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昭和の時代と放送№3 [アーカイブ]

時間メディアの誕生                              

                                元昭和女子大学教授   竹山昭子

無線電話(ラジオ)の公開実験-新聞社による先駆け②
 関東大震災が日本を襲ったのは、まさに、こうしたラジオというニューメディアへの関心が高まっていた最中の1923年9月1日のことである。帝都東京を大混乱におとしいれ、14万人を超える死者、行方不明者を出したマグニチユード7.9の大地震は、人びとに”ラジオさえあれば流言飛語による人心の動揺を防げたであろう″という思いを起こさせ、放送事業開始の要望が急速に高まっていく。
 それを受けて逓信省は23年12月21日、逓信省令「放送用私設無線電話規則」を公布する。これは放送局を建設・運営しようとする者、および受信機を設置して聴取しようとする者に必要な手続きや守るべき事項を定めたもので、放送事業民営の可能性を公に確認することを意味したから、各地の無線電話の公開実験はそれ以前にも増して一段と活発になった。

  ▽報知新聞社は、1923(大正12)年春、東京有楽町の本社に送信装置、上野公園の第3回帝国発明品博覧会会場に受信設備を設け公開実験を行った。これは放送の企業化を目指す本堂平四郎が製作した東洋レディオ式機器を用い、東洋レディオ会社と共同で、3月20日から5月20日まで受信公開を行った。
  この受信公開では、報知新聞の記者が本社の屋上からニュースを通話して人気を博したと記し、写真も掲載している。線がないのに遠くの声が聞こえる不思議さの体験である。

  報知新聞は翌1924(大正13)年にも公開実験を行った。これは無線知識の啓発に情熱を傾けた加島斌の主宰する無線科学普及会が10月25日から11月9日まで上野不忍池畔で開催した無線電話普及展覧会に協賛して行った「音楽の無電放送」である。
 展覧会には多くの電気・無線業者が送信機や受信機、部分品を出品、また加島自身による放送実験公開も行われた。日本電気会社所有のウエスタン電気会社製放送機を展覧会場に据え付け、受信所を三越ほか数か所に設けて、洋楽、和楽、講演などを放送した。

 会場における報知新聞の放送を紙面から拾うと、毎日午後3時から4時まで新聞記事(ニュース)、午後7時から8時半までは日本蓄音器商会芸術家による独唱やピアノ、ハーモニカ、琵琶、長唄などを、聴取所を銀座日本蓄音器商会、上野いとう松坂屋、鍛冶橋中山太陽堂に設けて聴衆に聞かせた。
 出演者は声楽・柴田秀子、武岡鶴代、松平里子、ピアノ・榊原直、琵琶・高峰筑風、長唄・芳村孝次郎といった一流の芸術家であった。最終日、9日の紙面の番組表「報知ラヂオ」には、松竹座で公演中の「カルメン劇」の井上正夫(ホセ)、英百合子(カルメン)の独白(せりふ)という演目もある。
 銀座日畜前などは聴衆がひしめきあい交通巡査が出動したと伝えられている。
『ラジオの時代・ラジオは茶の間の主役だった』竹山昭子著 世界思想社 2002


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