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検証 公団居住60年 №78 [雑木林の四季]

ⅩⅢ 独立行政法人化して都市再生機構に改組

     国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

6.全会一致の都市機構法付帯決議

 全国各団地での自治会活動のもり上がりを背景にした国会・政府へのねばり強い働きかけ、法案審議におけるに自治協代表の参考人発言と傍聴行動、これらが一体となって機構法案の問題点を浮きぼりにし、審議内容と付帯決議の各項目に居住者要求を反映させたといえる。2003年5月14日の衆院国土交通委員会付帯決議の要旨は-

①「住宅が国民生活を支える基本的な基盤である」ことを確認したうえで、つぎの事項を政府・機構にもとめる。
② 政府は、公的賃貸住宅の計画的整備、高齢者向け賃貸住宅の供給の促進のための制度の拡充等により、国民の住宅セーフティネットの構築に努めること。
③ 機構は、居住者の居住の安定を図ることを政策目標として明確に定め、居住者との信頼関係を尊重し、十分な意思の疎通と連携のもとに適切な住宅管理に努めること。
④ 機構は、居住者にとって過大な負担とならないよう家賃制度や家賃改定ルールに対する十分な配慮に努めること。とくに低所得の高齢者等にたいする家賃の減免や建て替えにともなう急激な家賃の上昇の抑制については十分に配慮すること。
⑤ 機構は、建て替えにあたっては居住者の居住の安定を図るとともに、良好なまちづくりとコミュニティの維持に努めること。
⑥ 機構は、賃貸住宅事業とその他の事業との区分経理を明確にし、財務内容等の情報公開を積極的に進めること。
① 国土交通省の独立行政法人評価委員会には、機構の賃貸住宅の居住者の意見が参酌されるよう配慮すること。

 このほか、地方自治体および民間事業者との関係、機構の関連会社等との棚、機構組織および運営のあり方にかんする事項をふくめ11項目からなっっており、参院での6月12日の委員会決議も内容はほぼ同じである。
 11項目にもわたる長文の付帯決議は、内閣提出の法案には本来抜本的に修正すべき問題点がいかに多いかをしめすとともに、法案には賛成できない居住者の意見、自治協の運動が抑えがたく高まっていたことの証しでもあった。政府・機構にたいする「努力」要請とはいえ国会決議としての重さは、自治協運動のあらゆる部面でその後の貴重な拠りどころ、武器となった。

『検証 公団居住60年』 東信堂


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日本の原風景を読む №24 [文化としての「環境日本学」]

コラム

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

天蚕糸への思い
 「推定価格五二五万円」。安曇野市天蚕センターに、「やまこ」または「やままい」と呼ばれる、日本原産の野蚕の絹糸で織られた和服が展示されている。ほのかな萌黄色と微妙に変化する光沢が相まって息を呑むほど優雅である。
 「やまこ」は栽培された桑ではなく、野山でクヌギやナラの葉を食べて育つ。やまこは極度に敏感で、野鳥の鳴き声に反応して繭の糸がそこだけ細くなる。長円形の平均的な繭の大きさは長さ四・八センチ、幅一・五センチ、重さは家蚕の二倍、六グラム。木の葉の色をふくんで、自然感あふれる萌黄色になる。
 足踏み式の座繰り練糸機を用いた糸づくりと手織り機に上る機織りを経て、繭は生地に仕上る。
〝五二五万円”の織手は望力映子さん。四〇センチ×二〇センチの生地を一日がかりで織る。年四反の生産にとどまるとはいえ、「天蚕織は安曇野二百年の文化です。絶やすわけにいきません」。ショール、マフラー、ペンケースなどに織られている。
 糸の作り手は大淵智恵子さん。こちらはもう神業といいたい。お湯に繭を五個浮かせ、クモの巣より細い糸を同時に引き出し、親指と人さし指の触感を頼りに、瞬時に練糸機にかけ生糸にまとめていく。
 皇后は毎年五月、皇居の野蚕室で天蚕の卵二五粒を付けた短冊形の和紙一五枚をクヌギの木に付ける「山つけ」を行う。皇后の伝統行事である。

魂で酒を飲む
 会津と言えば酒である。
 へ小原庄助さん なんで身上つぶした
  朝寝、朝酒、朝湯が大好きで それで身上つぶした
 (大方の男性憧れの歌です」。
 酒豪でなる柴川酒造の常務、会津っぽの東条武夫さんは断言する。「あえて言わせてもらえば、会津人は魂で酒を飲むの風情があります。時には戊辰戦争などを想って」。
 山好きの会津文化人、粂川酒造の宮森久治会長は、JR会津若松駅前にあった酒蔵を、山行の日々にひそかに味わっていた甘泉の地・磐梯町中曽根に移した。一六年前のことだ。ほどなくその湧水は環境庁(当時)から「名水百選」に選ばれる。四万五〇〇〇坪の広大な敷地は仏都・会津の中心、慧日寺の境内に隣り合い、一隅をけもの道が走る。
 全国の作況指数が七四の大凶作に見舞われた一九九二年、山あいの棚田で米を作る柴川酒造の契約田は平年と変わらぬ一〇アール一〇俵(六〇〇キロ)の収量をあげた。「森からの出水が、土の潅漑水路をゆっくりとめぐり、太陽に暖められ田をうるおしたためでしょう」(宮森会長)。農政が莫大な費用をかけ、コンクリート二面張りの潅漑水路に〝改善〟しているさ中の光景であった。
 九月には新米が穫れ始め、十一月には仕込み、そして新酒が。「酒米の品質次第で、秋上がり(良)、秋落ち(不良)となります」(東条さん)。緊張の季節の到来である。

アルゴディア研究会
 出羽三山への郷土愛盛んな人たちが「アルゴディア研究会」に集い、湯殿山への古道「六十里越街道」の復活に努めている。会の名称は、この地域の言葉「あるごでっあ(歩こうよ)」と、明治十一年、山形米沢盆地に理想郷(アルカディア)を見た英国人女性旅行家イザベラ・バードの記述による。
 鶴岡市に住む元銀行員茂木征一さんは、月山のたたずまいと人々との営みをこよなく愛し、アルゴディア研究会の副会長を務めている。日々六十里越古道のどこかで、花の木の苗や草刈りの鎌を携えた茂木さんに会うことが出来る。有数のコメどころ、豊かに実る庄内平野を指して茂木さんは「水とイネ」の神々の始祖だと言う。「稲と水の神の原点はブナの森です。木洩れ日の林床を縦横に走る水流こそ庄内平野の富の元です」。映画『おくりびと』の撮影現場、注連寺も六十里越街道に連なる。「阿弥陀如来が宿り、空海が訪れたこの場所でこそ撮られるべくして撮られた映画です」。茂木さんは強調する。未だ生を知らず焉ぞ(どうして)死を知らん」。小説『月山』の巻頭言に、アルゴディアの同人たちはひとしく思いを深めている。
 アルゴディアの有志は九月十六日、注連寺に集い中秋の月を眺めてきた。茂木さんの名刺は全面、十王峠からの雪の月山の写真だ。その中空に満月が架かっている。天地有情の風景というべきか。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店



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台湾・高雄の緑陰で №29 [雑木林の四季]

日米台三国同盟は可能か?

      在台湾・コラムニスト  何 聡明

私は昨年12月の寄稿で米国のバイデン新政権は同盟国との結束に尽力するが、対中政策と対台政策はトランプ政権と大きな変化はないと思うと述べた。アメリカ第一を唱えて同盟国への思いやりが欠けていたトランプ政権の是正にバイデン氏は努力を続けている。私はバイデン氏はトランプ氏の対中国政策と対台湾政策を単に引き継ぐだけではなく更なる強化を目指していると感じている。

21世紀に入ると中華人民共和国は国力をつけて所謂「一帯一路」で経済覇権を目指す一方、西太平洋覇権取得の野望を実現するため、尖閣列島、台湾、フイリピンへの武力行使をも厭わない姿勢を保っている。中国は西太平洋のみならず、南シナ海の完全覇権を狙い、勝手に7個の人工島を造っては各島の領海権を主張してベトナン、マレイシア、ブルネイ、インドネシア、フイリピン、台湾と対立している。

既存の日米同盟は中国の西太平洋進出の第一防線になるが,最近日米台の有識者は日米台三国同盟の必要性を談じるようになった。その日米台同盟が果たして実現するか、また実現するためには関係各国に於いて如何様な必要条件の整備が必要になるかについて私見を述べたい。

先ず、米国は現存するその<台湾関係法>と昨年来及び今後とも国会で立法される台湾への軍備援助と親台湾の法制を確実に実行に移す必要がある。また、中国に対しては今年に入ってから頻繁になった台湾に対する中国海空軍の威嚇的な行動の自制を随時警告をする必要があると思う。米国には経済的親中国派は少なくないのでトランプ政権以來、米企業家の脱中国を勧告しているが、効果は未だ顕著でない。バイデン大統領は着任百日の国会演説で「米国は21世紀を勝ち抜くために中国や他国と競ふ、歴史の転換期にいるのだ。」と明言した。習近平がその言葉をどう受け止めるかであるが、恐らく更に資本力と軍事力を駆使してアメリカ合衆国と競うことに熱中すると思う。

次に日本国だが、米国の日本版<台湾関係法>の制定が先ず必要になると考える。<台湾関係法>は台湾へ亡命した中華民国と1980年に断交したあと、台湾人民との関係をあらゆる方面で続けると明記した米国国内法である。日本は米国と日米安保条約を締結しているが、日本憲法に不戦の第九条があるかぎり、米国は条約に基ずいて日本が外敵の攻撃を受けた際、武力を行使して日本を防衛する義務はあるが、米国本土が外敵の攻撃を受けた際、日本は米国本土を防衛する義務がない一方的な条約になっている。完全な日米台同盟を結ぶためには憲法第九条の修正は日本が避けて通れない道だと思うが、与野党共に経済的または文化的に親中国派が少なくない日本では台湾関係法の立法と憲法第九条の修正は極めて容易ではないと思う。 
台湾人は親米派が多いか、親中派が多いかと質問されたら、親米派が圧倒的に多いと私答える。だが、現在台湾国内には重大な政治的、族群的問題がある。台湾最大の政治問題は中国国民党の存在である。20世紀前半、中国国民党と中国共産党は中国大陸で激烈な内戦を展開、1949年末国民党は徹底的に敗戦したのだが、中国国民党政府は折からの東西冷戦の恩恵を受けて、戦後地位未定の台湾へ逃亡し反共亡命政権を樹立することができたのだ。爾来、中国国民党は半世紀にわたり台湾で権威政権を維持したが、20世紀末期から台湾人の自由民主化運動が活発となり、2000年に始めて台湾人民による総統選挙が行われた結果、台湾人主体の民主進歩党候補が史上初めて総統に当選して政権を8年間保ったのである。中国国民党の上層幹部は始めての在野期間に不倶戴天の仇敵であった中国共産党政権への擦り寄りを始め、2008年の総統戦挙で与党に帰り咲いた後は「中台一家」を唱えて中国の統治者、共産党政権に媚びを売り続けたが、台湾人の反発に会い、2016年の総統選挙で中国国民党は再度政権を失うことになった。それ以来中国国民党は中国共産党政府を後ろ盾にして与党民進党のこき下ろしに余念がない。なお、中国国民党員の多くは反米で反日でもある。

日米台同盟参加のために台湾は自衛軍事力の強化と中国に統一されることを望む中国国民党の徹底排除を推し進める必要がある。特に台湾に不可欠なのは新憲法を制定して正式に「台湾共和国」と名乗ることである。台湾が中華民国を名乗るかぎり中国との腐れ縁が切れないまま、不正常な現状維持が続く。

現実的に日米台は共に難しい課題を抱えているので、三国同盟の実現は甚だ容易ではないが、2025年までに各国がそれぞれの難題を解決して三国同盟締結が可能になることを願いたい。




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道つづく №10 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

いささむらたけ

         鈴木闊郎

 日暮るるも多摩の横山夏の色
 内水を呑み込む土の余勢かな

 短夜やいささむらたけ靡きをり

 宵宮の提灯孫に下げさせる

 暑気つづく五明後日とふ言葉

                                花鳥諷詠誌「駒」二〇一二年九月 二二八号


鈴木闊郎氏略歴
 1933年 立川市生まれ。早稲田大学卒。(株)立川印刷所2代目オーナー。
 立川の粋人として知られた。俳誌『駒』同人。2020年没。



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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №173 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

北海道 小さな駅   

             岩本啓介 
                            

①留萌本線 朝陽を浴びて 北秩父別駅 

173北秩父別駅・留萌線.jpg
                            
今どき 板に墨で 手書きの駅名板 すごいなあ                            
これからも ず~っと残してほしいと願っています  

②留萌本線 ステキな駅名 北一已 
  

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なかなか読めない駅名 “きたいちやん”と読みます                                
“いちやん”はアイヌ語で 鮭の産卵場の意味とか                          

③宗谷本線 駅前は真っ白 糠南駅 
  

173糠南駅・宗谷本線.jpg
                            
本当は山の途中から俯瞰ぎみに撮りたかったのですが                                
雪で林道が通行止め やむなく 真っ白な畑から                


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押し花絵の世界 №133 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「春の3連作」

            押し花作家  
山﨑房枝

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30cm×25cmを3つ

クリニックの待合室に飾るように、春夏秋冬の4パターンをオーダーしていただいた作品の春バージョンです。
カラーペーパーをカットして制作した台紙の上に、姫金魚草、プリムラ、ノースポール、ビオラなどの春のお花をふんだんに取り入れて待合室が明るくなるように仕上げました。



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ミツバチからのメッセージ №45 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

イタリア―5

   造園家・ミツバチ保護活動家  御園 孝

   イタリア北部のドロミテ渓谷の中心部の町コルチナダンペッツオに、ドロミテの山々へ登るためにしばらく滞在しました。
   町の周り360度グルリとドロミテの山々が見渡せ、どこから登るか迷ってしまいましたが、まずホテルの真正面にそびえるトファーナ(標高3243m)へ登ってみました。
   麓から中程までロープウェイで上がり、そこから頂上まで徒歩で登りました。森林限界を超えたあたりのがれ場には、様々な高山植物に混じり黄色いケシ(パパウェルアルピニウム)の花が咲き乱れていて、美しさのあまり足が止まってしまいました。さらに登っていくと、貝や恐竜の足跡の化石などが点在しています。
   表側はハイキング気分で登ることができますが、裏側は1000〜1800m程の断崖絶壁で、クサリ場を安全帯をつけて移動しなければなりません。

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黄色いケシ(パパウェルアルピニウム)
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黄色いケシ(パパウェルアルピニウム)
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ハイキング気分とは言えないかもしれません。
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3000m級の山の頂上
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頂上に立った筆者


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多摩のむかし道と伝説の旅 №60 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

                          -狭山丘陵南麓の根通り道を行く-1

                原田環爾

 東京都北部に連なる東村山市・東大和市・武蔵村山市・瑞穂町は、埼玉県の所沢市・入間市と接しており、その都県境に東西十数キロにわたってなだらかな丘が横たわっている。比高差僅か100mにも満たないこの丘は狭山丘陵と称し、古くは村山三里などと呼ばれた。丘陵は広大な雑木林で覆われ、玉川上水や野火止用水が出来る前までは、茫漠たる不毛の武蔵野台地にあってここだけは緑をたたえた潤いのあるオアシスだったという。その狭山丘陵の南麓を街道が走っている。志木街道と青梅街道である。街道沿いの山裾にはいくつもの集落があり、それらの集落と集落を結ぶ里道すなわち根通り道が入り組んでいる。青梅街道が整備される以前の青梅道はこれら根通り道がその役割を担っていたと筆者は考えている。根通り道沿いには大小様々な社寺がいくつも佇み、ここが東京かと見紛うほどの鄙びた里風景を見せてくれている。今回はそんな狭山丘陵南麓の街道界隈に枝分かれしている根通り道を辿り、村山三里の里風景を楽しみたいと思う。
 ここでは西武多摩湖線武蔵大和駅から東大和市域の志木街道に入り、これを西へ進みつつ街道から分岐する丘陵南麓の根通り道に入って散在する社寺を巡る。奈良橋に至れば青梅街道に入り、同様に街道から枝分かれする根通り道に入って、散在する社寺を巡りながら芋窪に至る。次いで谷戸川に架かる大橋辺りから武蔵村山市域の青梅街道に入り、これを西へ進み、中藤、横田、三ツ木、岸の根通り道を辿る。この後は殿ヶ谷、石畑の里道に点在する鄙びた社寺を巡りながら、終着点箱根ヶ崎駅へ至るものとする。

 まずは東大和市域の丘陵南麓の根通り道を巡ることにする。

狭山丘陵1-1.jpg

 武蔵大和駅を出て駅前の志木街道に入る。埼玉の志木へ通じる道であることからこの名がある。街道を西へ向か狭山丘陵1-2.jpgうとすぐ交差点「武蔵大和駅西」にくる。いささか変形した五差路になっている。手前の小道は武蔵境から伸びてきた多摩湖自転車道だ。交差点を横切り、緩やかに右方向へカーブしてゆく道が志木街道だ。程なく沿道右にこじんまりした堂宇が見える。清水観音堂という。狭山三十三観音霊場の第十五番札所である。天明8年(1788)の創建と言われる。本尊は行基作の像高約45cmの聖観音菩薩立像である。境内の中にはいくつかの石仏石塔があり、その一つに観音堂の裏を流れる前川に架けた清水本村橋の天保4年(1833)造立の石橋供養塔がある。狭山丘陵1-3.jpg
 更に街道を少し進むと道は大きく左へカーブする。そこに左に入る街路の角地に小さな地蔵堂がある。伝兵衛地蔵という。伝兵衛という人が神隠しにあった分家の子供が帰ってくるように造立したという。子供は無事見つかったことから霊験あらたかな地蔵として信仰を集めたという。
 続いて沿道右に豆腐屋があり、その左横の路地を北へ入る。街道裏の静かな集落の道を道なりに進むと、程なく丁字路帯の北西角地にこじんまりした狭山神社がある。いつ創建されたかは詳らかでない。元は天宮大明神と呼ばれていたといい、大正時代狭山丘陵1-4.jpgには今の貯水池内にあった御霊神社もここに移され合祀されたという。特に特徴もない平凡な神社である。筋向いの南西角地には狭山公民館がある。公民館を右に見て丁字路帯の南の道を採ると再び丁字路でぶつかる。そこを左へ時計回りに回り込むと右手に円乗院という綺麗な寺の前に来る。鐘楼門を構えた実に立派な寺である。真言宗智山派の寺で正式には愛宕山医王寺円乗院東円坊と称す。本尊の不動明王狭山丘陵1-5.jpgほか薬師如来、如意輪観音が祀られている。明治17年の火災で庫裡、本堂を焼失し古記録が失われ創建当時の事情は定かでないが、寺院の歴代塔には平治元年(1159)寂の賢誉法印を始祖とするとの記録があり、また鎌倉時代の板碑が残っていることから、かなり古い寺と考えられている。鐘楼門は寛延2年(1749)に建てられたという。多摩四国八十八ヶ所霊場や武蔵野三十三観音霊場の札所にもなっている。境内には仏足石もある。
 円乗院を後にし南へ下って再び元の志木街道に復帰する。続狭山丘陵1-6.jpgけて街道を西へ進み次に高木神社を目指す。コンビニを右にやり過ごし尾崎商店を過ぎた辺りで左手斜めに入る路地を採って迷路のような集落の中の小道を縫って向かう。程なく火の見櫓の建つ児童公園の前に出る。公園の北側に高木神社の社務所があり西向こうの小階段を上がればそこが高木神社の境内で、高木神社と塩釜神社が並んで建っている。境内には祭礼に奉納されたという「高木の獅子舞」の碑が立っている。神社の創建年代は詳らかでないが、本堂は宝暦12年(1762)に建てられたという。祭神は高皇産霊神。元は尉殿権現と呼ばれ、明楽寺という寺が別当であったが、明治の神仏分離令で寺は廃れ、高木神社と呼ばれるようになったという。ちなみに明楽寺は社務所の辺りにあったといい、先の円乗院の住職の隠居寺であったという。また同境内に建つ塩釜神社は江戸時代に尾崎金左衛門という人が塩釜市の本社から持ち帰ったお札を屋敷に祀っていたものを、明治10年にこの地に移したという。安産の神様である。
 ところでこの高木神社に隣接する公園はかつての高木村五ヶ村連合戸長役場跡という。明治17年、町村制度改正により高木・清水・狭山・奈良橋・蔵敷・芋窪の6ヶ村が作った連合組織で現在の東大和市の原型となった。当時の役場の名残としては書類庫として使われた土蔵が社務所の左隣に残されている。
 ついでながら公園手前の丘のある角地に小さな地蔵堂がある。松っこごれ地蔵という。松っこごれとは松ぼっく狭山丘陵1-7.jpgりのことだ。いぼ取りに御利益のある地蔵といい、願いがかなうと松ぼっくりを奉納したことからこの名がある。元は志木街道沿いにあったが道路整備で移設されたという。また松っこごれ地蔵のすぐ前には大日如来と6地蔵の石仏が、何故か青天井のまま雑草に埋もれる様に立っている。廃寺となった明楽寺のものと思われる。土地の人の話ではこの小丘には明楽寺の墓地があったという。(つづく)




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論語 №119 [心の小径]

三七一  子、磬(けい)を衛(えい)に撃(う)つ。簣(き)を荷(にな)いて孔氏の門を過ぐる者あり。いわく、心あるかな磬を撃つやと。既にしていわく、鄙(いや)しきかなコウコウ乎(こ)たり。己を知ることなくんばこれやまんのみ。深ければすなわち厲(れい)し、浅ければすなわち掲すと。子のたまわく、果なるかな。これ難さことなし。

           法学者  穂積重遠

 「磬」は矩形(かねがた)の石をつるした打楽器。朝鮮李王家の楽部で、「編磬」とて一オクターブをなす十二律の磬を連ねけた珍しい楽器を見たことがある。「編鐘」というのもあった。「深きときは厲し、浅きときは掲す。」は『詩経』の句。水が深ければ下ばきをぬぎ、水が浅ければ裾をまくる。臨機応変に行動するの意。

 孔子様が衝に滞在中、つれづれなるままに磬を打って楽しんでおられた。すると旅宿の門前をモツコをかついで通りかかった賎の男(しずのお)が それを聞きつけ、「ハテ心ありげな磬の打ちようかな。」としばらく耳を傾けていたが、「どうもコチコチしたいやしい音色じゃ。天下国家を忘れ得ずして知られず用いられざるをなげく気持があらわれているが、知られず用いられなければやめるだけの話じゃないか。『深ければ厲し、浅ければ掲す。』という詩があるが、この人は背も立たぬ深い川を着物をきたまま渡ろうとするわい。」こう言いすてて行ってしまった。門人がそれを聞いて、ただいまこうこう申して通り過ぎた者がござりました、と申し上げたところ、孔子様が歎息しておっしゃるよう、「さても思い切りのよいことかな。そう思い切れるくらいならば、何もむつかしいことはない。」

 実にいい文章で、一場の好寸劇だ。古証にいわく、「聖人の心は天地に同じ。天下を視ること猶(なお)一家の如く、中国猶一人の如し、一日も忘るること能わざるなり。故に責を荷う者の言を聞いて、その世を忘るるの果なるを歎じ、且(かつ)人の出所、もしただかくの如くんばすなわち難き所なきを言えるなり。」

三七二 子張いわく、書に云う、高宗諒陰(りょうあん)三年言わずとは、何の謂(いい)ぞや。子のたまわく、何ぞ必ずしも高宗のみならん、古の人皆然り。君コウずれば、百官己を総(す)べて、以て冢宰(ちょうさい)に聴くこと三年なり。

 「書」は『書経』の周書無逸篇。「高宗」は殷の中興の王武丁(ぶてい)。「諒陰」は諒闇、人君(じんくん)が喪にあること。「冢宰」は太宰(たいさい)、すなわち総理大臣。

 子張が、「『書経』に『高宗諒陰三年言わず』とありますが、どういうわけでありますか。三年の喪中であっでも、君が全然命令を出さなかったら、国政が動かないではござりますまいか。」とおたずねした。孔子様がおっしゃるよう、「必ずしも高宗のみであろうか。昔の人は皆そうであった。君主がコウ去(こうきょ)になると、百官が各自の職務を引き綿めて首相の指揮に地うこと三年であったから、その間君主が喪にあって『三年言わ
ず』でも、囲政には差支えなかったのじゃ。」

三七五 子のたまわく、上礼を好めば、すなわち民使い易し。

 孔子様がおっしゃるよう、「上に立つ為政者が礼を好んで民に臨めば、人民もその風に化せられて礼を好むに至り、上下の分が定まって、統治しやすくなるものぞ。」

『新訳論語』 講談社学術文庫


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批判的に読み解く歎異抄 №27 [心の小径]

『異議編の批判的読解~歎異抄の著者唯円の立場』を掲載するにあたり、「全体の構成」中の註・資料を省略しましたが、「おわりに」に入る前に改めて註、資料の部分を付記して紹介します。
 
歎異抄の構成
         立川市光西寺住職  寿台順誠

2、「師訓篇」及び「異義篇」の構成と両者の関係

次に「師訓篇」と言われる最初の一条から十条までは、どういう並びになっているのか、どういう仕組みでできているのかってことについて、関連する四人の学者、すなわち、香月院探励(4)、妙音院了祥、藤秀曙(5)、早島鏡正(6)の見方を配布資料の5-6頁に記しておきましたので参考にして下さい。
 また、「異義篇」についても、どういう順序で並んでいて、どう分類されるかということについて、四人の学者、すなわち妙音院了祥、妙音院了祥、藤秀曙(7)、梅原真隆(8)、早島鏡正(9)の説を配布資料の6-7頁に並べ、関連する書物を注に載せておきましたので、随時参照でぃてください。

(4)探励は、『欺異抄』全十八ヵ条の大綱は「勧信誠疑」(信を勧め疑を誠めること)であるとするが二条をその「勧信誠疑」を説く総論的な条文とした上で、二条が「勒信」を説く条文二二条を一条の言う「弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず」を表す条文、四条~八条を一条の「念仏にまさるべき善なきゆゑに」を示す条文、九条を「悪をもおそるべからず」を表現する条文、そして十条を「結び」の条文としている(香月院深励「欺異抄講林記上・下」一八一七年『真宗体系』1930年、23巻386-389頁、24巻27頁)。

(5)藤は、「とおおせそうらいき」という言葉が二カ所(三条と十条)あることに着目して、「師訓篇」を大きく二つに分け、まず一条~三条を「唯信」を説く条文、次に四条~九条を「唯称」を説く条文だとしている。また、一条を「誓願章」、二条を「念仏車」、三条を「往生章」と呼んで、これらは信仰の「体」(絶対性)を示し、「我と仏(法)の関係」を明らかにする条文、四条を「慈悲章」、五条を「回向章」、六条を「自然章」と呼び、これらは信仰の「相」(柔軟性)を「我と人との関係」において説く条文、七条を「無碍章」、八条を「非行章」、九条を「歓喜章」と呼び、これらは信仰の「用」(弾力性)を自己そのものの内面生活に即して説く条文であるとして、最後の十条を「無義章」と呼んで前九か条の結びをなすものだとしている(藤秀曜『歎異抄講讃』百草苑、1998年〔八版〕、539-540頁。他に、211貢、268-269百、344-345頁、382百、518-519頁、551頁、845-848頁参照)。

(6)早島は、一条を「他力のすくい」、二条を「ただ念仏して」、三条を「悪人正機」、四条~六条を「真実の愛」、七条~十条を「念仏に生きる人びと」 を表すものだと分類している (早島鏡正『欺異抄を読む』講談社、1992年)。

(7)藤は、「異義篇」各条につき、十一条を「名号」、十二条を「学問」、十五条を「報土」、十七条を「辺地」を主題とする条文として、これらの条文で批判される異義を「誓願派・理論派・哲学派・観念派・高踏派」 の異義と呼び、十三条を「宿業」、十四条を「報謝」、十六条を「廻心」、十八条を「法身」を主題とする条文として、これらで批判される異義を「専修派・実行派・倫理派・功利派・常識派」と呼んでいる(藤前掲書、31-32百、34-36頁、104頁)。

(8)梅原は、「異義篇」を「概念化の異義」(観念的な「智」を固定化し、誓願不思議を信ずる者)と「律法化の異義」(実践的な「行」を功利化・律法化し、名号不思議を信ずる徒) に大別し、十一条(誓名別執の異義)・十二条(学解往生の異義)・十五条(即身成仏の異義)・十七粂(辺地堕獄の異義)が前者に、十三条(怖畏罪悪の異義)・十四条(念仏滅罪の異義)・十六条(自然廻心の異義)・十八条(旛呈分報の異義)を後者に配当している (梅原真隆『欺異抄』宝文館出版、1989年、15123貢。他に、梅原真隆『大蔵経講座 正信侶講義・欺異紗講義』東方書院、1933年、207-217貢‥同『歎異妙の意訳と解説』親鸞聖人研究発行所、1928年〔十七版〕、187-205等参照)。

(9)早島も「異義篇」を「概念派の流れに属するもの」と「律法派の流れに属するもの」に分けて梅原真隆の見解をほぼそのまま踏襲している (早島前掲書)。

名古屋市中川区 真宗大谷派・正雲寺の公開講座より異抄の構成


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国営昭和記念公園の四季 №80 [国営昭和記念公園の四季]

ネモフィラ  ハーブの丘

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『知の木々舎』第288号・目次(2021年4月下期編成分) [もくじ]

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【文芸美術の森】

妖精の系譜 №1                   妖精美術館館長  井村君江
 中世の古文献にひそむ妖精 1
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-04-14-7

じゃがいもころんだⅡ №40             エッセイスト  中村一枝
 米寿の思い
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-04-14-4

渾斎随筆 №79                         歌人  会津八一
 相馬黒光といふ人 
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-04-14-5

石井鶴三の世界 №185                 画家・彫刻家  石井鶴三
 石山寺2点 1963年 
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-04-14-6

過激な隠遁~高島野十郎評伝 №49      早稲田大学名誉教授  川崎 浹
  第七章 「小説なれゆくはて」 13
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-04-14-3

西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」№56 美術史研究家 斎藤陽一
 歌川広重≪東海道五十三次≫ 「沼津黄昏図」
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-04-14-2

往きは良い良い、帰りは……物語 №93  俳句・こふみ会同人  多比羅 孝
   コロナ禍による在宅句会 その8
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-03-30-3

【ことだま五七五】

日めくり汀女俳句 №80                 中村汀女・中村一枝
 八月二十二日~八月二十四日
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-04-14-1

草木塔  №86                         俳人  種田山頭火
 旅心 2
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-04-14

読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №109               川柳家  水野タケシ
 3月31日、4月7日放送分
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-04-13-8

【核無き世界を目指して】

はるかなる呼び声 №12                                  作家  中山士朗
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-03-12-7

【心の小径】                                                 

論語 №118                                                        法学者  穂積重遠
 三六八 公伯寮(こうはくりょう)、子路を季孫に愬(うった)う。・・・
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-04-12-1

批判的に読み解く「歎異抄」№26      立川市・光西寺住職   渡辺順誠
 「歎異抄」の著者(唯円)の立場  歎異抄の批判的読解
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-04-12

【文化としての環境日本学】

日本の原風景を読む  №23                          早稲田大学名誉教授 原 剛
 山 月の山に祈る 月山        
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-04-12-7

【雑木林の四季】

浜田山通信 №285                                     ジャーナリスト  野村勝美
 「生理の貧困」
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-04-13-5

私の中の一期一会 №235              アナウンサー&キャスター    藤田和弘
 松山英樹が〝マスターズを制覇”、日本人でも海外メジャーで勝てることを実践した
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-04-13-6

BS-TBS番組情報 №232                                   BS-TBS広報宣伝部
 2021年4月のおすすめ番組(下)
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-04-13-4

バルタンの呟き №95                   映画監督  飯島敏宏
 「まん防」とは?
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-04-13-3

医史跡を巡る旅 №87               保健衛生監視員  小川 優
 江戸のコレラ~安政五年 浜松そして富士宮
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-04-13-2

海の見る夢 №5                                     渋澤京子
 大切なことはジャズが教えてくれたs                    
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-04-13-1

梟翁夜話 №85                                     翻訳家  島村泰治
『「桜の民」余談』
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-04-13

検証 公団居住60年 №77       国立市富士見台団地自治会長 多和田栄治
 小泉「構造改革」と公団住宅民営化の道 
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-04-12-8

地球千鳥足 №141         グローバル教育者・小川地球村塾塾長  小川彩子
 「生涯精進!(母84歳)」、「直進!(父88歳)」の遺訓、守れているかな?
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-02-13

【ふるさと立川・多摩・武蔵】                                                   

道つづく №9                            鈴木闊郎
 回顧
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-04-12-5

線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №172              岩本啓介
 しなの鉄道    
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-04-12-4

押し花絵の世界 №132                                      押し花作家  山﨑房枝
 「April wedding」
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-04-12-3

ミツバチからのメッセージ №44   造園業・ミツバチ保護活動家   御園 孝
 イタリア 4
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-04-12-2

国営昭和記念公園の四季 №80
  ネモフィラ  ハーブの丘
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-04-15-1

【代表・玲子の雑記帳】               『知の木々舎 』代表  横幕玲子
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2021-04-13-7







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妖精の系譜 №1 [文芸美術の森]

中世の古文献にひそむ妖精

      妖精美術館館長  井村君江

中世に記録された妖精像
 妖精物語や妖精信仰に関して、正面から取り扱おうという意図は持たずとも、年代記や旅行記、病理学などを書いているうちに自ずと妖精に触れている貴重な記録が、古い文献のなかに見出せる。それらはもちろん当時の民間の伝承と関わりを持っているのであるが、書き記している人々が僧侶や軍人、医師などの知識人であることは、十二、三世紀頃には妖精についての話がかなり広い階級層に行きわたっていたことを示すものであろう。もちろん記述者が妖精の存在をすべて信じているわけではなく、ある者は不思議な話を聞いたという間接的な記述の仕方で自分の責任は逃れながらも興味を示しており、また学者は、妖精の話は迷信であるとして斥けたり、批判的ではあるが、例として掲げていくのである。
 しかしこれらの妖精の記述が、今となっては貴重な中世時代の妖精像の記録になっているわけである。
   こうした古い文献のうちでもっとも重要であり、興味深いと思われるものを、古いものでは十二世紀のジラルダス・キャンプレンシスが記録している挿話から、新しいものでは十七世紀のロバート・カークの華作まで八つ選び、そこに記述されている妖精像を見てみよう。なお、中世年代記のうち、アーサー王を中心に魔法使いマーリンや湖の貴婦人、モルガン・ル・フエなどを記しているウォルター・マップの友人であったモンマスのジェフリーの『ブリテン列王伝』は、「アーサー王伝説のフエ」の項で触れることになろう。
 またバラッドやロマンスに現われてくる妖精たちも、独立させて扱いたいので、ここでは主な古文献を辿りながら、中世からエリザベス朝時代、十七世紀、ピューリタンの時代までの妖精像の変遷の特色を見ていくことにする。

扉イラスト.jpg

主な古文献
(1)ジラルダス・キャンプレンシスGiraldus Cambrensis(de Barri)(一一四六~一二二〇?)『ウェールズ旅行記』(Ltirerarium Cambriae 一一八〇)
(2)ニューバラのウィリアムWilliamof Newburgh(Newbridge)(一一三六~九八?)、コギシァルのラルフRalph of Coggeshall(十二、三世紀頃)『中世年代記』(The Medieval Chronicles)
(3)ティルベリーのジャーヴァスGervase of Tilbury (一一五五~一二三五?)『皇帝に捧げる閖話集』(Otia Imperialia 一二一一)
(4)ウォルター・マップWalter Map(-一二七~一二〇九)『宮廷人愚行録』(De Nugis Curialium  一一八二~九二?)
(5)レジナルド・スコットReginald Scot(一五三五?~九九)『魔術の正体』(The Discoverie of Witchcraft  一五八四)
(6)ジェイムズ一世King James I(一五六六~一六二五)「悪魔学」(Daemonjogie 一五九七)
(7)ロバート・バートンRobert Barton(一五七七~一六四〇)『憂鬱病の解剖』(The Anatomy  of Melancholy  一六二一)
(8)ロバート・カークRobert Kirk(一六四四-九二?)『エルフ、フォーン、妖精の知られざる国』(The Story of Commonwelth of Elves, Fauns and Fairies  一六九一)

『妖精の系譜』新書館


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石井鶴三の世界 №185 [文芸美術の森]

石山寺2点 1963年

   画家・彫刻家  石井鶴三

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石山寺 1963年 (200×144)
1693石山寺.jpg
石山寺 1963年 (200×144)

**************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社

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渾斎随筆 №79 [ことだま五七五]

相馬黒光といふ人

          歌人  会津八一

 中村屋の老夫婦といふものは、二人とも揃って、今の世の中には珍しいやうな、すぐれた人だった。旦那さんの愛蔵君の方は、知的に物を考へぬいて、科學的な見きはめをつけて、理ぜめにものをして行く人だった。しかるに黒光の方は、感情的で、いつも何かの観念を持ってゐた人。それがよく調和して今日の中村屋を築き上げてゐた。
 その愛蔵君は昨年物故し今また黒光が亡くなったが、黒光の一生は、その無鉄砲を許した偉大なる亭主のお陰で、幸福だつたと思ふ。よく世間でロシアの革命家エロシュンコを助けてやるために、自分の家を守ってゐたといふけれども、それはもちろん、愛蔵君の強い意思で時の警視廰と闘ったのだが、内部的には黒光が原動力であったのだ。その次には、印度の獨立運動を助けるため、運動の志士故ビバリ・ボースの日本亡命中あらゆる援助を惜しまなかったし、金だけでなく、自分の娘までボースに与えて興えて励ましてゐる。印度の獨立といふことは、支配者である英國にむかつて謀反させることなんだから、時の政府の顔色も良くない。それを實に烈しい感情と深い信念で押しとほしたのだ。
 もともと中村屋の若主人を中学で教へてゐた時、うんと叱って落第させたことがある。すると愛蔵君と黒光が夫婦して訪ねて来て禮をいった。いさざよく落第させて、それを非常な徳としてゐるのであった。現在、若主人は立派な人で私を親のやうに尊敬してくれるが、その両親のやうな態度は、ワイロ入学の横行する現在諸人の大いに範としてよいことだらう。それ以来、戦災で焼け出されて新潟へ引移った現在も、親交を続けてゐる。最後に會ったのは昨年十二月上京した時だが、老い果てたそのころでも、黒光は私にあふと、一時間でも二時間でも議論をし、いろいろなことを問うては議論して喜んでゐた。とにかく義侠的な人だし権威に負けず、思つたとほりにやりとげる人だつた。文章もうまかつた。
 昨年中國の李徳全がきた時、一個人が面會するプログラムはなかつたが、やかましく面會を申入れてそれを實現してゐる。黒光は李徳全のことを責任感を持つた大きい人物だと賞めてゐたが、これは新潟の人にはちよつとできない藝當だらう。その際、日本の贈物として私の書「泥土放光」の四字が入った皿を贈ったが「どうでせう?」といふから「それはよかつた」と答へたら喜んでゐた。いつか来た印度のパンディット女史にも同様面會してゐる。
 若いころの黒光はコチコチのクリスチャンだった。人間性といふか、人類愛のもととなつてゐるクリスチャニティーに徹してゐたが、晩年は佛数(浄土宗)に帰依して、佛数學者としての私によく質問を出した。毎日お経をあげてゐたし、戒名を私につけてくれと頼んだりした。年をとつてからは、人類愛とはちよつと違った「この國」といふ気特に依存してゐたが、その信念と力強さはちっとも變らなかつた。市川房枝や紳近市子などがよく訪ねてゐたが、時代が達へば代議士にもなった人だらう。晩年老夫婦が住んでゐた調布の自宅の門には、私の書いた「黒光庵」の文字がかかつてゐる。(『新潟日報』昭和三十年三月五日)

『会津八一全集』 中央公論社


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じゃがいもころんだⅡ №40 [文芸美術の森]

米寿の思い

           エッセイスト  中村一枝

 この四月十日で八十八才になった。言ってみれば米寿のおばあさんである。名実共に心身の衰えは予想以上で、犬と暮らしていても段々不安になってくる。愛犬モモは15才。これも人間でいえばとっくに八十才をこえているはずである。なのに、外見は多少毛並みが白っぽくなった外は、ぱっちりした目元とか、愛らしい面差しとか、とても八十才の老人には見えない愛くるしさである。
 コロナとオリンピックにはさまれて八十八才の米寿を迎えるというのも一興趣ではあるまいか。
 私たちの世代は、子どものときは戦争に出逢い、今まさに没しようという時にコロナとオリンピックに出逢っている。ある種華々しき世代でもある。
 戦争中は疎開で地方に行った。 たまたま知人の紹介で静岡県の伊東だった。温泉の町である。東京の山の手とはまるで違う生活と環境、稲とか田んぼとか、川とか、温泉とか、みんな初めてみるものばかりだった。体の丈夫なほうではなかった私を案じて、父と母が探してくれたようなものだ。
 戦争とはいえ、私はそこでまた新しい環境に出逢った。幸運といえば幸運な巡り合わせである。
 疎開先の大家さん(私たち一家はその小さな隠居所を借りたのだ)は、深川でたたきあげの職工さんから一代で大きなガラス工場をつくりあげた実直なご主人と、対照的に、言いたいことをすぱすぱ言うやりての奥さん。どちらもドラマの中の人物のように個性的だった。それに、私にとって幸いだったのは、私より一年上と一年下の男の子がいたことである。
 「これ、オルガンずら。」
 引っ越した次の日、、二人は廊下に置いた小さなオルガンに早速興味を示した。その二人と毎夜、温泉に誘われて、まるで旅館のような大きな湯舟で、毎夜あそぶことになった。千坪以上ありそうな庭には様々な果樹が植えられ、私はそれだけでも東京よりも豪華な生活だと思った。とにかく庭といえば、飛び石が二つ三つ転がっている小さな庭しか知らなかったのだから。
 アメリカのB29は毎日、伊豆半島を北上して東京を目指す。夜は灯火管制、黒い布で覆われた電灯の下でぼそぼそのご飯を食べた。それがある日、終戦。今思うと、私たちは幸運にも生き延びて、敗けたのは悔しかったにせよ、命をまっとうできたのである。
 それがあっという間に人生の終焉にさしかかってきた。足はよれよれ、頭もぽろぽろ、いかれているけれど、ここまで生きてきたら、そう遠くないうちに、人生の終わりを見届けることになるのだろう。ほんとうは跳ね回りたくて走り出したくてうずうずしているのに、足も頭も思うようには動かない。そんな動かない足や頭をもてあましながらも、生きているってやっぱりいい、と、心のどこかで思っている毎日なのだ。



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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №49 [文芸美術の森]

第七章 「小説なれゆくはて」 13
 
      早稲田大学名誉教授  川崎 浹

「命のキケンさえ感じる」 2

 九月六日
 今日は廻りには労務者達来ない。

 九月七日
 老人年金受けに市役所に出かける。

 九月八日
 廻りは静かになった。一体埋めたり掘ったりくり返し何をやっているのか分からない。以前コブタの番頭が言っていたが、こんな水の湧く地で全くもてあましていると言っていたからだろう。ここは排水がむずかしい土地だ。

 九月十日
 『小説なりゆくなれのはて』の原稿が裁判所で必要かも知れないので川崎君の処に取りに行く事。池袋に出て電話したら大学の方に居るとの事。原稿も持って行っているとのことで早稲田大学に行って見る。広くて又何か騒ぎてやっていて居処が分からなくあっちこっちに行ってやっとさがし出して会って話している内に毎日工事場の中でツルシアゲをくっているようなもの、いささか頭に来ていたのか、どうやら学園らしいフンイキで落ち着いてゆっくりしすぎた。彼の授業の時間を少し後らせて悪かった。バスで新宿に出て田場川に確証、明日増尾に来る処らしいが明日私の方から行くと約束、明るい内に帰らねばと帰って来る。

 九月十一日
 朝、伊藤氏来る。昨日大崎夫人心配して来てみたが不在だから仕方なく帰ると言ってマリ夫人からの見舞物と一緒に預かった物を届けてくれた。裏の土山を越えて来ている。暫く話していて少しおそくなったが、昼頃出て田場川に行く、弁護士の話、裁判所に行って調べた処、コブタが高島の委任状を作って東急に家と敷地の住居権とを高価な金額で売り渡し、高島の代金受取書も東急に渡している由、道理で東急わがもの顔に工作侵略を始めたのだ。ひどい事をやったものだ。書類も高島の字らしく書き三文判を捺しているらしい。だからあれ程強引にやらねばならなくなったのだろう。馬鹿な奴だ。小夫田(こぶた)と田村の仕事だ。それで弁護士その偽りと工事の不当をなじる。抗議書の内容証明を社長後藤登宛てに出してそれに対する向こうの言い分が来るはずなのだから待っていたが、来ないでいる処だとの事。驚いた事だ。『なれのはて』を渡す。日記風だからいいそうだが、とにかく初めからの全部でこれを読めば凡て明白になる。弁護士さん読んで見る事。或いは裁判所にも見せることになるかも知れぬ事。・・どうやら生命のキケンが感じられ出す。コブタ連が自分達のやった事が正当となすためには偽筆偽印を見分ける高島を消すより外にないだろう。高島を消さなければならない。特に高島の住所の辺は消すに最適の処だ、これは洲の岬の新築に住まっても同様だ。どうやらあの土地はだれの名になっているか分からない。そして高島が死ねば万事好都合に土地も家も画も全部自分のものになす事が出来るだろう。だから高島を消せという事になる。あの新築に行かないでよかった。消されに行くようなものだった。
 とにかく明るい内に帰らなくてはと帰ってくる。六時に増尾について市道から帰る。森の横を通って坂を上がった処右側の森が切られた処に道に斜めに黒い自動車が止まっている。運転席に男がしゃがんで何かしている。故障でも直しているかと思ったがそうでもないらしい。あやしげの車と人、横を黙って通って行くのに向こうから大型の運搬車がつづいて二台やって来た。左の森に足を入れてよける。この辺で自動車におしつぶされたらそのままだれがやったか分からないですむだろう。とにかくやっと家に帰りついた。今月の運勢には夜間外出は止めよとある。全く家、屋敷の段ではない。生命の危険が感じ始めらる。

顛末
「西本年譜」によればこの事件は次のような形で一件落着した。
「十月二十九日、松戸簡易裁判所において、家屋を四〇〇万円で売り、西岬村に移転することで業者と和解。しかし西岬村のアトリエには結局入居することはなかった。十二月、練馬区高松二丁目四二に仮住まいする」。
 私は『小説なりゆくなれのはて』の九月十日までたどりついたとき、しばし呆然とした。殆ど忘れていたからである。自分の日誌をとりだし一覧すると「大学に高島氏来訪」とだけメモされている。私はこの一行から高島さんが来訪した一日を想いだそうと試みる。前にも高島さんは大学にきたことがある。その頃は非常勤教員の休憩室だったにちがいない。こんど高島さんが研究室に来たというのなら、そうなのだろう。どんな身ぶりで何を言ったかさえほうふつと甦るような気がする。
 『小説なりゆくなれのはて』の最後の頁は画家が大学の私の研究室を訪れた日の翌日の記述で終わっている。「小説」なので多少の誇張もあるだろうが、出だしの不安と同じ気配で幕を閉じる。
 他方で『小説』は資料を後世のために残しておきたいという画家の義憤のようなものから生じたのだろう。同時に自分の体験に我ながら興味をおぼえる自分がいて、それが画家に私のような読者を想定させながら『小説』を書かせた。しかし、これはかれが遁世の徒でありながら、いやそうであったからこそ、立ちふさがる六〇年代の風車ならぬ恐竜と闘わざるをえなかった、そのことにより逆に環境破壊というやがて襲いくる歴史の未来を予見する重要な一駒となっている。
 その生き方は、古い写実様式に属するとされる野十郎の絵が、「近代」はすでに効力を失ったと声高くいわれる現代において、妙に現代的な役割を帯びて前方にあるようにすら見えてくるパターンと似通?ていないだろうか。

『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社



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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №56 [文芸美術の森]

                    歌川広重≪東海道五十三次≫シリーズ

        美術ジャーナリスト  斎藤陽一

                         第7回 「沼津黄昏図」

56-1.jpg

≪一転して夜の情景に≫

 前回の「三島朝霧」図では、“早朝の朝霧”の中、旅立つ人たちの姿が描かれていましたが、今回の「沼津黄昏図」では一転して“夜の情景”になります。
 広重は、このシリーズの全体構想の中で、「連続性」とともに「逆転性」ということも試みている、ということを先に申し上げましたが、その中には、前の絵と次の絵とに朝・昼・夜の変化をつける、ということもやっています。

 広重の夜景図も、しみじみとした情趣があり、なかなかいい。

 この絵は「黄昏図:たそがれず」と題されてはいますが、既に日は沈み、空には満月が浮かんでいます。そんな夜のとばりが降り始めた頃、三人の旅人がとぼとぼと歩んでいきます。朝早くに前夜の宿を出発して、こんな時間まで歩き続けてきたのです。

≪夜の旅情と安息のイメージ≫

56-2.jpg 天狗の面を背負っている白装束の旅人は讃岐の金毘羅参りに向かう男。天狗の面は、金毘羅大権現に奉納するものです。
 この男は、町内の他の信者たちからお賽銭や米などの奉納物を預かり、皆を代表して金毘羅さんに参詣する役目です。
 その前を行く女と少女の二人連れは、「勧進比丘尼:かんじんびくに」でしょう。
 女が手にしている柄杓(ひしゃく)は、勧進の銭を受け取るための「勧進柄杓」(かんじんびしゃく)です。
 少女は、女の弟子かも知れないし、あるいは娘かも知れません。「勧進比丘尼」は、尼の姿で諸国を巡り歩き、その道中で歌を歌ったり、経文を唱えたりして勧進をおこなう者のことで、この二人連れも、何か事情があって、このような姿でさすらいながら生きているのでしょう。
 男も、女二人連れも、みな“うしろ姿”で描かれ、顔は見えません。それによって、黙々と疲れた足を運び、暗い夜道をたどるときの哀切感を表現しています。

 旅人たちが顔を見せない中、赤い天狗の面だけがこちらをにらんでいます。これは、暗い夜道で突然天狗に出くわしたかのような、ぎょっとする感覚を見るものに与えますね。広重が意図的にやった演出でしょう。
 「黄昏:たそがれ」の語源をたどると、夕方うす暗くなり「誰(た)そ、彼は」と人の顔の見分け難くなった時分を言います。その暗がりの中で、天狗がこちらをにらんでいるのです。そう言えば、「黄昏どき」はまた、なぜか禍(わざわい)が起こりそうな気分にさせるところから、古人は「大禍時:おおまがとき」などとも言いました。これが転じて「逢魔が時:おうまがとき」とも言ったりしました。「魔物が出てきそうな時刻」ということで、おそらく広重はそのことを意識して、薄暗がりの中、「天狗」の面をこちら向きに大きく描いたのでしょう。

 旅人たちがたどる夜道の彼方には、月の光に照らされて、宿場の家並みが浮かび上がっています。三人には、もう町が見えている。「あそこに辿りつけば、安息が待っている。あと一息だ。頑張ろう」と心の中でつぶやいていることでしょう。月光に浮かぶ宿場の家並みには、ホッとするような安息のイメージが託されています。

 この絵は、そのような夜の旅情を描いて見事であり、「広重の風景画には抒情性がある」と言われるのも、こんなところなのです。
 前回の「三島朝霧」図に引き続いて、今回も一句を引用して締めくくりたいと思います。広重が敬愛していたと言われる芭蕉の句です。

    くたびれて宿借るころや藤の花    松尾芭蕉

 次回は、「沼津黄昏図」(第13図)に続く「原・朝之富士」(第14図)を紹介します。

                                                                 





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日めくり汀女俳句 №80 [ことだま五七五]

八月二十二日~八月二十四日

    俳句  中村汀女・文  中村一枝

八月二十二日
稲妻のゆたかなる夜も寝べきころ
           『春雪』 稲妻=秋

 昭和二十二、三年頃の話だろうか。汀女と、作家大谷藤子が、下北沢の路上でつかみかからんばかりの喧嘩をしていたというのを読んだことがある。富本一枝をめぐっての女の戦いという風に書かれていた。汀女が女の人、それも綺麗な人、才能のある人を好きだったことは間違いない。大腸がんの手術を執刀した女医さん宛ての手紙など、感謝と綿々たる愛情があふれていた。だからといって同性愛の傾向があったとは言い切れない。汀女のそれはいかにも熊本的、直情径行、おどろおどろしさがまったくない。

八月二十三日
休暇はや白朝顔に雨斜め
         『春雪』 朝顔=秋

 今年の夏はまさに猛暑だった。今日二十三日は処暑、そうこうしているうちに暑さもしのぎやすくなるということか。
 八ヶ岳と東京との間を時折往復した。新宿駅に降り立った瞬間、暑いよりも何ともいえない空気のよどみが鼻をついた。私はいつもこんな空気を吸っていたのか。
 熊本の夏は暑いというが、空気は清澄。暑さの質が違うだろう。空気と水。人間が生きるのに、一番必要なのに一番なおざりにされている。都会の人間の肺は真っ黒だろうというのは実感である。そこに生きている人の多いこと。

八月二十四日
来し方に人現はれぬ丘の秋
          『汀女句集』 秋=秋

 二十日を過ぎると、別荘地は急に閑散とし てくる。子供の自転車が軒下に放り出され、虫とりの龍が転がっていて夏の日は、はや過ぎたことを思わせる。私はこの土地が好きで半分永住したいくらいで家を持ったが、大方の人は夏の一時の避難場所としてやってくる。
 広壮な大きい家を建てた人ほど建てた年はにぎにぎしく車があふれ、人のさざめきも聞こえるが、二年、三年たつうちに、ほとんどこなくなる。
 セカンドハウスブームという。上っ面の風に乗って家を建てた者はまた、風の如く去る。

[『日めくり汀女俳句』 邑書林

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草木塔 №86 [ことだま五七五]

旅心 2

          俳人  種田山頭火

    行旅病

  霜しろくころりと死んでゐる

    
老ルンペンと共に

  草をしいておべんたう分けて食べて右左

  朝のひかりへ蒔いておいて旅立つ

  ちよいと渡してもらふ早春のさざなみ

  なんとうまさうなものばかりがシヨウヰンドウ


『草木塔」 青空文庫


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