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雑記帳2023-9-15 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2023ー9-15
◆9月1日(金)
1週間後の診察日である。
最近はどこの病院も診療所も予約が徹底していて、昔のように、早く行って順番確保をする必要がないのは助かる。それと同時に、診断技術も進化していて、全てCTやレントゲンである。医者は患者の顔もみない。勿論患部にもさわらない。実際、折れた骨は外からみえるわではないので、合理的といえば合理的である。

診察の前に撮ったレントゲン写真を見ながら
「前と変わらないようですね。おさらも骨もずれていませんからこのままいきましょう。」「膝がはれてまだ熱をもっているんですけど」
「痛かったらひやしてください。」
(そんなことくらい、先週、言ってほしかった)
「右足がむくんでるんですけど。」
「歩けるようにならないとね。足首をたててふくらはぎの筋肉をひっぱると血流がよくなります。足首まわしたくらいではあまり効果はないですネ。」
(先週足首を回せと言ったではないか。)
むくんでいると言ってもはれていると訴えても患部を見ない。ちょっと触ってどんな状態かみてくれたっていいではないか。「ちょっとはれてますね」と同情くらいしてくれてもいいではないか。そのうえで「大丈夫ですよ」の一言くらい言ってくれてもいいではないか。

医者は怪我をなおすことが仕事なので、患者、まして高齢の患者の美醜など知ったことではないのか。私としては、膝はかくれるからまだしも、むくんだ右足がこのままなおらないのではないかと心配になる。まるで象の足だ。
なにしろ足の骨折は初心者である。知らないことばかりだから、何をどう注意すればいいのかもわからない。幸い膝がずれていないというが、どうしたらずれるのか。いや、どんなことに注意すればずれないのか、最初に患者が質問しなければわざわざ言ってはくれないのだ。救急で説明をうけたきは治るのにどれくらいかかるのかばかりが心配で、医者の説明もわかったようなきがしたが、一週間不自由にくらしてみて出てきた疑問だから、一週間前に聞けるはずがない。聞いたときにはtoo lateではないのか。事細かく言わなかったのは重大事ではなかったということなのかもしれないが。

この日、近所の友人が車を出してくれた。ご主人をのせて何度も通った病院だから、心配しないでと言ってくれた。持つべきは茶飲み友達と大見えをきった後ではあるが、こどもにしてみれば別の問題があるようだった。

こどもにとって高齢の親は世話しなけれならない存在で、その親が世間さまに迷惑をかけているのではないかというのは重要な問題なのだと思う。もし事故にでもあったらどうするのか、などと考えれば、心配するのも無理はない。
「今度はタクシーにしてね。」(でも会社に電話してタクシー呼んでもなかなか来ないのよ。いつも今配車できるエリアにいませんと言われるのよね。)

いったい、高齢者は世間に迷惑をかけるだけの存在なのだろうか。
永田町辺りはたしかにいるような気がするが、経済力もなく政治的な発言力のない一般の高齢者が生きづらい世の中であることは確かだ。
まず、degitalの進化と使いにくさは高齢者に親切とはいえない。漸く慣れたころ次々にアップグレイドされる新兵器に追いつけない。これも自己責任なのだろうか。
事故を起こしたとき心配だから車を手放せと言われても、そもそも車など持っていなかった高齢者だって多い。

世間に迷惑をかけないようにと考えれば自分の世界を狭くするほかない。孤立して認知症になるかもしれない。認知症がわるいわけではないが、年取ればだれもが認知症になる時代、「安心して認知症になりましょう」というキャンペーンなど見たことがない。「どうしたら認知症にならないか」という本ばかりが売れる。認知症も自己責任といわんばかりである。

高齢者にとって、これから起きることはすべて人生初めてのことだと覚悟しなければならない。昔出来たことができなくなるし、初めてのことに敢然と立ち向かうには、これまでの学習や経験が邪魔をする・・・。体力あるだろうか。
もろもろの妄想のあげく、これで100歳まで生かされるのはまっぴらだと思う。

9月4日 (月)
足が不自由で家にいてもすることはある。
9月の予定を全てキャンセルしたので、出席できないぶんカバーすることはあって、パソコンの前に座りっぱなしである。
怪我を知った知り合いから次々お見舞いのメールをもらった。
中に、要件の報告のあと、「本当に頼りしていますので、落ち着いてお大事にしてください。」と寄せてくれた友人があった。

彼女は私より5歳年下の、五黄の虎のうまれである。
むかし、五黄の虎生まれの女性は気が強い、と敬遠された時代があった。ジェンダー論議盛んな今なら叱られそうだが、これが意外に当たっていて、私の知る1950年生まれの女性はみんな元気である。消費者庁長官をやった阿南さんとは生協時代意見のあわないこともあったが、彼女も五黄の虎である。喧嘩したら絶対に負けない。
メールをくれたのは阿南さんではないが、やっぱり生協で知り合い、もう30年になる。

落ちこんでいるときに「頼りにしている」と言われるのは何よりの希望だ。
これでもまだ役に立つことはあるのならもうちょっと頑張ろうと思えてくる。

9月5日(火)
台湾の何聡明さんからメールで原稿が届いた。添付は何と2通である。「2024年の台湾相当選挙たけなわ」と「九州への船旅」。
年初、もう年で書く体力もおちたからこれからは原稿を送るのは年3回にする、とメールがあったのを思い出し、思わず笑ってしまった。これはうれしい誤算である。総統選挙の話題はわかるが、九州への船旅はよほど心うつものだったにちがいない。 何聡明さんは93歳になる。

9月6日(水)
サンパウロの李渭賢さんが雑記帳を読んで驚いたと言ってメールをくださった。高齢者の3つの禁物は「風邪」「誤嚥」「転倒」とあった。            
町で元気に歩いているお年寄りは皆これらの禁物を避けてきた人なのだと思うと、心底偉いなと思う。

9月8日(金)
診察日は台風にぶつかった。苦労してたどり着いた病院のロビーは人影も少ない。
「ずれはないようですね。この調子なら2週間後には24時間つけている固定装置も歩くとき以外ははずしてもよさそうです。」
「外しているときにはリハビリとして膝の曲げ伸ばしをしていいです。まず90度曲がるのをめざしましょう。器具が完全にはずれるのは10月6日を目標にします。」
「自転車にはいつ乗れるようになるでしょう。」
「膝が120度曲がるようになったらOKです。そんなにあせっちゃダメですよ。」

自慢の自転車は娘にサドルをさげられてしまった。
「だいたいその齢で足がつかない自転車に乗るなんて危ないでしょ。若いひとだってそんなにサドル高くしてないわよ。」
「サドル高いと目線も高くなって走ってて気持ちいいのよ。」
「スピードもでるから事故ったらもっとひどいことになるでしょ。」
「私、自分の足で転んでも自転車で転んだことはないのに。」
「とにかく転ぶ前に予防しなくちゃ。転んでからではおそいのだからね。」

これでも、私は70歳の時、クロスバイクに乗るのを諦めたことがある。
60歳のとき、あこがれのクロスバイクを手にいれて、多摩川の土手をよく走った。軽いので分解して電車に乗って遠出をするのを夢見ていたが、プロの自転車屋さんに「素人がこんなことしちゃいけません、事故のもとです。」と言われて、分解組立をあきらめた。スピードが出て、まちなかを走っても爽快だった。だが、70歳の時、子ども3人を乗せて走った30代とはバランス感覚や瞬発力が明らかに違うことを自覚した。溝のない細いタイヤで、万一縁石で滑ったら危ないと思って乗るのをやめたのだ。分別がないと自他ともに認める私でもそれくらいの分別はある。それなのに、ママチャリのサドルを高くすることさえ許されないというのか。

ともあれ、先は見えてきた。元通りではないが、足のむくみも少し改善したような気がする。
母が90歳のとき転んで車いすになったのを思い出す。90歳に比べればまだうんと若いのに転んだとは恥ずかしいが、その齢になって初めて転ぶ前に予行演習をしたのだと思えばいい。なにしろこれから出会うことは初めてのことばかりだから、その前に練習しておけば、(治療も含めて)おろおろしないですむだろう。
まだリハビリで回復できる余力のあることに感謝して、頑張ろうと思った。

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スエーデン製の歩行器
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鈴木さんがさしいれてくれたnoshの弁当「チキンのトマト煮」 容器も紙なのがよい
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サドルを下げて普通のママチャリになったマイバイク(後ろは20代の姪が乗っているサドルの高い自転車 5㎝の差は大きい!)





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雑記帳2023-9-1 [代表・玲子の雑記帳]

2023-9-1
◆この夏、四国に住む妹が、娘の出産に合わせて上京、1か月間、我が家に滞在しました。
この間、マンションのゲストームや近くのホテルを利用した数日を覗けば、ほぼ毎日、立川から娘の住む五反田まで電車通勤したわけですが、夏の猛暑と相まって、つくづく年齢を感じさせる夏になりました。

10歳年下の妹は便在68歳。夫が亡くなった20年近く前、高校を卒業した彼女のこども3人を次々、我が家で預かったことがあります。、それぞれ大学や専門学校を卒業して、今では皆自立した社会人になっています。出産したのは2番目の子(?)で、外資系の金融会社で共働きをしながら流行りのタワーマンションに住んでいます。

岸田さんは「異次元の少子化対策」という言葉を使って少子化に取り組む姿勢をみせています。東京都も出産時の援助は手厚く、50万円とか80万円の声も聞きます。子育て中の支援も品川区は非常に手あつくなっているようです。1人でも年収1,000万円を越えるパワーカップルなら愛育病院での出産もなんということはない、援助などなくても産める。少子化対策として本当に支援が必要なのはどこなのか、考えざるを得ません。(そもそも今の日本は少子化の原因そのものが分かっていない政治家が多すぎる。個別に支給すればいい問題ではないことに気づかない。格差や貧困さえ「自己責任」にすり替えて、政治の問題だとは思っていないのです。)

勿論、赤ちゃんは可愛い。これは別問題です。
ミルクを呑んでおしめを替えてもらって満足しきって寝ている顔はいつまで見ていても飽きない。おなかがすいたとき、ウンチをしたとき、泣きわめく顔だってかわいい。仁君は(赤ちゃんの名前です)しかめっ面をするとまるで分別臭いおじさんのような顔になるのだけど、それも文句なく可愛い。

妹にとっては、電車やバスでの通勤も、タワーマンションの生活を目にするのもはじめてです。私など、今では電車に乗るだけで疲れてしまうありさまですが、さすがに10歳の差は大きい。1週間ほどですっかり慣れて、駅の戒壇の上り下りに脚が適応してくれるようになったと言います。
マンションに住んだことにない私は、慣れないタワマンの出入りにもおろおろ(あのセキュリテイの面倒くささは何だ!)、車止めの不自由さにもとまどいます。1か月も通った妹のほうは、マンションのコンシュエルジュを相手にそれにも慣れた様子でした。

この暑さの中、駅前のスーパーで買い物をし、重い袋を下げてマンションにたどり着く作業は今の私にはできません。特にこの夏は暑さに絶えられず、1人暮らしも身について、買い物は量も最小限なら陽ざしを避けて買い出しにいくのも最小限と言った具合でした。なかんずく、若い夫婦の食べる量は半端じゃない。肉や野菜の買い出しも毎回、相当な量になったはずです。私も60代、いや、70代前半だったらできたなあと思い、後期高齢の意味がよくわかった気がしました。

1か月の産後手伝いを終えて、妹は無事帰郷しましたが、これには続きがありました。なんと、妹が帰る前日、私は転倒して骨折という憂き目にあったのです。
日頃、走ってはいけないと肝に命じていたにも拘らず、すぐそこの物をとろうと思わず走ってしまったのが原因でした。まるで高齢者の見本のようだ、が一瞬頭をよぎりました。

8月24日(木)
救急で運ばれた病院でレントゲンとCTで骨折が判明。入院手術するか自宅で直すかは相談して決めよと言われ、紹介状を書いてもらってひとまず帰宅。
夜、仕事を終えた娘夫婦がコンビニで弁当を買って来てくれた。もともと木曜日は週に一度二人が我が家に晩御飯を食べにくる日だった。私にすれば週に1回でもひとの為に料理をする時間であり、むこうにすれば、認めたくはなかったが、年寄りの見守りの意味もあっただろう。はからずも今度のことで、後者の意味合いがはっきり出てしまったようだ。
「走らないようにずっと気をつけていたのに・・・」(私)
「でも走っちゃったんでしょ。高齢者がみんな転ぶわけでなく、ころばない人だって大勢いるよ。以前できたことが今はできなくなっているという自覚がたりないのね。」
(まことにその通りです。転んだのはひとえに自己責任。だからほうっといて。)
「お義母さん、怪我したら損だと思って気をつけるのがいいですよ。」
これには説得力がある。その通りなので反論のしようがない。

婿は年齢のわりに分別があるのだ。以前もこんなことを言われたことがある。
「お義母さん、その年齢で責任を持たなければいけないような仕事は受けないほうがいいですよ。」
私は、自分が彼ほどの分別をもちあわせないのを恨めしく思うことがある。子どもの頃、分別はおとなになったらつくものだと思っていた。でも、そそっかしさやせっかちは生来もってうまれたものなので、大人になったら治るものではなく、努力してカバーしなければならないのだ。努力が足りないわたしい¥としてはと人は言うのかもしれない。その意味でも損をしている。

夜、独りになって、ひざが曲がらないように固定されて慣れない松葉杖で過ごしてみて、その不自由さに参った。一日もはやくらくになりたいと思った。

8月25日(金)
紹介状を持ってふれあい相互クリニックへ。タクシーを呼ぼうとしても出払っていてなかなか配車できないとのこと、相当待ってようやく来てもらえた。バス停が近くなので必要ないと思っていた配車アプリが必要かもしれない。
「手術してもしなくてもどちらでもいい状態です。手術すれば早く歩けるようになりますが、それなりのリスクはともなう。年齢を考えると、早く社会復帰しなければならないほどのこともないのではありませんか。」
ここでも年齢のことを言われてしまった。
昨夜は早く楽になりたい一心だったが、話を聞くうちに骨が自然にくっつくのがいいようㇴな気がしてきた。
「一週間後に見て、ずれがひどくなっているようだったら手術しましょう。手術はそれからでもおそくありませんよ」
「ベストの選択かも。」と、あとで娘の弁。

8月26日(土)
骨折と聞いた知人が歩行器を貸してくれた。
スエーデン製のすぐれものである。さすが介護王国、頑丈で安定性があって、なかなかに具合がいい。松葉づえがいまいちへたくそな私には有難かった。
惜しむらくはトイレの間口が狭くてここには使えない。
この知人は国労出身で、今でも情熱的にマルクスを語る。ただし、親の残してくれた不動産があって何棟かのアパートを経営しているから、順然たるプロレタリアートではないことに屈折した思いはあるのかもしれない。彼が最近読んでいるのがむのたけじ。戦後、ジャーナリストの戦争責任を問うて朝日新聞社をやめ、郷里の横手から「たいまつ」を発信しつづけた人である。今どれくらいの人がむのたけじを知っているのだろうか。
実は『知の木々舎』は創刊時、横手のむのさんに電話して詞集『たいまつ』を連載させてもらったことがあった。横手は冬寒いので晩年はさいたまの息子さんの所に住んでおられた。そこにも電話して、いつかお昼をご一緒しましょうと話したことがある。100歳を越えて、「今、100歳から14歳の君へというのを書いている」と聞いたのが最後になった。声は100歳の老人とは思えないほど力強かったのをおぼえている。

8月27日(日)
骨折してどこにも出かけられず無聊をかこっているだろうからと、鈴木さんから電話があった。鈴木さんは例によって日曜日のお昼探訪を楽しんでいるらしい。今日は西国分寺駅の構内にある寿司屋へ行ってきたという。JR中央線の西国分寺駅は国分寺崖線の谷底に出来た駅で、狭いホームやコンコースを非常にうまくつかっている。後で知ったことだが、知人の町づくりデザイナーがプランニングしたということだった。狭い場所を上手く利用してコーヒーやカレー、うどんなどのファストフードショップがならび、果てはカウンターだけだが寿司屋まであるのである。

鈴木さんによると、西国分寺の寿司屋の魚は立川の駅ビルにある「魚力」より上ではないか。ただ、汁の方は浅利が3つ入った「魚力」の味噌汁が美味しいとのこと。料理がうまいまずいは人それぞれ、でも自分なりのものさしを持っているのは悪くないと思う。
四国出身の妹は、今回、東京で何がつらかったかというと、美味しい魚が手に入らないことだったという。魚は特にその地で獲れたものをそこで食べるのが一番。瀬戸内海の魚を東京で食べようと思うのがまちがいだと笑った。料亭や有名レストランで目が飛び出るほどのお金を出せば食べられるかもしれないが、地元ならそんな必要はない。輸送の技術が発達した今でも、美味しいものを食べたければその地へ行くのが正解のようだ。

鈴木さんはそのあと、立川へ戻って、立川駅のホームの蕎麦屋でおでんそばなるものを食べたそうだ。そして、締めは、モノレール立川北のミスタードーナッツである。92歳でこれだけ食べられるのが元気のもとなのだろう。昔食いしん坊だった私でさえもはや食もほそくなり、最近は必要な栄養をとるにはもっと食べなければならないと痛感している。タンパク質はもちろん重要だが、鉄やカルシュームのような微量栄養素は十分にとれていない。嫌いだったサプリメントの出番かもしれない。金曜日には鈴木さんは冷凍の弁当noshを差し入れてくれた。これも私には相当のボリュームだった。

8月28日(月)
怪我をして5日目にもなると、段々慣れてくる。歩行器を連取したら苦手だった松葉づえも上手にあやつれるようになった。人間はかってなものだ。丈夫なだけが取り柄だった私が怪我して使い物にならないなんて、生きていてもしょうがないとまで落ち込んでいたのが、気分も少し上むきになるのだった。

今日は近所の宮崎さんが今年の梅でつくった梅干しと梅ジュースを持って来てくれた。、落下していた梅の実がもったいないと持ち主に了解を得てもらったものである。見事なできばえだった。とりとめのないおしゃべりをして、たまたま落っこちた簾を、2階に上がれない私の代わりにかけかえてもらった。

骨折して出歩けないながら、一日中、まったく一人になることはありませんでした。買い物を頼んだり病院への送り迎えにも誰かがいました。一人で暮らす高齢者が持つべきものは茶飲み友達だとつくづく思います。


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雑記帳2023-8-15 [代表・玲子の雑記帳]

2023-8-15
◆この夏の暑さは格別でした。通常なら旧盆のころになると、優触れになると、ちょっと涼しい風がふきはじめるのですが、今年は猛暑はまだまだ続きそう。線香花火を楽しんだ後の縁台の夕涼みももはや遠く、熱中症を気遣う高齢者には厳しい季節でした、

そんなわけで、暑さの中を電車やバスに乗って遠出も出来ず、時折訪ねてくる友人とおしゃべりをするのが関の山、段々一人暮らしの高齢者らしくなってきました。酒の飲めない父が晩年、茶飲み友達が毎日やってくるのをたのしみにしていたのを想い出し、遂に自分もその年齢になったのかと感慨無量でした。四十肩や五十肩、更年期障害など誰のことかとたかをくくっていたのに、今は脊柱管狭窄症とやらに悩まされ、老いは誰にも等しくやって来るのだと実感しています。

で、今日は朴さんとデートしました。
朴さんのことは以前、雑記帳で紹介したことがあります。
韓国の名門梨花女子大学を卒業したお嬢様でしたが、家族の反対を押し切って結婚した相手は牧師さんでした
1985年に来日して東京でのご主人の布教をてつだい、現在は立川に住んでいるのです。私たちのサークル「食とくらしと環境を考える会」に朴さんが入会して本場のキムチの作り方も教わりました。

朴さんは10年余り前、4歳だったダウン症の玲ちゃんを里子に迎えました。ちょうど「食とくらしの会」に入会したころです。
シングルマザーの玲ちゃんのお母さんが病弱で、こどもを育てられないのが理由でした。
教会の活動がら、それまでも短期間、問題を抱えた少年少女の面倒を見たことはあったということですが、日本の里親制度に接するのははじめて。ずい分勉強したそうです。玲ちゃんが生まれた時、お母さんは病院の支払いが出来なかったのが、なんと、亡くなってから玲ちゃんに請求がきたこともあったとか。いろいろな所に相談して、玲ちゃんが相続を放棄することで解決したということです。玲ちゃんを育てることは一つ一つそんなことの積み重ねでした。

玲ちゃんは朴さん夫婦を「パパママ」と呼んで、養護学校に通いながら着実に成長し、今は高校1年生です。中学の卒業式では代表で答辞を読みました。生まれた時1400gだった玲ちゃんがパパママへの感謝をのべる言葉に朴さんは涙がとまらなかったと言います。

高校生になった玲ちゃんは異性への興味をもつようになりました。おむつが完全にに取れたのは小学校5年生のとき、同時に初潮がはじまりました。
障害のあるなしにかかわらず、異性に感心を持つ次期は誰にでもおとずれ、それも個人差があります。玲ちゃんは異性への関心の度合が強いのを見た朴さんが今考えていることは「グループホーム」ならぬ「カップルホーム」です。

これまで障害者の入所施設は規模が大きいのが主流でしたが、彼女によればこれからは規模の小さいのが主流になるだろう。障害者も好きな人が現われれば結婚し、3組程度のカップルが共同で生活しながら仕事も共同でできればより自立できるのではないかと思うのです。(カップルホームは朴さんの造語です。)そのための家を建てたい。大きな施設ではなく、30坪程度の家があれば十分ではないか、今土地をさがしていると、夢も具体的でした。 80歳ちかくなってこんなことを考えるなんて思ってもいなかった、玲ちゃんのお陰だと朴さんは言います。自治体も障害者支援や共生をうたってはいても具体的にどうすればいいか案はまだない。そんな中での朴さんの夢をはからずも聞くことができたのでした。

7月以来の暑さで体調を崩したご主人は肺炎で入院中。デジオネラ菌が原因とわかるまで時間がかかったこともあって朴さんは一時はお葬式も覚悟したそうです。気丈に手配をする朴さんに玲ちゃんが「ママ、泣いてもいいんだよ」と言ってくれたそうです。その言葉が身に沁みて、この子はこんなに優しい子だったのだと思ったそうです。普段は口にださないけれど、この子は人の心が読めるのだと・・・。玲ちゃん幸せな将来のために、朴さんのカップルホームの夢は益々膨らんでいくようでした。


◆遠出ができない時、近場にあるのは国営昭和記念公園と都立薬用植物園です。夏の薬用植物園は訪れる人も無くひっそりとしていました。百花繚乱の春でもなく錦秋の秋でもない季節に、花々はけなげです。

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モミジアオイ
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トロロアオイ
この植物から採取される粘液はネリと呼ばれ、和紙作りのほか、蒲鉾や蕎麦のつなぎ、漢方薬の成形などに利用される。
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シロバナインドソケイ
キョウチクトウ科 有毒
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サルスベリ
夏の定番 赤が多いがこれは白花
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コウホネ
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キキョウ
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エビスグサ
乾燥させた種子は決明子(けつめいし)と呼ばれて生薬になる。便を柔らかにしたり利尿作用がある。
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アメリカノウゼンカズラ
通常見かけるノウゼンカズラより花弁が小さい。有毒。

春、見た花たちは多くが、この季節、実を付けています。

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ボケ
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ハマナス
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サンザシ



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雑記帳2023-8-1 [代表・玲子の雑記帳]

2023-8-1
◆今年の夏の暑さは格別で、東京は梅雨明け前から猛暑日が続きました。かくいう私も暑さにダウン、ならば冷房とエアコンに頼ったはいいものの、今度は夏風邪にみまわれてしまいました。たかが風邪、と甘く見た結果、3日も寝込む羽目になり、まこと、年寄りは生きにくい、と実感した7月でした。

昨年「高松からの風」をご紹介した「アールブリュットたちかわ」が今年もひらかれています。室内を飛び出してまち中や地下道での制作も行われました。

多摩都市モノレールの高松駅から市役所にむかう途中、立川立飛本社を囲む壁面はアートが並ぶドリ-ムロードです。昨年12月に完成しました。

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見上げればモノレール 近くに車両基地がある。
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周辺は裁判所や国文学研究所等で殺風景

もう一つ、JR立川駅の東地下道に今年完成したのが「東地下道プロジェクト」です。活動を紹介した東京新聞には、「作品はここで何年も残っていく。皆さんの日常の中で当たり前のように存在していくことで、この作品がどう変わっていくのか楽しみです」という作者の言葉が紹介されていました。
アートの町を標榜する立川には町のいたるところに「街角アート」が見付けられます。「日常に当たり前のように存在する」っていいですね。

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三光院サロン7月は、リンボウ先生の『平家物語茶話』の最終回でした。
物語に登場する女性や武将たちを取り上げたのちの最後の舞台は平家終焉の地になりました。

平家物語は上下巻の内、上巻は平家の栄華と横暴が語られ、下巻は頼朝挙兵にはじまって、ほぼ全編、平家の都落ちです。
武力に勝る源氏に敗れて簡単に都落ちしたと思われていますが、、平家も意外にしぶとくて、実は何度も巻き返しをはかったあとをリンボウ先生と共に辿りました。

巻七では、寿永二年三月、朝日将軍と木曽義仲がくりから峠を越えてせめのぼり、平家は初めて敗れて敗走します。知盛は此の戦で戦死しました。この時比叡山は源氏の味方となり、勢いに乗った義仲は京に攻め上ります。平家は総大将宗盛をたてて都から撤退するのです。

義仲は源氏では真っ先に京へへ行ったにもかかわらず、田舎武士の哀しさ、都の雅になじむことができませんでした。ごたごたの間に平家は九州へとおちのびます。しかし、九州には頼みとする味方の武将はすでにおらず、最初にはいった筥崎宮から宇佐八幡へ移動。右往左往の様子が伺えます。宇佐八幡は石清水八幡、箱崎八幡と並ぶ、日本の三大八幡でした。戦勝祈願もむなしく、筑紫は遠賀川の河口、柳ヶ浦の合戦で敗れ、、笛の名手と呼ばれていた平清経は自害します。

そのときの大将、平知盛は長門の国の国守でしたから、長門の国周辺にまだ平家の勢いは残っていました。知盛は九州をすて、四国勢を味方につけようと屋島へむかいます。
この間にも関東から攻め寄せた源氏と何度か合戦をしています。関東軍の大将は義仲でした。

源氏は水軍をもたないので、瀬戸内海ではなんといっても平家が強い。平家は先手を取って岡山の水島に陣をはり、義仲は京へどもどります。義仲が義経に討たれるのはこのあとのことです。

勢いを盛り返した平家は屋島を出て摂津へ。福原に再び都をきずこうともくろみました。
ここで一の谷に華々しく義経がでデビューするのです。

寿永三年二月四日、この日は清盛の祥月命日でした。一門上げて法要を執り行った翌日、源氏の農攻撃をうけるのです。二月六日、義経のひよどり越えの奇襲を受けて平家は総雪崩、一の谷の合戦でした。薩摩の守忠度は戦死、箙に結んだ短冊は敵味方の涙を誘いました。

一方、生田の森で敗れた平重衡は生け捕られ、奈良で打ち首、主だった平家の武将たちは次々に討たれます。総大将知盛は、息子・武蔵守知章の身を賭した助けにより急死に一生をえたものの、かかるうえは生きていても意味はないと覚悟します。一の谷で生け捕られた武蔵守の首は都大路にさらされました。

平家追討の院宣を貰った義経は勝浦に上陸して屋島へ、平家は屋島をすてて長門の国彦島へ向かう途中、壇ノ浦で最期を迎えます。既に死を覚悟していた知盛は、海中に身を投じた平家方の何人もが甲冑が禍して没することができず浮き上がって生け捕りになる様子をみて、懐に大石を抱いて入水してはてます。

ほろびゆくものの最期を丁寧に描く一方で、平家物語では源氏は良くは描かれません。頼朝はもちろんのこと、義経にしても然り。揺れる船の上で、那須与一が女官の掲げた扇を射落とす場面は戦いの最中に生まれたエピソードです。今回のリンボウ先生の話にはありませんでしたが、これにはあまり知られていない続きがあります。敵も味方も与一の弓矢の腕前を賞賛する中、一人の老人が扇を手に賞賛の舞を舞うのですが、義経は顔色を変えることなく与一に命じるのです。「あの者を射よ。」与一も即座に命令に従い、老人は海へ、再び戦がはじまるのでした。

古来、戦場にはいくつかルールがあり、意外に紳士的だと感じたことがありました。戦は武士同士がするもので、船を使った戦では勢子は殺される対象ではありませんでした。戦の天才、義経にはそんなのは知ったことではない。彼にととっては勝つことが大事だったのですから。
禁じ手も奇襲も、敵わない強さの秘密でしたが、平家物語では勝ち組の義経もその後は悲劇の武将に転じて、世の判官びいきをうならせることになります。おおむね、日本人は判官びいきですね。

サロンの西井さん曰く、「こんなに平家をおもしろく語ってくれる人はいませんよ。」
そして、最後の会だからとサロンが茶話会を用意してくれました。
供されたのは三光院近くの和菓子屋さん「三陽」の葛まんじゅうでした。昨年、リンボウ先生がすっかりファンになったというお店です。

葛餅をいただきながらのおしゃべりの中で、「平家物語の跡を旅するとしたらどこがいいでしょう」という質問がでました。
これにはリンボウ先生も苦笑い。「京都でないところがいいですね。」
清盛が遷都した福原はどうだろう。こちらは観光地神戸に近いから行きやすいかもしれない。平家がまだ力のあった九州や長門の国が意外に知られていなくて穴場かもしれない。
そんなことを思いながら4回つづいた講座を終了しました。

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三陽の葛饅頭


◆毎回、三光院サロンの精進料理を紹介してきたのでちょっと期待する向きもあると知って、今月は7月の膳の紹介です。
定番のコースに月替わりのお品が1品か2品加わるのが常ですが、7月は「押し胡瓜の酢の物」と「おナスの枝豆和え」がつきました。ご飯は「青じそのおばん」です。

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おなすの枝豆あえ
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押し胡瓜の酢の物
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青じそのおばん

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雑記帳2023-7-15 [代表・玲子の雑記帳]

2023-7-15
◆江戸時代の庶民の暮らしはとてもエコだったとよく言われます。深川の江戸資料館を覗けば、徹底的にリサイクルしていた長屋の日常が学べます。そんな江戸時代の自然環境を最も良く残しているのがほかならぬ皇居です。その皇居外苑で、江戸の行楽弁当を味わいながらエコを学ぶ集いが、ありました。

家康が江戸に幕府をひらいておよそ100年、18世紀の江戸は人口100万を超える世界一の都市でした。都市住民の飲み水を確保するため、遠く多摩の地から玉川上水が引かれ、都市のインフラが次々に整備されたのもこの次期です。

食べ物で言えば、にぎり寿司や天ぷら、そばなど、今の日本の伝統料理の多くが生み出されました。「豆腐百珍」のような料理本も出る時代、調理方法も進化したのです。
そんな庶民の台所はどうだったのでしょう。

台所も実は進化しています。
人類は最初、家の外で煮炊きしていたのが、やがて家の中で煮炊きするようになりました。
家の中心に火があった古代は、火は暖房やあかりもかねていました。
火のコントロールは難しく、煙を外にだすために、火は壁際に移動して、明かりとは別れ、火の役割は調理に特化しました。同時に水場も外から内に変わりました。
中世の貴族社会は身分制度が確立して作業が使用人に振り分けられた時代、調理も専門化します。包丁や俎板など、切る文化が発達しました。

さて江戸時代、天下の将軍のおひざ元である江戸においては、50万人の庶民の7割は長屋住まいでした。台所も最小の機能をもてば十分でした。
水は共同井戸から汲まれ、各戸には流しと水ガメです。 熱源は「へっつい」と呼ばれる「かまど」、七輪や長火鉢でした。
すり鉢や羽釜、鍋、鉄瓶が普及したのもこの時代です。

こうして、社会情勢の変化とともに台所も変化してくるのですが、日本人の特性として、過去の文化を比較的のこす傾向があると言われます。食文化も同様です。
たとえば、日本の代表的なすしについてみると、発祥とされるなれずしは日本の風土に合わせて様々な発展をとげ、にぎり鮨まで多種類の鮨が各地にあり、伝承されています。
明治以降の西洋化で坐る文化から立つ文化にかわりましたが、坐りたい日本人の文化がなくなったわけではありません。
都市化した江戸の人々は勤労生活者になったための対応文化をつくりだし、気がつけば、持続可能な循環型の生活の有り様をうみだしていたのでした。

今のように物資が豊かではなかった時代、人々は燃料も水も食材も智恵を絞って大切に使いました。僅かに残った生ごみや灰、人間の排出物さえも土にもどして肥料にし、限られた資源を有効に使いつくしていました。
ふりうりが毎朝やって来る長屋では、買い物は旬のものを必要なだけ、限られた燃料を節約するためには調理は無駄なく手際よく、無駄にできない貴重な水は、後片付けは手順を考え少ない水で、」が基本でした。まさに、エコクッキングです。使いつくすくらしからはフードロスなど出しようもありません。
そして、花見や芝居、相撲見物など遊びが大好きだった江戸っ子に、趣向をこらした食が行楽の楽しさを得出してくれました。

江戸の人々が楽しんだ行楽弁当を皇居外苑で味わうことができます。
場所は二重橋をわたってすぐの休憩所「楠公レストハウス」。
実は皇居外苑は、環境省とタイアップして、江戸城の自然環境の保全をはじめ、持続可能をテーマにしたさまざまなで発信している場所なのです、

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木材の外観もおしゃれな楠公レストハウス
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店内
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店内に飾られていた江戸エコクッキングのポスター
料理長の阿部憲昭さんから説明を受けながらあじわいました。

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四段のお重にびっくり。
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右下の皿に履いているのが江戸独特の調味料「煎り酒」

出された四段のお重に先ず驚きます。これだけの豊富な食材があの頃もうあったんだ。
江戸の庶民は意外にグルメ、そういえば女房を質に入れても初がつお食べたんですものね。今とはちょっと違う調味朗や調理法も江戸を再現したのだということでした。
塩は貴重品でした。塩を運ぶ際に染み出るニガリを使って豆腐をつくる、大豆を豆腐にする時に出るオカラも食朗や肥料になったと言います。
砂糖だって貴重です。今のようにたくさんは使わないからヘルシーですね。
※一の重

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◇とりまんじゅう 
 国産の鶏のに肌肉をすりつぶして卵白、小麦粉を加え、春夏は枝豆、秋冬は台ぞをいれて
 丸め、だし汁でにる。
◇元祖天ぷら 
 東京都八丈島のトビウオのすり身の揚げ物(さつま揚げ)。江戸時代後期に衣を付けた天
 ぷらが流行するまで、天ぷらといえばさつま揚げのことだった。(今でも西日本では薩摩
 揚げを天ぷらと言おます )
◇かすてらたまご
 卵に山芋や小麦粉を加え、カステラのように焼いた厚焼き玉子。ポルトガル人が広めたカ 
 ステラの製法がも元になっているとか。
◇芝えびの天ぷら
◇五色田楽
◇魚のすずめ焼き

※二の重

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◇こおり豆腐
 豆腐を寒天でつつんだ一品。寒天は東京産の糸寒天。豆腐は国産大豆にこだわって。
◇おぼろ大根
◇こんにゃくの煎りだし
 蒟蒻をごま油であげ、熱いうちに唐辛子、醤油に漬け込む。醤油には煎り酒を加えて。
◇蒸し羊羹
 これも寒天は東京産の糸寒天。
◇当座漬け
 江戸時代の食卓に漬物は必需品。大根、瓜、かぶ、小松菜等、近郊で取れた様々な種類の
 新鮮な野菜が使われた。
◇煮物
 近郊でとれた春の野菜(春夏は南瓜や筍、秋冬は蓮根や里いも)と、シイタケや生麩を使
 った品の或る煮物。

※三の重

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季節のご飯(たこのさくらめし)

※与の重

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◇つま(大根、人参、糸観点、大場、おごのり、小菊花びら)
 現代使われている刺身の「妻は、ほとんど江戸時代にもつかわれていた。糸観点は」八丈
 島産。おごのりには酒粕酢で作った甘酢であえてある。酒粕から造られた酒粕スは江戸時
 代後期に生まれた」握り寿司ニつかわれえいた。
◇カツオの焼き塩造り
 江戸では4月の初カツオが特に賞味された。
◇煎り酒・ねりからし
 煎り酒は、醤油が普及する前の、鰹節、梅干し、酒などを煮詰めた江戸時代の代表的な刺
 身の調味料。
◇霜降り鯛
 鯛は刺身の中でも極上とされた。川をンwっとぅでしもふりにしてかわごこいただく。
◇刺身こんにゃく

※味噌汁

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江戸時代、味噌は各家でつくられていた。使用しているのは江戸時代から続く老舗の麦みそ「えど味噌」。

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箸も環境にやさしい二重箸 菊のご紋が入っていて再利用をすすめている


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雑記帳2023-7-1 [代表・玲子の雑記帳]

2023-7-1
冬には冬の野菜を、夏には夏の野菜を、と、今年も夏野菜のレシピを作りました。
恒例の女性センターでの講座が好評だったので、ご紹介します。

◇鶏むね肉と夏野菜の蒸し煮

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≪材料≫4人分
鶏むね肉(皮なし)1枚、塩小さじ1/4、コショウ少々、片栗粉大さじ2、
夏野菜(玉ねぎ1個、ナス1本、カボチャ5mm厚さを4枚、アスパラ4本、キャベツ2枚、ミニトマト8個、その他なんでも。
オリーブオイル大さじ2、ニンニク2片、酒大さじ4、水またがゆで汁大さじ4、チキンスープの素小さじ1、塩小さじ1/4、

≪作り方≫
①撮むね肉は繊維を切るように3mm厚さにそぎ切り、両面に塩、コショウをふって、片栗粉をまぶす。
②鍋にたっぷりの湯を沸かし、①を入れて弱火で約く2分ゆでる。、浮き上がってきたら穴あきお玉などですくって皿にとっておく。
③玉ねぎは櫛形に切り、ニンジンは3mm厚さの短冊、ナスは皮を放射状にむき5mmの輪切り、カボチャも5mm厚さで食べやすい大きさにきる。キャベツは大きめの一口大にちぎり、アスパラは4mm長さの斜め切り、ミニトマトはへたをとっておく。
④深めのフライパンにオリーブオイルと大きめにスライスしたニンニクを入れて弱火にかける。香りがたったら火をとめて、玉ねぎを下に、あとは固い順に野菜をいれる。
⑤④に塩、スープの素をふり、酒、水をまわしかけ、蓋をして強火にかける。沸騰したら弱火にして2分蒸し煮にする。
⑥蓋をとり、②の胸肉、アスパラ、ミニトマトを入れて1分中火で加熱する。
③皿に肉をのせ、野菜をもりつけて残ったスープをかけてできあがり。

◇卵とトマトの炒めもの

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≪材料≫4人分
卵3個、トマト中2個、塩小さじ1/4、ニンニク1片、コショウ少々、片栗粉小さじ1(大さじ1の水でといておく)、太白ゴマ油大さじ1
≪作り方≫
①トマトはヘタをとり、一口大の乱切りにあうる。
②卵は塩を加えといておく。
③フライパンに油を入れて熱し、卵を流し入れてゆっくりと菜箸をまわしながらいため、皿にとる。
④トマトと大きめにスライスしたニンニクをいため、トマトの角がとれたら軽く塩、コショウをふって水どき片栗粉でとろみをつける。
⑤と③を絡めてできあがり。

◇オクラとゴーヤの和え物

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≪材料≫
オクラ8本、ゴーヤ1/2本、塩小さじ1/4、コショウ少々、太白ゴマ油大さじ1、クコの実大さじ1
≪作り方≫
①オクラは額の部分をむいておく。
②ゴーヤは縦半分に切って、スプーンで綿と種を取り除き、薄く切る。
③鍋に湯をわかし、オクラ、ゴーヤの順にゆでる。オクラは色が変わったらとりだし、薄く切ったゴーヤをいれて1分ほどゆでる。ゆでたら水にさらして水気をきっておく。クコの実はさっと洗って、ひたひたの水でもどす。
④オクラは3~4等分に斜め切りにする。
⑤ボールにオクラとしっかり水ケを切ったゴーヤをいれてよく混ぜ、粘りがでてきたら、塩、コショウ、ごま油を加えて和える。クコの実をかざってできあがり。
参加者からは、意外に短時間でできる、野菜が沢山食べられる、蒸し器が無くてもフラパンでできるのが良い、などの感想を貰いました。
太白ごま油は生搾りタイプで、昔ながらの低温あっ作法で搾ったごま油です。一般的なごま油のような香りはないが、さらっとした口あたりで、素材をいかしたい和食にはぴったりです。

6月はアジサイ電車に乗って箱根美術館へ。
大腸がんの手術から2か月たち、そろそろ遠出の足ならしに手ごろなバスツアーを見つけました。
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箱根湯本から強羅までの登山電車はこの季節だけ「あじさい電車」に

強羅にある箱根美術館は昭和27年に開館した、箱根の数ある美術館の中で最も歴史の或る美術館です。世界救世教の創始者、岡田茂吉が設立しました。
パンフレットには、商売で財をなした岡田が「美術品は決して独占すべきものではなく、一人でも多くの人に見せ、娯(たの)しませ、人間の品性を向上させることこそ、文化の発展に寄与する」との信念のもとに戦後、東洋美術の蒐集に勤めて海外流出をふせいだとあります。そのコレクションを収納展示するためにたてられたのがが箱根美術館でした。

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箱根美術館本館
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美術館エントランス

熱海にあるMOA美術館は実は箱根美術館の姉妹館です。昭和57年にMOA美術館が開館してからは、箱根はもっぱら中世の焼き物を中心に、縄文から江戸時代までの陶磁器を常設展示しています。
焼き物は、備前、丹波、常滑、越前、美濃、瀬戸、信楽等々、珠洲のような小さな釜まで、全国各地から集められたことがわかります。或いは室町時代の大甕や縄文の火焔形土器に至るまで、時代も多岐にわたっているのでした。

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到着して最初に案内された茶室「真和亭」で抹茶をいただきました。
この季節、ここは庭の苔が見事です。秋には同じ庭の紅葉を愛でるために訪れる入館者も多いと聞きました。

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美しい苔を見ながら真和亭まで。
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真和亭から眺める庭も人気。

「これこそ、ザ・ニッポンですね。」
美しい苔の庭を見ながらお茶を待っていると、隣にいた若い女性が声をかけてきました。
「海外の観光客はきっとよろこびますよ。」
「そういうあなたは?」
「私は中国から来ました。上海です。」
「折角だから誰さんと呼んだらいいのかしら?」
「山田です。」
「あら、ご主人が日本人なのね。お若いので独身かと思ってた。」
ひょんなことからすっかり打ち解けて暫くおしゃべりを楽しみました。一人参加のバス旅行のだいご味です。お茶のあとはよく手入れされた庭の散策をたのしむことができました。

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園内には小川のも画れている。
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急な斜面をそのまま生かした石の庭はその名も「石楽園」
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竹林の向うに本館が見える。

岡田茂吉は自然農法を唱えたことでもしられています。
自身の病を通して編み出された この農法の根本原理は「人肥や厩肥また化学肥料などを一切使用せず、 出来るだけ土を清浄にし感謝して栽培すると、土本来の素晴らしい力を発揮し、その地域に住んでいる人間や家畜を養うに十分な、美味な作物が豊富に収穫できる」というものでした。
そういえば熱海のMOA美術館にはショップにその農法を紹介するコーナーがありました。
岡田茂吉の名をしらずとも、或いは彼の作った世界救世教をしらずとも、今では自然農法で栽培された野菜を求める消費者は全国に大勢いるのではないでしょうか。
見学先は箱根美術館のみというゆったりした旅のお昼は、アジサイ電車に乗る前に、小田原の「右京」さんでいただきました。

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前菜のあとに出された青のり真丈のお吸い物
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ボリュームたっぷりのお重
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炊き合わせ
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デザートは小田和らしく梅の寒天寄せ


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雑記帳2023-6-15 [代表・玲子の雑記帳]

2023-6-15
◆今年は国立極地研究所が誕生して50年です。

立川市の学術エリアには、裁判所や国文学研究所と並んで国立極地研究所の付属機関、南極・北極科学館ががたてられています。

近年の気候変動が人類の脅威の一つであることは誰もが認めるところです。
国立極致研究所は、そのような地球の今後の変化を知る上で、重要な極致の観測を行う研究所です。極致の氷床、海洋、地形、地質、待機などの変動を、様々なアプローチで捉える、極めて重要な施設なのです。
南極・北極極科学館は一般市民に開かれており、自由に見学することができます。
梅雨入りして間もない一日、南極・北極科学館を訪ねました。

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案内してくれた渡邊研太郎さんは。南極観測隊には夏冬3回、越冬隊にも会参加した経歴の持ち主。お父上も第一次南極観測隊の隊員だったという南極一家です。

日本が南極観測に参加したのは1956年、国際極致観測年に参加したことが始まりです。私が小学校6年の時でした。輸送船「海高丸」や観測船「宗谷」の名は今も鮮やかです。。

昭和基地は、大陸の中ではなく、大陸から少し離れた東オングル島に造られました。
戦後処理に追われていた日本は観測に参加するのが遅れたため、主要な観測地点は既に他国に占められていたのでした。距離的には資材や隊員を輸送するのに不利な地点ではありましたが、後にオーロラ観測には最も適した場所であることが分かりました。
当時は砕氷船の機能もまだ十分ではなかったので、氷に閉じ込められた宗谷は身動きできず、ソ連の砕氷船に助けられたことがニュースになりました。

物資を運ぶためには犬ぞりが使われました。第二次越冬隊が引き揚げる際、そりを引いたカラフト犬を島においていかざるを得なかったことがありました。1年後にオングル島に戻った第三次越冬隊が昭和基地で生き残っていたタロとジロを見つけた物語は日本中を沸かせました。

日本の南極とのかかわりは実はもっと前にありました。アムンゼンやスコットが南極点到達一番乗りを競っていたのとほぼ同じころ、白瀬 矗(しらせのぶ)が南極を探検しています。この時も樺太犬が活躍しました。

科学館の前には樺太犬と並んで白瀬中尉を顕彰するモニュメントがたてられています。
樺太兼のブロンズ像は、殉職したカラフト犬を慰霊するために動物愛護協会が当初東京タワーの入り口に設置したものを、のちにこちらの科学館へ移転してきました。観測には厳しい草創期があって今につながっていることを教えてくれます。

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カラフト犬
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白瀬中尉のモニュメント

館内の歴史のコーナーには白瀬中尉の犬ぞりや観測初期の雪上車が展示されています。観測が始まったころの防寒具も今よりずっと大げさでした。驚くのは猫が1匹、この子は越冬もしたそうです。

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白瀬中尉の犬ぞり
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観測船ふじになって初めて導入された雪上車
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こちら昭和基地
基地の模型です。中央左の3階建ての建物が管理棟で、食堂、調理場、医務室などがあります。黄色いのが通路棟で居住棟からブリザードの中でも管理棟に行けるようになっています。

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温室効果ガスを測定~
南極大陸の土の上2000mから3000mは氷床となっています。この氷床を採掘するために、ドームふじ基地が設営されました。ドームふじ基地は昭和基地から1000キロメートルはなれたところにあります。氷床掘削ドリルの性能をあげる開発も含めて掘削には何年もかかりましたが、2007年、3000mの地点の氷を採取することに成功しました。3000mと言えば72、000年前の氷の層です。採掘した氷床コアに閉じ込められた大気を分析することで、100万年間の気候変動を測定することができると期待されているのです。
この氷は極地研究所の冷凍室や北海道大学低温科学研所に保管されています。

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アイスコア採取のための氷床掘削ドリル

地球は人の手が加わらなければ約11万年周期で氷期と間氷期を繰り返しています。現在は氷河期の中でも最も暖かい時代、間氷期(かんぴょうき)ですが、あと何万年かで氷期に入ります。(中には2030年に氷期がやってくる、という研究者もいるほどです)しかし、人類がこのままCO2を出し続ければ氷期に入る前にもっと気温は上がるだろうと考えられます。

近年の地球気温の上昇は目覚ましく、北極の氷がとける様子がよくとりあげられます。北極は陸地ではないので海面上昇はおこりませんが、南極は大陸です。氷はその陸地の上にのっているのです。もし南極の氷が全部溶けたなら、海面は60m上昇するそうです。渡邊さんによると、その状態になるまでには1000年単位の時間が必要だということでしたが、1000年2000年先には今私たちが立っているこの場所も海の中です。

CO2を吸収するのは植物です。陸や海の植物は光合成でCO2を吸収して有機物を作り、海底や陸上に腐葉土のように蓄積します。これが石油や石炭になっているわけです。このバランスが崩れ多くのCO2が吸収されずに残るようになると大気中に増えていきます。吸収する植物が増えたり、吸収できる機械を作れるようになれば酸素が増えるようになるのです。

高層気象観測用ラジオゾンデ
気象観測のためのゾンデで、ヘリウムを詰めて高度30㎞くらいまで上げて、気温、湿度、風速などを測る機械です。世界標準時の0時と12時の1日に2回測り、そのデータが世界中から衛星を使って世界気象機関へ集まり天気予報などが出されます。
オゾンの観測をするための観測機器もあって、それをもとにオゾンホールがどのくらいなのかを観測してもいます。

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南極の生き物
46次隊と一緒に帰ってきたペンギンがいました。親とはぐれたのか氷山の割れ目に落ちて凍って転がっていたので、連れ帰り剥製となってここにいます。宗谷の頃に持ち帰った剥製もあり、内臓は南極では汚染物質がどれくらいペンギンに入っているかを研究している愛媛大学に提供されました。
アザラシの背中につけて調査する機器やカメラ映像も展示されていました。氷山は地上100mくらいありますが、アザラシはその下に潜っていくので氷山の底の映像を撮ることができるのでした。
大きな皇帝ペンギン、小さなアデリーペンギン、そしてメロという大きな魚もいます。クジラの餌となるオキアミの水中写真を撮ったのは渡邉さんです。

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南極の石
南極に来た月の隕石と火星の隕石など、様々な隕石が展示されています。
月は実際にサンプルがあり、火星は太陽の光の当たり具合でどんな物質が含まれているのかが分かります。成分から火星から来たと考えられるそうです。
日本隊は隕石の集まりやすい場所や集まるメカニズムを研究して論文を出しました。それを見てアメリカなどの科学者も隕石探査に参加してきましたが、一時期は日本が1番多くの隕石を保有していました。

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南極漁協  
南極で釣った魚を食べることもあります。地上1.5mくらいの厚さに氷が張っているのでいつもできるわけではありません。「明日は漁協やるぞ」と言って参加者を集め氷に穴をあけるドリルと餌を持って出かけます。10m、20mに糸を垂れると、20cmくらいの大きな魚がまず釣れます。それからだんだん小さくなっていきます。釣り上げると調理係にもっていきから揚げにしてもらいます。寄生虫も見えるので刺身は無理だということでした。

南極条約の三原則
  ①領土権主張をしない。
  ②平和目的以外に使用しないため軍隊の駐留を禁止する。
  ③環境を守る。
気温の低い南極には他地域のような微生物も存在せず、排出物も分解されないので、基地には浄化槽をもうけるなど環境配慮は欠かせません。そのほか、焼却炉や燃料が漏れださないように船体を2重にする、輸送方式をコンテナにし木枠を使い使用後に燃やすのをやめるなどの工夫をしています。

人類が早々と南極条約を制定したのはまれにみる英知だったと思います。南極から何かを収奪するという思想が見当たらないのが久し振りに覚えた感動でした。南極だけでなく、地球そのものに対してもそういう姿勢が必要だったのかもしれないと思います。私たちは持続可能な未来のために今できることを考えていかなければならないと強く感じました。




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雑記帳2023-6-1 [代表・玲子の雑記帳]

2023-6-1
◆三光院の五月のおもてなし

小金井市にある尼寺、三光院では、春と秋に連続講座がひらかれます。
今年の春の講座は作家の林望氏が講師を勤める「リンボウ先生の平家物語茶話」。月1回で、4月から7月までつづきます。

よく比較される「源氏物語」は、最初から宮廷の女性たちに読まれるために書かれた物語でした。それに対し、「平家物語」ははじめから文字があったわけではなく、人々が耳から聞き、琵琶法師の口から繰り返されるうちに、次第に私たちの知る形に完成されていった文学です。その意味では日本人の感覚に訴えた、より完成度の高いものといえるかもしれません。

「平家物語」は戦記物であるにもかかわらず、生々しい戦闘場面は意外に少なく、登場する人物の人となりが丁寧に描かれています。かって『知の木々舎』に深澤邦弘さんの「平家物語における「生」」を連載したことがあります。深澤さんはそのとき、平家物語は敗者の文学、全編をつらぬくのは滅びゆく者への限りなく優しい眼差しだと言っておられました。人々の耳や口を通してできあがった物語は、まさしく当時の日本人の感性そのものだったにちがいありません。

5月の茶話は「平家物語」に登場する二人の公達を取り上げました。維盛と重衡です。
維盛は清盛の直系の孫にあたります。父の重盛が自身の父清盛の悪業を悲観して自殺してしまったため、図らずも平家の総大将にならなければならない立場にありました。
宇治川の合戦のおり、水鳥の羽音に驚いた平家軍団が戦をすることなく総崩れしたときの総大将です。

平家一族が都を捨て、西国へ落ち延びていく際にはいろいろな物語が生まれました。私は忠度の都落ちを高校の古文で読みましたが、巻七は「維盛の都落ち」の場面です。
正妻の北の方は、父親の中御門大納言が鹿ケ谷に加わっていた、いわば平家にとってはうらぎりものでしたが、維盛との仲睦ましく、二人の娘をもうけています。愛する妻子を都に残して落ち延びる中、維盛は家族に会いたさのあまり、都にとって返すのです。別れがたく取り交わす言葉の数々は、まるで映画の一場面を見るようにリアリスチック、聞くものが涙せずにはいられなかったでしょう。
でもこれでは戦に勝てません。かりにも総大将が一門をおいて妻子に会いにもどるなど、ありえない。余りに軟弱ではありませんか。

維盛については建礼門院に仕えた右京太夫が日記に残しています。女房達が夜の井戸端談義に励む中、ひょっこり部屋を覗いた維盛の様子が、源氏物語の光源氏が頭中将と青海波を舞うシーンのごとく、非の打ちどころのない美男子であったことが記されています。和歌や管弦に秀でて姿も申し分なく、平和な世であったならと誰もが思ったことでしょう。そして、戦記ものである「平家物語」は、軟弱な維盛を突き放すことなく、最期まで魅力のある人物として描くのです。
維盛は屋島におちのび、高野山で出家、巻十で入水して果てます。この期におよんでもなお、うじうじと妻子を思う維盛は余りに人間的です。

重衡は維盛のいとこです。
維盛が平家物語随一の美男子であるなら、こちらも勿論美男だが、平家物語随一の色好みであったらしい。
一之谷で生け捕りになった重盛は鎌倉へ護送されて頼朝の詮議をうけるのですが、頼朝は重盛に千手の前を世話係につけたところ、彼女はすっかり重盛に魅了されてしまいます。縁する女性はことごとく重盛にひかれ、その時点では誰をも幸せにする。でも武力に優れていたとは思えない。

重盛も上記の右京太夫の日記に出てきます。維盛と同じように夜半、品定めに興じる女房達の詰め所に現われて話の輪にはいります。このように、男性が女性の仲間入りをするのは、当時、日常のありふれた行為であったようです。
生け捕りになった重衡は出家はできず、斬首されるのですが、北の方は無事生きのびて大原の地で建礼門院につかえながら、夫を弔うのでした。

さて、茶話の会場は臨済宗三光院の十月堂です。
昨年秋に斉藤陽一さんの連続講座「「源氏物語絵巻をひもとく」に参加して以来、サロンにぴったりの雰囲気が好きになり、この春も通うことになりました。
秋は庭の紅葉が見事でしたが、4月は山吹でした。5月は新緑です。さほど大きくはない庭にも、季節の移り変わりは鮮やかです。

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秋の紅葉は今新緑
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庭には小さな石仏も
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十月堂窓外の竹林も柔らかい緑に

講座は知らなくてもお昼に出される精進料理をめあてに、毎日のように客が訪れます。
精進料理は究極のビーガン料理。日常に使えそうなメニューを見つけるのも楽しみのひとつです。
献立の中に、月替わりの品が一品あり、5月は「そら豆のわかめ煮」でした。
そら豆は400年前に日本に入ってきたそうですが、すっかり定着して、今が旬です。五月豆、お蚕豆、お多福豆など、いろんな呼び方があり、いかに愛されて来たかがわかるというものです。

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そら豆のわかめ煮

ついでにこの日のそのほかのメニューもご紹介しておきましょう。いくつかは昨年9月の雑記帳で紹介済みですが。

◇抹茶とササリンドウの紋最中。ササリンドウは三光院のご紋です。
さっき、急いであんを詰めた最中だと説明されました。ほんのり塩気があるのは大徳寺納豆。

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◇お煮しめ。ヤマトイモの海苔巻き、高野豆腐の含め煮、牛蒡の胡麻和え、南京の煮物、南天の葉ぞえ
黒と白、緑の配色が美しく、黄色があるとなお映えます。ヤマトイモの昆布巻きも使えそう。

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◇ごま豆腐の葛とじ

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◇香栄とう富(豆腐の燻製)
住職・香栄禅尼が極めた、他に類を見ない精進料理の珍味

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◇木枯らし(茄子の田楽)
茄子の半身が楽器の琵琶に似ていることから建礼門院愛用の名器「木枯らし」に因んで香栄尼が名付けたという。

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◇一口吸い物◇おまめのおばん(エンドウ豆のご飯)◇香の物

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料理にあう飲み物として京都の冷酒が奨められました。
生仕込みの美味しいお酒だそうです。

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三光院の厨房を仕切るのは、9月にこの雑記帳で写真で紹介した西井さんです。30年間フランス料理のシェフとして修行したのちに精進料理の道に入ったという、異色の経歴の持ち主です。

戦後日本が高度成長真っただ中のころ、16歳で渡仏。いとこの婚家である、イブ・シャンピ家に間借りして、料理だけでなく、フランスの文化にどっぷりふれたそう。フランスのかっての貴族シャンピの名を、聞いたことはありませんか。
シャンピ家を出てレストランを渡り歩いてフランス料理を修行するも、もともとシェフで食べて行くのが目的ではなかったということで、30年後に帰国しても定職にはつきませんでした。そんな日々の中でたまたま聞いた香尼禅尼の教えに魅かれて三光院に弟子入りしたということでした。
丁寧に心を込めて作る料理に私たちは心を動かされるのだと思いました。

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この日は猫のお出迎え


        


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雑記帳2023-5-15- [代表・玲子の雑記帳]

2023-5-15 
◆栃木県がかって「東の飛鳥」と呼ばれていたことをご存知ですか。

現在の栃木(那須を除く)・群馬県一帯ははかって「毛野国(けのくに)」と呼ばれていました。後に「下野(しもつけ)」と「上野(こうずけ)」にわかれ「毛」の字は消えましたが、「け」の音は残っているのです。

「毛」の由来は諸説ある中に、「蝦夷」を古くは「毛人」と呼んだからというのがあり、地理的に説得力があるような気がします。

3世紀から7世紀までの400年間、北海道や東北北部、南西諸島を除く日本列島各地に多くの古墳が造られました。各地域の首長によって作られていた大きな墓の特徴が3世紀頃に集められて、定型化した大きな墓が造られるようになったのですが、小さいものを含めると、その数は15~6 万ともいわれ、何と、今のコンビニの数より多いのです。
それだけ多くの権力者が割拠していた中で最大の勢力は畿内のヤマト王族でした。やがて、この王族を頂点として仰ぎ、従属的に同盟する形で大和朝廷誕生につながるのは中学校の歴史で習うところです。
この時期、栃木県内には1,100基の古墳が造られました。

古墳と言えば、だれしも前方後円墳を思いうかべますが、実は地域によって少しずつ形はことなり、下野に残る初期の古墳は帆立貝型、最古のものは前方先端が丸く広がる特別な形をしています。
5世紀になって多くが前方後円墳になるものの、それだって、中央とは違う、関東でアレンジされた前方後円墳だったといいます。古墳にも関東人の気概がみえかくれするようですね。
そして、畿内の古墳は埋蔵品の多くが盗掘されたのに対し、こちらはほとんど盗掘されることなく今にいたり、発掘と、出土した埋蔵品のかけらをつなぎ合わせる作業はずっとつづけられています。

下野市にある「栃木県埋蔵文化財センター」はそうした作業を経て修復なった埋蔵品を展示しています。陳列された土器の数々は実際に手で触れることもできます。
考古学一途の職員が古代と同じ製法で焼いたという土器も見せてもらいました。
センターには毎年、全国から埋蔵品の発掘調査報告書が集まって来ています。

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栃木県埋蔵文化センター
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修復された土器の数々
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埋蔵文化財センターのある一帯は「下野天平の丘公園」という名の、市民の憩いの場所です。国分寺跡、国分尼寺跡を整備した公園は、訪れたこの日(3月23日)は花まつり、下野薄墨(シモツケウスズミ)の桜が満開でした。
公園の一角にある「しもつけ風土記の丘資料館」を訪ねました。

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満開のシモツケウスズミザクラ
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しもつけ風土記の丘志朗館

ここでは、弥生墳丘墓から前方後円墳が出現するまでを学ぶことができます。
古墳づくりには大勢の人力が必要でしたが、出土品からはそこに渡来人が加わっていたことも見て取れるのです。

4世紀、朝鮮半島は高句麗、百済、新羅の三国に分かれた動乱の時代、百済は倭国と呼ばれていた日本との交流を深めていました。背後には中国からの脅威もあり、人々はなかなか穏やかにはいられなかった時代でした。渡来人の中には、今でいえば、避難民もいたのではないかと遅まきながら気がつきました。

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馬は権威の象徴だった
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特徴のある埴輪や埋蔵品
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ある首長の葬送儀礼で使われた什器の数々
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階級に応じた食事内容の展示が面白い(上から庶民、役人、貴族)

やがて7世紀、日本は飛鳥時代にはいります。
ここに登場するのが下毛野朝臣小麻呂(しもつけのあそんこまろ)です。
701年、文武天皇は大宝律令をさだめ、日本は律令国家としての第一歩をふみだします。この時、藤原不比等らとともに律令制定にかかわったのが下毛野小麻呂でした。19人中の4番目だったそうです。

中国語にも堪能だった小麻呂は相当優秀な官僚だったらしく、都で参議として活躍する一方で、下野薬師寺建立に力を注ぎます。寺は天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病快癒を祈って創建したのです。710年に都が平城京に移るときにも小麻呂の進言があったといわれています。

下野薬師寺は、奈良の東大寺、筑紫の観世音寺と並んで、日本三戒壇のひとつとなって、全国から多くの学僧を集めました。
下野は「東の飛鳥」とよばれました。

寺の跡地に隣接して建てられた下野薬師寺資料館には、発掘調査によって見つかった瓦をはじめとする出土品や文献、復元模型が展示されていました。

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下野薬師寺伽藍の模型
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出土した瓦

あまり知られていませんが、後に、称徳天皇(孝謙天皇が重祚)の死去にともなって失脚した道教が、宝亀元(770)年に下野薬師寺に別当として着任しています。歴史を習った当時、中学生だった私は、道教はてっきり死罪になったと思いこんでいました。道教は2年後に死去、庶人としてこの地に葬られたということです。

奈良時代、隆盛を誇った薬師寺はすでに力を失いつつありました。
朝廷は多賀城を築いて、下野を対蝦夷政策の拠点としました。全国に国分寺が建立されたのがこの時代です。
律令によって庶民の生活は管理され、4年に一度の戸籍調査も実施されていました。
税の取り立ては厳しく、下野の住民は毎年4人が一組となって、東山道を歩いて600キロの都まで租税を納めに行かなければなりませんでした。なおかつ、4人のうち2人は防人となって、さらに九州までの600キロを旅しなければならなかったのです。運がよければ摂津から出る船に乗ることができましたが、船便はしょっちゅうあるわけではなく、乗れなければまた歩くのです。下野は北の守りの先端であると同時に、西の防波堤にもさらされたのでした。

いったい、国を守るとはどういうことなのか。権力者が「国を守る」と言うとき、守る「国」とは何なのか。誰が守るというのか。律令を作った小麻呂さん、故郷の人たちがこんな目にあうことを想像したのだろうか。
そして、民主主義の時代に生まれてよかったねと思っている私たち、国を守るとさえ言えば有無を言わさぬところがあり、役にも立たない兵器購入に防衛費はとてつもなくふくらみ、それが何の議論もなく決まってしまう、沖縄の基地の問題はなんの進展もない、13oo年前の下野の住民とどこがちがうのだろう。

さて、県内に1,100基もあるという古墳は、7世紀になると前方後円墳は姿を消し、円墳や方墳に転換します。そして、7世紀後半には古墳の築造もなくなるのです。

下野市の南に隣接する小山市には県内最大級の前方後円墳である琵琶塚古墳と摩利支天塚古墳ががあります。墳丘の長さは約125m。6世紀にこの地に巨大な古墳を造ることができるほど強い力を持つ人物が誰であったのかはまだ謎のまま、古墳は国の史跡になっています。雨の降る中、琵琶塚古墳に登ってみました。
資料館には2つの古墳を含む周辺の古墳群から出土した遺物や埴輪が展示されています。ちなみに埴輪は古墳の外部に置かれたものなので、墓の中にある、いわゆる埋蔵品とは区別されています。

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菜の花畑の向うに琵琶湖塚資料館
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琵琶湖塚古墳
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樹木に覆われて気付かないが摩利支天塚古墳
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琵琶湖塚資料館の展示

最後の訪問先は県立博物館です。昨年、足利一族の歴史を訪ねて訪れたところですが、今回は下野の古代史をたどりました。 なかなか立派な博物館でした。

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県立博物館
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珍しい家型の埴輪

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雑記帳2023-5-1 [代表・玲子の雑記帳]

2023-5-1
◆毎年受けている後期高齢者健康診断、血圧が少し高め、コレステロールは善玉も悪玉もほんの少し高めであるくらいで、例年さほど緊張することはありません。ところが今年、想定外の事が起こりました。

「赤血球の値が少し低くなっていますね。」
「だって、正常値内じゃないですか。」
「去年に比べて低くなっているのです。胃かどこかで出血しているかもしれない。念のため、検査してみましょう。」

胃の内視鏡検査の結果は、若干ピロリ菌はいたものの除菌すれば問題なし。
「検便で出血の陽性がみとめられたので、大腸の内視鏡検査もしましょう。」
大腸の内視鏡検査とやらは、2リットルもの下剤を飲まされるという話を聞いたことがある。めんどうなのは胃カメラの比ではない、いやだなあ。
余り褒めた生活習慣ではないにもかかわらず、何を食べてもおなかをこわしたことはない、便秘も殆どしたことがない、ことから、私は、胃腸に関しては妙に自信をもっていたのになんということか。

内視鏡検査で、大腸の入口におできがあることが判明、ここから出血している画像を見せてもらって、上行結腸癌という立派な癌であることが分かりました。自覚症状などなにもないのに。
「この周辺のリンパ節を含めて30㎝ほど切ります。」
「30㎝もですか。」
「大腸は5mもありますからそれくらい切ってもなんということはありません。」

癌がみつかってもちょいとひとかきすればいいくらいに考えていた私はうろたえました。
7年前の手首の骨折を除いて、この年まで、全身無傷が自慢だった。お産だって自然分娩だ。(ちなみに体育教師をしていた私の妹は2度の帝王切開、アキレス腱断絶をふくめ、満身創痍である。)
「それじゃあ、日帰りはむりですね。」
「切ったあとは縫わなくてはいけませんからね。まあ、2週間くらいみておけばいいでしょう。」
「2週間もですか!」

冗談ではない。2週間も入院などしたことがない。そんなに長く家を空けるとなると、留守中が心配だ。ポストに郵便物がたまると不用心だ。 新聞は止めてもらわなくては。予定はみんなキャンセルしなくてはならないではないか。。大事な用事だってあるのに。
「これだけは出席したいのです。近くなので病院を抜けだすことはできませんか。」
「その年齢で、キャンセルできないほど重要な案件などありませんよ。」

4月11日
事前の検査やらなにやら、嵐のような日が過ぎて、人生初体験となる入院日をむかえる。
指定の時間にサポートセンターへ出向いて入院の手続き、5階のスタッフステーションにつくと、早速病院指定のパジャマに着替えさせられ、何となく病人ぽくなる。そういえば男性の看護師の増えた病棟ではスタッフの詰め所をナースステイションとは言わないのだ。ナースはウエイトレスやホステスと同様、もはや死語なのかもしれない。老害ばかりの永田町を後目に現場はどんどん変化している。
夜は手術前の最後の晩餐を味わって食べる。

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大腸カメラ食(全粥・煮込みハンバーグ・かぶ煮物・ツナサラダ・フルーツ)

4月12日 
朝から絶食。下剤リフレクスを2リットル飲んでおなかをきれいにする。
午後、付き添いの娘と一緒に手術の説明を受ける。コロナ下で面会禁止はつづいているが、この時ばかりは付き添いが必要だった。担当は30代の美人の女医さんである。一人で十分といったのに息子まで駆けつけた。日頃元気な親が癌と聞いて相当あわてたらしい。
腹腔鏡手術で、切り取る部分を取り出すための臍周辺も含めておなかに4か所穴を開けるという。開腹手術に比べれば格段に体に負担が少ないのだそうだ。

4月13日 
歩いて手術室に向かう。
麻酔と痛み止めの点滴は脊髄から。「あなたは背骨がまっすぐではないのでちょっと針をさす箇所を探ります。ダンゴムシになってください。」と言われて、足をまげ、肩も丸めてクラウチングスタイルをとったら、それは違うと、おもいきり肩を元に戻された。
「だってダンゴムシと言ったじゃないですか。」
「頭を下に傾けておへそを見る感じです。」
「なら、最初からそう言ってよ。」
まだ麻酔がきいてくる前だったから言いたいことを言う。後で知ったところでは彼女はダンゴムシのたとえを自分ながら気にいっていたらしい。それにケチをつけられたのではいい気はしなかったにちがいない。
目が醒めたら集中治療室にいた。ダンゴムシの痛み止めが効いてなんの苦痛もない。
ただ、痰吸入のために喉に挿管した後遺症か、声がでない。輸液の天敵は首からである。

4月14日
点滴をつけたまま集中治療室を出て病室へ戻る。大きな手術をしたとは思えないほどリラックスしていた。
尿管を外して、自分でトイレに行けるようになる。
リハビリ始まる。最初はベッドで足を動かすところから。療法士のお兄さんはマスク越しのイケメンである。コロナになってマスクのお陰でみんな美男美女だ。

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点滴の痛み止めが入っている袋 自分でボタンを押して自由に使える。

4月15日
痛み止めの点滴を外す。「痛いのを我慢できなくなったらいつでも言ってくださいね。」看護婦さんはやさしく言う。
深夜、急に気分が悪くなってトイレでしゃがみこんだ。駆けつけた看護婦さんが血圧をはかったら上が74だった。ほうほうのていでベッドに戻り、横になっていても心臓はパクパクするし、胃の辺りはむかむかする、とにかく内臓がひっくり返るような猛烈な気分の悪さだ。でも、これは痛みではない。看護婦さんをよんでもいいものか。患者初心者の私はいちいち言葉に引っかかる。そうこうしているうちにトイレに行きたくても起き上がれなくなった。痛みではないが看護師に頼るしかないと、ナースコールを押した。
頓服を貰って漸く眠る。

4月16日
3時間ほど眠って朝になり、だいぶん楽になっていた。医師の指示で胸のCTをとったが、血栓は見当たらず、昨夜の苦痛の原因は医師にもわからなかった。
声はまだ出ない。手術は成功したのに、声が出なくては社会復帰はできないのではないか。何かの会議に出て即座に意見が言えないようでは困る。世間はまだまだ、あんな人しか出せないのという目で見る。「その年では責任を持たなくてはいけない仕事は受けないほうがいいですよ。」と、分別ある言葉がきこえそうだ。そろそろ年貢のおさめどき?と、はじめて気弱になる。

4月17日
輸液の点滴がはずれ、術後はじめての食事が出た。絶食機関は丸5日間だった。記念すべき最初の食事は重湯100gと具のない味噌汁だった。

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術後はじめての胃消化食流動は朝・昼・夕とも重湯と具のない汁・ヨーグルトorジュース

麻酔の先生は私がまだ声が出ないのを心配している様子だ。この先生も女性だ。挿管の際、のどぼとけ近くの腓骨軟骨が脱臼したらしい。「あなたは喉が細かったので、ちょっと苦労したんですよ。」よくしゃべること、よく笑うこと、よく食べることを勧められた。
そうは言っても、誰と喋ればいいのだ。看護師さんは忙しくて声かけもしてくれない。
一番喋った相手はリハビリのお兄さんだ。動く度に血圧をはかり、「大丈夫ですね」と、ちゃんと教えてくれる。看護士さんは検温しても血圧測っても黙っていることが多かった。患者は知る必要がないとでも思っているのだろうか。確かに、患者が知ったところでどうなるものでもないのだ。それに、リハビリは療法士の領域だから、お互いにテリトリーを侵さないような仁義があるのかもしれない・・・。

4月18日
重湯から五分粥になる。食事の合間、補色と称して、10時と3時におやつが出る。日替わりのおやつは患者の楽しみだ。Ca添加のジュースはいかにも病院らしい。
相変わらず声は出ない。これは耳鼻科の領域なので、退院後は大学病院の耳鼻咽喉科を受診するよう勧められるが、これ以上病院はご免だと、夜中に喉に力を入れて必死で声を出す練習をした。声を出すには腹筋の力も必要だとよくわかった。

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胃消化5分菜 五分粥・白身魚みそマヨ・南京含め煮。キャベツ煮びたし
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10時のおやつ
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3時のおやつ

4月19日
経口食になって初めて大きいのが出た。色は明るい黄土色、するりと柔らかくて、いかにもできたてのようだった。腸がよくがんばっているのだと思えた。
夜中の練習のお陰か、かすれたりうらがえったりするものの、僅かに声が出るようになった。
リハビリ室でエアロバイクを10分こいだ。
子育て中、車のない我が家で、3人の子供を前と後ろに乗せて走り回っていたので、自転車には自信がある。しっかりこいで、退院後自転車OKのお墨付けを貰った。
五分粥から全粥になる。
退院が21日に決まった。万歳、予定より早かった。

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胃消化食(全粥・エビ野菜うま煮・冬瓜あんかけ・ツナサラダ・フルーツ)

4月20日
リハビリも今日で終わり。最後に、長い階段を上り下りして病院の外へ出る。パジャマ姿でお兄さんと一緒に病院の周りを一回りして、久し振りに外の空気を吸う。風が心地よい。
入院中、外科の手術が進化しているのに感心したが、リハビリの進化も目覚ましい。
宙を歩くようだった足取りが数日の間にちゃんと大地を踏みしめられるようになった。
領域が違うと言って紹介してくれた言語リハビリ士さんは、かすれ声でとりとめもなくしゃべるのを辛抱強く聞いてくれた。

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胃消化食(全粥・のしどり・チンゲン菜中華炒め・サラダ・フルーツ)

4月21日
朝食後の回診時に抜糸をして退院。何とか電話でタクシーが呼べるまでに声は回復していた。友達に来てもらってお茶するのも良いリハビリだと教えられた。
11日間の入院費用は手術、検査も含めて7万円弱。自己負担の限度額を超えた分はあとで戻ってくる。日本の医療制度はまことに優れた制度だ。アメリカに住んでいた友人が鼻血を出して病院へ行ったら200万円請求され、定年後永住するつもりでいたのが、恐れをなして日本へ帰ってきたのを思い出した。
留守中、娘夫婦が何度か家を覗いてくれていたのは有難かった。家は人の気配があってこそ。ひとりぐらしになれてすっかり忘れていたが、家族がいる有難さが身に染みた。

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最後の朝の食事 鯖、赤魚など魚がよくでたが、この日もメインは鱈の煮つけだった。



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雑記帳2023-4-1 [代表・玲子の雑記帳]

2023-4-1
◆毎年3月には全国各地で雛祭りが開かれ、どこかにお雛様を見に行くことにしている人は多いのではないでしょうか。私もその一人です。今年は丸の内静嘉堂美術館で、岩崎小弥太邸のお雛さまを楽しみました。

静嘉堂は、岩﨑彌之助(彌太郎の弟、三菱第二代社長)と岩﨑小彌太(三菱第四代社長)の父子二代によって創設・拡充され、現在、国宝7件、重要文化財84件を含む、およそ20万冊の古典籍(漢籍12万冊・和書8万冊)と6,500件の東洋古美術品を収蔵しています。

1892年(明治25)東京駿河台の岩﨑彌之助邸内に創設された文庫は、1924年には世田谷区岡本の地に独立した建てものになり、長く愛されていましたが、創設130年を期に、2022年から丸の内の明治生命館に移り、1階で展示活動をはじめています。三菱1号館のある丸の内一帯は、かって三菱が原と呼ばれ、彌之助が開発したオフィス街です。文庫がそこに移るのは本望だったのかもしれません。

岩崎家の雛人形は小彌太がたか子夫人の為に京都の人形師に特注したものと言われています。注文を受けたのは名匠の名も高い五世大木平蔵。おぼこ雛と呼ばれる、子ども仕立ての稚児雛です。木彫りに胡粉塗の仕立てで、歯は象牙、衣装は皇太子御成婚の設定という贅を尽くした作りで、天下の人形師・大木平蔵が3年かけて製作しました。昭和初期の人形製作技術の粋を集めた美術品だと言われています。着物や道具には。岩崎家の家紋である花菱紋がはいっています。大ぶりの内裏雛のサイズは男びな30.cm、女びなが25.5cm。ふくよかで、愛らしいお人形でした。

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岩崎邸のお雛様さまのポスター
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ふくよかなお顔の昭和の内裏様
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三人官女
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随身
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お道具の「一部(花菱紋が見える)
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楽器の一部

ひな人形と同時に展示されていたのは、静嘉堂の誇る窯変天目でした。
天目とは、中国の天目山一帯で焼かれた茶碗の総称。南宋時代、日本から多くの留学僧が修行の為に天目山をおとずれていました。茶碗を焼くことも修行のひとつだったのです。
中で、窯変は室町時代に唐物茶碗の最高位に位置づけられています。窯変天目は現在世界にわずか三碗しか存在せず、全て日本にあります。釉薬の奇跡と言われて、国宝に指定されています。

漆黒の器の内側には星のようにもみえる大小の斑文が散らばり、斑文の周囲は暈状の青色や青紫色で、角度によって玉虫色に光彩が輝き移動する。両手の中にすっぽりおさまってしまうほどの小ささながら、「器の中に宇宙が見える」とも評されるのです。

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窯変天目(絵葉書より)

この窯変天目にはエピソードがあります。
3代将軍徳川家光が病に伏す春日局を見舞った際にこの茶碗を下賜して薬を飲ませようとしたが、家光の疱瘡平癒祈願以来、薬を絶っていた春日局は飲まなかったと言います。その後、茶碗は春日局の直系の孫である稲葉正則蔵となりました。別名を稲葉天目と呼ばれる所以です。大正に入って稲葉家の縁戚小野氏のものとなった後、1934年(昭和9年)に小彌太にゆずられたのですが、小彌太は生前、一度も使うことはなかったそうです。「名器を私に用うべからず」という小彌太の言葉が残っています。
小彌太自身、東洋文化に深く傾倒し、表千家で茶の湯も習うなど、経済人であると同時に優れた教養人でもありました。彼の「私」せず自身を律する姿勢には心を打たれます。

静嘉堂文庫の入る明治生命館は、1934年(昭和9)に竣工し、古典主義様式の最高傑作として高く評価されて、1997年(平成9)に昭和期の建造物としては初めて、国の重要文化財に指定されました。 意匠設計は東京美術学校(現 東京藝術大学)教授であった岡田信一郎。1945年(昭和20年)9月12日から1956年(昭和31年)7月18日までの間、アメリカ極東空軍司令部として接収され、この間、1952年(昭和27年)まで2階の会議室が連合国軍最高司令官の諮問機関である対日理事会の会場として使用されました。マッカーサー総司令官もこの会場で開催された会議に何回も出席しています。
皇居が目の前にある、ロケーションも抜群の建物です。

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明治生命観全景
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明治生命観正面
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明治生命観の眼のまえは皇居のお堀

先述の三菱一号館を設計したのはジョサイア・コンドルです。かってのオフィスビルは今美術館となって、います。静嘉堂文庫美術館と合わせて、今、丸の内は、三菱が夢見たアートのある街になっているのです。

◆『知の木々舎』創刊時から『言葉遊び入門』や『こふみ会句会通信』を届けてくださっていたコピーライターの多比羅孝さんがなくなりました。60年代、一世を風靡したコピーの数々を世に出した多比羅さんと親交が続いていた鈴木茂夫さんが多比羅さんを偲ぶ弔文を寄せてくれました。ご本人の了解を得て、ここに掲載します。

多比羅孝兄を偲び
                       鈴木茂夫
 あなたの訃報に接し、深い悲しみを感じています。春代奥様はじめお子様の思いはいかぱかりかと推察しています。
 鎌倉時代の中期、13世紀に一遍上人は、南無阿弥陀仏・決定往生六十万人と書かれたごく薄い板を民衆に配り、極楽往生を呼びかけました。これがコピーライトのもととも言えます。
 さらに江戸、明治・大正時代の引き札にコピーライトの草創を見ることができます。
 今日に残されている引き札にはさまざまな商店の広告文案が記されていたのです。
 日用品、たばこから店の開店,改装などに使われています。また引き札には山東京伝、滝沢馬琴、十返舎一九、
仮名垣魯文、河竹黙阿弥などの文人も筆を染めています。
 あなたはこうした歴史の流れを汲んでいます。
 戦後のマスメディアが勃興していく時代のなかにいました。いまではコピーライターという職業は、マーケティングの主要な職種とされています。しかしそこにいたる道筋は容易なことではありませんでした。あなたはその先駆けとして道筋を切り開いたのでした。
  あなたは慶應義塾文学部を卒業されて株式会社小林コーセーに就職、宣伝・広報を担当して実力を身につけられました。同じ社内の春代様と結ばれ、素晴らしい家庭も創られました。
 そして広告集団を組織して独立、活躍されました。
 コピーライターという呼び名も、あなたと仲間たちの仕事の実績から認められていったのてした。
 あなたの制作した名キャッチ・コピーを思い出します。  

      きょうも元気だ たばこがうまい
       タバコは生活の句読点   

  あなたを世間が認めた心に残るコピーです。
 あなたは後に続く人たちのために著作を出されました。  

   コピーライター入門―ベテランから新人へ贈る
   実戦派コピーライター教室 
   だれでも上達 ビジネス文章作成術
   メモ式 気のきいた文章の書き方 

   これらの著作には、コピーライターとは何か、何を書くのかがわかりやすく述べてあります。多くの読者に歓迎されました。
 私が責任を持っていた東京・原宿のパレ・フランスの広報をお願いしました。すると、地下鉄表参道駅の6枚の壁面広告面に、あなたは自作の詩を掲載しました。柔らかい文面は地下鉄乗客の中から,褒めてもらました。
 私はテレビ・ニュースを専門としていたことから、あなたの業績の肝心なところが分かりませんが、そのお仕事ぶりには感嘆していました。
 仕事の現業から離れ隠居になり、インターネットマガジン・知の木々舎に、俳句のこふみ会を連載して頂くことになりました。才気あふれた方たちの句会です。もう117回にもなりました。     

      肩寄せて二人でいます二月です     
     美しき人帰り行く春の泥         
     ものの芽が突き上げている空がある       

  これがあなたの最期の句です。いつもの泰然たる作風の句となっています。     

       小町飛び 法師も跳ねて 歌留多取り  
       金目鯛で  呑んだのが最後  だったなあ  
       子らを噛む 獅子にもマスク お正月 
       多様性を 認めぬ国に 春は無く    

  これは2月の作品です。あなたの笑顔が見えてくるような雰囲気です。
   今やこれらの句を拝見して、あなたを懐かしむよりしかたありません。
   空白の時もかなりありますが、あなたに兄事し、お世話になった日々を懐古します。


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雑記帳2023-3-15 [代表・玲子の雑記帳]

2023-3-15
◆薬用植物園に春が来ました。
2月、10年に一度という寒波襲来のあと、3月に入ると一足飛びに春が訪れました。上旬に最高気温が20度を超え、5月の連休並みの暖かさです。小平市にある都立薬用植物園では樹木の花の饗宴です。

入口入ってすぐ目についたのはオウバイです。モクセイ科のオウバイは、迎春花と呼ばれ、他の花に先駆けて咲き始め、啓蟄のころにはもう見ごろを過ぎるようです。花は解熱や利尿に、葉は塗って傷やできものに効くそうです。

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オウバイの花

木瓜の花が満開。木瓜酒の原料になります。咳やのどの痛み、疲労回復、滋養保険、低血圧、不眠症などの薬効があるといわれています。

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満開のボケの花

桜の中でいち早く咲くのはカワヅザクラです。この時期、もう見ごろをすぎてはいましたが、淡いピンク色と紹介されますが、ソメイヨシノに比べればずっと色の濃い花びらが少し咲き残っていました。
この時期、ボケやサクラを始めとするバラ科の樹木は一斉に咲きます。アンズもバラ科。漢字で書けば「杏」です。漢方処方で咳止めや利尿に利用されます。

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アンズの花

園内には何本ものサンシュユの木があります。秋にグミに似た赤い花をつけるサンシュユは、春、黄色い小さな花をいっぱいつけて、この時期が一番見ごろです。漢字で書くと、「山茱萸」です。種を抜き取った果肉は乾燥させて、八味地黄丸のような漢方に処方されます。強精薬、止血、滋養強壮、頻尿、収斂、冷え性、低血圧症、不眠症に効用があるとされ、果実酒にも利用されます。こんなに多くの効用があるとは驚きですね。

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粒々の小さい花がカワイイサンシュユ

ロックガーデンにはキブシやトサミズキが咲いていました。
特徴のあるキブシの花は、早春の山や野原で見つけやすい樹木です。
トサミズキは庭木にも利用されているのをよく見かけます。名前の同じミズキ科ではなく、マンサク科に属します。そういえばシナマンサクの花はもう散ってしまって、写真を撮ることはできませんでした。

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独特の形をしたキブシの花房
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トサミズキの花

春の初めは樹木の花が中心ですが、ハルニチニチソウや、アイスランドポピー、クリスマスローズなど、草花もいくつか見ることができます。
ハルニチニチソウは欧州では止血剤として利用されたそうです。
クリスマスローズは根に毒があり、あやまって食べると死ぬこともあるそうです。
ジギタリスに似て強心配糖体ヘレブリンなどの毒を葉・根茎に含む。むかしは民間で強心剤・下剤・堕胎薬などとして使われた。摂取すると、嘔吐、腹痛、下痢、けいれん、呼吸麻痺、めまい、精神錯乱、心拍数の低下、心停止などをひき起こす。また、目や口・のどなどの粘膜がただれたり腫れあがったりする。と、ありました。

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ハルニチニチソウ
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アイスランドポピ(日本名ではーシベリヤケシ)
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クリスマスローズ

温室ではラン科のパフィオペライラムが見ごろでした。花屋さんで年中咲いているように見えるラン科の植物も、実はは春が旬なのですね。クマガイソウやアツモリソウと同じ仲間です。

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30分もあれば一巡できる広さがお年寄りには人気です。暖かくなると訪れる人も増えます。コロナの間休館していた草里舎では春の園芸教室も開かれるようになりました。園の西北側にある屋外集会場も利用される日が待たれます。

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草里舎
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屋外集会場

◆同じころ、国営昭和記念公園でも百花繚乱。
30分もあれば一巡りできる薬用植物園と違い、広い園内を巡るのは一日仕事です。開園して40年がたち、広さにあわせるように樹木も大きく育ちました。今年はコブシやハクモクレンが、暖かさに、あっという間に満開になりました。(ちなみにコブシは立川の市の花にもなっていて、街路樹にも多く採用されています。)
例年なら3月上旬が見ごろの枝垂れ梅はすっかり散ってしまいましたが、トサミズキやサンシュユは、日本庭園やサイクリングロードのあちこちに見られます。いずれも黄色の塊は遠目にも良くめだつのです。
園内の桜の種類は多く、カワヅザクラにはじまって、カンヒザクラ、シュゼンジカンザクラが次々に花を咲かせます。ソメイヨシノはちょっと遅く、後日、3月14日に、全国で一番早い、東京の開花宣言が出されました。平年より10日も早く、観測史上最早ということです。

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こぶし(第3サークル)
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ハクモクレン(みんなの原っぱ北駐輪所)
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カンヒザクラ(残簿川沿い、もみじ橋付近)
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シュゼンジカンザクラ(残堀川沿い、さつき橋袂)
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ヨウズイセンの花畑
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昭和記念公園のクリスマスローズ(花木園)

◆春休みは親子で「油で揚げないこロッケ」はいかが?
「食と暮らしと環境ろ考える会」の今年の春休み親子料理教師は、「油で揚げない魔法のコロッケ」を作ります。
◇コロッケ
≪材料≫(2人分)
 じゃがいも中2コ(300g)、玉ねぎ1/4コ(50g)、 豚ひき肉75g 
 塩・コショウ 少々  サラダ油(炒め用)大さじ1/2
  パン粉 カップ1(40g)、 サラダ油(パン粉用)大さじ1
 ソースとしてケチャップ大さじ゙1、ウスターソース大さじ1/2
  ブロッコリー適宜
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≪作り方≫
①フライパンに大さじ1の油を入れて、中火でパン粉をきつね色になるまで炒める。色は濃い目がいい。
②ジャガイモは皮つきのまま電子レンジで7分加熱する。様子を見て時間は調節する。
熱いうちに皮をむき、木べらなどでつぶしておく。
③玉ねぎは粗いみじん切りにして炒め、透き通ったらひき肉を加え、塩、こしょうで味付けして水気がなくなるまで炒める。
④じゃがいもとひき肉をよく混ぜ、食べやすい大きさに丸める。
⑤炒めたパン粉に丸めたコロッケの種を入れ、よくまぶして形を整える。小判型にしたほうがパン粉がつきやすい。
⑥ケチャップとウスターソースを混ぜておく。(このソースはハンバーグにも利用できる。)⑦お皿にコロッケを盛り、ゆでたブロッコリーをそえて、好みでソースをかけてできあがり。

◇フルーツサラダ
≪材料≫(2人分)
 リンゴ1/4コ、キウイフルーツ1/2コ、バナナ1/2本
 ヨーグルト大さじ2、マヨネーズ大さじ1/2、砂糖大さじ1/2
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 ≪作り方≫
①リンゴは4等分して5㎜のいちょう切り。
②キウイフルーツは4等分し、5㎜のいちょう切り。
③バナナは5㎜の輪切り。
④ヨーグルト、マヨネーズ、砂糖を合わせてソースを作る。
⑤フルーツとソースをさっとあえて出来上がり。

親子料理教室のレシピは、できるだけ子どもの手でできる工夫をします。今回は玉ねぎのみじん切りがちょっとむつかしいかもしれません。じゃがいもの皮むきは手袋を用意しました。そういえば、コロナの間に、調理やとりわけに手袋がすっかり定着しましたね。
レンジは今や調理に欠かせない道具になりましたが、食材に向き不向きがあるようで、私はまだまだ使いこなせません。ジャガイモは絶対にレンジ向き、糖化に時間のかかるサツマイモは向いていないようです。ブロッコリーもレンジだと美味しくないので、やっぱり茹でています
回を重ねて、最近はお母さんではなく、お父さんと子供の参加が増えてきました。


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雑記帳2023-3-1 [代表・玲子の雑記帳]

2023-3-1
◆昨年の秋、名古屋の「文化のみち」を歩いて明治・大正に建てられた近代建築をいくつか紹介しました。
そのうち再建された旧川上貞奴邸は、貸室を備えた「二葉館」となって、市民に開放されていました。展示室には。名古屋が近代産業の発祥の地であることが挙げられていました。

明治になって、武家屋敷の広大な敷地あとには、多くの工場が建てられました。瀬戸へのアクセスも良かったことから輸出陶磁器産業が盛んになったほか、マッチ、硝子、時計、バイオリンなどの工場もありました。豊田佐吉や大隈栄一が機械工業を興したのもこの頃でした。主たちはいまの「文化のみち」に、邸を構え、交流していたのです。

東京、大阪とは違った経済圏を確立していた名古屋の魅力は、「文化のみち」だけにと止まらず、郊外にも見つけることができます。その一つが揚輝荘(ようきそう)です。

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揚輝荘のシンボル「聴松閣」全景

「揚輝荘」は、大正から昭和初期にかけて(株)松坂屋の初代社長である15代伊藤次郎左衛門祐民の別荘として建てられました。
名前は、この地が月見の名所であったところから、祐民が漢詩の一部「春水満四澤、夏雲多奇峰、秋月揚明輝、冬嶺秀孤松」からとったものといわれています。

伊藤祐民は、江戸時代から続く「いとう呉服店」を明治43(1910)年に株式会社化し、名古屋では初となるデパートメントストアを栄に開店しました。
開店に先立ち、 日本実業家渡米団に名古屋の代表の一人として参加しています。最年少で渡米団に参加した祐民は、団長を務めた渋沢栄一をはじめ、東西の代表的実業家との交流を帰国後も続けて、視野の拡大と全国的な人脈づくりをおこたりませんでした。名古屋商業会議所会頭に就任するなど、名古屋経済界のリーダーとして、名古屋の発展に尽力した人物です。

揚輝荘の命名でも分かるように、祐民は漢詩や古典にも造詣の深い教養人でした。
幼い頃から狂言、漢学、茶道、絵画、弓道など多方面の学芸・趣味を学び、各界の名士との幅広い交際にその才能を発揮しました。社交の場として構築された揚輝荘で園遊会、観月会、 茶会などが催されましたが、造営にあたっては祐民の趣味が反映されているといいます。

アメリカの博覧会に参加したおりには、帰路、一人世界を回って異国の文化にも触れようとしました。揚輝荘にはその時触れたインドや中東の文化がとりいれられています。若い伊藤祐民が初めて触れる異国の文化に目を輝かせた光景が目にうかぶようです。

揚輝荘は街なかから外れた郊外の丘陵地にあります。
南園と北園を合わせた広さは約1,000㎡。北園には伴華楼(ばんがろう)と呼ばれる山小屋風の建物、池泉回遊式の庭には白雲橋や茶室が点在し、園遊会や茶会がひらかれたことを偲ばせます。

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池にかかる白雲橋 
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白雲橋から茶室を眺める

南園の中心は聴松閣と呼ばれる迎賓館です。枯山水のの庭を持つ聴松閣には、皇族、政治家、実業家、文化人など各界の名士が集いました。地下から2階までの各屋に各国様式がミックスされた、祐民の思いが一杯詰まった建物です。

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堂堂とした玄関
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応接室の暖炉(イギリス風) 寝室は中国風、など各部屋に異国趣味が覗く
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ダンスホールの暖炉のレリーフはインドの趣味
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車寄せの天井のライト 角を見せず、1枚の面のようにしあげている。

社交場としてだけでなくアジアの留学生の寄宿舎としても利用された建物は、今、市民交流の拠点になっています。

名古屋の近郊、岡崎には本多忠次の邸が移築されています。
スパニッシュ様式の建物は、少し時代が下がって昭和初期ということです。旧岡崎藩主本多家(本多忠勝系)の末裔にあたる本多忠次が、昭和7年(1932年)、東京・世田谷に建てた住宅と壁泉の一部を移築し復原したものです。
近くには徳川家康の生家もあり、岡崎市は家康ゆかりの本多家の建物を保存することで町づくりに役立てているようです。

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スパニッシュ様式の本多忠次邸全景 前庭には小さなプール、壁泉がある
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邸内の随所にステンドグラス
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実際に住んで生活していたので寝室はシンプル

クラシック建築を見た後は、ランチもクラシックホテルでいただくのはどうでしょう。
蒲郡クラッシックホテルは近代化産業遺産に指定された、日本で最古のホテルです。

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蒲郡クラシックホテル
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重厚なダイニング

100年以上の歴史を誇るホテルの前身は料亭旅館・常盤館です。
明治の料亭は昭和の初めにホテルにうまれかわり、蒲郡プリンスホテルの名で知られた時期もありました。私など、新幹線を利用する度に、窓から、丘の上に立つホテルの遠景をながめたものです。三河湾の海の幸、愛知伝統の味噌や醤油等の文化を背景に、美味しいランチが頂けます。

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アミューズ(サーモンとカボチャのテリーヌ)
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本日のスープ
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白身魚2種のアモンド風味ソースタイム
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パティシエ自慢のデザート

◆国営昭和記念公園の日本庭園内にある盆栽苑が人気です。

コロナ下に展示内容も制限されて時がたちましたが、樹齢数百年の柏の樹など見どころ十分。今や盆栽は高齢者の専売特許ではなさそうで、若いカップルも気軽にたちよっています。梅が終わった今は「紅房桜」の盆栽が目を引きました。

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盆栽苑入口
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五葉松(樹齢130年)
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樹齢250年の真柏
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紅房桜


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雑記帳2023-2-15 [代表・玲子の雑記帳]

2023-2-15
◆東京に大雪警報が出された日、念願だった雪の大内宿を訪ねました。

Wikipedeiaでは、大内宿は、福島県南会津郡下郷町大字大内にある、江戸時代における会津西街道(別称:下野街道)の「半農半宿」の宿場の呼称、とあります。
「半農半宿」については、最初は本陣と脇本陣を備えた参勤交代の宿場町でしたが、後に参勤交代の主要な道筋から外れたために、宿場だけでは立ち行かなくなったためでした。
明治期の鉄道開通に伴って宿場としての地位を失いましたが、茅葺屋根の民家が街道沿いに建ち並ぶ景観は引き継がれ、人々は店舗兼住宅として生活しています。

1981年(昭和56年)に重要伝統的建造物群保存地区として選定され、福島県を代表する観光地の1つになりました。旧宿場としては長野県妻籠や奈良井宿に次ぐ3番目の指定でした。
町では、この大切な村・宿場の景観を未来の子供たちに引き継いで行くために、住民憲章を作って「売らない・貸さない・壊さない」の3原則を守り、景観保存と伝統的な屋根葺きの技術習得、継承に全員で取り組んでいます。
訪れた日も、観光客のために見晴台までの雪かきが町の人の手で行われていました。

こうして、観光地としての人気もたかまりましたが、順風満帆だったわけではなく、高度成長期には、古い町並みとそこでの暮らしぶりがいかにも時代遅れ、誰がこんなところに行くだろうかと言われた時代もあったということです。その後も東日本大震災やコロナ下では観光客が激減するなど、何度か危機を乗り越えてきたのでした。
訪れる観光客は若い人が圧倒的。リピーターもいるようで、同乗のツアー仲間には、夏に一度来たけど冬の大内宿が見たくてまた来たという人もいました。コロナが解禁になって海外からの客も戻ってきた様子です。店番をするおばあさんとの会話を楽しむ風景も見られました。

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見晴台から見下ろした大内宿
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本陣が雪祭りの案内所に
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本陣前にあった雪像

雪の見晴台から落りてきて最初に入った店で蕎麦煎餅を買いました。ふと目をやると、マネ猫ならぬ小さな蛙の置物が2匹、しきりに手をふっている。
「あら、おいでおいでしているのね。」と言うと、
「この子はソーラーで動いているんだよ。夜になったらこの子もお休み。」とおばあさん。
昔の暮らしを守りながらさりげなく近代化もとりいれていたなんて、おばあちゃん、かっこいい! ついでに写真をとらせてもらいました。

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かえると一緒に店番のおばあさん
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土産物屋の店先にあった布の野菜の吊るしもの 厄除けや健康祈願に。
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自由にお茶飲んでと勧められた試食の漬物 中でもおすすめは高菜ときくらげのしぐれ煮

会津といえば蕎麦です。宿場を歩けば何軒もの蕎麦屋さん。みな「ネギそば」と書いてある。東京で見る、千切りの葱が山ほどのったネギラーメンの蕎麦版だと思いきや、さにあらず、丸々1本の葱が丼にのっている。ネギを箸替わりにして食べるのだそうです。
これが意外に難しいらしい。上手だねと言われていい気になり、一緒に葱も食べすすんだものの、1/3を残して辛さにgive up。でも葱蕎麦は十分堪能しました。座敷の別の席にタイからの団体がいたのだけれど、ネギ、うまく食べられたたかなあ。

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お昼を食べた叶屋本家
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ネギそば

蕎麦についてきたのは「しんごろう」。半つきにしたご飯にじゅうねん味噌をぬって焼いた会津自慢の郷土料理です。会津出身の友人がしきりに口にしていたじゅうねん味噌とはこれかと思いながら、五平餅に似たしんごろうを楽しみました。食べ応え満点です。

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囲炉裏いっぱいに並べられたしんごろうは壮観でした。

会津は豪雪地帯です。石高は低く、生まれた子供も十分に育てられないくらいに農村は貧しかった。幕末に諸国を歩いて会津にやってきた吉田松陰がこの話を詳しく聞こうとすると、古老は言葉を発することなく涙したという言い伝えがのこっています。松陰が世を変えたいと思った動機のひとつだと言われています。(世襲の多い今の政治家にその気概有や?) 今なら蕎麦は健康食ですが、米の食べられない庶民が常食としていたのを思えば、しんごろうは大したご馳走だったに違いありません。
残念なことに、しんごろうの意味をききそびれましたが、友人によると、どうやらこの食べ方を発見した人の名前らしい。

大内宿の雪まつりを見るために前日の夜、七日町駅に近い「渋川問屋」で会津の郷土料理をいただきました。

江戸時代から明治にかけて、北海道と大阪を結ぶ北前船が日本海を往来していました。
寄港地の新潟から阿賀野川を上り、北海道の身欠きニシンや棒タラなどの干物が会津にも運ばれていたのです。渋川問屋は明治15年(1882)初代・渋川善太郎が海産物問屋として創業したのが始まりです。

渋川問屋は会津一の海産物問屋として隆盛を極めましたが、現在ではその役割を終え、料理と宿泊のできる宿になっています。大正期に建てられた建物は隆盛期の姿をとどめ、美しい格子の風格ある佇まいは通りを行く人々の目を奪うほどです。ステンドグラスの施された内部など、随所に大正ロマンの香が漂います。

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渋川都問屋前景
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ステンドグラスは女子用トイレにも

ここはまた、昭和初期2.26事件のおり、唯一民間人として処刑された渋川善助の生家でもあります。善助ゆかりの部屋が今も「憂国の間」として店内に保存されています。

いただいた「祭り御膳」は身欠きにしんや棒たらをメインにした会津強度料理のフルコースです。海に面していない山国の会津は京都に似て、干物料理を工夫したのです。北海道のニシンやタラが内陸の会津まで運ばれた経緯を想像しながら、料理にかかる手間や時間も思い合わせて頂く味は、瀬戸内海で簡単に新鮮な魚が食べられる場所とは違った、格別なものでした。最後に出た会津牛もおいしかったです。会津塩川町で飼育される幻の会津牛は、極上の献上牛として評価も高く、コース料理で十分おなかがふくれているはずなのに、わずか40gが惜しかった・・・。

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棒たらやニシンののった祭り御膳
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にしんの昆布巻き
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会津塩川牛のステーキ

なかで、珍しかったのは「こづゆ」と呼ばれるお吸い物でした。会津では冠婚葬祭やお正月に振舞われる郷土料理だそうです。
貝柱でだしを取り、里芋やきくらげ、豆麩などを入れた具だくさんのお吸い物は、手塩皿と呼ばれる、こづゆ用の会津塗の浅い椀で出されました。

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こづゆ

この時期、北国ではいろいろな所で雪まつりが開かれます。
大内宿の雪まつりついでに、県を超えた栃木県、日光は湯西川温泉の平家の里の雪まつりを覗きました。

湯西川は、その昔、平家の落人が湧き出る湯で傷を癒したことから平家の里としてしられています。
温泉郷のバス停の前に平家の里はあります。地名もそのまま平家集落。
住民には「伴」姓が多く、「平」の文字を隠した「半」の字の中に、子孫が平家の出であることを忘れないようにとの思いを込めて、「伴」を名乗ったのだと言われています。
雪のかまくらを見に大勢の家族連れでにぎわっていました。
かまくら祭りの期間は長く、1月末から一か月も続きます。それだけ雪が深いのですね。

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前日降った雪がまぶしい会場
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一番人気はやっぱり「かまくら」
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里のくらしを支えたのは狩猟。展示館の中には熊や鹿のはく製、民具の展示も。


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雑記帳2023-2-1 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2023-2-1
◆立川にある小さなスタジオ、「ラララ」で宮沢賢治の「オツベルと象」の朗読の会があるという知らせが、暮に赤川ボンズさんから届きました。

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私の世代では「風の又三郎」や「注文の多い料理店」など、学校の国語の教科書で宮沢賢治に親しんだ人は多いのではないでしょうか。
記憶では小学校の高学年で「オッぺルと象」を読んだ覚えがあります。(「オッぺル」と覚えていましたが、その後賢治の自筆の原稿が発見されて正しくは「オツベル」だったということです。)

「オツベルときたら大したもんだ」と小作の農民が語る言葉で話が回っていきます。
ある日、迷い込んだ白象をうまく手名付けたオッぺルは象に仕事を与えます。最初は簡単な仕事から段々力のいる仕事へ、そして象に与える餌は少しずつへらしていき・・・。気のいい象はオツベルの言いなりに仕事をこなすうち、衰弱して、とうとう月の力を借りて仲間に助けを求めるのです。

仲間たちは大挙して森から出てオツベルの屋敷を襲い、象を助け出します。教科書に載っていたので音読させられました。森の象たちが走ってくる場面は迫力があった、衰弱した白象が月を仰いで話しかける言葉は弱弱しく、読みながら声がふるえた・・・子どもの頃のそんな場面が想い出されました。

「(大したやり手だった)オツベルはもういないよ」で終わる物語に、オペラシアターこんにゃく座の荻京子さんが曲を付けて、クラリネット奏者の橋爪恵一さんが伴奏しました。荒井純さんと坪田直子さんの二人の語り手による朗読は、子どもの頃の記憶そのままに、迫力満点だったり、悲しかったり、賢治の世界が蘇るようでした。

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(左から)荻さん、新井さん、坪田さん
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クラリネットの橋爪さん
                          
耳に残るのは象たちの雄たけびです。グララアガア、グララアガア・・・。
作品の中で何度もくりかえされました。
そういえば、又三郎が現われるときの風の音は、どっどど どどうど、どどうど、どどう・・・、
賢治はオノマタペの名手です。

「ラララ」は舞台と客席の境もない、30人も入ればいっぱいになる小さなスタジオです。
椅子を並べただけの観客席には子どもたちの姿も見えて、とてもアットホームな雰囲気でした。子どもたちも語り手の「グララアガア」には目を丸くして興奮の様子でした。
70才を越えたベテラン女優の荒井さんのグララアガアーは迫力満点、顔のしわなんぞ全然みえなくなる。さすがです。

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一部と二部の間にはお茶も出る。

この日のステージは二部構成で、「オツベルと象」に先だって、金子みすゞやフランスのプレベールの詩に荻さんが作曲した歌が紹介されました。歌ったのは上記のお二人です。
12の詩の最後に紹介されたのが賢治の「馬」でした。

        宮沢賢治『馬』

いちにちいっぱいよもぎのなかにはたらいて
馬鈴薯のようにくさりかけた馬は
あかるくそそぐ夕陽の汁を
食塩の結晶したばさばさの頭に感じながら
はたけのへりの熊笹を
ぼりぼりぼりぼり食っていた
それから青い晩が来て
ようやく厩に帰った馬は
高圧線にかかったように
にわかにばたばたいいだした
馬は次の日冷たくなった
みんなは松の林の裏へ
巨きな穴をこしらえて
馬の四つの脚をまげ
そこへそろそろおろしてやった
がっくり垂れた頭の上へ
ぼろぼろ土を落としてやって
みんなもぼろぼろ泣いていた

賢治がの花巻農学校で教師をしていた時の実感がこもっていますね。

荻さんは、労働者の音楽運動にかかわって、働く人の詩に作曲する機会があったとか。12の詩の中に「銭」という詩がありました。詩を書いたのは旧国鉄で働いていた人でした。
昔、労働歌が流行った時代がありましたが、今は時代送れで、誰もそんな歌は歌わないと思っていました。それでも「よいとまけの歌」に再び人気が出た例もあります。形を変えて、新しく生まれた曲は、戦いの歌ではなく、日々のくらしを紡ぐシャンソンのように歌いつがれていくのかもしれません。これは子どもにはちょっと難しかったようです。

出演者が身に着けていた衣装は、あの東日本大震災で被災した着物をリメイクしたものでした。被災して泥だらけになった着物を洗って、舞台衣装にしているのです。
震災の記憶を伝えるために、「ラララ」の音楽プロデューサー、しおみえりこさんは、その端切れを50センチ四方のパッチワークにする活動をつづけています。趣旨に賛同して世界47か国から寄せられたパッチワークは2800枚をこえているそうです。そのうち2000枚は2022年2月に、被災着物の郷里、石巻におくられたということです。

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橋爪さんの着ていた服も震災着物 写真撮らせてと言ったら後ろを向いてくれた

銅板造形作家の赤川ボンズさんは「オツベルと象」のパンフレットのイラストを手がけました。赤川さんも、修業時代の一時期、宮沢賢治のイラストを片端から描いていた時代があったというここです。「ラララ」の壁には赤川さんの銅板作品のデッサンが並べられていました。

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「オツベルと象」のイラスト
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壁に飾ってあった赤川さんのデッサン画
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ボンズ工房の赤川さん

◆立川駅南口の農産物直売所「のうかる」を紹介します。

JR立川駅からモノレール沿いに徒歩5分、昨年6月に立川市魅力発見拠点施設CotoLinkが誕生しました。Coto Linkは、「こと」と「つながる(リンク)」をを意味する造語で、「賑わいと多摩の魅力発信」を目的に誕生しました。建物は、多摩の情報発信を進める東京都と立川市の合同施設です。

1階にある 特産物販売所は、「LULU Terrase(ルルテラス)」の名で、カフェもそなえたお洒落な直売所になりました。カフェはJIBAR Cafe、(JIBARを地場に掛けているらしい、このダサさがいかにも立川的の感もあります。)物産エリアが「NOWCAL BAZAR」です。
毎朝届く旬の地場野菜だけでなく、加工品や多摩地域の特産品も販売、姉妹都市の長野県大町市のアンテナショップにもなっています。

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カフェには大町市のパン屋さんのパンもおいてある(写真はアップルパイとカンパーニュ)

郊外にある農産物直売所はめずらしくありませんが、駅から至近距離にある「のうかる」は、その利便性から、スーパーマーケット感覚で利用できると人気です。カフェも、朝食、ランチだけでなく、夜まで対応できるとあって、利用する客もひっきりなしです。年明けて訪れた日は土曜日、子ども連れの若いお母さんたちでにぎわっていました。


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雑記帳2023-1-15 [代表・玲子の雑記帳]

2023-1-15
◆今年はホテルで新年をむかえました。

秋に、四国に住む妹から思いがけない電話がありました。
妹の連れ合いは娘が大学に入学したときからの箱根駅伝ファンで、毎年のように箱根を走る若者を応援するため、正月3日を家族で箱根の富士屋ホテルに滞在しています。
世に箱根駅伝ファンは多くて、この時期にホテルの予約をとるのは難しく、旅行会社に相当早く予約をいれて待つというのが現実らしい。それを、たまたま暮れの31日から入れてしまった、折角取れたのをキャンセルするのはもったいないから誰か行く人はいないかという相談でした。

もう一人の妹に声をかけて3人姉妹で泊まるのはどうか。これはなかなかの名案に思えました。コロナ下でもう何年も会っていない。この夏の母の7回忌にも、小さい孫がそばに入る彼女は大事をとって来なかった。積もる話もいっぱいあるだろう・・・。妹の誘いの電話は、感染者数もぐっと減って、そろそろコロナも収束かとさえ思えた時期でもありました。

と、ここまでは調子よかったのですが、世間はそう甘くない。
一人くらしをするようになって10年以上になる私とは違い、(誘ってくれた妹も、夫はいるが、子ども3人は既に学校を卒業して東京に住んでいる)彼女はまだまだ一家の主だったのです。
「もう古稀なんだから、孫だって手はかからなくなっただろうし、少しは家をあけたっていいんじゃない?」
そう考えるのは独身の身軽さ。「主婦が大晦日に家をあけるのは無理」が現実でした。

ジェンダー論議かまびすしいご時世、「主婦」だって死語になるかもしれない時代に、いかにも時代遅れのように思われるかもしれません。でも、視点を変えれば、離れていた家族が正月に集まってくる、その中心に「主婦」である彼女がいるのは、独り身にはない、安定した平和な社会の構図なのかもしれません。多少の自由には替えられない、でしょうか。

いろいろあって、結局、いきなりの話にすぐのれるほど身軽だった私と、我が家の息子家族の、5人が、箱根の富士屋ホテルで大晦日を過ごすことになりました。
私としても贅沢なホテルでお正月なんぞ思ってもいなかった、多分、最初で差後だろうと思いながら・・・

というわけで、あとは写真でクラッシックホテルのお正月をお楽しみいただきましょう。

出発は新宿。小田急ロマンスカーで1時間半で湯本につきます。

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湯本からは箱根登山電車に乗り換えて宮の下まで。

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宮ノ下にある富士屋ホテルは明治11年に建てられた日本初のリゾ-トホテルです。
最近大規模な改修工事を終えてリニューアルオープンしたということですが、明治のクラシック建築の趣を残して、建物自体、見ごたえががありました。

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本館ロビーに入るとクラシック映画のような空間が広がり、非日常の滞在への期待感が膨らみます。
訓練の行き届いたスタッフは皆、コンシュルジュの自負をもつとか。空間が広いこともあって、満室にもかかわらずざわついた空気はなく、客も落ち着いたその雰囲気を楽しんでいるようでした。

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明治24年製の暖炉 これで4部屋が暖房できたという
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ロビーに隣接するラウンジ

大晦日には特別なメヌも用意されています。夕食前のひと時、弦楽器によるロビーコンサートは、懐かしい日本の小曲もふくまれていて、孫たちもすっかり満足したようすでした。

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夕食はフレンチのクラッシックデイナー。味もまことにクラシカルで、お替り自由のパンも美味しかったです。

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3棟ある宿泊棟のうち、私が泊まったのは花御殿と呼ばれる棟です。富士屋ホテルのシンボルと言われて、本館と共に国の登録有形文化財になっています。

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箱根と言えば温泉。改修に伴って新たに造られたというスパのお湯は申し分ありませんでした。
西の人間にとって箱根はあまり縁のない所だったのですが、東京からこんな近くにいい温泉がある箱根を見直したと、ひとしきり温泉談義に花が咲きました。

元旦の朝は洋食、和食、おせちのいずれかを選べるようになっています。
おせちは元旦にだけ出しているということなので、勿論おせちを選びました。
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メインダイニングも門松
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お正月なので着物姿のスタッフも。ロビーで琴の演奏を楽しみました。


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チェックアウトして外に出ると、2日からの駅伝をみるためか、前日とうって変わって、1号線は車の列ができていました。
昔から箱根は天下の険、登山鉄道はスイッチバックを2度もくりかえします。駅伝選手はこの坂道を走るのかと感心することしきり。駅伝目当てに元旦の夜からホテルに泊まる妹夫婦と湯本で落ち合い、お昼に一緒に蕎麦を食べて別れました。
年末年始の特別の日でなければ、予約もとりやすくリーズナブルに泊まれる、温泉を楽しみに普通の日に来たいものだとはみんなの感想でした。



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雑記帳2023-1-1 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2023-1-1
◆新年おめでとうございます。
コロナもウクライナも、気候変動も少子化も、人類が背負いきれないほどの重荷を抱えて年が明けました。それでも、年があらたまると、不思議に明るいきもちになります。平和な年になりますように。

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2023年の干支(えと)は癸(みずのと)卯(う)。
干支は60年で一周するので、前の癸卯は1963年でした。私が大学入学した年です。
この年の秋、ケネディが暗殺されました。
暗いニュースばかりではなく、イギリスではビートルズが、日本では坂本九の「見上げてごらん、夜の星を」が大ヒットした年でした。
癸卯は飛躍の年といわれます。課題を抱えながらどんなふうに成長するのか、楽しみではあります。
暮らしの中に句読点を掲げた『知の木々舎』も、5月から15年目にはいります。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

◆昨年秋に受講した「国宝源氏物語絵巻を読み解く」講座にちなんで、「源氏香といにしえの遊び」が開かれました。

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会場には三光院が所有する平安の遊び道具のしつらい。

絵巻には主人公たちが碁をうつ場面や、梅や桜を愛でる場面が描かれていました。平安の貴族たちは何かにつけ遊んだのです。文字通り、今様の「あそびをせんとやうまれけん」の世界を地で行くようではありませんか。

先ずは花鳥風月を愛でる遊び。正月の小松引きから始まって、春の桜を見る会は桜狩と呼ばれました。夏の観月会に秋は紅葉狩、冬は雪遊びです。

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伊勢物語絵巻に見える花の宴
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源氏物語図色紙に見える紅葉賀

物を合わせる遊びもあります。
歌合せ、絵合わせ、貝合わせ、香合わせ。

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貝合わせの貝

中で、香合わせは、もともとは日本にはなかった香木が淡路島に流れれ着いたのがはじまりとか。男女を問わず、着物に香を薫きしめました。
香木は「沈香」で、香木よりも先に伝来していたといわれる仏教と当時の政権状況も相重なって、仏教の普及とともに、日本独特の香りの文化が生まれたのです。

道具を使う遊びは……碁、将棋、双六、蹴鞠などです。
双六は、初めは石を進めてゴールさせる盤双六でした。とても重いものでした。紙の双六になったのは江戸時代ですが、絵双六と呼ばれるそのルーツは仏法双六でした。
三光院では、見事な仏法双六と盤双六をみせてもらいました。
蹴鞠の鞠は鹿の皮を縫い合わせ、中は空洞になっています。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で上皇たちが蹴鞠に興じるシーンが何度かありましたね。

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盤双六の石
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仏法双六

年中行事になった遊びもあります。例えば雛遊び。

もともと中国からきていた、五節句の一つ。3月最初の巳の日(上巳・じょうし)は忌(い)み日とされて、川で身を浄める習慣がありました。
一方、日本では、農耕儀礼として、3月初めに物忌み(ものいみ)をして、紙で作った人形(ひとがた)で身体をなでて、それを川や海に流して穢れを祓うという習慣がありました。
これらが相まって、「上巳の祓え」(ひいな送り)が行われてきたのです。
この人形が「雛人形」の原形と言われて、平安時代には、貴族の子どもたちが雛遊びに用いた人形を「雛(ひいな)」と呼びました。『源氏物語』にも「雛(ひいな)遊び」という言葉が登場します。
現代のような雛祭りは江戸時代の雛飾りにはじまります。これは当時の人々の平安時代への憧れの形なのです。

鄙遊びの頃、宮中では曲水の宴が開かれました。
そして、曲水の宴や観月会には雅楽の演奏がつきものでした。

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着物のすその絵柄に雅楽の楽器が描かれている。

十月堂でいにしえの遊びを学んだあとは、茶室に移動して源氏香を聞きました。

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三光院の茶室

上述のように、「香木」が初めて日本に漂着したのは、595年であると『日本書紀』の中で伝えられています。

“推古天皇三年の夏四月に 沈水淡路嶋に漂着れり 其の大きさ一圍(ひといだき) 嶋人 沈水といふことを知らずして 薪に交てて竈に焼く 其の烟気遠く薫る  即ち異なりとして献る” 

この香木を認定したのは、聖徳太子だと言われています。仏教の力を借りて国を治めようとした聖徳太子は、誰よりも早く、仏教と深く結びついた香木の存在を知っていたのでしょう。

香木とは、伽羅(きゃら)、沈香(じんこう)、白檀(びゃくだん)をさします。
沈香は樹木の内に樹脂が長い年月を欠けて熟成されてできます。原木事態は軽く水にうきますが、樹脂が沈着した部分は重く水に沈みます。
沈香の中でも最上級のものが伽羅です。香の生成に長い年月を要するため、非常に多様で重層的な香りをもっています。産出量が僅で、古来よりその価値は金に等しいとされてきました。
白檀は幹部の芯材を削りだし、乾燥させて刻んで使用します。仏像などの彫刻、念珠などに使用され、防虫効果にも優れて正倉院御物にも添えられていました。
聖武天皇の遺愛のひとつとされる「蘭奢待(らんじゃたい)」は、我が国最大、天下第一の名香とうたわれています。

その香木をわずか数ミリ、米粒大に切り分け、熱して立ち上る香りを楽しむのが香道です。
香道は、室町時代の中期、東山文化を築いた八代将軍足利義政を祖としています。
講師によると、平安時代、貴族たちが雅な生活文化として位置づけたことを継承し、日本人の四季への感性や文学詩歌と深く結び付いた香の芸道です。そして、香は嗅ぐのではなく、聞くのです。

香道では香りの性質を味覚に置き換え、「甘い」「苦い」「辛い」「酸っぱい」「鹹(しおからい)」の5つの味で表現します。 

組香(くみこう)は数種類の香を聞いてその香をあてる遊びです。ただ香を聞いて当てるだけではなく、源氏物語や古今和歌集などの古典文学をテーマにし、話の内容をイメージしながら香りを味わうのです。季節を感じながら香を当てるテーマもあるそうです。

源氏香は組香の一つで、たしなむことは婦人の教養とされました。5種類の香木を用意し、それぞれ5色ずつ香包に包んで25の色を用意し、その25色をまぜあわせた中からランダムに5色を選び、その香りを順に焚いていきます。
源氏物語54帖の桐壺と夢浮橋を除いた52通りの組み合わせが出来るのですが、講師によると、余りに複雑で現在はほとんどおこなわれていないということです。

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源氏香図

というわけで、当日はほんのまねごと、3種の香を5回聞いて、どの組み合わせであったかをあてるという趣向でした。私は五感の内、嗅覚は自信がないのですが、(もっとも、年を取ればどの感覚もにぶります)香りの違いは分かりました。
ただ、香から何かをイメージするまでは追い付かず、なるほど、古今の文学に精通していなければならない香道がなみなみならぬ教養であっただろうことは推察できました。真似事とはいえ、茶室という狭い空間に数人が集い、心を静かに香を聞く、まれな時間を過ごしました。

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庭の紅葉もまだ残る

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香を聞いたあと、お茶をいただきました。お菓子は百人一首の図柄。


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雑記帳2022-12-15 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2022-12-15
◆『食とくらしと環境を考える会』の女性センターでの冬の講座は「冬の野菜で体を元気に」のテーマでした。薬膳の知恵を採り入れながらのメニューをご紹介しましょう。

品数は沢山あるようにみえますが、一番時間のかかるのが炊き込みおこわ。炊飯器のスイッチを入れて炊きあがるまでの間に他の4品ができあがります。材料は3人前。

◇黒米とサツマイモの炊き込みおこわ
<材料>もち米カップ0.5、普通米カップ2、黒米 大さじ1、サツマイモ100g(小1本)、
        水カップ1.5、塩小さじ1/2
<作り方>
①もち米・米・黒米はとぎ洗いし、ざるにあげて30分おく。
②サツマイモは皮つきのまま1cm強のさいの目に切り、水につけてアクをぬいておく。
③炊飯器に①と、アクをぬいていったんザルに上げて水切りしたサツマイモ、塩小さじ1/2を入れ、水を加え、サッと混ぜて通常の白米炊飯モードで炊く。
④炊きあがったら、しゃもじでかるく混ぜて布巾をかけておく。

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※10分以上は蒸らさない。いつまでも蓋をしておくと、もち米が柔らかくなって、おこわの食感がなくなるので注意。

◇立川野菜の元気和え2種
<材料>小松菜(ほうれん草、春菊など)1/2杷(100g)、大根150g、
    和え衣(青菜)クルミ大さじ1、クコ大さじ1、黒ごま小さじ1、味噌小さじ1/2、
                   砂糖小さじ2、酢小さじ1、
    和え衣(大根)クルミ大さじ1、クコ大さじ1、黒ごま小さじ1、ごま油小さじ1/2
                   砂糖小さじ2、酢小さじ1

<作り方>
①鍋に湯を沸かし、先に千切りにした大根をサッと湯がき、ザルにあげておく。大根をとりだしたあとの湯で青菜を色よくサッとゆでて3cmの長さに切って水気を搾っておく。
②クルミは細かく砕くか、たたいておく。
③クコはサッと水洗いし、大さじ3位の水でもどしておく。もどした水は捨てずにスープに使う。
④調味料をよく混ぜ合わせて、クルミ・クコ・黒ゴマをあわせて和え衣をつくっておく。
⑤食べる直前に和えて器に盛る。

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小松菜の元気和え
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大根の元気和え

◇餃子の皮で作るワンタン
<材料>餃子の皮(市販)12枚、豚ひき肉100g、
           ショウガのみじん切り大さじ2
      Aコショウ少々、塩小さじ1/3、ごま油小さじ1
      B水カップ4,醤油大さじ1、塩小さじ1/2、コショウ少々、ごま油大さじ1/2
        葱(青い部分)の小口切り 適宜

<作り方>
①豚ひき肉に、調味料Aを順に加え、ショウガのみじん切りも加えてよく混ぜる。
②餃子の皮の中央に①の餡を置き、皮の縁に水少々を付けて半月形に餡を包み、皮の両端をあわせて、水を付けて止める。
③鍋に分量の水としょうがの皮・葱の不要部分・クコの戻し汁を入れて火にかけ、沸騰させ、3分煮てから、ショウガの皮、葱の不要部分を取り出す。
④②をいれて、浮き上がってから3分煮て、醤油、コショウ、ごま油で調味する。
⑤味を整えて器に盛り、葱の小口切りをトッピングして出来上がり。

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◇ヨモギ白玉の甘酒しるこ
<材料>白玉粉(よもぎ粉入り)30g、水30cc、甘酒100g、牛乳100cc
<作り方>
①ボウルに白玉粉、よもぎ粉を入れ、良くまぜる。水30ccを少しずつ加えて耳たぶ位の硬さにねり、小さなだんご状にまるめる。
②鍋にたっぷりの湯を沸かして①を入れ、浮き上がったら水に取る。
③別の鍋に甘酒、牛乳を入れて温め、器にそそぎ、水気を切った②を入れる。

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※クルミは健脳、老化防止、足腰の冷えに良い。クコは強壮薬として、疲労、無気力、頭痛などに用い、目の疲労にも効力がある。

※加熱したショウガは血行を良くし、からだを温めてくれるので、冬は加熱して使うと効果的。

※黒米は疲労・老化防止、血の巡りを良くする。サツマイモは胃腸を元気にしてむくみをとる。便秘、高血圧も予防。

※ヨモギには冷え防止や造血作用がある。

※甘酒には身体を潤し、気力を増進させる効果がある。

12月は本格的な寒さに備えて、しっかり体力を作るときです。エネルギーを蓄える冬は楼用医学でいう「腎」の機能を高める時でもあります。黒色の食品、ヌルヌルした食品は、「腎」の働きを助けます。
「腎」とは、西洋医学でいう腎臓ではなく、もっと広い意味で生活活動そのもおを意味します。「先天の本」とも言い、生まれた時から終生、その人の成長、精気、生殖などを左右するもの。食事でエネルギーと潤いだけでなく、冷えに負けないよう、体を温める食事をとるようにしましょう。

●黒色の食品=黒豆、黒米、黒木耳、ナマコ、スッポン、イカ墨、昆布、海苔、ワカメ、ヒジキなど
●ヌルヌルひsた食品=山芋、納豆、白木耳、里いも、イカ、ホタテ、牡蠣、ウナギ、スズキ、タラなど
●体を温める食品=ニラ、ニンニク、ショウガ、シナモン、黒コショウなど
●気力を補う食品=もち米、肉類、胡桃、栗、芋類、海老など
●血を良くする食品=ニラ、黒豆、シナモン、ベニバナ、里いもなど、

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今日の食材からクコ、ショウガ、ゴマ、クルミ、黒米、ねぎ

◆埼玉県北部にはユニークなお寺がいくつもあります。そのうちの一つ、源宗寺を紹介しましょう。

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平戸大仏

熊谷市にある源宗寺は、本堂のみの小さなお寺で、住職もいず、地域の人々によって守られています。本堂には、市の有形文化財になっている木彫大仏座像が安置されています。このほどクラウドファンディングによって堂の修理が完成しました。老朽化したお堂の修理費用を、一人の大旦那の寄進ではなく、クラウドファンディングで募るとはいかにも今風。全国から1000人以上が応募し、市も幾ばくかの負担をして完成させました。地域の人たちが大切に守り、大勢の人に愛されてきたことがうかがえます。

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改修なった千日堂

寺は、17世紀初頭、九州平戸から移住してきた藤井雅楽之助が開基し、本堂(千日堂)にならぶのは、薬師如来と観世音菩薩の二体です。現在の本尊は元禄14年(1701)に改修されたもので、台座を含めると約4mもの巨大な仏像は、「平戸の大仏」として知られています。
寺伝によると、仏師の宗円と江戸弥兵衛が改修をにない、漆塗り、金箔押しに近隣の塗師たちが技術を発揮したとあります。木彫の造形美と重厚感の融合した寄木造りで、円形の光背も壮観です。木造寄木造りとしては県内最大規模で、全国的にも珍しいそうです。

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◆今年は例年になく秋が長く、国営昭和記念公園では遅くまで紅葉が楽しめました。そういえば、木枯らしも、11月に一度吹いただけでしたね。12月半ばの昭和記念公園に季節を探しました。

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日本庭園正面入り口
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日本庭園
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こもれびの里
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サネカズラ(こもれびの里)
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木枯らし(楓風亭)



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雑記帳2022-12-1 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2022-12-1
◆この秋、小金井市にある尼寺、三光院で、美術ジャーナリスト斎藤陽一さんの3回連続講座「源氏物語絵巻を読み解く」が開かれました。既に雑記帳で初回の紹介をしましたが、今回は最終回をご紹介しましょう。

小説「源氏物語」の第40帖「御法(みのり)」で、生涯でもっとも愛した紫の上を見送った光源氏が登場するのは41帖「幻」が最後です。源氏の死ははっきりとは書かれていませんが、41帖後に世を去ったとされます。第40帖は絵巻の10枚目にあたります。

宇治十帖に先立つ第44帖「竹河」2枚は徳川美術館の所蔵。
1枚目(絵巻11)は薫が玉鬘(たまかずら)邸を訪れ、女房と歌を詠みかわす場面が描かれます。
2枚目(絵巻12)には、蔵人少将が玉鬘の姫君姉妹を垣間見る場面です。蔵人少将は夕霧の息子であり、源氏の嫡流です、面白いことに、この少将は、第37帖(絵巻では6番目)「横笛」で、夜泣きして母親の雲居雁にあやされる赤ん坊として登場しています。

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「竹皮」下は復元模写(以下同様)

姫君2人は源氏の友人頭中将と夕顔の間に生まれ、美しく成長するも、姉の大君はむくつけき黒髭大将と結婚してしまうのですが、この場面では2人は囲碁の三番勝負をしています。父親の頭中将は留守、通常なら部屋のおくに隠れて姿を見せない女性が気を緩めて縁側近くまで出てきている。夕方の暗さを和らげるために御簾を上げている。だから垣間見ることができたのです。勝負はどうやら中君が勝っているらしい。賭けるのは大君が大切に育てた桜の木。嫁ぐ姉君が妹に残してやるという意味まで、1枚の絵の中にうかがうことができます。

第45帖「橋姫」から始まる後半の10帖は『宇治十帖』と呼ばれ、ここからは、薫と匂宮が主人公の、源氏の息子世代の物語になります。絵巻は13枚目から19枚目まで、全て徳川美術館の所蔵です。

絵巻13枚目には、宇治八宮邸で、薫が姫君姉妹を垣間見る場面が描かれています。
八宮は源氏の異母弟ですが、政争に敗れて宇治に隠遁、2人の姫君と共にひっそりと暮らしていました。
薫はまだ自分の本当の素性を知りません。

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「橋姫」原画

晩秋の月明りの下、姫君は縁側近くに出て、筝と琵琶を演奏しています。
画面の右上には「すやり霞(がすみ)」が描かれています。すやり霞は薫の気持ちを現すものとして、何度も登場します。                          
描かれた簀子(すのこ)、透垣(すいがき)はつましい暮らしを表す一方、姉妹の小袿(こうちぎ)姿は上級貴族の日常着です。くらしはつましくても娘には不自由はさせまいとする八宮の気概を感じます。
また、ここに登場する楽器は二人の性格をあらわし、思慮深い大君は筝を、明るく大らかな中君は琵琶を演奏しています。

復元模写を担当した宮崎さんは、すやり霞に銀と青が使われていることに気づきました。銀を主体にした画面は、霧がたちこめた幻のような世界を表現するものでした。

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「橋姫」の復元模写

14枚目は第48帖の「早蕨(さわらび)」。京の匂宮邸に移る中君が弁の尼と別れを惜しむ場面です。

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「早蕨」

第49帖「宿木」は、絵巻は3枚描かれました。
先ず絵巻15には碁を打つ帝と薫が描かれます。
帝は負けて薫に賭けものを取らせることになり、娘の女二宮を薫に託すことをほのめかすのです。画面には聞き耳を立てる女房たちも描かれています。

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「宿木一」

物語の舞台は清涼殿、朝餉(あさがれい)の間です。絵巻の中で、唯一、御所が描かれた場面です。復元した加藤順子さんによると、乱れ箱や副障子、几帳、襖、畳など家具や調度品が細かく描かれていて、当時の御所の詳細を知る貴重な資料にもなっているということです。
聞き耳をたてる女房たちは他の場面にも何度も登場し、主人公を引き立てる役割をしています。作者の紫式部本人も実は、語り手として、女房に重ねられているのです。

いったんは「世のつねの垣根に匂ふ花ならば心のままに折りて見ましを」と詠んで、薫は帝の申し出を断ります。が、結局、彼女を妻にします。

「宿木(やどりぎ)」では、匂宮が夕霧の娘、六君(ろくのきみ)と結婚します。匂宮は中君をに二条院にむかえいれていますが、正妻は六の君になります。「宿木」は2枚描かれ、絵巻16枚目は、愛人もいて期待もしていなかったのに、4日目にようやく妻の顔をみて美しさに魅了される匂宮が描かれます。
悲しい場面に聞き耳をたてることの多い女房たちも、この時ばかりはウキウキとしている様子、喜びを表す暖色系の色が多用されて、絵巻の中でも一番華やかな図です。源氏絵巻はまさに絢爛たる王朝絵巻なのです。

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「宿木二」

17枚目は、匂宮が琵琶を弾いて身重の中君を慰める場面です。
画面の半分は秋草が占めています。「秋ほつる野辺のけしきも篠すすきほのめく風につけてこそ知れ」の世界を、絵師が秋草で表現しているのです。フジバカマ、萩、芒の秋の七草が順に重ね描きされています。秋草は中君の心情を現しています。

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「宿木三」原画
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復元された秋草

第50帖「東屋」は2枚あり、18枚目は中君が腹違いの妹、浮舟を慰める場面です。背景になる風景もしっかりと描かれ、平安時代の絵画が殆ど失われている現在では貴重な資料です。

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「東屋一」

19枚目は薫が三条の古家に浮舟を訪ねる場面。弁の尼が浮舟を説得している間、薫は許可が出るのを待っています。弁の尼は他の場面にも登場する重要人物です。「橋姫」ではまだ自分の素性を知らなかった薫に出生の秘密を打ち明けたのは弁の尼です。
遣戸(やりど)、透垣(すいがき)、簀子(すのこ)などにつましいくらしぶりがうかがえます。ここにも秋草が描かれています。

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「東屋二」の原画
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復元された「東屋二」の左半分

翌朝、薫は浮舟を宇治に戻します。

現存する絵巻はここまでです。
各章にそれぞれ複数の絵が描かれたことを考えると、おそらく全体では150枚を超える絵巻があったのではないでしょうか
復元された模写を見て、私たちはその鮮やかな色彩に目を奪われました。深い庇や御簾にも隔たれた宮殿の奥深く、昼間でさえ手元ほのぐらい明かりの下で、女房達が親しんだ絵がこれほどに明るいのはむべなるかなと思われました。
「源氏物語」を書いた紫式部を見出したのは藤原道長です。藤原家の嫡流ではなかった道長が覇権を狙って娘の彰子を一条天皇に嫁がせたとき、同時に作ったのは紫式部や和泉式部らの集まるサロンでした。政争に加担すると知ってか知らでか、華麗な宮中サロンは見事に花開き、その後藤原一族の栄華も長く続きました。
源氏物語が生まれてから100年たって絵巻がうまれた、絵師たちは原作を深く読み込み、何枚かは女性の絵師が手がけたと思われる、そんなことにもまるで大きな物語をみるようではありませんか。

最近、第5帖の「若紫」の絵巻が発見されました。
残念なことに、室町時代に上塗りされたため、国宝にはならなかったということです。

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「若紫」

講座を終えた講師の斉藤さんは、こんな句を詠んでしめくくりました。
  「絵巻講座 終えてみ寺の 秋惜しむ」
萩の季節に始まった講座は、紅葉の時期に終了となりました。

◆三光院の精進料理は月替わりです。霜月は献立に「吹き寄せ」がありました。

牛蒡を松葉に見立て、銀杏、栗、麩などで色鮮やかに、三光院境内の晩秋の風情を一皿に盛り込ん一品です。 菊月の献立にあった「さといものふり柚子」は写真を撮り忘れたのが残念で、今回はわすれずに撮りました。

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お煮しめ
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吹き寄せ


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雑記帳2022-11-15 [代表・玲子の雑記帳]

2022-11-15
◆笠間焼で知られる茨城県笠間市には「芸術の森」があるのをご存知ですか。

近年、茨城県笠間の周辺は、豊かな緑や四季折々の盆地特融の自然が注目されるようになったということです。「芸術の村」は市街地を包むようにして広がるそうした緑濃い丘陵地にあります。

昭和39(1964)年、洋画家朝井閑右衛門と小説家田村泰次郎が、長谷川仁笠間日動美術館前理事長と笠間を訪れた折り、笠間にアトリエを作りたいという作家達の要望から、「芸術の村」の構想がでてきました。(笠間日動美術館は人気があって、私の友人もファンの一人です。)

昭和40年には、北大路魯山人が住居としていた約300平方メートルの茅葺き民家を北鎌倉から移築して「春風萬里荘」と名付け、「芸術の村」は開設されました。「春風萬里」とは、李白の漢詩にある言葉で、北大路魯山人が好んで用いていたそうです。
現在の芸術の村には、洋画家、日本画家、彫刻家、陶芸家、染織家など40戸ほどのアトリエが点在し、それぞれ制作に打ち込んでいます。


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春風萬里荘の入口の門

魯山人は明治16年(1883)、京都生まれ。書家として世にでたのち、篆刻、絵画、陶芸、漆工芸など多方面にその才能を発揮して、「万能の異才」とうたわれた人です。もっとも有名なのは美食家・料理人としてでしょうか。いろいろとエピソードの多い気難し屋ではあったようです。

その魯山人は戦前、神奈川県厚木市にあった豪族の母屋を鎌倉に移築して住居としていました。凝り性の魯山人の暮らしぶりを偲ばせるものだと言われます。その邸を笠間に移築、別棟だった茶室と一つにしたのが春風萬里荘です。春風満里荘は笠間日動美術館の分館として、今、日本遺産になっています。

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元馬屋だったという洋間、五右衛門ぶろやトイレ、自ら設計した茶室「夢境庵」など、見どころはたくさんあります。洋間の床は欅の木材を見せた「木レンガ」、浴室の壁のタイルやトイレの「あさがお」(今時この言葉を知っている人はどれくらいいるでしょうか)は魯山人みずからが焼いた織部です。居間やトイレや茶室、それぞれの部屋に設けられた小窓からは四季おりおりの美しい庭の風景がみられるようになっていました。なんとも贅沢な住まいではありませんか。茶室から臨む、龍安寺を模したといわれる石庭も見事でした。これらはすべて、日常坐臥を満たさなければ美しいものは生まれないという魯山人の美意識のあらわれだったといいます。

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居間から庭の紅葉を見る
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壁には魯山人の焼いたタイルがはめこまれている風呂場
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魯山人の焼いたあさがおのトイレ
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魯山人自ら設計した茶室「夢境庵」
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茶室から見た庭

萬里荘の前には傾斜地を利用した、回遊式の広大な庭園がひろがっています。ちょうど紅葉の盛りでした。高台には江戸時代の豪農邸の長屋門が移築されていました。
9月から始まった魯山人所蔵名品展が日動美術館の会場と結んで開かれていて、魯山人の焼き物の展示を見ることができました。

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庭から長屋門を仰ぐ
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常設以外の作品も展示されていた。
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笠間は笠間稲荷でも有名です。
五穀豊穣、商売繁盛の神として古くから信仰され、関東はもとより日本各地から年間300万人を超える参拝客が訪れます。また、正月三が日の初詣には80万人以上の参拝者があり、初詣客の数は茨城県随一だと言います。
創建は651(白雉2)年、京都の伏見稲荷、九州の祐徳稲荷と並ぶ「日本三大稲荷」の一つです。
祭神は宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)。女性の神様です。
本殿は国の重要文化財になっています。
東京には、日本橋浜町に、笠間藩主・牧野貞直が分祀した笠間稲荷神社の別社があります。

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笠間稲荷神社の鳥居
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本殿

町はちょうど菊まつりの最中で、稲荷神社辺は菊の香りに満ちていました。
もともとは明治時代に神社の宮司さんが日露戦争の犠牲者を弔う為に菊の展示を始めたことが、社内に農園部をつくるなど本格的になり、町中にすっかり定着して有名になりました。今では、10月から11月末まで、「笠間の菊まつり」の期間中は大勢の観光客でにぎわうそうです。

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境内にはいたるところに菊の展示
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今年の菊人形は大河に因んで「政子」(隣には泰時がいた)
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参道の店はどこも菊を飾っている。神社近くの歴史交流館もベランダいっぱいの菊。

あまり知られていませんが、笠間はじつは栗の生産量が日本一です。

この日の目的は笠間和栗のフルコースを味わうことでした。
市内の小澤(こざわ)栗園で生産されたこだわりの栗をメインに、一人あたり15個以上の栗を使ったフランス料理を、モン・ラパンさんでいただきました。シェフによると、小澤栗園さんの栗は大きさもさることながら、味がよそと全く違う、それほどおいしいのだそうです。

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モン・ラパン

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前菜 つくば鶏と栗のテリーヌ
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くりのポタージュ
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真鯛とスズキのキャベツ包み 地元野菜添え
(魚はペーストではなく細かくきざんだ肉でした)
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常陸牛のシチュー
(あえてA5ランクでない、少し安い肉を使って煮込んだのがシェフのご自慢。)
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渋皮煮の栗がのったモンブラン




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