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雑記帳2024-2-1 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2024-3-1
◆三光院サロンの講座、斉藤陽一さんの「京都ルネサンス」から、伊藤若冲の「動植綵絵」の一部をご紹介します。

江戸時代に活躍し、人気のあった伊藤若冲は明治以降、長く忘れられていました。1974年、今からちょうど50年前に、日本美術史研究家の辻惟雄(つじのぶお)が若冲を紹介しましたが、当時、研究者もおらず、若冲への社会的関心はたかまっていませんでした。
辻惟雄は若冲に先だって、江戸期の岩田又兵衛や歌川国芳を「奇想の系譜」に位置づけて紹介しています。二人とも、正統派からちょっと外れながらも個性的で優れた浮世絵を残しています。

10年ほど遅れて若冲を世に出したのは京都にいた狩野博之さんです。狩野さんの案内で、2年前のコロナ禍に、京都に若冲ゆかりの寺を訪ねたことを思い出しました。雑記帳(2921-10-15)にも書きましたが、紅葉にはまだ遠い秋に、義仲寺や相国寺、伏見の海宝寺や石峯寺をまわったのでした。海宝寺には若冲の筆折りの間が残されており、石峰寺は若冲が最晩年を過ごした地です。庭には若冲の彫った五百羅漢が無造作に置かれていました。大津の義仲寺には、若冲が石峯寺のために描いた天井絵130枚のうち15枚が移されていて、その謎がとけたのを憶えています。

21世紀にはいって、京都だけでなく、上野の国立博物館でも若冲展が開かれると、若冲人気に火がつき、2016年に東京都美術館で開かれた若冲生誕300年記念展には長蛇の列ができました。2年前に、若冲の「動植綵絵」が皇室の私有財産から国のものとなり、国宝に指定されたことはまだ耳新しいニュースです。

大胆な構図、まぶしいほどの色彩、細部にわたる細やかな描写に、人々は目を奪われました。彩色、点描、障壁画、モザイク画、水墨画・・・あらゆるジャンルを形式にとらわれずに描いた、高価な絵の具をおしみなく使っているなどから、自由に枠にはまらず、実験をすることができた画家としてしられるようになり、若冲は今や国民的画家になっています。

1716年(正徳6)若冲は京都・錦市場の青物問屋「桝屋」の長男として生まれました。生家は、代々伊東源左衛門を名乗り、市場の株を持つ裕福な家系でした。
周辺には蕪村、応挙、池大雅が住み、18世紀後半の京都はまさに京都ルネサンスと呼ぶにふさわしい土地でした。
24歳で家督をつぎましたが、絵を描きはじめたのもその頃とされています。
「若冲」の画号を用いるようになったのは30歳のころです。

若冲の画号は、相国寺の大典顕常が名づけたといわれています。出典は「老子第45章」にある「大盈若沖 其用不窮(大盈(たいえい)は沖(むな)しきが若(ごと)く 其の用窮(きわ)まらず)」。若冲の「冲」の字は「沖」の俗語です。

この画号を用いた最も初期の作品は「松樹番鶏図」。若冲36歳。若冲居士の落款が見られます。

若冲は最初、狩野派に学んだものの、永徳の粉本(ふんぽん)主義に飽き足らず、次に、中国古画千本を模写したと言います。そして、いくら模写しても彼らと肩は並べられないと悟り、自宅の庭で数十羽の鶏を飼って観察・写実することを始めました。なので、初期の作品には鶏の絵が多いのです。

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40歳で家督を次弟に譲って隠居、画業三昧のくらしにはいります。弟もよく兄をささえ、自らも絵師として兄の一門に名をつらねるなど、兄弟仲はよかったようです。
この時の若冲を明治の画家、久保田米遷が出家者として描いています。

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先の相国寺の大典顕常とは30代半ばに知り合い、同じ年ごろとあって、若冲の生涯の心の師になりました。
大典は禅僧で詩人。早くから寺の住職を嘱望されながら、住職になる前に寺を出て詩を書いていた時期がありました。常人を越えた、細部に渡る細かな描写へのこだわりがまるで何かにすがるような感さえある若冲に、大典の影響があったのかもしれません。

若冲の心の師はもう一人いました。
黄檗宗の僧・月海で、その名も売茶翁(ばいさおう)です。
大変な学問僧でしたが、50歳の時、僧職をすて、煎茶をたてて、僅かの金を得ながらひょうひょうと暮らしていたと言います。このため、人々に売茶翁と呼ばれ、煎茶の中興の租ともいわれています。
大典、売茶翁、二人が若冲に影響を与え、いわば、二人の関西の知識人のネットワークの中に若冲も組みこまれたといえるでしょう。
若冲の描いた売茶翁の肖像画が残っています。

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そして、43歳の時に描き始めた「動植綵絵」は、51歳ごろに完成。一括して相国寺に寄進されました。
綵は五色の彩りを言い、綵雲といえば浄土にかかる美しい五色の雲です。名前が示すように「動植綵絵」は仏の世界を荘厳する絵でした。
若冲は同時に広幅の絹地に描かれた「釈迦三尊像」を寄進しています。

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臨済宗の相国寺には「観音懺法(かんのんせんぽう)」と呼ばれる重要な法要がありました。毎年行われる観音懺法の時に、寺は方丈に若冲の絵を並べて、信者の目に触れるようにしたのです。
こうして、動植綵絵は釈迦三尊像と一体となって、京の人々にごく親しまれ、人気のあった存在でしたが、明治の廃仏毀釈にともなう寺の衰亡のおりに、動植綵絵は皇室に献納されて、御物として秘蔵されることになりました。そして、2021年、皇室の手を離れて国宝に指定されたのです。長く忘れられていた若冲の絵は、秘蔵されていたおかげで保存状態は良く、再びよみがえったのでした。

そんな「動植綵絵」を高精度画像を駆使してみれば、様々な技法をこらした画面の、目に見えないような細かな部分にまで若冲が気をくばっていたことがわかります。
1幅目の「芍薬郡蝶図」をみてみましょう。

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この図は珍しく空間がたっぷりあります。花にとまるアオスジアゲハを除いてほかの蝶はみな宙を舞っていますが、標本のよう。まるで白日夢の雰囲気です。おなじものを描きながら一つだけちがうものを忍び込ませる、若冲好みの構図のようですが、宙を舞う蝶を標本のようにこれ見よがしにたくさん描いたのは、この時代は博物学ブームがあったこともあるようです。ちゃっかり時代の空気も読んでいるのですね。

芍薬の描写も精緻を極めています。一つ一つの花は微妙な濃淡で描きわけられています。
輪郭線を用いずに彩色の濃淡だけで描く画法は没骨法と呼ばれるもので、芍薬の花びらに輪郭はありません。絹の地色が意識的に活かされているのです。
また、絹の裏側から色を塗る裏彩色は、肌裏に黒を使い、絹地を通して黒が仄かに浮かんで見えます。

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二幅目の「梅花小禽図」では、空間充填癖の若冲らしく、画面に隙間なく描かれた梅の木の一つ一つの花までが細かく描かれています。花におさまる点々は雄蕊の花粉でしょうか。

細かく見ればきりがないほど細部にこだわるのはなぜか。若冲は「人の目にはみえなくても、仏の目には見える」と言っています。
若冲の絵は仏を希求する若冲の心そのものだったのではありませんか。

若冲の絵が再び紹介されたとき、人々は驚きをもって若冲を迎えました。今世界的にも人気のある若冲を、世界は「最初に光に目覚めた画家」だと評価しています。
若冲が「動植綵絵」を描いたのは、光を追求した印象派が西洋に生まれるよりもずっと前のことでした。

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1788年(天明(8年)若冲は京都の大火により居宅を失います。78歳でした。
晩年は伏見・深草の黄檗宗・石峯寺の門前に庵を結んで暮らし、1800年(完成12年)85歳で死去しました。
大火にあうまでは画材に金の暇をかけず、描いた絵も全て寄進していた若冲でしたが、流石にこのころは売画を余儀なくされたということです。


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雑記帳2024-1-15 [代表・玲子の雑記帳]

2024-1-15
◆台湾総統選挙がおこなわれました。知の木々舎には台湾在住の何聡明さんから、昨年末に、総統選の行方について寄稿がありました。「有事」が取りざたされる中、総統選の結果と頼政権の行方をまとめてみました。

 4年に1度の台湾の総統、立法院議員選挙が終わりました。1月13日、台湾の1900万人の有権者は次の4年間を担う指導者をえらんだのです。民進党・頼清徳氏が国民党・侯友宜氏に90万票の差をつけ勝利しました。

民進党・頼清徳5586019
国民党・侯友宜4671021
民衆党・柯文哲3690466

頼清徳氏は勝利宣言を行い、よびかけました。
「この結果は台湾の人びとの民主主義の勝利であり、これまでの8年間、蔡英文総統が中国の覇権主義に対抗し、民主化を進めてきた路線の正しさです。私もそれを引き継ぎます。平和的で民主的な対話のみが、台湾海峡を挟んだ台湾と中国の人の最大の利益となり、双方が利益を得る唯一の方法です」
頼清徳氏は5月に新総統となり、これから4年間の台湾を率います。

一方、定員113人の立法院の選挙では、民進党51、国民党52、民衆党8の結果でした。
政権与党の民進党は、選挙前61の議席を持っていましたが、今回過半数割れとなりました。国民党も過半数には達していません。過半数歩をえて円滑な議会運営をはかるためには、民衆党の協力が必要となります。民衆党がキャスチング・ボートを握りました。

台湾は東京から台湾の首都・台北まで約2000キロ、飛行機で約3時間の距離にあります。
台湾島は中国福建省の海岸から台湾海峡をはさみ160から180キロ東に位置します。
日本と台湾が近いことから、台湾からの旅行者は年間489万人、台湾を訪れる日本人旅行者は217万人とお互いに親密な関係です。

台湾は中華民国という独立国家です。国家とは、国土、国民、政治組織をそなえている機構を指します。台湾は台湾島という国土、2400万人の台湾人という国民、中華民国という政治組織をそなえています。中国は台湾と外交関係のある国にけ、援助などを持ちかけることで、台湾と断交するようにはたらきかけました。その結果多くの国が断交に踏みきり、現在国交のあるのは13ヶ国に縮小しています。この中にはバチカン市国があります。
この国はイタリアのローマ市内にある。カトリック信仰の中心で、ローマ教皇が統治しています。中国が強権により、チベット、新疆ウイグル自治区で、住民の思想改造を行い、拷問や収容所で強制労働などを行ない、国内の カトリック信者の信仰の自由を圧迫していることもあり、民主主義の定着している台湾と外交関係を維持しているのです。

これに対し、中国は台湾は中華人民共和国の一部であり、それは中国の基本的な考えである。そして台湾を中国の領有にするためには、武力を使うと主張しています。

台湾の帰属は曖昧なままにされてきています。。
台湾は895年の日清戦争の結果、日本に割譲されました。台湾は日本の植民地して総督府が置かれ、産業、文化、教育、交通の近代化が進められました。
1945年10月、台湾総督兼日本陸軍第10方面軍司令官の安藤利吉大将は、中華民国代表に対し。総督府の機能と軍の降伏を記した降伏文書に署名しましたが、台湾がどこに帰属するかは書かれていません。
中華民国は、台湾は中華民国に属するとして軍隊と総督府が管理の要員を派遣して、実体的に台湾を領有しました。
日本政府は台湾の帰属について、見解を述べたことはありません。それについて国際会議が開かれたこともなく、中華民国の実体的領有がつづいているのです。

台湾の武力解放とは、中国が台湾解放と称して兵力を武力を発動することです。中国は世界第3位の軍事大国です。陸軍兵力で約200万人、戦車3500、装甲戦闘車33000,空軍で約3500機、中距離弾道ミサイル(IRBM)と準中距離弾道ミサイル(MRBM)を278基を保有しています。
真偽の程は分かりませんが、中国は福建省沿岸に、6000発のミサイルを設置しているといいます。海軍は航空母艦3隻、弾道ミサイル原子力潜水艦7隻、攻撃型原子力潜水艦9隻、通常動力型潜水艦48隻、駆逐艦50隻、フリゲート57隻、コルベット27隻、高速戦闘艇65隻以上、ドック型揚陸艦4隻、戦車揚陸艦29隻、強襲揚陸艦2隻を保有しています。
これに対する台湾の兵力は、陸軍24万人、戦車1000両、装甲戦闘車1000両、航空機1250機。海軍は約40,000名の兵力を有し、128隻の艦艇、28機の航空機を運用しています。
とてもまともに対抗できる状況ではありません。

中国はどのように台湾を攻撃するでしょうか。中国にとって台湾の軍事能力を粉砕し、国民生活を破滅させることは難しいことではありません。しかし、中国は台湾を領土の一部とし、台湾国民を中国人民としていかなければならないのです。このようなやり方はとれません。

台湾の損害を必要最小限にして台湾を占領しなければならないので。どこの何を攻撃し、どこの何は保存するのかを決めておかなければなりません。その作戦展開は難しいことです。
一方、受けて立つ台湾はどうするのか。台湾の指導者は、台湾の兵力の限界は百も承知しています。台湾防衛には、アメリカの支援が必要不可欠です。

アメリカには、1979年に制定された「台湾関係法」があります。これは台湾を防衛するための軍事行動の選択肢を合衆国大統領に認める。米軍の介入は義務ではなくオプションであるため、アメリカによる台湾の防衛を保障するものではないとしています。台湾有事の際に、軍事介入を確約しないアメリカの伝統的な外交安全保障戦略は、「戦略的あいまいさ」(Strategic Ambiguity)と呼ばれます。

中国が武力を発動したら、アメリカはどうするのか。それはアメリカ大統領の選択にゆだねられています。とはいえ、多くの人は、自由陣営の旗手であるアメリカが、軍事力を発動するのは自明のことと見ています。日米安保条約により、日本も協同することになるでしょう。
この法律の存在が、中国の行動に制約をかけていると思います。これと並行して東太平洋を担当する世界最強のアメリカ第7艦隊の存在が、中国を牽制しています。
中国が声高に、台湾解放を主張しても、台湾有事とならないのは、この法律と第7艦隊の存在の効果だと思います。

現在、約100万人の台湾人が中国で働いています。 中国はこれらの人びとにさまざまな制約をかけています。難しいことですが、賴政権はこの人達の生活を守るために働きかけなければなりません。
台湾人の間に、自分は台湾人であるという意識が増えています。それは中国の台湾政策によって醸し出されたものです。
民進党は、台湾独立を意図していますが、現在、それを主張していません。両者の関係が先鋭化し緊張が高まるからです。アメリカもそれに反対です。
台湾海峡に緊張がうまれない現状維持(STAT US QUO)が好ましいのです。
賴新政権の行く手は容易ではありません。

◆三光院の1月のおもてなし。睦月の献立には、いつもの花の宴に金銀富貴が加わりました。

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前夜、雪がちらついた当日は暖炉のお出迎え。
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三光院の紋、ササリンドウの紋最中
 あんこは 大徳寺納豆のほんのり塩味が効いてます。

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お煮しめ
ヤマトイモの海苔巻き、高野豆腐の含め煮、牛蒡の胡麻和え、南京の煮物、

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豆腐の茶碗蒸し
具材はなす、しいたけ、人参、ぎんなん。卵は使えないので豆腐を使って。

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金銀富貴
金は金柑、銀はぎんなん、富貴はふき、この3種が盛られた一皿。
今年一年、金銀に恵まれて豊かな年になりますようにの願いをこめて。

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香栄とう冨(豆腐の燻製)
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  木枯らし(なすの田楽)
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あかのおばん(御所言葉で小豆ご飯のこと)

三光院サロンの斉藤陽一さんの今年の講座は名付けて「京都ルネッサンス」。講座の最初の主人公は若冲です。

若冲が居住していた京都・錦市場にほぼ近く、お~いと呼べばこたえられるくらいの地域に、時を同じくして蕪村や池大雅、円山応挙が住んでいました。

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彼らは互いに影響し合って、江戸とはまた違った文化を育みました。その流れはやがて次の世代にうけつがれていきます。まるで、19世紀後半、フランスではバルビゾンに印象派が集い、やがてそれは世紀末と呼ばれた世代を産み、さらにはドガやゴッホらの世代へとつながる土壌を作ったのと同じではありませんか。

明治以降長く忘れられていた若冲の人となりについては詳しいことはわかっていません。かかわりのある相国寺の大典和尚の文書もひもときながら、若冲の残した傑作「動植物綵絵」30枚を読み解いていく講座はなかなかに興味深く、次回以降にご紹介したいと思います。お楽しみに。

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若冲の肖像画
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若冲の数少ない友人売茶翁
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若冲の最初の絵にも鶏が描かれている。


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雑記帳2024-1-1 [代表・玲子の雑記帳]

2024-1-1
◆明けましておめでとうございます。

2009年に創刊した『知の木々舎』は、今年は丸15年、5月には16年目にははいります。
ご縁を頂いた執筆者は100名を越え、いまも月2回の更新は変わらず、毎回20点ほどの記事を掲載しています。
創刊当初から原稿を寄せてくださっている執筆者もいれば、創刊当初からの熱心な読者もいらっしゃいます。
この間には亡くなられた方もいらっしゃいますが、その度に新しいご縁が生まれました。
武蔵野の雑木林が豊かなくらしを育んだように、「くらしの中に句読点」を掲げて、今年も武蔵野の地からの発信を続けます。

◆清春芸術村は、山梨県北杜市にある芸術文化複合施設です。
清春白樺美術館、安藤忠雄の光の美術館を始めとし、アトリエ、茶室、図書館など複数の施設が開設されています。

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清春白樺美術館は、武者小路実篤や志賀直哉ら白樺派同人による美術館構想を、親交のあった吉井長三が私財を投じて実現したことで知られています。
銀座に画廊をもつ吉井は、廃校になっていた清春小学校を訪れて、八ヶ岳や南アルプスの山々に囲まれ、遠くには富士山をも望むその景観に魅了されたといいます。のちに桜の季節に友人の小林秀夫や白洲雅子らと共に訪れ、その後押しもあってこの地を購入たというエピソードが残っています。

白樺派は文人だけでなく、画家や思想家等様々なジャンルの芸術家が集っていました。印象派は彼らを通じて日本に紹介されたのでした。
小学校跡地にふさわしく、グランド周辺に何本となく植えられていた桜の木がそのまま残されて、春には美しい光景が見られます。私がたずねたのは12月中旬、一本の冬桜が満開でした。

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村のシンボルであるラ・リュージュの建物は1981年に芸儒家たちの集合アトリエとして建てられました。1900年のパリ万博に建設されたパビリオンと同じ設計です。アーギュスト・エッフェルが芸術家のアトリエ兼住居として設計した建物が万博でパビリオンとして使われ、万博終了後、シャガールやモジリアニなど20世紀を代表する画家たちのアトリエになったことに因んでいるのです。エッフェルの名はこれも万博の遺産、エッフェル塔に残っているのはご存知の通りです。

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ラ・リュージュ
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エッフェルと螺旋階段

一番面白いと思ったのが『撤』と名のついたツリーハウスです。
一本足の茶室を支える檜は清治村に植わっていた樹齢80年の檜を倒してつかったものだそうです。地上4m、室内は1.7坪の究極の茶室です。名前は哲学者の谷川徹三からとったそうです。ツリーハウスは、キャンピング大流行の今なら特に珍しいことではありませんが、以前四国の中津万象園を訪ねて、江戸時代、殿様一人用の茶室が内海を見下ろす岩のてっぺんにあったのを思い出して、昔から人のあこがれだったのかもしれないと思っています。いみじくも名付けた『轍』に因んで、独りになれば人は哲学する気分になるのかもしれません。

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茶室『轍』

ルオーの礼拝堂は20世紀最大の宗教画家であるルオーを記念して建設された礼拝堂。入口ドアの上にはルオー自身の制作した美しいステンドグラスが飾られています。光の美術館は、展示室に人工照明はなく、季節や時間とともに変化する自然光のみで作品を鑑賞するしくみになっています。設計者は安藤忠雄。

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安藤忠雄・光の美術館
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白樺の林を抜けてルオー礼拝堂へ。
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清春白樺美術館は企画展中なので菅愛撮影禁止。外観だけOKでした。

芸術村の複数の建物は、一度にたてられたのではなく、何年もかけて拡充されてきました。
設立当初のコンセプトどおり、芸術家同士、あるいは訪れた人同士が交流できる場になっているようです。

おりしも、清原芸術村といくつかの美術館や神社をつないで、山梨国際芸術祭がひらかれていました。
近年の多様性重視の文化は実は細分化や分断を招き、孤独や閉塞感をもたらしていると言われます。八ヶ岳のフォッサマグナの分断に位置する北杜市が、分断を抱えながらも豊かな生態系を築いている八ヶ岳から、多様と連帯を両立するヒントを得ることは出来ないかと生まれた芸術祭です。

その会場の一つ、中村キースへリング美術館は、2007年に設立された新しい美術館です。

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キース・ヘリングは、アンディ・ウォーホルやジャン=ミシェル・バスキアなどと同様に、1980年代のアメリカ美術を代表するアーティスト。わずか31年という短い生涯で、希望と夢を残していった伝説のストリート・アーティストです。彼の名を知らなくても町のどこかで彼のイラストを見た人はたくさんいるのではないでしょうか。
傾斜のある、迷路のように辿る館内は、現代のポップアートの展示を更に面白くさせ、子ども連れの家族の姿も見られました。

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清原白樺美術館が先駆けとなって、北杜市には芸術家のアトリエや美術館が次々に誕生しました。平山郁夫シルクロード美術館はJR小海線の甲斐小泉駅のすぐそばにあります。ここにはシルクロードに魅せられた画家の1万点に及ぶコレクションが収納、展示されています。豊かな自然に恵まれて、北杜市は今、進化するアートタウンとして注目されています。

◆国営昭和記念公園のお正月です。

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こもれびの里長屋門
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こもれびの里古民家の正月飾り
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日本庭園楓風亭から池を望む
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お正月の生菓子も「松」に
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水鳥の池


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雑記帳2023-12-15 [代表・玲子の雑記帳]

2033-12-15
◆『食とくらしと環境を考える会」の12月の講座は「冬に美味しい大根を使って」。

どこにでもある食材や調味料を使ってちょっとひとてまかけて美味しくなる講座は人気です。特に今回は参加者のうち3人がアジア出身。お米は洗わないというお国がらに驚きながら国際交流もできました。

◇ブロッコリーとえびの薄くずスープ

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<材料>(4人前)
ブロッコリー2房、人参1/3本、かぶ2個、えび4~8本、
塩小さじ1、酒大さじ1、片栗粉大さじ1、和風だしカップ4,5
<作り方>
①ブロッコリーは一口大の小房に分ける。(一人2個、生のまま)
②人参は皮をむいて長さはそのままで、1.5cm各に切り、面取りする。(一人2個)
③かぶは八ツ割にし、面取りをする。(ニトリ2個)
④鍋に4.5カップのだしを入れて火にかけ、人参を加え、7分くらい煮たらかぶを加える。かぶの色が変わってきたら塩と酒で味を調える。
⑤全体gあやわらかくなったら、ブロッコr-・えびを入れ、大さじ2で溶いた片栗粉をまわし入れ、とろみをつけてできあがり。

◇薄切り豚肉のみぞれ煮

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<材料>
豚モモ肉200g、片栗粉大さじ1、大根50cm、和風だし100cc、醤油大さじ1、青味(小葱、スプライトなど)
A(ショウガ搾り汁大さじ1、塩小さじ1/2、策大さじ1)
<作り方>
①豚肉はr¥食べやすい大木さに切り、Aのショウガ、塩、酒で下味をつける。
②鍋に湯を若し沸かし、①の豚肉に片栗粉をまぶして、1枚ずつ入れて湯がき、容器にとっておく。
③大根は皮ごとおろしておく。
④鍋に100ccのだしを入れて火にかけ、②の肉を入れてあたため、大根おろしを汁ごと加える。最後に醤油を加えて香りを付けて火を止める。
⑤器にもりつけ、青味をちらして出来上がり。

◇冬の彩りサラダ

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<材料>
ブロッコリ。大根、人参、適宜
塩小さじ1/2、酢大さじ2、コショウ少々、サラダ油大さじ1
<作り方>
①ブロッコリーは小房に分けてゆでておく。
②大根、人参は短冊の薄切りにする。
③塩、酢、コショウをまぜてドレッシングをつくる。
④ ①②③を加えて出来上がり。

調理でかぶの余りがあればうすぎりにして加えても可。

◇サラダの代わりに◇ゆず大根はいかが。

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<材料>
大根200g、塩小さじ1、ゆず適宜、
砂糖大さじ1.5、酢大さじ1.5、赤唐辛子首相、ゆず果汁適宜
<作り方>
①大根は厚さ2cmの輪切りにして皮をむき、2cm✕1cm✕1cmの拍子切りにする。塩をまんべんなくふりかけ、10分以上おいて水気をとっておく。
②ゆずは皮の黄色い部分を向いて千切りにし、果肉はとっておく。
③唐辛子は付け根の部分を切り取り、種を取り除き、好みでそのまま・二つに切る・輪切りにする。
④ボウルに調味料と②の皮、③を入れて混ぜる。
⑤ポリ袋に①と④を入れ固くねじって結び、冷蔵庫で1時間冷やしたら完成。
⑥半日以上漬け込むと味がなじみ、よりおいしくなる。

◆消費者団体と東京都の協働事業「くらしフェスタ東京」では毎年、「東京のがんばる農業応援企画 食と農セミナーが開かれます。

今年の講演会のテーマは「雑草と私たちのくらし~っ雑草から農業と環境を考える」でした。講師は宇都宮大学名誉教授の小笠原勝さんです。

いったい雑草とは何なのでしょう。
弥生時代から日本では畑や田圃で草をむしる行為がありましたが、面白いことに、どの国にも草をむしって管理することはなかったのだそうです。
雑草という言葉がきかれるようになったのは明治以降のことで、それまではただ「草」でした。役に立たない草の意味で、ヨーロッパからもたらされたものだといえます。
また、人の価値観で定義しようとすると、例えばネジバナをきれいだと見れば雑草ではなくなります。意外に「雑草」の定義はむつかしいのです。

役に立たないと言われながら雑草にも有用性はあります。
たとえば、セイヨウタンポポのように、カフェインレスコーヒーとして食用になるものもあれば、イヌビエはカドミウムを吸収してくれるし、コブナグサは黄八丈の色の原料に、もともとゲンノショウコは薬用、カラムシは織物の材料になる、雑草はあなどれません。

忘れてならないのは雑草は穀物の祖先だということです。
エンバクは大麦の、ツルマメは大豆の、セイヨウカラシは菜種の祖先・・・といった具合に。ランドサットをかけ続けた大豆がツルマメに先祖返りをしたという、面白い話を聞きました。、

ここで問題です。春、桜に菜の花は日本ならではの光景だと誰もが思うところですが、河川敷のカラシナは残すべきでしょうか。
管理されずに繁茂した雑草は有害虫の宿主になります。ヒメシバにはカメムシが、シロツメクサにはアザミウマが、イスズメノテッポウにはイネウイルスが、などなど。
カモガヤのように花粉症の原因にな雑草もあります。(セイタカアワダチソウは実はぬれぎぬだったことが近年わかったそうです。)
ヨウシュヤマゴボウ、シロバナチョウセンアサガオ、ワルナスビ、ムラサキケマンなどはそれ自体が毒をもっています、

この結果、雑草は直接的には農産物のの収穫低下や品質低下をまねき、間接的には宿主の発生源になったり、からまって農機具をいためたり、ひいては農村景観の低下ももたらします。

そこで農薬の出番になるのですが、何故農薬は消費者にきらわれるのでしょうか。
農薬のことはよくわからないという漠然とした理由だけでなく、農薬を使った場合の直接的な利便性が共有されていないことにあると小笠原さんはいいます。
利便性を明らかにするために農薬不使用で生じる経済的損失をひいてくれました。
先ず収穫量はマイナス25%、額にして5,746億円。人力除草をした場合の人件費は時給1500円として1兆162億54万円。人手不足の中、この費用と労力を誰が負担するのか。これに対して除草剤にかかる費用は433億円です。河川の雑草は堤防の弱体化やゴミ不法投棄の助長にもなっている現状も知らなければなりません。

出来れば使いたくないという一方で、農薬が本当に安全なのか、環境に悪いのか、使用を控えた場合に代替物はあるのか、様々な観点で考える必要があるようですね。
「ビッグモーター」が農薬を大量にまいて街路樹をからしたニュースがありました。画面をみてやっぱり農薬は怖いと思った消費者もいるかもしれません。

ここで面白い話があります。講演会のあとグループでの交流会の席で、ある農家さんから「畑の土と道路の土は違う」という話がでました。農家はは絶えず堆肥で土づくりをしているが、道路の土には農薬を分解する菌はいないのです。それでいつまでも農薬が残っている。日本では畑の農薬の管理はきびしく、出荷する時には残留していないことが義務づけられています。

そうした現実を知ったうえで、最終的に選ぶのは消費者です。農地法の改正により農地の貸借が可能となり、新規参農者も見込まれる今、都市部でも自然農法がみなおされる気運もあります。消費者にとっては選択の幅がひろがったとみるべきなのでしょうか。

◆イチョウの黄葉が終わって行楽の人影も引いた昭和記念公園です。

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葉を落とし始めたメタセコイヤ(第4サークル)
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川面を飾る落葉たち(日本庭園西の橋から)
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かたらいの道のいちょうも散りおわり
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紅葉が過ぎてさびしくなった園内を彩るのはイイギリの実(第2サークル)
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マユミ(日本庭園)
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楓風亭のお菓子も「木枯らし」に。そう言えば今年は木枯らしがあまり吹かなかった。


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雑記帳2023-12-1 [代表・玲子の雑記帳]

2023-12-1
◆「旬の野菜を美味しく食べて都市農業の魅力を知る」

立川市の農業委員になって4期目をむかえています。1機3年ですからもう9年もたずさわっていることになります。この間、研修や現地調査で、多くの農地を見学させてもらいました。昨年は所属するネットワーク団体で「都市農業の魅力発見」と銘打って、市内にある農業試験場(現。東京都農林総合研究センター)の見学や元気な農家さんをまねいて市民向けにシンポジウムを開催したりもしました。
畑を訪れる度、常に何かしら新しい発見があって、都市農業の魅力は尽きないなあと思っていたところ、まちデザインの市民講座に、上記の『旬の野菜をおいしく食べて都市農業の魅力を知る』という講座を見つけました。

見学先は多摩市にある青木農園です。
園主の青木幸子さんは農家に嫁いだことをきっかけに就農した人です。
プロフィールによると、野菜作りの経験はなく、本を読んだり研修会に参加しながら農業を学んだとのこと。現在、農作業と並んで、農家レストラン「青木農園農家料理」を運営し、自身の畑で獲れた野菜を使った料理は地域の人々に愛されていると紹介されていました。

先ずは、青木さんの畑の見学です。多摩市内を流れる大栗川の川沿いに青木さんの畑はありました。周囲は住宅が立ち並び、農地としてのこっているのはわずか。それも駐車場のアスファルトをはがして畑にもどしたという、青木さんの畑です。

畑では年間を通して70種類もの野菜や果実を栽培しています。
少量多品種は都市農業の典型。ネギやたまねぎは言うに及ばず、黒キャベツや空心菜、ミントやブロッコリー。栗や柚子、柿にパッションフルーツ等の果樹類。畑の境にはブラックべリーもありました。中でもトマトは大、中、小が13種類もあるとか。それぞれが味が違うのを知るのも楽しい。ブロッコリーもジャガイモだって何種類もあります。
青木さんは、種類の違う野菜にさわったり匂いをかいだり、かんで味わってもらいながら野菜の説明をしてくれます。「語れる農家」が青木さんのスタイルなのです。ヘチマだって若いうちは食べられます。

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消費者の好みをさきどりするように次々に開発される新しい品種の野菜の栽培に取り組む一方で、青木さんは固定種も大切にしています。
ナスや唐辛子の畝の一角に江戸小松菜が育っていました。
昔から栽培されて来た「江戸東京野菜」は、小松菜や亀戸大根、練馬大根など50種ほどありますが、品種改良されたF1と違って手間のかかる固定種を栽培する農家は少なくなっています。江戸小松菜は収穫して時間が経つとしおれてくるので見栄えはよくない、スーパーには出せないけれど、庭先販売にはむいているということでした。スーパーに並ぶ小松菜と違って、口にふくむと驚くほどやわらかい。色も優しめでした。

安心して食べられる野菜をと、農薬や除草剤は使わず、一番大事にしているのは土づくりです。近年、都市部ではハウスの水耕栽培がさかんになっており、上述の農総研でもそうしたスマート農法を薦めていますが、やはり農業の基本は土だという思いは私たち消費者にも根強くあります。青木さんは「良い土で育った野菜は細胞がしっかりと生きているため、野菜本来の甘味がある」と言います。

青木さんの畑では収穫した後も株は花が咲くまで残してあります。高価なエデイブルフラワーを求めなくても、野菜は花も食べられる、大根の花は大根の味がするのだそうです。

こうして育てた旬の野菜を美味しくたべてもらいと始めたのが農家レストラン「青木農園農家料理」です。

大栗川をわたって坂道をのぼったさきにある古民家(青木家の母屋です)に、少し前レストランはマンションからひっこしてきました。裏山は息子さんが育てる果樹園がひろがっています。すだちやミカン、晩白柚、香りを楽しむ柑橘類たちです。すだちは黄色くなると酸味はうすれていきますが、ドレッシングにするといいと教えてもらいました。

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ワンプレートに盛られた色鮮やかな野菜たちを、野菜の話を聞きながら味わいました。
野菜は色と香りと触感をあじわってほしい。
採れたて野菜はゆですぎず、しゃぶしゃぶのように鍋にいれたとたんにひき上げるのが一番だそうです。牛蒡のアクも栄養のうち。アクを抜かず香りも楽しんで。

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落花生ご飯、ビーツのコロッケ、バジルやスダチのドレッシングを使った野菜の数々・・・
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ブラックベリーソーダ
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デザートは季節で変わる。ついこの前までは栗のデザ-トだった。
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質問に答える青木さん

義父母の介護を通して食べることの大切さを学んだ知恵は、プレートの上にも生かされています。
ゆっくり時間をかけて食べてもらいたいと、用意されているのはお箸だけです。流動食しか受け付けなかった高齢の両親が、とにかく時間をかけてゆっくり食べることで固形でも食べられるようになった。「ゆっくり」は子育てで忙しくしている若いお母さんにとっても大切なことではないか。青木さんの思いをひきうけるかのように、リピートしてくる人は地域の子育て中の女性が多いとか。

多摩市は高度成長時代、丘陵を開いて団地ができました。多摩ニュータウンです。土地を手放した農家は多く、今では70人ほどになり、ご多聞に漏れず、都市の農地をどうやったら残せるかが課題になっています。
場の野菜で親子料理教室を開いたり、トマトジャムのレシピを開発したり。地域の人に美味しい野菜を届けて喜んでもらいたいという青木さんの活動は、レストランだけでなく、さまざまな形で地域とつながっているのです。

地域とつながることの大切さを思うとき、思い出す言葉があります。
「農家は単に畑を耕している人という意味ではなく、「農家という生き方」を選んだ人のことだ。」
農地を通して紡がれて来た地域の伝統や文化も、畑がなくなれば消えてしまう。
食用ではなく、地域の年中行事のために今も大麦や陸稲を大切に育てている農家もあれば、新しい形で地域とつながろうとしている農家もある。農地を残すために各地で様々な工夫が生まれてもいます。都市に農地は要らないと言われた時代から、ようやく都市の農地の役割が見直されるようになった今、消費者としてはそうした農家さんお一人お一人を応援したい気持ちでいっぱいです。

◆小春日和の続く中、国営昭和記念公園は紅葉狩りの来場者でにぎわいました。 

夏の猛暑がいつまでも続いたせいか、カエデやモミジの紅葉は例年に比べて今一つの感がありましたが、イチョウの黄葉は見ごろをむかえていました。

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池のそばの四阿には花手水も
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楓風亭のお菓子も「紅葉」
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カナールの傍のイチョウ並木
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カナール対岸のいちょう並木

こもれびの里は収穫の季節です。大例祭の幟が掲げられ、野菜の宝船を居合わせた中国人の親子がめずらしそうに見入っていました。

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秋季例大祭の幟
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11種類の野菜で作られた宝船
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こもれびの里古民家ではひと月遅れのえびす講。五穀豊穣を願って赤飯やお頭つきの鯛がお供えしてあった。

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雑記帳2023-11-15 [代表・玲子の雑記帳]

2023-11-15
斉藤陽一さんの『日本四代絵巻』をひもとく講座、今回は『伴大納言絵巻』をご紹介しましょう。

『伴大納言絵巻』は『鳥獣戯画』ほど馴染みはありませんが、ひもとくほどに面白い。絵巻のもとになったのは「応天門の変」です。

平安初期の貞観8年(866年、3月10日(奇しくも東京大空襲と同じ日です)、大内裏の「応天門」が放火によって炎上しました。
同年8月、「犯人は大納言・伴善男と一味」の告発があり、伴一門は流罪、晩善男は伊豆へ流されて、伴家は歴史の舞台から消えました。
当時、伊豆は京都からはるかに遠い、遠流の地だったのです。

今も真偽は不明ですが、事件後、道長へとつづく藤原北家の摂関政治が確立していくのは歴史でならったとおりです。伴氏が消えると同時に、源家も政治から身を引き、平安末期に武士の集団源氏が台頭するまで、源の名を見ることはありませんでした。

それから300年、平安末期に編まれた説話集『宇治拾遺物語』に、この事件が登場します。説話なので、史実のままではありません。伴大納言絵巻は説話をもとに、歴史にフィクションを加えて描かれたのです。発注者は後白河上皇、命を受けたのは宮廷絵師・常盤光長でした。

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絵巻は上・中・下の3巻からなります。
≪上巻≫は応天門炎上の場面が描かれています。
普通絵巻は詞書が先にくるものですが、上巻はいきなり絵から始まっています。放火され、炎上した応天門に駆けつけた検非違使一行と火事を見る人々・・・。

検非違使を見れば、弓をもってはいるが太刀を持っていない、鐙にかけた足は靴を履いている者もいれば中には素足の者もいる、あわただしく緊迫した様子が伝わります。

当時火事は起こってしまえば消すすべはなく、検非違使は火災現場の治安と秩序を守るために出勤してきたのでした。消防が意識されるようになるのは江戸時代まで待たのはを待たねばなりません。
急に駆けつけたため、従者も普段着に素足です。

絵巻を左に見ていくと、見物の人だかり。100人に及ぶ人物がえがかれています。口喧嘩をしている者、女性に悪戯を仕掛ける者、僧侶もいればのんびりと高見の見物をする下級貴族もいる。二人として同じ表情をしていない、二人として同じ服装をしていない。表情の百花全書と言われる所以です。
検非違使の緊迫感と見物人ののんびりとの対比の構図が見事です。

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火事を見ようと朱雀門に集まって来る人々
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火事を見上げる人々 表情も様々
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群衆の中には女にけしからぬ行為をするものも

又、日本における三代火災表現と言われる火災の描写も見事です。火の粉の飛び散る様子は実際に火災の現場を体験した者でなければ描けないとまで言われています。

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次ぎの場面は、清涼殿の庭にたたずむ、後ろ姿の謎の人物。

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謎の人物はもう一人、広廂に座るのは頭中将藤原基経といわれtています。

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宇治拾遺習によると、「今は昔、水尾の帝(清和天皇)の時代に、応天門が放火で焼けるという事件があった。時の大納言・伴善男が「犯人は左大臣の源信です」と朝廷に訴えたので、左大臣は処罰されることになった。その頃、太政大臣・藤原良房は、政務は弟の右大臣に譲って、自分は隠棲していたのだが、左大臣処罰の報をきいて驚き、普段着のまま馬を飛ばして、天皇のもとに馳せ参じた。太政大臣は天皇にこう申し上げた。「これは、左大臣に罪をなすりつけようとする者の虚言かもしれませぬ。よくよくお調べになり、事の是非を明らかにしてから処罰されるのがよろしいかと」。天皇はもっともなことよと思い、よく調べると左大臣が犯人だという証拠もないので、赦免することにした。」

≪上巻≫の最後は太政大臣・藤原良房が天皇に諫言する場面です。良房は天皇の祖父。天皇も良房も普段着です。

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内裏で対面する良房と清和天皇

≪中巻≫は源信(みまのとのまこと)邸と子どもの喧嘩と噂の拡がりが描かれます。
源信邸にむかう赦免の使者一行、主人に次げるために小走りに走る従者がいます。
赦免をまだ知らない源信は後ろ姿で懸命に天に祈っています。

処罰を覚悟して家中が悲嘆にくれていましたが、やがて赦免を知り、悲しみは喜びに変わります。ほっとした妻の様子やうれし泣きする侍女達は、ここでも表情の百科全書の名にふさわしく、一人一人描きわけられています。

赦免されたものの、源信は宮仕えに嫌気がさし、自ら政治の表舞台から身をひいてしまいました。

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ひたんにくれる源家の女房たち、その様子も様々
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赦免を知り喜ぶ侍女たち 喜びの表情も様々

邸の外ではこどもの喧嘩の場面です。
舎人の子どもと臨家の伴大納言の出納の子どもの喧嘩です。
そこへ大納言家の威光をかさにきた出納が出てきて、舎人の子どもをけっとばし、さんざんに痛めつけます。
舎人夫婦もだまったはいません。舎人は3月の応天門の火災のおり、朱雀門から出てくる大納言一味を目撃したことを暗ににおわせるのです。
その喧嘩の一部始終を見物する人々がいます。見物人の中には高下駄をはいた女性もいます。トイレのなかった時代、高下駄は外で用を足す女性には必需品でした。

こどもの喧嘩から始まり、両方の親が出てくる→出納が舎人のこどもを蹴とばす→舎人が叫ぶ→見物人の群れ。一つの画面にこれら5つの場面がよどみなく描かれた画法は異時同画法とよばれるものです。

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舎人の子と出納の子の喧嘩
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我が子を連れ帰る出納の妻
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喧嘩を見に集まった人々  なにかあれば野次馬が集まるのは昔も今も変わらない。

≪下巻≫では舎人の尋問と、伴大納言の逮捕と流罪が描かれます。
詞書には噂がひろがっていき、調停にまで達したことが書かれています。
遂に役人が舎人を連行、尋問することになりました。
臨家の出納は連行される舎人を不安げにみています。

この場面は、隣同士ながら、出納の家は板垣、舎人の家は土壁、と描き分けられた、対比の構図になっています。

伴善男定に向かう検非違使一行は総勢36人。物々しく武装した郎党たちには緊迫感がただよっています。先に述べた女性の高下駄同様、当時の風俗を知る資料的価値は十分です。

伴大納言の逮捕の瞬間は描かれず、次ぎの場面は邸で悲嘆にくれる妻と次女たちが描かれます。
侍女たちにしてみれば、失業して明日から露頭に迷う身、呆然自失のそれぞれの表情も見事に描き分けられています。

最後は伴善男を連行する検非違使一行です。ここでも伴大納言は描かれず、牛車からのぞく衣装の一部で暗示されています。検非違使たちは大物逮捕でほっとした表情をしています。

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大納言亭に向かう検非違使一行
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牛車で連行される大納言。牛車からわずかに衣装が見える

こうして、応天門の変は、大納言伴善男が左大臣源信を失脚させて自分がその地位に収まろうとして起こした事件として決着し、この結果、名門「源家」は政治の舞台から消え、大友氏以来の由緒ある「伴氏」一門は没落しました。
これにより、藤原良房―基経が一挙に権力を得、藤原北家の支配体制が確立したのです。

『伴大納言絵巻』は、表情の百科全書や資料的価値は勿論のこと、史実ではない絵巻の真相はどうだったのかと思いをめぐらすのも面白い。
絵巻が描かれたのは平安末期。事件から300年経ち、武士が台頭する中で流石の藤原氏も力をうしなっていました。絵巻の一部が意図的に削られている、その画面には誰がいたのかを想像するのだって面白いではありませんか。真犯人はひょっとしたら藤原氏だったのかも・・・

『伴大納言絵巻』は今、出光美術館が所有しています。

◆11月の三光院の精進料理、月替わりの品はは「吹き寄せ」です。

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おばんざいはしめじのごはん



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雑記帳2023-11-1 [代表・玲子の雑記帳]

2023-11-1
◆武蔵小金井の三光院サロンの今秋の講座は斉藤陽一さんの『絵巻の魅力』です。
今回は2講目の『鳥獣戯画戯画』を紹介しましょう。

『鳥獣戯画』は『源氏物語絵巻』『伴大納言絵巻』『信貴山縁起絵巻』とともに、「四代絵巻」と呼ばれ、いずれも国宝に指定されています。

全長44mに及ぶ絵巻は甲、乙、丙、丁の4巻からなる絵巻は、彩色を施さず、すべて墨のみでえがかれています。詞書(ことばがき)もなく、制作年代も定かではありません。また、どういう絵師が描いたのか、宮廷絵師なのか、絵仏師なのか、画僧なのかわかっていません。制作年代は各巻で異なっていることから見て、平安から鎌倉時代初期に描かれたらしい。どうやら異なる時期に複数の絵師によって段階的に描かれたと想像されています。

また、多くの人に親しまれている『鳥獣戯画』は京都、高山寺に伝わっているものの、どのようにして高山寺に伝わったのかは不明。こうした謎だらけの絵巻ですが、謎を知らなくても十分に楽しめるのが絵巻なのです。
現在、鳥獣戯画絵巻は甲乙巻は東京の、丙丁巻は京都の国立博物館に寄託されています。

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斉藤さん持参の甲、乙、丙、丁の4巻

講師の斉藤さんは現役時代、担当するNHKの番組「日曜美術館」で『鳥獣戯画』をとりあげました。その折、ゲストに漫画家の手塚治虫さんを招いたところ、手塚さんは非常に驚かれ、「戯画は漫画そのもの」というメモをのおしています。斎藤さんは「一体、漫画というものはどれだけ進歩したのだろうか。もう何百年も前にやられてしまった。」という手塚さんの声を聴きました。今世界中で日本のアニメは人気ですが、そのルーツはすでにこの時代にあったのですね。信貴山縁起絵巻にも既にアニメのテクニックが見られるそうです。

ちょうど、上野の国立博物館では「やまと絵」を開催中で。国宝四代絵巻は機関限定で展示されていました。
平安末期、それまでの中国の山水画から脱して日本独自でしゅ。画風が生み出されたのがやまと絵です。

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国立博物館のやまと絵展ポスター

さて、絵巻の甲巻の前半は、上質の杉原紙に擬人化した動物たちの遊びが描かれます。
「兎と猿の水遊び」はいきなり絵から始まります。泳ぎの得意な兎、下手な猿の構図はまるで夏休みの子どもたち。絵巻の中から音や声がきこえてきそうです。

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兎と猿の水遊び

注目すべきはこの画面の最後に秋草が描かれていることです。秋草は日本絵画を象徴する重要なモチーフで、夏の遊びがおわって秋になったことをあらわすのです。源氏物語にも多くの場面に登場しますが、夏から秋、やがて冬に向かって滅び去る、そんな時間の経過を示す役割をもっています。画面にすやり霞や秋草を用いて晩秋の風景に変わる、異時同図法は日本画独特の手法です。

「賭弓(のりゆみ)」は兎チームと蛙チームの弓試合です。

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平安末期、権力を誇った後白河上皇は大の遊び好き、同時に絵巻も大好きでした。上皇の命により、宮中の「年行事絵巻」がつくられましたが、弓試合も宮中行事の一つとして描かれています。、

次ぎの画面は「宴会の酒肴を運ぶ」場面です。

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ご馳走一杯の画面には焼き鳥役の動物も登場します。すべての動物がごっこ遊びに参加しています。

「空を飛ぶ兎」には秋の夜の観月が描かれ、月の中では兎が餅をついているようです。今昔物語の兎がモデルだといわれています。

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「甲巻」は全部で23紙あります。前半の10紙につづく後半は、絵巻通常の杉原紙を使った前半にたいして、使用済みの紙をすき返した再生紙に描かれています。画風も異なっているため、別の絵師が公的な注文品ではなく、極私的な形で制作されたのではないかと推測されています。

「猿の僧正への贈り物」には権力者に贈り物をする様子が描かれています。

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猿が僧正になって威張っている様子は人間の世界と全く同じ、それだけで面白いのですが、別の視点からみてももおもしろいことにきづきます。
ここに登場する贈り物の中に鹿や猪があり、猪は馬の見立てだと言われています。
「甲巻」に登場する動物たちの8割が実は兎、猿と蛙です。甲巻の三役は、いずれも説話や伝承で、「不思議な力をもった存在」とされていました。

乙巻にはこの三役は登場せず、牛、馬、犬、庭折など身近な家畜が描かれます。
仏教では、「牛・馬・犬・鶏・豚・羊」は「六畜(りくちく)」と呼ばれ、それらの出産と詞は「穢(けが))れ」の対象とされました。
甲巻には六畜は描かれていない、猪を馬に見立てたのはそのためです。

「印地打(いんじうち)」の場面では、兎が猿をおいかけています。横にはひっくり返った蛙がいます。
印地打は節句の行事として行われた子どもたちの石合戦です。

「蛙の田楽おどり」には猫やイタチも登場します。
「年中行事絵巻」にも「田楽」の場面があります。「田楽」は怨霊をしずめるため、御霊会(ごりょうえ)などの時に催されました。

『鳥獣戯画』の中で、最も親しまれている場面は「蛙と兎の相撲」ではないでしょうか。」兎を投げ飛ばして見栄を切る蛙の図は「異時同図法」ですね。

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「蛙と兎の相撲」は真に遊びに徹していて、実際の力士の取り口「河津がけ」を蛙がとっているなんて、誰だってわらってしまう。先に紹介した、遊び大好きの後白河上皇の今様を「梁塵秘抄」に見ることができます。

     遊びをせんとや生まれけん 戯れせんとや生まれけん
      遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ ゆるがるれ

「法会(ほうえ)」には読経する猿の僧正と供養の参列者たちが描かれています。

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膝で印字を結ぶ蛙は釈迦如来象にになりきっているよう、ミミズクは聞き耳をたてています。
法会が終了し、猿の大僧正にはお礼の品々を献上されます。
膝で手の指を結ぶ蛙の僧正は釈迦如来の像をまねて満足げ。様々な供物を運ぶ動物たちが描かれる場面で甲巻はおわります。

過去のずさんな修復の斎、バラバラにされて散逸してしまった画があったり、継ぎ合わせた際に順序を間違えたのだはないかと思われる場面もありますが、それを抜きにしてもとにかく『鳥獣戯画』は面白い。
当時、貴族の家の男子は寺で教育を受けました。年中行事を教えたり、一緒に遊んだりするために絵巻を使ったと考えられます。
手塚治虫も、絵巻には子どもも大人も楽しめる魅力があると言っています。

乙巻は、甲巻には描かれていない身近な動物や想像上の霊獣、珍獣が描かれた一種の動物図鑑です。
巧みな動物描写から甲巻後半の作者と同一人物ではないかとされています。

丙巻は、甲巻、乙巻とは異なる画風で、制作年代は鎌倉時代初期と思われます。
前半は人間たちの、後半では動物たちの遊戯が描かれています。

丁巻の制作年代も鎌倉時代。
最初から最後まで人間たちで構成され、即興的なタッチで描き出された画面は、他の三巻には見られない特徴で、近年は「名人が他の巻をパロデイ化したもの、敢えてくずして描いた」との評価もあるということです。」、

三光院の10月の精進料理のメインは里いものあんかけです。寺の畑で収穫されたばかりの里いもをいただきました。

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雑記帳2023-10-15 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2023-10-15
◆銅板造形作家、赤川政由さんからラインでコンサートの案内が送られてきました。

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骨折してから6週間、ちょうど私の膝の固定装置をはずしたばかり。歩行器も杖も使わず、自分の足でそろそろと歩きはじめたときのことでした。

会場はいつものスタジオラララ。崖線の上に建つ小さなスタジオです。
ここで、9月末からさとうそのこさんの人形展がひらかれていました。
10月9日は最終日ゆえ、そのクロ-ジングコンサートだったのです。

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木立の中の坂道を下っていくとラララの看板が見える。

人形作家として知られるさとうそのこさんは赤川さんの亡くなった奥さんです。
お二人は旧米軍ハウスをアトリエにして活動していました。戦後、米軍基地のあった時代に全国に建てられたものの、今では数少なくなった「ハウス」が立川にはまだ残っていて、取材させてもらったこともありました。ハウスの2DKの間取りは戦後の日本の団地の間取りのモデルになったといわれています。当時の日本人にとって、DKは新鮮でした。小学校の音楽の教科書にも登場する、独特のそのこ人形はハウスで生まれました。

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会場はそのこさんと一緒に世界を旅した人形たちのイラストが壁一面にかざられていました。中に、吹奏楽器を奏でる子どもたちもいます。これは東日本大震災のおりにサントリーホールで催された大震災高校吹奏楽大会に因んで、出場した高校生をモデルにしたものです。ラララの主、しおみえりこさんは、復興の最中に演奏の場を失ったピアノを被災地の記憶を伝える震災ピアノとしてひきとったり、被災した着物の端切れを使ったパッチワークを世界中に広げる活動をしたり、被災地の復興を様々な形で応援してきましたが、そのこさんも被災地に心をよせていたのですね。

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コンサートの第一部は、歌うピアニスト、吉村安見子さんの弾き語りでした。
「そのこさんに聞いてもらいたい曲を選んだ」と言って演奏されたのは、バッハのアリアに並んで、フランスの詩人、プレベールの「朝の食事」、林光の「ペーペーの草刈り」、木島始の「草の葉」など、など・・・最後に演奏された曲の詞が心に残りました・

      あらゆる若葉には香りがある
      あらゆる目の光には矢印がある
      あらゆる子どもの魂には翼がある
      あらゆる営みで わたしたちは結ばれている

第二部のハイライトはそのこさんの夫である赤川ボンズさんの朗読です。
「魚のいない水族館」やシベリウスの「白樺」の演奏のあと、赤川さんが登場しました。朗読する本のタイトルは「大きなクスノキ」。御園孝さんの文にそのこさんが絵を付けました。二人の合作による絵本は何冊も出版され、そのうち2冊は『知の木々舎』でも紹介しました。

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出番を待つ赤川さん
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朗読する赤川さん 隣はしおみえりこさん

本は、校庭を広げるために切られることになったクスの大木を何とか助けたいと奔走する子どもたちの物語です。子どもたちの願いがこどものころクスノキと遊んだ周りの大人たちを動かして、クスノキは無事に移植に成功します。

これは決して架空のお話ではありません。渋谷区の小学校で本当にあったできごとです。立川でも、同じように道路拡張の為に切られる運命だった3本のプラタナスを赤川さんたちが子どもたちと一緒に守ったことがありました。以前雑記帳で紹介したプラタナスは戦前、アメリカから友好の印として立川基地に贈られ、戦後、基地がなくなった後もずっと立川を見守ってきた樹でした。それを知るこの日の観客の中には、朗読を立川のプラタスと重ねて聞いた人もいたことでしょう。年老いたそのプラタナスは今、防護柵に守られて、若者の集うイケヤのそばに立っています。

アンコールの声に赤川さんは「妻が亡くなって4年たつのに、日に日に僕の中では彼女の存在は大きくなる」と応えていました。

会場に、「大きなクスノキ」の文を書いた御園孝さんの姿がありました。本のモデルになったのは御園さんのお孫さんの通う学校だったそうです。
「樹木の移植ってお金かかるんじゃないですか? 大きな木なら費用も大きい。ここはクラウドファンディングの出番ですね。」
「そうなんですよ。渋谷の場合、1500万円の募金をつのったんです。そうしたら2000万円以上あつまったそうですよ。」

御園さんは、『知の木々舎』にも紹介したミツバチ保護活動家です。本業の造園業のかたわら、自らの畑で自然農法を実践したり、世界中にミツバチを訪ねたり、ブータンの王宮で田植えをしたり、世界を股に、活動はマルチです。このほど嵐山に広大な農地を取得、念願の養蜂家になったということでした。

帰りみち、モノレールの駅でいっしょになった女性から声をかけられました。
「いいコンサートでしたね。(ご夫妻が)羨ましいですね。」
「ええ、ほんとうに。」

ラララは30人も入れば一杯になる小さなスタジオです。
1か月半ぶりに家から出た私の最初の訪ね先になりました。

◆「食とくらしと環境を考える会」の12月の講座のメニューが決まりました。

冬に美味しい大根を使った「薄切り豚肉のみぞれ煮」と「お正月のサラダ」を紹介します。汁ものには「ブロッコリーとエビの薄葛スープ」を用意しました。試作なので写真だけ。レシピは次回に。

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雑記帳2023-10-1 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2023-10-1
警視庁予備隊と赤トンボ

 立川市内で市民に、「あなたは砂川闘争知っていますか」  「あなたは砂川事件を知っていますか」  と訊ねると、「知りません。それは何ですか」という答えが返ってきます。
 砂川闘争、砂川事件これは今から68年前、昭和の時代に起きた大きな事件です。
 立川市民でこの時代に20代だった人も80歳代では約12000人と少なくなっいます。知らなくて無理はないのです。

 砂川闘争から68年。少し前に立川飛行場拡張をめぐって激しいもみ合いのあった地点の私有地にアパートが2戸、独立家屋が1戸建ちました。新しい住人は、砂川の歴史を知らないでしょう。
 拡張予定地には、平和問題に力を入れていた藤井日達が興した法華宗の日本山妙法寺が1950年代に建立した「南無妙法蓮華経」の石碑が建っています。 一時期、その下に日本山妙法寺の精進小屋を建て、尼が数人修行していたこともあります。

 立川市砂川町は、昭和38年5月に立川市と合併するまでは、独立した町でした。
慶長8年(1603年)幕府が開かれ、立川の大部分は幕府の直轄領の天領となりました。人びとは養蚕と茶を主体とした農業で暮らしていました。
 西暦1630年ころになると、新田開発によって砂川新田が開かれました。承応3年(西暦1654年)には玉川上水が引かれました。その後、砂川新田は五日市街道に沿って東西に広がっていきました。立川は柴崎村、砂川村を中心に伸びていきました。
 明治時代には立川駅の設置、府立二中(現・立川高校)、立川飛行場が建設されました。
 戦後立川飛行場はアメリカ軍の基地となり,立川は基地の町となりました。

 昭和30年5月、政府はアメリカ軍の要請により、爆撃機の発着のためとして小牧・横田・立川・木更津・新潟の5飛行場の拡張を発表しました。立川飛行場は5万坪の拡張長を要求したのです。 これに対し砂川町長の宮崎傳左衛門はじめ町議も反対。町ぐるみの闘争を展開しました。これが砂川闘争であり砂川事件なのです。
 拡張予定地の買収には、土地の区画の確認のため、実地の測量が必要です。測量は八州測量が担当。地元民は道路に座り込んだり、畑に立ちはだかったりして何度となく抵抗します。警視庁は測量支援のため警察予備隊(現・機動隊)を動員して、妨害を排除しました。
 地元反対同盟の行動隊長青木市五郎の「土地に杭は打たれても心に杭は打たれない」の言葉に人びとは感銘しました。

 1955年に入り、当時最大の労働組合組織、日本労働組合総評議会「総評」が乗り出し、51の労働組合が反応。砂川町基地拡張反対労働組合支援協議会を結成し、本格的な支援体制をつくりました。毎日、1000名を越える労働者が参加しました。、
 日本共産党が指導している全学連(全日本学生自治会総連合)の指導の下、数百人の学生が参加しました。砂川闘争は全国ニュースの扱いになりました。

 1955年9月13日、強制測量で警官隊と地元反対派・支援労組・学生が衝突しました。
 14日、ふたたび衝突。11月5日、精密測量を強行し、重軽傷20人余がでました。
 1956年10月13日、地元農民らと武装警官隊が衝突、1195人が負傷し13人が検挙され「流血の砂川」の事態となりました。10月14日夜、政府は測量中止を決定しました。
 このあと亀井文夫監督の記録映画「流血の砂川」が多くの反響を呼びました。

 10月13日の激突をめぐって、「砂川闘争と赤とんぼ」というレジェントが生まれました。
 雨の畑の中で、警官隊と地元民学生たちがもみあい、学生は追い詰められました。
その時、最後に向き合ったのは学生ら50人と、警官150人だったといいます。
学生たちは 声をそろえて「赤とんぼ」の歌をうたったのです。、

全学連の砂川闘争委員長として現地で指揮した政治評論家の森田実さん(75)はこう語っています。
 「警官があと半歩出れば私たちは負ける状況で、獰猛な相手を人間的な気持ちにさせようとした。勇ましい『民族独立行動隊』を歌えば警官も勢いづける。そこで『赤とんぼ』を選び、日没までの30分、繰り返し歌った。警官隊は突撃して来なかった。私たちは人道主義で戦った。警官にも純粋な気持ちがあった」

鈴木茂夫さんは当時、ラジオ東京テレビジョン(現・TBS)のディレクターとして、連日砂川闘争の取材をしていました。この現場に立ち会っていました。
午後4時30分過ぎ、現場は測量予定地の東の端。栗原ムラさん(故人)宅の横手です。数人の女学生がいて(もしかしたら看護師だったかもしれません)腕に赤十字の腕章をしていました。赤十字の旗を棒きれに巻き付けてたてていました。「救護所」の旗も見えました。それはさながら野戦病院のまがいのようでした。そこに寝ている人はいません。
そこから20メートルほどの地点で、小柄な予備隊(現・機動隊)の指揮者が「集合」と声をかけました。
指揮者は昵懇な第4予備隊の守田警部でした。少し離れた所から私が右手を挙げて挨拶すると、同じように挨拶が返ってきました。
守田警部の横に、予備隊員1個中隊約70人が2列横隊に整列しました。
救護所の女学生が並んで、予備隊に向けるように、

  夕焼小焼の赤とんぼ 負われて見たのはいつの日か
  山の畑の桑の実を 小籠につんだはまぼろしか

  十五で、姐(ねえ)やは 嫁にゆき お里のたよりも たえはてた
  夕焼け小焼けの 赤とんぼ とまっているよ竿の先

私は守田警部に近づき、
「この連中は捕らないの」
守田警部は左腕の時計を差し出して
「もう4時50分、午後5時には作業終了ですよ。それにね、それに捕る,つまり逮捕したりすると弁解録取書と身上経歴に関する供述調書をつくらなきゃならないんですよ。隊員もくたびれてますから帰ります。それじゃあ」
守田警部を先頭に予備隊は、基地のフェンスに沿って第4ゲートから基地内に入った。
予備隊がいなくなると、女学生の歌声もやんだ。(鈴木さん)

この砂川闘争と唄「赤とんぼ」の話はz新聞でもといあげられ、全国的に有名になりました。
以下は朝日新聞記者の伊藤千尋さんの記事から

《「赤とんぼ」には、伝説化した話がある。56(昭和31)年、東京・立川の米軍基地拡張に反対した砂川闘争で、警官隊と立ち向かった学生や農民たちからわき出た歌が「赤とんぼ」だった。「日本人同士がなぜ戦わなければならないのか」と歌声は問いかけた、と伝えられる。
当時、動員された学生は3千人。雨の中、警官隊と肉弾戦となり負傷者が続出した。最後に向き合ったのは学生ら50人と、警官150人だった。「今だから話しましょう」と、全学連の砂川闘争委員長として現地で指揮した政治評論家の森田実さん(75)はこう語る。
「警官があと半歩出れば私たちは負ける状況で、獰猛な相手を人間的な気持ちにさせようとした。勇ましい『民族独立行動隊』を歌えば警官も勢いづける。そこで『赤とんぼ』を選び、日没までの30分、繰り返し歌った。警官隊は突撃して来なかった。私たちは人道主義で戦った。警官にも純粋な気持ちがあった」
母のぬくもりを懐かしみ、郷愁を誘う「赤とんぼ」は、自らの人間性を思い出させる歌でもあった。この美しい感性を、日本人は持ち続けられるだろうか。
「赤とんぼ みな母探す ごとくゆく」(畑谷淳二)》

以下はこの砂川闘争の概要です。
  6月3日、基地問題について衆議院内閣委員会が開催され、参考人としての意見陳述が行われた。砂川代表は「一坪たりとも土地の接収はご免だ」と堂々と意見をのべた。委員会終了後、衆議院第一議員会館に基地代表が集まって話し合い、「手を結び合って共に頑張っていこう」と、全国基地拡張反対連絡協議会の結成について確認しあった。
 反対闘争の背景にあって活躍したのは、砂川町勤労者組合の存在である。勤労者組合は戦後まもなくして地域組合として結成された。一時期アカの組合だとレッテルを貼られたが、住宅難解決のため町営住宅建設、公民活動強化のための公民館建設、幼児保護対策としての保育園建設、町民サービス向上のための出張所設置、民主教育委員に代表などと町長に申し入れ、約束させ遂次実現させていたことから、真面目な勤労者の集まり、町をよくしょうとする団体であることが理解されて認知された。私を含め町議2人、教育委員、公民館長を擁し、無視できない存在となった。基地闘争については、主要メンバーがしばしば集まって、政府を相手にしてのたたかいであり、敵の力、味方の力を十分に知って戦術をたてなければならない。政争の激しい町だけに町ぐるみ闘争にヒビがはいらなければよいが、ということで慎重に戦術を考えて対応した。

非暴力、無抵抗の抵抗で
  反対同盟は基本方針として、
   ●個人の立場でいっさい話をしないこと。
   ●文書類などについては開封せず闘争本部に届けること。
   ●不審な者に対しては理由をただし、闘争本部に急報すること。
   ●反対同盟の情報以外はいっさい信用しないこと。
   ●すべてのことについてて反対同盟に白紙委任すること。
などを確認した。戦術としては非暴力=無抵抗の抵抗を貫き、具体的には、穴掘り作戦、煙幕作戦、黄金作戦で対抗していくことにした。

 6月9日、三多摩労協との共闘受入れが決まり、基地拡張反対町民総決起集会が開催され、目印として三多摩労協旗一本が認められ、労働組合として初めて参加し労農共闘、共同して大会決議をおこない成功裡に終わった。
 警官が導入されての闘いは、9月13日、14日の阻止闘争である。田中副闘争委員長(町議会副議長)、内野全町行動隊長(町議)、宮岡行動副隊長をはじめ12人、支援労組員15人が不当検挙された。
 この間、条件派の動きも活発化し、12人が脱落して基地問題処理懇談会をつくった。その後、会長に若松元町長をえらんで基地拡張対策処理連盟を結成し本格的な活動を展開した。
 条件派ま要求は、(1)滑走路部分を地下道にする、(2)慰謝料として各戸に50万円、(3)農地補償として坪当たり4500円、宅地補償として5万円、(4)移築費用として3万500円、(5)税を10年間免除する、事などである。多分に反対派工作(宣伝効果)を意図したものと思われていた。

荒れ狂う警察の暴力
 1956年10月13日、14日歴史に残る阻止闘争として、小雨降る中、抵抗闘争が展開された。マスコミの報道でも、「砂川に荒れ狂う警官の暴行」、「絶対許せぬ機動隊の暴挙」、「警棒の雨、突き破られたスクラムの壁」、「行き過ぎだ、警官の実力行使」などなど言語に絶するものがあった。この日の闘いの中で印象に残るものは、闘いの合間に自然発生的に合唱された「赤とんぼ」、「カラスなぜ鳴くの」、「ふるさと」であり、警官り良心をとりもどすものであった。
 日本人同士がなぜ闘わなければならないのか、憎しみを持ってなぜ血で血を洗うようなことをしなければならないのか、国民世論は逆上した。政府のこれ以上、測量を強行することは事態をますます悪化することになるとの判断から、14日午後8時、測量中止を決定し発表した。この報に接した砂川町は、「勝った」、「勝った」の歓声で、五日市街道はどよめき、喜びと化し、「ワッショイ」、「ワッショイ」のデモガ繰り広げられ、無法地帯の様相を呈した。
 59年には反対派の基地侵入事件で、「憲法は安易な政策論で解釈されるものでなく、憲法9条規定は、武力保持を禁じており、外国軍隊の駐屯は、明らかに憲法違反である。よって刑事特別措置法も違反である」との判決が行われ、画期的な「伊達判決」として注目された。その後、検察側の上告により破棄されてしまい、伊達裁判長はこれを不服とし、裁判官を辞して弁護士となり、全電通労組(現NTT労組)の顧問弁護士団長として活躍され、1995年の春、惜しくも帰らぬ人となってしまった。

ついに土地収容認定取り消し
 「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」の名文句をのこして闘われた砂川闘争は14年の永きにわたっての闘いでした。不屈な闘いが功を奏し、1968年12月19日、基地計画中止発表。1969年4月18日土地収容認定取り消し発表が行われ、その後、基地三分割によって、基地東側地区を「業務地区」として、官公庁施設が使用。中央地区は「防災地区」として、実質的には自衛隊が使用。西側地区は「公園地区」として昭和記念公園に生まれ変わりました。
 残る激戦地の拡張予定地は、地権者を中心に1996年3月2日、砂川中央地区町づくり懇談会がもたれ、1998年6月21日、砂川中央地区町づくり推進協議会として発足し、砂川闘争の歴史を無にすることなく、平和利用を基本に協議がつづれけられています。

いくつものエピソードをうんだ砂川闘争に加わった弁護士の榎本信行さんは、当時立川高校の学生でした。スクラムを組んだおばあさんから、「お兄ちゃん、このことをしっかり見て、後の時代にも伝えてね。」と言われたことから、弁護士をこころざしたそうです。基地闘争は榎本さんのライフワークになりました。基地闘争そのものは内地ではもはや昔の話のようですが、基地の問題は人権の問題になってきたように思います。『知の木々舎』では、榎本さんの著書『軍隊と住民』を連載しました。


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雑記帳2023-9-15 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2023ー9-15
◆9月1日(金)
1週間後の診察日である。
最近はどこの病院も診療所も予約が徹底していて、昔のように、早く行って順番確保をする必要がないのは助かる。それと同時に、診断技術も進化していて、全てCTやレントゲンである。医者は患者の顔もみない。勿論患部にもさわらない。実際、折れた骨は外からみえるわではないので、合理的といえば合理的である。

診察の前に撮ったレントゲン写真を見ながら
「前と変わらないようですね。おさらも骨もずれていませんからこのままいきましょう。」「膝がはれてまだ熱をもっているんですけど」
「痛かったらひやしてください。」
(そんなことくらい、先週、言ってほしかった)
「右足がむくんでるんですけど。」
「歩けるようにならないとね。足首をたててふくらはぎの筋肉をひっぱると血流がよくなります。足首まわしたくらいではあまり効果はないですネ。」
(先週足首を回せと言ったではないか。)
むくんでいると言ってもはれていると訴えても患部を見ない。ちょっと触ってどんな状態かみてくれたっていいではないか。「ちょっとはれてますね」と同情くらいしてくれてもいいではないか。そのうえで「大丈夫ですよ」の一言くらい言ってくれてもいいではないか。

医者は怪我をなおすことが仕事なので、患者、まして高齢の患者の美醜など知ったことではないのか。私としては、膝はかくれるからまだしも、むくんだ右足がこのままなおらないのではないかと心配になる。まるで象の足だ。
なにしろ足の骨折は初心者である。知らないことばかりだから、何をどう注意すればいいのかもわからない。幸い膝がずれていないというが、どうしたらずれるのか。いや、どんなことに注意すればずれないのか、最初に患者が質問しなければわざわざ言ってはくれないのだ。救急で説明をうけたきは治るのにどれくらいかかるのかばかりが心配で、医者の説明もわかったようなきがしたが、一週間不自由にくらしてみて出てきた疑問だから、一週間前に聞けるはずがない。聞いたときにはtoo lateではないのか。事細かく言わなかったのは重大事ではなかったということなのかもしれないが。

この日、近所の友人が車を出してくれた。ご主人をのせて何度も通った病院だから、心配しないでと言ってくれた。持つべきは茶飲み友達と大見えをきった後ではあるが、こどもにしてみれば別の問題があるようだった。

こどもにとって高齢の親は世話しなけれならない存在で、その親が世間さまに迷惑をかけているのではないかというのは重要な問題なのだと思う。もし事故にでもあったらどうするのか、などと考えれば、心配するのも無理はない。
「今度はタクシーにしてね。」(でも会社に電話してタクシー呼んでもなかなか来ないのよ。いつも今配車できるエリアにいませんと言われるのよね。)

いったい、高齢者は世間に迷惑をかけるだけの存在なのだろうか。
永田町辺りはたしかにいるような気がするが、経済力もなく政治的な発言力のない一般の高齢者が生きづらい世の中であることは確かだ。
まず、degitalの進化と使いにくさは高齢者に親切とはいえない。漸く慣れたころ次々にアップグレイドされる新兵器に追いつけない。これも自己責任なのだろうか。
事故を起こしたとき心配だから車を手放せと言われても、そもそも車など持っていなかった高齢者だって多い。

世間に迷惑をかけないようにと考えれば自分の世界を狭くするほかない。孤立して認知症になるかもしれない。認知症がわるいわけではないが、年取ればだれもが認知症になる時代、「安心して認知症になりましょう」というキャンペーンなど見たことがない。「どうしたら認知症にならないか」という本ばかりが売れる。認知症も自己責任といわんばかりである。

高齢者にとって、これから起きることはすべて人生初めてのことだと覚悟しなければならない。昔出来たことができなくなるし、初めてのことに敢然と立ち向かうには、これまでの学習や経験が邪魔をする・・・。体力あるだろうか。
もろもろの妄想のあげく、これで100歳まで生かされるのはまっぴらだと思う。

9月4日 (月)
足が不自由で家にいてもすることはある。
9月の予定を全てキャンセルしたので、出席できないぶんカバーすることはあって、パソコンの前に座りっぱなしである。
怪我を知った知り合いから次々お見舞いのメールをもらった。
中に、要件の報告のあと、「本当に頼りしていますので、落ち着いてお大事にしてください。」と寄せてくれた友人があった。

彼女は私より5歳年下の、五黄の虎のうまれである。
むかし、五黄の虎生まれの女性は気が強い、と敬遠された時代があった。ジェンダー論議盛んな今なら叱られそうだが、これが意外に当たっていて、私の知る1950年生まれの女性はみんな元気である。消費者庁長官をやった阿南さんとは生協時代意見のあわないこともあったが、彼女も五黄の虎である。喧嘩したら絶対に負けない。
メールをくれたのは阿南さんではないが、やっぱり生協で知り合い、もう30年になる。

落ちこんでいるときに「頼りにしている」と言われるのは何よりの希望だ。
これでもまだ役に立つことはあるのならもうちょっと頑張ろうと思えてくる。

9月5日(火)
台湾の何聡明さんからメールで原稿が届いた。添付は何と2通である。「2024年の台湾相当選挙たけなわ」と「九州への船旅」。
年初、もう年で書く体力もおちたからこれからは原稿を送るのは年3回にする、とメールがあったのを思い出し、思わず笑ってしまった。これはうれしい誤算である。総統選挙の話題はわかるが、九州への船旅はよほど心うつものだったにちがいない。 何聡明さんは93歳になる。

9月6日(水)
サンパウロの李渭賢さんが雑記帳を読んで驚いたと言ってメールをくださった。高齢者の3つの禁物は「風邪」「誤嚥」「転倒」とあった。            
町で元気に歩いているお年寄りは皆これらの禁物を避けてきた人なのだと思うと、心底偉いなと思う。

9月8日(金)
診察日は台風にぶつかった。苦労してたどり着いた病院のロビーは人影も少ない。
「ずれはないようですね。この調子なら2週間後には24時間つけている固定装置も歩くとき以外ははずしてもよさそうです。」
「外しているときにはリハビリとして膝の曲げ伸ばしをしていいです。まず90度曲がるのをめざしましょう。器具が完全にはずれるのは10月6日を目標にします。」
「自転車にはいつ乗れるようになるでしょう。」
「膝が120度曲がるようになったらOKです。そんなにあせっちゃダメですよ。」

自慢の自転車は娘にサドルをさげられてしまった。
「だいたいその齢で足がつかない自転車に乗るなんて危ないでしょ。若いひとだってそんなにサドル高くしてないわよ。」
「サドル高いと目線も高くなって走ってて気持ちいいのよ。」
「スピードもでるから事故ったらもっとひどいことになるでしょ。」
「私、自分の足で転んでも自転車で転んだことはないのに。」
「とにかく転ぶ前に予防しなくちゃ。転んでからではおそいのだからね。」

これでも、私は70歳の時、クロスバイクに乗るのを諦めたことがある。
60歳のとき、あこがれのクロスバイクを手にいれて、多摩川の土手をよく走った。軽いので分解して電車に乗って遠出をするのを夢見ていたが、プロの自転車屋さんに「素人がこんなことしちゃいけません、事故のもとです。」と言われて、分解組立をあきらめた。スピードが出て、まちなかを走っても爽快だった。だが、70歳の時、子ども3人を乗せて走った30代とはバランス感覚や瞬発力が明らかに違うことを自覚した。溝のない細いタイヤで、万一縁石で滑ったら危ないと思って乗るのをやめたのだ。分別がないと自他ともに認める私でもそれくらいの分別はある。それなのに、ママチャリのサドルを高くすることさえ許されないというのか。

ともあれ、先は見えてきた。元通りではないが、足のむくみも少し改善したような気がする。
母が90歳のとき転んで車いすになったのを思い出す。90歳に比べればまだうんと若いのに転んだとは恥ずかしいが、その齢になって初めて転ぶ前に予行演習をしたのだと思えばいい。なにしろこれから出会うことは初めてのことばかりだから、その前に練習しておけば、(治療も含めて)おろおろしないですむだろう。
まだリハビリで回復できる余力のあることに感謝して、頑張ろうと思った。

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スエーデン製の歩行器
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鈴木さんがさしいれてくれたnoshの弁当「チキンのトマト煮」 容器も紙なのがよい
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サドルを下げて普通のママチャリになったマイバイク(後ろは20代の姪が乗っているサドルの高い自転車 5㎝の差は大きい!)





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雑記帳2023-9-1 [代表・玲子の雑記帳]

2023-9-1
◆この夏、四国に住む妹が、娘の出産に合わせて上京、1か月間、我が家に滞在しました。
この間、マンションのゲストームや近くのホテルを利用した数日を覗けば、ほぼ毎日、立川から娘の住む五反田まで電車通勤したわけですが、夏の猛暑と相まって、つくづく年齢を感じさせる夏になりました。

10歳年下の妹は便在68歳。夫が亡くなった20年近く前、高校を卒業した彼女のこども3人を次々、我が家で預かったことがあります。、それぞれ大学や専門学校を卒業して、今では皆自立した社会人になっています。出産したのは2番目の子(?)で、外資系の金融会社で共働きをしながら流行りのタワーマンションに住んでいます。

岸田さんは「異次元の少子化対策」という言葉を使って少子化に取り組む姿勢をみせています。東京都も出産時の援助は手厚く、50万円とか80万円の声も聞きます。子育て中の支援も品川区は非常に手あつくなっているようです。1人でも年収1,000万円を越えるパワーカップルなら愛育病院での出産もなんということはない、援助などなくても産める。少子化対策として本当に支援が必要なのはどこなのか、考えざるを得ません。(そもそも今の日本は少子化の原因そのものが分かっていない政治家が多すぎる。個別に支給すればいい問題ではないことに気づかない。格差や貧困さえ「自己責任」にすり替えて、政治の問題だとは思っていないのです。)

勿論、赤ちゃんは可愛い。これは別問題です。
ミルクを呑んでおしめを替えてもらって満足しきって寝ている顔はいつまで見ていても飽きない。おなかがすいたとき、ウンチをしたとき、泣きわめく顔だってかわいい。仁君は(赤ちゃんの名前です)しかめっ面をするとまるで分別臭いおじさんのような顔になるのだけど、それも文句なく可愛い。

妹にとっては、電車やバスでの通勤も、タワーマンションの生活を目にするのもはじめてです。私など、今では電車に乗るだけで疲れてしまうありさまですが、さすがに10歳の差は大きい。1週間ほどですっかり慣れて、駅の戒壇の上り下りに脚が適応してくれるようになったと言います。
マンションに住んだことにない私は、慣れないタワマンの出入りにもおろおろ(あのセキュリテイの面倒くささは何だ!)、車止めの不自由さにもとまどいます。1か月も通った妹のほうは、マンションのコンシュエルジュを相手にそれにも慣れた様子でした。

この暑さの中、駅前のスーパーで買い物をし、重い袋を下げてマンションにたどり着く作業は今の私にはできません。特にこの夏は暑さに絶えられず、1人暮らしも身について、買い物は量も最小限なら陽ざしを避けて買い出しにいくのも最小限と言った具合でした。なかんずく、若い夫婦の食べる量は半端じゃない。肉や野菜の買い出しも毎回、相当な量になったはずです。私も60代、いや、70代前半だったらできたなあと思い、後期高齢の意味がよくわかった気がしました。

1か月の産後手伝いを終えて、妹は無事帰郷しましたが、これには続きがありました。なんと、妹が帰る前日、私は転倒して骨折という憂き目にあったのです。
日頃、走ってはいけないと肝に命じていたにも拘らず、すぐそこの物をとろうと思わず走ってしまったのが原因でした。まるで高齢者の見本のようだ、が一瞬頭をよぎりました。

8月24日(木)
救急で運ばれた病院でレントゲンとCTで骨折が判明。入院手術するか自宅で直すかは相談して決めよと言われ、紹介状を書いてもらってひとまず帰宅。
夜、仕事を終えた娘夫婦がコンビニで弁当を買って来てくれた。もともと木曜日は週に一度二人が我が家に晩御飯を食べにくる日だった。私にすれば週に1回でもひとの為に料理をする時間であり、むこうにすれば、認めたくはなかったが、年寄りの見守りの意味もあっただろう。はからずも今度のことで、後者の意味合いがはっきり出てしまったようだ。
「走らないようにずっと気をつけていたのに・・・」(私)
「でも走っちゃったんでしょ。高齢者がみんな転ぶわけでなく、ころばない人だって大勢いるよ。以前できたことが今はできなくなっているという自覚がたりないのね。」
(まことにその通りです。転んだのはひとえに自己責任。だからほうっといて。)
「お義母さん、怪我したら損だと思って気をつけるのがいいですよ。」
これには説得力がある。その通りなので反論のしようがない。

婿は年齢のわりに分別があるのだ。以前もこんなことを言われたことがある。
「お義母さん、その年齢で責任を持たなければいけないような仕事は受けないほうがいいですよ。」
私は、自分が彼ほどの分別をもちあわせないのを恨めしく思うことがある。子どもの頃、分別はおとなになったらつくものだと思っていた。でも、そそっかしさやせっかちは生来もってうまれたものなので、大人になったら治るものではなく、努力してカバーしなければならないのだ。努力が足りないわたしい¥としてはと人は言うのかもしれない。その意味でも損をしている。

夜、独りになって、ひざが曲がらないように固定されて慣れない松葉杖で過ごしてみて、その不自由さに参った。一日もはやくらくになりたいと思った。

8月25日(金)
紹介状を持ってふれあい相互クリニックへ。タクシーを呼ぼうとしても出払っていてなかなか配車できないとのこと、相当待ってようやく来てもらえた。バス停が近くなので必要ないと思っていた配車アプリが必要かもしれない。
「手術してもしなくてもどちらでもいい状態です。手術すれば早く歩けるようになりますが、それなりのリスクはともなう。年齢を考えると、早く社会復帰しなければならないほどのこともないのではありませんか。」
ここでも年齢のことを言われてしまった。
昨夜は早く楽になりたい一心だったが、話を聞くうちに骨が自然にくっつくのがいいようㇴな気がしてきた。
「一週間後に見て、ずれがひどくなっているようだったら手術しましょう。手術はそれからでもおそくありませんよ」
「ベストの選択かも。」と、あとで娘の弁。

8月26日(土)
骨折と聞いた知人が歩行器を貸してくれた。
スエーデン製のすぐれものである。さすが介護王国、頑丈で安定性があって、なかなかに具合がいい。松葉づえがいまいちへたくそな私には有難かった。
惜しむらくはトイレの間口が狭くてここには使えない。
この知人は国労出身で、今でも情熱的にマルクスを語る。ただし、親の残してくれた不動産があって何棟かのアパートを経営しているから、順然たるプロレタリアートではないことに屈折した思いはあるのかもしれない。彼が最近読んでいるのがむのたけじ。戦後、ジャーナリストの戦争責任を問うて朝日新聞社をやめ、郷里の横手から「たいまつ」を発信しつづけた人である。今どれくらいの人がむのたけじを知っているのだろうか。
実は『知の木々舎』は創刊時、横手のむのさんに電話して詞集『たいまつ』を連載させてもらったことがあった。横手は冬寒いので晩年はさいたまの息子さんの所に住んでおられた。そこにも電話して、いつかお昼をご一緒しましょうと話したことがある。100歳を越えて、「今、100歳から14歳の君へというのを書いている」と聞いたのが最後になった。声は100歳の老人とは思えないほど力強かったのをおぼえている。

8月27日(日)
骨折してどこにも出かけられず無聊をかこっているだろうからと、鈴木さんから電話があった。鈴木さんは例によって日曜日のお昼探訪を楽しんでいるらしい。今日は西国分寺駅の構内にある寿司屋へ行ってきたという。JR中央線の西国分寺駅は国分寺崖線の谷底に出来た駅で、狭いホームやコンコースを非常にうまくつかっている。後で知ったことだが、知人の町づくりデザイナーがプランニングしたということだった。狭い場所を上手く利用してコーヒーやカレー、うどんなどのファストフードショップがならび、果てはカウンターだけだが寿司屋まであるのである。

鈴木さんによると、西国分寺の寿司屋の魚は立川の駅ビルにある「魚力」より上ではないか。ただ、汁の方は浅利が3つ入った「魚力」の味噌汁が美味しいとのこと。料理がうまいまずいは人それぞれ、でも自分なりのものさしを持っているのは悪くないと思う。
四国出身の妹は、今回、東京で何がつらかったかというと、美味しい魚が手に入らないことだったという。魚は特にその地で獲れたものをそこで食べるのが一番。瀬戸内海の魚を東京で食べようと思うのがまちがいだと笑った。料亭や有名レストランで目が飛び出るほどのお金を出せば食べられるかもしれないが、地元ならそんな必要はない。輸送の技術が発達した今でも、美味しいものを食べたければその地へ行くのが正解のようだ。

鈴木さんはそのあと、立川へ戻って、立川駅のホームの蕎麦屋でおでんそばなるものを食べたそうだ。そして、締めは、モノレール立川北のミスタードーナッツである。92歳でこれだけ食べられるのが元気のもとなのだろう。昔食いしん坊だった私でさえもはや食もほそくなり、最近は必要な栄養をとるにはもっと食べなければならないと痛感している。タンパク質はもちろん重要だが、鉄やカルシュームのような微量栄養素は十分にとれていない。嫌いだったサプリメントの出番かもしれない。金曜日には鈴木さんは冷凍の弁当noshを差し入れてくれた。これも私には相当のボリュームだった。

8月28日(月)
怪我をして5日目にもなると、段々慣れてくる。歩行器を連取したら苦手だった松葉づえも上手にあやつれるようになった。人間はかってなものだ。丈夫なだけが取り柄だった私が怪我して使い物にならないなんて、生きていてもしょうがないとまで落ち込んでいたのが、気分も少し上むきになるのだった。

今日は近所の宮崎さんが今年の梅でつくった梅干しと梅ジュースを持って来てくれた。、落下していた梅の実がもったいないと持ち主に了解を得てもらったものである。見事なできばえだった。とりとめのないおしゃべりをして、たまたま落っこちた簾を、2階に上がれない私の代わりにかけかえてもらった。

骨折して出歩けないながら、一日中、まったく一人になることはありませんでした。買い物を頼んだり病院への送り迎えにも誰かがいました。一人で暮らす高齢者が持つべきものは茶飲み友達だとつくづく思います。


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雑記帳2023-8-15 [代表・玲子の雑記帳]

2023-8-15
◆この夏の暑さは格別でした。通常なら旧盆のころになると、優触れになると、ちょっと涼しい風がふきはじめるのですが、今年は猛暑はまだまだ続きそう。線香花火を楽しんだ後の縁台の夕涼みももはや遠く、熱中症を気遣う高齢者には厳しい季節でした、

そんなわけで、暑さの中を電車やバスに乗って遠出も出来ず、時折訪ねてくる友人とおしゃべりをするのが関の山、段々一人暮らしの高齢者らしくなってきました。酒の飲めない父が晩年、茶飲み友達が毎日やってくるのをたのしみにしていたのを想い出し、遂に自分もその年齢になったのかと感慨無量でした。四十肩や五十肩、更年期障害など誰のことかとたかをくくっていたのに、今は脊柱管狭窄症とやらに悩まされ、老いは誰にも等しくやって来るのだと実感しています。

で、今日は朴さんとデートしました。
朴さんのことは以前、雑記帳で紹介したことがあります。
韓国の名門梨花女子大学を卒業したお嬢様でしたが、家族の反対を押し切って結婚した相手は牧師さんでした
1985年に来日して東京でのご主人の布教をてつだい、現在は立川に住んでいるのです。私たちのサークル「食とくらしと環境を考える会」に朴さんが入会して本場のキムチの作り方も教わりました。

朴さんは10年余り前、4歳だったダウン症の玲ちゃんを里子に迎えました。ちょうど「食とくらしの会」に入会したころです。
シングルマザーの玲ちゃんのお母さんが病弱で、こどもを育てられないのが理由でした。
教会の活動がら、それまでも短期間、問題を抱えた少年少女の面倒を見たことはあったということですが、日本の里親制度に接するのははじめて。ずい分勉強したそうです。玲ちゃんが生まれた時、お母さんは病院の支払いが出来なかったのが、なんと、亡くなってから玲ちゃんに請求がきたこともあったとか。いろいろな所に相談して、玲ちゃんが相続を放棄することで解決したということです。玲ちゃんを育てることは一つ一つそんなことの積み重ねでした。

玲ちゃんは朴さん夫婦を「パパママ」と呼んで、養護学校に通いながら着実に成長し、今は高校1年生です。中学の卒業式では代表で答辞を読みました。生まれた時1400gだった玲ちゃんがパパママへの感謝をのべる言葉に朴さんは涙がとまらなかったと言います。

高校生になった玲ちゃんは異性への興味をもつようになりました。おむつが完全にに取れたのは小学校5年生のとき、同時に初潮がはじまりました。
障害のあるなしにかかわらず、異性に感心を持つ次期は誰にでもおとずれ、それも個人差があります。玲ちゃんは異性への関心の度合が強いのを見た朴さんが今考えていることは「グループホーム」ならぬ「カップルホーム」です。

これまで障害者の入所施設は規模が大きいのが主流でしたが、彼女によればこれからは規模の小さいのが主流になるだろう。障害者も好きな人が現われれば結婚し、3組程度のカップルが共同で生活しながら仕事も共同でできればより自立できるのではないかと思うのです。(カップルホームは朴さんの造語です。)そのための家を建てたい。大きな施設ではなく、30坪程度の家があれば十分ではないか、今土地をさがしていると、夢も具体的でした。 80歳ちかくなってこんなことを考えるなんて思ってもいなかった、玲ちゃんのお陰だと朴さんは言います。自治体も障害者支援や共生をうたってはいても具体的にどうすればいいか案はまだない。そんな中での朴さんの夢をはからずも聞くことができたのでした。

7月以来の暑さで体調を崩したご主人は肺炎で入院中。デジオネラ菌が原因とわかるまで時間がかかったこともあって朴さんは一時はお葬式も覚悟したそうです。気丈に手配をする朴さんに玲ちゃんが「ママ、泣いてもいいんだよ」と言ってくれたそうです。その言葉が身に沁みて、この子はこんなに優しい子だったのだと思ったそうです。普段は口にださないけれど、この子は人の心が読めるのだと・・・。玲ちゃん幸せな将来のために、朴さんのカップルホームの夢は益々膨らんでいくようでした。


◆遠出ができない時、近場にあるのは国営昭和記念公園と都立薬用植物園です。夏の薬用植物園は訪れる人も無くひっそりとしていました。百花繚乱の春でもなく錦秋の秋でもない季節に、花々はけなげです。

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モミジアオイ
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トロロアオイ
この植物から採取される粘液はネリと呼ばれ、和紙作りのほか、蒲鉾や蕎麦のつなぎ、漢方薬の成形などに利用される。
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シロバナインドソケイ
キョウチクトウ科 有毒
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サルスベリ
夏の定番 赤が多いがこれは白花
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コウホネ
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キキョウ
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エビスグサ
乾燥させた種子は決明子(けつめいし)と呼ばれて生薬になる。便を柔らかにしたり利尿作用がある。
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アメリカノウゼンカズラ
通常見かけるノウゼンカズラより花弁が小さい。有毒。

春、見た花たちは多くが、この季節、実を付けています。

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ボケ
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ハマナス
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サンザシ



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雑記帳2023-8-1 [代表・玲子の雑記帳]

2023-8-1
◆今年の夏の暑さは格別で、東京は梅雨明け前から猛暑日が続きました。かくいう私も暑さにダウン、ならば冷房とエアコンに頼ったはいいものの、今度は夏風邪にみまわれてしまいました。たかが風邪、と甘く見た結果、3日も寝込む羽目になり、まこと、年寄りは生きにくい、と実感した7月でした。

昨年「高松からの風」をご紹介した「アールブリュットたちかわ」が今年もひらかれています。室内を飛び出してまち中や地下道での制作も行われました。

多摩都市モノレールの高松駅から市役所にむかう途中、立川立飛本社を囲む壁面はアートが並ぶドリ-ムロードです。昨年12月に完成しました。

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見上げればモノレール 近くに車両基地がある。
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周辺は裁判所や国文学研究所等で殺風景

もう一つ、JR立川駅の東地下道に今年完成したのが「東地下道プロジェクト」です。活動を紹介した東京新聞には、「作品はここで何年も残っていく。皆さんの日常の中で当たり前のように存在していくことで、この作品がどう変わっていくのか楽しみです」という作者の言葉が紹介されていました。
アートの町を標榜する立川には町のいたるところに「街角アート」が見付けられます。「日常に当たり前のように存在する」っていいですね。

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三光院サロン7月は、リンボウ先生の『平家物語茶話』の最終回でした。
物語に登場する女性や武将たちを取り上げたのちの最後の舞台は平家終焉の地になりました。

平家物語は上下巻の内、上巻は平家の栄華と横暴が語られ、下巻は頼朝挙兵にはじまって、ほぼ全編、平家の都落ちです。
武力に勝る源氏に敗れて簡単に都落ちしたと思われていますが、、平家も意外にしぶとくて、実は何度も巻き返しをはかったあとをリンボウ先生と共に辿りました。

巻七では、寿永二年三月、朝日将軍と木曽義仲がくりから峠を越えてせめのぼり、平家は初めて敗れて敗走します。知盛は此の戦で戦死しました。この時比叡山は源氏の味方となり、勢いに乗った義仲は京に攻め上ります。平家は総大将宗盛をたてて都から撤退するのです。

義仲は源氏では真っ先に京へへ行ったにもかかわらず、田舎武士の哀しさ、都の雅になじむことができませんでした。ごたごたの間に平家は九州へとおちのびます。しかし、九州には頼みとする味方の武将はすでにおらず、最初にはいった筥崎宮から宇佐八幡へ移動。右往左往の様子が伺えます。宇佐八幡は石清水八幡、箱崎八幡と並ぶ、日本の三大八幡でした。戦勝祈願もむなしく、筑紫は遠賀川の河口、柳ヶ浦の合戦で敗れ、、笛の名手と呼ばれていた平清経は自害します。

そのときの大将、平知盛は長門の国の国守でしたから、長門の国周辺にまだ平家の勢いは残っていました。知盛は九州をすて、四国勢を味方につけようと屋島へむかいます。
この間にも関東から攻め寄せた源氏と何度か合戦をしています。関東軍の大将は義仲でした。

源氏は水軍をもたないので、瀬戸内海ではなんといっても平家が強い。平家は先手を取って岡山の水島に陣をはり、義仲は京へどもどります。義仲が義経に討たれるのはこのあとのことです。

勢いを盛り返した平家は屋島を出て摂津へ。福原に再び都をきずこうともくろみました。
ここで一の谷に華々しく義経がでデビューするのです。

寿永三年二月四日、この日は清盛の祥月命日でした。一門上げて法要を執り行った翌日、源氏の農攻撃をうけるのです。二月六日、義経のひよどり越えの奇襲を受けて平家は総雪崩、一の谷の合戦でした。薩摩の守忠度は戦死、箙に結んだ短冊は敵味方の涙を誘いました。

一方、生田の森で敗れた平重衡は生け捕られ、奈良で打ち首、主だった平家の武将たちは次々に討たれます。総大将知盛は、息子・武蔵守知章の身を賭した助けにより急死に一生をえたものの、かかるうえは生きていても意味はないと覚悟します。一の谷で生け捕られた武蔵守の首は都大路にさらされました。

平家追討の院宣を貰った義経は勝浦に上陸して屋島へ、平家は屋島をすてて長門の国彦島へ向かう途中、壇ノ浦で最期を迎えます。既に死を覚悟していた知盛は、海中に身を投じた平家方の何人もが甲冑が禍して没することができず浮き上がって生け捕りになる様子をみて、懐に大石を抱いて入水してはてます。

ほろびゆくものの最期を丁寧に描く一方で、平家物語では源氏は良くは描かれません。頼朝はもちろんのこと、義経にしても然り。揺れる船の上で、那須与一が女官の掲げた扇を射落とす場面は戦いの最中に生まれたエピソードです。今回のリンボウ先生の話にはありませんでしたが、これにはあまり知られていない続きがあります。敵も味方も与一の弓矢の腕前を賞賛する中、一人の老人が扇を手に賞賛の舞を舞うのですが、義経は顔色を変えることなく与一に命じるのです。「あの者を射よ。」与一も即座に命令に従い、老人は海へ、再び戦がはじまるのでした。

古来、戦場にはいくつかルールがあり、意外に紳士的だと感じたことがありました。戦は武士同士がするもので、船を使った戦では勢子は殺される対象ではありませんでした。戦の天才、義経にはそんなのは知ったことではない。彼にととっては勝つことが大事だったのですから。
禁じ手も奇襲も、敵わない強さの秘密でしたが、平家物語では勝ち組の義経もその後は悲劇の武将に転じて、世の判官びいきをうならせることになります。おおむね、日本人は判官びいきですね。

サロンの西井さん曰く、「こんなに平家をおもしろく語ってくれる人はいませんよ。」
そして、最後の会だからとサロンが茶話会を用意してくれました。
供されたのは三光院近くの和菓子屋さん「三陽」の葛まんじゅうでした。昨年、リンボウ先生がすっかりファンになったというお店です。

葛餅をいただきながらのおしゃべりの中で、「平家物語の跡を旅するとしたらどこがいいでしょう」という質問がでました。
これにはリンボウ先生も苦笑い。「京都でないところがいいですね。」
清盛が遷都した福原はどうだろう。こちらは観光地神戸に近いから行きやすいかもしれない。平家がまだ力のあった九州や長門の国が意外に知られていなくて穴場かもしれない。
そんなことを思いながら4回つづいた講座を終了しました。

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三陽の葛饅頭


◆毎回、三光院サロンの精進料理を紹介してきたのでちょっと期待する向きもあると知って、今月は7月の膳の紹介です。
定番のコースに月替わりのお品が1品か2品加わるのが常ですが、7月は「押し胡瓜の酢の物」と「おナスの枝豆和え」がつきました。ご飯は「青じそのおばん」です。

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おなすの枝豆あえ
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押し胡瓜の酢の物
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青じそのおばん

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雑記帳2023-7-15 [代表・玲子の雑記帳]

2023-7-15
◆江戸時代の庶民の暮らしはとてもエコだったとよく言われます。深川の江戸資料館を覗けば、徹底的にリサイクルしていた長屋の日常が学べます。そんな江戸時代の自然環境を最も良く残しているのがほかならぬ皇居です。その皇居外苑で、江戸の行楽弁当を味わいながらエコを学ぶ集いが、ありました。

家康が江戸に幕府をひらいておよそ100年、18世紀の江戸は人口100万を超える世界一の都市でした。都市住民の飲み水を確保するため、遠く多摩の地から玉川上水が引かれ、都市のインフラが次々に整備されたのもこの次期です。

食べ物で言えば、にぎり寿司や天ぷら、そばなど、今の日本の伝統料理の多くが生み出されました。「豆腐百珍」のような料理本も出る時代、調理方法も進化したのです。
そんな庶民の台所はどうだったのでしょう。

台所も実は進化しています。
人類は最初、家の外で煮炊きしていたのが、やがて家の中で煮炊きするようになりました。
家の中心に火があった古代は、火は暖房やあかりもかねていました。
火のコントロールは難しく、煙を外にだすために、火は壁際に移動して、明かりとは別れ、火の役割は調理に特化しました。同時に水場も外から内に変わりました。
中世の貴族社会は身分制度が確立して作業が使用人に振り分けられた時代、調理も専門化します。包丁や俎板など、切る文化が発達しました。

さて江戸時代、天下の将軍のおひざ元である江戸においては、50万人の庶民の7割は長屋住まいでした。台所も最小の機能をもてば十分でした。
水は共同井戸から汲まれ、各戸には流しと水ガメです。 熱源は「へっつい」と呼ばれる「かまど」、七輪や長火鉢でした。
すり鉢や羽釜、鍋、鉄瓶が普及したのもこの時代です。

こうして、社会情勢の変化とともに台所も変化してくるのですが、日本人の特性として、過去の文化を比較的のこす傾向があると言われます。食文化も同様です。
たとえば、日本の代表的なすしについてみると、発祥とされるなれずしは日本の風土に合わせて様々な発展をとげ、にぎり鮨まで多種類の鮨が各地にあり、伝承されています。
明治以降の西洋化で坐る文化から立つ文化にかわりましたが、坐りたい日本人の文化がなくなったわけではありません。
都市化した江戸の人々は勤労生活者になったための対応文化をつくりだし、気がつけば、持続可能な循環型の生活の有り様をうみだしていたのでした。

今のように物資が豊かではなかった時代、人々は燃料も水も食材も智恵を絞って大切に使いました。僅かに残った生ごみや灰、人間の排出物さえも土にもどして肥料にし、限られた資源を有効に使いつくしていました。
ふりうりが毎朝やって来る長屋では、買い物は旬のものを必要なだけ、限られた燃料を節約するためには調理は無駄なく手際よく、無駄にできない貴重な水は、後片付けは手順を考え少ない水で、」が基本でした。まさに、エコクッキングです。使いつくすくらしからはフードロスなど出しようもありません。
そして、花見や芝居、相撲見物など遊びが大好きだった江戸っ子に、趣向をこらした食が行楽の楽しさを得出してくれました。

江戸の人々が楽しんだ行楽弁当を皇居外苑で味わうことができます。
場所は二重橋をわたってすぐの休憩所「楠公レストハウス」。
実は皇居外苑は、環境省とタイアップして、江戸城の自然環境の保全をはじめ、持続可能をテーマにしたさまざまなで発信している場所なのです、

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木材の外観もおしゃれな楠公レストハウス
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店内
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店内に飾られていた江戸エコクッキングのポスター
料理長の阿部憲昭さんから説明を受けながらあじわいました。

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四段のお重にびっくり。
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右下の皿に履いているのが江戸独特の調味料「煎り酒」

出された四段のお重に先ず驚きます。これだけの豊富な食材があの頃もうあったんだ。
江戸の庶民は意外にグルメ、そういえば女房を質に入れても初がつお食べたんですものね。今とはちょっと違う調味朗や調理法も江戸を再現したのだということでした。
塩は貴重品でした。塩を運ぶ際に染み出るニガリを使って豆腐をつくる、大豆を豆腐にする時に出るオカラも食朗や肥料になったと言います。
砂糖だって貴重です。今のようにたくさんは使わないからヘルシーですね。
※一の重

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◇とりまんじゅう 
 国産の鶏のに肌肉をすりつぶして卵白、小麦粉を加え、春夏は枝豆、秋冬は台ぞをいれて
 丸め、だし汁でにる。
◇元祖天ぷら 
 東京都八丈島のトビウオのすり身の揚げ物(さつま揚げ)。江戸時代後期に衣を付けた天
 ぷらが流行するまで、天ぷらといえばさつま揚げのことだった。(今でも西日本では薩摩
 揚げを天ぷらと言おます )
◇かすてらたまご
 卵に山芋や小麦粉を加え、カステラのように焼いた厚焼き玉子。ポルトガル人が広めたカ 
 ステラの製法がも元になっているとか。
◇芝えびの天ぷら
◇五色田楽
◇魚のすずめ焼き

※二の重

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◇こおり豆腐
 豆腐を寒天でつつんだ一品。寒天は東京産の糸寒天。豆腐は国産大豆にこだわって。
◇おぼろ大根
◇こんにゃくの煎りだし
 蒟蒻をごま油であげ、熱いうちに唐辛子、醤油に漬け込む。醤油には煎り酒を加えて。
◇蒸し羊羹
 これも寒天は東京産の糸寒天。
◇当座漬け
 江戸時代の食卓に漬物は必需品。大根、瓜、かぶ、小松菜等、近郊で取れた様々な種類の
 新鮮な野菜が使われた。
◇煮物
 近郊でとれた春の野菜(春夏は南瓜や筍、秋冬は蓮根や里いも)と、シイタケや生麩を使
 った品の或る煮物。

※三の重

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季節のご飯(たこのさくらめし)

※与の重

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◇つま(大根、人参、糸観点、大場、おごのり、小菊花びら)
 現代使われている刺身の「妻は、ほとんど江戸時代にもつかわれていた。糸観点は」八丈
 島産。おごのりには酒粕酢で作った甘酢であえてある。酒粕から造られた酒粕スは江戸時
 代後期に生まれた」握り寿司ニつかわれえいた。
◇カツオの焼き塩造り
 江戸では4月の初カツオが特に賞味された。
◇煎り酒・ねりからし
 煎り酒は、醤油が普及する前の、鰹節、梅干し、酒などを煮詰めた江戸時代の代表的な刺
 身の調味料。
◇霜降り鯛
 鯛は刺身の中でも極上とされた。川をンwっとぅでしもふりにしてかわごこいただく。
◇刺身こんにゃく

※味噌汁

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江戸時代、味噌は各家でつくられていた。使用しているのは江戸時代から続く老舗の麦みそ「えど味噌」。

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箸も環境にやさしい二重箸 菊のご紋が入っていて再利用をすすめている


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雑記帳2023-7-1 [代表・玲子の雑記帳]

2023-7-1
冬には冬の野菜を、夏には夏の野菜を、と、今年も夏野菜のレシピを作りました。
恒例の女性センターでの講座が好評だったので、ご紹介します。

◇鶏むね肉と夏野菜の蒸し煮

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≪材料≫4人分
鶏むね肉(皮なし)1枚、塩小さじ1/4、コショウ少々、片栗粉大さじ2、
夏野菜(玉ねぎ1個、ナス1本、カボチャ5mm厚さを4枚、アスパラ4本、キャベツ2枚、ミニトマト8個、その他なんでも。
オリーブオイル大さじ2、ニンニク2片、酒大さじ4、水またがゆで汁大さじ4、チキンスープの素小さじ1、塩小さじ1/4、

≪作り方≫
①撮むね肉は繊維を切るように3mm厚さにそぎ切り、両面に塩、コショウをふって、片栗粉をまぶす。
②鍋にたっぷりの湯を沸かし、①を入れて弱火で約く2分ゆでる。、浮き上がってきたら穴あきお玉などですくって皿にとっておく。
③玉ねぎは櫛形に切り、ニンジンは3mm厚さの短冊、ナスは皮を放射状にむき5mmの輪切り、カボチャも5mm厚さで食べやすい大きさにきる。キャベツは大きめの一口大にちぎり、アスパラは4mm長さの斜め切り、ミニトマトはへたをとっておく。
④深めのフライパンにオリーブオイルと大きめにスライスしたニンニクを入れて弱火にかける。香りがたったら火をとめて、玉ねぎを下に、あとは固い順に野菜をいれる。
⑤④に塩、スープの素をふり、酒、水をまわしかけ、蓋をして強火にかける。沸騰したら弱火にして2分蒸し煮にする。
⑥蓋をとり、②の胸肉、アスパラ、ミニトマトを入れて1分中火で加熱する。
③皿に肉をのせ、野菜をもりつけて残ったスープをかけてできあがり。

◇卵とトマトの炒めもの

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≪材料≫4人分
卵3個、トマト中2個、塩小さじ1/4、ニンニク1片、コショウ少々、片栗粉小さじ1(大さじ1の水でといておく)、太白ゴマ油大さじ1
≪作り方≫
①トマトはヘタをとり、一口大の乱切りにあうる。
②卵は塩を加えといておく。
③フライパンに油を入れて熱し、卵を流し入れてゆっくりと菜箸をまわしながらいため、皿にとる。
④トマトと大きめにスライスしたニンニクをいため、トマトの角がとれたら軽く塩、コショウをふって水どき片栗粉でとろみをつける。
⑤と③を絡めてできあがり。

◇オクラとゴーヤの和え物

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≪材料≫
オクラ8本、ゴーヤ1/2本、塩小さじ1/4、コショウ少々、太白ゴマ油大さじ1、クコの実大さじ1
≪作り方≫
①オクラは額の部分をむいておく。
②ゴーヤは縦半分に切って、スプーンで綿と種を取り除き、薄く切る。
③鍋に湯をわかし、オクラ、ゴーヤの順にゆでる。オクラは色が変わったらとりだし、薄く切ったゴーヤをいれて1分ほどゆでる。ゆでたら水にさらして水気をきっておく。クコの実はさっと洗って、ひたひたの水でもどす。
④オクラは3~4等分に斜め切りにする。
⑤ボールにオクラとしっかり水ケを切ったゴーヤをいれてよく混ぜ、粘りがでてきたら、塩、コショウ、ごま油を加えて和える。クコの実をかざってできあがり。
参加者からは、意外に短時間でできる、野菜が沢山食べられる、蒸し器が無くてもフラパンでできるのが良い、などの感想を貰いました。
太白ごま油は生搾りタイプで、昔ながらの低温あっ作法で搾ったごま油です。一般的なごま油のような香りはないが、さらっとした口あたりで、素材をいかしたい和食にはぴったりです。

6月はアジサイ電車に乗って箱根美術館へ。
大腸がんの手術から2か月たち、そろそろ遠出の足ならしに手ごろなバスツアーを見つけました。
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箱根湯本から強羅までの登山電車はこの季節だけ「あじさい電車」に

強羅にある箱根美術館は昭和27年に開館した、箱根の数ある美術館の中で最も歴史の或る美術館です。世界救世教の創始者、岡田茂吉が設立しました。
パンフレットには、商売で財をなした岡田が「美術品は決して独占すべきものではなく、一人でも多くの人に見せ、娯(たの)しませ、人間の品性を向上させることこそ、文化の発展に寄与する」との信念のもとに戦後、東洋美術の蒐集に勤めて海外流出をふせいだとあります。そのコレクションを収納展示するためにたてられたのがが箱根美術館でした。

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箱根美術館本館
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美術館エントランス

熱海にあるMOA美術館は実は箱根美術館の姉妹館です。昭和57年にMOA美術館が開館してからは、箱根はもっぱら中世の焼き物を中心に、縄文から江戸時代までの陶磁器を常設展示しています。
焼き物は、備前、丹波、常滑、越前、美濃、瀬戸、信楽等々、珠洲のような小さな釜まで、全国各地から集められたことがわかります。或いは室町時代の大甕や縄文の火焔形土器に至るまで、時代も多岐にわたっているのでした。

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到着して最初に案内された茶室「真和亭」で抹茶をいただきました。
この季節、ここは庭の苔が見事です。秋には同じ庭の紅葉を愛でるために訪れる入館者も多いと聞きました。

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美しい苔を見ながら真和亭まで。
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真和亭から眺める庭も人気。

「これこそ、ザ・ニッポンですね。」
美しい苔の庭を見ながらお茶を待っていると、隣にいた若い女性が声をかけてきました。
「海外の観光客はきっとよろこびますよ。」
「そういうあなたは?」
「私は中国から来ました。上海です。」
「折角だから誰さんと呼んだらいいのかしら?」
「山田です。」
「あら、ご主人が日本人なのね。お若いので独身かと思ってた。」
ひょんなことからすっかり打ち解けて暫くおしゃべりを楽しみました。一人参加のバス旅行のだいご味です。お茶のあとはよく手入れされた庭の散策をたのしむことができました。

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園内には小川のも画れている。
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急な斜面をそのまま生かした石の庭はその名も「石楽園」
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竹林の向うに本館が見える。

岡田茂吉は自然農法を唱えたことでもしられています。
自身の病を通して編み出された この農法の根本原理は「人肥や厩肥また化学肥料などを一切使用せず、 出来るだけ土を清浄にし感謝して栽培すると、土本来の素晴らしい力を発揮し、その地域に住んでいる人間や家畜を養うに十分な、美味な作物が豊富に収穫できる」というものでした。
そういえば熱海のMOA美術館にはショップにその農法を紹介するコーナーがありました。
岡田茂吉の名をしらずとも、或いは彼の作った世界救世教をしらずとも、今では自然農法で栽培された野菜を求める消費者は全国に大勢いるのではないでしょうか。
見学先は箱根美術館のみというゆったりした旅のお昼は、アジサイ電車に乗る前に、小田原の「右京」さんでいただきました。

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前菜のあとに出された青のり真丈のお吸い物
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ボリュームたっぷりのお重
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炊き合わせ
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デザートは小田和らしく梅の寒天寄せ


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雑記帳2023-6-15 [代表・玲子の雑記帳]

2023-6-15
◆今年は国立極地研究所が誕生して50年です。

立川市の学術エリアには、裁判所や国文学研究所と並んで国立極地研究所の付属機関、南極・北極科学館ががたてられています。

近年の気候変動が人類の脅威の一つであることは誰もが認めるところです。
国立極致研究所は、そのような地球の今後の変化を知る上で、重要な極致の観測を行う研究所です。極致の氷床、海洋、地形、地質、待機などの変動を、様々なアプローチで捉える、極めて重要な施設なのです。
南極・北極極科学館は一般市民に開かれており、自由に見学することができます。
梅雨入りして間もない一日、南極・北極科学館を訪ねました。

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案内してくれた渡邊研太郎さんは。南極観測隊には夏冬3回、越冬隊にも会参加した経歴の持ち主。お父上も第一次南極観測隊の隊員だったという南極一家です。

日本が南極観測に参加したのは1956年、国際極致観測年に参加したことが始まりです。私が小学校6年の時でした。輸送船「海高丸」や観測船「宗谷」の名は今も鮮やかです。。

昭和基地は、大陸の中ではなく、大陸から少し離れた東オングル島に造られました。
戦後処理に追われていた日本は観測に参加するのが遅れたため、主要な観測地点は既に他国に占められていたのでした。距離的には資材や隊員を輸送するのに不利な地点ではありましたが、後にオーロラ観測には最も適した場所であることが分かりました。
当時は砕氷船の機能もまだ十分ではなかったので、氷に閉じ込められた宗谷は身動きできず、ソ連の砕氷船に助けられたことがニュースになりました。

物資を運ぶためには犬ぞりが使われました。第二次越冬隊が引き揚げる際、そりを引いたカラフト犬を島においていかざるを得なかったことがありました。1年後にオングル島に戻った第三次越冬隊が昭和基地で生き残っていたタロとジロを見つけた物語は日本中を沸かせました。

日本の南極とのかかわりは実はもっと前にありました。アムンゼンやスコットが南極点到達一番乗りを競っていたのとほぼ同じころ、白瀬 矗(しらせのぶ)が南極を探検しています。この時も樺太犬が活躍しました。

科学館の前には樺太犬と並んで白瀬中尉を顕彰するモニュメントがたてられています。
樺太兼のブロンズ像は、殉職したカラフト犬を慰霊するために動物愛護協会が当初東京タワーの入り口に設置したものを、のちにこちらの科学館へ移転してきました。観測には厳しい草創期があって今につながっていることを教えてくれます。

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カラフト犬
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白瀬中尉のモニュメント

館内の歴史のコーナーには白瀬中尉の犬ぞりや観測初期の雪上車が展示されています。観測が始まったころの防寒具も今よりずっと大げさでした。驚くのは猫が1匹、この子は越冬もしたそうです。

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白瀬中尉の犬ぞり
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観測船ふじになって初めて導入された雪上車
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こちら昭和基地
基地の模型です。中央左の3階建ての建物が管理棟で、食堂、調理場、医務室などがあります。黄色いのが通路棟で居住棟からブリザードの中でも管理棟に行けるようになっています。

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温室効果ガスを測定~
南極大陸の土の上2000mから3000mは氷床となっています。この氷床を採掘するために、ドームふじ基地が設営されました。ドームふじ基地は昭和基地から1000キロメートルはなれたところにあります。氷床掘削ドリルの性能をあげる開発も含めて掘削には何年もかかりましたが、2007年、3000mの地点の氷を採取することに成功しました。3000mと言えば72、000年前の氷の層です。採掘した氷床コアに閉じ込められた大気を分析することで、100万年間の気候変動を測定することができると期待されているのです。
この氷は極地研究所の冷凍室や北海道大学低温科学研所に保管されています。

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アイスコア採取のための氷床掘削ドリル

地球は人の手が加わらなければ約11万年周期で氷期と間氷期を繰り返しています。現在は氷河期の中でも最も暖かい時代、間氷期(かんぴょうき)ですが、あと何万年かで氷期に入ります。(中には2030年に氷期がやってくる、という研究者もいるほどです)しかし、人類がこのままCO2を出し続ければ氷期に入る前にもっと気温は上がるだろうと考えられます。

近年の地球気温の上昇は目覚ましく、北極の氷がとける様子がよくとりあげられます。北極は陸地ではないので海面上昇はおこりませんが、南極は大陸です。氷はその陸地の上にのっているのです。もし南極の氷が全部溶けたなら、海面は60m上昇するそうです。渡邊さんによると、その状態になるまでには1000年単位の時間が必要だということでしたが、1000年2000年先には今私たちが立っているこの場所も海の中です。

CO2を吸収するのは植物です。陸や海の植物は光合成でCO2を吸収して有機物を作り、海底や陸上に腐葉土のように蓄積します。これが石油や石炭になっているわけです。このバランスが崩れ多くのCO2が吸収されずに残るようになると大気中に増えていきます。吸収する植物が増えたり、吸収できる機械を作れるようになれば酸素が増えるようになるのです。

高層気象観測用ラジオゾンデ
気象観測のためのゾンデで、ヘリウムを詰めて高度30㎞くらいまで上げて、気温、湿度、風速などを測る機械です。世界標準時の0時と12時の1日に2回測り、そのデータが世界中から衛星を使って世界気象機関へ集まり天気予報などが出されます。
オゾンの観測をするための観測機器もあって、それをもとにオゾンホールがどのくらいなのかを観測してもいます。

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南極の生き物
46次隊と一緒に帰ってきたペンギンがいました。親とはぐれたのか氷山の割れ目に落ちて凍って転がっていたので、連れ帰り剥製となってここにいます。宗谷の頃に持ち帰った剥製もあり、内臓は南極では汚染物質がどれくらいペンギンに入っているかを研究している愛媛大学に提供されました。
アザラシの背中につけて調査する機器やカメラ映像も展示されていました。氷山は地上100mくらいありますが、アザラシはその下に潜っていくので氷山の底の映像を撮ることができるのでした。
大きな皇帝ペンギン、小さなアデリーペンギン、そしてメロという大きな魚もいます。クジラの餌となるオキアミの水中写真を撮ったのは渡邉さんです。

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南極の石
南極に来た月の隕石と火星の隕石など、様々な隕石が展示されています。
月は実際にサンプルがあり、火星は太陽の光の当たり具合でどんな物質が含まれているのかが分かります。成分から火星から来たと考えられるそうです。
日本隊は隕石の集まりやすい場所や集まるメカニズムを研究して論文を出しました。それを見てアメリカなどの科学者も隕石探査に参加してきましたが、一時期は日本が1番多くの隕石を保有していました。

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南極漁協  
南極で釣った魚を食べることもあります。地上1.5mくらいの厚さに氷が張っているのでいつもできるわけではありません。「明日は漁協やるぞ」と言って参加者を集め氷に穴をあけるドリルと餌を持って出かけます。10m、20mに糸を垂れると、20cmくらいの大きな魚がまず釣れます。それからだんだん小さくなっていきます。釣り上げると調理係にもっていきから揚げにしてもらいます。寄生虫も見えるので刺身は無理だということでした。

南極条約の三原則
  ①領土権主張をしない。
  ②平和目的以外に使用しないため軍隊の駐留を禁止する。
  ③環境を守る。
気温の低い南極には他地域のような微生物も存在せず、排出物も分解されないので、基地には浄化槽をもうけるなど環境配慮は欠かせません。そのほか、焼却炉や燃料が漏れださないように船体を2重にする、輸送方式をコンテナにし木枠を使い使用後に燃やすのをやめるなどの工夫をしています。

人類が早々と南極条約を制定したのはまれにみる英知だったと思います。南極から何かを収奪するという思想が見当たらないのが久し振りに覚えた感動でした。南極だけでなく、地球そのものに対してもそういう姿勢が必要だったのかもしれないと思います。私たちは持続可能な未来のために今できることを考えていかなければならないと強く感じました。




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雑記帳2023-6-1 [代表・玲子の雑記帳]

2023-6-1
◆三光院の五月のおもてなし

小金井市にある尼寺、三光院では、春と秋に連続講座がひらかれます。
今年の春の講座は作家の林望氏が講師を勤める「リンボウ先生の平家物語茶話」。月1回で、4月から7月までつづきます。

よく比較される「源氏物語」は、最初から宮廷の女性たちに読まれるために書かれた物語でした。それに対し、「平家物語」ははじめから文字があったわけではなく、人々が耳から聞き、琵琶法師の口から繰り返されるうちに、次第に私たちの知る形に完成されていった文学です。その意味では日本人の感覚に訴えた、より完成度の高いものといえるかもしれません。

「平家物語」は戦記物であるにもかかわらず、生々しい戦闘場面は意外に少なく、登場する人物の人となりが丁寧に描かれています。かって『知の木々舎』に深澤邦弘さんの「平家物語における「生」」を連載したことがあります。深澤さんはそのとき、平家物語は敗者の文学、全編をつらぬくのは滅びゆく者への限りなく優しい眼差しだと言っておられました。人々の耳や口を通してできあがった物語は、まさしく当時の日本人の感性そのものだったにちがいありません。

5月の茶話は「平家物語」に登場する二人の公達を取り上げました。維盛と重衡です。
維盛は清盛の直系の孫にあたります。父の重盛が自身の父清盛の悪業を悲観して自殺してしまったため、図らずも平家の総大将にならなければならない立場にありました。
宇治川の合戦のおり、水鳥の羽音に驚いた平家軍団が戦をすることなく総崩れしたときの総大将です。

平家一族が都を捨て、西国へ落ち延びていく際にはいろいろな物語が生まれました。私は忠度の都落ちを高校の古文で読みましたが、巻七は「維盛の都落ち」の場面です。
正妻の北の方は、父親の中御門大納言が鹿ケ谷に加わっていた、いわば平家にとってはうらぎりものでしたが、維盛との仲睦ましく、二人の娘をもうけています。愛する妻子を都に残して落ち延びる中、維盛は家族に会いたさのあまり、都にとって返すのです。別れがたく取り交わす言葉の数々は、まるで映画の一場面を見るようにリアリスチック、聞くものが涙せずにはいられなかったでしょう。
でもこれでは戦に勝てません。かりにも総大将が一門をおいて妻子に会いにもどるなど、ありえない。余りに軟弱ではありませんか。

維盛については建礼門院に仕えた右京太夫が日記に残しています。女房達が夜の井戸端談義に励む中、ひょっこり部屋を覗いた維盛の様子が、源氏物語の光源氏が頭中将と青海波を舞うシーンのごとく、非の打ちどころのない美男子であったことが記されています。和歌や管弦に秀でて姿も申し分なく、平和な世であったならと誰もが思ったことでしょう。そして、戦記ものである「平家物語」は、軟弱な維盛を突き放すことなく、最期まで魅力のある人物として描くのです。
維盛は屋島におちのび、高野山で出家、巻十で入水して果てます。この期におよんでもなお、うじうじと妻子を思う維盛は余りに人間的です。

重衡は維盛のいとこです。
維盛が平家物語随一の美男子であるなら、こちらも勿論美男だが、平家物語随一の色好みであったらしい。
一之谷で生け捕りになった重盛は鎌倉へ護送されて頼朝の詮議をうけるのですが、頼朝は重盛に千手の前を世話係につけたところ、彼女はすっかり重盛に魅了されてしまいます。縁する女性はことごとく重盛にひかれ、その時点では誰をも幸せにする。でも武力に優れていたとは思えない。

重盛も上記の右京太夫の日記に出てきます。維盛と同じように夜半、品定めに興じる女房達の詰め所に現われて話の輪にはいります。このように、男性が女性の仲間入りをするのは、当時、日常のありふれた行為であったようです。
生け捕りになった重衡は出家はできず、斬首されるのですが、北の方は無事生きのびて大原の地で建礼門院につかえながら、夫を弔うのでした。

さて、茶話の会場は臨済宗三光院の十月堂です。
昨年秋に斉藤陽一さんの連続講座「「源氏物語絵巻をひもとく」に参加して以来、サロンにぴったりの雰囲気が好きになり、この春も通うことになりました。
秋は庭の紅葉が見事でしたが、4月は山吹でした。5月は新緑です。さほど大きくはない庭にも、季節の移り変わりは鮮やかです。

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秋の紅葉は今新緑
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庭には小さな石仏も
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十月堂窓外の竹林も柔らかい緑に

講座は知らなくてもお昼に出される精進料理をめあてに、毎日のように客が訪れます。
精進料理は究極のビーガン料理。日常に使えそうなメニューを見つけるのも楽しみのひとつです。
献立の中に、月替わりの品が一品あり、5月は「そら豆のわかめ煮」でした。
そら豆は400年前に日本に入ってきたそうですが、すっかり定着して、今が旬です。五月豆、お蚕豆、お多福豆など、いろんな呼び方があり、いかに愛されて来たかがわかるというものです。

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そら豆のわかめ煮

ついでにこの日のそのほかのメニューもご紹介しておきましょう。いくつかは昨年9月の雑記帳で紹介済みですが。

◇抹茶とササリンドウの紋最中。ササリンドウは三光院のご紋です。
さっき、急いであんを詰めた最中だと説明されました。ほんのり塩気があるのは大徳寺納豆。

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◇お煮しめ。ヤマトイモの海苔巻き、高野豆腐の含め煮、牛蒡の胡麻和え、南京の煮物、南天の葉ぞえ
黒と白、緑の配色が美しく、黄色があるとなお映えます。ヤマトイモの昆布巻きも使えそう。

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◇ごま豆腐の葛とじ

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◇香栄とう富(豆腐の燻製)
住職・香栄禅尼が極めた、他に類を見ない精進料理の珍味

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◇木枯らし(茄子の田楽)
茄子の半身が楽器の琵琶に似ていることから建礼門院愛用の名器「木枯らし」に因んで香栄尼が名付けたという。

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◇一口吸い物◇おまめのおばん(エンドウ豆のご飯)◇香の物

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料理にあう飲み物として京都の冷酒が奨められました。
生仕込みの美味しいお酒だそうです。

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三光院の厨房を仕切るのは、9月にこの雑記帳で写真で紹介した西井さんです。30年間フランス料理のシェフとして修行したのちに精進料理の道に入ったという、異色の経歴の持ち主です。

戦後日本が高度成長真っただ中のころ、16歳で渡仏。いとこの婚家である、イブ・シャンピ家に間借りして、料理だけでなく、フランスの文化にどっぷりふれたそう。フランスのかっての貴族シャンピの名を、聞いたことはありませんか。
シャンピ家を出てレストランを渡り歩いてフランス料理を修行するも、もともとシェフで食べて行くのが目的ではなかったということで、30年後に帰国しても定職にはつきませんでした。そんな日々の中でたまたま聞いた香尼禅尼の教えに魅かれて三光院に弟子入りしたということでした。
丁寧に心を込めて作る料理に私たちは心を動かされるのだと思いました。

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この日は猫のお出迎え


        


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雑記帳2023-5-15- [代表・玲子の雑記帳]

2023-5-15 
◆栃木県がかって「東の飛鳥」と呼ばれていたことをご存知ですか。

現在の栃木(那須を除く)・群馬県一帯ははかって「毛野国(けのくに)」と呼ばれていました。後に「下野(しもつけ)」と「上野(こうずけ)」にわかれ「毛」の字は消えましたが、「け」の音は残っているのです。

「毛」の由来は諸説ある中に、「蝦夷」を古くは「毛人」と呼んだからというのがあり、地理的に説得力があるような気がします。

3世紀から7世紀までの400年間、北海道や東北北部、南西諸島を除く日本列島各地に多くの古墳が造られました。各地域の首長によって作られていた大きな墓の特徴が3世紀頃に集められて、定型化した大きな墓が造られるようになったのですが、小さいものを含めると、その数は15~6 万ともいわれ、何と、今のコンビニの数より多いのです。
それだけ多くの権力者が割拠していた中で最大の勢力は畿内のヤマト王族でした。やがて、この王族を頂点として仰ぎ、従属的に同盟する形で大和朝廷誕生につながるのは中学校の歴史で習うところです。
この時期、栃木県内には1,100基の古墳が造られました。

古墳と言えば、だれしも前方後円墳を思いうかべますが、実は地域によって少しずつ形はことなり、下野に残る初期の古墳は帆立貝型、最古のものは前方先端が丸く広がる特別な形をしています。
5世紀になって多くが前方後円墳になるものの、それだって、中央とは違う、関東でアレンジされた前方後円墳だったといいます。古墳にも関東人の気概がみえかくれするようですね。
そして、畿内の古墳は埋蔵品の多くが盗掘されたのに対し、こちらはほとんど盗掘されることなく今にいたり、発掘と、出土した埋蔵品のかけらをつなぎ合わせる作業はずっとつづけられています。

下野市にある「栃木県埋蔵文化財センター」はそうした作業を経て修復なった埋蔵品を展示しています。陳列された土器の数々は実際に手で触れることもできます。
考古学一途の職員が古代と同じ製法で焼いたという土器も見せてもらいました。
センターには毎年、全国から埋蔵品の発掘調査報告書が集まって来ています。

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栃木県埋蔵文化センター
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修復された土器の数々
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埋蔵文化財センターのある一帯は「下野天平の丘公園」という名の、市民の憩いの場所です。国分寺跡、国分尼寺跡を整備した公園は、訪れたこの日(3月23日)は花まつり、下野薄墨(シモツケウスズミ)の桜が満開でした。
公園の一角にある「しもつけ風土記の丘資料館」を訪ねました。

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満開のシモツケウスズミザクラ
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しもつけ風土記の丘志朗館

ここでは、弥生墳丘墓から前方後円墳が出現するまでを学ぶことができます。
古墳づくりには大勢の人力が必要でしたが、出土品からはそこに渡来人が加わっていたことも見て取れるのです。

4世紀、朝鮮半島は高句麗、百済、新羅の三国に分かれた動乱の時代、百済は倭国と呼ばれていた日本との交流を深めていました。背後には中国からの脅威もあり、人々はなかなか穏やかにはいられなかった時代でした。渡来人の中には、今でいえば、避難民もいたのではないかと遅まきながら気がつきました。

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馬は権威の象徴だった
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特徴のある埴輪や埋蔵品
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ある首長の葬送儀礼で使われた什器の数々
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階級に応じた食事内容の展示が面白い(上から庶民、役人、貴族)

やがて7世紀、日本は飛鳥時代にはいります。
ここに登場するのが下毛野朝臣小麻呂(しもつけのあそんこまろ)です。
701年、文武天皇は大宝律令をさだめ、日本は律令国家としての第一歩をふみだします。この時、藤原不比等らとともに律令制定にかかわったのが下毛野小麻呂でした。19人中の4番目だったそうです。

中国語にも堪能だった小麻呂は相当優秀な官僚だったらしく、都で参議として活躍する一方で、下野薬師寺建立に力を注ぎます。寺は天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病快癒を祈って創建したのです。710年に都が平城京に移るときにも小麻呂の進言があったといわれています。

下野薬師寺は、奈良の東大寺、筑紫の観世音寺と並んで、日本三戒壇のひとつとなって、全国から多くの学僧を集めました。
下野は「東の飛鳥」とよばれました。

寺の跡地に隣接して建てられた下野薬師寺資料館には、発掘調査によって見つかった瓦をはじめとする出土品や文献、復元模型が展示されていました。

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下野薬師寺伽藍の模型
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出土した瓦

あまり知られていませんが、後に、称徳天皇(孝謙天皇が重祚)の死去にともなって失脚した道教が、宝亀元(770)年に下野薬師寺に別当として着任しています。歴史を習った当時、中学生だった私は、道教はてっきり死罪になったと思いこんでいました。道教は2年後に死去、庶人としてこの地に葬られたということです。

奈良時代、隆盛を誇った薬師寺はすでに力を失いつつありました。
朝廷は多賀城を築いて、下野を対蝦夷政策の拠点としました。全国に国分寺が建立されたのがこの時代です。
律令によって庶民の生活は管理され、4年に一度の戸籍調査も実施されていました。
税の取り立ては厳しく、下野の住民は毎年4人が一組となって、東山道を歩いて600キロの都まで租税を納めに行かなければなりませんでした。なおかつ、4人のうち2人は防人となって、さらに九州までの600キロを旅しなければならなかったのです。運がよければ摂津から出る船に乗ることができましたが、船便はしょっちゅうあるわけではなく、乗れなければまた歩くのです。下野は北の守りの先端であると同時に、西の防波堤にもさらされたのでした。

いったい、国を守るとはどういうことなのか。権力者が「国を守る」と言うとき、守る「国」とは何なのか。誰が守るというのか。律令を作った小麻呂さん、故郷の人たちがこんな目にあうことを想像したのだろうか。
そして、民主主義の時代に生まれてよかったねと思っている私たち、国を守るとさえ言えば有無を言わさぬところがあり、役にも立たない兵器購入に防衛費はとてつもなくふくらみ、それが何の議論もなく決まってしまう、沖縄の基地の問題はなんの進展もない、13oo年前の下野の住民とどこがちがうのだろう。

さて、県内に1,100基もあるという古墳は、7世紀になると前方後円墳は姿を消し、円墳や方墳に転換します。そして、7世紀後半には古墳の築造もなくなるのです。

下野市の南に隣接する小山市には県内最大級の前方後円墳である琵琶塚古墳と摩利支天塚古墳ががあります。墳丘の長さは約125m。6世紀にこの地に巨大な古墳を造ることができるほど強い力を持つ人物が誰であったのかはまだ謎のまま、古墳は国の史跡になっています。雨の降る中、琵琶塚古墳に登ってみました。
資料館には2つの古墳を含む周辺の古墳群から出土した遺物や埴輪が展示されています。ちなみに埴輪は古墳の外部に置かれたものなので、墓の中にある、いわゆる埋蔵品とは区別されています。

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菜の花畑の向うに琵琶湖塚資料館
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琵琶湖塚古墳
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樹木に覆われて気付かないが摩利支天塚古墳
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琵琶湖塚資料館の展示

最後の訪問先は県立博物館です。昨年、足利一族の歴史を訪ねて訪れたところですが、今回は下野の古代史をたどりました。 なかなか立派な博物館でした。

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県立博物館
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珍しい家型の埴輪

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雑記帳2023-5-1 [代表・玲子の雑記帳]

2023-5-1
◆毎年受けている後期高齢者健康診断、血圧が少し高め、コレステロールは善玉も悪玉もほんの少し高めであるくらいで、例年さほど緊張することはありません。ところが今年、想定外の事が起こりました。

「赤血球の値が少し低くなっていますね。」
「だって、正常値内じゃないですか。」
「去年に比べて低くなっているのです。胃かどこかで出血しているかもしれない。念のため、検査してみましょう。」

胃の内視鏡検査の結果は、若干ピロリ菌はいたものの除菌すれば問題なし。
「検便で出血の陽性がみとめられたので、大腸の内視鏡検査もしましょう。」
大腸の内視鏡検査とやらは、2リットルもの下剤を飲まされるという話を聞いたことがある。めんどうなのは胃カメラの比ではない、いやだなあ。
余り褒めた生活習慣ではないにもかかわらず、何を食べてもおなかをこわしたことはない、便秘も殆どしたことがない、ことから、私は、胃腸に関しては妙に自信をもっていたのになんということか。

内視鏡検査で、大腸の入口におできがあることが判明、ここから出血している画像を見せてもらって、上行結腸癌という立派な癌であることが分かりました。自覚症状などなにもないのに。
「この周辺のリンパ節を含めて30㎝ほど切ります。」
「30㎝もですか。」
「大腸は5mもありますからそれくらい切ってもなんということはありません。」

癌がみつかってもちょいとひとかきすればいいくらいに考えていた私はうろたえました。
7年前の手首の骨折を除いて、この年まで、全身無傷が自慢だった。お産だって自然分娩だ。(ちなみに体育教師をしていた私の妹は2度の帝王切開、アキレス腱断絶をふくめ、満身創痍である。)
「それじゃあ、日帰りはむりですね。」
「切ったあとは縫わなくてはいけませんからね。まあ、2週間くらいみておけばいいでしょう。」
「2週間もですか!」

冗談ではない。2週間も入院などしたことがない。そんなに長く家を空けるとなると、留守中が心配だ。ポストに郵便物がたまると不用心だ。 新聞は止めてもらわなくては。予定はみんなキャンセルしなくてはならないではないか。。大事な用事だってあるのに。
「これだけは出席したいのです。近くなので病院を抜けだすことはできませんか。」
「その年齢で、キャンセルできないほど重要な案件などありませんよ。」

4月11日
事前の検査やらなにやら、嵐のような日が過ぎて、人生初体験となる入院日をむかえる。
指定の時間にサポートセンターへ出向いて入院の手続き、5階のスタッフステーションにつくと、早速病院指定のパジャマに着替えさせられ、何となく病人ぽくなる。そういえば男性の看護師の増えた病棟ではスタッフの詰め所をナースステイションとは言わないのだ。ナースはウエイトレスやホステスと同様、もはや死語なのかもしれない。老害ばかりの永田町を後目に現場はどんどん変化している。
夜は手術前の最後の晩餐を味わって食べる。

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大腸カメラ食(全粥・煮込みハンバーグ・かぶ煮物・ツナサラダ・フルーツ)

4月12日 
朝から絶食。下剤リフレクスを2リットル飲んでおなかをきれいにする。
午後、付き添いの娘と一緒に手術の説明を受ける。コロナ下で面会禁止はつづいているが、この時ばかりは付き添いが必要だった。担当は30代の美人の女医さんである。一人で十分といったのに息子まで駆けつけた。日頃元気な親が癌と聞いて相当あわてたらしい。
腹腔鏡手術で、切り取る部分を取り出すための臍周辺も含めておなかに4か所穴を開けるという。開腹手術に比べれば格段に体に負担が少ないのだそうだ。

4月13日 
歩いて手術室に向かう。
麻酔と痛み止めの点滴は脊髄から。「あなたは背骨がまっすぐではないのでちょっと針をさす箇所を探ります。ダンゴムシになってください。」と言われて、足をまげ、肩も丸めてクラウチングスタイルをとったら、それは違うと、おもいきり肩を元に戻された。
「だってダンゴムシと言ったじゃないですか。」
「頭を下に傾けておへそを見る感じです。」
「なら、最初からそう言ってよ。」
まだ麻酔がきいてくる前だったから言いたいことを言う。後で知ったところでは彼女はダンゴムシのたとえを自分ながら気にいっていたらしい。それにケチをつけられたのではいい気はしなかったにちがいない。
目が醒めたら集中治療室にいた。ダンゴムシの痛み止めが効いてなんの苦痛もない。
ただ、痰吸入のために喉に挿管した後遺症か、声がでない。輸液の天敵は首からである。

4月14日
点滴をつけたまま集中治療室を出て病室へ戻る。大きな手術をしたとは思えないほどリラックスしていた。
尿管を外して、自分でトイレに行けるようになる。
リハビリ始まる。最初はベッドで足を動かすところから。療法士のお兄さんはマスク越しのイケメンである。コロナになってマスクのお陰でみんな美男美女だ。

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点滴の痛み止めが入っている袋 自分でボタンを押して自由に使える。

4月15日
痛み止めの点滴を外す。「痛いのを我慢できなくなったらいつでも言ってくださいね。」看護婦さんはやさしく言う。
深夜、急に気分が悪くなってトイレでしゃがみこんだ。駆けつけた看護婦さんが血圧をはかったら上が74だった。ほうほうのていでベッドに戻り、横になっていても心臓はパクパクするし、胃の辺りはむかむかする、とにかく内臓がひっくり返るような猛烈な気分の悪さだ。でも、これは痛みではない。看護婦さんをよんでもいいものか。患者初心者の私はいちいち言葉に引っかかる。そうこうしているうちにトイレに行きたくても起き上がれなくなった。痛みではないが看護師に頼るしかないと、ナースコールを押した。
頓服を貰って漸く眠る。

4月16日
3時間ほど眠って朝になり、だいぶん楽になっていた。医師の指示で胸のCTをとったが、血栓は見当たらず、昨夜の苦痛の原因は医師にもわからなかった。
声はまだ出ない。手術は成功したのに、声が出なくては社会復帰はできないのではないか。何かの会議に出て即座に意見が言えないようでは困る。世間はまだまだ、あんな人しか出せないのという目で見る。「その年では責任を持たなくてはいけない仕事は受けないほうがいいですよ。」と、分別ある言葉がきこえそうだ。そろそろ年貢のおさめどき?と、はじめて気弱になる。

4月17日
輸液の点滴がはずれ、術後はじめての食事が出た。絶食機関は丸5日間だった。記念すべき最初の食事は重湯100gと具のない味噌汁だった。

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術後はじめての胃消化食流動は朝・昼・夕とも重湯と具のない汁・ヨーグルトorジュース

麻酔の先生は私がまだ声が出ないのを心配している様子だ。この先生も女性だ。挿管の際、のどぼとけ近くの腓骨軟骨が脱臼したらしい。「あなたは喉が細かったので、ちょっと苦労したんですよ。」よくしゃべること、よく笑うこと、よく食べることを勧められた。
そうは言っても、誰と喋ればいいのだ。看護師さんは忙しくて声かけもしてくれない。
一番喋った相手はリハビリのお兄さんだ。動く度に血圧をはかり、「大丈夫ですね」と、ちゃんと教えてくれる。看護士さんは検温しても血圧測っても黙っていることが多かった。患者は知る必要がないとでも思っているのだろうか。確かに、患者が知ったところでどうなるものでもないのだ。それに、リハビリは療法士の領域だから、お互いにテリトリーを侵さないような仁義があるのかもしれない・・・。

4月18日
重湯から五分粥になる。食事の合間、補色と称して、10時と3時におやつが出る。日替わりのおやつは患者の楽しみだ。Ca添加のジュースはいかにも病院らしい。
相変わらず声は出ない。これは耳鼻科の領域なので、退院後は大学病院の耳鼻咽喉科を受診するよう勧められるが、これ以上病院はご免だと、夜中に喉に力を入れて必死で声を出す練習をした。声を出すには腹筋の力も必要だとよくわかった。

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胃消化5分菜 五分粥・白身魚みそマヨ・南京含め煮。キャベツ煮びたし
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10時のおやつ
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3時のおやつ

4月19日
経口食になって初めて大きいのが出た。色は明るい黄土色、するりと柔らかくて、いかにもできたてのようだった。腸がよくがんばっているのだと思えた。
夜中の練習のお陰か、かすれたりうらがえったりするものの、僅かに声が出るようになった。
リハビリ室でエアロバイクを10分こいだ。
子育て中、車のない我が家で、3人の子供を前と後ろに乗せて走り回っていたので、自転車には自信がある。しっかりこいで、退院後自転車OKのお墨付けを貰った。
五分粥から全粥になる。
退院が21日に決まった。万歳、予定より早かった。

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胃消化食(全粥・エビ野菜うま煮・冬瓜あんかけ・ツナサラダ・フルーツ)

4月20日
リハビリも今日で終わり。最後に、長い階段を上り下りして病院の外へ出る。パジャマ姿でお兄さんと一緒に病院の周りを一回りして、久し振りに外の空気を吸う。風が心地よい。
入院中、外科の手術が進化しているのに感心したが、リハビリの進化も目覚ましい。
宙を歩くようだった足取りが数日の間にちゃんと大地を踏みしめられるようになった。
領域が違うと言って紹介してくれた言語リハビリ士さんは、かすれ声でとりとめもなくしゃべるのを辛抱強く聞いてくれた。

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胃消化食(全粥・のしどり・チンゲン菜中華炒め・サラダ・フルーツ)

4月21日
朝食後の回診時に抜糸をして退院。何とか電話でタクシーが呼べるまでに声は回復していた。友達に来てもらってお茶するのも良いリハビリだと教えられた。
11日間の入院費用は手術、検査も含めて7万円弱。自己負担の限度額を超えた分はあとで戻ってくる。日本の医療制度はまことに優れた制度だ。アメリカに住んでいた友人が鼻血を出して病院へ行ったら200万円請求され、定年後永住するつもりでいたのが、恐れをなして日本へ帰ってきたのを思い出した。
留守中、娘夫婦が何度か家を覗いてくれていたのは有難かった。家は人の気配があってこそ。ひとりぐらしになれてすっかり忘れていたが、家族がいる有難さが身に染みた。

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最後の朝の食事 鯖、赤魚など魚がよくでたが、この日もメインは鱈の煮つけだった。



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雑記帳2023-4-1 [代表・玲子の雑記帳]

2023-4-1
◆毎年3月には全国各地で雛祭りが開かれ、どこかにお雛様を見に行くことにしている人は多いのではないでしょうか。私もその一人です。今年は丸の内静嘉堂美術館で、岩崎小弥太邸のお雛さまを楽しみました。

静嘉堂は、岩﨑彌之助(彌太郎の弟、三菱第二代社長)と岩﨑小彌太(三菱第四代社長)の父子二代によって創設・拡充され、現在、国宝7件、重要文化財84件を含む、およそ20万冊の古典籍(漢籍12万冊・和書8万冊)と6,500件の東洋古美術品を収蔵しています。

1892年(明治25)東京駿河台の岩﨑彌之助邸内に創設された文庫は、1924年には世田谷区岡本の地に独立した建てものになり、長く愛されていましたが、創設130年を期に、2022年から丸の内の明治生命館に移り、1階で展示活動をはじめています。三菱1号館のある丸の内一帯は、かって三菱が原と呼ばれ、彌之助が開発したオフィス街です。文庫がそこに移るのは本望だったのかもしれません。

岩崎家の雛人形は小彌太がたか子夫人の為に京都の人形師に特注したものと言われています。注文を受けたのは名匠の名も高い五世大木平蔵。おぼこ雛と呼ばれる、子ども仕立ての稚児雛です。木彫りに胡粉塗の仕立てで、歯は象牙、衣装は皇太子御成婚の設定という贅を尽くした作りで、天下の人形師・大木平蔵が3年かけて製作しました。昭和初期の人形製作技術の粋を集めた美術品だと言われています。着物や道具には。岩崎家の家紋である花菱紋がはいっています。大ぶりの内裏雛のサイズは男びな30.cm、女びなが25.5cm。ふくよかで、愛らしいお人形でした。

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岩崎邸のお雛様さまのポスター
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ふくよかなお顔の昭和の内裏様
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三人官女
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随身
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お道具の「一部(花菱紋が見える)
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楽器の一部

ひな人形と同時に展示されていたのは、静嘉堂の誇る窯変天目でした。
天目とは、中国の天目山一帯で焼かれた茶碗の総称。南宋時代、日本から多くの留学僧が修行の為に天目山をおとずれていました。茶碗を焼くことも修行のひとつだったのです。
中で、窯変は室町時代に唐物茶碗の最高位に位置づけられています。窯変天目は現在世界にわずか三碗しか存在せず、全て日本にあります。釉薬の奇跡と言われて、国宝に指定されています。

漆黒の器の内側には星のようにもみえる大小の斑文が散らばり、斑文の周囲は暈状の青色や青紫色で、角度によって玉虫色に光彩が輝き移動する。両手の中にすっぽりおさまってしまうほどの小ささながら、「器の中に宇宙が見える」とも評されるのです。

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窯変天目(絵葉書より)

この窯変天目にはエピソードがあります。
3代将軍徳川家光が病に伏す春日局を見舞った際にこの茶碗を下賜して薬を飲ませようとしたが、家光の疱瘡平癒祈願以来、薬を絶っていた春日局は飲まなかったと言います。その後、茶碗は春日局の直系の孫である稲葉正則蔵となりました。別名を稲葉天目と呼ばれる所以です。大正に入って稲葉家の縁戚小野氏のものとなった後、1934年(昭和9年)に小彌太にゆずられたのですが、小彌太は生前、一度も使うことはなかったそうです。「名器を私に用うべからず」という小彌太の言葉が残っています。
小彌太自身、東洋文化に深く傾倒し、表千家で茶の湯も習うなど、経済人であると同時に優れた教養人でもありました。彼の「私」せず自身を律する姿勢には心を打たれます。

静嘉堂文庫の入る明治生命館は、1934年(昭和9)に竣工し、古典主義様式の最高傑作として高く評価されて、1997年(平成9)に昭和期の建造物としては初めて、国の重要文化財に指定されました。 意匠設計は東京美術学校(現 東京藝術大学)教授であった岡田信一郎。1945年(昭和20年)9月12日から1956年(昭和31年)7月18日までの間、アメリカ極東空軍司令部として接収され、この間、1952年(昭和27年)まで2階の会議室が連合国軍最高司令官の諮問機関である対日理事会の会場として使用されました。マッカーサー総司令官もこの会場で開催された会議に何回も出席しています。
皇居が目の前にある、ロケーションも抜群の建物です。

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明治生命観全景
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明治生命観正面
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明治生命観の眼のまえは皇居のお堀

先述の三菱一号館を設計したのはジョサイア・コンドルです。かってのオフィスビルは今美術館となって、います。静嘉堂文庫美術館と合わせて、今、丸の内は、三菱が夢見たアートのある街になっているのです。

◆『知の木々舎』創刊時から『言葉遊び入門』や『こふみ会句会通信』を届けてくださっていたコピーライターの多比羅孝さんがなくなりました。60年代、一世を風靡したコピーの数々を世に出した多比羅さんと親交が続いていた鈴木茂夫さんが多比羅さんを偲ぶ弔文を寄せてくれました。ご本人の了解を得て、ここに掲載します。

多比羅孝兄を偲び
                       鈴木茂夫
 あなたの訃報に接し、深い悲しみを感じています。春代奥様はじめお子様の思いはいかぱかりかと推察しています。
 鎌倉時代の中期、13世紀に一遍上人は、南無阿弥陀仏・決定往生六十万人と書かれたごく薄い板を民衆に配り、極楽往生を呼びかけました。これがコピーライトのもととも言えます。
 さらに江戸、明治・大正時代の引き札にコピーライトの草創を見ることができます。
 今日に残されている引き札にはさまざまな商店の広告文案が記されていたのです。
 日用品、たばこから店の開店,改装などに使われています。また引き札には山東京伝、滝沢馬琴、十返舎一九、
仮名垣魯文、河竹黙阿弥などの文人も筆を染めています。
 あなたはこうした歴史の流れを汲んでいます。
 戦後のマスメディアが勃興していく時代のなかにいました。いまではコピーライターという職業は、マーケティングの主要な職種とされています。しかしそこにいたる道筋は容易なことではありませんでした。あなたはその先駆けとして道筋を切り開いたのでした。
  あなたは慶應義塾文学部を卒業されて株式会社小林コーセーに就職、宣伝・広報を担当して実力を身につけられました。同じ社内の春代様と結ばれ、素晴らしい家庭も創られました。
 そして広告集団を組織して独立、活躍されました。
 コピーライターという呼び名も、あなたと仲間たちの仕事の実績から認められていったのてした。
 あなたの制作した名キャッチ・コピーを思い出します。  

      きょうも元気だ たばこがうまい
       タバコは生活の句読点   

  あなたを世間が認めた心に残るコピーです。
 あなたは後に続く人たちのために著作を出されました。  

   コピーライター入門―ベテランから新人へ贈る
   実戦派コピーライター教室 
   だれでも上達 ビジネス文章作成術
   メモ式 気のきいた文章の書き方 

   これらの著作には、コピーライターとは何か、何を書くのかがわかりやすく述べてあります。多くの読者に歓迎されました。
 私が責任を持っていた東京・原宿のパレ・フランスの広報をお願いしました。すると、地下鉄表参道駅の6枚の壁面広告面に、あなたは自作の詩を掲載しました。柔らかい文面は地下鉄乗客の中から,褒めてもらました。
 私はテレビ・ニュースを専門としていたことから、あなたの業績の肝心なところが分かりませんが、そのお仕事ぶりには感嘆していました。
 仕事の現業から離れ隠居になり、インターネットマガジン・知の木々舎に、俳句のこふみ会を連載して頂くことになりました。才気あふれた方たちの句会です。もう117回にもなりました。     

      肩寄せて二人でいます二月です     
     美しき人帰り行く春の泥         
     ものの芽が突き上げている空がある       

  これがあなたの最期の句です。いつもの泰然たる作風の句となっています。     

       小町飛び 法師も跳ねて 歌留多取り  
       金目鯛で  呑んだのが最後  だったなあ  
       子らを噛む 獅子にもマスク お正月 
       多様性を 認めぬ国に 春は無く    

  これは2月の作品です。あなたの笑顔が見えてくるような雰囲気です。
   今やこれらの句を拝見して、あなたを懐かしむよりしかたありません。
   空白の時もかなりありますが、あなたに兄事し、お世話になった日々を懐古します。


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