第五福竜丸は平和をめざす№4 [アーカイブ]
第五福竜丸は平和をめざす④
特別寄稿・無線長久保山愛吉さんのたたかい
作家・元TBSニュース チーフディレクター 鈴木茂夫
風化した私の取材ノートに、あの鮮烈な時間が息づいている。
昭和29年夏……
日本国民は一人の男の病状を気遣っていた。
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3月1日、中部太平洋マーシャル海域でで一隻のマグロ延縄漁船がアメリカの水爆実験による死の灰を浴びて帰港。放射能症に冒されていることが判明したからだ。
国立東京第一病院3階南病棟11号室、そこが第五福竜丸無線長・久保山愛吉さんの病室だ。小山副院長、熊取主治医が懸命の治療に当たっている。しかし、治療法は確立されていない。
8月末、小康状態だった病状が悪化。
このため、報道陣は、病院前の小旅館に泊まり込みを始めた。
私もその中の一人だった。
この年の春、ラジオ東京(現TBS)に入社した録音ニュースの制作のディレクター。
病状発表が1日に3回になった。
「体温36度8分、脈拍90、呼吸18……」
この内容から、病状をどう読み取ればよいのか。私にはまるで分からない。知り合いの医師に訊ねてみる。首を振るだけだった。
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病院での発表の後、取材本部の旅館に戻る道筋には、
流行歌「お富さん」旋律が流れている。
「粋な黒塀 見越しの松にあだな姿の洗い髪……」
それは奇妙な対照だった。
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9月2日午前、新聞、テレビ、ラジオ、ニュース映画などの代表取材。
私はマイクを握って病室に入る。20畳あまりの広さだ。久保山さんがベッドに一人。黄ばんだ顔。閉じた瞼。枕元にすずさん。夫を見つめている。妻はひたすらに看取りつづける他になすすべはない。 時が緊迫を刻んでいる。
久保山さんのあえぎ。酸素吸入のフラスコの中から、泡立つ空気の音。
私はそこにマイクを差し出した。くぐもったポコポコという響き。それがラジオで伝えられる唯一の生きている証だった。
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この頃、ラジオが放送の主役だった。午後7時過ぎからの録音ニュースを、多くの人が聴いていた。
だからこそ、良い病状を伝えられないことを後ろめたく思ったりしていた。
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9月23日午後6時56分、主治医が久保山さん死去を発表。
死因は、放射能症。所見として身長157センチ、体重52キロ、全身に無数の火傷、死の直前に白血球が異常に増えたという。
久保山さんは
「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」
という言葉を遺した。
妻すずさん(33歳)、3人の女の子(みや子9歳、安子7歳、さよ子4歳)、母しゅんさんが遺されたのだ。
2人の医師の眼に光るものがあった。
一瞬、記者団も沈黙した。しかし、すぐに誰もが本社への連絡にと駆けだした。
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26午後1時35分、遺族は、東京駅から東海道本線豊橋行きの普通列車の3等車両に乗り込んだ。
すずさんの膝には遺骨の包み。身じろぎもしない。
列車は一つ、一つとすべての駅に停車していく。そこには深く頭を下げて、手を振る人びとの群がりがあった。 すずさんは、そっと黙礼して応える。
午後6時5分、列車はようやく故郷焼津の駅に到着。
3月28日、故郷を後にして181日目のことだ。
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それからしばらくして、また焼津を訪れた。
自宅からほど遠くない、菩提寺・弘徳院の墓所に遺骨が収められた。
僧侶の読経、漁協の関係者、近隣の人の声を収録、仕事は終わった。
私はふと思い立って、寺の後背にある虚空蔵山の小径をたどった。山頂からは、太平洋を一望できる。船舶無線電信発祥の碑があった。
久保山さんもこの碑を見て無線技術者として身を立てることを志したのだろうか。
日本本土から4000キロ離れた太平洋の漁場から、久保山さんは電鍵を叩き、ツートト、ツーツーツーとモールス信号で漁獲と安否を送り続けていたのだ。
麓から吹き上げてくる風に乗って波の音。私の耳には、焼津漁協の通信室の、絶え間ない信号音が、それに重なって聞こえた。
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