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『知の木々舎』第356号・目次(2024年3月上期編成分) [もくじ]

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【文芸美術の森】

妖精の系譜 №69                妖精美術館館長  井村君江
 イエイツと妖精物語の蒐集 1
石井鶴三の世界 №251               画家・彫刻家  石井鶴三
 三月堂。執金剛神 2点  1957年
西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」№123 美術史研究家 斎藤陽一
 明治開花の浮世絵師 小林清親 7 
   「東京名所図」シリーズから:一日の中の光の変化
浅草風土記 №21              作家・俳人  久保田万太郎
 続吉原附近 6
子規・漱石 断想 №5            子規・漱石愛好家  栗田博行
 よのなかにわろきいくさをあらせじと
      たたせるみかみみればたふとし(再校・補筆 2024.3.1)
武蔵野 №1                        作家  国木田独歩
【ことだま五七五】

こふみ句会へGO七GO №128                俳句 こふみ会     
 「立春」「日向ぼこ」「鱈」「手袋」
郷愁の詩人与謝蕪村 №24               詩人  萩原朔太郎
 秋の部 1
読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №178               川柳家  水野タケシ
 2月7日、14日放送分
【雑木林の四季】

BS-TBS番組情報 №300                           BS-TBSマーケテイングPR部
 2024年3月のおすすめ番組(上)
海の見る夢 №722                                 渋澤京子
  Sky Lark
住宅団地 記憶と再生 №30   国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治
 ベルリン・ヘラースドルフ地区の団地 
地球千鳥足Ⅱ №42            小川地球村塾村長  小川律昭
 こんなところで日本人5人と会った!
山猫軒ものがたり №34                    南 千代
 ムラの名人たち 2
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-02-27-5

【ふるさと立川・多摩・武蔵】                                                   

線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №220      岩本啓介
 ととろ峠・猫バス
夕焼け小焼け №31                      鈴木茂夫
 団らんの茶の間  
押し花絵の世界 №198                                     押し花作家  山﨑房枝
 「My Faverites」   
赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №52       銅板造形作家  赤川政由
  「大地の音・大地の声」A sound of the earth-a vojce of the earth
多摩のむかし道と伝説の旅 №121                原田環爾
 西多摩の多摩川河畔の桜道を行く 1
国営昭和記念公園の四季 №147
 シナマンサク 花木園
【代表・玲子の雑記帳】                    『知の木々舎 』代表  横幕玲子

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妖精の系譜 №69 [文芸美術の森]

イエイツと妖精物語の蒐集 1

       妖精美術館館長  井村君江

アイルランドの妖精物語

 一八八七年に、二十二歳のW・B・イエイツは、キヤメロット・クラシックス叢書の一つとしてアイルランド民話の編集を依頼された。このとき彼はクロフトン・クローカーの『アイルランド妖精物語』の復刻を考えたが版権の問題で方針を変え、これまでに出ている本や雑誌及び自分の蒐集した話のうち、神話・英雄伝説は除き、アイルランド各地方の農民や漁夫の間に口伝えで語られていた話(バーディック・テイルズ)や民間伝承物語(フォーク・テイルズ)、そして妖精物語(フエァリー・テイルズ)を自らの鑑識眼で選び、ときには訂正削除の筆を入れ、物語を内容から識別して編纂し、その中でアイルランドの妖精を初めて分類し体系化に努めた。これは、一八八八年に『アイルランド農民の妖精物語と民話』と四年後の一八九二年に出された『アイルランド妖精物語』として刊行されたが、イエイツ自身「この二冊はアイルランド民話の代表的な素晴らしい集録書だと信じている」と言うように、アイルランドの人々の遺産の宝庫であると同時に、古代ケルト民族の魂の記録である。一方ではこれらの書物は、十九世紀のアイルランドに起こっていた文芸復興運動を促進させ、またイエイツ自身の文学活動の出発とその後の源泉ともなっている。
 物語六十七篇、詩十三篇が収録されてお。、妖精や人魚(メロウ)、プーカ、バンシー、レプラホーン、ラナン・シーなど、アイルランド特有の超自然の生きものや、透視力(セコンド・サイト)を持った妖精学者(フェアリー・ドクター)や、魔女、巨人、地・水の精霊や幽霊などの他、聖者、英雄、戦士、王や王女が農民たちと関わり合う民間伝承のさまざまな物語が収められている。どれも超自然の現象と何らかの連関を持っており、目に見えぬものたちが目に見えるものたちと互いに交渉し合う幻想(ヴィジョン)の世界を形作っている。「アイルランドにおけるあらゆる種類の民間信仰(フォーク・フェイス)を、一望のもとに見渡せるように努力し編纂した」とイエイツは言っているが、ここにはアイルランド・ケルト民族の深遠で神秘な魂のあり方を、垣間見せてくれる物語の世界が広がっている。
 各項目に関して章ごとの冒頭に、詳しいあるいは短いイエイツの解説がついている。それらは詩人の眼を通した詩情あふれる興味深いものである。それと同時にこれはまたアイルランドに古くから伝わる超自然界の生きものを、解説した墓な文献でもある。各巻の最後に置かれた付記や「アイルランド妖精の分類」一覧もまた、妖精を「群れをなして暮らす妖精」と「ひとり暮らしの妖精」に二分し、さらにそれぞれの妖精にわたって容姿、性質から特色についてすべての物語から演繹(えんえき)してまとめたもので、十九世紀に初めて作成されたアイルランド妖精分類辞典の観がある。事実、ごく最近に発刊されたプリッグズの『妖精事典』も、キヤロリン・ホワイトの『アイルランドの妖精の歴史』も、アイルランドの妖精に関しては、このイエイツの解説をもとにしているほどである。
 イエイツが採録した作家の作品数の多い六人のうちでも、クロフトン・クローカーは十五篇でもっとも多い。少年の頃、クローカーは実際に自分の足で、コークやリマリック、ウォーターフォードなど南部諸地方を歩いて、その土地に伝承されている伝説・民話・民謡の蒐集につとめ、彼の書物はトマス・モアやウォルター・スコットの称賛を得ており、グリム兄弟によりその一部はいちはやくドイツ語に翻訳されている。彼の筆によって初めて、靴作りのレプラホーンや、死を予言して泣くバンシー、赤い帽子(コホリン・ドユリュー)をかぶった飲んべえのメロウや、酒倉荒らしのクルラホーンなど、数々のユーモラスで愛すべきアイルランド特有の超自然の生きものたちが、地上の人々の眼の前に紹介されたのである。
 「クローカーの作品のいたるところには美がひらめいている。それは優しい牧歌風の美だ」とイエイツは称賛している。月夜の緑の草原や青い海原の底で、妖精と人間が織りなす物語が、巧みな会話や叙情的筆を通して生き生きと描かれている。
 「クローカーとラヴァーは、そそっかしいアイルランド的な気取りを、思いつきの中にほとばしらせ、もの事すべてをユーモアを持って眺めた」とイエイツが描写したサミュエル・ラヴァーはダブリン生まれで、自ら詩を書き作曲して歌う才に恵まれた文学者であり、『白い鱒』のようにリズミカルな口調で幻想的な伝説を平明に素朴に物語っている。
 伝説についての本を著したフランセスカ・ワイルド夫人は、オスカー・ワイルドの母であり、夫ウイリアムもアイルランドに残る迷信に関する本の著者である。イエイツは彼女の書物にはケルト人特有の哀感が流れており、その語り口にはケルト民族のもっとも内奥の心を見るものがあるとして、高い評価を与えている。彼女の「民族の持つ神話・伝説は、その民族の魂と目に見えない世界との連関をよく見せてくれる」という意見にも共感を示している。
 ダブリンの年老いた本屋であったパトリック・ケネディは、消えていく伝説や民話などを惜しみ、その伝承文学保存に努めて、多角的に蒐集を行った人であるが、その中には他の国の民話と、物語の主題が共通するものが多くあるのは、興味深い。すなわち『怠け者の美しい娘とその叔母たち』はグリム童話の『糸くり三人女』と類似しており、『十二羽のがちょう』にはグリム童話の『十二人の兄弟』やアンデルセンの『白鳥』の物語と共通するものが見られよう。
 この他ついでに共通性の見られる話について触れるなら、ウィリアム・カールトンの『三つの願い』は、各国の昔話の中に見られる欲張ったために三つの願い事をふいにするという基本型を持つ話であろうし、ラヴァーの『ドゥリーク門の小男の機織。』にはイギリス民話の『一打ち七つ』との共通性が見られる。さらにダグラス・ハイドの『ムナハとマナハ』の構成にも、グリムやイギリスの昔話『ジャックの建てた家』の型との類似がある。またクローカーの『ノックグラフトンの伝説』のこぶを背負ったラズモアには、おのずとわが国の『こぶ取。爺さん』の姿が重なって浮かんでくるようである。もちろん、類似性を持たない物語にこそ、アイルランド民話の土着的面白味があることは言うまでもない。
 「文学的才能という点では劣るが、語られた言葉通りに物語を記述する驚くべき正確さの持主」というのが、ケネディに与えられたイエイツの評である。
 レティシア・マクリントツク嬢は、半ばスコットランド方言がかったアルスター地方の吉葉を正確に美しく書きとめ、それらは『ダブリン大学雑誌』に掲載された。
ダグラス∴イドはアイルランド初代の大統領となった人であ。、ゲール語の民話の正確な英訳に努め、『ムナハとマナハ』に見られるように、ロスコモンやゴルウェイのゲール語話者の語る言葉を逐語的に書きとめた。イエイツはハイドをどの作家よりも信頼に値すると言い、その話のいくつかを歌謡(バラード)にしてくれることを望んでいた。「泥炭の煙が香る作品を創った人たちの流れをくむ歌謡作者たちの、最後の一人といえるからである」と、彼には賛辞を惜しまない。
 イエイツ自身は物語一つと詩篇を二つ載せている。収録されている十三篇の詩は、J・カラナンの『クシーン・ルー』やエドワード・ウオルシュの『妖精の乳母』にみられるように、実際に子守り歌として歌われていたものや、クラレンス・マンガンの『バンシー』の歌やサミュエル・ファーガソンの『ラグナネイの妖精の泉(フェアリー・ウエル)』のような弔いの歌、『妖精の茨(フェアリー・ソーン)』のようにアルスター地方の民謡を採録し韻や形を整えたものなどで、当時歌われていたであろう元の調子とアイリッシュ・メロディが、木々をわたる風の音とともに聞こえてくるようである。ウィリアム・アリンガムの『妖精』や『レプラホーン ― 妖精の靴屋』の二篇は、アイルランドの妖精の典型的な容姿、動作、性質をその絵画的映像と巧みなリズムの中にユーモラスに歌って、妖精詩の傑作といえるものであり、「妖精」というと反射的と言えるほどすぐに、イギリスの多くの人の口からでてくるのはこの詩である。
 クローカーやハイドや他の人たちが、いち早く口碑伝承の記録を始めていたとき、イエイツは青年であり、そしてこの書物の編纂にたずさわっていた一八八八年には二十三歳であった。当時アイルランドの青年たちの間では、イギリス本国より独立しようという政治運動(脱英国化)が盛んであり、民族独自の想像力豊かな精神を、イギリスの物質主義文明の圧迫から救い、アイルランドの国民文学を創造したいという盛んな意欲に燃えていた。文学史上でアイルランド文芸復興運動と呼ばれるその兆しの中にいたイエイツは、アイルランド各地方の民衆の間に連綿と語りつがれてきた国民的退座である神話・伝説・民話こそ、新しい文学の母体となるものであり、詩的想像力の源となるものだと確信していた。実際にこれと平行してイエイツは『オシーンのさすらい』三部作を執筆しており、これはアイルランドの古い英雄伝説を掘り起こし、自らの想像力によって豊かに彩り生かした長編叙事詩であった。民話編纂の完結した翌年の一八八九年にこの詩集も刊行され、イエイツは詩人としての地位を得ることになるわけである。

『妖精の系譜』 新書館



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石井鶴三の世界 №251 [文芸美術の森]

三月堂執金剛神 1957年/不動明王 1957年

       画家・彫刻家  石井鶴三

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三月堂・執金剛神 1957年 (175×130)
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三月堂・執金剛神 1957年 (175×130)


*************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三』 形文社


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武蔵野 №1 [文芸美術の森]

武蔵野 1

             国木田独歩

                 一

「武蔵野の俤おもかげは今わずかに入間いるま郡に残れり」と自分は文政年間にできた地図で見たことがある。そしてその地図に入間郡「小手指原こてさしはら久米川は古戦場なり太平記元弘三年五月十一日源平小手指原にて戦うこと一日がうちに三十余たび日暮れは平家三里退きて久米川に陣を取る明れば源氏久米川の陣へ押寄せると載せたるはこのあたりなるべし」と書きこんであるのを読んだことがある。自分は武蔵野の跡のわずかに残っている処とは定めてこの古戦場あたりではあるまいかと思って、一度行ってみるつもりでいてまだ行かないが実際は今もやはりそのとおりであろうかと危ぶんでいる。ともかく、画や歌でばかり想像している武蔵野をその俤ばかりでも見たいものとは自分ばかりの願いではあるまい。それほどの武蔵野が今ははたしていかがであるか、自分は詳わしくこの問に答えて自分を満足させたいとの望みを起こしたことはじつに一年前の事であって、今はますますこの望みが大きくなってきた。
 さてこの望みがはたして自分の力で達せらるるであろうか。自分はできないとはいわぬ。容易でないと信じている、それだけ自分は今の武蔵野に趣味を感じている。たぶん同感の人もすくなからぬことと思う。
 それで今、すこしく端緒たんちょをここに開いて、秋から冬へかけての自分の見て感じたところを書いて自分の望みの一少部分を果したい。まず自分がかの問に下すべき答は武蔵野の美び今も昔に劣らずとの一語である。昔の武蔵野は実地見てどんなに美であったことやら、それは想像にも及ばんほどであったに相違あるまいが、自分が今見る武蔵野の美しさはかかる誇張的の断案を下さしむるほどに自分を動かしているのである。自分は武蔵野の美といった、美といわんよりむしろ詩趣ししゅといいたい、そのほうが適切と思われる。

『武蔵野』 青空文庫



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浅草風土記 №21 [文芸美術の森]

続吉原附近 6

        作家・俳人  久保田万太郎

                         六
…………
…………
  まあおとうさんお久しぶり、そっちは駄目よ、ここへお坐んなさい・
  おきんきん、時計下のお会計よ…・
  そこでね、をぢさん、僕の小隊がその鉄橋を……
  おいこら酒はまだか、酒、酒……
  米久へ来てそんなに威張っても駄目よ……
  まだ、づぶ、わかいの……
  ほらあすこへ来てゐるのが何とかいふ社会主義の女、随分おとなしいのよ……
  ところで棟梁、あっしの方の野郎のことも……
  それやおれも知ってる、おれも知ってるがまあ待て……
  かんばんは何時……
  十一時半よ、まあごゆっくりなさい、米久はいそぐところぢやありません……
  きび/\と暑いね、汗びっしょり……
  あなた何、お愛想、お一人前の玉にビールの、一円三十五銭……
  おっと大違い、一本こんな処にかくれてゐましたね、一円と八十銭……
  まあすみません……はあい、およびはどちら……

  八月の夜は今米久にもう/\と煮え立つ。
  ぎっしり並べた鍋台の前を
  この世でいちばん居心地のいい自分の巣にして
  正直まつたうの食慾とおしゃべりとに今歓楽をつくす群衆
  まるで魂の銭湯のやうに
  自分の心を平気でまる裸にする群衆、
  かくしてゐたへんな隅々の暗さまですつかりさらけ出して
  のみ、むさぼり、わめき、笑ひ、そしてたまには怒る群衆
  人の世の内壁の無限の陰影に花咲かせて
  せめて今夜は機嫌よく一ばいきこしめす群衆、
  まつ黒になってはたらかねばならぬ明日を忘れて
  年寄やわかい女房に気前を見せてどんぶりの財布をはたく群衆、
  アマゾンに叱られて小さくなるしかもくりからもん!~の群衆、
  出来たての洋服を気にして四角にロオスをつ、く群衆、
  自分のかせいだ金のうまさをぢつと噛みしめる群衆、
  群衆、群衆、群衆。
  八月の夜は今米久にもう!~と煮え立つ。

 読者は、薮から棒に、わたしが何をいい出したかと不思議におもうかも知れない。が、ここへもって来たのは、いまの時代でわたしの最も敬愛する詩人高村光太郎氏の「米久の晩餐」という詩の一部である。――どんなに、わたしは、この詩の載った古い「明星」を今日までさかしたことだろう。――今日この文章を書き終ろうとしたとき、ゆくりなくわたしはそれを手に入れることが出来たのである。
 わたしは、この詩を、「吉原附近」の「千束町」のくだり、資本主義的色彩のそれほど濃厚な「草津」に対しての、いうところの大衆的の牛肉屋「米久」を説く上で是非そこに引用したいと思ったのである。~が、それには間に合わなかった。――それには間に合わなかったが、けど、わたしはいま、むしろこの詩をもって、この文章を終ることの機縁をえたことを歓びたい。――それほど、わたしは、この詩の中に、わたしのいう「新しい浅草」の、強い、放慈な、健康な、新鮮な、生き生きした息吹をはっきり聴くことが出来るからである。――そうしてその、強い、放慈な、健康な、新鮮な、生き生きした息吹こそ、これからの「新しい浅草」を支配するであろうすべてだからである。

  むしろ此の世の機動力に斯る盲目の一要素を与へたものゝ深い心を感じ、
  又随処に目にふれる純美な人情の一小景に涙ぐみ、

 と、この詩の作者はそのあとにまたこう歌っている。
「新しい浅草」と「古い浅草」との交錯。――そういったあとで再びわたしはいうであろう……つぶやくように、寂しく、わたしはこういうであろう。
 ……忘れられた吉原よ!
(昭和四年)

『浅草風土記』中公文庫



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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №124 [文芸美術の森]

            明治開化の浮世絵師 小林清親
             美術ジャーナリスト 斎藤陽一
                 第7回 
     ≪「東京名所図」シリーズから:一日の中の光の変化≫

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 小林清親は、江戸から東京へと移り行く風景を、「光の変化」の中にとらえようとした画家でした。
 前回は、小林清親が「朝の光」のもとに描いた作品を紹介しましたが、引き続いて、「一日の光の変化」をとらえた作品を鑑賞していきます。

≪午後の光≫

 まず「午後の光」をとらえた作品をひとつ。

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 これは、午後の光の中の「赤坂紀伊国坂」を描いています。坂道の、日の当たるところと影に沈む部分とを描き分けていますね。

 江戸時代、この坂の西側、この絵では右側に、広大な紀州徳川家の屋敷があったところから「紀伊国坂」と呼ばれました。現在、右手にはホテル・ニューオオタニがあります。左側に見える水面は「弁慶堀」です。
 坂の上から、下のほうを見下ろす構図で描かれており、下に広がる家並みは、現在の赤坂界隈。

 さりげない一枚ですが、一日がゆったりと穏やかに過ぎていくことを感じさせて、しみじみとした味わいを生んでいます。

≪黄昏どき≫

 とりわけ、光がドラマチックに変化する「黄昏どき」は、小林清親の「光線画」の重要なテーマでした。
 下図は、そのような黄昏時を描いた1枚です。

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 小林清親が明治13年に制作した「橋場の夕暮れ」。

 描かれているのは「橋場の渡し」。浅草・浅草寺の北にある橋場と、対岸の向島とを結ぶ渡しです。
 夕立の後でしょうか、空にはまだ雨をもたらした雲が複雑な陰影で表わされている。雨上がりの空には虹が現われ、今しも、一艘の渡し船が、虹のかかる対岸に向かって漕ぎ出して行く。

 清親は、水平線を思い切って下の方に低く設定し、画面の4分の3を「空」が占めるという大胆な構図をとっています。この空と雲との陰影に富んだドラマチックな描写こそ、この絵のみどころ。雨上がりの湿った空気感さえ感じられる、味わい深い作品です。

 小林清親の絵に繰り返し登場するのが隅田川とその界隈の風景。
 ゆったりと流れる川と、その上に広がる空は、刻々と変化する光を反映して、さまざまな表情を見せる。そのような幼少年時の視覚体験が、清親の光に対する繊細な感受性を育んだのでしょう。

≪暮れなずむ空≫

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 この絵の舞台は、隅田川の両国界隈。向うには両国橋が見える。
 手前には、河岸の浸食を防ぐための「棒杭」(ぼうぐい)が沢山描かれる。ここは「千本杭」と呼ばれたところ。川面には、釣り糸を垂れる船が。

 このあたりは、墨田川東岸から西に両国橋を望んだ風景なので、日没直後の残光が照らす、暮れなずむ空の美しさを描くことが清親のねらいでしょう。
 水面のきらめきの描写もまた繊細で美しい。木版画なのに、水彩画のような味わいが感じられる。
 構図上、注目すべきは、手前の棒杭をきわめて大きく描いているところで、真ん中の一本などは、橋よりも高く、空に屹立する姿に描かれる。
 このように、近くのものを大胆なクローズアップでとらえ、遠景を小さく描くことによって、深い奥行き感が生まれる。この描法は「近接拡大の技法」と呼ばれ、晩年の歌川広重が連作「名所江戸百景」の随所で使った手法です。

 広重は、これに加えて、近くのものの全景を描かず、大胆に切断して「部分」だけを提示するという「切断画法」を同時に用いることによって、絵画的な強さを生み出しました。

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 上図の右の絵は、歌川広重晩年の連作「名所江戸百景」の中の「亀戸梅屋舗」です。
 梅の古木を前面に大きく「クローズアップ」でとらえ、しかも古木の上下・左右を大胆に「切断」(トリミング)することによって、奥行きが深まるだけでなく、力強い絵画となっています。ゴッホがこの絵の斬新な構図と力強さに魅了されて模写していますね。

 普通、浮世絵の「風景画」のジャンルでは、風景の広がりを表現するために「横長」サイズの画面に描くことが多かった中で、広重は、「名所江戸百景」シリーズをすべて「縦長」サイズとしました。そして、風景画には不向きと思われた「縦長」画面を逆手にとって、インパクトのある斬新な「風景画」を生み出したのです。その時に使ったわざが「近接拡大」と「切断」の技法でした。

 広重の作品は、清親の幼いころからその脳裏に摺りこまれていたと考えられるので、この「千本杭両国橋」を描く時に、ほとんど無意識のうちにそのイメージが作用したように思えます。

 次回もまた、小林清親の「東京名所図」シリーズの作品を鑑賞します。
(次号に続く)


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子規・漱石 断想 №5(再校・補筆) [文芸美術の森]

子規・漱石 断想 №5   子規・漱石愛好家 栗田博行

   よのなかにわろきいくさをあらせじと
     たたせるみかみみればたふとし  子規

 明治32年1月1日、「升」の名で発表した日本新聞新年記事「400年後の東京」の結びに置かれた一首です。子規の自筆和歌草稿本「竹の里歌」には、明治31年の最後の一首として記載されています。こちらには「平和肖像図」と詞書がついており、以下の漢字交じりの一首となっています。
  世の中にわろきいくさをあらせじとたゝせる御神見れば尊し
「わろきいくさ」=「悪き戦」。「あらせじとたゝせる」=「在らせじと立たせる」と補ってみると、子規が明治のこの時点で、俳句という極小の文芸を追及するのと同時に、「戦争と平和」という人類最大の主題に到達していたことが解ってきます。
 新聞の新年記事の方では全部かな書きにしたのは、書き言葉として脳裏に浮かんだこの詩想を、世間に発表するに当たっては、朗々と歌い上げるようにして訴える気分になったのではないでしょうか。歌会始のように…。
 ウクライナの戦争が終われない世界にガザの戦争が重なってしまった今、子規が125年前に願った想いが絡んできて止みません。立ちすくみ堂々巡りする老人の思考にお付き合い下さい。(2023.12.27記)

 志士的気分と日清戦争従軍動機の謎
 子規が生涯の恩人と感じた日本新聞社長・陸羯南は、彼が若くして大喀血を経た男であることも、その体で日本新聞で全力で働き八重と律との正岡家の家計を支える家長であることも、誰よりもよく解っていた隣人でした。そ5-1.jpgの上での従軍願いへの連署だったのです。日清清戦争従軍という一見不条理な正岡常規の行為への、羯南は最高の理解者だったのではないでしょうか。   
 羯南のこの行為を「たとえ結果的にその人の命を縮めることになっても、あえてする親切だった」と指摘した大江健三郎さんに、司馬遼太郎さんが「そうですね、そうでしたねっ!」と身を乗り出して共感されたことがありました。
 願書の3行目に着目して下さい。「士族 正岡常規」と書かれています。履歴書を書く上での、明治の習慣が関係はしているのでしょうが、願書の肩書に「士族」と記しているところに、子規の自意識の中心に明治男子ならではの「国士・志士」といった気分が流れていたことを感じざるを得ません。
 度々紹介してきた従軍記念写真の裏には、「明治廿八年三月三十日撮影 正岡常規廿八歳ノ像ナリ 常規将二近衛軍二従ヒ渡清セントス故二撮影ス」と自書されています。記者として戦地に渡る十日前、広島での待ち時間中に羽織袴の正装をし、太刀迄手にして撮影したのです。今時の感覚からすれば、一体なぜそこまでと疑問が湧きますが、彼が松山藩の士族の家系の出身だったことが深く関係しています。

 旧松山藩主で近衛軍副官として遼東半島に出征する久松定謨伯の送別会に赴き、その帰途撮影したものです。左手の太刀は久松伯から拝領したものと伝わっています。滞在地の広島で羽織・袴をどう用意したのか、謎多い一葉です。子規の内面にあった士族意識が噴出していますが、廃刀令が発布されて久しい明治中期にあって、そこまでの振る舞いをなぜしたのかという疑問に誘われます。
 しかし、3月初め東京からの出発に当たって詠み、「陣中日記」冒頭に記した「首途やきぬぎぬ惜しむ雛もな5-3.jpgし」や、「かへらしとちかふ心や梓弓 矢立たはさみ首途すわれは」の二句と合わせ考えて見ると、けっこう思いつめた末の記念の写真撮影だったらしい、とも思へてきます。
 明治の中期は過ぎていたにしても、子規の中には維新の志士のような気持ちが底に流れていて、それが大いに昂っていたことの顕われだったのではないでしょうか。あの高杉晋作の写真と並べてみて、あまりにも似ているのに、筆者は驚いたことでした。
5-4.jpg ところがです。実は、生まれは「平民」で、子規と対照的に北海道に送籍して兵役を回避したらしい漱石もまた、「志士の気分で文学を…」という意味の言葉を吐いているのです。門弟の鈴木三重吉宛ての書簡に記したもので、子規が日清戦争従軍を決行した時から10年以上後の、明治39年という段階のことでした。子規没後4年・日露戦争終戦後1年以上の時間が経っていました。虚子に促されてホトトギスに発表した「吾輩は猫である」、また「坊っちゃん」の大成功を経て、帝大教師を辞めて職業作家として生きることに心が傾き始めた頃のことです。
  「僕は一面に於て俳諧的文学に出入すると同時に
一面に於て 死ぬか生きるか、命のやりとり をする様な    
 維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい」  
                     (明治39年10月26日晋鈴木三重吉宛書簡)
 論者は、漱石が明治27年末、自分探しの葛藤の末に鎌倉円覚寺・帰源院で禅修行をした時、あえて「平民」と名乗っていたことを知って驚いたことがありました。この時の帰源院の受付名簿には、ひとり夏目金之助のところだけが「平民」と記載されているのです。少年時代は、士族組で喧嘩していた夏目金之助君だったのですが、青年期には「町名主」の出であることは「平民」であることの自覚に到達し、外に向けてそれを強く宣明する気持ちを持っていた・・・そう感じたものでした。
 その漱石が、この時期には「維新の志士の如き烈しい精神で文学を」と書き記しているのです。文学者として先にスタートしていた正岡常規との親交の中で、その生き方をつぶさに知っていた漱石でした。子規との精神的交流の深さを想うとともに、明治男子の文学への真剣さは、「士族・平民」という身分を超えても存在したことを気づかされました。「矢立たはさみ首途す」「志士の気分で文学を…」といった気概は、明治の真率な男子文学者の心底に、身分意識を超えた共通のものとして流れていたのではないでしょうか。
 ただ子規の場合は、松山藩士族の嫡男だったこともあって、とりわけそれが早くに突出して現れたたケースだったと思うのです。
 日本新聞の上司・古島一念編集長の、従軍をやめさせようとする説得に対して返したあの言葉の、
  『どうせ長持ちのしない身體だ、見たいものを見て、したい事をして死ぬは善いでは
  ないか』と喰つてかゝる。『しかしわざへ死に行くにも及ばんではないか』と言ふと、
  『それでは君いつまで僕の寿命が保てると思ふか』 など駄々をこねる。
               子規・漱石 断想 №2:知の木々舎:SSブログ (ss-blog.jp)
といった奇矯な激しさも、以上の要素をあわせ考えると真剣なものに見えてきます。子規の従軍という行為は、男伊達のパフォーマンスといった軽々しいものではなく、士族気分と文学への使命感に根差した命がけの真剣な行為ではなかったか?…と思へてくるのです。

子規はなぜ、漢詩「古刀行」を書いてしまった?
 出発前子規は、日本刀で異民族を試し切りするという異様な幻想詩「古刀行」を書いていました。(当欄第一回)。                        子規・漱石 断想 №1
 
 …此の刃五百年 人未だ鈍利(切れ味)を識らず 我の楡関(山海関)に到るを待ちて      
     将に胡虜(北方の蛮人)に向かって試みんとす」(古刀行書き下し文)
 しかし、「陣中日記」冒頭に記し発表した通り、従軍に臨んだ子規の士族意識は、日本新聞社を出発するに当たって詠んだ、「かへらじとちかふ心梓弓 矢立たばさみ首途すわれは」だった筈です。あくまで「矢立=携帯の硯を携えて命尽きるまで」ということであって、「太刀携えて」ではありませんでした。つまり日清戦争従軍は、文学者としての情熱・志(こころざし)の次元のものだった筈です。
 それが、あの漢詩「古刀行」を書いてしまうところまで昂ってしまったのでした。当欄第一回で紹介した書き下し文を再掲します。
     「…此の刃五百年 人未だ鈍利(切れ味)を識らず 
           我の楡関(山海関)に到るを待ちて 
       将に胡虜(北方の蛮人)に向かって試みんとす」
     子規・漱石 断想 №1:知の木々舎:SSブログ (ss-blog.jp)
〈山海関に着けば、自分は現地の蛮人でこの太刀の切れ味を試してみるゾ〉。もちろん一瞬の閃きとして浮かんだ幻想であり、煎じ詰めた末の志士的・テロリスト的な決行声明などではありません。社会に向けて発表もしておらず、内心の一瞬の動きを書きとめた文学者の手元メモのようなものだったとは、推察されます。
 しかし旧殿様筋へ願い出ていた太刀を、戦場へ向け待機中に拝領したことから、〈文学者もまた、従軍すべし!〉と、従軍記者としての心の一端に、こんな幻想が生まれてしまったのです。こんな風に猛り立つ益荒男的気分が、一瞬であったにせよ正岡常規の中に生じてしまったのです……。それもあってのあの太刀携えた記念写真だったのでしょう。
5-5.jpg お母さんの八重さんの回想では、ちょんまげを結っていた幼年期、泣き虫の弱味噌クンで、いじめられると妹の律が兄の敵討ちをするほどでした。小さな脇差で手を切ってシクシク泣いたりもした…そんな男の子でした。幼い子規を厳格かつ愛情一杯で訓育した儒学者の祖父大原観山が、「武士の家に生まれて、お能の太鼓や鼓の音におびえる」と叱ったくらいの弱々しい男の児だったのです。
 そんな正岡處之介クンでさえ、長じて働き盛りの物書きとしての日々にあって、一瞬とはいえ〈山海関に着けば、現地の蛮人で、この太刀の切れ味を試してみよう〉という幻想が脳裏に浮かぶ日本男子になってしまったのです。
 帝国主義という世界の歴史の段階にあって、初めて近代の対外戦争を戦う明治国家・日本の一員として、正岡常規はどうあるべきだったのか…。戦争という空気の中で日本男子の精神性がどう揺らいでゆくのか。問題の難しさをつくづくと想う次第です。昭和20年に至る日本の戦争の歴史へと思念が飛躍したり、迷走したりして止みません。
 しかし子規は、結局はそこを抜け出します。明治32年元旦には、
  よのなかにわろきいくさをあらせじとたたせるみかみみればたふとし  
と、「古刀行」とは対極の心情を発表する心境に到達していたのでした。そこへ至る子規の心情の推移を追う小論、また日清戦争の明治28年の時点に戻って考察を続けます。

 陣中日記―結語は「遼東の豕に問へ」
「陣中日記」は、日本新聞に連載の同時的ルポルタージュ記事の筈でした。ところがその最終回(四)は、明治28年7月23日の掲載となっています。日清講和条約批准(完全終戦)は5月10日、子規の従軍行は5月23日に終わっていますから、「陣中日記」と名付けたルポとしては随分遅れて掲載された新聞記事になってしまってます。
 これは、帰国の船中で2度目の大喀血をし、上陸後担架で神戸病院に運び込まれ、瀕死に近くまで行って命を取り留めるという、2ケ月があったからでした。ですから、筆を執れるまでに回復したら、病院内でまず真っ先に最終回の執筆にかかっての結果で、実は逆に記者としての責任感の強さが伺える速さなのです。(口述を、看病に駆け付けた碧梧桐や虚子が代筆したこともあったかもしれません。)
 出発前廣島で一月以上も待機し、戦地に到着すれば既に戦闘は終結。終戦後の戦場跡のぶらぶら歩きに終始した末に、帰りの船中では、生涯2度目の大喀血…。誰の眼にも大失敗の愚行に終わった日清戦争従軍行でした。その結びの文章は、こうなっています。(筆者意訳がまじります)、  
  我(わが)門出は従軍の装ひ流石に勇ましかりしも帰路は二豎(にじゅ=病魔)に
  襲はれてほう へ の體に船を上り(下り?)たる見苦しさよ。
 従軍記念写真を撮ったり辞世風の短歌を詠んだりして出発した行為の、最終的には大失態となってしまった経過を正確に認識、それを隠さず正直に公表しています。そしてこう続けます。
  大砲の音も聞かず弾丸の雨にも逢はず 腕に生疵一つの痛みなくて 
                   おめおめ帰るを 命冥加と言はば言へ 
  故郷に還り着きて握りたる剣もまだ手より離さぬに畳上に倒れて
             病魔と死生を争ふ事 誰一人其愚を笑はぬものやある。
 出発前、同時代の明治の世に向かって、「かへらしとちかふ心や梓弓 矢立たはさみ首途すわれは」とまで発表していた自分の行為の愚かさを誰もが笑うだろうと振り返って、自ら率直に認め公表しているのです。
 ところが、そんなみじめな結果を正直に綴る文章の不思議な躍動感は、まさに子規の精神の真髄がこんな時にも健在であることを、最後に感じさせてくれるのです。こう続きます。

  一年間の連勝と四千萬人の尻押とありてだに談判は終に金州半島を失ひしと。(三国
  干渉と遼東還付) さるためしに此ぶれば旅順見物を冥途の土産にして蜉蝣かげろうに
  似たる 命一匹こゝに棄てたりとも惜しむに足ることかは。その惜しからぬ命幸に助か
  りて何がうれしきと凝ふものあらば去て遼東の豕(ゐのこ)に問へ。
                    〔「陣中日記」(四)日本 明治28・7・23〕 
 これが「陣中日記」=遼東半島33日のルポルタージュの結論なのです。日本の文学史の中でこれといった価値も残せなかった文章に見えます。しかし、子規自身の精神の動きの記録としては、実に重要な一文となっていることが最後の一言でわかるのです。
 論者はこの一文に対し、初めは「子規にしてはなげやりな、愚かさを正直に認めただけの文章」といった印象を持ってきました。ところが広辞苑で、「遼東の豕=ひとりよがりの白い豚」といった意味の漢文熟語という説明を知って、何回か読み直すうちにこの結びの一文への印象が大きく変わって来たのでした。
「旅順見物もできて、儚い命を捨てても大したことではないのに、命が助かったからといって何が嬉しいのだと問いかけてくる人がおれば、行って遼東半島のひとりよがりの白い豚(豚=ここでは自分)聞いてみよ」と述べているのですが、一見自嘲自虐の限りをつくした論理と思えるこの文脈に、どんな苦境からも最後は前向きの生き方を見出す子規独特の姿勢が、ここにも顔を出していると気づいたのです。
〈ひとりよがりの愚行に見えかねない行為の末に取り留めた命だが、助かっただけの生きる価値はある筈だ。以後、それを問うていくことにしよう〉…そんな生き方の始まりを宣言している文章のように思へてきたのです。
 迫ってくる死を見つめて自問自答を重ね、その度に生きる意味を見出し続けた子規の晩年の生き方の出発点。日清戦争従軍という、一見愚行の極みと見える行為だったものが、実は彼の精神史の上では、22歳の喀血に次ぐ重要な試練と新たな出発をもたらしたのだった…そう想えるようになってきたのでした。まさに彼が、文学が目的の行動者だったからこその結果と言えましょう。
  (虚子・碧梧桐・母八重他駆け付けた大勢の看病を受けて、記事が掲載された7月23日には退院。明石の
  須磨保養院に移り、一月あまり療養。次は東京根岸と日本新聞に帰り急ぐかと思うとそうではなく、漱石
  に招かれて郷里松山で52日間同居。それを切り上げての奈良旅行で「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」を詠
  むという、有名な、しかしさらに謎の多い経過が続きます。しかもその間も日本新聞には原稿を送り続けて
  いるのです。)

従軍の心意の、一番底にあったもの
 羽織・袴で太刀まで持って記念写真を撮ったりはしましたが、従軍の衝動は「矢立たはさみ首途すわれは」―、あくまで文学を軸に動いていたのでした。もっと早くに、そのことを語った書簡が実はあるのです。

№5-1.jpg

 明治28年2月25日広島へ出発前に、日本新聞社の近くで後輩の碧梧桐・虚子と食事をした後、二人に直接手渡したものです。タイミングからして従軍決意の初心を述べて、後輩に後事を託す内容となっています。(内容後述)
№5-2.jpg 実は同年代の夏目金之助君には、従軍する気持ちを全く知らせた形跡がありません。自分とは対照的な、夏目金之助君の北海道へ送籍しての兵役回避を知っていたのかどうかも不明です。時期としては日清戦争の最中で、夏目君がノイローゼと見られるくらいに悩んでいた時期であったことを、知っていたか知らなかったか…。下宿を飛び出し転がり込んだ尼寺までの地図を描いて、「来てくれ、話したい」と気持ちを伝えてきたことさえあった夏目君でしたが、その必死の呼びかけにも、正岡君が反応した形跡は全く残っていないのです。
 日本新聞の同僚・先輩達にも、当ブログ№2で紹介した古島一念とのやりとりが示すように、このふたりの後輩への手紙に記したような決意の内容は打ち明けていなかったようです。この時代のおとな社会の常識では、文学のための従軍など理解される筈がないと思っていたのかもしれません。子規自身は写生の境地を掴みかけてはいましたが、時代の空気としては、俳句とはまだまだ「風流韻事の文芸」であり、子規は、その世界の人と見られていたかも知れません。

 書簡は、従軍の途中で命尽きることも予想し、碧梧桐と虚子という郷里の後輩に後事を託すという心情が昂った、一種の檄文となっています。以下原文の要点を掲出します。(論者による省略や意訳が多々混じります。)
   ー 僕ノ志ス所文学ニ在リ
   ー 戦捷(勝)ノ及ブ所・・・ 愛国心愈(いよいよ)固キノミナラズ殖産富ミ エ業起リ
    学問進ミ美術新ナラントス・・・文学ニ志ス者 亦之ニ適応シ之ヲ発達スルノ準備ナカ
   ルべケンヤ・・・ 
〈僕が目指しているのは文学だ。戦勝が続く中で高まる愛国心や殖産興業の発達、学問の進展、美術等の新風興隆といった社会の機運と共にあり、発達するものでなければならない〉  
 こんな意味合いに受け取れます。「時代と社会の動き・在るべき姿と共にある文学こそ!!」と叫んで、肩に力がいっぱい入っていることが伝わってきます。俳句の変革に手を付けかけていた子規なのです。「社会の在り方と無縁に風流韻事を求める文人墨客であってはならない」と、子規独特の用語「野心」(=ガッツ・ファイト)が躍動している文章となっています。4年前、虚子への初めての書簡で「国家の為に有用の人となり給へかまへて無用の人となり給うふな」と呼びかけた志はまっすぐ発展して続いていたのです。こう続けています。

  ― 僕適たまたま觚(さかづき)ヲ新聞二操ル 或ハ以テ新聞記者トシテ軍ニ従フヲ得ベ
  シ 而シテ若シ此機ヲ徒過スルアランカ 懶ニ非レバ則チ愚ノミ 倣ニ非レバ則チ怯
  ノミ  是ニ於テ意ヲ決シ軍ニ従フ

〈自分が新聞社に職を得ている身である以上、あるいは記者として従軍する機会に恵まれるかも知れない。それなのにいたずらにそのチャンスをやり過ごしてしまうようであれば、怠け者(懶)でなければ、愚かもの。摸倣家(倣)でなければ臆病者(怯)。だから意ヲ決シ従軍するのだ。〉 そしてこう結んでいます。

   僕若シ志ヲ果サズシテ斃レンカ 僕ノ志ヲ遂ゲ僕ノ業ヲ成ス者ハ足下ヲ舎イテ他ニ
   之ヲ求ムベカラズ 足下之ヲ肯諾セバ幸甚
〈もし僕が倒れたら、僕の志を後を継ぐのは君たち以外にはない。君たちがこのこころざしを受けてくれれば幸せだ〉
と語りかけているのです。子規愛の人司馬遼太郎さんでさえ、「坂の上の雲」の中でこの、書簡を詠んだ虚子に、「そんなもんじゃろか」としか反応させていません。
 日本新聞社の壮行会や父の墓参りや旧殿様からの太刀拝領のまえに、子規はこんな認識と心情に到達していたのです。 広島へ出発する前の段階で、子規は既にこれほど真剣に思いつめ、常識からは浮き加減だったのです。子規の生涯を俯瞰で知っている私たちは、子規のこの興奮をユーモラスに肯定的に受けとめたり出来ますが、当時を共に生きた人たちのほとんどは、あきれ心配したのが正味だったでしょう。

 しかし文学へのこのような真摯な想い詰めを、受け止めてくれた人がいなっかったわけはありません。既にふれたとおり、日本新聞社長・陸羯南がその人でした。
№5-3.jpg 根岸で隣に棲みついた正岡一家のことを、子規の働きのみで成り立っている家計の事も含めて誰よりも良く分かって、保護してきた人でした。
 その上で、結果的には命を縮めることになりかねないこの行為を「日本男子のこころざし=志の問題」と受け止めての従軍容認だったのです。大江さんと司馬さんの感動もそこに向けられていたはずです。「たとえ結果的にその人の命を縮めることになっても、あえてする親切だった」のです。
№5-4.jpg それからもうひとり、子規の母・正岡八重も跡取り息子「ノボ」のこの行為を、深い理解で受け止めた人だったと、論者は思っています。八重は松山藩の儒学者・大原観山の長女、早逝した松山藩士正岡隼太の妻という人でした。士族の家系の長女で、羯南の「ノボ」の志への理解も受け止めた明治女性だったと思うのです。
 後年書きかけて未完に終わった私小説「我が病」では、遼東半島に向けて根岸を発つ朝のことを子規はこう書いています。
  「三月三日の朝、革包一つを携ヘ宅を出た。母に向かって余りくどヘと挨拶して居ると変な心持になるから『それじゃ往て来ます』といふ簡単な一言を残して勢いよく別れた。」
 たったこれだけの表現しかありません。こころの底に潜む万感を押し殺しきった親子の情景が浮かびます。明治28年、八重は50歳、子規は28歳になろうという年でした。子規の生い立ちに母性溢れる証言を残している八重ですが、従軍というこの行為に関しては何の言葉も残していません。大原観山の長女・武士の家系の母という母性が、この言葉少ない出立の場面を生んだと想像されます。妻も子もない長男・独身明治男子の門出でした。子規は、妹・律への言及もしていません。律もまた言及していません。
 この後日本新聞に出て、簡略な壮行会を経て出発するのですが、ルポ記事「陣中日記」には、「門途やきぬぎぬをしむ雛もなし」と一句を詠んだことが描かれています。壮行会という場に合わせて出た一句でしょうが、論者は「ナニを言っているのか。八重さんも律さんもいるではないかっ!」と叱ってやりたい気分を、禁じ得ません。根岸を出る時の八重さんの静かな態度には敬意を感じるのですが、この一句に現れた子規の明治男ジェンダーには、子規好きの我ながら、好感を持てません。

 しかしこれより前に虚・碧宛てに手渡した書簡に顕われた、従軍の心意の一番底にあったもの(つまりは初心であったもの)については、肯定的に受け止める気持ちが強く働きます。
  ― 戦捷(勝)ノ及ブ所・・・ 愛国心愈いよいよ固キノミナラズ 殖産富ミ エ業起リ 
                                学問進ミ 美術新ナラントス
 一見、戦勝が続くことに興奮した単純明治男子ジェンダーを思わせますが、
  ―文学ニ志ス者 亦之ニ適応シ之ヲ発達スルノ準備ナカルべケンヤ・・・
  此機ヲ徒過スルアランカ 懶ニ非レバ則チ愚ノミ 倣ニ非レバ則チ怯ノミ
 結核の病身にある文学記者が身の危険を顧みずこう言いきって従軍を志願・強行したのです。「行かなければ卑怯だ」とまで…。論者は、この論旨に、第二次世界大戦後の世界でフランスのサルトルが世界中の知識階層に大きな影響を与えた「アンガージュ=社会参加」の考え方と共通なものを感じます。

 俳句という、風流韻事と思われていた文芸の変革に取り組み始めていた子規の「野心」は、日清戦争という激動の中で、明治という時代社会にふさわしい文学全般の在り方を求めて、さらに高揚し始めたのではないでしょうか。士族意識から始まりはしたものの、それを超えて知識階層の社会参加のあるべき姿(=ドロップアウトの否定等)を模索していると思えてくるのです。さらには近代・現代社会のあるべき市民意識の根底に子規は接近し始めている…とも。
 青年期の入り口の頃の明治15年から16年にかけて、彼は自由民権運動に熱中する士族の若者でした。そんな青年であった明治男子が、戦時にあって一瞬ではあるが、「古刀行」の心情を持ってしまったのでした。しかし、3年半の時間を経て「平和肖像図」と詞書し、
  世の中にわろきいくさをあらせじとたゝせる御神見れば尊し
と詠むまでに変心したのでした。、その心情を新聞に公表するに当たっては、平和を願う心情を歌い上げる気持ちを込めて
  よのなかにわろきいくさをあらせじとたたせるみかみみればたふとし 
と、かなだけの表記にしたのでした。

 ウクライナ・ガザ…世界に戦争が止みません。漢詩「古刀行」から短歌「平和肖像図」にまで到達した、子規の125年前の思念の推移を、膨大な戦争報道の中を迷走しながらではありますが追い続けようと思っています。お付き合い下されば幸いです。
 パソコンのウイルス被害と体調不良のなか、次回の掲載予告ができないことをお詫びします。2024.1.10記 )


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こふみ会へGO七GO №128 [ことだま五七五]

「立春」「日向ぼこ」「鱈」「手袋」 

                         俳句・こふみ会

幹事さんから、≪令和6年2月の句会≫の案内状が送られました。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
おはようございます。
きょうから2月。春のきざしもありますが、
もう一枚、更に重ね着をするという、如月です。
まだまだ寒い日が訪れます。お気をつけて。
さて、今月の幹事は、一遅が務めさせていただきます。

兼題は
①立春 
陰暦の暦では節分の次の日、正月のこと。今年は2月4日です。
今年は特に、あらためて正月をしたい気分ですね。

②日向ぼこ 
小春日和の午後、厚着の背中が熱くなるほど暖かな日があります。
そんな日は、できるだけ、からだを動かしましょうか。

③鱈 
冬の魚の代表。魚屋の店先にもきれいな切り身が並んでます。
白子は、茹でても焼いても美味。熱燗徳利がすぐにからっぽ。

④手袋 
落し物か忘れ物か、路傍の片手袋を見つけ撮影する知人がいますが、
手袋には、なぜかドラマが宿りますね。

と、ちょっとイメージを付けさせていただきました。
それでは、ふるって、一遅アドレスまで、ご投句ください。
締め切りは、2月10日(土)の深夜までといたします。

                       以上。森田一遅

◆24日(土)までに選句のメールを一遅にください。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 
案内に応じて以下の句があつまりました。参加者は16名64句。

【立春】
1. 芽出たいな裏返しても立春大吉(八傘)
2. 春立って指揮者小澤の旅立ち(鬼禿)
3. 立春に湯気たちのぼる醸造所(紅螺)
4. 立春やあなたかわりはないですか(矢太)
5. 顔ぶれの変わり行く町春立ちぬ(弥生)
6. 立春すぎ冬が閉じ込めに来たとは(兎子)
7. 昨日より一日老いて春立ちぬ(虚視)
8. 立春の響きが嬉し空仰ぐ(華松)
9. 立春や昨夜の豆で燗一合(一遅)
10.手を広げ抱く命あり春立ちぬ(なつめ)
11.立春のバイクどどどと始動せり(すかんぽ)
12.気にかけし数値みてをり春立ちぬ(尚哉)
13.街も人もオブラートの中春立つ日(茘子)
14.ピンポンの球になりたや今日立春(下戸)
15.コーヒーの香り揺らぎて春たちぬ(玲滴)
16.春立つや乾杯照らす赤提灯(蕃茄)

【日向ぼこ】
17.父遺愛の揺り椅子揺らし日向ぼこ(弥生)
18.日向ぼこ指の間から宇宙(そら)をみる(矢太)
19.先生のYシャツの匂い日向ぼこ(下戸)
20.日向ぼここのままいって終いたい(鬼禿)
21.宿の無き猫定席で日向ぼこ(虚視)
22.武器棄てて一緒にどうぞ日向ぼこ(すかんぽ)
23.香ばしき子犬の匂ひ日向ぼこ(なつめ)
24.日向ぼこ隣に死ぬる祖母も来て(茘子)
25.窓ごしに富士見る余生日向ぼこ(一遅)
26.日向ぼこ猫の流儀を倣いとす(尚哉)
27.南向き暑いくらいの日向ぼこ(華松ょ
28.人形の日向ぼこにはふさわしい(兎子)
29.日向ぼこ逸材2歳母の膝(八傘)
30.棟梁がお昼休みの日向ぼこ(紅螺)
31.野良猫に頭(こうべ)を垂れて日向ぼこ(蕃茄)
32.日なたぼこ背中ける子の足の裏(玲滴)

【鱈】
33.鱈を摺る竹輪になあれとただに摺る(尚哉)
34.鱈の身のほんのり赤く新所帯(一遅)
35.鱈干すとう便りも途絶え北国の友(弥生)
36.鱈船の吹雪背負って帰り来ぬ(茘子)
37.鱈さばくかっての己を裁くごと(鬼禿)
38.シェフひとり名もなき鱈と皿の上(下戸)
39.棒鱈のほろり優しき母の味(なつめ)
40.つんつんと突けば波打つ鱈の腹(すかんぽ)
41.鱈鱈鱈海を隠して干し上がる(虚視)
42.鱈睨む鱈には鱈の怒りあり(矢太)
43.鍋か揚げムニエルもいいね鱈わらう(兎子)
44.鱈の身を一枚二枚とはがしてる(華松)
45.厳寒の海を泳ぎて鱈鍋に(玲滴)
46.善哉や鱈でちりちりダイヤモンド婚(八傘)
47.鍋つつく隣は鱈より白き指(蕃茄)
48.先生が鱈のアク取り懇々と(紅螺)

【手袋】
49.手のかたち残し手袋冷えゆくや(虚視)
50.手袋の物欲しさうな脱がれやう(すかんぽ)
51.手袋を外して繋ぐ君の手と(なつめ)
52.手袋と生き別れたり山手線(下戸)
53.失くなった片手袋の孤独(鬼禿)
54.公園のベンチの手袋誰を待つ(茘子)
55.手袋をつなぐ紐編む母遥か(弥生))
56.きのうから手袋の中身がみつからぬ(矢太)
57.片手袋ドラマありけむ橋の上(尚哉)
58.くず毛糸で少女手袋編む夜更け(紅螺)
59.手袋や尾を振る犬が咥え持ち(蕃茄)
60.ちっこい手袋ゆび3本でVサイン(八傘)
61.南吉の狐の親子は手袋買いに(玲滴)
62.手を入れる片方のみの手袋に(華松)
63.今日は手袋がほしい探すがない(兎子)
64.手袋の両手ほっぺに通学路(一遅)

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 
【天句の鑑賞】

◆先生のYシャツの匂い日向ぼこ(矢太)
鑑賞短文=父でもなく「先生のYシャツ」と詠まれたことで、石鹸の香りが漂いそうな清廉さと温かみを感じました。(なつめ選)

◆手袋と生き別れたり山手線(下戸
鑑賞短文=「生き別れ」の大げさ感に俳諧味があっていいですね。手袋は自分の分身なので、「生き別れ」が効いています。(すかんぽ選)

◆ピンポンの球になりたや今日立春(下戸)
鑑賞短文=生命たちの歓ぶ有り様。ピンポンときましたか。まいりました。(八傘選)

◆香ばしき子犬の匂ひ日向ぼこ(なつめ)
鑑賞短文=可愛い子犬と柔らかな陽射、香ばしい匂いに包まれ、ぽっと胸の中に光が射したような気持ちになりました。ボクサーを飼っていた時がありましたが、、ぐっすり眠ると、とても香ばしい良い匂いになりました。(虚視選)

◆手を広げ抱く命あり春立ちぬ(なつめ)
鑑賞短文=自然界に諸々の生命が芽吹く、その息吹を一身に浴びて駆けてくる「命」、春たつ喜びにあふれるようです。(玲滴選)

◆棒鱈のほろり優しき母の味(なつめ)
鑑賞短文=懐かしい棒鱈の料理はまさしく母の味。思わず往事がよみがえりました。(弥生選)

◆顔ぶれの変わりゆく町春立ちぬ(弥生)
鑑賞短文=歳々年々人不同、町も同じですね。さらりと変化を詠む手腕に脱帽です。(華松選)
鑑賞短文=すぐに能登の被災地を連想させますね。避難して離れてしまった人たちは、もう帰らないのか・・・。(尚哉選)

◆手のかたち残し手袋冷えゆくや(虚視)
鑑賞短文=まさに写実ですね。素晴らしい!(茘子選)

◆昨日より一日老いて春立ちぬ(虚視)
鑑賞短文=「春立ちぬ時ゆったりと矢の如く」の拙句を鑑賞返句としたい。(矢太選)

◆日向ぼこ隣に死ぬる祖母も来て(茘子)
鑑賞短文=この季語で私も「このまま逝って~」と詠みましたが、「死ぬる祖母」と添い寝とは大胆。それでいてスーとする明るさ。恐れいりました。(鬼禿選)
鑑賞短文=亡くなったおばあちゃんが、ふと隣にいるような、長閑な、穏やかな、そして少しだけ寂しい景色が素敵です。(兎子選)

◆立春のバイクどどどと始動せり(すかんぽ)
鑑賞短文=春が来て、風を切って疾走するバイク。躍動感に心躍ります。(紅螺選)

◆手を入れる片方のみの手袋に華松
鑑賞短文=片方の手袋に大小2つの手を入れる親子か、はたまた恋人同士か、それとも片方だけになった手袋に手を入れるのかも。片方の手袋から始まる物語に、想像が尽きません。(蕃茄選)

◆鱈の身のほんのり赤く新所帯(一遅)
鑑賞短文=新しい所帯の初々しさ鱈の身によって表わされていて、なんだか新鮮な気分になりました。(下戸選)

◆きのうから手袋の中身がみつからぬ(矢太)
鑑賞短文=手袋の中身?は手?別役実の戯曲を見るような不条理、新たな俳句の地平です。(一遅選)
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【今月の天地人】

【天句】    23点  顔ぶれの変わりゆく街春立ちぬ   弥生
【地句】    19点  羊のかたち残し手袋冷えゆくや   虚視
【人句】    18点   昨日より一日老いて春立ちぬ   虚視
        18点   武器捨てて一緒にどうぞ日向ぼこ    すかんぽ

【総合天】52点 虚視さん
     代表句=羊のかたち残し手袋冷えゆくや
【総合地】43点 なつめさん
     代表句=手を拡げ抱く命あり春立ちぬ
【総合人】38点 下戸さん
     代表句=ピンポンの球になりたや今日立春

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【幹事よりひと言】
面白く幹事をさせていただき、ありがとうございました。
「立春」のスタート感をどのように伝えようか・・皆さまそれぞれの工夫が面白かったです。
「日向ぼこ」は、日の匂い、猫や犬、夢のような幻想のような情景も飛び出し、楽しめまし
た。「手袋」では、片方にイメージがだいぶいきましたが、ちょっと幹事の兼題コメントが
余計なことだったのかと反省しています。 常勝の虚視さんが天、なつめさん、下戸さんとこ
のところの流れは変わりませんでした が、なつめさんと下戸さんは、4句のうち3句に天が
入るという効率の良さ。もう一句あればパーフェクトですかね? 最後にもう一度、こふみ会
は、幹事をするのがいちばん面白い。これ、今回の結論でした。ありがとうございました。
一遅


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郷愁の詩人与謝蕪村 №24 [ことだま五七五]

秋の部 1

          詩人  萩原朔太郎

門(かど)
を出て故人に逢あひぬ秋の暮

  秋風落寞(らくばく)、門を出れば我れもまた落葉の如く、風に吹かれる人生の漂泊者に過ぎない。たまたま行路(こうろ)に逢う知人の顔にも、生活の寂しさが暗く漂っているのである。宇宙万象の秋、人の心に食い込む秋思の傷みを咏(えい)じ尽(つく)して遺憾なく、かの芭蕉の名句「秋ふかき隣(となり)は何をする人ぞ」と双壁(そうへき)し、蕪村俳句中の一名句である。
  この句几董(きとう)の句集に洩(も)れ、後に遺稿中から発見された。句集の方のは
     門を出れば我れも行人(ゆくひと)秋の暮
であり、全く同想同題である。一つの同じテーマからこの二つの俳句が同時に出来たため、蕪村自身その取捨に困ったらしい。二つとも佳作であって、容易に取捨を決しがたいが、結局「故人に逢ひぬ」の方が秀(すぐ)れているだろう。

秋の燈(ひ)やゆかしき奈良の道具市

  秋の日の暮れかかる灯(ひ)ともし頃ごろ、奈良の古都の街はずれに、骨董(こっとう)など売る道具市が立ち、店々の暗い軒には、はや宵の燈火あかりが淡く灯(とも)っているのである。奈良という侘(わび)しい古都に、薄暗い古道具屋の並んだ場末を考えるだけで寂しいのに、秋の薄暮の灯ともし頃、宵の燈火(あかり)の黄色い光をイメージすると、一層情趣が侘しくなり、心の古い故郷に思慕する、或る種の切ないノスタルジアを感じさせる。前に評釈した夏の句「柚ゆの花やゆかしき母屋もやの乾隅(いぬいずみ)」と、本質において共通したノスタルジアであり、蕪村俳句の特色する詩境である。なお蕪村は「ゆかしき」という言葉の韻に、彼の詩的情緒の深い咏嘆(えいたん)を籠(こ)めている。

飛尽(とびつく)す鳥ひとつづつ秋の暮

  芭蕉の名句「何にこの師走(しわす)の町へ行く鴉(からす)」には遠く及ばず、同じ蕪村の句「麦秋(むぎあき)や何に驚く屋根の鶏(とり)」にも劣っているが、やはりこれにも蕪村の蕪村らしいポエジイが現れており、捨てがたい俳句である。

『郷愁の詩人与謝蕪村』 青空文庫



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読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №178 [ことだま五七五]

        読む「ラジオ万能川柳」プレミアム☆2月7日、14日放送分

         川柳家・コピーライター  水野タケシ

川柳家・水野タケシがパーソナリティーをつとめる、
読んで楽しむ・聴いて楽しむ・創って楽しむ。エフエムさがみの「ラジオ万能川柳」
2月7日の放送です。
アイフォン不調のため写真はなし(ごめんなさい)

「ラジオ万能川柳」は、エフエムさがみの朝の顔、竹中通義さん(柳名・あさひろ)が
キャスターをつとめる情報番組「モーニングワイド」で、
毎週水曜日9時5分から放送しています。
エフエムさがみ「ラジオ万能川柳」のホームページは、こちらから↓
放送の音源・・・https://youtu.be/3n5Vgaf4g5g

 あさひろさんのボツのツボ
「恵方巻き恵方向かなきゃただの巻き」(荻笑柳王)

(皆さんの川柳)※敬称略
※今週はの投句がありました。ありがとうございます!
 ・チョコを買う松竹梅と3ランク(とんからりん)
・おそろいのキーホルダーを渡せない(恋愛名人見習い・名もなき天使) 
・皆様の清き選句を心待ち(名人・パリっ子) 
・痛いとこばかりが増えて金増えぬ(名人・金星玉三郎)
・当てられた豆をつまみに妻と酒(大名人・やんちゃん) 
・先頭に立って裏金隠してる(横山閲治郎) 
・食料の残り調べる雪予報(大名人・せきぼー) 
・まく人もまかれる鬼も4年ぶり(シゲサトシ) 
・うへへへへ嬉し卓球初勝利(名人・わこりん) 
・わこりんの素直な句から学んでる(名人・居酒屋たつみ) 
・文春の会社理念はなんですか (名人・おむすび) 
・よく通る道をそれたら非日常(柳王・ぼうちゃん) 
・震えつつついで装い渡すチョコ(なつ)
・野党とて油断ならない裏の金(柳王・東海島田宿) 
・どこでもドアあっても使わぬ気がしてる(柳王・恋するサボテンちゃん) 
・パレードに元気もらって相模原(新大柳王・すみれ) 
・後ろ髪引かれて介護から帰る(大名人・高橋永喜) 
・豆撒いて豆乳飲んで鬼払う(名人・キジバト交通) 
・推し活や推しも推されも還暦だ(桐山榮壽) 
・重機かな?思えばウチの室外機(大名人・ワイン鍋) 
・失言は推しのサインの麻生さん(せ・ら・び) 

☆タケシのヒント!
「せ・ら・びさん、3回目の秀逸で名人昇進です。おめでとうございます。『うがち(深読み)』の句ですが、それがバレちゃっているところが、麻生さんらしいというか。案外いい人なのかも。知らんけど。」

・冷え込みに夏の猛暑を懐かしむ(大柳王・里山わらび) 
・振り向けばナンパの主は逃げていき(名人・くろぽん)
・毎日がお赤飯だな句が詠める(大名人・不美子) 
・天使さんその囁きは悪魔だよ(ナンパも名人・soji) 
・5次会も行くつもりです小田急会(しゃま) 
・子が育ちハグできるのはダンナだけ(大柳王・入り江わに) 
・書いてあるその顔にもう何もかも(大柳王・けんけん) 
・裏側で支払ったのネ保釈金(名人・のりりん)
・空位なら私になるわよミス日本(大柳王・ユリコ) 
・久喜川で咲いてたピンクのくろぽんさん(柳王・咲弥アン子)
・ドロボウを追いかける俺でも全裸(全裸川柳家・そうそう) 
・つけまつ毛ドバッと決めて初舞台(大名人・じゅんじゅん)
・福は内〜福は内〜とそればっか(柳王・かたつむり)
・恵方呑みここはやっぱり鬼ころし(柳王・フーマー) 

◎今週の一句・失言は推しのサインの麻生さん(せ・ら・び)
◯二席・毎日がお赤飯だな句が詠める(大名人・不美子) 
◯三席・震えつつついで装い渡すチョコ(なつ)

【お知らせ】
相模原市の中央区にお住まいの方はご覧になった方もいると思うんですけれども、
先週のタウンニュースの中央区版に「タケシの万能川柳」が
10周年を迎えたという記事が出ました。
タイトルは「『居場所』川柳コーナーが10周年」。
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【編集後記】
久しぶり、本当に久しぶりの大雪です。
調べたら、2018年1月22日以来。
寒いのが苦手な私は、去年の酷暑を忘れて、
もう夏を懐かしがっております。勝手だね!(水野タケシ拝)

○2月14日の放送
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暖かくなってきました!!

放送の音源・・・https://youtu.be/jI90qOiZ1Yw

 あさひろさんのボツのツボ
「さよならと微笑む君の精一杯」(矢部暁美さん)

(皆さんの川柳)※敬称略
※今週は185の投句がありました。ありがとうございます!
・雪降ってあわてふためく東京都(ぶたのはなこ)
・手羽先をけばさきと言う老いた母(初投稿・ゆかいな仲間)
・本命の手作りよりも義理が良い(大柳王・入り江わに)

※投票した人にも大チャンス!オタク川柳にご投票願います!!
「宗教の勧誘に勝つ萌え語り」です!
↓こちらからどうぞ↓
・泌尿器科なぜ選んだかこの美女医(大名人・龍龍龍)
・春を待つ街がゆっくり蕩け出す(矢部暁美)
・記憶ないってそんなのいいからはよ辞めて(新名人・せ・ら・び)
・本名や義理ではなくて感謝チョコ(シゲサトシ)
・医者帰り薬の袋ひとかかえ(じゅんちゃん)
・迷わずに選んだあなただけのチョコ(大名人・やんちゃん)
・おじょうちゃん麦チョコひとちゅありがとね(大名人・せきぼー)
・記憶ない駄目なら次は入院だ(名人・まご命)
・楽しいか効率ばかり求めてさ(大名人・高橋永喜)
・ 十五の子夢に向かって春の宵(名人・大和三山)
・黒星のひとつでニュース藤井君(とんからりん)
・手作りのチョコの相手は友ばかり(名人・わこりん)
・暖かさ桜の開花早めそう(柳王・アンリ)
・バレンタイン白旗を上げ帰宅する(柳王・恋するサボテンちゃん)
・パーティー券どんな名前に替えるのか (遊子)

☆タケシのヒント!
「実に深い深い一句、また次の抜け道を見つけるのでしょうね。監視しましょう。そして次は絶対、選挙に行きましょう!

・選挙中お札入った握りめし(名人・くろぽん)
・女性なら声かけたいね天使さん(ナンパも名人・soji)
・友の文また読み返す冬日向(大柳王・すみれ)
・お花見は泊まりにするか思案中(大名人・ポテコ)
・プレシーズン大谷にもう飽きている(大名人・ワイン鍋)
・大当たり私をひいておめでとう(なつ)
・大谷はいじめ抜きます下半身(大柳王・平谷五七五)
・書籍代三千万の心読む(柳王・東海島田宿)
・盛りあがる緊張感で身を細め(大名人・じゅんじゅん)
・天使さん恋のチョコの句待ってます(しゃま)
・川柳の本も買ったかニ階さん(大柳王・ユリコ)
・ありがとう何で涙が出るんだろ (大柳王・けんけん)
・年一度にぎわう球春日南市(名人・のりりん)
・混浴を毎日妻に断られ(全裸川柳家・そうそう)
・新名人せ・ら・び足音背後まで(先輩名人・パリっ子)
・自分用チョコのつもりで肉を買う(柳王・フーマー)
・ご主人の手際の良さと能弁と(名人・居酒屋たつみ)
・師匠枯れても私は枯れず(柳王・咲弥アン子)

◎今週の一句・パーティー券どんな名前に替えるのか(遊子)
◯二席・手作りのチョコの相手は友ばかり(名人・わこりん)
◯三席・ 十五の子夢に向かって春の宵(名人・大和三山)

【お知らせ】
昨年10月から行ってきました横須賀市民大学の「やさしい!楽しい川柳入門」も
この2月をもって終了となります。参加してくださった皆さん、ほんとにありがとうございました。
「やさしい!楽しい川柳入門」はいったん2月で終了しますが、さらにパワーアップして、
5月から全10回でまた行う ことに なりました。
 興味 のある 方はお早めに 、公益 財団法人横須賀市 生涯 学習 財団 まで 
ご連絡 お願い いたします。
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【編集後記】
朝晩の寒暖差はありますが、やっと春らしく暖かくなってきました。
「ああ、いい気分だなあ」と思うと、やってくるのが花粉ですね。
私はこれからオンラインで耳鼻科にかかる予定です。
花粉症でなかったころの春が懐かしいなあ。(水野タケシ拝)
===================================
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水野タケシ(みずの・たけし)
1965年生まれ。コピーライター、川柳家。東京都出身。
ブログ「水野タケシの超万能川柳!!」  http://ameblo.jp/takeshi-0719/ 


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雑記帳2024-3-1 [代表・玲子の雑記帳]

2024-3-1
◆株価が史上空前の高値を記録した3月は春闘の月です。

2月22日、東京証券取引所は、日経平均株価3万9千102円を記録しました。約30年前の記録を更新したのです。日銀植田総裁は日本経済がデフレを脱却してインフレにシフトしているとの見解を表明しました。日本経済の底堅さがはっきりしたのです。
日々の暮らしに物価と賃金の好循環を維持していかなければなりません。
長い間の閉塞感を抜け出したニュースを背景に、私たちは春3月を迎えました。

3月は春闘の月、満額回答か゛次々に

3月は春闘の月です。春闘は春季生活闘争の略語。労働組合と経営側が賃金の引き上げを中心に労働条件の改善を話しあいます。
 テレビ・新聞を通じて伝えられていることを私なりに整理してみました。
 さる1月24日、経団連(日本経済団体連合会)の主催で「労使フォーラム」が開かれました。
 経営側を代表する十倉雅和経団連会長は、ビデオメッーセージで、
 「2024年の春季労使交渉では、23年以上の熱量と決意をもって物価上昇に負けない賃金引上げを目指すことが経団連・企業の社会的責務である」
 と積極的に賃上げに取り組むことを強調しました。

これに対し、労働組合側を代表し5%の賃上げを要求している連合(日本労働組合総連合会・組合員700万人)の芳野友子会長は「5%以上を目安とする統一要求を設定し昨年を超える高い賃上げを求め、働き方の改善、政策・制度実現に向けて取り組む」と見解を表明しました。

これまでのに判明している状況をみてみますと、組合要求に対して経営側の満額回答か゛次々とでているのが注目されます。

自動車メーカーの労働組合のうち、全トヨタ労働組合連合会は、 企業内最低賃金は18万円以上、一時金(ボーナス)は昨年同様、年間5カ月以上を要求すしています。 
ホンダは、ベースアップ(ベア)1万3500円を含む賃上げ総額2万円と年間7.1カ月の一時金を求める組合要求に満額回答しました。
マツダは定期昇給分とベアを含めた総額で1万6千円、一時金は年間5.6カ月を要求。経営は満額回答しています。

日本製鉄など鉄鋼大手3社の労組は、賃金改善分として3万円の賃上げを求めています。
三菱重工業や重工大手各社の労組は1万8000円、三菱マテリアルなど非鉄各社は1万5000円を要求しています。

続いて日立、パナソニックの電機大手2社も、月額13000円の値上げを要求しました。
IHIは労組の要求した月1万4000円で、定期昇給分を含めて約6%にあたる満額回答。

これから産業別・企業別と、それぞれの経営・労組の間で協議が本格化します。労使双方が協調して話しあうとしています。賃上げの原資となる製品・サービスなどへの価格転嫁をどう乗り切るかが経営の課題です。
賃上げか゛物価上昇を上回るとはたらく人の生活は豊かになります。

労働組合のない数多くの非正規労働者にも賃上げの効果が及べばいいなと思います。
すでに一部の専門家から、賃上げは3.5%から3.8%で落ちつくのではないかとの予測も出ていますが……。

桜の季節を前にして、一番早く花が咲く河津桜を見たくて伊豆へ出かけました。
バス旅行の当日はあいにくの雨模様。夏のような陽気だった前日とはうって変わって真冬の寒さに逆戻りでした
それでも満開の桜と菜の花を堪能することが出来ました。

河津町への道すがら、バスは海沿いに、熱海や伊東の温泉街をぬけて行きます。アタミザクラやイトウザクラの早咲きの桜が窓外に流れて、街道はさながら桜のテーマパークのようです。色も白からピンク、紫の近い赤まで色とりどり。掛け合わせて今や桜の種類は日本中に500種類もあるというのです。濃いピンクのカワヅザクラは白のオオシマザクラと赤の緋寒桜を掛け合わせて今から70年前に生まれました。毎年、2月になると、どこよりも早く河津桜まつりが開かれ、多くの観光客がおとずれます。今年は、2月20日に満開になりました。

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雨にもかかわらず川沿いには多勢の観光客
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来宮橋から上流を眺める
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交流館前にも河津桜
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こちらは河津桜と同じ原木から生まれた「かじやの桜」。個人が管理している。
河津桜より10年遅れての開発だという。
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河津川沿いのお土産屋さんを覗くと吊るし飾りがならんでいました。

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つるし飾りは昔から子どもや孫の幸せをねがってつくられてきました。雛飾りの季節に一緒に飾られることが多いのですが、子規を通して楽しむこともできると言います。それぞれに意味があり、一つ一つ心を込めて手づくりするということです。その意味を教えてもらいました。

  兎=神様の使い、  座布団=元気な子供に育つように  
  桃=桃の実には霊があるとされ、悪魔を退治して花が咲く
      猿=災難を去る
  とうがらし=嫌な虫がつかないように
  巾着=お金に不自由しない
  ふくろう=福がまいこんでくる
  姫だるま=七転び八起 出世を願う
  柿=医者にかからない 食べ物にことかかない
  ねずみ=お金に困らない 人助けができる
  三角=富士山のように高く上に上がる人間になりますように
  羽子板=正月の心のように明るく一年がすごせますように

この日のランチは「ミクニ伊豆高原」の地中海料理でした。建物は木材をふんだんに使った隈研吾氏の設計です。なるほど、伊豆半島は地中海の海や太陽を思わせる。「海の輝き」と名付けられたコースは魚も野菜も伊豆の産物を生かした地産地消。その名もオテル・ド・ミクニで鳴らした料理人、三国清三氏の原点のようでした。
2年前に四ツ谷にあった店舗を閉めるに際し、氏が「もう一度原点にもどりたい」と言った話はニュースになりました。北海道の農家出身という氏の原点とは・・・・? 全国に展開してる「ミクニ●●●」はiいくつかあって、四ツ谷の「オテル・ド・ミクニ」も春には再開するということです。

ミクニ4.jpg
本日のアミューズ
原料の豚肉は「富士生き生きポーク」

ミクニ3 のコピー.jpg
伊東漁港直送の魚のだし、伊東産の紅しぐれ大根と黒大根のマリネ、
伊豆産金時人参のコンフィ(中央の丸い黒大根の後ろにある棒状のものが金時人参。これが美味しかった)

ミクニ2 のコピー.jpg
伊東漁港直送の鮮魚の炭火焼、伊東産新玉葱のステーキ、山菜のフリット、
新玉葱のソース、静岡産芽キャベツのアチャール

ミクニ1.jpg
デザートも地産地消
伊豆産金時人参のカステラと市川製茶の抹茶のクリーム
静岡産ワラビのわらび餅、姉川黄な粉と黒蜜
静岡産柚子、チョコレートと山椒のソルベ


※フリットは衣にメレンゲを加える。
※アチャールとは、インドのピクルス(漬物)のこと。玉ねぎやにんじん、きゅうり、キャベツ、かぶ、唐辛子などのさまざまな野菜を、香辛料や酢で味付けします。


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BS-TBS番組情報 №300 [雑木林の四季]

BS-TBS 2024年3月前半のおすすめ番組

          BS-TBSマーケティングPR部

第37回ダイキンオーキッドレディスゴルフトーナメント

299ダイキン.jpg
3月1日(金)午後6:30~7:30
3月2日(土)午後7:00~8:00
3月3日(日)午後5:30~6:54 

☆日本女子プロゴルフツアー開幕戦!女子プロゴルフ界を代表する強さと美しさを兼ね備えたトッププレーヤーたちがビッグタイトル獲得に挑む!

日本の女子プロゴルフトーナメントは、南国・沖縄で開幕戦を迎える。
「第37回 ダイキンオーキッドレディスゴルフトーナメント」。
世界基準の4日間競技で開催され、賞金総額も1億2千万円(優勝賞金2,160万円)とツアー初戦から真の強さが試される。戦いの舞台は沖縄県南城市にある美しく戦略性に富んだ琉球ゴルフ倶楽部。華やかな舞台で日本女子プロゴルフ界を代表する強さと美しさを兼ね備えたトッププレーヤーたちがビッグタイトル獲得に挑む。

いぬじかん

299いぬじかん.jpg 
3月12日(火)よる11時~11時54分 

☆犬好きMC関根⿇⾥&岡部⼤(ハナコ)が送る犬が主役のワンワンバラエティー! 犬にまつわる役立つ情報から感動のストーリーまで、一時間まるごとワンコだけでお送りする超癒し系番組です!

#11 今回は犬とのよりよい暮らしが見つかる大型複合施設のWANCOTTを紹介。

MC:関根麻里 岡部大(ハナコ)

ヒロシのぼっちキャンプ Season8

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3月13日(水)よる10時~10時54分

☆ヒロシが自分のためだけにするひとりぼっちのキャンプ。ほんとうの自由がここにある。

#83「バラとヒロシと春雨の森」/#84「大きな岩と俺のお花見キャンプ」(再放送)
4月上旬、雨が降る静岡県富士宮市にやってきたヒロシは、清流沿いのキャンプ場の森の奥でひっそりと佇む苔むした巨石と出会う。巨石のそばを居場所に決めてテントを設営するとさっそく焚き火を始めようとするのだが、すっかり雨に濡れた森の薪にはなかなか火を着けることができない。
今回の主役にとスーパーで買ったうなぎを美味しく焼き上げるには、じっくり熱を伝えてくれる絶品の熾火を作らなければならないのだが・・・。春雨の森で自分なりのお花見キャンプを楽しもうとするヒロシの一日を描く。


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海の見る夢 №72 [雑木林の四季]

    海の見る夢
        ―Sky Lark-                                                       
               澁澤京子

いまだ停戦せず、ますます虐殺非道の続くパレスチナ。正義なんてないんだ、と思いながらCDを整理していたら、『真夜中のサヴァナ』クリント・イーストウッド監督の映画のサントラ盤が出てきた。クリント・イーストウッドのものにしては、異様な雰囲気の映画だったけど、さすがクリント・イーストウッド、映画で使われるジャズ音楽が私の好みだったので以前CDを買ったのだ。特に、「スカイラーク」ってこんなにいい歌だったのか、と感心したのがK.D.ラングというジャズシンガーで、ジャケットには、両手に皿を持って首を傾げた女の子の銅像の写真。あの映画に出てきた、公園の女の子の銅像は「正義」のシンボルだったんだ、と今更ながら気が付く。そこでもう一度映画を見直す事に。サヴァナで起こった事件をもとに書かれた小説が映画化されたもので、「ムーン・リバー」「スカイラーク」「酒と薔薇の日々」「フールズ・ラッシュイン」など数々のジャズの名曲の作詞家であるジョニ―・マーサーの生家で実際に起こった殺人事件。ジョニ―・マーサーのジャズ詩は何となくデカダンなものが多く、ジャズをこよなく愛するクリント・イーストウッドがこの小説を映画化したのも頷ける。

「・・悲惨な話を隠すのがサヴァナ流だ。」~『真夜中のサヴァナ』映画より

ジャーナリストのジョン(ジョン・キューザック)が、サヴァナの名士ジム(ケヴィン・スペイシー)にインタビューするために街に着くところから話は始まる。サヴァナというアメリカに実在するこの港町が実に美しい。街路樹は生い茂り人々に木陰を提供し、歴史ある美しい建物と公園、明るい陽射し、抜けるような青空・・しょっちゅうどこかの家ではパーティが催され、住人は中流階級の裕福な人々が多く、まるで、もてなし上手の老練なマダムのような街なのである。かつてのジョニ―・マーサーの邸宅は、今は骨董商で名を成したジムがそれを買い取って住んでいる。

ところが、ジムのパーティの最中に殺人事件が起こる。ジムと痴話喧嘩になった自動車整備士で男娼でもあるビリー(ジュード・ロウ)が激昂して暴れ、撃ち殺されてしまう。後半は法廷ものになり、犯人とされたジムは優秀な弁護士を雇って無罪になるが・・この映画は、最初に犯人がわかってしまうので謎解きでもない、むしろ映画全体から浮かび上がってくるのはそうした事件の究明よりも、不自然な街の人々の姿。パーティの最中に殺人が起こっても、見て見ぬふりで無関心のまま談笑し続ける人々・・死んだ犬の散歩をする紳士、いつもペットのアブを顔の回りに飛び回らせている男、醜聞をひそひそ囁きあう奥さんたち・・つまり、社交的だが他人に無関心、奇妙な街の人々の姿が浮き彫りにされる。そのため、この街の青空が抜けるように透明であるほど、逆にその明るさが不気味に見えてくる。そして、殺された貧しい青年ビリーの死を悲しむのは、街の人々から密に侮蔑されている男娼仲間のレディ・シャブリだけ。この街の裕福な人々は、男女を問わずビリーと肉体関係を持った人が多いのに,ビリーのような貧しい若者の存在は、社交生活では空気のように無視される。

クリント・イーストウッドが描きたかったのは、起こった犯罪よりも、むしろこの街の人々の異様さだったんじゃないかと思うと、両手に皿(天秤)を持った、銅像の女の子が暗い表情なのも腑に落ちる。社交では何事でも他人事のように語られ、無関心が蔓延、ジムのような権力者がその財力によって罪に問われないのは日常茶飯事のこと。そうすると人々は、理不尽を理不尽とも思わないほど感覚がマヒしてしまうのかもしれない。

「死者と語らないと、生者のことはわからない。」

良心の呵責に苦しむジムの唯一の相談相手、ヴ―ドゥ呪術師のミネルバの言葉。タイトルの『真夜中~』は、ミネルバの呪術が真夜中に行われる事からくる。死者との語りは、内省であり、祈りでもあり、また、音楽の根源もそこにあるんじゃないかと思う。世の中には、他人の苦しみのわかる人と、わからない人がいるだけなのかもしれない。法廷で無罪判決が出てから、ジムは心臓発作を起こして死ぬが、最期の瞬間にジムが見たのは、殺されたビリーの微笑む姿で、それはビリーがようやく復讐を遂げた微笑みなのか、それともジムへの愛なのかは神のみぞ知る、だろう。

一見、人種差別もなく平和、多様性に寛大でリベラル、経済的にも豊で美しい街サヴァナ。しかしその裏には経済格差と貧困、人種差別、ゲイ差別というものが密に隠されていて、原作のタイトルは『Midnight Garden of Good and Evil』。クリント・イーストウッドは、原作にはなかった、両手に皿を持つ女の子の銅像(正義の象徴)を登場させた。正義というものが不均衡なものでしかない今の世界で、この銅像の少女の暗い表情は妙に脳裏に焼き付く。もしかしたら、正義は死者との語りの中に存在するものなのかもしれない。

※ここまで書いていたら今、(2月26日夕)、アーロン・ブシュネルさん(25)米兵が、ワシントンのイスラエル大使館前で抗議、パレスチナ解放を叫びながら、焼身自殺するという痛ましいニュースが飛び込んできた。今、パレスチナで連日起こっている虐殺が、感受性の強い一人の優しいアメリカの青年の心を踏みにじったのだ。さっそく、ブシュネルさんに対し「精神疾患」というレッテル貼りする人々が出てきたが、もしそうであるならば、おそらく世界は、彼よりもずっと狂っているのに違いない。

アーロン・ブシュネルさんの魂が安らかでありますように。


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住宅団地 記憶と再生 №30 [雑木林の四季]

18.ベルリン・ヘラースドルフ地区の団地 Berlin-Hellersdorf

      国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

●ヴーレタルWuhletal駅から

 メルキッシェス・フイアテルが旧西ベルリンの大団地の代表とすれば、旧東の代表には「へラースドルフ団地」があげられる。
 2010年の10月15日、団地再生の好例として紹介されている団地をこの目で見たくて、へラースドルフ駅にむかうU5バーンに乗った。外を眺めているともう何駅も手前から緑のなかに高層の住棟が連続して見えはじめたので、あわててヴーレクル駅で下車した。へラースドルフ駅の4駅も手前である。団地の所在を予めよく確かめずに来てしまったのが失敗だった。進行方向にむかって駅の左前方、歩いて数分のところに団地がひろがっていた。団地のなかで「ここはへラースドルフか」と聞くと「そうだ」という。団地の名称を聞いても、けげんな顔をして答えてくれない。行政区はたしかにへラースドルフだが、これが団地名ではなさそうだし、固有の団地名が必ずあるとは限らない、と思えてきた。団地内のすべての通路には通り名があり、玄関ごとに番号があるのだから、それだけで住所表記は十分である。団地名はないのかもしれない。団地の入口近くに「住宅建設組合ヴーレタル」WG Whletal e.Vの建物があった。
 あとで調べたら、この組合は旧東ドイツのベルリン、ケムニッツ、ノイブランデンブルク、シュヴェーリンの建設企業の連合体であり、1980年代に3,000戸余りの住宅をへラースドルフ地区に建設し、企業本社の所在地名を建設した居住地区の名にしている。わたしが歩いたのは、ルートヴィヒスルスター通りとパルヒマ一通りがかこむ「シュヴェーリン住区」であった。近くのヴーレ川沿いは緑の回廊になっている。
 外壁は白色か薄茶色を基調にした、まだ新しく見える、すてきな団地である。駅に近い住棟は5階建て、奥にむかって高層化、といっても6~7階建てである。ベルリンでは団地の計画的なリノベーションが90年代にはじまっている。ここでも玄関口やバルコニーの改修と塗りかえ、エレベーターの追築などの工事が施されている。その後さらに改修、近代化が進められている。
 団地内を歩いていて、どの住棟も長大であることが気になった。その後グーグルマップでみると、内側の何棟かが工事中のようだったし、いまその区画=公園になっている。撤去されたのであろう。
 寮内については知る由もないが、外観上の改修工事を一部この団地でも見ることができた。団地の中央に4階建ての住宅管理事務所があり、管理窓口で喫茶店も経営し、かなり大きな建物のなかは会議室やクラブ活動のための部屋などになっている。
 ここにいても「へラースドルフ団地」行きに気がはやり、早々とこの団地に別れをつげ、へラースドルフ駅にむかった。ただし、ここでは地理的にヴーレタルに接したカオルスドルフ・ノルトへの訪問記を先にしるす。

●カオルスドルフ・ノルトKaulsdorf-Nord駅から

 カオルスドルフ・ノルトもよく聞く地区だから、2019年にベルリンに来たさい9月7日に訪ねてみた。U5バーンのヴーレクル駅のつぎである。駅の両側に5~12階建ての住棟群がせまっている。
 ヴーレタルとカオルスドルフ・ノルトとは、居住地区がつながっていて境界があるわけではなく、歩きはじめた地点はちがうが、9年前と同じところまで足を延ばしていることに気づいた。団地の風景も、思いだせば似ている。そのはずである。この地区とヴーレタルは、旧東ドイツの同じ各都市の建築家たち(おそらく労働者も)が担当し、建物とその配置、空間のデザインに覇をきそったと記されている。住棟ブロックそれぞれに個性的ではあるが、光景は両地区共通の印象をうける。まえに来たときよりも色彩的にいくらか鮮やかに感じるのは、9年のあいだに団地の改修が進んだせいかもしれない。
 カオルスドルフ・ノルトは、ツェツイリエン通りをはさんで南北に、第1区と第2区にわかれ、1979年から86年にかけて、3~5室のアパートがそれぞれ5,486戸、2,050戸建設された。1区には、保育園6、幼稚園11、学校6、ショッピング・センター3、レストラン5のほか社会施設があり、2区にも各種施設が設立されている。建設されてベルリン市区に引き渡され、管理(所有)は複数の半ば公的な組織に託されたのであろう。わたしが歩いたのは、ギュルツオヴェル通りとリリー・ブラウン通り界隈であるが、この辺りはシュタット・ウント・ラント(都市と土地)社Stadt und Land Wohnbauten GmbHが管理している。
  住棟はどこもほぼ5階から、高くて12階建てで、正方の中庭を大きくコの字型、あるいはL字の組み合わせ型にかこむかたちで建てられている。駅近くは11~12階住棟が建ち並ぶ。ある12階建て高層住棟はl階が住宅ではなく事務所、集会所などに共同使用されている。その先には、5~6階建てがつづく。
 5~6階建てには明らかに改修の跡がみられる。エレベーターの付設とバルコニーの拡張である。当初エレベーターはなかったのであろう。いまではすべての住棟の階段ブロックごとに1・5メーター四方の赤褐色のボックスが付設されている。表玄関脇が多いが、裏口側への付設もみかけた。バルコニーの改造はすべての住棟ではなく、おそらく住民合意にたっした階段ブロックごとに施工されているのだろう0バルコニー枠を増築し、張り出させてロッジア風に改造し、居住面積の拡大にもなっている。

『住宅団地 記憶と再生』東信堂



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地球千鳥足Ⅱ №42 [雑木林の四季]

こんなところで日本人5人と会った!
~べリーズ~    

            小川地球村塾村長  小川律昭

 ベリーズは全体的には安全な経済成長過程国で、カリブ海の水はコバルト色だ。だが空港のあるベリーズ・シティは少々治安が悪い。我々は恐れず第一夜をここに取り、着いた早々まず市内を散策した。街角でビニール袋売りの裁断マンゴーを食べている、痩身の若い日本人女性に逢った。テレビ取材の手伝いで半日雇われたという。彼女はTさんといい、「キーカーカー島に住んでいる」と言った。忙しそうだったのでそれで会話は終わり。日本人男性2人がその傍におり、カメラマンと渉外係のようだった。テレビ番組、「世界の村で発見! こんなところに日本人」の取材中とのことだった。この取材陣に「ご夫婦とマイアミからの航空機で一緒でした」と言われたがこちらは記憶になかった。リュックを担いだ合計156歳の夫婦は目立ったのだろう。
 ベリーズ・シティは壊れかけた建築物やバラック建ても多く、街並みは汚い。空港も古くて質素、航空機への乗降は徒歩だ。首都のベルモパンには空港がないのでここが国際空港、うらぶれた都市である。200年前宗主国イギリスから運ばれたレンガで建造されたセント・ジョーンズ教会と、カリブ海に面した総督官邸を見学したが、現今は迎賓館、熱帯植物に囲まれた優雅なたたずまいだ。刑務所だった博物館は厳重な鉄格子塀に囲まれていた。政策として強調しているのはカリブ海のレジャー観光とリゾート産業のようだ。
 頭髪をアフリカン・アメリカン状に編んだ女性から声がかかった。「日本人ですか?」と。2時間半バスに揺られ、サン・イグナシオに着いたところだった。ワイフと日本語を交わしたのを聞いたのだろう。黒く日焼けした、日本人にしては大柄な女性で、10ドルかけてネイティヴのように髪結いしたという。ここ、サン・イグナシオでは最高のホテル、カル・ペチ・リゾートを選んだ。
 ベリーズを代表するシユナントゥニッチ遺跡は密林に覆われた丘の上にある。9世紀頃繁栄した神殿都市という。高さ40メートルのピラミッドは保存状態もよく壁面には神や踊る人、怪物や貝殻なども刻まれており当時の文明を偲ばせる。ホテルから見下ろせるカル・ペチ遺跡は歩いて数分の距離、紀元前3世紀から紀元後8世紀にかけてのものが混在し、独特のマヤ・アーチ状の構造が特徴だ。
 南のリゾート地プラセンシアのスーパーで会った日本人女性はワイフが私を「お父さん!」と呼ぶ声を聞き、話しかけて来た。夫はアメリカ人、政府系の仕事をしていて定年後ここに来て家を建築したと言う。日本人が懐かしいのか30分も立ち話をした。物価も安いしカリブ海の温暖気候が気に入ったのだ。この国には16人ほどの日本人が居住するとのことだ。
 プラセンシアは昔の漁村、今は高級リゾート地でホテルもレストランも高価だ。その関連で仕事もある。シーズン・オフで人影を見かけない海水浴場だった。砂浜沿いの貸小屋は空家。ホテルのカヌーやサイクリング車で楽しめた。
 キーカーカーは俗化していて砂の小島ではなくなった。サン・ペトロも桟橋やマリンレジャーに人が集まり過ぎて海辺を汚している。バリア・リーフやブルー・ホールへ船で出かけて珊瑚礁の海底を覗くほうがいいだろう。
                     (旅の期間‥2013年 律昭)

珍遇が取り持つ縁は地球の一角から
                          
 「事実は小説よりも奇なり」といわれるが、誰しも体験があるだろう。人と人は見えない糸で繋がっていると思わざるをえない事件がままある。人生行路はある時重なり合い、交友範囲が拡大し、生きる楽しみも増える。覚えている範囲の珍遇、奇遇を紹介しよう。
 成田からの国際線ダラス行きの機中、飛び立って2時間後、フライトアテンダントが我が隣の空席に客を連れて来てよいか尋ね、了解したら日本人女性が座った。驚いたことに、彼女はシンシナティの我が家のご近所イーナおばさんの所に以前寄宿していた。その後日本で結婚したが、高校、大学時代ともイーナおばさんと暮らしたという。我々夫婦もイーナと付き合っているが、そもそも彼女とのご緑は、別の寄宿人をイーナが空港に迎えに出た折、私が近所と知り同乗させてくれたことが始まりで、今も信頼感で結ばれている。
 エストニアのタリンで、隣国ラトビア行きのバスの切符を求めていた時、小柄な女性が列の後ろに。ブラジルから来た日本人夫婦だった。私の元勤務先のブラジル支社駐在員が共通の友だちだった。バスがすぐ出るので名前を交換しただけで別れたが、隣国ラトビアの中心街リーガの街中で「小川さ~ん!」と呼ぶ女性の声。よくも同じ時間に同じ街の一地点をすれ違ったものだ! 5分ずれたら会えてはいなかった(ラトビア共和国の項参照)。この国はホテル探しが大変な国だった。やっと見つけた小ホテルのエレベーターで「やあ、小川さん」と今度は旦那さん。これが何の打ち合わせもなしで3度目の出会いだった。朝食を共にして話をしたら、お互い日本に生活拠点を置き、定年後彼らはサンパウロ、我々夫婦はシンシナティに活動拠点を置く元駐在員だった。似た夫婦同士、バルト三国をうろついていたのだから奇遇だろう。再々会は打ち合わせをして、ブラジルはサンパウロの日本人開拓時代の博物館で。もちろん日本でも国分寺で会食を楽しんだが、世界各地で計5回も会ったのだ。
 彼らとの出会いは霊感に導かれた必然的偶然とでも言えるのではなかろうか。海外で日本人らしき人に会えば私はよく話しかける。好奇心が働くからだ。「地球の一角でいつ人との出会いや緑が始まるかわからない」と期待しつつ、行動する我が好奇心とその果実に乾杯!                      (2015年執筆 律昭)

『地球千鳥足』 幻冬舎


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山猫軒ものがたり №34 [雑木林の四季]

ムラの名人たち 2

             南 千代

 私が料理を習っている間、夫は薪集めの毎日だった。ガスのない暮らしが不都合もなく続いていたため、台所に風呂に暖房にと、一年に使う薪の量は、四トン車でおよそ二、三台分。
 夫はコーさんに紹介されて、キコリの名人である小沢さんの山仕事の加勢に行くようになっていた。一緒に出かけて仕事の手伝いをし、不要な枝を薪用にもらってきていたためである。
 木には「伐り旬」とキコ与たちが呼ぶ伐りどきがある。秋から冬にかけての季節だ。つまり、木が根から水分を吸い上げていない時期である。この頃になると、キコリたちは忙しい。倒された木の、要らない枝を集める夫も忙しい。地下足袋に脚絆(きゃはん)を巻き、弁当とチェンソーとついでにカメラも持って、彼らと共に、朝七時半に家を出る。
 枝といっても直径二十センチ、長さ数メートル。とても男一人が持てる重さではなく、チェンソーで切った後、クレーンで積み下ろしする。こうして何日も山に通った後、はじめて薪になる材料が集まる。
 ケヤキ、カシ、エノキ、ナラ。集めた木は、切りやすく割りやすい生木のうちに薪にする。ストーブに入る五十センチ程の長さに切り揃えた後、斧で割る。割る作業は、薪作りの過程のフィナーレみたいなものだ。
 これを家の周りにグルリと積んで半年ほど乾燥させた後、薪になる。灯油を買ってきて使うことを思うと、おそろしく時間がかかるのは、米や野菜作りと同じである。
 「何だって今の世の中は、買った方が安くつくよ。でも……」
 と夫は、囲炉裏に薪をくべながら言う。
 「薪が暖めてくれるのは、こうして燃えている時だけじゃないんだよ。チェーンソーを振り回している時も、薪割りをしている時も体があったまるよ」
  キつりたちとのつきあいやおしゃべりは心を暖めてくれ・家の周りに積まれた薪は、断熱材代わりとなって家自体をも暖めてくれるというわけだ。
  さて、キコリたちの主な仕事はもちろん木を倒すことだが、伐り倒す行為自体は、米作りにおける田植えや稲刈り、薪作りにおける薪割りと同様、作業全体のクライマックス的一部にすぎない。チェーンソーが使えさえすれば、木を伐ることは誰にでもでき、名人とはならない。
 しかし、たとえば。木のすぐそばに家や電線があったら、大木が杖を張ったその姿のまま倒れる空き地がなかったとしたら、単純に根元を伐るだけで木を倒すわけにはいかない。
 地元では空師と呼ばれている名人・小沢さんの仕事は、そのような木を伐ること。作業の大部分は、十数メートルの高木の上で行われる。

 はしごも届かない高い木には、クレーンで移動する。クレーンのフックに足を乗せ、サーッと木の頂上あたりに運ばれると、木に飛び移り、まるでセミみたいにピタリと張りつく。そこで足場を確保しながら、チェーンソ1でまず枝の先を切り落とす。
 手頃な足場がないときは、ロープで腰を木に縛りつけた格好でチェーンソーを奮う。太い枝は、クレーンのロープで枝を縛った後に切り放し、吊られた状態で下ろす。胴体だけになった木も同様に上から少しずつ、つめていく。
 クレーンアームの位置や木の重心を見極めないと、木を吊った位置や切り放した角度によって空中で木が安定を欠いて大きく振れ、危険を招く。
 木が倒れても大丈夫を長さにまで切りつめた後、地面に降り、予定した方向と場所へ木を倒す。ようやく、根元へチェーンソーを入れるわけだ。望む方向へ木を倒すには、あらかじめ木の倒す側に、角度をつけて切り込みを入れ、受け口を作る。反対側にチェーンソーを入れると、木は受け口の中心に向かって倒れることになる。
 このように、空の上で仕事をする空師は、近隣でも数えるほどしかいないとか。倒せる高さにまで木をつめた後、隣の木でもう一度同じ作業をしなければならない場合がある。そんなとき、地面に降りて再び隣の木に登るのは時間がかかる。どうするかというと、木から木へロープを渡して空中移動、ロープを伝って隣の木まで這っていく。軽業師顔負けの芸当である。
 小沢さんが木の上で作業をしている間、一緒に仕事をする他のキコリたちは、ロープを引っ張ったりして彼の作業を助ける。落ちてくる枝を集める、チェーンソーで整理する、運ぶ、トラックに積むなどの作業もある。
 倒した後は、木の売れる部分は市場に持って行き、商品価値のない枝などの部分は、処分する。夫は作業やトラックの運転を手伝い、この部分を薪用にもらってくる。
 夫は、加勢の合間に小沢さんの仕事ぶりを、写真に撮っていた。しかし、その身のこなし、スリリングな速さや強さに、唖然として見とれてしまい、つい、手の中のカメラを忘れてしまうことも度々あるらしい。キコリの加勢はまだまだ続きそうだ。
 チェーンソーを振り回すおかげで、夫の腕にはポパイのようなカコブができた。
 「南さんはカメラマンにしとくのは惜しいや、うちで働かねえか」
 夫は、小沢さんに誘われ、苦笑していた。

『山猫軒ものがたり』 春秋社



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夕焼け小焼け №31 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

団らんの茶の間

              鈴木茂夫

 上村家の前に道を隔てて2棟の大きな倉庫が中川運河に面している。しじゅう港から団平船で板ガラスが運ばれてくる。日本板硝子と旭硝子の製品だ。10人ほどの沖仲仕が板ガラスの箱を肩にのせて倉庫に運び込む。倉庫の中は板ガラスで埋まっていた。戦後、上村ガラス店の事業規模を拡張し、名称も愛知県板ガラス販売と変えていた。戦後復興の気運があって事業は安定しているという。
 オート三輪車に板ガラスを満載して、市内の小売店に配達する。市の中心部に建設中のアメリカ軍家族住宅の現場にも運ばれる。
 よくアメリカ兵がジープで訪れる。伝票を差し出して、
  「We are 000 Batallion,,here is Quota」
 職人さんはあわてない。日本語だけで対応する。
 「コータあるの」
 兵士もあわてない。書き付けを渡す。笑顔を見せる。握りこぶしに親指を立ててコータを差し出す。
 職人さんはコータを注目すると、
 「OK」
 私はコータとは何だろうと思った。聞くのは恥ずかしいから辞書で調べた。Quotaとは割り当て、割り当て数量とあった。

 上村家の茶の間は8畳敷き、良一氏と豊子夫人と5人の子どもたち、それに私が入ると7人で円形の座卓を囲む。あぐらをかいているから、脚が触れあっている。
 食卓には茶碗にご飯と味噌汁がよそってある。味噌汁は八丁味噌のだ。
 女中のツネさんはすぐ後ろでご飯のお代わりと味噌汁をついでくれる。白いエプロンがけの30代だ。小柄でよく働く。婚約している上村家の職人さんが戦地から帰るのを待っている。食べながら話をする人はいない。黙々として食べるのだ。 
 豊子夫人は優しく見渡しながら、静かに箸を進めていた。
 食事は美味しかった。私は夢中で食べる。お代わりを差し出す。人心地がつくのが3杯目、4杯目で気持ちが落ちつき、5杯目で満腹感に浸る。毎食、白米のご飯を頂けるのは贅沢な暮らしだ。
 ときたま、カツオの切り身がこんもりと皿に盛られて出てくる。3片か4片をご飯にのせ、熱いお茶を注ぐ。カツオの表面が白く変化する。醤油をすこしかける。カツオ茶漬けだ。カツオの新鮮な味わい、お茶の香り、ご飯の感触、それらが口の中で渾然とする。
 食が進むのだ。ツネさんはひときわ忙しくなった。
 とろろ汁のときもある。ほとんど噛むか噛まないかでのみこむ。お代わりが、ほうぼうから差し出されていた。
 年に一度、上村家の大盤振る舞いがあった。良一氏の家族と一族への親愛の趣だ。
 馴染みの寿司の老舗・寿司文の主人がオート三輪に、食材を詰めこみ、職人2人をつれてやってきた。 この日は良一氏の兄弟、豊子夫人の実家の家族など、30人は越える人で賑わう。
 寿司文の3人が手際良く握っていく。できた寿司に伸びる手の方が早かった。これほど賑やかで笑顔の人、寿司の味、良一氏はニコニコとそれらを眺めていた。
 午後6時、ラジオから「カムカム英語」が流れてくる。
  
    Come come everybody. How do you do, and how are you?
           Won’t you have some candy?
  One and two and three, four, five.
            Let’s all sing a happy song Sing trala la la la.

 かならず誰かが唱和する。英語ではない。

   カムカム エブリボディ  ハウドウユドウ アンド ハウアーユー
   ウオンチュー ハブサム キャンディ ワンアンドツーアンドすりーホーファイブ
         レツオルシンガハッピーソング  シングタララララ

 この元歌が「証城寺の狸囃子」なのを、みんな知っているから、みんなすぐに歌える。
 番組の開始を告げるこの歌が終わると、司会の平川唯一さんの軽快な語りが続く。

 「みなさんこんばんは。平川唯一です。きょうは挨拶からはじめましょう」
 
 英会話の初歩というか基本の話し方を展開する。聞いているみんなは、それだけで英語に親しんだ気分になる。食卓の誰もが食べるのに集中する。あれよあれよと15分が経過すると。番組は終わる。

 「話の泉」も人気があった。
 聴取者が出した問題をあてるのだ。クイズという言葉はなかった。あてものといっていた。
 回答者は教育者の堀内敬三、詩人のサトウハチロウ、漫談家の徳川夢声、元朝日新聞記者の渡辺紳一郎、映画監督の山本嘉次郎、音楽評論家の大田黒元雄、詩人の春山行夫、物知りとして知られる有名人だ。
 司会のアナウンサーの和田信賢が、

  司会「私の家は長く続いています。私で122代目です」
         「そんなに長い家なんてないでしょ」
        「私は子どもの頃は、京都で暮らしていました」
        「今は東京にいるの」
        「その通りです」
   「大きくなって何になったの」
        「私はみなさんに親しまれています」
        「待てよ、それはもしかしたら天皇家だよ。今の天皇陛下は124代だから,2代前とい
          えば、明治天皇様だね」
    「ご名答」

 司会は和田信賢アナウンサーの「ご名答」流行語になっている。
 回答者との愉しいやりとりが、ラジオを聞く者興味をかきたてる。

 昭和22年(1947年)7月の毎週土曜日と日曜日の午後5時15分から15分番組「鐘のなる丘」が登場した。空襲のため親も家も失った戦災孤児が、信州の山村に設けた施設で共同生活を送りながら、元気に育っていく。子どもたちの成長に多くの人が共感した。

   緑の丘の 赤い屋根 とんがり帽子の 時計台 鐘が鳴ります キンコンカン
 メイメイ小山羊も ないてます 風がそよそよ 丘の上 黄色いお窓は おいらの家よ

 戦地から復員してきた加賀美修平は、両親が空爆で亡くなっていることを知った。一人の弟の修吉は戦災孤児として孤児収容所にいた。戦災孤児たちは上野駅や新宿駅の地下道で野宿し、靴磨きなどして生きていた。修平は弟と同じ環境にいる子どもたちに、安心して暮らせる場を信州につくりたいと念願する。修平は子どもたちの兄貴分として活動する。
 当時の日本には何万人もの浮浪時児と呼ばれる戦災孤児がいたのだ。
 苦しい生活難の中で、明るく元気にいきぬいていく孤児たちに感銘した。

 『二十の扉』は、毎週土曜日の19時30分から30分間、NHKラジオ第1放送で放送されたクイズ番組だ。司会は藤倉修一アナウンサー。回答者には宮田重雄(医師、画家)、柴田早苗(女優)、藤浦洸(作詞家)、大下宇陀児(作家)がつとめる。
 番組は司会者と回答者のあいだでの質疑応答で展開する。
 問題は藤倉アナが「動物」「植物」「鉱物」のいずれかに分けて出題する。そのとき、会場にいる観客には,回答者に見えないように正解が張り出される。聴取者には「影の声」で正解を放送する。
  「キリン」が正解の場合、出題時に「動物です」と告げられる。回答者は「それは○○○ですか」と20問まで質問できる。司会の藤倉アナとの質疑応答で推理していき、「キリン」という答えを出せば良い。
 影の声で正解を知っている聴取者は、回答者の質問に一喜一憂する。大人から子供まで世代を問わずに誰でも楽しめたことから国民的な知名度と人気を誇った。
 五男の祥吾ちゃんが、ときどきラジオに向かって叫ぶ。回答者を応援するのだ。


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押し花絵の世界 №198 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「My favorites」

                 
山﨑房枝

2024.3月上.jpg
18.5cm×14cm

花の色が多く、寄せ植えやブーケなどに重宝することから、お祝いシーンのプレゼントにも人気のビオラ。
飾りやすい小さいサイズの額にデザインしました。
ベッドの横のナイトテーブルに置いて、朝目覚めるたびに元気をもらっています。


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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №52 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「大地の音・大地の声」A sound of the earth-a vojce of the earth

       銅板造形作家  赤川政由

52大地の音・大地の声.jpg
52-2.jpg

JJR青梅線栗中神駅 江戸街道沿い
東中神駅から歩いて5分、江戸街道筋のオケットパークに設置。銀色のラッパは長瀬絞りの仕事。昭島市の地下水がほとばしる姿と、鯨の化石で有名なこの町のために鯨の潮吹きをイメージしている。昭島市にはたくさんの町工場があった。老練な職人たちがいた。ピノキオのおじいさんは最後に自分の技術に心を込めてピノキオを作った。採算や、効率から放れてものを作れるのは、歳を重ねてこそ。ものに心を刻み付けてこそ、素晴らしいものができる。ラッパには、耳を寄せる天の風の音や、大地の響きが、聞こえて<る……。


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