対話随想余滴 №42 [核無き世界をめざして]
余滴42 中山士朗から関千枝子様へ
作家 中山士朗
お手紙を拝見して、どんな状況に陥ろうとも闘い、強く生き抜いて行かれる、関さんの姿勢には感動せずにはいられません。
その後、瀬戸内寂聴さんの「残された日々」61「書き残した≪百年≫」を再読し、感じましたことを述べてみたいと思います。
<ふと気がつくと、こんな時、すぐ電話で便りを問いあった親しい身内やなつかしい友人のほとんどが、今はいない。彼等の命は果たしてあの世たらで、互いにめぐりあえているのであろうか。やがてそちらへ行きつく自分は、先に行ったなつかしい人たちに、果たして逢うことができるのであろうか。>
<出家して、四十七年にもなるが、あの世のことは何ひとつ理解できていない。親しい人、恋しい人はほとんど先に旅立ってしまい、あの世からは、電話もメールも一切来ない>
この思いは、深く私の胸にもあります。
瀬戸内さんの文章を読みながら、何時も亡くなられた河野多恵子さんを思い出してしまうのです。その原因は、丹羽文雄さんが主宰されていた「文学者」の会で、お二人が常に一緒の場面を見ていたからです。一度は、お二人が歩いておられる後ろ姿を拝見したことがあります。二度目は、丹羽先生の会があって、受付の前で順番を待とうとした時、「お先にどうぞ」と、声がかかり、ふと振り返るとそこに瀬戸内さんの姿があり、お言葉にしたがって前に進んだことが、今でも鮮明に思い出すことができるのです。河野多恵子さんとは「文学者」が再刊されるまでの間に同人雑誌として発行されていた「現実」で一緒でしたし、手紙の往復もありましたのでよく存じ上げております。
こんなことを考えておりますと、瀬戸内さんの「親しい人、恋しい人はほとんど先に旅立ってしまい、あの世からは、電話もメールも一切来ない。」という切実な思いが伝わってくるのですが、その一人は間違いなく河野多恵子さんだと思います。
話が横道に逸れてしまいましたが、それにしても、人々が関さんの言われる「コロナ症候群」に陥っている時、オンラインシンポジュ―ムに参加して、オンライン会議を積極的に体験されるなど、生きるということの意味を教えていただいたような気がします。私なぞは、新しい言葉が生まれても、それに対応するだけの頭脳、体力の無さを感ずる年齢になってしまいました。関さんのご叱責も、当然のことだとかみ締めております。
話がすっかり横道に逸れてしまいましたが、今回のお手紙には、「ヒロシマへ ヒロシマから」通信に関さんが寄稿された文章が添えられていて、私にとってきわめて懐かしい「大石餅」の近況を知ったことでした。
この大石餅は、「通信」に詳述されていましたように、浅野内匠頭が吉良上野介を傷つけるという事件のあと、浅野家は広島の本家に引き取られましたが、その時、大石内蔵助の三男と妻、娘がついて広島に来て、その大石家が作った餅だという話は薄々聞いてはおりました。小学校の厳島神社への遠足の時、己斐駅から松並木が続く旧街道を入って間もなく、左側に大石餅の店があり、そこを通り過ぎて行ったものでした。
その大石餅が現存していることを知るに及んで、ぜひ食してみたいものだという味覚の里帰りを覚えます。そんなことを回想しておりますと、戦前、広島には本通りに「ちから」という甘味喫茶の店があって、母に連れられて行ったことを思い出されました。そこで、白い、小さな形をした「ちから餅」を食べた記憶があります。今になって思えば、「ちから」は、大石主税(ちから)に由来する店名ではなかったのでしょうか。
以上、そのようなことを回顧しておりましたら、その直後の大分合同新聞の、「原爆投下から75年」という特集記事の中に、広島を支えたお好み焼きについて、四歳で孤児となった女性が鉄板とともに生きた人生、「広島お好み焼き物語」を世に出した、三歳の時被爆した児童文学作家の那須正幹さんの証言が掲載されていました。
その後、瀬戸内寂聴さんの「残された日々」61「書き残した≪百年≫」を再読し、感じましたことを述べてみたいと思います。
<ふと気がつくと、こんな時、すぐ電話で便りを問いあった親しい身内やなつかしい友人のほとんどが、今はいない。彼等の命は果たしてあの世たらで、互いにめぐりあえているのであろうか。やがてそちらへ行きつく自分は、先に行ったなつかしい人たちに、果たして逢うことができるのであろうか。>
<出家して、四十七年にもなるが、あの世のことは何ひとつ理解できていない。親しい人、恋しい人はほとんど先に旅立ってしまい、あの世からは、電話もメールも一切来ない>
この思いは、深く私の胸にもあります。
瀬戸内さんの文章を読みながら、何時も亡くなられた河野多恵子さんを思い出してしまうのです。その原因は、丹羽文雄さんが主宰されていた「文学者」の会で、お二人が常に一緒の場面を見ていたからです。一度は、お二人が歩いておられる後ろ姿を拝見したことがあります。二度目は、丹羽先生の会があって、受付の前で順番を待とうとした時、「お先にどうぞ」と、声がかかり、ふと振り返るとそこに瀬戸内さんの姿があり、お言葉にしたがって前に進んだことが、今でも鮮明に思い出すことができるのです。河野多恵子さんとは「文学者」が再刊されるまでの間に同人雑誌として発行されていた「現実」で一緒でしたし、手紙の往復もありましたのでよく存じ上げております。
こんなことを考えておりますと、瀬戸内さんの「親しい人、恋しい人はほとんど先に旅立ってしまい、あの世からは、電話もメールも一切来ない。」という切実な思いが伝わってくるのですが、その一人は間違いなく河野多恵子さんだと思います。
話が横道に逸れてしまいましたが、それにしても、人々が関さんの言われる「コロナ症候群」に陥っている時、オンラインシンポジュ―ムに参加して、オンライン会議を積極的に体験されるなど、生きるということの意味を教えていただいたような気がします。私なぞは、新しい言葉が生まれても、それに対応するだけの頭脳、体力の無さを感ずる年齢になってしまいました。関さんのご叱責も、当然のことだとかみ締めております。
話がすっかり横道に逸れてしまいましたが、今回のお手紙には、「ヒロシマへ ヒロシマから」通信に関さんが寄稿された文章が添えられていて、私にとってきわめて懐かしい「大石餅」の近況を知ったことでした。
この大石餅は、「通信」に詳述されていましたように、浅野内匠頭が吉良上野介を傷つけるという事件のあと、浅野家は広島の本家に引き取られましたが、その時、大石内蔵助の三男と妻、娘がついて広島に来て、その大石家が作った餅だという話は薄々聞いてはおりました。小学校の厳島神社への遠足の時、己斐駅から松並木が続く旧街道を入って間もなく、左側に大石餅の店があり、そこを通り過ぎて行ったものでした。
その大石餅が現存していることを知るに及んで、ぜひ食してみたいものだという味覚の里帰りを覚えます。そんなことを回想しておりますと、戦前、広島には本通りに「ちから」という甘味喫茶の店があって、母に連れられて行ったことを思い出されました。そこで、白い、小さな形をした「ちから餅」を食べた記憶があります。今になって思えば、「ちから」は、大石主税(ちから)に由来する店名ではなかったのでしょうか。
以上、そのようなことを回顧しておりましたら、その直後の大分合同新聞の、「原爆投下から75年」という特集記事の中に、広島を支えたお好み焼きについて、四歳で孤児となった女性が鉄板とともに生きた人生、「広島お好み焼き物語」を世に出した、三歳の時被爆した児童文学作家の那須正幹さんの証言が掲載されていました。
<おいしものはいろいろとあるだろうけど、食べ物というとついお好み焼きを思い出す。爆心地からやく三キロの自宅で被爆した僕にとっては、戦後復興期の象徴。自分史にもつながっている。>
<そんな広島で、お好み焼きの発展は街の復興とちょうど一緒だった。物心ついたころ、焼け野原にはバラックが立ち並び、その中でぽつぽつと店ができた。少ない小遣いでも食べられる。皆、腹を空かせていた。>
<作家になって編集者から声が掛かり、『ヒロシマお好み焼物語』でルーツを探った。いろんな文献を読み、一日で四枚食べ歩いたこともある。あの日のことを後世に伝えたいとの思いから、原爆被害についても書きこんだ。>
<そんな広島で、お好み焼きの発展は街の復興とちょうど一緒だった。物心ついたころ、焼け野原にはバラックが立ち並び、その中でぽつぽつと店ができた。少ない小遣いでも食べられる。皆、腹を空かせていた。>
<作家になって編集者から声が掛かり、『ヒロシマお好み焼物語』でルーツを探った。いろんな文献を読み、一日で四枚食べ歩いたこともある。あの日のことを後世に伝えたいとの思いから、原爆被害についても書きこんだ。>
記録によれば、お好み焼きの原型「一銭洋食」は、一九一〇年から三〇年にかけて西日本で広まったと記されていた。
昭和五年生まれの私は、小学生の頃、県庁近くの中島新町というところにあった祖母の家にしばしば泊まりに行き、そのつど近くの老婆が営む一銭洋食の店に通ったものでした。
そして現在も、一人で、一銭洋食を作り、食べています。
今日の手紙、食べ物三昧になってしまい申し訳ありませんでした。
昭和五年生まれの私は、小学生の頃、県庁近くの中島新町というところにあった祖母の家にしばしば泊まりに行き、そのつど近くの老婆が営む一銭洋食の店に通ったものでした。
そして現在も、一人で、一銭洋食を作り、食べています。
今日の手紙、食べ物三昧になってしまい申し訳ありませんでした。
2020-07-28 17:09
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