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日本の原風景を読む №7 [文化としての「環境日本学」]

序 まほろばの里で イザベラバードの奥州路  
文化としての頂の灯 - 高畠 1

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

詩人の志、農民の努力、蘇った大地
 いくつものトンネルで奥羽山脈を越え、東北・山形新幹線は高畠駅へ着く。山形県東置賜郡高島町。最上川が北へ流れ、蔵王、飯豊、吾妻の山並みが東、西、南へ連なる。一八七八年、イザベラ・バードが「東洋のアルカディア」、「エデンの園」と記した米沢平野の山沿いに高畠町はある。土地の人々が「まほろばの里」と呼ぶ美しい町だ。
 置賜は国のまほろば 菜種咲き
 若葉茂りて 雪山も見ゆ  (結城哀草果)
まほろばとは『古事記』などに記された「まほら」、丘や山に囲まれた稔り豊かな住みよい所を意味する。
 七月に入ると、里山の田んぼにへイケ蛍、山あいにはゲンジ蛍が飛び交い、水辺では「キュルルルー」、カジカが涼しげに鳴く。
 一九七三年、農薬と化学肥料を多投する農法に危険を感じた二十代の農民三八人が、農民詩人星寛治さんを指導者に有機無農薬の稲作りに踏み切る。奥羽山脈の直下、「クマ出没」の旗があちこちに翻る中山間地稲作の行く末を有機無農薬農法に托した決断でもあった。余剰米の処理に行き詰まった政府が、米の生産調整(減反)を始めた年である。共感する首都圏の消費者がコメやリンゴを買い支えた。コメの値段は蛍が住める環境の保護費込みで、四四年間変わることなく六〇キロ三万五千円で取引されている。平均的な米価の三倍に近い。「環境支払」の原型だ。有機無農薬の稲作り、支援する都市の消費者と手を結ぶ生産者・消費者提携活動は一九七三年、高畠和田地区から始まり全国へ広がった。
 奥羽山脈の直下、高島町の和田地区は、一九七四年『朝日新聞』に連載され、大きな反響を呼んだ有吉佐和子の『複合汚染』の取材現場となった。有吉がその味わいを激賞した紅玉リンゴの樹を星さんは今も大切に育てている。
 「有機無農薬農法とは、地上に生きるすべての生命に優しく接触し、かかわっていくことです」。星さんはそう語る。
 蛍の灯は、大地にいのちが蘇ったことを伝える自然のシグナルなのだ。一九八九年、星さんは町の教育長に推された。全ての小・中学校に田んぼと林を贈り、耕す教育を始めた。志は今もしっかり受け継がれている。
 築二五〇年、堂々たる民家を「民俗史料館」とし、ここを拠点に東京、大阪の著名な大学がこぞってゼミナール合宿を開き、星さんの講義を聴いた。都会からの援農者たちの集いの場にもなっている。その庭の一隅に、「子供に自然を、老人に仕事を」と刻まれた有機無農薬農法の指導者一楽照雄の石碑が。

農民一揆と自治の精神
 一六六四年、米沢藩は江戸幕府から半領削封を受け、以来屋代郷(現在の高畠)は幕領地となり同時に同藩の預地となった。上杉鷹山による改革がおこなわれる以前の米沢藩は厳しい重圧政治を行い、年賀の滞る貧農は取り囁す年貢徴収第一主義をとった。悪政と言われた重税や専売制も加わり、屋代郷の農民は米沢藩支配を嫌い、代官が直接支配する幕領地を望み、しばしば米沢藩からの離脱運動、一揆へと打って出た。
 町立二井宿小学校は学校農園で生徒たちが作る野菜類を用い、五〇パーセントを超す高い給食自給率で知られる。校庭の一角から巨石に「酬恩碑」と刻まれた石文が見下ろす。農民一揆の先頭に立ち、処刑された肝煎り高梨利右衛門をたたえる碑である。巨大な高畠石の碑が役人に倒される度に 仕民は権力や上からのお仕着せ的な政策に対してしばしば自治、自律ともいうべき特性を発揮した。自らよく考えて行動し、潮流に逆らっても信ずる道を進む気質を住民が培ってきた。戦後の高度成長期に多くの農山村が荒廃していく中、とりわけ高畠和田地区の農民有志は自給、自活を掲げ、地域社会に根ざした有機無(減)農薬運動を点から面状に展開し、「たかはた食と農のまちづくり条例」の制定(平成二十年)へ到る。


『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店

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