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日本の原風景を読む №44 [文化としての「環境日本学」]

3・11と魂の行方

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

蘇った『遠野物語』

 岩手県遠野市の中心街に市立博物館がある。東日本大震災の翌年二〇一二年二月二十一日、前川さおり学芸員を一人の男性が訪ねてきた。「『遠野物語』第九十九話「魂の行方」の四代後の子孫でした」。

 - 第九十九話には明治三陸地震津波の話が出てくる。『遠野物語』話者・佐々木喜善の大叔父にあたる「福二」という人は、山田長田ノ浜という三陸の海に面した集落に婿にいっていた。明治二陸地虐津波で家を流され、妻と子を失い、仮小屋をかけて生き残った子ども二人を育てながら暮らしていた。津波から一年後の夏の初めの月夜に、妻の幻と出会う。妻は結婚前に心通わせ、同じく津波で死んだ男と渚を歩いていた。呼び止めると妻は振り返り、この男と夫婦になったという。福二が、子供は可愛くはないのかと問うと、妻は顔色を変えて泣くが、やがて男と共に立ち去り消えていく。福二は追いかけるが、既に死んだ者と気づき、夜明けまで道中に立ちつくし、その後、長く病んでいたという。
 この話は『遠野物語』の題目では「魂の行方」に分類される話で、幽霊諦のようなものととらえられてきた。しかし一人の被災者の「心の物語」と捉えなおすことができるのではないか。震災を経て初めて気づいた。福二という男は、被災して仮設住宅で、男手ひとつで必死に子どもを育てている。津波によって受けた心の傷は癒えず、心身ともに疲れもたまってくるころであったろう。心に区切りを付けなければと思いながら、それができず葛藤の中でたちすくんでしまった。そして長く患ったという病は、災害による精神的なストレスによる病ではなかったのだろうか。この話は、遠野と三陸の精神的な近さと被災者の心のあり様を語り継ぐ、という内陸の遠野らしい繊細な記憶の仕方を示している。
 そんな風に考えていたところ、平成二十四年二月二十一日に「福二」の四代後の子孫にあたる男性が遠野市立博物館を訪ねてきた。聞けば男性は山田町に住んでいて、津波で家を流され、流失した家系図の復元をするために遠野の親戚を訪ねて歩いているとのことであった。親戚・家族の間では、(福二が長く患った)病のせいかあまり福二の話をしたがらなかったという。
 ただ一人、(男性の)母親だけが「本を買え、『遠野物語』に家の話がある。先祖のことだから、しっかり覚えておけ」と教えてくれた。しかしその母も今回の津波で行方不明になった。男性は母親を探して遺体安置所を巡り歩き、何百もの遺体を見ながら、「自分の先祖以外にもたくさんの悲しみがあったはずなのに、その物語はどうなったのだろう」と思ったという。そして「ただの教訓ではなく、人の口で伝えられた話こそが力を持つ。一人ひとりが血の通った物語を語り継ぐことでしか、次世代の悲しみはなくせない」。福二の四代目に当たる男性はそう語った。 (前川さおり「二つの津波と遠野~明治一一薩地震津波と東日本大震災から」)

 『遠野物語』第九十九話の再現か、と思わせる出来事が、東日本大震災の現場で繰り返されたことを前川さんはこのように紹介している。『遠野物語』第九十九話「魂の行方」を幽霊謂ではなく、被災者の「心の物語」ととらえる前川さんの指摘は共感を誘う。

魂の行方が問われる

 科学で説明のつかない不思議な体験が、東北の被災地で次々に語られているという。見えない力を目の当たりにした人々の心の移ろいをつづる。

 目の前で水の中に沈んでいった母、がれきの下から見つかった。二歳の息子。逝ったはずの人々がある日、悲しみの底にいる家族の前に姿を現す。決してもうもどって来ないそれでも残された人は「元気な様子」に安心し、死者との再会で生きる力を得ていく。
 慰霊とは、霊が遺族を慰める過程をも含むのかもしれない。
     (『朝日新聞』「試写室」欄、「NHKスペシャル 亡き人との〝再会″」の批評)

 犠牲者の遺体を確認することにより、死体は死者となり、残された者の心の対話の相手に変化する。語り継がれてきた民話、『遠野物語』の生と死の諸相は、東日本大震災の現場から新たな語り手によって語り継がれ、大自然と人間の営みがつむぐ日本文化の深層を作っていくことであろう。それは河童、山男、雪女、狼がうごめく柳田国男の『遠野物語』に、自然界に暮らす日本人の生活流儀を刻印し続ける伝承の記録となろう。

  ― なぜ東北の被災地で怪異詔が生まれるのか。文芸評論家東雅夫さんは「何が今東北なのか」を指摘する。「東北という、自然と一体化した独自の文化を育んできた土地柄が大きい。山深く厳しい自然。震災、冷害、大和朝廷の侵略といろんな苦難の歴史もありました。あの世とこの世の境界線が、もともとあいまいな風土なんです。その境界領域に生まれるのが怪談ですから。今生まれている話は、まさに『二十一世紀の遠野物語』だと思いますよ」。    (『朝日新聞』二〇一三年八月八日「新・遠野物語」)

 柳田国男は『遠野物語』の初版序文で「国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまだ無数の山神山人の伝説あるべし。願わくばこれを語りて平地人を戦懐せしめよ」と記した。3・11は私たち平地人に失われた多くの魂の行方を問うた。戦懐を覚える問いである。

 (コラム)『遠野物語』第九十九話「魂の行方」
 土淵村の助役北川活と云ふ人の家は字火石(あざひいし)に在り。代々の山臥にて祖父は正福院といひ、学者にて著作多く、村の為に尽したる人なり。清の弟に福二といふ人は海岸の田の浜へ婿に行きたるが、先年の大海嘯に遭ひて妻と子とを失ひ、生き残りたる二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。夏の初めの月夜に便所に起き出(いで)Lが、遠く離れたる所に在りて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正しく亡くなりし我妻なり。思はず其跡をつけて、遥々と船越村の方へ行く崎の洞ある所まで追ひ行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑ひたり。男はと見れば比も同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が婿に入りし以前に互いに深く心を通はせたりと聞きし男也。今は此人と夫婦になりてありと云ふに、子どもは可愛くは無いのかと云へば、女は少しく顔の色を変へて泣きたり。死したる人と物言ふとは思はれずして、悲しく情なくなりたれば足元を見て在りし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。追ひかけて見たりしがふと死したる者也と心付き、夜明けまで道中に立ちて考へ、朝になりて帰りたり。其後久しく煩ひたりと云へり。

『日本の「原風景」を読む』 藤原書店



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