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日本の原風景を読む №45 [文化としての「環境日本学」]

コラム

 早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

温泉人の心意気
 一月二十四日は井上靖の「あすなろ忌」。地元の人々が加わる「しろばんば劇団」が二〇年間、『しろばんば』の名場面を上演し続けている。一日から四日は伊豆文学まつり。『しろばんば』の「洪作少年が歩いた道」の文学散歩を試みる。旅館白壁荘の主、宇田治良さんらの世話によるものだ。
 純白の漆喰に黒格子のなまこ壁が映える閑静な白壁荘に、井上靖はしばしば滞在し作品の構想を練った。
 宇田さんの祖母喜代さんは、近くの老舗旅館湯本館で川端康成の面倒を見た名物女将安藤かねさんの妹である。
 宇田さんと井上靖は親類で、東京在住の井上と地元とのつなぎ役を宇田さんがつとめた。白壁荘の一室「せんせいの間」に滞在した有名、無名の作家、学者、評論家たちが合わせて約三百冊もの本を書いた。お金がままならない人々に、いわば出世払いを認めた初代経営者宇田博司の配慮による。
 昭和二十八年、湯ケ島の街道筋で土産物屋を営んでいた博司が、逗留中の学者に「どうしたらお金が儲かるか」問うた。「私は金儲けのために経済学を学んでいるのではない」。経世済民を説く学者の気概に応え、博司は一室を志ある人が原を書く部屋に充て、「砂利部屋」 と名付けた。「せんせいの間」 の前身である。
 治良、倭玖子夫妻は「湯道」をたどった文人たちの足跡を、作品にちなんだ色彩で記す地図づくりを考案中だ。「たとえば『樟標』の作家梶井基次郎は黄色い線で。
 「湯道」― 美しい響きをもつ温泉への道は、井上靖の「白」の一筋を中心に、虹色に彩られるはずだ。

直感文化の粋
 三春の寺町不動山の山麓、臨済宗妙心寺派福聚寺(ふくしゅうじ)に作家、玄佑宗久さんを訪ねた。
 桜と日本人の心について聞いた。福聚寺は三春城主田村大膳大夫の菩提寺として知られている。玄佑さんは生家でもある福衆寺の第三十五世住職である。二〇一一年、政府の東日本大震災復興構想会会議の委員をつとめた。

  — 永正元年(一五〇四年)豪族の田村氏が三春城を築き、街づくりにとりかかって以来、藩主は滝桜を「御用木」と定め、枝の回り三畝(約三〇〇平方メートル、米の収穫量にして三斗二升五合に相当)の地租を免じたとのことです。桜を大切にするよう求め、最初の花が開いたら、早馬で知らせるように命じたと伝えられています。
 以後歴代の城主は神社、仏閣と藩政の拠点四八か所の館とを結び、同心円状に桜を植えたようです。ベニシダレザクラによる街づくりという壮大、華麗な計画です。
 福聚寺の境内にも滝桜の子孫とみられる五本のベニシダレザクラがあります。桜の数はいま三春が日本一です。およそ一万本。そのうち二千本がベニシダレザクラ。「種蒔き桜」というのもあります。そのサクラが咲くころ畑に作物のタネ、苗を植えます。講に加わっている人たちがこの木と決めて、何本かの桜の開花日をカレンダー上で賭けて競う、秘めたる楽しみもあります。
 動物=人間はより好ましい環境を求めて動き回ります。しかし植物=桜はこの地に生きる、この地の環境に自分を適応させて生きています。
 滝桜にしても鬱蒼とした夏の葉桜と葉を落とした冬とでは全く違う生き方をしているのです。人間は自分の体の外側に別の世代を生み出し、命を継承していきます。滝桜は体内に幾世代にもわたりファミリーを形づくる機能(不定根)を宿しています。数百年を経た老木に咲く花と、若木が初めて咲かせたみどり子のような花びらを顕微鏡でのぞいても、まったく区別がつかないそうです。
 若い衆に花を持たせて支えているお年寄りみたいな関係がみられます。
 西行も宣長も世阿弥も桜のたたずまいに託して、自らを桜と同化することによって、ものごとの本質を深く感知する直観「もののあわれ」を表現し、私たちもそこに感動を共有することができます。桜と私たちは日本の直観の文化を継承しているのです。

駒跳ねる、デコ屋敷
 三春、郡山では江戸時代が起源の「デコ屋敷」と呼ばれる民芸品の工房・売店が四軒営まれている。デコとは木彫りの人形木偶のことだ。
 名物の三春駒、張子人形と並んでダルマ、三春太鼓、ひょっとこの祝い踊り面など縁起物で賑わっている。
 橋本高宜さんはデコ屋敷「彦治民芸」の十代目築四百年の堂々たる茅葺屋根の工房で三春駒づくりの手を休めない。直線と面を組み合わせた単純明快な馬体と洗練された彩色への評価は高い。
 「民芸品への世間の関心が高かったのは昭和五十年代まででした。会津や温泉場に持っていくといくらでも売れました。客の世代が交代し、携帯電話が普及するにつれ、民芸品の人気は下火になり、デコ屋敷に撤退というわけです」。橋本さんは「庭先いっぱい赤いダルマを並べていた」当時を懐かしむ。三春駒の由来は坂上田村麻呂東征の伝説による。
 ホオノキに彫り、黒く彩色された三春駒は、江戸時代から子どもの守り神に。
 さらば老後の守りに、と橋本さんの父彦治さんは昭和二十七年から白い馬体の三春駒を制作し始めた。「若い人に伝統工芸のよさを知ってもらえたら」。デコ屋敷に陣取り、自らの作品に囲まれ、橋本さんは三春駒づくりに打ち込んでいる。

張子人形に想いを
 使い古した一枚板の工作台の向こうに、チョウナの削り跡が躍り、年を経て黒光りするヒノキの柱が。荒壁にがっしりと筋違(すじかい)が交差する。雪の重さにも地震にもしっかり耐えるつくりだ。
 雪見障子越しに年を経た一本の桜が。
 「滝桜の孫です。百歳、この家と同じくらいかな」。張子人形への絵筆を休めることなく小沢宙さんは語る。
 祖父太郎、父小太郎さんを継ぐ三春人形三代目の作家。京都の仏師について二年間仏像の型彫りを学び、帰郷。「小沢民芸」 は伝統の三春張子人形の中で、江戸時代の末期に最盛期を迎えた人型(ひとがた)人形を製作している。「江戸、元禄時代豪商に育まれ、庶民に継がれた、無限の遊び心の表現と伝えられています」。
 木型を彫り、和紙を膠で重ね合わせ、貝殻が原料の白色顔料、胡粉で素地を整え、絵の具で彩色していく。買い手は民芸品の愛好家、人形収集家、客の注文を受けての創作晶も。「もっと腕が上がってきたら、桜をモチーフにした作品を、と考えています」。
 父小太郎さんが製作した人形の表情が、娘の宙さんに似ているともっぱらの評判だ。
 「子どものころから父の人形づくりを見てきました。三春の自然のなかで、こういう暮らし方もいいだろうと感じています」。
 父と祖父の傑作人形が、工房の宙さんを見守っている。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店

 

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