら破壊した。残存している部隊をとりまとめて、7月14日ボルネオ本島に退避することにした。
 鈴木広蔭は、ボルネオ本島にも連合軍は展開しているだろうから、自分はタラカン島の隣のスノカン島に移りたいと主張。本隊は本島に移った。
 7月15日夜、スノカン島から銃撃戦の音が聞こえた。それ以後、鈴木広蔭の消息は不明。この夜、戦死したと推測される。

 「これだけはっきりした情報があるのね。はっきり戦死と決めましょう」
 母からの連絡を受け、戸籍係から戦死の公報がもたらされ、遺骨箱も届いた。それを開けると円い石が1つ置いてあった。
 母の慈しんでいたササゲがたわわに実った。母はササゲを入れて赤飯をつくった。
 わが家の畑の一角に私の背丈ほどのこぢんまりした古い白梅がある。
 季節となり開花した白梅。それだけがきょうの飾りだ。
 その下に茣蓙をしいて3人前のささやかな料理を並べた。
 私は何を言っても涙がでそうになるので黙って赤飯を食べた。
 母はノートブックに何か書いていた。書き終えてそれを差し出した。

      君を待ち 育てしササゲ 実れども  戦死の知らせ 耳にする今

   「僕は頑張るよ」
 私はそれだけを口にした。
  父・廣蔭の葬儀を行った。
  一番大切な上村良一氏、妻の豊子さんも来て頂いた。父の幼なじみが数人見えた。  
  導師は小松禅龍師、3人の従僧を伴って現れた。
  「きょうは普段の葬儀の順序から離れて、生死のことを考え見ましょう。修証義をとりあげます」
 小松禅師はそう言って、修証義を読誦した。

 生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏あれば生死なし、 但生死即ち涅槃と心得て、生死として厭ふべきもなく、涅槃として欣ふべきもなし、 是時初めて生死を離るる分あり、唯一大事因縁と究尽すべし。

 無常憑み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、身已に私に非ず、 命は光陰に移されて暫くも停め難し、紅顔いずこへか去りにし、尋ねんとす るに蹤跡なし、熟観ずる所に往事の再び逢うべからざる多し、 無常忽ちに到るときは国王大臣親暱従僕妻子珍宝ほう たすくる無し、唯独り黄泉に趣くのみなり、己れに随い行くは只是れ善悪業等のみなり。

 「これが戒名です」

     護国院廣蔭聖道居士

 「私は生死涅槃と受け止めています。生死とはひとつの貨幣の表と裏、2つにして1つ。1つにして2面。愛する者との別れは辛い、苦しいものです。つまり愛別離苦です。 命あるわれわれは、必ず死にます。そして別れます。それが苦しみです。その苦しみの元は執着です。執着から煩悩が生まれます。煩悩の火を消せば、苦しみも消えるといわれますが、私にはとてもできません。執着を大切にしています。煩悩も自分のものと受け入れます。これが凡夫である私の生き方です」
 禅龍師はありのままのありようを話された。私はそれが分からぬままに、心に入った。
 父と語り合うことはもうないのだと切なかった。


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