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戦後立川・中野喜介の軌跡№5 [アーカイブ]

  基地と横流し(2)                 

                            立川市教育振興会理事長・中野隆右

 基地の中から持ち出すだけでなく、基地の引き込み線を出入りする貨車からもたびた荷物を失敬したという。たとえばこんな具合だ。
 「当時の汽車は石炭車でした。線路を横切る道路へ通行人なり自動車なりが通ると、駅員が汽車の先に回って止めていました。そして通行人や車を優先させて、もう誰もいないなとなると汽車を通していた。そういう状態だから、走っている時でもそんなに速度はなかった。そこで、その貨車に乗り込んで、荷物を失敬する。米軍用の貨車に積まれた荷物の箱には番号がついていて、番号を見ればどんな品物が入っているか区別がつきました。番号の見分け方は基地の通訳から事前に聞き込んでいましたから」
 基地の中から物を持ちだすには、基地の中に入り込まなければならない。当時の基地のゲートは、フインカム基地の正門のほか、西立川、中神、今の大山団地近くのランドリーゲート、それから砂川に一つあった。当初の出入り口はそれだけしかなかった。
 ゲート以外の周囲は、全部バラ線が張り巡らしてあった。そして出入りはほとんどが正門からだった。
 「最初は基地に入るのは全部、MPでも何でも正門からでした。それから二年ぐらいしてから日本人の警備員をMPと一緒につかせるようになった。これは専属の職場に通うような日本人の従業員の出入りが激しくなったからです。それまでは、全部その日その日の日雇いの時にはまとめてトラックで入るのでパスは必要なかった。でも、それぞれクラブだとか、ランドリーだとか、それぞれのハウスメイトだとか、ボーイとか、そういう固定した仕事を持つようになって正式に個人的なパスをもらうようになると、日本人の通用門では英語だけしか通じないと困る場合がある。だから今度はMPだけでなく日本の警備員も一人必ずつくようになった。 それでなおかつ用の足りないときは、適訳が一緒に同伴する。また、パンパンの場合は自由に出入りはできないけれど、兵隊が一緒に行けば、自由に出入りできるわけ。だから、土曜、日曜なんかになると、パンスケがみんなゲートのところへ来て、それぞれ約束した彼が迎えに来る。それでゲートのところでメモへチェックして自分の名前と女を一人どこのクラブへ連れて行くなどと書いて一緒に入るわけです」
 基地の中に正規に入り込むにはこのようにパスが必要だが、そんなものはない。使役で入った時のように理由があればともかく、そうそう都合よく入り込めるきっかけなどあったものではない。かといって忍びこもうとしても、軍事基地であるから警備自体は決して甘いものではない。
 とにかく手っ取り早く米軍物資にありつくためには、米軍基地に出入りする貨車を狙うのが一番だったのだ。ちなみに、当時米軍基地から持ちだした物品で、一番値がよかったのは、当時不足していたフィルムだったという。
 もちろん悪事は悪事。いつでもうまくいくとは限らない。時にはこんな失敗もあった。
 「ある時、時計をうまく引き出しました。懐中時計のような大きな時計を五十個ぐらい。それを時計屋さんへ持っていった。"おやじ、この時計買わないか″って。するとおやじは、〝何だ、こんなもの″って言うんだね。"これ、時計ったって、ストップウォッチだ。こんなものをうちは買わない"って。当時、スポーツなんてやる機会がないでしょう。だから分からなかったんですよ。かといって私が持っていてもしようがないから、"もう、幾らでもいいから″って、あの当時でたしか二百円ぐらいで引き受けてもらいました」
 この時引き受けてくれた時計屋さんは、街の普通の時計屋さんである。この当時は、一般の商店でも、闇の商品を引き受けていたのだ。また、少なくとも前後のやりとりから、故買品だと想像がついたはずなのだが。
 「そりゃ、分かっていても平気で買っていましたよ。横流しとか何とか言っても、もうかるんだもの。タバコでも何でも、みんなどこから来たのか分からないようなものを売っていましたよ」
 ただし、決して闇物資の取締りがゆるかったというわけではなかったようだ。A氏は続ける。
 「その当時は、アメリカ軍がまだ基地に来たばかりで、ジープに乗ったMPが街をいろんな面で取り締まっていました。あいつらは威張りくさっていやがってね。しかも怖かったですよ、大きいしね。それがまた反感を感じるんだよね。街へ乗り 込んでくるMPは、露天商の側から言わせれば、我々の縄張りのところへやってきたということになる。それで本当に拳銃の撃ち合いなんかしたんです。当時の模様なんていうのは、本当に西部の開拓地と同じですよ。外人を日本人がみんなで袋たたきにして、緑川の中へ放り込んだり、そんなことはもうしょっちゅうありましたよ」
 こののち、A氏の生活も変転をとげていくことになる。『立川 昭和20年から30年』ガイア出版


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