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対話随想・余滴 №43 [核無き世界をめざして]

余滴 43  関千枝子から中山士朗様

           エッセイスト  関 千枝子

 八月四、五、六日、広島に行ってまいりました。いくら小池都知事が「不急不要」のお出かけはお控えください、他県へは行かないで、など言っても「不要」ではない、と思いまして。八六の広島行きは、私の「決まり事」ですから。
 今年は思いがけない新型コロナ騒ぎ。すっかり様相が変わってしまいました。毎年やっていた、少年少女たちの跡を訪ねるフィールドワーク、心配していたのですが、主催事業にしていただいていた広島YWCAから、はっきり今年は無理と言われてしまいました。三密を避けなければということになれば、四十人でのフィールドワークなどできません。YWCAの方は、バスを仕立てて、あの疎開地作業で死んだリ、傷ついたりした少年少女たちの全ての地をたどるツアーも考えたいと言っておられたのですが全てだめになりました。いろいろな催しなどができなくなり、広島市の式典も人数を絞った形で行い、一般の参加者は入れない、ということが伝えられましたが、私はそれでも広島行きをあきらめませんでした。
 そんな時信じられない朗報が届きました。私の『広島第二県女二年西組』を、朗読劇にしてくださっているグループがあって大阪周辺に多いのです。これも今年中止が相次いでいたのですが、その中の一つのグループ(プロの俳優たちです)が七月二十七日に大阪府島本町の「反核・平和・人権フェスティバル』で上演することに決まったと、お知らせがあったのです。こうしたフェスティバルも今年は中止が多いし、奇跡のような話です。このグループはこの朗読劇に熱心で、去年も上演し広島で公演したいと言っておられたのです。それならと彼女らの台本に大幅加筆したのですが、それを上演するというのです。観客は二〇名にしぼるそうですが、驚きました。そして彼女たちは私と日程を合わせ、俳優四人で五,六日広島に来るというのです。こんな時の八六に広島に来るという彼女らに感激、私は二年西組の関係地をご案内することにしました。
 案内の方法ですが、大勢の人、タクシー一台では乗り切れませんので、大型の車を借りるしかなく、例の「ヒロシマ講座」の竹内良男先生にご相談、お願いしたのです。
 その後、東京のコロナ感染者は増え続けました。四百を超す数が出たりして、緊張が高まる中、竹内先生が、「今年は広島行きを断念する」と言われました、竹内先生はここ三五年八六に広島行きをされています。なぜ?それはほかのヒバクシャや原爆のことで活動されている方が広島行きを止められたこともあり、「コロナ蔓延の東京から行っても嫌われるのではないか。一応歓迎してくださっても本心は嫌なのではないか」と言われるのです。驚きました。でも決意が固そうなのです。
 私は、NHKの出山アナが広島に帰っている(これは変な言い方かもしれません。彼はもともと広島の人ではありません。しかし、彼は四回目の廣島勤務。彼の夫人は広島の平和ボランティアで、彼が転勤しても広島に残っていました)ことを聞いていたので、出山さんに電話してみました。彼は、六日の市の式典を実況するので(全国放送。中山さんもご覧になりましたでしょう?)五日はリハーサルがあり、お手伝いできないがと、ジャンボタクシーを手配してくださいました。出山さんが手配してくださったのですいすい事は運び、あっという間に準備完了です。島本町の公演も無事すみ、観客も共感してくださったようです。 
 そこへ、堀池美帆さんから広島に行きたいと言ってきました。もう社会人だから無理だろうと思ったのですが、来ると言います、今度はこんな具合で、大阪の方を案内するので、と言ったのですが、一緒に回りたいと言い、私と同じホテルをとってしまいました。例年ならこの時期、広島のホテルなどとれっこないのですが、今年はキャンセル相次ぎ、ホテルもガラガ、客に大喜びのようです。
 四日、新幹線に乗って驚きました。ガラガラ。これならコロナ予防にも文句ないはず。
しかし、何だか妙ですね。
 四日、私は鯉城同窓会に行来ました。ちょうど熱心な職員の方がいらして、同窓会資料のことなどでいろいろご相談しました。この間、堀池さんには平和資料センターなどに行ってもらいました。
 五日、大阪の方は(三人に減ったのですが)時間より早めに来てくださり、堀池さんも同乗して案内です。この大阪の俳優の方々は、第二県女の慰霊碑はすでに知っておかれるのですが、まずここから始めました。なぜこの碑がここに建てられたかの話もしました。この碑は、広島に例のない、町内会が持っている碑です。六十年前建てられた時、その後の維持に当時の町内会長さんが本当に熱心だったことを話しました。
 それから二年西組の足跡をたどる案内です。最初、担任の先生が、生徒一人を抱き、一人を背に負ぶって倒れていらした日赤の前庭のところです。日赤はすっかり立て直され、昔をしのぶもの何もありませんが、位置だけは昔と変わらないこと、被災地とすぐ近くなのに、火の中、真っ暗な中をここまで来るのがいかに大変か(ここまで来れず川の方に逃げた生徒が多い)分かっていただきたいと話しました。
 そして電車道を走り、御幸橋を通って宇品に入り学校まで。
 車で走るとすぐなのですが、少女たちが衣服が焼け焦げ、体中大やけど、歩くのがどんなに大変だったか。幾分わかっていただけたかと思います。
 広島女専はいま県立大学、共学の大学になり、正門は昔と全く別の場所にあります、昔の正門は裏門として残っているのを一昨年私は見たのですが、なんとそれも、なくなっていました。驚いてしまいましたが、位置関係だけを説明し、昔、第二県女の一棟だけの校舎のあった位置を説明しました。その後、為数美智子さんの家の跡をお見せしようと思ったのですが、一方通行なので大回り、竹内先生が広島市内の運転は、と嫌がられたわけが分かりました。そのあと私の家の跡に行きました。私の家の跡は今高齢者の施設になっていまして、有名な語り部・沼田鈴子さんが最期まで暮らした施設として有名です。我が家の北にあった広陵中学はもう郊外に行ってしまい、今はマンション街で、このあたりで、キノコ雲を見て、と説明するしかありません、そのあたりで一軒だけ昔からの古い家があって、一昨年までは昔のままあったのですが、今年は、まったく新しい建物になっていました。なるほど被爆建物が、減って行くはずだと思いました。  
 その後被服支廠に案内しました。私のクラスではここに来た人はないのですが、雑魚場地区で建物疎開作業中被害に遭った少年少女の多くがここに収容されましたし、わがクラスの森沢妙子さんの場合も兵器支廠と書いていますが、実はどちらか、よう覚えとらん、まあ、兵器支廠にしておいてくれと森沢さんのお父さん雄三さんが言われたので、もしかしたら被服支廠かもしれません。ここは倉庫が4棟残っているのに、それを一つだけ残して壊してしまえという県、国に対し、全部残せという保存運動が起こっています。古い建物を耐震の手当をして保存すると莫大な金が要るというのですが。しかし、行ってみて、倉庫の大きいことに驚き、ここに何千人もの被爆者が詰め込まれた様を思い、耐えられない思いがしました。その後、時間があったので兵器支廠の跡に行ってみようと思ったのですが、驚いたことに運転手さんは、兵器支廠がどこにあったかも知りません。取り壊されてもう影も形もないのですね、ここで堀池さんのスマホが活躍、兵器支廠の跡は広大医学部の病院になっていることが分かり、行ってみました。中の建物の中に壁の一部が保存されているそうで、説明のプレートがありました。
 この日はこんなことで終わり、明日六日は、広島の街や学校の慰霊祭相次ぐ中、私たちの学校の慰霊祭はしますので、明日そこへ来てくださいとお願いお別れしましたこれで、五日の予定は無事終わったのですが、驚いたことに、私はくたくたに疲れてしまいました。外に食事に行く元気も、食欲もなくなり、堀池さんがコンビニで買ってきたものの中で、冷たいうどんと豆腐がやっと口に入りました。堀池さんが来ると言った時、今年は大阪の俳優さんたちを案内するので、あなたにあまりかまってあげられないからと言ったのですが、彼女が来てくれてよかったと思いました。コロナは大丈夫ですが、(マスク、手洗いは当然、毎日検温も欠かさず)自分の高齢化現象には驚き貸した。いろいろなところで彼女に助けてもらい、今度の広島行きは彼女のヘルプなしではできませんでした。
 六日、慰霊祭、大阪の俳優さんたちは朝早くから来て参加してくださいました。第二県女の同窓会は高齢化のため解散、後を町内会に託しています。山中高女の方は広大福山分校の付属中、高校を継承校とすることに成功し、今慰霊祭は、町内会と山中同窓会の共催の形です、コロナ禍の今年も開催し、福山から若い生徒さんたちが来てくださり、感謝に堪えません。それに戦前、山中で教え、戦後第二県女の先生のなられた平賀栄枝先生、今年数えの九九歳なのに、福山から来られ参加されたのです。私を見て、「遠くからよく来てくれた」と涙を浮かべいぇよろこんでくださいました。当時の先生で生きておられるのはこの方だけです。来年も生きていて逢いましょう、涙が出ました。
 町内会の方も、頑張ってくださり「まだまだ頑張ります」と言ってくださいました。感謝です。
 この慰霊祭には、朗読劇に出て来る方、森沢妙子さんの弟さんと、藤井秀子さんの娘さんの斉藤正恵さんが来てくださることになっていました。森沢さんは見えましたが、斎藤さんは見えません。斉藤さんは約束をたがえたり時間を間違えたりする方ではありません、電話も連絡つかず家を出ていることは間違いないが、事故でもあったのではないかと心配しましたが、仕方ありません、次の場所、動員学徒慰霊碑に行きました。ここまで行くのが大変ですが、出山さんの夫人が来てくださり私たちを助けて車で運んでくださったのですが、平和公園は警備で大変、車を入れてくれません。動員学徒の碑は公園の外なのに、怒りながら碑まで歩きます。結構距離があって私はまたフーフー。動員学徒のところも今年は慰霊祭はしなかったのですが、献花に来る人があるというので、役員の方は詰めておられます。ここに本地文枝さんの甥、石川清子さんの姪の方がおられるのは、俳優さんたちに紹介しました。本地さんのお母さんは詳しく被害を物語られ、朗読劇の中でも圧巻の場面です。本地さんは文枝さんのお兄さんの子どもですが、おばあさんや、文枝さんと似て細面で、なんとなく感じが似ています。
 そんなことをしているうちに式典の中継を終わった出山さんも来られました。
 この後、公園の北の方にある供養塔に行きました。広島原爆の誰のものかわからぬ遺骨を納めてあります。県議と兼任で広島市助役になり、広島を平和記念都市にするなどブルドーザーのような剛腕で働いた森沢雄三氏が40万円という退職金を市に寄付、それで出来たのがこの供養塔です。森沢雄三さんは、身元不明の白骨の中に、行方のわからぬ娘・照恵さん(わが級友妙子さんの姉)の骨もあると考えたのでしょう。森沢雄三氏が戦後海に向かって「テルエー、タエコー」と叫ぶ場は朗読劇の盛り上がりの場です。供養塔の前で森沢さんは父の話し、供養塔の話をなさいました。供養塔のことは案外知られていなくて、俳優の中のある方は去年もヒロシマに来られたのですが、ご存知ありませんでした。供養塔を見ていただいてよかったです。
 こうして劇に出てくる遺族の方全てに引き合わせたのですが、斉藤さんだけが連絡つかず困っていたのですが、これまた堀池さんのスマホのおかげでやっと連絡がつきました、なんと彼女、五日に反核平和のデモに出て二時間も歩いたそうですが、その夕方気を失って昏倒、意識のないまま救急車で病院に運び込まれたそうです。六日の朝はまだ身動きできず、連絡もできなかったそうで驚きました。でも、事故などでなく無事が分かったし、堀池さんのスマホで聞いた声はもう大丈夫そうで、俳優さんたちとも連絡がつきました。
 私、東京に帰ってから斉藤さんと電話で話しました。彼女は平和、原爆反対に熱心で、私たちの学校の被爆二世の中で彼女のような方はおられず、感心しています。でも彼女も還暦です。「無理しないで、歳も考えて!」と言って笑いあいました。
 今年の広島の八六、縮小や中止ばかり、灯篭流しまでバーチャルとか、腹立たしくもある七五年目でしたが、私は充実しておりました。
 疲れもあり、七日は早々と帰ってきましたが、新幹線はガラガラ、驚いてしまいました。コロナ防止のためには「最高の環境」ですが、考えてしまいました。


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