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日本の原風景を読む №20 [文化としての「環境日本学」]

神、自然、人がまじわる安曇野-常念岳

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

常念岳への想い

 信越本線松本駅発のJR大糸線で梓川を渡ってすぐ、「これより安曇野」と記された梓橋駅ホームの大きな木札が目を惹く。大町・白馬山麓に到る広大な扇状地安曇野の始まりだ。ほどなく左手から常念、燕、白馬へ到る北アルプスが、おおいかぶさらんばかりに車窓へ迫ってくる。
  安曇野。扇状地のかなたには、美ヶ原高原がゆったり横たわっている。
 いたる所に渓流が走り、澄み切った川底に水草の緑がきらめく。

 北アルプス常念岳(じょうねんだけ・二八五七メートル)を神仏の聖域、生命の水の源と仰ぎ、山麓の穂高神社と松本藩に抗した農民表の歴史を秘めた潅漑用水路「拾ケ堰(じっかせき)」を原点に、自然と人と神仏が交わる心躍る大空間、それが長野県安曇野である。
 安曇野にはわたしたちの心に語りかけ、勇気を与えてくれる原風景が息づいている。
 「原風景とは人の心を育て、鍛え、挫折したときにそこへ戻って立ち直ることができる風土性豊かな自己形成の場である」(文芸評論家・奥野健男)。
 「常念岳は私の体そのもの、神、仏に他なりません。常念岳のない風景など思いもよりません」。
 名門松本深志高校の先生だった郷土研究家中島博昭さんは断言し、次のように記す。
  -その姿には「ようこそ」と優しく微笑んで出迎える心安さは微塵もない。むしろ人を寄せ付けず、遥か遠くから己にひれ伏させるような崇高美が、見た途端、一瞬息を呑ませる。ちょうどスーパースターのような存在感が常念岳にはある。近寄り難いが、何時も眺めていたい。いっそのことその懐にとびこんで、しっかり抱かれていたい。  (中島博昭『常念山麓』)

常念校長先生

 大河小説『安曇野』の作家臼井吉見は、少年時代に常念岳が自らの精神世界となった、とその記憶を語る。
 …ぼくの出たのは、南安曇野の堀金小学校です。校長は佐藤といって、北信の湯田中近くのご出身、ぼくの三年生から六年生まで校長先生でした。うるしで染めたような、まっ異なあごひげが、胸のまん中あたりまでたれさがっている、いかめしい先生でした。この校長先生は、月曜日の朝礼の時間には、壇の上へ登られると、西空に高くそびえている常念岳を指さして「常念を見ろ!」とおっしゃいました。「常念を見ろ! 今日は良く晴れてごきげんがいい」。
 「常念を見ろ! 今朝の雪は素晴らしい」「常念を見ろ! 見ろと言っても、今朝はみえなくて残念だ」……いつでも常念の話でした。くる週も、くる週も、春になり、秋になり、冬になっても、常念岳の話だけでした。それ、長い話はなさらない。「常念を見ろ!」まぁ、だいたいそれだけでした。
 あとはただご機嫌がいいとか悪いとか、見えないとかよく見えるとかいうことでした。
 そんな話を聞いているうちに、だれがはじめたのか、自分たちの手帳へ、常念小学校何年何組なんて書き込むようになったんです。あとになって気が付くと、この校長先生のお蔭で僕らは小学校の時から自分たちの心のなかに、精神の世界っていうものがどうやらできかけていたらしい。それはうっすらしたものだったにちがいないけれど。(臼井吉見「自分をつくる」)

地域をつないだ生命の水

  春は名のみの風の寒さや
  谷の鴬 歌は思えど
  時にあらずと声もたてず
  時にあらずと声もたてず

 大糸線穂高駅に近く、わさび田が連なる穂高川畔に「早春賦」の石碑が立っている。大正初年の早春、東京音楽学校(現・東京芸大)の教授吉丸一昌が、安曇野の清例な風景に魅せられ、春を待ちわびる人々の息づかいを綴った。
 日量七〇万トン。豊科、穂高、明科の「安曇野わさび田湧水群」は環境省の「名水百選」、国土交通省からは「水の郷」に選ばれている。
 「拾ケ堰」と「大王わさび農場」が例だが、安曇野では人々の営みが水に支えられ、水が地域の結束と英知を培ってきた。
 一八二六年、水争いが絶えなかった安曇野に、村人延べ六万七一一二人が力を合わせ、全長三・七キロの「拾ケ堰」用水路が築かれた。貧しかった安曇野は一転して有数の米どころに。標高五七〇メートルの等高線沿いに、一キロメートルで三〇センチのわずかな高低差を克服しての工事だ。穂高から柏矢、豊科へ、北アルプスの山々を道連れに、水面に常念岳を映す用水路沿いを散策すれば、工夫を重ねて自然の恵みを引き出した先人の意志と知恵に力づけられる。
 大王わさび農場もまた大正時代に、一〇年かけて不毛の低湿地に造成された、水と農民の苦闘の記念碑である。四季を通じ、わさびの葉の鮮烈な緑に彩られる広大な白い砂礫、わさび田に優雅な弧を描く湧水の流れは見あきない。
 安曇野は祈りの里でもある。道端の野仏群から奥穂高岳(三一九〇メートル)の山頂に鎮座する穂高神社の「嶺宮」まで、到る所に神と仏がまつられている。 
 穂高神社の中央本殿は、安曇野を拓いた北九州の安曇族の祖先穂高見命を祭る。九月の例祭では子供船と大人船二隻が境内を三周後、大人船が拝殿前で前方の男腹と後方の女腹とを激しくぶつけあい五穀豊穣を祈る。遥かなアルプス山麓に、なぜ北九州から海神族がやって来たのかナゾだ。


『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店

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道つづく №5 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

初芝居

          鈴木闊郎               


  豆を打つ馴れぬ袴をつけてをり

  水仙の四五本ありてけなげなり

  寒稽古固き畳の広々と

  初芝居石切梶原吉右衛門

  長岡の「八一」なる酒拳にぬくし


           花鳥諷詠誌「駒」二〇十二年二月二二一号


鈴木闊郎氏略歴
 1933年 立川市生まれ。早稲田大学卒。(株)立川印刷所2代目オーナー。
 立川の粋人として知られた。俳誌『駒』同人。2020年没。

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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №169 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

飯山線  

               岩本啓介                                

積雪7.85m日本記録・秋山郷     

169森宮野原~横倉.jpg

秋山郷の最寄り駅・森宮野原駅に記念碑があります                          
昭和20年2月12日の記録ですから ずいぶん昔                               
でも 豪雪地帯の雰囲気は 今でもありますね                              
森宮野原~横倉                          

雪の棚田と志賀高原の山並み 

169蓮~替佐・.jpg

千曲川と飯山線に囲まれた小さな棚田                              
すっぽり 雪に覆われています                            
蓮~替佐                                




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押し花絵の世界 №129 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「My garden」

          押し花作家  
 山﨑房枝

2021・3月上.jpeg
54cm×45cm

背景には紅葉の葉を並べて全て植物で作った作品です。
色鮮やかなポピーやアネモネの花弁を表情豊かに組み立てデザインしたお庭に、アグロステンマで作った蝶々を飛ばして賑やかに仕上げました。


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多摩のむかし道と伝説の旅 №57

       中世の軍同 深大寺道を行く 3

            原田環治

深大寺道3-1.jpg 境浄水場の外周に沿って井の頭通りを西へ向かうと、筋向いの武蔵野市立第五中の横から、大師通りと名を変えた深大寺道の続きが現れる。大師通りの名は深大寺を中興したのが元三大師であり、深大寺に元三大師堂があることから、元三大師堂へ通じる道ということからきているのであろう。ゆったりとカーブする狭い街路はいかにも古道らしい印象を留めている。関前南小を左に新しく出来た市民の森公園を右に見て道なりに進むと、大きな花屋さんのある角で車両の行き交う五日市街道に丁字路でぶつかる。その街道の筋向いに石塔が立っている。御門訴事件記念碑と呼ばれる石碑だ。御門訴事件とは明治3年(1870)その前年に品川県から布達された社倉制度(飢饉に備えるための貯穀制度)があまりにも過酷な内容だったので、それに反対した旧関前村新田を含む武蔵野12ヶ新田の農民7~800人が品川県庁へ門訴(直訴)し、多数の負傷者、逮捕者、牢死者を出した事件だ。記念碑は当事件で非業の死をとげた旧関前村・同新田名主井口忠左衛門等を慰霊するとともに、その事績を後世に残すために、明治27年に旧関前村の総意を得て、自由民権運動の推進者で後に自由党副総裁となった中島信行により建立された。
深大寺道3-2.jpg 五日市街道に沿って、西へ100mばかり進めば大きな通りとの丁字路帯に出る。青い陸橋があり、筋向いには武蔵野大学のキャンパスがある。以前は武蔵野女子学院と称していた。陸橋に上がると、下の大通りは中央分離帯の緑が豊かで、その中ほどに一筋の川が流れている。この川はここより1km南を流れる玉川上水の境橋付近から分水された千川上水だ。江戸時代に開削された由緒ある分水だ。すなわちこの丁字路帯は一見したところ解かりにくいが千川上水に架かる橋になっている。橋は井口橋と呼ばれ、橋の袂には石橋供養塔など数基の石塔が立っている。千川上水は江戸時代の元禄9年(1696)、将軍の立寄先である小石川白山御殿、湯島聖堂、東叡山、浅草寺御殿等深大寺道3-3.jpgの飲料水を賄うために、玉川上水の境橋付近から分水され、巣鴨までの約30kmを素掘りで開削された水路だ。江戸市中の飲料水や上水沿いの農地の灌漑用水としても大いに利用された。今は大半が暗渠となってしまっているが、境橋から青梅街道と交差する水道端の伊勢橋迄の約8kmは開渠となっている。開削は川村瑞軒が設計し、徳兵衛、太兵衛の両人が工事を請け負い、加藤屋善九郎と中島屋与一郎が金主として参加した。総工費は1340両を要したが、幕府が支出したのはわずか480両に過ぎなかったという。徳兵衛、太兵衛はその功績により千川の姓と帯刀を許され、子孫は代々千川取締役を務めた。正徳4年(1714)白山御殿が閉鎖され、幕府は千川上水を不要として廃止し、市中への引水を停止したが、灌漑用として使われ続けた。明治以降は工場用水としても利用され、大蔵省印刷局王子工場が大量に使っていたが、昭和46年取水を止めたことから、上水はその使命を一旦終えた。その後東京都の清流復活事業により、野火止用水、玉川上水に続き、平成元年、千川上水にも再び清流が蘇ることになった。
深大寺道3-4.jpg 陸橋を降りるとそこは西東京市で武蔵野大学の正門前だ。その右隣に入る真直ぐ北へ伸びる瀟洒な街路が深大寺道の続きだ。街路の入口に「深大寺街道」と記された道標が立っている。現在深大寺道を標榜しているのはこの通りだけだろう。深大寺街道は旧田無市と旧保谷市の市境を、左に武蔵野大学、右に武蔵野運動場を見て進むと、都立田無工業高校との間の辻に来る。その辻の一角に古びた石標柱が立っている。標柱はこの道筋が深大寺道であることを示す重要な道標となっている。道標は欠けや磨滅で判然としないが、正面に刻まれた文字から田無村の荒井安右衛門等によって安永7年(1778)造立されたことがわかる。また左側面には「東江戸、西府中」、右側面には「北□□□、南□大寺道」と刻まれており、その「□大寺道」が深大寺道を指すのであろう。
深大寺道3-5.jpg 道標を後にして更に住宅街の道を進む。程なく緩やかな下り坂となり、坂を下って行くと、沿道左の民家の片隅に小さな地蔵堂がある。「ほうろく地蔵」という。 地蔵が背にしている光背が焙烙素焼きの底の浅い土鍋に似ていることからこの名があるというが、どんな由緒があるのかはわからない。境橋で石神井川を渡ると程なく車の行き交う青梅街道に出る。深大寺道は50mばかり西へ進んだ所の稲荷神社の脇を入る小道に繋がっているが、西武新宿線のガードをくぐった所で消滅してしまっている。やむなくこの先は青梅街道の筋向いに入る榎ノ木通りを進むことにする。榎ノ木通りに入る深大寺道3-7.jpgとすぐ西武新宿線の踏切となる。踏切を渡ると線路沿いを東西に走る富士街道と交差する。辻の一角には古びた地蔵堂が立っている。六角地蔵石幢で知られる堂宇だ。六角地蔵石幢は、寛政7年(1795)造立された。ほぼ正六角形の石柱で、各面の上部に六体の地蔵菩薩像を浮彫りにし、その下に銘文を施している。その銘文によれば、この石幢は「つや」という女性と「光山童子」の菩提を供養するために、野口助右衛門と秋山十右衛門が、江戸市ヶ谷田町の石工角田屋に注文して 建立されたものという。富士街道と深大寺道が交差するところに立ち、道標を兼ねているとのことだ。(つづく)


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論語 №115 [心の小径]

三五八 子のたまわく、その位に在らざれば、その政を謀(はから)らずと。曾子(そうし)いわく、君子は思うことその位を出でず。

           法学者  穂積重遠
 
 孔子様が「その位に在らざればその政を謀らず。」と言われたについて、曾子が説明して言うよう、「君子はその時々の地位に応じてその本分以外のことを考えず、ただ当面の責任を全くせんことを思え、とのご趣意である。」

三五九 子のたまわく、君子はその言(げん)のその行いに過ぐるを恥ず。

 「其言之」が「其言而」になっている本がある。それだと「君子はその言を恥じてその行いを過ごす。」とよむ。

 孔子様がおっしゃるよう、「君子たる者は、言葉が行いよりも大げさなのを恥じる。」
(参照……八八)

三六〇 子のたまわく、君子の道なるもの三つ、われ能くすることなし。仁者は憂(うれ)えず。知者は惑わず。勇者は懼(おそ)れず。子貢いわく、夫子自ら道(い)うなり。

 本文「仁知勇」の三句は前にも出ているが、そこでは「知仁勇」の順序になっている(二
三三)。ここのは徳そのものの順序であり、前のは進学の順序である、などと学者が亭つがそれ程の意味もあるまい。

 孔子様が、「君子の道とすべきところのものが三つある。『仁者は憂えず。知者は惑.わず。勇者は懼れず。』であるが、わしにはどれ一つ満足にはできない。」と謙遜されたので、子貢が申すよう、「その三つこそ正に先生ご自身のことをいったようなものであります。」

三六一 子貢、人を方(たくら)ぶ。子のたまわく、賜(し)や賢なるかな、われはすなわち暇(いとま)あらず。

 子貢は好んで他人を比較論評した。孔子様がおっしゃるよう、「賜はかしこいことかな。わしにはとてもそんなひまはない。」

 子貢が子張と子夏とを「たくらべ」たことが前に出ている(二六八)。孔子様もなかなか皮肉を言われることかな。

『新訳論語』 講談社学術文庫


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批判的に読み解く歎異抄 №23 [心の小径]

異義篇をどう読むか―『歎異抄』の著者(唯円)の立場
 
        立川市・光西寺住職  寿台順誠

②十二条 ― 学解念仏

 次に十二条は長いから最初の方だけ読みます。

 経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。この条、すこぶる不足言の義といいつべし。他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教は、本願を信じ、念仏をもうさば仏になる。そのほか、何の学問かは往生の要なるべきや。まことに、このことわりにまよえらんひとは、いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべきなり。経釈をよみ学すといえども、聖教の木意をこころえざる条、もっとも不便のことなり。一文不通にして、経釈のゆくじもしらざらんひとの、となえやすからんための名号におわしますゆえに、易行という。学問をむねとするは、聖道門なり、難行となづく。あやまって、学問して、名聞利養のおもいに住するひと、順次の往生、いかがあらんずらんという証文もそうろうぞかし。

 読むのはここまでにしときましょう。ここまでで十分です。後は聖道門の学問をしている人から議論をふっかけられても相手になるな、と言っているだけです。これは、学問して自分を高めようとしないと駄目だなどと言うのは異義だと批判する条文です。それで、ただ「本願を信じ、念仏もうさば仏になる」ということさえわかればよいので、もしそれが信じられないならそれを信じられるための学問は必要だとは言うけれど、とにかく「学問をむねとするは、聖道門なり、難行となづく」と言うわけですから、ここでの批判の対象は「造悪無碍」ではなくてむしろ「専修賢善」だと言えるでしょう。「聖道門」批判と言ってもよいですけど、要するに自ら善を積み、努力し学問をやって自分を高めましょう、そうじゃないとだめですよと言っている異義を批判しているのですから、十二条は「造悪無碍」に対する批判とは全く読めないのです。ここではそれだけ分かっていただけば十分です。

名古屋市中川区 真宗大谷派・西雲寺の公開講座より


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『知の木々舎』第284号・目次(2021年2月下期編成分) [もくじ]

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【文芸美術の森】

ケルトの妖精 №45                妖精美術館館長  井村君江
 シェイクスピアと「夏の夜の夢」の妖精 2
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-02-14-9

じゃがいもころんだⅡ №38             エッセイスト  中村一枝
 私の八十年 父との思い出
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-02-14-6

渾斎随筆 №75                          歌人  会津八一
 少年少女に贈る言葉 
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-02-14-7

石井鶴三の世界 №181                 画家・彫刻家  石井鶴三
 法隆寺中門仁王 1956年/不動明王 1957年 
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-02-14-8

過激な隠遁~高島野十郎評伝 №45      早稲田大学名誉教授  川崎 浹
  第七章 「小説なれゆくはて」 9
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-02-14-5

西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」№52 美術史研究家 斎藤陽一
 歌川広重≪東海道五十三次≫ 「日本橋朝の景」
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-02-14-3

祖道傳東Ⅱ №36                   水墨画家    傅 益瑤
 第三十六図 「永平寺図」
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-02-14-4

往きは良い良い、帰りは……物語 №91  俳句・こふみ会同人  多比羅 孝
  コロナ禍による在宅句会 その6
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-01-30-2

【ことだま五七五】

日めくり汀女俳句 №76                 中村汀女・中村一枝
 八月十日~八月十二日
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-02-14-2

草木塔  №82                         俳人  種田山頭火
 孤寒 7
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-02-14-1

読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №105              川柳家  水野タケシ
 2月3日、10日放送分
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-02-14

【核無き世界を目指して】

はるかなる呼び声 №11                           エッセイスト  関 千枝子
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-02-12-7

【心の小径】

論語 №114                                                        法学者  穂積重遠
 三五五 子のたまわく、君子は上達し、小人は下達す。
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-02-12-1

批判的に読み解く「歎異抄」№22      立川市・光西寺住職   渡辺順誠
 「歎異抄」の著者(唯円)の立場  歎異抄の批判的読解
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-02-12

【文化としての環境日本学】

日本の原風景を読む  №19                          早稲田大学名誉教授 原 剛
 山 山岳に宿る神仏 1        
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-02-12-8

【雑木林の四季】

浜田山通信 №283                                     ジャーナリスト  野村勝美
 女性の自立
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-02-13-7

私の中の一期一会 №231              アナウンサー&キャスター    藤田和弘
 ワクチン接種始まる!「ワクチンに期待する」人が81%、前月調査より増えた。
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-02-13-8

BS-TBS番組情報 №228                                   BS-TBS広報宣伝部
 2021年2月のおすすめ番組(下)
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-02-13-6

バルタンの呟き №91                 映画監督  飯島敏宏
 「東風吹かば」 
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-02-13-5

医史跡を巡る旅 №83             保健衛生監視員  小川 優
 コレラ、江戸時代から明治にかけて~前篇
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-02-13-4

海の見る夢 №1                                    渋澤京子
 聖ヒルデガルドの音楽                    
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-02-13-3

梟翁夜話 №81                                    翻訳家  島村泰治
 「氷柱参り」
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-02-13-2

検証 公団居住60年 №73      国立市富士見台団地自治会長 多和田栄治
 小泉「構造改革」と公団住宅民営化の道 
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-02-13-1

地球千鳥足 №141       グローバル教育者・小川地球村塾塾長  小川彩子
 「生涯精進!(母84歳)」、「直進!(父88歳)」の遺訓、守れているかな?
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-02-13

【ふるさと立川・多摩・武蔵】                                                   

道つづく №4                        鈴木闊郎
 万治の石佛
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-02-12-4

線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №168            岩本啓介
 五能線    
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-02-12-6

押し花絵の世界 №128                                   押し花作家  山﨑房枝
 「オリエンタルローズ」  
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-02-12-3

ミツバチからのメッセージ №42 造園業・ミツバチ保護活動家  御園 孝
 イタリア 2
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-02-12-5

多摩のむかし道と伝説の旅 №56                原田環爾
 中世の軍道、深大寺道を行く 2
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-02-12-2

国営昭和記念公園の四季 №76
  フクジュソウ   花木園
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-02-15-1

【代表・玲子の雑記帳】             『知の木々舎 』代表  横幕玲子
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-02-13-9






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ケルトの妖精 №45 [文芸美術の森]

シェイクスピアと「夏の夜の夢」の妖精 2

        妖精美術館館長  井村君江

妖精王オーベロン
◆ シェイクスピアは、幼いころを過ごしたウォーリックシャtの民間信仰や各地の伝承をもとに、オーベロン、ティターニア、パックなど妖精たちが入りまじる夢幻的喜劇『夏の夜の夢』を書いた。
 イギリスで六月二十四日はミッドサマー・デイ、日本で言う夏至にあたり、この日は聖ヨハネの生誕祭であり、地母神の祭日にあたる。その前夜になると妖精たちが森や丘、水のほとりに現れ饗宴をはるといわれ、女たちが未来の夫をベンケイ草で占う日でもある。
 インドが故郷であるシェイクスピアのオーベロンは、このアテネの森に大公の結婚を祝い、新床に喜びと栄えをもたらすために来たのだったが、妻の妖精の女王ティターこアといさかいをしたり、人間の娘を口説いたりする、きわめてわれわれに近い性格の妖精王として描かれている。
 いさかいのもとになったティターニアの連れている子どもには、妖精のさらってくる人間の子(取り換え子)のイメージが重ねられている。
 伝脱をたどれば、オーベロンはシェイクスピアの作品に登場するずっと以前から、その名を知られている。オーぺロンの名が見られるフランスのロマンス『ボルドーのヒュオン』は一五世紀の話である。
 ボルドーのヒュオンはりっぱな騎士だったが、偉大なシャルルマーニュ大帝の王子に背かれ、その攻撃をしばしば受けていた。しかし、ついにヒュオンは王子を討って、勝利を得ることができた。正義がどちらにあるかわからないでもない大帝だったが、息子がもう戻ってこないことを思うと、やるせない気持ちになっていた。そこで勇猛な騎士ヒュオンにも成し遂げるのが難しい過酷な遠征を命じて、彼を追放も同然に宮廷から追いだしてしまった。
 宮廷を追われたヒュオンは、ある日のこと、ひとりの家来を従えて森に入っていった。その森には妖精の王オーベロンが住むといわれていた。
 ヒュオンが馬の足を一歩森に踏みいれたとたん、ゾクッと悪寒が走り、身の危険につながるような魔力を予感した。しかし「宮廷に戻ってもしかたのない身だから」と、なかはあきらめの境地でどんどん森の奥深く馬を進めていった。
 しばらくすると、どこからともなく、「妖精の王オーベロンと口を聞いてはいけないよ。さもないと王の魔法にかけられて、命も危いよ」という声が聞こえた。
 ヒュオンは、オーベロンが森の小人王、小さな蛮王とも呼ばれ、なんでも好きにできる力をもっているのを知っていた。
「やはりオーベロンの森に入ってしまったのだったか」と心をひきしめて進んでいった。
 しばらく行くと、「わしは妖精の王、オーベロンだ」と背丈はわずか三フィート(九十センチほど)しかない、ずんぐりして不格好だが、美しい天使の顔をした小人が現れた。
 オーベロンはヒュオンを出迎えて、いろいろ質問を浴びせた。しかし、ヒュオンと従者は忠告を守っていっさい口を開かなかった。オーベロンは怒って、ヒュオンと従者を激しく打ちのめし、ついには口を開かせた。
 ところがオーベロンは、口を開いたヒュオンの気高い精神にうたれ、彼を気にいった。そしてヒュオンを殺すのをやめたばかりか、友人として厚遇し、不思議な力をもつ杯と徳の象徴である角笛まで贈ったのである。
 それからはヒユオンは、オーベロンの魔法に助けられて多くの試練に打ち勝つことができた。やがて死を前にしたオーぺロンは、ヒュオンに魔法の使い方をすべて教え、なおかつ妖精の王として戴冠させたという。
 オーベロンは誕生の祝いに招かれなかった妖精の怒りをかい、三年しか成長しないという呪いをかけられた。そのため背丈が三フィートしかない。しかし、ほかの妖精が美しきや他人の考えを見抜く力、さらに人や城などをよそに移す力、そして魔法の杯と角笛などを贈った。このため、オーベロンは超人的な能力をもつ妖精の王となって君臨していたのだ。
 ここに見られる天使のような顔とか、正直な人間の手が持てばワインがくめどもつきないという魔法の金杯とか、あるいはひと吹きでどんな願いも即座にかなえ、吹くもののもとに一瞬のうちに救援の手をもたらすという象牙の角笛などのエピソードもあるが、これらはきわめてケルト的である。ヒュオンが妖精に「もしひと言でもオーベロンに話しかければ永遠に失われてしまう」と忠告されて、この言葉を受け入れること自体もケルト伝説によっている。
 このオーベロンはジュリアス・シーザーと隠れた島の貴婦人ケファロニアとのあいだに生まれた息子とされている。中世の伝説のなかではシーザーとアレキサンダー大王は西ローマ帝国のキリスト教圏を象徴している存在であるから、シーザーの息子として描かれていることに、オーベロンの重要な位置がうかがえる。
 死後の国、冥府の王プルートーの特色も入っているようで、この世を去るときには楽園に席が用意されている」と自ら言うように、妖精の国に住んでいても死の宿命を免れない1人間」であった。
 オーベロンは、ゲルマン伝説の英雄ジークフリートが登場する『ニーベルンゲンの歌』に描かれ、ニーペルンゲン一族から奪い取った財宝を守る小人、アルベリッヒ(アルフ「妖精」十リッヒ「王」)の映像と重なっているともいえる。
 ルネサンス初期になると、オーベロンの名は使い魔(ファミリア・魔法使いに雇われ仕事をする妖精)の意味にも使われていた。
 シェイクスピアの『テンペスト』に登場する風と空気の精エアリエルは、この使い魔で、魔術師プロスベロに使われている。魔女シコラックスに松の木の幹に閉じこめられているところをプロスベロに助けられたエアリエルは、十六年ものあいだ仕えながら年季があけて、花の下で遊べる日を夢みている。

『ケルトの妖精』 あんず堂


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石井鶴三の世界 №181 [文芸美術の森]

法隆寺中門仁王 1956年/不動明王 1967年

         画家・彫刻家  石井鶴三

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法隆寺中門仁王 1956年 (171×124)
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不動明王 1957年 (175×126)

**************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社

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渾斎随筆 №75 [文芸美術の森]

少年少女におくる言葉

            歌人  会津八一

 私は新潟の生れで小学校は西堀小学校(今はないが、廣小路の滑防の詰署のある附近)へ通ったものだ。そこを出て大畑の高等小學校へ進んだが、成績はけっして優等どころでなく、やうやく眞中へとどくかとどかないかといふ程度だった。
 卒業する時、學校へ自分の目的を紙に書いて出すこととなった.。その時私の同級生は総理大臣になりたいとか、陸軍大臣けん海軍大臣になるとか、さういふことをはなばなしく書いて出した人が多かった。私は今でもわすれないが、小學校を出たなら百姓になる、ただの百姓で一生くらしたいといふことを書いて出した記憶がある。
 當時そんなことを書いたのは私だけだつたと恩ふ。當時の私は年齢的にも希望に輝いてをらず成績もあまりよくなかったために、そんなことを書いたのだらうと恩ふ。
 けつして今いふところの平民思想とかを當時もつてゐたのではない。ただ私が、ふるはない、平凡な、そして學問もあまりはなはだしくないただの子供だったことを示すものだ。
 しかしそれから中學へやつてもらひ、進んで大學も出ることができ、今日まで學間をつづけることができた。最初體がよわかったので、希望も消極的だったと思ふが、今日七十二歳の高齢に達しても、わりあひ丈夫でゐる。人間の一生といふものはけっして二年や三年で勝負のつく、いはば短距離競走ではなく、六十年、七十年、時として百年にもわたる長距離兢走だから、なんといつても體が一番大切だ。
 しかしその體も、もちやうによってはもつものだ。私の知人で八十何歳になる人で、子供の時身體が弱かつたといふ人が二人も三人もゐる。
 自分の體のくせと、弱みを守つてゆく、その手かげんさへわかれば、あんぐわい長く、最初體の強いのをほこつてゐた人よりも、かへつて長生きをすることができるといふことがわかる。        『新潟少年少女新聞』昭和二十七年一月十三日

『会津八一全集』 中央公論社


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じゃがいもころんだⅡ №38 [文芸美術の森]

私の八十年 父との思い出

        エッセイスト  中村一枝

 自分の年齢が八十年を越えたという実感がとてもうすい。何を今更、と誰にでも言われそうだ。息子はとうに五十を越えておじさんになってしまった。十五歳下の弟は今や七十二歳、いずれも熟年というより老人に近い年齢になった。
 昨日、台所のガス台の横に変なカメラがついているのに気が付いた。むすこに聞いてみると、「ガスを消し忘れたことがあったでしょう。危ないからね。」息子は遠隔操作でガスを自在に止める装置をつけてくれたらしい。有難いに違いないが、いささか、がっかりという思いも強い。息子が気を使ってくれるのは有難いことなのに、何となくむずむずした感じが拭えないのは、私が未だに自分の年を自覚していないせいでもある。
 私の弟は、父が五十を過ぎてから生まれた男の子で、当時、人生五十年というのは一つの目安であった。もっとも当時五十歳の父は、気力も体力もまだまだ十分で、そこへ突然、男の子が生まれたのだから、全身に力がみなぎるような充実感に満たされたに違いない。 その生まれた男の子が、まさに玉のような美しい赤ん坊で、当時、家に遊びに来ていた友だち三人が、みんな、すっかりのぼせてしまった。 自分の赤ん坊のころの写真を私は見ているが、猿がしぼむような赤ん坊で、ちょっとがっかりしたことを覚えている。それに比べて目鼻立ちのくっきりと整った赤ん坊は本当にかわいかった。母が私を産んだ頃と、弟の時とでは、母の胎内の栄養状態がまったく違うということを知らなかった私は、とてもがっかりしたこと憶えがある。
 父は当時巷間でも知られた美男子で、今、写真を見てもいい男だったと思う。それだけにどこへ行ってもちやほやされたらしく、母は随分苦労したのだろう。母の目をぬすんで父はちょいちょいつまみ食いをくりかえしていたのだ。
  それだけに父は娘の恋愛にもいたって寛大で好意的だった。私が好きになった人は父の担当の雑誌の編集者で、背があまり高くなく、ころころ肥っていた。いつの間にか私の気持ちに気付いた父はそれとなく気を使ってくれた。こういう父親はあまりいないのではないかと思う。母はむしろ学生である私がきょろきょろ目を走らせることを、とてもはしたないことのように言った。いつのまにか、私は父に自分の気持ちを手紙に書いて渡すようになった。
 「まったく、あんたたち、こそこそ何をやってるのよ。お父ちゃんもお父ちゃんですよ、一枝に甘いんだから。」
 母はいつも父と私に起こっていた。この恋は不発に終わったが、父にはいつまでも、青春というものに鮮やかに身を処せる自由な心が残っていたように思う。恋は実らなかったが、その間の父とこそこそ家の中でひそかに語らった思い出だけは今でも懐かしく浮き上がってくるのである。

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祖道傳東Ⅱ №36 [文芸美術の森]

第三十六図「永平寺図」


   
画  傅 益瑤・文  曹洞宗大本山永平寺

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 《紙本墨画彩色》192×345  六曲一隻屏風


「深山幽谷にいて、仏祖の聖胎を長養せよ。一箇半箇の接待を事とせよ」と説いた如浄禅師の教えのとおり、建立された永平寺。聖なる建物はすべて清澄にして自然に融け込み、真理が満天に満ちた風景です。


『祖道傳東』大本山永平寺

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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №52 [文芸美術の森]

                       歌川広重≪東海道五十三次≫シリーズ                    

                           美術ジャーナリスト 斎藤陽一                                                         
                           第3回 「日本橋朝之景」

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≪「東海道五十三次」大ヒット≫

 天保3年(1832年)から天保4年(1833年)にかけて、歌川広重による連作「東海道五十三次」が順次刊行されました。広重は36歳から37歳という年齢です。
 このシリーズは、江戸の日本橋を出発し、東海道にある53の宿場を経由して、京の三条大橋に到着するという旅を描いたものです。途中の53の宿場を描くだけではなく、出発点の「日本橋」と終着点の「三条大橋」を加えたので、全部で55図からなる連作となりました。

 刊行されるや、大評判となりました。広重独特の旅情あふれる描写が共感を呼んだのは勿論ですが、当時の江戸っ子たちの「観光熱」も影響して、人々の旅への憧れをかきたてたのです。
 これを眺める人は、あたかも自分が「お江戸日本橋」を旅立ち、途中の宿場での泊りを重ねながら京に向かっていくかのような「疑似体験」を味わえたのでしょう。

 このシリーズの大ヒットにより、広重の名声は一気に高まりました。のみならず、それまでの浮世絵の主流は人物中心に描くものだったのですが、ここに、北斎が開拓した「名所絵」(風景画)の地位も、続く広重によってしっかりと浮世絵版画の中に確立したのです。

≪お江戸日本橋七つ立ち≫

 「東海道五十三次」シリーズの冒頭を飾るのは「日本橋朝之景」です。

 当時、日本橋は江戸の中心であり、「五街道」(東海道、中山道、日光道、奥州道、甲州道)の基点でもありました。(現在でも、「日本国道路元標」は日本橋の中心と定められています。)
 また、日本橋は江戸経済の中心地でもありました。大きな魚市場もここにありました。
 ですから、広重が、東海道の長い旅の振り出しに「日本橋」を描いたのはごく自然なことなのです。
 この絵はまた「旅の始まり」と同時に、「一日の始まり」である「早朝の光景」を描いています。それもまだ日の出前の早朝であり、東の空にはかすかに明るみが見られる。

 この絵の「構図」は、それまでの定番を破った大胆なものです。

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  普通、浮世絵で日本橋を描くときには、上の右図(渓斎英泉「日本橋」)のように、橋を横向きにとらえ、その後ろに江戸城を配し、遠景に富士山を添えるという図式が定番でした。
 ところが広重は、日本橋を正面から大きくとらえるというきわめて斬新な描き方をしたのです。

 この絵では、背景の空は明るんでいるから、日の出前の東の空だということが分かります。ということは、日本橋を西側(正確に言うと南南西)からクローズアップでとらえた構図です。これにより、たんなる添景としての橋ではなく、江戸の中心「日本橋」界隈の早朝の活気というものが表現できたのです。

 幕府は、江戸の治安・取り締まりのために、市中の要所に大木戸を設け、夜間には閉じましたが、この絵では既に、画面の手前の大木戸は左右に開かれています。
 まだ完全には明けきらない中、日本橋をこちらに渡ってくるのは「大名行列」。西に向かってくるので、おそらく西国の大名が国元に帰ろうとするところでしょう。まさに俗謡に歌われた通り「お江戸日本橋七つ立ち」なのです。「明け六つ」が日の出頃の時刻を指しますから、「七つ」はその2時間ほど前。季節によっても異なりますが、午前4時ごろの感覚と思ったらよいでしょう。

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 この絵の「大名行列」は、江戸の町の大半がまだ眠っている中で、国元へ旅立とうとしているのです。なぜ、こんなに早い時刻に出発するのか?
 どうやら、なるべく早く出発して一日に歩く距離を出来るだけ長くし、途中の宿泊経費の節減を図ろうとしたらしいのです。
その上、江戸時代には当然ながら街道沿いの外灯などは完備されてはいませんし、宿場の照明も夜間には相当に暗いものでしたので、夕方の早い時刻に次の宿に着く必要がありました。各藩の財政を考えると、悠長な旅などは考えられず、殿さまも「余はまだ眠いぞよ」などとは言っていられなかったようです。
 そう思って、この行列を見ると、長旅へ向かう緊張感とともに、早朝の旅立ちの物憂いような情感も伝わってきます。

≪「一日千両」を商う魚河岸≫
 橋の手前、左下には、天秤棒を担いだ魚の行商人たちが動き回っています。当時、彼らは「棒手振り:ぼてふ52-4.jpgり」と呼ばれました。「棒手」は天秤棒のこと。「振り」は「触れ売り」が転化した言葉と言われます。つまり、魚とか野菜などを棒で担ぎ、声を出して売り歩く行商人のことです。
 日本橋の北詰には、江戸の台所である大きな魚河岸があり、「一日千両を商う」と言われるほどの活況を呈していました。この魚屋さんたちは、早朝の魚河岸の活況を象徴しているのです。
 魚屋さんたちの後ろに立っているものは「高札:こうさつ」です。幕府の「お触れ」(通達)や「掟:おきて」が書かれていました。日本橋は人が大勢集まるところですから、周知するのに好適な場所だったのでしょう。

 こんな風に見ていくと、広重が定番通りの横向きの日本橋ではなく、開かれた大木戸側から正面向きにとらえたのは、何よりも早朝の日本橋界隈の活気と、東海道への旅立ちの緊張感を表わしたかったからではないでしょうか。シリーズ最初のこの絵には、既に、そのような広重の持ち味と独創性がいかんなく発揮されています。

 次回の「東海道五十三次」では、「品川・日之出」(第2図)を紹介します。


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日めくり汀女俳句 №76 [ことだま五七五]

八月十日~八月十二日

     俳句  中村汀女・文  中村一枝

八月十日
夏草の花や一途にかかはれば
          『汀女句集』 夏草=夏

 汀女の俳誌「風花」の創刊は昭和二十二年 の四月だった。
 創刊号には武者小路実篤、本多顕彰、河盛好戒、室生犀星と、そうそうたる顔ぶれの寄稿が並んだ。
 段取りをつけ、編集を担当したのが富本一枝だった。富本一枝との女の友情というか、あるいはもう少し濃密なものがあった気もするが、その二人三脚で「風花」の基礎はできた。二号には佐藤春夫、渡辺一夫さらに虚子も五句を送っている。八号には上林暁が江津湖のボートレースのことを細かに書いた。個人誌として、これだけの人材を集め得た汀女の器量に、雷本一枝の才覚を思う。

八月十一日
ガソリンと街に描く灯や夜半の夏
          『春雪』 夏の夜=夏

 掃除機を買った。これがややこしい。何だかんだと新機能がついている。老眼鏡で説明書と首っ引きだ。簡単な昔の機種がなつかしかった。山の家では雷で電話器がだめに。新しいのが、これまたさまざまな仕掛けがついていて、うっかり押すと何が出てくるか分からないびっくり箱。
 年々日本の電化製品、機能はよくなる一方なのに、使用法はどんどん複雑になってきている。これを使いこなせないと二十一世紀には生き残れないなら、まあ仕方ないか。老兵は消え去るのみ、という言葉が妙に現実的に聞こえてくる。

八月十二日
流灯の焦ぐるばかりに面照らす

          『春暁』 流灯=秋

  月遅れのお盆はまた民族大移動の季節、東京の町も商店もがらがらになる。故郷というものを持たない私には、地方独特の思い込みというか、入れこみというのがいまだに理解できないところがある。私の父尾崎士郎は愛知県吉良町の出身。実家が投落し、石もて追われる心境で兄弟二人田舎を出た。
 伯父は以後も一度も吉良へ帰らず、父は私が中学生の時三十年ぶりに故郷の土を踏んだ。小学校の同級生である白髪のおじさんたちが「シロさん、シロさん」となつかしそうに呼ぶ姿を、不思議なものに眺めていた。

『日めくり汀女俳句』 邑書院




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草木塔 №82 [ことだま五七五]

孤寒 7
          俳人  種田山頭火
   
  其中一人いつも一人の草萌ゆる
  枯枝ぽきぽきおもふことなく
  つるりとむげて葱の白さよ
  鶲また一羽となればしきり啼く
  なんとなくあるいて墓と墓との間
  おのれにこもる藪椿咲いては落ち

『草木塔』 青空文庫

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読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №105 [ことだま五七五]

         読む「ラジオ万能川柳」プレミアム☆ 2月3、10日放送分

      川柳家・コピーライター  水野タケシ

川柳家・水野タケシがパーソナリティーをつとめる、
読んで楽しむ・聴いて楽しむ・創って楽しむ。エフエムさがみの「ラジオ万能川柳」
2021年2月3日放送分です。 
 
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立春大吉!!

「ラジオ万能川柳」
は、エフエムさがみの朝の顔、竹中通義さん(柳名・あさひろ)が
キャスターをつとめる情報番組「モーニングワイド」で、
毎週水曜日9時5分から放送しています。
エフエムさがみ「ラジオ万能川柳」のホームページは、こちらから!
放送の音源・・・https://youtu.be/ydXVewGorcg

【お知らせ1】
私が今、東京・竹橋の毎日文化センターで主宰している句会は、
「仲畑流万能川柳句会」「はじめて川柳句会」「Zoom仲畑流万能川柳句会」の3つあります。
非常事態宣言が伸びてしまったので実際に教室で行う句会は
2月はステイホーム句会になってしまうと思うのですが、
1月からスタートしたZoom仲畑流万能川柳句会は、通常通りそのまま行いますよ!!
2月は20日(土)の15時から開催します!!随時参加者を募集していますよ!!

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(みなさんの川柳)※敬称略 今週は229句の投稿がありました!
・河津桜画面に春が来たように(模名理座)
・かと言ってポストまでなら許されよ(名人・重田愛子)
・戸惑っていないフリだけ苦手です(野添まゆ子)
・本当に無い時無いと言えぬ金(翔のんまな)
・マスク付け迫力がない鬼の面(東孝案)
・川柳で国境渡る妙子さん(うさぎの小雪)
・君やっと夢に出てくる二月の夜(大名人・平谷妙子)
・二階から目薬でなく喝がくる(金☆玉三郎)
・節分の豆を二階にぶちまける(せきぼー)
・コロナ禍で現状維持の夫婦仲(名人・やんちゃん)
・罰則が必要なのはそっちだろ(司会者=名人・あさひろ)
☆あさひろさんのボツのツボ
「ラジオ万能川柳。今週は229の投句、河津桜の開花写真が添えられた句も。今日は二十四節気の立春。2月3日の立春は124年ぶりとのこと。立春や節分を読み込んだ、春を感じさせる句も多数。そこでボツのツボ『えっ!昨日だったんですか鬼呆然』ユリコ。コロナ禍にこんなとぼけた春を感じさせる愛すべき鬼!」
・「しまった」と足が叫んだ勇み足(大名人・東海島田宿)
・おうち時間意外とひまな妻を知り(おむすび)
・ローマから日本橋までヤナギガワ(バレリア)
・よく来たな密になるから俺帰る(がんにんぼうず)
・やってない宿題多すぎマジオワタ(名人・わこりん)
・雪国に分けてあげたいこの晴天(柳王・雷作)
・宣言下一枚めくるカレンダー(名人・あまでうす)
・孫抱いて三日後にくる筋肉痛(大名人・アンリ)
・コンビニにおでんの匂いしない冬(ワイン鍋)
・東北にマー君春を連れて来る(大名人・フーマー)
・リモコンとスマホと私かくれんぼ(じゅんじゅん)
・閉店が悲しい徳光再放送(辰五郎)
・あと二年暦が還り若返る(柳王・入り江わに)
・ケンカするために換気の窓を閉め(柳王・ユリコ)
・感染の数字が減ると出る元気(柳王・春爺)
・朝は冬昼は小さな春になり(しゃま)
・あるんだよ箸転んでも泣けるとき(大名人・荻笑)
・あぁ遂に今年も雪を見ないまま(のりりん)
・ 「ヨッ柳王」なんて院長言うんです(柳王・けんけん)
・集会か路地の日だまり猫集い(名人・不美子)
・大寒に恋の句を聴くラジ川で(咲弥アン子)
・鳥もにぎやか猫もにぎやか(大名人・かたつむり)  

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・恵方巻き今年もテレビを向いて食う (よっきゅん)
☆タケシのヒント!
「タイムリーな節分ネタ、恵方巻きの句でした。共感される方も多いのでは?とぼげた味わいの句で思わず笑ってしまいました。」
・逃げちゃダメひねりラジ川送るまで(黒耀舎)
・真っ青な空に紅梅嗅いで春(里山わらび)

◎今週の一句・恵方巻き今年もテレビを向いて食う(よっきゅん)
◯2席・本当に無い時無いと言えぬ金(翔のんまな)
◯3席・マスク付け迫力がない鬼の面(東孝案)

【お知らせ2】
絶好調!テレビ朝日の「川柳居酒屋なつみ」、

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さて私、今週に入って、またテレビ朝日に収録に行って参りました!
今回は今いちばん売れっ子のお笑いコンビ
ぺこぱの松陰寺さんとシュウペイさんが来店!

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【放送後記】
かるいギックリ腰になったと思ったら、連続してギックリ腰。
寒いとどうしても腰に来ますねえ。
本当に久しぶりに鍼を打ってもらいました。
皆さまもどうぞご自愛くださいね!!(タケシ拝)

◆10日の放送です

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バレンタインチョコに喜ぶあさひろさん!
放送の音源・・・https://youtu.be/p8C7C0fabJA

【話題】
今朝はこの前、ZOOmの句会で体験した面白い話をしたいと思います。
Zoom句会中に、二人の方から同じ質問されたんですね。
それは1月29日の仲畑流万能川柳に掲載された、100点招待席の句、東京の恋し川さんの
「歓談の穴場でしたね時間割」

(みなさんの川柳)※敬称略 今週は184句の投稿がありました!
・少しずつ光も音も水も春(名人 ・重田愛子)
・オレオレを笑う手元に詐欺メール(初投稿・さるはし)
・恥知らぬ顔がテレビにまた映り(翔のんまな)
・また失言女性蔑視でモリ下げる(よっきゅん)
・コロナ禍も子の成長に待ったなし(名人・和こころ)
・それだけで1日終わる家探し(うさぎの小雪)
・なつみ観た月に一度じゃ見逃しそう(模名理座)
・地球をば川柳にするもの凄さ(名人・六文銭)
・美しいものを見てなぜ気が晴れる(バレリア)
・締め切りが夢の中でも仕事して(初投稿・日向鳴山)
・やっぱりなあ森えひめまる座礁(アルキメデスの眼)
・同世代だけど森さん旧いねエ(柳王・雷作)
・気を遣う女の友だち欲しくない(大名人・平谷妙子)
・唇を奪われましたとちおとめ(外科系)
・陽だまりのオオイヌフグリ誇らしげ(柳王・光ターン)
・日々一句目標超えて今日三句 (つや姫)
・摩訶不思議当選無効手当有効(司会者=名人・あさひろ)
☆あさひろさんのボツのツボ
「ラジオ万能川柳。タケシ師匠のオープニングが恋し川さんの句から渋谷の喫茶店“時間割”の話題に。懐かし~い!30年以上前小生にとっては歓談の穴場と言うよりデートの穴場でした。今週のボツの壺『得意気を得意にしてくれる拍手』せきぼーさん。解りますよ。あさひろも「誉められて伸びるタイプ」です。」
・忖度がなくてホッとす世界の目(大名人・龍龍龍)
☆タケシのヒント!
「大共感の一句です。黒船もそうですが、日本て外からの力がないと変われないんですよねえ。そこがちょっと情けなくはあるのですが。」
・ミュート解除してると知らず本音でる(おむすび)
・雪掻きがなけりゃ北国天国さ(恵庭弘)
・年金日銀行ロビーは敬老会(じゅんじゅん)
・履歴書にほぼほぼ詐欺の写真貼る(名人 ・マルコ)
・森さんもマダム相手で逃げられぬ(パリっ子)
・あきれたと妻のため息春一番(恋するサボテンちゃん)
・辞めなくていいさ五輪も止めるから(柳王・春爺)
・祭り好き命を賭けるパンまつり(柳王・ユリコ)
・今日もまた地球と人の世話になり(名人・ぼうちゃん)
・義理ゆえに不義理出来ずに配るチョコ(しゃま)
・辰句集ダサいイラスト味を出し(のりりん)
・今日あった良いことだけを言う終礼(柳王・けんけん)
・眠ってた失言王が目を覚ます(大名人・アンリ)
・痛感と撤回で済むご職業(咲弥アン子)
・わきまえよ言ってる人はわきまえず(ペンギン)
・今日もいただくつまんでごらん(大名人・かたつむり)
・ホチキスしかキスの経験ないの僕(辰五郎)
◎今週の一句・忖度がなくてホッとす世界の目(大名人・龍龍龍)
◯2席・あきれたと妻のため息春一番(恋するサボテンちゃん)
◯3席・コロナ禍も子の成長に待ったなし(名人・和こころ)

【お知らせ】
絶好調!アベマTVの「川柳居酒屋なつみ」、
2月5日金曜日21時からの「ぺこぱ」さんご覧いただけましたでしょうか?
ネットニュースにも上がっているくらい話題になりましたね!
今週の12日にはアベマTVで「ぺこぱ」さん、後編をお送りしますので、
どうぞご覧くださいませ!

【放送後記】
92年2月3日に毎日新聞の隅の隅だった「仲畑流万能川柳」に初掲載されてから、
何と29年たちました。あの日から、第2の人生が始まったのだと思います。
あっという間の29年でしたが、
とにかく川柳を続けてこれたことに感謝しかありません。
これからもがんばります。よろしくお願いいたします!!(タケシ拝)
=====================================
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水野タケシ(みずの・たけし)
1965年生まれ。コピーライター、川柳家。東京都出身。
ブログ「水野タケシの超万能川柳!!」


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雑記帳2021-2-15 [代表・玲子の雑記帳]

2021-2-15
◆「感染症は農耕社会を選んだ人類の宿命」?

オンラインセミナー「パンデミックを生きる指針」に参加しました。
講師の京都大学准教授の藤原辰史さんは、『浜田山通信』で紹介された斎藤幸平さんとならんで、気鋭の若手研究家。ふたりとも関西在住で、対談もしています。パンデミックは今が初めてではなく、それが起きた時代背景を振り返ることは今の私たちが今後どういう社会を望むのかの指針になると思います。

先ず指摘されたのは、感染症は農耕社会を選んだ人類の宿命だということでした。10万規模の都市が形成されることで、感染症は多発することになります。鼠が媒体となるペストの流行は何度もおきましたが、最たるものはヨーロッパ全土を覆った14世紀のペストでした。あまり知られていませんが、その時にもユダヤ人の虐殺がおきています。
その後の大航海時代、コロンブスの新大陸発見はヨーロッパの病原菌を新大陸に運び、植民地政策と相まって感染症はグローバル化していきました。

ちょうど100年前のスペイン風邪はまだ記憶に新しく、その時代の背景や社会の反応を見ると、なんだか身につまされます。
時は第一次世界大戦末期。兵士は世界中から参戦していました。そこでインフルエンザに感染したアメリカ兵が母国に持ち帰ることによって感染が爆発的に広がりました。感染者数は18億人、死者は4000万人から1億人にも上りました。(新型コロナでは感染者数は1月4日現在で77億人、死者は184.3万人。)運び屋が当時は帰還兵だったこと、今はツーリストですから、感染のグローバルな実態がわかるというものです。

感染症は病気の流行だけですむわけではなく、複合禍をともないます。
戦争とスペイン風邪は世界に飢餓や貧困をもたらしました。(第一次大戦は食料戦争だとさえ言われています。)コロナでも同じように貧困が指摘され、周辺では地震や津波、水害などの自然災害が起きています。そして、今また、世界の食糧危機が叫ばれているのです。
また、リスクにさらされやすい対象が、コロナの今は高齢者に対し、当時は元気な若者だったという点こそ違うものの、低所得者、清掃業従事者、ケア労働従事者だった点は今と変わりません。
アメリカではフェイクニュースがはびこり、マスク反対や精神主義が結構広く支持されました。また、アフリカなどの植民地でのずさんな管理ものちに明らかになりました。

遠く離れた日本にもスペイン風邪はやってきました。国内では米騒動が起きた年でした。
当時日本も台湾、挑戦、中国関東州、樺太に植民地をもっていました。植民地のインフルエンザの死亡率は、内地の8%に対し、13~35%というきわめて高い数字を示しています。
残された個人の日記や新聞記事から、右往左往する企業や人々の姿が昔も今も変わらないということがうかびあがってきます。

スペイン風邪から約半世紀後の1970年代に生まれたのが新自由主義の考え方です。
緊縮財政の強制、競争原理の徹底、生命領域(労働力と自然)の商品化をうたった、サッチャー、レーガン、竹中平蔵氏らに代表されるものです。
資本主義の利潤が増えないことから、新たな商売を求めて「規制」を突破しようとしたのでしたが、その結果、気候温暖化とともに起きた様々な問題に直面しています。
日本でも、小さな政府を目指して、中曽根内閣の民営化に始まる構造改革は着々とすすめられてきました。菅内閣の下では、いまも中小企業の再編やベイシックインカムがとりざたされています。政策はコロナ禍に対応できるのでしょうか。

新型コロナウイルスという「抜き打ちテスト」で、様々な問題点が明らかになりました。
1. 大規模自然破壊とそれに由来する気候変動
2. 非正規雇用労働形態の脆弱さ
3 男性中心社会の暴力性
4. 都市と大企業一極集中の脆弱さ
これらはすべて新自由主義の限界を示しているではありませんか。
興味深いことに、藤原さんはさらに言葉や文化の側面もあげていました。
5 言葉の破壊(詭弁に矛盾、「総合的、俯瞰的」の多用、など)
6 人文学・文化の軽視(政治と経済に集約された社会では歴史と批判が希薄)

一方、コロナと期を一にして鳥インフルエンザが猛威をふるっています。
鶏は摂取したエネルギーを肉に持って行きやすいように品種改良され、ゲージに詰め込まれ、免疫力が落ちているので、その結果インフルエンザにかかりやすくなり、抗生物質が与えられ、抗生物質に耐性をもつもっと強烈なウイル スに突然変異する可能性が出てきている 。コロナでも変異種が次々見つかっていますが、鳥インフルの変異にどれほど危機感を抱けているのでしょうか。

藤原さんは. 戦争の兵士と産業の「兵士」の類似的構造や、雇用者と被雇用者の搾取の関係、人間と自然の搾取の関係は、本来同根ではないか、といいます。
そして、 労働に関心をもつ人と、エコロジーに関心をもつ人は、結びつきが弱いけれども、衣食住、特に食べものが蝶番になると見ています。

ファストフードに席巻された食の根源をとらえなおす3つの視点として、藤原さんは植物の思想、分解の思想、縁食の思想を揚げました。①植物の知性に学べ(植物の根はすさまじいほどの知覚を持っているのです!)、②微生物の力を借りたエネルギー革命、③孤食と共食のあいだの縁食(えんしょく)の勧め、です。縁食の例にとりあげたのは、地魚や地場野菜を利用した今治市の学校給食でした。

小規模の共同購入、地産地消をすすめる学校給食、子ども食堂・・・、新自由主義に取り込まれることなく食を取り戻す活動は、今、地道ながら、様々なところに広がっています。
食の根源をとらえなおすことは、食量を他国に頼ることのない、持続可能な農業につながります。類まれな多様性を持つ小農列島、日本が世界をリードしていけるかが問われます。

◆アーノルド・ローベル展が立川で開かれています。
アメリカ生まれの絵本作家アーノルド・ローベルの日本初の展覧会が、立川市の「PLAY! MUSUEM」で開かれました。

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PLAY MUSIUMの正面

ローベルは「がまくんとかえるくん」シリ-ズで知られています。子どもが幼稚園の頃、我が家の本棚にもありました。
「ふたりはいっしょ」、「ふたりはともだち」の、「きみがいてくれてうれしいよ」という言葉にほのぼのとした想い出を持った読者は数しれません。 その「がまくんとかえるくん」のスケッチ約100点と同時に、隠れた名作の版画やスケッチも初公開されていました。

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ローベル展のポスター
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同時開催されていたエリック・カールの「はらぺこあおむし」の看板

PLAY! MUSUEMは絵とことばをテーマに、大人も子どもも楽しめる美術館として生まれました。
ローベル展でも随所にローベルの言葉がかかげられていました。勿論「きみがいてくれてうれしいよ(I'll be glad not to be alone)」もありました。. 
コロナ禍のわたしたちにぴったりのメッセージではありませんか。

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I am on my way!  「ぼくは自分の行く道を見つけたよ。」
幼い頃両親が離婚して母方の祖父母に預けられ、孤独な少年時代を過ごしたローベルが自分の才能にめざめて、絵本作家として立って行く決心をしたときの言葉です。

Don't preach me.  「お説教はまっぴら。」
求められてイソップの絵本を作ったとき、その教訓臭さが嫌だったローベルは、絵本の中で教訓をずらした落としどころを探したといいます。

I am the stage directer, the costume designer, the man who pulls the curtain.
  私は舞台監督、衣装デザイナー、幕を引く者だ。」
高校生の頃から舞台にあこがれていた作家の言葉の端々には、舞台につながる言葉が出てきます。

がまくんシリーズで、人は誰かとつながり、孤独でないことがどんなに大切せかを描くいっぽうで、かえるくんのこんな言葉が紹介されているのも面白いですね。
    しんあいなるがまくん
     ぼくはいません
     でかけています
     ひとりきりに
       なりたいのです

作品が出来上がったとき必ず自分で声に出して読み、作品のリズムを大切にしたというローベルにふさわしく、会場内には朗読のコーナーがありました。丸みをおびた木の壁や緑色の薄いカーテン、段ボールの展示台など、他所にない雰囲気を持つ美術館のスタッフは、みな驚くほど若い人たちでした。新しい形の美術館の今後が楽しみです。

「PLAY! MUSUEM」のある「PLAY!」は、昨年、立川市の一番新しい街、GREEN SPRINGSに誕生しました。子どものための屋内広場「PLAY! PARK」を併設しています。
CAFEではMUSIUMに関連したオリジナルスイーツも提供されます。コロナ下でも子ども連れの若いお母さんたちの姿が絶えませんでした。

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かえるくんおイラストがその浮かぶカフェラテ
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同時開催中の「はらぺkpあおむし」に因んだプチケーキ
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壁にはローベルの本のコーナーも。客は自由に手に取ることができる。


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私の中の一期一会 №231 [雑木林の四季]

 ワクチン接種始まる!「ワクチンに期待する」人が81%、前月調査より増えた。
  ~「すぐ接種を受ける」は39%に留まり、「様子を見る」が52%だった~

       アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 米ファイザー社製のコロナ・ワクチンが日本でも14日に正式承認され、17日にも医療従事者1万人程度を対象に〝先行接種”が開始されることになった。
 欧米と比べてワクチン承認が遅れた理由を、菅首相は「有効性、安全性に配慮したため」と国会で答弁していた。
 コロナ収束の切り札とも言われてきたワクチン接種が、ようやく日本でも実現に向けて動き出したのである。
 知り合いの医療従事者に「良かったね、いつ接種を受けるのか?」と聞いたところ、「我々は優先的に受けられるが、自分は辞退するつもりだ」という答えが返ってきたのでチョットびっくりした。
「外国ではワクチン接種で高齢者が何人も死亡している。安全性がどうもイマイチだから・・」というのがその理由であった。
 日本では医薬品の承認には時間がかかるが、変異種の感染者数が増え出すなど緊急性も無視出来ない。
 14日、田村厚労相の「特例承認」による承認となったもの。
 ファイザー社は、昨年7月から米国、英国など6カ国の4万4000人を対象に国際共同治験を実施してきた。
 臨床試験に参加した4万4000人のうち、期間中にコロナに感染して発症した人は170人だけだった。
 170人のうち、ワクチンを接種したグループでは8人が感染したに過ぎなかったが、ワクチンでない疑似薬を接種したグループからは162人が感染した。
 国際共同治験の結果は11月に纏まったが、〝ワクチン接種で発症者が95%減った”として、有効性95%という評価になった。 
 今回、日本で160人を対象とした追加治験も行い、数は少ないが感染を防ぐ〝中和抗体”の値の上昇を確認出来た。
 日本政府は、ファイザー社と1億4400万回分(7200万人分)のワクチン供給を受ける契約を結んでいて、すでに第一便が12日に成田空港に到着している。 
 菅首相も「出来るだけ早く国民の皆さんに接種してもらえるようシッカリ取り組む」と記者団に語った。日本で初めて接種されるコロナ・ワクチンは、ウイルスの遺伝物質の一部を人工合成したものを人の上腕に筋肉注射するものである。3週間程の間隔を明け2度目の接種をして完了する。
 なにしろ世界で初めての試みだから、〝まだ未知のこと”も起こり得る可能性がある。
 間もなく始まる医療従事者への先行接種は、「先行接種者健康調査」といって接種後約1カ月間に起こる副反応の症状に関する調査を兼ねているのだと分った。
  同意を得られた医療従事者に接種して、接種後一定期間の健康状態を報告してもらう・・ということは、政府が安全性や有効性に確たる自信を持っていない現れかも知れないと私は思った。
 アメリカCDC(米失病対策センター)のデータによれば、ファイザー社製のワクチンには
  倦怠感(4.2%)
  頭 痛(2.4%)
  筋肉痛(1.8%)
  寒 気(1.7%)
  注射部位の痛み(1.4%)などの副反応が確認されているが、比較的軽いものが多く数日で治っているという。
 急性の激しいアレルギー反応〝アナフィラキシー”が起こることは〝極めて稀れだ”と説明している。 
 ワクチンは健康な体にとっては「遺物」になるので予期せぬ反応が出ても不思議ではない。
〝副反応ゼロ”にはなり難いのである。
 政府は全国民分のワクチン確保を目指しているが、いずれにしても人口を大きく上回る量が必要になる。
 一度に全てを調達できるとは思えない。
 医療従事者が最優先になるのは、感染者や感染を疑われる人に接触する機会が多いからだろう。
 高齢者は重症化や死亡のリスクが若い年代より高い。
 基礎疾患のある人、高齢者施設の職員、そして16歳以上の人という順になる。
 住んでいる自治体から〝接種券”が届くので、希望する場合は電話やインターネットで予約することになっている。全て無料で費用はかからない。
 毎日新聞と社会調査研究センターが13日、全国世論調査を実施した。
 81%の人が〝ワクチンに期待する”と回答したが、〝すぐに接種を受ける”という回答は39%に留まった。
〝急がずに様子を見る”人が一番多く52%だった。接種は受けない”という回答も6%あった。
〝すぐに接種を受ける”という回答を年齢別で見てみると・・
  18~29歳は29%
30代も   29%
40代    32%
50代    39%
60代    53%
70歳以上  44%となっている。
 ワクチンへの期待は高まっているのに、現時点では〝接種に慎重な意見”が多いことが分った。
 国民が接種に慎重なのは、政府の説明が充分ではないことが影響していると世論調査も結論づけている。
 菅政権のコロナ対策については「評価する」は23%に留まった。
 前回は15%しかなかったから、8ポイント挽回しても喜べるものではない。
「評価しない」の51%と「どちらとも言えない」25%を見れば、評価は依然として低いと言わざるを得ないのだ。
 菅首相は15日の国会審議で「17日には医療関係者への接種を開始したい」と述べ、都道府県などと一体となって準備に取り組んでいる」と意気込みを述べた。
 医療従事者への先行接種に次いで,高齢者3700万人への優先接種も4月月以降に始まる予定になっているが、
 様子見の人が増えたり、ワクチンの供給が期待通りに来なかったりしたら、一般の人々の順番が来るのは遅れて夏過ぎになってしまうかも知れないのだ。
 もしそうなった ら、落ち着いてきたかに見える感染者数もどうなるかわからい。
 自粛、自粛が解消されないと、国民の我満や辛抱に限界がきて、国民の行動制御など出来なくなる。
 スマホに時事通信の調査が出ていた。(2/12 投票数351452票)
「当面、接種を受ける気はない」 40,0%
「すぐに摂取を受けたい」    28.8%
「様子を見てから接種を受けたい」28.8% 
「どちらとも言えない、その他}  2.4%
 
 私は今まで、自分は「すぐに接種を受けたい」だと思っていた。
 だがぐらついている・・・
「様子を見てから接種を受けたい」に変更したくなった。
「安全性がどうもイマイチだから」・・という知人のコトバが頭から離れない。 
 

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