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雑記帳2023-10-1 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2023-10-1
警視庁予備隊と赤トンボ

 立川市内で市民に、「あなたは砂川闘争知っていますか」  「あなたは砂川事件を知っていますか」  と訊ねると、「知りません。それは何ですか」という答えが返ってきます。
 砂川闘争、砂川事件これは今から68年前、昭和の時代に起きた大きな事件です。
 立川市民でこの時代に20代だった人も80歳代では約12000人と少なくなっいます。知らなくて無理はないのです。

 砂川闘争から68年。少し前に立川飛行場拡張をめぐって激しいもみ合いのあった地点の私有地にアパートが2戸、独立家屋が1戸建ちました。新しい住人は、砂川の歴史を知らないでしょう。
 拡張予定地には、平和問題に力を入れていた藤井日達が興した法華宗の日本山妙法寺が1950年代に建立した「南無妙法蓮華経」の石碑が建っています。 一時期、その下に日本山妙法寺の精進小屋を建て、尼が数人修行していたこともあります。

 立川市砂川町は、昭和38年5月に立川市と合併するまでは、独立した町でした。
慶長8年(1603年)幕府が開かれ、立川の大部分は幕府の直轄領の天領となりました。人びとは養蚕と茶を主体とした農業で暮らしていました。
 西暦1630年ころになると、新田開発によって砂川新田が開かれました。承応3年(西暦1654年)には玉川上水が引かれました。その後、砂川新田は五日市街道に沿って東西に広がっていきました。立川は柴崎村、砂川村を中心に伸びていきました。
 明治時代には立川駅の設置、府立二中(現・立川高校)、立川飛行場が建設されました。
 戦後立川飛行場はアメリカ軍の基地となり,立川は基地の町となりました。

 昭和30年5月、政府はアメリカ軍の要請により、爆撃機の発着のためとして小牧・横田・立川・木更津・新潟の5飛行場の拡張を発表しました。立川飛行場は5万坪の拡張長を要求したのです。 これに対し砂川町長の宮崎傳左衛門はじめ町議も反対。町ぐるみの闘争を展開しました。これが砂川闘争であり砂川事件なのです。
 拡張予定地の買収には、土地の区画の確認のため、実地の測量が必要です。測量は八州測量が担当。地元民は道路に座り込んだり、畑に立ちはだかったりして何度となく抵抗します。警視庁は測量支援のため警察予備隊(現・機動隊)を動員して、妨害を排除しました。
 地元反対同盟の行動隊長青木市五郎の「土地に杭は打たれても心に杭は打たれない」の言葉に人びとは感銘しました。

 1955年に入り、当時最大の労働組合組織、日本労働組合総評議会「総評」が乗り出し、51の労働組合が反応。砂川町基地拡張反対労働組合支援協議会を結成し、本格的な支援体制をつくりました。毎日、1000名を越える労働者が参加しました。、
 日本共産党が指導している全学連(全日本学生自治会総連合)の指導の下、数百人の学生が参加しました。砂川闘争は全国ニュースの扱いになりました。

 1955年9月13日、強制測量で警官隊と地元反対派・支援労組・学生が衝突しました。
 14日、ふたたび衝突。11月5日、精密測量を強行し、重軽傷20人余がでました。
 1956年10月13日、地元農民らと武装警官隊が衝突、1195人が負傷し13人が検挙され「流血の砂川」の事態となりました。10月14日夜、政府は測量中止を決定しました。
 このあと亀井文夫監督の記録映画「流血の砂川」が多くの反響を呼びました。

 10月13日の激突をめぐって、「砂川闘争と赤とんぼ」というレジェントが生まれました。
 雨の畑の中で、警官隊と地元民学生たちがもみあい、学生は追い詰められました。
その時、最後に向き合ったのは学生ら50人と、警官150人だったといいます。
学生たちは 声をそろえて「赤とんぼ」の歌をうたったのです。、

全学連の砂川闘争委員長として現地で指揮した政治評論家の森田実さん(75)はこう語っています。
 「警官があと半歩出れば私たちは負ける状況で、獰猛な相手を人間的な気持ちにさせようとした。勇ましい『民族独立行動隊』を歌えば警官も勢いづける。そこで『赤とんぼ』を選び、日没までの30分、繰り返し歌った。警官隊は突撃して来なかった。私たちは人道主義で戦った。警官にも純粋な気持ちがあった」

鈴木茂夫さんは当時、ラジオ東京テレビジョン(現・TBS)のディレクターとして、連日砂川闘争の取材をしていました。この現場に立ち会っていました。
午後4時30分過ぎ、現場は測量予定地の東の端。栗原ムラさん(故人)宅の横手です。数人の女学生がいて(もしかしたら看護師だったかもしれません)腕に赤十字の腕章をしていました。赤十字の旗を棒きれに巻き付けてたてていました。「救護所」の旗も見えました。それはさながら野戦病院のまがいのようでした。そこに寝ている人はいません。
そこから20メートルほどの地点で、小柄な予備隊(現・機動隊)の指揮者が「集合」と声をかけました。
指揮者は昵懇な第4予備隊の守田警部でした。少し離れた所から私が右手を挙げて挨拶すると、同じように挨拶が返ってきました。
守田警部の横に、予備隊員1個中隊約70人が2列横隊に整列しました。
救護所の女学生が並んで、予備隊に向けるように、

  夕焼小焼の赤とんぼ 負われて見たのはいつの日か
  山の畑の桑の実を 小籠につんだはまぼろしか

  十五で、姐(ねえ)やは 嫁にゆき お里のたよりも たえはてた
  夕焼け小焼けの 赤とんぼ とまっているよ竿の先

私は守田警部に近づき、
「この連中は捕らないの」
守田警部は左腕の時計を差し出して
「もう4時50分、午後5時には作業終了ですよ。それにね、それに捕る,つまり逮捕したりすると弁解録取書と身上経歴に関する供述調書をつくらなきゃならないんですよ。隊員もくたびれてますから帰ります。それじゃあ」
守田警部を先頭に予備隊は、基地のフェンスに沿って第4ゲートから基地内に入った。
予備隊がいなくなると、女学生の歌声もやんだ。(鈴木さん)

この砂川闘争と唄「赤とんぼ」の話はz新聞でもといあげられ、全国的に有名になりました。
以下は朝日新聞記者の伊藤千尋さんの記事から

《「赤とんぼ」には、伝説化した話がある。56(昭和31)年、東京・立川の米軍基地拡張に反対した砂川闘争で、警官隊と立ち向かった学生や農民たちからわき出た歌が「赤とんぼ」だった。「日本人同士がなぜ戦わなければならないのか」と歌声は問いかけた、と伝えられる。
当時、動員された学生は3千人。雨の中、警官隊と肉弾戦となり負傷者が続出した。最後に向き合ったのは学生ら50人と、警官150人だった。「今だから話しましょう」と、全学連の砂川闘争委員長として現地で指揮した政治評論家の森田実さん(75)はこう語る。
「警官があと半歩出れば私たちは負ける状況で、獰猛な相手を人間的な気持ちにさせようとした。勇ましい『民族独立行動隊』を歌えば警官も勢いづける。そこで『赤とんぼ』を選び、日没までの30分、繰り返し歌った。警官隊は突撃して来なかった。私たちは人道主義で戦った。警官にも純粋な気持ちがあった」
母のぬくもりを懐かしみ、郷愁を誘う「赤とんぼ」は、自らの人間性を思い出させる歌でもあった。この美しい感性を、日本人は持ち続けられるだろうか。
「赤とんぼ みな母探す ごとくゆく」(畑谷淳二)》

以下はこの砂川闘争の概要です。
  6月3日、基地問題について衆議院内閣委員会が開催され、参考人としての意見陳述が行われた。砂川代表は「一坪たりとも土地の接収はご免だ」と堂々と意見をのべた。委員会終了後、衆議院第一議員会館に基地代表が集まって話し合い、「手を結び合って共に頑張っていこう」と、全国基地拡張反対連絡協議会の結成について確認しあった。
 反対闘争の背景にあって活躍したのは、砂川町勤労者組合の存在である。勤労者組合は戦後まもなくして地域組合として結成された。一時期アカの組合だとレッテルを貼られたが、住宅難解決のため町営住宅建設、公民活動強化のための公民館建設、幼児保護対策としての保育園建設、町民サービス向上のための出張所設置、民主教育委員に代表などと町長に申し入れ、約束させ遂次実現させていたことから、真面目な勤労者の集まり、町をよくしょうとする団体であることが理解されて認知された。私を含め町議2人、教育委員、公民館長を擁し、無視できない存在となった。基地闘争については、主要メンバーがしばしば集まって、政府を相手にしてのたたかいであり、敵の力、味方の力を十分に知って戦術をたてなければならない。政争の激しい町だけに町ぐるみ闘争にヒビがはいらなければよいが、ということで慎重に戦術を考えて対応した。

非暴力、無抵抗の抵抗で
  反対同盟は基本方針として、
   ●個人の立場でいっさい話をしないこと。
   ●文書類などについては開封せず闘争本部に届けること。
   ●不審な者に対しては理由をただし、闘争本部に急報すること。
   ●反対同盟の情報以外はいっさい信用しないこと。
   ●すべてのことについてて反対同盟に白紙委任すること。
などを確認した。戦術としては非暴力=無抵抗の抵抗を貫き、具体的には、穴掘り作戦、煙幕作戦、黄金作戦で対抗していくことにした。

 6月9日、三多摩労協との共闘受入れが決まり、基地拡張反対町民総決起集会が開催され、目印として三多摩労協旗一本が認められ、労働組合として初めて参加し労農共闘、共同して大会決議をおこない成功裡に終わった。
 警官が導入されての闘いは、9月13日、14日の阻止闘争である。田中副闘争委員長(町議会副議長)、内野全町行動隊長(町議)、宮岡行動副隊長をはじめ12人、支援労組員15人が不当検挙された。
 この間、条件派の動きも活発化し、12人が脱落して基地問題処理懇談会をつくった。その後、会長に若松元町長をえらんで基地拡張対策処理連盟を結成し本格的な活動を展開した。
 条件派ま要求は、(1)滑走路部分を地下道にする、(2)慰謝料として各戸に50万円、(3)農地補償として坪当たり4500円、宅地補償として5万円、(4)移築費用として3万500円、(5)税を10年間免除する、事などである。多分に反対派工作(宣伝効果)を意図したものと思われていた。

荒れ狂う警察の暴力
 1956年10月13日、14日歴史に残る阻止闘争として、小雨降る中、抵抗闘争が展開された。マスコミの報道でも、「砂川に荒れ狂う警官の暴行」、「絶対許せぬ機動隊の暴挙」、「警棒の雨、突き破られたスクラムの壁」、「行き過ぎだ、警官の実力行使」などなど言語に絶するものがあった。この日の闘いの中で印象に残るものは、闘いの合間に自然発生的に合唱された「赤とんぼ」、「カラスなぜ鳴くの」、「ふるさと」であり、警官り良心をとりもどすものであった。
 日本人同士がなぜ闘わなければならないのか、憎しみを持ってなぜ血で血を洗うようなことをしなければならないのか、国民世論は逆上した。政府のこれ以上、測量を強行することは事態をますます悪化することになるとの判断から、14日午後8時、測量中止を決定し発表した。この報に接した砂川町は、「勝った」、「勝った」の歓声で、五日市街道はどよめき、喜びと化し、「ワッショイ」、「ワッショイ」のデモガ繰り広げられ、無法地帯の様相を呈した。
 59年には反対派の基地侵入事件で、「憲法は安易な政策論で解釈されるものでなく、憲法9条規定は、武力保持を禁じており、外国軍隊の駐屯は、明らかに憲法違反である。よって刑事特別措置法も違反である」との判決が行われ、画期的な「伊達判決」として注目された。その後、検察側の上告により破棄されてしまい、伊達裁判長はこれを不服とし、裁判官を辞して弁護士となり、全電通労組(現NTT労組)の顧問弁護士団長として活躍され、1995年の春、惜しくも帰らぬ人となってしまった。

ついに土地収容認定取り消し
 「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」の名文句をのこして闘われた砂川闘争は14年の永きにわたっての闘いでした。不屈な闘いが功を奏し、1968年12月19日、基地計画中止発表。1969年4月18日土地収容認定取り消し発表が行われ、その後、基地三分割によって、基地東側地区を「業務地区」として、官公庁施設が使用。中央地区は「防災地区」として、実質的には自衛隊が使用。西側地区は「公園地区」として昭和記念公園に生まれ変わりました。
 残る激戦地の拡張予定地は、地権者を中心に1996年3月2日、砂川中央地区町づくり懇談会がもたれ、1998年6月21日、砂川中央地区町づくり推進協議会として発足し、砂川闘争の歴史を無にすることなく、平和利用を基本に協議がつづれけられています。

いくつものエピソードをうんだ砂川闘争に加わった弁護士の榎本信行さんは、当時立川高校の学生でした。スクラムを組んだおばあさんから、「お兄ちゃん、このことをしっかり見て、後の時代にも伝えてね。」と言われたことから、弁護士をこころざしたそうです。基地闘争は榎本さんのライフワークになりました。基地闘争そのものは内地ではもはや昔の話のようですが、基地の問題は人権の問題になってきたように思います。『知の木々舎』では、榎本さんの著書『軍隊と住民』を連載しました。


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