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雑記帳2020-6-15 [代表・玲子の雑記帳]

20206-15
◆多摩霊園には日本が世界に誇る2人の宗教家の墓があります。

新渡戸稲造と内村鑑三です。
二人はともに札幌農学校の二期生として入学し、基督教の洗礼をうけました。

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新渡戸稲造の墓 (7区1種5側11番)

新渡戸稲造は盛岡南部藩の出。教育家、思想家として国内外の要職にあり、長く国際連盟の事務次長も務めました。1900年に英文で出版された『武士道』は、ドイツ語やフランス語など各国語に訳されベストセラーとなり、セオドア・ルーズベルト大統領らに大きな感銘を与えたといわれています。1908年には日本語訳も出ました。その後も『武士道』は読み継がれ、21世紀に入っても解題書が出版され続けています。
自ら提唱して誕生した「郷土会」には柳田国男も参加するなど、様々なジャンルに多くの賛同者を得、後継者を輩出しています。

中でも有名なのは、世にいうオーランド紛争の解決に尽力したことです。

スエーデン国フィンランドの一地方であったオーランドは、スエーデンがロシアとの戦争にやぶれた際、ロシアに分割されたフィンランド大公国の一部になりました。
クリミヤ戦争では非武装地帯でした。
その後、フィンランド本土ではロシア革命を機に、独立運動が盛り上がるいっぽうで、オーランド諸島では逆にフィンランドから離れて再びスウエーデンに帰属を求める運動が起こります。

この問題の解決に大きく貢献したのが、国際連盟事務次長だった新渡戸稲造でした。
オーランド諸島のフィンランドへの帰属を認め、そのかわりオーランドのさらなる自治権を確約するという「新渡戸裁定」が示されて、オーランドの自治が確立したのでした。
いつの時代も領土問題は複雑で、一筋縄ではいかないことを知っている世界が求めたのが東洋の知恵だったことは興味深いではありませんか。
その後、民意がゆれることもありましたが、現在、オーランド諸島は形の上ではフィンランドの一部であり、実態はほとんど独立国で、島民はスエーデン語で生活しています。

ともに同時期に基督教の信徒となった内村鑑三とは、札幌農学校前の語学学校時代から生涯を通じて親交が続きました。内村の『余は如何にして基督信徒となりし乎』も英文で出され、今も根強い読者をもっています。
アメリカ留学中に西洋の拝金主義に絶望して帰国した内村は、紆余曲折を経て無教会を提唱しました。基督信徒にとって一番大切なものはなにかを問い、信仰の中心に教会ではなく、十字架と聖書を置いたのです。ひたすら唯一の神を信じて人を愛し、集会を形成していく運動は、世界に脈々とうけつがれています。

二人は私生活でも対照的で、新渡戸が留学中に学生結婚したメアリー・エルキントンと生涯そいとげたのにたいし、内村は死別もあってなんどか再婚しています。親族とも折り合いがよかったとはいえないようです。勤め先や立ち上げた結社では意見の対立がしばしば起きました。
今は二人とも同じ多摩霊園にねむっています。

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内村鑑三の墓  (8区1種16側29番)

学生時代からずっと心にかかっている詩人が小熊秀雄です。
始めて接した彼の『蹄鉄屋の歌』に、それまで叙情詩くらいしか知らなかった私は強烈な印象をうけました。

   泣くな、/   驚ろくな、/ わが馬よ。
  私は蹄鉄屋。
   私はお前の蹄〔ひづめ〕から / 生々しい煙をたてる、
  私の仕事は残酷だらうか、
   若い馬よ。/ 少年よ、
  私はお前の爪に / 真赤にやけた鉄の靴をはかせよう。
  そしてわたしは働き歌をうたひながら、
 ——辛抱しておくれ、
 すぐその鉄は冷えて/ お前の足のものになるだらう、
 お前の爪の鎧になるだらう、
 お前はもうどんな茨の上でも / 石ころ路でも
 どんどんと駈け回れるだらうと——、
 私はお前を慰めながら / トッテンカンと蹄鉄うち。
 あゝ、わが馬よ、/ 友達よ、
 私の歌をよつく耳傾けてきいてくれ。
 私の歌はぞんざいだらう、/ 私の歌は甘くないだらう、
 お前の苦痛に答へるために、/ 私の歌は / 苦しみの歌だ。
 焼けた蹄鉄を/ お前の生きた爪に
 当てがつた瞬間の煙のやうにも、
 私の歌は/ 灰色に立ちあがる歌だ。
 強くなつてくれよ、/ 私の友よ、/ 青年よ、
 私の赤いほのほを / 君の四つ足は受取れ、
 そして君は、けはしい岩山を/ その強い足をもつて砕いてのぼれ、
 トッテンカンの蹄鉄うち、
 うたれるもの、うつもの、/ お前と私とは兄弟だ、
 共に同じ現実の苦しみにある。            (/改行)

その時、小熊秀雄が小林多喜二と同時代を生きたプロレタリア詩人だと知ったのですが、ちょうど作曲家の林光が曲をつけて合唱曲にしあげていました。林光は最後の1行をけずって「お前と私とは兄弟だ」をクライマックスにもってきていました。楽曲としてはそうだなあという感じがします。

とにかく私の中で音といったいになって、その後半世紀も身近にあった詩でした。今ではプロレタリアという言葉も聞かれなくなりましたが、蹄鉄をつけてもらった馬が少年から青年へと成長するのを願う詩は、現在のロックやラップにくらべたら、全然過激ではありません。
詩人は馬が好きだったらしく、馬をモチーフにした作品はほかにもあるようです。

ずっとあとになって、信州上田に無言館を訪ねた折、隣接する信濃デッサン館で小熊秀雄の小さな額がかかっているのを見つけた時にはびっくりしました。
小学校卒の詩人が独学でロシア語をマスターし、ロシア文学に親しんだことを知ったときも驚いたものでしたが、実は絵の才能もあって、彼の描いた漫画はのちの手塚治虫や松本零士にも影響をあたえています。

この天才の墓が多摩霊園にあったのです。
迷いながら漸く辿りついたのは、小さな黒御影の墓でした。戦時中、貧困のうちに肺結核で亡くなった詩人の墓が有志によって建てられたのは、没後40年以上もたってからでした。長男もすでになくなり、一人残された未亡人も墓が建立された翌年にはなくなっているので、継承者がなければ2020年度中に墓は撤去されるとききました。ひょっとしたら、私が墓の写真を撮りに来た最後の一人になるかもしれません。

郷里の北海道では、旭川市が小熊秀雄賞を設け、現在は市と協働する市民実行委員会がその事業をひきついでいます。小熊秀雄らしいですね。選考委員にはアーサー・ビナードさんもいます。毎年、全国から応募があるそうです。

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小熊秀雄の墓  (24区1種68側32番)

霊園には与謝野晶子、鉄幹夫婦も仲良く並んで眠っています。
鉄幹が講師を務めた縁で、墓石は文化学院の西村伊作のデザインだということです。

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与謝野鉄幹・晶子の墓 (11区1種10側10番)

◆立川に新しい街が誕生しました。
ホテルやホールのある一角は、グリーンスプリングズと名付けられています。(温泉がでたのです!)コロナ騒ぎで5月のグランドオープンはひっそりと、3000人収容のホールもまだこけら落としができないでいます。1か月おくれでこの6月8日には、テニスの杉山愛さんや国文研のロバートキャンベルさんを迎えてSORANO HOTELのテープカットがありました。

ホテルの玄関は通りの2F屋上にあたり、空中のビオトープをそなえた広場を前にしています。広場を中心におしゃれなカフェが並んで、テラスでお茶やランチを楽しむ雰囲気がぴったり。コロナでレストランの食事風景が変わると言われるのを先どりしたような光景です。
さらに、広場からホールの5F屋上スカイデッキに通じる外階段の半分は水の流れる空間で、例年より早く暑くなったこの季節、子どもたちの歓声が響きました。

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3000人収容のホール・ステージガーデン
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空中のビオトープ
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外階段の半分は水場。
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噴水の向うは美術館
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テラスでお茶も心地よく
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街角アートも随所に


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雑記帳2020-6-1 [代表・玲子の雑記帳]

2020-6-1
◆多磨霊園は、東京都府中市と小金井市をまたいだ場所にある、日本初の都立の公園墓地です。
面積は都立霊園としては最大の128万237平方メートルで、東京ドーム27個分に相当します。

1900年(明治33年)頃の東京市には、元々5つの公営墓地(青山墓地・谷中墓地・染井墓地・雑司ヶ谷墓地・亀戸墓地)がありました。東京市の市街地化と人口増加に伴って墓地不足となり、東京市外での墓地の造営が必要になったのです。

そんな背景もあって、関東大震災直前の1923年(大正12年)に北多摩郡多磨村に開園しました。当初は多磨墓地といっていましたが、1935年(昭和10年)に多磨霊園と改称されました。
長い歴史を持ち緑の多い公園墓地であり、著名人の墓地もたくさんあります。

東京市街から離れていたこともあり、開園後しばらくは使用する者はあまり多くありませんでした。そこへ、1934年(昭和9年)に東郷平八郎が名誉霊域に埋葬されたことで多磨墓地の名前が広まり、これ以降利用者が大幅に増えて、現在のような人気の霊園の一つになったといいます。

自粛要請が解除されない間、出歩くこともできない中で、3密にもならない所をと思い立ち、多摩霊園に出かけました。
首都圏にもまもなく緊急事態の解除宣言が出る直前のことでした。

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みたま堂

園内は26区にわけられて、個々の墓所にはすべて番号がついています。が、それが番号順に並んでいないところが難点で、めあての墓を探し当てるのは容易ではありません。

管理等でもらったマップを広げると、著名人だけでも150人を越えていました。
その中でまず選んだのが多摩にゆかりのある日本画家、川合玉堂です。管理棟にもちかく、比較的見つけやすかったのです。

玉堂は戦争中疎開した西多摩群三田村(現在の青梅市御岳)に戦後も住み続け、多摩川の自然を描いた墨絵をたくさん残しています。死後、玉堂の愛した御岳渓谷に、アトリエを移した「玉堂美術館」が建ちました。その玉堂の墓があるのは青梅ではなく、多摩霊園なのでした。戦前、戦後を通じて、日本画壇の重鎮だった玉堂らしく、広い墓地の中で、奥中央に玉堂の墓石が、その右に川合家の墓石がありました。

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2区1種13側8番

最初に画家の墓を選んだのだからと、次に向かったのは、大阪万博の太陽の塔や「芸術は爆発だ」の名セリフを残した岡本太郎の墓です。16区には一平、かの子、太郎、の岡本ファミリーの墓所があるのです。

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太陽の塔
この家族は夫婦、親子が一個の独立した人格として対等な関係で結ばれている、当時としてはたぐい稀な家族形態でした。一方で全く異質な芸術家の共同生活には「想像もできない絶望的な矛盾」もあったと太郎自身が語っています。一家と親交の深かった川端康成はかれらのことを「聖家族」と呼びました。

川合家と同様、こちらも広々とした墓所内に太郎の作品を墓石にしたユニークなつくりで、遠目にも、さすがは岡本太郎、とわかるお墓でした。
太郎の墓は自身の作品「午後の日」を、死後、パートナーのの敏子さんが選んだのだそうです。
向かい合うように立つ一平の墓は同じく太郎の作品「顔」でした。
一平の墓に並んで立つかの子の墓は彼女が仏教の研究をしていたということから、観音像になったそうです。墓の地番は16区1種17側3番。

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         太郎の墓「午後の日」
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一平の墓「顔」
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かの子の墓「観音像」 

画家のお墓をもうひとつ、と欲張ったのが、大正時代に活躍した岸田劉生の墓です。38歳で夭折した画家の代表作「道路と土手と塀(切通之写生」は重要文化財、愛娘をモデルにした一連の「麗子像」は43点にのぼりました。今『知の木々舎』に連載中の『過激な隠遁~高島野十郎評伝』にも、野十郎が岸田劉生を意識していた場面がでてきます。

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道路と土手と塀
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麗子像

12区1種11側11番という墓の地番をさがすのは意外に難しく、たどりつくのに相当時間がかかってしまいました。そして、漸く探し当てたのは、個人の名前ではない、岸田家の墓でした。
「パリに行った暁には、フランスの画家に絵を教えてやる」と豪語したエピソードを持つ天才画家の墓は、さほど広くはない墓所に黒松が一本、大きく枝をのばしていて、岸田家の墓石は控えめな小さなものでした。

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岸田家の墓(12区1種11側11番)

なにしろ、句路をバスが走る、広大な霊園です。慣れない園内マップを片手に方角を失ってしまう。
霊園内には画家がもう一人、梅原龍三郎の墓があるのですが、力尽きてこの日は岸田劉生まで。次回につづきます。

◆緊急事態宣言が解除された5月最後の週、栄緑道は卯の花が満開をすぎて、紫陽花が咲き始めました。

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紫陽花 のコピー.jpg

◆九州では梅雨入りしたとの知らせでがありました。日本列島は本格的な雨の季節です。一茶のくらしをのぞきました。五月雨は梅雨なんですね。
  五月雨や天水桶のかきつばた        七番日記   政1
    蕗の葉をたばこに吹や五月雨        八番日記   政4
    塀合に卯の花降し流けり            寛政句帖   寛5  
    今の世や入梅雪のだまし雨          文政句帖   政5
    入梅晴や二軒並んで煤はらひ        八番日記   政2
   

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雑記帳2020-5-15 [代表・玲子の雑記帳]

2020-5-15
◆緊急事態宣言で自粛生活もながびきました。出歩けない分、おうちごはんの楽しみがひろがっています。手打ちうどんはいかがですか。

多摩川からとおく、水に恵まれなかった武蔵野台地は米よりも麦の栽培に適していました。地粉を使って家庭で手作りしたうどんは家族の行事食にもなりました。
食べ方は他のうどんとおなじですが、特に肉や野菜をいれたつけ汁で食べる「糧(かて)うどん」はごちそうです。いつしか武蔵野うどんと呼ばれるようになりましたが、亡くなった志村けんさんの出身地、東村山や隣の武蔵村山市には今でも武蔵野うどんの店がたくさんあります。

かって武蔵野の原風景でもあった麦畑は少なくなりました。立川でも肥料用に栽培する農家は多くても、食用に栽培する農家は僅です。収穫しても製粉してくれるところが近くにない。こうして地粉の値段は1キロ600円~650円にもなるのです。これでは消費者は気軽に地粉を買うことができないというのが現状です。

というわけで、たっぷり時間のあるいま、地粉を使った手作りうどんに挑戦。紹介するのは昨年12月に行った、会の講座のレシピです。思ったより時間がかからず、足でふむ手間も要らない簡単な手づくりうどんです。小麦粉ならみな同じとはいうものの、ひいき目に、味はやっぱり地粉に軍配が上がるようです。つけ汁の肉は講座では地産地消をうたって、立川産のブランド肉「やわら豚」を使いました。東京都が開発したブランド豚肉「とうきょうX」ほど高価ではなく、地元にも養豚農家があることが話題になりました。つけ汁には野菜もたっぷりはいって、なかなかの味でおすすめです。

手打ちうどんを作る(材料は4人前)
◇材料  地粉300g 食塩12g 水138cc(食塩+水=150g)
          水は寒い時期は30℃くらいのぬるま湯で
◇作り方
1.食塩がしっかりと水に溶けたら、指を画像のように広げ、食塩と小麦粉を混ぜ合わせ大きな塊にならないようにこねておく。

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2.ボールの壁面に粉がとばなくなり、画像のように全体に水がなじむまでしっかりと混ぜ合わせる。粉にしっかり水を含ませる。

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3.手のひらを使って力を加え、中へ折り込むようにして、表面がなめらかになるまで7~8分こねる。

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4.一つの塊になったら、、やや円盤状にして乾かないようにビニール袋に入れ、常温で20分ねかす。

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5.うち粉(小麦粉)をして生地を綿棒で延ばしていく。

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※すぐに食さない場合のうち粉は、片栗粉やコーンスターチを使用する。
6.40~45cm四方になるまで延ばしていく。

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7.延ばし終えたら、さらにうち粉をたっぷりろつけて7~8cm位の幅に屏風たたみにする。
8.包丁で4mm幅くらいに切り、うち粉をかけ、ほぐしておく。

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9.たっぷりのお湯で8~10分ゆでる。ゆであがったら流水でもみ洗いし、さらして出来上がり。

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つけ汁を作る(材料は4人前)
◇だしをつくる
  水700cc、削りかつお15g、昆布5cm
1.鍋に水と昆布を入れて10分ほどおく。
2.中火で火をつけ、煮立つ寸前に昆布を取り出す。煮立てると昆布の粘りが出る。
3.沸騰したら削りかつおを入れ、沸騰させないように菜箸で抑え火を止める。
4.5分ほどでだしが出るのでペーパーなどで濾す。

◇材料A  醤油100cc、みりん100cc、砂糖 大さじ1、だし700cc、 
  材料B   豚肉200g、ねぎ1本、きのこ(しいたけ・しめじなど)100g、薬味
1.材料Aの中で、豚肉を1枚ずつしゃぶしゃぶして皿に取っておく。
2.ねぎは白い部分を2.5cmのざく切り、しいたけは厚めにスライス。
    しめじは小房にほぐしておく。
3.きのことねぎを鍋に入れ煮る。
4.煮えたら豚肉をもどして火をとめ、大きめのお椀に盛る。
5.薬味のねぎは青い部分をいれ、うどんを付けながらいただく。

◆緑道散歩を始めてから1か月たちました。

ハナミズキの時をすぎて、いま、エゴノキやトチノキの花が満開になりました。
セイヨウトチノキはマロニエとして親しまれ、日本でも最近街路樹に使うところが増えています。大きい樹なのでどこにでもいいというわけにはいきませんが、栄緑道にもトチの大木が何本もあるのです。雌雄混株(「異株」ではない!)という珍しい性質をもっているのだそうです。

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エゴノキ
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トチノキ
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子どものブロンズは2体あります。

◆一茶の初夏の句を拾いました。
  草刈のざくり ~ や五月雨          七番日記   化11
    ちよんぼりと鷺も五月雨じたく哉    七番日記   化13
    我門は闇もちいさき五月かな        希杖本  
    草花の仕廻は五月晴にけり          七番日記   化13
    ひろ ~ と麦の咲そふぼたん哉      七番日記   化7
    笋の面かく猫の影法師               八番日記   政4

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雑記帳2020-5-1 [代表・玲子の雑記帳]

2020-5-1
◆立川にゆかりの詩人や歌人の作品を探して、14基あるという「詩歌の道」をたどってみました。崖線に添って立川の南部を横断するような道筋は、さながら立川の観光マップをなぞるようです。

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最初の碑は昭島市との境に位置する都立農業試験場のみどりの園にありました。
高村光太郎の詩碑「葱」です。
妻の智恵子と親交のあった佐藤農業試験場長夫人から立川産の葱をおくられた光太郎が、それを謳った詩です。ゆかりのある農業試験場内に建立されました。

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葱 『立川の友達から届いた葱は 長さ二尺の白根を横へて ぐっすりアトリエに寝こんでゐる。三多摩平野をかけめぐる 風の申し子、冬の精鋭。俵を敷いた大胆不敵な葱を見ると、ちきしゃう、造形なんて影がうすいぞ。友がくれた一束の葱に 俺が感謝するのはその抽象無視だ。』

農業試験場は立川段丘の上にあります。坂道をくだった「富士見町緑地公園」には、崖線から出る湧水の池があり、クレソンが自生しています。
ここには谷川水車・やまやのぎくの句を刻んだ石が置かれています。

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『春を待つ路傍の石の一つ吾』 谷川水車
『どこよりも小学校のさくらかな』 やまやのぎく

緑地の先の歴史民俗資料館入り口にあるのは筑水(鈴木貞治)の句碑です。
緊急事態宣言をうけ、資料館も休館のため、中には入れず、門のそとからの撮影になりました。

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  『麦負うて道一ぱいに揺り来る』 筑水

歴民資料館から道なりに進んで残堀川沿いの「富士見第二公園」を探しました。「青い夜道の詩人」と呼ばれた田中冬二の詩碑があるのです。
田中冬二は銀行員として働きながら、郷愁をテーマに、多作ではないものの、一貫して日本の自然や生活に根ざした詩を作りました。この詩もいかにも日常的です。旧安田銀行の立川支店長の時代に懇意の花屋さんからもらったシクラメンを詩にしました。

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シクラメンの花と 『大晦日の夜十時頃 親しくしていただいている花屋さんから シクラメンの花鉢が届けられた すばらしい花だ そのシクラメンと年越をした スヰートハートといっしょのように』

多摩川の支流の残堀川は狭山丘陵から多摩川へそそぐ一級河川です。河口に近い立川の柴崎町あたりでは春、見事な桜のトンネルができます。河原の菜の花とのコントラストが美しい。菜の花は先の花屋の三田鶴吉さんが種から育てたという話が伝わっています。
崖線の上にある古刹、普済寺の対岸に、歌碑がたっています。
作者の和田山蘭は、明治から昭和を生きた津軽出身の歌人で、若山旅人の「創作」に参加し、生涯に5万首の歌を詠みました。府立二中(現立川高校)で書道の教師をしていたのが立川との縁です。
普済寺の下の「崖下公園」にある歌の作者は立川の文化人、中野藤吾でした。

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『時雨かと戸を開けて見ればしぐれならず 星空さえて多摩川の音』 和田山蘭

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『川原にかはらなでしこ咲くもよし 空をうつして水澄むもよし』  中野藤吾

残堀川が多摩川にそそぐ河口近くには根川が流れています。
根川は現在整備されて緑道になり、緑道西端の入口の湧水口から湧き出した水が小川となってその小川に沿って遊歩道が造られています。
湧水口から出る水は実は近くの下水処理場から出た下水の高度処理水なのですが、清流魚も生息できるすぐれものです。鴨やコサギ、シラサギやアオサギなどの野鳥の観察もできる緑道には250本の桜並木、市内有数の散策路になってます。およそ1.4キロの遊歩道沿いに7つの歌碑をたどることができます。

水路に沿って歩いてみましょう。湧水口付近には若山牧水の妻、貴志子の歌碑、同じエリアの、琴帯橋近くには中村草田男の句碑があります。
牧水の子・旅人が戦後、家族とともに立川富士見町に居を構え、父の「創作」をひきついで活動しました。そのためか、牧水の家族の歌碑が詩歌の道には3つもあるのです。
草田男の句はホトトギス武蔵野探勝会の吟行で、根川を詠んだものです。

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『ひとりゐはあさこそよけれわか竹の 露ふりこぼすかぜにふかれて』若山貴志子
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『冬の水一枝の影も欺かず』  中村草田男

頭上をモノレールが通る都道149号線の下、「柴崎橋」をくぐると、浸水エリアです。 最初に木村賢一郎、少し距離をおいて柴崎体育館前には水原秋櫻子の句碑がみられます。体育館裏の菖蒲園入口には旅人の歌碑がありました。
戦前の立川は赤松の雑木林が拡がり、秋櫻子は絵画のような武蔵野の風景を詠んだ俳句をたくさん残しています。碑の句は句集『蘆刈』の中のお気に入りの句だそうです。

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『はらり はらはら 春の光を身にあびつつ たちかは曙町の むかしみちゆく』賢一郎
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『初日さす松はむさし野にのこる松』  水原秋桜子
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『霧にこもれる多摩川いつか雨となり 芽ぶく楊もぬれはじめたり』 若山旅人

橋をくぐれば霧の広場。霧の噴き出すモニュメントが人気です。水生生物・植物を保全する池にはカワセミもやってくるというので、その姿をとらえたいと、連日アマチュアカメラマンがならぶ場所です。池の傍にあるのが若山牧水の歌碑です。

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カワセミもやってくる池
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『多摩川の浅き流れに石なげて あそべば濡るるわが袂かな』若山牧水

さらに甲州街道と交差する「よしみ橋」下のトンネルをくぐると、水辺の景色は一変します。水路は昔の姿を留めた根川の風景となり、岸辺に生えている古木の桜が川面に枝を広げています。遊歩道の南側に野球場と陸上競技場のあるこの散策エリアは、東京都が計画した「武蔵野の路」是島・昭島コースの一部でもあり、サイクリングを楽しむ人(かくいう私も)も多い。詩歌の道最後の2つの歌碑がありました。

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桜の季節の根川
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『茜雲あえかに残り亡母の背の 温みなつかし武蔵野暮るる』池田澄子
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『日のいろの寒き川原にひらめける 芒のそよぎ声のごときもの』八木下禎二

根川緑道の終点は貝殻坂橋です。木製の美しい橋は、詩歌の道をしめくくるにふさわしい風景でした。
江戸日本橋と甲府(のちに下諏訪まで延長された)をつないだ甲州街道の多摩川の渡しは何度か移動され、それに伴って街道の道筋もかわったようです。
そのうち、日野の渡しが正式なルートになる以前、慶安年間(1648~1651)から貞享元年(1684)まで使われていたのが万願寺の渡しです。
台地の上をたどってきた甲州街道は、国立の青柳段丘をおりて、多摩川の河原へおりました。この段丘を下る坂を昔は貝殻坂と呼んでいました。
橋のたもとの案内板には、武蔵野風土記の柴崎村の項が引用されています。
「貝殻坂 青柳村と当村の境にあり、土中を掘れば蛤の殻夥しく出づ。土人(ところのもの)の話に古へはこの地も海なりしと伝ふ」
貝殻坂橋は万願寺の渡しよりも西に位置していますが、その坂の名をとって名づけられた橋なのです。

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雑記帳2020-4-15 [代表・玲子の雑記帳]

2020-4-15
◆ついに出た! 緊急事態宣言.

不要不急の外出をさけよとの自粛要請で、予定していた講座もバスツアーも全部中止。雑記帳の種を探しに出歩くこともできなくなりました。美術館も博物館ものきなみ休館なら、頼みの国営昭和記念公園も3月末より休園です。巣ごもりしていると、後期高齢の身は体力知力の衰えを実感することになりました。
というわけで、近くの遊歩道を歩くことにしました。栄緑地は全長1.6キロメートル。往復すれば3.2キロ、時間にすれば4、50分です。1万歩には及ばないが、毎日の散歩程度なら適当な距離かと思えました。
これまでなら自転車で通り過ぎていた道です。ゆっくり歩けば違う景色がみられるかもしれません。

国営昭和記念公園はかっての米軍基地。戦前は陸軍飛行場だったところです。
そのため、周辺には立川飛行機などの軍需工場がいくつもありました。
今遊歩道になっている緑地は、以前は立川駅から立川飛行機までの引き込み線だったのです。
引き込み線は戦後米軍に接収された後も昭和43年までジェット燃 料輸送に使われました。昭和52年、立川基地が全面返還されると、不要となった線路は 撤去され、緑地化されました。そのうちの芋窪海道から国分寺市西町緑地に至るまでの1.6キロが栄緑地とよばれています。

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栄緑地入口(芋窪海道側)
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 子どものブロンズ像
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ベンチやバーゴラが随処にある

緊急事態宣言が出されたのは4月7日のことです。ソメイヨシノに代わって、八重桜の作始めるころでした。

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一面の桜の花びら
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緑地の樹木や草花たち

周辺には農地の広がる風景も見られます。
市北部の砂川にたいし、この辺りは南砂川と呼ばれている地域です。宅地化の進んだ現在でもまだ農地がのこっているのです。
立川はかって桑苗の産地として全国に知られていました。その名残か、造園農家が多いのも特徴です。東京都の委託を受けた苗を育てている畑も少なくありません。
砂川のように狸やハクビシンは出ないものの、鳥害には困っているとの農家の話を聞いたことがあります。近くの大木は、ムクドリのねぐらになるらしいのです。

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緑地周辺の農地
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ここまでが栄緑地

ここから先は国分寺市です。あとスウh100メートルで廃線跡もなくなります。道路を2本渡った200メートルほど先にはアーチ型のゲートが見えいぇきます。このアーチは実はかってのレールを利用したもので、ここが廃線の跡であることを知る数少ない遺構です。

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レールを利用したアーチ

緊急事態宣言が出て以来、遊歩道を歩く人は格段に増えました。以前はお年寄りばかりでしたが、ジョギングする子供たちや若者の姿が目につくようにもなりました。
25年ほど前緑道の近くに土地を求めたにも拘らず、ゆっくり歩くことはなかったのですが、コロナのおかげでここを歩く日課ができそうです。

◆つれづれに、一茶の句をひろいました。
  ゆさ ~ と春が行ぞよのべの草      七番日記   化8
  散花のぱつぱと春はなくなりぬ      政九十句写 政9
  木兎のつく ~ 春をおしむやう      希杖本
  我松もかたじけなさや春の雨        文化句帖   化1
  春風にお江戸の春も柳かな          七番日記   化11  

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雑記帳2020-4-1 [代表・玲子の雑記帳]

2020-4-1
◆片倉城址公園から御殿峠へ。この時期、鎌倉古道は花巡りの旅でした。

多摩地域を通る鎌倉海道上道は鎌倉~町田~府中~東村山~所沢~比企丘陵~群馬方面を結ぶルートです。今回は「八王子道」と呼ばれ道筋を歩きました。この辺りはかって鎌倉街道の脇往還と考えられていましたが、最近の研究で、ごく初期(平和時代ころ)に開拓された古道であることがわかってきました。、周辺の開発が進む中、残された古道の面影をたどりました。

この地域は、もともと武蔵七党と呼ばれた、平安時代に武蔵国西部に勢力を持った土着の豪族の一つ、横山氏の勢力圏内でした。(武蔵七党はその後、鎌倉御家人となりました。)健保元年(1213)和田の乱で横山時兼は和田義盛に加担して討ち死に、大江広元がこの地を領しました。その後、大江氏の子孫は長井氏を名のるようになり、室町時代には、長井氏は関東管領の扇谷上杉氏の配下になっていました。
片倉城の築城はこのころ、15世紀後半のころと推定されています。扇谷上杉朝定によって再築された深大寺城と特徴がよく似ているといわれます。

扇谷上杉は山内上杉と争い、扇谷上杉方の長井八郎は山内上杉に捕縛されたと記録にあります。その後、長井家はどうなったかは不明ですが、天文15年(1546)の河越合戦以来、武蔵国は北条氏の支配下にあって、滝山・八王子の支城として、相模方面へのつなぎの役割をもたされていたようです。

その片倉城は、八王子盆地の南小比企丘陵の東端の台地に築かれました。JR片倉駅に降り立てば、左手に見える小高い丘がそうです。

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片倉駅から城のあった山を望む

北に湯殿川、南に兵衛川が流れ、二つの川は天然の外堀です。麓には鎌倉街道(川越道)が南北に通る交通の要衝。片倉城は八王子と横浜、小田原を結ぶ要の城だったことがよくわかります。標高は139m。

駅から数分の湯殿川は3月末、今まさに満開の桜です。

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湯殿川の桜

片倉城址公園入口の広場には北村西望の胸像がたっています。長崎の平和の像で有名な西望のアトリエは三鷹にありましたが、八王子市の彫刻の街づくりに賛同して審査委員を引き受けました。公園には受賞した作品が飾られているのです。

一方、公園には多くの野生植物が自生していて、恰好の自然観察の場にもなっています。ニリンソウやバイモ、ヤマドリソウに交じって、今の季節は、城の名前の由来になった野生のカタクリの花が見ごろです。片倉沢を抜けていくと、城郭の斜面一面にカタクリが乱舞しています。(カタクリの古語はカタカゴなので、片倉城の名の由来説は、本当のところはさだかではありません。)
カタクリは冬、陽があたり、夏は日陰の場所でないと生えません。常緑樹の森ではだめなのです。戦国の時代、カタクリは食用だったと思われます。食料になる前の可憐な花を武士たちも見ていたのかと思うと面白いとりあわせですね。

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ニリンソウ
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バイモ
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ヤマドリソウ
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斜面一面のカタクリ

標高139mは登ってみれば結構な高さです。一気に登れば、冬の間の運動不足がたたって、息は切れるし、足腰だってよれよれです。

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北の丸からかっての城下を見下ろす

二の丸には末吉神社がまつられています。
説明板には神社は摂津国の末吉大社を勧請したとありますが、急坂の地形では参道を作った様子もみられず、なぜここに末吉神社があるのかは不明です。

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二の丸の末吉神社

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本丸も桜が満開

西の丸と本丸をつなぐ橋の下は空堀でした。
石段にキランソウを見つけました。「地獄の釜のふた」の別名を持つこの花は、日当たりの良い斜面によくみられますが、名前からして石の間からのぞいているのがぴったりです。

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キランソウ(地獄の釜の蓋)

本丸よりの広い西の丸から、遠く山並みをながめると、写真にはみえませんが、右手奥にはかって八王子城がありました。ここがのろし場だったとわかります。

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西の丸から下山の途中に見つけたのはヤマブキソウやアズマイチゲです。ヤマブキソウは絶滅危惧種になっています。花弁の色は普通は白なのに、これは珍しい紅紫色のアズマイチゲです。

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ヤマブキソウ
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アズマイチゲ

城の傍にある松門寺は延徳元年(1489)に創設された古刹です。当初は密教の寺でしたが、慶長元年(1596)に禅宗に改宗しました。昭和44年(1969)に現在の地に移転しましたが、約400年にわたる長い歴史を感じさせる、落ち着いたたたずまいです。本堂の左右に見事な木瓜が植えられていました。
多摩や八王子は開発のために移転したり合祀した寺社が数多くありますが、松門寺もその一つ。移転には寺だけでなく、墓を動かさなければならなかった檀家にも負担を強いたようです。
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松門寺

寺と城の間にある、短い距離ですが、古道がそのまま残っている道をあるきました。今では通る人もなく、草の生い茂った道は、昔の旅人気分を味わうに十分でした。

その後は畑の中を道を歩き、林の中を辿りながら目指すは5キロ先の御殿峠(ごてんとうげ)です。

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キジムシロやエゾタンポポなど、道々、多くの草花にであいながらたどり着いた御殿峠は、八王子市片倉町と町田市相原町の境に位置する国道16号の峠です。御殿山の東稜を切り開いて開通した新道は現在の自動車交通の要衝です。標高183mの峠に立てば、眼下に、ランドマークにもなる東京工科大学のキャンパスが見下ろせます。

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キジムシロ(雉の寝床になると思われたからという)
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エゾタンポポ
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御殿峠より見下ろす

その御殿山は実は私有地。持ち主のホテル日本閣で遅い昼食をいただきました。

開発で途切れた部分もありましたが、片倉城址からここまで、鎌倉街道の跡である古道は残されていました。
古代、すでにこの道は須恵器窯の工人たちが行きかう道でした。鎌倉時代は関東武士団が駆け抜け、戦国時代には武田信玄の2万人もの大軍勢が通りました。更に江戸時代から明治にかけては、横浜へ生糸を運ぶ道にもなったのです。横浜線が開通するまでこの道は神奈川道・八王子道として、人と物資の交流を支えたのでした。

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雑記帳2020-3-15 [代表・玲子の雑記帳]

2020-3-15
◆江戸城外堀を歩いて江戸のまちづくりを学ぶシリーズ、第1回目は水道橋から東京駅まで。

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江戸時代の全体図
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皇居を囲む現在の地図

江戸城外堀は、幕府が諸大名を動員して寛永13年(1636)に完成させた江戸城の外郭をなす水濠です。本来の目的は城の防御のためでしたが、内堀と外堀の間に武家屋敷をあつめ、町人の住まいや商店、寺地は外堀を境に区分するなど、江戸のまちづくりの基礎となりました。さらに、明治以降には鉄道と駅が、昭和には高速道路が外堀を利用して造られ、東京のまちづくりに大きな影響をあたえています。歩いてみれば、首都高速が外堀の真上を走っていることがよく分かります。
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日本橋川の真上を通る首都高速5号線(西神田川から 堀留橋はこの下にある)

東京千代田区と中央区を流れる日本橋川は、昔、平川と呼ばれた暴れ川でした。最初に治水に乗り出したのは太田道灌。日比谷入り江に注いでいた平川の流れを変えて江戸湾に流しました。その後、何度も水利工事は行われて今の日本橋川ができたのです。江戸時代初期、神田川開削の際に神田川からの分岐点より堀留橋までの区間が埋め立てられ、この付近が掘の終点になっていたことから、堀留橋は江戸城外堀の起点となっています。

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堀留橋から見おろす日本橋川

JR水道橋駅からほど近い堀留橋(別名「コオロギ橋」)を渡って、濠にそって九段下へ向かって歩きます。
右手に何本かの坂があり、そのうちの一つ、中坂通り一帯は、徳川家康が江戸入府のおり、この村の飯田喜兵衛が家康を案内したことから、村の名前を飯田町と称することが許されたといわれます。火事で町が築地に移転したあと、新たにできた町は元飯田町となりました。

別の坂に立つマンションは滝沢馬琴の住居跡に建てられています。馬琴の名を不動にした「南総里見八犬伝」はこの地で生まれました。馬琴の住居に水を引いていた水道が発見されています。

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馬琴住居の井戸の跡

靖国神社のある九段坂の名の由来は、坂沿いの武家屋敷に9段の石垣があったからとか、あるいは道に9段の段差が設けられていたからともいわれます。浮世絵にも荷を積んだ牛がこの坂を上る様子が描がかれていますが、九段坂はそれほどきつい坂だったのです。

九段下の濠には俎板橋がかかっています。近くに御台所町と飯田町があったことからしゃれで「まないた」と名付けられたと言われています。橋のたもとに福禄寿の像がおかれています。ハレー彗星で騒がれた年に作られた、鍛金作家・山下恒雄の作品。この人のもう一体の作品が神田橋にもあります。

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俎板橋の福禄寿像
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神田橋の黄金虫像

内堀と外堀の間にある武家屋敷に交じって、幕府公用の御用屋敷がありました。千代田区役所はその御用屋敷跡に建っています。
区役所正面には清水門。寛永元年(1626)に石垣が築かれた門です。国指定の重要文化財。この門の内側に御三家の一つ清水徳川家の邸がありました。

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清水門

清水門の東にあるのは雉子橋門です。
雉子橋の名の由来は、近くに朝鮮使節をもてなすのために雉子を飼う小屋があったからと言われています。ここは早稲田に移る前の大隈重信も住んでいました。
橋にたてば、内堀と外堀が同時に目に入る、雉子橋門は両方の堀を結ぶ堀にもうけられた門なのです。現在は内堀と外堀を結ぶ堀はなくなっていますが、トンネル状の水路によって、水はつながっています。

内堀は江戸城の主要部分を守るための堀です。外堀は自由に通行できましたが、内堀は幕府の許可をえたものしか通ることができませんでした。
このあたりで内堀にかかるのは北の丸公園にわたる竹橋、つづいて平川橋です。
木製の美しい橋と高麗門、櫓門、これらを総して平川門と呼ばれ、当時は江戸城三の丸の正門で、徳川 御三卿の田安・一橋・清水の各徳川家の登城口でした。

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美しい木製の平川橋 擬宝珠のもご注目

検問をうけて櫓門をくぐると、右手の石垣の最上段に石狭間(石に穴を空けて銃眼としたもの)が見えます。慶長18年(1613)、築城の名手・藤堂高虎が石垣普請を命じられたとき、考案したと伝えられる江戸城の貴重な遺構です。高麗門の立派な石垣はみごたえがあります。
平川門はまた、江戸城の鬼門にあたることから、不浄門としてもつかわれ、罪人や死人はこの門から運び出されました。

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櫓門
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高麗門

平川橋の正面に建つのは毎日新聞社の社屋です。ここには江戸場内で消費される米を脱穀していた「御舂(おつき)屋」がありました。

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               平川橋正面の毎日新聞社社屋

御舂屋の外堀側にあるのは一ツ橋門。雉子橋からこのあたりまで堀の随所に江戸時代の石垣が残っています。一ツ橋周辺には昭和に修理した石垣もあって、面白い対比が見られます。
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雉子橋の石垣(石は江戸時代のものだが、積み方がどうやら後世のものらしい)
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一ツ橋の石垣

御三卿は徳川将軍の跡継ぎが絶えたときに次ぎの将軍を出す家柄。御三卿の一つである一ツ橋家は11代家斉と15代慶喜の2人の将軍を出しました。一ツ橋家屋敷の跡には丸紅をはじめ多くの企業のビルがならびます。
堀に沿ってさらに進めば神田橋。橋の近くに神田橋門の鏡台の石垣が残っています。

江戸城内堀の正面である大手門の前にあるのが大手町です。
江戸時代には徳川将軍家の重心や幕府の重職についている大名の屋敷が並んでいました。明治以降は新政府の役所や軍の用地となり、昭和・平成の館長移転によって現在は大企業のオフィスビルが並ぶ街になっています。

神田川沿いの公開空地の一部に、かっての外堀だった場所が開発されておしゃれな町が出現しています。大手町フィナンシャルシティです。遊歩道には外堀の石垣の石や発掘された石を見ることができます。

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おしゃれな大手町フィナンシャルシティ
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発掘された石垣の石が遊歩道随所に展示されている
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ビルにある駐輪場もおしゃれ

鎌倉橋は、関東大震災後の復興事業の一環として、昭和4年(1929)にかけられました。第二次大戦中のアメリカ軍機による機銃掃射の痕が残っています。

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鎌倉橋の空襲の弾痕跡

鎌倉橋の名は近くに鎌倉河岸があったことによるものです。徳川家康による江戸城築城のおり、鎌倉から取り寄せた石をここで荷揚げしたとか、鎌倉から来た商人がここに店を構えて荷揚げした物品を売買していたとかの説があります。江戸時代以降も昭和にいたるまで荷上場として活用されていました。

鎌倉橋をすすむと常盤橋です。外堀の正門だった常盤橋の向かいには日本銀行。江戸時代の金貨製青蔵書である金座と江戸の町方年寄の奈良屋市右衛門の邸跡地に建てられています。明治29年築の、辰野金吾の設計による庁舎は国の重要文化財になっています。

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常盤橋の次は一石橋。金座支配の後藤家と幕府御用達呉服商後藤家の間にあったことから「後藤(5斗)と後藤(5斗)で一石橋だ」という説があります。ここからは日本橋が目の前です。橋の南摘め荷は迷子しるべの石標があります。

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一石橋の迷子の石標

一石橋から南の外堀は、第2時大戦の空襲による瓦礫を処分するために埋めたてられてしまいました。なので、ここからは、道三堀跡、呉服橋門跡など名前だけが残る外堀通りを東京駅まで歩くことになります。

東京駅付近にはかって北町奉行所がおかれていました。現在、奉行所跡は丸の内トラストタワーの敷地内にあり、外堀の石垣石と復元された下水道の石組みが見られます。一方、奉行所跡の説明板は何度も引っ越しをして、いま、東京駅大丸前にあります。

東京駅の東口を八重洲口といいます。その名の由来は、慶長5年(1600)に日本にやってきたオランダ人ヤン・ヨーステンの屋敷があったことにあります。1回目の外堀歩きはここまで。2回目はここから出発します。

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雑記帳2020-3-1 [代表・玲子の雑記帳]

2020-3-1
◆銀座は江戸から昭和にかけての昔懐かしい香りがいっぱいです。常に時代の先頭を走ってきた銀座にはちょっと歩けば日本初と冠するものをたくさん見つけることが出来ます。

銀座の地名の由来は銀貨貨幣鋳造所。1598年(慶長3年)に京都伏見に創設されたのがはじまりです。1606年(慶長11年)には駿府に幕府銀貨鋳造所が設けられ、1612年(慶長27年)に江戸のこの地に移設されました。その後、銀座は人形町に移転し(蛎殻銀座)、移転に伴って「新両替町」になったのですが、もともと江戸町民の親しんだ銀座の名称が定着したのです。 ティファニーの前にある「銀座発祥の地」の記念碑は昭和30年に建てられました。

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銀座発祥の地の碑

京橋は、慶長8年(1603)に造られました。幕府が架ける公儀橋としてで、擬宝珠を据えられることが許された橋でした。擬宝珠のある橋は、この京橋と、日本橋、新橋の3橋のみです。東海道の日本橋より京へ向かう、最初にわたる橋でした。昭和34年(1959)に京橋川の埋め立てによって撤去されましたが、擬宝珠は京橋親柱の向かいに立つ、銀座一丁目交番の屋根に残されています。

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京橋の親柱
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交番の屋根は京橋の擬宝珠

京橋親柱に並んで明治7年に点火された銀座カス灯の実物が再現されています。ガス灯は、江戸から東京へと国家新生の象徴として、当時の状況は錦絵にも描かれました。交番の近くには煉瓦銀座の碑もあります。

明治5年に発生した大火災は銀座大火と呼ばれています。折からの強風にあおられ東京の中心地丸の内、銀座、築地一帯が焼失しましした。これをきっかけに、明治新政府は銀座を耐火構造の西洋風の街路へと改造することになります。この時採り入れられた煉瓦街と街路樹の柳は銀座の名物になりました。いずれも姿を消しましたが、煉瓦が発掘されたのを機に、昭和31年(1956)、当時のままの「フランス積み」という方式で再現した碑がたてられました。

近くにはこの地発祥の2つの碑がならんでいます。「江戸歌舞伎発祥の地」と「京橋大根河岸青果物市場跡」です。

江戸歌舞伎は寛永元年(1624)に猿若座(のちの中村座)の猿若勘三郎が、日本橋と京橋の中間の「中橋広小路」で櫓をあげたのが始まりとされています。一帯はそれ以前から芝居・見世物などの興行街として栄えていたようでした。

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江戸歌舞伎発祥の碑

寛文4年(1664)に京橋川の水運を利用して、京橋の北爪西側に野菜の市場が設けられました。ここは大根の入荷が多かったので「京橋大根河岸市場」と呼ばれました。明治の終わりには対岸の銀座1丁目にまで規模は拡がって、青物、果物のほか、魚類・乾物も扱うようになり,昭和10年(1935)築地の東京卸売市場に合併・移転するまで続きました。

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京橋大根河岸市場の碑

交番を後に、大通りからそれて銀座三原通りを歩き始めてほどなく古風なビルが目にはいりました。かっては「銀座アパートメント」と呼ばれた奥野ビルは、銀座界隈でも屈指のモダンな高級アパートでした。民間の住居ビルとしては日本初のエレベーターをそなえていました。4人乗り、手動のエレベーターは今も現役です。現在は約20店のギャラリー-が入居しています。

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奥野ビル

この通りには文房具の伊東屋があります。本店は銀座中央通りにテイファニーと並んでいますが、開設時からアルファベットのハイカラなロゴが評判になりました。外国人にも人気の文房具ショップです。何十種類もあるボールペンは値段のさほど高くないものでも、さすがに景品でもらったペンより書きやすいと評判なのです。

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イトウヤ

紙パルプ会館の屋上ではミツバチを飼っています。
高層ビルばかりで自然のない街と思われている銀座ですが、半径2キロに皇居や浜離宮、日比谷公園のある銀座は実はミツバチにとって魅力あるエリアです。
「銀座ミツバチプロジェクト」は2006年にスタートし、今では年間1トンの蜂蜜がとれるまでになりました。銀座のケーキ屋さんや漬物にも利用されて美味しいと評判だそうです。ここでしか味わえない究極の地産地消です。

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紙パルプ会館

紙パルプ会館のすぐ近くにあるのは王子サーモン。王子製紙が産んだスモークサーモンの店です。

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王子サーモンのビル

商売に稲荷神社はつきもの、銀座にも古い稲荷神社がいくつもあります。
銀座1丁目にあるのは幸稲荷。江戸時代、京都の伏見稲荷神社から勧請され、縁結び、商売繁盛にご利益があると言われています。

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幸稲荷

3丁目の朝日稲荷はビルの屋上にあります。震災や戦災に見舞われながらそのたびに復活、昭和58年のビル改築に伴い本殿を屋上に安置しました。1、2階を福抜けにして、地上にある拝殿での参拝の音声がパイプを通って屋上にある本殿に届くようになっています。

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朝日稲荷
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御神体は屋上に

宝童稲荷神社は、4丁目にあって、江戸時代から伝わるといわれ、主に子育ての稲荷神社として知られるようになりました。ここは周辺の方々がしっかりとお世話して、路地の中ほどの大地に鎮座しています。かつては江戸城にあり、将軍の子息の早死を防ぐために祀られた神社で、これを勧請して鎮座したとされています。

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宝童稲荷

銀座の柳は明治30年ごろ銀座通りにうえられました。その後も撤去、復活を繰り返しながら多くの詩歌にうたわれた銀座のシンボルです。昭和43年に歩道の改修にあたって移植され現在の銀座柳通となづける際に碑が建てられました。銀座の柳の碑はほかに、新橋、数寄屋橋公園にもあります。ことほどさように、銀座に柳は似合うのです。

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銀座の柳由来の碑

明治14年、英国医学を研究する成医会講習所が医学博士高木兼寛によって開設されました。それまではドイツ医学が主流だったのにたいし、日本で最初のイギリス医学の導入でした。講習所は明治40年に東京慈恵会医院専門学校に、大正10年には東京慈恵医科大学へと発展します。碑は大学創立100年を記念して昭和56年に松屋通りに建立されました。現在大学のキャンパスは西新橋と国領にあります。

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慈恵医大発祥の碑

近くにある教文館書店は路面店として営業している銀座で唯一の書店です。編集者として村岡花子が在籍していました。木村屋の看板は山岡鉄舟の字です。

往年のサラリーマンには懐かしいキャバレー「白いバラ亭」は今、駐車場に。隣接する煉瓦亭、グリルスイスはカツカレー、オムライス発祥の地です。銀座は食でも時代をリードしました。

日本ではじめての電気街灯(アーク灯)が、明治16年(1882)、東京電気会社の発起人の一人である大倉喜八郎の手によって点火されました。デモンストレーションとして公開点火された場所に日本最初の電気灯柱の碑がたっています。それまでのガス灯に比べるとはるかに明るく、連日(連夜?)多くの見物客が詰めかけました。4代目として復活したモニュメントは、設置当時と同じデザイン。高さ12m、平成の世にふさわしく、水銀灯はLEDに、ガラス製だった火屋(ほや)は樹脂製に変わりました。

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4代目の電灯

英国屋とティファニーの間にある路地は水玉小路と呼ばれました。小路は飲み屋街。建ち並ぶ飲み屋から漏れる明かりが水玉のように見えたのでこの名がついたのだそうです。ちなみに大通りの英国屋でスリーピースのスーツを仕立てれば1000万円!だそうです。

銀座はなんでも高いと思われがちですが、リーズナブルなお店もたくさんあります。人の集まる界隈にはアンテナショップもいっぱい。アンテナショップで郷土料理のランチを楽しむこともできます。一角を少し歩いただけで、広島、沖縄、山形、茨城の4軒ものアンテナショップを見つけました。銀座は昔も今も、背伸びするおしゃれな街と同時に庶民の街でもあるのですね。

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アンテナショップ沖縄
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アンテナショップ山形

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雑記帳2020-2-15 [代表・玲子の雑記帳]

2020-2-15
◆江戸東京野菜をご存知ですか。

1月末、これまで時々顔を出していた江戸東京野菜のことを知りたくて、新装なった渋谷のホテルへでかけました。江戸東京野菜の伝道師、大竹道重さんと、エクセルホテル東急の料理長、白幡健さんとのコラボで、江戸野菜を耳と舌で味わう企画でした。

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江戸東京野菜の伝道師、大竹さん

東京は、都市部の23区と、多摩地域の中山間部、そして島々からなる、東西に長い地形。高度差も海抜0メートルから1000メートルまであって、実に様々な環境を有しています。
そして、それぞれの地で、そこの環境に応じた農業がおこなわれています。
たとえば、三宅島の明日葉は有名ですが、明日葉の畑のすぐそばにはハンノキの茂みがあります。明日葉とハンノキを一緒に植えると、共生してよく育つのです。
東京は大産地ではないが、何でもある、その意味で東京の農業は日本農業の縮図だといえます。

江戸時代、江戸は野菜の大消費地でした。広重の「江戸名所一覧双六」を見ると、当時の人々が江戸と認識していたのは、東は本所深川、南は品川、西は新宿、北は王子あたりまで。このエリアで生産された野菜が、「江戸自慢」の番付表になって今に残っています。なんでも番付表にするのは、江戸っ子の好きな遊びでした。横綱は断然、「練馬大根」ですね。

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江戸名所一覧双六
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江戸自慢番付表

こうして、江戸期から始まり、明治、大正、昭和にわたって、東京の野菜文化を継承し、東京23区から多摩地区までのエリアで在来種の栽培方法で栽培されている野菜を江戸東京野菜と呼んでいます。大竹さんが種の復活に取り組み始めた30年ほど前はわずか15品目でしたが、現在、50品目になりました。

江戸野菜の固定種はもともと江戸にあったものではなく、地方から参勤交代で持ち込まれたものでした。もとの土地に合っていた品種が江戸の環境に合わせて改良されたのです。
固定種ですから、掛け合わせて作った交配種とはちがい、形が不ぞろいだったり、大きさもまちまちという欠点はありますが、江戸野菜のルーツが地方だったとは面白いではありませんか。

たとえば、「千住ネギ」の先祖は大阪です。
もともとは摂津から持ち込まれた「浪速ネギ」と呼ばれる葉葱でした。
葉葱は江戸の火山灰の土地には育たず、枯れてしまいましたが、処分のために焼いたところ、産地では食べずに捨てていた根のおいしさを発見したのです。
この結果、九条ネギを改良した根深ネギが生まれ、江東区砂村で栽培されたので砂村ネギと呼ばれ、のちに千住に行って千住ネギとなりました。千住は日光街道の宿場。当時、千住青物市場にはネギがたくさん集まったということです。
ちなみに、栽培期間の長いネギは都市農業にはむかないので、現在は近郊の埼玉県や茨木県が主産地になっています。

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江戸千住ネギ

練馬大根の生みの親はなんと、五代将軍綱吉です。
綱吉がまだ将軍になる前、松平右馬守だった館林の城主時代、練馬の地に産した大根に尾張からとりよせた大根を掛け合わせたところ、火山灰の土地にあっていたのか上出来。立派な大根ができたということです。収穫した大根はたくわんになりました。練馬大根漬けこみ図というのがのこっています。今でも、練馬は漬物やが多いそうです。

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練馬大根

中山道、志村の坂上に広がる干し大根は12月の風物詩でした。長さ1mにもなる大根がずらりと並ぶ風景は、地方から江戸に出てきた人々の度肝を抜いたと言います。巣鴨には練馬大根の種を売る店がならび、種屋街道と呼ばれました。人々は種を江戸のみやげにしたということです。形が不揃いでも干せば大丈夫。何より味がいいと評判でした。
こうして、練馬大根の種は旅人が持ち帰った地方でも栽培されました。信州の前坂大根、薩摩の山川大根などは練馬大根の子孫です。

練馬大根の良さは切ったときの音にも出るそうです。
青首ならサクサク音がするが、練馬はスパッと切れて音がしないのです。
サクサクも悪くないけれど、スパッと切れるというのがなんだか江戸っ子の好みそうな感触だと思いました。

練馬大根と並んで有名な江戸野菜に亀戸大根があります。
江東区は亀戸大根を町おこしにつかっています。香取神社では収穫祭をおこなったり、節分には福分け祭りと称して亀戸大根の配布をしています。亀戸大根が昔、おかめ大根、お多福大根とよばれていたのが福分け祭りの由来です。駅のホームには亀戸大根のミニ畑もあるそうです。

鍋や漬物に欠かせない冬野菜の定番、白菜は日本原産ではありません。
明治8年に中国から輸入されたのですが、日清、日露戦争で現地に行った兵士たちが白菜の種を持ち帰ったのが普及の始まりでした。
白菜はアブラナ科と交配すると結球しないという特徴があります。日本国内ではたいていの場所にアブラナ科の植物が自生しています。なんども失敗をかさねながら、アブラナ科の植物が生えていない松島湾の島で種をとることに成功したのが大正末期のことでした。今ではこんなに日常的な白菜もたかだか昭和以来の歴史しかないのです。
大正末期に栽培に成功した白菜は「下山千歳白菜」として江戸東京野菜の仲間入りをしました。世田谷区の下山家の畑で栽培されたのでついた名前です。昭和20年代、全国の白菜の産地がウイルス病で壊滅的な被害を受けていた中で病気に負けず生き残った白菜ですが、重さが何と4キロから7キロにもなる、現在の核家族の家庭では消費しきれない、まことに大きな白菜です。食べる家庭はなくなっても種は残したい、大竹さんの思いです。

この日使われていた食材の中には上記のほかにもたくさんの江戸東京野菜がありました。滝乃川ごぼう、内藤かぼちゃ、渡辺早生ごぼうなどなど。栽培されている土地や栽培した農家の名前がついているのが面白いですね。内藤かぼちゃは高遠藩城主内藤家の、2万坪もあったという内藤新宿の上屋敷で栽培されていたかぼちゃです。菜園には内藤唐辛子もありました。

ホテルの料理長、白幡建さんの説明を聞きながらランチをいただきました。

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冷たい前菜・・・東京野菜の軽いスモークと鮪の生ハム、マンゴーと山椒風味のビネグレット、サフラン香る下山千歳白菜と金町小かぶのクーリスープ仕立ての前菜

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暖かい前菜・・・東京野菜のキッシュ 花畑牧場のモッツアレラチーズとベーコンのうまみ、エシャロットフォンデュとバルサミコ香るプテイトマト(5色)とパプリカのマリネ キッシュの上にのっているのはラスパルーラというチーズの薄切り

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メイン・・・金沢中央市場直送の鮮魚(マハタ)のサラマンダーグリルと内藤カボチャのピュレ、千住葱のプレゼ 渡辺早生ごぼうのブリット添え、ブールブランソース)

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マハタは軽く塩をふって冷蔵庫で一晩おいて水分をぬく。身がしまり、一夜干しに似た感じになるという
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普通ではめったに手にはいらないという見事なマハタの頭

デザートはムリームブリュレ、ミルクアイス

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食事中に小耳にはさんだ話です。大竹さんが勝手に名付けた「江戸城堀大根」と言うのがあるそうな。前身は日本列島の海岸沿いに自生していた浜大根です。野菜と言うより野草。今は皇居となった江戸城内に広く分布していたのが残っているのだけれど、皇居の中なので野草といえども手を付けることはできない。一種のからみ大根で、これで蕎麦を食べるのが大竹さんの見果てぬ夢らしい。信州にもからみ大根を使った蕎麦の食べ方があるが、浜大根のからみはその比ではないのだとか。

テーブルに、練馬の有名な農家(!)、白石さんが同席していました。
江戸東京野菜をもっと量産できないのかと言う白石さんの問いに、江戸東京野菜は収穫も含めて栽培が難しいので、担い手が増えるとは思えない。畑の周辺に直売している今の状態が限度ではないか、農地の面積も地方と東京では比べ物にならず、「早稲田茗荷」がどんなにおいしくても高地の茗荷と競争はできないと言うのが大竹さんの答えでした。それでも種を残すことが大事。それは文化を継承することだから・・・。都内の小学校の中には命をつなぐ教育として、6年生が江戸野菜を育てて種をとり、その種を後輩に手渡すセレモニーが毎年行われているところもあるそうです。江戸の文化を今に伝える江戸東京野菜を日本遺産にするのが大竹さんの夢です。


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雑記帳2020-2-1 [代表・玲子の雑記帳]

2020-2-1
◆青梅は織物で栄えた町です。

大正から昭和にかけて、青梅は「織物の町」として全国に知られました。
桑都と呼ばれた八王子のような絹とちがって、こちらは、木綿です、
青梅縞、青梅麺と呼ばれ、私も青梅縞のポーチを一つ持っています。
昭和20年から30年代には布団を包む木綿の夜具「青梅夜具地」の生産が全盛期を迎え、町中に織機の音がひびいていたといいます。
毎年2月に催されていた青梅マラソンは市民が参加するマラソンとして人気がありましたが、同じ日に東京マラソンが開催されることになって、日程変更をよぎなくされた苦い記憶があります。東京とはけんかになりませんからね。
いまは利用されなくなった当時の工場や蔵を町おこしに役立てていると聞いて、青梅市街を歩いてみました。

JR東青梅駅から歩き始めてほどなく、ガイドさんが足を止めたのは都立青梅総合高高校でした。平成6年に都立農林高校と都立青梅高校が合併して生まれた、都内で最初の総合高校です。
その名の示す通り、文科・理科の普通科目に加え、生命・自然、食品や環境、福祉まで幅広い科目をそろえています。母体が農林高校だけあって、敷地面積は100ha.。ディズニーランドの2倍の広さは都立高校一です。地元の人には自慢の高校のようでした。
もう一つの自慢は築70年の講堂です。体育館が普通の現在、昔懐かしい講堂は今も入学式や卒業式に現役でつかわれているそうです。

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都立青梅綜合高校
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木の後ろに見える建物が講堂

かっての倉庫が、「繭蔵」という名の、おしゃれなレストランにうまれかわっています。建物は大正時代のものです。早めのお昼を繭蔵でいただきました。ふだんのごちそうがテーマのランチはその名も「繭膳」。
繭蔵がおしゃれな若者向きの空間になっているとおり、私たちと入れ替わるように、テキスタイルを学ぶ専門学校生の集団がおとずれていました。

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繭蔵
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繭善

道路を挟んでむかいにはかって織物加工工場がありました。女子更衣室や都立繊維試験場の建物はそのままのこっています。
昭和7年に創設された青梅織物工業組合は、戦後、すでに斜陽だった織物工業を、夜具の生産に変換して息を吹き返しました。「掻巻」と呼ばれる夜具は日本中で愛用されました。
のこぎり屋根や、北向きのつくりは当時の工場の典型的なデザインです。北向きなのは直射日光をさけるためでした。国指定の有形文化財になっています。どこかから移された織姫神社が敷地の片隅にのこっていました。
工場はいま、画家や工芸作家たちの工房やアトリエに利用されています。一角は福祉作業所になっていました。

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ノコギリ屋根の工場は今はアーテイストたちの工房や作業所になっている

繭蔵を出て、青梅街道を渡り、多摩川に向かって歩きます。
青梅街道はかっては成木往還と呼ばれ、江戸時代、青梅の成木で生産された石灰を江戸城まで運ぶためにできた産業道路でした。新宿を起点に青梅を経て、山梨県甲府まで続く道です。
目指すは多摩川にかかる「調布橋」。ここに、ラフカデイオ・ハーンの「雪女縁(ゆかり)の地」の碑があるのです。

調布といえば、現在の東京都調布市を思い浮かべますが、青梅のこの辺りは昔、西多摩郡調布村とよばれていました。地元の製品を五日市方面に運ぶには、この調布橋は大切な橋でした。それまでは「千ヶ瀬の渡し」しかありませんでしたので、橋の建設は地元の悲願でした。最初の調布橋は大正11年に「吊り橋」として架けられ、その後昭和10年には、鉄骨のアーチ橋に、さらに約60年後に老朽化の為に現在の橋(「これがなかなか美しい)に架け替えられました。 よほど思い入れがあるのか、この経緯は、橋の左岸下の公園に立つ、調布橋の碑に詳しく書かれています。
碑に向かい合うように、雪女の石碑がたっています。碑には、ラフカデイオ・ハーンの「雪女」の前文に、ハーンがここ調布の農民から雪女の話を聞いたとある、と記されていました。

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ラフカディオハーン「雪女」の碑

調布橋を渡ってさらに吉野街道をよこぎると、青梅の織物の歴史が現代に伝わる工房が目にはいります。「ホットマン」と「壺草庵」です。
壺草庵は藍染工房。かつて 海の向こうの人々に「ジャパンブルー」と言わしめ、 驚きと感動をもたらした藍の色をもう一度ひろめたいと、江戸時代から続く「灰汁醗酵建て」による藍染を貫く工房です。

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壺草庵
ドアを開けて店にはいると、壁に万葉仮名の額がかかっているのを見つけました。
「多摩川にさらすてづくりさらさらになんぞこの児のここだ愛(かな)しき」
万葉集にある歌です。同じ歌が現在の調布市にある布多神社にのこっています。

ホットマンは吸水性が高いと話題になった、東京生まれのタオルを作っています。
一秒タオルは試験片を水に浮かべたとき、1秒以内に沈みはじめるという、吸水性抜群のタオル。押し当てるだけで瞬時に水分を吸収してくれます。美容院などで採用しているところも多く、赤ちゃんにも優しいと評判のタオルです。

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ホットマンの工房

吉野街道を西へすすんで、多摩川が大きく蛇行する川べりに建つ青梅郷土博物館に立ち寄りました。川の流れが岸壁にぶつかって蛇行を余儀なくされたこの地点はかって「釜ケ淵」と呼ばれ、今は遊歩道も整備されて市立の「釜の淵公園」になっています。春は桜、夏はカヌーやバーベキューと、川遊びをする市民でにぎわうところです。博物館では、青梅の織物の歴史を詳しく学ぶことができます。

博物館のすぐ隣に国指定の重要文化財、旧宮崎家住宅が移築されています。
青梅市街の北方の山間にあったという、19世紀初頭の建物です。1977年(昭和52年)に持ち主だった宮崎氏から青梅市に寄贈され、1979年(昭和54年)に現在地に移築復元されました。建物は当時の一般的な農家の造りで、囲炉裏と広間が一体化した“広間型”と呼ばれる構造になっています。

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古民家「宮崎家住宅」

釜の淵公園から鮎見橋(この名前も美しいですね)を渡って街道へもどり、路線バスに乗りました。吉野梅郷をすぎて柚木町にあるパン屋さん、 Bakery Cafe「nocco」へ。このパン屋さんが昔の織物工場を再利用しているのです。特徴ののこぎり屋根ものこっています。

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ノコギリ屋根がそのまま残るパン屋さんnocco

Bakery Cafeの近くには吉川英治記念館がありました。戦時中青梅に疎開して、昭和53年までこの地で執筆活動を続け、国民的作家と呼ばれた吉川英治の記念館は2019年に閉館になりました。(その後、青梅市が買い取って2020年9月7日の英治の命日に再び開館することがきまったそうです。)
記念館の近くに建つ即清寺は1,000年の歴史をもっています。多摩八十八か所霊場の50番目の札所ですが、裏山をめぐると、一度に八十八か所を巡ったことになるということから、信者を集めているそうです。

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即清寺本堂

バスで青梅駅までもどると、青梅街道沿いの商店街には、大正・昭和の歴史のある建物がならんでいます。一時期、昔の手描きの映画館のポスターがメディアもとりあげ、話題になりました。今も街の随所にレトロなポスターがかかっています。 駅の地下通路では、壁に描かれた懐かしい昭和のスターたちにあうことができました。

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商店街亜レトロな看板がいっぱい
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赤塚不二夫会館
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青梅駅地下道

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雑記帳2020-1-15 [代表・玲子の雑記帳]

2020-1-15
◆横浜野菜は色とりどり、横浜の地産地消の取り組みを学びました。

横浜市は「活力ある都市農業を未来へ」を目標に、横浜都市農業推進プランに2本の柱をたてています。
①持続できる都市農業を推進する。
②市民が身近に農を感じる場をつくる。

この柱の下で実施される施策は特徴ある横浜独自のものです。
①のために、農業専有地区を設けて地区の特性に応じた農業振興策を策定、まとまりのある農地の保全をめざしていること、
②のために、市民や企業とも連携して地産地消を展開すること。
さらに市では、緑豊かなまちを次世代に残すために、みどりアップ計画と称して様々な取り組みをする中で、みどり税を設けています。全国でも珍しい、年間1人900円のみどり税は、農地の保全や身近な緑化の維持管理に使われています。
こうした施策の下で、横浜市の農地も農家の数もこの50年で3分の1以下に減ってはいますが、現在も農地面積3000haは神奈川県で一番をほこっているのです。

横浜市には「西洋野菜は横浜港からやってきた」という伝統と誇りがあります。
そこで市は「横浜農場」や「横浜野菜」という言葉を掲げて横浜ブランドをうちだしています。
「横浜農場」は、生産者も市民も、企業も、農地も生産活動も、全部ひっくるめた農業全体を一つの農場に見立てた言葉です。「横浜農場」のロゴマークを掲げた畑で生産される野菜はすべて「横浜野菜」と呼ばれます。そして、「横浜野菜」はカラフルでおしゃれな野菜が多いのです。観光客むけには「横浜野菜」を使うレストランを積極的に紹介しています。

最初に訪ねたのは松本こずえさんの畑です。約1haの畑で、50種類100品目以上の、色や形の珍しいマイナー野菜を栽培しています。松本さんの地区はコメよりも野菜にむいているのだそうです。
松本家は代々農家ですが、農業が趣味というこずえさんは、お父さんとは畑も別に、独自の農業をしていますす。農業専有地区のグリーンベルトは防災の意味もある一方で、住宅地と違って、周辺から文句が出ないので助かっていると言います。

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松本こずえさん
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こずえさんの畑(狸は出ないが鼠や鳥の害は出る)

野菜は直売所で売る他、畑の目の前にあるJA横浜へ毎日出荷。店舗は倉庫を使った小型店で、農家にとって出荷しやすいのが利点です。

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JA横浜の「直売所メルカート
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こずえさんの人参も

こずえさんは女性農業者組織「農娘会(のうむすかい)」の初代会長を務めました。
農家の奥さんたちには農協女性部があるものの、農家の娘さんたちにはグループがなかった、「農娘会」は農業をやりたい娘さんたちに声をかけてこずえさんが作った組織です。
自由参加ですが、力を合わせるといろいろな事業ができるのが魅力、最初は5~6名で始めたのが今では12名が参加しています。
女性農業者は食料自給率の向上にはつながらないが、食べる楽しさ、農業の楽しさを伝えることはできる、次の世代につなぐことができるというのがこずえさんの持論です。

こずえさんが野菜を買ってくれる対象として期待しているのが料理好きの奥さんたちとレストランのオーナーシェフです。その、地元の野菜を使うレストランの一つ、「野菜レストラン斎藤」でお昼をいただきました。
こずえさんと斎藤さんの出会いは、たまたま店頭で野菜を買ってくれたこと。そのとき、自分の店の特色を出せるものとして、市場にない野菜をリクエストされたそうです。大きいのもも小さいのも、中にはB級のものも、一緒に収穫すればあとはシェフの斎藤さんが工夫してくれます。
プレートにはソースや付け合わせにも様々な野菜が使われていました。

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目も鮮やかな四種類のカブを使ったサラダ 鶏そぼろ添えの前菜
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 シイタケのポタージュ 自家製のクルトンとクリームを添えて
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メイン(魚)の付け合わせにはゆがいた白菜・きゃべつの他、ソテーーした人参・ほうれん草・長ネギ、玄米のおじや風も、酸味のきいた海苔のソースで    
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デザートはキウイとリンゴとレモンの三点盛

斎藤家も400年続いた農家でした。
10年のサラリーマン生活で体をこわし、飛び込んだのがこの世界、農家の作った野菜をどう美味しく食べてもらうかが自分の仕事だといいます。すっかりはまったシェフ稼業は、今では先祖が仕向けたのではとさえ思うそうです。
レストトランは食べ手と生産者に会えるのが魅力。農家の気持ちをうけとめ、客の反応を農家に伝えることで、消費者と農家をつなぐのです。これこそ本当の地産地消だと斎藤さんは考えています。

昼食後、「野菜レストラン斎藤」に野菜を届けているもう1軒の農家、苅部博之さんの畑へ向かいました。
苅部さんは保土ヶ谷区の農家の3代目。150か所に散在する2haの畑で100種類の野菜や果実をつくっています。20年前に畑のそばに直売所を建てました。

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畑で説明する苅部さん
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苅部さんの直売所「フレスコ」

苅部さんは「身土不二」の考え方から、在来種を大切にしています。その地に住む人はその地の旬のものを食べるのが一番、在来種はその土壌にあったものだからです。
その苅部さんの自慢の野菜の一つが「かるべ大根」です。在来種の大根を世界に一つしかないという意味をこめた「かるべ大根」のブランド名は「うかるべ大根」と名付けました。摺って柑橘をたらすとピンクになるのが特徴で、桜咲くイメージにつながるの命名の理由です。
栽培もさることながら、販売を一工夫して差別化するなんてなかなかの事業家です。
いろんな色ができる在来種の人参も「かるべ人参」のシールを貼って売られていました。

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苅部さん自慢のうかるべ大根
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苅部さんの三色人参

事業家の苅部さんは6次化にも意欲的です。生の野菜としてはB級品でも、ジュースにすればOK、それもすべてを自分でつくるのではなく、委託生産という方法をとっています。
製品の種類ごとに違う製造ラインが必要という今の制度では、小さな事業主が自前の工場で何種類もの製品を作ることは難しい。製品ごとに委託すれば小ロットでもできるという利点があります。福祉作業所に委託した苅部さんのトマトジュースはおいしいと評判です。この方法なら、ワインでも肉まんでも何だってできる、これって女性にむいていませんか。

生産者にとって、褒められたり感想を言われるのは大切なことです。
直売所を作ったのも、おいしさを伝えたいと同時に、客の声が聴けるからです。
また、地元の人に愛されるために畑見学や収穫体験も欠かせません。
八面六臂の活躍をする苅部さんにとって、助っ人はどうしても必要です。苅部さんは従業員とよんでいます。お金を払ってくれて独立もしない従業員!? そんな従業員なんているのでしょうか。
どの自治体にも年数万円を出して体験農園を申し込む人がいるように、世の中にはお金をはらってでも農業をやりたい人はいる。苅部さんの農場には、農作業を一緒にやりたいと年1万円をはらって応募してきた従業員が15人もいるそうです。

帰りのバスの中で聞こえてきた、仲良くなった女性農業者の会話です。
「会社に勤めていたころ、営業も秘書も、いろんなことやったけど、農業はそれを全部備えてる」
「こんな素晴らしい職業はないよね」
「お互い、元気で末長くやりましょうね。」

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雑記帳2020-1-1 [代表・玲子の雑記帳]

2020-1-1
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いもうしあげます。

ここは京都? いいえ、渋谷のど真ん中。今年はネズミ年、暮に歩いた町歩きにもネズミに縁のある場所をみつけました。

東京メトロ日比谷線広尾駅から広尾散歩通りの商店街を抜ければ、突き当りに祥雲寺の山門がみえてきます。
祥雲寺は江戸時代には渋谷随一の巨刹、商店街は寺の門前町だったのです。筑前福岡藩主・黒田忠正が父、黒田長政を弔うために建立して寺です。赤坂の江戸下屋敷にあったものが広尾に移されました。屋根付きの豪華な墓は黒田長政の墓、忠正自身の墓は福岡にあるそうです。迷子になるほど広大な墓所には黒田藩ゆかりの大名家や武家の立派な墓が立ち並んでおり、人形町で屋敷跡を見つけた岡本玄治の墓もここにありました。

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祥雲寺山門
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立派な屋根に覆われた黒田長政の墓
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秋月黒田藩の墓

岡本玄治は江戸府内随一の御殿医として名をはせ、将軍家光の疱瘡をなおしたことで知られています。そのおかげで幕府から賜った人形町の彼の屋敷がのちに歌舞伎「与話情浮名横節」の舞台になったことが、玄治店(げんやだな)の名の起こりとなりました。戦後はやった春日八郎の「お富さん」をおぼえている世代には懐かしい名前ですね。

思いがけず鼠年に因んで、墓地の入り口に大きな鼠塚をみつけました。
ヨーロッパでたびたび記録されている黒死病(ペスト)が日本でも大流行した明治35年、予防処置としてネズミが大量に駆除されました。塚はネズミたちを供養すために建てられました。
最近の研究ではペストの元凶はノミやシラミだと分かっていますが、洋の東西を問わず毛嫌いされたネズミは災難でした。塚には供養の歌もきざまれています。

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鼠塚「数しれぬ ねずみもさぞやうかばれむ この石塚の重き恵みに」

寺は禅寺の臨済宗ですが、墓地だけでなく、見事に手入れされた庭の美しさには目をうばわれました。

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紅葉の見事な祥雲寺本堂

祥雲寺を出て細い坂道を行けば聖心女子大学や日本赤十字医療センターです。
聖心女子大は昭和23年に大学になった日本最初の女子大学の一つ。香淳皇后や美智子皇后、2代の皇后にゆかりのある大学として知られ、緒方貞子さんもここを卒業しました。変わったところでは、安倍昭恵さんも専門学校を出ています。彼女は「専門学校」がつくのをいやがったそうです。

近くには、祥雲寺と同じく臨済宗の寺、東北寺(とうぼくじ)があります。
祥雲寺に比べれば起源は新しく、明暦の大火前後といわれています。出羽米沢藩上杉定勝と三女の梅嶺院の墓を見つけました。
梅嶺院は吉良上野介の正室、吉良富子です。討ち入りの時、上野介と富子は別居しており、(別居の理由は諸説あり)墓も別々になっているのだそうです。ちなみに上野介の墓は吉良家の領地、愛知県にあります。忠臣蔵の話になればいくらでも逸話があるのですが、それはまた別の機会に。

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吉良富子の墓

東北寺墓地の入口にひときわ大きな墓石があります。寺の初代からの縁のあった白木屋・大村家のものです。
白木屋は京都の呉服屋、東急デパートに代わって今はありません。昭和7年の火災で亡くなった女性たちは殉死として白木屋の墓地に葬られています。この火事が当時女性の下着の洋風化を加速させたという話ものこっています。

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大村家の墓
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この一角全部が白木屋の墓地

2001年に新築された建物は京都から宮大工を呼んでつくらせたというもの。見事なつくりです。
法事の合間を縫って、寺の庭を見せてもらいました。こちらも、竜安寺の石庭を思わせるような見事な枯山水です。ただし、石はありません。住職にうかがうと、本山の妙心寺が石のない庭だからということでした。

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東北寺本堂
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東北寺の石庭

東北寺を出て六本木通りの方向に進む通りは、広尾小学校、中学校、高等学校の並ぶ学園通りです。広尾小学校は大正5年創立。校舎は昭和7年にたてられたもので、国の有形文化財になっています。

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広尾小学校

さらに進めば塙保己一資料館。全盲の国学者・塙保己一の書物や版木を管理保存しています。同じ埼玉出身の澁澤栄一が呼びかけて「温古学会」として設立しました。現在の建物は相和2年の竣工です。

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塙保己一記念館

2400年以上の歴史を持ち、大宮に総本社のある氷川神社は数多く、東京にも68社あるといわれています。國學院大學と向かい合うように渋谷氷川神社が建っています。

氷川神社は渋谷区最古の神社です。渋谷川が門前を流れる境内には、江戸郊外三大相撲の一つ「金王相撲」の相撲場の跡があります。祭礼の日には昔からこの地で大相撲が行われ、いまでも神事のひとつになっています。 近郊からはもちろん江戸表からも多くの見物人を集めました。

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氷川神社

「金王」と名の付く神社がもう一つ、東福寺と並んで「金王八幡神社」が建っています。渋谷氏の祖となった河島基家が創建した神社です。相模の国、渋谷の在出身の基家が1092年、この地に城を築き、基家の子、重家が堀河帝から渋谷の姓をたまわったのが渋谷の地名の発祥とされています。歩いてみれば、確かにここは小高い山だったことが分かります。渋谷も坂の多い街です。
社名は、重家がこの神社に祈願して生まれた嫡男常光が金剛夜叉明王の化身とされたのにちなみ、常光は幼少時は金王丸と呼ばれました。金王丸は武勇に優れ、源義家・頼朝につかえました。

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金王八幡神社の大鳥居
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八幡神社史料館にある神輿

渋谷氏が創建した田中稲荷と道玄坂にあった豊澤稲荷が合祀された豊栄稲荷には、江戸中期の庚申塚が11基あつめられています。豊栄稲荷神社は金王八幡の目の前です。

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豊栄稲荷神社に集められた庚申塚

広尾から渋谷までゆっくり歩いて2時間余り。にぎわう現在の渋谷からちょっと入った路地に、思いがけない歴史がひそんでいました。
お昼は金王八幡神社鳥居の前にあるイタリアン「アンテイヴィーノ」で自慢のパスタランチをいただきました。

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おしゃれなレストラン正面
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パスタとデザート この間に肉か魚の一皿を

◆国営昭和記念公園のお正月
日本庭園の松飾りが復活ました。こもれびの里の古民家では床の間に賑やかな正月飾りです。
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雑記帳2019-12-15 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2019-12-15
◆「すべては畑にあり~野菜は五感で味わう」

毎年12月には、東京都消費者月間の関連事業で、実行委員会と東京都農業経営者クラブ、東京都農業会議、東京都農林水産振興財団4者の共催で、食と農セミナーが開かれます。各界で活躍している講師を迎えて「食」にまつわる話を聞いたあと、農業者と消費者が同席して、東京の農業の可能性や未来について語り合うというプログラムは、毎回大変人気があります。会場は中野サンプラザ。今年の講師は人気のイタリア料理シェフ、神保佳永さんでした。

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会場風景

神保さんは、「すべては畑にあり」を信条に、野菜の魔術師の異名をとる料理人です。
港区青山に「HATAKE AOYAMA」の名前の野菜料理中心のイタリア料理店を経営しながら、食のコンサルテイングやメデイアなどでも活躍する一方で、個人のボランテイア活動として小、中学校で食育活動にとりくんでいます。今回その活動が、映像を交えながら紹介されました。

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イタリア料理店「HATAKE AOYAMA」のオーナーシェフ 神保さん

もともとは野菜嫌いの神保さんがヨーロッパで修行中に野菜のおいしさにめざめ、単なるツマとしてではなく、野菜をたくさんつかう料理を出したいと開いたのが「HATAKE AOYAMA 」です。美味しい野菜を求めて畑をまわるうち、探しあてた野菜の一つが江戸東京野菜の「雑司ヶ谷ナス」でした。
雑司ヶ谷ナスは、他の江戸東京野菜と同様に栽培が難しい。大正時代の都市化でいったん消滅しましたが、近隣の農家の努力で復活したものです。種はつくば市の遺伝資源センターにありました。ここには16万種の種が保存されています。復活した雑司ヶ谷ナスは現在、神社や小学校でも栽培されているそうです。

江戸時代、なすは初カツオと同じくらい江戸っ子に人気の食材でした。
小ぶりで丸みがあり、甘味の強い雑司ヶ谷ナスは、しぎやきや蒸しなす、おろし汁にして食べられました。
神保さんは、将来食のプロをめざす農芸高校の生徒さんとともに、雑司ヶ谷ナスの新しいメニューに挑戦、江戸のおろしなすをアレンジしたジェノベーゼ風パスタは高校生が目を見張るおいしさでした。
雑司ヶ谷ナスのおいしさをもっと多くの人に知ってもらいたい、神保さんの願いです。

神保さんの店では農薬か無農薬にはこだわらず、大切にしているのは「旬」です。野菜の嫌いなシェフがどう料理すれば食べてもらえるか、試行錯誤の中から生まれた確信は、東京の「旬」を知ればもっと楽しくなる、ということでした。
そこから、子どもたちの食育活動が始まります。
自分たちで育てた野菜や米を給食で食べた子供たちの表情が変わる、食材に関心を持ち、集中力もたかまるといいます。絵を描かせると、野菜本来の姿がとらえられている。農体験をすれば、リアルになるのです。

学校に野菜の栽培や米作りを持ちかけても最初は門前払いでしたが、少しずつ受け入れてくれる学校が増えてきました。今では神保さんの活動は東京都内だけでなく、全国にひろがっています。プロの料理人が子供と接触する機会を、たとえばサッカー選手がコーチをするのと同じように考えてもらえればいいと神保さんは言います。

後半は、参加者が8つのグループに別れての交流で、大いにもりあがりました。
消費者の何となく抱えている農薬への不安は、農薬がいかに管理されているか、住宅に囲まれた都市の畑で農薬を散布する時には周辺にどれだけ気を使っているかなどの話を聞いて、認識が変わったという参加者もいました。
私のテーブルでは、東京の野菜をもって食べたいのにどこで売っているのかわからない、食べたい消費者に東京の野菜を届ける仕組みをつくってほしいという意見が出ました。

◆東京の女性農業者は元気です。
秋の女性農業委員の研修が多摩市で開かれ、多摩市の取り組みを聞いたあと、3軒の女性農業者の圃場をめぐりました。

★多摩市の青木幸子さんは朝採れ野菜にこだわって農家レストランを開きました。
夫はサラリーマン、ほとんど1人で耕す7反の畑 は住宅地の中にあります。40品種、70品目を栽培しています。
野菜は芽が出てから花が咲くまで食べられることを知って貰いたい、都市農業が実はどんなに大変かも知って貰いたい。そんな思いを込めて開いた農家レストランは、子育てを終えた世代をターゲットにしました。時間をかけてゆっくりおしゃべりしながら食事を楽しむのが狙いです。ズッキーニの花のフライや大根の花のおひたしも出るそうです。今は畑が忙しくて店が開けられず、予約の取れないレストランになっていますが、一日も早く店を軌道にのせたいとはりきっています。

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青木さん
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住宅地のすぐそばの青木さんの畑
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もう収穫は終わったが青木さんおすすめのイタリアントマト

★日野市の石塚昌子さんの農園は体験農園です。
石塚ファームは400年続く農家。納屋には昔の農具も大切に保管されていました。
ファミリーや高齢者向けの体験農場としてだけでなく、「癒やしの農園」として、更生中のこどもたちやうつ病の人たちもあずかっています。農園に来て土いじりをするとみんな元気になる、子どもはなごやかになって思いやりをもつようになると言います。8反の畑と2.5反の田んぼはすべて体験用とのことでした。山の木の落ち葉から堆肥をつくり、米作りをとおしてしめ縄作りも体験します。何でも手作りするのが狙い、昔からの農家の知恵をつたえていきたいと話してくれました。3世代が収穫後交流できるように協同調理場ももうけてあります。援農や一般のボランティアさんも多く、みなさん、おしゃべりやお茶を楽しみに来てくれるそうです。

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高台にある石坂さんの畑で説明を聞く
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「三世代農園」の看板
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畑の中にある休憩所。ボランテイアの皆さん、ここでお茶を飲むのが楽しみとか。
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石坂家の納戸。昔の農具も大切に保管されている。

★同じく日野市の川名桂さんは、全国の女性就農者第1号です。
東京大学農学部卒。「農業こそ人の生きる原点」と、生産緑地2反を借りて農業を始めました。長くやっていく決意で30年の賃貸借です。
今は週の半分は清瀬の農家で勉強中、半分を日野の畑ですごします。20品種、40品目以上の栽培です。自販機もおいて、週1回、金曜日に販売している野菜たちは、ご近所から頼りにされ、レストランや居酒屋からもオファーがあるそうです。将来は東京都の補助金でハウスを建ててトマトに挑戦したいと話してくれました。
農家の後継者や担い手不足が言われる中で、まだ20代の彼女の挑戦には大きな期待が寄せられています。
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川名さん。近くに中央道が見える。
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川名さんの畑の看板
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金曜日だけ開く川名さんの野菜の自販機

◆11月29日、中曽根康弘元総理大臣がなくなりました。
『知の木々舎』創刊間もないころ、虎ノ門の世界平和研究所に、著書『自省録』の転載の許可をお願いにあがったことがあります。中曽根さんの事務所の当時の事務局次長がその昔、全学連の闘士で、砂川闘争の応援に立川に来ていた、『知の木々舎』の顧問、鈴木茂夫氏がその砂川闘争を取材する立場で、彼をよく知っていたという縁で、アポがとれたのです。 

『知の木々舎」の名の由来をきかれ、武蔵野の地から知を発信したいと応じると、中曽根さんにとって、武蔵野はロンヤスと呼び合ったレーガン大統領を迎えた日の出山荘を意味します。たいそう懐かしがって会話が弾み、30分はあっというまにすぎました。『自省録』を『知の木々舎』に転載することについて、思いがけず「それは光栄です。」という言葉がかえってきました。
部屋を出るともう次の訪問客が待っていました。既に90歳を超えていたにもかかわらず、午前中、2時間の会議をこなし、午後には30分きざみのインタビューをうけるというスケジュールで、そのエネルギーに驚いた記憶があります。夏には自筆の暑中見舞いが届きました。
                                             
上記のようなことを月次報告に書いていたところ、友人から、彼女が務めていた社団法人の会長から聞いた話として、こんなエピソードがよせられました。
戦争中内務省の下に大きな地下防空壕が作られていて、高級官僚や軍人たち200人くらいを収容できるエレベーターがあったとか。ただ乗る順番があって、安全な下の方には、既に偉くなっていた人達、上層の地表に近く爆撃に晒される危険性の高い方には若い軍人達が入ることになっていたとか。これに中曽根氏が異議を唱え、若手達を前に、「ジイさんどもは先が短いのだから、上に入るべき、若手の命をこそ守るべき」と檄を飛ばしていたということです。
彼女は、小泉総裁に「定年」を宣告される直前、度し難い重鎮という感じだったが、若い頃にはしっかりと“活動家”をやっていたみたいだと感想をくれました。
ご冥福をお祈りします。


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雑記帳2019-12-1 [代表・玲子の雑記帳]

2019-12-1
◆11月は口切の季。口切は五月に摘んだお茶を始めて飲む格式の高い茶事です。

江戸時代、宇治の新茶を茶壷に入れて江戸まで運んだお茶壺道中はよく知られています。当時、茶壷は10万石の大名と同格の扱いでした。粗相があってはならないと庶民は相当に気きを使わなければならなかったようです。わらべ歌でおなじみの「ずいずいずっころばし」にはその折の様子が目に見えるようにうたわれています。
 茶壷に追われてトッピンシャン(戸をピしゃんと閉める)、
 ぬけたらドンドコショ(道中が通りすぎればやれやれ))

茶道では茶壷に入れ目張りをしておいた封を切ることを口切というそうです。
陰暦の10月、名残の月とて、1年を振り返りながらいただく口切のお茶は、炉開きと同時に行うことが多く、それゆえ11月の炉開きは茶人の正月と呼ばれています。

秋に重陽の節句とフランス料理のコラボレーションを楽しんだところ、冬前に口切のセミナーがあると知って、でかけました。会場は東京駅のふれんち懐石福寿園茶寮。講師は武井宗道さんです。食事は、茶寮の秋元シェフの一回限りの(レシピのない)コース料理です。この日は栗と柿をテーマにした料理をいただきました。

1.まず出されたのが濃茶です。
茶道の所作はすべて濃茶のためにあるといわれます。
一人分一匁の濃茶が、ぐい飲みで出されました。

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濃茶を点てる宗道講師
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お茶は常温で置いておくと色が抜け、3か月で灰色になります。
江戸中期に、永谷園の創始者、永谷宗円が緑を定着する製法をあみだすまで、緑色のおいしいお茶が飲める期間はみじかく、一生に一度出会えばラッキーだったのです。
千利休は得度してから口切にのぞんだということです。

2.前菜は柿の蒸し物。海老のムースと。
柿を器に、蒸しあげたエビのムースは、さといも、たけのこ、にんじん、しいたけ、銀杏など、根菜やキノコがたっぷりです。

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器の柿も食べられます。

いよいよ口切り。茶壷の封を切ると、中には碾茶(てんちゃ)と呼ばれる茶葉がはいっています。これをひいて抹茶にするのです。濃茶一人分なら90分かかるそうです。ひいた茶をふるいにかけると、コトコトと音がする。その音に風流を見るのも茶道の楽しみとか。

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口を切った茶壷
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茶壷の中に入っていた碾茶。後方の包みはクッションの役目をする。包みの中の茶葉も一緒に挽きます。
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臼を挽くには結構力が要りますが、実は私が子供だった昭和30年ころにはまだどこの家にも臼があって、おばあちゃんと一緒に豆なんぞを挽いていました。

3.スープは柿のポタージュ。浮き身は京生麩です。

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4.メインは京都府産の鴨胸肉のロースト。油の少ない京都産の鴨は東京では手に入りにくいそうで、抹茶と栗のソースを下敷きに、鴨のえさである大麦、トウモロコシ、キヌアが添えられていました。

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もみじの下に厚切りの鴨肉

4.デザートも季節のものがそろいました。抹茶あんの亥の子餅に車輪型のチューレ、柿のシャーベットです。亥は十二支のひとつ、亥の季節は陰暦の10月にあたります。平安時代、亥の月の亥の日に餅を食べて無病息災を祈りました。江戸時代には亥の子の日に「炉開き」と称してこたつや火鉢をだしました。

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5.最後は薄茶でしめました。

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まことにシェフの言葉通り、柿と栗を堪能するメニューでした。茶道に無縁の身でも、季節の行事の食材の豊かさには目を奪われます。
茶暦にフランス料理を合わせるこの試みは3年前にはじまったのだそうですが、実はこれが最後だと、食事のあとで明かされました。私にとって、まさに一期一会の会でした。


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雑記帳2019-11-15 [代表・玲子の雑記帳]

2019-11-15
◆人形町に鯨を発見! ひさびさのお江戸街歩きは小伝馬町から人形町です。

小伝馬町はかって牢屋敷のあったところです。傳馬とは馬の乗り継ぎの意味。駅にあたります。慶長18年(1613)から260年間、小伝馬牢屋敷は全国最大の牢屋でした。江戸に牢屋は浅草、品川、石川島にもありましたが、小伝馬は最も劣悪な環境だったといわれています。刑死者が年間300人ほどだったのに対し、牢死者は1000人もいたのです。大牢、21間牢、女囚牢、あがりや、あがり座敷など、牢の中でも身分で分けられました。
安政の大獄では、吉田松陰、橋本佐内など多くの有意の若者が獄にくだりました。
高野長英は牢の過酷な環境を逃れるため、火事で切り離しになったあと、6年もの間、逃亡生活を送ったことは、作家吉村昭の小説「長英 逃亡」になったほどです。
2618坪の小伝馬牢屋敷は明治8年(1898)市ヶ谷に東京監獄ができるまで続きました。

牢舎が廃止された跡に大安楽寺がたっています。
寺名は土地を寄進した大蔵喜八郎と安田善次郎の名をとってつけられました。境内の江戸八臍弁財天は北条政子以来の信仰をあつめる弁天様で、その隣には「江戸傳馬町牢御椓場跡」と赤くほられた碑も見えます。ここは首打ちの場所だったのです。
牢屋敷の責任者である囚獄(牢屋奉行)は石出帯刀であり、代々世襲で、一角には住居もありました。

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大安楽寺境内の一部

大安楽寺の前は公園になっていて、名前の「十思(じっし)」は儒教の教えにある言葉です。園内には吉田松陰の辞世の句を刻んだ碑がありました。

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「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」

公園には、発掘された牢の石とともに、処刑を知らせた時の鐘が設置されています。牢屋敷のほど近くにあった、この「石町(こくちょう)の時の鐘」は江戸でもっとも古いものだったということです。

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時の鐘

東京の、名にし負う中央区、地価の高さを連想する地点ではありますが、かってここにあった牢の、処刑を告げる鐘の音を聞いた囚人たちのうめき声の印象が災いして、明治時代は土地が安かったのだそうです。

江戸時代、堀は縦横にめぐらされていました。その堀の止めの地点を堀留と呼び、堀留町の名に残っています。小伝馬町牢屋敷から堀留公園へ向かう途中に椙森神社が目にはいります。
森のつく3つの神社を俗に江戸三森と呼び、烏森、柳森と並んで、深く江戸庶民の信仰を集めました。起源は古く、平将門討伐にのぞんだ藤原秀郷が先勝を祈願したとの伝えもあり、時代がさがって、太田道灌が雨ごい祈願をした神社です。数多くの富くじを興業して江戸三富の一つといわれたこともありました。境内には最古の冨塚があります。

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椙森神社

人形町には、歌舞伎の市村座、中村座などがたち、芝居町としてさかえていました。天保の改革で芝居小屋はとりはらわれることになりましたが、時の北町奉行、遠山金四郎の機転で猿楽町に移転することで、歌舞伎の伝統は守られました。
周辺は歌舞伎に縁のありそうな名前や建物と並んで、昭和っぽいレトロな風景が散見できます。

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  木屋よりも古いという「うぶけや」
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浜田屋(川上貞奴や小唄勝太郎を抱えていた置き屋)
   
芝居町の隣にはお歯黒どぶが取り囲む遊郭がありました。江戸の治安のためと称し、幕府が葦の茂る沼地をうめたてて、江戸各所にあった遊女屋を集めたのです。葦(よし)原は縁起を担いで吉(きち)の字をあて、吉原と名付けられました。14000坪のエリアに1000人の遊女がいたといわれます。日本橋の魚河岸、芝居町とともに、江戸っ子に、一日に3000両が落ちるとはやされました。1657年の明暦の大火(振袖火事)で焼け野原になって、今の台東区浅草へ移るまで40年足らずの営業でした。
新吉原は20000坪を超える規模でしたが、町名は元吉原と同じ名乗りです。元吉原が40年だったのに対し、新吉原は昭和33年の防売法によって廃止されるまで330年続きました。
元吉原の地にあった末廣神社は地主神、産土神として信仰されました。日本橋七福神の毘沙門天にあたります。
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末廣神社

明治の初め頃、入口に尾張屋という甘酒屋があったことから、甘酒横丁とよばれた横丁がありました。当時とは多少位置がちがうものの、昔ながらの名店や老舗がいっぱいの商店街に名前だけはいまも残っています。近くの明治座観劇や水天宮への参詣ついでに訪れる客も多いようです。浜町緑道との交差点にたつ弁慶像は誰もが知る安宅関がモデル。近隣の人形町界隈に、中村座や市村座がかつて所在し、江戸歌舞伎発祥の地の一つとされることに由来します。
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甘酒横丁
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「安宅の席」の弁慶像

人形町にあったのは歌舞伎だけではありません。結城座などの操り人形小屋や浄瑠璃芝居の小屋もありました。付近には人形を制作し修理する人や、人形を操る人形師らが大勢暮らし、人形を売る店も多数あったことから、いつしか人形町と呼ばれるようになったのです。
そして、なんと、ここで、鯨を発見! 人形町になぜ鯨と思うかもしれません。実はおおいに訳があるのです。捕鯨の禁止された現在ではやむなくグラスファイバーを使うようになりましたが、操り人形のバネには鯨の髯が最適だったのでした。

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鯨のモニュメントのある通りには谷崎潤一郎生誕の地や蛎殻銀座跡があります。
銀座とは江戸時代の銀貨の製造工場である銀座会所と、通用銀貨の検査や銀地金の購入などを扱う銀座役所を総称した組織でした。その経営は幕府の直営ではなく、御用達町人に委託していました。
江戸の銀座は慶長17年(1612年)に今の銀座2丁目の場所に置かれ、その188年後の寛政12年(1800年)6月に、寛政改革の一つとして銀座制度の大改正のため一旦廃止され、その年の11月、改めてこの人形町の場所に幕府直営の度合いを強めた銀座が発足しました。
当時この付近の地名が蛎殻町だったため、この銀座は人々から『蛎殻銀座』と呼ばれ、明治2年(1869年)に新政府の造幣局が設置されるまでの69年間存続しました。

谷崎潤一郎はその作品から関西の人だと思っている人も多いようですが、実は日本橋出身の江戸っ子です。明治19年(1886)、この地にあった祖父の経営する谷崎活版所で生まれました。祖父のあとを継いだ父の事業の失敗もあって、関東大震災後関西に移住。第2次大戦後にかけて多くの秀作を残しています。

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谷崎潤一郎生誕の地

武蔵国の古社、小網神社は文政元年(1466)産業繁栄と疫病鎮静の神として鎮座されました。太田道灌が神社に参拝、社殿を造営して小網神社と名付け、小網町の名の由来になりました。銭洗いの弁財天と福禄寿がまつられています。

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小網神社

江戸末期、天保の改革で芝居小屋が移転、人形町は活気を失いましたが、明治になって復活します。現在の人形町二丁目あたりには芸妓の置き屋や茶屋があつまり、芳町は柳橋、新橋と並ぶ花街としてその名を馳せました。通りにはいくつかそのあとが残っています。

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芳町芸者の置き屋だったきく屋

芳町の路地をぬけると大観音寺(おおがんのんじ)です。京都清水観音に帰依していた北条政子の創建により鎌倉の新清水寺の本尊として奉祀された観音像の首が祀られています。火災によって寺は消失するものの、首だけは井戸に埋められて難を逃れ、のちに井戸から掘り返されたの首は、時を経て現在の地に安置されるに至ったということです。

甘酒横丁だけでなく、地下鉄人形町駅周辺の商店街には多くの老舗がたちならんでいます。
それでいてすましたところのない、下町情緒にあふれた街でした。

お昼は甘酒横丁に戻って「ダバッボ」でパスタランチをいただきました。
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さつまいものスープと前菜

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雑記帳2019-11-1 [代表・玲子の雑記帳]

2019-11-1
◆再びの「ろくもん」とえちごトキめきリゾート「雪月花」で信濃と越後の味覚を堪能。

ちょうど2年前、長野から軽井沢まで、信濃鉄道じまんの観光列車「ろくもん」に乗って、小布施の料亭のお弁当に目とおなかを奪われながら、秋色に染まる信濃の風景を楽しみました。ことし、JRの企画に、「観光列車ろくもんと雪月花で信越の絶景と美食を堪能」をみつけ、キャンセル待ちをしていたところ、運よく空きが出て参加することができました。

今回のろくもんは軽井沢から出発するので、前回は利用できなかった、軽井沢駅のラウンジを利用することができました。1階のティールームではお茶のサービスがありました。

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食事の中身も変わります。長野県東郷市に本店のあるアトリエ・ド・フロマージュのコース料理です。ウエルカムドリンクはシードルを選びました。食材のなかでもシナノユキマスは日本で最初に養殖に成功したマスとして知られています。また、信州サーモンはマスではありますが、肉の色がピンクなので、サーモンと呼ぶのだそうです。

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前菜の盛り合わせ。シナノユキマスの香草パン粉焼き、佐久鯉のエスカベッシュ(地中海風の南蛮漬け)、茄子のトマト煮、信州ハーブ鶏のガランティーヌ、きのことチーズのフリッタータとフロマンブルー

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パン、ジャム、チーズディップと本日のスープ
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メイン料理。左から、信州サーモンの東郷産くるみのクレート焼き、信州プレミアム牛サーロインきのこリゾット添え、季節の野菜と硬質チーズ カマンベールドレッシング(この硬質チーズが店のご自慢)

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デザートにはフォンテンヌブロー(写真右の、ガーゼに包まれたチーズケーキ)とアップルパイ

長野~軽井沢間の一番の見どころは浅間山。御代田~信濃追分区間で、列車はスピードを落として浅間山がゆっくり見られれるようにサービスしてくれました。標高2568メートルの浅間山は日本でも有数の活火山です。

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ろくもん車窓から見た浅間山

途中の停車駅、戸倉は新幹線の開通で一時さびれたと聞きましたが、近くの上山田温泉が比較的安く温泉を楽しめることから、人気が復活したそうです。
参加者の大半が熟年のご夫婦でしたが、相席した一人参加の菊池さんは東京住まいながら長野県の出身、前菜に茄子がでたことから、茄子が信州のブランドだと、話に口火がついてすっかり親しくなりました。
長野の丸茄子は大きくて固いのだそうです。シンプルで味に主張のない茄子はどんな料理にもなれる、茄子のスイーツだってある。いつかテレビで茄子をミキサーにかける料理番組を見たが、あれは信州の丸茄子にちがいない。東京で手に入る、やわな茄子では、溶けちゃってミキサーなんかにかけられない、・・・などと、ひとしきりの茄子談義でした。

稲刈りの終わった田園風景を楽しみながら、コース料理をいただくうちにもう長野駅です。
さすが信州。駅舎にも木材がふんだんにつかわれています。
そして、なんという幸運! 魁夷再開の大きな横幕をみつけたのです。2年前工事中だった東山魁夷館が、偶然にも10月5日はリニューアルオープンの日だったのです。

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コンコースに掲げられた「魁夷再会」の横断幕

駅前のホテルに到着したら後は自由行動。早速、善光寺のまじかにある東山魁夷館に出かけました。
駅から善光寺までの2キロほどの道は善光寺の表参道であると同時に、北国街道として旅人が往来した通りでもあります。通りに沿って、かつて参拝者や旅人たちも立ち寄ったであろう名所・旧跡があるのです。
参道でひときわ目立つ建物、「御本陣藤屋」は、参勤交代における善光寺宿の本陣でした。伊藤博文、福沢諭吉をはじめ、文人、政治家、皇族など各界の著名人がここを訪れました。本陣がいまも宿泊施設として使われているのは全国でもめずらしいのだそうです。大正14年に建てられた現在の建物は、当時の流行を知ることができる貴重な建物であり、国の登録有形文化財に指定されています。

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善光寺参道にある「御本陣藤屋」

東山魁夷館は信濃美術館の別館です。本館の信濃美術館は2020年の開館を目指して工事の真っ最中でしたが、別館の魁夷館が一足お先に開館したというわけです。長野県出身ではないにもかかわらず、魁夷の作品の、世界最大のコレクションをほこっています。
画伯が「青」にめざめたのは、北欧のフィヨルドや森と湖を旅した時だといわれています。「青」は精神世界へみちびく色として画家の心に深く刻まれました。リニューアルオープンしたばかりのこの日、その青の世界を堪能しました。

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東山魁夷館

翌日は上越妙高から糸魚川まで、えちごトキめき鉄道の誇る観光列車「えちごトキめきリゾート雪月花」に乗って、新潟の味を楽しむ旅です。
「雪月花」は国内最大級の展望といわれる、広々とした窓や高い天井、花びらの散る真っ赤な車体など、リゾートを冠するにふさわしい贅沢なつくりです。

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地元の旬の食材にこだわったフランス料理が三段のお重になって出てきました。

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一の重(真鯛のエスカベッシュ、くびき牛のコールドビーフ コンソメジュレ、いかとシイタケのマリネ、エビのフランとアスパラガスのムース)
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二の重(カラフル野菜巻、茄子とオイルサーデインのルエル、新潟地鶏のごぼう巻き、かんずり(妙高市の伝統調味料)風味のクロケット)
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三の重(ポークリエットキノコのデイップサンド、右は手毬おにぎり(県内産コシイブキ使用、おにぎりの中身は塩引き鮭とコーンビーフ)
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デザートは洋ナシのババロア(和なしのジュレ)、コーヒーの香るクレームとキャラメルソース、キャレショコラ

コーヒーは雪室コ-ヒーという雪月花自慢のオリジナルコーヒー、お土産に買い求めました。

トキめき鉄道は二本木駅にスイッチバックのために停車します。停車したスノーシェルターの鉄骨は古いレールがつかわれていました。
この辺りには戦前、日本曹達の工場が立ち並び、従業員1万人 常時6000人が利用したそうです。雪国では珍しい地下道は、戦時中、防空壕用に作られたのだそうです。

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冬には2~3メートルの積雪がある。駅舎はあかりとり用の大きなガラス窓や屋根には雪下ろしの命綱用のポールが見える。命綱用のポールは直江津駅舎でも見られた。

妙高高原駅から再び反転して直江津にむかいます。
直江津は明治19年の開業以来交通の要所でした。駅では今はめずらしくなった駅弁の立ち売りが見られます。

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直江津~糸魚川間にある全長11キロのくびきトンネルはJR以外ではもっとも長いトンネルです。トンネルの途中には秘境駅「筒石」駅があるのですが、ここがあの「越後筒石親知らず」とうたわれた難所だったのかと気づきました。この日はあいにくの雨模様。晴れていれば絶景だったはずの妙高も見えず、数日前の台風18号の余波で白く泡立つ日本海はまるで冬のようでした。

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終点糸魚川駅改札口では糸魚川の象徴、ヒスイの勾玉が迎えてくれました。ヒスイの原石は緑色の部分はほんの一部で全体はこんな色なのだと聞いて、名にしおう翡翠色を期待していたのは認識不足でした。ここからは北陸新幹線で東京に戻ります。JR九州の七つ星には手が出ない庶民でも十分楽しめる旅でした。

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ろくもんに乗ったのは10月5日のことです。その1週間後の10月12日、台風19号が関東東北を襲い、千曲川の堤防が決壊しました。豊かな収穫の秋の風景を堪能した後の被害のニュースに胸が痛みました。ろくもんも10月中は運休とのことでした。被災地の一日も早い復旧を祈ります。

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雑記帳2019-10-15 [代表・玲子の雑記帳]

2019-10-15
◆伊香保温泉、対象ロマンの館で竹久夢二の世界にひたる

群馬県は古来、位置的に日本列島のど真ん中にあり。日本のへそといわれてきました。
上毛三山の一つ、榛名山は2000年前に噴火、その後、今から400年ほど前に温泉がひかれた伊香保は、ちょうど、榛名山の中腹、海抜700メートルのところにあります。

竹久夢二美術館は生地岡山をはじめ、全国にいくつかあります。
伊香保は、滞在した期間はさほど長くはありませんでしたが、夢二がこよなく愛した土地でした。ここに、大正ロマンのテーマパークができ、夢二記念館はその森の中にあるのです。

毎年、9月の2週間だけ、この記念館で、夢二の「黒船屋」が特別公開されます。
夢二の代表作「黒船屋」のためだけにに造られたという「奥座敷」で、「黒船屋」をみることができると聞いて出かけました。

夢二の人気が絶頂にあった明治44年、一人の少女の手紙が夢二と榛名を結びました。
手紙をもらったものの、一度もおとずれたことがなかった伊香保を夢二が訪れたのは大正8年のことです。その後、昭和になって、伊香保温泉の人気は高まり、大勢の文人墨客が伊香保をおとずれるようになりました。この時期夢二の人気は下降気味でしたが、昭和5年、夢二は島崎藤村らの賛同をえて、伊香保に生活美術研究所をつくります。46歳のときでした。自然の中で、日常生活に必要なものを制作するという、人間の心の原点を榛名の自然にもとめたのでした。
その思いは昭和6年の「榛名山賦」に結実します。榛名山を背景に、春の女神、佐保姫を描いています。

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久方の 引けりたたえて 匂ふなり 榛名の湖に 春たちにけ里(榛名山賦)

絵だけでなく、夢二は、詩、短歌、俳句など、様々なジャンルの作品を残しています。、
デザイナーとしても千代紙、半襟、浴衣、封筒、便せん、うちわ、ポチ袋、手ぬぐいなど、残された小間物の作品は数知れず、まさに生活美術を地で行く仕事をするのです。

夢の実現のために海外へ資金集めに出かけるも、世界は経済恐慌のさ中、資金繰りはうまくいかず、友人とは仲たがいし、自身も病を得て帰国、長野県富士見高原療養所にて死去。49歳と11か月でした。

伊香保夢二記念館は昭和53年に開館しました。
壁や天井にステンドグラスをはめこむなど、夢二の時代の雰囲気を漂わせる建物です。

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夢二記念館本館
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入口天井のステンドグラス

本館ロマンの館の1Fホールには夢二の作品の展示とともに、100年以上前のピアノやオルゴールがありました。
ピアノは130年前のウイーンで作られたベーゼンドルファー。学芸員さんが、テネシーワルツにはじまり、ふるさとや宵待ち草などの日本の曲のメドレーを演奏してくれました。ベーゼンの深くやわらかな音色に当時がしのばれました。。
アメリカ製ジュークボックスに使われたオルゴールや、スイス製の家庭用オルゴール、立型の大きいドイツ製のオルゴール、いずれも100年以上前のものだということです。曲も、宵待ち草やアベマリア。と、窓のステンドグラスとともに、さまざまに大正の雰囲気を醸し出すしかけです。

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ホールのピアノやオルゴール
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売店窓のステンドグラス

2Fは夢二の代表作が展示されています。
前出の「榛名山賦」は屏風絵になっています。渡米前に制作しました。
もう一つの代表作「青山河」はアメリカで描かれました。夢二には珍しく油絵です。
これも折屏風になっていて、バックに描かれているのははやはり榛名山です。
モデルは亡くなった恋人の彦乃に自身のイメージを重ねたといわれています。

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ロマンの館に接する本館、黒船館は夢二の代表作「黒船屋」の寄贈をきっかけに建てられました。
3Fの奥座敷に通じる階段やロビーには、夢二の愛した生活美術の観点から館がコレクションしたアンティークの豆皿、ランプが壁いっぱいにかざられています。

蔵座敷は「黒船屋」のための部屋です。
江戸時代に作られたという鉄製の重い扉を開けると、床の間にかけられていたのは、年に2週間だけ公開されるという「黒船屋」の掛け軸でした。
この絵が描かれたのは大正8年、ちょうど100年前でした。
画家として油がのっていたにもかかわらず、恋人、彦乃と引き離された失意のうちに絵が描けなくなっていた夢二に、再び絵筆を持つよう、持ちかけたのは表具師の飯島勝次郎でした。
黒い額縁を表装した「黒船屋」は評判となり、飯島はこの作品で受賞しました。記念に飯島はあるだけの金をかき集めて買いとろうとしましたが、夢二がその半分の75円しかうけとらなかったという逸話がのこっています。
飯島からコレクターの長田幹雄に譲られた絵は、のちに永田の友人の夢二記念館の館長木暮享に無償で譲られました。「黒船屋」は、お金を介在せずに守られた珍しい作品です。
木暮はこの絵が一番美しく見えるように蔵座敷を造ったのでした。
蔵座敷に入ると、扉は閉ざされて、客と学芸員(亭主)だけの空間になる。そこで学芸員さんの説明を聞きながら、客は床の間の黒船屋と向き合う、贅沢な時間をすごすのです。

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黒の額縁で表装された奥座敷床の間の黒船屋
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絵葉書の黒船屋

夢二と彦乃が出会ってわかれるまで6年。彦乃をモデルに描いた「黒船屋」は夢二の最高の傑作となりました。
「黒船屋」は夢二の自伝小説「出船」に登場する架空の店名。夢二が日本橋呉服町に営んだ「港屋」がモデルといわれています。港屋は夢二がデザインした小者類を販売して、東京名所の一つになっていました。

「大正ロマンのテーマパーク」の敷地内にはほかに新館と別館があります。
新館は「義山楼(ぎやまんろう)」と呼ばれ、明治、大正のガラスの器の展示されています。

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魏山朗の展示の一部

別館は「子供絵の館」です。ここには、「子どもの友」「新少女」「中学世界」などの雑誌に夢二が描いた表紙や挿絵、ポスターが展示されています。夢二のデビュー作「筒井筒」もありました。デザイナーとしての仕事もさることながら、これらの多くの仕事を精力的にこなしていたことに、夢二の意外な一面を見る思いがしました。

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子どもの館外観と内部

榛名湖畔の、榛名神社にむかう丘の中腹に夢二のアトリエがあります。
昭和4年から5年にかけて、夢二45歳の時、榛名湖畔にアトリエをたて、生活と芸術を結ぶ運動「榛名山美術研究所」を宣言した場所です。
木造2階建て。1Fにアトリエ、2階に和室と厨房がある、シンプルな造りでした。
夢二はここから眺めた榛名山を生涯愛し、作品の随所に榛名山を描きました。
渡米して活動する中でも、榛名に帰ってこの経験をいかしたいと願い、療養中にも心は常に榛名にとんでいたといいますから、あたかも人を恋するように榛名を恋うた、その一途さには脱帽するしかありません。

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坂の下から望む夢二のアトリエ
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アトリエへ向かう道端にはシモツケソウやツユクサなどの野草がいっぱい。
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榛名湖 正面は榛名富士(榛名山は榛名湖を造った火山を総称して呼ぶ名前。一番高いのが春奈富士です)

アトリエから程近い湖畔に夢二の歌碑が建っています。昭和10年、夢二の一周忌に有島生馬の提唱でたてられました。

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さだめなく 鳥にうくらむ 青山の 青のさびしさ かぎりなければ

伊香保温泉を訪れる観光客は多くても、榛名湖やアトリエまで足を伸ばす人はあまり多くないのかもしれません。ちょっとさびれた感じの湖畔の風景が、実は人のにぎわう観光地よりも夢二には似合っているように思われました。

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雑記帳2019-10-1 [代表・玲子の雑記帳]

2019-10-1
◆「重陽の節句セミナー」で秋を感じてきました。

9月9日は五節句の一つ、重陽の節句は、別名、菊の節句です。
日本人は、菊酒、菊の料理、菊人形など、さまざまに形を変えて菊を楽しんできました。
菊をテーマの、フレンチ茶懐石なるおもてなしを体験しました。

五節句とは、人日(1月7日)、上巳(3月3日)、端午(5月5日)、七夕(7月7日)、重陽の5つの節句をいいます。それぞれ、陽数(奇数)が重なる日です。この日、人々は、香や料理によって邪気を払い、健やかな日常を願うのです。中でも、重陽の節句は、最も大きな陽数(9)が重なるため、特に重要な節句とされています。

JRの広報誌に「秋を感じる重陽の節句」の文字をみつけたのは、猛暑に悲鳴を挙げていたころでした。9月の節句に、お茶会形式でフランス料理を楽しんで、薄茶でしめるというのです。
節句はもともと旧暦の行事なので、実際の季節とは遠く、菊の節句とはいえ、菊の花はまだ咲いていない。でも気分だけでも秋を感じてみたいと思うには十分でした。

会場は福寿園東京グランルーフ店。9月半ばの残暑はまだ厳しいながら、ビルの3階の入口をはいると、店先はしっかり秋のしつらいです。

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講師は武井宋道さん 遠州流の内弟子として茶道を学んだあと、独立して独自の茶会を開催しています。
宋道さんの話では、狭い茶執に利休と秀吉の二人なら、秀吉は茶室でねころんでいたにちがいない。気が向いたら起きて食事をはこばせていた。この時代、茶室の作法はもっと自由で、なによりも、お茶と一緒においしい食事を楽しんだ…?

節句を大事にしたのは江戸時代です。中国から伝来した節句行事は、宮廷行事として奈良時代からありました。それが、江戸幕府が節日を制定したことによって、日本独自の稲作文化をとりいれながら庶民に広まったのです。明治になって新暦が採用されると季節があわなくなり、節句もすたれました。戦後、ようやく復活したということです。

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被藁(きせわた)を手に説明する講師の宋道さん。被綿は重陽の節句の前日に菊の花にかぶせ、その露をしみこませた綿で、これで身体をぬぐえば邪気を払うといわれた。枕草子にも登場する。

ここで、菊にまつわる豆知識を少し。
・菊の字は手のひらに米をのせた形をしている。
・万葉集には菊の歌はない。平安時代に登場するようになる。源氏物語には、なでしこと並んで菊がよく出てくる。
・江戸時代になると品種改良されて花びらも大きくなる。菊合わせと呼ばれる品評会も盛んに行われた。
・菊を家紋に使う例もあるが、天皇家のご紋は花びらが16枚。
・「6日のアヤメ、10日の菊」といわれるように、花の中では菊は長持ちするほうです。

講師の話を聞くうちに、いよいよ料理がはこばれてきました。
以下は秋元シェフによるこの日だけの「レシピのないメニュー」です。

 1.菊のの花びらを浮かせた水だし玉露

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 2.前菜はスモークサーモンのモンブラン仕立て

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9月の行事食に欠かせないのは栗ごはんと茄子です。9月に茄子をたべて汚れを払うといわれてきました。ここでは茄子はまだ登場しません。
モンブラン仕立てのスモークサーモンの左手前、香草の下ににあるのが栗ご飯。米の代わりに大麦をつかっていました。

 3.茸のコンソメ 抹茶のムースを浮き身に

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    茸は行事食ではないけれど、秋の味覚として欠かせないようです。
  しめじ、マイタケ、マッシュルームを煮出した茸のスープは濃厚な香りと味でした。
    浮き身はとりささみのムースに抹茶をまぶしています。

 4.真鯛の蒸し焼き 菊のバター添え

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もう一つの秋の行事食、茄子がここで登場しました。
真鯛の蒸し焼き茄子のキャビア仕立てです。茄子をペーストするとぶつぶつした種がキャビアっぽくなる、それを、真鯛の下にしいてありました。
菊の形のバターは抹茶とレモン入り。

 5.重陽の節句 特別デザート

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    マスカットの寒天の中には抹茶のババロア。
  栗の糖果は抹茶をまぶしてこけのようにみせています。

 6.薄茶のおもてなし

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講師自ら点てたお薄をいただきました。
茶葉を石うすでひくと薄茶1人分に30分かかります。(濃茶はその3倍)
炉の炭も簡単ではなく、下火の準備には何日もかかるのです。
ことほどさようにお茶のおもてなしには時間がかかるもの。一方、点てるのは10秒、飲むのは一瞬。やっぱりお茶は贅沢ですね。
      
料理のあいまに、「飲まずに香りだけかいで」と回されたお茶は山茱萸(さんしゅゆ)でした。
春先、鮮やかな黄色い小花を枝一面に咲かせ、晩秋に、楕円形の赤い実のなる山茱萸の実は漢方にも使われます。香りで邪気をはらいます。

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3月に咲いたサンシュユの花

ちなみに、この季節に、国営昭和記念公園、楓風亭で出されるお茶のお菓子は「お月見」でした。

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雑記帳2019-9-15 [代表・玲子の雑記帳]

2019-9-1
◆昭島市の昭和の森に彫刻の森が誕生しました。

近隣にはないおしゃれな郊外型ホテルがJR昭島駅からほど近いところにあります。フォレストイン昭和館です。
ゴルフ場もある一帯は昭和の森と呼ばれ、もと昭和飛行機の広大な工場跡。ホテルの敷地内には豊かな保存樹林がひろがっています。そこに、「木漏れ日にとけこむように、作品を配置し、自然とともに芸術にふれる空間を創造する」という目的で、武藤順九彫刻園は生まれました。行政や企業、作家が協力して世界に発信する、日本で初めてのプロジェクトだということです。

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武藤順九(むとうじゅんきゅう)は1950年生まれ、ローマにアトリエを構えて創作を続ける彫刻家です。
「風の環」と名付けられたシリーズの作品のいくつかは、バチカンやインド・ブッダガヤ、あるいはアメリカワイオミング州のデビルスタワー国定公園に、後世へのメッセージとして永久設置されました。

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ネイテイヴアメリカンの聖地ワイオミング・デビルスターの永久設置モニュメント
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仏教の聖地・ブッダガヤの永久設置モニュメント
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基督教の聖地バチカンの永久設置モニュメント

昭和の森には、これらの記念すべきモニュメントの1/2モデルをはじめとして、大理石彫刻作品のマスターピースが9点展示されています。
夏の終わり、誕生して間もない彫刻の森をたずねました。まだ知る人も少なく、外から訪れる人の姿はみられませんでしたが、木漏れ日を受けて回遊する園内に、9体のモニュメントが静かにたたずんでいました。

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木漏れ日にモニュメントは良く似合う。下の2体は「男と女」の名がついていた。

◆トマトたっぷり冷製パスタでランチはいかが?

立川の夏はどの直売所にもトマトがならびました。真っ赤に熟すまで畑で育ったトマトは美味しいと評判。地産地消がテーマの「食とくらしと環境を考える会」でもこの季節はトマトを使ったレシピ作りに励みます。ことしは「トマトと蒸し鶏の冷製パスタ」に挑戦しました。季節はすぎてしまいましたが、残暑の間はまだつかえるかも。

※トマトの下準備
トマトは頭に十文字の訪朝を入れ、網弱視などにのせ、熱湯にサッとくぐらせて(2~3秒)ボールにとり、湯むきする。

◇トマトソース
材料(4人分)完熟トマト中2個、ミニトマト200g、ニンニク 1/2片、オリーブオイル 大さじ3、塩 小さじ1

作り方
①湯むきしたトマトは1.5cm角に小さく切る。
②ミニトマトはヘタを取り半分に輪切りする。
③ニンニクはみじん切り。
④オリーブオイルをひいた鍋にトマト、ミニトマト、ニンニクを入れ、、塩を加えて、蓋をして中火の強火で15分ほど煮込む。
⑤ジュウジュウ音がしたら蓋をあけてかき混ぜ、水分が多いようなら煮つめて、荒熱を撮り冷ましておく。

※ミニトマトを使う訳は、甘味のある色鮮やかなソースを作るためです。

◇蒸し鶏
材料(4人分) 鳥むね肉1枚(300g前後)
        しょうが搾り汁、砂糖、酒、塩、片栗粉、各小さじ1

作り方
①鳥むね肉は皮をはぎ、肉の両面をフォークで刺して全体に穴をあけておく。
②①にあわせた調味料をよくすりこみ、10分くらいおく。
③ふんわりラップをかけ、電子レンジで3分加熱する。加熱したらそのまま3分レンジ内におき、米津で火を通す。
④うらがえして再度3分加熱する。スーっと竹串が通れば出来上がり。加熱が足りないようなら1分追加する。
⑤荒熱をとって食べやすい大きさに切り、冷ましておく。

◇パスタ
材料(4人分)スパゲッティ(1.4mm)280g、トマト 2個、オリーブオイル 大さじ1、新玉ねぎ 1/2個、ニンニク 1/2片、バジル 1/2パック、塩 大さじ2(ゆで用)、オリーブオイル 大さじ3

作り方
①トマトは半分に輪切りし2cm角に切り、オリーブオイル大さじ1をふりかけて器に取る。新玉ねぎは薄くスライス、トマトと冷やしておく。
②ボールにニンニクを塗り付け、香を付けておき、冷ましたトマトソース、蒸し鶏、トマト、新玉ねぎをボールに入れ、オリーブオイル大さじ3を加えて良く和える。(パスタソースの出来上がり)。
③鍋に湯を沸かし、パスタソースの準備が出来たら、湯に塩を加えて(通常のパスタの1.5倍)表示通りの時間でパスタをゆでる。
④ゆであがったら氷水にとり、ざるにあげ、搾るように水気を切り、②のボールに移す。そのあと、飾り用のバジルの残りをちぎって加え、よく和える。
⑤お皿に彩りよくパスタを盛り、残りのソースをかけ、バジルを飾って出来上がり。

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ランチなので、スープ味の野菜の寒天寄せとデザートに簡単ココアケーキをそえました。


◆傅益瑤さんの「祖道傳東」を再掲します。

8月、傅益瑤さんの祭り展が池袋の芸術劇場で開催されました。
2020東京オリンピックの協賛事業に認定されたため、8日の開会式には小池都知事も姿を見せました。昨年紹介された作品にあらたに数点の大作が加わって、会場は2つのフロアを借りきっての大にぎわいでした。
かって『知の木々舎】に連載した『祖道傳東】の再掲を望む声が多いことから、会場で傅さんの了解をとり、少し体裁を変えて9月上号より連載を始めました。曹洞宗を日本に伝えた道元禅師の生涯を、傅さんの独特の墨絵でたどります。

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「日本のまつり展」の会場

◆猛暑の夏が行き、首都圏を襲った台風のあとに、ようやく一息つける季節になりました。この夏も、豪雨のニュースが列島をかけめぐりました。これまでの防災の意識も変えなければならないほどの急激な気象変動の下で、誰もが、昔の日本の四季を懐かしんでいます。久々に一茶の句を拾いました。

 けさ秋ぞ秋ぞと大の男哉      七番日記  化7
 萩芒秋の暑もけふ翌か       七番日記  化7
 秋の夜やひと木立でも松の風    享和句帖  享3
 秋の日や山は狐の娵入り雨     文政句帖  政6
 耳際に松風の吹く夜永哉      享和句帖  享3
 夜参りよ門の暑も今少       八番日記  政4

◆『知の木々舎』創刊以来たくさんの原稿を寄せてくださった横山貞利さんが亡くなりました。とりわけ、亡くなる寸前、くしくもパソコンが動かなくなるまで書いてくださった『徒然なるままに』は、抒情あふれる美しい日本の詩歌を折々の横山さんの記憶ともにたどり、多くの読者の感動を誘いました。ご冥福をお祈り致します。

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雑記帳2019-9-1 [代表・玲子の雑記帳]

2019-9-1
◆箱根石仏群と函南の仏像に出会う旅

箱根は時代によって位置づけが異なります。
古くから山岳信仰の地であったところに、万巻上人が757年に神社を創建しました。
平安時代は箱根伊豆ラインは当時の蝦夷の地。これより東は蝦夷の住むおそろしいい土地でした。箱根はその侵入を防いでくれる地と考えられました。当時、都の罪人の遠流の地は伊豆だったのです。

鎌倉時代には、頼朝が信仰したことから、武家の厚い崇敬の地となりました。
北条、足利、戦国大名、秀吉から家康まで、武家と箱根神社とのつながりはつづきます。
箱根道が整備された江戸時代は、庶民の信仰の聖地となりました。箱根権現は縁結びにもご利益があるとて、駒ケ岳山頂に九頭竜神社を箱根神社本殿の境内に里山神社として移したりもしました。

今回はその箱根古道を歩いて石仏群に出会う旅です。

箱根新道を行くバスはなんども箱根古道をまたぎます。
江戸時代に整備された有名な石畳は相当の難所だったらしく、幕末に勘定奉行や軍艦奉行を務めた川路聖謨は、伊豆の軍艦奉行時代、箱根を3度往復していますが、日記によると、これで地獄もこわくないみたいなことを書いているそうです。雨がふるとぬかるんで通れなくなる為に石畳を敷いた道はかえって歩きにくかったのでした。

今は箱根と言えばだれでも立ち寄る芦ノ湖は、箱根の中では一番開発の遅れた土地でした。温泉もなく、芦ノ湖に関所がおかれたとき、ここはまだ未開でした。そこで、幕府は、三島、小田原から各200世帯を移住させ、集落をつくったのです。住民は税金を免除されました。

いよいよ、足の湯のバス停から箱根古道(これも鎌倉古道)に分け入って、元箱根石仏群に会いに行きます。都会では聞けないハルゼミの声がうるさいほどでした。 

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雨が降ればぬかるんで通れなくなるため、当時の人が掘った側溝の痕
                               
元箱根石仏・石塔群の道で、まず出会うのは、曽我兄弟と虎御前の墓です。
兄弟は箱根神社を味方につけて仇討に成功し、死罪にはなりましたが、箱根では墓は手厚く守られたようです。虎御前は大磯の遊女、仇討の為妻帯できなかった曽我兄弟を支えました。

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曽我兄弟の墓 右が虎御前の墓

次に出会う石仏群は巨大な2つの岩に刻まれた摩崖仏です。それぞれに、3体と23体 が刻まれた、重要文化財の二十五菩薩です。
二子山の溶岩である安山岩は固く細工がむつかしい。これを掘りぬいた摩崖仏はプロの石工の仕事だったとみられます。

石仏群のあるあたりは中世の箱根越えルートとして利用された湯坂道が通っています。
各所に噴煙の立ち上がる風景は当時の人にはさながら地獄に映ったはず。ときはまさに、地獄信仰が大流行。地獄にに落ちた人々を救ってくれるのは地蔵菩薩と信じられていました。石仏群は鎌倉時代後期に集中して作られ、その多くは地蔵菩薩です。地獄と恐れられたこの地も、地蔵信仰の霊地となったのです。

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二十五菩薩の摩崖仏の一部

石仏や石塔にはこれらの造立にたずさわった人々の名や由来がきざまれています。
「多田満仲の墓」と呼ばれる宝篋(ほうきょう)印塔には石工の棟梁の名や造立の発願者の名が見られます。篋は箱、お経を入れる箱のことです。

因みに多田満中は清和天皇の子孫です。天皇家は日本で唯一名字を持たない家系ですが、天皇に即位出来なかった多くの子や孫は名字を貰って下野しました。
清和天皇の子孫はは源(みなもと)姓、桓武天皇の子孫はは平(「たいら)」姓を名乗ったことは広くしられています。平は後、藤原や大伴を出しました。
武蔵頭領も務めたことのある源満中は、摂津の国多田の庄に赴任したことから多田を名のり、子孫は武田、南部、京極、足利など、多くの武将を出しました。徳川もその一つです。

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多田満中満の墓

道筋には八百比丘尼の墓もありました。
禁じられた人魚を食べたために老いた命を800年もながらえることになった八百比丘尼の伝説は日本各地に見られ、東京は青梅の塩船観音にもありますね。

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八百比丘尼の墓

最後にたどりついたのが重要文化財の巨大な六道地蔵です。3.5m、光背も入れると4mという、関東最大の摩崖仏です。御影石よりも固い安山岩にこれほどの地蔵を彫るとは、当時、いかに地蔵信仰が強かったかを思わせます。今は人っ子ひとり見当たりません。

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この奥に地蔵仏がある
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安山岩に掘られた巨大な六道地蔵

精進池のそばには「石仏と歴史館」が建っていますが、こちらも訪れる人はまばらでした。

お昼は芦ノ湖畔で箱根御膳を。

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名物のそばとニジマスのついた箱根御膳

窓外の湖の対岸に見えるのが一の鳥居。鳥居の足元にも多くの石仏がありました。山から下りてきた旅人が鳥居にたどり着いてほっとした場所でした。

箱根の一番人気はなんといっても芦ノ湖の水面に浮かぶ鳥居でしょう。この鳥居は実は昭和35年製で、余り古いものではありませんが、インスタ映えするとあって、湖をわたって鳥員にたどり着くと、そこで写真をとるのが海外からの観光客のお目当てす。そこから石段をのぼって本殿にはおまいりせずにすませるのが大半とのことでした。

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箱根神社の宝物殿では特別企画展箱根神社の歴史を開催中でした。
箱根権現絵巻は関東地方の神社仏閣に現存する絵巻を代表する貴重な資料です。
頼朝の二社詣で以後、足利将軍家。戦国大名北条氏、豊臣秀吉、徳川家康など、おおくの武将の崇敬を集めたことを示す、自筆の書状が展示されていました。

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箱根神社
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神社を創建した万巻上人の木像

箱根神社には随処に神仏混交がみられます。
先の石段の数が138段、それも89段と49段に分かれています。数合わせすると、仏教の生老病死愛別離苦を表す、四苦八苦に通じます。おまけに89段目には厄落として曽我神社が祀られています。
また、大日如来を駒ケ岳、文殊菩薩を箱根権現、観音菩薩を芦ノ湖にみたてているのだそうです。

寺を建てるとき、万巻上人は仏に龍神をあわせたといわれます。
弥生時代になると箱根から西では牛神が信仰されるようになりましたが、龍神は。縄文時代から深く信仰されていました。
本殿の簗にも龍の彫刻があります。伊豆神社に似た彫刻があることから、作者は波の伊八ではないかと推測する人もいます。ちなみに伊八の波を絵にしたのが北斎です。有名な「富嶽三十六景」の「神奈川沖波裏」は伊八の波頭に感動して生まれたのです。
左右の唐獅子はまるで不動明王のようです。

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波の伊八(?)の龍の彫刻
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唐獅子

箱根の山を静岡県の三島のほうへ下りていくと、函南(かんなみ)という町があります。箱根の別名は函嶺、その南に由来する町名です。
函南町桑原にはかって「桑原薬師堂」というお堂があり、平安時代の薬師如来像や鎌倉時代の阿弥陀三尊象と、それぞれに由来のことなる二十四体の仏像がつたわっていました。もともと複数の寺に分散してあったものが明治の廃仏毀釈で打ち捨てられたものを、地元の人々が薬師堂をたててまもっていたのです。これが平成20年になって町に寄付され、建てられたのが「かんなみ仏の里美術館」です。まだ新しく、知名度もありませんが、阿弥陀如来両脇侍像は国の重要文化財になっています。運慶作と言われる阿弥陀は慶派の特徴がよくあらわれています。なによりも、廃仏毀釈の嵐の中、山里に、廃棄された仏像を民衆が守ってきたという歴史が面白いではありませんか。

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かんなみ仏の里美術館

箱根は関東の守りとして中世以来、時の権力者の信仰をあつめた神社ですが、例えば氷川神社のように末社をもっているわけでもなく、いわば権力に翻弄された神社ともいえます。多くの観光客でにぎわう今が一番いいのではと思われます。

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