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日本の原風景を読む №49 [文化としての「環境日本学」]

蘇る宮沢賢治-花巻 1

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

「賢治の家」を訪れた人々

 東日本大震災の直後から、岩手県花巻市にある宮沢賢治記念館、県立花巻農業高校の「賢治の家」を訪ねる人がともに増えた。備え付けのノートに記された訪問者の所感から、賢治の詩「雨ニモマケズ」が人々の心を奮い立たせ、救援活動に向かわせた様子がうかがえる。賢治の遺志で仏教の経本が埋められた丘の頂にある記念館から、賢治の作品の舞台となった眼下の光景に見入る人々が絶えない。
 「賢治の家」の訪問帳に、京都府宇治市から岩手県大槌町に救援に向かった、男性とみられる六十五歳の人物の所感が記されている。

 5/22
 午後12時半、小学生の時より頭の中に練り込まれた詩、雨ニモマケズ、風ニモマケズ……
 三月の東北大地震、大津波、自分が初めて東北・岩手に来る機会がこんな大変な時になって、まず脳裡に映ったのが、
 雨ニモマケズ……丈夫ナカラダヲモチ、東ニ……
 岩手大槌の山の中にテントを張り、三〇日間働かせてもらいました。
 そして多くのものをいただきました。人生観そのものも大きく変り、結局は自分とは、他者とはなんだ!という事を深く考えさせられました。そして岩手を離れるに当たって宮沢賢治さんの仕事部屋、勉強部屋を見せていただき有難く思っています。
・…‥ケッパレ東北、ケッパレ岩手!   (京都・宇治 六十五歳 T・K)

「東に……」 の部分は次のように加筆できる。
 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ     のはらのまづのはやしのかげの
 小サナ菅ラキノ小屋ニヰテ  ちいせかやぶぎのこやさいで
 東二病気ノコドモアレバ   ひがしさぐえわりやろいだら
 行ッテ看病シテヤリ     えってめんどうみでやって
 西ニッカレク母アレバ    にしさこえぐなたかかがいだら
 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ   えってそのいねのたばしょって
               (宮沢賢治記念館・牛崎敏哉学芸員)

デクノボーへのあこがれ

 「雨ニモマケズ」の〝サウイフモノ(者)″(デクノボー)は、災厄の傍らに「行く」ことを切望する。
 東に病気の子どもあれば、南に死にそうな人あれば…:・と続く。
 東日本大震災と東京電力福島原発メルトダウン事故で壊滅した三陸の海岸域には、およそ一二〇万人がボランティア活動に赴いた。T・K生の原像である。デクノボーとは、多くの日本人が心底に養い伝承してきた生き方の美学ではないだろうか。
 宮沢賢治は農芸化学の専門科学者、技術者であった。同時に、父親譲りの信仰心の篤い法華教徒でもあった。科学と宗教が同一人に体現された人格をはぐくみ、「みんなのほんとうのさいわい」を求めてイーハトーブ(理想像としての岩手県)に到る。その願望を込めた詩「雨ニモマケズ」が、この緊急時に人々の心の拠り所となっている社会現象を、私たちはどのように理解したらよいだろうか。
 「雨ニモマケズ」にこめられた、賢治の思いを読み解く手がかりとなるのは、キーフレーズ「みんなにデクノボーとよばれる」存在である。
 童話「虔十公園林」の主人公、虔十にうかがえる「デクノボー」の原型、モデルを賢治は誰に見出していたのだろうか。重病の床で手帳に記された「雨ニモマケズ」の終句、すなわち「サウイフモノニ ワタシバナリタイ」 に続けて
  南無無辺行菩薩
  南無上行菩薩
  南無多宝如来
  南無妙法蓮華経
  南無釈迦牟尼仏
  南無浄行菩薩
  南無安立行菩薩
と記されている。それは「法華経」の文言で、原文の文字の配列どおりに図示すれば、中央に一段高く置かれた法華の本尊の右傍を固める上行、無辺行、左側に侍る浄行、安立行の四菩薩に他ならない。四菩薩は大地から湧き出した無数の菩薩たちのリーダーとして法華経の流布教化を司る菩薩である。
 法華経に釈迦の高弟常不軽菩薩が登場する。すべての人々に仏性が宿ると、ことごとく他人に向かい合掌礼拝し、世間の攣塵をかう。お人よしのいささかノロマな人物とみられたのであろう。しかし釈迦はその資質を見抜き、高弟に招いた。
 デクノボーとは常不軽菩薩に他ならない。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店


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