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郷愁の詩人与謝蕪村 №27 [ことだま五七五]

秋の部 4

        詩人  萩原朔太郎

恋さまざま願(ねが)いの糸も白きより

 古来難解の句と評されており、一般に首肯(しゅこう)される解説が出来ていない。それにもかかわらず、何となく心を牽(ひ)かれる俳句であり、和歌の恋愛歌に似た音楽と、蕪村らしい純情のしおらしさを、可憐(かれん)になつかしく感じさせる作である。私の考えるところによれば、「恋さまざま」の「さまざま」は「散り散り」の意味であろうと思う。「願の糸も白きより」は、純潔な熱情で恋をしたけれども――である。またこの言葉は、おそらく蕪村が幼時に記憶したイロハ骨牌(かルタ)か何かの文句を、追懐の聯想(れんそう)に浮(う)かべたもので、彼の他の春の句に多く見る俳句と同じく、幼時への侘わびしい思慕を、恋のイメージに融(と)かしたものに相違ない。蕪村はいつも、寒夜の寝床の中に亡き母のことを考え、遠い昔のなつかしい幼時をしのんで、ひとり悲しく夢に啜すすり泣いていたような詩人であった。恋愛でさえも、蕪村の場合には夢の追懐の中に融け合っているのである。

小鳥来る音うれしさよ板庇(いたびさし)

 渡り鳥の帰って来る羽音(はおと)を、炉辺(ろへん)に聴(き)く情趣の侘(わび)しさは、西欧の抒情詩、特にロセッチなどに多く歌われているところであるが、日本の詩歌では珍しく、蕪村以外に全く見ないところである。前出の「愁ひつつ丘に登れば花茨」や、この「小鳥来る」の句などは、日本の俳句の範疇(はんちゅう)している伝統的詩境、即ち俳人のいわゆる「俳味」とは別の情趣に属し、むしろ西欧詩のリリカルな詩情に類似している。今の若い時代の青年らに、蕪村が最も親しく理解しやすいのはこのためであるが、同時にまた一方で、伝統的の俳味を愛する俳人らから、ややもすれば蕪村が嫌われる所以(ゆえん)でもある。今日「俳人」と称されてる専門家の人々は、決してこの種の俳句を認めず、全くその詩趣を理解していない。しかしながら蕪村の本領は、かえってこれらの俳句に尽(つ)くされ、アマチュアの方がよく知るのである。

うら枯やからきめ見つる漆(うるし)の樹(き)

 木枯しの朝、枝葉を残らず吹き落された漆の木が、蕭条(しょうじょう)として自然の中で、ただ独り、骨のように立っているのである。「からきめ見つる」という言葉の中に、作者の主観が力強く籠(こ)められている。悲壮な、痛々しい、骨の鳴るような人生が、一本の枯木を通して、蕭条たる自然の背後に拡ひろがって行く。


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