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はるかなる呼び声 №1 [核無き世界をめざして]

はるかなる呼び声 ①                  

            エッセイスト  関千枝子

 往復書簡「余滴」が突然終わってしまいまして、申し訳ありませんでした。今年の8月で、まとめて本にしておきたいという中山士朗さんのご希望は前から聞いていたのですが、その後も、書き続けてくださると思っていたのですが、これで往復書簡のやりとりはすべて終わりにするということで実は私も驚いてしまったのです。その前から、書くのが遅くなった、など言われており、また、中山さんは非常に料理が得意で日々の生活には困らないと言っておられたのが、時々食事の支度が面倒になるなどとも言っておられたので、体の具合が悪くなったのかと心配しました。しかし、それは心配なく、癌の進行は遅く、頑張っておられるようです。結局、「原爆について書くべきことはすべて書いた、自分も九〇歳であり、筆力の衰えぬ前に、八年にわたるこのシリーズを終わらせたいという気持ちのようで、私も無理は言えないと思いました。中山さんは広島原爆で爆心から一キロ半の鶴見橋で大やけどを負い、命はとりとめたものの、ケロイドと差別や偏見に悩み続けました。結婚されましたが、子どもを作ることも断念されました。心臓病に悩まされましたが、原爆症の認定も受けられず、二〇一七年大腸がんを発症され、初めて原爆症に認定されました。中山さんは、手術も抗がん剤も断られ、自然に任せた生活をされているのですが、それは命などいらないということでなく、友人で手術や抗がん剤で認知症になった方もあったため、それは避け、何としても、意識の健全なまま、最後を送りたいというお気持ちだったようです。がん発病後の手紙のやりとりが「余滴」となりました。
 中山さんの思いは、被爆の惨禍、被爆者の痛切な思いをこの八年間のやりとりした手紙を読んで理解していただきたい、そしてこのような残酷な兵器を地球上から失くしたい、という核兵器廃絶の思いです。どうぞ、皆様、思いを読み取り、核兵器廃絶の声を上げてくださいませ。
 
 さて、「余滴」は終わりましたが、私は、まだまだ書きたいこともあり、このコーナーを続けさせていただきます。新しい題は「はるかな呼び声」とさせていただきました。
 何、その題の意味は?と言われる方もあるかもしれません。第一回は、題の説明にさせていただきます。
 「声」とは、原爆で全滅した私のクラス・広島第二県女二年西組のクラスの人びとの声です。
 あれは、被爆六〇年ごろでしたか、それから十数年、夏が近づくと、私は夜明け前、目覚めの前ごろ、夢の中で「富永さん(私の旧姓)」という呼び声が響き、その声で目覚めるようになりました。その声は私の仲の良かった友、為数美智子さんの声です。
 二年になってから同級になった彼女は、前年東京から広島へ来て、広島のことも何も知らず、うろうろまごまごしていた私の友になってくださいました。家が近かったせいもあって三カ月半ばかり、私は彼女と一日中、学校が終わった後も、いつも一緒にいました。そのころ、学校は作業などの動員が多かったのですが、どこそこに集合と言われてもどこに行くのやら見当もつかない私に、タメ子(彼女はそんな愛称で呼ばれていました)はいつも私の家に迎えに来てくれたのです。
 あの八月、広島市は、全市をあげて強制建物疎開の跡片付け、道などを作る作業を行い、一日一万人を超える大動員の主役は中学や女学校の低学年一、二年生、まだ十二,三歳の少年少女。一年生など、国民学校(小学校)をでたばかり、本当に幼い子どもたちでした。
 私たちの学校は、八月五日から出動、雑魚場と当時呼ばれていた市役所の裏のあたりで、作業をしました。私も前日はタメ子が迎えに来てくれ、出動しました。その晩、近くの街の空襲があり、朝方まで寝られなかった私はひどい下痢をしました。母はどうしても行ってはいけないと言い、争いに疲れ、うとうとしているところへ、タメ子が迎えに来てくれたのです。こんな時、彼女は玄関からでなく、庭から入り、座敷の前あたりで「富永さん」と声をかけるのが常でした。この日もうつらうつらしている私の耳に彼女の声がしっかり響いています。そして、母の声。母は病気でと断り、「今日も暑くなりそうね。あなたも、休んだら…」と冗談交じりに言い、まじめなタメ子が笑いながら、「先生に言っておきます」と行ってしまったのです。「あの時無理にも止めて置いたら」と母があと後まで言っていたのですが。
 この後、一時間半、ピカとなるのですが。
 夢の中のタメ子の声は確かにあの時の呼び声です。はっと目覚めた私の耳に、「ねえ、どうしてあんな爆弾無くせないの」という声が聞こえるような気がします。そしてクラスみんなの声が。「どうして!どうして!」
 今、私の耳に「どうして!」という声は聞こえません。夏の朝の夢も見ません。七十五年たって、原爆のことを忘れてしまったのか、とんでもない、何十年経っても、あの恐怖、悲しさ、辛さ、忘れられません。 多分「どうして」の夢が亡くなったのは二〇一七年「核兵器禁士条約」ができてからだろうと思います。しかし、私は、あの条約の協議に参加もせず、もちろん署名も批准もしない日本政府に怒りまくっております。 
 今年の原爆忌の広島市、長崎市の式典もコロナのため縮小されましたが、両市長とも条約の署名、批准を強く求めました。しかし、安倍首相は条約に一言も触れず、無視でした。核廃絶を本当にやる気があるのか!
 日本政府の態度が変わらず、条約がもし、批准国が少なく発効しなかったら。「どうして!?」の声は夜明けだけでなく一日中響き渡るかもしれません。どうしてあんな爆弾を無くせないの?はるかに響く「友の声」を書き続けたいと思います。


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