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『知の木々舎』第371号・目次(2024年10月下編成分) [もくじ]

現在の最新版の記事を収録しています。ご覧になりたい記事の見出しの下のURLをクリックするとジャンプできます。

【文芸美術の森】

石井鶴三の世界 №266                画家・彫刻家  石井鶴三
  少女とスプーン 1918年/和装と日本髪の人 1928年
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-10-14-15

西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」№138 美術史研究家 斎藤陽一
 江戸・洋風画の先駆者たち 亜欧堂田善 1 
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-10-14-14

浅草風土記 №36                作家・俳人  久保田万太郎
 浅草の喰べもの 2
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-10-14-13

山羊の歌 №2                       詩人  中原中也
  月
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-10-14-12

【ことだま五七五】

こふみ句会へGO七GO №135                 俳句 こふみ会     
 「秋涼」「秋の田」「秋蝶」「苦瓜」
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-09-29-14

読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №193               川柳家  水野タケシ
 9月18日、25日放送分
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-10-14-11

【雑木林の四季】

BS-TBS番組情報 №314                           BS-TBSマーケテイングPR部
 2024年10月のおすすめ番組(下)
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-10-14-9

海の見る夢 №87                                   渋澤京子
  ストレイ・シープ
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-10-14-8

住宅団地 記憶と再生 №45   国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治
 武蔵野緑町団地 4 
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-10-14-7

地球千鳥足Ⅱ №55            小川地球村塾村長  小川律昭
 70歳生きたということ
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-10-14-6

美味懐古 №2                        加茂史也
 いそむら 
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-10-14-5

【ふるさと立川・多摩・武蔵】                                                   

線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №234      岩本啓介
 秋の日高本線 発電所バック
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-10-14-3

夕焼け小焼け 46                          鈴木茂夫
 プラークの栗並木の下で 1     
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-10-14-4

押し花絵の世界 №212                                     押し花作家  山﨑房枝
 「60本の薔薇の花束」
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-10-14-2

赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №68      銅板僧形作家  赤川政由
 行田の童 原画 12
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-10-14-1

多摩のむかし道と伝説の旅 №134                                           原田環爾
   二ケ領用水水辺の道を行く 7
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-10-14

国営昭和記念公園の四季 №161
 シュウメイギク  こもれびの里
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-10-14-17

【代表・玲子の雑記 帳】               『知の木々舎 』代表  横幕玲子
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-10-14-10


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石井鶴三の世界 №266 [文芸美術の森]

少女とスプーン 1918年/和装と日本髪の人 1928年

          画家・彫刻家  石井鶴三

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少女とスプーン 1918年 (183×134)
1928和服と日本髪の人.jpg
和装と日本髪の人 1928年 (183×131)

**************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社

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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №138 [文芸美術の森]

            シリーズ:江戸・洋風画の先駆者たち
            ~司馬江漢と亜欧堂田善~
                 第7回
             美術ジャーナリスト 斎藤陽一
       「亜欧堂(あおうどう)田(でん)善(ぜん)」 その1

 前回までは、6回にわたって、鎖国体制下の江戸時代において、「洋風画」の先駆をなした二人の画家のうち、司馬江漢(しばこうかん)の画業を紹介しましたが、今回からは、もう一人の画家・亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)について、その画業を紹介していきます。

≪司馬江漢と亜欧堂田善≫
 「司馬江漢」の冒頭でも触れましたが、もう一度、下図の年表を見て、二人の登場した時期を確認しておきます。

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 江戸時代中期に生れた司馬江漢と亜欧堂田善はほとんど同世代ですが、江戸生れ江戸育ちの司馬江漢は、天明3年(1747年)37歳の時に、日本最初の「腐蝕銅版画」(エッチング)の制作に成功していました。

 一方、東北の須賀川で生育した亜欧堂田善は、51歳頃に江戸に出て「銅版画」技術の習得を始めました。遅いスタートでしたが、「銅版画」の技術をより高度なものにしたのは亜欧堂田善でした。
 
≪亜欧堂田善、江戸に出て銅版画の研究≫

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 亜欧堂田善は、現在の福島県須賀川市に染物屋の次男として生まれました。当時、須賀川は、松平定信を藩主とする奥州・白河藩の領地でした。
 亜欧堂田善の本名は永田善吉。「田善」という号はこの本名に由来する。「亜欧堂」とは、のちに藩主・松平定信に銅版画を見せたところ、「亜細亜と欧州を眼前に見るようだ!」と褒められたことに由来すると言われています。

 幼い頃から絵を描くことが好きだった善吉は、染物の仕事のかたわら、絵を描くことに熱中しました。
 転機は、寛政6年(1794年)、善吉47歳の時に訪れる。白河藩主・松平定信に画才を認められ、仕えることになった。
 やがて永田善吉(亜欧堂田善)は、松平定信の命により、江戸に出て「銅版画」の研究にいそしむことになる。何と、田善51歳という遅い出発でした。
 しかし田善は、研鑽と工夫を重ね、司馬江漢が開発した「銅版画」の技術をさらに向上させ、より精緻で高度なものにしたのです。

≪亜欧堂田善、最初期の銅版画≫

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 これは、田善の最も初期の「銅版画」。寛政年間後期、田善50歳頃の小さな作品です。
 農夫や牛などが描かれていますが、西洋風で牧歌的な絵です。
 この絵にはお手本があり、田善は、オランダのアムステルダムで出版された『世界四大洲地図帳』の中のオランダ地図にある装飾部分を翻案して描いています。(下図参照)
 このオランダわたりの地図帳は、当時、松平定信が所蔵していた可能性がある。亜欧堂田善が、藩主・松平定信から「銅版画技術の修得」を命じられた時に「世界地図帳」を示された、と言われていますので、それが、この地図帳だったことが考えられます。

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133-6 のコピー.jpg 田善は、上部に「MASR」なるアルファベットを記していますが、これはオランダ語の「MARS」(沼)の誤記か。地図帳のどこかにあったものをここに持ってきたのかも知れない。

 田善が描いた絵は、構図の不安定さや線刻の粗さなど、技術的には未熟なところがあり、「銅版画」勉強中、初期の作品です。

 もうひとつ、田善初期の「銅版画」を紹介します。
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 この図の下の円形銅版画が亜欧堂田善の制作した「西洋古城図」。
 この絵の下敷きとなったのは、ベルギーで発行された「地誌」の挿絵にあったアントワープ近郊の二つの城館。田善は、このふたつを合成して円形の銅版画に仕立てました。

 これも銅版画技術習得時期の作品であり、単調で重々しい画面ですが、陰影感や立体感をつけるための努力のあとが感じられます。
 この円形銅版画は、鏡の裏面を利用して制作されました。田善はしばしば鏡の裏を用いて銅版画制作に使っています。

 松平定信から「銅版画技術の習得」を命じられた亜欧堂田善は、その後ろ盾によって、オランダ渡りのさまざまな西洋銅版画を見ることができました。

 下図の左は、ドイツで刊行された『諸国馬図』(全32図)の中の「トルコの馬」ですが、田善はこれをお手本に、鏡の裏を利用して右の「曳馬図」を制作しています。
 ドイツの銅版画家リーディング制作の原図では、微細な点描を巧みに用いて、馬の立体感を表現しています。

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 一方、亜欧堂田善の作品では、馬の胴体や人物の衣服に、曲線を幾重にも重ねて「陰影感」をつけるなど、リーディンガーの原画にはない独自の工夫が見られる。かなり技術が向上していることが分かります。

 次回は、一気に技術が向上した時期の亜欧堂田善の銅版画を紹介します。
(次号に続く)


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浅草風土記 №36 [文芸美術の森]

浅草の喰べもの 2

        作家・俳人  久保田万太郎

 伊豆栄は、吾妻橋の際のもとの伊豆熊のあとである。今でも、ときに伊豆熊の名によって呼ばれる。それほど売込んだ伊豆熊という名である。が、これは、格別、いさくさのないごくあたりまえの、入れごみ鰻屋である。
 わたくしの子供の時分、田原町の、いま川崎銀行のある角に、鰻をさきながら焼いている小さな床見世があった。四十がらみの、相撲でもとりそうに肥った主人が、二人の、年ごろの娘たちと、十三四になる悪戯な男の子とを相手に商売をしていた。外に、みるから気の強そうな、坊主頭の、その子供たちにおじいさんと呼ばれている老人がいたが、そのうち、鰻屋をよして、広小路に、夜、天魅羅の屋台を出すようになった。種のいいものを使うのと、阿漕(あこぎ)に高い銭をとるのとで、わずかなうちに仕出し、間もなく、今度は、伝法院横町の、待合のあとに入って店を出した。――それがいまの中清である。
 うまいからいいといえばそれまで、ここのうち、あまりにすべてが無作法すぎる。――座敷の汚さ、器具の悪さ、女中の無精ったらしさ。――いかな晶眉眼を以てしてもわれわれには折合えない。
 天勇は仲兄世の裏にある古いうちである。天魅羅の外に小料理もする、気の張らない、億劫なところのない、広小路の天芳とともにあくまで浅草むき、田舎の人向に出来上っているうちである。広小路いまわり、公園いまわりにある、そういううちの、代表的のものである。
 大黒屋は二三年まえまで蕎麦屋だったうちである。蕎麦屋の時分から天姓羅を以て鳴っていたが、いつの間にか
、店の構えをそのまま、蕎麦屋をよして、天魅羅屋にかわった。
屡々わたしは、その前を通って、只今満員とした客どめの札の掲げられてあるのをみる。
――蓋(けだ)し、蕎麦屋へ入る気易さを以てその暖簾をくぐることが出来るからであろう。
 だが、おそらくはその真似であろう、このごろ、そうした恰好のうちが、活動写真のある近所に二三軒出来た。
 天忠は、公園から離れた、象潟町に存在する毛いろのかわったうちである。向島の其角堂――このごろ老鼠堂になった機一宗匠の好みを帯した、喜加久揚というものをうりものにしている。落語家、吉原の宵闇、及び、その落語家や幇間と友達附合をすることを喜ぶ客たち、そうした手合の間に評判されるうちである。――浅草のある面を物語るものとみ
ることが出来る。
 牛屋については、わたしは残念ながら何事も説く資格がない。――ただ、田圃の平野といううちの、朝がえりの客を相手にするうえからいって、朝、この土地の、どこの、何の食いものやよりも、早く、店をあける重宝さをだけいえばいい。
 みさのは、鮨を大尊にする小料理屋である。芸妓さえ入るうちである。鮨屋の範疇へ入れるのは皮肉かも知れない。
 ほんとうの鮨屋としては、三四年まえ商売をやめた馬道のとある露地の中のみさごずしの贅沢さをしばらくいわないとしたら、すし清、金ずし、吉野ずしの三軒が、蓋し、公園いまわりに数え切れないほどある屋台上りの鮨屋の、握りを大きくすることを信条にしている鮨星のなかの代表的なものであろう。――このうち、清ずしは、以前広小路にあって時めいた初音の職人の経営するところである。みやこずしは、それらのもののことにする
と、いささかそこに横題(よこだい)もののかたちを持っている、嘗ては鯖の押鮨を以て聞えた店だそうである。
 奥の万盛庵は薮系統の蕎麦をくわせるうちである。だが、池の端の万盛庵は、蕎麦屋というよりも、むしろ、蕎麦を看板にした小料理屋である。山吹も、また、蕎麦というよりも、ここは(饂飩を看板にした小料理屋である。
 松邑といっても今のものは三四年まえまであったものの謂ではない。以前の松邑は、公園裏の道路改正とともに商売をやめ、今のは、山谷の菓茶屋の主人が、松邑の名を惜むのあま。、半ば道楽にやっているのである。
 梅園よりも秋茂登のはうが花柳界をもち地元のものを多く客に持っている。ということは、秋茂登よりも梅園のほうが堅気の客が多いということになる。秋茂登の主人はわたしと同じ小学校出身である。
 よか楼は女の綺麗なのがいるので売出したうちである。雑居屋は一品料理屋から仕上げたうち、しかも一品料理屋であった時分の繁昌をいまはみるよしもない。
 共遊軒は公園裏にあって玉突を兼業しているうち。――草津、一直の近所なだけ、遊蕩的な色が濃い。
 浅倉庭の路地の太平洋に至っては、やや異色ある一品料理屋にすぎない。
 これを要するに、この土地は、並木の芳梅事を失って以来、西洋料理屋らしい西洋料理屋をどこにも持っていない。     
 由来、浅草には、われわれの、しずかに、団欒(だんらん)して、食事をたのしむことの出来る場所がない。われわれは不仕合である。                        (大正九年)

『浅草風土記』 中公文庫


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山羊の歌 №2 [文芸美術の森]



         詩人  中原中也

今宵月はいよよ愁(かな)しく、
養父の疑惑に瞳をみはる。    (原文では「みはる」は「目+爭」る)
秒刻(とき)は銀波を砂漠に流し
老男(ろうなん)の耳朶(じだ)は蛍光をともす。

あ~忘られた運河の岸堤
胸に残った戦車の地音
錆(さ)びつく罐(かん)の煙草とりいで
月は嬾(ものう)く喫ってゐる。

それのめぐりを七人の天女は
趾頭(しとう)舞踊しつづけてゐるが、
汚辱に浸る月の心に
なんの慰愛もあたへはしない。
遠(をち)にちらばる星と星よ!
おまへの創手(そうしゅ)を月は待ってる  (原文では「創」は旧漢字)

『中原中也全詩集』 角川ソフィア文庫


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読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №193 [ことだま五七五]

       読む「ラジオ万能川柳」プレミアム☆9月18日、25日放送

          川柳家・コピーライター  水野タケシ 

川柳家・水野タケシがパーソナリティーをつとめる、 
読んで楽しむ・聴いて楽しむ・創って楽しむ。エフエムさがみの「ラジオ万能川柳」、 
9月18日の放送です。
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川柳講座&句会の季節です!!

「ラジオ万能川柳」は、エフエムさがみの朝の顔、竹中通義さん(柳名・あさひろ)が
キャスターをつとめる情報番組「モーニングワイド」で、
毎週水曜日9時5分から放送しています。
エフエムさがみ「ラジオ万能川柳」のホームページは、こちらから!
https://fm839.com/program/p00000281
放送の音源・・・https://youtu.be/Wrvn_H7JULo

先週のボツの中からあさひろさんイチオシの句をご紹介!!
 あさひろさんのボツのツボ
「わたし今何歳だっけとSiriに聞く」(マルコ大名人作)

(皆さんの川柳)※敬称略
※今週はの187投句がありました。ありがとうございます!
・アピールで総裁候補視察する(東孝案)
・まだいるの?夏と姑ここ好きと(柳王・恋するサボテンちゃん)
・ニワトリも夏バテをして卵減り(初投稿・一刀両断)
・無防備なノースリーブがめっちゃ好き(恋愛名人見習い・名もなき天使)
・どっちいい?6℃猛暑日秋口の(名人・パリっ子)
・幸せだ人の幸せ願う時(大柳王・平谷五七五)
・風邪ひいた夏楽しんだ証だね(楠亀えり香)
・近眼の娘(こ)に見つめられ勘違い(名人・遊子)
・政治家に箔がつくのかハーバード(柳王・東海島田宿)
・恋バナが好きで婆ちゃん卒寿超え(大名人・やんちゃん)
・自民党変わりますって表紙がね(柳王・荻笑)
・ 9粒のドングリコロコロどこへいく (シゲサトシ)

☆タケシのヒント! 
「『9粒』、『ドングリの背比べ』、『ドングリコロコロ』と、イメージのふくらむ言葉を多用した「かさね」という短詩系の技法です。ドングリたちは、私たちはどこに連れて行くのでしょうか。」

・面白いのりりんさんの言うマンガ(柳王・はる)
・駅で待つお月をおんぶして帰る(柳王・せきぼー)
・ファンブック自分2句に蛍光ペン(大名人・高橋永喜)
・月を観て跳ねるうさぎも暑いはず(名人・居酒屋たつみ)
・逆ナンパかおるに来てとえり香ちゃん(ナンパも大名人・soji)
・ご時勢で鮭のハラスのメニュー消し(雄之丞)
・この人があの人と知るファンブック(大柳王・里山わらび)
・総裁選国会よりも討論し(柳王・ワイン鍋)
・ラジ川が先祖なんだぞボツのツボ(名人・大和三山)
・これからはスマホは妻とペアルック(柳王・アンリ)
・ご立派な皆さん今まで何してた(大名人・マルコ)
・虫の音が季節外れに思えます(名人・おむすび)
・米不足ご馳走と知る塩むすび(大名人・不美子)
・九人も総理になる気でいる大人(大柳王・入り江わに)
・小田急会なるほど美人ファンブック(大名人・くろぽん)
・世の中の動き速くて目がまわる(ゆかいな仲間)
・効能は夏バテとある「ボツのツボ」(大名人・じゅんじゅん)
・天使さん真似ていい恋したい秋(名人・しゃま)
・この世では君も私も主人公(大柳王・けんけん)
・お相撲サン立派なオッパイ羨まし(名人・のりりん)
・ファンブック次は新聞デビュー待つ(柳王・咲弥アン子)
・実るほどコウベを上げてどうすんの? (大柳王・ユリコ)
・要らないが俺にも胸の谷間ある(全裸名人川柳家・そうそう)
・多機能に使いこなせと叱られる(大柳王・すみれ)

◎今週の一句・ 9粒のドングリコロコロどこへいく(シゲサトシ)
◯二席・恋バナが好きで婆ちゃん卒寿超え(大名人・やんちゃん)
◯三席・まだいるの?夏と姑ここ好きと(柳王・恋するサボテンちゃん)

【お知らせ】
あさって20日(金)は田名公民館で川柳講座を行いますが、
それとは別に相模原で川柳講座を行うことになりました!!
しかも単発ではなくレギュラーの川柳講座です!!
相模原カルチャ-センター駅ビル店で始まる講座名は「やさしい!楽しい!はじめての川柳句会」!!
場所は、JR相模原駅を降りてすぐの駅ビル「イッツ」の5階。雨の日も濡れずにお越しいただけます!!
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さて、初回10月22日(火)の前に無料体験講座があります。
こちらは10月8日(火)の10時半から11時半前。

【編集後記】
「夏の甲子園が終わると一年は早いよ」と若いころに言われたのですが、
この齢になるとその言葉が身にしみますね。
まだ9月半ばというのに、そろそろ年末特番のことなども考え始めたりして。
そのころには、この残暑が懐かしくなっているのかな??(水野タケシ拝)

〇9月25日の放送
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田名の皆さん、お世話になりました!!

放送の音源・・・https://youtu.be/YPiOTDEXaZE

先週のボツの中からあさひろさんイチオシの句をご紹介!!
あさひろさんのボツのツボ
「不自由やめんどくさいがわりと好き」(ぱせりさん作)

(皆さんの川柳)※敬称略
※今週は201の投句がありました。ありがとうございます!
・物価高ハガキ切手も輪をかけて(一刀両断)
・祭日と気づかずバスを待ちぼうけ(とんからりん)
・この色の家具が欲しいと指すキノコ(初投稿・野村齋藤)
・ボツ狙い水曜午後からひと捻り(名人・居酒屋たつみ)
・孝行をさせてしたいよ逝かないで(矢部暁美)
・諦めて寝る前つぶやく「明日やろう」(初投稿・くーりっしゅ)
・骨盤に力を入れて起きる朝(ヴィノクロ)
・気まぐれが許されるのはシェフと猫(なつ)
・孫の日に本気の喧嘩孫とする(初投稿・鈴木則子)
・サプリメント痛い所をついてくる(名人・遊子)
・大谷にびっくりしなくなりました(名人・おむすび)
☆タケシのヒント! 

「おむすびさん、これで秀逸5回目、大名人に昇進です。おめでとうございます。来週の今頃は、本当に60- 60にチャレンジしてるかもしれませんね。」

・ベンツ買う夫は派手なパンツはく(ぱせり)
・セクシーかセクシー以外の2択です(シゲサトシ)
・大谷も俺もフィフティ通過点(柳王・せきぼー)
・夫の耳掃除していた頃もある(柳王・ぼうちゃん)
・初参加胸が高なる美人会(雄之丞)
・甘いなあバラ一本で仲直り(大名人・美ら小雪)
・止まること多くなったねJR (大柳王・平谷妙子)
・大関がやっと勝ち越す千秋楽(柳王・アンリ)
・ホームラン眺める僕もリハビリ中(柳王・恋するサボテンちゃん)
・水曜は60- 60かもしれぬ(柳王・ワイン鍋)
・小さな恋見つけないかとナンパする(ナンパも大名人・soji)
・票もたず9個のガチャを見てるだけ(大柳王・里山わらび)
・みな値上げ値下げしているよな年金(大名人・じゅんじゅん)
・やられた〜「暑さ落ち着きます」の詐欺(名人・大和三山)
・ラジ川に楽しみ増えて田名の人(大柳王・けんけん)
・行きたいなタケシ師匠の基礎講座(名人・しゃま)
・ラインの字打つの遅くてつい電話(ゆかいな仲間)
・ほめられて伸びます私鼻の下(名人・わこりん)
・ふさふさの髪が自慢の母米寿(名人・のりりん)
・火曜朝ラジオ川柳思い出す。(大柳王・入り江わに)
・ポイントの分も一緒に払わされ(離らっくす)
・イタリアの柳友(とも)のブログに私の句(柳王・咲弥アン子)
・お彼岸にパンを供える米不足(大柳王・ユリコ)
・夕立で洗濯全部やり直し(全裸名人川柳家・そうそう)
・頑張っている人に笑む今日の月(大柳王・すみれ)

◎今週の一句大谷にびっくりしなくなりました(名人・おむすび)
◯二席・セクシーかセクシー以外の2択です(シゲサトシ)
◯三席・気まぐれが許されるのはシェフと猫(なつ)

【編集後記】
「暑さ寒さも彼岸まで」とは実によく言ったもので、
長すぎた夏もようやく終わりが見えてきました。
エアコンをつけずに過ごせるようになって、
本当にほっとしています。(水野タケシ拝)
===================================
 水野タケシ(みずの・たけし)
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1965年生まれ。コピーライター、川柳家。東京都出身
著書に「水野タケシ三〇〇選」(毎日新聞東京センター)、
「いちばんやさしい!楽しい!シルバー川柳入門」(河出書房新社)、
「これから始める俳句・川柳いちばんやさしい入門書」(神野紗希さんとの共著、池田書店)。
ブログ「水野タケシの超万能川柳!!」 http://ameblo.jp/takeshi-0719/ 


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雑記帳2014-10-15 [代表・玲子の雑記帳]

2024-10-15
◆CSまちデザインが企画す市民講座「私たちの食と農の未来は私たちがきめる」が面白くて時々参加しています。以前、多摩市の農家、青木さんの農家レストランを紹介しましたね。今回はハチミツです。

立川には専業の養蜂農家が1軒あります。『知の木々舎』にはニホンミツバチの保護活動家、御園孝さんの、世界の養蜂事情を訪ねた記事を連載したこともあります。御園さんはその後、ミツバチの為に埼玉県に広大な農地(山林)を取得しました。
加えて、多摩川の立川辺りの河原にはニセアカシアが群生しているエリアもあって、ハチミツを知る環境はそろっていました。

現在、世界の主要な作物100種類のうち、75%の品種がミツバチを中心としたハナバチに花粉交配を依存していると言われます。ハチの少ない山梨県では、交配は人の手でおこなわれています。今、世界中でミツバチが減っていると言われていますが、本当でしょうか。

ミツバチが減っている原因はいくつかあります。
先ず、天敵であるダニの増加です。ダニはミツバチに寄生し、様々な病気をもたらします。ウイルスに取りつかれた巣は壊滅的な被害をうけるのです。
現在、農家は野菜をまもるために殺虫剤や除草剤を使わざるを得ないのが現状ですが、使い続けることでダニは農薬に対する耐性ができる。ダニを壊滅することはできません。
そして、農薬自体もミツバチの健康を害しています。

2つ目は豊かな自然の減少と栄養不足です。
講師の志村さんが見せてくれたのは広大なカリフォルニアのアーモンド畑でした。この広大な畑があるのにミツバチは栄養不足になるのでしょうか。
改めてきづいたことは、花粉はじつはミツバチにとって主食ではないのです。

農作物の効率的な大量生産には、広大な農地に単一作物を栽培し、農薬や化学肥料が必要です。本来の自然の姿からかけ離れた農地は、生物多様性にとって「緑の砂漠」でしかありません。
こうして、野生動物の住めない土地で、蜜蜂たちは花粉交配に投入され、栄養不足と農薬に苦しむことになります。
ミツバチの飛行距離は10㎞だそうです。ここにアメリカ中から集められたミツバチが交配の為に「死の行進」をさせられると想像するだけでかなしくなりませんか。

アーモンド畑だけではありません。もう一つ見せてもらったのは同じくアメリカのコットン畑でした。面積はアメリカ全土の2.5%を占める広大な畑です。その畑にはなんと、世界の殺虫剤の15,7%が投じられているということです。

3つ目は気候変動です。
今年は夏の高温のため、栗の収穫量が減っているそうです。作物が影響を受ければミツバチも同じです。
統計によると、1990年代から2015年にかけてミツバチの数が減少しました。EUでもアメリカでも同じで、2015年には日本では半分になりました。一方、アジアやアフリカでは増えており、実は、世界全体で見れば、ミツバチの数は一貫して増えているのです。

ではなぜ減っていると言われるのでしょうか。
実は、減っているのは野生のミツバチなのです。そして、養蜂によってミツバチを増やすことはできますが、様々な問題からから減少したハナバチは増やすことはできません。
養蜂でミツバチを増やすことができるからと言って安心していいわけではありません。
飼育されるミツバチは花粉交配にとって欠かすことができない大切な存在です。それ以上に大切なことは、野生のハナバチやそのほかの昆虫たちだと考えられているからです。、

私たちはどうすればいいのか。「私たちにできること」として志村さんのあげた言葉は胸をうちました。全然難しくない。容しい(優しい?)のです。
先ず知ること。ハチミツを通じて見えてくる世界の入口は小さくとも、その背景には壮大な物語があることを。
ミツバチの目線で考えてみること。日々のくらしをミツバチになったつもりで見てみると、今まで気付かなかった発見があり、それがくらしを豊かにしてくれるではありませんか。
そして、やりすぎないこと。庭の草取りを毎日ではなく2日に一回にしてみることです。そうすることで、土の中にいる生物たちが雑草と一所に退治されてしまうのを避けることができるのです。

志村さんの話をきいたあとで、テーブルの4ッのハチミツを試食しました。
かすかな香りの違いが分かる程度で、ハチミツ音痴の私には味はどれもハチミツでした。

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そのあとでの種明かしです。
国産の純粋ハチミツ、国産のハチミツ入りシロップ、アカシアの中国産純粋ハチミツ、 同じく中国産のアカシア20%の純粋ハチミツ。値段は100g700円から50円まで。こんなに差があります。消費者としては、購入の際に表示をみるしかありませんが、中には添加物の表示のないものもある。(これは違法です。)なかなかてごわい。日頃、フェアトレードを唱え、物には適正価格があることを承知していながら、我が家も子育て中は100g700円は高くて手がでませんでした。あまり安いのはハチミツではない別のたべものだと思うのがいいのかもしれません。

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ちなみに国内のはハチミツの消費量は年間45,000トン。そのうち95%は外国産。1kg500円未満が1万トン、加工用によく売れてれているそうです。

学習会の後にいただいた、ハチミツいっぱいのランチです。

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つくね ハチミツ塩のたれ、焼きナスの黒ゴマ酢和え、あげ牛蒡のハニー梅絡め、ひじきの煮物、トマトの茶碗蒸し、スイートポテト(芋は紅優甘)

◆9月末、丹波に秋の味覚をたずねました。今回は観光はほとんどなし、ひたすら食べるだけのツアーです。

丹波といえば、栗とまつたけ。茨城県の笠間、長野県の小布施、岐阜県の恵那など、栗の産地は全国にいくつもあるけれど、丹波の栗は大きさにおいてどこにも負けません。
残念なことに松茸はこの時期まだ丹波産ではなく、岩手産という、漫画チックな旅でしたが、しばらく松茸はいいというくらい堪能しました。たらふく食べると言うのは実はかならずしも幸せなことではなく、もうちょっとくらいがいいのだと、芥川の『芋粥』さながらの旅になりました。

京都駅から1時間も走れば丹波の里。里という言葉がぴったりの山里です。山陰本線の和知駅前にある鮎茶屋で栗三昧のお昼をいただきました。

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店自慢の栗のコロッケ
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季節は過ぎたとはいえ、吸い物に鮎がはいっていた。

夜は松茸づくしの会席。

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皿の左上の器は丹波の古民家を模したものとか
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翌日のお昼は平安神宮そばの園堂で京風の天ぷらです。
何が京風かといえば、さらさらの綿実油でからりとあがった素材の野菜はいずれも京都の産でした。
メニューは鯛のしそ巻、えび、アナゴの定番に、野菜はコーン、甘唐辛子、オクラ、蓮根などなど。

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コーン
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客一推しの稚鮎
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唐辛子
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しめは赤だしにかき揚げ丼


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BS-TBS番組情報 №314 [雑木林の四季]

BS-TBS 2024年10月後半のおすすめ番組

         BS-TBSマーケテイングPR部
   
天狗の台所Season2

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10月22日(火)よる9:00~9:30

☆あの美しき天狗の末裔たちが帰って来る!10月22日(火)スタート!
  14歳の隠遁生活を基(駒木根)と過ごしたオン(越山)は、NYへ帰っても里でのゆったりとした丁寧な暮らしが忘れられずにいた…。
 ある日、NYでの慌ただしく淡白な暮らしに疲れてしまったオンは母・一乃(渡辺)と大喧嘩してしまう。後先考えずに家を飛び出し、基のいる里へと戻って来たオン。基とオンは再会を懐かしみながら、1年前の“あの時”のように2人で料理をするのだった。
 そんな中、オンが一乃に無断でクレジットカードを使って里へとやって来たことが判明。さらにカードも止められてしまう。基はオンに、NYへ帰るためのチケット代を一緒に貯める事を提案。定期的に庵を訪れる有意(塩野)と共に再び3人の生活が動き出すのだった…。

<出演>
駒木根 葵汰 飯綱 基/イヅナ・モトイ
塩野 瑛久 愛宕 有意/アタゴ・ユイ
越山敬達 飯綱 オン/イヅナ・オン
ほか

<スタッフ>
原作 田中 相『天狗の台所』<講談社「月刊アフタヌーン」連載>
脚本 岨手由貴子、山田能龍、天野千尋、熊本浩武、ナラミハル
監督 長島翔、下田彦太、川井隼人、林田浩川、畑中みゆき
プロデューサー 平賀渉(BS-TBS)、五箇公貴 (maroyaka)、向井達矢 (ラインバック)
主題歌 「人人」折坂悠太(ORISAKAYUTA)
音楽 VaVa(SUMMIT, Inc.)
製作 BS-TBS maroyaka
制作 ラインバック

MUSIC X

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10月24日(木)午後9:00~9:54 

☆世代間のギャップを超え、音楽的ジャンルの垣根も越えて多様な音楽カルチャーを発信!

#27 ワタシがハマった 胸キュンアイドル (男性編)
オトナ世代が共感するヒットナンバーをお届けする音楽番組!
世代間のギャップを超え音楽的ジャンルの垣根も越えて様々な音楽がクロスオーバー!
司会:関根勤、早見優
ゲスト:植草克秀、新浜レオン、青山新

走る別荘!車中泊の旅

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10月26日(土)よる7:00~8:54

☆車中泊用にカスタムされた車を相棒に自由気ままな旅へ!

お料理芸人・馬場裕之が秋の北海道へ!
旭川駅をスタートし、大雪山・旭岳の日本一早い紅葉を目指す2泊3日の料理旅。
ジンギスカンやカボチャ、じゃがいも、北海道の新米など北海道ならではの採れたて食材を次々とゲットし、秋を味合うオリジナルレシピを披露!
道中では、美瑛にある人気観光地「白金青い池」や「四季彩の丘」を訪れる他、コンバインダーでの稲刈りや北海道の雄大な景色を一望できるグライダー&モーターバラグライダーを体験。
そして最後は、木々が色づく旭岳の山頂へ!

<出演>
馬場裕之(ロバート)


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海の見る夢 №87 [雑木林の四季]

       海の見る夢
         -ストレイ・シープー
                    澁澤京子

 元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。
 今、女性は月である。他に依って生き、他の光に依って輝く、病人のような青白い月である
                  ~『青踏』平塚らいてう  

私より一回り上の世代の女性には、「佳人」「令嬢」といった表現がぴったりと似合うような女性が時折いた。子供の時のガールスカウトのリーダーにそういった雰囲気を持つ女性がいたし、今だにそうしたエレガントな雰囲気を持っている年上の従妹がいる。その世代には、私の世代にはほとんど見られなくなった「佳人」という表現がぴったりくるような女性が、まだ存在していた。

映画女優が日常からかけ離れたスターであり、ある時代の理想的な女性像を演じていた時代があった。銀幕のスターも理想的女性像もなくなるのと同時に、いつしか女性からオーラが消えた。社会から理想・理念というものが消えるにつれて、社会全体が次第に子供っぽくなり、精神的に成熟した大人の女も少なくなってきたように思う。これはもちろん女性だけの問題ではなく、今は大人というものが存在しにくい時代で、男も女も時代によってつくられるものなのかもしれない。

昔、明治生まれのK先生から、外国の寄宿学校にいた時の同級生に「・・それは上品な美人がたくさんいたんだよ・・」という話を聞いたことがあった。明治生まれのK先生は、イギリスからアメリカに渡り、アメリカで舞踊を教えていた。明治の女性解放運動の中で先端を生きた、自立した女性の一人だったのである。

・・迷える子の中には美彌子のみではない、自分ももとより入っていたのである。~『三四郎』夏目漱石

漱石の小説には、あくまで男性と対等の、率直に物言う都会的な女性が数多く登場する。その中でも、最も生意気で魅力的なのが『三四郎』の美彌子ではないだろうか。漱石は美彌子を、平塚らいてうをモデルにして書いたといわれている。大学の庭を歩いている途中、三四郎が思わず立ち止まって見惚れてしまう美貌の持主が美彌子であるが、平塚らいてうの若い時の写真を見ると,細面に面高、二重瞼のフランス女優のような美人で、まさに「佳人」という表現がぴったりなのである。

明治十九年(1886)、明治政府の高級官僚の娘として生まれたらいてうは、お茶の水師範高等女学校に通っていた時分から級友と組み、学校の「良妻賢母教育」に反発した運動を行っていたというから、かなり早熟で優秀な女の子だったのだろう。のちにエレン・ケイに傾倒し、「母性主義・母性保護」を唱え、やはり良妻賢母教育に反対していた与謝野晶子から女性に対する「母性の押し付けではないか?」と反論されて論争となった。(晶子もエレガントな佳人といった趣がある)らいてうの、国家は子育て中の女性に支援金を出すべきであり、女性は「母性」から社会に対する利他主義に向かうものだという主張に対し、与謝野晶子はそれよりもまず女性の地位と賃金向上と経済的自立が大切なのではないか?と反論し、さらに晶子は子供は国家のものでも母親のものでもなく、子供は子供のものだという個人主義の人権を主張、二人の論争は今読んでも興味深い。この二人の論争には山川菊栄も加わり、(与謝野・平塚)両者とも一面の真実を述べていると断ったうえで、ただしこの問題は資本主義を構造的にとらえない限り解決できないだろうと、さらに平塚が主張する「国家による子育て支援」を実現するためには、富の再分配と経済格差の是正が必要ではないかと述べている。二人の論点を明確にし、鮮やかな社会分析と論理を展開した山川菊栄。私娼・公娼制度を最も厳しく批判したのも、貧しい労働者階級の女性の生活を知っていたのも社会主義者である山川菊栄で、彼女から見ると『青踏』はブルジョワ家庭の子女の集まりでしかなかったが、明晰な山川自身もまた武士階級、中流家庭の出身であり、真の説得力をもって貧困と階級差別について訴えたのは若くして獄死した金子文子だったかもしれない。

また、らいてうが論争したのは与謝野晶子だけではない。女子教育者である嘉悦孝子氏の実利的教育に対してはもっとも過激な批判を行っている。

・・たぶん氏は旧式な考えから勤倹貯蓄というようなことを、人間生活におけるもっとも重要なことであるかのごとくに信じていられるのでありましょう。~『物沸騰貴を感謝する人・嘉悦孝子氏へ』平塚らいてう

日本人の通俗道徳になっている勤倹貯蓄というものを早くから批判していたらいてうは鋭い。らいてうは、ほぼ同世代のケインズの本を読んだことがあったのだろうか?もちろん、貯蓄を否定し華美を礼賛したのでもなく、ケインズの「非自発的失業(働きたくても仕事がない失業状態)」の存在を、らいてうが主張していたとしてもおかしくはない。勤倹貯蓄に励んで地道に生きてさえいれば、人は豊で幸福な生活を送ることができる。貧しいのは本人に問題があるからだ・・といったところに落ち着いてしまう日本人の通俗道徳を批判したらいてう。森鴎外がらいてうの文章を読んで(晶子さんと並べ称する事が出来るかと思うのは平塚明子さんだ・・男の批評家にはあのくらい明快な筆で哲学上のことを書く人が一人もいない~『与謝野晶子さんについて』)と褒めたのも頷ける。勤倹貯蓄は自助努力と同じようにそれが美徳とされれば、特に今の時代の市場原理主義経済で起こる経済的不公平の隠れ蓑としてのモラルになってしまうからだ。

・・「怒るな、働け」というのが氏の日頃からの主義だそうです。しかし今日の我が国の経済組織では健康な男子が終日、否、夜を徹してまで働いてもなお食べていくだけの最低賃金さえ得難いというありさまではありませんか。それでもなお不平を鳴らさずに働けとおっしゃるつもりでしょうか?~『物沸騰貴を感謝する人・嘉悦孝子氏へ』平塚らいてう

これは、今の時代に書かれた文章として読んでも少しもおかしくない。そして、「勤倹貯蓄」という通俗道徳と妄信のために、いまだに生活保護受給者に対するバッシング、難民バッシングといったものが頻繁に起こり、困窮者に対する根本的な無関心というものが日本には蔓延しているんじゃないだろうか?

今から100年前に優れた女性運動家を多く輩出していたのにもかかわらず、女性参政権がやっと認められたのは、敗戦後のGHQによって制定された平和憲法によってだった。

一、 われわれは日本国憲法に定められた非武装、非交戦をあくまで守り抜く決意である
一、 世界平和の実現を指名とする我々は絶対中立を堅持し、二つの世界共存、統合にあらゆる平和的手段をもって努力する・・
              ~『非武装国日本女性の講和問題についての希望要項』

らいてうが起草したこの要項には、野上弥生子らも連名している。子供の貧困、若者の生活苦が問題になっているのに反して防衛費がうなぎのぼりに増大されている今の状況を、明治の新しい女たちが見たらどう思うだろう?過剰な警戒心と過剰防衛が、どんな残虐行為を生みだすかはプーチン、ネタニヤフの狂気を見ればよく分かる。かつて侵略国であったと同時に被爆国でもある日本は中立の立場に立って反戦を訴えらえる唯一の国なのではないだろうか?そして、そのためには、自国のアジア侵略と蛮行も反省しないといけないだろう。人間にはとてつもない残虐さも、又その逆の崇高な気高さも両方備わっているのである。

『青踏』の新しい女たちに影響を与えたイプセンの「人形の家」の上演は、私の祖父も母親と一緒に観劇している。「困ったお嫁さんだね。」と母親がつぶやいたのを祖父は記憶していて、何度かその話をしてくれた。祖父の母親の感想は当時の平均的日本人の感想だろう。青踏の女性たちに影響力をもっていたエレン・ケイはスウェーデン出身でイプセンはノルウェー人。ともに北欧の出身であり、現在、両国とも進んだ民主主義国家としてトップ3に入っているのは実に興味深い。

平塚らいてうは、漱石の弟子である森田草平と恋仲となり心中未遂事件を起こしている。なんとか事を丸く収めようと、漱石は二人を結婚させようとするが、当時、リベラルの漱石が意外と旧道徳に縛られた人間であったことに、らいてうは失望した。世間の非難は女性であるらいてうに集中し、この事件によって彼女がひどく傷ついたのは想像に難くない。漱石は弟子をかばう一方で、平塚家の面目を立てようと間に入って苦労した。森田草平がらいてうとの恋愛をモデルに書いた『煤煙』はベストセラーとなり、森田草平とらいてうの関係はそこで終わった。『三四郎』では美彌子を「無意識の偽善者」と揶揄するが、それは、ついに三四郎に本心を伝えられないまま、難題を吹っ掛けたり翻弄することしかできなかった美彌子の、シャイで人見知りの初心な一面をよくとらえていた。平塚らいてうという男勝りの女性の本質を見抜いていた漱石の洞察は鋭い。

孫の奥村直史によると、らいてうは少女時代は、哲学書を好む無口で引っ込み思案の少女だったが、学生時代に参禅して見性した後は、打って変わって積極的になり、疲れを知らない活動家になったという。らいてうの数々の羽目を外した大胆な行動も、見性後のエネルギーの奔流によるものと考えられるし、「元始、女性は太陽であった」という言葉も納得できる。また、らいてうがどんな場所に行っても物おじせず、常に自分の判断力に自信を持つ性格なのは、両親に溺愛されてのびのびと育ったためだろうと孫の奥村氏は見ている。孫の子守は苦手だったが、その存在感はいつも小さな子供に安心感を与えていたらいてう。そして、晩年のらいてうは、孫が部屋をのぞくと、線香を立てて結跏趺坐で静かに座っている様な内向的な孤独を愛する女性で、人混みを嫌って皇室の園遊会の誘いも断っていたという。~参照『平塚らいてう』奥村直史

『草枕』に出てくる謎の美女那美さんのモデル(前田卓 孫文など中国の革命家を支援した)といい、漱石は明治の「新しい女」たちの登場を温かい眼差しで見守っていた。らいてうが世間から非難の的にされたように、今でもこの国では個人の人格批判は盛んだが、その批判の矛先は決して社会や政治には向かわず、男も女も相変わらず「迷える子羊」のままなのではないだろうか。そして、今の日本は、アメリカという虎の威を借りた政治家や経済学者が跋扈する「青白い月」のような国なのである。  


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住宅団地 記憶と再生 №45 [雑木林の四季]

Ⅵ 武蔵野線町団地(武蔵野緑町パークタウン)
 
     国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

武蔵野市の対応、都営住宅の併設

 武蔵野線町団地建て替えの特徴として、自治会の地元自治体、武蔵野市にたいするねぼり強い働きかけと市の積極的な対応による大きな成果は見逃せない。
 公団の建て替えがはじまって、なによりも心配だったのは家賃の問題であるが、つぎには緑ゆたかな住環境がどうなるかであった。自治会は予想される建て替えにそなえ、1988年7月に市の協力をえてまず団地内の「緑のウオッチング」をおこない、その後なにかとすぐ近くの市役所に足しげく出かけていった。市長とも早い時期に意見を交わし、市長が、①高齢者対策、②緑の保全、③適正な家賃対策を条件に建て替えには反対しない意向であることも知っていた。
 市は、公団が緑町団地の建て替えを内示した91年7月9日の直前に企画部企画課にまちづくり担当を設け対応することにした。この時期、市は第3期長期計画の策定をはじめており、同団地の建て替えを市の9つの優先事業の1つに位置づけていた。さらに公団の説明会がはじまると10月23日、庁内に「公団建て替え対策調査検討委員会」を発足させた。検討委員会は自治会の住民案を評価し、これをベースにしながら要望事項をまとめて公団との協議にのぞみ、公団もそれをもとに公団案を修正、実施設計をすすめていった。市と公団の基本協定は93年3月25日に結ばれた。
 市長の建て替え同意3条件のうち自治会がもとめる家賃・高齢者対策は、公団との協議では進展しなかった。建て替え後の高家賃にかんしては全国的な運動の高まり、国会審議もあって公団は若干の手直しをよぎなくされたが、多くの居住者が戻り入居できるには及ばず、この地を離れなければならなかった。居住者には異論もあったが、自治会は団地内に都営住宅の併設を要望していた。市と公団の基本協定書にも「都営住宅併設への協力」が書きこまれ、市は1993年12月㌶日都知事あてに都営住宅併設の要望書を提出した。自治会、多摩自治協からも都にたいし執拗に要請行動をくりかえした。異論というのは、同じ敷地内に所得によって入居者が区分される住棟を併設するのは住まいに差別をもちこむもの、個々に家賃基準はちがっても同じ住棟に住める制度にできないのかという、それ自体真っ当な指摘であった。
 曲折はあったが、6年がかりで1997年5月に団地の敷地内に都営住宅の併設がきまった。120世帯からの都営住宅入居希望は全員かなえられ、ともかく同じ団地に住みつづけることができる。都営住宅だから一般公募枠も必要で、120戸をくわえ、計240戸建設されることになった。ちなみに、同じ時期に東京多摩地区では久米川(200戸)、府中(121戸)、武蔵野線町(240戸)の各団地で都営住宅併設(小金井は借上げ公営住宅110戸)の実現をみた。他府県でも若干の進展はみられたが、20㈹年代にはいると全国的にもまったく聞かない。武蔵野線町団地ほか一部の団地での公営併設はこの時期かぎりの稀有な例にすぎない。
 これも地価バブルの産物で1990年代に生まれて消えた制度に、住都公団が事業主体の「シニア住宅」(賃貸)があった。横浜市の港北ニュータウンに初のシニア住宅(ボナージュ横浜)を建てたが続かず、94年に公団は第2号として緑町団地の敷地5,000㎡を用意するからと武蔵野市に建設の提案してきた。入居に多額の出費を要し、これには団地自治会は反対した。経過は省くが、結果的にはシニア住宅では折りあわず、公団から約3,000㎡を無償で借り、西窪病院に託し民設民営の介護老人保険施設ハウスグリーンパークの建設となった。

 武蔵野線町団地の建て替え事業は12年間におよんだ。住都公団は1991年に着手し、96年3月に第1次の戻り入居がはじまり、98年10月の第3次で戻り入居は完了、都市公団の2003年4月の第5次までの新規公募と入居がつづいて団地全体の事業が完成し、その名を「武蔵野線町パークタウン」と改めた。敷地には公団賃貸855戸、都営住宅240戸、介護老人保健施設100床が建設された。
 新規の公団家賃(公募家賃=戻り入居者の最終家賃)は、2DK(45~52㎡)99,600~132,200円、2LDK(57~68㎡)130,300~178,300円、3LDK(66~89㎡)147,0
00円=189、000円である。容積率は61%から107%へ、駐車台数は176台(17.3%)から456台(53%)に増えた(『武蔵野市史 続編』)。
 公団が当初計画していた分譲70戸は36戸に減らし建設はしたものの、そりころすでにバブルは崩壊し6,000万円台もの高値で買い手がつきそうになく、国会でも批判をあび、分譲仕様のまま賃貸に変えていた。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂


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地球千鳥足Ⅱ №55 [雑木林の四季]

七十歳生きたということ

       小川地球村塾村長  小川律昭

 今は年金生活者である。そしてアメリカという異文化の中でほとんど一人暮しである。みずからを回顧する年でもないが社会と接することの少ない今、現在に至る過程を考えるようになった。七十歳といえば同時代に生きた同輩の約二〇%は、亡くなっているか、もしくは不自由な身体で苦悩の人生に耐えておられるのではなかろうか。もちろん、隆々と現役で働いている人たちもいる。その中で仕事はせず、まずは元気で生きながらえている自分は何者なのだ。
 古い表現だが穀潰(ごくつぶ)し、だ。お役に立つことは何もしないで自己管理に追われている暮らしであり、なにも不足がないのは幸せな部類に属している、ということだろう。

 かえりみるに衣食住に関しては大した苦労や心労もなく順調な暮らしであったと思う。住についてのみ、時代を先取りしたつもり。三十二歳で一〇・二五坪の馬小屋のような住宅から出発し、五十歳で二軒目に移った。三軒家を建てて初めて理想の住まいになる、といわれるが、アメリカでは古い家を求めた。事故後、改装したのだが、それなりの経験は得られた。衣類は今でも少ない方だろう。欲しがらない主義もあるが生活の犠牲になったともいえる。食は、ワイフの料理能力と経済的事情で食べさせられたようなもの。生活の安定はもちろんワイフの協力があったからこそ、と言える。
 結婚して十年間は経済的に大変だったが、もう子供たちも独立した。それぞれの生活で精一杯のようだが、親からの援助を求めてはいない。充分にしてやっていないので何かの折には手伝いたいと思っているが、自分が親から受けた以上に義務は果たしたはずだ。それも当然で時代がそうさせただけ。私は家族のための生命保険は掛けなかったが、四十年近く健康で来られたのは運にも恵まれたからだ。ワイフも自分の目標を失うことなく、社会との関わり合いを持ちつつ自分の人生を構築した努力家だ。六十歳でディグリー社会のアメリカでドクターを取得、好きだった学問に関わる人生を楽しんでいる。ワイフも大病でもしない限り一人で充分にやっていける自信があるはずだ。もう家族について今後は心配しなくてもよいだろう。

 運よく国の経済成長にのっかったサラリーマン人生だった。大過なくこられたのはリスクを試みず、時代や会社の意向に逆らうことなく、流されるまま平々凡々の人生を過ごしたからだろう。その結果として世間並みの生活が維持出来たのだと述懐出来る。親戚付き合いは可もなく不可もないといったところか。まあ付き合いさせていただいた方だろう。我が家族だけが東京生活、よく田舎の鳥取県に通ったものだ。

 無趣味でとり柄のない生活の中で二十年来旅だけはした。三か月の船旅にも参加した。いつでも何処にでも一人で旅が出来るのだ、と思うだけで解放感がある。が、差し当たり行きたいところもない。たまに緊張感と解放感を味わいに出かければよい、と思うようになった。

 これからは社会への還元に関心がある。熟年海外協力隊の派遣員として貧しい国で働きたい。人間、年齢ではないことを立証したいからである。
                      (二〇〇二年六月)

『万年青年のための予防医学』 春秋社


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美味懐古 №2 [雑木林の四季]

いそむら

                         加茂史也

前説・世の中の移り変わりに消えていった店がある。1950年代から1970年にかけ東京に
   あった店。今も憶えている店。そんな店を心の内に訪ねてみた。

いそむらは、TBSの局舎から赤坂の一ツ木通りへ出る坂道をおりると、すぐ左手のビルの地下にある。それほど広くはないが20卓は用意されている。 黒い色で家具も調度も統一されている。 
初めて入ったとき肉を勧められた。 ビーフ・ステーキは美味だった。  
 「 肉の選択には気を使っています」 
  好感の持てる支配人の一言だった。それでここではもっぱら肉を食べることになった。 
事件だの事故が発生すると、徹夜仕事になることがある。そんな時、私は配られる弁当を食べていると、しっかり寮があるから、腹にもたれて気分が悪くなる。そこでいそむらの肉を食べることを思いついた。
贅沢なことだとは思ったが、体調の維持には変えられない。飯時にそっと職場を抜け出し、いそむらへ行く。250グラムのステーキを注文する。ゆっくりとよく噛む。パンもほとんど食べない。お腹は空いてくるのだが胃もたれはない。
3年に1度、参議院議員選挙がある。選挙速報には、投票日から選挙確定まで3日間の不眠不休が続く。これもステーキで間に合わせる。
いそむらは行きつけの店の一つになっていた。

1964年(昭和39年)10月10日。
晴れ渡った国立競技場に94か国、7,060人の選手団が参加し、東京オリンピックの開会式が開かれた。NHK,日本テレビ,TBS,.フジテレビ、NET(現・テレビ朝日)の東京5局はこぞって放送した。15日間に及ぶ協議の幕開けだ。日本中が沸き立っている                                             テレビ各局はは全力でこれに取り組んでいる。TBSも30人のチームを編成し太。私は特定のスポーツによらず、遊軍として随時必要な時にしごとをすると言われていた。

10月20日。
オリンピックデスクが、
「体操競技が面白い。女子体操の決勝の日だから、ゴールドメダリストを連れてきて」 
私は千駄ヶ谷の東京都体育館に出かけた。観客席は満員、熱気がこもっていた。
女子個人総合では、ソビエト連邦のラリサ・ラチニナとチェコスロバキアのベラ・チャスラフスカの一騎討ちだ。息詰まるような2人の演技だ。赤い体操着のチャスラフスカの優美な演技が優っていた。 4つの金メダルを手にしたのだ。

私は楽屋へ急いだ。 着替えを終えたチャスラフスカがいた。ロシア語で。 
「チャスラフスカさん、優勝おめでとう。僕のところテレビに出て欲しい]  
「ええいいわ」   
スタジオで彼女はにこやかに喜びを語った。  
「 お疲れ様でした。食事に行きましょう]  
私たちはいそむらの席に座った。 
「私をベラと呼んでちょうだい。それからあなたは英語を話せるの。ロシア語を話すのはあまり好きじゃない」 
 
それはチェコ人の気概を示す一言だった。英語が弾んだ。
ベラは喜んでビーフステーキを食べた。よく食べる。 
ベラは生まれ育ったプラハの街と生い立ちを語った。伸びやかな22歳の女性の顔だった。  
それから……
1968年のチェコの民主化運動プラハの春を支持した。1989年、チェコの共産党政権が崩壊して崩壊した後、チェコの オリンピック委員会の委員長を務めた。 1998年に国際体操殿堂入りした。2016年、74年の生涯を終えた。
あのいそむらの一夜は忘れられない。

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夕焼け小焼け №46 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

プラーグの栗並木の下で 1

            鈴木茂夫

 昭和27年(1952年)1月のある日。自由舞台年明けの部会だ。法学部地下の部室に40人はいた。
 幹事役の坂田純治が上座の机から立ち上がった。商学部の4年だ。上背がある。声ののびがいい。大学へ来るとまず部室に顔をだすが、授業にも出席している。、
 「今年の、昭和27年(1952年)4月28日には、サンフランシスコ平和条約により主権が回復する。占領時代が終わり日本が独立を回復する。7年に及ぶ占領期間が終わるんだ。じっくりと嬉しい気持ちがする。きょうは、今年の公演予定を決めたい。坪松君が腹案があるという。それを聞こう」
 坪松裕が立ち上がって一礼した。黒色の徳利セーターに進駐軍のフィールドコートを羽織っている。いつものいでたちだ。
 私にとって坪松は不思議な人だ。私と同年。都立の工業高等学校から教育学部教育学科に籍を置く。戦後の数年間に知識をえたのだろうが、日本の新劇の歴史に詳しい。口を開くと、1923年の関東大震災の翌年、土方与志と小山内薫が創設した築地小劇場の歴史を語る。そして戦後は千田是也,滝沢修、山本安英など多くの人材が巣立ったと流れるように語る。音楽にも詳しい。
 「第二次大戦ではナチス・ドイツと連合国の激しい闘いがあった。僕はそのなかで、ソビエトの作家・コン寸タンチン・ミハイロビッチ・シーモノフの『プラーグの栗並木の下で』を取り上げたい。シーモノフは1915年にペテログラード(現・サンクトペテルプルグ)に生まれた。現在37歳の働き盛りだ。第二次大戦で前線におもむき、「ユーゴスラビアの手帳」、「ロシアの人びと」、「昼となく夜となく」を発表。絶賛を受けた。スターリン賞、レーニン勲章、祖国戦争勲章などが与えられている」
 坪松はそこで座った。三宅久之が手を挙げた。三宅は独文科4年の異才だ。辛口の発言があるが優しい。個性的な風貌と人を惹きつける語りがある。大学の文化団体連合会の副会長だ。切符の販売などで力を発揮する。俺は早稻田だから朝日・毎日・読売の三大新聞のどこかに入ると言い切っている。
 「君がそこまで打ち込んでいるなら、それでいいよ。でもどういう芝居なのか話してよ」
 「三ちゃん、話を急ぎ過ぎたようだ。ちょっと長くなるけど話そう。この芝居は新協劇団、確認していないけど九州大学の劇団か上演したことがあるとか。1939年ナチスドイツはチェコスロバキアを制圧していた。 1945年5月9日、ソビエトはナチスに勝利した。戦勝記念日としている。第二次大戦は終局を迎えたのだ。ナチス・ドイツは連合国降伏した。チェコスロバキアの首都プラハにはナチスドイツの中央軍集団の総勢90万人の兵力がいた。これに対して連合国側はチェコスロバキア第一軍団はじめ総勢200万人がいた。5月9日、ソ連の赤軍はチェコスロバキアのパルチザン部隊とも協力してナチスドイツ軍を攻撃してプラハを解放した。5月11日、一部の残存していたナチス兵力を平定した。この芝居はこの日を設定している。チェコスロバキアがソビエト軍によって解放された日の首都プラハに生きる一家庭の動向を描いている。主題はソビエトのナチズムとの闘い。ソビエトの国際連帯。ソビエトのヒロイズムだね」
 「大きいテーマだな。ところで何幕なの」
 「黒板に書き出してみるよ

  第一幕
    第一場
      プラーグ郊外にあるフランチーシェク・プロハーズカ家のホール。夕方。
    第二場
      同じ場所。三日後。深夜十二時。
  第二幕
     同じ場所。二日後。朝。
  第三寞
     同じ場所。二日後。
  第四寞
     同じ場所。

 「四幕構成でも舞台装置は1セットで足りるね。やろうよ。そこまで話をしたんだから、 松さん、君が演出するんだろうね」
 「ここでみんなが賛同してくれればね」
 「異議なし」
 全員賛成の声。三宅が、
 「俺は来年卒業だ。今年は就職活動で忙しくなる。でも最後の仕事にプロデュースは引  き受ける」
 坂田が発言を求めた。
 「俺はね、みんなも知っているとおり、一年間、旧制の第二高等学院にいた。その時の級友に宇野誠一郎君がいる。今は第一文学部の仏文に在籍している。NHKの仕事も手がける優しいすぐれた音楽の専門家だ。この芝居の音楽の作曲を頼みたいと頼んだら、引き受けようと言ってくれた」
 音楽は素敵な仕上がりになるだろう。
 手回しよく台本が配られた。

 坪松が部屋の中心に座った。稽古のはじまりだ。みんな台本を手にしている。
 まず配役だ。
 「医者のプロハーズカ二は、坂田純ちゃんをあてたい」
 「次はその息子ステファンだ。茂夫君、君はどうだ」
思いがけないご指名だ。だが、
 「俺は思想的に元気溌剌じゃない。むしろ独文の浅野多喜雄君を推薦したい。そして俺はボシェーナと婚約している医者のマチェクがいい。」
 坪松はうなずいた。
 「プロハーズカ家の娘は」
 女声が聞こえた。
 「それは吉永春子さんじゃない」
 「主な配役はこんなところでいこう」
 坪松は微笑して台本を閉じた。

  フランチーシェク・プロハーズカ 医者
  ステファン その息子 チェコ軍団  大尉 26歳
  ボジェーナ その娘   ステファンと双生児 26歳
  リュードヴイク その息子 17歳
  ボグスラフ・チーヒー 詩人
  ユリー・マチェク   医者 ボジェーナの許婚者
  ジョキチ         盲目      38歳
  チェコ軍の民兵   二三人
  チェコ軍の将校
  以上 チェコ人

  イワン・アレクセーウィチ・ペトロフ ロシア軍大佐   38歳
  マーシャ・カノネンコヴア  ロシア軍曹長   落下傘部隊無線通信士 21歳
  ゴンチャレンコ            ロシア軍の自動車運転手
     以上 ロシア人
 
 稽古は本読みからだ。部室の机を縦2列に並べた。
 演出の坪松はタンかを切るように、
 「俺はこの芝居を、スタニスラフスキー・システムで仕上げる」
 坂田が驚いた表情だ。 
 「なんでもいいけど、スタニスってのは何なの。ロシア人の名前だったら、茂夫君君は知ってるのか」
 「それは有名な人だから名前だけは知ってるけど」
 「松さん、その人の本でもあるの」
 「スタニスラフスキー・システムを扱った日本語の本は出ていないよ」
  「松さん、それじゃ知りようがないよ」
 「俺が演劇雑誌のテアトロなどで読んだ少しばかりの記事が土台だ」
 「分かったよ。松さん、君のやりたいようにやればいい。それがスタニスラフスキー・システムかどうかはどうでもいいことだ。茂夫君もそう思わないか」
 「俺たちは仲間だ。お互いを信頼している。松さんのシステムでやるのがいいよ」
 
  坪松が台本とノートを手にして、
 「われわれの演劇のもっとも重要なことは、俳優の意識的な心理技術によって自然の無意識的なはたらきを刺激することだ。紋切型の『形で示す』演技じゃだめなんだよ。俳優の有機的な自然にひそむ潜在意識で創造される演技、つまり『役を生きる』んだ」
 「松さん、それ何なの」
 純ちゃんが噛みついた。坪松は平然としている。
 「思わず、演出者の任務とは何かということを読み上げてしまった。演劇雑誌のテアトロの紹介記事を書き抜いておいたんだ」
 「坪松さん、俺浅野としては、スタニスラフスキー・システムは小難しいね」
浅野は回りくどい表現に弱い。
  「藪から棒に、そんなこと言われたって分からないよ」
 坪松は平然している。
 「俳優は自己の肉体を表現手段とする芸術家だよ。新しい役を演じる場合、思いつく、あるいは使われてきた表現手段の中から、何かを選び取って表現する。或いは表現してきた。それを紋切り型と言って良い。欲しいのは俳優自身の中から、紋切り型ではない表現を造り出していくことだ。それはまさに『役を生きる』ことだよね。俺は小難しい注文を出してはいない。俳優の創造性に期待しているだけだ」

 私はふとした成り行きから、俳優をやることにになった。私は医者・マチェクだ。老練なプロハーズカ教授のお気に入りだ。そして教授の娘のボジェーナの婚約者だ。マチェクはボジェーナと落ちついた家庭を創り上げたいと思っている。今度の戦争とチェコの成り行きがどうなるのかにはあまり関心がない。だがボジェーナはチェコの将来について明確な意思を持っている。私はそれをめぐって議論になると、どちらにもつきかねる。ボジェーナと私の関係は冷えてきている。二人の関係は破局が予感される。
 俳優とは何かと考え込む。俳優は役を与えられて役を演じる。それを扮するというのだ。

 稽古は坪松のスタニスラフスキーシステムで進んだ。

     第一幕
  マチェク (登場)   どこへ行っていたんですか。二度もお寄りしたのに。
  ボジェーナ プラーグを散歩していましたの。
  マチェク 誰と
  ボジェーナ チーヒーさんと。
  マチェク (安心して)  そうですか。                                             
  ボジェーナ きょうは具合が悪そうね。どうかなさったの。
  マチェク あなた僕を愛していらっしゃらないということのほか、別に変わったことはありません。

  私は医師マチェクとして、許嫁ボジェーナとの関係に集中して見ていく。
 ボジェーナはナチスに対抗するとしてコンセントレーション・キャンプに収容されていたが、捕虜として捕らえられていたロシア軍の女性通信士マーシャとともに脱走して戻ってきた。その際の過酷な体験から、優柔不断な許嫁のマチェクの生き方を受け入れられない。プラハ解放に進撃してきたソビエト軍のペトロフ大佐に惹かれている。

 私は台本を慎重に読み、医師・マチェクという役を演じる。

 そうしたある日、稽古の合間の休憩時間に,純ちゃんに尋ねた。
 「君はさ、松さんのいう役に生きてるの」
 「はっきり言って、そのことは分からない。ペトロフ大佐のことは考えるよ。でも稽古場に入ってから、真剣に考えるね」
 「ふうん。スタニスラフスキーシステムは飲み込めてるの」
 「それはだ。まるで分かってないね。松があれこれ言うと、俺なりに考えてやる。すると松が『純ちゃん、いいね。それでいこう』という。つまりそれは俺がスタニスラフスキーシステムの役作りに合格したってことになるだろ。ともかく、俺は俺のやり方でやってるよ」
 「そうか、それを聞いて俺も安心したね。医師のマチェクも同じやり方でやってる」
  俺たちはスタニスラフスキーを理解していない。しかし、俺たちの演技には、坪松がOKを出す。坪松のOKが何より大切だ。
 こうして稽古は進んだ。
 三宅はいくつかの女子大を訪ね、
 「俺たちの芝居は、もっとも進んだ演出法でつくりあげてます。日本が独立を回復した今だから、ぜひ見に来てよ」
 こう言ってよびかけたという。三宅の弁舌は説得力がある。切符は予期していたより売れたとか。
 「学生演劇で赤字にはならない。ということは大成功だぜ」
 三宅の報告は嬉しかった。


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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №234 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

秋の日高本線・発電所バック 

            岩本啓介                   

①廃駅・浜田浦駅待合所・2023年4月1日廃駅

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待合室は電灯なし・土間で、床もありません・でも味のある待合室です                                                      2022年10月28日11:22                                                                        
                                                                                
②夕闇迫る厚真発電所バックにキハ40 

234厚真発電所バック・浜厚真~浜田浦 のコピー.jpg
                                          
夕闇迫る厚真発電所をバックに、雲が綺麗でした                                    
浜厚真~浜田浦                                                                  
2022年10月28日15:24                                                                                  


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押し花絵の世界 №212 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「60本の薔薇の花束」

        押花作家  山崎房枝

2024.10月下.jpg
70cm×55cm

母の友人が還暦のお祝いに、息子さんご夫妻からプレゼントされた60本の豪華な赤い薔薇の花束を記念に残したいとご要望をいただいきました。
デザインや額などは全てお任せしていただいたので、シンプルなデザインで、額はエレガントで華麗な物を選んだらところ、とても気に入ってくださりました。
ご家族の大切な思い出の品を作らせていただけて光栄です。


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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №68 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

行田の童 12

          銅板造形作家  赤川政由


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多摩のむかし道と伝説の旅 №134 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

多摩のむかし道と伝説の旅(№30)
−⼆ヶ領⽤⽔⽔辺の道を⾏く−5
 
            原田環爾

[Ⅲ]宿河原⽤⽔の本流合流点から川崎堀へ 2
7-1 のコピー.jpg 円筒分水の周辺に社寺があるので立ち寄ることにする。平瀬川隧道出口の上の傍らに久地神社がある。鳥居をくぐって参道の石段を上がれば、ささやかな境内に本殿がある。また町田市域以外では珍しい地神塔も立っている。境内の由緒書には問い合わせ先を溝口神社としているので、溝口神社が管理しているものと思われる。神社の創立年代は不詳であるが、江戸時代の元禄の頃に久地の農民38戸によって祀られたのが始まりという。江戸時代は赤城社と称し、溝口神社の兄弟神として、毘沙門天や弁財天をお祭りしていたという。しかし明治の神仏分離令により、御神体は近隣の浄元寺に遷し、村内の伊勢宮と富士浅間社を合祀し、天照大神を主祭神に久地神社と改称したという。
7-2 のコピー.jpg 久地神社の傍らの坂道を上って行くと、久地神社の裏手に久地弁財天がある。境内には 石の鳥居と小祠、小池に架かる赤い橋があるが、立ち入り禁止になっているので境内に入ることはできない。先の久地神社の元の御神体である弁財天が祭られていたのであろうが、雑草も茂り十分管理されていない様子で哀れである。なお久地弁財天は、弁財天の他に、元禄年間(1688~1703)に久地に来住した比丘尼を祀っていた御堂ともいう。比丘尼は元上杉氏に仕えていた女性で、久地という地名は比丘尼が転訛したものとの説がある。境内の池は蛇神が棲むことから蛇神池と称し、干ばつでも水が絶えないことから「雨乞い弁天」とも呼ばれたそうだ。
7-3-1 のコピー.jpg 更に坂道を上って行くとその奥まった突き当りに久地不動尊がある。正式には成田山久地不動尊護尊寺と称す。元は東京浅草の新吉原にあったという。猫の額ほどの小さな境内であるがお堂は立派である。お堂の前には「六根清浄」と刻んだ石の倶利伽羅剣と不動明王が鎮座している。ちなみに倶利伽羅剣が盤石に突き刺さった姿は不動明王の化身とされるようだ。こんな面白い話がある。新吉原は昼と言わず夜といわず人が絶えない遊郭で、不動明王には喧噪で我慢できず、「私を静かな場所に移せ」と寺の者に告げた。これを聞いた寺は驚いて久地に移すことにした。ところが移転を前に関東大震災がおこり寺は全焼してしまった。しかし不動明王は自ら古井戸に飛び込み難を逃れたという。
 再び円筒分水に戻り、これより川崎堀に沿って東へ向かう。川崎堀に入って間もなく堀に架かる小橋がある。そ7-5 のコピー.jpg7-4 のコピー.jpgこ小橋で右手の路地に入ると、津田山山麓に浄元寺という日蓮宗の寺が佇んでいる。こじんまりした境内に本堂、日蓮上人像、瓦塔のほか、大きな大黒天の石像などがある。山号を秋興山と号す。創建年代は不詳であるが、開山は日應上人で、池上本門寺の末寺という。江戸時代までは毘沙門天と弁財天を祀る赤城社(現久地神社)の別当寺だったが、明治の神仏分離によって赤城社は久地神社に改称し、祭神であった毘沙門天と弁財天は浄元寺に写された。
 更に川崎堀に沿って進むと程なく激しく車両の行き交う厚木街道(国道246号線)に 出る。堀は一旦暗渠となるが、陸橋で街道を渡り溝口に入ると再び開渠となって姿を現す。水辺の道は両岸とも広く伸びやかである。法泉坊橋を過ぎると次は濱田橋の袂に来る。濱田という橋名は7-6 のコピー.jpg陶芸家の濱田庄司に由来するという。濱田庄司は明治27年溝口生まれ。英国人バーナードリーチと共に陶芸に目覚め、栃木県益子で作陶に入り、益子焼を芸術にまで高めた。昭和30年人間国宝に、昭和43年文化勲章を受章した。
 次いで西浦橋をやり過ごすと大石橋に出る。親柱にはコンクリート製ながら石灯籠を備えた風格のある橋になっている。それもそのはず、大石橋の通りは江戸時代に大山参詣で賑わった大山街道なのだ。しかもこの界隈は街道の宿場があった所で、橋の北詰には宿場を管理する問屋場があった。また大石橋から北へ50mも行った沿道左には大山街道の古びた石の道標が立ち、そこに「大山街道ふるさと館」がある。
7-7 のコピー.jpg 大山街道は、古代から存在した古い道筋を江戸時代に整備した脇往還の一つである。赤坂御門から青山、三軒茶屋、二子、溝口、長津田、厚木、伊勢原、松田惣領、矢倉沢関所に至る道で、更にその先足柄峠を越えて駿河方面へ通ずる道筋である。矢倉沢の関所を通ることから矢倉沢往還とも呼ばれた。宿場と同じ役割を担う継立村が17か所設けられていた。江戸時代の庶民にとっては大山詣の参詣道として大いに利用された。即ち大山詣は伊勢原で矢倉沢往還から分岐し阿夫利神社へと向かった。
 これより終着点溝の口駅へ向うが、その途中にある溝口神社に立ち寄ることにする。大 石橋から大山街道を南へ少し辿ると街道の右手に溝口の総鎮守溝口神社がある。溝口神社の創立年代は詳らかでない。江戸時代は毘沙門天と弁財天を祀り、神仏習合により溝口村の赤城大明神と称していた。明治維名称未設定 1 のコピー.jpg新後、神仏分離の法により溝口村の総鎮守として新たに伊勢神宮より天照大神を主祭神に勧請し溝口神社と改称した。安産、子育て、縁結び、家内安全のご利益があり、参拝客で賑わう神社である。
溝口神社を後に大山街道から離れると、すぐ目の前が終着点東急田園都市線溝の口駅であり、かつ南武線の武蔵溝ノ口駅でもある。(完)

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国営昭和記念公園の四季 №160 [国営昭和記念公園の四季]

銀杏 こもれびの里駐輪場


DSC05334 のコピー.jpg



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『知の木々舎』第370号・目次(2024年10月上期編成分) [もくじ]

現在の最新版の記事を収録しています。ご覧になりたい記事の見出しの下のURLをクリックするとジャンプできます。

【文芸美術の森】

石井鶴三の世界 №265                 画家・彫刻家  石井鶴三
  薬師寺 1914年/薬師寺東塔 1914年
西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」№137 美術史研究家 斎藤陽一
 江戸・洋風画の先駆者たち 司馬江漢 6 
浅草風土記 №35             作家・俳人  久保田万太郎
 浅草の喰べもの 1
山羊の歌 №1                   詩人  中原中也
  春の日の夕暮
【ことだま五七五】

こふみ句会へGO七GO №135              俳句 こふみ会     
 「秋涼」「秋の田」「秋蝶」「苦瓜」
読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №192            川柳家  水野タケシ
 9月4日、11日放送分
【雑木林の四季】

BS-TBS番組情報 №313                         BS-TBSマーケテイングPR部
 2024年10月のおすすめ番組(上)
海の見る夢 №86                                渋澤京子
  鳥の言葉
住宅団地 記憶と再生 №44   国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治
 武蔵野緑町団地 3 
地球千鳥足Ⅱ №54            小川地球村塾塾長  小川彩子
 人類の悲劇を表す橋=ボスニア・ヘルチェゴビナ
美味懐古 №1                        加茂史也
 オテル・ド・ミクニ
【ふるさと立川・多摩・武蔵】                                                   

線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №233      岩本啓介
 根室本線・空知川第4橋梁
夕焼け小焼け 45                          鈴木茂夫
 虚実皮膜・友は就職     
押し花絵の世界 №211                                     押し花作家  山﨑房枝
 「秋色のヘアピン」
赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №67      銅板僧形作家  赤川政由
 行田の童 原画 11
多摩のむかし道と伝説の旅 №133                                          原田環爾
  二ケ領用水水辺の道を行く 6
国営昭和記念公園の四季 №160
 銀杏  こもれびの里駐輪場
【代表・玲子の雑記帳】               『知の木々舎 』代表  横幕玲子

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石井鶴三の世界 №265 [文芸美術の森]

薬師寺 1914年/薬師寺・東塔 1914年

     画家・彫刻家  石井鶴三

1914新薬師寺2.jpg
薬師寺 1914年 (201×142)
1914新薬師寺3.jpg
薬師寺・東塔 1914年 (201×142)

**************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社


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