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多摩のむかし道と伝説の旅 №122 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

          多摩のむかし道と伝説の旅(№29)
             ー西多摩の多摩川河畔の桜道を行く-
                   原田環爾

29-6.jpg 車両の行き交う広い睦橋通りに入る。かつて伊奈(武蔵増戸)の石工達が伊奈と江戸との間を往還した道筋で伊奈道と呼ばれた。緩やかな坂道を下るとすぐ多摩川に架かる大きな睦橋の袂に出る。睦橋の左手には広い河川敷が広がり福生南公園となっている。その先遥か多摩川の対岸には多摩の戦国史を今に伝える滝山城址のある加住丘陵が横たわっている。一方右手の多摩川堤には見事な桜並木が続いている。今回の桜道はまさにここから始まる。なお橋の袂には睦橋の由来を記した自然石が立っている。由来碑にはこんな風に記されている。「昔この地に、伊奈宿から江戸へ向かういな道の「熊川の渡し」があり、江戸時代、石切職人らの往来でにぎわっていた。いな道は、その後、五日市宿が栄えるとともに五日市街道と呼ばれるようになり、やがて、熊川の渡しもその主役を上流の「牛浜の渡し」に譲るにいたって、明治の中頃その姿を消した。以来百年余りの歳月を経て、橋がかけられ、この地は再び秋川ぞいのまちの表玄関としてよみがえることになった。この橋は、両岸のまちの親睦と共栄の願いをこめて「睦橋」と命名された」と。
29-7.jpg 睦橋由来碑の傍らから福生南公園に入ると睦橋のガードがある。ガードをくぐるとそこは多摩川堤下の桜通りだ。この道を進むのもいいが見晴らしのいい堤の道に上がる。堤は延々と桜並木が続き、その先遠くにJR五日市線の鉄橋が遠望できる。実に見事な眺望だ。堤防下の明神下公園を右にやり桜堤を進むとやがて五日市線の鉄橋の下に来る。河川敷に下りて鉄橋をくぐると河川敷に広がる多摩川中央公園に入る。雑木林と原っぱからなる広大な公園だ。園内の小道から再び堤の道に上がると堤の道は二股に別れる。堤から離れて行く右手の道が桜道なのだ。その分岐点に土砂を2m程の高さに盛った台形状の小丘は水防用の堤防だ。その小丘の向こうに天を突くように青い鉄塔が聳え立っている。先端に29-8.jpgはパラボラアンテナが据えられている。国土交通省の河川監視用の鉄塔と聞く。更に鉄塔からほんの少し進んだ所に面白い眺望案内板がある。奥多摩連山の山々の名称が写真とともにこと細かく記されているのだ。大岳山、奥の院、御岳山、雲取山、本仁田山等々。眼を上げると遥か彼方の空との境界に案内板の写真と全く同じ山並みが見える。一方堤から河川敷の多摩川中央公園に眼をやると公園の中ほどに石碑が立っている。牛浜渡船場跡を示す碑だ。先の「熊川の渡し」はここへ移ってきたのだ。石碑には「石濱渡津跡」という文字が刻まれている。     
29-9.jpg 牛浜がなぜ石浜なのか奇妙なことだが、これには歴史的な事情が絡んでいる。すなわち建武中興から南北朝動乱期を描いた「太平記」の中に「石浜」の地名が登場する。足利尊氏は正平7年(1352)閏2月20日に武蔵国人見原(府中市)・金井原(小金井市)で南朝の残党を結集した新田勢と対戦した。この時尊氏方は苦戦を強いられ石浜にのがれた。尊氏は窮地を脱して、28日小手指原(所沢市)・入間河原(狭山市)などで、次々と新田勢を破った。その一連の合戦を武蔵野合戦という。尊氏が逃れた「石浜」の所在地については諸説がある。江戸浅草の石浜神社辺りとする江戸時代の学者新井白石の説。「江戸名所図会」の斉藤幸雄や「武蔵野話」の斉藤鶴磯の牛浜説がある。牛浜説の根拠の一つは太平記の石浜での戦闘記述「河の向こうの岸高く屏風を立てたる・・・」に相当する場所が石浜になく、牛浜にある屏風岩がそれに相応しい地形であることをあげている。
29-10.jpg 堤の分岐点から右手の桜道に入る。桜は沿道右手の土手に沿って立ち並んでいる。やがて多摩橋へ向かう五日市街道にぶつかる。街道を渡ると左に市営プール、右に福生中央体育館となる。その間を抜ける通りは大多摩ウォーキングトレイルと言って羽村堰迄通じる続きの桜道なのだ。この桜の小道を進むと、いつしか福生柳山公園の横に至る。福生柳山公園は多摩川に沿う細長い樹林で覆われた静かな公園だ。公園の樹間からは多摩川に架かる永田橋を望むことができる。樹林を抜けると公園も終わり永田橋の袂に出る。桜道も一旦ここで終わる。橋の通りは都道165号線で日の出町へ通じる通りだ。
 通りを横切ると道は2つに分岐する。左は川沿いの細い道で、右手は集落へ入る道だ。ここからは右手の集落への道を採る。集落は閑静な宅地街になっている。すぐ左に小さな社が現29-11.jpgれる。堰上明神社という。鳥居横の社名を刻んだ石標は裏には田村半十郎の名が刻まれていることから、すぐこの先の田村酒造の当主によって寄進されたものとわかる。猫の額ほどの小さな境内の一角には田用水改修記念碑や昭和34年の熊川堀改修碑などがたっている。社を後にするとすぐ通り右手に右側に石垣に黒板塀、黒瓦に白壁という古式ゆかしい味わいのある建物が見えてくる。「まぼろしの酒」と銘打って宣伝している多摩の地酒「嘉泉」を醸造している田村酒造だ。入口には田村半十郎の表札が掛けられている。文政5年(1822)創業で「多満自慢」で知られる熊川の石川酒造とともに福生の老舗だ。田村家は旧福生村の名主を務め、当主は代々田村半十郎を名乗る。田村酒造の筋向いにある玉雲山長徳寺は臨済宗建長寺派の寺で田村家の菩提寺だ。本堂の裏の墓苑の中に銀杏の巨木が立つ一角が田村家の墓所だ。
29-12.jpg ここを過ぎて50mも進めば奥多摩街道に接した玉川上水の宮本橋の袂に出る。かつては宝蔵院橋とも呼ばれたという。というのも橋の向こうに、明治2年に廃寺となった宝蔵院という真義真言宗の寺があった。いまは廃寺跡に小さな観音堂が残されている。宮本橋の上に立って上水の川面を眺めると、流れは実に穏やかでかつ水量も豊富でなんとも言えない爽やかな気分になる。玉川上水は江戸時代の承応2年(1653)から翌年にかけて、江戸の水事情を解消するため、時の老中松平伊豆守信綱の発議を元に、庄右衛門と清右衛門の兄弟によって開削された。羽村の堰で多摩川から取水され、武蔵野の大地を通って四ッ谷大木戸に至る全長約43kmの水路である。上水の開削工事は難渋を極めたと伝えられる。当初取水口を日野橋下流の青柳付近から取水し、谷保の田畑を抜けて府中まで開削したが「悲しい坂」で通水29-13.jpgに失敗。やむなく次ぎの候補地福生熊川から開削を再開したがこの地の水喰土の言い伝えが現実のものとなりこれも失敗。最後に羽村から取水することでようやく成功したと言われる。兄弟は二度の失敗でお上から預かった工事費六千両をすべて使い果たし、不足分は私財を投じて完成させたと伝えられる。兄弟はその功により玉川姓と帯刀を許されたという。
 宮本橋の袂から玉川上水の右岸に沿う道に入る。50mも進むと妙源院という小寺があるが、その辺りで上水は不自然に大きく右方向へ曲がる。実はこの先の玉川上水は新堀で、玉川兄弟が開削した当初の堀はこのまま真っすぐ開削されていたという。その屈曲点から20~30m進むと左へ分岐する下りの坂道が現れる。「かに坂」という。上水沿いの道とかに坂の間には高さ10m足らずの林で覆われた丘が連なる。なおかに坂を下るとそこは多摩川河畔の福生かに坂公園が広がる。それにしても「かに坂」とは奇妙な地名もあるものだ。(つづく)

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