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子規・漱石 断想 №5(再校・補筆) [文芸美術の森]

子規・漱石 断想 №5   子規・漱石愛好家 栗田博行

   よのなかにわろきいくさをあらせじと
     たたせるみかみみればたふとし  子規

 明治32年1月1日、「升」の名で発表した日本新聞新年記事「400年後の東京」の結びに置かれた一首です。子規の自筆和歌草稿本「竹の里歌」には、明治31年の最後の一首として記載されています。こちらには「平和肖像図」と詞書がついており、以下の漢字交じりの一首となっています。
  世の中にわろきいくさをあらせじとたゝせる御神見れば尊し
「わろきいくさ」=「悪き戦」。「あらせじとたゝせる」=「在らせじと立たせる」と補ってみると、子規が明治のこの時点で、俳句という極小の文芸を追及するのと同時に、「戦争と平和」という人類最大の主題に到達していたことが解ってきます。
 新聞の新年記事の方では全部かな書きにしたのは、書き言葉として脳裏に浮かんだこの詩想を、世間に発表するに当たっては、朗々と歌い上げるようにして訴える気分になったのではないでしょうか。歌会始のように…。
 ウクライナの戦争が終われない世界にガザの戦争が重なってしまった今、子規が125年前に願った想いが絡んできて止みません。立ちすくみ堂々巡りする老人の思考にお付き合い下さい。(2023.12.27記)

 志士的気分と日清戦争従軍動機の謎
 子規が生涯の恩人と感じた日本新聞社長・陸羯南は、彼が若くして大喀血を経た男であることも、その体で日本新聞で全力で働き八重と律との正岡家の家計を支える家長であることも、誰よりもよく解っていた隣人でした。そ5-1.jpgの上での従軍願いへの連署だったのです。日清清戦争従軍という一見不条理な正岡常規の行為への、羯南は最高の理解者だったのではないでしょうか。   
 羯南のこの行為を「たとえ結果的にその人の命を縮めることになっても、あえてする親切だった」と指摘した大江健三郎さんに、司馬遼太郎さんが「そうですね、そうでしたねっ!」と身を乗り出して共感されたことがありました。
 願書の3行目に着目して下さい。「士族 正岡常規」と書かれています。履歴書を書く上での、明治の習慣が関係はしているのでしょうが、願書の肩書に「士族」と記しているところに、子規の自意識の中心に明治男子ならではの「国士・志士」といった気分が流れていたことを感じざるを得ません。
 度々紹介してきた従軍記念写真の裏には、「明治廿八年三月三十日撮影 正岡常規廿八歳ノ像ナリ 常規将二近衛軍二従ヒ渡清セントス故二撮影ス」と自書されています。記者として戦地に渡る十日前、広島での待ち時間中に羽織袴の正装をし、太刀迄手にして撮影したのです。今時の感覚からすれば、一体なぜそこまでと疑問が湧きますが、彼が松山藩の士族の家系の出身だったことが深く関係しています。

 旧松山藩主で近衛軍副官として遼東半島に出征する久松定謨伯の送別会に赴き、その帰途撮影したものです。左手の太刀は久松伯から拝領したものと伝わっています。滞在地の広島で羽織・袴をどう用意したのか、謎多い一葉です。子規の内面にあった士族意識が噴出していますが、廃刀令が発布されて久しい明治中期にあって、そこまでの振る舞いをなぜしたのかという疑問に誘われます。
 しかし、3月初め東京からの出発に当たって詠み、「陣中日記」冒頭に記した「首途やきぬぎぬ惜しむ雛もな5-3.jpgし」や、「かへらしとちかふ心や梓弓 矢立たはさみ首途すわれは」の二句と合わせ考えて見ると、けっこう思いつめた末の記念の写真撮影だったらしい、とも思へてきます。
 明治の中期は過ぎていたにしても、子規の中には維新の志士のような気持ちが底に流れていて、それが大いに昂っていたことの顕われだったのではないでしょうか。あの高杉晋作の写真と並べてみて、あまりにも似ているのに、筆者は驚いたことでした。
5-4.jpg ところがです。実は、生まれは「平民」で、子規と対照的に北海道に送籍して兵役を回避したらしい漱石もまた、「志士の気分で文学を…」という意味の言葉を吐いているのです。門弟の鈴木三重吉宛ての書簡に記したもので、子規が日清戦争従軍を決行した時から10年以上後の、明治39年という段階のことでした。子規没後4年・日露戦争終戦後1年以上の時間が経っていました。虚子に促されてホトトギスに発表した「吾輩は猫である」、また「坊っちゃん」の大成功を経て、帝大教師を辞めて職業作家として生きることに心が傾き始めた頃のことです。
  「僕は一面に於て俳諧的文学に出入すると同時に
一面に於て 死ぬか生きるか、命のやりとり をする様な    
 維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい」  
                     (明治39年10月26日晋鈴木三重吉宛書簡)
 論者は、漱石が明治27年末、自分探しの葛藤の末に鎌倉円覚寺・帰源院で禅修行をした時、あえて「平民」と名乗っていたことを知って驚いたことがありました。この時の帰源院の受付名簿には、ひとり夏目金之助のところだけが「平民」と記載されているのです。少年時代は、士族組で喧嘩していた夏目金之助君だったのですが、青年期には「町名主」の出であることは「平民」であることの自覚に到達し、外に向けてそれを強く宣明する気持ちを持っていた・・・そう感じたものでした。
 その漱石が、この時期には「維新の志士の如き烈しい精神で文学を」と書き記しているのです。文学者として先にスタートしていた正岡常規との親交の中で、その生き方をつぶさに知っていた漱石でした。子規との精神的交流の深さを想うとともに、明治男子の文学への真剣さは、「士族・平民」という身分を超えても存在したことを気づかされました。「矢立たはさみ首途す」「志士の気分で文学を…」といった気概は、明治の真率な男子文学者の心底に、身分意識を超えた共通のものとして流れていたのではないでしょうか。
 ただ子規の場合は、松山藩士族の嫡男だったこともあって、とりわけそれが早くに突出して現れたたケースだったと思うのです。
 日本新聞の上司・古島一念編集長の、従軍をやめさせようとする説得に対して返したあの言葉の、
  『どうせ長持ちのしない身體だ、見たいものを見て、したい事をして死ぬは善いでは
  ないか』と喰つてかゝる。『しかしわざへ死に行くにも及ばんではないか』と言ふと、
  『それでは君いつまで僕の寿命が保てると思ふか』 など駄々をこねる。
               子規・漱石 断想 №2:知の木々舎:SSブログ (ss-blog.jp)
といった奇矯な激しさも、以上の要素をあわせ考えると真剣なものに見えてきます。子規の従軍という行為は、男伊達のパフォーマンスといった軽々しいものではなく、士族気分と文学への使命感に根差した命がけの真剣な行為ではなかったか?…と思へてくるのです。

子規はなぜ、漢詩「古刀行」を書いてしまった?
 出発前子規は、日本刀で異民族を試し切りするという異様な幻想詩「古刀行」を書いていました。(当欄第一回)。                        子規・漱石 断想 №1
 
 …此の刃五百年 人未だ鈍利(切れ味)を識らず 我の楡関(山海関)に到るを待ちて      
     将に胡虜(北方の蛮人)に向かって試みんとす」(古刀行書き下し文)
 しかし、「陣中日記」冒頭に記し発表した通り、従軍に臨んだ子規の士族意識は、日本新聞社を出発するに当たって詠んだ、「かへらじとちかふ心梓弓 矢立たばさみ首途すわれは」だった筈です。あくまで「矢立=携帯の硯を携えて命尽きるまで」ということであって、「太刀携えて」ではありませんでした。つまり日清戦争従軍は、文学者としての情熱・志(こころざし)の次元のものだった筈です。
 それが、あの漢詩「古刀行」を書いてしまうところまで昂ってしまったのでした。当欄第一回で紹介した書き下し文を再掲します。
     「…此の刃五百年 人未だ鈍利(切れ味)を識らず 
           我の楡関(山海関)に到るを待ちて 
       将に胡虜(北方の蛮人)に向かって試みんとす」
     子規・漱石 断想 №1:知の木々舎:SSブログ (ss-blog.jp)
〈山海関に着けば、自分は現地の蛮人でこの太刀の切れ味を試してみるゾ〉。もちろん一瞬の閃きとして浮かんだ幻想であり、煎じ詰めた末の志士的・テロリスト的な決行声明などではありません。社会に向けて発表もしておらず、内心の一瞬の動きを書きとめた文学者の手元メモのようなものだったとは、推察されます。
 しかし旧殿様筋へ願い出ていた太刀を、戦場へ向け待機中に拝領したことから、〈文学者もまた、従軍すべし!〉と、従軍記者としての心の一端に、こんな幻想が生まれてしまったのです。こんな風に猛り立つ益荒男的気分が、一瞬であったにせよ正岡常規の中に生じてしまったのです……。それもあってのあの太刀携えた記念写真だったのでしょう。
5-5.jpg お母さんの八重さんの回想では、ちょんまげを結っていた幼年期、泣き虫の弱味噌クンで、いじめられると妹の律が兄の敵討ちをするほどでした。小さな脇差で手を切ってシクシク泣いたりもした…そんな男の子でした。幼い子規を厳格かつ愛情一杯で訓育した儒学者の祖父大原観山が、「武士の家に生まれて、お能の太鼓や鼓の音におびえる」と叱ったくらいの弱々しい男の児だったのです。
 そんな正岡處之介クンでさえ、長じて働き盛りの物書きとしての日々にあって、一瞬とはいえ〈山海関に着けば、現地の蛮人で、この太刀の切れ味を試してみよう〉という幻想が脳裏に浮かぶ日本男子になってしまったのです。
 帝国主義という世界の歴史の段階にあって、初めて近代の対外戦争を戦う明治国家・日本の一員として、正岡常規はどうあるべきだったのか…。戦争という空気の中で日本男子の精神性がどう揺らいでゆくのか。問題の難しさをつくづくと想う次第です。昭和20年に至る日本の戦争の歴史へと思念が飛躍したり、迷走したりして止みません。
 しかし子規は、結局はそこを抜け出します。明治32年元旦には、
  よのなかにわろきいくさをあらせじとたたせるみかみみればたふとし  
と、「古刀行」とは対極の心情を発表する心境に到達していたのでした。そこへ至る子規の心情の推移を追う小論、また日清戦争の明治28年の時点に戻って考察を続けます。

 陣中日記―結語は「遼東の豕に問へ」
「陣中日記」は、日本新聞に連載の同時的ルポルタージュ記事の筈でした。ところがその最終回(四)は、明治28年7月23日の掲載となっています。日清講和条約批准(完全終戦)は5月10日、子規の従軍行は5月23日に終わっていますから、「陣中日記」と名付けたルポとしては随分遅れて掲載された新聞記事になってしまってます。
 これは、帰国の船中で2度目の大喀血をし、上陸後担架で神戸病院に運び込まれ、瀕死に近くまで行って命を取り留めるという、2ケ月があったからでした。ですから、筆を執れるまでに回復したら、病院内でまず真っ先に最終回の執筆にかかっての結果で、実は逆に記者としての責任感の強さが伺える速さなのです。(口述を、看病に駆け付けた碧梧桐や虚子が代筆したこともあったかもしれません。)
 出発前廣島で一月以上も待機し、戦地に到着すれば既に戦闘は終結。終戦後の戦場跡のぶらぶら歩きに終始した末に、帰りの船中では、生涯2度目の大喀血…。誰の眼にも大失敗の愚行に終わった日清戦争従軍行でした。その結びの文章は、こうなっています。(筆者意訳がまじります)、  
  我(わが)門出は従軍の装ひ流石に勇ましかりしも帰路は二豎(にじゅ=病魔)に
  襲はれてほう へ の體に船を上り(下り?)たる見苦しさよ。
 従軍記念写真を撮ったり辞世風の短歌を詠んだりして出発した行為の、最終的には大失態となってしまった経過を正確に認識、それを隠さず正直に公表しています。そしてこう続けます。
  大砲の音も聞かず弾丸の雨にも逢はず 腕に生疵一つの痛みなくて 
                   おめおめ帰るを 命冥加と言はば言へ 
  故郷に還り着きて握りたる剣もまだ手より離さぬに畳上に倒れて
             病魔と死生を争ふ事 誰一人其愚を笑はぬものやある。
 出発前、同時代の明治の世に向かって、「かへらしとちかふ心や梓弓 矢立たはさみ首途すわれは」とまで発表していた自分の行為の愚かさを誰もが笑うだろうと振り返って、自ら率直に認め公表しているのです。
 ところが、そんなみじめな結果を正直に綴る文章の不思議な躍動感は、まさに子規の精神の真髄がこんな時にも健在であることを、最後に感じさせてくれるのです。こう続きます。

  一年間の連勝と四千萬人の尻押とありてだに談判は終に金州半島を失ひしと。(三国
  干渉と遼東還付) さるためしに此ぶれば旅順見物を冥途の土産にして蜉蝣かげろうに
  似たる 命一匹こゝに棄てたりとも惜しむに足ることかは。その惜しからぬ命幸に助か
  りて何がうれしきと凝ふものあらば去て遼東の豕(ゐのこ)に問へ。
                    〔「陣中日記」(四)日本 明治28・7・23〕 
 これが「陣中日記」=遼東半島33日のルポルタージュの結論なのです。日本の文学史の中でこれといった価値も残せなかった文章に見えます。しかし、子規自身の精神の動きの記録としては、実に重要な一文となっていることが最後の一言でわかるのです。
 論者はこの一文に対し、初めは「子規にしてはなげやりな、愚かさを正直に認めただけの文章」といった印象を持ってきました。ところが広辞苑で、「遼東の豕=ひとりよがりの白い豚」といった意味の漢文熟語という説明を知って、何回か読み直すうちにこの結びの一文への印象が大きく変わって来たのでした。
「旅順見物もできて、儚い命を捨てても大したことではないのに、命が助かったからといって何が嬉しいのだと問いかけてくる人がおれば、行って遼東半島のひとりよがりの白い豚(豚=ここでは自分)聞いてみよ」と述べているのですが、一見自嘲自虐の限りをつくした論理と思えるこの文脈に、どんな苦境からも最後は前向きの生き方を見出す子規独特の姿勢が、ここにも顔を出していると気づいたのです。
〈ひとりよがりの愚行に見えかねない行為の末に取り留めた命だが、助かっただけの生きる価値はある筈だ。以後、それを問うていくことにしよう〉…そんな生き方の始まりを宣言している文章のように思へてきたのです。
 迫ってくる死を見つめて自問自答を重ね、その度に生きる意味を見出し続けた子規の晩年の生き方の出発点。日清戦争従軍という、一見愚行の極みと見える行為だったものが、実は彼の精神史の上では、22歳の喀血に次ぐ重要な試練と新たな出発をもたらしたのだった…そう想えるようになってきたのでした。まさに彼が、文学が目的の行動者だったからこその結果と言えましょう。
  (虚子・碧梧桐・母八重他駆け付けた大勢の看病を受けて、記事が掲載された7月23日には退院。明石の
  須磨保養院に移り、一月あまり療養。次は東京根岸と日本新聞に帰り急ぐかと思うとそうではなく、漱石
  に招かれて郷里松山で52日間同居。それを切り上げての奈良旅行で「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」を詠
  むという、有名な、しかしさらに謎の多い経過が続きます。しかもその間も日本新聞には原稿を送り続けて
  いるのです。)

従軍の心意の、一番底にあったもの
 羽織・袴で太刀まで持って記念写真を撮ったりはしましたが、従軍の衝動は「矢立たはさみ首途すわれは」―、あくまで文学を軸に動いていたのでした。もっと早くに、そのことを語った書簡が実はあるのです。

№5-1.jpg

 明治28年2月25日広島へ出発前に、日本新聞社の近くで後輩の碧梧桐・虚子と食事をした後、二人に直接手渡したものです。タイミングからして従軍決意の初心を述べて、後輩に後事を託す内容となっています。(内容後述)
№5-2.jpg 実は同年代の夏目金之助君には、従軍する気持ちを全く知らせた形跡がありません。自分とは対照的な、夏目金之助君の北海道へ送籍しての兵役回避を知っていたのかどうかも不明です。時期としては日清戦争の最中で、夏目君がノイローゼと見られるくらいに悩んでいた時期であったことを、知っていたか知らなかったか…。下宿を飛び出し転がり込んだ尼寺までの地図を描いて、「来てくれ、話したい」と気持ちを伝えてきたことさえあった夏目君でしたが、その必死の呼びかけにも、正岡君が反応した形跡は全く残っていないのです。
 日本新聞の同僚・先輩達にも、当ブログ№2で紹介した古島一念とのやりとりが示すように、このふたりの後輩への手紙に記したような決意の内容は打ち明けていなかったようです。この時代のおとな社会の常識では、文学のための従軍など理解される筈がないと思っていたのかもしれません。子規自身は写生の境地を掴みかけてはいましたが、時代の空気としては、俳句とはまだまだ「風流韻事の文芸」であり、子規は、その世界の人と見られていたかも知れません。

 書簡は、従軍の途中で命尽きることも予想し、碧梧桐と虚子という郷里の後輩に後事を託すという心情が昂った、一種の檄文となっています。以下原文の要点を掲出します。(論者による省略や意訳が多々混じります。)
   ー 僕ノ志ス所文学ニ在リ
   ー 戦捷(勝)ノ及ブ所・・・ 愛国心愈(いよいよ)固キノミナラズ殖産富ミ エ業起リ
    学問進ミ美術新ナラントス・・・文学ニ志ス者 亦之ニ適応シ之ヲ発達スルノ準備ナカ
   ルべケンヤ・・・ 
〈僕が目指しているのは文学だ。戦勝が続く中で高まる愛国心や殖産興業の発達、学問の進展、美術等の新風興隆といった社会の機運と共にあり、発達するものでなければならない〉  
 こんな意味合いに受け取れます。「時代と社会の動き・在るべき姿と共にある文学こそ!!」と叫んで、肩に力がいっぱい入っていることが伝わってきます。俳句の変革に手を付けかけていた子規なのです。「社会の在り方と無縁に風流韻事を求める文人墨客であってはならない」と、子規独特の用語「野心」(=ガッツ・ファイト)が躍動している文章となっています。4年前、虚子への初めての書簡で「国家の為に有用の人となり給へかまへて無用の人となり給うふな」と呼びかけた志はまっすぐ発展して続いていたのです。こう続けています。

  ― 僕適たまたま觚(さかづき)ヲ新聞二操ル 或ハ以テ新聞記者トシテ軍ニ従フヲ得ベ
  シ 而シテ若シ此機ヲ徒過スルアランカ 懶ニ非レバ則チ愚ノミ 倣ニ非レバ則チ怯
  ノミ  是ニ於テ意ヲ決シ軍ニ従フ

〈自分が新聞社に職を得ている身である以上、あるいは記者として従軍する機会に恵まれるかも知れない。それなのにいたずらにそのチャンスをやり過ごしてしまうようであれば、怠け者(懶)でなければ、愚かもの。摸倣家(倣)でなければ臆病者(怯)。だから意ヲ決シ従軍するのだ。〉 そしてこう結んでいます。

   僕若シ志ヲ果サズシテ斃レンカ 僕ノ志ヲ遂ゲ僕ノ業ヲ成ス者ハ足下ヲ舎イテ他ニ
   之ヲ求ムベカラズ 足下之ヲ肯諾セバ幸甚
〈もし僕が倒れたら、僕の志を後を継ぐのは君たち以外にはない。君たちがこのこころざしを受けてくれれば幸せだ〉
と語りかけているのです。子規愛の人司馬遼太郎さんでさえ、「坂の上の雲」の中でこの、書簡を詠んだ虚子に、「そんなもんじゃろか」としか反応させていません。
 日本新聞社の壮行会や父の墓参りや旧殿様からの太刀拝領のまえに、子規はこんな認識と心情に到達していたのです。 広島へ出発する前の段階で、子規は既にこれほど真剣に思いつめ、常識からは浮き加減だったのです。子規の生涯を俯瞰で知っている私たちは、子規のこの興奮をユーモラスに肯定的に受けとめたり出来ますが、当時を共に生きた人たちのほとんどは、あきれ心配したのが正味だったでしょう。

 しかし文学へのこのような真摯な想い詰めを、受け止めてくれた人がいなっかったわけはありません。既にふれたとおり、日本新聞社長・陸羯南がその人でした。
№5-3.jpg 根岸で隣に棲みついた正岡一家のことを、子規の働きのみで成り立っている家計の事も含めて誰よりも良く分かって、保護してきた人でした。
 その上で、結果的には命を縮めることになりかねないこの行為を「日本男子のこころざし=志の問題」と受け止めての従軍容認だったのです。大江さんと司馬さんの感動もそこに向けられていたはずです。「たとえ結果的にその人の命を縮めることになっても、あえてする親切だった」のです。
№5-4.jpg それからもうひとり、子規の母・正岡八重も跡取り息子「ノボ」のこの行為を、深い理解で受け止めた人だったと、論者は思っています。八重は松山藩の儒学者・大原観山の長女、早逝した松山藩士正岡隼太の妻という人でした。士族の家系の長女で、羯南の「ノボ」の志への理解も受け止めた明治女性だったと思うのです。
 後年書きかけて未完に終わった私小説「我が病」では、遼東半島に向けて根岸を発つ朝のことを子規はこう書いています。
  「三月三日の朝、革包一つを携ヘ宅を出た。母に向かって余りくどヘと挨拶して居ると変な心持になるから『それじゃ往て来ます』といふ簡単な一言を残して勢いよく別れた。」
 たったこれだけの表現しかありません。こころの底に潜む万感を押し殺しきった親子の情景が浮かびます。明治28年、八重は50歳、子規は28歳になろうという年でした。子規の生い立ちに母性溢れる証言を残している八重ですが、従軍というこの行為に関しては何の言葉も残していません。大原観山の長女・武士の家系の母という母性が、この言葉少ない出立の場面を生んだと想像されます。妻も子もない長男・独身明治男子の門出でした。子規は、妹・律への言及もしていません。律もまた言及していません。
 この後日本新聞に出て、簡略な壮行会を経て出発するのですが、ルポ記事「陣中日記」には、「門途やきぬぎぬをしむ雛もなし」と一句を詠んだことが描かれています。壮行会という場に合わせて出た一句でしょうが、論者は「ナニを言っているのか。八重さんも律さんもいるではないかっ!」と叱ってやりたい気分を、禁じ得ません。根岸を出る時の八重さんの静かな態度には敬意を感じるのですが、この一句に現れた子規の明治男ジェンダーには、子規好きの我ながら、好感を持てません。

 しかしこれより前に虚・碧宛てに手渡した書簡に顕われた、従軍の心意の一番底にあったもの(つまりは初心であったもの)については、肯定的に受け止める気持ちが強く働きます。
  ― 戦捷(勝)ノ及ブ所・・・ 愛国心愈いよいよ固キノミナラズ 殖産富ミ エ業起リ 
                                学問進ミ 美術新ナラントス
 一見、戦勝が続くことに興奮した単純明治男子ジェンダーを思わせますが、
  ―文学ニ志ス者 亦之ニ適応シ之ヲ発達スルノ準備ナカルべケンヤ・・・
  此機ヲ徒過スルアランカ 懶ニ非レバ則チ愚ノミ 倣ニ非レバ則チ怯ノミ
 結核の病身にある文学記者が身の危険を顧みずこう言いきって従軍を志願・強行したのです。「行かなければ卑怯だ」とまで…。論者は、この論旨に、第二次世界大戦後の世界でフランスのサルトルが世界中の知識階層に大きな影響を与えた「アンガージュ=社会参加」の考え方と共通なものを感じます。

 俳句という、風流韻事と思われていた文芸の変革に取り組み始めていた子規の「野心」は、日清戦争という激動の中で、明治という時代社会にふさわしい文学全般の在り方を求めて、さらに高揚し始めたのではないでしょうか。士族意識から始まりはしたものの、それを超えて知識階層の社会参加のあるべき姿(=ドロップアウトの否定等)を模索していると思えてくるのです。さらには近代・現代社会のあるべき市民意識の根底に子規は接近し始めている…とも。
 青年期の入り口の頃の明治15年から16年にかけて、彼は自由民権運動に熱中する士族の若者でした。そんな青年であった明治男子が、戦時にあって一瞬ではあるが、「古刀行」の心情を持ってしまったのでした。しかし、3年半の時間を経て「平和肖像図」と詞書し、
  世の中にわろきいくさをあらせじとたゝせる御神見れば尊し
と詠むまでに変心したのでした。、その心情を新聞に公表するに当たっては、平和を願う心情を歌い上げる気持ちを込めて
  よのなかにわろきいくさをあらせじとたたせるみかみみればたふとし 
と、かなだけの表記にしたのでした。

 ウクライナ・ガザ…世界に戦争が止みません。漢詩「古刀行」から短歌「平和肖像図」にまで到達した、子規の125年前の思念の推移を、膨大な戦争報道の中を迷走しながらではありますが追い続けようと思っています。お付き合い下されば幸いです。
 パソコンのウイルス被害と体調不良のなか、次回の掲載予告ができないことをお詫びします。2024.1.10記 )


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