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日本の原風景を読む №42 [文化としての「環境日本学」]

宮沢賢治の海-石巻 1

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

形あるものが消えた時、言葉とは

 東日本大震災と東京電力原発のシビア事故は、人類史上空前の環境破壊事件である。地震、津波、放射能によって被災地の「自然環境」と「人間環境」は壊滅した。
 形あるものはことごとく破壊され、無形の「文化環境」が人々の心に残った。私は、私たちは何者であるのか、どこから来て、どこへ行こうとしているのか。己れのアイデンティティを確かめることが、被災地にとどまらず心ある日本人に問われている。
 被災地では軒下の段ボールの端に、瓦礫の壁に、消えた町を見下ろす寺社の境内の到る所に、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩がなぐり書きされていた。とりわけ、津波に直撃されて解体作業の受け入れを意思表示した人家の壁に、時には張り紙にしてこの詩の一部が記されていた。人々は瓦礫の街、故郷を去る間際に、賢治の「雨ニモマケズ」を思い浮かべたのである。
 被災地に狼火のように明滅する「雨ニモマケズ」の詩の断片の背後にある被災者たちの心情が、谷川俊太郎の詩「言葉」に活写されているように思える。

  何もかも失って
 言葉まで失ったが
 言葉は壊れなかった
 流されなかった
 ひとりひとりの心の底で
 言葉は発芽する
 瓦礫の下の大地から
 昔ながらの訛り
 走り書きの文字
 途切れがちな意味
 言い古された言葉が
 苦しみゆえに蘇る
 哀しみゆえに深まる
 新たな意味へと
 沈黙に裏打ちされて

 それによって暮らしてきた形あるものが消し飛ばされたとき、人は生きるよすがとして無形の存在を思うものなのか、あるいは否か。3・11が私たちに発した不可避の問いのように思える。原子炉のメルトダウンとあわせ、二大事故の連動が日本にとって文明史的な事件であり、社会規範の変化を伴う出来事とみられている背景である。
 しかし、東日本大震災から九年を経た二〇二〇年の現在も、当時直観的に予測されていた社会の「変化」は、この社会に潜在したままで、原発再稼働にみられる「復旧」のみが目立つ。首都圏直下型地震と東南海トラフ地震の向こう三〇年間の発生確率が八〇パーセントと予測されているにもかかわらず、である。

宮沢賢治と津波の海

 海に向かって壊滅した町を一望に収める石巻市の日和山公園の頂きには、震災の直後段ボールを長方形につなぎ合せて「雨ニモマケズ」の全文が黒い槽書文字で記されてあった。賢治は、死者・行方不明約二万二千人を記録した一八九六年の「明治三陸地震」(マグニチュード八・二)の二か月後に生まれた。そして世を去る半年前の一九三三(昭和八)年三月三日、約三千人の犠牲者を伴った「昭和三陸地震」(マグニチュード八・一)が起きた。二つの三陸大地震の間を生きた賢治の身体性が予見していたのだろうか、日和山公園にある賢治の碑に、あたかも津波を予感するような「われらひとしく丘にたち」の詩が刻まれている。
 明治四十五(一九一二)年五月二十七日、賢治が中学校四年の修学旅行の折に、北上川を川蒸気で下り、石巻の日和山から生まれて初めて海をみて強い感動を受け、その折の印象をこのように詠んだ。

 われらひとしく丘にたち
 青ぐろくしてぶちうてる
 あやしきもののひろがりを
 東はてなくのぞみけり
 そは巨いなる盤の水
 海とはおのもさとれども
 博へてききしそのものと
 あまりにたがふここちして
 ただうつつなるうすれ目に
 そのわだつみの潮騒の
 うろこの国の波がしら
 きほひ寄するをのぞみゐたりき
 苦しみ、もがき、希望を失わず生きる

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店


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