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雑記帳2019-1-1 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2019-1-1
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◆今年、『知の木々者』は10周年です!!

2009年4月に創刊、以来、月2回の更新をかさねて、1月上号は233号になりました。
暮にサンパウロの李渭賢さんからメールでクリスマスカードが届きました。

「今年一年も知の木木舎のNet Magazine を楽しく読ませて頂きました。感謝申し上げます。あなた様の「雑記帳」は益々多彩、地方の歴史を発掘(?)、深く教えられます。ここブラジルの地方、奥地にはいろいろな歴史的な文化遺跡がありますが、それはポルトガル、スペイン植民地時代のもので、奴隷として連れられてきたアフリカの原始文化、カトリック宣教の遺跡が主で、年代としても400年ものしかありません。日本文化の優雅さがない。「ロシア~アネクドートで笑う歴史」「子規ー漱石」「内村鑑三の余は如何にして基督信徒なりし乎」を読んで後「川柳」でリラックス。このNet Magazineを読んでいる限り長生きは必定。本当にご苦労様でしたと感謝いたしております。
心に残る一つの詩をプレゼント。

   FOOTPRINTS
 One night a man had a dream.
 He dreamed he was walking
 along the beach with the Lord.
 Across the sky flashed scenes
 from his life.
 For each scene, he noticed
 two sets of footprints in the sand;
 one belonging to him,
 and other to the Lord.
 When the last scene of his life
 flashed before him, he looked back
 at the footprints in the sand.
 He noticed that many times along
 the path of his life there was only
 one set of footprints.
 He also noticed that it happened
 at the very lowest and saddest
 times in his life.
 This really bothered him
 and he questioned the Lord about it.
 "Lord, you said that once I decided
 to follow you,
 you'd walk with me all the way.
 But I have noticed that
 during the most troublesome
 times in my life
 there is only one set of footprints.
 I don't understand why
 when I need you most
 you would leave me."
 The Lord replied,
 "My precious, precious child,
 I love you
 and I would never leave you.
 During your times of trial
 and suffering,
 when you see only one
 set of footprints in the sand
 it was then that I carried you."

長い詩ですが、敢えて写しました。あなた様にはご存知の詩でしょうが、人生の終わりにいたって、暫く立ち止まって歩んで来た人生を振り返って見ることができる人は幸いであることをお伝えしたかったのです。振れ合いと言う言葉があります。袖振れ合うも縁と言う諺が日本にありますよね。そのように孤独の人生は存在しない。それは偏屈な哲学者の言い分か・・・
新しい年もまたよき年でありますように祈り申し上げます 」

李渭賢さんは、知の木々舎創刊当時の執筆者のおひとりでした。戦前の台湾で日本語で教育を受けて、美しい日本語を話されます。「サンパウロの街角」からのタイトルで、地球の裏側から原稿を送っていただきました。ペンネームのケネス・リーで検索すると、今でもすぐご覧になれますが、シリーズは20回ほど続きました。
今は寄稿こそないものの、熱心な読者として、『知の木々舎』を支えて下さっているのを実感するメールでした。

◆今年5月で10周年を迎えるのを期に、整理しているた書類の中から、PHP研究所の『ほんとうの時代』を見つけました。亡くなったフリージャーナリストの加藤仁さんが、創刊間もない『知の木々舎 』を取材、4ページに渡って紹介して下さった記事が載っています。

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「ほんとうの時代」の表紙と目次(目次の中にマイネクストステージの字が見える。

「マイネクストステージ」というタイトルはまさに、『ほんとうの時代』のテーマである、50代からの新しい生き方を提案する場にふさわしいものでした。
大人が知的に学び、遊べる場として紹介された記事を、当時の執筆者の皆様にはコピーをお送りしてお知らせしたのをおもいだします。
無名の『知の木々舎』を取り上げてくれた最初のメディアでした。

武蔵野の地、立川で旗揚げしたことから、武蔵野の雑木林に様々な木が生い茂るように、多様な知を提供したいとの思いを込めて名づけた『知の木々舎 』は、「くらしの中へ句読点」をキャッチコピーにしました。このコピーは『知の木々舎』をひらいたときに最初に目に入るテンプレートにはめこまれています。

昨年、これも創刊時にご縁のあった竹山昭子さんから頂いたメッセージには「世に数多ある出版物の寿命は短くて3か月、一般的には3年」とありました。
こうした言葉をかみしめながら10周年を迎えられることに深い感慨を覚えます。

長い間には記事の入れ替えはつきものです。終了の寂しさはおおうことはできませんが、不思議に、入れ替わるように新しい記事が誕生しました。
ご縁をいただいた100人を越える執筆者の皆様とともに、或いは読者とともに、いっしょにつくってきたのだという思いを強くしています。

今年も雑記帳は町歩きを中心に、見過ごしていた小さな事ごとに目をこらして紹介していこうと、思っています。

◆国営昭和記念公園の古民家の倉では、武蔵野の農家に伝わる様々な正月飾りが展示されています。

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◆新年の新たな記事は『西洋美術研究者が語る日本美術は面白い』です。100回に渡って西洋美術を紹介してくださった斎藤陽一さんが、日本美術に挑戦します。
第1回目のシリーズは「琳派の魅力」。「琳派とは何か」を皮切りに、先々のシリーズも見据えた、日本美術再発見の始まりです。ご期待ください。

◆横山貞利さんの『徒然なるままに』が12月をもって終了しました。美しい日本の風景や詞の世界は郷愁にあふれ、わたしたちの琴線にふれるものでした。横山さんとは、『浦安の風』で辛口の世評を展開して、創刊以来のご縁でした。長い間、ありがとうございました。

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雑記帳2018-12-15 [代表・玲子の雑記帳]

2018-12-15
◆久々のお江戸まち歩きは「神楽坂Ⅱ」です。

前回歩いたjR飯田橋駅から江戸城外堀を渡って坂道を上るコースは極めてポピュラー、誰もが知る神楽坂でしたが、今回はちょっとマイナー。学生時代を早稲田で過ごし、神楽坂は毎日の通学路だったという人さえも知らなかった江戸を巡りました。

集合場所の東西線神楽坂駅の出口にある矢来町は、家光、家綱、綱吉時代に大老を務めた酒井家の江戸屋敷があったところです。小堀遠州の手がけた庭は家光好みとされ、家光はこの屋敷を141回(!)も訪れています。江戸城の大火の折には70日もの長逗留、警護のために周囲を竹やりで囲ったのが矢来町の名の由来とされています。塀にしなかったのは、外を通る人にも庭が見えるようにという粋な計らいだったとも言われています。
  
歩き始めて最初に目についたのが「生田春月旧居跡」。大正から昭和にかけて活躍した詩人は、ハイネの全詩を翻訳しました。ハイネの詩は昭和期の多くの学生に愛されて、春月の名は知らずとも、今、彼の訳したハイネを懐かしむシニアは多いかもしれません。
プレートで分かるようにこの辺りは天神町。矢来町もしかり、町を歩けば牛込、弁天、榎町など、随所に古い町名が残っているのに気付きます。新宿区のプライドが覗くようです。

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大通りから少しはいった通りには製本、印刷の小さな会社がたちならんでいました。かっては賑やかだった業界も今では斜陽産業、人通りもなく、めだつのは大日本印刷の大きなビルだけです。ここは慶安事件で知られる由井正雪の学塾があった場所で、一時は3000人の門弟がいたといわれています。
当時、江戸中にあふれていた浪人たちの不満を幕府に向けた正雪の乱は内通により失敗におわりましたが、徳川家3代続いた武断政治から文治政治へ舵を切る転換点になりました。成功はしなかったものの政治を動かしたという点では、或る意味、本望だったのかもしれません。

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臨済宗の済松寺は京都妙心寺派の寺です。
叔母の春日の局の招きで大奥に上り、大奥の女性たちに禅の教えを説いた祖心尼(俗名おなあ)のために、家光は、350石、1万2千坪の広大な寺院を建てました。芝にある、かの増上寺が500石、2万坪と聞けば、済松寺の格の高さ、大きさは想像がつくというものです。(寺の石高はおよそ大名領地の2000倍に相当するそうです)
敷地を外堀通りで分断され、大半は駐車場になっているため、当時の面影を外から見ることはできませんが、中に入れば庭はまるで深山幽谷のよう、墓地には名のある大奥の女性達の墓が並んでいました。見せてもらった庭は、普段は公開されていないということです。

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済松寺本殿
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谷底に池もある、深山幽谷の気配のある庭 
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祖心尼の墓

その外堀東通りを早大通りを過ぎて北に進めば、元赤城神社跡に小さな田島森神社があります。ここは群馬県大胡から牛込に移住してきた大胡氏が、最初に故郷赤城山麓の赤城神社を勘請した所です。一帯には律令の昔から牛を放牧した官制の牧場がありました。

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田島森神社

仕えた主君は上杉、北条、豊臣、徳川と、変わり身の早かった大胡氏については前回の「神楽坂まち歩き」で述べたとおりです。
現在の赤城神社は神楽坂通りの今も人気のスポットにありますが、建物は建築家・隈研吾氏のデザインで今風に生まれ変わっています。

大胡氏が牛込氏と名を変えて城主になったあと建てた曹洞宗・宋参寺は弁天町にあり、墓地は、歴代の牛込氏の墓と同時に、山賀素行の墓があることで知られています。牛込氏の墓は都指定、山賀素行の墓は国指定の史跡になっています。

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宋参寺の山賀素行の墓

江戸時代前期に兵学を指導した山賀素行は一時期、播州赤穂にも出向いたことがあって、教えを受けた中にのちの大石蔵之助がいたことから、山賀流の陣太鼓は『忠臣蔵』では赤穂浪士の吉良邸討ち入りに欠かせない小道具になりました。実際に打ち鳴らされたことはありませんでしたが、降り積もる雪とともに、舞台効果は抜群でした。雪も創作、この夜は晴天だったということです。

牛込は明治の文豪、夏目漱石のゆかりの地です。その誕生は『知の木々舎』に連載中の『正岡常規と夏目金之助』に、喜久井町の夏目坂とともに詳しく紹介されています。ロンドン留学から帰って来た漱石が一時身を寄せた矢来町の旧新潮社の建物は神楽坂の駅出口の目の前であり、妻鏡子さんの実家のすぐ近くでした。
その漱石が晩年を過ごした早稲田南町の旧居は「漱石山房」と呼ばれ、多くの門人が集いました。亡くなった時は僅か49歳でした。
新宿区では300坪ほどのその地の一部を公園として整備し、漱石生誕150-年にあたる2017年に漱石山房記念館を建てました。 公園入り口には漱石の胸像、園内には猫塚があります。猫塚とはいうものの、「吾輩」の猫ではなく、漱石没後に家族が飼っていた犬や猫、小鳥たちの供養のために建てられたそうです。
「道草庵」では漱石や漱石山房に関する資料が展示されています。


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漱石山房

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道草庵

外堀通りにもどると、通りからちょっと入る形で、目立たないながら多くの寺院がならんでいます。
そのうちの一つ、多門院には松井須磨子の墓があることで知られています。
島村抱月とともに芸術座を組織、新劇女優として全国的に人気を博した松井須磨子でしたが、1918年のスペイン風邪で抱月が急死すると、ニヶ月後、劇場の敷地内で後を逢いました。ふたりの墓は並んで建てることはできませんでしたが、多門院には「芸術比翼塚」があります。
偶然、訪れた日(12月8日)は抱月・須磨子没後100年を記念して、寺では奉納イベントがおこなわれることになっていました。イベントで挨拶をする女優の栗原小巻さんを乗せたタクシーが、坂を登る私たちを追い抜いて行きました。

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多門院
多門院2.jpg
松井須磨子の墓

和算家の関孝和の墓は浄輪寺にあります。孝和は従来の算木を使う方法から未知数を文字であらわして筆算による代数の計算法を発明しました。その筆算を用いて円周率を小数第11位まで計算した天才です。墓は舟形をしていました。

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舟形をした関孝和の墓

ランチに立ち寄ったラビチュードはフランス家庭料理の店です。
たっぷりの前菜からはじまって、魚料理も肉料理も出る、ボリューム満点のお昼になりました。

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野菜たっぷりのメインディッシュ

ラビチュードの近くには林羅山一族の墓地、地下鉄牛込柳町へ出る途中には近藤勇の道場「試衛館」のあとなどを見ることができます。
林家の墓地は中へ入れず、試衛館跡はその標識がたつのみの、地味なスポットではありますが、江戸初期から幕末まで、流石は牛込・神楽坂、多くの人材や史跡を遺して、興味はつきない場所でした。

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雑記帳2018-12-1 [代表・玲子の雑記帳]

2018-12-1
◆“東京の頑張る農業応援バスツアー”、今年は小金井市でした。

東京都内で活動する消費者団体と東京都との協働事業である東京都消費者月間の一連の事業の中に、東京の農業を巡るバスツアーがあります。
「食と農」を考える契機として、また東京の農業を応援する活動の一つと位置づけられて、今年で11年目になります。
東京都内からの参加者70名で今年訪ねたのは小金井市の4軒の農家でした。

一番目のNさんは西洋野菜を育てる、若い生産者です。
住宅に囲まれた、さほど広くない畑(25アール)で、ビーツ、サボイキャベツ、カリフローレ、ケール等の西洋野菜の栽培に取り組んでいました。

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サラダ用ケール
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サボイキャベツ
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カリフローレ(生でも食べられる)

きっかけは、サラリーマンから転身して立川市の農家で研修した折に、ロメインレタスに出会ったことでした。まだ西洋野菜を栽培する農家は少なく、単価の高いのが魅力だったと言います。
例えばサボイキャベツなら、都内では1個800円もするそうです。
西洋野菜は使用できる農薬が限られているので、どうしても虫食いは出てきます。
そんな苦労もありますが、直売所やイトーヨーカドーの地場産コーナーで売るほか、レストランでの利用もふえてきたということです。

武蔵野の新田開発に大きな役割を果たした玉川上水は、五日市街道に沿うように流れています。350年前に開かれて以来、この玉川上水から引かれた分水路は武蔵野の農業を発展させました。小金井市には今でも開発時の区割りが残っているのを見ることが出来ます。
五日市街道と小金井公園の間に、「小金井江戸の農家みち」と呼ばれている小道があります。その、1,5キロの小道には11軒の直売所が並んでいて、読売新聞で取り上げられたことから有名になり、町おこしに一役かっています。

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農家みち

この日伺った4軒の農家のうち3軒は、この農家道沿いにありました。
2軒目のOさんの畑は小金井公園のそばにありす。
50アールの広い畑に、果樹から野菜まで多品種を栽培しています。
中でも自慢のルバーブはジャムに加工して人気です。

まだなじみの薄いルバーブはシベリア産。ヨーロッパではよく栽培されている、ふきに似た、たで科の野菜です。食物繊維、カリウム、カルシウムを多く含んでいて、注目の野菜だとか。5月に花が咲いて、収穫のピークは秋です。
葉や花は食べられませんが、茎は程良い酸味があり、ジャムに加工したり、コンポートにすればタルトやパイに使えます。茎の色が赤いほど奇麗なジャムになるのだそうです。
シベリア産だけあって暑さに弱く、今年は暑さが続いてうまく育たなかった、下手だと思わないでと、笑って案内してくれました。

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ルバーブ(茎の赤いのがいい)
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ルバーブのジャム

Oさんのもう一つの自慢は江戸東京野菜です。
畑には芯とり菜、大蔵大根、金町小カブ、亀戸大根などが作付けされていました。
こちらも、今年の夏の暑さや台風の強い風のために育たない野菜が多かったということでした。

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江戸東京野菜の畑 畑の向こうは小金井公園

江戸東京野菜は、江戸時代から昭和40年頃まで、東京都内の農地で栽培されていた固定種です。それぞれの野菜に歴史的な背景や物語があり、旬があります。
品種改良されて来た通常の野菜(F1種)と違って、代々受け継がれてきた江戸東京野菜は、同じように作っても形がそろわなかったり、収穫時期もまばらで量も少ないなど、手間がかかりますが、土地本来の気候風土や地域の特性を活かして育った野菜は個性豊かで味わい深いと、今、注目されているのです。
小金井市では、江戸から続く野菜をつないでいこうとの思いから、江戸東京野菜使用店を認定して普及に努めています。
店はカフェや割烹、お菓子やパン、フレンチレストランや居酒屋までおよんでいます。
いずれも、栽培が大変な中で長年繋いできた農家の思いを商品やメニューに活かそうと努力している様子です。

60アールのSさんの畑は、周囲を住宅に囲まれていました。
ここで、トマトやトウガラシ、ピーマン、玉ねぎ、レタス、枝豆、サツマイモなど、50品目以上の野菜を栽培しています。
中でもブロッコリー、大根、キャベツは小金井の土壌にむいているという話でした。
土づくりは有機肥料を使って安心安全を心がけ、さらには減農薬25%で東京都のエコファーマーの認定に挑戦したいと意欲的です。
回りを住宅にかこまれているため、騒音を避けて早朝のトラクターの耕作はやらない等、都市農業ならではの苦労があるようでした。
みかんの古木は30年になります。
温暖化の影響で、この辺でも美味しい蜜柑ができるようになったのを受けて、早生や極早生だけでなく、清見や晴香などの晩柑類にもトライしたいと語っていました。

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周囲どちらを見ても住宅に囲まれた畑
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直売所の中にも「小金井江戸の農家みち」

小金井にははけと呼ばれる、多摩川が作った崖線があります。
4軒の農家のうち3軒ははけの上、最後にたずねたKさんの畑ははけの下にありました。はけの上と下では気温も2、3度違います。
Kさんは鉢花や花壇苗を生産しています。
2棟のハウスでは今、クリスマス用の出荷を控えた5000鉢のポインセチアがならんでいました。

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出荷まじかのポインセチア

メキシコ原産のポインセチアは、ヨーロッパで品種改良されてきました。
12月に出荷するためには、7月に苗を鉢に入れます。
植物は性質をつかむのに時間がかかるので、50の手習いで始めてから15年になるが、まだまだ分からないところが多いと笑っておられました。
また、肥料の液肥は、購入時に苗とセットになってくるので、マニュアル通りに作ればそれなりに誰でも栽培はできる。そうはいっても、気象などの条件が変わるとマニュアル通りにいかないのが面白いのだそうです。

ポインセチアの赤い花のように見えるのはガクで、ガクの間に小さくついているのが花です。陽が当たりっぱなしではガクは赤くなりません。
家に持ち帰ったら、ガラス越しに陽のあたる窓際において、夜はカーテンを閉めるようにと教えてもらいました。

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昼食と交流は駅近くの前原集会場でおこなわれました。
江戸野菜をたっぷり使ったお弁当はカラフルで ボリューム満点。参加者は大満足でした。

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江戸野菜たっぷりのお弁当

グループに分かれた交流会の私のテーブルでは、農家のWさんの、定年後に就農して100種以上の野菜を作っている話、一年中何かしら作っているので休みはないが、農業は楽しくなければという話に、皆一様に感動した様子でした。特に都内からの参加者には多摩の農業にじかに触れる経験は心に残るもののようでした。

小金井市の女性農業委員の松嶋さんからは農家みちができた経緯をうかがうことができました。この道を再発見し、まちづくりにつなげたのは、町歩きをしていた若いお母さんたちでした。
身近にあるこれだけ豊かな東京の農業がこれからも続いていくことを望まない人はいないでしょう。 けれども相続の度に農地は分割され、切り売りされていきます。後継者がいないという問題を抱えている農家も少なくありません。都市の農地は資産ではなく、農業をするための道具だと考えるような国の施策が必要なのだと思えてなりません。

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小金井市の女性農業委員の松嶋さん


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雑記帳2018-11-15 [代表・玲子の雑記帳]

2018-11-15
◆再びの小金井公園、江戸東京たてもの園は雨の中…

一昨年の台湾の世界詩人会議に出席した仲間4人の同窓会は、この度はメンバーの志田さんの提案で、江戸東京たてもの園に決まりました。
この半年間、お父上の王育徳氏の記念館建設でいそがしく日本と台湾を行き来していた近藤明理さんがようやく一段落した様子をみてのお誘いでした。
これが思いがけない、明理さんへの贈り物になったのは当日になってわかったことでした。

志田さんも私も何度か訪れたことのある場所ですが、来る度に何かしら新しい発見があり、それも初めての人が一緒だと、また面白いものです。
今回はおもに東ゾーンを案内のボランティアさんと共に廻りました。

東ゾーンには大正から昭和に活躍(?)していた商家や銭湯、居酒屋などが並び、下町の風情を楽しめると人気です。
下町仲通りには伝統的な出桁(いげた)造の商家や、この時代を代表する看板建築の商店がならんでいます。
看板建築は、関東大震災後、鉄筋コンクリート造で建てるだけの資力がない、中小規模クラスの商店によって数多く建設されました。軒を張り出した伝統的な造りと違って、垂直に立つ壁面が特徴です。かつての伝統的な町屋に代わる洋風の外観を持った店舗併用の都市型住居でした。
第二次世界大戦後もバラックを経て、震災後とはデザインを変えた看板建築が数多く建てられましたが、建築基準法改正で建てられなくなったり、80年代のバブル期に取り壊されたりの経緯を経て、現存する建物は少なくなりました。そのいくつかが江戸東京たてもの園に引き取られたのです。

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看板建築の三省堂文具店と花市生花店(左は休憩所)

看板建築は内部も工夫が凝らされています。武居三省堂は明治初期に開店した文具店です。建物は震災後に建てられたもので、前面がタイル張り、内部は狭い空間をすきまなく利用して、信じられないくらいの収蔵量です。

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壁一面の小引き出し
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壁や天井までの空間を利用した棚

道路をはさんだ向かいに建つ大和屋本店は港区白金台に1928年(昭和3)に建てられた木造3階建の商店です。こちらは3階の軒下を出桁造りにするいっぽうで、間口に対して背が非情に高く、看板建築のようなプロポーションです。

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大和屋本店
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店内の昆布や煮干しはほんものそっくり

下町仲通りの付き当りにあるのは子宝湯です。
足立区にあった、東京の銭湯を代表する建物です。
宮崎駿監督のアニメ「千と千尋の神隠し」のモデルになりました。
ちなみに銭湯の経営は肉体的に厳しく、辛抱強い人でないと務まらないと、昔から東北出身者が多かったと聞きました。

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子宝湯
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男湯の脱衣場
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おなじみ、富士山の絵は男湯にだけ描かれた

万徳旅館は青梅市の青梅街道沿いにあった旅館。江戸末期に創建されて、富山の薬売りや江戸からやってくる御岳講の庶民の常宿になっていました。平成9年に移築されるまで現役でした。

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万徳旅館

東ゾーンのはずれに立つのは万世橋交番です。東京駅を建てた辰野金吾の設計によるもので、明治後期のものと言われます。
神田の万世橋からこのたてもの園に移されるとき、解体せずに、トレーラーでそっくり運ばれたそうです。

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万世橋交番

センターゾーンには明治から昭和の初めにかけて国政を担った高橋是清の住まいが展示されています。2・.26事件で命を落とした是清は戦争反対の立場で、軍事予算を削減、軍部に強く抵抗したため、ねらわれたのでした。建築当時のうねりのあるガラスは今では手に入るすべもなく、二階の廊下のひろいガラス窓からは、主も好んだという、建物と一緒に移された庭をみおろすことができます。

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高橋是清邸
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二階の廊下から庭を見下ろす

江戸東京たてもの園を訪れる人の一押しはなんといっても西ゾーンの前川國男邸です。
コルビジェの弟子だった前川が品川・大崎に建てた家はあくまでシンプル。モダンなトイレやバスルームは昭和17年築とは思えず、、彩光に工夫をこらした広い吹き抜けの居間はなんとも居心地よく、何度来てもあきません。

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前川國男邸
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西ゾーンには山の手通りと名づけられた通りをはさんで、前川邸のほかに、田園調布の家やデ・ラランデ邸、三井八郎右邸衛門邸などが建ち並び、思わず住みたくなるお洒落な街をつくっています。
その一角、デ・ラランデ邸でお茶をいただました。晴れていれば外のテラスでとなるのですが、あいにくの雨。明治末期の居間やダイニングルームの窓枠や飾りがおしゃれです。

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デ・ラランデ邸
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デ・ラランデ邸のダイニングルームで
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三井八郎右衛門邸のルネ・ラリックの証明

さて、この日の待ち合わせ場所はたてもの園の入口でした。
正面入り口のビジターセンター(旧光華殿)は、1940年(昭和15)、皇居前広場で行われた紀元2600年を祝う式典のために建設された式殿でした。
その式典に、明理さんのおじいさんがはるばる台湾から参列していたのでした。
式殿は光華殿と名づけられて、翌年、小金井緑地(現小金井公園)に移され、江戸東京たてもの園の開設と同時にビジターセンターとして生まれかわったのです。
少し早目に到着してビジターセンターの歴史を聞いた明理さんは、台湾が日本統治下にあった時代やおじいさんのことを、ご両親から聞いていたことを思い出したようでした。
白色革命で台湾を離れたお父上の記念館が故郷台南市に完成し、先日式典がおこなわれたことを思い合わせると、この日の小金井公園訪問は明理さんにとって、これ以上のタイミングはなかったのではないでしょうか。

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旧光華殿の手すりによりかかり、感慨深そうな明理さん


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雑記帳2018-11-1 [代表・玲子の雑記帳]

2018-11-1
◆『地球千鳥足』の小川彩子さんの小川地球村塾におじゃましました。

府中市にある小川邸で、小川地球村塾のパーテイが毎年、春と秋に開かれています。
小川さん夫妻が100か国以上をバックパッキングして知りあった、世界からのゲストを迎えて、国内の数十人の友人たちが集います。

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今年のゲストはイランのカップル、アミールとマハシです。
アミールは小川さん夫妻がアルメニアで出会って、ジョージアで再会、イランで家庭訪問という、なんともドラマテイックな出会いをした若者でした。
イランでは「My home is your home.]と言うアミールの、夫妻それぞれの実家に招待されて、大歓待をうけたそうです。

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アミールとマハシ
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インテリアもイラン風

この半年の間に、ご主人の律昭さんは事故が相次ぎました、。
室内の階段をすべり落ちて足を骨折したり、自転車でころんで頭をけがしたり。それでも、骨折時には松葉づえと車いすで免許証更新のためにアメリカまで出かけた、めげない86歳です。
こんな元気なお二人は、人生100歳時代を先取りするシニアの手本として、最近テレビでひっぱりだこのようす。三度もテレビ局からのインタビューを受けたことが報告され、日本テレビのインタビューの録画をみせてもらいました。

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挨拶する小川地球村塾村長

16年前にイランで結婚式を挙げた稲葉さん家族も出席していました。
稲葉さんは彩子さんとはバックパックでイランで出会った仲間です。まだイラン旅行がめずらしかった頃のことです。
奥さんもイランが大好きだったので、結婚式をイランであげるべく、大使館にも相談に行ったそうです。そうしたら、なんと、馬車まで出して村をあげての由緒ある結婚式をあげてくれたということです。馬車に乗る二人は現地の新聞にもとりあげられ、この日は、16年前のその新聞記事が紹介されました。(イランの新聞なので、当然、イラン人のアミールが英語で通訳しました。)

壁に、西条八十作詞、近衛秀麻呂作曲の「虹」という歌がかかっています。
詞の中に「彩」という文字がはいっていることもあって、これこそまさに地球塾の歌、と、彩子さんはこれを塾歌にしたのでした。なにしろ、「彩子」は徳富蘇峰につけてもらった名前だからと、「彩」には特別な思いがあるのです。2番は地球村塾の塾生の菊池さんがつくりました。

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ワインやビールでポトラックに持ち寄った料理をつつきながら、秋乗のあちこちで交流が進みます。私も隣のリサ・マイヤーとおしゃべり。
彼女はCAですが、日本語が大好きで、50歳になった今、渋谷の日本語学校で日本語を学んでいます。英語まじりの日本語の会話は、まだ来日して2か月とは思えないほどでした。

自作の絵を披露したり、余興に皿回しをする人もいます。
スピーチでは、運河の船旅でオランダを自転車旅行したという辻さんの話が、いつか自転車旅行をしたいともくろんでいる私には、おおいに参考になるものでした。

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床に座っているのが彩子さん

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皿回しを教わるリサ

そんなこんなで出席者はみな個性派ぞろい。楽しい時間はあっという間にすぎ、「今日の日はさようなら」をみんなで合唱してお開きとなりました。

翌日、アミール夫妻を招いてのお好み焼きパーティでは私も腕をふるう(?)ことになりました。お好み焼きも、具材の豚肉も、初めての経験だと、大層喜んでもらえました。
ただし、具材に不可欠と思っていた桜エビがだめだったのはちょっと残念でした。

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彩子さんの友人、星家でのお好み焼き

イランはいま、アメリカのトランプ大統領の封じ込め政策の下で、猛烈なインフレだそうです。物が入ってこない日々、アミールたちは恵まれた少数派ですが、ブラックマーケットでしのぐくらしは日本の戦後を思わせます。政治的にもなかなか改革はすすんでいません。世界的な風潮になっている、宗教や主張を巡って、リーダーが分断をあおるのはそうすることで統治しやすい環境をつくっているのだと、話は国内外に及びました。

◆東京は農業だけでなく、林業や水産業だってあります。

立川市と昭島市の境に東京都農業試験場があります。東京都の農業に関する試験研究機関ですが、秋にはそこで、「東京の農林水産フェア」が開かれます。よく晴れた秋の一日、多摩川の崖線の上に建つ会場をのぞいてみました。

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農業試験場
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ツリークライミングは子供たちに大人気。
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多摩産の木材で工作教室

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東京紅茶や人参ジャムなど農産物の加工品もこんなにあります。

ちょっと気分転換に、野菜のクイズはいかがですか。

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試食の八丈島のつみれ団子汁はおいしかった! つみれの材料は特産のトビウオとムロアジです。このほか、園芸教室や試験研究の展示もあります。東京の地酒の試飲には行列ができました。
農業も林業も水産業もある、東京は全国の縮図です。その豊かさが地方の豊かさにも思いをはせた一日でした。



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雑記帳2018-10-15 [代表・玲子の雑記帳]

2018-10-15
◆「雑木林には神様がいる」!

所属する団体で、この春「暮らしの中の漢方」というテーマで学習会をしたところ、予想以上の反響で、人気が高かったことから、その続きとして、秋に、都立薬用植物園の見学を企画しました。講師は春にお願いした生薬協会の山上勉さんが務めてくださいました。

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園内には立派な温室もある。

急に気温のさがった9月26日、20人の参加です。

小平市にある薬用植物園は9,500坪。植物園としては規模は小さいほうです。
小石川植物園ははその5倍、調布の神代植物園は16倍もあります。
規模としては小さいけれど 栽培されている植物は1,600~1,700種もあり、種の数としては相当なものです。
漢方植物、山野草、雑木林のゾーンに別れ、雑木林は3分の1を占めます。

山上さんの説明を聞きながら園内を歩いて、ごく身近にある樹木や草が漢方の材料になることを学びました。そのうちの幾つかをご紹介しましょう。

先ず目についたのは桜の木。樹皮は桜皮と呼ばれせきとめに効きます。
次ぎに山上さんが是非と言って案内してくれたのがオタネニンジン(朝鮮ニンジン)のコーナーでした。
原産地は北朝鮮のペクトゥ山。
江戸時代、病気の親の薬代にと身を売った娘たちを詠んだ川柳があります。「大病に女衒のみゆる気の毒さ」
この高価な朝鮮ニンジンに関心をもったのが8代将軍徳川吉宗で、全国に忍びを送って調査させた記録が「野州日光見聞録」として、今も残っています。 
由来は吉宗自ら種をうえたことから、この名がつきました。
直射日光や風をきらう、連作ができない(土地がやせるので収穫後7年は作付けできないと言われます)など、栽培は難しく、今でも高価です。

薬用植物は様々な部位が生薬になり、部位によって呼び名も変わります。
たとえば、葛の根は葛根(カッコン)、葛の花は葛花(カッカ)のように。
すいかずらの花は金銀花、葉は忍冬と呼ばれます。
漢方薬の中でも最もよく利用されているマメ科の甘草は根が使われます。
リュウカクサン、カッコントウ、トンプクなど、ツムラの生薬127種のうち95種までカンゾウが使われているのだそうです。取り過ぎると低カリウム欠症になるので、トンプクなどの服用には時間をあけるなどの注意が必要です。
ちなみにノカンゾウ、ヤブカンゾウといった野草のカンゾウはユリ科で、全く別の種類です。

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根がこんがらがるので筒の中で栽培されています。

秋の七草のうち、はぎ、オミナエシ、フジバカマ、キキョウ、クズの5種は生薬になります。例えばキキョウ湯はのどの痛みに効きます。

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クズ(風邪や胃腸炎に)
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ハギ(根はめまい、のぼせに効く)
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オミナエシ(解熱、解毒作用があるといわれる)
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フジバカマ(利尿作用がある)
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トウガン(薬用部位は種。利尿、消炎、排膿など)
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ヘビのような形をしたヘビウリ(かっては実のエキスをしもやけ等に使った。食べられます)

この植物園で一押しはケシ・アサ栽培区でしょうか。
ケシはモルヒネなどのアヘンアルカロイドを含み、鎮痛、鎮咳薬等の製造原料となります。
アヘン法により栽培は禁止されているため、数か所の防犯カメラに二重の囲いという厳重な警戒ぶりです。
10月に播種し、5月開花のケシ畑は、ゴールデンウィークには2,000人以上の来場者で賑わうそうです。
ケシを栽培しているのは全国に、ここと、四国の牧野記念植物園のみです。

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厳重な金網の向こうにケシ・アサ試験区

新薬は単一成分なので合成できるため、新しいものがでるとどんどんとって代わられます。一方、多成分系の生薬は合成ではできないため、寿命は長く、葛根湯は1500年も飲まれています。

薬用部位が根の場合は摘芯、摘花を行って、花を咲かせないようにします。
植物は花だけがすべてではないのです。終わってもすてきなものはたくさんあります。たとえば、シモバシラ。秋の花がおわって、枯れた茎に冬、氷の結晶がついて美しい霜柱になります。花がすべてではないのは人も同じですね。

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山野草コーナーに咲き残っていたシモバシラの花

最後に、「神様に会いに行きましょう」と、案内されたのはクヌギとコナラの雑木林です。
キンラン、ギンランなどの希少種も見られる林の中で、山上さんはある年、カタクリの群生する場所が変わっているのにきづきました。
だれの仕業か。・・・蟻です。
かたくりにはわずかだがエライオソウムという甘い物質があり、それを蟻が好む。→エライオソウムはわずかなので、種が残る。→蟻はそれを自分の巣から別の所に運ぶ というわけです。
このことは、実は、同じ場所に長い間同じものを育てると土地がやせてしまう、連作障害を防いでいるのです。
「ゴミになった種を巣からはこびだすのって、蟻の本能じゃないですか。」
「そう言ってはあまりにも夢がない。蟻を使って連作障害を避ける自然の摂理を作ったのは神様しかできないではありませんか。私は毎日神様に会いにここに来ているのです。」素敵な山上さんの言葉でした。


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薬用植物園の雑木林

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雑記帳2018-10-1 [代表・玲子の雑記帳]

2018-10-1
仙北市の旅の2日目は田沢湖町での収穫体験。きりたんぽにも挑戦しました。

二日目も雨。
前夜、農家とペンションに分かれて宿をとった私たちは、再び、迎えのバスに乗り、収穫体験予定のアグリアサノファームにむかいました。
この雨では畑に入るのは難しいと言いながらも、職員さんが用意してくれた長靴と雨合羽に着替えるうちに、ほどなくアサノファームに到着。元気な浅野さんがでむかえてくれました。

アサノファームでは仙台など各地からの収穫体験者をうけいれています。
自然農法で育てた野菜は元気でおいしいいと評判だそうです。
「今年の一番の畑の敵は、タヌキとカラス、それに高温と日照りだったわね。」
そういえば、我が立川でも、農家の悩みはカラスとハクビシン、ムクドリの大軍です。

雨が少し小降りになったのを見計らって、浅野家のすぐ近くにある畑でトウモロコシをもぎました。
タヌキを3匹つかまえたという、ネズミ獲りを大きくしたようなタヌキ獲りのワナと一緒に、カラス除けのカイトが畑に存在をほこっています。「線路はつづくよ」で、岩本さんが撮った写真にもカイトがあったことを思いだしました。カイトはあんまり役に立たないようだと浅野さんは笑っていましたが、結構、あちこちで活躍したのですね。
わなにかかったタヌキはご主人が山へ放したそうです。3匹はそれぞれ別のときにわなにかかったけれど、大きさから判断して、家族かもしれないと浅野さんは話していました。山で家族が再会できたとしたら、嬉しいですね。


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トウモロコシ畑で今年の出来具合を説明する、元気な浅野さん
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今年の人気者(?)カイト
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これで3匹捕獲したタヌキワナ

多品種を栽培している畑ではどの野菜もみんな元気。大葉が虫食いでないのに、みんなびっくりでした。農薬の代わりに天敵をつかうのだという話でした。

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虫食いのない、みごとなオオバ

収穫の後は浅野家の居間でお焼き作りをしました。長野のお焼きとちがって、こちらは餅粉の皮に中身は甘いあんこです。
ホットプレートで焼く、ちょっと焦げ目のついた餅粉の皮がなんともこうばしくて美味しかった!

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餅粉の皮にあんこをつつんでおやきを作る作業も和気あいあい。

お昼は民宿「かまど」で、もいだトウモロコシを味わいました。
出された漬物は多種多様、中でも自慢の葡萄漬けは美しい色あいです。まだ葡萄のとれない今の季節は、カシスで色を出すのだとか。秋田では主婦は漬物がつくれなければ一人前とは言えないのだそうです。

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秋田のつけものたっぷりの昼食は囲炉裏を囲んで

雨はずっと降り続き、雨足は大きくなるばかり。
農家のおかみさんたちはみんなして「かまど」へ手伝いにやってきていました。
囲炉裏のある「かまど」は格好の交流の場になりました。
田沢湖町の民宿では一軒に負担が集中しないように、お互いに助け合う、そんな仕組みを作っています。

昼食後はこの旅の唯一の観光地、田沢湖畔をバスでめぐりました。
あいにくの雨では、水深日本一という、美しい緑青の湖もそれと判らず、金色に輝くたつこ姫の像も雨にけぶるばかり。さすがに観光客もまばらでした。

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雨の田沢湖

1940年に発電、農業用水の利用のためと称して、酸性の源泉水の流れ込む玉川から水をひいた結果、田沢湖のクニマスはすがたを消しました。近年、中性化の取り組みを進めて、まだ生物の住める環境ではないが、徐々に水質はもどってきているという話もききました。
                                                          
宿に帰りついて、その夜は娘さんに教えてもらいながらきりたんぽ作りに挑戦です。
炊いたご飯を面棒で荒つぶし、きりたんぽ用の四角い串にまきつけていきます。1本にご飯120gが目安です。意外に簡単に作り方をマスターして褒められました。
夕食にでた美味しいきりたんぽ鍋は、出しは比内鶏でした。

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きりたんぽ作り
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ブドウ漬けは甚吉の夕食にも出ました。

三日目は乳頭温泉です。

温泉郷を取り巻くブナ林を、天気がよければ散策の予定でした。
バスの中で見せてもらった、輪切りにしたブナの板は直径30cm、これで樹齢90年ということです。ブナは杉に比べればはるかに成長が遅いのです。
成長が遅いため、樹は固くて重く、細工が難しいので建材には向きません。おまけに腐りやすいときています。
建材にはむかないけれど、植林された杉と違って保水力が強く、緑のダムとも言われます。
戦後の一時期、伐採されたこともありましたが、まがった樹を残したのが幸いして、ブナ林は復活しました。

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直径30cm、これで樹齢90年!
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雨のため車窓から撮ったブナの林

ブナの実はクマの大好物です。集めたドングリを溜めて置くクマ棚は鳥の巣のようだとか。また、春先の酸っぱい新芽も、クマは食べるのだそうです。
そして、ブナ帯はふしぎに、縄文文化帯と一致します。
豊かなブナ林は生き物に優しく、クマだけでなく、縄文文化も育んだのでした。

乳頭温泉郷は秋田の誇る秘湯です。 7湯のうち、黒湯温泉に浸かり、鶴の湯温泉でお昼と食べるという、贅沢な温泉巡りをしました。

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緑がかった乳白色の黒湯温泉
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鶴の湯温泉本陣
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ミズなどの山菜、イワナ、山の芋汁の昼食
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名物山の芋鍋 自慢の山芋だんごはつなぎもなく、おどろくほど粘りがあっておいしい。

雨に叩かれた3日間でしたが、秋田仙北地方を堪能した旅でした。
添乗員のほかに職員のお三人が付き添ってくれ、二度とない旅になりました。
田沢湖駅のホ―ムまで見送ってくれた、田口さん、伊藤さん、そして坂本君、ありがとうございました。

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雑記帳2018-9-15 [代表・玲子の雑記帳]

2018-9-15
◆角館祭りのやま行事は優雅で過激! お殿さまにもお会いしました。

JR東日本の「大人の休日倶楽部」のパンフレットに「五感楽農体験ツアー」を見つけたのは、夏に入ったばかりのころでした。「仙北市を暮らすように旅する」と副題がついていました。

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仙北市は10年前、角館町と田沢湖町、西木村などが合併してできた市です。
今回は、その仙北市とJR東日本の共同企画として、角館の「やま行事」、田沢湖の「トウモロコシの収穫体験」、そして、秋田の誇るブナ林の散策と秘湯めぐりが組まれていました。宿は民宿です。

最近は、物見遊山を卒業して、滞在型や社会科見学など、少し変わった形の旅がふえています。9月8日からの三日間、日程に都合がついたのを幸いに、参加を決めました。参加者は9名。予想より少ない人数でしたが、当事者にとってはまたとない贅沢な旅になりました。

9月8日、東京駅を昼前に出発した「こまち」はほぼ3時間で角館に到着。
駅では歓迎の横断幕でむかえてもらいました。

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9月7日から3日間行われる角館祭りの「やま行事」はユネスコの世界文化遺産になっています。「やま」とよばれる巨大なもっこに、人形やお囃子、踊り手をのせた17台の曳山が町中を煉り、優を競うのです。人形は源平煮合戦にちなむ武者人形だったり、歌舞伎の十八番からとられたりしますが、すべて丁(ちょう)内の人の手作りです。祭りの期間中は学校も休みになり、曳山の時間帯は交通規制で車は締め出されます。男も女も、一年中で一番気合いが入る、町を挙げてのお祭りです。

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駅そばの資料館前にかざられた「やま」
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やまの一つの武者人形

角館は言わずと知れた陸奥の小京都です。武家屋敷通りは観光の目玉になり、春の桜をめあてに多くの観光客でにぎわいます。
江戸時代中ごろから、この角館を治めていたのは佐竹家でした。
地元の寺社である神明社と成就院薬師堂の祭礼は、参拝と同時に佐竹家当主の上覧をあおいで、その伝統は今もうけつがれています。
佐竹家の現在の当主、敬久氏は今、秋田県知事です。そして、佐竹知事は角館では今でもお殿さまなのです。

ヤマは各丁内から武家屋敷通りを目指し、お殿さまの御座所の前でおやま囃子が披露されます。大小の太鼓や鼓、笛や三味線の演奏に合わせておぼこ姿の女性がヤマの前舞台で踊るおやま囃子は、ヤマが丁内を出発する時から納められるまで続きます。

私たちも駅で角館の文字のはいった半纏を着せてもらって、道々、屋台をのぞきながら、上覧の行われる武家屋敷通りを目指しました。車の通らない武家屋敷通りを歩けるのは一年中でこの時だけだということです。
最初に目をひいたのは「ババヘラ」。お婆さんがヘラですくってくれるアイスです。秋田県では何処へ行ってもババヘラの屋台をみることができるそうです。働き者の秋田の女性の象徴でしょうか。アトピーの孫でも食べられると言ってお婆さんがコーンに盛ってくれたババヘラは、乳成分のほとんどはいっていない、あっさりとした味でした。

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おばあさんがばらの形に盛るのに3年かかったというババヘラ

観光客にお馴染みの武家屋敷通りは江戸時代そのままに残り、食事処も武家作り。街並みの保存にはきびしい規制があるようです。角館のしだれ桜は、佐竹藩にお輿入れのお姫様が京都から持参した苗木がもとになったとか。開花の時期には町中にしだれ桜が咲き誇ります。

あいにくの雨模様に、道中どこのヤマにも雨除けのビニールが被せられていましたが、お殿さまの前ではホロをはずして人形を見せなければなりません。組み立てた角材をとりはずすのもなかなかの作業、さいわい17台の最後のヤマの上覧を見ることができました。

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やまの舞台で披露されるおやま囃子の手踊り

囃子に合わせて二人の女性が踊る手踊りの、シンクロした手の動きはしなやかで、思わずみとれてしまいます。紫や絣の衣裳をつけて踊る女性は名にしおう秋田美人。踊り手だけではありません。ご一緒してくれた職員も、宿の娘さんたちも、みな秋田美人でした。

そして、なんと、私たちは世が世なら拝謁できないお殿さまと御座所で記念撮影することができました。床の敷き物ですら、今でも許可が無ければ誰も踏むことができないのだとあとから聞いて赤面しましたが。

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武家屋敷通り
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お殿様の御座所(佐竹の家紋が見える)
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御座所の中で記念撮影

市役所の庁舎で休憩ののち、陽が落ちて、すっかり暗くなってから「やまぶっつけ」を見物しました。
このころには大人から小さい子どもまで祭り装束の家族連れが通りにあふれています。
狭い通りで二台のヤマが出会ったとき、どちらが道を譲るかは談合とぶつけ合いで決めるのです。観光用とはいえ、ぶつけ合いは迫力のあるものでした。囃子の奏者も踊り手もぶつかり合うヤマの手すりにしがみついて耐えます。ぶつけ合った後にもおやま囃子は競われるからです。それが3回も続きます。
観光用にアレンジされたものとは別に、本番のぶつかり合はもっと過激です。火花がとび、ヤマを曳く角材が天をつく、けが人が出たこともあると、祭りから帰って来た宿の娘さんから翌日聞いた話です。最終日の本番のやまぶっつけは深夜から早朝まで、町内のあちこちで繰り広げられるということでした。

やまぶっつけを見学して田沢湖町にある民宿に着いたのは夜も更けていました。
田沢湖の民宿の歴史は古く、昭和45年の田沢湖国体のおりに全国に先駆ける形で誕生しました。それ以降、規制緩和のもとに、民宿は全国に広がっていきました。

農家民宿とペンションタイプの中から私が選んだのは農家民宿でした。
民宿「甚吉」は築100年にもなるという建物、おかみさんの心づくしの夕ご飯は、きのこたっぷりの芋の子汁にイワナの塩焼き、秋田の食材満載のご膳でした。

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甚吉の看板
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築100年の甚吉(上写真2枚は翌日雨の晴れ間に撮ったもの)
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きのこたっぷりの芋の子汁
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ぶなの森で育った「石神大根」は驚くほどジューシー

◆『ロシア~アネクドートで笑う歴史』の筆者、川崎浹さんのインタビュー番組が公開されます。公開日時は以下です。
 テレビ東京「美の巨人たち」
 「高島野十郎の蝋燭」は地上波で9月29日(土)夜10時。
  衛星放送「BSジャパン」で10月6日(土)夜10時。

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雑記帳2018-9-1 [代表・玲子の雑記帳]

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気温8度の地下神殿は絶好の避暑地。

例年になく梅雨開けが早かった今年は、これまでにない暑さに悩まされることになりました。「命にかかわる危険な暑さ」と言う言葉を何度耳にしたことか。熱中症で病院に運ばれる高齢者もあとをたちませんでした。「不急不要の外出はさけましょう」まるで、台風時のような呼び掛けが毎日の挨拶でした。
そんな中、「神秘の絶景大谷資料館&碧く透き通る木の俣渓谷」の日帰りバスツアーを見つけました。

四国の庵治石や水石のような硬い石を見なれた私には、なじみのないものでしたが、栃木県産の大谷石は、昔から一般の住宅にもつかわれていました。コンクリートが普及するまでは、土台石としても利用されていたのです。

石の特徴や用途はWikipediaによると、「軽くて軟らかいため加工しやすく、さらに 耐火性に優れている。このため住宅(かまど、石塀・防火壁、門柱、敷石・貼石など)、蔵や倉庫、大きな建築物の石垣、斜面の土止め石(擁壁)といった幅広い用途を持つ。耐火性・蓄熱性の高さからパンやピザを焼く窯や石釜の構造材としても用いられる」。 先日訪ねた行田の足袋蔵にも大谷石は使われていました。
多孔質の独特な風合いは、アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトが、帝国ホテル旧本館(東京)に用いて広く知られるようになりました。

宇都宮市の郊外にある採石場の跡が今、資料館になっています。資料館では、8世紀、下野国分寺の土台石として使われた時代からの歴史や、手掘りから機械化された変遷を学ぶことができます。戦争中は陸軍の軍事工場や秘密倉庫にもなったとか、ちょっとミステリアスなところも人気なのでしょうか。

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資料館入り口
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展示室
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資料館近くにあるむき出しの大谷石の岩壁

石はめずらしいことに、山を削るのではなく、地下にむかって掘られたので、120段の階段を下りて行けば平均気温8度の空間がひろがります。広さは2万平方メートル、東京ドーム2個分の未知の空間は、今でも貯蔵庫として使われるほか、多くの映画の撮影やコンサート、舞台公演や展覧会などのイベントに利用されています。

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華道家假屋崎省吾氏の作品の前では朗読やコンサートも行われた。
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フランスのドンぺリオンが日本最初に上陸したときの記念のワインも展示されている。

大谷資料館近辺には食事の場所があまりないので、那須塩原のあたりで、お昼はお弁当です。
日光や那須、塩原などの観光地のある宇都宮は駅便発祥の地、その地の松廼家さんの弁当が出ました。こちらは芭蕉の「奥の細道」に因んだ弁当です。

包みには「あらたうと 青葉若葉の 日の光」。なるほど、芭蕉はこの道をあるいて日光へ入ったのかと、一人うなずいたものです。

深川で暮らしていた芭蕉の、数少ない持ち物の一つに、米入れにしていた「瓢」があったということで、折の中心には瓢の形をした玄米と白米のご飯です。(ちょうど芭蕉の生きた時代、江戸の市民の主食は玄米から白米に変わろうとしていたのです。)米粒が残り少なくなると、弟子たちがそっとお米をいれておいてくれたとか。

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                       「芭蕉気分」と名付けられたお弁当

弁当につきものの、こんにゃくやきのこ、里いも、トウガラシなどはみな芭蕉の好物だったそうです。好物は句にも詠まれてました。
    たけのこや 雅(おさな)きときの 絵のすさび
    ものひとつ 瓢はかろき 我(わが)よかな
    蒟蒻の さしみもすこし 梅の花 

この日、同時に訪ねたのは木の俣渓谷でした。
木の俣川は関東地方第3の大河、那珂側の支流です。那珂川は清流としてしられ、天然鮎の漁獲量が日本一だそうですが、上流の木の俣渓谷にも涼をもとめて、夏は親子連れでにぎわいます。この日は夏休み最後の日曜日とあって、キャンプや水遊びの車で駐車場はいっぱいでした。手をひたせば、冷たい水が心地よい。渓谷に響く子どもたちの歓声をきくと、東京の小学校ではあまりの暑さでプールも禁止になったことが思い出されました。

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エメラルドグリーンも美しい渓谷の流れ
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なぜか名前は巨岩吊り橋、歩くと揺れます。
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珍しいオオバヤナギの群生林

値段を抑えたバスツアーに参加すると、必ずおみやげを買う場所がセットになっています。今回のツアーの最後に益子の外池酒造にたちよりました。奥多摩の澤乃井酒造を見学したあとだけに、今年は酒蔵見学がつづきます。(創業が文政12年(1829年)ということですから、元禄年間に創業した(1610年)澤乃井がいかに古いかが判ります。)
外池酒造の銘酒「燦爛」は今年の全国新酒品評会で金賞を受賞しました。

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外池酒造
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蔵の中は資料展示館
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金賞を受賞した「燦爛」

造り酒屋はどこも地域の産業の担い手としてだけでなく、文化やまちづくりにも貢献しています。古い蔵を利用した併設のカフェギャラリーでは、仕込み水の水出しコーヒーや利き酒ができると人気です。「酒造りは米作り」をコンセプトに田植えや稲刈りも体験するイベントもおこなっているということでした。
参加者はさすがにお酒の好きな人が多いようで、皆両手に重そうな酒瓶をさげての買い物でした。私が買ったのは酒まんじゅう、これが意外においしかったです。

益子に入る前、これも那珂川に注ぐ江川にかかる龍門の滝を見学しました。幅20メートル、高さ65メートルの堂々たる滝です。近くにJR烏山線の烏山駅があり、列車と滝が見られると、鉄路の愛好家もよく訪れる場所だそうです。
道端の野草の中に、季節の花、キツネノカミソリを見つけました。ヒガンバナ科です。あと1か月もすれば秋の彼岸、涼しくなるのがこれほど待たれた年はありません。

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龍門の滝全景
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キツネノカミソリ

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雑記帳2018-8-15 [代表・玲子の雑記帳]

2018-8-15
◆この夏、東京で一番暑かった青梅を訪ねました。

連日の猛暑の中、テレビは毎日のように熱中症予防を呼びかけ、適切な冷房の使用をすすめています。も早節電の声はどこへいって聞かれません。温室効果ガスの削減よりも、熱中症で死者のでることの方が差し迫った問題になったということでしょう。

不要不急の外出は避けましょうと言われながらも、水のそばなら少しは涼しいかと、青梅市は沢井にある小澤酒造の酒蔵見学を思い立ちました。ここは、知の木々者でおなじみの『往きは良い良い、帰りは・・・・・・物語』で俳句の会、こふみ会が吟行したところです。

見学の時間まで多摩川を見下ろすガーデン、澤乃井園でしばし一休み。
庭の一角に鉾杉をイメージした歌碑がたっています。
   西多摩の山の酒屋の鉾杉は
       三もと五もと青き鉾杉
この歌が、大正12年に奥多摩に遊んだ歌人、北原白秋の詠んだ「造り酒屋の歌」の反歌であることを知る人は少ないかもしれません。「造り酒屋の歌」は、 九州、柳川の造り酒屋のあととりだった白秋が、山深い里で酒の仕込みに精出す杜氏たちの姿に、今はない生家を偲んで生まれたのでした。

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澤乃井園ガーデン
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白州の歌碑

多摩川にはたくさんの橋がかかっていますが、澤乃井園の庭から対岸にかかる吊り橋は「楓橋」とよばれています。八世紀の中頃に活躍した中国の詩人・張継(ちょうけい)の詩『楓橋夜泊(ふうきょうやはく)』から採った名前だそうです。橋をわたると、寒山寺の小さな寺堂があります。この寺にも由来があります。明治十八年、時の書家、田口米舫(べいほう)師が中国に遊学、各地を歴訪中、中国寒山寺より寄託された木像の釈迦仏一体を日本に持ち帰り、日本の中で適地を探索していたところ、この沢井の鵜の瀬渓谷を発見、当時の青梅鉄道の社長、小澤太平の支援によって、沿線の名士、文化人の喜捨を得て建立したというものです。(『今は昔 奥多摩見聞録』より) 戦争中供出されて戻ってこなかった鐘も再建されて、今でも渓谷の散策におとずれた人が鐘を突く音が聞こえます。

小澤酒造の創建は元禄15年(1702年)。都内にある9軒(休業中も含む)の蔵元の中でも最も古い歴史をもちます。看板の清酒「澤乃井」の名称はこの知がそのむかし、武蔵国澤井村だったことに因んでつけられたそうです。
創建の時作られた酒蔵は「元禄蔵」と呼ばれ、厚い土壁は外気温を遮り、今でも貯蔵庫として利用されています。
酒米は「山田錦」。食用の一般米と比べて、タンパク質や脂肪分は少なく、保水力が高いなどの特徴を持ち、粒も食用米より大きい。これを35%まで削るのです。酒の銘柄に応じて使用する米の銘柄も変わりますが、これは杜氏の親方がきめます。蒸した米に麹と酒母を加えて仕込んだのがもろみです。仕込みは3回に分けるので三段仕込みと呼ばれます。
仕込み水は高水三山を源に、秩父成層の堅い岩盤から湧き出る石清水が使われています。珍しい横井戸を見学させてもらいました。この水は澤乃井園の中にある岩からも浸み出していて、誰でも飲むことができます。こうして10月末には新酒が出来上がり、酵母を除去した生酒は火入れの後市販されます。清酒の管理は常温でもよいが熱処理をしていない生酒は冷蔵管理を、と、酒飲みには当たり前のことも飲まない私には新鮮でした。

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小澤家母屋
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酒蔵
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日本酒には珍しいj熟成酒「蔵守」も蔵の中で熟成中。
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岩清水の横井戸
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ガ^デン内にも浸み出している岩清水

ガーデン横の多摩川べりを行けば、木立の中に「青年の像」が建っています。
戦争中、青梅に疎開していた彫刻家の朝倉文雄が、50年前の東京オリンピックの際に市に寄贈したものです。

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朝倉文夫「青年像」

戦争中に青梅に住んだ作家や芸術家たちは戦争が終わると東京へもどりましたが、日本画家川合玉堂は青梅にとどまり奥多摩を描きつづけました。川合玉堂美術館は青梅線御岳駅の近くに佇んでいます。
小澤酒造の会長夫人、小沢萬里子さんは玉堂のお孫さんです。ご縁があって、知の木々舎創立まもない2010年に『今は昔 奥多摩見聞録』を書いていただきました。その中で、(多分多摩川の)水を描く玉堂や、弟子たちに向き合う玉堂の姿が紹介されています。美術館の脇には玉堂の画友、清水比庵の歌碑があります。
   山近く 水急(はや)くして まのあたり
             玉堂先生 描きたまへり

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玉堂美美術館
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清水比庵の碑

美術館のそばにはこれも小澤酒造の経営するレストラン「いもうとや」。澤乃井園にある豆腐・湯葉料理の店「ままごとや」の妹分にあたるとつけられた名前です。
昼食時には我慢した甘味をと、冷たいぜんざいをいただきました。
広い窓から見る多摩川は、一週間前の台風の余波か、 緑青の水嵩もまして、一服の涼を感じさせました。

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いもうとや
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多摩川を見下ろす窓辺
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ちなみにお昼は吉川栄治ゆかりの紅梅苑の栗おこわ御膳でした。疎開中、町の人たちとの交流も厚く、慕われていた吉川栄治は戦後、国民的作家と呼ばれたこともありました。住居は記念館になって公開されていましたが、今は残念なことに休館中です。奥さんが始めた紅梅宴も彼女なきあと、その遠縁の人が経営していると聞きました。

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汁もたっぷり、おなかも満足

◆ここで、酒にちなんだ小話をひとつ。日本酒の技と心を伝える酒匠会のリーフレットに紹介されていました。「急須は昔 酒器だった」
最近は若い夫婦の過程では急須のないところが増えているとききますが、その急須、実は昔はお酒のお燗をする道具として考えられたものでした。
中国の明の時代にうまれ、日本へは室町時代につたわりました。江戸後期、11代将軍徳川家斉治下の文化文政期(1804)~29)に煎茶が流行した折、お茶を煎じて出す器具をしてちょうどいいと普及したそうです。
高級茶の玉露用は小型で「きびしょ{急備焼)」と呼ばれ、京都の文人墨客もてはやされました。
注ぎ口と握り手のついたものが普通ですが、握り手のないものは宝便(ほうへい)とよびます。たまには燗酒でも冷酒でも急須に入れて、猪口に注いでみるのはいかがでしょう。

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雑記帳2018-8-1 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2018-8-1
◆今年も立川の元気な農家をたずねました。

農業経営者クラブと消費者団体が連携して毎年、この時期に行っているのが「畑見学」です。市内北部、五日市街道沿いに広がる、都内でも有数の農地を見学して交流する取り組みは、農家にとっても消費者の生の声を聞くまたとない機会だと期待されているものです。今年は7月中旬、国分寺市と接する、市内東部の3つの圃場を訪ねました。

最初に訊ねた高杉さんの畑は今、トウモロコシです。
当主は50代、軒先販売を主体に、89歳のお母さんは現役の売り子で頑張っています。
新規就農を目指す二人の研修生もうけいれていて、一人は秋田からやってきた若い女性、もう一人は定年退職した元消防士さんです。
1月に種をまいたトウモロコシは寒さに弱い(霜げる)ので、ビニールハウスで冬を越します。5月初めに収穫を始め、7月中旬にはそろそろ終了です。
収穫のタイミングは先端部が茶色にこげかかってきたところ、それを過ぎると粒がかたくなるそうです。その時期は2~3日が勝負といいます。

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一面トウモロコシ畑
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先端が焦げ茶色になって収穫ごろのトウモロコシ

農家がこれだけ神経を使って適期をみきわめ、収穫したトウモロコシは、何と言っても軒先販売が一番でしょう。この時期、トウモロコシの軒先販売には東京でも行列ができます。
高杉さん曰く、「夜間に気温の下がる高地なら甘みはより増すけれど、東京の農家ならどこでも味は一緒です。」

2軒目の網野さんのハウスではエディブルフラワーを栽培していました。エディブルフラワーに取り組む農家は立川ではまだ多くはありません。
水やりには井戸水を使っているそうです。この地域では100メートルもほれば何処でも水が出るということでした。
路地の野菜は今、枝豆とトマトが収穫の時期です。取り立てのトマトと枝豆の試食に歓声があがりました。

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ハウスの中のエデイブルフラワーたち
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黄色のネットの中はきゅうりの苗です。
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立川のトマトはおいしい!

新藤さんは今年2月の東京都農業大会で、最優秀農業者として表彰されました。
代々植木農家でしたが、ご本人は花が好きだったので、花卉農家に転身したとか。ニチニチソウやベゴニア、コリウス、パンジー、ビオラなど、数万鉢の花を栽培しています。
切り花なら近くの日野や西砂に、鉢物なら青梅や砧、大田など、東京にも結構花市場がありますが、新藤さんは青梅に持っていくと話していました。
トネリコの林の一角ではカブトムシを育てています。お土産にカブトムシをもらって、みんなにっこり。

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ハウスの中はポットの花たちでいっぱい
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林の中のカブトムシ

今年は梅雨明けがはやく、猛暑が続いていましたが、欅やトネリコなどの大木の茂る植木畑の中は心地良い風がぬけます。あらためて、都市の中にある樹木の有難さを感じました。東京都でも、オリンピックに向けて、木陰を作ろうと呼びかけているようです。

昼食と交流は例年通り給食センターでおこないました。
この日のメニューは鰻ご飯、マメアジのから揚げに沢煮椀。
経営者クラブでは最初、トウモロコシの試食を検討していたそうですが、皮のついたトウモロコシは給食センターに持ち込むことができず、残念ながらかないませんでした。市内の小、中学校生徒数千人の給食を共同調理する現場では時間や安全面で制約があるのです。
6つのグループに分かれた交流会では和気藹々、活発な意見交換が行われました。
初めての参加者からは異口同音に、普段入れない畑に入れて農家のご主人や奥さんと話ができたことに感動したという声がきかれました。また、以前参加したことがあるが、農家の世代交代が進んでいるのを感じたという人もいました。一方、農家からは、値段を自分で決められないのが悩みという率直な声がありました。

◆7月29日、水野タケシさんの、「シルバー川柳入門」の出版記念パーテイがありました。

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会場の「クルーズクル-ズ」は日本で一番地価の高い鳩居堂の隣のビルにあります。当日の会場は50人ほどの参加者でいっぱい、水野さんの顔の広さ、仲間の多さを感じさせるものでした。
私自身は、「往きは良い良い、帰りは……物語」の風花さん、五七さんやひろばさん、「読むラジオ万能川柳プレミアム」の平谷さんなど、お会いしたことはなくても紙面でおなじみの方々にお目にかかることができました。

挨拶にたった、河出書房の編集担当者、谷口さんの話によると、シルバー世代にとって、川柳はいわば現代のツイッター。水野さんの「シルバー川柳入門」は好評で、間もなく重版も出るとか。売上は西日本豪雨の被災地に贈られるそうです。

水野さんと知の木々舎のお付き合いは、現在61回になる「往きは良い良い、帰りは……物語」からでした。
月1回の俳句の会、こふみ会が開かれると間髪をおかず会の写真がメールでおくられてくる、仕事の早い人だと思ったものです。その後、ご本人の「読むラジオ万能川柳プレミアム」(FMさがみで毎週放送される「ラジオ万能川柳」を文字におこしたもの)が投稿されるようになると、これもまた放送が終わるやいなや原稿が届く、そのフットワークの軽さに舌を巻いたのでした。それはまことに、軽さを武器に世相をきりとる、川柳の申し子のように思えました。

この日、一番の呼び物はあらかじめつくってもらった川柳を「ひど井どつき」なる水野さんが講評するというものでした。ひど井どつき」は俳句会の売れっ子、夏井いつきさんのパロデイというのですから、こちらも如何にも川柳です。
5人の出場者の川柳は、才能あり、凡人、才能なしなどと評価されるのです。お題は「老眼鏡」。今はやりの「ハズキレンズ」でもOKです。
そのうちのお一人、多比羅孝さんの川柳の評価はなんと「才能なし」でした。
多比羅さんは実は、30年前に水野さんが通った「コピーライター教室」の先生です。
「スカッとさわやかコカコーラ」で知られる、コピーライターの草分け的存在。その師匠にむかって「才能なし」とは…と一瞬、誰もが思ったはずです。コピーライターの世界では重鎮でも川柳は畑ちがいということでしょうか。
そして、ひど井先生は自らの模範川柳「南果歩 ハズキレンズを まっぷたつ」を披露し、胸をそらして「川柳はこれですよ、これが川柳です」とおっしゃる。その時の水野さんは少年のようでした。

一方、多比羅さんは、終わりの挨拶で、30年前の教室で、「清少納言に野球を教える」という課題に、水野さんが如何に真剣に取り組んだかをあかしました。その時の姿勢が今日の水野さんを作った、と、あくまでも優しい多比羅先生でした。

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会場の多比羅先生
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ファンのために自著にサインする水野さん

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雑記帳2018-7-15 [代表・玲子の雑記帳]

2018-7-15
◆「手作りニョッキでイタリアン」

食とくらしと環境を考える会の今年のテーマは「たっぷり食べよう 立川の野菜」です。立川の野菜がたっぷり食べられるメニューをつくりました。ジャガイモを含め、野菜は」ほぼ立川産。最近はきのこ生産農家も出ているようですが、エリンギを生産する農家はまだありません。長野産になりました。

◇材料4人分
<ニョッキ>じゃがいも300g(中3個)、薄力粉100g(1カップ)+ 打ち粉用に10g、
塩小さじ1/3、水50cc(固さ調整用)
<トマトソース>トマト2個、玉ねぎ1/2個、ナス1本、ピーマン2個、セロリ10cm、
エリンギ50g、ベーコン50g、エビ100g、オリーブオイル大さじ1、トマトジュース1本、調味料A(ニンニク1片、ケチャップ大さじ3、砂糖大さじ1、塩小さじ1、コショウ少々、ワインまたは酒大さじ2)、調味料B(粉チーズ大さじ1、タバスコ3ふり)

◇ニョッキの作り方
①じゃがいもは電子レンジで8分加熱して柔らかくし、火傷をしないように水にはなして粗熱を取ってから皮をむき、めん棒などでよくつぶす。
②粉と塩をサッと混ぜ合わせ、①を加えて、さらにつぶしながらよく混ぜ合わせる。
③ひとかたまりになるようにこねる。(②の加減を見ながら水を加える。新じゃがを使ったこの日は水はほとんど要らなかった)
④打ち粉を広げた上に4等分しておき、それぞれ直径2.5~3cmの棒状にのばし、1cm幅に切る。
⑤それぞれを団子状に丸め、指でかるく押すか、フォークでみぞをつけ、沸騰したお湯にはなし、茹でる。
⑥浮いてきたら茹であがっているので、一呼吸おいて、穴あきお玉ですくい、皿に取り出す。じゃがいもニョッキの出来上がり。
⑦トマトソースなどで絡めていただく。

◇トマトソースの作り方
①トマトはざく切り、玉ねぎは縦に8mmに切る。ナスは乱切り、ピーマンは2つ割にし8mmに切る。セロリは縦に割り5mm幅に、エリンギは3mm幅の縦に切る。
②ベーコンは1.2cm幅に切る。エビは洗ってから背を開いて背ワタをとる。ニンニクはすりおろしておく。
③オリーブオイル大さじ1でベーコンを炒め、油をだしてから玉ねぎを炒め、透き通ってきたら、ナス→セロリ→トマト→ エリンギの順に加えて、中火の強火で炒める。
④トマトジュースと調味料A、ピーマンを加え、少し煮詰めてから味見をし、良かったらエビを入れる。
⑤④に調味料Bを加えてなじませる。トマトソースの出来上がり。

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◆エディさんのアフタヌーンティをご紹介しましょう。

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昔、私たちのサークルの先生をしていたエディさんが、青梅の日向和田に紅茶の店を開いてもう5、6年になるでしょうか。カナダ出身のエディさんはアメリカ国籍とはいえ、どちらかといえば英国の風の似会う人でした。

そのエデイさんが、多摩川を見降ろす絶景の場所に、バブルのときに建てられてその後廃業した結婚式場を買ったと聞いて、私たちはおどろきました。
まだ生徒だった私たちを、何度か、彼女はクリスマスに招待してくれました。
前身が結婚式場だけあって、トイレは申し分なく広く優雅だったけれど、だだ広いホールは暖房もききにくく(こんな寒い時期にここで結婚式をあげたいと思うカップルはいなかったのでしょう)、日本人なら住まないとうわさしました。
ちなみに、青梅街道に面したすぐそばのへそ饅頭を売る店は昨年、クマが出たとニュースになりました。

打ち捨てられていた建物はペンキもはげ、川を見下ろすテラスの柱もさびていたのを、彼女は長い時間をかけてすこしずつ修復していきました。
今回たずねてみると、見違えるように奇麗になっていました。しかも、屋根には今風にソーラーパネル。脱帽です。

建物を修復しながら、彼女はカフェをひらきました。アフタヌーンティを出すのが念願でした。これてやっぱり英国風。店の名前は「ローズタウンガーデン」です。そうそう、彼女のフルネームはエデイ・タウン、そして彼女は薔薇が大好きなのです。

立川から車で1時間ほど、お昼を食べてからゆっくり出かけてアフタヌーンティにちょうどいい時間になります。テラスで多摩川をみおろしながら、エディさんお手製のアフタヌーンティをいただきました。

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中段のケーキはメーガン妃の結婚式のときに出されたと同じ、レモンとラズベリーのケーキです。そして、ご自慢のスコーンは、スコットランドを巡って食べ歩き、一番気に入ったスコーンのレシピを使ったということでした。

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エディさんの好みのカップもいろいろ

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雑記帳2018-7-1 [代表・玲子の雑記帳]

2018-7-1
行田が日本遺産のまちだと知っていましか?

古代ハスとさきたま古墳群の町として知られる行田市は足袋で栄えた町です。
さきたま古墳群は言わずと知れた日本遺跡、現在、世界遺産登録も視野にいれています。方や、足袋の町は、じつは日本遺産なのです。
このあまりなじみの無い「日本遺産」は平成27年、文化庁が制定した制度です。ストーリーをもったタイトルと歴史がその対象になっているのが特徴です。「和装文化の足元を支え続ける足袋の町行田」は平成29年に日本遺産に認定されました。地域活性化を狙う自治体の申請をうけて、現在全国に67件、オリンピックの2020年までに100件をめざしているということです。ちなみに私の郷里、愛媛県の日本遺産は広島県と共同で、瀬戸内海の雄、村上水軍です。

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市内循環バスに乗って、町歩きの最初の行き先は水城(すいじょう)公園です。
中国を真似て作られた池を持つ水城公園は、もとは忍城(おしじょう)の外堀でした。
広い園内には講道館三船十段の顕彰碑や田山花袋の小説「田舎教師」の文学碑もみられます。湖畔に大正11年築の忍信用金庫が移築されて公開の準備中でした。公園はテレビドラマ「陸王」の撮影現場にもなりました。

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池は中国の庭園をモデルにしたという。
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サギも仲良く池辺を散歩
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「田舎教師」の碑(主人公のモデル小林秀三が行田に住んでいたことにちなんだ)
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池畔に移築された大正11年築の忍信用金庫

行田の足袋は江戸時代中ごろから盛んになり、明治になると西南戦争や日清日露戦争時に軍の足袋の供給を一手にひきうけて栄えました。最盛期の昭和13年には年間約8500万足を生産したといいます。まさに日本一の足袋の町。足袋の生産を担ったのは大企業ではなく、多くの町工場でした。

その足袋の原料や製品を保管していたのが足袋蔵です。蔵は木造や石造り(場所柄大谷石がもちいられた)、モルタルやコンクリート蔵、れんが造りなど多種多様、デザインもさまざま、ひとつひとつに個性があります。現在、行田市内に80棟あるという蔵を巡る町歩きに、市は力をいれています。昭和30年代に、ナイロンストッキングの普及で足袋の需要が急速に減少して、蔵の建設も途絶えました。中には蕎麦屋として再活用されている蔵もあります。

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行田で唯一の鉄筋コンクリート煉瓦造りの大澤蔵
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こちらは木造の足袋蔵
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足元にも案内板

昭和の初め、足袋の生産で一代で財をなした新井八郎氏が贅を尽くして建てた邸宅は、足袋御殿と呼ばれました。足袋御殿は復元されていま「彩々亭」という料亭になっています。個人ではなかなか予約がとれないという彩々亭でお昼をいただきました。

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和牛ステーキがメインのランチ

食後に館内を案内してもらいましたが、趣のある廊下や豪華なシャンデリアなど、大正ロマンあふれる和洋折衷づくり。贅をこらした床の間の柱の材や面取りをした障子の桟などにも目を奪われました。庭もみごなものでした。国登録の有形文化財です。

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ゲストルーム
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廊下の天井
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明かりとりの障子の桟も手がこんでいる。モチーフは川漁に使われた投網。
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ガラス越しに見る庭

商工センターのあるメインストリートには、『知の木々舎』でおなじみの、赤川ボンズさん作の行田の童たちに出会うことができます。 童たちは町にちなんだポーズで39体。全体に昭和っぽい行田のまちに、これもレトロなイメージの童たちは良く似会い、行田の町づくりに一役かっています。 

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古代蓮の葉を持った行田の童

大正の建物、武蔵野銀行行田支店は、数少ない戦前の銀行建築として、また足袋の行田に深く関係がある建物として、貴重な近代化遺産です。行幸で行田を訪れた昭和天皇に食事を出したという応接室を特別に見せてもらいました。

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武蔵野銀行行田支店
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昭和天皇が滞在した応接室

市内でもっとも古い足袋工場、イサミ足袋工場を見学しました。大正6年建築の木造洋風工場は、独特ののこぎり屋根を初め、随所に戦前の大規模足袋工場の姿をとどめています。

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工場ののこぎり屋根
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イサミ足袋の商標(江戸時代の歌舞伎俳優尾上松緑がモデルという)

13工程あるという作業は分業です。近代工業の分業の仕組みは足袋工場がはじまりだそうです。働き手は主に女性ですが、爪先を木槌で叩いてしあげるのは力の要る男性の仕事です。分厚いつま先を縫う難しい工程には、創業時のドイツ製ミシンがメンテナンスをしながら今も使われています。行田ではミシン屋さんが多いのです。

今、日本では足袋の生産はこの行田と徳島県の鳴門の二か所のみになりました。

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ベテランの工員さんが使いこなす創業時からのドイツ製ミシン 

町を歩けばそこここに、高札場跡や枡形門の跡を示す石碑が見つかります。気が付けば、行田は忍城の城下町なのでした。

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水に浮く城として知られる忍城は、昨年、映画「のぼうの城」の舞台になりました。
室町時代築城の城は、豊臣秀吉の関東平定に際し、石田三成らの水攻めにも耐えたことで有名になりました。北条に加勢した城主は小田原城にこもっていたため、城を守った正木丹波守は地元ではお殿さまより人気があるようです。市内の佐間天神社や高源寺に丹波守をしのぶ跡が残されています。

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佐間天神社
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高源寺にある正木丹波守の墓

江戸時代には忍城は川越、岩槻と並んで江戸を守る三城のひとつとして重要な拠点となり、行田は老中阿部家の領地となりました。小姓時代から家光とともに育った阿部忠秋は、明暦の大火で焼け落ちた江戸城の天守閣を再建不要と決断したやり手です。徳川幕府で最も長く老中を務めました。その後、領地換えにより、桑名の松平家が領主になり、明治になるまで松平家がおさめました。幕末に、国防の役目を担って重ねた借金を、維新のどさくさに城の一部を売って支払ったというのですから、流石は松平というべきか、律義なお殿さまだったようです。

忍城は美しい城ですが、天守閣はなく、阿部家三代目正武の時代に完成した改築の際、外堀にあった櫓を本丸に移した経緯があって、築城時のオリジナルの姿ではないという理由で、日本の100名城には選ばれませんでした。最近になって、ようやく200名城の仲間入りをしたのでした。

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雑記帳2018-6-15 [代表・玲子の雑記帳]

2018-6-15
きみちゃん像は麻布十番にもありました。

台地と谷地で形成された麻布は坂の多い町です。
縄文時代から人が住み、8世紀初頭には竹千代稲荷、9世紀には善福寺が創建されるなど寺社の門前町として栄え、江戸時代には武家屋敷が建ち並ぶようになりました。
明治の近代化とともに、台地の上と谷で、富裕層の住宅地と零細商工業地とに分化がすすみました。

かって「土筆が原」と呼ばれた広尾一帯は、しばしば将軍家の鷹狩りが催されたところです。二代将軍秀忠が鷹狩りをした際に立ち寄って稲荷神を勧請したと伝えられる広尾稲荷神社には、戦禍を免れた江戸時代の拝殿や大正時代に再建された本殿が現存しています。
拝殿の天井には日本最初の洋画家、高橋由一が描いた龍の絵が見られます。これは彼の最後の日本画だと言われています。

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広尾稲荷神社
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高橋由一の天井画

東京メトロ広尾駅に近い有栖川宮記念公園は、麻布台地を取り込むように造られた庭園です。江戸時代には盛岡南部藩の下屋敷でした。南部藩はのちに、屋敷替えで南麻布に移転しましたが、南部坂の名称はそのまま残っています。
明治29年、有栖川宮家の御用地となり、有栖川家がとだえたあとは高松宮家が預かって後に東京市に賜下され、その後も、1959年に東京都から港区に移管されるという変遷をたどって、現在は区立公園として親しまれています。
台地を利用して造営された園内は丘があったり、渓谷や池があったりと起伏に富み、高台の木立はまるで高原のよう、都内とは思えないほど緑豊かな自然に恵まれています。木立の向こうに見える都立中央図書館は蔵書が充実していることでファンも多いと聞きました。

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都立中央図書館

港区、ことに麻布は大使館の多いことで知られています。
皮切りは、安政5年、江戸幕府が日米修好通称条約に基づいて、善福寺に、アメリカ合衆国公使館を設けたことでしょうか。初代中日総領事タウンゼント・ハリスが逗留しました。慶応2年には別の寺院にプロシア公使館も設けられました。
今、港区にある大使館の数は70近く、そのうち、20以上の大使館が麻布十番商店街周辺に集まっています。

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通りすがりに見た韓国大使館

空海が開山したと伝えられる善福寺は、都内では浅草寺、深大寺に次ぐ古刹の一つ、鎌倉時代に親鸞が訪れて浄土真宗に改宗されたと言われています。本堂は300余年の歴史を持つ文化財的建物。他にも、樹齢750年以上、都内最大のイチョウがあるなど、見るものも多く、周辺は寺町の様相を見せています。

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ハリス逗留の記念碑
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都内最古、最大の銀杏の木

麻布散策のもう一つの目玉スポットは安藤記念教会です。
1917年創設の、都内でも珍しい石造りの教会です。創立者安藤太郎は、函館戦争で榎本武揚に従軍、明治政府の下で大蔵省、外務省に登用され、初代のハワイ総領事に就任しました。そこで基督教と出会い、洗礼を受けて、1888年にハワイで最初の日本人教会を設立しました。帰国後は日本禁酒同盟を結成して禁酒運動に取り組みます。建物は東京都指定の歴史的建造物に指定されています。
安藤記念教会の通りを北へ進むと西町インターナショナルスクールがあります。創立者の松方種子は松方コレクションで有名な松方家の出身、松方家は薩摩の出でした。

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安藤記念教会

麻布十番商店街は善福寺の門前町として300年以上栄えてきました。300余りの店舗が軒を連ね、昔ながらの飲食店や服飾店など100年以上の歴史を持つ老舗と、新しいショップが仲良くならんで、にぎわっています。大使館の多い土地柄、外国人も多く、国際色豊かな雰囲気をかもして人気の商店街です。

その一角に、「赤い靴」のきみちゃんの像があることをご存知でしょうか。
『知の木々舎 』に連載の『往きは良い良い、帰りは……物語』の中で、童謡「赤い靴」が取り上げられたことがありました。そこに書かれていたのは、野口雨情の作詞した「赤い靴を履いていた女の子」が「異人さんに連れられて行っちゃった」のはほんとうではなかったというのでした。
赤い靴の岩崎きみちゃんにまつわるエピソードはいろいろあります。
母親のかよさんが再婚した夫とともに開拓民として北海道へ渡る際、小さかったきみちゃんを連れて行くわけにもいかず、きみちゃんは横浜にある教会の宣教師の養女になりました。きみちゃんが6歳のとき、宣教師夫妻はアメリカに帰国することになりましたが、結核にかかっていたきみちゃんは船に乗ることは許されず、孤児院に預けられました。きみちゃんを看取ったその孤児院が麻布の鳥居坂教会にあったので、麻布十番商店街はパティオにきみちゃんの像をたてたのです。

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さすが麻布、パテイオもお洒落です。

幸薄かったきみちゃんを偲ぶ像は全国にあり、横浜や小樽、静岡、函館など岩崎家やきみちゃんに関わりのあった各所に置かれています。生き別れた娘のことを野口雨情に語ったかよさんは、きみちゃんが宣教師夫妻とともに幸せにくらしているものとばかり思っていたのでした。きみちゃんが9歳で亡くなった麻布鳥居坂教会の跡地には十番稲荷神社が引っ越してきました。

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十番稲荷神社
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十番稲荷の真向かいにある塩の店。店内には世界中の塩が集められている。

◆ご近所でフランス人の落語の会がありました。

週1回のサークル仲間がいつも利用するランチのお店のオーナーが、このたび初めて企画したというイベント、シリルコピーニ(日本名は尻流複写二)さんの落語会に誘われて、のぞきました。

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カフェ「ビヨンド」

演目は同時通訳の形で「寿限無」と「味噌豆」。
日本に住んで16年というシリルさんの流暢な日本語に客は感心しきりです。

自分は落語家とは言わず、あくまで落語パフォーマーだと謙遜(?)するシリルさん。師匠について苦労して修行し、前座から二つ目、真打と呼ばれるようになっていくのが本当の「落語家」なのだそうです。
演目そのものはどうということはありませんでしたが、手招きの仕方が日本とフランスではまるで逆、など、フランス人から見た日本人をマクラにしているのが面白く、独特の語り口も手伝って、興味深く聞きました。

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落語パフォーマー尻流複写二さん
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店の前でシリルさんと一緒に記念撮影。

一つだけ覚えていってと教えてくれたのが「サバ」というフランス語。魚のサバになれている日本人なら覚えやすいに違いないという心遣いでしょうか。
昔、女優で売りだしたばかりのイザベラ・ロッシーニが、コマーシャルの中で発する言葉が「サバ」だったことを思い出しました。あう人ごとに「サバ(元気?)」と声をかけていました。(彼女は今では父親と同じ、押しも押されもしない映画監督です。)スペルはça.va.
シリルさんは、最近では、フランス人の落語をききたいという声で、あちこちに呼ばれることが増えたということでした。

店のオーナーは、語学学校を経営している女性です。なので店では中国やインド、アメリカなどいろんな国の留学生が働いています。
いつも私たちのテーブルの世話をしてくれるのはドイツからの美人の留学生、コリンさんです。サークルのメンバーには、ご主人の仕事の関係でドイツに住んでいたというYさんや、昔スイスに留学していたHさんがいるので、毎回、ちょっとしたドイツ語の会話が弾みます。今や国際的には全く出番の無いドイツ語でも、おしゃべりとなれば別。コリンさんもうれしそうです。近くの学習館で私たちと同じようなサークル活動をしているグループもお昼に利用しているらしく、この日、会場にはそんなシニアの姿を沢山見かけました。


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雑記帳2018-6-1 [代表・玲子の雑記帳]

2018-6-1
昭島市にあるリサイクル洗瓶センターを見学しました。

立川市に隣接する昭島市は工業団地をかかえるほか、横田基地にも近いため、防衛省からの交付金がおりることから、面積は小さいながら財政的にはゆとりがあるようで、地域の学供施設(会館)が11箇所もあります。お金を何に使うかは自治体の勝手ですが、市民からみれば羨ましいところ、住民の文化活動も活発です。
また、水のきれいなまちとしても知られ、都内では唯一、都から供給を受けないで、水道事業が成立している市でもあります。

目指す洗瓶センター「きょうされん」は、駅から徒歩10分余りの工業団地の中にありました。
いまから、25年前、瓶のリユースをすすめたい生協と、障害者の働く場所を確保したい福祉施設の思いが重なって生まれました。

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便利なプラステイックに押されて瓶の利用は苦戦していますが、環境の視点からも、食品の保存上からも瓶は優れ物、リユースがもっと普及してほしいと思っています。

作業所の職員、黒沢さんから説明をうけたあと、工場内をみせてもらいました。
今扱っている瓶の種類は36種。様々な形や大きさに対応してきました。風島や山名h氏、長野県などの酒造会社のものが大半ですが、中には杉並区や練馬区など都内自治体からもものもあります。こちらは形も大きさも不ぞろいのため、一旦は業者が引き取って分別したあとにセンターにもちこまれます。

一日に持ち込まれる瓶の数は30,000本。年間440万本の瓶を洗います。洗浄自体は機械ですが、ラベルなど落ちない場合は手動です。選別や取り出し、給瓶や積み下ろし、洗い終わった瓶をケースにつめて割れないようにケースごとラッピングする作業など、工程には最終的には人の手がかかせません。難しいラッピングをみごとにこなす作業員はみんなの人気者です。

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障害には身体障害や知的障害、精神障害などさまざまある中で、「きょうされん」は、それぞれの障害に特化した職場ではなく、障害の違うひとたちが一緒に働く場所をめざしました。60人の従業員(センターでは利用者さんとよばれています。)の中には、病気のために障害をかかえるようになった元会社経営者もいれば、大人になって発達障害だと分かった人もいるのです。
時給は150円~550円。仕事の内容によって異なりますが、熟練すると、健常のスタッフよりも早く上手に作業をこなすようになります。平均月収は55000円。通常の福祉作業所で働く人の賃金に比べればずっと高いけれど、目指すは一般労働者の最低賃金です。また、全国でも珍しい、交通費の支給されます。

所内には「にじの会」という自治会があり、会長、役員は選挙で選ばれます。
総会で、その年の目標を決めたり、レクレーションの中身も決めるのです。全員で小旅行を楽しむこともできます。メンバーのメンバーによる、メンバーのための会です。失敗しても責めない、誰もが参加できる、がモットー。普通に、まことに人間らしい職場だとは思いませんか。

報酬は細かく分けられた各作業の評価が目安になります。その項目が妥当なのかは常に見直しが必要だし、いったい、評価することに意味があるのか、あるいは、障害者にはここまでの作業しかできないという思い込みが壁をつくっているのではないか、など、考えなければならない課題はたくさんあると黒沢さんは話してくれました。

今後国内ではさらに高齢化がすすみ、労働力が減っていく時代、誰もが障害者になるかもしれない社会で、安心して働ける職場づくりは、何処もが抱える問題です。 
きょうされんの「にじの会」の形は障害者の職場だから可能だったのではない。労働者は、自らの意思で、働きやすい環境をつくりだしていく。政府が成立を目指す働き方改革は別の面でクローズアップされているようですが、現場ではすでに、新しい働き方改革は始まっているのではないか、そんな気がしました。

◆芝増上寺は徳川家の菩提寺です。

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14代将軍家茂の正室、和宮の誕生月にちなんで、境内にある、和宮ゆかりの茶室「貞恭庵」で5月27日、お茶会が開かれました。
茶室は、和宮が晩年くらした南部藩上屋敷の住まいから増上寺に移したもので、武家の作りは簡素ながら趣のあるものでした。
アヤメ祭りで名高い潮来から運んできたというアヤメなど160本余りの花菖蒲で、一夜限りの菖蒲園をつくりあげたそうです。

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床の窓からは潮来から運んだというアヤメ
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網代の天井
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4畳半の茶室の床の間と床窓

5月は端午の節句ゆえ、お菓子は口粽(ちまき)。邪気を払うという言い伝えがあります。また、供されたお茶は静岡県足久保の産です。

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足久保は安倍川の支流足久保川の流域で、静岡茶発祥の地。鎌倉時代から茶葉で栄えた歴史ある地域です。
駿府に隠居した徳川家康は茶の湯を好み、中でも足久保のお茶を愛でたといわれています。綱吉時代から60年間、足久保のお茶は江戸城へ「御用茶」として献上されました。
静岡茶の心にブレンドされるため、単独で流通することは少ないそうですが、この日は特別に足久保茶をわけてもらいました。

茶がらにはたんぱく質やカロチン、食物繊維が豊富です。お茶の栄養を100%利用するために、出がらしの茶葉を細かく刻んでふりかけにしたり、乾燥させて粉末にしたりしますが、亭主の茶雅馬茶道教室の先生のお勧めは、鰹節をかけておひたしのように味わってほしいということでした。ポン酢やめんつゆも良しなので、早速試してみようと思っています。

和宮は維新後いったんは京都に帰りますが、兄の明治天皇の勧めで再び東京にもどります。その時住んだのが赤坂にある南部藩の上屋敷でした。
家茂との結婚生活は長くはありませんでしたが、仲むつまじかったようで、死後、徳川家の霊廟に、家茂と並んで葬られています。

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雑記帳2018-5-15 [代表・玲子の雑記帳]

2018-5-15
子ども食堂を知っていますか。

1980年代、介護が社会全体の問題としてとらえられるようになったことを追いかけるように、2010年代に子どもの貧困が社会的に注目されるようになりました。
2013年には子どもの貧困対策の推進に関する法律が成立したのを機に、こども食堂の活動が活発になったと言われています。
子ども食堂をやってみたいという希望者も多く、2016年に300か所だった子ども食堂は2018年には2200箇所以上にひろがっています。

『知の木々舎』のスタッフ、小林マサさんは、立川市にある子ども食堂でボランティアをしています。月1回開かれる「いちばん子ども食堂」を訪ねました。
名前は食堂が一番町にあることから名づけられました。会場はお蕎麦屋さんの好意で店が休みの日に貸してもらっています。
NPO法人「ワーカーズ・コープ」が、農家から野菜の提供を受けたり、地域のボランテイアの力を借りながら、運営しています。

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看板もかわいく
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入口に立つボランテイアは元小学校の校長先生です。

3時になると子供たちがやってきて、助け合いながら自習の時間です。食事は5時から。

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こどもたちが自習をしてい間にボランテイアが食事の用意
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提供された筍は事前に家でゆがいてきました。

参加していた子供は12名ほど。途中から赤ちゃんをつれたお母さんたちも参加しました。
近所の西砂児童館のチラシを見てやってきたそうです。実はワーカーズ・コープはその児童館の指定管理者にもなっているのです。こども食堂の参加者も児童館の利用者が多いようでした。

7、8人の大人に交じって高校生のボランティアがいました。りゅうせい君です。
りゅうせい君は小学校から通っていた児童館の卒業生、今では立派な活動家です。調理や子どもの見守りにかかせない戦力になっているようでした。
食事の前に手を洗ううこと、いただきますなどの指導も堂に入っているし、赤ちゃんづれのおかあさんには「味噌汁、あついので、こっちに置きますね」という心遣いもなかなかきめがこまかいのです。

この日のメニューは筍づくし。筍ごはんに筍の天ぷら、筍とフキ、里いもの煮もの、それにノラボウやカブの塩もみとコロッケでした。
狭い部屋は子どもたちの「おかわり!」の元気な声にあふれます。いまは食事時間を二部制にして定員40名をうけいれているということでした。
子供は無料、大人300円。これは次回の食材を仕入れる貴重な財源になります。

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筍づくしのご飯

一般に、子ども食堂が必要となる背景には、親の貧困の進度が深まり、介護問題や労働問題などが重なった末、育児放棄などで満足に食事のできない子どもができたという事情があります。
一方で、貧困家庭でなくても、一緒に食べる家族がいない「孤食」、いつも同じ物を食べる「固食」、一種類しか食べ物がない「個食」などの「こしょく」が社会全体に広がっています。子ども食堂は栄養管理と同時に、ボランテイアなど多くの人々が携わることで子どもの孤立を防ぎ、「食」を通じて子どもたちを支援する大きな機能があるのです。

「いちばん子ども食堂」は特に貧困を前に出さず、「誰でも利用できる場所」にしています。そこに集う子どもや若いおかあさんたちとも、一緒にご飯をたべることから生まれるつながりを大切にしているようです。「貧困や孤食など、本当に支援を必要とする子どもにどうすれば来てもらえるか」という課題をかかえながら、しっかり、孤立しがちな世代や地域の子どもの居場所になっているようでした。

◆マサさんは西砂児童館で月2回開かれる「フリースペース」でもボランティアをしています。そこで子どもの日に柏餅を作るというので出かけました。

フリースペースは、こども食堂に先だって、公民館が地域で果たす役割のひとつにこども対象の企画を掲げ、9年前に西砂公民館で始まりました。予算もなく、マサさんたちが自宅の台所にある食材を持ち寄って、子どもたちと一緒に料理をすることから始めたそうです。3年たって児童館に引き継がれた後も、マサさんはお手伝いを続けています。

この日参加していた子どもは25名。柏餅とトン汁、焼きおにぎりを作りました。
ワーカーズ・コープの小笠原さんは、包丁やピーラー、ホットプレートなど、子どもには危険がいっぱいなので、注意に気を配っていました。危険だから使わせないのではなく、全員参加でみんながトライ出来る指導をしています。

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説明するワーカーズ・コープの小笠原さんとマサさん
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なまのかしわの葉
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上新粉をこねてつくった皮にあんこを包んで柏の葉を巻いて蒸します。
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ごぼうのささがきもできるよ。

地域のボランテイアのおじさんおばさんに混じって、この日もりゅうせい君の姿がありました。子どもたちにとっては頼もしいお兄さんです。
「ふざけるんだったら出て行っていいよ。みんなで楽しくやろうね。」
「お口はチャックでお願いします。ぜったいにけがをしないようにね。」

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りゅうせい君
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柏餅のできあがり!
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めいめいがにぎったおにぎりもホットプレートで焼きおにぎりに。
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こどもたちが切った野菜でトン汁もこの通り。

フリースペースの活動は最初から理解されたわけではなく、協力者も少なかったといいます。また、閉鎖的な地域ではありましたが、9年経過した現在では、農家が柏の葉を提供してくれるまでになりました。マサさんは高齢だし疲れるけれど、子どもたちの「やめないで」の声に押されて続けているのだと笑っていました。

◆5月、昭和記念公園の木漏れ日の里に鯉のぼりが泳ぎました。

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雑記帳2018-5-1 [代表・玲子の雑記帳]

2018-5-1
◆前回の飯田橋に引き続き、神楽坂を歩きます。

4月初めに、満開をすぎたとはいえ、まだ桜花の散り残る江戸城外堀を歩いてから3週間後、周囲はすっかり葉桜になった季節に神楽坂を巡りました。

JR飯田橋駅の西口を出て、堀を渡る牛込橋の建設にあたったのは阿波徳島の蜂須賀忠英(ただてる)、初代小六から数えて3代目にあたります。橋のたもとの置き石をよくみると「はちすか」の文字が見えます。堀の川幅は当時の弓矢の届かない距離でした。

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牛込台地に開かれた何本もの坂道の中でメインの通りが神楽坂通りです。今、観光客に人気のスポットは、多くのショップがならびます。ここは3代将軍家光のお気に入りの大老、小浜藩主酒井若狭守の屋敷があったところです。ここから毎日、牛込橋をわたって若狭守は江戸城に出勤、橋までの1kmが登城道として整備されたのでした。江戸城内で火事にあった家光が長期にわたって酒井家に逗留した折、警護のために屋敷に矢をめぐらせたことから矢来町の地名になりました。

外堀は防御のためだけではなく、江戸の物資輸送の手段にもなりました。さすが江戸の街づくり、幕府は神田川から運河を引き込み、牛込橋手前に湊を作ったのです。全国から江戸湾に集結した荷船は、大川(隅田川)に入り、柳橋から神田川を上って神楽河岸へと運ばれました。荷揚げされた物資を人足が籠にせおって運んだ軽子坂は神楽坂通りの1本東の坂です。町名に揚場(あげば)が残っています。上方から運ばれた品々は「くだり物」と呼ばれて重宝されました。逆に江戸から送られる物品は「くだらない物」でした。たがて、「くだらない」物も年月かけて品質をあげ、「くだる」ものをしのぐまでになりましたが、言葉だけは残りました。

神楽坂は狭いエリアにたくさんの路地があります。有名なかくれんぼ横丁は、かくれんぼをして遊んだというより、前を歩いていた人がこの横丁にある料亭に入ると、突然目の前から消えてしまうことから定着したといわれています。神楽坂の料亭は夜の国会と呼ばれたこともあり、大臣の取材にはりこんでいた記者たちの目もくらませたのでした。

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かくれんぼ横丁
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料亭「うを徳」の粋な黒塀

軽子坂を上っていくと、石畳の路地があります。鎌倉古道と兵庫横丁の交わるところは神楽坂で最もインスタ映えのするスポットだそうです。和可奈はその昔、女優の木暮実千代の妹さんが経営、作家や脚本家、映画監督が執筆のため投宿していたことで知られています。「ホン書き旅館」と呼ばれました。

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鎌倉古道の石畳
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「和可奈」

人口100万の江戸は当時世界一の大都会。そのうち町民は25万人ほどでした。参勤交代で江戸にやってくる侍はもちろん単身赴任とあって、江戸は圧倒的な男社会。人口の男女比では女性は2割をきっていたようです。幕府は吉原や四宿の遊郭を公認しましたが、公認ではなくとも、寺社の門前には多くの岡場所がありました。天台宗行天寺の門前にも赤城神社と共に門前には岡場所があり、それが神楽坂花柳界発症の地と言われています。行天寺の跡は今は寺内の名前のついた公園になっています。

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寺内公園

律令の時代、この地は牛の放牧地でした。馬の放牧地が馬込の名前に残ったように、牛込の地名になったのです。家康が江戸を開く前、ここには小田原の北条氏に仕えた牛込氏の居城がありました。牛込氏は群馬県赤城の出で、大胡氏を名のっていましたが、13世紀に南関東に進出して牛込に改名、牛込城を築きました。北条氏滅亡のあとは徳川家臣としてつかえました。北条氏の前は上杉だったと言いますから、変わり身の早い人だったようですね。戦では落城しなかったものの、台地の上から川の向こうの江戸城を見降ろすのはよろしくないと、城はこわされて牛込氏は転封、あとに光照寺が神田から移って来たというわけです。

地蔵坂にある光照寺は牛込城の本丸跡です。毘沙門天脇の大手門通りは、本丸に通じる道で、この先に大手門があったと伝えられています。また、毘沙門天前の小さな通り、兵庫横丁は。先の鎌倉街道と牛込城の城下町をつなぐものでした。

光照寺はもともとは神田にあったものが、天保2年に移転、出羽国松山藩主酒井家の菩提寺になりました。今は小さな寺ですが、境内には歴代の藩主の墓があり、墓の好きな人にはなかなか見ごたえがあります。

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神楽坂通りにある善国寺の本尊は毘沙門天。江戸三毘沙門天に一つとして信仰を集めました。狛犬は犬ならぬ虎で、「石虎」は立派な尻尾をもっているものの、顔は猿に近く、当時、実際に虎を見た人はいなかったのです。

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毘沙門天
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石虎

神楽坂には「熱海湯」という、立派な銭湯があります。芸者さんたちは出勤前とお座敷がはねた後の2回通う銭湯はかかせません。最盛期には700人、現在でも30人余の芸妓を抱える神楽坂にあって、「熱海湯」は繁盛しているのです。まだ店を開ける前の風呂場をみせてもらいました。

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定番の富士山の絵がある浴場
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ふろあがりに飲むコーヒー牛乳などの飲料も定番
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脱衣場の立派な格天井

坂ばかりの界隈は狭いながら結構、きつい。お昼は毘沙門天近くの、坂の上のテラスと自称する「縁香園」で中華料理をいただきました。

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雑記帳2018-4-15 [代表・玲子の雑記帳]

2018-4-15
◆東京の桜の名所は数々あるけれど、江戸城外堀の桜は意外と穴場?

今年の桜は早く、3月のうちに東京はもう満開を迎えていました。それでも、雨や嵐に会うこともなく、花の期間は意外に長くて、4月初日にはまだ散り残った桜を楽しむことができました。今回の散策は飯田橋から市ヶ谷です。

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木の間越しに堀沿いを走る電車が見えるので人気のスポット

集合場所の飯田橋駅は、1894年<明治27年)に甲武鉄道の新宿・牛込間が開通した時に開業した牛込駅が前身です。1928年に中央本線の複々線化に伴い、従来設置していた牛込駅と飯田町駅の近距離電車ホームを分離して誕生しました。JR市ヶ谷、飯田橋あたりはちょうど外堀に沿うように現在のJR中央線が走っています。カーブのきつい飯田橋駅は現在工事中。駅ホームが少し西に移って、電車とホームの間があいている苦情も解消されそうです。

飯田橋駅から神楽坂へ向かう牛込橋は牛込御門(見付け)のあったところ。江戸城の石垣が残っています。ちなみに見付けとは「敵を見つける」という意味で、枡形 (ますがた) をもつ城門の外側に面する部分。見張りの番兵を置き、江戸城には36見付があったといわれます。現在は四谷見付・赤坂見付などが呼称として残っています。
牛込御門は江戸時代、田安門を起点とする「上州道」の出入口として、交通の要衝でした。

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牛込橋に残る石垣

駅から数分、都内屈指の交通の便の良さを誇る地に東京逓信病院があります。ここに、かって与謝野鉄幹と晶子が暮らした住居がありました。二人が教鞭をとった、神田駿河台の文化学院は昨年、97年の歴史を閉じました。


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逓信病院の敷地の中にある与謝野鉄幹・晶子の住んだ住居跡

逓信病院のすぐそばには日本赤十字社の跡です。明治10年の西南戦争のとき、佐野常民が起こした博愛社が敵味方の区別なく傷兵の手当をしたのが我が国の赤十字の始まりといわれています。明治19年博愛社という病院が飯田橋駅付近に立てられ、日本赤十字社と名を改めました。

外堀は牛込台地の底に築かれました。今、線路や堀を見降ろしながら花見客であふれる、ひときわ小高い土手は、その時に掘った土で築かれた土塁の跡です。オフィスが立ち並ぶ中にある法政大学は、受験生に人気のあるとおり、一等地にあるのですね。


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土塁から眺めた対岸の桜
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土塁のそばの法政大学

土手を歩けば対岸に台地を上るたくさんの坂が一目瞭然です。 神楽坂、庾嶺坂(ゆれいざか)、逢坂、浄瑠璃坂、長延寺坂、左内坂…。

浄瑠璃坂は寛文12年(1672年)、この坂の辺りで仇討があったことで知られています。

宇都宮藩家老の奥平内藤允(くらのじょう)が、寛文8年、同じ家老の奥平隼人と刃傷沙汰をお越して切腹、内藤允の子、源八が元宇都宮藩士とともに隼人を打ち取った、源八らは自首した後、助命されて伊豆大島に流され、のちに許されて伊井家ほかに全員が召し抱えられたという、世にいう浄瑠璃坂の仇討です。元禄15年の赤穂浪士の討ち入りに先だつこと30年、赤穂事件はこれを手本にしたと思われ、仕官を期待した浪士たちもいたのでしょう。

長延寺坂は昔この地にあった寺の名前がついたものです。江戸市中引きまわしの刑罰はこの坂を上りました。罪人は伝馬町牢屋敷から小塚原の刑場までおよそ20キロ、まさしく江戸じゅうを引きまわされて、江戸市民にとってはちょっとした見物ものでした。罪状を記した看板を掲げ隊列を作って坂の多い江戸市中を行くわけだから、従者には重労働だったと同情してしまいました。

庾嶺坂は江戸初期、このあたりが美しい梅林であったことから、二代将軍秀忠が中国江南小の梅の名所大庾嶺にちなんで名づけたといわれています。なまって「ゆうれいざか」といわれることも。由来を知らない後世の人には全く違う連想があるかもしれません。

地下鉄半蔵門線の虎ノ門駅構内に、江戸城の立派な石垣が展示されているのにおどろいたことがあります。虎ノ門はさすが文科省のお膝元、石は見事なものでした。それほどではないにしても、有楽町線、南北線の乗り入れる、メトロ市ヶ谷駅構内にも江戸歴史散歩のコーナーがあるのです。

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その市ヶ谷駅を出れば亀岡八幡神社は目の前です。文明10年(1478年)、大田道灌が江戸城の鎮守として、鎌倉の鶴岡八幡神社を移したのが始まりです。高台にある境内からは防衛省が目の前。江戸時代にここにあった「時の鐘」はさぞ遠くまで響いたことでしょう。

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区内唯一の珍しい青銅の鳥居
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境内から見える防衛省の建物

飯田橋から市ヶ谷を巡って、散策の最後の地点は東京理科大学です。前身の東京物理学講習所は明治14年に設立されました。当時、自然科学の教育を行う場は、ここと東京帝国大学以外にはありませんでした。2年後に東京物理学校と改称されましたが、日本の近代化を担う多くの教員を排出しました。漱石の「坊っちゃん」も物理学校出身でした。漱石と懇意だった三代目校長の中村恭平は「吾輩は猫である」の苦沙弥先生のモデルになりました。

理科大の近くにフランス政府が管理運営する文化センター、アンスチチュ・フランセ東京がありなす。今日のお昼はセンターの芝のガーデン、ラ・ブラスリーで。新緑の下の木漏れ陽と吹きぬける風がスパイスのランチには、客の多くが屋外を希望する様子でした。


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緑が美しいグリーンピースのポタージュ
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メインのチキン
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リッチなデザート

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雑記帳2018-4-1 [代表・玲子の雑記帳]

2018-4-1
都内唯一の渓谷、等々力渓谷をたずねました。

武蔵村山に端を発して立川を通る国分寺崖線は田園調布まで続いています。その崖線の果てる手前にある等々力渓谷は23区唯一の自然の渓谷として知られており、約1キロメートルに渡って遊歩道が整備されて、都民の憩いの場になっています。

東急大井町線等々力駅からすぐのところに、渓谷への入口があります。そこは、かって東急電鉄が開発したゴルフ場のあとを示すゴルフ橋のたもとです。

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渓谷から見上げたゴルフ橋

ここから渓谷へ高低差約10メートルの階段をおりていくと、とたんに「ここが東京?」の風景にぶつかります。
ケヤキやシラカシ、コナラ等の雑木が茂り、野鳥の声もきこえます。

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野鳥の案内板。このほかに地質や植生の案内板が随所にある。
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湧水のひとつ。

崖線には多くの湧水があります。等々力渓谷で一番の水量を誇っていたのは不動の滝です。この滝の轟く音が等々力の名前の由来になったと言われたほど、かってはここで滝に打たれる修験者もいたといいます。残念ながら湧水は年々へっているのが現状です。

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不動の滝

その不動の滝を開創以来有しているのが等々力不動尊です。平安末期の1100年ごろに開かれた霊場は等々力のお不動様として親しまれててきました。周辺には稚児大師堂や稲荷神社、役の行者を祀る祠もあります。境内から渓谷を見降ろすバルコニーはさながら小型の清水の舞台のようです。

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等々力不動尊
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バルコニーから崖下をみおろす。
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稚児大師堂

渓谷東側崖面には、古墳時代末期から奈良時代にかけて作られた古墳が幾つもみつかっています。中でも横穴3号墳は完全な形で残っており、人骨とともに耳環や土器などが出土しました。埋葬品の須恵器は1000度もの高温で精製されるもので、当時、朝鮮からもたらされたもの、埋葬者はこれらを多く保有していた有力者だと推定されています。

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横穴3号

田園調布へ続く渓谷周辺にはこの横穴3号墳以外にも、大塚古墳、御岳山古墳、狐塚古墳など、おおくの遺跡がみつかっています。中でも大塚山古墳は高さ10メートルもある堂々たる前方後円墳。方形の部分が小さいのでホタテ型古墳と呼ばれます。世田谷区は昔から住宅街として知られ、邸宅の立ち並ぶ街をあるいてみると、その坂のけわしさに驚くほどですが、多摩川を見下ろして坂の上に広がる街は、今も昔も、日当たりの良い一等地だったのですね。


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大塚山古墳
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邸宅の並ぶ街は坂だらけ

散策の最後は奥沢の浄真寺です。奥沢のこのあたりは戦国時代には奥沢城がありました。北条氏が滅びると同時に奥沢城も陥落。80年後城跡に創建された寺は九品仏として知られ、江戸じゅうの信仰を集めました。


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参道 奥に見えるのは総門
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総門にかかる扁額
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仁王門

佛堂が三宇あり、中央の堂に上品上生・上品中生・上品下生、北の堂に中品上生・中品中生・中品下生、南の堂に下品上生・下品中生・下品下生の計九品の佛像が納められていることから、九品仏の名前がついたのです。

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三宇ある佛堂の、これは上品堂
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それぞれの佛堂に3体の阿弥陀がおわす。階位に応じて手指の向きや組み方が異なるらしい。頭部が青いのは髪の毛を剃った頭をあらわしているのだそうです。

今年は気温が高く、まだ3月というのに、初夏の陽気。桜だけでなく、みかけたシャガやシャクナゲも満開でした。ちょうどこの日、気象庁は東京の桜が満開になったと発表しましたが、広い浄真寺の境内の桜はなかなか見ごたえがあり、秋には亦違った趣がありますよ、と、ガイドさんが誘うのでした。


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雑記帳2018-3-15 [代表・玲子の雑記帳]

2018-3-15
◆弥生3月は雛の月。今年はちょっと豪華なお雛様をたずねました。

埼玉県には有名な人形の町がいくつもあります。岩槻、鴻巣、春日部…
人形の材料になる桐の木がたくさんあったからだそうです。
バス旅行の案内に、浦和・二木屋の雛まつりを見つけて参加しました。

先代が政治家だったという主の実家の、鋳物で有名な川口から移築した建物は築80年の国登録有形文化財。季節の行事を大切にということから、五節句のひとつ、ひな飾りも一般無料公開しています。ちなみに、五節句は1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日にあたり、それぞれ、七草、桃、菖蒲、笹、菊の節句とよばれます。

日本こそ世界に冠たる人形王国と言う主が日本全国から集めた雛人形は数千体にものぼり、毎年、3月3日の前後4日間に、客室の半分を閉めて、その一部を展示しています。
説明役の仲居さんの解説で、雛人形の歴史や意味を教えてもらいました。

雛には3種類、信仰の雛、愛玩のひな、鑑賞用の雛があります。
信仰の雛は、古来の厄除け、邪気払いの信仰に根ざしたものです。さるぼぼや梟のようなつるし飾りがそれにあたります。つるし飾りは一つ一つ意味があり、たとえば、梟は不苦労、さるぼぼは禍が去るなど、いずれも子の幸せを願う気持がこめられています。
愛玩の雛は平安時代のひゐな遊びからきた人形遊びの雛です。そして、江戸時代に、現代の雛に通じる鑑賞用の雛がひろまりました。

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部屋いっぱいに飾られた愛玩の雛
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鑑賞の雛段

享保雛、有職雛、次郎左衛門雛、古今雛へと変化する雛人形の歴史は京都から江戸へ移っていく歴史です。今に通じる古今雛はガラス目が特徴です。それ以前の人形の目は筆で描かれていました。

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享保の雛
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有職の雛
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次郎左衛門雛
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古今雛

内裏雛は古来は雄雛がむかって右、雌雛は左とされてきました。男は陽、女を陰とする陰陽説にもとづいたものです。今でも京都を中心に関西ではこの並べ方をするそうです。
これに対して、江戸は流石に武家の文化、刀を抜いたときに雌雛を傷つけることのないよう、向かって左に雄雛を配するようになったといいます。

雛人形の世界にも名人がいます。江戸三名人と呼ばれた作家たち、仲秀英、川端玉山、原秀月の作品を一度にみることができました。

西と東では内裏雛の並べ方がちがうだけでなく、お道具にも違いがあります。御殿雛は関西のものだそうです。

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このほか、高さ70cm以上の大型のお雛様もありました。

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庭にもお雛様。

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桃の月の献立は雛にちなんだ献立です。
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箸付(枝豆寄せ 花びら百合根 美味汁)と凌ぎ(あさりちらし寿司)、上は前菜~五人雛見立~鶏松風、蛸柔煮、牛蒡有馬煮、海老芝煮、ホタル烏賊塩辛

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お椀 蛤潮椀

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造里~親王雛見立~鮪、カンパチ、寄せ生海苔、山葵

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煮物 丸茄子、新じゃがいも、蓬麩

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強肴(鹿児島産黒毛和行ステーキ)とお食事(籾殻竈抱きご飯、赤出し、香物)

デザートは埼玉らしく、桜羊羹と五家宝でした。 

◆こちらはご近所、日野塾脇本陣のお雛さまです。

立川のお隣、日野には甲州街道の宿場がありました。
本陣跡には、本陣としては都内で唯一当時の建物が残されています。
幕末、この地にあった天然理心流野道場に集った新撰組のメンバーは数年前のNHK大河ドラマですっかり有名になりました。
本陣の建物は今、市の資料館になっていて、この時期には毎年、雛人形愛好家の人達によって雛まつりが開かれます。メインの人形は市内の旧家が所有する140年前のものだそうです。
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